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受験シーズンが始まるようで。 その企画のひとつとして話題提供というの

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受験シーズンが始まるようで。 その企画のひとつとして話題提供というの
受験シーズンが始まるようで。
その企画のひとつとして話題提供というのだろうか、以下の記事が目にと
まりました。
『6浪して東京芸大入学!
!』(毎日新聞1/13)
74年生の女流日本画家の体験談。六年浪人して芸大に入ろうとする執念
はすざましいものがあるが、記事によれば六浪などめずらしくないそうで、
10年以上も浪々の身をやつす強者もいるとか。これだけやっても『元をと
れる』(経済的なものだけではない)ということらしい。
これを読んで一般新聞読者はどう反応するか。よくやったとため息をつく
か。芸術部門は特殊なところだから、とにべもなく言いきるか。(ちなみに:
全身ポートレートが載せられていて和服姿の相当な美人であるのが気になる)
いわずもがなの、評論を加えるが、六年浪人してももとはとれると、クー
ルな考えを「開き直った」ように告白しているところが興味を引かれるので
ある。普通なら、あんた六年もかかって入ったんかと軽蔑のまなざしを向け
られるところだが、そうではないところが『倒錯の世界』を形成しているか
のようである。
ともかく、絵画の世界というのは、ギルドを形成していて、特定の流派の
なか徒弟をこなし、そのなかでしか、評価されない仕組みができているよう
である。価値の基準がそもそもないところでは、流派をつくってそのなかだ
けで評価しあうしシステムをつくるのは自然の成り行きである。科学の世界
ですら、学問的価値が相対的に低いとみられるところでは、みな徒党を組ん
で必死に権益をまもろうとすることを思えば、絵画の世界などおして知るべ
しである。
絵画芸術の才能などは、もともと学校教育とは無関係な価値を形成してい
るはづである。学校では問題解決の技法を学ぶが、図画というのは通常の科
目、たとえば、数学をまなぶというのと違う。どちらかというと、付属的な
ものである(これは偏見に基づいた物言いであることは断っておく)。売れる
絵を描けるというのは、もともと学校教育とは無関係な才能があるからだろ
う。ピカソの絵は変な絵であるが、ああいう奇妙な絵が自然と描けるという
のは天才のなせる技であろう。
『錯覚』を利用して見るものにだまし討ちをか
ける仕掛けを周到に用意しているのである。絵筆をもった臨床心理学者では
ないか。
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浪人の話にもどすと:ずっと昔のことであるが、田舎の知り合いの人の息
子さんが、東大医学部をねらって3回とも落ちたという話を聞いたとき茫然
としたものである。芸大に入るのに6年あるいは、それ以上を費やすという
のはもっと過酷な世界である。
もう一つの例:20年近く前のこと。京大理学部を3度おちて、わが物理
学科に入学した学生がやってきて、どうしても京大へ行きたいというのを説
得これ努めたことがある。早く大学に入って物理の基礎をきっちり勉強すれ
ば道はひらけると、トコトン説教したのだが、結局消えてしまった。いまご
ろなにをやっているのやら。こういう『倒錯』に取り憑かれたような学生が
かならずでてくるのが、いまの受験制度である。延々と接続していくと、合
格することが、自己目的化してしまう。司法試験を延々と受け続けるという
のも同じだ。合格したころには、普通の人が定年のころというのは、寂しさ
を通り越している。もっとほかの道があるからそこへ行けと言っても聞く耳
を持たないのは、自分の責任だと言いきれるのか。
翻って、この学生の同級生である X 君は、東大京大でなければという幻に
とりつかれないで、わが物理学科にすみやかに入学したのちに、大学院に進
学し博士を取得して、フランス、ドイツ、アメリカで研鑽をつづけて最近注
目すべき成果を上げた。これが、正準ルートである。
大学浪人という現象は、日本を含むアジアの国々だけであろう。予備校と
いうものがかならずある。医学部、芸大に特化したもののもあるらしい。皮
肉な言い方をすれば、予備校の教師の食い扶持を提供するために文部省と大
学が結託しているかのようである。日本の受験(教育)制度はどこか狂って
いると、自分が大学へ入学した頃(半世紀前)にすでに感じていたことであ
る。この「倒錯した世界」は、いまもって、寸分の違いもなく生きづいてい
るのをみるにつけ、日いずる国がいまだ『開国』されずと思いをいたすので
ある。
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