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第I部 大事故の系譜(抜粋) PDF 2062KB
CASE 36 日航ジャンボ機墜落、炎上 date 1985年(昭和60年)8月12日 事故の経緯 1985年(昭和60年)8月12日18時12 scene 群馬.上野 適性を保つよう客室内を与圧するための仕切 り壁で、同機の後部圧力隔壁はアルミ合金製 の直径約4.56m、奥行き1.39mのお椀型で、 分、日本航空の羽田発大阪行き123便ボー 扇状の湾曲した厚さ約0.8~0.9mmのパネ イング747SR-100型機が羽田空港を離陸。 ルを18枚組み合わせて厚さ約2.4mmのZ型 18時24分35秒、同機が西南西に向かっ 断面の放射状補強材36本と幅2.5インチ= て相模湾から伊豆半島南部の東岸上空に差 6.35cm厚さ約1mmのリング状補強材4本 し 掛 か り 巡 航 高 度24,000フ ィ ー ト = 約 などを配してリベット結合、1平方m当たり 7,300mに到達する直前、「ドーン」という 約13トンの荷重に耐えられる。下部を4系 音がして同機で後部圧力隔壁の一部約2~3 統の油圧配管が貫通している。 平方mが開口。 18時25分21秒、同機は東京管制区管制 この時尾部に設置された圧力開放ドアが自 所(以後東京コントロール)に対し「異常事 動的に作動したものとみられるが、隔壁開口 態が発生したため22,000フィートに降下 面積が大きかったため圧力開放ドアが開いて し羽田に引き返したい」と要求。 も尾部の圧力が上昇し補助動力装置( APU 18時25分40秒、 同 機 は 大 島 へ の レ ー =Auxiliary Power Unit )防火壁及びAPU ダー誘導を要請、東京コントロールは右旋回 本体が破壊し尾部後部から外部に空気流出。 して針路90度で飛行せよと指示。 与圧空気は垂直尾翼の主要構造部であるト 同機は伊豆半島南部の中央付近で針路やや ルクボックス内にも点検口を通じて流入し 右へ向けた。西北西に向かって伊豆半島を横 内力上昇により垂直尾翼の半分以上破壊。同 切り駿河湾上に出た。 時にそばを通る4系統8本の油圧配管全てが この頃から同機には縦揺れ±15度、周期 破断。油圧配管の遮断弁は後部圧力隔壁の後 約1分15秒の激しいフゴイド運動(機首が 方に付いていたため配管とともに破壊され作 上下するとともに速度も変化すること)及び 動油の漏洩遮断をすることはできなかった 機首の左右振れが±40度、周期約11.5秒 (注)。 圧力隔壁は高高度で飛行する際に機内の快 のダッチロール運動(機体の横回転と機首の 左右振れが同時に起こること)が発生、高度 keyword【キーワード】:日本航空 ボーイング747 圧力隔壁 油圧配管 修理ミス 御巣鷹山 118 日航ジャンボ機墜落、炎上 事態を宣言。 18時28分31秒、 東 京 コ ン ト ロールは同機に対し「大島へのレー ダー誘導のため針路90度で飛行せ よ」と再度指示、18時28分35秒、 同機は「現在操縦不能」と応答。 18時31分14秒、 東 京 コ ン ト ロールが「名古屋に降りられるか」 と聞いたところ、機長は「羽田に帰 りたい」と応答。この頃、同機は焼 津市北方を通過し右旋回して針路を 北に向けた。 18時35分頃、同機は針路を東北 東に向けた。 18時40~44分頃、同機は大月 市上空を右回りで一周した後、高度 約21,000~25,000フ ィ ー ト を 上 下 し 速 を下げながら東に向かった。この頃にはフゴ 度約200~300ノットの間を変動した。 イド運動が一旦おさまった。 全油圧配管が破断した後でも主翼のフラッ 18時46~48分頃、同機は左旋回して西 プは電動操作可能だが駆動速度が遅く効果は 北西に針路を向け高度7,000フィートまで ほとんど期待できなかった。また、エンジン 降下。その後、山を避けようとエンジン出力 出力を増減させて機首を上下させる姿勢制御 を上げ上昇。再びフゴイド運動発生。 は行ったものとみられるが、同機の左右エン ジン出力は最後まで同じだったことからエン 18時53分 頃、 同 機 は 高 度 約13,400 フィートに達した後再び降下。 