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58号
( 1 ) 第 58 号
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
ゆめクラブ鎌倉 会員広報紙
発 行
鎌倉市老人クラブ連合会
発行人
編集人
大久保安夫
都筑 健一
門田 京蔵
山本 照子
〒248-8686
鎌倉市御成町18-10
鎌倉市老人クラブ連合会
(愛称・ゆめクラブ鎌倉)
(0467)
61-3930
第58号
印刷 (株)
博報社 大阪市平野区喜連西4-6-69 (06)
6797-0212
スメ!﹂を共同制作、放映するこ
テ レ ビ と 新 番 組﹁ 鎌 倉 元 気 の ス
事業として六月から鎌倉ケーブル
捉 え、 こ の た び 新
け﹁生きがいづくり、健康づくり﹂
を通じて新たな会員加入を呼びか
ができるようにします。この番組
し、高齢者のニーズにあった番組
と鎌倉ケーブルテレビとで協議
鎌倉ケーブルテレビにて 1 日 2 回放映決定
二〇〇七年から、
鎌倉でも定年を迎
えた団塊の世代の
方が第二の人生に
踏 み 出 し、 地 域 に
戻ってきます。
年は会を活性化す
私たちゆめクラ
ブ鎌倉は二〇〇七
① 8:30 ∼
② 22:40 ∼(月火水木)・22:30 ∼(金土日)
るためPRの年と
また、この番組を地域社会との
架け橋とし、会の活動を支えてく
とになりました。
が 取 材、 情 報 提 供 番 組 と し て 五
れるボランティアスタッフも募集
を発信していきます。
分間放映します。内容は定期的に
する予定です。
今回の﹁かまくらびとに聞く﹂には、
㈱かまくら春秋社代表・伊藤玄二郎氏
を迎えることができた。氏が発行人を
務 め る 文 芸 タ ウ ン 誌〝 か ま く ら 春 秋 〟
は、 昭 和 四 十 五 年 創 刊 か ら 現 在 ま で、
鎌倉の歴史、文化、風情、情報をまさ
に絶妙な配分で掲載、しかも手のひら
にしっくりくるサイズがまたいい。
今なお読者の心を掴んで離さない
〝かまくら春秋〟に、
我々の﹃やまもも﹄
も大いに学ばせていただこうという思
い と、 伊 藤 氏 が ち ょ う ど 団 塊 世 代 の 当
事者であるので、この世代の本音も聞
いてみたい。そしてもう一つ、河出書
房編集者時代からの鎌倉文士とのエピ
ソードもうかがいたい⋮など、あれも
これもと頭の中がはち切れんばかりの
思惑を抱えて、いざ春秋社へと向かっ
たのである。 ︵対談者 都筑・門田︶
ゆめクラブ鎌倉の専門部会の会員
内容は会員が参加するイベント
等をいち早く鎌倉ケーブルテレビ
みなさんで
2007 年から、
メージを
老人クラブのイ
?
えてみませんか
変
58 号 主な も く じ
2 面 伊藤玄二郎氏インタビュー
3 面 加入増強へのひと工夫
4 面 鎌倉ゆかりの人・小林 勇
5 面 ゆめクラブ鎌倉の動き
7 面 鎌倉市・足利市老連姉妹都市交流会
9 面 鎌倉海濵ホテルを憶う
10 面 会員投稿コーナー
12 面 鎌倉散歩、やまももさん
鎌倉市の人口 175,902 人 高齢化率(65 歳以上)全市 25.2%(地区別※ 鎌倉地区 7.7%、腰越地区 4.3%、深沢地区 4.9%、大船地区 5.4%、玉縄地区 2.9%)平成 19 年 3 月末日現在 ※市全人口に対する割合
鎌倉市老連会員数 4,001 人(地区別 鎌倉地区 1,416 人(35.3%)、腰越地区 465 人(11.6%)、深沢地区 706 人(17.7%)、大船地区 827 人(20.7%)、玉縄地区 587 人(14.7%)平成 19 年 3 月末現在
★鎌倉市老連ホームページアドレス http://www.kamakura-rouren.jp/ ★メールアドレス [email protected] ◎数字は住民基本台帳をもとにしています
への作家まわりを命じられ
見弴、小林秀雄、永井龍男等
近くに住む文壇の大御所、里
河 出 書 房 に 入 社 し て す ぐ、
鎌 倉 住 ま い と い う こ と か ら、
七十歳はまだ﹁子ども﹂
送り出したのだ。
趣きの違うユニークな雑誌を
りこんで無料地域情報誌とは
倉文士たちの流れを巧みにと
たゆたう贅沢なゆとりと、鎌
着想する。そして古都鎌倉に
糧として﹁文芸タウン誌﹂を
座の幸福﹂を味わい、これを
化的価値を持つものなら、な
値をつける、さらにそれが文
す。こだわった活動で付加価
う人が集まってくると思いま
れをやりたい人や楽しいと思
ことにこだわりを持てば、そ
本当にやりたいこと、楽しい
に 帰 す と い う の で は な く て、
に声明を教えていただいたの
﹁直木賞作家の永井路子さん
られたもの。
仏教伝来とともに日本に伝え
統的声楽曲で、五∼六世紀に
をつけて唱える仏教儀式の伝
声明とは真言や経文などに節
が、
天台声明
︵しょうみょう︶
。
もちろん何を﹃変わらない企
ない企画﹄が必要になります。
すが、新鮮な企画と﹃変わら
まざまな企画を考えるわけで
がコンセプトです。そこでさ
内で読み終える分量というの
と、東京までの約一時間の車
誌 を 目 指 し て い ま す。 そ れ
った里見弴宅に行った際、﹃ぼ
中でも気難しいことで有名だ
ができたが、当時一〇四歳だ
弴の晩年のエネルギッシュ
な仕事ぶりを間近に見ること
うか﹂
。
おさらいいのではないでしょ
ンキで行われた天台声明のイ
年になります。昨年、ヘルシ
がきっかけですから、もう七
は そ れ が 二 ∼ 三 本 あ り ま す。
す が ⋮。〝 か ま く ら 春 秋 〟 に
画﹄にするかが大きな問題で
ゆずれない核を持つという
ことだろう。それは﹃やまも
い い 意 味 で〝 偉 大 な マ ン ネ リ 〟
も﹄の編集だけでなく、単位
ベントでは、
芥川龍之介の
﹁蜘
明はいろんなジャンルの音楽
や地区、市老連全体のクラブ
そういう伊藤氏が今こだわ
っているのは、建長寺で毎週
ともコラボできるし、無限の
活 動 に つ い て も 言 え そ う だ。
った里見の姉の高木志満子さ
建長寺と伊藤氏らがつくるN
可能性を秘めています。音楽
これだけはという信念にも近
くの作品を読んだことはある
﹁﹃ 七 十 歳 は ま だ ま だ 子 ど も ﹄
PO法人﹁日本語の美しさを
に国境はないことも教えられ
です﹂
。
といわれたが、これから年を
伝える会﹂との共催で平成十
ました﹂
。
蛛の糸﹂と声明をコラボレー
重ねていく私にとっても大変
七年一月二十二日からスター
トさせて大変好評でした。声
﹁ 実 は、 伺 う 前 に 作 品 を 読 ん
励みになる言葉だ。ゆめクラ
トして、昨年十二月十六日の
土曜︵十時∼十一時︶に開催
でいこうかとも考えました
ブの皆さんも志満子さんのよ
している﹃親と子の朗読会﹄
。
が、この期に及んで付焼刃だ
うに凛として年にこだわらず
んの言葉が忘れられない。
とよけいに先生に失礼だと思
一人でも寂しくない、個人が
しかし、今は情報があふれて
り、 心 の 拠 り 所 だ っ た か ら。
ョンが図れる唯一の場所であ
昔、老人クラブが隆盛を極
生は﹃正直でいい﹄と言って、
め た の は、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ
どもたちの表情が実にいいで
れます。朗読を聞いている子
くらいの幅広い世代が参加さ
す。下は二歳から上は八十歳
供物をいただくという行程で
があり、私の解説、お寺のお
優の牧三千子さんの名作朗読
を唱えてから座禅を組む。女
﹁
〝かまくら春秋〟の編集の原
魅力なのだろう。
の匂い﹄を漂わせているのが
しかも丁度いい頃合で﹃鎌倉
容だが、
それが心憎い配分で、
グラビアなど多岐にわたる内
座談会記事、連載エッセイや
表紙のデザイン、氏の対談や
四 月 で 四 四 四 号 を 発 行 し た。
ゆずれない核をもつ
﹁ゆとり教育の弊害を埋め
〝かまくら春秋〟は創刊以
たいという思いから始めまし
来多くの人に愛読され、この
伊 藤 氏 を 通 じ て、 団 塊 世 代
はこだわりを持つ年代である
リ〟なのだ。
みる。それが〝偉大なマンネ
ら、迷わず最後まで楽しんで
当然必要。しかし核を決めた
感情が持てるかということも
とか﹃ワクワクする﹄などの
