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経営と倫.理
経営と倫.理 西 岡 健 夫 目 次 I.倫理の重要性 n.倫理の意味と位置づけ ni.イ兪理と人間行動 Iv.経営倫理学の対象 v.経営倫理の基準 (1)功利主義 (2)人権 (3)正義 VI.倫理基準の適用と経営者 I.倫理の重要性 リクルート事件,ロッキード汚職,公害たれ流し,欠陥製品など何か事 件が起ると,倫理の問題が盛んに取り上げられるが,その内に「のど元過 ぎれば熱さを忘れる」ということをくり返す傾向が見られる.だが,倫理 は一過性のものではない.人間社会の基盤をなすものだ.人間は,他の動 物のように遺伝・本能という与えられたプログラムに機械的に従って,祖 先と同じ生活をくり返すのではなく,自ら主体的に行動のルールにれが 倫理なのだが)をつくり,それを守って生活していく存在だからである.づ 社会科学の世界においても,倫理に関する議論には主観が入るから科学 の対象にならないとの理由により,倫理を正面からは論じようとしない傾 向がある.だが,倫理は現に存在し,人間社会において重要な働きをして −67− 経 営 と 倫 理 いる.従って,倫理とは何か,どんな作用を持っているか,どのように形 成され,どのように変化するかについて客観的に考察できるし,また,そ の考察は不可欠である.これは,高田教授によれば(対象領域における価 1) 2) 値判断」,また塩野谷教授によれば「価値研究」の問題にあたる. K. E.ボールディングは,上記のように客観的に倫理を考察することの 必要性を説いた上で,さらに,社会科学者は『自分自身の観念および理想 の創造者そして布教者として,つまりモラリストとしての役割を持ってい る.社会におけるモラリストの役割は重要であり,技術領域において革新 者が果たす役割に相当する』とまで言い切っている.そして,『最も影響 のあった社会科学者の多く一例えばA.スミス,マルクス,フロイドド達 は,彼らの著作を強い感情でいろどっているが,その基礎に彼らは倫理的 価値についての確固とした尺度を持っていた.その意味で彼らはモラリス トであった』と続けて言う.私は,こうした見方に賛成する.但し,ボー ルディングは,単に倫理的基準を提示するのでなく,社会的事象相互間の 関係を探求するのが社会科学者のまずなすべき仕事であり,又,自分の倫 理体系をはっきりと表明すべきだ,と言っているが,思うにこれは当然の 留保条件である. アメリカ経営学においては,ト既に1930年代にC.I.バーナードが名著 『経営者の役割』の中で,モラルの機能を強調しているが,その後はあま 6) り取り上げられるごとはなかった.それが1970年代に入りウォーター ゲート事件(1972年6月)が起った頃から再び盛んになり,経営倫理学関 連の著書が次々と刊行されるようになった. / しかし,わが国では少数の研究者を除き,倫理はほとんど研究対象にさ れていない.高田教授は近著『経営の倫理と責任』の序文において『本書 でいう善とか美とか倫理とか責任ということばは,おおかたの経営研究者 諸氏および経営者諸氏の耳目に逆らうであろう』と慨嘆しておられぎ.ま た,近年経営文化論が盛んで,社風,雰囲気,社内の伝説・神話・儀式な −68− 経 営 と 倫 理 どが研究されているが,行動文化(人間の行動の仕方およびそれを律する慣習 や規範)の内,利益追求に役立つものだけを研究するきらいがないではな い(例えば,業績向上をもたらす社風づぐりなど).倫理は行動文化の柱の一 つとして無視はできないのにもかかわらずである.こういう現状は問題だ と思う.いつまでも経済合理性だけ追求していれば済む時代は続かない. 資源払底,環境破壊,南北対立などの諸問題はのっぴりならない所まで来 ている.今こそ我々は正面から本格的に倫理を取り上げねばならないだろ う. n. 倫理の意味と位置づけ 経営倫理とは何か,経営倫理学の対象は何かにつき述べる前に,一般に 倫理とは何か,倫理は人間社会の文化の中でどのように位置づけられ,人 間の行動とどのように係わっているかにつき明らかにしておく必要がある. 倫理とは何か.大島教授によると,文字通りに言えば倫(=仲間)の中 での理(=ことわり)だが,要するに世の中で生きる上で人がわきまえる べき道理のことであり,道徳(語源的には道=人の道,徳=道をわきまえた立 派な品性)と同様の意味合いを持つ.倫理の英語ethicsは,語源がギリ シャ語のethosだが, ethosは元来e (自らのもの)として=thos(据え置か れたもの)という意味であり,慣習・習俗・社会精神,さらにはそれによ りつくられる個々人の性格・性向を表わす.ここからアリストテレスに よってethicsという言葉に発展した.一方,道徳の英語moralityは,ラ テン語のmoresを語源とするが, 意味する.従って, moresもethosと同じく慣習・習俗を ethicsとmoralityは同義語として用いられる.但し, ethicsは倫理「学」を意味することもある.