...

第1章

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Description

Transcript

第1章
運動器疾患に関する
第1章 理学療法ケーススタディ
第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法
◆ 症例 1 ◆
交通事故により左上腕骨大結節骨折と左肩関節腱板断裂を受傷した
競輪選手の一症例
公道で競輪競技の練習をおこなっている際に、後方から車両に接触された交通事故により、左上
腕骨大結節骨折、左肩関節腱板断裂、第 12 胸椎圧迫骨折を受傷した競輪選手の理学療法を経験した。
本症例は安静時や運動時の肩関節や肩甲骨にアラインメント不良が認められ、それらが肩関節痛の
要因となっていた。
術後 8 週から競技復帰までの経過に考察を加えて報告する。なお、本稿をまとめるにあたり、本
症例には承諾を得た。
1.症例紹介
症例は、34 歳の男性(競輪選手)で、平成 X 年 9 月 5 日に公道で競輪競技の練習をおこなっている際に、
後方から自動車に接触され、身体が車道に飛ばされ、身体の左側から着地し、左上腕骨大結節骨折、
左肩関節腱板断裂、第 12 胸椎圧迫骨折を受傷した。他院にて、第 12 胸椎圧迫骨折に対してはジュエッ
トブレースでの保存療法が施行された。左上腕骨大結節骨折、左肩関節腱板断裂に対しては、肩関
節の拘縮の改善を目的に術前の関節可動域練習をおこなった後、平成 X 年 11 月に左上腕骨大結節骨
折骨切除と腱板縫合術が施行された。術後 1 日より他院にて理学療法が開始され、その後当院を外
来受診し、術後 8 週より外来にて理学療法を開始した。主訴は「左の肩が重たくなる、動かすと痛い」
で、ニードとしては「競輪の競技復帰」を設定した。
2.初期評価
初期評価において、安静時では左肩甲帯挙上、翼状肩甲、上腕骨骨頭の前方変位が著明であった。
また左肩関節の屈曲動作では、屈曲 80° 付近から上腕骨骨頭の外旋方向の動きが減少し、それに伴
い肩甲帯の挙上が出現した。屈曲角度が大きくなるにつれ、体幹が伸展し、肩関節屈曲時の上腕骨
骨頭の外旋方向の動きがさらに減少していた。また、肩関節屈曲時に大胸筋、僧帽筋上部線維、三
角筋、上腕二頭筋の筋緊張が亢進を触診にて確認できた。関節可動域は、左肩関節屈曲 140°、外転
2
◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
表 1 理学療法初期・中間評価
ROM 検査 左肩関節
MMT
左肩関節
屈曲
外転
屈曲
外転
内旋
外旋
左肩甲骨
外転と上方回旋
下制と内転
体幹
屈曲
初期
中間
140°
155°
155°
4
4
4
4
4
4
5
4
4
4
4
4
4
5
筋緊張検査 安静時 亢進
大胸筋,僧帽筋上部線維,三角筋,上腕二頭筋
動作時 亢進
大胸筋,僧帽筋上部線維,三角筋,上腕二頭筋
体幹屈曲は 5 レベルであったが,触診にて左腹筋群の活動が右腹筋群より弱
いことが確認できた.
図 1 問題点の要約
155° で、屈曲・外転時ともに屈曲 80° 付近から最終域にかけて肩関節前方に疼痛を認めた。徒手筋
力検査では肩関節屈曲、外転、内旋、外旋、肩甲骨外転と上方回旋、肩甲骨下制と内転はそれぞれ
4 レベルであった(表 1)。
3.初期評価時の問題点
本症例の初期評価時における問題点は、広背筋と大円筋の短縮に加え、肩関節の回旋筋腱板の筋
力低下により、肩関節屈曲時に代償として大胸筋、三角筋、上腕二頭筋の筋緊張が亢進し、肩甲帯
の挙上や上腕骨骨頭の前方変位が出現することと考えられた。また安静時にも大胸筋、三角筋の筋
緊張が亢進していることが確認できた。つぎに、前鋸筋の筋力低下により翼状肩甲を認めた。これ
らの安静時と動作時のアラインメント不良により、肩関節屈曲時の上腕骨骨頭の外旋方向の動きが
減少し、肩関節前方での疼痛の発生と関節可動域制限が出現すると考えた(図 1)。
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆
3
図 2 前鋸筋の筋力強化練習
背臥位にて開始肢位を肩関節屈曲 90° 位,肘関節伸展位,前腕回内回外中間位とし,
この状態から上肢を上方に突き上げるようにし自重にて肩甲骨の外転運動をおこなった.
4.理学療法
理学療法は、左肩関節の関節可動域の改善と、左肩関節の屈曲時の疼痛改善を目的に週 4 ∼ 5 回の
頻度で 1 回につき約 40 分間おこなった。
まず、安静時の肩甲骨アラインメントを修正するため、大胸筋、僧帽筋上部線維の筋緊張亢進に
対してダイレクトストレッチングをおこなった。
つぎに広背筋・大円筋に対し肩関節屈曲 80° 付近からダイレクトストレッチングをおこない、徐々
に屈曲角度を拡げていきながら、肩関節屈曲の関節可動域練習をおこなった。
左肩関節の関節可動域が改善した後に、背臥位にて開始肢位を肩関節屈曲 90° 位、肘関節伸展位、
前腕回内回外中間位とし、この状態から上肢を上方に突き上げるようにして肩甲骨を外転させ、自
重にて前鋸筋の筋力強化練習をおこなった(図 2)。
つぎに、端座位にて開始肢位を肩関節屈曲伸展中間位、肘関節屈曲位とし、手関節を掌屈させて
手指で肩関節の前面を触れるようにした状態から、上腕の近位部にセラバンドで抵抗をかけた状態で、
1)
肩関節を屈曲方向に動かし、回旋筋腱板の筋力強化練習 をおこなった(図 3)。
最後に、左肩関節に対してアイシングをおこなった。
5.中間評価
当院での理学療法開始 11 日目から、主治医の許可により競輪競技の練習が開始された。競輪競技
練習中の主訴は、「ハンドルを握っていても、左肩関節に力が入らず固定できない」であった。安静
4
◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 3 回旋筋腱板の筋力強化練習
端座位にて開始肢位を肩関節屈曲伸展中間位,肘関節屈曲位とし,手関節を
掌屈させて手指で肩関節の前面に触れるようにした状態から,上腕の近位部
にセラバンドで抵抗をかけた状態で,肩関節の屈曲運動をおこなった.
図 4 中間評価の姿勢観察
ベッド上での両肘支持をとらせ,ハンドルを握る様子を再現させたところ,
体幹の左側屈と,左肩甲帯の下制が出現し,また著明な翼状肩甲を呈していた.
