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第 10 回 ユビキタスと TRON

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第 10 回 ユビキタスと TRON
情報産業論
ユビキタスと TRON、クラウドコンピューティングと新しいビジネス
第 10 回 ユビキタスと TRON
1、
ユビキタスと TRON の技術
(1)ユビキタス・コンピューティングからユビキタスネットワークへ
ユビキタスという言葉のそもそもの語源は、ラ
テン語で、“ubique=あらゆるところで”という
形容詞を基にした、「(神のごとく)遍在する」と
いう意味である。
もともとは、ゼロックス社のパロアルト研究所
のマーク・ワイザー(Mark Wiser、1952-1999)
によって、1989 年に提唱された一人が複数のコ
ンピュータを使う第 3 世代コンピュータ・ネッ
トワークの概念「ユビキタス・コンピューティン
グ」の中で始めて使われた。
一方日本では、野村総合研究所が 1999 年に次世代 IT をになうキーワードと
して「携帯機器や情報家電などの種々の機器がネットワークに接続され、いつで
も、どこでも利用できる」を意味する言語「ユビキタスネットワーク」として使い
日本の情報戦略ではこの用法が定着している1。
u-Japan 戦略を掲げた「ICT 政策大綱」でも、誰でも何でも簡単にネットに接続することに
より多様で自由かつ便利な「コミュニケーション」が実現するという点が最も重要な概念で
あるとして、
「新ビジネスや新サービスが次々に生まれる社会の実現」、
「誰もが安心・安全
に暮らせる社会の実現」、「個の活力が湧き上がる社会の実現」などが掲げられている。
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ユビキタスと TRON、クラウドコンピューティングと新しいビジネス
(2)ユビキタスネットワークを支える技術、TRON
1974 年に Intel 社によって発売されたマイクロプロセッサは、大型コンピュ
ータに必要な回路がほとんど組み込まれていた。このマイクロプロセッサの登
場によって大型コンピュータの処理能力を小型のワンチップで、低価格で手に
入れることが可能になり、パーソナル・コンピュータの実現が可能になった。ま
たマイクロプロセッサは電卓の他、炊飯器、テレビ、自動車のエンジンなどの機
器に組み込むことによって、これらの機器の制御も可能になるのであり、ユビキ
タス技術にもつながるものでもあった。
現在、全世界でパーソナル・コンピュータの生産台数は年間約 2 億台である
が、このマイクロプロセッサが組み込まれている「組込み式のコンピュータ」
(=携帯電話、情報家電など)の年間生産台数は 80 億個とも言われている。こ
の組み込み式のコンピュータに使われる OS として世界の 6 割のシェアを誇る
のが「TRON」である。
東京大学の坂村健教授(1951 年-)は 1984 年に、 将来のコンピュータ化された社会において協調動作
する分散コンピューティング環境の実現を目指し、
TRON(The Real-time Operating system Nucleus)
プロジェクトを開始した。TRON は情報処理用の
コンピュータではなく、車のエンジン制御、工場の産業用ロボッ
トの小型制御機器、携帯電話、ファクシミリ、デジタルカメラな
どの機器に組み込まれる制御用のコンピュータ の、リアルタイ
ム性を重視した OS2を中心としたアーキテクチャーである3。
TRON プロジェクトはトロン協会によって運営されている
が、トロン協会は OS の仕様と、組み込み制御システムのアーキテクチャー(ど
う作るか決めた仕様書などを含めて)を完全に公開している。そして TRON の
実装は企業にまかせられ、これを使って誰がどのようなソフトウェアを作って
もいいし、また作ったものについて GPL のように公開を義務付けてもいないの
で、企業が開発に参加しやすいスタイルになっている。
情報処理用コンピュータの OS が TSS(タイム・シェアリング)を基本としているのに
対し、TRON は制御機器用の OS なので実時間で待ったなしで対応する必要(例えば車の
エンジン制御ならピストンが上がるまでに点火タイミングのための計算が終わっていない
とエンストしてしまう)からリアルタイム(実時間)OS となっている。
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TRON は組み込み制御用のコンピュータの OS だけでなく、コンピュータのハードウェア
の規格や IC カード、非接触認証などの規格からコンピュータの人間の間のインターフェー
スデザインまで含めた標準化とオープン化の取り組みになっている。そのため TRON プロ
ジェクトは、MTRON (TRON プロジェクトの目標とする分散コンピューティング環境)、
ITRON (組み込みシステム向けのリアルタイム OS)、BTRON(パソコン向けの
OS)、eTRON(セキュリティ規格を定めたもの、IC カード、非接触認証などの規格)など
の互いに連携する多くのサブプロジェクトによって構成されている。
