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テュ 高ダー時代の冒険商人組合

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テュ 高ダー時代の冒険商人組合
一
郎
テユーダー時代の冒険商入組合
庄
iイギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組A口問題への序説
白
杉
テェーダー時代の冒険商入組合 一
体の創立されたことであった。しかし、この種の組合がその地位を確立してくるのは、イギリスの毛織物工業がマニュフ
的な意味をもつたのは﹁四〇四年に国王ヘンリ四世の特許状によってロンドンの毛織物輸出商を中心とする特権的独占団
受け、この頃から顕著となってくるイギリス毛織物の勃興につれて彼等は次第に重要性をましてくるが、なかんずく劃期
毛織物輸出商人が外国の支配から獲得した特権は、 エドワード三世︵一三二七一七七年︶になってイギリス国王の確認を
テーブル商人︵暴霞導き諾畠芸。禦蝉覧ゆ︶と冒険商人とが並んで出てくると解釈されている。 それはとにかく、イギリスの
当のようである。.もっとも、この組合から冒険商人組合への道はなお︸本筋ではなかったのであって、おなじ起源からス
ギリス薬入がブラバン事実から同国との貿易に関する免許状を獲得して一組合を結成したことにその起源を求めるのが妥
古くは一二一六年に求めることができなくはないようであるが、それよりもうすこし後、 一二九六年にアントワープでイ
冒険商人組合︵、囲.匿。。臼冨昌亀密・冨冨暮臣山話曇彗話︶の歴皮は遠く十三世紀にまでさかのぼる。すなわち、その起源は最も
回
デューダ了時代の冒険繭人組合
アクチュア段階に到達するにいたるテユーダー時代にはいってからであった。
④U・しd零暮暴P臼きO霧魯一。暮Φ自霞鼠民・・。罫窪ざげ窪国璽9。巴琶σq国お影監。。いウ⇒自.ピ鉾区r
の創設にかかわる財政一貨幣制度の一機関にとどまることなく、自由かつ自主的に海洋を渉破し、可能なところにおいて
プル制度においては、商業通路が固定されていたからである。商業の拡張はただ、 一定の通路や揚所に拘束されず、政府
輸出は、 ↓時それが本国に移された場合にも、本国商人はこれに従歯することを禁止されていた。ばかりではなく、ステ
の
ープル外の商業を組織し育成し拡大するということは、ステープル商人のよくしえざるところであった。けだし、ステー
本国商人がぼとんどもっぽらステープルへの輸出を取扱うようになったが、初めはそうではなかった。ステープルからの
来の意味における国民的制度ではなく、イギリス本国商人の利益に奉仕することを建前とするものではなかった。後には
イギリスの貨幣制度、とくに貴金属輸入の規制にとって重要な一機.関となっていた。しかしながら、ステープル制度は本
工業部面にかけての全国民的生産を、基礎とするものではなかった。そして、それに照応して、彼等が依拠していたの
は、純然たる封建君主であった。封建君主に依拠して彼等はいわば﹁イギリス政府の自然的な贈主当主﹂であり、 一時は
ということのできるような側面をもたぬではなかった。しかし、彼等は、全き意味における国民的生産を、農業部面から
ステープル商人はまだ純然たる中世的封建的商人であった。なるぼど、彼等も、外国商人との関係においては、国民的
に当って対抗しなければならなかった第一の有力な敵手たるステープル商人に対し、その地歩を確立した。
冒険商人組合はテユーダi時代にはいって、まず、それがイギリスの外国貿易における支配的な地位を築ぎ上げてゆく
④拙者﹃資本主義成立史の原型﹄一六九頁
③ρ勺.ピ墓3雷Φロ﹂。σqB巳βσq。。。h国おまげ○<Φ冨㊦霧自唐も冨=εざ題・9i㎝c。扇蟹一嶺。9ε●鼻・マ紹7
②中匿甥・p臣①国8蓉巨。匹馨。噸9国品一導2ぎドHし。昏自門㍗㎝Σ.
二
はいずこにおいても取引関係を結び、定住してイギリス商品の販路を開拓するごとき商人の手によってのみ可能であっだ。
この種の風入は、ステープル商人に対して、自己をマーチヤント・アドヴェンチュアラ.ーズ窯・蓉二一卜穿異言土匪 ︵冒険商
⑥
入︶とよんだ。そしてその核心を形成したのは、大陸へ ステープル商入の場合のごとく羊毛ではなくて 毛織物を
輸出する貿易商人であった。
⑤Ω.oQ。冨暮Nい田屯富魯。国嘗g訪b。H三Fウd画.この●ω2●
者﹄があったし.また﹃魚類冒険商人﹄ ︵酒肥げ導。贔①轟置く①塞葭①話︶といったものもあった。しかし、イギリスの国外商業がずばぬ
⑥﹁航海に従事するあらゆる非ステープル商入が冒険商入であった。﹃アイスランド・プロシア・スペイン・イタリア等への冒険
けてネーデルラントの世界市場に重心をもつたごとく、 ﹃オランダ・ブラバン.ト・フランダース等への冒険商八﹄が主柱であって、
たにとどまった。それゆえ、ネーデルラントと貿易する商入は、r簡単に冒険商入といわれた。十六世紀の初め以来、これは彼等の公
爾余の冒険商人は一いかなる時代にも統一的な組織によって包括きれることはなかったけれども一いわばそれに依りかかってい
の名称でもあった。﹂ ︵oロ9麗鼠餌魯餌・○●の・器憎・︶
﹁卸売商人︵日禽。冨暮︺臼段。暮8︶は、 海賊の横行する自由な海洋や、ときとして同様に危険の少くはなかった他国の沿岸へ勇を
あるいは冒険商人︵巳理魯窪富豊く窪審器属。・u筥①冨舞自詔く①暮震胃一一自も①鼠Q簾舞審︶とよばれた。最後の表現はしばしば最も重要な演
奮って出かけてゆく場合には、全く特殊なものと見なされた。これらの航海に従事する商人たちは、冒険者︵く①暮得①3艶く①暮自窪紛︶
。︸罷属地白熱ぐ㊦9鴛Φ屡㎞寓Φ零蜜暮ωレ牙①暮員電ω.O。日冨昌︶に移されたのである。﹂︵国・臨。。落。ぎ5∪窪冒霞蓋昌甦酵母ω瀧9Hい酸・ω♂﹂︶
上商業たるネーデルラント貿易に参加するものに対する特別の名称となり、かくしてその組織たる冒険商入組合︵国Φ嵩。誤三弓。h霊。7
⑦
ステープル制度は羊毛輸出の増大に寄与するところをもたなかったもののようである。しかし、だからといって、それ
がイギリスの経済的発展になんらの寄与をなさなかったかのごとくに考えては、公平を欠く。けだし、十五世紀にはいっ
てからであるが、イギリス毛織物工業の一したがってまたイギリス毛織物貿易の−勃興を助成することによって、そ
れはイギリスの経済的発展に重要な貢献をなしたといわるべき側面をもつたからである。すなわち、それは外国における
テユーダi時代の冒険商入組合 三
テユーダー時代の冒険商人組合 四
毛織物工業の原料たる羊毛の価格を割高にすることにより、またイギリスにおける毛織物輸出税を羊毛輸出税よりも割安
にすることによって、イギリスの毛織物工業を保護し毛織物輸出を助成するの役割をはたしたのであった。しかし、ステ
ープル制度のこの貢献は意識的ではなかった。いわんや、それは制度そのものの欲するところではなかった。そのため、
ステープル商入はこの成果を自分のものとすることができなかった。すなわち、彼等は、このようにして成立してくる毛
織物貿易を担当することができなかった。したがって彼等は、早晩、イギリス外国貿易の指導権を新興の貿易業者に譲り
渡さなければならない運命のもとにおかれていたのである。
⑦国噛頃。募♪博①名。巳亭巴①ぽ国贔房げ冒①象①く巴円。。宕周ヤニ潔ポ弓=OO露葛。‘哩﹃①名。9鼠色㊦昏昏。望ま。。5爵Og貯蔓いω君融①。・冒
邑品副鋒博箋㊦8爵①陛陶什Φ曾夢O㊦三巴ざ巴魯び賢臣●勺。白霞帥民9娼。。・蜜♪P巳一日∼一8ご℃・。。c。搾
国8βo白ぎ国訪言 畠 い ぎ 創 嗣 り づ ︾ 一 ω 2 匿 心 一 悼 出 ・
⑧℃。藷♪爵。毒。巳摩暮。9①﹃国昌αq冨げ冒㊦象2舘臼馨。昌“℃£9一δ鱒⋮舅勺・。。審♪日冨学豊①。隔≧Φ島㊦︿鋒扇琴。葛月909日び甑猪①
⑨℃。舘さ。や聾・や;ど勺。。。鐙♪8’鼻・も.P禽.