時での左肩甲帯の挙上、翼状肩甲、上腕骨骨頭の前方変位が初期評価時より改善していたが、肩関
節屈曲時に大胸筋、僧帽筋上部線維、三角筋、上腕二頭筋長頭の筋緊張が高くなるのが触診にて確
認できた。そのため、左肩関節の屈曲動作では、屈曲 100° 付近から上腕骨骨頭の外旋方向の動きが
減少し、それに伴い肩甲帯の挙上が出現しているのを認めた。主訴に関連する姿勢としてベッド上
での両肘支持をとらせ、ハンドルを握る様子を再現させたところ、体幹の左側屈と、左肩甲帯の下
制が出現し、また著明な翼状肩甲を呈していた(図 4)。体幹や肩甲骨のアラインメント不良が認め
られる状態で競輪競技の練習や、スピードを上げるために強くハンドルを引き寄せようとするときに、
上腕二頭筋長頭に疼痛が出現していた。
関節可動域は、左肩関節屈曲 155° で、屈曲の最終域付近で肩関節前方に疼痛を認めた。徒手筋力
検査では肩関節屈曲、外転、内旋、外旋、肩甲骨外転と上方回旋、肩甲骨下制と内転はそれぞれ 4
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆
5
図 5 中間評価の問題点の要約
レベルで大きな変化はなかった。また体幹屈曲は 5 レベルであったが、触診にて左腹筋群の活動が右
腹筋群より弱いことが確認できた(表 1)。
6.中間評価の問題点
本症例の中間評価時における問題点として、初期評価時の問題点に加え、腹筋群の活動低下、僧
帽筋下部線維の筋力低下が挙げられた。また、肩関節と肩甲骨周囲筋の筋力低下が残存しており、
関節可動域には改善は認められるが、ハンドルを握った際の肩甲骨の固定性が低下しているため、
代償として上腕二頭筋長頭に過用が生じ、競輪競技の練習中にハンドルを引き寄せたときの疼痛が
出現する原因となっていると考えた(図 5)。
7.理学療法
理学療法では、初期評価時の理学療法に加え、上腕二頭筋長頭のダイレクトストレッチングと肩
関節回旋筋腱板と肩甲骨周囲筋の筋力強化を重点的におこなった。
筋力強化練習では以下に示すトレーニングを追加し、徐々に負荷を増強しておこなった。
① 腹臥位にて肩関節屈曲位、肘関節伸展位とし、徒手での抵抗による肩甲骨下制・内転運動(図 6)
② 座位にて肩関節軽度屈曲位、肘関節屈曲位とし、肘支持の状態で、肩関節外旋方向に抵抗が加わ
るようにセラバンドを手掌で把持し、肩関節内旋位からの外旋運動(図 7)
③ 座位にて両手でセラバンドを把持し、肩関節屈曲位、肘関節軽度屈曲位、前腕回内位の状態から
肩関節伸展、肘関節屈曲、前腕回外をさせることによる肩甲骨内転運動(図 8)
④ 座位にて 1 kg のダンベルを把持し、上肢を体側に下垂させている状態から、前腕回内回外中間位、
肘関節伸展位のままでの肩関節屈曲・外転運動(各 90° まで)
(図 9)
⑤ 前鋸筋の等尺性収縮練習としての腕立て伏せ肢位の維持(図 10)
⑥ 腹臥位にて、ベッドに胸部が接触しないようにクッションを設置し、肩関節外転 90° 位、肘関節屈
曲 90° 位、前腕回内位からの肩関節の水平外転運動および肩甲骨内転運動(図 11)
⑦ 背臥位にて両股関節内外転および内外旋 0° 位、屈曲 90° 位、両膝関節屈曲 90° とし、両手掌を頭
部の後方で組んだ状態での体幹の屈曲位保持と、この状態での股関節と膝関節の屈曲伸展運動(腹
筋群の強化)
(図 12)
6
◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 6 僧帽筋下部線維の筋力強化練習
腹臥位にて肩関節屈曲位,肘関節伸展位とし,徒手
での抵抗による肩甲骨の下制・内転運動をおこなった.
図 7 肩関節外旋筋群の筋力強化練習
座位にて肩関節軽度屈曲位,肘関節屈曲位とし,肘支持の状態で,肩関節外旋方向に抵抗が加わ
るようにセラバンドを手掌で把持し,肩関節内旋位からの外旋運動をおこなった.
また、②のトレーニングにおいては肩関節の不安定性が軽減するにつれ、座位で肩関節軽度屈曲位、
肘関節屈曲 90° 位、前腕回内回外中間位の状態を維持したままで、肩関節の内外旋を素早くおこな
うトレーニングへと移行させた。
最後に、左肩関節に対してアイシングをおこなった。
8.結果
本症例は、術後約 6 ヶ月で競技復帰に至った。競技復帰時には、安静時での左肩甲帯の挙上、翼
状肩甲、上腕骨骨頭の前方変位が改善していた。左肩関節の屈曲動作では、屈曲 175° 付近から上腕
骨骨頭の外旋方向の動きが減少しているものの、痛みの出現はなかった。また、初期評価時にみら
れた肩関節屈曲時における大胸筋、僧帽筋上部線維、三角筋、上腕二頭筋の筋緊張亢進も改善して
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆
図 8 肩甲骨内転筋群の筋力強化練習
座位にて両手でセラバンドを把持し,肩関節屈曲位,肘関節軽度屈曲位,前腕回内位の状
態から肩関節伸展,肘関節屈曲,前腕回外をさせることで,肩甲骨の内転運動をおこなった.
図 9 肩関節屈曲筋群・外転筋群の筋力強化練習
座位にて 1 kg のダンベルを把持し,上肢を体側に下垂させている状態から,前腕回内
回外中間位,肘関節伸展位のままでの肩関節屈曲・外転運動を各 90° までおこなう.
図 10 前鋸筋の等尺性収縮練習として腕立て伏せ肢位の維持
7
8
◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 11 肩関節の水平外転筋群および肩甲骨内転筋群の筋力強化練習
腹臥位にて,ベッドに胸部が接触しないようにクッションを設置し,肩関節外転 90° 位,肘関節屈曲 90° 位,前腕回内
位からの肩関節の水平外転運動および肩甲骨の内転運動.
図 12 腹筋群の強化
背臥位にて両股関節,膝関節屈曲 90° とし,両手掌を頭部の後方で組んだ状態での体幹の屈曲位保持と,
この状態での股関節と膝関節の屈曲伸展運動.
表 2 理学療法最終評価
最終
ROM 検査
左肩関節
MMT
左肩関節
屈曲
外転
屈曲
外転
内旋
外旋
左肩甲骨
外転と上方回旋
下制と内転
体幹
屈曲
180°
180°
5
5
5
5
5
5
5
筋緊張検査 大胸筋,僧帽筋上部線維,三角筋,上腕二頭筋の筋緊張亢進が改善
いた。関節可動域は、左肩関節屈曲と外転ともに 180° となった。徒手筋力検査では肩関節屈曲、外転、
内旋、外旋、肩甲骨外転と上方回旋、肩甲骨下制と内転はそれぞれ 5 レベルであった。競輪競技中
のハンドルを握った際の左肩関節の痛みや、不安定性は消失した(表 2)。
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆
9
9.考察
2)
これまで競輪選手における外傷の部位別頻度に関する報告 はあるものの、外傷後から競技復帰
に至るまでの症例報告はみられない。また競輪選手におけるペダリング運動の下肢機能に着目した
3)
研究報告 はあるが、上肢の運動機能に着目した報告はない。
競輪競技の運動特性として、体幹前傾姿勢を保持した状態でのペダリング動作が挙げられる。ま
た競技特性として、競技終盤に急激にハンドルを強く引き付けながら、ペダリング動作のスピード
を加速させ、そのスピードを維持しなければならないことが挙げられる。ペダリング動作には下肢
の筋力が必要になり、下肢の筋力を発揮するためには、体幹の固定性が必要になってくる。体幹の
固定性にはハンドルを把持している上肢帯の固定性が重要になってくる。
本症例は、肩関節回旋筋腱板、肩甲帯周囲筋の筋力低下、腹筋群の筋活動の低下を認めた。これ
により、安静時と動作時に肩関節と肩甲帯のアラインメント不良が惹起され、肩関節屈曲時におけ
る肩関節前方での疼痛や競輪競技の練習中における肩甲骨の固定性の低下がみられた。そして、そ
の代償として上腕二頭筋長頭の過用による疼痛が出現したと考えられた。本症例において競輪競技
中の体幹前傾姿勢の保持を安定させるためには、肩関節や肩甲帯の固定性の向上を獲得することが
重要と考え、理学療法では肩関節回旋筋腱板と肩甲帯周囲筋の筋力強化練習を重点的におこなった。
また、腹筋群の筋力強化練習では競技特性を考慮し、股関節と膝関節の運動を伴う方法でおこなっ
た。その結果、安静時と動作時のアラインメント不良が改善し、肩関節屈曲時の肩関節前方での疼
痛の出現や、競輪競技の練習中に上腕二頭筋長頭の過用が認められなくなり、疼痛が改善した。また、
肩関節や肩甲帯の固定性が向上し、ハンドルを把持している上肢帯の固定性が獲得されたことにより、
競輪競技中の体幹前傾姿勢の保持が可能となり、競技復帰に至ったと考えた。
10.まとめ
今回、交通事故により左上腕骨大結節骨折と左肩関節腱板断裂を受傷した競輪選手の理学療法を
経験した。本症例の特徴として、安静時や運動時の肩関節や肩甲骨のアラインメント不良は肩関節
回旋筋腱板や肩甲帯周囲筋の筋力低下から引き起こされており、肩関節屈曲時や自転車のハンドル
を引き付けるときに痛みを出現させる要因となっていた。また、ハンドルを把持している上肢帯の
固定性が低下していることにより、体幹前傾姿勢の保持の固定性も低下していた。理学療法で肩関
節回旋筋腱板と肩甲帯周囲筋の筋力強化をおこなうことで、肩関節や肩甲帯のアラインメント不
良や肩関節の疼痛が改善した。また上肢帯の固定性が向上したことにより体幹前傾姿勢の保持が可
能となり、競技復帰に至った。このことから、競輪競技の競技特性や運動特性を考慮するうえでは、
上肢帯の固定性を獲得することに着目する重要性が示唆された。
文 献
1)
2)
3)
大工谷新一:スポーツ外傷における問題点の予測.関西理学 4: 6–9, 2004.
