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Page 1 《魂の物語》としての『豊鏡の海』 ー『奔馬』における《魂》回復の

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Page 1 《魂の物語》としての『豊鏡の海』 ー『奔馬』における《魂》回復の
木 下 圭 文
一貫していると言え、それを放棄してまで構想を変更したとは考えられない。
五衰﹄ ではあるが︵注8︶、︵見えない存在︶ を証明しようとする作者の姿勢は
ことが窺える。当初の計画が狂ったこともあり変更を余儀なくされた﹃天人
作者が ﹁魂﹂ や ﹁精神﹂ といった ︵見えない存在︶ を証明しようとしていた
− ﹃奔馬﹄における ︵魂︶ 回復の試み
︵魂の物語︶ としての﹃豊餞の海﹄
一、はじめに
﹃豊餞の海﹄ の作者は、﹃春の雪﹄と﹃奔馬﹄ の単行本化にあたって、
﹃豊餞の海﹄が ﹁唯識の哲学を基礎﹂ に、﹁夢と生まれかはりを基調﹂ とし これは、作者が ︵神/天皇︶や ︵武士/青年︶ への関心を最後まで継続させ
﹃奔馬﹄であるが、その中でももっとも色濃く現れているのが独立した冊子
﹃豊鏡の海﹄で ︵神/天皇︶ や ︵武士/青年﹀ に関する記述が顕著なのは
た物語であること︵注1︶や上代の神霊観とも言うべき ﹁和魂﹂ ﹁荒魂﹂ ﹁奇ていたことを意味している。
の体裁をとっている﹃神風連史話﹄である。これは、﹃奔馬﹄ の主人公飯沼
魂﹂ ﹁幸魂﹂ という ﹁四魂﹂ を各巻に配列していること︵注2︶を述べている。
つだけだと言ってよい。しかし、反近代的とされる ﹁唯識﹂ ﹁輪廻転生﹂
作者が﹃豊廉の海﹄との関連でこのような ﹁魂﹂ について触れたのはこの二
勲が多大な影響を受けた書とされるが、従来は典拠の指摘が中心で︵往9︶、
存在︶ を行為によって証明しようとした物語であるという前提に立ち、﹃神
なお、本稿は、﹃豊餞の海﹄が作者が ﹁魂﹂ や ﹁精神﹂ という ︵見えない
内容に触れたのは管見の限り山口直孝だけと言える︵注10︶。
﹁魂﹂ というモチーフは当時の論者からほとんど理解されず︵注3︶、その流
れは今なお変わっていないと思われる。また、魂については、﹁唯識の哲学
風連史話﹄と﹃奔馬﹄との関連を再確認しようとするものである。
を基礎﹂ に、﹁夢と生まれかはりを基調﹂ とする物語であることを前提とし
て述べられたものがほとんどである。一方、﹃豊餞の海﹄執筆と併行して自
︵こ 神風連の特性
二、﹃神風連史話﹄ の﹁純粋性﹂
衛隊への体験入隊、楯の会結成など政治的行為が始まるのは﹃春の雪﹄脱稿
に増え﹃暁の寺﹄執筆時の一九六九年七月には ﹁精神の存在証明のためには、
前後とされている︵注4︶。︵天皇/神︶ や ︵武士/青年︶ に関する言動も次第
行為が要り、行為のためには肉体が要る﹂ と述べ、同じ文中に ﹁精神といふ
ものは、文字の表現だけでは足りない﹂ と精神の存在証明における ﹁文字の
期︵注6︶にも﹁うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から
でもいうべき性格を備えた書物﹂ であると述べている︵注11︶。山口が言うよ
﹃豊餞の海﹄の作者によって組み立てられた﹁いわば﹁純化された物語﹂と
表現﹂、いわゆる文学の限界を示唆している︵注5︶。﹃暁の寺﹄脱稿時に現実
山口直孝は、﹃神風連史話﹄が ﹁太田黒の宇気比﹂ ﹁桜園先生の昇天秘
と作品の緊張関係が崩れたことで生じた ﹁不快﹂ を抱いたと思われる時 説し ﹁軍備が刀剣類に限られたこと﹂ ﹁自害者の最期﹂ を主な特徴として
救ひ上げ、精神の最終証明として後世にのこすことだ﹂︵注7︶と述べており、
九頁
おうとしているものである。
の役割を継いだ太田黒伴雄が彼らの取るべき行動を ﹁幽り世の遠御神﹂ に伺
l O頁
うに、果たして﹃神風連史話﹄はすべてを ﹁純化された物語﹂ と捉えること
らの古道を履んで、直く、 正しく、清々しければ、現し世から死・減の
人は神の子であるから、 その身心にもろもろの罪積を犯さず、神なが
次に ﹁桜園先生の昇天秘説﹂を確認したい。
ができるのだろうか。
ここでは、山口が﹃神風連史話﹄ の特徴としてあげた ﹁太田黒の宇気比﹂
境を脱して、天に昇って、 神となることができるのである。︵六七頁︶
﹁桜園先生の昇天秘説﹂ ﹁軍備が刀剣類に限られたこと﹂ ﹁自害者の最期﹂
から神風連の特性を捉え直し、それと志士たちを比較することによって﹃神
﹁神ながらの古道﹂ とは先の宇気比による神命に従って行う政祭一致のま
つりごとのことである。それによって ﹁現し世から死・減の境を脱して、天
﹃神風連史話﹄は、︵神風連︶ と呼ばれる集団の首領太田黒伴雄による
風連史話﹄ の ﹁純粋性﹂ を明らかにしたい。
﹁宇気比﹂ の神事で始まっている。﹁宇気比﹂ とは、書挙げする内容の後に
なると考えられている。桜園は ﹁中古以来絶えて﹂ いた宇気比によるまつり
々し﹂ い行為によって浄化された ︵魂︶ が ﹁幽り世﹂ へ入ることで ﹁神﹂ に
ごとを ﹁混迷の世︵木下注、幕末から明治にかけての世のこと︶ に復活せし
に昇って、神となる﹂ ことができるのである。ここでは ﹁直く、正しく、清
って潔め、ついで、心を平らかにして、三資をゆっくりと静かに撫し﹂、引
﹁可也﹂ と奮いものを一枚、﹁不可也﹂ と書いたものを三枚、それぞれ玉に
き上げたときに ﹁御幣﹂ についていた紙玉によって占う神事である。そこで
であった。これは ﹁中古以来﹂ 存在していない、あるいはその存在を無視さ
めやうとしたし のであるが、それは ﹁現し世﹂ と ﹁幽り世﹂ とをつなぐ試み
して﹁三賛﹂と呼ばれる台に載せ、﹁御幣﹂ で﹁三賓の上を左右左に打ち振
御幣に付いた紙玉の内容が、そのまま神の御言葉として絶対の ﹁神命﹂ とさ
れ続けている ﹁幽り世の遠御神﹂ の回復でもある。それは ﹁神世の復古﹂ と