勿論、ステープル商人は手をこまねい・て事態の推移を諦観していたわけではなかった。毛織物工業の勃興にともなって
羊毛輸出が毛織物輸出にとりかわられてゆくと、彼等もまた羊毛輸出に加えて毛織輸出に手を出すにいたった。これを見
て、最初から毛織物輸出業者として自己を形成してきた冒険商人は、毛織物を輸出するステープル商人が自分たちの組合
に加入して免許料を支払うことを強要した。ステープル商人は、毛織物はステープル商品であって、自分たちは古くから
,その輸出に従事してきたということを理由として、これを拒否した。これに対し、冒険商人は、毛織物はかつてステープ
ル之迄であったことはなく、ステープル土入が特権をもつたのは羊毛と羊皮だけに対してであったばかりでなく、その特
権はカレーに限られてきたのであって、彼等はネーデルラントにおいては何らの特権をももたない、と答えた。しかし胃
険商人がその要求を貫徹してその地位を確立することができたのは、テユーグi時代にはいってからであった。けだし、
’
そのころになると、羊毛輸出の減退にともなうステープル商人の衰退がいちじるしく、彼等はもはや国王の収税ならびに
⑳
金融機関としてその庇護を期待することがでぎないようになったからであった。しかしステープル商入に対する最終的な
打撃は、スチュアート時代まで延期された。すなわち、羊毛の海外輸出が禁止され、外国ステープルが廃止されることに
なったのは、一六一七年のことであった。その布告は、救済策として同時に、外国ステープルのかわりに二十ク所以上の
国内ステープルを設置し、ステープル商人に対しイングランドのどこででも羊毛を買集め且つそれをどのステープルでで
も売却しうるの権能をあたえた。もっとも、彼等はそれに満足せず、羊毛貿易のかわりに毛織物貿易に進出しようとする
ところがら、彼等は羊毛の国内取引にその精力を集中するにいたったのであった。
の努力をくりかえしたが、胃険商人の独占権を打倒することがついにできなかった。といって別に恰好の商売もなかった
⑳
⑩国●臣陽。♪掌。国8き慧Q顛巽。還。門辱色孚・巳りく。ドご篶㎏⊆。渇i⊂。刈。。・
人は生き残ったのであって、デフォー ︵∪①b。30。碁算。実費。ω臼欝=・。心一①鼻ざ♪F︼c。・。Io︶によれば、彼等は十八世紀17一おいて
⑪U9㌦甑創こぎり目亨PO●1かくしてステープル商人︵爵①冒電穿き富。h畠Φωけ塑覧。︶という組織は消滅したけれども、羊毛商
も極めて重要な商人屡に所属していた︵国●国。鉾。♪日ぎ網。鼻㏄三H①毛。色窪§瓢≦o諺言臼ぎq霧宵霧い這NO二︶b●ωP¢∼ω⊆。O・︶
テユーダー時代の冒険組合商人 五
が、それが積極化して或る程度の重要性をもつに至ったのは、毛織物工業の後頭とぼぼ並行して、十四世紀の後半からで
であったのは、バルト海貿易に従事するイギリス商人であった。イギリス入の北方への商業活動は古くから存在していた
ぎていたが、その特権的地位はイギリス商人の攻撃を挑発せずにはおかなかった。そして、この攻撃において最も積極的
た。ハンザ商人は、十二世紀の中頃から、イースタリングズ︵国”こ・§喜σ。。・︶とよばれて、イギリスで純一の特権を享有して
冒険商入がその地歩を確立するにあたって斗記しなければならなかった今一つの一層強力な敵手は、ハンザ商人であっ
カ も セ ヘ へ
二
テユーダー時代の冒険商人組合 六
あった。ハンザ地域へ進出するにいたったイギリス商人は、+四世紀の七+年代から、ハンザ商人に離して一つの要求を
もつにいたった。というのは互恵原則の主張であって、彼等はハンザ商人がイギリスで享有する特権を認めるかわりに、
ハンが商人の側でもその支配下にあるバルト諸国との自由通商権を彼等に認められたい、というのであった。しかるにハ
ンザ商人はイギリスの北ヨーロッパとの貿易をその手中に保持しようと頑強な抗争を展開し、そのためにイギリスも自国
におけるハンザ玉入の特権停止をもつて対抗するにいたった。かくして開始されたアングロ重点ンザ斗争は十五世紀には
いってますます激化していったが、十五世紀の前半はイギリスがわに有利に展開し、斗争は一時イギリスの勝利におわっ
イギリスはハンザの特権を確認するの余儀なきにいたったのであった。
た。しかし、その勝利は永続的でなかった。すなわち情勢はまもなく逆転して、一四七四年にはユトレヒト条約によって
冨昌瓢仁尾幽昏。掴9昌ω①皆○琶一心OOけ。竃誤︾ω言9。。。言鳶口σqに。・盲亀巴。ぎ謹Φ関需8①p昏O①暮霞ざ①Pび自国’℃o♂詔弓鱒昌q冒・℃o。。蜜♂やるO
⑫国.営場之︸弓自国8き巳。白雪。曙。㎞国語蜜⇔8ぎピ♂專・o謬一器評旨・℃。鰺琶w6冨田89巳。即昌陣頃&江。箪塑Φ︸gざ臣。南国品−
庸・
右のごとくイギリスのハンザとの斗争は十五世紀の七十年代においてついにイギリスの敷北に帰着したのであるが、こ
の過程は他方から見ると冒険商人の擁頭過程でもあって、しかもこの二つの過程の間に密接な関係があった。けだし、十
五世紀初葉のイギリスにあって外国貿易に従事する商人.は、およそ三つの団体にilすなわちネーデルラント貿易に従事
するものと、ノールウェー貿易に従事するものと、バルト海貿易に従事するものとの三つに一分類することができたが、
合とよばれるものに発展したといわるべきところがあったからである。下多商人はアングローーハンザ斗争を継続するが、
その5ちのネーデルラント貿易に従事するものが他の二つを集.中して一いわばこれの犠牲において 特に胃険商人組
彼等がハンザ商人をイギリスから最終的に撃退してその地位を確立することのできたのは、イギリスがテユーダー王朝の
り
もとに絶対王政の時代にはいってから、しかもその最盛期にはいってからであった。
⑪ 路上3P弓冨剴8き田下勉監℃。昂貯巴切。蜀離。昌。。島国昌管竃島隷自邸①国p塁㊦u。b・葺﹂弓LαO−8一.−﹁ネーデルラント組の一
