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職員研修「協働推進」講演会記録

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職員研修「協働推進」講演会記録
職員研修「協働推進」講演会記録
日
時
平成18年2月13日(月)
会
場
目黒区総合庁舎
講
師
長谷川幸介氏(茨城大学生涯学習教育センター助教授)
テーマ
15時20分から17時
大会議室
区民活動と地域の力∼「区民と行政の協働」がもたらすもの∼
昨日、和歌山県で講演があって、昨日のうちに東京に戻ってきました。明日は、滋
賀県の米原にまた講演に行かなくてはいけません。本当なら、今日の講演がなかった
ら、温泉にでも入ってのんびりしていたところですが、人生は思い通りにいきません。
今日は皆さんに「協働の考え方の根底に流れる日本社会の考え方」とか「21世紀
の行政と市民のあり方」とか、そういう問題についてお話したいと思います。
その前に、まず私のことから。私は今年55歳になりますが、まだ独身です。別に
悪い病気があるわけではない。まして悪い趣味があるわけでもありません(笑)。縁が
なくて一人でいます。たった一人でいるのに、3年前から茨城県の男女共同参画審議
会の委員をしています。友人からは、
「たった一人の女性を幸せにできないで、なんで
男女共同参画ができるのか」とよく言われています。
「そうだなぁ」と思います(笑)。
おまけに、一昨年からは、茨城県の少子化対策県民会議で部会長をしています。針
のむしろです(笑)。私は座長で会議の進行をするのですが、委員さんから出る意見は、
「なぜ結婚しない人が多いのか」とか「なぜ子どもを産まなくなったのか」とか、そ
ういう議論ばかりです。私は、そういう意見が出るたび「そうですよね」とか言いな
がら、背筋から冷や汗が出てくるんですが、そういう毎日を送っています。
ただ、なぜ私が、子どもの問題とか地域の問題をやるのかというと、私は独身でア
パート暮らしですが、もう22年間、地域で子ども会の廃品回収担当係長というのを
仰せつかっているんです。まわりのお父さんやお母さんは、みなわが子が大きくなる
とやめていきますが、私だけは、ずっと係長のまま残っています。最近は2ヶ月に1
回の頻度で回収しています。他の地域は、軽トラックに乗って集めるんですね。
(・・・・
普通は分かったらうなずいてくれるものなんです。なんか、
「シーン」として聞かれて
いると、和歌山から戻ってこなきゃよかったなあと思います。分かったらうなずくよ
うに。よろしいですか!)でも、私は車を運転しません。だから、軽トラックで集め
るわけに行かないので、当時の町内会長にこうお願いしたんです。
「小さな子どもって
いうのは、軽トラックの荷台に乗って廃品回収するよりは、リヤカーに乗った方がず
っと楽しい。空いているリヤカーに乗せて、大人が引っ張っていろんな話をした方が
楽しいんですよ」と言ったら、その話を聞いた町内会長さんは「いやあ長谷川さん、
それはいい話だ。中古と言わず町内会費からいっぱいお金出して、新品のリヤカーを
買ってあげる」と言い、新品のリヤカーを買ってくれたんです。その時の町内会長が
1
私です(笑)。私が町内会長をやっていたときに買ったんです。今もそのリヤカーを引
いている。だから「子どものこと」とか、
「地域のこと」とか、皆さんより少しは知っ
ているかなと思います。私はリヤカーで廃品を集めながら、いつも子どもたちと話を
しているんですよ。
皆さんは行政のことをやっているけど、自分の住んでいる地域のことについてはあ
まりやってないでしょ。今日だってコミュニティや町内会の話をするけど、町内会長
とかやっている人は少ないでしょう。私なんか町内会長を6年もやっているんです。
一人暮らしで、アパートにいるにも関わらずですよ。だから、少しは協働の話ができ
るかなあと思います。いいですか。
(・・・・なんかね、もうちょっとね、楽しかった
ら笑うとか、愛想笑いの一つもあっていいかなあと思います)
最初はレジメから離れ、私の母の話からさせてもらいます。私が生まれたのは北海
道の函館で、父は青函連絡船に乗っていた国鉄職員で、母は専業主婦でした。もう1
1年前、3回目の脳梗塞で亡くなりました。
亡くなる5年前に、最初の脳梗塞で倒れました。私は、急いで北海道の函館に帰り
ました。母は床に伏せていましたが、幸いにも、ほとんど麻痺は残っていませんでし
た。その時、私は「おふくろどうしたの?」って聞いたら、母は私の顔を見て「にこ
っ」って笑って、こう言ったんです。
「幸介、あんたいつになったら大学卒業するの?」
って。当時、私は40歳でした。そう言われて「とっくに大学は卒業して、今は大学
の先生をしているんだよ」って言ったら、母は「にこっ」って笑ってくれましてね。
それから30分もしないうちに、また「はっ」と気がついた顔して「あんた、いつ卒
業するの」って言うんです。一日に10回も20回も、同じことを繰り返すようにな
っていたのです。
母が、同じことを何度も繰り返して言うので、私は父に言いました。「おふくろ、
最近ボケてきたんじゃないか」って。実は、母は地域で民生委員と保護司をしていま
した。父も保護司をしていたんです。地域活動をすごくやっていた夫婦だったんです
ね。その父が笑いながら、こう言いました。
「若いときから、ああだった」って言った
んです。そういう母だったんです。
(・・・・ちょっと、笑うときはもう少し大きい声
で笑ってください。)
それから、2年後に母は2回目の脳梗塞で倒れました。私が函館に戻ったとき、少
し麻痺が残っていましたが、自分でリハビリして治したんです。歩けるようになった
のは良かったのですけれども、実家の目の前が国道で、そこで車にはねられ両足を骨
折してしまいました。その時、1ヶ月ほど病院に入院したら、ボケがすごく進行しま
した。母が病院から家に帰ったあと、夕方4時半から5時ごろになると目つきが変わ
るようになっていました。
「どろーん」とした眼差しなのに、きつい目なんですよ。今
日、参加されている役所の職員の方にもおられると思います。お酒を飲むとそういう
眼差しになる人が。必ずいるんです。い・る・ん・で・す!(笑)そういう眼差しに
なって、私にこう言うんです。
「幸介、こんな場所にいたら、お金ばかりかかってしょ
2
うがないから、早く家に帰ろう」と。私はおふくろに「おふくろ、家はここだろう。
おふくろの家はここなんだから」って言うと、母は悲しそうな顔をして、私を見て「幸
介、お前まで私を家に帰さないつもりなの」って言うんです。私は息子ですから、母
親から、そう言われたら心が痛いです。だから、お正月で実家に帰った時など母がそ
う言うと、雪道の中を長靴履いて、母と母の実家のあった方まで歩いて行きました。
300メートル位しか離れていない所ですけど、母の実家のあった場所にはもう家も
なく、駐車場になっています。そこまで行くと母は気がついたような顔をして、何で
こんなところにいるのって顔をして、私の方を見て言うんです。
「早く家に帰ろう」っ
て。
こういう毎日を送っていた母が、阪神淡路大震災があった11年前に亡くなりまし
た。私が阪神淡路大震災のボランティア活動に、学生を連れてマイクロバスで行き、
茨城大学に戻ってきたとき、母が危篤だと電話が入りました。結局、死に目に会えな
かったのですが、その時の葬式の話をさせてもらいます。
(ここから大事だからね。ノ
ート取るならここからですよ!いいですか。)
北海道の函館っていうところは、告別式より通夜の方が大きいんです。通夜の席に、
地域の人たちがいっぱい集まってくれました。民生委員時代の友達とか保護司の友達
も大勢集まってくれて、みなさんが私のところに来てこう言うんです。
「ねえ、幸ちゃ
ん。あなたのお母さんが元気だった時に地域にしてくれていたことを、あなたのお母
さんが病気になってから、私たちがしていたのよ」って言われました。私は一応国家
