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英国における「ドイツのトゥルネン」 ある文化伝播の挫折
第45巻第4号 『立命館産業社会論集』 2010年3月 145 英国における「ドイツのトゥルネン」 ──ある文化伝播の挫折 クリスティアーネ・アイゼンベルク* 著 有賀 郁敏**訳 【訳者付記】 本稿は,クリスティアーネ・アイゼンベルク(Chr i s t i aneEi s enber g)氏の論文,“ Deut s ches Tur nen”i nEngl a nd:Da sSc hei t er nei nesKul t ur t r a ns f er sの翻訳である。 本論文は,B.J . ヴェント教授の満65歳を記念して編まれた著作(F .オットー/ T. シュルツ編『イギ .Ot t o/T.Sc hul z リス連合王国とドイツ─19,20世紀における社会的,文化的,政治的諸関係』〔F ( Hg. ) ,Gr o ßb r i t anni e nundDe ut s c hl and.Ge s e l l s c haf t l i c he ,k ul t ur e l l eundpo l i t i s c heBe z i e hung e ni m 19. und20.J ahr hunde r t ,Rhei nf el den1999. 〕)に掲載された(当論文は1 332ページ)。ちなみにアイゼン ベルク氏は,当論文を微修正した英語論文を2007年に発表している(“ Ger man Gymnas t i cs ”i n Br i t a i n,ort heFa i l ur eofCul t ur a lTr a ns f er ,i n:St ef a nMa nz /Ma r gr i tSc hul t eBeer bühl /J ohnR.Da v i s ( Hg. ) ,Mi g r at i o nandTr ans f e rf r o m Ge r manyt oBr i t ai n16601914,Münc hen2007,S.131 146. )。後 者は,翻訳依頼の過程で著者から情報提供されたものであるが,考察の対象を17世紀から開始しては いるものの,内容そして当然のことながら使用されている文献の類もほぼ一致しており,2つの論文 は基本的に同種のものと理解してよかろう。 アイゼンベルク氏はドイツ・フンボルト大学英国研究センター教授としてドイツのみならず国際的 な舞台で活躍している。訳者はほぼ10年前に本誌において氏の論文を翻訳し,訳者解説の中で氏の論 文の意義ならびに著者の簡単な経歴を記した( 「フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン─トゥルネ ンの『考案者』」 (C.Ei s enber g,Fr i edr i c hLudwi gJ a hn-“ Er f i nder ”desTur nens ,i n:Spo r t wi s s e ns c haf t , 30J g. ,H.2,2000:市井吉興氏との共訳),(訳者解説)「「フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン─ トゥルネンの『考案者』 」の翻訳にあたって」『立命館産業社会論集』第37巻,第1号,2 001年,147167ページ)が,歴史学や社会学などの人文社会科学の成果を手がかりに,市民社会,国民国家そして スポーツ文化を分析する氏の秀逸した研究力量は今も健在である。 論文の注でも触れられているように,本論文の内容は同時期に出版された氏の代表作,『「英国スポ ー ツ」と ド イ ツ 市 民 の 社 会 史1800─1939年』(“ Engl i s hs por t s ” und deut s che Bür ger .Ei ne Ges el l s c ha f t s ges c hi c ht e18001939,Pa der bor n1999)と深く関係している。当文献は,市民社会,市 民層,市民性といった市民に関する鍵概念を用いながら,ドイツと英国において展開するスポーツ, スポーツ協会(クラブ)などの機能をていねいに分析している。とはいえ,ドイツと英国の文化交流, とりわけドイツから英国への文化伝播の様相に関しては必ずしも十全な叙述となっておらず,本論文 *フンボルト大学英国研究センター教授 **立命館大学産業社会学部教授 146 立命館産業社会論集(第45巻第4号) がそうした欠落部分を補う役割を果たしているといえるだろう。 本論文のタイトルからも,すでに論文の顛末が推察できるように,ドイツの身体文化,「体操」 (Gymna s t i k)と「トゥルネン」 (Tur nen)は,その英国への伝播の過程で困難を極めた。日本では, この間,成田十次郎教授をはじめ気鋭の研究者が19,20世紀転換期に顕在化する「トゥルネン・スポ ーツ抗争」をめぐる実証研究に取り組んできたが,それらはもっぱらドイツ側の視点(史料)による 研究成果であった。それに対して本論文は同時代のドイツの政治,社会状況を見すえながらも,主に 19世紀後半以降の英国社会を軸にトゥルネンの伝播のありよう=「挫折」を論じている。そこでは伝 播の実態がスポーツ史,教育史,階級論,市民社会論,文化理論,ジェンダー論などいった複眼的な 視点を通じて語られており,このようなパースペクティヴは,長年,ドイツ及び英国の市民層,市民 社会研究に取り組んできた著者ならではの真骨頂といえるだろう。 翻訳に際しては,キーワードとなる“Gy mna s t i k”と“Tur nen”をそれぞれ「体操」「トゥルネン」 と訳している(ただし,すでに訳書(成田十次郎訳)が存在し学界でも流通しているグーツムーツの 著作だけは『青少年の体育』とした)。両者の区別と関連をここで説明することは不可能だが,少なく とも歴史にける両者の差異を示す観点から,そのように表記している。 最後に,本論文を翻訳し,本書へ掲載したいという訳者の願いに快く応じてくださったアイゼンベ ルク教授に対し,心から感謝申し上げたい。 有賀郁敏 取ったからである。この経験の反動において, 1.問題設定 またスポーツにとって根本的な競争原理を拒否 したがゆえに,DTの幹部たちは英国の輸入品 19世紀前半に「英国のスポーツ」の多く,と に対して必死の「文化闘争」を仕掛けたのであ りわけ競馬,サッカー,陸上競技,ローンテニ った。このことは,スポーツにとって両義的な スとホッケーが英国人によってドイツ帝国へ紹 結果をともなった。一方でトゥルネン運動によ 介され,程なくして若いドイツ人たちによって る対抗が,政治とメディアにおける付加的な価 普及された。第1次世界大戦が勃発した際に 値をスポーツにもたらし,結果としてスポーツ 「スポーツ」は各種目の活動にとっての中心的 の急激な普及に貢献した。しかし,他方で政治 な要素となったばかりか,広く世間に流通し, 的な抑圧の下,次のような効果と妥協すること また政治的な関心もひいた。もし,第1次大戦 にもなった。つまり,トゥルナーの集団的行進 が勃発しなかったならば1916年にオリンピック とトゥルナー文化に内在する他の反スポーツ的 競技会がベルリンで開催されていた。 要素を,成立したスポーツ運動が早々に引き継 「英国のスポーツ」(Engl i s hs por t s )の効果 いだことである1)。 的 な 文 化 伝 播 は「ド イ ツ の ト ゥ ル ネ ン」 ドイツから英国へ,という逆の方向で「ドイ (De ut s c he sTur ne n)を犠牲にして進められた。 ツのトゥルネン」は文化伝播の対象となった。 というのは,新たな余暇の楽しみは,1 868年 しかしながら,この場合,どちらかというと調 以 降,ド イ ツ ト ゥ ル ナ ー 連 盟(Deut s cher 和的な経過のみならず,輸入品にとって十分な Tur ne r s c ha f t :DT)に集ったトゥルネン協会か 成果をもたらさない,また英国文化にとって非 ら会員,公的関心そして国家からの助成を奪い 効果的な経過も生まれた。確かに1 860年代以 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 147 降,器械体操は英国においてスポーツ種目の一 の失敗を歴史的に考察することで,この非対称 つとして発展し続けたが,しかしそれは同時代 の解明を試みたい。考察の関心は,さしあたり あるいは後の時代の人気度の面で,いわば「と トゥルネン・スポーツ史的なものに向けられて るにたらない」存在として位置づけられた。つ いない。また,それと照応して文化伝播の2つ まり,トゥルネンはクリケット,サッカー,陸 の対象,すなわち「英国のスポーツ」と「ドイ 上競技,ボート,競馬などに完敗したのであ ツのトゥルネン」における構造的特質に関して る。学校もトゥルネンを熱心に受け入れようと も簡単にしか扱わない。考察の目的は,むしろ はしなかった。また,ドイツでは非常に好ま 具体的な事例をめぐり,19世紀そして20世紀初 れ,軍隊を模範に組織化されたトゥルナーの行 頭におけるドイツから英国への文化伝播の一般 進は,英国では音楽をともなった「レクリエー 的な問題を検討することにある。すなわち,誰 ション練習」(r ec r ea t i ona ldr i l l )の形式におい がドイツの文化,この場合,「ドイツのトゥル て受容された2)。 ネン」を英国へ知らしめたのか。どのようなメ 一方で,こうした英国におけるトゥルネンの ディアが投入されたのか。どのようなターゲッ 用心深い,一風かわった受容は相互の文化交流 ト・グループ,伝達者が言及されたのか。い の欠落ゆえに起きたという解釈には説明が必要 つ,どこでそれらが現れたのか。どのような状 である。この場合,従前の研究でよく引き合い 況下,そしていかなる目的でなされたのか。ど に出される英国人の情報不足(外国語の知識不 うような困難が立ちはだかったのか,といった 3) 足,翻訳の欠如など)は ,理由として正当化 問題群である。 できない。なぜならば,トゥルネンはスポーツ 同時に本研究は,数年来なされてきた近代へ と同様,身体,知覚そして象徴的な相互作用に の「英国の特殊な道」(e ngl i s c he rSonde r we g) 関して経験的ないし直接的な存在であり,また に関する論争の貢献でもある。この論争では, この論文で触れられるとおり,顕著な成果をと 通常,17世紀末から19世紀初頭における君主権 もなってトゥルネンが輸出された他のヨーロッ 力の制限,議会制度の創設,そして他のヨーロ パ諸国,アメリカ合衆国そしてラテンアメリカ ッパではそうとう後になってから始まる産業 と同様のコミュニケーションの機会を英国でも 化,といった類の近代化過程がテーマ化されて 4) 得ていたはずだからである 。 いる6)。それゆえ,これまでのところ19世紀後 他方で,「動機の非対称」(ルードルフ・ムー 半そして20世紀は特殊の道論争の対象としてあ ス)─この場合,「文化的刻印力の非対称」で まり論じられてこなかった。