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同一性と非同一性との同一性

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同一性と非同一性との同一性
「同一性と非同一性との同一性」
「絶対的同一性体系」へと至るシェリングの道程
マンフレート・フランク(テュービンゲン大学)
この定式〔「同一性と非同一性との同一性」〕によってヘーゲルは『差異』論文(一八〇一年[TWA
2, 96])のなかで、シェリングがみずからの「絶対的同一性体系」(SW I/4, 113; I/10, 107)の中核
思想を適切に定式化しようとする努力を的確に表現しようとし、そのことでシェリングの自発的
な、いやそれどころか熱狂的な同意を得ることとなった(イェーナ、一八〇一年一〇月三日付フィ
ヒテ宛書簡、HKA III 2.1, 378; vgl. 一八〇二年一月一五日付フィヒテの返信、ebd., 403 f.; SW I/4,
236 [ff.]; Schelling 1946, 63; Schelling 1988, 34; passim)。
ヘーゲルはこの定式によって自分自身の洞察を披歴しようなどとはまったく思っていなかった。
彼は友人の根本思想を「同一性の同一性」(SW I/4, 121 f.; Schelling 1988, 34, 50: SW I/6, 165,
168, 173, 187)あるいは自己のうちで「二重化された同一性」(SW I/6, 117; I/7, 424 f.; I/8, 216;
I/10, 103)と繰り返し述べることによって、この友人にできた以上に、より明確に把握しようとし
たのだ。根底にある思想については、私たちはさしあたり以下のように合意できる。シェリング
とヘーゲルは、同一性と非同一性(あるいはヘーゲルが同書で言っているように、古き良きヴォ
ルフ・カント的な「反省規定」であるところの、「対立 (Entgegensetzen) と一致 ( Einssein)」)
が同じ全体の標識であるというようにも考えている。もちろんこの全体については、シェリング
とヘーゲルとでは異なる見解を持っている。シェリングは包括的な同一性が、それに従属する同
一性と差異との関係から理解されうるとは考えていないが、その一方で、ヘーゲルはそう考えて
いるのである。この関係をヘーゲルとシェリングとは̶̶̶ふたたびヴォルフ的伝統に沿って̶
̶〈反省〉と呼んでいる。その場合シェリングから逸脱しているヘーゲルの立場は、反省は自足
的と考えられなければならない、と表現し直されうる。そこでシェリングは一八〇二年と一八〇
四年の間の出版物のなかで(もちろん事柄にそくしてのことにすぎないが)、ヘーゲルは一方で
...
関係を包み込むものでありながら、他方で関係項であるにすぎないような、同一性概念の二重使
.
用 (double emploi) を行っているとして、ヘーゲルを批判している。実際ヘーゲルは自然を絶対
的反省として考えられた精神から説明することによって、それゆえ自然が精神から独立している
ことを観念論的に否認することによって、自然と精神との同一性を解消している。「区別は全体
..
であると共にそれ自身の契機でもあり、同様に同一性は全体であると共にその契機でもある」
(TWA 6, 47)。これが、概念がその他者「の上を」圧倒的な仕方で「覆っている(Übergreifen)」
..
という有名な言説の意味である。こうしてこの他者はその自立性を一者に譲り (abtreten)、この
..
一者は̶̶非対称的に歪められた関係のうちで̶̶他者に対する支配の座に就く (antreten) の
である。1
1
さて私はまずはじめにシェリングとヘーゲルの定式がどのような近代的な問題を解決したと主
張するのかを示すことにしよう(Ⅰ.)。さらにシェリングはどのような段階を経て̶̶またさ
しあたってはヘーゲルがシェリングに従いながら̶̶成熟した洞察へと登りつめていったのか、
ないしはシェリングがどのような先行者たちの洞察を自分の洞察へと受容したのかを示すことに
しよう(Ⅱ.)。Ⅲ.とⅣ.においては、自己のうちで二重化された同一性という定式が解明さ
れなければならない。またそのさいにはじめて私は、この同一性が身心関係の議論に対して、ど
のような概念的解明をもたらすかを示すことができる。第Ⅴ節において私は、それまでに示した
すべての筋道をたぐりよせて、この筋道がいかに成熟した同一性哲学から紡ぎ出されたものを洞
察させるかを示す。最後に(Ⅵ.)、シェリングが自分の友人であるヘーゲルの解釈上の手助け
に、その究極的な存在論的帰結に至るまで、同調することを、やはり最後まで拒んだ理由が問題
となる。
Ⅰ.
さしあたって〈同一性〉という表現の正しく理解された意味が問題となるが、この表現は哲学的
な語いのなかでも、もっともあいまいなものに数え入れられなければならない。ライプニッツの、
区別不可能なものの同一性の原理は、同一性記号の使用に方法論をもたらす最初の体系的な試み
だった。この問題に、異なる論証に属する、二種類の解答を与えたのもライプニッツだった。第
一の論証は論理的であり、第二の論証は形而上学的(あるいは存在論的)である。2第一の論証で
は命題形式(あるいは判断形式)が考察され、第二の論証では実在的世界の諸対象が扱われる。
第一の論証でライプニッツは、命題において真理値を損なうことなく(salva veritate) 相互に代入
されうる二つの表現は同一である、と主張する (GP VII, 219, 228; Leibniz 1903, 240, 362 f., 519
f.)。〈不可識別なものの原理 (principe des indiscernables) 〉として有名な第二の論証は存在論
的であり、自然的実体について語っている。この実体についてライプニッツは、「たがいに完全
......
に〔すなわちすべての固有の名称にしたがって〕類似し、そして数の上でのみ異なる、二つの実
体が存在するということは真ではない」(『形而上学叙説』第九節、『モナドロジー』第九節参
照)、と説明している。3同一性原理のこのような二つの適用̶̶論理的適用と存在論的適用̶̶
は念入りに引きほどかれなければならない。それどころか本当に同一の法則が問題になっている
のかを疑うことすらできる。4いずれにしてもシェリングとヘーゲルは、ある時は主語と述語が、
ある時は主観と客観が〈
である〉によって同 一だとされると信じている限り、ライプニッツが
意味論と存在論との間を揺らいでいることを引き継いでしまっている。
この区別の意味(自然的諸対象の領域における)に対する疑念をデヴィド・ヒュームがはじめ
て表明した。意味の同等性は〈諸観念の関係〉の領域において、とりわけ論理学においてのみ生
じる(『探求』、第一部、第四章)。自然的諸対象の存在論において同一性は、厳格に捉えるな
らば、問題になりえない。ヒュームは「自己自身と等しい」という表現形式のなかで、再帰代名
詞によって指示された対象は、はじめに指示され対象とは何らかの点で異なっていなければなら
ない(そうでなければ判断は二回同じことを述べており、それゆえ何も言っていないのである
[Hume 1888, 200,2; 201,1])。同一性を最終的には決定不可能なものとする、この批判から、カ
ントはさらにみずからの理論哲学の原理の統一のあり方に対して、すなわち自己意識の統一のあ
2
り方に対して、結論を引き出した。自己意識は分析的にまったく同一のものにとどまる(そして
自我のいかなる思想においてもこの同一のものとして、分析的に析出される)、しかしまた自己
意識は̶̶〈綜合的に〉̶̶一つの状態から別の状態への移行のなかで、同一のものとして自己
を〈保持する〉ことによって、自分の状態の変遷に持ちこたえる。そこでカントは̶̶ヒューム
を引き合いに出し、ライプニッツに反対しながら̶̶(存在論的な)同一性原理を(論理学的な)
無矛盾性原理から切り離すよう提案する。後者は、あることを主張すると同時に否定する(ある
いはある事柄をその反対と同時に定立する)ことはできないことを意味する。このことは、ある
ものはその性質が変化すると、同一であるとは言われえないことを主張している。5前者の原理は
自明である(それはトリビアルである)。後者の原理によると、同一性は、それらが同一のもの
.............
であることが表面的には記されていないような、そういう二つのものの間の真正な関係をなすも
のである。その場合、あるものをあるものと同定することは、ある現実的な認識を獲得すること
を意味するが、これに対して矛盾なく判断することは自明なことなのである。こうして同一性は
(論理的無矛盾性とは違って)一種の差異を含んでいるように思える。自然と精神との同一性に
関する、シェリングの有名なテーゼがそこから出発している問題状況を、私たちはだいたい以上
のように思い浮かべなければならない。
大急ぎで書かれた『我が哲学体系の叙述』(一八〇一年)のなかですでにシェリングは、差異
にとっても感じ取られる同一性という思想を三つの視点から表明している。すなわち本質あるい
は同一的なもの自身の視点、そのなかで同一的なものが言明される、A = A という命題形式の視
点(この形式によって、潜在的な̶̶しかしシェリングが言うように̶̶いまだ〈現実化されて〉
いない対立が問題となる)である。対立は、等しいものが真に等しくなることをはっきりと把握
する、A = B という定式のなかではじめて現実化される。しかしこれらの規定はすべて同一のも
のをその異なる視点から展開することと見なされ、その結果、〈同一のもの〉と言われるところ
のものは、差異と同様に、同じ〈全体〉に属することになる。こうして私たちは、ヘーゲルが『差
異』論文のなかで自分の友人の定式(「同一性の同一性」[SW I/4, 121; I/6, 165, 173, 187]あるい
は「二重化された同一性」[SW I/7, 424 f.; I/8, 216,4; I/10, 103])を明解にするために導入した、
「同一性と非同一性との同一性、対立することと同一であることとの同一性」という言い回しに
出会う(TWA 2, 96、文脈に応じて)。この〔後者の〕定式はその(非関係的および関係的)前者
の定式よりもパラドキシカルではないと言えるのだろうか?この疑念を払しょくすることがシェ
リングの同一性哲学の主要な関心事だった。それは〈同一性〉を、この関係のなかで二つの異な
るもの(A と B)が完全に同一の事柄に当てはまる、というように把握しようとする。こうして
シェリングの同一性哲学はヒュームの挑発に応じる。それはたしかに、ある物を自己とトリビア
ルでない仕方で同定することは、この物とは少なくとも一つの視点において異なっていることを
前提することを意味するのだ、と言っていたのだった。しかしヒュームの議論が総じて同一性の
確定可能性を懐疑論的に否認することへとたどり着く一方で、シェリングは、変化の思想が総じ
..
