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ダンジョン+ハーレム+マスター

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ダンジョン+ハーレム+マスター
ダンジョン+ハーレム+マスター
三島千廣
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
異世界ロムレスに召喚され
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ダンジョン+ハーレム+マスター
︻Nコード︼
N8173BY
︻作者名︼
三島千廣
︻あらすじ︼
しもんくらんど
天下の美女を抱くのは男子の本懐。
王女、姫騎士、獣娘、エルフ、女暗殺者、残らず俺
た大学生、志門蔵人が、女と冒険とお宝を目指して迷宮を荒野を街
を駆け巡る。
が頂くぜ! 超・不条理ダークファンタジーここに開幕。男は死ぬ
まで冒険だ!
1
Lv1﹁間違いだらけの勇者召喚﹂
とにかく風の強い夜だった。
大学二年生である志門蔵人は、うっすらと生えた顎鬚をしごきつ
つ、手元のスマホに目を落とした。
履き古した安物のジーンズに、傷だらけのワークブーツ。
どこの店で買ったか、あるいはどうしてそれを購入する気になっ
たのか、街着には不向きなオーバースペック気味のフライトジャケ
ットだけが唯一、暖かそうだった。
肌を切る冷気に鼻の頭を真っ赤にしながら、かじかんだ指を動か
す。
畜生、上手くタップできない! イライラしながら、皮脂で曇った画面を袖口で拭った。
季節は十二月、駅の改札口は吐き気がするほど大勢の人間で埋め
尽くされている。
どこからか風に乗って流れてくるジングルベルを聞き流しながら、
激しく舌打ちをした。
遅い、とにかく遅い。どうしたんだよ、俺の桜子ちゃんは。
と、蔵人が胸の内で呟いているのは、別段彼の恋人でもなんでも
なかった。
そもそもが、桜子とは、実際に会ったことはない、ウェブ上の女
である。
︵落ち着け、俺。サークルのチャラ男先輩がいってたじゃないか。
ドキワクメールに不可能はないって。フォースの力は信じないでも、
2
ネットの無限の力を信じないでどうするよ︶
蔵人が現在盲信しているのは、良識者が揃って眉をひそめる、い
わゆる出会い系サイトであった。夏から、秋にかけての合コンで乱
行の限りを尽くした蔵人は、半ば、二年間所属していた自サークル
を放逐されており、それを不憫に思った先輩が、ひとつの方法とし
て出会い系を薦めたのである。理由は単純。女とヤリたいからであ
る。
蔵人はどちらかといえばローテク人間であったので、この方法は、
ロコポロ︵※目からウロコがポロリと落ちる︶であった。
近頃は、発狂した猿のようにスマホにかじりつく日々が続いた。
そしてついに、幾多のメールのやりとりを続け、現実で会うまで
にこぎつけたのは強い執念のなせる業であった。
ドキワクネーム桜子ちゃんは二十四歳の介護士と自称していた。
文面上ではセクシーな上に適度にオツムが不自由で、現状に不満
が溜まっており、ワードの端々から察するところ、なんかすぐやら
せてくれそうであった。
というか、ヤリたい。
写メの交換を何度頼んでも中々渋って送ってはくれなかった。
まさか、サクラではないのか? 桜子だけに? 蔵人の脳裏に不吉の二文字が激しく浮かんだ。
そんな折、奇跡が起こった。つまりは、昨晩の夜に一通の写メが
送られてきた。
大当たりである。
明るいブラウンの巻き毛に、パッチリとした大きな瞳。
いつまでもむしゃぶりつきたくなる、分厚い唇。
すべてが、蔵人の理想だった。
﹁ゆこう﹂
男の荒ぶる魂が動くのは自然の理だった。
待ち合わせの時間は、とうに一時間以上過ぎている。男ならば、
ここで諦めて、京王線を乗り継いで堀之内に向かうべきである。激
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しいジレンマが襲い来る。泣きたくなるのだ。すっぽかしを受ける
と。自分が、世界から拒絶されているような気分になる。
蔵人が財布の中身を調べようと、尻のポケットに指を伸ばしかけ
たとき、きゃるきゃるした声が背後から飛んできた。
﹁クランドさんですかぁ?﹂
間違いない、神は自分を見捨てなかった。
割と好みの女の声である。脊髄反射で動いた。
﹁あ、はい! ボクが蔵人、で⋮⋮す﹂
蔵人は振り返った瞬間に機能を停止した。
樽を想起させる巨大な胴はロシア人の中年女性もかくも、という
圧倒的なものだった。
強烈な寒気や風雪に耐えるべく環境に適合したその身体は、海獣
を思わせる、映像の暴力であった。いうなればセイウチ。とにかく
事前に貰ったメールとはまるで違う。スっと血の気が引いた。
︵マジックか? マジックなのか? たかが大学生ひとり騙すため
にハリウッドの特撮技術班がドリームチームを結成したのか。修正
ってレベルじゃねーだろ。それとも、この肉襦袢を切り裂けば、封
印されし乙女がぱぱーんと飛び出てくるのか? ねぇよ。俺、現実
を認めよう。これは、ただの、モンスターだ⋮⋮!︶
つーか、合ってるのは髪の色と性別くらいじゃねぇの?
﹁わ。わっかーい。マジで、おっさんじゃないじゃん。うんうん、
今日はおねーさんがたっぷりかわいがってあげるよん﹂
セイウチはシナを作ると、巨躯を震わせ猛然と迫ってきた。蔵人
の全身が、防衛反応を起こし、無意識のうちにファイティングポー
ズを作り出す。
︵かわいがるって、それってどこの相撲部屋の話ですか? かわい
がりですか? 金属バットや竹刀でぶん殴って、ほおら撫でてやっ
たぞ、ははは、笑え。とかいうんじゃないでしょうね︶
﹁あれれ。緊張してるのお? もお、かーわいい﹂
ふざけるな。蔵人は目の前の怪物に殺意を覚えた。
4
ともすれば、臨戦態勢になりかかっていた息子が収縮して怯えて
いる。
︵孝行息子だったのに!︶
蔵人は激しく天を呪い、いますぐ大地が裂けて世界を飲み込んで
くれないかと魂の底から懇願した。
﹁俺に触るな﹂
﹁へ?﹂
セイウチの表情が弛緩したものに変わる。どちらにしても醜悪極
まりなかった。
﹁俺に近づくな、セイウチよ。海に還るがいい﹂
﹁んんんっ。ひ、ひっどーい!!﹂
﹁るせえ、ボケが!! 死ね!!﹂
だっ、と飛び上がってドロップキックをかます。
分厚い肉壁の中央部に両足がめり込む。濁った断末魔めいたもの
が、夜の街に響いた。
蔵人は踵を返すと、凄まじい速度でその場から走り去った。
桜子ちゃんは、きっとあのモンスターに飲み込まれてしまったん
だ、と心の中でいまだ会えぬ想い人に謝した。
駅の階段を駆け下りながら、盛り場を駆け抜ける。
蔵人は白い息を吐きながら、いつの間にか見知らぬ公園にたどり
着いていた。
﹁神は死んだ﹂
腰に手を当てながら、背筋を伸ばした。小銭を取り出すと、入口
の自販機でコーヒーを購入し、ベンチに据わった。飛び上がりそう
なほど冷たい。プルタブを開けて中身を一気に煽る。鉄臭い安物の
味が喉へとジワっと広がった。泣きたい気分で空を見上げる。
﹁ああ、こんなことなら聖夜の男祭りというイベントに参加するべ
きだったか﹂
蔵人は敗退して帰って来た自分に対する悪友たちの手厚い歓迎を
想像し、顔面をクシャクシャにした。イベントには出ない。負け犬
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の群れには戻りたくなかった。
このまま帰っても、待っているのは安アパートの冷たい布団であ
る。待つ家族も恋人もいない。ふと、スマホに目を向け、無意識の
うちにサイトを開いていた。
ドキワクメールという出会い系サイトは、女性会員にメールを送
るのも、プロフィールを確認するのにも、すべてポイントという金
が必要だった。
極めて巧妙な収奪方法である。
これを最初に考えた人間は天才だな、と蔵人は冷めた脳で考えて
いた。ポイントを買うのには現金が必要だった。蔵人のドキワクに
はまだ数十円分のポイントが残っている。どうせなら、未練を断ち
切るためにすべて使い果たそうと、いつもは絶対に見ない掲示板を
確認した。ここには出会いを求めた寂しい男女が集まっている。正
確にいえば、ほぼ業者と客のみである。お茶引きデリヘル嬢が公然
と客を取っているのである。
もちろん、貧乏学生の蔵人には関係のない場所であり、客のつか
ない風俗嬢など人三化七と決まっている。いままで滅多に覗いたこ
とはないが、もう終わりだと思えばそれほど頑なになる必要もなか
った。鼻歌混じりで薄闇にぼうっと光る画面をなぞる。
﹁銭の亡者どもが、地獄に落ちろ。⋮⋮ん?﹂
流し見していた中で、ふと視線が止まった。
﹁私の勇者探してます☆﹂
語尾の星マークが凶悪だった。あきらかに、若い娘が使わないセ
ンスである。
おまけに板違いとくれば、この書き込み主の脳の状態を疑っても
仕方なかった。
なんだ、こいつガイキチかよ。
蔵人はそう思いながらも、スマホの画面をタップした。まるで導
かれるように。
開いたその先にはなんの件名もなく、その代わり、文字が書かれ
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ている部分が、まるで見たことのない模様の羅列で覆われていた。
﹁なんだよ、これ。文字化けか?﹂
背筋にゾッと冷たいものが走った。異様な寒気を感じ辺りを見回
すが、別段なんてことのない、住宅街の公園内である。周りの家か
らは、かすかな生活音や話し声が流れてくる。周りには決して異様
な変化は起こっていない。
﹁はは、バグかよ。しょーがねーな、この運営は﹂
蔵人は強がりながら、中央の画像をタップしようとして指を止め
た。そこにはたいてい、募集している女性の画像なりが入っている
ものだ。
しかし、不鮮明な四角窓の下にはムービーを表すビデオカメラの
アイコンが写っている。つまり、中に埋設されているのは動画だと
いうことになる。
﹁ど、どーせ、とんでもない勘違いブサイクか、関係ない動画だろ、
たぶん﹂
震えながらタップすると、スマホの画面が動画に切り替わる。
﹁え﹂
それは想像以上にクリアな動画だった。
映っているのは、目を見張るほど目鼻立ちの整った女性である。
黒々とした大きな瞳が印象的だった。
白っぽいドレスのようなものを纏っている。
夜を溶かし込んだような黒髪がたっぷりと波打っている。
早口で聞いたことのない言語で強く訴えていた。
明白な動画である。写メと違って修正はできない。本物の美人だ
った。
﹁英語じゃねえよな。聞いたこともねえ言葉だ﹂
言葉の意味はまったく理解できないが、なにか切実に願っている
ことは理解できた。
所詮は録音された動画であるはず。けれども、蔵人は目の前の女
からまるで目を話すことができなかった。
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助けてください。私の勇者さま。
もちろん、そんな言葉は発していない。だが、蔵人にはそのよう
にしか聞こえなかった。
誰かが自分を必要としている。
その幻想に途方もない魅力を感じたのだ。
特技もない、金もない、女を上手くコマす器量もない。
ひときわ優れた容貌もない。
人並み外れた超人的体力もない。
学歴も、誇れる友も、恩師も、信じられものすら蔵人の人生には
存在しない。
いままでもそうだったし、これからもずっとそうだろう。ある日、
突然、なにかがひとりでに変わり始めるなどということは、自分の
身に起きうるはずもない。勝手に激変するのは、税金の追加と景気
の悪化ぐらいだろう。
だから女なのだ。かりそめでもいい。美女を抱いているときだけ
は、唯一自分を感じられる。それ以外に人生などなんの価値もない
のだ。価値があるなんていうやつは、大嘘つきだ。あるいは、自分
を誤魔化そうとしている卑怯者だ。
もし、蔵人に命を投げうって得たいと思う女を見つけることがで
きれば。
そのときこそ、真の人生が始まるのだ。
スマホのムービーが途切れると同時に、画面から青白い菱形の光
が射出された。
開けよ、と。
己に囁いている。
それは、大いなる天命だった。
世界が白く凍りついている。あらゆる事象から、いまの自分は隔
絶されている。
青白い光は、まるで扉のように蔵人の目の前で停止すると、誘う
ように左右へ動く。
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この扉を。この扉を開けるために、俺は生まれてきたのだ。
なんの根拠もなくそう思った。
心が定まれば、覚悟もまた決まった。
﹁ゲーム、スタートってか﹂
蔵人は、導かれるように目の前の光に手をかけ、そして運命をこ
じ開けた。
千年余の歴史を誇るロムレス帝国が力を失って瓦解した際に、そ
の広大な領土は六つにわかれ、王と五人の大貴族がそれぞれ分割統
治することになった。
いわゆるロムレス連合王国である。
五人の大貴族は、元は王族からわかれた裔であったが、ご多分に
もれず、それぞれが自らの正当性を主張し始めて正当な王を名乗っ
た。
かといって、正当な王も他の大貴族も、それぞれを認めるわけに
はいかない。
大規模な戦闘は起こらないまでも、それぞれが正当性を主張し、
小競り合いを互いの国境付近で幾度となく繰り返した。
現在では、正当王位を持つロムレス王家の国土は経済・武力は共
に疲弊し、あとはおのずと倒れていくのを、各国が指をくわえて待
つのみとなっていた。
その他の国とは、すなわち、
エトリア、
リーグヒルデ、
ユーロティア、
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ルミアスランサ、
ワンガシーク、
の五つである。
今年で十六になったばかりの、ロムレス第一王女、オクタヴィア・
フォン・ロムレスは疲弊した自国を誰よりも憂いていた。
オクタヴィアは、当代のロムレス王が唯一王妃に産ませたひとり
娘であった。
常時なら、とっくに他国から婿を迎えていてもおかしくない年頃
であった。けれども、名実共に権威と力が形骸化したロムレス王国
においては、五つの国とは微妙なパワーバランスを保っており、お
いそれと婚儀すら執り行えない状況だった。
この混沌を打開するには、王家に伝えられた禁呪により、異世界
からの救い主を召喚しすがるしかない。救い主とは、すなわち伝説
の勇者であった。
かの者は、高い知力とすぐれた魔力、永遠の不死性を持ち、荒廃
した王国を再び勃興させるといにしえより伝えられた超人の存在で
ある。召喚の大魔術は、人生においてたった一度しか許されない文
字通りの賭けである。古文書によれば、かつては魔界からの怪物を
呼び出し、その場で喰われた王族もいたらしい。王女という枷の中、
両親に秘匿しながらここまでの大規模な召喚陣を作成できたのも、
オクタヴィアの近衛騎士であったヴィクトワールの協力があったか
らこそである。
唯一の直系継承者の命を、イチかバチかの賭けに投ずることが出
来る訳もなく。 知られれば、確実に咎められるゆえに王女は内密にことを進める
必要があった。
伝説の救い主。万物の理を知る知力と世界を変革する魔力と不死
の力を持つ英雄。
存在し得ないはずの傑物。
すべての、努力の結実がいま形になる時が来たのだ。
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どれだけの時間が経過したのだろうか。
召喚陣の紋章が、薄桃色に妖しく煌めきだし、石造りの地下室は
あっという間に、真昼の太陽の下のように白く塗りつぶされていく。
王女は額に汗をかきながら、握り締めた杖に魔力をいっそう込め
た。
﹁王家の血の盟約において命ずる。我が運命よ、命よ、願いよ。よ
びかけに、こたえよ﹂
白光が一際大きくなっていった。
召喚陣の中央部が大きく盛り上がり、人型が形成されていく。
﹁どきどき﹂
無論、超人の存在はそのまま、王室の血に組み入れられるのが常
道とされると、召喚の儀に関する書物を読んだ時点でオクタヴィア
は知っていた。
つまり、勇者とはオクタヴィアの夫となる者である。自らの夫を
自らの手で呼び出すのだ。緊張と期待で彼女の胸はいまにも壊れそ
うになっていたのだった。
オクタヴィアは、目を開けていられなくなり、両手で握り締めて
杖を保持した。光が強まっていくとともに、陣の中心から強烈な魔
力の奔流が室内を満たしていく。儀術に使用した備品が次々に吹き
飛ばされ、砕け、霧散した。終わりのない魔力の波濤は、やがて徐
々に引いていった。
﹁えええぇ!﹂
オクタヴィアは悲鳴を上げるとその場に座り込んだまま動けなく
なった。
それは、途方もなく巨大な怪物だった。
広大な地下室が狭く見えるほどの青黒い巨体は、既存の動物に当
て嵌めればどことなく犀に近しいものがあった。大樹のように二本
角が凶悪に艶めいて光った。両眼は直視しただけで全身が硬直する
ほどの魔気を放出している。
魔獣ベヒモス。
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かつてロムレス全土を襲った、神が創りし
完璧なる獣
﹁我を呼びしロムレスの裔よ。ついに、刻は至れりか﹂
﹁え。それは、どういうことで⋮⋮﹂
である。
﹁決まっておる。我を呼びし刻、即ちこの大地が終焉を迎えし刻よ﹂
ベヒモスは巨体を僅かに震わせると、床を蹴って飛び上がった。
魔獣の負荷に耐え切れず、足元の石畳が波のようにゆらめき、突き
破った天井から崩壊した石片が濁流のように崩れ落ちた。大変なも
のを呼び出してしまった。
オクタヴィアが後悔したときはすでに遅かった。ロムレス城を破
壊しながら地上に降り立ったベヒモスはただちに王国の兵士たちと
戦闘状態に突入した。
城に常時詰めている兵の数は五千弱。
王の広々とした庭園は、たちまち地獄絵図と化した。
二十メートルを遥かに超える巨体は、牙を剥き出しにすると、そ
の口内から蒼い火炎を続けざま射出した。槍衾を作って前進する歩
兵中隊は、一抱えもあるナパーム弾同様の炎弾を喰らって紙人形の
ように弾け飛んだ。
まさしく、王国滅亡の危機である。将校たちは兵士を叱咤激励し、
果敢に攻撃を加えるが、近づけば巨大な角と牙で切り裂かれ、毛一
筋程度の傷も負わせることはできなかった。
王の無聊を慰めるために植えられた木々や花々は、軍靴と兵器を
運ぶ車輪で踏みにじられ、上質な木材で組み上げられた四阿は紙細
工のようにベヒモスの巨大な足で破壊された。
兵士たちは、弓で、魔術で、援護射撃を行うが、堅い獣の革はそ
れらをすべて弾き返す。
なれば肉弾と命を捨てて迫るも、いかな達人とてベヒモスの前で
は象に立ち向かう蟻のように無力だった。鋼鉄の鎧も、代々伝わり
し魔導兵器も、日々鍛え抜いた剣術も、終末の彼方よりやってきた
怪獣にはなにひとつ通用しなかった。
ベヒモスは庭園に展開した歩兵たちの半ばを鏖殺すると、ゆっく
12
りとした歩調で城下町に向かって移動していく。対人用に造られた
防御壁もまるでウエハースのようにパリパリと折られ、街が火の海
になるのも時間の問題だった。
なおも後方から食い下がる兵たちを、小蝿を打ち落とすように、
巨大な尻尾を振るって虐殺する。ベヒモスの尾には刃のように鋭い
ウロコがひしめいており、触れただけで人間の身体などは紙のよう
に切断された。バラバラになった肉塊は血煙を上げて舞い飛び、城
壁を、大地を、歯を食いしばって突き進む同胞を朱に染めた。
五千の精兵もいまや半ばは倒れ伏し、残兵を率いる将校の顔色に
も諦めの色が濃かった。
﹁だが、ロムレス騎士の誇りにかけて、ここから街へは一歩も近寄
らせない﹂
迎撃の指揮を執る歩兵大隊の隊長は、剣を引き抜くと折れた左腕
を揺らしながら手綱を取った。男の胸には、生まれ育った街を守る
という強い決意が燦然と輝いていた。
﹁全軍突撃!!﹂
瞬間、隊長の顔に動揺が走った。
網膜の向こうに、凄まじい勢いで飛来する岩石が迫っていた。
ベヒモスが振り回した尾が、破壊した城壁の一部を吹き飛ばした
のだ。
馬がたちまち棹立ちになる。隊長の眼前に死神が舞い降りたのだ。
﹁ぷぎゅ!!﹂
岩の塊は上手い具合に隊長の顔面にぶち当たると、脳漿を砕いて
辺りに四散させた。
オクタヴィアはなんとか半壊した地下室から抜け出ると、激しい
戦闘が終わった直後の庭園を歩いていた。
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すべては自分の責任である。召喚を失敗するだけならいざ知らず、
かような伝説の魔獣をこの地に呼び降ろしてしまった。幾重にも折
り重なった兵士の遺体は、まるで壊れた人形のようにピクリとも動
かない。光を失った若い兵士の瞳が自分を責めているように思えて
顔をそむけた。
﹁なんとか、なんとかしないと﹂
オクタヴィアは途方もない絶望感の為、えづきそうになるが、王
女の誇りにかけてそれはこらえた。
あんまりだ、こんな仕打ち。神様、私がいったいなにをしたとい
うのでしょうか。
オクタヴィアの目尻に涙がにじむ。唇を強く噛んで我慢する。小
さな頃から忍従を強いられてきた彼女は、自分の感情を押し殺すこ
とだけは得意だった。召喚によって降ろした、もの、を元の場所に
返す方法はたったひとつしかない。術者がそれを殺すか、あるいは、
それに己の命を獲らせるだけである。そもそもが、古書による知識
である。あっているかどうかわからないが、自分があのベヒモスを
殺すことなど不可能であるならば、あとはどうにかして魔獣に自分
を手にかけさせるしかない。あの地下室を壊して去った際に、ベヒ
モスはオクタヴィアに対し、強度な防護魔術をかけていった。高い
知性を持つ魔獣は召喚者を間接的にも殺すことに対し、保険をかけ
たのだろう。と、なれば、容易にあのベヒモスがこっちの策に乗っ
てくれるかどうかわからない。オクタヴィアが死ねば残りの王位継
承者でさらなる内訌がはじまり、弱りきった国力にとどめを刺して、
王家は逆賊に併呑されるのであろう。安易な召喚に頼ったのが罪な
のだろうか。わからない、まるでわからない。
﹁ごめん、ごめんなさい﹂
良かれと思って行なった事態が、無辜の将兵たちの尊い命を奪っ
てしまった。
﹁あう﹂
オクタヴィアは瓦礫に足を取られて転ぶと、堅い石に顔を強く打
14
ちつけた。擦り切れた頬から滲んだ血が薄く染み出してくる。ジン
ジンとした手のひらを地面に突くと、なんとか起き上がって、干戈
が交わる戦場へとなおも進んだ。
貴人に情なしというが、彼女の場合は、あらゆるものに対して情
が深すぎた。ロムレスのことを考えれば、この場は家臣に任せて王
女である自分はさっさと城を捨てて逃げ出すべきであろう。
けれども、オクタヴィアの頭の中にあるのは、もはや死して責任
を取るという一点に集約されていた。
﹁痛い、痛い﹂
我慢していた涙が決壊直前に迫っていた。
顔を上げれば、彼方には青黒い巨体の背が見えた。
﹁なんで、こうなってしまったのですか。なにが悪かったのでしょ
うか﹂
答えはない。彼女に残されたのは、死してすべてを償うという選
択肢しか残されていなかった。やがて、空には黒雲が疾駆し、ポツ
ポツと雨が降り出した。敗軍の兵たちの囲みに近づくと、幾人かの
貴族が呆気にとられて棒きれのようにその場に立ちすくんだ。兵た
ちの波を割って先頭に出る。ベヒモスの巨体が小山のように聳えて
いた。
﹁もう、おやめください﹂
﹁ロムレスの裔か。断る﹂
﹁どうしてですか。もう、充分に血は流れました。これ以上、なに
を望むというのですか﹂
﹁すべての破壊だ。我はベヒモス。その為に、世界に生を受けしも
のだ。だが、ふむ⋮⋮。それにしても、おまえは人間にしては胆の
太い﹂
ベヒモスは赤い瞳を瞬かせると、豪風のような音を吐きだした。
それは、どこなく笑い声のようにも聞こえるのものだった。オクタ
ヴィアが魔性の瞳を真っ向から迎え撃つ。途端に、周りにいた将兵
たちは残らず糸の切れた人形のようにバタバタと倒れていく。オク
15
タヴィアの相貌が怒りと哀しみの入り混じった凄惨なものに変わっ
た。
﹁なんて、ひどい﹂
﹁ふむ、我の眼力で気死せぬとは。気に入った。ここはひとつ交換
条件とゆこう﹂
﹁交換条件?﹂
﹁女よ。おまえは名をなんと申す﹂
﹁私は、ロムレス王家第一王女にして、第一位王位継承者、オクタ
ヴィア・フォン・ロムレスです﹂
﹁おまえを我が妃にしよう。どうだ? 少なくともおまえが、我に
生きて仕えつづける限りは、この大地を滅ぼすことは一時留め置こ
う﹂
﹁⋮⋮永遠の不可侵を誓ってはもらえないのですか﹂
﹁オクタヴィアよ。それは人間の分際で、傲慢といえよう。人の生
はせいぜい数十年。それだけの猶予を得たことだけでも、奇貨と思
え﹂
﹁はい﹂
﹁花嫁よ。我はおまえの夫ぞ。地に平伏して、我が足に口づけせよ﹂
﹁は、い﹂
屈辱であった。オクタヴィアは震えながら、いまは薄汚れてしま
ったドレスのままその場に跪いた。驟雨が豊かな黒髪を激しく打ち
据える。
︵私の身はどうなってもいい。せめて、この魔獣に仕えて、一刻で
も長く国を永らえなければ、祖先にも、そして多くの民にも申し訳
が立ちませぬ︶
オクタヴィアの瞳からポロポロと光のような雫がこぼれ落ちる。
涙が、地面に触れて形を失う瞬間、奇跡は起こった。
ベヒモスの身体の中央が、白く輝いている。
﹁姫よ、いまですぞ! もう一度、再召喚の儀式を﹂
枯れきってはいるが、力強い老人の声。オクタヴィアが振り向く
16
と、頭上には、浮遊魔術で上空を旋回する王宮魔道士であるマリン
の姿があった。老魔道士の杖からは、ベヒモスの巨体に向かって、
召喚陣を刻むポインタの光が発せられている。
躊躇している暇はなかった。
﹁王家の血の盟約において命ずる。我が運命よ︱︱!! 伝説の守
護者よ!!﹂
ベヒモスが攻撃に移るより、オクタヴィアの詠唱が早かった。
﹁まさか、ありえぬ!!﹂
耳をつんざくような絶叫が、伝説の怪物の口から激しくほとばし
っている。
召喚陣を示す五芒星がベヒモスの腹にクッキリと浮かぶやいなや、
盛り上がった紋章の形に肉が裂け、赤黒い肉の割れ目から、多量の
血液と臓物が濁流のように流れ出した。
﹁バカな。これは︱︱神が、我を滅ぼすだと!?﹂
それが、ベヒモスの最期の言葉だった。
身体の三分の二が切り開かれて、生きている生物などこの世には
いない。
それは、この巨躯の魔獣とて同じことだった。
身体の中で攪拌機をフルパワーで回したように、ベヒモスの内部
は、召喚陣の力で次元ごと切り刻まれたのだった。
底のない海から湧き出た黒い波頭が、一瞬でオクタヴィアを飲み
こんでいく。
赤黒い鮮血の海であえぎながら、強い感激に打ち震えた。
なんということだ。
なんということだ。
奇跡は起きたのだ。神が救い主を遣わしたのだ。
ロムレス屈指の騎士団を、まるで赤子の手を捻るようにして殺戮
したベヒモスという伝説の魔獣は、同じく、伝説の力によって、こ
こに討ち果たされたのだ。
﹁あああっ﹂
17
オクタヴィアはどう、と倒れ伏すベヒモスから流れ出る血潮の海
を泳ぎながら、光輝の発信源へとよたよたとにじり寄った。
ドレスは血に塗れ、顔中は魔獣の臓物で穢れきっている。とても
ではないが、伝説の勇者はおろか、誰の前にだって顔を出せないひ
どい身なりである。
﹁召喚が、成功したのですね﹂
オクタヴィアは自らが呼び出した勇者が、なんらかの未知の力で
ベヒモスを斃したと判断していたが、事実はまるっきり違った。
召喚は、不完全な形で成功していたのである。
間違って刻まれた召喚陣から、最初にベヒモスが呼び出された。
そして、マリンが刻んだ召喚陣が、ベヒモスという存在そのもの
を、途方もないエネルギーの吐き出し先として、口をつけたのだっ
た。
ベヒモスの身体の中央部は世界の因果律によって無理やり裂け目
を造られた格好となり、その傷によって即死した。
つまりは先に呼び出されたベヒモスに勇者という存在が上書きさ
れた形となった。
伝説の勇者の色は、ベヒモスよりも濃い。赤子が母胎を、ときと
して傷つけるように、伝説の勇者はあっさりとその生みの親を弑し
たのであった。
ベヒモスはその身体を横たえながら、ドロドロと腐った肉へと凄
まじい速さで変化し、崩れていった。
オクタヴィアは、その場で輝きながら仰向けに寝ているひとりの
男に気づくと、知らず涙を流しながらジッと見入っていた。
黒髪に、浅黒い肌をした少年だった。
背丈は大柄で、筋骨たくましく、どこかなつかしい感じだった。
その不思議な風貌を一目見た途端、ああ救われた、と感じた。
﹁勇者さま﹂
﹁んん、いちち。あれっ、ここはどこだ﹂
座ったまま上半身を起こした勇者と視線が合った。
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黒々とした澄み切った瞳は、大きく見開かれている。
こうして見ているだけで、あふれかえった感情が胸を早鐘のよう
に打ち鳴らしていた。
自分とまるで同じ、黒い瞳を直視したとき悟った。
ああ、自分はこのお方に生涯お仕えするのだ、と。
﹁ええ、ああ。えーと、君はどこの誰なんだ﹂
声が詰まる。こんなわけのわからない状況で、自分のことよりも
他人を案じるそのやさしさに、涙腺が崩壊しそうになる。
﹁ふ﹂
﹁ふ?﹂
﹁うえええええええっ﹂
﹁おい、ちょっと待ってって﹂
泣きじゃくりながらむしゃぶりつく。
はしたないと思っても、オクタヴィアはすがることをやめられな
かった。
私の勇者さまだ。
私だけの勇者さまなんだ。
私だけのみかたなんだ。
もう、絶対に助からないと思っていた。
そんな絶望的な運命を、あっさりとひっくり返してくれたこの男
こそ、自分が幼い頃から思い望んでいた、すべてを託すに望ましい
人なんだ。
﹁まあ、なんというか、泣きたいなら好きなだけ泣けばいいんじゃ
ね?﹂
﹁ふええええっ﹂
オクタヴィアが前後の見境なく、男にすがりついていると、背後
から、騎馬の駆けるヒヅメの音が近づいてきた。ふと、顔を上げる
と、勇者は顔をそらして視線をそむけている。気づけば、自分のド
レスはズタボロに破れ、片胸の半分は露わになっていた。
いとしい勇者さまの前で、なんたることを。羞恥で身が一瞬に火
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照った。
﹁きゃあっ﹂
﹁わ、悪いッ﹂
羞恥にまみれ、両胸を手でかばって背を向けた。
それが、運命の岐路だったなどと、誰にもわかるはずはなかった。
﹁姫さまッ!!﹂
﹁あら、ヴィーじゃない﹂
大きな瓦礫の前で馬を下り、騎士の一団が血相を変えて駆け寄っ
てくる。
とりわけ、先頭を突っ切るひとりの騎士が一際目立った。
腰まで届きそうなはちみつ色の金髪が流れるように宙に舞ってい
る。
象牙を彫り抜いて造ったような顔の細部は個々が力強い美を宿し
ていた。
深い森を思わせるような緑の瞳が、爛々と光っている。
近衛騎士ヴィクトワール。
女性にして、王国一の剣の使い手である。
﹁きさま、きさま、姫さまをよくもーっ﹂
ヴィクトワールは抜刀した剣を振りかざしながら、絶対に嫁にし
てはいけないタイプです、と万民にいわせる勢いで疾駆している。
様子がおかしい、と思ったときにはすでに遅かった。オクタヴィ
アが止める間もなく、彼女たちは、座りこんでいる勇者に殺到し、
蛮勇を余すことなく振るった。
半裸である自分を誤解したのだろうが、その恩を仇で返してしま
う罪深さに、オクタヴィアは卒倒した。
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Lv2﹁無道なる獄卒長﹂
蔵人は闇の中で身体を起こそうとして、激痛にうめいた。全身の
筋肉を引き千切るような感覚が波濤のように絶え間なく脳髄を襲っ
ている。息を吐いただけで全身がバラバラになりそうだ。燃えるよ
うに身体中が熱い。
しばらくすると、自分は、ひんやりとした石の上に転がっている
のがわかった。歯を食いしばりながら、指先の一本一本に力を込め
る。痺れるような鈍痛と共に、意識が覚醒していく。後頭部が重い。
最悪の二日酔いを酷くしたような感じだった。たちまち吐き気が込
み上げてくる。
だが、喉の奥に栓をされたように呼吸ができない。助けてくれ、
と無我夢中で口を開く。
飢えた犬のように、舌を出してあえぐ。努力の甲斐あって、視界
に貼られた白い膜が溶かされるように、徐々に光が戻ってきた。
蔵人は口の中に溜まった血だまりを吐き出すと、数回咳き込んだ。
びたびたと、吐瀉物が固い石を叩くような音がした。ひたすら気分
が悪い。目尻に涙が自然と溜まった。
﹁おーい、ジイさん。こいつ気づいたみてーだぞ﹂
﹁だから、俺はまだそんな年じゃねえっていってるだろうが﹂
甲高い若い男の声と、低い苦みばしった男の声が交互に聞こえた。
﹁おい、起きれるか﹂
年かさの男の声。
応える気力が出ない。無理やり顎を僅かに動かして、返答と代え
21
た。
﹁随分、参ってるみてぇだが、おまえは若い。大丈夫だ﹂
根拠のない励ましの声。
できれば、そうありたかった。節くれだった大きな腕が自分を引
き上げていく。
蔵人は自分の上半身を、隣にいた男に支えてもらい、両手の力を
振り絞り、なんとか壁際に背中をもたれかけさせた。
目蓋をゆっくり持ち上げて視線を動かす。ひたすら薄暗い。饐え
たカビのような臭いと動物園のようなケモノの臭いが混合した酷い
ものが、鼻先を横殴りにする。なにも見えないと戸惑っているうち
に、自然と目が慣れた。薄ぼんやりと、周囲の全景がはっきりして
くるに連れ、意識が凍結しそうになった。
﹁なんだよ、ここは﹂ 蔵人のいる場所は、古い石を組んで造ったいかめしい牢獄と思わ
れる一室だった。四畳半程度の部屋は三方を厚い石壁で覆われてお
り、まったく陽が射さないので今が昼なのか夜なのか判別できない。
唯一の光は、廊下のところどころに立てかけてある、ひどく頼りな
いロウソクのともしびだけだった。
通路と自分を遮る目の前には、栗の木で出来た身の厚い格子が組
んであり、それらは薄暗い闇の中で、明度の低い燭台の照り返しを
受け、ぬめりを帯びて見えた。
﹁牢屋なのか﹂
蔵人は震える声で、誰となく訊ねた。妙な光に包まれたかと思え
ば、気づけばここにいた。狐につままれた、というが正しいか。一
瞬だけ、いい思いをしたような気もする。気づけば、上半身は裸で、
下だけは申し訳程度のモノを履かされている。
無論、裸足である。だんだんと気分が落ち着いてくるうちに、差
し込んでくる寒さに耐えられなくなりつつあった。
いまは、十二月じゃねえのか?
寒いとはいえ、冬の気温ではなかった。そうでなければ、凍死し
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ていてもおかしくないが、牢内はそこまで過酷な気温ではなかった。
いままでの人生には確かに退屈しきっていたが、かといって、い
きなり塀の中で名前を奪われ番号で呼ばれたかったわけでもない。
大きく、クシャミをすると、人相の悪い顔つきの男が上着を投げて
寄越した。日本人の常として、ペコリと頭を下げる。饐えた臭いの
する上に、ツギハギだらけであちこち穴が空いているが、着ていな
いよりかはマシだった。
﹁春とはいえ、上がハダカじゃあな。着心地がいいとはいわねえが、
幾分マシになっただろう﹂
﹁すまねえ。助かった。にしてもよ⋮⋮﹂
顔を見てギョッとした。なにしろ、日本語で話していると思った
相手が、あきらかに白人なのだ。蔵人が、戸惑っていると、三十過
ぎの男はまばらに生えた顎鬚をこじりながら、皮肉げに笑った。
﹁ンだよ。おれの顔になにかついてるのか﹂
﹁い、いや。随分と日本語が上手いなと﹂
﹁ニホンゴ、たぁなんだ? おまえの故郷の言葉か? おれは生ま
れも育ちもロムレスだぜ。ほかの国の言葉はわからん﹂
﹁んんん。まあ、いいか。とりあえず、なんでも通じれば。という
か、なんで俺はここにいるんだ。ここは、もしかして牢屋ってやつ
なのかよ﹂
﹁おまえわかりきったこと聞くんじゃねーよ。バカか?﹂
焦げ茶の髪の少年が快活にいい放った。ふた昔前の、洋画に出て
きそうなそばかすを散らした、典型的なアメリカ人に酷似している。
蔵人は、かつて見たスタンド・バイ・ミーという映画をなぜか思い
出した。
﹁おい、マーサ。こいつは、しこたまかわいがられたみてぇだぜ。
状況もわかってねぇらしいしあんまいじめるなや﹂
﹁べっつに、イジメてねえって﹂
﹁まあ、同じ同房ってよしみだ、兄ちゃん。ひとつ、ここは仲良く
やろうや﹂
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焦げ茶の少年を三十男が促すと、部屋の隅にいた線の細い青年と、
髭モジャの年齢不詳な男が近寄ってきた。名前もわからなければお
互いやりにくいということで、蔵人たちは軽く自己紹介するために
牢内で車座になった。
茶色の髪をした男は、マーサといい鍛冶屋志望らしい。
歳は十七でこの中では一番の年若だった。
獄中だというのに暗さが微塵も感じられない。白い歯が闇の中で
際立っていた。
頬に傷がある男は、ゴロンゾと名乗った。
歳は三十三で、本格派の盗賊らしい。
なんでも本格派というのは、困った人からは盗まず、盗みに入っ
た時は誰も傷つけず、一部は必ず社会の貧民に還元する、という鉄
の掟があるらしい。
だが、所詮は盗賊風情であり、内実はやはりドロドロとした綺麗
なものではなかった。
畜生働き、という行為がある。盗みに入って残らず家人を殺戮し、
女は犯し尽くすという最低最悪のやり方をいう。このゴロンゾとい
う男は、盗賊だてらに仲間の残虐行為をとがめて逆恨みを買い、身
柄を官憲に売られたらしい。少しばかり、照れ混じりに述べるその
顔は、生まれついての悪党とはとても見えなかった。すべてが中途
半端である。どう考えても盗賊には向いていない人間だと思った。 線の細い青年はヤルミルと名乗り、自称革命家を名乗った。
歳は二十六で黒縁の尖った眼鏡をかけている。信用金庫の行員を
やさぐれさせたような感じだった。目元に知性と虚無的な雰囲気を
漂わせている。ほっそりとしたマスクと切れ長の目は、比較的に女
に好まれそうであり、蔵人は本能的に警戒感を覚えた。
﹁ジイさん、どうしたんだ。次はおまえだろ﹂
﹁いや、俺よりもあんたのことを聞きたい﹂
ジイさんと呼ばれた年齢不詳の男は、胸もとまで伸びた白い髭を
しごきながら、金壷眼をぎろりと光らせた。髭があると、存外男の
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歳はわかりにくくなるものである。彼の瞳や、髭から覗く肌の色艶
は、若くはないものの、老人とは思えない張り艶を保っていた。粗
末な囚人服から覗く節くれだった指先はまだ脂ぎった精力を感じさ
せ、誰が見ても彼を老人と呼ぶには早すぎると思わせるものがあっ
た。
﹁なんだ、顔が近いぜ。俺は、志門蔵人ってもんだ﹂
﹁シモン・クランドか。シモンて名前は別に珍しくねえな﹂
ゴロンゾが懐手にしたまま、訳知り顔にうなづく。
﹁いや、シモンは家名で⋮⋮﹂
蔵人が、ゴロンゾの思い違いを訂正しようとした、そのとき。
ジイさんと呼ばれていた男は、突如として立ち上がると、蔵人の
両肩をガッシリ掴むと、頭からつま先まで舐めるように視線を動か
し、奇妙な吠え声を上げた。
﹁おい、ジイさん。どうした!﹂
﹁うおお、おいおい、どうしたどうした﹂
マーサとゴロンゾが慌ててジイさんと呼ばれている男の肩を左右
から揺さぶる。比較的沈着冷静に見えたヤルミルも目を大きく見開
いていた。
﹁何年ぶりだ、同胞に会えるのは⋮⋮!﹂
﹁同胞だって? だから、それはなんの話なんだよ、オイ! クソ
ジジィ!!﹂
マーサがジイさんの肩に抱きつくと、耳のそばで叫ぶ。甲高い反
響音が、狭い房内にとびかった。
﹁だから、俺はジジィじゃねえ! クランドっていったか。まるで
古臭い名前だな。昔の侍みてぇだ﹂
﹁侍だって? あんた、まさか﹂
﹁そう。そのまさかさ。俺の名は、古泉功太郎。歴とした日本人に
して、この国は滞在三十年の大ベテランだ。ここで、おまえさんと
こうして会えたのも、運命的なものを感じずにはいられないな。お
そらくは、召喚された憐れなる生贄よ。ロムレス王国に、ようこそ﹂
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ジイさんと呼ばれていた年齢不詳の男は、今年で五十二歳になる
日本人であった。
古泉は、同じ日本人に会うのは三十年ぶりであり、異様なはしゃ
ぎ方で、自分の来歴とこの国のアウトラインを大まかに語ってみせ
た。
蔵人の脳で把握できたのは、以下の事柄である。古泉は日本で生
まれ、日本で育った歴とした日本人であったが、大学四回生のある
日、不思議な光に導かれるようにして、このロムレス王国に呼び出
され、勇者としての称号を受け、国事に奔走することとなった。
この西洋ヨーロッパに似た国は、かつて巨大なひとつの王国であ
ったが、正当後継者である王家が力を失ったことによって、有力諸
侯が反旗を翻し、全部で六つの領土に分割された。文化的には、ほ
ぼヨーロッパにおける十五世紀ほどの文化を保ちつつ、地球とはと
ころどころチグハグな乖離点が見受けられた。火薬や銃は発達して
おらず、原始的な武器や馬が幅を利かせ、もっとも違った部分とい
えば、魔術の存在が上げられた。
魔術。実に神秘的な響きである。
とはいっても、魔術を使える人間は限られており、決して万能で
はない。
個人技としてはすぐれていても、それだけで大勢をひっくり返す
ほどの力は持ち得ていないとされるのが常識であった。
追記しておけば、魔術は、地・水・火・風、の属性に大別でき、
それらに含まれない、無を加えた五元素で構成されている。
基本としては、ひとりの人間に与えられる属性は、ひとつのみで
あり、地属性の魔術適性がある人間は、火属性は行使できないとい
った具合である。
ただし、この場合無属性は例外とされる。無属性の魔術は基本、
補助的なものと考えられるのが一般的であった。
﹁待てよ、ジイさん。ってことは、勇者として召喚された俺にも、
魔法が使えるってことなんか? こう、指先からくるくるって火を
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出して、気に入らないやつをブリの照り焼きみたいにしたり﹂
﹁えええっ! すげーっ! クランド、つぇえーっ!!﹂
マーサが両手を振り回しながら無邪気に驚いている。切り捨てる
ように古泉がいった。
﹁使えるわけない。クランド、おまえのその胸の紋章を見ればわか
る。その、刻印は、ひとつしかないからな﹂
蔵人は、はだけていた胸元の紋章に視点を移した。うっすらと、
イモータリティ・レッド
かすかだが奇妙な文様が刻まれている。顔を上げる前に、古泉がい
った。
タクティカル・ワン
﹁そいつは、不死の紋章といって、フィジカルに関する能力を極限
にまで跳ね上げるものだ。俺が、かつて持っていたものは、知恵と
マジョリカル・マナ
いって、個人の知性能力を引き上げる紋章だった。それと、伝説に
イモータリティ・レッド
謳われる、魔力のみっつを併せ持った者が、真の伝説の勇者らしい。
不死の紋章だけのおまえさんには、もちろん不可思議な魔術などは
使えないし、そもそもが欠陥品なのさ﹂
﹁欠陥品⋮⋮! マジかよ。いまから、俺のハリウッド映画並みの
物語が始まるんじゃないのかよ﹂
﹁始まらない。牢番がいってた話によれば、クランドよ。おまえは、
王族侮辱罪でどっちみち死刑らしいぜ。とんでもねー野郎だな﹂
﹁ちょっ、それは誤解だ! 俺はなんもやってない!! たぶん﹂
蔵人は意識が薄れる直前に見た、半裸の美少女のことを思い出し
ていた。確かに、誤解を招きかねないシチュエーションであったが、
それは不可抗力というものである。
﹁待ってくれよ、古泉さん。あんた、確か先代の勇者だったんだろ
う。どうして、こんな檻の中にいるんだよ?﹂
﹁それは、まあ。いいじゃねえか﹂
﹁いや、よくねえよ。よくないからね、全然。あんたの話によって、
これからの俺の身の振り方にも関わってくるからね﹂
﹁クランド。身の振り方も糞もねえだろうが。けけ、第一この房に
いるのは基本終身刑かそれに準じる重罪犯だ。どうにもらねえって
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の。どっちにしろ、なにもかもが絶望的なのさ﹂
﹁クランドは絶望的なのかー﹂
マーサはあまり理解していないのかゴロンゾに向かって首をかし
げる。
﹁ま、真実がどうであろうが、こんなところにぶちこまれた時点で
ついてなかったことには変わりはないだろうな﹂
﹁僕の記憶によると、王族に対する侵害及び不敬はもれなく死罪あ
るいは終身刑ですね﹂
ヤルミルは参考までに、とつぶやくと人差し指で眼鏡の中央部の
位置を直した。
﹁オイオイ、おめーさんだって終身刑だろーがよ﹂
ゴロンゾがさもおかしそうに笑いを咬み殺す。
ヤルミルは下唇を軽く突き出すと鼻を鳴らして、ギロリとゴロン
ゾを睨みつけた。
﹁おい、やっべーぜ、クランド。おまえ殺されちまうぞ!﹂
マーサは血相を変えて蔵人の両肩に手をかけて揺する。
もっとも、蔵人はゆとり教育のたまものか、あくまで余裕を崩さ
なかった。
﹁おいおいおい、そんな簡単に死刑が執行されるわけがねーだろ﹂
﹁簡単に、ね﹂
ヤルミルが心底あきれ果てたかのようにため息をつく。蔵人は少
し不安になった。
﹁ところで、マーサだっけっか、お前はなにやったんだよ。どう見
ても、こんなところに放り込まれるタイプじゃないだろ﹂
﹁うん? 俺か。俺はなぁ﹂
﹁待てよ、クランド。こいつに込み入った話は無理だぜ。代わりに
俺が、説明してやろう﹂
ゴロンゾはマーサを押しのけて前に出ると、髭をいじりながら話
しだした。
﹁そう、クランドの疑問のとおり、マーサは好んで重罪犯になるタ
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マじゃねえ。ま、よくある話で、山出しの田舎モンが一旗揚げよう
と都に出てきた直後、街中で女に絡んでたタチの悪い男たちを五人
まとめて半殺しにしちまったんだ。いや、若者は怖いね、手加減て
もんを知らなくて。ところが、半殺しにした相手が悪かった。王都
でも名うての不良貴族のおぼっちゃん。んで、オヤジが公爵と来た
らもう話のオチは決まったようなもんだ。金にあかせて女を口止め
し、法律院の判事も丸めこみ、事件そのものを根底から書き換えや
がった。マーサのやつは一方的に悪者にされちまったってわけだ。
白昼堂々貴族の子弟に乱暴をはたらいた暴漢。実にやつらにゃ都合
のいい話のおさまり具合だ。俺自身はこういうま正直な馬鹿嫌いじ
ゃないが、世間では受け入れにくかろうが﹂
﹁俺は悪い奴から女を助けただけだ!﹂
﹁あーらあら。相変わらず、たいした話題もないのに、でなにをぺ
ちゃくちゃさえずってんのかしら、アタシの小鳥ちゃんたちはァ﹂
ヒキガエルを磨りつぶしたときに上げる断末魔にも似た耳障りな
声が、重低音で蔵人たちの腹を打った。房の男たちがいっせいに下
を向く。蔵人は不審に思い、声の方向に顔を向けると怯え切った古
泉の声と共に、袖を引かれた。
﹁目を合わせるんじゃない。死ぬぞ﹂
それは、ある意味人類の遺伝子プール外の男だった。
背丈は二メートルをはるかに超えており、飛び跳ねれば廊下の天
井に頭が届きそうなほどの巨体だった。龍を模した銀造りの兜から、
肩の辺りまで伸ばした金髪が波打っている。
両の胸筋は鍛えに鍛え抜いたのだろうか、巨岩のように雄々しか
った。毛むくじゃらの体毛が繁茂した素肌に胸当てを付けている。
上腕の太さは女性の腰くらいの太さはある。
つり上がった瞳に、頬桁の張った顔。
申し訳程度の口髭を長い舌でペロペロ撫で付けている。見るから
に卑猥だった。
王室獄卒長カマロヴィチはこの牢獄における神だった。
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﹁あら、新入りちゃんじゃないの。あの傷じゃ朝までもたないと思
ったのに。これは久々に楽しめそうじゃないの。あたしは、カマロ
ヴィチ。このロムレス第一監獄の責任者ってことになってるのよん。
以後よろしくねん﹂
﹁ターゲットロックオン﹂
カマロヴィチの傍らに控える、やけに色白で小太りの獄卒らしき
男が卑屈そうにつぶやく。男の目はあきらかに蔵人に対して敵意を
孕んでいた。
﹁あーらあら、モリーノ。どうして、そんな目してるのん。もしか
して、嫉妬かしらん﹂
カマロヴィチはシナを作って自分の舌をぬめぬめと軟体動物のよ
うに動かす。
果てしなく気分の悪い光景だった。
﹁だって、カマロヴィチさま。そいつを、お気に入りにしようとし
てる﹂
モリーノと呼ばれた小太りの獄卒は、すねたように顎をしゃくる
と、そっと蔵人に向けて指を突き出す。指先にまで濃い毛がわさわ
さとくるまっていて、まるでチンパンジーに嘲られているようで不
快だった。
﹁ん、もー。モリーノはやきもち屋さんなんだからん。しょうがな
いわねえ、いまここでもう一度かわいがってあげるん﹂
カマロヴィチの顔がモリーノの脂ぎった顔に近づく。
まさか、いや、まさかだよな。
蔵人は神に深く祈った。
﹁みんな、できるだけ耐えろよ。もう、ゲロ掃除はいやだ﹂
古泉の絶望しきった声。
神は死んだ。
嘘だろお! やめてくれよ、マジで!
﹁ん、モリーノ。相変わらずここだけは暴れん坊なんだからあん﹂
﹁カマロヴィチさまぁ﹂
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中年ふたりの聞くに堪えない睦言が耳から侵入してくる。
蔵人は、強く目蓋を閉じるが、すぐ傍で粘性の高い液体音と不気
味なうめき声が消え去ることはなかった。
﹁あああ、カマロヴィチさまぁ、うまい。うますぎですぅ﹂
﹁モリーノ。あたしの、モリーノたくましいわあん﹂
暑苦しい中年男ふたりが、抱き合いながらディープキスをかわし
ている。
蔵人は、いまこの瞬間が神から課せられた試練のひとつだと確か
に感じていた。
自分の両手のひらを全力で両耳に押し付け、聴覚を遮断する。
目を開けたら間違いなく死ぬと確信した。
﹁おぼえええっ﹂
﹁あ、コラ! マーサまたテメェ吐きやがって。⋮⋮うぼろえっ﹂
﹁ゴローンゾ! お前だってもらいゲロを、ちょっ、待て見せるな
僕は、そんなの、ぼえええっ!!﹂
マーサ、ゴロンゾ、ヤルミルの順番で嘔吐の連鎖が始まった。
古泉も壁に頭をついて、えづいているが、もうろくに胃の中にモ
ノが入っていないのか、うす黄色い胃液しか出ていなかった。
﹁カマロヴィチさまあああん!!﹂
モリーノの絶叫。
蔵人が、嘔吐に耐え目尻から涙を垂らしていると、カマロヴィチ
がひと仕事終えたように口元を拭っていた。
カマロヴィチの目には、どうだとばかりの理解しがたい優越感が
漂っていた。途方もない無力感に苛まれる。自然に膝が崩れ、ひざ
まづく格好になった。
蔵人は両目を見開き、口元を手で抑えると、脳内のメモリを無理
やりスロットから抜き出し、記憶のスイッチを切った。
ふたりは満足したのだろう。
手をつないでスキップしながら、房の前からゆっくりと遠ざかっ
ていく後ろ姿が見えた。
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﹁嫌がらせだ! あいつら、メシどきになると必ず牢内の中を、順
繰りに見せつけるようにして乳繰り合うんだ! ふざけんな!﹂
ゴロンゾは泣きが入った声で叫んだ。
﹁しかし僕の確率論からいえば、今回は隣のはずだったのに﹂
呆然とした口調でヤルミルは眼鏡を取ると、ボロボロになった手
ぬぐいで拭きだす。
瞳は精気を失っていた。
﹁おぼえええええっ、えぐっ﹂
﹁おい、大変だ。マーサがゲロをのどに詰まらせた!﹂
古泉が、びくびくと打ち上げられた魚のように仰向けになってい
たマーサを指差す。
ゴロンゾが頭を抱えて頭髪を掻きむしった。
﹁マジかよおおおっ、んもおおおっ。おい、クランド、そこの木の
枝取ってくれ、俺が掻き出す﹂
やってもあんま変わんないかもし
﹁おい、こんなデカイので大丈夫なのか﹂
﹁やんなきゃどうせ死ぬんだ!
れないがよ﹂
ゴロンゾの必死の救助活動で、マーサは一命を取り留めた。
だからといって、この先どうなるわけでもないが。
蔵人が暗い顔でジッと虚空を見つめていると、近くの房が激しく
ざわつき始めた。
﹁夕メシだ。ここには、朝と夜の二食しかねぇ。しっかり食っとけ
よ﹂
ゴロンゾは大儀そうに身体をボロ毛布から起こすと、大あくびを
漏らした。
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﹁牢内では、食物くらいしか楽しみはないですからね。はぁ﹂
ヤルミルは、まるっきり楽しくなさそうにため息をついた。
﹁なんだよ、その割にはまるでよろこんでるようには見えないんだ
が﹂
﹁あのなー。ここのメシはクソまずいんだよなー﹂
﹁あ、ネタバレすんじゃね。マーサ、くのくのっ﹂
ゴロンゾがマーサを捕まえると、頭を拳でたたき出す。年の離れ
た兄弟のように、ふたりは仲がよいのだ。蔵人が格子の前で佇んで
いると、周囲の房からの声はドンドン大きくなっていく。どうやら、
ただ単に食欲だけの興奮ではないらしい。それは、配膳用の台車を
押してくる小さな影に向けられていた。
﹁なんだ、なんだ。マズイって割には、すっげぇ人気じゃねえか﹂
﹁ああ、それはマゴットですよ﹂
ヤルミルがつまらなそうに、囚人へと食事を配っている給仕係に
向かって顎をしゃくる。
﹁マゴットってのはな、ここで唯一の女奴隷なんだ。もっとも、い
っつも仮面で顔を隠しているから、どんなツラかはわからねぇがな﹂
ゴロンゾは鼻毛を抜くと、フッと息を吹きかけ壁に植える作業に
没頭している。マーサは女自体にあまり興味がないのか、飢えた野
良犬のように目を光らせて、食物の入った巨大な鍋を注視していた。
﹁ここは女っ気が皆無だからな。どんな、女でもその名残くらいに
は触れてみたいんだろうよ﹂
﹁だから、囚人どもはバカ騒ぎするのか﹂
﹁穴ボコが空いてりゃ、なんでもいいんだろうよ。けけ﹂
﹁あんた、女は卒業したのか﹂
﹁あん? 俺か、俺はだな。糖尿だ。女よりも、コッチの方があり
がてぇな﹂
﹁女より酒か﹂
ゴロンゾはクイとコップを傾ける真似をして、寂しそうに笑った。
格子越しに見える奴隷は厚いローブで身を包み、妙な面をかぶっ
33
ていた。
年齢も顔つきもまるでわからない。
けれども、椀を差し出す際にチラリと見えた手首の細さは確かに
女のものだ。
マゴットは小柄な身体を精一杯使い、重い配膳台の車を軋ませて
近づいてくる。
やがて、順番が回ってきたのか目の前で止まった。
新入りである蔵人は気を利かせて皆の分を受け取ろうと、小窓の
前に立った。
﹁すまねえな﹂
蔵人が声をかける。
マゴットは電流に打たれたようにその場に棒立ちになった。
大きな音を立てて、彼女の手にしていた椀がひっくり返る。
吐瀉物のような色をしたうすい粥が辺りに散らばった。
﹁うっわ。なんだぁ、どうした。ケガねえか!?﹂
蔵人の問いかけには応えようとはせず、マゴットはしばらくその
場に立ちすくむと、いきなり配膳台を置いたままその場を駆け出し
ていった。牢内にざわめきが走った。
﹁おいおい、いったいどうしたんだよお﹂
﹁いや、わからねえよ。なにがあったんだ?﹂
ゴロンゾの問いには、蔵人はまるで返すことができず、マゴット
の走り去った背を呆然と見つめ続けるだけだった。しばらく経つと、
代わりの人間が配給を行なった。蔵人は狐につままれたような気分
でその場にあぐらをかいた。狭い房の中で、男五人が顔を寄せ合う。
ひたすらむさくるしいが我慢するしか他はなかった。
﹁クランド、無理してでも食え。ここは日本とは違う。なんでもい
いから、とにかく腹に入れとかなきゃもたねぇ﹂
古泉が、古びた木の匙を持ち上げ憂鬱そうにいった。牢内は、先
ほどの騒ぎが無かったかのように静まり、各自配給された食事をあ
ちこちですする音が聞こえだした。
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蔵人は配られた、茶色のかゆのようなものをじっと眺めながら眉
をしかめた。
鼻先を近づけて匂いを嗅ぐ。
古雑巾を煮しめたような不潔極まりない香りが漂っている。ゴロ
ンゾたちが眉間にしわを寄せて啜りこんでいるところを見ると、た
ぶん食して害のないものなのだろう。
﹁おい、食えんのかよ、これ﹂
﹁食えんのかよって、食ってるだろ。馬鹿だなー、クランドは﹂
マーサは先ほど死にかけていたことも忘れたかのように、碗の中
身を飲み干しながら快活に笑った。
﹁クランドも自分の吐瀉物で死にかけた男にバカとはいわれたくな
いと思いますよ﹂
﹁目をつぶっていっきにかきこめ。食を楽しもうとするな。それが
生き延びる秘訣だ﹂
ゴロンゾの瞳は哀愁に満ちていた。
蔵人は、サジで汚物にも似た椀の中身を弄び、それから意を決し
たかのようにひとさじすくって口に含む。履き古した靴下のような
異臭が口いっぱいに広がり、涙目になった。
﹁おえええ﹂ ﹁おい、男だろ。我慢しやがれ﹂
﹁クランド、これは試練です﹂
﹁つくづく思うよ。あの国がどれだけ豊かだったかってことが﹂
古泉はつまらなさそうに椀の中身を残らず飲み干すと、鼻にシワ
を寄せた。
﹁おーい、食えそうもないなら俺が食ってやってもいいぞー、クソ
マズイけどな﹂
皆の励ましに支えられながら、一気に碗の中身を掻きこむ。
一同から拍手が自然と沸き起こり、そこはかとない一体感が生ま
れた。 ﹁なあ、古泉さん、そういやさっき話の腰をへし折られたけどよ。
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なんか、途中だったよな。聞かせてくれよ。結局あんたが、なんで
ここにいるのかとか﹂
﹁どうしてもその話に固執するかね。仕方ねえな。長くなるがいい
か。ここにいる奴らにも話したことがないからな﹂
古泉は遠い目をすると一同の顔を見渡す。皆の目に好奇の色が宿
った。
﹁おい、前置きはいーからさっさと話せや、ジイさん﹂
﹁暇つぶしにはなりますかね﹂
﹁そうか、みんなも聞きたいか、俺の過去を﹂
一同、浸ってんじゃねーよカスが。
と軽くむかっ腹を立てながらも、あえて罵倒はしなかった。
牢内は暇なのだ。
﹁さっさとしろよ、つまんなかったら寝るからなー﹂
古泉は、ニヒルに笑うと壁に背をもたれかけさせ、視点を中に彷
徨わせた。
白い髭に埋もれた唇が、カサカサと乾いた音を立てて動き出した。
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Lv3﹁誠意を見せてください﹂
王女マリアンヌに呼び出された勇者である古泉功太郎は完全なる
タクティカル・ワン
者の証としての三つの紋章を備えていないにしても、すぐれた能力
を持つ逸材だった。
勇者としては不完全ながらも、知恵の能力を駆使して、彼は王国
の疲弊しきった財政を健全化して、国難に立ち向かおうと日々努力
していた。新規的な農産物の作成工程改善や農作業効率の是正など
により、王家の国庫はかつてなく潤った。
王家に逆らう貴族を討伐するため、ときには軍司令官として剣を
振るい、マリアンヌと古泉の仲は急速に深まっていく。二十五の古
泉と、十五のマリアンヌではひとまわりは歳は違ったが、愛し合う
こと睦まじく、いずれは夫婦となることは明白であった。
若く精気あふれる古泉は以外に考えが古風であり、婚姻するまで
はマリアンヌに指一本触れないと固く心に誓っていたが、神の悪戯
か、このときばかりは裏目に出た。
ここでクローズアップされてくるのは、マリアンヌの従兄弟であ
るファビアン・フォン・ロムレスという男であった。
王国一の放蕩貴族で知られるファビアンは、百九十近い背丈と、
がっしりした鷲鼻、頬から顎にまで伸ばした髭が雄々しい、わかり
やすいタイプの豪傑だった。
このとき、歳は四十の坂を超えたばかりだが、七度妻帯して七度
死に別れている。
一説によると、あまりのファビアンの精力の凄さに、妻が耐え切
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れなく早死にしてしまうとまでの噂まであった男だった。たいした
能力もないが、女をコマすことにかけては天下一だったファビアン
の動きは機を見るに敏だった。
彼は、勇者召喚が成功するまで、むしろ落ち目だった本家を忌避
していたにも関わらず、国力が盛り返したところを見ると、ツテを
使ってマリアンヌを無理やり手篭めにして自分のモノにしてしまっ
たのだった。
無論、勇者として実績を積み重ねていた古泉にも手を貸す貴族は
多かった。絶対に成功するであろう反攻作戦開始の前夜、古泉はひ
とつの情報を入手した。
愛する彼女が、その身に子を宿しているということであった。
マリアンヌを奪還する直前に彼女が赤子を孕んでいることを知る
と、古泉は悄然と剣を投げ捨てファビアンに降るのだった。
旗頭が、戦意をなくせば担ぎ手はもはやどうにもならない。
愛する王女を奪われ、勇者の能力を剥奪された古泉は適当な罪状
を付けられると、点々と各地の獄をたらい回しにされるのだった。
﹁そして、現在に至ると。当然のところ、契約も解消され、英雄も
ただの人だ。これで、まだしも日本に帰る方法があるのなら、ひと
つ気張って獄のひとつやふたつ破って見せようと思うんだろうが、
残念ながら王族の召喚魔術は呼び出すだけの一方通行らしい。悪い
な、ショックだったか﹂
﹁いや、まあな﹂
蔵人は古泉に言葉を返しながらそれほど動揺していない自分に戸
惑っていた。なにしろ、二度と日本に帰れないという事実に直面し
たのに、まるで心は波立たない。疑問を持つという能力が脳の一部
から欠如したようだった。自分の心の変化に気づき当惑した。
﹁クランド。いまのおまえは、契約者である王女とリンクしている。
おれたち
それはつまりのところ、脳の一部を支配されているようなもんだ。
王女が飼い主なら、勇者はさしずめ訓練の行き届いた犬のようなも
のだ。主の命に従うよう、里心がつかぬように抑制されている。お
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まえは、たぶん日本では普通の生活をしていたようだが、ここでは
どんな事態にあっても、きっと自分の命を守るためには躊躇しない
だろうよ﹂
﹁ジイさん。あんたにゃ、もう、その特別な能力ってのはないのか
ね﹂
横で聞いていたゴロンゾがつまらなそうに聞いた。
﹁ああ。いまの俺は、ただの抜け殻さ﹂
古泉の告白を聞いた翌日、蔵人は胸に燻った悪いものを消化しき
れていなかった。
︵わざわざ呼び出された上、文句ひとついわずに、国に対して献身
を尽くした結果がこれかよ。おまけに、愛する王女までを寝取られ
た悲運の英雄の結末が、この有様なのか︶
蔵人は、壁に寄りかかったまま、いまだ起床しない古泉のシワの
刻まれた横顔を見ながら口中に苦いものを感じた。昨晩の話からす
れば、古泉は五十半ばであろうが、傍から見れば七十過ぎの老人に
しか見えないほど疲れきっていた。顔には、無数の老人班が浮き出
て、肌着の中に見える肋骨はやせ細った肉を纏わせかろうじて身体
を支えているだけだ。
︵どうやら、のんびりした気持ちでいると瞬く間に俺もああなっち
まうかもしれねえな︶
かといって、突如としてアメリカンヒーロー並に、この牢獄を脱
出する方法が閃くはずもない。
﹁んががが﹂
﹁すぴぴぴ﹂
ゴロンゾとマーサから愉快な寝息が聞こえてくる。軽くイラッと
した。蔵人は、背筋を伸ばして肩の骨を鳴らすと、ヤルミルが毛布
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をかぶったままいった。
﹁どうせ早起きしてもやることはありませんよ﹂
﹁おうっ。びっくりしたなあ。おはよう、ヤルミル﹂
﹁おはようございます。でも、失礼ながら僕は朝食まで、このスタ
ンスでいかせてもらいますよ。極力、体力の低減は防ぎたい﹂
﹁なあ、普通は囚人って強制労働とかさせられるんじゃねえのか?
ホラ、無意味に穴を掘らされたり埋め戻されたり﹂
﹁それ、なんの意味があるんですか?﹂
﹁知らん。でも、俺の国じゃポピュラーな作業だ。ソースは、サブ
カルチャー﹂
﹁ふむ。確かに、無意味な肉体的懲罰は人の精神を荒廃させそうで
すが、ここにはそんな気の利いた方法はまず行いません。刑罰は単
純な肉体的苦痛を与えるものか、あるいはいまの僕たちのように徹
底的な放置ですね。人間、やることがまるでないというものも苦痛
なんですよ﹂
﹁まあ、確かに。ヒマだな﹂
﹁僕にとっては、思索に耽ることができ、結構助かっていますがね﹂
蔵人は再び動かなくなったヤルミルの背中を見ながら、しばし放
心していた。
どのくらいそうしていたのか、格子の前に影が差した。
﹁おい、新入り﹂
﹁あん﹂
壁にもたれかかったまま、船を漕いでいた蔵人に、ヒラメ顔の牢
番が声をかけた。
﹁出ろ、客だ﹂
﹁俺に客だって?﹂
﹁いいからさっさとしろ、オラ﹂
蔵人が牢の小口から出ると、ヒラメ野郎が鋳鉄製で出来た四角い
手枷と足枷をがっちりと嵌めた。あまりの重さによろめくと、腰の
あたりを軽く蹴られる。理不尽さに叫びだしたくなるのを我慢する
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のに努力が必要だった。
﹁なに、睨んでんだボケ。歩けや、クソ罪人が﹂
ヒラメ獄卒は蔵人の心の中の処刑リストにノミネートされた。
後方では、牢内の古泉たちが無言のエールを送っている。
蔵人は、目で合図をすると、粘ついた石畳の廊下をゆっくりと進
んでいった。
しばらく歩くと、角を曲がって地肌がむき出しの石段を登る。
その先はもう牢の区画ではないのだろう、開けた大広間があり、
いくつかの古びたテーブルの周りでは獄卒たちが屯していた。
壁際には、いままで一度も手入れをしたことがないと推測される
ほど赤く黒く汚れた槍や刺つきの刺叉が、これみよがしに数え切れ
ないほど立てかけられている。不潔極まりなく、かつ凶悪だった。
﹁なんだ、怖いのか。ここにあるのは、おまえらクソどもが逃げ出
したときに、思うさまいたぶるオレたちの商売道具よ、へへ﹂
ヒラメ男の口から腐った生ゴミのような匂いが漂い、蔵人は顔を
そむけた。
﹁なあ、早く悪さとかしてくれよぉ。オレたちゃおまえらを、ぶん
なぐって、目玉飛び出せて、グチャグチャにしたくてたまんねんだ
よぉ、でひひ﹂
﹁口を開くな﹂
﹁あ?﹂
﹁糞を食った口で俺に話しかけるな、汚物野郎が﹂
蔵人の言葉を理解できなかったのか、ヒラメ男はぽかんと口を開
けたまま数秒停止し、それから温度計の水銀メモリが上がるように、
あっという間に顔面を紅潮させた。
﹁むろおおおっ、おまっ、くそっ、くそがあああっ﹂
ヒラメ男は、蔵人を突き倒すと馬乗りになり、両腕を風車のよう
に回転させ、切れ間なく拳の雨を降らせた。
突如としての暴走に、周りの獄卒が強引に引き離す。
﹁落ち着け!﹂
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﹁なに発狂してんだよ、ドニ!﹂
﹁おまっ、あい、あいつ、しゅ、しゅうじんふぜいがあああっ﹂
ドニと呼ばれたヒラメ男は、蔵人の言葉がよっぽど許せなかった
のか、半泣きになりながらも口から泡を吐き出して猛り狂う。
﹁んー、んびゅっ﹂
べちゃっと血の混じった唾が蔵人の口から飛んだ。
ヒラメ男は自分の顔を呆然としたままゆっくり拭うと、再び殴り
かかろうとするが、周りに静止され足をばたつかせた。
﹁んぐおおおおおおっ! 殺すっ殺すっ﹂
蔵人は、他の獄卒に引きずられながらも、舌を伸ばして全力で小
馬鹿にした。
﹁あばよ、ドニちゃん﹂
﹁にええええええっ!﹂
蔵人は狂った猿のような雄叫びを聞きながら、ようやく溜飲を下
げた。
木製の扉を開けて室内に入ると、ひんやりした空気が蔵人の頬の
傷を刺した。
顔を上げる。驚きに、口が思わずぽっかりと開いた。
﹁私を待たせるな。いったい、なにをしていたんだ﹂
女性にしてはやや低めの声に険が混じっている。
澄んだ緑の瞳に、端正な鼻梁。
蔵人が注意して見ると、右の目もとに小さな泣きボクロがあった。
たっぷりとした腰までありそうな金髪を後ろに流している。
前回会った時は、甲冑を着ていたが、いまは上品な薄い水色のサ
ーコートを纏っていた。
女性の胸はかなり大きめなのだろう。
衣服の上からでもツンと張り出しているのがわかった。後ろには
小柄な従騎士が控えているが、こちらは完全軍装のまま槍を持った
まま佇立していた。
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﹁名乗る必要もないと思うが、私はロムレス王家に仕えるアンドリ
ュー伯の娘で、王家近衛騎士団団長ヴィクトワール・ド・バルテル
ミーだ。おまえが姫が召喚した今代の勇者である、クランド・シモ
ンだな﹂
﹁なんで、名乗ってない俺の名前を﹂
ヴィクトワールが背後の騎士に目線をやると、両者の間に置かれ
た机の上にそっと小さなカードが置かれた。
﹁これは、俺の学生証﹂
﹁王家の召喚では、今までにおまえと同じ世界の人間が呼ばれてい
る。ああ、確か三十年前の召喚でもそうだったか。とにかく、ある
程度は文字の解析も進んでいるので名前程度なら割り出せないこと
もないのだよ﹂
ヴィクトワールは高い鼻を鳴らすと、ふふんと笑ってみせた。ロ
ケットおっぱいが、無謀に晒される。無意識に、両の腕が鷲掴みの
構えを取った。
︵やべぇ。メチャメチャいい女だ。おっぱい、揉みてぇ⋮⋮!︶
かなり切実だった。
﹁で、なんの用だよ。まだ、殴り足りないってのかよ﹂
蔵人は努めて興味のないフリをすると、片目で乳房を視姦した。
よほどの鈍いのかヴィクトワールはまるで気づかずに胸の前で腕を
組む。大きな胸がますます強調される。蔵人は気づかれないように、
ちょっと腰を引いた。引くのが、マナーであると確信していた。
﹁話は変わるが、姫との契約の力はすごいな。ほとんど傷が全快し
ているじゃないか。一部醜いままだが﹂
蔵人は、自分の頬を触ってみると、確かに先ほど獄卒から受けた
傷がふさがっていることに驚愕した。
そもそもが、完全武装した騎士団の十数人にリンチにあって、一
日足らずで動き回れるようになるのが異常なのだ。
︵異常さに慣れている。そもそも、俺は異常が異常だってことを感
じ取れなくなっているんじゃないか︶
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﹁わざわざ騎士団長様が、イヤミをいいにきたのかよ﹂
考えてみれば、ほとんど初対面の、しかもセレブ的な白人の美女
と向かい合ってこうした無礼な口をきいていることが、現実から乖
離していた。
蔵人は、ごく平均的な日本人で、どちらかといえば社交的なタイ
プではなかった。女と話しているうちに、だいたい身体に触ってい
るのが常だった。よって、言葉によるコミュニケーションの取り方
が得意ではないのだ。
﹁そうではない、姫さまのいいつけで、そのお﹂
途端に、彼女の言葉の歯切れが悪くなる。反して、蔵人の語気は
強まった。
﹁はっきりいってくれよ!﹂
﹁おまえを釈放しに来た﹂
ヴィクトワールが横を向く。
長い髪が目元を隠しているので、いまいち表情が読み取れないが、
バツが悪いんだろうなくらいは蔵人でも理解できた。
﹁あれだけしこたま、ひとさまのことをぶん殴っておいて、油断し
たところをブスリじゃねえだろうな﹂
﹁それは﹂
ヴィクトワールは不意に口をもごもごさせると、うつむく。
叱られている幼子のように、見えた。
蔵人は、いままで彼女の中にあった理性的で冷たいイメージに合
わない行動に拍子抜けしながらも彼女の慌てように驚きを隠せなか
った。
﹁後から姫さまに聞いて、お前が襲ったんじゃないという事実が判
明したのだ﹂
﹁そういや、あのバケモノは﹂
﹁ベヒモスは死んだ。それが運命だったのだろう。姫さまの勇者召
喚は不完全だった。もっとも歴史によれば、初代を除いて勇者召喚
に成功した例は、一度もないそうだ。城で暴れまわった異形の怪物
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も、召喚失敗の余波を受けていたのだろう。死骸からは宮廷魔道士
の検死により、異常な魔力の残滓が認められた。というわけで、消
去法で、おまえが勇者だ。クランド﹂
﹁よーするに勘違いで俺のことをボコったわけね﹂
蔵人が憤怒のあまり机を両手で叩く。
同時に、ヴィクトワールが机を挟んで顔を寄せてきた。
﹁すまなかった﹂
﹁は?﹂
﹁私は騎士の誇りにかけて謝罪をしなければならない。ヴィクトワ
ール・ド・バルテルミーは、貴殿クランド・シモンの疑義をただす
ことなく侮辱し、あまつさえ貶めたことをここに詫びよう﹂
ヴィクトワールが身体をふたつ折りにして頭を下げる。
蔵人はこの展開は想像していなかった。
異世界とはいえ、貴族だのなんだの、そういった類の人間は例え
己の間違いに気づいても知らぬ顔の半兵衛を決め込み、あまつさえ
その過ちごと消し去ろうとするのが当たり前だと思い込んでいたの
だった。
︵こいつはおもしろいことになってきやがったぜ。おもに俺が︶ ﹁おいおーい、命の恩人に対してよってたかって殴り殺そうとして
おいて、詫びがそれだけってのは調子がいいんでないかーい﹂
﹁ごめんなさいしたじゃないかぁ﹂
﹁あぁ?﹂
ぼそりと、蔵人には聞き取れない程度の声がしたが、敢えて聞き
返しもせずに口元が野太い笑を刻む。
さあ、白人美女を全方位で公開調教だ。
蔵人は調子に乗っていた。グイと顔を近づける。ふんわりと甘っ
たるいいい匂いがした。
大事な部分が硬化した。
﹁じゃあ、どうすればよいのだ。私はおまえを姫さまの前につれて
行かないと困るのだ﹂
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﹁ああん? 知らんがな﹂
蔵人は、どんな気持ち、ねえ今どんな気持ちなの立場が逆転しち
ゃって、と歌うように問いかけながら、両手のひらを身体の左右で
ひらひらさせ、狭い室内を踊りまわった。
ヴィクトワールの整った顔が、困惑と焦りで静かに歪んでいる。
いいようのない恍惚感が蔵人を襲った。
﹁その、これは詫びの気持ちなのだが﹂
﹁んん﹂
ヴィクトワールがずしりと重みのある革袋を手渡してくる。蔵人
が、中身をひっくり返して机の上にぶちまけると、ざらざらとロム
レス金貨が澄んだ音を立てて響いた。
﹁おう、銭か。こんなものでカタをつけようってのか。⋮⋮とりあ
えず頂いておくわ﹂
﹁騎士団の皆と出しあったのだ。現在のロムレスでは、国力の低下
により俸給の遅配も珍しくない﹂
それって、かなりマズイんじゃねえの。と思ったが、顔には出さ
ない。
クソ、そんな話、聞いた後では受け取りにくいじゃねえか。普通
ならな。
でも貰うモンはもらいますけどね、ゲヒヒ。
蔵人はいかにも仕方ない、という渋面でズッシリと重い袋を受け
取った。
﹁とにかく、王宮にまで来てくれ。続きは姫に会った後いくらでも
聞く﹂
ヴィクトワールは立ち上がると、細いあご先をクイとそらし、従
騎士に扉を開けさせるために促した。
なんで私がこんなこと、とブツブツ呟く声が聞こえたが、蔵人は
金貨を弄びながらこの先のことを考えた。
どうやら、あのお姫様はナイスな自分の男前さに一目惚れしたら
しい。
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︵ここからは、俺のグッドなトーキングと箱入り娘の気持ちをやわ
らげるナイスユーモアで、ぬちょぬちょのウハウハな異世界ハーレ
ムを構築してやる︶
皆には悪いが、この臭くて汚らしい場所からおさらばできるのは
単純にうれしかった。
﹁それにしても、間に合って良かったなクランド。もう少し遅かっ
たら、マズイことになっていたぞ﹂
ん。
﹁なんだ、知らないのか。おまえの入っていた溜りは極刑判決を受
けた罪人ばかりが集められていたそうだ﹂
んんん?
﹁それって、どういうことだよ﹂
﹁私に聞くな。なんでも、内密な情報だが、王直々に法務官に執行
書の判を押させたとかなんとか﹂
蔵人は、獄卒が手足から枷を外すのを、夢見心地で見ながら、ヴ
ィクトワールの言葉が心のどこかをジクジクと抉っているのを感じ
た。
﹁あの部屋には、誰か重要人物でも居たのだろうか、なあ︱︱﹂
ヴィクトワールが振り返ろうと顔を曲げる。
蔵人の首筋を白刃が襲った。
研ぎ澄まされた殺意が猛然と襲いかかってくる。
ヴィクトワールの従騎士が白刃の曲刀を抜いて、宙を舞った。
﹁シズカ!?﹂
ヴィクトワールの声を無視して、従騎士は上段から刀を振り下ろ
す。
蔵人は、咄嗟に身体を半回転させながら隣の獄卒と入れ替わった。
刃が真正面から獄卒の顔面を叩き切った。
﹁んぐえ!﹂
シズカと呼ばれた従騎士は兜ごと獄卒を両断すると、蔵人へと一
気に距離を詰める。
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深く下ろした目庇から、殺意を放つ眼光が蔵人を射すくめた。
﹁貴様!﹂
﹁やめろや、コラッ﹂
ふたりの獄卒が小鳥のような痩身を捕らえようと両手を突き出し
て飛びかかる。
曲刀が弧を描いた。
﹁ぬるっ﹂
﹁おぶえっ!﹂
従騎士の振るう刀は無駄のない動きで流れると、ふたりの男の首
を跳ね飛ばした。
蔵人は、獄卒の集団の中を縫うようにして走る。
あちこちで、怒号や悲鳴、調度品や飲みかけのグラス、博打に使
うカードが散乱した。
従騎士は砂糖にたかる蟻のように集まる獄卒たちを片っ端からな
で斬りにして、ただひたすら蔵人の後を追う。
激しい恐怖と絶望が、蔵人の胃の腑を握りつぶしたように縮ませ
た。
クッソ、あの女調子のいいことばっか吹きやがって。
最初から密殺するつもりだったじゃないか。
蔵人は壁際に張りつくと、呆然と立ったまま、口元に手を当てて
いるヴィクトワールを見て違和感を感じた。
それは、本当にかすかな拭いきれない齟齬だった。
﹁おめーら、まとめていけぇ! おぶうっ﹂
ヒラメ顔の獄卒が、袈裟懸けに切られ膝をガクンと折った。
流れた血が、だくだくと溜まって池を作る。
従騎士を囲むようにして八人の男がそれぞれ、槍や刺叉を構える。
従騎士は紅のマントをひらめかすと、一番近くの男に向け猛進し
た。
男が槍を一気に繰り出した。
従騎士は身を沈めてかわすと片手で刀を突き出し男の胃の腑を深
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々と抉った。
続けざま横の男が槍を叩きつけるようにして上段から打ち下ろす。
従騎士は落ち着いた動きで、槍の穂首をすっぱりと両断した。
あっけに取られた男の喉元。まるで無防備だ。
従騎士は飛び上がって、宙に舞った穂首の刃先を掴むと、投げつ
けて絶命させた。
﹁よくもおおおおっ﹂
背後から横薙ぎに襲う刺叉を、軽々と飛んでよけ逆手に持った刀
を後方へと突き出す。
従騎士の刀は、男の右目から大脳へと到達し楽々と破壊した。
そのまま、動きを止めずに床を転がりながら、並んで立っていた
ふたりの男の脛を、まるで大根を切るようにして続けざまに切りつ
ける。
足を切られれば人間は直立できない。
従騎士は寝転んだまま、ひとりは崩れ落ちてきたあご先から顔の
内部を、もうひとりは串を通すようにして心臓へと刀を交互に突き
入れた。
ほとばしる鮮血が、従騎士のかぶっていた兜を赤々と染める。
﹁うおおおおっ﹂
恐怖に駆られた男が、足元を踏み鳴らし剣を構えて走り出す。
従騎士は片膝をついたまま完全に立ち上がらない状態で、やすや
すと男の剣を跳ね上げると、喉仏を払うようにして抉った。
﹁ひいいいっ﹂
﹁ば、バケモノだあああっ﹂
残りのふたりは槍を放り投げて従騎士から少しでも距離を取ろう
と飛びすさる。
﹁やべえ、こっちくんな﹂
多数の獄卒をものともせずに、従騎士は蔵人に向かってゆっくり
と近づいていく。
さながら、その足取りは死神そのものだ。
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﹁来るなああっ﹂
蔵人のストレスは最高潮に達し、反射的に持っていた金貨の詰ま
った袋を投げつけた。
放った袋がいい角度で当たったのか、がつん、と音を立てて従騎
士の兜が床に転がった。
﹁んなっ﹂
外れた兜の中の顔は、まだ幼さを残した少女のものだった。
黒々とした髪は返り血にまみれているが長く美しいものだった。
切れ長の目に、通った小鼻。
肌は雪のように白く、異様に艶めいていた。
﹁日本人か?﹂
その顔は、どこからどう見ても蔵人が駅前で眺めていた女子高生
にしか見えなかった。
蔵人は絶え間無い恐怖に震えながらも、どこか懐かしい気持ちに
なっていた。
この世界に来て初めて見たアジア系の女性である。
制服を着せて歩かせてみれば、なんの区別もつかないだろう。
だが、彼女の黒曜石のような瞳にはなんの感情も見出すことはで
きない。
それは冷え切った深い底なしの湖面を思わせた。
彼女は数分で十数人を斬り殺した。剣の冴えは、達人の域を超え
ている。
蔵人は、少女の目を見つめながら確実な死を意識していた。
少女が上段に構えた刃をふり下ろそうと、筋肉に強張りを見せた
とき、一陣の風のごとく、横合いから槍が繰り出された。
﹁やめよ!﹂
ヴィクトワールは凄惨な美貌をひきつらせながら、蔵人と従騎士
の間に割って入った。
猛然とした怒気がヴィクトワールから立ちのぼっていく。
蔵人は、腰砕けのまま床に座り込むと、それでも落ちていた酒瓶
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の破片を握った。
﹁貴様。これはなんのつもりだ、答えよ﹂
ヴィクトワールの声かけを無視したまま、従騎士は周りを見渡す
と、遠巻きながら自分の包囲が厚くなっているのを確認している。
﹁あ、待て﹂
従騎士の判断は迅速だった。ヴィクトワールを振りかえりもせず、
出口に向けて駆け出していく。遮る数人が次々と斬り殺され血風が
舞った。
﹁なんなんだよ、ヴィクトワール。おまえたちは結局ていのいいこ
とをいって俺を殺そうとしてたんじゃねえか﹂
﹁ちがう、私はそんなこと命じてはいない﹂
﹁うるせーっ、こんなクソみたいなところでやられてたまるかっ。
俺にはまだやらなきゃいけないことがあるんだ﹂
﹁やらなければならないこと?﹂
槍を掴んだままヴィクトワールが眉を八の字にする。
おまえみたいないい女とヤりまくって腹上死することだ。
そう伝えようと、身を乗り出し目を見開く。
部屋のあちこちで、四肢を欠損した獄卒たちがもがいている。
その虫けらの群れを蹴飛ばしながら移動する巨体が見えた。ゲイ
の獄卒長である。
カマロヴィチが大きな木槌を振りかざしながら疾駆していた。
ヤバイ、なにがヤバイっていうと、いままでにないくらいすべて
がヤバイ。
身をのけぞって駆け出そうとした身体を捻る。
後頭部に強烈な衝撃を感じ、感覚のスイッチがパチッと切れる音
がした。
視界が上下同時に中央に向かって閉じていく。
蔵人の視界にはいやらしい笑みを浮かべるモリーノの二重アゴが
霞んで消えていった。
目が覚めると、薄汚れた石壁が間近に迫ってきた。
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もちろん、そこは自由な外界ではなく、澱んだ空気と負け犬臭漂
う牢内だった。
﹁ああ、畜生。またやり直しかよぉ﹂
蔵人が目を閉じたまま身体のあちこちをさすっていると、周りか
ら死人のうめき声のような陰鬱な音が反響していた。
﹁どおしたんだよ、おまえら!﹂ 蔵人が周りを見ると、古泉、ゴロンゾ、ヤルミル、マーサの四人
が仲良くボロ切れのように転がっていた。
擦り切れた毛布の所々に黒ずんだ血や嘔吐物が付着している。
あまりの酷さに、蔵人の眉間と鼻にシワが寄った。
﹁あのゲイ野郎に、やられた﹂
﹁ううう、クソ。あのカマ野郎、天秤棒みたいなので散々にひっぱ
たきやがって﹂
﹁ちくしょお、ちくしょお。絶対、革命だ。革命をおこしてやるん
だあああ﹂
﹁ケツが、ケツがぁああ﹂
マーサは白目を向いたまま、肛門を抑えて海老反りになっている。
彼の純潔が失われたことを知った蔵人は憐れみながらも、無意識の
内に自分の肛門を両手でガードしていた。
﹁とくに、マーサが重症だ。あいつはもしかしたら、もう立ち直れ
んかもしれん﹂
﹁アタシの極楽コース楽しんでいただけたかしらん﹂
格子の外に反射的に目をやる。
そこには、巨大な木槌を肩に担いだカマロヴィチの姿があった。
﹁なにを不思議そうにみているのかしら、今代勇者さま、いやシモ
ン・クランド。そうそう、あんたの釈放は無しになったから﹂
﹁ヴィクトワールは。彼女はどうした﹂
﹁あの、お貴族さま? さんざんゴネてたけどお引き取り願ったわ。
また明日来るって息巻いていたけど、それも不可能な話ね﹂
﹁どういうことだ、それは﹂
52
﹁あんたは、あのドサクサに紛れて逃げ出したってことになったか
らよ。シモン・クランド。さあ、アタシの城を滅茶苦茶にしたお礼
はどうしましょうかね﹂
カマロヴィチはニチャッとしたいやらしい笑みを浮かべると、長
い舌で己の唇を舐め回した。
53
Lv4﹁働かなくてもメシは美味い﹂
懲罰として蔵人に与えられたのは、監獄付近の伐採作業であった。
王都の郊外に建てられたこの場所は、小高い丘の上に有り、周囲は
森に囲まれゆるやかな斜面になっている。
囚人の反乱を考えて、辺りには鋼鉄製の鎧と武器で装備した獄卒
が五十人ばかり配置されており、撤去用に蔵人たちが使用を許可さ
れたのは、歯のうすいノコギリと木製の鍬であった。周囲に生えた
木々を切り落とし、残った根を鍬で掘り起こす。百人ばかりの労働
に従事する囚人たちは、残らず負け犬の目をしていた。
ここで蔵人は、四十絡みのマッキンリーという男と組んだ。
﹁というわけで、今日からオレが相棒だ。よろしく頼まぁ。兄弟﹂
マッキンリーは、痩せこけたカマキリに似た顔をしていたが、案
外と面倒見がよく、なにくれとなく労働のイロハを教授してくれた。
とにかく、力を入れて働きすぎない。 伐採労働は、日の出から日の入りまで続く。最初から最後まで全
力で行っていたら、とてもではないが身体がもたない。
かといって、手を抜きすぎると、見張りの獄卒が容赦なく手にし
た棍棒で打ち据えてくるので、適度に手を抜きつつ、一定のスピー
ドを保たなければならない。
﹁真面目にやっても刑期が短くなるわけでもなし。かといって、目
をつけられれば、三日と生きちゃあいられねえ。適度にヤルこった
よ﹂
54
ビッシリと大地に根を張った切り株を、鍬で掘り起こしてモッコ
で担ぎ、移動させる。
極めて単純な作業であるが、その労働強度は並大抵ではない。掘
り起こした土は丁寧に埋め戻さなくてはならないし、周囲の森林は
果てがないほど広く、どう考えても百人程度の力では終わりがくる
とは思えなかった。
おまけに、蔵人は古泉たちからは離されて、独房に入れられるこ
ととなった。
労働中はおおっぴらに雑談をするわけにもいかないし、かといっ
てひとりきりでは、房の中は退屈すぎた。
︵ちきしょう。俺をボッチにさせる魂胆だな。さみしいぜ、おしゃ
べりしたいよう︶
カマロヴィチのあきらかな嫌がらせである。蔵人ひとりを仲の良
い囚人から隔離させて、精神を追い詰めようという作戦である。十
時間を超える肉体労働と、潤いのない単調な繰り返し。七日も経つ
うちに、蔵人の瞳から徐々に光が失われていった。
﹁それにしても、我慢できねえのはメシのマズさだ﹂
朝、夕と配られる配給食は、下痢便のような粥に、僅かなトウモ
ロコシのパンがひと切れである。タンパク質が一切与えられず、塩
気は皆無だった。人間は塩分が抜かれると、徐々に覇気が失われる。
現代日本の濃い味つけに慣れた蔵人にこの塩抜きは堪えた。
終わりと希望のない生活。召喚者による釈放の目がなくなった日
々は、延々と続く終わりのない道を無限に歩かされているようであ
った。
事件は、八日目に起こった。
﹁なんだ?﹂
蔵人がいつものように、マッキンリーと協力してモッコを担いで
いると、森に近い斜面の下から囚人の叫びが聞こえてきた。
﹁やばい。やばい、やばいやばいぜ、クランド! 走れぇええっ!
!﹂
55
﹁おい、ちょっ。なにがあったってんだよ!?﹂
マッキンリーは狂ったように叫ぶと、モッコを放り投げて監獄目
指して走り出した。
囚人たちはライオンに追われるガゼルの群れのように、ひとつの
意志を持ってとにかくその場を逃げ出していった。
蔵人は訳も分からず、マッキンリーに倣って斜面を駆け上がった。
奇妙なことに、獄卒は労働放棄を咎めようとせず、ゆっくりとひと
かたまりになって視線を下方に伸ばしていた。戸惑いながら、同じ
ように視点を下ろした。
そこには、建物から離れて森の近くで作業していた囚人たちが、
小さな黒いモノに群がられているのが見えた。
﹁なんだぁ、ありゃあ﹂
﹁あれは、ゴブリンだよ。この森の近くに住んでるやつらさ。たま
にああやって襲ってくるんだ。クソッ!!﹂
ゴブリンとは、このロムレス王国と周辺の国々全土に見受けられ
る、亜人であった。
背は低く、猜疑心に富み、力は非力だが、繁殖力が強い小鬼に似
た生物だ。
公用語のロムレス語を介し、地方によっては人間種すら侮れない
勢力を持つ部族もいる。
特に珍しくはないが、蔵人はこの世界に来てはじめて見た、異形
の生物であった。
マッキンリーは、毒づくと、激しく舌打ちをした。獄卒たちは、
囚人たちが襲われるのを、まるでショーを楽しむかのように手を振
って見物している。賭けも行われているのか、あちこちで銅貨を入
れるザルが回されているのが見えた。
ゴブリンたちは、逃げ遅れた囚人たちを、短い銛のようなもので
突き刺すと、手際よく倒していく。引き倒された囚人たちは、漁ら
れた魚のように身体を激しく動かして逃げようともがいていた。悲
痛な絶叫だけが、眼下に響き渡っている。
56
見れば、ゴブリンの群れは動かなくなった囚人の首を切り落とし
て、足を持って引きずっている。整然とした動きで、訓練された軍
隊を思わせた。
﹁この辺りは、特に獲物が少ない。だから、あいつらはときどき、
作業中のオレらを襲ってくるんだ﹂
マッキンリーは青白い顔でブルブル震えながら、悔しそうにうめ
いた。恐怖がしっかりと張りついた背は、小さく縮こまって老人の
ようだ。それは、彼らの襲撃が幾度となく繰り返されていることを
示していた。
﹁あいつら、人間を食うのかよ﹂
﹁いくらなんでも人間は食わないらしい。ゴブリンたちは、ああや
って首を落とした人間を巣に持ち帰って、肉を刻んで家畜の餌に混
ぜているらしい。山イノシシは、普通にウサギを食べるからな﹂
蔵人は、青ざめながら、足元で行われている暴挙に打ち震えてい
た。知らず、前に進み出ていたのか。マッキンリーが肩を掴んで顔
を左右に振った。
﹁下のやつらを助けようってんなら、やめろ。どうにもならない。
あいつらは、数百はいるんだ。さすがに、武装した獄卒までは襲お
うとしない。建物の近くにいれば、平気だ。それに、どこかで手に
入れたかしらんが、剣や槍で武装している。素手じゃどうにもなら
ない。逃げ遅れたやつのことは、諦めるしかねえ﹂
﹁けどよ﹂
﹁どうにもならねえよ。とにかく、森の近くで作業するときは、周
りに目を配るしかないんだ。少しでもヤバイと思ったら、人のこと
なんか考えずに逃げるんだ。それが、ここで長生きする秘訣ってや
つさ﹂
蔵人が歯を食いしばったと同時のことだった。
野太い男たちの絶叫に混じって若い女の声が聞こえた。
視点を激しく動かすと、斜面のはるか彼方を走る、小さな影が見
えた。
57
灰色のローブが、引きちぎられ茶色の頭髪が風になびいている。
顔を隠す奇妙な面は、どこかで見覚えのあるものだった。
﹁ありゃあ、マゴットだ!!﹂
囚人の誰かが叫んだ。途端に、男たちが色めきだった。
﹁ごみ捨てに丘を下ったところをゴブリンどもと鉢合わせたんだ!
!﹂
﹁こいつはまったくついてねえやつだぜ﹂
よろめいてあえぐマゴットの背を、四体のゴブリンが追いかけて
いる。
﹁待ってろ、いま助けてやっからな!!﹂
﹁おう、おれも行くぞ﹂
義侠心に富んでいるのか。それとも助けた後の礼に期待したのか、
下心を隠さないふたりの男がマゴットを助けようと丘を下っていく。
威勢がいいのは声だけだった。男のひとりが、叫びながら駆け下る
途中で、森の奥から矢が激しく射かけられた。
﹁うおおおっ﹂
ひとりは、喉、腹、胸をたちまち射抜かれると、そのまま斜面を
転がって絶命した。
蔵人たちがいる丘の上からはかなり近い。ゴブリンたちの作業が
よく見えた。青黒いつるりとした頭の小鬼たちは、いまだあたたか
い肉の塊に刃を突き刺して丹念に処理していった。喉に短剣を埋め
込んで、首を切断すると、邪魔だとばかりに斜面へ蹴り落とした。
びゅうびゅうと血が吹き出す肉体の肩のつけ根に刃を差し込み、
器用に腕を切り落とす。
胴体と足だけになった死体は、まるで現実実のない物体に思えた。
マゴットはすでに逃げる気力を失ったのか、そばで凍りついたまま
座り込んでいた。完全に腰が抜けているのだろう。かぶっていたフ
ードがはらりと外れ、頭部に突き出た奇妙なものがよく見えた。
﹁耳が⋮⋮!﹂
蔵人の視力はすぐれている。マゴットの頭上に突き出たふたつの
58
耳は、どう見ても人間のものではなく、獣のそれだった。
﹁なんだ、亜人か。チッ﹂
﹁いくら女でも畜生風情じゃなぁ﹂
蔵人がマゴットの頭上から突き出た奇妙な耳を注視していると、
同情的に見守っていた囚人たちが続々と丘を離れて監獄の軒へと移
動していく。
﹁みんな、どうしたんだいったい。亜人てなんだよ!﹂
﹁はぁ? いったい、おまえどこの出身なんだよ。ありゃ、耳の形
からしてワーキャット族だ。畜生風情なんざ、命をかけて助ける意
味もねえ﹂
蔵人が呆然と立っていると、マッキンリーが疲れたような顔で、
囚人の男の言葉を補足した。
﹁新入りのおまえにゃわからんだろうが、ここでは亜人の女を抱く
と、獄から死ぬまで出られないってジンクスがあるんだ。マゴット
もかわいそうに。だからあんな面をかぶって作業していたんだろう
な。バレちまえば、きっとあいつのメシをよろこんで受け取るやつ
はいねえ。美味しい目を見れそうな噂は知ってたが。そうか、亜人
か。そういうオチかよ﹂
マッキンリーが背を向けた。獲物の解体を終えたゴブリンがマゴ
ットのローブの裾に手をかけた。もはや悲鳴も出ないのであろう、
小さな身体にゴブリンが群がっていく。
蔵人の頬が火のように熱く燃え盛った。
気づけば、鍬を抱えて走り出していた。
背後から制止する声が飛んだ。
構うものか。
ここで、突っ立っていたら、俺は俺じゃなくなる。
蔵人は鋭く吠えながら鍬をゴブリンの頭に打ち下ろした。
ぐしゃりと、鈍い感触が手に残った。
激しく脳天を打ち据えられた小鬼の怪物は四肢を痙攣させると、
ドッと背後にひっくり返った。
59
﹁立て! こっちだ!!﹂
﹁え、あ⋮⋮?﹂
蔵人はマゴットをグイと引き寄せると、群がっていたゴブリンた
ちを蹴散らした。
百八十三の背丈に、八十キロ近い目方の蔵人と、百四十足らずの
ゴブリンの身体では押し合いにすらならない。
残った三体のゴブリンが叫びながら突っかかってきた。
小さいとはいえ、それぞれが手に小ぶりの短剣を持っていた。
蔵人は無我夢中で鍬を振り回すと、マゴットをかばって徐々に後
退していった。
﹁うっ!?﹂
目の前ばかりに気をやっていたせいか、周囲の観察を怠っていた。
仲間の危機を察知したゴブリンたちが矢を放って援護射撃を始めた
のだ。手首と、右肩、脇腹に矢尻が深く食い込んだ。ただの大学生
だった蔵人は、文字通り生まれてはじめて命懸けで殺し合いをする
ことになったのだ。
覚悟もクソもない。矢で射られたという事実だけが大きく脳裏に
浮かんだ。
痛みよりも恐怖が強い。
背中にしがみついたマゴットの身体から震えが伝わってくる。怯
えが伝染したのか、上手く身体が動かせなくなった。視界が急速に
狭まっていく。
真正面から突っ込んできたゴブリンの刃が、深く腹に突き刺さっ
た。痛いなどというものではない。目の前が、真っ赤に燃えがあっ
て、背筋の毛がゾッと逆立った。
全力でゴブリンの首に右手を回すと、締めあげた。
ゴリっと、骨の鳴る音がして、首を砕いた。血泡を吹く異形の怪
物を見て、なにかが吹っ切れた。
マゴットの手を引いて走った。
背中に幾つかの矢が突き立った。
60
しつこく追いすがるゴブリンの顔面目がけて鍬を振り下ろす。
ボキッと鈍い音が鳴って、柄が砕けた。
呼吸が激しく荒くなるにつれ、頭が茹だってなにも考えられなく
なる。
獄卒たちが必死の形相で近づいてくるのが見えた。
チラリと背後を振り返る。
多数の人間を目にして諦めたのか、ゴブリンたちが潮が引くよう
に去っていく。
﹁もう、大丈夫だ﹂
抱きかかえていたマゴットがギュッとしがみついてくる。
意識が、引きちぎられるように寸断された。
蔵人が再び意識を取り戻したときは、独房の冷たい床の上だった。
頭の後ろから視線を感じる。顔だけをようやく上げると、そこには、
瞳の大きな美しい少女が涙を湛えたまま、無言で見つめていた。
﹁よかった。気づいたのね﹂
﹁おまえは⋮⋮﹂
少女は十二、三くらいに見えた。茶色の髪が薄闇の中で静かに震
えていた。
大きな瞳は青みがかっており、全体的に愛くるしい顔立ちをして
いた。
﹁あたし、マゴットよ。よかった、気づいてくれて。もう、目を覚
まさないかと思った﹂
マゴットは袖に顔を伏せて、シクシクと泣き出した。頭の上に、
猫のようなふわふわした耳がぴょこんと飛び出ている。これが、囚
人たちのいっていた亜人というやつか。コスプレとは違って、頭髪
の中から直接突き出ている。犬や猫のものと基本は変わらない。よ
61
く見ると、作り物ではない証拠に、中にはビッシリと産毛が生え揃
っている。ヒクヒクと小刻みに動くところを見れば、彼女の自前の
ものであることは間違いなかった。
﹁あ、耳﹂
蔵人がジッと耳を見ていたことに気づいたのか、マゴットは気ま
ずそうに手をやった。
非難されはしないかと、怯えの色が濃い。不思議な形であるが、
特に不快には感じなかった。ああ、そういうものかと、納得する部
分が大きかった。
﹁ああ、別に俺はなんと思わねえよ。ただ、あんたみたいなやつを
見たのははじめてだったから、ちょっと驚いただけだ﹂
﹁え、あたしみたいな部族。その、亜人を見たことがないって。あ
なたって、どこの田舎者なのかしら﹂
マゴットは自分でいっておいて、言葉の意味に気づくとバツが悪
そうに顔を歪めた。
﹁ご、ごめんなさい。その、田舎者って別に馬鹿にしたわけじゃな
いのよ。ええと、ええとその、おかしいな。あなたが気づいたら、
お礼をとにかくいうつもりだったのに。ねえ、気を悪くしちゃった
?﹂
﹁はは、いいさ。俺は気にしねえよ﹂
﹁はあっ、よかった。あのね、あのね。助けてくれてありがとう、
ってそれだけは伝えたかったの。よかった。お礼をいう前に嫌われ
なくて﹂
マゴットはホッと息をつくと、両手を胸の前で組み合わせて、う
れしそうに微笑んだ。
頬がリンゴのように真っ赤に染まり、目元はどことなく熱を帯び
ていた。
子供なのに、なんともいえない色気があった。
蔵人は、咳払いをすると、寝転がったまま頭を掻いた。
﹁ま、そうやっているところ見ると、お互い大きなケガはなかった
62
みたいだな﹂
話題を変えるようにいった。途端に、マゴットの顔がクシャクシ
ャに歪んだ。
﹁よくないよう。あなた、いっぱい血が出てたんだよう。どうして、
あたしなんか助けてくれたの﹂
﹁さあ、なんとなくだ。気づいたら飛び出しちまってたよ﹂
﹁なんとなくって⋮⋮﹂
格子の向こう側からそろそろと、細い腕が伸びてきて蔵人の頬に
触れた。冷たく、なめらかな感触だ。驚いて起き上がると、照れた
ように視線をそらすマゴットの顔があった。
﹁ねえ、あなたの名前。教えてよ﹂
﹁俺は、志門蔵人だ﹂
﹁シモン?﹂
﹁いや、それは苗字で﹂
﹁苗字があるの? もしかして、あなたって身分のある方なの?﹂
﹁いーや、違くて。とにかく、名前は蔵人だ。クランドって呼んで
くれや﹂
﹁クランド、うん。クランド﹂
マゴットは、言葉の音が気に入ったのか、目を伏せたまま口元で
名前を数回つぶやいた。形のいい小鼻がフンフンと鳴っている。子
猫のような愛らしさだった。
﹁ねえ、クランド。よければ、あたしとお友だちになってちょうだ
い﹂
その日から、蔵人とマゴットは友達になった。とはいっても、蔵
人は檻の中である。
63
マゴットと会えるのは、朝と夕の食事どきの二回だけだった。他
の獄卒の目を盗んで会話をするのは中々難しかったが、ふたりはイ
タズラを楽しむようにこのおしゃべりを楽しんだ。聞けば、マゴッ
トは十二歳でワーキャットという亜人に分類される一族だった。彼
女は、自分が奴隷だということに特に引け目を感じず、正直に話し
ていた。
マゴットには、兄がひとりいて、いまは都で金を稼いでおり、今
年中にも彼女を請け出してくれるとのことだった。
﹁ごめんね、あたしばっかり自由になって﹂
彼女は頭の回転は早い方ではなく、ときどき蔵人の話にまるでつ
いていけない部分があったが、辛抱強く話を聞き、理解することに
努めていた。根は善良であるが、どうにも要領がよくないのか、と
きおり他の獄卒に叱られていることがよくあった。
蔵人とマゴットの仲が深まるにつれて、彼女は徐々に心を開いて、
囚人であることも忘れたのか甘えてくるようになった。
︵こんな子供だ。兄貴が恋しいんだろうな︶
大の男ですら泣きが入る陰鬱とした職場だ。奴隷として、二十四
時間自由なく従事している彼女にも心の拠りどころが必要だったの
であろう。
さらに、一週間が過ぎる頃には、夜中にまで内緒で房の前に遊び
に来るようになった。
ワーキャットだけあって、マゴットは足音を殺すのは器用だった。
また、蔵人のいる独房は、部屋の一番隅であり、隣室の男が老年
であり、夜はぐっすり眠りこけて目を絶対に覚まさないことも有利
に働いた。つらいこと、悲しいことがあると、マゴットは房の前に
来て、ジッと涙を湛えた目で佇んでいた。その度に、蔵人は格子か
ら手を伸ばして、マゴットの小さな頭を撫でてやった。
﹁みゃあ﹂
マゴットは頭を撫でられている間は、ジッと目を細めて陽だまり
の中の猫のようにしあわせいっぱいなくつろいだ顔をしていた。
64
自分に妹がいれば、きっとこんな感じだったのだろうか。つらい
日々にくじけず頑張るマゴット励まされ、いつしか蔵人の心にもあ
たたかいものが宿っていった。
朝起きて、マゴットにいってきますと告げ、夜帰ってから夕食前
に語って、ともしびが消えてからはこっそりと語り合った。蔵人は、
伐採作業中に薄青色の花を見つけ、こっそり摘むとマゴットへ贈っ
た。
﹁綺麗ね。ありがとう、クランド﹂
彼女はしばらくすると、それを押し花にして常に持ち歩くように
なった。
﹁うれしいな。本当にうれしいよう﹂
マゴットはその押し花を押し抱くと、尻尾をぴょこぴょこ振って
踊った。蔵人は、マゴットが房の前に来ると、格子の傍にできるだ
け近寄って座った。こうすれば、木製の牢を挟んでも互いの体温を
少しでも多く感じ取れるからである。蔵人は孤独だったが、それは
日本でも同じだった。身寄りのない彼は、日本で帰りを待つものが
いない。それでも、よくわからない世界で生きるのは、つらかった。
慣習だけではなく、食うものひとつとってもすべて異質なのだ。ふ
たりは、まるで違う人種であっても、本当の兄妹のように身を寄せ
合って心の均衡を保った。
﹁あたしの生まれたところはね、きれいな花がいっぱい咲いていた
丘の上にあったんだよ。おじいちゃんと、おばあちゃん。お母さん
やお父さん。たくさんの兄妹といっしょに、川へ遊びに行ったんだ。
天気のいい日は、あったかい草むらで日なたぼっこをして、みんな
でごろ寝するの﹂
マゴットは過ぎ去った日々のことを目を細めて語るのだった。彼
女の昔語りには、特別な出来事は起こらなかった。淡々とした取る
に足らない日常。彼女が、どういう経緯で奴隷に身を落としたのか
は知らないが、そこに至るまではどれだけの苦しみがあったのか、
平凡な生き方をしていた蔵人には想像もつかなかった。
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﹁お兄ちゃんはね、冒険者なんだ﹂
﹁冒険者?﹂
﹁うん。冒険者。いまは、都で頑張って働いているんだ。それで、
お金を貯めてここを出たら、ダンジョンに行くっていってた﹂
﹁へえ。そりゃ、また。大冒険だな。どこかアテでもあるんかい﹂
﹁お兄ちゃんがいうには、王都からずっと南の果てに、迷宮都市が
あって、そこには冒険者たちがたくさん集まるギルドがあるってい
ってた。いつか、ここを出たらあたしとお兄ちゃんはいっしょに、
ダンジョンに潜って冒険するの。そうしたら、きっとたくさんお金
が稼げるよ! そうすれば、家族だって昔みたいに、いっしょに暮
らせるようになるし。そのときは、クランドもここから出してもら
えるように王さまにお願いしてみるよー﹂
﹁そうか。そんときは、頼まぁ﹂
﹁うん。あたし、クランド好き。だから、ここから出られたら、あ
たしとお兄ちゃんとクランドで冒険しよう!!﹂
﹁はは。そうだな、それがいい。ところで、その迷宮都市ってのは
なんて場所なんだ?﹂
マゴットは、頭を抱え込むと、唸り始めた。頭上の猫耳はペタン
と寝てしまい、細長いしっぽはうねうねと動いている。
﹁シルバーヴィラゴ!﹂
マゴットはいつも小さな豆本をこっそり持ち歩いていた。蔵人が
暇のあまり見せてくれと頼むと、自慢そうにむふぅと鼻を膨らませ
ながら、手渡してくれた。
﹁よ、読めねえ﹂
﹁実はあたしも読めないんだ。お兄ちゃんが迎えに来るまでに、読
めるようになっておかないと﹂
マゴットは足でまといにはなりたくないもんね、と寂しそうに笑
い、大事そうに蔵人から貰った押し花の栞を挟むのであった。
66
67
Lv5﹁牢を出て街に出よう﹂
夜半、必ず忍んでくるマゴットが、いつまで経っても現れなかっ
た。日中は、力仕事に従事しているため、身体は疲れきっている。
いつしか、蔵人は横になっているうちに、深い眠りへと吸い込まれ
ていった。夢うつつの状態で船を漕いでいると、パタパタと石畳を
踏んで駆け寄る足音が聞こえた。
﹁クランド、よかった⋮⋮!﹂
﹁おい、いくらなんでもこんなデカイ音出しちゃまずいだろ﹂
マゴットは、蔵人の声をまったく無視したまま、錠に手をかけ動
かしている。明度の低い、薄明かりの中でもそれが、牢屋の鍵だと
いうことがすぐわかった。
﹁いったい、そんなものどこから﹂
﹁早く、早く逃げて。ここから逃げないと、クランドが﹂
﹁なにやってんだ、こらああっ﹂
﹁テメェか、このクソ亜人がッ﹂
騒ぎを聞きつけた獄卒は、マゴットがしていることに気づくと同
時に凍りついた。
堂々と囚人を開放しようとしているのだ。蔵人が叫ぶよりも早く、
獄卒はマゴットの脇腹を蹴り上げた。ボールが転がるように、ぽー
んとマゴットの身体は宙に浮くと壁際に叩きつけられた。手にして
いた鍵束が、乾いた音を立てて石畳を鳴らした。
蔵人は、格子を掴んで、なんとしてでも押し開こうとした。
たとえ、無意味な行動であったとしても。
68
獄卒たちは、無慈悲にも大きなすりこぎのような棍棒をマゴット
の背に向かって手加減なしに叩きつけた。幾度も幾度も。
やめろ、と。やめてくれと、絶叫した。マゴットは、悲鳴を上げ
ることなくなすがままに、されたままやがて動かなくなった。
蔵人は、手の皮が破れて、肉が露出するのも構わず、木の格子が
真っ赤に染まるまで、壊れた人形のようにずっと叩き続けた。それ
は、獄卒がボロ雑巾のようになってピクリともしなくなったマゴッ
トを、ゴミでも運ぶようにしてつれて行くまで延々と続いた。地獄
のような時間だった。
古泉はちらついた雪に目を細めると、オリーブ色のフードを目深
にかぶりなおし、下ろされた吊り橋から足早に王女マリアンヌの待
つ部屋へと急いだ。
故国日本からロムレス王国に召喚されてから三年の月日が流れて
いた。
最初の数ヶ月は戸惑いもあった。
召喚が成功したと同時に行われる契約により言葉は不自由なく通
じるも、やはり中世ヨーロッパレベルの異文化にはなかなか馴染め
ない部分が大きい。
その時々で心の支えになったのは、やはりマリアンヌの存在が大
であった。
だが、国事に奔走するあまり、ふたりはこのところすれ違いが多
く生まれていた。
今までの空虚を埋める為、今日こそは、どうしてもマリアンヌに
会っておきたかった。
69
所詮は他国者である。
功績と力は認められていても、差別をすべて排除はできない。そ
んな古泉の唯一の友人ともいえる王宮魔導師のマリンは、王女との
逢引のことを告げると快く残務整理を請け負ってくれたのだ。早い
時点で、仕事を切り上げられたのは僥倖だった。喜びもひとしおだ。
数ヶ月ぶりに愛を確かめ合おうと、古泉の胸の内は早鐘のように
鳴り響いていた。
黒真珠のように潤んだ大きな瞳。漆黒のように深い色をした、長
い髪。
そして、胸元からせり出すように乳首がつんと上を向いた、豊満
な乳房。
古泉は、マリアンヌと思いが通じてもプラトニックに徹し、肉の
交わりはなかった。
身分差もさることながら、常に王女という目で周りから見られて
いる。隙を突いてふたりきりになるのはかなり難しかった。
ロムレス城は防御力を考えて、総石造りで出来ており、夏場はと
もかく、冬場は足元から立ち上る冷気で身動きも出来ないほどだ。
古泉は、マリアンヌの若くすべすべした輝く白い肌と、むっちり
した美肉を脳内に夢想し、血をたぎらせた。自分でも自制心は強い
と思う。だが、本当に愛する彼女を肉欲のああまり欲するのは、な
にか違うような気がした。いつの日か、国中の誰もが認めるような、
絶対的な功績を挙げ、正々堂々と結婚を申し込む。その夢想は、部
屋の前にたどり着いたとき、翳りを帯びた。
︵警護兵がいない、どういうことだ!?︶
仮にも、王女の部屋である。
いくらなんでも無人ということは有り得ない。
古泉は、今までに何度か駄賃をやって部屋から遠ざけていた、警
護兵や侍女の姿を探したが姿も見えなかった。
不安にかられながら扉の前に立ち、中から漏れてくる声に気づい
た。
70
あきらかに、それは男女のやりとりする睦言でしかなかった。
﹁だめっ。だめですっ、ファビアン、やめてください﹂
﹁いいじゃないか、マリアンヌ。僕はもう我慢できないよ、ほらっ
ほらっ﹂
古泉は、扉の隙間から見えているものを直視するが、しばらくの
間は、全身が硬直し、息をすることもできなかった。
︵なぜだっ、なぜだっ、マリアンヌ! よりによってそんなヤツと
っ!︶
扉の向こうで、マリアンヌの豊満な双丘を、背後から両手で鷲掴
みしている男こそ、マリアンヌの従兄弟である一族のファビアン・
フォン・ロムレスであった。雄々しい風貌に、彫りの深い顔立ちは
日本人にはない迫力だった。 ︵なんで、そんなにうっとりした顔をしているんだっ。おまえっ、
一番嫌いなタイプだって、いってただろ!︶
﹁ああ、だめっ、だめですっ、いけませんわ。私には、勇者さまが
っ﹂
﹁なにが勇者さまだよ、マリー。いま、ここで君を喜ばせている男
は僕なんだよっ。君をひとりにして寂しい思いをさせる男のことな
んかすぐに忘れさせてあげるよっ﹂
ファビアンは、指まで毛の生えた無骨な指先を巧みに操りながら、
マリアンヌの肩を抱き寄せ、首筋にキスの雨を降らせた。
﹁んっんっ。あっ⋮⋮ほんとうにぃ、だめなのぉ﹂
﹁かぐわしい匂いだよ、マリー。君は本当に素敵だよ。ほら﹂
﹁んんんっ﹂
ファビアンは、ぐいとマリアンヌの顔を傾けさせると、強引に口
を重ねて、桜色の淡い唇を貪り始めた。
古泉は頭を掻きむしりながら、目を真っ赤に充血させた。
彼が、意を決して部屋に飛び込もうとした瞬間、首筋にちくりと
鈍い痛みを感じ軽い酩酊感が襲った。
誰だ。
71
舌先が痺れて声が出せない。かろうじて、首だけを後ろに向ける
と、そこには王女付きの侍女クラリスが百合の花をかたどった鼈甲
櫛を持ってほくそ笑んでいた。
﹁なに、を﹂
﹁勇者さま。お静かに。ただのしびれ薬です、命には別状はありま
せんので、ご安心を﹂
クラリスは、楽しそうに片目でウィンクをすると唇に人差し指を
当ててウインクをした。
櫛の歯先に塗られた薬液が、ぬらりと光る。
古泉は、膝からその場に崩れ落ちる。自分の間抜けさ加減に怒り
しかない。
それでも視線だけは、扉の向こうがわに置いたまま動かさなかっ
た。
なんで、こんなことを。
﹁なんでって、それはファビアンさまの命令です。姫との情事を勇
者さまに見せつけるためですよ﹂
クラリスは、明るい茶色の髪をふるふる震わせると、異様な熱の
篭った目で扉の隙間から、中を覗きだした。自然、古泉と寄り添う
形になり、甘い匂いが漂った。
焦燥感にも似た統制できない感情が、腸から沸き起こって来るの
を感じた。
古泉にとって、クラリスはマリアンヌの次に心を許せる数少ない
人間だった。
人形のようにかわいらしい容姿と、おしゃまな性格から、古泉は
どきどきさせられる反面、妹のように思っていた。 抱き込まれてたんだ、クラリスも!!
