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小坂 博宣

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小坂 博宣
「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ(アイヌ神謡)
7 月 27 日(木)15:10∼16:40 東京会場
8 月 3 日(木)13:00∼14:30 札幌会場
講師
小坂 博宣
知里真志保を語る会・事務局長
りますが、これは「ペッ」
、川から来ているのではないかと
思います。あと、雫石とか何々ウシというように後ろに「ウ
シ」がつくと、何々するところという意味になります。人
口の多いところは日本語の地名に変わっていますが、東北
地方の山岳部に行くとアイヌ語地名がたくさん残っていま
す。
青森の「ねぶた祭」は、
「ねぶたい」から来ているという
説もありますが、これを私は、アイヌ語ではないかと思っ
ています。
「ネプ」は何者という意味のアイヌ語で「タ」と
いうのは強調の言葉です。
「ネプタ」で「何者だ!」という
意味になります。蝦夷征伐のため坂上田村麻呂が、大きな
行燈を立てて攻め込んできたのを見て、アイヌ民族が「何
者だ!」、「ネプタ!」と言ったことが語源ではないかとい
うふうに思っています。余り聞いたことがないかも知れま
せんが、そういう説もあります。
それから「マタギ」という言葉があります。
「マタ」とは
冬という意味です。北海道では2月になって雪の表面が解
けて、固い雪になるころに熊を狩りに行きます。それで冬
狩り、冬猟をするという人ということで「マタギ」でない
かと思います。あと、恐山に神おろしをするイタコと言わ
れる人がいますが、これはアイヌの風習です。このイタコ
という言葉は「イタク」、話すというように解釈できます。
源頼朝は義経を征伐するということを名目に奥州藤原氏
を攻め落としましたが、藤原家の当主たちは和人だったで
しょうが、その配下の人達は極めてアイヌに近い民族だっ
たと思います。そのため、東北には遅くまで、アイヌ語地
名やアイヌ民族のような風習が残ったのではないかと思っ
ています。
今度は北海道のアイヌ語地名です。まず、札幌ですが、
これは豊平川の古名で
「サッポロペッ」
です。
「サッ」
乾く、
「ポロ」
大きい、
「ペッ」
川で、
乾いた大きな川となります。
現在の札幌は大きな都市になっていて、もともとサッポロ
ペッの由来となった乾いた場所はどこかは今では分からな
いようです。
札幌の隣にある小樽は「オタルナイ」
、
「オタ」砂、
「ル」
道、
「ナイ」川が語源になっています。
去年、世界遺産に登録された知床は「シリエトク」
、
「シリ」
大地、
「エトク」先で、大地の先、岬を表す言葉です。国後
は「クンネシリ」
、
「クンネ」黒い、
「シリ」大地です。
旭川は、
「チウペッ」波の川が訛って「チュプペッ」とな
り、この「チュプ」とは太陽という意味なので、太陽の川、
陽の川と解釈され、陽の部分が旭と直されて旭川と名づけ
られたのです。
森進一が『襟裳岬』を歌ったことで有名なえりも岬です
こんにちは、小坂です。ご紹介にありましたように、私
は普段、小学校の事務職員をしています。研究といっても
プロではありませんので室蘭の観光ガイドというような軽
い気持ちでお話を聞いていただければ幸いだと思います。
〈日本各地のアイヌ語地名について〉
私は登別市に住んでいるのですが、その隣にある室蘭市
のアイヌ語地名の研究を去年やって、今年は、その成果を
まとめた「インカラアンロ」という本を出版しました。今
日は、そのお話をさせていただくということになります。
まず、主な話の内容としては、はじめにということで、
日本各地のアイヌ語地名についてお話しします。
その次に、
どのようなアイヌ語地名があって、その由来がどうなって
いるかというお話しをして、最後に、カムイユーカラとア
イヌ語地名の関わりについて若干のお話しをしたいと思い
ます。