..
て同じものの統一という思想のなかでのみ展開されうることを示そうとする。他者でありうるも
........
の、このものについてのみ、それが自己自身と等しい、と言うことは意味をなすのである。
自己同等性のもとには〔とシェリングは言う〕自己自身と不等になりうることが隠されている。
この可能性は統一のなかに隠れている。というのは自己自身と不等でありうるものが、たしかに
3
自己自身と等しいものだからである。したがって自己自身と等しいものは、自己自身を抜け出す
可能性をすでに自己のうちに含んでいる (Schelling 1989, 49)。
Ⅱ.
さて私は、シェリングの成熟した同一性哲学へと流れ込んでいった、いくつかの前提̶̶歴史的
な前提も̶̶明らかにしてみたいと思う。
(a)まずさしあたって初期の、ケストリンでの、またニュルンティングのラテン語学校での時代
にまでさかのぼる、シュヴァーベンの思弁的なピエティストたち、とりわけエッティンガーとハ
ーンとの取り組みがある (HKA I.1, 43 ff; Matthews 2011, 2. Kap.)。ちなみにハーンと若きシェ
リングとは個人的に知り合いで、しかもシェリングはハーンのために一七九〇年には早熟な追悼
の辞を書いていた。エティンガーとハーンは、〈中保者による、神的因果性と必然的因果性との
結合〉という、彼らの思想の根本問題を、『ティマイオス』(68e5-69a1)と『ピレボス』(16c5-e5)
とを引き合いに出すことによって、解決している。『ピレボス』の〈媒介する第三者〉は『ティ
マイオス』(31c) において問題となっており、しかも結合されたものだけでなく、自己自身を結
合されたものと結びつける、かの「ほどくことのできない〔 〕絆」に対する別の名称なのである
(シェリングにおいてはとりわけ SW I/7, 54-61; I/2, 55; 360 ff.)。世界創造は、自然諸力の活発
にされた敵対関係が作動するために、諸項の根源的な「無差別」6を廃棄することによって生じる。
これは、シェリングが自然的な自己有機組織化という思想において、カントによる二種類の因果
性[自然の因果性と自由の因果性]の媒介とたやすく関係づけることのできた図式である
(Schelling 1994, 33 [ff.])。
一九九四年に『ティマイオス(一七九四年)』という題のもとで出版された、『形式』論文よ
りも前に試みられた手記のなかで、カントの有機体の定式(「相互にかわるがわる、それぞれの
形式の原因にも、結果にもなる」[KU § 65, B 291, passim])は「あらゆる絆のなかでもっとも美
しいもの」という『ティマイオス』の記述からの定式と重なり合う。世界の有機体を精神化する、
この絆 (δεσµος) は、シェリングが一八〇六年に、その間にヘーゲルにうながされて定式化して
いるように、
「一者としての本質を多者としての自己自身と結びつける (SW I/7, 55 [ff.]; I/2, 365)。
概念不変化詞「
として (als)」はそのつどの視点を提示する。また「自己自身について」という
定式は、一者とそれとは異なるもの(〈多者〉と記されるのは不適切である)7がそれ自身ふたた
び同一のものと見なされるように配慮されている。同一性は自己のなかで〈二重化〉されている
(一八〇四年のヴュルツブルクの『体系』のなかではじめてシェリングは、そのなかでは内容と
........
形式とが、肯定するものと肯定されるものとが「自己自身について」そうであるものとしての、
絶対的同一性について語っている。したがって肯定することと肯定されることとは量的にのみ、
優勢か劣勢か、という視点にしたがって区別されうるが、本質的には区別されえない [SW I/6,
162 o. [ff.]].)。
(b) シェリングがすぐ後で執筆された『形式』論文のなかで同じ問題を追究していることは、
容易には認識されえない。当時、自己を自己自身として定立することとしての絶対性の構造から、
絶対者は、実体のカテゴリーのなかでも因果性のカテゴリーのなかでも示現せず、交互作用のな
かで示現することが明らかとなったようにシェリングには思えた。哲学の本来的な「元形式」は、
4
.....
それに従属する形式と内容とを、第三の力のようにして包括し、両者を自己自身と結びつける
(SW I/1, 96 f.)。そのさいシェリングは『ティマイオス』における有名な個所 (31c) を引き合い
に出しているが、この個所をヘーゲルは『差異』論文のなかで(不器用に)翻訳することになる
であろう。8実体と非対称的な関係を包括するカテゴリーの形態においてはじめて、統一と差異は
理解されるのであり、したがってシェリングが一七九六年以降「精神」と呼んでいるものは、統
.......
一と差異との統一でなければならない。シェリングは書いている。「人間精神は自己自身を有機
....
.....
..
体化する自然である」(SW I/1, 386)。そして「自己自身の対象である者のみを、私は精神と呼ぶ」
(366)。このような反省的二重化のなかには、精神の他者はふたたび精神自身にすぎないことが、
したがって精神はすべての存在者であることが、存している。それゆえ〈絶対的精神〉について
の言説においては、プラトンの〈世界霊魂〉9のモデルと、カントの有機体モデルとが同じように
影響を及ぼしていた。シェリングは、『理念』においても、また『超越論的観念論の体系』(一
.....
八〇〇年)においても、同時に自己自身の原因でもあり結果でもあるというカントの言説が、理
念からではなく、第三の関係カテゴリーから正当化され̶̶したがって有機体的に見える世界に
とってだけではなく、世界全体にとって、統制的であるだけではなく、まさしく構成的である、
と信じていた (SW I/2, 40, 42; I/3, 491 ff., hier: 495)。
(c) 第三の主要なきっかけをシェリングはカントの存在(現実存在の意味における)について
の有名なテーゼに負っている。
カントはこのテーゼを一七六三年にはじめて『神の存在証明についての唯一可能な証明根拠』
という小品のなかで表明していた。〈存在(Sein)〉というあいまいな動詞表現は定立 (Position)
という〈まったく単純な〉意味を持っている (AA II, S. 73; vgl. S. 70, Z. 17)。〈定立〉は〈存在〉
に対する言わば類的名詞 (Gattungsname) であり、この名詞は̶̶とカントは言う̶̶概念的
には「ほとんど分解できない」(73)。ほとんど、と言うのは、〈存在〉からは、それにもかかわ
らず、二重の特殊化、すなわち相対的定立と絶対的定立とへの特殊化が獲得されるからである。
相対的といわれる定立は、通常の叙述文においてはそうであるように、主語と相関的に分類辞
....
(Klassifikator) を定立する。これに対して絶対的にある概念が定立されるのは、〈神が存在する〉
....
あるいは〈私は存在する〉といった〈叙述を欠いた文〉において典型的なように、この概念にそ
もそも何かが対応し、それゆえこの概念が空集合を記述するのではない場合である。それゆえ厳
密に取ると、〈存在〉(〈現実存在〉としての)の意味は絶対的定立の意味に限定される。後期
............
シェリングは現実存在としての存在についての言明を〈絶対的に述語を欠いている〉あるいは〈付
加語的でない〉と呼んでいる (Schelling 1972, 426; SW II/3, S. 162)̶̶現実存在としての存在
を「実在的述語」と混同してはならないというカントの教示 (KrV A 598 [ff]) に忠実なのである。
〈実在的〉と〈現実的/現実に存在する〉という表現はカントにおいて厳密に区別されている。
両者は二つのまったく異なるカテゴリーのグループ、すなわち質と様相に属する。〈実在的〉と
呼ばれるのは、ある対象の realitas すなわち「事象性 (Sachheit)」に寄与する述語である (KrV
A 143 = B 182 und A 597 f. = B 625 f.).。だが〈存在〉は実在〔事象〕的述語ではない。存在は
その対象の何であるか (das Was) については何も語らず、~であること (das Dass) について語
る̶̶あるいはスコラ学の術語によると̶̶quidditas については何も語らず、quodditas につ
5
いてのみ語る。現実存在としての「~がある」のこの意味はたしかにカントによって端緒をつけ
られたのだが、後にはフレーゲとラッセルとがこの意味を明確にした。
しかし存在と述定とはどのように連関するのだろうか、すなわち何が両者を定立の変種にする
のだろうか?判断の綜合(〈相対的定立〉)は、カントが〈絶対的定立〉と呼んでいたものの下
..
位形式として把握されなければならない。ヘルダーリンが一七九五年の春に「存在は主観と客観
..
