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社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察 樋 口

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社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察 樋 口
福岡教育大学紀要,第64号,第4分冊,13   20(2015)
社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察
─「陶冶履歴の教授学(Bildungsgangdidaktik)」の特質と構造 ─
Die Forschung des Unterrichts im Spannungsverhältnis zwischen der
gesellschaftlichen Forderungen und der Wünsch von Schülerinnen und Schüler
樋 口 裕 介
Yusuke HIGUCHI
学校教育講座
(平成26年 9 月30日受理)
Ⅰ.研究の目的
近年,国際学力調査や全国学力・学習状況調査
といったテストで教育の成果をはかることが教育
上の中心的な課題のひとつとなっているが,こう
した動向は日本に限らない。ドイツでも,国際学
力調査での学力ショック以降,教育スタンダード
を策定し,それにもとづいて教育の成果をテスト
ではかることを中心にした教育改革が推進されて
いる。しかし,テストでの成果管理に傾倒するこ
とによって教育や授業が歪められることやテスト
準備教育が助長されることが危惧されてもいる 1。
子どもへの社会的な要求と,子ども自身にとって
意味のある学びとをつなぐことが課題となってい
る。
M.マイヤー
(Meinert A. Meyer)
は,
社会,
学校,
カリキュラム,教師が要求する子どもにとっての
「客体的な(objektiv)
」陶冶履歴(Bildungsgang)と,
子どもの生い立ちを背景として子どもを「教授学
習過程の能動的な形成者」にするような「主体的
な(subjektiv)」陶冶履歴とを区別して,それら
をつなぐ授業を構想する,教師のための科学とし
2
て「陶冶履歴の教授学(Bildungsgangdidaktik)」
を提起している。
「陶冶履歴の教授学」については,マイヤーら
による編集で 1998 年に『陶冶履歴の教授学』が
出版されているほか,2000 年代に入ってからも
教授学や教育科学を総括する文献においてマイ
ヤーがその名を冠した論文を執筆している。また,
M.マイヤーらの編集による「陶冶履歴研究」と
いうシリーズ本が 30 冊以上出版されているほか,
今日に重要な教授学モデルの一つとして紹介され
てもいる 3。
本稿では,M.マイヤーの論を中心に陶冶履歴
の教授学の特質と構造を明らかにすることによっ
て,社会的な要求と子どもとをつなぐカリキュラ
ムあるいは授業のモデルを模索したい。学校や授
業において,社会の教育的課題を子どもに要求す
ることと,子ども一人ひとりが主体的に学ぶこと
とをつなぐとともに,そのために教授学が,実証
的な科学との関係のなかでどのようなことができ
るのかを検討したい。
Ⅱ.「陶冶履歴(Bildungsgang)」とは何か
本稿のテーマに関わってキーワードとなる「陶
冶履歴(Bildungsgang)」とは何を意味するか。
『教
育学事典(Lexikon Pädagogik)』によれば次の
通りである。
「陶冶履歴(Bildungsgang):前期中等教育段
階および後期中等教育段階における,学校種
特有の学習の道(Lernweg)および修了に関
わることである。陶冶履歴は,様々な学校形
態において提供されるが,内容や期間に応じ
て,学校のタイプや形態の標準形態から逸れ
ることもありうるし,地域や個々の陶冶要求
(Bildungsbedürfnisse)を考慮する。」4
『教育学事典』によれば,通常,陶冶履歴は学校
14
樋 口 裕 介
ごとに提供される教育計画としてのカリキュラム
に近い意味で用いられていることがわかる。
しかしながら,「陶冶履歴の教授学」を提起す
るグループによれば,より幅広い意味で用いられ
ている。M.マイヤーは次のように述べる。
「陶冶は社会化の過程であり,そのなかで自己