日本各地のアイヌ語地名ということですが、私は専門家
でないので怪しげなことも言いますので、話半分で聞いて
もらえればいいかと思います。
九州に阿蘇山というカルデラになった山がありますが、
阿蘇をアイヌ語で解釈すると「我座る」となります。阿蘇
山には、神様が座った時に穴がポコッとあいたというよう
な話もあります。それから京都の鴨川ですが、これは「カ
ムイワッカ」でないかと、
「神の水」という意味ではないか
という説もあります。ここら辺は怪しいところです。
次に、出雲ですが、これは「エンルム」
、岬というところ
から来たのでないかということを山田秀三先は書いていま
す。それから、能登半島の能登は間違いなくアイヌ語では
ないかと思います。
「ノト」は岬という意味です。あと、富
士山は「フチ」でないかという話もありますが、これはち
ょっと怪しくて、偶然なのではないかと思います。
いずれにしても、日本各地にアイヌ語地名があるのは、
もともと縄文人はアイヌ民族に近くて、縄文語がアイヌ語
につながり、それが地名として残っているのです。そのた
め、もともと日本全国にアイヌがいたのではないかという
話もありますが、学術的な研究でこれだということではな
いので、話半分ということで聞いていただければと思いま
す。
東北地方には間違いなくアイヌ語地名がたくさんありま
す。
100%間違いないと思うことしか言わない山田秀三先生
も言っているのでこれは間違いないと思います。比内地鶏
で有名な比内という地名がありますが、これは「ピッ」と
いうゴザ編みに使う石がある沢という意味になります。
「ナイ」は沢という意味です。それから八戸とか七戸とあ
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「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
この山田秀三という人は、鉱山監督局にいた時に軍事に
使える鉱石を探し当てて、当時の陸軍大臣から、今でいう
と 100 万円近い賞金を貰ったのですが、その賞金は部下を
引き連れて一晩で使ってしまったという逸話もある太っ腹
というか、おもしろい人です。A級戦犯すれすれだったか
も知れないのですが、戦争が終わる前に鉱山監督局長を辞
めてしばらくの間隠居生活をしています。そして、戦後、
北海道が第三セクターとして設立した北海道曹達株式会社
の社長に就任し、その後、会長、相談役となりました。終
生、地名研究は道楽だということを通した人です。ただ、
道楽といいながらその研究レベルは高くて、未だに山田先
生の地名研究を乗り越えた人は出てきていません。
山田先生が幌別のアイヌ語地名の研究をしている時、師
匠である金田一京助先生のいる東京と会社のある札幌と地
名の研究をしている登別との間を行ったり来たりするので
すが、それでは大変だと、誰かいい相談者がいないかと金
田一先生に話したところ「いい奴がいる。ただし、こいつ
はくせ者で、ちょっと難しい奴だけど、それでもいいか。
」
ということで知里先生を紹介されました。それで知里先生
と山田先生が出会ったのです。知里先生はたいていの人と
けんか別れしてしまっているのですが、山田先生とは最後
まで仲が良かったようです。
それは山田先生の方が 10 歳年
上なのですが、一歩引いて知里先生を立てていたからでは
ないかと思います。また、知里先生が何を言っても受け止
める度量の広さ、自分の研究はあくまでも道楽である、あ
なたの分野には入らないという姿勢もあって二人のいい関
係が続いたのではないでしょうか。
さて、いよいよ我々の「知里真志保を語る会」について
ですが、知里真志保、それから姉の知里幸恵、ユーカラの
伝道者であるおばさんの金成マツ、今お話しした山田先生
を顕彰していこうということで登別市を中心に活動してい
る団体です。
活動は講演会の開催や出版事業をしています。
今年は『インカラアンロ』、2004 年には『室蘭市のアイヌ
語地名』
『幌別のアイヌ語地名』の復刻版、2002 年には知
里幸恵が大正 12 年に出した『アイヌ神謡集』の復刻版を出
