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イギリス の初期資本主義成立史における冒険商人組合問題
一 郎 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 白 庄 領域で仕事を急がなければならない事情がおこったために、成稿をのびのびにしてきていたものである。 説﹄ ︵本誌第二十八号、昭和三十年十一月︶につづくもので.旧稿につづけて掲載さるべく用意されていたのであるが、その後、別の まえがきi本稿は私の旧稿﹃テユーダー時代の冒険商人組合ーイギリス初期資本主義成立史における冒険商人組合問題への序 杉 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 一 いは潜商、すなわち何らかの特許状の許可もしくは何らかの独占権の保護なしにその貿易をおこなった商人﹂について書 新市場を開拓した墨汁︵葺①弓ξ亀︶ によっておこなわれたというのである。彼は、この時代における﹁自由貿易業者ある れのめざしたところは、e組合員の数を制限すること、口積極的な貿易を少数の組合員に限定すること、㊧優遇された少 ③ 数のうちの各人によっておこなわれる.貿易額を制限することであったからであって、商業の膨脹はむしろ組合に挑戦して 水路を提供した﹂ことを認めるけれども、それはイギリスの商業的膨脹の機関でほなかったと主張している。けだし、そ ﹁エリザ、、ヘス時代を通じて冒険導入組合は、イギリス外国商業の最大にして最も有利な部分にたいする唯一の公認された アンウィンは冒険商入組合の歴史的意義を、リューカスあたりとは反対に、非常に小さく評価している。すなわち、彼は 一 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 二 いている。 ﹁この部類の貿易業者はエリザ、、ヘス時代に異堂に多くなった。.独占特許状が外国貿易の水路をつぎつぎに閉ざ してゆくにつれて、排除された貿易業者や冒険心に富んだ開拓者は潜商になるか、しからざれぽ餓死するかすることを余. 儀なくされた。長いオランダの独立戦争は最初は貿易を全然閉鎖したが、後期の段階においては非常に自由な貿易を蔽い かくすにやくだった。とくにアムステルダムはその繁栄を主としてこの原因に負うたといわれている。そして新共和国は その位置からして必然的にハンザ同盟の致命的な排他性を避け、すべての国の貿易業者を自国の市民と平等の資格におい て歓迎するにいたった。冒険商人たちがアントワープを終局的に捨ててからこのかたずっと支醗してきていた混乱状態を 通じて、イギリスの毛織物輸出の大部分はイギリスの潜商によってオランダやドイツの港へ運ばれていた。これらの港は 独占制度にたいする安全弁としてやくだった。そして政府に提出された統計においても実際上そう認められた。独占者た ちが放逐されたとき、潜商たちが急いで空地となった企業分野を占拠したのである。﹂ O・唱・﹃蓉9撃.欝㊦]W①α身ヨ巳二尉鼻塞昌旭一昏○<①話。霞目ヨ覧き“b口器罫α①ぎ爵。国已℃罵9おミ・前掲拙稿参照。 ねをすることは、貿易商人にふさわしい行為とはいえず、豪商の権威にかかわる乙とがらであり、かつまた外国商人の好意を獲得 易に手に入れることができる。要するに、冒険商人の判断においては、外国で毛織物をあちらこちら売り歩いて行商入のようなま るに、ステープルが存在すれば、ネーデルラント、ドイツ、イタリアカよびハルト諸国から商入が集ってくるために。外国品を容 に売手にたいし優位にたち、しかも必要なだけしか買わないであらう。これに反し、卸売商人は﹁時に多量の仕入れをなす。加う ってきたとしても.その国の必要とする数量は増大しはしないであらうQもし毛織物が買手の戸口で売られるならぽ、買手はつね ることのできるような権利を要求した。これにたいして組合がわは主張したQたとえ毎日晶々あらゆる港や入江に輸入毛織物が入 出たちによって鏡く攻撃された。彼らは.それぞれの国のどの地方にカいても貿易することができ.かつ小売業者と直接に取引す 拠地︵HP帥圏け けO堵]P︶に限定した。そして、 その代徴として彼らはそれぞれの国にヵいて特権をあたえられていたQこの制度は反対 Hσ箆ニサδQ。■1冒険商人組合の貿易制限についていま一つ補っておくと、組合はその貿易をネーデルラントもしくはトイツの根 Oqβ乱臣温室寓①ま冨罫卜匙く9冒貯話話、○。藁屋鎚言忌。謁①置昌9臼田N暮9﹃お一ω.ωε象。。。一己国8葛巨。国奪。考−b.苗? @@@ する所以でもないのであった。 ︵国・ピぢω。P弓︸δ国8βo旨一〇同旨馨自濱oh一三σ身汐昌3︿o溜デ薯.陪ωq⊃1節ムP︶ ④d賢乱p。や簿.闇題幽Pミー撃。。. しかしながら冒険虫拳組合が十五世紀以来イギリスの毛織物輸出を中心とする外国貿易の枢軸を形成していたことは、 否定さるべくもない。なかんづく、十六世紀後半イギリスにおいては、周知のごとく、毛織物輸出を基軸として諸種の貿 ウィンも認めているごとく、一面において、冒険商人組合の獲得してきた毛織物輸出貿易の独占権を蚕食していったが、 易カムパニーi國庫ωω猷Oo乙6Q冨帥冨O。3国守年舞qOρ︺ごω<節H許Oρなどーーが設立される。これらのカムパニーは、アン ⑤ ⑥ ⑦ 他面においては、それらはすべて冒険商人組合と内的連関をもっていた。けだし大発見以来、新方面への突進にもっとも 熟心であり有能であっのは、冒険商人たちであったからである。 dβ舅冒“Oo皆旨。器①窪湊90島頃騨馨ぎ醒蚤貯㊦望。鴛①ゴ邑5二二轟︵6δyε・¢熔。曽やω曽. を養成したという事実を指適した。