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教育学的思考の公準

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教育学的思考の公準
中井孝章 :教育学 的思考 の公準
- 167-
大阪市立大学生活科学部紀要 ・第4
8巻 (
2
0
0
0
)
教育学 的思考 の公準
中 井
孝
∴
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Norm o
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I
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TakaakiNakai
1.序論
まず最初 に,近代教育学 の 「遺産 -本質」 につ いて述
一般 に,教 育学 とは,心理学 や社会学 と比 べて研究領
べ ることに した い。
域 ・分野 と方法論 が不明確 な学 問で あ る と言 われ る。 し
0世紀 を代 表す る教育哲学者, E.
シュプ ラ ンガ
さて, 2
か も,教育学 に精通 して いな い人 たち,特 に ジャーナ リ
ーは,近代教育学 の遺産 を明確 に捉 え るため に, あ らか
ス トや評論家 の人 たちが,様 々な教育問題 ,最近 で は例
じめ教育学 的思 考 の モデルを構築 す る。 彼 は, こう した
えば 「不登校」,「い じめ」, 「学力低下」, 「学級崩壊」等
Gr
unds
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e
思 考 モ デ ル の こ とを 「教 育 の 根 本 様 式 」 (
々に関 して精 力的 に発言 を行 い, ときには提言 まで行 っ
,1
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5
5-1
9
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2
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] と呼
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hung) [
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ange
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て いる。 ただ,私見 によると,彼 らが教育 問題 に関 して
んだ。彼 によ ると, 「教育学 的思考 モ デ ル -教 育 の根 本
行 う発言 や提言 は,近代教育学 の遺産 を継 承 して いない
様式」 とは,教育 的事象 にお いて 「相互 に対極 的 に対立
が故 に, その大半が ま った く的外 れ の もので あ ると言 わ
根 本現象 )
」 を 「理 想 的類 型 」 と
す る 2つ の純粋事例 (
ざるを得 ない。 ただ,教育学 を専攻 す る研究者 や実践者
して捉 え, その 「理想 的類型」 か ら作 り出 され る 「教育
(
現場教 師) もまた, それ と同 じ理 由 で, 的 確 な現 状 分
i
bi
d.;
的行為 の根 本的諸可能性」を表現 した ものである [
析がで きて いない ことか ら, そ う した発言 や提言 に対 し
]。平 た く言 うと, 「
教 育 の根本様式 」 とは, 教 育 の
1
2
4
て十分 な反論 がで きないのが現状 であ る。
あ らゆ る場 面 にお いて必然 的 に登場 して くる二項対立,
このよ うに, 本来,教育学 (
正確 には,教育学的思考)
哲学 的 には二律背反 の こ とにはか な らな い。彼 は,二律
に基づ いて的確 に分析 ・検討 され るべ き教 育 問題 は,近
背反 と して の 「教育 の根 本様式」, 巨視 的 に は近 代 教 育
代教育学 の遺産 を無視す ることによ って解決 され るど こ
学 にお ける二律背反 と して,次 の 6つ (3つのペ ア) 杏
ろか,逆 に混乱 の度合 いを深 めて さえ い る と言 え る。従
挙 げて いる。 す なわ ちそ の 6つ とは, 「世 間 に近 接 す る
って本論文 で は,近代教育学 の本質 を再認 誠 す る ことを
現代 的 に言 い直 す と,
教育様式 と隔離 す る教育 様式 」(
通 じて,本来 あ るべ き,教育 につ いての思 考 や言説 (
言
「子 ど もを社会 の なか で育 て る教育 様 式 と社 会 か ら隔 離
請), す なわ ち教育言説 に固有 の文 法 を構築 して い くこ
す る教育様 式 」), 「自由な教育様式 と拘 束 され る教 育 様
とが 目的 とな る。正確 に言 うと,本論 文 の 目的 は主 に 2
式」,「先 を見越 す教 育様 式 と発達 に忠実 な教育様式」 で
つか ら成 る。 1つ は,近代教 育学 の遺産, す なわ ち教育
あ る。 ただ, 3つ の ペ アか ら成 る 「教育 の根本様式」 の
学的思考 の本 質 を,過去 の教育学書 の テ クス ト分析 を通
2ペ アが発達 と教 育,
うち,第 1のペ アが社会 と教育,第 r
じて解読 す る ことにあ る。 そ して, もう 1つ は, その こ
とい った個 別的 な文脈 の なかで捉 え られ た もので あ るの
とを踏 まえつつ も,現在 わが国で流通 して い る様 々な教
に対 して, 第 3のペ アは,教育 にお ける自由 と拘束 とい
育言説 (
教育 につ いての言葉 や信念) を具体 的 に分析す
う根本原理, す なわ ち教 育学 的思考 の本質的 な事象 を表
goode
noughな)教育言 説
ることによ って, ほどよい (
現 して い る と考 え られ る。言 い換 え ると,第 2タイプ,
-
す なわ ち 「教育 にお け る自由 と拘束」 とい う根本様式 か
教育 につ いての適切 な語 り方-
を見 っ け出 して い
ら,第 1の タイプ と第 3の タイプが派生 的 に導 出 され て
くことにあ る。
くると言 え る。 従 って こ こで は,「教 育 にお け る 自由 と
2.教育の根本様式
-
拘束」 とい った二 律背反 を中心 に して, シュプ ラ ンガー
教育 にお ける二律背反
の教育学 的思 考 を再構成 して い くことに したい。
(1)
-1
6
8-
人 間 福 祉 学 科
前述 したよ うに, シュプランガーは教育的事象, さら
独 自の もの となる (ここではそれを, 「教育 的 コ ミュニ
にはそれを研究対象 とす る教育学 に必然的 に登場す る二
ケー ション」 と呼ぶ ことにす る)
。繰 り返 す と, 両極 の
律背反 を 「
教育の根本様式」 と捉 えた。 その最 たるもの
葛藤か ら生 み出される教育関係及 び教育的 コ ミュニケー
が, 「自由な教 育様式 と拘束 され る教育 様式」 で あ る
ションは,他 のどのよ うな人間関係及 びコ ミュニケー シ
(
以下,「自由と拘束」 と簡略化 して表現 す る)。 これ に
ョンに も見出す ことので きない独 自の ものであ る。
関 して彼 は次のように述べている。 「相反 す る 2つ の命
さ らに, シュプ ランガーは,次のよ うに述べている。
題が生ず る。 (1)教育 は, 自己支配 に導 く自由の保証 と
「
現代の時点 では,近代的民主主義 に と って本 質 的 な も
いう要素 においてのみ可能である。 (
2)教 育 は, まず正
のである自由な個性 という思想 は, あたか もそれが最高
しい自由にまで成熟 させ る厳格の精神 においてのみ可能
度の 自由を目ざ してひ とりでに突進す るかのよ うに思 わ
」[
i
b
i
d.;1
4
0
]
, と。 さ らに, その論述 に関連
である。
れ るか もしれない。 しか し, 自由のための教育 は,やは
して,「ひとは拘束 され る教育 によ って こそ 自由 に到達
り,教育学的拘束をゆるめることと合致する必要 はない。
」
す ることがで きる, しか し,あま りに早 く保証 された自
[
i
b
i
d.;1
4
9
]
, と。 この論述 は,現在のわが国 の情況 に
由にあ っては,かえ って 自由を誤 ることもあ りうる。 と
もそのまま該 当す ると言え る。前述 したよ うに,本来,
いうのは, 自由 とはまさに,つね にまた, 自己拘束 を意
教育 における 「自由」 と 「
拘束」が,「自由三 拘 束」 と
」[
i
b
i
d.;1
5
0
] と述 べて い る。
味す るものだか らである。
示 され るような 「緊張 -葛藤」関係 と して しか存在 し得
この 2つの論述か ら分か るように, シュプ ランガーは,
ないに もかかわ らず, 「拘束」 のな い, 「完全 な 自由」
(- 「
最高度 の 自由」) の状態が存在 し得 るよ うに見え る
教育 における二律背反 と しての 「自由と拘束」 を微妙な
関係 と して規定 している。敷衛す ると,
・確かに,教育 は,
のは, 2つの概念 を誤解 した結果 に過 ぎない。 その意味
子 どもを 「自己支配 に導 く自由の保証」 によって可能で
で近代民主主義の本質 としての 「自由な個性 という思想」
あるが,親や教師が子 ど もに 「あま りに早 く保証 された
は,「
拘束」 をあ って ほな らない もの と して排 除 しな い
自由」 を与えて しまうと,その自由はかえ ってその子を
限 りにおいて,価値 あ る もの とな る。 言 い換 え る と,
「自己拘束」 して しまうことになる。 む しろ親や教師は,
「
拘束」 を排除す るということは,かえ って 「自由」 を,
子 どもが 自由に到達す ることがで きるよう に, 「厳 格 な
緊張 と葛藤のない,静態的な概念 として捉え ることにつ
精神 -拘束」が不可欠である。つ ま り,子 どもの教育 に
なが る (そ うした把捉 の仕方 とは,唯名論的な概念理解
おいて は 「自由 と拘束」 の均衡 (
バ ランス) こそ重要で
に過 ぎない)
。 また,彼 は,「自由な教育様式 と拘束 され
ある。 もっと言 えば,教育 は,「自由 と拘 束」 とい う 2
る教育様式の対立 に近似す るのは,個性 に関係す る教育
つの対立す る契機 (
要素)が不可欠なのである。言 い換
」[
i
b
i
d.;1
4
7
] と述 べて,
と画一的教育 との相違である。
えると,本来, そのどち らにも還元 ・解消 し得ない 2つ
「
教育 における個性 と画一性」 の問題が,「
教育 における
誤 った
の対立す る契機が,例えば,「
保証 された自由」(
自由 と拘束」 という二律背反 と同型的 に捉えることがで
誤 った拘束) へ と還元 ・解 消 さ
自由)が 「自己拘束」(
きるということを示唆 している。私見 によ ると, 「教育
れて しまうとき,子 どもの教育 は破綻す ることになると
における自由 と拘束」 とい う二律背反 こそ,教育学的思
考え られ る。
考の基本 なのであ って, それか ら 「
教育 における個性 と
シュプ ランガーによると,「
教育」 は, 互 いに還元 ・
の問題)をは じめ,前述 した 「世 間 に近接 す
画一性」(
解消の不可能 な 「自由」 と 「
拘束」 とい った 2つの相対
る教育様式 と隔離す る教育様式」や 「先 を見越す教育様
立す る契機か ら成 り立っが,真の 「
教育」 は, これ ら相
式 と発達 に忠実 な教育様式」等が派生 して くると思われ
対立す る 2つの契機が,「自由三拘束」 と示 され るよ う
る。
に,緊張状態に置かれた最中に生 み出されて くるのであ
以上, シュプ ランガーの論述 に沿 って,教育学的思考
る。「
教育」の本質 は,「自由三拘束」 の緊張 と葛藤, ち
の基本,すなわち教育 について考えることの基本 につ い
しくは両極 (
対極)の動的均衡のプ ロセスにこそあると
て見て きた。繰 り返す と,近代教育学の 「
遺産 -本質」
言える。 こうした両極の緊張 と葛藤 は, 「教育」 にのみ
とは, 「教育 の根本様 式 -二 律背反」 の典型 と して の
固有の特徴 にはかな らない。従 って,「自由三 拘束」 の
「自由」 と 「
拘束」 を, 「自由三 拘束」 のよ うに, 両極
緊張 と葛藤のプ ロセスは,「
親 一子 ども」 また は 「教 師
(
対極)的な緊張 と葛藤のプロセス と して捉 え る ことに
」をは じめ, あ らゆ る教育 関係 を生 み出
一児童 (
生徒)
ある。 しか も, こうした両極的な緊張 と葛藤 は,「
教育」
す契機 となり得 る。 そ して, その固有の教育関係か ら創
にのみ固有の事象であるが故 に,「
教育」 と呼 ばれ る,
出され るコ ミュニケーションもまた,教育 という領域 に
あ らゆる場面 に適用 されなければな らないと言 える。 と
(2)
中井孝幸 :教育学的思考の公準
-1
6
9-
りわけ,「自由こ拘束」 とい った両極 的 な緊張 と葛藤 の
る強制 に耐 え る習慣 をっ けてや るべ きであ り, また同時
プロセスは,「
親 一子 ども」 または 「
教 師一児童 (
生徒)
」
に,生徒 自身を指導 して, 自分 の自由を立派 に もちいる
といった教育関係を生み出す ことになる。
」[
Kant
,1
8
0
3-1
9
6
6;
よ うにさせ なければ な らな い。
1
3
0
], と。
言 い換え ると,母親 (
父親)が教 え るもの と してわが
子 に向かい合 うとき,同 じく教師が教 え る もの と して児
この論述 (自問 自答) に見 られ るよ うに, カ ン トは,
童 ・生徒 に向かい合 うとき, その教 育 的行 為 は必 ず,
未熟 な存在 である子 ど もを 自律す ることに向けて導 くこ
「自由三拘束」 といった両極的な緊張 と葛藤 の なかで遂
と,援助す ることは自律 その ものに反す ることになると
行 されなければな らないことになる。 ただ, このよ うに
い う真理 を見抜 き, そのパ ラ ドックスに苦悩 したのであ
制限 された形 での教育的行為 の遂行 は,困難 であると考
る。後述す るよ うに,近代教育学 の繁明期 に生 じた この
え られ る。 というの も,母親 (
父親)や教師が子 どもと
パ ラ ドックスは, カ ン トのみな らず,現代教育学 におい
向かい合 うとき,必然的に子 どもの有す る 2つの側面 に
て もいまだ解決 されていない問題 なので ある。 しか も,
対 して同時 に対処 しなければな らないか らである。 その
このパ ラ ドックスは,教育学者 の言説空間のなかだけの
2つの側面 とは,子 どもを, 1人の 「人格」 と して捉え,
問題 には留 ま らない。 む しろそれ は,実際 に子 どもと向
その子の有す る自発性, 自主性,個性 を尊重 し,任せ る
き合 う親や教師が教育行為 を遂行す る最 中に発生 して く
とい う側面 と, いまだ発達途上 にある存在, すなわち教
る問題であ る。繰 り返す と,親や教師は,様 々な教育的
え られ る存在 と して捉え, その子の未熟 さを指導す ると
場面で 2つの相反す る側面 を持っ子 ど もと向 き合 い, そ
いう側面であ る。つまり,子 どもとは,大人 とは異 なる
の都度何 らかの教育行為 を選択 しなければな らない。具
未熟 な存在であると同時 に, 1人の人格 と してその子 な
体的には,彼 らは, Ⅹとい う場面で子 ど もに任せ るか,
りの独 自の価値 を持っ存在なのである。 そ して, この 2
それ とも子 ど もを積極的 に指導す るか,すなわち 「
放任」
つの側面が,教育行為を指導 す る原理 と して同等の権利
か 「
指導」 のいずれかを瞬時 に選択す ることを迫 られ る
を持っ ようにな ったときに初 めて,近代教育学が誕生 し
のである。 この 2つの選択 とは,言 うまで もな く,前述
たと考え られ る。
した 「
教育 における自由 と拘束」 とい う二律背反 に対応
している。裏 を返す と,教育 における二律背反 はすべて,
3.啓蒙主義のパラ ドックス
大人か ら見 た,子 どもの両義性,すなわち 1人の人格で
あると同時 に未熟 な存在 に還元す ることがで きる。
さて,子 どもを 1人の人格 として独 自の価値 ある存在
ここか ら重要 な ことが帰結 して くる。啓蒙主義のパ ラ
であることを発見 したのは,啓蒙思想 の代表的哲学者,
ドックス, すなわち教育 における二律背反 (
自由と拘束)
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Kr
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Ⅰ
.
