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1 「はじめに神が」 石原俊久 2008年4月6日 教会も2008年度の最初の

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1 「はじめに神が」 石原俊久 2008年4月6日 教会も2008年度の最初の
「はじめに神が」
石原俊久
2008年4月6日
教会も2008年度の最初の礼拝となり、本当の意味で今日から新しい
教会のあゆみが始まるんだなあと感じます。
雪もすっかり解けて「あの雪はいったいなんだったんだ」と思うわけです
が、北海道に長く住めばきっといつもの光景ということになるのでしょう
ね。
人間の営みがさまざまに変わっていっても、雪は積もり、解けて春がや
ってきます。そして夏が来てまた冬が来る。
わたしたちは一年の歩みの中で神の御業をさまざまに感じながら歩ん
でいるわけです。
その恵み、変化、美しさ、時として牙をむくような凶暴さをも神の御業
と感じながら歩めるということはどんなにすばらしいことでしょうか。そ
れをすばらしいと感じることができるのはわたしたちが創造の神の存在
を信じ、意識しているからにほかありません。
1.「初めに神が天と地を創造した」
神は聖書をはじめて読む人間の心理をご存知かのように、この言葉を初
めに私たちに語ります。
「初めに神が天と地を創造した」
さてこのように書かれていたなら、その続きはどうなってるのかな、と読
まないわけにはいかない。けれどもそう思わない人もいるかもしれません。
そういう意味で初めて聖書を手にした人の運命はここで変わるかもし
れません。この続きを読んだ人と、この一行で「ばかばかしい」といって
ページを閉じる人に分かれるでしょう。
私は教会に初めて行って初めてこの箇所を読んだときに一瞬この「ばか
ばかしい」という感覚に襲われました。そしてもうこんなもの読んでも意
味がない、というか、まるでおとぎ話の始まりの言葉のように感じてしま
ったのです。
そもそも「神」という言葉自体がウサンクサイといいますか、信じてな
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いものには架空の物語の架空の「人物」にしか思えないわけです。
そのとき教会の牧師に「まあそういわずにだんだんと面白くなってくる
から」とうながされなかったらこの後、一ヶ月で旧約聖書を読破する(ち
ょっと自慢)
、ということもなかったでしょう。
しかしこの神の創造を「事実」として受け入れることができなければ、
この箇所以降の聖書の箇所は全くむなしいものとなってしまいます。聖書
66巻の壮大な神のストーリーの始まりの大前提がこの一章一節の中に
盛り込まれているのです。
この基盤の上に私たちの歴史がありまた救いの計画があるのです。
さてこの「天と地を創造された」ということは、ではどういうことなの
か、ということですが伝統的な解釈では「すべてのもの」をあらわすのに
この「天と地」という言い回しをしたと考えられています。ですからこの
天と地は「空と陸」というよりはこの宇宙を含む世界、というように捉え
るのが正しいと思われます。神がこの世界を創られたのです。
ではその神は誰が創られたのか、という質問をされたことがあります。
神というものがあるのなら、その神も誰かが創ったのではないか、と。も
っともな疑問です。しかし、聖書はそのことに触れていません。そのよう
な想像力を持つことも神様から私たちがいただいた能力であり賜物です
が、聖書には触れられていません。残念ながら、分からない、としか言う
ことができないと思います。私たちにはうかがい知ることのできない部分
です。ただ私たちに示されているのは、神がすべてのものを創られた、と
いうことだけです。聖書が神の啓示の書で、神様からの手紙であるとする
なら私たちは今は、神がすべてのものを創られる前からおられ、つまりこ
の世の始まり以前からおられたということが言えるだけです。聖書の最後
の書、ヨハネの黙示録には「わたしはアルファであり、オメガである。最
初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙22: 13)」とあ
ります。
私たちは今はこの言葉に信頼しなければなりません。そしてその疑問はこ
の世の終わりに復活の主とお会いしたときに明らかになるでしょう。
「天と地を創られた神」つまりすべてを創られた神を明らかにした後、
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2節には「地は形がなく、何もなかった。」とあります。聖書の視点が宇
宙から地球に移ってゆきます。私たちの住むこの地球のはじめの状態がこ