も、まず自分たちが﹃楽しい﹄
核を持つには徹底した吟味
も必要だし、その核について
今でも忘れられない。
って、全く読んでいきません
開催で百回を迎えた。
この時の里見弴は八十を超
えていたが、永井龍男がのち
個人で成り立つ時代になっ
す﹂
。
い、ゆるぎない核をもつこと
若い世代の大きな目標であっ
に伊藤を﹁里見さんのうちの
た。 老 人 の 大 衆 化 と い う か、
こ と も わ か っ た。 こ の 世 代 へ
以来随分とかわいがってもら
いました﹂。
いうものもある。無理して引
とも大切ですが、賞味期限と
﹁組織というのは長く保つこ
ようになることが先決なのだ。
し い こ と ば に 触 れ て、 使 え る
美 し い 日 本 〟 と い う 前 に、 美
だ と い う 伊 藤 氏。 な る ほ ど〝
が必要なのだ。
人﹂と評したほど編集者の立
それは組織にあってもしかり
点は、隣の人に読みたいと思
の 加 入 促 進 に つ い て も、 大 き
偉大なマンネリ
場を離れ私淑した。弴は懐に
〝美しいことば〟を使うことで
ってもらえる雑誌づくり。読
てほしいのです﹂
。
とびこんできた伊藤を息子の
で、
大衆化が押し寄せている。
豊 か な 心 と か ら だ を 育 む。 そ
っぱらずに、時代の流れに沿
だ か ら 隔 月 発 行 の﹁ 星 座 ﹂
︵㈱かまくら春秋社発行=コ
(代表に就き現在に至る)。1998 年ポ
ルトガル国立リスボン工科大学客員
教授(現在に至る)2002 年関東学院
大学人間環境学部教授(現在に至る)
た。朗読会は、まず般若心経
ように導いた。とりまく文士
そんな時代の中で老人クラブ
って一度無くしてみるのもい
ンセプトは﹃改めて日本語の
就き現在に至る)。1988 年日本ペン
クラブ会員。1991 年日本ポルトガル
協会会員。関連会社㈱人間社を設立
こだわりを持ち
名前も今まで知らなかった﹄
付加価値をつける
とお答えしました。すると先
たちの中にあって、彼は﹁末
い。ゼロから改めてパッケー
あり方を問い直す﹄
︶ は、 自
主な著書に「風のかたみ」「末座の幸
福」、編書に「父の肖像」などがある。
なヒントをいただいたようだ。
ジし直すのもいいのではない
身が編集発行人を務める。そ
2004 年エンリケ王子勲章コメンダ
ドール章叙勲(ポルトガル政府より)
んで納得してもらえるタウン
かと思います。ただ、今も老
してもうひとつのこだわり
後、河出書房に入社。里見弴、小林
秀雄ら鎌倉在住の作家を担当。1970
年㈱かまくら春秋社を設立(代表に
れが今の子どもたちには必要
人クラブが会員の心の拠り所
いとうげんじろう 1944 年鎌倉市生
まれ。中央大学法学部政治学科卒業
はどう生き残るか。
であるのも事実。あせって無
伊藤玄二郎 氏
プロフィール
だこともないし、里見弴のお
でした。それで先生に﹃読ん
か﹄と問われた時の緊張感は
四 歳 の 氏 に は ま さ に 試 練 で、
た。大学を卒業したての二十
第 58 号 ( 2 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
進む加入促進への動き
それが案外大切なことだと思うの
です。
県老人クラブ連合会では、
平成十七年の八月から、老人クラ ﹁手伝って﹂という魔法のことば
ブ の 活 性 化 と 加 入 促 進 に つ い て、
新しい行事の開拓が課題
地域ごとに即した活動や
平成十七年十一月の第一回から
以 後、 隔 月 に 委 員 会 を 開 催 し て き
腰越地区西鎌倉親寿会
会長 佐々木俊文
深沢地区寺分楓会
会長 大野 秀夫
玉縄地区坂本町喜楽会
入してはくれません。ここでがっ
の 県 内 各 老 人 ク ラ ブ の 現 状、 年 間
ションの継続などが結実するのか
し た 行 事 へ の 参 加、 コ ミ ュ ニ ケ ー
専門委員会をもうけ、この永遠と
さて、今年、団塊世代が老人ク
ラブ加入適齢期ですがなかなか加
なりました。専門委員会では、ま
かりせず、魔法のことばが老人ク
行 事、 会 員 減 少 へ の 対 策、 さ ら に
と思います。
﹁テレビ﹂の活用、
﹁や
もいえるテーマに取り組むことと
ずその価値を認めながら、なぜ会
ラブを救います。老人クラブで実
は近づく団塊世代との交流などに
会長 加藤 好雄
ました。
第 一 回 の 委 員 会 で は、 青 池 県 老
会 員 増 強 は、 打 っ て 一 丸 と な り
連 総 務 課 長 を 招 き、 広 い 視 野 か ら
行 う 不 断 の 努 力 で す。 地 域 に 密 着
員が減少、クラブの解散が進んで
際行事を行うときに団塊世代も
開催していきたいと考えています。
開かれた老人クラブとして行事を
しまうのかなど、多くの議論がな
﹁ゆめジャーナル神奈川﹂を通し
て 入 る 情 報 を 基 本 と し て、 地 域 に
ま も も ﹂ の 活 用、 ゆ め ク ラ ブ の 行
の で す。
﹁老人クラブにはいらな
即 し た 運 動、 行 事 を 開 拓 す る こ と
つ い て、 貴 重 な 情 報 が 寄 せ ら れ ま
いか﹂ではありません。困ってい
は私たちの課題だと感じました。
ふくめ未加入の若い世代に向かっ
ればこれも人の情。サポーターは
され、課題の整理を行っていきま
かなり期待できそうです。こうし
各地区長からの状況報告の中か
ら、 活 発 な 活 動 を 展 開 す る 単 位 ク
事 へ の 参 加 を は じ め、 こ れ か ら も
これより以前には、県老連機関
紙﹁ ゆ め ジ ャ ー ナ ル 神 奈 川 ﹂ で
て、老人クラブ加入の種は蒔かれ
ラ ブ の 報 告 が あ り ま し た。 こ れ ら
した。
も、平成十六年四月から﹁かわら
ます。そのため、日常的にそれ以
の ク ラ ブ を モ デ ル 地 区 に 決 定、 今
て﹁こちらも年取って体もしんど
なきゃ老人クラブ﹂のシリーズを
前に自分が無理せず楽しんでやれ
後のあり方の指針になっていただ
した。
開始。専門委員会は七回の協議と
ること、たとえば隣近所の﹁あい
こうとお願いしました。
い。手伝ってくれないか﹂という
様々な情報を得る中で、課題を①
さつ﹂などがあります。何かでき
当面の課題は六つ
リーダー ②クラブ活動の内容 ③
◎活性化モデルクラブ
会﹂という新しい企画を打ち出し
年一回行っていた歩こう会の企
画を変更、
﹁防犯パトロール歩こう
る 心 の 拠 り 所、 こ う し た 場 所 づ く
﹁サロン﹂にある。何でも話し合え
そ の 活 力 源 は、 役 員 や 班 長 が 集
まって頻繁に行われているという
しても広がりつつある。
た。 こ れ が 会 員 の 人 気 を 集 め、 会
にする社会活動です。二本の柱は
にする楽しい活動と、地域を豊か
て も ら い、 採 れ た て の 野 菜 や 果 物
る。 さ ら に、 農 園 利 用 者 に 協 力 し
したいために会員になった人もい
園 ﹂ に し た。 中 に は 野 菜 づ く り が
を﹁楽しむ﹂事が一番大切なのでは?
てなにより、会長自身が自分のクラブ
体の魅力的な活動が必要である。そし
の方との連携 ②会長の熱意 ③会員主
◎加入促進には、①役員の協力と地域
である。
だ ろ う。 発 想 の 転 換、 企 画 の 勝 利
りも会の活性には欠かせない要素
ま た、 野 菜 や 花 を 育 て た い と い
う 会 員 の 声 に 応 え て、 休 耕 園︵ 九
員増強と会の活性化につながった。
◆ 新しい企画をどんどん取り組む
﹁加入増強﹂推進事例
そうな気がしてきませんか。
⑤広報 ⑥地域団体との連携の六
つにしぼりました。
原理原則は﹁楽しいこと﹂
私は、個人的に極言すれば課題
解決は結局老人クラブが楽しいか
否かと思いました。参加して、人
のお世話をして、仲間といるから
楽しい⋮。
実に上手にできてはいるのです
を 老 人 福 祉 施 設 に 届 け る な ど、 お
百 坪 ︶ を 会 員 限 定 の﹁ お 楽 し み 農
が、
それぞれが﹁楽しい﹂ことで、
老 人 ク ラ ブ の 活 動 の 全 体 像 に、
二本の柱があります。生活を豊か
楽しみ農園を軸にした友愛活動と
経営︵財政︶④活動の拠点と範囲
魔法のことばとは ?!
