Comments
Description
Transcript
『豊饒の海』論(2)-『奔馬』を中心に して
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 『豊饒の海』論(2)-『奔馬』を中心に して- : 「優雅」の政治学とその臨界点 柳瀬, 善治 三重大学日本語学文学. 1995, 6, p. 61-80. http://hdl.handle.net/10076/6486 柳瀬善治 「演出成果(他者を自在に動かしているのだという自負)」 壷焼の海蒜(2T蒜馬芸中心にして1 「優雅」の政治学圭の冥点・ さらに他者の椒念、ノ行為を演劇的な形で一致させようとする そのような三人の他者演出行為はすべて自己の概念と行為、 はまさしく想像上のものでしかないことを確認する。そして 完全なルブレザンタシオン(上汝=代表=代行)の幻想とい [はじめに] 本論考は以下のことを目的とする。 (の残像)と「純粋」のイメージの葛 ⑤さらに、この作品における「仏教」が、本多の「F見る 観への反措定であることを述べる。 に作品中に唯織論が持ちこまれており、それが演劇的な世界 う形で一くくりにすることができ、その幻想を破壊するため ①エッセイ『変質した優雅』における「優雅」の規定に、 ②『春の雪」と「奔馬」の間の連続、非違続性を「優雅」 「豊擁の海bのモチーフがあ富ことを確認する。 『奔馬】での「優雅」 (各主人公の転生を根拠づけるた めの認識装置)であると同時に、作家の「【見る意志」を支 意志』を支へる最後のカ」 (小説を展開するための理論装置)でもある ズを見る。そしてそれが三島の晩年の小説という表象形式、 -61- と「原料の醜さ」という言葉の扱いの速いに見たのち、次に 藤の削が、「花」をめぐる鬼頭桃子と飯沼勲の考えの違いに へる最後の力」 と鬼頭桃子に象徴されるすべてを歌--文学にする意志-「も 事を述べ、さらにr暁の寺】との比較を通して、その「意志」 ③「優雅=歌になるもの」の担い手である桃子が、言詩を 象徴化されていることを論証する。 が「純粋行為(への意志)」を言葉の故に絡めとって行く過 さらには小説家という存在自体への不信と結びついているこ に対する不信とそれに対するグロテスクなカリカチ.エアライ う一つのr見る意志】」-の間の持抗に、三島の自己の文学 通して勲を手玉にとって行く様を、「優雅=歌になるもの」 程として分析する。 各人の思惑(--虚構)を交えた政治的=演劇的葛藤を読み解 とを作家の対故での最後の言葉と突き合わせることで論証す ④その後、裁判の場面での、法の番人本多をも巻き込んだ いていき、鬼頭槙子と飯沼勲の漬技は自己充足という点で円 がゆえに他者の演技に想像的に関わることしかできず、彼の 環が成立しているのにくらべ、本多は傍椴者=洩出看である る。 ため、彼女の「肉体はなお優雅の形をとどめているのに、そ (平家滅亡の地獄絵図…引用者注)を代表して生存している 形式の中に仏教の表象否定の論理を内在させ、さらにそれを れには既に屍臭がしみついてゐる」といい、「彼女の知って ⑥最後に三島が『暁の寺】以降に行った、小説という表象 戦略として憲磯七ているという二重底の戦略が、作品への批 ゐる表現は優雅の表現だけ」であるので、彼女の言わば「屍 -つ。 「みやび」」 (三重大学r日本詩学文 において論者がr春の雪」始で展開 開するためには宗教(仏教) の力が必要なのだということも。 ということが了解されるであろう。そして彼がその物語を展 このr変質した健雅」を書いた時点で作家の頭の中にあサた たr血みどろの実質hを巡る物括の予兆、というテーマが、 後に現れるもはや優雅の価値観や表現では説明できなくなっ した、r優雅】とその価値の失墜を措いた物蒔、そしでその 学】第四号一九九三) あるいは空虚としての 上記のような記述から先に発表した拙欄「r春の雪】論- 「r見る意点】を支へる最後の力」として作用するのゼとい 回復」したものであると考える。またその際に現れる宗教は 越者と七て、仏菩薩として、宗教のカを借りて、表現のカを そして法王の質問に答える女院の姿を三島は「女院は、超 三十三∼三十八貢による。) (なお、引用は三島由紀夫全集第三十一筆F変質した優雅一 のだとする。 したこの作品の序段は「表現の困難のうちに低迷してゐる」 体公示所の体験」を表現することができず、女院を主人公と 判をあらかじめ封℃てしまっている巧妙な設定になっている こと、その表象否定は具体的には暁の寺以降の作品で行われ ており、その前段階の作業として精度の高い作品投計に基づ く完全な表象への夢とその破綻の予兆が『奔馬】という作品 内で語られる必要があったのだということを述べて、一応の なお、本稿は論者のヨ莞鱒の海】論の一部であり、 結語とする。 のみに限定しないもので の海』四部作を一つの作品として見なす立場に立つも き、必ずしも考察の対象を「奔馬」 の死の予兆と救済しない仏教- 『変質した優雅し あることをお断わりしておく。 (1) -「みやび」 まず三島由紀夫のエッセイF変質した優雅』について括り 始めることとしたい。『変質した優雅】は昭和三十八年七月 に発表されたもので、主に謡曲の「大原御幸Lを扱いながら、 現在の社会や芸術におけるドラマ性の不在を論じたものであ る。『大原御幸」の女院を三島は「優雅」の代表と規定し、 つ 豊 焼 に 彼女が現在「心ならずも、いまや自分の見た忌まはしいもの」 62 ・の-・・一†一一・・ の「表現の困難のうちに低迷」したまま死にいたる。さらに の表現だけ」であり、「血みどろな人間の‡相」を描くため もまたr大原御幸-の女院と同じく「知ってゐる表現は優雅 はない。たまたま『大原御幸】を見て、そのやうな怖ろ 一弘は何も行き当たりばつたりに能の話を始めたわけで しい劇を成立たせた文化の→時代の様相を、現代と比べ 松枝請願と宗原御幸」Ⅵ女院との違いは「仏教」によ 家する聡子を写っ絶対の不可侵の象徴としてのみある(つま り聡子を奪っという点で宮家としほぼパラレルなものになっ ゎれることで救われるのだが、松枝清顕にとっての仏教は出 女院は仏教によサて救われ、戦没者も女院打身をもrて弔 済がないことである。 てみるといふ、月並な考察に誘はれたからである。 優雅と、血みどろな人間の†相と、宗教と、この三つ のものが『大原御幸】の劇を成立させてをり、かつ文化 の究極のドラマ形態を形作ってゐる。この一つが快けれ 傍線引用者) ば、他の二つも無用になるといふ具合にJ 三十七貢 いる)。さらにこの.