ジンの左右推力に差を付けて方向制御するこ 18時54分25秒、同機は東京コントロー とはなされなかった。同機の旋回は乗員の操 ルの指示で交信を切り替えた東京進入管制所 作によるものではなく風の乱れなどによるも に現在位置を知らせるよう要請、東京進入管 のとみられる。 制所が位置を知らせ、18時55分5秒、米軍 18時28分35秒、同機は「操縦不能」と 応答。 18時26分ちょうど、機関士が操縦装置の 油圧低下を報告。 18時27分7秒、東京コントロールに緊急 横田基地も受入可能と伝えると同機は了解。 18時56分頃、同機は群馬県多野郡上野村 の御巣鷹山の尾根(標高約1,565m )に墜落、 大破炎上。 後部圧力隔壁が破断・開口するに至った経 第Ⅰ部 大事故の系譜 119 図 後部圧力隔壁と胴体後部 緯は次のようなものであった(注)。 はずの負荷が真ん中の接合部に集中し、当該 1978年6月2日15時1分頃、同機は大阪 部分の強度が本来の接続方法による強度の約 国際空港で着陸に失敗し、機体尾部を滑走路 70 %となり、金属疲労を起こしやすい接合 に接触させる「しりもち事故」を起こし機体 形態となった。 が中破、後部圧力隔壁が損傷。 修理時及び修理後の修理チーム検査員、日 1978年6月24日~7月1日、米国ボーイ 航、航空局による目視検査では、前方から見 ング社の修理チーム44人が来日して東京・ ても継板と当て板の隙間をシール材で埋めて 羽田空港で後部圧力隔壁の下半分を新品に交 いたこともあり、この欠陥修理部分を発見で 換する作業を進めたところ、胴体もしくは隔 きなかった。 壁が変形していたなど何らかの原因で、隔壁 修理後事故までに、約3,000時間ごとに の上下の接続部の一部で2列のリベット孔が 行われた7回の詳細な整備( C整備)でも隔 1列分しか重ならなかった。そこで隔壁の上 壁全体についての腐食発見を主とした後方か 半分と下半分の間に継板を挟んでリベットを らの一般的な目視検査は行われたが隔壁の接 3列にして接続することにし修正指示書を作 続部を特別に点検することはなかった。 成した。ところが、作業者が幅の狭い継板を この間、欠陥修理部のリベット孔縁には修 使用したため上側のリベット1列目までしか 理後12,319回の飛行発着のたびにかかる 接続できなかった。上側のもう1段上の列に 胴体内圧の繰り返し荷重による金属疲労亀裂 は当て板をしてリベットを打ち、後方から が進展し1984年11~12月の最後のC整備 見るとリベットが3列打たれているように見 にはリベット両側に最大約1cmの亀裂が発 えるようにした。その結果、3列に分散する 生していたが目視で発見できなかった。 120 日航ジャンボ機墜落、炎上 事 故 当 日 に 至 り、 高 度24,000フ ィ ー 査 を、 短 距 離 用747SR型 は2,400飛 行 回 トを飛行中に胴体与圧と外気圧との差圧約 数ごとに後方から目視検査と、24,000回 8.66psi= 約59,700Pa= 約6.33ト ン/平 数以後4,800回ごとに渦電流、超音波、X 方mにより欠陥接合部分から破断が隔壁全体 線よる非破壊探傷検査を実施するよう航空会 に及び開口した。 社に要請。 (注)運輸省事故調査委員会による推定 事故の影響と対策 日航はB747の整備方式を次のように改 善。それまで定期修理の他に機数の20 %分 をサンプリングして重要部位を検査するH整 1990年5月11日、米連邦航空局は、急 備( Hospitalized Maintenance ) を 必 要 減圧対策として旅客機の設計段階の耐空性基 に応じて行っていたが、これに替えて4~5 準改正。1 )尾翼部分など非与圧部分を急減 年ごとのM整備( Major Maintenance )を 圧に耐える機体構造にする、2 )油圧など操 新設。M整備では与圧胴体内部構造について 縦系統が同時に破壊されないようにする、な 使用年数20年、国際線20,000回飛行、国 どとした。これを受けて運輸省も耐空性審査 内線24,000回飛行に達するまでに全機を 要領を改正。 100 %検査するほか亀裂や腐食の発見・除 ボーイング社は以下のような対策を実施。 去、防錆剤の塗布、機体の再塗装、大型部品 1 )油圧配管4系統のうちブレーキにも使用 交換などを行う。