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(3)TRON プロジェクトと、どこでもコンピュータ
TRON プロジェクトが目指すのは、身の回りのあらゆる機器、設備、道具にマイ
クロプロセッサが組み込まれ、それらがネットワークを介して相互に通信し協
調動作することによって、人間の活動を多様な側面から支援することである。
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そのため、
「自律移動支援プロジェクト」や「食品トレーサビリティ」に関する
実証実験が全国各地で行われている。
4
位置情報を携帯電話、ユビキタス機器、インターネット、などのツールも活用し、利用者に
適応した形で情報提供・情報交換するための実証実験で、青森県の「ゆきナビ青森プロジェ
クト」、東京都の「東京都ICタグ実証実験(銀座)」、静岡市の「静岡おもいやりナビ実証実
験」、奈良県の「奈良自律移動支援プロジェクト」、堺市の「堺市自律移動支援プロジェクト」、
和歌山県の「世界遺産熊野古道ナビプロジェクト」、神戸市の「自律移動支援プロジェクト
(神戸)」、熊本県の「くまもと安心移動ナビ・プロジェクト」など全国各地で行われている。
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(4)組込みソフト開発環境 T-Engine フォーラムとユビキタス ID 技術
組込みコンピュータ用の仕様に関する技術的検討は ITRON によって行われ
ているが、現在はユビキタス・コンピューティング環境構築のためのオープン
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なリアルタイムシステム標準開発環境である T-Engine と、リアルタイム OS で
ある T-Kernel として進んでいる。
また、コンピュータが読み取りやすい形で、実世界の様々な「モノ」や「場所」に
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固有の番号=「ucode(ユビキタスコード)」 をつけ、この情報を端末=ユビキ
タスコミュニケーター(UC)を活用することによって人間が獲得し、ユビキタ
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スネットワーク環境を作り出す。ucode は非接触型 IC カード や電子タグ(RFID タグ)8の他に、「モノ」に直接印刷する技術も進んでいる。
T-Engine には携帯型情報機器などの画面制御などの開発環境である標準 T-Engine の他、
家電機器や計測機器向けの μT-Engine、照明機器などの制御の n T-Engine、そして無線ネッ
トワーク経由での超小型端末のための p T-Engine の4つのプラットフォームがある。
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基本コードが 128 ビット、約 340,000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000,
000 個(3.4×10 の 38 乗個=3.4 億×1000 兆×1000 兆個)の番号をつけることができる。
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キャッシュカード大のプラスチック製カードに極めて薄い半導体集積回路(IC チップ)を
埋め込み、情報を記録できるようにしたカード。アンテナが内蔵されており、微弱な電波を
利用して端末と交信する。JR 東日本の「Suica」に使われていることで有名。
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RFID (RF-ID、Radio Frequency Identification) :微小な無線チップにより人やモノを識
別・管理する仕組み。流通業界でバーコードに代わる商品識別・管理技術として研究が進
められてきたが、社会の IT 化・自動化を推進する上での基盤技術として注目が高まってい
る。耐環境性に優れた数 cm 程度の大きさのタグにデータを記憶し、電波や電磁波で読み取
り器と交信する。タグは、ラベル型、カード型、コイン型、スティック型など様々な形状があ
り、用途に応じて選択する。
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2、ユビキタス:日本の IT 投資とネットワーク
(1)オープン・ネットワークと標準化
1990 年代のアメリカの経済成長の背景には、アメリカの産業がコンピュータ
とインターネットを中心とした IT の優位性を IT 投資として企業活動に応用し、
ネットワーク型の生産~流通システムの完成があった。そして 1990 年代の後半
から 2000 年代にかけて、今度は日本の産業がこぞって IT 投資を拡大したが、そ
の結果従来の「系列」を中心とした日本型企業間関係は変容しつつあるのだろう
か。
日本の産業、特に自動車産業に代表される製造業の場合は「系列」を解体して
オープンマーケットを導入するというドラスチックな改革は行われなかった。
