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工 学 の 形 成

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工 学 の 形 成
文1
成
﹁ガリレイ革命﹂と工学
科学者と精密︵一科学目天文︶
メ ロ
構 造
器械
鈴
レイと基礎工学一
形
ツィルゼルの高級職人説
工学の構造
リ
の
木
高
五八
明
表には、対象別の分類のほかに、構造による区別をのせてある。とくに機械技術を例にとって議論をすすめよう。
を正しくたどるためには、 まず、 これらの細分化した多くの学問の性格を認識しておくことがのぞましいと思われ
︵3︶
る。工学の分類については、すでにいくつかの試みがなされている。ここでは、表を中心にして、議論をすすめよう。
今日の工学はいろいろの学問のなかでも、専門化と細分化のもっとも顕著なものの一つである。工学の発展のあと
1論
学
ーガ
序
一
二
三
序 工 学 の
工
対象による分類
建設剰
船舶・鉄道車両・自動車・航空機など
機 械 系
原動機・工作機械・繊維機械
1工学の形成1
材料,工作法,生産設備,作業とその組織などに関する記述。
生産工学
道路・橋梁・河川・都市・建築など。
化 学 系
酸・アルカリ・肥料・油脂・石油化学など
電 気 系
通信・電気動力・照明・発電・電子など
構造による区別
狭義の工学
機械・構造物の構造と機能の記述。技術的構想の表現。
基礎工学
(engineering science)。機械・構造物を規定する力学的・
物理的要因に関する科学。技術の科学的法則の体系。
技術的構想の現実化。
表では工学を狭義の工学、基礎工学および生産工学の
三つに分類している。狭義の工学は船舶・航空機.繊維
機械等、各種機械の構造と機能を記述したものであり、
基礎工学は材料力学、水力学など、機械を制約する物理
学的化学的要因に関する学問であり、また生産工学とは
生産設備の配置、動作、作業および作業組織など、機械
の経済的な生産方法に関する記述である。これらの三つ
の分野の特徴は各々の関連領域から眺めれば、まず狭義
の工学は多様的にして巧を価値とする芸術H技術につな
がる。基礎工学は断定的にして真偽を価値とする物理学
・化学等の自然科学につらなり、そして生産工学は多様
的にして、最小費用最大成果を価値とする経済につらな
る。このような関連を考えれば、三つの分野の特徴は、
むしろ各関連領域たる科学、技術︵ロ芸術︶および経済
の特徴から考察したほうがより明確になるものといわれ
なければならない。
領域としての科学と技術の相違は三枝博音によって詳
五九
1論 文目 六〇
しく論じられた︵﹃技術の哲学﹄一九五一年︶。同書のなかで技術者目芸術家、工学者、および哲学者の性格の相違は、
近世初頭における各分野の代表的人物を比較することによってなされている。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ガレリオ
・ガリレイ、アイザック.ニュートンおよびルネ・デカルトの業績と彼らの述べるところを知れば、これら各領域の
天才たちの特徴を知って今日のいわゆる設計技術者、工学者、自然科学者、哲学者に望まれる資質が何であるかは自
ら明らかであろう。一方、技術的構想の現実化たる生産過程に関しては、道具による製作と機械生産の相違は、それ
が人間生活におよぼす甚大な影響について、ルイス・マンフォードの一連の著作において論じられている。 ︵例えば
﹃芸術と技術﹄、一九五二年︶。これらの諸著にもとづいていま述べたような視点から工学の構造を明らかにしよう・
いかなる機械もその根本をたどれば人間によって発明されたものであり、一定の形態を備え、機能を発揮するもの
である。機械工学は基本的には各種の機械1その形態と機能ーーの叙述でなければならず、機械工学史は機械の発明
と改良の叙述であり、発明家の構想のあとをたどることでなければならない。
人間は目的を充足するために構想力を働らかす。機械の歴史はその起源に溯れば、人間の想像力とともに始まる。
このことは航空機の歴史を例にとっても容易にうなづけるであろう。航空の歴史は、ダイダロスとイカロスの神話の
憧憬を意味する伝説から始まる。伝説から進んで歴史の時代に入ると、芸術的な構想に恵まれた人たちが鳥の飛行の
原理を研究して、人間の飛ぶ可能性を臆測する。レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチとノートはこのような研究の
もっとも優れた例といえるであろう。
ダ・ヴィンチは二種類の飛行方法を考えたようである。その一つは鳥の飛び方を真似たもので、人間が一対の翼を
身につけて鳥のように羽ばたきをする。いま一つの方法はねじの原理によるもので・いわゆるアルキメデスのねじが
空気中にねじ込まれていく。これらの二つの構想力はそれぞれ今日のオーニソプターおよびヘリコプターの元祖とい
える。今日の固定翼の飛行機の原理、すなわち傾斜させた翼面を飛行方向に運動させて重量を支える方法︵ただしそ
れには運動にさからう空気抵抗に打ち勝つだけの機械的動力を備えなければならない︶は、イギリスのジョージ・ケ
イレイ卿︵一七七三−一八五九年︶によってはじめて明瞭に言いあらわされた︵カルマン﹃飛行の歴史﹄︶。
航空機は大きくオーニソプター、ヘリコプターおよび固定翼の三つに分けられ、さらにそれぞれは形式のみについ
ても、より高速にして安定なものを目ざして、多くのものがあり得るであろう。このように技術的構想には前人未踏
の大発明から小さな改良にいたるまで、多様なものがありうる。そして多様なものは目的からみてより巧みなものと
そうでないものに価値づけられる。
基礎工学とは機械を制約する物理的化学的要因に関する学問である。機械は一定の形態を備え、運動を行なうもの
であるから、力学的物理学的な制約を受けなければならない。これを別な面からみれば、自然法則に関するより深い
認識はそれまで予想もできなかったような新しい技術を可能にする。さきにダ.ヴィンチの構想力は、従来の発明力
が経験本位であったのに対して、発明のたどる過程が決定的に想像力の領域にまで引き上げられるようになったとい
う点において異なっていると述べたが、近代技術の特徴は科学的原理に裏付けられている点にあるといえる。
いわゆる基礎工学のなかでもっとも最初に誕生したものの一つは材料力学である。近世にいたるまで材料の強弱に
対する力学的知識の欠如は、職人たちに無駄な繰り返しと悲しい失敗を嘗めさせたに違いない。
力学的知識のないところでは、技術者たちは経験とそのときそのときの判断にたよるほかない。新しい条件に遭遇
して、過去の経験に照合しても、経験は記憶という狭いチャネルを通じてしかでてきてくれないから、当惑すること
1工学の形成− 六一
1論 文! 六二
が多い。かっまた、経験そのものが勘によって支えられてできている部分が多いから、正確な記憶像となって、それ
が知識の形で心のなかに保有されるということはなかった。実際には正確なもろもろの記憶像ができるようにそれら
が連絡をもち、理由と帰結の関係となってくることがなくてはならない。建築物や船舶に用いられる材料の引張強さ
を法則につくりあげ、かっこれに数学的証明を付したのである。そして幾何学の体系において見られるように、一つ
の法則にはつぎの他の新しい法則が現われる。このような法則の体系こそ近代科学の特質である。このように体系化
された法則は他人に確実に教えることができる点で、学問との結びつきのない工匠たちによって徒弟に口伝された孤
立的な知識、術の上の勘や思い付きと異っている。近代的な科学技術の優位性はここにある。
科学と技術との結び付きば、産業革命以後いっそう顕著となった。近代技術における最大の成果たるジェームズ・
ワットによるニューコメン機関の改良が、熱学−潜熱に関する知識の裏付けによってはじめて可能となった例はあ
まりにも有名である。また、同時代のイギリスおよびアメリカの橋梁に関する広汎な研究を公けにしたドイツの構造
力学者クルマンは、イギリスで当時完成したばかりのプレート・ガーダ橋、とくに大管状橋に深い印象を受け、これ
らの橋梁に関する一次的な資料はすべてフェアベアンの著書から得ながらも、フェアベアンの研究にきわめて批判的
であった。鉄は引張よりも圧縮に対して弱い、ということは書物から容易に学び得ることができるのに、多数の高価
な実験ののちに、はじめて発見したのだ、とクルマンはいい、彼は十分に理論的な知識をもっていない人間が行なっ
た第一次の研究を信用するのは誤りだと述べている。諸国にさきがけて多くの近代的な機械を発明した多くの経験を
もつイギリスが、一九世紀後半、いくつかの技術部門において、いわゆる基礎工学の研究・教育においてすぐれたド
イツに、遅れをとった事情の一端をここに見ることができるであろう。
二〇世紀に入ると科学研究の重要性はいっそう増大する。それなくしては革新的な機械の設計が行なわれ得ない。
技術革新の可能性を求めて研究が行なわれる。このことは、空気力学の実験・理論と航空機の設計を見ても明らかで
あろう。技術を母胎として発展した科学は、現在技術に対して索引車的な役割を果している。
機械の問題の核心が発明にあるということは、機械の本質が単に発明によって尽されるということではない。機械
が人聞の目的を充足するためにはそれが結果に満ちたもの、効果的なものでなければならない。.発明を生む構想が生
じたのちに発明の実行、すなわち構想力の物質化が行なわれなければならない。このような技術的構想の物質化の過
程を論ずるのが生産工学の領域である。
技術的構想の物質化、すなわち製作過程は産業革命を契機としていちじるしい変化を示した。古代中世においては
生産手段は道具であり、工匠たちが工房において仕事を完成した。ところが近代資本主義においては生産は機械を用
いて工場において行なわれる。いな、むしろ道具から機械への変化が産業革命とよばれているのである。
道具と機械との間には一面連続的な関係がある。歴史的な発達過程において両者のあいだに明確な境界をもうける
ことは必ずしも容易ではない。このことは産業革命期における繊維機械の発達過程をみても明らかである。しかし、
今日われわれは両者のあいだに質的な差異を認めることができる。この差異はいかなるものであるか。道具は根本的
には人間の手に結びつけられている。それはいわば手の延長であり、道具による作業はこれを使用する個人の熟練に
依存する。手工業における中心的な事実はつねに個々の労働者であり、工業は鍛えられた個人の熟練、創意や勤勉を
基礎として考えられた。道具は身体と有機的に結合している。
これに対して機械は有機的なものの制限からの解放である。近代技術のこの特徴はさしあたり人間という有機的自
一工学の形成1 一 六三
−−−論 文t 六四
然の諸制限からの解放を意味している。そして近代的機械は自己指導性、すなわち自動機械であることを目標として
いる。機械が進歩するにしたがって次第に人間から独立になり、機械工業における労働者の仕事は、付添人あるいは
助手の仕事である。彼の労働は機械の過程を補足するのであって、これを使用するのではなく、むしろ反対に機械の
過程が労働者を使用するのである。道具技術における完成が職人の手工の完成を意味したのに対して、機械技術にお
ける完成は、与えられた過程が手の労働を不必要とする程度に応じて達せられるのである。
道具の技術は人間と有機的に結合したものであるゆえに、その技術には個性的なところが多く、従って道具によっ
て作られたものはある芸術的な味をもっている。そこでは芸術と技術の制作過程は基本的には手わざ︵訂&R鋤け︶
であるという点で統一されていた。 この手わざが優位を占めている時代においては、 手工的プロセスが芸術と技術
を、効用なき意味と、意味なき効用を結合しており、両者は不可分の状態にあった。
工場生産において大きな役割を占めるのは経済的な合理性である。そこでは最小の費用をもって最大の効果をあげ
るという、いわゆる目的論的な合理性が追求される。大量生産技術一互換式技術、科学的管理法、コンベヤシステ
ムそしてオートメーションーの発達はこの経済的合理性への追求の系列にほかならない。経済的合理性の機械の発
達は、生産力の増大となって、人間生活の発展に大きな寄与をなした。反面、機械技術の著しい発達は人間の生活を
機械化し、人間が機械に奉仕するかのような様相を呈するにいたった。このために起こった人間的生の疎外は、いち
早く資本主義文化の爛熟に達したヨーロッパの思想家によって指摘された。すでに生の哲学者ニーチェは、この現代
科学の虚無主義的な成り行きを、人間的生の衰退の兆とみなし、現代の科学主義は科学的方法の確実性を絶対価値と
し、 科学技術による人間的生の機械化と卑小化を顧みないものとした。 ニーチェの残した科学技術への深刻な反省
は、ハイディッガーによって受けつがれた。彼は﹃技術への問い﹄ ︵一九五四年︶を自分の思索の重要なテーマとし
た。そこで彼は人聞が技術に対して自由な関わりを回復するためには、ギリシャにおけるような技術と芸術との根源
的な結びつきをとり戻さなければならないと主張している。
つぎに機械の発明における技術的構想、 ︵基礎︶工学法則の発見、近代工場生産における管理とは実際にはいかな
るものであるか。それぞれの領域における天才の特徴からこれを明らかにすることを試みよう。・
レオナルド・ダ・ヴィンチ。ダ・ヴィンチの才能がいかなるものであったかをもっとも顕著に示すものは、彼の著
述において示された想像力︵構想力︶の豊富なことであった。ところで彼の業績をたどってみると、想像力のなかで
芸術と科学がつねに結びついており、芸術と科学の世界における偉大な業績がつねにその時を同じくして現われてい
ることに気づく。最後の晩餐とフランシスコ・スフォルッアの騎馬像のモデルが制作されたのはいづれも科学に関す
る初期の手記、機械に関する比較的初期の製図、および運河や水力学原理に関する貴重な研究とほぼその時を同じく