らの撤退の反面にすぎない。この点から見ると、 ﹃冒険商人組目﹄の成立は、 一般にそれに帰せられている巣光の大部分を喪失す
すなわち勝義の冒険商入のi−およびネーデルラント諸市への彼等の貿易の優勢は、単にイギリス入のプロシアおよびバルト諸国か
る。それは﹃イギリス膨脹史上の境界標﹄ではなかった、なんとなればそれはイギリスの貿易が一時縮小しつつあった時代におこつ
たのだからである。それはイギリスの貿易を旧﹃企業分野﹄の喪失に対して調整したかも知れないが、それのために新分野を開発し
約以前に到達していた最高頂をこえて拡張するを、議せしめたかも知れない。しかしアンウィンは、十六世紀に見られたイギリスの毛
はしなかった。十五世紀の最後の四分の一とテユーダー時代とに、組合はイギリスの商人をしてその貿易を、それが一四七五年の条
織物貿易の成長は、冒険商戦組合とは独立に、そしてその制限政策にもかかわらず行われたものである、と論じている。今後の研究
はアンウィンの忍男になお多くを附け加えるかも知れない。しかし、たとえ十六世紀における冒険商事についての通説が歴史的批判
の攻撃に堪えぬいてゆくにしたところで、十五世紀におけるそれの成立史は改訂されなければならないであろう。それは一つの勝利
ればならないであろ5。﹂︵り。巽諺㌦ぼq●堕℃。一㎝ω・︶
としてでなく、一つの敗北の副産物として、食みなき成長の一段階としてでなく、︸時的な毒中と牧縮の一徴候として解釈されなけ
冒険商入組合の成立は、それだけでは、けっしてイギリスの毛織物貿易の膨脹を意擁するものでなかつ.たとの指摘は、傾聴にあた
いする。しかし.この指摘から組合の過小評価が導き出されるよ5なことがあるならば、それは歴史の正しい理解とはいいがたいで
あろ5。ドイツとスカンディナヴィアにおいてイギリスの商八がハンザ商人の競争に対してその地歩を継持しえなかったというこ
と、そしてその結果イギリス商人の貿易活動が主としてネーデルラントに制限されるに至ったということは、真実であった。しか
し、そのエネルギーがもはや北ヨーロッパに拡散せしめられなくなったという事実によって、イギリス商工は終局的には損失したと
油入に有効な挑戦をなしうるまで、その力を節約したのである。︵鼠場。夢爵Φ團8琴邑。麟蓉。曙島国品ご巳㌔。ど國”冨﹁α。。一1αc。P・︶
いうよりは、むしろ.利得したと、いえぬではない。事実、彼等はその精力をヨーpッパの中心市場に集中することによって、ハンザ
ちなみに、冒険商人への毛織物貿易の集中は、毛織物生産にも重要な影響をあ言えたことが注意される。十四世紀の後半から十五
世紀の初期にかけてのイギリスの毛織物輸出の大部分は、染めて仕上げた毛織物であった。ところが、イギリスの貿易がネーデルラ
レ
ントに集中されて、イギリスの輸出業者が消費者大衆との直接の接触を失ったとき、彼等は大部分なお地方的な毛織物工業によって
テユ!ダ茎時代の冒険商入組合
七
テユーダー時代の冒険商人組合 八
支配されていた市場での取引に適応してゆかねばならなかった。いいかえると.白地未仕上の毛織物の輸出を増加して、それをフラ
可能ならしめられ、イギリスとネーデルラントとの古套からの共棲闘係が回復されるために敏くことのでぎない条件であった。︵㌧霧r
ンダースやポーランドの染色業者や仕上業者に売るはかなかった。そして。これがテユ︸ダー時代にイギリス毛織物輪出の大膨脹が
欝♪弓密摩監①o頃舘巴おぐ野一国鴛obρ日言O帥巨腎包σ身Φ国089琶。国忌8論りく9・同噛距︶・揺Oi謡一号︶
まずヘンリ七世は初めから胃険商入に好意をよせ、イギリス商工業の繁栄はその組合の正しい指導に依存するところが
多いとの明瞭な認識をもつた。当時、組合の成立が主としてロンドン商人の努力の結果であったことに照応して、彼竺τは
貿易に関する︼切の権力を利用して組合外の商人に課税し、ひいてはこれを排除しようとするに至った。組合の租税権は
もと領事館費の麦弁を目的とするものであったが、後には保険料に絹心するものが附加され、しかもこの部分は次第に増
額されて一すなわちもとは六シ夢ング八ペンスであったものが後には二十ポンドにまで高められてーー−その負担にたえ
ぬものは組合から排除されるに至った。かくして実現された組合の独占は、当然、騒弔しい非難をよびおこすに至った。
反対者はいった、それによってイギリスの毛織物その他の商品の販路は阻害され、織布工その他の工業者は生計を奪われ
るか、そうでなければロンドンの直入に隷属せしめられるに至った。ぽかりでなく、ネーデルラントからの輸入晶は騰貴
せしめられ、十分の需要を見出すことができない。かくしてイギリス全体が沈滞におちいり、関税や海運は破滅に瀕して
十三シリング四ペンス納付すれば、ネーデルラントと自由に貿易することができるようになった。
いる、と。この抗議は国王と議会を動かし、 ︸四九七年、一つの法律が制定されて、イギリス人は誰でも組合に六ポンド
⑭
① oQ畠舶含ぷ語学○・ω・ω食fO心ドーこの法律は多くの輸出.港の人々にとり非常な重要性をもつた。たとえばヨTクはこれによって
階級が絹物商組合︵宮。ま。謎.O。巨冨昌︶の一特殊部門として成長し、商入たちはその注意を外国貿易に向けた。彼等は十五世紀を通
大きな利益を毎た。ζこでは絹毛書が大きな繁栄せる団体となって、一四三〇年に国王から組合結成の特許状を獲得していた。商入
じてネーデルラントと貿易し、他の北部諸港の論陣たちと協調して活動した。実際、かつては、外国におけるロンドンの商入が一総
〆
裁の監督下に組織されていたのに対して、ヨーク・ハル・ビヴァリー・スカーバラおよびトレント河以北のその他のすべての輸出港
の商人はそれとは別個の総裁の下に集団をなすのが、慣らわしとなっていた。ところが、十五世紀を通じてこの斜度はロンドンの組
ード四世は一四七八年夏布告を発し.ロンドン商入の総裁に従来の態度を改.めるよう命令した。この命令がどれほど尊敬されたかは
