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WIJC140316たとい死の陰の谷を歩むとも

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WIJC140316たとい死の陰の谷を歩むとも
2014 年3月16日
16日
聖書:
聖書:詩篇23
詩篇23篇
23篇 1-6節
タイトル:
タイトル:「たとい死
たとい死の陰の谷を歩むとも」
むとも」
序 論
●幼い日より「
より「目が見えない」「
えない」「耳
」「耳が聞こえない」「
こえない」「口
」「口が聞けない」
けない」と言う「三重苦」
三重苦」を負って生
って生きた人
きた人として
知られるヘレン・ケラー
られるヘレン・ケラーは
ヘレン・ケラーはこのように言
このように言った。「
った。「私
。「私が毎日、
毎日、最も愛読する
愛読する書物
する書物、
書物、それは聖書
それは聖書です
聖書です。
です。私
の辞書に
辞書に”悲惨”という文字
という文字はありません
文字はありません。
はありません。聖書はダイナミックなカであり、
はダイナミックなカであり、変わることのない理想
わることのない理想を
理想を
示すものです」
すものです」と。
●即ち、神の言葉、
言葉、聖書の
聖書の言葉が
言葉が、「三重苦」
三重苦」を負って生
って生きなければならなかった苦難
きなければならなかった苦難の
苦難の人、ヘレン・ケ
ラーに力
ラーに力を与え、その人生
その人生から
人生から"
から"悲惨"
悲惨"という文字
という文字を
文字を取り去って正
って正に「奇跡の
奇跡の人」としたのである
としたのである。
のである。
●本日は、その意味
その意味で
意味で、東日本大震災の
東日本大震災の3周年を
周年を記念して持
して持たれているこの礼拝
たれているこの礼拝において
礼拝において、
において、「日本の
日本の三
重苦」
重苦」とも言
とも言うべき、「
うべき、「地震
、「地震」「
地震」「津波
」「津波」「
津波」「原発
」「原発放射能
原発放射能事故
放射能事故」
事故」のために今
のために今なお苦渋
なお苦渋と
苦渋と苦難の
苦難の中に生き、戦って
おられる方々
おられる方々を
方々を覚えつつ、
えつつ、その人生
その人生の
人生の苦難と
苦難と苦渋のまっただ
苦渋のまっただ中
のまっただ中で、"悲惨"
悲惨"からの解放
からの解放を
解放を私たちに与
たちに与え
ることのできる聖書
ことのできる聖書を
聖書を紐解く
紐解く(ひもとく)
ひもとく)ことは折
ことは折りにかなったことであると
りにかなったことであると思う。
●聖書は
聖書は、旧約聖書が
旧約聖書が 39、新約聖書が
新約聖書が 27、
27、合計66
合計66巻
66巻の書からできている。
からできている。
1.今日、
今日、先ほどお読
ほどお読みした「
みした「詩篇」
詩篇」は、旧約聖書の
旧約聖書の一巻である
一巻である。
である。
2.「詩篇
.「詩篇」
詩篇」は、信仰や
信仰や神学に
神学に関する固
する固く、難しい議論
しい議論や
議論や説明や
説明や宣言の
宣言の書ではない。
ではない。
3.詩篇は
詩篇は、人々の
人々の心の生きた叫
きた叫びである。
びである。
(1)ある
(1)ある詩篇
ある詩篇は
詩篇は、感謝と
感謝と喜びの叫
びの叫びであり、
びであり、
(2)ある
(2)ある詩篇
ある詩篇は
詩篇は、苦悩と
苦悩と苦痛からの
苦痛からの苦渋
からの苦渋の
苦渋の呻きと叫
きと叫びであり、
びであり、
(3)ある
(3)ある詩篇
ある詩篇は
詩篇は、神に助けを求
けを求める祈
める祈りとしての
としての叫びである。
びである。
4.即ち、詩篇は
詩篇は、信仰の
信仰の理屈や
理屈や理論を
理論を越えて、
えて、現実に
現実に生きている人々
きている人々の
人々の生の声を聞かせ、
かせ、その姿
その姿を