大石 強・他:競輪選手における外傷部位別頻度について.日本臨床スポーツ医学会誌 14:
20–23, 2006.
岩瀬秀明・他:競技用自転車走行における運動解析.日本臨床バイオメカニクス学会誌 26:
355–362, 2005.
10 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
肩関節のおけがをされ、競技復帰を
目指されている競輪選手の皆さまへのメッセージ
今回の患者さまは交通事故により肩関節の外傷を受傷されましたが、交通事故以外でも競輪選手が
競技中に受傷する外傷部位で最も多いのも肩関節です。競輪では競技復帰や競技能力の向上を目的に
下肢の筋力強化を重点的におこなうことが多いようですが、競技特性を考えると筋力強化は下肢だけ
ではなく、肩関節や肩甲帯周囲についてもおこなうことがハンドルをにぎる際の固定性の向上と体幹
の安定性の向上をもたらし、下肢の筋力発揮がおこないやすくなるなどの効果につながります。この
ため、肩関節の外傷後の競技復帰だけではなく、競輪の競技能力を向上させるためにも、肩関節や肩
甲帯周囲筋の筋力強化をおこなうことが重要であると考えます。今回の症例報告で提示した筋力強化
方法は、肩関節に外傷をお持ちの方だけでなく、競技力を向上させたい方にとっても一人でおこなえる
肩関節周囲の固定性を向上させる筋力強化方法として役立つと思います。
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 11
◆ 症例 2 ◆
運動肢位を考慮した運動療法にて良好な結果が得られた
広範囲腱板断裂の一症例
腱板は棘上筋、棘下筋、小円筋、肩甲下筋の停止部で薄い腱状の組織で上腕骨頭を覆っている。
これらの筋はインナーマッスルと呼ばれており、構造的に不安定である肩関節の安定化に作用している。
腱板断裂は外傷や過用などで腱板が断裂することであり、肩関節可動域制限や疼痛が生じることで
日常生活に支障をきたすといわれている。一般的には断裂した腱板を修復する手術が施行されるが、
年齢や内科的問題などによって手術が適応されないことがある。このような場合、保存療法の一つ
である運動療法が処方されるが、その効果については充分な報告がなされていない。著者らは先行
1)
研究にて運動肢位が肩関節運動機能に与える影響について報告してきた 。日常生活で上肢を使用
する場合、その大部分は座位や立位の運動肢位で運動機能を要求される。そのため座位や立位で上
肢を無理して使用することで代償運動が習慣化され、正常な肩関節の運動機能を獲得するどころか
二次的な問題を生みだし、難渋することがしばしばある。
今回、内科的問題により手術が不適応となった広範囲腱板断裂の患者に対し運動療法が処方され、
動作筋電図を用いて運動肢位を考慮した運動療法を実施し、良好な結果が得られた一症例について
若干の知見が得られたので報告する。なお、今回の本論文の作成に際し、趣旨を症例に充分に説明
し了承を得た。
1.症例紹介
77 歳、男性。職業は農業。
2.現病歴
5 年前に転倒し、左肩を打撲。S 病院にて広範囲腱板断裂と診断され、腱板修復の目的で手術をお
こなう予定であったが、内科的な問題(全身性浮腫)が指摘され、手術をおこなうことができなかった。
90° 程度の挙上は可能であり、生活されていた。2 ヶ月半前から左肩に疼痛を自覚し、日常生活活動
(ADL)に支障が生じた。それに伴い左肩関節の可動域制限が生じてきた。今回、リハビリテーショ
ン目的にて当院を受診した。
3.理学療法評価(図 1、2)
関節可動域:肩関節屈曲右 170°、左 30°、肩関節外転右 170°、左 30°、肩関節伸展右 40°、左 20°、
肩関節外旋右 50°、左 0°、内旋右 T8、左殿部。左肘関節伸展− 20°
徒手筋力テスト:肩関節屈曲左 2 レベル、肩関節外転左 2 レベル、肩関節伸展左 2 レベル
4.肩関節疾患治療成績判定基準
1)疼痛:5/30 点
12 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 1 初期評価時の肩関節屈曲運動
初期評価時において肩関節屈曲 30° であった.肘関節屈曲位で
あり,運動時痛を訴えていた.屈曲動作は緩慢であり,とく
に下降時において強い疼痛を認め,動作が途中で数回停止した.
図 2 肘関節伸展可動域
上腕二頭筋の筋緊張は高く,肘関節伸展は- 20° であり,関
節拘縮を認めた.
2)機能:①総合機能 1/10 点、②日常生活動作群 2/10 点、③関節可動域 8/30 点
3)X 線所見:5/5 点
4)関節安定性:10/15 点
総合点数:31/100 点
5.動作筋電図評価
表面筋電図はマイオシステム1200(MYOSYSTEM1200、ノラクソン社)を用い、パーソナルコンピュー
ターにサンプリング周波数 1000 Hz にて取り込んだ。電極は銀・塩化銀型ディスポーサブル電極(Blue
Sensor M、アンビュー社)を用いた。導出方法は双極導出法とした。筋電図波形の解析はマイオリサー
チ(Myoresearch XP、ノラクソン社)を用いた。なお、周波数帯域は 10–500 Hz とした。
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 13
運動課題は屈曲自動運動とし、疼痛が我慢できる程度で最終可動域までできるだけ自然な速度で
おこなわせた。最終可動域でしばらく保持させたのち最初の下垂位の位置まで戻させた。これを 2
∼ 3 回繰り返しおこなわせた。測定肢位は①安静座位、②側臥位、③腹臥位の 3 通りとした。①の安
静座位では椅子に座らせ、肩幅程度に足部を置かせた。背もたれにはよりかからずに、できるだけ
脊柱を直立位に保持させておこなわせた。開始肢位は上肢下垂位とした。②の側臥位では患側上肢
を上側とした。側臥位の肢位を安定させるために股関節、膝関節軽度屈曲位とした。開始肢位は上
肢を僅かに空間に保持させた状態とした。③の腹臥位では患側の肩関節屈曲運動が可能となるよう
環境設定をおこなった。すなわち患側上肢のみをベッド上に置かないようにベッドの端に腹臥位をと
らせた。開始肢位は肩関節屈曲 0° とし、空間保持させた。いずれの運動肢位においても数回の練習
をおこなわせた後、筋電図測定をおこなった。この際、急激に保持が困難となり、インピンジメン
トが起こりうることを想定し、筋電図測定の際には充分配慮しておこなった。
測定筋は三角筋前部線維、中部線維、後部線維、棘下筋、広背筋、上腕三頭筋とした。導出方法
は双極導出法とし、電極間距離を 2 cm とした。各筋における電極は以下のように貼付した。三角筋
前部線維は上腕の前方および上方で肩峰の下方 2–3 cm、中部線維は上腕の側方および上方で肩峰の
下方 2–3 cm、後部線維は上腕の後方および上方で肩甲棘外側縁の下方 2–3 cm にそれぞれ筋線維に平
行に貼付した。棘下筋は肩甲棘の全長の中央と下角を結んだ線の約 1/2 の部位に筋線維に平行に貼
付した。広背筋は肩甲骨下角の下方 4 cm の部位で水平線から約 25° 外側上方に傾斜させて貼付した。
上腕三頭筋は長頭とし、上腕の正中線より 2 cm 内側で、肩峰と肘頭を結んだ線の約 1/2 かややその
上部に貼付した。接地電極(アース)は第 7 頸椎棘突起に貼付した。電極貼付後、各筋において上肢
肢位を変化させ、筋電図波形を確認した。
6.結果
1)座位における肩関節屈曲時の動作筋電図波形(図 3)
肩関節屈曲角度増加に伴い三角筋の筋活動は漸増するのが確認できた。棘下筋の筋活動は軽度の
増加を認めたが、広背筋の筋活動は認められなかった。動作は緩やかであり、インピンジメントに
よる疼痛が生じ、スムーズな速度でおこなえなかった。一回の動作に 20 秒近く要した。
2)側臥位における肩関節屈曲時の動作筋電図波形(図 4)
動作を通して三角筋は全線維比較的高い筋活動を呈したが、ほぼ一定していた。棘下筋は軽度増
加傾向を認めたが、広背筋の筋活動は認められなかった。動作は緩やかであり、途中何度か疼痛の
ため動作が停止もしくは下降(水平内転)することがあり、急激なインピンジメントによる疼痛を防
ぐために理学療法士が上肢の下方に手を添えながら実施した。
3)腹臥位における肩関節屈曲時の動作筋電図波形(図 5)
開始肢位で三角筋後部線維、上腕三頭筋の筋活動は高く、角度増加に伴い筋活動は漸減した。座
位と側臥位では筋活動を認めなかった広背筋が腹臥位では明らかに筋活動を認めた。動作は緩やか
であったが、インピンジメントによる疼痛はなく、比較的スムーズにおこなうことができた。
14 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 3 座位での肩関節屈曲時の肩関節周囲筋の動作筋電図波形
肩関節屈曲角度増加に伴い三角筋の筋活動は漸増するのが確認できた.棘下筋の筋活動は軽度の増加を認めたが,広
背筋の筋活動は認められなかった.動作は緩やかであり,インピンジメントによる疼痛が生じ,スムーズな速度でお
こなえなかった.1 回の動作に 20 秒近く要した.