「仏教」は三島にとっても救済ではなく、 (前掲育 に対する苦い自己揺織を与えるものとして機能していろ(そ ≡翠餞の海」を展開する際の原動力となると同時に彼に創作 に、「宗教」 「春の雪」では、「優雅の表現」では描き切れない「血み れについては後に述べることとする。) どろな人間の‡相」は、「優雅」との対称性宣おいて、松枝 清顕の心のうちにわきあがる過剰な「原料の沸さ」 映な曙」 (前掲書首九十八貢)に到達するまでを描こうとし 「血みどろの†質」が、「推も見たことのないやうな完全無 そのように飯沼勲の行動という形をとることで純化された れる互。 それが『奔馬】では飯沼勲の行動の形を与えられ、.純化さ てはいなかった。 紀夫全集十八巻「春の雪』二百八十七貢)としてしか掃かれ (ニ島由 「優雅と、血みどろな人間の‡相と宗教」の葛藤のドラマ。 に対応している。 に、「血みどろな人間の†相」は『奔馬し は『暁の寺】 「春の雪】との連続、非連続 のだが、彼 ー63- それがまさに『豊繰の海】なのである。「優雅」はr春の (仏教) (2) ここで無々はr豊陸の海】の物誇の端緒、コ苛の雪」の冒 に潜む「血みどろの資質」を自覚するに至るT) そして彼は己れの学んだ優雅の死滅を自覚し、.自らのうち 疲れた」ような頗をしている。 確認する「遅れてきた†年」であり、まるですべてに「読み 想起する必要がある。主人公松枝清掃は言わば戦乱を写真で 頭が、甘露戦役の写真から誇り起こされていることの意味を 雪」 る。 たのが他ならぬr奔馬」という傭品なのだといえる。 青かすものとして描かれる。言わば「歌になるもの」が「歌 「花のイメジャリー」 にならないもの」を揉柵する過程がそこに展開されるのであ (3) -「優雅の枯渇」と「純粋の躁欄」- まず「優雅」と「純粋」亡のイメージの葛藤を示す場面とし 傍線引用者) (三島由紀夫全集第18巻r奔馬】 四十五貢 四育四十四∼琶育 「百合の花」は気高い「優雅」さを表すと同時に、空を切 ここで「優雅」ほ「富合の主題」として描かれる。 け裂くような「一種の刃」と見えるものとして、つまり「又」 (優雅)と「武」 (純粋な行動)7の両面のイメージをもつメ タファーとして描かれている互。 こぞっち「文」 (優雅)に該当するのが鬼頭桃子、「武」 る)ならびに「血」と結びついた以下のようなイメージで描 (この「花」は桜の花であ かれる。 勲にとっての「純粋」は「花」 (純粋な行動)の部分に核当するのが飯沼勲である。 ち、もつとも姿のよいものが選ばれて、柑と缶を飾った 念を、ただちに、血の載念、不正を薙ぎ倒す刀の取怠、 薬のやうな較念、やさしい母の胸にすがり付くやうh叫樹 純粋とは、花のやうな取念、薄荷をよく利かした∧到嘲 百合の主題はいたる所に執拗に繰り返され、世界の意味 あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。「花と散 袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの概念1 る」といふときに、血みどろの屍健はたちまち匂ひやか 引用者) (「奔馬】 全集十八巻 五首十二∼五百十三貢 まな縛換だ1った。 だから純粋は持なのである。 が、高く掲げた百合の花は危険に揺れはじめ、踊りが進 しらほれ、合ひ、また、離れて、空をよぎるその白いな った。そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれ て、柴も窄も‡になごやかで優雅であるのに、あたかも 傍線 むにつれて、百合は気高く立てられ、また、横ざまにあ は百合の中に和められてしまつたかのやうだ。(中略) 見渡すすべてに富合が関はり、微風も育合の香にあふれ、 はかは、瓶に活けられて杜前のあちこちに花やいでゐる。 …飯沼少年たちによつて運ばれた三千本の笹百合のう て次のような場面があげられる。 な櫻の ..t■● 手 奉巣につれて、乙女たちは四角に相封して踊りはじめた -64- だがそこでも「優雅」=政治性はより巧妙な形で純粋性を よやかな 右の引財に見られるように、勲は「花」をしおれさせるこ とを好まない。備にとっての「償(という観念)」とは割 腹の儀式の隙に散る桜の花め如く、いわば「血しぶきの死体 もつかぬ表情を浮かべる」一癖ありげな女として描かれてい る互。 彼女は、この作品のなかで他ならぬ勲の「純粋な行動」を めようにして永遠化する(r奔馬】全集十八巻 五首三十八 盛りで学bせること腋ない。彼女は実在の花をドライフラワー 鬼頭桃子は、勲にと.っての美や純粋をを表す「花」をその 満めとり、萎えさせる役割を担っている。 (という観念)」と切り離せないものであり、土の二つの相 反する観念は「純粋」という「儀念」によヶて結ばれてい.る。 ここでの「花」は神聖なるものを表し、彼の「花のやうな 観念」=「刀の観念」=「血しぶきの観念」という図式を満 貢。)それと同じように彼女は美の世界を和歌という書籍作 品に結晶させて永遠化すそまた姐女は勲のような青年の純 足させる純粋さⅥ象徴としてあっ雪その象徴としての花は 彼にとってあくまでも気高くあらねばならず、また、しおれ が億にする。 粋さを、言葉の綾のなかに璃め取り、閉じ込め、自分.の患う だが彼女が書籍化七て摘め取った「美」はドうィフラツー の如くみずみずしさを失ったものにしかならない。 彼女にとっての「花」は単に歌を読み、美的イメージを表 現するための単なる言葉であり、ドライフラワーのような枯 65 る前にその盛りにおいて散らねばならぬものとしてとらえら 『奔馬】における「優雅=歌になるもの」 れているのである(4一。 (4) -鬼頭横子という表象- 「永遠」に対する姿勢はまさしく勲のそれと とんどそれに気づくことはない。 横子の言葉の二重性を通じて気づかぬままに行われ、勲は・ほ であったと言えよう。ただ、その対立徳義面化する事なノ∴ 対極にあるのであり、この二人が対立することはまきに必然 彼女の「美十 のような純粋な行動のイメージを喚起する観念に欄なりえな 渇した歌を作るための「材料」.にはかならず、決して「刀」 ここまで確認したような飯沼勲の「純粋」志向は、完息において、.「歌になるもの」の残像-「優雅」の残りかすと も言うべき貴族的陰微き-によって相対化され手玉に取られ ることとなる(それは「春の雪】の士族たちの拙劣なそれ七 は比較にならないはるかに腹黒いものである)。 ・その「歌になるもの」の残骸を体現している表象が鬼頭桃 子である。