見せてくれるだけでなく
せてくれるだけでなく、
だけでなく、そのような生身
そのような生身の
生身の人間に
人間に神様がどのように
神様がどのように働
がどのように働かれるのかを
かれるのかを描
かを描いている。
いている。
5.それゆえに、
それゆえに、このような詩篇
このような詩篇の
詩篇の中に、多くの人々
くの人々は
人々は自分の
自分の姿を重ねることができ、
ねることができ、共感し
共感し、そこ
に慰め、励ましを発見
ましを発見し
発見し、救いを経験
いを経験するのであ
経験するのである
するのである。
●全部で
全部で 150 篇の詩篇の
詩篇の中でも、
でも、詩篇23
詩篇23篇
23篇ほど、
ほど、多くの人々
くの人々に
人々に親しまれ、
しまれ、悩みの日
みの日、苦難の
苦難の日に、
人々を
人々を慰め、励ましてきた詩篇
ましてきた詩篇はない
詩篇はないと
はないと言える。
える。
1.私ごとで恐縮
ごとで恐縮だが
恐縮だが、
だが、私の祖母は
祖母は 83 歳でイエス様
でイエス様を救い主と信じクリスチャンとなったが、
じクリスチャンとなったが、この
詩篇をこよなく
詩篇をこよなく愛
をこよなく愛し、89 歳で天に帰える日
える日まで、
まで、特に最後の
最後の数年間の
数年間の病院生活では
病院生活では、
では、枕辺にお
いてある聖書
いてある聖書で
聖書で、ほとんど毎日
ほとんど毎日この
毎日この詩篇
この詩篇を
詩篇を読んでは慰
んでは慰めを受け、励まされていたようである。
れていたようである。
2.あの米国で起きた9
きた9・11の
11の同時テロ
同時テロ事件のときに堕ちた4
ちた4機の飛行機の内の一つは、本当はワ
シントンの議事
ントンの議事堂かホワイト・ハウスを狙っていたが、
っていたが、乗客数人が
数人がテロリストと戦
リストと戦った結果、ペ
ンシルベニヤのシャンクスビルという町の郊外に墜ちたと言
ちたと言われる。
われる。その乗客の一人が
一人が、「レッ
、「レッ
ツ・ロール」
ール」という当時有名になった言葉
になった言葉を
言葉を残したトッド・ビーマーであった。
ーであった。そのトッ
そのトッドと奥
さんのリサが私たちの NJ 時代の知り合いであったことは
いであったことは何回もお伝えしたが、
えしたが、彼は、テロリス
トと戦
トと戦う前に機内の電話から奥さんと話そうとしたがかなわず、たまたま奥さんと同名であった
リサという交換手と20分ほどの会話をした。
をした。そのときそのリサもクリスチャンであったことも
もクリスチャンであったことも
あり、
あり、心に平安を頂くために一
くために一緒にこの詩篇
にこの詩篇23
詩篇23篇
23篇を読んで心
んで心備えたと
えたと報告さ
報告されている。
れている。
●23篇
23篇は極めて短い詩篇である
詩篇である。
である。しかし、
しかし、人生のどん
人生のどん底で私たちに力
たちに力を与えてくれる詩
えてくれる詩である。
である。
●実は、この詩篇
この詩篇23
詩篇23篇
23篇は、3年前の3月11日
11日、大震災が
大震災が日本を
日本を襲ったあの日
ったあの日、金曜日であったが、
であったが、
その悲
その悲報が届けられた翌々日、
々日、即ち、震災後最初の日曜日、当教会の礼拝で
礼拝で開いた聖書
いた聖書箇所である。
である。
本 論
Ⅰ.この詩篇23篇が私たちに教える最初のことは、人生は正に悲喜こもごもであり、明日、私たちの人生にも何
が起こるか分からないと言う現実である。言い換えるなら「苦難フリーの人生はない」ということである。
A. この事実と現実をもう一度詩篇23篇のダビデの生涯から見てみたい。
1.まず 1-3 節を見て頂きたい。
たい。
(1)特
(1)特に 2 節、「主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます」
われます」とある。
ある。
1
(2)牧歌的でのどかな雰囲気が漂う。満ち足りて、