加入増強へのひと工夫
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
ゆめクラブ鎌倉
( 3 ) 第 58 号
と う せ い
1903
N
せ き れ き そ う
と茂雄の面影を写した﹁蝸
さんに父上を改めて総括し
︵ ︶
、 て い た だ い た。
牛 庵 訪 問 記 ー 露伴先生﹂
﹁父は書も
の晩年
︵ ︶ 絵も全て独学であり努力の
﹁ 惜 櫟 荘 主 人 ー 一つの岩﹂
波茂雄伝
は、彼の自伝をも兼ね代表
人 で あ っ た。 全 て を 真 剣
作である。
にとり組み、一方ユーモア
息子を失った直後六十歳
を楽しみ、人とのおつき合
の露伴と二十三歳の時の出
いを楽しんだことなどでし
会い以降、当初は二日に一
ょうか﹂
。そして親子の時
度、 そ の 後 も 訪 問 の 回 数
間を常に大切にされたよう
は驚くべき程で、幾度もの
だ。
旅・岩波の惜櫟荘・勇の家
彼は四十七年六十九歳で
冬青庵での長い滞在では彼
岩波の会長も退き、絵筆中
の側にあり、すべての命名
心の隠栖生活に入っていた
案件は露伴が名づけた。そ
が、五十代からはじまった
の最後には葬儀委員長もつ
リウマチに加えて七十三歳
とめその心酔と尊敬はただ
頃から痛風を併発し、右手
ならぬものであった。また、 が不自由になったが左手で
勇は終生娘・文と孫・玉の
も描き続けた。五十五年頃
よ き 庇 護 者 を 通 し た。﹁ 一
から入退院を繰り返してい
本の道﹂︵ ︶では、﹁少し
たが、五十六年七十八歳の
く主観を出して随筆風な自
十一月二十日急性心不全で
伝﹂を書いたが、あと美術
逝去。葬儀委員長は武見太
随想・飲食記・小説︵わず
郎がつとめ、弔辞で﹁気力・
か四短篇︶
・草花記・身辺記・
度胸・計画性に富み、真実
画集等がある。
を求める強い人、そして不
一篇二頁千字という縛り
屈の人であり、日本の代表
で 書 い た 二 百 篇︵﹁ 小 閑 ﹂ 的町人﹂と表現した。私は
︵ ︶﹁竹影﹂︵ ︶︶は絶品
重ねて﹁愛と反骨の人﹂で
で あ り、﹁ 山 中 獨 膳 ﹂︵ ︶ あ り、
﹁個性的エッセイス
﹁厨に近く﹂︵ ︶は軽井沢
ト﹂と肩書きしたい。
山荘での独自の自炊生活に
彼 の 墓 は 東 慶 寺 に あ り、
孤独の影が垣間みえる。
岩波はじめ親しかった人々
彼は十七年頃より身辺の
に近く、また小林秀雄もす
草花静物を主に写生して絵
ぐそばに眠っている。戒名
筆をとることに情熱を傾
は﹁ 嘯 風 院 定 巖 冬 青 居 士 ﹂
け、この文人画では、画人
である。
※勇の著作は古書店でよく見かけ
冬青として一家をなしたと
る。中央図書館には主要なものと
思われる。また美沙子さん
﹁文集 巻﹂と﹁回想﹂がある。
の 滞 米 中 に は、 百 二
十枚の絵手紙を送り、
先般の展示物の中で
も 目 を ひ い た。 帰 国
後﹁ 懐 遠 ﹂ と 勇 は 題
字を書いて桐箱に納
め、 彼 女 の 誕 生 日 に
プレゼントした。
▶薔薇・李朝鉄砂壺
展 示 会 中、 美 沙 子
一九八〇年
S35
S31
S38
S46
露伴
ー
ー
S48
まこと
がつぶされ、次は岩波と五
げる。それまでの豊かな人
不屈の人・日本の代表的町人
月治安維持法違反の名目嫌
脈を活かし、その経営は苦
疑で、勇は東神奈川警察に
しかったが、六年間に幅広
岩波書店の大黒柱
拘 禁 さ れ 尋 問 拷 問 を 受 け、
く百八十点も刊行すること
これにはたえたが釈放は八
ができた。
小林勇の生涯
月末であった。直後茂雄長
この間入店時より近くで
二階堂白寿会
門田
京蔵 男雄一郎が病死し、三木清
育った八歳年下の茂雄の次
鎌倉文士には二人の小林
び込み、店主岩波の三十分
の獄死、翌年には茂雄が亡
女小百合との愛が実る。当
がいる。評論の神様秀雄と
ほどの面談で入店を許され
くなり、勇は支配人として
初
茂
雄
は
二
人
の
結
婚
に
反
対
出 版 人 で も あ っ た 随 筆 家、 る。岩波四十歳、
勇十七歳。 であったが、一年後には一
名実ともに店を代表する立
冬青小林勇である。昨年十
勇の入店した創業七年目
場となる。そして二十二年
転して積極的に支持し祝福
一月から正月にかけて、県
でも、ほとんど小倅の店員
には露伴の死去となる。
した。
立近代文学館で﹁露伴・茂
でまだ丁稚奉公の時代であ
二十四年店を株式会社と
こうして親子の関係にな
吉・寅彦と小林勇展∼一本
った。勇は小売・営業・出
し、次男雄二郎を社長とし
りながら同業他社にいるこ
の 道 あ る 出 版 人 の 軌 跡∼ ﹂ が
版部と岩波に殊更目をかけ
て、 自 ら は 専 務
あった。期間中に長女小松
られ、大いなる感化を受け
と な る。 こ う し
美沙子さんと、露伴の孫娘
成長した。二十三歳の時に
て戦後の広範な
青木玉さんの感慨深い記念
はただ一人の編集部員とな
出版物に勇の理
講 演 が あ り、﹁ や ま も も ﹂ り、露伴・茂吉・寅彦等と
念は相当反映し
に小林勇について書こうと
の接渉を受け持つようにな
た と 思 わ れ る。
決断した。そして一ヵ月半
っていた。
﹁文化の配達夫﹂
大 正 末 改 造 社 の﹁ 現 代 日
かかって、全著作二十冊を
として出発した
本文学全集﹂で円本ブーム
読み返したのだ。
茂 雄 の 旗 印 も、
小 林 勇︵ ∼ ︶ は、 明
が は じ ま り、 岩 波 は こ の 種
とに疑問の声がおこり、九
堅実な出版物の
﹁岩波文化﹂
治三十六年長野駒ヶ岳の裾、 の 出 版 に は 反 発 し た が こ の
年岩波に復帰する。このあ
として開花結実したのでは
赤穂町の三十代以上続く農
流 れ に は 乗 り お く れ、 窮 余
と長男・長女の誕生と、寅
なかろうか。
家 に、 四 兄 二 姉 一 妹 の 五 男
の策として小型本にて古典
彦の死があり、十二年寅彦
さて、勇を知るには、す
と し て 誕 生 し た。 大 正 七 年
名 作 の 普 及 を 目 指 す。 勇 は
全集の編纂の傍ら、彼が親
べてが彼自身である著作物
小 学 校 卒 業 後、 一 年 実 業 学
三木清とともに岩波文庫の
族らから聞き書きした初め
に在る。
五十二歳になって、
校 に 学 び 、 自 ら﹁ 生 涯 学 歴
発 刊 の 主 軸 と な り、 併 せ て
ての﹁回想の寺田寅彦﹂を
やっと長い編集者生活を回
ナシ﹂と称し学歴尊重の連
遺言により舞いこんだ芥川
刊行する。
想 し、 随 筆﹁ 遠 い あ し 音 ﹂
大 正 六 年、 茂 雄 の 家 族 が
中を笑う姿勢を示した。
全集の編纂にも忙殺される。
で露伴・茂吉・寅彦・吉右
坂 ノ 下 に 住 み、 以 降 市 内 を
卒業後農事に専心した
こんな事情で過重労働状
衛門等を回想し、たちまち
転 々 と す る が、 昭 和 十 三 年
が、四兄や友人の影響で武
況の中新参の店員たちの不
日本エッセイスト・クラブ
勇一家は名越の茂雄の家に
者小路実篤・白樺派・啄木
満がつのり、ストライキが
賞を受賞、続いて﹁彼岸花
追憶 ﹂
︵ ︶
﹁人はさびしき﹂
に親しみ上京を望んだ。長
おきて労働条件の改善の外
転 居 し、 十 六 年 扇 が 谷 に 家
三十三人
を建ててもらって四十三年 ︵ ︶と親炙した人々を描
兄がそれほど本が好きなら
に小林と の即時退職が要
﹁あの老大家たちのい
間の彼の終の住処となった。 く。
ばと、岩波書店に二人で飛
求されたりした。
戦時下十三年古典中心の
勇の退社表明
きなり腹中にとびこむのが
文庫に対し、現代的教養の
彼独特の至芸であり、ぢぢ
には茂雄の強
涵養に資するものがほしい
殺し﹂と中野好夫が彼を評
い反対があった
と﹁岩波新書﹂が企画され
したが、勇の描く人物肖像
が、 結 局 半 年 後
る。勇は生涯戦争絶対反対
は寔に彼の独壇場でそのつ
昭和三年茂雄の
き あ い の 深 さ・ 絶 妙 さ は、
を表明し、新書にも検閲す
理解と援助を受
義父茂雄仕込みに加えて勇
れすれの時局への抵抗と批
け 独 立、 露 伴 の
の人柄がしのばれる。特に
判が根底にあった。
命 名 に て﹁ 鉄 塔
彼の人生の恩師である露伴
終戦の年中央公論・改造
書院﹂を立ちあ
11
S40
S53
第 58 号 ( 4 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
1981
岩波茂雄(1881 ∼ 1946)
岩波書店の創
業者。長野県諏訪郡中州村(現・諏訪市)
生まれ。東京帝国大学哲学科選科を卒業後、
教職を経て 1913 年に古書店・岩波書店を
開業。翌年夏目漱石『こゝろ』を処女出版
として書店の事業を本格化した。
岩波写真文庫
S43
S50
ゆゆめめククララブブ鎌鎌倉倉のの動動きき
市老連活動の報告と情報のコーナー
の方は再任されました。元
部 退 任 が 承 認 さ れ て、 他
睦 を 打 ち 出 し ま し た。 呼 び か
なし、金銭無関係、相互の親
た が、 こ れ ら を 排 し て 賭 け 事
発案が実を結びました。
めクラブ鎌倉でのユニークな
けが実り会員の理解を得てゆ
気な高齢者は地域において
も、組織においても、いつ
ま で も 健 康 で 奉 仕 活 動 に、
健 康 体 操 に、 趣 味 の 世 界
す。団塊の世代を迎え、お
麻 雀 教 室 は、 N P O 法 人 健
康麻将全国会の支部の主催
新緑の香りが漂う緑の日
に 先 だ っ て、 四 月 二 十 七
互いに融合し仲間づくり
でも常に率先したいもので
日、平成十九年鎌倉市老人
ま し た︵ 手 広 西 公 会 堂 で 月 四
で、 今 年 の 一 月 か ら は じ ま り
クラブ連合会総会が生涯学
に進行する黒板の文字を目で
10/7 , 10/14 , 10/21 ,
10/28 , 11/4(毎週日曜)
30
た。大久保会長あいさつ後、
感 を 解 き 放 そ う、 こ れ ら を 満
追 い な が ら、 手 も と の 牌 を 見
大町自治会館
習センターで開催されまし
に、新たな活動に、清新の
回、 火 曜 日 午 後 一 時 か ら 四 時
気を取り入れたいもので
まで︶。
脳 の 活 性 化 を 図 ろ う、 手 を
四人ずつ二卓を囲んで講師
動 か し、 視 線 の 活 動 と 瞬 時 の
す。
の 話 に 耳 を 傾 け、 講 義 と と も
判 断 力 を 養 お う、 そ し て 緊 張
たして明日への活力に資した
二部は武家の都、古都鎌
佐々木俊文氏が議長に選出
倉を世界遺産登録推進に向
比べて分かったような顔をし
鎌倉第三
さ れ、 議 事 に 移 り ま し た。
い、 な ど の 思 い が 麻 雀 教 室 開
30
けて、学芸員の斎藤一真講
て う な づ き な が ら、 和 や か に
6/5 , 6/12 , 6/19 , 7/3 ,
7/10(毎週火曜)
平成十八年度事業報告、収
卓 を 囲 ん で い ま し た。 経 験 の
深沢生涯学習センター
師から理解を深めていただ
講 へ の ヒ ン ト と な っ て、 こ の
深 沢
支決算報告に続き、平成十
度の楽しい教室を開くことに
30
く講演が行われました。こ
6/2 , 6/9 , 6/16 , 6/23 ,
6/30(毎週土曜)
九年度事業計画案、予算案
稲村ヶ崎小学校
の運動には地域に根ざす高
鎌倉第二
などが審議され、質疑応答
定員
す く、 そ の 都 度 実 際 の 牌 に 手
開催日程
を経て原案通り満場一致で
有無にかかわらず、分かりや
を触れながらの説明を受けて
5 月 20 日㈰ 第 5 回世代ふれあいの会開催
(鎌倉市立深沢中学校体育館)13:30 ∼
10 月 4 日㈭∼ 11 月 1 日㈭ 毎週木曜日
水中ウォーキング
(山崎こもれび温水プール)14:00 ∼
なりました。
齢者の知識と経験を活用さ
麻雀は賭け事の対象として
の イ メ ー ジ が 強 く、 賭 け な け
開催場所
れたいものと結ばれ、満場
地 区
承認されました。
地域出前講座「いきいき健康体操講座」(平成 19 年度)
る助講師の方が親切に指で示
して丹念に教えていました。
﹁ヤァ﹂の声とともに﹁ロン﹂
と張りのある声がして手が挙
が り ま し た。 講 師 が 近 づ い て
﹁ や り ま し た ね、 キ レ イ に あ
が っ て い ま す。 こ の 場 合 に は
この牌を⋮﹂などと声をかけ
て周囲の人がのぞき込むとこ
ろ へ、 牌 を 示 し て 詳 細 な 説 明
を加えて指導していました。
初 心 者 も 中 級 者 も、 時 に は
首をかしげて﹁ハテナ﹂とや
るとただちに講師が足を運ん
できます。どんなゲームか?
