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『郷土スライド』解説書

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『郷土スライド』解説書
『郷土スライド』解説書
島根県高等学校社会科教育研究会石西地区部会編
昭和51年7月
A.自然環境
(1)
益田市の鳥瞰
(平野と市街地)
益 田 住 吉 神 社 より の鳥 瞰で あり ます。手 前が城 下 町。 益田 川 の谷口 集 落と しての歴史 を もつ 旧 益
田地区、左手を前方に伸びる市街地が今日の益田市中心部である吉田地区であります。
写 真 前 方 の左 右 に は、 隆 起 海 食 台 地 の丘 陵 地が みえ 、そ の間 に 益 田 、 高 津両 川 がつく った 複 合
三角州と、その上にできた市街地という構図であります。
旧益 田にはT字 路、鍵 型路 、「市」町 名が残り 大正12年山 陰線 と山口線 が結合されてより 発達し
た吉田地区は、商店、官公庁が多く中心市街地となっています。
(2)
隅村(河岸段丘)
これは高津川支流匹見川を少しさかのぼった益田市隅村町の景観です。
高 津 川 は 下 流 の平 野 部 で は 氾 濫 原 や 三 角 州 を つ く っ て いま す が、 中 ・上 流 部 す な わ ち 、吉 賀 川 、
津和野川、匹見川と呼ばれる地域に至ると多くの河岸段丘をみせてきます。
いう までも なく 、これ ら河 岸段 丘は大切 な生活 舞台 となっ ています。断層崖 に近 づいてみると円 礫が
あり、かつての河床であったことを証明してくれます。
(3)
安富(氾濫原)
益田市安富付近の氾濫原です。国道9号線の向うに広がる水田地帯となっています。
この水田地帯のはずれに河流があり、人工堤防により限られています。
(4)
虫追(氾濫原)
高 津 川 が 本 流 ( 上 流 部 は 俗 に 吉 賀 川 と 呼 ば れ る ) と 、 津 和 野 、 匹 見 両 支 流 を 合 する 益 田 市 横 田
町付近より広い氾濫原をみせてくれます。
当然に砂質地も多く畑の部分もありますが水田化の努力が実り大切な穀倉地帯となっています。
この虫追地区は高津川左岸であり、次の安富地区は右岸です。
(5)
久々茂の河岸段丘
益 田 川 は 旧 益 田 の 谷 口 より 下 流 に お いて は、 益 田 平 野 の生 成 に 寄 与 し た ので す が、 それ より 上 流
部は急に峡谷性を帯びてきます。
この写 真 の地域 は益 田 より 僅 か4km上 流地 点 なのですが、 きれいな河岸 段丘 をつ くり、谷 壁も せま
った感じが出ています。
(6)
飯田の環流部
地形図をみると高津川は下流において、益田市飯田地区を川中島とする環流をなしています。
こ の 環 渡 部 が、 高 津 川 洪 水 の 涵 養 に大 きい 役 割 を も つ こ と は 理 解 で きる で し ょう 。 実 は 自 然 の 環 流
に加えて、元和年間に津和野藩が放水路として開いたものなのです。
- 1 -
(7)
古川沼(ラグーン)
高津川河 口左岸部にみられる古川沼です。これは高津川の元和河口が寛政の転流後に残存した
旧 河 跡 の 性 格 と 、 裏 日 本 共 通 の 冬 の 北 西 季 節 風 によ る 東 向 き砂 嘴 に 囲 ま れ た 袋 状 河 口 、 す な わ ち
潟湖(ラグーン)との性格を併せもつところです。
現在は木工団地・ユニエース益田工場などが発展したため埋立がすすんでいます。
(8)
高津川河口(導流堤)
高津川河口左岸より高津川河口の導流堤を撮ったものです。
日本 海側 に流 入する河川に共 通する特色 なのですが、東流する沿 岸流と、冬の北 西季節風による
流砂 や飛 砂 は、河 口 部に東 向きの砂嘴と(写 真手 前の砂嘴 )袋状河 口を つくっ たり、 河流の潮 入を さ
またげるのです。
テトラポ ット による導流 堤2 本が河流に沿 い沖合 に伸びていますが、左岸の方(写真にみえている堤
防)が長くしてあり北西風を防いでいます。
(9)
益田川上流の防災ダム
利根川の霞ケ浦・北浦が、揚子江のポーヤン(鄱陽)・トンチン(洞庭)湖などの河川流域の湖が、
それらの河川の洪水を涵養していることはよく知られていることです。
益田 川は大 河川とはいわれませんが、河川規模 に比して流域 面積は広く、あばれ川としての性格 を
もっています。
そこで 益田川 上流 地域 には3ケ所 の防 災ダ ムがつくら れています。すなわ ち、人工的 な湖を つくった
のです。
平時は貯水されていませんが、増水期には満々と水を貯え下流部の洪水をやわらげるのです。
(10)
益田川の河跡湖
益 田 平 野 は 高 津 ・ 益 田 両 川 の 乱 流 ・沖 積 作 用 によ り生 じた ので あ る か ら 、 流 路 の 変 遷 は めま ぐ る し
いものがあります。
益 田 平 野 を 巡 検 する と、 溝 川、 湿 地 、 湿 田自 然 堤 防 、 旧 河 岸の 「やぶ 」、 砂礫 微 高 地などが沢 山
入り混っています。
写真の部分は益田日赤の北側に僅かに残る益田川の河跡湖です。
この 河 跡 湖 は 自 然 に生 じた ので はな く 、昭 和 6 年 の益 田 川 改 修 による流 路 変 更 のた めに三 日 月 湖
として残ったものではありますが、興味深いところであります。
(11)
益田川河口
益 田 川 河 口 部 の 写 真 で あ り ま す 。 や は り、 隆 起 海 岸 、 強 い 季 節 風 の み ら れ る 海 へ の流 人 は 難 か し
く、川底への堆積は激しいとみられます。
- 2 -
(12)
大塚・中須(海岸砂丘)
益田の単調な海岸線は、隆起海岸であることを示しています。
さらに、冬 の北 西の強い季 節風 がこのような海岸 砂丘 をつく ったのです。大塚・中須の地 区ですが、
この地名自体
大砂処・中州
と砂に関係のある地名なのです。
近 づ い てみますと 堆 砂 垣・ 静 砂垣 に守 ら れた 防 風 林 による砂 丘 の固 定 化へ の努 力 がよく 判 ります。
写真右手の防風林の背後に帯状な集落があります。
(13)
幡竜湖(堰止湖)
蟠竜 湖は谷 口を砂 丘で堰き止められた堰止湖 で、二湖に分れ深 さは8∼9m、リアス式の出入りの
多い
やつで型
の湖岸線をもち全周約4kmの淡水湖であります。
砂丘による堰止湖であり、かつての谷川の部分が湖沼化したので複雑な型の湖になったのです。
県立公園の指定もうけ益田市の観光地として賑わっています。
(14)
持石海岸(隆起海岸)
高津川河口より西方の隆起海岸である持石海岸の写真です。
この背後も 海岸砂丘がみられ、益田 競馬場に利 用されたり、砂丘による堰止湖幡竜湖をつくってい
ます。
山 陰 本 線 と 新し い 国道 1 9 1号 線 が海 岸 沿 い に走 るのが文 化 景観 で すが、白 砂青 松 のこの海 岸は
休日には県外車も多くつりの名所でもあります。
(15)
鵜の鼻(隆起海食台地)
写真前方の海に突き出ている台地が、隆起海食台地の鵜の鼻であります。
古墳時代の末期に属するとみられる円墳を主とする古墳群(54基)があります。
古代人はこうした美しい景色の中に、永眠の地を選んだのでしょう。
孤島高島を望める隆起海食台地であります。
- 3 -
(16)
益田市の水道
(1)第1上水道
益 田 市 の 上 水 道 は 昭 和 8年 10月 1 日 、 当 時 の益 田 町 の全 域 お よ び吉 田 村 の一 部 に 給 水 し た と き
に始 まる。益 田 川の流 域 に湧 水する豊富 な地下 水を水 源とし 益田町 字山 下に取水 井1井 を設 け、 送
水管により同地七尾山に築造した配水池に揚水し、自然流下により益田町および吉田村へ給水、給
水人口7,200人、1日最大給水量1,066 ㎥ となった。
その後、昭和31年第1期拡張針画が完成し、給水地域が益田、吉田の全域と須子地区に拡大、
給水人口21,600人、給水量3,672 ㎥ となった。昭和35年第2期拡張計画が完成し新しく高津地区へ
の給 水 が は じめ ら れ た 。高 津 川 の伏 流 水 を 高 津 字 円 通 に 取 水 し 円 鴨 山 の 配 水 池 に揚 水 し、 自 然 流
下により給水、益田水源(第1水源)と連結させた。その結果給水人口28,000人、給水量5,600 ㎥ とな
っ た 。 昭 和 45年 第 3 期 拡 張 計 画 が 完 成 。 益 田 水 源 地 に 新 た に取 水 井 を 設 け 七 尾 山 に 配 水 池 を 増
設(写 真)益 田駅裏、
丘 住宅団地へ も給水することとなった。給水人口30,000人、給水量1,200 ㎥
となった。
(2)第2上水道
津田、木部、大浜、西平原、土田、遠田地区への給水は、水源を沖田川の伏流水に求め木部字
飛 石 に 取 水 井 を 、 木 部 字 中 山 に 配 水 池 を 設 け 自 然 流 下 の 直 送 に よ る 給 水 を 昭 和 33年 完 成 、 給 水
人 口 4,000人 、 1 日 最 大 給 水 量 600 ㎥ とな っ た 。 そ の後 昭 和 36年 に 第 1 期 拡 張 、 昭 和 40年 第 2 期 拡
張を完成、給水人口6,500人、1日最大給水量1,204 ㎥ となった。
(3)簡易水道
益田市の各郡部には簡易水道を設置、給水をしている。神田、飯浦、松田、久々茂、小野の各地
に現在簡易水道が設けられている。
- 4 -
B.農業分野
(1)益田市近郊の農業地域図
1975(昭和50)年頃
(2)飯田地区におけるハウス園芸
飯田地区は、古くより畑作地域であったが、近年特にハウスを利用した野菜、果実などの促成栽
培、抑成栽培が盛んに行なわ れている。ハウス施設 には約 1,000万円の費用がかかり、更に維持費等
多額の資本を投下している。市場としては益田市はもとより、広島、九州へと出荷している。
(3)
ハウス内部
9月で、トマトの抑成栽培を行なっている。
(4)
高津地区におけるブドウ栽培
高 津 地 区 は 、 砂 地 が 多 く 畑 地 と し て は 不 向 き で あ る 。 こ の 砂 地 を 利 用 し ブド ウ の栽 培 が 行 な わ れ て
いる。露 地 栽培 も あるが、 商品 価 値を 高 めるた め促成 栽 培と してビニー ル被覆 して温 室栽 培を行 なっ
ている。この写真はその一部である。
(5)
ブドウ栽培の内部
(6)
益田牧場
通称 益田 牧場 と呼んで いるが、 正式には益田 市畜 産団地 といっている。昭和44年 4月に設立 され
た 肉 牛 専 門 の 牧 場 で 、 草 地 68ha、 そ の 他 の施 設 を あ わ せ て、 83haと 広 大 な 面 積 を も ち約 1,300頭 を
飼育し、年間約900頭の出荷を目指している。その市場は主に大阪である。
(7)
益田牧場内部
(8)
高津地区のラッキョウ栽培
高津地区の砂地を利用したラッキョウの栽培は水はけの良い所が条件とされているため高津地区の
砂地は適した土地といえる。
(9)
ラッキョウの根切り作業
ラ ッキ ョウ の根 切 り 作 業 は機 械 化 が困 難 なた め、 手 作 業で 行 な わ れてい る。 作業 に従 事 する のは、
婦人達であるか多くては1日に60kg位しか処理できない。
(10)
ラッキョウの花
- 5 -
(11)
虫追地区の白菜
虫 追 地 区 は、 飯 田 、 中 島地 区 と 代 表 される 野 菜 の産地 で特 に白菜 はそ の代表 で ある。 販路 とし て
は益田、広島、九州と大きい。
(12)
虫追地区のビニールハウスと白菜
飯田地区とは規模が小さいが、ハウス栽培が行なわれている。
(13)
白菜の出荷風景
きれいに洗って、包装して出荷する。
(14)
遠田地区のイ草栽培
遠田地区では古くよりイ草の栽培が行われている。しかしイ草栽培は冬植付、夏刈り取りとその作業
がきつい上、近年ビニールのたたみの出現により徐々に減少している。
(15)
イ草の刈取り
(16)
牛市風景
遠田にある牛市 風景、石見部 の牛の飼育は出雲部より盛んではないが農家の人が丹精をこめて飼
育した牛をせりにかけている。