(Selbst)は,危機,後退,破損,発達の推進,
覚醒をともないながら発達する。それゆえ陶冶
の促進は,社会の再生産を保障するだけではな
くて,同時に社会的な変化を可能にさせるよう
な,文化を必要としている。彼らは教授-学習
状況においてどのようにふるまうのか,彼らは
学習課題をどのように解釈するのか,成長しつ
つあるものや若いおとなの陶冶プロセスを援助
するために,何がなされうるかということを
我々は研究する。ますます複雑で困難になって
いく世界において,どのように彼らが,知や技
能だけでなく,自己決定や責任ある行為への能
力をも同時に発達させるかということに我々は
関心を持つ。」5
このように「陶冶履歴」は,知識や技能の獲得を
越えた人間としての社会化の過程としてとらえら
れている。
これはドイツ語の「Bildung」という概念の伝
統を前提していると言える。ドイツ語の「Bildung」
概念について山名淳らは次のように述べている。
「ある人が誕生し,そしていつかその生を終え
る。その間に,人は自分自身と環境─そこには
「自然」や「文化」と私たちが呼ぶもののすべ
て,また自分を取り巻く人やモノのいっさいが
含まれる─との相互作用のなかで自らを変え,
また自らが変化していくなかで環境にはたらき
かけ,そして自己と環境との関係性を変容させ
てゆく。ドイツ語の Bildung は,人が「自然」
や「文化」とのかかわりのなかで「人間」にな
るそのような変容およびその過程において得ら
れたものの総体を一語のうちに内包しているの
ではないか。」6
ドイツ語の「Bildung」とは,学校教育というよ
うな狭い意味ではなくて,本来的には人が人生に
おいて変容していくさま全体を指す語である。
この陶冶履歴を支援するために学校や授業でど
ういった貢献ができるのか,というのが「陶冶履
歴の教授学」の課題である。
Ⅲ.「陶冶履歴の教授学」の背景と特質
「陶冶履歴の教授学」は,ひとまずは子どもの
陶冶履歴に焦点を当てた教授学である。M.マイ
ヤーはまず伝統的な「教授学の三角形」を位置づ
け直すことから始めている。図 1 のように,
「教師」
が上位に置かれている伝統的な「教授学の三角形」
モデルに対して,「生徒」(あるいは子ども)が上
位に置かれている点が重要である 7。
(1)子どもとカリキュラムとをつなぐ教授学
─デューイの影響─
子どもの陶冶履歴に焦点を当てることについて
は,デューイの影響がある。M.マイヤーは以下
のようなデューイの言説を引用している。
「教育的過程を構成するうえで,基本となる要
因は,未成熟で未発達な存在というものであり,
図1:「教授学の三角形」の捉え直し
社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察
─「陶冶履歴の教授学(Bildungsgangdidaktik)」の特質と構造 ─
さらにまた,成人の成熟した経験のなかに体現
されているある一定の社会目的・意味・価値と
いったものである。その教育的過程には,これ
ら未成熟と成熟が有する効力による相互作用が
当然のこととして起こってくるのであるが,ま
さに,教育的過程とは,それら成熟と未成熟と
いう両者による作用にほかならない。最も十全
で自由な相互作用を促進するうえで,一方のも
のと他方のものとが相互に関係し合うという概
念こそ,教育理論というものの本質にほかなら
ないのである。」8
「教科は,子どもの経験の埒外にあり,それ事
態が既成のものであり,固定したものであると
するような教科の観念を放棄して,そして,子
どもの経験もまた,何か硬直し固定したものと
して考えるようなことを止め,子どもの経験を
何か流動的で胎芽的で闊達なものとして考察し
てみよう。そこでわたしたちは,子どもとカリ
キュラムは単一の過程であることを明白にした
うえで,その単一の過程に二つの区域を認めて
いるにすぎないものである,ということを了解
することになるのである。」9
教授者および教えるということに優位性を置いて
きた伝統的な教授学に対して,学習者への焦点化
が強調されている。そのうえで,社会的な要求に
もとづいたカリキュラムおよび教授と,陶冶履歴
のさなかにある学習者との相互作用が起こる統一
的なプロセスとして授業を位置づけている。図 2
のように学習者の陶冶履歴と、社会的な要求をふ
まえたカリキュラムもしくは教授を統一的に組織
する授業イメージが描かれる 10。
15
(2)発達課題を考慮した教授学
─ハヴィガーストの影響─