れるのである。これは、御幣の切り方や紙玉の丸め方、あるいは御幣の振り
方によって条件の変化する実に不安定なものと言える。それを支えているの
あらためて確認するならば、﹁神世の復古﹂ を目指そうとする ﹁宇気比﹂
が ﹁心を平らかに﹂ することであるが、これもまた不安定な要素であり、宇 呼ばれ、′志士たちの目的にもなっている。
気比を行う者には少なくとも ﹁心を平らかに﹂ できるだけの修行が求められ
あ
き
つ
み
か
み
カ
く
剣を奪ほれては、一党の敬ふ神を護る手段はなくなるのである。一党
ほ
つ
み
か
み
やまとごころ
はあくまで神の親兵を以て自ら任じてゐる。神に仕へるには敬度きはま
と
︵七〇頁︶
る神事を以てし、神を護るには雄々しき倭 心の日本刀を以てする。
ここで言う ﹁一党の敬ふ神﹂ とは先の ﹁現し世の顕御神である天皇﹂ と
そのような ﹁神を護る﹂ ための ﹁倭心﹂、いわゆる へ大和魂︶ とも言うべき
﹁幽り世の遠御神﹂ を指していると思われる。神風連志士にとって刀剣とは、
だろうか。本文には次のようにある。
さて、﹁軍備が刀剣類に限られていること﹂ にはどのような意味があるの
気比﹂ は絶対の行動規範に、﹁昇天秘説﹂ は目的になっている。
﹁昇天秘説﹂ はともに林桜園の教えなのであり、神風連志士にとって、﹁宇
神風連の師林桜園は、そのような方法を唯一絶対とする治世を ﹁政祭一
つ
る。
致﹂ のまつりごとと呼び理想にしている。桜園は、﹁真淵・宣長らの古典の
解釈にあきたらず、古典によって古神道をあきらかにし﹂ ようとし、漢学、
蘭学、果ては ﹁厄勒祭亜のソコラテス﹂ にまで言及するほどの碩学とされ、
う
行き着いたのが﹃宇気比考﹄ である。これによれば、この神事における神は
﹁現し世の顕御神である天皇﹂ と ﹁幽り世の遠御神﹂ とされる。ただし、
﹁神事は本也。現事は末也﹂ とされていることから ﹁幽り世の遠御神﹂ であ
神風連の志士たちは、このような宇気比による神の御言葉を神命とし、絶
る ︵︵見えない存在︶ としての神︶ がより重視されていると考えられる。
対の行動規範としているのである。冒頭の神事は、桜園の死後、巫女として
の飛び道具の類はその魂には不適とされている。彼らにとってのJ日本刀﹂
存在なのである。それ故、西洋から輸入された大砲や銃、あるいは弓矢など
ものである。また、﹁凧刀奏議書﹂ は、刀剣の必要性を述べたもので、それ
に見られる ﹁死諌﹂ とは、命を捨てて主君 ︵為政者︶ を諌めることとされる
と は 、 肉 体 と 一 体 化 し た ︵ 魂 ︶ な の で あ る 。 こ れ は ま た 、 ﹁ 神 に 仕 へ る ﹂ た を政府に提出することで刀剣の所持を認めさせようとするものである。この
最 後 は ﹁ 自 害 者 の 最 期 ﹂ で あ る 。 ﹁ 二 受 け 日 の 戦 ﹂ で 首 領 太 田 黒 の 自 刃以上見てきたように 八神風連︶ とは、桜園の ﹁昇天秘説﹂ を目的とし、桜
めの ﹁敬虎きはまる神事﹂ である宇気比と対をなす重要なものと考えられる。 ような加屋の志、行為は明らかに ﹁もののふ﹂ に値するものと言える。
が繰り返し描かれている。ここで描かれた志士たちは、桜園の教え以上に
対する疑問﹀ で終わっているが、これは構成上最後に置かれたことで、戦に
﹃神風連史話﹄は、戦に負け ﹁宇気比﹂ に従って生き残った緒方の ︵戦に
が 、 ﹁ 三 昇 天 ﹂ で は ﹁ 鶴 田 親 子 ﹂ ﹁ 阿 部 夫 婦 ﹂ な ど を 含 む 志 士 た ち の園
自の
刃 ﹁宇気比﹂ と ﹁もののふ﹂ であることを行動規範とする集団と言える。
﹁死﹂ ﹁自刃﹂ に対して病的とも言える執着があるように思われる。確かに
同志の戦う姿が ﹁手弱女﹂ のごとく惨めに映ったことに発している。最初、
対する批判を帯びるものになっている。この内部告発とも言うべき疑問は、
た を や め
これは山口が指摘したように作者による意図的な創作と考えられる。しかし、
﹁神﹂ に向けられた怒り、恨みは行きどころがなくやがて収束を見せるが、
ところで、﹃神風連史話﹄ では ﹁刀剣﹂ ﹁自刃﹂ に関係している者は そ
﹁の
もこ と が 却 っ て 敗 戦 の 原 因 が ﹁ 神 ﹂ 以 外 に あ る こ と を 浮 か び 上 が ら せ て い
はるかた
これを﹁純化された物語﹂受捉える限り、自刃できなかった副首領加屋霹聖
と参謀緒方小太郎ははそれに含まれないことになる。
いることは、これを高めることになっている。この場合、それは宇気比の神
る。最後まで ﹁宇気比﹂ に従い、疑問を呈した緒方を ﹁もののふ﹂ と呼んで
もののふ
ののふ﹂ と呼ばれている。太田黒に詰め寄る若い志士たちは ﹁武夫すでに刀
事を行った太田黒に向けられる。宇気比の場にいたのは彼だけである。
ただし、緒方の疑問は戦に向けられたものであって、戦の後に描かれた
剣を奪はれては生甲斐がない。先生はいつわれらを死なせて下さるのか﹂ と
﹁自害者の最期﹂ には触れていないことに留意しておく必要がある。
自分たちのことをそう呼んでいる。強い自負心の現れとも、思い込みともと
れるこの台詞には、彼らの情熱が桜園の教えである ﹁昇天秘説﹂ ではなく、
ここでは桜園︵及びその教え︶ と首領太田黒の対比を通して、敗戦の原因
︵二︶ 否定される存在
ただ死ぬことにのみ傾けられているように見られる。他には、語り手が生き
残った緒方のことを ﹁もののふ﹂ と呼んでいる。先の志士と比べこのように
他者を介在させていることは、緒方が ﹁もののふ﹂ であることの信憑性を高
めるものになっている。
太田黒は、明治三年に桜園が死んだ後を継いで首領として志士たちを導く
ることにする。
﹃神風連史話﹄ における ﹁もののふ﹂ とは、先の ﹁刀剣﹂ ﹁自害﹂ が
に太
関田
す黒 に あ る こ と を 明 ら か に し て 行 く 。 そ の 際 、 副 首 領 加 屋 に も 日 を 向 け
