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百折不撓 - ビジネスチャンス

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百折不撓 - ビジネスチャンス
縫製修行に入ってわずか一週間
後、中西氏は番頭に呼ばれ、告げ
られた。
「中西はん、あんたは明日から店
に行きなはれ。縫製はもう、よろ
しいから」
一流テーラーの職人修行が「さ
ぁ、これからだ」というときに機
会を奪われてしまったが、本人は
いたって意気軒昂だった。
《これでテーラービジネスの商売
を覚えられるかもしれない!》
中西氏が明かす。
「 私 が テ ー ラ ー に 入 っ た 動 機 は、
テーラービジネスがやりたかった
からなんです。職人の親父が苦労
する姿を見て育ちましたから紳士
服をやるなら職人ではなく、商売
をやろうと決めていました。だか
ら「店に出ろ!」と言われたとき
店頭に並ぶ商品価格は一万九〇〇〇円と
二万八〇〇〇円の二つだけ。業界に衝撃を
与えたツープライススーツ店のパイオニア
であるオンリー(京都市中京区/大証ヘラ
クレス上場)の中西浩一社長は、職人から
ビジネスの世界に足を踏み入れた変り種だ。
歩みを止めない同氏のターニングポイント
はいつも業績が伸び止まった時に訪れてい
る。変化によって上昇気流を掴む中西社長
の進化論に迫る。
紳士スーツのSPA(企画―製
造―販 売 の 一 貫 ビ ジ ネ ス ) を い ち
早く展開して、ツープライスショ
ップで紳士服業界に旋風を巻き起
こした オ ン リ ー 会 長 兼 社 長 の 中 西
浩一氏 の ビ ジ ネ ス 人 生 に は 、 三 回
のターニングポイントが存在する。
高校を卒業した中西氏は「商社
マンに な る 夢 」 を 描 い て 大 学 受 験
したが 、 失 敗 。 紳 士 服 職 人 の 父 を
頼って 、 京 都 の 一 流 テ ー ラ ー に 職
を求め た 。 徒 弟 制 度 の 空 気 を 色 濃
く残し て い た 職 人 修 行 は ま ず 縫 製
技術を 仕 込 ま れ 、 裁 断 を 覚 え て か
ら営業 に 出 さ れ る の が 一 般 的 だ っ
た。中 西 氏 と 同 じ く 職 人 修 行 に 励
んでい た 何 人 か の 若 者 は 、 そ う し
た修行 の 一 本 道 を コ ツ コ ツ と 歩 き
始めて い た 。
ところが…。
懇意にしていた社長が
一号店開設を後押し
は、うれしかったくらい」
こうして中西氏は急遽、テーラ
ー商売の見習いを始めることにな
った。
だが、商売の道も厳しかった。
朝は八時に出勤し、毎日一時間
かけて店を掃除して、ワックスを
かけて床をピカピカに磨く。掃除
が終わると番頭から様々な雑事が
指示され、午後からは番頭と一緒
に営業回りに出た。高級紳士服の
商売は九五%が営業による受注
で、店に足を運ぶ来店客からの受
注はほとんど無きに等しかったの
で、外回り営業がテーラー商売の
生命線だった。
三カ月も経った頃、再び番頭に
命じられた。
「中西はん、少しは仕事を覚えた
ようだから、明日からは外売りだ
けに気張ってや。たのんます」
こうして中西氏はスクーター一
台と顧客名簿を与えられて、外回
り専門の営業マンとなった。顧客
名簿といっても一流テーラーの得
意客なので、京都経済界の名士が
ずらり。経営トップに若造が電話
で営業アポを取ることはできない
ので、いきなり会社を訪問して突
撃営業するが、追い返されるのが
オチだった。休日なら「家にいる
だろう」と思って自宅を訪問して