図 4 側臥位での肩関節屈曲時の肩関節周囲筋の動作筋電図波形
動作をとおして三角筋は全線維比較的高い筋活動を呈したが,ほぼ一定していた.棘下筋は軽度増加傾向を認めたが,
広背筋の筋活動は認められなかった.動作は緩やかであり,途中何度か疼痛のため動作が停止もしくは下降(水平内転)
することがあり,急激なインピンジメントによる疼痛を防ぐために理学療法士が上肢の下方に手を添えながら実施した.
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 15
図 5 腹臥位での肩関節屈曲時の肩関節周囲筋の動作筋電図波形
開始肢位で三角筋後部線維,上腕三頭筋の筋活動は高く,角度増加に伴い筋活動は漸減した.座位と側臥位では筋活
動を認めなかった広背筋は腹臥位で明らかに筋活動を認めた.動作は緩やかであったが,インピンジメントによる疼
痛はなく,比較的スムーズにおこなうことができた.
7.考察
腱板断裂は肩関節の可動域制限と疼痛が生じることが一般的に知られている。本症例は広範囲腱
板断裂であり、肩関節屈曲の自動可動域は 30° で、疼痛は夜間時痛を訴えており、一般的な問題点
と同様であった。著者らは腱板断裂を呈していても残存している腱板や上腕骨頭を下方に制動でき
る肩関節周囲筋の代償的な筋機能を向上させることで肩関節運動機能の向上、ADL の向上を図るこ
とができると考えている。正常な肩関節では棘上筋によって上腕骨頭を関節窩に引きつけ、三角筋
によって三角筋粗面すなわち上腕骨の中央部を持ち上げ、さらに三角筋粗面より近位部で下方のベ
クトルの作用を持つ筋で上腕骨の近位部を押し下げることで上肢挙上や保持をおこなうことができる。
著者らは先行研究で座位にて肩関節屈曲角度を増加させたとき(0°、30°、60°、90°、120°)の棘上筋、
棘下筋、広背筋の筋活動を筋電図学的に分析した結果、棘上筋は 60° まで筋活動が増加し、90° 以降
は筋活動が低下し、それと比較して棘下筋、広背筋の筋活動は角度増加に伴い漸増することを確認
した。この結果を踏まえて正常な肩関節では屈曲角度 60° 付近での棘上筋と棘下筋、広背筋の活動
交代がスムーズにおこなえることが上肢を挙上させるために必要であると仮説し、運動療法を展開
した。
腱板断裂では棘上筋を主体として腱板が断裂するが、下方に存在している腱板は残存している可
能性が高く、正常肩で観察された活動交代を別の筋の組み合わせで機能させることができれば上肢
挙上や保持能力が改善できると考えている。しかし、ADL での上肢使用のほとんどが座位や立位姿
勢であり、これらの姿勢で重力の影響に抗しながら上肢を運動させなければならない。そのため無
理して上肢を挙上させることが習慣化し、活動交代も生じにくく、肩甲帯挙上など代償運動を伴い
16 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
ADL に支障をきたしていることを経験する。そこで著者らは運動療法の肢位に配慮した運動療法を
1)
推奨している。福島ら は背臥位と座位で肩関節屈曲保持させたときの肩甲帯周囲筋の筋活動の相
違について筋電図学的に比較、検討している。その結果、姿勢を考慮することで肩関節屈曲が同一
角度にもかかわらず、僧帽筋上部線維の筋活動を抑制させ、僧帽筋下部線維、前鋸筋、三角筋を促
通させることができるなど肩関節運動機能を考えたときに良好な影響を及ぼす可能性があることを
示してきた。
これらの研究結果を踏まえて本症例の問題点である肩関節屈曲可動域制限に対し、姿勢を変化さ
せたときの肩関節周囲筋の筋電図測定をおこなった。座位姿勢では肩関節屈曲角度 30° であり、動作
はスムーズでなく、途中停止したり、痛みのため表情をゆがめたりしていた。筋電図学的には三角
筋の筋活動は高く、棘下筋は角度増加に伴い筋活動が軽度増加するのを確認できたが、広背筋に関
しては筋活動を確認することができなかった。側臥位では屈曲角度 90° 程度まで可能であったが、座
位同様に動作はスムーズでなく、途中停止したり、痛みのため表情をゆがめたりしていた。そのた
めドロップアームサインが生じやすく補助が必要であった。筋電図学的には座位姿勢同様に三角筋の
筋活動は高く、棘下筋は角度増加に伴い筋活動が軽度増加するのを確認できたが、広背筋に関して
は筋活動を確認することができなかった。しかし、腹臥位では肩関節屈曲角度が少ないときに広背
筋の筋活動が高く、角度増加に伴い漸減することを確認できた。このことから広背筋は座位姿勢で
の上肢挙上時に上腕骨近位部を下方に制動する機能には関与できないが、肩関節伸展方向への制動
には積極的に関与することが確認できた。
8.運動療法
これらの筋電図結果を踏まえて基本的な運動療法の肢位は腹臥位とした。運動療法の目的は自動
での上肢挙上角度の増加とし、そのために肩関節屈曲動作時に広背筋と棘下筋が上肢の制動に関与
できること、他動的肩関節屈曲可動域の拡大を中心に運動療法を展開した。他動的肩関節屈曲可動
域は 120° であることから腹臥位での肩関節屈曲運動は 0° から 90° の範囲から開始し、この範囲の運
動制御が可能になれば 90° から 120° の範囲での運動に移行することにした(図 6)。筋電図結果から
も屈曲 0° から 90° の範囲では広背筋の筋活動は高かったことからこの範囲の運動遂行は疼痛もなく、
スムーズに自動運動が可能であった。繰り返しおこなうことで徐々にスムーズにできるようになった。
肩関節屈曲 0° から 90° の運動範囲が可能になった段階で屈曲 90° から 120° の範囲も試行した。肩関節
屈曲 100° 位の保持から開始し、徐々に肩関節屈曲角度を増加させた。腹臥位での肩関節屈曲 90° か
ら 120° の運動範囲では三角筋と三角筋粗面より近位部に付着し、かつ下方ベクトルの筋線維を有す
る筋群とのカップリングにより肩甲上腕関節の安定化をもたらすと考えている。よって腹臥位での
この範囲の運動は座位や立位での肩甲上腕関節の安定化と共通すると考える。腹臥位での屈曲 0° か
ら 120° の範囲の運動療法では座位や立位での肩関節屈曲保持の運動機能に貢献できると考え、運動
療法を展開した。さらに腹臥位の運動療法では肩関節屈曲 90° から水平外転方向の運動は困難であっ
たことから自動介助にて水平外転をおこない、主に棘下筋の筋力強化を図った。棘下筋および広背
筋の筋緊張は亢進しており、これが充分に筋力発揮できない要因であると考え、腹臥位での運動を
おこなう前に広背筋と棘下筋のダイレクトストレッチングをおこなった(図 7)。腹臥位での運動とダ
イレクトストレッチングを併用することで広背筋と棘下筋の筋収縮も向上し、腹臥位での肩関節水
平外転運動も容易になった(図 8)。
運動療法開始 2 回目で座位での肩関節屈曲は 90° まで容易にできるようになった。動作時の疼痛も
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 17
a)肩関節屈曲 0°
b)肩関節屈曲 90°
c)肩関節屈曲 120°
図 6 腹臥位での肩関節屈曲
腹臥位での肩関節屈曲運動と保持を示す.a) は肩関節屈曲 0°,b)は肩関節屈曲 90°,c)は肩関節屈曲 120° の保
持である.屈曲 0° から 90° の運動範囲から開始し,可能になったら 90° から 120° の運動範囲に拡大した.