またここでは品評会が行なわれいる。
(17)
中島地区における花栽培
花の需 要は近 年急増し、益田 地区においても、中 島地区で、ハウ スを利用して、花の栽培を行なっ
ている。このハウスでは、バラの栽培を行っているが、ようやく軌道にのった状況である。
- 6 -
C.水産業
石 見 部 にお け る 漁 業 の 水 揚 げは 以 東 の 浜 田 港 ( 島 根 県 第 一 の 漁 港 で あ り 、 山 陰 第 二 の規 模 を も
つ ) に石 見 地 域 の水 産 物 の 約 90パー セ ン ト が集 中 水 揚 げ され る 。 浜 田 港 以 西 は 小 型 旋 網 が 行 な わ
れる。
浜 田 以 外 の石 見 漁 業 は零 細 で 半 農 半 漁、 副 業 、出 稼ぎな どが多 く、漁 業 専業 者 はごく わ ずかしか
みられない。
(1)
大浜漁港
も と も と半 農 半 漁 の港 で あ り 、 以 前 は 夏 季 に海 水 浴 場 とし て港 を 解放 され 、 民 宿 も あっ た 。昭 和 41
年 8 月 よ り、 そ れ を 拾 て、 小 規 模 な 漁 業 根 拠 地 と し て 現 在 に 至 っ てい る 。 ほ と ん どの 水 揚 げ は 益 田 に
毎日搬出される。
(2)
大塚漁港
零 網 漁 業 の 港 で ア ジ 、 イ カ類 な ど の 沿 岸 漁 獲 がほ とん どで ある 。な お 、高 津 川 河 口 を 利 用し た 港 で
ある。
(3)
飯浦漁港
大塚漁港と同様で、半農半漁の零細漁村である。
(4)旅順港舟着場
ここ は (古 河 )と い わ れ る ラグ ー ン を 利 用 した 舟 着 場 で あ る 。背 後 には昭 和 ? 年 建 設 の ユニ エイ ス 、
卸売団地をひかえる。また、この舟着場のそばに、その発足と同時に製氷工場が完成した。
(5)
鮎かけ
写真は横田町神田付近の高津川である。
鮎漁解禁は毎年5月25日∼6月1日の間に行なわれ、解禁日前夜よりにぎわう。
(6)
鮎漁
①、②、③
写真 は高津 川金地 橋付 近で ある。6の施 設は「条たて」とか「条 がき」などと呼ばれるが、流 れを 変
化させ,鮎を一方 へ追いやり回遊させる。条たての上流部へ刺網を施こし、条たてを利用して刺網類で
ある 投 げ網
② 、③
のよう に鮎 が回 遊 し て来 たと ころ に投 げ、 漁獲 す る。 この条 た ては2 ∼ 3人 で 組
み、解 禁日 から11月 上旬 の増 水時 まで行 なわ れ る。その間 の収入 約60万円 程度で ある。また、下 流
部には舟により操業する形態がみられる。
これはあらかじめ施した網に竹ざおで水面を打たき,鮎を網に追いやる方法である。
- 7 -
(7)
川ガニ漁
①、②
写 真 は横田 町 白岩 付 近(匹見 川)で ある。ずわ いガニを漁 獲でき、漁 期は6月 ∼10月であ る。シー
ズンは夏季である。
下図のようなシカケを使用する。③
(8)
養魚場
写真は匹見口付近の篠原養魚場である。匹見川の水を導入し、錦鯉が飼育されている。主に料理
用である。付近のこの他2つの小さな養魚場がある。
(9)
魚せり
①、②
益田漁連横にあるせり場である。
毎 朝 6時 頃 ∼6 時 40分にかけて行なわ れる。益田 に年 間約 2000ト ン級 の水 揚げがみら れるが、 沿
岸漁業の水揚げがほとんどである。また、行商人のおばあさんの姿も貝られる。
- 8 -
D.商
(1)
業
朝市
①、②、③
益 田 駅 に近 い 裏 通 り( 朝 市 通 り) で 毎 朝6 時 頃 ∼ 7 時 過ぎ に市 内 を 中心 と した 商 店 、 買 物 客が 殺
到する。主に野菜・果実・水産加工品類などが見られる。
(2)
益田卸売団地
①、②
も と 水 田 地 帯 で あ っ た 地 域 を 埋 立 て、 卸 専 用 の企 画 化 さ れ た 団 地 が同 市 高 津 町 地 区 に 誕 生 し た
のが昭 和 43年 で あ った 。 ここ に は駅 前付 近 に店 を 講え る商 店 が中心 とし てあ る。 たく さん の看 板に注 目
してほしい。
(3)
益田木工団地
①、②
ここも卸売団地と同地域にあたり埋立地東部にある。輸入木材を中心とした原木市場、製材所、
木材加工所(合板、化粧板など)などがある。
(4)大型スーパー・マーケツト(キヌヤとサンプラザマルシン)
①、②
キ ヌ ヤ は 益 田 の 在 来 ス ー パ ー マ ー ケ ツ ト で あ り 、 こ の た び ( 昭 和 50年 12月 ) に 店 舗 拡 張 し 、 オ ー プ
ン。また広島の進出スーパ一のサンプラザマルシンも 同年12月にオープンした。このことは益田市商業
発展に大きな影響を与えている。また駅裏の発展をも促がすことになる。
- 9 -
E.交
(1)
通
立体交叉
地点は国道191号線(加計 線)が国鉄山陰 本線の鉄橋の下を通過している立体交叉である。交通
発達的 にみると、都 市部 (交通量の多い所)ほどこの型が多 く、好例としては大分市の新産業都市 計
画に多くみられる。
(2)
日本生命前の三叉路
国 道 9 号 線 が 右 折 し 、 左 右 に の びる 本 通 り 部 と 重 な っ てい る。 市 道 が 国 道 を 兼 ね てい る珍 ら し い 例
である。
(3)
益田駅ロータリー
か つ て の ロ ー タ リ ー は 中 央 部 に 小 公 園 があ っ た が 、 交 通 量 の 増 加 と と も に 昭 和 34年 4 月 に廃 止 さ
れた。
- 10 -
F.その他
(1)
市営競馬場
益 田 市 郊 外 の 緑 ケ丘 に あ る 。 昭 和 22年 か ら 開 催 規 模 は 小 さ い が 、 現 在 、 年 間 6 回 の 開 催 期 間 を
持つ。そ の馬 券購 入圏は広 く、山 口、広 島、北 九州 と遠方 からの来客 もあ る。市の重要 財源である。
(2)
益田駅裏(191号線沿線)
益 田 駅 前 の 過 密 状 態 から 駅 裏 の 開 発 が 進 行 し てい る 。 そ の 好 例 と して 駅 前 通 りの 店 、 住 宅 のこ こ
への移転が最近目立つ。
また、サンプラザマルシンが左端に見える。
- 11 -
G.工業
(1)
羽原窯業
創 立 は 昭 和43年 で 資本 金 は 1300万 であ る 。現 在 黒 瓦 と赤 瓦 を 合 わ せて約 1 万 枚 を 生産 し ており、
製品 は主 とし て山口 ・広 島・九 州 方面 へ 出荷 されている。 従業 員 は74名 で不 況 にあまり左 右 されない
企業でであるが瓦に適する良質の粘土が最近得がたくなっており、事業拡張が難しい。
(2)
益田窯業
石州瓦の発生は室町時代にさかのぼる。当時は今のような生活とかけはなれた民芸陶器を作ってい
ない 。年 を 経 て瓦 を 作 製 する よう に な り 、 水 ガ メ と とも に石 州 瓦 の 名 は西 日本 で は赤 瓦 の代 名 詞 と まで
言 わ れ る よう に な っ た 。 こ のよう に 発 盛 し た 背 景 には 、 良 質 原 料 の 豊 富 さと 永 年 に わ た り 培 かわ れ た 技
術によって、今 日 のような良 質 の石州 瓦 が生れ るに至っ た。 特長 とし ては硬 質 で丈夫 な点と色 彩の美
しい点とがあげられる。近年は人手不足の解消と高率化をめざし設備の近代化がなされつつある。
(3)
益田セラミック
創立は、昭和46年6月で益田市が誘致した企業の一つである。資本金は現在500万で本社は日本
コ ン デ ン サ ー で あ る 。主 な製 品 は セ ラ ミ ック コ ン デ ン サ ー で 製 品 の 殆 どは本 社 に 送 ら れ 日 本 コ ン デ ン サ
一販 売 を 通 じ て全国 各 地 に販 売 され て いる。 従 業 員 72名 のう ち殆 どが地 元 の人 で 地 域 と密 着 した 企
業の一つでもある。
(4)
ユニエイス株式会社
創 立 昭 和 43年 で 資 本 金 43500万で あ る 。昭 和 49年 に 久 大紡 績 を 中 心 とし て三 社 が合 併 し ユニエ
イス となる 。事 業 内 容 と しては綿 ・混紡 綿 ・トップ染 化合 繊 を製 造 しており、従 業 員は 800名 でう ち90%
は 地 元 採 用 で あ る 。 又 従 業 員 の 四 分 の三 は女 子 で 女 子 主 体 の 企 業 で あ る と 言 え る 。 製 品 は 主 とし て
京阪神方面へ送られているが、雇用・固定資産税などの面で大きく地域に貢献している。
(5)
中国コンクリート製品工業株式会社
創 立 は 昭 和 32年 で 、 横 田 にあ る 第 二 工 場 と 共 に生 コ ン 及 びコ ン ク リ ー ト 二 次 製 品 を 製 造 販 売 し て
いる 。 資 本 金 100万 円 、 従 業 員 は 53名 で 年 商 5 億 円 にのぼ る 。 こ こで 生 産 され てい る生 コ ン ク リ ー ト は
公共事業80%民間事業20%で主として土木・建築に使用されている。
(6)
大宮電気
創立は昭和44年で 、益田市が学校の廃校舎を利 用して誘致した企業である。従業員は170名余り
で殆ど地元の人からなっている。ここで出来る主な製品はテレビ・ラジオのコンデンサーで特にMV型コ
ンデンサーが主として生産されている。
又 、 自 動 機 械 を と り 入 れ て の この 種 の製 造 は県 内 で はまれ で あ り 、 出 来 た 製 品 のほ と ん どは大 阪 に
ある本社かサンヨー電機へ送られている。
- 12 -
(7)
石西社
正 式 には 島根 県 蚕 糸 販 売 農 業 協同 組 合連 合 会と 称し 、昭 和 初期 の日 本経 済 の不況 により県 下
の 主 要 製 糸 工 場 が 原 料 繭 の不 買 運 動 を 行 っ た た め 、 農 家 の 被 害 は 大 き く 、 そ の た め 当 時 の日 原 村
長によ り昭 和4 年 4月 に養蚕 業 の振興 と農 家の経 済 的・社 会 的地 位 向上 を 目的 とし て設立 された も
ので ある 。こ の組 織 は農 家 自 らによる組 合製 糸 であ り、 現在 会 員は 県下 50市町 村 に 及ん でいる 。その
製品 は 直 接 横浜 ・ 神戸 の 市場 を 通 じ て販 売さ れ、 又 京 都 ・北 陸方 面 にも 出 荷され 西陣 織 、各 種ち り
めん類などの製織に利 用されている。現在会員による資本出資 金は1億 円にのぼり、従業員60名、製
糸販売高11億円余りで全国製糸工場の中でも最高位の生糸生産がなされている。
(8)
豊川発電所
島 根 県 の 西 部 に 位 置 し 、 匹 見 川 の 最 下 流 にお ける 流 込 式 の 発 電 所 ( 最 大 出 力 51OkW) で あ る 。
大正三年に運転が開始され、当時は産業用需要が極めて少なく、一般民生需要の供給量は十分
余力をもっていた。匹見川は有利な水力資源で下流には無人化された豊川発電所がある。現在西部
地区(江津以西)の需要最大電力は年間7万5千kWで西部の総合電力(3万7千kW)では不足す
るため、送電線により広島、山口から安定した電力供給を確保している。
(9)
大和紡績株式会社
本社は大阪にあり、全国に9つの工場をもち、益田工場もその一つである。益田工場では豊富な用
水に恵 まれた立地 条件 を生 かし て月産 80tのビスコー スレーヨン製造設備 を備え、レーヨンスフ ・ポリノ
ジックスフ・短カット繊維ならびに難熱性ポリノシック繊維を生産している。現在、従業員は609名(男51
8名、女91名)で益田市では最も大きな企業の一つである。
(10)
田川鉄工
創立は昭和21年1月で業種としては産業機械器具製造である。建築、製罐、土木、その他の部門
などか ら なり、 年 間 売 り あ げは 9億 8干 万 に のぼ る 。従 業 員 は80人 で、 こ こで 出 来 た製 品 は 主 とし て山
口, 山陽 方 向へ 出 荷 され る。県 内 でも 同 規模 の鉄 工所 はその他にもあるが機工 部における鋼 材の冷
間まげ加工は島根県では唯一のものである。
(11)
西日本木材工業