公務員ですから、年に10日位しか家に帰れなかった。その帰らなかった「355日」
の間、地域の人たちが何をしてくれていたかというと、毎日夕方4時30分ごろ、地
域の人たちが二人ずつ組になって、我が家に来てくれていたと分かったんです。私の
母はテルコって言うんですが、「テルちゃん、お茶飲もう」って来てくれてたんです。
お茶飲み話をしているうちに、母の目つきが変わってくる。そうすると、地域の人は
必ず「テルちゃん、散歩行こう」って言ってくれてたそうです。散歩と言いながら、
母の実家がある方まで一緒に歩いてくれてたんだってことが分かりました。この話を
聞いたとき、私は「どきっ」としました。
だってですよ、地域に力があって、母に友達が大勢いたから、母は死ぬその時まで
母の行動は「散歩」と呼ばれたんです。地域に力がなくて、母に友達がいなかったら、
私の母の行動はなんと呼ばれたか。「徘徊」と呼ばれたに違いないんです。
問題はここです。現在、介護を行政が担当する時代になっています。しかし、介護
保険だけで「キチキチ、キチキチ」やった結果が「徘徊」と呼ばれるんですよ。
「徘徊」
と言う言葉は、認定の際の項目にちゃんと入っているんですから。私は介護保険の審
査委員をしていましたから。この「徘徊」って呼ばれることになる人が、ここの会場
にはいっぱいいるんですよ。もう始まっている人もいるかもしれませんけど(笑)。
もうじきですって。皆さんの場合は特に、地域とか区民のためにいろんなことをや
って、その結果、最後に少しボケたくらいで「徘徊って呼ばれるような社会をつくっ
3
てきたのか」って思いませんか。私は、「徘徊」って呼ばれたくない。だから「散歩」
って呼ばれるような、私たちの暮らしを支える地域基盤をつくらなきゃならないし、
そのために行政は何ができるのだろうかって問うてます。だって、皆さん、もう直ぐ
なんですよ。も・う・す・ぐ!(笑)
ここからちょっとだけ、わき道にそれます。この「徘徊」とともに嫌な用語が、
「高
齢者」と言う言葉です。今、
「高齢者」は当たり前に言うようになりました。私は大嫌
いな用語です。
「高齢者」という言葉は、福祉の関係の職員の方なら良く分かってます
よね、65歳になると言うんです。本人の承諾もなしにです。64歳と11ヶ月30
日までは「高齢者」じゃありません。一晩寝て起きたとたんに「高齢者」になるんで
す。これは厚生労働省が決めた基準ですから、全国一律です。私は、全国一律で自分
の年齢を決められたいとは思わないんです。だって、人の人生ってそれぞれでしょう。
それを何で一律に、行政によって決められなきゃいけないのかって問題があると思い
ます。しかし、一方では施策を行う以上、一律の基準を入れなきゃならないからこの
矛盾があるんです。一人ひとりの幸せの形が多様になってきている。しかし、行政は
「みんなの課題」
「公共の課題」として、何か施策をやるときに一律の基準を持って知
らせなきゃならないんです。でも、この一律の基準が人々の幸せを不幸に変える可能
性があるってことです。
65歳から75歳までが、「前期高齢者」になっています。「前期」ですよ。(皆さ
んももう直ぐだと思いますよ(笑)。)前は、75歳から85歳までを「後期高齢者」
と呼んでいたのです。
「後期」ですよ。じゃ、86歳はなんて言えばいいのかというと、
「末期高齢者」かということになる。こういうふうに一律に決めていく時間があって、
一律に決められているんです。ここにいる皆さんだって、もう直ぐ60歳になれば、
社会的な死を宣告されるわけでしょう。「いらない」って言われるんだから。「いらな
い」ですよ。あと、もう何もないでしょう。皆さんだって、もうすぐなくなりますよ。
なくなって戻る先の世界を、どういうふうにつくってきたのかってことは問われます
よ。公園デビューするしかないんです。
かつては、公園デビューっていうのは、幼い子どもを公園に連れて行って、若い母
親が知り合うためのデビューを公園デビューって言ったんです。私は、学生の卒論調
査について行き、公園デビューの調査に立ち会ったんです。若いお母さんのところに
行って「公園デビューって知っていますか」って聞いたら笑われました。
「知ってるけ
ど、私たちのことじゃない」って言うんです。それで、
「誰のことですか」って聞いた
ら、
「ほら」と言って、指をさした。その先を見ると、皆さんの5歳くらい年が上の人
がいっぱいベンチに座って、タバコを吸いながら話しをしている。私も研究者の端く
れですから、そのおじさん達のところに行って「公園デビューってご存知ですか」っ
て聞きました。怒られるかなあと思いましたが、笑いながら「知っている。今は俺た
ちのことを言うんだ」って。デパートの地下を歩いているのも飽きてしまって、行く
ところがなくて公園デビューですよ。ベンチに座っているのはみんな男。おばあちゃ
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んたちは、ウォーキングだもん。男はタバコを吸って休んでいる。皆さん方ももう直
ぐ迎えるんですよ。ですから、私たちがなぜ協働をするのかというのは、自分の問題
でもあるということを頭に入れておいて欲しいんです。いいですか。
(・・・・なんか、
反応がにぶいなあ(笑)。)
それじゃ、もうちょっと違う視点からお話しします。私が、なぜ協働の話を、「地
域の力」のことから話さなければならないかというと、こういうことを頭に入れてお
いてください。区役所というのは「何をつくる会社か」というと、間違いなく区民の
「幸せ商品」です。
「区民の幸せをつくるところ」でしょう。そして、その幸せが多様
化してきた。それにどうやって応えればいいのか。
「100人いて100の幸せ」があ
ったとき、どうやってその100の幸せに応えられるかってことが勝負なんでしょ。
だけど、100の形をつくるほど、お金なんかないわけでしょう。ないですって!そ
うすると、どうやって100の幸せに応えられるかというと、これは、コンビニエン
スストアに並んでいる「おにぎり」を例にすれば分かりやすい。私は独身だから、よ
くコンビニの「おにぎり」を食べるんです。店に行くと並んでいます、おかかとか、
たらことか、最近ではマヨネーズが入ったやつとか。一人ずつ好きなものが違うのだ
から、
「おにぎり」を一人ずつの「幸せ商品」だと考えてください。100人いたら1
00通りの「おにぎり」を作らなきゃならない。1000人いたら1000通りの「お
にぎり」を作らなきゃならないかというと、そんなことはとてもやっていられない。
しかし、みんなの幸せは確認したいし、でもそんなに数多くの種類をつくれない。そ
うした時、みんなが幸せだと思えるような「おにぎり」をどうやって作ったらいいか
ってことが問題でしょう。
簡単でしょう!・・・・みんなに作って貰えばいいでしょう。「おにぎり」作った
ら、「おにぎり」を自分が作ったと思った瞬間、「幸せ商品」に変わるのです。後で、
住民参画とどこが違うのかということについて、私なりの考え方を説明しますから。
ただ、その原理を頭に入れておいて、聞いてくれれば分かりやすいですから。いいで
すか。
(・・・・いいんだか、悪いんだか。昨日、南紀白浜空港から出て来たんですよ。
愛想笑いの一つもあっていいんじゃないの(笑)。)
さて、このことを解くために、例えば目黒区というところをベースに考えます。ま
ず、2つの世界という考え方から、考えてみましょう。私たちが対象にしている幸せ
をつくらなきゃならない区民とか市民は、今この2つの世界に生きています。一つは
「職の世界」です。これは、頑張ればお金になる世界です。例えば、目黒区役所で「○
○課長」とか呼ばれるわけですよ。「おはようございます課長」と言われると、「チャ
リン」と入るんです。これはお金になる。私だって「先生」って呼ばれると、
「チャリ
ン」って入ってくるんだから。
「町会長」って言われたって普通は入りませんから。お
金になる呼び名があるんです。
この「職の世界」を、私たちはこの戦後 60 年の中で大きくし、ここに力を割いて