織の侵略によって無力となり、南方の商八は北部における競争者の利益を圧迫するに至った。ヨTクの商人の訴願に応えて、エドワ
とともに。ヨτクの商人階級の活動は積極的となった。多くの絹物商はイングランド冒険寝入組合に加入し、ヨーク絹物商組合はその
不明であるが、しかし北部の商入に対する重い負担が継続したことだけは確実である。一四九七年の法律によって負担が軽減される
霞お3b緊一ホー一紹●︶
麦部を兼ねた。北部における他の輸出港においても、ぼぼ同様であった。 ︵自・閏Φ象。♪8冨団亀霧ぼ塚①堵。邑窪窪q司。湊盆qぎ側器−
ヘンリ七世はこのように冒険商人組合にある程度の抑制を加えることによって、組合そのものを閉鎖せしめんとする計
画を挫折せしめた。のみならず、 一五〇五年、国王はさらに特許状によって組合に一応の全国的な統一をあたえるととも
に、その特権を拡大し、組合の発展に力をかすこと大なるものがあった。しかし、彼はまだ雷険商人をしてその最大の敵
手たるハンザ商人に対する最終的な勝利を得せしめるというところまでは行きえなかった。勿論、彼はハンザの特権を打
倒しようとして種汝画策するところがあったのであるが、それはただちにイギリス商人の上にはねがえってきた。すなわ
ち彼等は、 ハンザ商人に対するイギリスの背信の報復として、 ハンザの支配する地域でのーユトレヒト条約︵一四七四
年︶の約束する 互恵待遇を否定された。それで、国王はハンザに対する敵意を捨て、それを完全に好意的に待遇する
⑮
ことを余儀なくされるに至ったの・であった。
⑯潔鵠8い望㊦国8き巳。匹砿8越。比目轟﹃巳いく。ド﹃づb愚。。・。一αc。o●
その後、 エドワード六世の時代になって、 ハンザ商入の特権は国王の手に回牧されたが、メリー女王はこれを復活し
た。その特権が最終的に否定されたのは、エリザベス時代に入ってからであった。
エリザベス時代に入ると、国内的にも、ヘンリ七世の治下に始まった冒険商人組合の ぼとんどすべてのイングラン
テユーダー時代の冒険商人組合 九
テユーダー時代の冒険商人組合 一〇
ド大商入を包含しようとする一全国的規模をもつた統一的組識への傾向は一層発展し、一五六四年には女王より改めて
特許状を賦与されることとなった。もっとも、この黒影許状の賦与は国際関係によって媒介されるところがあった。
組合は初め当時における西ヨーロッパ貿易の中心であったブルージュに本拠をおこうとしたが、同市はもともと毛織物
業地であったばかりでなく、 一層大規模の毛織物業を営んでいたガンと結んでいて、イギリス毛織物商人の侵入を詐さな
かった。そこで組合はブラバント公の好意によりー一子はイギリス商入の支払うべき税金によって利益を得んと欲し自国
の毛織物業者や毛織物商入の抗議を抑圧したi︼四四四年以降アントワープに本拠をおくことにしたのであった。アン
トワープはもと、ブルージュにくらべると、とるにたらぬ小都市であったが、冒険商人の存在は富と人口と貿易における
同市のおどろくべき発達に貢献し、その発達は十六世紀の中頃まで西ヨーpツパ貿易における同市の地位をして、前世紀
⑯
にブルージュが占めた地位に同じくらい強力ならしめた。しかるに歴史の弁証法の小さな一事例にぽかならないが、冒険
商人によるアントワープの繁栄は、彼等の上にマイナスの効果をもつてはねかえってきた。すなわち、アγトワープの商
人たちは、外国貿易における冒険商人の特権的地位を奪回しようと努力するに至った。あたかも冒険商人たちがイギリス
におけるハンザ言入の地位を攻撃したごとくにである。アントワープの商人は﹂両国の商入が相互に普通の関税を支払っ
て貿易することを提案した。冒険建仁は、貿易をその手中に保持しようと欲したところがら、この提案に反対した。イギ
リスの商人にして、貿易を少数のイギリス導入に限ることに好意をもたず、貿易がすべてのイギリス商入に公開されるな
らば国民の富にとって有利であろうと考えた上訴といえども、アントワープの商入がイギリスで自分たちと同様の自由を
もつことを承知しようとしなかった。スペイン王はアントワープの商人を支持して、 一五六三年、イギリスに抗議し、経
済的報復をもつて威嚇した。そして、その命令によってイギリス船はネーデルラントのどの港においても積荷することを
禁じられ、さらにはイギリスにおけるペストの流行を口実として羊毛と毛織物を同国へ輸出することが禁止された。エリ
¢
’
ザベスはネーデルラトからの輸入停止をもつてこれに応じた。冒険商魂も妥協への気配を見せなかった。彼等はネーデル
ラントの商入と同じ立場において関税を支払うことを拒否した。もし不平等関税のハンディキャップが除去されるなら
ば、競争者は全毛織物貿易をその手中に牧めるであろう、との主張にもとづいてであった。彼等は、ネーデルラントは毛
織物の自給に努めるであろうという威嚇を無視した。イギリスは他の市場を見出すであろうし、またその結果、上質の毛
織物に対する需要が牧号するならば、イギリスは他種の毛織物を生産することができるであろうと、逆振じをくわすこと
によってであった。彼等は言明した、アントワープはイギリスにとって不可歓ではなく、イギリスは直接に他の国欧と貿
易することができる、と。かくして停止されたネーデルラントとの通商停止は、組合をして新しい根拠地を求めることを
必要ならしめた。ドイツの二都市、ハンブルクとエムデンとが組合を誘致しようとして競争した。エムデンが選ばれた。
そのさい、ドイツはイギリスの貿易業者にとってまだ未知の国といってよかったので、冒険商人はドイツへの貿易を発見
したという理由のもとに、 一五六四年、エリザベス女王から薪特許状をあたえられた。
、 ⑰
⑯名.誇菖Φさ日冨望書・昆。○贔嘗認註。昌亀自薦冨邑︸︼ソ刈。。・
⑰ =霧○♪膚お国8き民。閏訪叶。蔓9国鎚富嵩魁︸︿9.幽い竈・︼ミi㎏8.
