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Page 1 Page 2 ー48 高知大学学術研究報告 第3ー巻 人文科学 果と し
薄明時の覚醒-The Awakening Hollow Meれの分析と解釈 田 □ 哲 也 (人文学部 英文学研究室) in Twilight - An Analysis and Reading of TheHollow Men Tetsuya Taguchi Abstract: While such T.S. Eliot's べMasle L and, Ash-χWednesday and and periodicals, discussed in it seems way is usually in poetry as of The HollozむMen into value To and continues make clear which consists of world outside is subjective the the The poet three death's kingdo 「.‘Death's kingdoms And that (dream) made different poet which to connect not difficult is. He poetic the which cannot world. human beautiful is the is inBurnt he and closer was in to reality. In engaged his in personal that he could like Prufrock, have nor poem Perhaps his own begging it was time. the hyacinth though crystalized sees by unique is the the poem objective other The WasteLand. kingdo did this think of into the 「and poem the ‘death's while like in other the other meets ‘the early girl of “The make hours, the him poetry, of task.) the condition the Eliot narrator ‘the of two It may hardest the morning was bare time be poet naked. This as this it new hard to say it is, in my was both before is sap Dead”. but the here kingdom to portray works, eye' unreal running the this his eye' freshly possible later in the Burial poet's through from of seeing difficult hours kingdom Eliot's expense the protagonist other the reflects going these the the time that ‘twilight' at its of One introducing is incapable myth was there at poet in a few And one has structure ambiguous into first divine we The HollmvMen,He life. when The Waste Ijand world. in by made go the The word and the symbols, the books of The WasteLand. The pursuing twilight because Norton that Eliot fact, us up worlds might For ambiguous. when in occasionally designed. he of only from the of the 'death's mystified vision examined reminds gave 「, poet with images, just symbolic kingdo that thal The HoUoxむMen is successful view, different call life. the out and to the up only time. descriptions Eliot the goes both ; is important Eliot closely which 「is as is vital kingdom bring (It take people the twilight two discussed disregarded which that our have hollow dream ・is a possibility connecting of life ; for instance, poet kingdo to kingdom there kingdom is why these :‘death's twilight means a symbol the poem symbolical is deadly and almost Neverthe\ess. The Hollovu Meれ in I studied been the 「ay. first, types ‘of inside as poem mine, twilight are as The hoveSongofJ. Alfred P ru/rocfe, The : it is held ノ1辿一員をdm? of two kingdoms regarded a whole a shocking view world tries this and to be this poems that The HoUoxo Menhas passing. It Eliot゛S development major FourQuarleU ate widely in going not in when thinking to work pretending of Four Quartets. (−) エリオットの詩作品中,The Hollou) Menをメジャーな作品と見るのはむつかしい.