版しています。また、この『アイヌ神謡集』の解説書とし
て『アイヌ神謡集超入門』という本も出版しています。
「エン」は尖ったという意味
が、これは「エンルム」です、
で、
「ルム」というのはやじりの先のことです、
「エンルム」
は岬のことを指す 1 つの名前です。
私の住んでいる登別には全国の温泉の中で人気ナンバー
2に輝いている登別温泉があります。この登別は「ヌプル
ペツ」
、
「ヌプル」が濁った、
「ペッ」が川で、濁った川とな
ります。温泉の脇を流れる川には硫黄泉が出ていて白濁し
ているのです。
このように、北海道の有名な地名のほとんどはアイヌ語
地名になっています。
室蘭は、
「モルエラニ」
小さな坂を下ったところという意
味です。今日のお話しの中心はこの室蘭の地名についてで
す。
〈室蘭におけるこれまでの地名研究について〉
室蘭に関わるこれまでの地名研究の主なものとして松浦
武四郎の
『東蝦夷日誌』
、
永田方正の
『北海道蝦夷語地名解』
、
知里真志保先生と山田先生が昭和 33 年に出版した
『幌別町
のアイヌ語地名』と昭和 35 年に出版した『室蘭市のアイヌ
語地名』があります。そして、我々が去年行った地名研究
が、室蘭に関わるこれまでの主な地名研究です。
松浦武四郎のことは皆さんご存じだと思いますが、探検
家で何回も北海道に来ています。蝦夷地に北海道という名
前をつけたのは松浦武四郎だという説もあります。江戸時
代から明治になった時に、北海道を幾つかの国に分けたの
ですが、このとき国名や郡名を武四郎が起草しています。
この武四郎の主な著書に『東西蝦夷山川地理取調図』
、釧路
方面を調べた『久摺日誌』
、道東を調べた『納沙布日誌』等
があります。
永田方正は『北海道蝦夷語地名解』を書いています。永
田方正は江戸生まれで、もともと英語の先生だったようで
す。英語の方で結構有名だったようなのですが、この人が
北海道庁から調査を依頼されて『北海道蝦夷語地名解』を
書いたのです。このころの北海道庁は国の直轄の機関で、
今の防衛庁(平成 19 年1月に防衛省に格上げになりまし
た)などと同じ庁だったのです。この地名解は最近復刻さ
れていて、我々はそれをもとに調査しました。
次に、知里真志保と『室蘭市のアイヌ語地名』です。知
里真志保は、幌別町、現在の登別市で生まれた方です。ア
イヌ民族出身の言語学者で、金田一京助先生の第一の愛弟
子です。
『分類アイヌ語辞典』
で朝日文化賞を受賞していま
す。そのお姉さんは『アイヌ神謡集』の著者の知里幸恵さ
んです。
『分類アイヌ語辞典』や『地名アイヌ語小辞典』な
ど、さまざまな本を出しています。
次に、山田秀三先生とアイヌ語地名図考ということです
が、山田先生はスケッチが上手で、5万分の1の地図をな
ぞりきれいにデフォルメして、いかにも立体的に見えるよ
うな白地図を描ける絵のセンスを持っていました。何をし
ていた人かというと、戦前は仙台鉱山監督局長をやってい
ました。この時に、東北にあるアイヌ語地名と出会い、そ
の意味を1つ1つ探っていったのです。そしてその後、終
生、アイヌ語地名に没頭していったのです。
〈アイヌ語地名の特徴について〉
次に、
「アイヌ語地名に嘘は無い」ということで、八甲田
山の遭難始末と弁開凧次郎についてお話しします。
明治 35 年に日露戦争に向けた耐寒軍事訓練として八甲
田山で雪中行軍が行われ、遭難事故が発生してしまったの
です。この遭難で亡くなった人たちの遺体を捜索しようと
したのですが二次遭難の危険があり、自分達だけではどう
にもならない、これは冬に強い北海道のアイヌに何とかし
てもらおうということで白羽の矢が立ったのが
「イカシパ」
(何にでも優れている)というアイヌ名を持つ八雲町落部
生まれの弁開凧次郎です。この人は獣医をしていてお金の
ない人からはお金をとらずに馬の病気を治すなど評判がよ
かったようです。また、造園家としていろいろなところの
庭園の設計もしていて八雲にある銀婚湯の造園もしたよう