る内容を踏まえるならば、次のように定義できるだろう。
八神/天皇︶ に仕え、魂とも言うべき刀剣を所持し、自刃を希求する者。
り
か
く
い て き
この派の人々がまるで申し合せたやうにその答案に、﹁人心が正され、
年に行われた神職の試験での志士たちの解答に現れている。
ここで留意すべきは ﹁自刃を希求する﹂ ということである。この定義には、 べ き 立 場 に い る 。 し か し 、 そ の 教 え は に わ か に 変 容 し て い る 。 そ れ は 明 治 七
緒方はむろん加屋も含まれることになる。
い
す る で あ ら う ﹂ と 説 い た ︵ 以 下 略 ︶ 皇道が興隆すれば、弘安元蓮の如く、忽ち神風吹き起って、夷秋を掃壊
せ
加屋の志は、明治六年の宇気比で第一に言挙げされた ﹁死譲を当路に納れ、
枇政を変革せしむる事﹂ であり、廃刀令に対して他の志士たちと行動を別に
ひ
しながら ﹁数千言に及ぶ侃刀奏議書﹂ を政府に送ることであった。加屋の志
一 一 貢
一二頁
るが、ここで注目すべきは ﹁皇道が興隆すれば、弘安元題の如くトという箇
皇もまだ神に近かったので、神々と一緒に暮らしていたが、十代目にも
たまふに安からず﹂と認識されてきたことを記している。初代の頃は天
けれど崇神天皇の頃になると、﹁漸に神の 威 を畏りて、殿を同くし
や く や く み い き ほ ひ
ったので、天皇と神々とは ﹁殿を同じくし床を共に﹂ して生活していた。
所である。これは、﹁弘安元遺﹂ のとき、いわゆる鎌倉時代には、桜園が説
これによって ﹁この派の人々﹂ が ︵神風連︶ と呼ばれることになるのであ
き、復古を目指した政祭一致のまつりごとが行われていたことになる。桜園
したのではないか。
が同じ殿中に祭る神々に積れを及ぼすようになり、それを﹁罪﹂と意識
が 説 い た ﹁ 神 世 ﹂ は ﹁ 中 古 以 来 絶 た れ ﹂ た も の で あ っ た 。 桜 園 の 死 後 四 年 足 なると、もはやそういうわけにもいかなくなった。天皇の人間的な生活
らずで、志士たちの認識は変容していると言わねばならない。このように教
気比は、桜園が説いた ﹁神ながらの古道﹂ とは言えず、﹁神世の復古﹂ は不
神大が分離してから祀られるようになった伊勢天照大神であり、太田黒の宇
の世界を理想としたものと考えられる。それに対して、太田黒の宇気比は、
問受容の末に行き着いた﹃宇気比考﹄はそのような点で神大が分離する以前
る第二代垂仁天皇の頃には神と人間の関係は一変している。桜園が広い学
これによれば、第一代神武天皇と天照大神が伊勢神宮に祀られるようにな
えの変更に気付けない、ただ無批判に受容している志士たちを山口のように
﹁桜園のラディカルな国学の忠実な実践者﹂ と呼ぶことはできない。そして、
さけみか
太田黒の教えが桜画の教えから畢離した原因は、教えの真髄とも言うべき
その原因は太田黒にあるのである。
宇気比を変更したことにある。
﹁宇気比考﹂ は、神武天皇の酒窺・水飴を用ひた宇気比を奨めてゐるが、
可能と言わざるを得ない。これは、太田黒が、桜園のような多岐にわたる学
太田黒は宇土の住吉神社に伝はる伊勢大神宮系統の宇気比の秘伝によっ
問の受容や﹃宇気比考﹄に行き着く過程がなく、ただ桜園の教えを絶対とし
みてぐら
てまづ桃の枝を撰んでこれを正しく削り、美濃紙を切ってこれに附して
ことを物語っている。
した半ば無意識のうちの変更は﹃宇気比考﹄の真髄を理解できていなかった
て受容していたことに起因するものと思われる。偏狭な知識、視野のもたら
御幣を作り、諾否如何の部分を空けた返りごとの祝詞を作った。
︵六四頁︶
一見すると、﹁伊勢大神宮の分詞新開皇大神宮弼官の養嗣子﹂ である太田
黒にとって、宇気比を ﹁伊勢大神宮系統﹂ に置き換えることは何の抵抗も、
に釦を揮ひ、当路の姦臣を付す事﹂ に対して ﹁もし神慮に叶へば、これもや
にされる。最初に行われた明治六年の宇気比の際、太田黒は、第二の ﹁闇中
太田黒の特性は、三回行われた宇気比の神事の直前を見ることでも明らか
勢大神宮系統﹂ の間には大きな差異を見出せる。﹃日本書紀﹄では、神武天
むをえまいと考へてゐる﹂。宇気比には従うが、太田黒にとってこの内容が
罪悪感もなかったと思われる。しかし、﹃記紀﹄には、﹁神武天皇﹂ と ﹁伊
の地に天照大神が両を建てて祀られるようになるのは第一一代垂仁天皇のと
皇が第一代天皇とされている。それに対して ﹁伊勢大神宮﹂、つまり、伊勢
きとされている。今では ﹁天皇家の始祖神であり、天皇と国家の守護神﹂ と 最良の策でないことはここに明らかである。﹁やむをえまい﹂ という考えを
田黒の胸中には、批政一新の軍略がみのつて﹂ いることもあり、前回とは一
抱いて宇気比に臨んだと考えられる。二回目の明治七年の際は、﹁すでに太
転して積極的な姿勢である。三回目の明治九年のときは、若い志士に迫られ
される天照大神もそこでは崇り神として第一〇代崇神天皇の ﹁五、六年﹂ に
ている︵注望。
宮中より外へ遷座されている。斎藤英善はこの内容に触れ、次のように述べ
あひだ
よそ
﹃古語拾遺﹄ ︵斎部広成、大同二年 ︹八〇七︺ 撰上︶ というテキスト﹁青年の激昂をしばらく抑へるために侃刀がいけないのなら、袋刀にして持
には、初代の神武天皇のときは ﹁帝と神と、その際未だ遠からず﹂ だ ち歩くがよからうと教へたが、それだけで激昂を外へ転ずることはでき﹂ ず、
連の特性が従来と変容していることとも関係があると思われる。結局、若い
すべく神風連とは別行動を取っている。このような加屋の単独行動は、神風
もののふ
﹁武夫すでに刀剣を奪はれては生甲斐がない。先生はいつわれらを死なせて
志士から戦への参加を強く求められ、宇気比に従う形で参加することになる
が、これは、加屋が神風連の精神的支柱として信頼されていたことと桜園の
下さるのか﹂ とさらに迫られて宇気比に臨んでいる。ここには前回のような
教えに忠実であることを意味している。戦においては何の躊躇いもなく、最