研究書の 類でもこの作品のために特に大きくスペースを割り当てることはないし1),雑誌論文でもTke lovuMenを特に論じたものは意外に少ない2).たしかにFru てゆく巧妙さも, The Waヵ£α Hoi- frockのように艶やかに変身を続け 「の豊かな言語世界も, Ash-Wednesdりの美しい詩行も,Four Quartetsの静謐な思弁も,「透明な,北方の精神のバラ」3)も,The Hollovo Men にはない.しか し,例えばGerontionをTheWastehandへの序詩として簡単に片付けることかできないよう に(特に一九四七年の録音ではなく,三三年の録音で聴くとそのような気になる4)),The Maを単にThe Wnste L/indからAsh-Wednesdayへの橋渡しとして見ることはできない.結 Hollo-w 148 高知大学学術研究報告 第31巻 人文科学_ 果として橋渡しであるとしても,そのことか作品そのもiのを決定的に意味付けはしないThe Hoi- Ioil) Menをλ仙-Wednesdayへの橋渡しであるとするエリオット研究家の中でも大物であるヘレ ン・ガードナーは The And Hollow Men を締め括る最後の四行を次のようにコメントしている. the final jingle may to an end whimper without be read the splendour of defeat, the gasp life, declaring grandeur epitaph on a world of catastrophe, but with of exhaustion ; or as a riddling answer in childish terms cy : the whimper as a contemptuous and that the world of a little creature drawing ends with the cry that comes the simple to the riddle of of helpless infan- its first breath. 5' この後すぐにAsh-Wed nesdajiの解釈か続くのだから読み物としてはうまくできている.しかし ‘whimper'という言葉からすぐに新しい生命を連想するのはどうか.最初にガードナーの本を読ん だ時に少し気になったので,当時身近にいた何人かのイギリス人やアメリ,カ人に,ガードナーの名 は伏せたまま,このことを尋ねてみたか,犬を連想する人はいたが,特に赤ちゃんを連想する人は いなかった.がードナーの連想か間違っているとは言えないが(つまるところ連想ならば何を想っ ても良いわけだ),かと言って絶対的だとも言えまい.いずれにしてもガードナーがこのような少 々無理と思われるような連想をしたのは,彼女が勝者史観でもってエリオットの作品の流れを見た からだと思う.そもそも作品をそれぞれの生成現場で見ようとしないで,鳥瞰の視点から詩人の作 品を順番に見てゆくような批評態度は,結局は詩人の精神と没交渉な自己の精神を内外に表明して いるようなものである.たとえThe Hollo-w Men がAsh-W 「回 「砂への移行時の副産物にすぎ なかったとしても,暗い河を渡る詩人にとって,彼岸はどうでもよい世界であって,彼の神経はい つバランスを失って転落するかも分らない深淵にむけられている.その過程で詩人は,使いふるさ れた比喩を用いるなら,綱の上で不意に綱を渡る術を忘れた綱渡り師のような不安を幾度も覚えた はずである.アンドレイ・シャニャフスキーは彼のパステルナーク論の中で,「芸術は彼〔パステ ルナーク〕の理解によれば絶えざる自己贈与であり,集積ではなく.発見をもとめる運動」だと書 いたか6),もしシャニャフスキーの主張か正しければ,The Holloxv Men はエリオットの芸術=発 見をもとめる迎動を知る上で重要なヒントを提供してくれる作品である. さてそのエリオットであるが,五十年代以後の主としてアメリカを中心にした現代英詩の活況は 彼を葬送したかのようである.いつまでもエリオットの時代ではない.当然のことである.しかし, 学としてだけではなく,一九八十年代に生きるわたしたちに直接関係してくる形で,なおエリオッ トの詩はわたしたちにいくつかの重要な問いを投げかけたままになっているのも事実だ.本論考は TheHolloui Menの分析と解釈を通して,この問いに答える場を見い出すのを目的としている. 取り扱う作品が作品だけに嵯映に次ぐ嵯映が予想されるが,それはエリオットの責任ではない. (二)●. いまさらという気がしないではないか手続きは守らなくてはならない.The 頭を引いてみる. We are the hollow We are the stuffed men Leaning Headpiece men together filled with straw. Alas/ Hollo-w Menの冒 薄明時の覚醒一―The Our dried We whisper Are quiet HollOTU 八ノfeれの分析と解釈(田口) 149 voices, when together and meaningless As wind Or rats' feet over in dry grass In our dry Cenar7). broken glass これを読んでショックを受けない人(あるいは受けなかった人)は二十世紀的な表現の訓練を受け ていない人だ.