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OPI -(KINDAI-h1+10-14+h4)

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OPI -(KINDAI-h1+10-14+h4)
大阪で唯一の
三 つ 星 レ スト ラ ン
『ミシュランガイド京都・大阪2010』で、大阪
の 三 つ 星 店 はた だ 一 つ 。そ れ が 近 畿 大 学 理 工 学
部OBの米田肇さんがオーナーシェフを務めるフ
レン チレ ストラン「 H A J I M E 」。料 理 人 の 生 き
て きた 経 験 や 人 生 観 が 料 理 に表 れ るという米 田
個
性
、
経
験
、
人
料生
理観
を
さんは、観光産業としての飲食業を視野に入れて、
世界で一番おいしい料理を日々追求している。
近大
KINDAI SPIRITS
スピリッツ
1972年、大阪府枚方市生まれ。96年近畿
大学理工学部電子工学科卒業。NOK株式会社
に2年間勤務後、辻調理師専門学校に入学。大
阪のフランス料理店で1年、神戸のフランス料
理店で2年半修業し、
2001年12月からフラン
ス・ロワール地方で3年3ヵ月修業。帰国後、北
海道の三つ星レストランで1年半仕事をしてか
ら、
08年5月にレストランHAJIME(大阪市西区)
のオーナーシェフとなる。
『ミシュランガイド京
都・大阪2010』で、
大阪で唯一三つ星を獲得。
09
インタビュー
1996年 理工学部 電子工学科 卒業
YONEDA Hajime
米田 肇(よねだ はじめ)
米田 肇さん
レストランHAJIME オーナーシェフ
料
理
人
自 の
分
に
し
か
作
れ
な
い
生 が
む 、
社会人になってから料理の道へ
高校卒業後に専門学校に入って料理の道に進む人が多いなかで、
米田肇シェフは理工学部に進学。さらに自動車部品・電子部品の大
手メーカーに就職し、電子基板の設計の仕事に2年間従事してから
料理修業を志した。回り道に思われるような選択をしたのはなぜか。
また、その経験はどのように生かされているのだろうか。
小学校4年生のときに見たテレビ番組がきっかけで、
フランス料
理のシェフにあこがれるようになりました。ヨーロッパで希望の職に
人はそんなに窮屈に昔の料理を作っているんだ。芸術家と一緒で、
自由なんだよ」と。
就けず、皿洗いから始めてフランス料理を修業し、
アメリカに渡って
活躍しているシェフの姿が指揮者やアーティストのようで、
子ども心
にかっこいいなぁと……。
中学校に入るときも、高校や大学を受験するときも、料理の専門
観光産業としての飲食店を目指して
帰国した米田さんは、北海道洞爺湖畔の三つ星レストランで1年
半勤めてから実家に戻り、自分のお店を開く準備に取り掛かった。
学校に行きたいと親に言ったのですが、反対されました。就職する
2008年5月にオープンしたHAJIMEは、おまかせ1コースのみの
ときには、海外で働くチャンスのある会社を選びました。そこで、
ど
メニューで、2ヵ月先まで予約が取りにくいほどの人気だ。
うして海外で仕事がしたいのかと考えてみたら、料理の世界へのこ
だわりがありました。しかし、あえて自分の願望が本物であることが
お昼は22∼24名様、夜は18∼19名様ぐらいまでです。世界で
分かるときまで、
このまま今の仕事を続けようと思ったのです。この
一番おいしい料理を出すには、それが限界です。メインのお肉の料
仕事が好きになって、待遇も給料も良くなり、友人もできて、会社を
理は、火を通すのにだいたい3時間ほどかかります。前後の料理の
辞める必要がないという時点で、自分は本当に料理人になるかどう
バランス、
量、
緩急などの流れを考え、
さまざまな調理方法で素材の
かを判断すればいいのだと。2年後に想定していた状況になって決
持ち味を生かすには、
1コースが最善の方法だと思っています。
断し、
今度は反対する親を説得して料理学校に入りました。
私は回りくどい道を歩いてきたように思われがちなのですが、大
結局、料理人の個性や考え、生きてきた経験や人生観が、料理に
なって出てくるのです。私の場合はテクニックがフランス料理です
学や会社でいろんな経験をしたことが、
こういうレストランをやって
ので、
目をつぶっていてもフランス料理になってしまうのですが、表
いくには意外と真っすぐな道で、
ひょっとしたら近道だったかなと思
現方法としては私の料理なのです。私しか作れないのです。そうい
っています。
う料理を作らないことには、
海外のお客さんに来てもらえないし、評
高校時代は数学が得意だったのですが、
理工系的な思考は料理に
価が得られません。
も生きているのではないでしょうか。建築家が図面を描いて家を建
てるのと同じで、料理も事細かく組み立てをしたうえで感覚を磨い
ていかないと、
いいものは作れません。もし時間の余裕があるのなら、
三つ星レストランとして高い評価を得ているが、これからの計画
や希望は?