展開の事業構想が頓挫してしまっ
たのだ。
《このままテーラーに勤めていて
も、ずっと番頭さんの下で働くだ
けで、自分の腕を振るうチャンス
はない》
そう考えた中西氏は、両親が病
気がちで、中西家の生計が逼迫し
も、体よく断られる始末。
一週間ダメ、二週間ダメと受注
のゼロ行進が続き、一カ月過ぎて
も一着の注文も取れなかった。
ダメ行進が続く営業見習いが二
カ月目に入ったとき、中西氏は運
命的な出会いをする。一〇年以上
前に一着注文していただいた京都
でプレス工場を経営する社長に出
会ったのである。
日曜日の午後、しばれるような
寒気に震えながらスクーターの後
ろに紳士服地を乗せて社長宅を訪
問すると「じゃぁ、ちょっと上が
ってくれ」と応対してくれた。
中西氏が回顧する。
「この社長さんは、私の人生のエ
ンゼルです。生地のこともよう分
からん若造を見込んでくれて、当
時一着七万円(初任給が一万三〇
〇〇円の時代)からの紳士服をポ
中西氏が最初に紳士服を注文し
てくれたプレス工場の社長に「自
ている事情をテーラー経営者に吐
露した。
話し合いの結果、中西氏はテー
ラー店の経営者から三万円の寸志
を貰って円満退社することが決ま
り、 独 立。 退 職 時 の 事 業 資 金 は
三万円の寸志を含め、約二〇万円
だった。
七万円で営業車を購入し、
商売道具の紳士服地を委託販売し
てくれる業者から調達して、自宅
を拠点に営業活動を開始した。
公式ブログ  http://pub.ne.jp/Mineworks/ 中西浩一(なかにし こういち)
1946年9月15日、京都府に生まれる。鴨沂高等学校卒業後、紳士服の世界へ。 京都の一流
テーラーに入社し、修行。1976年にオンリーを設立。83年には第25回日本紳士服技術コン
クールにおいて最高栄誉である「高松宮技術奨励賜杯賞」を受賞。スーツのSPA(製版一体)
で業界を席巻すると2005年に大証ヘラクレスに上場を果たす。
そして大きな転機が訪れる。
中西氏は勤務する一流テーラー
の支店などを任される仕事をした
いと夢見ていたが、テーラーの東
京進出が失敗してしまい、多店舗
難局で迎えた三度の転換点に
突破口見出したスーツ業界の異端児
中西浩一
諦めなかった
者たち
第4回
ンッと 注 文 し て 、 若 造 を 育 て て く
れまし た 。 最 近 の カ ネ を 出 す 人 は
何かの 対 価 を 求 め ま す が 、 昔 の 人
は違っ て い た 」
社 長 の 好 意 で 注 文 は 取 れ た が、
そこから先の仕事ができなかっ
た。採寸して、型紙を起こす際も、
裁断― 縫 製 と い う 正 規 の 職 人 修 行
をして い な い 中 西 氏
には技 術 が な い 。 し
ょうが な い か ら 、 番
頭や先 輩 職 人 に お 伺
いを立 て な が ら 見 よ
う見ま ね で 仕 事 を 覚
え、仕事をこなした。
「でも ね 、 俄 か 技 術
じゃ職 人 仕 事 な ん か
できま へ ん 。 い ま 思
うと、 く し ゃ く し ゃ
な服を 作 ら せ て い た
だいたなぁ、と」(笑)
それ で も 社 長 は 一
言 も 文 句 を 言 わ ず、
中西氏 の 仕 事 を 見 守
ってく れ た 。
その 後 、 中 西 氏 は
働きな が ら 裁 縫 学 校
に通っ た り 経 理 の 専
門学校 に 入 っ て 、 独
学で裁 縫 技 術 と ビ ジ
ネスス キ ル を 習 得 し
ていっ た 。
PROFILE 東京都立大学付属高校卒業。国学院大学中
退。1976年、株式会社亀岡大郎取材班入社。
1982年、株式会社日本コミュニティー設立。
