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「書き手」の成功と作家 : シュティフターの『水晶』に
ついて
尾方, 一郎
一橋論叢, 123(3): 431-445
2000-03-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10540
Right
Hitotsubashi University Repository
(19)「書き手」の成功と作家
﹁書き手﹂の成功と作家
尾 方
の字をよく知っていて、彼が書いたものだということは、
とは限らないのだから。いや、少女はひよつとすると彼
る。彼のポケットに入っていた原稿は、彼が書いたもの
語でそれを言い始めたとしたら、それは彼女の速断であ
﹁シュテイフターさんは:・﹂︵。O宵ω巨饒雪⋮.、︶という主
手﹂に対してであろう。彼女がもし伝えられるように
原稿に書かれたものを読んだ少女が感沁したのは﹁書き
そこからシュティフターの作家人生が始まったという、
︵2︶
嘘のように出来過ぎのエビソードがあるが、そこでその
つたのだろう︶、それを引き出して読んで賞賛し、結局
し、なぜそんなものをポケツトに突っ込んで人の家に行
トに入っていた書きかけの原稿を見たある少女が︵しか
たとえぱ、一八四〇年の春、シュティフターのポケッ
ーシュティフターの﹃水晶﹄について1
﹁書き手﹂ということぱは、案外誤解されているとい
うことが分かってきた。きっかけは﹁語り手﹂の方のこ
とで、あるとき﹁源氏物語の語り手は⋮﹂という話をし
ていたら、そ.れが紫式部のことと受け取られてしまった
ことにある。し・かしこれは﹁⋮とぞ、言い伝へたるとな
む﹂というように言い伝えられた世界に彼女本人が居た
わけはないから、勿論単純な錯覚である。だがその後見
ていると、ある作品の﹁書き手﹂と作家とは結構混同し
て把握されているようなので、ここではなるべくすっき
︵ 1 ︺
りとした説明を考えてみたい。
例としてはシュティフターの﹃水晶﹄を取り上げるつ
もりだが、まずこの﹁シュティフター﹂と言われている
存在について見てみる。
伽
郎
橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (20)
字を見れぱ即座に判断できたのかもしれない。それでも
そのお話を、普通我々がくXXがこの小説を書いたvと
言う意味で彼が書いたとは限らない。我々はそう言う時
には、作家という人種なりその卵という範酵があるとし
てそれに属する人が、何かを丸写しにしたのではなくオ
リジナルなものとして創作した、ということを合意させ
ている。だが彼女が見たシュティフターの原稿はどうだ
ろうか。それは彼の字で書いてあったかもしれない。だ
がそれが右のような意味で彼がく書いたVものであった
保証がいったいどこにあるというのだろう。
もっともそのエピソードによれば、彼はその原稿をそ
の場で朗読することになり、それを聞いていた少女の母、
ミンク男爵夫人が雑誌に紹介し、その短篇﹁コンドル﹂
が好評を得た、そしてシュティフターに詩人としての道
が開けたとのことである。このことをもうて︿シュティ
フターはやはりその原稿の書き手であった﹀とする言い
ュティフターは、そこでその︿原稿﹀を読んだのであり、
方もあるかもしれない。しかし別の見方からすれば、シ
その原稿が雑誌に紹介され、その原稿が好評を得たので
ある。
ここでその好評を得た原稿には現実のシュティフター
が強く結び付いているかもしれない。しかし実際には、
まず﹁書き手﹂というものを想定するのが、妥当なやり
方だと筆者は考える。そこで実在の作家︵あるいはなり
かけの︶アーダルベルト・シュテイフ㌻ーという人物を
結びつけることは、いわば探偵の仕事のような面を合み、
その﹁書き手﹂の書いたものについてものを言うという
事とは別種の手続き、別種の動機等々を必要とするもの
ではないだろうか。
この書き手というのは、歴史的世界と作品世界の丁度
界面に居る。ある固有の言語で書かれているとか、ある
出版社から刊行されている︵ある写本の形で残ってい
る︶という点では歴史世界に面を向けているが、作品内
世界を統率しその強固な隈界を成しているという点では、
作品内世界に面を向けている。
しかしやはりこの﹁書き手﹂は、作品外世界、端的に
言えば我々読者にいろいろな骸響を及ぼすものである。
そしてその影響が最も大なのは、その﹁書き手﹂の書い
たものを前にして、自らの︵人間的というか何生言う
か︶小ささを思い知らされるときである。
432
(21)「書き手」の成功と作家
誰かある書き手が何か素晴らしい書き方をしている時、
︿こんなことは私には書けないVと思うことがある。そ
れは内容的に書けないということもあるが、そもそも自
分が自分という人格にそういうふうに書くことをどうし
て
も
︵
身
体
的
抵
抗
で
も
あ
る
よ
う
に
︶
許
せ
な
い
場
合
も
︵あ
3る
︶。
この抵抗と言うのは内から鍵のかかったようなもので
体の何らかの意.味での全体的変容がなければ、それが開、
く事はない。
しかしこれを逆に考えて見ると、書き手と言うのは、
現実の作家にとうては、ある装置になりうるのではない
だろうか。つまり︵自分のことから他人の事を憶測して
はいけないかもしれないが︶作家と呼ぱれる人々にも、
こうした内側−からの掛け金が掛かっているかもしれない
が、書き手という装置、あるいはもう少しはづきりいえ
ぱ人格を表に出す事によって、そうした掛け金から切り
離さ九た身体を作り出す事もできるのではないかという
ことである。
例えぱ時代としては理想主義なんて﹁ちゃんちゃらお
かしい﹂という状況の中に住んでいて、自分の体の中に
︵4︶
も、理想を唱えるなんていうことに対しては、強固な掛
け金が掛かっているとする。だが、その一方で、もう一
つ已むに已まれぬ気持ちとして、理想を追求したい惰熱
が心の中で赫々と燃えていたらどうであろうか。
もちろん、そうした理想を作中の語り手に語らせるこ
ともできる。例えぱ所謂プラトンの著作では、中でソク
ラテスという語り手がいろいろと理想主義的な事を述べ
ているが、これはプラトンがどんな下らない状況の中で
かし、ここで書き手プラトンに眼を転じてみるとどうだ
生きていても、語らせることのできる台詞であろう。し
ろう。︵プラトン学者には白明のことかもしれないが、
筆者はそれが専門ではなく、また論の都合からわざと何
も調べずに続けるとすると︶、書き手プラトンは、ただ
単に師匠ソクラテスという人物の言行録を残したくて、
忠実にそれをまるでテープ起こしのように︵もちろんい
ろんな記憶という装置を媒介してはいるが︶書き留めた
のか、あるいはまったくこのソクラテスというのが握造.