古泉は、意識はあるが声も出せず、その場から動くこともできず
に、ファビアンとマリアンヌのやりとりを目の当たりにされた。 ﹁完全に、寝取られちゃいましたね。勇者さま﹂
クラリスの瞳。完全に負け犬を見る、蔑んだ視線だった。
72
どうして、こんなことになったんだ。
自問自答を繰り返す。
古泉は、いつしか指一本動かせないまま、涙を流していた。
何もできない。 古泉は、マリアンヌにはじめてあった日のことを思い返していた。
召喚陣の中、とまどう己にさしだされたやわらかいてのひら。
笑うとわずかにしわの寄るひたいが、困った子猫のように感じら
れていとおしかった。
彼女はいつでも華やいだ雰囲気の中で、疲れきった自分を癒して
くれた。
暖かい陽光がきらめく、朝に庭園をふたりで歩き、初めて手を繋
いだ。
この人のためならと、命を捧げる思いだったのに。
かじかんだ指先を伸ばすと、硬い何かに触れる。
幾重かにわかれた歯先から、それがクラリスに送った櫛だと知れ
た。
花の開くような無垢な笑顔で頬を染めた妹のような少女。
もう、届かない。なにもできないのだ、この自分は。
古泉は、動かない顔をそっと動かした。
ふと、怯えたような瞳のまま立ちすくんでいる、若い護衛兵に気
づいた。
助けを求めようと、無意識に手を伸ばした。
護衛兵の男から怯えが消え、泣きそうに歪んだ。記憶はそこで途
切れた。
﹁夢か!!﹂
古泉功太郎は、毛布から身体を起こすと、汗で冷え切った身体を
震わせた。
73
周囲を見回す。あたりまえのように、牢内だった。
ゴロンゾたちはいつもどおり白河夜船でいびきをかいていた。
また、思い出した。
あのときの悪夢を何度でも、何度でも。
三十年も前の話だ。自分は、いいようにしてやられたのだ。反撃
の機会はあったのだ。
マリンという力強い友もいた。
女を抱くことしか能のないファビアンの軍勢など、恐れるはずも
ない。一蹴することなど容易かったはずだ。
なぜだ、なぜ自分はあそこで逃げてしまったんだ。
もう、三十年も同じところで、グルグルと思考が出口を探し続け
て歩き回っている。
認めるんだ。
そう、認めよう。
古泉は、まさかの答えを恐れていたのであった。
もし、マリアンヌがファビアンをかばうような態度を見せたら。
そう思えば、もはや戦うことはできなかった。
思考を停止させ、屈辱に甘んじるほうが楽だった。
事実をハッキリさせなければ、自分は死ぬまで被害者でいられる。
マリアンヌは、無理やりファビアンに犯された。自分は運が悪か
っただけ。
彼女が愛していたのは、自分だけなんだ、と。
﹁どうして今更、おまえなんだ﹂
古泉の枯れ切った魂に、再び火がくべられた。いうまでもなく、
志門蔵人の存在である。
召喚された勇者は運命に翻弄される一生を送るだろう。
その忌まわしき未来が、過去の自分と重なるたびに、傷口が激し
くほじり返される。
聞けば、蔵人は、給仕係で奴隷だったマゴットという少女といい
仲になったらしい。
74
それは、獄中では美談ではなく、間抜けな男の勘違いとして噂さ
れていた。
蔵人は知らなかったが、マゴットの前職が娼婦なのも、慕ってい
た兄に売り飛ばされたのも周知の事実だった。だからこその囚人た
ちの、毎度毎度の反応だった。
仮面をかぶって顔を隠していたから、皆が、マゴットに期待して
いたのだ。
人間の元娼婦である、と。
男である以上、どんな状況でも、若い女に期待しないはずもない。
だが、彼女がワーキャットの亜人であると知れて、状況は一変し
た。
囚人はゲンを担ぐのだ。できれば、こんな獄の中からは一日でも
早く出たい。不可能でもそれを願わずにはいられない。亜人の女と
触れると、禍が抱きつき、二度とシャバには戻れない。奇妙なジン
クスであるが、迷信のはびこる世界では、それは信仰のように、巌
のように大きくそびえ、揺るぐことはなかった。
亜人で元商売女。もの知らずな田舎者。
暇な囚人たちにとっては、格好の物笑いの種であった。 古泉が苦悶を続けていると、廊下の向こう側が、激しくざわめき
だした。
﹁あんだよ、こんな朝っぱらから﹂
﹁ねみいよー﹂
ゴロンゾたちが騒ぎを聞きつけ起きだしてくる。格子の向こう側
に立っていたのは、カマロヴィチと数人の獄卒だった。彼らは、ボ
ロ切れのような男を抱え込んでいる。きい、と音を立てて入口が開
けられると、それが投げ入れられた。半死半生になった蔵人だった。
﹁ふん。おはようさん、人屑ども。あなたのお仲間よん。最後の朝
くらいはいっしょにさせてあげようと思ってねん﹂
﹁どういう意味だ﹂
﹁この屑は、なにを思ったか、近づいた獄卒の首をへし折ったのよ
75
ん。だから。最後よん﹂
蔵人は死人のように押し黙ったまま動かなかった。だが、次の言
葉を聞いた途端、野獣のように目を光らせた。
﹁マゴットも愚かよねえ。奴隷が調子に乗って色気づくから。人の
話は盗み聞きするは、勝手に囚人を逃がそうとするは。さすが、骨
の髄まで淫売よねん﹂
﹁取り消せ︱︱!﹂
蔵人の声。地の底から響くような、聲だ。カマロヴィチが、一瞬
たじろいだ。
﹁最後ってのはどういう意味だ﹂
古泉は、低い声で問うた。カマロヴィチの顔が歓喜に歪んだ。
﹁決まってるわよ。クランドは奴隷のマゴットをそそのかして、脱
走しようとした罪で死刑執行!! ま、アンタたちもそのついでに、
ってことね﹂
﹁ふざけんなっ、横暴だっ! 法律院も通さず、そんなことが出来
てたまるか!﹂
﹁ヤルミルだっけ、平民にしては学があるようだけど、法が有効に
適用されるのは残念ながら力を持った貴族だけなのよね。だいたい、
ほとんどの平民は字すら読めやしない。最後にいいことを教えてあ
げる。法の恩恵に与れるのは力のあるものだけ。そもそも力のある
ものは法すらも簡単に書き換える。正直なところ、アンタたちにこ
れ以上生き延びられたりすると都合が悪くなったり、尻の収まりが
悪い人間があちこちにいるわけなのん。アタシはそういう人たちか
ら、寄付金をもらって、悩みの種を処分しているの﹂
﹁なにが寄付金だ。賄賂だろ、僕はそんなの認めない﹂
カマロヴィチは口をもごもごさせたかと思うと、んべっと唾をヤ
ルミルに向けて吐き出す。ヤルミルは、放心状態のマーサの頭を抱
え込んで突き出すと、唾液の雨から逃れた。
﹁アンタが認めようと認めまいと、もーう決まったことなのよ。ゴ
ロンゾ。あんたは盗賊のくせに格好をつけすぎたのよ。アンタを裏
76
切った仲間は政府の高官にたっぷり金貨をつまませてアンタを獄の
中で始末するように頼んだの。ヤルミル。アンタはなまじ秀才な上
に平民とはいえ父親が豪商だったことが災いしたわね。アンタを消
せって頼んだのは、オヤジさんの商売敵よ。マーサ。アンタの場合
は、ここに送られたこと自体が仕組まれてたけど、話を作り替えた
貴族さまの気が変わって、やはり処分しないことには気持ちが悪い
みたいね。そして、コイズミとクランド、アンタらふたりはなにが
あっても生かしておけないって、もっとも高貴な筋からの願いでね。
マゴットが立ち聞きしていたのは想定外だったけどねん﹂
﹁王妃か、それとも王か。おい、カマロヴィチ。どうして俺たちに
今更そんなこと語って聞かせるんだ。意味がないだろう﹂
古泉は、口元の白髭を、噛み切った唇の血で汚しながら、かすれ
た声で訊ねた。
﹁昔馴染みよ。アナタには、若い頃には随分とお世話になったわね﹂
﹁いったい、いつの話だ。悪いが、俺はおまえのような大男の玉無
し野郎は知らん﹂
﹁本当に?﹂
カマロヴィチは格子の傍まで来て、燭台のともしびで自分の顔を
照らしてみせた。
古泉は、いぶかしげにカマロノヴィチの顔を舐めるように観察し
ていたが、やがてなにかに気づいたのか、驚愕し、やがて耐え切れ
ないといったふうに顔を大きく歪ませた。
﹁おまえ、あの時の護衛兵。マリアンヌの部屋の前にいた﹂
﹁そーうよ、今頃気づいたの。アタシは、二十年前からアンタに気
づいていたわよ。ついでにーいっちゃうと、今の王さまを煽ったの
も、アタシよーん!﹂
﹁なんでだっ、なんでだっ!﹂
﹁なんでって、まだわからないのお。理由はふたつあるけど、ひと
つは秘密。どうしても知りたいのなら、かたっぽだけ教えてあげる
わん。今の、王さまファビアンは本当にマリアンヌ王妃に片思いし
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てたみたいなの。放蕩息子を気取っていても、本当に好きな女に対
しては気後れしてたみたいなのよん。だから、アタシが教えてあげ
たのよん。女にたいする本当に賢いやり方を、それは力によって屈
服させること。自分が、肉の塊でしかないと心と身体に徹底的に教
え込むこと。もっとも、あのマリアンヌさまは、心までは中々落な
かったようだけどね﹂
﹁どういう、こと、だ﹂
古泉は、一気に十も歳を取ったかのように青白くやつれていた。
﹁決まってるじゃないのお、アンタよ。王妃のネックはコイズミ。
アンタだったのよ! いうことを聞かなければコイズミを殺すって
デマカセかまして、薬と愛するものを奪われる恐怖を併用してさん
ざんにあの肉壷を調教してやったのよお。アタシは女なんか好きじ
ゃないけど、王妃が泣きながらアタシに奉仕するのを眺めるのは中
々乙だったわん。ファビアンも最初は戸惑っていたが、そのうちア
タシの主導する調教に慣れていったわ。あーははははは。あの誰も
が王妃よと崇める女が、さんざんアタシたちが弄んだ女だなんて。
えええっ、笑えるじゃないのぉ! 痛快じゃないのお、笑いなさい
よぉ! アタシと秘密を共有した王は、ただの番兵風情だったアタ
シを、獄卒長にまで引き上げてくれたわ。この仕事はねえ、確かに
世間体は悪くて誇れるものじゃないかもしれないけど、身内の不正
をもみ消したり、気に入らないヤツを消すために懐に入ってくる実
入りは、並の大貴族じゃ手に入らない額よ。今では、欲しい男も女
も、高価な調度品も、宝石もなにもかもアタシのものよ、そう、た
った一つを除いては﹂
﹁たったひとつ?﹂
﹁お話はおしまいよ、あと少しで夜が明けるわ。夜明け前には処刑
を開始するわ、内密にね。あの、小うるさい貴族娘が戻って来ない
とも限らない。頭カラっぽのくせに、中々しつこそーだからね。カ
タをつけてあげる。最後の一日を楽しみなさい﹂
﹁待てよ! マゴットはどうなったんだ!?﹂
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﹁ああん、この期に及んであの奴隷の心配? ふふん、なら後腐れ
なく、あの娘もいっしょに断頭台に送ってあげるわ! 臭くて汚ら
しい奴隷を冥土の花嫁にでもするがいいわ!!﹂
カマロヴィチがゆっくりと遠ざかっていく。
いいたいことだけをすべて絞り出して帰っていった。
つまりは、この牢内の五人の死は確定だった。
﹁裏切ってなかった﹂
項垂れた古泉がぼそりとつぶやく。
﹁マゴット、絶対に死なせねえ!!﹂
死んでいたような五人の瞳に精気の炎が灯る。
誰からともなく、皆の声が揃った。
俺たちは、この牢から出るぞ、と。
蔵人は、ズボンのポケットから綿埃をつまみだすと、牢内の壁面
の硬い部分に固定し、先ほどの乱闘時に拾っておいた酒瓶の破片で
強くこすり続けた。ズボラに見えて、基本的に牢内は、三日に一度、
獄卒のチェックが入る。危険なものが隠していないか、ネズミのよ
うに探し回るのだ。その点、欠けた陶器の破片など尖ったものは見
つかったら最後、ひどい懲罰を受けるハメになる。しかし、数セン
チ程度のものなら口中に含ませてやり過ごすことも可能だった。
﹁誰か来ないかしっかり見張ってろよ﹂
﹁任せとけって。見張りは盗賊の十八番だぜ﹂
ゴロンゾが手を振って周辺を警戒する。古泉は腕を組んだまま目
をつぶって身じろぎもしない。ヤルミルとマーサは、古毛布を細か
く割いて、床に並べていた。
﹁なー、こんなんで簡単に火がつくのか﹂
﹁任せろっての。オラ、付いたぜ﹂
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蔵人は、摩擦熱で器用に綿埃へと火種を移すと息を吹きかける。
﹁よーしよしよし、後は任せろ任せろ﹂ うれしそうに目を輝かせて、ゴロンゾが火種を毛布につけていく。
最初は、小さなくすぶりだったが、それはやがて指先ほどになり、
最後には赤々と燃える大きな炎の塊になった。
﹁へへ、燃えろ燃えろ﹂
﹁ほとんど放火魔ですね。さ、この支柱を中心に燃やしていきまし
ょう﹂
ヤルミルはあらかじめ選定してあった場所を指差すと、弾んだ声
を出した。
蔵人たちは、協力して火を作ると消えないように注意を凝らした。
手際よく牢の木製の格子へ毛布を巻きつけていく。ロクに干さな
いため湿っていたので、上手く火がつくか心配だったが、しばらく
すると火はどんどん大きくなった。
﹁なあ、ここから出たらおまえらはどうすんだよ﹂
火を見つめながら、ぼそっと蔵人が囁く。
﹁俺は世界一の鍛冶屋になる!﹂
︵ブルーカラーまっしぐらかよ︶
﹁盗賊稼業に戻るぜ。そんで、俺を密告したやつらの金玉をスライ
スして玉ねぎとあえて食わせてやる﹂
︵犯罪者か︶
﹁僕はこの国に革命を起こし、よりよい政治を目指します﹂
︵政治犯か。もう一度くらいつかまりそうだな︶
﹁ジイさんは﹂
ゴロンゾの問いに、古泉はぎょろりと目を開いて応える。
﹁ごめん、なんでもねえや﹂
嫌な沈黙が流れた。
﹁そういや、クランドは僕たちにばかり聞いて自分はどうするので
すか?﹂
﹁俺は、マゴットを助ける。そんでもって、この世界の、イイ女と
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片っ端からやりまくってやる!!﹂
ヤルミルはあっけにとられたまま口元を歪めると、わずかにズレ
た眼鏡を定位置に戻し、くひっ、と笑いをこぼした。
﹁ぶっ、おまえ、そりゃストレートすぎじゃねえか。まあ、おまえ
みたいなバカがいい女を手に入れるには、冒険者になるのが一番か
もな﹂
ラスト・エリュシオン
﹁冒険者。ああ、冒険者ね﹂
﹁この国には、深淵の迷宮と呼ばれる建国以来一度も最下層まで攻
略されたことのないダンジョンがあります。なんでも、初代ロムレ
ス国王が一番最下層にこの国でもっとも価値のある秘宝を隠したと
か。徒手空拳の人間が名を挙げて財産を得るには一番手っ取り早い
といえる方法といわれてます。僕なら絶対やりませんけど﹂
﹁なんでだよ﹂
﹁決まってんだろ。ほとんど死ぬか、不具になるからだ。ま、目指
してみるのも男の夢だろ。確か、いま攻略されてる最深部が十階く
らいだっけ? そのあたりでウロウロしてても結構食えるみたいっ
て話だ﹂
﹁考えとくわ﹂
めらめらと燻りつつ格子を縦横に舐めていく炎を見ながら、蔵人
は自分を襲った従騎士の顔を思いだし陰鬱な気持ちが胸に広がって
いくのを抑えられなかった。
あの女がいきなり自分に斬りかかってきた理由をヴィクトワール
も知らなかったというのは、真実だろう。彼女の顔は演技ではなか
ったし、示し合わせて消そうとしていたなら自分をかばったことの
つじつまが合わなくなる。
そう考えると、あの東洋人と同一な容姿を持つ少女は、ロムレス
王、或いは王室関係から命令を受けて蔵人を始末に来た暗殺者以外
のなにものでもない。
理解できないからといって、そうそうデリートされてはこちらと
してもたまらない。
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あのタイミングでペラペラとカマロヴィチが真実を喋りだしたの
も疑わしかった。
﹁ま、いいか﹂
所詮、蔵人の脳みそでこれらの事象の真理を突き止めることはで
きない。
推理する材料も、論拠も根気もない。そもそもあまり興味がなか
った。
こんなわけのわからない世界で、白人もどきと会話していること
自体が夢そのものに思える。これ以上、なにが起きても、もはや不
思議なことなどなにひとつないのだ。
﹁それよりもマゴットだ﹂
古泉にはかなり気の毒だが、ヤツはあの変態ホモ野郎にハメられ
て恋人を寝取られただけのことだ。そんな話は、日本でもザラにあ
る話だ。酒の肴にもなりはしない。
しかも三十年前の話である。
さすがに、古泉の怒りも風化し、ほろ苦い記憶として醸成された
だろう。
蔵人の頭の中にあるのはとにかくここをマゴットと抜け出して、
少しでも遠くに逃れることだけだった。
なにが、勇者召喚だ。
なにが救い主だ。
勝手に人を呼び出しておいて、挙句がこのザマだ。
とてもではないが、これ以上つき合っていられない。
﹁勇者なんてクソったれだ﹂
蔵人は、顔を歪めて世界を強く呪った。
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83
Lv6﹁勿忘草は散った﹂
﹁カマロヴィチの野郎! ここから出たら、はらわた抉り出して、
ケツの穴に押し込んでやる! チンポコ千切り取って、口の穴に糞
ごと食わせて、針金で唇を縫い合わせてやるううっ!﹂
古泉の形相はほとんど原型をとどめないほどに怒りで赤黒く変色
していた。
目玉は剥き出したまま浮き上がっている。
血管の束が白目を覆い尽くさんばかりに増殖していた。
古泉は、火で炙られ強度の落ちた格子を絶叫しながら素足で幾度
も蹴りつけている。
巨人が大樹を蹴りつけるような轟音が、全員の耳を聾する。
もはや、それは人間の力を凌駕していた。
めりめりと音を立て、丈夫そうな材木が軋んだ音を立てた。
﹁マジかよ、ジイさん人間ワザじゃねぇ﹂
ゴロンゾが古泉の剣幕にたじろぎ身を引くと、めりめりと音を立
てて格子が廊下へと前倒しになった。
﹁こらっ、クソったれ囚人どもがーっ、なにをやっとるか!﹂
﹁いますぐ処刑されたいのか! 歯クソどもっ﹂
騒ぎを聞きつけたのか、槍や刺股、こんぼうを手にした屈強な男
たちが十人ほど殺到してくる。丸腰の囚人一同たちに緊張が走った。
﹁やべぇ、俺ら素手だぞ﹂
﹁いや、問題ないでしょう。彼の力ならイケます﹂
﹁んな無責任な﹂
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ヤルミルが冷静に牢番の群れを指差す。
そこには雄叫びを上げながら、なんの躊躇もなく風のように疾駆
する古泉の姿があった。
古泉は、白髪頭を振り乱しながら獄卒たちに躍りかかると、一番
先頭の男が振りかざしていた刺股をいとも簡単に取り上げる。
﹁死ねえええええっ﹂
﹁んぐおっ﹂
風を切って上段から打ち下ろす。
古泉の刺股は、男の無防備な脳天をぶち割って脳漿をあたりに飛
散させた。
怯えて硬直したもうひとりの男。狙いすまして、口へと鉄製の刃
先を突き入れ、喉奥を突き破り壁際に縫いつけた。鮮血が間欠泉の
ように飛沫を上げ、石畳を叩いた。
﹁るおおおおっ﹂
﹁んひいいいっ、くるなああっ﹂
﹁死ねや、チンカスどもがあっ﹂
古泉は再び猿のように身軽に跳躍すると、身を引いていた男に飛
びかかり顔面へと指先を突っ込み、眼球を無理やりほじくり出した。
断末魔が尾を引いて伸びた。
﹁よーし、いまこそクソったれな牢獄をぶっこわすときだ! ジイ
さんに続け!﹂
ゴロンゾが古泉の狂気に続く。
﹁うおおおおっ﹂
マーサが叫ぶ。
﹁どるううううああああっ!﹂
ヤルミルが己を解き放つ。蔵人は、彼らの後方を駆け抜けながら、
地味に辺りの牢から囚人たちを開放していった。
燃え広がる真っ赤な炎が、獄中をあっという間に舐め尽くしてい
った。
木材を焦がす煙。
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肉を打つ鈍い音。くすぶる白煙と絶叫。獄内のあちこちで乱闘が
始まった。
どさくさに紛れて次々と牢の錠が開かれた。
乱れ切ったロムレス司法によって無実の罪に落とされた者や、或
いは骨の髄までマジキチな有罪人間たちが溜まりに溜まったエネル
ギーを一気に爆発させ暴れ狂った。
こうなると、百人程度の官吏や牢番の力では事態を沈静化させる
ことは不可能だった。
三百余を数える自由を奪われてきた人間の力の奔流は、凄まじか
った。
﹁死ねええっ、ウジ虫野郎が! 肛門ビチグソ牢番が!﹂
﹁ひいいいいっ﹂
凶悪な囚人たちがいままでの鬱憤を晴らすため、獄卒を囲むと手
加減なしに奪った棍棒で殴りつけている。獄卒たちの脳髄が、落と
した豆腐のようにぐずぐずに崩れ、脳みそが下痢便をぶち撒いたよ
うに、床へと四方八方飛び散った。
﹁耳の穴に硫酸流し込んでやるっ、直腸から喉まで鉄棒ブッ刺して
やる!﹂
﹁やめろおおおろっ!﹂
そうかと思えば、ひとりの獄卒を数人で羽交い絞めにして、真っ
赤に焼けた火箸を鼻先から突っ込んでいる。肉の焦げた匂いが、牢
の焼ける煙に混じりひとつになっていった。
﹁おらおら! てめーは今日からオレのサンドバックだっ﹂
﹁ハラワタ掻きだしてブタの餌にしてやるううっ﹂
日頃の横暴さはなりを潜め、力を振るうものと虐げられる者の立
ち位置が逆転する。
人々の理性は消滅し、一方的な虐殺が忍従をしいられた男たちの
怒りを空間に固定化し、世界を黒々と塗りつぶしていく。
混乱は猖獗を極めた。
﹁カマロヴィチ、カマロヴィチ!! どこだあああっ、出てきやが
86
れっ﹂
もはや視界のほとんどきかない獄内で、ねじ切った三人の男の首
を腰に縛り付けたまま、地獄の亡者のごとくあたりを練り歩く古泉
の姿があった。
﹁出てこいいいいっ、キンタマねじ切って犬に食わせてやるうっ﹂
﹁いだああああぃ、病院、医者、医者をおおおっ﹂
顔の右半分を掻き毟られて、古雑巾のようになったまま手を差し
伸べて来た獄卒が、古泉の行く手を遮る格好になった。
﹁ふんっ﹂
﹁おぶえっ﹂
古泉は情け容赦なく男の胸板に槍の穂先を突き入れると、存分に
ねじ回してぶちぶちと筋繊維が断ち切れる感触を楽しむ。
男は槍を止めようと、無意識に手を伸ばして長い穂先を掴むが、
鋭利な刃が指先をすぱすぱと容易に切断した。
血煙と共に、芋虫に似た不格好な親指が、ころころ転がって煙の
中に消えていく。
古泉は、男の肩を足で無造作に蹴って槍を抜き取る。
肉片がわずかにこびりついていた。
﹁汚ねえ雑魚が、低劣三枚肉野郎がっ!﹂
古泉は口汚く男を罵ると血の混じった痰を。死体に吐きかける。
﹁どこだ、カマロヴィチ! 勝負しろっ﹂
古泉は失われた年月を思い涙し、それから今日というこの時に心
から歓喜した。
マリアンヌの裏切りを知ってから、すべてが空虚だった。
ただ、ひっそりと生きてきたのは、それでもいつか、誰かがそれ
は誤解だといってくれるのを、心のどこかで待ち望んでいたのだ。
﹁あのとき、できなかったことを、いま成し遂げてやる﹂
全力で疾駆し、目に映るものは全て破壊する。
ここはカマロヴィチの牙城であり王国だ。
この牢獄で得る莫大な富を、このような反乱で安々と捨てるはず
87
がない。
心臓が早鐘を打つ。古泉は、焼け落ちる材木と崩れゆく石壁の破
片を身体中に浴びながら、群衆を掻きわけ走った。地下から大広間
を通り抜け、地上に続く階段を駆け上った。
その間、さえぎる牢番の頭を叩き潰し、囚人の首を刎ね、逃げ惑
う官吏を数え切れないほど踏み潰した。
わかる。カマロヴィチは外にいる。
そこで決着をつけてやる。すべてに。
牢獄の外へ出る鋼鉄製の大扉が見えた。
付近のあちこちで、警備兵と囚人たちが剣をあわせている。
古泉が、隙間を縫って走り抜ける。不意に胸へと衝撃を受けた。
﹁うづっ!?﹂
胸から喉を競り上がってくる大きな塊を無理やり飲み下す。
鉄錆に似た味が。たちまち口中に広がった。
古泉は、根元から矢羽根をへし折ると、地下とは違い清潔に磨か
れた床板へと叩きつけるようにして放った。目線をゆっくりと上げ
る。
﹁カマロヴィチぃいいっ!﹂
よく見知った、巨体の獄卒長が悠然と腕を組み、磨き上げられた
鋼の甲冑を来た騎士の一隊を従え佇立していた。
騎士たちは、前面に長槍を構えた重装歩兵を整列させ、鏡面のよ
うに磨かれた鋭い穂先を揃える。
後方には、矢をつがえた数十人の弓兵が羽飾りを高々と翻し、整
然と隊伍を組んでいた。
﹁そうか、わざわざあんな話を俺たちに聞かせたのは、わざと暴発
させるために﹂
カマロヴィチは、指揮刀を弄びながら短く刈り込んだ口ひげを震
わせる。
﹁予想はしていたけどここまで踊ってくれるとは感謝しちゃうわん。
そもそも、アンタたちは不確定要素だったのよん。今日準備してい
88
たのは、元勇者さまたちが狙いじゃなくて、他の囚人たちの大派閥
が反乱を起こすって内部情報を掴んでいてねん。ついでに、大掃除
を兼ねて反抗的なゴミどもの大掃除をしようと思ったのよん。昨今
治安も悪いし、ここのゴミ溜めも収容量を超えていたしねん。ま、
ついでよ、ついで﹂
会話の途中、背後からゴミを引きずるような音に気づき、古泉が
振りかえる。
そこには、顔の左反面をブリの照り焼きのようにこんがり焼かれ
た男が血の跡を残しながらカマロヴィチに向かってなめくじのよう
に這っていた。
カマロヴィチの寵童であるモリーノである。
おそらく、いままで恨みを買った囚人たちに寄ってたかっていた
ぶられたのだろう。
髪は引きちぎられ、両手足は人体の構造上曲がってはいけない方
向に湾曲している。
まさしく虫の息だった。
﹁カマーロぉさまあああ、いだ、いだいですうぅ﹂
モリーノは潰れた鼻から負け犬のように、くふぃ∼ん、と間抜け
な息を漏らす。
カマロヴィチは、モリーノの擦りつけようとした顔を冷然と見下
ろし、自分の服に触れる直前で指揮刀を鼻面に叩きつけた。
﹁うぴゅっ﹂
モリーノは、茶褐色の血と体液を飛び散らせながらすっ転んだ。
転んだ拍子に前歯を地面にぶつけて数本が折れ、散乱した。
﹁な、なんでえ、なんでぇええ﹂
モリーノがわけがわからないと、泣きながら頭を左右に振る。
﹁アタシ、汚れた畜生は嫌いなのよね﹂
カマロヴィチの合図と共に、隣に立っていた兵隊が大身の槍をモ
リーノの頭蓋から床まで一気に突き通した。
モリーノは、羽虫のように手足をばたつかせるとやがて動きを止
89
める。
﹁そんなわけで、そろそろ疲れたし帰ってシャワー浴びたいのよ。
ねぇ、勇者さま。ひとつ取引をしない?﹂
カマロヴィチはしなを作ると舌なめずりをした。
﹁アタシね、最近はダンディ趣味に目覚めちゃったのよ。もし、こ
れから一生アタシのものになるっていうんなら、アンタだけは昔の
よしみもあるし死んだってことにしといてあげてもいいんだけど、
どう?﹂
﹁そんなこと飲むと思うか。このカマ野郎が﹂
﹁ふーん、でもその傷じゃいますぐ手当を受けなきゃもたないんじ
ゃないのん? どう? 過去よりいまのほうが大事じゃなくて﹂
古泉は怒りのあまり、目の前の巨体が白く明滅した。
ふざけやがって、俺の人生をめちゃくちゃにしておいて。
激昂のあまり、飛び出そうとする彼の肩を後方から男が抱きとめ
る。
よく聞き慣れた声だった。
﹁囚人風情に国軍まで動かすなんて、へっ。俺たちも大物になった
ってもんだな﹂
﹁おまえたち﹂
古泉が、振り返るとそこには、ゴロンゾ、マーサ、ヤルミル、蔵
人たちがボロボロになりながらも勢ぞろいしていた。
正規兵を見た囚人たちは一転して、警備兵や獄卒たちに押し返さ
れている。
古泉の噛み締めた唇がやぶれ、糸のような血が細く流れた。
﹁ジイさん、クランドたちをつれて後ろに引き返せ。裏口は手薄だ。
ここは引き受けた。俺もいい年だ。結構生きた。やりてぇこともや
ったしよ。おまえさんたちはなんとか逃げ延びてくれよ﹂
ゴロンゾの言葉。承服できるものではない。
﹁おい、ふざけんなよ﹂
マーサが低い声を出してゴロンゾに掴みかかる。
90
少年の瞳には、純粋な怒りと寂しさが同居して現れた。
﹁いいあってる暇はない。じゃあな、おまえら元気でやれや。結構
楽しかったぜ!﹂
ありえない。
蔵人は、頬の古傷を歪めて笑うゴロンゾを前に、握っていた剣を
落としそうになった。
ゴロンゾは大きく右手を振ると、もう二度と振り返らなかった。
ああ、ここは本当に俺の居た世界とは違うんだ。
蔵人は、今に至るまでこの世界における現実感というものがまる
でなかった。
人を傷つけてもなんの違和感も抱かなければ、嫌悪感も罪悪感も
ない。
まるでゲームの中の主人公だ。
だったらどうしてなんだ。
自分には仲間の危機を救う特別な力も剣の技も不思議な力も備わ
っていないのだ。
大扉を守る鋼の甲冑をつけた中世ヨーロッパの騎士の一群。
つがえた矢は、低い風切り音と共に辺りに飛来し、突撃していっ
たゴロンゾの身体を埋め尽くした。ゴロンゾの身体。紙切れのよう
に吹き飛んでいく。
矢を打ち終えた一隊が下がると、歩兵が槍衾を作ってひと塊にな
って突進していく。
意志を持った大きな塊は、敵味方なく、動くもの全てを穿ち、粉
砕する。
91
血風が舞い肉片が四散した。
最後まで残るといっていたマーサも、もはや逃げることに躊躇し
なかった。
本物の暴力である。
いままでのちょっとした喧嘩の延長戦上のものとは、まるで次元
の違うものだった。
個人が意思を持たず、ひとつの塊は機能的な道具のように活用さ
れ整然と活動した。
なにもかもが停止するまで終わらない。
蔵人たちは、無我夢中で剣を振るい、同じ囚人を切り払って裏口
にたどり着いた。
木戸を蹴破ってようやく外の空気を吸う。マゴットのことなど、
思い出さなかった。
獄の周囲を高い土壁が覆っている。
周辺では捕らえるものと逃げるものの最後の闘争が終わりを告げ
ようとしていた。
蔵人たちが逃走に成功したのは奇跡だったのかもしれない。
監獄の外は深い木々が生い茂っり、僅かな距離を移動するのも時
間がかかった。
ゴブリンが住んでいることも忘れて、歩き続ける。誰もが無言だ
った。
﹁もういい、蔵人。俺をここに置いていけ﹂
古泉は蔵人の肩から腕を放すと弱々しくつぶやき、その場に腰を
下ろした。胸に刺さった矢傷は出血が止まらず、胸元を覆うように
して血が広がっていた。顔色は紙のように白く、呼吸はどんどんか
細くなっていく。
蔵人たちは古泉を木の根元に横たわらせると、なにをすることも
なくじっとその横顔を見つめていた。
﹁あんなゴロンゾのやつも死んじまった。畜生、ジイさん。死ぬな
っ、死ぬなってんだ﹂
92
﹁そうです。生き延びて僕と共にこの国に革命を起こしましょう。
既得権益をむさぼる王族を打倒し、真に民衆のための政治を行うの
です﹂
古泉は、もはやふたりの言葉に応えることもなく薄く笑みを浮か
べたまま目を閉じる。
﹁みんな、こんなジジィに良くしてくれて、ありがとう。クランド、
居るか﹂
﹁ああ、ここに居るぜ﹂
﹁まさか、死ぬまでにもう一度日本人に会えるなんて思わなかった。
おまえら、生きろよ。生きられるだけ生きるんだ。そうじゃなきゃ、
嘘だ﹂
﹁ジイさん、まだくたばんじゃねえよ! せっかく外に出られたん
だ、ホラ、もうすぐ朝だぜ! 起きろってば!﹂
マーサが泣きながら、古泉の胸元を揺さぶる。
﹁クランド。おまえは、そのツラじゃまだ諦めてねえようだな。マ
ゴットを救いたいのか﹂
﹁そうだ、けど。それだけじゃねえ﹂
﹁バカなやつだぜ。もっとも、男ってのはどいつこいつも同じよう
なもんだ。いいか、勇気と無謀を取り違えるな。ああ、逃げ出した
俺がいってもなんの説得力もねえか。あとは、まぁ頼むぜ﹂
山の端を明るい陽が頭を出していた。
冷たい朝の空気が、蔵人の喉に滑り込む。
深い新緑が燃えているように目に映る。
古泉の、かさかさになった手が蔵人の手に古びた革袋を握らせた。
革袋を逆さにすると、精巧な首飾りが現れた。
﹁こんなもん、どこに隠してたんだ﹂
﹁蛇の道は蛇ってやつさ﹂
古泉は減らず口を叩くと、にっこり笑った。
枯れ木のような古泉の皮膚は日々の過酷さを思わせた。
﹁あの日渡すつもりだったんだ﹂
93
古泉の手から力が抜け、だらりと垂れ下がった。
﹁マリアンヌ﹂
古泉の首が横にがくりと崩れる。
三人は、なにごとも為すことができず消えていった魂を包み込む
ように、三方に立ち尽くしていた。
﹁俺たち、ここで別れよう﹂
蔵人はひきとめるふたりを振り切って山を駆け下りていた。
無人の道を全力で駆け下りる。
やらなければならないことが出来たんだ。
蔵人の胸板に輝く不死の紋章が一際大きく輝き出す。
全身の疲労が薄皮を剥ぎ取るように消え去っていく。
剣を握り締める拳には、いままでにない力が宿っていた。
明けきった真昼の太陽が頭上を照らしている。
青白い空に浮かぶ雲がゆっくり流れていた。木々を揺らして街道
に出ると、火事によってくすぶっていた監獄が浮島のように緑の中
にそびえている。
もはや警戒は解いたのだろうか、城壁の中には修理をするために
呼ばれた近在の土工や職人が忙しそうに立ち働いていた。
蔵人は、囚人服の上着を脱いで裂くと、ぐるぐると胸元の紋章を
隠すように巻いた。
﹁待て、ちょっと﹂
藪から進み出ようとした肩を止めるものがいた。振り返るとそこ
には、マーサとヤルミルが息を切らしてしゃがんでいた。
﹁おい、見くびんなよ。どうせやるなら、声くらいかけてくれたっ
ていいだろーがっ!!﹂
﹁そうです、僕たちは仲間じゃないですか﹂
﹁おまえら﹂
蔵人はふたりと軽く打ち合わせると、うなずいて、ときを待った。
﹁うおおおっ、火事だあああっ!!﹂
﹁畜生、囚人どもがまた襲ってきたぞおおっ!!﹂
94
建物の裏手から、灰色の煙が立ち上っている。ヤルミルとマーサ
の陽動作戦だった。
残っていた兵たちがバラバラと駆け去っていく。
蔵人は息を大きく吸い込むと、堂々と歩いて行った。
昨日はピクリともしなかった鉄の大扉は大きく開いている。
中央部には、カマロヴィチが巨体を震わせ矢継ぎ早に指示を出し
ている。
周りには、昨夜の騎士たちはなかった。僥倖である。カマロヴィ
チの側には、平服を着た官吏らしき男と弓を持った四人の歩兵の姿
だけがあった。
蔵人の動きに気づいたのか、ひとりの歩兵が顔を動かした。ほと
んど同時に蔵人は床を蹴って駆け出すと、剣を構えてまっすぐ突っ
込んだ。
カマロヴィチの狼狽した顔がぐんぐんと近づいてくる。
慌てて歩兵が弓をつがえ一斉に放った。
蔵人は、身をかがめて幾つかをかわすが、左腕と右胸、腹に直撃
を受けた。
内蔵を抉る激しい痛みをこらえながら、それでも突進をやめない。
風切り音。
ふらつく右足に矢が刺さる。
続けざまに脇腹へと左右の横合いから繰り出された槍が突き刺さ
った。
﹁ちき、しょう﹂
思っていても、身体は動かなかった。右脇腹から槍を引き抜かれ
た。
トドメとばかりに、男が槍を胸元に狙いをつけた。
蔵人が迫る穂先の白いきらめきに目を細める。
同時に、サッと正面へと割り込む小さな影が差した。
﹁クランド⋮⋮﹂
マゴットは胸元で槍の一撃を受けると、弱々しく微笑んだ。
95
衝撃で言葉が出ない。
彼女がいつも持っていた豆本が胸元から落下した。
薄青色の押し花はヒラヒラと宙に舞い、栞から剥離した花弁は粉
々に散った。
カッと頭の中が真っ赤に燃え上がった。
蔵人は怒号を上げて歩兵を引きずりながら槍ごと身体を前進させ
る。
喉元を血の塊が逆流する。
行く手を遮ろうと剣を振り上げた歩兵に血しぶきを吹きかけた。
左右から斬撃を受ける。
まだだ。
蔵人には技術がない。肉壁をやぶる武器もなければ、力も並であ
る。
ただひとつ、ひとより勝るものがあるとすれば。
契約により与えられた無限の再生能力のみ。
蔵人は、手傷をものともせず肩に食い込んだ刃ごと体当たりをす
ると、押し負けた歩兵がのけぞった。
力任せに剣を振るう。なにしろ防御を考慮する必要がないのだ。
腕を斬り裂かれながらも振り抜かれる斬撃に顔を打ち砕かれ歩兵
が後ろに倒れこむ。
﹁ひいいいっ﹂
昨夜の騎士団とは違うのか、カマロヴィチを囲んでいた歩兵が思
わず後ずさる。
﹁なによぉ、アタシを守りなさいよぉ!﹂
カマロヴィチは声を上げて辺りを見回すが、獄卒たちも手傷を負
ったものが多く、様子を窺っている。身を挺して守るほどの信頼は
両者にはなかった。
そんな身体をして、俺ひとりにも立ち向かえないのか。
蔵人の形相に怯えたカマロヴィチがさらに後退した。
﹁な、なによ。その光は﹂
96
﹁勇者だ﹂
﹁あれが、伝説の﹂
蔵人の胸元に巻いてあったボロ切れが剥がれ落ち、室内を青白い
輝きが満たした。
﹁なんなんのよぉ、ソレ﹂
カマロヴィチが指し示した先。
致命傷と思われるような刺し傷が、時間を巻戻したかのように復
元していく。
イモータリティ・レッド
これが、蔵人に残された唯一にして全。
その名も、不死の紋章。
身体中のあちこちに刺さっていた矢は、傷口の肉が瞬く間に盛り
上がり、矢尻がぷっと吐き出された。
輝きが収まると、胸元には王家の紋章が遠目でもわかるほどに光
り輝いていた。
﹁ひいいいいっ、やっぱ勇者様だあっ﹂
﹁王家の紋章だああああああっ﹂
迷信の根深い時代である。
遠巻きに見ていた男たちが、残らず腰を抜かして遁走を始めた。
この場にいる獄卒も職人も元は正せばほとんどが平民や百姓の出
である。
勇者や王家といった単語を聞いただけで戦意を喪失した。
貴族が全人口の数パーセント以下の状況では、言葉こそが力だっ
た。
そもそもが、逃げる理由を探していたという前提状況もあったの
だ。
すべてが蔵人に有利に働いたのだった。
やぶれかぶれになったカマロヴィチが槍をひっ掴んで前方に繰り
出す。
蔵人は身を反らして避けると、カマロヴィチの胴体を深々と横薙
ぎに切り裂いた。
97
赤黒い鮮血が蔵人の横顔を濡らす。
﹁あ、あぼぇ﹂
巨体の男は、両膝をつくと両手を前に突き出すようにして顔面を
床へと滑らした。
床一面が放出された血で湖面を広げていく。
頭上から俯瞰すれば、真っ赤に咲いた薔薇のように見えるだろう。
カマロヴィチはあえぎながら懐に手をやる。
蔵人が巨体の後方にまわると、カマロヴィチは毛むくじゃらのご
つごつした手つきで古びた櫛を握り込む。
カマロヴィチは苦痛から解放されたようにまどろんだ顔つきにな
った。
ごぼ、と音を立て黄色い泡を口の端から噴出させた。
奪われた恋人と、その先のすべて。
もしかしたら、自分にもありえたかもしれない未来。
無意味と吐き捨てるには、失ったものが大きすぎた。 ﹁カマロヴィチ。テメェを殺す。文句はねえだろう﹂
蔵人は、剣を上段から太い猪首に叩き込むと獄卒長の首を切断し
た。
あお向けになっていたマゴットの側には、ヤルミルとマーサが青
白い顔で立っていた。
蔵人は、血塗れで息も絶え絶えな彼女の側に膝を突いて顔を覗き
込んだ。
﹁どうして俺なんかをかばったんだ﹂
マゴットは、バラバラになった押し花の残骸を胸に持ったまま、
白い顔で泣き笑いの表情になった。
﹁ああ、お兄ちゃん。やっと、迎えに来てくれたんだ⋮⋮﹂
98
目の前に誰がいるのかすでにわかっていない。
マゴットは、夢の中で大好きな兄に会えたのだ。
蔵人は、心が隅々まで冷えていくのを強く感じた。
﹁たくさん、冒険、しようね⋮⋮﹂
﹁ああ、約束だ。きっと、お宝を俺が見つけてやる﹂
マゴットはしあわせそうに、ピンと猫耳を弱々しく振って眠るよ
うに目を閉じた。
青い花弁がマゴットの頬に降りかかる。
最後に至って、ようやく、蔵人はその花の名前を思い出した。
誰もいない峠の道を登っていく。
眼下には先ほどまでいた牢獄の姿が小さく見えた。
蔵人は、古泉が渡せずにた宝石の首飾りを手のひらで転がした。
古泉の話と、宝石の首飾り。
勇者の愛した美貌を誇る姫。
妹のように遇した侍女。
そして、それらを遠巻きにして見守っていたひとりの兵士。
蔵人は首飾りを指先で弄びながら視線を眼下に落とした。
遠心力を利用して、遥か足元を流れる谷底へ向かって投げ入れた。
さよなら、マゴット、と胸の内でつぶやいた。
山鳥の鳴く声が、静かな稜線に向かって冴え渡る。
足早に遠ざかっていく蔵人の背中を、沈んでいく夕日が燃えるよ
うに照らしていた。
わすれなぐさ
勿忘草の花言葉は、真実の愛。
もうひとつは、私を忘れないで、とある。
99
100
Lv7﹁悪役魔女﹂
王都ロムレスガーデンを抜ければ、そこは延々と続く荒野だけが
あった。
魑魅魍魎の怪物たち。傭兵崩れの盗賊。人語を介さぬ亜人の群れ。
法や倫理などなんの意味も持たぬ化外の地である。
ロムレス監獄を抜けた蔵人は、地図も持たずに、ただひたすら南
に向かっていた。
元々着ていた囚人服は脱ぎ捨て、百姓屋に干してあった野良着を
拝借すると、悪びれもなく移動を続けていた。腰には、監獄で奪っ
た長剣がぶち込んである。長さは、一メートル近く有り、中身はな
まくらであるがハッタリだけは中々に利いた。
舗装路などはどこにもなく、申し訳程度に踏み固められた道らし
きものがかろうじて見えるのみだ。これは、現代人である蔵人には
堪えた。標識もない。自分の歩く場所が道かどうかも、よくわから
ない。そもそもが、人が通らないし、生物の気配を感じない。喉が
渇いても、自販機もなければコンビニもない。かれこれ、三日ほど
固形物を口にしていないのだ。昨晩、夕飯がわりに小川の水をたら
ふく飲んだが、腹が満たされるはずもない。
直線を歩いているわけではないので、自分が最初の地点から、ど
れだけ距離を稼いだのか見当もつかない。牢を破って火を放ち、獄
卒長を殺害したのだ。
当然、なんらかの追っ手がかかっていると思っているので、人目
101
はできるだけ避けるようになる。
自然、周囲に気を払うことを余儀なくされ、疲れは通常の歩行よ
りも倍加された。
いつまで続くのかと、うんざりしながら小高い丘を登りきった。 蔵人の心が折れそうになったとき、ようやく遠景に人家の影らし
きものがポツポツと見え始めた。徐々に判然としなかったトレース
が、なんとか街道といえそうなものに変化していく。周辺住民が日
常に使用しているそれは、人間の営みを感じさせるものであった。
蔵人の足が自然と早まっていく。坂の中間地点で一瞬だけ足を止
め、眼下を見下ろした。
丘陵を下りきった野原の入口に立て札らしきものが見えた。無意
識のうちに、安堵のため息がもれる。額に浮いた汗を手の甲で拭う。
ふと、野原から、みっつの黒点が浮かんだ。それらは勢いを増し
ながらグングン近づくいてくる。背筋に緊張が走った。三人の男は、
ギラギラした抜身を手にして目出し帽のようなものをかぶり、真っ
黒な衣服を身につけていた。野盗にしては、姿が決まりすぎている。
かといって、殺気を孕んだ彼らの瞳は、とても友好的なムードは感
じられない。
﹁シモン・クランドだな!!﹂
﹁おとなしく命を置いていけ!!﹂
この世界の人間は、家名が後ろに来るのが常識であり、まず例外
はない。
彼らは迷わず、姓を先に発音した。
つまりは、蔵人が日本から召喚された勇者だと知っている可能性
が高いのだ。獄吏の追っ手か、それともカマロヴィチが零していた
貴いお方の手先なのか。どちらにせよ、蔵人は自分の命を守る必要
性に駆られた。ひと月前まではただの学生であった蔵人が真っ向か
ら斬り合っても負ける確率が高い。弱音をはく暇も殺しに躊躇する
心のゆとりはない。まずは戦って勝つ。それがあらゆる生物に課せ
られた使命である。
102
瞬間的に、腹の痛みも、移動の疲れも脳裏から吹き飛んだ。生物
の本能に従って生存欲求が優先された。
蔵人は腰の長剣を引き抜くと、押し包もうと三方から迫る男たち
に背を向けて、くるりと反転した。逃げると錯覚したのか、男たち
の足がさらに早まった。
蔵人はそれを見てとると、素早く右横に飛んで草むらに身を投げ
出した。
瞬間、蔵人の身体が男たちの視界から消えた。
自然に左右へと広く距離を取っていた男たちの輪が狭まった。
蔵人は、手に持った鞘を勢いよく目の前の男たちに投げつけた。
表面の塗りが剥げた鞘は、突出していた男の脚に上手く絡まった。
悲鳴を上げて転倒する。
そのとき蔵人は激しく草むらから跳躍していた。
頭上に構えた剣を全力で振り下ろす。
刃が敵の前頭部に当たった凄まじい音が響いた。正面にいた男は、
額から顎先まで激しく断ち割られ、獣のような悲鳴を上げて仰向け
に吹っ飛んだ。
蔵人は斜面を転がりながら、無我夢中で長剣を振り回した。
すでに体勢を立て直していた男が刃を振り下ろしてくる。
激しく右肩を断ち割られた。
痛みを感じる前に振り回していた剣が男の脛を払っていた。
蔵人の長剣が男の右足を撫で斬りにしたのだ。
生暖かい血が飛沫を上げて乾いた赤土を叩いた。降りかかる赤い
雨を浴びながら、うつ伏せになった男の胃袋辺りに剣を垂直に落と
した。地面の石を噛んだのか、金属がへし折れる音が響く。剣を引
き抜こうと力を込めた。けれども男の筋肉が絡まったのか、容易に
抜けない。脂汗を垂れ流している間に、最初に倒れた男が襲いかか
ってきた。
蔵人は、男を串刺しにしていた剣から手を離すと繰り出された突
きをなんとかかわした。
103
平地の戦いではない。斜面に足を滑らせ尻餅を突いた。
男は必死な形相で斬撃を落としてくる。
蔵人は転がりながらかわすと、落ちていた剣を掴み水平に寝かせ
て防御を行なった。
白刃が打ち鳴らされ、白い火花が散った。
右足を伸ばして敵の腹をすかさず蹴りつけた。
男の顔が苦痛に歪む。
裂帛の気合を込めて長剣を水平に動かした。
隙を突いた一撃だった。
刃は男の脇腹を深々と断ち割った。
なんとか三人の敵を斃したときには、もう動けないほど疲労して
いた。全身が水を浴びたように濡れそぼっている。上着と背中の間
を伝って流れる汗が火のように燃えている。痛みに顔をしかめ右肩
に手をやった。心臓が激しく鳴っている。荒い息を整えようとする
が、中々元には戻らなかった。そのまま仰向けに倒れて目をつぶっ
た。いくらかそうしていると、次第に汗が引いていく。しばらくす
ると血は止まっていた。恐る恐る右肩に指を伸ばす。割られていた
傷口は、十五センチは超えていた。数針は縫うほどの裂傷がすでに
塞がりかけているのだ。血の塊を爪で削ると、金瘡はうっすらとし
イモータリテ
た白い線に変わっていた。有り得ない回復速度である。斬りつけら
ィ・レッド
れてから五分と経っていない。自ら、無限の再生能力を持つ不死の
紋章の力を再確認するハメになった。
﹁とはいえ、迷惑な話だ﹂
ただでさえ怪しい風体の上に、斬り合いで身体中は血だらけにな
ってしまった。
自分はただでさえ、この世界のよそ者である。
もちろん、これから向かう村には縁もゆかりもないのだ。第一印
象どうこうの話ではなく、あきらかに危険人物に認定されるだろう。
この分では一晩の宿を乞うどころではない。この先新たな着替えを
手に入れるまでは人を避けて行動しなくてはならない。閉鎖的な村
104
社会の、しかも中世同然の文化レベルしか持たない人々が異端を排
除する行動に出るのは予測範囲内であった。
腹も減ったし、この先の希望も露と消えた。
盛大にため息をついていると、背後から草を揺らす音が不意に聞
こえた。
反射的に身構える。
そこには、青白い顔で立ち尽くしているふたりの農夫の姿があっ
た。
人間万事塞翁が馬、という言葉がある。悪いことの次にはいいこ
とが。蔵人にとって農夫たちは、そういった意味で塞翁の元にやっ
て来た駿馬のようなものであった。
蔵人は、農夫たちを目にしたときは排除されるかとビクついてい
たが、予想に反して彼らは麓の自分の村に招いてくれるだけではな
く、遠方の客として歓待してくれた。
あたたかいメシに酒。純朴ながらも美しい村娘に酌を受けつつ、
蔵人は人の温かみをはじめてこの世界で感じていた。村長をはじめ
とする村人たちは、蔵人を下にも置かない丁重さで扱った。その上、
小ざっぱりした着替えだけではなく、心づけとして幾ばくかの路銀
まで都合してくれたのだ。
その日は久々に屋根のある寝台でたっぷりと熟睡し、翌朝目覚め
てみると、部屋の外には地面に額を擦りつけ微動だにしない村人一
同の姿があった。
﹁まあ、そうそう、ウマイ話があるわけねえよな﹂
蔵人は樹木が深い影を作っている森の中をひとり歩きながら、今
朝方の話を思い返していた。村人たちが蔵人を歓待したのは、別段、
105
彼らの村がやさしさにあふれていたわけでも富んでいるわけでもな
かった。
蔵人が瞬く間に三人の男を斬り伏せたのを見て、これは使えると
踏んだからである。
彼らの村は、昨今、隣接する森からやってくるモンスターによっ
て深刻な被害を出しつつあった。
今年に入ってから、特に襲撃は酷く、また、このような寒村では
王都に救援の使者を出してもモンスター討伐の兵は出してもらえず、
日々苦しみ悩んでいたのだった。
そこで、現れたのが蔵人の存在である。
なまじ、冒険者ギルドに有志で救援の依頼を頼めばそれこそ目の
玉が飛び出る金がかかるが、通りがかりの冒険者ならば安価が望め
よう。
おまけに、蔵人は若く、どことなく粗野な部分が感じられないこ
とから、歓待責めで恩を無理やり売りつけ、いいように扱おうと考
えたのであった。
聞けば、村を襲うモンスターは、森に住む魔女が操っているとの
ことだった。
﹁要するにその魔女を、この俺にやっつけてくれってことね﹂
﹁このようなだまし討ちの格好で頼むのが卑怯なことだとはわかっ
ております。けれども、もはや私たちには、あなたさましか頼れる
方がおりません。お願いです。あたしたちの村をお救いくださいま
せ、剣士さま﹂
村人を代表して懇願してきたのは、五十年配の村長ではなく、昨
晩つきっきりで酌をしてくれた年若い村娘であった。
ほっそりとした端正な顔つきに、ムチムチした身体がアンバラン
スで、なんともいえない妖艶な色気を放っている。恩義と情で攻め
られて、蔵人はたちまち閉口した。
﹁もし。もしも、魔女を倒してくれてこの村を救ってくれたのなら
ば、あたしは、あたしの身は﹂
106
﹁ゲルタは婿を探しておりますじゃ。もし、剣士さまが魔女を見事
討ち果たしてくれたのならば、今後の生活は村一同ですべて見させ
てもらいます﹂
﹁ああ、剣士さま。お願い申します﹂
村長のお墨つきに加え、ダメ押しとばかりにゲルタがしなだれか
かる。
﹁じゃ、じゃあ、がんばっちゃおっかなぁ﹂
﹁剣士さまっ﹂
女に弱い蔵人にとって、もはや抗することは不可能だった。
婿云々はともかく、上手いこと事件を解決すれば、ゲルタのぷり
ぷりした身体を、サクっと楽しめそうである。もちろん責任は回避
する。蔵人はゲス顔でほくそ笑んだ。
村人たちの情報によれば、敵は森の奥にある庵に住んでいるらし
い。彼らの話によれば、その魔女は、ロムレス王国が出来る前から
存在しており、長らく眠りについていたが、なんの気まぐれか今年
の冬頃から目を覚まし、盛んに活動を始めたらしい。
﹁んな、昔からいるってんなら、とんでもねえババァだろうな﹂
おまけに、魔女はあらゆる術に長け、非常に残忍ではあるが、朝
に弱いらしい。
村のいいつたえによると、遥か昔から近隣の名うての騎士が魔女
に勝負を挑むためやってきたが、いずれも彼女が応じるのは午後を
過ぎてから。しかも夕方立ち会うのがほとんどだった。伝説の騎士
たちは特に名誉を重んじ、魔女がやってくるのを待ってから正々堂
々と果し合いを申し込み、そのすべてが敗れ去ったとのことだった。
蔵人にいわせれば、﹁バカじゃねえの﹂というところである。
たぶん、魔女は伝説の吸血鬼のように陽の光に弱いのだろう。
ならば、そこを突けば簡単に倒せる可能性は大だった。
蔵人は騎士ではない。名誉なんぞは重んじない。特に、今回のよ
うに敵の正体がつかめない状況では、とにかく先手必勝で勝てばい
いのだ。脳裏に昨晩たっぷり記憶に刻み込んだ、ゲルタの豊満な身
107
体が去来した。
﹁あ、やべっ。チンコ硬くなってきた﹂
蔵人の右曲がりなモノが、主の意思に反して硬直する。非常に歩
きにくい。この状態で襲撃されて死んだら末代までの恥である。精
神を統一しようとするが、昨晩盗み見していた胸元の白さが網膜に
踊っている。ますます歩きにくくなった。
そうこうしているうちに、小さな小川に差しかかった。どれほど
昔にかけられたのだろうか、モスグリーンの苔で覆われた丸木橋の
上をすべらないように慎重に渡りきると、彼方に開けた空間が見え
た。
高い木々に囲まれた中央には、木こりが住んでそうな味わいのあ
る小屋が見えた。
﹁マジかよ。もう、着いちまった。てか、警戒心なさすぎじゃね﹂
凶暴なモンスターを操る邪悪な魔道士。蔵人の脳には、古典的な
大鍋をかき回す老婆の姿が思い浮かんだ。
﹁てか、魔女っていうくらいなら確実に遠距離攻撃してくるよな。
なにか、作戦を立てておいたほうがいいのかな。やべっ、そんなこ
といってる間に、ますます近くに。とりあえず、小休止しよう﹂
蔵人はきょろきょろ辺りを見回して、平べったい石を見つけると
その上に腰を下ろした。
適度に濡れていなく凹凸がない。
ゲルタに作ってもらったサンドイッチを、パクつく。
メニューは、野菜サンド、ハムサンド、チーズサンドの三種類だ
った。
味付けは、塩だけであるが、これでも頑張った方なのだろう。
昨晩を除けば、牢内では下痢粥ばかりを食べていたので、なにを
食べても美味いと感じる馬鹿舌になってしまった。これがよかった
のかわるかったのかは判然としない。
﹁ふう、ごちそうさま﹂
竹筒から水を飲んで人心地ついた。
108
﹁というか、敵さん全然、こっちに気づいていないんじゃ。ヤレる
か?﹂
蔵人は竹筒を放り投げると剣を抜き放ち、小屋に向かってジリジ
リと歩み寄っていく。
油断なく視線を周囲に動かすが、別段変わった部分はない。
なんだか拍子抜けだぜ。まあ、いいや。一気にサクっと決めたる。
なんの妨害もなく扉の前に到達する。
ノッカーには、なにやらかわいらしいクマをディフォルメしたも
のがフェルト生地でくくりつけられている。
黒いボタンの瞳に一瞬、心が和んだ。
もしや、これは魔女の策では⋮⋮!?
﹁こんにちわー﹂
疑念を覚えながらも声をかけた。
この辺りが常人とはかけ離れた行為である。
これから、殺そうとしている相手に、わざわざ訪いを告げるであ
ろうか。
やはり、彼も異世界に召喚されるだけあって、充分に異端であっ
た。
蔵人は出ないとわかっていても誘惑に負けてノッカーを握って上
下に打ち据えた。
コンコンと軽やかな音が鳴った。
しばらくすると。
﹁出かけてます。いません﹂
若い女の声がした。澄み切った、よく通る声である。
あまりのショックに蔵人は虚脱状態に陥った。
まず、想像していた老婆の声ではない。
しかし、よく考えれば声や形などは魔術でいくらでも擬態できそ
うな気がした。
とにかくも、中に目的の人物が存在することはわかった。
扉を蹴破ることも考えたが、中にはどんな罠が張り巡らされてい
109
るかもわからない。
どうにかして、外に引きずり出さねばならないのだ。
このまま、でくのぼうのようにつっ立っていても事態は進行しな
い。
狂ったように、ノッカーを打ちつけた。
コンコンコンコン、とキツツキのように扉が続けざま鳴った。
﹁ふざけんな、森の魔女! おまえがいることはわかってんだ!!
外に出てきて、尋常に勝負しやがれ!!﹂
﹁どこの田舎者かは知りませんが、お引き取り願います﹂
幾分、声がかすれて聞こえた。言葉の節々にイラっとしたものが
混じっている。
こいつは、思うツボだと、胸の中でほくそ笑んだ。
﹁出てこい、出てこい、出てこい!!﹂
﹁⋮⋮やさしく、いっている間に、帰ったほうがいいと思うのだけ
れど﹂
﹁こえーんだな? この、クランドさまに恐れをなしたんか? ヒ
ャッハー!!﹂
﹁忠告はしたわよ﹂
﹁え﹂
女の声が、急速に冷えた。
同時に、掴んでいたノッカーから凄まじい放電現象が起きた。
蔵人は、叩き金を掴んだまま、押し流れてきた高圧の電流を全身
に浴びて、筋肉のすべてを震わせた。
﹁あががががっ﹂
殴打や創傷とは違った次元の痛みが足のつま先から脳天まで駆け
巡る。
意志ではこらえることのできない別種の痛みだった。
目の奥がチカチカと白い火花で埋め尽くされた。
上顎と下顎が激しく打ち鳴らされ、ハラワタが蠕動する。
皮膚の細胞ひとつひとつが細かな針で同時に刺し貫かれた気分で
110
ある。
蔵人は、夏場の犬のようにベロを口からはみ出させ、ふらりと上
体がかしぐのを感じた。
あ、やべ。これ、堕ちるわ。
頭の中央部を、スっと長い刃物で突かれたような感覚。冷たさと
熱さが同居している。
後頭部から重力に導かれるようにして後ろにひっくり返る。
意識の途切れる最後の瞬間。
目の前の扉が薄めに開かれ、赤い瞳がジッと闇の中で輝いたのを
幻視した。
どれくらいの時間が経過したのだろうか。頬を撫でる風に冷たさ
が染み込み始めたのか、蔵人が覚醒したときは、森の中は真っ赤な
夕焼けで染まっていた。
小屋の前でそのままうつ伏せに倒れていたのだろう。地面に触れ
ていた顔全体がシットリと湿っている。倒れ込んだ拍子に口中に入
った泥を吐き出す。苦いものが舌の先でジャリジャリと音を鳴らし
た。
﹁くそぉ。やってくれるじゃねえか﹂
地面に座り込んだまま、悪態をついた。指先まで、いまだに痺れ
が残っている。それだけ強烈な電撃だったということだ。親の仇を
見るように扉を睨んでいると、きい、と軋んだ音を立てて扉が開い
た。
﹁たっぷり眠って、少しは頭が冷えたかしら﹂
蔵人はいとも簡単に姿を現した人物を目にして息を呑んだ。女は、
十八、九だろうか。
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抜けるように白い肌が輝いて見えた。真っ黒でツバの広いとんが
り帽子をかぶっている。長く美しい銀色の髪がなめらかなに波打っ
ている。眠たげな瞳は、濃い赤で、宝石のように輝いていた。黒い
ドレスを羽織っており、スカートは地面につきそうなほど長く大き
かった。張り出した胸はやや大きめであり、形がよい。特筆すべき
は、銀髪から突き出た長く尖った耳であった。普通の人間にはない
別種を示すものである。
蔵人の不躾な視線に気づくと、彼女は、深くため息をつき、疲れ
た声を出した。
﹁落ち着いて話は出来そう? それとも、もう一発、キツイのがお
望み?﹂
﹁ビリビリは勘弁してください﹂
魔女は、自らの名を、マリカと名乗った。彼女は、蔵人の名を聞
くと、扉を開いて小屋の中に招き入れた。小屋の中は全部で三室し
かなく、入ってすぐの部屋は、テーブルがひとつだけある、無味乾
燥なものだった。勧められるままに椅子に腰かけると、彼女は距離
をややとって窓際に立った。マリカはやはり蔵人に対する強い警戒
を解いてはいない。当然のことながら、茶の一杯も出なければ愛想
のひとつも見せなかった。
﹁あんた、その耳。もしかして、伝説のエルフってやつか?﹂
﹁伝説かどうかは知らないけど、あなたたち人間が長耳族と勝手に
呼んでいる、それの仲間であることに違いないわ。それと、もうひ
とつ。私は、普通のエルフではなく、この世界が産まれ落ちたとき
から存在するといわれる、いにしえの民、ハイエルフよ﹂
長耳族。亜人の種族の中でも、もっとも長命を誇るこの部族は、
一般的にはエルフと称された。エルフの寿命は通常、二百年ほどと
いわれており、その長命と引き換えに個体数は極めて少なく、ロム
レス全土で見れば、人間の十分の一程度でしかなかった。
エルフは基本、他の亜人と比べて人間と交わることを好まず、一
部の平地エルフを除けば、深い森や谷間、暗い洞穴や険しい山地、
112
草原や砂漠地帯などに点在して暮らしていた。
マリカの言葉によれば、ハイエルフは、世界中で見受けられるエ
ルフたちとはあきらかに別格な存在であり、言葉の端々から彼女も
同一存在と見られることに嫌悪している印象があった。
﹁ご高説はありがたく拝聴したが、そもそもが、俺にはエルフもハ
イエルフも関係ねえんだ。こっちが望むのはただひとつ。モンスタ
ーを操って、村を襲わせるのはやめて欲しい。できれば、あんたと
殺し合いなんかしたくねえ﹂
﹁どうやら根本的な考え違いが村の人間たちにはあるみたい。あな
た、クランドとかいったわね。信じるかどうかはあなたの勝手だけ
ど、私はモンスターを操ってなんかいないし、村を襲わせたりもし
ていない﹂
﹁そうか﹂
蔵人が平坦にうなずくと、マリカはビックリしたように椅子から
身体を乗り出した。
﹁あなた、私の話を信じてくれるの?﹂
﹁信じるもなにも、まだ続きだろうが。さ、話してくれ﹂
﹁え、あ、そうね。森に存在するモンスターが村を襲い始めたのは、
ダンジョンに封じ込められた邪神のせいなの﹂
マリカの話はこうだった。かつて、古代に、この森の奥深くに封
じられた邪神が千年のときを経て復活しようとしている。森に住む
動物たちは、本来人里には降りずに、それぞれの縄張りを守って暮
らしていたが、邪神の放つ悪気によってその性質を歪ませて人々を
襲うようになった。
マリカは、長い間、この森で邪神の復活に備えて眠りについてい
たが、今年の冬にかけていよいよ邪神の波動が高まることに危機感
を覚え、やむなく覚醒したとのことだった。
蔵人はマリカの話をすべて聞くと、それならばその邪神を再封印
するしかない、と結論づけた。蔵人の美点のひとつに決断力の速さ
があった。
113
マリカは、訝しむように、自分の口元に手を当てて、いった。
﹁あのね。自分でいっておいて、アレだけど。私の話を、全部信じ
るつもりなの。もしかして、あなたを騙して、好きなように利用し
ているだけかもしれないのよ﹂
﹁あのな。おまえの、魔術ならそんなまだるっこしい真似をしなく
ても、俺ひとりくれえ簡単にビビっと始末できるだろう﹂
﹁⋮⋮それもそうね﹂
﹁納得すんなよ。悲しいじゃんか﹂
﹁でも、あなたって警戒力なさすぎ。不注意すぎるし。もしよ。も
し、仮に私が村人のいうような極悪非道の魔女であったら、あなた
は今頃、ここにこうしていることもなく、黒焦げの消し炭になって
のかもしれないのよ﹂
﹁でーじょぶだよ。俺ちん、結構頑丈だから﹂
﹁ふん。でも、見たところ、あなたのあの村の人間ではないわね?
通りすがりの冒険者かしら。他人のために命を張って危険を犯す
必要なんてどこにもないように思えるけど﹂
﹁ま、一宿一飯の恩義ってやつだ。俺の故郷では美徳とされる﹂
﹁はあ? 一食程度でいちいち命をかけていたら、あなたの国の人
間はとうに死滅しているんじゃないのかしら。愚かね﹂
﹁愚かだっていいじゃないか。そもそも、邪神うんぬんなんて話に
なれば、俺の力がどこまで役に立つかわからないけどな。でも、ひ
とりよりふたりっていうだろ。一人口は食えぬが二人口は食える。
ああ、これは所帯を持つときの話か﹂
﹁まるで用法が違うじゃない﹂
マリカは呆れたように、ぷいと横を向くと、長い髪をいじり始め
た。
﹁とにかく、無駄な殺し合いはしないにこしたことぁない。いまか
ら、俺とマリカは生きるも死ぬも運命の共同体だ。邪神が滅ぶその
日まで、頑張ろうぜ!!﹂
﹁ねえ、協力し合うのは結構だけど、肩に回した馴れ馴れしい腕は
114
解いてもらえない?﹂
﹁え?﹂
蔵人はすっとぼけたまま右手でマリカの乳房をやわやわと揉んで
いた。
魔女の顔から、スっと血の気が引いて紙のように白くなる。
﹁ふうん。ドサクサに紛れて、乙女の大事なところを、堂々と︱︱
!!﹂
マリカは、宝玉のついた杖をかざすと、蔵人に向かって風の魔術
を放った。
途端に、宝玉は激しく発光すると、強風を出現させて蔵人の身体
を扉の外へと、ぽーんと押し出した。蔵人は、小屋の反対側の楡の
木に頭を強打して、ヒキガエルのようなうめき声を上げた。マリカ
が、やりすぎたかな、と顔を青ざめさせると、ほどなく蔵人が立ち
上がり小屋に戻ってきた。さすがにバツが悪いのか、マリカは唇を
突き出してむくれた。
﹁あ、あなたが悪いのよ。乙女の胸を不用意にさわったりするから﹂
﹁あ、頭が⋮⋮!﹂
﹁え、あ。え? 大丈夫?﹂
﹁うううっ、頭が、頭がぁあああっ﹂
﹁ちょっ、えっ。待ちなさい、なに、なんなの?﹂
マリカは善良な女であった。故に、自らの過失で苦しむさまを見
せる蔵人を放っておけなかった。蔵人は頭を抱え込んで、その場に
しゃがむと激しく苦悶した。マリカの焦りが頂点に達する。
﹁ご、ごめんなさい。あの、その、ちょっと冗談だったのよ。んっ
て、きゃあっ﹂
﹁ふおおおおっ!! オッパイ! 魔女のオッパイ、やーらけえっ。
うひょおおっ!!﹂
蔵人は近寄ってきたマリカの無防備な胸に飛び込むと、顔をうず
めながら、狂ったようにこすりつけ始めた。
茫然自失の彼女は、やがて呆けた状態から、現在の状況に気づき、
115
頬を紅潮させた。
大事がなくてよかったという安堵感が、騙されたという怒りと肉
体的羞恥が混濁したものへと変化していく。
蔵人はこのあと、マリカの激しい電撃を喰らって、翌朝まで目覚
めることはなかった。
116
Lv8﹁停滞魔女﹂
野天でひっくり返ったまま一夜を明かした。酷い仕打ちである。
蔵人は、即座にマリカへと激しい抗議を行った。
﹁だから、昨日はやりすぎたっていってるでしょう﹂
﹁ああ。マリカのせいで、朝からチンコが固い。どうしてくれるん
だ﹂
﹁それは、ただの生理現象よ。私にはなにひとつ、関係ないわ﹂
﹁おいおい、こっちはかなり心をオープンにして自分をさらけ出し
ているんだぜ。少しは恥ずかしがってくれよ﹂
﹁あいにくと、そんなことできゃあきゃあ騒ぐほど子供じゃないの﹂
﹁ふうん。子供じゃないねえ。俺はいま、二十なんだけど、マリカ
っていくつよ﹂
﹁千十、⋮⋮じゅ、十九よ﹂
﹁おいいいっ!? いま、なんか聞き捨てならねえ単位が飛び出て
きたんだけど? なに、千ってなにさ? ミレニアムなの? マリ
カってアラミレってレベルじゃねーぞ!!﹂
﹁うるさいわね、小僧。いちいちレディに歳を聞かないでちょうだ
い。千年は眠っていたんで、特に数えなくてもいいでしょうに。十
九よ、私は﹂
﹁おいおい。この人、いきなり俺のこと小僧呼ばわりしだしたよ。
とんでもねえ年増だよ。あのな、マリ公。いいこと教えてやろうか。
人間、嘘つくと鼻が伸びるんだぜ﹂
﹁そう。なら、クランドは少しばかり、嘘をついたほうがいいかも
しれないわね﹂
117
﹁それって、人の顔を平面的っていいたいんですかぁ? そういう、
傷つくこと平気でいうお嬢ちゃんじゃ、オジさんもいつまでも甘い
顔してられないんですけどぉ﹂
﹁そう、仕方ないわね。私は、ハイエルフだし、かわいいから。人
間の容姿の悩みについてはわからないのよ﹂
﹁ああっ! 聞いて奥さん。この方、ついに自分のこと自画自賛始
めましたわよ。信じられます? あのなぁ、マリカ。俺がご近所に
顔の利くママならおまえはとうに団地でハブにされてっぞ﹂
﹁あなたの、たとえはイマイチよく理解しにくいけど。ごめんなさ
いね。わかってあげられなくて。飴ちゃんあげましょうか﹂
﹁口移しで食べさせてくれやー﹂
﹁え、イヤよ。病気が移るもの﹂
﹁ちょ⋮⋮! マジ顔はやめて、クルから。心にクルから﹂
﹁冗談はさておき、そろそろ夕飯の支度をしましょうか。ついでで
いいなら、少しはわけてあげてもいいのよ﹂
﹁あー。それはそれは、ありがたいことで。というか、今夜から俺
はどこから寝ればいいんだ? マリカと同じベッドでいい?﹂
﹁それ以上ふざけたこと抜かしたら、あなたの口から肛門まで槍を
通して、杉の突端に縛りつけて、動かなくなるまで見守ることにな
るわ﹂
﹁じゃあ、ベッドの下でいい﹂
﹁変態ね。ねえ、なんでここにいるの? というか、あなたどちら
さまでしたっけ?﹂
﹁おいおい軽い冗談で、存在までデリートされ始めたぞ﹂
﹁あなたの冗談は下品な上に絡みにくいのよ﹂
﹁さっきは、普通に乗っかってたよね? 笑ってたよね﹂
﹁あの、本当に、そういうことやめてくださらない﹂
﹁うっわ、ちょっとその丁寧口調、本当にキツいわ。はは﹂
﹁なに笑ってるのよ。気持ち悪いわ﹂
﹁そ、そこまで、いうか﹂
118
﹁さ、これ以上、クランドをからかっていても時間の無駄ね。さっ
さと、支度にとりかかりましょうか﹂
﹁おい、鍋吹いてるぞ﹂
﹁そういうことはさっさと教えなさいな﹂
﹁なあ﹂
﹁なによ﹂
﹁⋮⋮というかさ。マリカ、今日は一歩も家から出てないよね﹂
魔女は煮立った鍋を前にして、うつむいた。グツグツと、具材が
煮え立つ音が大きく聞こえる。今日の夕飯は、トマトスープで煮込
んだ、鶏鍋らしい。
蔵人は、朝から居間でマリカが起きるのを待ち続けていた。彼女
が、ショボショボした目を擦りながら姿を現したのは、昼の三時を
過ぎていた。起き抜けの彼女は、蔵人に淹れさせた紅茶にたっぷり
とミルクと砂糖を入れて、ゆっくりと舐めるように飲んだ。紅茶一
杯を飲み干すのに、一時間。着替えの支度に、さらに一時間。マリ
カが身支度を整えて、ようやく覚醒したときには、日は西に沈みつ
つあった。
﹁なんで、こんなに寝入ってんだよ。もしかして、昨日は準備とか
に、明け方までかかっていたのか?﹂
﹁まさか。私は、あなたを叩き出したあと、すぐ寝たわ﹂
﹁んで、起きるのが、三時のおやつタイムだと。舐めてんの? そ
んなんで、立派な社畜になれると思ってんの? 女だからって、い
まどき専業主婦は許されないんだぜ﹂
﹁なにをいっているか、わからないわね﹂
﹁俺はおまえの生活態度に物申している﹂
﹁大きな声出さないでよ。響くわ﹂
﹁おまえが寝ている間に、この大地は刻々と邪神の脅威に犯されて
るんだぞ﹂
﹁千年平気だったから、あと百年くらいは平気なんじゃないの﹂
﹁なんという、大陸的なお方。さすがの俺もその態度にはサジを投
119
げ尽くしたぜ﹂
﹁早いわね。おまけに薄いなんて、女に嫌われるわよ﹂
﹁おいっ。いってるよな! それって間違いなくセクハラ的な暗喩
だよな!?﹂
﹁なんでも深読みしすぎよ。日頃の食べ物が悪いみたいね﹂
﹁ちゃんと身体にいいものを選んで食べてるよ。とりあえず、それ
は置いといてだな。今日は、もう遅いから、諦めるとして。明日は、
ちゃんと起きれるんだろうな﹂
マリカは、ふふん、と鼻で笑うと、答えず調理を続けた。ふたり
は無言のまま卓を囲み、盛ったばかりの料理を前にして向き合った。
先に顔をそらしたのはマリカだった。
﹁なにか、変な気分ね。誰かと、こうして食事をするのは、久しぶ
りよ﹂
﹁話をそらしたな。ところで、今夜は泊めてもらっていいか。さす
がに、たまには屋根のある場所で寝たいよ﹂
﹁あなたの寝床は、表に納屋があるからそこを使いなさい﹂
﹁ええっ。冗談はキツいぜ﹂
﹁冗談ではないわ。そもそも、どうして出会ったばかりの男を自宅
に泊めると思ったのかしら。ねえ、私がそんな軽い女に見えて?﹂
﹁いやあ、流れでいけるかなぁ、と。あ、嘘です。泊めてもらえる
だけで感謝です﹂
とはいえ、口ぶりとは裏腹に随分と親切な女だと思った。憎まれ
口を叩く割りには、会ったばかりの蔵人へ夕食をご馳走したばかり
か、納屋とはいえ、宿を貸してくれるのである。協力関係を結んだ
とはいえ、別段、彼女から信頼されるようなことはなにひとつ行っ
ていない。必要以上に無防備である。マリカの態度は、あきらかに
人馴れしていないのだ。やたらに、蔵人との距離を測りかねている。
邪神、などという眉唾ものの話もさることながら、年頃の女性の割
には、男のあしらいが妙に不適切であった。トマト鍋の、スープを
すくって口に運ぶ。じんわりとした旨みが、口中に広がった。ふと、
120
視線を動かすと、チラチラと様子を窺っているのがありありとわか
った。
﹁旨いよ。おまえ、料理上手なんだな﹂
﹁そう﹂
素っ気なく返答した割には、マリカの頬はしっかりと笑みを浮か
べていた。
その夜は、おとなしく指定された納屋で就寝した。陽の落ちた時
間から換算すれば、およそ、午後の八時頃には眠りについた。いく
らなんでも、これだけ早くに眠りにつけば、寝過ごして正午を回る
ということは考えられないだろう。くるまった毛布は、若い女性独
特の甘ったるい匂いがして、落ち着かない気持ちになった。
翌朝、埃っぽい納屋の中で蔵人は目を覚ました。マリカから借り
た毛布から顔を突き出して伸びをする。耳を澄ますと、戸の向こう
側から、轟々と鈍い風の音が聞こえた。屋外へ出ると、空は見事に
曇り空だった。望んでいた太陽はチラリとも顔を見せない。黒ずん
だ雲は、急速に東へと切れ間なく流れている。腹の減り具合からい
って、夜が明けたばかりといったところだろうか。吹きつける強い
風に雨の匂いを嗅いだ。周囲の木々は、不気味な動きでざわめいて
いる。これでは、出不精なマリカではなくても、出かけようという
気にはならないだろう。昨日も、ほとんど身体を動かさなかったの
で、力が有り余っている。無性に身体を動かしたいが、無意味に辺
りを動き回るのは危険なような気がした。マリカがいうように、森
の生物たちが邪神の悪気を受けて活発化しているのであれば、周到
な準備と注意が必要である。
﹁なにはともあれ、朝メシだな﹂
あたりまえのようにたかるのも少しだけ気が咎めるが、この際見
栄を張ってもしようがない。そもそもが、蔵人には対価として払う
べき財物の持ち合わせはなかった。小屋の前に立って、ドアノブを
回す。期待はしていなかったが、やはり、マリカの姿はなかった。
昨晩別れる際に、絶対に寝室へは入ってくるなと、くどいくらい念
121
押しされた。
﹁だが、起きてこないおまえさんが悪いんだ﹂
蔵人はためらいもなく居間を突っ切ると奥の部屋へ押し入った。
圧巻なのが、左右の天井までビッチリと埋め尽くしている本の山
である。革で製本された書物の山が四方の本棚を埋め尽くしていた。
閉所恐怖症の人間ならすぐにでも発狂しそうな密度である。目がく
らみそうな蔵人が視線を部屋の主に向かう。
そこには、寝台の上で無防備に寝入っているマリカの姿があった。
落ち着いて周囲に目を凝らす。
よく見れば、若い女性の部屋らしく、あちこちにはかわいらしい
小物が置かれていた。
﹁読めねえでやんの﹂
蔵人は本棚の書物を手にとって眺めてみるが、アラビア語のよう
なのたくって連続したうねりがあるだけで、当然意味は理解できな
かった。言葉は通じるが、本は読めない。召喚時の契約により、蔵
人の脳にはこの世界の人間の言葉は、直で通じるように、魔力が働
いているのだった。本を棚に戻して、マリカの側に寄った。香を焚
いてあるのか、独特の匂いが漂っていた。彼女のトレードマークの
とんがり帽子は、寝台横の文机の上にそっと載せてある。帽子の先
端は、自重で僅かに曲がり、クタっと折れていた。眺めているうち
になんとなくおかしみを感じる。
﹁おお、結構厚い生地なんだな﹂
蔵人は、魔女っぽいとんがり帽子を両手で弄ぶと、元の位置に戻
した。
そっと寝顔を覗き込む。
マリカは波打つ銀髪に埋もれるようにして、枕に顔を突っ込んで
いた。
﹁おはよう、マリカお嬢さま。朝でございますよ﹂
﹁んん。んむぅ﹂
蔵人が耳元で囁くと、マリカの特徴的な長い耳がピクリと蠢いた。
122
﹁そういえばハイエルフがどうとかいってたな。エルフの上位種な
のか? そもそも、エルフを見たことがないので違いがわからない
が﹂
蔵人は、ふと思いついて指を伸ばして長耳に触れてみた。
﹁はあ、んんっ﹂
フニフニと指で摘んで引っ張ると、マリカが悩ましい声を上げな
がら寝返りを打った。
かかっていた毛布がばさりと動き、彼女の上半身が露呈する。
﹁うおおおっ﹂
マリカのあられもない乳房がこれでもかとばかりに眼前に突きつ
けられた。
彼女は裸族だった。就寝時限定であろう。
白く、張りのある双丘がぽよぽよと揺れている。
仰向けになっても、ぺたっと潰れないのは、形がよい証拠である。
余計なぜい肉がないのか、腰の辺りは、キュッと締まっている。
かわいらしいヘソをしていた。
身体にうっすらと生えている銀色の産毛がキラキラと輝いている。
蔵人は生唾を飲み込むと、そっと手を伸ばして、目の前の乳房を
掴んだ。
マリカは小さくうめくと、悩ましげに眉をひそめた。
さすがに、罪悪感を覚えた。毛布をかけ直して脱兎のようにその
場を走り去った。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。昼前くらいに、
マリカは居間に姿を現した。昨日と比べて格段に顔つきはハッキリ
しているが、なにか腑に落ちないといった様子で首をかしげている。
﹁おはよう、クランド﹂
﹁ああ、おはよう。ど、どうしたんだ。そんな難しい顔して﹂
﹁うん。気のせいか、帽子の置き位置が微妙に変わっているのよね。
ねえ、もしかして﹂
﹁気のせいじゃないのか、それよりも! 今日は、どうするんだ!