こに表されているのです。この箇所は現在では形がないというというより
は、荒涼として人間が住める環境でなかった、と解釈するほうがよいと考
えられていて、新改訳聖書の第3版では「地は茫漠として何もなかった」
と難しい言葉で訳されています。
暗闇と大水が存在するだけのまさに茫漠とした場所だったのです。はじ
めは地球は人間の住める場所ではなかったのです。
しかしその大水の上に「神の霊が動いていた」とあります。
神はこの地球にその御手を伸ばしてあることをなさろうとしていまし
た。それが人間を住まわせようというご計画だったのです。
2.6日で人間の住む環境を創られた
3節からは神のこの地球での御業が示されています。
はじめに光が創られました。地球にはじめての夜明けの時が与えられまし
た。
最初に光が与えられた、ということは闇の世界でなくなったということで
す。色々なものが明らかになっていったということであります。
と、同時に、闇の部分を神は残され、区別されています。光のある時を
昼、とされ、闇の時を夜とされました。はじめに、一日という単位を定め
られたのです。しかしここでの一日が地球の一日の単位となったとはまだ
いえません。この後になされる神の業の4日目に太陽と月を造られました
ので、そのときの昼と夜が今の地球の一日となったと考えることができま
す。
6節では地表を覆っていた大水を地上と空に別けられました。空の大水、
というのは分かりにくいかもしれませんが神は空を作られ雲をその空に
置かれたのです。雨が雲から降ってくるということから、このような表現
をしているといえるでしょう。ここまでで2日たったと書かれています。
3日目に神はその御業によって大地と海とを別けられました。陸地が登場
します。
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そして陸地の出現と同時に植物をこの地上に造られました。そして4日
目ここで初めて太陽と月、星が造られます。学校の理科の時間に習った進
化論では説明できないのですが、植物は太陽や月や星の前に地球に存在し
たことになります。しかし科学はいつかこのことを証明するかもしれませ
ん。
そのことは置いておいて、創造の4日目に今の私たちの地球の一年、一
日という単位が確立したといえるでしょう。
さて5日目になり、生き物が登場します。海の動物、魚、そして、鳥た
ちを5日目に造られます。
6日目、ついに地上の動物と人を造られます。
さてここで不思議なのは、なぜ海の生物と鳥、と陸の生物と人間が違う
日に造られたのか、ということです。わたしたちがすぐに思い浮かべるの
は進化論的な考え方で、生き物は単純なものから複雑なものへと進化して
行ったという考えです。そういう意味ではこの聖書の順番は進化論的には
あっているともいえます。ただ大きく違うのは進化論は進化という「過程」
があった、と考えるわけですが、聖書の場合、創造論といいますが、神が
はじめにお決めになったように突然その植物、動物、が造られていったと
いうことです。
24節を例にとって見ると「ついで神は、「地は、その種類にしたがっ
て、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」
と仰せられた。するとそのようになった。」とあります。その「種類」に
したがって、とありますから初めからその種類を主がお決めになって創造
されたということです。魚が進化して動物になったとか、サルが進化して
人間になったということではないのです。現在進化の証拠は何一つありま
せん。むしろ種の絶滅の方がわたしたちには現実的ではないでしょうか。
一度絶滅してしまったらその種類の生き物はもうこの世から存在しなく
なるのです。
3.神の順序
ではなぜ神はこのような順番で生き物を作られたのでしょう。聖書には
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はっきり書いてありませんがヒントは29節にあるかと思います。
「ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持
つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。
それがあなたがたの食物となる。 また、地のすべての獣、空のすべての
鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物とし
て、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。」
はじめに植物を造られたのは後に造られる動物たちのための食料とな
るためではなかったのか、と思うのです。ここでは動物が動物を食べると