彼女の父は軍人でありながら『轟落集-なる歌集 を上梓している歌詠みであり、また彼女は「冷笑とも締めと い。 横子の手紙を何度となく積みかへし、何一つ政治に開 はりのあう∼とは曹かれてゐ潅いが、心なしか二重の意 「そして戯く空を切るうちに官舎は徐々にしなだれて、衰 も舞も‡になごやかで優雅であるのに、あたかも手の百合の 味にとれるとLキなにがしか熱情の比喩を息はせる れ、Jbの手紙が白虎の身に及ぼす官能的な魅惑に抗したく りに、温く心をとらはれて解譲に苦しむうち、勲腋、こ 花だけが残酷に弄ばれてゐるやうや見えた。」という印象劇 純粋さを象徴している事を暗示し、勲に象徴される「純粋行 尤記述は、「習合の花」が横子の手管によって弄ばれる勲の するやうになつてゐた。しかし磯子が、どうして悪意で 動へ一の意志」を横子が象徴する「優雅=俄になるも雪が■揉 なつて、放らやさしさと善意ばかりではないものを許見 ここで文学者たる作者三島は、自己の「文学(うまりは歌 珊している事を示している。 とはたしかなのだ。その滑らかな文憤、その相違な書き がひそんでゐたとしても、楓刊悶封切割判鮒叫細面料引d これらを葛ぐことが考へられよう。もしそれらしいもの る言葉」と⊥てしか扱えないもどかしさと、その勲の存在を ざまは、明らかに一種の綱渡りゼった。綱渡りに習熟す になるもの)」が勲を「美的イメージを表現するための単な 絶えず相対化していこうという観点(これは「見る意志」と うに克る打を、どうして容められよう。それが一歩進め やヶちに、増価危険をすサぬけること自性をたのしむや の間の措抗を鬼頭槙子七飯沼勲との関係を通して描き出そう も作家の分析=記述する視点とも言い換えられるだろう)と としているのだといえる。 を、ゝ合へない苦痛が瀞かな音びに葬り、危険が官能をそ ゐるかのやうに息はれた。傭欄の儒離が感情の純度を保 それから察すると、時折横子ほ、勲の入獄をたのしん匂 けではない。ただ或る匂ひがある。峰やかな情緒があ引。 にさへ見えるのだ。手蘭に少し虻さういふ文面があるわ ふ名目の下に、ひたすら感情の遊戯に熱中してゐるやう ば、不徳義な欄ど綱渡サに興味を覚え、司直を伸るとい (5)鬼頭横子の「王国」あるいは言括の牢獄 -無意紐あ政治性と〔優雅」- (七百周十六貢)の政治性を、牢獄に捕ら そ⊥て知らず知らずのうちに都粋さを踏みにじってしま.う 彼女の「無意識」 の政治性の表象を、.我々は横子が勲に当てた手紙において確 たしかに知つてゐるといふ愉しみを、さりげない義盛に うなものでたえず勲外心が誘惑にをののいてゐる事を、 々り、不確雇が夢を培ひ、…獄窓を吹き抜ける微風のや 揺することができる。 われた・後に勲はおぽ.るげに認識するようになる。その無意癒 66 時に女王であり、勲はそこの奴隷となっているのである。彼 彼女はこの虚構、つまり「彼女の王園」の住人であると同 女の手紙は二重の意味を備えている点で政治的であり、また 託tて知らせること、このほとんど残酷な交流に、板子 がかねて営んでゐた夢を結†させたといふ達雄は、・.さう 裁判の場面が「淑曲のト書」のかたちをとって書かれている 的駆け引きがもっとも漬劇的な形で露呈す.る填でぁり、この は勲の裁判の瘍面である。裁判所とはある意味で人間の政治 横子の政治性が、もっとも劇的な形で表象=上演摩れるの (6)裁判所という劇場寸・」・刺のヘゲモ土」争い 否定しきれない)複雑な感情もまたかいま見えるであろう。 で描いたむころに三島の文学への(否定しようとしながらも だといえるのであり、その女をこれ■だけの「闊達な書き様」 この女の不気味さは晩年の三島由紀夫の見た文学そのもの 尽くさんとしたものがこの鬼頭横子という表象に他なるまい。 「滑らかな文体」と■「闊達な書き様」によって徹底的に抱き 治性」の不気味さを、作品中でルトリックを縦横に駆使した わるものが知らず知らずに示してしまうこの「非政治的な政 る。音詩の洗練に携わるもの、「歌になるもの=文学」に関 「非政治的な故.治性」ともいうべき姿勢を示しているのであ 楽しんでいを点で政治的で凍る。そしてそや姿熱が政治的な 身振りであることに無自発である点で彼女はいっそう眉質な 彼女の姿勢は勲をこのような閉ざされた状況に置虐、それを 思って積めば、随所に積みとれた。いはば横子はこんな 状態に彼女の王歯を響見してゐたのである。 、人『奔馬し 全集十八巻 七育四十六-七菅田十七貢 傍線引用者}・ 横子は勲の純粋さを弄び、「彼女の王囲」の中に彼を閉じ 込める。彼女は、勲をどこにもいけないような場所(牢獄) に閉七込め1他の情報の一切遮断された状態に彼をおき、し かも勲から彼女へのアプローチは全くできないようにして、 一一方的な愛情とサディスティックな喜びとを、月並みな日常 の描写(彼女の詠む歌伊ような)トと報告におり混ぜながら、 「滑らかな文体」,と±闊達な書き様」によって書き上げる。 そのような形で言葉の綾のなかに勲を閉じ込め、一方的な 「彼女の王圃」に他ならない。そうすることで、手紙の受取 愛情とサディスティックな喜びを彼にぶつけること、それが 手の勲を、彼女の夢想する虚構の登場人物にしてしまったの である。 すなわち彼女は、ここで「いとしい恋人を患い続ける乙女 を主人公とす名物括」の主人公であり、またその虚構を設定 した政治的演出家でもある。勲はその物語を成立させるため に必要な人物であり、勲が近くに存在しないがゆえに、この 虚構は成立する。 -67- ないのである。 (r奔馬」 傍線引用者) 全集十八巻 七盲七十七∼七首七十八貞 彼女の「日記」は、rドルジェル伯の舞踏会』を思わせる た勲にとっては最も胡悪鬼構図へと書き換えてし写っ。彼女 美しい二人の接吻の場面を、槙子にとって最も都合よく、ま の顔だつた。 (F奔馬し それこそは熱が夜毎夜毎、最後の別れのと 六首九十三貢 傍線引点者) 美しいものに書き換え、統むものをその二重三重のレトリッ 彼女は、言括によって世界のすべてを「自分にとってのみ」 全集十八巻 きの横子の顔がさう■であつてほしいと夢見てゐた正にそ をあげた! 彼の胸のなかで伏せてゐた顔があげられた。横子が顔 けの女、純粋な美などではない。 は決して勲が別れの接吻のときにかいま見たような美しいだ ぎる勲に対し、「(兵‡が推によつても信じてもらへない)」 (七百五十六貢)事を教える「教育」を施そう上する。その それはまたもや横 本多の意図に沿うかのように、勲の前に彼の純粋を踏みにじ る信じがたいほ・どの偽善者が立ち現れる虻 子であった。 ‥・■-・、勲は拳を撞ってゐた。拳の中には汗が煮立ってゐ た。