123
!﹂
﹁なによ、いきなり大きな声を出して。怒らないでよ、今日は結構
努力したのよ﹂
﹁そうか、努力したのか! そいつは、結構なことだ!!﹂
﹁だから、なんでそんなに大きな声を⋮⋮﹂
﹁そうだ、準備はどうなんだ!? すぐに出発できるのか?﹂
﹁ちょっと待って、まだ朝食もとってないのよ。焦らないでちょう
だい。相変わらず、早ろ⋮⋮早いのね﹂
﹁おーい、朝から下品なのはおまえさんのほうじゃないかーい﹂
﹁失礼ね。あなたのレベルに合わせたのよ﹂
﹁まったく、あれだけいったのにまた寝坊してからに。ほら、外は
曇ってるけど、新鮮な森の空気が﹂
蔵人が扉を開ける。外は曇り空がとうとう泣き出し、しとしと雨
粒が垂れ落ちていた。
﹁今日は、順延ね﹂
﹁あ、雨ぐらいなんだ。人間は完全防水なんだぞ﹂
﹁残念なことに、私のような高貴なハイエルフは濡れに弱いのよ﹂
この日もふたりきりで、終日、駄弁った。
﹁明けて、翌日。マリカさまのご気分も大変よろしく、奇跡的に正
午を回る前に小屋を出ることができた﹂
﹁あなた、誰に向かって喋ってるの?﹂
﹁気にするな、ひとりごとだ﹂
次の日、蔵人とマリカはようやく小屋を出発して、邪神退治の冒
険に出発した。
昨日、降り続いた雨は上がっている。消えていた太陽がようやく
邪神
の存在を封じてし
顔を出していた。当初の計画通り、ハイエルフであるマリカが、森
の奥地にあるダンジョンの最下層に居る
まえば、ミッションは終了するのだ。蔵人は、約束のご褒美とチラ
つかされた村娘であるゲルタの愁い顔を思い返して鼻の下を伸ばし
た。
124
﹁じゃ、道案内は頼むぜ。森の魔女っていうくらいだから、マリカ
に任せれば迷うことはないだろうな﹂
﹁え⋮⋮?﹂
マリカはキョトンとした顔で、振り返った。整った風貌が、やけ
に子供っぽく見えた。
﹁え? いやいやいや。そういう冗談はやめようぜ。ねえ、冗談だ
よね﹂
﹁森の道なんて、わかるわけないじゃない。そもそも、私は生まれ
てからこの小屋から見えなくなる位置まで離れたことはないわ﹂
マリカは両の腰に手を当てると、胸をそらした。蔵人の鼻にシワ
が寄った。
﹁はああっ!? 嘘でしょ? どうやって、いままで生きてきたん
だよ。ヒマだろ、やることなくて﹂
﹁別に。お母さまが存命でいらした頃は、常に魔術の研究に没頭し
ていたし、覚えること、学ぶことは山のようにあったから﹂
﹁そうか、母ちゃん死んじゃったんだな。悪いな、つらいこと聞い
ちまって﹂
﹁ううん。いいのよ。その分、これからあなたが役に立ってくれる
から﹂
﹁って、そこで俺が出てくるのね﹂
﹁頼んだわ﹂
﹁あー、はいはい﹂
マリカ自身が知らなくても、邪心を封じたダンジョンまでの道の
りを示した詳細な地図はあった。
蔵人は地図を受け取ると、歩き出した。
マリカが、その後ろを追うようにしてついてくる。彼女はとんが
り帽子をかぶったまま、紺色のマントを纏い、手には三十センチほ
どの杖を手にしていた。
先端には、青白い宝玉が嵌め込まれている。六角形の不思議な宝
玉は日光の照り返しを受けて、キラキラと輝いた。
125
水分を含んだ潅木を掻き分けて森の中に踏み入っていく。濃い緑
の木々の匂いが、身体の隅々まで染み込んでくるような気がした。
蔵人が清廉な森の息吹に目を細めていると、途端にマリカが遅れ
だした。
体感的にだが、たぶん、まだ三十分も歩いていない。成人ならば、
なにをどうやってもヘタレる距離ではないはずだ。ふたりぶんの食
料や水を詰めたザックは蔵人が背負っている。重量は三十キロ程度
である。一方、マリカは完全に空手である。持ち物は、小さなポー
チくらいだ。彼女が疲れる要素はない。蔵人は困惑した。
﹁どうしたんだよ﹂
駆け寄って顔を見ると、顔色は蒼白だった。マリカは、荒い息を
整えると、木の幹に背を預けて呼吸を整えている。銀色の美しい髪
がうねるようにして乱れていた。額に流れる汗が頬をつたっている。
あえぐたびに小さく前後する彼女の喉が淫靡な印象を与え、思わず
生唾を飲み込んだ。調子でも悪いのだろうか。蔵人は気遣って手を
差し出すと、マリカはムッとした表情で払った。
﹁あなた、足が早いのよ﹂
﹁え。だって、いまのはかなりの女の子スピードだったぞ﹂
﹁私はかよわいの。クランドのような野獣と同列に見ないで﹂
エアロレビテーション
マリカは杖をサッと振り上げると、魔術を詠唱し始めた。
﹁風力浮揚魔術﹂
マリカが詠唱を終えると、足元に小さな風が巻き起こった。ギョ
ッとして、彼女の黒っぽいブーツの底を見ると、地上から五十セン
チほど浮いていた。蔵人がそっと歩くと、マリカの身体が並行して
進む。蔵人は自然とズルを咎めるような目になった。
﹁おまえな、ズルっこいぞ﹂
﹁最初からこうすればよかったのね。ふう。たまには運動もいいな
んて、思い違いをするんじゃなかったわ﹂
マリカのエルフ特有の長耳がピクピクと震えている。感情が高ぶ
ると、耳の動きに直結するらしい。犬のしっぽのようなものだろう、
126
と思うが、確証はない。
﹁筋肉使わないと、尻の肉が垂れるぞ﹂
﹁大きなお世話。寝る前にエクササイズして引き締めてるから大丈
夫。ほら、私のことはいいから。とっととお進み﹂
﹁へいへい﹂
歩きながらしばらくの間、無言が続く。辺りには、生物の気配は
無い。やはり、女であるというか、マリカはお喋りがしたいようだ
った。
﹁ねえ、どうして黙っているの。退屈よ、なにか楽しい話をしなさ
い﹂
﹁唐突だな。っていわれてもねえ。そういえば、二、三聞いておき
たいんだが、いいか?﹂
﹁卑猥なこと以外ならね﹂
﹁おいおい、それじゃ共通の話題がゼロじゃねえか﹂
﹁一度、脳みそ煮返してあげましょうか﹂
マリカの杖から青白い電流がパシパシと火花を散らした。
﹁冗談だよ。そういえば、この森はおとろしいモンスターがうじゃ
うじゃいるんだろう。おまえの小屋は大丈夫なのか? なんで、村
ばかり襲われる?﹂
﹁私の小屋の周りには強力な結界が張ってあるの。邪神そのものが
出向いてくるならともかく、雑魚程度では破ることは不可能よ﹂
﹁じゃ、なんで俺は入れたんだ?﹂
﹁バカね。一応、おびき寄せたのよ。それに、小屋の扉にも仕掛け
をしておいたの。私に、害意を持って近づいた生物には、自動で攻
撃魔術が発動するようになっていて。ああ、あなたは生き延びたの
ね。たいていは、あの一撃で絶命するのだけど﹂
﹁なにげに酷いな﹂
﹁私も、自分の命を守らなければならないから。とかいっている間
に、お客さん一号のようね。気をつけなさい﹂
マリカの真っ赤な瞳が、燃え上がるように熱を帯びる。蔵人は鼻
127
をピクピク蠢かすと、身体をこわばらせた。ジッと目を凝らして緑
の草むらを注意深く観察する。奇妙な羽ばたきの音が、木々を縫っ
バッタ
て迫ってくる。
バッタ
﹁軍隊飛蝗よ。せいぜい、頭をかじられないようになさい﹂
軍隊飛蝗。
全長は三十センチほどの異様な大きさを誇る、肉食の怪物である。
軍隊の名を冠する通り、常に数十から数百の群れで行動している。
主に山野の小動物を補足する。
通常の飛蝗とは違って、万余を超える数にならないのは、増えす
ぎると結果として共食いになることを恐れ、本能的に個体数を維持
しているといわれていた。
草木をかじることがないので、その痕跡を探すのは非常に難しい。
ロムレスの地方によっては、これを積極的に捕まえて、煮つけ、
ライトニングブラスト
常食にする部族もいる。
﹁雷光放射!﹂
バッタ
マリカは短い詠唱を終えると、杖の先から稲妻を激しく打ち出し
た。
キチキチと羽音を立てて襲い来る軍隊飛蝗がまとめて十匹ほど灼
け落ちる。
焦げ臭い肉の焼ける音が鼻を横殴りにする。サッと視線を動かす
と、茂みのように見えたのは、総じて飛蝗の群れだった。目測で、
数百はいるだろう。
﹁いづッ!?﹂
気づけば、三匹ほどの飛蝗が右足に噛みついていた。
﹁このッ!!﹂
蔵人は足を振り上げて跳ね飛ばそうとするが、ガッチリと食い込
んだ歯が肉を食い破って筋繊維に絡みついている。犬に噛まれたよ
うな錯覚を覚えた。昆虫にしては凄まじい咬筋力だった。
サッと手を伸ばして、掴み、握りつぶしていく。硬さはそれほど
でもなかった。
128
指先が、昆虫のハラワタにめり込むと、きいと哀れっぽい声で鳴
いた。ヌルヌルした体液が手首をまで濡らした。半端ではない気色
悪さに、強い嘔吐感を覚えた。最後の一匹を靴のカカトでひねり潰
す。嫌な臭い鼻を突いた。
続けざま、数十匹の飛蝗が飛びかかってくる。蔵人は、数匹を捕
まえて握りつぶすが、頬や耳を噛まれて悲鳴を上げた。マリカがう
んざりしたようにため息をついた。
﹁クランド、しばらく時間を稼ぎなさい。一気にケリをつけるわ﹂
﹁わーかったよ、ハイエルフさま!﹂
マリカの身体が木々の梢ほどに高々と舞い上がる。あの位置なら、
そう簡単には飛びかかれないだろう。離れすぎないのは狙いを外さ
ないためと推測できた。
蔵人は腰の長剣を引き抜くと、次々と飛びかかってくる飛蝗たち
を払い落とした。適当に拾った剣はなまくらである。ロクに手入れ
もしていないせいか、たちまち切れ味が鈍った。緑色の悪魔は、巨
大な壁のようになると、連携的に攻撃を始めた。左腕に、両足、腹
回りと、飢えた飛蝗が群がるように這い登ってくる。必死で剣を振
り続けるが、鉄の棒を振り回しているようなものだ。潰れた昆虫の
体液と、食い破られた肉から吹き出す血で、全身が青と赤でドロド
ロに染まっていく。緑の壁は、のしかかるようにして全身に食らい
ついてくる。蔵人は、飛蝗の重みで膝を折ると、剣を放り投げて顔
バッタ
に食いつく個体を掻きむしった。呼吸が苦しい。確かな恐怖を感じ
た。
ライトニングストーム
﹁クソッ! まだか、まだなのかよっ!!﹂
﹁待たせたわね。雷光螺旋擊!!﹂
マリカの風属性である中級魔術が発動した。軍隊飛蝗のみに、ポ
イントされた電撃が颶風のように荒れ狂って、森の中を掻き乱した。
青白い稲光は、激しく螺旋状の渦を巻いて地上に降りかかって、群
がる飛蝗たちを一掃した。蔵人の全身に歯を立てていた昆虫たちは、
瞬間的に炭化すると、原型を留めずサラサラと崩れ落ちた。周辺に、
129
灰の塊となった飛蝗の群れが飛び散って木々や茂みを汚した。
﹁クランド!!﹂
﹁はあっ。おせえぜ。ったく﹂
蔵人は痛みのあまりその場に膝を突いてうめいた。浮揚を解いて
駆け寄ったマリカが蔵人の肩をとって心配そうに覗き込んでくる。
﹁ひどいケガ⋮⋮! 待って、いま治療するから﹂
﹁いや、たぶんだいじょうぶだろうな﹂
蔵人の全身は、噛み傷と飛蝗の体液で青黒く染まっていたが、衣
服ごと噛みちぎられた部分からジクジクと相当な量の血が流れ出て
いるのだ。この期に及んでの軽口と見たマリカの顔が怒気でカッと
赤くなる。
﹁なにを、バカなことを。えっ⋮⋮?﹂
苦痛に顔を歪めていた蔵人の表情が徐々に安らいでいく。胸元か
ら、青白い光が輝きを増している。マリカは、大きな赤い目をしば
たかせると、焦ったような手つきで胸元をくつろげさせた。
﹁ちょ、やめろや、このエルフ。エルフ改め、エロフ﹂
﹁なに、なんなの、この紋章。まさか、あなたは﹂
蔵人は、近くの小川で身体と衣服を清めると、マリカに対して自
イモータリティ・レッド
分の身の上を語って聞かせた。この国の王女に勇者として召喚され
た際に、契約の証として特殊能力である不死の紋章を手に入れたこ
と。ロムレス第一監獄で獄卒長を斬り、あまつさえ王宮の関係者に
命を狙われているということ。そして、いまは、都からはるか南に
位置するシルバーヴィラゴという都市を目指して旅をしていること。
好きな女のタイプは、かわいくて従順でおっぱいが大きくて、どん
な命令にも恥じらいを覚えながらも実行してくれるような娘。
﹁最後の情報はいらなかったわね﹂
﹁マリカ、ちなみに容姿だけならおまえもストライクゾーンになる
ぞ。俺と契約して淫靡な主従関係を結ばないか﹂
﹁あいにくと、私、面食いなのよ。あなたのような、方はちょっと﹂
﹁はいはい、イケメンじゃなくて悪うございましたね。つーわけで、
130
今後は俺がケガしても特に気にすることはない。サクサク攻略を続
けよう﹂
﹁はあっ。心配して損したわ。あなたが、それで問題ないなら別に
いいけど。それと、ひとつ忠告しておくけど、その紋章は、完全じ
ゃないわ﹂
﹁なに?﹂
﹁つまり、あなたと召喚者のリンクは、上手く接続できていないみ
たいなの。いつ、プチンと切れてもおかしくない状況よ。クランド、
あなたの境遇には同情するけど、その能力を過信しないで、実力を
つけるほうが身のためよ。所詮、簡単に手に入れたものは簡単に失
ってしまうもの。生き抜くための努力を惜しまないで﹂
﹁お、おう﹂
﹁あのね。あなた、いま、あきらかにメンドくさいと思ったでしょ
う﹂
﹁そ、そんなことはないぞ﹂
﹁もう。別にいいわ。あたしとしては、邪神を封印できるまであな
たを壁として活用できればいいのだから﹂
﹁ひっど⋮⋮﹂
﹁だから、もう少し慎重になりなさい。本当にマズイと思ったら、
すぐに逃げてもかまわないわ。決して、恨んだりしない。私もそう
するから﹂
そういってマリカは、再び宙に浮くと、背を向けた。その背中は、
蔵人から見れば、なんだかひどく小さくなったように見えた。
131
Lv9﹁冒険魔女﹂
想像以上に深い森であった。蔵人がマリカに尋ねたところ、特に
この森には名前はないらしい。別段不思議でもない。昏くて、深く
て、人気のない木々の密集地である。おまけに、森林の奥底には凶
暴なモンスターが跋扈しているのである。周囲の村人からすれば、
生活用の木材を比較的、外側の部分で収集する以外に用はないのだ。
聞けば、周辺一体の狩人や木こりも、敢えてこの森に立ち入ること
はないらしい。そんなことをせずとも、ほかに安全な森はいくらで
もあるのだ。そういった意味では、この深い森には、大型の哺乳類
が通る獣道がうっすらとあるくらいで、非常に歩きづらかった。現
代の日本と違って、舗装も、道迷いを防ぐ赤ロープもない。
蔵人は、勘に頼って道を進んでいくが、案外とそれは正確だった。
しばらく歩き、やや見通しのいい窪地で昼食をとった。固い黒パン
にチーズと干し肉を炙ったものを挟んである。マリカは意外と料理
が上手いので、特に不満はない。蔵人が残った脂を舐め取っている
と、彼女は無言のままハンカチを取り出して、手のひらを拭ってく
れた。冷淡な態度を取るかと思えば、まるで母親のように世話を焼
く部分がある。もしかしたら、単に綺麗好きで、自分の無作法な振
る舞いが気に入らないだけかもしれない。
﹁この地図どおりに進むと、最低でもあと三日はかかるぜ﹂
﹁それに、適宜モンスターの襲来もあると考えれば、ダンジョンの
入口まで四日、五日は大目に見ておいたほうがいいわ﹂
﹁まいったな。食料はともかく、水がもたないぞ﹂
常に歩行を続けているし、これから格闘することも考慮に入れれ
132
ば、水は一日二リットルは必要だろう。となると、単純計算で二十
は必要である。水場があれば随時補給は可能だが、そのあとに邪神
のいるダンジョンも潜らなければならない。そうなると、手持ちの
糧食ではとてもふたり分を賄うことはできないのだ。
﹁戻ればいいじゃない﹂
ルーム
﹁戻る? どうやって﹂
﹁こうやってよ。空間歪曲﹂
マリカが杖をひと振りすると、たちまち、空間が陽炎のようにゆ
らめいて、次元に裂け目が生じた。蔵人が目を見張って、生じたひ
ずみに瞳を凝らす。そこには、数時間前に出発したマリカの小屋が、
セピア色に移っていた。
﹁なにこれ。なんか、ずっと見つめてると、気持ちわりぃ。うげえ
⋮⋮﹂
﹁無属性の空間魔術よ。私は、一度行ったことのある場所なら、記
憶をたどって一瞬で移動できるの。ま、普通の魔術師には不可能で
しょうね﹂
﹁すげえ! おまえ、実は天才じゃね?﹂
﹁そ、そうかしら。それほどでもあるけど﹂
褒められていなのか、マリカは髪をサッと掻き上げて横を向いた。
事実、これはかなり便利な技術である。事実上、地点ごとにワープ
ポイントを作っておけば、どんな難易度のある地形もショートカッ
トで移動できるのである。彼女の能力は、絶賛に値した。
﹁でもさ、こんな術があるんなら、マジで俺の力なんて必要ないん
じゃ﹂
﹁魔術は絶対的なものではないわ。力の大きな魔術ほど、詠唱には
時間がかかるし、同時にふたつの技を制御するのは、初級や中級程
度ならともかく、それ以上ならいまの私には不可能なのよ。雑魚く
らいなら、私一人で捌けるけど、邪神が相手なら、どうしたって物
理攻撃で盾となってもらう相手が必要なの。あなたは、意外とお人
好しだし、ね﹂
133
﹁ああ。そういうことか。でも、別にそれでいいんじゃねえ。互い
にできることを頑張ればいいさ﹂
﹁あなたは、剣もそれほど達者というわけでもないみたいだけどね﹂
ルーム
﹁んぐっ。それをいうか﹂
マリカは、空間歪曲の魔術を解いて膝にしいていたカーペットを
巻き取ると、蔵人に押しつける。人差し指を立てて、蠱惑的に微笑
んだ。
﹁というわけで、戻るのはいつでも戻れるわ。この先も、荷運び︽
ポーター︾件壁役をよろしく頼むわね、剣士さま﹂
﹁ぐ。了解だ﹂
小休止を挟んで冒険は続いた。とはいえ、基本は地図に沿って森
を進んでいくだけである。ふよふよと、後方に浮いてるマリカを気
にしながら緑の中を移動するふたりの前に立ちはだかったのは、二
メートル程度の黒い化物だった。
モスマン。
蛾の一種であるこのモンスターは、全身が真っ黒な毛で覆われて
おり、酷く爛々とした黄色い瞳を持っていた。蔵人は剣を鞘走らせ
ると、地を蹴って走り出す。マリカが、止める間もない素早さだっ
た。
﹁クランド、それの目を見てはダメ!﹂
﹁え、ちょっと、待って︱︱﹂
マリカの忠告は一瞬だけ遅かった。蔵人は、モスマンの瞳に射す
くめられると、途端に全身から力を失って、ヘナへなと脱力し、そ
の場に膝から崩れ落ちた。
モスマンはきいきいと金属的な鳴き声を上げると、細い足を小刻
みに動かして、前のめりに倒れた蔵人の首筋へと口吻を伸ばした。
彼らは、属性として吸血種に近く、小型の小動物を催眠効果のある
シークエンス・マジック
フレイムボール
エアロジャベリン
にらみで動けなくしてから血を吸い取るのが常であった。
﹁連続魔術、火炎弾! 風王の槍!!﹂
焦ったマリカが咄嗟に初級魔術を連続で撃ち放った。
134
真っ赤に燃え盛った火球がモスマンの胴体にぶち当たってその身
を灼いた。
たまらず、モスマンが後退したところに、次弾として、風属性の
魔術である疾風の槍が突き刺さった。真空の穂先はモスマンの両足
を射抜くと、背後の岩を破壊して、細かに割れた散弾を吐き散らし
た。後方から、石くれをぶつけられた形となったモスマンが前方に
傾ぐ。この機を見過ごす蔵人ではない。長剣を握りしめて倒れくる
モスマンの頭部に向かって突きを放った。長剣は吸い込まれるよう
にしてモスマンの口元から後頭部を刺し貫くと、切っ先を覗かせた。
モスマンは、四肢を激しく痙攣させて断末魔の雄叫びを響かせると、
青黒い体液を吐き出しながら動かなくなった。
﹁いきなり突っこんでどうするのよ。このままじゃ、長生きできな
いわよ!﹂
﹁いまのは、ちょっとやばかったかな﹂
﹁ちょっとじゃないでしょう﹂
﹁じゃあ、だいぶやばかった。結構? みたいな﹂
﹁⋮⋮もおいい。もお、あなたのことは心配しないし、気にもかけ
ない﹂
﹁それはそれで寂しいのだが﹂
マリカはぷいと顔をそらしたまま、無言になった。
︵まるでガキだな。イヤなら、手を切ってひとりで行動するって手
もあるのに︶
蔵人が歩くと、浮揚した状態のマリカがゆっくりとついてくる。
振り返ると、かなりわざとらしく横を向いたりして、あからさまに
﹁イラついています、私﹂といったポーズをとった。
﹁なあ、マリカ﹂
蔵人が話しかけても、ヘソを曲げた子供のように無視を決め込ん
でいる。最初は冗談でやっているかと思ったが、
しばらく経って、彼女は彼女なりに本気で怒りを示しているとわ
かり、絶句した。
135
どうしろってんだよ、たく。
いままで接してた限り、彼女は聡明で理知的だったが、情動を抑
えることにかけては、幼稚すぎてとても自分とは同年代とは思えな
い。彼女が、千年の眠りに就いていたとして、実質活動していた年
齢が十九としても、幼すぎるのだ。振る舞いや、見かけが人並み以
上に整っており、戦いにおいては肝も据わっている。見目は美しく、
妖精のような相貌からは、一国の姫君を思わせる気品すら感じさせ
ている。要するに、彼女の対人経験はゼロに近いのかもしれない。
あの小屋から一度も出たことがないのなら、母親以外に接した人物
はあまりいないのかもしれない。美人ならそれだけで人生チートモ
ードかと思いきや、この異世界はそれほど甘くないらしい。たいし
た打開策も思いつかぬまま、移動を続けていくと、次第に斜面に差
しかかった。濡れた土を慎重に降りていくと、開けた草地が見えた。
タチバナやタンポポが一斉に咲き乱れている。花と濡れた緑の風
を浴びながらゆっくりと歩くと、草地の中央部に巨大な木がそびえ
立っていた。蔵人は側までよってゴツゴツした幹に手をやってさす
った。なぜか、なつかしくやわらかな気分になっていく。
ビバ、自然。ビバ、大樹よ。
﹁おお、デケーな。これはまた、随分とビッグなやつだぜ﹂
﹁エント⋮⋮﹂
それまで黙っていたマリカが浮揚の魔術を解いて地に降り立つと、
木に向かってつぶやいた。大樹は節くれだった幹が巨大な、長い樹
齢を思わせるものである。エント、と呼ばれたそれは、小さく身震
いをすると、ひとつ、大きなクシャミをしてから目を見開いた。
﹁なんだ。その声は、おお。マリカか。幾久しいな﹂
﹁ごきげんよう、エント。そういえば、ここに移したのね。知らな
かったわ﹂
﹁木が喋った⋮⋮! スゲー、どうやって発声してるんだ? 声帯
はどこだろう﹂
﹁ごめんなさいね、エント。千年ぶりだというのに、おかしなもの
136
をつれて﹂
﹁ふむ、マリカよ。その男は、おまえの伴侶か﹂
﹁んなっ⋮⋮バカ、いわないでちょうだい! どうして、高貴なハ
イエルフである、この私が、よりにもよってこんな男と﹂
﹁おいおい。クランドさんをディスるのもそのへんにしておかない
かい? そろそろマジで涙がちょちょ切れるぜ﹂
﹁ふふ。そう、自分を偽るものではないぞ、マリカよ。おまえの母、
タリカは選り好みを続けて、三千年近く独り身じゃった。そろそろ、
相手を見つけてもおかしくはない。そうでなければ、ツガイなしに、
ひとりぼっちで、寂しい人生を送るハメになるぞ。ひとりぼっちで
!!﹂
﹁あ、あのねぇ、エント。そんなに、ひとりぼっちを強調しないで
ちょうだい。私が寂しい女みたいじゃない﹂
﹁違うのか?﹂
﹁違うわよ、いまは、選んでるだけなのっ。その気になれば、伴侶
のひとりやふたりは﹂
﹁強がりはよせ。儂の、千年の経験と記憶がそういっているのだ。
儂はこの世界で知らぬことはない。儂はなんでも知っている。なん
でもお見通しじゃ﹂
﹁千年ねぇ⋮⋮。でも、あなたもよく考えたら、独り身なんじゃな
い﹂
﹁儂はバツ五じゃ。子供も、よそにたんと居る。最後の妻と別れて、
そろそろ三百年か。どんな生き物も独り身は毒じゃ。血が濁る、精
神が荒廃する、生きる覇気が失われる、妬みが強くなる、愚痴が多
くなる。覚えがあるだろう﹂
﹁ない。私に限って、そんな虚しい過去は一切ない。断じてないわ﹂
﹁ふうむ。それで、わざわざここまで来たのは、別に儂に会いに来
た、というわけではないのだろう。おまえが眠りについてから換算
すると、約千年。邪神の封印が解ける時期か﹂
﹁ええ、そうよ。ここに立ち寄ったのは、この男が勝手に寄り道し
137
たから﹂
﹁ふうむ﹂
エントは木々をざわめかせながら、黒々とした目で蔵人をジッと
眺めた。
﹁話を蒸し返すようだが。この男、それほど悪人ではない。それど
ころか、人間種には稀
に見る純粋さを持っておる﹂
﹁ハア!?﹂
﹁おい、顔がこえーぞ。額にピキピキッてヤンキー漫画みたく青筋
が浮いとるがな﹂
﹁エント。あなたは、この男の邪悪さを知らないのよ。いきなり、
人を殺しに来るわ、胸を触るわ、寝込みを襲って裸を見た挙句、無
許可で胸を触るわ。っというか、そんなに胸ばかり触って、幼児な
のって思うぐらいの変質者っぷりなのよ⋮⋮!!﹂
﹁あ、バレてたんですね﹂
﹁のう、それがなにが悪いのだ﹂
﹁ハァ!?﹂
﹁だから、マリカさん。顔が怖いですよ﹂
﹁それは、種として当然のことじゃろう。この男は、他にはなんの
邪心もなく、純粋におまえを求めておるということだ。そもそも、
イヤならばいくらでもおまえの力で密殺することができたはず。つ
まり、それをしないということは、マリカ。おまえが、この男に対
してすでに心を許し始めている、ということにほかならないのだ﹂
﹁えっと。とりあえず、エントが千年会わない間に、とんだ変態エ
ロジジィに変わっていたということがわかりました。ので、今後は
近くを通ってもスルーしますね﹂
﹁マリカよ、照れるでない﹂
﹁そうだ、マリカよ。俺にさっさと股を、もとい心を開け﹂
﹁クランド。邪心が透けて見えるわ﹂
﹁ういうい﹂
138
﹁帰る。早く行きましょう、クランド﹂
マリカは怒ったように背を向けると、ズンズンとエントから遠ざ
かっていく。
﹁おい、マリカ。もう、いいのかよ。久々に会ったんじゃねーのか﹂
﹁枯れてればよかったのに﹂
蔵人は、うわっと、心の中で怯えた声を上げた。ふと、気づけば
普段通り話せている。背後を振り向くと、エントが不器用なウイン
クで片目を閉じたのが見えた。
植物のくせに、なんて気回しのいいジイさんだ。今度、なんか持
ってきてやろう。
﹁マリカ、それにクランドよ。⋮⋮気をつけて﹂
﹁おう! エントのジイさんも、長生きしろよな!﹂
蔵人が小走りに駆けると、マリカはムッとした顔で膨れていた。
﹁古い知り合いなのか?﹂
﹁ええ、昔、アレを家の庭で育てていたのよ。千年で、ここまで育
つなんて。ときの流れは早いものね﹂
﹁するってーと﹂
﹁古老みたいな口ぶりだけど、私より年下なのよ。かなり大きくな
ったとき、これ以上庭では育てられなくなって、お母さまが森のど
こかに移したのは知っていたけど。まさか、こんな場所で再会する
なんて思いもしなかった。ふう、なんだか今日はやけに疲れたわ。
家に帰りましょう﹂
ルーム
﹁そだな。便利な魔術もあるし﹂
マリカは空間歪曲の無属性魔術を使うと、次元に歪みを作って、
小屋までの帰り道を作った。マリカは、蔵人の手を取ると、空間に
たゆたう次元の裂け目に足を踏み入れる。小さくて、やわらかな手
だった。ついつい、指を絡めながら動かすと、マリカは怒ったよう
な目で睨んできた。
﹁次元の狭間に放り落とされたいの?﹂
﹁それは許してね、ぼく、泣いちゃうから﹂
139
マリカは、ばか、とつぶやいて次元を通り抜け、一気に小屋の前
まで戻った。時刻は、夕暮れどきを過ぎ、向かい合った互いの目鼻
がわかにくいほど暗くなっていた。
﹁とりあえず、今日はかなりいいペースで進めたんじゃねえか。な
あ﹂
同意を求めて声をかける。途端に、マリカが胸の中へと倒れ込ん
できた。
︵おいおい、あんな憎まれ口、叩いておいていきなりフラグ達成で
すか!?︶
蔵人が慌てて受け止めると、マリカは目を閉じたまま、息を荒げ
ていた。抱きしめた身体は火がついたように熱い。彼女の白い頬が
赤く火照っていた。そっと、額に手をやると、湿った汗と燃えるよ
うな熱を帯びていた。
﹁おい、だいじょうぶかよ! しっかりしろよ!﹂
﹁ん。うるさいわね、ちょっと、疲れが出ただけよ。ほら、放して
⋮⋮﹂
マリカは強がって蔵人の手を離れるが、二、三歩歩くと、気合の
抜けたクラゲのようにふらついて、くにゃりと地面に崩れ落ちた。
駆け寄って抱き起こす。すでに意識はなく、白い首筋にまで、ビッ
シリと汗が浮き出ていた。
蔵人はマリカを背負うと、小屋の中の寝台に運んで寝かせた。幾
度か呼びかけてみるが返事はない。特殊な持病でもあればとてもで
はないが手に負えない。
小屋を出て、裏の井戸から桶に水を汲むと、彼女の部屋のクロー
ゼットからタオルを拝借して、湿らせて額の上に載せた。蔵人は、
基本的に風邪をひいたことがなければ、特に身体に疾患はない。医
者を呼ぶ、というのが常道だが、村にまで降りていったとしても、
このような僻地の寒村にそのような者がいるかどうか、まず疑わし
い。
また、たとえ医者がいたとしても、村をモンスターに襲わせてい
140
る張本人を助ける者もいないだろう。そもそもが、魔女が病気だと
伝えれば、蔵人が背信したと勘違いされ、或いはこれぞ好機とこの
小屋にまで村人たちが押し寄せて来かねない。
﹁まいったな、八方塞がりだ⋮⋮﹂
どうにもできない状況というのはつらいものだ。蔵人は、苦しそ
うにあえぐマリカを見ながら、己が引き裂かれるような胸の痛みを
感じた。そもそもが、この男は感情過多にできている。自分の痛み
には耐えられても、人のこととなれば、その苦しみを上手く咀嚼で
きないのであった。会って数日の他人といえばそれまでだが、もは
や割り切れないくらいに感情移入してしまったのだ。男女の好悪を
別にして、マリカを助けたい、できることならば代わってやりたい
という感情が膨れ上がっていく。
﹁がんばれ、がんばれ。マリカ﹂
蔵人にできることといえば、馬鹿みたいに彼女の側に寄り添って
手を握ることくらいであった。しばらく経つと、マリカは熱っぽい
とろんとした瞳をそっと開いた。
﹁あ、ここは⋮⋮?﹂
自分がどこにいるか一瞬わからなくなったのか、戸惑った目で辺
りを見回している。
マリカはやがて側の蔵人に視点を置くと、潤んだ目で自嘲するよ
うに口元を歪めた。
﹁悪いわね、迷惑をかけてしまって。で、どうするの﹂
﹁は?﹂
﹁いまなら、私は無力よ。あなたが、村人の約束通り、私の首を落
として届ければ、それなりの報酬は貰えるんじゃないかしら﹂
﹁おまえ、マジでいってんのかよ﹂
﹁だって、そうでしょ。なんだかんだいって、あなたは流れの冒険
者。邪神なんて無視して、効率よくことを運ぶにはそれが一番簡単
なんですもの。魔術はとても繊細なの。いまの私が初級の魔術を詠
唱する前に、あなたは素手で縊り殺すことも﹂
141
﹁そんなこと、するわけないだろ。おまえは、被害妄想気味だ!!﹂
マリカのあまりの言葉に、頭の中が真っ赤にスパークした。ほと
んど、反射的に叫ぶと、彼女は怯えたように目を閉じて唇を噛み締
めた。それは、大人の叱責に怯える幼児そのものだった。よほどの
恐怖だったのか、マリカは瘧にかかったように細く震えだした。蔵
人の胸に苦いものが走った。
なんで怒鳴ったんだ。彼女は、ただ不安なだけなのに。
蔵人がそっと手を伸ばすと、薄目を開けていたマリカは殴られる
とでも思ったのか、キュッと目を強くつむった。できるだけ、力を
込めず、こわれものを扱うように、マリカの頬をさすった。キョト
ンとした顔で、赤い目をしばたかせている。落ち着かせるように、
続けていった。
﹁だいじょうぶだ﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁だいじょうぶだから﹂
そうやって目を見つめながらずっと頬を撫でていると、やがて安
堵したかのようにマリカはすっと深い眠りに落ちていった。寝息を
立てている彼女をそのままにして、部屋の中をクマのようにぐるぐ
ると回り続ける。
しばらくすると、また、マリカが意識を取り戻した。
﹁おい、平気か。どうすればいい、俺にどうして欲しい﹂
﹁ごめん、取り乱して。私は平気よ。これ、たぶんただの風邪だか
ら⋮⋮﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。いつも、たくさん動いたり、魔術を使ったりすると、こう
なるの。私、よく風邪ひくから。そう、寝てれば治るわ﹂
﹁そっか。なにかできることは﹂
﹁うん、あの﹂
﹁なんだ﹂
﹁その、できたらでいいんだけど。クローゼットの一番上の棚に薬
142
が置いてあるから。取ってちょうだい、それと、水を、いただける
かしら﹂
﹁ああ、まかせろ! しっかり、看病してやるからな﹂
蔵人は示された場所から、紙包みの薬を持ってくるが、マリカは
意識が朦朧として、顔を上げることができなかった。
︵おかしいな。ただの、風邪程度でここまでなるかよ︶
マリカを抱きかかえながら起こして、粉状の薬を飲ませた。これ
でできることは本当になくなったのだ。居間から椅子を引いてきて、
寝台の横に置き、彼女の手を握った。苦しむマリカを見続けるのは、
それだけで苦行であった。気の遠くなるような時間が過ぎ、夜が明
けた。何度か、額に置いたタオルを取り替え、汗ばんだ顔を拭いて
みたが、病状は益々篤くなるばかりである。昼頃になると、マリカ
の呼吸は走り抜いた直後のように、絶え絶えになり、白い肌が透き
通るようになっていた。どう考えても、これは風邪ではない。かと
いって、それ以外に原因を探るべく法もない。
ふと、一昨日前に会ったエントのことを思い出した。魔女と断定
され、身寄りのない彼女に同情的かつ頼れそうなものは、もはや彼
ぐらいしか思いつかない。魔女に恨みを持つ麓の村以外を探るとな
れば、少なくとも数日はかかるだろう。マリカと森を進んだ際には、
周囲の状況を確認しながら移動したせいか、四時間近くかかったが、
装備を剣だけに絞って駆ければ往復で三時間は切れるだろう。
﹁すぐ、戻るからな。待っていろ、マリカ﹂
握っていた手を離す。意識が朦朧としている彼女であったが、瞬
間、指が固く絞られた。
蔵人は心を鬼にして彼女の指を解くと、振り返らず小屋を出た。
窓から差し込む光でわかっていたが、久方ぶりの快晴だった。念の
ため地図は携帯したが、歩いた道はすべて頭に叩き込んである。息
を数度、大きくはくと、一気に駆けだした。一度通った箇所であっ
て、おおよその道筋は手に取るように分かった。藪を漕いで、獣道
をひた走った。こうして側を離れたと同時に、マリカの容態が悪化
143
バッタ
しないか、それだけが気がかりだった。モンスターに出会わないよ
う、祈りつつ走る。先日は、少なくとも軍隊飛蝗とモスマンの二種
に出会った。今回、他の敵に出会ったとしても逃げの一手でやり過
ごすしかない。剣は極力抜かない。そんなことをしている暇はない。
マリカが、俺を待っているのだ。
一時間ほど全力疾走を続けただろうか、既に息は荒く、心臓の鼓
動は堪え難いものになっている。アスファルトで舗装された道とは
まるで違い、数倍の労力と集中力が必要となる。全身がカッカと火
照って、額から滴り落ちた汗が、顎を伝って胸元に落ちた。難路は
果てしなく続いている。飢えた犬のように舌を投げ出し、無限に思
える坂を駆け上がったり降りたりした。この方が近道だ。小枝が伸
びて、時折、頬や目を突いた。痛みをこらえ、走った。うなじや耳
元に手をやると、流れた汗が塩となってジャリジャリ音がする。照
り返す陽光が、今日はことさらきつかった。
なんとか、見覚えのある野原に到着し、中央部にそびえる巨木を
目にしたときは、心底安堵した。エントはすでに蔵人の存在に気づ
いていたのか、黒々としたあたたかい目でやさしく迎え入れてくれ
た。かいつまんで、昨日までの経緯とマリカの容態を話すと、エン
バッタ
トは即座にひとつの判断を下した。
﹁おそらく、それは軍隊飛蝗の毒だろう。かの虫に噛まれると、動
物はひどく熱を出し、身体の弱い個体はそれだけで致命傷になる﹂
﹁けど、俺は噛まれたけどなんともねぇぜ﹂
﹁マリカはハイエルフじゃ。そして普通とはちょっと違っていてな。
特に、彼女は高い魔力抵抗を持つ代わりに、身体能力はひどく弱い。
ちょっとした切り傷ひとつがおおごとになりかねん﹂
エントは幸いにも、毒消しの作り方を熟知していた。彼は、森の
小鳥たちに、必要な素材を集めさせると、器用に幹を腕のように扱
って、それらを摺り合わせて薬剤を調合した。
﹁とはいえ、マリカも成人した歴としたハイエルフ。昆虫毒くらい
では死なぬだろうが、万が一もある。早く届けてやってくれ。儂は、
144
ご覧のとおり、この地を離れられんのでな﹂
﹁すまねえ、恩に着るぜ!﹂
﹁はは。礼をいうのはこちらのほう。彼女には、若木だったおり、
よくしてもらったからな。クランドよ、彼女を頼む。マリカは、本
当は誰よりも寂しがりやなのだ﹂
復路は下りが多く、予定以上に早く戻れそうだった。一番気がか
りであったモンスターにも出くわさない。空は春めいていて、透き
通った青が輝いていた。ふわりとした、わた雲がまばらに浮かんで
いる。気温はグングン上がっており、上着を羽織るのがイヤになる
くらいである。下りの連続で、膝が徐々に疲れを溜め込み、踏ん張
りが効かなくなっていく。歯を食いしばって己を叱咤する。予定以
上の速さで、小屋に戻れそうだ。峠道を駆け下りながら気をゆるめ
ると、ふと、背後にすさまじい殺気を感じた。蔵人はほとんど宙を
泳ぐようにして、斜面に飛び込んだ。シュッと身震いするような、
空気を裂く音が耳朶を打った。矢尻がどこかの幹に突き立って響く。
蔵人は、後ろを振り返った。黒装束の影がよっつほど見えた。間違
いない。数日前、突如として襲いかかってきた、操り主すらわから
ない刺客だった。無言のまま、四人が剣を引き抜いたのが見えた。
マリカの小屋はそこまでだ。毒に苦しむ彼女を巻き込むことはでき
ない。目の前の四人は、ひとりも逃さず、この場で斃さなければな
らないのだ。蔵人は鞘を放り投げて剣を構えると、猛然と斜面を駆
け上っていった。
145
Lv10﹁雪解魔女﹂
蔵人が長剣を担ぐようにして斜面を駆け上がると、一番先頭の男
が怒声を放ちながら突っ込んできた。
身を低くして飛び込む。
担いだ剣を全力で振るった。
鈍い音と共に、剣の切っ先が折れて弾け飛んだ。
なまくらだった刃の限界が突如として訪れたのだ。
覆面の刺客の瞳が僅かにゆるんだ。それが、生死を分ける一瞬だ
った。
蔵人は半ばまで残った長剣を無我夢中で真横に振るった。骨の折
れる異様な音と、男の絶叫が入り混じって木霊した。蔵人の一撃が
男の脛を骨ごと叩き割ったのだ。
かぶさるように崩れ落ちる男の手首にしがみつく。
額を思い切り男の鼻面に叩きつけた。鈍い音が鳴った。同時に奪
った長剣を両手で構えた。男の脇腹を蹴りつけて、斜面の下へと叩
き落とす。左右からふたりが迫った。
蔵人は飛び上がって右方の男の顔面へ垂直に剣を振るった。
長剣が白い軌跡を描く。
男は顔面を真っ向から断ち割られ、後方にひっくり返った。
瞬間、左脇腹に灼けるような痛みを覚えた。
左手の男が手に持った剣で深々と抉ったのだ。喉に熱いものが込
み上げてくる。痛みで目の前が真っ赤に明滅した。左手で刃を握っ
た。ギョッとした男が顔を上げる。手に持った剣を斜めに振るった。
刃は男の喉笛を斜めに抉るとドス黒い血を降らせた。
残った無傷のひとりが踊りかかってくる。
146
蔵人は両足でその場に踏ん張ると、両手に剣を持ち替えて正面に
繰り出した。
耳をかすめて左肩に刃が食い込んだ。痛みに歯を食いしばる。
男の胸元へ、諸手突きが深々と決まった。
蔵人が素早く刃を抜き取ると、男は両腕を激しく痙攣させてその
場に倒れ込んだ。脛を断ち割られた男がなんとか逃げようと這いず
っている。駆け寄ってトドメを刺した。
蔵人はその場に片膝を突くと、激しくあえいだ。肩から流れ出る
血が胸元をぐっしょり濡らしている。特に深いのが脇腹だった。左
手で傷口を確かめる。やわらかなハラワタが指に触れた。痛みより
もショックで気を失いそうになった。このままにしておけば、中身
がドンドン流出してしまう。腹腔からハラワタが出切れば、間違い
なく助からない。発狂しそうになりながら、無理やり指で埋め戻し
た。
ジッと座っているうちに、胸元の紋章が強く輝きだした。
どのくらいそうしていたのだろうか、恐る恐る傷口に触れてみる
と、薄い膜のようなものが張っていた。慎重に峠道を降りる。
時間に余裕があったはずなのに、気づけば日が落ちかかっていた。
飛びそうになる意識を無理やり押さえつけ、小屋に転がるようにし
て飛び込んだ。
バッタ
寝室に向かうと、マリカは紙のような白い顔で寝入っていた。
蔵人は、彼女が軍隊飛蝗に噛まれていたことを気づけなかった自
分を恥じた。
エントに作ってもらった毒消しを煎じて湯に混ぜた。マリカをど
うにか起こして薬を飲ませようと試みるものの、もはや上手く嚥下
できないらしい。
﹁許せよ、マリカ﹂
蔵人は毒消しを口中に含むと、口移しで飲ませた。薬湯を口内に
押し込んで舌を動かすと、ようやく飲み干してくれたのだ。たいし
た量ではなかったので不安であったが、効果は覿面だった。一時間
147
も経たないうちに、マリカの顔色が赤みを帯びていく。
﹁やった。はは、やったぞ﹂
蔵人はようやくやり遂げた達成感で安堵すると、意識していなか
った疲労がドッと押し寄せてきた。傷を回復させたせいか、基本的
な体力も必要以上に消費したのだろう。起きてられない。倒れ込む
ようにして寝台に上半身がのめった。シーツが血で汚れないかと不
安になりながら、深い眠りに落ちていった。
強く揺さぶれる感覚で意識が戻った。蔵人が顔を上げると、そこ
には真っ赤な瞳を大きく見開いたマリカの姿があった。
﹁よかった⋮⋮﹂
彼女はそういうと、顔を近づけて頬をすり寄せてきた。
一瞬、状況が理解できない。
気づけば、蔵人は寝台に突っ伏すようにして意識を失っていたこ
とが理解できた。
マリカの顔。
長時間泣いていたらしく、目元から頬に白い涙の跡が残っていた。
寝起きのため、乱れた髪がほつれている。
波打った銀色の髪が放射状に伸び、クシャクシャになっていた。
﹁もう、死んでしまったのかと思った﹂
﹁知らん間に寝ちまってたのか﹂
蔵人はマリカを救うためにエントの元へ走り、毒消しを作った後
に山中で刺客とやりあったことをかいつまんで話した。
﹁もう、身体はいいのか﹂
﹁ええ。すっかり平気よ。ごめんなさい、この家にベッドはここし
かないの。すぐ、空けるわ﹂
148
﹁おいおい。俺はもう、どうってことねえよ。それに、傷口はとっ
くに塞がってる。おまえは、少なくともあと二、三日は養生したほ
うがいい。ほら、な。ごろんしな。ごろーん﹂
幼児にいい聞かせるよう擬態語で指示する。マリカは切なげな目
で顔を左右に振った。
﹁でも、それじゃクランドが﹂
しばらくは押し問答が続いたが、結局のところ、蔵人が押し勝っ
た。部屋の中は、小さなロウソクがひとつ点いているだけで、明度
は低い。妙にムーディな雰囲気である。
マリカの瞳が、ずっと自分を見つめていることに気づき、蔵人は
妙にくすぐったい気持ちになった。打って変わったしおらしげな態
度だ。病のせいだろうと思い切った。
﹁ねえ、私の話覚えてる? 危なくなったら、逃げなさいっていっ
たわ﹂
﹁覚えているさ﹂
﹁じゃあ、なんで。なんでなのよ。そこまで苦労して、なんで私な
んか﹂
﹁なんで、なんでって俺はおまえの父ちゃんじゃねえからな。いろ
いろ聞くんじゃねえよ﹂
﹁だって﹂
﹁だっても、へったくれもない﹂
﹁ずるい﹂
﹁ずるくない。ああ、もお。そんな顔すんな。勘違いしているよう
だけど、おまえの薬をめぐって、黒覆面どもとやりあったわけじゃ
ねえ。こいつは、あくまで私事ってやつだ。薬を取って帰った道で、
もらい事故をしたようなもんさ。おまえさんが気に病むようなこと
じゃねえ﹂
﹁けど、クランドが私のことなんて気にしないで、放っておけば。
少なくとも、そんなケガしないですんだのに﹂
﹁この話はおしまいにしよう。誰が悪いとかどうとか考えたって起
149
きちまったことはどうしようもない。それよりも、早く寝ろよ。少
しでも、俺に悪いと思ったら、早く動けるようになれ。それに、マ
リカを助けたのは、いちいち考えてやったわけじゃねえんだ﹂
﹁じゃ、なんでよ﹂
﹁俺がそうしたかっただけだ﹂
﹁やっぱり、あなたってかなりおバカさんね﹂
﹁知ってます﹂
﹁ねえ、私のおバカさん。ひとつ、お願いしていいかしら﹂
﹁ま、できることならな﹂
﹁その。私が眠っている間、手を⋮⋮﹂
﹁まったく、とんだ甘ったれだ﹂
蔵人はマリカの手を握ると不器用にウインクをした。
彼女は、恥ずかしげに目元を伏せ、ありがとうとつぶやいた。
翌朝、マリカは床上げをした。体調は万全とまでいかずとも、自
立歩行できる程度には回復したのだった。さすがに、森の迷宮を探
索することは不可能であった。
蔵人が数日の静養を提言すると、彼女はおとなしくそれを呑んだ。
昨日の晩から、マリカの態度は以前よりもはるかに軟化していた。
悪いことではない。
蔵人はワガママな女よりも、無個性で従順な女を好んでいた。
これは、彼の女に対する嗜好がかなり偏っているのだが、この封
建制の根づく世界ではそれほど奇異ではなく、むしろマッチしてい
た。男は、身を張って家族を守り、女はそれに仕える。一家が団結
しなければ即座に崩壊へつながる生きにくい世の中なのだ。平穏の
中にも、貧困、争い、病魔、天災と個人の才覚ではどうにもならな
150
いことが、取り揃っている。死は常に隣り合わせで手招きしながら
薄笑いを浮かべているのだ。
﹁今日の昼食は、外で食べましょう﹂
蔵人が戸外で平たな石に腰かけていると、マリカが鍋と食器を手
にして寄ってきた。
午後にもなれば春の日差しは強く、汗ばむほどである。
マリカはいつもの魔女っぽいとんがり帽子ではなく、ヒラヒラの
ついた両頬を包む形の白いボンネットをかぶっている。薄緑のドレ
スを着てしとやかにしていると、まるで花の妖精のように可憐では
かなげだった。
﹁なに、ニヤニヤしてるの。気持ち悪いわね﹂
﹁あーはいはい﹂
楡の木の根元にしいたシートの上に座った。鍋の中はよく煮込ん
だポトフである。蔵人がバスケットの中身に手を伸ばすと、ペチン
と甲を叩かれた。
﹁食事の前は、ふきんで手を拭いて。お腹をこわしてしまうでしょ
う﹂
﹁おまえはオカンか⋮⋮﹂
器に盛られた鶏肉と野菜を口に運びながら、サンドイッチをつい
ばんだ。マリカは、目を細めながら庭に生えているナツツバキをジ
ッと見ていた。
﹁その花が好きなのか﹂
﹁ええ、サーラは大好きよ。お母さまとここに座ってよく眺めたわ﹂
ナツツバキは梅雨どきに開花する落葉高木である。かつて、釈迦
が入滅する際に、開花したといわれ沙羅双樹に例えられるが、本場
インドに生えるものと、ナツツバキはまったくの別物であった。
﹁その花は、沙羅双樹といってな。俺の国では、古代の聖人が涅槃
に入ったときに咲き乱れたとされる神聖な花、のオルタナティブだ﹂
﹁なにそれ。偽物を崇めてるの?﹂
﹁古代の聖人はお釈迦さまといって、うーんと暑いところの生まれ
151
でな。その教えは、俺が住んでた日本ていうずっと東の国に流れて
きたんだけど、日本はお釈迦さまの国と違って、冬になるとバカ寒
くなって、本物の沙羅双樹は自生していないんだ。そんで、代替品
としてナツツバキが崇められるようになった、らしい﹂
﹁驚いた。あなたって、結構学があるのね。ずっと、冒険者をやっ
ていた、にしてはそれほど旅慣れていなかったし。国ではなんの仕
事をしていたのかしら﹂
﹁仕事はしていない﹂
﹁していない? 実家は裕福だったのね﹂
マリカはキョトンとして、そういった、無理もない。この世界で
は、十代前半で立派な働き手の一員として数えられるし、そうでな
ければ蔵人ぐらいの歳でブラブラしているのはならず者か富裕階級
と相場は決まっていた。
﹁いや、別に裕福だったなどということはない、むしろ、金にはい
つも困ってたな﹂
﹁それじゃ、奥さんや子供を養うのも大変でしょう。あなたも、こ
の国に呼び出されて、さぞ家のことが心配でしょう﹂
﹁またもや期待を裏切って悪いが、妻帯もしていないし、子供もい
ない。俺は、ただの学生だったよ﹂
マリカは蔵人の言葉を聞いて、訝しげな顔をした。
それから、激しく困惑しているようだった。二十歳くらいになれ
ば、結婚して子供のひとりやふたりいるのがあたりまえである。
ましてや、彼女の価値観は、千年前で止まっているのであった。
社会常識としてその辺のことは母親に教え込まれていたのか、マ
リカは蔵人に対してどう接していいのかわからない様子だった。
﹁でも、いつかは国に帰るのでしょう﹂
マリカは暗い目になると、唇をすぼませて鍋の中身をグチャグチ
ャにかき回した。
チラチラと、恨みがましい瞳で視線を送っている。
そこには蔵人に対する無意識の甘えと馴れが見て取れた。
152
﹁帰る? それは、帰ることができればの話だがな﹂
ルーム
三日後、蔵人はマリカが復調したのを見届けると、再び邪神封印
の為、森の迷宮踏破を再開した。空間歪曲の魔術で先日探索を中座
した場所まで戻った。
マリカは、しばらく蔵人にその場で待つように頼むと、エントの
居る野原の中央に行き、しばらく話をしていた。
おそらく薬の礼をいっているのだろう。律儀なやつめ、とほくそ
笑む。
﹁ところで邪神っていうのは、いったいぜんたいどんなやつなんだ
よ﹂
﹁私も詳しくは知らない。知らないけど、たぶん、生半可な相手で
はないと、お母さまに聞いているわ﹂
マリカはあまり邪神の存在に触れたくないのか、ところどころ言
葉が沈みがちになる。
︵といっても、俺は魔術の門外漢なのだ。封印云々は、マリカを信
じて任せるしかねえ。どっちみち、顔を合わせりゃどんな相手かは
イヤでもわかるだろうよ︶
マリカは病み上がりである。おまけに、魔術を使って飛ぶのも億
劫なのか、浮揚したまま前進しているが、時折遅れがちになってい
た。意識してスピードを落とす。彼女は、心苦しいといったていで
眉を下げた。
﹁ごめんなさい、まだ本調子ではないのよ﹂
﹁わかってる。今日はゆっくり行こうか﹂
風はそよとも吹かず、見渡す緑の木々は沈黙を続けている。蔵人
は鞘から抜いた剣で前方の木々を払いながら、地図を頼りに前進を
ひたすら続けている。
﹁気をつけて。なにか、来たわ﹂
マリカの長耳が接近する微細な音を捉えたのか、ピクピクと蠢い
た。
蔵人が油断なく剣を構える。木々の梢から、巨大かつ醜悪な化生
153
が舞い降りてきた。
チョンチョン。
人間の頭だけの怪物である。
胴体はなく、巨大な両耳を翼がわりにして、空を飛ぶモンスター
である。
コンコン、と奇怪な鳴き声を上げながらチョンチョンは蔵人たち
の頭上をグルグルと回り続けている。
顔つきは人間そのものだが、眼球は白い部分がなく、全体が黒く
塗りつぶされており、見るものを不安定な気持ちにさせた。
﹁気をつけて。そいつは、チョンチョンといって、口から炎を吐き
出すの﹂
﹁まったく、不快なことこの上ない化物ぞろいだな、この森は﹂
﹁否定しないわ﹂
三体のチョンチョンは、蔵人に狙いを定めると、突如として急降
下を始めた。
真っ黒な歯を剥き出しにして、喉奥から炎を吹きつけてくる。
蔵人は横っ飛びに避けると近づいてきたチョンチョンに剣を振る
った。
が、チョンチョンはひらりと刃を避けると、風を巻きながら十メ
ートル近くまで一気に昇りつめていく。
﹁ちきしょう! これじゃあ勝負にならねえぜ﹂
蔵人が悔し紛れに毒づく。
チョンチョンの大きさは、人間の頭部と変わらない。
見た感じでは特別に防御力が高いとも思えないが、こうもヒラヒ
ラ逃げ回られるのでは話にならない。
先ほど吹きつけられた炎で、潅木や乾いた木切れが灰色の燻った
煙を上げている。
アイスショット
まともに喰らえば、大ヤケドは確実だった。
﹁氷の矢!﹂
沈黙していたマリカが水属性の魔術を頭上で旋回するチョンチョ
154
ンに向けて放った。
振り切られた杖の先から、氷の矢が打ち出されると、無警戒だっ
た三体に向かって雨のように降り注ぐ。チョンチョンは、ニワトリ
が締められるような聞き苦しい悲鳴を上げながら、力を失って墜落
する。
蔵人は待ってましたとばかりに、長剣を天に向かって、ぐいと突
き上げた。
落下のスピードが加わった一撃を顔面に喰らって、一体は血煙を
上げて地面に転がった。
アイスショット
翼がわりにしていた大耳が、激しく痙攣する。
残った二匹に向かって、マリカが氷の矢を連続で叩き込んだ。
ぶすぶすと、氷のつららがチョンチョンたちの瞳や側頭部、頬を
鋭く抉った。
ドス黒い血液が、辺りの木々や草木を細く叩いた。
﹁やったな、さすがマリカだぜ﹂
﹁ええ、ケガはないかしら﹂
﹁ああ、まるっきり平気だ。こんなザコはちょちょいのちょい⋮⋮
どうした﹂
見ればマリカは肩で息をしていた。浮揚の術も解いて、地面に降
り立っている。顔色は真っ青でいまにも倒れそうな雰囲気だった。
胸が激しくざわつく。
﹁おい、どっかまたやられたのか⋮⋮﹂
﹁いいえ。けど、やっぱり、ちょっと疲れやすくて。うん、原因は
わかっているから。ごめんなさい、迷惑かけて。でも、少し休めば
治るから。へいきよ﹂
﹁ぜんぜん、平気じゃねえよ。やめよう。やっぱ、おまえまだ疲れ
てるんだわ。無理する必要はないよ。帰ろう、な﹂
﹁うん。ありがと。でも、たぶんこれ以上時間をかけている暇はな
いと思う。こうしているだけで、この森自体に邪神の悪気が強く満
ちていくのがわかるの。私も、本当にダメになったらいうから。そ
155
の、もう少し猶予をちょうだい。こんなことじゃ、いつまで経って
も邪神の元にはたどり着けないわ﹂
﹁まあ、おまえがいうのなら。無理にとは、いわないけど﹂
﹁毒のせいであまり魔力が回復していなの。これからは歩くけど、
遅れそうになったら先に行ってもらってかまわないわ﹂
﹁だから、そんなことできるわけないだろうが﹂
﹁へいきよ。だって、あなたは邪神を封じたら、ここからいなくな
るのでしょう。私は、これからもこの森でひとりで生きていかなく
てはならないの。このくらい、慣れておかないと﹂
﹁無理だ﹂
﹁無理でも慣れておきたいのよ﹂
マリカは歯を食いしばると、よろついた足取りで蔵人の後を追っ
た。探索を続けて進むうちに、マリカの体力はあっという間に限界
がきた。
彼女はそれでも、額に汗をにじませながら、水を浴びたような顔
つきで必死に食い下がっている。
蔵人は、大きくため息をつくと、自分の髪をグシャグシャにかき
むしってから、その場に膝を突いて背中を向けた。
﹁乗れよ。俺が背負った方が早い﹂
﹁へいきよ。私はへいきなの。同情しないでちょうだい﹂
﹁これは同情じゃねえ。合理的選択といってもらいたい。それに﹂
﹁それに、なによ﹂
﹁こうしておまえをおぶえば、合法的にハイエルフおっぱいを背中
で楽しむことができるだろ﹂
﹁⋮⋮あなた、やっぱりおばかさんね。女に対して、いくらなんで
もその口説きはないでしょう﹂
﹁そうか? 俺にしては、かなりイチコロの口説き文句だと思うの
だが﹂
﹁そんなわけないでしょう。ああ、もおっ。今回だけは、クランド
のセクハラを容認してあげるわよっ﹂
156
﹁やった、和姦だ﹂
﹁だから、心底ばかね、あなたは。感謝なさい。奇跡的に、私の豊
満な肉体の感触を味わえるのよ。しかも、超レア種族のハイエルフ。
死ぬまで覚えておきなさいね﹂
﹁うん。子々孫々に伝え残すよ。マリカの淫蕩な肉体の記憶を﹂
﹁私は変態か⋮⋮!﹂
﹁夜のおかずに最適。変態ハイエルフのわななく肢体﹂
﹁ばか﹂
マリカを背負った蔵人は一定のスピードで森を駆け抜けていった。
﹁ねえ、私、重くないかしら﹂
﹁綿毛みたいなもんさ。おっぱいは、以外におっきいけど﹂
﹁えっち﹂
﹁もっと、グリグリしてもいいんやで、マリカさん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁うひょおっ!﹂
﹁ば、ばか。調子に乗らないでくれる。いまのは、ちょっとバラン
スを整えただけよ﹂
﹁左右のバランスをか? ありがたいことやでぇ﹂
﹁ねえ、なんかクランド、あなたの態度本当に気持ち悪いんだけど﹂
﹁と、いいつつも持て余した瑞々しい身体を火照らせるマリカであ
った﹂
﹁だから、変なモノローグをつけないでっ﹂
蔵人にとって、実際問題マリカの重さなどものの数ではなかった。
ハイエルフの背にグリグリ押しつけられるおっぱいパワーで、無限
機関と化した煩悩エンジンは唸りを上げて回転する。ひたひたと、
獣道を歩き続け、気づけばそこまで夕闇は迫っていた。
深い森は、標高の低い山々の連続である。登ったと思えば、再び
降り、降りたと思えば再び登る。神経的にはかなりキツイ。
だが、蔵人は弱音ひとつはくことなく、両足を動かし続けた。
﹁ちょっと止まって。なにか、聞こえる﹂
157
マリカが背中で身を震わせるのを感じた。 蔵人も本能的に危険を察知したのか、その場で足を止めた。
目を凝らして彼方を仰ぐと、薄暗くなった樹林帯で、誰かが争う
声が聞こえた。その場でかがんでいると、真っ直ぐこっちに向かっ
て駆け寄ってくる、ふたつの影があった。
マリカをかばって前に立ち、長剣を水平に構えた。
影の先頭は、大柄な若い男だった。かなり焦っているのだろうか、
蔵人の存在に気付いた途端、持っていた手斧を叩きつけてきた。長
剣を頭上に持ち上げて防ぐ。
同時に、男の胸板を蹴りつけた。
後ろを走っていた小柄な影を認めたとき、驚きで動きが凍りつい
た。
﹁クランドさまっ!﹂
﹁うおっ、ゲルタか!?﹂
﹁きゃっ﹂
飛びついてきたゲルタを抱きとめる。
確かに、魔女討伐の依頼を受けた村で別れた少女に間違いなかっ
た。
ほっそりとした白い顔が恐怖に怯えている。ゲルタがふるいつく
ように身を寄せるたび、豊満な乳房が腕に押しつけられ、自然と顔
つきもゆるんだ。
﹁ちょっと、なにやっているの﹂
マリカの怒気を孕んだ声に、ハッとなった。
﹁そうだ、いったいこんなところで、なにやってんだ! この森は
無茶苦茶危険なんだぞ﹂
﹁あたし、クランドさまがいつまでもお帰りにならないので、心配
になって。それで、ちょうど居合わせた旅の冒険者さまが、クラン
ドさまをいっしょに探しに行こうっていってくだすって。それで、
荷担ぎのジョージといっしょに森に入ったのですけど、迷ってしま
って。ああ、こんな話をしている場合じゃないわっ。冒険者のルー
158
クさまが、モンスターに囲まれてッ﹂
﹁よしきた、任せろ!!﹂
蔵人はゲルタをその場に留めると、猛然と走り出した。五十メー
トルほど先まで行くと、青い上下の衣服を着た若い男が一体の怪物
に押し倒されていた。
全身を黒い体毛で覆われたこのモンスターは、ブルベガといった。
昼間は強い陽光を避けて洞穴に隠れているが、日が落ちると活動
を開始する肉食性の怪物である。ルークらしき若い冒険者は、喉元
に喰らいつこうとするブルベガをなんとか押し返すだけで手一杯と
いう状態だった。
蔵人は叫びながら一気に間合いを詰めた。抜き放った長剣が銀線
を描いた。振り返ったブルベガの胸元を斜めに斬りつけたのだ。
ブルベガは激しく絶叫すると、赤黒い瞳を爛々と光らせて、殺害
対象をルークから切り替える。蔵人の斬撃は浅かったのか、ブルベ
ガの薄皮を僅かに裂いただけだった。
ルークはふらつきながら立ち上がると、剣を構えてブルベガから
距離を取った。
遠目で見ても、彼がブルベガに対して怯えているのがわかった。
いま少しで殺されそうになったことに対し、激しいショックを受
けているのだ。
それは、ルークが修羅場を潜っていないという事実を決定づけて
いた。
このような状態ではとてもではないが、戦力に数えられないので
ある。
フレイムキャノン
ひとりやる。そう決めたとき、マリカの声が鋭く響いた。
﹁火炎砲弾!﹂
蔵人の後方から、マリカの援護射撃として火属性の攻撃魔術が撃
ち出された。
直径三メートル近い炎の塊がシュルシュルと異様な唸りをあげて
飛んだ。
159
突っ立っていたブルベガを丸ごと飲み込むと、火の粉を上げて燃
え盛った。
この一撃には、さすがの怪物もたまらない。
身をよじって辺りに転がり火を消そうと躍起になった。
蔵人は勝機を見逃さない。手にした長剣を持って激しく跳躍した。
飛び込むようにして刃をブルベガの胸元に叩き込む。
冷たく閃いた切っ先は、ブルベガを貫いて大地に鋭く突き立った。
ブルベガは激しく身体を灼かれながら、四肢を痙攣させると、や
がて絶命した。
﹁いやあ、本当に危ないところをありがとう。助かったよ﹂
ルークは改めて名乗ると、屈託のない笑みを浮かべて泥だらけの
頬を恥ずかしそうに手の甲で拭っていた。金髪に金色の瞳。上下の
衣服は清々しい青色で統一しており、なかなか整った顔立ちをして
いた。
ルーク・キャラハンは、ブルベガに苦戦していた通り駆け出しの
冒険者だった。
今年で十七になる彼は、ゲルタの言葉通りに村に立ち寄った際、
善意から帰りのない蔵人の捜索を引き受けてくれたらしかった。
﹁で、クランド。できれば、そっちのエルフのお嬢さんも紹介して
くれるとうれしいんだけどな﹂
ルークは、蔵人の背後でむっつり押し黙っているマリカをチラチ
ラ見ながら、頬を赤くして訊ねた。
﹁マリカよ。クランドとは、数日前森で会ったの﹂
﹁そ、そうか。ふたりは会ったばっかりなんだあ。すごい連携だっ
たから、僕はてっきり長いつきあいの仲かと思ったよ、あはは﹂
160
ルークはマリカの素っ気ない言葉にすら顔を赤らめていた。小さ
な声で、僕にもまだチャンスが、などとつぶやくのが聞こえたが、
それは無視した。ルークの気持ちはわからんでもなかった。マリカ
の美貌は群を抜いている。
もっとも、マリカ自身はルークやその他の人間に興味がないよう
で、聞かれない限りはジッと押し黙っている。気のせいか、かなり
不機嫌な様子だった。
﹁クランドさまぁ。あたし、クランドさまがいつまでも帰って来ら
れないので、本当に心配で心配でたまりませんでした。でも、ご無
事でよかった﹂
﹁なはははっ。いやあ、俺ってば結構強いんよ。こんな森のモンス
ター程度じゃ、やられはしないっての﹂
﹁クランドさま。先ほど、ルークさまが苦戦していたモンスターも
あっという間に討ち取ってしまってらして。本当にお強いんですね、
素敵﹂
ゲルタは潤んだ瞳をキラキラさせながら、さらに身体を押しつけ
てきた。
夜もとうに更けていたので、四人は自然とその場で露営すること
になった。ジョージは元来寡黙なのか、指示されずともテキパキと
火を焚いたり、天幕を張ったりして雑用をこなしている。蔵人はし
なだれかかるゲルタの身体を抱きながら、ここ数日の話をかなり盛
って怪気炎を上げていた。いまや、ルークはほとんど太鼓持ちの状
態で、感心しきりにうなずくばかりである。これで自制ができるほ
ど、蔵人は人が練れていなかった。
マリカは、蔵人の隣りに陣取りながら、ゲルタがぴたっと身体を
寄せるたびに不機嫌な表情になっていく。空に浮かぶ、痩せ切った
月が一行をほのかに照らしていた。
161
162
Lv11﹁嫉妬魔女﹂
あの三人を仲間にするなんて冗談じゃないと、マリカは蔵人の言
葉を強硬に否定した。
マリカの気持ちはわかった。ルークは冒険者といっても、ほとん
ど素人同然の駆け出しだし、ゲルタはただの村娘。なりの大きなジ
ョージは馬力だけはありそうだったが、勇気の方は常人以下。蔵人
が戦っている間は、ゲルタの背に隠れて震えていたとのことだった。
﹁あんな人間たちなんか放っておいて、小屋に帰りましょう。いま
なら、離れているから、どうせわからないわ﹂
蔵人たちは、露営地から離れた場所で、密かに話をしていた。万
が一にもマリカが森に住む魔女だと気づかれては面倒だ。彼女の話
によると、首尾よく蘇りかけている邪神を再封印できたとしても、
少なくとも一年以上は、結界に魔力を送り込み続ける作業を行わな
ければならない。蔵人は彼女の魔術の腕前は相当なものだと思って
いる。その彼女が、ここまで使命感を持って行っているのであれば、
その労苦や難易度はよほどのものであろう。
﹁邪神を封じることができるほどの魔力を持っているのは、いにし
えから血を残す私たちだけなの。ハイエルフ以外に、かのものをこ
の地の龍脈に縛りつけられる存在はいないわ。ねえ、クランドわか
ってちょうだい。はっきりいって、彼らのお守りをしているほど、
それほど余裕がないの﹂
﹁それって、ゲルタたちをこの危険な森に置いていくってことだろ。
163
そりゃねえだろ、彼女は俺を心配して探しに来てくれたんだぜ﹂
﹁ふん、どうだか﹂
﹁なんで、いきなりそんな意地悪いうんだよ﹂
﹁ねえ、あのゲルタって女のこと、好きなの?﹂
﹁んだよ、藪からスティックに。ん、そうだな。結構好きだよ。や
さしいし、村ではいろいろよくしてもらったからな﹂
﹁私だって、いろいろしてあげたじゃないっ! ごはんも作ってキ
チンと食べさせたし、家にも泊めたわ!!﹂
﹁ばか。いきなり、なんでデカイ声出すんだよう。みんなに気づか
れちまうじゃねえか﹂
﹁ばかはそっちよ。ふん、あんなゲルタって女のどこがいいわけ。
安っぽい顔だし、頭の程度もきっと安っぽいのよ﹂
﹁おい、よく知らない人の悪口いうなよ。見損なったぜ﹂
﹁なによ、なによ!!﹂
﹁ちょ、だから落ち着けって⋮⋮﹂
﹁とにかく、あの女はイヤなのっ! なんで、なんでわかってくれ
ないの!? わがままいってるのはそっちじゃないの。あの村の人
間は、ずっと私を殺そうとしていたのよ? どんな顔で仲間だとか、
歯が浮くような嘘をつかなきゃならないのっ﹂
﹁そんな、話せば分かるさ。犬養毅並に﹂
﹁ねえ、クランド。私たち、ずっとふたりで仲良くやってきたじゃ
ないの。邪神だって、私の魔術とあなたの剣の腕⋮⋮ちょっとへっ
ぽこだけど、それがあれば立派に果たせるわ﹂
﹁んん? ははーん、さては﹂
﹁なによ﹂
﹁ヤキモチ妬いてるな、俺とゲルタのこと﹂
﹁︱︱ばかっ、もう知らないッ!!﹂
﹁あいとわあっ!?﹂
マリカは蔵人の頬を思い切り張りつけると、頭から湯気を出して、
その場を立ち去った。
164
蔵人はビンタの反動で背後にひっくり返ると、浮き石を踏んづけ
て体勢を崩し、頭を木の幹にしたたかにぶつけて、ゆるい屁をこい
た。ちょっと、水っぽいのも混じった。
翌日から、マリカの蔵人に対する態度に変化が見受けられた。彼
女は、必要以上にルークに対し親密さを表すようになった。ルーク
の話をさも関心があるように聞き、手を取って微笑んで見せ、食事
のたびに、側に寄り添って給仕を務めた。
だが、この作戦は蔵人に有効たり得なかった。
彼は、探索途中においてゲルタとベッタリだった。
つまり、ほとんど意識がマリカから離れているのである。蔵人は
自意識過剰なところがあり、マリカがまさかぽっと出の男に寝取ら
れるなどと思いもよらず、仲がいいな程度にしか思っていなかった。
近視眼的に恋愛行為に没頭するのが彼の悪い癖であった。無神経と
もいえた。
蔵人とゲルタがほとんど、顔を寄せ合うようにして、いちゃつき
まくり、マリカの顔色からは平常心が失われていった。まずいと思
い、ルークから急速に離れたマリカであったが、若いルークが彼女
の稚拙な演技にハマりきり熱を上げてしまったのは、自然なことで
あった。
﹁はあ、あともうちょっとで、ダンジョンが見えてくるかァ﹂
蔵人は、ゲルタたちと合流した次の夜、ひとり野営地を離れて小
用をたしていた。
彼が筒先を振って雫を切っていると、背後からぬっとひとつの影
が飛び出した。
マリカである。
165
﹁のわっ!? い、いきなり出てくるんじゃねえっての!﹂
﹁ちょっと、粗末なもの向けないでちょうだい。それより、ちょっ
といい﹂
﹁な、なんだよ。おっかねえ﹂
蔵人が見るところ、マリカは無表情だった。とんがり帽子を目深
にかぶっているので、瞳が見えない。高く整った鼻だけが僅かに震
えていた。
﹁デレデレするのもいいけど、この辺一帯。囲まれてるわよ﹂
﹁ええっ!?﹂
マリカの声に異常を察知した。蔵人は、下穿きを上げて即座に皆
の元へ戻るが、すでに戦いは始まっていたのだ。天幕を張った野営
地周辺には不気味な黒い影が少なくとも、三十近く蠢いていた。ル
ークが、剣を振り上げて、三体ほどのモンスターと戦っている。
その奇怪なモンスターは、樹木に手足が生えて二足歩行をしてい
る。闇夜に輝く黄色い瞳は見るものをゾッとさせる底知れぬ嫌悪感
を引き出した。
﹁あれはエビルエント。本来なら、森を守る木人が邪神の気を受け
て悪鬼と化したものよ。気をつけて。数は多いけど、その一体一体
が相当手ごわいわ!!﹂
ほんの少し、目を離しただけで、先ほどまで楽しい夕餉をとって
いたくつろぎの場は、惨劇の舞台と化していた。
﹁くっそおおおっ!!﹂
﹁ああっ、ジョージ! ジョージッ!!﹂
ルークは真っ赤な顔で、大きさが百五十センチほどのエビルエン
トとつばぜり合いになっている。荷担ぎのジョージは、右腕を傷つ
けられたのか、座り込んだまま動けなくなって、ブルブルと震えて
いた。
ゲルタはジョージにしがみつくと、発狂したように泣き叫んでい
る。
﹁早く、クランドさまっ、早く!! ジョージを、ジョージを助け
166
て!!﹂
﹁わかった、いますぐ行く﹂
蔵人は長剣を鞘走らせると、目の前のエビルエントに向かって激
しく斬りつけた。
ガッと、乾いた木が裂ける音が鳴った。邪悪化した木人は横倒し
になりながらも、右腕を無茶苦茶に振り回す。手先は尖った木の枝
になっていて、鋭い凹凸が刻まれている。蔵人は右足の腿を素早く
フレイムナイフ
斬りつけられて、眉をしかめた。
﹁このッ! 火炎小刀!!﹂
マリカの杖先から、二十センチほどの炎の刃が鋭く撃ち出される。
シュシュッと火が激しくほとばしった。
真っ赤な火箭がエビルエントの身体を切り刻んだ。
メラメラと燃え盛りながら崩れ落ちるモンスターを蹴りつけ、蔵
人は顔をしかめた。大腿動脈を傷つけたのか、驚くくらいに大量の
血が流れ出る。膝を突きそうになったとき、ゲルタが再び黄色い絶
叫を上げた。駆け寄って長剣を無我夢中で振るった。
蔵人の振るった長剣は、闇夜に、幾筋もの銀線を残して、都合三
体のエビルエントを瞬く間に蹴散らした。
﹁急いでここから脱出するぞ!!﹂
﹁待って、クランドさまっ。ジョージ、ジョージが歩けないのっ﹂
ゲルタは泣きながら、ジョージの胸に取りすがっている。
﹁どこか、ケガをしたのかっ!﹂
ルークが迫ってきたエビルエントに体当たりをしながら、悲鳴の
ように引きつった声で叫ぶ。多数のモンスターに囲まれたショック
で、彼も平静を失っていた。
﹁こ、腰が、抜けて︱︱﹂
ジョージは、右腕を少し切り裂かれただけで、一見したところ、
大きなケガはなかった。
完全に腰が抜けているのだ。
恐怖と痛みのショックで、一時的に動けなくなっているだけだ。
167
時間を置けば、自分で立つことは可能であるが、それを許してくれ
るほど鷹揚なモンスターではなさそうだった。三十程度だったエビ
ルエントの群れは、もはや周囲の草地を覆い尽くさんばかりであっ
た。 蔵人がザッと見回したところ、その数は百をはるかに超えて
いる。踏みとどまって戦っても意味はない。
﹁お願い、クランドさま。ジョージ、ジョージを見捨てないで!﹂
﹁なんていう腰抜けなんだッ!﹂
ルークがイラついて座り込んだままのジョージの腹を蹴った。
﹁やめてよっ、ひどいことしないでっ!!﹂
蔵人が見たところジョージの体重は百キロを超えている。それで
なくても、自分は太腿を大きく傷つけている。紋章の力は徐々に発
動しているが常識で考えると大腿動脈のケガは、場合によっては数
十秒で死に至る致命的なものだ。
踏ん張りが効くかどうかだな。ジョージの側にかがむ。マリカが
青ざめた表情で叫んだ。
﹁あなた、その足で正気なの!?﹂
﹁ああ。俺はいたって正気だよ、と。クッソ、重てぇな。なに食っ
てんだよ、クマかオメーわ﹂
﹁す、すみません﹂
蔵人はジョージを背負うと、痛みをこらえながら全員の前に立ち、
エビルエントの群れに斬り込んでいく。焦った声で、マリカが魔術
を詠唱し始めた。無数の火箭が背後から飛び交い、黒い影を打ち崩
していく。
蔵人は、激しくあえぎながら、長剣を左右に振るった。濡れた血
液で靴の中がジャブジャブ音をさせている。
ルークが必死の形相でエビルエントに向かって長剣を叩きつけて
いるのが見えた。
記憶がかすみそうになるほど動き回り、なんとか、深い洞穴を見
つけられたのは奇跡だった。全員が無言で穴に逃げ込む。
それから、どのくらいそうしていただろうか、まもなく世が白々
168
と明け始めた。
﹁ねえ、血はもう止まったの?﹂
﹁ダメだ。なんでだろう、今日に限って﹂
蔵人は血の気をなくした顔つきで、マリカに向かって答えた。ゲ
ルタはジョージにつきっきりで、離れて座っていた。
ルークは、茫然自失とした様子で膝小僧を抱えたまま、ブツブツ
と意味のない繰りごとを延々とつぶやいている。
マリカはゲルタの居る方向を睨むと、蔵人の隣に座って泣きそう
な顔をしている。
﹁あなたの、契約の紋章。やはり、完全じゃないのよ。だから、ケ
ガも中途半端なまま回復しない。即死はしなくても、これじゃまと
もに歩けるまで、どれくらいかかるかわからないわ﹂
﹁すまねえ、ドジ踏んじまって﹂
﹁エビルエントたちは極端に目が悪いの。耳は聞こえないし、あの
付近に近寄らなければ、もう襲ってくることはないわ。ここなら、
安心よ。でも、他のモンスターがいつ来るかわからない﹂
﹁くそ﹂
﹁クランドさまっ、ここにいたら危険よ! 早くここから逃げ出し
て、森を出ましょう﹂
﹁ちょっと待って。もしかして、あなたこの状態のクランドにその
役たたずを担げって本気でいってるの?﹂
﹁⋮⋮クランドさま。無理を承知なのは知っています。でも、ジョ
ージは、ジョージは、村に四人の弟と老父母を残しているのです。
あたしも、彼を雇いれたからには、彼を責任持って村に返す責任が
あります。心苦しいいですが、ここは﹂
﹁ふん。雇う? 責任? ゲルタ、安い村娘の田舎芝居はそれくら
いにしなさい。この、私が目明きの盲人風情とでも思っているの?
どう考えても、あんたの態度は、その作男とできているとしか思
えないわ﹂
﹁ば、なにをバカなッ。ねえ、クランドさま。クランドさまは、あ
169
たしのことを信じてくれますよね! このゲルタとジョージをお見
捨てになんかなりませんよね﹂
﹁ああ、もちろんだ﹂
﹁クランドッ、あなたって人はどこまで愚かなのッ﹂
﹁たださ、ちょっとばかり足をケガして上手く動けねえんだ。もう
少し、待ってくれよ。そうしたら、血も止まるし、それからならお
まえたちを村まで送ってやれるから﹂
ゲルタはそこではじめて蔵人の負傷の程度に気づいたのか、冷え
た目つきでジッと立ち尽くし、やがてジョージの側に戻っていった。
ルーム
﹁なあ、マリカ。あの、ばびゅーんって戻るやつ、使えねえのか?﹂
﹁空間歪曲のことなら、ごめんなさい。もう無理よ。魔力切れ、完
全に﹂
﹁八方手詰まりか、くそ﹂
蔵人がしばらくまどろんでいると、隣に座っていたマリカもそれ
に習って眠りこけた。
ふたりがしばし寄り添って、どちらとなく目を覚ます。洞穴の入
口を見渡すと、そこにはもう、ゲルタとジョージの姿はなかった。
﹁ふたりなら、さっき出て行ったよ﹂
側に寄っていたルークが暗い声でいった。
﹁そう﹂
マリカは鼻で笑うと、忌々しげにふたりの去っていった方角を見
やった。
蔵人はしばしの間、絶句したまま放心していたが、やがて頭髪を
ガリガリ掻きむしり、ほうとため息をついた。あれだけなついてい
たフリをしていて、こうも簡単に置き捨てられたのはショックだっ
た。蔵人は思慮深いとはいえないが、切り替えの早いのが美点だっ
た。ウジウジ悩んでいる暇はない。この先、どうやって生き残るか
が肝要だった。
﹁んじゃ、さしあたってこれからどうすっかだな﹂
﹁そうね﹂
170
﹁魔力はどのくらいでも戻りそうなんだよ﹂
﹁うん。二日はかかりそう﹂
その間に強力な怪物に襲われればおしまいである。装備のほとん
どは、野営地に置いてきてしまった。
蔵人が両腕を組んで、これからの行動方針を必死で模索している
と、ずっと押し黙っていたルークが突如として立ち上がり、いきな
り踊りかかってきた。
まさか、仲間であったルークがこんな暴挙に出ようとは、思いも
しない。完全に無防備だった横っツラを張られ、後頭部を硬い岩に
強烈にぶつけた。
﹁あああああっ!!﹂
ルークは蔵人に馬乗りになると、両腕を振り回して無茶苦茶に殴
りつけ始めた。
なにかが乗り移ったとしか思えない狂気を孕んで、拳の雨が降り
そそぐ。
ルークの瞳を直視する。黄ばみがかった正気を失った目だった。
﹁ちょっと、なにしてるのよっ。やめっ、やめなさいっ。きゃっ!
!﹂
ルークは止めに入ったマリカを跳ね飛ばすと、のしかかって妄言
を吐き連ねた。
口元から白い泡が蟹のように吐き出されている。マリカの端正な
顔が、濁った唾液で装飾されていく。彼女の顔は嫌悪感で強く歪ん
だ。
﹁ああああっ、マリカッ! 僕のマリカッ。ににに、逃げよう。僕
と逃げよう。僕ら愛し合っているんだものね。だ、だだだだいじょ
うぶだよ。僕が守るから。わるーいやつから、僕が守るからッ。こ
こを出て、安全なところにいって、式を上げようね。たた、たくさ
ん子供を作ろう。つつ、つくろう。ああ、その白い肌を、滅茶苦茶
に汚して、孕ませてあげるよおおおおっ!!﹂
﹁やめ、やめてええっ。助けて、クランドッ!!﹂
171
蔵人は頭を振って覚醒すると、呆然といま起きた出来事を脳の中
で反芻した。とてもではないが、咀嚼しきれない。世界が一瞬で崩
壊した気分だ。
﹁って、呆けてる場合じゃねえ。あの野郎、マリカを一体どうする
つもりだってんだ!!﹂
右足をかばうようにして這うように外へ出た。朝焼けが空へと真
っ赤に輝いている。目がくらむと同時に、濃い邪気を感じ取った。
光り輝く世界のあちこちが剥がれ落ちていく夢想に神経を苛まれる。
そうか、ルークもこれにやられたのだな。
瞬間的に、彼が意識を喪失した意味を悟った。心を強く持たねば、
立っていられない。
陽光の中の木々がセピア色に変わっていく。痛みをこらえて立ち
上がった。転げ回りそうな強烈な痛みが、脳天から尻の穴まで一瞬
で駆け抜けた。歯を食いしばり、唇を噛んでこらえた。その光の中
で、途方もない怪物を目の当たりにした。
巨大な胴体が森林の木々を無造作にへし折りながら、前進してく
る。
うねり狂う九つの頭は蛇に似て、赤黒い背びれのようなものが風
にはためいていた。
大きさは全長で二十メートルを越すだろう。
おおよそ、七階建てのビルが動いていると思えば間違いない。
絶対に切り結んで勝てない相手だと本能的に悟った。
ヒュドラ。
森に住む最強のモンスターにして邪神を守る最強の盾である。
九つの首は、鈍色の鱗をすり合わせ、ジャリジャリと鳴らしなが
らその鎌首をもたげた。
狙うは、立ちすくむルークとマリカの影。
走った。瞬間、完全に痛みを忘却した。
マリカが力を振り絞って、ルークから離れるのを見た。神はいる。
なぜかそう思った。
172
蔵人は激しく叫びながら、マリカを横抱きにすると、振り返らず
走った。
ひゅっと、ひとつの首が斜めに素早く動いたのを、視界の端で捉
えた。
顔だけ振り返る。身体中の血液が凍りつく。
﹁バケモノがッ!!﹂
そこには、ルークの身体をひと呑みにする、絶対的強者の姿があ
った。
ヒュドラは禍々しい瞳をギラつかせて、男の身体を一気に呑み干
した。
いまだ、息があるルークはヒュドラの喉仏辺りでしきりに蠢いて
いた。
表の皮膚が激しく動くことでわかった。
やがて全身の骨を筋肉の蠕動でバラバラにすり潰されたのか、ピ
クリともしなくなった。
平らにならされた肉は、やがてヒュドラの強烈な胃液によって溶
かされ栄養の一部となるだろう。
痛みを気にする暇もなく、息が続く限り走った。激しい殺意が遠
のいた場所でマリカを降ろして、木の根元にしゃがみこんだ。全身
が鉛を呑んだように重い。
もう、一歩も動けそうにない。マリカが心配げに顔を覗き込んで
いる。軽口を叩く舌も動かせそうにない。無理矢理にほほ笑んで見
せた。
マリカは下唇を噛んでこらえて、眉間にシワを寄せていた。
右腿の傷が開いたのか、股間の辺りまでぬるまった血が浸ってい
た。右腕を動かそうとするが、ほとんど感覚がない。握った手のひ
らを開くと、剣がすべり落ちた。上半身を動かして拾おうと努めた。
柄を握り込んで持ち上げようとするが、微動だにしない。
蔵人は自分から握力が消え失せていることに気づき、驚いていた。
﹁マリカ。俺の剣を、鞘に収めてくれ﹂
173
死人のようなかすれた声だった。こんな口調では、彼女を怯えさ
せるだけである。マリカは激しく顔を縦に振ると、長剣を拾って鞘
に収めた。
﹁逃げろ。⋮⋮剣を持って﹂
﹁なにをいっているの。なにをいっているのよ、クランド! ばか
なことをいわないでちょうだい!! あなたを置いてゆけるわけな
いじゃないッ!!﹂
﹁いつかさ、いっただろ。本当にやばいと思ったら、すぐに逃げて
もかまわない。決して、恨んだりしない。俺も、同じ意見だぜ﹂
﹁やめて、やめてちょうだいッ! 聞きたくない、そんな言葉聞き
たくないの!!﹂
マリカが胸に取りすがって震えていた。そっと手を伸ばして頭を
撫でる。
マリカが引きつった顔を手のひらに擦りつけてくる。
捨てないでと懇願する子犬のように、小さく憐れで、悲しかった。
﹁遠いけど、エントのところまで戻りましょう。あそこには簡易的
な結界もあるし、身体だって休めるわ。時間さえあれば、私の魔力
も回復する。そうすれば、小屋まで戻って傷の手当もきっとできる﹂
﹁あの、蛇の化物。なんていうんだ﹂
﹁⋮⋮ヒュドラよ﹂
﹁あいつが、村まで攻め寄せていかないとは思えない﹂
﹁時間の問題でしょうね﹂
﹁なら、なおさらだ。あいつは、決着をつけなきゃならねえ﹂
﹁ねえ、いいかげんにしてッ! 人間て弱いくせに、すぐ死んでし
まうくせに、なんでそこまで英雄ぶるのよ! 怖いんでしょう? さっき、あなたが震えているの見えたわ!! それとも、格好よく
ヒュドラを退治して、本当の勇者にでもなりたいつもりなのっ! クランド、あなたのやろうとしていることは勇気でもなんでもない
っ、ただの命知らずの大馬鹿野郎よっ!!﹂
﹁マリカ、おまえは邪神を諦めることなんでできないだろう﹂
174
﹁それは﹂
﹁なら、この森でいずれかち合うだろう。早いか遅いかの違いだ﹂
﹁あなたが、勝てるわけないじゃない﹂
﹁けど、あいつを倒さなきゃ、マリカを守れない﹂
﹁クランド⋮⋮!!﹂
マリカは目を見開いて絶句すると、すぐさま顔を伏せた。
小さな肩が小刻みに揺れている。蔵人は立ち上がろうとしてバラ
ンスを崩し、尻もちを突いた。膝が完全に効かなくなっているのだ
った。マリカが飛びついて、頭を脇に入れてきた。無理矢理に持ち
上げようとしていた。真っ赤な顔で満身の力を込めている。必死の
形相だった。
﹁おい、無理すんな﹂
﹁もう、ばかのいうことを聞くのはやめにしたの。とにかく、エン
トの居る野原まで戻ります。これは、決定事項よ﹂
蔵人はマリカに支えられながら南に向かって歩き出した。エビル
エントに襲われた野営地からエントの居る場所までは、通常の移動
スピードで丸一日はかかった。
いまや、傷つき歩行もままならぬ身体である。
おまけに、食料も水もなく、モンスターに襲われれば自衛もまま
ならないであろう。
蔵人はマリカの行動方針に乗った。
万全の態勢ですら、あのヒュドラという怪物にはかないそうもな
い。
その上、いまだ邪神のいるダンジョンにすらたどり着けていない
のだ。
ルークの狂乱は、邪神の封印が完全に解けかかっていることを意
味しているのだろう。
そうでなければ、あのように惑乱するということは考えられない。
時間が経つにつれて、森そのものが魔境に変わっていく恐怖感が
あった。
175
空を見上げれば、世界は白々とまぶしい光に満ちあふれていた。
今日、日が沈むまでに、この命を永らえていられるだろうか。
マリカにとって、蔵人の百八十を超える背丈と、八十キロ近い体
重を支えるのは苦行でしかないだろう。彼女は、百六十に満たぬ小
イモータリティ・レッド
柄な身体である。腕も細く、重いものなどを持ったことがないよう
な、小さくやわらかな手をしていた。勇者の証である不死の紋章は
沈黙したままだった。所詮、安易に手に入れた力は、命の分岐点と
でもいう最後のギリギリの場面では信用できないのかもしれない。
かといって、蔵人の中には積み上げてきたものなどなにひとつない。
男に残されたのは、どんな苦境であっても抗い続ける、生を渇望す
る根源的な意思だけだった。
気づけば蔵人は意識を失って倒れ伏していた。自分がどこにいる
かわからないほどの圧倒的な闇であった。胸の上に、なにかかけ物
がしてある。鼻を動かすと、かすかに甘い女独特の体臭が香った。
マリカの匂いだった。彼女が羽織っていたマントが胸の上にかぶせ
られてある。次第に目が慣れてきたのか、顔を少しだけ上げて視線
を凝らした。深い樹林帯の頭上を覆う雲が、瞬間的に動いて切れ間
を生じさせた。パッと、辺りの光量が増した。見覚えのある、銀色
の髪が、僅かに差すかすかな星のきらめきで見えた。マリカだ。な
にか乗っているような重みは、彼女のものだった。
﹁マリカ、マリカ﹂
﹁クランド、気づいたのねっ﹂
マリカは、抱きつくようにして顔を寄せ、赤い瞳を潤ませて、頬
ずりをしてくる。冷たく、白い肌がやわらかかった。
﹁ああ、美人にここまでスリスリしてもらえるなんてよ。生き返っ
176
た気持ちだ﹂
﹁ばか。でも、それだけ軽口がいえるなら、もうだいじょうぶそう
ね﹂
マリカはそのまま胸元に顔を伏せて、ジッとしていた。ひんやり
とした夜の冷気の中、くっついている彼女の温度だけが、まだ生き
ていると確信させてくれる。
﹁どこだ、ここは。俺はいつの間に、気を失って﹂
﹁うん。あと、もう少しでエントのいる場所につくと思う﹂
﹁運んでくれたのか﹂
﹁苦労したわ。あなたって、とっても重いのね。こんな重いもの運
んだのは、生まれて始めてよ。まったく﹂
蔵人は背に、ゴツゴツした戸板のような感触を覚え、マリカに訊
ねた。聞けば、背中の板は、マリカが近くで見つけた猟師の避難小
屋から調達したものに、ツルを通して即席のタンカをこしらえたも
のであった。
﹁廃屋は、かつてコボルト族が使っていたものみたいね。邪神の復
活が近づいて、辺りのモンスターが活発化してからは完全に廃棄し
たみたいだけど、まだ完全に腐ってなくてよかった﹂
﹁おい、ちょっと待てよ。その手はなんだ﹂
﹁あら、気づかれちゃったかしら。ふふ、慣れないことはするもん
じゃないわね﹂
﹁おまえは⋮⋮いったい、どれだけの時間、俺を引いていたんだよ﹂
マリカの咄嗟に隠した両手のひらは、長時間、タンカを引きずっ
ていたせいで、ズタズタに切り裂かれていた。荒い、植物のツルを
どれだけの時間握りこめばこうなるのだろうか。彼女の手のひらは
ヤスリで削ったように、表皮が隙間なく剥がれて、一部、ピンク色
の肉が露出していた。血液とリンパ液の混じったものが止まること
なく、流れ出ている。赤黒い体液は、彼女の手首のつけ根までを、
粘度の濃い液で汚していた。
﹁ケガをするって、本当に痛いわ。でも、あなたをちゃんとここま
177
で引っ張ってこられたのよ。感謝されこそすれ、どうして怒らなけ
ればならないのかしら。理解に苦しむわ﹂
蔵人は上半身を無理やり起こすと、マリカを強く抱きしめた。彼
女は、子犬が鼻を鳴らすように、くふん、と甘えた声で鳴いた。
﹁マリカ、ありがとう﹂
﹁いいのよ。私はずっとあなたに助けられた。きっと、生きてこの
森を出ましょう﹂
マリカがいうには、蔵人が気を失っていたのは、二日ほどであっ
た。その間を彼女はたったひとりで、投げ出さずに、アップダウン
の激しく続く森の中を黙々と蔵人の巨体を引いて歩いたのだ。ふた
りは、植物のツルを噛んでかろうじて水分を補給し、ようやくその
夜は眠りについた。モンスターに襲われなかったのは、単純に運が
よかったのか。それとも、ヒュドラの強大な殺気を感じ、辺りから
すべての生物が逃げ失せたのか。
怪物に襲われずなんとか朝を迎えることができた。蔵人は、半ば
引きずるようにして右足を動かし、エントの元へと進んだ。心なし
ルーム
かマリカの表情も明るい。聞けば、昨日と今日で、ある程度は魔力
を回復したらしい。空間歪曲を使うには、あと半日くらい溜めれば
特に問題はなく使用できるとのことだった。
蔵人たちが希望を打ち砕かれたのは、まもなくだった。
苦労してたどり着いた朝もやの中。
野原の中央部にそびえ立つ、心やさしい木の精であるエントの身
体は、ゴオゴオと激しく音を立てて、真っ赤に燃え盛る姿が地獄絵
図のように網膜に飛び込んできたのだった。
178
Lv12﹁悔恨魔女﹂
火の海にいるのとかわりはない。目を開けていられないほどの熱
風が吹きつけてくる。
まさに地獄だった。
野原に咲き誇る、可憐な花々たちは紅蓮の炎に舐め尽くされ悲鳴
を上げていた。
生木の裂ける雑多な音が間断なく続き、灰色の濁った煙が西に向
かって流れていく。
樹齢千年を誇る、エントの巨体は、黒々と灰を吹き上げながら、
真っ赤に踊っていた。
マリカは、その場にペタンと尻を突くと真っ白な顔を硬直させて
いた。
信じられないといった目で、蔵人の顔をすがるように見つめてい
た。
火の気などない自然そのままの森であった。蔵人は、一瞬だけ、
頭の中に黒い影がよぎったが、敢えてそれをねじ伏せ、考えないよ
うにした。
だが、予感を口に出さずとも、現実で起きたことから目をそむけ
るのは不可能であった。
放心状態であったマリカは、遠方に物陰を見つけると、弾かれた
ように駆けだした。蔵人も無言で彼女の後に続いた。灰色の煙がも
うもうと立ち込め、一寸先も見えない。
マリカの銀髪から突き出ている長耳が小刻みにゆれている。不審
179
な物音をとらえたときの彼女の癖だった。マリカのすぐれた聴覚や
直感にもうなんど救われただろうか。今回もきっと救われるだろう。
わかっていて、その先をなんとなく読めている自分が怖かった。灰
色の煙が晴れた先で、小さな人影を見つけた。
影は、小高く盛り上がった土手に佇立しながら、低い笑い声を漏
らしていた。地の底から響き渡るような、凄絶かつ陰惨な声であっ
た。無上のよろこびに満ちている。昏く耳障りな音だった。声の主
は、西から流れ来る灰色の霧に溶けたり現れたりしながら、狂った
ようにひたすら笑い続けていた。
﹁あら、クランドさま。ようやく、追いついたのね﹂
ゾッとするような顔つきでゲルタは笑みを浮かべたまま、振り向
いた。
彼女は、火のついた薪を手にしたままゆっくり近づいてくる。
蔵人が半ば想像していた現実が前の前に突きつけられていた。
さすがに、こいつは、こたえるぜ。
ゲルタの変わりきった姿は、はじめて会ったときの面影を微塵も
残していない。
蔵人の心の中に、悲しみを通り越して怒りすら覚えるような激し
い変容であった。
ゲルタは焦げ茶色に汚れた手斧を片手にすいすいと近寄ってくる。
子犬を守る母犬のような自然さで、遮るように杖を構えたマリカが
割って入った。視界から蔵人が消えたことによって、ゲルタの表情
にはじめて人間らしい能動的な変化が起こった。
それは、悲しんでいるのかよろこんでいるのか、判別にしにくく、
怖気を震わせるようないびつなものであった。
﹁あなたがエントをこんなふうに⋮⋮! なぜ!?﹂
マリカは努めて激情を押し殺して問うた。ゲルタの唇が皮肉げに
歪んだ。
﹁あら、そんなことどうして聞くのかしら、このエルフは。おかし
なエルフさんね。あたしと、ジョージは役立たずのクランドさまに
180
変わって、森に住む大きな化物を退治したのよ。皆によろこばれる
ことはあっても、どうして責められるのかわからないわ﹂
﹁エントも狂っていたというの!?﹂
﹁狂っていた、狂っていないなんてことはどうでもいいの。あたし
と、ジョージが悪い魔女の手先をやっつけたって事実があればそれ
がすべてなのよ。ねえ、ジョージ﹂
ゲルタは、弛緩した顔で笑うと、側に置いてあった物体に腕を回
した。
まとわりつく煙が流れるにつれ、黒っぽい物体が露わになる。
マリカが口元を押さえて、半歩退いた。
蔵人は、ぐうと蟇の潰れたような声を喉奥で上げた。
﹁ジョージ。やったわ。ちゃんと、あたしたち、やり遂げたのよ。
これでもう、村の人たちもあなたのことを半人前だなんてバカにし
たりしないわ。これで、なれる。いっしょになれるわ。ごめんなさ
いね、クランドさま。ということで、あなたはもう用済みなのよ﹂
・・
ここにたどり着く途中で幾多の怪物に襲われたのか、ジョージだ
ったモノの頭部は鋭い爪や牙で激しく掻きむしられていた。頭髪の
半ばが抜け落ち、垂れ下がった皮膚の裂け目から脳髄の一部が覗い
ていた。流れ出た血潮はジョージの胸元をベッタリと濡らし完全に
固まっている。死後、かなりの時間が経過している証拠であった。
ゲルタは自分の顔が凝り固まった血で汚れるのも構わず、遺体に
顔を擦りつけていた。
一部の隙もない狂い具合だ。いちいち再確認する必要もないが、
蔵人はゲルタにとって最初から最後までタダの道具に過ぎなかった。
狂人の戯言にどこまで信が置けるかわからないが、結局のところ彼
女にとって蔵人は所詮村を通り過ぎるだけの冒険者にしか過ぎなか
ったのであろう。
彼女が、蔵人の行方を探すと称して危険な森に入ったのも、愛す
るジョージのためにほかならなかった。となれば、あれだけ露骨な
媚の売り方も、納得できる。
181
﹁ねえ、クランドさま。あたしたちは、森の悪い化物を退治したの
よ。あなた、まさか村に戻って手柄を横取りなんかしないわよね。
されたら困る。すごく、困るの。だからね、いまここで死んで欲し
いな。あたしのお願い聞いてくださる。ねえ、クランドさま﹂
ゲルタは狂ったロジックを語り終わると同時に手斧を無造作に投
げつけてきた。
半円を描いて飛来する手斧が左肩を深々と抉りとる。
激痛と驚きで回避行動が遅れたのだ。
蔵人は小柄な少女によって簡単に組み伏せられた。
自分が無力でいたいけな女になったと錯覚した。
ゲルタの吐息は吐き気がするほど血なまぐさかった。剥き出しに
なった歯は白く雪のように輝いている。犬歯から滴り落ちる赤黒い
血が禍々しかった。
彼女の瞳は狂気に染まり爛々と輝いている。所詮は女の細腕と馬
鹿にしていたが、馬乗りになった彼女の腕力は信じられないほど強
かった。復活した邪神の悪気をモロに受けているとしか思えない。
蔵人は、腕力だけは自信があった。
同程度の背丈と体重の人間と組合っても、まず負けるとは思わな
い。バイトの肉体労働で鍛え上げた肉体はかなりの筋骨である。
現に、大学では、レスリングの国体候補をねじ伏せたことがあっ
た。
けれども、のしかかってくる彼女の重みや圧力は、人知を超えて
いた。喉輪にかかる細い指に込められている力は油圧建機並であり
どうあがいても外せそうになかった。鬼気迫る表情であるが、ゲル
タはゲルタである。蔵人の脳裏に残っている彼女のやさしさは、い
とも簡単に消せるものではなかった。左手をソロソロと剣の柄にか
ける。目の前の鬼神のような表情が著しく和らいで泣きそうなもの
へと変わった。
南無三、と心の中で唱える。
刹那の瞬間、心が躊躇した。
182
それを察知したのであろうか、ゲルタは酷薄に笑みを浮かべて口
元を釣り上げた。
骨を砕く鈍い音が鋭く鳴った。視線の先では赤ン坊の頭ほどの岩
を持ち上げたマリカが、再度ゲルタの後頭部に向かって振り下ろす
モーションがコマ送りに見えた。
マリカは絶叫しながら両手で持った岩を激しく打ちつけている。
削岩機のように正確無比な動きだ。岩の先端は引き抜かれるたび
に、粘液質の脳髄にまみれて茶褐色に近い糸を引いた。
蔵人の顔に、生暖かいゲルタの血潮がドッと降りかかった。濡れ
雑巾を壁に叩きつけるような音が間遠にかつ間断なく聞こえる。白
くて細い腕が車輪のように動くたび、ゲルタの後頭部が煮崩れたジ
ャガイモのようにとろけていく。崩壊の過程を目の当たりにした蔵
人の脳は自動的に理性のスイッチをオフにした。そうでなければ耐
えられない。不可避の残酷すぎる所業だった。喉元に酸っぱいもの
が込み上げてくる。意思の力ですべてを飲み下した。胸元へ飛び込
むようにしてゲルタだったモノが倒れ込んでくる。反射的に抱えた
指先に、千切れた脳漿の一部がこびりつく。
それはもう、愛らしさは微塵もないただの崩れた肉塊だった。
腐った泥を抱えている。
不快な気分と憐れみが胸の中に混在したが、生理的不快感がまさ
った。
もう、終わってしまったことだ。
人形のように重くなった骸を投げ出して上半身を起こす。
マリカと視線がかち合った。
﹁え、だって。だって、こうしないと、あなたが⋮⋮﹂
マリカは荒い息を吐きながら、虚ろな目でつぶやいた。蔵人の胸
の中をびょうびょうと音を立てて砂煙が舞っているようだ。
﹁わかった、マリカ。だから﹂
﹁だってこうしないとっ、こうしないとあなたがっ﹂
﹁わかった、わかったから。責めない。おまえを責めないよ、マリ
183
カ﹂
﹁この女が悪いのよッ! この女が、この女が!!﹂
﹁だから、もういい。もういいんだ﹂
マリカの判断は行き過ぎたものであったが、咎める気にはなれな
かった。蔵人は、自分の剣に指をかけたときは、能動的にゲルタを
害するために動き始めていたのだった。すべて自分の命を守るべき
行為である。そこには、蔵人自身も咀嚼しきれない悲しみと、やり
場のない怒りが無意識のうちに込められていたのだ。マリカは、そ
れを形にしただけである。責める気はなかった。
﹁おまえはちっとも悪くない。だって、俺を助けようとしてくれた
んだからな﹂
そういってマリカを抱きしめる。彼女は、蔵人の胸元に身を投げ
出すと、瘧にかかったように全身を激しく震わせた。彼女の動揺が
収まるのを待つ時間もあまりなさそうである。殺意と立ち込める血
の臭いにつられて、禍々しい怪物たちが迫ってきたのであった。
灰色の煙の中から飛び出してきたのは四足で歩く真っ黒な獣だっ
た。
表皮は無毛でなめらかに黒光りしている。豚のようなヒヅメがや
けに大きく見えた。
スカベンジ
特筆すべきは、顔の中央部をほとんど占めるひとつ眼である。
ャー
単眼獣と呼ばれるこのモンスターは、森の最深部に住む腐肉食動
物であった。
本来の性質はおとなしいものであったが、邪神の波動を受けて著
しく凶暴化していた。
彼らは狩りをほとんど行わないので、牙は退化していたが、他の
肉食獣の喰い残しを見つけることには秀でていた。
また、完全に腐敗したものからでも、その強力な胃液で溶かして
養分にすることができる能力を持っていた。
茫然自失と化したマリカを抱き上げながら、距離を取る。
五匹の単眼獣は前足のヒヅメで土を掘り返しながら、ジリジリと
184
近づいてくる。血走ったひとつ眼が一様に注視しているのは、ジョ
ージとゲルタの残骸だった。ほとんど腐敗していないそれらは、彼
らにとって格好のご馳走なのであろう。
蔵人としては、時間が許せば彼女たちを埋葬してやりたかったが、
もはやそのような猶予も余裕もない。右足をかばいながら長剣を引
き抜く。血脂で固まった刃に切れ味を期待するのも無理な相談であ
る。できうるべきなら戦闘は避けたかった。
ジリジリと後退する蔵人に勝機を見出したのか、一匹の単眼獣が
襲いかかってきた。
パッと土が舞い踊って、黒い塊が飛びかかってくる。
蔵人は咄嗟にマリカを横に放り出すと、右膝を突いて長剣を上方
に突き出した。
刃は流れるように単眼獣のひとつ目に吸い込まれていく。
錆びた吠え声と共に血潮が飛び散った。
刀身は半ばまで単眼獣の眼球を破壊したのだ。
手応えは固めのゼリーを砕いたような感触だった。素早く刃を引
き抜くと、獣はドッと地面にひっくり返り、四肢をばたつかせると、
血反吐をごぼごぼと吐いて動かなくなった。仲間の死を目の当たり
にした獣どもは、怯えの色を宿した瞳を恨めしそうに光らせながら
逃げることはしなかった。
よほど、目の前のご馳走に未練があるのだろう。蔵人が剣を構え
たままマリカを再び抱き上げ、退いていくと、徐々に残されたご馳
走に近づき、やがて我慢の限界が来たのか一斉に貪り始めた。
蔵人は振り返らずにその場を後にする。残ったのは、腸を競って
引き千切り、細く白い腕を取り合う地獄のような光景だった。
185
もはや安住の地はどこにも残されていなかった。エントを失った
こととゲルタを手にかけたショックで、マリカは憔悴しきっていた。
戻ることも進むこともできない。
蔵人は子供のように手を引かれるまま歩くマリカに気を遣いなが
ら、休息のできる場所を探していた。食物どころか、水すらかなり
の時間口にしていない。体力の疲労は同時に気力を萎えさせる。小
川を見つけられたのは僥倖だった。川面を眺めれば小魚が気持ちよ
さそうに泳いでいるのが見えた。ここはまだ、汚染されていない。
水をすくって喉を湿すと、人心地ついた。マリカに水を飲むように
促すが、彼女は微動だにせずジッと遠くを見やっている。印象的な
赤い瞳がくすんでいる。生気をまるで感じられなかった。
﹁マリカ、水だよ。飲まなきゃ身体がもたねえ。ホラ﹂
蔵人は顔を水中に突っ込んで口中に含むと、口移しで水を飲ませ
た。彼女は、されるがまま水を移されると機械的に嚥下する。身体
はどうしたって水分を求めていたのだ。
﹁そうだ、まだ残ってたかな﹂
蔵人は腰の革袋をまさぐると、乾燥肉とドライフルーツを取り出
し、口中でゆっくりと咀嚼し始める。僅かでも腹にものを入れるの
と入れないのでは違うのだ。マリカに向かって食物を差し出すが反
応は見せなかった。干し豆や肉をよく噛んで粉々にすると、これも
口移しでマリカに飲ませた。ドロドロになったそれらを彼女は拒否
することなく飲み干していく。彼女の薄ピンク色の唇が唾液で光っ
ている。ひどく淫靡に映った。
そのまま、小川のほとりで腰かけて時間の経過を待った。空を見
上げていると、急速に鈍色に染まっていく。シトシトと小雨が降り
出した。
マリカはとても魔術を使える精神状態ではない。彼女の手を引い
て、目的もなく歩く。無茶苦茶に走り回ったせいか、自分たちがど
こにいるかよくわからなくなっている。森はそれほどまでに広大だ
った。
186
巨大な木の洞を見つけてすべり込む。中は湿っておらず、ひんや
りとしていた。外敵から身を隠すにはまあまあの隠れ家だ。入口に
は枝を幾重にも重ねてその上に千切り取った葉を載せて簡易的なフ
ィルターを形成した。寝椅子のように斜めに身体を横たえられる。
蔵人は、腹の上にマリカを乗せると、親が子をいとおしむようにギ
ュッと抱きしめた。マリカは蔵人の胸に顔をうずめたままやがて、
すうすうと寝息を立て始めた。傷の痛みと筋肉の疲労で全身がギス
ギスと痛んだ。目をつむったまま、最低限の集中力は途切れさせな
い。身体は弛緩しているが、脳の一部が冴えている。気づけば表の
明度がうっすらと濁っている。また、夜が来たのだ。胸元でモゾモ
ゾとマリカが動いている。目線が薄闇の中で合ったような気がした。
﹁⋮⋮ねえ、ここ。どこなの﹂
﹁適当な木の洞だ。場所は、よくわからん﹂
探るような口調であったが、マリカが確実に正気を取り戻してい
ることに安堵した。
﹁ごめん、なさい﹂
﹁なにを謝っているんだ﹂
﹁だって、私、彼女のことを⋮⋮﹂
﹁ゲルタのことはもう終わってしまった。それを悔いても仕方ない。
残酷のようだが、俺は自分が死ななくてよかったって思ってる。そ
れに、やるなら俺がなんとかしなければならなかったんだ。酷いこ
とを押しつけてしまった。すまない、としかいえない﹂
﹁私、人を殺した。でも、それははじめてじゃないの⋮⋮﹂
﹁そうか。別に俺だって、いままでに何人も手にかけている。こん
な世界だ。スパッと割り切らなけりゃ、生きてはいけねえ﹂
﹁割り切らなければ、生きていけない﹂
マリカが闇の中でジッと考え込んでいる。進むにせよ、引くにせ
よ、決定権を持つのは彼女だった。蔵人は、マリカの銀髪を撫でな
がらひたすら言葉を待った。魔力はかなり回復しているのだろう。
闇の中で、彼女の真っ赤な瞳が赤く輝いた。
187
﹁転移は一度くらいしかできない。でも、一度戻って、時間をかけ
れば﹂
﹁そんな余裕はないだろう。次に、ああなるのは、俺かもしれない
し、或いは﹂
邪神の波動は、日一日と強大さを増している。世界破滅の懸念は
もはや絵空事ではない。
そもそも、こんな濁った空気で汚染された世界では、誰しも生き
る希望を見失ってしまうだろう。
﹁俺たちに残された時間はない。だろう?﹂
﹁なら、あなたの命をちょうだい。私は、きっと邪神を封じてみせ
ルーム
るから﹂
空間歪曲の魔術でエビルエントに強襲された野営地の近くまで飛
んだ。
邪神の封じられたダンジョンまではそこから、目と鼻の先だった。
受け取った地図はそこで途切れていた。聞けば、マリカの母が敢え
てその先は記さなかったらしい。
﹁ダンジョンは、地下二階まで。気をつけましょう﹂
入口は巨岩の中へと巧妙に擬態されていた。マリカはうねるよう
な文様の刻まれた岩の一部に手を当て、ごにょごにょと呪文を詠唱
した。濃い緑色の苔に覆われた岩の一部が地響きを立てて左右に開
閉する。ぽっかりと口を開けた暗渠の中に、チリの積もった人工的
な石段がぼんやりと見えた。
マリカは杖を細かく振って、小さな楕円形の光の玉を打ち出すと
ランプがわりにして、ダンジョンの中を照らした。
ひとりがなんとか通るのがやっとの階段をゆっくりと降りていく。
淀みきった空気と鼻を突くカビの臭いが気分をゲンナリとさせた。
一歩進むごとに、うず高く積もった塵が足首まで埋まった。
蔵人は長剣を引き抜くと、精神を集中させてすり足で進んでいく。
ある程度進むと、巨大な開けた空間に躍り出た。二、三百人は並ん
で走れる広さである。
188
﹁なんだよ、いきなり行き止まりだぜ﹂
マリカは無言のまま、すたすた壁際まで近づくと、スカートを摘
みながら靴底を叩きつけ始める。彼女は、時計回りに壁を蹴りなが
ら移動していく。わけがわからず、剣を持った手がダラリと下がっ
た。
﹁なにをポカンと見ているの? あなたも手伝いなさい。最初の注
意書きにそうあったでしょう﹂
﹁え、あれ字だったのか。てか、わかるわけねえだろ﹂
﹁古代文字よ。読めなくても当然ね﹂
﹁できないことを当然のように要求するのは悪い子だと思いますケ
ド﹂
﹁つべこべいわず、お蹴り﹂
﹁へいへい﹂
蔵人はマリカに命じられた通り、規則的に周囲の壁を蹴り込んで
いく。
やがて一部が軽い音を立てると同時に、ガラガラと崩れていく。
﹁やった!﹂
﹁ええ、でも本番はこれからみたいね。これを崩していかないと。
ちょっとした土遊びね。クランド、あなたこういうのお好きでしょ
う。じゃ、お願いね﹂
﹁別に好きじゃねえけど﹂
蔵人は両手を使って、もろい土壁を丹念に崩していく。たちまち、
二の腕までが泥だらけになった。蔵人の顔はやりきれなさで歪んだ。
﹁さ、いくわよ。ボヤボヤしない﹂
﹁先生、すごく、泥だらけです﹂
﹁いい子ね。ほら⋮⋮﹂
蔵人が泥だらけになった手を見せると、マリカは頬にキスを降ら
せた。
﹁先生、ご褒美はもっとディープなのがいいです﹂
蔵人が阿呆のように唇を尖らせると、マリカは杖の先でグッと押
189
した。
﹁そのような時間はないの。また、来週ね﹂
﹁来週とかねえだろよ、絶対﹂
﹁ブツクサいわないの﹂
ともあれ、突破口は開けたのだ。蔵人は泥だらけの腕を振り、で
きたての穴をくぐり抜け、さらに進んでいく。穴の先は、極めて精
密な石壁が積まれた通路があった。立ち止まって嵌め込まれている
石片のひとつひとつを指先でなぞる。よく磨かれた、ツルツルとし
た感触でプラスチックに近い気がする。
﹁あっ﹂
﹁うおっと危ねぇ!!﹂
背後にのけぞりそうになったマリカの腕を引いた。グイと、力強
く引くと胸に抱き込む格好になった。ぽよぽよとした乳房の感触が
思いがけずうれしい。頬がだらっとゆるんだ。
﹁ねえ、あなたって女なら誰でもいいの?﹂
﹁マリカのような美人なら、いつでもオーケイだ﹂
﹁そ、そう。⋮⋮ねえ、かといって勝手に人のお尻を触るのはどう
かと思うわ﹂
﹁いや、だって拒否しないし﹂
﹁んん。ねぇ、本当に。ちょっと︱︱おやめ﹂
﹁やめられない、とまらない﹂
蔵人は両手をマリカの尻に回すとぐにぐにと揉み出した。なんの
脈絡もない動きだ。
﹁や、やめてよ。この、性獣ぅうん﹂
﹁ちょっ、セクシーな声はやめろよ。くそっ、指の動きが自分でも
どうすることもできない状態に制御不能にッ。ごめんなあ、マリカ
ごめんなぁ﹂
﹁ああっ、だからダメだっていってるのにぃ。その、なんか硬いも
のがお腹のところに当たってるのだけど﹂
蔵人はマリカの涙で潤んだ瞳を見て我に返った。
190
衝動が自制できなくなっている。畜生、邪神のやつめ、と義憤に
駆られたフリをした。
﹁すまん、ちょっと反省した。急ごう﹂
蔵人はペッティングを強制終了させると、キリリとした顔でいっ
た。マリカはくすんと鼻を鳴らすと、ちょっとさびしそうな素振り
を見せた。
石積みの廊下を突き進んでいくうちに、マリカの表情が曇ってい
く。
﹁思ったより全然モンスターが出なくて楽勝だな。おっと、ここか
らがまた階段か。あと、ちょっとだな! 邪神まであとちょっとだ。
気を引き締めていかないと﹂
﹁ええ、そうね﹂
蔵人はマリカの生返事が少し気になったが、あと少しで終わりだ
と思えば、なにもかもが気にならなくなった。高い段差にのみ視線
を落として、黙々と下降を続ける。ジクジクとした傷の痛みも疲労
も、すべてが消え失せていく。降りきった部分に、細かい装飾の施
された扉が見えて拍子抜けした。不意に、パンツの裾が引かれた。
マリカである。魔術の光に照らされた彼女の顔は血の気が引いてい
た。
﹁ねえ、ここで引き返すっていうのは、ダメかしら﹂
﹁おいおい、そりゃイマイチなジョークだぜ! なに、どんなバケ
モノが出てきても、俺とおまえがいれば、きっとなんとかなるって﹂
蔵人はマリカのギャグを一蹴すると、目の前の扉を軽く押した。
錠はかけらていない。無用心な神さまだな、と知らず笑いが浮かん
でいた。中からは、ぼんやりとした光が漏れている。ラスボスにふ
さわしい。肩をぶつけるようにして中に突入する。視界に広がるの
は、想像していた巨大な怪物ではなく、大きめの発電機に似た四角
い箱のようなものがひとつ、激しい異音を上げていた。奇妙な箱か
らは、外で感じたような邪気の波動を感じ取ることはできない。激
戦を予想していただけに、脱力加減は並ではなかった。
191
﹁なあ、マリカ。これって⋮⋮﹂
背後に向かって語りかけた。
瞬間、蔵人は首筋に激しい痺れを感じ、うつ伏せに倒れ伏した。
この事態をどうとらえればいいのか、まるで見当もつかない。
それよりもなによりも、蔵人はこの部屋に入ってからマリカがひ
とことも発しないことに注意を払うべきだった。酸素を求める金魚
のようにみじめったらしく、口をパクパクと開閉する。声が出ない。
顔だけをなんとか動かして、背後に視線を転じた。
マリカは、電流のほとばしる杖を下ろしながら、その場に佇立し
ていた。
かぶっていたとんがり帽子が足元に落ちていた。
能面のように無表情だ。なぜだ、という疑問だけがグルグルと脳
裏を旋回する。
邪神
から流れ出る、壊れたラジオのような異音を耳元
﹁それが邪神の正体。そして、止め方は知っているのよ。最初から﹂
蔵人は
で聴き続けた。
ザザッ、ザザッと甚だ勘に触る波音に似た響きが脳天に突き刺さ
っていく。
マリカは信託を受けた預言者のように、厳かな口調で邪神の故事
来歴及び自分の身の上を話しだした。
かつて、ハイエルフと呼ばれる一族はこのロムレス大陸の全土に
住んでいた。彼女らは通常のエルフ族と違い、寿命というものはも
たず、生物が避けることのできない死を生まれながらにして超越し
ていた。
つまり、病気や老衰で死ぬことはないので、他の生物と争わずに
過ごす限り、基本は半永久的に生きることができるのである。古代
よりそう伝えられていたらしい。と、いうのは長命を得たハイエル
フなどは事実上存在しなかった。世界は、彼女らのずば抜けた魔術
の才能に目をつけ、徹底的に搾取し、使役したのだ。ハイエルフは
生まれつき強い抵抗力を持っており、どれほど凶悪な病がはびころ
192
うとも、その見た目の可憐さと打って変わって、必ず生き残った。
どんな状況でも。その代わりといってはなんであるが、彼女たちは
繁殖能力は著しく低く、生涯にひとりの子、しかも娘以外は産み落
とすことができなかった。ときの権力者たちは、競ってハイエルフ
を乱獲し、その長命の秘密を探るべく残酷な研究を続け、あるいは
その美しさに魅入られた王は寵愛して子を作り、国の滅ぶ元を自ら
作っていった。マリカの母であるマグダレーナもそれらの惨禍を嫌
って森に隠棲したハイエルフのひとりであった。マグダレーナはハ
イエルフにしては長命である五百歳を過ぎていた。基本スペックは
高いものの、彼女たちは大抵外敵によって寿命を損なっていたのだ。
マグダレーナは並外れた美貌であったが、猜疑心が強く、基本的
に自分以外は信じなかった。
通常、ひとり身を終えるであろう彼女と運命の出会いを遂げた男
は、森の中に住む偏屈な木こりだった。マリカは父親の顔をおぼろ
げながら覚えているが、その頃にはもう髪が真っ白だった。ハイエ
ルフはたいてい二十歳程度で肉体的変化は止まる。
つまり、老境に差しかかっていた男が美姫になぞらえるマグダレ
ーナを運良く射止めたのであった。
やや、難しい性格であるが基本的にはやさしい母と、孫のような
歳の娘を溺愛する父に育てられ、マリカはしあわせな幼少期を過ご
した。
だが、崩壊は突如として起こった。その時代は常にいくさの火種
が絶えることがなく、木こりであった父が薪を売りに里に降りた際、
野盗に襲われてあっけない死を迎えたのだった。ここで、マリカの
記憶は途絶する。マグダレーナは、十歳の誕生日を迎えたばかりの
マリカを顧みなくなった。完全な育児放棄である。これは溺愛され
てきたマリカには受け入れられない現実だった。はじめからやさし
さを知らずに育てば我慢もできようが、ひとたび手にしたしあわせ
の味を忘れることなど誰にもできようはずがない。マリカの幼い心
は激しく孤独の悲しみに打ち震えた。森の外は、戦乱で荒れ狂って
193
いる。生家の周囲が静謐で保たれていたのもマグダレーナの強力無
比な結界のおかげであった。
ここでマリカは、魔術の習得に励むようになる。もとより、他に
することはない。母は、毎朝家を出ると森の奥へ消えていく。さい
わいにも、魔道書は腐る程あった。魔術は原則として、相克のため
地水火風のひとつしか習得できない。素養は生まれつきのものであ
るが、ハイエルフのみは例外的にそのすべてを行使することができ
た。普通の人間が一生費やしても、どれかひとつの属性を極めきれ
るかどうかというものを、五年で学び尽くすと、マリカは初級、中
級、高級に至る四六種の全属性魔術、及びそれらに属さない十八種
の無属性魔術を極めた。それに飽き足らずに、五つの禁呪法解読に
まで手を出した。なにかに没頭する以外、孤独を癒すことはできな
い。そのすべてを習得し終える頃にはマリカは十八になっていた。
彼女が、この歳になるまで口を利いたことのある人間は、父と母の
ふたりのみである。彼女は、幼い頃育てていたエントという魔術生
命体のことを思った。あの若木も、知らぬうちに庭から姿を消え失
せていた。きっとマグダレーナが、目を離した隙によそへ植え替え
たと推察された。エントは顔を合わせるたびに、マグダレーナに意
見を行う稀有な存在だった。マリカは典型的な引きこもりだった。
そして、ある日を境に、真の意味でひとりぼっちになる。マグダ
レーナが、邪神を完成させたのであった。転移の魔術で、ダンジョ
ンの最奥に位置する部屋に飛んだのは、ある蒸し暑い夏の午後だっ
た。マグダレーナはマリカの理解を超える範疇の理論を一方的にま
くし立てると、邪神と名づけた箱の扉の中へと飛び込んでいった。
そして、それっきりだった。システムは、確かにマグダレーナが飛
び込む寸前まで、作動を続けていた。マグダレーナ曰く、世界の害
悪を排除する神のシステムらしい。害悪とは、もちろん、すべての
生きとし生けるものである。悪意の波動を受けた生物は軒並み激し
く互いを憎み合い、殺戮を強制的に開始する。マグダレーナの出し
た結論はなんとも安っぽいこの世の破滅だった。
194
ならば、なぜ彼女は、邪神の繊細なシステムを構築した挙句、自
分の手で破壊するような真似をしたのだろうか。理解できない。
﹁お母さまが壊したかったのは、結局世界ではなく、自分自身の存
在だったのかしら。そして、邪神は再び中途半端な状態で眠り続け
るようになった。私も、このシステムに再起動を知覚できるアラー
ムをセットし、長い眠りについたの。まさか、千年ももつなんて、
不思議ね。できれば、一生目覚めたくなんてなかったわ﹂
﹁単純に、破壊するとかじゃ、ダメなのか⋮⋮﹂
﹁無駄ね。そんなことをすれば、私もどうなるかわからない。少な
くとも、このロムレス大陸はまるごと吹っ飛びかねないわ。そんな
決断私にはできない。でも、あなたの魂なら﹂
﹁俺の魂だって﹂
﹁邪神の中には、無数の霊子的存在が蠢いている。ただ、誰かを捕
らえたり騙してつれてきたりして投げ込んだとしても、機能を完全
に阻害することはできない。その、魂に世界の崩壊をくい止めたい
という強い意志が宿っていなければ。だから、あなたを相棒に迎え
たのは、鴨が葱をしょって飛び込んできたようなものね。邪神シス
テムを構築するためのこの部屋は、お母さまの高度な魔術理論で防
御されていて、転移は使えない。そもそも、私はちょっと不完全な
体質で先祖返りのようなものを起こしているの。普通とは違って、
私の魔術は完全に月の満ち欠けによって左右されているの。あなた
と会ったときは、ひと月の中でもっとも魔力が弱い時期に差しかか
っていたし、そもそも私は身体も生まれつき弱い。誰かに頼らなけ
れば、あの森を踏破してここまで至ることはできなかった。長々と
話してごめんなさい。あなたには、贄になってもらう。最初から、
そのつもりだった。そのつもりだったのに⋮⋮!﹂
﹁おい、よせよ。なにしてるんだ﹂
マリカは痺れたままの蔵人の側を通り過ぎると、邪神の上面の扉
を開いた。
ごおんごおんと、奇妙な音がさらに強く響いた。
195
﹁私という霊的存在がこのシステムを破壊できること祈っていてね。
それと、もしダメだった場合、逃げて。うんと遠くへ。約束よ、絶
対。本当にごめんなさい。私ってお願いばかりね﹂
﹁人間なんてどうでもいいんだろう。そもそも、俺を生贄にするつ
もりでここまで騙してつれてきたんじゃないのかよ﹂
﹁そんなことできないわ。だって、あなたのことを愛してしまった
のよ﹂
﹁マリカ⋮⋮﹂
ルーム
﹁たとえ、いまがダメでも、あなたには一日でも、一秒でも長く生
きて欲しいの。この部屋の外側に、小屋へ戻れるための空間歪曲を
張ったの。どうか、生き延びて。生き延びてください﹂
蔵人の身体は気づいたときには機能を回復していた。胸元の紋
﹁やめろ﹂
章が激しく輝き、青白い光で部屋を埋め尽くしていた。
弾かれたように壇上に向かって飛び上がるとマリカを突き飛ばし
た。
棺のように寝ている上蓋は開かれ、無限の暗渠が横たわっていた。
身体を丸めて頭から突っ込む。
意識は寸断され、闇では生ぬるい暗黒がすべてをすっぽりと包ん
でいった。
196
Lv13﹁終焉魔女﹂
結界を素通りできる存在がこの世に存在するなどと夢にも思わな
かった。
私は読みかけの本を置くと、上半身をベッドから起こした。
昨晩も夜ふかしして、書物を読みあさっていたせいか、頭が重い。
﹁めんどうね﹂
宙に指先で円を描くと、仕掛けておいた遠見の紋章陣が繋がり、
居ながらにして外の景色が見えた。くり抜いた窓から見えたのは、
バカっぽい顔で石に座ったまま食事をする若い男だった。見た目は
人間族、だと思う、たぶん。
私は、書物の知識以外に若い男を見たことがない。村の人間は迷
いの術でどんなことがあってもここにはたどり着けないようにして
いるし、そうなるとどこか遠くからやってきた旅人で、なんらかの
加護を得ているということになる。
まったくもって面倒な話。男の顔は浅黒く、どこか間が抜けてい
た。全体的に弛緩しているというか、張りつめたものをまるで感じ
ないのだ。身につけているものは、上等ではなく野良着に近い。長
いだけの安っぽい剣を腰に下げていた。無警戒さからいって達人と
は思われない。色々と考えたところで、バカらしくなった。本当。
加護持ちの人間くらい、たまには結界をくぐり抜けることもあるだ
ろう。それに、私は眠りから目覚めてから、適格者を探すため、防
御の層をわざと薄くしてある。いえいえ、ただの愚か者ではいけま
せん。それなりに、腕が立って、意志が強く、魂の質が高くなけれ
ばアレを制御することは不可能でしょう。本当に自分でも損な性格
197
だと思う。狂った母の尻拭いにどれだけの時間をかければいいのや
ら。私はベッドの水差しをとって唇を湿すと、ごろんと転がって本
を顔に乗せた。この冬からずっと考えてはいたが、アレのシステム
はお母さまが構築しただけのことはあって、中々に完璧だった。外
部から手を加えて破壊する、ということはちょっとばかり無理そう
である。むにゃむにゃと顔をしかめていると、ドアの向こうから激
しい警戒信号が発せられた。
﹁なんなのよ、もう﹂
遠見の窓を見ると、先ほどの男が丸見えの状態で小屋ににじり寄
っているのがわかった。
なにこいつ、アホかしら。
辺りに気配を払っているつもりだが、動きが素人同然だ。
こんなやり方では、うさぎ一匹狩ることはできないだろう。
もお、いい。頼むからこれ以上私の邪魔をしないで欲しい。
﹁こんにちわー﹂
願いも虚しく、男は訪れを告げた。
一瞬前までなかった殺気が激しく放射されているのを感じ、ガバ
っと毛布を跳ね上げた。
スカートがまくれて、下着が見える。あらやだ、はしたない。
私は裾を直すと、杖を手にした。
殺気を完全に殺していた? いままでのは完全に擬態?