りて、安定した幸せの絶頂にある羊の姿である。
である。
(3)それは
(3)それは、
それは、正にすべての必要が満たされ、安定した生活
した生活を
生活を楽しんでいる、
しんでいる、人生の
人生の順境を歩
んでいる人
んでいる人の姿である。
である。
(4)この
(4)この詩
この詩を書いたダビデにもそう言
にもそう言う日々が
日々があった。
あった。
●それは父親の元で、また 7 人の兄をもつ 8 番目の男の子という「
という「末っ子」の恩典を一
杯味わい、
わい、満喫していた幼
していた幼い日々のことであったかもしれない
日々のことであったかもしれない。
のことであったかもしれない。或いは、
いは、
●王となって、
となって、イスラエル史上でも特
でも特筆すべき領地の拡大・発展を成し遂げて、繁栄を
謳歌し、成功者として「
として「のうのう」
のうのう」と生きた日々のことであったかもしれない
日々のことであったかもしれない。
のことであったかもしれない。
しかし、
しかし、その同じダビデが
2.次に4-5節を見ると、
ると、全く違った人生
った人生を
人生を経験していることを
経験していることを見
していることを見る。
(1)そこには
1)そこには、「
そこには、「死
、「死の陰の谷」「わ
」「わざわい」「
わい」「敵」という言葉
という言葉が
言葉が出てくる。
てくる。
(2)それは
(2)それは彼の人生が
人生が最早、順境の人生でない
人生でない、
でない、即ち、逆境の中にあることを
にあることを意味
ことを意味していた
意味していた。
していた。
(3)ダ
(3)ダビデの人生は
人生は正にそうであった。
にそうであった。彼の人生は
人生は、順境のときもあったが、
のときもあったが、同時に、逆境
にさいなまされる人生
れる人生でもあった
人生でもあった。
でもあった。
●何も自分としては
自分としては覚
としては覚えがないのに
えがないのに、
のに、当時仕えていた王様に反逆罪の濡れ衣を着せられ、
せられ、
何年もの間
もの間国中を悪者として犬のように逃げ回らなければならなかった日々
らなければならなかった日々があった
日々があった。
があった。
●また、
また、王になって繁栄を謳歌した時代の果てにも、
てにも、逆境が待っていた。
っていた。息子の一人に
一人に
裏切られるのである。
られるのである。彼は息子との血を流す戦いを避ける為、泣きながら、
きながら、苦渋の
苦渋の決
断の中、都を明け渡すのであった。
すのであった。
●親にとっての悲
にとっての悲しみの一
しみの一つは、
つは、子供が自分より
自分より先
より先に死ぬことであるが
ことであるが、ダビデは、愛
する息子達を、病気で、戦争で、暗殺で失う悲しみをいくつも経験
しみをいくつも経験した
経験した。
した。
●更には、
には、敵に命を狙われるという人生
われるという人生の
人生の修羅場をもいくつも通り、くぐって来た。
3.このように、
このように、ダビデは、人生の
人生の「悲しみ」
しみ」も「喜び」も、順境も逆境も、交々(こもごも)
こもごも)に経験
した人物
した人物であ
人物であり
であり、その中
その中を「もみくちゃ」にされるように生
れるように生きた人物
きた人物であった
人物であった。
であった。
B. しかし、それは、ダビデだけの経験ではない。それが人生というものであり、彼の人生はそれを代表してい
たに過ぎない。しかし、ここで大切なことは:
1.そのような状況の変化、チェンジ、即ち、順境から逆境へ
逆境への変化は、必ずしも、
しも、彼の「選択」
によるものではなかったということである。
によるものではなかったということである。
2.勿論、私たちの人生
たちの人生には
人生には「
には「自業自得」と言われるように、
われるように、自分のしたことの
自分のしたことの当然の結果として、
として、
人生の
人生の苦しみに甘んじなければならないことはある。
んじなければならないことはある。それは自