の結合を表現する。〔 〕判断は〔 〕それによって客観と主観とが可能になるような分離であり、
根源̶分割 (Ur-theilung)である」(Hölderlin 1991, 156, Z. 1, Z. 19-22)と書き記した時に、まさ
にこのことが彼の脳裡に思い浮かんでいたように思える。まさしく同じようにしてノヴァーリス
は、現実存在としての存在が̶̶判断形式において̶̶いかに意識へと媒介されるのか、その仕
方を把握しており、すなわち見かけだけの存在として、あるいは彼が思いきって言うように、「正
式ではない存在」(Novalis 1960, 106: Nr. 2, Z. 6) として把握しており、しかも「正式ではない
存在は存在の像である」(Z. 7) と付け加えている。カント的に表現するならば、意識を形成する
相対的定立は絶対的定立を判断形式において模写する、となる。
お気づきのように、ヘルダーリとノヴァーリスは根源
分割をあるときには意味論的概念にお
いて、ある時には認識論的概念において表明している。彼らは時には〈主語〉と〈述語〉とにつ
いて(すなわち意味論的に)語っており、ある時には(存在論的に)、〈主観〉と〈客観〉につ
いて語っている̶̶まさしく同時代にシェリングとヘーゲルがそうだったように。このような混
同の源泉は最近になってはじめてミヒャエル・フランツによって論じられたのである。そしてシ
ェリングとヘーゲルの作品のなかでこの源泉を証明することが重要である。
(d)さてここで私は、シェリングとヘーゲルが神学校寄宿舎〔シュティフト〕においてともに経
験した、第四のきっかけへと移ることにする。それは、なぜこの世代は述語的な〈
である (ist)〉
を̶̶カントとは違って̶̶同一性指示として理解するのかを説明してくれる。一見したところ
このきっかけは、すべての真なる判断は、主語名辞のなかに含まれているものの分析に存する(「述
語は主語のなかに内在している (praedicatum inest subjecto)」)というライプニッツのテーゼ
に従っている。しかしテュービンゲン学派はさらに、論理学者・形而上学者である、ゴットフリ
ート・プロケットが述定のうちに同一性を認めた、そういう述定の解釈によって独特な仕方で特
徴づけられている。プロケットの著作はテュービンゲンの寄宿舎[の授業]において教科書になっ
ていたし、その後長い間(一七九〇年の彼の死後、シェリングが寄宿舎に入る前)修士〔マギス
ター〕試験の学位テーゼの基礎にされていた(Frank 2007, 13. und 14. Text; Frank 2010, 271 ff.;
Michael Franz: „Einleitung“ zu: Ploucquet 2006, S. XXX ff.)。『叙述』の改訂の間にシェリング
は両親に、とりわけプロケットの『解明 (Expositiones)』を自分に送ってくれるよう頼んでいる
(HKA II.2, 442, 806 f.)。
プロケットは二重に̶̶両方の場合とも強く̶̶シェリングに影響を与えた。まず第一に、絶
......
対的形式における絶対的本質の〈自己開示(自己における開示 (manifestatio in se)〉という思想
によってである。そのさい絶対的形式はふたたび、絶対的本質の論理的(あるいは命題)形式と
して10、またこの本質の洞察可能性の条件として解釈される (Ploucquet 1782 §§ 153, 161)。した
がって存在論の第七節と第八節では本質の洞察可能性/理解可能性の二つのあり方、すなわち
intelligibilitas, quae と intelligibilitas, qua が区別される。前者は何を洞察するか (das Was) に
関係し、後者はどのように洞察するか (das Wodurch) に関係する。両者の視点は、同一性判断
6
の(命題)形式における本質の「自己開示」についてのシェリングの言説のなかで、統一されて
いる(とりわけ SW I/7, 57 が文脈に応じて)。私たちは(現実存在についての判断以外の)どの
判断においても二つの概念を相互に〈比較し〉、肯定命題の場合には同定しさえする、という解
釈によって、プロケットはシェリングに(そしておそらくはヘーゲルにも)より強く影響を与え
た。ここから、同一性の定式に差異の本質的な契機を〈形成・参入させる (einbilden) 〉(彼が
好んでそう表現しているように)、というシェリングの直観へのまっすぐな道が通じているのだ。
シェリングの考察の出発点はプロケットの考察に類似していることは認識できる。シェリング
は判断を、内容(〈内包〉、一般にはそう言われていた)においてはたしかにかなり異なってい
るであろう二つの概念の外延を一致させることの一種として理解している。〈外延〉あるいは〈範
...
...
囲〉は、ある概念のもとに属する諸対象の集合を意味している。〈内包〉あるいは〈概念内容〉
...
は、ある概念のなかに含まれている概念的諸徴表の総体を意味している。ある概念は、そのもと
により多くの諸対象が属すれば属するほど、外延的にそれだけより大きい(それゆえ〈生物〉は
〈人間〉よりも〔外延的に〕より大きい)。内包的にはまさに逆の関係が支配している。という
のも〈人間〉という概念徴表はなるほど〈生物〉という徴表に付け加わるからである。
プロケットによると、どの(叙述的)判断においても、二つの概念 („notiones“) 、すなわち主
..
語概念と述語概念とがおたがいに〈比較〉される。「判断とは概念と概念との比較である」
..
(Ploucquet 1970, 47; vgl. Ploucquet 2006, 2:「判断とは二つの概念の間で行われた比較の洞察で
..
ある。推論とは二つの判断の間で行われた比較の洞察である」。)。そのような比較は反省の仕事
である(そのようにカントも言っている [AA IV, 326])。したがってある判断は、そのなかで主
..
語と述語が完全に一致していることが洞察される場合には、肯定的である(「主語と述語の同一
.
..
性の洞察は肯定である」)。この場合二つの表現は換位される、すなわち真理値を損なうことな
く、両方向に読まれる(「命題換位とは主語と述語との交換である」。vgl. 2006, 114, § 207:「定
.....
..
義において主語と述語は同じ概念を示すのだから、あらゆる定義は換位可能な命題あるいは相互
.....
交換可能な(reciprocabilis) 命題である」)。判断は、主語が述語とは異なるものとして洞察され
る場合には、否定的である。そのような判断において名辞は交換可能ではない (Ploucquet 1970,
48)。それゆえ概念の外延のたんなる差異性が、否定を根拠づけている。
この解釈をカント的な解釈に重ね合わせようとすると、述定はまさに相対的同一化であり、同
様に存在は絶対的同一化である。存在についてのカントの有名なテーゼと、述定を同一性とする
解釈とを相互に深く考え合わせてみると、ヘルダーリン、ノヴァーリス、シェリングに固有な、
絶対的同一性の本質を、あらゆる意識を拒絶する根拠を含むものとして解釈することが成り立つ。
後期シェリングは言うであろう、存在は「あらかじめ考えられない (unvordenklich)」と。存在
の前には、存在の根拠として、そこから存在が導出される/理解されるような、いかなる思想も
̶̶いかなる事象的述語も̶̶さしはさまれない/前もって介在させられない (Schelling 1993,
166; SW II/3, S. 227 f., vgl. S. 262)。
(e)ここで私たちは、シェリングの述定の同一性理論へと流れ込んでいる、第五の前提への入口
に立っている。その点はもっとも研究されていない、なぜならシェリングは、その点を二つの(保
存されている)講義と、間接的には同様に出版されていない『世界世代』断片のなかで、こっそ
7
り漏らすというよりは暗示しているだけだからである。私たちはそこで、〈反復的〉述語づけと
いう方式をいまだ知っていた、ヴォルフと〈より古い時代の論理学〉の模範とに対する示唆を見
出す。シェリングが自分の生徒、バイエルン公国皇太子マクシミリアンのためにわざわざ目を通
した、一八三〇年のある講義の筆記ノート(『哲学入門』)のなかで、以下のような一節が見出
されるが、私はここでこの節をそのきわめて興味深い文脈から切り離さなければならない。
自由な単純性 (Bloßheit) あるいは a0 のうちにある自我によっては、決定された a も b も存在
しない、なぜなら a はまだ b になりうるが、その当のものにはまだ成っていないからである。そ
れは無差別のうちにある自我であり、a と b とに同等とされているが、自我は a としてもあるい
は b としても存在しないのであろう、もっとも自我は a としての自我である可能性だけでなく、
b としての自我である可能性も、自己のうちに含んでいるのだが。しかし自我がいまや決定を下
し、現実に存在を身につけるが、この存在は結果的に身につけられたものとして、その純粋な本
質とは異なるものであるならば、自我はもはや a0 として存在するのではなく、b に成ったのであ
るから、a として存在する。自我のなかに存する二つの可能性のうちで、一つの可能性が今や満
たされた。以前には両方の可能性が自我のうちで同等であったが、今や a として定立された a が
自己自身と二重化されている。この表現は、もはや最近の論理学のなかには見出されないとして
も、ヴォルフの論理学においては|通常のものだった。この論理学においては、反復的定立とい
う表現が、a は隠伏的に b でありうることから抜け出て、さらに a として結果的に自己自身と掛
け合わされた a である、ということを意味するのである。それゆえ A は同時に a として存在する
ことなしには、b であることはできない。さて私たちは一方で a = b を、他方で対立と緊張のう
ちにある a を持つことになるのであろうが、こうして a は a2に成るのである (Schelling 1989, 49
f.)。
この節は、数学的な乗べき化〔ポテンツ化〕をメタファー提供者として利用する、シェリング
の動機に光を投げかけてくれる。a も b も根本的に無差別であるのだから、どの視点も他の視点
よりも優勢ではない(「自由な単純性のうちにある」)。だが私が B という視点のもとで (respectu)
a を定立するならば、a は b と掛け合わされる:Ba。したがって A は、自分自身の視点のもとで
定立されると(〈a が A である限りの a〉)、Aa すなわち= a2 である。シェリングが言うように、
反復 (Reduplikation) が、あるいはここでは同じことを意味するのだが、a と自己自身との乗法
が生じている(シェリングは同時代の人々と同様に、対象と性質との表記における図表上の区別
を知らない)。
シェリングの息子は、父親のミュンヘン大学講義『近世哲学史』(SW I/10, 103)のなかから似
たような一節を伝えた。一八三〇年代を振り返って、シェリングの話はここで自分の自然哲学と、
そのなかでテーマとされた、絶対者とその述語との関係へと及んでいる。
だが A として定立された A はもはや単純な A ではなく、A であり、
であるとともに
でない
というのではなく、決定されている、そのような A である。A である A とは自分自身と二重化さ
. ...