している。後パトロンのアンボアーズのシャルルのもとでは猛烈な勢いで技術や科学に関する研究を遂行している。
絵画論の稿が起されその材料も大部分完結している。鳥の飛翔に関する研究も明らかに一段落ついている。水力学に
関する完結した論文のできたのも恐らくこの時期であった。解剖学に関する研究も実際上は完成している。ダ・ヴィ
ンチに恵まれていたのは、何よりも、諸々の形と形の関係を通じて事物の真理を把えるいう﹁想像的に形をつくりあ
げるカ﹂ ︵固3まぎ鵯ぎ鉱εであった。一方の分野だけを単独に切り離して観察しようなどと企だてることは不自
然であろう。
ダ・ヴィンチの発明家・技術家としての多才さとならんで彼の新しさはどこにあったか。アッシャーは彼が各種々
1工学の形成一 六五
1論 文一 六六
の新しい実験科学の基礎を設定し、単なる経験本位の考え方と潔く挟をわかって、広く工業の全分野にわたって一般
的に適用できるような機械学︵力学︶という応用科学の概念に到達した点にあるという。ダ・ヴインチ自身﹁科学は
将校であり、実験は兵である﹂、﹁技術は数学的科学の楽園である。そこでは数学の果実が実るから﹂といっている。
彼の手記はその後ガリレイやケプラーの手によって始めて顕著な成果を収めるようになった科学的研究の発端をなし
ている・それはまた、アゴスティーノ・ラメリi︵一五八八年︶、ジャック・ベッソン︵一五六八年︶、ヴィットリオ
・ゾンカ︵一六〇七年︶、およびカステリ︵一六二八年︶等の業績中に現われている水力学や応用力学に関する近代
的論文の鳴矢でもある。当時にあっては応用科学に関する論文というものは、むしろ例外的に少なかったことに注意
しなければならない。
最後にダ・ヴィンチの弱点はどこにあったか。実はこれを通じてもっとも彼の特徴を知り得るのであるが。彼は職
人であり、教育というものをほとんど受けていなかった.ラテン語もよく読めなかったという。そのために中世スコ
ラ哲学の影響を受けることなく、先入見なしに自然から率直に学ぶことができた。と同じ理由から自分の着想を論理
的に突きとめたり、 他人に自分の思想を正しく伝える系統的な数学的な証明法をもつことができなかった。 いわば
﹁学派を残さず、霊感者の道案内﹂ ︵バナール︶者であった。
ガリレオ・ガリレイ。ガリレイも個人的資質において造形的才能に恵まれていた。彼は絵、とくに素描がうまかっ
たが、これは彼の技術的能力と関係があり、ひいては彼の科学を特色づけている。彼は自身が考案し製作した精巧な
天体望遠鏡や比重計などの科学器具によって観測や実験を行なうことができた。しかし彼は単に技術者の伝統を受け
ついだだけではない。それまでの科学的技術者は科学と技術を統一しながらも、重点を技術においたが、ガリレイは
重点を科学におき、技術に理論的基礎を与え、これによって近代科学的自然像をつくり出したのである。
学者としてのガリレイの特徴、つまり彼の学風はどのようなものであったろうか。 ﹁簡単な真理でもこれを見出す
ことは、最高の事柄について議論しながら何らの真理にも達しないことよりも重要である﹂、 と彼はカン。ハネラ︵一
五六八r一六三九年︶に宛てて書いている。神や宇宙の本質について堂々めぐりの議論をするよりも、簡単でも確実
な真理に達するのが重要だというのである。それは、力や運動の本質がわからなければ力学は不可能だとする態度で
はない。彼は理論家とか体系家とかいうものでなかった。ガリレオの自然思想の個々の原理のうちにも、理論的に練
りあげたというよりは、むしろ自明の仮定だとして、とり立てて明言せずに前提されていたものが少なからずある。
彼は慣性法則についてもあいまいさを残さぬほど明確に一般式としてまとめあげることなく、その完全な定式化は、
デカルトとニュートンによってはじめてなされたのである。ガリレオは応用数学者、当時のいわゆる実用幾何学者だ
ったのである。
ガリレイは、ピサ大学︵そこでは数学の教育は行なわれていなかった︶では医学を学びながら卒業間際にそれをや
めてしまった。これは当時の医学のスコラ学的性格が彼の性向にぴったりしなかったからであろう。彼は当初父から
数学の研究を早くからすすめられながらも、整備した体系をもつ非実用的なユークリッドにあまり興味を感ずること
ができなかった。二〇才になっておそまきながら、個人的に私教師のオスティリオ・リッチ︵建築家、フィレンツェ
の工芸学校教師をしていた︶から学んだ.このようにガリレイの最初の数学教育は芸術H技術家であった人物によっ
て方向づけられた。彼はパドヴァで若い教師として、大学で数学と天文学とを講義し家では技術について私的に教え
た。彼は自分の実験研究のため、家に仕事場を作り、職人を助手として育てた。
1工学の形成− 六七
−論 文− 六八
彼の科学的研究は築城術︵一五九二−九三年︶と機械学︵一五九四年︶で始まったが、この青年時代の技術研究は
彼の科学にとって決定的な意義をもつ。彼は学生時代からずっと造船所や造兵所を訪れるのが好きであった。彼の最
初の印刷出版物︵一六〇六年︶は軍事用の新しい測量具のことを記したものであった。近代力学の発端となった最後
の著書︵一六三八年︶さえ、その対話の舞台はヴェネッィアの造船所があった。彼の最大の業績、落下体の法則の発
見もまた、当時の弾道技術との関連に根ざしている。ガリレイの科学の源泉は技術にあった。
ガリレイの研究によって近代科学が土台とする二つの柱、実験と数学的分析が立てられたのである。職人の実験だ
けでは科学上の成果を生むことはできなかったであろう。すなわち、ガリレオは論理的、数学的な方法を身につけた
学者であったという点において技術”芸術家であったダ・ヴィンチと異なる。いっぽう原理的な探求よりは応用的、
技術的であったという点においてデカルトやニュートンとは異なっている。技術に積極的な指針を与えた学者であっ
たゆえに、彼はいわゆる基礎工学者の創始者とされるのである。 ﹁この科学は機械を作るにも、あらゆる種類の建築
にもきわめて必要である﹂と彼は一六〇九年のある手紙のなかで書いている。
フレドリック・テーラー。テーラーは科学的管理法の創始と工具用鋼高速度鋼の発明によってもっとも有名であ
る。今日の学問の体系からすれば前者は生産管理の分野に、後者は冶金学の分野に属する。ところがこの二つの研究
はテーラーにおいては密接に結びついている。テーラーが追求しつづけたのは工場における管理制度の確立であっ
た。科学的管理法はそこでの人間作業の標準化のために、高速度鋼は作業の標準化のために行なわれた金属切削法の
研究から生まれたものであった。工具鋼の発明も単なる技術的問題の解決のために出発したものではなかった。
テーラーがのちにテーラー・システムないし科学的管理法といわれるようになった管理制度の原型をつくりだした
のはミッドヴェル製鋼会社時代︵一八七八−九〇年︶であった。そこでのテーラー・システム生成の直接の動機は例
の組織的怠業を克服することであった。テーラーはこの組織的の原因を検討して、それが管理者側と労働者側の双方
にあるとしている。管理者側の原因というのは要するに、作業上の知識が貧弱で万事労働者まかせであって、せいぜ
い諸種の刺戟によって労働者の労働意欲を駆り立てようとするにすぎない。なかんずく作業に要する時間についてま
ったく無知であることが致命的な欠陥であることを指摘した。
彼は機械工に対抗して、その資格のない労働者から新しい機械工を作ることをはじめた。徒弟的訓練を受けていな
い資格のない労働者に機械工の仕事を教え、それに最高の速度で仕事を行なわしめようとしたのである。彼は熟練に
よらず、なんらかの方法によって、彼の考える﹁公正な一日の仕事量﹂を得ようと努力したのである。ここから金属
切削の研究と時間研究の二つの研究を始めたのであった。
高速度鋼の研究の動機は切削工場の標準化にあった。テーラーは当時普及しはじめた自硬性ムシェット鋼︵一八七
一年発明︶製のバイトと従来から使用されている炭素鋼のバイトの性能を比較し、どれによって切削速度の標準を定
めるかを決定するために実験を行なうことになった。実験の結果、当時の通説とは逆に前者が軟かい金属の切削に適
し、普通鋼バイトが固い鋳物・鍛造物の切削に適することを見出した。テーラーは、後さらに市場に出まわっている
若干づつ化学組成の異なる自硬鋼製バイトについて、そのどれを標準の工具として統一するために実験を行なった。
途中、熱処理の重要性に気付いて、冶金技術者J・M・ホワイトの援助を求めて実験を行なった。そして黒色をして
いる温度から溶解点までの間約五〇度刻みに高い温度に熱して調べ、遂にテーラー.ホワイト鋼といわれる高速度鋼
を発見したのである。
i工学の形成− 六九
1論 文− 七〇
テーラーは金属切削法を例に自分の研究方法のすぐれた点について自負している。彼は、 ﹁最終の結果に影響を及
ぼすすべての変数︵毒ユぎδ巴。ヨ。旨︶の分析の後に調査の対象となる一つの変数を除いて、他のすべての要素を不
変にした。そして、この一つの変数を組織的に変化させて、それの対象に及ぼす効果を注意深く記録する﹂、しかし
他の実験者のほとんどすべては﹁二つまたはそれ以上の変数の対象に及ぼす効果を同時に、しかも同じ実験で調査す
る﹂、と。テーラーの研究方法は今日の工業研究でもっとも広く行なわれているそれである。テーラーの研究にはイ
ンスピレーションとか、あるいは芸術的な構想とかいったものは見出されない。また現象の科学的な追求も、研究の
遂行に必要な範囲でしか追求されないのである。
テーラーの科学的管理の原理はいかなるものであろうか。テーラーは﹃金属の削り方﹄ ︵O口30興け99艮轟
冒。け巴9、アメリカ機械技術者協会に一九〇六年発表︶の冒頭で、その実験が機械工場に管理制度を創設するに必要な
知識の一部を得るために企てられたものであると述べている。そして彼の管理の内容である課業制度について述べた
あと、工場の生産高に直接影響するところの重要資料の決定と計画とを全部、工人の手からとりあげてしまって、中
央部にいる小数の人々に集中すべきことを力説したのである。労働過程における計画と執行の分離が科学的管理法の
原理といえる。
産業革命においては生産者の手の延長である労働手段たる道具︵物的資産︶がもぎとられて資本制生産の前提要件
を準備したとすれば、科学的管理法では、資本制生産のもとにおける労働者の頭と一体になって残存していたところ
の労働者の最後の資産f知識と熟練という精神的資産を収奪してこれを管理の側に移そうとするものであった。こ
のことはまた熟練労働者を不熟練労働者につき落すことであり、複雑な労働を単純労働に還元することである。この
点に当時の組織労働者−−疲ら無練であった一が科学的管理法に反対し抗議し突き連累あった.科学的管
理法は資本制生産のもとにおける労働疎外の完成への出奪あると同時に、総じて人間労働が工業化の過程において
必ず一度は何らかの形において経過しなければならないところの一局面であろう。
︵、︶本藻∼た発表し蕪論﹁工学の形成t工学と篤学1︵説苑︶﹂︵﹁商学塾﹂第一二蓉、第一、一号︶2響よ
り詳しく論じたものである。
︵2︶あ節隻とめるにあ信て・もっと多く参考と髭のは、つぎの諸文献である.一一、一籌音﹃篶の草﹄︵岩婆一日
店二九五奪・三姦﹃驚哲学﹄︵岩波書店、充四二年︶、§§﹃豊玉、肺霜嵩.亀偽q融着馬偽ω︵充五一、一、邦訳﹃技
術と技術﹄︵生田勉訳碁波毒死話年︶、dω葺竃−誕馬ω、・ミミ恥ち︾。醤㌦q貸こミ.、梅醤帖、.着物三九二九年︵邦
訳﹃械讐壇﹄︵蔑鳶平訳暑馨店、充四三年︶奉§碧§賞爲ミ馬q物し砦四︵邦訳﹃飛行の理論﹄︵谷
一郎訳暑波書店二九五六年︶、島弘﹃科学的管理法の研究﹄︵有斐閣、冗翌年︶および副田轟﹁テ∼ラー.ンス
テムの原理﹂ ︵﹃経営論纂﹄第一二巻所載︶。
︵3︶例えば星野芳郎﹃器革新の根窩題﹄︵碧壽、充五八年と、二八ページ、これにもとづく山田圭﹁現袋術
論﹄ ︵朝倉書店、 一九六八年︶二〇ページ参照のこと。
星野芳郎氏の分類・星野昏篤学を義の篶学、工学および護工学の一、一つ雰類しておえる.彼によれば、O。狭
義の技術学・ある楚の生空程の立場笠裳がら、その設計や製造、労働者の活用の仕方などを統扇髪えて、その
工程の雲のあ分金ってい−一冤ば工馨理、工場設計、製造研究釜.望学.それぞれの生産工程に共通の生
産嚢素を客工程と窃晶して整理し、体系化し、その法則性を解明する.1例えば、原動機工学、自動車工学.
睾壁学・さら垂々の工学の理髪っての蓋の法崔叢叢う一例えば機撃.合金学など.
七一
−工学の形成i
一論 文− 七二
星野氏は工場における現実の生産と純粋研究を二つの極として、前者に狭義の技術学を対応させ、後者に極めて近いもの
として基礎工学をおき、そしてそれらの中間に工学を配置しておられる。彼の分類に現実の生産の抽象化の程度あるは生産
の場からの距離の差にもとづいている。しかしながら後述するとおり、設計、研究および生産に関する三つの学問は、星野
なる領域に属し、明確に異なる原理に立つものといわなければならない。
氏のいわれるように単に抽象化の程度とか距離の差とかいうように段階的に異なるものではない。三つの学問はそれぞれ異
︵4︶ この分類は、前の拙稿︵上掲説苑︶を改めたものである。これを図示すればつぎのようになる。
膳醸H惚一単磁
露識惣一露 識
←
@▽書 難解
@ @露里霊欝
@ \ /
膳醸H磁一頭蟄 陪臨H惚一階鰍
\ /
@ 享 悪玉蕃 ﹄、講i剥=
麺、ラ泌誼麺︾澄佃
:露書e曲想・鼠母・#ゆ蝿︵懲識e典盗5・國海愚曝購︶
H 磁: :葉盤eH磁・膿憩H磁・餅煕H磁
慰謝磁:
@ @ 葉盤q︶H磁L弾叫下縄些よV
⋮﹁
図では技術をそれにもっとも深いつながりのある三つの領域一芸術、科学および経済で囲んである。芸術とのかかわり
−設計・デザインは技術的構想の創成とその表現を行なう活動であり、これらの成果を記述したのが狭義の工学である。
設計論あるいは創造性工学とは設計・デザインの自身の性格をとり扱うものといえよう。工学部における図学−透視図.