﹁軍略﹂ はなく、戦に対する積極性、若い志士たちのように神風連の精神を
の太田黒には、若い志士たちの希望を叶えることが求められていたと言える。
骨抜きにしようとする政府の政策に対する憤りは微塵も見られない。ここで
ったことを物語っている。
後まで﹁剣を掲げて、周囲の同志を指揮し、自ら先に立って奮進﹂ しており、
つまり、戦をすることで ﹁死なせて﹂ やることである。
言 挙 げ さ れ た 内 容 に ﹁ や む を え ま い ﹂ と い う 判 断 を 下 し た り 、 そ の 時 の 状 砲撃を浴びて絶命するが、その最期は、加屋が神風連の実質的な指導者であ
況によって姿勢の変化する太田黒に、宇気比を支える﹁心やすらか﹂な面を
なげう
さて、加屋にとって ﹁もののふ﹂ の現れが、﹁死諌を当路に納れ、枇政を
変革せしむる事﹂ とすることであり、﹁錦山の弼官の職を榔つて、数千言
見出すことはできない。太田黒は状況に左右されやすく、気まぐれな人物と
思われる。三回目の宇気比だけ神事の場面がなく、太田黒の報告によって納
ころである。加屋はこれらを﹁薩摩藩士横山安武の壮烈な死諌﹂ に倣ったと
に及ぶ侃刀奏議書﹂を県令に送ろうとする行為であることはすでに述べたと
している。武士で陽明学者の横山安武は、明治三年に新政府の腐敗を糾弾す
れられたことが伝えられているが、これも太田黒の特性との関連からであろ
べく建白書を提出し諌死している︵注13︶。その行為はすべて一人で行ってい
う。また、この場面は﹃神風連史話﹄を模倣しようとした飯沼勲が決行日時
以上のことは、宇気比による神命と思われていたことが実は状況に影響さ
人物とも言うべき林桜園と横山安武という奇しくも明治三年に死んだ二人の
加屋は、神風連の行動規範とされる ﹁宇気比﹂ と ﹁もののふ﹂ を象徴する
る。
を決める際に嘘をついたときの状況に酷似していることも指摘しておきたい。
まなじり
れた太田黒の意図的な操作であったことを物語っている。
太田黒は、無謀にも ﹁批を決し、同志の退却の勧めもきかず、敵陣に躍
り人らうと﹂ して、胸を射抜かれている。瀕死の身を助け出された太田黒は、
置かれた緒方小太郎の疑問から明らかになったのは、﹁純粋性﹂ を剥奪され
風連︶ が描かれているように見える。しかし、桜園の教えとの対比と最後に
一見すると、﹃神風連史話﹄は、戦、及び死に収赦される ﹁純粋﹂ な 八神
人物と言えるだろう。
自分の首を刻ね、それを ﹁軍神の御霊代﹂ と一緒に ﹁新開大神宮﹂ に祀るよ︵魂︶ を受け継ぐべく、その生き方を模倣しようとしたのである。最後まで
一貫してその姿勢を変えなかった加屋は、﹃神風連史話﹄ でもっとも純粋な
う命令して自刃する。最後までただ私欲のために首領の権力を行使する人物
に、あるべき首領としての姿は見られない。また、太田黒は、自分の死、及
以上見てくると、敗戦の原因が太田黒にあるのは明らかであろう。桜園の
び死後のことにまで意志を介在させようとしたと考えられる。
教えを歪曲し、状況に流され宇気比に人為を介在させた、きわめて自己中心
言うなれば、それらは﹃神風連史話﹄で否定されたものなのである。
勢神宮に祀られた天照大神から ﹁純粋性﹂ が剥奪されたことを意味している。
性﹂ が剥奪されたことは、彼の巫女としての役割、彼の信仰とも言うべき伊
的な太田黒から ﹁純粋性﹂ は剥奪される。これでは ﹁神世の復古﹂ など不た
可太田黒伴雄、もっとも ﹁純粋し な加屋葬堅の姿である。太田黒から ﹁純粋
能と言える。
それとは対照的なのが副首領の加屋である。加屋は﹃宇気比考﹄だけを良
しとするのではなく、広く学問、文化の素養を持ち、その姿勢は桜園に似て
いる。明治九年の廃刀令に対しては、自分の志に従い ﹁凧刀奏議書﹂ を提出
一三頁
三、﹃神風連史話﹄と﹃奔馬﹄との関連
一四頁
その影響力の強さを考えると、そこには﹁陛下のまことのお姿﹂を回復する
ための方法が描かれていたと考えてよい。その方法とは、﹁天へ昇る﹂ ため
る。一月後には、﹁神風連の純粋に学べ﹂ をスローガンに掲げ同志集めを始
昭和神風連を企てる勲が﹃神風連史話﹄に出会うのは昭和七年五月頃であ
る。換言すれば、勲は、天皇の本来の姿を回復するために、﹃神風連史話﹄
まった一点を狙へばよ﹂ く、﹁大勢の人手と武力﹂ を必要としないものであ
刀だけで﹂ ﹁雲のもっとも暗いところ、汚れた色のもっとも色濃く群がり集
結ぶ﹂ために必要な﹁純粋の行為﹂ である。それは、﹁身命を賭﹂ し﹁日本
の ﹁昇天秘説﹂と﹁神風連の志士たちの信じた宇気比﹂ であり、﹁天と地を
め、その後、﹁僕たちの精神はみなこの中にあります﹂ と言って堀中尉にこ
に描かれた志士の ﹁純粋な行為﹂をモデルにしたのである。﹃神風連史話﹄
︵こ 飯沼勲の﹃神風遠史話﹄受容と論理
の本を貸すなど、勲が﹃神風連史話﹄ の影響を強く受けていることが分かる。
でもっとも﹁純粋﹂、かつ一人で行動したのは前章で確認したように加屋霹
聖であった。勲は、加屋の行為を模倣すること︵注14︶で﹃神風連史話﹄の精
誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以
とくに次の引用部分は、勲の ﹃神風連史話﹄受容を知る上で重要と思われる。
て天へ昇るのか? それが神風連の志士たちの信じた宇気比であると私
わけではない。それを明らかにするためにも、勲の純粋観、勲の宇気比に対
あの神風連の師父林桜園が、人はみな神の子と説いたやうな意味で、
神を継承しようとした思われる。しかし、勲は、加屋の行為だけを模倣した
は解しました。
天と地は、ただ坐視してゐては、決して結ばれることがない。東と腑
する認識、勲の論理を確認する必要がある。
ためには、一身の利害を超え、身命を賭さなくてはなりません。身を龍
か紆ぶに博、仲か於掛かか繚粋か行卦掛要か伊です。その果断な行為の
るが、一方その踏台は一瞬一瞬崩れかけてゐるのが感じられた。桜園先
ずあって、それも危い足場の踏台に乗って辛うじて指先が触れるのであ