私はここまで大島教授の語 源からの説明を引用したが,それは倫理は自然法則のように外部から与え られたものではなく,人間社会の内部で互の約束ごととして生れてくるも のだという点を確めておきたかったからである. −69− 経 営 と 倫 理 次に,倫理は人間社会の文化の中でどのように位置づけられるか.文化 は物質文化,精神文化,行動文化の三つに分けられるが,倫理は行動文化 の一つであるから,ここでは行動文化の中での位置づけを考えてみよう. 行動文化とは一言で言えば人間の行動様式のことで,それは地域や人種や 集団を異にするにつれて多少の相違を見せるのが普通であるにれは文化 の任意性と呼ばれる).行動文化には,価値・イデオロギー,法律,倫理・ 道徳,慣習,生活様式,制度,儀式・儀礼,神話などが含まれる.これら の文化項目は,程度に差はあるが,いずれも人間の社会生活に対して拘束 力を持つ.つまり,いかに行動すべきか(Sollen)を表わしている.遺 伝・本能という自然に与えられた行動ルールから解放された人間が,自ら うくり従う行動ルールが行動文化であってみれば,けだしこのことは当然 である.このように見てくると,行動文化は広義の規範norm(K.デービ スや社会学小辞典の定義する規範で,社会事象をfactualな面(Sein)とnormativeな面(Sollen)に分けた時の後者.これに対し狭義の規範は法律・道徳だけを 指す)と同一視してもさしつかえない(勿論,単なる行動パターンであって, 規範という用語になじみにくいものもあるが,それは拘束力が弱いだけだと解釈し ておく). そこで,規範norm(広 価値 l(具体化) 義)の観点から行動文化に 属する文化項目を整理して おくと,右図のようになる. 倫理 道徳 規範 (内面化) 制度 (統合化) 価値は他の規範の上位に位置する基本的な考え方であり,価値が具現して 他の規範ができる.制度は様々の規範が生活領域毎に機能別に統合された ものであり,例えば経済領域に関しては経済制度,家族領域に関七ては家 族制度どなる.倫理道徳は規範が個人の心に内面化したものである. 諸規範の背景にある価値は,見田教授によると,次表のように整理でき る.大変明解にまとめておられるので表をそのまま引用させて頂く(詳し −70− 経 営 と 倫 理 現在中心 未来中心 自己本位 快 苦 利 害 幸不幸(エロス) 社会本位 愛 憎 正 邪 善 悪(アガペー) 美 醜 真 偽 (パトス) (ロゴス) くは文献参照).この中で倫理は善悪に係わる.先の図と併せて考えると, 倫理は行動文化の中では諸規範を内面化したものであり,価値との関係で は特に善悪に係わっているということになる. 以上,倫理の位置づけにつき述べてきたが, M.G.ヴェラスケスやA. エツィオーニの見方とも一致が見られる.ヴェラスケスは,美醜√利害, 善悪,面白いか否かなどに関する判断を規範的判断(normative judge- ment)と呼び(規範は広義で用いている),その内善悪に関する判断だけを 道徳的判断(moral judement)と呼ぶ.エツィオーニは,価値についてだ が,道徳的価値moralvalueは「人殺しをするな」とか「盗みをするな」 といった普遍的な価値を指すが,規範的価値normative valueはーその ような普遍的価値に加えて,正義などの特定の社会的価値をも含むとする. しかし,エツィオーニの整理によると,デュルケムの言う道徳morality は,「社会により提供される文化に組みこまれたルールと価値のシステム」 16) であり,この定義に従えば道徳の範囲が拡がり大よそ規範(勿論広義の規 範,従って行動文化)と等しくなってしまうレバーナードのmoralityの用 法も同様に広い.私は,倫理道徳を先に述べたように位置づけておくが, 論者によって概念の広狭にあいまいさが残るのも事実である. Ⅲ.倫理と人間行動 倫理は人間行動とどのように係わっているか.倫理は人間の行動に深く 影響し,人間社会において基本的な位置を占める; ところが,人間の行動 −71− 経 営 と 倫 理 を説明しようとする時,満足(utility)の追求だけを説明変数とし,倫理 感や義務意識を考慮しない(占るいは与件と見て分析対象からはずす)見解が ある.人間を合理的経済人と仮定する近代経済学がその典型である.その 見解は社会科学の他の領域にも派及しており, A.エツィオーニはそれを 一括して新古典パラダイムと呼んでいる.もう少しこの見解を敷術すると, 人間は利己的に自らの欲求を充足するために行動する,義務感による行為 や利他的な行為も結局は利己的な満足を得るために(そうした行為により賞 讃を得て満足するとか人の為になることをしても長期的には自分の利益になるな ど)行なわれる,と見る.これは心理学的利己主義(psychological egoism)の人間観であり,人間の行動をすべて利己的満足追求動機により 18) 説明しようとする考え方である. しかし,人間の行動(人間は他の動物には見られない主体性を持つから,行 為という用語を使う方が適切なことも多いが,本稿では便宜上,原則として行動と いう用語を使う)トは,個人的満足の追求だけでなく,義務や利他のために も行なわれており,後者は必ずしも個人的満足を得るためとは限らないか ら,行動は満足,義務の二つの説明変数を用いて二元的に説明すべきであ る.