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インタビュー4/原広司さんに聞く– 日本の文化は

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インタビュー4/原広司さんに聞く– 日本の文化は
村に住み着いている。
﹁やっと、本当の自分を見つけた﹂と
親身になって老人の介護をし、村の伝統や文化を真摯
に学ぼうとするテッチャンの姿に、かたくなな村の人た
ちも次第に心を開き、ユウコさんが村にやってきたころ
には、テッチャンは部族政府から土木事業のアドバイス
を頼まれるまでになっていた。
ひとたび受け入れれば、おせっかいオバサンの本領を
発揮する村の女性たちは、ちょっと引っ込み思案のユウ
コさんを引っ張り出そうと、あの手この手で声をかけて
くれる。
﹁私、ここでやっと、本当の自分を見つけたような気
がするんですよ﹂
ユウコさんの日焼けした顔がほころんだ。
掛かりな彫刻を手
んは、最近では大
する心、自然を畏敬し、自然と共存しようとする心、戦
だろう。物質的な幸せよりも、精神的な幸せを選ぼうと
二人がこの村に住み続けるのは、そこにかつて日本に
もあった地域社会の互助精神と﹁祈り﹂の心があるから
互助精神と﹁祈り﹂の心
がける女性アーテ
いよりも平和を望む心⋮⋮。
最初は見よう見真似でインディアン・クラフトをつく
っていたユウコさ
ィストのアシスタ
ま た、〝 ユ ウ コ の
どもたちは、伝統文化よりもラップ・ミュージックやマ
保留地の暮らしは、いいことづくめではない。産業が
ない村は貧しく、環境破壊は進み、ホピ語を知らない子
ン ト を し て い る。
チ ャ ー ハ ン 〟は 村
クドナルドが大好きだ。
﹁祈り﹂の心
それでも、テッチャンとユウコさんは、
をなんとか子どもたちに伝えようとする村人たちと一緒
の人たちから、パ
たびにリクエスト
に、村で〝晴耕雨読〟の生活を続ける。伊那谷からホピの
ーティやお祭りの
がくるほど人気が
村へ。地球市民がここにもまた、一人いる。
その︽谷の文化︾をもう少し具体的に。
――
原
﹁谷﹂と いうのは、谷の向こう側と対峙が
いだろうか。
化の根底、基底に触れることができるんじゃな
のイメージなんです。それによって、日本の文
好きなんですね。札幌ドームも、基本的には谷
京都駅も、谷を持ち込むことで、日本の文化
を象徴できるのではないか。基本的に僕は谷が
史文化ではないかと考えています。
か、集落論から言えば、谷を中心に育まれた歴
我々は伊那谷で育ったが、僕としては伊那谷
に限らず、日本の文化は︽谷の文化︾ではない
したね。
くてはいけないのではないか、この辺が焦点で
高い。
広司さんに聞く
■
﹃稲穂﹄
インタビュー④/原
日本の文化は
︽谷の文化︾
伊那谷で育った︽谷力︾を、
建築のベースとして⋮⋮
日本の文化を象徴する京都の玄関
原 さ ん は、 い ろ い ろ な 建 物 の 設 計 に 取 り 組
――
んできましたが、まず話題になったJR京都駅
ビルについて⋮⋮。
原
京都駅ビルは、非常に厳しい環境の中で設
計した建物なので、いろいろな思い出がありま
す。政治的な課題になっていて、この間、市長
選、府知事選も三回ほどあり、賛否両論、いろ
んな意見が出されました。
最大のテーマでした。京都らしい建物を!
と
いう意見がかなりあった。京都らしい、あるい
は日本全体の文化と知性を表現できる建築でな
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アメリカ南西部はロックアート(岩絵)の宝庫。ユタ州で
京都駅ビルの場合、日本の文化を象徴する京
都の玄関として、どういうものがよいのか、が
『稲穂』インタビュー④/原 広司さんに聞く
原 広司さん
みたいなものではなくて、対比するもの、他者
一方から見下ろすという山の建築やピラミッド
てきたように、お互いに見易い形なんですね。
するか、そんな思いで設計しました。
その場に登場してくる。そのことをいかに演出
事にするというのではなくて、お客さん自体が
主役は観客席で、一緒に行われている人との
出会いの進行係みたいなものですね。観客を大
できる。実際、谷は昔から劇場としても使われ
がよく見えるもの⋮⋮。
原
僕は、平らな所へ建物を建てるよりも、斜
面に建てる方がむしろやりやすいんです。建築
では、飯田美術博物館に関しては⋮⋮。
――
人を見る装置として、人がどういう風に登場し
というのは、地形の延長ではないかと考えてい
建築において一番重要なことは、人をどのよ
うにしてその場所に登場させるか、ということ。
てくるかがポイントだと考えています。あらゆ
飯田高松高校︵現・飯田高校︶の時に、よく
皆が土手に並んで、南アルプスの山々を見なが
ます。
実際、京都駅ビルでは、皆さんが階段に坐っ
たりして、いろいろな場所からお互いに人や人
ら昼飯を食べたよね。それを反映したのが飯田
る建築は劇場のようなものです。