いふものへもうちょっとで指が届きさうになってゐるといふ焦燥がたえ
もちろん大勢の人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天へ昇
生が説いた宇気比の神事も、不可能になった現代だといふことはわかっ
勲は自分を無垢であり純粋であると思ったことはなかった。ただ純粋と
るといふことも考へました。が、さうしなくてもよいといふことが次第
てゐる。ただ彼は、神意を窺はうとするあの宇気比には、やはり、今に
と化して、龍巻を呼ばなければなりません。それによって低迷する暗雲
に分かりました。神風連の志士たちは、日本刀だけで近代的な歩兵営に
も崩れさうな危い踏台の要素があつたと思ふのである。その危ふさこそ
をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
く群がり集まった一点を狙へばよいのです。力をつくして、そこに穴を
斬り込んだのです。雲のもっとも暗いところ、汚れた色のもっとも色濃
勲は、自分を ﹁純粋﹂ な存在とは思っておらず、ただ ﹁純粋﹂ を求め、も
罪でなくて何だらう。その不可避であったことほど、罪に似たものはな
うがち、身一つで天に昇ればよいのです。 ︵三七
五
頁
︶
い
の
で
あ
る
。
ここで喩えられている ﹁暗雲﹂ は、困窮する農民や混乱する経済に対して
何の対策もとらず私腹を肥やすことに精を出している政財界の要人を指して
う少しで手が届きそうなところにいると思っている。そのような勲が乗って
いる。﹁天﹂ に存在しているのは ﹁陛下のまことのお姿﹂ とされる ﹁太陽﹂
出し、それを ﹁罪﹂ と捉えているが、それは、すでに述べたように、人為の
ものである。勲は、﹁宇気比﹂ に ﹁今にも崩れさうな危い踏台の要素﹂ を見
である。勲は、政財界の人間によって ﹁まことのお姿﹂ を遮られている ﹁陛いる ﹁踏台﹂ は、﹁危﹂ く、﹁一瞬一瞬崩れかけてゐる﹂ ように感じられる
“下﹂ を回復しようと考えており、そういうときに﹃神風連史話﹄に出会った
のである。勲が短期間の内に受容し、それまでと一転して行為に及ぶなど、
介在を容易にする、宇気比の方法そのものにあると思われる。そして、ここ
ではそれ以上に、勲が太田黒の行為にこのような面を見出していたと考えた
方が自然であろう。
勲は、﹁罪﹂とも言える太田黒の行為を﹁踏台﹂にして﹁純粋﹂を手に入
れようとしているのであり、それは﹁天と地﹂が結ばれることでもある。し
ある。勲の考える純粋とは﹁恋関の情﹂と呼ばれる︵神/天皇︶に向けられ
さらに勲は次のような考えも持っている。
たものであり、これが﹃神風連史話﹄の基盤をなしているのである。
自分一人純粋であらうとするには、罪の別な形式を借りなければなら
ず、いずれにしても本源的な罪から養分をとらねばならぬ。そのときは
で結合するのだつた。︵中略︶ともすると勲は、自分一人の考へる光栄
じめて、罪と死、切腹と光栄が、階風のさやぐ断崖、のぼる朝日のなか
に達するために、少しは罪自体をも愛してゐたのかもしれない。
かし、勲の﹁宇気比の神事も、不可能になった現代﹂とする認識はその実現
が不可能であることを意味している。勲が目的を果たすためには、その矛盾
不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血し
観念、優しい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、
ある。そしてそれは ﹁のぼる朝日﹂ の光の中で成就される。そこではじめて
罪を重ねたものが ﹁死﹂ぬことによって﹁純粋﹂に転換されるとする考えで
神の罪﹂であり、ここでは蔵原を暗殺することを指している。これは、罪に
武介の援助によって生活していることでもある。﹁罪の別な形式﹂とは﹁涜
うな世に生きてゐながら、何もせずに生き永らへてゐる﹂ ことであり、蔵原
ここで言う﹁本源的な罪﹂とは、勲にとって﹁聖明が蔽はれてゐるこのや
︵一七七頁︶
が解決されなければならない。宇気比、あるいはそれに代わるものとしては、
勲の意図を越えて働き、その行動を決定し、導いて行くだけの力が必要とさ
れる。
勲は ﹁純粋﹂ について次のようにも考えている。
ぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだった。﹁花と散
ような論理は勲独自のものであるが、その中に見られる ︵死への志向︶ 二
先に述べた二つの観念の ﹁ほしいままな転換﹂が可能になるのである。この
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嚇薬の味のやうな
る﹂というときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化し
話﹄の影響を色濃く受けた勲独自の論理によって補強されている。ただし、
を模倣することで、その精神を受け継ごうとしており、それは﹃神風連史
勲は、太田黒の行為を模倣し、その上でもっとも純粋とされる加屋の行為
人の意識︶ は﹃神風連史話﹄の影響を強く受けたものと言える。
た。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だった。︵二二頁︶
ここには勲の考える ﹁純粋﹂観が現れている。﹁血の観念、不正を薙ぎ倒
ひは切腹の観念﹂はすべて﹃神風連史話﹄に見られるものである。それに対
勲が目的を果たすには、宇気比、あるいはそれに代わるものによって導かれ
す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、ある
い母の胸にすがりつくやうな観念﹂とは、﹃奔馬﹄においては ﹁笹百合﹂ で
して ﹁花のやうな観念、薄荷をよく利かした含噺薬の味のやうな観念、優し
なければならない。
これは、作者が﹃葉隠入門﹄で﹁女あるひは若衆に対する愛﹂と﹁主君に対