創 立 は 25年 4 月 で資 本 金 は250万 の 企業 で あ る。 製 品 とし ては一 般 合板 、 合板 足 場板 、パー チク
ルボード 、製 材な とがある 。生産 能 力と しては月 産60万 枚を 生産 し、300名 の従 業員 が働 いている。こ
の会社は合板企 業の日新グループとして山陰両県に5社6工場を設け、山陰の重要産業として地域
開発に貢献している。原木は南方ボルネオから取りよせ、出来た製品は主として関東、近畿,中国、九
州の各方面へ出荷されている。
(12)
雪舟焼
日 上 吹 金 原 氏 蔵 に なる 雪 舟焼 を 福 郷 氏 が雪舟 ゆ かりの地 、医 光 寺境 内 に昭 和 24年 10月に復 興
創 業 し た も ので あ る 。 手 造 り で 雪 舟 の行 雲 流 水 の禅 僧 生 活を 色 どっ た 雲 模 様が その 特色 で 使 う 程 に
うるおいと暖味が出るのが特徴である。
- 13 -
(13)
大和ゴム化工益田工場
創立は昭和47年4月で資本金500万円の企業である。系列としては大和紡績に属し、益田市に誘
致された頃は主としてボーリング用のボールを製造していたが、ボーリングの衰退とともに現在はゴルフ
ボー ルの製 造を 行って いる。従業 員は25名で現在 使用の施設、設備は不況のため全 規模の3分の1
程度である。ゴルフボールの製造は県内ではめずらしく、製品は関東以西の各方面へ出荷されてい
る。
(14)
西日本鉱業株式会社
創 立 は 昭 和 21年 で 益 田 市 の中 心 よ り 南 方 13kmの地 点 にあ る 。 鉱 区 面 積 は 7278a で 日 本 屈 指 の
ぺグ マタイト 鉱 床を 有 し、硅 石 ・長石 の埋 蔵鉱 量 推定 50万 t単独 鉱床とし て日 本一を 誇っ ている。ここ
で 生 産 され る 人 造 硅 砂 は 鋳 鋼 型 砂 用 、 公 害 防 止 諸 炉 適 材 ・水 道 濾 過 用 ・ 各 種 薬 品 濾 過 用 ・ 建 築
用 材 と し て 、 長 石 は 陶 磁 器 原 料 ・ ホ ー ロ ー 原 料 ・ ガ ラ ス 原 料 に 使 用 され 北 海 道 、 京 阪 神 、 北 九 州 、
山陽各方面へ出荷されている。
(15)
中井産業株式会社
創 立 は 昭 和 46年 9 月 で 資 本 金 1500万 円 の 企 業 で あ る 。 地 元 ( 美 都 町 ) の 誘 致 に よ り 発 足 し 、 現
在 、 金 系 、 銀 系 装 飾 材 料 の 製 造 な ら び に加 工 を 行 っ て いる 。 従 業 員 57名 か ら な り、 製 品 は 中 井 グ ル
ープ中核である。中井商事を通じて全国各地へ送り出されている。
(16)
都茂鉱山
中 外 鉱 業 株 式 会 社 の 事 業 と し て、 金 、 銀 、 亜 鉛 な どを 生 産 し てい る 。 従 業 員 は 145名 で 、 ほと ん ど
地元の人達によって採掘されている。
鉱 区 面 積 は 8100haに の ぼ り 、 鉱 床 は丸 山 鉱 床 、 都 茂 鉱 床 、宝 来 鉱 床 な どがあ り 、 丸 山 、 都 茂 鉱
床は古くより稼業され、都茂鉱業所の主力鉱床である。
- 14 -
H.民族・歴史
(1)
須久茂塚
益 田 地 区 久 城 台 地 は 古 墳 の集 中 分 布 地 で す 。そ の 中 で も 一 番 大 き いの が久 城 の 中 央 台 地 に 立
つ須久茂塚の前方後円墳で階段をなす高さ10m、径64mに及ぶ後円の封土には多数のふき石を見、
石見の古 墳では珍 しい二基 の陪塚 を南北にひかえ、さらに墳頂上の周囲には円筒埴 輪基台がみられ
ます。古墳の全長は108mに及びます。
築造された年代は3C頃から6C頃までと推定されています。
(2)
鵜の鼻古墳群
安田 地区 鵜の鼻に は54基を 数える群 集古 墳があっ て、島根 県下でも珍 しい一特 異地域をなしてい
まし た が、 保 存 管 理 が十 分 で なく 20基 ば かりが残 っ てい るにす ぎません 。鵜 の 鼻古 墳 は 、ほ とん ど円 墳
で規模は小さく、時期は古墳時代の末期に属し、墳丘上には埴輪の存在をみません。
(3)
並良堤
弘文天皇の元年(672年)から天武天皇3年(675年)の4年間石見国内で毎年日照りがつづいて
地方の田 という田は全部乾き切ったので、国内の農民は飢えになやんだ、特に大川を持たない遠田地
区民 の 困却 と 恐 慌 は言 葉 にいい表 わせない ほどだ った 。遠 田地 区 は溝 川のよう な遠田 川 が平野 を 流
れているのみで一度日照りに出くわすと、すぐ田は乾くのであった。そこで救済の目をつけたのが坂上並
良でした。
彼 は 遠 田 川の 上 流、 乙 子 に接 する 谷を え ら び、 その 北側 に堤 防を 設 けて、水 の流れ を絶 ち切 り 、こ
こに一大ダムを竣功させました。それでこの溜池は築造者にちなんで並良堤といわれています。
安田地区には今日多数の用水池が点在しておりこれは後世になるに従い、その都度開発の必要に
迫られ 設 けられた も のであ り、 溜池 の多 い点で は県下 はいう までも なく日 本全国 でも 稀にみる特 異性 を
もっています。
(4)
鎌手の防塁
蒙古襲来は我が国でも未だかつてみなかった一大国難でした。この時鎌倉幕府は北九州沿岸の
警 備 を 強 化 す る と 同 時 に西 国 の 防 備 を も 固 め まし た 。 特 に長 門 に隣 接 する 石 見 沿 岸 の防 備 を 重 視 し
築造したものといわれています。
(5)
櫛代賀姫神社
和 泉 の 国 、 櫛 代 の本 拠 か ら 瀬 戸 内 海 に ひ ろ が り、 そ の支 族 が 日 本 海 を 航 じ 、 当 市 内 鎌 手 地 区 の
大 浜 に上 陸 を し まし た が 、 そ の 一 部 は 東 に 向 か っ て那 賀 郡 の 久 代 に 移 住 し 、 他 の 一 部 は 西 に 向 かい
当市内久城の地に住みました。
今 日 の櫛 代 賀 姫 神 社 はそ の祖 神 た る女 神 を まつ った のであ る。櫛 代 族はそ の後、 久 城の丘 たる 石
見野を根拠とし着々と鋤鍬を入れて開墾していたのです。
鵜の鼻や、須久茂塚をはじめ一帯にわたる古墳は彼らが築いたものです。
- 15 -
(6)
福王寺十三重の塔
益田市の中須、下本郷、久城の一帯は宗教文化が発達し、櫛代賀姫神社をはじめとし、安福寺、
蔵福寺、東福寺 、妙福寺、福王 寺の五福 寺の建 立がみられましたが、万 寿3年 (1025年)の大津波
でひとたまりもなくつぶれてしまいました。
その後、 江戸時 代の享保14年 (1729年)益田川 の大洪水 のため土砂が掘り崩され、かつて埋まっ
た石造十三重の塔の石材が露出し、今日福王寺の境内に石造十一重の塔として復原され、在りし
昔 のお も か げを し の ばせ て お り ます 。 現 在 県 下 で 知 ら れる 石 造 美術 の 最古 の も のと認 めら れてい ます。
(7)
天の石勝神社
この本殿は三間四 面の流 れ造りの儀式ですべてケヤキを用い、桃山時代の特色が多分に見られま
す。 御 神 体 は 春 日 族 の 祖 、 天 の石 勝 の尊 が 祭 られ ています。 春 日 族 は古 墳 時 代 に大 和の 中 心地 か
ら益田市 へ移住してきたもので、旧益田町 に春日町の名が残り、そこに天の石勝神社があるのもその
ためである。
(8)
天の石勝神社神楽殿
天正 九年 火災 によって当 社の境 内がことごとく炎 上しました 。その後 本殿 は天正 11年(1583年)19
代益 田 藤兼 、子 の元 祥に よって再 建がすすめら れ、つ づ いて天正 15年(1587年 )神 楽殿 が再 建され
ました。この神楽殿は県の建造文化財に指定されています。
(9)
鳥居前町の益田市高津地区
益 田 市 の 高 津 地 区 は 柿 本 神 社 の 鳥 居 前 町 と 、高 津 川 の河 港 と して栄 え てきた 集 落 で あります。 そ
の一つの残象をとらえるべく柿本人麻呂神社の大鳥居から写した写真がこれです。
今でも年最大の大祭、八朔祭は9月1日に行なわれ近郊近住の人々が新穀を収めあるいは実り多
きを祈願に集まりこの鳥居前町は露天市が群がり賑わいをきわめるのですが、平素はさびれて商店も数
軒を数えるのみです。
(10)
万福寺本堂
明治三十七年二月十八日、特別保護建造物に指定。
益 田 春 日 町 に 位 置 し 、 全 国 で も す ば ら し い 時 宗 の 寺 院 で あ り ます 。 写 真 は 本 道 正 面 で 、 南 向 、 七
間四面の単層屋根四注造りで建坪九十八坪であります。
本 道 裏 には、 一 遍 上 人 珍 蔵 で旧 国 宝 の「 二河 白 道 図 」 をは じめ雪 舟筆 と伝 えら れる「山 水 襖絵 」
も蔵されています。庭園は本道の向かって右後方に位置しています。
(11)
医光寺庭園
万福寺と同じ雪舟の作と伝えられる蓬莱山鶴亀の庭です。裏山の滝蔵山を背景に、山すその部分
に多数 の 刈り 込 みを 用 い 、下 に は鶴 池 を 、 池 の中 には三 尊 石 を 配 した 亀 島 を 全 体 に蓬 莱の のどかさを
よく表現しています。
島 崎 藤 村 は( / こ れ は心 の 庭 だ 、 遠 い 中 世 期 は まだ こ ん な とこ ろ に残 っ て、 私 達 の 眼 の前 に息 づ い
ているかの様でもあった/)と山陰土産に記しています。
- 16 -
(12)
万福寺庭園
この庭は、およそ五百年前、画僧雪舟が作ったと伝えられるもので、医光寺園と同様、昭和三年
以来 、 国 の史 跡 名 勝 に指 定 されて い ます。面 積 は 四三 〇 坪 で須 弥 山を 中 央にして明 と暗 とが巧 みに
使 い 分 け ら れ て いま す 。 こ の明 る さの 焦 点 にあ る 三 尊 石 は 誰 にも 親 し め る石 のた た ず まい で 、 池 は 心 字
の池で、哲学的深みを持つ、心の庭です。
(13)
七尾城山なみ
七尾城は、鎌倉時代、益田兼高が築いた城で、四百年間、石見文化の中心でした。
し かし 、 関 が原の合 戦 後、 毛 利氏 に属し た益 田 氏は山 口 県須 佐 町へ 転 封 した ので 、一 朝 にして消
え 失 せ ま し た 。 写 真 中 央 に 連 な る の が七 尾 山 で 、 そ の 頂 上 の 平 た い場 所 が 城 跡 で す 。 現 在 は 、 雑 草
が生い茂り、見るかげもなく、ただ古井戸と石垣を少し残す程度です。
益田駅よりバスで十五分の位置にあります。
(14)
医光寺総門
この総門 は竹田の番 匠の作で、 もと七尾城の大手門でしたが、関が原の後 、城 主が平 和を祈念す
る意味から医光寺に寄進されました。
この門は竜 宮造り の特 異な様 式を 備え、 別名唐 門とも 呼ばれ日 本建 築にも ごくまれなもので 、素 朴
そのものですが力強い安定感を感じさせます。
総門の丈が高いのは、古い時代、乗馬のままで通過できるよう、工夫されたからです。
(15)
長迫古墳
益田市赤 城町(益田中学校 前)の一帯に一大古墳集 落がみられます。築造 年代は出土品からみ
て古墳時代の末期に当たる5∼7C頃と思われ4段階に分かれて築造されており、下方から上方に行
くにし たがい新 しい年代 と見られ ています。まだ発 掘されない古 墳もあり宅地 開発等で50基位 が破壊 さ
れたもようです。
(16)
柿本人麻呂神社
当 社 の社 伝 に よる と 、 そ の 起 源 は遠 く 、聖 武 天 皇 の神 亀 年 間 、 人 麻 呂 の 逝 去 後 間 も なく 終 焉 と い
われる鴨島の地に社殿を建立したのがはじまりとされます。
しかし万寿3年(1026)の地震のための大津波によって社殿と島とを海中に没しました。
その後松 崎の地に再興されたが延宝9年(1681)亀井茲親によって現地たる高津城址に社殿を移
すこ と に し 、 本 殿 を は じ め 神 楽 殿 、 桜 門 、 鳥 居 等 を 次 々 に 新 築 し 、 そ し てこ の 地 を 人 麻 呂 の終 焉 地 に
因んで鴨山としようとすることとしました。
さらに正徳3年(1713)茲親は拝殿、絵馬堂、連歌堂等を増築し、一層の荘厳を加えました。