・領子が備謹を七た!・大勝きはまる偶謹香した! (中略)勲は身の置き鹿を失くした心地がした。横子を クのなかで幻惑させる物詩の使い手であり、いわば音詩の二 偶謹罪に陥れぬためには、自分はもつとも大切な「純粋 子があの晩たしかにあんな日記をつけたとすれば、(そ 性」を犠牲にしなくてはならぬのだ!それにしても、横 重性=政治性の象徴として描かれているので應る。 (七首七十六貫)として措く必要があった 言括の二重性=政治性の象徴である横子はここでまた言葉 らない。) のである。ここに美しい恋愛小税の一シーンなどを見てはな しい悲壮な別れ」 て曙醜悪さを「際立たせる」ために、先の接吻の場面を′「美 (つまり作家はこの場面で横子の政治性上それめ勲にとっ れ自傭は疑ひやうがないと恩はれるが)、あれほどまで (中略)考へら に美しい悲壮な別れを、すぐあとで、何故またこれほど 疑ひもなく、ただ、勲を救ふためにー 自分の愛のためなら横子は れる動機は愛、それも衆目の前で敢へ士危険を冒した愛 だけだ・つ七。何といふ愛- 勲のもつとも大切にしてゐるものを泥まみれにして恥ぢ -68- 護人として裁判を有利に進めようとするだけでなく、純粋す 開に介入する演出家として登場する。汝出家本多は、単に弁 ここでは本多繁邦が、.弁護人というよりはむしろ裁判の展 考えていたことを示すとおもわれる。 事は、主島が裁判を政治性が洩劇的な形で露呈する鳩として 署。(中 傍線引用者) 正義になる根接があつた。彼はただ速くかゃその悪を 六首二十二貢 の綾の中に勲を摘めとってしまう。先ほ手紙、今度は日記と 全集十八巻 感じるだけで十分だつたのである。 て。」 (『奔馬』 六百二十四貢 傍線引用者) 殺したという罪の意識を持つことなく皇国少年物語の主人公 のもつ「抽象的な憲」という観念との心中となり、彼は人を っまり、もし彼が計画を成功させてい凍ら、彼の暗殺は彼 全集十八巻 ジにして保っておきたいんです。蔵原は立派な悪人とし 弁を弄した。「僕は父も蔵原も、どちらも立派なイメー 「やるやらないの間串じやあゃません」と勲は一寸詭 (『奔馬L いう手段を用いて、勲を眉分の虚構のなかの登場人物にして 閉じ込めてしまい、彼女自身は、まさに傍聴人=観客のただ 中で演じられる裁判--演劇において、作者廿演出家=主演女 「純粋 優として登場し、見事悲劇のヒロインを汝じきつてしまった この場合勲に残された手段は二つある。 のである。 ①横子の証言(=虚構)そのものの虚偽性を暴き立て、自 分の・「純粋性」を守ること。②別の偽証(=虚構)を立て、 その主人公を演じ切ることで、横子をも救い、自分の を演じて終わっていたことになる三。彼の「純粋な行為」 は単に盲目的な無目的な行動を指すのではなく、むしろ純粋 な観念に先行されたものである。すなわち彼は言葉の二曹性、 によってその観念の純粋性が崩れることを恐れているのであ り、行為や肉体を単に重んじているのではないのである。 本多はこの勲の「観念との心中」を恐れヾ勲を救おうとす 彼は被告と達人との間に、この戦ひを提起することを 望んだのである。すなはち、勤の考へ、る純粋透明な志の 密室を、恩ひつめた女の感情の夕映えの紅で染めなすこ と。相手の世界をお互ひに否定し去るほかはないほど、 相互のもつとも眞責な刀で戦はせること。 -69- 性」もひとまず守ること。 勲は、②.の手段を選んだ。彼は、初めて「他者」や「虚偽」 の存在を受け入れた。これは結果的に本多の望んだ「教育」 を勲が受け入れた結果となった。互 ここでもし、勲が己れの内的真実のみを肯定⊥ていたら、 (七百八十貢)さ に過ぎなくなっていただろう。彼は人ではなく観念に対して 彼の世界に他者や異物は存在せず、すべては彼の観念の投影 怒り、人ではなく自分の「観念の具象化」 れたものを殺すこととなる。 恩ぺば織原をよく知らぬといふことこそ、勒の行為を 正義に近づけるも.のだつた。萩原はなるたけ速い抽象的 な意であるべきだつた。恩顧や私怨はおろか、・その生の 人間に対する愛情すら稀薄なところに、はじめて殺人が る。 全集十八巻 七百七十九貢) るがいい。それがいかに血腫い内容であらうと、しかし ば十分)髄質のものであり、また勲の涜技はjれまでの他者 勲が反応してくれなければ成り立たない⊥逆に二人だけいれ 横子の濱技は自己満足であると同時に、勲がいなければ、 あくまで心の世界の出来事にとどめておけよ。・それが君 を自己の観念の受肉であるとしていた考えから一歩進み、横 『何でもいふがよい。主張するがよい。■赤心を吐露す (『奔馬】 を救ふ唯一の途だ。hとまたしても本多は、勲に心の裡 子という他者を組み込んだ漬技を遂行するものとしてぁる。 }〕の二人の「演技」 「涜出」-他人や言葉に対する関わや の凄いは、横子の場合欄自分には最もわかりやすく、他人に 七育八十四貢) はもっともわかりにくい表現を使って自己満足的な洩技並び 全集十八巻 .本多はここで二人の役者を見つめる妹出家気破りである。・ に演出を遂行する、いわば人は自分の戦略の通力忙動かし、 (『奔馬」 彼の「演出プラン」は次のようなものとして再構成できる。 は自分の観念と自分の言梧、自分の行為を完全に「致させ、 ことに自己満足する)性質のも欄であるのに比べ、勲の場合 他人には自分の本当の真意がわからないという(そしてその まず二人に二つの役を放じさせること。そして勲に、自分 (首長台詞) で聴衆、殊に裁判官に感 の患いをぷちまけさせることで自己満足を与えること。さら に、彼の感動的な陳述 なおかつそれに他人が完全に同意することを望んでいる事に 動を与え、裁判を優位に進めること。そしてこのような自己 陶酔の演技は「心の世界の出来事」 シオン ある。つまり両者とも表現に完全なズレの塞いルブレザンタ (七百八十四貢)あるい は横子のそれのような法廷での言葉の上のものだけにとどめ ただ、どちらも他人を巻き込むとはいえ、二人は自分で自 (上演=表象=代行)を求めているのである。 させ、それを実人生でやってのけることを避けさせる七と。 「汝出」は、すべて、 分を演出す渇ことがで琶るのであり、その点で彼らの演技は しかし、.ここで行われている「汝技」 届くまでも「自分の患ったとおりのことを涜じる」「自分の 自己充足的なものである。 (続出) であり、また勲に他者の存在を知らしめることで 彼の仕事は法秩序と法首席を媒介とした裁判のヘゲモニー争 裁判という劇場で弁護人を濱じているには違いないのだが、 だが本多は自分で清技することができない。