︵昭和神風連︶ の決起が逮捕によって失敗したところまでである。
勲が、﹁罪﹂とも言える太田黒の行為を ﹁踏台﹂ とすべく模倣するのは、
ここでは前節で明らかになったことを踏まえ﹃奔馬﹄の内容を確認したい。
︵二︶﹃神風通史顔﹄の再構成
あり、牢屋に入っている勲に送った手紙に﹁母に欠いてゐる才能﹂を見た横
子を指している。つまり、勲にとって ︵﹃神風連史話﹄の精神︶ と 八積子と
する忠﹂とを同じものとし ﹁天皇崇拝の感情的基盤をなした﹂ ﹁恋閑の情﹂
の恋情︶ は、等価とされ、﹁ほしいままな転換﹂が可能なものとされている。
と呼んでいるものであり︵注15︶、父茂之が塾生に好んで使っている言葉でも
一五頁
勲は ︵昭和神風連︶ のリーダーとして、神風連志士が桜園の教えを絶対と
一六貢
座をして、額いて来﹂たり、﹁いつ何時でも御用に立つ覚悟がなければなら
てその実践を行っている点で類似していると言える。
ないと言って、毎日洗濯に精を出して身ぎれいに﹂ するなど日常生活におい
当初、勲たちの指導者として加屋の役割を担っていたのは堀中尉であった。
したように、﹃神風連史話﹄を絶対として同志を選別する。決行の日時を決
しかし、堀中尉の裏切りが決起の失敗につながっていくことを踏まえるなら
定する際には太田黒に倣い ﹁間中に釦を揮ひ、当路の姦臣を什す事﹂ を言挙
はその決定を ﹁自然の生起﹂ に委ねるが、神命は下らず、﹁思はず嘘をつ﹂
げしている。﹁宇気比の神事も、不可能になった現代﹂ という認識を持つ勲
別後、その役割を担ったのは佐和である。佐和は ﹁技術﹂ の欠ける勲たちに
ば、堀中尉に加屋の本質が担わされているとは考えられない。堀中尉との決
号﹂ である。
割を果たす。勲が暗殺すべき蔵原の場所を知るのも佐和の ﹁講談倶楽部新年
暗殺の仕方を教え、決起の縮小を提案するなど実質的な指導者としてその役
いてしまう。また、二大勢の人手と武力﹂ を必要としないと考える勲にとっ
の嘘と決起の失敗を意図してその行為を模倣したのである。
て、この同志と共に企てた決起は真意とは言えないものである。勲は太田黒
勲は、その上に、もっとも純粋とされる加屋の行為を模倣したのであるが、
それはとくに釈放後に現れている。釈放後の勲は ﹁命ぜられるままに動いて
答えることで横子との恋情を成就させており満足していたとも考えられる。
てるような攻撃に耐えることで論理や志を強化されている。決起の日時を決
和の真意を詮索することに神経を注ぐようになり、加えて、佐和のまくし立
も見ることができる。佐和に不信感を抱く勲は、佐和との会話において、佐
佐和には、勲に父と蔵原の癒着をほのめかしたときに始まる教育者の側面
しかし、ここでは、加屋がすべての行為を宇気比によって決定した如く、勲
めたときに﹁駄はず嘘をつ﹂ ︵傍点は引用者による︶ いたときの心の働きは、
ゐ﹂ る。これは、勲が牢にいる間に自分の論理に従い、梯子の偽証に偽証で
ことで、改めて蔵原暗殺の決意をする。ここにおいて勲の行動は決定された
もそれを模倣していたと考えたい。勲は、父から蔵原との癒着を聞かされた
悪を薄めるやり方﹂、すなわち、天皇を覆い隠す元凶とされる財界人からの
さらに、佐和は、勲がもっとも嫌っている父の ﹁悪で正義を薄め、正義で
の偽証を偽証をもって対処するまでに成長している。
と 言 っ て よ い 。 そ の 後 は 、 前 節 で 見 た よ う に ﹁ 身 命 を 賭 し し ﹁ 日 本 刀 だ け佐和との実践においていつの間にか身に付いたものと言える。それは、梯子
で﹂ ﹁雲のもっとも暗いところ、汚れた色のもっとも色濃く群がり集まった
援助を受けながら、天皇を崇拝する右翼塾を主催していることを、勲に決起
一点を狙﹂ うべく、一人で行動する。これは、﹁自鞘の小刀﹂ を買い、﹁暗
雲﹂ の一点とも言うべき蔵原の暗殺に成功し、自刃を果たした一連の行為に
を支配し、蔵原暗殺に導いている点で、﹁宇気比﹂ と同じと考えられる。勲
それらに見られる佐和の行為は、すべて勲の意図を越えており、勲の行動
の資金として千円を渡すことで模倣させている。
符合している。
ここで、気になるのが、佐和の存在である。釈放後の勲は謹慎中故、佐和
勲が暗殺に向かった日も、﹁宮城前の提灯行列に参加するため﹂ に佐和と
と一緒でないと外出を許されない。
た、勲の意図的な模倣が影を潜めるのも釈放後のことである。勲は、加屋の
の佐和に対する不信感がなくなり共に行動するのは釈放後のことである。ま
佐和は ﹁あきれるほど非常識な、四十歳の、妻子を国に置いて出てきた
共に外出している。
男﹂ で、﹁肥って、剰軽で、暇さへあれば講談倶楽部を読んでゐる﹂ような
の暗殺に成功したのである。これは、加屋の行動がすべて宇気比によって決
役割を担い、宇気比としての役割も担った佐和に導かれることによって蔵原
定されていたこととも符合するものである。
人物である。一見、加屋とはかけ離れているようであるが、壮年であること、
熊本出身であること、そして ﹁週一回は宮城前へ行って、玉砂利の上に土下
それは、勲が﹃神風連史話﹄に見える復古革命の不十分さを克服し、同じよ
したのである。言うなれば、勲は﹃神風連史話﹄再構成を試みたのである。
倣することによって、その精神とも言うべき ﹁神世の復古﹂ を実現しようと
その上に、桜園の教えをもっとも忠実に実践した ﹁純粋﹂な加屋の行為を模
勲は、﹃神風連史話﹄で ﹁純粋性﹂ を剥奪された太田黒の行為を模倣し、
れを踏まえるならば、平田篤胤の崇敬家である真杉海堂もこの一派に属する
大教正・侍講となり、御用学者の最高位となった﹂ と述べている︵注16︶。こ
の養子平田鉄胤は、その廃仏毀釈の功労によって、明治元年、大学大博士・
べており、これを企んだ者が ﹁平田篤胤に代表される国学者一派﹂ で ﹁篤胤
日に出されている。村岡空は、それが廃仏毀釈に ﹁追い打ちをかけた﹂ と述
﹁太政官布告﹂が三月一三日に、続いて ﹁神祇事務局ヨリ諸社へ達﹂ が一七