もちろんその取り込み方は様々である。同じ自動車メーカーでも日産はカルロ
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ス・ゴーンの社長就任とともに「系列解体」を進めてきたと言われている 。一方
トヨタは一次サプライア=下請企業である協豊会を温存し事実上「系列」を維持
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してきた 。いずれも目指すところは IT 投資=情報化投資の拡大と活用による
コストダウンであり、日産はそこに「オープン・ネットワーク」の特徴を最大限
に活かし、トヨタは系列内の企業に対して製品コストを下げるなどの技術指導
とともに、その基盤となる IT 投資を行ったのである。アメリカの産業・企業が
IT 投資と併行してネットワーク上のオープンなマーケットにおいて「標準化」を
計ったのに対して、日本の産業・企業は系列関係企業との「協議」とオープンな
マーケットを併用しながら「標準化」を行っていったと言えよう。
(2)ユビキタス・ネットワークによる生産~流通ネットワーク化
日本の「ネットワーク」型企業関係においては「パートナーシップに基づいた
取引関係」を前提として「標準化」が進行している。2000 年代に入り、トヨタに代
表されるように「系列」を維持しながら IT 投資の拡大によって企業活動を活性
化させた日本の産業にとって、「オープン・アーキテクチャー」であるインター
ネットに代わる IT 投資をさらに企業活動に応用し、ネットワーク型の生産~流
通システムを完成・拡大しようとするのがユビキタス・ネットワークの導入で
ある。
ユビキタスを象徴する技術である電子タグ(RF-ID タグ)=電子荷札を利用
1999 年にカルロス・ゴーンが社長に就任した日産は、日産リバイバルプラン(NRP)に
基づいて系列の下請企業を 1145 社から 600 社へと削減、購買比率を 20%削減して従来の
「系列」の解体を進めた。そしてこの削減分は COVICINT に代表される~e マーケットプレ
イスでの調達で代替してきたのである。これが日産の業績を回復させたと言われている。
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同じ 1999 年にトヨタはデンソー、トヨタ自動織機、アイシン精機などの「系列」企業に対
して役員派遣などの人的関係強化を行い、「系列」関係を強めていった。
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した物流・在庫管理など、流通業界でバーコードに代わる商品識別・管理技術
として研究が進められてきたが、それに留まらず社会の IT 化・自動化を推進し、
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ユビキタス・ネットワークを支える基盤技術として注目が高まっている 。流通
過程での「実証実験」段階を他所に、実際に電子タグの応用と成果が進んでいる
のはやはり自動車産業を中心とする製造業である。例えばトヨタは下請企業の
部品箱に電子タグを装着し、親企業であるトヨタにとっての在庫管理と物流管
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理を進めている 。生産過程における情報が(系列内の)異なる企業間おいても
データベース化され、リアルタイムで更新され、不断の「カイゼン」が要求される
のである。部品箱につける電子タグを含めた情報管理システム=ユビキタス・
ネットワークによって可能になる生産性の向上であり、生産過程において剰余
価値の獲得を可能にするのである。
「かんばん」は電子タグによって「電子かんば
ん」となる。もちろん電子タグを含めた情報管理システムの投資=IT 投資は下請
企業の負担となる。
さらにトヨタが現在進めている戦略車種の世界同時立ち上げのプロジェクト
は、世界中の生産工場において品質の均質化、設計から生産技術、部品調達まで
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の全工程を見直す「カイゼン」によって可能になる 。この品質の均質化に必要な
図面の統一ひとつとってみても、世界中の地域で異なる部品、材料、生産設備、労
働者の「能力」などをデータベース化し、経営戦略を立てることが必要であり、こ
れを可能にするのがユビキタス・ネットワークである14。これはまさに e マーケ
ットプレイスが目指す世界的規模での製品の標準化と同じものを「系列」内にお
いて行おうとするものである。この点で日本におけるネットワーク型の生産~
流通システムの導入すなわち日本型の「ネットワーク」型企業関係の形成は「系
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列」の代替ではなく強化として進んできたことがわかる 。
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電子タグの実証実験などは流通過程中心に行われているが、これが普及するためにはコ
ストの問題が解決されなければならない。現在の技術(2004 年時点)では1タグ 10 円程度