ウイーラー︵毛冨①す..卜津雷憂①亀9星琴門。。二①OゴΨω︶は、 ﹁それから、人材に富んだ養 U。・噌琵お冨霞。罫ぽト飾く㊦冒⇔霞。歪.O。冒卑昌ざ。b・9け“唱づ・苅轟﹁P∼−冒険商人は、誇りをもって、組合が﹁利口で経験のある﹂商人 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 三 網.臣ω匡。¥匡8砦巴冒○同σqp巳美唄。P︸︶・N。。.ーフリースも.エリザベス時代におこったイギリスの商業革命を冒険商人組合の活動 険商人組合攻撃の一論拠を提供することになる。 一 ことにもとつく。しかし、この相違ぱ、後に、冒険商人組合以外の諸カムパニ;が自立的な発展をとげるにおそんで、それらに冒 ルトガルだとか、あるいはレヴァントといった、白地未仕上の毛識物で.はどうにもしようのない後進諸国への輸出に従事していた 緊㎝c。・︶。勿論、それは冒険商人組合以外の諸山ムパ・占一が、たとえほ・シアだとか、イーストラントだとか、スペインあるいはポ ニーか染色して仕上けた毛織物のみを輸出した点てあったQ︵卜ω霜㌶蜀ヒ=∬卜廷。匡昌窪O。畠遣馨ゴ勺窓寄。蜜藍夢①⊆9F.一、壁号二q⊃酌さ つの重要な相逢点があった。というのは、冒険商人組合が白地未仕上の毛織物の輸出を枢軸としていたのに対して.他の諸カムパ かくしてエリザヘス時代の貿易ヵムパニーは、多くの点において.冒険商人組合の複製版であった。しかし両者のあいだには一 はこの組合から政策と貿易の光と模範と形式とをとってきた﹂と書いている。 ︵ごξm8︸。︻︶●皇こやNωN・︶ 成所からのように、この国のほとんどすべての主要な商人が湧きでて出世した﹂、そして﹁これまでにできたカムパニーは大部分 @@ ⑦ イギリスの初期資本主義成立史における冒険商入組合問題 たちも真実に冒険者の称号にあたいした一進取的な商人たちによって開拓されたものであった。しかるに一五七五年から一五八 ントやモロッコとの貿易は、すべてのイギリス人に開放され.多くは下層階級出身であって一故国に近い市場の団結じた独占者 ⑨ ﹁冒険商人の独占権は、4ただロー.カントゥリーズとドイツとにわよぶにすぎなかった。スペインやバルト諸国[、ヴェニスやレヴァ ③ d昌朝官︸日冨零2。冨算b牙Φ曇籠。窃、O。営葛ξ︸ε●afb9お。。● 領域の友.好的分割をなし、ひとしく熟心に自由貿易業者を制圧しようとした。 の冒険商人たちと競争することができた。しかるにイーストランド・カムパニーは、設立にあたって冒険商人組合と活動 前においては、バルト貿易に従事するイングランド東部の多数.の貿易業者は、ドイツや事跡三目ソバへの輸出業者として それは組合外の自由貿易業者の競争を阻.止する手段としてもやくだった。たとえばイーストランド・カムパニーの設立以 組合を、その若餅の成員に投資すべき新貿易独占を提供することにより、成員の増加のもたらす圧迫から解放した。また さしつかえないくらいのものであった。新カムパニーの形成は、二つの方法でもって旧組合の独占を補強した。それは旧 れを冒険商人組合を支配してきたと大体おなじ勢力のもとにおくにいたった。実際それらは冒険商人組合の枝条と考えて ⑨ 易の実質的拡張を意味するものではなかった。それらは輸出入の新水路を開発するかわりに、現存する水路を制限し、こ しかしアンウィンの見るところによれば、冒険商人組合と内的連関をもった独占下民ムパニーの設立は、イギリスの貿 ⑧ ら駆逐するについてイギリスの毛織物商人がくりかえしおさめた成功に由来するものであった。﹂ ︵淳二。・三ワ騨こ薯.ま1轟N・︶ インドや支那や未知の国々への通路を求めて北や南へ旅行した。乙のような冒険的な航海をなす能力と資力は、外国商人を市場か たちは、大部分はおそらく貴金属や高価な香料を獲得するために、しかしまたできれば毛織物にたいする新市場を見出すために、 に自暴を表明しつつある膨脹によって、とりかわられた。ロシアやトルコが今やイギリス商業の範囲内にはいってきた。貿易業者 ベリア半島との古くからの貿易の急速な成長、および、ヨー・ソバの最遠隔諸地方との貿易関係を開始するにいった大胆な新企業 に関連づけて.いっている。 ﹁もっぱら・i・カントゥリーズに集中していたイギリス.商業の以前の発達は、今や、プロシアやイ 四 八年にかけて、外国商業のこれらの部門はいずれも、冒険商人の型にしたがって形成され一かつ同じロントン人のグループによ シンテイケート 、 って支配される一特許組 合によって独占された。L︵百︺三P謬宵○量9ぎ昌叶。窪㊦匡鴛ζ国詳σq冨け09け自H轟塁貯翼ξΦ8起。 ≦.じp三¢﹃一鴇9b■諸客く=●︶ かくしてアンウィンは、新カムパニーの設立といえども、それが冒険商人組合の立合とまったく同様に自由貿易業者の であったからして、 ﹁国民的商工業の犠牲﹂を基礎としたものであったと見る。 排除を含意したかぎり、そして自由貿易業者の圧追はこれとむすびついた製造業者の失業と破滅を必然的に随伴するもの ⑲ ⑩dβ三ぎ昭冨匡①三笛旨b無くΦ馨霞①凄、O。暴膨ξ︸。℃.簿二一﹄δ● しかし、おもうに、独占制度によって強制された犠牲は、当時としては余儀なき悪であったのではないか。当時の貿易 は通商路と外国根拠地との確保という点から見ただけでも、政府の保護を必要とした。そして、この保護のために必要な 統制は、当時としては、独占特許という形をとらざるをえなかったのではないか。この段階において国家の無干渉政策が 採用され、イギリスの貿易が自由貿易業者に放任されていたならば、どういう結果になったであろうか。毅鑑遠からず、 ドイツのハンザ商人の揚合がその例証である。 