の出した ﹁神仏分離令﹂ 及び、それによって起こった廃仏毀釈を体現してい
野しか持たない人物と考えられる。やや独断と思われるが、海堂は、新政府
ものと言え、それを無批判に受け入れている点で太田黒同様偏狭な知識、視
うな状況にあった昭和の初期にその実現を図ろうとしたことを意味している。
そしてそれは、勲の論理に従うならば、少なからず果たされたことになる。
︵三︶ 臆の素に昇った﹁日輪﹂ の意味するもの
ただし、勲の海堂に対する涜神とも言うべき行為は、実は、父茂之の行為
ここでは﹃神風連史話﹄ で ﹁純粋﹂ であることを否定された太田黒との関る人物と考えられる。
連に目を向けたい。
行動規範で、信仰の対象とも言える﹃神風連史話﹄を庭へ放り投げられてい
の繰り返しだったのである。勲は、洞院宮に会うことが原因で、父に絶対の
る。真杉海堂は、平田篤胤の崇敬家で、仏教に対してきわめて排他的な神道
る。それは水溜まりに落ちて泥水に浸される。勲は、父から涜神にも値する
﹃奔馬﹄ では太田黒と同様の人物としては、真杉海堂をあげることができ
家である。彼は、錬成会に参加した献靖塾生に対しても執拗に仏教を非難す
屈辱を受けていたのである。
このような父の繰り返しは、勲の論理が ﹁恋閲の情﹂ であること、佐和か
る。勲の父茂之はこのような海堂を盲目的に敬い全幅の信頼を寄せている。
そのような海堂は、勲と佐和によって否定されている。
その精神を継承したように、父茂之の精神や信仰といった内面も継承してい
勲は、海堂の錬成会の行われた山梨梁川で、﹁小さな涜神に手を染め﹂ る
ら軍資金を受けせったことに現れていた。勲は、父茂之の行為を意図的では
実践として ﹁獣肉充血の積れ﹂ を論じる海堂を積そうと猟銃を持って山に出 ないにせよ模倣しており、﹃神風連史話﹄ の行為を意図的に模倣することで
かける。皆が勲を見つけたとき彼が手にしていたのは雉である。勲は、海堂
茂之は、天皇の御真影を掲げたり、月例行事で明治神宮や靖国神社へ参拝
にとって神聖な場所を血で積したのであり、それは ﹁小さな涜神﹂ の成功を たものと思われる。
意味している。一方、佐和は、錬成会から戻った食事の席で勲の成長を祝う
じ
よ
こ
ん
や
たわけであるが、その中で否定されるべきものも模倣していることに留意す
る必要がある。﹃神風連史話﹄で否定されたのは太田黒であった。太田黒の
勲は、﹃神風連史話﹄や父茂之の模倣を通してその精神を受け継ごうとし
への信仰は篤い。
詩を吟じ、あわせて ﹁海堂先生をお喜ばせするもの﹂ と断って ﹁本是れ神州 したり、大神神社を熱心に崇敬したり、神道家真杉海堂を盲敬するなど神道
清潔の民/謬つて仏奴となり同塵を説く/如今仏を棄つ仏恨むことを休めよ
を休めよ﹂ は仏教に排他的な海堂に対する忠告と言えるものである。ここで
/本是れ神州清潔の民﹂ と吟じている。しかし、﹁如今仏を棄つ仏恨むこと
塾生が ﹁海堂の顔を思ひうかべて笑﹂ っていることも塾生にとって海堂の仏
神︶ とされる天照大神を否定するものであった。一方、父茂之で否定された
否定は、伊勢神宮に祀られる ︵天皇家の始祖神であり、天皇と国家の守護
新政府が ﹁神仏分離令﹂ を発布したのは一八六八年三月のことである。
教非難が度を超え滑稽にさえ思われていたことを物語るものである。
一七貢
代の天皇はじめ皇室関係者の墓や縁のものが点在する、いわば歴史的皇室の
一八頁
のは真杉海堂であった。仏教に排他的な神道家真杉海堂への涜神とも言うべ
磁場が形成されている場所に当たる。
ことはすでに述べたことである。しかし、勲の模倣は﹃神風連史話﹄だけで
勲が﹃神風連史話﹄の模倣によってその精神を継承しようとし、成功した
佐和を第一とするならば第二の宇気比と言うことができよう。
神社と酷似した場所へ導かれることで自刃を果たす。勲を導いた﹁神意﹂は、
勲は、﹁最後まで彼を見離さない神意﹂ によって大物主神の祀られる大神
は紙幅の関係上割愛する。
大神神社との関連は、勲の自刃した場所にも見ることができるが、ここで
においてもほぼ同質化されていたと考えてよいだろう。
大物主神と松枝清顕の霊魂は、茂之の内面だけでなく大神神社という磁場
き行為は、・明治新政府によって出された神仏分離令、及びその結果起こった
廃仏毀釈を否定するものであった。父の中で信仰の対象として残されたもの
は奈良の大神神社である。﹃神風連史話﹄との関連で言えば、大物主神は、
桜園の説いた神武天皇に始まる政祭一致のまつりごとが行われていたとき、
神人が共存していたときの神と考えられる。﹃神風連史話﹄の精神と飯沼茂
ここで忘れてならないのが茂之にとっての松枝清顕の存在である。茂之は
之の信仰は大神神社でつながっていると言える。
清顕付きの書生であり、女中みね ︵後の勲の母親︶との関係が発覚し暇を出
されるまで清顕に仕えていた。茂之は再会した本多との会話の中で次のよう
いった内面を継承していたのである。自刃の際、勲の瞼に映った ﹁日輪﹂ は、
はなかったのである。父茂之の行為をも模倣することで、その精神、信仰と
に述べている。
﹁私は若様の背中一つ流して差し上げたことはありません﹂
された松枝清顕と言える。そしてその現象が意味することは、勲の肉体と大
が共存していた頃の神々を代表して現れた大物主神であり、その神と同質化
﹃神風連史話﹄の精神と飯沼茂之の信仰が現れたものである。それは、神人
﹁何故﹂
このときこの無骨な塾頭の顔には、いひしれぬ含羞が汲んで、浅黒い
頬に血が昇った。
﹁若様の鉢といふものを、・⋮・私は、まぶしくて、ただの一度も直視
葉に言い換えるならば、︵現し世の顕御神である天皇︶ と ︵幽り世の遠御
これは、本来同じものとされる ︵荒魂︶ と ︵和魂︶ の合致であり、桜園の言
し た こ と が な か っ た の で す ﹂ 物 主神 ・松
枝清
顕と
い う︵ 見え ない
︵存在
五︶七
が頁
合一︶
したことを意味している。
神︶ の合一と言える。これは図らずも﹁神世の復古﹂ を意味するものであっ