取材分野は、技術開発、マーケティング、人
材開発、中国ビジネスなど広範囲。有名週刊
ビジネス誌や、総合誌を舞台に活躍中。著書
に『なぜ、伊右衛門は売れたのか。
』
『選ばれ
る企業の条件』
(両、すばる舎)
、
『サニーサイ
ドアップの仕事術』
(日経BP社)
、
『日産、最
強の販売店改革』
(日経ビジネス人文庫)他
がある。
代表取締役会長兼社長
Business Chance 2009.7 6
7 Business Chance 2009.7
峰 如之介
オンリー
百 折不撓
だが、順風満帆は長く続かなか
った。
オイルショックを契機に、紳士
服の注文はピタッと止まってしまう。
中西氏が売上げ不振に苦しんで
いると、京懐石の老舗・美濃吉の
九代目社長がアドバイスしてくれ
た。
「中西君、一生懸命やっているの
はいいけどオーダーばかりじゃな
くて、服をトータルでやってはど
うだ」
中西氏が質問した。
「社長、トータルってどういうこ
とですか?」
社長が応えた。
「紳士服はオーダーだけじゃな
い。既製服だってある。それにワ
イシャツもあるし、
ズボンもある。
近頃はゴルフ洋品もいろいろでて
きているから、そうしたトータル
で商売するのもいいんじゃないか」
こうして中西は一回目のターニ
ングポイントとなるショップ営業
を決意し、京都の北山に〈オンリ
ー〉を出店する。
今でこそ京都府立植物園裏の北
山通りはファッションタウンとし
て知られるが、中西氏が出店した
当時は田んぼだらけで、夜ともな
ると真っ暗な閑散地だった。
「店は最先端の内装でおしゃれに
です」
株式上場の直前に
赤字覚悟で不採店を整理
演出して入り口近くには洋品雑貨
を置き、右側には国産生地や国内
ブランドのシャツやネクタイを並
べ、左側には輸入生地をディスプ
レーして、奥のオーダーコーナー
ではお客さんに一杯飲んでいただ
けるコーナーを作った」
夜になると真っ暗な田んぼのな
かにオンリー店のディスプレーが
映し出され、たちまち評判の繁盛
店となった。中西氏は初年度一億
円くらい売り上げればと算盤を弾
い て い た が、 店 頭 販 売 分 だ け で
七〇〇〇万円を超え、営業注文を
あわせると、一億一〇〇〇万円を
優に超える売上げを達成した。
ここで中西氏は経営戦略を考えた。
「来店されるお客さんが多いのは
うれしいのですが、うちはやはり
オーダーが主体ですので、来店客
にオーダーを注文いただくにはど
うしたらよいのか? を考え続け
ていた」
ショップ営業は紳士服オーダー
を注文してもらう集客手段であ
り、〈 勝 負 は オ ー ダ ー 注 文 〉 と 定
めた中西氏は、集客を狙った多店
舗展開に乗り出した。
北山通り沿いに紳士服はもちろ
んのこと、婦人服や子供服を扱う
複 合 店 舗 を 次 々 と 一 五 店 出 店 し、
わずか七〇〇メートルの沿道に並
ぶオンリー店の間口を合計する
と、三五〇メートルを占めるまで
になった。
北山通りはいつしか
〈オ
ンリー通り〉と呼ばれるようにな
っていく。
北山通りを征した中西氏は、プ
ラザ合意後の円高の風を受けて輸
入洋品の販売ビジネスを大々的に
ない」
てしまった。現在全国に六八店の
ネットワークを築いている店舗
中西氏はそう思い至り、二回目
のターニングポイントとなったバ
は、新たな経営戦略によって出店
ーゲンも社員販売もしない適正価
した戦略店である。
格 ビ ジ ネ ス を 立 ち 上 げ る。〈 イ ン
最後に中西氏は、ポツリとこう
ヘイルエクスヘイル〉とブランデ
呟いた。
ィングしたイタリア製のスーツを
「これまで駆け足で商売してきた
四万六〇〇〇円と五万八〇〇〇円
けど、本当にこのままいけるッ!