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きました。私たちの両親は、自分の子どもや孫のために大きくしてきました。なぜな
ら、私の子どものころなんて、みんな貧しかったから。この「職の世界」がボロボロ
だったから。今、目黒区役所で課長や部長をやっている人だって、みんなこう(鼻水
を服でこする動作をしながら)でしょ。鼻をかむちり紙がなかったんだから。みんな
青っ鼻です、栄養失調だから。みんな洋服の袖の部分がテカテカ光ってたでしょう。
今なんかどうですか。私たちの両親が「職の世界」を大きくしたおかげで、中目黒の
駅前を何回か往復してごらんなさい。ただで、いくらでもちり紙が集まるから。それ
だけ豊かになったわけでしょう。この豊かさをつくってきたのが、私たちの両親であ
ることは間違いありません。継ぎはぎの服を着ている子どももいないし。私は、自分
の子ども時代の写真は2枚しかないけど、2枚ともこうです(鼻を垂らしているしぐ
さをしながら)。それが青っ鼻かどうかは分からないんですよ、白黒の写真だから(笑)。
だけど、そういう時代が間違いなくあったんです。高度経済成長を経る中で、良くも
悪くもドンドンドンドンと「職の世界」を大きくしました。
さて、問題はここからです。今日来ている中にもいっぱい課長さんがいると思いま
す。この課長と言われている人も、家とか地域に帰ってみれば、そこにはもう一つの
世界があります。これを私は「役」と呼んでいます。課長が家に帰ってごらんなさい。
かつては愛したことのある妻が待っているから。
(・・・・だめだって、今冗談で言っ
ているんだから。
「シーン」となったら深刻になるから。ちゃんと笑わなきゃだめです
よ)かつては愛したことのある妻が待っていて、
「お帰りなさい課長」なんて言ってご
らんなさい。これはもう愛がないっていうことです。だから、大体はそう言わない、
「おかえりなさい、あなた」とか言う。
「あなた」って言葉だって、結婚期間が長くな
ればなるほど愛と憎しみで満ち溢れてきます(笑)。ないしは「おとうさん」とか呼ば
れる。問題はここです。「課長」って呼ばれるとお金になるんです。「あなた」と呼ば
れると大体お金は出て行きます。出て行くでしょう(笑)。これが鼻にかかって言われ
たら、多めに出るんだから。
「おとうさ∼ん」なんて言われた日には、湯水のごとく出
て行くでしょう。これが、高度経済成長とともにつくってきたサラリーマン化した家
庭の中で、日常的に行われるようになりました。
それでは、この60年の間に、「役の世界」は何を豊かにしてきたのかというのが
問題です。「あなた」って言われるたびにお金が出て行き、「おとうさん」って言われ
るたびに出て行くんですよ。じゃ、これは何かっていうことを、55歳になった今で
も独身の私が言うのも本当に変なんですけど、
「愛」ですよ(笑)。
(今のところはちゃ
んとまじめに聞かなきゃ、鼻で笑っちゃ・・・。)「愛」とか「心」とか言われます。
問題はここです。この仕組みを、このまま日本が次の世代に伝えていっていいのか
どうかというのが問題なのです。私たち日本人が幸せになるために、このシステムを
高度経済成長期につくりました。
「職の世界」を大きくするため、豊かさを得るために
つくったのです。だから、私たちの子どもや孫が、この結果不幸になるんだったら、
私たちはこの仕組みを変えていかざるをえないのですよ。このことが、行政の協働事
6
業の根底にあります。
男女共同参画の話も織り交ぜ、少し話をすると、高度経済成長の中で何が中核にな
ったかというと、
「役」と「職」の間に線が入ったんです。これは、私たちの父も母も、
私たちという子どもを幸せにするため、
「役」と「職」の間に線を入れると決めたんで
す。「職の世界」は男が頑張る、「残業、残業の中で頑張る」って。その代わり、妻で
ある母は、働きに行かないで「役の世界」で子を育てる。このように分担したのです。
いいですか、男女共同参画は、女の人が男に押し付けられて「役の世界」に追いやら
れたんじゃないですよ。男も女も、これが子どもや孫のために幸せになると思って選
んだのです。私の母なんか専業主婦で子どもが3人です。国鉄職員の息子でお金がな
いのに、子供3人を大学に送り出したんです。どんなに私たちが知らないところで、
食べたいものも食べないできたか分かりません。それだけ、私の両親はこの男と女の
分担をやったのです。だから私はこれを否定しません。ところが、これはあくまでも
高度経済成長の過程でつくった男と女の分担だったんです。これが昭和47年から4
8年にニクソンショックとかオイルショックがおこると、
「職の世界」で頑張ってきた
男のベースアップとかがなくなっていきます。
この会場の前方にいる偉い人たちや私より年上の人たちは、ベースアップを経験し
ていますよね。私はベースアップが終わった後に就職してるんです。だから、損して
います。毎年のようにベースが上がっていたんだから、そういう時代だったから、妻
は「役の世界」でやれたのですが、ベースアップがなくなっていく。そうすると、妻
も「職の世界」に働きに行かざるをえなくなったし、おまけに「職の世界」の成長と
ともに女性の学歴が上がっていったから、
「職の世界」に行って「勝負したい」という
人も出てきて当然でしょう。ここに行った女の人たちは、最初のころなんて言われた
か分かりますか?「職場の花」って言われたんです。花はいつか枯れるんです (笑) 。
ドライフラワーにもなるんですよ。ですから、これは花じゃなくなったら「帰れ」っ
て意味でしょう。男を「職場の花」なんて言うことはないんですから。女の人だけ「職
場の花」って言われたのですから。
そのため、「職の世界」で頑張ろうとした女の人たちは、いろんなものにぶつかり
ました。市役所とか区役所とか、公務員は、それでも保障されているからいいですよ。
民間企業に行ったら、もっとひどいですから。
(でも、この目黒区役所の女性で、上司
に無能な男性がいるって思っている人はいるでしょう、言わないだけで(笑)。)
私は地元の銀行に行って聞いたことがあるんです。なんて聞いたかと言うと、「受
付窓口業務をやっていて男と女の差別を感じたことはないですか?」と。そうしたら
「ある」と言うのです。それが、会社の人事ではなく、お客さんの対応だと言うんで
す。
「どんなこと」と聞いたら、男性の支店長とかがいない時にお客さんが来て、私の
方を見て「誰かいないの」って言ったそうです。私はここにいると思って「むっ」と
してお客さんの方を見ると、目と目があったら「なんだ誰もいないのか、じゃまた来
る」って帰るんだそうです。一人前に扱われなかったのです。だから、
「職の世界」に
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行って頑張ろうという女性達にとって、この仕組みは不幸せになってきたんですよ。
わかりますか。
じゃ、男性は幸せかというととんでもないの。男性は60歳で切られる、60歳に
なったら「いらない」って言われる。帰る場所がないんですよ。ある大手製作会社で
聞いたことがあるんです。60歳になったばかりの退職した30組のご夫婦に聞きま
した。「退職したら、何をしたいですか?」と、まずだんなさんの方に聞いたんです。
30人とも「ばっちり」同じ回答。なんて言ったかというと、
「仕事している間は女房
に苦労をかけたから、退職したら女房と二人切りで旅行でもするつもりだ」って。渡
哲也と同じことを考えているの(笑)。それで、奥さんの方に「ご主人が奥さんと旅行
に行きたいと言ってますよ」って言うと、8割が「とんでもない」って答えたの。
「夫
と2人きりで行くくらいなら、友達同士で行きたい」って。
それだけ、「役と職の世界」がボロボロになっていることに気付かない。そうする
と、もっと男性だって「役の世界」に自由に行き来ができるような仕組みに変えてい
かなければならない。そのためには、この「役の世界」を少し変えて男性が行けるよ
うに、女性が「職の世界」に行けるように、