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「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
です。
弁開凧次郎は八甲田山に行って遺体の捜索をはじめる時、
まず地元の人から遭難したところの地名を聞いて、その地
名から遺体の埋まっている場所の見当をつけ重点的に捜索
しました。そしてかなりの数の遺体を探し当てて手柄を立
てているのです。しかし、陸軍にとってこの事件は大変な
汚点だったため最重要機密として扱われ、この事実は家族
にもほとんど話されていませんでした。
ここで何を言いたいかというと、アイヌ語地名は画像つ
きの地番だということです。アイヌ語地名の意味とその場
所の地形が一致しているため、映像つきの地勢ガイドのよ
うなものなので、凧次郎がこのような功績を残せたのだろ
うと感じたのです。
〈室蘭のアイヌ語地名について〉
(以下、写真を掲示しながらの説明)
室蘭というと、日本製鋼所や新日本製鐵などの大きな工
場が港を中心に建っていますが、こういったところのほと
んどは埋立地でアイヌ語地名を探し当てることは難しい状
況です。逆に外海に面しているところは、ほとんどが手つ
かずの原始のままにアイヌ語地名の風景が残っています。
今回の地名調査はそこを中心に行いました。
まず
「ハワノタ」
です。
「ハワン」
がおしゃべりをするで、
「オタ」が砂という意味です。ここを歩くとキュッキュッ
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と音がします。アイヌ民族は自然も人間同様に生きている
ものと考えておりましたので、おしゃべりをする砂という
意味で「ハワノタ」と名づけています。
次は「トッカリショ」です。
「トッカリ」というのはアザ
ラシのことで、
「イソ」というのは岩のことです。今はブロ
ックが積まれていますが、もともと、引き潮になると顔出
して、満ち潮になると沈んでいくという岩があって、冬に
なるとここにアザラシが来て日向ぼっこをするのです。そ
れで「トッカリショ」と言っていたのです。
次は「アトカニ」です。これは的(まと)のような形にな
った岩のことで、
和名で的岩と言われています。
「ア」
我ら、
「トゥカン」矢を射る、
「イ」所で、我ら矢を射る所となり
ます。アイヌ民族は冬の間、アザラシなどの海獣類の猟を
していたのですが、猟に出るためここを通る時、この岩に
向って矢を射ってその矢が岩にささるかどうかで猟がうま
くいくかどうかということを占ったのです。
次は「ニオモイ」です。ここは木が打ち上がる場所なの
です。
「ニ」というのは木のことで「ニオモイ」で木がある
場所、入り江という意味になります。この辺りで他に木が
打ち上がる場所はないので本当にわかりやすい地名です。
次は「ポンチケップ」です。ここは断崖絶壁になってい
て、
「ポン」小さい、
「チケップ」の「チ」が我ら、
「ケップ」
が削る、彫刻するという地名が示すように、いかにも彫刻
「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
いて海から見ると流れが赤く見えます。
次は「リロマモイ」です。「リル」が波で、「オマ」が立
つ、
「モイ」が入り江で、波立つ入江となります。ここは常
に白波が立っているところです。ここはクジラが揚がるこ
ともあったので、クジラ浜とも呼ばれています。ここには
常に南東からの風が吹いているため波が立っているのです。
次は、
「リロマモイ」
の場所から見ると岬の反対側になり
ますが、岬に風が遮られるため常に波が穏やかな入り江が
あります。そのため「モ」静かな、
「トマリ」舟をつける場
所、入江で、
「モトマリ」という本当に分かりやすい名前が
ついています。アイヌ民族は自然をよく観察して的確に特
徴をつかんでいると感心します。
追直漁港の入り口に「ニラス」という岩があります。こ
れは木片という意味です。
「ニ」
が木という意味で、
「ラス」
は破片という意味です。寄木のような形をしていることか
ら名付けられたようです。
追直漁港の西側に「オイナオシ」というところがありま