石段は大手道の幅を拡張したものです。
- 17 -
I.吉賀地区
(1)
深谷大橋
深 谷 川 は 県 境 の 峡 谷 で 、 交 通 上 の 大 障 害 で あ っ た が 、 昭 和 37年 工 費 4200万 円 を か けて 西 日 本
一のアー チ型大橋 が完成し て不 便を解 消し 、益田 、六日 市町 と広島間 最短連 絡の動 脈となった。こ
の大 橋 は、 長 さ99.5m 、 谷 底 より高 さ80m 、幅 5.5mの景 観 は四 季を 通 じて観光 客 を楽 しませてくれ る。
(2)
深谷川の河岸段丘
写真 中央 部の青々 と木の生え た斜 面が深谷 川の谷 底で、川向こうの水 田化された段 丘が六日 市
町 の 田 ノ 原 新 田 段 丘 で あ り、 手 前 水 田 上 が 山 口 県 の 向 峠 段 丘 で あ る 。 こ の よう に深 谷 川 が 谷 を 深 く
刻み、このような見事な段丘が出来たのである。
(3)
吉賀川上流伏流水
高津 川上 流に あたる吉 賀川 は、六 日市町田ノ原の水田中の湧水地 (俗に一本杉)に源を 発するこ
の地 域 最 大 の河 川 で あ る が、 写 真 に 見 られ る よう に源 から 約 2 km位 下 流 部 の 水 は すべ て 伏 流 し 、 水
無川になっている。
この現状は約1km位つづき、径40cm内外の円礫で埋まっている。
(4)
ワサビ栽培
ワ サ ビ は 冷 涼 な 気 候 ( 10∼ 13℃ ) を 好 み 、 直 射 日 光 を 嫌 う の で 、 北 に 面 し た 渓 谷 又 は 樹 陰 に 適 す
る。
島 根 県で は匹 見、 日原 等 石見 部 の山間 地 で栽 培 が盛ん であ り、 この柿 木村 で も村 の重 要な産 業
の一 つで あ る 。こ の地 域 には 、 明治 末 期 から本 格 的栽 培 に入 り、年 々増 産 を続 け昭 和 50年 に 収 量は
4tであり県下4位の生産量をあげている。
(5)
椎茸栽培
柿木は平地が乏しく、大部分が森林で占められ椎茸栽培には好適な条件である。
こ の 地 方 に は 、 明 治 の 初 期 、 岡 山 県 よ り 鈴 木 源 歳 と い う 人 物 が 、 大 分 よ り 人 夫 を 連 れ て当 地 方 に
来られ、椎茸栽培を始めたという事である。
昭 和 50年 の生 産量 は、 春物 約43t、 秋物 約2tの収穫 があり、 県全体 の生産額 の約13%を 占め、
県一の生産をあげている。なお、当地方の農家収入の約70%を椎茸栽培によって得ている。
(6)
アイボリーメロン栽培
昭 和 47年 夏 の集 中 豪 雨 で 壊滅 的 被害 を 受けた 六 日市 町 抜月 地 区で は、耕 地 を失 っ た農 民 8人
が、48年3月から約1haの農地に50棟のビニールハウスを建て、アイボリー種メロンの契約栽培を始め
たのである。
資材、種、肥料 、農薬などすべ て東京の三菱商事 が調達 し、出荷は三菱商事を 通じて、大阪、京
都、横浜、東京方面に出荷している。
- 18 -
(7)
七村地区のチューリップ栽培
この 写 真 は 六 日 市 町 七 村 とい う 集 落 の チュ ー リ ッ プ栽 培 の 畑 地 で 、 こ の地 区 では 、 昭和 41年 9 戸
の零 細農 家延べ 18人 が、現金 収入 を得るた め七 村球 根組 合を 形成し 、協業で始 めたものである。最
初 は1.3haの 農 地にア ペ ルド ール ンとい う黄 金 赤 色 の花 を つ ける 品種 を 11月 に植 え 、 翌 年 5月 に収 穫
し、 毎 年 順 次 農 地 を 拡 大 し 、順 調 な経 営 で あ っ た。 とこ ろが 、年 々 物 価 は急 騰 する のに、 球根 は 値 上
がりせず、減反のやむなきにいたり、現在年約12万球生産し、その内約50%が組合を通じて連合会に
出荷され、アメリカに輸出されている。
県内では出雲平野において大規模な生産が見られる。
(8)
高冷地リンゴ栽培地
昭 和 25年 から始 められ たリ ンゴ栽 培 は、現在 約5戸の農家 によって行わ れている。1 戸あた り20∼ 3
0aの耕地に40∼50本のリンゴの木を植 えている。種 類は夏 物として、祝、早産旭スピートン、早産デリ
シャス、阿 波3号 、ダイズマン ズ、 秋物 として、紅 玉、レッドコールド、スターキン グ、ゴールデンデ リシャ
ス、 陸奥 、 スター クリ ムソ ン、恵 、朝 陽 デリ シャス、 国光 などがある 。出荷 先 は、北 九 州、 益田 、 岩国 、
防府で、景気と発育状態によって変わる。
(9)
王子造園六日市センター
王 子 緑 化 株 式 会 社 が昭 和 46年 3月 から 田 野原 にひ ら いた 造 園 セン タ ー で、 面 積 は13haに 及 ぶ。
公園 、工場 、街 路の緑化のための木が生 産されている。その種類は、クロマツ、サザンカ、シイノキ、
ユー カリ、 イ チョ ウ、 オ オ シマザ ク ラ、 ケ ヤキ 、 サルス ベ リ、 ト ゲナ シ、 アカシ ア、 ナ ン キン、 ハデ 、 ポプラな
ど41種で、本数は約10万本である。
東 京 を 主 な市 場 とし 、全 国に販 売 して いる。現 在 企業 間 の過当 競 争があ り、 値 くず れ現 象がお きて
いるが、この競争を切り抜けると、当造園センターは中国山地の一大生産地になる可能性がある。
日本の木の総需要本数は1千万本と推定され王子緑化株式会社はその1割を生産する。
(10)
石南花栽培・石南花天然林
花 の さ かり の 時 期 を 過 ぎ て い る が、 豪 華 な 花 で あ る 。 こ れ は 、 六 日 市 町 河 津 の 民 家 の 庭 に 咲 い た も
のであるが、庭木としての栽培が難しく、生育も遅い。
六 日 市 町 河 津金 山 谷に あ るシャクナ ゲの天 然林 で ある。 ツツ ジ 科に 属 し、 深山 渓 谷山 林 中に生 育
する常緑木で、高さ4m位に達する。河津地区では数万本のシャクナゲがあり、4月中頃から5月初め
にかけて紅紫 色の見事 な花 をつける。中国山 地国定公園 の中にあり、六日市町 が保護管理を行って
いる。
(11)
有飯コウヤマキ天然林
スギ科 に属す常緑木で山地の北向き斜面に自生し、高さ12mになる。和名「高野すぎ」は、和歌山
県高野山に多いた め名づ けられたものである。吉 賀地域で、群生林が見られるのは有飯地区だけで、
4、5カ所に点在している。10年生以上のものは、6000本位ある。材は建築用材のほか、材の白さと香
りの良さのため高級風呂材として利用される。近年、県の自然保護林に指定される予定で、有飯地区
民間で保護運動がおこっている。
- 19 -
(12)
誘致企業ヨシワ工業株式会社
この工 場 は、鹿 足 郡六 日 市町 七 日市 に昭和 48年4 月1 日 に資 本 金四 千 八百 万 円で 創 立、誘 致
され、全従業員百十一名である。そのうち、四人以外はほとんど地元民である。
事業内容 は銑鉄 鋳物製造及 び機械加 工で、自動車 部品、発動機部 品、ダクタイル鋳鉄などを生
産して、これら製品を東洋工業株式会社、ヤンマーディーゼル株式会社等に納入している。
(13)
廃村(折元集落)
折 元 集 落 は 高 尻 川 流 域 の 最 深 部 で 、 七 日 市 よ り 12km離 れ た と こ ろ に 位 置 し て い る 。 昭 和 35年 に
は、13戸67人が生活 して おり、耕 地2 ha余りを 耕し 、主として木材 、木炭 などの林業 とワサビ生 産によ
り生計を営んでいた。
昭和22年に自家発電で点燈し、昭和29年に国鉄バス開通、昭和36年に公衆電話がつくなど徐々
に生活 は 便 利に な っ た。 し かし、 昭和 35年 に 山 林は伐 採 し尽 くされ 、仕 事が少 なく なった こと、 さらに昭
和38年の4mを超える豪雪が決定的原因となって全戸転出することとなった。
そ の後 、 耕 作 は通 いで 続 けら れ て いた が政 府 の減 反 政 策 の影 響 で、 耕 地 に 杉 などが植 林され た。
現在、荒廃した家屋が昔の面影をとどめている。
(14)
ワラ葺き集落及び棚田
柿 木 村大 井 谷、 戸数 26戸 、人 数113人 の谷間 に 長い 年月 を かけて山 はだ に写 真 で見 るような石 を
積み、棚田を形成している。家の多くはワラ葺きで自然とマッチしている。
(15)
廃校利用(職業訓練校)
この写真は、旧蓼野小学校の校舎を利用し、農林業の離農者に職業訓練を施す目的で、昭和45
年開 設 され た 。県 立 益 田 専 修 職 業訓 練 校 六 日 市 分 校 で ある 。最 初 は型 枠 大 工 科 を 設 け職 業 訓 練
を実施 したが振わ ず、昭和48年 まで開校 されていた。ところが、48年9月再び園芸科を 設置し昭和50
年 の 今 日 ま で 毎 年 20名 の計 59名 が 卒 業 し てい る 。し か し 、 入 校 者 は 高 齢 者 が多 く 、 初 期 の目 的 を 達
成している。
(16)
僻地校長瀬小学校(六日市町河津)
長瀬小学校は職員数3名、生徒数11人で、年々過疎にともなって減少している。
(17)
高尻ダム建設現場
防 砂 事 業 と して昭 和 49年 9月 に 着 工 し た高 尻 ダ ム は昭 和 53年3 月に 竣 工予 定 であ る。ダ ムから 上
流の流 域 面積 は6.65 ㎢ 、 土砂 を とめる量 は351.7 ㎦ 、 ダム の高さは18m 、長 さは87m 、コンクリー ト総 量
は9561.94 ㎥ 、費用約3億5千万円。
- 20 -
(18)
岩日線六日市駅予定地
六日 市駅 は、神宮 神社 の南 に予 定されている。このスライドは駅予定地 から蔵木方面 を臨んだもの
である。
長い間の地域住民の願いであった鉄道岩日線の工事が着々と進んでいる。現在、錦町(山口県
玖珂郡錦町)から六日市までの工事が行われている。錦町、六日市間の鉄道距離16.7kmのうち、50
%の8.4kmが完了 、29% の4.8kmが現在 施行 、残り3.5kmが未着 工であ る。六日 市、日 原間 は昭 和
60年度 完成 予定 で現在 測量 の段 階である。その青写真 によると鉄道距離 24.1kmのうちトン ネルが72
%の17.3km、橋が5%を占める。駅は六日市、七日市、柿木の3ヶ所に新設される。完成後には、中
国縦貫道路とともに吉賀地区の発展に大きく寄与するものと思われる。
(19)
中国縦貫道インターチェンジ建設予定地
①、②
中 国 縦 貫 自 動 車 道 と は、 大 阪 府 吹 田 市 から 山 口 県 下 関 市 まで の543kmの まさ し く 中 国 地 方 のほ
ぼ 中 央 を 縦 貫 する 高 速 自 動 車 道 で あ る 。 現 在 、 下 関 市 か ら 山 口 市 まで の74.1kmと 岡 山 県 落 合 から
大阪の吹田市までの180.9kmが開通し、一般開放されている。
島根県の唯一の過疎地である六日市町を含める山口県鹿野町から広島の千代田町までの101.2k
mの 区 間 は 、 昭 和 46年 6 月 1 日 に 出 さ れ た 最 後 の第 5次 施 行 命 令 に よっ て着 工 され る こ と に な っ てい
る 。 し か し 、 現 段 階 で は 道 路 公 園 に お い て 工 事 実 施 計 画 書 の 作 業 中 で あ り、 路 線 発 表 が な い の で ル
ート は 分 からな いが、 ほと んど全 線 山中 を 通る 見込 みのようで ある 。写真 に 見 られる水 田 中に国 道 187
号線とのインターチェンジが建設される予定になっているが、地元の町民の反対があり問題は解決され
ていない。
(20)
六日市町市街地・七日市 ①・②
六 日 市 町 は 中 国 山 脈 の 西 方 山 間 部 に位 置 し 、 西 は 柿 木 村 、 北 は 日 原 町 、 東 南 は 山 口 県 錦 町 、
鹿 野 町 に接 し た 県 境 の町 で あ り 、山 陰 の中 間 的 存 在 で ある た め、経 済 的 社 会 的 交 流 は行 政 的 位 置
付けとは異なった性格を持っている.