a)広背筋
b)棘下筋
図 7 広背筋と棘下筋のダイレクトストレッチング
a)は広背筋のダイレクトストレッチングである.肩甲骨下角から腋窩後壁にかけて筋線維に垂直方向
に動かしながら広背筋の筋線維を緩めていく.b)は棘下筋のダイレクトストレッチングである.指先
を棘下窩に沿わせて,筋線維に垂直方向に動かしながら棘下筋の筋線維を緩めていく.
軽減し、途中で停止することなくスムーズにできるようになった。そのため初回評価時に困難であっ
た側臥位での肩関節屈曲運動も追加した。初期評価時には運動の誘導とドロップアームに対する軽
度介助を要したが、この時点では動作時の疼痛も軽減し、途中で停止することなくスムーズにでき
るようになっていた。
18 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 8 腹臥位での肩関節水平外転保持
腹臥位にて肩関節屈曲 90° 位にする.その状態から水平外転方向に
運動させ,保持させる.主に棘下筋の筋力強化を図ることが可能で
ある.初期評価時には腹臥位での水平外転方向の運動は困難であった.
a)肩関節屈曲
b)肩関節外転
図 9 運動療法 4 週間後の上肢挙上
肩関節屈曲 140°,外転 140° 自動運動にて可能.
問診によると本症例は肩に自覚症状が出現して間もなく肘関節が伸びなくなったとの訴えがあった。
今回、上腕二頭筋の筋電図測定をおこなっていなかったが、上肢挙上時に棘下筋と広背筋の筋活動
が低下していたことから、本来の上腕骨頭を下制させる筋群が機能しておらず、上腕二頭筋長頭を
過剰に収縮させることで代償的に上腕骨頭を下制させていたと推察される。上腕二頭筋長頭は関節
上結節を起始とし、上腕骨頭を上方から覆って上腕骨の結節間溝を通ることから上腕二頭筋長頭を
過剰収縮させることによって上腕骨頭を下制させる作用があると考えられる。本症例は上腕二頭筋
長頭による上腕骨頭下制の代償機能を多用することで結果として肘関節伸展制限および棘下筋と広
背筋の運動機能低下を招いたと考えることができる。この肘関節周囲筋による代償性を防止するこ
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 19
とも本症例にとっては重要であると考える。そこで運動療法では同様に腹臥位にて肘関節を屈曲位
で保持させリラックスさせた状態から肩関節外旋位、内旋位を保持させる運動を実施した。肘関節
を屈曲位にて安静位で保持させることで上腕二頭筋、上腕三頭筋を使わせない環境にすることができ、
肩関節内旋筋、外旋筋の筋力を強化させることを期待した。これにより肩甲上腕関節安定化のため
に肘関節周囲筋による代償性を防止しながら、広背筋や棘下筋による肩甲上腕関節安定化機能を向
上させることができると考えた。腹臥位での肩関節屈曲運動同様に肩関節外旋位、内旋位を保持さ
せる運動でも疼痛がなく、スムーズに運動することが可能であった。肩関節屈曲および肘関節伸展
制限に対して関節可動域練習も併せて実施した。運動療法は週に 1 回、4 週間実施した。
運動療法を開始してから 4 週間後には肩関節屈曲の他動運動は 140° に達し、肘関節伸展は− 10° に
改善した。肩関節屈曲自動運動においても初期評価 30° から 140° に改善した(図 9)。140° までの運
動範囲では疼痛を訴えることもなく、ドロップアームサインも消失した。そのため途中で運動停止
することもなくなり、スムーズに運動することが可能になった。主訴として「夜間時痛のため寝られ
ない」とあったが、これも改善し、夜間よく眠ることができるようになった。
文 献
1)
福島秀晃・他:肩関節屈曲と外転時の肩甲帯運動の特徴と肩甲帯周囲筋との関連性.総合リハ
37: 649–655, 2009.
20 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
手術が困難となった腱板断裂の患者さまならびにご家族の皆さまへのメッセージ
腱板断裂の治療は一般的に手術が適応されますが、内科疾患がある場合や断裂してからの経過が長
い場合など手術の適応とならないことがあります。そのような場合、保存療法の一つである運動療法
が選択される場合があります。上肢挙上するにあたり腱板は上腕骨頭を求心位にする役割があるため、
腱板断裂を呈することにより上肢を挙上することが困難になり、日常生活や職業に支障をきたしてし
まいます。
腱板断裂に対する運動療法の目的は、肩関節の拘縮をきたさないようにすることが大切です。御自
身でセルフエクササイズをおこなう場合は、両手を組んで健側上肢で誘導しながらゆっくりと挙上す
ることを推奨します。仰臥位でおこなうと容易におこなうことができます(図 10)。また、代償動作も
少なく異常動作になりにくい利点があります。また座位でおこなうと重力に抗することになります(図
11)。よってある程度の患側の筋力強化を図ることが可能でありますが、無理をすると代償動作を伴い
やすいので注意しなければなりません。代償動作には肩甲帯の挙上が含まれます。鏡などを見ながら
図 10 仰臥位での両手を組んだ上肢挙上
図 11 座位での両手を組んだ上肢挙上
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 21
左右の肩の高さに配慮してください。
つぎに上肢挙上の運動機能改善を目的としたセルフエクササイズについて説明します。先述したよ
うに腱板は上腕骨頭を求心位にする役割があることから、腱板断裂によって上肢を挙上することが困難
になります。しかし、腱板には棘上筋、棘下筋、小円筋、肩甲下筋の 4 つがあり、そのすべてが断裂す
ることは少なく、通常上方に位置する棘上筋を中心に断裂し、下方の腱板またはその一部が残存して
いることが多いのです。腱板以外にも上腕骨に停止する筋に広背筋もあり、これらを効率よく使える
ようにすることで上肢の運動機能の改善が期待されます。患側を上側にした側臥位とします。その状
態から肩関節を屈曲させ、さまざまな角度で保持させます(図 12)。座位で肩関節屈曲ができなかった
としても、姿勢を変化させることで屈曲運動や保持ができる可能性があります。もしできない場合は、
さまざまな屈曲角度で上肢をベッド下におろし、その状態から上方に持ち上げます。それも困難であれ
ばご家族様には少し運動を補助していただき自動介助運動でおこなっていただきます(図 13)
。できる
ようになったら介助を減らしていき、御自身の筋力だけでおこなえるまで練習します。さまざまな角度
で空間保持する能力を身につければその運動機能が座位でも発揮できる準備ができたことになります。
今回紹介させていただいた症例は側臥位で困難であった例ですが、腹臥位での肩関節屈曲は可能であ