最近「人型展」という奇妙な企画を行なってわれわれを大いに刺激してくれた美術 評論家のヨシダ・ヨシエ氏は次のように書いている. しかしホップ・アート以降に出現したフィギュアと呼ばれる等身大の像たちは,すでに= このような夢〔人形の起源に属する呪的な悪夢のこと一引用者注〕の領域の住人ではな いように,わたしにはおもわれる.それは二半・ド・サンファールのようにケバケバしく 「ワイセツ」であったり,マリソル・エスコバルのように木の棺のようだったり,ドゥア ン・ハンソンやジョン・デ・アンドレアなどのように人体のほんものとみまがうばかりで あったり,ジョージ・シーガルのように凍結されたような石膏の人体だったりするが, それは古代以来の霊のつまった形代ではなく,カラン洞の人型なのである.しかもそのカ ラン洞の,多くの場合,表層だけケバケバしく彩色されたフィギュアたちの,なんと今日 的で生々しいことか.ロダンでもマイヨールでも,近代め人体彫刻は,まさに肉体という にふさわしい内容の量を感じさせたものだが,生の動作を一瞬のうちに停止させられたこ の「現代の死者」たちの,なんと生の空虚と見合うことか.ロダンの『接吻』などを想起 すればわかるとおもうが,もしこの人型たちが愛のしぐさをみせたならば,眼をそむける ようなエロティスムを感じるにちかいない.それはエロスがかいまみせる死のイメージな のだろう8). 「表層だけケバケバしく彩色されたフィギュア」とか「エロスがかいまみせる死のイメージ」など はThe Waste£α ままThe 「の解説にとびだしてきそうな言葉だが,「カラン洞の人型」というのはその HollowMenの冒頭のイメージに重なる. The Waste Land か絶え間なく転調してゆ きながらひとつの主題を追い求め続ける音楽だとすると,エリオットはThe Hollovu Menにおい て霊を失い,つめものをされて,互にもたれかかっている現代人の精神を彫塑的に表現したと言え よう.作品として成立したのはThe WasteL。1dが先であるか,この長詩の第二部と第三部を貫 いている詩人の現代への視座の原型はThe Hollo-w M enに求めることができる.一切の彩色とぜ い肉をそぎおとして,現代のわたしたちがただ人の形をした物にすぎないことをわたしたちにダイ ダイと示してくるThe HolLoii) Menは,ひとたびコメンタリーや研究書の防具を外しで素手でぶ つかってゆくなら,なお一九八十年代においても狂わしいまでに衝撃的な詩である. この作品はエリオットの全詩作中,エリオットが最もポール・ヴァレリーの純粋詩の概念に接近 した詩である9).だから,注釈なしでは詩を読むことのできない勤勉であるがゆえに怠惰でしかな い読者を受け付けようとはしない.たとえばA Student’s Guide£o theSeiected Poems of T.S. Eliotの著者であるB・C・サザムは注の前おきで正直にも次のような告白をしている. 'The Hollow Men' and imagery is an extraordinarily difficultpoem to annotate. Its language are disarmingly simple. There are no problems of historical reference 高知大学学術研究報告 第31巻 人文科学 150 0r translation. and But it is highly the identification allusive, allusive almost to the point of Eliot's sources cannot be made without of obscurity, some degree of interpretation.lo) The Holloii) Menに限らずサンボリスムの流れをくむ表現になんらかの注釈をほどこそうとした ら必ず解釈が必要になってくると思うか,この作品を読む時にはsource hunting まがいの注釈は かえって詩の解釈を妨げてしまう.まず詩の構造をとらえておく必要かある.パートlからパート Vまでの冒頭を引いてみる. (O We We are the hollow are the stuffed l dare (ii) Eyes In death's These (iii) This (iv)The not is the is cactus eyes There are (V)Here not men meet dream do This men appear dead are no in dreams kingdom : land land not here eyes here ^ue go round the brickりbear Prickly bear brickり1)ear11) PrtふfrockでもThe Waste Landでも,あるいはAsがWednesdりでもFour Quarleliでも.ニ リオットの主要な詩作品の冒頭には作品全体の雰囲気,リズム,カラー,ト,ソといったものが凝 縮されて示されていることか多く,しかも主題の大前提ないしは小前提が示される場合も多い. エ リオットのような意識的な詩人の場合,この冒頭でいきなり相手の胸ぐらをつかんでくるような方 法は充分計算されたものであるか,ここではこの方法を逆手に取ってTKe Hollovu Menを概観し てみることにしよう. まず(Oと(iii)が,それから(ii)と(iv)がそれぞれ内容的にもリズムの面でも同系列の表現であ ることがわかる.0)と(iii)のBe動詞は主語と述語を関係づける繋辞であるか,述語である‘the hollow men'や‘the ‘Eyes'あるいぱThe しているか, dead land' はどう見ても否定的な意味しか帯びていない. また,いきなり eyes' で始まる(ii)と(iv)は共に「まなざし」に憑りつかれている点で共通 (ii)では「まなざし」が現象として現われないことか√(iv)ではやはり「まなざし」 がここにないことが歌われている.