〈面積・気候〉
当町は、標高平均583.3mで、総面積は19797haで85%を山林で占め、耕地は6%に過ぎない。気候
は年平均気温12.9℃で、雨量は全国平均より多い。
〈人口動態〉
全 国 でも 指折り の過疎地 で、人 口減 少率は19.5% 、28.7%と大きく減 少している。産業 は農業、 林
業が主であるが内容は多様化してきている。
(21)
深田と旧吉賀河道
通 称 「 8 町 8 反 の 深 田 」 と 呼 ば れ る 湿 田 は吉 賀 川 源 流 池 付 近 に あ る 。 河 川 争 奪 が行 わ れ る 以 前
の吉賀川は、山口県の向峠から西南方向に流れていた。ところが、河川争奪で上流をもぎ取られた吉
賀 川 は 無 能 河 川 と なり 、 両 岸 より の堆 積 物 に より 旧 河 道 の一 部 が 堰 き 止 め ら れ 、 流 れ が付 近 一 帯 に
ある黒ボコ土壌を泥土化し、このような湿田が出来たものと言われる。
この写真は約12haの湿田のうち、上沼田と呼ばれる旧河道の一部で、大昔は写真左より右の方向
に河水 が流れて いたのである。し かし、 昭和 29年より乾 田化 事業が行わ れ、下 沼田一帯はほとんど立
派な乾田に変わっている。
- 21 -
(22)
深田の農具
この写真は乾田化されない昔の深田時代に使用されていた農具の田下駄と風呂鍬である。
沼 輪 と よば れる 特 殊 な田 下 駄 は、 藤 かず らで 直 径 40cm位の 輪 をつ く り 、 それ に下 駄 状 の板 に荒縄 の
緒 を つ けた 下 駄 で 、 深 さ1 ∼ 4 cmの湿 田 で 、 田 植 え まで の水 田 作 業 に使 用 してい たもので あ る 。また 、
鍬 にも 特 徴 があ り 、 柄 の 長 さ 2 cmで 刃 金 の 部 分 が30cm× 20cm位 あ り 、 ほ ぼ 柄 と 直 角 につ い てお り、
田下駄をはいた時は腰を曲げての作業が出来ないため、直立のままで作業に応ずるため、このような鍬
をしようしたのである。
(23)
弥生式土器発掘現場
星坂弥生遺跡といわれる、六日市町大字田ノ原字星坂で、昭和17年発見された。
出土品:石鏃、石包丁、石錐、皮はぎ、石棺等の石器、弥生式土器が出土している。
(24)
高津川源流1本杉・高津川源流
①・②
高津川の水源地と考えられる場所である。
(25)
藩境石
この境石 は周防の国 (萩 領)と石 見の国(津 和野領 )、今の六日 市町星坂と鏡町 宇佐郷との境 江
堂の峠 に建て て あっ たも ので 、この道 は津 和野 藩 主の参 勤 交替 の順 路にあた り、城 下町まで約 55km
である。
(26)
七日市簡易水道
島 根 県 の 8 市 41町 10村 の 市 町 村 の 中 で 簡 易 水 道 も 設 置 さ れ て い な い 市 町 村 は 六 日 市 だ け で あ
る。このた め町 は昭和49年から簡 易水道建設 工事を総工 費約2.5億をかけ、七 日市地区と朝倉地 区
延べ680戸(2700人)を対象に昭和51年3月完成を目標に工事が行われている。写真は七日市小学
校裏約80m位の高所に完成した貯水槽である。
(27)
木地屋の墓
きじ や とは 、 昔 食 生 活 に 必 要 で あ っ た 木 わ ん を 作 っ ていた 人 た ちの こ とで あ る が 、こ の 木 地 屋 の墓 石
の正 面 上 方 に菊 の文 章 が彫 り こ まれ て いる 。 844年 頃 、 皇 子 惟 喬 親 王 が庶 民 にろ く ろ を 使 っ て、 木 わ
んを作ることを 教え、全国に散っていった。こうした人々の子孫ということで彫られているらしい。この六日
市地域には、1647年∼1835年まで約60軒近く住んでいたようである。
(28)
安蔵寺山登山口
中 国 山 地 国 定 公 園 の中 に あ り 標 高 1263.3m の 山 で 県 内 最 高 峰 で あ る。 正 和 4 年 (1315年 ) 伊 予
の国河野弥十郎通弘が吉見公(津和野藩主)の命によって山中に寺を建立し、阿弥陀仏を安置して
安蔵 寺 と名づ けた 。(町 指 定文 化 財)山の名 称はここに由来する。なお、 安蔵寺 はその後焼 失して本
尊は上高尻石水寺に移した。
- 22 -
(29)
道面屋敷
六 日 市 町 注 連 川 堂 免 に 所 在 す る 江 戸 時 代 ( 18世 紀 後 半 ) の 民 家 。 道 面 家 は 、 文 政 7 年 ( 1824
年)に没 した座 頭海 順を祖 としている。民家には江戸 中期 までさかのぼり得る遺構 が少なく、重要文 化
財 に 指 定 さ れ て い る 。 近 年 破 損 が 著 し く な っ た た め 、 昭 和 51年 完 成 を 目 標 に 復 元 工 事 を 予 定 し て い
る。
(30)
河川争奪
水田に利用されている平地は旧吉賀川の河道で、河川争奪が行われる以前には、この地域に降っ
た降水等はすべて写真左から右上の方向にこの平地を流れていたのである。
とこ ろ が、 写真 中 央 部 の木 の生 え て い る深 谷 川 の侵 食 力 が吉 賀 川 より 強い た め、吉 賀 川 の上 流 は
この 深 谷 川 に奪 わ れ 、 水 量 を 増 し た 深 谷 川 は 益 々 侵 食 が進 み 、 今 日 見 ら れ るよ う な深 さ 約 90m に近
い大峡谷が刻まれたのである。そのためこの地域の降れ等はすべて写真右下から左の深谷川を流
れ、吉賀川は水のない無能河川となったのである。
(31)
河川争奪の地形図説明
吉 賀 川 は 太 古 の 時 代 は、 図 中 右 上 の 黒 沼 田 付 近 から 西 南 方 向 の( 図 中 破 線 部 ) 旧 河 道 を 流 れ
てい た 。 と こ ろ が 、 向 峠 段 丘 と 書 い て あ る 右 側 の 宇 佐 川 と 旧 吉 賀 川 の 合 流 点 の 2 カ 所 で 河 川 争 奪 が
行われたのである。図中斜線部は河岸段丘が示してある。
(32)
河川争奪説明図
隣 り 合 う 二 つ の 河 川 があ る 場 合 、 分 水 界 を 刻 み込 ん で 他 の川 の 流 れ を奪 い とる 現 象 を河 川 争 奪 と
いう 。河 床 の 高 さ の 違 う 川 の 間 や 、 侵 食 力 に 差 のあ る 川 の 間 に起 こ る 。 日 本 で も 久 慈 川 ( 茨 城 ・ 福 島
県境)や天竜川等各地にその例が見られる。
(33)
日原町営林署大原野園場
(34)
吉賀川氾濫原とバイパス
吉 賀 川 は 山 地 の中 に は め こ めら れ た 形 の 嵌 入 蛇 行 を し て うね う ね と 流 れ ている が 、 流 域 には 、 各 地
に谷 が 埋 ま っ た 氾 濫 原 が 袋 状 に見 ら れ る 。 こ の 写 真 は 七 日 市 の 下 流 約 2 kmに あ た る 七 村 地 区 の 氾
濫原 で吉 賀 川流 域 では最 大 級の氾 濫 原で 長さ約2km、幅約 500m の規模で ある。現在 耕地 整理 も
完了し 、整然とした区画の水田が一面に広 がり七日 市の穀 倉地帯を形 成している。昭和 47年12月か
ら 国 道 187号 線 の バ イ パ ス 工 事 が 始 ま り 、 長 さ約 3 km二 車 線 の 直 線 道 が約 2 億 3000万 の 工 費 で 昭
和49年2月に完成し、陰陽交通に一役かっている。
- 23 -
J.匹見地区
(1)(2)
匹見町位置図・人口動態図
∼匹見の過疎化∼
匹見 町は所 謂「過疎 地」として全国的に有 名になったけれども図に見 るように島根県 の西部に 属し
広島 県 と 接 する美 濃 郡 の山 間 地 帯 で ある 。匹 見 町 の人 口 動 態 を 図 で 見 ると 、大 正 年 間 より6 千∼ 7
千人を維持しつつ第2次世界大戦前、つまり昭和10∼15年の間に若干増加し7千人台に入り(広見
地区 に三 井の工場 が建 ち労働 者が流入 )その後戦争 による人口 減となり昭和30年 前後 に人口 が急
増している。これは「木炭 」の需要が高まり山 間地匹見は木炭産業で活気を呈し、為にその木炭の製
造・ 搬 出の 労 働者 が 外 部か ら大 量 に流 入 した こ とによる 。ち なみに最 高 時 の匹 見 町 人 口 数 は7550人
である。しかし、やがて「木炭」の時代が終わりを告げ、「石炭」「石油」の時代が到来し朝鮮戦争(19
51∼53)による特 需景 気後、国と民間 が一体となり技術革 新・設備 投資の促進により高度経済成 長
を実現していく中で匹見町は木炭産業の斜陽化と都市への産業集中・発展と労働力不足による人口
流 出 の 波 を まと も に く う わ け で あ る 。 つ まり、 全 国 的 規 模 で の 第 1 次 産 業 の 凋 落 と 第 2次 ・ 第 3次 産 業
の拡大発展、あるいはそれに伴う都市と農村の所得格差の拡大、(過疎)と(過密)の発生等といった
波の中で最も象徴的に匹見町がその現象を身をもって示したといえる。「年齢別人口構成図」を見れ
ば ( 若 年 労 働 者 ) の 流 出 と ( 老 人 ・ 婦 女 子 ) の 残 留 化 と い う の が よく わ か る 。 又 昭 和 38年 の 豪 雪 が 挙
家離 村 化 を 一 層 促 すこ とになり グ ラフ で見 る ように激 しい人 口 減少 を あらわ し てい る。し かし、経 済 の減
速化・安定成長化の今日、減少率にブレーキがかかりはじめている。
(3)
広見廃屋
匹 見 町 は 過疎 の 町と し て全国 的 に も 知 ら れてい るが、 過 疎 が進 行 している のは匹見 町 周辺 部 の交
通不 便 な 山 間僻 地 に限 られ る。特 に この広見 は匹 見 町中 心 部より 東へ 十 数 キロ山 間 部に 入 った とこ
ろにできた集落で、冬の数ヶ月は雪に閉ざされる。昭和三十八年、中国地方一帯は近年まれにみる豪
雪に襲わ れ、この広見は交通が三ヶ月間遮断されて完全に孤立し、陸の孤島と化した。この豪雪を契
機として離村 者が激増 し、町もまた集 団移転を積 極的に勧めたため、住民はすべて 匹見・益田・広 島
へ移転し、広見は廃村となった。
(4)広見小学校
戦 前 木材 の伐 採が盛 んに行 わ れていた頃 、 八十 名 を越 す児 童を 抱え たことも在った この広 見小 学
校も、広見集 落の集団 移転と共に姿を 消すことになった。町植林事 業のための事業 所として使用され
ている 。 ち なみ に小 中 学 校 生 徒 数 の推 移 を 見 る と、 昭 和 36年 に 1600人 いた 生 徒 も 、以 後 激 減 し て昭
和49年には500人 と約1 /3に減っている。また昭和 46年に12校 あった小学校も 統廃合が進み、昭 和4
9年には6校に減った。
- 24 -
(5)
日の里集落
∼廃村化と集落の移転・統合∼
拡 大 深 刻 化 す る 過 疎 化 の中 で ( 挙家 離 村 ) (廃 村 )が続 き分 散 する 各 集 落 を「 集 落 整備 計 画 」 に
よっていわゆ る(拠点 )づ くりで対処 しようとする。例え ば昭和45年 の広見・虫ヶ 谷・小平 の3集落14戸
71人 の 移 転 ・統 合 を 先 鞭 と し 、 昭 和 47年 の 高 冷 地 野 菜 の 失 敗 ・ 米 作 転 換 によ る 休 耕 地 続 出 と冬 の
出稼ぎの問題 等で この「日 の里 集落 」もその延長 線上 に位 置する。匹見 町の奥部 の赤谷・芋 原(赤
芋地 区 ) の3集 落 20戸 70人を 移 転 ・統合 し赤 谷 下・目 木 の原に 一 戸当 り 66㎡の住 宅 12戸 と共 同 作