生徒への焦点化とかかわって,「陶冶履歴の
教 授 学 」 に お い て 中 心 的 な 概 念 が「 発 達 課 題
(Entwicklungsaufgabe)」である。M.マイヤーは,
ハヴィガーストの発達課題のモデルについて,静
的なもので不十分である 11 としながらも,発達
課題の概念を引き合いに出しながら,陶冶履歴の
教授学を構想している。M.マイヤーは,発達課
題について,そして発達課題と教育との関係につ
いて,以下のようなハヴィガーストの言説を引用
している。
「発達課題は,個人の生涯にめぐりくるいろい
ろの時期に生ずるもので,その課題をりっぱに
成就すれば個人は幸福になり,その後の課題も
成功するが,失敗すれば個人は不幸になり,社
会で認められず,その後の課題の達成も困難に
なってくる。」12
「身体が熟成し,社会が要求し,そして自我が
一定の課題を達成しようとする時が,すなわち
この教育の適時である。」13
子ども,もしくは学習者は,それまでの「生育
歴(biografisches Gepäck)
」14 を背景として,発達
課題を持って授業に参加している(図 3 参照)15。
学習者はそれぞれ,様々な発達課題を持って学
校および授業に参加している。教師はそのことを
考慮して授業に取り組む必要がある。「身体的発
達,社会的な要求の知覚,アイデンティティ形成,
すなわち自己による自己の発見という三つの要素
がすべてうまくいったとき,教育は成功する」16。
(3)陶冶履歴の教授学における教師
陶冶履歴の教授学において考慮されるべきなの
は,子どもの発達課題だけではない。授業は教師
図2:「陶冶履歴の教授学」における授業づくり
16
樋 口 裕 介
図3:陶冶履歴の教授学における学習者
図4:陶冶履歴の教授学における教師の役割
と子どもとの相互作用の過程であるので,教師の
発達課題も考慮しなければならない。M.マイ
ヤーは教師としての発達課題を以下のように提起
している。
「・コンピテンシーの構築および,独自のコン
ピテンシーとのコントロールされた有効なつき
あい。
・自分自身で獲得した知や技能を,媒介したり,
さらに次の人に渡したりする能力の構築。
・生徒らが自分とは異なるものであることを認
める能力。独自のよい授業像やよい教師像に固
執した,熟考されていないよい生徒のイメージ
を構成しない能力。
・学校において養成機関の指導者やメンター,
学校長とだけでなく,同僚とも行動する能力の
構築。」17
陶冶履歴の教授学においては,教師も,自分自
身の生育歴を背景に,独自の陶冶履歴の途上にい
社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察
─「陶冶履歴の教授学(Bildungsgangdidaktik)」の特質と構造 ─
るものとされる。それゆえ,自分自身の経験から
形成されたものを,実証的な知見によって修正し
ていくことが求められる(図 4)18。その際,教
師としての能力の発達にふさわしい方法として
ポートフォリオ活動(die Arbeit mit Portfolios)
が挙げられている 19。
(4)陶冶履歴の教授学における授業モデル
それぞれの発達課題を持って授業のなかで教師
と生徒とが出会うという陶冶履歴の教授学の観点
からは,授業のあり方について次のようなことが
指摘される。
「その授業が自身の発達課題を取り扱うことを
どのように助けるかを生徒が理解できなけれ
ば,授業はその生徒にとって「意味のないも
の(sinnlos)」になる。生徒の発達,学習,陶
冶を助ける学習環境として学校を認められなけ
17
れば,生徒はただ「仕事」をするだけ,という
事態が生じる。教師にとっても同様のことが起
こる。教師がその職業生活全体において学習者
でありつづけるということを受け入れないなら
ば,遅かれ早かれ,発達を促進するのではなく
て,活気を失わせるような危機に陥る。」20
そこで陶冶履歴の教授学の授業では,「生徒に
よる教師の,そして教師による生徒の,相互の承
認にもとづいて,根源的な多様性や,成長しつつ
ある者の世界観や自己理解の変容が教授学的に考
察される」21。すなわち,教師と生徒とが互いを
尊重し,多様性を認め合うなかで,生徒の世界観
や自己の変容がめざされる授業である。
そうしたなかで,「社会的な要求への生徒の適
合と,陶冶プロセスにおける自己決定とどちらも
が生じる」授業づくりの三つの水準が示される(図
5)22。
