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1 ピリピ4章1∼7節 「主にある喜び」 石原俊久 先週までの箇所は

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1 ピリピ4章1∼7節 「主にある喜び」 石原俊久 先週までの箇所は
ピリピ4章1∼7節
「主にある喜び」
石原俊久
先週までの箇所はクリスチャンの歩みが、天の御国の国籍によって望みあ
るものとなっていることを見ることができました。その望みによって私た
ちは栄光への競走を走り続けることができることを学ぶことができたと
おもいます。
1.喜びの冠
パウロは「そういうわけですから」と続けて、再びピリピの教会によびか
けます。
「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」パウロにとってピリピの教
会が大切であり、愛する人々であったことが分かります。
この手紙の一章の8節にこうあります。
「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべて
を慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」
4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。ど
うか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人た
ち。
「愛」する人たちという言葉が2度繰り返されています。
そして「冠」という言葉が使われています。ここで使われている冠の意味
は、勝利者の頭にのせられる勝利の冠をあらわしています。オリンピック
の表彰台に上った選手が月桂樹の冠をかぶせられる姿を私たちはテレビ
で見ることが出来ますが、あの冠のことです。パウロは信仰生活を走り続
ける競争にたとえています。パウロにとってピリピの教会はこの冠をかぶ
るのにふさわしいと思える教会であったといえるでしょう。
そして、この冠にはもう一つの意味があって大きなパーティーなどで大事
なお客の頭にかぶせるものであった、ということです。これは天国の祝宴
をイメージさせます。
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黙示録に「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたし
の声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼ととも
に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。
主の祝宴に招かれた聖徒たちの姿です。
いずれにしても「勝利」と「お客」という名誉に関する言葉、と言えるで
しょう。
パウロがピリピの教会を「私の冠」、といったのはこのように価値のあ
る人たちです、ということを精一杯あらわしたことばであるといえるでし
ょう。異教社会の中にあって初めに開拓したピリピ教会はパウロにとって、
何物にも代えがたい存在だったのです。そしてそれはパウロだけでない、
神様から見てもやはり同じで尊い存在であったということがいえるので
す。
このことは私たちにも言えることです。異教社会の中にあって私たちが救
われたのは奇跡的ともいえます。神の目から見たときやはり私たちも尊い
のです。
だからこそパウロはこの尊い救いから漏れることなく歩んでほしいと願
うのです。そしてそのことはキリストの願いと同じです。
2.ユウオデヤとスントケ
しかし、この地上にある教会は試みにあいます。ここでパウロはユウオデ
ヤとスントケについて書かなければなりませんでした。そこには不一致が
あったということでパウロはこのことについて教会の中での解決をのぞ
んでいます。
ピリピ教会はパウロに贈り物を届けるということをした素晴らしい教会
でした。そしてパウロも異邦人伝道の初期の段階(使徒 16 章参照)で立
ち上がったこの教会について愛していました。この手紙ははじめから終り
まで教会への感謝、そしてパウロの勧めで終わるはずだったのですが、贈
り物をもってきたエパフロデトから教会の状況をパウロは聞いて手紙に
書かざるおえなくなったのです。
この二人の女性は教会の中で先頭を切って伝道の奉仕をしていたすぐれ
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た信徒でした。彼女たちへの称賛の言葉をパウロはのべています。
2000 年前のギリシャ地方は今とは違って古代の男社会でした。その中
でこの二人の女性が教会の中で重要な働きをしていたことは注目すべき
ことです。思えばキリスト教そして教会は当時の社会に立ち向かっている
かのように女性を用いようとしています。イエスキリストが地上におられ
たときたくさんの女性がそばにいて仕えた、とあります。また墓の中から
よみがえったキリストをはじめに認めたのは女性たちでした。そして教会