投影図など一の重要性は、構想の表現という点から容易に理解されるであろう。
科学とのかかわりにおいて、補足したいこと。実際の工学者には、その性格がきわめて純粋科学者的なものから、技術者
的なものにい忙るまで、いろいろの性格のものがいるということである。科学者の研究性格は、材料力学史などでは興味あ
る課題である。例えば、 日日。ωゴ8犀9塑亀蹄きqミ曽這醤傾き蔓・ミミ塁軌ミ切・一〇器における、寓鋤図毛。F幹。犀。ωお.︷び
溶〇一<﹃卿の研究性格の比較など。
この図の分類は・機械工場の組織とも若干関係があろう。設計部︵固目臓器RぢmUo思﹃けヨ。旨︶および工作部 ︵℃﹃&亘。,
W国⇒嘘器Rぎ国U8巽什ヨ。旨︶はそれぞれ、設計・デザインおよび生産に対応する。今日、材料力学.構造力学・水力学
七三
t工学の形成1
礎工学の形成をとり扱おうとするが、まず、ツィルゼルの高級職人説の吟味からはじめよう。技術に役立つ近代科学
国でもひろく読まれているチムシェンコの﹁材料力学史﹂もガリレイから始められている。本章では、ガリレイと基
礎工学!⋮技術における物理学的法則の体系tのなかでももっとも重要な位置を占めるのが材料力学である。わが
前節において述べたように、ガリレイは技術における科学的法則を発見して、その体系化をはじめて行なった。基
一 ツィルゼルの高級職人説
ピ呂。﹃暮。量︶は、この図ではむしろ生産の領域に入るであろう。
・熱力学などに基礎工学の研究は、生産会社ではあまり行なわれていない。機械工場での研究部︵三国什。、一帥一国口止℃.。。。.の
け一
・−一論 文一・ 七四
の誕生はスコラ哲学と高級職人の技術の結合によって実現された、というのがツィルゼルの説である。結合といって
も、彼の説の強調するところは職人技術の進歩性にあり、スコラ哲学については、むしろ、不毛なものとしてとり扱
われている。わが国におけるガリレイ研究者の一人青木靖三氏−同氏はツィルゼルの論文のいくつかをまとめて翻
訳しておられる一の見解もこれに近いものといえよう。
ツィルゼルは、論文﹃科学の社会的基盤﹄のなかで、二二〇〇年から一六〇〇年にいたる期間に、知的な活躍をし
ていた三つの層を区別している。大学教授とヒューマニストと職人である。ツイルゼルによれば、大学教授もヒュー
ハ ロ
マニストもともに合理的に訓練されていたが、彼らの方法は、彼らの専門家としての身分によって規定され、本質的
に科学の方法とは異なっていた、という。彼によれば、教授もヒューマニストの文学者も自由学課︵まR巴Ωo旨ω︶
と機械的技術︵ヨΦo訂三8一〇。昌ω︶とを区別し、手仕事、実験、解剖を軽蔑していた。ツィルゼルによれば、職人こ
そこの時期における因果論的思考法の開拓者であったという。高級な手工労働者︵芸術家月技術者、外科医、航海・
音楽用器具の製作者、測量師、航海者、砲術者︶のいくつかのグループは実験し、解剖し、量的な方法を用いた。航
海者、測量師、砲術者が用いた測量器具こそ、のちの物理学用具の先駆であった。しかしながら職人は、方法的、知的
な訓練方法を欠いていた。このように、科学的方法の二つの構成要素は社会的な障壁によって隔てられていた。論理
的訓練は上級の学者のためにとっておかれ、実験、因果論的興味、量的な方法は、多かれ少なかれ世俗的な職人に委
されていたのである。ツィルゼルによれば、技術が発展し、実験的方法が手仕事にたいする社会の偏見を克服し、こ
れが合理的な訓練を積んだ学者によって採用されたとき、はじめて科学が生まれたのであった。このことは一六〇〇
年ごろギルバート、ガリレイ、ベイコンによって達成された。これと同時に、スコラ学的な討論法と、ヒューマニス
トの個人的栄誉の理想とは、科学的共同による自然の制御と学問の進歩という理想によって置き換えられたのであっ
た、という。そして、この全過程は初期資本主義社会の進展にもとづいており、この社会が共同体的精神、呪術的思
考法、権威崇拝を弱めたのであり、またこの社会が世界的に因果論的、合理的、また量的な思考法を押し進めたので
という。彼は、このことについては、あまり説明を展開していない。ルネサンス期の学問において、天文学が占めた
あった、という。なお、ツィルゼルは、近代的な天文学の発展した仕方は、社会学的には、いささか異なっている、
ハ ロ
重要な地位と、さらに、 ﹁工学﹂の創始者として、この拙論において、採り上げようとするガリレイが、すぐれた天
文学者であったことからすれば、むしろ、近代的な天文学の発展の仕方のほうがより重要だといわなければならない
であろうが。
ツィルゼルに従って、一三〇〇年から一六〇〇年にいたる時代の三つの知的活動の層を区別しよう。すなわち、大
学とヒューマニズムと労働とを。
大学では神学とスコラ学とがなお支配的であった。大学の学者は合理的に考える訓練は積んではいたが、使ってい
たのはスコラ学的合理主義の方法で、これは発展をとげた経済の合理的方法とは土台からして異なっていた。商人の
関心の的は計算することであり、職人と技術者の関心の的は操作するさいの合理的法則であり、原因の合理的な探求
であり、合理的な物理法則であった。一般的にいって、スコラ学的な特殊な方法は、神学者たちが社会の発展につれ
て、世俗的な問題に向うときにもそのまま保持された。中世のスコラ学徒と一六〇〇年以前の大学の学者とは精妙な
区別、枚挙、討論に耽っていた。彼らは権威に結びつき、引用を好み、自分の意見は、大部分、注釈と編集の形で述
べた。一三世紀以降、世俗的な問題がスコラ学徒によってもまた論じられ、例外的にではあるが、彼らのあるものは
−
工
学
の
形
式
t
七五
1論 文一 七六
経験について言及しさえもしたが、そのときでも、一般的に、彼らは原因を求めることはせず、また決して物理法則
を探求することはなかった。彼らはむしろ、現象の目的と意義とを説明するのに努めた。スコラ学の隠れた性質とア
リストテレス流の実体的形相とは明らかに、前科学的で呪術的で物活論的な目的論の合理化に過ぎなかった。このよ
うに、一六世紀の半ばにいたるまでは、大学は当時の技術の発展とヒューマニズムとからはほとんど影響を受けるこ
とはなかった。大学の精神は、実質的にはなお中世のものであった。
第二の知的な活躍を行なった層はヒューマニストである。この時期の典型的な、イタリアのヒューマニストとして
は、ペトラルカやボッカチオのような文学者を想像すればよい。ツィルゼルは、ヒューマニズムの祖となったものと
して、一四世紀のイタリアの諸都市に現われた、最初の世俗的学問の代表者をあげている。彼らは科学者ではなく、古
パおロ
典時代の政治的・文化的成果を羨んで眺めていた市役所、王候、また教皇の書記や役人であった。これらの学問ある
役人たちは主に自分たちの傭い主の外務を司った。彼らの目標は自分たちの職業のもつ諸条件から生じた。彼らの書
いたものが博識で磨き上げられておればおるほど、それだけ多くの権勢がその傭い主に返ってき、それだけ多くの名
声が彼ら自身に戻ってくるのであった。そのために、彼らは主に文体を完成することに努め、古典についての知識を
集積したのである。後になると、イタリアのヒューマニストは大部分、その公的なつながりを失なってしまった。多
くのものは自由な文学者となり、パトロンとしての王侯や貴族、銀行家に依存することとなった。他のものは王侯の
子息の教育掛りとなり、またなん人かはアカデミックな地位を得て、大学でラテン語とギリシア語を教えた。しかし
彼らの目標は変らず、彼らの記憶と学問についての誇りは増大しさえしたのであった。彼らはいく人かの古代の著作
家を文体の典型と考え、ちょうど神学者が宗教上の権威に結びつくほどの厳重さでこれらの世俗上の権威に結びつい
たのであった。ツィルゼルによれば、ヒューマニズムもまた合理的な行動をしてはいたのであるが、全体として、ヒ
ューマニズムは事物よりもはるかにことばに、内容よりも文学形式に興味を注いだ。そして、その方法はスコラ学的
合理性ξ近代的な科学的合理性と真なっていた.ヒュ←ニズムは科学的、一一一口語学の方警発展喜たが、因果論
的探求を無視し、物理法則と量的な探求については無知燐、あった。
ルネサンス時代の大学の学者とヒューマニズム文学者とはとくに自分たちの身分を誇りとしていた。彼らはともに
教育のない人びとを軽べつしていた。彼らは自国語を避け、ラテン語でのみ書き、また喋った。さらにまた、彼らは
上流階級にくっつき、貴族、富んだ商人や銀行社会的偏見を分けもち、手仕事を軽んじいた。したがって学者も文学
者もともに、自由学課と機械的技術という古典的な区分を受け入れていた。
機械的技術と自由学課との、すなわち、手と舌との社会的対立関係は、ルネサンスのすべての知的また職業的活動
に影響を及ぼした。大学で訓練を積んだ医学博士たちは、多かれ少なかれ、古代の医学書を注釈することで満足して
いた。手術とか解剖のような手仕事をする外科医は、理髪業者に属し、助産婦と同じような社会的位置にあった。文
学者は芸術家よりずっと尊敬されていた。一四世紀には、芸術家というのは左官や石工とは別のものではなく、すべ
ての職人同様にギルドに組織されていた。彼らは次第に手仕事から離れるようになり、この分離はイタリアでは一六
世紀に実現した。レオナルド・ダ・ヴィンチの時代︵一五〇〇年頃︶には、この分離はまだなし遂げられてはいなか
った。この事実は、絵画と彫刻とは自由学課に属するか機械的技術に属するかという問題をいくたびとなく論じてい
る当時の芸術家の著作に明らかに表われている。これらの論争のなかで、絵画きは社会的な尊敬を得るために、通常
自分たちと学問とのつながりを強調した。絵画は透視法と幾何学とを必要とする。
七七
﹃1工学の形成1
1論 文− 七八
知的な活躍をしていた第三の層、芸術家、技術家、航海者、造船家、大工、鋳物師、鉱山技師は、大学の学者とヒ
ューマニズム文学者よりは低い社会的地位で、技術と近代社会の前進のために働らいていた。彼らは羅針盤と鉄砲を
発明した。彼らは製紙工場、針金工場、揚鉱工場を作り上げた。彼らは熔鉱炉を作り、エハ世紀には鉱業に機械を使
い出した。彼らは経済競争によってギルドの伝統の束縛から抜け出し、発明心を刺戟されて、経験的な観察、実験、
また因果論探求の真の開拓者であった。彼らのなかの少数のグループは、自分の仕事のために仲間よりも多くの知識
を求め、したがってよりよい教育を受けたものもいたが、彼らの大部分は、教育もなく、多分しばしば文盲であっ
た。ツィルゼルは、これらの芸術H技術家高級職人を四つのグループに分けている−1すなわち、芸術家、外科医、
音楽器具の製作者、そして航海・天文器具と、測量術と砲術とのための距離計の製作者である。ツィルゼルは、これ
らの四つのグループのなかで、芸術︵U技術︶家がもっとも重要であるとしている。当時、分業は.こく僅かしか発展
していなかった。絵画きと彫刻家と鍛冶屋と建築家の間にははっきりした区別はなかった。同じ芸術家がいくつかの
分野で仕事をするのはよくあることであった。一五世紀には目立った専門家の集団が生まれてきたが、芸術旨技術家
ともいうべきこれらの人たちは、絵を画いたり像を鋳造したり大寺院を建築するだけでなく、また、運河や水門を建
設し、巻揚げ機械や大砲を製作し、城砦を建設したからである。彼らは新しい絵具を発明し、透視法の幾何学的法
則を見出し、技術と砲術とのために新しい測量用具を作り出した。このグループに属する最初の人はブルネルレスキ
︵℃茎昼B卑琶亀窃9一’一三七七−一四四六年︶フィレンツェの大寺院のドームの建設者である。彼につぐものと
してはギベルティ ︵[o括養oO三富註、 一三七八一一四五五年︶、 レオン・バッティスタ・アルベルティ ︵冨8
国籍蔚5>ぎR菖、一四〇四i七二年︶、レオナルド・ダ・ヴィンチ︵い8器a鼠く冒9、一四五二−一五一九年︶、
それにヴァノッチオ●ビ多グッチオ︵<・・邑。窪曼a。、茜八○⊥五一二九年︶である.彼らの最後の一
人はベンヴェヌト・チェルリニ︵閃電く魯5000誤診、一五〇〇一七一年︶である。彼は鍛冶屋であり、彫刻家であ
り、またフィレンツェの軍事技師でもあった。ドイツの絵画きで彫刻師、アルブレヒト.デューラー︵>一σ目。。耳
U辞R、 一四七一−一五二八年︶は図法幾何学と築城術について論著を書いた︵一五二五年と二七年︶が、彼もこの
グループに属した・芸術技術家の多くは、自分たちのなし遂げたことについて畠語で、また仲間のため旨記や
記録をつづった・これらの記録は大部分、手稿のままで人の手に渡っただけであった.彼らは、親方たちの仕事場で
徒弟として教育を受けた。ヒューマニズムの教育をもっていたのは、アルベルティだけにすぎなかった。
外科医は高級職人の第二のグループに属していた。イタリアのいく人かの外科医は芸術家と接触をもっていた。こ
れは絵画が解剖上の知識を要することからきていた。第三のグループは音楽器具の製作者たちであり、彼らは芸術“
技術家とつながりをもっていた。例えば、チェルリニの父親は音楽器具の製作人であったし、また彼自身しばらくの
間、教皇庁の音楽家を務めていたことがあった。一五、一六世紀には、現代のピアノの先駆になるものがこの第三の
グループの代表者によって組み立てられた.高級職人の第四のグループをなすのに、航海.天文器具と、測量術と砲
術とのための距離計の製作者である。彼らは羅針盤、天球儀、十字測量具、四分儀を作り、 一六世紀には磁針偏差
計・磁針俯角計を発明した。彼らの測量器具は現代の物理学用実験装置の先駆である。これらの人充ちのあるものは
退役航海者あるいは砲術家であった。測量師と航海者もまた機械的技術の代表者とみなされていた。彼らや地図製作
者は、実験技術の発達よりも、むしろ測量と観測のために、はるかに重要である。
これらの高級職人は学問のある天文学者、医者、ヒューマニストと接していた。彼らはその学問のある友人たちか
七九
1工学の形成1
1論 文− 八○
らアルキメデス、 エウクレイデス、 ヴィトルヴィウスの話を聞いた。これらの高級職人はすべて力学、音響学、
化学、冶金学、図法幾何学、解剖学の分野ですでに相当な量の理論的知識を発展させていた。しかし彼らはどうやれ
ば組織だってやれるかはまだ学んではいなかったために、彼らの成果は孤立した発明を集めたものという形をなして
いた。例えばレオナルドは、力学の問題をあるときはまったく間違った仕方で論じているのであるが、彼の日記の示
すところによると、ワての問題は彼自身がすでに数年前に正しく解いていたものなのである。ツィルゼルは、こうした
理由から、高級職人はすぐに科学者であったとはいえないが、科学の直接の先駆者であったのだ、という。
以上がッイルゼルの所説の要約である。彼のいう ﹁職人の因果論的思考法﹂、 ﹁量的な方法﹂ ﹁科学的共同による
自然の制御という理念﹂などは必ずしも理解し易いものではない。それはさておき、本稿でもっとも急がなければな
らないのは、スコラ学者と技術1とくに実験装置・技術との関係である。なぜならば、本稿の主人ガリレイが若い
頃うけた訓練は、厳密にいって、スコラ学的、アリストテレス的な線に沿っていた。彼は、アリストテレス的な自然
学の教義の系統的、実験的調査から研究を始めた︵一五八五年︶のであるからである。また、ガリレイの実験尊重や
巧みな実験技術は、当時の器械技術においてどのような位置にあるのか。これを知らなくては、この偉大な天才を正
当に評価することができないからである。
︵1︶ 論文﹁科学の社会的基盤﹂はN器巴国,﹃ミ恥ミ&ご簿尋ミ知8駝鳥﹄亀§&、︵邦訳、 ﹃科学と社会﹄青木靖三訳、みす
ず書房、一九六七年︶所収。
書名の示すように、ツィルゼルの研究は社会学的研究である。彼は、 ﹁科学の興隆は、通常、科学的発見の時間的継起に
とくに興味をもつ歴史家によって研究されている。しかしながら、科学の生誕は社会学的現象としてもまた、研究しうるも
のである。科学的な著作家の、 そしてまた彼らの先駆者の地位を確かめなければならない。 これらの地位の社会学的な機
能、彼らの専門家としての理想を分析しなければならない。 ﹁複雑な知的構成物は、通常歴史的に研究されるだけである。