れた A(より古い時代の論理学では、この種の定立は、そこでは A が単純にではなく、A として
定立されるのだが、反復的あるいは反復と呼ばれた)、それゆえ A として定立された A はもは
8
や単純な A ではなく、二重化された A であり、これを私たちは(概念が説明された後では)簡略
化のために A2[つまり、第二のポテンツにおける A]と呼ぶことができ、またそれゆえに私たちは
一方の側には、B〔対象〕となってしまっている A を、他方の側には、これと対立し緊張しなが
ら̶̶しかしまさにそれゆえに同時にこれによって高められて̶̶A2(自己自身のなかで高めら
れた A、すなわちそのようなものとして定立された A)を持つことになるのであろう。
実際〈より古い時代の論理学〉をシェリングは (1946, 28, 127) ライプニッツを超えてスコラ学
の論理学と同一視しているのだが̶̶たとえば『命題論注解』11(8415 f., 8690)におけるトマス・
アクィナス、あるいは『オルガノン』注解12におけるジャン・ブュリダンである̶̶、この論理
学は反復 (reduplicatio) という表現を、本来的な述語 („praedicatum principale“) からはいまだ
区別されている、主語の視点の固定 („praecisio“) という意味で用いている(述語反復の同様に
可能な事例に関しては、現在の文脈においては関心がない)。一つの例は「人間は感性的であり、
その限りで動物である (Homo est sensibilis inquantum animal)」である。反復的表現(「反復
的名辞」=動物)は本来の述語表現(感性的)と同一ではないが、このことは典型的ではあるが
必然的ではない(もし述語表現が同一であるならば、あるいは述語が主語のなかに包含されるな
らば、この反復は「無用 (inutilis)」であると言われる。例は「全知者 (omniscius)」と「もっと
も賢い精神 (spiritus sapientissimus) 」である [vgl. Leibniz 1999, N. 241, 1243])。反復自身
は、副文が続くのか、それとも名詞句が続くのかにしたがって、接続詞によってないしは副詞に
よって表現される。すなわち
として(qua),
quod),
に応じて((pro)ut),
の限りで(in quantum),
の点で(respect),
の場合に(quando),
の限りで(quatenus),
にしたがって(secundum
の理由で(qua ratione) 等々である (Bäck 1996)。主語表現はいわば曲がって戻ってき
て、何らかの観点のもとで (sub respectu quodam) その意味を反省するが、こうしてその意味は
二つに分かれる(〈二重になる〉)。すなわちどの主語名辞も何重もの観点から問題となりうる、
というアイデアである。反復はまさに関心事であるところの意味論的観点を定めるべきなのであ
..
る。標準的な例:「人間は、その人が人間である限り、あらゆる被造物のなかでもっとも尊敬に
..
値する。しかしその人が邪悪な犯罪者である限り、その人には軽蔑がふさわしい。」あるいは「病
....
....
人としての人間を治す人は医者である。罪人としての人間を治す人は聖職者である。」あるいは
......
...
「執政官としてファビウス・マクシムスは自分の父親に対して権威を持っている。しかし息子と
..
して彼は父親の権威のもとにある」(プルタルコス『ファビウス・マクシムスの生涯』からの例
.........
.........
である)。「ある円柱はその底面に関しては、他の円柱よりも大きいが、その高さに関しては、
........
それよりも小さい。」「花 B はその形からすると花 A よりも美しいが、花 A はまたよりすばら
.
しい香りを持っている。」(Leibniz 1999, N. 241, 1242 f.からの例である。) あるいは「両生類と
..
..
..
してワニは水の中を泳ぎ、陸上では走る。」模範となるのはアリストテレスの『分析論前書』(1.38)
からの有名な一節である、〈存在者としての存在者〉についての(あるいは通常はそう翻訳され
ているように、〈存在者の存在〉:οντσς ον [Metaphysik IV, 1003a; dazu Angelelli 1978;
Honnefelder 1989, 102 f.; Brands, in: Sherwood 1995, 260, Anm. 141] についての)形而上学的
9
....
....
言説である。たとえば反復的に〈善としての〉善あるいは〈それが善い限りでの〉善について語
る人は、その人の文脈にとって本質的な視点を取り出し、他の視点を除外しているのである。
反復が中世の神学者たちにとって重要だったのは、とりわけキリストの二重の本性を矛盾なく
考えることができることを証明することが重要だったからであることは明らかである。なるほど
論理的検証はこのことを現実には認めない(というのは〈死すべき〉と〈不死の〉は矛盾を形成
するからである [Vallicella 2004; Bäck 2003])。しかしシェリングはいずれにしてもこの問題に
もっと慎重に取り組んでいる。シェリングは、前提としての自然と精神との同一性(X)から出
発し、それからまずは X の反復としての絶対的同一性の、両側に一つづつある述語/標識がどの
ようにおたがいに両立しうるかを理解させなければならないとしている。そのさいシェリングは
明らかに、いくつかの外見上両立しえない哲学的な確信に対して、「調和主義的な」解決を探し
求めるライプニッツを引き合いに出している (Schelling 1946, 28, 127)。シェリングはそこで言
う、ライプニッツはかの多く引用されている論理学の規則が真理でないことを示したが、この規
則はそこではこうなっている。「不一致なものはお互いどおしによっても第三者によっても言い
表されえない」(前述の個所参照)。〈調和主義的〉と呼ばれるのは、二つのテーゼの間の調停
の試みである、なぜならこの試みは一方のテーゼを 「善い意味に (en un bon sens)」、すなわ
ちそのもとではこのテーゼが他方のテーゼともはや不一致ではないような、そのような善意ある
解釈(反復)のもとで読むからであり、またその場合である。私たちの身体性と精神性との両立
可能性のテーゼも (GP IV, 523 f.; PS 3.1, 4 ff.)、私たちの決定されている状態と自由との両立可
能性のテーゼも、あるいは私たちの観念の感覚的受容性 と先天性との両立可能性のテーゼもそう
〔調和主義的〕なのである。『人間知性新論』におけるフィラレーテスとテオフィレとの対話は、
まさに第一巻の冒頭部分が示しているように、全体にわたって調和主義的・反復的方法にしたが
って書かれている。哲学者たちは̶̶彼らのうちの〈派閥主義者たち〉ですら̶̶彼らが主張し
ていることのうちで、正しいことがしばしばである、正しくないのは、彼らが否定していること
のうちにおいてのみである。ダニエル・シュルテース (Daniel Schulthess) はまさに、このよう
な洞察にしたがって働く調和主義的方法がどのように機能するか、ということを示した。人はテ
ーゼ(主張)を、お互いに対立する下位テーゼ (disjuncta) の選言へと変化させるが、この下位
テーゼのうちの一つが̶̶したがって選言が全体として̶̶必然的に真である。後には論理学者
のアウグストゥス・ド・モルガンにちなんで名づけられる、中世後期にはよく知られた法則
(Kneale & Kneale 1962, 295) によると、選言命題の否定はその構成部分の否定の連言である:...
(P ∨ Q) ↔ (-P & -Q)。だがこうして選言の両方の角は否定されてしまっているが、(肯定されて
いた)最初の形のなかでは選言の一方の角は真でなければならなかったのだ。結論は、人は理論
を一律に退けてはならない、である。「君が肯定することにおいて君は正しいし、君が否定する
ことにおいて君は間違っている」(vgl. Leibniz’ Briefe an N. Remond vom 10. Jan. und vom 14.
Aug. 1714 [PS 5.2, 322, 340 ff.]; Schulthess 2008)。今日であれば、代替案となる立場をお互い
に反目させるのではなく、より控え目な基準で、ないしはより融和的なレベルで統合させる、「弱
い」あるいは「両立可能主義的」理論について語るのであろう。
最近の哲学に類似したものを探すならば、主語を反復的な仕方で考慮するという思想は、ピー
ター・ギーチの同一性の相対性理論ともっともよく比較されうるように私には思える。ギーチは
優れた中世〔論理学〕の識者である、もっとも彼は反復による〔論理〕操作を引き合いに出して
10
いないのだが。ギーチは、私たちが二つのものあるいは名前あるいは過程を、それに関連して同
.... ..... ....
一だとするような視点(可算名詞、不可算名詞、一般名辞によって表わされる)を特定しない限
りまたその間は、それらの〈厳格な〉あるいは、〈絶対的な〉同一性命題を無意味と呼んでいる。
二つの名辞を端的に等しいとする厳格な同一性命題は、〈x = y〉あるいはより厳密に〈Fy ⇔ ∃x
(Fx ∧ x = y)〉あるいは〈Fb ∧ b=a → Fa〉という形式を持つ。それに対して〈相対的〉̶̶すな
わち視点にそくして相対化された̶̶同一性命題は〈x は y と同様に A である。しかし x は(た
とえば必ずしも)y と同様に B ではない〉という形式を持つ。したがって〈x は y と同一である〉
は不完全な命題として分析され、相対的同一性命題において量記号は無制約である(「束縛され
..