カ ン トで あ る。 カ ン トは 『純粋理性批 判 』 (
が,最終的 には 「
教師 一生徒」 といった現実の教育関係
")のなかで 「あえて知 れ !汝 自身
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neVe
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のパ ラ ドックスと して発現 す ることになるとすれば, ほ
の悟性 を使用す る勇気を もて !」[
Kant
,1
92
2-1
9
8
8;
どよい教育関係 を生 み出す ことを妨 げる原因 は,すべて
3
9
] と述べて,人間の自律性 を強調 した。 「自律性」 と
教育内部 の構造 の うちに求 め られ ることになる, とい う
は,他者 に依存す ることな く, 自分で判断 し行為す るこ
ことである。従来,理想 の教育や学校 を求 めて様 々な試
とを意味す る,近代個人主義 の中核的概念 にはかな らな
みがなされて きた。 その際採 られ る常 套手 段 とは, 「教
い。啓蒙主義が発見 した人間の 自律性が教育 の遂行場面
育」 それ 自体良 きもの,正 しい もの とい う前提の もとに,
に移植 され るとき,教育関係の矛盾が析出 されて くるの
「
教師 一生徒」 とい う,本来 のあるべ き教 育 関係 を撹乱
は必然的な事態であると考え られ る。事実, そ うした教
す る原因をすべて教育 の外部 に求 め,で きる限 り, それ
育関係の矛盾を,パ ラ ドックスと して最初 に定式化 した
を コン トロール しよ うとす ることである。 その典型 は,
の も, カ ン トであ った。 そのパ ラ ドックスは, 「啓蒙主
本来のあるべ き教育関係 を取 り戻すために,学校 を,千
義 のパ ラ ドックス」 と呼ぶ ことがで きよ う。 カ ン トは啓
どもか ら消費文化や娯楽施設等のない,山村 などの人里
蒙主義のパ ラ ドックスに関 して次のよ うに述べている。
離れたところに誘致 した り,葛藤や乱蝶の生 まれ ること
すなわち 「
教育 の最大の問題 の一つ は,法則的強制 に服
の少 ない少人数制 を採 った りす る場合であ る。 これ らは,
従す ることと, 自分の自由を使用す る能力 とを, どのよ
教育上良 くない もの,有害 な物 を子 どもか ら遠 ざけ,理
うに して結合で きるか とい うことである。 なぜ な ら,強
想の教育関係 を形成す ることを意図 している。 こうした
制 は必然的であ る !私 は, どのよ うに して,強制 におい
対処を採 らな くて も多かれ少 なかれ,従来,教育学 は,
て 自由を教化す るのか ?私 は自分の生徒 に自由にたいす
教育関係が うま くいかない原因を教育 の外部 の要因 に求
(3)
-1
7
0-
人 間 福 祉 学 科
ることを許す ことが求 め られ る。 このよ うに, ロックに
めて きた。 その前提 には,教育 とい う原理 その ものには
何 ら誤 りがないという確固 とした信念があ った と言 え る。
おいては,子 どもにお ける自由 と服従 とは対立 してお ら
しか しなが ら, その信念及 び解決法 は,根本的に誤 った
ず,量的な減少 と拡大 によ って解決可能 な 「
習慣形成」
ものに過 ぎない。 む しろ教育 関係 を阻害 す る要因 は,
の課題 に帰結 して しま う。 ロックは,子 どもを理性的存
「
教育内部の構造 」の内 にこそ存在す るの で あ る。 従 っ
在 と して捉え, 自律的 な存在 (1人 の人格) と して取 り
て,私 たちは, まずその真実 に気づ き, それを直視 す る
扱 うよ うに主張す る一方で,子 どもの未熟 さに も言及 し
ことが不可欠 なのである。 このよ うに,教育関係 といっ
ている。 しか しなが ら, ロックはいまだ,子 ど もにおけ
た 「
教育内部 の構造」 に ビル トイ ンされたパ ラ ドックス
るこうした両極性 (
未熟 さと自律性) にみ られ る矛盾 に
の ことを特 に 「
教育学 のパ ラ ドックス」 と呼ぶ ことに し
気づ くことはなか ったのであ る。従 って, ロ ックの教育
たい。従 って,教育 につ いて考え ること, すなわ ち教育
論 は,習慣形成 の原理 に基づ く優れた教育論であ って も,
学的思考 は,「
教育内部 の構造」 に内在 す る, 二 律背反
二律背反 を直視 した近代教育学, または教育学 的思考で
としての 「
教育学 のパ ラ ドックス」 その ものを回避す る
はないのであ る。正確 には, それ は,教育学的思考以前
ことがで きない と考え られ る。
の,教育 につ いての素朴 な思考 にはか な らない。 ただ,
こう した素朴 な思考 は,現在で も通俗的な育児書 や教育
4.教育学的思考以前 の教育論
書 に多 々見 られ る。
ところで,教育学的思考以前 にあるロックの教育論 と,
ところで,近代教育学 の本質 とも言 うべ き 「
教育学の
教育学的思考 に立っ カ ン トの教育学 とのあいだ にあ って,
パ ラ ドックス」 は,当然 の ことなが ら, カ ン トの啓蒙思
近代教育学史上 の転回点 とな ったのはJ.
J.
ル ソーの教 育
想が登場す る以前 には存在 しなか った と言 え る。 とい う
論である。 とりわけ, ルソーが子 どもの教育 につ いて論
の も,子 どもを, ただ未熟 な存在 [もしくは, 1人の人
述 した大著 『ェ ミール』(
"
Emi
l
eoudel
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on
格]で あると一面的に捉 え るだ けな らば,親や教 師の教
は,教育学 の原典 と して現在で も多 くの読者 を魅了 して
'
)
育行為 に何 ら葛藤 は生 まれないか らであ る。言 い換え る
いる。 また,『ェ ミール』 を模範 とす る, 教 育学 書 や教
と,子 どもが未熟 な存在 [1人 の人格], す なわ ち教 え
育書 も多々刊行 されている。 ここで は, その著作全体 の
られ る存在 [
任せ る存在]で しかない場合,彼 らに 「自
核心 とも言 うべ き箇所 を中心 に して, ルソーの教育論 を
由 と拘束」 といった 「教育 にお ける二律背反」 は生 まれ
分析す ることに したい。 なお,教育学 的思考 の本質を述
ない。 もっと言 えば,彼 らが子 ど もを教育す るにあたっ
べ るだけであれば,すでに述 べたカ ン トの教育論 を分析
て, 自由 と拘束 は何 ら矛盾 しないはずである。例えば,
す るだけで十分であ る。 ただ,後述す るよ うに, ルソー
その証左 は, J.
ロックの家庭教育論のなか に明確 な形 で
の教育論が教育学上重要 なの は, それをどのよ うに捉 え
見出す ことがで きる。すなわち,「子 ど も時代 が過 ぎて
るかが,教育学的思考の本質 をどれ ほど的確 に捉えて い
ち, 自分 の息子が 自分 に従 うことをお望 みで しょうか。
るかを調べ る尺度 とな り得 るか らであ る。 その意味で,
それ な ら,子 どもが服従で き,誰の権力 に自分 は屈 して
敢 えてル ソーの教育論 を検討 したい.
いるのかを理解で きるよ うにな るとす ぐ,かな らず父親
「
生徒が いっ も自分 は主人だ と思 っていなが ら, いっ
の権威 を確立 しなさい。 もし子 どもに自分 を畏敬 させよ
もあなたが主人であ るよ うにす るが いい。見か けはあ く
うと臨むな ら,子 どもの幼時 に刻みつ けなさい。 そ して
まで 自由に見え る隷属状態 ほど完全 な隷属状態 はない。
子 ど もが大人 に近づ くにつれて, もっと馴れ馴れ しくす
こうすれば意志 その ものさえ とりこにす ることがで きる。
ることを許 しなさい。 そ うす ると,彼が子 どもの間 は,
・
-・
・
仕事 も,遊 び も,楽 しみ も,すべてあなたの手 に握
彼を忠実 な臣下 に してお き (
適切 な こ とですが), 大人
られていなが ら,彼 はそれに気づか ないでいるのではな
にな ったときは親愛 な友人 にす ることにな りま しょう。」
いか。 もちろん,彼 は自分が望む こと しか しないだろ う。
[
Loc
k, 1
6
9
3-1
9
6
7;5
7
], と。
しか し, あなたが させたい と思 って いること しか臨 まな
この論述か ら分か るよ うに,父親が子 ど もを教育す る
いだろ う。 あなたが まえ もって考えていた ことのほか に
にあた って, 自由の原理 と服従 の権利 とは何 ら対立 して
」[
Ros
s
e
au,
は彼 は一歩 も踏み出す ことはないだ ろ う。
いない。父親 は,子 ど もが権威 の審級 につ いて 自覚す る
1
7
6
2-1
9
62;1
91
f
.
], と。
よ うになるとき,子 ど もを自 らの権威 に服従 させなけれ
周知 の通 り, ル ソーは, ロックの教育論,正確 には子
ばな らない。 しか し,父親 は,子 どもが大人 になるにつ
ど もに関す る捉え方 の批判者 として登場 した。 ルソーに
れて,権威への服従か ら解放 し,漸次,馴れ馴 れ しくす
よると,子 どもは理性的な存在者で はな くて, (
大人 か
(4)
中井孝章 :教育学的思考 の公準
-1
71-
ら見て) いまだ未熟 な存在であ るに過 ぎない。 そ して,
とは明らか に間違 って い ると言 え る。 なぜな らば, ルソ
子 どもが 自らの未熟 さを克服 して 自律 した存在 (
理性的
ーの教育論 は,純粋 な思考実験 の所産で あ り, その限 り
存在) となるためには,他人 に依存 して は な らず, 「い
においてそれ は近代教育言説空間 (
教育学的 テクス ト)
つ も自分 は主人だ と思 って」,すなわ ち 自分 自身 の力 で
とな り得て も,現実 の教育実践 とは大 きな隔た りがある
成 し遂 げ られなければな らない。 しか しなが ら,以上 の
か らであ る。平 た く言 うと, ル ソーの教育論 は,特定 の
論述 は, ルソーの教育論 の一面 に過 ぎない。彼 の論述 に
文化 ・歴史 にお ける最高 の教育言説空間 と して表現 され
もあるよ うに,重要 なのは,教 え る もの (
大人)が,千
たテクス トであ り, それ を解読す ることは, その当時の
どもの教育 につ いて主導権 を握 って いるに もかかわ らず,
教育学的思考 を知 る重要 な資料 (
集蔵体) とな り得て も,
その ことを子 どもに気づかれず に, む しろそれ どころか,
そのなか に現実 のあ るべ き教育方法 を読 み とることは間
子 どもが 自分 自身, いっ も自律的な存在 だ と思 い込 ませ
違 って いるのであ る。現実 の レベル とテ クス トの レベル
るつ く,教育的 に配慮すべ きであるとい うことであ る.
との混 同 は,極力避 け られ るべ きであ る。
しか も, こう した教育的配慮 は,仕事,遊 び,楽 しみ と
5.教育学的思考のルールの定立
いったすべての場面 に適用 されなければな らない。要す
るに,親や教 師に求 め られて いることは, 自分 の手 のひ
らの上 で子 ど もを自由にさせ るとい うことにはかな らな
こうして, ロック, ル ソー, カ ン トを経 て,近代教育
い。 もっと言 えば,親や教師 は,教 え る もの と して子 ど
学 とその教育言説空間 は,漸次進展 して きた。 シュプ ラ
もを全般的かつ慢性的 に 「
拘束」状態 に置 きなが らも,
ンガーの 「
教育 の根本様式」 は, このよ うに適時的 に記
その枠内で子 ど もを 「自由」 かつ 自発的 に行動 させ るの
述 された近代教育学 の流 れを, 1つの教育言説空間へ と
である。 だか らこそ, 彼 らは子 ど もに対 して積極 的 に
共時的な系列へ と移 し替 えた ものである。 さ らに, シュ
「
教育 -指導」 しな くて済 む ことになる。 こ う した 「教
プ ランガー と同 じ問題意識 を もって近代教育 の 「
遺産 -
育 -指導」が巧みに回避 され るとい うことで, ル ソーの
l
教育 は特 に 「消極教育」 と呼 ばれ る。 このよ うに,\
ルソ
挙 げることがで きる。 と りわ け, ノール は, 「教 育 にお
ーは,「
消極教育」 によ って,子 ど もが教 え る もの に対
ける二律背反 (
二項対立 )」 を弁証法 的 に統 合 した と こ
して依存す ることと,教 え る ものが子 ど もに対 してその
ろに, 「教 育 」 固有 の領 域 が存 在 す る ことを指 摘 した
本質」 を捉 えた もの と して, Th.リッ トや H.
ノール等 を
[
No
h
l
,1
9
3
5
]。 ただ し, こ こで言 う弁証 法 とは, ヘ ー
権威 に服従 させ ることを巧妙 に回避 したので あ る。
勿論, こう したル ソーの思考 は,空想的 に作 り出 され
ゲルの正 ・反 ・合 とい う 3段階か ら成 るそれで はな く,
た観念 の所産 である。 事実,『ェ ミール』 は, 教 育学 の
両極が緊張関係 を保持 して いる状態,す なわち 「自由こ
こ
書で はな くて,教育小説であ ると言 われ る。 ただ,後述
拘束」 とい った両極 (
対極)的な緊張 と葛藤 を指す。 そ
す るよ うに,「
管理主義教育」 と言 わ れ る, 現 在 の学校
の意味で, ノール とシュプ ラ ンガーの教育 に関す る捉 え
には, こうしたルソーの 「
消極教育」 を応用 した ものが
方 はほぼ同 じであ ると判断 で きよ う。 む しろそれ以後,
少な くない と思 われ る。 ただ, ここで確認 してお きたい
近代教育学 の遺 産 が適 切 な形 で継承 され る ことな く,
ことは, ル ソーの 「
消極教育」が純粋 な思考実験 と して
「
教育学 のパ ラ ドックス」 その ものを忘却 した, 低 次 元
生 み出 された ものであるに もかかわ らず,現在 の教育で
の教育論が横行
して いると思 われ る。誤解 を恐 れず に言
∫
もそれが現実化 され る可能性 が ま った く否定 され得 ない
えば,現在 の教育学 的思考 の大半 は,パ ラ ドックスその
とい うことである。
ものを安直 な形 で解消 して しま う,近代教育学以前 の思
考 に退行 して いるので はなか ろ うか。少 な くとも言 え る
だか らと言 って,通俗的な教育書 (
教育学研究書 も含
めて) に散見 され るよ うに,『ェ ミール』 の なか に, 教
ことは,現在 の教育問題 を真筆 に考え,改善 してい くた
育方法 の実行可能性や教育効果 とい った効用 を短絡的 に
めには,近代教育学 の本質 を見据 えた上 で出発 しなけれ
読み取 ってはな らない。複雑 な言 いまわ しになるが,教
ばな らない とい うことであ る。 その ことを忘却 し, いま
育学的思考以前 の教育藷 を展 開 して しま うことによ り結
だル ソーの教育論 を理想 の もの と して崇 め, それ に教育
果的 に, ル ソーの 「消極教育」 を無意識的,無 自覚的な
改革 の活路 を見 出 した り, あるいは近代教育学以前 の思
形で実践 して しまう学校や教 師が今で も存在 し得 るか も
考 を持 ち出 して教育問題が改善 された と勘違 い した りし
知れない-
ていることが現実的 にはあ ま りに も多す ぎるよ うに思 わ
その こと自体,仕方 ない, ただだか らと言
れ る。
って,現在 の学 校 や教 育 を改革 す るた め に, ル ソーの
それで は次 に, こうした近代教育学 の本質,特 に 「
教
「
消極教育」 を意識的, 自覚的 な形 で応 用 ・活 用 す る こ
(5)
-1
72-
人 間 福 祉 学 科
青学 のパ ラ ドックス」 を踏 まえた上で, さらに現代紡 ぎ
たとえ どれ ほど理想 に満 ちた教育論が展開 されよ う
出されている教育言説 (
特 に,学校 に関す る教育言説,
とも, それ は,教育学的思考以前 の レベルに退行 し
すなわ ち学校言説) に関 して詳細 に分析 ・検討 してい く
て しま うことにな る。
ことに したい。 ただ, あ らか じめ言 うと, 「教 育学 のパ
なお, その一例 を (
2)'
と して付 け加 え ることにす る。
ラ ドックス」 に関 してその解決法が見出 されたわ けで も
(
2)'
その典型 は,教育の二律 背反 の うち, 自由だ けを
ない, そればか りか実 は, そのパ ラ ドックスが さ らなる
優先す る 「児童中心主義」 に立っ新教育 の原理 と,
パ ラ ドックス (
後述す る 「ダブルバイ ン ド」現象) を生
反対 に規範 ・規律 だけを優先す る丁系統主義」 に立
み出す ことにな るが, その ことを含 めて,現代 の教育言
つ民主教育の原理 である。両者 は,一見,相反す る
原理 の葛藤のよ うに見 られて きたが,実 は,共通 の
説 に関 して論述 してい くことにす る。
この節 を終え るにあた って,以上述べて きた育学 のパ ラ ドックス」 を ビル トイ ンした-
「
教
思考の地平 に成立す る,「
教育の根 本様 式 (
二 律背
,近代教育
反)」 の 「内部」 における垂心 の置 き方 の差異 に過
学の 「
遺産 -本質」 を要約す ると,次の 3つ とな る。
ぎない (
両者 は,近代教育学 の二律背反が生 み出 し
∴
た二卵性双生児 にはかな らない)0
①教育学的思考 は 「教育 にお ける 自由 と拘束 」 とい
う二律背反 (
二項対立) に典型 され るよ うに,両極
の緊張 と葛藤のプ ロセス (
「自由三拘束」) において
6.自己言及的言説 と しての 「教 育学 のパ ラ ドッ
クス」 とその超克
捉 え られなければな らない。
② (
① と関連 して,)「自由三拘束」 と示 され る両極 の
-
悪循環 を断つパ ラ ドック ス的戦 略-
緊張 と葛藤のプロセスは,「
親 一子 ど も」や 「教 師
一生徒」 といった様 々な教育関係 を生 み出す契機 と
ところで, 1- 5で は近代教育学 の遺産,す なわち教
な る。従 って, こうして生 み出 され る教育関係 もま
育学思考の本質 を 「自由一拘束」 とい う教育 における二
た,必然的 にパ ラ ドックスを抱え込 まざるを得 な く
律背反,すなわち教育学 のパ ラ ドックスに見出 した。 し
な る。 このよ うに,教育学 的思考 は必然的 に,教育
か しなが ら, そ こで は,教育学的思考 の公準 を確定する
内部 の構造 に遡源す るパ ラ ドックスを抱え込 む。 そ
ことだけに留 ま り, いまだ教育学 のパ ラ ドックスその も
れは 「
教育学 のパ ラ ドックス」 と呼 ばれ る。
のを解決す る思考 の在 り方 を論述す るまでには至 らなか
③ 「
教育学 のパ ラ ドックス」 は,教え るもの (
親や教
った と言 え る。従 って ここで は,教育学 のパ ラ ドックス
師)か ら見て,子 ど もが,二重的存在,すなわち 1
とは何か とい うことを主題化す ることも含めて, そのパ
人 の人格であると同時 に,未熟 な存在であるとい う
ラ ドックスを解決 し得 る教育学的思考 の在 り方 につ いて
ことに基因 している。 こうした,子 どもの二重性 を
考えてい くことに した い。 そ の手 がか りと して, G.
ベ
発見 したのは, 啓 蒙主義 で あ る こ とか ら, それ は
イ トソンの コ ミュニケー シ ョン論 と,彼の理論 を進展 さ
「啓蒙主義 のパ ラ ドックス」 と呼ばれ る。
せた,パ ロ ・アル ト学派 のP
.