(iv)で用いられているBe動詞の否定は,したがって,存在を 否定しているのではなく, (ii)の‘not appear' と同じく「ま,なざし」かどこかに隠れてしまい, 見えなくなってしまっていることを意味していなければならないご こうしてみるとO)から(iv)はすべて否定の表現であるが,事実The HollotむMenのパートi からパートⅣまでは標題のとおりに暗い,否定的な,しかも夢のような世界か描写されでいる・ TheRoUovむMeれは原則的にそれぞれ二つのストレスを持つ短い詩行から成り立っているが,さ きほど引用した(ii)の中の‘ifeath's dream kingfio 「のように〔d〕音が効果的に用いられてい る. この〔d〕音はパートIIとパートIVで展開されるもうろうとした世界を背景にすると,どこで もないどこかでうつろに響く原始の太鼓を思わせる.. 全体を一気に読んだ限りではパートiからパートⅣまでかひとつの世界を取り扱っていて,シニ 薄明時の覚醒一―The Hollow Menの分析と解釈(田口) 佑1 シズムを含んだ二つの童謡でサンドイッチにされた,例の次から次へと自我が分裂してゆIくパート Vとの間には深い亀裂があるように思われる.しかし再読するならばパートIからパートⅣ・までは さらに二つの異質な象微か混じり合ってひとつの夢のような世界が構築されているのか解るごつま りパート1とパートmのうつろな外界を象徴するものとパートUとパートⅣにみられる空洞化した 内面を象徴するものである.ロンドンのタイムズ紙への手紙の中でエリオットかThe のタイトルはウィリアム・モリスの“The Broken Hollow Hollovo Me7i Land”とラドヤード・キップリングの“The Men” から来たと述べたか,これに対してクローバー・スミスは彼の詳細な注釈書で,そ れは余りにも話がうまく出来すぎているから多分エリオットのジョークだろうと言っている12)私 もスミスの言うようにジョークだと思うが,ただし意味のないジョークだとは思わないThe Hoi- lovoMenにおいては内面と外界の形象化か実際に統一を失って分断されてしまっている.しかも 詩人は内面を風景に投影することによって自足するような自己慰安的段階を踏み外し,内面そのも のを露出すること,ちょうど肉体を裏返しにするように,自己の精神をさらけだすこと(insideout)を強いられている,The Hollouu Menの構造を図式化するならA→B−A’→B’→Cという風 になる. Aの系列はうつろな外界を,Bの系列は崩壊した自我をそれぞれ象徴し,Cは内面が外界 から切り裂かれてゆくようすを表わす.もっとも作品上の構成を保つためにエリオットは三つの 「死の王国」という神秘的な象徴を導入することを忘れないのだが. ところでAとBの系列のうち,Bが特に主題に関連してくるのだが,Aの系列はもともとT& Wα心£α 「からそのまま受け継いだものであるのに対して,Bの系列はThe 落ちこぼれていったものである.次に引くのぱThe Waste Landから Burial 0f the Dead” のヒアシンスの少女の 場面,有名でありかつ重要な場面である. 'You gave me hyacinths firsta year ago ;, 'They called me the hyacinth girl.' -Yet when we came back, late, from the hyacinth garden, Your arms full, and your hair wet, I could not Speak, and my eyes failed, l was neither Living nor dead, and l knew nothing, Looking into the heart of light, the Silence.13) The HoUoxu M enの‘Eyes l dare not meet in dreams' と相似形をなずmy eyes failed' とい う表現に注意してもらいたい.このヒヤシンスの少女の場面はエリオットか詩作において何度とな くたちかえる彼にとって唯一の抒情の源泉であり,ここにはThe Waste La 「以後の彼の作品の 重要な場面の解釈の鍵ともなりうる多くの象微か隠されている,しかし,The Waste handでは 主題の統一のためにブレイザーの植物祭やウェストンの聖杯伝説の枠組を借りてきたために,ヒア シンスの少女は断片のまま残される. TheHoIZmi) Menでは自他の関係,彩色,抒情,さらには肉体さえ剥ぎ落とされ,一切は「ま なざし」へと抽象化されて,The WasteL。 「の枠組のな゛かでは決して追えなかった主題か展開 されてゆく.エリオ・ツトが「まなざし」にここまで執着した作品はThe にない. Sightless, unless The reappear eyes As the perpetual star 11011011) Menを措いて他 、高知大学学術研究報告 第31巻 人文科学 152 Multifoliaterose Of death's twilight kingdom The hope only Of empty men.14) 詩人をここまでひきずり込む「まなざし」とはいったいなになのか.この象徴を解くことなしにわ れわれはThe HoUotu Menの内奥へと逆のぽってゆくことはできない. 「まなざし」はパートHとパートIVにおいて語られる.バード.1の語り手のTはパートIVにお いていつのまにがWe’となる.さきほど引用を試みた詩行の最後の二行,すなわちパートivの最 後を飾る二行にあるように,Tから‘men'への移行は巧妙である.「うつろな人間」→「まな ざし」→「死の土地」→「まなざし」と進み,最後の,まるで核分裂のように影が次から次へ と落ちて概念を分裂させるところへ雪崩れ込んでゆく途中で,本来はパーソナルな意味を持ってい たはずの「まなざし」が一般化されてしまっている.この本来はパーソナルな問題を一般化して人 類史のコンテキストに強引に割り込ませるのはエリオットのなかば本能的な自己防衛手段であると 言ってもよい.