では男性だけでなく女性の名がしばしば登場します。
今日の女性の地位向上にはキリスト教の影響が少なくないともいえる
でしょう。今の北海道知事が高橋はるみさんだ、と知ったら 2000 年前の
教会員は感慨深いのではないかと思います。
教会の中ですぐれた信徒であり伝道の戦士であったユウオデヤとスン
トケは、おそらく教会の中で大きな影響力をもっていたと思われます。だ
からこそひとたびこの二人に問題が起こったとするならばその影響は教
会に大きな影を落とすことになるといえるでしょう。だからこそパウロは
書かなければならなかったのです。
しかしパウロの気持ちがここに表れています。それは 2 節の箇所で「真
の協力者」といわれる人物にこの問題を頼むときに、「彼女を助けてやっ
てください」と書いています。ユウオデヤとスントケを責めるのではなく、
彼女たちの不一致の問題を解決することは、彼女たちを助けることになる
のだ、というのです。
ユウオデヤとスントケは不一致によって教会に影響を与えるでしょう。
しかし一番苦しむのはこの二人なのです。そしてこの苦しみが教会に影響
を与えるのです。
二人が一致を取り戻して再びキリストの福音のために働くことができ
ること、二人が不一致による苦しみから解放されることをパウロは望んで
いるのです。このトラブルによって二人がキリストから離れるようなこと
があるとするならばそれはパウロにとって大変悲しむべきことになるで
しょう。そしてそれは天の父にとってもそうです。ピリピの教会からの次
のニュースはこの二人が和解して一致を保ち、再び伝道に燃えているとい
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う良いニュースであってほしいとパウロ、そしてキリストは望んでおられ
るのです。
私たちも、もしそのようなことに陥りそうになったらこのパウロの手紙
に短く書かれたこのユウオデヤとスントケに名前をあてはめて神の言葉
としてこの箇所から導かれたいと思います。
3.主にあって
愛するピリピ教会にこのような問題をみたパウロは再び信仰の秘訣を書
き記します。
4 章の 1 節から 4 節までの間に「主にあって」という言葉が繰り返し登場
します。この「主にあって」ということが信仰生活、教会形成のために重
要であるというのです。
①まずはじめに、1 節の箇所です
「主にあってしっかりと立ってください」
私たちの信仰の土台はどこにあるのでしょう。それは主にある信仰です。
まずここからスタートしなければなりません。3 章の箇所でも書かれてい
ましたが私たちは信仰の競争を走るランナーです。そして信仰のスタート
を切ったときから後ろを振り向いたり、途中で立ち止まってはいけないの
です。それでは私たちは無理やり走らされているのか、と思うかもしれま
せんが、その反対で走ることが許され与えられているのです。オリンピッ
クに出場するにはその前の大会で優秀な成績を残さなければ出場するこ
とはできません。それだけでなく様々な条件があります。そして日本全国
世界中から一握りのランナーがオリンピックに出ることができるのです。
私たちはこのオリンピックに出ているのと同じです。ほかの人が出たいと
思ってもでることができない競争に出ることができたのです。その選考委
員長はキリストでした。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選
びこの競争に参加させてくださっているのです。そのことをいつも確認し
ながら歩みたいと思います。今あるところを基準としてゴールを目指して
走り続けるものでありたいと思います。そしてもし信仰が揺れ動くような
ことがあれば、いつでも救われた時のことを思い出してその恵みに感謝し
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たいと思います。
私たちはこの世の荒波の中で絶えず揺さぶられています。不安定な存在
です。キリストの弟子たちでさえそうでした。キリストが復活され、聖霊
を受けるまでは主のそばにいながら主を知らないとまで言ったのです。し
かし聖霊が下ったとき彼らは変えられました。私たちも聖霊の助けによっ
てキリストがともにおられることを確信しつつ歩みたいと思います。
②二つ目は2節の箇所です
「主にあって一致してください。」
ユウオデヤとスントケの問題の箇所です。主にある一致は、それぞれの信
者との関係を示しています。ここでも「主にある」ということが重要とな
ってきます。
この世には教会以外にも様々な集まりがあります。それは会社のような
もの、学校のような集まり、趣味のサークルなど様々です。最近ではイン
ターネットの上での集まりというものもあったりして、一度も顔を合わせ
ることのない集まりというものも存在するようになってきました。しかし、
これらのこの世の集まりは「うまくいっているうち」はいいのですがその
目標が変わったり、参加者と「ずれたり」することでいとも簡単に分解し
てしまうものです。最近では血のつながりで結ばれているはずの「家庭」
という集まりさえも簡単に崩壊してしまう現実を私たちは見ることがで
