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第3回 本と草紙 『源氏物語』の原本に至るまで 橋口 侯之介 本を 1 冊 2

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第3回 本と草紙 『源氏物語』の原本に至るまで 橋口 侯之介 本を 1 冊 2
成蹊大学文学研究科 文献学共通講義 和本学の提唱
2011
第3回 本と草紙
『源氏物語』の原本に至るまで
冊子本の登場 装訂の試行錯誤
橋口 侯之介
冊子本への道
『紫式部日記』には次の一文があって、寛弘 5 年(1008)に「物語」を本に仕立てたとある。
さうし
え
御前には、御草子(冊子)作りいとなませ給ふとて、明けたてば、まづ向ひ侍ひて、色々の紙選り
整へて、物語の本ども添へつゝ、所々に文書きくばる、かつは綴ぢ集めしたゝむるを役にて、明し
暮す
この「御草子」というのは「冊子」ということで、巻子本でなく冊子状の書物に仕立てて御前に奉った
という意味である。その冊子とはどういうものか、なぜ草子ともいったのか?
冊(サツ、サク) 册とも。本を 1 冊 2 冊と数える起源である。
*これを日本でサツと読むのは音便。
「う音」は言いにくく「つ」に変わりやすい(特急、早急)
。札と混同したか
らともいわれる。一枚だけのものを短冊(タンザク)というのが本来の読み方。2 枚以上をつなげたのを長冊と
いった。同音で策ともいった。
**白川静『字統』には、本来は柵のことで犠えにする獣を入れる牢のようなものが起源だという。そこから儀礼
に用いる祝詞のこととなり、後に転じて書冊のこととなった。別の説では、竹簡を編んだ象形文字とも。
折本 (おりほん)
巻物では読みづらい。目的の箇所ま
で巻いていき、また元に戻すのが大
変である。それを一定幅で折り曲げ
た状態の「折本」が考案された。
中国では経折装(きょうせつそう)といい、
主として経典に用いられたのでこの
名がついた。敦煌出土のものは、隋
唐時代からあるが、普及したのは宋
代からで、版経は折本に仕立てた。
今でも僧侶の読経には、この折本が用いられている。
数える単位は帖(チョウ、ジョウ、テフ)。屏風はこのバリエーションともいえる。
旋風葉(せんぷうよう)といって折本の表裏に糊で表紙をつけ、それを全体にくるんだものもあった。糊がは
がれてばらばらになるのを防ぐ効果があったが一般化はしなかった。
粘葉装
巻物や折本のように継紙にしないで一枚一枚を単独にしてのどの部分を貼り付け、ないしは綴じた本を
冊子(サクス、後にサッシ)ともいうようになった。唐代のことである。
子(シ、ス)は道具につける接尾語(巻子、金子、帽子、椅子、葉子)
。冊子のことを葉子ともいった。
、、
空海の『三十帖索子』(さんじゅうじょうさくし)は、その現存最古(仁和寺に存)のもので、
「入唐求法諸文冊子
卅帖」が正確な名前。
1
粘葉装は平安時代には盛んに作ら
れた。
1013 年に成った藤原行成筆と伝
える粘葉本『和漢朗詠集』
(宮内庁
所蔵)
。
平安末期とされる北野本『日本書
紀』
(北野天満宮所蔵の重文)は実
用的な装訂。
西本願寺本『三十六人家集』は美麗。
そうはん
こちょうそう
宋版(宋の時代の印刷物)の胡蝶装はその粘葉装の中国の呼び名。
文字面を谷折りにしてノドのところで糊付けするもの。これだと紙
背の白い面もみえてしまう。元代に入ると、文字面を山折にしてそ
れを見えないようにして、さらに表紙を全体にくるんだ包背装(ほう
はいそう)となる。明代の初め頃まで続いた。
列帖装(れつじょうそう)綴葉装(てっちょうそう)とも
粘葉装には糊の弱点があって、はがれやすく、虫を呼ぶなど保存に難
点があった。事実、粘葉装・胡蝶
装の原本は、中世の後期におおむ
ね袋綴・線装本に改装されてしま
う。
そこで、糊の替わりに糸を用い、
しっかりとかがっていく方法を考
えた。それが列帖装。数葉ずつ重
ねて中央で 2 箇所、糸で縫ってい
く。それを 1 折といい、それをさ
