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うらばんだいあそび

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うらばんだいあそび
うらばんだいあそび
好きな事をして、楽しんで暮らせたら、こんな素敵な人生はないと思う。
生きていくには、食べなきゃならない。
服も着なきゃならない。住いも必要だ。公共料金も払わなきゃ。
好きな事が仕事になり、生活を維持してゆけるなら、極楽かも知れない。
しかし、どんな仕事も楽ではない。
人様からお金を頂戴して生業にするのなら、好きだ嫌いだだけでは成り立たない。
意にそぐわない事も、涙をのんでしなければならない時もある。
生活の糧を得るというのは、緩くはないのだ。
好きだからこそ譲れない。
そうなると、どんどん生きにくくなる。
昨年五月、友人が旅立った。
発病して9年の闘病を経て、ひとりぼっちで眠りについた。
その日の夕方お見舞いに行く約束をしていたが、私の到着は遅過ぎた。
ピクリとも動かぬ彼女にすがっても、彼女の気配はそこにはなかった。
この世に生を受けた者は、いかなる生きものでも必ず終わりが来る。
物理的には判っているし、彼女の病状を考えても、その日が遠からず来る覚悟はしていた。
しかし、やはり狼狽える。目の前の現実が絵空事のように思えてくる。
そう、これは夢なのだ。夢を見ているだけなのだと。
だとすると、彼女と出会った事も夢になってしまうのか。
まとまりのない思考が、堂々巡りを始めた。
彼女との出会いは衝撃的だった。
それは、裏磐梯で「碧い月」を開店させてすぐの出来事だった。
そう、ちょうど今頃である。
玄関のドアを開けると、ニコリともしない仏頂面の女性が立っていた。
地元テレビ局の取材で、店を取り上げてくれるとの知らせは来ていたが、取材者としては、余
りにも愛想がなさ過ぎた。一瞬たじろいだが、事前情報で、彼女にとても興味を持っていた私
は、にこやかに招き入れた。そこは、客商売の営業スマイルである。
彼女は、テレビ局からの依頼で、視聴者レポーターとして裏磐梯地区を担当していたのだ。
それにしても、取材先で笑顔なしとは、なかなかの強者である。
私は、開店する経緯を話しながら、珈琲とケーキを出した。
途端に、彼女は笑顔になった。彼女は、珈琲が大好きで、もちろんケーキも大好きだった。
だが、食べ物に釣られて笑ったのではない。私の曾祖父がこの地を開墾した事や、それを守り
たい気持ちで移住した事を告げたからだった。
実に素直に笑顔になった。
彼女の名前は、高橋真希。
自己紹介をする時は、必ず「たかはしでーす」と言う。だが、誰一人として、彼女を高橋さん
とは呼ばない。誰もが、親愛を込めて まきちゃん または、 まきさん とファーストネーム
で呼んでいた。
まきちゃんは、埼玉県の浦和で育ち、そこで生活していた。
それが、なぜ裏磐梯に移り住んだか、それはとても興味深い理由からである。
裏磐梯との縁は、学生時代のボランティアだった。
裏磐梯は、風光明美な観光地である。磐梯山を望む一体の湖沼郡が多くの人のオアシスになっ
ている。通称裏磐梯と呼んでいる地区は、磐梯朝日国立公園の中にある。
裏磐梯に訪れる人の多くは、国立公園だとわかっていても、それが何を意味しているのは理解
していない。例えば、動植物の持ち出し禁止や保護地区の進入禁止。簡単に言うと国立公園内で
は、山菜の採取をしたり、山野草の持ち出しを禁じている。また、登山を楽しむ場合、決められ
た登山道を外れて、薮や湿地帯などへ入ってもダメ。それは、貴重な動植物を守り生態系を崩さ
ないためである。それらを保護するために、国立公園として国の管轄に置いているのだ。しか
し、それを管理する職員は、僅か数名。とてつもない広い公園内を網羅するのは難しい。そこ
で、観光客が増えるシーズンは、民間のボランティアにその活動を手助けしてもらう。それが、
サブレンジャーと呼ばれるボランティアである。
まきちゃんは、そのサブレンジャーで裏磐梯にやって来た。そして、裏磐梯の自然に魅了され
たのだった。一度は、東京で就職したのだが、休みのたびに裏磐梯に通ううちに、ある一つの結
論に行き着いた。
ある特定地域を守るには、その土地の住民になって活動すべきである。