ワッラウ ィックの家族療法
さらに, こうした近代教育学 の本質を,教育 について
(コ ミュニケー ション論) に求 めることにす る (なお,
思考す る際 に最低限守 られ るべ きルール と して命題化 し
ここで分析対象 とす る現在の主要 な教育言説 について は,
て置 くことに したい。 とい うの も,教育学的思考 の本質
すで に [
中井, 1
9
9
7
]で詳 しく論述 しているので,参照
が守 られ るべ き思考 のルールと して明示化 され ることは,
されたい)0
今後,教育 につ いて語 られた様 々なテクス トを分析 ・検
6. 1 コ ミュニケーシ ョン論 か らみた教育関係の構造
討 して い く際 に有力な道具 とな り得 るか らである。
教育学的思考 のルール とは,次 の 2つの命題 と して定
-
その タイポ ロジー-
式化す ることがで きる。
(
1
)教育 について思考す る場合 には必ず, 「教育」 内部
さて, ご く一般的 に言 うと,「
教師 一生 徒」 とい う学
の構造 に遡源す る二律背反 (
両極 の緊張 と葛藤) 杏
校 の教育関係 は,対等で対称的な関係 で はな く, 「教 え
「
教育学 のパ ラ ドックス」 と して真撃 に受 け とめ,
るもの一教 え られ る もの」 または 「
指導す るもの一指導
捉 えていかなければな らない。
され るもの」,すなわち 「
権威 一従順」 とい う非対称 的
(
2)現実 の教育実践のなかで,万一, こうした教育の二
な関係であ ると言 え る。 とい うの も,万一,両者 の間 に
律背反 (
両極性 ・対極性) を切断す ることによって,
「
権威 一従順」関係が ないとすれば, 教 え る こ とや学 ぶ
「教育学のパ ラ ドックス」 を回避 しよ うとす れば,
こととい った行為 その ものが成 り立 たないはずだか らで
(6)
-1
7
3-
中井 孝章 :教育学 的思考 の公準
あ る。言 い換 え ると,教 師か らみて,生 徒 に教 え るとい
係 の構造 を分析 す ると, 2つ の レベルの メ ッセー ジの組
う行為,生徒 か らみて,教 師 か ら学 ぶ とい う行為 は, こ
み合 わせか ら, 表 1の よ うに, 4つ の タイプが析 出 され
う した暗黙 の 「
権威 一従順」 関係 を基底 に して成立 して
る (
例 えば, タイプ Aの場合, 内容 レベ ルの 「自由」 と
いると言 え る。
は,教 師 に よ って伝 え られ るメ ッセー ジの内容 が, 「放
ベ イ トソ ンや ワッ ラウ ィックの コ ミュニ ケ ー シ ョン論
の レベルに分 ける ことがで きる。 1つ は,教 師が生徒 た
タイプ
A
B
C
ちに伝達 す る メ ッセー ジ, す なわ ち教 育内容 (
教材内容)
D
の立場 か ら分 析 す ると, こう した一般 の授 業 過 程 (
「教
授 一学 習」過 程) にお ける教 育 関係 の構造 は, 次 の 2つ
であ る。 これ は,情報 レベルの コ ミュニケー シ ョンに相
内容 レベル
関係 レベル
自由
自由
自由
従順
従順
従順
従順
自由
表 1 コミュニケーションの二重性
当す る。 もう 1つ は, そ う した メ ッセ ー ジを枠 づ ける も
の と しての メ タ ・メ ッセー ジで あ る。 これ は,情報 に関
任」 的 な もので あ り,生徒 か らみて 「自由」 とな る こと
す る情報 レベ ルの コ ミュニケ ー シ ョンで あ る. それ はま
杏, また, 関係 レベルの 「自由」 とは, 「教 師 一生 徒 」
た,情報 を どの よ うな意 味合 いの もの と して受容 すべ き
とい うメ タ ・メ ッセ ー ジの関係 が,対等 ・平等 の もので
か を示 す情報 とい う意 味 で メ タ ・コ ミュニ ケ ー シ ョンで
あ り,生徒 か らみて 「自由」 とな る ことを,各 々意 味 す
あ ると言 うことがで きる。 つ ま り,教 育 的 コ ミュニケー
る)。後述 す るよ うに, コ ミュニケ ー シ ョン論 か らみ る
シ ョンは,教 師 か ら生徒へ と伝達 され る情 報 (
言 明) そ
と,教育学 のパ ラ ドックス は, タイプ Bに対応す る。
れ 自体 の意 味, す なわ ちメ ッセ ー ジの 内 容 (
c
o
nt
e
nt
)
次 に, 表 1に示 され た タイポ ロ ジーに沿 って,現実 の
レベル と, その情報 (
言 明) が他者 に伝達 され る際 に生
教育関係 の構造 につ いて考 えてみ ることにす る (なお,
じる意味, す なわ ち メ タ ・メ ッセ ー ジの関係 (
r
e
l
at
i
on-
前述 した学 校言説 の タイプを コ ミュニケー シ ョン論 の立
s
hi
p) レ ベ ル と の 同 時 的 生 起 に よ っ て 成 立 す る
場 か ら再検 討 した い)0-ただ し, よ り一 般 的 な タイ プ か
[
Wat
z
l
awi
c
ke
t
.
al
s
.
,1
9
6
7;51
5
4
/8
0
9
3
]. 情 弼 (
言
ら順次,言 及 して い きたい。
明) が他者 に向 けて発 せ られ る限 り, それ は両者 の関係
6. 2 一 般 の 「教授 一学 習」 にお ける教育関係 の構造
を規定 す る ことにな る。 た とえ,情報 (
言 明) が沈黙 の
よ うに, 内容 レベルで はゼ ロで あ って も, そ の情 報 は両
者 の関係 を規定 す る ことにな る。 内容 が ゼ ロの沈黙 の場
まず最初 に, タイプ D と して考 え られ る教育的 コ ミュ
合 の方 が,例 え ば,感動, あ るいは不満 ・反抗 等 の表明
ニケー シ ョンとは, ご く一 般 に営 まれて いる 「
教授 一学
とい うことで, かえ って雄弁 に語 る こと も少 な くない。
習」過程, す なわ ち授業過 程 に対応 す る。 「教授 一学 習」
重要 な ことは, 教育関係 だ けで な く, 人 間生 活 のすべて
過程 が ご く普通 に営 まれ る とき, す なわ ち教 師が生 徒 た
の側面 にお いて は, メ タ ・メ ッセー ジ (の関係 レベル)
ちに何 らか の メ ッセー ジ (
教育 内容, また は指導 内容)
の方 が, メ ッセ ー ジ (の内容 レベ ル) その もの よ りも,
を伝 えて い くとき, そ こに はメ ッセー ジを枠づ ける もの
力 を発揮 す るとい うことで あ る。 もっと言 え ば, 人間関
と して, 「
権 威 一従属」 関係 を伝 え る メ タ ・メ ッセ ー ジ
係 (
教育関係) か らす ると, メ タ ・メ ッセ ー ジの力 は絶
が暗黙裡 に伝達 され る (
伝 わ る, または伝わ って しまう)
大 で あ り, その力 に比 べ ると, メ ッセ ー ジは とるに足 ら
のであ る。 (よ り正 確 に言 うと,例 え ば, 教 材 と して使
ない とさえ言 うことがで きる。 「
言 葉 に よ る メ ッセ ー ジ
用 され る教科書 に記述 され た知識 は,教 師 の権威 とはま
よ りも, それ に対 す るコメ ン トと して位置 づ け られ る非
った く別 に,生徒 た ち に 「これ は正 しい知 識 だ」 とか
言語 的 な メ ッセ ー ジの方 に,人 はよ り大 きな信頼 を置 く
「これが真理 だ」 とい った メ タ ・メ ッセ ー ジを暗黙 裡 に
ので あ る。
」〔
Bat
e
s
on, 1
9
7
2-1
9
8
6;21
3
〕 た だ, 普 通
語 りか けて い ると言 え るが, ここで は言及 しない もの と
の教育実践 にお いて, この メ タ ・メ ッセ ー ジの関係 レベ
す る)。 ここで, 行為 (
教 え る行為) を言 明 の一 種 と し
ル (
関係 その もの) は,̀ 明示化 され る ことはな く, 暗黙
て論理 的 に捉 え ると,教 師が生徒 たちに 「質問 に答 え な
の ままに留 ま る。 それ故,生徒 た ちに と って関係 と して
さい」 とか 「この通 りに しな さい」 とい う個 々の命令 を
の メ タ ・メ ッセ ー ジは,黙示 の隠 れ た超越 的 メ ッセー ジ
下 す ことは, 「指示 に従 いな さい」 とい う一 般 の言 明 に
と して学校 にお け る隠 され た カ リキ ュ ラム とな るので あ
還元 して考 え る ことがで きる と言 え る。 そ して同 じく,
「権威 一従順」 関係 が与 え るメ タ ・メ ッセ ー ジ, 関 係 を
る。
この よ うに, コ ミュニ ケー シ ョン論 の立場 か ら教育関
言 明 に還元す る と, その 「教 師 一生徒」 関 係 は, 「私 の
(7)
-1
7
4-
人 間 福 祉 学 科
指導 に従 いなさい」 とい うことにな る (なお,他 の タイ
プにつ いて も,行為を言 明 に還元 しつつ,教育関係 の構
造 を コ ミュニケー ション論的 に分析す る ことに したい)
0
図 2 民主的教育における教育関係の構造(
タイプA)
ことにな る。 しか しなが ら, こうい うコ ミュニケー シ ョ
図 1 一般の 「
教授一学習」における教育関係の構造(
タイプD)
ンは,教師 と生徒が ま った く対称 的関係 とな ることが想
この よ うに,行為を言明 に還元す ることによ って,一
定 され るため,教 え るもの と教え られ る もの とい った役
般の 「
教授 一学習」(
教育的 コ ミュニ ケ ー シ ョン) にお
割存在 その ものが消滅す ることになる。つ ま りそれ は,
ける教育関係 の構造 は, よ り明確 にな って くる。以上 の
教育 その ものの否定 につなが る。 とい うよ りも, こう し
ことを表 した ものが,図 1であ る。
た 「
教師 一生徒」関係 その ものは,理念 の上 で のみ存在
ただ,図 1は, ごく一般的 に成立 して いると思 われ る
す るに過 ぎない。 ところが,現実的 には, 内容 レベル と
教育関係,及 びそれに基づ く 「コ ミュニケー ション-メ
関係 レベル とが齢酷 を きたす よ うなで きごと, す なわ ち
タ ・コ ミュニケー ション」 であ り,教育 的 コ ミュニケー
「
教 師 一生徒」関係 の非対称性 が露 呈 して しま うよ うな
シ ョン全般 にあてはまるもので あ る。 繰 り返 す と, 「教
で きごとが必ず生 じて しま う (この場合 の非対称性 とは,
え る」 とい う教師の行為 は,「
権威 -従 順」 とい った非
民主 的教育論が指摘 す るよ うに,教 師 と生徒 た ちの単 な
対称的 な教育関係 に支 え られ ることで成 り立っのである。
る話 し合 いによ って解消 されて しま う類いの ものでない)
0
繰 り返 す と, コ ミュニケー ション論的 に分析す ると, タ
例 えばその典型 は,校則問題 である。理念 の上 で対称 的
イプ Dの教育的 コ ミュニケー シ ョンは, 内容 レベル と関
関係 を前提 とす るタイプAで は,校則 による生徒 たちの
係 レベル との間 に何 ら矛盾のない,整合 的な教育関係の
自由の制限 は忽 ち,彼 らを抑圧す る もの と化 して しま う。
構造 となるのである。
それ は,生 徒 にとって単 なる悪 であ り,排除すべ き対象
6. 3 民主的教育 にお ける教育関係 の構造
言説 のよ うに, その教師 にとって も校則 によ って彼 らを
で しか ない。 しか も, (
C
)(
現場 の) 民 主 的教 師 の学 校
`
抑̀圧す る" ことは, 自 らの理念 に反 す ることにな るた
前述 した タイプ Dの教育的 コ ミュニケー シ ョンと対極
め, どのよ うに対処 すればよいかその手 だてを失 って し
的 に位置づ け られ るの は, タイプ Aのそれであ る。 とこ
ま うことにな る。 こう して,対等 ・平等 とい った民主 的
ろで, タイプ Aと考え られ る教育的 コ ミュニケー シ ョン
名 目の下 に,教育関係 のなかで生 じるはずのすべての葛
とは,前述 した, (
a)マ ス コ ミ的 な学 校 言 説 , (
b)進歩
藤が排除 されて しま うのであ る。葛藤 のない人間関係 が
的知識人 の学校言説, (
C
)民主 的教 師 の学 校言 説 , す な
存在 しないの と同 じよ うに, この民主 的 コ ミュニケー シ
わち民主的教育論 に立 っ教育的 コ ミュニケー シ ョン (
氏
ョンは,現実的 には存在 し得ず, ただ一部 の教師の信念
主的 コ ミュニケー ション) に対応す る。 タイプ Dの場合
(
観念) のなか に教育 の理想形態 と して存 在 す るだ けで
と同 じく,行為 を言明 に還元す ると, それ は,図 2のよ
あ る (ただ, わが国で は,実質的 に タイプAの教育的 コ
うに表す ことがで きる。
ミュニケー ションに立っ教師や教育学研究者 が少 な くな
図 2のよ うに, いわゆる民主 的教育論 の立場 か らの学
い と思 われ る)0
校言説 で は, 内容 レベルが 「あなたの 自由に していい」
ただ,急 いで付 け加 え ると [
中井,2
0
0
0;1
2
2
],超越
とい う放任主義 (自由主義), 関係 レベ ルが対等 ・平等
論 的審級 (
第三者 の審級) の 「抽象化 -内面化」 を行 っ
な対称的教育関係 とな り,両者 は一致す ることになる。
た精神発達 の段階 にあ る子 ど もたち (
生徒 たち)が,言
従 って,教育的 コ ミュニケー シ ョン (
正確 には,民主的
語 だ けに基 づ く,共 同での事柄 の理解 を行 い, そ うした
コ ミュニケー シ ョン) は,理想的 な形 で円滑 に営 まれ る
事柄 にお ける一致 を共通 の指 向対象 (ノエマ) と しなが
(8)
-1
75-
中井孝章 :教育学的思考の公準
ハ -バ マ
ら,普遍的な コ ミュニケーシ ョン,すなわちJ.
問題 にされていない (
正確 には,教育小説 として予定調
スの 「
理想的発話状況」 もしくはデ ィスクルスを希求 し
和的に解決 されて いる)。 しか し,「
消極教育」の現実化
て,他者 (
教師や他の生徒 たち) と相互的 に コ ミュニケ
としての 「ソフ トな管理主義教育」で は実 際 に, 「権 威
ー トしてい く場合 に限 り, タイプAの民主的 コ ミュニケ
-従順」 とい った非対称 的関係 を示す メ タ ・メ ッセー ジ
ー ションが成立す る可能性があると考え られ る。 ただ し,
が,平等 ・対等 な対称的関係 を示す メタ ・メ ッセー ジへ
普遍的 コ ミュニケーションは, [
同上 ;1
5
3
1
5
6
]で記述
とす り替え られ,擬装 され るとともに, そのメタ ・メ ッ
したよ うに,様 々な条件 を満 た した上で成立 し得 る "
理
セー ジが積極的 に伝 え られていると考え られ る。意図的
想的な'
'ものに過 ぎず,現実的にはその十全 の実現 は困
に作 り出された 「
消極教育」 とは,生徒 たちに自由を感
難であると言 え る。
じ取 らせ るメタ ・メ ッセー ジ,例えば自由な雰囲気,温
かな表情や まなざ しなどを与 え ることを意味す る。 ここ
6.4 消極教育 における教育関係の構造
で重要 な ことは,現実化 された 「
消極教育」 の場合, メ
タ ・メ ッセー ジの 「コン トロール-す り替え」 によ って,
次 に, タイプ Bとして考え られ る教育的 コ ミュニケー
生徒 たちか ら見て, メ ッセー ジの内容 とメタ ・メ ッセー
ションとは,教育学的思考の確立 の過渡期 に登場 したル
ジの関係が いずれ も, 自由を示す もの と して伝え られ る
ソーの 「
消極教育」か ら構想 され る教育的 コ ミュニケー
こととなるため,教育的 コ ミュニケー ションその ものは
ションに対応す る。前述 したよ うに, これ は教育 におけ
円滑 に遂行 され るとい うことである。
る二律背反 (
教育学 のパ ラ ドックス) を巧 みに回避す る
こうして,生徒 たちはその内面 まで ソフ トな形で徹底
ために思考上作 り出された仮構 の ものである。 タイプ B
的に管理 されてい くことになる。前述 したよ うに, こう
について も,行為 を言明に還元す ると, それ は,図 3の
した 「
管理主義教育」 を実現す ることは困難である反面,
よ うに表す ことがで きる。
その実現可能性 をま った く否定す ることはで きないと言
え る。
以上述べ たよ うに,「
消極教育」 を現実 化 した 「ソフ
トな管理主義教育」 は,実質的には, タイプ Bであると
は言えない。 とい うの も, それは, ル ソーの 「
消極教育」
のよ うに,生徒 たちか ら見 て内容 レベル と関係 レベル と
の間に何 ら矛盾がないか らである。従 ってそれ は,擬装
された タイプ Bであると言 え る。実質的 には, それ は,
タイプ Dに相当す る (
万一,「
消極教育」 が現実化 され
る場合, それは, タイプ Dの最悪 の形態 となるか も知れ
ない)0
6. 5 パ ラ ドックスと しての教育 的 コ ミュニケ ー シ ョ
図 3 消極教育における教育関係の構造(
タイプB/実質的にはタイプD)
ン-
「自発的であれ
!」の語用論的分析-
図 3に示 され るよ うに,関係 レベルが点線 で囲われて
前述 したよ うに,一般 の 「
教授 一学習」過程,すなわ
いるが, それは 「
権威-従順」 とい ったメタ ・メ ッセー
ジその ものが生徒 たちに伝わ らない (
悟 られない) よ う
ちタイプAの教育的 コ ミュニケー ションは, メ ッセー ジ
に,教師が コン トロールす ることを表 している。本来,
の内容 レベル とメタ ・メ ッセー ジの関係 レベルの両者が
生徒たちに 「あなたの自由に していいい,思 う通 りに し
一致 して, 「
指示 (
権威) に従 いなさい」 とい う言 明 に
ていい」 とい うメ ッセー ジを伝え るのであれば, それに
よ って特徴づ け られ る教育 関係 の構造を有 していた。事
呼応 してメタ ・メ ッセー ジは,平等 ・対等 な対称的関係
莱,教育的 日常 の大半 は, こうした教育的 コ ミュニケー
を示す もの となるはずである。従 って, この場合,教師
ションによ って営 まれ,「
権威 一服従」 とい った教 育 関
がメタ ・メ ッセージを意識的 にコン トロールす るとい う
係が再生産 されていると言 え る。
ことは, 自ず と,逆の関係 を示す メタ ・メ ッセー ジへ と
しか しなが ら, こうした教育的 日常 のなかで,教師 と
す り替え ることにな って しま う。 ただ, ル ソーの場合,
生徒 たちとの間で学習の指導 をめ ぐって ささいな葛藤が
思考実験 とい う性格か ら, メタ ・メ ッセー ジその ものは
生 じることが多 々ある (なお, こうした葛藤 は, ワッラ
(9)
-1
7
6-
人 間 福 祉 学 科
ウ ィ ック自身例示 して いるよ うに [
Wat
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c
ke
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.
al
s
.