このように,l義務を満足という変数に還元できない理由につきもう少 し詳しく述べれば,安田教授によると, ①義務には普通,快感は伴なわな い.・法悦のような快感が伴なうことはあるが,それは二次的なものに過ぎ ず,直接的には却って苦痛さえ伴なう. ②何かから得られる満足はそれの 消費量が増えるにっれやがて飽和する(経済学で言えば限界効用逓減の法則) が,義務には飽和はない.義務は永遠に続く神の絶対命令であり,カント 19) で言えば定言的命令である. 又,エツィオーニは内容と方法論とに分け,次のように主張する.内容 的には①利他的行動までも利己的満足のためだとすれば,一体何か倫理的 行動なのか(また何か倫理的行動として賞讃されているのか)識別できなくな る. ②自己犠牲(例えが身代わり死刑)を利己的満足だと言うのなら,それ −72− 経営と倫理 はマゾヒストになってしまう.③同じ行動をするにも,利己心による時と 利他心による時とでは行動の内容に差が見られる. ④各人が自分の満足の ため利他的行動をすると見るなら,各人の利己的行動を放任することによ り資源が最適に配分され社会も富むとする自由放任思想は成り立だなくな る.方法論上は,満足(つまり,効用utility)という概念にあらゆるものを 含めてしまうと,概念は説明力を失なってしまう.概念は言語の一環とし て現実を分節し差異化してこそ,現実につき記述・説明しうるからである. 以上のように,義務ないし倫理は人間行動の説明変数として重要である ばかりか,実はもう一つの説明変数である満足追求の背後にも倫理かおる. すなわち,何か満足utilityなのか,なぜ満足を最大化する(中庸ではな く)のか,など基本目的を決めるのは倫理である.かくて,人間行動=/ (利己的満足追求)ではなく,人間行動=/ かつ,利己的満足追求=G (利己的満足追求,倫理感・義務感), (社会の倫理ないし文化)と言うべきであり,倫 理が人間社会の基底をなす. IV.経営倫理学の対象 I.で触れたようにアメリカでは近年経営倫理学business ethicsが興 隆している.経営倫理学はわが国においてももっと力を入れてもよい分野 だと思う.最初に,企業に関しては一般倫理学だけでは不充分であり,こ とさら経営倫理学と銘うった分野をなぜ確立しなければならないかを明ら かにしておく必要かおる.それは一言で言えば,企業行動や企業経営の現 象は一般の社会現象に比べ特殊性を持つゆえ,そうした分野を対象として 一般倫理原則を応用するような倫理学が要請されるからである.ちょうど 成文法において企業(法律上は「商人」)の商取引(法律上は「商行為」)に対 しては,一般法である民法だけでは事足らず,特別法である商法が制定さ れているのと同様に考えてよい.こうしたことに関して,既にバーナード は1958年の論文「ビジネスモラルの基本的情況」において『経営意思決 −73− 経 営 と 倫 理 定は大いに道徳的な問題に関係がある.……しかしそれは,大きな社会に 一般に行きわたっている道徳概念と,殆んどあるいは全く関連がない… …士と述べ,ユダヤ・キリスト教倫理のような遊牧生活や農耕生活を踏ま えた,純粋に個人的関係の倫理によっては,ビジネスには対処していけな いと言っている. し では,ビジネスはどこに特殊性かおり,経営倫理学はそれをいかに対象 化すればよいのか.ビジネスの特殊性については,企業は経済行為を組織 的に行なう主体であるから,経済行為と組織的行為の二つに分け,前者に ついては他の社会的行為と,又,後者については単独行為と比較しながら, それぞれの特徴を考察するのがよいと考える.経済行為は,社会的分業シ ステムの中で財・サービスの生産供給を,他企業と競争しながら,営利的 に行なう行為で,他の社会的行為(家族,友人,近隣などとの社会的相互関 係)と比べると,非個人的・手段的・限定的・普遍的・画一的といった言 わゆるゲゼルシャフト関係の特色が見られる.そこでは倫理的問題として, 取引の不正(欺ID,独占,ワイロ,製品安全,情報公開,公害などが取 り上げられるだろう. 組織的行為は,組織(組織内分業システム)をつくり協働して目的を達成 しようとする行為で,単独行為とは異なり,組織と個人の関係とか組織の 拡大によるパワー蓄積とかに特別の配慮が必要となる.そこでは倫理的問 題として,個人の良心と組織人としての立場との間の葛藤犬(内部告発の困 難さなど),ト組織による個人の所遇・差別,個人の組織に対する背信,責任 の所在のあいまいさ,組織をかくれみのにする悪行,組織的行為の横暴 (巨大なパワーによる横暴や「赤信号皆で渡れば恐くない」式の横暴),組織エゴ イズムなどが問題になるだろう. しかし,経営倫理学が対象とする倫理的問題は以上で尽きるわけではな い.