せいぜいのとこ ある─,つまり「英国のスポーツ」がドイツ ろ,しばしば議論の対象となる「衰退した」イ の文化状況を持続的に変えた一方で,「ドイツ ギリス連合王国の現象─ヨーロッパ大陸にお のトゥルネン」は英国において気づかれぬまま ける飛躍と平行して多くの地域で発生し,幾つ であり,また関心のあるところでもトゥルネン かの地域ではパイオニアに特別な役割を担わせ はいわば「遅延することなしに」現存する文化 る─が問題とされる際に,この論争が触れら 5) に同化されたという見解も説明を要する 。 れるだけである7)。全体としてみれば,ヨーロ 本稿では英国へ向けたトゥルネンの文化伝播 ッパ大陸諸国の後発の近代化,ならびにそれと 148 立命館産業社会論集(第45巻第4号) ともに現れた国際レベルのコミュニケーション かし,それは,汎愛派教育学の文脈の中で,持 の濃密化が,長期にわたり「英国の特殊な道」 ち運ぶ,攀じ登るそして飛び跳ねるといった他 の「整理」をもたらしたという推察が支配的で の運動と結びつき,純粋に市民的教育目標を考 あるように思われる。しかし,この推察は経験 慮して紹介された。このような意図は,とりわ 的な自明性と矛盾している(英国政府のヨーロ けおそらく最も影響力のあった汎愛派教育者, ッパ懐疑を想起させる) 。それだけではない。 ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・グーツ 新たな文化社会学とグローバリズム研究が指摘 ムーツ(J oha nnChr i s t ophFr i e dr i c hGut s Mut hs : しているように理論的にも確証できない8)。こ 17591839)の文献の中で明らかになった。か うした理論を援用すれば,その中で外部からの れはデッサウの「汎愛施設」,すなわち市民(そ 様々な影響が近代化過程の流れに沿って生み出 して貴族)の青年層のためのエリート寄宿学校 された他国との「隔たり」を固定化し,再生産 で活動し,そして『青少年の体育』 (Gymna s t i k を促すような状況を徹底して考察できるのであ f ürdi eJ ugend)(1793年,第2版は1 804年)の る。以下に続く挫折した英国へのトゥルネンの タイトルで,この領域の最初の教本を出版し 文化伝播に関する考察は,こうした関係を具体 た。グーツムーツは以下の2つの動因において 的な事例で確認する試論として理解されてもよ 体操を結びつけた。第1に,体操は若い人々に いだろう。 職業生活に対する準備をさせるべきであった。 しかし考察を始めるに際して, 「ドイツのト 第2に,体操はかれらに市民的な業績の考え方 ゥルネン」の出現と変化に富んだ発展について を理解させるべきであった。宮廷の人々が常に 簡単に説明しておこう。なぜならば,それに関 精巧でエレガントな運動を互いに凌駕しようと する理解は,2 0世紀末のドイツの読者にとっ 試みることによって,君主の愛顧を保持してい て,もはや前提とはいえないからである。 る一方で,若い市民の運動は一直線に前に進む べきであり,また身体を強化すべきであった 2.体操とトゥルネンの成立 (「身体の労働」)。そしてこの運動は個々人の進 歩の証が可視化できるよう,定量化されなくて そもそもトゥルネンは「トゥルネンの父・ヤ はならなかった。 ーン」によって発見されたのではない。かれが グーツムーツによって組織化された運動の場 1810年にある種の身体運動をプロイセンの若者 は,若き教育家,フリードリヒ・ルートヴィ に紹介し始めたとき,かれはすでに18世紀末に ヒ・ヤーン(Fr i e dr l c hLudwi gJ a hn)の訪問を 複数の啓蒙的な教育者,いわゆる汎愛派の手に きっかけに世間に知られるところとなった。ヤ よって発展され練り上げられた体操体系を参照 ーンが1807年にナポレオンに対するプロイセン 9) していた 。 の壊滅的敗北後,密偵そしてアジテーターとし この体操の中核的要素はバランスと「男らし て国民意識の強化とナポレオンに対する反乱の さ」の表現としてのよき身体姿勢を保った直立 拡大のための運動を組織するために,プロイセ の前進歩行であった。この運動は形式からすれ ンの改革者シュタインとハルデンベルクに雇わ ば,初期近代の貴族の霊操に由来していた。し れたとき,かれは汎愛派によって推奨された, 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 149 攀じ登る,バランスをとる,投げる,飛び跳ね あろうことを除いて,自発性の原理を保持し続 るそして泳ぐといった運動を出発点として取り けること,また若者たちが自らねばりと功名心 入れた。ヤーンのターゲット・グループは,す を発展させることを重視していた。ヤーンの運 でにグーツムーツの際にそうであったように, 動が多大な損害をこうむり,その団結が失われ 市民的な中間身分であった。とはいえ汎愛派と てから,教練的要素が「トゥルネン禁止」の状 の違いは,ヤーンの活動が学校施設の制度化さ 況下でトゥルネンに押し付けられたのである。 れた範囲に限定されていなかったことである。 政治反動の時代において国民学校と軍隊では, むしろかれは,意図して学校外の社会的運動を 確かにヤーンがプロイセン政府の「トゥルネン 生み出したのである。1810年以降,かれはベル 検査官」として推薦されたように,相変わらず リン門前にある「ハーゼンハイデ」と名づけら トゥルネンが行われていた。また他の専門家が れた軍隊の演習場へ定期的に若者たちを連れて いなかったために,概してトゥルネン教師とし 行き,そこでかれは若者たちと一緒に走路を設 てかれの「弟子たち」が雇われた。しかし,公 置し,登攀の器材やジャンプ台を作り,穴を掘 共における新たな組織化という恐怖から,今や り起こした。このことは,時代の文脈において 運動は閉ざされた空間の中だけで行われ,そし 運動がその教育的機能を超えて軍事力を向上さ て「フォアトゥルナー:指導者」は場所と規律 せるうることも期待してなされたのである。 の問題に直面することになった。これらの問題 42,000名までの軍隊の制限を取り決めたティ を解決する一つの戦略は,器械運動のレパート ルジットの和約をうけ,若者たちは起こりうる リーの拡大,もう一つは反復練習の号令にした 市民軍での出撃を考慮して身体運動に専念しな がった軍事訓練の採用にあった。 ければならなかった。ヤーンはこうした体操に 新勢力の市民的・自由主義的運動のために, 期待された目標設定を,かれによって発案され 組織的な基盤としての役割が期待された自由な た名称「トゥルネン」そして「トゥルナー」を トゥルネン協会が設立されると,トゥルネンの 通じて表現した。というのも,かれは言語研究 室内化を促す第2の推進力が1840年代以降と を通じて“Tor ne r ”がアレマン語で「戦士」を 1860/ 70年代以降に誕生した。政治的自由主義 意味することを見つけ出していたように思われ の同調者は,すべての大都市と多くの小都市で るからである。1818/ 19年,つまり政治環境が 公的資金によって建設された室内運動場が集会 根本的に変化し,またプロイセン政府によって 場所に適していることを知っていたのである。 「トゥルネン禁止」 (Tur ns pe r r e)が布告される ホールは通常数十人,一部は1 00名以上の人々 まで,ヤーンの「トゥルナー軍」はプロイセン を受け入れるために十分な広さであり,そこに の100以上の地に普及し,全体で6000名を数え は照明がつけられた。その結果,仕事が終わっ るまでに拡大していたようである。 たあとに職業人も運動に参加することができ ヤーンが体操運動を政治的・軍事的文脈で論 た。この観点は,1863年ないし1868年に自由主 じていたからといって,これらの運動が軍事訓 義的な進歩党そして国民自由党から分離し,ま 練と結びついていたことを意味しない。つまり た自覚的に若い工業労働者に訴えかけた社会主 かれはフランス占領軍に不信感を抱いていたで 義者を納得させたのである。 150 立命館産業社会論集(第45巻第4号) トゥルネン運動の急速な会員数の拡大は,ト のために活動することが重要であった。このよ ゥルネンと政治の結合の成果を物語るものであ うな専門家の一人がアメリカ,ボストン生まれ る。1868年に設立されたドイツトゥルナー連盟 のスイス人,フォキオン・ハンリヒ・クリアス は─連盟幹部にはもっぱら国民自由主義の同 (Phoki onHei nr i c hCl i a s :17821854)─職業 調者が就いていた─1900年に65万人,1914年 は将校─であった。かれはすでにオランダで に120万人の会員を数えるに至った。また1863 体操教師として働き,のちにヤーンともと知り 年に結成され,社会主義路線と結合していた労 合った。かれは1822年に英国陸海軍から体操教 働者トゥルナー同盟は,1914年に15万人の会員 師として招聘され,サンドハーストの英国陸軍 が存在していた10)。これらトゥルネン協会の会 士官学校,ウリッジの英国陸軍士官学校,チェ 員 の 多 く は,い わ ゆ る「ト ゥ ル ネ ン の 友」 ルシーの英国陸軍収容所,そしてグリニッジの (Tur nf r e unde)として,実際の運動よりも,か 英国海軍収容所で教鞭をとった12)。加えて,か れらに各都市,地方そして国民的なアイデンテ れは再び大陸へ戻る1827年まで,貴族や躍進し ィテを提供し,また相互に政治関係を結びつけ た市民層の子弟たちが通った,名高いチャータ うるような包括的な社交に興味があったのであ ーハウスのパブリックスクールにおける「体操 る。 指揮官」 (Super i nt endentofGymna s t i c s )であ った。たとえクリアスが1823年に刊行にされた 3.英国における体操とトゥルネン 教本, 『初級体操教本』のなかで,グーツムーツ の信奉者であることを知らしめたとしても,か a)19世紀初頭 れの体操授業実践は精密かつ軍隊風の運動への グーツムーツの『青少年の体育』は各国で広 偏愛と訓練の号令(「集まれ!」 「整列!」 「気を く読まれた。同書は海賊版,剽窃本として流通 つけ!」)によって特徴づけられた。かれはこ し,他の言語に翻訳され,数年以内にデンマ の点を─制度的な文脈からすると驚くことで ーク,バイエルン,フランス,オーストリア, はないが─規律修復の必要性を考慮して確立 オランダ,スウェーデンそしてアメリカで信奉 したのである13)。この結果,英国ではドイツの 者を得た。英語初版は1800年に刊行されたが, 体操が成立の時点で保持していた遊戯的な要素 誤ってグーツムーツの師,クリスティアン・ゴ を十分に展開する前に,体操の訓練的要素が真 ットヒルフ・ザルツマン(Chr i s t i an Got t hi l f 価を発揮してしまった。 Sa l z ma nn)の名前で出版された。しかし,教本 英国における体操ないしトゥルネンの活動家 は身体運動の普及に向けた正規のメディアとは の一人に,ヤーンの弟子であるカール・フェル ならなかった。英語反への翻訳に際して同本が カー(Ca r kVoe l ke r :17961884)がいる。