「役と職の世界」の間をスムーズに行き来
できるような仕組みをつくろうというのが、男女共同参画です。何も難しいことはあ
りません。男も女も幸せになるためには、どうしたらいいのかという仕組みでしかあ
りません。
この仕組みでいうと、「役の世界」を大きくしなければならないことに、まず第一
に気がつくでしょ。「役の世界」を大きくする。「役の世界」がボロボロになったんだ
ったら、
「役の世界」を大きくするしかない。男性はよく考えてごらんなさい。課長さ
んたちは、
「職の世界」に出かけていくのですよ。区役所に行くとき課長という仮面を
かぶるんですよ。どんなに家で夫婦喧嘩したって、職場では見せないんだから。区役
所から帰る途中で「仮面」をはがす。課長ぐらいだったらはがせるかも知れないけど、
部長までいったらもうはがれない。どうやってはがすか分かりますか?帰り道に「仮
面をはがす公共施設」が用意されてるんですよ。その公共施設のことを「赤ちょうち
ん」って言うんです(笑)。この仕組みだもん、この仕組みの中で「役の世界」がボロ
ボロになっていったのだと私は思います。
「役の世界を大きくしたい」「家族だとか地域のことを大きくしたい」、それが協働
の根底だから。この仕組みを大きくするために、何を考えたらいいか。
「あなた」とか、
「おじさん」、
「おとうさん」とか、
「ボランティア」とか様々な地域の中にあるいろん
な役、これを豊かにつくっていけばいい。それには、従来持っていた地域の役とか、
家族の役を超えて、新しい役をつくる。
目黒の協働推進方針でたった一つ足りなかったものは何かというと、「新しい公共」
をつくるということが書かれていないことです。つまり、「みんなの課題だ」「これが
課題」だと、行政が決めたことに住民を参加させるのは「参画」なんです。協働とは
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違います。いっぱいいろんな区民が出てきたんだから、幸せの形がいっぱい出てきて
いるんだから。それをまとめあげた、これがみんなの幸せだとすれば、これを公共と
言いますから、この公共が従来の公共イメージを超えて新しい公共をつくり出す、こ
れが入っていない。この新しい公共を作り出すということが、
「市民参画」と全然違う
ところなんです。つまり、いままでだったらイメージでこれが公共性だと思っていた
のが、区民と行政が一緒にやることによって、これも新しい公共として、目黒らしい
公共として作り出そうということを決めていくんです。
例えば、私が関わっている青森の鶴田っていう町では、朝食条例と言うのをつくっ
たんです。朝ごはんを食べる条例ですよ。これに本当に公共性があるかどうかという
のは、私も今もって疑問だけど・・・・。協働の一つとして、朝ごはんを食べると言
うのが出てきたんですよ。
「朝ごはん食べなきゃ、みんなだめだっぺ」という話になっ
て、条例になっちゃったんです。そうして、朝ごはんを食べることが動き出したら、
子どもたちは親から「朝ごはん食べなきゃ法律違反だ」と言われて、毎朝ご飯を食べ
るようになってから、学校での子どもたちの状況が「がらっ」と変わってきたんです。
こんなのは公共性を超えるでしょう。だけど鶴田では公共性なんです。これが基礎自
治体の根底です。何も国に従うことはないんです。だから、目黒では75歳から高齢
者って言っていい。別に65歳でなくたっていい。そこがポイントです。
(反応がない
のを見て)・・・・だめだこりゃ(笑)。
いろんな「役」を豊かにつくる。それを私はなんて言っているかというと、「新し
い役づくり」のシナリオ、目黒なら目黒らしい「役づくり」のシナリオだから、まち
づくり「新役聖書」と言っているんです。キリスト教では、
「役」の部分は約束の約な
んです。私が考えるまちづくりでは、役割の「役」です。この「役」がいろんな形で、
いっぱい描けてくれば、この区民がどんな「役」を背負ってくれるかということで、
初めて協働の基盤が出てくる。その時に「いやー、昔は行政がみんなやってて、今は
金がないから、俺らに手伝えとか言っているのか」って言う人が必ずいますから。こ
ういうふうに昔の考えでやる人のことを何て言うのかというと、
「旧役聖書」って言う
んです(笑)。昔は戻って来ないとすれば、新しい幸せの形を市民・区民と一緒にどう
やってつくれるか、幸か不幸か皆さんの時代に迎えることになったということです。
間違いなく、今から5、60年前の私たちの先輩は、子どもや孫のために今までの「職」
と「役」の仕組みを決めたんです。幸せの形をこれで行こうと決めたのです。それが、
今から30数年前に、そろそろ限界が来はじめた。そうすると「職の世界」がボロボ
ロになった時に、どうすればいいのでしょうか。
新しい役づくりのシナリオは、「地域」とか「家族」の中で、どういうことかを、
私のやってきた調査を例にお話します。私は、子どもの問題を随分研究してきました。
どういうことをやってきたかというと、鹿島アントラーズで有名になった茨城県鹿島
郡神栖市の集落に入って、22年間定点調査をやってきました。三世代で暮らしてい
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る家族の調査を続けてきたんです。この調査から、この新役の話をしますからよく聞
いてください。おじいちゃん、おばあちゃんがいる。できの悪い息子がいて、意地の
悪い嫁がいる。孫がいる。これが、一般的な三世代の直系血族家族です。私は、この
ような家族を選んで、
「あなたにとって家族は誰ですか?」という、たった一つの質問
を22年間続けてきたんです。
この22年間ずっと変わらなかったのは、おじいちゃん、おばあちゃんの考え方で
す。100%の人が、孫まで含め「同じ屋根の下で暮らしている全員が私の家族だ」
と言うんです。問題は(息子の妻を指して)ここです。ここにも、同じように「あな
たにとって家族って誰ですか」って聞き続けてきました。その結果分かったことは何
かというと、最初のころ、8割がおじいちゃんとおばあちゃんと同じだった答えが、
今は2割しか同じではありません。今はなんて答えるかというと、今はちゃんと祖父
と祖母の下に線を入れるんです。
「私の家族は」というと、ここにちゃんと線を入れる
んです。なぜかという理由も解けています。家族と言うのは、日本では血族家族で血
のつながりですから。例えば、私を例に考えると、おじいちゃん、おばあちゃんから
出た長谷川の血筋は息子に行き、息子に行った血筋は孫に行くのです。たった一人だ
け血統が違う人がいるのです。それが、息子の妻です。この息子の妻が、家族をどう
やって結ぶかで苦労してきたのが日本の嫁の歴史です。でも、あっという間につなが
ることがある。あっという間につながる条件が分かりますか。祖父母がいなくなった
時です。祖父母がいなくなれば、長谷川の血筋は祖父と祖母の下からはじまる。でも
亡くならない、元気です。おじいちゃんが何か言ったら、聞こえなかったことにする。
おばあちゃんが何かしても、いなかったことにする。こうして、溝を深くしてきたん
です。
問題は孫に現れてます。この部分の調査は、小学校に上がる前の幼い子どもたちに
絞ってきました。なぜかというと、小学校にあがると、子どもは世間の垢にまみれる。
大人の顔色をうかがうようになるんです。でも、保育園と幼稚園の子どもはそうじゃ
ないから。何て聞くかというと、
「あなたにとって家族ってだれのことですか?」って
聞いたらわけが分からないだろうから、「ままごとするときは、どんな役がいいの?」
って聞きます。そうすると、メロンパンナちゃんとかアカレンジャーとか、いろんな
ヒーローとかヒロインの間にお父さんとかが入ってくる。その順番を見ればいい。一
番はおかあさん、これは不動の1位です。最近、2番目はお父さんじゃなくなったん
ですよ、兄弟やお友達です。3番目がお父さんになりました。
問題は4番目。ここが、全国で、私の調査が評価されているところです。おじいち