か ら は じ ま っ て、 あ が り 方、
フ リ テ ン、 一 個 縛 り、 ツ モ な
ど、基本四役など日を追って
楽しさが増し、お互いの親睦
感が増してくるようでした。
︵都筑 健一︶
※サークルご希望の方は
坂尻まで☎三一ー二七七六
◆その他近日開催予定の行事
い ま し た。 と き ど き 巡 回 さ れ
※会員以外の方の募集は、市広報でお知らせいたします。
れば⋮との印象が支配的でし
世界遺産登録推進担当
玉林 美男氏
の関心を呼びました。
うたごえの店ともしび
加藤 晴夫氏
さあ元気に歌おう、あの歌、
この歌! えっ、新しい歌も
7 月 5 日㈭ 9:30 ∼ 11:30
文芸評論家
尾島 政雄氏
フリーアナウンサー
久能 靖氏
良寛さんと
一茶の生きざま
高齢者の年金問題、そし
7 月 3 日㈫ 9:30 ∼ 11:00
て皇室のお話について
世界遺産登録を目指して
7 月 4 日㈬ 9:30 ∼ 11:30
武家がはじめて造った政権都市
7 月 2 日㈪ 9:30 ∼ 11:30
講 師
演 題
時 間
開催日
役員改選では執行部の一
第 43 回老人大学寿講座予定表
鎌倉市老連総会を開催
日 程
4 月 4 日㈬∼ 6 日㈮
4 月 11 日㈬∼ 26 日㈭
4 月 27 日㈮
5 月 17 日㈭
5 月 18 日㈮
5 月 20 日㈰
6 月 20 日㈬ 雨天の場合 22 日㈮
6 月 27 日㈬∼ 29 日㈮
7 月 2 日㈪∼ 5 日㈭
9 月 2 日㈰
9 月 5 日㈬∼ 7 日㈮
10 月 7 日㈰
10 月 3 日㈬∼ 11 月 10 日㈯
10 月 10 日㈬
10 月 15 日㈪ 雨天の場合 16 日㈫
10 月 18 日㈭ 雨天の場合 19 日㈮
11 月 6 日㈫∼ 12 日㈪
11 月 9 日㈮
11 月 22 日㈭
11 月 25 日㈰
11 月 26 日㈪∼ 28 日㈬
12 月 7 日㈮
1 月 9 日㈬
行 事 名
市老連春期研修旅行(和歌山・白浜)
いきいきノルディックスポーツ
平成 19 年総会(鎌倉生涯学習センター)
歴史探訪
足利市老連交流研修会
機関紙「やまもも第 58 号」発行
グラウンドゴルフ大会(笛田公園広場)
市老連研修旅行
第 43 回老人大学寿講座(レイウェル鎌倉)
福祉バザー
市老連秋期研修旅行
鎌倉銭湯寄席
ダンス講習会(武道館)
講演会
横須賀三浦ブロックスポーツ大会
グラウンドゴルフ大会(笛田公園広場)
第 35 回高齢者の趣味の作品展(大船第一・第二・玉縄地区)
功労者のつどい(鎌倉生涯学習センター)
芸能大会(レイウェル鎌倉)
機関紙「やまもも第 59 号」発行
市老連研修旅行
年末慰問
新年賀詞交歓会
平成 19 年
鎌倉市老人クラブ連合会(平成 19 年度)の動き
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
ゆめクラブ鎌倉
( 5 ) 第 58 号
四月の声を聞くと、なぜ
か心温かくパワーがでるよ
とから、円月島と呼ばれ白
がぽっかりとあいているこ
の美しさは格別で、夏は六
ホテルむさしの横には白
ら はま
良浜といわれる白い砂の海
なぎ
はやたま
象徴となっています。
今回も楽しい思い出のバ
ス旅行でした。
ゆめクラブ鎌倉 新事業をご紹介します!
そして親睦を深め
ることなどを目的に三年
前からダンス教室をはじ
めました。
初 め は﹁ 老 人 ク ラ ブ が
ダ ン ス を は じ め る の か?﹂
え て 下 さ い ま す。 興 味 の
あ る 人 は、 男 と 女 が し な
や か に ふ れ あ い、 リ ズ ム
にのって踊ってみません
か? 若 い 人 に 負 け な い
よう元気老人の粋なとこ
ろをみせたいものです。
︵坂尻正行︶
す。
思 っていま
ば幸いと
いただけれ
り楽しんで
れぞれに踊
を求めてそ
て い ま す。 新 し い 出 会 い
トレーションが用意され
他プロの方々のデモンス
白石先生のワンポイン
ト レ ッ ス ン が あ り、 そ の
ことになりました。
イベントにして開催する
老人クラブ連合会の一大
日 ㈯、 芸 術 館 小 ホ ー ル で
と 題 し て、 十 二 月 二 十 二
今 年 は 四 年 目﹃ ふ れ あ
く り、 会 員 の 交 流、
い 鎌 倉 ダ ン ス パ ー テ ィ﹄
老人クラブは美
容 と 健 康、 仲 間 づ
12 月 22 日開催
春らんまんの南紀白浜・勝浦旅行
うです。四月四日から六日
浜のシンボルとして親しま
大船田園柏寿会
大久保安夫
まで、二泊三日の﹁ゆめク
れています。日の沈む夕景
南紀白浜と勝浦へ行きまし
時三十分頃、冬は四時三十
の中央には円月形の海蝕洞
ラブ鎌倉﹂春のバス旅行で
た。
進み車中で昼食弁当を楽し
水浴場がありますが、砂が
二泊目の宿泊先、ホテル
浦島名物﹁忘帰洞﹂のお風
しら
ました。食べ終わった頃に
年々風や波にさらわれて減
呂は、大洞窟の迫力と荒波
分頃との由です。
は進行方向の右側の空に黒
少するので、オーストラリ
せまる太平洋の絶景を堪能
ときおり富士山の頂上を
眺めながら東名高速道路を
い雲が出始めました。東名
アから運んでいるとの事で
なっています。
阪道を走行中に突然強い突
と不審の声もありました
初 心 者 入 門 コ ー ス で は、
﹃ 正 し い ダ ン ス、 正 し い
し、その名の通り﹁家に帰
二日目は千畳敷の岩場を
観てから三段壁洞窟へ。こ
姿勢でやさしく踊る﹄を
すが、昔の砂の白さは失わ
こは屏風のように濃緑の海
三日目は熊野速玉大社を
参 詣 し ま し た が、 こ こ も
モットーにして楽しく教
風を受けて数回バスが横倒
力に驚きました。きっと沿
に直立する、高さ四十二メ
朱塗りの立派な社で、樹齢
が、 三 年 目 を 迎 え ま す と
線の満開の桜もびっくりし
ートルの絶壁。そして、そ
千年の国指定天然記念物
るのを忘れてしまう﹂ほど
た事でしょう。
の岩層深くに眠る、かつて
﹁梛﹂の大樹は熊野信仰の
れているそうです。
白浜温泉の手前に円月島
という珍しい島がありま
は熊野水軍の船隠し場であ
の美しさで、旅の良き思い
す。
正式には﹁高島﹂といい、
った海蝕洞窟。ここは大自
会員も口コミでそれなり
臨海浦の南海上に浮かぶ南
然のダイナミックな景観と
帰路、南紀の満開の桜並
木をうっとり眺めている
に増えてきました。
北一三〇メートル、東西三
千古の神秘、歴史ロマンに
と、車窓に獅子そっくりな
出となりました。
十五メートル、高さ二十五
出会えるところで、洞窟へ
岩があり、車内の話題が一
えんげつとう
メートルの小島ですが、島
は三十六メートルのエレベ
層盛り上がりました。
れしそうになったり、粉雪
楽しく踊って
元気になろう
ーターに乗ります。
那智勝浦の世界遺産、那
智御瀧は足の達者なグルー
プが観光しました。朱塗り
の美しい那智大社から望む
那智御瀧︵高さ一三三メー
トル︶の美観は素晴らしか
ったです。大門坂も世界遺
産で、紀伊山地の霊場と参
詣道で熊野参詣道中遍路に
6 月 1 日チケット発売開始!
★参加費 900 円
★ご希望の方は
坂尻まで☎ 31-2776
お問い合わせは、ゆめクラブ鎌倉事務局まで!
10 月 4 日∼ 11 月 1 日
毎週木曜日に開催
市老連
春の研修旅行
がチラチラしたりと自然の
Shall We Dance?
らくらく
◎講師
特定非営利活動法人
神奈川県 45 ダンス連合
理事長 白石 行雄
事務局長 北條 俊彦
泳げない…、でもプールに
は入れる方、膝や腰に負担を
かけず、また体力に自信のな
い方でも安心です。水の抵抗
や浮力を利用して楽しくウォ
ーキングしてみませんか?