,
徒 自身 に と って問題 が起 こ らないの は,皮 肉 な ことに も,
1
9
7
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9
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2;89
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k, 1
9
8
3-1
9
87;9
6
1
0
5
],
前者 の,反省 して い るふ り (
演技) を行 う場合 で あ る。
母親 と子 ど もとの間 で頻 繁 に起 こ り得 るが, こ こで は
それ に対 して,彼 らが後者 の, 「
心 か ら」 誠 実 に応 答 す
「教 師 一生徒」 関係 に置 き換 えて言及す る ことに したい)0
る場合,教 師 の言葉 を聞 き流 す こと, す なわ ちその命令
具体的 に言 うと, それ は普段見過 ごされ て しま う,次 の
を適 当 にや り過 ごす こ とが で きな い が故 に, 気 にす る
よ うな教育 の 1コマで あ る。 す なわ ちそれ は,教 師が宿
(
か ける) ことにな る。 それで は この場 合 , 生 徒 た ち は
題 (
勉 強) を きちん とや って こな い生徒 たちに向か って
一体何 を気 にせ ざ るを得 な くな るので あ ろ うか, この点
「きちん と宿題 を しな さい (
勉強 しな さい)
」 とい う代 わ
につ いて次 に考 え る ことに七 たい。
と ころで, 生徒 た ちに生 じるで あ ろ う心 の動揺 (
悩み)
りに, 例 えば 「ど う して人 か ら言 わ れ て で な い と宿 題
(
勉強) を きちん とで きないのか。そ ん な に嫌 々 や った
は,一見,正 当 な指示 とみな され る, 教 師の 「君 た ちが
って意 味が ないだ ろ う。 君 たち 自身 が進んで宿題 (
勉強)
進 ん で宿題 (
勉強) しな`
さい」- また は, そ の指示 を
しな き ゃ,駄 目だ ろ う。」等 とい った指 導 (注 意 ) を行
言 明 に置 き換 え た, 「自発的で あれ
う場面 で あ る。 こう したケース は,私 た ちの誰 もが学校
いる (なお, この テ ーゼ は言 うまで もな く,行 為 を言 明
時代 に一度 は体験 して い る (
他 の生徒 が指示 され るのを
と して論理 的 に捉 え直 した ものであ る)。 とい うの も,
み る こと も含 めて) と思 われ る。
「自発 的で あれ !」とい うこの テーゼ に は, 内 容 の是 非
!」-
k 基 因 して
この場合,教 師が生徒 たちに 「きちん と宿題 を しな さ
とは別 に, それが それ 自体 に 「
否定」 を含 む 自己矛盾 的
」 と命令 をす るだ け な らば, 何 ら問
い (
勉 強 しな さい)
な メ ッセ ー ジとな って いるか らで あ る。 その こ とは, 図
題 は生 じない。 教 師の この命令 は, タイプ Dの教育 的 コ
4の よ うに表 す とわか りやす い。
ミュニ ケー シ ョンを遂行 して い るだ けで あ る。 しか し,
図 4に示 され るよ うに, この テーゼ には生徒 か らみて
ここで,教 師 は 「宿題 (
勉強) しな さい」 とい う代 わ り
自律 を肯定 す るメ ッセー ジと, それを否定 す る, す なわ
に, 「君 た ちが進 んで宿題 (
勉強) しな さ い」 とい った
ち他律 を肯定 す るメ ッセー ジが同時 に両立不可 能 な もの
主 旨の言 明 を彼 らに与 えて い る。 つ ま りこの場合,教 師
と して内包 されて い る ことが わか る。 こう した 2つ の メ
は,生 徒 たちが ただ習慣 的 に宿題 (
勉 強) をす る ことだ
ッセ ー ジの矛盾 は,実質 的 に は, 自律 を肯定 す る内容 の
けで はな く, それを 「心 か ら」 進 んで行 うことを望 んで
メ ッセー ジと,他律 を肯定 す る関係 の メ タ ・メ ッセ ー ジ
いる。 「
心 か ら」進 んで行 うこと とは, 「自発 的 に」行 う
との あいだ のパ ラ ドックス と して置 き換 え る こ とがで き
ことを意 味す る。従 って,教 師 の この言 明 は, 「自発 的
であれ
!」また は 「自発 的 に !」を表現 して いるので あ
Wat
z
l
awi
c
ke
t
.
a1.
,1
9
7
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9
9
2;91
9
5
]。 そ して,
る [
この 「自発 的で あれ !」とい う教 師の要 求 は,教 師 (
大
人) が子 ど もを 1人 の人格 (
理性 的存在) と して捉 え,
図 4 自己言及のパラドックスとしての「
自発的にせよ」という近代教育のテーゼ
子 ど もの主体性 や個性 を尊重 して い くこ との表 われ には
か な らない。
る。 この場 合 の 「
教 師 一生徒」 関係 昼, 「権 威 一従 順 」
この よ うに,教 師 は学校 の宿題 (
勉 強) を生徒 たちに
関係 であ り, それが与 え るメ タ ・メ ッセー ジ, 関係 を言
行 わせ ることに即.
して,彼 らの 「心 -内面」 を重要 な問
明 に還元 す ると, 「私 の指導 に従 いな さ い」 と い う こ と
題 と して いる。 それで は,一方 の生徒 た ちは こう した教
にな る ことか ら, 1つ の コ ミュニケー シ ョンを構成 す る,
師 の要 求 に対 して どの よ うに対処 (
応答) し得 るのであ
メ ッセー ジの内容 とメ タ ・メ ッセー ジの関係 が相矛 盾す
ろ うか。 この場 合,彼 らの選択 肢 は,大 き く分 けて 2つ
る ことにな る。 こう した矛盾 は,一般 に 「自己言及 のパ
あ る (ここで は折衷 的 な タイプ は除外 す る)0 1つ 目は,
par
adoxofs
e
l
f
r
e
f
e
r
e
nc
e
) と言 われ る.
ラ ドックス」(
教 師の この言葉 を聞 き流 して, 見か けの上 で は反省 して
そ して, こ う した 自己言及 のパ ラ ドックスは, 人 間 (
坐
いるふ りをす ることで あ る。 2つ 目は, 教 師の この言葉
dobl
e
)「拘束 され た」 (
bound)
徒 た ち) を 「
二重 に」(
を誠実 に捉 えて文字通 り 「
心 か ら (- 自発 的 に)
」自ら
状 態 に追 い込 む とい う意 味 で, 「
ダ ブル ・バ イ ン ド」
の行為 を反省 す ることで あ る。 この場合 ,教 師の言語行
(
doubl
ebi
nd)[
Bat
e
s
on,1
9
7
2-1
9
9
0;2
8
9
f
f
.
] と呼 ば
為 に対 して,生徒 たち と して は, 「心 の な い」 ふ りをす
れ る。
るか, 「
心 か ら」誠実 に対処す るか の い ず れ か の選 択 が
ところで, ワッラウ ィックによ ると, ダブル ・バ イ ン
存在 す ることにな る。 こう した 2つ の選択肢 の うち,坐
ドが成立 す る条件 は,次 の 5つ に要約 す る ことがで きる
(
1
0
)
中井孝章 :教育学 的思考 の公準
-1
7
7-
[
wat
z
l
awi
c
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9
6
7-1
9
9
8;21
0
21
4
]
。
及的パ ラ ドックス と しての ダブルバ イ ン ドは,生徒 た ち
① 2人 あ るいはそれ以上 の人間 が, 1人,数 人 あ るいは
に次 の よ うな状況 を もた らす。 す なわち,生徒 たちが教
全員 に と って,身体 的かつ心 理 的, また はその どち ら
師の命令 す る通 りに, 自分 の力 で文字通 りに 「自発的 に
かの高度 な生 存価値 を と もな う強 い関係 にあ る。
行動 しよ う」 とす る と,結 局,教 師の・
命令 に服従 して し
ま うことにな り, 「自発 的 に行動 す る (
判 断す る)
」 こと
② その よ うな文脈 にお いて,非常 に精巧 に組 み立 て られ
に相反 して しま うことにな る。
て いて, (
a)何 か を主 張 し, (
b)そ れ 自身 の主 張 に関
つ ま り, 生徒 た ちが この価値理念 を受容 し, それを遂
C
)
二 つ の主 張 が 互 い に相 いれ な
して何 か を主 張 し, (
行す ること自体, 自己 自身 の 自発 的 な行動 それ 自体 を否
いよ うな メ ッセー ジが与 え られ る。
定 す ることにな って しま う。一方,生徒 たち が教 師の命
③ メ ッセ ー ジを受 け取 る者 は, メ ッセー ジにつ いて メタ ・
コ ミュニケー シ ョン (コメ ン ト) した り, 引 き下 が っ
令 に背 いて, 「自発 的 に行 動 (
判 断) した」場合, 当然,
た り してみて も, メ ッセー ジによ って作 られ る枠 の外
教 師か ら叱責 され た り,注 意 された りす ることとな り,
に飛 び出す こ とはで きない。 従 って, メ ッセ ー ジが論
結局, その行動 (
判 断) は報 われない こととな って しま
理 的 に意 味 を な さない もので あ って も,語 用論 的 には
う。従 って, こう した ダブル ・バ イ ン ド状況 で は,生徒
真実 なのだ。 それ に反応 しないわ けに はいか ない。
たちが いず れの行動 を選択 した と して も,不本意 な結果
④ ダブルバ イ ン ドが長期 にわ た り慢 性化 して くると, そ
を招来 して しま う。生 徒 に は 2つ の選択肢 が あ るとは言
れ は人 間関係 や世間一般 の性質 に関 して習慣 的, 自発
え, どち らを選 んで も悪 い結果 とな って しま うわ けで あ
的 にあ らわれ るよ うにな る。
る。 つ ま り, (
前述 した) 教 師の言 葉 を誠 実 に受 け とめ
よ うと した生徒 たちは, こ う した ダブル ・バ イ ン ドとい
⑤ ダブルバ イ ン ドによ って起 きるパ ラ ドックス的行動 が
今度 は ダブルバ イ ン ドす る性質 に変 わ って い き, 自己
う苗づ り状 態 に置 かれ る こ とにな って しま うのであ る。
永続 的 コ ミュニケー シ ョンのパ ター ンに至 る。
従 って,彼 らに生 じた心 の葛藤 (
悩 み) とは,現在 自分
の置 かれ た状況 を打 開す る方法が見 っか らない とい う心
さ らに整理 す ると,① と③ は,パ ラ ドックス的 コ ミュ
理 的 な苦 しみだ とい うこ とにな る。 もっと言 えば,彼 ら
ニケー シ ョンを交 わ し合 う人 た ちのあ いだの濃密 な関係
の陥 った, 教育関係 にお け るダブル ・バ イ ン ド状態 とは,
性 を,② と④ は, メ ッセー ジその もののパ ラ ドックス性
教 師が 日常 の教育 的 コ ミュニケー シ ョンのなかで しば し
とその 「習慣 化 -慢性化」 を,⑤ は, そ う した関係性 が
ば,生徒 た ちに 「心 -内面」 の誠実 な表 明 を求 め る こと
長期化 す る ことで生 じて しま う悪 循環 の プ ロセ スを,各
に対 して, 彼 らもまた 「心 か ら」誠実 に応答 しよ うとす
々表現 して い る。
ることか ら帰結 す るパ ラ ドックスにはか な らない。
こう した成立条件 を踏 まえ た上 で,教育 関 係 の構造 か
ここで重要 なの は,生徒 たちが (
前述 した)教 師の言
ら生 み出 され るダブルバ イ ン ド (
教育 にお け る ダブル ・
バ イ ン ド) は,図
葉 を誠実 に 「心 か ら」受 け とめよ うとす るとき, こ う し
5の よ うに示 す ことが で きる。
た ダブル ・バ イ ン ドとい う 「自発的服従」状態 に置かれ
ることにな って しま うとい うことで あ る。従 って,彼 ら
に生 じた心 の動揺 (
悩 み) とは,現在 自分 の置かれ た状
況 を打開す る方法 が見 っ か らない とい う心理的 な苦 しみ
だ とい うことにな る。 以 上 の ことか ら, 彼 らの陥 った,
教育関係 にお け るダブル ・バ イ ン ド状態 とは,教 師が 日
常 の教育的 コ ミュニケー シ ョンのなかで しば しば,生徒
たちに 「心 -内面」 の誠 実 な表 明 を求 め ることに対 して,
彼 らもまた 「心 か ら」誠 実 に応答 しよ うとす ることか ら
図 5 近代的教育言説に基づく教育関係の構造 (
タイプ B)
帰結 す るパ ラ ドックスに はか な らない。
ただ, こ う した教育 にお け るダブル ・バ イ ン ドは,前
図 5に示 され るよ うに,教 師 .
(
学校) が個 々の生徒 を
述 したよ うに,教 師 の内面 の正確 な伝 達 (「自発 的 で あ
自律 させ る とい う教育 目的 に基 づ いて忠実 に教育行為 を
れ !」
) を演技 によ って適 当 にや り過 ご した り (意 図 的
遂行 す る とき,必然 的 に内容 レベル と関係 レベル との間
に無視 す る行為 も含 めて), あ るい はそ の矛 盾 そ の もの
に矛盾が生 じる ことで,生 徒 た ちに ダブルバ イ ン ド状況
に気づか なか った り して,回避 され る ことが少 な くな い
を もた らす ことにな るので あ る。正 確 に言 うと, 自己言
(ただ し, ここで は, 「真 面 目」 だ とか 「凡帳面」 だ とい
(
l
l
)
-1
7
8-
人 間 福 祉 学 科
った属性 を持っ生徒たちだけが, このパ ラ ドックスに陥
面」の誠実 な 「
表明 一応答」 を行 う教育関係 において生
るということを言 いたいわけで はない。適当にや り過 ご
起す る,教育の ダブル ・バイ ン ド状態 である。正確 に言
しているよ うに見える生徒 もまた,多かれ少 なかれ, こ
うと, この,教育 におけるダブル ・バ イ ン ド状態 に陥 る
のパ ラ ドックスに直面 しているのである)
0
のは,教育関係 における "
弱者'
'と しての生徒たちには
しか しなが らそれで も,こうした教育におけるダブル ・
かな らない (ここでの `
弱̀者'
'とは,権力 によって 「差
バ イ ン ドの存在を指摘す ることが重要だ と思われ るのは,
別 された者」 とか 「
不利 な状態 に置かれた者」 という人
それが単 に,「
心 -内面」の誠実 な表 明 を行 う特 定 の教
権上の意味ではな く-
ま してや,長年 の母親 との歪ん
師や生徒たち, とりわ け (
生徒 たちに対 して)誠実な応
3)で もな く一
だ関係で精神分裂病 に陥 った青年 の場 合 (
答 を求 めて しまう教師によってだけ引 き起 こされ るので
I,単 に 「権限を持 たない者」 とい う程度の意味を指 し
はな くて,近代教育その ものが個 々の教師を して行わせ
ている)
0
て しま う類 いの ものだか らである。個々の教師は,その
それでは,近代教育が必然 的に帰結 させて しまう, こ
人 な りの教育信念を持 ち,それ に基づ いて教育実践を遂
うした教育 の ダブルバイ ン ドとい う悪循環を断っために
行 していることは言 うまで もない。 しか しその一方で,
は,教師及 び教育学研究者 はどのよ うにすればよいので
教師 もまた近代社会を生 きる (
生 きて しまう) ことを通
あろうか,次 に,生徒 たちが教師の 「
指導」 に従 いっつ,
じてその見えない枠組 み (
暗黙 のメカニズム) に呪縛 さ
同時 に 「自律」す るといった,教育関係 の成立可能性を
れていると言え る。近代社会が, 自律性 ・個性 を至上の
含めて考察 してい くことに したい。
価値理念 とみなす, いわば人格化 された特殊 な社会であ
7.教育 におけるダブル ・バイ ン ドの解法
るが故 に,近代社会を生 きる人 たちは,多かれ少 なかれ,
個
「
心か ら」「自発的に (自主的に)行動す ること」 や 「
あ らか じめ言 うと,教育 におけるダブル ・バ イ ン ドと
性的になること」を強 い られて しまうのである。 その原
ダグラスの言 うように [
Dougl
as
,1
9
7
0-1
9
8
3
因 は,M.
いう悪循環を断 ち切 る方途 は,大 きく分 けて 2通 り想定
.