ゃんか、おばあちゃんか。ここまで、調査は入っているのです。おじいちゃんとおば
あちゃんの「役」はどうなのかってことを調べたいからです。
(会場に皆に問いかけな
がら)それじゃ、おじいちゃんだと思う人は?手を挙げて。7∼8人かな。それじゃ、
おばあちゃんだと思う人?(大勢手を挙げる)ほーらね!目黒区役所に勤めている人
は、みんな、おじいちゃんは疎外される運命だって分かっているんです(笑)。
・・・・
正解は、4番目「ペット」です(爆笑)。おじいちゃんでも、おばあちゃんでもなかっ
10
たのです。これにはびっくりしました。どうして、おじいちゃん、おばあちゃんより
ペットの方がいいのかって。おじいちゃんとかおばあちゃんの役をやると、黙って座
っているだけだけど、ペットだと「ワンワン」とか「ニャーン」とか言えるらしいの
です。それだけ、祖父母と孫の関係が切れた。つまり、祖父母って「役」はボロボロ
になってきたっていうことを言いたいんです。
祖父母の「役」がボロボロになる。みなさんのこれからの姿ですよ。なぜこれが極
めて大きい問題か、新しい公共の問題なのかというと、日本の子育てというのは、親
から子へ伝えるパターンではなくて、隔世遺伝タイプの子育てとして、文化人類学的
には有名なのです。一世代おきに伝えられたんです。人間は一人では生きられないか
ら、「こうやって生きるのだ」というルールだとか、「人間の心根」とか、それをちゃ
んと子供に伝えてきたのは、一世代おきなんです。なぜ、こんなことを言えるかとい
うと、この幼い子どもたちのために、「社会はこうできているのよ」「人間はこう考え
るんだよ」という教材をちゃんと用意してきました。その教材のことを「昔話」とか
「民話」というんです。昔話を思い出してみてください。
「むかしむかし、あるところ
に」いたのは誰ですか。なんで、お父さんとお母さんは出てこないのでしょう。お父
さんは山に芝刈りにいって、お母さんは川に洗濯に行ってたでしょう。
「昔話」とか「民
話」は、おじいちゃんとおばあちゃんが家に残って、孫の面倒を見ながら、伝えてい
った話なのです。それが、伝わらなくなってきたということなのです。いま、目黒区
にある本屋さんか、図書館の絵本のコーナーに行ってごらんなさい。
「むかしむかしあ
るところにおじいさんとおばあさんがいました」なんて絵本はほとんど置いていませ
ん。あっても5%でしょう。おじいさん、おばあさんは、実際にはいるのにもう消え
ています。そうすると、おじいさん、おばあさんていう「役」をもう一回復元させな
きゃ駄目ではないですか?みなさん、幸せになれないのですよ!「公園のベンチ行」
です。
さて、この状況をどういうふうに考えるか。祖父母がだめなら、両親がやるしかな
くなった。でも、両親のうち父親は働きに行っている。母親の半分は勤めかパートに
行っています。今まで、こんなに日本の子育てがか細くなったことはないんです。か
つては、家族の上に祖父母がいて、その周りに地域社会があって、さらに友人のネッ
トワークがあったりしていたのですよ。それが、徐々にボロボロと崩れていったとき、
この子の面倒を見るのは母親だけになってしまう。
それで、このお母さんはどう考えるかというと、最初、小学校3・4年までは「う
ちの子は元気であればいい」と思っています。4・5年になってごらんなさい。隣と
比べ始めるんだから。そうすると、子どもに向かうんです。でも、お母さんの思い通
りに育つ子なんていません。お母さんは、子どもが100%頑張っても120%望み
ますから。その時、そのお母さんに対して、
「あなた、子どもって母親の思い通りに育
ちっこないのよ」って言えるのが、祖父母だったんです。どうして祖父母が言えたか?
というと、思い通りに育たなかった結果がそこ(その家の息子)にいるからです(笑)。
11
この仕組みを、私たちがこの60年の間に急激に失ってきたんです。それに代わっ
て、どうやって私たちは新しい仕組みをつくるか。これは以前だったら、公共の課題
ではありません、私的な領域です。だけど、これが新しい公共性として私たちは検討
しなければならなくなってきたのです。行政にとってみれば、新しい行政の考え方と
か、手法を取り入れざるを得ないのです。今、お母さんが、この子に向かって比べる
というとき、実は「職の世界」の側が比べる世界なんです。
「職の世界」の側に行って
ごらんなさい、何でも比べるから。
この比べるということについて私が一番動揺したのは、学生とファミレス調査とい
うのをやったときです。学生3人と私を入れて4人で、11時30分ごろファミリー
レストランに行きます。そうすると12時ごろ、おばさんというと失礼だけど年配の
女性が来る。この人たちの特徴と言うのは、ボックスシートに座ったとたん、どんな
大きい声でしゃべっても隣には聞こえないと思うことです(笑)。だから、大きい声で
しゃべり始めます。私らはその脇でドリンクバーなんか頼んで、一人ずつ文庫本でも
読んでいるふりをしながら聞き、全部ノートに書いていくんです。それを「ファミレ
ス調査」と言います。
しゃべっている中味を調べると、1/4が夫の悪口です。夫の悪口を言うというこ
とは、夫を比べるわけです。夫というのは、本当はかけがいがないんだから、代わり
がいないんだから比べられない男です。でも、比べようがないのに比べる。それから、
わが子まで比べる。わが子もかけがいがないけど、それを比べる。最後は自分。自分
を隣の奥さんと比べる。私はそれを聞くたびに、日本人の幸せってどこ行ったのだろ
うって思います。全部比べてしまう。私と小錦を比べたって意味がないんですよ、全
然違うんだから(笑)。
なぜ、「職の世界」に行くと比べてしまうのか。ここから、協働によるまちづくり
の大きな思想的な、哲学的な背景を言いますから、よく聞いてください。なぜ「職の
世界」へ行くと比べるのか。お金のせいです。これがマイク、これはマーカー、比べ
なさいと言っても簡単に比べられません。ところが、これ一本でこれ何本と交換しな
さいというと比べられます。お金というのは、本来比べられないものを比べてしまう
力があるんです。これを交換価値というんだけど。この「職の世界」に入っていった
ら全部比べます。子どもたちだって「職の世界」に行ったら、学力で全部比べられる
んだから。会場の皆さんだって、
「職の世界」である区役所の中では、誰より仕事がで
きるって比べられますから。だけど、みんな比べられる人生になったら、こんなつま
んないことはないですよ。比べられない人生が絶対必要です。
「役の世界」はかけがえ
がないのです。私は、かけがえがないっていう人生を区民につくってあげなきゃだめ
だと思うんです。かけがえがないという、私が生きたって証を。みんなものさしで比
べられて、何キロだとか。冗談じゃないって言うの。何キロ以上がなんで贅肉だって
わかるんですか(笑)。(自分のおなかを指しながら)この肉だって、いつかなにかの
役に立つかも知れない。
12
私たちは、なにかの基準とかを聞くたび、「そうか」とか思っちゃうんです。よく
聞いてください。「職の世界」に来たら、「カチカチ時間」という時間しか動かないの
です。
「カチカチ、カチカチ」みんな平等に後ろから追いかけられる。時々、後ろ振り
返ってごらんなさい、青白い顔をして立っているから。どこに隠れても追いかけてく
る。そして、これは量で計る「1時間とか2時間」とか。
「くそっ」って思いますけど、私は55歳でまだ助教授です。そろそろ教授になら
なきゃだめな年なのです。本当はこんな所に来て、こんな話なんかしている暇はない
のよ(爆笑)。好きだからこうやってしゃべっているけど、私には、水戸黄門の主題歌
が響くんです。
「・・・・・あとから来たのに追い越され、泣くのがいやなら、さあ歩
け」って主題歌です。あれが「職の世界」では響くんです。「カチカチ、カチカチ」。
でも、それだけだったらどんなに偉くなったって寂しいですよ、おそらくね。
皆さんの中には、「カチカチ」時間以外の違う時間が動いているでしょ?その時間