ていない」)。そのような(一般名辞よって表示された)視点は x と y との関係の同一性基準を
提供する、とギーチは言う (Geach 1968, 63 f.; vgl. 149 ff.)。誤って厳格だと思われた同一性解釈
........
の根底に存する同一性基準は̶̶厳密に分析すると̶̶ある理論における二つの対象の区別不可
能性を示すのみで、理論からは独立したところにある(〈x についてつねに妥当することは、y
についても妥当する、どのような理論が根底に存しようとも同じことである〉)。それゆえ厳格
な同一性解釈は、ある理論において同一性の述語であるものが、同じ対象領域の別の理論におい
ておそらくもはや当の述語ではないという問題を招く(グレーリングのパラドクス [Geach
1972b])。
...
相対的同一性の例は、タイプによると〈話す 1〉は〈話す 2〉と同じ言葉である。しかし両者は
....
個別記号(トークン)としては異なっている、である。バッキンガム宮殿の前の護衛兵は、任務
....
....
遂行者としては昨日と同じ人であるが、個別の人格としては同じ人ではない。それは昨日はフォ
スター氏だったが、今日はスミス氏という名前である。ニューリッチ卿は月曜日と火曜日とに、
同じ伝令のブルーマントルと話す。しかし彼は二人の異なる人間と話している、なぜなら月曜日
から火曜日の間に職員の交代があったからである(これについては Griffin 1977; Henrich 1979,
146-148)。あるいは中世へと戻るならば̶̶ビュリタンの例は (Kommentar zu den Analytica
Priora, Quaestio 43a, 4.; vgl. Tractatus de consequentiis, 4.4.3 und Kap. 5.8.5 des logischen
Hauptwerks, der Summulae de Dialectica 5.8.5) 、ソクラテスは人間としてはおかしいが、哲
学者としてはおかしくない、である。こうも言える、ある記述において x は F であり、他の記述
において x は G である (vgl. Anscombe 1981)。この意味である近世初期の哲学辞典(一六一三
年刊)は反復を „quaedam conditio posita in propositione reddens rationem, qua praedicatum
attribuitur Subjecto, vt[,] Qua, κατα [テキストには誤って καυι となっている], Quatenus“、す
なわち「ある命題のなかに定立された(あるいはある命題に付け加えられた)、また述語を主語
...
....
に帰属させる資格 (ratio) を提示する何らかの条件、 として、 の限りで」として定義してい
.....
る (Goclenius 1989, 965)。そしてさらにヴォルフもまた反復をまさにこの意味で、「そのもとで
....................
述語が主語名辞と一致するような条件として」知っているのである (Wolff 1983, 230 [ff.], = §
227 [ff.])。けれども私は、シェリングの断言に反して、ライプニッツがしばしば使用している表
現13をヴォルフ論理学のなかに見つけられなかった(ライプニッツの反復の使用法については、
Nuchelmans 1983, 223 f.; Burkhardt 1980, 230 f.; Schulthess 2008)。しかしたとえそれが見
つけられなくとも、一方でシェリングとの類似性、他方でギーチとの類似性は見逃すことはでき
11
ない。ある文は時として断定文的に聞こえるのだが、その深部構造の分析が、それに主語表現が
...
事実上属している仮定(隠された条件)を明るみに出すものである。この(隠伏的)条件を解読
...
してみれば、それは〈主語がこれこれと特定されている/規定されている限りで〉のように読ま
........
れる。「すなわち述語が主語に端的に (absolute) ではなく、ある条件のもとでのみ帰属するな
らば、この条件は、条件法的不変化詞 [als] がはっきりとは立てられて (expresse ponatur) い
ないからといって、消えてしまってはいない。それゆえこの命題は仮定的なままである」(Wolff
1983, § 218.)。ヴォルフはこのことを〈高いところから落ちてきた石は激しい勢い (impetum) を
持っている〉という文にそくして説明している。この文は形式的には断定文的であるが、隠れた
...
仕方で仮定文的である、というのも隠れた仕方で〈石が高い所から落ちる限りで〉と言われてい
るからである (l. c., 231 [§ 227])。
Ⅲ.
今日の身心関係の理論はまったく同様の例に取り組んでいる。一.心理的なものが存在する、二.
心理的なものと身体的なものとの間には、両方向に向けて、因果的結びつきが存在する、三.物
理的世界は閉じられた決定論を形成する(言い換えると、物理的なもののみが物理的なものに影
響する)、これらのことを(たとえばデビッドソンのように)想定するならば、一連の相反する
確信を生み出すことになる。人はこの三つの命題のうち一つを放棄しなければならない
(Davidson 1980, 208 f.)。私たちはデビッドソンの解決に向けた提案をそれとなく知っている。
その提案はこうである:二番目の命題は正しいが、それは、どの心理的出来事も物理的出来事に
よって〈実現〉される、というように解釈されなければならない。問題は、私たちはそれゆえ心
理的なものを実現する物理的諸性質を、物理学に還元されるような諸性質よりも際立たせなけれ
ばならない、ということである。言い換えると、この一定の物理的状態がこの一定の心理的性質
...
の実現者として把握されることが許されるのは、その心理的性格によるのでなければならないの
...
である。そしてこの による(私たちはこれを qua 〔 として〕あるいは inquantum〔~の限
りで〕あるいは quatenus〔~の限りで〕によってラテン語にすることが許される)はまさにクリ
スティアン・ヴォルフの意味における反復的使用法の正しさを示している。この反復的な qua〔
として〕がそれほど重要なのは、特殊なもの(たとえば出来事)がその結果をその性質によって
引き起こすのであって、たんに端的に引き起こすのではないからである。このことはヴォルフの
....
例とたいへん似かよった例にそくして説明できる。「二〇〇グラムとしての (qua)リンゴ」は秤
....
の針が一定のしるしにまで触れることの原因であるが、「緑としてのリンゴ」はその原因ではな
....
い。だから「主体 S によって意図されたものとしてのこの出来事の結果」ということでもあって、
....
「この(生理学的に解読された)筋肉収縮によって引き起こされたものとしてのこの出来事の結
果」ではないのである。
もっとも̶̶シェリングの反復という方式による操作における、きわめて様相的な特徴(〈a
....
...
としてあるいは b としてありうること〉および反復的な立場の現実化とともにはじめて矛盾に陥
ること)はヴォルフの『論理学』からは理解されない。ヴォルフの『存在論』の様相に割り振ら
12
れた諸節 (Wolff 1977, 232 ff., = §§ 285 ff.) を見たとしても、このことは妥当する。そこでは̶
̶特有の反復的な言い方で̶̶なぜ可能なものは必然的に可能であり、またどの存在者も、充足
........ ......
理由律から生じたものとして、必然的に存在しているのか(「どのようにであれ、存在する間は、
........
必然的に存在する」、l. c., 233, = § 288 und 234, = § 289)が根拠づけられる。
Ⅳ.
自然と精神の同一性を反復的に理解しようとする、シェリングの(同一性哲学期の間に行われた)
最初の試みに戻ることにしよう。ここで私たちは単純な同一性ではなく、〈自己のなかで二重化
された〉同一性あるいは〈同一性の同一性〉を扱うことになるのであろう。その場合、同一性の
二重化は同一性定式の概念的な改善を要求するが、この改善をシェリングは̶̶今度は自己自身
について同時に原因でも結果でもあるという、カントの有機体の規定 (KU B 286, 291, 295 f.)14
........
をふたたび取り上げつつ̶̶次のように行っている。絶対者は自己自身について肯定するもので
あり、肯定されるものである (SW I/6, 148 o., 162 ff.)。〈自己自身について〉と言う定式は反復
的な意味で言われている。この言い回し(〈自己自身について〉)の厳密な解釈はさらに、肯定
..
するものも肯定されるものも、どちらも(指数あるいは優勢が交替しながら)絶対者全体である
ことを明らかにする(『ヴュルツブルク体系』第一八節 [= SW I/6, 161 ff.; 一八〇一年の『叙述』
もすでにそうである: SW I/4, 121, = § 16, Zusatz 1; 123, § 41, Zusatz; 139 u., 143 o.])このよう
な結果もすでに、有機的構造の体系的構成をカントが強調することのなかに存していた。その諸
部分の交互作用15は一つの全体への共同的な〈依存性〉からのみ洞察されるのだ (KU
349, 291)。
全体についての情報はそれぞれの部分にいわば細胞間を通じて刻印されている。しかし全体は自
然や自由の恩恵に浴して生きているのではなく、カントが誤解のないように書いているように、
その「一様性」16によって生きている。この一様性は̶̶シェリングがエッシェンマイヤーから
学んでいたように (SW I/4, 113)17—同一性が継続するなかで、自然の視点ないし精神の視点が、
〈量的に〉優勢になったり、あるいは後退したりするという観点にしたがって、〈ポテンツ化す
る〉(Rang 2000)。
Ⅴ.
このような前提(反復定理とポテンツ論)とともに、同等とされたものの差異を考慮する、判断
の同一性理論への道はさらに開けてくる。一八〇六年の出版物においては、「一者としての本質
と、多者としてのそれ自身との絆」としての̶̶コプラの〈 である (ist) 〉のなかで言明され
..