された人格で、書き手プラトンの言いたい事を代弁して
いるだけなのか、そんなことは、テキストだけを眺めて
いても分かりはせず、他のいろんな史料やテキストをひ
き比べてようやく推測ができるようなものである。
433
平成12年(2000年)3月号 (22)
しかしいずれにせよこのプラトンという﹁書き手﹂に
ついては、少なくとも比較的単純なレベルでは、多分イ
デアアリスムスというか何というかそうしたものを何と
﹁著作﹂だけを読む読者にも分かるような事である。
か伝えたかったんだな、ということは、ただプラトンの
これに対して訳が分かりにくいのは、所謂近代小説の
﹁書き手﹂である。これがもし猫の駿け方や着物のシ、、、
いるので広く世問に知らしめ、ひいては多少なりとも自
の抜き方といった文章なら、自分が有益な情報を持って
分もその対価を得たいと思っているんだなというような
推測︵憶測?︶はできる﹁
恩議の形が変わっただ け で あ る 。
故抵抗を解除しないといけないのか分からなければ、不
を創るためではないかという推測だが、それにしても何
られる一つの解は、先の身体的抵抗から解除された身体
てもシンプルで根本的な疑問である。そしてそこで考え
に、なんでこんなものが書きたいのだろう? これはと
けれぱその﹁書き手﹂に世俗的メリットもなさそうなの
苦精励して︵いるらしく︶書いて、しかも余程の事がな
しかしそうではなく作り事︵らしい︶事をわざわざ刻
第123巻第3号
橋論叢
この疑問を解くための接近法は大きく分けて二つある
だろう。一つはそのテキストを読んで自分がどう感じた
か、から考えて、その﹁書き手﹂の内面を付度するとい
うやり方である。もう一つは、シュティフターという著
者の︿作晶﹀だとして、そのシュティフターという人に
ついて徹底的に調べてみるという方法である。もしその
タヴユーをしてみてもいいだろう。勿論すぐ素直に話し
著者がまだ生きている人ならば、押し掛けて行ってイン
てはくれない・かもしれない。そうしたら何度も通って酒
で言わせてしまう事も、場合によっては出来るかもしれ
場に引きずり込んで、ついには思つている事を腹の底ま
ない。
だがこの二つの方法には決定的な相違がある。前者は
いわば作品内の世界から攻めて行うて、現実界への界面
に出ようとする時、その時界面に張り付いている﹁書き
手﹂を内側から眺める事で何とかしようとするもので、
現実界には決して一歩も踏みだす事はない。一方後者は、
どこまで行っても現実界の中だけを歩く事になる。たと
えその︿著者﹀なり︿作家﹀なりが、現実的にもどんな
に物凄い︿文学的﹀世界の中に生きているにしても、彼
434
(23)「書き手」の成功と作家
えてもその事自体で界面の中に入ってしまうのだが︶、
うか、印刷されて本に入ったりしているものは、どう考
る文学作品の世界が界面を持っているとすれば、︵とい
にその人物の無意識的部分までを探究したとしても、あ
の人物に心の底まで吐露させたとしても、あるいはさら
つまりは先程の界面の外にすぎない。従って、いくらそ
や彼女が住んでいるのは絶対に作品の中の世界ではなく、
はこのテキストの終りで具体的な言葉を持ってはいない
﹁クリスマスとは⋮﹂という枠があって、︵三︶と︵四︶
白然の描写という枠、︵四︶それを外からさらに包む、
人たちとの関係、の枠の他に、︵三︶それを包む、村と
ある二日と一晩の物語、︵二︶それを包む靴屋一家と村
付け加える必要を感ずるとすれぱ、この物語が︵一︶
あり、それをここで更に繰り返す必要は感じない。
方がない。だがこの辺はすでに論じられている所でも
︵5︶
その外側に留まらざるを得ないのだ。
が、しかし言わば零記号を以って閉じている、即ちこの
て、それまでは何となく村人と馴染めなかった兄妹とそ
過をたどる死と再生の物語であり、またその再生によっ
筆者には、子供たちが雪山に迷って救出されるという経
こんなものを書きたかったかというという事である。い
論これは作品世界中から眺めた書き手である︶が、なぜ
それより筆者が関心を持つのは、この﹁書き手﹂︵勿
︵6︶
触れることになろう。
短篇は四重の入れ子構造になっているように、筆者には
の母︵つまり靴屋の妻︶が本当に村人と馴染めるように
や、こんなものという言い方はおとしめているように響
さていよいよ具体的に﹃水晶﹄の物語に話を移すが、
なうたということは、我々は人問の共同体の中に産み落
くかもしれないが、実は筆者はこの作品に結構、あるい
読めるという事である。そう思える理由は以下で折々に
とされる存在であり、その限りにおいて自已の存在を伶
はかなり、いや相当感心している。しかし、というより
この物語がどういう性質のものかという点については、
るのであって、何らかの原因で齪鯖が起きている場合に
は、だからこそ、何故この作品を﹁書き手﹂が書きたか
ったのかが、よく分からず、探づてみたいのだ。
は、再度其処へ生まれ直さねぱならないのだという事を、
非常に茎邑一gに描いたものだ、という風に見えて仕
435
一橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (24)