敵が一流の腕を持つ冒険者なら、狙いはひとつ、私の首であろう。
アレから放射された、人類以下皆さま方殺せ殺せ光線︵※私が命
名したナリ︶のせいで、森に住む動物さんやバケモノさんが活性化
し、﹁よーし、おじちゃんがんばっちゃうぞぉ﹂とばかりに村を襲
っているのを知っていた。
そして、それがすべて私のせいになっているという不愉快極まり
ない事実に。
なぜなの?
ま、誰も答えてはくれないんだけどね。人間て、ホント、単純な
198
頭してる。
そんなことを考えていると、こんこんとノッカーが鳴らされた。
たぶん、あの私が作ったクマちゃんノッカーが使用されたのははじ
めてだろう。なんとなく感慨深い。
とりあえず、出かけていますと答えると、外からは怒り狂った野
卑な声が弾けた。
調子に乗っている。かなりイラっときたので、強烈なのを一発お
見舞いしてやったわ。
これに懲りたらレディの家にはもう少しスマートに訪問すること
を学習なさい。
男はかなりの時間が経っても起きる気配を見せなかった。
ちょ、ちょっとばっかりやりすぎたかしら。
殺す気はもちろんなかったが、家の前で死なれると、少しだけ気
分が悪いのだ。
私は、ドアを薄目に開けて、男にそろそろと近づいた。
ぐうぐうと健康的な寝息をかいている。さすがにちょっと蹴り飛
ばしたくなった。
よく見れば、随分と若く見えた。十五かそこらだろう。私が千年
眠りについていたことを差し引いて、うーんだいたい十九とすれば、
幾つか年下になると思う。かなり大柄で、顔の色艶はいい。もしか
したら、かなりいいところの生まれなのかもしれない。
いつまでも見ていても仕方ない。
私は、一旦部屋に戻ると男が目を覚ますまで研究に没頭しようと
して、なぜか手鏡を片手に眉を寄せていた。
もしかしたら、お父さま意外と話す男性は、あれがはじめてにな
199
るのかも。
なんとなく落ち着かなくなった。
男の名はクランドといった。彼の性質は基本的に善である。本質
的になぜかわかった。
話をしてみれば、予想通り村人に踊らされて魔女退治に来た旅の
者らしい。やたらと物わかりがいいのは、逆に怪しかったが、なん
となく信じていいような気がした。
この時点で、私はクランドをアレの贄にすると決めた。
心がチクリと罪悪感で疼く。
そのあと、クランドが私のむむ、胸を触ったことで、その思いも
晴れたのだった。
二、二回も触られた!
夫になる人にしか許さないと決めていたのに。許さない。
村を襲うモンスターの元凶は、森の最深部にあるダンジョンに住
む邪神である。
クランドは私を手伝って、邪神を止めるべき。
なーんで、こんな胡散臭い話乗ってくるのか。
えっちなのを除けば、この男は人がよすぎるような気がした。
200
こんなやり方で、どうしていまのいままで生きてこられたのだろ
うか。
ほとんど人生経験のない私にまでコロッと騙されるなんて。
カモである。いいカモ。それも脂の乗り切った。
胸を触った仕返しに、電撃を浴びせたら、さすがに一晩起きてこ
なかった。
マリカ、猛省。
ちょっとやりすぎた。自分でもそう思う。
でも、根幹の問題はクランドにあると思うの。
なんだかんだ、理由をつけて森に出発するのを二日停滞させた。
私は、ハイエルフとしては不完全である。根源的には、祖先にあ
った利点をすべて失っている。おまけに、魔力を月の満ち欠けに左
右されるのでは、常に同じパワーで戦えないという不利が生じる。
しかも、ひと月に必ず訪れる新月の日は魔力がゼロに近くなり完全
に無防備になる。知られてはならない。場合によっては、誰が敵に
なってもおかしくないのだ。でも、彼とかわすたわいのない会話は
中々に気持ちを和らげてくれる。いっしょに食事をとったりするの
は、どのくらいぶりだろうか。すごくしあわせな気分になった。
そのあとで寝込みを襲われて、産まれたままの姿を見られたとき
は、恥ずかしすぎて狸寝入りを決め込むしかなかったけど! なん
で、乙女の部屋に堂々と乗り込んでくるの、あいつは! 信じられ
ない!! 変態!!
森での冒険ではクランドは思った以上に役立った。道々で聞いた
話によると、冒険者としては駆け出しらしい。剣は幼い頃、祖父に
習ったが、すぐに投げ出してしまったとのこと。明るい彼が、家族
の話になると、妙に口ごもる。きっと聞かれたくない話なのだろう。
お互いに、家族には恵まれていない。そう思うと、悲しいことだが、
ちょっとだけ彼と距離が近づいたような気がして、胸の奥がザワザ
ワとした。
201
バッタ
森では軍隊飛蝗と戦うことになった。事実、モンスターを見るの
も、その命を奪うのもはじめである。クランドは前衛でかなり頑張
っていたが、あちこちに激しい傷を負っていた。私は、空を飛びな
がら、風の魔術を使ってモンスターたちを薙ぎ倒していたが、一箇
所だけカスリ傷を受けた。けど、血でドロドロになった彼を見た途
端、そんなことは忘れてしまった。
人間は弱い。人間はすぐ死ぬ。人間など愛すべきではなかった。
お母さまがよくいっていた言葉だ。
お父さまは、ある日を境に、骸となった。
あの日が、しあわせだと思えていた人生最後の日となったのだ。
傷の手当をしようと彼に駆け寄ると、クランドの胸元から自動回
復の魔術が再生された。
これほど強力無比なものは中々お目にかかれない。
聞けば、彼は王女に召喚された伝説の勇者らしい。
正直、ピンとこなかった。
目の前にいるクランドの顔が古書で読んだ伝説の勇士とはまった
くもって思えないのである。それどころか、ちょっと凶暴なバッタ
にすら殺されそうになっている。
﹁マリカ、ちなみに容姿だけならおまえもストライクゾーンになる
ぞ。俺と契約して淫靡な主従関係を結ばないか﹂
結ぶわけないだろ。アホか、こいつ。
クランドは自分の命をなんとも思っていない部分がある。
私は人間のこういうところが大嫌いだ。弱いくせに、無理をする。
自分の力以上のことを成し遂げようとする。そもそもが、己の力量
を超えた事績など、普通の人間に成せるはずがないのだ。稀にいる
のは、数万分の一の確率で成功した、奇跡の星の元に生まれた者た
202
ちである。私はクランドに、危険だと思ったら迷わず逃げるように
と、伝えていた。
邪神の復活は近い。もう、他の贄を探している暇はないのだ。ど
んな手を使っても、彼を箱の中に汲み入れて、動作不良を起こさせ
なければならない。
世界は破壊してはならない。それは、きっと母が最後に行なった
無意味な行為を補完することになるはずだからだ。
あれだけ注意したのにも関わらず、このアホは無軌道な行為を取
り続けた。
蛾の怪物に向かって、考えなしに突撃を行ったのだ。おまけに、
人の心配をよそにヘラヘラと笑い続けている。もう知るか。本気で
頭にきた。色々と気を使って話しかけてくるが、私はまるっきり無
視してやった。こんなにも腹が立ったことは生まれて初めてかもし
れない。プリプリしながら歩いているうちに、もう二度と会えない
と思っていたエントに再会した。エントはクランドを一瞥すると、
伴侶かと問うた。
ありえない。ありえん。ありえんし。
どうして、高貴なハイエルフの私が、この男と⋮⋮。
ほら、いわないことじゃない。
あまりにもくだらないことをいうから、頭がカッカッしてきた。
意識などしていないし、断じて照れたりもしない。
彼はそのような対象ではない。アレを封じるために見繕った装置
のひとつである。
絶対に。
でも、エントのおかげで、またいつもどおり喋れるようになった
のは、うん。ちょっと感謝かも。私は誰かと喧嘩らしい喧嘩もした
ルーム
ことがないので、鉾の収め方も知らなかった。
帰りは空間歪曲の魔術で小屋に戻った。ついつい、クランドの手
を取った。分厚くて男らしいもので、ちょっとだけドキドキした。
203
間違いない、毒にやられた。そう思ったときは、もう遅かった。
頭がぼうっとなって、ふにゃふにゃと足が崩れていく。まともに立
っていられないなんて。自分の身体の弱さが情けない。私はありと
あらゆる魔術を使えるといったが、一部訂正したい。回復系統は苦
手なのだ。特に、向かないと思って大雑把に読み飛ばした。
ふん、天才にはチャチな小ワザなんか必要ないのよ。至言ね。
嘘です。強がってました。もし、次があるなら、きちんと勉強し
ておこうと思うの。
通常のハイエルフならば、少々の毒など基礎的な力で無力化する。
なんという最強生命体なのですか、ああ。
夢を見た。ずっと、幼い頃のなつかしい夢だった。やさしい父と
母に挟まれてテーブルを囲んでいる。広く大きな胸に抱かれ、父の
白くなった髭を引っ張っている私。母は私と同じ真っ赤な目をキラ
キラさせながら、湯気の出るあたたかい料理を並べていく。それは
すべて完全だった。他には何も望まなかった。しあわせな光景は、
四辺が音を立てて崩壊し、裏返りながら剥落し、地の果てに墜ちて
ゆく。奈落に飲み込まれていくイメージ。
﹁あ、ここは⋮⋮?﹂
気づけば、自分のベッドに横たわっていた。寄り添って握る手は
あったかくて、お父さまと同じくらい力強かった。
クランドの心配そうな目を見ると、思わず涙がこぼれそうになっ
た。
激しく自制する。
情を移してはならない。この男は、生贄にするため篭絡したてき
たのだ。
なんのために? 疑問を抱くなと、自分にいい聞かせる。
つらくて仕方ない。
なんで、こんなにも心が動揺するのだろうか。
204
バッタ
私は、思う存分泣き喚いて子供のようにクランドへとすがりつき
たかった。
これは、きっと軍隊飛蝗の毒だ。頭が上手く機能しない。
自分の中のやわらかい部分が崩れ、ポロっと僻み根性が漏れ出す。
酷いことをたくさんいった。殺せとか、いまが隙だとか。彼は、
こんな見も知らない私を助けてベッドにまで運んでくれたのだ。恩
人に後ろ足で砂をかけるような真似をした。
いつの間にか甘えが出ていたのだ。彼なら、どんなひどいことい
っても許してくれる。
そう、やさしかったお父さまやお母さまのように。
だから、ものすごく怒鳴られたときはショックだった。涙目にな
った。モンスターに襲われたり、クランドが傷ついたときとはまた
別種の恐怖だ。
怒らないでよ。怖いのよ。やさしくして欲しいの。
クランドは怒鳴ったあとすぐに、声を和らげて頬を撫でてくれた。
頭の奥が安堵でじんわりと温まってくる。
私は風邪だと偽って、薬を取ってもらって飲んだ。ただの昆虫毒
なら、寝ていれば治ることもある、らしい。自分の身体で実験する
のは、リスクが大きすぎる。けれども、下手にクランドに伝えて、
彼を狼狽させたくない。彼に迷惑をかけたくない。悲しませたくな
いのだ。たかが、自分の身体ひとつで。完全に頭が回っていない。
そして、また少しだけ意識が途切れた。無情にも、一瞬だけ目が覚
めたとき、クランドの姿が枕元から消えていた。
⋮⋮なんで、なんで?
理由なんてわかってる。きっと、めんどうになったからだ。それ
に、私は彼に好かれる要素なんて微塵もない。自分がすごく無価値
なものに思えてみじめな気持ちになった。
﹁やだ、やだ!!﹂
私は子供に還ったように、わんわんと声を上げて泣いた。
涙が制御できないほど流れ出る。不安と悲しみで全身が押しつぶ
205
されそうになった。
もう、使命も、アレも、なにもかもがどうでもよくなっていた。
泣き疲れて、どうにでもなれ、という気持ちになっていく。
涙ですべて、溶けてなくなってしまえばいいのに。
そして、絶望から覚醒した。時間はそれほど経っていない。
﹁どうして?﹂
胸にかかる重みを感じ、サッと顔が青ざめた。
そこには血だらけになったクランドが倒れ込んでいたのだ。
瞬間的に彼がなにをしたのか悟った。そして、深い愛を感じずに
いられなかった。
よろこびと恐怖が混在して、魂が攪拌される。
﹁クランド! クランド!!﹂
私は取り乱したまま、彼に取りすがってまたもや、泣き喚いた。
ここまで来ると恥も外聞もないものだ。クランドが目を覚ました
ときは、本当に腰が崩れ落ちそうになった。そして、この人がいな
いと、私ダメだと、強く感じたのだった。
予想通り、彼は身を挺して森に分け入り、解毒剤を手に入れてき
たのだ。
私はどうして、そこまでして助けてくれたのか、と訊ねた。
俺がそうしたかっただけだ、と彼はいった。
そのセリフは、期待していたものと少々違っていたけど、彼のは
にかんだ笑顔がくっきりと脳裏に焼きついて離れなくなった。
数日はおままごとのように自分たちを夫婦になぞらえて暮らした。
その、愛の交わりはかわさなかったけど、私は完全に彼にイカレ
ていた。
206
クランドは私の大好きなサーラの花について語ってくれた。
深い学問の素養を感じる話し方だった。
彼が卑賤の出ではない高貴な生まれである証拠だ。
なんというか、はじめて会ったときの印象とはどんどん違って見
えていく。
彼の闇のように深い黒髪が、黒目が好きだ。髪をかきあげる仕草
が好きだ。厚い胸板も、太い腕も、ゴツゴツした手のひらも、ちょ
っかいを出してくる、部分も大好きになった。
クランドにずっと仕えたいと思った。
深く、彼を欲している自分に愕然とし、けれどあらゆる意味で納
得した。
彼に妻や子供がいないとわかると、私の胸は翼が生えて飛んで行
きそうになった。
我ながら節操がない。気づけば、彼のたくましい腕や胸に抱かれ、
無理やり組み伏せられている妄想をたくましくして、その、引き締
まったお尻とか、大事な部分を知らないうちに目で追っている自分
に気づき、怖くなった。私は欲求不満の変態なのだろうか。断じて、
そうではない、と思いたい。
しあわせな停滞は続かなかった。
クランドは思った以上に責任感の強い男だったのだ。
彼は、私の身体を心配しながらも、邪神の災厄の恐怖も明確に感
じ取っていた。
森の攻略は半ばを超えていた。
けれども、魔力の枯渇も顕著になってきた。疲れが溜まっている。
そんなときに現れたのは、ゲルタという村娘だった。
この女はなんだかんだと理由をつけて、私たちの間に首を突っ込
んできたのだ。
忌々しいことこの上ない。
怒りで肝が焼き切れそうになった。
下品で土臭い土百姓の娘!
207
頭の中がカッと燃え盛って、周りが見えなくなった。
聞けば、魔女討伐︵※かわいそうな私︶をクランドに頼んだのは、
この娘である。
あろうことか当てこするように、クランドに抱きつき、頬ずりを
しくさった。
失礼。 私は、ゲルタという下賤の娘を脳内で切り刻んで網の焼き目をつ
けて針で隙間なく突き刺して棍棒ですり潰すように滅多打ちにして
最後は刻んで豚の餌にした。
想像だけで済ませた寛大な私に感謝して欲しい。
これより苦悶の時間が続いた。私は当てこすりに、ルークという
どうでもいい男を当て馬にしてみたが、ダメだった。効果は認めら
れない。クランドはゲルタという淫売に完全に熱を上げてしまって
いた。
その上、私はあの女がジョージという下男とイチャついているの
を見てしまった。
ゲルタはあさましく、自分から衣服をくつろげると、ジョージと
いう男を迎え入れた。
二匹のつがいは、獣のような咆哮を上げ、ひとかたまりになった。
信じられない。あれだけ、クランドに媚を売って真実はこれだっ
た。別にそれはそれでいい。淫売と作男などお似合いである。問題
は、彼女がクランドをいいように振り回しているという事実だった。
情事が終われば、ふたりは寄り添ってキスをかわしていた。
私にとってそれは愛などではなく、非常に汚らしい排泄行為にし
か思えなかった。
立ち聞きした話によれば、ふたりはクランドを上手く使って功績
を挙げ、村の人たちに仲を認めてもらおうという魂胆だった。この
場でふたりを八つ裂きにするのは簡単だったが、それではクランド
の目が覚めることはないだろう。
そして、私の中にも若干残酷な気分が沸き起こっていた。一度、
208
大きく裏切られて痛い目を見ればいいのだ。そうすれば、彼もきっ
と自分以外の女に目を向けることはなくなるだろうし、これぞ一石
二鳥というものだ。けれども、この私のいやらしい策謀は数十倍に
もなって自分自身に跳ね返ってくる結果となった。エビルエントが
野営地を襲撃し、クランドが大怪我をしてしまった。ゲルタは形勢
不利と見れば、さっさと逃げた。ルークは発狂し、ヒュドラという
化物に食われてしまった。その上、クランドは傷つき倒れた。彼を
助けるのは自分しかいない。朽ちた猟師小屋から戸板を引っペがし、
樹木のツルを通したタンカに気を失ったクランドを乗せて引いた。
私は、生まれてから一度も肉体労働なんかしたことない。普通に歩
くことだって、満足にできやしない。それでも、傷つき倒れた彼を
安全に運ばねばならなかった。つらかった、苦しかった。一歩進む
ごとに息が切れ、硬い木のツルは手のひらを千切ってズタズタに切
り裂いた。私は、泣きながらクランドを引いた。胸がドコドコ鳴っ
ている。全身が汗でまみれ、倒れては起き上がり、倒れては起き上
がった。それでも、彼を死地に置いていこうなんて、カケラも思わ
なかった。私が動けなくなれば、無防備なクランドはあっさりと死
んでしまう。自分の中の、執念だけが身体を限界まで突き動かして
いた。彼は、目覚めたとき、抱きしめて﹁ありがとう﹂といってく
れた。それだけで、もうすぐにでも死んでいいとさえ思った。
さらに、私を打ちのめしたのは、エントの死であった。
邪神の波動を受けて惑乱したゲルタが彼に火を放ったのである。
あとのことは、もうよく覚えていない。
いや、忘れたい、というのが本音だった。
彼女は私が殺した。
この手で岩を叩きつけた。何度も何度も。
理由はクランドを手にかけようとしたからだ。
209
ほかのことは大目に見ても、それだけは絶対にしてはならないこ
とだった。
崩れ落ちたゲルタの身体を見たとき、爽快感すらあった。
すごくすっきりした。きっと、最初からこうしていればよかった。
けれど、すぐに後悔した。クランドが泣きそうな顔で、私を見て
いたからだ。
なんてやさしい人なの、あなたは。
こんな虫けら、悼む価値などまるでないのに。
ああ、もしかしたら、私も、アレに侵食されてしまったのかもし
れない。
それから、ずっと深い森の中にいた。石を投げても底にまで届か
ない、永劫の闇だ。
膝を抱えてうつむいてる。どうして、ここまで頑張らなくてはい
けないのか、もうわからなくなっていた。私が、ひとり、努力して
アレを止めても、世界の誰ひとりとして、褒めてはくれない。そう
だ、私はいままで誰にも関わらずに生きてきた。これからもずっと
そうだった。だから、誰も私を知らない。私も誰も知らない。誰に
も知られない人間なんて消えてしまっても、不都合など何もない。
なにせ、消えたことすらわからないなら、それは生きているとはい
えないのではないだろうか。アレを上手く止められたとしても、完
全に破壊することは不可能だろう。いつの日か、誰かが掘り起こし、
動作させるという恐怖を抱えながら、ずっと生きていかなければな
らない。私は、ハイエルフだ。それも、この地上に残った最後のひ
とり。けど、その血を伝える意味合いもないし、誰もそれを望んで
いない。凍りついた索漠とした森の風景が心の中に広がっている。
けれど、そんな私を闇の中から引きずり出してくれたのも、また
クランドだった。
だから、もう私は、彼を贄とすることなど絶対にできなかった。
ついに、封印のダンジョンに到達した。最後まで本当のことをい
えなかった。
210
いえるはずない。
世界を破滅に導く邪神という機構は、お母さまが精魂を込めて構
築した屈指の魔術理論の真髄である。これを、動作不良に追い込む
のは、自らの肉体を脱ぎ捨てて、魂魄となって霊子世界に飛び込み、
なんとかして機構を停止させなければならない。それには、強い意
志が必要だった。当初の計画では、この時点で世界崩壊の秘密を暴
露し、魔術洗脳によって贄の魂を外側からコントロールして邪神を
自壊に導く予定だった。それには、双方における一定の信頼感がな
ければ洗脳が進まない。けれど、私自身が邪神に挑むなら、導き手
の存在は必要ない。もう、戻ってこられない。そう思えば、素直に
愛していると伝えることができた。クランドは案の定びっくりして
いた。後悔はなかった。
箱の外蓋に手をかけ、身を乗り出す。
さよならはいらない。
最後に上手く笑えたか、自分でもわからなかった。
クランドの動きは素早かった。私が、電撃を放って自由を奪った
はずなのに、それを意に介せず、俊敏な獣のように、しなやかな動
きで私を突き飛ばしたのだ。
なにがおこった?
なにがおこったの?
外蓋がバタンと閉められ、部屋に静寂が戻った。
︱︱そして、私は、たぶん発狂した。
211
時間の経過もわからない。数時間、経ったのか。それとも、数日
か。
この苦悶の時間は永遠に続くのか。涙も枯れ果てた、というのが
正解だった。
私は一番大切な魂を不注意で井戸の底に落としてしまった。
泣き疲れて、小さな女の子のように丸まって眠る。
両の爪は残らず剥がれて血が流れ出ていた。
邪神の箱は、無数の引っかき傷を残して、静かに眠っている。
クランドはもうここから出てこない。
なら、私はずっとこの柩のそばで、あとどのくらい命がもつかわ
からないが、過ごすと決めた。
冷たい箱に寄り添って、頬ずりをする。
箱は答えない。ぬくもりもくれない。黙りこくっている。
でも、そばにいる。
ずっといる。
なにもいらない。
そばにいる、こうしている、私たちはいっしょだ、誰がなんとい
おうと。
世界はようやく完全になったのだ。
﹁ずっといっしょにいるわ、クランド﹂
212
Lv14﹁沙羅双樹の色はあせた﹂
分厚い闇が広がっている。上下左右とも判別ができない。
空間も奥行きもない世界である。そもそも、世界といっていいか
わからない状態である。
それを意識する自分というものがあるならば、ここがマリカのい
っていた霊子的存在空間なのであろう。手も足もありとあらゆるも
のが見えない。感覚もない。思考できるということはすべてが闇に
解け入ったわけではないだろうが。甚だ不安でたまらない。やがて、
なにを不安に思っていたのかわからなくなってしまう。動揺しない。
つまりは、恐怖もないのだ。知覚がなければ肉体が存在しないだろ
う。自分を害するものはないと思うが、落ち着きや心理的安堵感と
はかけ離れた状態であった。邪神、の存在は感じ取ることができる。
それは、外で感じていた、颶風のように荒れ狂う禍々しい存在では
断じてなかった。
強く、一本の道筋をイメージする。闇夜に、薄くどこまでも続く
道が伸びていった。
一定のリズムを取って進んでいく。
歩く。
歩くというのも、自我がなければ行えない動作である。闇夜にぼ
んやりと自分の動かす足が浮かんでくる。身体の一部がある。それ
だけで、もはや完全な闇とはいえなくなった。
道のはるか前方に、灰色の箱が置いてあった。依然として闇は闇
213
だが、厚みが薄まった気がする。
あの箱を破壊しなければならない。敵を倒すには武器が必要だ。
明滅しながら腕が浮き上がってくる。鞘から抜き放たれた、剣がそ
こにあった。
箱の上には白っぽいローブを着た、若い女性が座っている。どこ
となく、マリカに似ていた。たぶん、彼女の母親だろうと、推測し
た。途方もなく美しい。美しいと感じられるが、それは抽象的な美
しさだった。彼女は、泣き笑いのような表情で立つと、指先でちょ
んと箱を指し示した。疲れきった顔をしていたが、どこか肩の荷が
降りた、という感じだった。歩くというよりは、そこまでのポイン
トの空間が縮んだような感覚だ。彼女は、懇願するような目つきで、
手にした腕輪をそっと差し出してくる。受け取って左手に持つ。彼
女は、こぼれるような笑顔で手を振ると、上空に昇っていった。
ここで、はじめて空間に天地が生まれた。闇は、もはや闇ではな
い。彼女は、青白く輝く空に吸い込まれると、一際強く輝いて消え
た。あとに残されたのは、箱だけである。箱に意思などないが、悲
しそうに泣いていると感じた。右手に持った剣を振り下ろす。刃が
触れた。箱は粉々に砕けると、四方に飛び散って、強い光を放ち、
闇を駆逐していく。世界は再構成されていく。
光に飲み込まれたとき、ようやく、蔵人は、自分を完全に取り戻
した。
蔵人は箱の蓋を押し上げると、どれだけぶりか分からないが、よ
うやく世界に生還した。
生き返った。比喩ではなく肌で感じたのだ。
崩れるようにして、箱からすべり出る。
214
﹁出れた﹂
室内は、薄ぼんやりとした明かりしかなかったが、蔵人には太陽
にも思えるまぶしさだった。呼吸をする間もなく、なにか鋭い動き
の影がぶつかってきた。抱きとめた瞬間、骨ばった筋が胸に当たっ
た。蔵人は、箱に頭をぶつけ、痛みで脳裏に火花が散った。顔を上
げて、自分を押し倒した人物に視線を転じた。
﹁ああ、神さま⋮⋮!!﹂
絞り上げるような、悲鳴に近い女の声。
綺麗な銀髪は見る影もなく、くたくたになり、艶を失っていた。
頬はげっそりと痩けて、高い鼻と大きな瞳がぎょろりと飛び出し
ていた。
白い肌は、キメが失われカサついてる。
別人のように憔悴しきったマリカだった。
彼女は、今度こそ、胸元に顔を押しつけてくると狂ったように泣
き叫んだ。
﹁クランドッ!! ああ、クランドッ!!﹂
獣の咆哮と変わらない大きさだった。マリカは、その小さな身体
から発声されたとは思えないくらいの声で、名を叫び続けていた。
蔵人が抱き返すと、マリカは自分の頭を胴体に埋めようとするぐ
らいの勢いでむしゃぶりついてきた。みるみるうちに涙が胸元をべ
ったりと濡らしていく。枯れ木のようになった彼女は、全身の水分
という水分をすべて吐き出すようにして泣き喚いた。涙の最後の一
滴まで出し切らねば我慢できないという雰囲気だった。
﹁もう、二度と会えないと思ったのよ﹂
﹁すまねえ﹂
﹁ばか、ばかよ! あなたはばか!!﹂
マリカの顔は涙とよだれで見る影もなくベタベタになっていた。
不格好であるが、たまらなく愛おしさを感じた。
﹁今度という今度は、ついに愛想をつかされちまったみてぇだな﹂
﹁そんなことあるはずないわ。うん、でも、もう会えるなんて思っ
215
ていなかった。私、ここでこのまま死のうと思っていたのよ﹂
﹁そうか﹂
蔵人は寝そべったまま馬乗りになるマリカの顔を持ち上げてキス
をした。
彼女は、唸るように一声吠えると、猛然と食らいついてきた。そ
う形容するのがふさわしい勢いである。彼女は蔵人そのものを渇望
していた。互いに、舌を絡め合わせる。マリカはうっとりとした顔
で目元を真っ赤に染めると、首筋に鼻先を埋めてきた。
﹁人間は、私よりずっと早くに死んでしまう。弱くてとても悲しい
生き物なの。だから、好きになるなんて思わなかった。ねえ、クラ
ンド。私を抱いて﹂
蔵人はマリカをの両肩を抱いてギュッと力を込めた。心臓の鼓動
が、大きく聞こえる。
﹁でも、あなたの赤ちゃんがいれば、この先もずっとさびしくない
わ。私を、少しでも好きなら、お願い。情けをちょうだい。あなた
と生きた証が欲しいのよ⋮⋮!﹂
﹁そんなもん、最初から好きだって決まってる﹂
﹁クランド、私を愛して! 滅茶苦茶にして!﹂
ふたつの影は、絡み合って、ひとつになると炎のように燃え盛っ
た。
少なくともマリカの想いは成就したのであった。
蔵人は久方ぶりにダンジョンを出て、外の陽を浴びた。
疲れきったマリカは、横にすれば消えてしまいそうなほどやせ細
っていた。
なのに、あれほど求めてしまって悪かったかなと己の愚劣さを呪
216
った。
﹁自分を責めているのならやめてちょうだい。私は、その。うれし
かったわ﹂
精も根も使い果たした彼女は背中でぐったりと安らいでいた。
前回、背負ったとき以上になんの重みも感じない。ときどき、本
当に乗っているかどうか不安になってしまうほどだ。
蔵人がちらちらと首だけ振り返るたび、マリカは聞き分けのない
子をあやすように、首筋にキスをする。
﹁心配しないで。私は、ここにいるから﹂
世界から邪気は払われた。もはや、驚異はひとつもないはずであ
る。
静かな森は降りそそぐ光を反射して静まり返っていた。
このままでは終わらない。そう感じていると、予兆は間違いのな
いものとなった。
静寂を破って、木々がへし折れる轟音が辺りに木霊した。
背中でマリカがぶるり、とひとつ、大きく震えた。
視点を上げる。そこには、いまだ敗北を知らぬ、巨獣ヒュドラが
長い首を激しく振り立てて迫り来るのが見えた。
蔵人は、マリカを背負ったまま走り出した。
可能であるならば、逃走を選びたかったが、ここで見つかったの
も天命だと思った。
斜面を駆け下りながら、木々を縫って距離を稼ぐ。
まもなく、広い河にいきあたった。
対岸の林まで二十メートルはあるだろう。細かな白砂が延々と広
がっている。幻想的な光景だった。ヒュドラは重機のように長い首
を巧みに操り、森林を薙いでいく。大樹も、彼の前では脆いウエハ
ースのようだった。
﹁止まって、ここでいいわ﹂
マリカがつぶやくようにいった。
それは、澄み切った芯のある力強いものだった。
217
自暴自棄になったわけではない。
そう判断して彼女を背から降ろした。
マリカはよろめきながら、けれども力強い瞳で迫るヒュドラの巨
体を見やっている。
確固たる決意を感じ取った。マリカの痩身に闘争の気が満ちあふ
れている。
小さな彼女の身体が何倍にも膨れ上がったように思えた。
﹁やれるのか﹂
﹁あたりまえよ。私を誰だと思っているの。偉大なる、いにしえの
民にして、世界一の大魔術師マリカ・ソレスさまにお任せなさい﹂
マリカはトレードマークのとんがり帽子を深くかぶると、ゆっく
りと詠唱を始めた。
ヒュドラは古代より恐れられた伝説の怪物だ。巨体を震わせなが
ら、樹齢数百年を超える木々をマッチ棒のように踏み倒しながら近
づいてくる。九つの首からは、真っ黒な毒液を吐き散らしながら、
辺りをたちまち丸裸に変えていく。
ヒュドラに立ち向かうマリカは、まるで巨像に立ち向かう蟻のよ
うだ。
だが、蔵人はマリカの力を信じていた。
赤い瞳が燃え盛る炎のようにゆらめいている。
﹁残念だったわね。今日はあいにくと満月よ。こんな、いい日にハ
イエルフと出会うなんて、あなたこそ最高にツいてない。次に生ま
れ変わったら、せいぜい地を舐めて二度と顔を上げないようにしな
さい﹂
マリカが杖を振ると、巨大な火球が頭上に顕現した。
オレンジ色に輝く炎の塊は、たちまち周囲を真っ白に染め上げた。
白い輝きは、一瞬で世界を覆い尽くした。
目前の河に異変が起こった。
凄まじい音を立てて、真っ白な煙が沸き立ったのだ。
流れていた河の水が一気に干上がっていく。
218
小太陽の周囲の木々が凄まじい勢いで燃え出した。
蔵人は異常な熱を感じその場を駆けだした。全身が青白い光で包
まれている。
おそらく、マリカが被害を受けないように保護魔術をかけてくれ
たのだ。
パチパチと音を立て火の粉が空に舞い上がっていく。
木々は紅蓮の炎に包まれ、世界は灼熱地獄に一変していた。
マリカは天に高々と浮遊すると、小さな太陽に向かって杖をひと
アルシャムス
振りした。
﹁灼き尽くすもの﹂
火球は極めてゆっくりとした動きで進路をヒュドラに取った。
オレンジ色の光がまぶしい白色に変化していく。世界が歪む。空
気が溶けた飴のように捻じ曲がり、世界が惑乱していく。
周囲の森はまるで最初からなかったように白い灰になって消え去
った。
ヒュドラは身体を折り曲げて退却しようとするが、なにもかもが
遅すぎた。
火属性の禁呪は世界に小太陽を造り上げて対象を消滅させる言語
を絶した魔術であった。
ヒュドラの胴体に灼熱の炎がめり込んでいく。
二十メートルを越す巨体が陽炎のようにゆらめいた。
それが、巨獣の最期であった。
小さな太陽はヒュドラを飲み込むと、さらに白く輝いて明滅した。
次元が崩れるかと思う轟音が鳴り響き、森そのものが震えだす。
蔵人が、再び目を開けたときは、もはやヒュドラの肉は一片も地
上に残らず存在ごとかき消されていたのであった。
219
蔵人はぼんやりと小屋の外の石に腰かけて夜空の月を眺めていた。
下弦の月である。
ヒュドラを倒した日からズルズルと、七日以上も経ってしまって
いた。
邪神を倒した以上、森のモンスターが凶暴化することはなくなっ
たのだ。蔵人は、村に降りて長にそのことを告げると、幾らかの報
奨金を受け取った。ゲルタのことは特に聞かれなかった。実のとこ
ろ、彼女は村の厄介者であった。蔵人が流れ者の冒険者なら、彼女
の母親は元逃亡奴隷で村内の共有物であった。ゲルタの母は、道具
として扱われ、結果生まれてきた彼女も仲間としては認められてい
なかった。村内で跡取りが断絶した休耕地をお情けで与えられたが、
そんな彼女に婿入りする男などいなかった。ジョージは、荷担ぎの
仕事をしていたが、少し頭が足りなく一人前として扱われていなか
った。蔵人は、報奨金を村長に渡すと、彼女の供養を頼んだ。贖罪
にもならないだろうが、その金を嬉々として使うことはどうしても
できなかった。
胸に苦いものが残ったが、基本は平穏な日々が続いた。身体を休
めたマリカは徐々に健康を取り戻したが、邪神に関してはまだ完全
に終わっていなかったのだ。システムとしての機能は完全に失われ
ていたが、今後二度と誰も扱えないようにする解体作業が必要らし
い。魔術的な作業であれば、蔵人が手伝えることはなかった。安息
の日が続いた。昼はのんびりと木々や風景を眺め、夜はマリカの美
肉を貪った。上げ膳据え膳である。食事の心配もなく、美しく侍る
女が常にいる。どうでもいい日常の瑣末ごとを語らい、肌を寄せ合
って眠れば情はますます深まっていった。今朝は、いっしょに庭に
出て、ナツツバキの花を見た。ここ数日、異常に気温が高いため早
咲きしたのだ。白く美しい花である。
だが、自分の側で微笑むマリカの方が美しいと感じた。
蔵人が身じろぎもせず、月を眺めていると、小屋から出てきたマ
220
リカが背中にそっと寄り添った。
﹁ねえ、月を見ているの﹂
﹁ああ。たまには月見も乙なもんだ﹂
﹁そうね。とても綺麗ね﹂
マリカは先ほどまで愛し合った名残を残しながら、裸身に毛布を
纏ったままくっついてきた。蔵人は彼女を抱き寄せてキスをすると、
整った銀髪に指を通した。清らかな水のようにサラサラと流れてい
く。長い耳がぴくぴくと小刻みに動いている。そっと、その耳を甘
噛みすると、彼女はああ、と喉を震わせて歓喜の表情を露わにした。
﹁行くつもりなのね﹂
蔵人は無言のままうなずいた。昨日、話し合って決めたことだっ
た。邪神の再封印にはどれほどの時間がかかるかわからない。実を
いえば、昨日も、王都が差し向けた追っ手の十人ばかりをマリカに
撃退してもらったばかりだった。さすがに、この結界には入れない
が、近場の村や里を行き来していれば、それらの人々が害を受ける
可能性もある。無関係な人々に迷惑をかけてまで居続けられるほど、
無神経ではなかった。無限に続く追いかけっこではない。時間が過
ぎるの待つしかなかった。共に生きることを考えないでもなかった
が、蔵人にはやることがあった。強制されたわけではない。それを
しなくても誰も困らないし、むしろ蔵人が離れることで悲しむ者も
できた。それでも、違えることはできない。
マリカの魔力は月の満ち潮に左右されるし、無力状態のときに襲
われれば不覚をとることもあるだろう。死ぬ、死なないの押し問答
を続けた上、ようやく結論が出た。
﹁私、きれいに別れられる女じゃないわ。明日、あなたの顔を見た
ら、泣いて引き止めてしまうかも。だから、私が寝ているうちに出
て行ってちょうだい﹂
﹁そうだ。その前に、これを﹂
蔵人は箱の中で、女に受け取った腕輪をマリカに手渡した。
﹁これ、お母さまの⋮⋮﹂
221
マリカは白銀の腕輪を手に取ると、顔に押しつけてさめざめと泣
いた。
蔵人は表情のない顔で、マリカの小さく震える姿をジッと見守る
だけだった。
翌朝、朝もやの中、蔵人は荷物をまとめ上げると、肩に背負って
小屋を出た。
腕には先ほどまで抱いていた女の残り香がまだあった。
庭に咲いている沙羅双樹に擬せられたナツツバキの花にふと目を
とめた。
昨日、マリカと眺めたときは、白さが輝くように思えたが、今朝
はその沙羅の花も色あせて目に映った。
沙羅双樹の花を摘む。しばらく眺め、胸元の襟に押し込んだ。
同じものとは思えない無常さをたたえている。
世界がセピア色に褪色していく。
腰にぶち込んだ長剣の重さがズッシリと感じられた。
背中には、マリカの持たせてくれた手弁当がたっぷり詰まってい
た。時間が経っても、口にできるように保存のきくものと、昼食用
にとの心尽くしである。
蔵人は森を出ると、視線を遠方に置いて歩き出した。ほとんど、
足跡のない獣道を過ぎると、村に近い三叉路に出た。地図はマリカ
にもらった。古すぎて使えないかもと、しきりに謝る彼女を見れば
胸がバラバラになりそうなほど狂おしい気分になった。古い街道を
進んでいくと、小高い丘に出た。遮るものひとつない荒野が広がっ
ている。迷宮のあるシルバーヴィラゴのことだけを考えようと努め
た。そうでなければ、いますぐに森へと引き返してしまいそうな自
222
分があった。
マゴットとの約束を果たさなければならない。
サッと吹きつけるような殺気に顔を上げる。
はるか彼方に、五つの影が見え、それはあっという間に蔵人の周
りを包囲した。
﹁シモン・クランドだな﹂
﹁主命により、おまえの命をもらっていく﹂
﹁覚悟しろよ、昨日の借りを返す。仲間の敵討ちだ﹂
蔵人の胸の中に、青白い炎が静かに燃え盛っていく。無言で長剣
を引き抜く。五つの影が弾かれたように散開した。男たちの武器。
磨かれた剣が妖しく光っている。彼らの手にとった刃が濃い霧の中
に霞んで消え、消えては浮かんだ。
﹁いまの俺は気分が悪ィ。てめえら、一匹残らず逃がしゃしねえぜ﹂
蔵人は怒声を発すると朝靄の中へと斬り込んでいった。
真正面の男を蹴り飛ばすと、長剣を上から下へと振り下ろした。
ガッと、頭蓋骨を叩き割る鈍い音が鳴った。
男の額が縦に裂けて、茶褐色の脳髄が勢いよく飛び散った。
同時に、右手の男が突っ込んでくるのが見えた。
半身を開いてかわす。
咄嗟に足払いをかけて男を転ばせた。
バランスを崩した男の上半身が泳ぐ。
長剣を水平に薙いだ。
刃は男の脇腹を深く断ち割って血煙を撒き散らした。
男が叫びながら急な斜面をすべり落ちていく。安心している暇は
なかった。散開していた四つの影が素早く接近する。男たちは黒い
目出し帽をそろってかぶっている。唯一露出した瞳は憎悪に燃えて
ぬらぬらと冷たく輝いていた。ふたりの男。突出して早かった。掲
げている刃は青白く光っている。ゾッとする冷気を宿していた。
蔵人は、双方向から突き出される刃の下へと身を投げ出し、細か
く長剣を動かした。
223
﹁ぎゃっ!!﹂
﹁うおおおっ!!﹂
ふたりの男は脛と腿を断ち割られ絶叫した。
真っ赤な血飛沫が乱れ飛び、うつ伏せになった蔵人の頭に降りか
かった。
目の前の男が前のめりに倒れてくる。蔵人の攻撃範囲内だ。
片膝を突いたまま、振り上げるようにして斬撃を見舞った。
長剣が銀線を描いて下方から上方へと半月を描いた。
切っ先は倒れかかかっていた男の喉元を鋭く抉った。
男は目玉を剥きながら四肢を突っぱらかすと顔から地面に崩れ落
ち絶命した。
残ったもうひとり。
左腿を押さえながら喚いていた。動脈を傷つけたのだろうか、多
量の出血が見られた。
傷ついた仲間を助けようと、背後に回った男が猛然と襲ってくる。
蔵人は逆手に持った長剣を背後へ繰り出した。
刃は男の胸板に吸い込まれるように突き刺さった。
素早く引き抜いて、呆然と立ちすくむ片割れに向かって飛びかか
った。
男は剣を頭上に掲げて斬撃を防いだ。
刃が噛み合って猛々しい金属音が耳朶を打った。
手元が痺れたのか、男が武器を手放した。
蔵人は長剣を両手で握りしめて身体ごとぶつかった。
渾身の諸手突きが男の胸板を貫いたのだ。刃はツバ口まで深々と
刺さった。
筋肉の震える振動が伝わってくる。剣に力を込めて、上下に捏ね
た。
カッと見開いた男の瞳は驚愕に満ちていた。
唸りながら男の顔面に手をかけ引き剥がす。
男は虚空に右手を伸ばすと苦悶の表情で背後に倒れた。
224
蔵人の背中はバケツで水を撒いたようにグッショリと汗で濡れて
いた。呼吸を整えながら、地を這っている男に視線を動かした。斜
面を駆け下りながら、男の後頭部を蹴り上げた。
男は坂を転がって一番下の草むらにまで落ちるとあお向けになっ
た。それでも抵抗の意思は消えないのか、瞳だけはギラギラと殺意
の炎に満ちていた。割られた脛から下の右足首が皮一枚で繋がって
いる。蔵人は、男の傷口に右足を振り下ろし、ブラリとした足首を
引き千切った。絶叫が鳴り響いた。左足を男の胸板にかけて動きを
止めた。意図を察したのか、男の瞳に怯えが走った。両手に持った
長剣を男の胸元へと垂直に突き降ろした。
男はピンで止められた標本昆虫のように静止すると、両腕をバタ
つかせながら、激しく血の混じった吐瀉物を吐き散らかして絶命し
た。
蔵人は斜面を見上げながら、折り重なって倒れる骸をジッと見守
っていた。
強い風が、びょうと吹いた。
完全な朝が近いことを匂いで感じ取った。
風向きが変わった。乳色の濃い霧が辺りを覆っていく。
蔵人は、長剣の血糊を死骸の衣服で拭うと、街道に向かって歩き
出す。草むらには、千切れて血に赤黒く染まった沙羅双樹の花びら
が無惨に横たわっていた。
やがて、歩き去る蔵人の後ろ姿も朝靄の中へと呑み込まれていっ
た。
ロムレス王国塞外地簿千百四十八年の記録には、﹁領内に跋扈猖
獗する邪悪なる魔女。冒険者ルークとその一党により討伐成功。村
人、その栄誉をたたえ石碑を森に建立する﹂とある。
他の者の名は記録に存在しない。
225
226
Lv15﹁隠れ里にようこそ﹂
蔵人は瀕死の状態に陥っていた。
峠を下って沢に降り、水を飲もうとしたところまでは覚えている。
最後に食料を口にしてから、何日が過ぎたのだろうか。意識は朦
朧として判然としない。
マリカと別れて森を出て街道に出た。四度目の刺客の襲撃で地図
を落としたのが、運の尽きはじめだったのだろう。闇雲に逃れて、
気づけば現在地が把握できなくなっていた。
十日近くも山中を彷徨し、人里にたどり着くことはもはや不可能
に思えてきた。
緊張感を保って斬り合いを続けていた時はいざ知らず、一旦気が
抜けてしまうと途端に腹中が謀反を起こした。すなわち、下痢腹状
態である。水分も、何度か沢の生水を飲んだだけである。ろくに胃
の中には固形物など残っていないが、しゃがみたくなるのはどうに
も我慢できなかった。踏ん張れば踏ん張るほど腹の痛みが増し、幾
度か谷に落ちかけ命を失いそうになった。
下痢で死ぬなんて情けなすぎだろう。蔵人は、苔むした岩の間で
倒れたまま、指一本動かすことができず顔を伏せていた。本当のと
ころをいえば、もう少しだけ歩こうと思えば立ち上がれないことも
ないのだが、すべてが億劫だった。
深い木々の、濃い緑の匂いがあたりに充満している。幾重にも広
がった枝の間から、空の青白い光が、川面のところどころに差しこ
み、水面を魚が跳ねる音がした。
そうだ、さかな。さかなを取って食おう。腹いっぱい。
身体が綿のように疲れて、意識も徐々に薄れていく。視界に白い
靄がかかったように、ぼんやりと風景が水を落とし込んだ水墨画の
227
ように淡く崩れていく。
ふと、影が自分の頭上を覆うのを感じた。
荒々しい、いくつもの足音がする。
﹁おい、こいつか﹂
﹁死んでるんじゃねえか﹂
﹁いや、違う。これは人間だ﹂
﹁本当にあってるのかよ、ここで﹂
いい争いをしていた数人の男たちの声が遠ざかると、今度こそ人
気が完全に消え去った。
虫たちのさざめく声がしきりに耳につく。
やがてゆっくり日が落ちていったのか、冷たい空気が周囲を包ん
でいった。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
再び、倒れ込んだ蔵人を覗き込むふたつの影が、月明かりの中に
浮かんだ。
その気配に、消え去りそうな意識の糸をかろうじてつなぐ。
蔵人は、耳元に入るささやき声をぼんやり聞きながら、深いまど
ろみに再び落ち込んでいった。
耳元をこちょこちょくすぐられる感触。
蔵人は顔を歪めながら目蓋を持ち上げると、煤けた木組みの天井
が目に入った。
﹁おきたかなー﹂
﹁おきるよー、きっと﹂
﹁みみ、みじかいねー﹂
﹁ねー﹂
228
﹁だって人間族だもの、あたしたちとはちがうよ﹂
﹁ねぇね、ねぇね。めりもさわゆ。これ、さわゆのぉ﹂
﹁メリーはむこうにいってようね﹂
耳元で甲高い子供のひそひそ声が聞こえる。
なんだ、これは。
蔵人は勢いよく毛布を剥ぎ取って身を起こす。枕元には部屋を埋
めつくすほどの、たくさんの子供の目が好奇心一杯に自分を見つめ
ていた。
蔵人と子供たちの視線が交錯する。
妙な空気が流れる。ドアを開けた少女の声がそれを一方的に破っ
た。
﹁こらー、あなたたち勝手に入っちゃだめでしょーっ﹂
一二、三歳くらいだろうか、細身ではかなげな雰囲気の少女だっ
た。肩まである金髪はくせっ毛なのだろうか、軽いウェーブがかか
っている。両手に持ったお盆には、ほこほこと湯気を立てるスープ
の入った椀と木製のマグカップが載っていた。
﹁ここは、どこだ﹂
蔵人が少女に声をかける。
はじめて男が起きていることに気づいたのか、青い瞳に怯えの色
が滲んだ。
少女は泣きそうに顔を歪めると、部屋には入らず勢いよく扉を閉
めた。
駆け出す足音がパタパタっと軽やかに鳴った。
次いで、ものをひっくりかえした騒がしい音が部屋の中まで聞こ
えた。
﹁なーにをやっているのだ、おまえは﹂
﹁ごごごご、ごめんなさーい﹂
少女の声とは違う、もうひとりの女性の声が響く。
部屋の中に子供たちのくすくす笑いが漏れ出した。
﹁あーあ、リネットがまたやったー﹂
229
﹁やったー﹂
﹁どじだねー、ねー﹂
蔵人があっけに取られていると、ベッドの上にまでいつの間にか
のぼっていた幼児のひとりが、袖をくいくいとひっぱっている。大
きな鳶色の瞳をきらきら輝かせた、やたらに容姿の整った子どもだ。
﹁ねーあそぼ﹂
物怖じしない態度だ。
うむ、もうわかっていることだが再確認する。
彼女たちの耳は特徴的で、よく見覚えのあるものだった。
つまりは、エルフ族である。
﹁む、もう起きたかの、人間族の男よ﹂
蔵人が抱きついてくる子供たちをひきはがそうと苦心していると、
今度は扉の向こうからさきほどの少女とは違う、蔵人と同年代程度、
二十前後くらいの女性が入ってきた。
輝くような金色の髪に、白人特有の色の白さ。
髪は後ろでくるくるとシニヨンにまとめてある。白っぽい上着に、
超ミニのスカート。焦げ茶の編上げ靴を履いている。深い青の瞳が
印象的だった。
それよりもなによりも、蔵人を驚愕させたのは、上着を前に突き
立たせている、途方もなく大きな胸だった。
おいおい、冗談だろ。ほとんど、メロンじゃねえか。
蔵人は釘づけになった視線を外すと、咳払いをした。女は、男の
視線に慣れているのか、意図を察したままニヤニヤと笑みまで浮か
べていた。
﹁えー、なんか助けてもらったみたいで、いきなりモノを尋ねるの
も申しわけないんだが﹂
﹁んじゃ、尋ねるな。愚か者が﹂
にべもない返事に言葉がつまる。
﹁冗談じゃ、いきなり泣きを入れるな、鬱陶しい﹂
﹁アンタって、エルフだよな﹂
230
﹁あんたではない。わらわには、ドロテアという立派な名前がある
のでの。隠れ里へようこそ、お客人。もっとも、招かれざる客じゃ
がな﹂
ドロテアは両腕を前で組み、形の良い胸をつんと突き出して、さ
も自慢げに長い耳をぴこぴこ動かした。
蔵人は自分の名前を名乗ると助けてもらった礼を述べ、ここがド
ロテアたちの住む村だということを聞いた。
子供たちの数名は、最初こそおずおずとおっかなびっくりで緊張
を隠さなかったが、時間の経過と共にそれらは解けた。いまや蔵人
を遊びの対象とみなしたのか遠慮呵責もなく、飛びついたりひっぱ
ったりしておもちゃにしている。
ドロテアは、文机にある椅子に座るとその様子を楽しそうににこ
にこと眺めている。
蔵人は、真面目に話を聞くふりをして、ドロテアの形の良い胸を
じっくり視姦した。
﹁つまり、ここはいろんな村で行き場のなくなったハーフエルフの
子供たちだけが集められてるってわけか﹂
﹁飲み込みが早くてけっこうじゃ。わらわは、その行き場のない子
供たちを引き取ってこの村で暮らしておる。ただの変わり者じゃ﹂
﹁変わり者ねえ﹂
蔵人は横合いから、頬をひっぱられながらもなるべく相手にしな
い方向で行くと決め幼児たちを無視している。
ドロテアは、口元を手で覆いながら、上品にくふふと笑うと、走
り回っていたひとりの子エルフを抱き上げ膝に乗せた。
﹁いや、滑稽な顔じゃな、と﹂
﹁あのな﹂
﹁いや、おまえは思ったよりいいブ男じゃ。なに、むくれるでない。
つぶれたまんじゅうみたいでかわいいぞ。キモかわゆい﹂
﹁それフォローしてないよね、ぜんぜん人の気持ちおもんばかって
ないよね。むしろ、めっためたに小馬鹿にしてるよね﹂
231
﹁そんなこというな、わらわはキモかわゆいクランドは嫌いではな
い﹂
﹁マジかよ、モテ期到来。ドロテア、俺に惚れても無駄だぜ﹂
﹁クランド、お主はおもしろいやつじゃのう﹂
﹁サラッと流すなよな、傷つくだろう﹂
﹁ねーねークランド、クランド! あれやって、あれやって﹂
﹁うるせーガキだな、おらーっ﹂
蔵人は、子どものひとりの脇に手を入れると持ち上げて、高い高
いをする。
﹁オラー、東京タワーが見えるかっ﹂
幼稚なあやし方だが、子供たちはかなり気に入ったのか、かわる
がわる蔵人に高い高いをせがむ。
﹁しかし、この短時間での馴染みよう。脳みそが乳幼児並だからか
のう﹂
﹁ビッグなお世話だ、この野郎﹂
ドロテアはふうと息を吐き出すと、椅子から立ち上がり、んーと
両手を上に突き出して伸びをした。
﹁いや。失敬、子らに好かれるのは、おまえが悪人ではないからじ
ゃろう。気を悪くしたら勘弁せよ。の﹂
﹁お、おう﹂
鼻と鼻とが触れ合うくらいに顔を近づけてきたドロテアに、蔵人
はどぎまぎしながら応える。甘い女の匂いが漂い、意図せずして股
間が硬化する。
﹁なんだ、照れておるのか、かわゆいの﹂
﹁うっせ﹂
ドロテアは蔵人の張ったテントを見ると、鼻先で笑った。
﹁それって、立派なセクハラですよねぇ!?﹂
﹁いちいちうるさい男じゃのう。わらわの笑顔が気に食わんのかの﹂
﹁俺のマグナムを馬鹿にしすぎだからァ!﹂
﹁それにしても、せっかく助けたのが無駄にならずにすんだわ。悪
232
党ならば、始末せねばならぬしのう。ん﹂
蔵人は、ほんの瞬間的なことであったが、彼女の瞳に鋭い殺気が
宿るのを敏感に感じ取った。膨らんだ股間も自然に頭を垂れる。喉
がひりつくように乾いた。
﹁だから、そういうのやめようよ。なんで、この国の人たちは修羅
の世界に生きてるん? ラブアンドピースでゆこうぜ﹂
﹁ラブねえ。クランド、お主はとことんおめでたいのう﹂
﹁ドロテアの変な穴に俺の変な棒出し入れしようぜ! もっと、仲
良くなれるかも﹂
﹁わらわはこれでも純情可憐な乙女ぞ。あんまり無体な言葉で嬲ら
れると、悲しくて、クランドの変な棒、うっかりもいじゃうかも﹂
蔵人は速攻で謝罪した。
﹁おう、そういえば起きてから喉も潤してはおらなんだ、クランド
も苦しかろう。腹も減っていようが﹂
﹁あー、べつに気を使わなくても。⋮⋮やっぱ、お願いします﹂
しゃべっている途中で、ぐうと腹の虫がかろやかに鳴り、強がり
をやめた。
ドロテアはいたずらそうに眉をぴくぴくさせると、ドアを開けて
手招きをする。
しばらくすると、先ほど逃げ出した少女が身を縮ませながら、お
ずおずと姿を見せた。
﹁リネット。こいつは人間の男じゃがおまえを獲って食わんて。ほ
ら、こいつはクランド。少し話してみたが、人畜有害ではない、は
ず。おまえもあいさつくらいせい﹂
リネットは気弱そうな子犬のように、蔵人の様子を窺いながらそ
っと盆の上のものを差し出した。
﹁こんどは、ひっくりかえさなかったー﹂
﹁ねー﹂
子供たちがからかうように声を合わせると、リネットはもうっ、
と手を挙げてぶつまねをする。小さな妖精たちはきゃっきゃっとは
233
しゃぐと廊下に駆け出していった。
﹁あの子たち、本当にいたずら好きで困ります﹂
﹁あー、うん。子どもは元気な方がよろしい。メシ用意してくれた
んだ、ありがとな﹂
蔵人が礼をいうと、リネットは目を見開いて口元を隠し、ドロテ
アの顔を見つめる。
ドロテアは、慈母の表情で目元を和らげるとかすかに首を縦に振
った。
リネットが用意し直してくれた野菜スープには、細かく切ったじ
ゃがいもや人参、たまねぎがよく煮込まれ、コンソメの匂いが食欲
をかきたてる。
そういや、こっちの食材って地球と同じなのかな、ま、どうでも
いいか。
蔵人は、自分の理解の範疇にことが及ぶと、そんなこともあるだ
ろうか、と思い自分を許すのが常だった。よくいえば、ポジティブ、
悪くいえば思考停止なのだが。
﹁いただきまーす、あちちちっ﹂
飢えた野獣のように椀にかぶりつくと、予想外の熱さに汁が溢れ
る。蔵人の右腕あたりがスープの汁で汚れる。
﹁あ、だいじょうぶっ?﹂
リネットは、あたりまえのように蔵人の上着の付着部分をめくる
と、持っていたタオルで懸命に拭き始める。家族にすら甲斐甲斐し
く世話を焼かれたことのない蔵人の胸に、熱い気持ちがこみ上げて
きた。
ええ子や、ホンマに。
﹁はーい、これでおしまいです。って、ええええっ!?﹂
リネットは初対面の人間に自分がなにをしたのか気づくと、顔を
真っ赤にして立ち上がり、失礼しますといってバタバタ駆け出して
いった。
﹁まっかだー﹂
234
﹁へんなの、リネットおかしいね﹂
おいおい、今時清純すぎだろうよ。蔵人は、再び食事に戻ると、
熱いスープをゆっくりすすり、ほとんど時間をおかずにすべて胃の
中に収めた。
﹁うまかった、ごちそーさん﹂
﹁礼ならばリネットにいってやってくれ。さて、クランド。おぬし
も今日は休め。明日から、やってもらいたいことはいっぱいあるか
らな。わらわたちが拾った命じゃから、生殺与奪の権はこちらにあ
るぞよ﹂
ドロテアは、舌なめずりしながらウインクすると、まだ遊びたが
る子供たちを部屋の外に追い出す。
﹁やだー、もっとクランドで遊ぶのー﹂
﹁カチアもロッテもユリーシャもまた明日じゃ。道具は譲り合って
使わんとの﹂
﹁おいおい、俺はアイテム扱いかよ﹂
﹁それとな、クランド﹂
﹁なんだよ﹂
﹁女の胸はもそっと気づかれぬように見るものじゃ。あまりじろじ
ろ見つめられると、わらわもさすがに恥ずかしいわ﹂
蔵人は無言のまま下唇を突き出す。抗弁できなかった。
﹁見てませーん、自意識過剰でーす﹂
﹁そうか。じゃあ、次に妙な視線を向けたら、おまえの大切な部分
に紐をつけて子供たちに全力でひっぱらせよう﹂
﹁うそです、見てました。あまりにドロテアお嬢さまの胸が魅力的
すぎて﹂
﹁正直でよろしい﹂
ドロテアは満足したのか、口元をつりあげながら笑みを押し殺し
扉を閉めた。
台風のようなエルフの一団が去ると、蔵人はベッドにひっくり返
ってもみあげをいじる。
235
もう、何日も風呂に入っていない。
山野に伏していたときは気にならなかったが、全身が痒い。
蔵人は、指を折りながら最後に入浴した日を正確に割り出そうと
したが、あまりの無意味さにやめた。
さて、これからどうしようか。
先の展望を深く考えようとしたが、腹の皮が突っ張ったせいで目
尻が垂れ下がってくる。
毛布を頭までかぶると目を閉じた。くんくんと鼻を鳴らすと、ミ
ルクのような甘ったるい匂いが鼻腔に広がり妙な気分になった。
突如として陰嚢の裏側に掻痒感を感じ、指を突っ込んで掻く。
陰毛がぶちぶちと指にまとわりついたので、ベッドの外に腕を出
し、息を吹きかけて飛ばした。繰り返していくうちに、陰茎が自然
に硬化する。
一発抜きてぇ。
ドロテアのつんと張り出した巨乳と白いふともも、それにリネッ
トの恥ずかしげな顔が頭の隅をちらつく。
しかし、それってどうなんだ。行き倒れたところを助けられて、
しかも親切に介抱さた上に、その恩人でヌくってのは。さすがに人
非人すぎやしないか。
蔵人は、深い闇の中で自問自答しながらまどろみ、明け方久しぶ
りに夢精した。
朝が来て、どろどろになった下穿きと毛布がドロテアに見つかり、
彼は今までの人生を見つめ直す旅に出たくなった。
朝食を済ませたあと、蔵人はドロテアと連れ立って山の中へと狩
りに出かけていた。
236
竹かごを抱えてリネットがその後を少し離れて続く。
一同は、村を出てから一様に無言だった。
もちろん、原因は蔵人のせいだった。
﹁あのさ、なんかいってくれよ﹂
﹁ん、んん。そうじゃの、うむ。傷の具合はどうだクランド﹂
﹁ああ、だ、大丈夫だ﹂
﹁そうか、うん。そか、それはよかった﹂
気まずい雰囲気が三人に立ちこめる。昨日はあれほど快活だった
ドロテアも、なんとなく恥ずかしがって蔵人から距離をとっている
のがまるわかりだった。
﹁おい、悪かったっていってるだろーが。あれは自然現象、自然現
象だから! べつにやましいことなんか全然ないからね! 若い男
なんて、みんなあんなものだからね!﹂
﹁すまぬ。わらわもあまりなれておらぬでの。そうか、男はみんな
そうなのか﹂
⋮⋮しかし、あんなにこってり。
とエルフ特有の長耳を先まで真っ赤に染めながら小声でつぶやく
ドロテアの後ろ姿を視線に置きながら、蔵人は無性に谷へと身を投
げ出したくなる衝動がこみ上げてくるのをとめられなかった。
しばらくなだらかな尾根を移動していると、ドロテアが急に身を
低くして、し、と口元に指を当て一行を制した。
リネットは慣れているのか、小動物のように身をすくませると、
そっと音を立てずにしゃがみこむ。蔵人が真似て後に続く。
獲物を注視するドロテアの瞳がすうっと細まる。
蔵人は同様に、彼女の視線の先を見つめる。
けれども、ただ緑の木々が生い茂っているようにしか見えない。
ドロテアが、ゆっくりとした動作で弓に矢をつがえる。
緊張感が高まるにつれて、陰茎にまたしても強い掻痒感を覚えた。
かいぃ、掻きてぇ。
慣れない山行の上に極端な綺麗好きの日本人である蔵人には、異
237
常なまでの入浴願望があった。
だが、それは満たされないまま十日近く経とうとしている。
おまけに緊張から金玉の裏側に汗がたまり、それは我慢のできな
いレベルの不快感にまで育っていた。
﹁おい、なにをモジモジしている。獲物が逃げるではないか﹂
﹁いや、ちょっとタンマ﹂
﹁んん? こら、どこに手を突っ込んでいる! おまえという、男
は﹂
﹁わ、バカ。急に振り向くなっての!﹂
振り返ったドロテアのつがえた矢尻が蔵人のひたいを刺しそうに
なり尻餅をつく。
﹁ドロテア、しーっ、しーっ﹂
リネットが口元に指を当てふたりを静止する。
同時に、木々の向こう側の斜面が不意に動いた。
﹁ああ、もおおおっ。逃がしたらおまえのせいじゃぞ! クランド
!﹂
ドロテアは、叫びながらひょうと矢を放つと、動き出した獲物へ
と当ててみせる。
獲物は、身体に矢傷を受けながらも、一直線にこちらへと向かっ
て突進を始めた。
両眼の赤い瞳がらんらんと光り、保護色のこげ茶色の全身が枝葉
を打ち払いながらあらわになる。額には大きな一本の角がまがまが
しくそびえている。ドロテアの狙っていたのは、このあたりの山河
に生息する希少価値の高い、一角うさぎだった。
﹁あのぉ、ドロテアさん。あれってうさぎですよね﹂
﹁そうじゃ、来るぞ。身を伏せておれ﹂
﹁なんかむちゃくちゃデカいんですけど! 遠近感おかしくね! あれって牛ぐらいのおおきさじゃね!? 俺の知ってる生き物と違
くね?﹂
﹁この山の食い物がよかったからかの﹂
238
子牛ほどの大きさのある一角うさぎは地響きを立てながら蔵人た
ちに殺到する。
﹁リネットを頼む﹂
﹁想定外、想定外。畜生、かわいいうさぎちゃん狩りだからってつ
いてきたのに。詐欺だ!﹂
蔵人は、震えているリネットを引き寄せると守るように抱きしめ
た。
恐怖のあまり、少女は必死で両手を伸ばし蔵人の胸元へと飛び込
んだ。
あんなバケモノにぶつかるなんて、ワゴン車に体当たりするよう
なもんだぞ。
ドロテアは弓矢を投げ捨てると、腰に下げた長剣を抜き仁王立ち
になる。
柄頭にはめ込まれた宝石へと精神を集中する。
一角うさぎが指呼の間に接近するやいなや、桜色のくちびるがゆ
プロテクト
っくりと動き、呪文の詠唱がはじまった。
﹁守護の楯﹂
ドロテアの全身を淡い緑の光が包む。同時に彼女の編上げ靴は地
ストレングス
を蹴って、獣の上方へと躍りかかるようにして飛び上がった。
﹁強化魔術﹂
弧を描いた長剣が白く輝く。
ドロテアは、自分の数倍もある一角うさぎの巨体を、溶けたバタ
ーを裂くように軽々しく正面から真っ二つにすると、身をひねって
鮮血をかわしざま、返す刀で首だけを宙に跳ね上げた。
あっけにとられる蔵人を目の前にして、ドロテアはいたずらそう
に微笑む。
それから、人間がひと抱えもするほどの大角を片手で軽々とつか
み、一角うさぎの首をかざしてみせた。
﹁これ、食うの﹂
﹁クランドはこんなものを食べてみたいのか。変わったやつじゃの
239
う﹂
﹁いやいやいや。食わねえっての。んじゃあ、どーすんだよ、これ﹂
﹁角が高く売れるんじゃ。薬としての。街で換金して日用品を買う。
当然じゃろう﹂
﹁いや、その当然が全然理解できないんだが。にしても、すげえ怪
力だな﹂
﹁怪力? かよわい乙女に失敬な﹂
ドロテアは、蔵人の言葉にさも心外だというふうに首を振ってみ
せた。
﹁かよわいって、エルフってもしかしてすべからく怪力な種族なの
か﹂
﹁だから、違うと。それと、リネットはそろそろ離れたらどうじゃ。
そんなに引っ張ったらクランドの服が伸びてしまうぞ﹂
﹁あ﹂
にたにた笑いながら指摘するドロテアの言葉に、リネットは蔵人
の胸から身体を離すと
瞬間的に顔を真っ赤にさせながら自分の両頬に手をあてうつむく。
﹁いやー、服くらいどうだっていいって。むしろ、このボロ切れ着
てられるっていうレベルじゃねーし。怪我はなかったか﹂
﹁あ、はい﹂
背丈が百八十近い蔵人と自然に見上げる形になったリネットの視
線が交錯する。
少女は口をもごもごさせながら、ぐっと両拳を握りしめたまま再
びうつむくと、首を何度か左右に振っていきなり駆け出した。
﹁あたし、先に帰ってますっ﹂
﹁えええ! おーい﹂
蔵人が呼び止めようと伸ばした手の先に、リネットの背中がどん
どん小さくなっていく。
﹁は、早い。呼び止めるヒマもなかった﹂
﹁うーん、妬けるのぉ。だがな、クランド。不用意に手をださんで
240
くれよ﹂
﹁なにいってんだ、ありえねえぜ。まだほんの子どもろうが﹂
﹁子ども? なにをいっておるのだ。リネットは今年で十二じゃ。
もう、子どもの作れる身体じゃし、本来ならとっくに嫁に行っても
おかしくない年頃じゃぞ﹂
﹁マジかよ﹂
ドロテアの言葉に絶句する。現代日本と違い、ほとんどの庶民の
平均寿命が四十前後のこの世界では十代前半で婚姻し子どもを産む
ことは別段不可思議なことではなかった。
人口数が直接国力に反映する時代では、人の力がすべてでありそ
ハーフエルフ
れだけ簡単に命が潰えるのが当たり前であった。
﹁実はな、最初にあの村は混血ばかりだといったじゃろ。あの話を
ハーフエルフ
聞いたおまえの態度次第では里を出て行ってもらうつもりだったの
じゃ﹂
﹁差別、か﹂
﹁そうじゃ。あのこたちも好きで混血として産まれてきたわけじゃ
ないのじゃ。このロムレス王国に住まうのは人間族だけではなく多
くの亜人が別れて暮らしておる。王都の力が保たれていた時代は、
いまよりはるかに治安はよく住みよい国だったというがの。相次ぐ
飢饉や、街道の封鎖による物価の高騰。あらゆる亜人の部族は小競
り合いが常に耐えず、場合によっては幾度も王国の政府高官に渡し
た袖の下で軍の介入を招いておる。その結果があの子たちじゃ。女
を抱かぬ兵隊などおらぬ。娼婦を買える余裕のある騎士たちならと
もかく、末端の兵士には給料の遅配すら起こっているそうな。行き
がけの駄賃に亜人の娘を慰みものにするなどなんの痛痒も感じんじ
ゃろう。悲しいことじゃがな﹂
ドロテアは、切り取った角を右手で弄び、木の根元に腰かけ、長
いまつ毛を伏せた。
蔵人は無言で両手を組むと、里のある方角へと視線を凝らす。長
く裾野を引く山の上に灰色の陰鬱な雲が垂れこめはじめている。
241
今朝、食事をともにした子供たちのはしゃいだ表情が途端に色あ
せた。
﹁わらわはおまえに、なんとなく異質なものを感じておる。普通の
人間なら、ハーフエルフと聞けばなんらかの反応を示すものだがの。
そういえば、やたらに触りたがっていたの。触るか、ん﹂
﹁いいんかよ﹂
﹁触ってよし。特別に許してしんぜよう﹂
﹁えっらそーに﹂
﹁ん﹂
蔵人は敢えて空気に乗って、すっと頭を差し出したドロテアに近
づくと手を伸ばした。
﹁おおー耳だ﹂
﹁ん、それはそうじゃ、んぅ﹂
蔵人はドロテアの長く細い耳をふにふに両手でもみこみ感触を味
わう。
﹁おまえはエルフなんだよな。はっきりいって違いなんかわからん﹂
﹁ハーフエルフの方が幾分耳が短いのじゃ。は、あああ﹂
ドロテアは時折切なげな声を漏らすと、目を閉じたまま小刻みに
震えている。
喉がひくひく動き、次第に息が荒くなった。
﹁おいおい、あんまセクシーな声を出すなよ。誘ってるのか﹂
﹁だ、れが⋮⋮あはぁ、ん﹂
ドロテアの瞳がとろけたように熱を持って潤んでいる。蔵人は、
ある程度満足したので耳から手を離すと、じっと彼女を見つめ鼻を
鳴らした。
﹁もっとして欲しいか﹂
﹁ちょ、う、し、に、の、る、な﹂
ドロテアが剣に手をかける。蔵人は飛びすさって距離をとると大
樹の陰に隠れた。
﹁冗談じゃ。そう怯えるでないわ﹂
242
﹁無茶いうな。それにしても、さっきのちちんぷいぷいすごかった
な﹂
﹁なんじゃ、精霊魔術も知らんのか。そういえば、ほとんどの人間
は使えんし。それにしても世間知らずなやつよのう﹂
﹁いや、知らねえわけじゃねえがよ﹂
﹁知らんのだろう﹂
﹁いや⋮⋮﹂
ドロテアの顔が説明したがっていたので好きにさせた。南無。
この世界では魔術は大きく二系統に分類される。
神への信仰をもとにした神聖魔術と、精霊信仰をもとにした精霊
魔術である。
根本は解明されていないが、能力の発動条件は個人の適正による
ものとされる。
ロムレス教会の積み上げてきた歴史により、回復や補助を主とす
る神聖魔術の使い手はかなりの数がいるが、精霊魔術の使い手はご
く少数であり、この世界ではあらゆる面で重宝されているのが常で
あった。
﹁特に人間族では精霊魔術を使えるものはほとんどおらんと聞く。
魔術全般に適性を有し、かつ比較的に多いのが、亜人や我々エルフ
じゃ。もっともエルフであるからといって、全員が全員無条件に使
えるわけではないからの﹂
ドロテアがものすごい、どや顔で両腕を組む。ボリュームのある
胸がはちきれそうに強調されぷるるんと震えた。
﹁さっき使ったってのも精霊魔術ってわけか。単におまえが馬鹿力
出しただけじゃなくて﹂
マリカの魔術は攻撃系に偏っており、他者の力を増幅させる補助
系は見せなかったため、逆に目新しかった。
﹁とことん疑い深いやつじゃの。ようし、そこまでいうならかかっ
てこい。軽く揉んでやろうかの﹂
ドロテアが、へいカモンと手招きをしながら両手を前に突き出し
243
構えた。
﹁おいおい、かよわい婦女子相手にこの俺がそんなことを。⋮⋮や
るに決まってるだろうが! 後悔しても遅いからな!﹂
ひいひい、いわせてやるっ。
ごしゅじんさまっ、しゅごいのおおっ、て叫ばせてやる。
蔵人は、目を真っ赤に血走らせながら上着を脱ぎ捨てると、ドロ
テアに正面から組み付いた。女性らしい小さな肩と腰に手を回し、
一気に押し倒そうと奥歯を噛み締める。
﹁ぬおおおおっ、なんじゃあこりゃああ﹂
蔵人が意図せぬ力に叫んだ。
額に細かい汗がぷつぷつと湧いた。
ドロテアは口笛を吹きながら、根が生えたように微動だにしない。
蔵人は、どっしりとした巌を前にした錯覚を覚えた。
それでも満身の力を込め、押し倒そうとするがドロテアの身体は
微動だにしなかった。
﹁なんじゃ、その抱きつき方は。もっと情熱をこめよ。子どもらの
方がよっぽど気合が入っておるぞ、と﹂
﹁のわわわっ﹂
ドロテアは、蔵人の右足首を、細いひとさし指とおや指でつまみ
あげると、そのまま八十キロはある成年男性の身体をさかさまに釣
ストレングス
り上げた。
﹁強化魔術。肉体の基本性能を高める魔術じゃ。極めれば素手のま
ま大虎すら鼻歌まじりで絞め殺せる﹂
ドロテアは、釣り上げていた蔵人をそっと下ろすと、自分の身体
をくいくいと指差す。
﹁なに? あたし寂しいの、火照った身体をなぐさめて﹂
﹁また、妙な翻訳を。この話の流れでどうしてそうなる。どこでも
いい、わらわの身体を突いてみい。あー、それから下履きは脱がん
でいい。未使用のまま余生を暮らすことになるぞ﹂
蔵人は、股間の防御姿勢をとると、すかさず両手を左右に広げ、
244
鳳の構えを決めた。
﹁いや、べつに未使用じゃねーし。ようするに、かよわい女性に暴
力を振るえってことですね。そんなこと、できませーん﹂
といいつつ、蔵人はドロテアの白桃のようなたわわな胸にむかっ
て両手を伸ばす。
むんず、と鷲掴みにした途端、両指が岩石を掴んだ感触を覚える。
﹁まさか、入れチチっ!?﹂
﹁入れチチではない。すべて天然仕様じゃ。そうではなく、見よ﹂
﹁いつも見てますが、なにか﹂
﹁だれが、胸のことを。もおいい。ほっ﹂
﹁ちょっ、待てって、やめろー!﹂
ドロテアは上着をめくると真っ白な腹を見せ、すらりと抜いた長
剣を突き立てる。勢いのついた刃先がかつん、と硬質な音を立てて
弾かれる。焦って真っ青になった蔵人の顔を満足げに眺めながら、
プロテクト
剣は滑るように鞘に収められた。
﹁これが守護の楯。身を守る防御魔術じゃ。生半可な刃物や打撃で
は傷ひとつつかぬよ。さて、目的の獲物も取れたし今日は帰るとす
るか﹂
﹁あぁ、てか一匹だけでいいのか?﹂
﹁リネットのことも気になるしの﹂
﹁そうだな﹂
﹁一角うさぎは希少での。幾日も山をめぐっては見つからんことが
当たり前じゃ。その点今日はラッキーデーじゃった。にしても、本
当におまえは弱いのぉ。里に帰ったらわらわが稽古をつけてやろう。
うれしかろ﹂
﹁それって俺も魔術が使えるようになるのか?﹂
﹁それも含めてじゃ。にしても、ちと臭うの﹂
﹁しゃあねえだろ。この世界にスーパー銭湯とかないし﹂
﹁銭湯? 天然の湯なら、里からの近場に湧いておる。後で案内し
よう。よっと﹂
245
﹁おいおい、待て待て。いまなにげに会話の途中でなにを背負わせ
た﹂
﹁いったいわらわがなんのためにここまで連れてきたと思っておる。
食い扶持分は働いてもらわんとの﹂
﹁自分で運べばいいだろうが﹂
﹁クランド、おまえの思っておるほど魔術は万能ではない。長時間
は使用に耐えんのだ。疲れるしの﹂
﹁へいへいわかりましたよ﹂
この、怪力エルフが。
﹁なにかいったかの﹂
﹁おら、なにもいっておりゃせんがね。お美しいエルフさま﹂
ドロテアが、ずいと顔を寄せる。
まつ毛同士が触れ合う距離で見つめ合うふたり。
蔵人は沈黙に耐え切れず、ドロテアの胸を揉んだ。
ドロテアは無言で蔵人の脛を蹴った。
蔵人たちは里に向かって黙々と距離を稼いだ。
先行したリネットの姿は影すら見えない。ドロテア曰く、足の丈
夫さは一族でもとびきりだったらしい。蔵人は、前かがみになりな
がら、背負子に乗せた一角うさぎの重さに汗を流しながら、それで
も投げ出すような言葉は一度も吐かなかった。
これには、ドロテアも驚いたのか感心し、何度か交代の意を伝え
たが頑として蔵人は譲らなかった。
時折、歩みを止めるたびにドロテアは甲斐甲斐しく蔵人の額に伝
う汗をいとうことなくぬぐい、ふたりは協力しながら支えあって進
む。
246
実際、数十キロに近い荷物を持って傾斜のある山道を移動するこ
とは慣れた人間ですら苦痛である。
ましてや、少々体力に自信のあった程度の現代人である蔵人では
推して知るべしだ。
﹁のう、わらわがいうのもアレじゃが。無理せず休まぬか?﹂
﹁子供たちが待ってるだろうが﹂
﹁それをいわれると、のう。おそらくリネットも着いておるだろう
し﹂
﹁それでも、暗くなれば心細くなるのが人情だろう﹂
ドロテアはそっと目を細めると、もうなにもいわず肩をすくめて
みせた。
蔵人の筋肉は数時間で乳酸がたまり、足を上げることですら億劫
なほど疲労が蓄積している。ふと、斜面のガレ場に差しかかったと
き、人の声が耳に入った。
﹁なんだ、っととと﹂
ドロテアは真っ青な顔で蔵人を草むらにひきこむと、がっしり抱
きついて口元に指を当てた。いつもの強気な瞳はなりを潜め、肩を
震わせている。
こいつがビビるって、バケモノってレベルじゃねえぞ。
先ほどの一角うさぎを屠殺した手並みを見ていた蔵人にとってこ
の怯えようはただごとではなかった。五人ほどの男の足音が、谷側
の道をきざんでいく。
男たちは全員雲を突くような大男で、それぞれ抜き身の剣や槍で
武装している。
言葉遣いこそ荒れたものであったが、身なりはそれなりに整った
革製の防具を付けており山賊には見えない。
﹁おい、本当にこのあたりなんだろうな。これでひと月になるって
いうのに、影も見つからねえや﹂
﹁こっちも遊びでやってるわけじゃねーんだ。もし、おまえのいう
ことが嘘だったら﹂
247
﹁嘘じゃありませんよ。ただ、ドロテアは魔術も得意だったから、
きっと隠れ場所自体に目くらましを掛けているのかも﹂
男たちは誰もがイラついた口調で、もっとも華奢な男に詰め寄り
罵声を浴びせている。
道案内を務めているのは、女と見紛うような整った顔立ちの男で、
なめらかな髪から突き出す長い耳からエルフ族だと思われた。
﹁くそっ、なんでだよ。僕がこんなに苦しんでるのに。あいつ﹂
エルフの男のつぶやきが吐き捨てるように耳に落ちる。ドロテア
が身をいっそう固くしたのがわかった。
﹁いっちまったぜ﹂
男たちの姿が完全に消えても、ドロテアは草むらに両手をついた
まま顔を伏せていた。
蔵人が腰を浮かせかけると、彼女はしがみつくようにして顔を胸
元に埋める。
それから、暗い表情のままゆっくりと独り言のように覇気のない
声で語り始めた。
248
Lv16﹁小エルフがいっぱい﹂
王都の北に位置するエルフ族の村でも、ドロテアの家は族長に連
なる一門にあたり栄華を誇っていた。年頃の彼女には幼い頃から決
められた許嫁がいた。
男の名は、ラルフ。
先ほど山道を登っていった男たちを先導していたエルフである。
美男で優しい婚約者と名誉ある家柄。
とりわけドロテアには、優れた容姿だけではなく剣と魔術の才能
もあり、その技術は並ぶものがないと称されるほどだった。
繁栄を誇った一族に陰りが見え始めたのは、婚礼を行う予定の春
だった。
今や凋落を見せ始めたロムレス王家の徴税官が、突如として税率
を上げたことに端を発した。ドロテアの一族が住む地域は、いわゆ
るロムレス王領の属州であり、税金を収めることによってある程度
の自治権を認められていた。
形としては、王都から派遣される官吏が政治を行っているのだが、
代替わりした総督は商人上がりのがめつさで、いかにその土地を繁
栄させて国庫を増やすということにはまるで興味がなく、己の蓄財
にのみ執着する小人物であった。
このような人間では属州が治まることもなく、ちょっとしたきっ
かけが争いの火種を爆発させた。
財に任せて装備を強化した国軍と五百に満たぬ一部族では勝負に
249
すらならない。
鎧袖一触。
一度の会戦で七割の死傷者を出した一族は、巨額の賠償金を贖う
ことになり、特に族長に連なるラルフやドロテアの家は負担が重く
婚礼は無期延期になった。
ドロテアとラルフの仲が決定的になったのは、今回の戦の責任を
互いに押しつけ合い、自分たちだけは一族の権威を保とうとする醜
い内訌だった。
ラルフは次第にドロテアといっしょになれないストレスから、お
決まりの酒や女や博打に嵌っていった。
それは中々肌を許さないドロテア本人にも向けられるようになっ
た。
﹁わらわも別にラルフが嫌いだから受け入れぬわけではなかったの
じゃ。身体を合わせて安易に慰めれば、きっと、もう彼は二度と立
ち直れぬ。そう思ったから。だから、らわたちのこの先のためにも、
もう一度奮起して、立ち直って欲しかったのじゃ。じゃが、あいつ
は、あいつは﹂
ラルフの美しさは、少々の酒や乱れた生活では、霞むようなもの
ではなかった。
ドロテアが身体を絶対に許さないと理解すると、この男は堂々と
女を作り、ところかまわず愛し合うようになった。
﹁それぐらいなら、まだ我慢できたのじゃ。だが、次第にあいつは
わらわの前で、見せつけるように女を抱き、またわらわも負い目も
あったか、その行為を咎めることができんようになっていたのじゃ。
次第に歯止めが効かなくなったのか、さすがに一族の長老たちが咎
めたときには、もう元の関係には戻れなかった﹂
ラルフの放蕩が止んだのは他にも理由があった。
戦の賠償金の問題であった。
物理的に家財を蕩尽できないと知ると、今度は再びよりを戻そう
と婚約者に近づきはじめたのだった。
250
﹁わらわはこんな性格で、こまい時分から男を呑んでかかることが
あっての。ふふ、これでも随分とモテたものじゃが、どいつもこい
つもわらわを剣で負かせて組み敷いてやるという気が見え見えでの。
エルフは、基本的に女も男も気位が高いからの。その点、ラルフは
素直にわらわを褒めてくれたし、どんな時でも優しかった。理解し
ておらなかったのだ。その優しさは、全部みせかけのもだなんて﹂
ドロテアがその噂を最初に聞いた時は、嘘だと思い完全に聞き流
していた。
その噂は、ラルフが戦によって産まれた戦災孤児や、侵略してき
た兵士たちによって出来たハーフエルフたちを奴隷商人に売却して
いるというものだ。
﹁奴隷の存在を云々するつもりはない。わらわの家でも使っていた
し、戦があれば戦利品として男どもが売り払っている事実も。そし
て、それで得た財でいままで生きてきたことも。だが、信じられな
かったのだ。まさか、同胞でもあるあんな幼き子らを﹂
ドロテアは顔を覆って唇を強く噛み締める。流れ出た血が、ひと
すじ糸のように流れた。
﹁所詮この世は不平等じゃ。勝ち続ければすべてを手に入れられる
し、敗北はたった一度きりでなにもかも奪い去っていく。幼い頃か
ら働く奴隷などザラにいる。けれど、あの子たちが売られた先は﹂
ドロテアの脳裏に、ようやく突き止めた子どもたちが売られた先
の貴族の庭が明滅していく。
ゴミを捨てられるように大きく穿たれた穴。
人形のように打ち捨てられた幼児たちの身体を、冷たく黒い雨が
降り注いでいる。
彼女たちが纏っていた上質な生地には、前夜に行われたであろう
放逸な性欲の残滓がくっきりとこびりついていた。
うつろなガラス玉のような瞳は意志を持たず、造りもののように
虚空を睨んでいる。
立ちすくむドロテアの脇を、無感情な石像のように、貴族の下男
251
たちが使い終わった道具を穴へと放り込んでいくのが見えた。
﹁幼い処女を抱けば、病が治ると、長命を得られると。ヤツらはそ
ういっておった。男が女を欲しがるのは仕方がない。だが、なにも
ハーフエルフ
わからない幼き子を使い捨てのゴミのように、あんなふうに。いう
にことかいて、ラルフは。いったんじゃ。混血なら、別にかまわな
いだろう、と。だから、だから﹂
ドロテアは、棄民政策である売買に承服することができなかった。
また、それを半ば黙認する形で認めていた一族の有力者たちにも。
﹁すべてを救うことなんぞできない。だから、わらわはラルフの父
を切り捨て、子らを奴隷商人から奪って、ここまで逃げてきたのじ
ゃ。のう、クランド。最初は、おまえのことは商人どもが差し向け
てきたならずものだと思ったのじゃ。見捨てようとした。非道な女
じゃ。わらわには、もう戻る故郷もない。お父さまやお母さま、妹
たちも会えぬ。怖いのじゃ、わらわは。ラルフを前にすれば、なに
もできなくなってしまいそうな気がして﹂
胸元から、さも大事そうに真っ白な真珠の首飾りを取り出すと、
目の前で掲げる。
﹁これは、ラルフが婚約前にわらわにくれた月のしずくじゃ。今と
なっては、我ながら女々しいと思ってもどうしても捨てられなくて
の。時々自分が殺してやりたくなるくらい嫌いになるのじゃ。あん
な、あんな男を。わらわは﹂
ドロテアはすべてを諦め切ったような顔で微笑んでみせた。まと
めていた髪がほつれ、横顔に流れる。もて遊ぶ白く細い指先がひど
くさびしげに見えた。
奴隷制度のない現代日本から来た蔵人にとって彼女の苦しみはま
るで現実感がなかった。
奴隷は肯定するがその扱いがひどすぎたということだろう。
古代ローマ帝国においても公然とした奴隷制度はあったが、それ
は生活に必要不可欠であり、無意味に傷つければペナルティがあっ
た。
252
だが、この世界にはそんなものはないのだ。
ドロテアの言葉から推察すれば、非道な行為は忌避されるものの、
それに対する罰則というものはおそらく法に規定されていない。
なんの証拠もなく投獄され、あと一歩で処刑されていたかもしれ
ない蔵人にとって、この世界の法は権力者の恣意により改変される
あってないものと同じであることを誰よりも身にしみて実感してい
る。
蔵人は、無言のままドロテアを強く抱き寄せると肩を抱いた。
ドロテアのやわらかい身体がいっそう強くしがみついてくる。
随分長い間そうしていたが、ドロテアが涙を流すことはなかった。
唇の端を噛んでこらえる彼女の顔が、ただ悲しく見えた。
蔵人は、帰路の道筋にあった天然温泉の場所を教えてもらうと、
そこで入浴することを勧められドロテアと別れた。
努めて平静にふるまおうとする姿は、蔵人にとって痛々しく映っ
た。
温泉は沢の流れと交差する比較的近い位置にあり、常時湯気が白
い霧のようにあたりに漂っている。
蔵人は、衣服を脱ぐと折りたたみ、最初に足の指先を湯に近づけ
て温度をさぐった。
﹁こいつは適温﹂
ぬめった岩から転ばないようにゆっくりと身体を沈める。
じんわりとした地熱と湯のあたたかさが蔵人の全身へと染み入っ
てくる。
深い多幸感につつまれながら、脱力した。
うはー、と無意識の内に声が漏れた。
253
﹁ドロテア。なぜ断る。ここは一緒に入る流れだろ﹂
もちろん紳士として蔵人はドロテアと混浴を希望したのだが、す
げなく断られた。
弱った部分を攻めるのは常套手段だが、先ほどの話を思い返すと
無理押しするには残っていた良心が咎めた。
この天然温泉は、里から歩いて十分程度の場所なので、彼女たち
は就寝する前に入浴するのが習慣になっているらしい。
絶対に覗きに来よう。強い決意を胸にひとりうなずく。
蔵人が下心を育てていると白い蒸気の向こうに、お湯の跳ねた音
が聞こえた。
﹁ぬう、なにやつ﹂
蔵人は、物音のした場所へと、抜き手を切って平泳ぎで近づく。
ざぶざぶとお湯が泡立った。
前も隠さず湯壷から飛び出して岩場へと着地した。
﹁あ、え?﹂
白い華奢な背中がゆっくりと振り返る。
小ぶりな胸には、桜色の蕾がつつましやかに咲いていた。
髪は白いタオルで後ろにまとめてある。
リネットは、わけがわからないとったふうに、身体を隠すことも
忘れ、呆然と立ちすくんでいた。
俺はロリコンではないので、特に問題はないだろう。
﹁あああ、ちがーう!﹂
﹁ひう﹂
蔵人は、一瞬反応しそうになった一物を鎮めるため、ゆっくりと
湯船に肩まで浸かると平静を装った。なんでもない、というように
世間話を振った。
﹁しかし、あれだな。温泉は疲れがとれるな﹂
﹁は、はい﹂
リネットは特に怯えるふうでもなく湯船に身体を沈めると、これ
でいいのか、と主を眺める仔犬のような目つきでじっと蔵人を見上
254
げる。
﹁その、お背中流しましょうか﹂
﹁お、おう﹂
特に断る理由もなかったので、うながされるように岩場に腰掛け
ると背中を向ける。
リネットが特に前を隠さず立ち上がった時は、内心どきっとした
蔵人であったが、彼女のふくらみかけの胸はやはり子供の域を出な
いもので、思った以上に欲情をそそらず、結果自然体で振る舞える
ゆとりが生まれた。
﹁わ﹂
﹁どうしたんだ﹂
﹁すごい、きずあとです﹂
﹁いろいろあったからな﹂
リネットは顔をくしゃくしゃにすると眉をしかめ、おどおどと視
線をさまよわせる。
紋章の力で無限に回復するといっても、傷痕まで消せるものでは
ない。
抉られたひきつれは全身に残り、それは闘争に程遠い少女には別
次元のものに思えた。
﹁とりあえず痛みはないんで、思いっきりやってくれ、っていって
も無理か﹂
﹁いえ、やります。やらせてください﹂
突如とした叫びに振り返ると、少女は大声を出したことを恥じる
ように目を伏せる。
﹁こんなことぐらいしか、できませんから﹂
﹁んん? よくわからんが、頼むぞ﹂
﹁はーい。んしょ、んしょ﹂
小さなてに握られたタオルが背中を上下に擦る。
誰かに身体を洗ってもらうなど子供の頃以来だろうか。
蔵人はそっと目を瞑ると、湯壷に流れる音に耳を澄まし、脱力し
255
た。
﹁わ、すごい﹂
ぼろぼろと背中から垢が落魄する感覚に、快感と羞恥が同時に沸
き起こった。
リネットは、傷痕にも気を配りつつ、熱心に作業に集中している。
少女とはいえここまで女性に奉仕されたことはいままでの人生で
なかった。
蔵人は、異様な背徳感を覚え、尻の穴から脳天まで突き抜けるよ
うな痺れを覚えた。
﹁あー、ずっと風呂なんぞ入ってなかったからな。これじゃ、ます
ます女に嫌われるな﹂
﹁そんなことないです﹂
﹁おいおい、大人をからかうんじゃないぜ﹂
﹁あの、先程はありがとうございました。その、かばってくれって。
なのに、あたしったら、お礼もいわずに逃げだすみたいに。ひどい
ですよね﹂
﹁あー、あれか。あのうさぎちゃんな。別にいいって。俺は、あれ
だ! 丈夫だからな﹂
﹁怒ってませんか﹂
リネットの熱を孕んだ瞳が一心に見上げてくる。
くびすじの白さが夕暮れの中で際立って見えた。
瞬間、風が強く吹いて少女の襟元のおくれ毛がなまめかしく乱れ
る。
艶のある薄い唇がわずかに震えた。
﹁怒ってない。礼をいうならこっちのほうだ。メシも食わせてもら
ったり、おまけに今朝はみっともないことに下の始末までさせちま
って。俺にできることは楯になることくらいだから。ま、どうして
も礼がしたいってんなら、ドロテアの身体でしてもらうから、安心
しろ﹂
蔵人は敢えて豪快に声を挙げて笑って見せる。
256
リネットのせわしなく動いていた手が止まった。
﹁あたしじゃ、だめですか?﹂
﹁へ、ダメですって、なにが⋮⋮﹂
﹁お礼です。あたしが、クランドさんに身体で、します﹂
まさか、そう来るとは思わんかったわ。
蔵人は目を白黒させて咳きこんだフリをした。
﹁へ。あー、そうだなー。まだ、ちょっと早いかなぁ。ここが、も
う少しふくらんだら頼むとするかぁ﹂
冗談めかした口調でいうと、リネットは思いつめた顔で視線を合
わせてきた。
﹁あたし、平気です﹂
やべえ、ムラムラしてきた。ヤりてぇ。
リネットのうっとりした瞳がからみついてくる。触れなば落ちん
といった風情だ。
無理強いするわけじゃない、こんな形の愛があってもいいじゃな
いか。
脳内の俺回路が唸りを上げて発動し、すべての倫理感が希薄にな
っていく。
某国なら、写真をFBIに永久保存され、なおかつすべての個人
情報をネットに公表された上、常にGPSで位置を常時確認されつ
つ、行動区域が制限されるレベルの暴挙である。
﹁待て、俺はまだ性犯罪者になりたくない﹂
制止しようと右手を伸ばす。
リネットは、蔵人の手を取って己の胸に導くと、目を閉じた。
﹁んうっ﹂
幼い喘ぎ声がダイレクトに脳内麻薬を分泌させた。
蔵人が宇宙の成り立ちと、これからの行く末に思いを馳せ始めた
とき、後方でもぞもぞと動くひとつの影があった。
﹁完全に出るタイミングを逃してしもうた。なにをやっておるのじ
ゃ、あいつらは﹂
257
蔵人たちがいちゃつくのを岩陰からじっと見つめながら、ドロテ
アは理不尽な居心地の悪さに爪をかんでいた。
彼女は、かなり大胆な、燃えるような真紅のブラとショーツを着
けながら、吹きつける風に鼻をすすりあげていた。
﹁わらわだって、リネットを咄嗟にかばったことは評価しておった
よ。黙って話を聞いて、その、抱き寄せてくれたのも好印象だし。
案外、男らしい肩と厚い胸も、その安心できたし﹂
ドロテアの鼻に皺が寄った。
﹁確かにちょーっとすげなくしたのも、あとでちょっとしたサプラ
イズで喜ばせつつもイジリ倒そうという遠大な計画の一部だったの
に。惚れたとかそんなんじゃなくて、いやいやいや。認めよう。認
めよう、自分。けっこういい男だと思うんじゃが。それとは、まる
で関係ないが、なんか知らんが、なんじゃ? この胸のムカつきは
?﹂
﹁リネット﹂
﹁クランドさん﹂
ふたりのいい雰囲気が加速していく。
﹁なんだかゆるせーん!﹂
ドロテアは腰をかがめて、強化魔術を唱えると大人の頭ほどある
岩石を担ぎ上げ、矢継ぎ早に、湯壷へと投げつけた。
﹁ぬおおっ﹂
﹁きゃあっ﹂
どぼん、と飛沫の連鎖が両者の傍で次々に立ち昇っていく。
﹁どうじゃ、思い知ったか!﹂
狼狽するふたりを眺めながら、ドロテアは一段高い岩場に仁王立
ちする。
張り切った形の良い双丘がつんと大きく前に突き出された。
﹁ドロテアさん﹂
リネットがいらだちをあからさまに滲ませた声音で吐き出す。
﹁ドロテア、おまえはいったいどうしたいんだよ﹂
258
お預けをくらった形の蔵人が、唇を突き出して抗議した。
﹁う、うるさーい! おまえら、ここはみんなで一日の疲れをいや
す神聖な場所なのじゃぁ。変な棒を入れたり出したりすることは断
じてゆるさーん!﹂
﹁そんな格好で、説得力ないですよ﹂
﹁おおっ、気づかんかったが。かなりセクシーだぞ。さ、こっちへ﹂
﹁ふ、ふん。わかればよいのじゃ。さ、リネット。おまえはもう先
に上がるが良い。この性獣の手綱はわらわのような大人ではなけれ
ばつとまらん﹂
﹁クランドさんはそんな方じゃありません﹂
﹁ちょっと、おまえら﹂
﹁甘ったるい声を出しおってからに! いいからこっちへ来やれ!﹂
﹁いーやーでーす﹂
ドロテアが岩の上から飛び降りるとリネットの腕をひきながらヒ
ステリックな金切り声をあげる。史記曰く、両雄並び立たず。或い
は礼記曰く天に二日無し。千古の鉄則により両者のつかみ合いがは
じまる中、蔵人は高まったリビドーを持て余しながら、既にパンツ
を履き始めていた。
蔵人が里に居ついてから七日が過ぎた。
元より行き場のない身の上である。なおかつ謎の刺客に狙われる
青年にとって、目くらましの魔術がかかったこの里は居心地が良か
った。
ちなみに、ドロテアは蔵人に剣術と魔術を叩き込もうと訓練を開
始したが、あまりの才能の無さに、三日で匙を投げ尽くしていた。
まず、剣に関しては一朝一夕で習得できるものではない上に、立
259
ち稽古で散々に叩きのめされた蔵人が継続をかたくなに拒んだから
である。
蔵人にしてみれば、向かい合ってタプタプ揺れるメロンを見なが
ら、まともな稽古などできようもない。彼は、日々性欲に向き合わ
ねばならないジレンマに陥っていた。
そして、魔術に関しては素養が一切なかった。
﹁俺は、指先から炎を出して半径百キロ四方を焼き尽くしたり、剣
をちょいちょい振るっただけで敵がとろけるスライスチーズみたい
に、スパパパーンと輪切りにしたりできないのか。激しく欝なんだ
が﹂
﹁そんなことができる人間は逃げ回ったりせんじゃろが﹂
ドロテアが剣技の習得やらなんやらと、やたらとおせっかいを焼
いたのも、必要最低限の力がなければこの先絶対に苦労すると思っ
たからであろう。
﹁だが、断る﹂
﹁なんでじゃ! アホ! ⋮⋮普通に死ぬじゃろが、実際﹂
蔵人は、嫌なことは進んで絶対にやらない主義だった。
彼は、自分を追いかけ回すドロテアに対し、成人男性とは思われ
ないほどのなりふり構わぬ抵抗を見せて、ときにはベッドの毛布に
潜り込み、リネットの背中に隠れ、ついには泣き叫ぶふりまでして、
三、四歳ばかりの子どもたちまでに、﹁ドロテアおねえちゃん、ク
ランドがかわいそだよぉ﹂といわせる程の才を顕した。
ここでドロテアが本当に蔵人のことを思えば、無理矢理にでも引
きずって剣を取らせて鍛え上げなければいけなかったのだが、彼女
にはその強引さが欠けていた。
﹁いざとなったらわらわがおるし、の。いやがるクランドに無理強
いしてものう﹂
ドロテアは、男をダメにするタイプの女であった。
すなわち、男のわがままを容認してしまう脆さが常にあった。
世間一般にもダメな男を見るとどうしても放っておけなくて、ど
260
うしてあんな美女があんなクズと、というカップルが成立している
事実はいくらでもある。
いま、まさにその負の連鎖が成立しはじめようとしていたが、ド
ロテアの貞操観念は鋼のように硬く、蔵人は彼女の砦を攻めあぐね
ていた。
﹁でも、よく考えるとここってハーレムじゃね﹂
この里の人口比率は、九九パーセントが女性で男性は蔵人ひとり
である。
よく考えなくてもハーレムであった。
里の中で、大人といえるのは今年十八になるドロテアと蔵人のみ
である。
ドロテアが奴隷商人から奪還した子供たちで、一番年上なのは十
二歳のリネットだけで、残りは一番上が九つ、一番下に至ってはよ
うやく歩き始めたばかりの幼児であった。
そんな子どもたちばかりが四十人近くいるのに、不思議と大人は
居らずとも一定の規律は保たれていた。現代日本ではこんな幼児が
と思うような歳でも、感心するほど立派に年下の子の面倒を見てい
る。
蔵人は、八つになるマルチナという子から、朝夕の献立について
意見を聞かれた際には、十八歳の子と話してるような錯覚すら覚え
た。
自ずから役割分担も決まってくる。
狩りはドロテア。
里から降りての街への買い出しはリネット。
以外にも、面倒見のいい蔵人は子供たちの世話全般を総括して担
当していた。
そして、なにより男手があるということは、ちょっとした力仕事
の時にも重宝した。
ひとつの集団としても、バランスというものは重要である。
男だけという組織も、女だけという組織も固まっているとそれだ
261
けで、なんとなく空気が淀むのである。
ドロテアは、蔵人の前に出るときは必ず化粧を怠らなくなり、リ
ネットも身なりに費やす時間が長くなった。平均寿命が短く、大人
の自覚を持つのが早い中世並みの世界である。少女たちは軒並み早
熟の傾向があった。それは、年若い男を目にした女性にとってあた
りまえの反応でもあるといえた。蔵人は、いつしかマリカと別れて
旅立った意味を忘れて、この閉じた世界に馴染んでいった。 ﹁さぁ、お嬢さまがた、仲良くごはんをいただくが良い﹂
電気のない世界では、早寝早起きが常識である。
蔵人も日が落ちればすぐに就寝し、朝の日の出には起床していた。
食堂に集まった子供たちは、かけ声と共に神へと祈りを捧げる。
エルフ族に最も信者が多いとされるディアブリノ教である。蔵人
は曹洞宗であったが特にこだわりもなく祈るふりをする。薄目を開
けてちらりと周囲を見回すと、つかまり立ちが出来るようになった
ばかりの幼児すら神妙に祈っている。
アメージング。
時々、蔵人は自分がアメリカかヨーロッパのどこかの国にホーム
ステイしている気分になるが、彼女たちの金色の髪から突き出した
長い耳がそういった夢想をことごとく打ち砕いていく。当分、慣れ
そうもなかった。
﹁さー、おかわりもあるからどんどん食べてね。こら、ライラはよ
そ見しないの﹂
前かけをしたリネットがせわしなく卓の間を移動し世話を焼きは
じめる。幼いとはいえ蔵人を除けばすべて女である。おしゃべりの
やかましさは、かなりの騒音だった。
﹁おはようさん、リネット。毎朝大変だな。ドロテアは?﹂
﹁おはようございます、クランドさん。すいません、食事の支度で
あいさつが遅れて﹂
﹁いいって。にしても、ドロテアのやつ、やっぱ壊滅的に朝が弱い
んだな。低血圧かな﹂
262
﹁ていけつあつ? なにかの病気かしら﹂
﹁あー、つまり低血圧ってのは、つまり朝に弱い人のことだ。副交
感神経のバランスがよくないとか、なんとかかんとか。俺も医者じ
ゃないから詳しくはないが。俗説だよ。そんなに大ごとに捉えない
でくれ﹂
﹁へー、でもすごいですね。やっぱり、クランドさん学があります。
大学ってところに行っていたんですよね。本当に、いろいろ知って
いるし、すごいです﹂
﹁いや、別にすごくないよ。こんなの誰でも知ってるだろ﹂
﹁あたし、知らなかったです! すごい! 本当は、学者さまにな
られるおつもりんだったんですよね!﹂
﹁いや、そんなことは﹂
﹁また、謙遜なすって。でも、自慢しないクランドさんて、すごく
謙虚ですよ。あたしなら、皆が知らないことなら、へへん、て感じ
で威張っちゃいます﹂
目をうっとりさせながら、すごいを連発するリネットに蔵人は居
心地の悪さを隠しきれなかった。無理もない。リネットから聞いた
話ではこの世界の教育レベルは現代日本からすれば無きに等しいも
のらしい。
リネットは字が書けない。
いわゆる文盲である。字を書いて仕事をするのは、貴族か商人だ
けらしい。
事実、ロムレス王国のみならず、連合諸国すべてを合わせた国民
の識字率は十パーセント以下であった。
彼女たちは例外的に村を出て生活をしているが、ほとんどの庶民
は渡りの商人を除けば死ぬまで村から一歩も出ないのが普通なのだ。
︵また、適当な説明をしてしまったというのに、この尊敬の眼差し。
ダミだ。ここは居心地が良すぎる。この無垢なムスメ子たちはどん
だけ俺をダメ人間にすればいいんだ︶
リネットは低血圧の言葉の意味すら理解していない。
263
ただ、知らないことがらを聞いただけでなんとなく、一段自分が
上等な人間になったような気がするだけなのだ。
しかも、自分がまるで理解できなければできないほどよい。
それは、生まれた時から系統だった学問を行うことが出来ない階
層における人間の悲しみの一端だった。
﹁むー。リィ姉。いまは、わたしがクランドとおしゃべりしてるの。
邪魔しないで﹂
﹁わ、なに。なによ、エル﹂
スプーンを咥えながらリネットをにらむ、エルことエルメントラ
ウトという大層な名を持つ少女は、今年で八つになる栗色の巻き髪
が美しいハーフエルフである。
なんでも、彼女は幼い頃から母親に、
おまえの本当の父は王国の名のある騎士で、いまは事情があって
迎えに来れないがいつかは白馬に乗って私たちを都に連れて行って
くれるのよ、
と毎夜のように語られて育ったため、自分はこんなやつらとは違
うオーラを出しまくりで、仲間からはちょっと敬遠気味にされてい
た部分があった。そして、聞きかじりでお嬢さまぶるのが好きな女
の子であった。
﹁これだから庶民エルフは。さあ、お行きなさいな。あなたには、
鍋を抱えてスープをつぎ回るのが良く似合ってよ、ほほほ、いった
ーい! なにすんのよぉ﹂
﹁エル、目上に対してそんな口の利き方しちゃダメよ﹂
リネットに高笑いの途中でお盆でこづかれ、エルメントラウトに
早々に泣きが入る。
彼女は、素早く蔵人の膝の上に乗って首にしがみつく。
それからリネットに向けて糾弾するようにスプーンを突き出した。
﹁あああん、クランドぉ。リネットがわたしをいじめるのよお﹂
﹁おいおい、スープがこぼれるだろが﹂
﹁ちょっ、クランドさんから離れなさいっ。いまはごはん中でしょ
264
う!﹂
激昂するリネットを半目で見下しながら、エルメントラウトはこ
とさら大げさに身をすくめると、蔵人の首筋に自分の鼻先をこすり
つけ甘えるように猫なで声を出す。
﹁クランドぉ﹂
﹁リネットも落ち着けっての。子どものすることだろ。ほら、エル
もごめんなさいしな、な﹂
﹁うん。わたしごめんなさいするぅ。ごめーんね﹂
﹁むかっ﹂
人を小馬鹿にした物言いに、リネットの表情が笑顔のまま硬化し
た。
﹁ちょっとちょっと、クランドさん。その子全然反省してないじゃ
ないですか。ほらあっ、こっちくる!﹂
リネットの表情。確かな殺気を感じた。
そばにいた別の子が、口からパンを落とし、涙目になった。
﹁やだあ、こわいよおぅ﹂
エルメントラウトのあからさまな媚態にリネットは本能的に女を
感じた。
﹁ほら、こっち!﹂
なので即刻排除にまわった。リネットは、襟首をつかもうと手を
伸ばすが、エルメントラウトは猫のような身のこなしでするりと逃
げると、ぱたぱた音を立てて食堂を出ていこうとする。
﹁まちなさーい!﹂
リネットは鍋のふたを振りかざすと、疾風のように駆け出す。
﹁おい、埃が立つだろうが、まったく。さあ、良い子のお嬢ちゃん
たちは静かにお食事しようねー﹂
ふたりを見送った蔵人は、威儀を正して残りの子どもたちに食事
を続けるようにうながすが、さざ波のような囁きは止まることはな
かった。
﹁ひよった﹂
265
﹁⋮⋮ダサ﹂
﹁日和クランド﹂
﹁さすがにリネットお姉ちゃんが﹂
やや年上の子どもたちのグループから冷たい視線を感じ、蔵人は
視線をそらした。
やはり女は生まれた時から女なのだ。
誰かの金言を胸に刻みながら、硬くなったパンを咀嚼する。
蔵人は、大学時代にゼミで浴びせられた、女たちの蔑みきった視
線を思いだし、軽く欝になった。
﹁ん?﹂
ズボンの裾を引かれ足元を見ると、蔵人の腰ぐらいまでしか背丈
のないルシルがハンカチをそっと手渡してきた。
ルシルは無口な子だ。声を聞いたことがない。彼女は金色の目に
慈愛を湛えながら、小さな手で、蔵人の膝をあやすようにぽんぽん
と叩いた。
﹁慰めてくれてるのか﹂
ルシルは小首を傾げて、それから勢いよくうなずいた。
﹁おぉ。おまえはいい女や。おまえがおっきくなったら嫁さんにし
てやるからな﹂
ルシルはしょうがないな、というふうに肩をすくめ、んしょんし
ょとばかりに膝から蔵人の身体によじ登ると、頭を撫でた。蔵人は
泣きそうになった。
男はいくつになってもあやされ続ける生き物である。
266
Lv17﹁奴隷買います﹂
蔵人は朝食後、腹ごなしも兼ねて、小屋の周りを散策していた。
皆が寝起きする場所は小高い丘になっており、斜面の裾はささやか
な野菜が植えてあった。
彼女たちは、基本的に人目を避けて暮らしているので里で購入す
る最小限の物資以外は、山野で手に入れるか自分たちで賄う他はな
い。
ここでは、年齢に別なくそれぞれが仕事を持ち、日々働いている
のであった。空を流れる雲を見ながら歩いていると、不意に裾を引
かれた。ルシルだ。彼女は、金色の瞳を曇らせながら、しきりに足
元を指さしている。
﹁なになに? この先は、沼になっているから足を踏み入れないほ
うがいい?﹂
顔を上げると、いつの間にか小川の近くまで足を伸ばしていた。
周囲は、蔵人の頭上に迫るほど丈のある葦が生い茂っていた。そっ
と右足を水面に差し入れると、ズブズブと沈んでいく。革のブーツ
が、七分目まで汚れた所で足を引き上げた。
そうやって、蔵人が半ば面白がって沼地の水面で戯れていると、
ルシルはあからさまにシラケた顔で冷たい目線を向けていた。
﹁⋮⋮すまん、つい楽しくて。え? なんで、そんな子供みたいな
ことで楽しめるのかって? いや、意味はいないんだよ、特に意味
は。ああ、だからそんな冷たい目で見なくたっていいじゃねえか。
267
俺は永遠に少年の心を忘れない男なんだよ﹂
ルシルは、男ってしょうがない生きものなのね、といわんばかり
に大人びた顔でため息をこれみよがしについた。蔵人は決まり悪げ
に頬を掻くと、咳払いをした。
﹁さ、そろそろ戻って午前の仕事の割り振りをしなきゃな。って、
おい。押すなって﹂
ルシルは、世話女房よろしく蔵人の背をグイグイ押しながら沼地
を後にするのであった。
小屋の前まで戻ると、ハーフエルフの子供たちは幾つかの塊にな
って話し込んでいた。
﹁あ、クランドさん﹂
蔵人の姿に気づいたリネットが声を上げて近寄ってくる。統率者
を求めていたのか、子供たちもそれに従った。隠れ里の中で、唯一
の成人男性である蔵人の求心力は、なにひとつ役に立ってないなく
ても抜群であった。彼女たちは生物的な本能で、力強い父性を求め
ているのだ。あとは、その欲求に従って指示を下せばいい。全員の
顔を見回すと、厳かに告げた。 ﹁それでは本日の行動命令を伝える。エミリア隊は水汲み。クリス
タ隊は耕作及び雑草駆除。ロミルダ隊は家屋の清掃及び洗濯。ラド
ミラ隊は年少者の育成。それぞれが、己の任務を怠ることなく励む
ように。リネット参謀から注意点があれば、なにか﹂
﹁あの、あたしはいつから参謀になったのでしょうか﹂
水を向けられたリネットは困ったように手を振ると、目の前に隊
列を組んだ子供たちを眺めた。食事時とはうって変わって真剣な面
持ちである。あまりの滑稽さに吹き出すのをこらえるが、蔵人をは
じめ、全員はマジ顔だった。
﹁あたしからは、特にないです﹂
﹁では、作戦開始!!﹂
蔵人の声に、子供たちが一斉に駆け出した。
そして、案の定、ころんだ。しかも、ロクに起伏のない場所で。
268
蔵人は横を向いて、噴き出した。ルシルが怒りながら、腰にチョ
ップを入れてくる。
﹁不可抗力だ、許せよ﹂
﹁あーあ、転んじゃった。もう﹂
リネットがいつもの癖で助け起こそうと身を乗り出すが、蔵人は
手を挙げて制した。
転んだ娘はまだ幼稚園児程度だったが、同じくらい幼い子が駆け
寄って助け起こす。
ふたりは、振り返ってリネットを見ると微笑みを浮かべた。
﹁あの泣き虫リリスがころんでも、泣かないなんて﹂
﹁我が隊員たちは日々成長している。相互に助け合う、この美しさ
よ﹂
蔵人が、薄っぺらい言葉を述べたがリネットはしきりに感心した。
﹁そういえば、リネットは今日は街に買い出しか﹂
﹁ええ、先日売れたうさぎさんの角のお代がまだありますから﹂
リネットは、下げていた籐つるで編んだ籠を指差すと、顔の前で
振ってみせた。
ちゃりちゃりと金属の擦れ合う音がする。
ポンドル
中には、この国の代表的な貨幣であるロムレス銅貨が入れてある。
通貨単位は、Pであらわされ、庶民の日常では銅貨と銀貨が主に併
ポンドル
ドルクマ
ポンドル
用された。金貨は額が大きく、使用するのは大商人か貴族くらいで
ドルクマ
ポンドル
あった。Pの下がDであり、一Pおよそ日本円にして、十円程度で
ある。百Dが一Pに相当した。