おもしろいことに、ハンザ商人の場合についてはアンウィンもつぎのごとく書いている。﹁十六世紀のドイツにおいて なんらの有機的国民的統一も存在しなかったことが、疑いもなく、ドイツの商業衰微の第一原因であった。しかしてハン ザ同盟の古くさい要求の頑強な主張はーー1全体としてのトイツの国民生活となんらの有機的連関をももたなかったが一 国民的統一を生みだしはしなかったであろうし、またドイツの貿易の凋落を防ぎもしなかったであろう。﹂︵目三幽妙サ国U.︶ これに反し、彼は、 ﹁内部的有機的な国民的統一の成長は、十六世紀におけるイギリスの経済的進歩の決定的原因であ った﹂となしている。もっとも、そのさい彼はつぎのごとくつけくわえることを忘れていない。すなわち、 ﹁国民の権威 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 五 イギリスの初期資本主嚢成立史における冒険商人組合問題 六 と行政部の政策は、その成長の根抵ではなかった。テユーダー国家とテユーダー政策は、なるぼど、国民的統一を演出し ようとする最初の未熟な試みではあった。しかし、その演出はすでに議会と人民によって問題にされ、結局は無効にされ 信用されなかったのである。﹂︵H三9・ゆ℃幽Pぴ・︶ アンウィンはおそらくテ.一iダi絶対・王義と入民の要求とのあいだに存在した距離を念頭においているのであろうが、 ⑪ 遺憾ながら歴史は絶対主義の段階を経過することなしに民主主義の実現された例を知らないといってよい。してみれば、 絶対主義を初めから単に慶価してかかるのは、真実の歴史家の態度とはいえない。 ⑪この点についてくわしくは拙著﹃絶対主義論﹄二八−九頁および二五五−六頁を参照されたい。 アンウィンは冒険商人組合と内的な連関をもった独占諸カムパニーの成立が自由な貿易業者の市場開拓の成果を前提し ていた側面を強調しているが、その成果がイギリスに確保されるためには、それがいちど独占特許制度によって国家的 に組織されることが必要であったのではなかろうか。自由な貿易業者の活動も少くとも一部分はハンザ商人の駆逐を前提 としていたといわるべきところがあったのであり、ハンザ商入を駆逐するためにはどうしても国家権力の介入が不可避で あっためだからである。勿論、国家権力介入の媒介者が冒険商入であって自由貿易業者でなく、前者によって後者の開拓 者的努力の成果が塑断されたところに問題があると、いわれるでもあろう。公正という点からいえば、たしかにそうであ る。しかし、だからといって、権力と結びついたものの歴史的意義を初めから疑ってかかるのは、飛躍であろう。自由な 貿易業者は独占制度のゆえに﹁潜商﹂とよばれたのであるが、潜商の活動は独占組織体の活動成果を前提としていたとい わるべきところがないではなかったし、その抑圧が直接に商工業の不振にみちびくわけのものでもなかった。してみれば 自由貿易業者との対立において、冒険商人組合がイギリスの外国貿易およびその基礎たる国民産業にたいしてもった意義 を否定しようというのは、妥当な歴史解釈とはいえないように思われる。 ⑫ ﹁冒険的商人はイギワスの貿易の発展に大きな役割を演じたが、彼らの獲得した利益が彼らの加えた損害を凌駕するかど5かは、 意見の一致の見られそ5にない問題である。⋮⋮組合にたいする告発状を作製することは容易である。けれども批判の多くは性格 ⋮⋮ロンドンが貿易の多くを吸収したことは真実である。しかしロンドンは、いかなる場合にも.ドイツとの貿易の自然的な港と 上空論であり、歴史上の問題の取扱いに現代の概念をもちこんでいる。 ︵O輪・d高≦旦oQε象窃9国。8。邑。司蓉。蔓・暮二ωω・・㊦ρ・︶ であらうと考えるのが合理的である。潜商は貿易の﹃統制﹄ ︵.閉口①三江①暮.︶ には反対ではなかった。彼らの行動は実際的考慮に して、そうしたであらう。また外国貿易の大部分が少数の手に集中したとしても、このことは自由貿易のもとにおいてもわこった スペインとの戦争によって惹起された結.果と、冒険商人がなおその特権をもっていたジェームズ一世のもとで貿易が復活した事実 よって影響された。⋮⋮エリザベスの治世の晩年をくもらした不況を、組合によって助成された﹃独占の精神﹄に帰することは、 とを.無視することである。::冒険商人の地位は、全体としては、初期の諸世紀における伝統的な社会構成との関係において見 国冒ひ。尾ヤ。出頃⇔σqげ目Pく巳・蓼bや鵠。。一勧①り.︶ られなければなちないのであって.我々がすでに離れはじめている標準にかかわらせて見てはならない。﹂ ︵静思。酒樽8β。崔冨 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 七 それから外へとの−t資本の流れ﹂を実現しようとする傾向は、議会や枢密院を利用する反対勢力によって妨害されたが、 されうるのであり、かつ工業の膨脹にとって一層重要である。﹂ しかるに、このような﹁下へと上へとの一工業へと、 ⋮︹しかし︺反対の方向における−工業から商業へという上へのi資本と信用の流れも、まったく同様に明瞭に証明 であろう。おそらく、商業から工業への内へ向う流れが、 一層注意すべきものとして、第一に考察されうるであろう。⋮ が一工業から商業へという外と上とへの流れと、商業から工業へという内と下とへの流れとが1容易に認められうる 業にたいしてもった積極的意義を否定して、いっている。 ﹁+六世紀の織物工業において、資本と信用との二通りの流れ 冒険商入組合にたいしてひどく非同情的なアンウィンは、また、それが十六世紀におけるイギリス産業とくに毛織物工 二 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 ③ しかも、その反対勢力の一つとし.