たとえば一つだけ例を引いておくと,成立的にも主題的にもThe 関係の深い“Eyes では最初ぱmy Hoilou) Menと that last I saw in tears”という短い,ある意味では恐ろしい詩があるが,ここ affliction' であったものか,終わってみるどhold us in derision' となっている. しかしここで忘れてはならないのは,いかに巧みであっても「私」から「われわれ」への移行は フィクションであるという点である.自らの創作原理についてエリオットはわれわれに何度も手の 内を見せているか,作品を生み出す過程で彼は詩人エリオットと批評家エリオットを意識的に使い 分けている.極端に言うと彼はスポンテイニアスな意識の発露を批評力で禁欲的に抑制,制限して ゆく.だから一切を書くヘンリー・ミラーとエリオ‘ツトとはまうたく対極的な地点に立つと言えよ う.創作に最も必要なのは批評力であるとするエリオットにとってはパーソナルな問題を人類史の コンテキストに重ね合わせてゆく彼独自の技術は重要な武器であるか,究極的にはそのようなもの は詩人の身体にとってはなにほどのものでもない.つまり「私」を「・われわれ」に重ね合わせてみ ても「私」の問題か解決される訳ではない.パート1です,でに明らかになっているように, The HoUoxむ Menの「われわれ」はバラバラの孤立した個の堆積にすぎない.‘Our when/We whisper together/Are quiet and meaningless' dried voices, とあるように,同時につぶやいてみる と意味がないことか図らずも解ってしまうようなバラバラの個なのである.F・H・ブラッドリー から受け継いだ独我論的宇宙観がエリオットの基本的な世界認識であることはいくら強調してもし すぎることはない.この近代合理主義のなれの果てのような世界観の下では,たとえば‘The only/Of empty hope men'の‘men'がman'であっても何ら差支えないし,まだhope'は共通の ‘hope'であり得たとしても決して共同の‘hope'にはなり得ない. そして,「私」でありながら 「われわれ」であり,かつ「われわれ」でありながらI「私」であるような,主観と客観の幸福な分 離が怪しくなり,しかも相互共同性の回復の根拠か未だ見い出せない状況にある詩人を「まなざし」 は射抜き,固定(fix)している. “The Burial 0f the Dead” で人間の目であった「まなざし」はThe Hollo-w Menにおいては 正体不明なものへ変質させられており,人間と人間,あるいは肉体と肉体の結びつきの可能性と不 可能性を象徴する「まなざし」が,The Hollow Me7!においては人間と神的なもの,あるいは肉 体と精神を結ぶ神秘的な象徴へと高められている.時間的な観点から言えば,The Hollovi) Menに おける「まなざし」は単に過去と現在を結ぶ節目ではなく,Iそれこそ過去と未来か現存する現在を 象徴していると言えよう.エリオットはT&どりllozむ皿aにおいてFour Quartetsへ通ずる新 』明時の覚醒-The Holloiti Menの分析と解釈(田口) 155 しいパラダイムを構築したと言えない訳ではない.しかし待ってもらいたい.すべてか「めでた し,めでたし」で終わるのではない.「まなざし」の象徴を変質させたことによって,詩人はあの ヒヤシンスの少女の場面に秘められていたみずみずしさ,肉体性を永遠に喪失することになるの だ.「まなざし」は肉体を失い,恐るべき観念となる.「まなざし」は詩人と神的なものとの合一 を可能にする契機であると同時に,詩人の身体性を奪いかねない,極めて両義的な象徴であると言 えよう.このような「まなざし」を設定したことによって,それでは,The Holloxv Menはどの ような性質を帯びた詩となってゆくのか.てはじめに詩人が意識的に(作為的にと言ってもよい, なぜならこれは先述したように作品を構成している二つの異なった象徴を統一するために詩人が導 入したフィクションだから)用いている「死の王国」を考えてみよう. TheUoLlovu Menに登場する複数の「死の王国」をいくつに分類するかについては定説がない が,主題に直接関係するのぱdeath's other kingdo dream kingdo 「,‘death's twilight kingdo 「, 'death's 「の三つである.この三つを取り出したのは別にエリオットかアウグスチヌスから 借りてきた時間論を念頭においているからではない.またダンテの『神曲』の三界,すなわち,イ ンフェルノ,プルガトリオ,パラディーソを意識してではない.確かにエリオットはダンテを規範 として自らの詩の世界を確立した詩人であり,『神曲』の三界と三つの「死の王国」に関係かない わけではないか,両者は厳密に対応しているとは言い難いし,『神曲』のあの生々しい世界に比べ て,三つの「死の王国」は余りにも抽象的である. 三つの「死の王国」は詩人の意識と身体の関係をそれぞれ異った仕方で表わしている.まず ‘death's dream kingdo 「. There, the eyes are Sunlight on a broken column There, is a tree swinging And voices are In the windタS singing More distant and more solemn Than a fading Star.15) ここでは詩人の意識は身体から抜け出して外界に流入し始めている. これはPrufrocfe以来エリオ ットの読者にはなじみの深い意識のあり方である.意識はまるでPrufrocfeで描かれた猫のような 霧のように変幻自在に外界を徘徊してゆくか,いずれは身体に戻って来て夢想は終わる.