らに数折束ねてまた縫い合わせる。複雑で技術のいる製本方法。専
門の業者が発生していたと思われる。
列は糸でつなげること、帖は文字を書いた紙のこと。列葉装、大和
綴、綴葉装などともいうが、微妙に違い、学会でも用語が定まって
いない。粘葉装と列帖装は区別するので、この二つを覚えておけばよい。
この列帖装がいつから始まったかがまだわかっていない。現存する列帖装の最も古いのは元永本『古今
和歌集』で、1118~1120 年頃とされる。残念ながらそれ以上古いものが残存しない。しかし、実際は 100
むらご
年くらいさかのぼると考えられる。というのは、
『枕草子』に「なまめかしきもの……薄樣の草紙、村濃
の糸してをかしくとぢたる」という一節があって、糸で趣のある綴じ方をしたものがあったと考えられ
る表現である。
結び綴
粘葉装の弱点を克服して列帖装になる過程の間に、もうひとつの綴じ方があって注目される。
「結び綴」
という製本法である。書誌学の用語として確固としていないのだが後に「大和綴」といわれたものがそ
れに近い。
糸というより組紐に近い太目の紐で綴じる方法である。二箇所に穴をあけてそこに紐を通して結ぶもの
で、これを二組上下に結ぶものもある。列帖装は複雑で技術のいる製本なので、熟練した職人に手を煩
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わす必要があるが、結び綴じは誰でも容易にできる。
冊子本にする意味
物語が本として世に出るのは、西暦一〇〇〇年前後である。歴史
学がいう摂関期の全盛時代である。紫式部は藤原道長の引きで宮
中にあがった。同時代の人物に、和泉式部や清少納言もいた。
物語は当時、文字に書かれたものだけをさすのでなく、何か特定
の事柄について「話をする」という意味でも使っていた。人が集
まればいろいろな話題に花を咲かせる。うわさばなしは誰でも好
きだ。
そこで語られたことばが文字化されたとき、それが書物になる。
とくに文字となって残されるのは、怨霊を鎮める役割もあったようだ。
物語を文字に記していこうとすると、日常の話し言葉に近い仮名のほうが書きやすい。当時「正規」の
文章は漢文で書くことになっていた。しかし漢文でものを語るのは難しい。
和歌を書くために使われたのが平仮名だった。紀貫之の『土佐日記』は冒頭で「男もすなる日記、女も
してみむとて」といって、これを利用して平仮名交じり文の日記となった。日常語に近い表現となり心
情をこめて出来事を記すことができる。
『紫式部日記』も平仮名で書いた日記で史料性は乏しいが、とき
に激しい感情をぶつけるほどの内容をもっていた。
平安の物語文学に女流作者の作品が多いのはこれで説明ができる。女性には漢文体で書くという規範が
求められないから、物語を文字にするとなると仮名が自由に使えたのだ。その結果、複雑な人間関係、
その間の心理的描写など深い記述が時代を超えて読者に訴え続ける力をつけたのだった。
漢文+巻子本が正統な書物という平安時代の決まりごとは、規範的でありすぎる。それに対して仮名交
じり文は自由である。重きはおかれていないので、いわば勝手だったのである。そこから取り扱いやす
く、製本が簡単な冊子本が生まれたのである。
レジュメ pdf は http://www.mmjp.or.jp/seishindo/seikei_kinsei/
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質問は、専用メールで
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参考文献
橋口侯之介『和本入門』平成 17 年、平凡社
橋本不美男『原点をめざして』
(初版昭和 49 年)
、新装版平成 20 年、笠間書院
山本信吉『古典籍が語る―書物の文化史』平成
16
年、八木書店
くしげ
櫛笥節男『書庫渉猟』平成 18 年、おうふう
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