ボランティアで来ているだけでは、お為ごかしだというのだ。
まきちゃんは、仕事を辞め、たいして伝手もなく裏磐梯に乗り込んで来た。
当時裏磐梯には、賃貸アパートなどなかった。貸家もほとんどない。空き家はあるが、見ず知
らずの人に貸す村民はいない。裏磐梯の住民になるためには、自分で土地を買い家を建てるか、
観光施設で働いてその寮に入る。手っ取り早いのは、村に住む長男の嫁になって永住権をゲット
だ。過疎地の人口減が嘆かれて久しいが、新しい人を受け入れる体勢がないのである。裏磐梯の
ような観光地でさえ、移住するのは難しい。ましてや、女子一人。そう簡単に暮らしが整うはず
はなかった。
しかし、まきちゃんの意志は強かった。サブレンジャーでお世話になった民宿に住込みで働き
ながら、住いと仕事を探し出した。そうして、裏磐梯での生活をスタートさせたのだった。
私は、まきちゃんの生き方を心底かっこいいと思った。
まきちゃんは、裏磐梯での生活を綴って冊子を作っていた。
これも、私には衝撃だった。
そのワクワクする文章は、まきちゃんの想いがぎゅーっと詰まっていた。
それが「うらばんだいあそび」である。たった一人で、書いて、印刷して、郵送してと、まる
でひとり出版社だ。
その影響で、私も「碧い月だより」を創刊した事を明記しておこう。
さて、「うらばんだいあそびは」1997年3月から2000年12月まで全21号発行された。まき
ちゃんが体験した裏磐梯での生活が、細かに、そして大胆に描かれている。
この後は、インターネットのブログ版に移行したが、貴重な手書きの21回分を1冊の本にまと
めたいと、彼女の亡き後、有志たちが集ってプロジェクトを結成した。
まきちゃんの屋号を取って。はれがさやプロジェクトと命名された。屋号「はれがさや」につ
いては、「うらばんだいあそび」に明記してあるので、ここでは割愛する。
そして、まきちゃんが旅立って1年後「うらばんだいそび」は素晴しく素敵に出来上がった。
生前彼女が書き残したイラストを駆使した表紙を撫でながら、まきちゃんが逝ってしまって1
年も経った事、その1年で本が出来た事、様々な思いを胸に抱いた。製本に至るまでの行程は、
通常の本を作る作業よりも大変だったと思う。全ての原稿をデータ化してくれたメンバーがいた
から出来た技である。
出来上がった本は、まきちゃんに所縁のあった人たちに案内し注文を取った。
まきちゃんの死を悼み、その功績を尊重し、この本を買ってくれた人はたくさんいる。まき
ちゃんが何に問題を見いだし、何をするべきか悩み、出来る事を行動していたのを知っている人
たちだ。
だが、そんな人たちに読んでもらっても意味がない。いや、生かされない。
この本は、高橋真希という人物をまったく知らない人にこそ読んでもらいたいのだ。
裏磐梯を知らない人、自然保護に興味のない人、過疎地で暮らす厳しさを知らなくてもいいと
思っている人、つまらない毎日を嘆きながら日々をやり過ごしている人。つまり、今、これを読
んで、ふーん、そんな人がいたんだ。でも、私には関係ないや。と思ったあなたにこそ、読んで
もらいたい。
なぜなら、興味のない人に知ってもらってこそ、意味があるからだ。
それが、まきちゃんの課題だったのだ。
同じ意識を共有出来るのなら、言葉は多くは必要としない。判る人には判るのだから、そこに
あえて説明や解説は必要ないのだ。知らない人、興味を持たない人にこそ伝えなければならな
い。そうでなければ、何も変わらない。それが伝えるという事だからだ。
まきちゃんは、最期までその変革を諦めなかった。伝え続ける事に我身を費やしたのだ。
しかし。
残った私は、彼女の意志を繋いでゆく事で、彼女の生を確かな足跡にしたいと願う。
生きるという事、暮らすという事を、真剣に、でも、思いっきり楽しんで、時には悩んで苦し
んで、45年という決して長くはない人生を、ひたすら走り抜けた高橋真希の生き様を感じて欲し
いのだ。
まずは、読んでみて。そして、感じて。それから、考えて。
「うらばんだいあそび」製本¥2.000
注文は、碧い月まで。
売上は、裏磐梯の自然保護活動に役立てられます。
高橋真希については、まだまだ伝えたい事がある。それは、いずれ別の場所で。
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