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『新約聖書』コリントの信徒への手紙の中で、パウロは、如何なる知識があ

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『新約聖書』コリントの信徒への手紙の中で、パウロは、如何なる知識があ
立教新座高等学校 卒業式 式辞
はんもん
つるはし
煩悶の鶴嘴
校長 渡辺憲司
『新約聖書』コリントの信徒への手紙の中で、パウロは、如何なる知識があ
ろうとも、山を動かすほどの信仰があっても、莫大な寄付をしようとも、愛が
無ければ何の意味もない。と強く言います。
「では。その愛とはなんだ。」私たちは耳をそばだてます。
そして、パウロの口から出てきた最初の言葉は、
「愛は、忍耐強い。愛は情け深い」
(新共同訳)という言葉です。文語の聖書
では、「愛は寛容にして慈悲あり。」とあります。
パウロは愛について語る時、最初に、愛は忍耐である。又愛は寛容である。
というのです。
私の胸の中に、愛とは、忍耐であり、寛容であるという、言葉が離れません。
何故、最初にパウロの口からその言葉が出たのでしょうか。
私には、この言葉が、煩悶を惜しむなということを言っているような気がし
てならないのです。そして思い悩む者をしっかり受け止めろと言っているよう
に思えるのです。
思い悩め。思い悩むことに時間をかけよといわれているような気がするので
す。悩むことに手を抜いてはいけないと。
愛を実現するためには、時間を要する。それは自己への忍耐強い思い、さら
に他者への寛容の精神が混成するものなのでしょう。
そのことを踏まえて、次の章は、「愛を求めなさい」、求め続けなさいと云う
のです。
愛は真実さらに理想と呼ぶような言葉に置き換えることが出来る気がします。
将来如何にあるべきか。我々にとって理想とはなにか。真実の愛とは何か。
その問いかけにまず正面から向き合うことが要求されているのです。
真剣に、深刻に、自分の描く理想に向き合うことで悩みがあり、煩悶があり
ます。もちろん自分だけが思い悩んでいるわけではありません。
それは誰もが共有している煩悶です。人間が有史以来抱えてきた問題である
ことは確かです。あらゆる人間すべてに共通する問題です。
現代社会は、愛の理想形を、真実とは何かを。
そして理想を思い描くことを忘れているように思えてなりません。
互いに愛し合うことは素晴らしい、しかし、現実は違う。
平和な方がいい、しかし現実は違う。
原発はない方がいい、しかし現実は違う。
現実は違う、そう考えることで私たちは思考を停止しているのです。
思考の停止は、逃避です。
君たちは、東日本大震災その後の原発事故と。災害の悲劇の渦中に学生時代
を送りました。たまさか直接的悲嘆から逃れた私たちの責任は、煩悶を、苦悩
を、如何にして共有するかです。悲しみは共有できるものではありません。悲
しみを分かち合うといっても、それは尊大な振る舞いにしか思えないのです。
分かち合うべきは、悩むことです。解決のつかないことにも思い悩むことです。
しかし、煩悶は、明日へのために共有できるはずです。
理想を、愛を、追いながら苦しむことこそ重要なのです。私たちは、苦悩を
解決できないことと決めて逃げています。
右へ行くか、左へ行くか。その決断を求めているのではありません。
Aか、Bか、選択のための黒塗りの鉛筆はいりません。
行く手にあるのは、マークシートの解答用紙ではありません。
消しては、引き、消しては引いた補助線です。
大事にすべきは真っ黒になった消しゴムです。
消しゴムですり減った解答用紙です。
大正三年十一月二十五日の学習院での講演に手を入れ、書き直した作品『私
の個人主義』で、夏目漱石は大学卒業時の心境を次のように述べています。
「私はこの世に生まれた以上なにかしなければならん、といってなにをして
好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独な人
間のように立ち竦んでしまったのです。」と述べ、「私はこうして不安を抱いて
大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又同様の不安を胸の
底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。」と記しています。
そして、漱石は言います。
あ な た
「私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は
鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くと
いう事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十
年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。
ああここにおれの進むべき道があった!
ようやく掘りあてた!
こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事
か出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を
もた
擡げてくるのではありませんか。」
漱石は、イギリス、ロンドンで、又、伊豆、修善寺の大病の中で、煩悶を繰り返します。
権力に、そして日本の近代化そのものに、煩悶を繰り返したのです。漱石にとってその
煩悶こそが、力であったのです。そして漱石は、自分にとって何が最も必要で大切なも
のかを探し当てようとしたのです。
漱石は、文学者として成功し、多くの名声を得ました。厳しい倫理性の前に自己を
投げ出した姿勢は、厳格であり、優しさとは異なった人物のように見えるかもしれませ
ん。しかし、漱石の苦悩の姿勢は、<愛は忍耐強い>という、言葉そのものです。
やさしさの語源は、痩せるです。自分の身をやせ細らせることでやさしさが生まれる
というのです。漱石は、自分自身の身を削ることで、明治の日本の近代化が生み出し
た落とし穴に立ち向かったのです。暗い穴の中に居ることを他者は神経衰弱、病の人
であるといったかも知れません。しかし、それはまさに日本という国に立ち向かう身を削
る、やさしさであったのです。私たちはその作品に永遠の命を感じとり、漱石の作品を
名作と感じるのです。暗い穴の中で掘り進んで探し当てた作品こそ、漱石のダイヤモ
ンドであったのです。
煩悶は明日への力です。理想への、愛への道筋です。苦悩の中に、希望への
瞬きを、忍耐強く持ち続けることなのです。
若いという字は、驚くほど苦しいという字に似ているのです。苦しむことは、
誰にでも、どの年代にもあります。苦悩や不安は、年と共に増すものです。
しかし、諸君たちの苦しみは、もう一歩で、もうすこしその一画を横にそら
すことで、若さ即ち再生の可能性を、秘めているのです。直線の一画から、横
へそれる一画です。私はそこに<苦>から<若>へのしなやかさを見てとりま
す。
若いという字は、象形文字の解釈に従えば、右手をあげて神託を待つ動作だ
といいます。宣誓式の動作で右手をあげることと関連があるのかもしれません。
右手を左の胸に当て、すべての悩み、苦しみの鼓動を自己のものとし、心の
鼓動を聞き、生きている血の流れを確実に察知して、いつの日か神託を待ち右
手を挙げて、新たなる次のステップに向かってください。
ダイヤモンド鉱脈へ振り下ろす鶴嘴の快音に祝福のあらんことを祈ります。
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