第 58 号 ( 6 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
足利市老人クラブ連合会姉妹都市
昨年十二月六日、栃木県足利市
民会館で第一回目となる鎌倉市・
足利市では
ら な り ま す。
八二五名︶か
四六名、女六
だ。
見て加入してもらうのもよい方法
我々が活動を楽しんでいる様子を
の た め 最 善 策 を 見 出 し て い る が、
体との交流やふれあいで老人クラ
み。町内会や子供会など地域の団
員に情報が行き渡らないことが悩
に参加してくれないことや会員全
り、しっかり活動して若い世代を
田中会長は﹁私たちが知恵をしぼ
動 に 生 か し て い こ う ﹂ と 話 さ れ、
今日の研修会を糧に明日からの活
取 り 入 れ て い こ う ﹂ と 講 評 さ れ、
交流研修会が開催されました。
ブをPRしている。
ためにも健康で活動することが大
たなければいけない。軽いスポー
グループ
健康の秘訣は﹁食べ
る・動く・寝る﹂ことで、会員の
に、あえて﹁老
事。足利市はカラオケ、グラウン
﹁元気老人課﹂
鎌倉市老連からは、大久保会長
ら 二 十 二 名 の 理 事、 職 員 が 出 席。 と い う よ う
足利市老連・田中会長はじめ足利
人﹂という言
ツなどを楽しみ健康に留意して活
足利市老人クラブ連合会 副会長 渡辺 平治
和 57 年 4 月であり、歴史の町、文化の町、観光の町など
いろいろな共通点のある両市は、交流と親睦を図り、新し
い町へと前進しているのです。
私たち老人クラブも新しい時代に即した体制で臨み、健
康で楽しく前進したいと思います。
F
まずは鎌倉市老人クラブ連合会の皆様の足利市訪問を深
く感謝して御礼を申し上げます。
お互いがお互いをよく
知 っ て い る。 コ ミ ュ ニ
ケーションがうまくい
くことが会員の増強に
つながっているのでは
ないか。
発 表 後、 コ メ ン テ ー
タ ー の 大 久 保 会 長 は、
﹁高齢社会において
我々の活動は地域にな
く て は な ら な い も の。
つきました。
グループ
終了となりました。
後継者を取り入れる
ためには我々も青春の気持ちを持
研修会後は、足利学校とそれに
ば ん な じ
隣接する鑁阿寺を見学して帰途に
市老連の皆さんの温かい出迎えを
ドゴルフなど様々な活動の場を利
考えて活動に取
がるのではない
平成 19 年 5 月 17 日に私たち足利市老人クラブ連合会
も、答礼の意味も込めて鎌倉市へ訪問する計画を立ててお
りますので、その節はまたいろいろなお話を聞かせていた
だけるのではないかと期待しております。
鎌倉市と足利市の姉妹都市締結は、今から 25 年前の昭
グループ 足利市は一つの単位
ク ラ ブ の 人 数 も 多 く、
葉を使ってい
お年寄り一人ひ
受 け、 交 流 研 修 会 は 和 や か に ス
とりが求めてい
動することが大切だ。
師﹂など年老いた人を敬うよい言
ることを真剣に
用して声をかけ会員募集に力を入
はじめに両
市老連会長か
葉なので恥じることなく誇りを持
り入れていくこ
ま す。 こ れ
らあいさつが
とう、という考えからです。
とが老人クラブ
タートしまし
質疑応答、休憩ののち、老人ク
両市老連の事
ラブの活性化についてグループ討
あ り、 次 い で
論会が行われ、昼食後に各グルー
の活性化につな
れている。
ま し た。 足 利
プの発表がありました。
は、
﹁老﹂は
市老連は二十
か。
た。
二 地 区、 一 九
Aグループ
足利の﹁支部﹂と鎌
倉の﹁地区﹂は資金面、活動範囲
平成 18 年 12 月 6 日、鎌倉市老人クラブ連合会の皆様
が姉妹都市である私たちの足利市へお出でになり、足利市
老人クラブ連合会と交流研修会を開催することができまし
C
また、健康、スポーツ、旅行などの取り組み方について
も参考になることが多く、これからのクラブ活動の活性化
について、意見の交換ができました。
業紹介に移り
六 ク ラ ブ、 一
Dグループ
グループ
E
もともと﹁老
B
などで同様の性質を持っているこ
題も真剣に話し合い、クラブ活動のさらなる充実を図るこ
となど有意義な成果が得られ感謝しております。
〇六七一名の
です。さらに高齢化が進み、老人は増えるのにクラブの会
員が減少するという逆転状況をどうするか、など会員の加
入促進運動を、どのように展開するかなど、これからの課
入会しても行事
生きがいのある日々をおくるための心構えや、地域の
人々への心遣いを図ることなども交流のために必要なこと
とがわかった。両市とも会員増強
自らの生活を豊かにする楽しい活動を行うとともに、持
てる知識や経験を生かして地域を豊かにしようと努力され
ていることも良くわかりました。
会 員︵ 男 三 八
た事、本当にありがとうございました。
研修会ではお互いに直面しているいろいろな問題を話し
合い、老人クラブの仲間づくりを基本とした生きがいと健
康づくりに取り組んでいる様子をお聞きし、大変参考にな
りました。
「鎌倉市・足利市老人クラブ連合会」姉妹都市交流研修会
鎌倉市老人クラブ連合会の皆様
足利市への友好訪問
ありがとうございました
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
ゆめクラブ鎌倉
( 7 ) 第 58 号
何でもありの福寿会
住 友 常 盤 シ ニ ア の 会 は、
構成メンバーは、昭和四
発足が平成十三年と比較的
十年末より五十年初頭にか
けて、住友不動産により開
地域との連携で成功
下さり好評です。
ニューで教えて
の無理のないメ
間交流をし、日頃なじみに
生と﹁かるた﹂を通じ世代
た、春・秋には地域の中学
なゲームを楽しみます。ま
い往時をしのびながら雅び
住宅地のコミュニケーショ
が 発 足 し ま し た。 そ し て、
表面化し、それを契機に住
発足当時、当住宅地の居
住者全員に関係する問題が
ます。
とがお分かりになると思い
の方々が加入されているこ
約一八〇から見て、相当数
三〇名と当住宅地の世帯数
すが、現在、会員数は約一
ンの会、フレンズ︵子供会︶
の連携協力、ミセスグリー
会︵ ミ セ ス グ リ ー ン の 会 ︶
現在まで順調に歩んでい
るのは、当住宅地自治会と
宅地の清掃ボランティアの
との交流とともに、自発的
っていきたいと考えます。
境をお互いに助けあって創
が、それに対応した生活環
みに老齢化は進んでいます
す。
も検討したいと思っていま
後、定期的に史跡めぐり等
めぐりを行いましたが、今
ス旅行。先般、鎌倉七福神
体操と朝食会、子どもたち
野外パーティ、夏のラジオ
掃、 花 植 え、 梅 も ぎ 大 会、
行事としては、新年会に
始まり、年三回の地域内清
松本俊一郎
⑶囲碁同好会︵西月会︶
くい古典に親しむきっかけ
ンを密にしたいとの考えか
に当会に協力くださってい
また町内を花で飾ろう﹁花
に新しいクラブです。
毎 週 月 曜 日 午 後、 段 位
者、級位者が対局を楽しん
になればと願っています。
ら、男子も参加した老人ク
クに取り組むうちに仲間が
の会﹂にも参加しています。
発された住宅地の居住者で
でいます。段位者による初
⑸麻雀同好会
ラ ブ 発 足 の 提 案 が さ れ て、
増え、市老連主催の大会に
また、一昨年より﹁児童見
羽鳥 光男
心者、級位者への大盤での
設立四十年を迎えるわが
クラブは、会員相互の親睦
出場するまでになり、現在
守り防犯パトロール﹂に参
介します。
場は熱気にあふれます。
を毎週土曜日午後開催、会
同好会の近況についてご紹
⑴グラウンドゴルフ同好会
毎週月曜日午前中、住宅
地内の公園を利用して練習
し、近隣の老人クラブとの
対抗親善試合、市老連主催
の大会などに参加。
⑵健康体操︵やよい会︶
報﹂に掲載しています。
⑺懇話会︵おしゃべりサロ
ン︶
月一回、自由におしゃべ
りをしてストレス解消の井
よる相互間の意思疎通の賜
物だと考えます。
のスタンプラリー協力、バ
老人宅の垣根の剪定も行っ
ばれ、町内清掃はもとより
敬老会・新年会・花見会・
旅行はもちろん、町内会の
ています。
き受け、多くの会員が参加。
﹁ぶらり会﹂の世話役を引
つく
三歳と他のクラブ並
当シニアの会も会
員の平均年齢は七十
る若い人々による事務局の
指導と解説など和気あいあ
賭けない、吸わない、飲
まないを厳守。指導者を囲
を図るとともに健全にして
も優勝を目指して頑張って
加し、児童が楽しく通学す
戸端会議です。
当会は順調なスター
私たち高齢者にとって最
も関心の高いものは﹁健康﹂
いの中、
切磋琢磨していて、
んで現在三卓で楽しんでい
豊かな楽しい生活を図るこ
い ま す。 ま た、﹁ い き い き
る よ う に 活 躍 し て い ま す。
毎週水曜日午後、地区内
の自治会館で指導の先生方
運営と、毎月の会報配布に
と﹁仲間づくり﹂です。
対抗親善試合も盛んです。
ます。指を使い頭を使って
とを目的に懇談会・趣味・
健康体操サークル﹂に参加
昨年四月からは﹁友愛チー
指導で﹁ちぎり絵﹂の講習
老人ホームを訪問
グラウンドゴルフやペタン