す。この「オイナオシ」には 2 つの説があり、1 つ目は、
「オ」
川尻に、
「イナウ」は御幣のことです。
「ウシ」は∼がある
ところという意味なので、この辺でカムイノミをしていた
のではないかと考えられる場所です。もう一つは、「オイ
ナ・ウシ」
、
「オイナ」をするところという意味です。
「オイ
ナ」というのはカムイユーカラのことです。オイナをする
場所・・、いずれにしても神事にまつわる場所だったので
はないかというふうに想像がつきます。
次は「セタワキ」です。
「セタ」というのは犬のことで、
「イワキ」が住むところという意味です。今はすぐ近くま
で住宅街になっていますので、野犬が住むなんていうこと
は考えられないのですけれど、昔はオオカミとか野犬とか
が住んでいたのではないかと知里先生は言っています。
「リロモイ」は入り江になっているところで波が立つと
ころという意味です。このリロモイからは岬を挟んで反対
側に「マスイチセトマリ」という入り江があります。ここ
は岬が風を止めるため波が静かなので舟をとめることがで
きます。波があって舟をとめられないところは、ただの入
り江ということで「モイ」と名付けるのですが、舟をつけ
られる場所は「トマリ」という名前をつけて地名だけで舟
をとめられる場所が分かるようにしているのです。
次は
「マスイチ」
です。
「マスイチ」
のことを知里先生は、
ウミネコの家と訳しています。これはマスイチ展望台のあ
る岬の南側にある岩のことなのですが、この岩にはウミネ
コなどがいっぱいいるため鳥のフンで真っ白になっていま
す。この岩は岬から切れていてキツネなどの動物が来るこ
とができないため、巣作りの場所としては最適なのです。
知里先生の義理の弟の佐藤三次郎は、カモメより小型の
ツナギドリという鳥が「マス」だと言っています。いずれ
にしても鳥の天下の場所です。
「アフンルパロ」という1メートル位の穴があいた場所
があるのですが、これはあの世の口だと言われています。
アフンルパロに人間は入ってはいけないと言われているの
ですが、ある時、昆布取りに来た人がそこに入っていくの
を見て、追いかけて入ってみると、こっちは夏なのにそこ
したように模様ができていて見事なものです。ここには毒
矢の毒に使う鉛の成分多く含んだ鉱石があるため鉛色をし
ていて、隣にある黄色い壁面の金屏風という和名がついて
いる絶壁と対照的な絶壁です。
次は「ポロチケップ」です。ここには地球岬の灯台があ
って室蘭の観光名所の1つになっていますが、私はここに
展望台をつくって観光名所にするのではなく船で海から崖
を見る観光にした方がいいと思っています。ここの崖は海
から見ると本当に彫刻したようなすばらしい崖になってい
ます。先ほどの「ポンチケップ」とは隣り合わせになって
います。
「ポロ」と「ポン」は人間の親子と同じように必ず
一緒にあって、川も「ポロペツ」大きい川があれば近くに
必ず「ポンペツ」小さい川があると知里先生は言っていま
す。
次は「チャラツナイ」です。これはちょっとした小川な
のですが、チャラチャラという音をさせながら流れる沢、
あるいは川という意味です。これは山田先生が好きな名前
で、先生の本には写真が残っています。それも冬の写真で
す。崖というか、すごい坂を下って写真を撮っているので
す。冬にあんなところへよく行ったなと思います。
【 ムカリソ mukar-iso 】
次は『インカラアンロ』の表紙に使った奇岩中の奇岩「ム
カリソ」です。
「ムカル」というのは斧という意味で「イソ」
というのは岩のことです。斧といっても鉄器ではなくて石
の斧です。国づくりの神様が、この斧を使って木を切った
り土を起こして国づくりをしたのです。そして、国づくり
が終わりこの斧をボンとぶん投げたら、海中に刺さって柄
は腐ってなくなってしまい頭だけが残ったといういわれが
あります。
「ムカリソ」
で斧岩、
本当に見事な岩なのですが、
海からでなければ見ることはできません。室蘭に来たらぜ
ひ見に来ていただきたいなと思いますね。
次は「プトゥフレナイ」です。
「プトゥ」は川口、
「フレ」