],近代以降,家庭 や学校 にお いて個人 を外的 な
;7
9
f
され る。 1つ は, ベイ トソンの遊 び論 に基づ く方法であ
圧力を通 じて統制 し,秩序的状態を保持す るべ く,人格
り, もう 1つ は, ワッラウィックの家族療法論 (システ
的かっ精密な言語体系による方法 で子 ど もたちを育てよ
ム論) に基づ く方法である。心理療法 の立場か らは一般
うとす る傾向が,定着 したことにある (いわゆる,人格
に, ベイ トソ ンの精神 の生態学 を発展 ・応用 させた もの
的かつ精密 な言語 に基づ く教育 の確立 と普及)
。つ まり,
が ワッラウィック等 の家族療法であると捉え られている
理性的
子 どもたちは,家庭や学校 において 1人 の人格 (
が,私見 によると, ベイ トソ ンの方法 (
知見) のなかに
存在) として教育的なまなざ しや配慮の もとに置かれ,
はいまだ家族療法 には見 られない独 自の ものが あると思
自己自身で内省的に思考 し,理性的に行動す るべ く,敬
われ る。 その知見の代表が, ベイ トソ ンの遊 び論 にはか
育 (
指導) されてい く。要す るに,近代社会 とは,人間
な らない。次 に, それ に基づ きっっ,教育 におけるダブ
に 「
心か ら」の誠実な言動を求め る,内面性重視 の社会
ル ・バイ ン ドを超え る方法 につ いて述べ ることに したい。
なのである。従 って,近代社会 (そのサ ブ ・システムと
ただ, これ以外 に も,例えば男女 の恋愛 ゲームとして行
しての近代教育)が強いる, こうした `
`
みえない重圧'
'
c
oque
t
r
y)[
Si
mme
l
,1
91
1-1
9
われ る 「コケ ッ トリー」(
は,教育関係の構造を通 して自ず と生徒 たちの上 にの し
7
6;1
0
3
f
.
] という方法が考 え られ るが, ベ イ トソ ンや
9
9
8(
平成 1
0
)年 に出 された,
かか って くると思われる。 1
ワッラウィックのように,明確 な理論的枠組みを持 たな
中央教育審議会 「
幼児期か らの心 の教育 の在 り方 につい
いことか ら, その可能性 を示唆 しつつ も, ここでは保留
略 して 「
心の教育」答 申) に見 られ るように,
て」答 申 (
どの よ うにすれ ば」 とか
す る ことに した い。 なお, 「
カウンセ リング ・マイ ン ドが教師 に要請 され ることによ
「
克服す る」 といった思考形態 その ものが, 近 代主義 的
って,今後, この `
`
みえない重圧" は, より一層強まる
な思考の枠組 みに規定 されたものであるが故に, ダブル ・
ことが予想 され る。
バイ ン ドそれ 自体を強化 して しま うという危険性がある
9
8
7;2
0
ことには,十分留意すべ きであ る 〔
加藤尚武, 1
以上, ここに至 って,「
教育学 (-教育 学 的思考 ) の
パ ラ ドックス」-
カ ン トの 「
汝, 自律すべ し」 という
テーゼに象徴 され る-
9
〕
。
とは,教育 におけるダブルバイ
ンド (
図 4参照) として定式化 され ることが明 らかにな
った。つまり,「
教育学 のパ ラ ドックス」 とは,「
J
L、
-内
(
1
2
)
-1
7
9-
中井孝章 :教育学的思考の公準
7. 1 遊戯 と しての教育的 コミュニケー シ ョン
-
と提示 し,他 の生徒 たち (
他者) と共 に承認 し合 うよ う
G.
ベイ トソ ンの遊戯論-
な教育的 コ ミュニケー シ ョンも存在す る。 すなわちそれ
は,演技す ることを互 いに積極的 に肯定 し合 うよ うな類
.
ゴフマ ンの コ ミュニケー ション論 を敷衛す る
さて,E
いの教育的 コ ミュニケー シ ョンにはかな らない。 そ して
と [
Gof
f
ma
n, 1
9
5
9-1
9
7
4
],一般 の授業実践 (
教育 的
それが, ベイ トソ ンの言 う 「
遊 びとしての コ ミュニケー
コ ミュニケー シ ョン)の自然 な秩序 その もの は, それに
ション」なのであ る。
参加す る教師 と生徒たちの不 自然 な演技 によ って しか作
ところで, ベイ トソ ンが 「
遊 びと しての コ ミュニケー
り出せないとい うパ ラ ドキ シカルな事実が存在す ると言
ション」 の固有性 を見出す ことにな った きっか けは, フ
える。つ まり,一般の授業 に参加 している教 師 と生徒 た
ちが,各 々, 自 らの 「
心 -内面」 に素直な言動 に出て し
ライ シュi
i
岩
:
≡
さ
lッカー動物園でサルの生態を観察 したときの
体験である。「
子ザルが二 匹 じゃれて遊 ん で いた-
まうと,忽 ち授業その ものが成立 しな くな って しまうの
匹の間で交 わ され る個 々の行為や シグナルが,闘 いの中
である。 その ことは,最近,小学校 で児童 たちが 自らの
で交わされ るものに似て非 なる, そ うい う相互作用を行
思 い通 りに行動 す る (
例えば,勝手 に歩 き回 る) ことで
な っていた-
起 こる学級崩壊 を見れば一 目瞭然であ る。言 い換え ると,
て闘 いでないとい うことは,人間の観察者 に も確実 に知
教師はともか く,授業 に参加す る生徒 たちが 「自分 の し
れた し,当のサルにとってそれが 『闘 いな らざる』 なに
たいこと (
欲望) を抑えて,授業 に集中す る」 といった
かだ とい うことも, 人 間観 察者 に確実 に知 れ た。 この
のである。 この シークェ ンスが全体 と し
自我 (ェゴ) の コン トロール,裏 を返す と 「
心 に もない
『
遊 び』 とい う現象 は, あ る程度 の メ タ ・コ ミュニケー
行動 -演技」 を行わない限 り,授業 の 自然 な秩序が成立
ションを こなす ことがで きる動物 に限 って現われ る,つ
し得 ないのである。 ただ通常,授業 に参加す る生徒 たち
まり 『これ は遊 びだ』 とい うメ ッセー ジを交換で きない
は, こうした演技 を意図的,意識的 にでな く,む しろ無
動物 には起 こりえない,現象である。-- 『これは遊びだ』
意識の うちに遂行 して しまっていると言 え る。 しか も,
を展開すれば, こんなメ ッセー ジになるのだ。-
今や
こうした演技 は,隠匿的に遂行 されなければな らない。
っているこれ らの行為 は,それが代 わ りを して い る行 為
そ うした演技 は, 自らの役割存在 に忠実 に行動す る, ら
」〔
Bat
e
s
o
n,
が表わす ところの ものを表 わ しは しない。
っと言えば,役割 を忘れ るほど役割 にな り切 ることこそ,
1
9
7
2-2
0
0
0;2
61
〕
不可欠 なのである。 ベイ トソ ンが述べ るよ うに, 「われ
身近 な人間の事象 で言 うと,例えば, ままごと遊 びで
われ人間 は, 自分の身ぶ りや ち ょっと した しぐさを他人
は, それに参加す る幼児同士が 「これ は家事である」 と
にコ トバで翻訳 され ると,非常 に居心地 の悪 い思 いをす
同時 に 「これ は家事 でない」 とい う矛盾 を矛盾 と して肯
る。関係 のメ ッセージは, アナ ログ的に,無意識的に,
定す ることによ って,各 々,宛われた役割 を リアルに演
それ とな く伝 わ り合 うことをわれわれ は望む。関係を意
じつつ-
母親役,子 ど も役,お客 さん役等-
,言葉
図的に演技で きて しまう人間 に, われわれ は不信の眼を
のや りとりを楽 しむ。 それ と同 じく,私 たち人間 は, お
」〔
Bat
e
s
on, 1
9
7
2-1
9
8
7;5
3
5
] その
注 ぐわけで あ る。
互 いに行 う営為が,「これ は遊 びだ」 とい うメ タ ・メ ッ
意味で,授業 は一歩間違えれば,学級崩壊 を招来 し兼ね
Bat
e
s
o
n, 1
9
セー ジ,す なわち 「フ レーム (
枠組み)」 [
ない危 うい営 みであると言え る。
.
] を コンテ クス トへ の メ タ言 及 また は
7
2-2
0
0
0;2
7
2
f
このよ うに,一般 の授業実 践 は, 参加者 た ちによ る
メタ ・コ ミュニカテ ィプな能力を通 じて認識 した上で,
「
心 -内面」 とは帝離 した演技的なふ るまい によ って成
コンテクス トの生 み出す規則を, それが現実であるかの
り立っ ことがわか る。教師は教師 らしいふ り (
例えば,
ように順守 しつつ, その 「フ レーム」 のなかで行為 を遂
教え るものに相応 しい威厳のある態度 など) を演 じ,坐
行 してい く。 ここに, ベイ トソンの言 う 「
遊 びとしての
徒たちは生徒 らしいふ り (
例えば,教え られ るものに相
コ ミュニケー ション」 の本 質 が見 出 され る. 従 って,
応 しい真筆 な態度 など) を演 じつつ, それで いてそ うし
「フレーム」設定 によ って いっで もど こで も生 成 され る
た演技 を隠匿的に遂行 してい く-
「
遊 びとしての コ ミュニケー ション」 は, 普通, 遊 びだ
これが授業実践の自
然の秩序の成立条件 にはかな らない。
しか しなが ら, 自然 な秩序 を保っために不可欠であ り
とはみなされないすべての行為 (
仕事,学習等) におい
て も実現可能であ ることになる。
つつ も,隠匿的に遂行 しなければな らない演技 (
役割演
「
遊 びと しての コ ミュニケー ション」 の特徴 につ いて
技) に対 して,演技 とい うことで同 じく 「
心 -内面」か
付 け加 え ると, それ は,生徒 たちが 2つの矛盾 したメ ッ
ら帝離 したふ るまいであ りなが らも,隠す ことな く堂 々
セー ジに対 して 「
心か ら」誠実 に応答 しよ うとして, ダ
(
1
3
)
-1
8
0-
人 間 福 祉 学 科
ブル ・バイ ン ド状態 に陥 った こととまった く対照的であ
ン」 に匹敵す る)
。 このよ うに,教 育 的 コ ミュニ ケ ー シ
ると言 え る。両者 は,対極的な関係 にあ る。つ ま り,教
ョンにおいては,教師にとって (あるいは,生徒 たちに
師 と生徒 たちが,「
心 -内面」 の正確 な伝 達 (- 「心 の
とって も)意思 を伝達す ること以上 の 「
何か」 が生 じて
通 じ合 い」, も しく.
は 「
信頼」) を求 めて誠実 にコ ミュニ
いると考 え られ る。 ところが,教師 は, `
神̀秘 的'
'と も
ケー シ ョンを交 わす とき, その行為 に反比例 して,生徒
言え るこの 「
何か」 につ いて感知 して いて も, それを明
たちが ダブル ・バ イ ン ド状況 に陥 って しま う可能性があ
確 に語 ることがで きない。見方 を換え ると,教 師が生徒
るのに対 して,逆 に,彼 らが 「
心 -内面」か ら帝離 した
たち との間 に十全 な コ ミュニケー シ ョンを成立 させ るた
「ふ るまい-演技」 を行 いっう,互 いに演 技 す る ことを
めには,一旦, コ ミュニケー ションそれ 自体 を規定す る
肯定 し合 うコ ミュニケー ションを交 わす とき, その行為
この 「
何か」 を主題化す る必要がある。 そ して,教師が
に正比例 して,相互 に 「
心」 を通わせ合 う楽 しい コ ミュ
この 「
何か」 につ いて明確 に認識 し得 るか否かで は,教
ニケー シ ョンを味わ うことがで きるので ある。 こうした
育的 コ ミュニケー シ ョンの質,正確 にはその コ ミュニケ
事実 は,私 たち人間 に とってそ もそ も,心 その ものが伝
ー シ ョンが生徒 たちに及 ぼす結果が根本的に変 わ って く
達不可能であるとい うことを示 している。心 の伝達不可
ると考え られ る。
能性 こそ, コ ミュニケー ションの初期条件 にはかな らな
ところで,「
遊 びと しての コ ミュニ ケー シ ョン」 の実
い。 そ して, こうした心 の伝達不可能性 は,私 たち人間
現可能性 を教育的 コ ミュニケー シ ョンに即 して考えてい
に 「
悲劇」,す なわちダブル ・バ イ ン ド状 況 を もた らす
くとき, ポイ ン トとな るのは,「これ は遊 びだ」 とい う
条件 となるだけでな く, それ と同 じ程度 に,私 たち人間
「メタ ・メ ッセー ジ-フ レーム」 を設定 す るキ ー ・パ ー
に 「
喜劇」,す なわちコ ミュニケー シ ョンす る こ との喜
ソンの構えであ る。 ところで, ゴフマ ンはベイ トソンの
びや快楽 を味わわせて くれ る条件 ともな るのであ る。誤
フ レーム概念 をよ り一般化 して, それをあ る状況で 「い
解 を恐 れずに言 えば,人間関係 における私 たち人間の苦
ま, ここで起 こって いるのは何か」 とい うことを理解す
しみや楽 しさの大半 は, コ ミュニケー シ ョンの初期条件
るための枠組 み と して再 定義 した [
Gof
f
man, 1
9
7
4;
と してセ ッ トされた心 の伝達不可能性, もしくは真の意
1
0
f
.
]。 こう した 「
状況理解 の ための枠 組 み」 を指 す フ
味での コ ミュニケーシ ョンの不可能性 に求 め られ ると言
レームを,特 に≪ フ レーム≫ と表す ことにす る。 ゴフマ
え る。 そ して,「
遊 びと しての コ ミュニ ケ ー シ ョン」 が
ン的 な言 いまわ しをす ると,通常 の教育実践 (
特 に,揺
成立 した瞬時 に,私 たちはこうした コ ミュニケー ション
業実践)の≪ フ レーム≫ において,状況 の定義権 もしく
の不可能性 自体 を楽 しむ ことがで きるのであ る。
は主導権 を所有 しているキー ・パ ーソ ンとは,教師であ
それでは, こうした 「
遊 びと しての コ ミュニケー ショ
る (その理 由は,教師が教育主体 として教育実践 の主導
ン」 は,現実 の教育実践 (
教育的 コ ミュニケー シ ョン)
権を持っか らである)。見方 を換え ると,「いま-ここで」
においてはどのよ うに成立 し得 る (あるいは,すでに成
展開 されている教育実践の≪ フレーム≫ を変え ること一
立 して いる) のであろ うか,次 にその実現可能性 につい
一 それは,「
変形 (
t
r
ans
f
o
r
mat
i
on)
」[
Gof
f
man
,1
9
7
4;
て考察 していきたい。
41
] と呼ばれ る-
がで きるのは,状況 の定義権 を持っ
教師だけであ る。
7. 2 ≪ フ レーム≫変形 と しての (言葉遊 び) の
可能性-
ベイ トソン的戦略 (
1
)
-
それでは, どのよ うなときに,教師 は通常 の教育実践
の≪ フ レーム≫ を変形す るのであろ うか。 そ う した変形
の 1つの契機 となるの は,教 師がユーモアや酒落等,言
ところで, 日々,学校 で繰 り返 し営 まれ る教育的 コ ミ
葉遊 びを行 うときであ る。例 えば, 田近淘- は,本格的
ュニケー ションを通 じて,教師 は生徒 たちに自分 の思 い
に言葉遊 びの教育 を実践す る立場か ら,実利実用の教室
や願 いを伝えて いる。 ただ,教師がそ う した思 いや願 い
に言葉遊 び とい う無用 の時間を設定す ることで,子 ども
(
総 じて,意思) を彼 らに何 とか伝 え よ うと誠実 に努力
の心 を解放すべ きだ とい うことを唱えている [
田近淘一,
す るとき,かえ ってその意思が彼 らに十分伝わ らなか っ
1
9
8
4;9
]
。実際, こう した田近 の教育認識 に準拠 しつつ,
た り,受 け入れ られなか った りす ることが少 な くない。
ことば と教育 の会 は,言葉遊 びの時間 を設定 して様 々な
反面,教師がそ うした意思伝達 の努力を行 わず に,彼 ら
言葉遊 びを実践 している。 こうした実践 の試 み は,意図
と気楽 に言葉 を交わす とき意外 に も,彼 らと心が通 じ合
的に通常 の教育的 コ ミュニケー ションの≪ フ レーム≫ を
えたと思 え るよ うなコ ミュニケー ションが成立す ること
別の,「
遊 び と しての コ ミュニケー シ ョ ン」 の≪ フ レー
がある (これは 「
遊 びと しての教育的 コ ミュニケー ショ
ム≫ へ と変形 す ることを意味す る。 また, こう した≪ フ
(
1
4
)
中井孝章 :教育学的思考 の公準
-1
8
1-
レーム≫変形 を生徒 たち全員が理解 し得 るとい う意味で,
ば,最近 こんな ことがあ った (
三年生 の教 室)。 掃 除 の
(
k
e
y
i
n
g
)
」[
Go
f
f
時間だ とい うのに, ほ うきを振 り回 して遊んでいた らし
それは, ゴフマ ンの言 う丁転 調 操作
ma
n
,1
9
7
4;4
4
f
f
.
]に相当す る。
く,教室 に行 くとほとん ど進んでいない。 そ こで 『
掃除
これに対 して,小学校教師,向井吾人 は,次 のよ うに
の時間が始 まってか ら,何時間た ってんだ !』 と, どな
批判 している。すなわち 「時間設定 して, カ リキュラム
りつ けたのだが,続 けて思 わず,『一 時 間 もた って な い
としての ことば遊 びを愉 しむんだ とい う発想 で, 『子 ど
」[向井吾人, 1
9
8
9;4
4
0
]
けど・
・
-・
』 と言 って しま った。
もの心の解放』 なんかあ りうるのだろ うか。 あ りうるか
このエ ピソー ドにみ られ るよ うに,「これ は指導である」
どうかではない。 (ことば遊 び) の可能性 をそのよ うに
と同時 に 「これ は指導で はない」 (
言葉遊 び) は,教師
形式化 し, また 『
子 どもの心 の解放』 とい う過大 な意味
による指導 の 「
遊 び」化, すなわち≪ フ レーム≫変形 に
」[向井吉
付 けを して しまっていることが肺 に落 ちない。
よっていっで もどこで も成立 し得 ることがわか る。
人, 1
9
8
9;
4
3
3
], と。向井が明確 に指摘す るよ うに, (
しか し, こうした (
言葉遊 び) の コ ミュニケー ション
言葉遊 び)が言葉 「
遊 び」であることを止 め,生徒 たち
は,常 に, それに参加す る一部 の人 たち (
教師 と生徒 た
の 「
心の (
解放 -教育)」を 目的 とす るとき, それは彼
ち) によ って,通常 の コ ミュニケー ションと して 「
真面
らにとって 「義務 と しての遊 び」 に転 落 して しま う占
目に」受 け とられて しま う可能性がある。 それは,≪ フ
「時間設定 して, カ リキュラムと して の ことば遊 びを愉
レーム≫変形 を理解 し損 ね るとい う意 味 で, 「虚偽操 作
しむんだ」 とい うことを言 明 に置 き換 え る と, それ は
(
f
a
b
r
i
c
a
s
i
o
n
)
」[
Go
f
f
ma
n
,1
9
7
4;8
7
f
f
.