大学で神経系や消化器系の勉強をして、
昔からの料理人の経験知で
はなく、口の開け方と料理の形や大きさ、適正な温度は何度かとい
うようなところまで食感を追究したいですね。
海外からのお客様をお呼びするための準備を、
少しずつ始めてい
ます。このレストランの上の階を借りて、
海外からの予約にも対応で
きるシステムを作ろうと準備しているところです。
フランス料理のコピーではなく自由に
今まで飲食業は飲食業でしかなかったのですが、私は地球全体を
米田さんは専門学校で1年間学んでから大阪と神戸のフランス料
対象とする観光産業にしていきたい。日本は交通の便もいいし、治
理店で3年半修業し、フランスに渡った。ロワール地方の著名なレ
安もいいし、
どこへ行っても英語表記があり、
観光産業の条件がそろ
ストランで3年3ヵ月。そこで経験した日仏の料理文化の違いは?
っています。地方の飲食店が海外から人を呼ぶことができれば、外
国のお金が日本に入るし、
地方都市も活性化します。例えば、
京都に
料理のベースとなる感覚を学び空気を知るには、
やはり現地で生
活する必要があります。大阪と神戸で修業したお店は相当厳しく、
指
来た人はうちに寄ってほしい。そうなれば東京ばかりではなく、
地方
ももっと元気になるのではないでしょうか。
紋一つでもついていると何かが飛んでくるようなところでした。シ
ェフが黙々と調理されている後ろで、
何がほしいのかを素早く判断し、
さっと材料を用意しなければならず、
違うものを出したらぽーんと捨
てられました。肝心なところは盗んで覚えるという、
日本の料理人の
文化がまだあった時代でした。
ですから、
フランスへ行くと言葉は不自由でしたが、
シェフが何を
求めているか、すぐに分かりました。
「これを食べろ」と持ってきて、
全部教えてくれたのです。最後には、
「お前にすべて教えるが、
これ
はフランス料理のルールなんだ。違うことをしなさい」と言われまし
た。
「ゴッホの絵を見て同じ絵を描いたら、それはコピーだろう。描
き方は教えるが、自分が描きたいものを描きなさい。どうして日本
インタビュー
10
近大
KINDAI SPIRITS
スピリッツ
技
独術
自力
の に
も社
運
のを
づ懸
くけ
て
り
完
遂
11
インタビュー
ナミテイ株式会社代表取締役
1965年 理工学部 機械工学科 卒業
MURAO Masatsugu
を
村尾 雅嗣さん
光 ファイ バ ー
海底ケーブルを守れ
水深8000m(800気圧)に耐え
る光ファイバー海底ケーブルを保護
する異形鉄線の開発は、NHKのプ
ロジェクトX「太平洋1万キロ決死の
海底ケーブル」
(2003年2月放送)
で紹介された。東大阪の中小企業が
持つ技術力の高さを世界に示し、国
内シェア100%を誇る。常に新たな
挑戦を続けるナミテイ株式会社の村
尾雅嗣社長に、ものづくりに懸ける
思いを語ってもらった。
独自の製品のために設備も開発
ナミテイ株式会社の前身、浪速製釘株式会社は、村尾さんの父親
が1945年に創業した伸線工場が1947年に改組されて誕生した。
社名通りの“クギ屋さん”だったのは最初の7年間だけで、やがてナ
ットなどの鉄製部品、鉄線や異形線の製造を手掛けるようになった。
日本の社会も工業技術も希望にあふれていた昭和30年代後半、村
尾さんはどのような学生時代を過ごしたのだろうか―。
私の学生時代、
父親の会社が何とかしてJIS(日本工業規格)表示
許可工場の認定を取ろうと頑張っていました。それに対応できる社
員がいなかったものですから、
私が専念する形になりました。大学4
年生だった1964年にJISを取得し、
さらにそれを管理する者が必
要だったので、
学生の身で入社しました。
村尾雅嗣(むらお まさつぐ)
当時は輸出貢献企業に税制面の優遇があり、四角の異形ナットや
1942年、大阪府東大阪市生まれ。65年近畿大学理工
学部機械工学科卒業。浪速製釘株式会社に入社し、84年
ツイストバーという四角のねじった線を量産するのに奮闘しました。
に代表取締役に就任。85年第3太平洋光ファイバーケー
直流発電機を動かすと高コストになるので、交流で製造機械を制御
ブル異形線の製造に着手。91年ナミテイ株式会社に社名
変更。2007年、経済産業省「元気なモノ作り中小企業
する方法を求めて、
近畿大学の先生や電気屋さんと相談しながら設