﹁ドロテアといっしょに行くんだろ。って、あいつまだ起きてこな
いのかよ。もう、かなり陽が高いぜ。あいかわらずの寝起きの悪さ
だな﹂
﹁ええ、だから困ってしまって。ひとりでは、ちょっと街に行くの
は無用心でして﹂
リネットは眉を八の字にし、ため息をつく。
﹁俺はお嬢さんたちのお世話があるからなぁ、ん? なんだ、ルシ
269
ル二等兵。どうした、おしっこか?﹂
袖を引かれて視線を下げると、ルシルが手招きをしてみせる。
﹁ん? なに、ドロテアの件はわたしにまかせて? そうか、じゃ
あいっしょにねぼすけさんを起こしに行くか﹂
ルシルは、ふむーと腰に両手を当てて鼻息を荒くし、首を縦にこ
くこく振った。
﹁この子ぜんぜんしゃべらないのに、よくいってることがわかりま
すねぇ﹂
﹁ああ、なんとなくだ﹂
﹁なんとなくですか、じゃあお任せしちゃっていいですかね。あた
し、もう引っかかれたりするのイヤですから﹂
﹁おう、任せとけ。行くぞぉお、とりゃっ﹂
リネットは、ルシルを抱きかかえながら走り出した蔵人の後ろ姿
を見ながら、自然に頬がゆるんでしまうのを止められなかった。
あの青年がここに来てから、毎日が楽しくなった。
思えば自分はハーフエルフとして生を受けてから常に迫害を受け
てきた。
元居た村では同じような年頃の少年たちには毎日のようにいじめ
られ、顔を見れば罵倒され、小突き回され、軽い男性恐怖症になっ
ていた。
ときには、面白半分に下着をまくられ、裸のまま大通りを歩かさ
れたこともあった。
あと何年か経ってあのまま村にいたら、間違いなく彼らの性欲の
はけ口になっていただろうと思うとゾッとする。
人間とエルフの混血である。人間としてもエルフとしても生きる
270
ことは許されない。そうして、村の男に玩具のように扱われ、子を
孕み、絶望のまま首を吊ったり身を投げたりした女性を数え切れな
いほど見てきた。誰の庇護も受けられない女の行き着く場所は、玩
具にされるか奴隷として叩き売られるかどちらかと相場は決まって
いた。
リネットは頭上に高々と昇った太陽に目を細める。
夏が近づいているのか、汗ばむほどの陽気だ。
自分が村の総意で売却されると決まったのも、こんな青空が澄み
渡った日だった。
顔見知りの組頭が、怒ったような顔で告げた。
リネットのそばにいた母は終始うつむき、そのあと族長の館に連
れて行かれるまでとうとう一度も顔を上げることはなかった。これ
は奴隷市に荷馬車で送られる最中に商人から聞かされた話だが、母
あいのこ
は族長の妾になることが決まっていたのだった。母の幸せのために
は、間の子の存在など足かせに過ぎない。
どうせ、この先生きていてもしあわせになどなれない。
そもそも幸せの意味などよくわからない。
聞けば、これから自分の売られていく先は奴隷の入れ替わりが非
常に激しいらしい。
それは、明確な自分の死を意味していた。
どうせなら苦しみは短いほうがずっといい。
半ばすべてをあきらめていたときに、現れたのがドロテアであっ
た。
ハーフエルフだけの里をつくる。 そこには差別もなく苦しみも
ない。
目を輝かせながら理想を語るドロテアを前に、なんの希望も持て
なかった。
この里に差別がないわけではない。
ここが、差別そのものを煮詰めた鍋そのものなのだ。リネットは、
はじめ、自分より傷ついた幼い同胞たちを見ながら、半ば同情し半
271
ば嫌悪した。彼女たちのいちいち自分に対して媚びへつらうような
態度や、なにかを尋ねるときに見せる機嫌を伺うような視線を目に
するたびに、羞恥にも似た怒りがふつふつと沸き起こり、理性を制
御できなかった。
それは、かつての自分を鏡で見るように滑稽で惨めだったからだ。
機嫌を伺い、なるべく怒りを買わぬように目をそらし、ときには面
白くもないのに追従笑いすら反射的にしていた自分そのものなのだ。
所詮、理想と現実は違うのである。当初、この里には仲間とも家族
とも到底いいがたい違和感しかなかった。腫れ物に触るように接し、
子どもたちを扱いかねるドロテア。年端もいかぬ子たちの媚びた態
度や隠しきれない恐怖感。毎日のようにそれらを見るにつけ、リネ
ットは徐々に感情が死んでいくのを感じた。
どうして、助けたんだ。
どうして、放っておいてくれないのだ。
どうして、こんな場所に連れてきたんだ。
どうして、自分はこんなに苦しまなければならないのだ。
朝おきて、言葉を交わすこともなく食事をとり、ドロテアにうな
がされて外に出る。
広場には、遊び回る場所も、綺麗な草花も、寝転がる芝生さえあ
るのに、誰ひとりとして笑顔を見せなかった。
それぞれが離れて、互いに怯えながら座り込んでいる。
まどろむような日差しの中で、空回りするドロテアの張り上げる
声が酷く空虚に響いた。
ドロテアがルシルを連れてきたのは、そんな名前のない一日のう
ちのどれかだった。
まだ歩き始めたくらいの歳のルシルの瞳は、誰よりも虚無を宿し
ていた。
感情の揺れが無い瞳は、底の見えない闇をそのまま映しとったよ
うに澱んでいた。
他の子どもたちは怯えの色が濃いとはいえ、一番年かさのリネッ
272
トが声をかければ返事くらいはした。
だが、彼女にはそれすらない。
生物としてのあたたかみすら感じない。
薄気味悪さを感じたリネットは、努めて彼女を視界に入れないよ
うに過ごした。とはいっても、ここでは特になにをしなくても、ぶ
たれることもなければ痛罵されることもない。
朝おきて、排泄をして、食事をとり、時間が経ち、時には身体を
洗い、就寝する。
目を閉じてしまえば、どこにいようと変わらない。リネットはそ
れでも健康的に寝息を立てる子どもたちを遠ざけようとして、薄い
毛布にくるまり瞳を強く閉じた。
毎日のように夢を見る。
どこか知らない道をひとりで歩いてる。
空には雲一つなく、白い光が地面を照らしている。
身体は熱を感じない。自分以外には誰もいない。
リネットを害するものは誰もいないのだ。
安堵そのものだ。これこそが自分が望んでいた平穏な世界である。
それがうれしいはずなのに。起き抜けはいつも涙のあとが頬に残
った。
幾度夜を泣いて過ごしたのだろう。
その、物音は隅から聞こえた。
いつもなら気にならないはずなのに、妙にそれが耳に残り気にな
って寝つけなかった。
リネットたちが寝起きする大部屋は、板の間に古ぼけた絨毯を引
き、それぞれが毛布にくるまっている。中には、まだ母親の乳を恋
しがる歳の幼児の顔すら見えた。窓からぼんやりと月明かりが差し
ている。
リネットは物音のする部屋の隅へと、ゆっくり毛布を引きずりな
がら移動した。
そこには苦痛の表情を浮かべながら悶えているルシルとそれをい
273
たわるように手を握る数人の少女たちがいた。リネットと視線が合
う。少女たちは怒られると思ったのか、恐怖を顔に滲ませながら身
を寄せ合っていた。少女といっても、まだ五つかそこらだ。リネッ
トとは倍近く歳が違う。この年代の数歳差は、大人と子供ほどの開
きがあるものだ。常に忍従を強いられ生きてきた彼女たちの背には、
諦めと哀しみの影が骨の髄まで染み込んでいる。
リネットが様子を見ようと身を寄せると、少女たちはそれでもか
ばい合いながら、震えながらも勇気をこめて懸命に訴えたのだ。
﹁おねがい、ルシルをぶたないで﹂
愕然とした。それから、ようやくリネットは自分がいままでなに
をしてきたか悟った。
こんな小さな子たちですら、自分より弱いものを守ろうとする心
を持っている。
この傷ついて生きてきた少女たちにとって、殴打や罵声は日常的
なものだったのだろう。
彼女たちにとってリネットは、自分たちを傷つける恐怖そのもの
なのであった。
それでも、彼女たちは、恐れて涙をこらえながらもそれでも逃げ
なかった。
ルシルという自分より、かよわい存在を守るため、恐怖を押し殺
して懇願したのだ。
リネットは、いままでの自分の態度や振る舞いを思い起こし、愕
然とした。
自分のそっけない態度や、冷たい振る舞いに彼女たちはどれだけ
怯えていたのだろうか。
反応の鈍い彼女たちに、声を荒げたり不機嫌そうにしたことが幾
度あっただろうか。
いや、事実、口に出していなくとも、敏感な子供たちは悪意を自
然と察するのだ。
リネット自身がそうであったように。
274
涙がこぼれた。
リネットの心に彼女たちを愛おしく思う感情がはじめて生まれた。
震える彼女たちに手を回し、ぎゅっと抱きしめる。きょとんとし
た表情で立ちすくむ少女たちを見ながら、もう一度、ここからはじ
めようと決めた。
その日から、彼女たちは家族をはじめたのだった。
そして、今日という日に続いていく。
リネットは、籠を抱きながら感情が豊かになりつつあるルシルの
ことを想った。
いつか、彼女が話せるようになれば、きっとそれは一番大切な日
になるだろうと。
﹁ようし、ルシルよ。まずはゆっくりと中に潜入するんだ。そうだ、
中途半端に起きてると引っかかれるからな。なに、ひっかかれても
クランドはいい男だって? まったく、おまえは俺のことが大好き
だな。俺も愛してるぜベイビー﹂
蔵人はルシルとアイコンタクトをかわしながら、未だに白河夜船
であろうドロテアの寝室に潜入した。
ドロテアの部屋は至って簡素な造作で、中央のベッドを除けば、
窓際に小さな文机と椅子、化粧用の鏡台、それに衣装箱があるだけ
だった。
蔵人はいざりながら徐々に距離を詰めると、そっと視線をベッド
の上に向ける。
そこには、年頃の女性とは思われない寝相で目を閉じるエルフの
姿があった。
﹁⋮⋮うわっ。さすがにこれは百年の恋も覚めるわ﹂
275
ドロテアは、下着姿でベッドの中央部にへの字型に突っ伏してい
た。
まるで、しゃくとり虫のような格好である。
腹の部分には毛布を巻き込み枕に顔を埋め込んで膝立ちになって
いる。
きちんと敷かれていたシーツは爆撃機の波状攻撃を受けたように
捻れまくっていた。
後背位をせがむように突き出されたぷりんとした臀部。
ショーツが半ばズレ落ち、大事な部分が丸見えになっていった。
﹁なんだルシル? こんなところを殿方に見られたらわたしなら自
殺してる? そう手酷くこき下ろすな。とにかく、このままではお
嬢さんの観音様が常時御開帳でお風邪を召されてしまうやもしれん。
うん、そうだ。ここからは赤ちゃんの産まれてくるかなり大事な部
分だから丁寧に扱わんと。気づいた人間が保護してやらんと。そう
ね、おまえのいうとおりおそらく未使用だ。よし、とりあえずひっ
くりかえそう。いち、に、の、さん!﹂
蔵人たちは協力してドロテアをひっくり返した。ドロテアのしが
みついていた枕がすぽーんと床に飛び、いつもはまとめている髪が
孔雀のように拡散した。
﹁うっわ、こいつこんなに髪の量があったのか。うん、そうだね。
おっぱいでっかいね。って、ルシルさん。いくのかい、軽くいっと
く?﹂
ルシルは、仰向けになってあらわになったドロテアの大きな乳房
を指さし、うなずく。
ドロテアの胸は、横になってものぺっと極端に水平にならず、か
なりの弾力を有していることを証明していた。
ルシルがちいさな指先でちょんとつつくと、ボリュームのある双
丘はぼよんとたわむ。
とんでもないものを触ってしまった、というように少女は自分の
頬を両手で押さえ込み、目をまん丸にして蔵人を注視した。
276
﹁まあ、びっくりするよな﹂
ルシルは、自分の胸元をひっぱって覗き込むが、膨らみがないこ
とにがっかりしてうつむく。それから、癇癪を起こして乱暴にドロ
テアのたわわな水風船もどきをぺちぺちんと叩き出した。
﹁う、うん。や、やめい﹂
﹁おいおいおい、起きちまうぞっていいのか。それが最初の趣旨だ
もんな﹂
次第に鬱陶しくなったのか、ドロテアの腕が蚊を追い払うように
無意識に振られる。
避けようと、のけ反ってベッドから落ちようとしたルシルを受け
止めると、蔵人は重要なことに気づいた。
乳首が見えている。
ルシルの傍若無人な行動のせいか、彼女のブラは完全にずれて双
丘が露出していた。
ドロテアの上を向いた桜色のポッチがぷっくりと尖って見えた。
﹁これは、教育上非常に良くない。だが、ちょっとつまんでみたい。
そうは、思わんかね﹂
ルシルは小首をかしげて眉をひそめるが特に止める気はないよう
だった。
﹁さて、同意は得られたようだ。では﹂
蔵人の両手の指がドロテアのふたつの蕾を同時につまみ上げると
同時に悲劇は起きた。
﹁な、ななななな﹂
ドロテアは両目を見開いたまま、自分の胸と目の前の男の顔を交
互に見比べる。
次第に意識が覚醒していったのか、寝起きで青白い頬が燃え上が
るように紅潮した。
﹁おはよう、いい朝だな﹂
﹁で、でていけー! この愚か者がぁあああっ!!﹂
蔵人はドロテアの往復ビンタを思いっきり喰らって、尻を蹴上げ
277
られて部屋から叩き出された。
﹁あんなにぶつことないのにな﹂
﹁いたずらばかりするからですよ﹂
蔵人は真っ赤になった頬をさすりながら、ウィンプルを深くかぶ
って歩くリネットにつき従い、背負子に日用品を満載して移動する。
エルフの隠れ里から一番近い、パープルベイの街である。
街といっても、戸数は百足らず。人口は四百をかける程度の、見
るべき特産品もないロムレスではありふれたひとつだ。
蔵人がゆっくり街を歩く機会を得て、幾つか気づいたことがある。
やたらに痩せこけた人間が多い。
飽食が当たり前だった日本とは違い、この世界では飢えは常に庶
民の生活と隣り合わせだった。年齢や性別を分けることなく、街を
歩いていると肥えた人間がひとりもいない。ここでは、一日でひと
りの人間がとれるカロリーは常に限定される。そのくせ、交通機関
は基本自前の足以外存在しないのである。乗合馬車のようなものが
あるとリネットには聞いたが、買い物を終えるまでについぞそんな
ものは出くわさなかった。通りらしきものは、当たり前だが舗装は
されておらず、地肌が見えていた。晴れの日はともかく、雨が少し
でも降ればぬかるんでとても歩けたものではないだろう。肩に食い
込む荷物の重さが、心なしか増したような気分にすらなった。
﹁しかし、こんなものを女手でいつも運んでたのは大変だっただろ
う﹂
﹁いえ、買いだめするのは日用品とか塩とかお薬とか、そんなもの
ばかりですから。基本は里の畑や狩りでとれるもので賄えます。で
も、男の方がいると助かりますよ。小麦粉もたくさん買えたから。
278
たまには甘いものもあの子たちに食べさせてあげられますし﹂
会話をしながら歩き続けていると、短い市場の通りを抜けて、街
の入口にさしかかった。
街に入って最初に立ち寄った雑貨屋の老爺が、店の軒先でぼんや
りタバコをふかしているのが見えた。
﹁ここで一息入れましょうか。お弁当つくってきたんです。これ食
べたら、帰りましょうね﹂
﹁そうだな。ヘタるまえに腹になにか入れとこうか﹂
蔵人は、里の隠されている山の中腹を見上げながら背負子を下ろ
した。
ずっしりとした袋の重みで、ぎしりと軋んだ音が聞こえる。
辺りを見回すと腰を下ろすのにちょうど良い草むらがあった。
﹁えーと、おじいさん。あたしたち、ここ使わせてもらってもよろ
しいですか﹂
﹁なんじゃ、リネットか。別にメシ食うくらいかまわんよ﹂
七十すぎくらいの老爺はしわだらけで節くれだった指を曲げると、
孫をいたわるような笑みを浮かべた。
﹁おい、じいさんもいっしょにどうだ。なあ﹂
蔵人の招きに内心うずうずしていたのだろうか、老爺は杖を突き
ながら弁当を囲むふたりに加わると、歯のほとんど抜けきった口を
大きく開けて、サンドイッチを放り込んでいく。年の割には驚く程
の健啖ぶりだった。
しばらく、よもやま話に興じるが、不意になにかを思い出したか
のように、あ、と老爺が大声を上げる。
蔵人は水の入った竹筒から口を離すとくちびるについた水滴をぬ
ぐった。
﹁どうしたじいさん、ションベンか﹂
﹁もお﹂
﹁違うぞ、若造。そういえば、おまえらにいっておこうと思ったん
じゃが、先ほどタチの悪そうな奴らが、そうさの、十人ほど連れ立
279
って山に登っていったぞ。あの目つきの悪いのはたぶん冒険者くず
れじゃな。リネットたちの村は山の向こうなんじゃろ。気をつけた
ほうがええ。悪さなんぞされた日にゃ、死んでも死にきれんわい﹂
﹁ああ、じいさんの忠告忘れねーよ。ところでさ、そいつら他にな
んか特徴があったか﹂
﹁そうよの、オークの兄弟を二匹ほど連れてたかの﹂
﹁オーク﹂
リネットは身体を震わせると、頭布で隠れているはずの長耳をお
さえて、口をもごもごさせる。
オークとは豚に似た頭部と巨大な身体を持つ亜人の一族で、例外
なく並外れた膂力を持つとされている。力の割には知能は随分と低
く、好んでエルフの女性とまじわるらしい。孕んだ雌は例外なくオ
ークの雄を出産する。リネットは本能的にオークと聞くと怯えざる
を得なかったのだろうか、表情は蒼白だった。
﹁リネットや、そっちの若僧も今日は一晩泊まっていけい。山ン中
であんな連中に出会ったらたまらんぞ。のう﹂
﹁いえ、大丈夫ですよ。それにあたしの妹たちがお腹をすかせて待
ってますから﹂
リネットは気丈にも微笑んで見せるが手首の震えがとまらない。
蔵人がそっと彼女の手のひらを握ると、少女は頬を染めて頭巾を
下げた。
﹁それと、もうひとつ。あれは若い男のエルフじゃったかの、最初
は女かと見間違えたんだが、随分と華奢なやつだったか。確か、ま
わりの取り巻きが名前を呼んでたのぉ。うむ、そいつがひとりだけ
男だったから間違いない。たしか、そう、たしか、ラ、ラ、ラ、な
んじゃったかの、続きが﹂
﹁ラルフか﹂
﹁そうじゃ。若造、おまえの知り合いじゃったんか﹂
蔵人は表情のない顔で立ち上がると、荷物をその場に置き捨てて
走り出した。
280
リネットは呆然としたまま老爺に荷物を頼むとそのあとを転がる
ようにして追う。
街道に土煙が舞って、強い陽光の中に影が大きく伸びていった。
281
Lv18﹁峠にて﹂
蔵人は九十九折の上り道を息せき切って駆け上がった。
往路とは違い、勾配の傾斜が厳しい復路を短時間で移動するのは
困難を極めた。
登山の原則では、上りは歩幅を狭め一定の速度で歩行する。大股
での歩行は足への負荷が大きすぎ長時間の高速移動には向かないの
である。
だが、蔵人はすべての原則を無視して全力で駆けた。その遥か後
ろに、リネットの姿が付かず離れず見えた。山の中腹まで行くと、
周囲の住民すら立ち入らない獣道へと分けいっていく。頭上の青空
は、純白のいわし雲がゆっくりと東に動いている。峠路が右へと大
きく弧を描いている場所で、前方から小さな影が近づいてきた。
咄嗟に身構えた蔵人に飛び込んできたのは、里で留守をしている
はずのルシルだった。
﹁おまえ、どうしてここに﹂
まだ年端もいかぬ幼児には下りの道ですら相当な苦痛であったの
だろう。彼女は汗だくになりながら、身振り手振りで、なにかを伝
えようとしているが言葉を話せぬ身の上では、細かな部分までは咄
嗟に理解できなかった。
立ち止まって息を整えていたリネットが、顔をひきつらせながら
崖の端を指差す。
そこには、武装した若い男が三人。
282
そして、二メートルは優に超える棍棒を片手にした巨大なオーク
が佇立していた。
﹁おーっと、道案内ごくろうさん、おちびちゃん﹂
﹁あとはおまえだけみたいだな、さあ、そこの兄さん。アンタがど
この誰だか知らないが、回れ右して山を降りることだ。そうすりゃ
命までは取らねえよ﹂
蔵人は、街道の途中であらかたの理由をリネットには説明し終え
ていた。
ドロテアが奴隷を奪った商人が追っ手をこの山に差し向けていた
こと。
その中に、かつて彼女の婚約者だった男がいたこと。そして、街
で聞いた噂はかなり信憑性の高いものであり、場合によっては最悪
の事態も想定しなければならないこと。
悪い予感はすべて的中した。
ドロテアの剣や魔術は優れている。
けれども、逃がすはずのないルシルをわざと里から放流してリネ
ットまで線を繋いだことを考えれば、里も子どもたちも商人が金で
雇った無頼の徒にとっくに落ちていると考えるのが妥当だった。
﹁いちいち聞く必要もないが、もう他のみんなは見つかったのか﹂
﹁兄ちゃん、男はあきらめが肝心だ。そこまで知ってるってことは、
もうたまたま行き会った通りすがりってことで目こぼしするこたぁ
できねえぜ。そうよ、ジョシュヤ商会はいままで一度も商品を逃が
したことがねえってのが自慢でね。それが、あのエルフのアマぁ、
随分と長いこと逃げまわりやがって。たまたま、山で出くわしたの
は運の尽きよ﹂
﹁ドロテアがおまえらごときチンピラに捕まるとは思えねぇが﹂
﹁あの、アマっ娘の腕はこのオレが一番よく知ってんだ! 見ろ!﹂
男が唾を飛ばしながら、真っ赤な顔で右の眼帯をずらす。そこに
は、若い娘なら目にしただけで卒倒しそうな酷いきずあとが右の顔
半分を大きくえぐり走っていた。
283
﹁あの女は場所を襲った時に、いきなり有無もいわさず切りつけや
がった。このオレを誰だと思ってやがる! とらえた女は離さねえ、
黒蜘蛛の異名を持つ女衒のフォルカーさまよ。確かに真っ向から勝
負すりゃ、ちーと難しいが、なに、あの女の元婚約者ってやつを連
れてって脅してやったらイチコロよ。しおらしく縛られやがって、
くひひひ。いいかっ、そこのハーフエルフの小娘を連れてきゃ仕事
は完了なんだ。旦那からはたっぷり報奨金は貰えるし、オレの傷つ
いた名前も癒せるってもんだ。今日の夜が楽しみだぜェ﹂
蔵人は表情を消したまま、フォルカーのよく動く舌先を見つめて
いた。
三人の男はまだしも、後ろのオークは勝負にすらなりそうもなか
った。
おまけに、蔵人は丸腰である。
これでは、自分を犠牲にしてもリネットたちを逃せるかどうかも
わからない。
冷たい汗が背筋を伝った。
﹁あの、ドロテアってエルフ女はよう、小生意気だが信じられねえ
くれェの上玉よ。あの、ムチムチした胸といい、張り出したでかい
ケツといい、ふひひ。オレも女衒をやってて二十年近いが、あれほ
どのモノは数えるほどしか拝んだことがねぇや。くっくっくっ、酒
を肴に、跪かせて、オレのモノに奉仕させてやるぜ。口ン中によぉ、
しこたまぶち込んでやるう。いまから、楽しみで楽しみでうずうず
してやがんだぁ。もっとも、アイツらとっくにはじめてるかもしん
ねぇよな。オークも一匹いることだしよぉ﹂
﹁んおおおおっ﹂
突如としてフォルカーの後ろにいたオークが咆吼した。
﹁どわっ﹂
﹁なにしやがる、やめろっ。ダニオ。なにしやがるっ!﹂
ダニオと呼ばれたオークは、仲間であるはずのふたりを突き飛ば
すと棍棒を放り捨て、鼻を鳴らしながら充血した瞳でリネットを見
284
た。
ダニオの股間は下穿きを突き破らんほどにいきり立ち反り返って
いた。
﹁ひ﹂
﹁エルフぅうう、おらの好きなエルフぅの娘っ子の匂いだあぁああ
っ﹂
﹁おい、この腐れ畜生がっ、亜人野郎がっ! やめろっ、クソっ、
ハーフエルフはガキばっかだったから安心してたのにっ、なんだそ
この娘はギリギリ射程距離範囲なのかよっ。こいつ、サカってやが
るっ! 畜生、計画がっ!﹂
﹁ううう、エルフゥ、おら、おらもう、もう﹂
﹁おまえにも、あとでもちっと育った方を喰わせてやるっていって
んじゃねえか!﹂
﹁おらぁ、年増はきれぇだぁ!!﹂
ドロテアが聞いたら激昂しそうな暴言を吐いた。
情欲を煮えたぎらせたオークの視線にとらえられ、リネットは歯
をカチカチ鳴らしながら、足をふらつかせている。ダニオは本能的
にリネットが繁殖可能なことを察し、たぎった性欲をぶつけようと
している。蔵人はしゃがみこんで小石を握ると叫んだ。
﹁走れ!﹂
合図と同時にリネットはルシルの手を引いて急斜面の崖を下りは
じめた。
耳を劈く雄叫び声を上げながら、どんぶり茶碗ほどある両手を突
き出し、ダニオが襲いかかってきた。
蔵人は、身をかがめて左足を突き出すと、ダニオはつまづいたま
ま頭から急斜面へと転がり落ちていった。
フォルカーが、剣を抜いて挑みかかってくる。
蔵人は頭から転がって草むらに身をかわした。
背中を熱い感触が走った。浅く剣先が裂いたのだ。
赤毛の男がものすごい形相でもう一度剣を振りかぶるのが見えた。
285
剣線の直線上に自分の頭がある。致命傷を避けるために身をよじ
った。
草むらを刃物が叩く。枯れ切った葉が宙に舞った。
フォルカーが両手に剣を腰に据えたまま突っ込んでくる。
握っていた石で受けた。じんと激しい衝撃が脳を直撃した。
フォルカーの手から剣が転がり落ちた。
飛びついて拾うと、飛び込んでくる赤毛の男の剣を正面から受け
止めた。
刃先が頬を抉る。熱い血がぱっと迸り、左目の視界を覆った。
赤毛の男の胸に前蹴りを浴びせる。男がたたらを踏んだ。
肩から渾身の力を込めてぶつかった。
男は、長い悲鳴を伸ばしながら渓谷へと落ちていった。
身をよじると同時に、フォルカーが短剣を横薙ぎに振るった。
脇腹を深く抉られ息が詰まる。
頭の中へと焼けた鉄串が刺されたように、視界が真っ赤に燃えた。
喉仏に血の塊が逆流する。
蔵人は涙を流しながら飲み込むと、握っていた石を投げつけた。
フォルカーは肩を打たれバランスが崩れる。
蔵人の剣が真円を描いた。
フォルカーは迎え撃つうように短剣を垂直に振り下ろした。
高い金属音と共に、短剣が跳ね上がる。
折り返すように剣が風を巻いて走った。ドス黒い血が背後の杉の
木に叩きつけられた。
蔵人の剣がフォルカーの喉元を深々と横に割った。フォルカーは
信じられないというように左目を見開きながら、峠路に転がり、杉
の根元にぶつかってとまった。
残った一人は一番年若い。目をつぶりながら剣を握り締め駆け寄
ってくる。
蔵人は、身をかがめながら低い位置で刃を振り回した。男のあえ
ぐような声が響く。剣先はちょうど男の膝頭を断ち割った。
286
蔵人は倒れ込んでくる男ともつれ合うと、顎に拳を叩きつけ上に
なった。男は幼児のように顔をくしゃくしゃにして手を振って命乞
いをした。
﹁あと何人だ!﹂
﹁う、うええ﹂
﹁手間取らせるな! あと追っ手は何人残ってるんだ!﹂
﹁オークがぁあ、あと一匹。それと、ベルナルドの親方と、かき集
めてきた冒険者たちが、十人。なああ、頼むよ。助けてくれよぉお
お﹂
﹁そうか、よ﹂
蔵人は、刃を寝かせるようにして男の喉笛を滑らせると深々と頚
動脈を断ち割った。
あと、十二人。
胸元の紋章に意識を集中させると、心臓の鼓動がいっそう強く脈
打つのがわかった。頬の血を拭うと既に傷口がふさがっている。背
中と脇腹の痛みで、気を抜けばいまにも意識を失いそうだ。瞳の奥
で火花が弾け、全身を覆う寒気が強まった。膝を突きそうな倦怠感
が背中に覆いかぶさってくる。蔵人は、割れそうなくらい奥歯を噛
み締めて待っていると、それらはまるで最初からなにもなかったか
のように、干いていった。胸元の紋章が淡く輝いている。光が次第
に薄れていくうちに、峠の向こう側から数人の足音が近づいてきた。
﹁ああっ、おまえら﹂
﹁野郎っ、てめえかぁっ、ふざけやがって!﹂
﹁覚悟しろよぉお、この野郎!﹂
仲間の死骸に気づいたのか、四人の男が剣を抜き放ち迫ってくる。
蔵人は、震える手で剣を握り締めると陽光が煌く雲の向こうを見
上げた。
ふと、陽が陰った。
黒ずくめの小柄な人物が遮るようにして、横手の雑木林から道に
飛び出し、男たちの前に割って入った。
287
﹁な、なんでえ、てめえ、は﹂
黒い頭巾を被っており表情は見えないが、瞳だけはすべてを捨て
去ったような暗い虚無感が宿っていた。蝙蝠のように黒い外套を羽
織っている。足首まで届きそうなそれは、吹き上げてくる山谷風に
煽られ波打っている。塵埃を吸って全体的に灰がかっていた。厚手
の生地で出来た上下も闇のように黒い。盛り上がった胸元から、女
性だと判断できた。腰にはその身にそぐわない大きな曲刀を佩いて
いる。足元のブーツだけがやけに真新しかった。
︵こいつ、確か牢獄であったアサシン娘じゃねえか。まだ、つけま
わしてやがったのかよ︶
蔵人は、女騎士ヴィクトワールがシズカと呼んでいたのを思い出
した。
﹁どう考えても助けに来ましたって、目つきじゃないよな﹂
シズカが曲刀に手を掛ける。蔵人の中に、あのときの悪夢がまざ
まざと思い浮かんだ。
﹁おい、どけやぁ、こちとら取り込みちゅ﹂
男が肩に手を置こうと伸ばした先が、空間から削り取られる。
鮮血が濡れ雑巾を叩きつけたように、黒い外套を叩いた。
﹁ああああああっ﹂
男が叫ぶと同時に、シズカの腰から抜き放たれた曲刀が空を割っ
て走った。
並んでいたふたりの男の首が、崩れるようにかしいで前後にゆっ
くりと落ちた。
コマ送りの画像を見ているようだった。
シズカは、深く腰を落とすと外套を跳ね上げ直線に刃を走らせる。
構える動作も出来ないままに、隣の首が落ちるのを眺めていた大男
の心臓が破壊された。残ったひとりは剣を投げ捨て降りてきた道を
駆けていく。その背中に、シズカの投げた短剣が深々と刺さった。
﹁一瞬かよ﹂
瞬きをする間に四人屠ってみせた。
288
蔵人はシズカの技量に隔絶したものを感じ、身震いした。 シズカの孤影がにじるように迫って来る。皆のことがなければと
っくに逃げ出していたと、唇を噛み締めながら、自然距離をとった。
﹁なあ、ちょっと待て。いまは、まずいんだ。勝負なしにしようや﹂
シズカは上段に曲刀を構え、獣が飛びかかる寸前のように腰を落
として身体をたわめた。
どうあがいても、相打ちすら無理そうな気がする。
冒険者くずれのゴロツキや、力自慢の亜人程度なら身を捨てて戦
えば活路が開けそうな気がする。
だが、この女だけには叶いそうもない。そもそも剣の技量が違い
すぎる。蔵人は元々はただの大学生だ。真っ当な剣術を習得した相
手では、一合ですら持ちそうもない。
シズカという少女の腕は紛れもなく本物だ。
不死の力といっても、首を落とされて生きている自信はさすがに
ない。
蔵人のこめかみを、黒ずんだ汗が滲んだ。
均衡が崩れたのは本当に偶然だった。
崖の向こうからオークの巨体が飛び出したと思うと、右手一本で
シズカの足首をつかみ逆さ釣りに持ち上げた。
﹁くたばったんじゃねえのかよ、畜生め!﹂
蔵人は躊躇することなく身を翻すと雑木林に身を躍らせた。豚を
踏み潰したような悲鳴が背後から上がる。逆さまのままシズカがオ
ークのダニオに切りつけたのだ。
振り返る暇はない。とにかく、距離を稼ぐことだ。
顔を打つ枝をものともせず、夢中で駆けた。右足を置いた地面が
大きく凹んだ。
蔵人の身体が一瞬止まった。
﹁うげらぶっ﹂
空を切って飛来する音を聞いた瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
咳き込みながら転がると、身体をくのじに折って血をはくシズカが
289
見えた。ダニオが子猫を投げつけるように放ったのだ。
﹁オンナぁああ、オンナぁああっ、もう、おで、だれでもいいいど
どおおぉお﹂
口のはしから泡を吐き散らしながら、ダニオが怒張を尖らせて突
進してくる。
﹁やらせろおおおおおっ﹂
ダニオは奪った曲刀を振り回しながら、雑木林をなぎ払って近づ
いてくる。右胸から腹にまで渡る浅い切り口から血が滲んでいる。
動き回れるのは、たいした痛手ではないからだろう。額の傷跡から
流れる血で両目の視界を封じられているとしても、この状況でやり
あうのは御免だった。
﹁どうやら、お目当てはおまえのようだな。自慢の砦で勝負したら
どうだ﹂
シズカは立ちあがろうとするが、顔しかめてしゃがみこむ。右足
首を強く痛めていた。
﹁ここでおまえが片づけられるのを見るのがモアベターなんだがな﹂
シズカは無言のまま、腰に差していた短剣を抜こうと右手を伸ば
す。
蔵人は脊髄反射で跳躍すると、背後の木に隠れ様子をうかがう。
シズカが鞘に手をかけた瞬間、顔を伏せた。悲鳴を噛み殺してい
る。くいしばった口元から血の雫が地面を打った。
﹁なんだ、手首もやっちまったか。これじゃあ、ついにお仕舞いだ
な。⋮⋮おっと、そんな目で見るなよ。俺にはまだ、やることがあ
るんでな、あとは頼むわ﹂
シズカはうつむいたまま声ひとつ上げない。剣の達人といえど、
得物を失い利き手と逃げ足が使えねば、膂力においてはオーク相手
では分が悪そうだ。
ほつれた頭巾がほどけ、黒髪が流れた。シズカの横顔にはなんの
表情も見えない。自分がこれから味わう屈辱も、そして結果の死も。
発情してなおかつ手負いのオークがこの少女にどうふるまうか想像
290
できないはずもない。おそらくは、女として生まれてきたことを後
悔するほどの痛みを味わうことになるだろう。
﹁追ってきたおまえが悪いんだぞ。俺はマザーテレサじゃねえんだ﹂
蔵人の脳裏に、真珠の首飾りを抱きしめたまま切なそうに笑った
女の顔が淡く浮かび上がった。握りしめていた優越感がみるみるし
ぼんでいく。舌打ちをとめられなかった。
まったく、俺ってやつはどこまでバカなんだろうな、自分でもイ
ヤになる。
﹁ひとつ、貸しだ。バカおんな﹂
蔵人は、シズカの外套を無理やり引き千切ると身に纏った。
﹁こっちだ、クソ豚がぁあああ!! 穴が欲しけりゃここまで来や
がれ!﹂
やぶれかぶれの怒声を上げると、巨躯に向かって真っ直ぐ向かっ
ていった。
隠れ里の物置小屋には、淫猥な空気が漂っていた。
食料の麦の詰まった袋や薪や炭などは場を開けるように部屋の隅
へと高々と積み上げられている。中央には美貌のエルフが半裸にさ
れたまま転がされていた。どこから持ち込んだのだろうか、男たち
が囲むようにして酒宴をはじめていた。
﹁おい、残りの一匹はまだつかまらねえのか﹂
座の中心にいる頬のそげ落ちた五十年配の男が顎をしゃくった、
一味の大将株であるベルナルドだ。
﹁へい、先ほど見に行かせましたんで、もうじきでさあ﹂
﹁早くしろや、こっちのお楽しみがまだ控えてるんだ、なあ﹂
ドロテアは殺意を込めた視線で無言の抗議を示し顔をそむける。
291
﹁おいおい、そう嫌うなって。これから、俺たちはぁ一晩中仲良く
するんだからよう。つまりは兄妹になるってことだ!﹂
﹁兄妹たぁーお頭もうめえことをいいなさる。オレたちゃ今夜から
穴兄弟ってことだ!﹂
ベルナルドの言葉に追従するように、子分たちがどっと笑い声を
上げた。中でもひとり場違いのように華奢な男が青い顔をしたまま、
黙々と盃を口に運んでいた。女と見まごうほどの繊細な容姿をした
エルフ。かつてドロテアの婚約者だったラルフであった。
﹁おい、兄弟。なに、黙りこくってやがんだぁあ! もう、女房で
もなんでもねえんだろぉ! あ? それとも、なにか俺たちのやる
ことが気に入らねーってのか!﹂
﹁いや、僕は﹂
﹁おいおい、さすがに自分から騙した相手を目の前にしちゃあ、酔
いも中々まわらねーだろおよ。おっ、ついでやれ、たっぷりとな﹂
青い顔をしたラルフは注がれた盃に目をやると、すべてを忘れる
かのように一気に飲み干した。男たちから歓声が上がる。
﹁にしても、久々に痛快だったぜ。いままで手を煩わせたこの女が
この青瓢箪をちいとつついてやったらあっさり剣を捨てやがった﹂
﹁おいラルフよう、このアマまだおまえに未練タラタラじゃねえか。
よけりゃあくれてやってもいいぜえ。もちろん俺らがさんざんこい
つの穴を使い倒したあとで良きゃあよ!﹂
﹁そいつは、傑作だ! テメエが都に出ておもしろおかしく暮らし
てぇ為に、混じりものとはいえ、同族を売り捌き、あまつさえ元の
女房すら俺たちに叩き売っちまうなんて。おめえもとんだ悪党だぜ
!!﹂
男たちの哄笑のあとに、ラルフのひきつった笑いが続く。
すると、いままで黙っていたオークの男が無言のまま拳をラルフ
の顔面に叩きつけた。
紙切れのように華奢な身体は宙に舞うと部屋の板塀にぶち当たる。
男たちの笑いが途絶え、静寂が満ちた。
292
﹁なにが、おかしい﹂
オークの瞳にはなんの感情も映し出されていない。突き出した鼻
をかすめるように突き出た牙は見るからに凶悪だった。
﹁い、いえ。なでぃぼおかじくあでぃまぜぇん﹂
ラルフは鼻面から血を垂れ流したままうつむいた。
﹁オレはな誇り高きオーク族の戦士、アロルドだ。自分の女房を売
り払って下賤に笑う汚い男は許せん﹂
ベルナルドがにやりとした。
﹁で、おまえさんはこの女は抱かねえんで?﹂
﹁当然、抱く﹂
どっと座が沸き返る。
アロルドは、上半身を肌脱ぎになると、筋骨隆々の身体を見せる
と、両腕に力こぶを作ってみせた。そこには人間がいくら鍛えても
たどり着けない種族の壁があった。
﹁とゆーわけだ、ドロテア。オークの旦那がおまえをお望みだ。濡
れたか?﹂
﹁ゲスが﹂
ドロテアは、近づけたベルナルドの面体に唾を吐きかけた。
﹁おもしれえ、よし、簡単には突っ込まん。おい、アレを持って来
い﹂
﹁あれ、ああ、あれですね、お頭。ひひひ、この高慢ちきな女がど
れだけ乱れるか見ものですぜ﹂
ベルナルドに命じられた男が自分の額を叩くと、軽やかに小屋を
駆け出していった。
﹁なにをするつもりじゃ﹂
﹁なーに、とっておきのモノでおまえの本性をさらけ出してやろっ
て寸法さ。こいつを使えば男を知らぬ処女も、どれだけ男に飽きた
淫売でもよがり狂って正気じゃいられなくなる。おまえは、すぐに
でもここにいる全員に懇願したくなるはずだ。どうぞお願いします、
旦那さま。わたしをかわいがってください、ってな﹂
293
﹁愚かなことを。わらわは、おまえたちがなにをしようと屈しはし
ない﹂
ベルナルドは、むっちりとした身体を横たえたまま強気な姿勢を
崩さぬドロテアを舐めるように視姦する。
﹁おっと変な気は起こすなよ。おまえが剣だけではなく魔術も一流
ってのは先刻承知済みなんだ。もし、ちょっとでもおかしな動きを
見せてみろ。とらえてあるガキどもがあっという間に何匹かまとめ
て冷たくなるぜ。くふふ﹂
﹁死ね、外道が!﹂
﹁まったく、たまんねえ、たまんねえよ。おまえみたいな上玉を手
に入れられるなんて。最初は、逃げられたガキを追うなんてつまん
ねぇ腐れ仕事押しつけやがってなんて思ってたがよ。へへ、こんな
余録に与れるなんてツキが少しは回ってきたかねぇ﹂
﹁お頭、おいら、おいらもう暴発しそうでぇ!﹂
﹁ずるいッスよぉおおっ﹂
若い男の二人組が、ドロテアの豊かな双丘を見つめながら激しく
地団駄を踏んだ。
﹁焦るなよ。順番だ、順番﹂
﹁地獄に、落ちろ﹂
﹁その減らず口がどれだけもつかな﹂
ベルナルドは、子分が持ってきた小瓶を受け取ると、若く精力の
有り余る二人組の男に放り投げた。
﹁よし、てめえら。特別に、そいつを使う権利をやろう。ドロテア
の乳房にこってりと塗りつけてやれ。こいつを取り寄せんのは苦労
したぜえ。もっとも効果は抜群だがなぁ﹂
ドロテアを囲む男たち全員の瞳に暗いものが宿った。
﹁おい、そろそろ暗くなってきた、火ぃ入れろ﹂
子分たちは手際よく大きなランプを幾つか用意すると、灯芯に火
をつける。
後ろ手に縛られたドロテアのむっちりとした胸元から真っ白な腹、
294
そして細く長く美しい足がくっきり照らし出される。
男たちは忍び笑いを漏らしながら、両手に媚薬をまぶす。
﹁や、やめろ﹂
﹁観念しろや。素直に従えば、気持ちよーくしてやるからよ﹂
ドロテアは卑猥な言葉に耐えながら己の軽率さを恥じた。
どうして、いまさらラルフの命などと子どもたちを天秤に掛けた
のだろうか。
逃げ出すチャンスは幾度もあった。
それでも、ラルフのすがるような目を見るたびに気力が萎えてい
った。
愛しているだのなんだのと、言葉を幾度かわそうとも、男女が最
後に行き着く先は、肌を重ね合わせて肉欲を充足させることである。
最後の一線をもったいぶった自分が悪かったのか。結果としては、
得意の剣も魔術も震えずこうして男たちにいいようにされている。
視界の隅で、ただ鬱然と酒を舐めるラルフの背中が小さく映った。
ドロテアはこんなことなら最後に好いた男に身体を与えてやれば
よかったと、心の底から後悔した。もう、理性を保っていられそう
にない。自分が自分でなくなってしまう。薄れる意識の中、思い出
されるのは華奢で儚げな優男の顔ではなく、快活でどこか憎めない
笑顔だった。
ドロテアが腹ばいになった瞬間、真っ白な臀部が突き出されるよ
うにして震えた。
無言のまま幾人かが立ち上がる。ベルナルドはもはや制止をしよ
うとはせず、酒精の残った上唇を舌で舐め上げた。
﹁おい、もう我慢できんぞ﹂
アロルドが激しく吠えながら立ち上がった。目つきが理性を失っ
ている。まともな会話はできそうにもないレベルにまで達していた。
これ以上焦らせば、自分が殺されかねない。
ベルナルドが合図を出そうと腰を浮かしかけた時に、出口の扉か
ら鈍い音が響いた。
295
296
Lv19﹁月明かりに涙は砕けた﹂
墨を塗りつけたような闇の中、ぽっかりと切り抜いたように一部
分が赤く光っている。
蔵人は物置小屋から目を離すと、リネットとルシルに目配せをし
た。
シズカから奪った真っ黒な外套を着けている。闇に身を隠すには
ちょうど良かった。
足音を立てずに畑を迂回して母屋にたどり着くと、子どもたちが
寝起きをする部屋の入口に立った。
ルシルの身振りからすると、捕らえられた子供たちはここに集め
られているらしい。
ほとんど手入れのされない板塀の所々には穴が空き、中の光がわ
ずかに漏れていた。
中の音を聞こうとして耳を寄せた。
声高に話す男の声が聞こえたと思うと、甲高い叫び声が上がった。
リネットが止める前にルシルが入口から飛び込む。
﹁なんだ、てめえは!﹂
怒号が走る。男は血刀を下げていた。誰かが倒れている。
リネットが顔を覆って鳴き声を上げた。
血塗れになった少女はうつ伏せのまま動かない。
ルシルは瞳を大きく見開いたまま凍りついたように静止した。
それは子供たちの怯え切った塊の輪から外れて、小さなボロ切れ
のように見えた。
蔵人の目の奥が白く明滅する。
﹁このガキどもが騒ぎすぎるからいけねえのよ!﹂
297
若い男だった。自分自身の行為に怯えたように青ざめている。
彼は、切り捨てたエルメントラウトから離れるように後ずさると、
いきり立ったように壁を拳で突いた。火がついたように子どもたち
が泣き出す。
蔵人は、表情を消したままエルメントラウトの枕元に片膝を突き、
乱れた髪を手ぐしで整え、裾を直してやった。
少女は自分の膝に座り幾度も抱っこをせがんだ。髪に顔を埋める
とミルクのような匂いがして、自分がしあわせだった頃の記憶を何
度も思い出した。脇に手を入れて高く持ち上げると、最初は恥ずか
しがったが、花のようにかわいらしい笑顔を見せた。足元にまとわ
りつく子犬のようで見ているだけで頬がゆるんだ。いつか白馬に乗
った父が迎えに来るとうっとりした顔で夢を語っていた。
﹁クランドさん﹂
遠くでリネットの声が聞こえた。
一瞬で何もかもが色あせたのだ。
まだ、あたたかいエルメントラウトの身体をきつく抱きしめる。
すべてが終わってしまった。
輝かしい日々も。そしてこれからあったはずの明日も。
蔵人は座り込んだまま、背後の男に訊ねた。
﹁おまえは罪もねえ子供を斬ってなにも感じねえのか﹂
﹁罪がねえってのは知らねえが、運がなかったのは確かだな。そも
そも、こいつらがハーフエルフだってのが一番の間違いよ。薄汚ね
ぇ混じりもんなんざ、遅かれ早かれこうなる運命なのさ。こいつら
を切り刻もうが、叩き売ろうがどこからも苦情は出ねえんだ。ほっ
ときゃ飢えて死ぬだけの間の子を銭に変えてなにがいけねえ!!﹂
蔵人は、少女を下ろすと大きく息を一度吐き出し、それから腰の
剣に手をかけた。
﹁それが理由か﹂
﹁なんだ、なんだよ。やるってんだな! こっちにゃ十人以上の仲
間が控えてるんだ!﹂
298
﹁いまはおまえしかいねえじゃねえか﹂
男は言葉にならない絶叫を響かせ剣を抜いた。
蔵人は無言のまま手首を返すと水平に刃を寝かせ迎え撃つ。
硬い金属音と共に男の剣が弾かれた。
男が泳ぐように背を向けて逃げ出した。
蔵人は剣を両手で握り締めて突き出し、深々と男の背中へ埋め込
んだ。
低いうめきを漏らすと、男は黒々とした血を撒いて夜露の染みた
大地に伏した。
頭上から差し込む月の光が、男の最期を照らし出す。かぶってい
た頭巾が外れた。
人間よりは長く、エルフよりはやや短い特徴的なそれは、このひ
と月よく見慣れたハーフエルフのものだった。
夜空を流れる黒雲が月をたちまち覆い隠した。
蔵人は畑の畝を縫って走る。わずかに過ごした日々の思い出が流
れて消えていく。
脳裏を様々な思いが交錯し、最終的に純化した怒りへと収斂され
た。
蔵人はここまで怒ったのは生まれて初めてだろう。
人を斬る罪悪感も、痛みに対する恐怖も、なにひとつ感じなかっ
た。
物置小屋にたどり着くと、思い切り拳を固めて叩いた。
﹁おい、まだ交代にゃ早いぜ﹂
不用意に顔を出した男の喉笛に刃先を深々と埋め込む。
生暖かい血が顔に降りかかった。
299
蔵人が絶命した男の身体ごと戸を蹴破る。
室内には裸に剥かれたドロテアと、その長い両足を持ったままの
オーク戦士アロルドの姿が目に入った。
﹁おまえはいったい誰なんでえ!﹂
下穿きを半ば下ろし、ドロテアの胸に顔を埋めていたベルナルド
が振り返って叫ぶ。
あと十人。
蔵人は室内を見回してつぶやいた。
その抑揚のない声に、男たちは慌てて得物を探しはじめた。
﹁俺が誰なんてどうでもいいことだろうよ﹂
︱︱なにがどうあったって、この夜はひとりも越えさせやしねえ
んだ。
予備動作なしに蔵人が跳躍した。
黒い外套が蝙蝠のように羽を広げた。
﹁おぶえるっ!!﹂
剣が半回転して、よけ損なった男の腹を深々と斜めに断ち割った。
湯気の出そうな赤々とした血が床板を叩いた。
蔵人は、足元のランプを持ち上げると膝立ちのまま呆然としてい
たアロルドの顔面に叩きつけた。油が飛散しアロルドの顔から上半
身は一気に燃え上がった。怒張を突き出したまま仰向けに倒れる。
火を消そうと亜人特有の太い指で顔面を掻きむしるが、油が飛び散
りますます燃え広がった。
酒瓶と盃が蹴倒されあたりに火が燃え広がった。
怒号が飛び交い混乱が猖獗を極めた。
蔵人はアロルドの胸に片足を掛けると垂直に剣を突き立てた。
野太い絶叫が耳を聾す。
ひねるように剣を回転させる。臓器を刀身が猛獣のようにまとめ
て喰いちぎった。
アロルドは身をそり返らせ苦悶した。宙を掻く指が刀身を掴む。
躊躇なく剣を抜き取ると、節くれだった指はまとめて切断され辺り
300
に舞った。
裸のまま剣を抱えた三人が押し包むように囲んだ。
蔵人は床目掛けて飛び込むと飲みかけの酒瓶をひっつかみ天井目
掛けて放り投げた。
砕けた破片が雨のように降り注ぐ。男たちはいっせいに顔をそむ
けた。
﹁野郎!﹂
﹁汚ねぇぞ! 畜生!﹂
目をつぶったまま剣を振り回していた男たちはお互いを浅く斬り
合うと、悲鳴を上げて飛び退った。
﹁馬鹿野郎、相手はたったひとりだ! まとめてかかれ!﹂
ベルナルドの指示でそれぞれの動きに連携が取り戻される。
﹁おおう!﹂
﹁いくぜええ!﹂
目の前の男たちが殺到する。不意をつくならまだしも、八人の男
を同時に戦うことは出来ない。男たちから飛び退いて距離を取った。
蔵人は隅に積み上げられた小麦袋を振り回すと中身を撒いた。視
界を白い靄が覆う。目の前の男の胸を蹴りつけ、飛び込んでくる刃
をしゃがんでかわした。
両腕を投げ出し仰向けになった女の裸体が目に入った。咄嗟にド
ロテアを腰抱きにした。意識が朦朧としているのか、脱力しきった
人形のようだった。
隙をついて小屋を飛び出した。
燃え上がる小屋の中から次々と人影が飛び出してくる。
歓声と喚き声があたりを包んだ。
段々畑の傾斜を駆け下りながら、一番近くの小川に向かって走っ
た。
途中、畑の畝にドロテアを放り込む。女を抱えて勝負は出来ない。
男たちの注意を引きつけるように剣を高くかかげて叫んだ。
水の匂いが鼻を突く。闇は深いが、感覚で理解した。
301
ぬかるんだ丈の長い草むらに飛び込む。
芦の群生地帯だ。
足首に巻きつく泥は冷たかった。
放たれた火で即席の松明を作ったのだろう、いくつもの灯が列を
なして素早く移動するのが視界のはしにチラつく。芦の背にかがみ
こんで剣を斜めに構え、近づく光を待った。
水をかき分ける足音が近づいた。松明をかかげた男と目が合った。
蔵人は、斜め上方に剣先を滑らすと、男の脇腹から胸元まで深々
と抉った。絶叫が流れた。水面を打つ音に気づいた光が集まってき
た。
一番最初に追いついた男が剣を上段に振り上げ飛び込んできた。
蔵人は打ち合うことはせず、身をそらしてかわすと足場を確認した。
今日まで無為に過ごしていたわけではない。もしものときのため
に、里の周辺の地形を隅から隅まで頭の中に叩き込んでおいたのだ。
追われる振りをしながら、敵を誘い込む。
沼地のもっとも深い場所を迂回すると、最短で距離を詰めようと
直進してきた三人が腰まで深みにはまり身動きが取れなくなった。
蔵人は、足首程度で深みがとまる立ち位置を利用して剣を振るっ
た。手首を切り落とされた男が女のような鳴き声を上げた。手にし
ていた松明代わりの木切れが、じゅっと音を立て泥土の海に消えた。
男は逃げようと身をよじる。逆手に持った剣を、反転した男の背中
へ深々と突き立てた。刃は深く皮と肉を切り裂き、真っ赤な飛沫を
泡立たせた。
﹁後生だ! 降参する! もうやめてくれよう!﹂
剣を捨てて命乞いする男の喉元に剣を叩き込む。赤黒い鮮血が舞
って、隣で呆然としている男の頬を濡らした。
﹁ひいいいっ、許してぇ! お願いだぁあ!!﹂
蔵人は足首まで浸かった泥を跳ね除けながら跳躍した。死神のよ
うに黒い外套を羽ばたかせ、剣を振るって男の顔面を真っ二つに叩
き斬った。赤い柘榴のような切断面が揺れ、ゆっくりと泥の中に沈
302
んだ。
息を整えようとしたとき、肩から背中へ熱湯を掛けたような衝撃
を覚えた。振り返ると、蔵人の背中を割った男の剣がまっすぐ顔へ
と迫っていた。
泥土の中に飛び込みかわした。痛みで息が詰まる。
蔵人は立ち上がろうと手を突くが、手応えのない土を掻いて顔面
から泥にもぐった。
薪を割るように上段から刃風が落ちてくる。興奮した男は盲滅法
に得物を振り下ろすが何度も泥を叩くことに終始した。
蔵人は、泥の海を泳ぎながら身をそらし、片手撃ちで男の脇腹を
深々と刺した。絶命した男が痙攣をはじめ、身を刀身にもたせかけ
た。鈍い音ともに刀身が半ばから折れた。
蔵人は舌打ちをすると、男の腰を蹴りつけ泥に沈める。それから
男たちが使っていた剣を闇の中から拾い出し、歩き出した。
全身の筋肉が疲労と激痛で悲鳴を上げている。頭の中で傷口が塞
がるイメージを構築する。蔵人の胸元にある不死の紋章が淡く輝く
と、みるみるうちに血が凝固した。
残った力を振り絞りながら芦原を泳ぎきると、目前に槍を構えた
男が駆け寄ってきた。
剣と槍ではリーチが違いすぎる。蔵人は即座に勝負にならないと
判断し、撃ち合いを避け逆方向に駆け出した。
心臓の鼓動が頭の中を蠕動し、周囲の音が消えていく。
キーンと甲高い反響音の中、世界が静止した感覚がすべてを支配
した。
背を向けたまま、坂の斜面を駆け上っていく。痛みはもうない。
後方の男が構えた槍を突き出してきた。
一撃、左肩を割られ、血潮が舞った。
二擊、脇腹を刺された。激痛で視界がたわんだ。
男の槍術はかなりの腕前だ。
柄の中程を持ち直し、トドメを刺そうと突き出してくる穂先が唸
303
りを上げた。
蔵人は、真正面に向き直ると剣を片手上段に構えた。全身の痛み
は消えない。怪我の頻繁さに回復力が追いつかないのだ。
上半身をずらし腰に回転を加える。
肩の外套を旋回させた。
穂先を紙一重でかわすと、ケラ首に外套をぴったりと巻き付けた。
男が槍を引き戻そうと満身に力を込める。
だが、泥土と水をたっぷり吸って濡れた衣は抜群の吸着力でぴく
りともしない。
蔵人は、一瞬だけ力を込めてから、左手で外套を肩から引き剥が
した。手応えを失った男がバランスを崩し、槍に外套を巻き取った
まま身をそりかえした。
蔵人は剣を握った両手を突き出すように坂の上から身を躍らせた。
白刃が水平に弧を描く。男は両膝を斬られて倒れると、坂の下まで
転がり落ちた。
蔵人は、傾斜の途中で、手を突き立ち上がる。
眼下には、大の字になって呻く男の姿が見えた。坂を転がるよう
にして走る。
蔵人は仰向けになった男の胸元へ剣を叩き込むと大地ごと縫いつ
けた。
剣を引き抜くと頭上を眺める。
黒雲が晴れ、眩しいほどの月光がきらめいていた。
﹁宴はどうやら終わりのようだぜ﹂
蔵人の声に弾かれるようにして、ベルナルドが坂の上から身を乗
り出した。
頬のこけた顔はもはや蒼白だった。なにかを待つかのようにあた
りを落ち着き無く見回している。遠くの草むらから、男の身体が飛
び出した。
﹁ゴメス! さっさとやっちまわねえか! どうした!﹂
ゴメスと呼ばれた男は横倒しに背中を見せたままピクリともしな
304
い。蔵人が明るい月の光に目を凝らしていると、小さな人影がゴメ
スのそばにゆっくりとあらわれた。
黒ずくめの影が持つ曲刀が、白い光を反射して輝く。磨かれた刃
の先が赤く染まっているのが、かなり離れた距離でもわかった。シ
ズカである。
彼女が曲刀でゴメスを転がすと死相があらわになった。硬直した
男の腕から弓矢が離れて落ちる。ベルナルドの喉がひゅうっと息を
吸い込むのが聞こえた。
﹁助けてくれたのか﹂
シズカは無言のまま背を向けると、指を天にかざし、それから振
り下ろした。
借りは返したってことかよ。
彼女は掴んでいたつつみを抱えると、蔵人に放って見せた。小石
の多い地面を転がりながら、袋の中身が飛び出した。オークのダニ
オの首である。彼女は、あのあと傷ついた身の上できちんと障害を
抜かりなく処理していたのだ。その酷薄さに慄然とした。
シズカの背中が闇に飲み込まれていく。溶けていく孤影を見なが
ら、蔵人はもうこの里にいられないことを確実に悟った。
﹁どうしてここまでキレてんだ。おまえはあのエルフたちのなんだ
ってんだ!﹂
﹁おまえにわかりゃしねえよ﹂
剣を構えたままにじり寄る。
ベルナルドはひっ、と息を呑むと怯えながらあとずさった。
﹁なんでだよ畜生。簡単な仕事だったはずだ。どうして、こんな、
どうして、こんなああああ!﹂
泣き声と絶叫を迸らせながら、ベルナルドが斜面を駆け下りた。
蔵人は、身体を半身に開くと斬撃をかわして剣を水平に振るった。
銀線が激しく交錯した。
﹁こんな、まさか﹂
脇腹を深々と断ち割られたベルナルドは、血潮と共に滑り出る腸
305
を見ながらその場に両膝を突いて座り込んだ。瞳がぐるんと反転し、
白目が露わになる。夜の冷気が音を立てて吹きすさぶと、ベルナル
ドは煽られたように大地へ両腕を投げ出して絶命した。
蔵人は抜身のままの剣を担ぐとゆっくり屋敷の方向へ戻っていっ
た。
﹁待て、どこにいくんじゃ﹂
ドロテアの動揺した声。
蔵人は荷物をひと纏めにすると足拵えをし、無言で立ち上がった。
﹁いままでに世話になったな﹂
﹁ちょっと待ちぃ。また、冗談だろ。わらわたちは上手くやってき
たじゃろおが。もしかして、もしかしてわらわが穢されたと思うて
おるのかぁ。だからかぁ、のう﹂
ドロテアの瞳に涙が滲む。端正なくちびるが悲しみでわなないた。
蔵人の瞳が女の姿をとらえた。傍らにはリネットとルシルが呆然
としたまま立ちすくんでいる。なにもかもが現実ではない。彼女た
ちは世界を直視することをもはや否定していた。この里に居続ける
ことは可能だが、それはさらなる不幸を呼び込むだけであろう。
シズカという存在。そしてそれを差し向けた黒幕。
彼女という刺客がいる限り、蔵人は狙われ続けるだろう。あの凄
腕を奇跡的に倒したとしても、それで終わりとはとうてい思えなか
った。
すなわち、それは誰かが傷つく可能性を秘めている。
いまの蔵人にはたったひとりで子供たちを必ず守りきる度胸も自
信もなかった。
蔵人にとってそれは容認できるものではない。
306
自分の弱さに向き合うことは、つらく悲しかった。
﹁別口だよ。それに俺は処女厨じゃねーしな。しめっぽいのはきれ
ぇなんだ﹂
﹁じゃ、じゃあ! いいではないか、追っ手はもうどこにもおらん
し、その、おまえが居ればみんな喜ぶしのう。そう、わらわも﹂
﹁最後のは聞かなかったことにしとくわ﹂
惜しいけどな。自嘲がこぼれた。
﹁まだ、エルの弔いもだしておらんのに﹂
﹁薄情だと思ってくれてかまわねえ﹂
﹁でも、でも﹂
ドロテアは子ども返りをしたように引きとめる理由を探した。蔵
人がさっと背を向ける。そこには無言の拒絶があった。
﹁待って、ならばわらわも﹂
蔵人は無言でドロテアの背後を指差す。そこには、夜風に身をす
くませながら寂しげに身を寄せ合う子どもたちの姿があった。振り
返ったドロテアは、力を失ったようにその場に座り込み、顔を上げ
て恨めしそうに月を睨んだまま無言で涙を流した。嗚咽を噛み殺し
ている。白い頬に流れる涙が、雫になって闇に飲み込まれた。
﹁クランドさん、どこかゆくあてはあるんですか﹂
リネットがかすれた声で問いかける。
蔵人は無言で首を振ると、空を流れる黒雲を仰いだ。
所詮、この世界の人間ではなく、常に命を狙われるような男に安
住の地はないのだ。
心の中でつぶやいた。甘ったれんじゃねえぜ、蔵人。おまえは、
何があっても約束を果たさなきゃならねぇんだ。
あの王女を恨んでも、元の日本に戻りたいと思ってもかなわなか
った。
そもそも、今日という日をかならず越せるかどうかなど誰にもわ
からないのだ。何十人という命を守る方法があるとするならば、少
なくとも自分はここにいてはいけない。
307
冷徹な暗殺者の影を思い出す。
日本なら女子高生くらいの少女すら暗殺者に仕立て上げるこの世
界は狂っている。
少なくとも、日本の倫理や常識は通用しない。
危機を遠ざけるためには、離れるくらいしか今のところ方法が思
い浮かばなかった。
踏みとどまって戦う。選択肢のひとつだろう。ドロテアの力があ
れば、それは可能だ。だが、あの暗殺者をひとり斃したところです
べてが終わるとは思えない。
いまなら、まだ肩の荷の比重は軽い。
捨て去るならいましかない。
例え自分は死ななくとも、もう子供たちが傷つくのを見るのはた
くさんだった。
いいや、そうではない。それは嘘だ。要するに、自分は弱いから
逃げるだけなのだ。
そんな簡単なことも認められない自分にほとほと愛想が尽きた。
﹁ルシル!﹂
ドロテアの声。少女は白い顔を硬直させたまま蔵人に駆け寄った。
リネットが遮るように抱きとめた。ルシルはいやがって両手を振り
回し唸りはじめる。それは獣が親を追いかけるような悲痛さがあっ
た。
﹁もう、ダメなのよ。クランドさんは、遠いところにゆかれるから﹂
﹁うーっ﹂
﹁ダメだったら、もう。困らせないでっ﹂
蔵人は踵を返すと剣を腰に下げ、荷物を入れたズタ袋をかつぎあ
げた。
峠路を目指して歩き出す。
ルシルは、リネットの手を振り切ると蔵人の真後ろまで走り、白
い喉を震わせた。小さな瞳は大きく開かれ、小さな赤い下が懸命に
うごめく。
308
蔵人の背中がみるみる遠ざかっていく。ルシルは両足を大きく広
げて踏ん張ると、孤影を引き戻そうとするように両手を突き出して
虚空を掴んだ。
﹁く⋮⋮らん、ど⋮⋮っ!﹂
﹁そんな、ルシルが﹂
リネットはふらふらと歩み寄ると呆然と言葉を発する少女の背中
を眺めていた。
﹁くら、⋮⋮っんどっ! くらんど!!﹂
﹁しゃべった。ルシルが、言葉を﹂
ドロテアのくちびるが重たげに動いた。
リネットに続いてルシルに歩み寄る。子どもたちの一団も無言の
まま、後に続いた。
﹁ルシル﹂
ドロテアがルシルの顔を覗き込むと、少女は涙で顔をグシャグシ
ャに濡らしながら、無理やり笑っていた。瞳が潤み、キラキラと月
の光を受け金色に輝いていた。寂しげな口元はゆがみながら静かに
震えていた。
﹁わらわないと。そうじゃないと、くらんど、かなしい、から﹂
ドロテアは、涙をこらえながら手を振る小さな身体を抱きしめた。
彼女を囲む子供たちの輪がぎゅっと小さくなりひとつになる。
淡い銀色の光が、いつまでも彼女たちを照らしていた。
流れ雲が疾駆する馬のように急速に流れていく。
蔵人は山を降りるため、足早に峠路を進んでいく。うっそうとし
た森には生き物の気配もなく、世界のすべてが死に絶えたように感
じられた。
309
足元に青白い月光が降り注ぎ道を照らし出す。時折、梢を渡る風
がなんとも寂しげだった。降りだしてまもなく、蔵人は屏風のよう
に切り立った崖の路で足をとめた。
﹁こそこそ人をつけ回すのはやめてもらいてえんだけどな﹂
﹁あんた、気づいてたのか﹂
背後から頼りなげな優男が顔を出した。ドロテアの元婚約者で、
奴隷商人の追っ手を引き入れたラルフというエルフ族の男だ。
﹁あんた、ドロテアとどういう関係だったんだ。まあ、これからあ
の里から出て行くっていうんなら僕には関係なけどな﹂
﹁どうするつもりだ﹂
﹁どうするって、あんな風にジョシュヤ商会の傭兵たちを皆殺しに
して僕だってただじゃすまないよ! 受け取った前金だって、とう
に使い果たしてるし、ホラ。へへ、あんたならわかるだろ﹂
ラルフが下卑た顔で笑う。端正な顔立ちの男がそうすると、人並
み以上に卑屈に見えた。
﹁ドロテアは、いい具合だったろ。なに、あいつは処女だなんだっ
ていってたって、男をひとところに、長い間咥えこんでなにもない
っていうのがおかしな話だ。⋮⋮相手があんたひとりきりってなら、
それほどあいつも使い込まれてないだろうし、まだまだ楽しめると
思ってよ。いや、そうじゃない。君が、出て行くなら、かわりに僕
が厄介になろうと思ってね。あそこにいる限り食うには困らないだ
ろうし、ほら彼女はものすごく押しに弱いんだ。僕が泣いて頼めば、
放り出すってことまでしないだろうしね。そら! こいつは、なん
だかわかるかい! 君は見たことないだろうが、本物の真珠の首飾
りなんだ。いや、本当は他の女にくれてやるつもりだったんだが、
こいつを渡して機嫌のひとつもうかがわなきゃなって思ってね。あ
いつは喜ぶだろう、いままでなにか贈り物なんぞくれたことはなか
ったしな﹂
ラルフは、いい訳するように飾り立てた言葉を並べると、さも大
事そうに白く美しい真珠の首飾りを掲げてみせた。
310
よほど楽天的なのか、それとも頭がおかしいのか。ラルフは自分
が以前にドロテアにまったく同じものを渡したことを忘れている。
いや、そもそもそんなことはこの男にとってこれっぽっちも重要
ではない。ラルフにとって、女は飯の種でそれ以上でも以下でもな
いのだ。 以前、ドロテアが未練だといって蔵人に見せた首飾りは素人目に
見てもイミテーションだった。
彼女も理解していただろう。
本物かどうかは問題ではない。形のある、なにかが必要だったの
だ。
そんな思い出でも、すがらずにいられなかった女の気持ちを、い
ま、また踏みつけにしようとしている。
絶対に許せることではなかった。
闘気が横溢する。
蔵人の様子に気づいたラルフが、怯えたように身をこわばらせた。
﹁ちょっと、待ってくれよ。いったいなにをするつもりなんだ。君
が、あの里を出て行くなら、彼女はひとりになってしまうじゃない
か。僕が、そばにいてやらないと。彼女には僕が必要なんだよ﹂
媚びるように笑いながら、青白い顔を歪め、激しくあえぐ。
おまえは勘違いしている。ドロテアはそんなに弱い女じゃねえ。
蔵人は、抜く手も見せずに剣を鞘走らせると、ラルフの真正面か
ら全力で振り下ろした。
ラルフの顔面から胸元まで垂直に銀線が走った。血しぶきが闇夜
に鋭く舞った。
手にしていた首飾りが両断され、白い珠が飛散した。
それは、悲しみに染まった涙の雫が、青白い月光の中で踊ってい
るように見えた。
﹁な、んで﹂
ラルフの膝が前後に激しく踊る。
蔵人は剣を構えなおすと、深々と胸元に突き入れた。切っ先が背
311
中を食い破り虚空に顔を突き出す。腰を蹴って剣を抜き取る。断末
魔と共に、ラルフの身体は轟々と唸る崖下の河に飲み込まれていっ
た。
切っ先を斜めにして血振りをし剣を鞘に戻すと、再び峠路へと戻
った。背中へと吹きつける山谷風に乗って蔵人は足取りを早める。
黙々と歩く蔵人の背中も、やがて月光の差さぬ深い闇の中へと沈
んでいった。
312
LV20﹁傷﹂
シズカ・ド・シャルパンチエは歴としたロムレス王家の氏族であ
る。
特にシャルパンチエ家の騎士は代々武勇に優れ、初代ロムレス王
に仕えて数々の武勲を残した創業四名臣の家格を持つ屈指の大貴族
であった。
だが、その無骨な一族の気質か、他家と折り合いをつけるのは不
得手であり、武勇一辺倒な一族は次第に功臣の中でも孤立していっ
た。
建国以来、歴史に名を残すその一門も長い年月の後に、要職から
はじかれ、家財は傾き、いまや衰亡の直前にあった。
頼りにするべき重臣たちは、次から次へと他家に移り、彼女が十
五歳のときには、貴族としての最低限の体裁をとり繕う余裕もなく、
下男下女は最小限の人数しか雇えなくなっていた。
父母は貧窮の中で早世し、七つ年上の兄はかろうじて出仕を許さ
れているが、生まれつき身体が弱く寝込むこともしばしだった。
シズカは物心がついたときから既に、自分の嫁入りは諦めていた。
使用人すらロクに雇えない経済状態の為、家のことは料理から炊事
までひととおりこなした。こんな極貧の家でも忠義を尽くす家臣は
少なからずいた。腰の曲がった年かさのメイドは家事百般をシズカ
に教え、彼女は真綿が水を吸い込むようにそれらを吸収していった。
また、皮肉なことに彼女は武芸においては天賦の才があった。彼
女は、家宰の騎士から武芸のすべてを学んだが、決してそれを好ん
ではいなかった。
シズカは、美しい容姿と貴婦人にふさわしい物腰を持っていたが、
313
それはあきらかに必要のないものであった。ろくな家作もなく、あ
らゆる他家から避けられる彼女を無理に娶るとする貴族もおらず、
彼女はこのまま兄の面倒を見ながら老いさらばえていくしかないと
自分の人生を半ば諦めていた。
そんな中、兄の病状は急激に悪化した。家名を保つためには、唯
一の男子を失うわけにはいかない。そもそも、王家はもはや慢性化
した財政難の為、ひとりでも多くの貴族を廃して領地を召し上げた
いのである。嫡男の早世は領地召し上げの絶好のチャンスであった。
女子であるシズカが遺領を継ぐという方法もないわけではないが、
どう考えても目減りは避けられそうにない。兄の病はますます篤く、
高額の薬代はどうにもできるものではなかった。
もはや売るものは、この身ひとつのみ。
シズカは、滅多にしない化粧を施し、蒼白な表情のまま、金満家
で知られる存じ寄りの貴族の家を訪ねた。もちろん、自分の肉体を
金に変えるためである。好色な貴族は、はじめ舌なめずりをしたが、
よくよく考えれば害が多いことに気づいた。シズカを抱けば、繋が
りができ、妾として遇さなければならなくなるやもしれない。シャ
ルパンチエ家は半ば朽ち果て、立て直すためには、家財を傾けなけ
ればならない。収支が折り合わないと判断し、彼女を追い返そうと
したが彼の中にも一片の情はあった。彼女の腕前は、聞いている。
彼にはひとりの政敵がおり、ひとつ上の職に任官するためにはどう
してもその男が邪魔だった。貴族は暗い笑みを浮かべると、花のよ
うに着飾ったまま寝台に座るシズカに近づくと、その耳元に囁いた。
悪魔の誘惑を。
その日以来、シズカは剣を振るい続けた。
わずかな金貨で、薬湯を買い、兄の命脈をつなぐ。
剣を無軌道に振るうたびに、こころが枯れ果てていくのを感じた。
女としての屈辱か、人としての恥辱か。
数え切れないほど人の命をあやめ続け、自分の顔から表情が消え
落ちていくのを知っていても、殺し合いの螺旋から降りることはで
314
きない。兄の病はよくならず、自分はまるで砂地に水をまきつづけ
ているのかと思うほどだった。
いつものように、仲介者の男を通して依頼を受ける。
どこの誰だろうと、構わない。金を受けとる。剣を振るって殺す。
自分の人生はこれだけだ。そして、これから先も変わらない。
殺しという作業に倦みはじめたその時、彼女はその男に出会った。
シズカの人生は、いま大きく変わろうとしていたのを、彼女は知
らなかった。
王都から南下して、ウォーターウォーク、クリアベイ、ポリカニ
オ、ソードモント、オレンジポイントと六つの街を越えていくと、
ドロテアたちが住んでいた双龍山が見える。
双龍山麓のパープルベイから南西には、ロムレス第五街道が真っ
深淵の迷宮
ラスト・エリュシオン
に最も近く、人口の流
直ぐ伸びており、終着点には、ロムレス第三の繁栄を誇るシルバー
ヴィラゴがある。
別名、冒険者の街。
ロムレス最大といわれる、
入は凄まじい。また、冒険者やその組合、物流業者や観光客など落
とす金も桁違いである。
﹁あっちいな、オイ﹂
蔵人は、中天に上った太陽を半目で睨みながら、街道を歩く。
寒さの消えたこの季節はかなり過ごしやすく、野宿も以前ほど苦
痛ではなくなっていた。
現金収入を持たない彼が今日までどうして過ごしていたかという
と、ほとんど野盗まがいのことをしていた。
シルバーヴィラゴに続くロムレス第五街道は人通りが激しい上に、
315
周辺にはほとんど人家がない。人家がないということは、警察権が
及ばないということであり、治安は非常に悪く、旅人はすべて自己
防衛をしなければならない。裕福な商人や旅慣れた平民は、数十人
単位で隊を組み移動していく。王家の軍が過去に敷設した石造りの
街道は古びてはいるとはいえ、抜群に使いやすかった。通行量のあ
る昼間はそれほど危険ではないが、それでもほとんど関係なしに盗
賊は跳梁していた。
蔵人の狙いはそれだった。戦いがはじまれば、隙をついて乱入し、
ときには傷つきながらも物資を奪い、または奪われたりした。彼は、
この世界に来て幾度も剣を振るったが、以外と自分にこの生き方が
あっていると思うようになっていた。そもそも、彼は普通の大学生
であったが、時間通り行動したり、決まりきった動きをとるのは苦
手だった。この世界では、少なくとものたれ死にと隣り合わせとは
いえ、起きたいときに起き、食いたいときに食い、寝たいときに寝
てもなんの不都合もない。そして、まわりも別段それを批判したり
しない。この、風潮は素晴らしかった。彼には、この空気があって
いたのだった。現代社会では、いい大人が仕事もせずに駅前のベン
チで何日も寝ていたら確実に通報される。蔵人は、街道沿いの宿場
町で、前述のような自由系民ともいえるすべてから解き放たれた人
間をたくさん見たが、住民はすべて許容していた。と、いうか風景
の一部だった。
﹁あぁ、あのおっさん? オレのオヤジが若い頃からいるらしいぜ﹂
浮浪系自由民のことを街の人間に聞いても、このような返事しか
返ってこない。そもそも、自分に影響を及ぼさない他人のことなど
は、靴の裏よりどうでもいいらしいのだ。
ときどき、路地裏などで、子どもだったらしい死体が倒れている
のを見た。一大事とばかりに、日本人としての尻尾が残っていた蔵
人は、周辺の人々に伝えたが、反応がいまひとつだった。
のちに、それに関して地域住民の人は野良犬が死んでいるくらい
316
にしか感じていないことが判明したときは、そのユルさに、脳が揺
れた。もっとも、地域に住んでいる子どもが川で溺れ死んだときに
は、街中が大騒ぎになっていた。顔見知りは、また別らしい。
よく考えてみれば、俺もたくさん人殺してるし。
まあ、生きるためだけど。あれ、これもしかしてやばくね?
深く命の意味について考えようとするが、自己矛盾を引き起こし
そうなのでやめた。
結局、自分に必要なやつは生きていて欲しいし、気に入らない奴
はぶっ殺す。
これでいいんじゃね?
蔵人は、適当な結論を出すと、自分の進むべき道がシルバーヴィ
ラゴにあると結論づけて、とりあえず生きる指針にした。この世界
では、すべて自己責任なのである。
くだらないことを思い返したり、ドロテアのおっぱいを思い出し
たりしながら、喉の渇きをごまかすのも限界だった。街道の脇の石
壁を乗り越えて道を逸れ、林をゆっくりと移動する。水の匂いが近
い。
蔵人は、小川に駆け寄ると、躊躇せず顔を突っ込んで飢えた犬の
ように水を飲み干す。現代世界では自殺行為だった。頭まで川面に
浸かりながら目を細める。動物的感が働いたのか、首筋が急にちり
ちりとひりつき、玉袋が収縮する。
﹁うおおおっ、なんだぁ!?﹂
蔵人は、岸から渓流に身を躍らせると殺気の主に目をやる。
そこには、腰まで伸ばした黒髪を川風にそよがすシズカの姿があ
った。
﹁もう、追いついちゃったわけね。これで、何度目だよ﹂
蔵人は剣を構えたまま、無言の少女を前にため息をつく。エルフ
の里で別れたあと、彼女は何度も襲いかかってきた。確かに殺気は
はある。
だが、日が経つにつれ、彼女の剣の冴えはどんどん鈍くなってい
317
くのがすぐにわかった。
気分にムラがあるというのか、熱気のようなものを感じない。
逃げては追いつかれ、追いつかれては逃げる。その繰り返しだ。
﹁なあ、最近どうしたんだよ。どっか、調子でも悪いんか﹂
はじめて会った時の殺気は確かに、自分を明確に殺すという覇気
があふれていた。だからこそ、涙を呑んで里を出たはずなのに。な
んだが納得がいかない。
﹁こっちも殺されたくはないんだがなぁ﹂
ため息をつくと同時に、ここ何日か無かったほどの速さでシズカ
の剣が水平に振られた。
蔵人は、小川に飛び込んでかろうじてかわす。
激しい飛沫が、シズカの黒髪を強く打った。
﹁おいっ。いきなりやる気出してんじゃねーよ! 別に、頼んでな
いからな!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だああ、無言で詰め寄るなっ。って、元々無言か﹂
シズカは身を丸めると、猫科の猛獣に似たしなやかさで突っ込ん
できた。
左胸から肩を激しく切りつけられ、真っ赤な血が陽光に踊った。
激しい痛みで、目の前がちかちかと火花が散った。
しゃがんでしまいそうな痛みをこらえ、後方へ飛び退くと剣を抜
く。シズカの瞳。感情が完全に死んでいた。得物を構えながら、川
の中央部へと移動する。
同時に、傷口が縫い合わされるイメージを思い浮かべる。
蔵人の胸元の不死の紋章が青白く発光した。
何度も、使ううちに自分の能力は把握できた。浅い傷ならば、ほ
とんど瞬時にイメージを操作して治すことができる。
だが、フットブレーキと同じで、短時間で多用するとダレる。
つまりは、効きが格段に悪くなるのだ。
経験上、時間経過と共に傷は回復するのだが、別に痛みが消える
318
わけではない。臓器の怪我に至っては、口だけ塞いで、中身は後で
徐々に治っていく感覚がある。どの程度まで傷が治るか加減が判ら
ない。また、試したいとも思わなかった。
﹁マジでやるってのかよ、ちくしょう﹂
蔵人はざぶざぶと水を掻き分け移動する。対岸までは数メートル
だが、次第に流れが早いのに気づいた。シズカは、表情を消したま
ま徐々に距離を詰めてくる。背筋を冷たい汗がつ、と流れ舌に異常
な疼痛を覚えた。
向かい合って相手の顔を眺めていると、異様な錯覚に陥っていく
のを感じた。
それは、シズカの容姿があまりにも日本人に似ていたからだ。顔
だけ見れば、アイドルグループのユニットにでも居そうだが、目つ
きの鋭さと口元の引きしまった厳しさは、それらと隔絶していた。
不意に、シズカの身体が前方に飛び出したかと思うと、水中に消え
た。目を凝らすと、もがくように水面に両手を突き出している。
﹁は、ははは。深みにはまってやーんの﹂
蔵人は笑いながら、この好機に乗じて逃げようと反転した。ある
程度離れてから、様子がおかしいことに気づく。
﹁もしかして、泳げないのか﹂
シズカは流されながら水面に時折顔を出し、もがいている。曲刀
も既に手放しているのか、苦悶の表情を浮かべながらただ両手を夢
中に動かしていた。泣き出しそうな瞳と視線がかち合う。蔵人は、
胸にこみ上げてくるもやもやを無理やり飲み下そうとしたが、うま
くいかず、大きく舌打ちをした。
﹁くっそ。回収したら、両手両足へし折って穴人形にしてやる﹂
シズカは流れの途中でなんとか岩につかまると、大きくあえいだ。
それから近づいてくる蔵人を見て、眉をしかめた。
﹁待ってろ、絶対に手を離すなよ﹂
蔵人は剣を放り投げると、水を切って泳ぎだした。ふたりの距離
があっというまに近づいていく。シズカは、胸元から短剣を取り出
319
すと片手を岩から離して身構える。
﹁バッカ! なにやってんだ、泳げねーくせによっ!﹂
シズカが短剣を投擲した瞬間、視界から完全に消えた。流れに飲
み込まれたのだった。蔵人は、大きく息を吸い込むと、水中に潜る。
滝口がぐんぐん迫って来る。
ふたりは、濁流に身を躍らせながら滝壺に飲まれていった。
幼い頃の夢を見ていたような気がする。
シズカは、薄皮を剥ぐように意識が覚醒すると、あたたかい手の
感触に目を細めた。
大きくごつごつしたそれに指を絡ませる。なにかにつつまれてい
るようで、途方もなくこころが安らいだ。自然に、瞳に熱いものが
流れた。大きな手が、額を撫でさすっている。
鼻を鳴らして、頬ずりをする。小さな子どもに戻ったような気が
したが、案外と悪くなかった。浅い覚醒を何度か繰り返しながら、
全身にかかった膜が剥がれていく。すぅと目を開くと、そこには見
慣れていたあの男の顔があった。
﹁おまえは﹂
﹁起き抜けにそりゃねえだろ﹂
シズカは身を起こそうとして、両足に激痛を覚えた。脊髄反射で
腰に手をやるが、そこには使い慣れた曲刀はなかった。両手を足に
伸ばすと、あてられた添え木が巻きつけられている。
﹁残念ながら、両方まとめてイっちまったみてぇだな﹂
無腰であることの焦りと、戸惑いで思考が数秒停止した。
﹁にしても結構かわいらしい声してんだ。つーか、はじめておまえ
の声聞いたよ﹂
320
浅く黒く面長。眉は木炭のように太くどこかアンバランスだった。
無精ひげが顔全体を覆っている。瞳は、好奇心の強い獣のように
強く輝いていた。
クランド・シモン。
シズカが王家に命じられた暗殺の標的だった。
王女に召喚された勇者だという補足事項以外は、情報はない。そ
もそも、シズカにとって標的は顔すら知っていればなんの不都合も
なかった。
もう、一度起き上がろうと試みるが、両足首とも感覚がない。低
く呻くシズカを蔵人が気遣い心配そうな視線を向けた。周りを見渡
す。彼女のまるで知らない場所だった。
﹁ん? ここか。いや、俺とおまえがブッ倒れてるのをアルフレッ
ドっていうおっさんが助けてくれてよ。親切にも休む場所まで貸し
てくれたってわけよ。ここは、元々馬小屋だったらしくて、ちっと
クセーが勘弁してくれよ。あと、イロイロ突っ込まれんのが面倒な
んで俺ら夫婦ってことにしてあるんで、ヨロシクメカドック!﹂
いわれて周りを見ると、ひどく薄暗いが使い古した板塀が目に入
った。それでも怪我人に配慮したのか、寝床には真新しい藁が敷き
詰めてあり、寝転んでいるだけなら十分すぎるものだった。
﹁それで、どうして私を生かしておいた﹂
﹁おいおいおい。生かしておいたって、そもそも殺すつもりなら助
けやしねーって﹂
怪しい。シズカは、にやにや笑う男を前に困惑していた。
﹁おまえ、頭がおかしいんじゃないか。私はずっとおまえの命を狙
っていたんだぞ。いまだってそれは変わりない﹂
﹁まあな。俺も自分の甘さには反吐出そうになってるんで、そこは
責めんといてや。それに、なんの見返りもなしに助けたりしやしね
ーって﹂
蔵人の目つきが自分の胸の膨らみを凝視しているのに気づき、苦
笑が漏れた。とうに女を捨てたつもりなのに。シズカは、かつて自
321
分から貴族に身売りしようとしたことを思い出し、少しだけ懐かし
くなった。
﹁⋮⋮身体か﹂
じろりと睨みつける。蔵人は、鳩が豆鉄砲で機銃掃射されたよう
な顔になると硬直した。
両者とも無言。猿のように下唇を剥いて、蔵人がいった。
﹁おまえって、案外自意識過剰なのな﹂
シズカは、真っ赤に顔が熱くなるのを感じ、反射的に顔をそむけ
た。
﹁おっ、赤くなった。真っ赤や。シズカ、かわいいよ、シズカ﹂
蔵人が手を打ってはやし立てる。シズカは恥辱のあまり顔を伏せ
た。
﹁おのれ、人をいつまで嬲るつもりだ﹂
シズカはぎりぎりと歯を噛み締めると、両手を頭の後ろで組んで
ひっくり返った。
﹁なになに? 反抗期﹂
﹁好きにしろ﹂
﹁マジで?﹂
蔵人が、ゆっくりと覆いかぶさってくる。
目をつぶった振りをして、髪の中に仕込んだ針を握り込む。近づ
いた時に、これで盆の窪を一刺しすればどんな男もひとたまりもな
い。この手で幾度となく標的を葬ってきた。女を抱こうとするとき
は、どんな男でも無防備になる。いままでの経験上なんの問題もな
い。シズカは自分の容姿が相手の嗜虐心を誘うことを熟知していた。
﹁と、いわれても、ね﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
振り上げた右手首をつかまれ、あまりの膂力に針をとり落とした。
見抜かれたか。
自然にふてくされた顔つきになっていたのか、機嫌をうかがうよ
うな口調で声がかけられた。
322
﹁なあ、とりあえず一時休戦にしないか? いろいろおまえに聞き
たいこともあるしな﹂
﹁私がベラベラしゃべると思ったか﹂
﹁いや、さっきからかなり会話していると思うが﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁拗ねるなよ。スゲーめんどうな女だな。しょうがねえ、譲歩して
やるよ。よし、ひとつ交換条件といこう。俺はある程度おまえの体
力が回復するまで面倒を見る。その代わり、おまえは俺を狙わせた
相手の黒幕についての情報を出せる範囲でかまわないから教えろ﹂
のんびりした口調で話す男の顔を見ながら、腹の中で嘲笑った。
どうやら、この男のお人好しさは極めつけらしい。そもそも、依頼
主の素性など自分は知らないのだ。両足を折ってしまったいま、こ
の男を追うことは出来ないが、わざわざそばにとどまってくれるな
らば、願ったり叶ったりというべきか。この男もそばで過ごすうち
に、隙をみせるだろう。
ありもしない情報と使い勝手のいい下男を手に入れたのだ。
﹁いや、禽畜か﹂
自分の世話をしてくれる上に、さらに命まで差し出してくれる。
これほどの献身は愛し合った男女の仲でもありえないだろう。
﹁わかった、その交換条件呑もう﹂
﹁ホントだな? ホントにもう、襲ったりしないか﹂
﹁ああ、我が家名と誇りに誓って﹂
シズカが真面目くさった口調で誓うと、蔵人が微笑んだ。
なんの疑いも抱かない、実に晴れ晴れとした笑顔だった。
少し、胸が痛んだ。
自分は、どんなことがあっても目の前の男を斬って後金を貰い、
家で臥せっている兄の為に薬を持ち帰らなければならない。
誓いに意味などない。
暗殺者には誇りなどないのに。
323
﹁もう目を覚まされましたかな﹂
シズカと蔵人の話が途切れるのを待っていたかのように、小屋の
ライオス
戸口をくぐるようにして、大柄な体躯が姿を見せた。
獅子の頭に金色のたてがみが美しい、獅子族の亜人、アルフレッ
ドだった。背丈は二メートルに近く、鍛え上げられた胸板は目を見
張るほどに分厚い。
どことなく元気のない様子は、病がちであるせいかもしれないが、
それを補って余りある存在感があった。
﹁わざわざ、こんなむさ苦しいところまで申しわけない﹂
如才なく蔵人が頭を下げる。普段の様子から、もっと尊大に振舞
うと思っていたが、その腰の屈め方は中々堂に入っていた。
﹁むさ苦しいとは、はは。いってくれる。ここは儂の家の小屋です
ぞ。まったく、クランド殿はおかしな人だ﹂
アルフレッドはしわがれた声で笑い飛ばすと鷹揚に胸をそらした。
腰には長剣を下げており、鞘は白銀で凝った装飾が施されていた。
物腰は洗練されており、威風の中に優雅さを兼ね備えている。着て
いる服は、かなり年季が入っていたが高価な生地を使用していた。
夫婦であると伝えてある以上、余計な口を利いて怪しまれるのも
億劫だった。
シズカはアルフレッドに対し目礼をすると、従順な妻を振舞うた
めに起き上がろうとしたが、たちまちに制止された。
アルフレッドという男はかなりのフェミニストらしい。蔵人の背
中に隠れるようにしてやりとりに耳を澄ませていると、獅子の陰か
ライオス
らじっとこちらを見つめている子どもと視線があった。
亜人特有の耳と、獅子族の特徴であるたてがみから、混血である
と窺い知れた。
324
年の頃は十かそこらだろうか。くりくりとよく動く大きな瞳がせ
わしなく自分たちを観察している。新しいおもちゃを見つけた好奇
心ではちきれんばかりだ。
少年はアルフレッドの一粒種でドミニクという名だった。
﹁なぁなぁ、姉ちゃん。足折ったんか。痛いんか﹂
少年は、茶色い瞳を無邪気に輝かせ、板で固定された足先を棒っ
きれでつついている。子どもゆえに手加減なしのせいか、遠慮呵責
なしに傷へと響く。微笑を浮かべながら、なんとか平静を取り繕っ
た。
︵この、クソガキ︶
シズカは頭の中でドミニクを撫で斬りにした。
﹁こら、ドミニク。クランド殿の奥方に失礼であろう﹂
口ではたしなめながらも、アルフレッドの顔はだらしなくゆるん
でいる。マタタビを嗅いだ大きな猫のようだ。よほど息子がかわい
いのか、鼻にかかった声を出しつつ喉を鳴らす。はっきりって不気
味だ。
﹁いえ、アルフレッドさま。私は構いませんよ。男の子などすべか
らく元気なものです。これから先行きがさぞ楽しみでしょう﹂
シズカが外面を取り繕った温和な声を出すと、蔵人が驚愕の表情
で凝固しているのが視界の隅に入った。当然、無視だ。
﹁そうかのお。いやぁ、親バカといわれようが、ドミニクは儂に似
ず物覚えがよくての。よく、神童といわれるものほど大成せんとい
うが、我が子もその口かと思うと心配で心配でたまらんて。まだ、
数えで六つだが身体も儂に似て大柄になりそうで、すぐ服がちびて
しもうて困るわ﹂
シズカは口元に手を当て、ほほほ、と追従笑いを決めこむ。
﹁とはいえ、静養場所がこんな小屋のみとは心苦しいが、よければ
治るまで何ヶ月でもゆっくりしていってくだされ。いまは、都落ち
をしたとはいえ、公爵家に仕えていたこのアルフレッド、若い頃は
十人からの食客を常時置いていたくらいじゃ。潰えのことなど気に
325
なさらずにの﹂
﹁じゃあね、兄ちゃん。姉ちゃん。あとで、おらと遊んでや﹂
ドミニクが、手を引かれながら名残惜しそうに去っていく。
小屋にはふたりが残され、静寂が戻った。
シズカが無言で脇腹を肘でつつく。蔵人は、夢から覚めたような
面持ちで瞬きすると、水をかぶった犬のように頭を激しく振るった。
﹁なんだ、あの貴婦人ぽい口調は。どこぞの、お貴族様の生霊でも
憑依したのか﹂
歴とした貴族である。だが、この男にそんなことを伝えるつもり
も意味もなかったので、無言の行を通した。
﹁まーた、だんまりか。んでよ、あのアルフレッドっておっちゃん
がしばらくは俺らの面倒見てくれるわけよ。とりあえず、上げ膳据
え膳は期待できるんで、しばらくはのんびりすれば。そりゃ、帝国
ホテルのスイートとはいかないけどよ、案外悪かないだろ﹂
おまえさえいなければな。
シズカは、心の中でつぶやくと顔を背けて、寝藁に倒れ込んだ。
続けて、背中にぴっとりと張り付いてくる感触があった。うなじを
嗅ぎ回る荒々しい男の鼻息が大きく響いた。
得物はすべて隠されている。シズカは武術には自信があったが、
組み打ちになってはおそらく単純な腕力で負けるだろう。下手に怒
らせて絞め殺されてもつまらない。ため息を突きながら、顔を反転
させると目の前にバカ面が目を血走らせていた。
﹁興味ないのではなかったか﹂
﹁そんなわけないだろ。ジュッテェーム、トレビアーン﹂
﹁ちょっと、こら。待て、タコのように口を突き出すのはやめろ!﹂
発情して伸し掛ってくる男の顔はわかりやすいほど発情していた。
シズカは、くちびるを突き出す蔵人の喉仏に手刀を叩き込むと、
仰向けのまま、乱れた胸元を直した。暗殺稼業を続ける上で、男達
に何度か迫られた経験がないわけではないが、大抵の貴族は対面を
重んじ、ここまでストレートに求めてくることはまずなかった。シ
326
ズカは、強く脈打つ胸元をぎゅっと握ると動揺していることを悟ら
れぬよう平静を繕った。ふと、蔵人が無言なのに気づき顔を上げる。
怖いぐらい真剣な表情で、一瞬ぎくりとした。
﹁なんで?﹂
いや、なんでじゃないだろう。
むしろ、今のタイミングで女が受け入れると思う方が異常だろう。
シズカが視線をしたに向けると、蔵人の股間が不自然に盛り上が
っているのが目に入った。咄嗟にうつむいて顔を前髪で隠す。自然
にわなわなと口元がゆがんだ。
本当に、男っていう生き物は︱︱。
しばらく考え込み、やがてひとつの結論に達した。知らず、ため
いきが漏れる。
﹁おいおい、ためいきばっかりつくとしあわせが逃げちゃうんだぜ
い﹂
おまえのせいだ。
﹁下手に、襲いかかられて孕まされてもたまらないからな。その、
鎮めてやるから。出せ﹂
﹁え、出せって。もしかして⋮⋮﹂
﹁口でしてやる。それで、我慢しろ﹂
シズカはなんで自分からそんなことをいいだしたのか、のちのち
までわからなかった。
327
LV21﹁仮面夫婦﹂
﹁あー、えがったぁ﹂
弛緩した声に、シズカが股間から顔を上げた。彼女は、不意に蔵
人を突き飛ばすと起き上がって背をそむけ身繕いをはじめた。
︵行為の最中とすぐその後はとろんとした顔してたくせに、女とい
うのはよくわからん︶
蔵人は甘えてみたかと思うと、急に不貞腐れてみせる彼女の態度
に戸惑いながら、水差しを渡す。シズカは、口中の残滓を洗い流す
と、再び表情を消して黙りこくった。
﹁勘違いするなよ。さっさと済ませたかっただけだ﹂
﹁んんん? ちょっと、いってる意味がわからないですね﹂
﹁もういい。ひとりにしてくれ、少し休む﹂
﹁あー、はいはい。わかりました。じゃ、ちょっとそのあたりをブ
ラブラしてくるんで﹂
﹁とっとと行け。いや、ちょっと待て﹂
首だけ振り返ると、足と足を擦り合わせ、もじもじする姿が目に
入る。先ほどには見せなかった、少女らしい恥じらいだ。それまで
のはっきりとした口調ではなく、判然としない小さな声でもごもご
呟く。焦れた蔵人は、唇を尖らせた。
﹁なんだぁ、用があるならはっきりいってくれ﹂
﹁その、小用だ﹂
﹁小用? ああ、しょんべんか!﹂
勢いのついた陶製の水差しが頭を直撃した。蔵人はその場に片足
328
を突いてうめく。
﹁失敬、お花摘みでござるな﹂
﹁無駄口を叩くな﹂
﹁あー、はいはい﹂
もはや隠しようもなく真っ赤に頬を染めたシズカに近づくと、怪
我に触らぬよう慎重に横抱きにして立ち上がる。いわゆるお姫様だ
っこだった。
﹁なんのつもりだ。おまえじゃなく女手を寄越せ﹂
﹁そんな大層なもんはねえよ。アルフレッドの奥さんは、昼間は名
主の家に賃稼ぎに出てるんだ。おまえの世話は俺がするっていった
ろ﹂
百八十を優に超える蔵人にとって、百五十半ば程度の背丈しかな
いシズカは羽毛のようなものだった。もっとも、金のために肉体労
働のバイトばかりしていた蔵人は同世代の学生よりはるかに筋力が
上だったということもあったが。
小屋の木戸を開けて屋外に出ると、向かって左手に雑木林が見え
た。遥か遠景に粗末な百姓屋が点在している。この時間は、誰もが
野良に出ているのだろうか、隣の家からも人の気配はしなかった。
﹁不本意だ﹂
﹁文句ばっかいうな。俺はいま、奉仕の精神に目覚めている﹂
﹁なぜ、林の中に向かう。おまえは、人の話を聞いていたのか﹂
﹁⋮⋮いいいんだよ、ここで﹂
﹁な、なっ、なにをする!﹂
蔵人は雑木林の茂みに入ると、少女の身体を持ちかえた。
すなわち、背後から、両足の太ももを持ち上げて、M字開脚をと
らせる。
母親が、幼児に小水をうながす際にとる、しーしースタイルだ。
シズカは、あまりの事態に口をパクパクさせながら、視点を下ろ
した。
なんだか、すーすーすると思ったら、ショーツもつけていないで
329
はないか。
﹁おまえは、私の身体に、なにを﹂
﹁シズカってば、五日も目ェ覚まさなかったですしおすし。その間
なんて、下はジョビジョバ大洪水だったんだぜ。いや、往生したよ。
介護って、甘いもんじゃねえよな。んで、何回も濡れションぱんつ
ちゃんとっかえるのメンドイんで。⋮⋮そこで、ノーパンですよ。
下着はいま洗って乾かしてるからさ。ま、気にするな。礼には及ば
ないってことよ﹂
シズカの顔が、羞恥と怒りで火照った。
﹁この︱︱﹂
せめて抗議しようと身をそらそうとしたとき、露わになったシー
クレットポイントが外気にさらされたせいか、羞恥で忘れていた尿
意が爆発しそうになった。
﹁あっ。おい、下ろせ。早くどっかいけ!﹂
﹁んんん。聞こえんなぁ﹂
﹁いまならまだ許すから、許してやるから、ほら、だから﹂
﹁まったく聞こえませんなぁ﹂
蔵人は鼻歌を歌いながら、シズカの身体を上下にゆさぶり続ける。
少女の下っ腹は自重の衝撃で激しくノックされ、我慢の喫水線をい
とも簡単に割り切った。
﹁おい、ゆらすな、やめろ、出る、出るからっ、ゆらすなっていっ
てるだろうがあっ、あっ﹂
﹁それ、しーしー﹂ ﹁わ、わかった! 私が悪かった。な? な? 早まるな? なあ
ああっ!?﹂
﹁しーしーしましょうねぇー﹂
声が笑っている。悪魔だと、シズカは思った。
330
﹁おー、すっきりすっきり。よかったな、はは﹂
シズカは、自分を抱えながらひと仕事終えたぜオーラを放出して
いる男を、絶対に殺すと心の中で決めた。
蔵人はシズカを人形のように抱え上げると、傷にさわらぬよう丁
寧に運びながら小屋に戻った。シズカは作り物のように脱力してい
た。
﹁これはクランドさま﹂
小屋の戸口で、粗末だが手入れの行きとどいたチュニックを着た、
二十五、六ほどの婦人に会った。
アルフレッドの妻、ヘレンだ。
明るい茶の髪を肩口で切りそろえている。
眼差しは昏いがどこなく儚げで、いかにも男の庇護欲を誘う印象
があった。子供をひとり産んでいるとは思えないほど、ほっそりと
した身体つきをしている。五十年配であるアルフレッドとは親子ほ
どの年の差があった。
ヘレンはかつてアルフレッドと同じ貴族に使えていた侍女らしく、
ただの農婦らしからぬ洗練された所作があり、この農村には不釣合
いな存在だった。
﹁これは、手間をおかけしまして﹂
蔵人は頼んでいた衣服の洗い物を受け取る際、手が触れ合った。
白くつやめいたすべすべした感触に片眉をを上げる。ヘレンは恥じ
らう素振りを見せ、小さく肩を震わした。
蔵人はシズカを抱いたまま頭を下げる。ヘレンは、少しだけ目を
見開くと再び視線を伏せた。それは、貴人に仕える者にありがちな
長年の習慣だった。
ヘレンは実に口数少なく、静かに目礼すると母屋へと去っていっ
た。
余計なことは喋らない性質なのか、整った容姿ではあるが、なん
331
となく陰鬱な感じがしないでもない。だが、ひどく視線を惹きつけ
てやまない部分があった。
﹁なんでもいいのだな、まったく﹂
腕の中のシズカが鼻を鳴らす。嘲るような態度にたじろいだ。
﹁なんだよ、急に﹂
﹁気分が悪い、下ろせ﹂
﹁わあーったよ、ったく﹂
なんだかんだいって、戸口に運ぶまでは落ち着いていた彼女の態
度の急変をいぶかしみながら、そろそろと小さな身体を横たえさせ
た。
シズカは、長い髪を弄びながら、切れ長の目を釣り上げる。美人
が怒ると恐ろしいというが、視線にはかつてない熱が篭っているの
を蔵人は感じた。
﹁ちょっ、なぜ睨むん?﹂
﹁睨んでなどはいない。おまえも、道端にゴミが落ちていれば自然
と気分が悪くなるだろう。それと同じだ﹂
﹁おいおい、こんなに献身的に接してる紳士に向かっていうにこと
かいて﹂
﹁おまえのいう紳士とは、他人に性器を見せびらかしたり、排泄行
為を人前でさらしたりして性的興奮を得る異常者のこというのか﹂
﹁わかったよ﹂
蔵人は、口の大きな陶製の物体を突き出すと頬を掻いた。
﹁なんだこれは﹂
﹁しびんだ﹂
﹁そうか﹂
﹁あれ、もしかして使い方わからない?﹂
﹁いや、理解した﹂
シズカはボロ切れを巻いてしびんをつかむとおもむろに振りかぶ
った。
﹁あーっちょっと待ったぁ! それ、中に入ってるからぁあっ! 332
シズカたん汁たっぷり百二十パーセント黄金水満載してるからああ
っ﹂
﹁この、変態がっ! 私の、それを集めていったいなにをっ﹂
﹁誤解だからって、俺は変態スカトロマニアじゃねえからっ﹂
﹁こんなものがあるのに、あんな屈辱的な格好を! やっぱり、い
ますぐ殺すっ﹂
蔵人は、しびんを投げつけようとしているシズカから飛び退くと、
身をかばうようにして身体を縮める。
﹁なあーなあー、兄ちゃんたちなにして遊んでるんだ。おいらも混
ぜてくれよう﹂
一触即発のふたりの行動をなにかの遊びと勘違いしたのか、小屋
の戸口で様子をうかがっていたドミニクが好奇心一杯に近寄ってき
た。
シズカは咳払いをすると、藁の上の毛布に寝転び、蔵人を手招き
した。当然のようにドミニクもついてくる。シズカは猫なで声を出
すと、ドミニクを上手く遠ざけた。酷いストレスだった。
﹁なんでせうか、おじょうさま﹂
﹁寝る。いいか、あの小僧を連れて日が落ちるまで戻ってくるな﹂
﹁はい﹂
﹁それと、財布は置いていけ﹂
﹁はい﹂
肯定以外の返答は許されない蔵人であった。
ポルボは小さな村だった。
軽車両一台通れないような道がだらだらと続いている。畑と畑の
間に、ぽつぽつと粗末な板塀や、泥壁の百姓屋が申し訳程度にあっ
333
た。これらから類推するに、アルフレッドは元騎士というだけあり、
村内では裕福な部類に入っている。ドミニクに聞くと、アルフレッ
ドが身体を壊してからは、常に寝たり起きたりの毎日を送っている
らしい。
妻のヘレンが、村の名主の家の手伝いをすることでようやく口に
糊することができている状態だった。
自分が食うや食わずのときに人を居候させるとは、中々できない
ことである。
そもそも、俺自身は別に怪我人でもなんでもないんだよなぁ。
蔵人は、召喚されてから、ようやく今日までのことを振り返るゆ
とりが出来た。
︵とりあえず、なんだっけ? 出会い系サイトで一発抜こうとして
たんだよな。んで、わけのわからないセイウチが出てきて、気づい
たらこの世界にいた。牢屋にぶち込まれて、カマ野郎をぶっ殺して、
マリカと別れて、ハーフエルフの子供の面倒を見て、謎の人買い軍
団をぶちのめして、あーにしても、ドロテアのおっぱいもんどきゃ
よかったなぁ。んんん? そもそも、なぜ追われてるんだ? 確か、
召喚が失敗で、わけのわからんゴタゴタに巻き込まれて。日本に帰
る道を模索したほうがいいのか? でも、あんま戻っても意味ねえ
しなぁ。面白くもねえし。この世界の方がヤバイけど、いろいろ無
茶苦茶できるし。シズカにはしゃぶってもらっちゃったし、そう考
えると、こっちのほうがアリか?︶
﹁なあーっ、なあーってば!﹂
﹁うおっ、なんだぁ? ああ、すまんすまん﹂
蔵人が追憶に耽っている間に、ふたりは村はずれの川辺に到着し
ていた。
﹁さかなとりしよう、兄ちゃん!﹂
﹁あー、そだったそだった。魚たくさんとって母ちゃんや、父ちゃ
んに見せてやろうな﹂
﹁うん﹂
334
ドミニクは、亜人特有のケモノ耳をぴこぴこ動かしながら、両手
を振り回して喜んでいる。蔵人はこの川まで来る途中で何人かの村
人を見かけたが、彼らがドミニクを見る目はどれも差別的なものだ
ライオス
った。アルフレッドとの会話を思い出し、蔵人は口中に苦いものを
噛み締めた。
アルフレッドは、獅子の頭と人間の体を持つ、獅子族の亜人で、
昔はその武勇を買われて騎士としてとある貴族に仕えていた。
けれども、代替わりした貴族の嫡男とはソリが合わず、侍女であ
ったヘレンと駆け落ちの形でこの村に落ち着いたらしい。
ポルボ村は、ヘレンの母の生まれ故郷であったらしいが、系累は
ほとんど残っておらず、名主のフェデリコの度量にすがるしかなか
った。騎士として持ち出した財産はほとんどなく、おまけにアルフ
レッドは逃走の際に、貴族の追っ手と戦った傷から病気になり、不
具同然の身体になってしまった。
そんな中、妻のヘレンとの間に生まれた、ドミニクは一家にとっ
ての希望だった。
ほとんどゆかりの無いヘレンに賃仕事をさせ、見合わぬ金穀を定
期的に与え続ける。
一種の社会福祉とはいえ、それだけ聞けばフェデリコは大度量の
人物といえた。
だが、そんな彼ですら村に根づく差別の温床を払底することなど
できないのだ。
本来、亜人は亜人だけで固まって暮らし、人間との間に子が出来
るケースは、貴族や富裕層などが見目麗しい使用人や奴隷に手を付
け、一方的に孕ませるといったことがほとんどだ。
ありていにいえば、口には出さないが、人間族は亜人、特に獣人
ライオス
を一段低く見ていたことにほかならない。
獅子族は、敏捷性や筋力、勇猛さなど人間よりはるかに優れてい
るが、それらはマイナスとしか映らなかった。
歴とした人間のヘレンが、獣人の子を孕み、あまつさえ産み落と
335
した。こういった差別に対する侮辱は閉鎖的な空間では長く続くの
通例で、村の子供たちもドミニクという少年を混血として見、仲間
になど加えない。父親に遊んでもらえばいいのだろうが、病に伏し
がちではなかなかそうもいかない。ドミニクが歳の近い蔵人に妙に
なつくのも無理はなかった。
蔵人は、ドミニクと川原で魚を漁ったり、石切りをしたりしてた
っぷり遊んだ。
お昼は、釣った魚を焼いたり、持ってきた黒パンを炙り直したり
して胃に納めた。
輝き続けていた陽がやや陰った。おおよそ、午後三時くらいだろ
うか、見当を付けると蔵人はしぶるドミニクをうながし、撤収の支
度を始めた。
帰り際、ドミニクは両手いっぱいに紫色の花弁を抱えて運んでい
た。蔵人が聞くと、この花はすり潰して塗ると打ち身によく効くら
しい。
﹁姉ちゃんも早くよくなって、こんどはおいらたちみんなでこよな
!﹂
﹁ふふ、こやつめ﹂
蔵人がドミニクの頭を撫でると、くすぐったそうに目を細める。
アルフレッドがかわいがるのがよくわかった。ドミニクを抱え上げ
るとギュッと抱きしめた。大柄でもまだ六つなのだ。ふかふかした
ドミニクを抱きしめると、お日さまの匂いがした。構ってもらえる
のがうれしいのか、ドミニクは手足を振り回しながらきゃっきゃっ
と奇声を上げてはしゃいだ。
蔵人は、あぜ道をシズカのいる小屋に向かって歩いていた。なだ
らかな坂の上にヘレンの歩いている姿があった。当然のところ、ド
ミニクが駆け寄るか声を掛けるかするだろうと思っているうちにヘ
レンの姿がどんどん遠ざかっていく。向こうから気づいたのか、蔵
人に向かって軽く頭を下げた。だが、その姿はわざと息子の存在を
無視しているようにも思えた。
336
﹁おい、母ちゃんに声くらいかけたらどうなんだ﹂
﹁うん。でも、名主さんのところへいくときには声かけちゃダメだ
って﹂
ドミニクの獅子耳がぴょこんと力なくうなだれる。不意に、耳へ
と鍬の手を止めて話し出す百姓の会話が聞こえた。
﹁見ろ、ヘレンのやつがいくぜ﹂
﹁まったく、あいつもうまいことやっただ。あの獣野郎の旦那はア
ッチのほうはいかんらしい﹂
﹁野良着と変わらんもの着てても、まったくウチのカカアとは大違
いだ﹂
﹁さすがお貴族さまのお慰みものってもんだ。一度手合わせしても
らいてえや﹂
﹁旦那も旦那だ。あんな片手間仕事で、銭コが手に入るわけねえだ
に。知らぬは、亭主ばかりなりってか﹂
﹁三日に一度は、すす払いってわけか、やい。ひひひ、名主さまの
すりこぎ棒もなくなっちまうぞ﹂
﹁ったく、ガキこさえた身体にゃ見えねえだ。押さえつけてひざま
ずかせて、喉の奥までオラのもんを突っ込んでやりてぇだ﹂
﹁もっとも、名主さまのお気にいりだ。おめ、そげなことしたら、
もう村にはいられねっぞ﹂
﹁きひひ。そいつはちっと困っただ。だが、一度くらいヘレンみて
えなべっぴんさんと一戦まじえてみてえや﹂
﹁名主さんも、いろいろあるだよ。三十そこそこで婿に来て、さん
ざん舅にいじめられて。その上、奥方には先立たれて。四十の坂越
えて残ったのは七つになるレオナお嬢さまだけ。いい気晴らしくら
いにはなっただ﹂
﹁もしかすると、後妻に収まろうって寸法じゃなかんべぇ、あっ﹂
ふたりの農夫は、蔵人とドミニクの姿を見つけると慌てて畑へ戻
っていった。
ドミニクも、話の内容は理解してはいないが、母親を悪くいわれ
337
ているのだけは理解できたのか、うつむいたまま目に涙をためてい
た。
﹁バカ、男がいちいち泣くんじゃない。おまえは、アルフレッドの、
獅子の子だろうが﹂
﹁うん。おいら、獅子の子だから、どんなにつらくても泣かないよ﹂
繋いだドミニクの手をぎゅっと握り締める。ふと、違和感を覚え
て自分の手を開いてみたがなんともなかった。
蔵人は、母屋に居るアルフレッドの所へドミニクを届けると、な
んとなく気になって名主の家に向かった。
元々が小さい村であるし、名主の家はひときわ目立って豪奢な造
作だったので苦労せずにすんだ。
妙だな、やけに目つきの悪い奴がゴロゴロいるぜ。
あきらかに農夫とは思えない、武装した男たちが庭をうろついて
いるのを見て警戒せざるを得なかった。正面から、ヘレンのことを
聞いても埒があかなそうな雰囲気だった。
つーか、お話できそうな人たちじゃないよね、こいつら。
蔵人は、斥候兵さながら、家の周りをぐるりと囲む石垣を一周し
て、人の気配がない場所を探し当てると、忍者さながらに乗り越え
た。男たちは、別段この家を警備しているわけではないらしい。守
備的にいえばザルだった。だが、見つかればただでは済みそうもな
い。蔵人は、農夫たちの噂話をただの根拠のないやっかみだと思い
たかった。
アルフレッドは、蔵人とシズカを助けてくれた命の恩人であると
いえる。この話は嘘でなければ気分が悪すぎるし、正直な所、確か
めなければ落ち着いて今夜は眠れそうもない。
ただ、普通に働いてるところだけちらっと見れれば充分なんだよ。
蔵人は、厩舎らしき前に来ると、厩番らしい中年の男が手持ち無
沙汰にぶらぶらしているのを見つけた。不審に思い、壁からそっと
様子をうかがうと、緊張な面持ちのヘレンの肩を抱いて、四十年配
の恰幅の良い男が厩舎に入っていく。いつものことなのか、厩番は
338
男に頭を下げると、歳には似つかない速さで駆け出していく。
あの男が、たぶん名主のフェデリコだろう。男の紺色の頭巾がや
けに印象に残った。
﹁んっ、フェデリコさま⋮⋮﹂
﹁随分わたしを待たせるじゃないか、ヘレン。そんなに厳しくお仕
置きをされたいのかい?