業場・倉 庫・牛 舎・集会 場など の施設 を建設することによりできた新しい集落が「日の里集落」である。
3集落の住民の中には益田・広島へ転出した者もいるが大半はこの移転住宅に入居し農林業に従事
して いる 。 これ ら 施 設 の 財 源 内 訳 は 国( 約 1130万 )県 (約 570万 ) 及び 過 疎 債( 約 5700万 ) の三 本 柱
でなっ てお り 昭和 49年 6 月に竣 工 した。 現在 も 過疎 化 のブレーキ がかかり始 めたと はいえ続 いており匹
見町に散在 する各集落を (行 政当局)と(住民 )の話しあいの中で(拠点)づくりを促進し(住民生活の
保障)(住民福祉の向上)を一層はかるための方向を模索している。
(6)
小中合同寄宿舎 ∼学校の統廃合に伴う寄宿舎整備∼
匹 見 町 は 澄川 地 区 、 匹 見 地 区に中 心 的 集 落 があ るが 各 所に散 在 した 集 落が立 地 しているた め過
疎化の進行の中で挙家離村・廃村化が起ると同時に学校の統合・廃校が行われた。
従って通学不 可能な児童・生徒のた めに澄川 中学校・匹見中学 校に各々寄 宿舎がつ くられたが、ス
ライ ドは 匹 見 中 ・ 匹 見 小 の 合 同 寄 宿 舎 で あ る 。 こ の 合 同 寄 宿 舎 以 前 は現 中 学 校 の裏 手 に中 学 校 の
寄 宿 舎 と し て あ っ た が 火 事 に よ る 焼 失 に よ り昭 和 40年 に 収 容 可 能 人 員 80名 の 現 寄 宿 舎 が 竣 工 。 現
在 中 学 小 学 の 両 児 童 ・ 生 徒 が 利 用 し 年 間 利 用 者 54名 冬 季 利 用 者 13名 の総 勢 67名 が 入 舎 し てい
る 。 年 間 経 費 約 1800万 か か る 中 で 寄 宿 生 は 1 日 当 り 140円 を 納 入 す る 他 は す べ て 町 負 担 と な っ て い
る。
(7)
三葛全景
匹 見 町 中 心 部 よ り さ ら に 山 間 部 へ 10数 キ ロ 入 っ た 所 に成 立 し て い る 集 落 で あ る 。 わ ず か の水 田 耕
作と、シイタケ・ワサビ栽培が主な産業である。
(8)
匹見峡
①、②、③、④
中 国 山 地 の 山 あ いか ら 、 急 斜 面 を い っ きに流 れ 出 る 広 見 川 ・三 葛 川 ・ 匹 見 川 の 三 つ の川 に形 成 さ
れた匹見 峡は、白 い岩肌 を持 つ火成 岩系 の奇 岩と、垂 直に 切り 立った両岸 の絶壁 (V字 谷)とかもし
出す独特 の景観 によって、見事な渓谷美を私達に示してくれる。特に秋の紅葉時は、町民が「山が火
事 に な っ た よ う な 」 と 形 容 す る 程 、 連 山 紅 色 に 染 ま り 、 渓 谷 美 を 一 層 駆 り 立 てる 。 最 近 町 は 匹 見 峡 の
観光開発に乗り出し、キャンプ場を整備したりして着々とその成果を挙げつつある。
(9)氾濫原
①、②
後方 の道川方面 より流れてく る匹 見川と右方より流れてくる広見川とがコンクリート橋付近で 合流し
ている。古代 から幾度となく 繰り返 されてきた匹 見川の氾 濫によって、上流 より運ばれてきた土砂がこの
匹見盆地の河岸に堆積し、スライド左方に見られるような丘陵ができたのである。このような地形を氾濫
原という。
同じく匹見川支流の三葛川流域にできた氾濫原である。
- 25 -
(10)
河岸段丘
規模は小さいが河岸段丘である。後方の一段高い平坦面は旧氾濫原、前方の一段低い平坦面は
新氾濫 原で ある。前方 の新氾濫 原はかつて河床 であったところであるが、再び最前方部 が浸食 された
た め河 床 で は なく な っ た 。 そ の後 土 地 の隆 起 運 動 がお こ り、 現 在 見 ら れ る よう な地 形 になっ た と推 定 さ
れる。
(11)
棚田
平 野 が狭 く 、 両 側 から 山 が 押 し 迫 っ て い る匹 見 盆 地 にお い ては山 の傾 斜 面 を も 利 用 し て水 田 耕 作
が行われている。石を塁々と積み上げて造られたこの水田は、「棚」に似ているところから棚田と呼ばれ
ている 。この様 に して新し く水 田 を開 発 していっ た昔 の人々 の労 苦は相当 なものであ ったろうと想 像され
るが、過疎化の進行や減反政策の結果、この棚田も耕作に不便な上層部から姿を消しつつある。
(12)
和田古墳
この 古 墳 は 匹 見 町 を 代 表 する 古 墳 で あ る 。 山 岸 にそ う 水 田 の中 にあ って円 墳 の型 を 成 し ている が、
内部は崩れている。明治の初期に付近の住民が発掘して刀剣を一振り発掘したと伝えられるが定かで
ない。地元民の中には崩れた石に触れると稲ができなくなるとか、古墳の上部にある五輪塔の頭に触れ
ると足が立たなくなるといって、近づくことを恐れる者もいる。
(13)
美濃地家
この家はかつて の道川 村庄屋、美濃 地家の邸宅である。美濃地家は江戸中期より末期にかけて庄
屋を世襲し、さらに は近 辺の庄屋 を統率する役割を持つ割元庄屋の地位をも数回にわ たって獲得した
大庄屋でもあった。
中 国 山 地 一 帯 で は 古 く か ら 炉 業 が 盛 ん に行 わ れ て いた が 、 美 濃 地 家 は 18世 紀 中 葉 、 益 田 か ら 道
川村に移住し、炉経営に乗り出して成功することによって、頭角を現していったものである。
(14)
神楽
神 楽 は 元 来 神 を 舞 殿 に 呼 び 出 し 、 五 穀 豊 穣 を 祈 願 し 感 謝 す る た め に舞 わ れ た も の で あ っ た が 、 次
第に娯 楽を 中心 とするも のに変 化して いった。つまり神のた めにではなく、観客のために舞 われる舞いへ
と変化していったのである。従ってそれは見せ場を多くするために、いきおいきらびやかでテンポの早い舞
いと なら ざる を 得 な い 。こ の 様 な舞 い は 「八 調 子 型 」神 楽 とし て 浜 田 の海 岸 端 を 中 心 にし て広 がっ てい
った。一 方中国 山地 の山 ふところに閉 ざされた匹 見には、 昔の原型 を伝 える「六調 子型 」神楽が今 日
に伝えられている。それは、悠長な所作振 舞いと、ゆるやかなテンポで 舞われていることに特色がある。
昭和50年、県の無形文化財に指定された。舞われているのは「恵比寿大黒」という舞いである。
(15)
神楽面
様 々 な 神 楽 面 が伝 え ら れて いる が、 多 く は 木 彫 りの 面 で 、 古 い も のにな る と 江 戸 中 期 の も のも あ る 。
- 26 -
(16)
民具
(紙漉船と機織機)
①、②
(紙漉船)
当 匹 見 町 に お い て は 、 江 戸 初 期 よ り そ の 製 造 が 始 ま り、 農 家 の 冬 期 副 業 と し てそ の 技 術 が 伝 え ら
れてきた。匹 見町内 に「紙祖」という地 名が残 っているが、石見半紙 発祥の地 が、実は匹見であ ること
はあまり知られていない。
製紙法
コ ウゾ・ミ ツマタ の皮を たた いて やわ らかく し、 その繊 維を 紙 漉船 の水 中に 混 ぜ る。次 に植物の根 やト
ロロアオイからとった粘質物を加えてかき混ぜ 縦60㎝横130㎝くらいの大きさの木わくに、細い竹をほとん
どすき間 なく並べ たすのこで水 をすくいあげ、前 後に 動かして水 を切 ると繊維 がすのこ面につく。これをは
がして積み重ね、圧搾して水分をとり、はがして板に張り、日光でかわかすと紙ができあがる。
(機織機)
産 業 革 命 以 後 駆 逐 され た 手 動 式 機 織 機 で あ る 。 戦 前 ま で は 、 農 家 の 副 業 と し て 使 用 され てい た 。
(17)
匹見発電所
∼渓谷を利して∼
石 見 地 区 の 一 日 分 の 電 力 消 費 量 は 10万 kwと いわ れ その内 県 内 供 給 は6 万 kw広 島 より 4万 kw
が供給されている。匹見には5ヶ所(澄川・匹見・虫ヶ谷・道川・広見)に発電所が設営されているが、
ス ラ イ ド は そ の う ち の 匹 見 発 電 所 で 大 正 14年 5 月 に 完 工 し 最 大 出 力 1870kwで あ る 。 匹 見 地 区 の 出
力総数からすると石見地区全需 要量の6分の1程度を担っている訳で、それなりの役割を果していると
言え よう。匹 見 発電 所 は町 中心部 より少し はず れた所に位置 し、200万円 (当時の)を 投じ村境 にダ ム
を設け、匹見川左岸にそって2キロの水路を開き虫ヶ谷において10mの落差をつけ一本の水道管に水
を落している。
(18)
匹見町商店街
∼匹見町中心部の一角∼
匹 見 町 の中 心 部 を 構 成 するこ の商 店 街 は、 とりた てて他 の地 域 と比 し 特 徴が ある 訳 で はない が、 比
較的土 木建 設業 、製材 業、運 送業 が多 い。やはり日 用品関 係が最も 多いのは益田へ出 るにはあまり
に時間的 、交通上の不便さがあるゆえだろう。又昭和30年代の木炭産業的 活気を呈した名 残りとして
旧旅館が多いのも目につくところである。
(19)
臼木谷191号線
∼陸の孤島からの脱皮∼
益田∼石見横田∼匹見線と車を走らせると、益田に全く雪が無い時も匹見町に入るとかなり積雪し
ている の を よく 見 か ける 。 そ れほ ど自 然 条 件 の差 が あ る。 又 匹 見 は匹 見 線( 益 田 へ )が主 要 幹 線 で 他
は道路と言うにはあまりに狭く不整備の線しかなかった。従って匹見を称して「陸の孤島」といわれるよう
になっ たといえる。しかし、今日 、広島へぬける191号線 を整備すると共に他線の改修、整備によって交
通路 の確 保 、ネット ワー ク構 想が実 施 されている。中 国 縦貫 道 の構想 と結 びつ ければ、 正に「陸 の孤
島」匹見より脱皮しうるのである。
- 27 -
(20)
タウンホール
豪雪山村開発センター
∼開発のシンボルとして∼
①、②
匹 見 町 の 中 心 部 に位 置 し て い る モ ダ ン な建 造 物 タ ウ ン ホ ー ル に は 町 役 場 ・教 育 委 員 会 ・ 図 書 館
な ど が 置 か れ 地 域 の行 政 ・ 教 育 活 動 の 中 心 と な っ て い る 一 方 、 集 会 ホ ー ル ・ 食 堂 ・ 娯 楽 室 ・ 老 人 ホ
ーム・宿泊室・浴場等の施設も完備しており社会福祉・社会文化活動の中心的役割をも担っている。
昭和 44年7月 工費 1億5千 万をかけ全国 4番 目の開発 センター として竣工し 、高度 経済 成長の波 に
伴 っ て発 生 した 若 年 労 働 力 の流 出 ・後 継 者 確 保難 ・ 耕作 放 棄 ・挙 家 離 村 ・集 落 の崩 壊 と極 端 な 過
疎現象等と次々に襲ってくる厳しい時代の波の中でその波にのまれることなく、むしろ積極的にとらえ新
たに山村開発を果敢に進める発展の「シンボル」として登場し、その役割と期待は大きい。
(21)
わさび・しいたけ栽培
匹 見 町も 農 林業 中 最も 比 重を 占 めるのは米 作だ が、他 に「わ さび」 ∼第 2 位・「し いたけ 」∼と いっ
た主 要 な もの があ る。 殊に 「わ さび」は県 下一 の生 産高 を 誇り 田 (30ha)畑( 12ha)両 方で 年 間55ト ン
を生 産 し京 阪神 方 面へ 出 荷 する ことに より8 千万 の販 売収 益 を上 げている。又 「しいた け」は 年間12ト
ンを 生 産 し 2 千 8百 万 を 得ている 。47年 の高 冷地 野 菜の失 敗 で打 撃を 受 けた が今 日 回 復し 、今 後の