こ の こ と が 転 機 に な り、
グ ラ ウ ン ド の 確 保 を し て、
三浦海岸の河津桜まつりに
月開催しています。二月は
年二回のバス旅行を含め毎
し、 入 所 者 に 指 導
り、
今年で百回を迎えます。
町内の親睦の輪になってお
十八名が参加し満開の桜を
楽しみました。このことが
加藤 好雄
元気で頑張るわがクラブ
が 始 ま り、 今 で は
トを切りました。
当会はこのためクラブ活
動に力を入れ、その充実を
若さを保つのに有効です。
娯楽・旅行・歩こう会・奉
して健康増進に励んでいま
図っています。われわれの
また、子供会のお母さん
たちの協力で子供囲碁教室
⑹俳句同好会
仕・その他に、四十名の会
を迎えて楽しく汗を流して
月一回、同好が相寄り句
会を開き、毎月発行の﹁会
政治、経済、社会、文学、
歴 史 か ら 趣 味 や 健 康 問 題、
ム﹂を結成し活動を始め喜
しいこのサロンは、五年休
まず続いています。
このほか、不定期開催の
﹁釣り同好会﹂もあります。
ところで二十名以上、元気
四年前までは静かなクラ
ブでしたが、杉山副会長の
す。
います。先生方は高齢者用
このほか、地域の学校の
子どもたちとの囲碁交流
会、高齢者と子どものペア
碁大会交流会などを開催し
ています。
いずれも会費は月三〇〇
円∼一五〇〇円。参加者は
月二回、第一、三土曜日
に椅子・テーブルで行いま
で楽しい仲間づくりに励ん
⑷かるた同好会︵百人一首︶
す。足や膝腰の弱い人も参
でいます。
少ないところで五名、多い
加でき、いながらにして遠
坂本町喜楽会
を行っています。
員は元気に活動を行ってい
住友常盤シニアの会
買物情報まで、テーマは何
西鎌倉福寿会
ます。
元気なクラブを
紹介します
でもあり。肩のこらない楽
第 58 号 ( 8 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
持ち去られそうに
マ ナ ー を 学 ん だ。
なった番頭が﹁ね
二度も往ったりきたり
地では二流か三流の金
えちゃん、俺まだ
による設計で改築する積極
波館へ行くことになっ
食べてんだ。ちょ
十九年間滞日した。彼は保
た の で す ﹄ と あ り、 谷
っと待って⋮﹂と
ある時食事中皿を
この年の原敬日記に﹁海
浜院へ赴き取調べものをな
崎にとっても近寄りに
し た 末 に、 と う と う 土
しつつ休養せり、宿泊人は
くい構えだったのであ
策を打ち出す。
激賞、自身は葉山に別荘を
外国人のみにて頗る静閑な
養地として湘南地方を最適
所有し、高官たちも競って
り ﹂ と あ る。 こ う し て 二、
地とし、七里ヶ浜の景観を
鎌倉に別荘を建てた。
えている。豊島屋の三代目
にたしなめられた情景を覚
り、ドイツ人がロシア経由
のち第二次世界大戦が始ま
ト︶
が四泊したりしていた。
大声を発し、祖母
で、支配人もフランス人に
昭和二年横光利一は
新 婚 旅 行 で 泊 ま っ た。
久保田氏もよく訪れた体験
で帰れなくなり、長逗留も
る。
た専斎は帰国後、文部省医
変わったりしたが、増改築
偶々佐佐木茂索が原稿
をもっておられるが、やは
三年は繁昌したが世の不況
務局長・内務省衛生局長な
の後遺症で年二万円の赤字
を書いている部屋に一
明治四年からの岩倉使節
団で医事行政担当で参加し
どに任ぜられ、米欧の休養
︶
続 き で 明 治 屋 副 社 長︵
外人コックも高給で雇い入
央亭が債権でおさえ、明治
五年七万円で明治屋傍系中
の賄をしていた人の好意で
彼はホテルの食堂では金
がかかるので、使用人たち
〇人収客しうる大食堂をつ
り、客室を六十とし、二五
昭和に入って郵船出身の
春日助太郎が支配人とな
紙に似顔絵を描いてもらっ
漫談家の大辻司郎がいて色
を見たといわれるが、私は
白いドレスで歩いていた姿
竹歌劇団︶の江戸川蘭子が
な建物を焼失した。
ブを米兵が倒し出火、主要
用を禁止されていたストー
の年クリスマス・イブに使
妻が泊まった。この後大正
磯部
長藏
地 転 地 療 法 の 視 点 を 導 入、
ステッキを持ち、高島田の
増え、ホテルは繁昌してい
いるのを見ると、西洋菓子
テルの機能はなく、終戦後
たようだ。十八年以降はホ
に一切を譲る。三十年頃に
たという。氏も砂丘の上の
り 幼 く し て マ ナ ー を 学 び、
は小泉八雲が、四十一年夏
少々崩れた新妻を連れて現
格式の高いダイニングだっ
自らは由比ヶ浜に別荘を持
が歩いているように大へん
は進駐軍に接収され、終戦
張羅のモーニング姿で
った。二年のち十九年横浜
には細菌学者 ・コッホ夫
あずま屋で、 ・ ・ ︵松
︶に出資させ、
れたとある。
の富豪︵
きれいです﹄と書いた。
︶ を 院 長 と し、
茂木
惣兵衛
れて発起人となって保養所
屋松方乙彦 と茂木惣兵衛
くり、室代二円から十二円
開 業 医︵
海浜院サナトリウムを自ら
女中たちと同じものを朝晩
えた株主三十人で資本金六
た︵下宿代は十円︶。
私は幼少時より材木座の
海辺になじんだので、人一
︵
十 万 円 に 増 資 し、﹁ 株 式 会
と菓子︵五十銭︶と﹁皆様
倍やわらかいざくざくとし
五十一年キリンビールを
バックとして、鎌倉シーサ
長期滞
在割引
昼︵二円︶晩︵三円︶お茶
今十二面のコートで球を打
た。
の草野球のグラウンドだっ
ホテルは二度と再建さ
れず長い間砂地雑草で格好
海 水 浴 は 当 時﹁ 塩 湯 治 ﹂
﹁ 海 湯 治 ﹂ と 呼 ば れ、 海 水
社鎌倉海浜ホテル﹂と改称
この頃世界大戦により景
気がよくなり営業成績も良
のホテル﹂を標語にして結
た白い砂に失われた海岸と
た思い出がある。
に浸り波に打たれ皮膚を鍛
し再出発。折しもロシア革
好で九年にバス付客室を二
婚式場としての利用を宣伝
︶、 朝 食︵ 一・ 五 円 ︶
えるのが目的で医師が付き
命で資産階級・要人の亡命
十四増やす。これをみて安
︵
っきり、時間は厳格食事は
者が長期滞在して満室が続
イ ド テ ニ ス ク ラ ブ が 発 足、
豪華、遊戯施設も備わって
ともに懐旧の念にかられ
いた。
る。
いたが、かなり高価で特権
したが、やはり気軽に利用
階級でなければ利用できな
とはいかない。
鎌倉のシンボルは八幡宮
であり大仏だが、往時リゾ
田・浅野財閥が海岸埋立に
ート化の中にあって、鎌倉
の 面 影 を 保 っ て い る の は、
水をかぶらなかった。建物
︶
つ音と声で賑やかだ。当時
独歩の﹁運命論者﹂︵ ︶
に も、
﹃砂山が崩れてその
正面入口、鈴木屋酒店の前
策したが、町会・同人会の
下は崖のようになり、その
の三本の松のみである。
当時玄関脇の野間西洋洗
濯屋に下宿していた芥川龍
昭和六年、海の銀座と売
り出し、九年には第一回カ
根方に両足を投げ出すと背
かった。従って海水浴シー
ーニバルがはじまる。十年
中が砂山にもたれて、まる
い白い砂﹂、〝やまもも〟
滑川の東地域を書いた
﹁ 失 わ れ た 海 岸、 や わ ら か
海浜ホテルも一つの象徴的
元旦鉄幹晶子夫妻が泊ま
でソファに倚ったような場
反対の自然保護の運動があ
り、大仏を拝みに行った。
所を探し当てた﹄とあるが、
号もお持ちの方は併せてお
之介は許嫁への手紙に、﹃鎌
さて私がホテルに行った
のは、十三年と十七年他に
年月は大分経ているがこの
読み下さい。
︵
ズン以外は流行らず、早く
馬車で一度乗りつけたこと
ホテルの前の情景は私の記
存在だった。その姿を語れ
もあり数度であろう。新し
憶と重なっているのだ。
り取りさげたという。
は全館破損、倒壊には至ら
いもの好きの日本橋の織物
私がはじめて行った
十 三 年 頃 は、 フ ァ シ ス
倉は異人が大ぜい来ていま
ず修理して半年後には復旧
問屋の大旦那の祖父が、祖
ト党の黒シャツ姿のイ
大正十二年の震災は、松
林の砂丘が高台にあり、海
工事にかかり同業者に先立
母とその姪と私、店の番頭・
も二十一年には海浜院ホテ
しての名も高まり、転換後
ち開業できた。
小僧さんを交互に夏の﹁海
タリイ使節団が宿泊し
る人が少なくなった今、そ
鎌倉は江戸時代から懐古
趣味による観光地化しつつ
二、三年は外人客を中心に
にしようか思いきって海浜
﹁痴人の愛﹂︵ ︶の文中
に、﹃ 鎌 倉 で は 三 橋︵ 旅名館︶
の家﹂に呼び、慰労と勉強
た り、 ヒ ッ ト ラ ー の 親
す。夕方に彼等が散歩して
あったが、明治に入って保
盛況だったようだが、やは
ホテルに泊ろうかなどと⋮
のため連れていった。私も
ルと変身する。
養地・別荘地・海水浴場と
り帝国ホテル並みの料金で
先ず門構えの厳めしいのに
衛 青 年 組 織︵ ユ ー ゲ ン
の存在を跡づけてみたくな
よりホテルを建てようと画
の別荘の並びに開いた。
六十銭で取り扱ってもらっ
近藤
良薫
R
前 出︶
、それに外国人も加
D
幼少ながら生意気にコース
54
K
った。
S
K
圧迫されて、長谷の通りを
T13
二十二年の横須賀線開通
でさらに別荘地・保養地と
して発展し、それを支援し
はお客に限りがあり、活況
なが よ せん
た恩人は、ベルツと長与専
さい
は長続きしなかった。
︶ は、 明 治 九 年 二
二十九年横浜のイギリス