茂之にとって清顕は、太陽か雷のように直視できない光を放つ存在であり、
直に触れることのできない崇敬される対象だったと言える。それは茂之の中
た。
する独自の論理を持っていることが明らかになった。勲はその論理に従う形
為﹂ を必要としており、それを罪に罪を重ねることによって純化させようと
次に飯沼勲の﹃神風連史話﹄の受容を確認したが、そこで勲は ﹁純粋な行
本稿では、まず﹃神風連史話﹄ の内容に触れ、その ﹁純粋性﹂ を確認した。
四、おわりに
で大物主神に対するがごとく松枝清顕にも対していたことを意味している。
清顕は、綾倉聡子が奈良帯解の月修寺に出家した後、聡子に会うためこの
地に赴いているが、結局会えないまま死んでいる。清顕は、聡子に未練を残
して死んだのである。清顕の彷裡う霊魂は、聡子のいる帯解周辺を浮遊して
いたものと思われる。そのような折、大神神社に参詣する茂之を見つけた清
顕は、懐かしさのあまりついて行き、大神神社に祭られている神と交流を果
たす。
月修寺のある帯解は、奈良と大神神社をつなぐ途中にあり、東京から大神
神社に参詣する際は必ず通る場所である。そしてここは山辺の道と呼ばれ歴
できわめて意図的に太田黒を模倣し、その上で加屋を模倣することによって
その精神を継承しようとしたである。つまり、勲は﹃神風連史話﹄を再構成
することでその精神とも言うべき﹁神世の復古﹂ に成功したのである。図ら
また、勲は、父茂之も模倣していたのであるが、これは最期に勲の瞼の裏
ずもこれは﹃奔馬﹄ の構成となっている。
一〇月であるが、自衛隊入隊への意志が固まるのや楯の会の母胎となる青年たちと出会
うのは、それより早い一九六六年末頃とされている。
集﹄第三四巻、一一六頁︶。
注5、﹁あとがき﹂ ︵﹃若きサムライのために﹄日本教文社、一九六九年七月。﹃三島由紀夫全
三着、二六九∼二七五黄︶。
注6、﹁小説とは何か﹂ ︵﹃波﹄一九六八年五月∼一九七〇年一一月。﹃三島由紀夫全集﹄第三
集﹄第三四着、三四二頁︶。
注7、r﹁革命の思想﹂ とは﹂ ︵﹃読売新聞﹄一九七〇年一月二〇∼二二日。﹃三島由紀夫全
注8、小島千加子﹃三島由紀夫と壇一雄﹄ ︵構想社、一九八九年四月、四五頁︶。
九月、二六∼二八頁︶、乾昌幸 ﹁三島由紀夫の旭日コンプレックス﹂ ︵﹃明治大学教養論
注9、許莫﹁﹃奔馬﹄論 − ﹁神風連史話﹂ を中心に − ﹂ ︵﹃日本と日本文学﹄一九九二年
集﹄一九九三年一二月、五四∼五五頁︶。
一九九六年二月︶。
注10、山口直孝﹁﹃奔馬﹄の構造 − ﹃神風連史話﹄の解体と再生 − ﹂ ︵﹃昭和文学研究﹄
注11、前掲注10、一〇六∼一〇七頁。
四四∼四五貢︶。
注は、斎藤英喜﹃アマテラスの深みへ 古代神話を読み直す﹄︵新曜社、一九九六年一〇月、
注13、清水昭﹃西郷と横山安武 − 明治維新の光芝﹄︵彩流社、二〇〇三年一月︶。
紀夫 − 魅せられる精神﹄おうふう、二〇〇一年一一月、三〇一貫︶。
注14、前掲注10、一〇七貢。柴田勝二 ﹁模倣する行動 − ﹃奔馬﹄の中の ︵劇︶﹂ ︵﹃三島由
注15、﹃葉隠入門﹄ ︵光文社、一九六七年九月。﹃三島由紀夫全集﹄第三三巻、七四貢︶
注16、村岡空﹃狂気の系譜﹄ ︵伝統と現代社、一九七七年三月、二八九貢︶。
附記
﹃豊餞の海﹄は新潮社刊行の初版 ︵﹃春の雪﹄一九六九年一月、﹃奔馬﹄一九六九年二月、
﹃暁の寺﹄一九七〇年七月、﹃天人五衰﹄一九七一年二月︶ により、それ以外は﹃三島由紀夫
に映った ﹁日輪﹂ が ︵大物主神・松枝酒癖︶ であることを明らかにするもの
であった。そのような点で、﹃奔馬﹄とは、勲が﹃神風連史話﹄を通して神
を希求し、論理的にはその実現に成功した物語と言うことができる。
作者にはこのような ﹁神世の復古﹂ を試みる構想が当初よりあったものと
思われる。というのも、﹃神風連史話﹄との関連で見たとき、﹃春の雪﹄に
すでにその種が蒔かれているからである。﹃奔馬﹄ での成功は、そのまま
﹃豊餞の海﹄の成功を期待させるものであったと思われる。しかし、本多繁
邦を主人公とした戦後社会における ﹁神世の復古﹂ の試みは﹃暁の寺﹄で早
くも破綻を見せている。そこに、作者が、﹃天人五衰﹄脱稿の日に市ヶ谷自
衛隊へ乱入し、自刃という行為に及んだ鍵があると思われる。
﹃三島由紀夫全集﹄第三三巻、五一八頁︶。
注1、r私の近況−−1−﹁春の雪﹂ と ﹁奔馬﹂ の出版﹂ ︵﹃新刊ニュース﹄一九六八年二月。
注2、﹁﹁豊牌の海﹂ について﹂ ︵﹃毎日新聞﹄一九六九年二月二六日。﹃三島由紀夫全集﹄第
三四巻、二七∼二八頁︶。
﹃文化防衛論﹄とも関連させて ︵﹃春の雪﹄−﹁たわやめぶり﹂−﹁文﹂ ﹁菊﹂︶ ︵﹃奔
注3、野口武彦 ︵﹃三島由紀夫の世界﹄ ︵講談社、一九六八年一二月、二三七∼二三八頁︶ は、
馬﹄−﹁ますらおぶり﹂−﹁武し ﹁刀﹂︶ と捉えている。長谷川泉﹁作品論 豊儀の海﹂ 全 集 ﹄ ︵ 新 潮 社 、 一 九 七 三 年 四 月 ∼ 一 九 七 六 年 六 月 ︶ に よ っ た 。 な お 、 引 用 の 際 、 旧 漢 字 は 新
︵﹃国文学﹄五月臨時増刊 ︵三島由紀夫のすべて︶一九七〇年五月、七四頁︶ は、︵﹁春
漢字に改めた。
の雪﹂−﹁優雅﹂ ﹁美﹂︶ ︵﹁奔馬﹂−﹁崇高﹂︶ と捉えている。磯田光一﹁﹃豊餞の海﹄四
部作を読む ー 〃滅び〃の構図の行方 − ﹂ ︵﹃新潮﹄一月臨時増刊 ︵三島由紀夫読本︶
一九七l年一月、三〇一∼三〇五頁︶ は、︵﹃春の雪﹄−﹁悲恋﹂ ﹁優雅﹂ ﹁みやび﹂−
﹁たをやめぶり﹂︶ ︵﹃奔馬﹄−﹁政治的ラジカリズム﹂−﹁純粋性﹂︶ と捉えている。こ
のような捉え方がとくに﹃春の雪﹄﹃奔馬﹄解釈の方向性を決定したと言ってよい。
七頁︶ によれば、自衛隊への最初の入隊は一九六七年四月、楯の会の結成は一九六八年
注4、山口基 ﹁三島由紀夫略年譜﹂ ︵﹃三島由紀夫事典﹄勉誠出版、二〇〇〇年一一月、六八
一九頁
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