図5:陶冶履歴の教授学における授業づくりの水準
18
樋 口 裕 介
ここに示された三つの水準は,「生徒らの教授
学的なコンピテンシーおよびその発達課題と,教
授する者の教授学的コンピテンシーおよび発達課
題とをつなぎ合わせる」23。子どもが身につける
べきコンピテンシーと教師が身につけるべきコン
ピテンシーとが発展的に結びついている。このモ
デルにおいては,社会,カリキュラム,教師の側
にある固定的なイメージではなくて,生徒の発達
課題に沿う形で教育の適時を見極め,それぞれの
生徒の参加をどのように促すのかが重要である。
教師自身の教授のあり様も,教師としての専門化
のプロセスのなかで変容していく。
Ⅳ.おわりに─教授学と実証的な研究との接合に
関して─
M.マイヤーは,多くの科学者から見れば,学
校教育学や教授学があまり科学的でなく,汚れて
いて,ドグマ的で,規範的であることを懸念しつ
つも,教授学が研究ディシプリンではなくて,教
員養成の一部であることを強調する 24。図 6 は教
授学と実証的な研究との位置関係を示したもので
ある 25。
教員養成のための行為科学であるがゆえに,陶
冶履歴の教授学は「陶冶履歴がどのように経過す
るのかをただ問うだけではなくて,研究成果に基
づいて,どのような行動原則が専門的な教師のた
めに提供されるかということを問う」26。M.マ
イヤーは,
「この,行為科学としての教授学の質は,
科学的な研究を妨げるが,同時にそれは「純粋な」
経験的知識や「純粋な」理論よりも有意義なもの
をつくる」27 と考えている。
M.マイヤーは,陶冶履歴の教授学を本質的に
は規範的な教授学,すなわち教員養成のための科
学と考えているが,実証的な研究とのつながりを
全く否定しているわけではない。「研究成果に基
づいて」とあるように,社会的な要求としてのカ
リキュラムや教授を示すためや,子どもの発達段
階をとらえる際に実証的な研究は必要になってく
る。また教師としての陶冶履歴において教師が自
図6:教員養成のための科学と研究ディシプリンとしての科学
社会的要求と子どもとをつなぐ授業に関する一考察
─「陶冶履歴の教授学(Bildungsgangdidaktik)」の特質と構造 ─
身の省察を行う際にも実証的な研究が求められ
る。授業づくりの三つの水準を検証する際にも,
単発的な授業観察のみでは不十分で,場合によっ
ては教師や生徒のインタビューや長期間に及ぶ観
察が必要になることが指摘されている 28。実証的
な研究による検証にもとづきながら,規範的,価
値的な指針を示す教授学のあり様が提起されてい
る。
本稿では,M.マイヤーの論を中心に「陶冶履
歴の教授学」の理論的枠組を概観した。「陶冶履
歴の教授学」にもとづいて実践を構想するなかで
こうした理論枠組みがどのように位置づきうるの
か,という実践的検討までは至らなかった。今後
の課題としたい。
【註】
1
例えば佐藤(2010)は,学力テスト体制によっ
て引き起こされる学びの貧困化や空洞化を指摘
するとともに,教師個々の創意工夫が排除され,
「子どもにゆっくり,じっくりと寄り添い,つ
きあい,見守ることは許されない」現実を危惧
している(佐藤修司(2010)「「全国一斉学力テ
スト」をどう考えるか」田中孝彦・藤田和也・
教育科学研究会編『現実と向きあう教育学』大
月書店,123-124 頁参照)。また,子どもが到達
すべき統一的なスタンダードを定め,その到達
度合いをテストによって評価し,それに基づい
て教育システムを検証・改善することを推進す
る動きを「教育のスタンダード化」と呼び,
「ポ
スト・教育のスタンダード化」を求める声も
ある(Vgl., Schirley, D.: The Coming of PostStandardization in Education: What Role for
the German Didaktik Tradition? In: Meyer, M.
A./ Prenzel, M./ Hellekamps, S.(Hrsg.): Perspektiven der Didaktik. Zeitschrift für Erziehungswissenschaft. Sonderheft 9, 2008, Ss. 35f.)。
2
日本において“Bildungsgangdidaktik”は,深
澤広明によって「陶冶履歴の教授学」と訳し
て紹介されている(深澤広明「「よい」授業の
教授学」『現代教育科学』2010 年 6 月号,No.