人機械商ヒーリングと友人
∼
斎である。ドイツ人ベルツ
十七歳でお雇い教師として
の外国人たちが出資し、世
鹿鳴館
を設計
︶
来日、講義の外大正天皇・
︵
昭 和 13 年、 海 岸 橋 を 渡 っ
てホテルへ(番頭・小僧さ
んを連れて)
昭和 13 年、ホテル庭
(番頭さんと)
サナトリウムとして出現。早くも一年余でホテルに変身。湘南の帝国ホテルをめざした
が、経営はいつも難航。モダンな譲治もナオミも門構えを見て入館躊躇。歴史の蔭で外
国人に愛され占拠されつつ、鎌倉文士は敬遠したらしい。
界的建築家コンドル︵
1913
高官たちの主治医として二
1849
M45
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
ゆめクラブ鎌倉
( 9 ) 第 58 号
ブ ラ ー ム ス、 ヨ ハ ン・ シ ュ ト ラ ウ
は ベ ー ト ー ヴ ェ ン、 シ ュ ー ベ ル ト、
ある。
家庭を第一にするお国柄のようで
毎 日 な ど、 何 よ り も 個 人 の 生 活 や
あった。
じさせられる多くの人々にめぐり
遺産だけでなく、
﹃豊かな心﹄を感
大 国 日 本 と 囃 さ れ た 私 た ち が、 い
人 生 観 や 生 活 の あ り 方 な ど、 経 済
あ り な が ら、 こ の 国 の 人 々 の こ の
にちがいない。
ともに国民の心の奥底にあるから
実 は 勝 つ ﹄ と い う 観 念 が、 国 旗 と
そ れ は、 近 隣 の 国 々 に 翻 弄 さ れ
北 海 道 と ほ ぼ 同 じ 面 積 し か な く、
た 長 い 歴 史 の な か に 培 わ れ た﹃ 真
山 野︵ 七 〇 %︶ の 多 い こ の 土 地 で
スなど世界的に著名な作曲家の墓
が 集 め ら れ て い た。 そ の 中 央 に は、
たてられていたが、墓はなかった。
つしか忘れてしまった大切なもの
モーツァルトの大きな記念碑像が
そ こ で、 苦 手 な 英 語 を 頼 り に、
小 雨 の 降 る な か 訪 ね 歩 い て、 や っ
をあらためて強く教えられる思い
い。 歴 史 あ る 小 さ な 教 会 と 同 じ 時
の 美 し さ は、 湖 の 風 景 だ け で は な
黄色い壁の生家の四階に
は、 彼 が 使 用 し て い た ピ ア
化 に 富 ん だ、 素 晴 ら し い 美 し さ で
然 は、 前 に 訪 れ た ス イ ス 以 上 に 変
アルプスやチロルをはじめ美し
い湖畔の多いオーストリアの大自
万感の思いをこめて礼拝した。
い 終 焉 の 地 を 前 に し て、 私 た ち は
マン民族の合理性と自制力にある
個人が自制できるのだというゲル
こ と。 こ れ は 安 全 運 転 の 限 界 を 各
らに飲酒の制限もなし﹂だという
い た の は、 よ く 整 備 さ れ た こ の 高
ン を バ ス で 疾 走 し た。 そ の と き 驚
遺跡がある。
対応してくれた。
く 私 た ち に、 ど こ の 人 々 も 親 切 に
し て 笑 顔 が 美 し か っ た。 た ず ね 歩
生活のレベルは日本の三分の一
と 貧 し く と も、 素 直 で 明 る く、 そ
人 も 少 な い 、 寂 れ た サ ン ク ト・ マ
と そ の 墓 地 を 探 し あ て た。 訪 れ る
であった。
翌 日 早 朝、 散 歩 に 出 た と き、 す で
に道路の清掃をしている町の人々
の姿を目撃した。
い ろ な 記 念 行 事 が 行 わ れ て い た。
を 刻 ん で き た 町 並 み、 そ れ に 調 和
ノ・バイオリン・直筆の楽
あ っ た 。 し か も、 と く に 感 心 し た
ようである。
わが国の最近の飲酒運転による
事故の多さと規制の現状を思うと
恥ずかしい。
学 校・ 病 院・ 医 療 な ど が す べ て
無 料、 国 民 は み ん な 年 間 三 週 間 の
〇〇メートル︶などの有名な世界
旧 市 街・ カ レ ル 橋︵ 十 五 世 紀・ 五
じた東欧の旅であった。
他山の石とすべきものが多いと感
世 界 遺 産 登 録 に 立 候 補 す る﹃ わ
が 町・ 鎌 倉 ﹄ に と っ て も、 心 し て
待っていてくれるのである。
の 車 が、 じ っ と 笑 顔 で い つ ま で も
ま た、 横 断 歩 道 で も な い と こ ろ
を渡ろうとしている私たちを数台
地下鉄の車内でも誰もが笑顔で
親切に対応してくれたのである。
を送っていた。
く人々も一緒に温かな祝福の拍手
カレル橋脇で行われていた結婚
式 は、 素 朴 だ が 愛 情 豊 か で、 路 行
の豊かさと優しさ﹄を強く感じた。
そ こ に は、 最 近 の 世 情 を み る に
ト ル ︶ の 立 派 な ホ テ ル に 宿 泊 し た。
つけ、日本人が忘れかけている﹃心
チ ロ ル の 小 さ な 美 し い 町・ ハ イ
リ ン プ ル ー ト︵ 標 高 一 三 〇 〇 メ ー
ル ク ス 墓 地 に、 彼 は 一 七 九 一 年、
三十五歳の若さでこの共同墓地に
無 縁 仏 の よ う に、 寂 し く 埋 葬 さ れ
たのである。
そ の 墓 は、 故 人 の 気 持 ち を 象 徴
す る か の よ う に、 折 れ た 石 柱 と 小
さな天使の像がベゴニアの花に囲
N H K︵ B S ︶ で は、 毎 朝 そ の 生
した生活をしている住民の姿にあ
ま た、 一 九 九 七 年 に 世 界 遺 産 と
な っ た 湖 畔 の 町、 ハ ル シ ュ タ ッ ト
涯 と 華 麗 な る メ ロ デ ィ が 紹 介 さ れ、
ま れ て い た。 そ の あ ま り に も 寂 し
改 め て そ の 天 才 ぶ り に 驚 嘆 し、 か
日 本 の 象 徴 と さ れ る あ の﹃ 富 士
山 ﹄ が、 ゴ ミ の 多 さ で 世 界 遺 産 に
った。
承認されないこの現実を考えると
き、恥ずかしくて言葉もない。
この楽聖と同じ一月二十七日生
ま れ で、 彼 を こ よ な く 愛 す る 息 子
つ楽しませてもらった。
昨年はモーツァルトの生誕二五
〇 年 と い う こ と で、 日 本 で も い ろ
会員投稿のコーナー
に 先 導 さ れ、 妻 と 三 人 で そ の 足 跡
をたずねる東欧の旅をし
た。
譜・ 肖 像 画 な ど が 陳 列 さ れ
の は 山 野 を は じ め、 ど こ の 観 光 地
ミュンヘンからチロルに向かう
と き、 ド イ ツ の 有 名 な ア ウ ト バ ー
ていた。また、彼が洗礼を
や繁華街に行っても紙くずやゴミ
ゆかりの音楽の街で多くの
受 け た と い う 大 聖 堂︵ ド ー
あ る。 そ の 姿 に は、 こ の 国 の 人 々
がほとんどみられなかったことで
速 道 路 が﹁ 速 度 無 制 限、 無 料、 さ
モ︶をはじめ街中に多くの
休 暇 を 必 ず 取 得 し、 残 業 は し な い
チ ェ コ・ ス ロ バ キ ア の 素 晴 ら し
さは、千年の歴史をもつプラハ城・
が眠っているという広大な
そ の な か で、 ま ず 彼 の 墓
を 探 し た。 約 千 人 の 音 楽 家
中 央 墓 地 を 訪 れ た。 そ こ に
の﹃モラルの高さ﹄を感じた。
遺跡がみられる。
オーストリアの古都ザル
ツ ブ ル グ は、 モ ー ツ ァ ル ト
自然の美しさは人々の心と調和する
第 58 号( 10 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
( 11 )第 58 号
ゆめクラブ鎌倉
高齢者サービスのご案内
高齢者割引乗車証等購入費を助成します
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
会員文芸
カーテンを洗って春の風入るる
七里ガ浜句会
阿部
弥生
息切らし峠に立てば梅の里
七里ガ浜句会
松原
薫
春一番闇に膨らむ川面かな
鞦韆の擦れ違う都度声交す
鞦韆の孫押す鈍き子守歌
やぶ入りも過去の言葉となる昨今
新鎌倉山笹りんどう会
中久喜たい
美しき初富士見たり船の旅
わび助に目白集いて山笑う
病棟の冬空横切る飴の綿
山ノ内梅鶯会
高橋
斌
ぎ
よ
山ノ内梅鶯会
山下カヨ子
玄関のロウ梅の香より梅の香に
七里ガ浜句会 加野 ヨウ
ブランコを漕ぐも思案の定まらず
日脚伸ぶ薄暮の浜の白い月
浄明寺寿会 山本 照子
雛座敷子のいとけなき膝がしら
七里ガ浜句会
波木井みちる
ふくよかな稚児のほっぺや梅つぼみ
佛の灯雛の灯佛間華やげり
七里ガ浜句会 棟渡登志子
砂文字をかけば現われ桜貝
終電車ひびきて谷戸の花月夜
藤垂れし転居の人の沙汰のなく
七里ガ浜句会 倉本 ふじ
凧あげて原っぱ馳けて暮れし日日
春愁や雑踏にゐて人恋いし
往きかえり夕暮れぶらんこのびる影
新漬けの旬菜の香り春惜しむ
七里ガ浜句会 米澤せつ子
朧夜の帰らぬ猫に戸を締めず
◆俳
句
七里ガ浜句会 下條八州男
惜春や古着一枚捨てかねて
葛切を啜り花見の客となり
笛田東芝珀桜会 原田ダルマ