それは自らの責任で、極力防がなけ
ればならないことである
ればならないことである。
ことである。
3.しかし、
しかし、それがすべてではない。
それがすべてではない。しばしば、
しばしば、私たちの人生
たちの人生には
人生には自分
には自分ではどうにもならない
自分ではどうにもならない
「運命」と呼びたくなる災難
びたくなる災難、
災難、逆境が待っている。
っている。
4.しかも、
しかも、私たちの予想や計画を全く無視して、
して、それは、
それは、ある日
ある日突然にやってくる。
にやってくる。
5.その一つの例が、3 年前に東日本を
東日本を襲ったこの大地震
ったこの大地震であり
大地震であり、
であり、大津波であり
大津波であり、
であり、原発事故によ
原発事故によ
る災害とそれによって引き起こされた多
れた多くの方々
くの方々の
方々の人生における
人生における苦難
における苦難であり
苦難であり、
であり、逆境である。
である。
6.ダビデが経験した
経験した多
した多くの苦難
くの苦難もそのようなものであった
苦難もそのようなものであった。
もそのようなものであった。上述したように、
したように、
(1)自分
(1)自分は
自分は何も悪いことをしていないのに、
いことをしていないのに、忠実に仕えてきた上司である王に、妬みからか、
みからか、
濡れ衣を着せられ、
せられ、逃げ回らなければならないという運命。
(2)それは
(2)それは、
それは、彼が選んだ運命ではなかった。
ではなかった。彼は単純に王に仕えたかっただけであった。
えたかっただけであった。王
の下で役に立つ武将の一人として
一人として夢中で戦っただけであった。
っただけであった。
(3)しかし
(3)しかし、
しかし、運命のいたずらと言
らと言いたいように、
いたいように、彼の人生は
人生は、彼自身の
自身の、また彼の家族の、
更には、
には、周囲の人々の
人々の希望や予想とは全
とは全く裏腹に、違う方向に進んで行った。
った。
(4)しかも
(4)しかも、
しかも、それは人間
それは人間的には悪い方向にであった。
にであった。それは、
それは、国家へ
国家への反逆者という汚名で
あり、
あり、しかも、
しかも、それは、
それは、やがて、
やがて、家族さ
家族さえ巻き込んで行ったのである
ったのである。
のである。
7.これがダビデの人生であった
人生であった。
であった。そして、
して、それは彼だけの固
だけの固有のものでなく、
のものでなく、すべての人
すべての人の潜
在的現実であり
現実であり、
であり、現に 3 年前のあの日
のあの日から被災者の方々が
方々が経験しておられることである
経験しておられることである。
しておられることである。
2
8.この点で多くの人
くの人は、宗教を誤解している。
している。少なくともキリスト教について。
について。うっかりする
とキリスト教の信者でさえである。
えである。
(1)「
(1)「神様を
神様を信じている人
じている人、キリストを信
リストを信じている人
じている人、正しい人
しい人には悪いことは起こらない」
こらない」
と言う考え、それが宗教であり、
であり、宗教や、信仰を
信仰を持つ理由や動機になっている。
になっている。
(2)その
(2)その象徴が、「家内安全無病息災」という「
という「お札」のお言葉
のお言葉に
言葉に表されている。
れている。即ち、宗教と
は、悪いことがわが身
ことがわが身に、我が家に起こらないためのものになっている。
こらないためのものになっている。
(3)そして
(3)そして、
そして、何か悪いことがあると、
いことがあると、それは「
それは「その人
その人の普段の行いが悪かったから」
かったから」とか、「
とか、「こ
、「こ
の宗教に、あの宗教に入っていなかったから」「
っていなかったから」「信心
」「信心が
信心が足りなかったから」
りなかったから」などと言
などと言う。
(4)それは
(4)それは真っ向から聖書