これに比 べると次の‘death's twilight kingdo The eyes There are not here are no eyes here In this valley of dying In this hollow This In We And broken avoid Gathered stars valley jaw of our lost kingdoms this last of meeting grope 「は少し理解かむつかしい. places together speech on this beach of the tumid river16) 154 高知大学学術研究報告 第31巻 ・人文科学 この詩行がパートnで予告されている(‘Not ‘death's twilight kingdo that final meeting/In 「を描写したものであるはずなのだが(‘this うも釈然としない.というのもこの「死の王国」ぱdeath's kingdo ・the twilight kingdo last of meeting dream kingdo 「) places').ど 「から‘death's other 「へと移行する(あるいはその移行を阻む)場所であり時間でもあるやっかいな世界だか ら. TheHoHoTU M enで展開される論理をていねいに追ってゆけば, ‘death's dream kingdo 「から‘death's other kingdo 'death's twilight kingdo 「が, 「へと移行する契機であり,主題の重要な 部分を担わされていることか了解できるが,これはロで言うほど易しいことではない.エリオット がここらあたりを意図的に少々解りにくくしたふしがあるからだ.たとえば先ほども言及した作 品,“Eyes that last I saw in tears” でも‘death's dream kingdo 「から‘death's への移行の可能性・不可能性が取り扱われているが,ここでぱdeath's 文字通りあいまいな言葉ではなく,‘At 場どdeath's other kingdo the door other twilight kingdo of death's other kirigdo kingdo 「 「という 「という明確に移行の 「との関係を規定した言葉が用いられているので,The Holloiv Men よりも論理的である.(もっとも,その分だけ移行の不可能性の方が強調されてしまうのだが.)ま たThe Hollo-w Menのいくつかのプレオリジナルのひとつである“Three Eliot”(Criterion HI 10)のパート!はThe に最終行の‘With eyes l dare 引用の部分ぱdeath's ざ‘broken jaw not meet twilight kingdo Poems by Thomas HoUorむMenのパートI卜こ採用されるのだが,その際 in dreamsブがバッ’サリと落とされている.さらに16の 「を直接歌い上げた箇所であるのにもかかわらず,わざわ of our lost kingdoms' というビブリカルな響きを持つフレーズか使われている. それではなぜそのようなミスティフィケーションをエリオットかあえて行なわなければならなか ったのかということか当然問題になる.この問いに答えるにあたって,それではなぜプレオリジナ ルにあっだWith eyes l dare not meet in dreams.'という行がThe Rollo-w Meれで削除され たのかを,まず考えてみよう.仮りに,現行のパートnを独立した詩編だとすると,問題の行は, 書き出しの‘Eyes l dare not meet in dreams' と鋭く対応してひきしまった詩になる.しかし, このパートHまそうすることによって常に背後に例の極めて私的な臭いのする“Eyes that last I saw in tears” という詩編を意識せざるを得なくなる.「まなざし」で始まり「まなざし」で終わる とすると円環は閉じられ,自らの尻尾をくわえた蛇のような自我の姿が浮び上ってくる.ましてや TheHollo-w Menは,他のエリオットの長詩と同じく,単なる述作ではなくて,−・個の独立した 作品として,作品内に一種の弁証法的発展かテーマに即して存在しなければならない.もしも‘With eyes l dare not meet in dreamsパを削除しなければ,パートIVの‘Sightless, unless…’以下 の行の意味か極度に薄れてしまう.つまり普遍的な意味合いを持つ契機を失って,ちょうど“Eyes that last I saw in tears”がそうであるように個人的な観照の域を出ないであろう.かと言ってエ リオットがdeath's twilight kingdo 「を他の二つの「死の王国」のように充分に対象化しえたと は思わない.だから16の引用の時に釈然としないと言ったのである.確かにパート[1で‘death's dream kingdo ‘death's other 「 を形象化し,‘death's kingdo twilight kingdo 「を想像しておいてから, 'death's twilight kingdo エリオットの撒いたエサをひとつひとつ拾ってゆけば読者はいずれ, いうワナにはまり,例の‘Sightless, 至る前に,‘our lost kingdoms' 「 を暗示しておいて,次にパートmで 「 にむかうのだから, 'death's twilight kingdo unless.. ..'という最・後を迎えることになる.しかも終結部に とがmeeting places'とか(いずれもパートⅣ),複数形が周到 に用いられ,普遍化の‘実績’が積んである.確かにうまくできている.完璧である.しかしこれ ぱWith eyes l dare not meet in dreamsプを切り落とした時点で十分予想できた.私はなにも 削除した行を残しておいた方か良いと言っているのではない.事実は逆だ,ただ,小細工をしてみ 「と 薄明時の覚醒-The たところで‘death's twilight kingdo Hollow Men の分析と解釈(田口) 155 「は対象化できていないし,むしろ一行の削除は技術的には プラスであっても,内面的に欠落するものも多かったはずだと言いたいだけである.