以上の問題は,既存の経済・社会パラダイム(企業の経済活動の根底に あり前提となっている物の見方)を与件とし,パラダイム自体については問 −74− 経 営 と 倫 理 題にしない場合での話である.パラダイム自体も考察対象に加えることも 考えられる.ここで既存のパラダイムと私か呼ぶのは,個人主義,適者生 存観,自由放任思想,機械的社会観,物質主義,経済成長主義,科学技術 22) 信奉が一体化したものである. 即ち,農業社会から産業社会への移行に伴ない,個が自立して芽生えた 個人主義(人間の理性に信頼を置き,自由を重んじ,自助を原則とする)を前提 に,相互の競争は放任・奨励する(競争は効率を向上させるとともに適者生存 を通じ社会を進化させるから).経済競争については,自由放任しても需給原 理により自然に均衡し,資源配分も最適化される.自由に経済活動する個 体は「互に必要物を供給しあう」分業システムという機械を構成するに れを私は機械観と呼ぶ.しかし,現実には,財交換を通じて関係財・ゲーム.・遊 び・時間埋めなども交換している).一方,自然との対決から発達した科学に 支えられて次第に顕著になった物質主義(最初は便利な物,新奇な物を素朴 に求めたのであろうが,次第に物のとりことなり,又,共同体・宗教の力の低下に 伴ない心の空虚も物で埋めるようになった)を暗黙裏に認め,その基盤となる 経済成長を促進する(拡大均衡策の方が円滑に運ぶという政治的理由もある). 成長の結果,幣害(公害など)が出ても科学技術力によって対応していけ ばよいと考える.以上が現代の経済・社会パラダイムではないかと思う. このようなパラダイム(ものの見方)自体をも考察対象に加えると,倫 理的問題の範囲が広くなる.経済行為については,使い捨て,過度の需要 創造,水膨れ経済,ラディカルモノポリーなどが問題となるであろう.又, 組織的行為については,ワーカホリック,過当な競争,一般的には「一体 二 経済行為 組織的行為 パラダイムを 与づ牛とする時 取 引 不 正 , 公害タレ流し 内 部 告 発 組織の横暴 パラダイムの 見直しも含む時 使 い 捨 て , 水膨れ経済 ワーカホリック 目的感喪失 −75 経 営 と 倫 理 我々は何のために何をしているのであろうか」という疑念・目的感喪失が 問題として出てくるであろう.経営倫理学の対象に関して以上述べたこと を表にまとめると前頁の通りである.資源・環境問題(それと関連して南 北・人口問題)が,人類の存続にかかわる大問題として顕在化し,産業社 会(何でも商品化の渦に巻き込んでしまう)が過渡期を迎えていると思われる 現在,特にパラダイムの見直しも含めて経営倫理を考えてみることが肝要 である. V.経営倫理の基準 上記のような倫理的問題を考察し是非を判断する際,則つとるべき倫理 原理・基準が必要となる.それは一般倫理学により提供されている.目的 論(功利主義が代表)と義務論とがそれである.しかし,厄介なことに,‥こ うした倫理基準そのものは充分確立されているとは言えない.功利主義と 義務論とでは一見したところ,考え方が対極的であるから,基準としてい かに統合するかがまず問題となる.また,基本的な基準だけでは個々の具 体的問題は解くことができないから,細則が必要となる.さらに,状況の 変化に応じていかに判断すべきかという状況倫理の問題も出てくる. 倫理基準についてもっと根源的な問題は,功利主義と義務論とは対極を なすものとして定式化されているが,果してそうなのかという点にあると 思う.功利主義に関して,なぜ人は効用を求めるか,何か幸福・効用か, 効用(満足)を最大化すべきか(中庸にとどめないで)とかは社会的な合 意・約束事として決まる.義務論に関し,なぜ人は権利を持つか,何か義 務か(何か権利で,何か正義か)とかも同様に決まる.とすれば,結局倫理 基準は社会的に決まる(p. 69 £,24∼i. 25参照)わけで,又,何か義務かを 決める時,それがよい結果を生むからだと判断されるとすれば,目的論・ 義務論の区別もあいまいになる(同様に,人が効用を求めることは暗黙の前提 になっており,何か効用かを最初に決めねばならないとすれば,功利主義は目的論 −76− 経 営 と 倫 理 24) でなくなる). しかも,何か幸福かとか何か義務かとかは,社会の状況に応じて決まっ てくるから,元来状況的相対的なものである.例えば,資源・環境問題が 深刻化しており,かつ,物質的に豊かになり物質からの満足はもはや飽和 状態にある(限界効用てい減法則より)と思われる現況では,中庸を善とし, 「満ちる」を避ける東洋倫理の方があるいは社会的合意を得られやすいか もしれない. 以下,本稿の必要の範囲で,ヴェラスケス,ディジョージ,ボーチャン プ,高田教授の著作に依拠して,倫理基準をごく簡単にまとめ,その後, 基準の実践的適用に関して私見を述べたい.倫理基準は,論者によって二 分あるいは三分されている.三分法は功利主義(utilitarianism),人権 (right),正義(justice)の三つに分ける(ヴェラスケス,高田教授).二分法 は目的論(teleology。