る̶̶「存在 (Seyn) 自身」というはっきりしない定式が繰り返し見出される (SW I/7, 55; I/2,
365; vgl. 360 f.)。
〈コプラ〉を〈絆 (Band)〉と訳すことは̶̶私たちが前に見たように̶̶プラトンの『ティ
マイオス』の, δεσµος’ (31c; さらなる典拠は: 36a, 38e, 41b, 43a, 73b, 73d, 77e)と、『ピレボス』
における、多者と一者との同一性についての言説、あるいは無限者 (απειρον)と有限者 (περας)
とを〈媒介する第三者〉(14c ff., 23d ff.) ̶̶この第三者にはさらに、この媒介の原因として、第
13
四の原理がつけ加わるのだが̶̶についての言説とに依拠して行われる。そのような第四の原理
をシェリングもまたエッシェンマイヤーとの往復書簡のなかで考慮している (Plitt II, 24 [ff], 一
八〇四年七月二四日付シェリング宛エッシェマイヤー書簡からはじまっている)。
一者としての本質と多者としてのそれ自身との絆という定式は、シェリング初期の̶̶ハーン
とエッティンガーに媒介された̶̶プラトン研究の刻印づける力を証明している (Matthews
2011)。第二にこの定式は、シェリングが、プロケットによって媒介されつつ、コプラの本質を
同一性記号として解釈しようとしていたことを証明している。判断文の〈
である (ist)〉によっ
て、「述定するもの」は「述定されるもの」と同一だとされる。シェリングはこれに第三の、ま
ったく彼独自の思想を付け加える。同一化する述定においては、「絶対的同等性〔プロケットの
„aequalitas“〕、すなわち、コプラ自身が反省されるか、あるいは〔区別されつつ〕同等とされ
たものとしての、主語と述語が」反省されるのである (SW I/2, 361,6)。第一の統一[コプラ自身]
は本質の無関心な自己自身と同等であることであるが、〈自己自身とのみ〉同等であって、その
他者とは同等でない(「この本質の抽象的な統一における、純粋な単なる一者」)。こうして第
四の(プラトン的な、ハーンによって媒介された)思想が登場してくる。本来の内容豊かな同一
性は本質(それについて̶̶ハーンも、それを通じて/それによって、と言う̶̶判断されるも
の)とその形式(二つに区分された述定)との間で生じるが、そのさいこの形式は、トリビアル
..
な(同語反復的な)意味で本質とは〈同じもの〉ではない(「一者としてある、あるいは現存す
..
るものは、存在のなかで必然的に自己自身と他者との絆であること」[SW I/7, 55,1]になる)。私
が前者を結合するもの、後者を結合されたものと呼ぶとすれば、私は統一のたった今引用された
定式へとたどり着くが、この統一は「結合されたもの」をもう一度「絆」自身と結びつける (I/2,
61,6)。すなわちプラトンの後期対話編の〈媒介する第三者〉である(この定式の証明のためには、
一七九七年にはすでに出版されていた、
『自然哲学への理念』の緒論 [SW I/2, 55] を参照せよ)。
その場合私たちはもはや一者と多者との対立あるいは無限者と有限者との対立と関わるのでは
なく、
..
..
多者性 (Vielheit) であるところのものは一者性 (Einheit) でもあり、一者性であるところのもの
は多者性でもあり、また統一における一者性と多者性との、この必然的で解消されることのない
同一であること自身を、君は両者の現実存在 (Existenz) と呼ぶのだ (SW I/7, 56; 同様に
Schelling 1946, 26 f.:「一者であるところの同じ現存するものが、|他者であるところのもので
ある」)。
この定式は『世界世代』において以下のように説明される。
私たちは一般に言うであろう。判断における絆は、そう想定されるように、もっとも優れた部分
であるとしても、判断のたんなる一部分ではけっしてなく、判断の本質全体であり、また判断は
もともと展開された絆自身にすぎないのだ。あらゆる判断、たとえばもっとも単純な判断、A は
. .........
....
...
B である、の真なる意味はもともと、A であるところのものは B でもあるところのものである、
という意味である。そのさい絆は主語と述語との根底に存していることが示される。この絆はこ
14
こでは単純な統一ではなく、自己自身と二重化された同一性、あるいは同一性の同一性である
(Schelling 1946, 28; さらに詳しいのは 129)。
ミュンヘン大学での『哲学入門』(一八三〇年)のなかでシェリングは、ただ一つの絆を二つ
として (als)〉
...
の働きとして解釈している (Schelling 1989, 44 f., 49)。優美な女性は、自分を優美だとして見な
の結びつけられたものへと分離する、このような差異化の働きを概念不変化詞〈
す瞬間に、この最高の魅力を失ってしまう。王はお忍びで旅行するが、だからといって王である
...
..
.
ことをやめない、彼は王として旅行しないだけのことなのだ。だから絶対者自身(= X)は A と
..
...
してあるいは B として存在するのではなく、両方の記述/標識が両方とも X の分割されない本質
全体を表現しており、しかも両者は表明においてお互いに交換されることはないであろう(それ
.......
ゆえ A と B とは異なる真理条件を持つ)。無限者はそのものとしては有限者ではなく、同様に自
.......
由なものはそのものとしては鎖に繋がれたものではない (SW I/7, 205, Anm. 1)。したがって、私
の溺愛 (Verliebtheit) はそのものとしては私の脳皮質の V 繊維刺激ではない、が妥当する。し
かし、(認識論的)記述のもとでは溺愛であり、他の(神経生物学的)記述のもとでは電磁的現
象であるようなものが存在するかもしれない。たしかに脳繊維刺激は、意識状態の唯一(知られ
ている)物理的実現者である、と言うところまで行ってもよいのかもしれない。
私たちはここでシェリングが̶̶ライプニッツと彼のスコラ学における先駆者たちを引き合い
に出しながら (Schelling 1946, 28, 127)̶̶反復的方法にしたがって解決しようとした、見掛け
上のジレンマにたいへんよく似ている二者択一と関わっている。たとえば提案者は、現象的状態
は主観的である、なぜならそのさい主観に何らかの気分が生じることが、この状態の出現にとっ
て必要だからである、と言う。しかしこのことはニューロン〔神経単位〕の状態にとってはそう
ではない、この状態は完全に客観的である。したがって̶̶そう思えるのだが̶̶心的状態は̶
̶そのタイプによると̶̶ニューロン的ではない (Nagel 1979)。〈反復〉を適用してみよう、そ
うすればこのような両立可能主義的な解釈が生じる。心的タイプの状態とニューロン的タイプの
状態とは即自的には̶̶あるいは形而上学的には̶̶異なっていない(すなわち両方の状態が X
によって保持されている限り、異ならない)。両方の状態は概念的(あるいは認識論的)視点に
おいてのみ異なる。状態タイプはある概念のもとでは主観的(現象的)でありうるし、他の概念
...
のもとでは(神経科学的に)客観的でありうる。その場合私たちは、現象的状態としてこのタイ
...
プは主観的であり、ニューロン的状態としてこのタイプは客観的である、ということができる。
(もちろんマッギンとブロックとの問いはシェリングによっても答えられていない。すなわち私
はいかにしてこの真理をそれ自身として主観的に̶̶「認識論的に」̶̶把握しえるのか、ある
いは表象しえるのか、というのも私はたしかに二者択一のうちの一方の角しかよく知らないから
....
である。私は自分の苦痛を感じるが、その限り私は C 繊維刺激を知覚しない。マッギンは、みず
からが「認知的閉鎖 (cognitive closure)」と呼ぶ、理解可能性の原理的限界について語っている。
「人は脳状態を意識状態として見ることはできない 」。[Mc Ginn 1991, 11; 同じ不可能性につ
いてもっと洗練されているのは、Ned Block in „The Harder Problem of Consciousness“: Block
2005, bes. 90 f.]; 最後に Levine 2006, 188: 意識的な取り組み方と神経生理学的な取り組み方と
を、同一の実在性の二つの側面として把握せよという要求は、洞察可能性に欠けている。「むし
15
ろ私たちは、同一性の一方の側には、何らかの仕方で一人前になった意識的経験を含む表象が存
在するのに、他方の側はそれを持っていない、という事実のことを考えている。」)
同一性は̶̶すなわちシェリングの思想は手短に言うと̶̶消去法的に、〈自然と精神の同一
...
....
性〉が、〈自然、そして精神ではなく〉とか〈精神が̶̶厳密な分析のもとでは̶̶自然のなか
へと委縮している限りにおいてのみ、精神が〉というようなことを意味しているかのように理解
されてはならない。シェリングの確信によると、フィヒテの観念論は逆の誤りを犯しているにす
ぎない。この確信に対して、シェリングは近頃ドナルド・デビッドソンからの援護を受けた。18彼
は、同一性が対称的な関係として尊重されなければならない、と強調する。「私は同一性理論を
〈唯物論的〉と呼ぶ正当な理由がわからない。もし何らかの心的出来事が物理的出来事であるな
らば、このことによって出来事は心的であるよりも物理的である、ということにはならない。同
一性は対称的な関係である」(Davidson 1987, 453; dazu Frank 1991, 115 ff.)。
シェリングの例は̶̶ライプニッツを引き合いに出しつつも̶̶まったくこの路線上にある。
「同様になるほど魂は身体である、身体は魂であると、あけすけには、いくらなんでも言いづら
い。とはいえやはりある点では体であるものは、他の点では魂なのであろう (Schelling 1946, 28)。
これらについては言語に対してある種の強制を用いて、魂と身体とは X から、すなわち、本来的
な存在者 (οντος ον)、「判断における絆」(l. c.) から〈存在させられる
(gewesen werden )
〉
と言えるのであろう。〈存在させられる (être été) という定式はなるほどサルトルに由来するが
(1943, 58 o., 162,1, passim)、シェリングの作品のなかに重要な先駆的例がある。私は、それによ
って支配されたもの、ないしは存在させられたものをこうして存在へと高める、〈他動詞の〉存
在という思想のことを考えている (SW II/1, 293; II/3, 227)。この思想に対してはすでに、一八〇
六年の『アフォリスメン』のなかに模範が存在している(SW I/7, 205, Anm. 1).。そこでは〈神は
すべての物である〉というスピノザ主義的定式が「ラテン語法に反して」、神によって存在させ
られたもの、すなわち存在へと移し置かれた物が対格となっているように、翻訳されている。
„Deus est res cunctas“(この点について詳しくは Frank 2002, 234 ff.)。
それゆえ絶対的同一性の構造は̶̶判断として理解されると̶̶二つの(下位)判断の同等な
...