いうことは書かれていませんがそういうことも理由としてはあったのか
も知れません。
順番の話に戻りますが、人類が造られるのは最後になります。六日目の
動物たちの創造の終わった後です。
このことは神の創造の御業を人間は見ていないということになります。
神は神の業を隠されたのでしょうか。しかしむしろ、すべてがととのって
から人間を造られたと考えるべきでしょう。神ははじめから人間のために
この宇宙を創造されすべての環境、植物、動物、家畜を用意されて、人間
をおつくりになったのです。
「茫漠」であった、人が住むことができなかった地球が人が住むことの
できる環境へと整えられていったのです。
なぜ神は人のためにこのようになさったのでしょう。
26節「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、
人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を
創造し、男と女とに彼らを創造された。」
神に似たものとして人間を造られ、この地上のものを支配させようとさ
れました。
この神に似たもの、神の形に、というのはコピーという意味では、あり
ません。神はつくり主で、人間はあくまで造られたものです。しかし神は
人間に自由意志を与えこの地球を治めさせようとされたのです。そのため
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に必要なものを造られました。神は人間が困ることのないようにされたの
です。それは神がわたしたちを愛しておられ、親しい関係を持って歩むこ
とができるようにとの配慮だったのです。
4.わたしたちの神はすべてを支配しておられる。
6日の創造の業を見るときに「ホント」に、6日でこんなことが起こる
のかという疑問に突き当たります。このことから創造の期間の一日をわた
したちの現在の一日とは違って長い時間がかかっていると解釈する向き
もあります。しかしそれは進化に時間がかかる、というわたしたちに叩き
込まれた進化論的考えであって、「はじめに神が天と地を創造された」と
いう前提に立つならば、無意味なことです。神は2匹の魚と5つのパンで
5000人の腹を満たすことのできる方です。死んだラザロをよみがえら
せるお方です。そして信じたわたしたちに新しい人生を与えてくださるお
方です。
創世記1章を見るとすべて神はおおせられた、とあり、そのようになっ
たとあります。天と地を創造された神であるから、一日で動物を作り人を
作ったことに何の問題もありません。
ここにわたしたちへの信仰のチャレンジがあります。
わたしたちの神は本当にすべてを支配しておられる神だ、と心から信じ
ていますか。そのようにこの箇所はわたしたちに問いかけているようにも
思えます。
5.夕があり、朝があった。
最後にひとつ気にかかることは一日の創造の業が終わるたびに「夕があ
り、朝があった」と記されていることです。
この順番は大切です。
「朝があり、夕があった」ではありません。わたしたちの感覚では朝がは
じめにきそうなものですが、あくまで夕があり、朝があったのです。
これは創造のはじめのところから引き継ぐ事柄です。
神の創造が始まる前の状態は
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何もない空間はむなしさの象徴です。
そして闇は暗闇でありえそこには希望がない
また大水も後のノアの箱舟の箇所にも見られるように何か底知れぬ恐
ろしさを感じます。
しかし神はそのようなところから
無から有を生み出し
闇から光を作り出され
大水の中から乾いた地を作り出されました。
このお方が、私たちの中の暗闇に光を照らし、永遠の滅びから永遠の命
へと導いてくださるのです。
6.無から有を創られる神に期待して
新しい年度の初めの礼拝です。
神は私たちに、この教会に何をなさるのでしょう。
この世界をつくり、神の姿に似たものとしての人間を創られ、その生き
る環境を創られ治められている神は、その御心にかなうことを実現なさ
る神です。
罪にけがれ永遠の滅びしかなかった私たちに救いと、永遠の命を与え
ようとしてくださる。
その神に大いに期待したいと思います。
エレミヤ33:3には
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解
を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。
神はわたしたちの理解をはるかに超えたお方です。しかしその神は「わた
しを呼べ」とおっしゃいます。新年度もこの神に期待したいと思います。
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