て冒険商人が.あげられねばならぬ、 きをもっていたもののごとくであることは、後に見るとおりである。 と。 部面においては、冒険商人ではなくて、むしろ、潜商としてこれに対立した自由貿易業者の方こそが、問屋制商人との深い結びつ この展開は、冒険商人を問屋制商人の同盟者として固定する教授独特の解釈を基礎とするものであるが、しかし、少くとも貿易 努力しているのである。﹂ ︵大塚久雄編﹃資本主義の成立﹄.経済学新体系E、一四一−二、一四三頁︶ をもってしては扱.いきれないまでに成長した新しい経済的利害をばなおも旧い取引機構のうちに押しこみ、それを押しつぶそうと 利害に従属する新しい商人層の形成、 こうした事態に対処してマーチャント・アトヴェンチ瀞、ラーズ組合は、 自らの特権的独占 の すなわち.産業資本としての織元︵いわゆる農村の織元︶の成長と、かれらを起点とする近代的商業信用の展開、そうした経済的 ごな。・。望6げ①固8昌。巳。国δざ曙。h国昌槻心証幽噛自︸サMお︺を排除しようと努力をつづけていることのうちに浮彫的に示されている。 してでなく.すべての新米がやるように手形によって乱§爵Φ①饗︸園丁。。。︵一e ①巳 Oコ O円①魁一α︶取引しようとする貿易商入﹄︹国. 展開を阻止しようとし、そうした﹃儲けの少い取引の仕方﹄をさけるために自らの組合員の中から﹃自分の資金。・8鼻をもとに 絶対王制の主要な財政的保量を形づくっていたあのマーチャント・アドヴェンチャラーズ組合がこうした近代的商業信用の系統的 のは避けかたいことであった。そのことは、だとえば、問屋制商人︵いわゆる都市の織元︶の生来の同盟者であり、且つイギリス 産者︶に基礎をおく経済的利害の体系を下から揺さぶり、さらに前期的利害を背後から支える絶対王制と真向から対立するに至る る。﹂ ﹁ところで、こうした近代的商業信用︵生産者←商人︶の諸系列の力強い展開は、当然に旧来の前期的前貸信用︵商人←生 ける信用授受1の系列がしだいに形成され、 それも単なるび8ぎ。話q詳からようやく商業手形の授受という形式をとりはじめ なりゆくにつれて、その上層をなす産業資本家︵マニュファクチャ主︶層を起点に近代的商業信用一−生産者←商人の方向にお ﹁十六世紀申葉あたりから、中産的生産者層の一部が商人の問屋制前貸支配をはねのけて経営的に独立する傾向かいよいよ顕著と はつぎのごとくである。 do乱炉。b・鼻.w薯.お轟一お9iここに見られるアンウィンの解釈は、大塚久雄教授によって一層明瞭に展開されている。要旨 入 つめられている。しかしながら、この段階においては、毛織物工業の発展にとり重要なのは、資本がそこから流出してゆ アンウィンの注意は、もっぱら冒険商人組合の貿易独占、なかんづく、それが生産者を輸出貿易から排除した点に、あ ⑬ くことよりは、むしろ、そこへ流入してくることであったのではないか。毛織物工業資本が外延的に貿易資本化するより は、内包的に自己を充実すべき段階であったのではないか。そして、その観点から見れば、冒険商人組合の独占も、さし て毛織物工業の発展を阻害しはしなかったといえはしないか。のみならず、ヒの観点からすれば、冒険商人組合の毛織物 工業にたいする関係の見おとされているいま一つの局面が表面にうかびあがってくるであろう。というのは、毛織物工業 へ流入する資本の源泉として、目険商人のはたした歴史的役割のことである。 アンウィンは、 一方では正しくも、毛織物工業における本源的資本が商業に由来したことを認めている。彼はその例証 としていっている。 ﹁ノリヂやハリファクスの市揚において織物業者に羊毛を供給した仲買人の、禁止された職業を合法 化するために可決された条例から、我汝は、これらの重要な中心地方においては、独立の製造業者という階級の大多数は 出世の緒を、羊毛商人によって提供される信用に負うたと、推論して誤りでないであろう。﹂. 、 ⑭d⇔乱p弓冨竃葭。ゴ昇︾穿。匡=同.①湊.O。日窟薯噛。マ鼻こや山岨お・ しかし、毛織物工業における商人の生産者援助は、単に羊毛商人に限定さるべきことがらであったのであろうか。羊毛商 人の毛織物業者におけると同様の関係が、毛織物商人なかんつく冒険商人の場合には、まったく見られなかったのであ ろうか。歴史的には、羊毛商人と毛織物業者との関係は必ずしもつねに非対立的であったわけではない。少くとも一部分 は両者の対立を基礎として、十四世紀以来、羊毛商人にたいする営業の制限と禁止がくりかえされていた。羊毛商人の自 ⑮ 由が確立されたのは、やっと十七世紀の初めにおいてであった。にもかかわらず、アンウィンは正しくも羊毛商人にたい して深い理解をしめしている。それだけに、おなじような理解がどうして毛織物商入にも向けられなかったのか、不可解 である。はたして史実が認められないのか、それとも一定の先入見がそのような皮実をたずねさせなかったのか。十六世 紀に関するかぎり利は、さきに、先入見なしにアンウィンの叙述している史実そのものを検討してみるならば、冒険商人 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 九 イギリスの初期資本主養成立史における冒険商人組合問題 一〇 組合がイギリスにおげる毛織物マニュファクチャの成立を妨害するものでなかったことだけは、これを論証しうるという ⑰ ことを、あきらかにしておいた。この関係は十七世紀にはいってもなおつづく。 ﹁羊毛をあらかじめ買約し、それを集め、かつそれを掛で供給したり、あるいは必要になるまで預っておいたりした仲買人は.羊 円冒蕩opbのぎ巨国冨け。弓団。隔零。