そう言っても良いかもしれない、し−かしそう言い切ろ
きるだろうか。
想主義的な作品の書き付けという作業を委ねたと解釈で
き手﹂の身体の分離を行なって、﹁書き手﹂の方に、理
とすれば彼はそうした境遇にあって現実の身体と、﹁書
とを、手近な伝記ででも何ででも知ることが出来る。だ
を語る事が相当に困難な歴史的−個人的境遇にあったこ
は現実世界の人シュティフターが、理想などというもの
せたかったのだろうか? 勿論そう考えても良く、我々
だがそれならこの書き手は、理想主義的な己を現出さ
主観的感想という訳ではあるまい。
るということはある、これは筆者のみならず多くの研究
︵7︶
者が声をともにして下さる事のようなので、全く筆者の
勿論、この作品を読んで、ある種の理想主義にうたれ
の一コマという感じになり、余りにもぼやけてしまうと
点にも多数論がある︶核心の物語が、いかにも自然作用
よる母︵更には父︶の共同体への受げ入れという︵この
それは、こう解釈すると兄妹の死と再生、そしてそれに
しかしこの解釈で全体を読むには一ρ難点があって、
つ自己修復作用の一つの例として読むことができよう。
ると︵一︶の兄妹の物語は、その白然の如き共同体が持
後で閉じていると筆者は解するのである︶。そうだとす
んなり理解できる︵逆に言うと、だから︵三︶の枠は最
共同体の物語が︵三︶の自然の枠に包まれている事はす
うに描かれていて、その点から考えれぱ先程の︵二︶の
合種の永続的−循環的持続をする自然と同様のもののよ
の在り方についての﹁理想﹂ということである。この村
︵8︶
の共同体は、これも多くの論で考証されているとおりあ
まず思いつくのは政治的な意味で、共同体というもの
︵9︶
うとすると、何か筆者の中で抵抗するものがある。その
いう点である。人問の営みのすべては自然の作用だと断
っ掛かりがあるようだ。そして今更ながらにこの﹁理想
抵抗の根を探ってみると、﹁理想主義﹂という言葉に引
を認めながらも、全面的にこの見方を採る事は出来ない。
れないが、筆者には、やはり、こういう要素もあること
定する極端な自然科学者ならこの読みに同意するかもし
事に気付く。いったいこの書き手にとっては、何が﹁理
もう一つは、︵一︶の死と再生の物語を、︵四︶のクリ
主義﹂という言葉に何らまともな規定をしていな・かった
想﹂なのだろう。
436
(25)「書き手」の成功と作家
スマス物語の枠の中に入れて︵これも従って︵四︶が最
より購れやかな、従づて存在の生成としてより望ま
はクリスマスイブから翌朝にかけての物語なのだから
と重ね合わせる事によって1何しろこの︵一︶の物語
れ︶実現させ、さらにはその再生を︿キリストの誕生﹀
の理想形を生まれ直しによりて︵作品申に於いてであ
まれ直し、という局面に力点を置き、人問の存在として
が﹁実際にはそれらはぼんやりとした空色をしている﹂
夏に雪が解けると﹁村人の言い方では黒く天に鉾える﹂
それほど近くない﹂︵−O。べ︶。またその山の二つの頂きは
の屋根のすぐ向こうにあるように見える﹂が﹁実際には
例えば村の南にある雪山については、﹁ほとんど家々
される反転である。
嫌でも目を奪われるのは、この物語の中で執勘に繰り返
そこで今度ぼ物語の細部に着目してみよう。すると、
然の枠が、かなりはうきりと単なる背景に退いてしまう。
しいものにするという考え方である。
︵−ooo。︶。ポた谷問の中程に立って兄ると、﹁この盆地には
後で閉じていると筆者が見る根拠なのだが︶、再生、生
これはさらに推測を重ねれぱ、﹁書き手﹂白身がこの
ざまな道が通っている﹂︵−竃︶。
こうした反転が他にも数多い中でその最も大きなもの
入る道も出る道もないように﹂見えるが、﹁実際はさま
は、共同体の中で、何となく余所者︵∼①冒箒︶のよう
物語をく創作Vすることにより、再生に立ち会う、とい
時に立ち会いによって自ら再生することを期待されてい
に思われていた母︵H竃︶と兄妹︵曽o︶が、真にその村
うことはまた自らも再生するのであり、読み手もまた同
るのだ、とでもいう風に考えを繋げていくこともできる。
ここに筆者が見るのは、語り手の、恐ろしく強い訂正
の人問になうた︵畠o﹁︶という転回である。
欲求である。Aと見えていたものは実はBであった。こ
そしてその再生に立ち会い、体験し、自ら生まれ直した
る種の意味で理想主義的な感動といえようから、読み手
れは子供たちが死と再生を通じて実現した変貌でもある
読み手が味わうものを感動と名付けるならば、それはあ
がそこでこの作品に﹁理想主義﹂を見るのはもっともな
が、それがありとあらゆるレベルで繰り返される事には、
ことだ、とも考えられる。
し−かしこの考え方にも難点があって、︵三︶の村と自
437
平成12年(2000年)3月号 (26)
こういう推測は、あまり文学的ではないかもしれない。
でも︵無意識にでも︶思っているのだろうか。
は白分の人生を生きそこなった、生きそこなってきたと
この書き手は何をそんなに訂正したいのだろうか。実
透けて見える。
ら︶書き手の、執念とも言えるほどの強烈な訂正欲求が