かれ 読者に対して結核に対する入門書として推薦さ は1819年,「トゥルネン禁止」による政治的理 れたように,本来の体操の「精神」は紹介され 由から亡命し,1820年代初頭,ロンドンのリー なかったのである11)。 ジェント公園付近にベルリンのハーゼンハイデ それだけに,ヨーロッパ大陸の体操専門家が を模倣したトゥルネン場を開設した。かれは亡 英国へ渡り,そこで個人的にトゥルネンの事柄 命前,すでにこのようなトゥルネン場をテュー 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 151 ビンゲンでも整備していた。かれが明らかに生 ン戦争を通じてほとんど影響を蒙ることはなか 計を養うこと考慮して取り組んだ自発性は共感 った。英国軍がナポレオン軍に勝利したことの され,また,かれは功利主義的学校の哲学者, みならず,戦闘行為も自国でなされることがな とりわけジェレミー・ベンサムそしてブルーム く,その結果,たいていの人々は報道を通じて 卿をトゥルネンの仲間へ引き入れることを心が 間接的に戦局を見守っていた。歴史家のジョー けた。フィンズベリー・スクェアに築いた2つ ジ・マ コ ー リ ー・ト レ ヴ ェ リ ア ン(Geor ge 目のトゥルネン場も,教養のある人々に厚遇さ Ma c a ul a yTr ev el ya n)は以下のことを指摘して れた14)。フェルカーが『スポーティング・ウィ いる。すなわち,ヨーロッパ大陸で一般兵役義 ークリー』(Spor t i ng Weekl y )という冊子で 務の思想を実現しようしていた時代に,英国で 「体操の社会」 (Gy mna s t i cSoc i e t y)の設立を呼 は純粋に文民の個人主義的な文化が花開いてい びかけると,1826年,かれはクリアスから両者 た。「ナポレオンがヨーロッパで暴れまわって のシステムを公的に比較するよう挑戦を受け いた間,われらハイカラ男たちの放縦と奇行 た。実際に比較がなされたかどうかは伝えられ は,伊達男ブランメルの時代の中で沸点に達し ていない。ともかくも,ロンドンのトゥルネン た17)」。すでにグーツムーツの下で見出され, 場は,たとえフェルカーがすでに1829年にスイ また帝国設立時代のトゥルネン運動によって宣 スへ渡ったとはいえ1939年まで存在したのであ 伝された,獲得されるべき美徳としての「男ら る15)。 しさ」(Männl i chkei t )の表象─それは力強 他のヤーンの弟子たちも可能なかぎり,一時 い,軍事能力のある身体の中に表現を見出した 的に英国に滞在した。かれらはトゥルネンの宣 ─は,それゆえ19世紀初頭の英国ではまだ根 伝をすべきだったが,影響はそれほど長続きし 拠がなかったのである。英国のジェントルマン なかった。この政治的な亡命者─ドイツから はいつも「男らしく」振舞い,たとえば敗戦を 来た他の亡命者と同様に─は,この島を「賞 感情抜きに受け入れるときもそのように振舞 賛された国」,すなわちアメリカへの道のりの う。しかし,態度を維持するこの能力は生まれ 一時的な滞在地としてしか見なさず,できるだ つきのものであり,いわば「天性」だというの け早く旅立とうと心がけた16)。プロイセンそし がコンセンサスである18)。チャールズ・ダーウ て他の中欧諸国とは異なり,英国のトゥルネン ィン(Cha r l esDa r wi n)ならびに初期の英国の がおそらく政治的な衝動を持っていなかったこ 優生学者,ないし社会学者のフランシス・ゴー とが,より大きな理由だったように思われる。 ルトン(Fr a nc i sGa l t on:18221911)とハーバ この点と関連して,まずナポレオン戦争が言 ート・スペンサー(Her ber tSpencer :1820- 及されなくてはならない。プロイセン・ドイツ 1903)は,身体の能力の向上は,トレーニング では改革者ならびに市民的公共が国家形成にむ や運動によるのではなく,ただ遺伝に基づいて けて集中的に力を傾注していた矢先にイエナ・ 達成されると確信していた。加えてスペンサー アウエルシュテットの壊滅的な敗北を蒙り,す は,トゥルネンを「不均等発達」をもたらす でに言及したようにトゥルネン運動もそこから 「利益」を得た。これに対して英国はナポレオ 「作為的な運動」とはっきりと語っていた19)。 進歩的な19世紀においてすら,トゥルネンは 152 立命館産業社会論集(第45巻第4号) 英国において国民的な威信を表明し,国民文化 地出身の兵士を統率したのである。それとは逆 の共通の価値を強調するために必要とされなか に,ヴィクトリア王朝時代に文化的な刻印を付 っ た。ド イ ツ(そ し て フ ラ ン ス:そ こ で は されたそれぞれの社会層,すなわち一方で自由 1870/ 71年の普仏戦争の敗北後,国民的意識を 業と都市の市民層,他方で労動組合に組織され 再生するためにトゥルネン運動が公的財政を用 た手工業者と工場労働者は軍隊のなかで多数派 いて支援された)とは異なり,連合王国の国家 ではなかった。なぜならば,命令に従う存在と 形成はずっと以前に完成していた。一方でイン しての兵士は,自立性を考慮するこれら階層に グランド,ウエールズ,スコットランドそして とって尊敬を受ける対象ではなかったからであ アイルランドという領域,そして他方で拡大す る21)。それゆえ,1861年に「体操」の変種の信 る帝国の政治的統合が,せいぜいのところ問題 奉者,ショッテン・アーチボルト・マクラーレ として浮上した。しかし,トゥルネンそしてト ンに軍隊教練の領域での「身体教育」の再組織 ゥルナーの行進はそれに適さなかったのであ 化が委ねられると,それは「ドイツのトゥルネ る。なぜならば,トゥルネンの動作は威嚇的な ン」にとっての打開というより,むしろ否定的 身振りとして誤解されかねなかったからであ な宣伝となった。 る。英国のスポーツ史家であるリチャード・ホ パ リ で 修 行 し た 剣 術 師 範 の マ ク ラ ー レ ン ルトが論証しているように,土着のスポーツに 22) (Sc hot t e nAr c hi ba l dMa c La r e n:18211884) 手を出すのは当然であったが,しかしウエール は,かれの剣術学校を1858年に体操学校へ衣替 ズとイングランドのサッカー試合のような「国 えした。希望者の減少のためだと推測される。 際的交流」が,2重の機能を果たすことが期待 というのは,剣術は英国ではほとんど人気がな された。 「かれらは,支持者たちが己の『文化 かったからである23)。このような関係におい 的な』国家と競争の枠組みを準備した連合国家 て,かれはドイツのトゥルネンについて問い合 の両方に,自らの忠義を主張するのを許したの わせをし,同時代のドイツトゥルナー連盟傘下 20) である」 。 の協会でも恒例となっていたように,軍隊のみ 加えて,連合王国の統治構造はトゥルネンに ならず─かれの顧客の周りで運動効果を明ら とって不都合であった。すでに言及してきたよ かに証明できることから─文民の体操学校に うに,確かに様々な運動はドイツのように陸軍 も精確な身体測定を導入した24)。加えてかれは の教練プログラムの中に採用された。しかし, 軍隊の訓練として,クリアスによって導入され 海軍の国において陸軍には信望と広範な影響力 たロープと木による登攀運動,平行棒運動,跳 が欠けていた。というのも,英国には一般的な 馬,亜鈴運動などの単調な動作運動を補充し 兵役義務がなく,その結果として社会は全体と た。すなわち,かれはここでもドイツにおける して兵役によって代表されていると見なされな 室内の器械運動の独立した運動基準を採用した かった。こうした意識は軍隊が以下のような地 のである。確かにかれは基準を無条件に取り入 方における支配構造のコピーであっただけに, れたわけではない。というのも,言うまでもな 僅かにしか現れなかった。つまり,貴族階級と くかれはスポーツ的競争原理を運動の中に融合 地方貴族が将校に就任し,かれらが地方・農村 したからである。この点はこの時代のドイツの 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 153 トゥルネン協会ではほとんど許されなかったこ さらに悪いことに,ヴィクトリア王朝時代の とである。とはいえ,かれはそれによっても英 英国の教育政策の権威者─たとえば,マシュ 国人の中にある軍隊体操の否定的なイメージを ー・アーノルド(Ma t t he w Ar nol d)と時の学務 払拭することはできなかった。なぜならば産業 委員会(パブリックスクールのクラレンドン委 化の文脈において,マクラーレンがこの措置を 員会:1861年,トーントン・スクールの調査委 通じて貴族階級と躍進しつつある「中間階級」 ─は,時代の一般的な「スポ 員会:1864年) から高く評価された理念を尊重するのではな ーツ熱狂」 (s por tc r a z e)を背景に〔トゥルネン く,訓練を重視したい点が明確だったからであ にとって〕不利な公式見解を発表することを通 る25)。 じて,トゥルネンに対する高い評価を拒んだ。 トゥルネンの普及にとって同じく効果がなか このことはとりわけ,裕福な両親を獲得しよう った事例として,上級学校カリキュラムへの としていたパブリックスクールの何校かが, 「体操」の導入がある。すでに言及したクリア 「戸外運動競技」をカリキュラムの中に取り入 スはチャーターハウスのエリート寄宿学校にお れた点も考慮してなされた。確かにアーノルド いて,パブリックスクールでの体操授業の基礎 は「ドイツのトゥルネン」が英国の人々に好ま を創った。また,マクラーレンのもとでハロ れていた多くのスポーツ種目よりも「すぐれた ウ,ウェリントンそしてウインチェスターのパ 身体訓練」となりうることを容認していた。し ブリックスクールで「体操」が設けられた。そ かし,トゥルネンを学んだ若きプロイセン人 れはいずれにせよ同年に着手された「プレーイ が,通常,英国のエリート学校の若者のように ング・フィールズ」と同様に大々的に構想され 「さわやか,幸福,健康的」という印象を与えよ た。しかしながら,1860年代の中葉のパブリッ うとしない点が目立つと語っている30)。また, クスクールは,すでに「ゲーム」の数十年にわ イートン校の教師で,後にケンブリッジ大学の 26) たる伝統を回顧しており ,その結果,トゥル 「個人指導教師」となったオスカー・ブロウニ ネンは最初から競争にさらされたのである。こ ング(Os c a rBr owni ng)は,プロイセンの秩序 の伝統は,チームスポーツがある種の特殊英国 思想の身体化と見なしていたトゥルネン運動 のエリート・国民文化の伝統(賭け事,明確な が,スポーツに特徴的な競争的性格を授業で補 社交形態)に依拠しているかぎり優勢であっ えることを疑っていた。「しかし,ハロー校の 27) 。またその結果として,トゥルネンの運動 〔サッカーの〕イレブン,あるいはまたイート はパブリックスクールでも,進行する19世紀そ ン校の〔ボート競技〕のエイトのトレーニング して20世紀を通じてサッカー,クリケット,陸 に勝るルールに対する完全な服従を,一体何が 上競技,ボートそして他のスポーツ種目のよう 示すことがでるのだろうか。