から聖書の
聖書の教え、聖書の
聖書の言うキリスト教信仰に
信仰に反するものである。
するものである。
(5)聖書
(5)聖書の
聖書のメッセージは、苦難、
苦難、試練、苦渋の
苦渋の生涯は、
●その人
その人の道徳的、信仰的あり方
あり方とは全
とは全く関係なく、
なく、すべての人
すべての人にやってくる。
にやってくる。
●否、むしろ、正しい人
しい人には余計にやってくることさえあるとまで言
えあるとまで言っている。
っている。
●「正しい人
しい人には悩
には悩みが多
みが多い」(詩篇34
詩篇34:
34:19)
19)と。
●その典型はキリストご自身
リストご自身の
自身の生涯である。
である。キリストは、
リストは、マハトマ・ガンジーをも含め
て、恐らく世界中で、歴史上で、最も尊敬さ
尊敬されている人物
れている人物である
人物である。
である。しかし、
しかし、その生
その生涯
は苦難で
苦難で象徴さ
象徴される生
れる生涯であった。
であった。
9.さて、それでは、
それでは、もし、
もし、これ、
これ、即ち、悲喜こもごも
悲喜こもごも、「
こもごも、「塞翁が馬」が、人生の
人生の現実であり
現実であり、
であり、明
日も分からない不安定さ
安定さ、Uncerta
Uncertainty が人生であり
人生であり、
であり、人生の
人生の現実であるなら
現実であるなら、
であるなら、私たちは
その人生
その人生をどのようにいきるべきなのか
人生をどのようにいきるべきなのか?
(1)ある
(1)ある人
ある人は言った。「
った。「私
。「私たちは人生
たちは人生に
人生に何が起こるか(
こるか(WHAT)について、
について、ある意味
ある意味で
意味で何もす
ることができない。
ることができない。しかし、
しかし、それをどのように受けるかという(
けるかという(HOW)については、
については、わた
したちの責任として託されていることであり、
れていることであり、それが私
それが私たちの人生
たちの人生を
人生を形成していく」
していく」と。
(2)ここにこそ
(2)ここにこそ、
ここにこそ、まことの宗教、信仰の
信仰の必要と登場がある。
がある。
このことの
このことの具体例
具体例として、
として、
Ⅱ.ダビデが、このような明日の分からない不安定な人生をどのように生きたのかを再び詩篇23篇から見たい。
A.どのように生きたか? ダビデは、このような人生の現実を「勝利」をもって生きた。
1.4節で彼は言う。「たとい
。「たとい、
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
くことがあっても、私は災いを恐
いを恐れません」
れません」と。
(1)多
(1)多くの人々
くの人々は
人々は災いと苦難
いと苦難の
苦難の中で押しつぶされ、潰されてしまう。
れてしまう。それは、
それは、まだその災
まだその災い
と戦う前から、
から、「災い」を恐れてしまうからである。
れてしまうからである。
(2)災
(2)災いは誰だって怖い、恐れる。
れる。しかし、
しかし、人は、恐れると縮
れると縮み上がって、
がって、固くなり、
くなり、でき
ることまでできなくなる。
ることまでできなくなる。
(3)だから
(3)だから神様
だから神様は
神様は聖書の
聖書の中で実に 366 回も私たちに「
たちに「恐れてはならない」
れてはならない」と励ますのである。
ますのである。
(4)それゆえダ
(4)それゆえダビデが「私は災いを恐
いを恐れない」
れない」と言う時、それは勝利の始まりを意味
まりを意味していた
意味していた。
していた。
2.彼は更に言う。「私の敵の前で、あなたは私
あなたは私のために食事をととのえ、
をととのえ、私の頭に油を注いで
下さいます。
います。私の杯は溢れています」
れています」と。
(1)
(1)「敵の面前での食事・饗宴」は、圧倒的
圧倒的な勝利の象徴的宣言であった
宣言であった。
であった。