もちろん凝む 患った通勺に他人を動かす」というように自己満足へと跳ね 返っていく性質のものであることに留意すべきであろう。 (7)裁判所という劇場Ⅱ√‥完全な表象=代行川代表の夢 とその臨界点 70 で呼びかけたや い 葉に対する二重性の立場は取れない。つまり彼の場合は自己 の表親や戦略は明晰な形を取らざるを得ず、桃子のような言 あり、主役は被告人勲である。また法律家という立場上、彼 読者に伝えている。 憶速いの形を取らせてこの場面に混入させ、本多に、そして 人間社会の力学を超える輪廻転生打力学を、北崎の各人の酪 作家は、.本多の現世的な無線せ越える、つまり法廷の秩序や 飴色の法壇と、裁判官たちの黒いおごそかな法服とが、 さうと知ると、本多にも亦、まばゆく磨き立てられ七 満足朋なもⅥにはなるが自己充足的なものにはならない。彼 窓外のはげしい真の光にたちまち色相せ.てゆぐ心地がし は他者を演出せねばならな小が、彼の償也成果は実際には彼 の思い込みのなかにしかセい。実際実人生においてその通り 全集十八巻 七首六十九貢) (七育六十九貢)、人々 いは世界を自己洗出しうるという清劇的な世界観を極端な形 呼べるむのであ名。この場面で、三島由紀夫は、自分をある かっ.たのであり、これはい一ゎば汝劇的な世界把撞の否定とも ある1ここにおいて裁判という劇場はその臨界点へと差しか 人形のような存在に過ぎなかったことを患い知らされるので 相対化されてしまう。本多は巨大な力学の前では自分が操り いは人が洩じているのを冷静に見.ているのだという自負)は 象本多の存在価値(つまセ俺が人を動かしているのだ、ある を結びつけ動かして小る唯織という巨大な力学の前に、演出卜 「常人には見えない巨大な光の絆」 を失い、「弁護人」本多の存在価値むまた失われ富。同時に、 この降間、法秩序は日の光にとかされる氷の如く存在価値 (【奔馬」 られて、みるみる融解してゆく心地がした。 秩序が、あたかも氷の疲のやうに、その真の光に強く射 た。目前にいかめしくその精巧な機構を儀表してゐ牒法 に他人が動いている(演技している)かどうかなど実際には 確かめようがない。言い換えれば人生の劇場の漬出家(とこ 「漬出」は事前に演技 では本多)は人を動かしていると思い込んで自己満足してい るだけかも知れないのである。 いってみれば、この三人の「演技」 (演出)、プうンと小う′→観念」が先行しているのであり、そ の観念にしたがって演技を破綻なく遂行すること、すなわち の.「演技」は一見横子の偽証というアクシデントに遭遇した 十全なルブレザンタシオンを成すことを目的としている。勲 結果に見えるかもしれないが、実際には槻念の一方的投影か ら、他者の言葉を組み入れたうえで自分の観念を盲儀として 表象するというスタンスに移行しただけ、言わば一人芝居か ら裁判という劇場の形式へ適合する集団洩技へと移行しただ けのことであり、「汝技空間」のルールから逸脱していると までは言えない。 このような自己の観念と自己並びに他者の行動を一致させ ようとする人間が展開する自己満足的な「漬技空間」に対し、・ -71- で描き出し、さらにそれを越える不可視で‡膚的な力学の存 おいては与えられない。この小税のなかではそれらはそれぞ 最後の力」である仏教との措抗(対立)の問題はr奔馬】に ふと鴫下の川へ嘘を凝むしてゐるとしか患はれない。稚 しかし、その日だけを見れば、横子が作歌を案じて、 を見守つてゐた。 る一のではなかつた。視線は落ちて、じつと堕際のベット れた梯子の目は、★は決してその覗き穴へ向けられてゐ はじめ覗いてゐる本多の目を見破ったかのやう.に息は に裏づけられた搭織装鷹とすべてを歌=文学に遭元する姿勢 -の持抗をもっともグロテスクに描いたものであるといえる。 く。これほ二つの「見る「意志』を支える最後の力」-仏教 そこで本多は二人の「見る意志」が対応している事に気づ としての歌=文学を担ってr暁の寺】に再び現れる。 である女鬼頭掛子もまた「見る「意志】を支え息最後のカ」 をやめ、枯渇した揺識者となって登場す告 「みやびの残像」 r暁の寺」において・は本多繁邦はいまや法律家であること んでみなくてはならない。 につい.て考えるために、我々はr暁の寺」に部分的に踏みこ のものをメタに問う姿勢に関わってくる間趨であり、この点 素の持抗は何よりむ措織、世界造形とその表象という文学そ この二人の対面、というより二人が象徴している二つの要 は飯沼勲を挟む寧なくぶつかることはない。 れ鬼頭桃子と本多繁邦に対応しているが、この二人はここで 在を暗示しているのである互。 「『見る意志しを支へる最後の力」 1仏教と文学の持抗- (8) (文学の象徴)が飯沼勲の「純粋」 ここまで見てきたヰを要約してみれば、この『奔馬】では 鬼頭桃子の「優雅」 る(つま月は相対化している)本多の世界椒、自分が世界を 念とl致した行勒の象徴)を相対化し、またそれを眺めてい 演出しているのだとする世界観を仏教の唯職の力学が相対化 するという二重め構えが取られている。 また横子、勲、本多の姿勢はいずれも椴念と言葉」あるい は椒念と言持を一致させ、その槻念の展開の中に他者を巻き 込んでいこうとする行為であり、それらは完全な形でのルブ レザンタシオンー上演=表象由代行的な世界槻としてひとく くりにすることができる。 それが典型的な形で表象Ⅷ上漬されるのが裁判の場面であ り、さらにその裁判の場面に現れてい考淡劇的な世界構造を (言わば観念として)確諾するという仕組みになっ 仏教の唯織の力学が相対化していることを、本多が一つの認 識として ているのであ渇(且。 ただ、「見る意志」である文学と「見る【意志】を支へる 72 (奴 れば、人が崇高だと感じることを妨げない。桃子が見下 ろしてゐるのは、川でもなければ、魚でもなかつた。薄 明の中にうごめいてゐるベットの人影だつた。(中略) さるにても今西は、哀れな知故人の腿を、無恥そのもの の放慈でそとに投げ出してゐた。すべては彼の言祝と等 しく、やせた尾謄骨のあらはれた平たい尻の、さびしい 漣のやうな顛動が、ゑがき出す、つかのまの幻に過ぎな かつた。その誠‡の映如が本多を怒らせた。これに比べ このかた臥らに置くと、庵原夫人の悲しみはいかにも 引用者) 生に見えた。これはいかにも無残な対比で、精錬され仮 のに、由子のいつまでも癒えぬ生の悲しみのはうは、歌 面になつた芸術的な悲しみがいはゆる名歌を次々と生む たえて人の心を打つ歌を生まなか つた。歌人としての椿原夫人の多少の名は、横手の後見 の素材にとどまつて、 (前掲書 育七十八∼育七十九貫 傍線引用者) がなかつたら、ノ忽ちにして失はれたであらう。 