この両者は体操よ た 28) な人気を博することはなかった 。トゥルネン りはるかに,忍耐力,勤勉さ,そして団体行動 の授業が決して名声を得ることのない「教練す への個々人の自発的な自由放棄を必要とす る軍曹」に部分的に委ねられ,また授業が複数 31) 。1864年のクラレンドン委員会の「報告 る」 の教師によって教育的措置としても指示された 書」は,事柄に関するこの見解を,いくぶん官 29) ことも嫌悪感を増幅させた 。 職風に示している。すなわち,「組織に健康と 154 立命館産業社会論集(第45巻第4号) 活力を与える身体のトレーニングは,大陸でそ された関係ゆえに体操の授業は好まれず,19世 の目的のために雇用されている体操の訓練によ 紀後半に少なくとも若者にとってサッカーがオ ってではなく,英国の学校で分け与えられま ールタナティヴとして示されると授業は大きく す。……しかし,さらに戸外運動競技─それ 緩和された。バーミンガムとロンドンでは,こ が当該の目的に十分役立っている間に─によ のような方向へのイニシアティヴがすでに1880 32) って,他の用途にも適用できるのです…… 」。 年代に開始され,また1890年に学校選抜チーム パブリックスクールはエリート学校として, の最初のトーナメントが実施された。世紀転換 トゥルネンに大衆的な影響をもたらすことにほ 期後,このトレンドはサッカーに一般化され とんど適していなかった。広範な人々への普及 た。1904年,英国学校サッカー協会が設立さ を考慮すれば,初等学校こそが重要であった。 れ,また教育省は1906年にサッカーを初等学校 しかしこの文脈で,こういった留保が表明され のカリキュラムへ正式に採用した36)。生徒たち ることはなかった。むしろ政治家と官僚にとっ はトゥルネンを失って涙ひとつこぼさなかった て「支配階級にふさわしい身体教育の一つのタ のである。 イプがあるべきだ」というのは常識であった。 すなわち,スポーツは「大衆のための身体教 b)19世紀末期と20世紀初頭 育」である「『体操』とは異なる」と。英国の初 19世紀の最初の数十年において「体操」とト 等学校の全般的な時代遅れゆえに,このような ゥルネンが様々に供給され,しかし─軍隊と 見解はトゥルネンにとって有利に働かなかっ 学校を除き─さほどの需要がなかったなかで た。英国において義務教育は1876年と1880年の 時代が世紀末期ともなると,トゥルネンに対す 教育法令を通じてようやく導入され,また1890 る状況は改善されていった。連合王国の卓越し 年の過程で初等学校においてトゥルネンの授業 た軍事力を喚起したボーア戦争(1 8991902) 33) 。しかし,しか が英国世論における需要促進の最初の一撃とな るべき法令の現実への転化は,さらに遅れるこ った。集団検診が義勇軍の破滅的な健康実態を とになった。たとえば,1895年の官庁の調査か 明らかにした問題に新たな照明が当てられ37), らは,ロンドンのチャーリング・クロスの1マ そしてこの時代になってはじめて世論が広く身 イル周辺に2 5, 000人の子どもたちが住んでお 体教育に関心を抱き始めた38)。それは騎兵隊将 り,そこでは遊戯・トゥルネン場が自由に使え 校 ロ バ ー ト・べ ー デ ン = パ ウ エ ル 卿(Si r ないことが明確になっている34)。 Robe r tBa de nPowe l l )のボーイスカウトのよう どのみち多くの教師は,遅かれ早かれ,初期 な準軍事組織の中で生まれた。当時,ボーイス のグーツムーツとマクラーレンへの指向を経 カウトは大陸での同様な組織とは異なり,トゥ て,器械を用いず,また僅かなスペースでも可 ルネンそしてスポーツと直接的な接触はなかっ 能な,いわゆる「スウェーデン体操」へ移行し た39)。身体教育の価値を引き上げたさらなる要 た。とういうのは,一般的に体操の授業はスペ 因は,同年になされた教育制度における教会と ース不足から,教室あるいは学校の表玄関ホー 国家の徹底した分離であった。両者とも愛国的 が必修科目として設けられた 35) ルで行われていたからである 。こうした制約 なカードゲームに耽け,独自の影響力を行使あ 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) るいは拡大するために,今や青少年労働者を重 40) 155 であった。というのもグーツムーツ以来, 「体 視するよう心がけた 。加えて,最終的に労働 操」はほとんどすべてのヨーロッパ大陸諸国に 者階級の一部が身体運動への興味を告げた。労 普及し,それぞれの「流派」を形成したからで 働組合はこの間に正当な社会的権力を発展させ ある。このような事情の下,誰もが最初から たが,かれらは相変わらず市民社会生活の多く 「ドイツのトゥルネン」に向かうことなど期待 の分野から排除されていたのである。「競技会」 できなかったのである。 『スポーツ百科事典』 と「戸外運動競技」もそれに含まれていた。そ (Enc y c l ope di aSpor t :1897年)が伝えているよ こではスポーツによる営利を禁止したアマチュ うに,「ギリシアの体操」(「裸体」),「スウェー ア規定が,競技者をもっぱら裕福なジェントル デンの体操」(「徒手体操」),「デンマークの体 マンの範囲からしか募集しないという,多様で 操」(「戦争の性格らしきものをともなった」), インフォーマルな排除のメカニズムを請け負っ 「スイスの体操」 (「絵に描いたように美しい, たのである。労働者─道徳的な配慮から競技 そしてしばしばチロルのコーラスに伴奏され スポーツから遠ざかっていた女性も─はそれ て」),「フランスの体操」(「成功を確実にさせ ゆえ,かれらが身体を鍛えたい場合は他の方法 るために満場一致で行う」)「イタリアの体操」, を追求しなくてはならなかった。トゥルネンと 「スペインの体操」 ,「フィンランドの体操」 , 体操は歓迎されるべきオールタナティヴをこれ 「ロシアの体操」が存在していたのである41)。 らの者たちに提供したのである。 このことは有利な受容環境にもかかわらず,普 「ドイツのトゥルネン」は見てきたように, 及の成果が多くの点で個々の人間の社会参加, このような「時代精神」で得をした。しかしそ およびそれらの人々による特別な斡旋方法に左 れは,長期間,付随現状であり続けた。その原 右されていたことを意味している。 因を探求すれば何よりもこの領域においてすで 女性の体操はスウェーデンから移住した2人 に19世紀末には成立し,今や目に見えて明確に の女性教師,レフヴィング(Löf v i ng)とベルク なりつつあるドイツと英国の文化交流の構造的 マン・エスターベルク(Be r gma nOe s t e r be r g) な問題が浮き彫りになる。次のような比較にお によって指導的に行われた。彼女らは「スウェ いてそれを追体験するのが最も適しているだろ ーデン体操」の学問的基礎を発展させ,英国の う。すなわち,19世紀末に「英国のスポーツ」 教育当局の下で財政的支援を調達することを知 に関心を寄せたヨーロッパ大陸諸国は様々な種 っていた。彼女らは数年以内に女性体操教師職 目と対峙することになった。しかし,これらの の職業化を達成し,その結果,スウェーデンモ 種目がスポーツの原理,つまり(英国の)ルー デルが長期間,受容され続けることになったの ルにしたがってなされ,監視委員会から監督さ である42)。 れる競技として組織化されることにおいてはす 1861年以降,ロンドンにあるドイツのトゥル べて共通しており,この点は受容を容易にし ネン協会が男性構成員のための体操に貢献し た。19世紀末に私人として「体操」に興味を示 た。その活動に関しては,やや詳しく紹介して した英国人は,一つの種目としてのみそれを行 おきたい。イニシアティヴは,当時,約3万人 ったに過ぎない。しかし,その受容はより困難 の住民が住んでいたドイツ人コロニーから生ま 156 立命館産業社会論集(第45巻第4号) れた43)。協会の「設立の父」は,ヤーンの弟子 ど興味を示さない英国のドイツ人を,かれらの で「古き1848年の闘士」であったアウグスト・ 政治のために動員する試みでもあったのであ ラヴェンシュタイン(Augus tRa v ens t ei n)─ る47)。すでに言及したように,このトゥルネン かれはすでに1830/ 40年代にフランクフルトに 協会とスポーツの結合がドイツにおいてまった おけるトゥルネン運動を組織していた─の く同様に試みられたのである。 子,エルンスト・ゲオルク・ラヴェンシュタイ ドイツ人トゥルネン協会の協会史は,さしあ ン博士(Dr .phi l .Er ns tGeor gRa v ens t ei n)と たり大成功裏に始まっている。すでに1865年に 見なされている44)。協会の目的として「英国に は,パンクラス街にある協会独自の室内トゥル ドイツの体操を導入し,促進させること。そし ネン施設を開設することができ,その建物は模 て親密な交流を通じて,先祖代々縁続きの2国 範的なものと見なされ,またドイツ人コロニー 家間における,よりよい相互理解を成し遂げる の住民からも運動の場としてのみならず,集会 こと45)」が謳われた。 所としても利用できるために進んで受け入れら ドイツ・英国の理解に向けた2つ目の目的 れた。そこであらゆる種類の祭典が催され,コ は,偶然に記されものではない。なぜならば, ンサートや観劇会もあり,またとくに政治的な ロンドンにおけるドイツ人コロニーは,その 催しの多くが実施された。建物の中では,トゥ 年,徐々にまとまりを失い始めていたからであ ルネン協会の合唱班がリハーサルを行い,また る。この点に関しては,一部はドイツからの移 協会の図書室も設置された48)。これらすべての 住傾向の後退に,一部はドイツ,より正確には ことが,慈善協会,社交協会,労働者教育協会, プロイセンにおける政治的展開に原因があっ 教区,ドイツ人学校,商店,コーヒーハウスな た。プロイセンでは1859年の王位交代をもって どと同様に,ロンドンのトゥルネン協会をドイ 「新時代」 (ne ueÄr a )がスタートし,この時代 ツ人コロニーの中心的,社会的機関にしたので は1848/ 49年の敗北した革命後の政治反動を終 ある49)。 わらせ,また特赦が発令された。それ自体喜ば ドイツ人気質を育むことは,トゥルネン活動 しい展開は,ロンドンにおけるドイツ人コロニ が英国人や他の外国人からも共感をえることを ーにとって,ローター・ブッハーあるいはヴィ 妨げなかった。1870年代初頭,これらドイツ人 ル ヘ ル ム・リ ー プ ク ネ ヒ ト の よ う な 有 名 な 以外の会員は,300から350名のドイツ人会員の 「1848年闘士」が今や帰国するに至って問題と 3倍にあたる約1000名を数え,また英国人はロ 化した46)。加えて「新時代」は,ドイツにおい ンドンや他の英国の大都市にさらにトゥルネン て自由主義的な一派である国民協会の設立をも 協会を設立させることを考えていた50)。このよ たらし,また当協会はいわゆる在外ドイツ人も うな連鎖的効果に基づくならば,ロンドンにお 統合しようと試みた。