は赤い、
「ナイ」は沢です。この沢の水は鉄分を多く含んで
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「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
最後には大事なお椀(イタンキ)を燃やして、そのうちに
死んでしまった。
」
という伝説からイタンキという地名がつ
いたとしているのです。
しかし、アイヌ民族は狩猟で生きてきていた民族ですか
ら、自然を的確に判断できるはずで、岩とクジラを間違え
て餓死してしまうわけがないだろうとずっと考えていまし
た。近年になって、室蘭の郷土史家の久末さんという方が
研究を進めて新しい説を出しました。それはオタイタンキ
説です。
「オタ」は砂で「イタンキ」はお椀です。エゾツメ
タ貝という貝食貝がいるのですが、この貝は砂の中に産卵
します。この卵塊はどろどろの粘液状になのですが、浜に
寄り上って乾燥するとちょうど砂で出来たお椀のようにな
るのです。これがたくさん散らばっていたからイタンキ浜
と呼ぶようになったという説です。私もそうだと思い、こ
の説を広げていこうと思っています。
狩猟民族であったアイヌ民族が、岩とクジラを間違える
ことはありえません。この辺の地名がつけられたのは、か
なり古い時代だと思います。千年、二千年とか何百年とい
う単位の古い時代に海を中心として生きていた時代に付け
られた名前であり、具体的かつ細かく、的確に付けられて
います。ですから、伝説が先にあって後から地名が付けら
れたのではなく、先に地名がつけられ、その後時代を経て
伝説がつくられたと考えるのが妥当です。
なぜ、こんな荒唐無稽な話が伝承されたかということで
すが、
アイヌ民族自身は、
そんなことで死ぬわけはないが、
おもしろおかしい話だとして言い伝えてきたのだと思うの
です。ところが後から来た和人たちは、そのとおりに信じ
てしまい、アイヌ民族はかわいそうで劣等な民族だという
イメージを作っていったのではないかと思います。
今、地道な研究はいろいろな形で進められています。こ
のことは、アイヌ民族の正しい理解につながり、権利の回
復、それから地位の向上につながっていくのでないかなと
思っています。そのために、地名なども含めいろいろなこ
とが研究されていくことが望ましいことだと思います。
は冬で、こっちは昼なのにそこは夜だと、まるっきり反対
の世界があったというのです。そして、そこにいる人とし
ゃべると死んでしまうという伝説があります。アフンルパ
ロには、必ず入口と出口があるという伝説が多いです。こ
のアフンルパロは結構あちこちにあるのでコタンごとにあ
るのかも知れません。
【 チヌエピラ ci-nye-pira 】
次は「チヌエピラ」です。
「チヌエ」というのは、
「チ」
我ら、
「ヌエ」彫刻するという意味で、
「ピラ」は崖のこと
です。石灰岩を多く含んでいるのではないかと思うのです
が、本当に真っ白で彫刻したように見事な崖です。
次は「ムイ」という場所です。
「ムイ」というオオバンヒ
ザラ貝のことでこの場所に多く住んでいるのです。アワビ
は背に貝殻がついていますが、この貝の背に貝殻はなくて
チョウチョのような形をした骨が8枚入っているのです。
アイヌ語で「ムイ」とか「ミヨ」という名前で言われてい
ます。この場所でオオバンヒザラ貝とアワビがけんかをし
て、最終的にアワビが負けて逃げて行ったという話が残っ
ています。アワビに比べるとムイは余りおいしくないので
反対だったら良かったのにと私は思います。
春の終わり頃に室蘭岳の西側中腹に魚の形に雪が残るの
ですが、この雪のことを「ヘロキウパシ」と言います。
「ヘ
ロキ」はニシン、
「ウパシ」は雪のことです。このように魚
の形に雪が残るころまでがニシンの産卵時期になるので、
ニシンが来るということで名付けられています。
〈アイヌ語地名とカムイユーカラについて〉
最後になりますが、クジラに関する地名とカムイユーカ
ラということで、室蘭に沢山あるクジラにまつわる地名に
ついてです。