エリザベスに鼓舞された冒険商人は、大激迎を受けてエムデンへの移転を敢行したが、エムデンはその約束を履行しな
かった。そこへもってきて、あらゆる手段をつくしてその移転を阻止しようとしてきたアントワープが折れて出た。結
局、 一五六四年十一月暫定的な協定が成立して、彼等はアントワープに復帰した。しかし、まもなくネーデルラントに︷示
教戦争が勃発した。安全を確保するために、彼等は再び移転を考慮しなければならなかった。彼等はAフ度はハンブルクに
目を向けた。ハンブルクはハンザ都市のうちでイギリスに最も友好的であった。一五六七年に条約が成立し、組合はハン
ブルク市から種汝の特権をあたえられることとなったが、翌一五六八年、エリザベスがフランスの攻撃を避けてイギリス
テユーダー時代の冒険商入組合 一一
テユーダー時代の冒険商人組合 一二
の港に逃げこんできたスペイン給の財宝を没越したのを契機として、イギリスとスペィンーしたがってまたネーデルラ
ントーとの間に紛争が勃発するにおよんで、組合はハンブルグへの移転を断行した。 一五七三年にはネーデルラントと
イギリスとの関係が復活し、若干のイギリス商入はもう一度アントワープに帰ったが︵一五八二年遅で︶、まもなく同市を
おそった不幸は同市をして昔日の地位を回復するをえせしめず、イギリス商人の関心の中心はドイツへ移っていった。
⑱臣鴇。♪ε・簿﹂唇﹄ooiD8.
かくしてドイツへ移った冒険商人組合は、そこで、一層強力な競争、者に対面しなければならなかった。イギリスで古く
からの特権を一部分剥奪されて報復の機会を狙っていたハンザ商人は、イギリス商人のドイツへの侵入を黙視してはいな
かった。ハンブルグ市が一五六七年に締結した契約は十年の期限がついていたが、その期限が来たとき、ハンザ同盟はハ
ンブルクがその契約を更新することを禁止した。これにこたえて、一五七八年、イギリス政府はハンザ商人をイギリス臣
民なみに取扱うことをやめ、これを他の外国倉入なみに取扱うことにした。その報償として、同盟はイギリス商人がドイ
ツへ搬入する一切のイギリス晶に重税を賦課した。もっとも、これは、エリザベスが報復関税を賦課するにおよんで、急
いで撤回された。しかし、同盟のいやがらせは、組合をして新しい根拠地を求めるの余儀なきに至らせた。エムデンが再
び新根拠地として選定された︵一五七九年︶。しかし同盟の手はここへも伸びてきた。貿易上の利益は、ドイツの他の支配
的権力︵皇帝やイースト・フリースランド伯︶をして、同市から組合を見放することを躊躇させた。しかし、エムデンは貿易
の中心地としては十分の条件をそなえてはいなかった。その点、なんといってもハンブルクの方が望ましかった。そうこ
うするうちに、一五八六年、ハンブルクへの復帰の可能性が見えてきた。その了解のもとに、エリザベスはスティールヤ
ードの商人には以前の待遇をあたえ、彼等を関税上イギリス臣民として同等に扱うことにした。しかし商議は成立しなか
った。 一つはハンブルクが同盟の挑戦を恐れたからであった。エリザベスは譲歩を撤回し、組合はシュクーデ︵幹巴。︶へ
いたが、 一五八七年、同国の招きに応じてミッデルブルホ︵置匿g葺轟︶に根拠地を設置した。
移転した︵一五八七年︶。なお組合は、ネーデルラントのスペインからの独立宣言︵一五七九年目讃しばしば同国を訪れて
⑲配陽。♪8・。随∼庖.PO駆i8ρ
ハンザ同盟の冒険商人に対する敵意は、その後、ますます熾烈になっていった。同盟は彼等をドイツから追放するため
に一切の権力を動員した。そして、その雨雲は一五九六年にクライマックスに達した。この年、エリザベスはスペイン封
鎖を宣言し、これに違反してスペインとの貿易を続ける船舶は一いかに中立国のものであろうと一1一これを寧嘉するこ
とにした。これにもとづいてスペインとの貿易に従事するハンザ船の没牧されたことがドイツ帝国の世論を刺激し、皇帝
ルドルフニ世をして冒険商人のドイツ追放令を布告せしめるに至った︵一五九七年︶。かくして皇帝と同盟とスペイ、ンとが
冒険商人に対して提携することとなった。これにこたえてイギリス政府はハンザ商人をイギリスから追放することにし、
スティールヤードを没攻して海軍の倉庫にした︵一五九八年︶。これに反し、冒険商人のドイツ追放は布告どおりには実行
されなかった。なるぼど、外形上はその組織は解体し、彼等は個人商人として貿易するという西哲とりはした。けれども、
ドイツの商業上の利益は、イギリスとの貿易関係の維持を要求した。それにしても、胃険挿入の地位がきわめて危険なも
のであることには変りはなかった。彼等はドイツにおける活動を仮装しなければならなかったが、このことは叢誌に対し
てはいうまでもなく、組合規定に違反した成員に対しても、その権力の行使を不可能ならしめた。この困難を逃れるため
には、ネーデルラントへ帰るよりぽかないように思われた。そこで一五九八年の初めにミッデルブルホへその本拠を移し
た。しかし、ここも長続きせず、翌↓五九九年にはエムデンへ、さらに一六〇一年にはそこからシュターデへ移転した。
⑳匿窃。♪。や馨G題・詣刈一謡ρ
冒険商人とハンザ商人との斗争は、十七世紀にはいうても、なお続く。ハンザ商人はジェームズ一世の即位を機会とし
テユ1ダー時代の冒険商入組合 ’ ご島
テユーダi時代の冒険商人組合 一四
てイギリスにおける特権の回復を要求したが、イギリスはこれに応じなかった。彼等の勢力は次第に衰退に向いつつあっ
た。↓六一〇年、彼等はドイツ皇帝に歎願して、イギリス商人の商晶と債権を抑留する勅令を獲得したが、これはイギリ
ス側をいたく動揺させ、ジェームズは使節を特派してドイツ側と商談させた。翌一六一一年、商議は成功して、かねてか
ちイギリス商入に好意をよせていたハンブルクはその特権の復活を認め、ハンザ商人もまたロンドンのスティールヤード
の日まで、ハンブルクを根拠地として展開される。
を回復して、ここに長い斗争は終止符を打たれることとなった。そして、組合のドイツにおける活動は、以後、その終焉
⑳
⑳且陽。♪εψ暮●︾題’碧OI卜。F
ただし組合のネーデルラントにおける根拠地が最終的な決定を見たのは、もう少し後のことである。ミッデルブルホは