語り手にそう語らせている︵語り手は作中人物であるか
せる。これこそは文学のごく基本的な条件ではないだろ
見せる。見慣れたと思っていた姿を新しい婆に変えて兄
てもちゃんと見えていなかったものを、改めてちゃんと
え方を導入する事が出来る。今まで見ていると恩ってい
らないものかもしれない。しかし、ここにもまた別の考
単に文学的な身体のみである。これは一見して実につま
るほど執勘に、しかも周到に進めさせていく書き手の、
見えていなかった真実を提示するという語りを、あきれ
うか。
しかし本論ではそうした作業は置いて、作品空間の中
あるまい。
問を制約として背負っているからであろう。そこに言語
更新を求める生き物である。それは恐らく我々人間が時
かし一方で人問は、勿論持続を尊ぶ面も持ちながらも、
438
、 、 、 、 、 、 、 、
文学作品の世界が現実界と接する界面にいる﹁書き手﹂
にわざわざ﹁現実﹂の身体を与える事、即ちあえて仮想
的な現実空間を読み手の都合で創る事だからである。も
性質を︵少なくとも一部は︶持っているから、従って時
のはある事柄を固定した記号に変換するシステムという
現実的な存在のシュティフターという人間について歴史
間軸の上では常に新しくなってゆく筈の世界の万物をど
あるいはこういう言い方をしても良い。言語というも
的に認識しようと出来る限りの試みをし、そして読み手
うしても既知の枠組みに押し込めてしまう傾向を持つ。
︵このことは例えばム.ージルの﹃特性のない男﹄でモー
からのみ﹃水晶﹄の書き手を見ていこうと思う。そうす
芸術が芸術として発生する必然がある。固定した枠に押
スブルガーについて散々議論されている所である︶。し
︵10︺
ると、我々の眼前に現われるのは事柄の見掛けを否定し
く構築できるように、すり合わせを進めていくにしくは
間の作家シュティフターの歴史的事実でなるべく無理な
の創る仮想現実空間のシュティフター像を、歴史現実空
しこうした仮想現実空間を創るならば、それは歴史的に
第3号
一橋論叢 第123巻
(27)「沓き手」の成坊と作家
し込めるという機能を本来持づている記号的なものとし
ての言語を用いつつ、何かしらの意味で新しいものを立
らの贈り物が﹁子供たちがありったけの想像力で恩い描
いた事を、はるかに越えている﹂のも、それ故にと言え
、 、 、 、 、
よう。そしてこの物語全体もまたクリスマスの﹁贈り
物﹂︵冨紅︶であり、そうしたものとして教会の鐘の音と
︵H︶
共に終りで閉じているのである。
ち現われさせるものが文学である。だとすれば、この
﹃水晶﹄の書き手の一種不可解な欲求と見えたものも、
こうして﹁書き手﹂からの贈り物とされた物語は読み
して、実際これまで多くの称賛が与えられてきた。だが
実は単純に、純粋に文学的なものと言うことが出来るの
れはあたかも自然がさまざまな循環や波動を繰り返しな
それは、作家シュティフターに向けられることが多い。
手のもとへ屈けられる。それが我々の﹁想像力﹂を﹁越
がらも自已完備した姿であり続ける事に一見矛盾するよ
そして彼について多くの評言が語られ、伝記が書かれ、
ではないだろうか。
うだが、実はこの自然も時間の中に立うている以上、一
研究もされている。それは作品内世界から見た書き手を
そうしたダイナミズムをもった﹁書き手﹂はひたすら、
瞬一瞬新しいものなのである。︵そのことを我々に痛感
より深く理解し、あるいはその身体の在りようを恩い描
えて﹂いれぱ、書き手は、その文学的使命を果した事に
させてくれるのは﹃晩夏﹄なのだが、ここで詳述するこ
く助けにいつかなるだろう。
なる。その成果には称賛が与えられてよいであろう。そ
とはできない︶。するとその自然の枠を包摂する﹁クリ
だがそれでも、歴史的存在としての、﹁作家﹂として
は死と再生によって、本来的な姿に立ち戻うていく。そ
スマス﹂という枠の意義も明らかになっていく。もちろ
のシュティフターが、その称賛を隣接によって、換楡関
見掛けを否定し真なるものを探づていく。そして子供達
んそれは年毎に繰り返すものであるが、それ以上に、そ
係を媒介して、受けているのはやはり事実である。とは
、 、 、 、 、 、 、
、 、 、
のたびに新しいということなのである。クリスマスのプ
いえこれはそのシュティフターをいささかもおとしめ.る
ものではない。彼の最大の功績は、この我々の住む歴史
︵㎎︶
レゼントと、それを期待し発見し﹁きらぴやかにまたた
く光の輝きのなかで見る﹂子供たちの描写がされ、それ
、 、
439
(28〕
第3号 平成12年(2000年)3月号
橋論叢 第123巻
的世界に、この﹁理想主義的﹂な﹁書き手﹂を生まれさ
せ、定着させた事であり、それは歴史的世界にとっては
また 、 何 に も 代 え 難 い 事 で あ る の だ か ら 。
に、>ω一ωω自目O向冨竺一ξ目Oqo目一U目ω閉⑦δO﹃ぐN口﹃6=−⑩㊤①
[アルテミス版]も随時参照し、そのス、勺0=;罫島實によ
る>コ∋雪π⋮oq彗﹄こo君によるzきすξoユも参考にし