功利主義に代表される)と義務論(deont010gy)=に分け, 義務論に人権と正義を含ませている(ディジ3 −ジ,ボーチャンプ,塩野谷教 授).目的論と義務論に二分した上で,それぞれをさらに二分する(目的 25) 論を行為功利主義と規則功利主義に,義務論を行為義務論と規則義務論に二分)論 者もある(ラクロア,エツィオーニ).ここではまとめの便宜上,ヴェラス 26) ヶス,高田教授に依拠して三分法をとることにする(以下,特に依拠するの 27) はヴェラスケスのBusiness Ethics (Prentice-Hall)第2章である). (1)功利主義(utilitarianism) 功利主義によれば,複数の代替的行為の中で最大の功用(utility)をも たらす行為が善である(倫理的に正しい)ト効用には非経済的なもの(健 康・知識・快楽など)も含まれる.効用は行為者が受取る効用だけでなく, 行為の影響を受ける者全員が受取る効用を合算したものである.従って, 利己主義とは異なり,全体の利益,即ち,最大多数の最大幸福が考慮され ているレ最大効用をもたらす行為が善なら,最大効用を得ることを目的と −77− 経営と倫理 して行為がなされる.そこから功利主義は目的論(teleology)だとされる. また,行為の結果得られる効用を倫理的善の判定基準にするという意味か らは結果論だと言われる. 上記の功利主義(個々の行為ごとに善悪を判断するから行為功利主義と云う) の問題点としては①人権や正義と抵触することがある.つまり,ある人の 人権を蹊踊したり,ある人を差別したりすることにより全体としては最大 の効用を得られる行為がありうるが,その行為が倫理的に正しいことにな る.②効用の測定や結果の予測が困難である.の二点が挙げられる. ②に 対しては常識的判断(何か効用を持つか,いずれの方が効用が大きいかなどにつ いて)に依存したり,測定方法を工夫する(貨幣評(iが困難なら社会調査や投 票を使うなど)ことにより対処できる.より本質的な問題は①の方にある. そこで,規則功利主義が考え出された.j 規則功利主義は,規則のレベルで功利主義を考える.即ち,複数の代替 的規則の内で最大効用をもたらす規則を先ず求める.次に,その規則にか なうかどうかにより,個々の行為の善悪を判断するレこの規則功利主義は, 上述の人権・正義をどのように扱うか.あることを人権として認めること を規則とするか,認めないことを規則とするか(正義については,あること につき平等にすることを規則にするか,差別することを規則にするか)を功利的 計算に基き決める.この段階で,生存権や所有権のような基本的な権利は 認めることを規則にすることが,現代社会では合意されるはずである.次 に,個々の行為がその規則に反しないかどうかを判定する.<このように功 利主義をつくり変えると,人権や正義への抵触が回避される.人権や正義 を認めた規則が功利的に採用されるのは,長期的視野に立った場合が多い. 長期的に見ると,人権や正義を認める方が得策な場合が多いからである. また,一般にどんな規則が倫理的に正しいかは経験の蓄積,歴史から教え られることが多い. ( .・ 功利主義は近代経済学と適合している.経済学は,各人の利己的経済活 −78− 経 営 と 倫 理 動を放任すると(つまり,自由競争経済システムを採れば),効率が向上し資 源が最適配分されて全にとっても個にとっても最善の結果が得られる(勿 論,完全競争下において),ということを理論的に明らかにしようとする. これは功利主義の言葉で言えば,利己的経済を放任する(自由競争経済シス テム)という規則は,最大の効用をもたらすゆえ,規則功利主義から見て 正しいということになり,かくて経済学と功利主義はうまく適合するので ある. 犬 (2)人権(human rights, moral rights) 人権の基準によれば,人権を尊重する行為・規則・制度が倫理的に正し い.法的権利(legal rights)は国により異なることがあるが,人間として の権利,人権(human or moral rights)は万国共通・普遍的である丿人権 には消極的権利(他から侵害を受けない権利.身体・生命の自由,思想・表現の 自由,財産権など)と積極的権利(他に要求できる権利.生存権,教育を受ける 権利など)とがある.後者は20世紀に入ってから強調されるようになった. 功利主義の判断が社会全体の観点から行なわれるのに対し,人権に基ずく 判断は個人を擁護する立場から行なわれる.従って,多数の横暴を抑え少 数の利益を護る点に意味がある.人権基準は,行為が目ざす目的,あるい は,もたらす結果によってではなく,行為の動機・心情によって,行為の 是非を判定する.ある行為が一定の人権を尊重する意図があれば,その行 為を善とし,また,一定の人権の尊重を義務として課する.そこから義務 論(deontology)と呼ばれている. 人はなぜ権利を持っているか.功利主義者は,それにより効用が最大化 されるからだと答えるが,その答は不充分である.人は√他者に与える効 用とは無関係に,権利を持つからである.