]と呼 ばれ る。
「よ く遊べ !」 となる。当然,「よ く遊べ !」 とい う言明
前述 した向井の事例 で言 えば, それは, ユーモアを言 う
は,最 も純粋 な形で自発性 ・自主性 に基づ く行為の代名
教師が, きちん と掃除をす る女生徒 たちによって 「真面
詞 と言え る 「遊 び」 その ものに反 して しま う。従 ってそ
目に」受 け取 られ,彼 らの響塵を買 う場合であ った り,
れは,実質的 には,「自発的であれ !」 と同義 なので あ
あるいは反対 に, (
掃除を さぼ っている) 生 徒 が, その
る。 このよ うにみ ると, (
言葉遊 び) は,本来,心の教
ユーモアに悪 ノ リして悪態 を突 き, その ことが教師によ
育 と関係づ け られた形で実践 され ることは不可能 なので
って 「
真面 目に」受 けと られ,叱責 され る場合であ った
ある。
りす る。
以上の ことか ら, (
言葉遊 び)が,教育的 コ ミュニケ
このよ うに, (
言葉遊 び) は,通常 の教育的 コ ミュニ
ー ションにお いて占める特殊 な立場が透視 されて くる。
ケー ションとは異 な る別の≪ フ レーム≫ として有効 に機
つ まり,向井 の言 う意味での (
言葉遊 び) とは,前述 し
能 し得 る反面,常 にその≪ フ レーム≫が一部 の人 たちに
た 「これは遊 びだ」 とい うメ タ ・メ ッセー ジ (
≪ フレー
理解 されなか った り,知 らぬ間 に変容 した り失調 した り
ム≫) に対応す ると考え られ る。従 って, (
言葉遊 び)
す ることで,通常 の コ ミュニケー ションとして 「
真面 目
とは,単 にアクロステ ィック, アナグラム ,連想遊 びと
」受 けとられ, トラブル を起 こす きっか
に (-心か ら)
いった個々の名称 を指 す ので も, それ らを一般 化 した
けとなる (それは,「これ は遊 びだ」 とい う≪ フ レーム
「
包括的 ・上位概念」 を指すので もな く, む しろ教育 的
≫ の中で じゃれていた子 ど も同士が ち ょっと したはずみ
コ ミュニケー ションの≪ プレーム≫ をま った く別の1
g
:
フ
で本当のけんかに転化 して しま うの と同 じ事態である)0
レーム≫へ と変形 させて しま うものにはかな らない。 (
しか し,「これ は遊 びだ」 とい う≪ フ レーム≫ に対 す る
言葉遊 び) とは,本質的には,通常 の教育的 コ ミュニケ
敏感 さ (
理解力) もまた,生徒 たちに求 め られ るべ き資
ー ションか ら 「
遊 びとしての コ ミュニケー シ ョン」へ と
質 (または,能力) の 1つだ と考え る とすれ ば, 「虚偽
≪ フ レーム≫ を変形す る行為 の総称 に はか な らな い。
操作」 を含 まない (
言葉遊 び) よ りも,必ず しも生徒 た
「
言葉遊 び-遊 びとしての コ ミュニケー シ ョン」 は, 心
ち全員が≪ フ レーム≫理解 で きるとは限 らない-
の伝達不可能性 を初期条件 と してセ ッ トしつ つ, 「心 の
え, トラブルを起 こす可能性があ って も-
解放」 といった教育 目的 とはまった く無縁 な ところ (-
いた く
言葉遊 び) の方が はるか に適 して いると考え られ
別の≪ フ レーム≫のなか)で矛盾を矛盾 と して楽 しみつ
る。
つ営 まれなければな らない。
たと
,機転 の き
ただ,以上 のよ うな コ ミュニケー ション認識を行 った
ところで,前 の言明か ら判断 して, (
言葉遊 び)が≪
後で も-
前述 した, コ ミュニケー シ ョンを規定 す る
フレーム≫変形行為だ と気づ いていたと思 われ る,向井
「
何か」 の本質 を解明 し,認識 した後で さえ も-
吉人 は,最終的 に到達 した教育認識を次 のよ うな, さり
の教育」 の "
みえない重圧" を通 じて,教師は依然 と し
げない (
言葉遊 び) の実践 と して表現 して い る。 「例 え
て,教育的 コ ミュニケー シ ョンその ものに生徒 たちとの
(
1
5)
,「
心
-1
8
2-
人 間 福 祉 学 科
心 の通 じ合 いを求 めて しま うことによ り, かえ って生徒
徒 たちを 「拘束 -管理」 す る とともに, 「関 係 」 レベ ル
と して は, 「権威 一従順」 とい った非 対 称 的 関 係 を彼 ら
ンを味 わ う機会 を失 って しま うのであ る。 ここに,教育
に強要 す ることにな る ことか ら,一般 の授業実践 のそれ
的 コ ミュニケー シ ョンの本当の難 しさが存在す ると考 え
とほぼ同 じにな るとみ な され る。
られ る。
しか しなが ら,注意 すべ きなの は, 次 の点 で あ る。 つ
ま り, プ ロ教 師 は,一般 の教 師 とは異 な り, 「内容 」 レ
7.3 パ ラ ドックスと してのプ ロ教師 の教育 的
ベルでの 「
私 の指導 に従 え」 とい う命令 を, 「関係 」 レ
コミュニケーション
-
ベルでの非対称 的関係 を根拠 に しつつ, その都 度 明確 に
ベイ トソ ン的戦 略 (
2
)
-
伝達 す るとい うことで あ る。 もっと言 えば, プ ロ教 師 は,
日常,暗黙裡 に示 されて い るに過 ぎな い 「関係」 レベル
以上 述べ たよ うに,教育的 コ ミュニケー シ ョン (
一般
杏, 「内容」 レベルで の 「
言葉 -命令 」 を通 して そ の都
に, コ ミュニケー シ ョン) の初期条件 と して,心 の伝達
度明示化す る ことによ って,生徒 たちに関係 その ものを
不可能性 に気づ いて いる教 師 と, それ に気づ いて いない
意識化 させて い くと言 え る。 つ ま りそ れ は, 指 導 内容
教 師 とで は,言葉遊 びの実践 ひ とっ を取 り上 げて も,教
(
私 の指導 に従 え) の 「
儀式化 -メ タ演 劇 化 」 に はか な
育実践 の質 に大 きな差が現 われ る ことにな る。繰 り返す
らな い。前述 したよ うに, プ ロ教 師 は,学校 で守 られ る
Ⅹ(-長 髪 の禁 止 ,
と, それ に気づ いて いない教 師が言葉遊 びの実践 を行 う
べ き規則 (
規範),正確 には個 別 の
場合, それ は,言葉遊 びの教育 を心 の解放.
とい う教育 目
遅刻 の禁止, キ ャラク ター ・グ ッズの持 ち込 み禁止等)
的 (あ りきた りの物語) に結 びっ けて しま うため,結局,
とい うルールが 「
拘束 -管理」 であ る ことをその都度生
楽 しくない コ ミュニケー シ ョンとな って しま う。 それ に
徒 たちに明確化 (
明示化) して い くとともに, 彼 らに学
対 して, それ に気づ いて いる教 師 は, 向井 のよ うに,心
校 で は管理 は どのよ うに行 われ るのか, そ して学校 で は
の交流 と言 うべ き楽 しい コ ミュニケー シ ョン (
遊 びとし
何故,管理 が必要 なのか につ いて十分考 え させ て い くわ
ての教育的 コ ミュニケー シ ョン) とな る。
けで あ る。
しか しなが ら, ここで取 り上 げたの は,教育実践 のな
「
私 の指導 に従 え」
かでの, ほんの短 いや りとりと して なされ るで きごとに
≪内容 ≫
l
l
過 ぎな い。 これ に対 して, これか ら述べ る, あ る立場 に
教師
立 って遂行 され る,教育 的 コ ミュニケ一 ㌢ ヨンの事例 は,
徒
学校 で な され る教育実践全般 を射程 と して い る。 つ ま り
それ は,前述 した, この,遊 び と しての教育的 コ ミュニ
学習指導,生徒
明示化
すで に遂行 して いる,正確 には
≪関係 ≫
ケー シ ョンを学校教育全般 において指導 の如何 を問 わず-
J
l
遂行 して いると推測 され る。 それ は言 うまで もな く, [
「
権威 -従 順 」
9
97]で取 り上 げたプ ロ教 師で あ る。 (
d)プ ロ教
中井, 1
非対称 的 関係
師の学校言説 につ いて は,「自由 一拘 束 」 の思 考 モ デル
9
97]ですで に分析 したが, ここで
に基づ き, [中井, 1
図 6 プロ教師における教育関係の構造
はさ らに, それ を コ ミュニケー シ ョン論 とい う別 の角度
こ う して, プ ロ教 師 の教育 的 コ ミュニケー シ ョンにお
か らあ らためて,分析 ・検討 して い くことに した い。
ける教育関係 の構造 は,図 6のよ うに,一般 の授業 を示
さて, プ ロ教 師の教育 的 コ ミュニケー シ ョンにつ いて
一言 で特徴づ けるとすれ ば, それ は,「
教 育 -管理教育」
す図 1とは異 な る もの と して示す ことがで きる。 なお,
とい った 自覚 された 「管理教育」 の立場 だ と言 うことが
図中の太線 の囲 い部分 は,教 師か ら生 徒へ と伝 え られ る
で きる。従 って, その教育的 コ ミュニケ ー シ ョンは, タ
「関係 -メ タ ・メ ッセ ー ジ」 を表 して い る。
イプ Dに対応す るよ うに見 え る。 つ ま り, プ ロ教 師の教
育的 コ ミュニケー シ ョンは-
その 自覚 の度合 いにおい
図 6に示す ことで よ り明確 にな るよ うに, プ ロ教 師の
教育 的 コ ミュニケー シ ョンの特異性 は, 自然 な秩序 か ら
,コミ
成 り立 っ一般 の授業 (タイプ D)で は,無意識 的かつ隠
ュニケー シ ョン論的 には,「内容」 レベル と して は,「
私
匿的 に遂行 され る役割演技 によ って明示化 され ない関係
の指導 に従 え」 とい うことで,規則 (
規範) によ って生
レベル (メタ ・メ ッセー ジ) が, ま った く逆 に明示化 さ
て一般 の授業実践 のそれ とは異 な るとはいえ-
(
1
6
)
中井孝章 :教育学 的思考 の公準
-
183 -
れていることである (
正確 には,過剰 な形 で明示化 され
た らす困難 (
栓桔) か らの解放 の方法 とな って いること
ているとさえ言 え る)。 つ ま り, プ ロ教 師 の教 育 的 コ ミ
が分か る。 授業 に参加 す る生徒 たちは,矛盾 を矛盾 と し
ュニケー シ ョンで は,授業 に参加 す る教 師 と生徒 たちに
て肯定す ることによ って, ダブル ・バ イ ン ド状況 か ら抜
よ って, その各 々の演技が演技 と して堂 々 と提示 され,
け出 し, コ ミュニケー シ ョンその ものを楽 しむ ことがで
遂行 され ることで,関係 レベル (メ タ ・メ ッセー ジ)が
きるよ うにな る。言 い換 え ると, こう した, 「遊 び と し
明示化 されて いるのであ る。正確 には,前 にプ ロ教 師の
ての教育的 コ ミュニケー シ ョン」 は,前述 した タイプ B
授業実践 の一例 を用 いて言 えば,教 師 (プ ロ教 師)が生
の教育的 コ ミュニケー シ ョンのよ うに,生徒 たちが 2つ
徒 たちに対 して 「
学校 は自分 の家 とは違 う。 お前 たちは
の矛盾 した メ ッセー ジに対 して 「心か ら」誠実 に応答 し
制服 とい う衣装 を着 て生徒 とい う役 を演 じ,俺 は この ス
よ うと して, ダブル ・バ イ ン ド状態 に陥 った ことと対照
ーツとネクタイとい う制服 を着 て,教 師 とい う役割 を演
的であ る。 両者 は,対極 的 な関係 にあ る。前述 したよ う
じる。つ ま り,学校 とい うところは, それぞれが与 え ら
に,教 師 と生徒 たちが, 「心 -内面」 の正 確 な伝 達 (-
れた役割 を きちん と演ずる演劇の舞台のようなところだ。
」
「
心 の通 じ合 い」
) を求 めて誠実 に コ ミュニケー シ ョンを
と述べて いるよ うに,関係 (
教育関係) その ものを (
彼
交 わす とき, その行為 に反比例 して,生徒 たちが ダブル ・
らに)意識化 させ るメ ッセー ジ (
内容) を伝 え ることに
バ イ ン ド状 況 に陥 って しま う可能性 が あ るのに対 して,
よ って,彼 らに (
普通,隠匿的 なままに留 まる)関係 そ
逆 に,彼 らが 「心 -内面」 か ら帝離 した 「ふ るまい-演
の ものを明示化 (デ ジタル化) して いる。
技」 を行 いっつ,互 いに演技す ることを肯定 し合 うコ ミ
端的 に言 うと,関係 レベルの メタ ・メ ッセー ジの 「明
ュニケー シ ョンを交 わす とき, その行為 に正比例 して,
示化 -デ ジタル化 -言語化」, さ らに は 「儀 式 化 - メ タ
相互 に 「心」 を通 わせ合 う楽 しい コ ミュニケー シ ョンを
演技化」 こそ, プ ロ教 師の教 育的 コ ミュニ ケー シ ョンの
経験す ることがで きるのであ る。 こう した事実 は,私 た
最大 の特徴 にはか な らない。 重要 な ことは, こう した メ
ち人間 に とって そ もそ も 「心」 その ものが伝達不可能 で
タ ・メ ッセー ジの明示化 とは,前述 した, ベ イ トソ ンの
あ るとい うことを示 して いる。心 の伝達 不可能性 こそ,
「これ は遊 びだ」 とい う遊 びの枠組 み (フ レー ム) に対
教育的 コ ミュニケー シ ョンの条件 にはか な らない。 そ し
応す るとい うことであ る。
て,「遊 び と しての教育的 コ ミュニケ ー シ ョン」 が成 立
した瞬時 に,私 たちは こ う した教育的 コ ミュニケー シ ョ
こうして, 関係 その ものを 「明示化 -デ ジタル化」 す
ンの不可能性 自体 を楽 しむ ことがで きるのであ る。
る, プ ロ教師 の教育的 コ ミュニケー シ ョンは,遊 び と し
ての教育的 コ ミュニケー シ ョンへ と反転 す ることにな る。
以上, プ ロ教 師の教育 的 コ ミュニケー シ ョンにお ける
教育関係 の構造 をベイ トソ ンの 「
遊 び- コ ミュニケー シ
それ に して も, 自覚 された管理教育 を行 うプ ロ教師が何
故,遊 び と しての教育的 コ ミュニケー シ ョンとな り得 る
ョン」論か ら分析 して きたが, ここで以上述 べ た ことを
のであろ うか。 その理 由 は次 の通 りで あ る。 つ ま り,
要約 したい。
前述 した よ うに,普通 の授業 で は自然 な秩序 を保っ た
「これ は遊 びだ」 とい うメタ ・メ ッセ ー ジを伝 え る人 間
めに-
(
動物 も含 めて) と同様,教 師が生徒 た ち に 「これ は管
要 は,平常通 りの円滑 な教育的 コ ミュニケー シ
理 だ」 とい うメタ ・メ ッセー ジを伝 え ることは,教 師が
ョンを遂行 す るために-
彼 らを管理 しなが ら,同時 に 「管理 は演技 にす ぎない」
たちが無意 識 の うち に 自分 に宛 わ れ た 「心 な い」 演 技
, それ に参加 す る教 師 と生徒
とい う, それ を否定す るメ ッセー ジを同時 に伝達 してい
(
役割演技) を行 うことが不可欠 であ った。 と ころが,
ることにな るか らであ る, と。 もっと言 えば, こう した,
教師 も生徒 たち も, こう した 「心 ない」 演技 で は満足で
遊 び と しての教育的 コ ミュニケー シ ョンで は,教師の伝
きず に,教育的 コ ミュニケー シ ョンのなか にお互 いの心
達す る矛盾 したメ ッセー ジ, す なわ ち 「これ は管理 だが,
の通 じ合 いやそれ に伴 う喜 びや安心感 を求 めて しま うこ
管理で はない」 の中身が追究 され ることな く,矛盾 した
とにな る。 とりわ け,教 師が近代教育 の理 念 (
「自発 的
まま,楽 しい嘘 と して生徒 た ちに受 け とめ られ る。 だか
になれ !」
) に従 って,生徒 たちに対 して 「心 -内面 」
らこそ, フ レーム と しての遊 びは,演技 を しなが ら, し
の誠実 な表 明 (
「自 ら勉強 したい と思 って して欲 しい」
)
か もそれを演技 と してあ らか さまに伝達 しな ければな ら
を求 めて,彼 らを心理 的 に追 い詰 めて しま うことにな る。
ない。
教師の こう した 「心 か ら」 の誠実 な表明 に対 して,生徒
このよ うに見 ると,「これ は管理 だが, 管 理 で な い」
たちが 「
心 か ら」誠実 に応答す るとき,彼 らは ダブル ・
とい った, プ ロ教 師 による 「遊 び と しての教育 的 コ ミュ
バ イ ン ド状 況 に陥 って しま う。 こう した結果 はすべて,
ニケー シ ョン」 は,前述 した ダブル ・バ イ ン ド状況が も
心 の通 じ合 い, も しくは内面 の正確 な表明を コ ミュニケ
(17)
ー1
8
4-
人 間 福 祉 学 科
- シ ョンに求 めて しま うことにあ る。心 の伝達不可能性
独 自の捉 え方 にあ る。 例えば,不眠 とい う症状 に悩 む ク
は,すべて'
の コ ミュニケー シ ョン (
教育的 コ ミュニケー
ライア ン トが いた とす る。普通 の心理療 法 で は, こう し
シ ョンも含 めて) の初期条件 にはか な らな い。 その意味
たケースの場合,不眠 の原因 を クライア ン トの なか に見
で,最 初か ら心 の通 じ合 いを求 めず,学校 を (
意識的な)
つ け出 して,彼 (
彼女) に提示 し,彼 (
彼女) 自身 に洞
演技 の場所 に喰 え るプ ロ教 師 は, ダブル ・バ イ ン ド状態
察 させ る, とい った治療 を行 う (クライ ア ン トが 自分 自
の困難 か らの解放 の方法 とな り得 て いる。一見,心 の通
身 の病因 を洞察す ることが, その人 の 自立 を促 す ことで,
じ合 いを求 めない冷 めた教育認識 に立 っ プ ロ教 師 は,か
治癒 につ なが るとみな されて い る)0
え って生徒 たちに コ ミュニケー シ ョンを行 うことの楽 し
これ に対 して, ワッ ラウ ィックは, 同 じその クライア
みや快 楽 を もた らす可能性 があ る と思 われ る。 ただ し,
ン トに対 して, ま った く異 な る治療 を行 う。 つ ま り彼 は,
こう したプ ロ教 師の教育認識 の在 り方 は, あ くまで ベイ
彼 (
彼女) に対 して, 「眠 って はな らな い」 と い う症 状
トソ ンの 「遊 び -コ ミュニケー シ ョン」論 を手 がか りに
通 りの指示 を与 え るのであ る。 家族療法家 に とって 「正
して分析 した結果 なので あ って, プ ロ教 師 自体 が こうし
しい問題解決法」 は存在 し得 な い。 む しろ家族療法家 は,
た理論 的枠組 み に準 じて教育実践 を行 って い ることを意
クライア ン トに向か って症状 を よ り悪化 させ るよ うな指
味 しない (そ もそ も, あ る理論 に沿 って忠 実 に実践 す る
示 だ けを行 う。 ま った く逆説 的 に も,家族療法家 は, ク
こと自体,不可能 であ る)。 ただ少 な くと も言 え る こと
ライア ン トを もっと過酷 な状況 に追 い込 む ことによ って
は, プ ロ教 師の教育的 コ ミュニケー シ ョンは,前述 した
かえ って彼 (
彼女) 自身 の 自己治癒力 を引 き出す ことに
「自由」 と 「
拘束」 に関す る思考 モ デ ル に お け る優 位性
専念 す るので あ る。一般的 に言 うと, 「危 機 が あ る と こ
のみな らず,教育学 のパ ラ ドックスを超克 す る上 で も避
ろには救 い も生 まれ る」 とい うヘル ダー リンの詩 にあ る
けて は通 れない方法 (
教育学的思 考法) を ビル トイ ンし
」 に はか な ら
よ うに,「
危機」 は 「好転 の契機 (-転機 )
て いる とい うことであ る。
ない。
私見 による と, 「
危機 」を 「転機」 とみなす捉 え方 は,
それで は次 に,教育学 のパ ラ ドックスを超克す る もう
1つの方法 であ る, ワッ ラウィックの家族療法的 アプ ロ
単 な る格言 に留 ま らず,家族療法で は明確 に理論化 され
ーチにつ いて言及 して い くことに したい。
て い ると思 われ る。家族療法 で はその捉 え方 は, 「ポ ジ
7.4
す る.教育 の文脈 で言 うと,教育的 コ ミュニケー シ ョン
pos
i
t
i
vef
e
e
dbac
k)」に対 応
テ ィブ ・フ ィー ドバ ック (
パ ラ ドックス的 コ ミュニケー シ ョン
-
家族療法的戦略-
は, 日々営 まれ ることで同 じパ ター ンが繰 り返 され, そ
れが固着 して しまいやす い。勿論, それが教 師 と生徒 た
ところで,家族療法 とは何か と言 うと,従来 の心理療
ちに とってプ ラスに作用す る こと も少 な くないが,一方
法が様 々な症状 (
病理) を示す クライア ン ト個人 に対 し
で明 らか にマイ ナ ス に作 用 す る こ とが あ る。 家 族 療 法
て心理 的治療 を行 って きたのに対 して, む しろそれ は,
(システム論) で は, こうした教育 的 コ ミュニ ケ ー シ ョ
個人 の症状 を維持す る病理的 な システムその もの,例え
ンのパ ター ン化 によ って生 じる教育 関係 の歪 み (
病理)
ば歪ん だ家族関係 や家族 同士 の コ ミュニ ケー シ ョンにそ
ne
gat
i
vef
e
e
dbac
k)」
を 「ネガテ ィブ ・フ ィー ドバ ック(
の原因 を見っ け出 し,治療 を行 って い くものであ る。従
と捉 え, その変 え られ ないパ ター ン (ワ ン/
.