300社」に選定される。東大阪商工会議所主催「第9回東
大阪モノづくり大賞」金賞受賞。08年(社)中小企業研究セ
備を開発していきました。独自の製品を作るには、
よそと同じことを
ンター主催「第41回グッドカンパニー大賞」特別賞受賞。
やっていてはだめです。必要な工程や設備を頭の中に浮かべて、図
面を描きながらつくっていくのです。苦労はしましたが、出来上がっ
ト式ノズルの開発に取り組み、
ノズルの角度や材質などの実験を繰
た機械は優秀で、
トップシェアを取れるようになりました。それから
り返した末に新しい洗浄機を完成。これは後に、
水切り、
乾燥、
塗布を
異形線の世界に入っていったのです。
含む高速洗浄装置として、
主力製品の一つになりました。
また、海底で水が浸入した場合、2km以内で浸水を止めるという
異形線技術で世界的大事業に参画
東大阪の小さな企業と光海底ケーブルとの出会いは、まさに運命
的だった。高速・大容量の情報伝達を可能にする通信ケーブルの核
となる光ファイバーを保護する重大な役割が、異形線「鉄3分割個片」
に与えられた。そこには、
この誌面では語り尽くすことのできない数々
問題を解決しなければなりませんでした。これは漆を使った蒔絵の
梨地(なしじ)の表面のざらつきがヒントになりました。微細な突起
をつけることで、
水の流れが止まったのです。
最終的に、
アルミが腐食して発生する水素ガスが光ケーブルに悪
影響を及ぼすことが分かり、
鉄の異形線に決まりました。
のドラマがあった。
他ではできない技術に特化せよ!
鉄冷え不況といわれていた1984年の夏、東京の鉄鋼商社から、
2001年までに日本が敷設した地球約4周分の15万kmの海底
細い鉄パイプを縦に3分割した扇形の異形線を作れないかという電
ケーブルは、すべてナミテイの異形線が使用された。しかし、ITバブ
話が入りました。
「図面に描けるものであれば、何でもできます」と
ルの崩壊とともにケーブル事業が凍結。売上高は半減。再び新たな
答えたのですが、
3日後に送られてきた図面に驚きました。外径6mm、
挑戦が始まった。
内径3mm、誤差が1000分の5mmという通常の20倍の精度。し
かも納期が2週間後。何度も金型を作り替え、
最後の3日間は徹夜で
自動車の世界に入り込めたのですから、ある意味ではラッキーで
仕上げました。それは86年から開始予定の「第3太平洋海底ケーブ
あったと考えています。鉄不足のなか、海底ケーブル用の材料を自
ル」の保護線に使用するための試作品だったのです。
その後、55kmの異形線を試作するにあたり、溶接した部分の
強度が落ちないような特殊鋼の開発を新日鉄にお願いしました。
研究所総動員で材料開発に注力いただいたのはありがたかった
ですね。
動車関連の製品に向けることができました。衝撃をやわらげるシー
トベルト用の特殊巻き取り軸作りに工夫を凝らし、大手自動車メーカ
ーに採用され、
大きなシェアを占めるようになりました。
これからは、
安価な量産品で勝負しても、
中国をはじめとする東南
アジア諸国に負けてしまいます。日本しかできない、
ナミテイしかで
きないという技術に特化していかないと、
生き残れません。
当時、アルミでも試作が続けられていて、鉄が採用される保証は
なかったという。にもかかわらず、2年間で3億円を投資して製造ラ
理工学部の先輩として、後輩にひと言お願いします。
インを一新した。参画しているのは大企業ばかり。町工場から立ち
上がってきた中小企業の誇りと社運を、自らの技術への信頼、そし
大学で学んだことが、社会人になってすぐに役立つとはかぎりま
て国境を越える大事業というロマンに懸けたのだった。だが、前途
せん。しかし、技術の勉強をしていたら、技術的な感性、技術的な感
には試練や難題が待ち構えていた。
じる力が身についてくるものです。自分たちだけでは開発できない
ところ、大学や研究所の協力が必要な部分も分かってきます。いつ
製造工程で付着する油などを洗浄するために、人手と時間、膨大
なコストがかかっていました。そこで、高速洗浄を可能にするジェッ
でも相談にいけるように、多くの人と信頼関係を築くこと、そして感
じる力を磨くことが大事だと思います。
インタビュー
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