悪い子だ﹂
蔵人は、物陰から目を見開くと咄嗟に口元を手で塞いだ。
厩舎の中で、フェデリコとヘレンが恋人同士のように立ったまま
抱き合い、くちづけをかわしているのが見えたからだ。
フェデリコは、かなり大柄な男だった。背丈は百九十を超えてい
るだろう。小柄なヘレンの身体はすっぽりと両腕におさまる形にな
っていた。ふたりは、互いに舌をねっとりと絡ませながら唾液を交
換している。それは、無理矢理という言葉は当てはまらない情熱的
なものであった。
﹁だ、だめです。フェデリコさまぁっ⋮⋮ああっ﹂
﹁そんなこといって。今日は三日ぶりの逢瀬なんだよ。待ちきれな
くて、ホラ、君のここだってこんなに﹂
﹁いやっ﹂
もはや誰にも否定できない決定的な不貞であった。
蔵人は、昏い瞳で、ひとつになった肉塊から視線を離した。
両手には、ぐっしょりとした汗がしたたるように絡みついていた。
339
Lv22﹁獅子﹂
ヘレンを責めることは出来ない。彼女は、夫のアルフレッドが仰
臥をするようになってから、その身を挺して一家を支えてきたのだ。
だが、一片、農民衆たちの話にも理がないわけではない。健康な
女の身体では、一人寝はおそらくこたえたであろう。
愛する夫が居て、例え子を成した間柄であっても、所詮は他人で
ある。常に肌を合わせ、金穀を都合し、甘い愛を囁かれていればこ
ころなど、都合の良い理屈をつけてすぐに処理されるものである。
夫と子の為という免罪符を振りかざしながら、背徳的な関係に身
を震わせる。
村人もとっくに気づいている。それは、侮蔑と嫉妬が混じったも
のなのだ。
結果、混血であるドミニクにあたえられる差別は、強く長く続く
のは必定だった。
蔵人にとっては、アルフレッドが間抜けな寝取られ男であること
に関して同情の余地があるが、真実を話してどうにかなるだろうか。
持っていたわずかばかりの路銀をすべて手渡しても、根本的な解決
にはならない。
それに、おそらくアルフレッドが劇的に回復することはありえな
いだろう。
専門家ではないので、確実なことはいえないが、おそらく汚染創
からの感染症でかなりの毒が全身にまわっているのだ。抗生剤も際
立った外科手術も望めないこの世界では致命的だった。
340
ゆるやかな死が一家に迫っている。
避けようのないものだった。
この時代の避妊に関する知識が一般にどの程度広まっているかは
わからないが、ヘレンの行為はフェデリコの子種を進んで受け入れ
ていた。
夫は死に体で、頼るべき身よりもない。
彼女の頭の中にあるのは、ひどく現実的なこれからのことだけだ
ろう。混血児であるドミニクを育てるには、庇護者が必要だ。名主
であるフェデリコも、ヘレンが子を孕めばそうそう捨てることも出
来ないだろう。他人任せすぎる自分の考えに吐き気がした。かとい
って深く同情したとしても、自分になにかできるわけではないのだ。
﹁考え違いをしちゃあいけねえぜ、蔵人。おめえには、なにもでき
やしねぇんだ﹂
強く、自嘲した。
激しく舌打ちをすると、強く足元の石ころを蹴った。かつん、と
虚しい音が響いた。
屋敷からの帰途、アルフレッドにゆきあった。
蔵人は、誘われるままに足を動かすと、やがて村の出口である吊
り橋を見渡せる小高い丘に到着した。
﹁昔、儂がアレとこの村に来たばかりの頃、よくここからあの橋を
眺めたもんじゃ﹂
燃えるような茜色の空と対比するように、真っ逆さまに陽が沈ん
でいく。
そびえ立つ遠方の峰が霞んで、向き合った互いの顔すら判別でき
ない。眼下に映る、植物のツルで両岸から本体を支えている吊り橋
が、みるみるうちに闇の中へ沈んでいった。
341
﹁儂はなんとなく物悲しいこの景色に妙に気が引かれての。嫌がる
妻を連れて、あの夕日を眺めたものじゃ﹂
アルフレッドは、くすんだ金色のたてがみを震わせると、眉をし
かめた。
﹁気分が悪いなら無理はしないほうがいいんじゃねえか﹂
﹁いや、大丈夫じゃ。これでも儂は、誇り高き騎士。そのつもりじ
ゃった﹂
アルフレッドは、腰から白鞘ごと長剣をとって両手で残光の中に
掲げた。
美しい装飾と、白金で造られたそれは神々しくもあった。
アルフレッドの表情。もうわからなかった。
﹁妻が村じゅうでどんなふうにいわれておるか知っておる。だがの、
儂は信じておるのだ。いや、信じることしかできないのだよ。妻は、
ヘレンは気立てがよくて美しい娘じゃった。だから、儂の仕えてい
た放蕩息子に手篭めにされそうになっての。儂はいい歳じゃったし、
あのような歳の離れた娘に本気で懸想するとは自分でも思っていな
かった。気づけば、屋敷の中で暴れまわって都落ちじゃ。生まれの
部族にすら戻れぬし、ヘレンのつたない縁にすがるしかなかったわ。
その挙句が、この身体で、妻子すらろくに養えぬ。クランド殿、恥
ずかしい話じゃが、一瞬そなたたちを川べりで見つけたとき、見な
かったことにしようと思った。だがな、あの婦人を守るように抱き
しめていたクランド殿の横顔がどうしても頭から離れんでのう。気
づけば、ふたりを担ぎ上げていたのじゃ。この身体のどこにそんな
力が残っていたのか、自分でも不思議じゃよ。妻子も養えぬくせに、
生意気だと人は思うじゃろうが、誰しも誰かの役に立てると思いた
いのかもしれぬ。そなたは、最初に気がついたときに、まずあの娘
の無事を確認した。あの娘が気がつく三日の間、熱が出れば、お主
は我が子のように身体を拭き、薬湯が飲めぬようであれば口移しで
与えた。なんとなく、昔のことを思い出して、懐かしくて、そして
悲しくなったわ。こんな年寄りになるとは、昔は思いもしなかった
342
のにのう。なんでじゃろうか、クランド殿を前にすると、自分を取
り繕うことができなくなる。不思議じゃのう。いや、とりとめのな
い話ばかりをしてしもうて、申し訳ない﹂
アルフレッドは肩を震わせながら低くうめいた。彼自身が信じて
いると口先では述べても、薄々自分の妻が行っていることに気づい
ているのだ。
妻に娼婦まがいのことをさせねば一日だって暮らしていけない自
分と、過去の栄光に包まれていた自分とのギャップに苦しんでいる。
傲慢な苦しみといえばそれまでだが、自分に自信があったものほ
ど、落ちぶれた現実を見据えられないものである。
そして、それは蔵人にとってどうしてやることもできない事柄だ
った。
ただでさえ世話のかけ通しの妻にはいえないし、村落ではつまは
じきだ。いずれここから去っていく蔵人にしか思ったこともいえな
いのだろう。それは、寂しすぎる男の胸の内だった。
とりとめのない愚痴を聞くぐらいしかできないことが歯がゆかっ
た。
蔵人は、アルフレッドの悲しみを包み込むようにただ傍らで立ち
尽くした。
それから、二ケ月近く、蔵人は物置小屋でシズカの世話をして暮
らした。
動けないシズカの代わりに食事を運び、毎日のように身体をふき
清め、時には退屈にならずに済むように話し相手になった。はじめ
は貝のように口をつぐんでいたシズカだったが、毎日献身的に尽く
すうちに、ぼつぼつと受け答えくらいはするようになっていた。
343
シズカは、ほとんどの場合自分から語りかけようとはしなかった。
ほとんどは蔵人が一方的に喋り、それをシズカが耳を傾けるといっ
た具合だった。彼女はほとんどの話題には無言の行を決め込んでい
たが、蔵人が日本の学校制度のことについて話したときだけは、や
たらに興味を示した。
特に、小・中・高・大学の、六、三、三、四年の計一六年制の長
さについては驚愕していた。蔵人が大学生だと話したときには、切
れ長の目を見開き口元に手を当てていたのが、印象的だった。
﹁おまえは、学者だったのか﹂
﹁いや、普通の学生だが﹂
この世界では、学校制度というものは存在しない。貴族や大商人
は、一定の知識や文字を学ぶために個人的な家庭教師をつけたりす
ることはあるが、ひとつの教室に一定数の人間を集めて講義を行う
ことなど、想定外の方法であった。
﹁それでも、十二年もの間、どんなことを学んでいたのだ﹂
﹁そりゃ、いろいろあるだろう。国語、数学、物理、科学、地理、
歴史、倫理、英語、あといろいろ﹂
﹁なんてことだ、帝王学じゃないか。王族でも、それほどの多岐に
わたって知識を習得したりしない。ん、まさか、また私をからかっ
てるんじゃないだろうな! そうだ、そもそもおまえは、字も読め
ないじゃないか!﹂
﹁あー、字、字ってこの国の字ね﹂
蔵人は以前、ドミニクが絵本を持ってきて読むようにせがまれた
時、ロムレス語がまったく読めなかったことを思い出した。その時、
シズカはさんざん蔵人を見下したあとに、文盲が、と罵ったのであ
る。
﹁話し言葉は不思議に通じるんだが、なぜか字は読めないんだよな
ぁ﹂
蔵人は召喚による契約によって、意思疎通のための会話は可能だ
ったが、文字までは読み取ることができなかった。この世界の識字
344
率は十パーセント以下であり、庶民は文字の読み書きができないの
は普通だった。
元騎士のアルフレッドや侍女だったヘレンは文字が読めるし、ド
ミニクも簡単なものなら可能だった。
この世界では神聖文字といわれ、アルファベットと同数である二
十六から成り立ち、それらを組み合わせて単語を作るという形であ
ったが、蔵人は習得をほとんど拒否していた。
アラビア文字に酷似したミミズがのたくったような模様は、見る
たびに吐き気を催させるのが常だった。
﹁シズカだって他の国の字は読めないだろうが。俺は、自分の国の
志門蔵人
文字なら書けるぞ。そら﹂
箱に敷いた砂の上に、さらさらと自分の名前を書いてみせる。シ
ズカは、目を細めてその字を読むと、疑わしそうに眉をひそめた。
﹁なにか記号のような。ふ、ふん。どうせ、私がわかりもしないと
思って、適当に模様を書いただけだろうが﹂
﹁模様みたいに見えるのか。確か最初の漢字は鳥の足跡から作った
私、シズカは淫売の牝豚です
っていわれてるし。そんじゃ、こんなのはどうだ﹂
﹁⋮⋮なにかあきらかに違う形の文字が混じっているような﹂
﹁日本語は、漢字、ひらがな、カタカナの三つの文字を使って構成
されている。ひらがな四十八、カタカナ四十六、そして漢字は﹂
﹁漢字は?﹂
﹁漢字は、恐ろしいことに十万字以上あるといわれている。二千字
書けて、一万字読めれば優秀な部類だろう。ちなみに、俺は漢字の
読みには自信があるぞ﹂
﹁う、嘘つけ! そんな膨大な文字を組み合わせてつくる言葉など
ありえない!﹂
﹁残念ながら、ありえるんだな、これが﹂
﹁この文章の意味は?﹂
345
﹁シズカは優しくてかわいい俺の嫁です﹂
少女は頬を染めてうつむき、恥じらいを見せた。至極、自然な情
景だった。
そして、シズカの両足首は九分通り快癒した。
小屋まで経過を見に来た馬医者は、徐々に慣らしていくことを勧
めると、嗄れた声で太鼓判を押して去っていった。
折れた骨を固定していた当て板が外れたとしても、直ちに以前の
ような足に戻ったわけではなかった。長い間動かさなかったせいで
筋肉が落ちきっている。元通りの運動機能を取り戻すにはリハビリ
が必要だった。
蔵人は、手製の松葉杖と底が均等な雪駄に似た手製の履物をシズ
カに渡した。
﹁これは﹂
﹁足を折ったあとだからな。底が均等なモノのほうがいいんじゃね
ーかと思ってな。ほら、足だせ﹂
﹁ん﹂
シズカは寝台に座ったまま素直に足を差し出す。
蔵人は、足首の包帯を取ると、緑色の粘度の高い膏薬を張り替え
た。中身の薬はドミニクが摘んできた薬草を乾かし煎じたものであ
る。薬効成分がどんなものかはわからないが、この民間療法は覿面
に作用した。
﹁ぬりぬり、と。さ、まだ傷に触るかもしれないが、徐々に歩く練
習しなきゃな﹂
﹁ん﹂
シズカは殊勝な顔つきで渡された松葉杖を手に取ると、おぼつか
346
ない足取りで歩き出した。両腕に力をこめて、一歩一歩前進する。
不意にバランスが崩れ、振り子のように左右に大きく振れた。
﹁危ねぇ﹂
﹁あ﹂
蔵人は駆け寄ると前のめりに倒れそうになった身体を後ろから抱
きとめた。
﹁間一髪ってとこだったな﹂
﹁す、すまない。私としたことが﹂
抱きとめた少女の背中は、両手の中にすっぽり収まるほど小さか
った。目の前にしっとりとした輝くような黒髪が波打っている。蔵
人の鼻先を、果物のような甘い香りがわずかにかすめた。女の体臭
と混ざり合ったそれは、蠱惑的な匂いで理性を幻惑させた。
﹁シズカ、おまえ香水でもつけてるのか﹂
﹁香を少し。あ、その、不快だっただろうか﹂
顔だけ振り向いたシズカの瞳に不安そうな色が宿っている。怯え
の中にも期待の混じった視線に打ち抜かれ、その場に押し倒したく
なる衝動を全力でこらえた。
﹁いや、すっごくいいぜ。果物みたいでさわやかだな。俺は好きだ﹂
﹁好き!? い、いや香の話だったな、うん。そうか、これは私も
好きなのだ。ははは﹂
﹁と、とりあえずリハビリを続けようぜ。外はいい天気だ﹂
﹁そうだな! その、りはびりというのはよくわからないが、とに
かく外に出よう。うん﹂
ふたりはなんとなくぎこちない空気を無理やり払拭すると、運動
機能回復のために戸外を歩き回った。基本は、シズカが両手で二本
の松葉杖を操作し、倒れそうになると蔵人がサポートした。
季節は夏が近いのか、頭上には水がしたたり落ちそうなほど青い
空が広がっていた。周囲の山々には濃い緑が茂り目前に迫りそうな
立体感が浮き上がってくる。青の果てには、真っ白な入道雲が大き
く立ちのぼっていた。
347
村人たちは野良に励み、農道を歩くふたり以外に人影はなかった。
時折、道端に手頃な木陰を見つけると、足をとめて周囲の風景に
見入る。涼やかな風が気まぐれに吹き付け、シズカの美しい黒髪が
横に流れた。満足そうに切れ長の目を細める少女の横顔に、もはや
初めて会った時の険はなかった。
時折、蔵人は日本の鄙びた田舎を恋人同士で散策しているような
気持ちになった。
けど、ありえねんだよな、そんなことは。
こころの中でつぶやく。彼女が蔵人の命を狙っていることは変わ
らない。
﹁いい風だな、クランド﹂
﹁ああ﹂
お互いに決定的な事実を認めることを避けようとしている。そも
そもが、シズカとの休戦は怪我が治るまでという区切りだった。お
まけに、まだ彼女からはなにひとつ黒幕についての情報を聞き出せ
ていない。
蔵人が、二歩三歩歩いたところで、シズカがぴたりと足をとめ、
いった。
﹁この先に茶屋があったな。少し休んでいこう﹂
すべてから解放されたような憂いのない笑顔を見やった。蔵人は、
息を呑むと同時に度胸のない自分を少しだけ呪った。
異変に気づいたのはシズカが先だった。
村に一件だけある茶屋の軒先で、何人かの男たちがひしめいてい
た。
住民である農夫たちとはあきらかに一線を画した、革の鎧や槍、
剣で武装した人相の悪い男たちが、五人ほど店の前でひとりの身分
ある騎士風の男と口論になっていた。
﹁ありゃあ、名主さまのところでたむろしてたならずもんたちだぎ
ゃぁ﹂
﹁若いお貴族様はこの辺りのもんじゃねえずら。なんぞ、連れの奥
348
さまが難癖つけられて往生してるみてえだやい﹂
﹁あの随分と色っぺー奥さまかやい﹂
﹁んだんだ。あの、悪党どもを、なんでば名主さまが養おうてるか
わからんが、あんな婆あが一匹居る店じゃ、酒を飲んでも面白くね
っぺ﹂
﹁そんで、たまたま通りがかったお貴族さまの奥方に酌のひとつで
もさせべえって寸法かやい。まったく、こらえらい災難だばな﹂
﹁もっとも、あの男たちの気持ちもわかるべ。見てみい、あの奥さ
まの尻や胸の張り出し具合といったら。悪心が出てても無理もねえ﹂
﹁そうだなや、歳は三十くれぇか、だいぶ年増だけんどもふるいつ
きたくなるような色気があるべ﹂
﹁こんな田舎じゃ、目立つこと目立つこと。運が悪かっただ﹂
﹁おら、見ろ! ジェフ、ついに刀抜いたぞ!﹂
蔵人たちが農夫の話を盗み聞きすると、どうやら旅の途中茶屋に
立ち寄った貴族とその妻が悪党どもに難癖をつけられていたようだ。
最初は穏便に済まそうとしていた四十年配の貴族だったが、なに
か妻の方を卑猥な言葉で罵倒されたうえ、遠目にもわかるほど不意
に婦人のスカートがうしろにまわっていた男にまくり上げられたの
だった。
﹁おいおい、マジぃんじゃねえの?﹂
﹁あいつは⋮⋮﹂
それまで微動だにしなかったシズカの表情が不意に険しいものに
変わった。
いままで、茶屋の中に隠れていたのか、ひときわ大きな身体つき
をした獣人が軒先に姿を見せた。赤錆のような茶色いたてがみに、
ライオス
獰猛そのものといった血走った瞳がきらきらと血に飢えて光ってい
る。
獅子の頭と人間の身体を持つ亜人、まごうことなき獅子族の特徴
だった。
349
﹁無礼者が、我が妻を差し出せと? そのようなことが承服できる
はずもなかろう!﹂
﹁だーからよう。オレたちゃ、別に取って喰おうっていってるわけ
じゃねーんだ。ただ、この店にや枯れ木みたいな婆あしか居らんで
よ、若くて美しいご婦人に酌のひとつもしてもらえりゃ、このド僻
地のクソ不味い酒の味もマシになるかと思ってこうして頼んでるわ
けじゃねーか﹂
﹁エステル、僕の後ろに﹂
剣を構えたまま貴族が背後の女性に告げた。
貴族にエステルと呼ばれた三十ほどの貴婦人は、顔色を紙のよう
に真っ白にして夫の背中に隠れた。
エステルは歳こそ若くはないが、ならず者たちが襲いたくなるほ
どの成熟した色気を充満させていた。
明るい茶の髪は軽くウェーブがかかり、背中の中程で切り揃えら
れている。 ぱっと見は、キツそうな感じであるが、ぼってりとした厚めなく
ちびるが実に官能的だった。実に男の嗜虐心を誘うような雰囲気を
醸し出している。高く張った胸元も、やや大きすぎるきらいのある
臀部も男たちの獣欲をとらえて離さない部類のものだった。
﹁ふん。エステルか。いい名前じゃねーか﹂
ライオス
﹁無礼な、わたしの名前を呼んでも良いのは主人だけです、獣人風
情が!﹂
﹁あ?﹂
それまで余裕を持ってからかっていた獅子族の男の雰囲気が変わ
った。
﹁や、やべえよ﹂
﹁大将に向かってそれは禁句だってのに﹂
350
ライオス
取り巻きの悪党どもがいっせいに顔色を青くして怯え出す。
獅子族の男。
身体がひとまわり大きくなったような錯覚を周囲に与えた。
ライオス
﹁あーむかつく。なんか、むかつくんだよなぁー﹂
獅子族の男は両手首をブラブラさせながら、配下の男たちをチラ
見した。
﹁大将、大将の手を煩わせることもありませんて﹂
﹁こんな腐れ騎士もどき、俺らだけで﹂
﹁だれが、騎士もどきだって?﹂
貴族の言葉に弾かれたようにして、ふたりの男が剣を持って踊り
かかった。
﹁うるせえええ!﹂
﹁おまえは黙って女を置いていきゃいいんだよおお!!﹂
貴族は冷静を保ったままサーベルを構えなおすと、まっしぐらに
向かってくる男に向かって水平に薙いだ。銀線が素早くふたすじ走
った。
ひとりは剣を振りかぶったまま喉を割られ、もうひとりは膝頭を
断ち切られると剣を放り投げて苦悶の声を上げた。
ライオス
﹁ほう﹂
獅子族の男は片眉を上げると感嘆のつぶやきをもらした。
﹁このチェストミール、若い頃から剣にかけてはちょっとしたもの
でな。おまえらのような若造にはまだまだ負けぬよ﹂
チェストミールと名乗った貴族は、おそらく若い頃から正当な剣
を習い、鍛錬を積み重ねてきたのだろう。剣線の速さや腕は誰にで
もわかりやすいくらい綺麗な型を習得していた。
あっという間に仲間をふたりも斬り殺された男たちはあからさま
に怯えはじめた。
所詮際立った腕はなく、数だけが頼りなのだろうか、次はこの凄
腕の貴族に自分が挑む番だと思うとそれだけで立っていられないほ
ど震えが来るのだった。
351
﹁ちっ。オドオドするんじゃねーよ。さて、お貴族さま。次はこの
ギリーさま直々にお相手しましょうかね。おまえら! オレの得物
ライオス
を持ってこいや!﹂
獅子族の男に怒鳴られると、男たちは慌てて茶屋の奥に引っ込ん
だかと思うと、ひと振りの大斧を持ってきた。三人がかりでなけれ
ば持ち上げられないのだろうか、その大斧は誰もが見たことのない
ほど長大なものだった。柄は赤樫で造られているのだろうか、長年
の手垢で赤黒く妖しく光っていた。特徴的な刃の部分は長大で、横
にすればそのまま身体の前面の胴体を覆うほどのものだった。
﹁思い出した、あいつ血塗れギリーだ﹂
黙りこんでいたシズカが不意につぶやいた。
﹁なんだ、有名なやつなのか﹂
蔵人は、目前で起きている突如とした斬り合いに視線を向けたま
ま先をうながした。
﹁王都では名うての盗賊だった。確か、討伐に来た三十人近い憲兵
隊をひとりで追い返したこともある化物だ。最近はまるで名を聞か
なかったが、こんなところに潜伏していたとは﹂
﹁嘘だろ、おい﹂
あまりの荒唐無稽さに蔵人は反射的に叫んだ。だが、シズカはそ
れに取りあわず、人差し指を口に当てそっと人垣の向こうを指した。
ギリーは、重さが百キロ近い戦斧を小枝を扱うように両手で唸り
を上げて旋回させはじめた。轟々という異様な風切り音に、戦いを
眺めていた農夫たちが腰を抜かし座り込んだ。
﹁どーした、お貴族さま。顔色が青いぜェ。そんなんで、大丈夫か
よぉお﹂
元々獣人の筋力は人間より遥かに上である。
巨大な戦斧を子供の玩具のように扱う膂力から見てもそれらは明
白だった。
チェストミールの額から汗が流れて、口元の髭に伝った。
両者の潮合が極まる。
352
先に仕掛けたのはチェストミールだ。彼は、基本通りにサーベル
を右手で構えると、低い姿勢のまま必殺の突きを放った。切っ先が
閃く。
﹁け!﹂
ギリーは反射的に足を狙われたことを察知したのか素早く後方に
飛び退き、風車のように回していた戦斧を片手に持ち替え、真正面
から打ち下ろした。
軽い金属音が空に響く。
チェストミールは突きの姿勢のままその場に固着すると、自分の
右腕に視線を動かす。
﹁あ、あああ﹂
そこには皮一枚残して切り落とされた右腕がサーベルを持ったま
ま垂れ下がっていた。
一拍、置いて鮮血がほとばしった。
﹁あなた!﹂
絶叫を上げながら座り込むチェストミールを見ながら、ギリーは
高らかに勝利の雄叫びを上げた。
﹁大将、どうして殺しちまわなかたっんでさ﹂
﹁なに、旦那の方をあっさり殺しちまったら面白くねえだろ、おう﹂
ギリーは悶えながら地を這うチェストミールとそのそばで蒼白な
顔をしているエステルに顎をしゃくると、ニタリと笑みを浮かべた。
﹁ははん。さっすが、大将。味づけってのをわかってらっしゃる﹂
﹁褒めるねい、褒めるねい。さっさと、女を連れてこい。当然旦那
の方もだ﹂
ギリーの部下が泣き喚く男女を無理やり立たせ、室内に連れて行
く。貴婦人の横顔。そこにはすべてを諦め切った絶望の色が刷かれ
ていた。蔵人はこみ上げてくる苦いものを飲み下そうとし、失敗し
た。
知らず、身を乗り出そうとしていた蔵人をシズカが引き止める。
シズカの声は怒りよりも、哀しみの色が濃かった。
353
﹁おまえは、なにをしている。私の話を聞いていなかったのか﹂
﹁けど﹂
﹁あの夫婦がどうなるかなど関係ないだろう。まったく、クランド。
おまえは、いつもそうやって余計なことばかりに首を突っ込みたが
る。バカで助平でお人好しなんて一番長生きできんぞ。ほら、来い
!﹂
勝負はついたと察したのか、殺し合いを眺めていた村の農夫たち
が誰ともなく散り始める。
所詮、旅の貴族の不幸や亜人のギリーの凶悪さも彼らにとっては
人ごとであった。
むしろ、これらのたまに起こる騒動は自分たちに関わりがなけれ
ば、人生の憂さを晴らすイベントでありただの見世物であった。生
涯を村の耕作のみについやされる農民にとって殺しあいすら見世物
の範疇に過ぎなかったのだった。
﹁おい、ちょっとそこの男。待て﹂
不意にギリーの声が掛けられた。蔵人は無視するわけにもいかず、
うっそりと近づくと亜人の前に立った。シズカも慣れない松葉杖を
使ってその横に佇む。
﹁おまえはさっきからオレのやることを見て、気に入らねぇってツ
ラだな﹂
﹁いや﹂
﹁誰が、口答えしていいっていった! ああっ!?﹂
ギリーは蔵人の頬を力いっぱい拳固で殴りつけた。大柄な蔵人の
身体は横に吹っ飛ぶと、茶屋の軒先に置いてある水甕に叩きつけら
れ盛大な音が響いた。
﹁貴様﹂
その声からは、女らしい甘さが無くなっていた。
シズカの顔から表情が消えた。
﹁ああ?﹂
蔵人は、ギリーが彼女の殺気に気づく前に立ち上がると、咄嗟に
354
駆け出して身体をふたつに折り頭を下げた。
﹁なんだ、おめえこの女おまえのかよ﹂
﹁はい﹂
﹁てめえのカカァか。腰抜けの旦那にしちゃあ、随分と気合が入っ
てるじゃねえか。よし、気に入った。このギリーさまが今日から世
話してやる。女は置いていけ﹂
﹁どうかそれだけは﹂
﹁それだけは許して欲しいってか。ああん。随分と都合のいいこと
を。このオレさまが気に入ったってことは、すべてオレさまのもの
にするってことだ。そんなこともわからねえのか﹂
無茶苦茶ないいぶんだった。当然ながら、シズカをこのケダモノ
たちに差し出すわけにはいかない。蔵人は完全に感情のスイッチを
切ると、無言で頭を下げ続けた。しばらくすると、茶屋の室内に夫
婦を押し込んだ男のひとりが戻り、シズカに向かって下卑た視線を
這わした。
﹁大将、おれっちはさっきの人妻よりこっちの娘のほうが断然好み
でさあ。見てください、この器量。貴族のお姫さまっていっても誰
も疑いやしないですぜ﹂
﹁待て、よし。こういうのはどうだ。おい、おまえ。オレは少々暴
れたりない。そこでだ、十発おまえを殴っても立っていられたら、
今回に関しては勘弁してやってもいい。実に寛大だろう、人間よ﹂
﹁はい﹂
﹁クランド!﹂
シズカの口から悲痛な叫びが飛び出した。
獣人の力は人間とは比べ物にならない。特に、血塗れギリーとく
れば、この男は拳の一撃で何十人と屠ってきたのであった。先ほど
の一撃でも下手をすれば頓死しかねない。
それを十回も行うというのは、文字通り死刑宣告に他ならなかっ
た。
死ぬ、クランドが。
355
シズカの中に、いままで感じたことのない感情が湧き上がってき
た。
同時に目の前のギリーにかつて感じたことのない殺意が溢れ出し
てきた。
だが、いまの自分はどうすることもできない。悔しさのあまり、
頭がどうにかなりそうだった。
イモータリティ・レッド
蔵人は、そっとシズカに手を伸ばして制止した。
自分には、不死の紋章がある。痛みに慣れるわけではないが、目
の前でシズカを傷つけられるのは我慢できそうもなかった。
﹁そんじゃいくぜぇ、ひとーっつう!﹂
蔵人の頭の中に電光が走った。気づけば、口の中の歯が何本が折
れていた。
たった一撃でこの有様である。男たちのニヤニヤとしたいやらし
い笑みが周りを取り囲んでいる。
﹁ふたーっつぅ!﹂
二発目。鼻先がへし折られた。焼けた火箸を突っこまれたようだ。
鼻腔から逆流してきた血が喉を塞ぐ。
﹁みいーっつぅ!﹂
むせる間もなく次弾が打ち下ろされる。一瞬、視界が途切れた。
だが、両足はまだ大地を踏みしめている。膝が笑い始めた。自然に
流れる涙で、頬が熱かった。
﹁よーっおっつう!!﹂
顎先に力が入らなくなった。既に痛みを感じなくなっている。
自然と、シズカの姿を探した。
まだ、倒れない。倒れるわけにはいかない。
蔵人が意識を保てたのはそこまでだった。正直なところ獣人の腕
力を舐めていた。そもそも、奴らの私刑に耐えたとしても約束を守
るとは限らないのだ。
愚かなことをしている。
蔵人は、そもそもがシズカが自分の命を狙っていることを思い出
356
し、可笑しくなった。
幾度となく、電光のように巨大な拳の一撃が意識を刈り取らんと
猛追する。
頭の中で鋭く雷鳴が轟く度に、自分が自分でなくなっていく。
最後の瞬間に残ったのは、絶対に曲げないと決めた己の意思と男
としての矜持のみだった。
﹁に、しても大将。あの男随分と耐えましたね﹂
男は裸身も露わのまま、ギリーに話しかけた。
﹁んん? ああ、オレさまの拳に十発も耐えるとは中々楽しめたな﹂
薄暗い茶屋の室内では、人妻であるエステルが裸身のまま倒れて
いた。暴虐の限りを尽くされたのか、瞳は虚ろのまま天井に視点を
据え、微動だにしない。
チェストミールをひと思いに殺さなかったのは、妻であるエステ
ルを夫の目の前でじわじわと責めながら楽しもうという趣向を戦闘
中に思いついたからである。
だが、現実チェストミールは腕の出血が激しすぎてすぐに息を引
きとってしまった。
趣向は台無しである。
﹁面白くねえのは、この貴族女だ。とんだ、大洞穴だぜ﹂
﹁へい。見かけ以上に使い古しでやんしたね﹂
﹁その辺の淫売女のがまだマシだったな﹂
﹁へへ、そのようで。特に大将の槍には耐えられようもねえでしょ
う﹂
エステルは夫の前で辱められるというプレッシャーに耐えられず、
即効で壊れてしまった。身体こそかなりの肉付きでそこそこだった
357
が、こうも簡単に自我喪失させてしまえば、人形と変わらない。
人形など必要ない。ギリーは普通の快楽には飽き飽きしていた。
仰向けになりながら、壊れた人形のように転がる女を見て、ギリ
ーは激しい虚無感にとらわれはじめた。
﹁貴族だけにテクもイマイチだったし、つまらんなあ⋮⋮﹂
ギリーは、煙管に火をつけると気だるい表情で煙を更かし、次の
狩場を探す算段をつけはじめていた。
358
Lv23﹁旅立ちの朝﹂
蔵人の目に最初に映ったのはシズカの顔であった。
恐怖に染まっていた表情が、氷が溶けるように穏やかに変わって
いった。
﹁どうして、あんなバカなことを﹂
天井を見上げると、いつもの小屋の中であった。シズカの様子を
見れば、特になにか狼藉をされたという様子もない。自然に安堵の
ため息が漏れた。
﹁そうか、シズカは無事だったんだな。よかった﹂
少女は傷ついたように顔を歪めると両手で顔を覆った。昼間は気
温が高いが、夜は極端に冷え込む。蔵人は寝台から身を起こすと、
はしに腰掛けたままうつむくシズカの隣に身体を移した。
﹁なにが無事だ。あやうく死ぬところだったんだぞ﹂
﹁それがおまえの目的じゃないんかい﹂
蔵人の言葉。それはふたりの仲における大前提だった。シズカは
一瞬、言葉の意味が理解できないようにキョトンとして、それから
取り繕うように怒鳴った。
﹁それはっ。私の手で果たさないと報酬は受け取れないんだっ﹂
﹁そっか。な、シズカ。ひとつ提案があるんだが﹂
﹁なんだ﹂
﹁俺と、来ないか﹂
﹁来ないかって、どこに﹂
359
﹁俺はこの村を出たら、シルバーヴィラゴに向かう。そこには、す
んげぇ大迷宮があるんだってよ。暗殺なんてつまんねぇことやめて、
俺と冒険しよう。迷宮の奥にはいままで見たことのないお宝やわけ
のわからん不思議な生き物とかがいっぱいいるはずなんだ。どうだ、
ワクワクしねえか。ふたりでテント担いでよ、いっしょに探索して、
同じテントで一緒に寝て、飯は鍋やら鉄板持ってって、いろんな料
理作るんだ。酒飲みながらくだらない話しして、焚き火見ながら朝
までフィーバーだ。お宝手に入れたら、でっけー屋敷も作ろうぜ。
どうだ、楽しいことが目の前にいっぱい転がってんだ。拾わなきゃ
嘘だろ。人生なんて楽しんだものがちじゃねえのか!!﹂
﹁ああ、それは、そうできたら、楽しいな﹂
シズカは目を嬉しげに細め、それからそっと閉じた。
長いまつ毛が、燭台のかすかな明かりの下で震えた。
﹁でも、行けないんだよ。私は﹂
﹁そ、か﹂ なんとはなしに無言の時間が流れる。夏虫が、かすかに鳴く声が
聞こえてきた。
﹁なんであんなことしたんだ。おまえは﹂
﹁なんでといわれても。そりゃ、あれだろ。俺たちは仮にも夫婦だ
からな。夫が妻をかばうのはあたりまえだろ﹂
﹁ああ、やっぱり﹂
﹁やっぱり、なんだよ﹂
﹁おまえは、バカなんだな﹂
﹁おいっ﹂
シズカは顔を伏せたままつぶやいた。
洗い髪が垂れて顔を隠す。表情は確認できない。間が持たずに耳
たぶを触っていると、ちらりとこちらを見ながらなにかいうのが聞
こえた。だが、彼女にしては声量が小さすぎて判別できない。自然、
聞き返した。
﹁え、なに?﹂
360
﹁少し、目をつむってくれ。私が、いいというまで開けるな﹂
﹁あーはいはい。わかりました、わかりました﹂
蔵人が目を閉じたまま寝台にひっくり返ると、しゅるしゅると衣
擦れの音が聞こえた。
まさか、いや、しかし。いくらなんでも、そんな都合のいい話が。
﹁いいぞ。こっちを向け﹂
逡巡している間に、すべては完了した。
覚悟を決めて、目を見開いた。
黒く、豊かな髪がほのかな光の中で波打っていた。
形のいい小ぶりな乳房はお椀型だ。薄い桜色の乳頭はしっかり固
くなっているのが見えた。細く長い脚は抱え込んだらあっさり折れ
てしまいそうなほど華奢だった。
下の秘部は、淡い茂みで覆われている。
丁寧な処理がされており、彼女の几帳面さが出ていた。
極めつけは、肌の白さだ。
新雪を固めたように輝く肌のキメは同じ人間とは思えないほど美
しかった。
一点特徴といえば、右の乳房のやや下側に小さな黒子がちょこん
と見えた。 シズカ・ド・シャルパンチエは、生まれてはじめて自分の意思で、
異性に裸体を晒したのだった。
﹁なにか、いったらどうだ﹂
シズカの顔が羞恥で紅色に染まる。緊張が限界に来ているのだろ
う、小刻みに肩が揺れていた。
﹁ああ、そうだな。月並みだが、すごく綺麗だ﹂
﹁あ、ありがとう﹂
シズカは両手を胸の前で組むと座りこんだ。むぎゅ、と押しつぶ
されるような格好の乳房の間にくっきりとした谷間が生まれる。
﹁クランド、ひとつだけ先にいっておく。勘違いするな、これは、
憐れみだからな﹂
361
﹁憐れみ?﹂
﹁ああ、おまえを私が殺すことに変わりはない。それは規定事項だ。
だが、この二ヶ月の間におまえはよく尽くしてくれた。それで、な
にか褒美にやろうと思ってな。とりあえず、女も知らずにあの世に
行くと生まれ変わった時には牝のラバになるといういい伝えもある
ことだし。それでは、あんまりだと思ってな﹂
﹁なんだよ、それ﹂思わず苦笑がもれた。
﹁とにかく! つべこべいわずに受け取れ。欲しくないのか、私が﹂
蔵人の瞳を不安そうに覗き込む。彼女が精一杯の勇気を振り絞っ
ていることが、痛いほど理解できた。
彼女が俺の命を欲しているのは真実だが、いまそれは脇に置いて
おこう。
そっと、少女の肩に両手を回す。
シズカの瞳のゆらぎが、いっそう激しさを増した。
﹁欲しいさ。ずっとこうしたいと、思っていたんだ﹂
﹁あっ﹂
蔵人はシズカを抱き寄せると、くちびるをそっと重ね合わせた。
少しでも緊張がほぐれるように、髪を手櫛で梳く。震えがとまっ
た。
﹁やっぱり、かわいいな、シズカは﹂
﹁クランドぉ﹂
今度は、シズカ自身が両手を回してきた。ふたりはそうすること
が自然のように抱きしめあうと、今度は情熱のままに、唇をあわせ
た。
はじめはおずおずとぎこちなかった舌の動きが次第に情熱を帯び
ていく。
ふたりは互いの口内に舌をすべりこませると、舐るようにしてお
互いを絡み合わせ、唾液を交換した。蔵人は、シズカを抱きしめな
がら彼女の長く美しい黒髪に指を通した。清らかな河の流れのよう
に、冷たくすっと五指が沈んでいく。甘い匂いと、火のように燃え
362
る肌の熱さが脳裏を支配した。
もはや、そこには建前も理性もなく、一個の肉塊だけが存在した。
﹁クランド、好きっ、好きっ﹂
﹁シズカ、いくぞっ﹂
ふたりは全身全霊をこめてひとつに溶け合い、やがて、それがす
べてになった。
蔵人は寝台に仰向けになりながら目を閉じていた。
交合のあとのけだるい独特の感触が残っている。シズカは、蔵人
の胸に顔をうずめながら、指先で傷跡をそっと撫でた。
﹁まだ、痛むの﹂
﹁いや、どうってことはない﹂
﹁本当にすぐに治るんだな。でもあとが残ってる﹂
シズカは降り落ちてくる髪をかき上げながら、快癒して残った傷
跡にそっと舌を這わした。やんわりとしたくすぐったさが背筋を駆
け上がる。右手で黒髪をゆっくりと梳くと、彼女は目を細めてぎゅ
っとしがみついてきた。そうしていつまで抱き合っていただろうか、
シズカの口からいままでの経緯が断片的に流れ出した。
彼女は、王家に連なる貴族であること。
惣領の兄が居て、常に病がちでその治療に多額の金が必要なこと。
そして、自分がいままで暗殺者として暮らしてきたこと。
正直なところ、蔵人の命を欲しているのはかなり高貴な身分であ
るだろうということ。
﹁クランド、私は兄を捨てておまえとはいけない。きょうまで、家
名を絶やさないためだけに生きてきたのだ。そのために、この手で
数え切れないほど人の命を殺めてきたんだ。いまさら、人間らしい
363
しあわせなど望むことが分不相応なのだろうな﹂
蔵人は無言のまま目を開くと、虚空に視線をさまよわせた。
いうべきことなどない。所詮、現代人とは感覚が違うのだ。家名
を尊ぶこの時代の人間の気持ちの葛藤は想像もつかなかった。
重い。果てしなく。
シズカの足が完全に治ってしまえば、もはや手負いであるという
こともいいわけにできなくなる。そうなれば、いやがおうにもこの
少女と命のやりとりをしなければならなくなるのだ。
﹁せめて、夜が明けるまでは、嘘でもいいいの。夫婦でいさせて﹂
嘘と承知で。
蔵人はシズカの身体を引き寄せると、強く抱きしめた。
いままでよりずっと強く。
朝の夜露の匂いで、蔵人は目を覚ました。寝台の傍らには、シズ
カがうつ伏せのまま深く寝入っていた。無理に起こすのは忍びない
し、そもそもどんな顔をして別れを告げればいいのかわからなかっ
た。
おそらく、次に会うときは刃を握っての邂逅になるだろう。ひど
く、虚しかった。
蔵人は、履物を革製のしっかりした半長靴に履き替えて、腰に長
剣を落としこみ、ズタ袋を背負えば準備は完了した。
元々、持ち物などほとんどない。最後に、世話になったアルフレ
ッドに先に出立することをなんといいわけしようか考えながら歩き
出すと、寝台から毛布のこすれる音がした。
﹁ぶわっ﹂
振り返ると同時に、頭から布切れが投げつけられた。拾いあげる
364
とそこには、手製で縫われたと思われる墨染の外套が目に入った。
﹁毎日寝転んでばかりで暇だったからな。それに、そいつを身につ
けていれば私も探しやすい﹂
寝台に顔を向けると、シズカは枕に顔を伏せたままの格好であっ
た。長い黒髪が乱れている。少女の身体が小さくふるえだすのを見
て、視線をそむけた。
蔵人はあえて無言のまま墨染の外套を着込むと、前をぴったりあ
わせて戸外に飛び出した。
まだ夜は明けきっておらず、周囲の山々が濃い朝霧の中で墨絵の
ようにぼんやりとしていた。
清涼な空気の中、村の唯一の出口である吊り橋に向かって歩き出
す。
朝の早い農民たちもまだ仕事には出ておらず、古ぼけた農村には
ライオス
人の気配を感じられなかった。細い農道を蔵人の孤影だけが動いて
いる。
途中、昨日獅子族のギリーと争った茶屋に差し掛かった。井戸の
向こう側に、新しく埋められた土盛りがよっつになっており、子供
くらいの石が墓標がわりに建てられていた。そっと、ひざまずいて
両手をあわせ、再び歩き出す。よっつの土盛りのうちふたつはなら
ず者、残りふたつは貴族の夫婦だろう。悔いても仕方がないことだ。
遠くに行けば自分もきっと忘れることができるだろう。
この先、シズカたちがあいつらと顔をあわせないことを祈りなが
ら足取りを早めた。
吊り橋に向かって一定のリズムに乗って歩く。やがて、橋を見下
ろす小高い丘陵に立つと、入口付近で数人の男たちがもめているの
が視界に入った。
﹁そんな、急に通行止めっていわれても。おらたちは、いつもここ
を通って向こう側の入会地に行ってるだ﹂
﹁うるせえ! とにかく、今日からここは通行禁止だ。それとも、
なにか。おまえたち呑百姓が俺たちギリー一家に歯向かうってのか
365
よ! いいか、この疾風のエルマーさまに逆らうってのは、ひいて
は血塗れギリーさまにさからうってことになるんだ! いいのかよ
!﹂
﹁ギリーって昨日の﹂
﹁そうだぁ! ギリーさまにかかっちゃ、剣を習った貴族ですら子
供扱いってもんだ!
命がおしけりゃとっとと失せやがれぇ!﹂
エルマーと名乗った若い小男は、小ぶりのナイフをチラつかせな
がら、ふたりの農夫を追い払うと、ニタニタ意地の悪い笑みを浮か
べた。
農夫たちは泡を食って農具を担ぎながら丘を足早に登ってくると、
立ちすくんでいる蔵人に声をかけた。
﹁旅人さん、あそこにゃタチの悪いならず者が橋を塞いでるだ。悪
いことはいわねえ。無理に通らねえほうがいいと思うぞ﹂
四十年配の農夫は日焼けした真っ黒なしわだらけの顔を歪めなが
ら、悔しそうに吐き捨てた。
﹁この橋以外に村を出る方法はないのか﹂
﹁どうしてもっていうなら、橋から反対側の村はずれに一箇所だけ
下に降りれる崖があるだ。そこから河づたいに上流に登っていけば
向こう側の山に行ける古い橋が掛かってるが、まる一日かかってし
まうべ﹂
﹁そんなことしてたら、おらたちゃ仕事になんねぇ﹂
﹁んだんだ﹂
比較的若い農夫は鼻息荒く、名主さまに相談すると息巻いて村に
戻っていった。
﹁さて、困ったな、と﹂
ギリーという盗賊の手下が村の出入口を塞いでいるというならば、
どうせよからぬことを企んでいるに違いない。
蔵人が無理に排除をしなくても、村人が付近の領主に駆け込めば、
ケチな盗賊は早々に姿を消すだろう。どういきがっても、数十人の
366
小悪党が完全武装した騎士たちの軍団に勝てるはずもないのだ。
どのくらい思案していたのだろうか、とうに夜は明けきっており、
空には水の雫がしたたり落ちるような青い空が広がっていた。
蔵人は、間の抜けた話だが、一旦村に戻ろうと思い切り、ズタ袋
を背負いなおすと、元来た道を引き返しはじめた。
しばらく、農道を進んでいくと幾人もの農夫たちとすれちがった。
もはや誰もが野良に出かけていて、百姓仕事に勤しんでいる時間帯
なのにこの状況は異様だった。
途中、泡を食って駆けてきた若い農夫と真正面からぶつかる。大
柄な蔵人に比べて小柄な男は尻餅を突くと、バネじかけみたいに跳
ね上がり、目を白黒させながら唾を飛ばしながら話しだした。
﹁お、おめえさん、ヘレンの小屋に居た乞食夫婦じゃねえか﹂
﹁乞食って﹂
真っ当な百姓に比べれば、無為徒食を続けていた蔵人たちはそう
見られても仕方がなかった。苦笑をもらしながら頭をかいていると、
小男はじれったそうに蔵人の胸につかみかかり、片手を振り回した。
﹁おまえンところの物置小屋が火事だ! なにをのんびりしてるだ
!﹂
﹁なんだって!?﹂
﹁それに、見慣れない男たちが刀を振り回しながら暴れてるらしい。
アルフレッドとかいう亜人は斬られたぞ!﹂
蔵人は、小男を突き飛ばすと弾かれたように駆け出した。
こころのどこかでなにかの間違いに違いないと決めつけながら、
足取りばかりは宙をかくようにしておぼつかない。アルフレッドの
住居が見渡せる村の小高い中央部に到着した時、眼下の向こうに赤
々と燃える家屋が目に映った。
村人が小屋の周囲にひしめいている。
アルフレッドの母屋は真っ赤に燃え上がって、すさまじい火の粉
を吹いていた。物置小屋は類焼したのだろうか、隣接する一部分が
わずかにくすぶっているが燃え広がるのも時間の問題だろう。
367
蔵人が、農夫たちを突き飛ばして中に飛び込むと、そこには既に
朱に染まって倒れているアルフレッドの巨体と、シズカの身体にの
しかかっている男の姿が見えた。
﹁おい、おまえが乞食の旦那の方か。昨日はおまえをたっぷりかわ
いがってやったんだ。今日は、女房の方をかわいがらなきゃ釣り合
いがとれねえやな﹂
見張りに立っていた三人の男が狡猾そうに目を光らせている。抜
き身の剣には、真っ赤な血糊がべったりと張り付いていた。
﹁シズカを狙うのはわかったが、どうやってアルフレッドまで斬っ
たんだ。おめえら三下風情が叶う相手でもねえだろう﹂
蔵人が感情を消したまま尋ねた。
﹁誰が三下だとぉ! おら、見ろ。このガキを捕まえてやったら、
途端におとなしくなっちまったのさ。臆病者が利いた風な口を聞き
やがって。いまから、目の前で女房をたっぷり犯してやる! おま
えにも、おれたちの溜まり場に来てもらうぜ。いやとはいわせねえ
からな!﹂
男はドミニクの首根っこをつかみあげると威勢良く怒鳴った。
少年は、倒れ込んだ父親のそばに駆け寄ろうともがいている。
蔵人の怒りは一瞬で理性のメーターを振り切った。
前を合わせていた外套をはねのけると、銀線が真っ直ぐに飛び出
した。
﹁うぐえあ!?﹂
長剣は男の喉笛を深々と抉りきると後方まで突き抜けた。
﹁野郎!﹂
隣の男が繰り出す刃を、外套を振り回してはねのける。
蔵人はドミニクを咄嗟に抱え込むと部屋の隅に放り投げた。
同時に、しゃがみこみながら長剣を低い位置で振り回す。
刃は男の脛を断ち割ると血飛沫を舞わせた。倒れ込んでくる男の
身体を左腕で抱え込むと、逆手に持った剣を背中から胃袋に深々と
突き刺した。
368
﹁ちきしょおおっ﹂
残ったひとりが突っ込んでくる。蔵人は男の背中から剣を抜き取
ると、目をつぶって飛び込んできた男から半歩身体を開いてかわす。
長剣が水平に動いた。刃は男の脇腹を切り裂くと、濡れた雑巾を叩
きつけたような音を鳴らした。
﹁な、なななな﹂
一瞬で三人の仲間を倒されたことで気圧されたのか、シズカを押
し倒していた男が顔を上げた。蔵人は、男の一人が使っていたナイ
フを拾い上げるとすかさず投擲した。
刃は真っ直ぐに飛来して男の顔面中央部に突き刺さる。絶叫を上
げてうしろにひっくり返った。
蔵人はシズカに視線を向け、彼女が気丈にうなずくのを確かめて
からアルフレッドに駆け寄った。
﹁兄ちゃああん。父ちゃんの血が止まらないよう﹂
ドミニクは小さな手のひらを傷口に押し付け流れ出る血潮を懸命
に止めようと努力していた。くふん、と鼻を鳴らしながらそれでも
泣かずに耐えている。健気な様子がいっそう胸を打った。
蔵人は、アルフレッドを抱き起こすと割られた胸と腹の傷口を見
た。元々病気がちであり抵抗力も弱っている。素人目に見ても、助
かるたぐいのものではない。隣に座り込んだシズカを見ると彼女は
眉間をしかめて首を左右に振った。
﹁クランドどのか。いや、これは不覚じゃった。この儂としたこと
が、こんな小僧どもに遅れをとるとは。いや、歳はとりたくないも
んじゃ﹂
﹁すまねえ、黙ってたけど昨日、ギリーってやつらともめたんだ。
さんざん世話になっていながらこんな風になるなんて。詫びても詫
びきれねえよ﹂
﹁いや、どうやらこやつら狙いはクランドの奥方だけではなかった
ようだ﹂
﹁父ちゃん﹂
369
アルフレッドは、もはや無言のままドミニクの頭を何度か撫でる
と、低くうめいた。
﹁クランドどの、剣を﹂
アルフレッドは差し出された剣をふるえる手で握り締めると、自
分の金色のたてがみを切り落とした。
﹁これを、妻に。儂の、愛した⋮⋮﹂
﹁アルフレッド!﹂
蔵人は遺髪を両手で受け取ると、アルフレッドの両手を強く握り
締めた。
獅子は最後になんとか笑みを形作ると、糸の切れた繰り人形のよ
うにガクンと首をのけぞらせた。絶息したアルフレッドは、すべて
の苦しみから解放されたかのようにやすらかな顔をしていた。
﹁確かに遺髪は受け取ったぜ﹂
﹁兄ちゃん﹂
﹁なんだ、ドミニク﹂
﹁おいら、獅子の息子だから。我慢したよ。男は、どんなにつらい
ことがあっても、けして泣いちゃいけないって。いつも、父ちゃん
が⋮⋮﹂
ドミニクは、崩壊しそうな涙腺を懸命に墨守して涙をこらえてい
る。シズカは、ドミニクの背後から両手を回して抱きしめると、抑
えた声を出した。
﹁いいんだ。本当に悲しいことがあったら、泣いたっていいんだ﹂
シズカは慈愛をたたえた瞳でドミニクの顔をのぞき込む。少年は、
ふるふると頭を左右に振って否定するが、やがてこらえきれなくな
った涙が大粒の雫になって流れ落ちた。
蔵人は、アルフレッドの腰から白鞘の長剣を抜き取ると、ドミニ
クに両手で抱えさせた。
﹁ドミニク。今日からおまえを守ってくれる者はどこにもいない。
この、剣に誓って母さんを守ってやれ。いいな﹂
﹁う、ん﹂
370
少年は泣きながら父の形見である剣を抱きしめた。
﹁そろそろこの小屋もやばい。アルフレッドは俺がかつぐから﹂
﹁ちょっと待ってくれ﹂
シズカは蔵人を制すと、倒れていた男に近づいた。
﹁立て、まだ聞きたいことがある。どうせおまえは死ぬのだから、
残らず吐いたらすっきりするぞ﹂
シズカがかろうじて息の残っている男を締め上げると、途切れ途
切れに男は白状した。
白鷺
という銘の剣であるということ。
第一の狙いは、元騎士のアルフレッドが持っているロムレス三聖
剣のひとつ、
この白鷺という名剣は、常にアルフレッドが腰に帯びていたが、
それと知られることはなかった。
ある、密告がなければ。
﹁それをギリーに教えたのは誰?﹂
﹁知らぬは亭主ばかりなり、か﹂
男は捨て台詞をはくと、血泡を吹きながら絶命した。もうこれ以
上の情報は収集できない。彼女は、男の首元から手をはなして眉を
ひそめた。
シズカを連れてくるという行為はあくまでそれに付随する案件の
ひとつに過ぎなかった。
問題は、アルフレッドの持っている剣が途方もない価値を持って
いると知っているのはこの村ではたったひとりだという事実だ。
蔵人は、燃え落ちる小屋から抜け出すと、ドミニクに命じてシズ
カを連れて身を隠すことを命じた。ヘレンはたまたま昨日から隣り
村に出かけていているというのも幸いだった。
こちらとしては、ふたりのことだけを考えてことに当たればいい
のだからだ。
﹁待て、クランド。私も戦うぞ﹂
﹁おまえはまだ足が治ってないんだ。杖なしで歩けないやつになに
ができるんだよ﹂
371
シズカはくちびるを噛み締めると悔しそうに睨んだ。
﹁それは、おまえが死んでしまえば、私は使命を果たせない! 絶
対にひとりでは行かせない!﹂
﹁うるせー、俺の女房だったらおとなしくいうことを聞いてろよ!
!﹂
蔵人の怒号に目を見開くと、シズカは困ったような表情で顔を伏
せた。
ライオス
﹁そうか。わかった。ただし、無茶はするな。私たちも逃げに徹す
る。おまえも、あのギリーとは戦うな。獅子族の強さは人間族の比
じゃない。ましてや、クランド程度の腕前では一刀で切り伏せられ
るだけだ﹂
﹁あーはいはい。わかってるって。ほら、さっさと行けって﹂
シズカたちが雑木林に駆けこんだ直後だった。
ライオス
物見高い農夫たちの人垣を割って、武装した集団が蔵人の周りを
とり囲み始める。
その数、三十人。
荒くれ者の集団から、頭ふたつ飛びぬけた獅子族の男が、巨大な
戦斧を担ぎ上げたまま近寄って来るのが見えた。
﹁よう。また会うんじゃないかって期待してたぜ、今度は楽しませ
てくれよ﹂
これで何度目かになる、蔵人の命をかけた大勝負がついにはじま
ったのだった。
372
Lv24﹁金色の橋をかけろ﹂
ライオス
獅子族の血塗れギリーの腕前は昨日たっぷりと見せつけられた。
一対一で勝負したとしても、まず蔵人に勝ち目はないだろう。
腕力、スピード、経験。すべてにおいて敵が上なのである。シズ
カには逃げるといっておいたが、蔵人はその気はまるでなかった。
命の恩人であるアルフレッドが虫けらのように殺されたのである。
ここで逃げるということは、人間としての最低限の誇りも捨て去る
ことになる。蔵人は、そこまでして長生きをしたいと思わないし、
なによりもこの男たちが許せなかった。
﹁おまえたちの狙いはやっぱり白鷺っていう剣のことか﹂
﹁おうよ。その名剣よ。昔、オレさまが王都でブイブイいわせてた
ころにな、ある貴族の屋敷にあるとは聞いていたが、ついぞ手に入
れることができなかったシロモノよ。まさか、回りまわってこんな
ド田舎にあるとはよ。これも、天の配剤ってやつか。しばらくの休
養期間も飽きてきたことだしな、その名剣とやらを売り払って、今
後の活動資金にしようと思いついたわけよ。さっさと差し出せば、
苦しまずにこのオレ直々に斬り殺してやるが、どうだ?﹂
﹁はい、そうですかというわけないだろうが﹂
﹁いいいねえ、やっぱりおまえは。昨日見かけた時から違うと思っ
ていたんだ。他の百姓たちやオレの子分と違ってまったく、このオ
レさまにビビった様子がないっていうのが気に入ったね。昨日斬り
殺した腐れ貴族なんかとはわけが違う﹂
373
蔵人とギリーが対話を続けているうちに、小屋の中の様子を見て
いた子分が青白い顔でギリーに耳打ちをした。
ギリーは、大きな牙をむき出しにすると、野卑な笑みを浮かべて
舌なめずりをした。
﹁いいねえ、オレの子分を四人もヤっちまうなんて。やっぱりさ、
こういうヤツもいなきゃ世の中つまんねえよなぁ。ま、本当のとこ
ろはそんなガラクタもどうでもいいのさ。楽しく遊べればな﹂
﹁おまえみたいな畜生風情と遊んでやる暇はないね﹂
﹁この野郎!﹂
﹁乞食野郎がっ﹂
﹁大将が出るまでもねえ! 俺たちがたたっ斬ってやるんだ!﹂
仲間をやられたと聞いた男たちが勢いづいて雄叫びを上げる。そ
れぞれが、剣や槍で武装しており、蔵人を膾にしようと目が血走っ
ていた。
﹁おい、ギリーとかいったか。どうして、アルフレッドが白鷺の剣
を持っていると知ったんだ﹂
﹁そいつはな、おまえが死ぬ直前になったら教えてやるよ。さて、
殺す前に名前だけでも聞いてやろうじゃないか﹂
燃え尽きた背後の家屋が崩れ落ちる。残響が頭の中にじんと響い
た。三十一人も男が対峙しているというのに、しわぶきひとつ聞こ
えなかった。
煤の匂いと灰があたりにうっすらと漂っている。
静寂を破って声が発せられた。
﹁クランドだ﹂
﹁よおおおぉし! てめえらぁ、クランドのやつをぶっ殺せ!﹂
ギリーの怒声に、決戦の火蓋は切って落とされた。
これだけの人数をいかなる剣客だとしても、物理的に防げるはず
もない。蔵人は、長剣を抜き取ると振り回しながら、集団に突っ込
んだ。
男たちも、まさか真っ直ぐに突っ込んでくるとは思わず、反射的
374
に及び腰になった。
それが隙だった。
蔵人の長剣の一撃が男たちの刃物と噛みあった。
甲高い金属音が鳴り響く。
﹁うおおっ﹂
蔵人は目の前の男に肩から強烈な体当たりを喰らわせると、囲み
を破って山の斜面を駆け上っていく。集団に囲まれたときはとにか
く走って、包囲線を破る。
例え剣の達人といえど、前後左右から攻撃を受けて長時間立って
イモータリティ・レッド
はいられないものだ。わずかな経験の中から蔵人はその解を導き出
していた。
蔵人の特殊能力不死の紋章といえど、首を撥ねられたり、あるい
は致命的な重傷を負えば、助からないことも十二分にありえる。走
り続けるうちに、男たちの中で差が付きはじめた。
蔵人は雑木林に飛び込むと、一番近くに迫っていた男に向かって
反転し、逆擊を加えた。
長剣が閃いた。
男は顔面を両断されると、両手を万歳の格好で突き上げながら背
後に倒れ込んだ。
傾斜のついた場所である。男の身体はそのまま斜面に転がると、
背後の三人を巻きこんで崩れ落ちた。続けざま、外套を大きく翻し
ながら、男たちの中に舞い降りた。
蔵人は、得物を取り落とした男の顎を蹴上げる一方、槍を持った
男の腹を存分に引き裂いた。真っ赤な流血が飛散し、辺りの木々が
刷毛を動かしたように朱に染まった。
ようやく身体を起こしかけた男の喉に向かって垂直に剣を叩きこ
む。
男は、ぐりんと白目を剥いて絶命した。
﹁このぉおおおっ﹂
残ったひとりが慣れない手つきで剣を突き出してくる。蔵人は、
375
長剣を水平に動かして迎え撃つと、脇腹をざっくりと薙いだ。ほと
ばしった血液が蔵人の顔全体を叩いた。
斜面の下に続々と七人ほどの男が集結し始める。
蔵人は、落とした槍を拾い上げるとその一群に向かって放り投げ
た。
投げつけた槍は真ん中の男の革鎧を貫通して串刺しにした。狼狽
する男たちを尻目に、再び駆けた。獲物を見つけた猟犬のように、
男たちが猛追をはじめる。
蔵人は吊り橋を目指して猛烈に足を動かした。瞬間、左肩に灼け
た痛みを覚える。振り返ると、半弓を構えた男が、次の矢を取り出
して狙いを定めていた。走りながら呼吸を整えるわけにもいかい。
痛みなど必要ない。
苦痛はすべて削除する。
胸の紋章が淡く輝き出す。右手で矢羽根をへし折ると、後ろも見
ずに駆けに駆けた。
地の利があったのは蔵人に対してだった。細い農道に入ると、多
数の男たちは連れ立って進むことができなくなった。多数の人間を
通すことを前提として造られていない道は、大人ひとりが走るのが
精一杯だった。それにしても、もっとも危惧するのは飛び道具であ
った。 ある程度距離が開けば活路も見いだせるが、顔の判別可能
な十メートルほどの距離では、危険極まりなかった。
蔵人はあえぎながら、痛みを懸命に思考の枠外へ追いやった。
移動を続けるうちに、やや広い道に出た。
この先の丘を超えれば吊り橋までもう一息である。
ひとり、異常に素早い速度で追ってくる男がいた。
蔵人は、再度足をとめて反転すると、左手に鞘を持って前方に突
き出した。
男の剣は鋭く、蔵人の鞘をやすやすと跳ね上げる。
自然、男の剣は天を突き上げる形になり、身体の前面がガラ空き
になった。
376
蔵人の長剣が弧を描くと、男の乳房の下を水平に銀線が走った。
男は泣き声を上げながら、大地に顔面から突っ込んだ。不意に、脇
腹に激痛。弓使いの男が正確に蔵人を射抜いたのだ。たまらずその
場に膝を突く。五人ほどの男が殺到した。
蔵人は転げ回りながら、数箇所に手傷を負い、それでも下方から
ひとりの心臓を突き刺して倒した。立ち上がろうと足に力を込める。
瞬間、背中を深々と割られた。
痛みを完全に無視するのは不可能だ。一瞬、呼吸が止まった。
﹁どうだ!﹂
自慢げに叫ぶ男の声が耳朶を打つ。
痛みと、血の熱さで全身に火が付いたようにカッカしている。
蔵人は、引き裂かれた外套を振り回すと、背後の男の面体をした
たかに打ち据えた。
逆手に持ったまま、長剣を上体を崩した男の下腹に刃を深々と埋
め込んだ。
長く尾を引いた絶叫が流れた。
だが、男たちも蔵人の隙を見逃さなかった。
ひとりは抱えた槍を突き出して蔵人の腹に深々と穂先を埋め込み、
もうひとりは刃を斜めに打ち下ろして胸元を袈裟懸けに割った。
視界が真っ赤に染まって、思考が停止する。剣を取り落としかけ
た時、はるかかなたから、力強い馬蹄の音が轟いてきた。
﹁クランド!﹂
男の一群を引き裂くようにして、シズカが栗毛の馬を駆って走り
抜けてきた。
背後には目をつぶったまま腰にしがみついているドミニクの姿が
見えた。
﹁げええっ!﹂
﹁うげあっ!﹂
﹁ごおおおああっ﹂
377
シズカが馬上で曲刀を左右に降ると、あっという間に辺りに血煙
が舞った。
瞬く間に、五人ほどを切り伏せ、蔵人の目の前で手綱を引いて停
止した。
栗毛の馬は前足立になると、大きくいなないた。
﹁逃げろっていったじゃねえか﹂
﹁夫を置いて逃げ出す妻がどこにいる。シャルパンチエの家名と誇
りにかけて、かような真似ができようか﹂
蔵人は剣を杖代わりにして立ち上がると、背後を見やった。ひと
りの男が半弓を構えている。
﹁弓を﹂
落ち着いた声で、シズカが前方に落ちている弓と矢壷を指差した。
蔵人が、転がりながら得物を拾って馬上に向かって放ったのと、男
の半弓から矢が放たれたのは同時だった。
シズカは身体をうしろに反らして矢をかわすと、弓をつがえて斜
めになりながらも不利な体勢で射た。
放った矢は寸分違わず男の喉笛を射止めて、そのうしろで剣を構
えていた男ごと縫いとめた。
﹁見たか、我が弓の手並みを﹂
シズカは得意げに鼻を鳴らすと、蔵人の手を取って馬上に引き上
げた。
﹁すまねえ﹂
﹁気にするな。おまえを殺すのはこの私だといったろう﹂
﹁馬はおいらが見つけたんだ﹂
ドミニクが空元気を出して吠えた。
﹁とにかく吊り橋を先に渡ってしまえば、もう追いかけてこないだ
ろう﹂
シズカは、馬を操って丘陵を駆け下りた。目指す吊り橋はもう直
前にまで迫っていた。
ドミニクを挟むようにして馬上に腰掛けていた蔵人が、ドミニク
378
の頭上の耳がせわしなく小刻みに動くのを見て違和感を覚えた。
なんだ、妙だな。
吊り橋の手前まで馬を進めた時、それは起こった。あらかじめ、
備えていた蔵人の動きは素早かった。シズカとドミニクを両脇に抱
えこむと、後先考えずに飛び降りた。
ほぼ同時に、林の中から大振りの戦斧が飛来した。巨大な斧は、
栗毛の馬体ごと真っ二つにすると、鈍い音を立てて大地に突き刺さ
った。
﹁ったく、いまのをよけるとは、クランド。おまえはどこまでオレ
さまを楽しませてくれるんだよ﹂
ギリーはあらかじめ迂回しながらゆっくりと蔵人が来るのを雑木
林で待ち受けていたのか、その表情にはいまだ自信が満ち溢れてい
た。
﹁もう半分もやられちまったか。特にそっちの小娘の方が危険のよ
うな気がするなァ﹂
馬上から降りたシズカはもう動き回ることはできない。ドミニク
に半身を支えられながら、ゆっくりと吊り橋に向かって移動するが、
入口はふたりの男が槍を持って固めていた。
ギリーは落ち着いた足運びで巨大な戦斧を拾い上げると、片手を
上げて子分たちを散開させた。男たちは扇状に蔵人たちを取り囲む
と、じわじわと輪を縮めていく。
蔵人は周囲に意識を飛ばしながらも、茂みの奥に隠れている人物
に声をかけた。
﹁そろそろ隠れてないで出てきたらどうなんだい、奥さん﹂
茂みに隠れていた人物は一瞬、逡巡したが意を決したように藪を
こぐと、蒼白な顔色で姿をあらわした。
アルフレッドの妻、ヘレンと名主のフェデリコだった。
﹁やっぱり、あんただったんだな。その盗賊野郎に聖剣の情報を流
したのは﹂
﹁それが、どこがいけないっていうのよ﹂
379
ヘレンは開き直ったように叫ぶと、ギリーに駆け寄って身を寄せ
た。
名主のフェデリコはヘレンの行為を信じられないという風に見る
と、嫉妬を滲ませた声で罵倒した。
﹁ちょっと待て、これはどういうことなんだ、ヘレン。さあ、こっ
ちへ!﹂
ヘレンは、良妻賢母の仮面を脱ぎ捨てると、くすくす忍び笑いを
漏らしながら、ギリーの巨躯にしなだれかかった。
﹁いやですよ、誰があんたなんかに﹂
﹁ヘレン!!﹂
﹁と、いうわけだ。悪いなフェデリコ。この女はおまえの留守に頂
いちまったぜ。いや、最初は無理やりだったんだがな、一度抱いち
まうとこの女はよ、オレさまのイチモツが気にいっちまったみたい
でな。それからは毎日腰が抜けるほど楽しませてもらったぜ﹂
﹁そんな、そんな馬鹿な話があるはず無いだろう! ギリー、わた
しはおまえを半年近くもかくまってあげたじゃないか! その恩を
仇で返そうっていうのかい! あんまりじゃないか!﹂
﹁しかたがないんですぅ、名主さま。ヘレンは、男らしい方には逆
らえないんです。ギリーさまにはじめて無理やり抱かれた時は悲し
かったけど、でもそれが間違いだって気づいたの。ギリーさまは一
晩に少なくとも十回は注ぎ込んでくれるのに、名主さまはたった一
回、しかもふにゃふにゃ。これでは、男として愛するのが不可能だ
ってわかったんです。それに、この村にいるのはもう限界。あの、
アルフレッドについてきたのだって、屋敷から抜け出せばなにか面
白いことがあると思ったのに。来る日も来る日も、不能野郎とガキ
の世話で頭がおかしくなりそうっ。こんな村にもう一瞬たりともい
たくないのよっ。もううんざりなのっ。アルフレッドの剣を売った
お金でギリーさまと都に出ておもしろおかしく暮らしてみたいのっ。
まだ、私は二十五なんだからっ。人生を楽しんだっていいじゃない
のっ﹂
380
﹁ヘレン、それじゃあドミニクはどうするんだい﹂
﹁もう、あんなのいらない。欲しいなら誰でも持って行ってちょう
だい﹂
﹁なんてことをいうんだっ!﹂
﹁あら、いまさら善人ぶるのはやめてよ。名主さまだって、さんざ
ん人妻の私をもてあそんでこの期に及んでお説教。そもそも、あん
な混血がいるからこの村でも散々いやな思いしたんじゃないのっ。
馬鹿馬鹿しいっ﹂
母親の言葉の意味をすべて正確に理解していないだろうが、それ
でもひどいことをいわれていると理解したのだろう。
ドミニクの表情が紙のように真っ白になり、小さな両の拳が強く
握り締められた。
﹁混血だとかそうじゃないとか、ドミニクには関係ないだろうがっ。
例え私が正しくなくても彼は、ドミニクはこの村で産まれたこの村
の人間だ! 絶対に傷つけさせないぞっ!﹂
フェデリコは、ヘレンとギリーから離れると、ドミニクをかばう
ようにして蔵人たちの前に立って両手を広げた。ギリーはいままで
のふざけた態度を一変させ、背筋を伸ばすとしわがれた声を出した。
﹁そいつは本気でいってるのかよ、なあ﹂
﹁ああっ! 本当だとも。これ以上この村では誰もおまえたちのよ
うな無法者に傷つけさせたりはしない。この村の人間は、名主の私
が守ってみせる﹂
フェデリコは、頭の頭巾を深くかぶり直すと、再度強く断言した。
ヘレンは、ギリーの首元に両手を回すと蠱惑的な声でそっと囁い
た。
﹁ねえ、ギリーさま。あいつら、早く殺してよ﹂
ギリーは瞳をすうっと細めると、首を小さく振って大きくため息
をついた。
﹁殺れ﹂
蔵人は目前に迫る殺気を無視して、ドミニクの顔を覗き込んだ。
381
だが、彼の瞳はじっと深い悲しみをたたえたまま微動だにしなか
った。ドミニクは、両手で大事そうに抱えていた白鞘の聖剣を蔵人
に渡すと、唇を噛み締めた。
﹁いいのか﹂
ドミニクはなんのためらいもなく大きくうなずいた。
﹁その剣は、兄ちゃんにあげる。父ちゃんの仇を討っておくれよ!﹂
甲高い泣き声にも似た叫びが反響した。
ヘレンの表情が、くしゃくしゃの紙のように歪んだ。
蔵人は、鞘を払って剣を抜き放った。輝くような白い刀身が、陽
の光を浴びて真っ白に染まっている。白鷺の銘に恥じない美しさだ
った。
蔵人たちに向かって、男たちが殺到する。
長剣がぐるりと真円を描いた。
﹁ぐうおっ﹂
﹁ぎあああっ﹂
﹁がひっ﹂
手応えをほとんど感じず、相手の身体をまるで溶けたバターのよ
うに容易に切断した。
三人の男たちは、それぞれ喉笛、脇腹、顔面を引き裂かれ、熟し
た柿のような断面を見せながら絶命した。
﹁これが、白鷺。確かに名剣だ﹂
蔵人は、外套を羽ばたかせながら、橋の前で陣取る男たちに飛び
かかった。
﹁うおっ、このオレを誰だと思っている。疾風の︱︱﹂
口上をいい終わる前に、蔵人の長剣がすっぱりと腰の辺りを両断
した。
男は、自分の腹から噴き出す臓物を抑えようと手を伸ばすが、口
元からせり上がる血糊を吐き出すとその場に倒れて動かなくなった。
﹁名主さん。ドミニクとシズカを連れて吊り橋を渡るんだ!﹂
﹁お、お頼み申します﹂
382
フェデリコは、シズカを背負うとドミニクを連れて老朽の激しい
吊り橋を渡り始めた。
ここを突破されると思っていなかったのか、村から反対側の入口
には人員がさかれていない。蔵人にツキはわずかばかり残っていた。
﹁おいおい、クランド。聖剣をなんてぇ乱暴に扱うんだい。そいつ
の価値が落ちちまうだろうが﹂
ギリーはヘレンを従えたまま、口元を歪めた。
酷薄な顔つきだった。
﹁どっちにしろ、おまえの手には入らねえ﹂
﹁減らず口を叩きやがる。やれっ﹂
ギリーは太い指で吊り橋を指し示すと、七人の子分を追わせた。
ちょうど、蔵人とシズカたちは敵に分断された格好になった。
大柄なフェデリコがシズカを背負ったまま、所々羽目板の朽ちた
橋を後ろ向きにゆっくり下がっているのが見えた。蔵人はギリーを
含めた六人の男に囲まれている。早々に撃破して、助けには行けな
かった。
蔵人はギリーと戦う前に、仲間の安否を気遣うはめに陥った。戦
闘においてそれのみに専念できないのは、精神の集中を欠き、大き
な痛手である。
幾つか幸運だったのは、植物のツルで造られた原始的な釣り橋は
大人がひとり通るのがやっとという細さである。これなら、男たち
は一度に襲いかかることができない。フェデリコの体格からいって、
シズカを橋の出口で下ろしてしまえば、そう簡単に男たちが組み伏
せることは不可能であろう。
もうひとつは、蔵人が隠しておいた曲刀をどうにか探し当てて、
シズカが手にしているということだけだった。
フェデリコがシズカとドミニクを上手く橋の出口側に避難させて
いる間に、ギリーと残りの盗賊たちを倒すしかない。
不可能に近い。それでも、命をかけて成し遂げねばならなかった。
剣を握る拳に力がこもる。きらめくような青空には、東から荒く
383
れ馬のような速度で黒雲が押し寄せて光を遮断した。日本とは違い、
ほとんど夏であっても、異様に湿度が低い。
乾ききった風で喉が激しく痛んだ。唇が乾ききっている。緊張の
ために流れた汗で、前髪が額にへばりついた。
﹁よそ見している暇があるのかよぉお﹂
蔵人は、ギリーの言葉に応じず、まず一番近くの男へと踊りかか
った。長剣が、白く輝きながら曲線を構成した。男は一合目をなん
とか受け止める。高い金属音が響いた。男は後方にのけぞり、たた
らを踏んでバランスを崩した。
敵を倒すには、最初から一撃で決める必要もない。
蔵人は、頭から飛び込むようにして低く身をかがめると、低い位
置で剣を小刻みに動かした。剣は男の膝頭を割って血飛沫を上げた。
隣の男が、大声を上げて剣を振り下ろす。
蔵人は地面を転がりながら、左手に剣を持ち替えると鋭い突きを
放った。銀線は真っ直ぐ伸びると男の脇腹に深々と差し込まれた。
ぐいと力を入れて引き抜く。抵抗は微塵もない。
以前の長剣なら引き抜くたびに血や脂がまとわりつくのだが、白
鷺は清流に刃を泳がせたように、曇りひとつない刀身をきらめかせ
ていた。
﹁どけえっ!﹂
我慢の限界が来たのだろう。ギリーは、獅子頭から鋭い牙を突き
出し、獣のそのもののように低い唸り声を上げながら、長さは三メ
ートルもあろうかという長大な戦斧を水車のように頭上で旋回させ
た。谷を渡るような烈風に似た轟音が響き渡る。凡夫ならばこの音
だけで身がすくんで戦意を喪失させるだろう。ギリーは獰猛な笑み
を刻みながら、一歩づつ前に進んでいく。
蔵人は剣を片手で水平に構えたまま、徐々に後退していった。羽
目板を擦る音がギッと鳴った。谷を渡る風が突如として後方から勢
いよく吹きつけてくる。背筋から汗が伝って流れ、知らずうめき声
をもらした。
384
ギリーの後方に視線を送る。隠れるようにしていたヘレンの顔が
こわばっていた。蔵人は忘れていたことを思い出すと同時に、ひと
つの思案が脳裏に浮かんだ。
﹁奥さん、アルフレッドからの頼まれごと、ひとつだけ思い出した﹂
﹁え﹂
ヘレンは当惑しながら一歩後ずさる。怯えの色がいっそう濃くな
った。
蔵人は左手で胸元の懐紙から、いまわの際にことづかったアルフ
レッドの遺髪を掴み出した。
﹁こいつを、愛した妻に渡してくれと。けどな! 誇り高き騎士が
求めた貴婦人は、もうどこにもいやしねえぜ!﹂
握った手のひらを大きく開く。
アルフレッドのたてがみは、烈風に煽られて曲線を描くようにギ
リーとヘレンに降りかかった。不意に、黒雲の切れ間から差した陽
こんじき
光が、ひとすじの道をかたちづくった。
きざはし
たてがみは、まるで金色の橋をかけたようにきらめきながら、天
の階を駆け上がった。
﹁うおおおっ﹂
ギリーは不意に顔面に叩きつけられた金色のたてがみが目に入り、
視界を失った。
持っていた戦斧のバランスが崩れる。方向を見失った斧は、そば
のヘレンの胸元を叩き割ると血飛沫を飛散させた。怒号と悲鳴が耳
を聾するほど響き渡った。
それを見逃す蔵人ではない。外套を蝙蝠のように羽ばたかせると、
狙いを定めた一撃が流星のように走った。
﹁がああああっ﹂
蔵人の長剣は深々とギリーの右目を抉り取ると、続けざま垂直に
振り下ろされ、そのまま右の胸元から左の腰まで斜めに銀線を描い
た。
ギリーは巨体を崩して片膝を突いた。多量の鮮血が右半身を赤々
385
と濡らしている。
﹁血塗れギリーってふたつ名は、てめぇの死にざまのことかよ! 笑わせるぜ!!﹂
﹁くそがあああっ!!﹂
蔵人の罵倒は覿面に効果を発した。
ギリーは怒りに全身を燃え上がらせて戦斧を盲滅法に振り回すが、
その凶刃は付近の男たちをことごとく傷つけることに終始した。
﹁ぶんぶん唸るだけで、てめぇはカトンボ以下だ!﹂
もはや、ギリーの頭の中に戦況をどうこう考えるゆとりも理性も
存在しなかった。
橋へ向かって後ろ飛びに跳ねる蔵人を両断することしか脳裏にな
い。
それは、完全に思考停止であるとともに、ギリーが死地へ誘い込
まれているという事実にほかならなかった。
村の唯一の吊り橋は、朽ちた橋板が渡してあるだけで補修などは
ここ何年もしていない。
シズカたちを追い詰めていた七人の男たちは、橋の中央部で蔵人
が後ろ向きに移動してくるのに気づくと、仕留めんがために反転し
た。
自然、蔵人は男たちとギリーに挟まれて攻撃を受ける形になった。
腹背に剣を受ける形になった蔵人を見て、シズカは顔面を蒼白に
した。
﹁名主、フェデリコといったか! ドミニクだけ出口側に逃せ! このままではクランドが危うい! 助けるぞ!﹂
﹁え、助けるってどうやってですか﹂
ようやく橋の出口まで差し掛かっていたフェデリコは、シズカの
言葉に激しく動揺した。
骨折が完治したとはいえ、シズカは背負われなければ一歩も動け
ない状況である。
フェデリコは力比べならば、並の男には負けない自信があったが、
386
武器を取って戦ったことはただの一度もなかった。
﹁おまえが私の馬になればいい。この橋の上なら、ひとりずつしか
かかってこれない。このままクランドがやられれば勝機はない! 残らずあの化物にやられる! ドミニクを守るといったのは嘘なの
か!﹂
﹁ええ、わかったやります、馬でもなんでもやればいいでしょう!﹂
﹁男ならその意気だ。さあ、あとは私に任せろ。木っ端野党どもに、
本物の騎士の剣を見せてやる﹂
シズカはフェデリコに背負われたまま曲刀を抜くと、向かってく
る男たちに逆擊を喰らわせた。フェデリコは忠実に馬に成りきると、
目をつぶったまま再び吊り橋を渡り始めた。
泡を食ったのは男たちだが、背負われた女ひとりを片付けるのが
楽だと思ったのか、当初の狙い通りシズカに向かって殺到した。
﹁おらあああっ!﹂
﹁このアマぁああっ、切り刻んでやるぅううっ﹂
シズカは呼吸を整えると前傾姿勢をとって曲刀を垂直に構えた。
フェデリコは頭を下げたまま強く瞳を閉じたまま身体をかがめる。
シズカの曲刀が半円を描いた。
﹁あいいいっ﹂
一刀目。
正面から打ち下ろされた銀線が男の顔を走って、真っ二つに両断
した。
﹁ひぎいいっ﹂
二刀目。
水平に薙いだ刃は深々と男の喉笛を両断し、血飛沫を虚空に舞わ
せた。
三刀目。
狙いを定めて直線を走った刃が、男の右目から後方へと鋭く貫き、
脳髄を破砕した。
四刀目。
387
吊り橋が揺れてバランスを崩した男の左胸から右腰までを深々と
両断し、谷底に叩き落とした。
五刀目。
男がかろうじて突き出してきた剣を巻き打ちにして落とすと、返
す刀で首級を跳ね上げた。
六刀目。
逃げようと身体を反転させた男の腰を両断し、上下と半身を分断
させて宙に放った。
七刀目。
剣を捨てて頭を下げ命乞いする男の後頭部を、微塵の情けも残さ
ず叩き割った。
﹁クランド、雑魚は片づけた。あとは任せたぞ!﹂
﹁ああ! 早く行け!﹂
シズカは瞬く間に七人の男を片付けると、フェデリコに背負われ
ながら出口側の崖に避難した。
吊り橋の中央部に残ったのは、ついに蔵人とギリーのふたりだけ
になった。
両者は、片手で吊り橋の綱を握りながらバランスを保っている。
激しく動いたせいで、腐った羽目板のあちこちが外れ、足元の数十
メートルを流れる大河に飲み込まれていった。 ここから落ちれば、
まず生還は不可能だろう。
激流に運ばれて岸壁のあちこちにある大岩に叩きつけられれば身
体中が挽肉になってもおかしくない。
不死の力がそこまで及ぶとは思えなかった。
﹁動くんじゃねぇええぞおおぉおっ。絶対に、殺してやるううぅ﹂
ギリーは片手で戦斧を振り上げると頭上にかざした。信じられな
い膂力である。
ライオス
だが、それが彼の限界だった。
獅子族の戦士として生まれ、ここまで深手を受けた相手もいなか
ったのだろう。ずば抜けた膂力さえあれば小手先の技など通用しな
388
い。
いいかえれば、それだけ自分の力と抜群の破壊力を持つ斧を信頼
していたのである。
︱︱いますぐそれを、ゼロにしてやる。
﹁シズカ! 橋を落とせ!!﹂
蔵人の怒号。
彼は、この声に幾つもの意味を込めたつもりだった。
振り向きはしない。
彼女なら、自分の意味を汲み取ってくれる。
次の瞬間来るはずの衝撃に向かって、吊り橋のツルを握り締めた。
身体が不意に宙に浮く感覚を感じたとき、勝敗は決した。
村の出口側に到達していたシズカが橋を支えていたツルを切断し
たのだ。
結果、限界を迎えていた吊り橋は、あっけなく崩落した。
橋の胴体は村落側の崖に向かって叩きつけられる。
振り落とされないかどうかは、賭けだった。
橋の上に立っていた人物は否応もなく虚空に投げ出されるはずだ
った。
すべてを理解していた蔵人以外は。
橋桁を構成していた朽ち木が宙に舞う。
ギリーの巨大な戦斧が木の葉のように吹き飛んだ。
蔵人は全力を振り絞ってツルに抱きつくと落下してきたギリーと
すれ違う。
勝利の女神は蔵人に微笑んだのだ。
長剣を全力で振り上げた。
すくい上げるように弧を描いた名刀は、その名に恥じぬ切れ味で
ギリーの顔面を真っ二つに断ち割ると、柘榴を割ったような赤黒い
断面を露出させた。
脳漿が飛散した。
ギリーは両手で虚空をつかむように差し出し、断末魔の叫びを上
389
げながら、垂直に落下し、眼下の激流に消えていった。
蔵人とその一行は、吊り橋を迂回して崖を登りきった村の出口で
最後の別れをかわしていた。
﹁その、この度はいろいろとお世話になりました。自分の不行状は、
恥じても恥じきれませぬ﹂
両親の死と激闘を目にしたドミニクは、名主のフェデリコに抱き
かかえられながら、静かな寝息を立てていた。蔵人は、フェデリコ
とドミニクの交互に視線を移しながら尋ねた。
﹁やっぱり気づいていたんだな、あんたは。ドミニクが自分の息子
だってことに﹂
ライオス
シズカは目を見開くと蔵人をじっと見入った。
﹁そんな、馬鹿な、だいたいこの子は︱︱﹂
﹁そうだぞ、クランド。ドミニクは、歷とした獅子族の混血で﹂
ライ
蔵人は、名主のかぶっていた頭巾をそっと指差すと、彼は半ば観
念したかのようにそれをとって見せた。
﹁耳が⋮⋮﹂
オス
シズカのつぶやき。そこには、確かに獣人との混血、しかも獅子
ライオス
族のものを示すたてがみと獣人族固有の耳がそろっていた。
﹁だが、ヘレンの旦那のアルフレッドだって獅子族だ。このドミニ
クが、私の子であるという証拠には﹂
﹁あんた自分に覚えがなくはないのか? まったく?﹂
﹁しかし﹂
﹁それと、もうひとつ。名主さん、あんた随分変わった指をしてる
390
ね。小指がものすごく短い﹂
﹁これは、生まれつきで⋮⋮﹂
﹁ドミニクの手を見てみろ﹂
シズカは寝ているドミニクの手のひらを開くと、右の小指が極端
に短く、薬指の第一関節くらの長さしかなかった。
﹁これは遺伝性短指症といって結構な確率で親から子に遺伝するん
だ。ちなみに、いまわの際にアルフレッドの指も調べさせてもらっ
たが、彼は普通だったよ﹂
﹁そんな、この子が⋮⋮けれど﹂
﹁あんたが人の女房に手を出していたのは胸を張っていえるような
ことじゃない。けど、ドミニクの気持ちが理解できて、この先もこ
の子の力になってやれるのはあんたしかないんじゃないかな。短指
症うんぬんは可能性の問題だが、そう信じて面倒を見れば少しは情
も湧くと思わないかな﹂
﹁例えドミニクに私の血が流れていなくても、この村の子は責任を
持って私が育ててみせます。それで償いになるといえないないけれ
ど。アルフレッドとヘレンが、いやこの子も大人になったとき、私
を許すはずもないでしょうが﹂
﹁だったら、すべて受け入れるしかないだろう。その先どうなるか
なんて、天に委ねるしかないよ。あんたが、あのギリーをかくまっ
ていたって理由はだいたい予想はつくが﹂
フェデリコの表情が悲しげに歪んだ。
もはや、物語は筋を追わずとも残らず推察できた。
フェデリコとギリーは切っても切れぬ深い縁に縛られていたのだ
ろう。
そして、それが悲劇のはじまりであり終わりであった。考える必
要もなく、ドミニクにはこの先過酷な運命が待ち受けている。それ
は、彼自身がひとりで克服していかなければならない道のりであっ
た。今日のように命の危機がなんども来るとも思えない。けれども、
形の見えない過酷さのほうが恐ろしいのだ。
391
蔵人は、フェデリコの顔を正面から見据えた。
そこには、馬小屋で見た暗い陰はなく、なにか憑き物を落とした
ような晴れ晴れさを感じとった。
﹁ま、女遊びはほどほどにな。名主さん、こんどは顔立ちでじゃな
くて、心根のやさしい女を後妻にもらうことだ﹂
﹁これは、また、手厳しい﹂