つまりロンドンのトゥル けるドイツ人トゥルネン協会の会員数が一度た ネン協会は,国民協会のロンドン支部協会の指 りとも1500名を上回ることがなく,加えて1880 導的メンバーによる,国民的な宣伝活動の広範 年代の初頭以降は後退に転じたことを失敗と決 な基盤を提供し,またそれを通じて政治的な傾 めつけてはならないだろう。いずれにせよ幹部 向の面で疎く,あるいはドイツの歴史にほとん たちは,トゥルネンの望み通りの普及を反映し 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) ていたと思っていたのである51)。 157 ドンの協会には熱心な政治的な監督者が存在し 確かに,減少を引き起こしたのは英国人であ 52) なかった。水晶館における恒例のトゥルネン祭 。し の場で,フェルディナント・フライヒラート かし,この説明は唯一の可能性ではない。なぜ (Fer di na ndFr ei l i gr a t h),ヨーハン・ゴットフ ならば,経験的に考えれば,親協会の会員数の リート・キンケル(J ohha nnGot t f r i e dKI nke l ) 減少は,とりわけ19世紀における新たなトゥル そしてカール・ブリント(Ka r lBl i nd)のよう ネン協会の設立に伴う意見の違いによって生じ な民主主義的抵抗運動の代表者もスピーチの機 た分裂傾向がその原因と見なされたからであ 会を与えられた。また,ドイツにおいて国民協 る53)。ロンドンのトゥルネン協会の場合,この 会の関心を引いた,ある種の日々の政治論争 ような対立を詳細に探究するための史料が十分 ─たとえば,ドイツ・デンマーク戦争,プロ ではない。しかし,色々な点を考慮すると協会 イセン・オーストリア戦争の時代に生じた軍事 はこのような理由からも会の財政力を弱めたと 的トゥルネンに関する論争─は,ロンドンの 推測できるかもしれない。 ドイツ人トゥルネン協会では顕在化しなかっ トゥルネン協会の幹部がドイツの国民協会の た57)。いずれにせよ,ドイツにおける市民的・ 模範にしたがって,労働者階級の構成員の参加 自由主義運動との結びつきは,それによって政 を法外に高い会費を通じてやめてしまうことが 治に通じた英国人の世話役との共同を妨げたと 第1の指標である。そのことによってロンドン いう意味において,ロンドンのトゥルネン協会 のトゥルネン協会は,ドイツ本国と同様にドイ の発展にブレーキをかけたのである。というの ツ人コロニーの中に出現した労働者階級と市民 も国際的な視点で比較すれば,外国における 層 の 間 の 溝 を 再 び 設 け,そ れ を 深 刻 化 さ せ 「ドイツのトゥルネン」は,このような結びつ た54)。一般的にドイツ人移住者よりも実入りの き を 経 由 し て 時 々 の「ホ ス ト 社 会」 よかった英国人労働者は高額な会費によって必 (Wi r t s ge s e l l s c ha f t )へ統合されたときにのみ, ずしも怯むことはなく,また協会の外国人会員 長期的な成功を収めたといえるからである。そ の下には多数の労働者が存在していた55)。しか の一例がアメリカ合衆国である。そこでは,ド し,非ドイツ人として英国人には会員としての イツ人移住者によって創られたトゥルネン協会 投票権が与えられず,その結果,かれらは協会 の多くが,原住民保護主義と奴隷制に反対する ったことを会員数の統計は証明している 56) 。それゆえ 原理宣言を共有し,また南北戦争では独自のト 減少する会員数は投票数の結果だという点を是 ゥルナー中隊を結成した58)。他の事例は第2帝 認することもできる。 政の崩壊後のフランスである。同国ではドイツ 加えて,国民協会との結合を通じた政治化も の模範にしたがって設立されたトゥルネン協会 不利な影響をもたらした。政治化が意見の異な が,国民を鼓舞するための大衆運動の基盤を共 る者の排除をもたらすのだから会員数はさらに 和主義憲法に基づいて構築している59)。外国に 減少したであろう。というのも,史料が提示し おけるトゥルナーが,どのような「論点」を取 ているすべての事柄に従えば,─ドイツ本国 り上げるのかは些細なことであったかもしれな のトゥルネン協会の内部とは異なって─ロン い。しかしかれらが取り組んだ案件は─運動 政策に影響力を行使できなかった 158 立命館産業社会論集(第45巻第4号) の構造ゆえに何の変哲もない,誠に単調な事柄 ルネン」に対してなされた「スポーツ化」の大 であったが─持続可能な足場を固めるために 衆化効果を過大評価してはならない。その理由 もこのような支援を必要としていたのである。 は,ロンドンのドイツ人トゥルネン協会と他の ロンドンにおけるドイツ人トゥルネン協会 英国の大都市におけるトゥルネン協会はアマチ は,以下のことを通じてこの欠乏部分を補っ ュアリズムの陣営に確固として属しており,ま た。すなわち,協会は初期から英国のスポーツ たこの時代において「ジェントルマン」と見な 運動と接触し,それによって競争の魅惑を自己 されたい英国の競技者がふるまっていたよう の利益のために利用したのである。確かにこの に,同時代のスポーツの商業化を拒絶していた 点はドイツにおけるトゥルナー界の政策と両立 からである。それによって,英国におけるトゥ しなかったが,しかし,走,跳躍,登攀,石投 ルネン運動の行動範囲は根本的に制限された。 げ,レスリング,ほどなくしてボートと自転車 なぜならば,大衆雑誌,広告産業,その他の商 における競争が会員から熱狂的に支持されたと 業主義的に興味を抱いている人々は,スポーツ いう成果によって正当化された。長期にわたり メディア産業の景気を刺激し,また多くの読者 協会の会長を務めたエルンスト・ゲオルク・ラ を獲得するために,目的に合致したスター選手 ヴェンシュタインは,トゥルネンをスポーツ化 や話題性を生み出す種目の方を好んで取り上げ するために特段に力を発揮した。かれはロンド たからである62)。加えて,トゥルネンに好意的 ンのドイツ人トゥルネン協会の「設立の父」で な英国人の多くがサッカーの方へ乗り移ってし あったのみならず,他種目のスポーツ組織の重 まうと行動範囲はいよいよもって狭められた。 複幹部としても要職を担っていた。英国初─ 特徴的なことは,サッカー試合の興行が非常に いずれにせよ挫折した─の総合スポーツ組織 広範囲に繰り広げられることによって国内リー である国内オリンピック連盟(1866年創設), グがその興行を引き受けると,上述したロンド アマチュア水泳連盟(1869年設立)の出発点と ンのドイツ人トゥルネン協会の会員数の減少が なったメトロポリタン水泳連盟,そしてアマチ 1880年代に初めて明確な形で現れたことであ ュア体操連盟(1880年創設)がそれに含まれて る。また,運動好きの同時代人の余暇活動とし いた60)。すでに1860年代末において,ロンドン て,今やサッカー試合は急速に大衆性を獲得 のドイツ人トゥルネン協会のスポーツ化は内部 し,その結果,1910年のフットボール連盟の概 対立が生じるまでに至った。1868年,水晶館で 算によれば,すでに50万人の現役のサッカー競 大規模なトゥルネン・スポーツ祭典が開催され 技者が存在していたのである63)。 たとき─その際,もっぱら「スポーツ中毒」 さらに英国におけるトゥルナーは,その独自 の英国人が勝利をさらった─ドイツ人の会員 の領域,すなわち身体形成の面で激しい競争を はひどく立腹して以下のように語っている。 ともなってヴィクトリア王朝期の英国における 「純粋にドイツ生活が生まれた聖地とドイツの 余暇生活の商業化と対峙することになった。と 教えを育む植物の大地が英国的要素に明け渡さ いうのは世紀転換期頃に,近代のボディービル 61) れてしまった」と 。 ディングがはじめて世間をにぎわしたからであ いずれにせよ,英国における「ドイツのトゥ る。1890年代末の英国には,ボディービルディ 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 159 ングの「考案者」と見なされているモデルのユ でに19世紀初頭以来,トゥルネンを無視してき ージン・サンドウ(EugenSa ndow)にちなん たことを踏まえれば,このような軽視は首尾一 で名づけられた,いわゆるサンドウ施設がすで 貫していたように思われる。設立に向けたあら に20箇所あった。かれの名前を付したフィット ゆる取り組みは挫折し,また世紀が進めば進む ネス器具と健康栄養食が商品化された。スポー ほど,ますますトゥルネンの意義は薄れていっ ツ運動の一部として近代のボディービルディン た。 グが誕生し,またこの種目のファンがそのコン 19世紀初頭に汎愛派の体操とヤーンのトゥル テストをスポーツ場で実施していたドイツとは ネンが初めて英国に紹介されると,それらの制 異なり,サンドウは英国において,とりわけ労 度化はとりわけ軍隊と教育制度の構造,つまり 働者が出入りするミュージック・ホールで出演 教育がされていない絶対主義的な伝統および国 し,また1901年9月にはロイヤル・アルバー 家から自由である市民社会領域の形成の結果と ト・ホールも自由に使用することができた。そ して出現した限定条件を前にして失敗した。加 れゆえ英国の市民的「中間階級」にとっての贔 えて,トゥルネンをヨーロッパ大陸諸国の中で 屓もユージン・サンドウに向けられたのであ ナポレオン戦争とフランスの占領下で保持する り,標準的な権威として身体形成を理解してい といった政治的衝撃が生じたが,英国は戦争か たロンドンのトゥルネン協会ではなかった。博 ら免れたまままであり,その文明的長所を引き 物学収集の資格をもっている大英博物館長は, 続き発展させた。このような展開を概念化しよ サンドウを自称抵抗力のある「コーカサス人 うすれば,トゥルネンは「英国の特殊な道」に 種」の精華であると表明し,また国王ジョージ 破れたと規定することができるかもしれない。 5世は,1911年にサンドウを「身体文化学教 市場を経由して成立した近代の余暇文化─ 授」に任命した64)。 ブリテン島におけるあらゆる生活圏の初期の徹 底した商業化の付随現象あるいは結果として解 釈できる─を介し,この「特殊な道」は19世 4.おわりに 紀後半に再度トゥルネンに不利な結果をもたし ロンドンにおけるドイツ人コロニーが第1次 65) 世界大戦によって破壊されると ,英国におけ た。この局面で文化伝播をさらに困難にさせた 2つ目の要因が加わった。つまり,英国におけ る「ドイツのトゥルネン」はすでに「時代遅れ」 るトゥルネンにとって不利な限定条件を自身の となった。戦争後,それは完全に忘れ去られ, 努力によって補おうとする,ロンドンに住むド ヨーロッパ大陸のファシズム国家における身体 イツ人移住者の無駄な試みである。この試み 教育の表向きの成果に影響され,英国政府は は,とりわけ移住者たちがその行動において, 1937年に国家フィットネス協議会を設立した 特殊ドイツ的な方法による限定条件によって, が,当然のことながら,それは国民社会主義者 かれらの側から近代の中に食い込んでしまった によって解散させられたドイツトゥルナー連盟 がゆえに失敗したのである。この関連におい ではなく国民社会主義の余暇組織,「歓喜力行 て,とりわけロンドンのドイツ人トゥルネン協 66) 団」(KdF)を模範としていた 。