645,2010 年,105 頁 参 照 )。 こ れ は, エ ヴ ァ
ル ド・ テ ア ハ ル ト(Ewald Terhart) に よ っ
て,「構成主義の教授学(Konstruktivistische
Didaktik)」
「脳科学の教授学(Neurodidaktik)」
と並ぶ三つの新しい教授学モデルとして紹介さ
れていることに触れたものである。また,中野
和光も同じくテアハルトに言及しながら「陶冶
過程教授学」について触れている(中野和光「第
19
5 章 外国の教育方法学研究」日本教育方法学
会編『教育方法学研究ハンドブック』学文社,
2014 年,47 頁)。いずれも詳細には立ち入って
いない。本稿では,さしあたり「陶冶履歴の教
授学」と訳しながらも,適訳については今後検
討していきたい。
3
Vgl., Terhart, E.: Didaktik. Reclam, Stuttgart,
2009, Ss. 147-151.
4
Tenorth, H.-E./ Tippelt, R.(Hg.): Lexikon
Pädagogik. Beltz Verlag, Weinheim und Basel,
2007, S. 100.
5
Meyer, M. A.: Bildungsgangdidaktik. In:
Stadtfeld, P./ Dieckmann, B.(Hg.): Allgemeine
Didaktik im Wandel. Julius Klinkhardt Verlag,
Bad Heilbrunn, 2005, S. 129.
6
山名淳,藤井佳世「序章 現代において人間形
成(ビルドゥング)に向き合うことは何を意味
するか」ローター・ヴィガー,山名淳,藤井佳
世編著『人間形成と承認 教育哲学の新たな展
開』北大路書房,2014 年,1 頁。なお,山名ら
は「Bildung」を「人間形成」と訳しているが,
本稿では教育方法学の慣用にならって,さしあ
たり「陶冶」と訳している。
7
Vgl., ebenda, Ss. 132f.
8
J.デューイ著,市村尚久訳『学校と社会・子
どもとカリキュラム』講談社,1998 年,262 頁。
9
同上書,273 頁。
10
Vgl., Meyer, a. a. O., 2005, S. 147.
11
Vgl., Meyer, M. A.: Bildungsgangdidaktik
zwischen Lehrgang und Lernerbiografie.
In: Arnold, K.-H./ Blömeke, S./ Messner, R./
Schlömerkemper, J.(Hg.): Allgemeine Didaktik
und Lehr-Lernforschung. Julius Klinkhardt
Verlag, Bad Heilbrunn, 2009, S. 133.
12
R.J.ハヴィガースト著,荘司雅子監訳『人
間の発達課題と教育』玉川大学出版部,1995 年,
25 頁。
13
同上書,28 頁。
14
ドイツ語の「Biographie」について,西平は,
「「ビオグラフィ」は伝記ではない。「伝記」と
いう言葉によって,偉人伝,人物伝などが連
想されるとしたら,それは誤解の元になる(直
訳的に「生の記述 Bio-graphie」と訳すのがよ
いようにも思われるが,混乱を招く恐れがある
ので,とりあえずカタカナ表記にする)。」(72
頁)あるいは「今日の「教育科学におけるビ
オグラフィ研究」は,「生の記述」というよ
り,「人生行路の語り」の研究として展開しつ
20
樋 口 裕 介
つある」(77 頁)と述べている(西平直「第 4
章 ビルドゥングとビオグラフィ─あるいは,
Bildungstheoretische Biographieforschung ─」
ローター・ヴィガーほか,前掲書,2014 年参照)。
本 稿 で は, ド イ ツ 語 の「biografisch Gepäck」
を,学校内外の人生全体において変容してきて
いるなかで人間が背負っている背景(荷物─
Gepäck)の全体を指して「生育歴」と訳して
いる。
15
Vgl., Meyer, a. a. O., 2005, S. 142.
16
Meyer., a. a. O., 2009, S. 133.
17
Ebenda, S. 131.
18
Ebenda, S. 132.
19
Vgl., ebenda.
Ebenda, Ss. 137f.
21
Ebenda, Ss. 139f.
22
Vgl., ebenda, S. 140.
23
Ebenda.
24
Vgl., Meyer, M. A.: Was ist Bildungsgangdidaktik?
In: Trautmann, M.(Hg.): Entwicklungsaufgaben im
Bildungsgang. VS Verlag für Sozialwissenschaft,
2004, S. 110.
25
Meyer, a. a. O., 2005, S. 149.
26
Ebenda, S. 150.
27
Ebenda.
28
Vgl., Meyer, a. a. O., 2009, S. 141.
20
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