匹見町における期待される産業となっている。
- 28 -
K.津和野地区
(1)
津和野
吉 見 、 坂 崎 、 亀 井 三 代 の居 城 下 町 と して 知 ら れる 津 和 野 は、 「 つ わ ぶき の繁 る 野 」 に由 来 す ると い
う 。 小 郡 − 益 田 間 を 走 る 断 層 谷 の 中 、 青 野 火 山 群 の 麓 にこ じ ん ま り と 、 ま と ま っ た 町 で あ る 。 「 山 陰 の
小京都」という別名は京都文化に対する地方の憧憬のあらわれであろうか。
か つ て は鹿 足 郡 の中 枢 の 位 置 を 占 め 、 各 種 の官 公 署 出 先 機 関 が 設 置 され て いた が、 産 業 的 にこ
れといって見るべきものもなく、いわゆる過疎の町である。
最 近 は 、山 陽 新 幹 線 の開 通 と相 まっ て年間 約 120万 人を 越 える 観光 客 で賑 わ う史 跡と 鯉の町 とい
う方がとおりがよい。
(2)
高崩
河 川 がS 字 状 に蛇 行 ( 曲 流 ) し て流 れ る と き、 河 流 の 側 方 浸 食 が 強 く 働 く 河 岸 を 攻 撃 斜 面 と いい し
ばし ば険 し い崖 を つ くる こと があ る。 この 河岸 と は反 対 側の河 岸 は堆 積作 用 が働き河 原の状 態 となり 滑
走斜面をつくる。
「高崩」は「崩」の地名のとおり比高20mの切り立った絶壁で増水期には流水が絶壁の下をえぐり、
しばしば崩壊することからこの地名が由来したと思われる。
梅雨・台風の時季に津和野川はよく増水し、この高崩により河流をせき止め、津和野町の中心部が
水びたしになるのではないかと危ぶまれている。
(3)
門林扇状地
島 根 県 ・山 口 県 の県 境 の野 坂 峠 の北 部 の門 林 扇 状 地 は津 和 野 川 支 流 桂川 の つく った 扇状 地 で
ある。写真の前面の集落はこの扇状地の扇端部にあたる。
国 道 9号 線 の切り 取 り部 を扇 頂 とし 、延 長約 1.5km、 扇端 部 の最 大 幅 員約 0.7kmの小 規模 ながら
扇状地として典型的な形状を示す。
扇 央 部 は 一 部 は 畑 とし て 、ま た 桃 や リ ン ゴ園 と し て利 用 され ている が、 大部 分 は 雑 木林 にと どまっ て
いる。藩政時代には藩の財政を賄うため開墾が奨励されたという。
扇端部は水田化され、前面には小規模な2段の河岸段丘が見られる。
青 野 火山 群 の噴出 に伴う 津和 野川 と阿武 川の河川 争奪の問 題の解明 にはこの門林 扇状地 が大
きな役割を果すものと考えられる。
(4)
稲荷神社
稲荷神社 は安永 2年、津和野 城主亀井矩 貞が三本 松城の鎮護と住民の幸せ、産業繁栄を祈願
して太鼓谷に勧請したのがはじまりである。
旧 社 殿 は 大正 1 , 2 年に造 営され たが、 後、 昭和 44年 に境 田 拡張 し 、新 社殿 が造 営され て現 名 に
いたる。
神 社 は毎年 5月 15日 の春 季大 祭 及び11月 15日の秋 季大 祭を 中心に四季 を通 じて参 拝者が絶 え
ず、年 間 約100万人 を 越す津 和 野町 へ の観光 客 の大部 分 は神 社に参 詣し 、1200本 余の鳥 居のある
参道を賑わせている。
- 29 -
(5)
郡役所(現
津和野町役場)
明 治 末 期 に建 て ら れた 郡 役 所 の建 物 で あ る。 大 正 15年 郡 役 所 が廃 止 さ れ ると 共 に 、 津 和 野 警 察
署の建物となり、昭和34年から町役場となり現名にいたる。
(6)
旧中学校校舎(旧島根県立津和野高等女学校校舎)
明 治 41年 7 月 7 日 鹿 足 郡 立 女 学 校 と し て 旧 藩 校 養 老 館 跡 に設 置 。 大 正 11年 県 立 津 和 野 高 等
女学校に移管。昭和11年にこの校舎は同じ場所に新築されたもので卒業生も2000人を数える。
昭和23年、学制改革により、新制中学校として翌24年から使用された。
幾多の人材を生んだ藩校養老館の跡地にふさわしい純日本風の建物である。
(7)
津和野城跡
三本松城、蕗城、たく吾城と称される。永仁3年、西石見の追捕使(地頭職)に任ぜられた吉見頼
行 公 が 築 城 に着 手 し た と 伝 え ら れ る 。 千 姫 事 件 で 有 名 な坂 崎 出 羽 守 は 慶 長 3年 に入 城 、 本 丸 の 北
に織 部 丸 と 称 す る 出 丸 を 築 城 し た 。 以 来 、 明 治 7 年 の 開 城 ま で 、 使 用 期 間 の長 い こ と 、 壘 の構 築 様
式にお い て全国 希 にみる 豪 壮 な山 上の防 塁 、稜 角堡 は名 山岳 城 の名にふさわ しい。 今に 残 る巨 大な
石塁が700年の歴史の跡を忍ばせる。文部省指定史跡となっている。
(8)
鷲原八幡宮流鏑馬馬場
鷲 原 八 幡 宮 は 津 和 野 の開 祖 吉 見 氏が 鎌 倉八 幡 宮 を 勧 請 し 、こ の地 に 社 殿 を 設け た こと に由来 す
る。
神社の境内には、鎌倉八幡宮を模して造られた全長約270mの流鏑馬馬場がある。
写真 の左側の中 土手に的場 があり、馬 を走 らせながら3ヶ 所の的場に矢 を射たといわ れる。流鏑 馬
馬場としては原型をとどめているのは全国的にも珍しく、県の指定史跡となっている。
毎年4月13日の神社の例祭には古式により、流鏑馬の行事が行われる慣わしとなっている。
(9)
多胡家門
津 和 野 藩 政 の う ち 、 亀 井 氏 は 11代 に お よび 、 そ の 中 心 は 歴 代 の 家 老 多 胡 氏 で あ っ た 。
とくに多
胡真武は鬼主水と呼ばれ、殖産興業に力を入れ、津和野藩の経済的基盤をつくり、太宰春台「経
済録」の中 で、多 胡氏を 激賞 している。多 胡真 蔭は、仮 名手本 忠臣 蔵における加古川本蔵 のモデル
といわれる。渡辺崋山と親交のあった多胡真祇(号逸斎)は谷文晁、桜青崖に南画を学んで、秀作を
遺した。
(10)
森鴎外旧居
文 豪 、 森 鴎 外 ( 本 名 森 林 太 郎 ) は 、 文 久 2 年 1 月 19日 津 和 野 町 横 堀 に典 医 の 長 男 と し て生 ま
れた 。 11歳 で 父 に従 い、 上 京 す る まで こ の家 で 過 ご し た 。 6 歳で 論 語 の素 読 を う け8歳 で 藩 校 養 老 館
に学 ん だ 。 「 サ フ ラ ン 」 「 ヰ タ セ ク ス アリ ス 」 の 中 に 津 和 野 にお ける 幼 年 時 代 が 記 され てい る 。 上 京 後 、
東京大 学医 学部 を卒業 、陸 軍軍医 となり、ドイツ へ 留学、 衛生学 ・文学 ・哲 学・美学 を修 め帰 国、の
ち陸軍軍医総監、医学博士、文学博士、帝国博物館長、帝室美術館長になった。
旧居前庭には「うた日記」の中の「ぼたん」が佐藤春夫の筆により石碑に刻まれている。
- 30 -
(11)
津和野町新丁通り
典 型 的 な 城下 町 の津 和 野 町 の裏 通 り 。藩 政 時 代 の土 壁 が今 なお 残 り、 壁の外 には木犀 が顔 をの
ぞかせ、馥郁とした香りを漂わせる。
道路沿いには、坂崎出羽によって整備された用水路が清流をたたえながら流れている。
(12)
津和野カトリック教会
明治元 年(1868年)長崎 浦上を中心 とするキリスト教 信者に対し、いわゆる浦上 四番崩れが捕らえ
られ、改宗させることを目的として津和野藩へ合計153名の信者が送られてきた。
彼 ら は 、 現 在 の 津 和 野 駅 裏 手 の乙 女 峠 の 廃 寺 光 ○ 寺 に収 容 され 、 改 宗 を 迫 る 役 人 に 厳 し い 拷
問を受け、明治元年から6年までの間に36人の死者が命を失った。
こ の 犠 牲 者 を 記 念 し て 、 1931年 教 会 が 設 立 さ れ 、 毎 年 5 月 に は 全 国 各 地 か ら 信 者 が 多 数 お と ず
れ、盛大なミサが行われる。
(13)
マリア堂
昭 和 26年 、 津 和 野 カ ト リ ッ ク 教 会 の ド イ ツ 人 宣 教 師 パ ウ ロ ・ ネ ー ベ ル 師 ( 日 本 帰 化 名 岡 崎 裕 次
郎)の手によって聖母マリアと36人の長崎浦上の殉教者のために乙女峠記念堂が設立された。
(14)
キリシタン燈篭
乙女峠のマリア堂の奥上方の墓地にキリシタン燈篭がある。由来や時代については、つまびらかでは
ないが、明治以前のものとすれば、すでにこの地に隠れキリシタンの住んでいたことがうかがわれる。
(15)
津和野踊り
津和野藩主亀井茲矩が元和元年因幡国鹿野から津和野に移封された際、鹿野で毎年盂蘭盆
会に踊られていたものを、津和野に移し、以後毎年 盆の15日を中心に町内各所で踊りつがれているも
のである。
8 月 10日 、 新 町 の幸 盛 寺 跡 の 観 音 堂 の柳 参 りの 夜 か ら 踊 り 始 め ら れ 、 15∼ 16日 夜 が最 盛 で あ っ
た。踊りは「道行き」、「念仏合掌」、「つかみ投げ」の型が組み合わせられた極めてテンポの緩やかな
踊りで、哀調を帯びた曲に合わせて、白地の浴衣に黒の帯を締め、尻からげた黒のももひき、白足袋、
黒 のお 高 租 頭 巾 に団 扇 を さ し た 白 鉢 巻 の優 雅 な姿 で 踊 るの が印 象 的 で あ る。 最 近 は 、 やや 観 光 化 さ
れた傾向もあるが、いつまでも正調の踊りを残したいものである。
(16)
鷺舞い
山口の領主大内氏が、山口を西の京都として繁栄させるため、京都のハ坂神社を分祀し、これに伴
う 鷺 舞 い を 移 し た 。 1542年 、 津 和 野 城 主 吉 見 氏 が 大 内 氏 の 息 女 を 迎 え た 際 、 鷺 舞 い の行 事 も 津 和
野へ 伝えられ たという。後 、一時 中絶し たものの、1643年亀井 氏により京 都ハ坂神 社の鷺舞 いを伝 習
し、以後、連綿として現名にいたる。
素 朴 な 歌 詞 に あ わ せ 、 鐘 ・太 鼓 ・ 鼓 の 囃 し に 雌 雄 2 羽 の 白 鷺 が羽 を 左 右 に 広 げ 、 優 雅 に 舞 い 、 最
後に雄鷺が雌鷺をかぱうように寄添っていく。
毎年7月20日、及び27日の弥栄神社の例祭に町内各所で舞うのを慣わしとしている。
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(17)(18)
津和野機関区
国 鉄 山 口 線 が 大 正 年 間 に敷 設 され た 時 、 津 和 野 が 機 関 区 の 位 置 に 指 定 され 、 石 炭 、 水 の供 給
地として蒸気機関車華やかな時代には、重要性を高めていた。若干、硬水の水質のため鑵石が、ボイ
ラー に付 着 すると いう 欠 点 はあ っ たも のの 豊 かな水 量 で その 存在 意 義 を 高 めてい たが 、次 第 にジー ゼ
ル化 さ れる と共 に機 関 区 の存 在 も 無 用 となり 、 昭 和 50年 夏 には、 全 く 解体 され 今 は全 く そ の面 影 を 止
めていない。
(19)旧笹ヶ谷鉱山跡
笹ケ谷鉱山は、津和野町の中心部から北西へ約12kmの地点にあり、砥石山を中心に東西2km、
南北7kmに及ぶ。開坑は今から約700年前の鎌倉時代といわれる。最盛期には戸数500戸、人口2,0
00人が銅 の生 産に従事、 のち砒 素の製造 もはじめた。この間 鉱毒が流 れつづ けた。昭和 46年閉山 に
なった が、45年の公 害 基本 調査 で、井 戸水 から砒 素が検出 され 、砒素 中毒 症の疑いがもた れ、昭 和
49年 にな ってはじめて砒 素中 毒 症が公 害 病に認定 され 、笹ケ谷鉱 山周辺 地区 は、宮崎 県の土呂 久