を区民につくってあげなきゃ駄目なんです。これが新しい公共性です。どういうこと
かというと、
「役の世界」は全く違う時間が流れています。施策ではほとんどできない
かもしれないけど、考え方だけ説明します。
「役の世界」には「さらさら」時間が流れ
る。これは砂時計のような時間です。この区役所の仲間が、
「協働」というテーマで一
同の空間に集まって、一緒に砂時計ひっくり返したようなものでしょう。この中から、
この中の何人かが消えていって、誰もいなくなったら、もうこの「さらさら」時間っ
ていうか、砂時計の時間は流れない。仲間がいて、こういう思いが集まって初めて流
れる時間です。だから、ドア一枚隔てて、外とこの中に流れている時間は違うのです。
この時間、かえがいのない時間をどうやってつくれるか。これに気付かなくなってい
る。みんな「カチカチ」時間で、お金に換算するように見るから。公共のことに取り
組むときも「お金は」とか言い出す。私は団体の人たちに、補助金の交付を受ける時
だって、こういう活動は、お金が入らない方がいい場合だってあるということを、ち
ゃんと伝えていくべきだと思う。だって「さらさら」時間っていうのは、不平等なん
です。やる人にしか流れないんだから。
(今日は、大学の先生の講義だっていうのに、「よくこんなに集まった」と思います。
どんな義理があったかわかんないけど(笑)。皆さんは偉いと思いますよ。大学の先生
の講義っていうのは、みんな分かっていることをだれも知らない言葉で説明するんだ
から(笑)。)
「さらさら」時間は不平等で、しかもいつも前にしかない、今日来なかった人には
流れないってことです。その時間を区民がどういう「役」の中でつくれるか、おそら
く協働区民フォーラムが出来て、その中で活動した人たちは、この時間の真っ只中に
いたと思います。いろんなことをあれこれ言ったって、こういう活動はいい思い出な
んです。それが「おにぎり」を自分で作るって意味ですから。
その時、時間の計り方ですが、「職の世界」は「量」で計ります。一方「役の世界」
は「深さ」で計るんです。時間には「深さ」っていう単位があります。ガンで余命が
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一年と言われた人が、その1年間をどう生きるか。あと退職まで2年の課長が、その
退職までどう仕事をするか。のんべんだらりやったって、深く生きたって同じ2年間
なんだから。私はその時に、どうやったら深く生きられるかっていうことを、行政は
演出しなければならなくなっていると思います。幸せかどうかって、みんなで「目黒
区の時間は深いね」って言えるような、深さをつくれるかどうかでしょう。そのこと
を皆さんが、どういう具体的な施策に反映するかは、皆さんの仕事です。皆さんの方
が私なんかよりプロだから。
ただ、私はこう思います。皆さんだって、かつては深い時間があったでしょ。結婚
する直前に。夫か妻になる人と二人きりで過ごした時間があったでしょう。かつては
深い時間があったんです。だって結婚っていうのは、
「さらさら時間」をつくるってこ
とですよ。社会はずっと「カチカチ時間」だから。私の教え子が今、福島大学の助教
授です。追いつかれてしまったのです。だけど、そういう時間とは別に、結婚と言う
のは、会社とか社会が「カチカチ時間」で動いたって、二人で「さらさら時間」を生
きようという決意でしょう。やがて、そこに同じく「さらさら時間」を歩むはずの子
どもが生まれてくるんでしょう。子どもはやがて、親の「さらさら時間」から離れて、
親より好きな人と一緒になっていきます。それが人生でしょう。一日生きるというこ
とは、一日死に近づくと般若信教は言っています。そうした中で、豊かさを区民にど
うやって演出するかが重要です。
今まで、哲学的な話をしてきました。ここからは、もうちょっと具体化していきま
す。この「役の世界」をどうやってつくるかという時、まず目黒区のコンセプトから
行かなきゃだめですね。こういうことは皆さんが考えることですから、私に聞かない
でください。でも、目黒区って言えば、やっぱり「秋刀魚」、
「目黒のさんま」だから、
「さんま」っていう言葉から行きたいと思います。
「さんま」というのは、私たちにと
っては、時間・空間・人間(じんかん、これは仲間とも言いますけど)のことを指し
ます。これで、3つの間と書いて「三間(さんま)」と言うんです。
私は、目黒区で皆さんが幸せのシナリオをつくるんだったら、「目黒区の時間は」
って言ったときには「さらさら時間」が流れる。「目黒区の空間は」と言った時には、
例えば、子どものことをやっているのであれば、子どもにとって目黒区全体が空間、
学び舎でしょう。まち全体が生涯学習の空間は全部ですから、目黒区の学校だけが学
び舎じゃない。そうすると、同じ空間でも、みどりのことをやっている、みどりの空
間って考える人たちの空間は、全部この空間の中に入り、目黒の三間(さんま)の一
つになるでしょうと言っているわけです。その三間(さんま)の見方だって、行政が
見る見方は必ず俯瞰で見ますから、上から鷲の眼差しで見る。飛んでいる鷲が上から
平面図のように見るんです。一方、住民は絵巻物のように見えるんです。平面図では
なく、絵巻物です。運転免許を持っていない人が助手席に座ったときに見える景色だ
と思えばいいです。ランドマークが次々次々映っていくんですね。
14
ケビン・リンチって知っていますか。(会場がシーンとして)だめだな、勉強が足
りないなあ。都市計画やっていると必ず出てくるんですけど。まちのシンボルになる
ものがあるとする、それが次々絵巻物のように映っていく空間です。ところが計画的
に見る場合は、全部平面図で見ます。この2つの複眼を持たなければ、空間の意味は
解けません。例えば、子どもであれば、
「子ども道」とか、子どもだけが命名する「猫
屋敷」とか、
「お化け屋敷」とか、そういうものがいっぱい「まち」にあって、子ども
の文化なんですから。そういうものを皆さんは、子どもを持っているお母さん方と協
働してつくったか?ということです。目黒の空間はこれから協働してつくっていくん
です。これまでは、単一目的でつくっているでしょ。協働で一番ネックになるのはね、
住民と協働するのが難しいのではないのです。隣に座っている部局の人と協働するの
が難しいのです。それができれば、協働はそんなに難しい作業ではありません。
私は、本当に「新しい公共性をつくる」っていうのだったら、一回「全部脱ぎ捨て
ちゃいなさい」と言いたいんです。無理だろうね、無理なんだ。どうすればいいんだ
ろうね。私も、いっぱい、いろんなところでやってきたけど、それが一番ネックだか
ら。だって、みんな脱がないんだもの。
「いやー長谷川先生の話はいい話だったな。で
も、うちは別だからな」で終わるんです(笑)。だから、そこが一番大きいと思う。だ
から、協働推進課がどのくらいリーダーシップを取れるかということが大切ですね。
でも、難しいと思いますよ。
次に人間(じんかん)。これだって、行政の仲間の関係や上下関係とかと、住民の
関係は違いますから。人間(じんかん)の話に入っていった時は必ずこう考えてくだ
さい。人間(じんかん)というのは何かと言うと、人間が幸せになるための「4つの
縁(えにし)」と考えてください。人間は一人で生きていけない、一人でこの自然環境
の中に生きていけない。妊娠して、十月十日もおなかに赤ん坊かかえてごらんなさい。
弱肉強食の地球環境の中では一人で生きていけなかったでしょう。仮に運良く産むこ
とができたとしても、一人歩きするまで1年かかるので、この間に大体襲われたでし
ょ。おまけに、人間は脳が大きくなりすぎたため、このままの頭蓋骨で出てこれない
んですよ。だから、頭の頭蓋骨を固めないで、体積を小さくして出てくるでしょ。生
まれた時は(頭頂部を指しながら)くっついていないでしょ。普通の動物は、地球環
境の中で生き延びるため、地球に適応したんです。暑かったら、襟巻きとかげのよう
に空冷エンジンにするとか、寒かったらマンモスのように暖をとるとか。ところが、