したがって、社会的研究は、大部分、比較的、単純な現象に限られている。しかしながら、もっと重要でもっとも興味ある
知的現象を、社会的または因果論的に研究してはならないという理由はどこにもない﹂ ︵上掲書二三−二四ページ︶と述べ
ている。
技術の歴史と社会学については、 一応﹁マックス・ヴェーパーも、 歴史学が個々の事象の因果的分析を行なうのに対し
て、社会学の仕事は類型概念を構成して出来事の一般的規則を採知することにあると考えている。しかしながらプートゥー
ルも述べているように、社会学が語りうる法則も実は傾向法的法則にすぎないのであって、その妥当域は時間空間的に制限
されている。すなわち社会学的範疇そのものは所詮歴史性を脱しえないのである﹂ ︵木幡順三﹁芸術社会学の基調﹂一竹
内敏雄編﹃芸術と社会﹄ ︵美術出版社、一九六八年、六四ページ︶が参考になろう。本稿は、ツィルゼルの社会学的枠組を
歴史的にチェックすることになるといえよう。
︵2︶ 天文学は天体は微細なものである、という考えと結びつき、つねに自由学課に属していた。他方、実際的天文学は航海術
と結びついていた︵上掲書三〇ページ︶。
︵3︶ ツィルゼルは、 ﹁専門官吏のあるところでは、世俗的な学問がまず、ヒュtマニズムの形であらわれるというのは、一般
的な社会学的な現象であるように思われる﹂といっている。シナでも、孔子の時代に封建制度が解体してからのちは、一群
の文学者官吏が姿を現わした﹂ ︵上掲書二八ベージ︶。 ツィルゼルは﹁時間的な継起というものは中断されることがある。
だから適当な社会的集団を、他の時代、他の文明の似たような集団と比べてみなければならない﹂ ︵上掲書二四ページ︶と
いっている。なお、彼は、封建制から初期資本主義への移肴になる根本的な変革が科学の興隆の必要条件をなしているとい
い、それらのいくつかの条件をあげている︵上掲書四一六ページ︶。
1工学の形成− 八一
1論
文1
パ ロ
二 科学者と精密︵U科学U天文︶器械
八二
現代の科学者が実験室人であることは自明の事実である。科学者は理化学器械や装置をもちいて、天与の感覚のお
よぶ範囲以上に観察を拡げ、素手以上の操作能力を創造している。事実、一七世紀の科学革命のもっとも重要な要素
のひとつは、科学者のための新しい道具が発達したことであり、それが科学者の経験に新しい世界を開いたのであ
る。
恐らく、科学史と技術史のあいだのもっとも興味あるつながりは、科学器械の領域に見い出されるであろう。どの
ようにして科学的知識が新しい器械をつくりだし、またその新しい器械が、どのようにしてふたたび新しい知識を獲
得させるようになったか、という過程にあるであろう。器械製作技術の形成期は一七、一八世紀である。以下この時
期における科学器械の勃興と、それにともなう技術的諸要目について述べることによって、主題の科学者と器械製作
者︵H高級職人︶のつながりを明らかにすることができるであろう。
中世の科学者は、有用な器械をほとんどもっていなかったが、天秤、炉、製図コン。ハス、デバイダなど、いくつか
の器具は、すでに古代からあって、職人から容易に手に入れることができた。他の器械、たとえば、アストロラーブ、
日時計、天文観測器械、計算器といったものは、もっと複雑で、伝承された写本を学問的に評価するカがあって、は
じめて利用できたのである。科学者は、大まかなものを製作するために、大工や金工を雇うことはできたけれども、
精密な設計や彫図や目盛付けは、自分自身でやらなければならなかった。
器械製作の偉大なルネサンスは、一五世紀後、ドイツにおこった。印刷書物の出現と、ギリシアの数学と天文学の
復興が、器械の製作に大きな影響をおよぼした。新しく発見された知識が急速に普及したために、伝統的な器械の需
要が増大し、それらの構造を述べたテキストが、より容易に入手できるようになった。それと同時に、科学者の側に
ひとつの意識的な動きが起こった。それは、科学者がより専門化した職人、すなわち精密な仕事も粗い仕事もでき、
天文学者、数学者自身の助けをできるだけ受けずに、これらの器械を製作することができる職人を雇い入れ、天文学
者、数学者は、設計者の役だけをするようになってきたことである。職人は科学的原理を教えてもらって仕事をし、
あるいは携帯用日時計やアストロラーブなど、どんな器械でも見本のとおりに複製することができ、機械的、実際的
設計を所与の材料と、身につけた技法とに適合させることができるようになった。そして、これができるようになる
と、寸法や装飾や念の入れ方には相違はあっても、多数のおなじような器械をつくることができるようになった。つ
まり器械製作の偉大なルネサンス期には、天文学者は、より粗い仕事から解放されて、自分自身の観測.測定と器械
の設計に専念し得るようになったわけである。このような過程はツィルゼルの所論 より以前には、スコラ学的議
論に耽っていた学者が、この時期にいたって、はじめて職人の機械技術と結びついた、という とはいちじるしく
異なることに注意しなければならない。
このように、一六世紀のはじめには、器械製作者に二つの異なった型ができていた。一方は器械の設計と実際の製
作に特別の興味をもつ科学者︵おもに天文学者︶で、他方は一般用の器械について多種多様な特殊の型式のものをつ
くることを学んだ、あらゆる系譜に属する職人たちである。両者とも、はじめはニュルンベルクとその周辺に集中し
た。そこでは芸術家と職人のギルドが異常なほどよく発達していて、それに属する人たちは、繊細な仕事と、金属や
象牙の彫刻とに必要な高度の技法をもっていた.器械にたいする増大した興味が、西ヨー・ッパの残りの地域まで拡
−工学の形成− 八三
;論 一. 文一 八四
大するには、約一世紀を要したがハ一六世紀の最後の四半世紀には、学者と職人の両方の器械製作者が、ドイツのみ
ならず、イングランド、フランス、イタリア、低地諸国に多数いるようになった。
一七世紀には大きな社会変化がおこったが、これは科学器械の製作にも重要な刺激を与えた。領地の再分配が行な
われるにつれて、その測量が必要になった。また射撃精度の増大に重点をおくようになった。軍事技術の影響や、
航法と航海器具にたいする関心をおおいに増させた海洋探険の影響も、重要な刺戦であった。これらの刺戦は、科学
知識の獲得がより広範な人びとに可能になったこととあいまって、 ﹁技術者﹂︵冥碧け三9R︶と名づける新しい階層
を生みだした。彼らは、けっして普通の意味での学者ではなかったが、測量、砲術、航海の器械を使用するのに十分
な技術的知識をもっており、多くの場合、器械使用の実技と、その基礎となる初歩的な数学的原理を教えることによ
って、余分の収入を得たのである。技術者は、技術に関する科学の最初の完全な自覚をもった代表者であり、教師で
あった。彼らは、科学革命の時代にたえず唱えられた思想−1科学は知的な探求であるだけでなく、個人と国家にた
いする多大な実際的利益の潜在的源泉であるという一の形成にあずかってカあった人びとである。技術者は、精密
︵“科学︶器械者のもっとも大きな需要者となった。
科学器械製作工の仕事の大部分は、技術者のために器械をつくることであった。彼らのうちのあるものは、技術者
そのものであって、科学器械を演示し、自分で使用し、またそれらについて執筆し、自分自身とその製品を宣伝し
た。彼らは、1その専門化した技術に必要な徒弟制度と、彼らの店と仕事場が一つの地域に集中したために、1
緊密な集団をつくっていた。いっそう専門化した器械製作者は顧客の指示する場所で仕事を営んでいた。航海用器械
の製作者は、造船所、埠頭、ドックの近くに仕事場をかまえ、砲術用器械は国の兵器廠のなかか、その近くで製作さ
れた。卓越した技量の職人で運のよいものが、国家や有名な学者に保護され、費用の全部または一部をもって、特殊
目的の器械を製作することもあった。
一六五〇年頃より以前には、器械製作にもちいられたおもな材料は木と真鍮で、装飾の多いものには象牙、皮革、
子ウシ皮紙などももちいられた。器械の大部分に木材だけをもちいる職人と、真鍮をもちいる職人とのあいだには、
断層があった。重要な目盛は、測定、計算、幾何学的作図によって決定され、目盛数字や文字は、板に刻印してつけ
ることが多かった。この刻印のセットは、職人から職人へと伝授されたようである。いかなる器械でも度盛と彫りつ
ける線の並べ方とともに、精確さが必要であるが、ここでも、もっとも簡単な技法だけがもちいられた。細い線を切
るためのふつうの彫刻具︵当時、幅の広い彫刻具はなかった︶のほかに、彼らは、製図コンパスと、大きい半径の円
弧を描くさおコンパスしかもっていなかった。粗雑な工具を使って高い技巧を生み出すには、細心の注意を払う練習
を重ねるはかなかった。
以上のように、一六五〇年以前、器械製作とその使用に従事した人たちは、三つの主要なグループに分けることが
できる。第一の、そして最大のグループは、技術者のために器械の製作、あるいは保護者や裕福な顧客のために、精
巧で高価な、装飾入りの器械の製作を日常普通の商売とした職人たちである。第二は科学者の器械製作家で、彼らは
自分の装置を独力で、または数人の職人の手仕事を使って仕事をした。ガリレイはこのグループの人間であった。第
三に、中間層の専門家が少数あって、彼らは、たとえば特定の造船所で船の羅針盤を、あるいは兵器廠で砲術機械を
つくった。
当時職人たちが製作する器械の選択にあたって、基本となったのは、昔の様式を参考とすることであった。象限
一
工
学
の
形
成
i
八五
一論 文− 八六
・儀、アスト・ラーブ、環球儀その他の天球儀、またあらゆる種類の日時計は、大量に、科学的原理と機械的構造に工
夫をこらして製作された.当時の偉大な天文学者によって要求された観測器械には、もっと直接的な改良が行なわれ
た。たとえば、テイコ・ブラーエとヨハン・ヘヴエリウス︵一六二∼八七年︶が使用した装置。
ってっくられ、簡単な設計でつくられていて、目盛の精度はときには劣っていたが、かなり安価で頑丈であった。天
当時のおもな科学器械としてはつぎのようなものがあった。 ︵一︶航海器械は、その多くは木工の器械製作者によ
文学者の十字桿︵ク・ス・スタック、すなわち﹁ヤコブの杖﹂︶、背面桿︵バック・スタッフ、すなわちデーヴィスの
象限儀︶、およびノクターナル︵夜間時刻測定器︶。船舶用アスト・ラーブは天文学者用アスト・ラーブ︵平面天体図
の︶を、イスパニア”ポルトガルで航海用に改造したもので、もっぱら航海用につくられた最初の科学用器具として
重要で、造船所の鋳造、彫画の専門家によって製作されていたようである。 ︵一一︶磁気羅針盤は海上でも陸上でも、
さかんに用いられた。航海用と鉱山用のダイヤル・コンパス︵坑内羅針盤︶は専門職人によって製作されたが、羅針
盤付き目時計は、一般の職人の製作品であった。 ︵三︶最初の測量機械もやはり天文用測定器械を変形したものであ
った。﹁ダッチ・サークル﹂といわれる円周儀︵サーカムフェレンター︶とそれを半円形にしたものは−目盛が半分
ですむので安価になる1半円儀︵グラフォメーター︶と呼ばれた。恐らく円周儀にトルクェトゥムを直接に付加す
一ることによって、経緯儀が万能測量器械として発達した。当時さらに重要であったのは、測量した三角形を解くとき
いちいち三角法計算をしなくてもすませる多くの装置の発明であった。たとえば、未知の長さと角度を計算しないで
読み取ることのできる、格子すなわち目盛をそなえたベンジャミン・ブレーマ︵一五八八∼一六五〇年︶の﹁トリゴ
ノメトリア﹂。︵四︶計算機械は、数学記号と算術が未完成で、その習練が測定を行なうことよりも困難であった時代
には・暗っξ重要であった・いくつかの型の計算尺が、たるの籍、射程、金塊の価格等々をはかるために考案
され・﹁→ピアの棒﹂の考な器具が、通常の数値計算をたすけるために用いられた.一七世紀には、歯車仕掛の
計算機がジレ麦●パスカル︵一六⋮下⊥ハニ年︶その他髪って請された.もっとも嚢姦学器械は、関数
尺であった・それは・旗象徴付きの目盛をつけた物環、相似一二角形の原理によって、広範囲の計算ができる
ものであった・寸法竃かる目肇つけた製図用コ浜スは、数+年間にわたって、砲術とダイヤル、コンパスに
作助手マ劣ントニオ・マッツオレニによって応用のひろい形となり、一対のデバイダと結合して用いられた.関数
よ る 鉱 山
く 使 用 さ れ た ・
は 、 一 六 世 紀 末
レ イ ︵ 一 実 四 王
と彼のエ
測
量
に
ひ
ろ
し
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関
贅
ご
ろ
、
ガ
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ハ
四
二
年
︶
ロ
尺は・計算尺査七世紀中蕃発明されてからは、これと撃することになったにもかかわらず、砲術、測量、ダイ
ヤル.コ藁ス測量守法決定などの計算にひきつぎひろく使用された.妻、関数尺は一九世程はいっても、
製図用具と航海用具に・標準器具としてAβ託ていた.︵五︶ホドイタあるいは多ヤイター︵測距計︶
は・科学的というよ且セろ機械的な点で複雑性竃っていて、ひろく利用される寺つになった最初の計算機械で
あった・その葉的な形態は・ヴィトルヴィウスの著作か宅、よく智れた仕掛である.エハ世紀後期集ドィ
ターは・羅針盤と記録装置髪付加して、さら籍巧な型式の装置をそなえた、おおいに巧妙なものとなった.これ
は最初の自記録器械であった・現実に籍度を高くすること肇きないが、技術的には、この器械は時計製作者の
方法を取り入れること髪って、工作実技に起こってきた変化の徴候として重要である.︵六ζつと籍巧籍密
器械は・砲箆従事した専門職人によってつくられたあであろう.ドレスデ真態のク斐トファー.トレッヒ
スラ⊥盛時三七−杢四年︶の考な職人髪ってつくられた象限儀、水準器、計算尺は、表面を平面仕上
八七
i工学の形成1
一論 文i 八八
げすることと、滑動部分の適合との精度に細かい注意が払われていることを、明らかに示している。もうひとつの興
味ある特徴は、微動用にねじ調節を使用したことである。
以上から一六五〇年以前の器械製作についてはつぎのように要約することができる。中世においては、天文︵口科
学︶器械職人は大工と金工であり、科学者は精密な設計や彫図や目盛は自分でやらなければならなかった。このよう
な状況は、ルネサンス期に入っても大同小異であった。測量・航海・砲術器械など技術者︵R零砕三9R︶用の器械に
かなり大きな重要が生じた。しかし、技術者の数に比べれば科学者の数はずっと少なかったであろう。したがって、一
六五〇年頃からの科学革命期以前には、科学器械製作において、科学者自身が手を下さなければならなかった割合は
想像される以上に大きかったであろう。ガリレイがもっとも活躍したのは一六〇〇年を中心として数十年間であった。
このような時代にガリレイは、便利な関数尺を考案し、機械時計を改良した,そして彼は光学器械−複式望遠鏡と
顕微鏡1を製作し、自ら研究成果をあげるとともに、当時の科学者に広く研究手段を提供したのである。エハ五〇
年頃から、科学革命の全面的衝撃によって大きな変化があらわれた。急速に成長しつつあρたアマチュア科学者のグ
ループと、 やがて彼らを組織した科学アカデ、・、1とは、 技術者とともに器械にたいするかなり大きな市場を提供し
た。新しい工夫や昔の器械の変形物が急激に普及する傾向があらわれた。器械製作業はその市場とおなじ速さで、ま
たはそれを凌ぐ速さで拡大していったが、生産量を増大する必要から、しだいに職人は限定された範囲の器械を一時
的に専門化して量産せざるを得ないようになっていった。この時代になるど、科学器械は、熟練した職人の個人の作
品ではなくなり、製作者は、その作品に以前のように署名と目付をつけるかわりに、署名だけを入れる顕著な傾向が
あらわれ、工芸家の署名は商標に変化していった。器械は芸術性が稀薄になったけれども、専門化と量産が進んだた
めに、技術的細部とこれにふくまれる精密工学には、かなりの進歩が見られた。専門化の第二の影響は、器械製造家