組合を満足させなかった。組合はネーデルラント共和国︵オランダ︶から、 一六〇四年このかた通商関係の復活していた
スペイン領ネーデ・ルランドへ根拠地を移転しようと考えていた。彼等はアントワープから、昔日のごとく同市に根拠地を
再建するよう誘致を受けていた。しかし、ミッデルブルホを引上げないようゼーランドから懇請を受けていたジェームズ
一世の斡旋によって、組合の移転計画は実現しなかった。しかし、その後ふたたび組合は移転の必要を痛感するに至り、
こんどは許されて、 一六六一年にデルフトへ移転した。ついで 六三五年にはそこからロッテルダムへ、費目五五年には
ゆ
さらにドルトレヒトへ移転し、ここがネーデルランドにおける組合の永久的な根拠地となった。
@ ζ腰。♪oや9∫℃ゼ・邸一ロー鯨ω・
以上、冒険商人組合が国外における競争者との斗争においてその地位を確立してゆく過程について概説したのである
三
が、組合は国内にも執拗な敵手と批判者をもつた。組合が海外においてその地位を確立した+六世紀末以後において、特
にそうであった。
組合に対する国内の攻撃は、まず、組合そのものの組織に胚胎した。組合の組織が確立したのは、一五六四年にエリザ
ベスのあたえた特許状によってであったが、これについて見るに、組合の成員はもつばら卸売商人からなっていて、小売
することを禁じられていた。ニンドンでは、有名なリヴァリ・カムパニー︵目ぐの曙。三悪塁︶の第一位にくらいしていた絹
ゆ
物商が組合の核心をなしていた。しかし組合はロンドンの絹物商以外の多くのカムパこ一所属の商入ばかりでなく、ロン
ドン以外の多くの地方都市 ヨーク、ノリヂ、 エクセター、イプスウィッチ、ニューカスル、ハルなど一1の商人をふ
くんでいた。
⑳ ﹁冒険商人の初期の歴史は、いかにしてこの貿易盗本がイングランドに存在するに至ったかを、我なに示している。それは、ある
人々の推断するごとく、大地主の嫁入から生じたものではない。⋮⋮いまや外国企業に向いつつある資本の主要源泉は、その血統が
内地入であるにせよ外国人であるにせよ、国内商業および特に上流ならびに中等階級の間に需要されつつある外国品のイングランド
弍窪。隔国農︸9β3や謡・︶
への輸入とそこでの販売とに従事する商人たちによってすでに獲得されていた冨であった。﹂ ︵名.卜。。巳。ざ月島国8琴巳。○薩騨巳。。㌣
組合がその成員をロンドンの商入に限らず、多くの地方都市の商人を包含していたことは事実であったが、組合内にお
けるロンドン商入の支配的地位は争われがたかった。そして、そこから、ロンドン商人に対する地方商人の嫉視がおこっ
てきた。しかも、この紛争は、地方商人の若干が自分自身の特許状をもつていたところがら、 一層複雑化する傾向があっ
た。
旨ンドン思入に対する地方商人の組合内二番は古くからあった。たとえばノリヂの商人は、十六世紀の初めに、ロンド
ン市の商入は煩わしい統制によってイングランドのすべての商人を外国の中心市揚から潮懸しょうと努力しているとし
テユーダ・i昨、代の冒険商入組合 一五
テユーダ玉時代の冒険商入組合
一六
て、ロンドン商人に対する共同斗出を他の諸都市の商人に呼びかけたと伝えられている。また、 一五四八年には、ニュー
の
カスルは、その住民がロンドン商人に対して倉庫用の家屋や地下室を貸すことを禁じたといわれている。
⑳=場。♪冨Φ国。自・巨。窪ωけ。量。h国昼。9冨鴇㌔。︸.野眉bひ。.
⑳∪9㌦三幽‘冒﹄繰. ,
しかし組合内におけるロンドン商人の支配に対する反感が熾烈化したのはエリザベス時代に入ってからであり、しかも
最も厄介であったのは北部貿易業者の嫉視であった。十五世紀においては、組合の総裁︵σ。。く①屑巳弓︶としてロンドンを代表
するものと、トレント河以北の北部イングランドを代表するものとの二人を選出する慣らわしとなっていた。ところが、
時のたつうちに北部商人の代表選出権はいつしか消滅し、ロンドンの代表が全権を掌握するに至った。北部側の抗議がな
いではなかったけれども、エリザベスの特許状はこれを無視して一総裁制を公認したが、それはロンドンの優位を公認し
たものにぽかならなかった。総裁のもとに副総裁と二十四人の理事があり、年汝選出されることになっていたが、すべて
アシスタント
ロンドン商人によって影面され、その支配は独裁的であった。組合の本部は海外の根拠地におかれたが、これもまた擬装
⑳H三8℃・曽㎝・
⑳ \
であって、実権はロンドンの重役会が掌握していた。そ、して、そこに、地方商人なかんずく北部商入の反抗のおこつでご
ざるをえない理由があった。
⑳葺極。ぎ8.鼻‘b・まO● 十六世紀においてロンドンの支配に対する挑戦を指導したのは、ヨークであった。ヨークの商人は、自分自身の特許状
と総裁その他の役員とをもった独立の組合たらんことを要求した。↓つは、彼等はすべてが必ずしも海外貿易に従事する
ものではなかったが、小売商業に従事するものは海外貿易に従事してはならないというのがロンドン組合の原則となって
いたからであっ允。エリザベズ時代にこの原則を北部にも拡張しようとの提案がなされた。これに対して北部の商人は、
地方商人は外国貿易から排除され、それをロンドン商入に独占させることになるといって、反対した。また北部の差入は、
海外市場を一ク所に集中しないで、全大陸に活動を展開していたところがら、フランダース、バルト諸国、スペインおよ
⑳
びポルトガルと貿易する権利を放棄することを拒否した。一五八一年に、ヨークの冒険商入はエリザベスから組合結成の
特許状を獲得した。特許状は、同市およびその郊外において商業に従事する一切の商人を統制する権力をヨークの冒険商
人組合にあたえた。それによって同市の冒険嫁入は、同市の外国貿易ばかりでなく国内商業をも統制することができるこ
とになった。そのかぎり特許状のあたえた権力は広範であったけれども、地方的な組織を全国的な組織に服従せしめよう
とする煮に関しては特許状はきわめて注意ぶかかった。地方的な組合の総裁と副総裁は全国的な組合の成員でなければな
らず、その選任について中央は発言権をもつていた。徒弟は徒弟期聞の終りに外国にある本部に出頭して免許を得ること