の二プライスで製造販売する、紳
って安心できたのは、ぜんぶ集め
士スーツのSPAビジネスに打っ
ても一年間くらいの期間しかな
て出たのである。
い。あとは外見はうまく行ってい
るように見えても、いつも何か問
この中西氏が先手を打った二プ
ライスビジネスはその後、中国縫
題を抱えながら走っていましたよ
製 の 生 産 拠 点 を 確 立 す る こ と で、 (笑)
」
さらに低価格の一万九〇〇〇円と
紳士服のテーラー道に入って商
二万八〇〇〇円の二プライスを実
売を覚えた京都商人は今、服作り
現。ザ・スーパースーツストア一
と商売の交点に立って独自の経営
号店を東京の日比谷にオープンし
戦略を推進している。
て、爆発的な人気を集めていく。
そしてオンリーが株式上場を目
前にしたとき、三回目のターニン
グポイントに直面した。
「上場を前にして経営全体を考え
直したとき、これからはホンモノ
のオーダー屋に邁進していこうと
決心し、不採算店舗や赤字事業を
す べ て 整 理 す る こ と に し ま し た。
意図的に赤字決算を容認し、身ぎ
れいになって株式を公開すること
にした」
かつて北山、神戸、大阪で一世
を風靡した店舗も、ほとんど閉め
Business Chance 2009.7 8
9 Business Chance 2009.7
分の店 を 持 つ 夢 」 を 話 し て い る と
「ちょっと待って」と言った社長
は、電 話 機 を 取 り 上 げ た 。
「ワシ の 良 く 知 る 中 西 君 と い う 青
年が店 を 出 し は る そ う や か ら 、 ワ
シが保 証 人 に な る ん で 六 〇 〇 万 円
を貸し て や っ て く れ 」
社長 が 電 話 を か け た 相 手 は 、 銀
行支店 長 だ っ た 。
中西 氏 は こ の 銀 行 融 資 で 京 都 府
の山科 に 一 階 が 店 舗 の 店 舗 付 き 住
宅(約 一 八 坪 ) を 六 三 〇 万 円 で 購
入した 。
店を 構 え た 中 西 氏 は 営 業 車 に 生
地を積 み 込 ん で 、 テ ー ラ ー 店 で 覚
えた外 回 り 営 業 に 精 を 出 し 、 人 脈
を駆使して大阪に進出していった。
商売 は 順 調 に 伸 び て い っ た 。 退
職時の 給 料 は 一 万 六 〇 〇 〇 円 だ っ
たが、 独 立 し て 半 年 も す る と 月 商
二五〇 万 円 の 売 上 げ が 立 つ よ う に
なり、 粗 利 は 一 〇 〇 万 円 を 超 え る
ほどに な っ た 。 若 干 二 四 歳 の 中 西
氏はお 茶 屋 遊 び に 耽 溺 し 、 毎 晩 祇
園に繰 り 出 す よ う に な っ た 。
「ただ し 、 祇 園 に 行 く と き は い つ
もお客 さ ん と 一 緒 で す 。 一 人 で は
行きま せ ん の で 、 営 業 接 待 も 兼 ね
ていた 」
拡 大 し、 神 戸、
大阪にまで出店
を拡げていった。
中西氏は当時
の 自 分 自 身 を、
こう表現する。
「その頃の自分
は流通屋になっ
てましたね。私
の人生で、唯一
洋服屋から外れ
てしまった一〇
年間です。服を
作るよりも、海
外からブランド
品を安く輸入し
て大量に売りま
くっていた時代
だが、またもや壁に突き当たっ
てしまう。バブル経済はもろくも
崩壊してしまった。
中西氏が売上げ不振の原因を突
き止めるために売上げ分析をして
みると、意外な事実が浮かび上が
った。年間二回(四〇日間)のバ
ーゲンセールで売り上げる金額
が、年間三二五日間の定価販売の
売上げを上回っていたのである。
「これを知ったときはショックで
した。だってお客さんが定価販売
よりもバーゲンを期待していると
いうことは、そもそも定価を信用
していないこと
を意味するじゃ
ないですか。そ
んな信頼されて
いない商売なん
て、
意味がない」
そこで、中西
氏は決断した。
「だったら、最
初から安い定価
をつけて売れ
ば、定価を信頼
していつも買っ
てくれるに違い
●会 社 名 株式会社オンリー
●本社所在地 京都市中京区三条通烏丸西入御倉町
85番地の1 烏丸ビル
●設 立 1976年6月22日
●資 本 金 1,079,850千円
●従 業 員 227名(パート・アルバイト、及びグループ
会社従業員を含まず)
●売 上 高 76億6200万円(2008年8月期)
●事 業 内 容 自社プライベートブランド商品の企画、製
造、販売
紳士・婦人服、雑貨の販売
●U
R
L http://www.only.co.jp/
紳士服のトータル展開目指し
田んぼだらけの北山に出店
バーゲン売上が通常販売超えた時
定価の概念覆すツープライスに着手
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