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豚の漫画

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豚の漫画
捜す執念の神に気付くか?
ルカによる福音 63
捜す執念の神に気付くか?
15:11-32
前回は羊と銀貨の譬を「捜す執念の神」という題で考えました。今日はそ
の捜す執念の神に果たして気付くか……という主題です。
この三つ目の譬話は普通「放蕩息子の譬」と言われますが、英語の The
Prodigal Son を訳したものです。これは元々13 節に出てくる
う言葉に由来しますが、この
とい
という副詞は「救いようのない、どう
にも直らない」という形容詞から出ています。遠い国に行って自分では自由
に高貴に生きていける自信があった青年が、結局コントロールのきかない悪
魔的な道楽と底抜けの消費に落ちて行くさまを描いているのがこの
です。今ならさしずめサラ金からも見放されてブラックリストに載
るような消費・浪費の生活でしょう。
私はこんな道楽はしたことはありませんし、そんな浪費できるようなお金
を持たしてもらったこともありませんけれど、このストーリーの息子が父の
家へ帰ってくる場面を読むと、忘れもしません 38 年前満州から痩せこけて紀
州の田舎へ帰ってきた日の情景がよみがえります。すでに大学一年生でした
から、幸い残留孤児にもならずに引上げ船に乗って橋本までたどり着きまし
た。私の父は一足先に終戦直前の北京から帰って百姓をしておりました。ま
あこの譬に出てくる息子の帰郷と全然関係がない言えば関係がないのですけ
れど、ただ一つそこで自分の帰りを待っていてくれる親がいた―という所
は共通しています。ですからこの 20 節なんかの表現ですね……まだ遠く離れ
ていたのに、父は彼をみとめ……とか、そういう所は視角的に紀州の谷間と
つながるのです。
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捜す執念の神に気付くか?
ところでこの話、「放蕩息子の譬」で通っておりますけれど、趣旨や重点
から言うとこれは息子の譬ではなく、むしろ息子を迎え入れる父の譬話だと
言った方がよいでしょう。
ギルムアという人の註解書には The parable of the
Good Father としています。“Good”というのは、憐み深い・慈愛に満ちた
という位の意味でしょうか。もちろんこの絵の中には、天の父なる神が擬人
化されています。前回の言い方で言うと「失われた魂をどこまでも捜す、執
念の神」です。
ただこの譬が前の二つと違っている新しい点は、その神様のお心に人間が
ハッと気づく場面にスポットが当たっていることと、後半、イエスのお心を
理解しなかったファリサイ人や律法学者への強烈な警告が出てくることとで
す。
先ず復習の意味でこの時の三つの譬話のきっかけになった事情を読みます。
1.さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
2.するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎
えて一緒に食事をしている」と言った。 3.そこでイエスは彼らに、この譬を
お話しになった、
この前読んだ羊と銀貨の所をとばして、三つ目の話、息子を受け入れる父
の譬を 11 節から読みます。
1.第一段
父から離れて遠国で行き詰る息子 :11-17.
11.また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 12.ところが、
弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をく
ださい』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 13.それから幾
日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、
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この「遠い所」とはどの辺りだと思いますか? この話を聞いていた人はど
こら辺を考えたと思いますか? イタリアかエジプト、バビロニアでしょうか。
町の名で言うとローマ、アレクサンドリア等すぐに想像したでしょう。
そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 14.何もかも浪費して
しまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも
窮しはじめた。 15.そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せ
たところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
これはユダヤ人の青年にとっては最低の悲惨だっただけではなく、戒律に
も反する不浄に甘んじることだったのです。
16.彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何
もくれる人はなかった。 17.そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父の
ところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢
えて死のうとしている。
ユダヤの諺に「ユダヤ人がいなご豆を食うようになったら、その時こそ悔
い改める」というのがあるそうですが、これは普通の人間が食べるものでは
ないのです。ラビ文書と言われるヘブライ語の文献に、いなご豆はやはり家
畜の飼料として出てきますが、余程の飢饉の時でもなければ人間の食糧には
しなかった代物です。
私の聞いた話では、ナチスの占領下で何もなくなった時に、ギリシャ人も
このいなご豆のさやを食糧にしたそうです。聖書学院の藤の木を見ていらっ
しゃる方は、あの藤の豆のさやですね。あれをひとまわり大きくしたものを
考えるとよいでしょう。そら豆のさやとも似ています。そら豆や藤豆と違う
のは、大きさとそれにもっとこう三日月型に反り返っている形とですね。そ
れから、豆は小さくて食べられないのですけれど、さやの肉が厚くて、わず
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かに糖分を含んで甘いんですね。干すとアメ色というか茶色になりまして、
これを家畜の飼料にするのです。
ここにありますのは、「いなご豆を食べた話」……私の 16 年前の経験です
が、あまりに何度も話しましたから今朝はカットします。大阪クリスチャン
センターでしたスピーチをある雑誌に載せて頂いたもので、後でコピーを皆
さんにお分けいたします。それで私はいなご豆の味を知っております。
こういう譬話 parable というのは、前回の言い方をもう一度使いますと、
「イエスの描かれた漫画」ですね。ここには、神のおそばにいることが嫌で、
神から受けることに我慢できなくて、全てを自分のものとして自分の知恵で
始末できるつもりの人間、罪の中にいる人間の姿が浮き彫りにされています。
神抜きで、私は自分の判断力と知恵を信じる。私は積極的無宗教者で行く…
…という人が、結局自ら破綻を暴露して、汚れと行き詰りに落ちる過程を、
イエスの創作なさったこの人物は非常に明確に、シャープに描き出します。
もちろん漫画ですから状況は極端にオーバーですが……。でもこの人物の姿
で一番大事な所は、父の家を思い出す件です。
2.第二段
父の所へ帰る息子と喜んで迎える父 :17-24.