(2)それは
(2)それは、
それは、正にパウロがローマ人への手紙 8 章37節で宣言した
宣言した彼の経験であった
経験であった。
であった。即ち
彼は言う。「しかし
。「しかし、
しかし、私たちは、
たちは、私たちを愛
たちを愛して下さった方
った方によって、
によって、これらすべて(
これらすべて(患
難、苦しみ、
しみ、迫害、飢え、危険、・・・)
・・・)の中にあっても、
にあっても、圧倒的
圧倒的な勝利者
勝利者なのです」
なのです」と。
3.それは冒頭に述べた「
べた「三重苦」
三重苦」を担って生
って生きたヘレン・ケラーの
きたヘレン・ケラーの言葉
ヘレン・ケラーの言葉、
言葉、「私の辞書には
辞書には”悲惨”
と言う文字はありません
文字はありません」
はありません」に通じる。
じる。彼女の人生もまた
人生もまた苦難
もまた苦難の
苦難の中での勝利の人生であった
人生であった。
であった。
B.しかし、そのような災いを、また苦難を、恐れないで立ち向かう勝利の人生はどこから来るのか? ダビデは
その力をどこから得たのか?
1.ダビデがこの詩篇
この詩篇で
詩篇で言っていることをまとめてみたい。
っていることをまとめてみたい。
(1)ま
(1)まずその冒頭、1節で言う。「主
。「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません」
しいことがありません」と。
(2)更に、4節で「たとい、
たとい、・・・私
・・・私は災いを恐
いを恐れません。
れません。あなたが私
あなたが私と共におられますか
ら」と言う。
3
(3)最後
(3)最後に
最後に 6 節で「私はいつまでも、
はいつまでも、主の家に住まいましょう」と言っている
っている。
いる。
2.これらからダ
これらからダビデの勝利の秘訣を一言で
一言で言うなら、
うなら、それは、
それは、彼が「羊飼いである神
いである神と共に生
きる」
きる」ことを選び、実践したことである。
したことである。
3.何故、「羊飼いである神
いである神と共に生きる」
きる」ことが、
ことが、彼の人生に
人生に、その苦難
その苦難の
苦難の真っ只中にあってさ
えも、
えも、その重
その重さに潰されることなく、
れることなく、勝利をもたらしたのか?
(1)それは
(1)それは、
それは、第一に、1~3 節に「・・・・」
・・・・」とあるように、
とあるように、神様が
神様が彼を「羊飼い」として、
として、彼
を養い、守り、導いてくださると言
ると言う絶対的信頼である。
である。
●私たち人間
たち人間は
人間は、弱い羊として、
として、物質的に、精神的に乏しくなるときがある。
しくなるときがある。しかし、
しかし、
そんな時、羊飼いである神様
いである神様は
神様は、私たちの乏しさを必ず満たしてくださる。
―お金がないときにはお金を -愛が無いとき愛
いとき愛を -赦せ無い心に赦せる心
せる心を
●私たち夫婦も、小さい経験であるが
経験であるが、
であるが、どのくらいこのことを経験
どのくらいこのことを経験して
経験して来た分からない。
からない。
ー幾たびも経
たびも経済的に行き詰まりそうになったとき
まりそうになったとき、
とき、神様は
神様は欠乏を満たしてくださった。
った。
-今年で
今年で結婚丁度 40 周年を
周年を迎えるが、
えるが、33 年のときだったか、
のときだったか、あるところで家内が
私たちの結婚は「赦し合う 33 年だった」
だった」と証しした
しした。その赦す心は牧者である神様
である神様
が、空っぽで何も無い私たち夫婦の心にくださったものである。
ったものである。
●私たちは迷い易い。道が分からなくなる。
からなくなる。罪を犯して、
して、躓き倒れる。
れる。そんな時、神様
は、羊飼いとして引き返す道を教えてくださる。
(2)第二に、4節に「・・・・」
・・・・」とあるように、
とあるように、羊飼いとして神様
いとして神様は