た。また︸河の引用・参照については、批評版の頁を、本
の場合、著者の姓と頁数のみで示す。同著者の文献が複数
しては問違っている事が多い、あるいは殆どであるにして
︵1︶ もちろん本論はある極論である。だが、極論は理屈と
注で参考文献を引用する場合には、後の文献表にあるもの
本稿は一九九九年十月十六︷十七日に徳島大学で開催さ
れた日本独文学会秋季大会、十一月五日東京外国語大学に
ある場含、刊行年を付す。それ以外は通常通り記載する。
文中では括弧に入れて示し、注では頁数のみで示す。また
於ける国際シンポジウム﹁﹃言語﹄の二一世紀を問う﹂、十
一月十三目一橋犬学で多和田葉子氏を招いて行なわれた国
れは一人の人間の思考の中においてもそうである。したが
も、現実的には極論がないと議論が進まない事も多い。そ
こ.との結果杳かれたものである。ここでそれぞれの準傭に
際交流セミナー﹁境界を耕ナ﹂に筆者が聴き手として参加
し、さらにそれぞれの後の懇親会等で.の議論に触発された
携わうたり、発表・討論に加わったり、その後の席で話を
前に︶これと大きく矛盾する事を奮いていたとしてもそれ
って筆者は今回ある極論を書いてみた。次に︵あるいは以
頂きたい。なお語り手については、−﹃冒8ぎ﹃の実に周到
はまた別の極論なのだということで、徴笑をもって御寛恕
聞かせて下さったり議論して下さうたりした方々に心から
謝意を表する。
九八四の卓越した論があるのだが、現在の筆者にはこれに
な論、また欲望と関わらせて特に﹃晩夏﹄について石光一
なお以下では次の略号を使用する一>ω“>旨一σoユω薫−
<﹄1Hく−①﹃訂−寸す﹃窒oサユ津αΦω>ω−三ωごゴ﹄冨ωα①ω−o目o①㎝
る。それについては東原伸明﹁源氏物語研究の新しいテー
まな批評があるようであり、この問題の複雑さを推測させ
し同杳一八六頁の︿補記﹀によれぱ、三谷の論にもさまざ
明の源氏物語論を中心とした緒論に著しく啓発された。但
方法1﹄︹有精堂一九八九︺の第一部に収められた三谷邦
る。なお﹁薔き手﹂については、筆者は主に﹃物語文学の
何か室言う準備も能力も無いので、今回はコメントを避け
8二望1−ω暮苛二ω斥⋮雰﹃藺q汗ユ9凹三ωω11巾昌訂ω置罵一
た。
Oσ彗α9o胃9〇三なお紙数の都合で文献は選択的に引用し
シュティフターの作品のテキストとしては、>ω一
峯O﹃幕昌﹂卑嚢ρ;ω片.・斥﹃芦OO墨昌訂島岬=Oq.く.>1UO君・
一實巨、ミ。∼目=ミo頁ωε一一窪﹃二彗o。弍、[批評版]を使用
し、特に。ω斥..については、︸pN一N﹄昌箒ω置篶・巾巨91
︷塞豊目oqo戸=o目.く.声零﹃oq篶﹃Loo.Nを主に使用すると共
440
(29)「書き手」の成功と作家
通る峠遺の鞍部である﹁くぴ﹂の﹁遭難柱﹂が死の象徴で
筆者の考え方とは一致せず、一方ωまζは、子供たちが
これを書いた動機、という形で分析を進めている部分は、
になる。
マ集50L︹﹁国文学﹂︵学燈社︶−8o■卓ω﹂窒⊥お︺が参考
なお本論は昨年本誌三月号、九月号に掲載したトーマ
リスト様﹂だど恩った事が奇蹟を経験したという確信の現
ある事を指摘し︵蜆︶、ズザンナが見た極光らしき光を﹁キ
われだとするが︵=︶、こうした象徴分析の方がむしろ筆
ス・マンの﹃選ぱれし人﹄に関する論文で未だ論じないま
して考察するという役割も担っているので、興味のある方
まに先送りになっている書き手の問題をまず別の作品を介
ζ目oという言葉がクリスマスの贈り物を意味するという
者の感覚には適合する。︵南独や才−ストリアではO耳ζ−
︵2︶くoq一﹄o&9ω 1 蜆 ω .
はそれらも参照して い た だ け る と 幸 い で あ る 。
ことは、こうしてみると驚くべき事である︶。なおシュテ
ィフターの象徴表現については、石光一九七六参照。
︵3︶ このことについて、筆者の仕事は論文書きであるから、
最も痛切に感じさせられるのはそうした論文を読んだ時で
とも考えられる。冥府行が常にそうであるように胎内回帰
であり、死から再生への過程であり、通過儀礼ではあるの
なお付言すれぱ、この山での枕復は一種の冥府行である
だが、ただしこの冥府行は第一に上方に向かってひたすら
ある。従って本来はその例を示すようなものを挙げたい所
︵?︶としての筆者には、それこそ何故とは言い難いが抵
なされるものである事、第二に、予め語り手によって傭敵
であるが、論を論の対象として名指す事は、文学研究者
は、実はそうしたものが合まれている可能性が大なので、
のである︵昌㌣一︶事によって、普通のものとは犬きく異
的に描かれた道程︵冨o。或・︶を吹雪の中盲目的にたどるも
抗がある。但し、此処に参考文献として挙げてあるものに
それとなく了解され、筆者の此処の論旨を確認したいとい
冥府行は元来、近代的意味では自我が完金に失われた状態
なっている︵栃僅の内実については、川東、九八頁参照︶。
う奇特なご意志をお持ちの読者には一読をお願いするもの
である。
に訪れる世界は当然人智の及ぶべくもないところであるの
で、なお人々が在るのを訪ねる適行きであり、またその際
︵4︶ ﹁ち中んち中らおかしい﹂という事については次を参