ヾター ン) か
って,家族療法 は, システム論的 な方法 を とることにな
ら解放す るとと もに, その システムに多様性 と変化 を も
る。 と りわ け, ベイ トソ ンの コ ミュニケー シ ョン論 を発
た らすために,教 師 は 「ポ ジテ ィブ ・フィー ドバ ック」
M
展的 に継承 した ワッラウ ィック (
パ ロ ・アル ト学派 [
を利用す ることが求 め られ る。要す るに,「ネガテ ィブ ・
RI
学派]の代表 的存在) は,言葉 によ る短 期療法 (
br
i
e
f
フ ィー ドバ ック」 の反復 によ って ワ ンパ ター ン化 して し
t
he
r
apy) に基 づ く独 自の家族療法 の理論 を構 築 す る と
ま う,教育的 コ ミュニ ケ ー シ ョン及 び教 育 関 係 の症 状
と もに, それを実践 して いる。 ただ, ここで は ワッラウ
(
病理) を治療 す るために,教 師 はその症 状 (病 理 ) 杏
ィックの家族 システム論 その ものを検討 す ることが 目的
よ り一層悪化 させ る ことによ って-
で はな いため,教育学 のパ ラ ドックスを超克す る方法 に
ることによ って-
関す る観点 に限定 して彼 の理論 を記述す ることに留 めた
とが求 め られ るの で あ る。 そ の と き利 用 され るのが,
い。
「ポ ジテ ィブ ・フ ィー ドバ ック」 にはか な らな い。 この
カオスを増幅 させ
, ま った く新 たな秩序 を作 り出す こ
あ りて いに言 うと,教育学 のパ ラ ドックスを超克す る
「ポ ジテ ィブ ・フ ィー ドバ ック」 によ って教 師 は, ワ ン
ための方法 は, 「
症状処方」 に関す る ワ ッ ラ ウ ィ ックの
パ ター ン化 され た教育的 コ ミュニケー シ ョンに多義性 と
(
1
8
)
中井孝章 :教育学的思考の公準
ー1
8
5-
新展開を もた らす ことがで きる。 その ことはまた, チ ャ
タイプ Bのよ うに,教師が生徒 たちに 「自発的 にな りな
ンネルを切 り替 え ることだ と言 え る。
さい」 とか 「自 ら勉強 したいと思 って欲 しい」 と言 うよ
うに,心理的 なプ レッシャーをか けず に, む しろ 「あな
以上, ワッラウィックの家族療法的思考法 (
不眠症 の
クライア ン トに対す る治療 の事例) に基づ くと,教育学
たの 自由 に して いい,思 う通 りに して いい」とい った関
のパ ラ ドックスは次のよ うに超克す ることがで きる。つ
係 レベルでの メタ ・メ ッセー ジ (自由な雰囲気) を与 え
ま りその超克 の方法 とは,教育的 コ ミュニケー シ ョンに
ておいた上 で, あ らか さまに 「
勉強なんか しな くていい」
おいて,教師 は生徒 たちに対 して 「勉強 なんか しな くて
とい う言語的 メ ッセー ジを与 え ることによ って望 ま しい
いい (-私の指示 に従え)
」 とい うメ ッセ ー ジ (内容 )
教育効果 を 目論 む ものだ と言 え る。 このよ うにすれば,
を伝達 (
命令)す る一方で, それ と同時 に,彼 らに 「あ
生徒 たちは勉強す るための努力の一環 と して,安心 して
なたの 自由に していい,思 う通 りに しなさい」 とい うメ
症状行動,す なわち勉強 を さぼ るとい う行為 (
怠学) 杏
タ ・メ ッセー ジ (
関係) を無意識 の うちに伝えてい く,
起 こす ことがで きる。前述 したよ うに,治療者が不眠症
とい うものである。従 って, この教育的 コ ミュニケー シ
患者 に対 して 「眠 らな くて いい」 とい う指示 (
命令) 杏
ョンは, タイプ Cとなる。 それ は,図 7の よ うに示す こ
出すの と同 じく, (
何 も しない ことも含 めて,
)彼 (
彼女)
とがで きる。
が失敗 を恐 れ ず に安 心 して試 行錯誤 す る ことが で き る
(た とえ失敗 して も, 自己責任 を とらな くて い い) わ け
であ る。 た とえ,生徒 たちが宿題 (
勉強) をさぼ って し
まった と して も,教 師か ら叱 られた り,注意 された り し
ないために,失敗 を恐 れず に安心 して宿題 (
勉強) に対
処す ることがで きる。 ただ, ワッラウィックが 「
午前 7
時 に起床で きないた め に, 遅 刻 を して しま う女性」 や
「門限破 りを して しま う女性」等 の事 例 を通 して指摘 し
ているよ うに, いっ も宿題 (
勉強) を して こない生徒 に
対 しては,教 師 はその子 な りにで きるノルマを適宜与 え
ることが必要 であ る。 ワッラウィックは 「
遅刻 を して し
ま う女性」 に対 して,「
午前 7時 に起 き られ なか った な
1
時 までベ ッ ドにいなければな らない」 とい った指
らば 1
図 7 ダブルパインドを超える,パラドックス的な教育関係の構造(
タイプC)
示 (ノルマ) を与 え ることで,彼女 の問題行動 (
遅刻)
図 7に示 され るよ うに, この場合 もまた,生徒 たちに
を治療 したが, それ と同 じく, いっ も宿題 を して こない
ダブル ・バ イ ン ド状態を強要 す ることにな る タイプ Bと
生徒 に対 して も,例 えば宿題 をす るまで マ ンガを見 ない
同様, メ ッセー ジとメタ ・メ ッセー ジ,す なわち内容 レ
など, その生徒がで きるよ うな ノルマを助言 してや るこ
ベル と関係 レベル とが矛盾す ることになる。両者 の違 い
とは必要で あ る (ただ し, こうしたノルマの設定 は,個
は, 2つの レベルの情報が逆転 しているとい うことであ
々の生徒 に応 じて個別的 になされなければな らないであ
る。 その意味 で,教育学 のパ ラ ドックスを超克 し得 るタ
ろ う)
0
イプ Cの教育的 コ ミュニケー ションは,一般 の教育的 コ
ところで,普通,教 師や親 は,生徒 (
子 ど も) に向か
ミュ子ケ- シ ョンと比べて, ラデ ィカルな ものであるこ
って, タイプ Dのよ うに 「勉強 しなさい (-私 の指示 に
とが想定 され る。 ワッラウィックの家族療法 が少 ない時
」 と命令 した り, あ るい は タイプ Bの よ う
従 いなさい)
間資源 を用 いて行 う短期療法であ ることか ら,問題集中
に 「自 ら勉 強 したい と思 って しなさい (-自発的 にな り
型の荒治療であ ることが想定 され るの とま った く同 じく,
」 とダブル ・バ イ ン ド (-自発 的服 従) の状 態
なさい)
タイプ Cのよ うな教育的 コ ミュニケー ションもまた,常
に追 い込む よ うな命令 を下 して しま う。 ところが, この
識的な問題解決 とは異 な ったパ ラ ドックス的 な もの とな
タイプ Cで は, それ らとま った く反対 の命令を彼 らに行
ると言 え る。仮 に, タイプ Cをパ ラ ドックス的 コ ミュニ
うのであ る。 このよ うに矛盾 に満 ちた,パ ラ ドックスと
ケー ションと呼ぶ ことにす る。
しての 「命令 -コ ミュニケー シ ョン」が可能であ るのは,
以上 の ことを踏 まえつつ, タイプ Cの教育的 コ ミュニ
教師 と生徒 たちのあいだに信頼関係が確立 されているた
ケー ションの内実 につ いて言及す ると,次 の よ うになる。
めである。言 い換 え ると,信頼 こそ, 「勉 強 なんか しな
すなわち, この タイプの教育的 コ ミュニケー ションは,
くていい」 とい うパ ラ ドキ シカルな言明の源泉 にはかな
(
1
9)
-1
8
6-
人 間 福 祉 学 科
(
特定 の生徒) との関係 (システム) そ の もの の歪 み で
らない。
従 って,学校 において こうした教育的 コ ミュニケー シ
あることが少 な くない。 この場合,治療対象 とな る教育
ョンを遂行 し得 るのは,教師 と生徒 たちのあいだですで
関係 システムの 1構成要素 とな る教 師の存在 こそ,治療
に信頼関係が期待 で きる場合だけであ ることになる (
見
の突破 口 とな るのであ る。
方 を換 え ると, こうした方法 は, すでに信頼関係が期待
で きる親子関係 において よ り一層効果 を発揮す ると思 わ
以上 のよ うに,近代教育 の成立 によ って必然的 に生 み
れ る)。正確 に言 うと, この場合最低, 必 要 なの は, 生
出 され た,教育学 のパ ラ ドックスは, コ ミュニケー シ ョ
徒 たちに対す る教師の信頼である。具体的 には, その信
ン論 の立場 か ら,教育 にお けるダブル ・バ イ ン ドと して
頼 とは,教師の醸成す る自由な雰囲気,生徒 たちに対す
再定式化 され た。 そして,教育学 のパ ラ ドックスを超克
る温か いまなざ し,彼 らを見守 る寛大 な.
態度等 々 と して
す る 2つの方法 (
戦略) と してベイ トソ ン的 な戦略 と家
発現す ることになろ う。 もっと言 えば, タイプ Cの教育
族療法的な戦 略が提示 された。両者 は同 じコ ミュニケー
的 コ ミュニケー ションにおける教 師 とは,知識 を教授 し
ション論 に立 ちなが らも,前者 のベイ トソ ンの 「遊 び と
た り,行動 を指示 ・指導 した りす る,単 な る教育実践者
しての コ ミュニケー シ ョン」 の方法 が,心 の伝達不可能
(
教師 とい う役割存在) だ けで はな く, 教 育 関係 そ の も
性 を初期条件 と してセ ッ トし,演技 を肯定 し合 うことに
のを 1つの シス テ ム と捉 えて, そ の シス テ ムの問 題点
よ り,「
J
L、
-内面」の誠実 な 「表明 一応答」(
心 の通 じ合
(
「症状 -病理」) を改善 してい く家族 療 法 家 (
心理療法
い) を生徒 た ちに求 めて しま うために強 いて しま うダブ
家)で なければな らない と言え る。 ここで家族療法家 と
ル ・パ イ ン ドを超克 し得 るのに対 して,後者 の ワッラウ
は, システムの外部 に立 って病理 の原因を客観的 に分析
ィックの家族療法的な方法 は,教 師 自 ら, 「観 察 -行 為
し, その解決法 を見出す 「
透明人間」[
長谷正人,1
9
91;
者」 と しての治療者 に立っ ことによ り, ダブル ・バ イ ン
43f
f
.
] ではな くて, システ ムの 内部 (
要 素 の 1つ) に
ド状態 とはま った く反対 の,「パ ラ ドックス的 コ ミュニ
わが身 を置 いて, システムと関わ る (
内的 に関与 す る)
ケー シ ョン」 を行 うことによ って ダブル ・バ イ ン ドを超
なかか ら,治療行為 (システムの改善) まで行 お うとす
克 し得 る。 この 2つを比較す ると,前者 の方法 の方が後
る 「
観察者 -行為者」 にはかな らない。近年,生命科学
者 の方法 よ りも, よ り一般的で実践 Lやす い ものだ と言
者, F.