りました。腹臥位での肩関節屈曲が可能になれば、側臥位、さらに座位へと移行し、日常生活の支障
が軽減いたしました。座位で無理しておこなうよりも姿勢を変えて運動してみてください。
図 12 側臥位での肩関節を屈曲保持(自動運動)
図 13 側臥位での肩関節を屈曲保持(自動介助運動)
22 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
◆ 症例 3 ◆
遠隔部鍼治療により肩関節可動域制限が改善した一症例
—温溜と外関を用いて—
左頸部リンパ節への放射線治療後、左肩関節可動域制限を呈した症例に対し、遠隔部鍼治療をお
こない肩関節の可動域に改善がみられたので報告する。
本症例は、放射線障害によって左胸鎖関節周囲に紅斑および皮膚短縮を生じており、治療開始時の
評価では、この皮膚短縮により鎖骨を介した肩甲骨の上方回旋が制限され左肩関節可動域制限を呈し
たと考えられた。紅斑は左胸鎖関節から僧帽筋上部線維、大胸筋鎖骨部にかけて生じており、左胸鎖
関節周囲の皮膚の伸張性は健側と比較し低下した状態であった。そこで、この皮膚短縮の改善を目的
に集毛鍼を用いた治療をおこなったが、皮膚短縮の改善を得ることはできず肩関節可動域制限は残存
した。そのため再評価を実施し問題点の再考をおこなった。その結果、肩関節屈曲初期に三角筋前部
線維の過剰な活動と棘上筋の活動の低下がみられた。このことより、左胸鎖関節周囲の皮膚短縮によ
り鎖骨を介した肩甲骨の上方回旋が制限されたことで、三角筋前部線維の筋緊張亢進、棘上筋の筋緊
張低下が生じたと考えた。そのため、可動域制限は肩関節屈曲初期において上腕骨頭が前上方変位し
烏口肩峰アーチ下に骨衝突するために生じていると考えられた。このことから、三角筋前部線維の過
剰な活動に対しダイレクトストレッチングおよび棘上筋の活動低下に対し棘上筋トレーニングをおこなっ
た。しかしながら、ダイレクトストレッチングでは刺激を与えると同時に三角筋前部線維の防御収縮
が生じ三角筋前部線維の筋活動を抑制することはできなかった。また、棘上筋トレーニング時におい
ても肩甲帯が屈曲し、三角筋中部線維の筋緊張亢進がみられ左肩関節屈曲初期の上腕骨頭の前上方変
位の増大を減少させることはできなかった。そこで、ダイレクトストレッチングおよび棘上筋トレーニ
1)
ングでは筋活動の改善が困難であると考え、鈴木ら の報告で筋活動の改善に効果があるといわれて
いる遠隔部経穴を用いた鍼治療を選択した。鍼治療をおこなった結果、棘上筋の筋活動が増加し肩関
節屈曲可動域は 75° から 120° と改善した。なお、本稿をまとめるにあたり症例には趣旨を説明し、同
意を得た。
1.症例紹介
症例は 56 歳の男性で、主訴は「左肩を挙げたい」であった。X − 3 年、左肺腺癌術後に左頸部リンパ
節に転移が見つかり M 病院にて放射線治療を開始した。放射線治療は左頸部リンパ節に対し、2 ヶ月
間で計 30 回の照射をおこなった。X − 2 年、左頸部リンパ節への放射線治療後、左胸鎖関節周囲に紅
斑が生じ、徐々に左肩に違和感が出始めた。X 年 2 月、当院受診し左肩関節周囲炎と診断された。初
期評価時、安静座位姿勢は左鎖骨屈曲、肩甲骨屈曲・軽度外転・前傾位を呈し、上腕骨頭は上方変位
し、左肩関節内旋位を呈していた(図 1)
。左肩関節屈曲運動初期に上腕骨頭の前上方変位の増大を認
めた。このとき、肩甲骨の上方回旋は右側と比べ乏しい状態であった(図 2)
。また、触診では左胸鎖
関節周囲から左側の僧帽筋上部線維、大胸筋鎖骨部の皮膚短縮、左三角筋前部線維の筋緊張亢進を認
めた。関節可動域は左肩関節自動屈曲 75°、他動屈曲 90° であった。以上の所見より、左胸鎖関節周囲
の皮膚短縮により鎖骨を介した肩甲骨の上方回旋が制限されたことで、代償として肩甲上腕関節での
屈曲時の主動作筋である三角筋前部線維の筋緊張亢進が生じたのではないかと考えた。そのため、肩
2)
関節屈曲初期での上腕骨頭の前上方変位が増大し肩関節可動域制限が生じたと考えた。Neumann は、
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 23
図 1 安静座位姿勢(初期評価時)
安静座位姿勢では,左側の鎖骨挙上,肩甲骨挙上・軽度外転・前傾位,上腕骨頭は上方変位を呈していた.
図 2 左肩関節屈曲運動(初期評価時)
図 3 左胸鎖関節周囲の皮膚短縮
左肩関節屈曲運動は屈曲初期に上腕骨の前上方変位を認めた.こ
本症例の皮膚短縮は放射線治療後の晩期障
のとき,肩甲骨の上方回旋は右側と比べ乏しい状態であった.触
害として出現したと考えられた.皮膚短縮
診では左三角筋前部線維の筋緊張亢進,棘上筋の筋緊張低下,左
に対して集毛鍼を用いて改善を試みたが,
胸鎖関節周囲から左側の僧帽筋上部線維,大胸筋鎖骨部の皮膚短
効果をみることはできなかった.
縮を認めた.関節可動域は左肩関節自動屈曲75°,
他動90°であった.
肩甲骨が上方回旋すると烏口鎖骨靱帯は伸張され、伸張された靱帯内に生ずる張力によりクランク型
の鎖骨は後方に回旋し、肩甲骨の上方回旋は継続されると報告している。本症例は紅斑が左胸鎖関節
から僧帽筋上部線維、大胸筋鎖骨部にかけて生じており、紅斑の生じた部位である左胸鎖関節周囲の
皮膚の伸張性は健側と比較し低下した状態であった(図 3)
。そのため、放射線治療後に生じた皮膚短
縮により鎖骨の後方回旋が制限され鎖骨を介した肩甲骨の上方回旋が制限されたのではないかと考え
られた。放射線治療後の放射線障害は照射後 6 ヶ月以内に発生するものを急性障害、6 ヶ月後から数年
3)
経過後に発生するものを晩期障害と分類している 。また、晩期障害は皮膚汗腺の機能低下による乾燥、
3)
軽い紅斑に始まり、次第に強い紅斑や色素沈着、落屑へと移行するといわれている 。そのため、本
症例の左胸鎖関節周囲の紅斑および皮膚短縮は放射線治療後の晩期障害として出現したと考えられた。
1)
鈴木ら は皮膚短縮に対し、集毛鍼刺激によって皮膚を伸張し改善を認めたと報告している。そこで、
本症例の皮膚短縮に対しても集毛鍼を用いて改善を試みた。しかし、皮膚短縮を伸張することはでき
ず肩甲骨の上方回旋の制限は改善されなかった。そのため、
6月下旬に再評価を実施し問題点を再考した。
24 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
健常者のモデル 本症例のモデル
図 4 健常者と本症例の棘上筋の起始・停止距離の比較
三角筋前部線維の筋活動が優位な屈曲動作を繰り返すことで安静時の上腕骨頭が上方
変位を呈した.そのため棘上筋の起始,停止の距離が近くなり,棘上筋が弛緩位とな
るため屈曲動作時の棘上筋の筋活動低下を招いたという可能性が考えられた.