照。加藤典洋﹁逆行の弁−﹃敗戦後論﹄前史﹂、︹﹁本﹂
で、やはり正確には﹃水晶﹄のそれは冥府行ではない。子
いのだ。其処は純粋な死の世界である。この点については
供達が訪れるのはそれなりに賑やかな死者達の世界ではな
︵5︶ この点については峯巨↓畠が非常に詳細に分析して
︵講談社︶8雪.o。一ω.㌣↓︺
いるので、殆ど付け加える必要を認めない。ただω・Mぎ
望=﹂oが..け=〇一す轟讐o↓;而凹σω〇三↓①目o↓三コoqコ塞ωoコ
[ミ身昌α卑5實8彗σ巨一︸言二目巽巨畠σq∼需凹=
;鶉①9oヨ彗房↑ooqg訂﹃−]以下で、シュティフターが
ψ1
(30〕
一橋論叢 第I23巻 第3号 平成12年(2000年)3月号
;①ヨo冒訂︸、︵ω畠︶と言っていて、それが家庭秩序か
カ99目四ま﹃らコ忌H彗寄與9二団ヨo∼コo91;﹃o①−
忌﹃↓鶉8o;目p彗申註冒ω一g名﹃彗巨一皇巳o名g①竃
ωo﹃助oす︷貧−プ冨宛g↓巨目胴、︵−oo−︶と述べているが、 これは
らの離脱ばかりではなく、そもそも..ヨ彗①彗匝ω混8
分で生まれ直すしかないということを意味しているのだと
恐らく、死と再生の過程で生まれ直すのは自分で、かつ白
巨さ昌峯ぎ8冒09豪∼OO昌8具ωOσ一ま曇&耳けぎ
山﹄の﹁雪﹂の節 と の 対 比 を 試 み て い る 。
筆者には読める。なお前田、一九〇頁以下はこの点を技法
竃o峯..︵−一︺己.︶なのだと言い、トーマス・マンの﹃魔の
山の自然、特に植物も何もなくなって岩と氷ぱかりにな
った世界は、普通の意味での生命は存在しない、純粋な死
谷口、一九頁以下で詳細に論じられている。椿、四五頁で
︵6︶ この枠の問題、特にクリスマスの枠の意味については、
の観点を中心に扱っている。
の︿身体﹀とくなきがらVを分かつ一点、そこに何者かを
の世界と言って良い。だがその純粋な死とは何か? 人問
解釈とは異なっている。ω︸巨昇ω.ω震で。ξ討goら目−
思﹃くo昌巾宰oq昌昌鼻−冨Uoユoq①耳窒oまξoa彗︸σ雪−
も物語の最後におけるこの枠の意味が論じられるが筆者の
から子供達はまた生の世界に生まれ直してくる。これは出
け轟oq巾コ9昌嘗﹄︸B①雪−忌﹃ま血ミo旨目g葦ω昌壱↓①・
ものと言って良いであろうか、しかしこの完全な死の世界
産の際に産適をくぐるのと同様の極めて困難なことであり、
﹃旨昌ωま&o二冨H與一・、と言われるのは、やや不明瞭なが
宿らせている本当に徴妙な生命というものの有無に関わる
この子供たちに充分な自己に対する確信がなけれぱ不可能
ら、筆者と同様のことを言おうとしていると思われる。
の=ω討[Ho宥向﹃N肚す−巨目胴]−g9目︸由op﹃箏=﹃①目匝一﹄目o唖目−
︵7︶ 本来枚挙に連がないのだが、例えぱ丙暑o員ω.ミo。
な事と思われる。︵﹁子供﹂であることの意味については川
として、一つの人格として生まれ直しの旅をするのであり、
東、九七頁を参照︶。その点・から考えればこの兄妹は一体
れた通りミ巨片昌が、共同体の理想をこの作品の結末に
︵8︶ これも非常に例が多いが、一つだけ挙げれぱ、既に触
名;o∼畠一、などという評語を挙げておく。
は恩える。︵なおこの言葉は多くの文献で十七国言われる
己確認のためのもの以外の何ものでもないように、筆者に
妹が繰り返す有名な。旨一ヌo胃註、という言葉は、全く自
と書かれている。一部の文献では数え方が違うようだが、
広がったものと見られている。そして同二五頁では共同体
では妻と子供たちの状況もその父の問題から同心円として
態度にヒュブリスを見て取っていて、例えぱ谷口、十一頁
︵9︶ まず父について言えぱ、多くの論者が事件の前の父の
見ている。
筆者の勘定でも、十七回で良いと思われる︶。その点につ
いては谷口、三三頁にも記述があり、後の注でまとめて触
れる。六旨肩iω.畠o−ではこの兄妹の会話がもはや
。g巴轟、でないと妥当に指摘したのち、三﹄p六〇弓ぎ.奉
442
(31)「書き手」の成功と作家
R・ムシル﹃特性のない男﹄︵1︶︹東京都立大学﹁人文学
させるものとしては、例えぱ次の緒論を参照。円子修平一
報﹂−竃L竃Nω、旨⊥8︺、堀囲真紀子一比楡とモラル
との対比においてそのヒュブリスは罪に値するものと考え
われ、その為に大人も救われるという結果に終わる物語と
︹北海適大学言語文化部紀要ωωL竃o。ω﹂雪−岩巴、同一
ー口iベルト・ムージルの﹃特性のない男﹄について
られている。そして三九頁では、﹁クリスマスに子供が救
の罪を子が願うという要素を持っている事に異論はない.が、
書 そのー︹同塞二⑩竃ω・ごー8︺。
醒めた胱惚1﹃特性のない男﹄の感情心理学に関する覚
いえよう﹂とまとめられている。この作品が、こうした父
という事になる。しかし母や二人の子供は全く受動的な一y
ただこの理解からすると、世界は全く父を印心に動くのみ
贈り物として置かれうる﹂と述べられる。そして三八頁で
評を引用し、﹁絶対の信頼を基盤としてそこにこそ恩寵は
︵11︶ 谷口、三三頁では先に︵5︶でも触れた穴ξo雪の