17.そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余
っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
18.立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、
(この天というのは、神様のことを間接的に天と言っているのです。ユダヤ
人の習慣ですね)あなたにむかっても、罪を犯しました。 19.もう、あなた
のむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてく
ださい』。(悔い改めというのは、初めは自分の誇り、自分の仕方を主張し
て神から独立を宣言していた人が、一転して無条件の服従と信頼に帰ること
だ……という面がよく表されています)
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20.そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は
彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 21.むすこ
は父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を
犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 22.しか
し父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子
に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。(この指輪という
のは印章を彫った指輪で、息子としての身分の回復を象徴します)23.また、
肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 24.こ
のむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ
から』。それから祝宴がはじまった。
ここにあるのは、お父さんの押さえきれない喜びです。二番目の息子は、
父の目には霊的に死んでいたのですけれど、それが自分の所へ帰る決心をし
たのは、父にとっては生き返ったのと同じことです。その喜びにスポットを
当てて話は作られていますから、父は最大級の喜びを表現します。これは、
だれと比較してとかいうことではないのです。兄との比較から考えるといろ
いろと分からないことが出てきます。
考え方、見方によっては、これは不自然でオーバーではないか? こんなに
一方的に許されてよいものか?……とか、この人の罪はどうなる、神の正義
はこれで立つのか?……とか疑問も生じます。この人の罪の清めはどうして
可能なのか……。本当はそれは謎のように、ここでは矛盾したまま描かれて
いるわけで、全てはこの後イエスがエルサレムで何をなさるかと二重写しに
なってくるのです。
そういう点から言うと、この息子の悔い改めの仕方も気になります。果た
してこれでいいのか? 外野から見ていると、フェア・プレーでないようにも
映りますね。でもそんな見方をしてはいけないと言う人もあります。レング
ストルフの註解書には「この息子の悔い改めは本物である」と書いてありま
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す。「彼は父親が富んでいたことを思い出しただけで、父の財産をあてにし
たのではない。彼は主人のためにのみ生きる雇人のように、父の眼の届くと
ころで生き、かつ働きたいと願ったのである」……この人は非常にこの息子
に好意的ですね。
元来これは創作でありますし、譬話は一種の漫画的デフォルメもあります
から、決して断定的に批評はできません。要はイエス様の意図はどこにあっ
たかです。ですからこの息子の悔い改めは純粋、本物だと見て弁護してやる
のもよいし、怪しいのではないか……と見る人もいてもよいが、多分作者は
わざとそういうたよりない形にしておかれたのではないでしょうか?
つまり、この息子は純粋な悔い改めをしたからとか、立派だったからとい
うので受け入れられたのではなく、つまり印章つきの指輪でご褒美に頂くだ
けの権利をカッコヨク有したのではなく、全てはこの父の意思がこれを可能
にしていることを、そのことだけをイエスはこの話ではっきりさせておられ
るのでしょう。帰ってきた息子は決してヒーローではないのです。
息子は、純粋で立派な進行に免じて家に迎えられたのではないのです。息
子は何故迎え入れられたのか? それは父が走り寄って接吻したからです。父
が自分の意思で衣を着せたからです。父が指輪をはめさせたからです。それ
で息子は息子としての権威を回復された。それをイエスはファリサイ人たち
に言いたかったのです。
3.第三段
父の喜びを理解できない、もう一人の息子。
:25-32.