の店が、しばしばその主人と徒弟の製品のみならず、さまざまな型の器械をつくっている他の職人の製品をも売るよ
うになったことである。外国の店から品物を輸入し、職人の名や取次人の店の名を刻むこともあった。
科学革命の最大の影響は、以前につくられていたものとは根本的に異なった器械の製作を可能にした、新しい発明
と発見によってもたらされた。これらのうちで顕著なものは光学器械−望遠鏡と顕微鏡!であったが、ぞれと同
ハヨロ
時に、技術者用の新しい測量、航海、砲術用の器械の発展が急速にすすみつつあり、また物理的科学の拡大された視
野は、器械製作者をうながして、たとえば温度計、気圧計、空気ポンプ、羅針盤および支持物に取りつけた天然磁
石、縮図器、製図器具の箱のようなものを製作させるようになった。一方、新しい光学器械が普及すると、ワ〆、れに応
じて、古くからあった器械の人気は衰えた。アストロラーブは事実上、一七世紀のはじめには、すでにすたれてしま
っていた。いろいろな型と大きさの日時計も、次第にその数が減っていって、ついに・一八世紀の後半にいたって、振
子時計と携帯用時計に、まったくとって代られてしまった。
昔の器械は、もともと、アストロラーブ、象限儀、多種多様の目時計などにもとづいてつくられ、おもに彫画をほ
どこした簡単な板で組み立てられたものであるが、新しい光学器械と物理学的器械は、その構造がおおいに異なって
いて、器械製作業にまったく新しい技術を要求した。そのために、器械製作者は彫画術の専門家ではなくなり、金
工、機械加工、木工と旋盤細工、ガラス細工、管の製作などの複雑な仕事に従事しなければならなくなった。そのた
めには、すでに他の製作業で用いられていた技法が助けになった。一七世紀の中葉以降、器械製作者は、時計製作者
組合︵一六三一年創設︶と眼鏡製作者組合︵一六二九年創設︶などのロンドンの同業組合、物差製造者、キャビネッ
一工学の形成− 八九
t論 文− 九〇
ト製作者と指物師、ガラスエ、その他の職人と密接な提携をむすんだ。これらのうち、時計製作者組合はひじょうに
強固であった。この時期を通じて、数学器械製作者と光学器械製作者との分裂がしだいに大きくなり、この区別は、
すでに金属を扱うものと木材を扱うものとの間にあった区別と相まって、ひじょうに統一のないひとつの製作業を生
み出し、専門化を助長する半面、総合的な科学器械業の発達を妨げた。職人の数と専門の増加は、彼らとその保護者や
顧客とのあいだに、また設計者と科学者との間に新しい関係をつくった。一人の保護者によって大きな援助を受ける
かわりに、職人はその製品を大口の顧客に売る店主になった。一人の科学者の指示のもとで働らくかわりに、職人は
多くの科学者と近づきになった。さらにより、重要なことは、器械製作者が、当時の日々の科学的活動の多くにとっ
ての、ひとつの焦点になったという事実である。彼らの店は、科学者とアマチュアの会合場所となり、また当時新し
い着想の伝揚にとって不可欠であった科学に関する情報交換をたすけたのである。職人たちが出入りした居酒屋や、
のちにはコーヒー店が、同様の役割を果した。そしていくつかの国では、器械製作者をめぐるこのタイプの組織が、
科学者とアマチュアの正式の会合1この人びとが王立協会や、他の諸国の科学アカデミーを構成した一がはじま
るずっと以前に、きわめて活発に動いたらしいことである。
︵1︶ 乙の節はPトプライス、 ﹁精密器械﹂および﹁科学器械の製作﹂︵シンガー編﹃技術の歴史﹄ ︵邦訳筑摩書房、 一九六
三年︶所収︶を参考にしてまとめた。
︵2Y︵3︶ ガリレイの発明・改良のうち、関数尺と機械時計と光学器械について簡単に述べておこう。彼の﹁幾何学用、軍事
用コンパス﹂1関数尺の、初期の形式は、各種の目盛線で金属の密度計算その他の数値計算ができるようになっていた。
それには関数尺のちょうつがいの腕を、適当な大きさだけ広げ、腕に刻んだ放射状の目盛の上の長さを測るようにしたもの
である。放射状目盛には多種多様なものi自然数、平方数、立方数、逆数、弦、正接、密度、その他多く一が可能で、
それらのうちからどの目盛を標準なものとして選ぶかは、イギリス型、フランス型、イタリア型の器械に、それぞれ、、。ゆ一“っ
ていた。ガリレイは、振子と時計装置を組み合わせることによって、時計構造学に新時代を導き入れることになった。ホイ
ヘンスもそうであるが。ガリレイは一五八一年に、ピサの大聖堂で、いくつかのランプの揺れを観察しながら、等時性とい
う新しい原理を考えついたといわれている。彼は、それらの振動を自分の脈搏で計り、ある与えられた長さの振子の振動周
期は一定で、振幅によらないことを、実験的に確かめた。彼は一六四一年頃まで、この考えを時計製作と結びつけたことは
ないようである。そのころすでに盲目になっていたガリレイは、息子のヴィンチェンツィォに、時計で振子と脱進機を組み
合わせる方法を教示した。ヴィンチェンツィォが実際にこれを組み立てたのは、やっと一六四九年のことであっ把が、彼自
身もその完成前に死んでしまった。そうこうする間に、手で支持する等時性振子が、天文学者によって使われるようになつ
ていた。振子時計は、クリスティァン・ホイヘンスの﹃振子時計﹄ ︵魯ミミ。咳醤§o軌qミ爲ミ、、蟄3一六七三年︶が出版ふdれ
るまで実用にはならなかった。 ︵シンガー上掲書には、ガリレイの関数尺と振子脱進機の両方の図がのっている。︶
望遠鏡と顕微鏡は、一七世紀のはじめにオランダであらわれた。それは恐らく、実際の眼鏡製作業者たちの偶然的な実験
の結果である。数年のうちに、ガリレイが、レンズの組合せを自分で再発見して、その着想をとらえ、その後まもなく、彼
は自分の最初の望遠鏡によって注目すべき、まったく空前の天体観測を発表した。長年のあいだ、彼の仕事場でつくられた
望遠鏡は、おおいに珍重された。ガリレイの望遠鏡の筒は、作動距離を短かくするために必然的にはなはだ長かった。二枚
の凸レンズの組合せ︵倒立像を与える︶は、望遠鏡と顕微鏡のいずれにとっても、 ガリレイ式レンズの大きな長所であっ
た。これは一六一〇年に、ケプラーによって、望遠鏡の配置としてはじめて記載された。この世紀の後半には、すべての科
学用光学器械はケプラー式レンズ組合せを利用しており、己れが他の研究者によってさらに改善されたのである。
一工学の形成一 九一
1論 文− 九二
ガリレイの観測は間もなく、他の人びとによって拡張され、非常な熱狂と、広範な論争をまきおこした。科学史上、この
時期ほど多くの情報−土星の環、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽の黒点、月の山などの発見1が一時に到来したこ
とは、かってなかった。しかし、望遠鏡、複合顕微鏡という科学器械が普及して親しまれるまでには、まる一世代かかり、
その間は科学玩具以上のものではなかったのである。ただクリストファー・シャイナー︵一五七五一一六五〇年︶が望遠鏡
で太陽黒点を徹底的に調査し、フランチェスコ・スチルティ︵一五七七一一六五三年︶が顕微鏡を用いて、昆虫のきわめて
精密な解剖図を用いたくらいであった。一六六〇年頃になって、ようやく定職として、望遠鏡と複合顕微鏡を製作する器械
製作者があらわれ、量産というに足ることが始まった。複合顕微鏡と小型望遠鏡の最初の商業的製作者が直面した技術的因
難は、その光学的部品より鏡胴に関するものであった。この時には、もうかなり良いガラスが手に入ったし、レンズ磨きも
眼鏡製作業のなかで高度に発達しており、幾何光学の研究も十分に進んでいたのである。 ︵シンガー上掲書を参照してまと
めた。︶
三 ﹁ガリレイ革命﹂と工学
本節では、まず、ガリレイのパドヴァ大学教授時代までの、修業と学問形成のあとをほぼ年代順にたどり、 つい
で、フィレンツェへ移ってからのちについては、年代順によらずに、主として、彼の研究と著作を中心にしながら、
いわゆる﹁ガリレイ革命﹂ ︵シンガー︶と、そこにおける工学の位置と性格について考えたい。
︵1︶
ガリレオは、一五八一年九月、生地のピサの大学に入学した。当時、ピサはフィレンツェのトスカナ大公領下にあ
った。この大学には、当時、法学部と医学部とがあり、彼は医学部に入るために、 ﹁技芸課程﹂ ︵評8一9α£=
象牙εに登録した。この技芸課程というのは、古代からつづいてきたいわゆる七自由学課、−科学的四学課︵算
術、幾何学、天文学、音楽︶と文法的三学課︵文法、修辞法、弁証法︶とを修める課程のことである。ガリレイがそこ
の学生であった一五八四年当時、ピサ大学の実用医学の教授はケサルピヌス博士であった。彼は生理学史上、英国の
ハーヴィによる血液循環の発見の先駆者として有名であるが、彼が一五七一年に出版した﹃造遙学派﹄の諸問題の目
次は必ずしも新しい時代を思わせるものではない。第一巻、問題一﹁普遍から個物へ進まねばならぬとはどういう意
味か﹂、問題二﹁完全な定義はすべて証明に帰着する﹂、問題三﹁第一哲学は証明も定義も使わない﹂⋮・:第五巻、問
題九﹁想像力は五感によるほかには、外的事物によって動かされない﹂と、中世のスコラ学的な議論が作りひろげら
れている。
ガリレイは、 ピサ大学に在学中、 ピサの大寺院のドームで天井から吊り下げられているテンプの揺れるのを観察
し、有名な振子の等時性を定式化する最初の思いつきを得た︵一五八三年︶といわれる。一五八四年、彼はピサ大学
を中途退学してフィレンツェの家族のもとに戻った。青木靖三氏は、当時の大学の講義は、現実的な課題をとり組む
技術者や職人の意識を離れた問題の立て方であった、と指摘される。そして、ガリレオの生涯の願いは、当時、大学
で教えられており、もはや口先きだけで尊ばれているにすぎず、内容のなくなった自由学課ではなく、街の職人たち
が発展させてきた、しかも不当にも卑しめられてきた機械的技術の土台の上に新しい科学を建設することであった、
といわれる。そして、さらに、この意味で、ガリレオはその生まれる半世紀ほど前に知んだレオナルド・ダ・ヴィン
チの弟子でもあったといわれる。しかし、ダ・ヴィンチが芸術・技術的な想像力に恵まれていたほどにはガリレオは
恵まれていなかった。彼もまた時計や望遠鏡顕微鏡の分野で発明や改良をなし遂げた。とはいえ、発明や改良の領域
では・広さとその影響力の点においてガリレイはダヴィンチには遠く及ばなかった。ガリレオの貢献は、むしろ技術
一工学の形成一 九三
そのなかで最大のものは
1論 文− 九四
者・職人に工学的な理論を提供したことにある。ガリレオの機械技術への﹁大きな貢献 何よりも技術者の規則たる材料力学の創始であるが一これは、ガリレイの広い学問の一分野であったのではなかろ
うか?。工学との関係を念頭におきながらガリレイの貢献のあとをたどりたい。
フィレンツェに戻ったガリレオは、 しばらく後、 父の友人であったオスティリオ・リッチに数学の手ほどきを受
け、生涯のコースを決定的に定めた。ガリレオは幼少の頃、父親から数学を教わったにもかかわらず、数学になんの
注意も払わず、三角形や円の図形から何が引き出せるのかまったく理解できなかったといわれる。リッチの数学は、
彼が父親から教わった数学とは大きく異なっていたのである。リッチは一五四〇年、フィルモに生まれた。彼の昔い
時代のことは何もわかっていない。リッチは、タルターリアー無学文盲のなかから自分の数学的才能を発見し、街
の計算家として一生を送りながらも三次方程式の解法など、数学史上多くの業績をあげた一−の弟子であったといわ
れる。リッチは一五八六年頃、トスカナ大公お抱えの数学者となった。ガリレオはのちに、直接にではないが、この
地位の後を継いだ。リッチはまた、ガリレイが彼にそこで初めて会ったと伝えられているアカデミア・デル・ディシ
ェニォー︵>8aoヨご号一会ω農昌。・>8号日﹃亀α8蒔p︶の数学の教授でもあった。
このアカデミーは、ルネサンス期のイタリア各地につくられた多くのアカデー︵当時のアカデミーとよばれたもの
に共通した性格は、 反教権的、今日でいえば反アカデミー的という点にあった︶のなかでも独特の位置を保ってい
た。それに当時の多くのアカデミー 例えばフィレンツェ・アカデミー−一が言語・文学研究所であったのにたい
して、いわば技術研究所であったのである。 このアカデ、・、ア.デル・デイシエニオーは、 ヴアサーリ︵﹃美術家評
伝﹄によって今日でも著名︶によって一五六三年に設立され、ミケランジェロを初代の名誉会長︵ガリレイがそこに
学んだ頃、彼はすでに自由都市でなくなったフィレンツェを見棄ててローマに移ってしまっていた︶とし、一六世紀
後半の有名な芸術家を多く会員としていた。このアカデミーでは、解剖学、数学、道路。橋梁.運河の建設技術、建
築術、透視図法などあらゆる造形芸術の補助学課︵畦二号一象器讐。る旨の亀α。ω一讐とよばれた︶が講じられてい
た。このアカデミーは、造形芸術の補助学課の訓練を目的とし、絵画、彫刻、建築などの諸芸.技術そのものの発展
を目指したものではなかった。すなわち、ここにおいて技術の理論家が理論家として、初めて新しい独立した地位を
確保しだしたのである。彼らは、画家のために透視図法を教え、建築家のためにアーチを研究する、芸.技術のため
の理論家であった。彼ら自身は芸・技術家ではなかった。リッチは、このような技術理論家の一人であった。彼は建
築術の論文のなかで、物体の比重の測定について述べたが、その問題をとりあげたのは、石柱の重さをどうして測定
するかという建築家の問いに答えるためであった。
ガリレイは、リッチの数学の実用性と応用性の強い影響のもとに、科学者として最初の論文﹃流体静力学的はか
り﹄ ︵比重計︶を書いた。彼はここで、紀元前三世紀ころ、アルキメデスが行なったと伝えられた実験を、より精確
に再現することを目指した。そして、論文のあとに、主な金属、宝石などの空中と水中での重さの表を付けて、実用
の便をはかった。ガリレイはこれと前後して、 ﹃固体の重心についての定理﹄を書いた。これはのちに再びとりあげ
られ、﹃新科学対話﹄の付録として初めて印刷された。これらの二つの論文は多くの実用数学者の称賛を得た。ガリ
レイは一五八七年には初めてローマに旅行し、そこで有名な数学者、天文学者で、ジェスイットのクラヴィウスに会
校激励された。彼はこの人物とのちに微妙な交渉をもつことになった。ローマ旅行の翌年、一五八八年には﹃ダン
テの地獄界の形、位置、大いさについて、フィレンツェ・アカデミーでの二つの講義を行なった。そこで、アルキメ
一工学の形成一 九五
一論 一 文− 九六
デスの円錐曲線論などによって、地獄界の建築建造を幾何学的に明らかにしょうとした。この頃、若いガリレイの数
学上の才能は、トスカナのアルキメデスとよばれた築城総監督官グィド・ウバルド・デル・モンテ侯であった。モン
テ侯らの努力によってガリレイはピサ大学の数学教授の職を得ることができた︵一五八九年七月︶。
ピサ大学での地位は三年契約であった。そこでは、ガリレイは、七自由学課のなかの科学的四学科のうちの幾何学
と天文学を教え、 エウクレイデス幾何学とプトレマイオスの ﹃アルマゲスト﹄ の原理の注釈を行なった。ガリレイ
は、ピサ大学時代に、落体の実験を始めた。 ﹃運動について﹄ ︵一五九〇年︶のなかで、同質の物体が、大きさは異
なっても等しい時間に等しい距離を落下することを証明している。 しかもその落下速度は、 このものが落下する媒
体−空気とか水とか・1一の比重と、落下物体の比重との差であるという。ここにも、ガリレイがリッチから学んだ
アルキメデスσ影響が朋らかに見られる。ガリレイがこのように誤って、あまりにもアルキメデス流の初期の運動論
が、どのような過程をたどって正しい落下法則の定式化にいたったかは、物理学史、力学史の重要な問題であるが、
本稿の目的にはあまり関係がない。
ピサ大学時代に、トスカナ大公の子弟の一人が、自分では有能な技術者であると考え、河川浚渫機械を考案して、
ガリレイに意見を求めた。ガリレイは、この発明品の欠点を指摘して、ただ一人賛成しなかった。この率直さのため
に、彼は、ピサ大学の所属するトスカナ大公の不興を招き、三年の契約期限の切れたあと、トスカナ大公国以外の国