より説得的な人権の基礎づけは, カントの倫理理論によってなされる.カントによれば,人間は他の動物と は異なり唯一の理性的存在であるから,手段として扱うべきでなく,それ −79− 経 営 と 倫 理 自体を目的として扱うべきである.即ち,自由な人間として平等に扱われ るべきであり,それが人間としての権利なのである.そして逆に,人間を そのように扱うことは無条件的・絶対的な命令(categorical imperative, 定言的命令)であり,誰もが負うべき義務となる(言い換えれば,人間は理性 的存在として自由を持つゆえ,倫理的義務・責任も持つ). 33) 人間を目的として遇しようとすれば,行為は形式上,普遍性(universality)・逆転可能性(reversibility)を備えねばならない.つまり,自分が 34) する行為は,他の誰もがすることができるものでなければならず(普遍性), かつ,その行為が自分に向ってなされてもよいようなものでなければなら ない(逆転可能性).この行為の形式基準は黄金律(“Do unto others as you would have them do unto you.")と酷似しているにまたトこれは行 為や規則の内容は問わず,形式上の妥当性を問う.それゆえ形式主義と呼 ばれる.例えば,「ウソをつくな」という規則は普遍性・一貫F生という形 式基準を満たすが,「ウソをつけ」という規則は形式基準を満さない.な ぜなら,誰もがウソをつけば,ウソをつぐ効果がなくなり,ウソをつくこ と自体が成り立た=なくなるからである(誰もがウソをつくと皆が損をすると いった功利主義的理由からではない点に注意). 35) 以上,カントによる人権の基礎づけ,行為の形式基準について述べたが, そこでは高田教授の見解を参照させて頂いた.教授は,カントの定言的命 法につき,コ第2原理を法則導出の根拠,第3原理を法則成立の条件とし. 36) 第1原理を基本原理とされる.この整理の仕方は私にはよく納得できた. カント理論は,なぜ人権を持つかを基礎づけるのみで,何か人権かとか どんな人権を持つかとかについては何も語らない.何を人権として認める かは,人々の合意により決まるj合意形成の過程で,功利的計算も入って くると私は思う.功利主義において,何か効用であり,効用をいかに予測 し評価するかが人々の合意形成を通じて決まってくるのと類似しているレ なお,功利主義では,人はなぜ効用を求めるかは問わないが,この問と. −80− 経 営 と 倫 理 37) なぜ人権を持つかという問との間にも類似性があると思う.= ○ カントの問題点としては,①権利の間にコンフリクトが生じた時に解決 できない. ②カントの基準にはあいまいな所かおる.などが挙げられる. ②については,確信犯の判断と社会の判断を分離することにより対処でき る.むしろ問題は①だが,これも上述のように,どんな権利かおり,どの 権利を優先させるべきかにつき,合意形成をはかっていくしかないだろう. 私はもう一つ問題点として,囚人のジレンマや共有地の悲劇と形式基準 (普遍性・一貫性)との関係を挙げておきたい.囚人のジレンマを招いたり 共有地の悲劇をもたらす行為は√結局共倒れに終わり,行為自体を成り立 だなくさせるから,先述のウソの例と同様に,ト普遍性も一貫性も無く,形 式基準を満さない.だが,囚人のジレンマや共有地の悲劇の場合は,それ が個人としてはわかっていても,やらねばやられるから,やむなくやらざ るをえない立場に追いこまれる点に問題がある.ここでは個人レベ冲の倫 理では解決かっかず,社会レベルで互に話し合い合意に達する必要がある と思う. 犬上 (3)正義(justice,fairness) 正義の基準によれば,人間を平等・公正に遇する行為・規則・制度が倫 理的に正しい.正義は人権に基礎を置いている.自由な人間として平等に 遇されるべきだという人権が前提にされているからこそ,便益と負担は平 等に配分されるべきだという正義が問題になってくる.従って,一般に人 権は正義に優先する.また,人権ならびに正義は人間社会の基本であるか ら,これらは原則として功利に優先する.図式的には,人権>正義>功利, あるいは,義務(人権・正義の確保)>功和」(結果として得られる差引利益の 合計)となる.正義としては分配正義,処罰正義,補償正義の三通りが考 えられる.分配正義は社会の便益・負担の公正な分配,処罰正義は悪事に 対する公正な処罰,補償正義は被害に対する公正な補償に係わる.ここで −81− 経 営 と 倫 理 は一番議論を呼ぶ分配正義について,分配正義の総合的理論だと考えられ 40) るJ.ロールスの正義論を取上げる. : ロールスは,次の場合に,便益・負担の分配は公正だ,と言う. ①各人は,他者の同様な自由と矛盾しない限り,最も包括的な基本的自 由に対して,平等に権利を持つ[平等原理]. ②社会的・経済的不平等は, ニ(a)最も恵まれない人々に最大の便益が与えられるように[格差原理], かつ, (b)公正な機会均等という条件下で,万人に解放されている職務・地位 に付随するとうに[機会均等原理], 設定された時に是認される. さらに,これら原理間の優先順位は, ①, ②(b), ②(a)の順だ,とする.