巳9昌盛詳ω賓窪,蕊饗ぴ霞①工8ω二︶や玉一δ・ 戸鵠q⊃●︶ ﹁羊毛の生産者と消費者との相互の接触を維持するために、多種類の仲介者の奉仕が必要とされた。実際.彼らの援助 毛と毛織物との小生産者たちのあいだの不可欠の環を供給した。﹂︵d5三P田干国§。曙窺押書9。盛ζ量馨3二昌ω輻角。︸ぎ。や。審讐 の階級は成立しえなかったといって、さしつかえないであらう。﹂ ︵∪。こQ。ヨ夏霞8騨巨幽O。ヨ暫胆①宣ψげ即ぎ毯。霧①、。・国王駐諺辞。b・ がなかったならば、インプラントの産業的繁栄にきわめて大きな貢献をなした独立小製造業者︵冒動ε㊦民①碁。。ぎ諺巨弩犀蜜暮巳零。・︶ 9£亨ω一9︶ 拙著﹃資本主義成立史の原型﹄第一分冊一七五頁以下。 ⑱且寝。夢日冨国8琴巳。空のざq9国凝蜀巳”<。ピ﹃℃﹄お・ かならなかった。 織物工業における産業資本の利害を代表するものではなくして、独占から排除された商業資本の要求を表現するものにほ 晶をごく少数の手中に独占させるので、すこしの好意にもあたいしない﹂と宣言した。しかし、この批判は核心的には毛 ⑮ よって作製された自由貿易に関する有名な報告は﹁この組合は一切の独占の源泉であり、かつ毛織物という最高の重要商 経済界を震徳させた反独占運動であった。この運動において、組合は激越な批判の対象となった。同年、下院の委員会に 冒険商人組合が十七世紀にはいったとたんに迎えなければならなかった大事件は、 一六〇四年に勃発してイギリスの全 三 @ c) @一 反対者たちの主張するところは、およそこうであった。名目上の組合の成員数はーー徒弟をふくめて!心地になるけ れども、組合の支配は、貿易の大部分が二百入をこえない小集団によって取扱われるように、とりおこなわれている。こ のような独占体として、それは自然法に矛盾する。なんとなれぽ、 ﹁すべての自由な臣民は生まれながらにしてその勤労 の自由な発揮にたいする権利をうけつぐ﹂からである。また、それは国際法に矛盾する。けだし他の国汝は、自分たちの 問ではこのような独占的な交易方法を回避し、我汝のそれを憎悪するからである。さらに、それはこの国の実定法に矛盾 する。けだし、この国の法律は従来この組合をしかく独占的なものとして取扱ってはこなかったからである。この独占に よって惹起された禍は﹁イギリスのすべての毛織物業者のさけび﹂によって証言される。けだし毛織物業者は冒険商入以 クロシア ズ 外にその毛織物の捌けロをもたないので、冒険商人は共同の謀議によって、欲する時に、欲する数量を、欲する価格で買 うことができるからである。このような弊害をともなう独占は廃止されて、貿易は自由に公開さるべきであるが、貿易の 公開はまたロンドンと地方とのあいだの冨の一層平等な分配を促進して、国民の安定と勢力と、を増大するでもあろう。け だし国民の安定と勢力は、少数ではなくて多数の臣民の富に存するからである。 ⑲ ⑲閏。羨Φ。hO婁臼。塁象旨琴一・・冒ゴ蝕。。一国9自g$寓℃ψ。葦。マ臥ゴ薯■撃ω一号轟■. 反対者は、また、冒険商人組合が市揚を供給過剰におとしいれないことによって海外における商品価格を維持するとい う主張を、圧制的な独占の告白と解した。彼らはいった。もし組合が外国におけるイギリス商品の価格を維持したとする なら、同様の術策はイギリスにおける外国商品の価格維持にもやくだったであろう。のみならず、もし貿易が公開される ならば、外国市場は供給過剰となって、外国におけるイギリス商品の価格は下落するであろうという議論は、十分の根拠 をもたない。﹁商人はまずその商品を本国で買わなければならないが、多くの買手のあるところでは商品は高くなるであ ろう。そして本国で高く買うので、彼らは外国で高く売らなければならない。けだし外国にわが商品の一層大きな供給過 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 一一 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 一二 剰があるであろうというのは、真実ではない。売手は多いでおろうが、売られる商品はほぼ同じであろう。⋮⋮物を安く するのは商品の霧多であって、商人の多数ではない。﹂ のみならず、貿易が自由である場合には、 ﹁活動的にして勤勉な 精神﹂が新しい市揚をさがしだし、一層多量の販売をなし、﹁一層すみやかに金銭をかぎつける﹂であろう。したがって 供給過剰の危険はもっとも少くなるであろう。かくして﹁商人の多数﹂ということぼど貿易の改善にやくだっものはない のに反し、貿易の制限は貿易を阻害するばかりでなく、生産を制限することによって﹁新しい製造業の発明﹂にたいする 非常に重大な制限であるとされた。 ⑳閏。易。。隔9巨馨霧q窪導p︸の獄島お二弼9&=寝・昌”ε6。3唇﹄δ一Dホ・ 冒険商人組合のおこなった貿易制限方法のうち、生産の制限にみちびくものとして、もっともひどく非難されたのは、 ステイントの寓暮︵取引割当︶制であった。 ステイント制の名目上の目的は機.会の均等であった。すなわち、それは富裕な 大商人が貿易を独占して、弱小の商人に機会を残さないというようなことのないように、しょうとしたものであった。し かし、この政策は毛織物業者の嫌うところとなった。彼らは、それは人為的に彼らの外国市場を制限すると信じた。これ に答えて、ステイント制の定める数量は組合鮎貝が現実に輸出する額を超過しないから、それは製造業者に損害をあたえる ことはないど、議論された。ウィーラーのごときは、一六〇一年に組合員は割当額の半分しか輸出しないと評定した。こ 一六〇四年の自由貿易運動は失敗にお の答弁は事実をものがたっていた。