いびつになった人間は、地球環境に適応せず、地球環境を人間に適応させた。自然と
いう、地球に第1の環境があったとしたら、人間はどうしたかというと、人間にとっ
て都合がいい第2の自然をつくったんです。この第2の自然を、私たちは「社会」と
言います。
この第2の自然、社会というシステムの中における人間同士の人間(じんかん)は、
一つは「血縁」。夜中に目を覚ますでしょ、そうすると「あー、この人が私の青春をダ
メにしたんだ」って人がいるでしょ(笑)。これを「血縁」と言うんです。次が「地縁」。
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地域の縁(えにし)です。これが難しいんです。今日、時間があれば説明しますが、
この時代、この目黒で一緒に暮らすことになったという縁を「地縁」と言うんです。
本当はアメリカで暮らしても良かった。アフリカで暮らしても良かったんです。本当
は江戸時代に生まれているかもしれなかった。この時代に、この目黒で暮らすことに
なった縁、これを区民はみんな持っていますから。3番目が「友縁」、これがボランテ
ィアとかアソシエーションと言われるものです。最後が「職縁」。この「4つの縁」で
社会は彩られているんです。この「4つの縁(えにし)」の中で、人は一人ではない環
境をつくって、豊かに生きているわけです。
ところで、皆さんの場合は、今「職縁」がいっぱいで、
「血縁」が少しで、
「地縁」、
「友縁」はほんの少々という状態です。このままの状態で皆さんが死を迎えられるん
だったら幸せだけど、もう直ぐ「職縁」がなくなるわけです。退職して、退職金を持
って帰ったって、退職金の効果は3ヶ月ということは大手広告代理店の調査で分かっ
ています。どういうことを調べたかというと、妻は、夫が退職してから3ヶ月の間は、
昼ごはん作るそうです。それで、3ヶ月が過ぎると、妻はなんて言うかというと「あ
なた自分で作れば」って言うそうです。言われた途端、生涯学習課の公民館で男の料
理教室が始まるそうです(笑)。それじゃ、地域に帰って活動できるかというと、これ
が生まれ育った地域だったらいいですよ。私だって、函館に帰れば「幸ちゃん」とか
言われます。小学校2年生の時に遠足で函館山に行ったんです。長い滑り台があって、
滑っている途中でうんこしたとんでもない人がいて、みんなで洗ってやったんですよ。
その人が今、函館で歯医者をやっているんですよ(笑)。帰っても、「絶対にあいつの
ところでは、歯は治すまい」とか思うでしょ。そういう関係があれば、地域に戻れま
す。ところが、そうじゃなかったら、そう簡単には入れません。
冗談で、退職したら3年以内に死ぬのがベストって、私は友達に言っているんです。
なぜかというと、私は香典調査というのもやってるんです。よそ様の香典を年に6回
調べに行きます。この調査を20年間くらいやっているんですけど、まず、香典を4
種類に分けるんです。そうすると、その人がどういう人生を送ってきたかというのが
分かります。私の調査を聞いたある葬儀屋の課長が教えてくれたんですが、退職して
3年以内に死ぬと香典がいっぱい集まるそうです。次は12年目だって。
それに退職したら、「職の世界」の友達は家に遊びに来なくなるでしょう。来るの
は、だいたい奥さんの友達だから。奥さんの友達が来て「お茶でも飲んで行けば」と
言っても、その友達は(親指を立てて)「今日これいるの?」って聞くそうです。「い
るの?」ですよ。いたら、あがらないという意味ですよ。女の人たちは、職場で「誰
かいないの?」って言われてきたんです。男は職場から去ったあと、退職したら今度
は「いるの?」って言われるんです。これは不幸せでしょ!こういう状態を「無縁」
というんです。この無縁の状態が、お金があふれるかわりに私たちのこの世界に出て
きました。これをどうするかって問題は、大きな新しい公共事業でしょ。
これに、私たちはどう取り組むか。その中で、「地縁」というのも大きく変わって
16
きた。この「地縁」のこと、目黒区の「地縁」についてお話しさせていただきます。
実は、目黒区の住区住民会議については、以前から私も知っていました。私は、昔、
中野にいて、中野区の住区協議会づくりに参画したんです。目黒と競争したんですよ。
だから、よく分かります。その背景とか、そのことについて、もう一回、皆さんに復
習してもらいます。いいですか。
1969年に国民生活審議会というところは、「コミュニティ」「人間性の復権を目
指して」とかという報告を出しています。
なぜ出したか。まず、地縁の組織はいろんなパターンがあるんですけど、まず、日
本の地縁組織から考えてみましょう。本当は大宝律令のころの地縁組織が最初なんで
すけど、そこまで戻ると大変ですから、秀吉くらいからお話します。
豊臣秀吉というのは、5人組とか10人組とかいう制度をつくりました。これは、
今の地域組織に匹敵する制度だったんです。なぜかというと、このときに、豊臣秀吉
は兵隊と農民を分ける兵農分離というのをやるんですね。戦国時代までの戦争は、農
民がやっているようなものでした。武田信玄と上杉謙信がやった「川中島の戦い」っ
てあるでしょう。あれは、必ず「冬」に戦って、絶対「夏」はやらないんです。どう
してかというと、夏は農繁期だから必ず農閑期にしていたんです。田植えとか稲刈り
のない時期に戦争をしていました。足軽とか雑兵はみんな農民だから、農民の家に刀
とか槍とか全部あったんですよ。いざ戦いというと、自分の家から取り出して行って
戦ったのです。だけど、このままこれが続き、いつでも農民が兵隊になるといったら
“おっかない”から、秀吉は兵農分離するわけです。そのため、刀狩というのをやっ
たのでしょう。そして、今度は、農民を支配するために組織をつくらなければだめに
なったのです。これが、10人組とか5人組とかいわれるものです。
役割の一つは、相互監視で、5人組とか10人組の中に変な人がいないかのチェッ
クです。もう一つ、この兵農分離によって出てきた5人組、10人組という組織は、
現代までつながる扶助システムを持ったのです。
江戸時代に入ると、農村と都市にはっきり分かれました。城下町である都市には、
棟割長屋というのができました。なぜかというと、江戸は1000人くらいの人口し
かなかった漁村があっという間に、30万人、50万人という人口に膨れ上がってい
ったためです。全国から一人身の職人たちが集まってきました。江戸の面積は40キ
ロ四方で、この中の63%が武家屋敷で、残りの17%が寺などです。残りの土地に
50万人が暮らすために、長屋を作ったわけです。なぜ、この長屋が監視システムで
もあったかというと、この長屋の入り口には必ず木戸があり、それが朝6時に開き、
夜10時に閉まる。それ以外の時間に外を歩くときは、ちゃんと書付を持っていない
と捕まる。だから取締りに携わる人が少なくても、人口50万人の都市の治安が維持
できたのです。
もう一つ相互扶助ですが、自身番という制度があって、大家さんの役割でした。大
家といっても家主のことではなく、いわゆる管理人です。困ったことがあると、必ず
みんな大家さんのところに行ったのです。それで、みんなで解決したんです。たとえ
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一人で暮らしている高齢者がいても、この時代「一人暮らし」なんて言葉はなかった
んです。だって同じ屋根の下だから。だから、みんなでやっていた。これは地域のコ
ミュニティに対する基本的な地域社会の環境をつくっていたのです。
農村は都市と違って生産共同体ですから、つまり屋根を葺くとか、稲を植えるとか、
「結」とか「講」とかの仕組みがあって、それで相互扶助をやったんです。
それが、江戸時代が終わって明治になると、江戸のこの考え方を薩摩・長州が入っ
てきて全部壊します。どうしてかというと江戸幕府がつくったシステムだから、この
上に薩摩・長州がつくった政府が乗っかると、いつ反乱がおきるか怖いからです。だ