﹁あと、ついでといってはなんだが、あいつのことも頼みます﹂
﹁ええ。シズカさんのことは任せてください﹂
蔵人はフェデリコへ、所用により妻のシズカを置いて先に行くと
いう方便を伝えると別れを済ませた。
﹁さて﹂
峠の入口へとゆっくりと進んでいく。
所在なげに、小ぶりな石へ腰掛けているシズカが顔を上げた。
﹁行くんだな﹂
弱々しげな口調がより寂しげに見えた。強く引き結ん薄い唇がわ
なないている。黒真珠のようにつぶらな瞳が熱っぽく潤んでいた。
泣き出すのを無理やりこらえている。
いや、目尻には既に涙の雫がキラキラと盛り上がっていた。
悲しみが強く胸に迫った。
蔵人は抱きしめてやりたい衝動にかられながら、身を翻した。
無言のまま、峠路を目指して進んでいく。
足取りは確かで、その背中にはなんの未練もなかった。
シズカは、自分が満足に歩けないことも忘れ、立ち上がると前の
めりに倒れた。
土埃が舞い落ちると、蔵人の背中がどんどん小さくなっていく。 392
﹁待って、待ってよぉ、ねぇ﹂
知らず涙が滲んだ。顔全体が土埃でまみれる。
シズカの胸はこわれそうに激しく痛んだ。
黒のシルエットはやがて、吸い込まれるように深い緑の中に溶け
込んでいった。
もう、痕跡を探すこともできなかった。
ひとりなってしまった。
ひとりぼっちだ。
次に会えば、必ず命のやり取りになる。
それが、暗殺者の運命であり、背負った家名の重さだった。
生まれてはじめて愛した男を殺す。なんという皮肉だろうか。
自分の死を選ぶことすらできない。
命すら自由にできない枷に、恐怖した。
空虚さのあまり頭がどうになりそうだった。
﹁私がおまえを殺すんだ。だからそれまでは、ぜったいに死ぬな。
死んじゃだめだ。⋮⋮死なないで﹂
シズカは、蔵人の姿が消えてもずっと峠路を見つめていた。
いつまでも。
ずっと。
393
Lv25﹁蒼き宝石﹂
クリスタルレイク。
冒険者の街シルバーヴィラゴから向かって東側に存在する巨大湖
である。
湖面の透明度はおそろしく澄んでいて、空の青を溶かしこんだ輝
きは、宝石のように美しい。
別名、蒼の宝石と呼ばれていた。
ロムレス第一の面積を誇るこの湖の広さは、約四十万平方キロメ
ートルで日本総面積をすっぽり入れてもお釣りがくるほどだ。
湖の東南側には高度八千メートルを誇る竜王山がそびえ立ち、西
北方面にはダークエルフの領土である、入らずの森がぐるりと覆っ
ている。
つまり対岸のシルバーヴィラゴへ行くには、水路を進む方法以外
に、異民族の蛮地を進むか高山を踏破するかの二種の選択肢しか存
在しないのであった。
入らずの森は、文字通り入ってしまえば二度と戻れぬといわれる
蛮族の土地であり、竜王山は強力な怪物が猖獗を極めている危険地
帯である。
好んでこのふたつの道を選ぶ人間は存在しなかった。
自然、人々は水にたずさわって生き抜くことを強いられた。
古来より、陸路を行くよりも水路を使って移動する方法が何倍も
有利である。
この湖にも、はじめは廻船業者が商売を始め、それに付随して、
船乗り、宿屋、飲食業、賭博屋、売春婦、掃除婦、小間物屋などあ
394
らゆる階層の人間が集まり、ひとつの集合体としての街を構成して
いった。
湖畔の周囲には必然的に大小の港町が誕生し、その中で、もっと
も大規模な港湾都市がこのセントラルリベットであった。
セントラルリベットの中央通りには、宿屋が多数点在していた。
宿屋の周囲には、王国各地から集まってきた旅人たちが、早朝に
出るシルバーヴィラゴ行きの船を待つ間にぽっかりと空いた夜の時
間をつぶすための酒場が無数に存在していた。
﹁お客さん、もうそれくらいにしておいたらどうなのさ。明日の朝
は船で早立ちするんでしょう。起きれなくなったらどうするんです
か﹂
とある場末の酒場の一角で、ひとりの男が酔いつぶれていた。
歳の頃は二十歳前後だろうか、長く伸び放題な髪が肩までかかっ
ていた。
真っ黒な外套で全身をすっぽりと包んでいる。それは、長い旅の
道中で、塵埃にまみれて色が薄れかかっていた。
男の顔は浅黒く、驚くほど眉が太かった。全体的に面長で無精ひ
げが木こりのように顔全体を覆っていた。頬は削いだようにこけて
いる。鼻はがっしりと男らしい部類だが、眠たげな瞳がなんなくと
ぼけた雰囲気を醸し出していた。上下の麻でできた服は汚れきって
いるが、腰に落とし込んだ長剣の鞘だけが新雪のように白く異質で
あった。
﹁うるせー、おかわりだボケが。とっとと持って来い、このバーゲ
ンセール女が﹂
﹁ばーげんせーる? あーはいはい。もうそろそろ看板ですからね、
うちは。とっとと宿に帰ってくださいな﹂
男が聞き慣れない言葉を使ったが、所詮は酔っぱらいの繰りごと
である。
酒場の娘は、まるで意に介した様子も見せず、男のテーブルから
食い散らかした食器を下げようと近づくと小腰をかがめた。
395
﹁んきゃあああっ﹂
甲高い悲鳴が娘の口からもれる。残っていた周りの酔客がいっせ
いに声の方角に振り返ると、汚れた食器が音を立てて床に音を立て
て散乱していた。
娘が近づくと同時に男の手が女の尻を撫でたのだった。
﹁尻の張りが悪いな。少しは鍛えたほうがいいぞ﹂
蔵人は酒瓶を逆さまにすると大口を開け、最後の一滴まで飲み干
そうと舌を伸ばす。瞳は酒精が完全にまわっており、うさぎのよう
に紅に染まっていた。
﹁おとーさあんん﹂
娘は泣き喚きながら、お盆を抱えたまま調理場に駆け込んでいっ
た。
数分後、調理場から娘をキズモノにされたと勘違いした主人が、
屈強な五人の男を引き連れて飛び出してきた。
彼らは、酔いが回ってほとんど動けない蔵人を存分に殴る蹴るし
て溜飲を下げたあと、ゴミクズのように表の通りへと放り出した。
夜が深まったとはいえ、港町の宿場大通りは、火を落とさず営業
をしている店が多数あった。通りをゆく人々は、これからもう一軒
ハシゴするか、それとも色町に繰り出すかで笑い、さざめきあって
いた。
﹁おい、あの馬車見ろや。随分豪勢じゃねえか﹂
﹁おう。あれは、確か豪商シャイロック商会の持馬車だそうだ。見
ろよ、ちょっとしたお貴族さまってとこか﹂
﹁バカいうな。いまどきの貧乏貴族じゃこれほどのもんはあつらえ
やしねえよ。八頭立ての馬車が途切れもねえ。聞いた話によると、
このどれかに、会頭のリドリー・シャイロック本人が乗ってるって
話だ。なんでも、今夜の特別船でシルバーヴィラゴに向かうらしい﹂
﹁さすがシャイロック商会の会頭ともなれば張り込み方が違うわな﹂
﹁オレたちのような貧乏人と違って、船底にぎゅうぎゅう詰めにさ
れるなんてこともねえだろうし。ちきしょう、うらやましい限りじ
396
ゃねえか﹂
﹁あの、ズラズラ続く兵隊たちは、みーんな商会お抱えの傭兵って
わけか﹂
﹁いんや。聞いた話によると、シャイロック商会は、そんじょそこ
らのお店とは違って、いちいち期間決めの傭兵なんぞ使わずとも、
子飼いの私兵を五千から常時養ってるらしい。下手な野盗や貴族が
手ェ出せば逆に皆殺しにされちまうって寸法よ﹂
﹁おい、続けて随分艶のある馬車が続いてるじゃねえか。なんだい、
ありゃ?﹂
﹁ありゃ、商会が各地で集めた高級奴隷がわんさとつめられてるら
しい。近々シルバーヴィラゴでかなり大きな奴隷市が立つからな。
どれもこれも、その辺りのお姫さまじゃかなわねえくらいの美人ぞ
ろいらしいぜ﹂
﹁へー、いったいひとりいくらくらいで買えるものなんでえぇ。お
いらも、ウチのカカァにゃ飽き飽きしてるところだ。ひとつ土産に
買って帰るってのも乙なもんじゃねえか﹂
ポンドル
﹁まったくおまえは、ガキの頃からのなじみだが、頭ん中は変わら
ずからっぽだなぁ。高級奴隷はどんなに安くても、最低百万Pはく
だらねえって話だ。オレたちに手の出るシロモノじゃあねえよ﹂
ポンドル
﹁ひえええっ。そんだけありゃ、高級女郎が死ぬまでに好きなだけ
買えるぜ。三百P出せば、切店で一突きは遊べるってのに。いった
い、どんなお大尽がそんな道楽につぎ込むってんだい﹂
﹁ま、オメエさんに買えるのは場末の女郎か、それとも中古の値が
安い使い古しの奴隷くらいだろう。いいトコ三十近い年増だな。商
会の奴隷はオレたちにゃとうてい手の届かねえもんなんだよ。話の
タネに顔のひとつでも見せてくれりゃあ、さいわいだがなぁ﹂
旅人たちの噂話を尻目に、大通りの石畳で造られた道を、シャイ
ロック商会の馬車が何十と船着場に向かって進んでいく。ロムレス
の規定では、夜間に湖を渡ることは通常許されないのだが、商会の
力の前ではあって無きのごとくであった。
397
八頭立ての巨馬が引く馬車は、それぞれ豪奢な彫り物が施されて
おり、模様には銀や宝石が色とりどりに散りばめられている。庶民
なら、かけらを売っただけでも死ぬまで食っていけそうな富が凝結
していた。馬車の一台一台には、鋼鉄の鎧で武装した兵隊たちが大
身の槍と盾をかざして整然と守っている。整然と隊伍を組んだ彼ら
は目を光らせて緊張をあらわにしていた。
不意に、先頭の馬車が歩行を中断した。どうやら、道の真ん中に
酔いつぶれている男がいるのを発見したらしい。
男は、道の真ん中で両手を広げて熟睡している。街の人々は、男
の暴挙に身をすくませながら、それでも視線だけは好奇心を輝かせ
て、成り行きを見守っていた。
﹁どうしたのですか、急に道の真ん中で止まったりなどして﹂
﹁申し訳ございません。どうやら酔漢が道を塞いでいるようでして。
すぐさま排除します﹂
﹁いやいや、乱暴をしてはいけませんぞ。どんな人間が、いつ我が
商会のお客さまになるかわかりませんからな﹂
﹁は、心得ました﹂
ロムレス一の大富豪にて、商会を一からつくりあげた豪商リドリ
ー・シャイロックは、ゆったりとした口調で鷹揚にはやる手代を諭
した。
やれやれ。
何しろ、彼ら若い手代はリドリーの前に出ると、いついかなる時
も、自分の功績を見せようと先走るきらいがある。リドリーの名は
知らなくても、姓の方であるシャイロックをロムレスで知らない者
はいなかった。故に、これ以降、彼のことはシャイロックと表記す
る。
今年で、齢五十五になる彼は、ふうとため息をつくと、馬車の中
で静かにしている数人の女性に視線を移した。彼女たちはいずれも
粒ぞろいの美女ばかりで、当然奴隷商人であるシャイロックの商品
である。自分と同じ馬車にわざわざ載せている彼女たちは、中でも
398
買い手の決まった特別だった。
ただ、ひとりを除いては。
法律により、売買奴隷を王侯貴族しか乗れない八頭立ての馬車に
同乗させることは許されていない。ゆえに、彼女たちは形上はシャ
イロック家の使用人ということになっており、全員お仕着せの服を
着せられメイドの風を装っていた。
﹁なにか気になりますか、ポルディナ﹂
中でも、ポルディナと呼ばれた亜人の少女の容姿は特別際立って
ウェアウルフ
いた。
戦狼族特有の犬耳と、尻に生えているふさふさした尻尾以外はほ
とんど人間族と同じだった。
上品な栗色の髪は肩口で切り揃えられていた。
顔立ちは全体的に品良く整っており、やや冷たすぎる美貌に凄み
があった。
大きな瞳は黒真珠のように輝き、吸い込まれそうなほど美しい。
雪のように白い頬に、健康的な赤い唇が映えていた。張り出した胸
は大きく白いエプロンドレスがやや窮屈そうである。細く整った眉
が意志の強さをあらわしているように見えた。
ポルディナが売られた経緯はやはり民族間による戦争が関わって
いた。
奴隷であるといっても、一流品はやはり手のかけ方が違う。シャ
イロックが馬車に同乗させている彼女たちは、一流の礼儀作法から
家事や社交術、文字の読み書きから夜の奉仕まで徹底的に叩きこま
れた文字通りのワンオフ品である。奴隷として売買された女が購入
側に愛想よく振舞えといっても無理があるだろうが、時間の経過と
共に心を開いていった他の娘と比べて彼女は徹底的だった。
シャイロックは、商会においては王と同等の権力を持っていたが、
彼女のこころをとうとう最後まで開かせることができなかった。
商品に最後まで責任を持つ彼としては、予想外の結果であるとい
える。このまま、彼女を奴隷市にかけたとしても、購入相手にまっ
399
たく心を許さなければ、本末転倒である。
たいていの女は来るところまで来てしまえば、腹を据えていかに
主人と仲良くやっていこうか考えるものだが、ポルディナは違った。
シャイロックは思う。おそらく彼女は、自分が心の底から認めた
人物でなければ魂から忠誠を尽くして仕えることはないだろう。つ
まり、シャイロックは己の奴隷商人としての誇りにかけて彼女が認
めることのできる人物を探し出さなければならないのである。
それは、すなわち彼女が仕えるに足る高潔さと財力の両者を兼ね
備えている必要性があった。これから行う営業はほとんど利道から
外れているといえる。
だが、中途半端な状態で手塩にかけた逸品を売り払うことは、己
の存在に懸けて容認できないのであった。
ポルディナはたぐいまれなる美貌と高い知能、おまけに強い意志
を持ってこちらの教えた技術をすべて習得し終えた。すべて受動的
なものだったとしても。意思のない人形ではない。だが、彼女が外
界に関して興味が薄いことも事実であった。
その彼女が、はじめてなにかに強く興味を惹かれた素振りを見せ
ている。
シャイロックは、ひとつこの少女に小石を投じ、波紋を広げてみ
たかった。手ずから馬車の扉を開けて、うながす。
﹁気になるなら、自分の目で確かめてみたらどうですか。案外、簡
単に見つかるかもしれませんよ。あなたの探しているものが﹂
会頭はなにか勘違いをしている。
ポルディナは小鼻を動かしながら馬車のタラップを降りた。
湖面の冷気を運んだ風が吹き渡ってくる。頭上の白いヘッドドレ
400
スを手で押さえながら、臭気の元に近づいてみる。
そこには、まるでボロ雑巾のようになった男が酩酊状態で低くう
なっていた。
ウェアウルフ
これだ、さっきから気になっていたのは。
戦狼族の嗅覚は、人間族の百万倍に達し、とりわけ哺乳類の汗や
体液などにある酸臭については敏感だった。
ポルディナは愚かではない。会頭が自分になにを期待しているか
完全に理解していた。
だが、ダメなのだ。なにひとつ、こころが動かない。自分を買お
うという何人もの貴族に引き合わされたが、どれもいまひとつピン
とこなかった。礼儀作法から、夜の奉仕までひと通りレクチュアを
受けているが、心底尽くせるかと聞かれれば、否としか答えようが
なかった。
ポルディナの部族は、王軍との戦闘に敗れ、厳しい賠償条件を呑
まされた。ポルディナを含め、多数の女が奴隷として叩き売られ、
金銭に変えられたのだ。人間そのものに対しての怒りや不安感は極
めて大きいが、シャイロック商会に売り払われたのは僥倖だったと
いえよう。
村に居た時よりも、はるかにすぐれた教育を受けることができ、
たぶん一生口に入らなかったはずの美食を口にし、一国の王女が着
用するような高価な服を着回すことができた。
奴隷に堕ちた自分風情がここまで厚遇されたのは、自分という商
品に付加価値を付けてより良い値で売るための努力に過ぎないと分
かっていても。
奴隷に意思などなく、売られた先の主人にすべてを託して生きて
いけば良い。
自分で主を選びたいなどとわがままをいえば、バチが当たる。
ポルディナは、目の前に転がっている浮浪者のような男を見るに
つけ、どうしようもなく憐憫の情が湧き上がってくるのが不思議で
ならなかった。絹の服を着て美食に舌鼓を打ち、なおかつ奴隷の分
401
際で主人まで選定しようとする自分。おそらくは、なにも持たない
が故に自由である目の前の男。
会頭がいった面白いものとはこのことだろうか、と思う。大体が
変わり者だし、彼は世界に夢を見すぎている。
ポルディナは別にこの男に興味があって外に注意を向けていたわ
けではない。
とんでもない臭気へ反射的に反応してしまっただけだ。
だが、あの少年の心を持った商売人は、どんなささいなことにす
ら意味あいをつけて夢想したがる。
︵とりあえず、会頭の気がすむように振舞ってみましょう︶
ポルディナは、浮浪者に歩み寄ると微妙な距離感で様子をうかが
った。背後には護衛の兵士が顔をしかめながら佇立している。夜と
はいえ、街の灯りで十分に視界は確保できた。
﹁ん、んんん、んふふ﹂
男は、泥酔したまま寝言を呟いている。力が有り余っているのか、
仰向けになった股間が硬く屹立している。
実に楽しそうな寝顔だった。
﹁ひ!﹂
ポルディナは悲鳴を上げそうになり、咄嗟に口元を両手で抑えた。
男は寝返りを打つと、ポルディナの右足へと抱きついてきたのだ。
﹁おいいいっ、ふざけんなあぁ! この腐れ浮浪者がぁあっ! ウ
チのモンに気安く触れるんじゃねえ!!﹂
顔を真っ赤にした若い護衛の兵士が、槍の石突きで打ち据えよう
と腕を振り上げる。
﹁待ってください﹂
ポルディナは、咄嗟に声を出して兵士の動きをとめた。
兵士はどうして止めるのかと顔をしかめるが、ポルディナと視線
が合うと夜目にもわかるほど頬を紅潮させた。
﹁美しくて、気立てもいいなんて、ちきしょう。犯罪だぜ﹂
兵士の小さなつぶやきをポルディナのすぐれた聴覚がとらえる。
402
正直どうでもよかった。
ポルディナは朝からの長距離移動で疲れきっていたし、早く馬車
に戻りたい気分でいっぱいだった。兵士に頼んで、水差しを用意さ
せると、かがみこんで男の手を足から引き剥がす。自分でも、なぜ
このような酔漢に丁寧な対応を取っているか理解できない。
いや、故郷の父のことを知らず、思い出していたのかもしれない。
ポルディナの父は、生前、弱いくせに必ずつぶれるまで飲まねば
気がすまない、極度の酒好きだった。母と力をあわせて酔いつぶれ
た父をよく寝所に運んだ記憶がよみがえる。 種族も歳もまるで違う男を見ているうちに、自然に憐憫の情が湧
いたのだろうか。自分でも不思議だった。正直なところ、売却され
てから男性に興味を持ったのは初めてだった。
﹁ん、ぐおぅ﹂
﹁さ、飲みなさい。少しづつです﹂
男の頭を起こして上げると、口元に手ずから水差しを寄せて飲ま
せる。青年の顔は、汚れてはいたがどことなく愛嬌のあるものだっ
た。
﹁もうそれぐらいで、いいにしやしょうや。ほら、旦那がお待ちで
すぜ﹂
兵士の顔が嫉妬で醜く歪む。
ポルディナが、水差しを置いて立ち上がろうとすると、先程まで
熟睡していたはずの男が、バネじかけの人形のように上半身を起こ
した。
なにをするのか、とポルディナは考える余地もなかった。
﹁っ!?﹂
男はあたりまえのように顔を近づけると、ポルディナにくちびる
をあわせた。
﹁んんんっ! んんむっ﹂
ポルディナは身をよじって逃げようとするが、男のたくましい両
腕は背中にがっしりとまわされて固定されている。酒精の匂いと、
403
混乱と、羞恥心が一挙に襲ってきた。
戦狼族であるポルディナの膂力は通常の人間族の男など及びもし
ないほど強靭である。だが、この時ばかりは不思議なくらいに力が
抜けて、身体が蕩けるようにふにゃふにゃだった。
﹁うおおおおっ!! なにやっとんじゃああ、このチンカスがああ
あっ!!﹂
拘束は一瞬で解かれた。怒り狂った兵士たちが男に殺到すると、
猛烈な勢いで殴り始めたのだ。
﹁死ねええええっ!﹂
﹁貧乏人がっ、貧民がっ、最下層民がっ、ドブネズミがっ!﹂
﹁おらああっ、ハラワタ引き裂いて車輪に巻きつけてやるぅうっ﹂
屈強なよりすぐりの男たちが、槍や盾を振り回しながら酔漢をメ
ッタ打ちにしている。ポルディナは口元をおさえながら走り出すと、
馬車のタラップを駆け上がって、元の席に座り込む。すぐ横では、
会頭のシャイロックが膝を打ち鳴らしながら、さもおかしそうに哄
笑していた。
﹁いやー笑った、笑った。実におかしい。ここまで笑ったのは何年
ぶりでしょうか。いや、今夜は最後の最後でいいものを見せていた
だきました﹂
﹁会頭、笑い事じゃないですよ。ポルディナはウチが手塩にかけて
育て上げたいわば娘みたいなもんですぜ。それをあんな酔っ払いに﹂
同じ馬車に乗り込んでいた、番頭のアントンがくちびるを突き出
しながら不平を漏らす。
アントンは、商会一のキレ者でシャイロックの懐刀と呼ばれてい
る。今年で三十五になる油の乗り切った年齢だった。
﹁今日のような遊びをシルバーヴィラゴで度々されちゃあたまりま
せんよ。お店に傷がつくばかりじゃすまされません﹂
﹁あいも変わらず堅いことばかりをいいますね。アントン、おまえ
さんにはまだ、少し遊びが足りませんね。そんなことじゃあ、まだ
一人前になったとはいえませんよ﹂
404
﹁会頭、またそういう屁理屈を。あたしゃ、商いをやってる時が一
番楽しいんで。そもそも、高値のついてる娘たちを、気分転換だな
んだでポンポン表に出されちゃ困りますよ﹂
﹁おいおい、売り物とはいえ、彼女たちだってたまには外の空気を
吸わなきゃ気がおかしくなってしまいますよ。なあ、おまえたち﹂
商会の主直々に聞かれ、周りの女たちは苦笑を浮かべる。パッと
見は、美しい側仕えにしか見えないが、彼女たちの首には奴隷であ
ることを示す、シャイロック製の燦然たる豪奢な首輪がきちんと嵌
めこまれて、夜の淡い光を反射していた。
﹁おや、怒りましたかな。ポルディナ。はは、でももしかしたらさ
っきの男が、あなたの主人になるかもしれませんね﹂
﹁会頭!!﹂
﹁おぉ、怖い﹂
間髪入れずにアントンの怒声が馬車内に響き渡る。これではどち
らが主で、どちらが雇われものかわからない状態だった。
アントンは若い手代をどやしつけると、早々に馬車を出させた。
ポルディナは無表情のまま、くちびるを指先でおさえ、窓の外に
流れる景色を見入っていた。湖畔が近づいてきたのか、水の匂いが
濃くなった。
﹁ね、ポル。ハンカチと水差し、いる﹂
ポルディナの真横に座っている娘が、気の毒そうに声をかけた。
が、目は笑っている。彼女たちは所詮奴隷女であるが、それぞれが
ロムレスの大貴族へと身請けが決まっていた。
唯一、買取先が決まっていないのはポルディナひとり。
奴隷は奴隷でそれぞれの首輪自慢をする。たとえ、それぞれの事
情があって売られたにせよ、女として低く値をつけられるのは我慢
ができない。彼女たちは自分がひときわ美しいということに誇りを
持っていた。
美しい容姿、美しい仕草。一流の礼儀作法に、夜の奉仕の技術。
とかく差をつけたがる彼女たちにとって、ポルディナは敗北者で
405
あり、気遣って見せたのも勝者の余裕だった。
ポルディナは、首を横に振って辞退すると、ふたたびくちびるを
指先でそっと触れて、自分の初めてを奪った男の顔を強く脳裏に刻
みつけた。
﹁ぼうええええっ﹂
﹁こらーっ、ウチの裏ではくんじゃねぇっ、この酔っぱらいどもが
ああっ﹂
蔵人は、こめかみの血管をぶちきれそうにして怒鳴りつけている
中年男を無視して、石壁に片手をついて、胃の内容物をすべて吐き
出した。
﹁ここにはくなって書いてあるだろうがっ、このろくでなしがっ﹂
中年男が、壁の張り紙に指を指して吠える。蔵人は、真っ赤な目
をこすりながら張り紙に目を凝らすが、やがて両手を頭上に突き上
げへらへらと笑った。
﹁わ、ワリー。俺は字が読めねえんだ﹂
﹁そうだと思ったよ。さ、せめて自分の吐いたもんくらい始末して
いきやがれっ﹂
﹁あー、うん。そうするわ﹂
蔵人は、中年男に手渡されたモップとバケツを受け取ると、自分
の反吐の始末にとり掛かった。
﹁にしても、身体中がいやにズキズキすんなあ。あの店で、変なモ
ンでも飲まされたか? ったく、いきなり目ェがつぶれたらどうし
ようか。ムカつくぜ、ファンタジー世界の分際で﹂
蔵人は、先ほどの奴隷娘とのやりとりをすべて忘れていた。
いわゆる泥酔である。
406
だが、勇者の能力は蔵人の肝臓にも及んでいた。すなわち、酒精
のアセトアルデヒドを猛スピードで分解していくのである。飲み会
ではヒーローになれるが、飲み屋にとっては金の続く限りいいカモ
であった。
﹁さーて、吐いたらスッキリしちゃった。そろそろ下の方もスコー
ンと一発抜いちゃおっかな﹂
蔵人は、両腕をワキワキさせながら、色町らしき場所へと移動し
ていく。
﹁よーし、まーだ銭は余裕があるな。船賃も残しとかないとな﹂
銅貨と銀貨をじゃりじゃりいわせながら袋にしまいこむと、さっ
そく辺りを物色し始めた。
﹁あら、こちら男前なお兄さん。楽しんでかない? アタシの舌使
いはロムレス一よ﹂
﹁ねーん、こんだけでいいよん。サービスするから、寄ってって﹂
﹁きゃっ、かっこいいね、君。あたし、お兄さんみたいに男らしい
方がタイプなの! はいはい、男なら決めた決めた。ムーランルー
ジュのイリスが天国に連れてったげる!﹂
蔵人は、道行く売春婦に両手をとられながら、顔をゆるみっぱな
しにさせてフラフラと千鳥足のまま店を冷やかしている。女たちは、
ひとりでも客をとるためには手段を選ばない。中には、道の真ん中
でしゃがみこみおしゃぶりをはじめようとする豪の者もいる。蔵人
にとっては、ここが探し求めていた別天地だった。
﹁どぅうっふふ。ここぞ、女の迷宮。俺は、迷宮を牛耳る王になる
のじゃ﹂
危うくこの物語の真ルートが解放されそうになったとき、目の前
で大きな騒ぎらしきものがはじまった。
﹁おいおい。そりゃねえだろ、坊さんよ。さんざん遊んどいて、銭
が足りない? 舐めとんのか、ワレぇこらっ!﹂
﹁べ、べべべ別に拙僧は最初からタダ乗りするつもりなどは毛頭な
く、ただ思っていたより楽しさのあまり弾けすぎちゃってー足りな
407
くなっちゃった、みたいな。てへり﹂
﹁てへりじゃねえっ!﹂
﹁あいいっ!?﹂
スキンヘッドは客の腹におもいきり前蹴りをぶち込んだ。客は、
鞠のようにポーンとすっ飛ぶと、塀にぶつかって崩れ落ちる。
女郎屋の前で、用心棒と客らしき男が争っていた。
大柄でスキンヘッドの男が、僧衣を纏った四十くらいの中年男を
殴りつけている。蔵人は、激しいデジャヴュを感じた。
僧侶は痩せぎすで背丈は中くらい、濃紺色のローブをまとい、腰
の部分はひもで簡素に結わえている。頭には白い帽子をかぶってい
た。
﹁なんか、やな予感。って、こっち来たよ﹂
﹁ひいいっ、そ、そうです。お金は、この僕の友人が払いますっ、
払いますからああっ﹂
僧侶は蔵人の腰にすがりつくと、追いすがる女郎屋の用心棒にそ
ういい放った。
﹁おいあんた、ふざけたこといってんじゃ︱︱﹂
蔵人が腰を華麗にスイングして僧侶をはじき飛ばそうとしたとき、
彼は顔面のあらゆる穴から体液を出して哀願した。
それがロムレス聖教シルバーヴィラゴ教区、司教マルコ・ベルナ
ールとの最初の出会いだった。
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Lv26﹁司教マルコ﹂
﹁いやー、拙僧は信じてましたよ。必ず、心の友であるクランド殿
が助けてくれるって﹂
﹁いや、信じるもなにも、今日初対面のハズなんだが﹂
﹁気にしない、気にしない。これも、ロムレスのお導きですよ。さ
あ、遠慮しないでやっちゃって、やっちゃって﹂
酒場の一角でマルコは向かいあった蔵人に酒瓶を渡しながらはし
ゃいでいた。
蔵人は、蒸留酒をちびちび含みながら、フォークの先でつまみの
豚の塩焼きを突き刺した。
たっぷりと脂の乗った豚肉を、鉄鍋にぎゅうぎゅう詰めの岩塩と
いっしょに入れて蒸し焼きにしたものである。
焼きたてのカリカリした黒パンに乗せて、上からレモンを数滴か
ける。
大口を開けて頬張ると、ジューシーな豚独特の旨みと脂が口いっ
ぱいに広がり、黒パンのサクサク感が渾然一体となって味のハーモ
ニーを奏でた。
脂を洗うように盃を飲み干すと、焼けるような酒精の喉越しの良
さに吐息がもれた。
この店は深夜から早朝まで開いており、店内には宿を取り損ねた
人々がゆっくり杯を傾けたり、部屋の隅で毛布にくるまったりして
各々時間をつぶしていた。ほとんどが男で、皆身なりがひどくみす
409
ぼらしい。まともに宿をとって払いを済ませるほど、ふところに余
裕のないものばかりが集まっていた。
﹁いや、遠慮なんかしないけど、でも、ここの金もぜんぶ俺が払う
んだよね﹂
マルコは気持ち顎を引くと下唇を猿のように突き出し、顔は動か
さず瞳の位置だけを器用に反らした。
︱︱こいつ、殴りてぇ。
人の怒りを煽る顔つきだけは非常に上手かった。
﹁おい、ちょっと待て。なんだ、いまの顔﹂
﹁いまの顔? 顔ってなんですか? 拙僧、なにかいたしましたか
? や、気のせいですよ。ぜんぶ飲んで忘れちゃいましょう。ほら
ほら﹂
﹁いや、したよね? 人を小馬鹿にしたような顔、絶対にしてたよ
ね? いくら俺でも忘れられないことってあるよね?﹂
﹁知りませんて、ほらほら。忘れちゃいましょう! いいことも、
いやなこともぜーんぶ、ぱーっと!﹂
﹁いや、いい思い出は忘れちゃダメだろう﹂
﹁まーまー、シルバーヴィラゴに着いたら、百倍にして返しますっ
てば。ほら、拙僧こう見えても、教区ではカオですから。ね﹂
﹁いや、果てしなく怪しすぎんだろうが﹂
﹁まー気にしない、気にしない﹂
蔵人はなんとはなしにいっしょに行動するようになった男から勧
められるままに杯を傾ける。不意に、周囲の声が一際高く大きくな
った。
﹁だからよう、化物が住んでる島があるんだって。土地の者に聞い
たから間違いねえ﹂
﹁おう、オレも聞いたぜ。なんでも、このクリスタルレイクには大
小の島がいくつかあって、その中にはまだ手付かずの場所がいくつ
もあって、その中の未踏の場所で目にしたって話だろう。大方、見
慣れねェモンスターを目にしただけじゃねぇか﹂
410
﹁バカだな、おまえは。これだけ船が行き交ってる湖でそんなもん
がポンポン出たら、とっくにご領主さまが軍隊を派遣して討伐して
るって。このアンドリュー地方の領主は豪傑で知られるバルテルミ
ー閣下のお膝元なんだぜ﹂
﹁相変わらず耳が早いのかそれともどっか一本抜けてるのかわから
ないやつだな、おまえは。その閣下だが、近頃王都に行きっきりで
バロネット
ちっとも帰ってこねえらしい。この湖で代官をやってるジョスラン
準男爵は蓄財に目がねぇって話だ。細かい部分に目が行き届かなく
てもしょうがあんめえ﹂
﹁なんでもかんでも否定しやがって。亡霊だよ、亡霊! モンスタ
ー以外の亡霊が出てくるんだって! よし、確かめるぞ。明日、小
舟を借りてひとつ島巡りでもやってみようじゃねえか﹂
﹁冗談じゃねえよ。湖賊に襲われてくたばるのがオチだ。それに大
きな問題が、もうひとうある﹂
﹁なんでぇ﹂
﹁俺は泳げないんだ﹂
オチがついたところで、大きな笑いが起きた。
蔵人はちょっと憤慨した。
隣の卓についた四人組の男たちががなりながら喋っているのだ。
﹁ふーん、モンスター以外のバケモノねぇ。坊さん。あんたはどう
思うよ﹂
﹁さあ、基本ロムレスでは迷宮以外にはあまりモンスターはいない
って建前になってますからねぇ。僻地は知りませんけど。土地の者
が飲みすぎて見間違えたんでしょうよ。怖いですねえお酒は﹂
﹁おい、そんなに飲んで明日は大丈夫なのか﹂
﹁なになに、タダ酒と聞けば、ロムレス男児として飲めるだけ飲ま
なきゃ相手に失礼ってもんですよ! さあ、つまらない噂は別にし
て女の話でもしましょう!﹂
﹁誰もおごるなんていってないんですが、ねえ! 人の話聞いてる
?﹂
411
﹁だははははっ。おい、ババァ酒だ!﹂
﹁最悪だよ、このおっさん﹂
蔵人は不良司教のペースに付きあわされ浴びるように杯を煽った。
やがて、疲れのせいもあって、いつしか蔵人は泥のように眠りに
落ちていた。
﹁ううっ、さみぃ﹂
蔵人は完全に火の落ちた店内で、身体を濡れた犬のようにぶるぶ
る震わせた。辺りには、昨晩から飲み続けていた、船待ちの旅人た
ちが崩れたようにあちらこちらの卓に突っ伏している。
﹁そだ、そだ。ションベン、ションベン﹂
蔵人は尿意を思い出すと、厠の場所を思い出しながら、やや不確
かな足取りで卓の間を縫って移動する。排泄を終えて、戸外から戻
ると、まだ白河夜船の人々の間から寝息以外の音が聞こえてきた。
視線を闇の中で動かすと、厨房の裏手から男女のささやき合うよう
な声が確かに聞こえた。
﹁ふおおおっ、こっ、これは中々の技をお持ちで﹂
どこかで聞いたような男の声。粘着質な音が不意に止んだ。
﹁ふふっ、お坊さま。アナタも朝からすっごく元気ね。いま、すっ
きりさせてあげるわ。そのかわり、ねえ?﹂
﹁おおっ、承知してますぞ。ああ、だから、早く拙僧を極楽浄土へ、
極楽浄土へ﹂
男は壁際で突っ立ったまま、女の横に貨幣をいくつか落とした。
安っぽい金属音が鳴り響く
目を凝らすと、次第に闇の中から男女の輪郭が浮かび上がってき
た。
412
仕事上がりの小遣い稼ぎだろうか、商売女は真っ赤な長いウェー
ブのかかった髪をかき上げて蠢いている。男は、胸の白十字を握り
締めながらなにかに対して懸命に祈る仕草をしていた。
というか、司教のマルコだった。
闇の中で、ガサゴソ動く衣擦れの音が大きくなる。
﹁あ、あのおっさん、衆人環視の中でなんてプレイを﹂
﹁おおっ、なんという罪深い行為をーっ﹂
︵罪深い? 罪深いってなにが?︶
﹁神よ、この罪深い子羊をお許しくださいっ! なんと、なんと淫
らなっ! 拙僧は、拙僧は負けませんぞーっ、うううああっ! う
びゅっ!!﹂
︵おまえはいったいなにと戦っているんだ︶
蔵人は呆然とした。
最後に女のくぐもった声が聞こえた。それで、すべては終了した。
マルコは脱力すると椅子の上にどっかと座りこむ。商売女は、さ
っと髪を撫でつけると店を早々に立ち去っていく。途中で蔵人に気
づいたときだけ、わずかに恥じらいを見せた。
ベットリとした真っ赤な唇が目にまぶしかった。
﹁おっさん、あのさ︱︱﹂
蔵人が、マルコに声をかける。
が、僧侶は壁際に沿ってズルズルと座り込むと余韻に耽り、まる
で気づいていなかった。
﹁な、なんという圧倒的誘惑っ。だが、拙僧は今朝も勝った! 拙
僧の聖水で、迷える子羊の糧を満たしてやった︱︱はうっ!? い、
いつから?﹂
﹁極楽浄土から、ってそれ俺の巾着じゃねえかっ。ゲッ、空だ! 船に乗れねーじゃねえか!﹂
マルコはなぜかしたり顔をつくると、自分の顔の前で指先を軽く
振り自嘲をあらわにした。蔵人のこめかみがピクピク痙攣をはじめ
る。
413
﹁はは、拙僧もまだ青い。満ち足りぬ市井の女に施しを︱︱うぐる
ぶっ!﹂
蔵人はとりあえずマルコの顔面を殴打した。
今朝乗り込むはずだった大型客船、レッドファランクス号が見え
る港の倉庫前で、蔵人とマルコは対峙していた。
﹁えひんえひんひん。なにも、殴ることじゃないですかぁ。ちょっ
と魔が差したっていうか⋮⋮﹂
﹁魔が差したくらいで財布の中身カラッケツにされて我慢できるか。
ったく、淫売女なんか引きこみやがって﹂
﹁ひんひん、スッキリしたかっんです、拙僧だって男なんですから
ね﹂
﹁人の金でスッキリするんじゃねーっ!﹂
蔵人が怒りをあらわにして吠えると、マルコは身をすくませ目も
とに手をやって泣き真似を続ける。四十男の嘘泣きは途方もなくウ
ザかった。
﹁えひんえひん、ひんひん。許してくれます? 許して﹂
﹁許すもなにも⋮⋮おい、どうしたうつむいて﹂
﹁えひんひん、うっ⋮⋮ゆるしてくだ、⋮⋮おぼえええっ﹂
マルコは予備動作なしに壁に手を突くと一気に嘔吐した。あれだ
け痛飲すれば無理もなかった。石造りの壁が吐瀉物でベタベタに濡
れて蔵人の足元まで汚物が流れた。
﹁おい! 泣くかはくか、どっちかにしろよ。んもおおっ、きった
ねえし、クセーし、面倒なおっさんだな﹂
蔵人はマルコの背中をさすりながら、港の船着場で往生していた。
シルバーヴィラゴ行きの船に乗るのは今朝をのがすと、あとは直近
414
で一ヶ月後になってしまう。なんとしても、乗りこむ必要があった。
蔵人は気分的にグズグズしたくなかったのだ。
﹁あの、だいじょうぶですか。お連れの僧侶さま、随分とおつらそ
うですが﹂
﹁いやいや、このおっさんただの二日酔いですから﹂
若い女の声。蔵人は反射的に振り返ると、目を見開いた。
﹁あの、なにか﹂
歳の頃は十七、八だろうか、容姿は整っていた。タレ目がちな瞳
は大きく、極めて純朴そうだった。瞳の色は青みがかっていて、な
んとなくはかなげな印象が強い。腰まである黒髪は艶がよく、頭上
の角はバランスよく整っており、その下にはやや幅広な耳が生えて
いる。特筆すべきは、その両胸だった。とにかく大きかった。赤い
毛織のコットの上に袖なしシュルコを羽織っているが、服の上から
でもわかるくらいに両胸は突き出ていた。牛の角と耳を持った亜人、
ミノタウロスの娘である。
﹁いや、なんでもないっす﹂
牛娘はミリアムと名乗った。代々敬虔なロムレス信徒であり、マ
ルコの僧服を見て手助けしようと声をかけたらしい。蔵人は、自分
とマルコの名前を伝えると、とりあえず視線を巨乳から無理やり外
した。
﹁わたし、ちょうどお薬の持ちあわせがあります。よければ使って
いただけませんか﹂
鈴を鳴らすような品のある声がさも心配げに響く。善良さが全身
からにじみ出ていた。
﹁じゃあ、申し訳ねぇが、このおっさんちょっと見ててもらってい
いかな。俺は水を汲んでくるから﹂
蔵人は軽くミノタウロスの娘に頭を下げると、井戸を探して走り
出した。
あぶねえ、もうちょっとでおっ立ったところを見られるところだ
ったぜ!
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目の前に娘の張り出した巨乳が浮かんでは消えた。これというの
も、朝一でマルコに予期せぬ濡れ場を見せつけられたせいもあった。
蔵人は、脳内でマルコを槍で串刺しにして、火で炙りながらぐるぐ
る回す行為を想像し怒りを納めた。どうにか親切な家で水を竹筒に
くむと急いで元の場所に戻る。
﹁よし、水持ってきたぜ︱︱って。あ!﹂
﹁あ、おかえりなさい﹂
﹁し、死ぬぅ、拙僧はもうダメですぅ﹂
そこには、地べたに座った牛娘に膝枕されながら呻くマルコの姿
が見えた。
﹁ほら、僧侶さま。お連れの方が水を持ってきてくださいましたか
ら。お薬を飲んでくださいませ﹂
﹁ああぁあっ、薬は飲むけどっ、いま、動いたら、拙僧苦しすぎて
ぇええ、死んでしまう﹂
﹁きゃん﹂
マルコはどさくさに紛れて顔を反転すると、正座したままのミリ
アムの胸元に顔をうずめ、こすりつける。大きなふたつの乳房が押
しつぶされ、形を変えた。
ふざけんなよ、このクソ坊主がっ!
﹁本当におつらいんですね、さあ僧侶さま。わたしのような者の膝
上でよければ、たっぷり休んでくださいな﹂
﹁おおおう、苦しむ隣人にここまで温情を見せるとは、功徳っ! 功徳ですぞっ!﹂
マルコは、水を得た魚のように押し付ける顔の動きを強める。ど
う見ても病人の動きではなかった。
ミリアムは心底、疑いを知らないような純な娘だった。彼女の瞳
は慈母のようにやさしさをたたえ、マルコが本気で苦しんでいると
信じてはばからない。
蔵人は、思わず反応してしまった自分と、ミリアムのやさしさに
つけこむマルコのことを恥じた。猫の子を釣り上げるように、襟首
416
を引っ張って引き剥がす。ミリアムに聞こえないよう、小さく耳打
ちした。
﹁おい、おっさん。恥ずかしくないのか、自分のこと﹂
﹁んんん? 拙僧、病がちなもんで、このご婦人に恥じることなど
なにもないですよ。そんなことを考えるのはクランド殿の心底が卑
しいからじゃないですかねぇ。さ、早く拙僧を極楽浄土にお戻しく
だされ﹂
蔵人は無言のままマルコの襟首をつまみ上げたまま、船着場に向
かう。足元が湖面にさらされた時点で、マルコの泣きが入った。
﹁えぐっ、えぐっ。本気で捨てようとしないでくださいよおぉ。拙
僧たちの友情はどこにいったんですかああ﹂
﹁そんなもんないがな﹂
木彫りのコップの水を粉薬といっしょに、しかめっ面であおるマ
ルコを見ながら、ミリアムはくすくすと忍び笑いをもらした。
﹁どうしたん?﹂
﹁いえ、おふたりともとっても仲がおよろしくて。見ていて、あっ
たかい気持ちになれます﹂
﹁そんなぁ、ま。クランド殿と拙僧は、ツーカーの仲ですから﹂
マルコは蔵人の背中をばしばしはたきながら、目尻を下げる。ぐ
ひひ、といかにもいやらしい中年独特の濁った追従笑いが続く。蔵
人は、ミリアムからバレないように、マルコの脇腹を力強くつねっ
た。えひん、と猫をひき殺したような悲鳴が上がった。
﹁なにするんですかぁ﹂
﹁なにするんですかぁ、じゃねえだろ! 船賃どうするんだよ、ボ
ケ!﹂
﹁それはいわないでくださいよ、せっかく現実逃避してたのに﹂
﹁悪いけどこの数ヶ月、現実からはどうやっても逃げきれないこと
を悟ったんだ﹂
﹁あの、おふたりはシルバーヴィラゴ行きの客船にお乗りになるの
でしょうか。でしたら、わたしといっしょですね﹂
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ミリアムは花が開いたように莞爾と微笑んだ。
﹁ええ、すっごい奇遇じゃないですか。実は拙僧シルバーヴィラゴ
の司教を勤めておりまして、向こうに着いたらいろいろとお役にた
てると思いますよ﹂
マルコが舘ひろしのような渋い声をつくって自らの地位を誇示す
る。
﹁まあ、そんなおえらい方だとはつゆ知らず。数々のご無礼を、お
許し下さい﹂
途端に、見た目通り純朴かつ、敬虔なロムレス信徒であるミリア
ムの瞳に尊敬の色が浮かんだ。蔵人とマルコの視線が交錯する。
中年男は勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、ミリアムが頭を下げた
瞬間、左手の親指と人差し指を丸めて円を構成し、右の中指をその
中に出し入れする卑猥なサインを見せつけた。
調子に乗りやがって、クソが。
ここでグダグダしていても仕方がないと思い、三人は波止場に停
泊している客船レッドファランクス号に向かった。ミリアムはしき
りに金の持ちあわせがないことをマルコに詫びている。気の毒にな
るほど、人の良い性格であった。
﹁え! 拙僧、お金がなくても船に乗せてくれるんですか﹂
﹁ええ、普通の旅人ならいざ知らず、いくらアコギな俺たちでもシ
ルバーヴィラゴの司教さまからは銭を無理やりとれませんよ﹂
ガレオン船レッドファランクス号の船長アーサーは苦笑しながら、
マルコにそう伝えると立派にたくわえた口ひげをしきりに擦ってみ
せた。
﹁よかったですね、司教さま。クランドさん!﹂
ミリアムも飛び跳ねながら両手をぱちぱち叩いて喜んでみせる。
彼女の巨乳は、跳ねる都度に、ばいんばいん揺さぶられ、タラップ
の順番待ちをしていた後方の青年が股間を押さえて腰を後ろに引い
た。
﹁ま、ともあれ。こんなおっさんでも役に立つこともあるんだな﹂
418
ミリアムを従え、マルコが颯爽とタラップを進んでいく。その後
ろに続こうと蔵人が右足を出すと、船長が腕をとって、悲しげに顔
を横に振った。
﹁え、もしかして、俺はダメってことなの?﹂
﹁兄ちゃん、残念だが。司教は特別。おまえさんまで特別扱いでき
るほど、ウチも余裕はないんだよ﹂
蔵人の顔色がさっと青ざめる。ふと視線を感じて顔を上げた。
そこには、かなり上まで登っていたマルコが微妙な顔つきで、じ
っと蔵人を見つめていた。
﹁司教さま﹂
﹁なんですかね、ミリアム﹂
マルコの顔がミリアムの声を耳にした瞬間、あっという間に相好
を崩す。
︱︱ちきしょう、赤ちゃんみたいな目ェしやがって!
﹁ま、残念だったな。次は一ヶ月後だから﹂
船長が気の毒そうに肩に手を置く。タラップの中間で、マルコが
大声を出した。
﹁船賃のお金ちゃんと送りますからー。蔵人殿といっしょに行けな
いのは残念ですが、教会で待ってますよー﹂
あの野郎、勝ち誇りやがって。
マルコが叫ぶと同時に、ミリアムは思い出したように、持ってい
た袋からなにか包みを取り出すと、急いでタラップを再び駆け下り
だした。マルコの表情が一瞬で凍りつく。
﹁ちょっと、ちょっと待ってください、クランドさ、ああああっ﹂
﹁おっとお!﹂
急いで駆け降りようとしたのか、ミリアムはタラップの階段で足
をもつれさせるとバランスを崩した。蔵人は駆け寄って彼女の身体
を抱きとめると、自然豊満な乳房に顔をうずめる形なった。
や、やぁらけえっ!
﹁ご、ごめんなさい。わたしったら、おっちょこちょいで﹂
419
﹁いや、我々の業界としてはご褒美です﹂
﹁え?﹂
﹁いや、こっちの話。んで、ミリアムさん、なにか俺に忘れ物でも﹂
﹁あー、そうですそうです。これこれ﹂
蔵人は、油紙に包んだものを両手を握って手渡された。ミリアム
は、蔵人の目をじっと覗きこむようにして話しかける。男を勘違い
させる要素を多分に持っていた。
﹁あの、わたし船賃以外は本当にお金とかほとんどなくて。銅貨ば
っかりで全然足りないと思うけどなにかの足しにしてくださいね。
あと、残りはパンとかチーズとか、食べるものが入ってます。人さ
まにお見せするようなものじゃなくて恥ずかしいんだけど、お腹が
すいたら食べてくださいな﹂
﹁ミリアムさん﹂
蔵人は素直に感動すると、こころ尽くしの贈り物を両手で抱え込
んだ。頭上のマルコ。嫉妬に顔を真っ赤に燃え上がらせていた。蔵
人は、小さく勝ったとこころの中でガッツポーズを決めた。ミリア
ムは、名残惜しそうに振り向き振り向き、再びタラップを登ってい
く。
﹁ふ、ふん。まあ、置いてきぼりになる蔵人殿にはいい手向けでし
ょう。それよりも、ミリアム。このようにいっしょに旅をすること
になったのもなにかの縁、今夜はとっくりとロムレスの愛について
実地をまじえた講義を﹂
﹁あなたっ!﹂
﹁ははっ、遅かったじゃないかミリアム﹂
ミリアムは一気にタラップを駆け上がると飛びつくようにして、
若い豚人族の青年に飛びついた。ふたりは、しっかりと抱き合うと
人目を気にせず濃厚なキスをかわす。マルコは石像のように硬化し
たまま、佇立した。
﹁あ、あのですねミリアム。そちらの方は﹂
﹁はい、司教さま。わたしの夫のゴードンです﹂
420
﹁妻がお世話になったようで。僕はゴードンと申します。乗り合わ
せたのもなにかの縁。
シルバーヴィラゴまでよろしくお願いします﹂
﹁は、はい﹂
マルコはセミの抜け殻のような表情で虚ろに返答した。
そして、蔵人はタラップの下で爆笑していた。
﹁おっさんっ、ザマぁああっ!! っやっべ、笑いが、とまら、ん
っ!﹂
石になったマルコを無視して夫婦は、ひそひそ話をはじめる。や
がて、なにかが同意に至ったか、ゴードンは懐の巾着を取り出して
船べりから岸に立つ蔵人に向けて放った。
﹁クランドさーん! 妻がお世話になりましたぁあっ。よければ、
そのお金なにかの足しにしてくださーい!﹂
豚人族の青年は大きく叫びながら手を振る。蔵人は豚人族にあま
りいい印象を持っていなかったが、彼のさわやかな行為は胸の中に
春風が吹き抜けたような心地よさを味あわせてくれた。見ず知らず
の人間にそこまでしてくれる親切な人物はなかなかいないものだ。
﹁おーい! ありがとなーっ!! それと、そのおっさんは危ない
んで、なるべく距離をとるよーにっ!﹂
蔵人が大声で叫ぶと、ミリアムと青年は仲良く連れ立って船室に
向かって移動する。続くマルコは亡霊のような足取りで左右によろ
めきながら、ゆっくり遠ざかっていった。
空元気で大声を張り上げてみたが、激しい置いてきぼり感は否め
ない。蔵人は、手元の巾着を上下に揺すりながら、中の小銭を数え
ると、それでも三千P程度はあった。シルバーヴィラゴ行きの船賃
は最下等の大部屋でも三万Pはする。
﹁しかし、この世界に来てまでバイトなんかしたくないしなぁ﹂
幸か不幸か、ここは港である。力仕事の口はいくらでもあったが、
蔵人は脳内で瞬間的にその選択肢を除外した。先ほどの乗船用のタ
ラップは既に引き上げられ、船尾の方に、港湾労働者たちがせっせ
421
と物資の搬入を行っている。蔵人の瞳が、ある一点に集中し、イメ
ージ的に頭上に白熱電球がピカリと輝きを帯びる。
﹁船、港、樽⋮⋮すべてのフラグメントが、俺にゴーサインを出し
ている。これは、もういっちゃうしかないだろう﹂
ロクな考えではなかった。
豚人族の青年ゴードンは、今年十七歳になる湖畔近くの村の炭焼
きだった。
妻のミリアムは、ミノタウロスの娘で種族こそ違ったが、同い年
の幼なじみだった。
周囲からの反対を押し切って去年結婚し、念願の夫婦旅行にはじ
めて出かけたのであった。オークでは、暗黙の了解で、娶るならエ
ルフ、合法非合法は問わないという掟があったが、ゴードンは渋る
長老たちや両親を説得し、なんとか一人前の夫婦と認められるよう
になった。
︵エルフ以外だと子どもが産まれにくいっていうけど、別に子供を
作るためだけに結婚するわけじゃないし、大丈夫だよな︶
今回の旅でゴードンは、こころに期することがあった。すなわち、
妻ミリアムとの夫婦和合である。初夜ではじめて愛しあったとき、
彼女とは上手く交わることができなかった。有り体にいうと、ゴー
ドンのモノが大きすぎて、ミリアムに恐怖心を植えつけてしまった
ことである。ふたりの仲は、正直かなりいいと思うが、ミリアムは
夜になって一緒のベッドに入るとゴードンと愛し合うことを拒む傾
向があった。せいぜい、三回に一回しか応じてくれない。若く、人
並み外れた性欲の持ち主である彼にとってそれは苦痛以外のなにも
のでもなかった。
422
船内の板敷の最下等ともいえる客室でも、ミリアムは楽しげにあ
ちこちを見て、日々の生活では見ることができないいろんな表情を
見せてくれる。今回の旅で、上手く気持ちが和めば、今後の夫婦生
活も、きっといい方向に流れていくだろう。
︵そうだよ、自身を持つんだ、ゴードン。彼女は僕の妻じゃないか︶
ほとんどのオークは気性が荒く、初見ではあらゆる人々に忌避さ
れることが多かった。だが、彼女はなんの偏見もなくゴードンと対
等に接してくれた。だからこそ、一生に一度しかだせないはずの勇
気を振り絞って結婚にまでこぎつけたのだった。
︵僕たちは式も上げていない。だから、今回の旅にプレゼントも用
意したし︶
ゴードンは、妻には内緒で荷物のひとつに彼女のサイズぴったり
のウェディングドレスを用意してあった。シルバーヴィラゴには、
ロムレス一の大聖堂があり、そこで改めて結婚の儀式を執り行うつ
もりだった。
︵きっと喜ぶぞ、ミリアムは。よし、なんかやる気がでてきたぞ!︶
﹁どうしたの、ゴードン。そんなに楽しそうな顔しちゃって﹂
完全に船酔いにうめく、マルコの背中をさすりながらミリアムが
尋ねた。夢想にふけっていたゴードンは、目を白黒させながら慌て
て返答した。
﹁はは、ほらはじめての船旅だから、さ﹂
﹁ふふ、相変わらずのんきね。あ、だいじょうぶですか。司教さま﹂
﹁の、のーぷろぶれむ。拙僧、船は大好きですよ。生まれ変わった
らアンカーになりたいぐらい﹂
﹁それじゃ、沈んでますって﹂
ゴードンが苦笑をもらすと、船体が大きく横揺れをした。隣の板
に座っていた男の肩がもたれかかる。
﹁すまねえぇな﹂
﹁いえ、お気になさらずに。しかし、ものすごい揺れですね﹂
﹁湖といってもこの大きさだ。海ほどではなくとも多少は揺れるだ
423
ろうよ﹂
旅慣れているのか、男はそういって首を振ると、再び元の位置に
戻って向かいあった仲間と話を続けた。
﹁ゴードン﹂
ミリアムが怯えた様子で視線をさまよわせている。
﹁なに、そこのお人がいったように船なんだから多少は揺れもする
さ。気にしない、気にしない﹂
﹁そ、そうですよ、ミリアム、いや奥さん﹂
﹁どうしたんですか、司教さま。急にそんな口調で﹂
﹁いえいえ、旦那さんの前ではさすがに、ねぇ。これでも拙僧は空
気の読める男でして﹂
﹁司教さま。妻のいうとおりかたっ苦しい言葉遣いはなしでいきま
しょうよ﹂
﹁そうですか? まあ、旦那さんがいうならねぇ。それじゃあ、あ
えてミリアムと呼ばせていただきますよ﹂
ゴードンはこのとぼけた司教のことも案外気に入っていた。船酔
いはかわいそうだが、致し方ない。あとで、この空気の悪い船室か
ら外にでて風にでもあたれば少しでもマシになるだろう、と思い階
段の方に視線を移すと、ひとりの人間族の男が泡を食ったように駆
け下りてきた。
﹁よう、どうしたんだい、そんなに慌てて﹂
﹁水でもいっぱいお飲みよ、さあ﹂
娼婦らしき旅の女が、男に汲み置きの水を渡す。男は、あっとい
う間にカップの中をあけると、気管に水が入ったのか激しく咳き込
んだ。
﹁ねえ、どうしたのかしら﹂
﹁さあ、なんだろう﹂
だが、次の男の言葉に、高をくくっていたゴードンの心臓は握り
しめられたように縮み上がった。
﹁湖賊だ! 湖族がこの船を襲撃してきた!!﹂
424
死の王の黒い旗に群がる悪魔がやってきたのだった。
425
Lv27﹁湖賊﹂
湖賊の旗艦ブラックスネーク号は、客船レッドファランクス号に
接舷するとあっという間に戦闘員を送り込んできた。甲板いっぱい
に湖賊たちが散らばると、血の気の多いレッドファランクス号の船
員たちが、棍棒や銛を持って対峙する。
たちまち、湖賊たちと船乗りの間に一触即発の空気が流れた。
賊の船にひるがえる旗印は、文盲の多い船員たちにもわかるよう
に、文字ではなく白い頭蓋骨にぶっちがいの黒蛇が二本交差させて
描かれていた。旗の布地は赤で、遠方からもよく確認でき、強い威
圧感でみなぎっている。
広い海原では海賊が幅を利かせ、このクリスタルレイクでは湖賊
が猖獗を極めていた。
海外を見るに、海賊はいても湖賊というものはほとんど資料に見
受けることができない。
日本でも、中世時代に琵琶湖を中心に勢力を保っていた堅田衆く
らいである。世界で、湖賊をあまり聞かない理由としては、地政学
的な問題もあった。湖に通商路がおさえられるということはあまり
ないものである。たとえ、水路がおさえられていても陸路という選
択肢が残っていれば、賊はすぐにも干上がってしまう。つまり、通
商路が一点に絞られない以上、物資の流通は無数に枝分かれし、攻
撃点を絞って略奪を行うことが難しくなってしまう。
その点、クリスタルレイクに湖族が跳梁跋扈していた理由を上げ
れば、物資の集積点であるシルバーヴィラゴは北を蛮族の森、西を
426
大山脈、南を高山に囲まれており、コストを考えれば少々の危険を
冒しても、湖の水路を直通路として使ったほうが遥かに安上がりに
済んだ。
また、湖賊とは交渉もでき、月極のミカジメ料を払うことによっ
て一定の安全を得ることも可能だった。
例外というものは常にあるが。
﹁さあ、あんたたち。ひとり残らずおとなしくするんだ! この船
は、グレイスさまと黒蛇党がいただいた! 下手なまねすりゃ、首
と胴体を泣き別れにしてやるからな!﹂
女湖賊はグレイスと名乗った。歳の頃は、二十を過ぎたばかりだ
ろうか、まだ娘のなごりを残していた。
黒のパイレーツハットに金の羽飾りをつけたものをかぶっていた。
真紅の上着を軽く羽織っている。
胸元には、はちきれそうなほど大きい乳房をギリギリ隠す程度の
黒いブラ、下は同じく黒のマイクロミニ。足元は焦げ茶の編上げ靴
を履いていた。
ややウェーブのかかった真っ赤な髪が肩までなびいている。抜け
るような白い肌に、意志の強そうな大きな瞳が目立った。
﹁おいおい、姉ちゃん。はい、そうですかとやすやす大切なお客さ
まや積荷を渡せるもんかい。はばかりながら。このアーサーが船長
を務める限り、コソ泥野郎どもに恵んでやるモンはパンひと切れだ
ってありはしねえんだ! なあ、野郎ども!﹂
船長のアーサーが虎髭をしごきながら、破鐘のような声で怒鳴る
と、甲板に勢ぞろいした男たちはいっせいに鯨波をつくった。皆が
それぞれ腰に下げたナイフや剣、手斧を構えていつでも飛びかかれ
るように身構える。この世界の船乗りは、全員自衛のために武装す
るのはあたりまえだった。
﹁せいぜいそっちは三十人くらいだろうが、こっちは船乗りだけで
も四十人。乗せてる客だって戦えそうな若い男だけなら五十人近く
いるんだぜ。ハナから勝負になりはしねぇのよ。さ、武器を捨てる
427
んだ。観念して素直になるなら、命だけは助かるように、俺たちか
らもご領主さまに頼んでやるぜ﹂
﹁命乞いねえ、まったくおやさしいことで﹂
﹁なにを笑いやがるっ﹂
グレイスはアーサーが目を剥いて吠えるのを見届けると、忍び笑
いを消した。同時に右手を垂直に天に伸ばす。
レッドファランクス号の船員たちに向かって、湖賊の船に潜んで
いた百人ほどの射手が、いっせいに矢を射かけたのだった。独特の
鋭い矢音が耳をつんざいて走る。狙いたがわず射られた船乗りたち
は、身体中に矢傷を負うと、あたりに小豆をぶち撒いたように転が
り苦悶の声を上げた。無傷で残った船乗りたちは、あっというまに
十人足らずに減少した。
﹁で、船長さんは、あたしたちになにを頼んでくれるって、ねーえ
?﹂
グレイスはにやにや笑いながらアーサーに近づくと、顔を下から
覗きこみながら虎髭を片手で弄んだ。アーサーの髭面が怒りと羞恥
で紅に染まった。
﹁わかった、降参する﹂
アーサーはカトラスを取り落とす。硬質な音が、苦しむ船員たち
の声に混じった。
グレイスは鼻を鳴らすと、そっと右手を離した。その顔は満ち足
りた雌虎のようにゆるんでいた。
﹁最初っから素直にすればいいんだよ。さて、バルバロス。こいつ
らの手当をしてやんな。逆らうやつは痛めつけるが無益な殺生はし
ない。あたしたちは、有無をいわさずかたっぱしから殺しまくる腐
った領主とはちがうんだ﹂
グレイスが叫ぶと、バルバロスと呼ばれた男が後方から進み出て
きた。歳の頃は四十半ばくらいだろうか、日に焼けた真っ赤な顔を
していた。左目には髑髏の意匠をあしらった眼帯、厚手の胴着、首
元には金をふんだんに使った首飾りを重たげに幾重にも下げていた。
428
右手は義手なのだろうか、鋼鉄製のフックが凶悪に鈍い輝きを放っ
ている。背丈は小柄だが、鍛え上げられて半端ではない厚みが感じ
られる。顔つきは飢えたコヨーテのように獰猛さが潜んでいた。
﹁助けてぇ⋮⋮痛いいいいっ﹂
右腕に矢が刺さったまま、若い船員が転げまわっている。もがく
船員の右腕が、バルバロスの足にぶち当たる。
バルバロスは口元を引きつらせると、無言のまま剣を船員の喉元
に突き立てた。肉を抉る音といっしょに血飛沫が吹き出して甲板を
濡らした。
﹁おい、野郎どもぉおっ! おかしらのご命令だっ。こいつらをと
っくりと手当てしてやんな! 湖賊の流儀でな﹂
バルバロスが土間声を上げると、湖賊たちは負傷した船乗りたち
に、かたっぱしから飛びかかって、ぬらぬらと光る刃物を振り下ろ
していった。客船の甲板は、降り注ぐ強烈な日差しと、命を刈りと
る凶暴な白刃でたちまち阿鼻叫喚の地獄絵図に一変した。
先程まで息巻いていたアーサー船長以下の手傷を負わずに済んだ
船員たちは、仲間たちが湖賊に屠殺される様子をなすすべなく立ち
すくんで静観していた。一様にその顔は、恐怖と絶望で真っ白に塗
り込められていた。
﹁おい、なにをやっているんだ。やめろ、やめさせろ! あたしは、
こんなこと命じていない! いったいなんのつもりだ、バルバロス
!﹂
絶叫と鉄錆にも似た血の匂いが立ちこめる中、グレイスはバルバ
ロスの首根っこをつかむと、噛み付きそうな勢いで食ってかかった。
﹁なんのつもりって、おかしらそりゃないでしょう﹂
﹁あたしをおかしらって呼ぶな! どうして、動けないヤツらにま
で手を出すんだ! ひとの話を聞いていたのかいっ﹂
﹁⋮⋮おかし、いや船長。甘すぎますよ。手負いの船乗りなんか、
この先使いものになりゃしませんぜ。殺してやったほうが慈悲って
もんでさ。それに、はじめに一発ガツンとやっとかなきゃ、後々舐
429
められちまう。それがこの稼業でさ。はんっ﹂
バルバロスは、殺戮の場からなんとか逃げようと這いずり回る血
だらけの船乗りをブーツで蹴飛ばすと鼻を鳴らした。
﹁それに元々船乗りなんか、どうせ銭は博打と酒と女買いに使い果
たしてオケラだってのはわかりきってることじゃねえですか。身代
金もとれない。仕事もできない。こいつらの傷をふさぐ薬や包帯も
タダじゃねえ。こんなやつらに使うなんてもったいなくてもったい
なくて﹂
﹁だけど⋮⋮﹂
グレイスの瞳にわずかに気弱さがにじんだ。
﹁船長。そもそもが、こいつらヨソ者が勝手に定期船なんぞはじめ
るから、ここいらの漁師どもはおまんまの食い上げになっちまった
んですぜ。勝手に船を走らせて漁場を荒らすわ、やりたい放題でさ。
気にかけることなんざねェ。それともなんですかい、このくらいの
荒事で、ご気分でも﹂
﹁おい、バルバロス。そこまでに、しておけよ﹂
グレイスをいいくるめようとしていたバルバロスの背後に、大き
な影が差した。
背丈は二メートルを遥かに超えているだろうか、頭をスキンヘッ
ドに剃り上げている。
むき出しの上半身には盛り上がるような大胸筋が赤銅色に光って
いた。
﹁ラフィット⋮⋮!﹂
﹁ちっ、てめぇかよ、デカブツが。おい、俺は船長とサシで話をし
てんだ。いくら先代からの守り役だって、イチイチくちばしを突っ
こんでくるんじゃねえやい﹂
﹁別に、オレは話の邪魔をするわけじゃない。ただ、船長に対して、
副船長がその言葉遣いはないだろう。下が公然と上に逆らうような
素振りを見過ごすわけにはいかん。これも湖賊のルールだ。その辺
りを理解してくれれば、別にどうということもない。さ、続けろ﹂
430
﹁てめぇっ﹂
バルバロスは顔を紅潮させながら、拳を握りしめて肩を震わせる
が、やがて憤懣やるかたなく唾を甲板に吐き散らすと、くるりと背
を向けた。
ラフィットの剣の腕は、黒蛇党一であり、少なくともバルバロス
がひとりで立ち向かって叶う相手ではなかった。
﹁船長、俺は客室を見てくる。当初の予定通り、金持ちどもから身
代金をとれるようにせいぜい脅しを入れてくることにする。それで、
文句はねぇだろ!﹂
﹁バルバロス、あたしになにかいうことはないのか﹂
グレイスが静かに問いかける。隻腕の小男の鉤爪が小刻みに震え
た。
﹁すいませんでした、船長﹂
バルバロスは背中をこわばらせたまま、ゆっくり歩き出すと、ま
だ格闘を続けていた湖賊たちに虐殺を中止するように怒鳴りつけた。
﹁助かったよ、ラフィット。あんたがきてくれてよかった﹂
﹁お嬢さま、あいつは危険すぎます。やはり排除しておくべきだっ
たのでは﹂
﹁うん。でも、無理だよ。あいつ、あれで結構野郎たちに顔が利く
んだ。いま、バラしちまうとたぶん、三分の一は荒れ狂ってタダじ
ゃすまないだろうしね。あと、あたしのことをお嬢さまっていうん
じゃない﹂
﹁失礼、グレイス船長。じゃ、俺はバルバロスを見張っておきます。
くれぐれも、ひとりにはならないように。先代の夢を継ぐのはあな
たしかいないんです。俺はあなたに賭けました。いっさいがっさい
を。モーティマー、ジャン! おまえらはお嬢にぴったり張り付い
てお守りしろよ!﹂
﹁任せて下せぇ!﹂
﹁大船に乗ったつもりで!﹂
ふたりの三十すぎの男が大げさに敬礼をすると、グレイスは真っ
431
白な歯を見せて快活に笑った。きらめく陽光は、いまだ力強く湖水
を照りつけていた。
︵ふざけるなよ、ふざけるなよぉ、あのクソアマがぁああっ。この
バルバロスさまが、いつまでもおまえの下で這いつくばっていると
思うなよぉ!︶
隻腕、隻眼の湖賊バルバロスは元冒険者だった。だが、迷宮を攻
略する夢に破れ果て、故郷に戻った後ですら、血の気の多い彼に真
っ当な仕事などにつけるわけもなかった。
無頼者のお決まりのように湖賊に加盟すると、元々の粗暴な性格
と、押し付けがましいほどの強引さが水にあったのか、黒蛇党の中
でめきめきと頭角を現し、たった十年ほどで副頭目ともいえる地位
にまで登りつめた。あとは、病がちな頭目が死ぬのを待っていれば
すべてが手に入るはずだった矢先、先代の娘がグレイスの存在が浮
かび上がった。
︵あの小娘、堅気の漁師に嫁いだはずだったのに、いまさらノコノ
コ顔出しやがって! それがいつの間にか頭目におさまって大将面
だとぉ! ふざけんじゃねえやい!︶
そもそもが先代の夢というのも、バルバロスには理解不能だった。
このクリスタルレイクに、外の資本が入ってきたのは、昨日今日の
話ではない。
商人や旅人の数が増えて、漁場が荒らされ、漁師たちが食い詰め
ようが飢え死にしようが関係ない。
バルバロスにとってみれば、獲物が向こうから飛びこんできてく
れて至れり尽くせりであり、それを排除しようとする思考は理解の
埒外だった。
432
︵それを、漁民の権利がなんだ、美しい湖を守れだなんだとか、一
Pにもならねえことを述べやがって︶
先代の黒蛇党首領の目的は、この湖から外的資本をすべて追放し
て、元通り湖畔に住む村々の人々が昔のようにしあわせに暮らせる
ようにするためらしい。
だが、バルバロスにとってはそんな寝言は犬の餌にもならない塵
芥だ。
︵あいつらは、経済ってもんがわかっていない。もし、本当にこの
湖畔を元通りの寂れた場所に戻したいと願っているならば、西にあ
るシルバーヴィラゴをつぶさなきゃなんねェ。ほとんどのヤツラは、
あの街目当てでこの湖を通り過ぎてるだけなんだからよ。おめでて
ぇぜ。義賊を気どって客船を襲って、乗客の命をたてに領主から涙
銭をチョビチョビもらったっていったいどんな稼ぎになるんだ。お
まけに残らず貧乏人どもにくれてやって。俺たちに残るのはカスば
かりだぜ。手間ばかりかかって、意味がねえじゃねえか︶
黒蛇党が客船を奪って領主からはした金を要求するのは、今回が
初めてではなかった。
この辺りの領主アンドリュー伯もシルバーヴィラゴから落ちる金
がどれほど莫大なものかわかっているので、とりあえず客を人質に
されれば申し訳程度に払う。
黒蛇党もとりあえず貴族から金をむしりとれればメンツが立つの
で、それ以上は要求せず、威勢良く子分や周辺の村人たちに分配す
る。金が尽きる。すると、再び襲う。無限ループである。
︵だが、それじゃあいったい、いつになったら俺たちのふところが
あったまるんだよ!︶
バルバロスの考えでは、もういままでの出来レースじみた略奪は
終わりにしなければいけない。
とらえた船の積荷はすべていただき、乗客は奴隷として売り払う。
バルバロスは、いままでにせっせと横流しをして貯めた銭と成功
しつつあったサイドビジネスの蓄えを注ぎこんで、ついに領主側を
433
抱きこむことに成功した。乗合船を襲いすぎてもいけない。その辺
りのバランスも重要だった。
奴隷商人とも手を組み、獲物を引き渡す算段はすでについていた。
︵見てろよ、グレイス。あの女、このすげ替えが済んだら、あいつ
を俺専用の肉奴隷にしてやるぅ。うひひ、あのむっちりした胸に俺
の肉棒を挟ませて、たっぷりそそぎこんでやるっぅううっ。だが、
そのためにクーデターは必ず成功させなければならねぇ。だが、ラ
フィットのやつ。あいつがいる限り、成功のパーセンテージはどう
しても低下する︶
バルバロスはブラックスネーク号を見やると、背後に茫洋と佇立
している男に向かって声をかけた。
﹁まあ、詳しいことは説明しなくてもいいだろう。エルモ。昔の馴
染みで、いっちょ力を貸してくんな﹂
エルモと呼ばれた五十過ぎの男は、黒の目出し帽から瞳だけをギ
ラつかせながら、マストにもたれかかって腕を組んでいた。両腰に
は重そうな剣が一本ずつ落としこんである。吹き付ける風に砂色の
ローブがたなびいていた。
﹁十年ぶりに人を呼びつけておいて、ふざけた話だ﹂
﹁なに、俺とおまえの仲じゃねえか。へへ、礼はたんまりはずむぜ﹂
﹁やれやれ。この双剣のエルモも金をもらって人を斬るようになっ
てはおしまいか﹂
﹁まあ、そういうなって。ほら、奴が来たぜ﹂
バルバロスが甲板の向こうを指差すと、そこにはラフィットの巨
体が音もなく佇立していた。
﹁バルバロス。おまえのような腐った男が考えつきそうなことだ。
まあいい。どっちにしろ手間が省けたわけだ。そこの用心棒崩れも、
とっとと引き上げたほうがいい。今日のオレは手加減できそうにな
い﹂
ラフィットのセリフを聞いたエルモが声を上げて笑い出した。辺
りで甲板から血の汚れを拭っていた湖賊たちが集まってくる。自然、
434
エルモとラフィットを囲むようにして円が組みあがっていた。
﹁バルバロス。もう、後戻りはできんぞ﹂
﹁は、ラフィット! おめえの相手は俺じゃなくて、エルモだぜ﹂
エルモの笑い声が、徐々に引き攣るようにかすれていく。その声
音は、小さくなるどころかどんどんと大きくなっていく。幾人かの
男が両手を耳元に当て脂汗を流し始める。途方もない殺気が、エル
モの周囲から膨れ上がってきた。
﹁おい、ハゲ。なにか勘違いしてるんじゃないか。おまえがバルバ
ロスを斬ることはできない。なぜなら、いますぐ死ぬからだ!﹂
エルモが甲板を蹴って、唐突に走り出した。船体は波で揺れてい
たが、真っ直ぐに走り抜ける灰色の塊に、一切のブレはなかった。
その一瞬が勝敗の決め手だった。
ラフィットが剣を抜いて構えると同時に、エルモの身体が虚空に
ふわりと舞った。引き抜かれた二本の長剣が、両輪を描く。咄嗟に
ラフィットは剣を抜かせて受けにまわろうとしたが、同時に浴びせ
られた二刀の圧力に抗しかねて、上半身のバランスを崩した。
エルモの身体。すでに、ラフィットから遠ざかっていた。
エルモは片足が甲板につくと同時に、右手の剣を投擲。ラフィッ
トが払い落とすために剣を斜め上の軌道に乗せかけた時、エルモの
身体はすでにラフィットの右脇を走り抜けていた。
﹁が、あああっ﹂
エルモは存分にラフィットの脇腹を薙いだ白刃を天にかざす。真
っ赤な血飛沫が陽光に輝いた。
ラフィットは口からごぼりと血潮を吐き出すと、ゆっくりとその
巨体を甲板に打ち付け絶命した。
﹁おらああああっ、てめえらが頼りにしていたラフィットのクソ野
郎はくたばったぞ! と、いうことはどういうことかわかるか! ああ、レイノルド、どうなんだあっ!﹂
哄笑しながらバルバロスが、若い湖賊の肩を押した。
﹁ふ、ふくせんちょ、いやさ、今日から黒蛇党の大将はバルバロス
435
さま、です﹂
﹁わかってるじゃねえか! いま、この時からバルバロスさまが、
この黒蛇党を仕切る。いいか、俺が首領になったからには、もうい
ままでみたいな義賊ごっこはおしまいだっ。襲った船からは積荷は
奪い、女はすべて犯して売りさばく! さあ、この中で死神と黒旗
の下に仕える奴は剣をかかげよ!﹂
呼応するように、男たちは剣を抜き取ると天に向かって突き上げ
た。男たちの怒号の中で、バルバロスはグレイスの女体をどう弄ぶ
か妄想しながら股間を堅く屹立させていた。
蔵人は貨物室の樽から出れないまま困惑していた。
﹁え、ちょっと嘘ですよね。こいうのって、漫画とかだと簡単に外
れるもんなんでしょ。ほら、ひと昔まえのアニメーションで、崖か
ら崩れてくる岩の色が一部分あからさまに違うとか。そういう感じ
で、なんか異世界的なギミックが。⋮⋮ギギギ、くやしい。外れな
い﹂
客船に密航するまではよかったが、出るに出れないとは不親切だ。
こころの中で叫びながら、樽の天板部分を押す。だが、微塵も動く
様子はなかった。
﹁なに、なんなのこの不親切設計は。俺は、ドンキーコングが投げ
るまでこの中に潜んでなきゃいけないわけ? ありえないでしょう
が、そんなこと﹂
蔵人は、無理な姿勢のまま樽の中に長時間居たため、フラストレ
ーションが無駄に溜まっていた。それに、先程から気にしないよう
にしていたが、小用が近い。つまり、この状態でダムが決壊すると
ヤバイことになるのだった。
436
﹁なにか、なにか突破口が⋮⋮ちがう、めっ。おまえじゃないの。
おまえの出番はうんと先なのぉおおっ。変な液体出ちゃだめなのお
おっ﹂
悩み続けていると、樽の外で扉を開く音と同時に、わめき声が聞
こえてきた。
﹁おい、ようやっと見つけたぜ、グレイス!﹂
﹁あんたたちっ﹂
続けて女の怒声が響く。
﹁こんなところに隠れていやがったのか。あのバカふたり組が抵抗
しやがって。おう、狭い船の中でかくれんぼがいつまでできると思
ってんだ。あっちの船行ったり、こっちの船行ったりで、もう二つ
の船を行き来するのはたくさんだ。おまえも年貢の納めどきだぜ!
さあ、おとなしくしろいっ。バルバロス船長がおまえをご所望な
んだっ﹂
﹁いままで、あたしがさんざん目をかけてやったのに、それがこの
仕打ちかい﹂
﹁けっ、お高くとまりやがって。おまえが船の中で風切って歩けた
のも、そもそもが先代の娘だったってことと、あのラフィットの野
郎がいたからなんだっ﹂
﹁そうだ、そうだ! だいたい、女風情が湖賊の大将なんて聞いた
ことないぜっ。おめえはせいぜいその、ぷりぷりした身体を使って
俺たちを慰めてりゃいいんだっ!﹂
﹁おい、手ェ出すのかよ。マジぃぜ、バルバロス船長にバレたらブ
ッ殺されちまうよ﹂
﹁いいんだって、どうせ船長に引渡しちまえば、俺たちのところに
まわってくることは二度とねえ。それなら、行きがけの駄賃で、こ
こで頂いちまったってどうってことねぇって﹂
しばし、外の世界が無言になる。蔵人が、樽にぴったり耳をつけ
ると、複数の男たちの鼻息だけが荒く聞こえた。
﹁おまえたちなんか、得物さえあれば﹂
437
﹁だいじょーぶ、だいじょーぶだよ、グレイスちゃん。いまから俺
たちがたあーっぷり気持ちのいいことしてあげるからねぇ﹂
﹁くひひっ、見ろよ、この白い肌。安い淫売なんかとは比べものに
ならねえぜ﹂
﹁あたしにさわるなっ﹂
﹁おおう、やっべ、汁滲んできちゃった﹂
﹁やめろっ、そんな汚いもの見せるなっ﹂
女の声に恥じらいが混じる。聞いた男をゾクゾクさせるような、
色っぽい声だった。 ﹁おうおう、出戻りのクセにカマトトぶって。旦那以外の肉棒を味
わったことがないなんて、もったいねぇ。いまからしっかり俺の形
にあうよう、ハメまくってやるよぉお﹂
なんという、レイ︱プ現場。
蔵人が外のやりとりだけでヌけるかどうか、パンツの中に手をや
った瞬間、ぐらりと横揺れを感じた。誰かがぶつかってきたのだ。
樽は大きく転がると、部屋の一番端にぶつかって止まったのだっ
た。
や、やった! 蓋が外れたんだ!
蔵人が、のそのそと樽から顔を出すと、ひとりの女性にのしかか
っていた三人の男たちと視線があった。
一様に真顔。
蔵人は、横向きになった樽からゆっくり這い出ると、半ば硬くな
って飛び出していた陰茎を下穿きに仕舞いこみ、咳払いをした。
﹁まったく、ちょっと失礼じゃないかね、君たち﹂
﹁誰だぁああっ、てめえはっ!﹂
﹁ふざけんなっ!﹂
﹁殺すぞっ!﹂
三人の湖賊が怒声を発した。
﹁わかった、わかった。早くしないと、わたしの息子が風邪をひい
てしまう。さ、リテイク。続けて﹂
438
蔵人は、貨物室の穀物袋に座るとグレイスに声をかけ、男たちに
鷹揚な態度で先を促した。
グレイスは、奇妙に放心したように蔵人の顔をまじまじ見ながら、
右手で自分の目蓋をこすっていた。
﹁てめぇ、乗客か。いや、密航者だな。乞食野郎が。どっちにしろ、
運が悪かったな。死んでもらうぜ﹂
﹁いや、いってる意味がわからない﹂
男は、半ばしなびた陰茎を仕舞うと、置いてあった曲刀を持ち上
げ、柄の部分に唾を吐いて握り手を湿らせた。
﹁ちっ、もうめんどくせえ。死なすわ﹂
男の顔に険が混じる。
﹁おい、おまえ。逃げるんだっ!﹂
グレイスが甲高い声を上げるが、すぐに背後の男がかき消すよう
に怒鳴り声を重ねた。
﹁うるせえ、グレイスっ。てめえはこいつをぶっ殺したあと、たっ
ぷりかわいがってやるからよ﹂
男がグレイスの髪を引っ張ると、グレイスの赤毛がぶちぶちと音
を立てて抜けた。
蔵人の瞳がわずかに陰る。穀物袋から立ち上がったときに、外套
の前はぴたりと閉じられた。
﹁惜しむような命じゃあねえが、女の命を弄ぶようなやつらにゃや
れねえなぁ﹂
﹁ああん? うるせー奴だっ! 俺たちゃお頭に引き渡す前に、ち
ょっと味見をさせてもらうだけだ。くたばるのはこの女じゃなくて
おまえだけだ!﹂
﹁女の命ってのは、髪のことだよ﹂
男が剣を上段に振りかぶった。蔵人は、風のように駆け寄ると、
外套の中からすでに引き抜かれていた刃が直線的な動きで飛び出し
た。
﹁ほぐあっ﹂
439
長剣の切っ先は、真っ直ぐに男の喉元を抉ると、鮮血を飛散させ
た。
真っ赤な血痕が喉から胸を濡らし、男は泳ぐようにもがくと船板
に倒れ込んだ。
﹁て、てめええ!!﹂
グレイスの髪をつかんでいた男が吠えた瞬間、蔵人は高々と跳躍
した。
長剣が斜めに軌道を描く。
男は、顔面の半ばを断ち割られると、脳漿を辺りに撒きながら苦
悶の声を上げて仰向けに倒れた。
残りの一人は逃げようと背を向けて走り出した。
それでも、蔵人が背後から男の首筋に腕を廻すのが早かった。
男は、背中から深々と長剣を胃袋に突き入られると首を左右に振
りながら、悲鳴を上げて絶息した。
﹁ん。どうしたん﹂
蔵人が刃を懐紙で拭うと、目元まで紅に染めたグレイスが恥じら
うように近づいてきた。
﹁とりあえず、礼はいっておくよ。あたしは、グレイス。もっとも、
あんたが乗客でも密航者でもついてないことにかわりないけどね﹂
﹁ふ、樽に入っていた時点で、積荷ということにしておいてもらお
うか﹂
蔵人が渋くキメると、グレイスは口元に手を当て、あは、と白い
歯をこぼした。
見た格好よりもはるかに純朴な性格だと、蔵人は思った。
﹁それにしても、あんた、すごい手並みだね。ぱぱっと三人も片付
けて眉一つ変えない、冷静さ。よほど凄腕の剣士なんだろう。その、
よければ名前を教えてもらえないかい。いつまでも、あんたじゃ呼
びにくいし﹂
﹁んー、とりあえず、ひとつ教えてもらってもいいかな﹂
﹁なんだい﹂
440
﹁今日は、生ゴミの日かな﹂
蔵人はそれなりに動揺していた。
441
Lv28﹁虜囚﹂
﹁なんだい。いきなり船が乗っ取られちまったと思ったら、甲板で
斬りあいがはじまったよ﹂
﹁これから私たちはどうなるんだろうねぇ﹂
﹁なに、私は商売で何度もこのクリスタルレイクとシルバーヴィラ
ゴを往復しているが、この黒蛇党という湖賊はそれほどタチの悪い
奴らじゃない。いつものように、ご領主さまが我々に対する、いく
らかの身代金を払っておしまいさ。ほら、旅慣れた人たちを見てみ
なさい。落ち着いたもんだろう﹂
﹁そいつは心強いことをいってくれる。ま、そもそもがシルバーヴ
ィラゴにはたっぷりと兵隊さんが駐留しているんだ。領主さまのお
膝元で、そうそう非道なこともできないだろうさ﹂
﹁気楽に考えればちょっとした見世物だね。これも旅につき物の話
のタネのひとつと思えばそれほど苦にもならないだろうさ﹂
客船レッドファランクス号の三等客室、いわゆる最下等にあたる
大部屋で、ふたりの商人が声高に話しあっていた。
所詮は年中行事、どうということはない。
とお互いに決めつけている彼らを見て、オークの青年ゴードンは、
下腹をチリチリさせる違和感を拭いきれずに居た。
﹁あなた、だいじょうぶかしら﹂
﹁平気さ、ミリアム。ほら、君もあそこで話している商人たちの話
を聞いたろう? 湖賊が乗合船を襲うことなんてよくあることなの
442
ポンドル
さ。それに、賊たちが狙うとしたら、一等客室の金持ちたちだけだ
ろう? そもそも、僕たちはどこを振ったって一Pの銅貨だって出
てこないじゃないか﹂
ゴードンの妻、ミノタウロスのミリアムは、それでも不安そうに
夫の両手をぎゅっと握り締めると、大きな瞳をうるませた。
﹁でも、もしかしたら、わたしたちもなにかされるかも、怖いわ﹂
﹁ははっ、大丈夫だよ、ミリアム。君は、僕がなにがあったって守
ってみせる。大切な妻に指一本触れさせはしないさ。それに、ほら、
マルコ司教の泰然自若ぶりを少しは見習ったらどうだい﹂
ゴードンは、妻の恐怖を払拭しようと、かたわらの司教を指差す。
そこには、目をつぶったまま、ピクリともしない長年の修行の貫
禄を思わせる僧侶の姿があった。
ミリアムは、司教マルコの口元に自分の耳をそっと近づけると、
眉を八の字にしかめた。
﹁寝てるわ﹂
マルコはすべてを放棄して現実逃避していた。見事なほどの寝付
きの良さだ。とても、先程まで船酔いに苦しんでいたとは思えなか
った。
﹁は、ははは。それは、あれだよ。余裕のあらわれさ。司教は既に
僕らの理解の及ばぬ次元に到達しているのさ﹂
非常に苦しい、いいわけだった。
﹁不安ね﹂
ミリアムがそういったところで、階段を軋ませながら、二十人ほ
どの湖賊らしき男たちが降りてきた。
彼らは、磨き上げた曲刀や手斧を見せびらかしながら、乗客たち
を品定めするようにじろじろ眺めはじめた。
それから、全員の顔を見終えると、輪を作ってなにか密談をはじ
め、やがて衆議が一決したのか、一番年かさの男が全員に聞こえる
よう胴間声を張り上げた。
443
﹁よおおし、てめえらよく聞け。この船は、オレたち黒蛇党が乗っ
とった。つまり、おまえたちを生かすも殺すも、こちらの胸先三寸
だってことだ。それを理解して、とっくり聞くことだ。この中で、
四十以上の男と女がいたら、手を上げろ! いいか、四十以上だ!
