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河谷平野における天井川形成の人文地理からの考察

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河谷平野における天井川形成の人文地理からの考察
6.29 関地連巡検(
関地連巡検(京田辺市・精華町)
京田辺市・精華町)
1. 河谷平野における天井川形成
河谷平野における天井川形成の
形成の人文地理からの考察
南山城における天井川の特徴
木津川にそそぐ小河川の流末に形成され、比高は約 7~20m にもなり、流路は比較的直
線である。北部の宇治丘陵には存在しない一方、南部の地層の異なる木津川両岸に分布し
ている。(図参照)天井川形成の条件として、十分な土砂の供給と河川流路の長期にわたる固
定があげられる(谷岡 1964)が、この条件が満たされるうえで複数の形成要因が関係づけ
られていることがわかる。ここでは特に人文地理学的な見地から、天井川、山、水との人
間の関わりについて考察したい。
地質学的要因
木津川右岸には古生層や花崗岩からなる山地がせまり、左岸には洪積層が幅広く分布。
花崗岩質の砂が天井川の構成物質の豊富な供給源だったという。
条里制土地区画による不自然な流路固定
条里制土地区画による不自然な流路固定
沖積平野が狭く可耕地が少ないため、短い流路で本流へつなぐ必要があった。その中で
防賀川は東流の後に直角に曲げられ、その後直線の流路をとり、かつての堤防は十曽堤と
呼ばれ、条里制との関係がうかがえる。また隣接する馬坂川も流路が直角に曲がりその後
直進するが、これも条里制土地区画の界線に一致する。条里制区画に流路が固定された理
由としては、その区画が農民の所有権・用益権の基本、かつ行政関係の基準であり、複雑
に土地要素が絡んでいたため容易に流路の変更ができなかったためである。これらの天井
川の下流は安全性の理由で現在は切り下げが行われている。また、防賀川から出土した粘
土製のU字型河床は、当時すでに形成されていた天井川の伏流水の浸透を防ぎ、灌漑用水
を確保するためのもので、水論を含めた当時の農民の利害関心の高さがうかがえる。
(図参照)
本流木津川の河床上昇
木津川上流域では木材伐採が盛んであり、そこで削られた花崗岩質の土砂が峡谷を出て
傾斜が緩くなると土砂が堆積する。(史料参照)度々洪水を繰り返す木津川に対し、幕府は淀
川水系の治水工事の一環として、近世初期から堤防の築造を行った。この川筋の固定によ
り河床は上昇し、豪雨時には高水位となった木津川から天井川に逆流し、逆に天井川の流
水は妨げられ、河床に土砂が堆積する。このような本流に対応した支流の河床の上昇に対
し、近世より坪掘り、坪揚げという河床に堆積した土砂を排除する共同作業が行われてい
るが、木津川からの逆流を防ぐため、河床を本流より低くできず、また低地に流路を移す
こともできない。そのため、坪掘りによって、天井川河床は本流より少し高い程度まで、
その分堤をより高く大きく築かねばならず、ますます天井川化が進むというジレンマがあ
った。(史料参照)近世においては堤防が貧弱の為、大水のたびにしばしば決壊し氾濫するこ
とで河床の上昇は急激ではなかった。それが技術の発達によって、強固な堤防を築くため
に、ますます河床は急速に高まった。
山林における人間活動
木津川水系における山地には社寺領が多く、寺院の改築のために伐採されていたが(堀
井 1953)
、近世には山林保護と土砂流防止政策がとられ、今日ほど天井川はあまり発達して
いなかった。1684 年に幕府は淀川水系に土砂留奉行をおき、そのもとで砂防工事、山林の
土砂留普請や植林を行っていた。また、
「鎌留山」を設定し、薪や堆肥として利用された下
枝や下草の刈取りの制限をした。これは、当時から無計画な刈り取りが土砂の流出、河床
の上昇を招くという認識があったことを裏付けるものでもある。それと同時に、用益を与
える山野については、村同士の利害関係により山論も巻き起こった(史料参照)(ここで木津
川の水位のように一村では管理し得ない場合や利害が一致した場合には、村々の協力体制
が取られていたことも注目に値する。つまり、一単位としての村の利害関心が常に山野、
用水、洪水などに基づいていた)。煤谷山のような入会山においては、その開墾や用水をめ
ぐって争いとなり、奉行や役人、庄屋などによって仲裁された。しばしば土砂留め(植樹
などの手入れによる土砂の流出の防止)という解決法がとられ、畑地から荒地にするケー
スもあった。例えば煤谷山においては、上流における伐採や新開、悪水の排出が下流に土
砂を流出させ、下流域の村に被害を与えた。その結果、開発の禁止さえ命じられることと
なった。(史料参照)すると、山野はイノシシやシカなどの動物が繁殖し田畑の作物を荒らす
ので、これに対し土砂留奉行の合意の下、下草を刈り取ることで対応した。その際特に留
意されたことは、土砂留めに支障をきたさないことであるが、このことは谷岡(1964)の
指摘する 18 世紀後半の急激な土砂流出による河床の上昇と幾分関連するのではなかろうか。
それでも明治初期まではさほど天井川は形成されておらず、今日のような天井川は明治中