きます。
しかし。キリストを中心とした集まりは違うのです。
主にあって集まるものはこの世とは違った求心力で結びあわされてい
るのです。それはキリストにある一致です。私たちはそれぞれが個性をも
って神様から創られました。ですからこの個性を殺して一緒にならなけれ
ばならないというのとは違います。それはこの世の基準です。個性が似た
者、趣味が似た者が集まるのがこの世の集まりであるなら、キリストにあ
る集まりはバラバラな人たちが、ただキリストを主とするという一点で一
致するという常識では考えられない集まりなのです。だからこそ、地域を
超え、国を超えても「私はクリスチャンです」というだけで一致すること
ができるのです。この一致を求めることは私たちの教会形成の重要なカギ
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です。そして私たちの信仰の助けとなります。互いに尊重し、謙遜になり、
しかし互いに高めあうという信仰の秘訣を身に着けることができるので
す。一致をいつも求めるものとなりたいと思います。
③3 つ目は 4 節の箇所です。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
喜びの手紙といわれるピリピ人の手紙の中心的な箇所と言えます。
ここでも大切なのは「主にあって」ということです。
私たちが喜びを感じる時とはどんな時でしょう。大きな成功をした時、ほ
しいものが手に入ったとき、ピンチから救われたとき、かもしれません。
もちろんそれらのことも主の導きの中で与えられる喜びと言えるでしょ
う。
しかしパウロは「いつも主にあって」というのです。「いつも」とは、
どんな時のことを言うのでしょうか。それは、パウロの状況がすべてを説
明しています。明日死刑になるかもしれない囚われの身でありながら、そ
のことが主にあってなされたことと信じ、喜んでいる。
パウロは気がふれてしまったのでしょうか。しかし、パウロの国籍は天に
あるのです。
この確信があるからこそ私たちはいつも喜ぶことができるのです。ステ
パノは石打にあって死を目の前にして「主よ」と天を見上げて叫びました。
パウロは牢に入れられ手錠と足かせをつけられた時、神に祈りつつ賛美の
歌を歌っていたとあります。(これもピリピ伝道の時でした)
「いつも」「主にあって」喜ぶ喜びを身につけた人は、地上の人生におい
ても勝利者になることができるのです。
この世の喜びはいつも喜べる喜びではありません。しかし主にある喜び
は苦難を乗り越える力を与えてくれるのです。
主にあるということはこのように非常に心強いことです。ですから私た
ちはいつも主を見上げて歩まねばならないのです。
4、寛容な心、思いわずらわない、神の平安
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このように主にある歩みがもたらすものはなんでしょうか。
5 節「あなたがたの寛容な心を」とあります。私たちは寛容な心を持つこ
とができます。主にあって一致するということは寛容を必要とします。許
すという態度です。これは主にあってこそ本当に発揮できることではない
でしょうか。キリストが私たちの罪を許すために尊い血の犠牲をもって十
字架にかかってくださったことを思う時に、神の寛容さを思わずにはいら
れません。神は人類を滅ぼすことができるお方なのにそれをなさらなかっ
た。主に立ち返る魂を待っておられたのです。主にある寛容さ、はこの神
の姿を自分の中に持つということです。
そして 6 節にあるように「何も思いわずらわない」ということです。実
際に何も思いわずらわない歩みを私たちができるわけではありません。私
たちは思い煩う存在です。しかし主が、ともにおられるのです。パウロは
私たちが思い煩う時に「感謝をもってささげる祈りと願い」によってあな
た方の願い事を神に知っていただきなさいと言います。わたしたちは思い
煩いがある時に感謝できるでしょうか。主にある喜びがある時に、これが
できるのです。苦難の中で主にある喜びをを知っているなら、苦難の時に
感謝できるようになります。このとき「自分の思い」がなくなって完全に
神により頼むものへと変えられるのです。
そしてこの神への祈りによって私たちは神の平安を手に入れることがで
きます。それは人の考えにまさるものです。主にある平安です。思い煩い
から解放された平安です。「私はあなたがたに平安を残します」と主はい
われました。また復活され弟子たちに表れたときに最初に言われたことは
「あなたがたに平安があるように」という言葉です。
この平安は人間が努力によって手に入れることができるものではありま
せん。主が与えてくださるものなのです。
この平安がある時に私たちは主にあって喜ぶことができるのです。
パウロが死を目の前にして喜ぶことができたのはこの平安があったから
です。
思い煩い、不安から解放され、主にある平安によって、主にあって喜ぶこ
とができる一週間でありたいと願います。
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