これは最初のファリサイ人と律法学者たちの非難に対するお答えですね。
この中に出てくる兄は、父の家に留まって何か年も父に仕えたというのです
から、次男とは全く対照的な努力をしたことをイエスもお認めになっていま
す。兄のセリフの前半にそのことの評価は一応盛っておられるわけでしょう。
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しかし惜しいかな! 兄は自分の成績に驕るあまり、父の心が分かりません。
その意味で兄は、遠国へ逃げていた弟以上に父から遠い所にいたのです。
残りを一気に読みます。
25.ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音
が聞えたので、 26.ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』
と尋ねた。 27.僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事
に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
28.兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
29.兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でも
あなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子
やぎ一匹も下さったことはありません。 30.それだのに、遊女どもと一緒に
なって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が(弟と言わないので
すね、単にオヤジの息子です)帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふ
りなさいました』。(これは初めに出てくるあの「罪人たちを迎えて一緒に
食事している」と言った心理と同じです。同じ怒りなんですね。そんなこと
は絶対に許せない!) 31.すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわた
しと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 32.しかし、
このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つか
ったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
ここでお父さんは「このあなたの弟は」と言っていますね。「わたしの弟」
と絶対言わなかった兄の言葉と強い対照をなしています。それに前の二つの
譬の結びでは「神の御使いたちの前で喜びがある」「天で大きな喜びがおこ
る」と言っておられただけでしたが、ここではその天の喜びに対して呟く、
ファリサイ人の悲しい思い上がりをクロースアップさせて、印象は一層鮮烈
です。
さて「放蕩」prodigal と訳した
という形容詞が、元々「救いよう
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捜す執念の神に気付くか?
のなさ、どうにも直らない悲しさ」を表したと申しましたが、ここにあるの
は実は二人の prodigal sons の話で、その中でも後の息子の方がいっそう救
いようのない
な姿をしています。
《 ま と め 》
「捜す執念の神に気付くか?」という表題を初めに掲げました。この譬話
は、あのサマリア人の旅人の物語と共に、イエス・パラブル集のピークをな
すような作品ですが……、それに先立つ双子のパラブル、失くした銀貨の話
といなくなった羊の話とが、魂を捜す執念の神を浮き彫りにしていたとすれ
ば、この父と子の物語には、自分を捜しておられる神に人がハッと気づく場
面にスポットが当たっています。
「立って、父のところへ帰って、こう言おう」という所です。
それも面白いことに、この悔い改めの決心が少しも英雄的でもカッコよく
もない形で、いとも平凡に描かれていることです。それは読む人が「果たし
てこの息子は、もっと純粋で一途な信仰に導かれるだろうか……」と気をも
む位の、少し頼りない形で描かれているのです。
下司の勘ぐりかも知れませんが、ここでイエスはこう言おうとしておられ
るのかも知れません。「人の悔い改めや決心は、その最高の純粋な形におい
てさえ、この程度の頼りないものだ。だから自分の悔い改めや信仰自体をさ
も大げさなもののように誇るな! また、そんな大そうな立派なものを持てる
まで家に帰るのを伸ばすな!」
「大事なことは一つしかない。それは父があなたを遠くから認めて、走り
寄って接吻しようとなさる。あなたに神の子の指輪をはめて与えようとおっ
しゃる。そのことだけが確かなことだ」
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もしそうだとすれば、私たちは芝居がかった大決心はいらない。純粋で恥
ずかしくないような悔い改めなんかお供えすることもない。ありあわせの正
味の悔い改めでよいから、立って父の所へ帰れ!