期以降に急速に発達したのだが、これは森林の乱盗伐から斜面の裸地化によるところが大
きい。このように明治期以降の天井川の形成は人為的性格が強いのだが、谷岡(1964)い
わく、その背景にあるのは、農村共同体の弛緩であるという。経済条件の変化に加えて、
京都や奈良の近接性から早期に郊村化し、他からの入村者の増加した村では、社会奉仕的
な慣行は消滅し、森林の管理は滞ったのである。
しかし、経済的条件にばかり共同体の弛緩を帰するのはやや短絡的過ぎる。近世から近
代への過渡期においての、ドラスティックな政治的構造的変化から共同体の内部に生まれ
たものにも着目すべきである。
まず、明治 5 年(1872)の区制を経て、22 年(1888)の町村制にかけて「むら」と
いう単位の揺らぎが考えられないか?つまり、意思決定の単位が広域化すると、村
民が持つむらに対しての関心が薄れる、という仮説である。
=利害関心の次元の広範化(むらから行政村)
土地制度の面から、地租改正から再燃した煤谷山の境界についての争論は、訴訟を
経て明治 9 年(1876)に境界が確定して約 200 年ぶりに終結した(ちなみに、多く
の入会山は官有地とされたが、煤谷山は私的土地所有が成った)
。これは村の区域内
においての新開・伐採については法的に正当化されたことを意味するのではないか、
という仮説である。
=利害関心の次元の分離(むらから個人)
第一の仮説について検証する。大島(1977)いわく、
「全体の一部として部落を包括する
ことによって、行政村の統一的秩序を強める存在たらしめようとしたのである。だが、こ
の政府の意図は成功を収めることはできなかった。部落の利用は、部落結合を再生産する
結果を招き、村の統一秩序を強化するどころか、逆に統一を脅かす要素となっていったの
である。」つまり、中央集権を整えるため、政府はむらと妥協し、その範囲内でむらを利用
しようと努めたが、行政村の拡大が村落共同体を直接弱体化させはしなかった。明治期に
なっても農村内部には、生活圏、生産圏としてのむらが存在して、農村社会の核になって
いた。したがって政府は共同体の解体に対する住民の反対を考慮して、別個な形で行政村
を作り、また町村内の旧村を行政区として残し、その区長を村行政の下部機関とした。こ
こでは、むらと結合した区長(むらの長)を支配秩序に組み込むことで、行政的に利用し
たのである。
次に第二の仮説についてである。丹羽(1989)は、むらと土地の結びつきについて、以
下のように述べている。
「耕地の地力維持…に加えて、さらに視点を、用悪水の問題…など
村民の生活を支えるに必要な部面に広げれば、村の各種の土地は、全体として緊密な有機
的結合体を構成している…。」「しかし、明治政府は、石高制廃止とともに、このような認
識―農業生産遂行のために、村を単位として構成されている各種土地の有機的な結合関係
の認識-をも捨て去った。」また山野における民有地所有に対し、「明治政府の近代化政策
によって、漸次、諸種の土地慣行が『洗除』されてゆき、村を単位とした土地利用の体系
も、次第に私的土地所有が自己を主張することで崩されていく。
」とも述べている。つまり、
政府の強い行政指導のもとで、土地所有権の絶対的優位から入会慣行は法律違反とみなさ
れ、山林保護を名目として、山野の用益主体である村落共同体を無視し、個人の所有とい
う意識を目覚めさせた。そして、前述の通り南山城では、明治中期ごろから乱盗伐が行わ
れた。その頃には山林保護という名目も意味をなさなくなり、個(地主)の利益が優先さ
れるようになった。
以上より、近世においては、入会という地域的公共性や、むらという利害関心の基本的
単位がむら同士の監視と過度の開発の抑止力を果たしていた。そして小規模なむらから構
成される、一つの広域な地域として山野の保全が、完全ではないがなされていた。これが
近代では、行政区という中央集権体制の末端で共同体意識が再強化されながらも、共同体
は確実に政府に従属的で、政府の政策を一般村民に徹底させる役割を果たしており、両面
的であった。行政村の拡大による村民の関心対象の分散というより、山野における合理的
な行政改革としての土地制度が、地主という一部の人間に個人の利害という意識を芽生え
させ、村としての体系的土地利用を漸進的に変化させた、とここでは半端ながらも結論付
ける。
参考文献
1.
有薗正一郎ほか編(2001):歴史地理調査ハンドブック。古今書院
2.
乾幸次(1987):南山城の歴史的景観。古今書院
3.
大島美津子(1977):明治のむら。教育社
4.
精華町史編纂委員会編(1989)
:精華町史(本文篇、史料篇 1、史料篇 2)
。精華町
5.
田辺郷土史会編(1968)
:京都府田邊町史。田辺町役場
6.
谷岡武雄(2002)
:野道の歴史を歩く 1 京都山城。古今書院
7.
谷岡武雄(1964)
:平野の開発 近畿を中心として。古今書院
8.
丹羽邦男(1989)
:土地問題の起源―村と自然と明治維新―。平凡社
9.
堀井敦(1953):木津川水系における天井川の発達。地球科学(15)
,22-26
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