実施間隔は経年劣化に備え できる第4系統に後部圧力隔壁の後ろの垂直 て国際線は1、2回目5年ごと、3、4回目4.5 安定板に入る上流側に自動遮断弁装着、2 ) 年ごと、5回目以降4年ごと、国内線は1、2 後部圧力隔壁の中央下部にあるAPU高圧空 回目4.5年ごと、3回目以降4年ごとと整備 気ダクトの両側に2系統ずつ配置してある油 間隔を短縮。 圧配管のうち第2系統を前方から見て左へ約 さらに担当の整備士が専従で点検、整備す 25cm移動、3 )隔壁のストラップ=リング る「機付き整備士」制度新設。しかし整備チー 状補強材を幅2.5インチ4本の内側から1本 ムの人員は次第に削減され、2003年に廃 目から2本目の間と3本目と4本目の間に幅 止。 4.5インチのストラップを追加、4 )APU高 運輸省は航空局に各航空会社の整備業務の 圧空気ダクト貫通部周囲と隔壁中央部に補強 監督などを行う整備審査官を東京と大阪の各 板設置、5 )尾部胴体から垂直尾翼に通じる 航空局に計7人配置。 点検口( 57×38cm )に蓋設置、6 )長距 遺族らのはたらきかけにより航空振興財団 離飛行用747LR型旅客機の後部圧力隔壁に が人体への衝撃を和らげる「後ろ向き座席」 ついて2,000飛行回数ごとに後方から目視 と「肩掛け式座席ベルト」を5年かけて試作 検査と、20,000飛行回数以後4,000回ご 開発したが実用化されていない。 とに渦電流、超音波、X線よる非破壊探傷検 第Ⅰ部 大事故の系譜 121 ◆亡くなられた方等のデータ 運航乗務員3名、客室乗務員12名、乗客509 名、計524名のうち、重傷の乗客4名を除く 520名 が 死 亡( 0-9歳48名、10-19歳42名、 20-29歳105名、30-39歳108名、40-49歳124 名、50-59歳78名、60-69歳13名、70-79歳1名、 80-89歳1名)。単独機としては世界最悪の航 空事故。 ◆事故を残す、偲ぶ ●残骸等 2006年4月24日、 日本航空の社内研修施設「安 全啓発センター」が羽田空港整備地区の日本 航空のビルの一室(床面積約620平方m )に オープン。修理ミスのあった後部圧力隔壁、 破壊された垂直尾翼、原型をとどめないほど に壊れた座席、ボイスレコーダー、乗員・乗 客が書き残した遺書やメモなどを展示。日航 は当初、後部圧力隔壁などの主要部品を除い て廃棄する予定だったが、2005年に運航ト ラブルや整備ミスが相次いだことの反省や外 部有識者による「安全アドバイザリーグルー プ」の提言( 2005年12月)などにより施設 を新設して保存・展示することにした。 ●家族連絡会 1985年12月7日、遺族連絡会「 8・12連絡会」 発足。 ●裁判等 1986年4月12日、遺族で組織する「 8・12連 絡会」ら159家族583人が日航、 ボーイング社、 運輸省の各幹部計12人を業務上過失致死傷 罪及び航空危険罪違反で東京地検に告訴。以 後8月12日までに計5回にわたり計697人が告 訴。 1986年7月26日、乗客48人の遺族131人が日 航とボーイング社に対し158億円の損害賠償 を求めて米国ワシントン州キング郡裁判所に 提訴。 1987年7月24日、同裁判所はボーイング社に よる修理の欠陥と事故の因果関係を認定した 122 ものの損害賠償額は日本の裁判所で決定すべ きとの判決を下し、1987年9月4日、原告側 の不服申し立てを却下し判決確定。原告側は 上告。1990年8月2日、ワシントン州最高裁 は上告を却下。 1988年1月30日、「 日 航JA8119事 故 の 正 当 な賠償を求める会」の遺族150人が米裁判所 の決定を受け、ボーイング社に対し約158億 7,000万円の損害賠償を求めて東京地裁に提 訴。1991年3月26日、和解。その他の遺族が 起こしていたものを含め国内21件米国12件 の損害賠償訴訟は1993年4月2日までにすべ て和解。 1988年12月1日、群馬県警が日航役職員12人、 ボーイング社作業員4人、運輸省の航空機検 査官ら4人の計20人を業務上過失致死傷の疑 いで前橋地検に書類送検。 1989年11月22日、前橋地検は送検された20 人全員を不起訴。