についで、公害病地域に指定された。
野積 みにされていた 鉱さい100万tは50年より封鎖 工事 に入 ったが、患 者救 済の抜本的 対策はたて
られていない。
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L.弧
(1)
島(高
島)
高島全景
四 国 海 崖 に 囲 ま れ た 弧 島 で 、 本 土 の 大 浜 か ら 直 線 距 離 で 約 12kmあ る 。 本 土 と は 地 質 的 に 共 通
し 、 第 3 紀 の輝 石 安 山 岩 や 集 塊 岩 か らな る 。島 は暖 流 に 包 まれ 本 土 に 比 し 若 干 温 暖 で 南 方 系 常 緑
樹林 におお わ れ、隠 岐 の南北 混 交と は明瞭 に区別 される 。植 物分 布 上の北 限 とされているも のに(ナ
シサズラ)(フウト ウカズラ)(ハマヒサカキ)等 があり対岸 本土に存在 しないとされる。また、特異なもので
はないが(ツバキ)の群落もあり椿油は島のよい収入となっている。ただ風は年間通じて強く樹高は低
い。
昭 和 27年 デ ィ ー ゼ ル 発 電 機 に より 初 めて 電 灯 がつ き 2 時 間 の 時 限 配 電 で は あ っ ても 火 災 で ふた た
びラ ン プと ロ ー ソ ク の不 自 由な 生 活 に逆も どりし た 。翌 38年 新 発 電所 が 完成 し た ので 、電 灯 の みに止
まら ず、 簡易 水 道も 出 来、 二重 の喜 びを味 わ うこと になっ たのである。また通 信ではすでに昭和 34年 に
2 kmの 交 流 発 電 機 を 備 え 可 動 無 線 電 話 が 開 通 し 38年 に は 益 田 電 報 電 話 局 交 換 で 本 土 と 常 時 通
話が可能になった。
昭和41年5月21日 高島灯台が完成。完成に先立ち4月より点灯を始めた。最高点高 尾の辻に高
さ15mで海 面上122.5m にそびえ 光力80万燭 光、光 達距 離45kmの偉 容を誇る。自家発電 、オートメ
ーション化された最新施設で漁船や近海航路に大いなる便宜を与えることになった。
(2)
高島の海岸
島 は東 西1.2km、南 北 450m (狭 い所 で は240m )、 周 囲 3km、 最 高 点 は117.4m の高 尾 の辻 で 平
地は皆無 、かろうじて東端中 腹に集落がしがみついている。海岸 は南面 すら平均10m、他の三面は30
∼40mの懸崖続きで凪のみ南西端の船着場の岩かげに接岸できる状態である。
(3)
高島船着場
高 島 の隔 絶 性 の最 大 要 因は 港 の欠 如 で ある 。明 和 頃 (19C 初 )浜 田 藩 は島 の南 西 部 の小 入 り江
に工 事 を施 し、 最近 は益 田 市がコ ンク リート の波 除けも 作った が荒 天には全く用 をなさず舟は接 岸で き
ず空 しく引き返さざるを得ない。島には小舟が十余隻あるが全部岩上に引き上げたり吊り下げておく。フ
ナ ヒ キ の称 のあ る 所 以 で あ る 。 集 落 の直 下 にも フ ナ ツ ケが 一 ヶ 所 あ る が 凪 の 日 に 接 岸 する の み の場 所
で あ る。 かく て冬 は1 ヶ 月 で も 2 ヶ 月 で も 本 土 と の往 来 が 絶 え 、 生 活 物 資 も 欠 乏 し て死 の危 険 を 感ず る
こ とも 珍 し く な い。 従 来 も 公 営 の連 絡 船 が何 回 か 実 施 され た の で あ る が最 近 ま た 50ト ン 級 の市 営 定 期
船が1週1回大浜港から連航するようになったことは喜ばしいことである。しかし、冬季は接岸できないこと
が多いため欠航せざるを得ない。選挙では毎回数日前に投票を済ませることになっているのも当日の海
のしけることを考えてのことである。
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(4)
高島の集落
集 落 も 冬 の北 西 季 節 風 の風下 た る島 の東南 隅 に立 地 するがそれ でも家 は平屋 瓦 葺瓦 がとばぬよ
う 網 を 屋 根 に お お っ てい る 家 も あ る ほ ど で あ る 。 集 落 は 海 抜 40m 前 後 の 地 点 で あ る が、 海 水 の 飛 沫 で
家 も 畑 も 塩 害 を う ける 。集 落 は 海抜 40m 前 後 の斜 面 を 5段 になら し雛 壇 状 になっ ている 。古 来 7 戸 77
人 以 上 は 禁 制 と され た (7 戸 島 の 異 称 )が明 治 以 降 は逐 増 し ている 。し かし 出 稼や 移 住 が多 く 島 に残
るも のは老人女子 供が大多 数である。応永頃(室町中期 )海賊 の根拠 地になっていて益田氏の討伐
を受けたことがあり、島の東端のゴウトウ(強盗)の窟 がその跡とされる。定 住者については尼子方の邑
智郡出羽城士(16C初)ついで出雲馬木城士や石見茶臼城士達がかくれ住んだとされるので隠田集
落起 元 といって よかろう 。壇 郡寺 は三 保の明 光 寺で あ るが、島 の死 人があ ると島 の頂 でのろし を上 げる
と 住 職 が 島 に わ た っ て読 経 し 後 日 島 民 が納 骨 に寺 詣 りする 風 習 があ っ た 。 今 は島 民 自 ら 葬 式 を 行 い
後日寺に来て本葬を行う。
住 民 の 本 土 移 転 に よ り民 家 は 閉 鎖 さ れ た が ( 民 家 は 季 節 風 を さ け 島 の 南 東 部 に 集 中 す る ) 釣 り 客
等により日々荒らされている現状である。
島に居住している頃の収入は漁船4隻を使い男8名により共同作業をし、収益は均等割りしていた。
水揚げは1日4ト ン程度で大浜 の漁港 に水揚げしていた。11月から3月 は主にブリの1本釣りで12月か
ら 4 月 は ノ リ の 収 穫 が主 で そ の 他 サ ザ エ 、 アワ ビ がと れ た 。 そ の 他 の女 世 帯 の家 は 送 金 によ る 生 活 で
出稼ぎ者23人である。
(5)
高島の人口変遷
元禄(17C末)
8戸
宝永(18C初)
10戸(47名)
正徳(18C初)
4戸(18名)
明治
5
6戸(29名)
明治
26
7戸(48名)
昭和
8
11戸(84名)
昭和
23
16戸(113名)
昭和
28
17戸(103名)
昭和
39
15戸(82名)
昭和
(6)
14戸(38名)
高島の飲料水
島には湧水池が二・三カ所と井戸 が一・二カ所 あるのみで 、そのうち、島の東端の湧水が島の生命
の綱 であ る が(水 位 は 本土 の 源田 山 の地 下 水 と 同 じで 地 下水 が続 いているので はないかといわ れてい
る)集 落から 約200m 離 れていて水 運びは婦人 にとっ てなみなみならぬ重 労働で あった 。そのうえちょっ
とした干天にも涸れることが多かった。天水も多少は利用したがこれは雑用水であった。昭和26年に益
田 市 が コ ン ク リ ー ト を 三 ヶ 所 作 り 湧 水 を 貯 水 す る よ う に な っ てよ う や く 事 態 は 改 善 さ れ た 。 昭 和 37年 離
島振興 法に基づ いて簡 易水道 計画 が進められ、既 設のタンクを 水源 として海抜74mの山腹 (高島 分
校の上 方 )に5ト ンの配水 槽を 作り、発電 施設で 昭和 38年3月から揚・配 水を 開始し たので島民 は初
めて長年の苦労から解放されたのである。
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(7)
高島の段畑
耕 地 は 風 を 避 け 日 照 が よく 比 較 的 広 い 緩 斜 面 を 持 つ 東 南 部 に 集 中 す る 。 わ ず か7 畝 の猫 額 大 の
段畑 に低 い 防風 用 生 垣 を めぐ らせて麦 類 、 雑 穀 に若 干の 野 菜を 作 っ ている が収 量 は少 な く食 糧 の大
部分を本土に仰いでいる。土壌は流出が多くて薄く、地味はやせ肥料不足のうえに野ねずみや黄金虫
の害 も 大 き く 労 多 く し て報 い ら れ る 所 は 少 な い 。 正 徳 年 間 に は ね ず み 害 の た め に全 島 あ げ て本 土 に 一
時退避 するという憂き目を 見たことさえあ る。薪拾 い日も定 まっていて枯 枝一本たりとも勝 手にとることは
法度である。近海は好漁場であるが港がないため磯漁程度に止まり、いたずらに他地の船に荒らされる
のを傍観 するのみである。したがって壮年者は古くから遠 洋漁業にやとわれて他郷に出る。島の名産に
厚く て歯 ご たえ のある 香り高 い高島 海 苔があ る。漁 獲 物は鎌手 大港 の魚 市場 に出 し島の生活 必需 物
資 も 大 浜 か ら運 ば れ る 。本 土 移 転 後 は 本 土 から 船 で 高 島 に 渡 るこ とも思 う にまかせない のが現 状 で あ
る。また漁業も磯釣客に荒らされることが多くなり、漁獲も不振な現状である。
島に居住している頃は畑からは麦50俵(1俵3270円)収穫していたが米作は不可能である。
(8)
高島分校
島 内 には 小中 学 生 が4 名 いる ので 鎌 手 小、 中学 校 の高島 分 校があ る。みすぼ らしい 校舎 も 、集 落
最上段に新校舎を改築し島に偉容を添えることになった。本土からもよく見ることが出来る。先生を得る
こと が教 育 事務 所 の悩みの種 であ る。大 体 において退 職後 の老 夫婦 が余 生を 送 る気 持で 赴任 してい
たことが多いが現在では年配の女性教師が小、中各1名ずつ本土に家族を残して奉職している。先生
は島 の生 活 の最 高 相 談 役 でも あ る が、本 土 の灯 を 眺 めつ つ 、 風 波 の音 を 友と して浮 世離 れて弧 島の
教 育 に専 念 す る姿 はま こと に尊 い と いう べ き で あ る 。本 土 移 転 に 伴 い 生 徒 は本 校 に通 学 するこ とにな っ
たが、今までとは全く異る環境の中での生活学習には大きな困難が伴うものと思われる。
(9)
高島分校生徒数の推移
昭和39年
40年
小学生
中学生
9名
8名
10
8
41
8
6
42
5
4
43
3
5
44
2
3
45
3
3
46
2
2
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(10)
高島住民移転地
昭和50年3月28日高島 住民11世帯29人全 員が益田市土田町高見の集団移転住宅に移り住ん
だ 。 本 土 で の 生 活 に 大 き な 期 待 を 持 っ て 本 土 で の生 活 が は じ めら れ た が、 生 活 費 の高 騰 、 就 職 の 困
難性等、大きな不 安が横たわ る中で新しい環境の中での生 活をはじめている。移住者は小、中学生4
人を除けば平均年齢60才近いという。島での生活とは異なる新しい環境への適応のむつかしさがある。
移転 先 での共 同作 業 場で のタン スの裏 板張 り の内職 も 1カ月6∼ 7千円 程度 、高島 へ渡 っての漁 業
も無人化した島で釣り客に荒らされ、土田漁港の一角に500万円かけて専用船着き場をつくったとはい
え海が荒れると出漁も思うにまかせないのが現状である。
※昭和51(1976)年7月島根県高等学校社会科教育研究会石西地区部会
により作成・編集されたスライド教材『郷土スライド』の解説書です。
一部字句の訂正をした他は、ほぼ当時のまま掲載しています。
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