三島由紀夫はここで見る意志(歌にするもの)と素材(歌 になるもの)の闇のグロテスクな関係を、それを相対化する 視点(本多)も含めてアイロニックに書き切っている。 ここまで「歌にするもの(見る意志)」をグロテスクに描 いた三島由紀夫には小説の表象行為、あるいは小説家の存在 に対するアイロニ.ックな認繊が存在していたものと思われる。 ・では、三島は小説に対してどのような托織を抱いていたの だろうか。ここでコ亭餞の海】を書いていた当時の三島の小 説への認識を探ってみたい。 作家は十九世紀以来の小我の枠組みに「飽き飽きしたこと」 さらに注目されるのは資本主義、共産主義の間趨と摘めて を古林尚との対淡-全集捕1所収-で誇っている。 これからの小説の運命を持っている次の箇所である。 ぼくは理想的に音へば、共産主義園家において 73 れば、梼原夫人はー一つ一つの叩きまでが真筆であつたと いう他はない。(中略)本多は突然、手柄の厳粛さと忌 圃u割に気づいて唇を噛んだ。今や明らかになつたこと がある。横子が命じたかどうかは別として、桃子が見て ゐる前で、(おそらく桃子の目の前でだけ)、夫人がか らうじてあからさまな行ひをしたのは、今夜がはじめて ではないのである。 傍線 いや、これこそは、桃子と夫人の師弟の間柄の、献身 と侮蔑の本‡であつたかもしれない。本多は再び桃子を 二軍一貫 見た。槙子はその白銀に光る白髪をたゆたはせ、自若と (三島由紀夫全集第十九巻r暁の寺】 同じ人種に曝するのを本多はtつた。 三島 てて、矢を番へる猟人の目になる時である。それだけ見 椰 して見 は小説は無くなるペきものだ、と息ふんです。(中略) また三島の国家と芸術の関係に対する理解についてのより詳 由を巡る議輪がどれ程の妥当性をもっているかについての、 は晩年の三島由紀夫が小我や小説家というものに対してネガ 細な様輪はまた新たに別稿を用意する必要がみるが、ここで ぼくはソビエトや中国で、いますぐ私的な、ネガティ い。しかし、方向としては集許的な製作に向かふべき いT且。 ティプな理解をもっていたことのみを確接してもらえればよ プな塾術がなくなるだらうなん、てことはいつてやしな だと恩ふんです。だから、たまたま十九世紀にできた これらの発言とl壱【奔馬」 コ睨の寺」の梯子の造形を照 らし合わせてみる軋らば、そこにば自分の最後の文学(見る 小説に、つまりネガティプな自由にしがみついてゐる に果たして意味があるのかどうか、とつても疑問に息 意志)を唯織飴(支える最後あ力)とを「それに飽き飽さし 男が見つかつたからといつて、その男を‡♯すること ふんですよ。 (前略)金融狗占資本主義の経清の仕組みは、 ルな認識が浮呈出しているのではないだろうかと思われる。 ながら」重ね合わせて描いた三島の文学に対するアイロニカ そしてコ亭餞の海」の「見る意志を支える力」である仏教 その頂粘の部分を社せ主義権力にすげ代へるだけで、 の音詩化=表象を否定してし守っ。これは三島の文学の存立 の腰紐みは、最終的には「色即是空」という形で現象と掟織 あとの形態はそのままで社曾主義経済粧移行できます。 ちよつと乱暴な議論ですが、三島さんがいまソビエト 基盤自体を崩壊させる性質のものであり、唯織にしたがって この作品が書かれたことを托めれば眉己否定という形でしか 読むことはできない。作家ははその否定と空虚に向かうプロ 自体表象することで生じた、幾重にも重ね合わされた文学と しかし、小説のなかで表象の否定へと至るプロセスをそれ とはできない。 ねばならなかったか、その巨大な聞いをここで一挙に解くこ なぜ三島が文学を香定するものを原動力にして文学を書か つちみちダメになるんだと息ひます。・∵(中略)蓼術家 傍線引用者) ま、この国家と芸術家、ポジティブな自由とネガティプな自 社会主義国家とそれに対する幻想がその有効性を失った.い 六首九十五∼六育九十六貢 (「三島由紀夫最後の言葉」三島由紀夫全集補1 んよ。 セスそのものを作品にしたと考えるべきなのである。 僕もさう息ふんです。小説というやつは、ど 小説についての危惧、といふことになりませんかね。 について言はれたことは、つまりはアメリカや日本の -74- 古林 の特権といふけど、そんな特別な自由なんかありませ 三島 文学否定の間の関係を一つ一つ解きはぐすことはできよう。 その重ね合わせを成している三鳥の複鳩な戦略について問 「表象否定主音」としての文学…r基線の海ナに仕 うこと、.以下はそのための前作業である。 (9) 掛けられた民 ⊥剛述の古林尚との対談のなかで作家はコ草間の海」につい て次のように持っている。 (前略)あの作品では絶封的一同的人生といふ 生を後付けていた統み手の理解が最後の綾倉聡子の台弼によっ て盲に浮いてしまうという解釈行為全体の括を含んでいるの この「ニルヴァーナ」と言サ言葉を、作品が音措で表象、 だと思われる。 で・腋そのような作品を読むものもまた同様にすべてがゴール 理解しえない領域に入るということだと解するならば、ここ ヴアJナ」に入らなければならないという要緒が作家の小税 る。高橋重美が「沈黙が得るもの-コ畢餞の海】読解の危険 の戦時によって指定されセいるのだととらえるべきなのであ 性-」で行った税明を援用するならば、小税の最終部で背後 「ということはそれ に唯織の姶理を暗示する聡子の台詞「心々ですさかい」・によっ て.「すべて意味論的な読解が容疲きれ」 に基づく批評行為自体が笛に浮くということ」になり、しか もそれ自体が作家の戦略によって巧妙に仕組まれているので このような戦略股痘にほ、作品中で文学の表象行為そのも ある。(11) のを垂直に疑う姿勢を示しっつ、つまりはそれをまさに表象 として「宣言」しながら、さらにはその疑いの回答を、他の ものの応答や批判もろとも音づりにしてしまう姿勢が隠され ている。 すなわち作家は、コ零餞の海lという作品中で、嘗括で表 象しえないものにつき当七るまでのプロセスを音括で書いて おいて、そのプロセスの前纏と戦略だけを統者に対して批判 -75- ものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。 それが最終的には唯拙論哲学の大きな相封主義の中に の中に入るといふ小説なんです。 溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(捏 (「三島由紀夫最後の言葉」三島由紀夫全集檜1 九十九貢) 青かれたものがすべて「ニルヴァーナ」のなかに入ると言 うこの言葉の意味をどう把達したらよいだろうか。 