2.再評価
再評価時において安静座位姿勢と動作観察に変化はなかった。関節可動域検査は肩甲骨の上方回
旋の制限が改善されなかったため、肩甲上腕関節における可動性の評価をするため肩甲骨を内転・
下方回旋位に固定した状態で実施した。結果は左肩関節屈曲の自動可動域が 45°、他動可動域は 60°
であった。この関節可動域検査より自動運動時と比べ他動運動時に可動性を認めたことで、肩関節
屈曲時の肩甲上腕関節の可動性が残存していると考えられた。肩甲上腕関節の可動性が残存してい
ることに着目すると、肩関節屈曲可動域制限は以下のように考えられた。
4)
高木 は肩関節屈曲時、屈曲角度が増大すればするほど、単関節筋である三角筋の筋活動が増大
すると述べている。さらに、脊柱後弯による肩甲骨の前傾と屈曲の増大により肩甲上腕関節におけ
る肩関節屈曲角度が増大することから、三角筋前部線維の筋活動は増大すると述べている。本症例
においても安静座位姿勢は肩甲骨屈曲・軽度外転・前傾位を呈していることから、肩関節屈曲運動
時の三角筋前部線維の筋活動が優位になったのではないかと考えられた。そのため、本症例は三角
筋前部線維の筋活動が優位な屈曲動作を繰り返すことで安静時の上腕骨頭が上方変位を呈したと考
えた。三角筋の筋線維方向は水平面に対し垂直方向に向いているため、骨頭を押し上げる上方剪
5)
断力を生み出すといわれている 。そのことから、上腕骨頭が上方に変位することで棘上筋の起始、
停止の距離が近くなるため、棘上筋が弛緩位となり屈曲動作時の棘上筋の筋活動低下を招いたので
はないかと考えられた(図 4)。以上のことより、可動域制限の要因として、左胸鎖関節周囲の皮膚
短縮に起因する肩甲骨の上方回旋の制限だけでなく、屈曲初期に棘上筋の筋活動低下と三角筋前部
線維の筋活動増大の存在が考えられた。そのため、本症例は肩関節屈曲初期に上腕骨頭が前上方変
位し烏口肩峰アーチ下に骨衝突するために可動域制限が生じていると考えられた。
3.治療の経過
治療は左肩関節屈曲初期の三角筋前部線維の筋緊張亢進に対して、三角筋前部線維の筋緊張抑制
を目的にダイレクトストレッチングをおこなった。ストレッチングの適応は、筋の短縮や攣縮に起因
6)
する痛みや関節可動域制限などの機能障害であるといわれている 。本症例に対しては、皮膚など
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 25
図 5 肩関節近位抵抗での棘上筋トレーニング
棘上筋の筋活動促通目的に肩関節近位抵抗にて棘上筋トレーニングをお
こなった.しかし,代償動作として肩甲帯が挙上し,触診で三角筋中部
線維の筋緊張亢進がみられ棘上筋の筋活動を促通することはできなかった.
の周辺組織を介して筋線維に直接的に圧力を加える方法であるダイレクトストレッチングを使用し
たが、触診で三角筋前部線維の防御収縮を認め、同筋の筋緊張を抑制することはできなかった。つ
ぎに、棘上筋の筋活動促通を目的に肩関節近位抵抗にて棘上筋トレーニングをおこなった(図 5)。方
7)
法は、川野 が推奨する棘上筋のトレーニングを参考におこなった。具体的には、肩関節内旋位で上
腕骨頭を下方へ引き離すよう保持し、抵抗の位置を三角筋停止部より近位に与え肩関節を外転させ
た。しかし棘上筋トレーニング時に代償動作として肩甲帯が屈曲し、触診で三角筋中部線維の筋緊
張亢進がみられた。そのため、左肩関節屈曲初期の上腕骨頭の前上方変位の増大を減少させること
はできなかった。そのことから、棘上筋トレーニングでは肩甲帯の屈曲、三角筋中部線維の筋緊張
亢進により棘上筋の充分な筋活動を得ることができず、促通することができなかったと考えられた。
この結果より三角筋前部線維へのダイレクトストレッチングや棘上筋トレーニングの局所治療では
筋活動の改善が困難であると考えられた。
1)
そこで、鈴木ら によって罹患筋に対する筋緊張の抑制、筋活動の促通に効果があるといわれてい
る循経取穴の理論を用いた遠隔部鍼治療を選択した。また、遠隔部鍼治療の治療効果を客観的に検
討する目的で左肩関節屈曲運動時の筋活動を表面筋電図を用いて確認した。
4.表面筋電図の測定方法および結果
テレメトリー筋電計(キッセイコムテック社)を用いて、座位における、左肩関節屈曲運動時の左
肩関節周囲筋の表面筋電図を記録した。測定筋は、僧帽筋上部線維、僧帽筋中部線維、棘上筋、三
8)
角筋前部線維、棘下筋とし、電極貼付部位は福島ら の方法を参考にした。
測定の結果、本症例の鍼治療前の波形では、健常者の波形と比較し肩関節屈曲初期に三角筋前部
線維の筋活動亢進と棘上筋の筋活動低下が確認できた。(図 6)。測定の結果より、問題点は再評価
時と同様であったため、治療プログラムの再検討が必要であると考えられた。
5.鍼治療内容と結果
鍼治療は棘上筋の筋活動を促通させながら、肩関節屈曲初期の上腕骨の前上方変位の原因である
26 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
図 6 本症例と健常者の鍼治療前の表面筋電図波形の比較
本症例の鍼治療前の波形では,健常者の波形と比較して肩関節屈曲初期に三角筋前部線維の筋活
動亢進と棘上筋の筋活動低下が認められた.
図 7 本症例の治療に用いた経穴
循経取穴理論に基づいて経穴を選択した.左温溜は左三角筋前部線維
を通る手陽明大腸経上の経穴で,左三角筋前部線維の筋緊張抑制目的
に選択した.また,左外関は筋の活動性が低下している左棘上筋を通
る手少陽三焦経上の経穴で,左棘上筋の筋活動促通を目的に選択した.
三角筋前部線維の筋活動を抑制させ可動域制限を改善することを目的とした。鍼治療は、ステンレ
ス製ディスポーザブル鍼 39 mm、20 号(日進医療器)を用いて、左温溜と左外関におこなった(図 7)。
温溜は三角筋前部線維を通る手陽明大腸経上の経穴であり、左三角筋前部線維の筋緊張抑制を目的
に左温溜を選択した。また、外関は筋の活動性が低下している棘上筋を通る手少陽三焦経上の経穴
7)
であり、左棘上筋の筋活動促通を目的に左外関を選択した。福島ら は、鍼刺激での棘上筋の筋活
動促通を目的として手太陽小腸経上の経穴である後谿を用いていた。しかし、本症例では肩関節近
位抵抗での棘上筋トレーニング時に代償動作として肩甲帯屈曲がみられ僧帽筋上部線維の筋緊張亢
進が関与していると考えられた。また、三角筋中部線維の筋緊張亢進もみられた。今回、鍼治療を
おこなった外関は僧帽筋上部線維、三角筋中部線維を通る手少陽三焦経上の経穴でもあった。そのため、
外関への鍼治療が僧帽筋上部線維、三角筋中部線維の筋緊張抑制にも関与し棘上筋の筋活動促通に
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 27
鍼治療前
鍼治療後
鍼治療前(後面)
鍼治療後(後面)
図 8 左肩関節屈曲運動(最終評価時)
鍼治療 10 回後,左肩関節屈曲運動初期の上腕骨頭の前上方変位は軽減され,肩関節屈曲可動域は
120° と改善された.
図 9 本症例と健常者の鍼治療後の表面筋電図波形の比較
本症例の鍼治療 10 回後の波形では,健常者の波形と同様に肩関節屈曲初期の棘上筋の筋活動が認
められた.また,鍼治療前にみられた肩関節屈曲初期の三角筋前部線維の筋活動亢進と棘上筋の
筋活動低下は改善傾向を示した.