となっており、本部の指令は地方的な規則の一切に優先するものとされた。かくしてヨークの組合は、↓方ではかなり広
範な自治権をもつていたが、他方では上級団体の指揮に従わねばならないことになっていた。 膨
⑳即国。鼻。♪鐸。鴫。鼻。。ぴ写Φ巧。色①声9監名。塁叶巴7匙題9β弓二ひr
函 目陽。♪8’9∼や甥ひ・
十七世紀に入ると、ヨークの冒険商入にかわって昌ユーカスルのそれが反ロンドン運動の指導権を握った。彼等もまた
別個独立の組合になることを要求して、ロンドンの命令に服従することを拒否した。ロンドン側も、ニューカスルの組合
の独立を承認しなかった。双方はたがいにその主張を固執して譲らなかった。そして、そこから両者の閤にいろいろの紛
争がおこってきた。昌ユーヵスルはまた、↓六五一年に、ヨークおよびハルとともに、政府に対し、ロンドンの資本家に
ゆ
よりかつての活動領域から駆逐されっつあるトレント河以上の商人の庇護を請願している、しかし、北部の商人は王政復
古後になっても、組合そのものを否定するの意志をもたなかった。すなわち、南ドイツにおいて独自の貿易を推し進めよ
テユーダi時代の冒険商入組合 一七
テユーダー時代の冒険商人組合 一八
うと熟厚していたブリストルが、組合の他の反対者たちに対して、今こそ力をあわせて組合の拘束から解放さるべき時で
あるとぼのめかしたとき、北部貿易業者たちはこの申入れを拒絶した。彼等は首都の組合に対して頑強に自分たちの要求
を主張しはしたが、潜商にくみするの用意はもたなかった。彼等は答えた。ブリストルの提案は、もし実行されるなら
ば、従来その資本と貿易と信用とによってイギリス製造業の支持者であった商人の組合を破滅させるであろう。組合は我
ゆ
我をきわめて不親切に扱ってきたけれども、それでも我汝はこのさい潜商よりはむしろロンドンの商人と結ぶ方が貿易の
共同利益と我汝の一般的特権の維持とに=層多く役立つであろうと考える、と。
⑫H三8℃・p巳●
⑳冒霧。∼8●配£寒●悼瓢i謡O● ・ ⑳庶路2唱・悼韻・
こういうわけで組合を支配するロンドンの商人に対する地方組合員の斗争は、長期にわたり相当激烈であったけれど
も、それ自体は組織内紛争として、組合そのものに致命的な打撃をあたえるようなものではなかった。地方の成員とい・兄
ども、たとえばヨークとハルのごとく利害Q対立を残していたばかりでなく、さらに組合外のものに対しては、やはり組
⑨
合の成員として、組合によって庇護された共同の利害をもつていたからである。
⑱団$8♪8.鼻ご箒﹄ひ㎝1ま。。.
ク ロ シ ア ⑭ たとえばヨークの暴動は、同じ州の他の地方なかんづくウエスト・ライディング出身の貿易業者を敵視した。 ﹁ウエスト・ライデ
イングの商人は一般に在所の毛織物業者の一族から成長してきたものであった。父は毛織物業者であって、おそちくはかなり大規模の
事業を営み、その毛織物をりーズの市場やブラックウェル・ホール︵切貯。犀名。=鼠聾=︶やバーソロミュ・フェア︵ゆ9昌﹃908①毒勾9彦︶
で販売するのを常としていた。父の努力と節倹とのおかげで、息子はウエスト・ライディングの商晶を外国にもってゆく商人や貿易
域との接触をもつていた、そしてブPード・クロ1スやカージー︵閑Φ易①甥︶の取引の大きな部分が彼等の手に帰した。けれども彼等
組合員の徒弟となることができた。これらのウエスト・ライディングの商入はおのずから港町の貿易業者よりも密接な毛織物生産地
は貿易組合に加入レ、アドヴェンチュアラーまたはイーストランダー︵国分缶きqΦ震︶もしくは両者として登録し、ヨークの同業者の
新しい成員はその組合の成員の同意なしに在所に居住することを許されなかったが、ヨークの商入はウエスト・ライディソグの商入
仲間入りすることを強欄された。しかしヨークの貴族的な商人は、このよ5な成h・上りの貿易業者を歓迎しなかった。のみならず、
がヨークの社会生活と市民的出費をまぬがれて毛織物地域に生活することを認可しなかった。L ︵国Φ醇。♪。や鼻6もやま。。1霜ρ︶
四
冒険警官組合の丁合にも、それをめぐる基本的な矛盾は、それ自体としての組織内紛争ではなくて、組合と組合外商人
との斗争であった。しかして、この斗争もまた、さしあたり、組合そのものの組織上の性格にかかわるところがあった。
冒険商人組合は﹁制規会社﹂ ︵國①碧§&O。唐麗昌︶の範曉に属し、その典型であった。それはけっしてギルドではなか
畷 ⑳
つた。ギルドの場合と異なって一定の入会金︵冨9葺嘗。蕊唱甥畠霧①︶を支払うものは誰でもその成員となることができた。
しかし組合は多分にギルドに類似した側面をもつていた。組合はイギリス面面のみの組合であって、外国人は勿論、外国
婦人と結婚したり外国に不動産を所有したりするイギリス入は組合加入の資格をもたなかったが、普通のイギリス商人は、
入会金の支払によるぽか、ギルドの場合とぼぼ同様の方法によって一すなわち相続および贈与ならびに徒弟奉公によっ
て 組合員となることができた。徒弟制度についてご言しておくと、冒険者になろうとする青年は十六才で誰か組合
員の徒弟となり、八年閥奉公をする。その期間、彼は主人に仕えて外国へも行くじ徒弟期閤が終ると彼は外国にある組合
の本部に出頭して、組合員としての免許を受ける。しかし彼はまだ完全に一人前の組合員としての取扱を受けるわけには
ゆかない。彼は最初の三年間は一年に四百反以上の毛織物を輸出することができず可四年目から五十反つつ増加して、十
五年目に一千反というふうに、十五年間は輸出額の最高限を抑えられていた。雇用する徒弟についても最初の七年閤は一
⑳
人、次の五年間は二人、以後は三人という制限があった。徒弟数を制限した同じ精神からして、入会金の塞出による入会
の方法もまた、その金額を高めることによって困難にされる傾庵があった。さきに見たごとく一四九七年にはそれまでニ
テユーダー時代の賢険商人組合 一九
テユーダー時代の冒険商人組合 二〇
十ポンドであった入会金はその三分の︸に引下げられたが、ジェームズ︺世の時代になってそれは大幅に二百ポンドに引