から長屋と隣組を壊します。壊したんですが結局、地域社会のことがどうしようもな
くなって、明治末に隣保制度が復活しました。この制度もほとんど隣組の制度と同じ
です。
昭和15年くらいになり戦争の真只中に入ると、町内会整備令というのが旧内務省
によってつくられたんです。ここにはじめて、現代の日本社会に通じる町内会が出て
きました。町内会の管轄権を持っていたのは役所ではなく、大政翼賛運動の本部が元
締めでした。
そのため、終戦後にGHQが入ってきて、町内会は戦争協力団体として、潰される
ことになりました。この町内会に代わって、何を入れるかという議論になったのです。
その時の賢い人たちは、町内会は潰されるなら名前だけ代えて自治会というのをつく
ろうとしましたが結局潰されました。それで、町内会の形は、納税組合という形で残
したのです。納税組合というのは残したのですが、結局、それも潰されました。
本当は何が潰されたかというと、日本の地域社会システムが崩されたのです。日本
の地域社会のシステムが崩され、アメリカは代わりに何を入れたかというと、
「 協議会」
方式です。町内会・自治会に代わって協議会というのを入れたのです。この協議会の
代表例がPTAです。このアソシエーションという団体を作る、社会福祉協議会など
もそれに入ります。
このように町内会の代わりに協議会を入れていきました。これまでとどこが違った
かというと、地域社会のときには、学校は「おらが学校」という意識だったから、お
じいちゃん、おばあちゃんも私のように子どもいないおじさんも、全部学校後援会の
メンバーだったんです。ところが、協議会になったらどうなったかというと、お父さ
ん・お母さんと教師だけになったのです。おじいちゃんやおばあちゃん、私のように
子どもがいないおじさんは学校の支援に入れなくなったのです。つまり、子どもを巡
る教育力は徐々に失われていったシステムです。
そして、その代わり「友縁」を応援したんです。どこが応援したかというと、社会
教育です。なぜか。GHQは、公民館活動の中でサークル団体をすごく頑張って応援
しました、家庭教育支援から環境問題とか消費者問題などまで。そういう専門店が連
合するのが協議会ですから。
18
一方で「何でも屋さん」の町内会みたいな組織は、地域社会が右傾化するのが怖か
ったので潰し、協議会を育てていく。それで、地域社会をおろそかにしたんです。
おろそかにしているうちに、高度経済成長と高度経済成長による大量の人口移動が
おこり、そのような中で自治体の選挙が1965年ごろから変わりはじめました。ど
ういう選挙かというと、日本中で人口がシャッフルされ、東京に新しく人が移ってき
ましたから、自分たちの生活課題を選挙の争点にあげる新しい都市型の自治体の選挙
が行われていくようになりました。これは住民運動という名前です。この住民運動の
結果、1960年代の後半に美濃部亮吉さんという人が東京都知事になりました。そ
うすると、保守政治にとって、今までおろそかにしていた地域社会がどれだけ重要だ
ったかということに政治家は気付きました。
このような状況の中、当時のコミュニティというのは何であったか?一つには、町
内会・自治会という地域社会のことを考えればいいのか、それとも前に「友縁」とい
うふうに私が分けましたが、目的別団体を中心に考えればいいのか、この2つをどう
やって「つなぐ」のか。結局、このときのコミュニティという方針は、両方を併記し
ただけなんです。
「地域別のコミュニティ」と「目的別のコミュニティ」って、2つ方
針を立てただけだったんです。
しかし、先進的な目黒とか中野はどうしたか。その時に地縁組織と友縁組織が重な
り合って、見事にくっついた住区協議会という制度がイタリアで行われており、それ
を取り入れることにしたのだと思います。当時「住区協議会」という本があって、多
分その本をベースにしたのではないでしょうか。私が中野で住区協議会を考えていた
ときにそうだったので。
その時、大きな問題だったのは町会や自治会と友縁組織との関係をどうするのかと
いうことです。新たに住区協議会というのをつくったとき、地縁組織はまとまってい
ました。そこで、友縁組織をコーディネートして、地域組織化することが大きな課題
でした。町内会自治会に代わり得る新しい地域の組織を、友縁組織を合わせていくこ
とが、住区協議会に委ねられたのですから。
このことを目黒は今日まで引っ張ってきたんですよ。目黒と同じような事態が茨城
でもおきています。だけど、両論で相矛盾するように立ち上がっているだけでは、絶
対幸せにはなれないから。ボランティア団体がどんなに福祉のこと頑張っても、結局
は地域で活かされなければ、
「散歩のまちづくり」なんかできない。いろんな団体を皆
さんは、縦割りで受け持ってます。各部局が各部局ごとに住民団体を抱えているでし
ょう。でも、皆さんが全然つながっていない。部局が変われば全然違うことを言い出
す人たちだから(笑)。私は、それと付き合ってきたんだから。「この前言っていたこ
とと全然ちがうじゃない」と言っても、
「いやいや、今はこっち側に来たから、こちら
としては」とか言う。すごく日本的だと思うけど(笑)。
そうすると、住民の方だって、この縦割りで動いてきた目的別団体同士が横につな
がらない。しかも、この目的別団体の人たちは、この地域社会でやっている町内会・
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自治会の人たちがうっとうしくてしょうがない。うっとうしいですよ、朝、掃除だと
かね。絶対華々しいことないんだもん。ところが目的別団体の方は、区で何か行事を
やると、大体格好いい。そうすると地域の人たちはなんて言うかというと、
「ああいう
目立つことばかりやって」とか。それを住区協議会が、これらをまとめていけばよい
モデルだったんだけど、ここをまとめきれていない。
私から言えば、目黒では、町内会と目的別団体と住区協議会の三すくみの状態でし
ょう。この三すくみの状態を、人間が幸せになるための支援のシステムとして、どう
いうふうに行政が協働の相手として、担い手として、新しいものをつくっていくかと
いうこと。これが重要でしょう。だから、どの部局も関係しているのだということを
言いたいのです。そういうふうに言え!と言われたんです(笑)。でも、当たり前のこ
とでしょ。私は、最終的に、
「散歩」って呼べるようなまちづくりをしたいと思ってい
ろんなところでやっています。その時に、行政のいろんな部局が関わって、はじめて
本当に「散歩」と言えるようになるんですよ。例えば、福祉部局だけで散歩のまちづ
くりに取り組むのではなく、そこに建設部局が絡んだり、子どものことをやっている
部局が関わったりして、そうやって出来上がっていくっていうのは誰が考えても分か
るのに、人間ってできないんですよね。
21世紀になって、新しい時代に入り、せっかく協働っていう新しい考え方を出し
たのだったら、できれば自分の生き方を賭けて皆さんやってみたらどうですか。
これで、私の話を終わります。
20
(講演会レジメ)
2つの世界と幸せの商品化
1
2
3
4
「職の世界」と「役の世界」の間に生きる
1.
戦後日本社会の変化のスピード:思えば遠くに来たもんだ:時間
2.
職の世界の原理と役の世界の原理:男女共同参画に触れながら
3.
「役の世界」再生のシナリオをつくる
「4つの縁」と幸せの形
1.
区役所は何を商品にする会社か?
:交換価値と使用価値
2.
4つの縁を彩れる戦略はあるのか?:無縁の世界
3.
コモンズの願望:コンビニに並ぶおにぎりから考える
4.
協働の思考と公共の考え方
江戸時代の協働のあり方から
1.
集住する暮らしと棟割長屋
2.
自身番と木戸番
3.
1人暮らしのお年よりはいなかった!
21世紀社会に託す生活課題の解決方式=協働
1.
4つの課題解決方式と21世紀型
2.
そろばん博物館の教えから
21
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