に仕事を求めねばならなくなったという。ガリレイの論争好き、戦争的な性格は、両親から譲られたものであるかも
知れない。キルビーは成功した技術者ーレオナルド・ダ・ヴィンチと蒸気船の発明者ロバート・フルトンを例にあ
︵2︶
げ1性格として、金銭への執拗さ、パトロンとの関係、他人の研究を綺麗にまとめる芸術的才能をあげている。こ
れから考えると、ガリレイの性格は、技術家・発明家のそれというよりは、科学者のそれであったといえよう。とも
かくも、ガリレイは、デル・モンテ侯とその兄弟のフランチェスコ枢機卿に依頼し、ようやく。ハドヴァ大学が所属す
るベネチア共和国の統領に、数学者と認められ、空席だった同大学の数学教授に任命された。任命は一五九二年九
月、俸給は四年間固定、つぎの二年は応分に増俸というとこであった。
二八才でパドヴァの大学に転任したガリレイは、一六一〇年、当時のトスカナ大公コジモ二世に招かれ、故郷フィ
レンツェの官廷お抱えの数学者になるまで、一八年間、ここに勤めた。のち、病いと、法王庁とのかかわりに苦労し
なければならなくなったガリレイにとって、。ハドヴァ時代は!−i彼自身が回想するようにtもっともよき時代であ
った。パドヴァの土地柄も大学も、ガリレイの研究条件に好ましいところであった。パドヴァ大学の所属するベネチ
ア共和国は、他のイタリア諸国がスペイン、ドイツ、あるいはこれと対抗するためにフランスの支配下に入っていた
のにたいして、当時、なお真に独立した唯一の国家であった。ベネチアでは、共和制度は維持され、教皇庁の反宗教
改革の波に押し流されず、教会と僧侶を国家的利益のもとにおくだけの力を保っていた。ガリレイの友人の名僧サル
ピは、共和国がイエズス会士を追い払い、教皇の破門に抗し得たのであった。共和国は、経済活動の分野においても、
学問の分野でも、自由に活躍できる基盤を提供していたのである。
パドヴァの大学は、このような基盤の上に全西ヨーロッ。ハ文明世界の養成所としての位置を築いていた。この大学
は、フランス、英国、イタリアの他の大学に比べて特色を有していた。パリやオクスフォードの大学が教師と学生の
組合︵ギルド︶として出発したのに対して。ハドヴァの大学は学生だけの組合として出発した。またパリやオクスフォ
ードが神学を中心とし、 ボローニアの大学か法学を中心としたのにたいして、 この大学は医学を中心として発達し
1工学の形成一 九七
−論 文− 九八
た。医学中心の大学であったためか、パドヴァの大学の学風は、北方の各大学と異なっていた。そこでのアリストテ
レス注釈は、形而上学よりも論理学、科学方法論についての著作の注釈を主としていた。。ハドヴァの大学には、また
アリストテレスの伝統とならんで、直接に自然と接触する経験的・実証的な研究の流れがあった。この傾向は数学よ
りも医学、とくに解剖学で早くから見られた。近代解剖学の祖ヴェサリウスもこの大学で学び︵一五三七∼四二年︶
のち教授になった。彼の著﹃人体解剖学﹄ ︵フアブリカ︶はこの時代に完成したものである。近代生理学の基礎を築
いたハーヴィもまたこの大学に学んだ︵一五九八∼一六〇一年︶。 ガリレイと同時代にはハーヴィの師ファブリッツ
オー発生学を比較解剖学的に研究した最初の人一がいた。
。ハドヴァ時代に、ガリレイはまた、いくつかのすぐれた交友関係をもつことができた。そのもっとも顕著な一人は
ベネチアの貴族サグレドである。サグレドは、その科学上の思いつきのよさ︵光学器械や磁針をつくるのが上手であ
り、また現在の時計の均力円錐車の理論を考えついた︶で、ガリレイから敬意を受けた。ガリレイは、彼との暖い友情
を記念して、二大対話の登場人物にし、またその一つ﹃天文対話﹄は、サグレドが大運河に臨んでもっていた大邸宅
をその場合にしている。ガリレイはまた、サグレド以外にも、造船所や運河工事場で多くの友人をつくった。彼は、
大学で得る俸給以外に、経済的方策の一つとして、自宅に仕事場を設け、機械師を雇って、自分の考案した器械器具
とを製作し、販売した。ガリレイは、また、家庭教師として、自分の私的な弟子をとった。そして、かつて自分がリ
ッチから学んだように、エウクレイデスやアルキメデスを使って種々の実践的な数学を教え、透視画法、機械学、軍
事技術を教えた。このような生活に立って、ガリレイは、天文学と地上の機械学の両分野で多くの研究を発展させた
のであった。
パドヴァに移った翌年一五九三年、ガリレイは﹃簡単な軍事技術入門﹄、﹃天球論あるいは宇宙誌﹄、そして﹃築
城論﹄、﹃機械学﹄を書いた。これらは、経済的必要から学生や自分の弟子たちのために書かれたものであったが、
いずれも明快で正確な数学的証明にもとづいていた。とくに﹃機械学﹄は一八九七一九八年度の大学での講義﹁アリ
ストテレスの機械学の諸問題について﹂に関連して書かれたものであるが、大好評を博し、のち、フランスでメルセ
ンヌ神父によって、一六三四年に飜訳出版され、イタリアでも彼の死後一六四九年に初めて出版された。ガリレイは
﹃機械学﹄で、機械の働らきをアリストテレス流に潜勢力を現実化するものという説明の仕方を斥け、アルキメデス
流に、純粋に力学的・幾何学的に扱い、単純機械とくに挺子をとりあげ、真直な挺子の釣合いの証明を行なった。彼
はここで、力のモーメントの概念を導入し、定義した。そして単純機械では、力の節約がつねに時間と速さの損失と
対応するという原理を引き出した。機械工の助手マルカントニオ・マッツオレニと計算尺をつくったのもこのころで
あり、ガリレイの計算尺は、よく売れたといわれる。なお、彼は一六〇四年には、論文﹃加速運動について﹄,︵ラテ
ン語、七ページ︶を発表した。この論文は、後年、 ﹃新科学対話﹄第三日に再録されたが、ここですでに自然落下法
則が定式化されている。
ガリレイの天文学上の活動は、一六〇四年にはじまった。一六〇九年五月頃、ガリレイは、あるオランダ人が一種
の眼鏡を製作し、それを使えば、観測者の目から対象がずっと離れているのに、近くにあるようにはっきりみえると
いう噂を耳にした。数目たって、ガリレイはフランスの貴族がパリからよこした手紙を受け取り、その噂が事実であ
ることを確かめた。そして、ついに自分でも思いたって同種の器械を発明できるように原理をみつけだし、手段を工
夫するこどに没頭した。ガリレイの望遠鏡による天文観測、とくに月面と木星の衛星との観測は、その結果として、
一工学の形成f 九九
一論 . 文− 一〇〇
新世界の発見をもたらしたものであった。ガリレイ以前には、世界はただ一つ、地球とその周囲の月より下の空間に
限られ、その外部は異質の世界、エーテルの世界と考えられていたのにたいして、ガリレイは天上の世界も、地球と
同質の世界であると推測させる事実を発見したからであった。それまでは天上の世界はエーテルでできており、この
第五元素は他の四元素−i重いものから順に土、水、空気、および火!−より高貴であり、このような元素からでき
ている天体、月なども、その高貴さに適わしい形、球状しかも完全な球状をしており、その表面は鏡のように滑かな
ものであると信じられていたのにたいして、ガリレイは、月に地上の山や谷に似た凹凸を発見したのであった。さら
にまた、ガリレイが発見した木星の衛星は、地球があらゆる天体の回転運動の中心にあるという、アリストテレス以来
の世界像にたいして、他にも天体の回転運動の中心になるもののあることを反証する強力な根拠となったのである。
以上に述べたようなことを述べた﹃星界の報告﹄は一六一〇年三月に印刷された。ガリレイはこの月の一九日に、
一その一冊をコジモ二世に、星が護持しているその家門の栄光を称える献辞をつけて、付属品もつけた上等な望遠鏡を
そえて贈った。﹃星界の報告﹄は異常な反響をよんだ。それは、急速に普及し、コジモ二世に献上した一九日には、
印刷した五五〇部が一部も残っていなかったといわれる。全ヨーロッ。ハがガリレイにその﹃報告﹄と望遠鏡とを求め
た。多くの人びとが彼に称賛を送り、詩人たちは彼のために詩をつくった。 一方、ガリレイの名声の高まるにつれ
て、彼に対する攻撃も烈しくなった。同年一二月、ローマ学院の神父たちも、ガリレイの観測を自分たちの仲間のつ
くった望遠鏡で観測し、 ﹃ローマ学院の星界の報告﹄で確認した。しかし、聖書の権威をもちだして、ガリレイの観
測に反対するものもまたあちこちに出だしたのであった。ときに、ガリレイは、四六才であった。新発明と新発見を
なしとげて、声望きわめて高く、いわば最高頂の時代を迎えていた。しかしその反面、彼はすでに絶えず病いii痛
風に悩まされていた。このような体力の衰えも考え、自分の高い名声によって、故郷フィレンツェに帰り、少し楽な
生活をしたいと考えたのであった。一六一〇年七月一〇日、コジモ二世はガリレイを﹁ピサ大学特別数学者﹂で﹁ト
スカナ大公つき首席数学者、哲学者﹂に任命した。ピサで講義し滞在する義務もなく、フィレンツェに留まっていて
よかった。
ところで、ガリレイがフィレンツェに移って一年もたたない頃、シリア領事サグレド︵一六〇八∼一六一一年︶が
ベネチアに帰任した。彼は自分のいない問にガリレイがベネチア共和国を去ったことを深く悲しんだ、そして、まる
で後年ガリレイが遭遇した困難を見透しているかのように、適切な警告を発したのであった。手紙のなかで、ガリレ
イが称揚する﹁絶対君主﹂の宮廷の悪い空気を、共和国のつくりあげた透明で、科学研究に不可欠な自由な雰囲気に
対比させた。そして、ガリレイの真価が認められ、称賛される可能性は認めるからも、宮廷というものは嵐の海と同
じで、いつ邪悪でねたみ深い人間の中傷によって、君主がその正義と徳とを高尚な人間を破滅させるのに使わないと
誰が断言できるのかと警告する。実際、ガリレイはその君主の愛情と尊敬を失なうことはなかった。しかしそれはま
さしくサグレドのいうように、コジモ二世の生存中︵一六二一年死亡︶だけのことであった。フェルディナンド二世
の世治になると、やがて、イエズス会にも大幅な譲歩がなされ、自由な研究も妨げられていくのであった。なお、ガリ
レイがパドヴァからフィレンツェへ移るために、トスカナ大公首相ヴィンタへ送った書簡︵パドウァ一六一〇年五月
七日︶は、ガリレイの生活条件、研究の構想や彼自身の称号などが述べられていて興味深い。
ガリレイは、その手紙のなかで、まず四メディチ惑星と他の諸観測について発表した前後三回の公開講演の大成功
について述べている。そして自分のつくった望遠鏡の性能の優秀なことについて述べている。さらに、自分の給料に
一工学の形成− 一〇一
一論 文t 一〇二
対して満足していること、また君主のための講義が、公的な授業1そこでは初歩的なものしか読めないとガリレイ
はいう−1にくらべてはるかに、専門の研究に役立つといっている。ついで自分の研究の構想について述べている、
﹁わたしが完成すべき主な著作は﹃宇宙の体系あるいは構成について﹄二巻、これは尨大な構想で哲学、天文学、幾
何学に満ちています。それから、﹃位置運動について﹄三巻、ここで私が自然運動にも強制運動にも存在することを
証明するひじょうに多くの感嘆すべきどの徴候も、古代および現代の他の誰によっても発見されたことのないまった
く新しい科学で、当然、新しく、その第一原理にいたるまで、私の発見した科学とよべるものです。機械学につい
ての三巻、そのうち二巻は原理と基礎の証明、一巻は問題集です。他の人もこの問題について書いてきてはおりま
すが、いままで書かれたことは量においてもその他においても、私の書いていることの四分の一しかありません。そ
の他また、自然学上の問題についての小著作を公けにしました。﹃音と声について﹄、 ﹃視覚と色彩について﹄、
﹃連続の構成について﹄、﹃海の満干について﹄、﹃動物の運動について﹄その他。私はまた、軍事に関係のあるいく
つかの書物を書こうと考えております。これは単に考えを述べるだけではなく、きわめて厳密な規則をもって科学に
属し、数学に依存するすべてのことを教えるもので、陣営を張ったり、命令したり、築城したり、攻略したり、妨害
物を除いたり、視覚で計測することについての知識で、 さまざまな器具を使って軍事に属する科学です﹂。ガリレイ
は、自分の肩書について、つぎのように大公殿下に希望を述べている、 ﹁最後に、私のお仕えする肩書についてです
が、数学者という名称の他に、哲学者という名称を殿下がお加え下さるようお願いします。というのは、私は純粋数
学よりも哲学を多くの年月をかけて研究してまいったと申し上げたいからであります。哲学において私がどのような
成果をあげ、その肩書に価するかどうかは、殿下などの御前で、その学課でもっとも尊敬されております人びとを論
以上・フィレンツェへ移るまでの、ガリレイについてほぼ年代順に述べた。それ以後については、むしろ年代順に
ずる場を与えて下されば、いつでもお見せ致すでありませう﹂。
とり扱うことを避けたほうがよさそうである。ガリレイの思想は非常に実り多いものであり、また彼は同時にいろい
ろの主題を研究したり、同一の主題をいろいろの時期に研究したし、さらに彼が個人たちや同時代の人びとに大きな
影響をおよぼしたために、これらの人たちの仕事が多くの彼の仕事と絡みあっているからである。したがって、彼自
身が着手した近代的な諸見解に合致するような項目のもとで、かれの仕事を論じたほうがよかろう。
ガリレイは実地技術に応用できるものを多く製作した、また、当時の科学的見解についての根底的な修正を含む多
くのものを提出したところのいくつかのものを示した。ガリレイの自然研究のなかで最も有名なものは、天文学上の
彼の偉大な諸発見の成果であった。しかしながら、われわれが思想史上でガリレイの意義を十分に感じられるのは、
彼の数多くの基本的ですばらしい諸発見からというよりはむしろ、客観的な宇宙にたいしてとった彼の新しい態度
と、その態度にふさわしい永続的な数学的n物理学的体系を組み立てた点にある。このように深くて大きい影響をお
よぼしたガリレイの業績を、チャールズ・シンガーは、 ﹁波瀾の世紀﹂のなかで、物理”数学の統合、天文学上の発
パ ロ
見、彼の見解のもつ哲学的な意味、およびガリレイ革命の物理学上の意義の四節にわけて論じている。シンガーはま
ず、﹁物理n数学の統合﹂という節で、つぎのように述べている。この世界を、計算できる力と計算できる物体との相
互作用によるものとして考えるようになった点において、われわれは、他の誰よりもガリレイに多く負うている。さ
らに、この概念を実験に適用する点においても、誰よりもガリレイに負っている。つまり、自然.技術の現象の計算
化と実験的解析への道を新しくきりひらいたことを示している。りてして、この面におけるガリレイの寄与を動力学、
−
工
学
の
形
成
1
一〇三
一論 文t 一〇四
︵4︶
材料の強度および計測の三項目にわたって論じている。
動力学。ラグランジュは﹃解析力学﹄ ︵一七八八年︶のなかで、動力学の創始についてつぎのようにいっている。
﹁動力学は、まさに完全に近代人に与えられるべき科学である。ガリレイはその基礎を築いた。彼以前には、哲学者
たちは、物体に働らくカを、ただ平衡状態においてしか考慮しなかった。彼らは暖昧なやり方で、落体の加速度と投
射体の曲線運動とを、重力の一定の作用に帰したが、誰も、 これらの現象の法則を決定することに成功はしなかっ
た。ガリレイこそ、まさに重要な第一歩を踏み出した。これによって彼は、科学としての力学が前進するための新し
い無限の道を開い た ﹂ 、 と 。
ガリレイは、﹃新科学対話﹄ ︵一六三八年︶のなかでこれらの見解を示している。この著書は、この主題を中世の
段階から近世の段階へ直ちに前進させた。ガリレイがここで取り扱っている二つの新しい科学は、それぞれ⑥﹁破壊
にたいする凝集力と抵抗﹂、㈲﹁一様な加速運動と、強制的あるいは投射的運動﹂である。 これらの二つのうち基礎
工学”材料力学に関係深いのは、いうまでもなく前者である。
材料の強度。この著書の最初の部分は、主として破壊にたいする固体の抵抗と固体の凝集力の原因とについて記述
されている︵岩波文庫版二三∼二九ページ︶。抵抗する媒体を通る運動に関して付随する実験と観察が述べられてい