上げられた。もっとも、一六二四年にはロンドンの商入は五十ポンド、ロンドン以外の輸出港の商人は二十五ポンドを支
払うことによって入会を認められることにされた。しかし、その後まもなく︵一六三四年︶これらの金額はいずれも二倍に
⑰
引上げられた。
⑳ uJ周窪茜昌。鴇票奉ΩΦω畠一畠審q霞名マお畠農鶴陣。財窪自着陣8翫旨σ身国己駐讐創。・塾じdP圏b石。。云一喩
⑳名・員匿贔。︸鍔。﹃弓冨ぎ胃。冨暮卜穿Φ暮霞霞。。。隔国品︸碧魁二8F題■81ω肇国Φ鉾§㌦富Φ鴫。昌。。三器均。邑。昌響q芝。謬器幽ぼ身。。一
けほ霧堕娼.一㎝c。●
⑳ 冒陽。∼。や鼻﹂暮・曽ひ一局刈●一鞭に見るごとく組合は、王政復古後、星目の激しい圧迫をうけて.反対派の武装を解除するた
めに、入会金をロンドンに対しては十三ポンド六シリング八ペンスに、pンドン以外に対しては六ポンド十三シリング四ペンスに引
下げ.さらに排他的権利の剥奪された名誉革命後は四十シリングとい5名目的な金額にまで引下げた。
このように冒険商人組合はなかんずく高額の入会金によって封鎖された独占体であったところがら、おのずから、国内
における執拗な攻撃を誘発することとなった。組合が海外においてその地位を確立した十六世紀以後において、特にそう
であった。組合の海外における勝利は同時にそれ自身の破滅の種子をともなったのであって、その組織は二七によって激
しく震憾された。そしてドイツ追放令の出たのち数年闇、潜商はその活動領域を占拠し、組合員でさえ独立に貿易した。
組合はハンザの特権的地位を奪い、ハンザ地域に拠点を確保することに成功したが、勝利の成果を携乱されることなく保
持することができなかった。その権利は他のイギリス人によって挑戦された。おおざっぱにいって、十六世細における組
ノ席を譲ったのであった。 、
合を中心としての国民的経済的独立のための斗争は、亥の世紀において、独占的な貿易組織体と自由貿易業者との国内斗
⑳
⑯ 組合の成員数は、時代の異なるにつれて変化した。十六世紀の終りから十七世紀の初めにかけては、三千五百入くらいであったと
幽争
抑えて大過ないようである。ウィーラー︵類冨§♪卜弓同.三無の。bO書屋§ぶ一ひ。ポ︾竃︶は名目上の成員数を三千五百と推計し.
マリンズ︵ヨ舘ヨβ目冨室繊鼻①葛鐸89国8弓醤画ρぴ旨vb●賢︶は三千ないし四千と推計している。しかし、実際に貿易に従事す
るものの数は、これよりも少かったようである。■田彦四年に議会の委員会は、組合員の半分は貿易しないと報告している。成員の
多くはpンドン出身であった。しかし、地方商入も全体としては総成員のかなりの部分を構成したに相違ないと考えられる。たとえ
ぐ。ピ自︾唱b.謡ひf器刈・︶
ばニュ二軍スルは、王政復古後、二百人以上の組合員を擁していた。 ︵江毬。∼目冨羅§さ巨。山露。麸9国pσ。冨巨2ぎ回・Hりや瓢3
⑳ =陽g㌦三魁 3 ぎ ピ F 薯 。 曽 ω i 悼 一 合
⑩
実際イギリスにおける初期自由貿易運動は、主として冒険商人組合をめあてとしたものであった。しかしこの種の初期
自由貿易運動にあまりに深い意義を認めようとするのは、どうかと思われるふしがある。組合がその独占的特権のゆえに
絶えず攻撃をうけたことは事実だとしても、しかもなおそれが十七世紀の申葉までイギリス貿易の一枢軸を形成したこと
を否定するわけにはいかないからである。
⑲ ﹁自由貿易︵陶尾OO け目餌創①︶という語は、十六世紀末における冒険商人たちの爾余のロンドン商入団との斗争にさいして現われたとい
われ、ヨーpッパ大陸におけるイギリスの毛織物貿易に対する冒険潜入組合の撲他的特権に向けられた。爾余の商入たちは、この独
占によって不利益をあたえられたと感じ、その廃止を要求した。自由貿易は当時、組合貿易反対、個別的独占の廃止を意殊した。け
の特権をもたねばならぬということは、何人にも自明の理であったのである。﹂︵誤・Oロ。冒03Ω霧。匡Q犀け①剛窪29試。昌舘α屏。口2巳。物・悼O刈.︶
つして、それによって外国商人と国内商入との平等化を擁護しようとしたわけではなかった。⋮⋮本国人の商業が外国人のそれ以上
組合の主要輸出品はいうまでもなく毛織物であったが、そのぽかにも鉛・錫・革・穀物・ビールなどがあった。輸入晶
は多種多様であってドイツからラインの葡萄酒・フアスティアン織・銅・鋼・大麻・リンネル・火薬などを輸入し、イタ
リアから絹織物やヴエルヴエツト、バルト諸国から亜麻・大麻・ピッチ・タール・木材・皮革・帆柱など、ポルトガルか
ご一
ら香料や菜種、ネーデルラントから綴織およびイギリスで製造されないあらゆる種類の製造晶ならびに手工業晶を輸入し
テユーダー時代の冒険商、人組合
テユーダー時代の冒険商入組合 ご二
た。主要輸出品たる毛織物についてその貿易の発展状況を概観すると、十五世紀末に組合はアントワープへ二二、000
反の白地毛織物を それは全生産額の三分の一にあたった一輸出したが、 世紀後にはその数量は三倍ちかくに増加
し、そのぽかに四〇、○○○反の染色毛織物・ベイ織・カージー織・ダズン織およびその他の下級毛織物が輸出されて、
総価格は百万ポンドと推計されている。一六〇四年の推定によれば、組合の輸出した毛織物は、全生産額の三分の二にお
よんだともいわれている。一六一四年以後は、政府の干渉、潜商の活動およびオランダの競争によって組合の貿易は不振
をきわめたが、それでもピューリタン革命にさいして組合は年々二十万ポンドの輸出をなしていると主張することができ
た。
㊥
◎ 監窟。且。や9∼bマ悼卜⊃刈一Bc。・
このように見てくると、リューカスのごとく冒険商人組合をイギリス帝国の先駆的開拓者となし、その活動にイギリス
ゆ
帝国形成の序曲を認めるのは誇張にすぎるとしても、組合がイギリスの近世的発展に対して先駆的な意義をもつたとの解
釈は、多くの経済誌家にとってぼぼ異論のない通説といってよいであろう。しかし異説がないわけではないのである。
@q”穿。β弓匿しd①如きぎσq・。国国賞募口9①毯器国・蒼窟。・①”レ団邑&忠二﹃Φ自巨覧β§刈●
ノ
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