ベルグソン風 に言うなら, 対して, 'death's dream kingdo 'death's twilight kingdo 「は無限に拡散してゆく意識の投影としての外界であるのに 「は無限に凝縮してゆく内的世界で,ここでは詩人の身体によ って外界が掩蔽(eclipse)され,意識が投影されるべき場を失って時間と空間の中を無秩序に移動 する.このアナーキーな世界をエリオットがようやく対象化するのはBurnt l^ortonにおいてで ある. さて最後・に‘death's dream kingdo other kingdo 「だが,この王国について語るべきことは少ない.‘death's 「は対象化されている.‘death's twilight kingdo 「は対象化されていないが,少 なくとも対象化されうるものとしてとらえられている.というのもこの二つの,「死の王国」は詩人 の身体に深くかかわるものであって,最終的には詩人の身体へと収斂されるものであるからだ.し かし, 'death's other kingdo 「はあこがれの王国にすぎない.しかもそのあこがれは決して豊か なイ7ジネーションを伴うものではない.,次の引用を見ても明らかなように,この王国はネガティ ブにしか想像されない. Is it like this In death's other Waking alone At the hour Trembling Lips Form kingdom when with that would prayers we are tenderness kiss to broken しかしこの負性はThe Stone.17) HoUoiju Menの解釈だけではなく,エリオットの作品全体の理解にとって も極めて重要だと考える.なぜならここには詩人の身体性がエリオットにしては例外的なまでに露 骨に突出しているからだ.‘Lips that would kiss/Form prayers to broken stone.'の二行にみら れる,孤独な薄明時の,やさしさに震え,狂おしく口づけの対象を求める口びるが,まるで自らの 肉体のすべてを包み込んでくれるような暖かさを持った口びるを見い出せずに,こわれた冷たい石 へむけて祈りを捧げなくてはならなくなるような無限の転落は,The Hollou) Menを書かなくて はならなかった詩人の意識を恐ろしいまでに投影している. (三) 事実The Hollova Men執筆時のエリオットは深くニヒリズムと対峙していた. “Doris's Dream Songs" Chabboofe l9の のドラフトは一九二三年から翌二四年にかけて出来上ったと推定できるか ら18),大雑把に言って二三年から二五年にかけてかThe Hollo-w Menの時期と言える.エリオッ トにとってこの時期は,詩作において,思想において,また私生活においても大変苦しかった時期で ある.あのグロテスクな,ニヒリズムの極地とも言える, 'I've been born, and once is enough.' という一行を含む Stueenり Agonistes のドラフトは一九二三年の四月に書かれたとされてい る19)エリオットにとってはまさに悪夢のような時期であったか,しかしこのどん底の中で,エリ オットは精神的にも肉体的にも,疲れ切った第一級の知性のみが経験することのできる,入閣離れ した精神の緊張を経験したはずである.そしてそれはダンテのような高次のヴィジョンを見る精神 状態よりは,むしろ,Heart of L:)arfeness のクルツの精神状態に近かったと思われる.そのような 156 高知大学学術研究報告 霖31巻 人文科学 ピリピリとした精神状態が作品のイメージを,リズムを,そして勿論主題をも支配しているからこ そ読者は強い感化を受けるのだが,作品を繰り返して読むうちにこの精神状態そのものを理解した い欲求に駆られてくる. ひとつここで奇妙な仮設を立ててみよう.三つの「死の王国」のうち,最も解りにくかったのは ‘death's twilight kingdo 「であり,それが何故に理解しにくいかについてはすでに書いた.しか し,‘twilight'という言葉にはもう少し深くかかわっておく必要があるような気がする.というの もパートIを除けば他の四つのパートには曖昧ながらも一応各パートの背景をなす時間の設定,あ るいはそれを暗示させる言葉があって,その時間とは共通して薄明の時間だからである.すなわち パートllの‘a fading star', stars',パートVの‘five パートUIの‘Under the twinkle of a fading star≒パートⅣの‘dying o’clock in the morning'である.このうちパートmとパートⅣについて はまず間違いなく薄明時を想定してよいか,残りの二つについては些か我田引水かもしれない. 私としても無理に主張する気はないのだか,ただ,‘fading star' や‘five o’clock in themorni・昭’ が単に比較の対象やアトランダムな時問としてだけ用いられているとは,やはり思えない.さりげ なく投げ入れられているからこそ主調音に導かれての結果ではないかと余計に疑いたくなる.しか も「消えゆく星」が「まなざし」を暗示していることは,余りにもコンベンショナルだが,また事 実であって,「まなざし」がこの詩の主題として作品全体にかかわってくるのに呼応して,薄明時 の「消えゆく星」も作品の統一的な時間的背景をなしていることは間違いない.そう考えると,や はりThe Hollovu Menは薄明時の,極言すれば午前五時の,夜空の星が消えてゆく時間の詩のよ うに思えてならない. これはあくまで仮設にすぎないか,まったくでたらめでもない.詩人か持ち込んだ「死の王国」 という奇妙な象徴を理解する上で必要な仮設である/エリオットはThe Hollozu Menにおいてな ぜああも執拗なまでに「死の王国」という言葉を繰り返すのだろうか. The HoUotoMenは〔d〕音を基調としたドラムビTトの詩である, うつろに響く〔d〕音の中 から消えゆく星が見えてくる.