この言葉は一つには、作者が投定した作品のモチーフに限 もう一つには本多繁邦の唯職理解に誘導される形で各人の転 の中に溶かしこまれてしま」うという意味合いを含み、また 論の転生の枠組みのなかで相対化される=「大きな相封主義 定された話、つまり各主人公の「絶封的二間的人生」が唯拙 六育 三島 韓) (ニルヴァーナ) に至るプロセス=作 できない形で残しておいたのである。その拭みはつまりは音 詩で表象できないもの 対象化も批判も不可能であるという言い分=戦略を背後に含 家にとっての自己否定を「意識的に」書いた作品に対しては 意している訳であるから、これは極めて周到な「戦時」 ると言える。 その「戦略」に気がつかぬものにとっては『養鰻の海】は 単に十全な表象が成されていない破綻した失敗作であり、そ に気づいたものは作家の自己否定と表象否定の果 てにたどり書いた問い自体を音づりにする戦略に巻き込まれ、 の「戦略」 それを追揺するだけで批判も対象化もできぬ地平に置き去り にされてしまう。高橋重美が前述の論文で解釈学のタームで は解けない問題として述べていることもこのことと矛盾して はしまい。姶者の言葉で言い換えれば、それはいわば解釈の 果ての解釈不能性自体を作品が要求しているため、作品の論 理に忠実に読もうとすると単に追托行為になってしまうとい う問題である。T且 「失敗」の問題は、そ 『春の雪】 『奔馬」のいわゆる「完成度」の高さとF暁の 『天人五真山のいわゆるJ「破綻」 る行為を同時に行う作家の「戦略」を背後に補いながら考え る必要があり、なおかつ読み手の側はそれを対象化する統み の「戦略」を構築しながら解読を進あなければならないT且。 論者がこれまで二本の独文で行ってきたのはその間棚に塔 「批判封じ」を同時宜行うための前作実の再構築するこ みこむ止めの前作業であり、作家が「者象否定」と「日己否 とにほかならない。F奔馬しまでの分析結果と重ねてこのこ とを述べるならば、作品の後半において「表象否定(これは 自己のこれまでの作家的人生の否定とも重ね合わせられてい る)」を行う為の前作業として、作家は前半の二巻で次の作 (飯沼警と回帰してきた「優 する不可視で重層的な力学への暗示を『奔鳥】のなかで記し 形態をいずれも明晰な形で描く。さらにそれらをすべて否定 としている劇的世界椒に基づく十全なルブレザンダシオンの (鬼胡桃子)、そしてそれを統御 し分析する視点の持抗(本多繁邦)、さらにはそれらが前埴 雅の表現=歌になるもの」 で純化された「原料の醜さ」 描き切れない「優雅の表現」の放棄を描く″次いで〓竺馬】 な破綻、そしてその破綻を食い破る「原料の執さ」とそれを まず『春の雪】で甘美な恋愛と禁忌侵犯の物持とその微妙 業を行う必要があった。 定」 組みをその作品展聞の原動力としてどのよケに用い、それが 次には三島がF豊饅の海†の後半、F暁の寺-¶天人玉章】 で、言蒔による表象行為そのものを無にするような仏教の枠 たのが輪者の本論文に他ならない。 『奔馬しで拭みられたことであり、それを再構築しようとし ておき、それを次作の原動力とする。以上の作業がr春の雪J -76- であ のような周到でかつ分かりにくい自己否定と批判解釈を封じ 寺」 作品のさまぎまな表象とどのように連関しているかについて の問題、さらにはそれが暗示していると思われる相対原理也 (盲一貫)したのたと辞している。 (『浪浸】 (3)三島文学における「花」のイメージを諦じた珍しい 論として華道家の不動光春による「三島文学七花」 飯沼勲の.純粋の問題に絞って論じたものとして封島勝淑「飯 ことが多く、『奔馬』を中心にして論じた論は歎少ないが、 F皇椀の海』は全巻を通してトータルに論じ、万れる (『金城学院大学輪業 (4) としている。 イメージを飯沼勲の悪織が神の世界から「エロスの世界」、 そして「自刃の世界へと昇華していく」過程の形象化である 一九七二)がある。不動はこの徐において【奔馬】の官舎の (春美 の分析が当然必要となるが、この分析についてはまた後日明 (2)この点について渡辺広士『「豊懐の海」論】 問題をもを明確にすることができるので悌ないだろうか。 らかにすることとしたいT4)。 芸要は誓が一九九二彗有望芙天文芸文袋科ほ苦し皇重要コ孟畠森⊥毒め塗せ 文庫一九七二)は三島が飯沼勲の造形において「超歴史的 第四号一 の武の化身を虚檎」 な<優雅>の化身である松枝清顕め文のアンチテーゼとして 志に」宗蒜竺若きし窒等号楚-モ空i皇】告い茎管し言草び〓芸大攣 (三重大学.日本詩学文学 この点については拙稿「コ宥の雪】-あるいは空虚 (注) 量彗姦〓琶ア女九三;濡として誉れ真_も等普. ・(l) としてのみやび-」 九九三)を参伸されたい。なお、【春の雪】を「便雅」や松 枝清顧への着眼点のみで読解することの危険性については有 で指摘している。有元論文は、綾倉聡子の造形に焦 元伸子が「綾倉聡子とは何ものか-F春の雪』における女の 時間-」 国文学縮」三十六号一九 九三年) 海風社一九八八所収)、前述の渡辺広士【「豊惧の海」輪】 沼勲における<純粋>」 (コニ島由紀夫コ亭餞の海】始」 して捉え直すことで、・これまで彼女を松枝清嶽が犯す禁忌の 子が「F豊餞の海』の基層構造」 で指摘している。 (『金城学院大学輪集 77 (6)主このような教育は佐和が勲になしたはのめかしと 文学縮】三十五号一九九二年) メージ(腐敗の紫色)が付着されている点については有元伸 (5)鬼頭横子の造形に勲の純粋と対立する「汚れ」のイ (審美文庫一九七二)がある。 点を絞り、彼女を家父長制(Ⅷ男性原理)に対抗するものと の偏向性 対象(あるいはそのための.フィルター)としてのみ把達して きたこれまでの論珊(輪者の論もその一つである) に一石を投じたもので、注目すべ計諭と思われる。有元論文 が示したようなコ苛の雪』での綾倉聡子像と論者が提示した 『奔馬』における鬼頭横子像、さ、ケには「天人玉音』での綾 倉聡子像とを比較再検討することでコ畢餞の海】.の女性造形 国 同型のものである。 「何のために?現†がわかるとあんたの確信が菱わる のか?それならあんたの志は今まで幻だけにとらはれて ゐたといふのか?そんな欒わりやすい志なら捨ててしま 六首二十四声 傍線引用者) ひなさい。私は′一寸、あんたの信じてゐる世界に榔を入 全集十八巻 れてみせて虐げようと患っただけだ。(以下略) (『奔馬』 (7)…唯これ七会く同様に、三島が観念の受肉として登 場人物を造形している点は、注意すべき点であろう。