「ウトゥナンヌカラ」というのはお互いに迎え合う場所
という意味です、これはクジラ祭りの時、あちこちからや
って来る人を出迎える場所だと言われています。
それから「フベヤンモイ」
、クジラが揚がる入り江です。
この場所にはクジラが打ち上げられるので、そのように言
っています。
それから「リロマモイ」
、これは波立つ入り江、鯨浜とも
言います。ここも波が立つ場所で寄せ波が来るのですクジ
ラが揚がることがあるのです。また、登別には「フンペサ
パ」
、鯨頭という地名もあります。
このように、室蘭、登別には、クジラにまつわる地名が
たくさんあるのですが、何故かということが、カムイユー
カラにあります。知里幸恵の「アイヌ神謡集」の第8話に
〈地名の由来と伝説の関係について〉
次に、地名の由来と伝説の関係についてお話しします。
イタンキの地名の由来にはいくつかの説があります。松
浦武四郎は、
「岬がお椀の形をしているからだ」
と言ってい
ます。知里先生は、
「何でイタンキか分からない。そのため
変な伝説が生まれるのだ」というのです。山田先生は、
「入
り江がお椀の形をしているからだ」というのです。
今まで一般的に信じられてきた説は、
永田方正の説です。
この浜の沖にフンベシュマ(
「フンペ」クジラ、
「スマ」岩)
というクジラの形をした岩があり、
「飢饉があって、
日高の
アイヌの人が江鞆に食を求めて来た。途中でこの岩を見て
寄りクジラだと思い、流れ着くのを待った、しかし、待っ
ても待っても寄ってこない、そのうち薪も尽きてしまい、
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「室蘭アイヌ語地名とカムイユーカラ」小坂博宣
「アトゥイカ トマトマキ クントゥテアシ フム フ
ム」という神謡があります。これはシャチの神が自らのこ
とを謡った謡なのです。山の神で一番偉いのは熊ですが、
海ではシャチです。それぞれ「キムンカムイ(熊の神)
」
、
「レプンカムイ(シャチの神)
」と言われています。熊は圧
倒的に山の王者で、シャチは海の王者です。ただ力が強い
だけだったら人間から尊敬されないのですけれど、熊の神
様は化身となって毛皮とか肉、それから胆嚢、熊の胆を届
けてくれます。肉は干し肉として食料の少ないときに食べ
るものですし、毛皮や熊の胆は、単に着たり薬にするばか
りではなく、和人との交易にも使うのです。これに対しシ
ャチは何をしてくれるかというとクジラを届けてくれるの
です。
シャチはクジラの仲間でシャケとかマス、オットセイや
クジラも食べます。ミンククジラとかシロナガスクジラの
ように大きなクジラは、プランクトンとかオキアミなどの
小さいものを食べます。魚などを食べるのは歯鯨(ハクジ
ラ)と言います。その小さいのがイルカです。シャチは歯
鯨の仲間の最大のものです。
海洋生物調査員の笹森琴絵さんが択捉島の沖でシャチが
クジラを捕える様子を観察しているのですが、それによる
と、まず、クジラの群れから1頭だけ切り離すのです。こ
の時は3頭のシャチだったようなのですが、ふだんは 10
頭前後の群れでクジラの周りをぐるぐる回って1頭だけ切
り離すのです。この場面をカムイユーカラでは「鯨たちが
パチャパチャ遊んでいる。すると海の東に長い姉様六人の
姉様が手をつらねて輪をつくると、
短い姉様六人の姉様が、
輪の中へ鯨を追込む」というように文学的に表現されてい
ます。群れから切り離されたクジラは、動きようがなくな
ってとまってしまうのです。シャチはその上に乗り上げ、
クジラが息をするために浮上しようとするのを押さえて沈
めるのです。沈むと今度は下から跳ね上げてクジラを弱ら
せるのです。これをカムイユーカラでは「長い兄様六人の
兄様短い兄様六人の兄様が輪の中へクジラをねらひ射つと、
其の鯨の下を矢が通り上を矢が通る」と表現しています。
すごい観察力だと感心します。さらに、体当たりをして打
撃を与えクジラを弱らせて、最後に、クジラの下あごにあ
る急所に食いついてしとめるそうです。これをカムイユー
カラでは「遠い所から金の小弓に金の小矢を番(つが)へ