る設計は正確に同じだが種々の大いさでっくられた機械の場合、その強度は大いさに比例するという当時の通念が論
じられ、より大きい機械のほうが、強制的な作用にたいしては、強度も抵抗もより弱くなることが示されている.こ
こでいう機械には、動物体も含まれている。
ガリレイは、繊維材料でつくった綱の強さを説明したあとで、岩石や金属のように繊維構造を示していないものの
各部の凝集力の原因に話題を転じている︵岩波文庫版三〇∼四五ページ︶。一端を吊したガラス棒または金属棒は、他
の一端を引張っても破損しないのは、どうしてか。彼は、これは恐らく、急激に二つの平らな面に分離しようとする
さいに生ずる自然のいわゆる﹁真空の嫌悪﹂によるという。この考えは拡張されて、一般に凝集の原因は、あらゆる
物体がきわめて微小な粒子からなっていると見なされ、それらのどの二つの粒子の問にも、分離にたいしておなじよ
うな抵抗が働らくものとされた。
この推理の線から、真空の力と呼ばれるものを測定するためのきわめて重要な実験がでてくる。ガリレイは、吸上
げポンプが三五フィート︵約一〇・五篇︶以上の高さでは働らかなくなることに気づいている。ガリレイは、 ﹁自然
の真空の嫌悪は、三五フィート以上の高さにはおよばない﹂という。彼は当時ひろまっていた吸引性という概念を保
持していた。というのは、彼は、水柱を、上端から吊された金属棒一1それは、その自重で、割れるまで伸ばされるで
あろう一一にたとえているからである。ただ、この現象を、彼がよく知っていた大気の重さで十分に説明することは、
トリチェリを待たなければならなかった。
梁の強さについての論議は、固体の破損にたいする抵抗とともにはじまる︵岩波文庫版一五七∼二〇九ページ︶。梁
は、真直ぐ引張る力にたいしては非常に強いが、曲げるカにたいしてはそれほど強くない。だから、一本の鉄棒も、
たとえば一〇〇ポンド︵約四五〇吻︶の縦に引張る力には耐えるが、その鉄棒が一端を壁のなかに水平に固定されて
いる場合、五〇ポンドの曲げる力で折れてしまうであろう。
ガリレイは、研究の基礎として、 つぎのことを仮定した。すなわち、梁はどの部分でも、破損に抵抗する凝集力
は、すべてその部分の重心に作用していると考えてよい。そしてまた、梁が破損するのは、その最も低い点において
一
工
学
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形
成
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一〇五
1論 文− 一〇六
である。この理論からは、優美な結果がひき出された。それは、梁の形は、その各部分の強さが同じならば、その頂
点が支点から最も遠い放物線プリズムの形をとるべきだということである。この曲線に近似するものとして、彼は、
重くて柔軟な糸が二本の釘の間にかけられたときに、その糸がぶらさがる線をたどることを勧めている。ただ、任意
の張力系のもとでの梁のもつ曲率は、ニュートンの時代以前には探求できなかった主題である。ガリレイの場合は、
自分の考察したもっとも単純な問題でさえ、証明を必要とする仮定をもうけている。彼の梁の理論は、任意の断面に
働らく引張力と圧縮力の平衝を考慮に入れないかぎり、誤ったものである。
時間の測定。ガリレイは、振子を応用した﹁脈搏計﹂︵讐亜目卑巽︶を用いた。それは、ただ糸におもりを吊した
だけのもので、それが目盛りの前で振子のように振動した。糸の長さは、振動を脈動を脈はく数に一致させるように、
つまり毎分およそ七二回振れるように調整することができた。糸の長さは、目盛りで脈はくの一〇分の一まで読みと
ることができた。これは、一秒の%にあたる。ガリレイが、この装置を使ったのは一五八三年にまで溯る。この装置
は臨床にも応用された。ガリレイの時代の機械時計類については本稿九一ページですでに述べた。
ガリレイの見解のもつ哲学的な意味。トスカナ大公への手紙のなかで、ガリレイは、数学者という肩書のほかに、
哲学者という肩書をつけ加えて欲しい、と希望した。事実、彼は、後世の哲学思想の多くを濃く色づけすることにな
ったいくつかの概念を保持していた。シンガーはのようなものとして、﹁第一性質、第二性質﹂︵買一目。。遷ρ轟一往β
ω08コ量qρ轟一三窃︶と﹁斉一性の教理﹂︵399ぎ09q鼠8﹃巨な︶の二つをあげている。
︵5︶
ガリレイは﹃黄金計量者﹄︵目ω囲oo﹃8お一六二四年︶のなかで、厳密に数的価評のできる対象とそれができな
い対象の性質を明確に区別している。ガリレイは、︵第一性質の︶大きさ、形、量、運動だけが外界に存在し、味、香、
色などというもの︵第二性質︶は外界には存在しないといったが、これはそれ以来つねに科学者たちによって採用さ
れた。ガリレイは、﹁科学は測定である﹂という文句に要約される科学の発展の原動者であった。彼は、万物を尺度と
数と重さ毘よって整理したのである.科学者と一般人と雰け隔てたのは、科学者は主に、癈人がふ?暑慮しな
いような何か他のことを熟考してきたという事実である。ガリレイ以来科学者たちは、しばしば別の宗派と対立した
ところの一種の宗派を成した。またガリレイの与えた区別によれば、もしも感覚器官の耳、舌、鼻が除去されても、
形量這動婆お残ると信じられるが、︵第二性質の︶香、味、音はも難残存しないであろう、という.彼は、感
覚の案内なしに、理性と想像力だけではこれら︵第二性質︶には到達することはできないであろうから、それは、音脚
識のうちにだけ内在する、単なることばに過ぎないと考えている。のちに、﹁第一性質﹂と﹁第二性質﹂と呼ばれるよ
うになったこの二つの性質の区別は、科学者たちのあいだにだけとどまらず、この区別は、イギリスのトマス.ホッ
ブス︵一五八八−一六七九年︶とジョン・ロック︵一六三二−一七〇四年︶やフランスのマラン・メルセンス︵一五
八八一一六四八年︶とルネ・デカルト︵一五九六−一六五〇年︶を通じて、いっそう一般的な思想になっていった。
斉一性の教理・ガリレイは、多年にわたる研究の結果、一六三〇年までに、ついに画期的な﹃天文対話﹄︵二大世
ロ
界体系についての対話、U巨畠。α色身。ヨ器巴ヨ一ω一ω富怠α色目。コα。︶を完成した。二大世界体系というのは、
プトレマイオスとコペルニクスとの体系である。この﹃天文対話﹄は、宇宙における地球と太陽の相対的な位置の論
議からはまったく離れて物質世界の働らきの斉一性の教理を提出しょうとしている点で、ガリレイの苦心の極致を示
すものである。 ﹁斉一性の教理﹂によってあらわされる観点、すなわち、 ﹁対応する原因は、どこででも対応する結
果を生ずる﹂という見解は、今日のわれわれには馴染深いが、一七世紀には、そうではなかった。アリストテレスの
一〇七
1工学の形成ー
一論 文− 一〇八
宇宙論が、依然として大きく支配していた。それによると、高い月上界の出来事一﹁地上物理学﹂fとはその種
類が非常にちがっていた。しかしながら、ガリレイは、天上物理学も地上物理学を基礎にして論ずることができるの
だというはつきりした示唆を出し、こうして、万有引力を予示したのである。ガリレイはいう、地球のすべての部分
が、地球の全体をつくろうと一致してたくらんでいるので、それらの部分は、等しい傾向をもって集合し、いわば連
合しようとたえずっとめながら、みずからを球形に適合させている。そういうわけで、 ﹁月﹂や﹁太陽﹂やその他の
太陽系の成員も、そのすべての部分の一致した本能や自然の協力によって、同様に球形をなしていることを信じない
でよいはずがあろうか。⋮⋮⋮それゆえ、固有運動に関して、太陽系のすべての成員は同じような挙動をすると結論
してよいのではなかろうか﹂︵上掲書中のシンガーの引用文︶。この﹃対話﹄を印刷に付してよいという教会当局から
の許可は、その主題が、事実を述べたものとしてではなく、便宜的仮説として純理論的に取り扱われるべきであると
いう特別の条件づきで得られた。こうしてこの﹃対話﹄は、一六三二年に出版された。
ガリレオ革命の物理学上の意義。ガリレイは、ほかのだれよりも、古代科学を破棄して近代科学を成立させること
になったところの、思考方式に変革をもたらした。コペルニクスもヴェサリウスもハーヴィもテイコもケプラーもそ
の他の人びとも、この変革に貢献はした。しかしながらガリレイの役割は、まったく圧倒的であるために、これを﹁ガ
リレイ革命﹂と呼ぶことは不当ではない。この変革は、単なる知識の増加の以上のものであったし、また、宇宙の構
造の概念を改変すること以上のものであった。それはむしろ、探求さるべき知識の種類に関する精神的態度の変革で
あり、それは哲学的危機の性格をおびていた。その意味するところは、科学にとってきわめて根本的であった。この
ような理由から、シンガーは、ガリレイの終生の仕事と関連して、おのずから念頭に浮んでくる主題を、互いに他に
還元することのできない、四つの題目に分けて考察している。一H力学的世界、口感覚の拡張、日数学的で無限な
ものとしての宇宙、四宗教と科学 ︵シンガー上掲書二七八ヒニ九一ページ︶。われわれも、シンガーとともに、これ
らの四つの主題を考えることによって、近代科学の、そして近代工学の特質のいくつかを理解することができよう。
日 力学的世界。力学の概念にたいするガリレイのあらゆる貢献のうちで最も重要なものは、恐らく、連続的なカ
の作用はあらゆる瞬間において速度の減少または増大をつくりだすということであった。力の作用にともなって、絶
えず変化する速度としての加速度の概念は、地上の物体はそれらにとって自然である場所にむかって静止しようとす
る傾向をそれ自身の本性としてもっているというアリストテレスの原理と矛盾した。われわれが理解しているような
加速度は、ガリレイの基本的な貢献の一つであった。そこには、時間の無限分割という概念が含まれており、したが
ってまた、アルキメデスが空間に適用した極限法を時間に適用するという考えが含まれている。ガリレイは、運動体
に関する数学的な教義によって、ニュートンにつらなっている。
また、中世の哲学者たちと一六世紀の数学者たちは、物体をいくつかの同時的運動の主体と考えることには大きな
困難を感じていた。彼らにとっては、 ﹁完全な﹂運動の型は、天体にそなわっていると仮想されていた円軌道に見ら
れるはずのものであった。ガリレイは、加速度の観念、ことに落体にとって自然な加速度の考えを導入することによ
って、合成運動を身近かなものにした。また彼に、投射体の軌道を分析することによって、この加速度の考えを、直
線運動だけでなく曲線運動の場合にも導入した。こうして彼は、ニュートンによる地上の力学と天体の力学との総合
への途を開いた。
さらに、ガリレイが発展させた力学は、眼に見え触れられるすべての物体に適用することができた。彼の力学的宇
一工学の形成一 一〇九
1論 文− 二〇
宙の概念は、速やかに生物学にさえ反応をひきおこした。生物学者たちは、アリストテレスにたいする感情的反発か
ら、動物体を、機械として説明しようとした。一七世紀の最初の重要な生物学的著作IIたとえば、サントリオやハ
ーヴィやデカルトの著作一ほすべて、身体をこのように説明しようとした。動物を機械とみるこの原理にもとづい
ての、人工の技術的構造物と自然の構造物の、今日でもすばらしさを失なわない比較的説明については、拙稿︵説苑
﹁工学の形成﹂商学論集、第三七巻二号︶において引用してある。
ガリレイはまた、動物が水中に入れられると、その重さは、同体積の水の重さだけさし引かれることも知ってい
た。このような事情のもとでは、大きさを増すさいの物理的障害の性格は変ってくる。遊泳しているアザラシのある
優雅さを考えたい。この原理の重要性は、長い問、十分に理解されなかった。どの種にも、その生理学的本性によっ
て成長の限界というものがある。そしてその限界は、ある種の水棲動物では、陸棲動物にくらべてその成長の限界が
ものすごく高い。成長するにつれて体の各部分の比率が変化してくることは、じつは既に彼よりも世紀前の画家アル
プレヒト.デューラーによって、特別な研究の主題にされていた。しかしデューラーは、ガリレイがなしたように、
その過程に基本的な数学的分析をほどこすことはできなかった。要するにガリレイは、一つの世界概念をつくりあげ
たが、そこでは、小さな昆虫の構造を探求する場合も、天体の運動や、地上での変化、衛星の回転を探求する場合も、
同様に力学的原理に基づいて合理的に行なわれてさしつかえなかった。それは、その後の科学者たちがとり扱うべ
き、ますます力学的になっていく世界である。この新しい決定論は、星にも人間にも、技術的構造物にも同じように
かかわりあうような、はるかにより本質的なものであるはずであった。
口 感覚の延長。ガリレイは、そのすばらしい天文観測によって最もよく記憶されている。しかしこの背後には、
彼による望遠鏡の有効な発明と、この器具の構造上の改良がある。そしてさらにその背後には、熟練した機械工の導
入によって科学に役立てようというもう一つの運動がある。この運動でもまたガリレイは、主要な人物だといえるで
あろう。一五、一六世紀には、美術、文学、知性の分野で顕著な変革があったほかに、それほど劇的ではないか、人
びとの生活にいっそう密接して深い影響をおよぼしたその他の変革があった。例えば、器具類のための良質の鋼鉄、
一六〇〇年頃の家屋、家具、その他の生活用具の︵一四五〇年頃にくらべての︶大きな改良、大洋横断の探険を可能
にした遠洋航海用の船舶、印刷術の進歩、ドイツの金属細工技術などをあげることができる。これらのうちのいくつ
かについては、前節科学器械の個所において述べた。ガリレイが実験家として成功したのも、彼が熟練した職人を雇
い入れたことがあずかって大きかった。複式光学器械は、ガリレイがそれを手工的につくりだす方法を完全にするこ
とによって、積極的に認められるようになった。彼は、効果的な望遠鏡の発明者であり、近代の観測天文学の始祖で
ある。しかしながら、彼はまた、複式顕微鏡の発明者でもあり、事実この器械を用いて発見した新事実は、彼の仕事
のうちでも最も初期の独自の解説類の一つにあげられている。顕微鏡によって明らかにされた微小世界は、天空にお
ける新発見にほとんど匹敵するほど素晴らしかった。天は、思考力をはみ出るほど広大なものと認められていた。し
かし、生き物や身近の事物がもつ無類の複雑さは、まったく新しい概念であった。われわれの肉眼では見えないほど
微小なものが、われわれ人間と同じように完全で複雑な構造をもつことができるとは、まことに驚くべき思潮であっ
た。天にこの世界を超えた世界があれば、われわれの内部にもこの世界を超えた世界があったのである。ガリレイの
顕微鏡の一つは、早くも一六二五年に、彼の同僚が昆虫の微小な構造を図示するために使用された。つぎの四〇年間
は、顕微鏡はただ珍奇なものとして取り扱われたが、六〇年代には、顕微鏡は、研究のための重大な器具になった。
−工学の形成t 一一一
r論 文− 一一二
︵了︶
初期の専門顕微鏡学者の一人は、イギリスのヘンリ・パワー︵一六二三−六八年︶である。
ガリレイの時代には、原子論的見解が、哲学者たちの心中を長い間占めていた。当時はまだ、原子の存在と本性に
ついては、なんの実験的証拠もなかったが、この教説は、顕微鏡から得られる新事実に適しているように思われた。
プてれらの事実があばきだした小さなものは、原子であったのであろうか? これらの問題のおかげ鴫\かなりの文献
があらわれたが、それらは、なんらの事態を進展させなかったので、現在では、ほとんど忘れ去られている。だが、
それらは、その当時の思弁を刺戟し、それがまきおこした好奇心は、つぎの諸世代の生物学的観察の方向づけに決定
的な影響をおよぼした。
日数学的で無限なものとしての宇宙。ガリレイの物理学とケプラーの天文学の出現によって、宇宙のすべての部
は力学的に相互に関連づけられているということが、すくなくとも可能であるように思われはじめた。古代と中世の
占星術の教えでは、世界の体系における内側の天球は、外側の天球に依存するものとしてとり扱われた。この意味で.