蔵原が 「金融資本の無国稽性の権化」 「抽象的な悪」としてのみ造 形されていること、いわば飯沼勲の見た▼「立派な(憲の)イ と、三島の遵形は完全に椒念を先行させたものであることが メージ」と同∵の地平でのみなされていることと考え併せる わかる。 (三島由紀夫全集補1古林尚との対談F三島由紀 (即物的)ならば、純白もずッハリッヒ 無論、「純粋なものが観念であるならば、白も椒念である。 である。」 純粋がザッハリッヒ 夫最後の言葉』)という、すなわち触念町現庚であるという ある種へ▼-ゲル的とも言える三島個人の考えを射程に入れれ ば、その板念の運動(鱒念の象徴である人物の葛藤)を書く のが三島にとっての小説であるという理解も成り立たないわ けではないので、必ずしも輸者はそれを「限界点=それしか できなかった」とはみなさず「臨界点=それ以外のことは興 味になかった」と呼ぶ。 ただ、そのような「概念の運動」としての小脱がr天人玉 章】の末尾に至って々の運動を止めること-つまりは本多繁 邦が唯織の解脱、スラヴォイ・ジジュク風に言えば認識しえ デユ.1ク大学出版局一九九四)を知 ない「もの」としての絶対知(スうヴオ.イ・ジジュクr否定 的なものへの滞留】 るというアイロニカルな境地に至るという点は注意しておく 必要がある。バタイユ主義者としての三島は注目されること が多いが、ここでの三島が極端なヘーゲル主義者であるバタ イユの影響を通しヤー種のジジュク的な意味でのへーゲリア ン(認識=記述しえな、いものが最後に残るということを知る ために認識=記述のプロセスを駆使し続ける)になっていた とも考えられなくはないからである。 (昭和 (昭和三 (8)このような漬劇的=漬出的世界椒とその臨界点とい ぅ問題はコ亭餞の海】執筆前にすでにF絹と明察】 F群像」連載)と『月澹荘綺渾」 文芸春秋)において呈示されている。r絹と明 十九年一月1十月 四十年一月 (三島由紀夫全 察】ではまさしく政治的漬出家と呼ぶにふさわしい岡野とい ぅ人物が労働争械を画賛し、社長駒沢善次郎を没落させる野 も人間もみんな吸ひ込まれる」 (三首六十一貫)ような滝め かのような町象を受け、それにおびえ、最後に「杜●も思想 集十七彗二育四十二貢).のなかで自分.の戦略が無効にされた だが、彼は駒沢の全面的で伝染的な「怨し」 ー78- 流れを見ながら「無気味な蘭滑さ」 当たる。 (三首六十二貢)につき ・『月澹荘綺辞】では見るこ上にのみ快楽を見出す侯爵が君 江という白痴の女に殺害され、日をえぐられる。 この二作品においてr天人玉女】に描かれる唯撤の相対性 原理の象徴としての「沌=暴流」、「失明する搭織者(侯爵 =安永透)」 「白痴の女(君江=絹江)」という投定が既に すべて出揃っている。ここから【天人五衰】の結末が執筆以 前に作家に見えていた、つまり定説のように途中で結末が変 わった(破綻した)のではないということは明らかであると 思われる。 (昭和四十年一月 この二作品の詳細な分析、さらにはほぼ同時期に書かれた 折口信夫をモデルとした作品コ二熊野脂】 r新潮】)との関わりについては稿を改めて輪じたい。 (9)無論、『奔馬」の段階ではこのような「描線」を言 語化した(表象化した)形でもつことが可能だと息1ており、 またその「認識」の有無が本多の視点を周りの現象を相対化 させるものにしていること、つまりは彼がこの段階ではある 種の優位性に立っていることは否定しえない。だが、最終巻 「日本文学小史」 に至ってその優位性を保征する唯織性の捲職の表象そのもの が否定されるのである。 (10)この点についてほ「文化防衛論」 などとの比較検討を通じて、三島の国家と芸術との関係性の 三島由紀夫 「立教大学日本文学」第六十四号一九九〇年。 把撞について考察する作業が不可欠である。別の機会に輸じ (ll) たい」 なお、引用は「日本文学研究資料新集三十 (12)高橋重美はイーザー、インガルチンを援用しなが 精堂」に再録されたものによっている。 ら唯織の輪理を内在した作品の「未決定的な曖昧さ」を扱う 際の手続きについて慎重に輪を進めた後、「拙者は物括を外 れていた筈の唯織が物梧を乗り越えて現実界に逆流し、読者 側から呼んでいたはずなのに、最後に至って物持として括ら は自らの続書行為そのものの根本を問われねばならなくなる。 しかも周到にも語り手は、て二巻で既に統看せ物拝形成に 引きずり込むよう罠を仕掛骨ているのである」と述べ、作品 最終部の「心々ですさかい」という台詞を「あらゆる結合の 可能性=統解の容托」としたうえで、「しかしこのことは、 裏を返せば物括の情報伝達機能の放棄であって、すべて意味 (「立教大学日本文学」 論的な読解が容揺されるということはそれに基づく批評行為 自体が笛に浮くということである」 第六十四号一九九〇年。引用は前掲書による。)と結論づ ける?『豊能の海】読解の危険性について待った極めて興味 深い論だが、これはある意味作者の戦略に乗っかった(皇ね 合わせられた)批評行為の放棄の周到な方便であり、解読の 最終的な放棄という点で結果的に作品の完成度という範瞞で -79- 有 〓寧餞の海】を失敗と断じ、解読行為を放棄してきたこれま での論とほとんど変わらなくなってしまう。作品内部の唯織 の論理が物誇の情報伝達機能=表象機能への批判とそれを解 読する批評行為への批判の▲両面を秘め、.なおかつそれが作家 りつつもそれに凝り込まれない解続行為の戦略を(極めそ至 の戦略になっていることを見定めたうえでその戦略を受け取 難の技ではあるが)横・築⊥なければならないだろう (13)作家、芸術家の戦略が市場輪鍾の利用や解続行為 への挑発をも学んだものであったという投定の元に、解続行 為と歴史記述自体の根拠を聞いながら進められる解続行為は 殊に美術史において盛んである。そのような実践例とし▼てス ベトラナ・アルパース「レンブラントの企てースタジオとマー 】九九二)稲賀繁美「ボードレー (藤原書店 (ケンブリッジ大学出版局一九九 (シカゴ大学出版局一九八八)、ミイケ・パル 『レンブラントを読む』 ケットー】 スイユ社 一)、ピエール・ブルデュー⊇‡術の規則Ⅰ』 一九九五 (「ユリイカ」一九九三年十一月号、一九九四年二月 この点については近く発表予定の『暁の寺』を中 心に論じた拙稿を待たれたい。 (14) 号、四月号)などがある。 ネー」 ルの諌言の余白にトあるいは一八八四年のエドゥアール・.マ 原著 【広島大学大学院院生 〓九九五・五・九) 完九二年三月本学卒業生]