それがこのお話の中心ポイントでありましょう。
(1984/03/04)
《研究者のための注》
1. 11 節にあるような父の生存中における財産分けがあったかについて「ベンシラの知恵」
33 章に次のような言葉があります。「息子あるいは妻に、兄弟あるいは友人に、あな
たの生きている内に、あなたを自由にする権限を与えるな。また他の人にあなたの金
を与えてしまって、後で後悔し、それを請わねばならぬようなことになるな。…中略
…あなたの命の日々が終わりに至るとき、あなたの臨終のときにこそ相続財産をわけ
よ」こういう警告や処世訓が書かれたということは、やはり生存中に軽率な判断で財
産分けをして後悔する場合があったことを裏書きしていると見てよいでしょう。
2. 申命記 21:17 によると、長子は他の息子の二倍の分を受けるとありますから、二人の
息子以外に子がなかったとして、仮に父の全財産を分けたと仮定しますと、ルカ 15
章の弟の方は三分の一を兄は三分の二を受けたことになります。レングストルフは、
このケースのように次男が父親の財産の中の自分の分け前を要求することは、慣習の
ワクを全く逸脱していると言います。したがって、父がどんな理由でこれに応じたに
しても、弟が父の家を出て財産の分け前を勝手に使う生活に入って行くことは、浪費
以前の問題として、父への反抗でもあり無礼でもあります。
3. このようにして仮に二人の息子に贈与してしまった場合、父は生きている間は財産を
用いる権利を保有したと言います。とすると、遠国へ去った息子の反逆は別として、
兄の財産は実質上父親の管理下に置かれていたものでしょう。31 節の父の言葉、29
節の兄の不平、22,23 節の父の指図なども、ここから説明できるとレングストルフは
言います。以上は当時の習慣ではこのようなケースはどの程度あっただろうという裏
付けとしてですが……。パラブルという漫画の極端なケースと考えれば、めったに行
われないような財産分けのケースであっても、不思議ではないでしょう。
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4. 28 節の律法主義に立つ兄の議論に代表されるファリサイ人の講義は、「彼ら自身に帰
ってくるのであり、神は恵みをお与えになるときにこそ義におわしたもう」というこ
とを彼らは知らなかったとレングストルフは註をしています。この「神の恵みをお与
えになるときこそ義のおわしたもう」という命題については、私のローマ書の福音、
62,63 頁の所説をも参照してください。
5. 途中に言及したいなご豆の話を大阪朝祷会での私の証から引用しました。「いなご豆
を食べた話」……以下は途中からです。
---------------------------------------------------------------------------あの譬話に出てくる放蕩息子は、「豚の食べるいなご豆で腹をみたしたいと思うほ
どであったが」とありますが、本当にこの豚のえさを食べたとは書いてありません。
しかし私の方は本当にあれを食べたのであります。
お恥かしい話ですが、何年か外国で一人でおりまして、独房のような下宿でギリシ
ャ語の書物ばかり相手にしておりますと、精神的に非常に行き詰って、自分はこのま
ま潰れるのではないかと不安になることもあります。家族から何千キロも離れ、健康
はすぐれず、交通事故で怪我をしてしまい(実は今もその後遺症で苦しんでおります
が)とにかくその時は最低の状態でした。
そんなある日、下宿のクレオおばさんがお茶の時間に変なものをくれました。形は
干バナナを平たくしたような三日月形、黒っぽいアメ色のもので、かすかに甘い匂い
がいたしました。かじってみるとそんなにうまいというものではありませんが、甘い
味がします。
「これはね、ハルピアと言って、乾物屋に行けばあるけど、もう今の若い人たちは
食べないわね。昔はおやつ代りに時々食べたものよ。本当のことを言うとね、オダサ
ン(おばさんは私をこう呼んでいました)田舎では豚の餌にするものよ。あぁ、中の
豆は出して、サヤだけ食べるものよ」
二階の部屋に持って上って、机の上において、その時私はハッとあることに気づい
たのです。「まてよ……ひょっとすると、これはあれじゃないだろうか!」
手当り次第に辞書をひいて調べてみると、このハルピアなるものは聖書に出てくる
ケラティア
つまりあの時豚が食べたまさにあれなんです。
私はそのいなご豆を机の上に置いて、長い間眺めておりました。そしてその時、忘
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れもしません、私のギリシャ滞在中の最大の危機、最低のペシャンコの状態から立ち
直るインスピレーションを与えられたのです。その豚の餌から……、なぜでしょう。
お笑いになるかも知れませんが、私はあの放蕩息子は、正直、エライ奴だと思った
んです。それはあの行き詰りの中で、彼は、この豚の餌の山を見ていて父の家を思い
出したということなんです。
頭をかかえて坐り込んだ息子の前で、音をたてて鼻でかきまわしながら、ガツガツ
食っている豚。自分もつまんで食おうかと思ったという、うず高くつまれたいなご豆
のサヤは、いわば彼の行き詰りと、失敗と、失望をそのまま表していました。実はこ
の時同じように頭をかかえ込んで、勇気を失っていた私には、その気持がよく分かっ
たんですが、しかし放蕩息子がエラかったのは、いつまでもいなご豆の山を見つめて
鼻も頭も心もその中へ埋めてしまわずに、父を思い出したということです。彼はいな
ご豆から父へ飛躍したのです。
そこで彼は、我に返って言いました。「そうだ、父の所だ、父の所へ帰ろう。帰っ
て父にこう言おう……」
私は黒いいなご豆を三つ糸でくくって画鋲で机の前の壁にとめました。そして「立
って父の所へ行ってこう言おう」という聖句を名刺の裏に書いてその下にテープでと
めました。
---------------------------------------------------------------------------以上、1970 年頃の文章だと思います。大阪クリスチャンセンターから出ていた雑誌
の回心百話という欄に出たものと記憶します。同じ趣旨の話は、1969 年に中振、串良、
伴、大東の諸教会で、それから大阪聖書学院のチャペルでも話していると思います。
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