占星術教義の最後の表現は、決定論的なものになった。しかし今やガリレイは、ブルノやギルバートにしたがって、
世界を際限のないものだと考えた。このような宇宙は、どの部分も、内側とか外側とか、中心とか周辺とかいうこと
はできなかった。また、このような宇宙では、ある一部に適合する力学は、恐らく、別の部分にも適合するであろう
一このことの証明は、,ニュートンを待たなければならなかったが。
ガリレイの思想によれば、物理的世界は、他のものとは切り離された数学的概念であり、一個の機械装置であり、
そのどの部分の作用も計算することができるものであった、全体としての世界についての知識一哲学は、こうして
自然哲学と道徳哲学の二つの概念領域に分けられた。この区別は、ニュートンが教えた大学の学部の名称から思い出
される。この区分は、ガリレイの時代から現代まで行なわれるといってよいであろう。
さらに、無限な物理的宇宙という概念や、自然哲学と道徳哲学との分離から、近代において﹁科学の専門化﹂とし
て知られている動きが生まれてくる。科学すなわち自然哲学は、感官によって与えられた情報に基づいて進行する。
科学が攻める道筋は、このように限定されているので、限定され目標以外の何物にも到達できると望むわけにはいか
ない。
四 宗教と科学。中世哲学は、全体としての世界観を提示していた。そこには連続性という点で二つの裂け目が見
られる。一つは、天上と地上との間の裂け目であり、もう一つは、生物と無生物との間の裂け目である。これらの二
つの裂け目が、一度一七世紀にガリレイやハーヴィのような人びとの仕事によって明らかにされると、思想は、この
ようにしてあらわにされた複数の体系にあまんじていることはできなかった。世界を単一の基盤から説明しようとい
う、飽くことを知らない要求がある。法が支配しなければならない一もしもそれが神の法でなければ、物理学的な
法でなければならない。
力学的、数学的宇宙というガリレイの概念は、他の哲学者たちに影響を与えた。二の新しい科学によって示唆さ
れた模型には、世界のある部分でおこったいかなる出来事も、かならず他の部分でその結果があらわれるという信念
が含まれている。それぞれの出来事は、それらの出来事をつなぐ連鎖や円環や球をつくりあげる。それは、物質ある
いはエネルギーの消滅をゆるさない。この両者が保存されるという信念は、ガリレイの仕事のすべてに、それとなく
含まれていたが、それがはっきり表現されたのは、彼の死後二〇〇年たってからのことであった。︵この問題全体
は、 ﹁因果律﹂という哲学の問題につながっているが︶その限定された攻究範囲と限定された目標という原理につい
1工学の形成− 一ゴニ
1論 文− 二四
ては真である科学には、それ独自の働らきをする因果律の規則がある。科学は、ある特定の型の継起ばかりを論議する
とともに、それらの型を、原因と結果とみなされるような関係にあるものとしてとり扱うことでは一致しているという
点で、ガリレイにしたがっている。こうして物理学者は物理的継起だけを、化学者は化学的継起だけをとり扱うことに
なるであろう。このような過程のなかでは、例えば、天体の物理的状態とか親と子の体質の相関などにおける新しい
関係が、見つけだされたり、いっそう明確になったりするであろう。このようにして、それぞれ特定の分野における諸
関係にその視野を限定した新しい科学−天体物理学と遺伝学i−が成立すること忙なる。けれども、これらの継起
だけは測定可能であるか、またはすくなくとも評価可能であると考えられる点では、どの部門も一致するであろう。
ガリレイの時代以来われわれは、科学は測定であると見て、けっして、究極的な諸問題を解決するとは明言しない。
科学は限定された諸問題を、既知の精度と既知の誤差範囲において解決しようとする。精確に表現しようとする欲求
︵8︶
と観察を測定の用語に移そうとする欲求とは、ガリレイの時代以来、科学のあらゆる部門に浸透した。生物科学でさ
え、この影響をうけた。サントリオ︵一六〇〇年︶、ハーヴィ︵一六二八年︶、デカルト︵ 六六四年︶の生物の著作
に見られる物理学的目数学的形式は、 ﹁ドイツの植物学の父たち﹂やヴェサリウス︵一五四三年︶の美麗ではあるが
数学的ではない著作と対照的であろう。ガリレイの業績以来、生物等を物理学の⋮部門であると主張しようとする一
団の生物学者がつねに存在してきている。しかしながら、測定が二次的な位置を占めているような重要な科学部門
︵9︶
も、やはり存在していることも注意しなければならない。
以上、ガリレイの学問形成のあとをたどりながら、ピサ大学とフィレンツェ・アカデミーおよびその中心人物リッ
チの彼の影響をしらべた。また、彼の著書﹃新科学対話﹄などから、天文学上の諸発見も材料強度論の理論化・体系
化もともに彼の顕著な傾向の一部であることを見た。彼の顕著な傾向とは、力学的世界観、計量化、実験的解析、し
たがって専門化と細分化である。これのら諸傾向のなかにはすでに、今目数学的”物理学的諸科学の遭遇している諸
問題が見出されるのである。
︵1︶ 本節をまとめるにあたってもっとも多く参考にしたのは、 青木靖三﹃ガリレオ・ガリレイ﹄ ︵岩波書店、一九六五年︶、
ωぎ鴨504﹄動ごミ、曇詠誉壷金恥鼠鳴ミ強聴ミ鳴禽誉遮8・Ω巽ag℃希望い。&oP一〇8 ︵邦訳、伊東・木村、平田共
訳、 ﹁科学思想の歩み﹂岩波書店一九六八年︶、 ﹃天文対話﹄ ︵岩波文庫、一九六八年︶、 ﹃新科学対話﹄ ︵岩波文庫、一九
七〇年︶である。
︵2︶ 逐旨ざ界、肉醤製.ミミき吋ミ融≧。階層蜜oOβ︵・霞Fお切9を参照せよ。
︵3︶ シンガー上掲書︵邦訳︶二五六一二九一ぺージ。ただし、術語をいくつか訂正して引用した。例えば梁の理論における張
力、圧力を引張、圧縮としたごとく。
︵4︶ チムシェンコは、 ﹁数学︵戸幾何学︶が﹁限られた学問領域にしか用いられなかった当時において、それが実際の技術に
も大きな応用の道が見出されたことは大きな驚異であった﹂と述べている ︵チムシェンコ上掲書二〇ページ︶。 ただし、
ガリレイの数学的表現は、比例式の形で述べられていた。比例定数を含む等式の形で表現され、 比例定数の桁理的意義が
考えられるようになったのは、 一九世紀に入ってからのことである。ラウスらは、このことを強調している︵勾。易。頃‘
歳蓄旨堅魚$鉱ミミ、畠を参照せよ︶。
︵5︶ 笥硫黄讐ミミ山︵日言>器昌R︶試金者。題名の意味はもちろん金属を計量するものが用いる正確な秤で自然学を取り扱う
もの、という意味である︵青木靖三氏による︶。
︵6︶ ﹃二大世界体系についての対話﹄1﹁天文対話﹂あるいは﹁天文学対話﹂とよぶのはわが国独自のことであるといわれ
1工学の形成t 一一五
−論 文− 一一六
る︵青木靖三氏による︶。
︵7︶ 初期の顕微鏡学者と一七世紀の原子論者については、ω旨一浮、P>匹誓oqoh鼠。巨δ讐巷ゴざO冨営・oo、Sぎ恥象.§■
、ミミ“q恥ミ難壁Oミ暮時ミミ、ミ&魯感奮基およびO言讐曙ρ↓幕閣四蔓寓83零。官界ωが詳しい。
︵8︶ シンガtの指摘するこの傾向は二〇世紀に入るといよいよ顕著になる。山田圭一氏は﹁生物を対象として前に立てて現前
する乙とをビオロジーと名づける如く、技術の本質によって徹底的に支配されて有るもの、を現示し形にすることは、テク
ノ・ジーと呼ばれ得る。テクノ・ジーというこの表現は、原子時代の形而上学を特色づける表示として用いられてよい﹂と
述べている︵﹃現代技術論﹄︵朝倉書店︶一二九ページ︶。
︵9︶ シンガーの述べるところがらも明らかなように、ガリレイが当時の世界観一般におよぼした影響は大きかった。これにシ
ンガーはつぎのようなことをあげている。 ﹁,周知のように﹃天文対話﹄は、事態をどたん場に追いこんだが、奇妙なこと
に、ガリレイの反対煮たちがとらえたのは、その徹底した一般化ではなかった−恐らく彼らは、その重要さを十分に認識
しなかったのであろう。むしろ、とくに嫌疑をかけられたのは、 当時の一般の見解に対立したある細目であった﹂。 ﹁反対
者たちは、ガリレイのうちに、かつて占星術師のうちに見出したような伝統的宗教にたいするもう一人の別な撹乱者を見た
にすぎなかった。もしもガリレイ革命の本質が認められていたならば、ガリレイやその後継者たちの事情は、実際より悪い
ことになっていたであろう﹂。
シンガーは、 ﹁科学﹂と﹁宗教﹂についてつぎのようにいっている、 ﹁しかし科学はその目標を限定せねばならないから
技術者︵帥三界︶としてのガリレイがよく知っていたように、科学に基づく世界は、完全な世界ではない。われわれの見か
けの世界は、われわれが世界をどのように眺めるかによって一すなわちわれわれの﹁気分﹂︵ヨoa︶によって、左右され
る。われわれは、科学的な気分になることもあろうし、芸術的な気分、情緒的な気分、また社交的な気分になることもあろ
う。われわれが世界を眺めるあらゆる方法の結果として生ずるもの一われわれの﹁気分﹂の総和1が、実際には、われ
われの宗教なのである。ガリレイは、世界の新しい概念を基礎づけた一彼は、世界を見つめる一つの気分をつくりだした
といってもよかろう。そうすることによって彼は、自分の気分を受け入れ、あやかることのできるすべての人びとの宗教に
影響をおよぼした。しかし、この気分がガリレイのすべてであったということ、また、彼の眺めた宇宙がまったく数学的、
物理学的なものであったということは、彼の教えからはみ出ているばかりでなく、われわれが人間性について学ぶことので
きるすべてからもはみ出ている。どんな既成宗教の信条も拒絶する動機は手近かにある。しかしそのような欲望を、ガリレ
イや科学者一般のせいにすることは、歴史の記録を曲解することになるであろう﹂ ︵二八九−二九一ぺージ︶。
シンガーは、 ﹁ガリレイ”ニュートン革命の本質﹂の節をもうけて、つぎのように述べている。 ﹁ガリレイとニュートン
の仕事に関して、二つの面を特記しておく必要がある。まず、第一に、彼らの研究の対象は、物質世界そのものではなく
て、物質世界の経験、すなわち、それによってわれわれが物質世界を知ることができるといっている現象であっ仁。ガリレ
イとニュートンが示した法則は、運動体の法則ではなくて、運動の法則であった。第二に、これらの運動は、できれば、一
般原理が推論されるべき素材としてとらえられた。そしてこれらの運動は、それ以前に承認された一般原理を必然的に例証
するものと は み な さ れ る べ き で は な か っ た 。
一七世紀の物理科学のこの目新しい二つの特徴は、当時の思想の枠組のなかへむりやりに入れられた。たとえば一つの質
点がもう一つの質点の近くで行なう運動一すなわち、多くの物体の引力の中心として、空虚な空間内にあるとされる一点
の運動iを規定する引力の法則は、 一つの物体である太陽のまわりをまわるもう一つの物体の惑星の運動を規定するもの
として、自動的に解釈された。そして太陽系はたまたま、空虚な−大空間内にあるごく少数の目立つ惑星からなっていた
ために、この本質的にちがった二つの概念の間のくいちがいは、隠されたままであった。天文学者たちは、つねに惑星に関
心をもっていたので、 この新しい冒険も、 理解するためには、惑星に関係あるものとみなさなければならなかっ忙のであ
る0
1工学の形成− 一一七
一論 文− 二八
同様に、新しい科学の進路ば、多少の現象の観察から一つの世界観へ進行したので、すくなくともそれらの現象について
一般の考えかたをするためには、それらの現象によった世界観へと曲げられてしまった。それは、すべての些細なことも永
遠の相のもとに ︵の5ωε8ざ器冨旨冨蓼︶ みる哲学者たちの習性であった。だから、盲目的な力の指令に受動的にした
がう慣性体の概念が、質点の運動に応用できるとわかったとたんに、さっそくそれは、一つの世界哲学へと一般化された。
それは、あるがままのもの一ある特殊な単純な運動の一般化された陳述1としてうけとられるかわりに、宇宙の決定論
または唯物論の原理となり、そのような運動とはまったく関係のない現象や経験も、この原理に従属すると主張された。
ニュートンから一九世紀までの物理的諸科学の進歩は、このように異常であった。革命的方法は、純粋なかたちで行なわ
れたが・革命がなかったかのように解釈された。乙のために、一九世紀の後半には、科学と宗教や、科学と人本主義的な感
情との間の大きな闘争は、頂点に達した。科学は、その成功によって正当化され、宗教や芸術とは両立しなくなった。した
がって、宗教と芸術は幻想であり、 また錯覚でもあった。科学の成功は、 その実行に忠実だったからだということ、そし
て、一方、科学の破壊性は、科学の実行を、科学とは事実上両立しない世界観のなりゆきであるかのように見た科学の誤り
から生じたということ、は理解されなかっ忙︵四七〇一四七一ぺージ︶。
シンガーの科学、科学史および学問の専門化に対する見方は、つぎに引用する、序文の言葉からうかがわれるであろう。
﹁最近の二世代で、科学の地位に基礎的な変化があったことは明白である。これは、われわれが生存している精神的風土全
体に影響した。二〇世紀までの数千年にわたって、文明社会の主要な精神生活を支えてきたものは、科学思想の領域にはま
っ忙く属さない活動力であった。なるほどここ数百年間、とくに一八世紀の中ごろ以来、科学は、工業や農業を助成して、
生産を高めたり、あるいは人間の運命を改善したりしたこともあった。しかし、科学が精神面において、知性を訓練した
り、知識への渇望を満足させたり、さらに美の感覚に訴え仁りすることは、ほとんどなかった。﹂
﹁イギリスでは、科学は、一九世紀の後期までは教育組織にほとんど浸透しなかったし、今もなおそれに統合されていな
い。科学は、二〇世紀のはじめまで、一般大衆の関心をひくことはまれであった。古い大学における科学の地位は、よくて
も補助的で、わるくすると不安定のままであった。それ以来、科学的活動力がものすごく加速度的に増大し、その結果、現
実的で応用的な知識が多くなったために、生活のあらゆる面が変った。今や科学は、工業を制御し指導するようになつ仁の
で、地球の表面とそこに生存する多数の人間や動植物を、急速に明白に変化させつつある。真の科学史は、最後に、これら
の近来の変質を論ずべきである。﹂
﹁私はこの機会に、世界を理解できるようにするか、すくなくとも記述できるようにすることを大・さな目的にしている科
らであり、したがって結局は、人間に限度があるせいである。己れらの分割は、哲学者にはどんなにいたふ一ホしく人為的に見
学が、その成功によって多くの部門に分割されたことを思い出す。そうなっているのは、まったく知識を累積するだけだか
えようとも、要するにそれらは、単に形式的なものであって、その限界は随意に環境に応じて移動することができることを
忘れてはならない。しかしながら、事実上は、いっそう根本的な三つの割れ目が依然としてある。その第一は、生物学的科
学を物理学的−数学的科学から分割している。第二は、心理学的科学を自然科学︵Z緯日三の、8の。﹃蝉津。P︶一英語では、
これほど短かい用語はないtから分割している。第三は、社会学的科学をその他の諸科学から分離している。これらの割
れ目が、今ではときどき踏み越えられていることは明白である。このような行程︵甘口旨昌︶がいっそう頻繁に、ます斗一“す
確実になれば、科学史を﹁最新式﹂にすることが可能になるであろう。この達成を困難にしているものは、これらの割れ目
であって、単に多量⑳知識ではない。しかしながら、これらを成就したからといって、全体としての自然の体系についての
心像を形成する基礎的なむずかしさが改まらないことは、銘記しておかなければならない。真実︵器帥一一蔓︶の根底は、たと
え数学的用語で表現できるにしても、けっして概念的なものに移すことはできない。この所説にふく藷一ホれている考えこそ、
一九世紀と二〇世紀との間にある真の障壁である︵上掲書ま一ぞページ︶。
謝辞 本稿は著者が文部省内地研究員として東京大学生産技術研究所教授館充博士の御指導のもとで遂行しづつある技術
−工学の形成− 一一九
1論 文− 一二〇
史研究の一部をまとめたものである。椙山正孝、五弓勇雄、橋口隆吉、吾妻潔、山崎俊雄の諸先生には長年多くを教えら
れた。本稿執筆にあたって、これらの諸先生の師恩を深く思い返すところがある。井口昌平、中野幸久、中沢護人、村松
貞次郎、高橋裕、黒岩俊郎、西村肇、大蔵明光、李海溝、近江晶の各位には、御多忙中のところ御討論をいただいた。こ
こに記して感謝の意を表したいと思う。
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