しかし、その反面に、それは、組合員が割当量をさえ輸出することができないという ⑳ ことが事実だとすれば、なぜ組合外の商人の貿易を禁止しなければならないのかという批判をさそう余地を残していた。 ⑳冒場。炉ε.。ヨ題.MωNlDω。。. しかしながら冒険商人組合にたいする以上のごとき峻烈な批判にもかかわらず、 わり、翌一六〇五年から一六〇七年にかけて組合は特許状の再確認をうけた。組合がわの弁解が結局において当局を説得 したわけである。そのさい、ウィーラーあたりが組合組織の独占的性格を否定してかかったのは、事実とくいちがってい た。わかい商人の進出はきわめて困難にされており、二十六人ばかりのごく少数のグループが全輸出の約半分.を支配して いたからである。しかし、この少数のグループが組合を支配していたとは必ずしもいえなかったかぎりにおいては、ウィ iラーの弁解は至当であったといわるべきところがないではなかった。そして、そこに、組合が反独占運動を生きのびえ ⑳ た一つの根拠があった。しかし一層決定的であったのは、貿易関.係がまだイギリスをして特許組織の廃止を可能ならしめ るような段階には到達しておらず、特許組織はまだ国内産業の発展と両立しないような雪隠に転化するまでには至ってい イギリスの初期資本・王義成立史における冒険商入組合問題 =こ ちの↓人がちょ5固年次選挙のおこなわれるときに大陸の本部所在地にいあわしたというようなことのないかぎり、 一切の影響力 動的.な冒険商人の三分の一を包含する最下層のグループは、そしておそらくはそのつぎのグループに所属する人々もまた、そのう おそらくは全然貿易しない冒険商人たちに支援されて、組合を支配する二とができたであらうが.しかし上述の規定によって、活 有利であった。けだし.それが・ンドンに移されるやいなや、数的には強力な一小規模で貿易、する一−商入たちの諸グループが 勢力を発揮することができた。それゆえ本部所在地を大陸にとどめておくことは、いうまでもなく、富裕な商人たちにとって最も たちはこのようにして彼らの議決権を大陸つ本部所在地におけるその代理商に委任し.かっそのよ5にして組合本部の選任.にその て︶は.もし彼らが主人の代理商であり代理人であったならぽ、組合の会議において議決権をもっていた。ロントンの富裕な商人 になった後も.この規定か維持されたことは、 一見したところでは、 いくらか不可解に見えるであらう。 徒弟︵使用人をふくめ ロンドンに移され、大陸のステープル・タウンでは組合は主として徒弟や使用人や少数の独立した代理商によって代表されるよ5 ブルク、以後はハムブルク︶であったので、総裁と二十四人の理事は勿論そこで選ばれた。と二ろで、組合の活動中心がまったく 事とからなる本部が組合を主宰していた。本部の主要な所在地はなお大陸のステープル・タウンの一つ︵=ハ一二年まではミデル 強かったのは中規模の貿易の代表者たちでめったという強い印象をうけとるであら5。 ⋮総裁とその代理者および二十四人の理 ﹁もし我々が十七世紀の最初の十年間に制定された新しい諸規定を吟味してみるならば、我々は、組合において影響力のもっとも なかったという事情であろう。, ⑳ イギリスの初期盗本主嚢成立史における冒険商人組合問題 一四 を奪われていたからである。というのは、勿論.彼らのおこなっていたような小規模の貿易は、外国の海港に恒久的な代理商をお くの費用を支弁することかできなかったからである。しかし、きわめて富裕な商人たちも組合を支配しなかった、彼らはその数が 一層ちかいであらう。﹂︵蜀島宣。覧.。罫箸・。。O−Q。P︶。 ﹁十七世紀の.初めにおいて組合の支配的勢力をなしていたのは中規模の あまりに少かった。権力は、おそらくは、中規模で貿易する商人たちを包含する諸グループの手中にあったと考えた方が、真理に l.︶ ﹁もし組合の本部が、おそらくは、組合によって定められた線上を空手で懸命に前進していこうと欲した人々にたいして、事 貿易をいとなむ商人たちであったとの推測は、この時期における組合の立法活動を考察することによって確証される。﹂︵囲露qこ弓■ ければならない。やっと生命を維持するにたるにとどまるほどの一−そして組合の大きな腕か保護するがゆえにのみ続けられうる 柄をあまりに困難にしたと非難されうるとすれば、他方ではそれは、それが中間のコースに針路を向けたことについて賞讃されな とではなかったであらう。中規模の貿易をいとなむ、かなり多数の商人のあいだに貿易を分配することは、疑いもなく、イギリス ような一貿易をいとなむ怠惰にして無能な商人たちのための寝床に組合を変えてしまうことは、イギリスの商業を前進させるこ の商業生活にとって最も有利であった。もし冒険商人およびその他の.大慶ムバニーが存在せず、かつある程度において資本主義の の時期に、イギリスの輸出貿易の重要諸部門の全面的支配を纂書していたであら5。それゆえ同時代の人々や後代の人々が資本主 発展にたいする抑制者として行動しなかったならば、自由にしうる多量の資本をもった少数の商人たちか、疑いもなく、すでにこ 義を促進したことについて諸カムパニーを攻撃したのは、まちかいであった。実際は、それらは大規模の資本主装を阻止したので あった。これに反しドイツで・はそれらの急激な成長が十五世紀末から十六世紀にかけてこの国に償うことのできない害悪をあたえ たが、それは少数の手中に集められた資本が無茶な企業に投下され、実りのはるかに多い貨物貿易の犠性において貨幣貿易に強力 注意するまでもないと思うか、ここでフリースが冒険商人およびその他のカムパニーが﹁資本主面﹂を抑制ないし阻止したとい ・な刺戟をあたえたからであった。