と言われているが、取り付け費用等も含めると1タグあたり 100 円程度かかるのが現状で
ある。このコストでダイコン1本1本に電子タグを取り付けるとは考えにくく、そのコスト
は誰が負担するかという問題になる。ユビキタス・ネットワークの「基盤」ともいえる電子
タグの導入が流通過程で直ちに進むとは考えにくい。
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トヨタの代表的な下請企業のデンソーではラインを流れる部品箱に電子タグを装着して
いる。そして、製造ラインでの加工情報、機械情報等を書き込み不具合等を把握、問題発生前
に機械を止めることなども行うことなどによって、不良品の発生率が数 PPM とトヨタグル
ープでも「驚異的」な品質を「誇っている」。
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「トヨタ自動車 世界同時カイゼンへの『超進化』」、
『週間東洋経済』2004.11.6 号より。
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トヨタの生産システム、特に「かんばん方式」の「かんばん」の意味するところは「情報とモ
ノを一緒に運ぶ」ということであり「情報とモノが常にあわせて運搬されることで生産力が
アップする」という考え方である。電子タグ~ユビキタス・ネットワークは電子化された
「かんばん」による JIT(ジャスト・イン・タイム)生産方式であると言えよう。
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もちろんそこで生産され販売される「商品」にも電子タグが付着し、それに従ったサービ
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(3)IT 投資としてのユビキタス・ネットワーク
日本の企業が電子タグを含めたネットワークを導入して生産から販売に至る
までの過程のネットワーク化を行うためには、そのための投資が必要になる。
日本でユビキタス・ネットワークやその技術が強調される背景には、インタ
ーネットに代表される「オープン・ネットワーク」を支える技術はアメリカが圧
倒的に優位にあることが背景にある。パソコンの中核部分をなす CPU や OS は
Intel や Microsoft に、そして「オープン・アーキテクチャー」技術の中核をなす
インターネット関連でも通信機器(ルーターなど)は Cisco などのアメリカの
情報産業に完全に市場を支配されている。これに対して、情報家電や携帯電話に
代表されるモバイル端末では市場占有率でも技術力でも日本が優位にあるとい
う認識がある。特に情報家電などの組み込み式のコンピュータに使われる OS と
して世界の 6 割のシェアを誇る TRON の技術的優位性を背景に情報通信産業の
分野で巻き返しと市場の創出・拡大を図ろうとする意図がある。
もちろんこの TRON を中核として構築されるユビキタス・ネットワークが稼
動するためには、情報端末、データーベース・システム、そして膨大な数の電子
タグ、さらにシステム全体の開発費用が必要になる。まさに IT 投資=情報化投
資に他ならない。
1990 年代のアメリカの産業が「オープン・ネットワーク」技術の優位性を IT
投資として企業活動に応用し、SCM~BtoB ~e マーケットプレイスと続くネッ
トワーク型の生産~流通システムを完成させたのに対し、2000 年代に入り日本
は「オープン・ネットワーク」技術を継承しながらもユビキタス技術の優位性を
背景に「系列」を強化してきたのである。
ユビキタス、あるいはユビキタス・ネットワークは、インターネット中心のア
メリカのネットワーク技術の「標準化」に対する日本の「標準化」戦略であるが、
このことによってユビキタス・ネットワークを導入する、すなわち IT 投資をす
る企業の生産過程の「標準化」も併せて行われつつある。ユビキタス・ネットワ
ークによる生産~流通ネットワーク化が、「系列」を強化する日本型のネットワ
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ーク型企業関係を完成しているのである 。
スが供給され、生産者は電子タグからの情報を管理する。その点でも自動車と関連するサー
ビスをユビキタス・ネットワークによって結んだテレマティクス(Telematics=
Telecommunication+Informatics)がユビキタスによる新ビジネスの代表例として取り上
げられるのは象徴的である。このテレマティクスの先行事例がトヨタの車載ネットワーク
サービス G-BOOK http://www.g-book.com/ である。
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電子タグのついた「商品」が「消費者」のもとに販売され、その消費情報が生産過程にまで
フィードバックされることを考えると、現代資本主義=情報資本主義において消費者=労
働者はその労働力の再生産過程に至るまで電子的に資本の下に包摂されていると言えよう。
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