ボーイング社修理作業員に ついては事情聴取ができず修理状況をつかめ なかったことなどから過失を特定できなかっ た。日航や運輸省については、高水準の修理 技術が信頼されていたボーイング社の修理に 対し竣工検査や後の点検でミスを発見するこ とは事実上困難とした。 1989年12月19日、遺族らは前橋検察審議会 に不起訴不当の審査申し立て、1990年4月25 日、前橋検察審議会は日航職員2人、ボーイ ング社作業員2人の不起訴は不当、他は不起 訴相当と決定。1990年7月12日、前橋地検は 再捜査の結果4人を不起訴。8月12日、公訴 時効成立。 ●慰霊碑 1986年7月30日、遺族、日航、上野村がつく る財団法人「慰霊の園」が群馬県上野村にあ る「慰霊の園」に慰霊塔と納骨堂建設。 1986年8月1日、財団法人「慰霊の園」が事 故現場の御巣鷹の尾根に「昇魂之碑」建立。 裏面に「昭和60年8月12日此所に日航機墜落 し、520名の御霊昇天せらる」と刻まれた。 1988年7月31日、遺族有志が事故現場に「日 日航ジャンボ機墜落、炎上 航123便事故記念碑」建立。 群馬県医師会『日航123便事故と医師会の活 ●報告書 動』 群馬県医師会 1986 1987年6月19日、運輸省事故調査委員会は運 『日本航空連続事故 内部からの提言 安全 輸大臣に報告書を提出。 飛行への道はあるか』 日航機事故真相追及 ●追悼文集 プロジェクトチーム 1986 1986年7月31日、遺族連絡会は文集「茜雲」 『日航123便墜落事故対策の記録』 群馬県 発刊。その後毎年発刊され、2005年7月15日、 1986 20冊目として 「茜集総集編」 発刊。 吉岡忍『墜落の夏 日航123便事故全記録』 ●出版 新潮社 1986 「御巣鷹山に地獄を見た(第一線自衛隊員座談 加藤寬一郎『墜落 ハイテク旅客機がなぜ落 会・語られざる日航機事故の秘話) 」 『現代』 ちるのか』 講談社 1990 1985.11 尾崎一馬『現代人災黒書』 三一書房 1992 「あなたが利用する「ジャンボ機」に重大欠 角田四郎『疑惑 JAL123便墜落事故』 早稲 陥あり―このままでは"御巣鷹山の惨事"再 田出版 1993 び」 『現代』 1989.9 内藤一郎『真説 日本航空機事故簿 』 亜紀 「日航機墜落事故は不起訴処分、安全運航に 書房 1994 一層の努力を願う(時の話題) 」 『実業界』 藤田日出男『隠された証言 日航123便墜落 1990.2 事故』 新潮社 2003 「御巣鷹山の閃光ドラマはその瞬間に終わり、 また始まった―日航機事故から丸5年。改め て犠牲者の生きざま、遺族のその後に迫る(特 集・戦後45年の日本人) 」 『プレジデント』 1990.8 『週刊朝日』 「安全工学から見た御巣鷹山事故――事故 「日航ジャンボ機墜落事故」 防止方法の一般化の試み」 『安全工学』 ( 『昭和 50 〜 60 年 1994.12 「週刊朝日」の昭和史』 )より 「再び発生した圧力隔壁疲労破壊の証明する こと(日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故) 」 「…午後七時…救命胴衣をつけた乗客た 『技術と人間』 1999.1、1999.2 ちは必死で、両手で自分の足首をつかみ、 「日航の事故体質はどのようにして創成さ 頭をひざの間に入れる安全姿勢をとっ れ た か(日 航 ジ ャ ン ボ 機 御 巣 鷹 山 墜 落 事 故 た。 (中略) 「やがてかなりの急降下で降 〔 14 〕)」 『技術と人間』 2000.6 下(真っ逆さまという感じ)しだした。 「特別レポート JAL123便 御巣鷹山15年目の 間もなく三回ほど強い衝撃があり、周り 真実―「隔壁破壊」はなかった」 『新潮45 』 のイス、クッション、そのほかが飛んだ。 2000.8 自分の上にはイスがかぶさり、身動きが 井上赳夫『航空大事故の予測』 大陸書房 できない状態だった…」助かった落合由 1985 美さん。 (中略)…もし昼間の事故だっ 吉原公一郎『いま飛行機は安全か』 三省堂 たら、もっといい場所を選んで不時着し 1985 ていたはずで、そうすれば半分くらいの 朝日新聞社会部『日航ジャンボ機墜落 朝日 人は助かったかもしれない…」 新聞の24時』 朝日新聞社 1985 第Ⅰ部 大事故の系譜 123