ヴテレラのオー トポイエー シス理論 の立場 か ら,
え る。 しか も,前者 は, その具体的 な在 り方 をプ ロ教師
「観察者 -行為者」 に基づ く認識方 法 の重 要性 が指 摘 さ
の教育認識 のなか に兄 い出せ ることか らも, よ り具体的
れてい るが, ワッラウィックの家族療法論 (ベイ トソン
であ ると共 に,現実味があ ると考 え られ る。 いずれにせ
の コ ミュニケー シ ョン論 も含 めて) もまた,・この認識方
よ, こうした コ ミュニケー シ ョン論 の立場 か ら,従来 の
法 (
パ ラダイム) に立 っている。 従 って, タイプ Cのよ
教育学 のパ ラ ドックスが捉 え直 され ることによ って,例
うな, パ ラ ドックス的な教育的 コ ミュニ ケー シ ョンを連
えば教師の指 示や指導 に従 いらっ, 同時 に生徒 たちが 自
行す る教師 は, 自ず と,「
観察者 -行為 者 」 に基 づ く認
律す るとい った新 たな教育関係 の可能性 が開示 されたの
識方法 を選択す る治療家 (
家族療法家) とな らざるを得
であ る。
ないのである。現場の教 師 は,直接,生徒 たちと向 き合
い, コ ミュニケー トして いるに もかかわ らず-
註
また,
釈
, 内省す ることで その相互 的な関
(
1
) ダブル ・バ イ ン ドが病理 的 な問題 と して発現 して く
わ りか ら内部 の場所 (-反省的 に再構成 された特権的な
るケース と して,母親 と幼児 の関係 あ るいは精神病 を も
≪内面≫)へ と一歩退却 し, その場所か ら 「
透明人間」
つ患者 とその家族 の関係が挙 げ られ る。次 に示す ものは,
と して個 々の生徒 たちを対象化 し,生徒一般 と して類型
ベイ トソ ン自身が ダブル ・バ イ ン ドの典型例 とみなす も
化 して しま う傾 向があ る (
「
透明人間」 の立場 に基 づ く
ので ある。
そ うで あ るが故 に-
「強度 の分裂病発作事件か らかな り回復 した若者 の と
対象認識 と類型化)。 この とき,教 師 は教 育 関係 システ
ムとは帝離 した 「透明人間」 に過 ぎない。 しか し,家族
ころへ,母親 が見舞 いに来 た.喜んた若者 は思 わず彼女
療法家 の立場か ら見て,教師に求 め られ る治療対象 は,
の肩 を抱 いたが,す ると彼女 は身体 を こわば らせた。彼
自 らを含み込 んだ 「
教 師 一生徒」関係 システムその もの
が手 を引 っ込 め ると,彼女 は 『もう私 の ことが好 き じゃ
となる。教師 は,治療対象のなかに治療主体 と しての自
ないの ?』 と尋ね,息子が顔 を赤 らめ るのを見 て 『そん
らの存在 を含 む とい うことを忘れて はな らないのである。
なにまごっ いち ゃいけないわ。 自分 の気持 ちを恐 れ る こ
教育的 コ ミュニ ケー シ ョンの病 理 は, 教 師 と生 徒 た ち
となんかな いのよ』 と語 って きかせたのであ る。患者 は
(
2
0)
-1
8
7-
中井孝章 :教育学的思考の公準
その後 はんの数分 しか母親 と一緒 にいることがで きず,
年が母野 の二度 にわたる言葉 に従わない ことで彼女 自身
彼女が帰 ったあ と,病院の清掃夫 に襲 いかか ったため,
の叱責 をか うことにな り,事態をます ます悪化 させ るこ
」〔
Bat
e
s
on, 1
9
7
2-2
0
00;31
4f
.
〕
冷水浴を施 された。
とにな り兼 ねないであろ う。つ まり, この青年 にとって
どち らの方策 を選択 して も,母親 との きずなは断たれて
この例か ら分か るように, この場面 は, 「若者 が母親
の肩 を抱 く」- 「
母親が身体 を こわば らす」,「
若者が手
しまう羽 目になる。 このよ うに,母親が青年 に示す身体
を引 っ込める」- 「
母親が 『もう私 の ことが好 き じゃな
言語 によるメ ッセージと言葉によるメッセージとが相反 ・
いの』 と尋ね る」
, 「若者 が顔 を赤 らめ る」- 「母親 が
矛盾 し,彼 にどっちっかずの宙 吊 り状態 (
決定不能性)
『そんなにまごっいちゃいけないわ。 自分 の気持 ちを恐
を強制す る事態が, ダブル ・バイ ン ドと規定 され るもの
れ ることなんかないのよ』 と言 う」 の 3つ に分節化 し得
の本質 にはかな らな い 。 ダブル ・バイ ン ドは, コ ミュニ
る (これを仮 に各々, Pl
, P2, P3とす る)。 まず, Pl
ケーションのなか に異 な るメ ッセー ジが異 なる表現形式
では若者が母親 に対 して 「肩 を抱 く」 とい う身体言語
-
(
パ ラ言語) を通 じてス トレー トに愛情 を示 す ことに対
に含 まれて いて, それを受容す る側が混乱 をきたす事態
身体言語 (
パ ラ言語) と自然言語-
を通 じて同時
して,母親 はその愛情の表現 を受 け入 れず, 「こわば ら
を指す。但 し,誤解 されてな らないのは, ダブル ・バ イ
せ る」 とい う身体言語 を もって否定 している。 これがま
ン ドとは, それに陥 る人 間が メ ッセー ジとメタ ・メ ッセ
ず,青年 自身 にとって母親 との最初 のデ ィス ・コ ミュニ
ー ジを判別 し得ず,従 って メタ ・コ ミュニケーシ ョンを
ケーションとなる。続 いて, P2で は今後 は青年 が母親
操作す る能力 を欠如 して いるがために起 こる事態 とい う
のそのよ うな冷 たい仕打 ち (
身体言語) を感知 して, 自
よ りは,彼 (
彼女)がた とえその レベルの差 をある程度
分の感情 を制止 しようとす る瞬間,母親 は追 い討 ちをか
判別で きた と して も, それで もなお この状況 を打開で き
けるように,言葉 を通 じて青年 に (
彼女 に対す る)愛情
ず,宙吊 り状態 (
決定不能性) を強 い られ るときに生 じ
の有無 を問 い詰 める。 さらに, P3で は母親 は彼女 が送
る事態で あるとい う点 で ある。 それ は, 日常 よ く言 われ
り出す身体言語 と言語の間で身動 きが取れな くな ってい
る 「その ことはよ くわか っていて も, (今 の私 で は) ど
うに もな らない」 ことを極限化 させた状態 と考 え られ る
る青年 に対 して,決定的 ともいえ る言葉 を投 げか 隼てい
る。
(ここで極限化 された状態 とは, 自己が この言 明 を 自覚
この状況か ら分か るように, この母親の青年への対処
的に分節化 し得 ない場合 を言 う)
。従 って, ダブル ・バ
仕方 と しては,彼女 自身が身体言語 (
身振 りや態度)で
イ ン ドを単 に コ ミュニケー ションにおける論理階型 に関
表現 していること自体が,言葉 で表現 して いることと相
す る認識能力 (メタ ・コ ミュニカテ ィヴな陳述能力) の
反 ・矛盾 して いると同時に,言葉 による表現内容が身体
欠如 または混乱-
言語 による表現形式 によって否定 されて しまっている。
な してはな らない。 む しろ,分裂病者であるが故 にかえ
つまり, この母親 と青年の コ ミュニケー シ ョンでは,母
って 「ダブル ・バイ ン ド状態が,≪他者≫ に対す る応答
論理 的パ ラ ドックスの問題-
とみ
親の身体言語 による否定的 なメ ッセー ジが一方的 に優先
にお いて こそ あ らわれ るのだ とい うこと」, す な わ ち
されている。 そ して, この母親が抱 く青年 に対す る不信
自分
「
交換 (コ ミュニケー シ ョン)が 『
命が けの飛躍』 〔
感や冷酷 な感情 は,表面的 には露見 されず,む しろ青年
の言 うことが,他者 に対 して別の ことを意味 して しま う
) を言 葉 の上 で批判 す る とい う形
の引 っ込み思案 (P2
という可能性があ る もの〕であること」〔
柄谷行人,
1
9
8
6
;7
5
〕を体得 し, その ことを戦略 と して実践 しているの
で隠蔽 されて しまう。
ただ,冷静 にみて この青年が この状況 に屈服す ること
である。
な く, それを打開す るために選択 し得 る方法や態度 と し
また,異 なるメ ッセー ジが同 じ表現形式 (
例えば,言
て は一応 2通 り想定 され る。 そのひ とつ は,青年が,母
請) を通 じて発せ られ る場合であれば,情報の送信者 は
親 に対 して愛情を抱 いていることをどこまで も伝えよ う
その受信者 によ って 「あなたの論理 は混乱 している (
支
とす るとい う意志選択であ り, もうひとっ は,青年が,
離滅裂である)」 と忠告 され るだけで簡単 に処理 され て
母親 に対 して愛情を抱 いて いるが故 に,かえ ってそれを
しまうことになろ う。 また,同 じニュア ンスを示す メ ッ
態度で示 さないという意志選択である。 しか し, よ く考
セー ジが異 な る表現形式 を通 じて発せ られ ることは普通
えてみ ると,前者 を貫 き通 す ことは,母親 のあの決定的
一般 にみ られ る健全 な コ ミュニケー シ ョンの在 り方で あ
な言葉 によ って釘をさされ たことによ りすでに困難であ
る (
人が怒 って いる場合,顔 を しかめて口調 を荒 げて怒
り, この対処仕方 を通 じて この状況 を打開す ることは到
鳴 るのが普通であろ う)0
底不可能であろ う。 たとえ後者 を選択 した と して も,育
さらに,対人関係 にお いて ダブル ・バイ ン ドが成立す
(
21
)
-1
8
8-
人 間 福 祉 学 科・
るのには, これ以外の外 的条件が不可欠 である。 その条
な って いて,非活性 の負のエ ン トロ ピー,例 えば欲求不
件 とは,必ず,社会的 にみて優位 な人間がそ うでない人
満や ルサ ンチマ ンが溜 ま りに くくな って いる 〔
山口昌男,
間 に対 して コ ミュニケー ションを遂行す るとい う点 であ
1
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8
6;2
9
5
3
00
〕.っ ま り,バ リ族 の社会 で は, ニ ューギ
る。 それ は多少 な りとも権力関係 を帯 びた コ ミュニケー
ニアのイア トムル族 の社 会 の よ うな 「分 裂 生 成 (
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シ ョンが二者間で遂行 され る場合-
会社 の上司 と部下
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)
」〔
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〕 が ほ とん ど
に生 じる。 また,権力関係 でな くて も,禅問答の
み られ な い。 この こ とを G.
ドゥル ー ズ -F
.
ガ タ リは
等-
よ うに,絶対的 な権威 を もっ禅師が弟子 に直面す るとき
」「プ ラ トー (
高原状態 )
に意 図 的 につ くり出 す ダ ブル ・バ イ ン ドも存 在 す る
強度 が持続す る状態-
〔
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〕。 例 え ば, 弟子 の頭 上 に
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。
ク ライマ ックスに到達せず,
と名づ けた [
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棒 をか ざ し,厳 しい口調 で 「もしこの棒が実在 の ものだ
以上 の ことか らみ ると, とりわ け,対人関係 の作法 を
と言 うな ら, これでお前 を打っ。実在 の ものでない と言
十分学習 して いない子 ど も, よ り正確 には,前述 した,
うな ら, お前 を打っ。何 も言わないな ら, お前 を打 っ」
バ リ島のよ うな養育 システムのない社会 で育っ子 ど もが,
と言 う場合 であ る。 そ して, この弟子 の場合であれば,
弟子 の場合 とはま った く異 な る意味で,簡単 に しか も意
手 を伸 ば し師か ら棒 を取 って,師 を棒で打 っ こと も選択
図的 に ダブル ・バ イ ン ド状況 に追 い込 まれ ることは必定
し得 る し, また禅師 もこの応待 を受 け容 れ るか も しれな
であ ると考 え られ る。換言す ると, 日常,様 々な権力関
いのであ る (
前 に述べた精神疾患 を もっ青年 とその母親
係 を強 い られて いる現代人 は, 日常会話 やユーモア等 の
の関係 において この ことが不可能 であ るの は言 うまで も
社交 の作法 を身 につ け,随時活用す ることで この状況 を
ない)。 む しろ, この場面 は弟子 が 自己 自身 で悟 りを開
何 とか相対化 し,かっ また打開 して い るので あ る。 「ユ
くことによ って この ダブル ・バイ ン ド状況 を打開 して い
ーモアにあ って は,用 い られ る論理階型 が突然 に変化す
くべ く,禅師によ って意図的 につ くり出 されて いると言
ると同時 に, その変化 その ものが識別 され ることも必要
え るか もしれない。権力 でな く,権威 を生 か しなが ら,
とな る。
」〔
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.
〕平明 に言 うと,
ダブル ・バ イ ン ド状況 を教育関係 に持 ち込 む とい う観点
ユーモアは抜 き差 しな らぬ コンテクス トを論理階型 のな
か らみ ると, この禅問答 の例 と, ベイ トソ ンが 「バ リ島
し崩 しとい う奇襲戦法 によ って一挙 に打 開 して い くので
」 とい う論 文 〔
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ある。 それ故,権力関係 に置かれ ること自体,即, ダブ
1
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6;1
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6
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9
9
〕 のなかで記 述 した母親 と幼 児 の
ル ・バ イ ン ドに陥 る十分条件 にな るとは限 らな い。前 の
間 に仕組 まれた適度 の ダブル ・バ イ ン ドの設定 とは類似
例で言 えば,青年が ご く普通 の精神状態 であれば,母親
してい ると言 え る。バ リ島の養育 システムにつ いて言 う
が身体 を こば らせた瞬間,唖嵯 に 「今 日はいい天気だね」
と,バ リ島の母親 は,子 どもを愛撫 し,子 ど もがそれに
とか 「お父 さん元気 に して いる」 と言 って話題 を変え る
反応 して抱 さっ きに くる途端,急 に態度 を一変 させ,彼
ことによ り, 緊張 した状況 を少 しで も緩和 させ るとい う
に冷 たい素振 りをみせた り, ときには自分 の子 どもの前
選択 もで きた はずだか らであ る。 それが不可能であ った
-
安定状態 の価値体系-
で他人 の赤ん坊 に彼女 自身の乳 を飲 ませて,子 どもがそ
とい うのは,青年 が長 い期間,特殊 な家庭環境 に置かれ,
れ に苛立 ち, その赤ん坊 を彼女か ら引 き離 そ うとす る様
強度 の精神疾患 を きたす ほどまで,母親 との絶対 的な関
子 を何食 わぬ顔 で平然 と眺めた りす る。バ リ島の母親 は
係 に拘束 されて きたためであ ると推察 し得 る。
一般 的 に,分裂病 は妄想型,破瓜型, 緊張型 の 3つの
このよ うな育児 の仕方 を通 して, 自分 の子 ど もに人間関
係 に潜勢 す る内的矛盾 を体得 させてい くのであ る。 ただ,
臨床像 に分類 され る。 まず,妄想型 は, 隠境的な過程 を
その仕方 は度が過 ぎてはな らず,適度 な ものである こと
通 じて現実か ら脱 出 しよ うとい う型 であ る。次 に破瓜型
が必要条件 にな る (この養育 システムは,写真資料 を含
は,伝達 され るメ ッセー ジをで きる限 り字義的 に受 け取
めて [
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9
42
] にエスノグラフ イー と して詳 細
る型で ある。 そ して, 緊張型 は, 自 らの内的過程 に集中
してい く型 であ る。 いずれ もダブル ・バ イ ン ドか ら脱 出
に記述 されてい る)0
こう して,バ リ島ではその養育 システム と して適度 な
しよ うとす る自己防衛 的 な戦略 にはかな らない。 これ ら
ダブル ・バ イ ン ドによる締 めっ けを導入す ることによ っ
を言語病理学 の観点か らみ ると,妄想型 では 「パ ラダイ
て子 どもを社会関係 を しなやかに結ぶ ことので きる人間
ムの軸 にそ って言葉が横へ横へ繁茂 して い って グチ ャグ
へ と育てて い くのである。 ベイ トソ ンか らみて,バ リ島
チ ャにな って しま うの に対 し,破瓜型で は シンタグムの
のあ らゆ る社会生活 は競合型 のよ うな 「
累積的な相互作
軸 にそ って何 のふ くらみ もない表層的な言葉が ツル ツル
用 を阻害す る仕組 み」〔
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6;1
9
6〕 に
ツルツル縦 に流 れてい く」〔
浅 田彰, 1
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6f
.
〕 こと
(
22
)
中井孝章 :教 育学 的思考 の公準
-
189 -
にな る。 それ に対 して, 緊張 型 で は 「自己の内的過程 を
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G.ドゥルーズ, F.
ガ タ リ,
恐 るべ き強度 を課 され極端 に加速 され る こ とによ って,
宇野邦-,他訳 『千 のプ ラ トー』河 出書房新社, 1
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レベルの差 もな くな って, すべ てが振動 しなが ら白熱 し
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りが ひ き臼 にか け られ た破片 の よ うにな って素粒子 の シ
江河 ・塚本 ・木下訳 『象徴 と しての身体-
同上,
ャヮ十のよ うにパ ッパ ッパ ッと飛 び出 して くる」〔
ロ ジーの探究-
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』 紀伊国屋書店, 1
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演劇 の提 唱者 ) に代表 され る緊張型の分裂病者が ダブル ・
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フー コー, 田村倣 訳 『監 獄 の誕 生-
バ イ ン ドを脱 出 して い く戦 略 は, 身体 が ジュ ラル ミンの
よ うに溶解 して しま うとい う悲惨 な結 末 とな ろ う。 分裂
監視 と処罰-
病者 が採 るダ ブル ・バ イ ン ドを超 え る戟 略 につ いて は,
, 渡辺守章
』新 潮社, 1
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8 『哲学 の舞台』朝 日出版社 .
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まえ なが ら, よ り深 く考察 され るべ きで あ ろ う 〔
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フー コー, 渡辺 守章訳 『性 の歴 史 Ⅰ 知 へ の 意
志』新 潮社, 1
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学校言説』 の解体 学 の試 み-
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変化 の原理題 の形成 と解決-
」『大阪市立 大学 生 活科学 部』
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渡辺洋三, 甲斐道太郎,広渡清吾,小森 田秋夫
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ニケー ションの語用論』二瓶社, 1
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』法政大学 出版局, 1
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治療 コ ミュニケー シ ョンの原理-
大学 出版局, 1
9
89年.)
村 田昇 る,片山光宏訳 『
教育学的展望-
そのパ ラ ドキ シカルアプ ローチ-
そのパ ラ ドキ シカ
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46頁.
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ワッラウ ィ ック, 築 島謙三訳 『変化 の
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』青
無垢 の誘惑-
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子 ど もを
」 中河伸俊 ・永井良和編
『
子 どもとい うレ トリック-
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長谷川啓三訳 『
希望 の心理学-
巻, 1
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1
62頁.
『大阪市立大学生活科学部』第47
宮野
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ワッ ラウ ィ ック,
≪学校教育 の哲学≫研究序説-1
永井
9
92
年.)
』法政大学 出版局, 1
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第4
4巻, 211
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41
頁.
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』
法政大学 出版局, 1
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87
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』法政
中井孝章 :教育学的思考の公準
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