﹂ ︵H三山・層薯■8一おP︶ 四 生産にかかわりをもつものではな﹁い。 う場合、それは右の叙述からも容易に推測されうるであら5ごとく、巨大資太・の圧倒的支配といったほどの意味であって、資本制 ’ 。。 一六〇四年の自由貿易法案は無考にたいする潜商の敵意を基礎としたが、.潜商のこの敵意はもともとイギリスの貿易の ⑬ 大部分を独占するロンドンの商人にたいする地方の商人の怨恨によって鼓吹されたものであった。.約言すれば、冒険商入 って、枢密院はなにごとを討議するにさいしてもつねにこのことを念頭においていた。﹂ ︵国良μob.9什こb・一鳶曜︶ な考慮を誘引したかも知れないが、しかしこれらはすべて議会における地方輸出港の大きな政治的影響によって相殺されたのであ 商人にあたえられた諸便宜、富裕なロントン商入にたいする国庫の部分的な財政的依存、これらは彼らの要求にたいする一層大き には彼らは.それが指摘されるやいなや、その誤謬を是正しようとする用意をつねにもった。枢密院と連絡するについてロントン を侵害するのを避けよ5と試みた。おそらく、無智から、彼らはその利益を害するようなことがあったかも知れないか、その場合 ちのあいだに彼らの正当な要求と願望に耳をかたむけるの用意と意志を見いだしたか、同時に枢密顧問官たちは地方輸出港の利益 大部分はロンドンに集中していたのであるが一に依存するかをよく知っていたQこのゆえにロントン商人はつねに枢密顧問官た す。枢密院顧問官たちは国の真の福祉にたいする自分たちの責任をふかく自覚しており、かつそれがいかに多く外国貿易l−その らの利益についての一切の考慮ないし理解をかいた地方輸出港の衝動的な感情的といってよいほどの覚派心を我々は下院に見いだ 彼らの正当な要求の悪婆は単に彼らにとってだけでなく全国にとって大きな危険をもたらしうるはずであったにもかかわらず、彼 ﹁イギリスの貿易が前代において勝利ある進歩をなしとげえたのは第一に・ントン商人のおかげであったにもかかわらず。そして 組合にたいする攻撃の背後にある推進力は、この牛合にも、ロンドンにたいする地方の嫉視であった。 た。 ⑳ 国§器。出Oo巨含。暴き再β95一.曇。。℃口障ρ琶9銭﹃ぢ。。oギ。や塩け・“緊Pお. イギリスの初期資本主嚢成立史における冒険商人組合問題 一五 として聞かれないではなかったけれども、彼らは通常は背景にしりぞいていたのであって、地方こそが斗争の先鋒であっ ⋮そしてロンドンの商人の三分の一かおなじ不平に声をあわせている﹂といわれた。たしかにロンドンの潜商の声もとき されたとき、 ﹁イギリスのすべての口入がロンドンの富裕な商入による貿易の独占と制限にひどい不平をいっている、⋮ といって、冒険商人組合にたいする反対が地方にかぎられるものでなかったことは無論真実である。法案が下院に提出 ⑬ イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組含問題 ︸六 もともと華商の城塞は西部イングランドにあった。そして自由貿易運動は、その起原を、首都の経済的支配を排除しよ ⑳ うとする地方の決意にもった。たとえばブリストルは、以前は南ヨーロッパとの貿易で栄えていたが、十六世紀末からロ ンドンに圧迫されて衰微に早った。なかんづく致命的であったのは、ブリストルを輸出港としていた毛織物製造奥州にロ ンドンの資本家が進出してきたことであった。彼らはその資本力にものをいわせて信用授与および低運賃の便宜をあたえ ることにより、ブリストルの十マイル以内にあるその顧客を奪いさった。そのためにブリストルの貿易業者は外国市場か らとおなじく地方市揚からも騙逐されたのであった。スペインとの戦争は彼らの困難を加重した。その結果、彼らはしば しば国王ーエリザベスやジェームズ一世一に訴えて、 pンドンの質入にたいし自己の地位を擁護しようとしたのであ つた。そして、このような背景のあったかぎり、自由貿易運動を毛織物工業の利害に直結させるのは早計である。 ⑳ 康蕊。♪書●o一叶こ℃●卜﹂お㊤ ⑳H三P暮■D紹一謡ω. 分が資本として工業企業に投下されるという事情があったうえに、セヴァーン河という原料や製品の輸送に便宜をあたえ それは、この地域がイングランド第二の海港たるブリストルをもち、それを中心とする商業によって蓄積された富の一部 イングランド西部は、産業革命期までイギリス工業の名声がそれに依拠していた広幅毛織物製造業の中心地であった。 づくイングランド西部の都市で麦賜餐であった問屋制商業資本としての毛織物業者のことであった。 は事実であった。しかし、そこにいう毛織物業者とは、純然たる産業資本としての毛織物業者のことではなくて、なかん 一六〇四年の反独占論争において、冒険商入組合の反対果たちが毛織物業者︵O一〇け一ρ一㊦目ω︶の利害をひきあいにだしたこと 五 るとともに毛織物工業地域と輸出港とを連絡する便利な水路があったからでもあり、さらに、この地域は良質の羊毛を生 出していたからである。 産し、それでもってネーデルラントやフランスおよびドイツの需要する高級な毛織物を織って、それをこれらの市場へ輸 ⑳ =葛。♪ε.9叶こ緊8. ところで、この西部において毛織物工業を直接に支配していたのは、問屋制商業資本としての毛織物業者であった。す なわち﹁西部の毛織物業者は、ヨークシャーの毛織物業者と異なって、 ﹃産業革命﹄以前にもちいられた文字どおりの意 味での製造業者︵9目窪自簑二八︶、すなわち自分自身の手でもって仕事をする人ではなかった。製造業者は勝義において は織布工︵≦Φ碧①屡︶や毛織物仕上工︵象夢出三。・冨凄︶であったが、毛織物業者は企業者の機能を引受けた。すなわち彼ら は産業を指揮し、その細部の遂行を他の人汝にまかした。