ま た,倫理原理の選択については,人がどんな社会的位置(性別,人種,能力 財産など)に置かれるかわからない時にれを原初状態original ぶ.原初状態においては誰も無知のヴェールveil positionと呼 of ignorance に包まれている, と言う)に,どんな倫理的原理を選ぶかを考えてみればよい,人が原初状 態にありveil of ignorance に包まれているならば,上述の原理を選ぶだ ろう にれはヴ種の社会契約でもある)とロールスは言う; さらに,原初状 態にある人が選ぶ原理は,人間を目的として遇し,普遍性という形式基準 を満すから,カント理論にもかない,倫理的に正しい,と主張する. ロールスの原理に対しては,①原初状態の想定を置くことが正しいか否 か. ②原初状態にあらても果してロールスの原理を選ぶか否か.などの疑 問が出されている.しかし,ロールスの原理は,①自由,機会の均等,恵 まれない人への配慮という基本的な価値を含んでおり, ②西側社会の経済 体制に合致し(機会の均等を保障し,恵まれない人を優先させる限り,不平等・ 格差の存在は是認する), ③共同体主義(恵まれない人を助ける)と個人主義 (個人的利益追求の自由を認める)を統合し, −82− ④分配基準として必要(need), 経 営 と 倫 理 能力,貢献のいずれも考慮に入れている。という点に大きな利点かおる。 以上,功利主義,人権,正義という三つの倫理基準につき,主として ヴェラスケスに従いながら要点のみ整理した. VI.倫理基準の適用と経営者 現実の倫理問題に遭遇した時には,上述の倫理基準(功利,人権,正義) を統合的に適用する必要がある.即ち,各基準の聞に相違が出た時,どの 基準を優先させるか決めておかねばならない.ヴェラスケスは,原則とし て人権,正義,功利の順序だと言う.民主主義社会では,個人の尊厳が基 本にあり,それを尊重する人権こそ最重要だからである.私も,それでよ いと思う.この考え方は,言い換えれば,人権・正義を守ることを制約条 件とし,その条件を満たした上で,全体の利益(功利)を増大させればよ 41) い,ということになる. 人権・正義基準と功利主義とは,通常,前者が義務論・心情倫理,後者 が目的論・結果倫理だというように対比される.それもさることながら, もう一つ忘れるべきでないのは,前者は個人の保護,後者は全体の利益の 増進に関連が強い点である.言い換えると,功利主義によれば,個人の人 権・正義に配慮せず,社会全体の利益(社会全体とは何かとか,誰かが全体を 俗称しているのではないかといった問題はさておき)を優先させることになる のに対し,人権・正義基準は多数の横暴から個人を守る解毒剤の役割を果 しているのである. 営利活動 環境保護 功 利 自由経済システム GNW 人 権 財 産 権 生 存 権 83 経営と倫理 営利活動の自由と資源・環境の保護とは矛盾することがあるが,倫理基 準から言えば,前者は功利主義,後者は人権・正義と結びつきやすいよう にも見える.だが,そうとも限らない.営利活動の自由については,それ を認めることが社会全体にとりメリットがあると主張する場合(自由放任 思想が説くように)には功利主義により基礎づけようとするが,特定個人が 営利活動の自由を拘束された場合には自由権・財産権などの人権思想によ り対抗しようとする.また,環境保護については,それを進めることが損 得計算を通じて社会全体にとり有利となる(GNWを増やすなど)のがわか る時,それは功利主義に依拠しているわけだが,特定の個人が環境破壊に より被害を受けるような場合は生存権・環境権などの人権理論により自ら を守ろうとする. このように,人権・正義理論は個人の保護,功利主義は全体利益の増進 と結びついている.しかし,以上述べたことと,個人レベル・全体レベル の関連を混同すべきでない.個人レベルでは, で述べたように,利己 (自分だけの満足の追求)か利他(他人への配慮,義務感からの行為)かが問題 になるのに対し,全体レベルでは,どんな行為が善なのかが問題となる. そして,功利主義(言うまでもなく行為者個人の満足だけでなく,その行為によ り影響される他者の満足・不満足のすべてを合算して行為の是非を判定する)に せよ人権理論にせよ,全体レベルの倫理基準となるものである. 最後に,倫理問題とリーダーシップの関連に触れて本稿を締めくくるこ とにしよう.経営倫理の実践においては経営者が中心的役割を果す.それ は先ず,経営者は組織の中で倫理上の基本的な判断を下す役割を受け持っ ているからであり,また,その役割に付随して情報量も多く,しかも役割 を担うに足る識見を備えているはずだからである. 一方,倫理原理は,自然法則とは異なり,あいまいさを残したものであ るから,功利・人権・正義の三基準をいかに統合的に適用するかとか,状 −84− 経 営 と 倫 理 況に応じていかに基準を運用していくかとかに関し,まさに主体的判断を 必要とする.