神様は「いつも、
いつも、どこにでも共
どこにでも共に
いてくださる」という信
という信頼である。
である。
●人間の
人間の究極の幸せは、
せは、私を命を捨てるほどに真実に愛してくれる人
してくれる人が、私といつも一
といつも一
緒にいてくれるということを確信し、それを実感
それを実感し
実感し、体験できることである。
できることである。
●それを体験した一人
した一人がダ
一人がダビデであり、
であり、その告白がこの 4 節である。
である。
●TV の Wounded Soldiers
rs を助けるコマーシャルでも言
ャルでも言っている。
っている。「彼らにとって一
らにとって一
番つらいことは、
つらいことは、傷ついた自分
ついた自分達の存在が忘れられてしまうことである」
れられてしまうことである」と。
●人が一番助けを必要とするとき、
とするとき、案外みなどこかに保身のためであろうか逃げてしま
う。そんなとき誰かがそばにいてくれることほど心
かがそばにいてくれることほど心強いこと、
いこと、嬉しいことはない
しいことはない。
はない。
●ダビデは言う。「死の陰の谷を歩む」という人生
という人生の
人生の最悪のとき、
のとき、人がみな居なくなると
きに、
きに、主は牧者としてそこにいてくださると。
ると。
●しかも、
しかも、それは決してただそこに突っ立っているだけというのではない。
っているだけというのではない。命をも捨て
る覚悟でそこにおられるのである。
でそこにおられるのである。イエス様
イエス様は言われた
われた。「よい
。「よい羊飼いは羊のために
命を捨てる」
てる」(ヨハネ 10 章 11 節)と。そして現
そして現にご自分
にご自分の
自分の命を良い牧者として私
として私た
ちのために捨てられた。
てられた。
●即ち、苦難の
苦難の日にそばに居てくれること、
てくれること、それは最大
それは最大、
最大、最高の愛の証しである
しである。
●聖書は
聖書は言う。「私
。「私は決してあなたを離れない。
れない。あなたを見
あなたを見捨てない」
てない」(ヘブル 13 章5
節)。また「
また「世の終わりまでいつもあなた方
わりまでいつもあなた方と共にいる」
にいる」(マタイ 28 章 20 節)と。
●私たちの人生
たちの人生には
人生には共
には共にいて苦
にいて苦楽を共にしてくれる人
にしてくれる人がいる。
がいる。それは家族であり、
であり、夫、
妻、子供、親、兄弟、友人・・・であろう。
●しかし、
しかし、一生を
一生を独身で過ごす人もいる。
もいる。伴侶者に先立たれることもある。
たれることもある。やむおえな
い別離、また残念な別離もある。
もある。
●人間は
人間はいつか皆離れて行く。いずれにせよ、
れにせよ、永遠に共にいてくれる人
にいてくれる人はいない。
はいない。しか
し、ここにたった一人
ここにたった一人、
一人、永遠に、しかも永遠に変わらない愛
わらない愛をもって共
をもって共に居て下さる
お方がいる。
がいる。それが牧者なる神
なる神、イエス・キリストである。
リストである。
●それ故
それ故、ダビデは 6 節で言う。私はいつまでも永遠に主と共に生きるのだと。
きるのだと。
結 論
●これが「
これが「たとい死
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても」、
くことがあっても」、それを
」、それを”悲惨”と言う文字をもって
文字をもって終わらせる
ことなく圧倒的
圧倒的な勝利に変える秘訣である
である。それは命を捨てる愛
てる愛をもった牧者なる神
なる神の臨在である。
である。
●パウロも言う「私を愛する方
する方によってこれらすべての
によってこれらすべての中
これらすべての中でも圧倒的
圧倒的勝利者
勝利者となる」
となる」(ローマ 8:37)と
37)と。
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