大抵の毛織物業者は、おそらくは、かって織布工の正規の業務 を学んだことはなかった。実際、我汝は人汝が他の職業たとえば法律をやってみた後、年をとってから、この職業にはい ってゆくのを見いだすのである。﹂ こういうわけで西部の毛織物業者は﹁ヨークシャーの働く毛織物業者が熟達した織布 工であった﹂のとは異なり、 ﹁要するに雇主であって、手の労働者ではなかった﹂が、といって﹁西部の毛織物業者は現 代的用語における製造業者でもなかった。現代的用語における毛織物業者は、まず第一番に産業資本家である。彼は単に さまざまの過程を整合するという意味において産業を組織するだけではない、彼は自分自身の屋根の下で産業を経営し、 製造業の全業務を細部にわたって研究し完成することをもって彼の機能とする。﹂ これに反し、西部の﹁毛織物業者は産 業資本家というよりは、むしろ商業資本家︵馳霞99轟。署審法け︶であった。彼の第一の関心事は売買であった。 彼は原料 を買い、仕上げられた生産物を売った。製造業の実際の細部は紡績工や織布工や毛織物仕上工にまかされた。毛織物業者 は彼らの家をまわって、仕事がどのようにおこなわれつつあるかを見て歩かなかった。彼は製品がもどってきたときにの イギリスの初期資本主嚢成立史における冒険商人組合問題 一七 ρ イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 み、これを検査した。﹂ ⑱ ⑱崔毬。Pε・島叶こ薯. 玉−一9 一八 一六〇四年置反独占運動において冒険商人組合の反対転たちがひきあいにだしたのは、主として、西部の都市において 支配的であったこのような毛織物業者の利害であった。けだし彼らの支配はロンドン商人の進出によって掘りくずされつ つあったからである。 もっとも西部においても、問屋制商業資本としての毛織物業者のぽかに、それの支配下から真個の産業資本家としての ⑳ 毛織物業者が生成しつつあったと推定されうる。なかんづく織布工の間からである。リプソンによれば、西部における織 布工は独立した生産者ではなく、資本家によρて供給される原料に賃銀を目的として加工した。彼らは、毛織物業者と、 後者が彼らに渡す糸を一定の大いさの毛織物に織る契約を結んだ。彼らは渡された糸を自分の家へ持って帰っで、自分自 身の家で仕事をした。毛織物が織上ると、彼らはそれを雇主に返し、労働の価格を受取った。これは本質的には賃銀制度 であった。けだし織布工は、彼らの製造する商品にたいする所有権をもたなかったからである。しかし彼らは原料をもた なかったが、通常は生産用具を所有していた。そのかぎり織布工は単なる賃労働者ではなかった。勿論、織機という生産 用具を所有していたにしても、彼らは事実上の賃労働者と目さるべき点をもっていた。原料と製品の市営から遮断されて いたからである。ことに彼らか織機を雇主から賃借りしているような場合には、彼らはその雇主に完全にしばりつけられ て、 一切の経済的自由を喪失していた。しかし他面、生産用具の所有者としての織布工のなかには、真個の産業資本のい わば幼虫と見らるべきものが少くなかった。第一に、織布工の一部において、所有する織機数が賃労働の使用を必要とす る程度に達する揚合が少くなかった。 一五五五年の織布工条例は旧来の工業中心地たる都市の外部に住む織布工の所有す る織機数を二台に制限したが、この制限は一般に遵守されなかった。若干の織布工は五台ないし六台もの織機をもってい た。 ところで一台の広幅織機を動かすには、 織布工は一人の職人と一人の少年糸巻工によって助けられねばならなかっ た。織機が一台しかない揚馬には、彼は家族の労働をもってこれに代えることができた。しかし織機が増加すれば、彼は 家族の労働だけではどうすることもできず、職人や徒弟の数を増加しなければならなかった。一五五五年の織布工条例は 農村地域に住む織布工の雇用する徒弟数を制限したけれども、条例はこの点についても無力であった㎏第二に、織布工は 通例ただ一入の雇主に専属しはしなかった。彼らはときには同時に三入も汐入も、さらには五入もの毛織物業者から仕事 を得た。この制度は織布工の立場から見て多くの利点をもった。彼らは数人の雇主の帳簿に自分の名を登録しておいて、 ある雇主との取61が不黒黒であるならば、他の雇主の仕事を得ることができたし、また自分のすきな仕事をよりどりする の ことができた。たとえば織布工たちは儲けの多い上質毛織物を製造する方を好んだし、また織機のいそがしい揚合には雑 な仕事はことわることができた。そして万一の備えがいくつもあることは、彼らの独立感情を高めた。このようにして、 、,, 多数の織機をもち、多数の職人と徒弟とを雇用して、多数の毛織物業者と取引する織布工は、もはや事実上の賃・劣働者の 範疇をもって律するわけにはいかない。彼らは小資本家の一面をもっている。してみれば、問屋制商業資本の支配する西 部においても、その支配下から真個の産業資本が生成しつつあったと見て、あやまりでないであろう。なかんずく農村地 域においてである。しかも一六〇四年の反独占運動は、ここに析出したような産業資本のいわば胎芽に直接のかかわりを ンドン商入のそれと両立するところがあったからである。 拙著﹃資太 主舳嚢成立史の原型﹄県単分冊一六六一四頁Q 一九 1 もったものではなかったように思われる。けだし、その利害は、問屋制商業資本の場合と異なり、この段階ではまだ、ロ ⑳ 大塚久雄﹃近代欧洲経済史序説﹄三〇六頁。 イギリスの初期資本主義成立史における冒険商人組合問題 拙著﹁七五頁以下参照。 犀甥。♪ε.禽 叶 こ 娼 や ω 一 i ω P ω U 一 ω 9 ω の . @@@