の流れを見ている、そんな光景が目に付きます。
美術博物館なんです。
札幌ドームも人気スポットになっています
――
よね。
化によって変わる様を人々が認識する。西欧の
変化を、人々に感じ取ってもらえたら⋮⋮と考
建築は一期一会ととらえて
原
人 を 見 る と い う 点 で、 札 幌 ド ー ム は ま さ
に そ れ で す ね。 野 球 や サ ッ カ ー、 あ る い は 各
不動の建築に対して、絶えず変化して表情が変
建物は十二単のようなもの。刻々と自然や太
陽の光が移り変わる状態を増幅する。そうした
種イベントを見ると同時に、観客同士がお互い
わっていく建築ですね。
その瞬間しかない、二度と同じ表情はつくらな
く、一期一会のような感じ。ある建物の表情は
で、四万二千人の観客が全部、同時に見えます。
っちゅう変わっています。
の表情は常に変わり、同時にインテリアもしょ
で す か ら、 僕 の 理 想 は そ の 都 度 変 わ っ て い
えています。自然が絶え間なく変化し、その変
によく見合うことができる。シングルスロープ
い、というのが理想なんです。この考えは、実
京都駅ビルの場合は、
﹁古都との調和﹂と
――
いうことですが⋮⋮。
はギリシャの思想の中にもありました。︿万物
界を映す時に、あるいは移り変わっていく状態
飯田美博の建物も、山の格好をしたりしてい
るわけですが、それは絶えざる変化、周りの世
しないといけないが、融和することは本質的に
和に向かっています。都市はもう一回、再整理
ラス、鉄などの建築と、日本の木造建築との融
は流転する﹀というイデアですね。
を取り込んだ時に、その世界を通して現実の世
難しいですね。
原 日本の伝統は木造住宅ですが、その集合体
である都市の歴史も、近年はコンクリートやガ
界を見るというものなんです。
山の恰好はわかるんですが、ここにも﹁谷
――
の構造﹂が織り込まれているんですか。
互いに混在して、その中に矛盾や対立があって
それでいいのだろうか?
僕は、全部西欧的に
整備しちゃうんではなしに、東洋的な発想に西
西欧的建築、インターナショナルスタイルに
なると、確かに街並みとしては整備されるが、
原 皆さんには、何度も行っていただくことを
期待します。行くたびに新しい発見がある。最
もいい、我々の世界はそんなに調和したもので
東洋的発想に西欧的技術の導入
上階をクローズにせず、その下に、まさに谷の
はなく、さまざまな喰い違いがあってもいいと
では、札幌ドームの構造や機能面は⋮⋮。
――
原 日本でワールドカップを開催する時に、札
ないじゃないですか。
思っています。あまり整備し過ぎると、面白く
欧的な技術を導入していき、異なったものがお
ような空間が広がる。
下に、人々 が集まってきて、それ を共有する。
それ自体が﹁谷の構造﹂ですね。ですから、表
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僕の建物は必ずそうしたパターンを持ってい
て、光は必ず上の方から入ってくる。その光の
『稲穂』インタビュー④/原 広司さんに聞く
帯であるという、世界でも珍しい立地の都市な
が、札幌というのは寒冷地であり、かつ多雪地
イミングよくプロ野球の日本ハム・ファイター
た。サッカーを中心に考えていたところへ、タ
みると、本当に必要だったことが立証されまし
札幌ドームがつくられたわけですが、つくって
んですね。普通なら開閉する屋根にするのだが、
ズが札幌に本拠地を移しました。
幌にもドームをつくるという話になったのです
凍るのでそれができない。サッカー場は天然芝
試合の時だけ建物の中に入れるという仕組みが
いといけない。そこから、普段は日向に出して、
れているとダメ、一日四∼五時間は陽に当てな
ディックのワールドカップが行われ、ドームの
大いに盛り上がりました。また、今冬にはノル
かも野球では昨年、日本ハムが日本一になって
四万二千人が一堂に会し、お互いを眺めなが
ら応援する風景は、ほかでは見られません。し
をフィールドに使うので、ずっと建物の中に入
考えられたんです。
ムがほしいという考えを持っていた。ほかの地
それならば別に建てたら、という考えもある
が、北海道としては以前から大きな多目的ドー
く機能しています。
うまくいかないものですが、札幌ドームはうま
となりました。多目的に使う建物は、たいてい
外と内をコースに使うという画期的な世界大会
域とはまったく異なる気象環境の中で野球もサ
の宿願でした。それが、ワールドカップ開催を契
が集まれるところをつくりたいというのが長年
ると炬燵を出し、
夏には簾といった建物ですね。
僕は﹁変化﹂ということを一つの大きな理念
としてつくってきました。室内の建築、冬にな
ッカーも、また展覧会や音楽会をもやれ、大勢
機に、
そうした建物をつくることになったんです。
それによって公共性も高くなっていると思いま
そうした切り替え、配置換えもスムーズに行え
工芝の野球場は変形だから大変です。しかし、
自動的に動かせる。サッカー場は四角だが、人