英国人がす 会の市民的・自由主義的な会員も逃れることが 160 立命館産業社会論集(第45巻第4号) できなかった労働者排除の傾向も言及できるだ 5) Gei s t es wehen,S.70. ろう。このようにして,関係者たちが構造的な 6) Vgl .Hans Chr i s t oph Schr öder ,Di eneuer e engl i s che Ges chi cht e i m Li cht e ei ni ger 問題を反映することなく,ドイツのトゥルネン Moder ni s i er ungs t heor i en, i n : Rei nhar t の擁護者と英国における潜在的な入会希望者と Kos el l eck ( Hg. ) ,St udi e nz um Be gi nn de r の間に相互不信が生み出されたのであり,それ mo de r ne nWe l t ,St ut t ga r t1977,S.30 67;Ber nd は結局のところ,両者がトゥルネンへの興味を Wei s br od,Derengl i s c he“ Sonder weg”i nder 失うという結果をもたらしたのである。 neuer enGes c hi c ht e,i n:GG 16,1990,S.233 252;Her mann Wel l enr eut her ,Engl and und Eur opa.Über l egungen z um Pr obl em des 注 engl i s chenSonder wegsi ndereur opäi s chen 1) Vgl .Cr i s t i a neEi s e nbe r g,“ Eng l i s hs p o r t s ”und Ges c hi c ht e,i n:Nor ber tFi nz s c hu.Her ma nn de ut s c heBür g e r .Ei neGe s e l l s c haf t s g e s c hi c ht e Wel l enr eut her( Hg. ) ,Li b e r al i t as .Fs .F .Er i c h Ang e r mann,St ut t ga r t1992,S.89 123;f er ner 18001939,Pa der bor n1999. 2) Per r yAnder s on,Component soft heNa t i ona l Vgl . Pet er C. McI nt os h, Games and Gymna s t i c sf orTwoNa t i onsi nOne,i n:J .G. Cul t ur e,i n:Ne w Le f tRe v i w,Nr .50,1968,S.3 - Di xon u.a. ,Landmar ks i nt he hi s t or y of 20. Phy s i c alEduc at i o n,Lo ndo n1973,S.177208; 7) Vgl .Pet erPa yneu.a .( Hg. ) ,Br i t i s hCul t ur e andEc o no mi cDe c l i ne ,London1990. der s . ,Phy s i c alEduc at i on i n Engl and s i nc e 1800,London1968( z uer s t1952) . 3) 8) Vgl .Fr i edr i ch H.Tenbr uck,Waswarder Kul t ur ver gl ei ch,eheesdenKul t ur ver gl ei ch Rudol f Muhs , Gei s t es wehen: Rahmenbedi ngungen desdeut s chbr i t i s chen ga b,i n:J oa c hi m Ma t t hes( Hg. ) ,Zwi s c he nde n Kul t ur aus t aus chs i m 19.J ahr hunder t ,i n: Kul t ur e n?Di eSoz i al wi s s e ns c haf t e n vorde m Muhs ,Rudol fu.a.( Hg. ) ,Ane i gung und Pr o b l e m de sKul t ur v e r g l e i c h,Göt t i ngen1992,S. Abwe hr .I nt e r kul t ur e l l e r Tr ans f e rz wi s c he n 1336;Ma l c om Wa t er s ,Gl o b al i z at i o n,London 1995. De ut s c hl and und Gr oßbr i t anni e n i n 19. J ahr hunde r t ,Bodenhei m 1998,S.4470,hi er 9) 以下の叙述は,私の『「英国スポーツ」とドイ S.70.Vgl .a uc hs c honPer c yEr ns tSc hr a mm, ツ市民』 (注1)の第2章を基本にしている。 Engl andsVer häl t ni sz urdeut s chen Kul t ur そこでも個々の証拠が提示されている。 z wi s chen der Rei chs gr ündung und der 10) 数 値 に 関 し て は,Hans Geor gJ ohn,Di e J a hr hunder t wende,i n:Wer nerConz e( Hg. ) , Tur nbewegungi ndeus chenKai s er r ei ch von De ut s c hl andundEur o pa.Hi s t o r i s c heSt udi ez u 1871,i n:Hor s tUeber hor s t( Hg. ) ,Ge s c hi c ht e Völ ke r -undSt aat e nor dnungde sAb e ndl ande s . de rLe i be s übung e n,Bd.3/1,Ber l i n 1980,S. Fs . f .HansRot hf e l s ,Düs s el dor f1951,S.135- 278324,hi erS.324( 18691910) ;Eber har d 175. J er a n,Deut s c heTur ner s c ha f t( DT)1868 1936, 4) Vgl .Al l enGut t mann,Game sandEmpi r e s . i n :Di et er Fr i cke u.a. ,Di e bür ge r l i c he n Mo de r nSpo r t sandCul t ur alI mpe r i al i s m,New Par t e i e n i n De s c hl and. Handbuc h de r ut Yor k1994,S.146 156;Wol fKr ä mer Ma ndea u, Ge s c hi c ht e de r bür ge r l i c he n Par t e i e n und Gymna s t i cSys t emsa ndTur nerMov ementi n ande r e rb ür g e r l i c he rI nt e r e s s e nor g ani s at i one n La t i nAmer i c a ,i n:Rol a ndNa ul( Hg. ) ,Tur ne n vom Vor mär z bi sz um J ahr e 1945,Bd.1, Lei pz i g1968,S,605 619,hi erS.606. and Spor t . The Cr os s Cul t ur al Ex c hange , Müns t er1991,S.21 49. 11) C.G.Sa l z ma nn,Gy mnas t i c sf o rYo ut h:o ra 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) 161 pr ac t i c al gui de t o he al t hf ul and amus i ng Ent s t e hungde rmo de r ne nWe l t ,Fr a nkf ur t1974 Ex e r c i s e sf o rt heus eo fs c ho o l s .AnEs s ayt o war d ( 1969) ,S.558. 19世紀の英国スポーツにおける t hene c e s s ar yi mpr o v e me nto fe duc at i o nc hi e f l y 身体要素の考察に関してはさしあたり,Ri c ha r d asi tr e l ar e st ot heb o dy ,f r e e l yt r ans l at ef r o mt he Hol t ,TheSpor t i ng Bodyi nt heNi net eent h Ge r man,London 1800.Vgl .auch McI nt os h, Cent ur y ,unver öf f .Ms .Mont f or tUni ver s i t y Phy s i c alEduc at i on,S.79;Wi l l iSchr öder , Lei c es t er1999. J ohannChr i s t ophFr i e dr i c hGut s Mut hs .Le b e n und We r k de s Sc hne pf e nt hal e r Pädagoge n, 19) Vgl .J ohnHober ma nn,St e r b l i c heMas c hi ne n. Dopi ng und di e Unme ns c hl i c hke i t de s Sa nktAugus t i n1996,S.135f f . 12) Ho c hl e i s t ung s s po r t s ,Aa c hen1994,S.106,107 Vgl .Mc I nt os h,Phy s i c alEduc at i o n,S.80.ク リアスの経歴は,Kl emensC.Wi l dt ,Dat e nz ur ( Spenc er Zi t a t ) ,110. 