自分史に小さな華を添えて見る
七里ガ浜句会
藤枝
笙
春愁のブルース午後のカフェかな
七里ガ浜句会
矢島
芳子
合掌を解きて梅見の人となり
初恋を聞かれる度に歳をとり
◆川
柳
七里ガ浜句会
敦賀
笑子
墓参りあちこち目につく辛夷かな
能舞台耳にのこりし鼓のおぼろ
愚痴さえも楽しんでゐる老夫婦
重たげに馬酔木の花や春惜しむ
鎌倉市では、市内を運行するバス会社が販売する高齢者向けバス乗車証(神奈中バス
「かなちゃん手形」、江ノ電バス「オレンジワンコインパス」、京急バス「ふれあいパス」)、
江ノ島電鉄が販売する「おでかけ電車回数券」、湘南モノレールが販売する「はやかご
モノレール回数券」と、共通バスカード(対象は 5,000 円券)のいずれかの商品を購
入する際に、1人年1回代金の一部(2,000 円)を助成しています。
事業の概要は、次のとおりです。
●対象となる方 平成 19 年 5 月 1 日現在、75 歳以上でかつ鎌倉市内に住所を有する
かた。対象となるかたには、市から 5 月末日までに「助成券」をお送りします。なお、
5 月 1 日以降、75 歳になられるかたについては翌年度の対象となります。
●購入できる期間 平成 19 年 6 月 1 日から 12 月 31 日まで。
一部乗車証については、販売日等の指定がありますので、ご注意ください。
なお、20 年 1 月からの利用開始日分については 12 月中に購入してください。
●助成額 1人年1回に限り 2,000 円
●注意事項 購入した乗車証、
バスカード及び回数券は払
戻し・返品できませんので、
よく確認して購入してくだ
さい。市から送られた助成
券は、本人以外の使用及び
他人に貸与または譲渡する
ことはできません。
※助成券のお取り扱いには、 十分ご注意ください。
高齢者福祉課高齢者活動担当
☎(61)3930
成町 ー ︶まで。
日
容の一部修正等についてはご一任願い
◎紙面割りの都合で、原稿の採用、内
ます。原稿等は返却いたしません。
腰越の閑静な住宅街にお住
ま い の 日 浦 マ ツ エ さ ん は、 明
さ ん の 日 常 は、 早 寝 早 起 き は
え て く れ ま し た。 そ ん な 日 浦
く歩きよく食べること﹂と教
努めています。
体力を維持するよう
り 下 り を 繰 り 返 し、
▼前号に﹁やまもも﹂と﹁ゆめク
ラブ鎌倉﹂へのご意見を募集しま
したが、平素耳から入る声は多い
のですが、文章になると数件のみ
でした。ご意見を寄せられた方に
は薄謝をお送りしました。▼今回
は、岩波の大番頭であり名エッセ
イスト﹁小林勇﹂
、幻のホテル﹁海
浜ホテル﹂と、知っておいてほし
い鎌倉の人と近代的史実を紹介し
ました。▼次回知らなかった﹁鎌
倉﹂を解くキーワードは、﹁お十夜﹂
と﹁ 鎌 倉 の 昔 の 小 学 校 ﹂
。短文ス
ケッチですので是非奮って投稿し
て下さい。
︵ ︶
編集後記
会員の皆様からのご投稿をお願いい
たします。次号は、光明寺の﹁お十夜
内老人クラブ連合会事務局︵鎌倉市御
◎ 送り先は鎌倉市役所高齢者福祉課
短歌・俳句・川柳についてもご応募
お待ちしております。
◆一般投稿について
も記入してください。
ケッチが望まれます。何年頃と学校名
出などは避け、社会背景のある情景ス
戦時中の閲兵・分列行進・ゲートル
巻での登校など。恩師や友人との思い
◆昔の鎌倉の小学校
多いと思います。
屋のことなどを、記憶にとどめる方も
光明寺境内の風物詩は今に面影を残
し、大サーカスやいろいろな見世物小
◆光明寺の﹁お十夜今昔﹂
に募集いたします。
今昔﹂と﹁昔の鎌倉の小学校﹂を題材
原稿募集ー投稿規定ー
10
◎原稿締め切り 平成 年 月
20
んだゲート
に親しみ古都を語るその趣き
さ れ て い ま し た。 鎌 倉 の 歴 史
K
き ぬ 泉 の よ う。 我 々 は 終 始 頭
の下がる思いでした。
衣はほとんど手作りだったと
語 り ま す。 茶 を 点 て、 静 か に
人 生 を 振 り 返 る そ の 瞳 は、 キ
ラキラと輝いていました。
す。今後も倍旧のご厚誼を賜りますよう
お願い申し上げます。ゆめクラブ鎌倉
はくさん
8
に、さらに内容の充実に励んでまいりま
にんしょう
19
本紙は会員相互の交流と生きがい向上
治三十九年六月十一日生まれ
ボールでも培
は、 百 年 の 歳 月 を 経 た 人 生 の
︵対談者 都筑・中久喜︶
きました各位に厚く御礼申し上げます。
客殿奥の収蔵庫の宋朝様式の強い影響
浄光明寺は足利氏
を受けた本尊木造阿弥陀如来並びに両脇
侍 こ そ、 覚 園 寺 薬 師 三 尊 と 東 慶 寺 の 水 月
ゆかりの大寺だった
観音とともに鎌倉地方彫刻を代表する仏
像で仏像愛好家なら一度は拝観したい重
文仏の優作である。
れい ぜい ため
ま た、 裏 山 に は 冷 泉 家 の 祖 先 の 冷 泉 爲
すけ
相 ︵ 藤 原 定 家 の 孫、 阿 仏 尼 の 子 で 歌 人 ︶
の墓があり、さらに少々険しい山道を五、
六 分 く だ る と 、 背 た け 三・ 二 六 メ ー ト ル
の 巨 大 な 覚 賢 和 尚 の 五 輪 塔︵ 重 文 ︶︿ 多
鎌倉駅西口から西大路を歩いて寿福
宝寺跡地﹀がある。
寺、英勝寺、ちょっと戻って踏切を渡り、
収 蔵 庫 は 木・ 土・ 日・ 祭 の 晴 天 の 日、
上 杉 管 領 跡 の 碑 を 見 て す ぐ 右 折 す る と、 五輪塔は〝鎌倉まつり〟の八日間の晴天
静 寂 で 素 敵 な 泉 谷 山 浄 光 明 寺 で あ る。 庭
の日のみ山道の柵が開かれる。
内 客 殿 奥 の 柏 槇 と 槇 の 古 木 が 目 に 入 る。
門 前 か ら 東 へ﹁ 泉 の 井 ﹂
︵鎌倉十井︶
宗 派 は 真 言 宗 で 本 山 が 京 都 東 山 泉 涌 寺、 を過ぎると、昭和四十九年文京区白山か
ら 移 転 し た 妙 伝 寺 が 多 宝 寺 跡 に あ る。 多
六 代 執 権 北 条 長 時 が 開 基 で、 時 頼 と と も
宝寺は忍性開山かとも書かれているが戦
に 発 願 し 建 長 三 年︵ 一 二 五 一 ︶、 眞 聖 国
国 時 代 す で に 廃 寺 の 謎 の 多 い 寺 で あ る。
師 眞 阿 を 開 山 住 持 と し て 創 建 し た。 建 武
の 中 興 以 降 足 利 氏 と の 関 係 が 深 ま っ た。 墓所最奥部の崖上に覚賢の墓塔があるは
ずで今ここからは行けない。
中先代の乱の時鎌倉を追われた弟直義救
さらに東へ二百メートル道の突き当たり
援 の た め 東 下 し た 尊 氏 が、 朝 廷 に 対 し 恭
から荒れた山道を歩くと︵現在は歩行困難︶
順 の 意 を 示 し て 蟄 居 し た の が こ の 寺 で、
旧巨福呂坂切通し、青梅聖天の上に出、庚
以 降 直 義 は 寺 の 興 隆 に 力 を 尽 く し た。 四
世 高 慧 の 頃 に は 支 院 も 十 近 く あ り、 中 世
申塚、林不忘豪邸跡の﹁蔵﹂がみられ、そ
の先はすぐ八幡宮の車祓所である。 ︵ ︶
鎌倉教学の拠点となっていたという。
の 一 〇 一 歳。 お 会 い し た 第 一
と し て い ま す。 こ れ に は 介 護
ながら散歩や軽い体操をして
を 相 手 と し て、 含 蓄 に 富 む 見
印 象 は﹁ と て も 矍 鑠 と し て い
も 必 要 な し。 そ の 元 気 の 秘
い ま す。 こ の 爽 や か な ひ と と
日浦マツエさん(101 歳)
識の深さはまるで汲めども尽
る﹂でした。
密 は 足 腰 に あ る よ う で す。 元
き は、 心 が 安 ら ぐ 何 も の に も
健 康 の 秘 訣 を 尋 ね る と﹁ よ
来からの足
腰 の 強 さ は、
部 屋 を 見 渡 す と、 欄 間 に 腰
九十二歳まで
越 万 福 寺 の﹁ 腰 越 状 ﹂ が 掲 示
わ れ、 現 在 も
奥 深 さ を 感 じ ま し た。 若 い 者
汗を流し楽し
家の階段の上
「やまもも」発行に際しご協賛いただ
K
他にも長い間趣味として編
変えがたい時間だと語ります。
み 物 と 和 裁 を 好 み、 家 族 の 着
新鎌倉山笹りんどう会
18
海に近い石造の一の鳥居から
八幡宮までの一直線に伸びる参
道を若宮大路と称し、京都の朱
雀大路にならって造られたとい
われる。二の鳥居から太鼓橋に
至る中央の一段高い参道は、昔、
葛石を積み重ね並べていたため
置石といい、古くは海岸まで続
いていた。養和 2 年(1182)3
月、源頼朝が妻政子の安産を祈
って自ら指図し、北条時政をは
じめ東国の武士たちが土石を運
び、参道を築いたのである。段
葛は鎌倉にだけ残る形式の古道
で、国の史跡に指定されている。
つつじ
左右の堤には桜や躑 躅が植えら
れ、花の季節は百花繚乱で目を
(都筑健一)
楽しませる。 ◆スポンサー各位へ御礼◆
鎌倉散歩
一 方、 緑 の 多 い ベ
も ち ろ ん、 朝 晩 の 入 浴 を 習 慣
ランダでは樹木の香りを浴び
◆表紙の写真 段葛
第 58 号( 12 )
ゆめクラブ鎌倉
平成 19 年(2007 年)5 月 20 日発行
Fly UP