1)
有効ではないかと考え鍼治療をおこなった。刺入深度は 5 mm とした。置鍼時間は鈴木ら の研究を
参考に温溜は 5 分置鍼後、三角筋前部線維の筋緊張抑制を確認して抜鍼した。また、外関は 10 分置
鍼後、棘上筋の筋緊張促通、僧帽筋上部線維および三角筋中部線維の筋緊張抑制を確認して抜鍼した。
治療は週 2 回、計 10 回おこなった。
鍼治療 10 回後、左肩関節屈曲運動初期の上腕骨頭の前上方変位は軽減され、肩関節屈曲可動域は
75° から 120° と改善された。このとき、肩甲骨の上方回旋は右側と比べ乏しい状態で治療前後にお
いて変化はなかった(図 8)。また、本症例の鍼治療 10 回後の肩関節屈曲運動時の表面筋電図波形では、
健常者の波形と同様に肩関節屈曲初期の棘上筋の筋活動が確認できた(図 9)。
28 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
6.考察
肩関節屈曲初期に上腕骨頭の前上方変位が生じ肩関節可動域制限を呈した症例を経験した。本症
例の可動域制限の要因としては、肩関節屈曲初期における棘上筋の筋活動低下と三角筋前部線維の
筋活動増大が考えられた。治療は左肩関節屈曲初期の問題点として考えられた三角筋前部線維の筋
緊張亢進に対して、ダイレクトストレッチングをおこなった。しかし、防御収縮を認め同筋の筋緊
張を抑制することはできなかった。つぎに、棘上筋の筋活動促通を目的に肩関節近位抵抗にて棘上
筋トレーニングをおこなった。しかし、棘上筋トレーニング時に代償動作が出現し、左肩関節屈曲初
期の上腕骨頭の前上方変位の増大を減少させることはできなかった。そのため、本症例は三角筋前
部線維へのダイレクトストレッチングや棘上筋トレーニングのような局所への治療では筋活動の改
善が困難であると考えられた。
1)
そこで、鈴木ら によって筋緊張の抑制、筋活動の促通に効果があるといわれている循経取穴の理
論を用いた遠隔部鍼治療を選択した。遠隔部鍼治療は C 線維を介した感覚刺激となるといわれてい
9)
る 。C 線維は脊髄後角から反対側の外側脊髄視床路を上行し視床の後外側腹側核に入り、ここから
10)
視床皮質路を通り、大脳皮質の感覚野に投射される 。鍼による皮膚刺激も同様に C 線維を介した感
覚刺激となり外側脊髄視床路を上行し視床を介し大脳皮質の感覚野に投射されると考えられる。
以上のことより、今回、三角筋前部線維を通る手陽明大腸経上の温溜と棘上筋を通る手少陽三焦
経上の外関におこなった鍼による皮膚刺激は感覚刺激となり外側脊髄視床路を上行し、視床でシナ
プスを介し第三次ニューロンとして大脳皮質の感覚野に投射されたと考えられた。さらにそのイン
パルスは大脳皮質の感覚野から運動野に至り、運動野からの下行性抑制効果が働き、三角筋前部線
維と棘上筋の興奮性を調整したと考えられた。その結果、三角筋前部線維の筋緊張は抑制、棘上筋
の筋活動は促通されたと考えられ、鍼治療前にみられた三角筋前部線維の筋活動亢進と棘上筋の筋
活動低下は改善傾向を示した。そのため、鍼治療前にみられた左肩関節屈曲初期の上腕骨頭の前上
方変位は軽減された。また、棘上筋の筋活動が促通されたため、屈曲初期の上腕骨頭の安定化作用
が高まり可動域制限の改善に至ったと考えた。
7.まとめ
肩関節屈曲初期に上腕骨頭の前上方変位が生じ、肩関節可動域制限を呈した症例を担当した。当初、
三角筋前部線維と棘上筋の筋活動改善に対して徒手による治療を試みたが改善に難渋した。そこで、
三角筋前部線維と棘上筋の筋活動改善を目的に遠隔部経穴である温溜と外関を用いて鍼治療をおこ
なったところ、棘上筋の筋活動の改善がみられ肩関節屈曲可動域の改善を認めた。肩関節屈曲初期
に上腕骨頭の前上方変位が生じ、棘上筋の筋活動が低下した症例に対して、手陽明大腸経の温溜と
手少陽三焦経の外関を用いた遠隔部鍼治療が有用であることが示唆された。
文 献
1)
鈴木俊明・他:攣縮性斜頸の鍼治療.神経内科 53: 20–27, 2000.
3)
青木幸昌 ・ 他:改訂版 放射線ガイドブック 放射線治療にかかわるすべての人に.p 15,医
2)
Neumann DA:嶋田智明・他 監訳:筋骨格系のキネシオロジー.p 126,医歯薬出版,2002.
療科学社,1999.
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 29
4)
高木綾一・他:胸椎の肢位が座位での肩関節周囲筋の活動に与える影響.近畿理学療法学術
5)
越智隆弘・他:最新整形外科学大系 2 運動器の診断学.pp 15-16,中山書店,2008.
6)
7)
8)
9)
集会誌 33: 51–52, 2003.
大工谷新一:ストレッチング.関西理学 3: 1–7, 2003.
川野哲英:ファンクショナルエクササイズ.pp 48–49,ブックハウス・エイチディ,2004.
福島綾子 ・ 他:肩関節可動域制限に対する鍼治療と運動療法の効果検討̶肩関節外転運動時
の棘上筋の筋活動促通方法̶.関西理学 6: 109–115, 2006.
川喜田健司・他:侵害刺激としての鍼灸刺激,鍼灸臨床の科学.pp 395–408,医歯薬出版,
2000.
10) 後藤 淳:中枢神経系の機能解剖̶感覚入力系̶.関西理学 5: 11–21, 2005.
30 ◆ 第 1 章 運動器疾患に関する理学療法ケーススタディ— ——————————————————————————————————————
五十肩や肩関節周囲炎などで腕が挙がらなくなった、
肩の痛みでお困りの患者さまへのメッセージ 今回は頸部リンパ節への放射線治療の後遺症で腕が挙がらなくなったという特異的な場合の鍼治療
を報告しました。実際におこなった鍼治療は、腕が挙がらなくなった原因である三角筋や棘上筋に直接、
刺激したのではなく、三角筋や棘上筋への関与が考えられた経絡のツボに刺激をしました(図 10)
。経
絡とは、東洋医学において人間の体には六臓六腑があり、その 1 つ 1 つに 12 のエネルギーの道があると
いわれております。そのエネルギーの道が経絡と考えられています。また、ツボは経絡上に多数存在し、
ツボを刺激することで全身の色々な場所に効果を及ぼすことが可能といわれています。ツボの 1 つ 1 つ
を駅だとすれば経絡は駅を縦横に結ぶ線路のようなものです。
実際の治療では動作分析から問題となる筋肉を明確にして、その筋肉を対象に治療をおこないます。
今回の場合、問題となっている筋肉上に位置するツボを選択することもできましたが、当該筋肉を通る
経絡上からツボを選択する遠隔部鍼治療が有効となりました。実際の鍼治療では、問題となる筋肉が
肩の上にある僧帽筋上部線維という筋であれば手少陽三焦経上のツボ、肩の後ろにある棘下筋、大円筋、
小円筋という筋であれば手太陽小腸経上のツボ、肩の前にある三角筋や上腕二頭筋という筋であれば
手太陰肺経上あるいは手陽明大腸経上のツボを選択することになります。
今回は腕が挙がらなくなった場合にご自身でできるツボ刺激方法を紹介致します。刺激方法は腕が挙
がらなくなった側の指の先を圧迫します(図 11)
。圧迫する指の先には腕を通る経絡のツボがあります。
圧迫する場所は、肩の上にある僧帽筋上部線維という筋であれば薬指、肩の後ろにある棘下筋、大円筋、
図 10 今回の治療に用いたツボ
温溜(おんる)は三角筋前部線維を通る手陽明大腸経上のツボで,
外関(がいかん)は棘上筋を通る手少陽三焦経上のツボです.
—————————————————————————————————————— 第 1 節 肩関節における運動器疾患に対する理学療法 ◆ 31
小円筋という筋であれば小指、肩の前にある三角筋や上腕二頭筋という筋であれば親指と人差し指の
先を圧迫します(図 12)。圧迫する力はご自身が気持ちいいと感じる程度の強さです。強い痛みがでな
いように気をつけます。圧迫する時間は 20 秒程で充分です。圧迫することで経絡上にある筋肉の痛み
や凝り感を緩和する効果が期待できますので 1 度試してみてください。
図 11 自宅でできるツボ刺激ポイント
圧迫する場所は,肩の上にある僧帽筋上部線維という筋であれば薬指,肩の後ろに
ある棘下筋,大円筋,小円筋という筋であれば小指,肩の前にある三角筋や上腕二
頭筋という筋であれば親指と人差し指の先を圧迫します.
図 12 実際の刺激方法
圧迫している場所は,肩の前にある三角筋という筋に問題がある場合で人差し指の
先を圧迫しています.圧迫する時間は 20 秒程で,ご自身が気持ちいいと感じる程
度の強さでおこないます.強い痛みがでないように気をつけましょう.
Fly UP