また,功利・人権・正義の三基準も絶対的なものでなく,長 い人間の歴史の中から,合意事項として出てきたものであり,今後も,状 況の変化に応じて,既存の基準を見直し,新しい倫理を樹立していかねば ならないかもしれない.例えば,資源環境問題が深刻化し,何かとあくせ く競争せざるをえなくなっている昨今,物質主義や競争エトスを是正する ような倫理("足る”を知る東洋倫理とがゆとり”をもって人生を送る“ゆっく りずむ”など)がもっと考えられてもよい. これらは人々の話し合いを通じ合意としで形成されてくるものである. だが,ただ合意を待つだけでは百年河清を待つに等しい.やはり,企業社 会たる現代社会においては,経営者のリーダーシップが不可欠であり,経 営者が人間としての責任をとる(組織人として組織の論理に従うだけでなく) という自覚が肝要だと思う. 参 考 文 献 1)高田馨『経営学の対象と方法』(千倉書房,1987)pp.60∼68 2)塩野谷祐一『価値理念の構造』(東洋経済新報,1984)pp.3∼9丿 3 )K.E.ボールディノグ『組織革命』(岡本康雄訳,日経新聞社,犬1972)p. 4)ボールディング,前掲訳書,p. 4 5 塩野谷,.=前掲書,pp.il∼12 5)ボールディング,前掲訳書,p. 6)C. 7, a.9 I.バーナード『経営者の役割』(山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳,ダイ ナモンド社, 1968) 8)R.T。ディジョージ『経済の倫理』(山田経三訳,明石書店,1985)a.3 高田馨『経営の倫理と責任』(千倉書房, p. 1989,以下,高田倫理と略す) 29 9)高田,倫理,p. 4 10)大島康正『倫理学』(有信堂, 1977),ミpp.7∼10 11)K.デービス『人間社会論』(渡瀬浩監訳1西岡健夫訳,晃洋書房, 第5章. 演島・竹内・石川編『社会学小辞典』(有斐閣,1977)p. 12)拙稿『組織と規範』(羽衣短大紀要, −85− 1985年3月) 1985) 67 経 営 と 倫 理 13)見田宗介『価値意識の理論』(弘文堂,1966),p. 14)M.G.Velasquez, 15)A. Business Ethioni, The Moral 32 Ethics.(Prentice-Hall, Dimension (The Free 1982)pp. Press, 7∼9 1988)a.90, p. iO6 16)同上,p. 17)同上, 7 pp. 1∼2 18)T.L.Beauchamp &十N.E. (Prentice-Hall, : Bowie, Ethical Theory And Business 1979)p.16 19):安田三郎「行為の構造」(安田・塩原・富永・吉田編『基礎社会学』第1巻 (東洋経済新報, 1980)所収)第1章PP.iO∼11 20)Ethioni,前掲書,pp. 25∼29 21)C.I.バーナード「ビジネスモラルの基本的情況」(W.B.ウォルフ・飯野春 樹編『経営者の哲学 バーナード論文集』(文真堂,1986)所収)第11章, p, 234 22)拙稿丁経営学め前提としての社会観」(追手門経済論集, 1987年12月) p, 112 23)拙稿「企業と成員の行動」(追手門経済論集, 24)ディジョージ,前掲書, 1988年9月)pp.163∼171 p. 54も参照 25)同上,pp.53∼55,第3章,第4章. Beauchamp &Bowie,前掲書,p, 塩野谷,前掲書, 26) W.L. 21 pp. 15∼20 LaCroix,Principles For Ethics In Business America, (Univ.Press of 1979), Chap.2 Ethioni,前掲書,pp.12∼13 27)但し,高田教授は,三分法により倫理基準を説明された後で,形式(義務) 原理と実質(功利)原理に二分して,正義を後者に含ましめ,さらに形式・ 実質両原理を補完的なものと把えることにより統合をはかってお:られる.高 田,倫理,pp.35∼66, pp.73∼84 28)Velasquez,前掲書,p. Chap. 47. 1 以下,主としてVelasquez, 2 に依拠しているが,特に注意すべき点のみ参照頁を記す. 29)同上,p. 54 30)同上,・p. 56. 31)同上,pp.48∼49. 32)同上, p.61. 33)頂上, p. 65. ディジョージ,前掲書, pp.85∼92. 34)Velasquez,前掲書,pp.66∼67 . 35)この例は,ディジョージ,前掲書,p.89より 36)高田,倫理,p. 55,pン61. 37)本稿p.76参照. −86− Business Ethics, 経 営 と 倫 理 38)Velasquez,前掲書,p.72. 39)同上,pp.75∼76,pp.90∼93. 40)同上,PP-8 4∼88. 41)同上,pp.90∼93. 塩野谷,前掲書,pp.19∼20. (平成元年12月12咄受理) 87