でありうる筈である。それはいかになされているのか。筆
場だけに留まるのだろうか。恐らくそれぞれに世界の坤心
者は、母親がクリスマスの前日の朝、かなり慎重ながら子
を読み手に対する贈り物と見る点には筆者も同意するが、
は﹁こうした地味な作品を世に贈った﹂と書かれる。これ
筆者がそれを純粋に文学的な贈り物として見てしまうのは、
供達に祖母の家の訪問を薦めている事、そして子供達が現
も、そのたびに深みに⋮ではなく高みにはまっていく事、
に帰り道に。寅宍o具邑..という言葉で自己確認しながら
この二点が結構恐ろしい意味を持つと考える。この点につ
の産物だというところであろう。ではその想像力の主体は
︵12︶ 文学が己を歴史から分かつのは、一にも二にも想像力
筆者の性質によるものであろうと自分で思う。
閉9雪︵冨㎝︶が二ーチェの﹁コペルニクス以来人間は斜
手﹂は既に想像力の産物であり、そして産物である世界を
何か? 筆者はそれこそ﹁書き手﹂なのだと思う。﹁語り
いては︵佐原、十六頁でも指摘されている通り︶マ∋一
両の上に置かれているように思われる1今となってはま
語る。界面の外にいる﹁作家﹂に対しては、ある関係−
すます早く転がって巾心点から離れていくようだ−どこ
へ?無の中へ?﹂という﹃道徳の系譜﹄の一節を引用し
取り手になウたり栄誉を受けたり、場合によっては告訴さ
換楡関係を通じてその想像力を讃嘆でき、本の印税の受け
れたり投獄されたりする事がなされうるし、現になされて
ていることも非常にうなずけるのだが、し・かしそこから最
きた。しかしそれは文学の側から見れぱあくまでも換楡的
後にこの融和に持っていく書き手の督カは何に由来するの
物語﹂︹﹁波﹂︵新潮 社 ︶ − 竃 O , O ω 。 き ︷ . ︺ を 参 照 。
う含意は、それを作られたものとして見たいという点にあ
関係なのであって、文学作品︵敢えて作品という言葉を使
だろうか? こうした問題に関しては小林恭二﹁父という
︵10︶ 勿論実際にはモースブルガーの件だけでなく、非常に
多くの問題がそこに繋がっているようである。それを推測
443
(32)
平成12年(2000年)3月号
第123巻第3号
一橋論叢
るが︶に於ける﹁想像力﹂の帰せられる先は﹁替き手﹂で
しかない。読者にとってはそれで充分であるーというよ
物語の消滅と復元をめぐる物語1︹大阪大学言語文化部
・石光泰夫一アーダルベルト・シュティフター﹃晩夏﹄
・角洵一﹃水晶﹄ークリスマスの贈り物1︹﹁甲南大学紀
﹁言語文化研究﹂×岩O。戸ω﹂曽−昌巴 一
文学論孜L−O。−彗9ω。雪−①O。︺
りはそれは真実である。換楡関係からさらにイコールで作
では︿正しい﹀ことであり真である事かもしれない。しか
要文学編﹂8δO.9ω﹂−−OO︺
家を縞び付けてしまう事は、歴史的・現実的・政治的世界
し純粋に文学である文学を読む読者にとっては、実は﹁沓
ターの﹁水晶﹂について1︹秋閏大学教育学部研究紀要
人文科学・社会科学ωo。;o.o。一ω。竃−;o︺
・川東雅樹一退屈、リアリズム、そして幻想−シ立ティフ
・小松原千里一﹃水晶﹄について︹神戸大学﹁ドイツ文学論
き手﹂のみが屠るのであり、そこには﹁作家﹂は換楡関係
をあるコンテキストで捉えている人々にとっては認められ
は文学として以外には存在しないという見方であり、文学
・佐原雅通∵ソユティフターの﹃水晶﹄について︹中大大学
集﹂冨−竃Pω﹂雪−ミー︺
でのみ存在するだけの事の方が真なのである。これは文学
で文学を文学としてのみ捉えている人にとっては、逆にそ
ない、あるいは許しがたい事かもしれない。だがこの見方
・須永恒雄一シュティフター覚書︵二︶−﹃水晶﹄繕読
院﹁ω;2①﹂−二竃一ω﹂−竃︺
文学論集﹂=−睾牟ω■甲亀︺
一谷口泰 ﹁水晶﹂−贈られた言葉 ︹﹁上智大学ドイツ
ω﹂ミ⊥竃︺
−登張正實先生古稀記念論文集 ﹄︵第三書房︶轟o。一
法の間題を中心に−︹﹃ドイツ文学における古典と現代
一前田彰一.シュティフターの﹃水晶﹄について 小説技
M一ω1窒−ご︺
・古井由吉■佐伯一麦一受難と純心︹﹁波﹂︵新潮社︶−竃o,
て︹大阪市立大学﹁人文研究﹂ωO。−二〇〇。ρω、ω蜆−亀︺
・楮鐵夫一﹃水晶﹄における﹁遭難柱﹂のモティーフについ
1︹﹁明治大学教養論集﹂昌O.50.Pω■彗−邊︺
うしたコンテキストの中におかない事、想像カの産物であ
のである。
る事のみを認める事が、むしろ倫理的で絶対的に決定的な
︽参考文献︾
︵一︶ 邦文文献
︵A︶ 単行書
・小名木榮三郎 自然と対話する魂の軌跡 アーダルベル
ト・シュティフター論1 ︹慶確義塾大学法学研究会発
行、慶藤通信発売、一九九四︺
・石光泰夫一﹁アプディアス﹂論−初期シュティフターに
︵B︶ 論文
於ける象徴表現の一考察1︹阪神ドイツ文学会﹁ドイツ
444
(33)r書き手」の成功と作家
︵二︶ 欧文文献
〇q彗害匝昌;男..﹂﹃6.ミ︵屋轟︶向﹄忘一ω.竃⊥Oド
>ω冨①﹃﹁巨皇oq2o∼胃oコo宗窒彗ヨ匡置o巨⋮一
ωo目一目一①﹃、■−目H−ooo﹃⑦=o申岬=↓o=ωq①﹃カo=①.=胴一くoコ巾.