20) Ri char d Hol t ,Cont r as t i ng Nat i onal i s ms : Spo r t g e s c hi c ht e ,Tl .2:Eur opav on1750 1894, Spor t ,Mi l i t ar i s m and t he Uni t ar y St at ei n Sc hor ndor f1972 ,S.149,153,167,173,187f . Br i t ai n and Fr ance,i n :I RSpH 12,1995 13) Vgl .Mc I nt os h,Phy s i c alEduc at i o n,S.80,82. ( Spec i a lI s s ue:Tr i ba lI dent i t i es .Na t i ona l i s m, 14) Vgl .der s . ,Spo r ti nSo c i e t y ,London1963,S. Eur opea ndSpor t ) ,S.39 54,hi erS. 44 . 59.フェルカーに関しては,Wi l dt (注12),S. 21) Vgl .He w St r a c ha n,Mi l i t ä r ,Empi r eundCi v i l Soc i e t y :Gr oßbr i t a nni e ni m1 9 .J a hr hunde r t ,i n: 35,188. 15) Vgl .ebd. ,S.39,151,158,188. Ut eFr ev er t( Hg. ) ,Mi l i t ärundGe s e l l s c haf ti m 16) この見解に関しては,Sabi neSunder mann, 19.und20.J ahr hunde r t ,St ut t ga r t1997,S.7893. De ut s c he rNat i onal i s musi me ng l i s c he n Ex i l . Zum s oz i al e n undpol i t i s c he nI nne nl e b e n de r 22) 経歴と以下の叙述に関して,Wi l dt , (注12), de ut s c he n Kol oni ei n London 18481871, . 2,S.190,193 198;McI nt os h,Phy s i c al Tl Pa der bor n1997,S.29.アメリカにおけるヤー Educ at i o n,S.96. ンの弟子たちの活動に関しては,Vgl .Kl emens 23) マクラーレンは,明らかに廃れかけた領域の C.Wi l dt ,Aus wande r e rundEmi g r ant e ni nde r なかで学んだ。というのは,大陸で決闘の実施 Ge s c hi c ht ede rLe i b e s üb ung e n,Sc hr ndor f1967; の手段であった剣術は,英国ではとっくの昔に St ev enA.Ri es s ,Spor ta ndt heRedef i ni t i onof ボクシングによって淘汰されてしまっていたか Mi ddl eCl a s sMa c ul i ni t yi nVi c t or i a nAmer i c a , ら で あ る。Vgl .Mar i a Kl oer en,Spor tund i n:S.W.Pope( Hg. ) ,TheNe w Ame r i c anSp o r t Re k o r d.Kul t ur s o z i o l o g i s c heUne r s uc hung e nz um Hi s t or y .Re c e ntAppr oac he sandPe r s pe c t i ve s , Engl and de ss e c hz e hnt e n bi s ac ht z e hnt e n Ur ba nu.Chi c a go1997,S.173 197,hi erS.175. J ahr hunde r t s ,Lei pz i g1935,ND Müns t er1985, 17) Geor geMa c a ul a yTr ev el ya n,Eng l i s hSo c i al S.105 112;Her ber tSchöf f l er ,Engl anddas Hi s t or y ,London 1944,hi erz i t .nach Der ek Land de s Spor t e s . Ei ne kul t ur s oz i l ogi s c he Bi r l e y ,Bona pa r t ea ndt heSqui r e:Cha uv i ni s m, Er k l är ung ,Lei pz i g1935,S.9 49.i ns b.S. 41. Vi r i l i t y ,a ndSpor ti nt hePer i odoft heFr enc h 24) Vgl .Wi l hel m Anger s t ei n,Ver s uch ei ner Wa r s ,i n:J .A.Ma nga n( Hg. ) ,Pl e as ur e ,Pr o f i t , St at i s t i k der Kör per bes chaf f enhei t und Pr o s e l y t i s m.Br i t i s hCul t ur eandSpo r tatHo me Lei s t ungs f ä hi gkei tbeidendeut s c henTur ner n, andAb r oad17001914,London1988,S.21- i n :Fer di nand Goet z / A.F.Böhme ( Hg. ) , 41,hi erS.22. 18) Dr i t t e ss t at i s t i s c he sJ ahr buc h de rDe ut s c he n Vgl .Bi r l ey ,Banapar t e;Bar r i ng t on Moor e , Tur ne r s c haf t ,I m Auf t r ag ede sAus s c hus s e sde r So z i al eUr s p r üng ev o nDi k t at urundDe mo k r at i e . De ut s c he nTur ne r s c haf t ,Lei pz i g1871,S.207 - Di eRo l l ede rGr undb e s i t z e rundBaue r nb e ide r 237. 162 立命館産業社会論集(第45巻第4号) 25) Vgl .Ar c hi ba l dMa c La r en,Na t i ona lMi l i t a r y Sys t emsofBodi l yExer c i s e,i n:Mac Mi l l an’ s Spa /Wor c es t er s hi r e;Vgl .Hol t ,Spo r t ,S.142. 36) Mag az i ne1863. 26) Ei s enber g( Hg. ) ,Fußb al l ,s oc c e r ,c al c i o.Ei n Vgl .Ti mot hy J .L.Chandl er ,Emer gent e ng l i s c he rSpor taufs e i ne m We gum di eWe l t , At hl et i ci s m:Game i n Two Engl i s h Publ i c School s , 1800 60, i n : The I nt e r nat i onal Vgl .TonyMas on,Engl and,i n:Chr i s t i ane Müns t er1997,S.22 40,hi erS.29f . 37) J o ur nalo ft heHi s t o r yo fSpo r t5,1988,S.312 - Vgl .RexPope,WarandSo c i e t yi nBr i t ai n, 18991984,London1991,S. 2. 330;大学に関しては,Shel donRot hbl a t t ,The 38) 日付に関しては,Vgl .Hol t ,Spor t i ngBody . St udent Subcul t ur e and t he Exami nat i on 39) J ohnSpr i ngha l l ,Yo ut h,Empi r eandSo c i e t y . Sys t em i nEar l y19t h Cent ur yOxbr i dge,i n: Br i t i s hy out hMove me nt ,18831940,London Lawr ence St one ( Hg. ) ,The Uni ve r s i t yi n 1977. Soc i e t y ,Bd.1:Oxf or dandCambr i dgef r om 40) t he14t ht ot heea r l y19t hCent ur y ,Pr i nc et on 41) A[ r c hi ba l d]Al e xa nde r ,Ar t .“ Gy mna s t i c s ” ,i n: Vgl .Hol t ,Cont r a s t i ngNa t i ona l i s m,S.41 44. TheEa r lofSuf f ol ka ndBer ks hi r eu.a .( Hg. ) , 1974,S.247 303. 27) TheEnc y c l o pe di ao fSpo r t ,Bd.1,London1897, Vgl . Rober t W. Mal coms on, Popul ar S.500 502. Re c r e at i ons i n Engl i s h Soc i e t y 17001850, Cambr i dge 1973; Thomas S. Henr i cks , 42) Vgl .Shei l a Fl et cher ,The Maki ng and Di s put e d Pl e as ur e s . Spor t and Soc i e t yi n Br eaki ng ofa Femal e Tr adi t i on:Women’ s Pr e i ndus t r i alEng l and,New Yor k1991;Denni s Phys i c a lEduc a t i oni nEngl a nd,1880 1980,i n: Br ai l s f or d,Spor t ,Ti me ,and Soc i e t y .The J amesA.Ma nga n/Rober t aPa r k( Hg. ) ,Fr o m Br i t i s hatPl ay ,London1991. ‘ Fai rSe x ’t oFe mi ni s m.So r tandt heSo c i al i z at i o n 28) Vgl .McI nt os h,Phy s i c alEduc at i on,S.96; o fWo me ni nt heI ndus t r i alandPo s t i ndus t r i al der s . ,GameandGy mnas t i c s ,S.189. 