てねらい射ったところ、一本の矢で一度に親子の鯨を射貫
いてしまった」と表現しています。
最後にどうなるかというと、下あごのところと、舌だけ
を食べてあとは捨ててしまうのです。そのため、クジラは
浜に打ち上げられて寄りクジラとなります。このように仕
留められる場合もありますが、仕留められなくても座礁し
てしまうこともあります。
クジラはバックができないので、
一度浅瀬に上がってしまうと戻れないのです。死んだクジ
ラが寄り揚がる様子をカムイユーカラでは「それから鯨一
ツ半の鯨を尾の下にいれて人間の国にむかって行き、オタ
シュツ村に着いて一ツ半の鯨を村の浜へ押上げてやった」
と表現しています。本当に昔のアイヌ民族はそういったこ
とをよく観察していたと感心します。
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寄りクジラというお土産をシャチから貰った人間は、お
礼のカムイノミ、儀式をするのです。感謝の儀式をするわ
けです。祭壇にイナウを飾ると、神の国にそれが届くので
す。一滴のお酒を捧げると、神の国には六樽の酒樽となっ
て届きます。それから、一かけの供物を捧げると、たくさ
んのごちそうになって届きます。カムイノミではイクパス
イを伝令としてお礼の言葉を神の国へ届けます。お礼の言
葉や酒、供物を受け取った神様は他の神様を呼んで宴席を
張るそうです。そして「私は、このようにして人間に恵み
を与えてやったんだ。そうしたら、人間はたくさんのお礼
を届けてよこしたんだ。だから、他の神々よ、人間に対し
て恵みを与えてあげなさい。
」
というふうに他の神様に諭す
のです。すると、他の神様たちは「君は偉いな、大したも
んだ。我々も、そうやって人間に恵みやらないとだめだな」
というふうになるのです。こうして最終的に人間が平和に
暮らせるというのがカムイノミの考え方なのです。そうい
うことが、この神謡集の中に書かれています。昔は、シャ
チ神様からの恵みとしてたくさんの寄りクジラを人間は受
け取っていたから、クジラにまつわる地名がたくさんある
のだろうと考えています。
室蘭は、
捕鯨産業が一時期盛んな時代もあったのですが、
クジラを捕ることができなくなった今はクジラウォッチン
グという観光が盛んです。7月くらいになると噴火湾にカ
マイルカが子育てのためにやってきます。船に乗ると地名
も案内してくれますので、室蘭に来たらぜひ見てもらいた
いと思います。
地名を大事にするということは、地域、それから自然を
大事にするということにつながるので、地名を残していき
たい、また、研究もしていきたいと思っています。
最後になりますが、去年室蘭でレプンリリカカムイ、沖
の波の上の神様であるシャチの神様を祭って儀式が行なわ
れました。こういう儀式は一時期ずっと途絶えていたので
すが、ここ 20 年くらいの間に、各地で復活しています。
再来年は知里真志保先生の生誕 100 年になります。これ
を弾みに、ぜひアイヌ文化を知っていただきたいと思って
います。さらにアイヌ文化のいいところを和人社会の中に
取り入れて、平和な暮らしができるような社会をつくって
いきたいものだと思います。
よく学校なんかにヨーロッパなどから外国人が来ると、
それだけで何か国際化したような気分になるのですが、実
際はそうではないと思います。他者を理解するということ
が真の国際化だと思うのです。国内にも独自の文化を持っ
た人々が沢山おります。そういういろいろな他者の文化を
理解するということが真の国際化ではないかと私は考えて
います。
教育関係で、アイヌの問題を取りあげていく時に、差別
から入るというのは大変きついものがあると思います。ア
イヌ語地名を取り入れて、「ここにはこういうアイヌ語地
名があって、昔からアイヌの人が住んでいて」というとこ
ろから入っていくと、
やりやすいのではないかと思います。
これで、私のお話を終わりたいと思います。どうもあり
がとうございました。
(拍手)
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