可能性の構造である。「A = B」と言う人は、A は、A として、同時に B であるとは言わないだ
ろう。それはまったく不条理である。その人はむしろ、A であるところのものは、B であるとこ
ろのものと同じものであると言っているのである (SW I/8, 213 [f.])。あるいはまた、主語名辞が
表わしているものは、述語表現がそれに当てはまるものと同じものである: Fa → (∃x) (x = a ∧ Fx),
あるいはまた: (x) [(Fx → (∃y) (Gy ∧ x = y)] (Hogrebe 1989, 81)。同一性判断の意味は、シェリン
グがここで思い浮かべていることを厳格に心に懸けつつも、より単純に、ペアノ記号を使って、
二つの下位判断の連言として定式化されるであろう。ix(ax) = ix(Bx) 〔〈A であるところのもの
は B でもあるところのものである〉〕。19
Ⅵ.
これで私の話は本来終わりである。だが私は、シェリングの同一性定式に対するヘーゲルの援護
射撃が、この同一性を近年における身心関係の理論にとって、これほど魅力的にしているもの、
そのすべてをカバーしているかどうかを検証すると約束した。
16
私はそうは思わない。私たちは̶̶とりわけヘンリッヒの研究以来̶̶ヘーゲルが青年時代の
友人とは違う道を歩んでいったことを知っている。ヘーゲルは、シェリングが定数 X によって把
握する、単純な、自己のうちで二重化されていない同一性を〈存在〉と呼んだ。ヘーゲルはすで
にイェーナ時代に、だが『論理学』においてもなお、この同一性が判断の関係から理解されうる
こと、あるいはむしろ理解されなければならないことを示している。というのは〈存在〉が〈生
成〉へと流動化する時にはじめて、存在は判断形式を取り、真理可能となるからである
(Theunissen 1978, 54 ff., 182, 243, 260 ff., 419 ff.)。このことを明確に表現すると、ヘーゲルは
.
単純な同一性を反省運動の一契機にする、となる。もちろんこうして同一性は、自然と精神との
連関についての独立した説明になることをやめてしまう。同一性自身は、自然を包み込む精神の
一契機になる。それゆえヘーゲルの成熟期の哲学は、当然のことながら、〈絶対的観念論〉の一
形式として把握される̶̶〈絶対的〉なのは、精神の他には、何ものも〈存在している〉という
称号を要求することができないからである。精神はプラトンの óntos ón〔存在者の存在〕である。
シェリングは違う。絶対的同一性の X は自然と精神との絆として把握される。精神は反復的に
...
結びつけられたものの一つの契機にすぎず、自己自身とその他者とを包み込むものではない。精
神は絶対的同一性自身ではない。精神自身を絶対化する見解を、シェリングは後に〈消極哲学〉
...
と呼んだが、なぜならこの哲学は絶対者について、絶対者がその本質からしてそうでないもの、
すなわち、精神だと言明するからである。消極哲学は絶対的同一性を一方的に、精神の指数のも
とに叙述し、精神と自然とを包み込み、両者をはじめて根拠づけるもののなかで叙述しない。そ
れだけでもシェリングの同一性定式は、ヘーゲル哲学を〈逆さまにする〉唯物論の試みにとって
魅力的となりえた。また存在論的に中立的な(唯物論的でもなければ、観念論的でもない)身心
問題の理論̶̶まさにデビッドソンが思い浮かべているような理論̶̶にとっての、シェリング
の継続的な魅力は上述の特徴にのみ基づいている。
ヘーゲルに対するシェリングの対立点を彼の後期哲学における発言から根拠づけることは、現
在の枠組みのなかでは不適切であろう。この対立点は、事柄にそくして見れば、一八〇二年
〇
四年の出版物や講義のなかですでに完全な形で存在していた。そこでシェリングは、その他者の
分だけ豊かにされた同一性についての定式をもっともよく解釈する資格をまだ持っている者だと
いう態度で、友人ヘーゲルに接した。シェリングにおいて〈存在 (Sein)〉̶̶絶対的コプラの不
定形̶̶は、そのなかでは存在がただ言明され繰り返されにすぎない判断〈形式〉のなかでは、
けっして完全には明け開けることはない。判断から〈存在〉の意味は解明されない。シェリング
が同一性哲学のいくつかの中心的な文言において繰り返しているように、絶対的同一性はその関
係項からは徹底的かつ完全に独立しており、また関係項の相互作用からの〈産物〉としては説明
されえない。20
ヘーゲルは別の思想を追求している。彼は〈存在〉についての言説を、完全に解読された反省
のなかでその目標へと到達するような展開のゼロ地点として捉えている。このことを彼は論証上
のトリックを用いて行っているが、このトリックはおおざっぱに次のように叙述される。〈存在〉
の直接性と無規定性とは、シェリングが望むように、超反省的ではなく、おそらくは自己関係な
...
のであろう、たとえそれが、『論理学』の A 版〔初版〕が定式化するように、「自己とだけの関
係」であるとしても。ところでこのようないわば一桁の関係については、それが〔先に〕説明さ
17
れた関係形式と同一であることは容易に示されうる。この形式は他の項を自己のなかへと併合し、
それをヘーゲルが〈反省〉と呼んでいるのである。こうして外見上、直接性についての根源的な
意味はより高次の意味へと移送される。この高次の意味は、操作的な概念として、最初の意味の
根底に存しているはずなのである。
シェリングは、没関係性あるいは一様性としての、同一性の厳格な意味を実際には同一性の定
式へともたらさなかったとして、自分の友人を非難していたことであろう。反省はヘーゲルによ
ってせいぜい、一桁の状態のなかで、二桁の状態にある自己自身と等値にされるにすぎない。超
反省的存在が反省へと移送されることはない。
だがシェリングは、後期哲学の現実存在に基づく存在論からの資源を先取りすることなく、自
分の見解に対してどのような論拠を提示できるというのだろうか?『詳論』とヴュルツブルクの
『体系』において間接的な論証が、すなわちヘーゲルの代替案に対する帰謬法論証が見出される。
..
反省は、自足したものと考えられるならば、現実存在という入力を必要としない。しかしその場
合、どの関係項もその存在を、他者への参照から手に入れなければならない。このような現実存
在を欠いた動き (Spiel) のなかで、関係項はなるほど相互にその独立した存立を奪い取ることは
できるが、この存立を根拠づけることはできない。非存在者はその存在を他者のなかに持つが、
この存在を非存在者自身は自己のうちに持っておらず、それゆえ他者のなかに探す。こうして存
在をつねに前提することしかできない、無限な根拠づけの「循環」が生じる (SW I/4, 358,2; vgl.
I/6, 185)。このことは、純粋論理学のうえに基礎づけられた、ヘーゲルの『学の体系』が「存在
の無限な欠如」21に苦しんでいるとする、シェリングの後の時代の非難へと通じる、同一性哲学
のなかですでに認識できる萌芽なのである。
訳
渋谷
繁明(鎌倉女子大学)
...
1「したがって普遍的なものは自由な威力である。普遍的なものはそれ自身であり、またその他者
...........
..
の上にまで及んでいる。〔 〕というのも普遍的なものは、自己自身にすぎないものとしての区別
.....
されたものへの関わりであるからである。この関わりのなかで普遍的なものは自己自身へと還帰
してしまっている」(TWA 6, 244)。
2 両者は〈ライプニッツの法則〉という単純化するタイトルのもとに、しばしば混同される。両
者の区別と連関を明らかにしたのは、Kuno Lorenz (1969)である。Kurt Grelling (1936)の短い
が古典的な論文も参照せよ。
3 (存在論的に適用された)同一性命題の短縮版はバウムガルテンの『形而上学』〔第三八節=
AA XVII, 36〕の存在論の部に見出される。「もし B のなかに存在するものが A のなかにも存在
....
.....
するならば、A と B は同じものである。それらが同じものでなければ、それらは異なるもの(別
のもの)である。」今日では次のように言うであろう。a と b が同じものであるならば、以下の
同一性が妥当する。〈(F) (Fa ⇔ Fb)〉あるいは〈(バウムガルテンが内包論理的に言うように)
...
...........
...
a のなかに存在する、すべてのかつそれだけの性質/述語が b のなかにも存在するならば、a は
..