29) Vgl .ebd. ,S.193;der s . ,Phy s i c alEduc at i o n, Er as ,London1987,S.145 160. 43) S.101;Her mannRaydt ,UeberJ ugends pi el e undLe i be s übunge ni nEngl a nd,i n:Uni v e r s um, 44) Dr es den,Bd.3,1887,1.Tl . ,S.505 17,576 85, Mat t hew Ar nor d, The Compl et e Pr os e 父に関しては,Wi l dt ,Da t en,Tl .2,S.42,46, 75;子に関しては,Sunder ma nn,Nat i o nal i s mus , hi erS.515. 30) ズ ン ダ ー マ ン に よ る 報 告。Sunder mann, Nat i o nal i s mus ,S.12. S.16,170,172f . 45) 引用は,Leopol dKat s cher ,Ger manLi f ei n Wor ks ,Bd.I V:Sc hoola ndUni v er s i t i esont he London,i n:TheNi net eent hCent ur y2,1887, Cont i nent ,hg.V.R.H.Super ,Uni ve r s i t yof S.726 741,hi erS.729. Mi c hi g anPr e s s1964,S. 91. 46) Vgl .Sunder ma nn,Nat i o nal i s mus ,S.71. Os owni ng,Mr .Mat t hew Ar nor d’ s carBr 47) Vgl .ebd. ,S.153. Repor ton Fr ench Educat i on,i n :Quar t e r l y 48) この点そして以下の叙述はロンドンのドイツ 31) Re v i e w 125,1868,S.482. ト ゥ ル ネ ン 協 会50年 史 に 依 拠 し て い る。 32) Mc nt os h,Game s ,S.177f . I Fe s t s c hr i f tz um Fünf z i g j ähr i g e n Be s t e he n de s 33) Vgl . ebd. , S. 191. Hol t , Cont r as t i ng De ut s c he nTur nve r e i ni nLondon18611911, Na t i ona l i s ms ,S.44. 34) Vgl .Ri c ha r dHol t ,Spo r tandt heBr i t i s h.A Mo de r nHi s t o r y ,Oxf or d1989 ,S.142. 35) この視点に関して,私はフランク・ガリガン に依拠している。Fr ank Gal l gan,Dr oi t wi ch Lo ndo n1911.Vgl .Ha j oBer net t ,Vom Sc hwa r z Rot Gol dz um Sc hwa r z We i ßRot .Di eGe s c hi c ht e desDeut s chenTur nver ei ni nLondon18611911,i n:Andr ea sLuh/Edga rBec ker s( Hg. ) , Umbr t─ uc h und Kont i nui t ät i m Spor 英国における「ドイツのトゥルネン」──ある文化伝播の挫折(クリスティアーネ・アイゼンベルク) Re f l e x i o ne ni m Umf e l dde rSpo r t g e s c hi c ht e .Fs . F .Ho r s tUe b e r ho r s t ,Boc hum 1991,S.298 309, 163 1995,S.300 320,hi erS.312. 60) Vgl .Fe s t s c hr i f t ,S.10,13;Don Ant hony, ならびに Sunder ma nn,Nat i o nal i s mus ,Ka p.Ⅲ. Rur a lRoot soft heModer nOy mpi c s ,i n:Spo r t s 4. I nt e r nat i o nal6,1982,S.36 37,hi erS.37,並び 49) Vgl .ebd. ,S.13.ロンドンのドイツ人コロニ に,1 866年3月の国内オリンピック委員会議事 ーに関しては,その他にも,Ros e ma r yAs t hon, 録。i n:Hammer s l eyScr apBook,Adl er s hot , Li t t l eGe r many .Ex i l eandAs y l um i nVi c t o r i an hel di nt heA. S. P . T.Mus eum,Al der s hot ;私は or d 1986; Pani kos Panayi , Engl and, Oxf ウイスター州ドロイトウィッチのフランク・ギ Ge r manI mmi g r ant si nBr i t ai ndur i ngt he19t h ャリガン氏から親切にもこの節を伝えていただ Ce nt ur y ,18151914,Oxf or d1995. いた。 50) Vgl .Fe s t s c hr i f t ,S.20,36. 61) Sunder ma nn,Nat i o nal i s mus ,S.169. 51) Vgl .ebd. ,S.20. 62) 52) Vgl .ebd. ,S.36. ヴィクトリア王朝時代のスポーツ活動に関す る概説として,J ohnR.Lower s on,Spor tand 53) Vgl .Fe r di na ndGo e t z ,Vo mr e c h t e nTur ne r l e b e n. Eng l i s hmi ddl ec l as s e s18701914,Ma nc hes t er Ei nNo t h-undHül f s b üc hl e i nf ürTur ne rs o l c he , 1993;Wr ayVampl ew,Pl ayupandpl ayt he di ee swe r de nwo l l e n,Lei pz i g18 91,S.28. g ame .Pr o f e s s i o nalSpo r ti nBr i t ai n18751914, 54) この点に関しては,As ht on,Li t t l eGe r many ; Sunder ma nn,Nat i o nal i s umus . Ca mbr i dge1988. 63) 55) Vgl .di eCha r a kt e r i s i e r ungde rSoz i a l s t r ukt ur desVer ei nsi nderFes t s c hr i f t ,S.20. 56) 64) Vgl .Sunder ma nn,Nat i o nal i s mus ,S.157. 57) Vgl . Davi d. L. Chapman, Sandow t he Mag ni f i c e nt .Eug e nSando w andt heBe g i nni ng s Vgl .ebd. ,S.166f f . ;Fes t s c hr i f t ,S.8.Ber net t , ofBody bui l di ng,Ur bana u.Chi cago,1994; Sc hwa r z Rot Gol dの異なる解釈は裏付けられて Mi chael Ant hon Budd, Her oi c Bodi es : いない。 58) この概算に関しては,Vampl ew,Pl ayup,S. 52. Phys i c a lc ul t ur ec ommer c ea ndt hepr omi s eof この意味における社会主義的なトゥルネン協 t heper f ect eds el f ,18981918,Ph.D.Thes i s 会は,とりわけ,ニューヨーク,フィラデルフ Rut ger sUni v er s i t yNe w Br uns wi c kNJ1992. ド ィア,ボルチモア,シラキュース,ロチェスタ イツの展開をめぐる他の視点に関しては,Vgl . ー そ し て ウ テ ィ カ に 存 在 し て い た。Vgl . Ha nnesNeuma nn,Di ede ut s c heTur nb e we g ung Ei s enber g,“ Eng l i s hs po r t s ” ,S.255f f . 65) Vgl .Pani kos Panayi ,TheEne myi n Our i n de r Re vol ut i on 1848/49 und i n de r Mi ds t .Ge r man i n Br i t ai n dur i ng t heFi r s t ame r i kani s c he nEmi g r at i o n,Sc hor ndor f1968, Wo r l dWar ,Ne w Yor ku.Oxf or d1991,S.281 . S.143,145f . 59) Pe r r eAr na ud/Andr éGounot ,Mobi l i s i e r ung de rKö r p e rundr e p bl i ka ni s c heSe l bs t i ns z e ni e r ung 66) こ の 点 に 関 し て は,Ei s enber g,“ Engl i s h s po r t s ” ,S.306f .イギリス連合王国における一般 的 な 政 治 的 背 景 に 関 し て は,Mar i elGr ant , i n Fr ankr ei ch ( 1789 1889) .Anät z ez u ei ner TheNat i onalHeal t h Compai gnsof1937 38, v e r gl e i c he nde nde ut s c hf r a nz ö s i s c he nSp o r t ge s c hi c ht e , i n:Der ek Fr as er ( Hg. ) ,Ci t i e s ,Cl as sand i n:Et i enneFr a nc i osu.a .( Hg. ) ,Nat i o nund Communi c at i on.Es s ay si n Honour ofAs a Emot i on. De ut s c hl and und Fr ankr e i c hi m Br i g g s ,He me lHe mps t ea dt1990,S.216 233. Ve r g l e i c h,19.und20.J ahr hunde r t ,Göt t i ngen