とりわけdeath's―ロコーkingdomという繰り返しが重要である. (この型は五回使われている.)これ以外にも‘kingdo 「という語が四回,死に関係しだdead' という語が二回,それに‘dying'が一回使われている.これらの言,葉が巧みに散りばめられてい るので,読者は何行か進む度にkingdomとかdeathとかに突き当ってしまう.このしつこさは ポウの“Annabel Lee”を思い出させるが,エリオットの場合はポウと対照的に,死に対する恐怖 ではなく,むしろ,こう言ってしまうと語弊かあるかもしれないか,死への憧憬が,しかも過剰な までの憧憬か感じられる. 通常,人間というものは死を恐れるか,その恐怖は死そのものにむけられるのではなく,死とい う観念にむけられる.ところか二三年から二五年にかけてのエリオットは実に死の観念ではなく, 生という観念に過激な嫌悪を抱いていたようである.私生活におけるビビアン夫人との言語を絶す る軋蝶があり,思想的には自らの生を確認する根拠を失いつつあったエリオットにとって,生の実 感は詩作へと集中するが(原The Waste Land における玉石混淆のあのエネ,ルギーを思え),それ もスイス行きの頃には燃え尽きてしまう.牒朧とした日常の中で,自らの時間は銀行へ行く前の早 朝の何時間しかなかった詩人にとって(土リオットかロイズ銀行をやめたのは二五年),死とは恐 怖の対象ではなく,生よりも近しいもIのであったに違いない. な覚醒のなかでの自らの肉体の解体宣言である. The HoUouリMaは薄明時の異常 'This is the ivay the ・world ends'を自己卑下と見 るか,あるいは再生への願いと見るかはともかくとしても。P八戸ock以来の饒舌,わずかに残っ ていた肉体への信頼はThe RollotむMenをもってエリオットの詩作からは消えてゆくことになる. 薄明時の覚醒-The Hoiiotu Menの分析と解釈(田口) 157 <註> I)英米の研究書の中ではHugh とA. D. KennerのThe MoodyのThomas まじめにThe Invisible Poel:T.S.EUot(London Stearns Eliot Poet(Cambridge B. CorseとSandra Corse の編んだArltcZes A,1 hdeエ£o Selected Periodicals. 1950一1977 200ほどの雑誌論文のタイトルがあるか,The 3 ) : Methuen, University 1965) Press, 1979)が Hollotn Menを論じている. 2)たとえばLarry J. : Cambridge (Athens, Ohio oれAmerican and BritisK : Ohio University Press, L≫iterattぼe: 1981)には約 HoHou,Menに直接関係したものは五編だけであり, Sydney Krauseの論考以外は,余り作品の本質に迫っているとは,言い難い・ Lawrence Durrellの“Manoli of Cos”に‘Eliot's clear northern rose これはエリオットの詩人としての資質をコンパクトに表現している.See ed. by 4)The James A. Brigham (London: Faber Poet's Voice(Cambridge : Harvard of the mind' という句かあるか, Collecled Poems 1931−jタア4, and Faber, University 1980), Press, p. 176. 1978)を編集したStratis Haviaras は ‘Introduction'で「若干声が若いということを除けば〔三三年と四七年の〕二つの朗読の間には大きな差異 はないように思える」と書いているが,私にはこの「声が若い」ということの中に後年の録音から感じるこ とのできない迫力を感じるのだが……… 5)The Art of T, S, Eliot(London : Faber and Faber, 1949), p. 113. 6)『シャニャフス牛−・エッセイ集』,内村剛介・青山太郎訳(東京:勁草書房, 7)The Complete Poems and PIりs of T,S, Eliot(London 1970), : Faber and Faber, p.188・ 1969), p. 83. 8)ヨシダ・ヨシエ,「生の空白を映す<人型展を企画して>」,「毎日新聞」1981年10月5日号・ 9)The HoUoxむMenとヴァレリーの関係については古い研究書の類の中ではたとえば, T.S. Eliot's Poetりand Piavs:A Chicago Press, 1950 ; second Studv in Sources and edition, 1974)のp. Grover Meaning(Chicago : The Smithが University of 108で簡単に触れ,最近ではMoodyがpp.130― 131でSmithよりは少し詳しく措いている・ 10) B. C. Faber, 11) Eliot, 12) Smith, Southam, 1968 pp. ; third A Student'sGuide to tile edition, 1977), Selected Poems of T. S.EHoi(London : Faber p. 99. 83―85. p. 101. 13) Eliot, p. 62. 14) Eliot, p. 85. 15) Eliot, pp. 83-84. 16) Eliot, pp. 84―85. 17) Eliot, p. 84. 18) Moody, p. 120. 19) Moody, p. 114. ` (昭和57年9月29日受理) (昭和58年3月1日発行) and