数の上で b と同一である〉。もっと単純に、a に当てはまる、どの述語も b に当てはまらなけれ
ばならない、と言うことができる。
4 ライプニッツが論理的同一性と存在論的同一性を、区別せずに同じものとして扱っていること
に対する批判は、クラークから始まって、ヒューム、カント、パース、ヴィトゲンシュタインを
18
経て、マックス・ブラックとアルフレート・エイヤーにまで及んでいる。この批判は次のように
なる。自然的諸対象の同一性が論理的に正当化されるべきであるならば、正当化はアプリオリに
行われるのであろう。しかし自然的諸物の同一化にさいして、この諸物は、私たちの精神の助力
なしで、現に存在する以上、私たちは数と時空上の位置を度外視することはできない。それゆえ
私たちは、そのなかでは〈固有の名称〉に関しては不可分である諸対象が、それにもかかわらず、
たとえば右利きの分子あるいは左利きの分子のように、数、場所あるいは時間によると異なって
現れる、そのような対称的な世界を矛盾なく考え出すことができる(たとえばテレピン油〔の分
子〕は右回りであり、蔗糖の水性溶液〔の分子〕は左回りである。vgl. Linus Pauling [1969], 137)。
そのような区別に対してライプニッツの同一性法則は十分対応できていない。というのも〈固有
の名称〉は述語(全称名辞)によって、単称名辞(指示代名詞あるいは固有名)の助けを借りな
くとも、表現されるからである。
このような事情のもとで同一性の論理的定義を断念するならば、同一化はヒューム流のあるい
はカント流の経験的問題へと変化してしまう。私たちが二つの自然的諸対象(あるいは時間に関
する対象)を同一だと呼ぶことは、その場合、私たちの物理的パラメーターと私たちの五感が、
諸対象を区別できるほどには、いつでも厳密ではないことをまさに意味しているのだ。
これに対して抽象的諸対象(たとえば数、幾何学の図形)の同一性についての言明に関してい
うと、ライプニッツ自身がその意味を否認しているように見える個所が存在する。Lorenz (1969,
153 ff.) における例〔を参照せよ〕。
5 カント的な把握の厳密な問題分析は Henrich (1976, 1988) において見られる。
...
6 シェリングは無差別を、実在的なものと観念的なものとのたんなる概念的な、あるいは潜在的
.
... ...
な区別として思い浮かべている(私たちは三つの存在者ではなく、ただ一つの、三重の存在者を
.........
....
持つにすぎない [SW II/3, 236])。あるものが可能態から現実態へと(現実的な存在へと)移行
することによってはじめて、あるものはその他者を自分の領域から締め出し、また両者の結合は
現実的な結合となる。それはちょうど隣接、時間系列あるいは因果性のようになるのである(と
りわけ後期の作品において、このことは顕著である、たとえば前掲書、75 ff.; 212 ff.; 291 ff.)。
7 多であることは量の下位カテゴリーであるが、同一性と差異は反省規定である。
8 「〔第三者なしで二つの物をうまく結びつけることは可能ではない。というのは両者の間には、
やはり両者を結び合わせる絆 (δεσµος) が存在しなければならないからである。しかしあらゆる
絆のなかでもっとも素晴らしいものは〕自己自身と自分が結合したものとを一体化するものであ
る。というのは、三つの数、三つの量、もしくは三つの力のうちで、初項が中項に対する関係は
中項が末項に対する関係に等しく、また逆に、末項が中項に対する関係は中項が初項に対する関
係に等しい。̶̶その場合、中項が初項にも末項にもなっており、逆にまた、初項と末項が両方
ともに中項になっている。こうして、これらはすべて必然的に同じものであることになるからで
ある。しかも、相互に同じものであるものは、すべて一つのものだからである」(Timaios, Steph.
31-32; nach Hegel, TWA 2, 97 f.;以上と、絆についてのまったく同じような文言になっている文
.......
を比較せよ。この絆は全体の理念を、「第三者を通じて、諸部分の交互作用と〔結びつける〕が、
この第三者の表象には両者が、物質と概念が、属する。」この第三者は「精神」と呼ばれる (SW
I/2, 42,2 〔強調は私による〕)。)。
9 シェリングはプラトンの『ティマイオス』を引き合いに出しているが、このなかで全自然は〈精
神的な有機体〉と、,ζωον νοητικων’ 〔理性的生きもの〕と呼ばれている。Schelling 1994, 33;
シェリングはこれを引用してさらに付け加えている「カントの『判断力批判』第六五節を見よ」)。
10 典拠は in Franz 2005b, 47 ff., 55 ff.
11
Scripta super libros sententiarum (1252-1256). 最初の主要作品はペトルス・ロンバルドゥスの
Libri quattuor sententiarum (1150-1152)に対するかなり自由な注解を提供している。
12
Quaestiones in Analytica Priora. (Liber primus, Quaestio 43a) und Posteriora (Liber secundus,
Quaestio 21a); auch im Tractatus de Consequentiis, 4.4 „De syllogismis ex propositionibus
19
reduplicativis“, 28a. (私がこのような重要な文章を知るようになったのは、Christian Ströbele の
おかげである。)
13 ライプニッツは時々、ヨアヒム・ユンゲの『ハンブルグ論理学』(一六三八年、Jungius 1977;
ライプニッツの抜き書き „Logica de notionibus Jungiarum Schedarum excerpta annotata“, in:
Leibniz 1999, VI, N. 241, S. 1211-1299, hier bes. S. 1241-144 („quatenus“))を参照している。
ライプニッツがユンギウスを高く評価していることについては、Leibniz 1999, N. 162, S. 726。
14 『ティマイオス』注釈(一七九四年)のなかでシェリングは、生物としての世界全体というプ
ラトンの言説を、『判断力批判』第六五節で与えられている、「その諸部分が全体との関係にお
いてのみ可能であり、その諸部分が交互におたがいに対して手段と目的として関係している、そ
のような存在者として」の有機体の規定によって説明している (Schelling 1994, 33)。有機体の
定義はさらに̶̶,ζωον νοητικων’ 〔理性的生きもの〕についてのプラトンの言説を受容しつつ
..
̶̶この意味で生きているもの、すなわち有機的であるものとしての精神の規定へと飛び越えて
いく (l. c., 28 ff.)。『知識学の観念論を解明するための諸論文』(一七九六̶九七年)のなかで
はじめて出版された形で、「精神」という表現が、生きている有機体の中心的な属性として特徴
づけられる (SW I/1, 366 ff.) が、この表現はその後概念として急速に用いられることになる。そ
れゆえシェリングによる〈精神〉概念の導入はさしあたってフィヒテの〈自我〉思想のさらなる
展開として理解されるのではなく、自己統制的原理としての有機体というカントの規定からくみ
取られてきている。私たちの精神自身が有機的であるためにのみ、自然有機体は精神の象徴とな
......
.........
りうる。「したがってどの有機体も象徴的なものであり、どの植物もいわば魂の組み合わされた
..
特徴である」(386)。̶̶カントの有機体規定がシェリングの精神概念に影響を及ぼしたことを、
私はさらに詳しく Frank 1991 (Kap. III, 98 ff.) のなかで示そうとした。
15 カントは「諸部分の競合しながら運動する諸力の作用」と言う。
16 カントは第八七節の長い脚注のなかで「自然の超感性的な基体と、世界における自由による因
...
果性が可能にするものとの、一様性についての洞察」について語っている (KU 421 u.〔強調は
私による〕)。̶̶フィヒテとの往復書簡のなかでシェリングは一八〇一年一〇月三日に第七四節
への内在的な注釈を引き合いに出している (Schelling 1968, 133)。シェリングは前述の注のこと
を考えているのであろう。
17 この点については HKA III/2,1, 75 ff.; 一八〇一年七月二一日付シェリング宛のエッシェンマ
イヤーの重要な書簡を参照せよ。エッシェンマイヤーはシェリングのポテンツ論の適用、とりわ
け、異なる仕方でポテンツ化された表現の間の数学的等式記号の使用法を批判している (HKA
III/2.1, 357 ff.; II/2,2, 739 ff.におけるこの点への注釈を参照せよ)。
18 私は一九九〇年代のはじめに彼に対してこの思想の原案を提示し、彼はさかんに同意してくれ
た。彼はシェリングのヴュルツブルグの『体系』のテキストをメモしていた。
19 ペアノ以来、記号系列‚ιx’̶̶逆さまになったイオタがついている(逆さまのイオタは用意でき
なかった〔M. F.〕)̶̶を〈 というような対象 X〉の意味で用いることは、論理学においては
通例になっている。
...
........
20 第一にシェリングは「同一性あるいは同等性それ自体の」、関係項としての「主観的なものと
客観的なものとからの完全かつ絶対的な独立性」について語っている (SW I/6, 147; 162,3; 同様
にすでに I/4, 117, § 6; 120 u., Zusatz 1 zu § 15; 123, § 24)。そして第二に彼は、絶対者が「綜合
化する思考の産物」としては、また同様に「対立の否定によって後から定立される」ものとして
は考えられえないことを強調している。そうでなければ絶対者は「思想上の物」であるのだろう
(SW I/6, 163 f.)。まさにこのような結論に向けてヘーゲルは突き進んでいるように思える。シェ
リングはこの結論を絶対者の「主観化」と呼んでいる(I/6, 142)。
21 SW II/2, 29-32; und * Schelling 1972, 439; vgl. II,1, 294 und I,7, 466 f.; vgl. Frank
1975/1992.
20
*なお久保
陽一(駒澤大学)には全体にわたり、訳文を詳細に点検していただいた。この場を
借りて謝意を表したい。
21
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