サッカーの時にはサッカー場を中に入れ、展
覧会の時には座席を整理する。座席は八千席を
﹁建物の中に都市を入れる﹂という発想
それはコンペ形式の提案だったのですか。
――
原
そうです。そのコンペで、私の提案が通り、
るシステムになっています。
す。街をつくるのに、谷という仕組みを入れる
高い建物がいっぱいありますが、いずれも上は
原
上に行くと、大阪が庭になっている、とい
う意味です。二つの連結高層ビルで、世界には
大阪のスカイビルは、空中庭園ということ
――
ですが⋮⋮。
チャンスでしたね。
原
1971年に集落調査を始め、十年間ほど
やりました。調査した国は四十∼五十か国に及
一方で、原さんは世界各国で集落調査をさ
――
れていますが⋮⋮。
世界四十∼五十か国で集落調査
と考えています。
のは、非常につくりやすくなり、集落的になる
行き止まりになっている。スカイビルは二本建
びます。 年代は大きな動乱があり、東大の安
もうこんな建物は今後できないでしょう。非
常にタイミングが良く、またとないラッキーな
てで、その間を結んで移動できるようにしまし
た。そして一番上に広場をつくり、そこから大
をもう一回見直す必要がある、古典的な建築を
田講堂騒動もありました。そうした中で、建築
建物であり、遊ぶ場所でありたい。大阪のビル
は働くオフィスであり、遊ぶところにもなって
います。札幌ドームも、遊びに行く公園として
ったのです。今まで、大きな調査は五回、二年
に一回ぐらいやってきました。
いまでも世界の風景が頭の中で展開していま
すが、印象に残っているのは概して砂漠など過
酷な環境の中に設けられた集落の姿です。日本
﹁ 建 物 の 中 に 都 市 を 入 れ る ﹂ と い う こ と は、
僕が若い頃から提唱してきたことでしたが、京
も材料も何にもない場所ですが、そこに設けら
んが、砂漠では建物がないと死に直結する。水
なら建物の外でも過ごせないわけではありませ
都駅ビルでは、まさに駅の中に街を入れました。
設計してあります。
見直す、それが集落調査を始める切っ掛けとな
阪中を見渡せる仕組みにしたものです。
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公共性を持った建物の場合は、オフィスビル
とは違って、人々が自由に行ける公園のような
『稲穂』インタビュー④/原 広司さんに聞く
アフリカや中東、なかでも西アフリカのサバ
ンナ地帯ですね。イランや中国の砂漠地帯もそ
また伝統芸能も、素晴らしいものを持っていま
ていない面があると思う。
音楽も美術も短歌も、
れた集落は美しくて合理的です。
うですが、何もない、砂だけが舞うようなとこ
す。現在は経済最優先の流れの中ではあります
飯田・伊那についていえば、人形劇などすご
いことをやっているが、それが充分に宣伝され
ろに、素晴らしい文化が残されています。宗教
が、 地 域 的 な 文 化、 空 間、 内 面 の 充 実 を 図 り、
飯田・伊那 の文化も、﹁いつか必ず来るであ
ろう人のためにつくっておく﹂という理念が必
だ﹂という感じを強く持ちました。
﹁これは五百
僕 は、 ア フ リ カ な ど を 訪 れ、
年、一千年後に訪れる人のためにつくったもの
それを外部へ発信してほしい。
的にはイスラム文化でしょうが⋮⋮。
ヨーロッパの集落というのは、よく調査もさ
れて、わかっている。一方、中南米のインディ
オがつくってきたところ、特にグアテマラに山
村があり、これが新しい意味を持っている集落
ンピュータみたいな、あるいは携帯電話を持っ
要ではないでしょうか。これは、僕が建築を志
ではないかと思われます。非常に今日的な、コ
ているような﹁離散型集落﹂にも驚かされまし
している若い人に説いている心構えでもあるの
ですが⋮⋮。
た。
いつか必ず来るであろう人のために
﹁谷﹂で
僕は、作家 の大江健三郎さんと は、
意気投合しました。大江さんも四国の小さな谷
晴らしい小説の原点になっている気がします。
最後になりますが、飯田に関しては⋮⋮。
――
原
僕は小学校二年の時に、空襲を避けて川崎
から当時の市田村に来ました。父が喬木、母が
僕も、伊那谷という環境の中で育てられ、︽谷力︾
間で育ったのですが、
︽谷力︾が彼の雄大で素
市 田 の 出 身 で し た。 そ れ で、 大 久 保 小、 東 中、
を建築のベースにしてきましたので⋮⋮。
二本の白線に稲穂の校章
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飯田高松高校と、振り返っても懐かしい、いい
:
︿インタビュー 金田明夫︵高7回︶﹀
四番まで入った校歌と校舎の全景。昭和 27(1952)
年頃
思い出がいっぱいですね。
吉川友章さん︵高6回︶
のアルバムから
校舎正門玄関の雪景色
写真でみる飯田中学・飯田高校のあの頃④
写真でみる飯田中学・飯田高校のあの頃④
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