1−α=一まぎま三=9弓一争U冨己oユ竃血>ω;忌﹃z彗ゴー
︵E︶ 論文︵他の作品︶
−自一︵︸カ心一 ︵−OべM︶’ω.M蜆㊤1旧OOO.
−考す−↓o目’﹄oすコHω︸−H−σoH㎝ o↓ ωoo−與− カ①目冊峯︸] −目 ω↓ω ω斥.
ヨ塞⋮彗冨=ωo;需、﹂三ζ−o冒︵お3︶一ω.竃ω−ωωM−
−ω言⊆9カoヨ固目ω∴↓す①↓﹃o匝↓O叶Oす印O眈.ω↓ω;−汗、印目O↓庁O■
︵−OOOω︶ 目.M一ω■−1−↓.
0q;O穴窃ぎ一巴目望㎝−斥1−自一ζO註昌>島三彗=けく.竃
−ω−目汗與一 ⋮與﹃oq写 ζln o目凹oo価﹃o−與けoq ω︸目一σo−h 一﹁す〇 一]自1
o⋮.竃︵島寒︶ω1豊o−N⑦o。.
1ωoサ奏與﹃N’向oqo目HN仁﹃ ωけ二︷ω片−斥 くo目 ω叶ω =匝片..■−目Hzoo■
○冨邑g︵冨置︶一ω.s〒ωω蜆−
畠o罧ω員冒σ〇一寿三望r一︸斥..﹂﹃ζo冨誌訂津①︵峯一竃■
−ω︸昌己一﹄品9里争婁一〇昌︸2oま毒畠g昌ーぎ[≦9す■
ω一−oゴー一口’=①−oo−σ①﹃oq−⑩①oo’oo.−↓−−−oooo.
ω︸閉一−コH>ω.ω一=O−O目目自O−目一而﹃O﹃①け︸片︷O自O目.主口q■くO目−.
−六冨潟﹃㌔g而﹁=叶胃黒仁﹃⋮α﹁彗oq①ミo=①.N胃−o片旨記
︵D︶ 論文︵悪﹃α日ζゑ四=︶ .
墨︵δ蟹︶一ω.;㌣畠ω1
ー窯o夢∼&呈o7目oω︸∋げo==コo.Hタ霧、﹂目﹄≦ω1
︵A︶ 単行沓︵金般︶
−r巨ζ仰峯o罵①q彗①q一之oき一一卑弄−三工彗ω雪ωωoN一凹一−
oqoωoす−oす↓①α①﹃oけ−写.くo目− 一①.−す.σ⋮閉No﹃︹⋮而oqoコ冬與Hけ
︸o. 蜆’ N奏−ωoフo自 カ①ω一與仁H軸一−o目 巨目α 内①くo−叶−o目 −oo−蜆−
冨亀一竃旨昌=彗\ミ一彗;oo。. ’
1ζ饅﹃↓−目一 ︸﹃︷一NH −︺け −ピーけ −H︸ 匝旨﹃oq①﹃=o㌻o目 カ①o=ω﹃コ=ω.
−OO︷O01−O牡O〇一ω‘>目O=ω艸OO↓−O↓虹■
−彗oo.
−ζ凹﹃叶−目一 司H︷↓NH︼Uけ −−一①﹃国一自﹃岬①ωoす−oす↓o’−一.>巨饒.’ω一〇q一
−コ巨∋肩一Ω雪ぎa一カo昌彗.−三=彗竃易ωoN邑−
oq而伽oプ︷oプ片①口①﹃o↓■﹁︷けくo﹃ロ ー①■﹄す.σ−眈N自﹃Ωωoqo目ξ四﹃戸
︸ρ.①一 巾箏﹃oqo﹃=oブo﹃ カ蜆凹ゴω﹃目巨ω 仁目α ︹︸H箏目q①﹃N血︸一 −ooトoo−
−OOOO’く旨目O了①目\峯︸①自−OO①1
︵B︶ 単行書︵シュティフター︶
目目oσq①oq①目ω叶岬目o=oσo−︺凹﹃眈↓⑦=目目oq1ζ巳目oプ①目−oべ⑦.
1−﹃目一ωoゴ①﹃. =叫目㎝ −︺−o叶﹃︷o巨H >ω. ∼く−﹃斥=o斥o−叶眈①︹叶︸サ﹃仁目oq
1]4叫仁﹃口画目目1[コω=一與u>ω1ω片oq↓−o↓o■
ーカo①具;σ彗二ω1邑二〇;ω旨竃管家彗昌α里一臣o斥巨−
昌昌片竃しト>;.一家一まo鼻σ9匡o昌σ膏σq−竈心.
︵C︶ 論文︵巾自葦 ① 2 9 冨 ︶
ヨζ目oqαo﹃ωざ=仁目oq−昌omω凹昌↓婁o﹃斥一ぎ一く﹂1昌︵−⑩一N︶
1巾すo斥名①目p=9①q印.>ωω一一団ω、’くo冨巨oす①N一﹄﹃︸①ω巨∋−
﹃ωミω﹂冨−=ド
︵一橋大学助教授︶
憲﹃≡コOq一窯ミζ轟戸ω.冨㌣竃O−
ー]﹁晒目oq①. −︷o﹃σ①﹃一 =−oす Hコ=b↓o 竃耐−目 二〇﹃N 0﹃−而︸oプ↓o﹃目、■
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