あとで、嘘ついてたことがわかったら、タダじゃすまさねえぞ。
いいなっ!﹂
湖賊の声に反応して怯えるように、乗客たちは手をおそるおそる
上げだした。
数は思ったほど多くない。
総勢三十人ほどだった。
﹁ミリアム、ゴードン短いつきあいでしたが、いままでありがとう﹂
﹁司教、まさか﹂
﹁そう、そのまさか。拙僧今年で四十二なんですよ。もっと若く見
えなくね? 二十代とかイけそうじゃね?﹂
﹁司教さま、それは無理です﹂
マルコはミリアムに否定されると、屠殺場におもむく家畜のよう
に項垂れて列に並んだ。
もしかしたら、お年寄り枠で、先んじて開放とかされちゃうんじ
ゃないかしらん。
と、マルコは無理やり自分を鼓舞するが、脳裏には鎌を持った死
神が、円の軌跡を描きながら浮遊している。
﹁ロクなことになりそうもないですねぇ。やっぱ、ミリアムの乳ど
さくさに揉んどけばよかった﹂
マルコが三等客室から階段を登って甲板に出ると、異相の湖賊た
ちがえも言われぬ顔つきで勢ぞろいしていた。その中央に一際目立
つ男が鉤爪を上下に振って指図をしている。
︵おそらくあの男が大将株でしょうね。ま、わかったところでどう
にもなりませんが︶
﹁どうなるんでしょうね、私たち﹂
﹁もしかしたら、年寄りは先に解放されるんじゃないでしょうか﹂
444
﹁聞いた話によると、黒蛇党はいたってものわかりのいい湖賊だそ
うじゃないですか﹂
﹁そういわれてみると、あの親玉もどことなくかわいげがあるよう
に見えてくるじゃないですか﹂
︵そんなわけないでしょう。極めつけの悪党ですよ、あの顔は︶
マルコの見るところ、甲板に集められたのは、三等客室の年配者
ばかりらしい。
誰も彼も不安を打ち消すような話ばかりを口々にささやきあって
いる。
やがて、全員は荒縄によって後ろ手に縛られるとひとり残らず船
べりに立たされた。それを待ち望んでいたように、湖賊の首領、す
なわちバルバロスは右腕の義手の鉤爪で後ろ頭をかいた。
﹁あー、おまえたち自分に都合のいい妄想を膨らませているようだ
が、現実にはそんな奇跡はまず起きない。おまえたちは、一等客室
や二等客室と違って貧民なので、身代金は望めないし、歳も取りす
ぎてて奴隷としての価値もない。だから、捨てる﹂
﹁は、あー。え?﹂
バルバロスの言葉を聞いて振り返った五十くらいの男は、体格の
いい湖賊に、ぐいと背中を押されると、紙切れのように容易く船べ
りを越えて飛んでいった。悲鳴は長く尾を引くと、やがて湖の飛沫
と共に消えた。
それを見た三十人の役立たずたち。
悲鳴と嗚咽が甲板に木霊した。
﹁やめろー! オレにはまだやりたいことがー﹂
﹁やややや、やめて、やめてくれーっ﹂
﹁金なら、金なら少しだけまだあるからっ﹂
﹁せめてっ、せめてっ、妻だけでもっ﹂
﹁うおおおっ、いやだああああっ!﹂
湖賊たちは鼻くそを掘じりながら、コンビニに家庭内ゴミを捨て
る程度の罪悪感も持たずに、ぽんぽんと年寄りを︵※異世界基準︶
445
湖に捨てていった。エコノミストがこの光景を目撃していたら、た
ぶん苦情が殺到していただろう。
﹁ああ、せめて死ぬまえに銀馬車亭のレイシーちゃんに、拙僧の横
笛でセッション奏でてみない? って頼めばよかった。ダメもとで。
⋮⋮あれ? 案外イケるんじゃね?﹂
マルコが最後に飲み屋の女を妄想の中で脱がしていると、湖賊が
ゆっくりと近づいてきた。
﹁じゃ、次はおまえさん、んん? おかしらぁ、ちょっと来てくだ
せぇ、ロムレス教の坊主がおりやすぜっ﹂
湖賊の三下が叫ぶと、バルバロスが眉間にシワを寄せながら近寄
ってくる。
マルコは、せめて落とされる順番を後にしようと隣の中年と肩を
ぶつけあっている最中だった。
﹁この僧衣に、胸元の特注白十字。おい、糞ども。この坊さんは丁
サンクトゥス・ナイツ
重に部屋にお連れしろ。かなり高位の坊主だ。司教だよ。下手に僧
侶を殺すと、白十字騎士団が血眼になって襲ってくるぞ。あいつら
は、貴族よりたちが悪い﹂
﹁へへ、というわけだ。命拾いしたな﹂
﹁待ってください、せめて部屋に聖壇と鈴を。彼らのために祈らせ
てください﹂
マルコは、表情を硬化させるとバルバロスに要求した。彼は呆然
とした乗客の指輪を湖賊たちから見えない位置で必死に外していた。
﹁へ、祈って花実が咲くものかよ。坊主ってのは、無意味なことば
かりしたがるもんだなぁ、おい﹂
バルバロスが顎をしゃくると、湖賊はマルコを両脇から抱えるよ
うにしてその場から遠ざけた。
当然、掠め取った貴金属は目ざとい湖賊たちに回収された。
マルコが連れて行かれたあと、囚われた最下級の人々は、若い男
と女に分けられることになった。
男は主に労働用、女は性交奴隷として売り払われる運命にある。
446
当然のところ、男たちは反発したが、湖賊たちに数人が見せしめ
のために斬り殺されると、ぴたりと静かになった。
ひとりのオークと人間族の少年を残して。
﹁おらああっ、この豚野郎がっ、畜生がっ、亜人風情がっ!﹂
﹁てめえぇもだっ、このクソガキがっ。泣こうが喚こうが、もうど
うにもならねーんだよっ! あああん!﹂
湖賊の男たちは、縛り上げたオークの青年ゴードンと、十五、六
くらいの少年をリンチにかけていた。理由は彼らが、愛する家族を
売り払われるのに、抵抗したからである。もっとも、武器をたずさ
えての武力抵抗ではなく、あくまで口先だけでのはかないものだっ
た。
湖賊の男たちも、はじめは面白がって殴る蹴るを続けていたが、
どれだけ暴力を受けても食らいつくふたりを見て、大半は顔を青白
くしてその場を去っていった。彼らのほとんどは、生まれが貧しい
漁民や貧農である。貧しさや飢えで、自分の妻や娘を売り払った覚
えがあるものがほとんどだった。
その場に残ってリンチを続けるのは、バルバロス子飼いの流れ者
たちばかりになった。彼らには、心底慈悲や情けなどない文字通り
の無法者だった。
﹁ミリアム、を、返して、ください﹂
﹁やめろ、オレのたったひとりの妹、なんだ﹂
﹁あなたっ!﹂
﹁お兄ちゃんっ、もおやめてぇよおっ。やめてえ!﹂
ゴードンは妻のミリアムを、少年は妹の為に最後まで我を張って
いた。だが、荒縄で縛られており、周りには武装した男たちが十人
近く集まっている。
いくら、剛力を誇るオークといえど、これではどうにもならない。
既に、すべてを諦めている男たちは、彼らふたりに加勢をしよう
ともせず、むしろ余計なことを、という風に今後の自分たちの待遇
について思いを巡らせている様子だった。
447
﹁おい、てめえら、なにをチンタラやってるんだ。女を残らず運び
出したら、宴会だといったろうが﹂
階段をバルバロスがゆったりとした歩調で降りてきた。顔が少し
赤らんでいる。左手には口の空いた酒瓶が握られていた。
﹁あ、船長。いや、まだ観念しない野郎どもがいて。オークは労働
用じゃ高値が付けられやすし、ガキの方は中々顔立ちも整ってるし、
貴族の変態野郎どもに上手く売りつけりゃ銭になると思うとバッサ
リってわけにも。それに、ついつい盛り上がっちまって﹂
﹁ふーん﹂
﹁やっ﹂
バルバロスはミノタウロスのミリアムの顎をつまむと、自分の方
に向けさせた。牛の角と耳を持っているとはいえ、その他は普通の
人間とは変わらない。
いや、むしろ容姿においては平均よりはるかに整っていた。タレ
目がちな瞳が、夫の心配で普段以上にうるんでいた。自然にバルバ
ロスの目線が、ミノタウロス固有の特徴ともいえる爆乳に注がれる。
湖賊の隻眼が淫蕩の炎が揺らめいた。
﹁見ないで﹂
恥じらって自分の両腕で胸を隠す。無意識だが、男の悪心を誘う
には十分だった。
﹁ミノタウロスとはまだヤったことがねぇぜ﹂
﹁ミリアムに、さわるな﹂
息も絶え絶えにゴードンが訴える。頑丈なオークとはいえ、これ
だけ長時間暴行を受ければたまったものではない。彼の顔面は、真
っ黒に腫れ上がって、まぶたがの上が切れて真っ赤な血が流れてい
た。
もう一方の少年は、あからさまに手を抜かれていたのか、それほ
どひどい怪我ではなかった。
﹁もう、やめてください。どうして私たちがこんな目にあうんです
かぁ﹂
448
幼い少女が舌っ足らずな声で叫ぶ。野卑な男たちのヤジが飛んだ。
﹁どうしてって、そりゃおまえたちがオレたちの目に留まるほど器
量良しだからだよっ﹂
﹁へっ、俺らもたまには崩れ切った安女郎じゃなくて、初物も食わ
なきゃこんな商売やってられねえ!﹂
﹁せいぜい美しく生まれたことを不幸に思うんだな!﹂
﹁クレア、くそ。賊ども。オレの妹に手を出したら、許さない、ぞ﹂
﹁なにが許さないぞ、だ! このボケがッ!!﹂
﹁いいいっ﹂
男は少年の顔面を鋭く蹴上げると、髪を引っ掴んで、床板へと打
ちつけ始める。
ゴンゴンと、鈍い音が鳴り、血飛沫が辺りを濡らした。
﹁やめてえっ、やめてよう!!﹂
クレアと呼ばれた少女。
豊満な若妻といったミリアムとは対照的に、まるで人形のように
可愛らしい容姿をしていた。お姫さまのように、フリルのついたピ
ンク色のドレスを着ている。長く美しい金髪は、上質なシルクのよ
うに輝いていた。大きな青い目と、整った鼻筋にピンクの唇がひた
すら愛らしかった。
﹁おねがいします、湖賊さん。アベルお兄ちゃんを許してください﹂
まだ幼さを残す美少女が、涙をこぼしながら慈悲を乞う。男たち
の中に、誰も踏んだことのない新雪を踏み荒らすような、真っ黒な
情熱に火がともった。
﹁ふぅーん。にしても、お嬢ちゃん。君、随分いいお洋服着てるね
え。おい、性交奴隷にするのは貧乏人だけにしろっていってだろう。
貴族は売り払うより、身代金とったほうが手間考えりゃおトクなん
だよ﹂
バルバロスが手下を軽く叱責する。
﹁へ、へい、おかしら。でも、その小娘、三等客室にいたんで﹂
﹁うううん? この服は貧乏人が買えるシロモンじゃねえぞ﹂
449
﹁いやあっ﹂
﹁クレアっ﹂
バルバロスがクレアのスカートをめくると、清潔そうな白いショ
ーツが見えた。
湖賊たちの下卑た笑い声が船室に響く。
クレアの兄、アベルが恨めしそうにバルバロスをせめてもと、睨
みつけていた。
﹁うーん、クレアちゃん。君はどうして、こんないい服を着ている
のかい? この首飾りも、安物じゃないよね﹂
﹁服は、お兄ちゃんが一生懸命お金を貯めて買ってくれたんです。
首飾りは、お母さまが、たったひとつ残してくれた宝物で。ひうっ。
やめて、へんなところさわらないでぇ﹂
﹁やめろーっ!﹂
バルバロスは、自分の横に座らせたクレアのスカートから指を突
っ込むともぞもぞと太い指を動かし、少女のやわらかな太ももの感
触を楽しんだ。
アベルが眼球を真っ赤にしながら血の出るような叫びを上げた。
﹁なるほどなるほど。そうそう、おまえらふたり、どうしても自分
の女房と妹を差し出しなくないって気分変わらないのか? そんな
にボコボコにされて﹂
﹁ミリアムは、僕のすべてだ﹂
﹁クレアは必ず、守る﹂
ゴードンとアベルが合奏するように叫んだ。
バルバロスは、うんうんと頷くと、男たちにふたりの縄を解くよ
うに命じた。ふたりは、よろつきながら、それぞれの愛する女に駆
け寄ろうとするが、バルバロスは隻腕の鉤爪を上げて制した。
﹁ようし、ここでひとついい余興を考えた。女を返してやってもい
い。ただし、返す女はおまえらどちらか、ただひとりきりだ。わか
るか、つまりは、ガキと豚、勝負して勝った方が、勝者として女を
得られる﹂
450
﹁どちらか、ひとりだけ﹂
ゴードンがよろけながら立ち上がる。対照的に、アベルとクレア
の顔色が真っ青に染まった。
人間族の、しかもなんの武術の心得もない子供がオークと戦って
勝てるはずがないのだ。
﹁しかーも、なんと勝った方は、相手の女も手に入れられる。つま
り、豚野郎が勝てばこの美少女を。ガキの方が勝てばこのぉ豊満な
人妻を手に入れて、ハメまくることができるって寸法よ。なんの褒
美もなく殺しあいをさせるほど、このバルバロスさまはケチな男じ
ゃねえ。さ、この勝負呑むかね﹂
ゴードンが勝てば、妻を取り返すだけではなく、クレアという美
少女を。
アベルが勝てば、妹を取り返すだけではなく、ミリアムという美
女を手に入れられる、と。
実に湖賊らしい提案であった。
もっとも、バルバロスにとっては、ふたりの殺しあいも、酒の席
の余興に過ぎない。
だが、ふたりの男はすべてをかけてこの余興に臨まなくてはなら
ない。
ゴードンとアベルは視線を交錯させると、距離をとった。
すでに、お互い敵意しかない。
勝ち残った者しか愛するものを守れない。
非情な決断だった。
﹁さ、このままじゃガキの方が不利だから得物を貸してやるわ。さ、
せいぜい俺の無聊をなぐさめるんだな﹂
バルバロスの手から、アベルに向かって剣が放られる。
戦いの火蓋が切って落とされた。
﹁やってやる! たとえ相手が誰であれ、絶対にやってやる!﹂
アベルは、鋭いレイピアを拾うと、慣れない手つきで構えた。
対するゴードンは無手である。が、オークの地力と、炭焼きをす
451
るために常に巨木を担いで筋骨を鍛えていた体格は、拘束を解かれ、
存分に振るうことができる。
ゴードンは、一瞬、湖賊たちをまとめて蹴散らし、脱出すること
を考えたが、周りを囲む十名の男たちが全員武装しているのを見て、
その考えを放棄した。
仮に、彼らの包囲を突破して甲板に逃げ出しても、周りは水ばか
りである。それに、ゴードンもミリアムも山の生まれであり、泳ぎ
はまったくできなかった。それならば、なんとかこの余興に付き合
い、交渉の余地を見出す方が、妻といっしょに生き残って逃げ出す
可能性が高かった。
﹁この、オーク野郎が!! オレがぶっ殺してやる!﹂
アベルは泣き声のように、引きつった怒声を発すると、剣を構え
て走り出す。
だが、速度も剣先の狙いもまるでなっていない。第一、恐怖のあ
まり目をつぶっている。これでは、どんな相手でもよけることは難
しくなかった。
﹁うわああああっ!!﹂
ゴードンは、闇雲に突っこんでくるアベルの突進をかわすと、足
を引っ掛けて転倒させた。冷静に、少年の手首に向かって足を振り
下ろす。ごきり、と鈍い音と共に骨を踏み砕いた。
﹁ぎゃあああああっ!!﹂
﹁お兄ちゃんっ﹂
アベルは、目に涙を浮かべながら七転八倒する。
ゴードンは追撃はしなかった。少年の力はあまりにも脆弱だった。
﹁なんだ、こりゃあ!﹂
﹁あんまり早く勝負がつきすぎだぜ。酔いも覚めちまうっ﹂
湖賊たちはいいたい放題に野次ると、盃やら食いかけの干し肉を
少年に投げつけた。
﹁おーいおいおい、誰かそのガキを起こしてやれ﹂
バルバロスがニヤつきながら命ずると、一番近くの湖賊が杯を一
452
気にあおって、歩み寄った。
﹁へいへい﹂
湖賊が床に転がる少年を助け起こすと、左手に無理やり剣を持た
せた。
﹁おら、ここでイモ引いたらおめぇの大事な妹があの豚公にぶっ壊
されちまうぞ﹂
﹁うぅ。い、いやだぁああ﹂
﹁じゃ、頑張らんきゃねえ、兄貴﹂
﹁う、うううううっ﹂
アベルは痛みに耐えかね、涙をぼろぼろとこぼした。ゴードンは、
顔をそむけながら、強く舌打ちをした。
﹁ああああっ!!﹂
アベルが泣きながら剣を振り回し、再び果敢にも戦闘を開始した。
だが、その攻撃は腰も定まっていなければ、相手のこともまるで見
ていない。幼児が駄々をこねて両手を振り回しているだけのものと
変わらなかった。
︵勘弁してくれよ、僕だって負けるわけにはいかないんだ︶
ゴードンは、真正面から少年の左腕を掴むと満身の力を込めて握
った。
こきり、と小枝を折るような容易さで、アベルの左手首がひねら
れた。
﹁あああああっ!!﹂
痛みに耐えかねて、その場に両膝を突く。
目を背けたくなるような凄惨さだった。
ゴードンの丼茶碗のような大きな拳が少年の鳩尾を深々と突き刺
さる。
勝敗は一瞬で決したのだった。
453
454
Lv29﹁比翼連理の瑕疵﹂
︵悪く思うな。命には別状はないはずだ。妹のことは、済まなかっ
た︶
ゴードンは、倒れ伏した少年を見下ろしながら、ムカつく嘔吐感
を必死に飲み込んだ。
それは無抵抗な者をいたぶった罪悪感があまりにも大きすぎたか
らだ。
﹁お兄ちゃん!﹂
クレアが両目を覆ってその場で顔を伏せた。吐き気のする光景だ
った。
﹁げははっはっ、さすがオークだぜ! 思いっきりのいいやつだ。
気に入った。俺は気に入ったぜ。さあ、望み通り、女房は返してや
る。ただ、その前に、約束は果たしてもらおうか﹂
﹁やく、そく、だと?﹂
ゴードンは肩であえぐと、腫れ上がった目蓋をなんとか開いてバ
ルバロスの残忍な顔をにらみつける。隻眼の湖賊はそれさえも楽し
そうに受け流すと、野太い笑みを髭だらけの口元に刻んだ。
﹁ああ、男同士の約束だ。さ、このクレアお嬢ちゃんをおまえの立
派なモノでよがらしてやんな。それができたら返してやるさ﹂
バルバロスの隣にいたクレアの幼い表情が凍りついた。
﹁そんな、約束が!﹂ ゴードンは、正面のミリアムの顔を注視して激しく狼狽した。愛
する妻の前で、他の女性を抱くなど、オークにしては異常なほど貞
操感の強いゴードンからしてみれば噴飯ものだった。ミリアムの顔
455
色が紙のように真っ白になっている。そのような行為は、いままで
夫婦の間に築き上げてきた信頼感を真っ二つにするようなものだっ
た。ゴードンの突き出した鼻が凶暴に歪んでいく。バルバロスはさ
も楽しそうに、手をひらひらさせると、侮りながらいった。
﹁あああーん。いったよな、最初に。この勝負は勝った方が総取り
だとよ。おいおい、約束を破るような豚には、女房は返さんぞぉ。
ほらほら﹂
﹁や、やめてください﹂
バルバロスは、腰かけた酒樽の自分の股の間にミリアムを座らせ
ながら、片手で身体を撫で回した。ゴードンは自分の感情が制御で
きなくなって、目の前の男に飛びかからないようにするのが精一杯
だった。
﹁わかった。だから、ミリアムにふれるな﹂
﹁やだね、さっさと突っこめよ、豚﹂
バルバロスは、隻腕の鉤爪をミリアムの胸元に引っかけると、一
息に裂いた。
真っ白な胸の谷間が輝いている。周囲の湖賊たちが歓声を上げた。
﹁やあん!﹂
バルバロスは粘っこい舌を伸ばしてミリアムの耳に這わせた。
妻の鼻にかかるような声を聞いて、ゴードンはますます脳みそを
煮えたぎらせた。
いままで築き上げてきた思い出が木っ端微塵に壊れていく。でき
ることならば、もはやすべての理性をかなぐり捨てて、目の前の男
を引き裂いてやりたい。この位置なら、飛びかかれば絶対に逃すこ
とはない。だが、目前の湖賊はそんなことができないと確信しなが
ら、徹底的にゴードンをいたぶりにかかっているのだった。屈辱と
怒りで目の前が真っ赤に燃え上がり、瞳には悔し涙が滲んだ。
﹁わかった。おまえのいうとおりにする。だから、もう妻には触れ
ないでくれ﹂
握り締めた両拳の爪が手のひらに食いこんで血をほとばしらせる。
456
噛み締めた奥歯がぎりぎりと鈍い擦過音を立てた。
﹁わかりゃいいいんだよ。そらっ、おまえら豚公の大好きな雌犬だ﹂
﹁きゃっ﹂
バルバロスに背中を押され、クレアはゴードンの前に突き出され
ると、恐怖のあまり涙をぼろぼろとこぼした。大きな瞳が、男の庇
護欲をそそる。
深窓の令嬢、という言葉がいかにも似合いそうな、はかなげさだ
った。
金色の艶のよい髪に、青い瞳が潤んでいる。
知らず、生唾を飲み込んだ。
︵ちょっと、待てよ! いま、僕はなにを思った!? もしかし、
この少女のことを︶
若く、年頃の娘を見れば発情するのはオークの本能である。
より多くの子孫を残し栄えていくのを目指すのは生物として正し
い道筋である。
ゴードンは己の中に秘められていた途方もない欲望に、躊躇し、
半ば、恐れた。
﹁やべろぉお、おでのおお、いぼうとにいぃい﹂
アベルが泣きながら痛む腹を抱えて立ち上がる。倒れこんだとき
に前歯を折ったのか、その言語は不明瞭だった。
﹁へっ、クソガキが。こうなると男前も台無しだな。さあ、豚公、
こいつはオイラたちがつかまえてるから、しっかり男ってもんを教
えこんでやんなよ﹂
湖賊の男たちは、床を這いずりながらも妹に近づこうとしている
アベルの背中から馬乗りになると押さえつけた。よく見れば、積極
的にこの陵辱へと手を貸しているのは、バルバロスの腹心の男たち
のみである。子飼いではない、グレイス配下だった男たちは、激し
く舌打ちをすると、その場からゾロゾロと引き上げていく。バルバ
ロスも無理に引きとめようとはしないが、その顔には自分の命に公
然とそむく男たちに対し、苛立ちが隠せなかった。
457
﹁うそ、うそよね、そんな。いやあああっ﹂
ゴードンは無言のままクレアのドレスを引き千切ると、少女の身
体を荒々しく床板に転がした。
﹁やめて、やめてください﹂
息も絶え絶えにクレアは許しを乞う。少女のほっそりとした身体
は青白くちょっとした力を入れても折れてしまいそうだった。周囲
の湖賊たちが手を叩いて歓声を上げた。
︵すまない。でも、こうしないと、僕のミリアムがっ︶
ゴードンは心の中で謝罪しながらも、この異様な状況によって興
奮している自分を激しく嫌悪した。
﹁ほぉーう、さすがオークだ! すっげえ、モノを見せつけなさる。
おめぇは、旦那にあんなスゲエやつで毎日かわいがられてるのかい
? これじゃあ、並の男じゃ物足りなくて話にならねえだろぉ!﹂
﹁知りません⋮⋮んんっ、変なところさわらないでくださいっ﹂
﹁ひひひ。いやいや、ついついさわり心地が良くてよ﹂
バルバロスはミリアムを弄びながら、汚れた前歯を剥き出しにし
た。
﹁んんっ、やだぁ! やだよぅ、お兄ちゃん!﹂
﹁ごめん、ごめんね。クレア、せめて痛くないようにするから﹂
ゴードンは、少女に対して慰めにもならぬ言葉で気遣った。
少女はぽろぽろと宝石のような涙を頬に伝わせながら身をよじっ
た。鈴の鳴るような可憐な声を耳元でささやかれ、ゴードンの理性
の糸が一本一本ちぎれていく。
床に押さえつけられたアベルが、妹の叫びを聞きながら激しく慟
哭した。
だが、男たちにとって彼の嘆きも、この陵辱を盛り上げるひとつ
のエッセンスにしか過ぎなかった。
暴虐はゴードンの手によって速やかに行われた。
バルバロス以下、外道たちはそれを息を詰めて、見守りながら手
にした酒瓶の中身をあおった。煮えたぎったギラついた瞳が、ひと
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かたまりになった肉塊に浴びせられた。
もはや言葉を発する気力を失ったアベルが顔を伏せて現実から目
をそらそうとするが、馬乗りになっていた男が、髪をつかんで床板
から無理やり引っペがした。
﹁ほらぁ、ダメでしょう、お兄ちゃん。大切な妹さんが大人になっ
ていく時間をちゃんと見届けないとぉお﹂
﹁くであ、くであぁあ! ぼぐのぐでああがああっ﹂
アベルは妹の名を腫れ上がった唇で呼びかける。
同時に、床板へじわっと生暖かい液体が漏れ出した。少年が失禁
したのだった。
﹁⋮⋮ちっ、クセーぜこいつ漏らしやがった。あとで、てめーの妹
に舌でペロペロ舐めさせて掃除させてやるからなぁ! なあ、みん
なっ﹂
﹁バカいうなっ、クレアちゃんのペロペロはオレさまって予約して
あるんだからなぁ! クソ兄貴のしょんべんなんて舐めさせてたま
るかっての!﹂
﹁おれ、二番予約ぅー!﹂
男たちは下卑た言葉で徹底的に負け犬を嘲笑すると、股間に両手
を添えてしごく真似をしてみせた。
﹁ふふ、見ろよ。あの小娘のツラぁ。まったくもってあの女は生ま
れつきの淫売だよなぁ!﹂
バルバロスの声に全員が再び、目の前のショーに集中する。
ゴードンがクレアの桜の蕾のような唇を、分厚い口で覆う。
もはや、一度捧げてしまった後は、クレアはゴードンに対して従
順になっていた。
種を超えて愛し合う恋人同士のように、ふたりはもつれ合ったま
まである。
少女は夢見るような瞳で、オークの頭に自分の両手をまわして、
まるで恋人のように濃厚なキスを返した。
﹁ぞ、ぞんんなああああっ! ぐでああああっ!!﹂
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アベルは自分の顔面を床板に、ごんごんと何度も打ち据えて苦悶
の声を上げるが、少女はすでに兄のことなど一顧だにしなかった。
﹁なんだあぁ、もしかしておまえ、妹が好きだったとかいうオチじ
ゃねえよなぁ?﹂
﹁あああああああっ!!﹂
アベルは折れた両手で頭を抱え込むと絶叫した。図星だったのだ。
秘められた少年の禁断の思いが、もっとも下卑た行為で露わにされ
た瞬間だった。
﹁図星かっ! はっ、この腐れ近親相姦野郎がっ。ま、初体験は相
手がオークだろうと血の繋がった兄妹じゃないだけずっとマシだろ
うよ。この果報者が。見ろよ、いまおまえのたーいせつなぁ、妹ち
ゃんのはじめてはあの豚公が食い破っちまったからなぁ。ひひひ﹂
﹁おでのぐであぁ、だいじゅぎなぐであがぁああ、えべ、えべえべ
べっ﹂
アベルは泣きながら笑い出すと、白目を剥いてひっくり返った。
﹁なんだ、こいつ笑ってやがる。発狂したのか。ったく近頃の若モ
ンはこらえ性がなくって困るぜ﹂
﹁おい、そんなのほっといて、ちゃんと見ろよ。ほら、へへへ。滅
多に見れねーぜ、こんなん﹂
男の言葉通り、そこには既に理性を失った獣しか存在し得なかっ
た。
﹁あ、あがっ、あががっ﹂
アベルの瞳から、真っ赤な涙がこぼれて、滲んだ。
﹁⋮⋮なんだぁ、このロリガキ。ついにブッ壊れたかぁ﹂
少女を眺めていた男が呆れたようにつぶやく。
アベルは、現実に耐え切れず、自己逃避をすることによって自分
を守りだしたのだろう。
﹁あひっ、あひひっ。オレのクレアぁああっ。オレのクレアあああ
っ。永遠に、永遠にオレのものだああっ。えひひっ﹂
アベルは白目を剥いて、涎を垂れ流しながら、こてんと横倒しに
460
なって判別できない言葉を繰り返しだした。
それは、完全に壊れた世界をさまよう人間だけが放つ、黒いオー
ラを纏っていた。
﹁やっべ、このクソガキ、マジ壊れかあ? あーあ、最近のガキは
こらえ性がなくってつまんねえなあぁ﹂
ゴードンの聞くものを畏怖させるような、凶暴な雄叫びが船室に
轟き渡った。
ゴードンは湖賊たちの上げたほとんど賞賛に近い歓声を聞きなが
ら、かすんだ意識の中、自分がなにをしているかを呆然と考えてい
た。
気づけばどれほどの時間が経ったのだろうか。ゴードンは、気を
失ったクレアが毛布に身をつつんで目の前に座り込んでいるのを見
て、正気に戻った。
﹁ゴードンさま﹂
目をこすりながら顔を上げたクレアがそっと寄り添ってくる。
﹁君は、なんで﹂
﹁だって、こうなってしまったら、クレアはゴードンさましかおす
がりする方がございませんもの﹂
クレアは、キラキラとした純真無垢な瞳で熱っぽくゴードンの顔
を見上げてきた。
﹁と、とにかく君はここにいて﹂
﹁どちらに行かれますの?﹂
﹁いいからっ!!﹂
ゴードンはクレアを置き捨てると、部屋を飛び出した。
︵どうして、こんな大事なことをっ! ミリアムっ、僕はっ!!︶
461
ゴードンは、見張りがわりに立っていた湖賊たちの許可を受けて
バルバロスの船室に向かった。
どうやらクレアを抱くことに夢中になっていたせいで、バルバロ
スとミリアムが部屋を出ていったことも気づかなかったのだ。あま
つさえ、その前後の時間もかなり飛んでいた。
︵僕は、ミリアムの気持ちも考えないで。いくら強要されたからっ
て、あんなことまでっ︶
揺れる甲板を転がるように駆けた。
バルバロスは分捕った客船の中で、一番いい部屋を根城にしてい
るらしかった。
鹵獲されたレッドファランクス号は、どこかの島に向かっている
のだろうか、ゆっくりと波を切って帆走している。空の鋭いまでの
青さが目に染みた。
︵いわれたとおりに、あの娘まで無理やり抱いたんだ。妻に指一本
でも触れていたら、その時はっ︶
ゴードンは、黒いペンキで髑髏を殴り書きした部屋に立つと、佇
立していた番兵代わりの湖賊に訪いを告げた。船長を警護する男た
ちの体格は、オークであるゴードンと遜色なくでっぷりと太って見
るからに腕の立ちそうな気配が漂っていた。
﹁おう、豚公かっ。いいぜ、へえんなよ﹂
なにか、悶着をつけられ後回しにされるかと危惧していたが、そ
んなことはなかった。
あっさり、入室の許可を受けてゴードンが扉を開けると、そこに
逢いたかった彼女はいた。
それは、極めてゴードンにとって不本意な状態で。
﹁あ、ああ、あ﹂
喉の奥からひゅうひゅうと意味をなさない言語が、ただの風とな
って吹き抜ける。
目の前の現実を、脳内で処理できない。
ゴードンは、さきほどまでみなぎっていた力が、みるみるうちに
462
自分の全身から抜けきっていくのを感じた。
﹁おおおぅ、悪いな。いま、とりこんでてよう﹂
﹁な、にを﹂
ゴードンは目を見開いたまま、その場で石像のように動けなくな
った。
バルバロスは椅子に座ったまま、ズボンの前を急いで引き上げた。
ゴードンが立った位置から、ミリアムの横顔が見える。
彼女は、眉間にしわを寄せたままゴードンの存在に気づくと、目
を合わせずに伏せた。
ミリアムは上半身裸のまま、抜け殻のように壁へともたれかかっ
ていた。
意味するところはひとつしかない。ゴードンは、悪夢だと自分に
強くいい聞かせた。
ミリアムの白く美しいうなじから、汗が珠のように光って浮いて
いる。
切りとられた絵画のように、美しく淫靡だった。
﹁おう。そういえば、おまえの女房の件だったな。⋮⋮っ、おいミ
リアム。てめぇの亭主が会いに来てるんだぜ。少しは、挨拶くらい
したらどうなんだいっ﹂
ミリアムは、髪を片手でかきあげながら、両目を開いた。
彼女の、ゴードンを見る目は、氷のように冷たく、なんの感情も
なかった。
﹁なぜだ、なんでだ。僕は約束を守ったのに。さ、こっちへおいで
よ﹂
﹁と、いってるが、ミリアム。おまえはどうしたいんだ﹂
ミリアムは、返答せずに背後を向いた。それは、明確な拒絶だっ
た。
﹁なんで、だ﹂
﹁⋮⋮というわけだ。おまえの女房は、もう戻りたくないってよ。
豚公。こいつは、この女の意思さ。聞くところによると、おまえは
463
ミリアムに女のよろこびを教えてやらなかったらしいじゃねえか。
それを、あんな小娘に対しては熱心にかわいがりなさる。要するに、
おまえは、女房から三行半を突きつけられたわけだ。俺も鬼じゃね
えから、この上おまえをどうこうしようとは思わねえ。あの小娘は
くれてやるから、どこへでも好きな場所に行きなっ。小舟の一艘く
らいは好きなのをくれてやる﹂
バルバロスは、ミリアムの髪を撫でながら、座ったままカッカと
豪快に笑い、小刻みに全身を揺らした。バルバロスが鉤爪を伸ばす
と、ミリアムは見せつけるように口づけた。
それは、見事なまでの完全な従属だった。
怒りと絶望がゴードンの胸中を一瞬で満たしきる。
あまりのむごさに、酷いたちくらみを覚えた。
ここで船を降りるということは、完全に妻を諦めるということだ。
その選択肢だけは、ありえなかった。
一瞬、やぶれかぶれで大暴れをしてやろうと思うが、背後の男た
ちから殺気を感じ、取りやめる。それに、ミリアムの冷徹な瞳が、
ゴードンの意気をくじいた。
﹁なんのつもりだ﹂
バルバロスのいぶかしげな問いが大きく耳に響く。
ゴードンは、その場に土下座すると、苦渋に満ちた言葉を述べた。
﹁なんでもします。僕を、湖賊の仲間に加えてください﹂
瞑った瞳の奥には、愛する妻の笑顔だけが宝物のように輝いてい
た。
絶対に、ミリアムを取り戻す。そのためには、どんな恥辱にも耐
えようと誓った。
464
465
Lv30﹁おしまいの風景﹂
叫ぶような女の嬌声と男の吠え声が、交互に響き渡った。
﹁ったく、船長も中々お盛んだねえ。これじゃあ、オレたちの分が
今日中にまわってくるかわからねえや﹂
﹁へへ、まあ気を落とすな相棒。アジトの島につきゃ、三日三晩と
酒盛りだ。女はそのとき、好きなだけ抱けばいいさ。へへ、ま。豚
公、女はたくさんいるからよう。祭りのときにゃおまえにもちゃー
んとまわしてやるからさ。使い倒した使用済みをよ!﹂
バルバロスの部屋の前で、見張りをしていたふたりの湖賊はそう
いって首をしゃくると、暗にゴードンにここから去るようにうなが
した。
完全に瞳から生気を消したオークの青年は、名残惜しそうに、嬌
声が漏れ聞こえる部屋を眺めると、肩を落としたままゆっくりと部
屋から遠ざかっていった。
﹁考えりゃ、あの豚公よく最後までキレずにしたがったな。よっぽ
ど臆病なのか、それとも理性的なのか﹂
﹁あいつは、普通のオークとは違う。屈辱を噛み締めても、最後ま
で女房を取り戻すチャンスを捨ててはいねえ。もっともオレたちの
下につくっていうなら、あの身体はあの身体で充分役に立つさ﹂
﹁しっかし、船長もえげつねえぇな。あそこまでされたら、たまら
ねえだろうよ﹂
﹁いや! あれでいいのさ! 男が一番大事にしていた女を完全に
組み伏せることで相手の牙を徹底的に抜き取る。二度と逆らおうな
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んて思わせねえようにな。あの、ゴードンというオークは利口そう
に見えて、実はたいしたことない。機を図ると思った時点で既に一
歩引いてるんだ。一度下がれば、男はもう前に進めねぇ。あとはズ
ルズル行き着くところまで落ちるだけだ。お互いそこいらは気をつ
けようや!﹂
ふたりの見張り番が顔を見合わせたとき、船の中央部分から、多
数の男たちが駆け回る音が大きく響き渡った。
﹁なんだあ、騒がしいなあ、おい﹂
男のひとりが怪訝そうに鼻先を掻いていると、船長室から物音が
した。
きい、と音を立て、部屋の中からミリアムが姿を見せる。見張り
番たちの瞳から、自然好色そうな視線を感じ、ミリアムは肩を震わ
せた。
﹁あの、ゴードンは﹂
﹁おいおい、船長だけじゃモノ足りずに、あの豚公にもかわいがら
れたいってのかい? だが、おめえを船倉にやることはできねえな。
船長に、おまえさんは絶対に旦那に会わすなって厳命されてるんで
ね。きひひ﹂
﹁そう、ですか﹂
ミリアムはゴードンの小さくなった背中を思い、胸が張り裂けそ
うだった。そもそもが、あんな男の言葉を真に受けたのが間違いだ
ったのだ。
身を任せれば、ゴードンだけはこの船から解放する、と。
︵彼を傷つけてしまった、あんなにやさしい彼を︶
思えば、ゴードンは性に淡白だったわけではない。大事な妻だっ
たから、必要以上に手厚く扱い、遠ざけたのだった。そんなことも
理解できなかった。ミリアムは、怯えてみせた自分の情けなさが許
せなかった。
︵わたしが、もっと勇気を出していれば。ちがうわ、そもそもあん
な小娘相手にバカみたいなヤキモチを焼いて、ヤケになって、自分
467
の身体を汚してしまった︶
ミリアムは、正直なところクレアを凶暴なくらいまでの熱心さで
抱いている夫を見て、激しく嫉妬していた。
バルバロスとかいう男の口車に乗ってしまったのも、馬鹿な女の
浅はかさだ。
おまけに、ゴードンは船を降りずに湖賊となって残るなどという
始末だ。それは、つまりはミリアムを絶対に取り戻すという執着の
表れであり、頭の芯がしびれるほどうれしい反面、危険値からいえ
ば承諾できるものではなかった。
バルバロスは、異常な執着を自分に見せている。
もう、ミリアム自身は汚れてしまった。ならば、せいぜいこの身
体を使ってあの男を手玉に取り、ゴードンだけはどうやっても五体
満足のまま地上に返さなければならない。それが、妻である自分に
できる最後の償いだった。
︵わたしは、もう汚れきってしまいました。あなたに合わせる顔も
ありません。だけど、必ず、あなたの身体だけは守り通してみせま
す。そうでなければ︶
だが、ミリアムの誓いをよそに、船内は大きなうねりに巻き込ま
れていくのだった。
蔵人が貨物室から甲板に上がると、出航前の目の覚めるような青
白い空は頭上から消え失せていた。 墨をぶちまけたような黒雲が中天を覆っている。
水の匂いが濃くなった。
ギラギラと、獣のような瞳をした湖賊たちが、剣や手斧を構えて、
蔵人たちの包囲の輪をゆっくりと縮めていた。
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﹁くそ、よく気のつくお友達だ﹂
﹁だから友達じゃないっての!﹂
湖賊の仕事は大きく分けて三つに分類される。
船のメンテナンスに、航行、戦闘である。
乗船している以上、仕事は二十四時間途切れなく行われ、すべて
は常に細分化され、協調性を持って行われていた。
つまりは、狩りの対象が元船長であろうと、彼らの個人的な感情
は、この際一切配慮されることはない。
中世、近代と、男にとって暴力とは己のアイデンティティそのも
であった。
とりわけ、力のみがもっとも尊ばれる船では尚のことである。
根無し草の船乗りにとっては、聞いたこともない法理などよりも、
自らの手で掴み取ったものがすべてで、組み伏せた相手がもっとも
すぐれた勲である。
そもそもが、二十そこそこのグレイスが荒くれ者の長である理由
としてあったのが、先代から受け継いだ血縁と力の象徴であった腹
心ラフィットの存在であった。
だが、現在のそのふたつを欠いたグレイスという存在自体が、彼
ら湖賊にとってはなんの枷にもなってはいなかった。
むしろ、昨日まで自分の上にあった存在を公然と汚すことができ
るのである。
それは、降り積もった純白の新雪を、泥靴で踏みにじるような下
卑た快感を確実にもたらせてくれることに間違いなかった。
男たちはなんの呵責もなく、この狩りを思う存分楽しむことがで
きる。そこには、免罪符として、それを許可した新たなリーダーで
あるバルバロスの存在が大きかった。
一度つかまってしまえば、昨日まで顎で使っていた男たちに引き
まわされたあげく、容赦のない陵辱を受けることは間違いない。
グレイスの心情はいかばかりだっただろうか。
﹁すまないね、なんの関係もないあんたにまで迷惑かけちまって﹂
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青ざめた横顔をわずかに伏せながら、グレイスがいった。
蔵人は無言のまま、彼女の手を引くと、にじり寄ってくる敵の数
を数えようとしてやめた。あまりにも、多すぎるのだ。
この状況なら、たとえ、宮本武蔵や塚原卜伝であろうと全力で降
伏するだろう。
そして、蔵人は彼ら偉人に劣るはるかに矮小な存在だった。
グレイスの表情。
絶望に染まりきっていた。
そもそもが、体格と強さは比例するものである。
彼女の並程度の体つきでは、男をベッドの上で蕩かすことはでき
ても、甲板の上での斬り合いは期待できそうもないものだった。
男の世界で女が頭を張ろうとすれば、一頭抜きん出た腕っ節、集
団を完全に統率するカリスマ、目もくらむような財力、触れようと
すら思わない高貴な血統、など、どうしても一般の船乗りとは隔絶
したなにかが必要だった。
だが、彼女にはなにもない。
蔵人が知る限りでは。
﹁んで、ジョニー・デップはいつ出てくるんだ?﹂
実力本位のこの異世界ではリテイクなど存在しない。手に持つ刃
は本物で、ひとたび舞えばあっさりと人間の命を刈り取っていく。
とはいえ、彼女の怯えもわからんでもない。
女性の存在など、このすべてがはかない世界においては、屈服し
た時点で、ただの排泄を行う共用設備になってしまうことも自明の
理だった。
周囲を囲む殺気が、一際大きく膨れ上がった。それは、獣が跳躍
する際に全身の毛を逆立てるのに至極、酷似していた。
﹁理由も知らずに殺されるわけにはいかねぇし。とりあえず逃げる
か﹂
﹁え﹂
蔵人はグレイスの身体を横抱きにすると正面突破を図った。
470
白鷺
。
何十人という多勢を頼んでいた敵影の真正面に向かって駆け出し
た。
﹁え、あ? ちょぶっ!?﹂
滑るように抜かれた白刃の銘は
古今に並ぶものないロムレス三聖剣のひと振りだ。
長剣が水平に走ると、手斧を構えていた男の首がなんの抵抗もな
く切断された。
振られた雨傘から飛び散った水滴のように、辺りに血潮がけぶっ
た。動揺した男たちが、波のようにサーっと引いていく。人垣の切
れ目を狙って、錐のようにもみこんでいく。身の厚い船べりが見え
た。一瞬逡巡する。
﹁翔べ!﹂
子猫のように身を小さくしていたグレイスが叫んだ。
ハナ
翔ぶも翔ばぬもない。そもそも、この船に逃げ場などないのだ。
﹁最初からそのつもりだっ!﹂
後方から激しいどよめきが沸いた。
蔵人は船べりを大きく蹴って、虚空に舞った。
全身に浮遊独特の背筋が凍る感覚。
自由落下に移る直前、グレイスが激しく指笛を吹き鳴らすと、大
きく眼下の湖面がうねった。
﹁ジェイミー! しっかり受け止めておくれよ!﹂
激しい飛沫をかきわけるようにして、その巨大な生物は水中から
顔を突き出した。
﹁マジかよ。さすが、ファンタジー﹂
それは、巨大な蛇だった。
ジェイミーと呼ばれたそれは、黒と白に塗り分けられた体色をう
ねらせながらとぐろを巻くと、湖面に落下していくはずだったふた
りを器用に受け止めた。グレイスは、ジェイミーの背びれらしきも
のに両手でつかまると後方の蔵人に向かって叫んだ。
﹁しっかりつかまって! って、どこにつかまってんのさ!﹂
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﹁おっぱい。いや、お約束かな、と﹂
蔵人は遠慮なくグレイスの両胸を鷲づかみにして、それからおも
むろに手の位置を細い腰へと移動した。
﹁ああ、もう好きにしなっ﹂
﹁冗談だって、おっぱいとれたら悲しいだろう﹂
﹁バカ!﹂
ふたりを乗せた大蛇は湖面を滑るようにして、レッドファランク
ス号から遠ざかっていく。大蛇の異様さに圧倒されていた男たちは、
蔵人たちの背中が小さくなるにつれて我を取り戻し、いっせいに狼
狽しだした。
﹁おい、なにぼさっと見てやがんだ。矢を射かけろ!﹂
﹁え、だってバルバロス船長が飛び道具は使うなって﹂
﹁ケースバイケースだ、クソが! 指示がないと、なにもできない
のかっ、これだから呑百姓や漁師あがりはっ!﹂
バルバロスの側近である幹部のひとりが、部下の湖賊を思い切り
罵った。男の顔にあからさまに怒りの表情が浮かぶが、そんなこと
は気になどはしない。幹部は、男の手から弓矢を奪うと二三度射て
みるが、とうに射程圏内を離脱していた蔵人たちに届くはずもなく、
矢はむなしく湖に沈んでいった。
﹁ちっ!﹂
獲物を逃がしてイラついた男の舌打ちだけが、波風に吸いこまれ
ていった。
二十二歳のグレイスが漁師である夫に嫁いだのは、七年前の十五
の夏だった。
グレイスの実家、オールストン家は、元々が湖畔に住む漁師や百
472
姓たちの束ねを行っており、近在ではもっとも栄えていた土豪だっ
た。家族の中で湖賊として主に活動していたのは、祖父と父であり、
特にそれが専業というわけではなく、生活の基盤は漁にあった。
つまり、湖賊として活動する時期は、特に不漁や不作の時期に減
免が認めらないときなど、抗議の意味合いが強かった。彼らは、ポ
ーズとして領主の保持している船や客船を襲い、交換条件として税
の減免措置を交渉する場を作り出していた。
だが、年々周辺で一番だった大都市のシルバーヴィラゴが栄えて
いくにつれ、クリスタルレイク周辺から取れる税金はあまり重要視
されなくなった。
湖畔の漁師や百姓に気を使わずとも、客船を大量かつ定期的に周
回させ、シルバーヴィラゴに人を呼びこんで金をどんどん落として
もらえば、時間ばかりかかる土民たちとの交渉などほとんど気に留
める必要がなくなったのだ。
勢い、クリスタルレイクには領主の目は届かなくなる、私腹を肥
やすことばかりに汲々する低劣な代官ばかり送られる、と負のスパ
イラルが連鎖した。人々は重税にあえぎ、塗炭の苦しみにまみれた。
ここまで踏みつけにされれば、近在の土民たちの束ねであったオ
ールストン家も黙ってはいられない。船を揃え、軍需物資をかき集
め、戦える漁師や百姓を集めて訓練を行い、湖賊黒蛇党を旗揚げし
た。最盛期には、三千を超える軍勢を誇った彼らも、七年前領主軍
との大戦で敗れ、ほとんど全滅したかに見えた。だが︱︱。
﹁そこで、神輿に担ぎ上げられたのは、当時の船長のひとり娘だっ
たあたしってわけ。女に湖賊はつとまらん! とかなんとかいっち
ゃって、無理やり人を嫁に出しておいて、いざ必要になれば、道具
のように無理やり別れさせて、挙げ句の果てにはこんなカッコまで
させて、さ﹂
蔵人は、湖畔にある船小屋の前で焚き火をしながら、グレイスの
話に耳を傾けていた。
時刻は既に夜半を過ぎていた。火を前にしてふたり寄り添うよう
473
に、倒木に腰かけている。季節は、夏とはいえ、日が落ちれば露営
の寒さは身に染みた。
レッドファランクス号は、出航してすぐに襲われたので、現在の
場所も出発地点だったセントラルリベットからそう離れていなかっ
た。南に視線を向けると、巨大な竜王山が確認できる。つまりは、
ダークエルフの領土に接しているもっとも危険な境界線の一部に上
陸していたのだった。
それにしても先ほどの、蛇は。
ジェイミーは、グレイスが卵の時から育てていた水蛇で、いわば
彼女の最後の隠し球だった。もっとも、デカイ水蛇は気性がやさし
く、主に湖底のコケを常食にしており戦闘には期待できないのは、
かなりの見掛け倒しだったが。
グレイスは、日が落ちて辺りがなんとも寂しげな風情になると、
途切れなく話を続けた。
蔵人が、相槌を打とうが打つまいがあまり関係ない。彼女は自分
の中の恐れをかき消すように、次から次へと身の上話を続けた。
要約すれば、領主の重税に立ち上がった義賊の後継者が、部下の
造反によって組織を乗っとられ難儀している、ということらしい。
蔵人にいわせれば、どっちもどっちだった。
﹁そんで、話は聞いたけど。そろそろ寝かしてくんねえかな﹂
﹁寝かしてくれって、そりゃあんまりじゃないか。なにか、いうこ
とはないのかい﹂
﹁ねえな。その続きは、どうかお助けください、力になってくださ
い。とかありきたりに続くんだろう。数人相手ならともかく。あれ
だけの数じゃあ、さすがの俺もどうにもならねえ。美人の頼みなら、
聞いてやりてえのやヤマヤマだが相手が悪すぎらぁ。気の毒だが、
これ以上他人の難儀につきあってちゃ、こっちの身がもたねえんで
な﹂
﹁⋮⋮あの船に密航してたってことは、シルバーヴィラゴに用があ
るんだろう。どうせ、男の考えそうなことだ。あんたも、冒険者に
474
なって一旗揚げようって腹積もりだろう﹂
﹁まあな。なんだよ、随分、冒険者に恨みがあるような口ぶりだな﹂
﹁大アリだねっ!﹂
グレイスは、焚きつけの薪を炎の中に投げつけると歯ぎしりする
ように、蔵人の外套をにじった。
﹁元はといえば、あたしに噛み付いたあのバルバロスも元冒険者な
のさっ。あいつが、黒蛇党に入ってからどんどん組織がおかしな方
に傾いてったんだ!! 戦う相手が領主の軍隊だとわかれば亀の子
みたいに首をすくめて隠れて、そのクセ分捕り品は適当な理屈をつ
けていっつも自分が多く取ってどんどん自分の子飼いを増やしてい
ったんだ! おまけに襲う相手が武装してない旅行者とわかれば真
っ先に襲って、子どもや年寄りは傷つけ、女は手篭めにして女郎屋
に売り払うっ!﹂
グレイスは真っ赤な顔を炎に照らし出しながら、不満をぶちまけ
ていった。彼女の滔々と述べる理屈はいずれも自分の頭領としての
実力不足を露呈するものだったが、蔵人はあえて否定せず、いいた
いことをすべて吐き出させた。彼女は、自分の正当性を誇示したい
わけではなくただ自分の話を誰かに聞いてもらいたいだけなのだっ
た。
怒鳴るように喋っていたグレイスが思い出したように蔵人の顔を
見やった。
同時に、彼女の顔から表情が失せた。
蔵人が軽いいびきをかいて目をつむっていたからである。
﹁あんたって男はっ!!﹂
﹁ちょっ、わっ、待って! 聞いてる、聞いてるから!﹂
グレイスは蔵人に飛びかかると、喚きながら顔に爪を立てた。蔵
人はたまらず、彼女の両手首をつかむと、愛想笑いを浮かべた。
﹁⋮⋮まったく、そういうところまで﹂
グレイスは、不意にうつむくと、脱力して蔵人の胸にもたれかか
った。
475
﹁おいおいおい、今度はなんだよ﹂
﹁ひとつ聞かせておくれ。冒険者になって五体満足でいられると思
ってるのかい? あたしから船長の座を奪ったバルバロスでさえ、
たった三年で目と腕を失って帰ってきたんだ。迷宮に潜り続けて人
生をまっとうした人間はいないんだよ﹂
﹁さあ、そいつは俺にもわからん。ただ、ひとつだけ見てみたいも
んがあるんだ﹂
﹁ひとつだけ?﹂
グレイスが聞き返すと、蔵人は困ったように頭をかいた。
それ以上聞かれたくないと察したグレイスが、そっと身体を蔵人
へとさらに密着させた。
湖畔には、闇の中で時折聞こえる火の粉の音と、虫のさみしげな
鳴き声以外にはなにもなかった。
﹁せつないんだよ。⋮⋮本当のところをいうと、あたしは元の亭主
にゃ三行半を突きつけられたのさ。いちいち、吠え付くあたしの性
格がたまらないってね。自分でも、ひとさまより気が短いってのは
わかってるよ。でも、生まれたときからこうなんだから、いまさら
変えることもできやしないし。父が、あたしのそういうところを見
こんで後釜に据えたつもりだろうけど。やっぱり女なんだよ。誰も、
頼るものがないってのは、つらすぎるよ﹂
﹁甘ったれたこといってもらっちゃ困るぜ。それにな、グレイス。
どんな道だろうと、最後に選んだのは自分自身のはずだ。都合が悪
くなったからって、お鉢をこっちにまわされてもどうにもならねえ
ぜ。つけ加えていえば、そもそも人間なんて誰もがひとりぼっちな
のさ﹂
﹁キツいね、本当に。最初さ、クランド。あんたのこと、別れた亭
主に似てるって思ったけど、全然違うね﹂
グレイスは、蔵人の瞳を覗きこむと、肩を小さく震わせる。それ
から、怯えるような瞳でささやいた。
﹁ねえ、抱いておくれよ﹂
476
﹁おいおい。俺は自分を大切にするんだ、とかつまんねえことはい
わないぜ﹂
﹁もお、どうでもいいよ。たぶん、あたしひとりじゃどうにもなら
ないし、最後の晩に、ひとつくらい良い思い出があったってバチは
あたらないだろう﹂
﹁交換条件ってことか?﹂
﹁無粋なこといわないでおくれ。ただ、寒いだけさ﹂
蔵人は、グレイスの顎をつまむとそっと口づけた。
グレイスは、情熱的に両手を蔵人の肩にまわすと、舌を自ら入れ
てきた。
蔵人は目を白黒させながら、互いの唾液を交換すると、口中で舌
を絡ませあった。
蔵人が余韻に浸りながら、倒木を背に空を見上げるとグレイスが
火照った身体で抱きついてくる。真っ赤な赤毛を抱きとめると、彼
女は顔を伏せたままいった。
﹁あたしが寝ている間に、旅立っておくれよ。もし、目が覚めて、
あんたの顔を見たら、きっとくじけちまうよ﹂
蔵人は無言のまま、彼女を抱きしめると、燃え盛る炎に向かって
じっと目を凝らした。
そこには、先程まで逃げを必死に口に出していた臆病者は、もう
どこにもいなかった。
﹁結局やってしまった。いったい俺の説教とはなんだったのだろう
か﹂
蔵人は、朝焼けに目を細めながら、倒木にもたれながら寝入って
いるグレイスの顔をそっと見やった。
477
﹁んんん、クランドぉ﹂
グレイスは、真っ黒な外套に包まれながらいい夢でも見ているの
だろうか、にやにやと口もとをだらしなくゆるませている。その寝
顔には日頃の勝気さはまるで見えず、蔵人から見れば、同年代の学
生となにひとつ変わらぬ幼さがあった。
湖畔から、清々しい空気が静かに吹き渡って来た。
空を染める水のような青さと、輝く湖面の白さが視界の向こう側
で溶けあっている。
﹁ま、やるしかねーのか。結局﹂
なんだかよくわからないうちにグレイスを抱いてしまったのも運
命だろう。
それに、あの客船にはマルコや、気のいい若夫婦も乗っていると
思えば、やはり見過ごすわけにいかなかった。
﹁一宿一発の恩義か。やべぇ、いまなにげに故事成語を冒涜してし
まった﹂
くだらない減らず口を叩きながら、蔵人は半ば完全に死を覚悟し
ていた。寝物語にグレイスから聞いたところ、敵の数はおおよそ百
五十人はくだらないという。
各個撃破とか、そういうレベルの問題ではもはやなかった。蔵人
とグレイス、ふたりで闇雲に湖賊の船に乗りこんでいっても、たち
まち押し包んで討ち取られるだろう。
いままでの冒険で度々、死を覚悟してきたが、今度という今度は
確実に死が目前に迫っている。
グレイスに至っては、既に命を投げている。
﹁だが、勝たなければ意味がない﹂
蔵人にとって武器といえば、ひと振りの剣と、意地と度胸だけで
ある。
願ってみても、急に秘められた力が覚醒するはずもない。
まごうことなく、ヒーローとしても、ひとりの男としても半端な
人間である。
478
﹁クランド、あ、あれ﹂
いつの間にか起きていたのか、グレイスが黒い外套を羽織ったま
ま、すぐ傍まで来ていた。
﹁どうして、寝ている間に行ってくれって⋮⋮﹂
﹁ま、俺もたいがいの大馬鹿野郎だよなぁ﹂
﹁そんな、うそだろう﹂
蔵人は、目を細めながらグレイスを見やった。無精ひげだらけの
顔が、奇妙に歪む。しばらくたって、グレイスはようやくそれが笑
顔だと理解したのだった。
﹁だって、ぜったい、死ぬっ⋮⋮て、意味が、ないって﹂
グレイスの瞳から、大粒の涙がぼろぼろこぼれる。流れ落ちるそ
れらは、青白い空を溶かしこんで淡く輝いた。
﹁どうやら、この湖が俺の死に場所みたいだな﹂
グレイスが駆け寄ろうとして、足をもつれさせ転びかける。さっ
と、近づいた蔵人が彼女を抱きとめた。親を探し当てた子犬のよう
にむしゃぶりつく、彼女の頭を撫でながら、蔵人はもう一度だけ青
い輝きに視線を移して、その輝きを脳裏に焼きつけた。
479
Lv31﹁湖水は紅に澱んだ﹂
クリスタルレイク中央にある、無数にある島の停泊地のひとつに、
敵船であるブラックスネーク号とレッドファランクス号を見つける
のは、それほど難しいことではなかった。
グレイスの水蛇であるジェイミーの速度は、帆船のような風に左
右されるちんけなスピードではなかったし、黒蛇党の船長だったグ
レイスにとって、湖賊たちがどこでどのように船を停めて補給を行
うかなどはすべて手の内だった。
バルバロスたちは、客船を鹵獲したあと、ほとんど航行せずに、
もっとも近いアジトのある島に移動しただけであった。
蔵人とグレイスは、波打ち際の岩陰から沖合に停泊する船を見な
がら、顔を寄せあって話し合いを行っていた。
﹁この岩鼻島は、あたしたちのいくつかあるアジトのひとつなんだ。
当然、とらえた人間を閉じこめておく檻もある。荷物になる一等室
の乗客はぜんぶここに置いていくはずだよ。もっとも、バルバロス
はものすごく用心深い。あたしをつかまえるまえに、船を降りるこ
とはないだろうね﹂
﹁なら、単純にブラックスネーク号を狙って奇襲をかければいいわ
けか﹂
﹁単純て。おそらくバルバロスのバカは、自分の周りをガッチガチ
に固めてる。あたしから寝返った奴らも心底あいつに従ってるとは
480
思えない﹂
﹁なんでよ﹂
﹁なぜなら、バルバロスは元々が湖畔の土地の生まれじゃないから
さ。黒蛇党のほとんどは、食えなくなった漁師や百姓とか土地の人
間なんだ。悔しいけどあいつには、妙なカリスマがあった。若くて、
脳みそがからっぽな若い連中は、バルバロスの駄法螺をまともに信
じるような単純なやつが多かったけど、歳かさで食えなくなった連
中は、あからさまにバルバロスを嫌ってるやつらもたくさんいたん
だ。いまも、本心から従ってるとは思えない﹂
﹁半々、てとこか﹂
﹁そこまで、いなくても、五十、せめて三十人こっちに手を貸して
くれるやつが居れば、勝負になるっていうのに﹂
グレイスは、パイレーツハットをいじりながら苦い顔をする。
﹁その、勝負、一口乗らせていただきましょうか﹂
どこかで、聞いた声に蔵人が振り返る。そこには、人生を舐めく
さったような顔つきの中年男が、自身に満ちあふれた顔つきで、い
つの間にか突っ立っていた。
﹁てか、おっさんじゃねえか。なんだ、生きてたのか﹂
﹁失礼ですね。拙僧は、神にいつでも守られているのです。で︱︱﹂
マルコはわざとらしく咳払いをすると、ダンディな口調でグレイ
スに流し目を送った。
﹁そちらの、ご婦人は? は、まさか、あなたも湖賊の魔の手にっ﹂
﹁あ、あはは﹂
グレイスは中年のノリについていけないのか、愛想笑いを浮かべ
た。当然、刺すように自分の胸元を凝視する不快さに耐え切れなく
なったのか、そっと蔵人の背中に半身を隠す。
﹁きいいいいっ、なんでクランド殿ばっかりいい目にぃいいっ!﹂
マルコの瞳が嫉妬で醜く釣り上がった。
﹁ねえ、クランド。この人、誰?﹂
﹁危険な宗教者だ。口を利くと孕まされるぞ。気をつけて﹂
481
﹁嫉妬! 美女に軽口を叩く、クランド殿に嫉妬!﹂
﹁んで、馬鹿な話はこれくらいにして、ここからは真面目にいこう
か﹂
蔵人の仕切り直しが入ると、司教マルコは炯々たる目つきで滔々
と語った。
自分は湖賊の人心を収攬することに成功した。そして主流派の悪
逆な賊たちは、昨晩の宴会で疲れきっている。頭目である、バルバ
ロスを討ち果たすのはいましかない、と。
ほとんど、話半ばに聞いていた蔵人たちだったが、マルコがわざ
とらしげに右腕を上げると、背後の雑木林からガサゴソと音を立て
て男たちが姿を現した。
﹁マジかよ、嘘だと思ってたけど、案外やるじゃんか﹂
﹁へへー﹂
﹁ちっす﹂
頭をかきながら、照れくさそうにふたりの三十すぎの男が藪を漕
いで姿を見せる。
﹁てか、モーティマーにジャン。あんたら、生きてたのかい!﹂
しかも、グレイスの子飼いだった。
﹁ふふ、どうです。拙僧の人徳は。中々のものでしょう﹂
﹁あー、えーと。おっさん、まあ頑張った方だよ﹂
﹁なんですか、その励まし方。ていうか、拙僧こっちの美女に褒め
てもらいたいのに﹂
マルコは恥ずかしそうに、もじもじと身体をよじる。グレイスが、
うげ、とあからさまに嫌そうな顔をした。
﹁しっかし、あんたたちふたりだけでもよく助かってくれたね。よ
かった﹂
グレイスが目もとに指をやってにじみ出る涙を拭う。それを見た、
モーティマーとジャンは決まり悪げに身体をゆすると、やがてジャ
ンが口を開いた。
﹁別に、俺たちもただ黙って姿を消していたわけじゃありませんぜ。
482
お嬢、実はとっておきの策ってやつの仕込みがありましてね︱︱﹂
ジャンの話した策はこうだった。
いままで、ふたりが姿を消していたのは、ただ怯えて隠れていた
わけではない。内密に、船内の反バルバロス派を結集させ、一気に
反撃の狼煙を上げる機会を狙っていたのだということである。その
為には、旗印であるグレイスの存在が必要不可欠であった。
だが、幸運にも今日、この絶好の機会に再びめぐり逢うことがで
きた。バルバロスたちは、前夜の宴会で酔いつぶれ、そろそろ日が
高いというのに、二日酔いで起きてくることはまずない。
﹁へへ、こっちでさぁ﹂
蔵人たちは、モーティマーとジャンたちの先導でブラックスネー
ク号に潜入した。
目指すは、バルバロスが酔いつぶれているはずの宴会場である。
手はずでは、まず最初にバルバロスの首を上げ、味方に決起をう
ながすことになっていた。ジャンの言葉通り、船内には見張りがひ
とりも立っておらず、あちこちにだらしなく多数の湖賊が酔いつぶ
れて寝こけていた。酒の匂いが鼻を突くほどに漂っている。襲撃の
成功を目の前にして、グレイスはモーティマーの浮かない顔つきを
見て首をかしげた。
﹁どうした、辛気臭い顔して﹂
﹁いや、なんかこういっちゃアレですが、妙に上手く行き過ぎてる
ような気がして。おい、ジャン。ちょっと様子を見てみねえか﹂
﹁どうした、どうした﹂
﹁わっぷ、急に立ちどまらないでください、クランド殿。拙僧の高
い鼻がつぶれますっ﹂
﹁ジャン、おめえなんのつもりだ︱︱﹂
モーティマーがジャンの肩に手をかけたのと、振り返った相棒の
手にしたナイフが脇腹を抉ったのは、ほぼ同時だった。
蔵人がジャンの腰を蹴りつけると、グレイスとマルコを両脇に抱
えて扉から飛びのく。
483
槍衾が木製の扉をジャンごと貫いて、あたりに血飛沫が撒かれた。
﹁どうやら上手い具合にハメられたようだな﹂
蔵人たちは、広間に集まっていた男たちに背を向けると、階段を
駆け上がる。既に、袋の鼠と知っているのか、湖賊たちは無言のま
ま包囲の輪を閉じていく。甲板に躍り出ると、船首から船尾に至る
まで男たちが得物を構えて埋め尽くしている。
さすがの、マルコも軽口が叩けないのか、鯉のように口をパクパ
クと開閉している。中空に上った太陽が、ブラックスネーク号を蒸
し焼きにするかのごとく、陽光で舐め尽くしていた。
﹁いよう、会いたかったぜ、グレイスちゃんよう﹂
﹁バルバロス!!﹂
隻眼隻腕の湖賊は、ミリアムの腰を抱き寄せながら、酒瓶を片手
にゆっくりと近寄ってきた。蔵人たちは、ぐるりと男たちに囲まれ
ながら、ひといきれで息がつまりそうなほどだ。碇を下ろしてある
ブラックスネーク号はそれでもわずかに揺れている。
﹁やっば、クランド殿。拙僧、こんなときだけど、やっぱり、揺れ
る乗り物は︱︱﹂
﹁あんた、長生きするぜ。まったく﹂
蔵人は、こんな状況でも船酔いをするマルコを見ながら、いくら
か冷静さが戻った。
﹁まったく、こんな古典的な手にひっかかるとは、所詮漁師娘の浅
知恵なんぞはこの程度。元々、黒蛇党の頭の器じゃなかったのよ!
なあ、てめーら!!﹂
バルバロスの言葉に、側近らしき十名ほどの男が哄笑する。彼ら
は、周囲の湖賊たちとは、武器も衣服もあきらかな隔たりがあった。
蔵人とミリアムの視線が、はじめて交錯した。彼女の瞳は、哀しそ
うに沈んだ色をしていた。類推する必要もなく、彼女がバルバロス
にどう扱われていたかは、一目瞭然だった。
彼女は、純白の花嫁衣装を着ていた。決して上等はいえないが、
その服を着てどれほどの恥辱を味わったのだろうか。奥歯を深く噛
484
み締めていたのか、かすれた軋みがもれた。
﹁グレイスぅ、これからおまえが俺さまの肉奴隷として奉仕すると
誓うなら、命だけは助けてやっても構わんぞぉ。んんん? ここに
いる、ミリアムのようになぁ!!﹂
﹁いやああっ!!﹂
バルバロスは、横に立つミリアムのスカートを後ろからめくると、
全員に見えるように晒した。
﹁はっはー! ミリアム。皆にとっくりと見てもらうんだ! おま
えは、夫がいるにも関わらず、用意した花嫁衣装のまま、たっぷり
とバルバロスさまにかわいがってもらった淫売だとなぁああ!!﹂
グレイスは顔色を真っ青にして、口元に両手を当てた。同じ女性
として、どれほどの屈辱か理解したのだろう。マルコも、甲板に両
膝をついて、胸元に下げた白十字を強く握り締める。湖族の輪から、
耳を劈く絶叫がひときわ高く上がった。
ゴードンが周囲の男たちを突き飛ばしながら発狂したように、突
進してきた。
オークの巨体が本気で動き出せば、人間の力では抗しようがない。
ゴードンは、あらゆる恥辱も屈辱も耐えようと思っていた。事実、
耐えてきた。愛する妻が、目の前で嬲られようと、自分が臆病者よ、
寝取られ男だのと蔑まされても。
ただ、一点だけ。
犯してはならない部分があった。聖域だった。
ミリアムを守ると決めた。それは、口先に終わってしまった。現
に、ゴードンが奇妙な冷静さを保っていたのは、無意識の内に強い
自己保身が働いていたからかもしれない。
だが、ミリアムの神聖にして侵すべからず、最後の部分がついに
破壊された。
ゴードンにとって、触れてはならない大切な部分が、野卑な男の
手によって黒く塗りたくられたのだ。
﹁ちっ! 血迷いやがって、おまえら片づけろい!﹂
485
バルバロスの命令一下、側近の男たちが持っていた槍や剣を代わ
る代わる投擲した。目を血走らせて、グレイスが短刀を引き抜いた。
蔵人は、彼女の肩につかみかかるのと、穂先がゴードンを針鼠にす
るのは同時だった。
﹁あああああああっ!!﹂
完全に理性を放棄したゴードンは、腹や右目、胸元、肩や足を貫
かれても、進撃をやめない。血煙が甲板に撒き散らされ、周囲の男
たちもその凄惨さに目を背けだした。
﹁ゴードン!!﹂
白いドレスをひるがえして、ミリアムが駆け出す。バルバロスの
瞳が嫉妬の炎で滾った。
﹁ミリアムぅうう!! あれだけ俺さまがかわいがってやがったの
にぃい!! まだ、その豚野郎のことをおおおっ!!﹂
バルバロスの振り下ろした剣が、ミリアムの背中を深々と抉った。
﹁ううっ﹂
それでもミリアムは痛みをこらえてゴードンに向かって走り寄る。
純白のドレスは胸元まで真っ赤な血で染まり、彼女はまるで一輪の
薔薇を抱いたように遠目には見えた。
﹁ゴードン。ごめんなさい、ああ。痛かったでしょう、こんなに。
ごめん、汚れてしまってごめんねぇ﹂
﹁ああ、許してくれ、ミリアム。僕がもっと早くに勇気を出してい
れば、君をあんなやつに汚されることもなかったのに﹂
ゴードンは血泡を喉に逆流させながら、ミリアムを抱きしめた。
﹁いいのよ。もう、なにもいわないで﹂
ミリアムは、静かに目を伏せるとゴードンの巨躯にもたれかかる。
それは、巨木の下にひっそりと咲く、一輪の花のようにはかなげ
な光景だった。
﹁ミリアム、僕は﹂
﹁あなた、わたしたち、死ぬときはいっしょだよ﹂
ミリアムは、血泡を吹いて目を細めると、苦しそうに眉をしかめ
486
た。誰がどう見ても、助からないほどの致命傷であったことは間違
いなかった。
周囲の湖賊たちからもしわぶきひとつない。
幾人かが、目元をおさえながら剣を取り落としていく。
﹁なんでぇ、なんでぇ! まるで、田舎芝居じゃねえか!﹂
バルバロスが息を弾ませて男たちを煽るが、一旦消え去った士気
はそうそう戻ることはない。それどころか、バルバロスの子飼いを
除いた湖賊たちは冷たい視線を船長に向けはじめていた。
﹁クランドさん、そこに居ますか。最後に、お頼み申します﹂
﹁ゴードンさん。俺は、ここだ﹂
﹁僕はもう目が見えない。頼むから、最後の瞬間だけは、夫婦でい
させてください。お願いします、お頼みしますと、図々しいことば
かりですが、他には誰にも頼めないっ﹂
ゴードンは自分の身体から引き抜いた剣の柄を蔵人の声がする方
に向けて差し出すと、よろよろと船べりの方に向かって歩いていっ
た。
既に呼吸が止まりつつあるミリアムを抱きしめて、ゴードンは無
防備な背を向けた。
オークの頑健な身体は、掻き毟られたように皮膚が破れ、内蔵が
はみ出し垂れ下がった臓器を自分で踏みつけていた。
助からない人間に引導を渡す。それは、生き残った勝者だけがで
きる、唯一の方法だった。
闇だ。
蔵人の意識を真っ黒なものが塗りつぶしていく。感情が消えてい
くのを感じた。剣を握る手指の感覚がない。ミリアムの笑顔と、別
れの際聞いたゴードンの男らしい声だけが幾度も頭の中で反響した。
蔵人は、勢いをつけて走り出すと、ゴードンとミリアムの身体を
ひとつにするように、深々と長剣を突き刺した。
最期にゴードンは、かすかな笑みを浮かべ、最愛の妻を抱きしめ
たまま、ゆっくりと船べりから落下し、湖水に消えていった。
487
青白い湖は、陽光にきらめきながら、一瞬だけ水面を真っ赤に澱
ませた。
﹁おい、おまえらどこに行く! 船長はおれだぞおっ!!﹂
蔵人が背後に顔を向けると、戦況は一変していた。湖賊たちは、
バルバロスの子飼い十名ほどを除いて、それぞれ武器をその場に放
り出すと、続々と船を降りていった。
﹁待てよっ、おい! おまえ、いまなら幹部待遇にしてやるからっ、
なっ!﹂
男は冷たい視線だけを返すと、バルバロスの手を肩から振り払い
いった。
﹁オラたちは所詮はぐれものだが、あの夫婦を見てなにも思わねえ
ほど腐れてもいねえ。だいたいが、調子のいいことをいって酒や女
をひとりじめにしてたのはおまえさんたちだけだしな。それに、お
めえさんは結局のところ土地の者でねえから、こんな無茶苦茶を続
けられるんだ。皆で話して決めただ。オラたちは、やっぱ魚獲って
暮らすのが一番だ。あとは好きなようにやってくんろ﹂
﹁お、おまえらあああっ!!﹂
バルバロスが真っ赤な顔をしてみても、船を降りる男たちは百を
超えている。ゴマメの歯軋りとはこのことだった。
その内、ブラックスネーク号に誰かが火を掛けたのか、船体が赤
々とした火で包まれていく。この場に残ったのは、蔵人たちとバル
バロス一味のみになった。
﹁くそっ! 出直しだっ、グレイス、せめておまえだけでも!﹂
バルバロスが一歩前に踏み出ると、外套の前をぴったりと閉じた
蔵人がうっそりと立っていた。短剣を抜きかけたグレイスを制止し
て一歩前に出る。小柄なバルバロスは気圧されたようにたじろいだ
表情を見せた。
﹁なんだ、おまえは︱︱あびゅっ!?﹂
不快げに鉤爪を前に出すが、きらりと銀線が走ったかと思うと、
義手はあっさり切断されて甲板に転がった。
488
蔵人は完全に表情を消したまま、外套の中で抜き放っていた長剣
を突き出した。
バルバロスたちに向かって、殺気を隠すことなく発した。さすが
に感づいたエルモを含めた十一名は瞬時に散開すると、得物をそれ
ぞれ抜き放った。
﹁なんだぁ、おまえは。いったい、この俺さまになんの恨みがある
んだっていうんだああ﹂
﹁おまえにゃなんの恨みもねえが、ゴードンたちの意趣返し、させ
てもらうぜ﹂
怒りに燃え上がった蔵人の動きは獣のように荒々しかった。狼狽
気味の男たちに向かって真正面から突っ走ると、飛び上がって長剣
を斜め上から叩きつけた。
﹁おぐえっ!﹂
男は蔵人の刃を顔面に受けると、目鼻を完全に抉られ叩き潰した
スイカのように真っ赤な断面をさらけ出してあお向けに倒れ込んだ。
蔵人は、ひとりを屠ると、うろたえた様子の隣の男に狙いを定め
た。
白刃が真月を描いた。
男は、右脇腹を深々と断ち割られると、泳ぐように前のめりにな
った。
蔵人は半身をずらしてさけると、背後から男の首筋に長剣を力い
っぱい叩き込んだ。
うなじから入った刃は、男の首を両断すると血飛沫を飛び散らせ
た。
勢いのついた男の首は勢いよく飛ぶと、燃え盛る炎の中に踊り込
む。
咆吼したまま、蔵人は勢いをゆるめることなく、正面の男に向か
って白刃を振り回した。
刃物同士が噛みあう金属音が甲高く鳴った。
受太刀にまわった男は力負けすると、船べりに押しつけられた。
489
男の体格は、オークと遜色のない巨躯であったが、鬼神の乗り移っ
たごとき蔵人の動きの前では無力だった。
男は大木のような腕に、血管が浮かぶほど満身の力を込めている
が、ぐいぐいと船の手すりに押し潰されていく。男の表情が醜く歪
んだ。
蔵人の長剣が、男の身体を完全に船べりに押し込んだ。
白刃がギラリと陽光を反射し凶暴にきらめく。
斜めに走った銀線が男の首元を断ち割った。
﹁ちきしょう!﹂
﹁いっせいにかかるんだっ﹂
﹁殺せえええっ!!﹂
男たちの怒声と船体を焦がす炎音が入り乱れて飛びかった。
セールにも火が燃えうつり、帆柱がゴーゴーと音を立てて左右に
揺れている。
火の粉が舞うように辺りに飛散していた。
蔵人は、外套の裾を割って大きく跳躍した。
吹きつける強風が音を立てて漆黒の羽を波打たせた。
長剣が風を巻いて唸る。
蔵人が、降り立つと同時に、男の顔面へ垂直に銀線が走った。男
は獣のように吠えると、脳漿を甲板に撒き散らしのけぞった。握っ
ていた手斧が、甲板の血溜りに転がった。
間髪入れず、左右から男たちが迫る。
蔵人は、逆手に持った長剣を右後方に突き出した。長剣は、右か
ら駆け寄った男の胸板に深々と突き刺さって心臓を抉った。
直後、左から襲い来る男の刃風を感じた。身を低くしてかわし、
同時に剣を抜き取った。
蔵人は、左手で白金造りの鞘を持つと上方に振り上げた。刃をは
じかれた男の胸元がガラ空きになった。
蔵人は、飛びこむようにして諸手突きで相手の胸へと刀身の半ば
を埋没させた。
490
﹁おおうっ!!﹂
奇妙な吠え声と共に、男は全身を大きく震わすと、血反吐を吐い
て横倒れに伏した。
残った男たちは怯えが極まったのか、立ち向かうことなく背後を
見せて駆け出した。
蔵人は、叫びながら逃げる男たちの背中に長剣を振るった。
風を巻いて走った銀線が後頭部に叩きつけられる。
男は、脳髄を飛散させて顔から甲板に突っこんで息絶えた。
蔵人は、脱兎のごとく逃げ去ったもう片方の男の背に長剣をすべ
らせた。男は、無防備な背中を深々と断ち割られうつ伏せに倒れ込
んだ。蔵人は、男の背中に右足を乗せて固定すると、両手に持った
長剣を満身の力をこめて振り下ろした。長剣が、男の心臓を深々と
刺し貫いた。男は、低く呻くと、どろりとした血をにじませながら
絶命した。
﹁なにやってんだ、まとめてかかるんだよおっ!﹂
バルバロスの叱責に、ふたりの男が破れかぶれに殺到する。
蔵人は、身体をよじって外套を回転させた。風雨に晒され、泥と
塵を吸い込んで重みを増した外套が向かってきた男の顔面を力強く
打ち据えた。鈍い音と共に、呻き声を上げ、男は座り込んだ。
蔵人は、尻餅を突いた男の喉笛向かって、刃を水平に走らせた。
鋭い突きが喉仏を喰い破った。男は、口をぱくぱく数回開閉すると、
赤黒い血潮を傷口から噴水のように撒き散らし、白目を剥いて絶息
した。
残ったひとりは、頭を左右に振りながら、目をつぶったまま剣を
突き出してきた。
蔵人は、足を伸ばして男の体勢を崩すと、長剣を胴体に向かって
横殴りに叩きつけた。濡れ雑巾を壁で叩くような鈍い音が鳴った。
焦げた船体に血液が降りかかり、音を立てて蒸発する。
男は、割られた腹から臓物をはみ出させながら、虚ろな瞳で二、
三歩歩くと膝を折って絶息した。
491
﹁エルモっ、エルモぉおおっ!! 俺を守れえっ!﹂
バルバロスが怯え切った声で叫ぶと、黒の目出し帽をかぶった男
が蔵人の前に立った。
﹁なかなかやるじゃないか、若造。この双剣のエルモをせいぜい楽
しませてくれよ﹂
エルモと名乗った男は、腰の二本の剣を抜き取って十字の構えを
とる。
蔵人は、腰をわずかに落とすと、長剣を水平に寝かせて迎え撃つ。
エルモは豪語するだけあって、かなりの使い手だった。蔵人が受
太刀に回ると、叩きつけられた双剣の重みは並大抵のものではなか
った。高い金属音と共に、火花が散った。蔵人は体勢を崩したまま
後方に転がりながら、周囲に視線を伸ばした。
二刀を使いこなすというのは、両手にかなりの筋力がなければ不
可能な芸当である。
強敵を倒すには、一撃必殺を狙う必要がない。身体のどこか一部
分を傷つければ、そこから動揺が生まれ、勝ちへの道標も自ずと見
えてくるはずである。
﹁そらあっ!﹂
エルモはさらに一歩踏みこむと、二刀を振り下ろした。仰向けに
なりながら、長剣を水平にして再び受けた。
右肩に熱い衝撃を感じた。血飛沫が飛び散り、右頬を濡らした。
完全に力負けしたのか、頭の芯まで痺れるような豪打だった。な
んとか立ち上がろうと身体を起こした時、エルモが両剣を振りかぶ
るのが見えた。無意識に左手を伸ばすと、指先に手斧の柄が触れた。
死を覚悟した瞬間、エルモが目を見開いて半身になった。一条の鋭
い輝きがエルモをかすめて船べりに突き刺さった。
﹁貴様ッ!!﹂
エルモの怒声が響いた。グレイスが、蔵人を助けようと短刀を投
げつけたのだ。
﹁クランド!﹂
492
悲痛な甲高い声が木霊した。
その隙を見逃すはずもなかった。蔵人は、引き寄せた手斧をエル
モの足元に向かって全力で投擲した。手斧は円回転しながら、エル
モの右足をわずかにかすめて船板に突き刺さった。エルモが、低く
呻きながら体勢を崩した。起き上がるには充分な時間だった。蔵人
は立ち上がりざまに、外套を肩から剥ぎ取ると、エルモの顔面に投
げつけた。
﹁うおおおっ!﹂
上方の視界を遮られて混乱したエルモが両刀を闇雲に突き入れた。
蔵人は、地を這うようにしてエルモの足元に飛びこんで、存分に長
剣を横に薙ぎ払った。左足の脛を叩き割られたエルモが、野太い悲
鳴を上げながら倒れ込んできた。
蔵人は、長剣をすくい上げるようにしてエルモの心臓に深々と埋
め込んだ。
エルモは、両眼を見開きながら、両手に持った剣を床に落として、
舌をだらりと垂れ下がると息絶えた。
﹁待ってくれよ、俺を斬るつもりかよ、兄さん。か、勘弁してくれ。
な、なんでもするからさぁ! つ、償うよぉおおっ。なあ、グレイ
ス! おまえからも、口添えしてくれっ。甲板掃除でも、下働きで
も、奴隷扱いでもいいんだっ。た、頼むよ。命だけはっ﹂
バルバロスは、蔵人とグレイスの顔へと交互に視線を移しながら、
泣き喚きながら命乞いをした。グレイスの顔は怒りの余り紅潮し、
くちびるがわなないていた。
﹁お願い、早く黙らせておくれ﹂
グレイスは目を伏せて、震え声を出した。
蔵人が燃え盛る炎を背に、一歩前に踏み出した。バルバロスは小
娘のように身を縮こませながら、顔面をひきつらせた。
﹁おまえが許されるかどうかは、あの世でふたりに会ってから聞い
てくれ﹂
蔵人は、長剣を大きく振りかぶると、ひざまずいていたバルバロ
493
スの顔面に叩き落とした。銀線が、顔面から胸元まで垂直に走った。
﹁いぎいいいっ!!﹂
バルバロスは獣のような断末魔を上げると、赤黒い切断面から血
潮を吹き散らして横倒しになった。蔵人が、胴体を蹴上げると、死
骸は燃え盛る船体の炎と黒煙に巻き込まれやがて見えなくなった。
ゴミにはふさわしい末路だった。
蔵人はグレイスの肩を抱くと、外套ですっぽり包みこみ静かに歩
き出した。
すべての悲しみから遠ざけるようにして船から遠ざかっていく。
岸辺に降りると、背後にブラックスネーク号が炎に舐め尽くされ
轟々と唸りをあげて燃え盛っているのが見えた。
グレイスは真っ青な空の下で、天も焦げよと吹き上がる炎の渦を
見つめ続けた。
そして、静かに涙をこぼしながら、千切れた黒蛇の旗印をもう一
度、強く握り締めた。
﹁おかしら、よかったんですかい?﹂
﹁なにが。それから、あたしのことはおかしらって呼ぶな。船長と
呼べ、船長と﹂
グレイスはモーティマーの言葉を訂正すると、そしらぬ振りをし
ながら眼下の向こうへ走っていく帆船を見つめていた。あれから、
解放されたレッドファランクス号は当初の予定通りシルバーヴィラ
ゴに向かって旅立っていった。グレイスは、あの戦いの後、自分の
下で湖賊を続けたいと戻ってきた仲間を集めて、一からやり直すこ
とにした。バルバロスのような不心得ものを出さない為にも、自分
をもう一度磨き直さなければならない。
494
これからは、受け継いだ地盤も自分を助けてくれるラフィットも
いない。
誰にも頼らないんだ。
こころの中でつぶやくと、ずきりと小さな痛みが走った。
﹁あーあ、クランドの兄貴がいてくれりゃ、怖いもんなしなのにな
ぁ﹂
﹁あのなぁ、堂々とあたしの貫目を批判するなんて、いい度胸して
るじゃないか﹂
﹁いやいや、そんなつもりじゃありませんて。これからは、俺も、
少しは自分の頭で考えてみます。なにが、一番いい方法なのかって
ことを﹂
﹁ま、お互いさまってとこか。あたしも、二度とこんなことの無い
ようにしっかりしなくちゃ﹂
岸壁から湖に視線を向けると、青白く輝いた眩しい光が、夏の日
差しを照り返しながらキラキラと宝石のように瞬いている。
蔵人は自分が泣いて頼めば、きっとそばにいてくれただろう。
だけど、それはなにか違う気がした。あの男にはあの男の、自分
には自分のやるべき道がきっとあって、それはまったく同じでなく
ても、それぞれにとって大切なものであることには違いないのだ。
無理に、男の道を変えさせるなど、美しくないと感じただけだ。
あの男は命をかけて黒蛇党の旗を取り戻してくれた。なら、取り
返した旗をより強くするのは自分の役目だろう。その程度やり遂げ
なければ、船長と名乗るわけにはいかないだろう。
ふと気づくと、以前よりはるかに少なくなった男たちが、母親を
心配するような子どものように、心細げな瞳で自分を見つめている
のに気づいた。
グレイスは、風に吹かれてかしいだ帽子の眉庇を直すと、太陽の
きらめきに負けないくらい莞爾と微笑んで見せた。
495
496
Lv32﹁冒険者の街﹂
ラスト・エリュシオン
深淵の迷宮
に接しており、冒険者組
ギル
シルバーヴィラゴはロムレス第四の人口を誇る大都市である。人
ド
口は、優に百万を越えて、
合に所属する冒険者だけでも一万人は下らなかった。
いわゆる城壁都市である。街の周囲を高い壁でぐるりと覆ってあ
り、城門は西と東のふたつに限られていた。主に物資は、東のクリ
スタルレイクから運ばれ、西からは冒険者たちが迷宮攻略に向けて
定期便の馬車に乗って出発する。
都市には、常時治安維持の為にアンドリュー伯の誇る鳳凰騎士団
が詰めており、それなりに秩序は維持されていた。
とかく、この街で落ちる金は並大抵ではなかった。
冒険者の為の、武器・防具など装備品を商う店、怪我を治療する
ための病院、稼いだ金を扱う銀行や、飲食店、王国公認の賭博場も
あれば、それを見越して併設された巨大な娼館、国教ともいえるロ
ムレス教の大聖堂といった宗教施設、月に一度盛大に行われる奴隷
市場や、闘技場や芝居小屋まで揃っていた。
迷宮に挑んで一山当てようとする若者たち、それを当てこんで大
儲けしようとする商人たちなど、とにかくシルバーヴィラゴにさえ
行けば、食っていけるというのがこの国の共通認識になっていた。
だが、それはならず者が無限に集まっていることも意味していた。
基本、この世界では戸籍調査など行わない。一定の商売を行った
市民資格
が必要だったりするが、庶民にとっては、
り、銀行で大金を借りたり、公営の事業を行ったりする際には、等
級に応じた
497
日常生活において、まず関係のないものであった。
つまり、栄えた都市には必然的に起こる、絶え間のない人口流動
における事件率の増加は避けられないものだった。
︵やだな、さっきからなんだかつけられてるみたい。どうしよう︶
少女の名は、レイシーといって、今年一七になったばかりの銀馬
車亭という酒場で働く酌婦だった。
もっとも、酌婦といっても、実家が酒場なだけで特に男たちに対
して性的サービスを行ったりするわけではない。料理を運んだり、
お酒をついで回ったり、唄を歌ったりするのがメインであり、極め
て家庭的な店であった。砂色の髪と黒々とした瞳が特徴的な彼女は、
かなりお節介焼きな性格も相まってか、男に対して気があると誤解
されがちな行動を取るため、今までに何度か付け回された経験がな
かったわけではないが、それらの男たちはみな店で会った人間ばか
りで、危険を感じることはなかった。
だが、今日のストーキングはいつものようなやり方とは違い、ひ
しひしと獲物を追い詰めるような圧迫感が強かった。
時間にしては、昼を回ってすぐであり、レイシーは夜に備えてお
店の追加食材を馴染みの店で購入したあとのことだった。近道をし
ようと思い、いつもは通らない路地裏を通っったのが悪かったのだ
ろうか、ふたりの男の影が徐々に距離を詰めて迫る。
︵やだ、やだ。そういえば、最近おかしな人間が街に増えたって、
お店のひともいってたし。あー、なんでこういう日に限って、わた
しったら、もおお︶
レイシーは頭をかきむしりたい衝動に駆られながら、思い切って
振り返ると、背後をつけ回す男たちを睨みつけた。
四十年配のふたりは兄弟なのか、非常に似通った顔つきをしてい
た。
いわゆる、悪相である。額が突き出すように出っ張っており、金
壷眼だった。
ギョロギョロした瞳が、狡猾そうに忙しなく動いている。それは、
498
小心そうな鼠を思わせるものだった。
︵うっ、ちょっと、こわいかも。ううん、はっきりいってやんなき
ゃ。こういうやつらは、わかんないのよ︶
﹁あの、あなたたち、あたしになにかご用ですか! ひとの後をず
っとつけまわしたりして。気分悪いです。いいたいことがあったら、
はっきりいってください﹂
レイシーは、腰に手を当てながら、男たちの顔から視線を離さず
にいった。
コツは、目を逸らさないこと。
このやりかたで怒鳴りつければ、たいていの男はお茶を濁してそ
の場を去っていった。 そもそも、人になにかしようと企んでいる人間ならば、目を合わ
せるようになる前に、直接的な行動に出ているはずである。それが
出来ずにうじうじ後をつけ回すような輩は。
︵ま、根性なしと決まってるわ。気迫で相手を退散させるべし︶
レイシーは、自分でできる限りの怖い顔を作ると、じっと男たち
を睨む。
傍から見れば、かわいげのある動作にしか見えなかったが。
﹁おまえが、銀馬車亭のレイシーか﹂
﹁⋮⋮そうだけど、なによ﹂
男たちは、顔を見合わせ、お互いに頷き合うと、ごつごつした手
を伸ばしてレイシーの腕を取った。
﹁ちょっと、やめてよ。はなしてっ﹂
﹁お、お俺たちと、き、来てもらうんだな﹂
﹁や、やだ。だいたい、なんで見も知らないひとたちといっしょに
行かなきゃいけないわけっ? はなしてっ﹂
レイシーが掴まれた腕を振り払うと、男たちはもう一度お互いの
顔を見合わせ、困ったように眉間に皺を寄せた。
﹁俺は、オールディ﹂
﹁俺は、ヤングディ﹂
499
﹁は?﹂
男たちは自分の名前を名乗ると、子どものように、うんうんと首
を満足そうに縦に振って、ふたたびレイシーを引き寄せようと手を
伸ばした。
レイシーは、男の手をひっぱたくと、後ずさって警戒を露わにす
る。
オールディとヤングディの顔に、怪訝なものが生じた。
﹁いやいやいや。名乗ったからって、ついていかないからね、普通
に﹂
﹁どうしてだ﹂
﹁どうしてもよ﹂
レイシーが身をこわばらせていると、男たちが一歩前に出た。ど
うやら、問答はやめて力づくでもという態度だった。レイシーの表
情が、恐怖で彩られた。
﹁き、来てもらうぞ。レイシー、俺たちのところへ﹂
﹁やだー、ばかっ! こっち来んなっ、変態っ! 人さらいー!﹂
レイシーは買い物かごを振り回して抵抗するが、ふたりは表情を
変えずに、距離を詰めだしていく。大通りまで走るには、少し距離
がある。
レイシーが、男たちの隙を縫って飛び出せるかなと、おなかの奥
をきゅっとさせたとき、ひとりの男が近づいてくるのを見た。
﹁助けてっ﹂
レイシーは無意識に叫んでいた。
背の高い男だった。歳の頃は二十前後だろうか、長い黒髪が肩に
かかるほど伸びきっていた。浅黒い肌をしている。頬から顎にかけ
て密生した髭が顔全体を覆っていた。頬は削いだように痩けていた
が、瞳だけが力強く爛々と輝いている。黒い外套が全身をすっぽり
と覆っていた。薄汚れた麻の上下は、長旅を続けたのか風雨で汚れ
きっていた。腰に落としこんだ長剣だけが、やけに立派だった。白
金造りの鞘の美しさが、ひときわ目立って異彩を放っていた。
500
﹁このひとたち、あたしをつけまわすんですっ﹂
レイシーは、咄嗟にふたりから離れると、突如として現れた男の
背後に隠れた。男の外套の裾を握り締めて視線を合わせる。黒髪の
男は瞳が合うと、いたずらそうに口元をゆるめた。レイシーは、な
んの根拠もなく、この男を信じていいような気がした。
男が一歩前に出ると、ふたりの悪漢が気圧されたように後ろ足を
引いた。
オールディとヤングディは、いくらか逡巡した後、困ったような
顔をしてから、ゆっくりとその場を離れていった。
レイシーは、ほーっとため息をつくと、へなへなとその場に座り
込んだ。ふと見れば、黒髪の男は買い物かごから散らばった食材を
拾い集めてくれていた。なんとなく、じんわりと胸の内にあたたか
いものが広がっていった。
この人は、いい人だ。
﹁あの、あたしレイシーっていいます。危ないところを、ありがと
うございました。その、よければお名前をお聞かせ願えませんか?﹂
レイシーは意識的に声音を気持ち高く造って話しかけた。
﹁名乗るほどのもんじゃねえんだ﹂
思ったよりも、渋く、いい声をしている。少なくとも、レイシー
の好きな音階だった。
男は、物憂く天を見上げている。なんとなくではあるが、街の男
たちにはない野性味を感じる。座りこんでいたレイシーを気遣い、
手を差し伸べてきた。おそるおそる、握る。ぐい、と力強く一息で
引き上げられた。分厚く、傷だらけの手のひらだった。
レイシーは、自分の胸が、まるで男にはじめて話しかけられた小
娘のように、とくとくと、強く脈打つのを感じて、ひどく動揺した。
ほわーん、とした気持ちでレイシーがくらくらしていると、男は
落ち着かない様子で、そわそわと背後を気にしだした。
遠くから、怒声と多数の人間の足音が近づいてくる。地鳴りのよ
うな轟音が、徐々に近づいてきた。
501
﹁やっべ。じゃ、気ぃつけて帰れよ﹂
﹁あ、待って﹂
男は、そう言い残すと、真っ黒な外套をなびかせながら、路地裏
の小道を駆け出していった。
男が駆け出すと同時に、多数の男たちが狭い小道に血相を変えて
殺到する。
どの顔もレイシーにとっては顔馴染みの、食いもの屋の店主と店
員たちだった。
﹁こらーっ、待てーっ、逃げるなっ!﹂
﹁この食い逃げ野郎がっ!﹂
﹁金払えやああっ!! この文無しがっ!﹂
レイシーが呆然と立ちすくんでいると、肉屋の親父が肉切り包丁
を振りかざしながら、疾走している。中年男の肥満した腹の肉が見
事に波打っていた。
﹁あ、レイシー。あの、乞食野郎におかしなことされなかったか!﹂
﹁え、えええ?﹂
銀馬車亭によく飲みに来る見習いコックが、いまいましそうに舌
打ちをした。実に不快げな顔つきだった。
﹁髭モジャのあの男、支払いの段になって、ちょっと足りないかも、
とかいいだしたんでさ。巾着の中をあらためたら、なんのことはね
ぇ。石ころしか入ってなかったんだ! 最初っから払うつもりがな
かったんだ。いま、通りのみんなに声かけて追い詰めてるところな
んだ﹂
﹁えええええっ!!﹂
﹁常習に違いねえな、ありゃ!﹂
レイシーは、目玉をぐるぐるさせながら、男の走り去った方向と
コックの顔を交互に見比べていた。
502
どうしてこうなったんだ。ちきしょうめ!
むしろ食いすぎて気持ち悪い。
蔵人は、子供のころから食い物屋に行くと、必要以上に注文して
しまう癖があった。港から城門をくぐってウロウロしていたら、飲
食街に到達していた。
神だ、食欲の神に導かれたのだ。
ちょうど、昼どきだったせいもあり、隣のテーブルに着いた中年
オヤジが食っていた肉の煮物らしきものが、ものすごく香ばしい匂
いを発していたので、気づけば無意識の内に同じものを注文してい
た。しかも、五皿もだ。
俺の胃袋は宇宙だ! 症候群
にかか
食いはじめは、だいたい餓鬼のように空腹のなので、いくらでも
食べられる錯覚、すなわち
っているので、かなりのハイスペースではらわたに詰めこむことが
可能なのだが、ある程度時間が経過すると満腹になってしまう。
威勢良く注文した時に背後におわす不動明王のような存在がかき
消えてしまうのが常だった。腹の皮が突っ張ってくると、食事中は
気にもとめなかった肉の種類がなんだったのか無性に気になってし
かたなくなる。
おまけに、お代を払おうとしたら銭袋の中身が石ころに変化して
いた。
まさに、ファンタジーである。
だが、ファンタジー世界の住人たちはこの不思議事象に寛容では
なかった。
不条理である。
蔵人は、小商いの中年たちから逃げ続けながら、シルバーヴィラ
ゴに着いてから、いままでの経緯をゆっくりと思い出していた。
503
司教マルコとは城門の前で別れた。彼は彼なりに蔵人との別れを
惜しみ、自分が起居している大聖堂に寄らないかと誘いを受けたが
断った。
なんだか、嫌な予感がするからである。
理由はそれだけではなかった。マルコは、あの船で孤児になった
クレアという少女を引き取って教会で尼僧にするらしい。
蔵人は、不幸な運命に翻弄されて傷ついた少女の姿をこれ以上見
続けるのは出来れば勘弁してもらいたかった。
基本的に、この世界の人間ではない蔵人にとって頼れるのは自分
だけである。現状、まるで守れていないが、いちいち他人の難儀に
関わっていたのでは命がいくつあっても足りはしないのは身をもっ
て痛感した。仮に、なにかしらの事件に巻きこまれても、在地もな
い知り人もいないこの世界で蔵人を善良であると証し立ててかばう
人間はどこにもいないのだ。
マルコのような男でも、いまの蔵人にとっては心強い一本の枝で
あった。司教、という地位がどこまで本当かは怪しいものであった
が、浮浪者同然の蔵人よりかは遥かに人々の信用を得やすいだろう。
だが、このシルバーヴィラゴという新しい土地に来てからいきな
り人さまに頼りきりというのも情けない話ではないか。
志門蔵人は男でござる。
幼子のように手を引いてもらって上から下まで揃えてもらうよう
な甘っちょろい生き方をこの旅の中でして来たつもりはない。
﹁ま、本当に困ったら頼らせてもらうけどね﹂
ほとんどそんな心配は必要ないほどの繁栄がこの街にはあった。
行き交う人々の数は、いままで通ってきた街々と比べようもないほ
ど多く、通りの石畳は手が隅々まで行き届いており、整然としてい
た。当然のごとく、字の読めない人間にもわかるように、軒を連ね
504
た店先の看板には、それぞれのシンボルマークが掲げられており、
なにがどのような品を扱っているかすぐに理解できた。
武器屋なら、剣のマーク。
ギルド
衣服ならば、反物を丸めたマーク、などなど。種類は無限と思わ
れるほどだ。
だが、蔵人が最初に向かったのは冒険者組合の建物であった。
ダンジョンとゲーム世代である蔵人が聞けば、荒野に放置された
ラスト・エリュシオン
場所に各々勝手に突入して、宝物や獲物を狩るというイメージであ
ったが、聞くところによると、深淵の迷宮自体が国有財産であり、
ギルド
許可なしで入ること自体が法に照らして罪に当たるらしい。
﹁ここか、冒険者組合ってとこは﹂
人づてに聞いて、建物はすぐに見つけることができた。
シルバーヴィラゴの中央部、大通りに面した一等地にそれはあっ
た。
一見して城を思わせる巨大さであった。イメージ的には裁判所の
ような厳粛さを醸し出している。全体は、赤レンガをぎっしり組み
上げて出来ており、入口部分には甲冑を着込んだ番兵が重々しい雰
囲気で佇立している。ロールプレイングゲームの冒険者の酒場的な
ライトな感じをイメージしていた蔵人は、若干気圧された。
兜の眉庇から、番兵の瞳がよく見えないのもかなりの恐怖である。
構えている槍から、近寄るとぶっ刺すぞオーラがビンビン放出さ
れていた。
﹁おいおい、もうちょっと入りやすい雰囲気を心がけたらどうなの
よ。ウチの地元のしんきんを見習え、しんきんを﹂
蔵人は、ともすれば回れ右をしそうになりながらも、挙動不審気
味に、入口の階段を登っていく。若干視線は伏せ気味だった。
﹁おい、きみ﹂
﹁は、はいいいっ?﹂
フランク永井ばりの低音が響いた。
蔵人の身体がエビのように跳ねる。
505
﹁ブーツのひもがゆるんでいるよ。転ばないように気をつけてね﹂
﹁あ、はい。ありがとうございます﹂
すっごく、親切な人だった。
﹁くっそ、びびらせやがって。だが、第一関門は突破した。俺の勝
ちだ﹂
いったい何と戦っているのかわからないが、蔵人はこころの中で
鯨波をつくりながら入口から大扉を開いて広間に入る。
﹁おお、なんか豪華だ﹂
一見すると一流ホテルのラウンジ的な造りだった。正面には幾つ
もの大きな丸テーブルが置かれて多数の冒険者らしき人たちが談笑
している。周囲の壁には、ダンジョンを示すような地図が描かれあ
ちこちに貼られていた。奥の向こうに扉が見える。蔵人のワクワク
感は今にも張り裂けんばかりに膨れ上がった。入口から左の部分に、
受付らしきカウンターが見えた。上等な布地を使った袖無しシュル
コを着た、二十くらいの女性が澄まして立っている。おそらく受付
ギルド
嬢だろうと見当をつけ歩み寄った。
﹁いらっしゃいませ、冒険者組合シルバーヴィラゴ本部にようこそ。
本日は、どのようなご用件でしょうか﹂
﹁あの、はじめてなんですが、いいっすか﹂
﹁初回の方ですか。恐れ入りますが、お約束は頂いておりますでし
ょうか﹂
﹁いんや﹂
﹁どなたかのご紹介でしょうか? 紹介状などはお持ちでしょうか﹂
﹁ぜーんぜん、ナッシング!﹂
蔵人が、右手の親指を立ててウインクをすると、受付の女性はあ
ギルド
からさまに嫌な顔をした。
﹁この冒険者組合どちらでお聞きになりましたか﹂
﹁風が、俺を呼んだのさ﹂
蔵人が遠くを見るように渋くキメると、受付嬢はカウンターの外
の男を手招きした。
506
ギルド
﹁おい、その態度はないだろーが。普通に、冒険者組合に登録に来
たんだよ﹂
﹁ああ、一般の新規登録者ですか。それでは、こちらの用紙に記入
をお願いします﹂
﹁俺、字が読めないし書けないんだよね﹂
﹁⋮⋮ちっ。それでは、どなたか読み書きの出来る方をお連れにな
って再度ご来訪くださいませ。こころよりお待ちしております﹂
﹁おい! いま、舌打ちしたよな、舌打ちしやがったよな! なん
て、態度の変わり方。ひどくない? ねーちゃん、いやねーちゃん
じゃ呼びにくいから名前教えてくれよ﹂
受付嬢は怯えるように、カウンターから一歩下がると口元をひき
つらせた。
﹁やだ、私の身元探ろうとしてる⋮⋮﹂
﹁いやいやいや、普通に名前聞いてるだけだから、俺の名前は蔵人
だよ﹂
ギルド
﹁冗談ですよ、あなたみたいな変態は慣れてますから。わたしは当
冒険者組合の受付を担当しておりますネリーと申します。すぐ忘れ
てもらってもかまいませんよ。というか忘れて﹂
﹁ねえ、なんか俺がしたかな﹂
﹁いいえ。⋮⋮寄るなバカ﹂
﹁おーい! いま完全に聞こえたぞぉおっ、バカっつったな、客に
バカっていったよな、暴言吐いたよな﹂
﹁いえ、そんなことはありません。⋮⋮客かどうかもわからないし﹂
ネリーは、黒髪を短めに切りそろえた、一見理知的な美人といっ
た風貌だが、一種異様な冷たさが漂っていた。蔵人は、悔しさでく
ちびるを噛み締めた。
﹁客だっての。あのさ、ここがどういったところか説明してくれる
かな﹂
﹁はい。⋮⋮若干イヤですが。ざっくりした感じでよろしいですか、
ふしんしゃ⋮⋮お客さま﹂
507
ギルド
﹁もう、突っこまねぇからな﹂
﹁それでは、当冒険者組合は王国から認可を受けた完全独立団体で
ラスト・エリュシオン
あります。現在、全加入者数は一万百十七名を数え、王国の管理す
ギル
る深淵の迷宮に入るために所属することが法律で義務付けられてお
ド
り、禁を破った者には厳しい罰則が設けられております。冒険者組
合に加入して冒険者の資格を得ると、いくつかの特典が与えられま
ギルド
ギルド
す。第一に、迷宮探索の許可。第二に、クラン設立の権利、第三に、
ギルド
冒険者組合加盟店における割引購入の権利、第四に、冒険者組合保
険組合への加入の許可です﹂
﹁ちょっと聞いていいかい。冒険者組合に入るってのはやっぱり、
そのお金がかかるのかな﹂
ネリーは鼻で、はん、とせせら笑うと持っていた説明用の用紙を
ギルド
ポンドル
カウンターで音を立ててこれみよがしに揃えた。
﹁冒険者組合加入料金は、十万Pと非常にリーズナブルになってお
ポンドル
ります。また、加入するためには最低限一等市民権以上を持つ三人
ポンドル
以上の推薦者が必要になります﹂
﹁ふんふん、十万P︵※日本円で約百万︶ね。って、十万P!?
高すぎじゃねえ! 国家予算並だよっ! それと、推薦者ってな
に? 自己推薦はオッケー?﹂
﹁どこの破産国家ですか。それと、自己推薦などといいだした人間
はあなたがはじめてです。他に、なにか質問がありましたら、とり
あえず加入料金を納めていただいてからのお話になりますが﹂
蔵人は、咳払いをすると、ネリーの両手をカウンターの上で握り
締め、杉良太郎ばりの流し目を送った。
﹁ね、ねえ。ネリーちゃんて、いい女だよね。すっごくセクシーだ
し、寛容そうな部分が素敵だ。⋮⋮俺と結婚してくれ、そして上手
く加入料をなんとかしてくれないかな﹂
﹁⋮⋮この世に生を受けて初めてですよ。出会ってすぐの殿方に求
婚されたあげく不正を持ちかけられたのは﹂
ネリーが無言のまま蔵人の手を払い落とすと、待ち構えていたよ
508
うに屈強な番兵が四人ほど現れた。彼らは、美しいほどの連携で蔵
人の四肢をそれぞれがっちりホールドすると、胴上げをするように
担ぎ上げた。
﹁なあ、聞いてくれ。悪気はなかった。ただ、俺はネリーを愛しす
ぎてしまったんだ﹂
﹁うそつくな、ボケ﹂
寒々しいいいわけだった。
男たちは、蔵人を広間から搬送すると入口の階段からゴミでも捨
てるように放り投げた。
﹁なにが愛してるだ、オレらのネリーちゃんに向かって馴れ馴れし
い﹂
﹁死ねや腐れチンカスもどきが﹂
﹁自分の玉袋の裏筋でも舐めてろっ、ボケ!﹂
蔵人は、罵倒の嵐を丸まったまま過ぎ去るのを待ち、番兵たちが
建物の中に戻っていくのを見ると、立ち上がって叫んだ。
﹁おまえらのネリーは、そのうち俺の肉奴隷にしてやるううううう
ギルド
っ!!﹂
冒険者組合の入口から続けざま完全武装した男たちが吐き出され
るのを確認する前に、蔵人は脱兎のごとくその場を逃げ出した。
もちろん、後の事など考えていなかった。
﹁んんん、どうしよかっなぁ、ってかどうしようもねぇなあ﹂
ポンドル
蔵人は、銅貨が入った巾着を見ながら、道端で思案した。
ギルド
残金は五百P︵※日本円にして約五千円以下︶を切っていた。こ
の金額では冒険者組合加入など夢のまた夢である。というか、ちょ
っと飲み食いしたら今夜の宿代を払って終わりそうである。
509
ふらふら夢遊病者のように歩いていると、けばけばしい色合いの
建物にたどり着いた。
字の読めない蔵人が看板を眺めると、雄々しい四頭立て馬車の絵
が毒々しい色合いで描かれている。付近には血相を変えた中年オヤ
ジたちが、紙切れを握りしめてブツブツつぶやいている。独特の空
気と匂い。懐かしいものを覚え、血走った男の肩をつついた。
﹁ああん? ここが、どこだってか! ここは、泣く子も黙る、シ
ルバーヴィラゴ名物戦車レース場じゃい!﹂
戦車の歴史は古い。
古代中国では、黄帝が涿鹿の野で蚩尤を討った時代から書物に見
られ、洋の東西を問わず合戦の場に用いられた。
戦車レースも賭博としては至極原始的なものだ。赤、青、黄、黒、
白、緑の計六台の四頭立て戦車から、どれが一等になるかを当てる
単純極まりないものである。
御者と馬の戦歴からオッズが決められており、現代の競馬と違う
点は券の購入方法が単勝しか存在しない点だろう。
だが、単純ゆえに他にたいして娯楽のないこの世界では人々は狂
ったように熱中した。
飲む、打つ、買うの三拍子が男の甲斐性なら、文字通り戦車レー
スは、打つに関しては王者であった。
だが、幸か不幸か、蔵人は三拍子の内、酒と女には目がなかった
が、比較的賭けごとに関してはドライな部分があった。
元の世界では大学生の本分としてパチンコ、スロット、競馬、競
輪、競艇など一通り手を出していたが、どれも彼の血を熱くさせる
ことはなかった。どれも、女の肉を貪って射精することにくらべれ
ばひどくつまらなく思えたのだ。
﹁それに、銭がないからって賭け事で勝って増やした人間など聞い
たことないしぁ﹂
蔵人は、戦車レース場の窓口で、戦車券を購入する人々を覚めた
目で見ながら首をひねった。どうやら目の前の大きなドーム状の建
510
物の中で競技は行われているらしい。入って様子だけ見ようか迷っ
ていると、賭け事で脳が茹だっているであろう人ごみの中から、若
い女の声が飛び出した。
﹁にゃあああああああっ! ぜんぶ、スっちゃったあああああっ﹂
見れば、ウィンプルをかぶった年若いシスターが頭を抱えて座り
こんでいた。
人々は紺色のローブを纏った彼女のことをチラ見するが、次のレ
ースのことのほうがはるかに重要なのか、足早に駆け去っていく。
しまった、と思った瞬間にはもう遅かった。
やっば、またおかしなのと目が合っちまったよ。
歳の頃は、十五、六だろうか、童顔で瞳がくりくりと大きなシス
ターだった。
美少女といっていい顔立ちである。鼻筋は美しく整っており、背
丈は百五十にみたないほど小柄だが、ローブの上から隆起がわかる
ほどスタイルは良かった。
﹁うううう、ぜんぶスってしまいましたあぁ、大事なお金なのにぃ。
えへんえへん。⋮⋮なぜ目を逸らすのです﹂
シスターは嘘泣きを止めると、じっと蔵人を上目遣いでにらんだ。
﹁いや、なにも見てないから﹂
﹁こーんな美少女が泣いて困っているのですよっ、紳士として、お
困りですねお嬢さん。さ、これで涙をぬぐいなさいとかいって、ハ
ンカチに財布を潜ませて握らせたりはしないのですかっ﹂
シスターは開き直って、両腰に手をあてると蔵人を叱責した。
﹁しねーよ。あんた、初対面の人間によくそこまで要求できるよな﹂
自分のことを棚に置いて諭す。どうやら、両者とも同じたぐいの
人間のようだった。
﹁おかしいですねぇ、あなたのように女性に縁のない人間は、私の
ロリボイスを聞いただけで股間を突っ張らかしてなんでもハイハイ
いうことを聞くのが世界の理なのに﹂
﹁なんちゅう下品な女だ﹂
511
シスターは、形の良い眉をしかめると、ちいさなくちびるを尖ら
して、ううむと唸る。
﹁あ、わかったー。照れてますねぇ、このぉ。うりうり﹂
﹁いや、本当にそういうの、まにあってるんで、勘弁してください﹂
﹁あ、わかりました。じゃあ、もう行っていいんで、とりあえず財
布は置いていってください。喜捨ってことで。はい、私ロムレス教
会のヒルダっていいます。だから、ね﹂
ヒルダと名乗ったシスターは、聞き分けのない子を諭すような口
調で手を伸ばした。すかさず、蔵人が手を払う。
﹁なんで﹂
﹁いやいや、そこで傷ついたような表情されても意味わかんねーか
ら﹂
﹁もう、わがままですねぇ。今日は、次のレース絶対来るんですっ
! お小遣いぜんぶ、スっちゃったのは計算外でしたがっ。ほら、
次は絶対赤が来ますって。私の、勝負ぱんつも赤ですしっ﹂
ヒルダは、独自のロジックを並べ立てると、蔵人に丸く引き締ま
った尻を突き出すと、平手でパンと叩いてみせた。
ああ、そうか。俺、たかられてるのかぁ。
はじめての街の往来で、身も知らぬシスターから、賭け金をせび
られる。
とことん、ついてない経験だった。
そのあと、なぜかむしゃぶりついてきたシスターを振り払って、
食堂に入って、現在に至る。
﹁まあ、つまりはすり替えられた瞬間はそこしか考えられないよな﹂
蔵人は、一瞬のうちに銅貨をすべて石ころにすり替えたシスター
512
の指さばきに戦慄を覚えながらも、その技術の高さに驚嘆していた。
﹁いまのいままで気づかないとは。アホすぎだろ、俺は﹂
あまりにバカバカしくなって、走る気力を失い始めた。
﹁おっ、観念したかっ!﹂
﹁気をつけろよっ、けっこうデカいぞっ﹂
蔵人が、真っ赤な顔をしたオヤジ達に包囲されながら、どの程度
で解放してもらえるかと天を仰いでいると、息を切らせて駆けてき
た少女が人垣の輪を崩して飛びこんできた。
﹁わっ、わわ﹂
﹁っとと﹂
砂色の髪をした少女が勢い余ってバランスを崩した。蔵人は、咄
嗟に手を伸ばすと少女の身体を正面から抱きとめた。やわらかな感
触が胸板に押しつけられた。少女の、長いまつ毛が震えているのが
見えた。
蔵人が少女を抱きとめると、男たちの顔が怒気で染まった。
﹁待ってください、このひとのお勘定は、あたしが払いますっ﹂
﹁おい、レイシーちゃん! そんなやつかばう必要ねーぜ!﹂
﹁だいたい、誰なんだ、おまえは!﹂
﹁レイシーちゃん、はなれてっ﹂
﹁関係ないだろっ、そいつとはっ﹂
そうだ、そうだと男たちは一斉に鯨波をつくって、蔵人からレイ
シーを引き離そうとする。レイシーは、困ったように、蔵人と男た
ちの顔を交互に見比べると意を決したように告げた。
﹁関係なくないですっ、この人は、あたしのいいひとですからっ﹂
男たちの声は、一旦ぴたっと静まると、それから天地がひっくり
返ったような大きさで再びどよめいた。
513
514
LV33﹁銀馬車亭﹂
﹁随分と年季の入った造作で﹂
﹁普通に古いっていいなさいよ。まったく、おかしなところに気を
使って﹂
銀馬車亭は古い造りの酒場だった。店舗の一番目立つ場所には、
馬車の形をした看板がかけられている。長年風雨に晒された木材が、
濃い飴色にくすんでいる。
レイシーにうながされるように、入口のスイングドアを開くと、
蔵人はかつて見たジョン・ウェインの西部劇を思い出した。
まだ、昼間なので営業はしていないらしい。カウンターの向こう
側に、かなり体格の良い、五十年配の中年男性がグラスを丁寧な手
つきで磨いていた。
﹁お帰り、レイシー。そちらの方は、お客さんかい﹂
﹁ただいま、父さん。彼は、クランドっていうの。今日から、二階
の空き部屋に泊めるから。じゃ、あたしちょっと部屋の用意してく
るからっ﹂
レイシーは、蔵人に向かって軽く手を上げると、たたっと軽快な
足音で螺旋階段を駆け上がっていった。
途端に、無骨な初対面の中年男と二人きりにされる。
甚だ、気まずかった。
﹁あー、その、本当に泊まったりはさすがにしねえからさ。なんか、
迷惑かけちまったな﹂
レイシーの父、バーンハードは綺麗に刈り揃えた口髭を震わせな
がら、鳶色の瞳で蔵人をじっと覗きこんだ。
515
﹁いや、好きなだけ泊まっていくといいさ。娘は、相当なおせっか
い焼きだが不思議と男を見る目はあってね。あれが良しと認めたの
なら、君が悪人のはずもない。私は、ここのマスターでレイシーの
父、バーンハードだ。ま、困った時はお互いさまさ﹂
﹁その、そうしてくれると確かに助かるんだが。マジで、持ち合わ
せがないんだ。正確には、盗られたというか﹂
﹁そうか。この街は確かに栄えているがタチの良くないヤツも多い。
気の毒だが、スられたお金は戻って来ないと思うよ。ま、若いんだ
から、しっかり食って、寝て、たっぷり汗流して働けば、金なんか
いくらでも稼げるさ﹂
バーンハードは鷹揚に微笑むと、磨き上げたグラスを指先ではじ
いた。心地良い、乾いた音が店内に響いた。
﹁それで、ジロジロこっちをうかがってる君たちはなんなんだい、
ジョン。クレイグ、プルート﹂
バーンハードが、店の軒先で飢えた熊のようにウロウロしている
顔見知りの商店街の男たちに声をかけた。先ほど蔵人を追い回して
いた男たちである。
レイシーの咄嗟の機転と、料金を立て替えたことにより、一応は
鎮静した集団であったが、もちろん納得は出来ていないのであろう。
蔵人の手を引いて歩くレイシーの後ろを、主人のあとをつけ回す
犬っころのように、団子状態になって追跡していた。
幾度かレイシーが吠えた後に、ようやく姿を消したかに見えたの
だが、彼らの心のマドンナの発言に承服しかねた一団は真意を探る
べく、斥候に勤めていたのだが、ついに露見する次第となった。
﹁だってよ、マスター。レイシーちゃんが、わけのわからん男にた
ぶらかされてると思うとよぉ﹂
﹁そうだ! 我ら、リースフィールド街の姫君が心配でいてもたっ
ていられなくって﹂
﹁オレらのレイシーちゃんがよおおおおぅ﹂
﹁私の娘だ。そもそも、いったい、どういう話になっているんだい
516
? まだ、なにも聞いていないのでなんともいえないよ﹂
﹁実は︱︱﹂
蔵人は、ことのいきさつを、一から彼らに説明した。冷静になっ
てみれば、彼らは極めて純朴で常識人だった。ただ、日頃娘のよう
に思っているレイシーのことを強く思う余り過剰に反応しすぎたに
過ぎない。食い逃げを追うのは彼らの死活問題もあったろうが。
誤解は見事に氷解した。
商店街のオヤジたちがいなくなったところで、蔵人はバーンハー
ドとふたりっきりになった。元々、縁もゆかりもない男同士である。
気詰まりだった。蔵人は、うっそりとその場に立ちつくしながら、
伸びきった無精髭をゾリゾリと音を立てて指先でしごいた。
﹁その、お嬢さんはなんだって俺のようなゴロツキ風情にかまいた
がるんだい。この風体を見りゃ、たいていの堅気の娘さんは避ける
もんなのに﹂
﹁そりゃ、あの子の気質ってもんだ。ええと、君はクランドってい
ったかい。とにかく、レイシーは子どものときから、捨て犬や捨て
猫を拾っては面倒を見るような性分で、大きくなったらなったで、
今度は人間だ。食うに困った人間と見りゃ、片っ端から連れてきて
二階に押しこめて世話を焼きたがる。そりゃ、自分でいうのも娘は
あの器量だ。いままで、問題らしいことが起きなかったといえば、
嘘になるが、だいたい娘に諭されると盛りのついた獣みたいなやつ
でもだいたい聞き分けるんだ。男親としては、やめてもらいてえっ
てのが本音だが、私の目の黒いうちは好きにさせるつもりにしたん
だ。なんていうか、もう諦めがついた。それに、私はそれなりに腕
っ節には自信があってね。まさか、クランドがそんなおかしな気を
起こすとは思いたくはないが、な﹂
バーンハードは腕まくりをすると、丸太ん棒のように太い腕に力
こぶを作ると、白い歯をこぼして笑った。腕力には自信のある蔵人
だったが、バーンハードの鍛え上げた巨木の瘤のようなそれは、さ
らに上をいくものだった。
517
﹁たんと食って、もっと大きくなったら考えてみるよ﹂
﹁おう。若もんは、そうでなきゃな﹂
バーンハードは蔵人の物言いが気に入ったのか、背中を手のひら
でバシバシと打った。蔵人はあまりの衝撃の強さに、身を折ってむ
せた。
﹁あーっ、父さん、クランドをいじめちゃだめっ﹂
﹁いや、レイシー。父さんは別に﹂
レイシーは、二階の踊り場から軽やかに駆け下りると、蔵人の手
を取ってかばうように自分の背後に引き寄せた。たちまち、大柄な
蔵人が小柄な女性の背に隠れるという奇妙な立ち位置が出来上がっ
た。
﹁もう、父さんなんか相手にしちゃダメだよ。行こ、クランド。部
屋に案内したげる﹂
﹁お、おう﹂
案内された二階の部屋は、寝台が六つ並ぶ大部屋だった。古い造
りではあるが、掃除の手は隅々まで行き届いており、レイシーの細
やかな性格がうかがえた。通りに面した大窓は開かれて、涼しい風
が室内を通り抜ける。横に立った、彼女の砂色の美しい髪が風に流
れて、さらさらと音を鳴らした。
﹁こんな季節だから昼間はあっついけど、夜は案外涼しいよ。ん﹂
レイシーは、両手を突き出すと片目をつむった。意味を測りかね
て逡巡し、ゆっくりと彼女の手を取ると両手で包みこむ。女性らし
く、やわらかで小さな手のひらだった。レイシーの頬にさっと朱が
掃かれた。
﹁じゃ、なくて。ほら、もうわかるでしょ。その外套だよ。ボロボ
ロだし、汚いし。洗ったげるからよこしなさい﹂
﹁いやいや、これはいいですよお﹂
﹁いえいえ、よくないから﹂
蔵人はため息をつくと、外套を脱いで手渡すフリをして、寝台に
置いた。
518
﹁なんで渡すふりをするかっ﹂
﹁いや、これがないとなんか落ち着かなくて﹂
﹁んんん、まあいいけど﹂
脱げば脱いだで、常時着古した衣服の汚れが余計に目につく。レ
イシーが小鼻をひくひくうごめかせている。
﹁ねえ、あんまりいいたくないけど、すっごくにおうよ。身体最後
に洗ったのって。⋮⋮やっぱいいや。聞くの怖い。ねえ、服は洗濯
しとくから、その間にお風呂屋さん行ってきなよ。そこの角を曲が
った先にあるからさ。服は、⋮⋮はいこれ。父さんのお古だけどク
ランドも身体おっきいからたぶんサイズは合うと思うよ﹂
いくらか古びているが、手入れのきちんとされた上下の衣服を手
渡された。サイズが合うかは着てみないとわからない。上っ張りを
脱ごうとボタンを外しはじめると、レイシーは黄色い声を上げて後
ろを向いた。
﹁目の前で着替えはじめないでっ、ばか﹂
﹁わ、わるい。あとにするわ。んでな。非常にいいにくいんだが、
ひとつ相談があってさ﹂
蔵人が困ったように、ポケットの中身を引っ張り出すと綿埃がふ
わふわと宙に舞った。
察しの良いレイシーは、しょうがないな、と半ばうれしそうな口
調で巾着袋から銅貨を取り出すと、当然のごとく蔵人に手渡した。
﹁んもお、しかたないなぁ﹂
﹁いいのかい?﹂
﹁いいのもなにも、どうせ素寒貧でしょう。ごはんのお代も払えな
いくらいだし﹂
蔵人は、小腰をかがめて頭を下げる。両者の力関係が決定した瞬
間だった。
519
蔵人は、共同浴場で垢を落として、数ヶ月ぶりに髭を丹念に剃り
上げると生き返った気持ちになった。風呂といっても、日本式のお
湯を張る浴槽式ではなく、蒸気を室内に送りこむ、いわばサウナ式
であったが長旅の垢を落とすには充分だった。
蔵人は、木陰に入ると街中を吹き渡る風に目を細めてこわばった
関節をほぐした。
昼間、頭の上をギラついていた金色の太陽はどこにもなく、濃い
夕闇が街中を覆っていた。田舎の村や街では、おおよそどんなに遅
くとも、夜の九時くらいになれば明かりを落として寝ついてしまう
のだが、このシルバーヴィラゴではあちこちの店先のランプには油
がなみなみと注がれ、その量からかなり遅くまで営業することを示
していた。
蔵人が銀馬車亭に戻ると、自分たちの仕事を終えた商店主たちが、
テーブルやカウンターのあちこちですでに一杯はじめていた。
店主であるバーンハードは、カウンターで酒を注ぎながら蔵人に
目配せをした。
すでに、事情を聞いたからか、昼間とはうって変わり、街の男た
ちはかなり気安げに接してきた。
広いとはいえない店内のテーブルとカウンターの席はすでにいっ
ぱいで、二階の吹き抜けの渡り廊下部分にも立ち飲みの客が酒をあ
おっている。
圧倒された蔵人が立ちすくんでいると、常連客らしき男がカウン
ターの席を詰めて場所を作ってくれた。礼をいって腰を下ろすと、
大ジョッキにつがれた酒が回ってくる。
バーンハードが無言のまま指で自分の喉を指し示していた。暑さ
のせいもあってか、喉も乾いている。エール酒を一気に飲み干すと、
周囲の男たちが一斉に声を上げた。
﹁いける口じゃねえか、兄ちゃん。そらそら、どんどん飲めや﹂
520
﹁おう、風呂屋行ってきたのかい。随分、男前が上がったじゃねえ
か! ま、昼間は悪かったな。がはは﹂
﹁おいおい、過ぎたことを蒸し返すんじゃねえ。えーと、名前はな
んていったか。クランド、そうかクランド! 俺たちはもう兄弟だ
っ、兄弟なら酒を断るんじゃねえぞ! 飲めっ。今日は、俺がじっ
くり飲み方を教えてやる﹂
﹁この店は狭いからな、人でもないし、注文した料理は各自取りに
来なっ﹂
﹁狭いは余計だぜ﹂
﹁フォークが足りなければ、どんどんまわしてやっちくれっ。助け
合いだよ、酒飲みはっ﹂
﹁おい、マスター。塩気を利かした豚の腸詰め焼きと、エール酒三
杯だ!﹂
﹁胡椒があったら、テーブルに寄越してくんなっ﹂
どの男たちも酔っている上に、自分がいいたいことだけしゃべっ
ているので収集がつかない。
﹁にしても、毎日こんだけ繁盛してりゃ食うには困らんな﹂
蔵人が、周囲の熱気に煽られながら肉の燻製をかじりながらつぶ
やく。
やがて、隣に座っていた、比較的酔いがそれほど回っていない二
十代後半くらいの職人が、せわしなく視線を動かしはじめた。
﹁おい、どうしたんだ﹂
﹁いやいや、そろそろ時間かな、と思って。お、来た来た﹂
男はサカリのついた猿のように椅子を立ち上がると、指笛を狂っ
たように吹き鳴らした。
連動するようにして、店内の男たちが螺旋階段から降りてくる人
物に向かって熱烈なラブコールを送りはじめた。蔵人が、つられる
ように視線を向けると、そこには昼間とはうって変わった装いのレ
イシーがいた。
砂色の髪をアップにしているせいか、整った顔立ちがはっきりと
521
見えて、一種の風格すら感じさせている。
淡い桜色の口紅が、ランプのほのかな明かりに照り映えて妖艶に
見えた。
真紅のドレスをまとっており、深い胸ぐりからのぞく白い胸の谷
間が輝いている。
二の腕まですっぽり包む長い手袋もドレスと同色の赤であった。
﹁レイシーなのか﹂
蔵人が、あまりの変わり具合に、声をかけあぐねて突っ立ってい
ると、彼女は辺りをきょろきょろ見回したあと、ようやく声の主が
記憶の中の男と合致したことに口を大きく開いて驚倒した。
﹁もしかして、クランドなのっ。やだっ、ぜんっぜんわからなかっ
たわ! ⋮⋮うん、こっちのほうがすっきりしてて、すっごくカッ
コイイよ!﹂
﹁おいおい、そりゃこっちのセリフだぜ﹂
﹁んんん? あ、もしかして、このドレスのこと﹂
レイシーは、恥ずかしげに口元に手をやるとうつむいた。
﹁あはは。ほら、うちは一応、飲み屋だしさ。あたしみたいなので
も、歳が若いってだけでけっこうお客さまが喜んでくれるのよね。
それで、夜はこんな感じでお店に出ているのデス﹂
あはは、と決まり悪げにレイシーが微笑むと、周囲の男たちから
猛烈な応援が飛び出した。
﹁いようレイシー!﹂
﹁待ってました、今夜もよろしく!﹂
﹁俺っちはこの瞬間のためだけに生きてるんでぃ!﹂
蔵人が、半ば周囲のノリに怯えながらおどおどしていると、レイ
シーはかばうように一歩前に出た。
﹁騒がないのっ、まったく。んで、あたしがやるのはこうやって酔
っぱらいの相手をしたり、父さんの作った料理を運んだり﹂
レイシーが、店内の中央部分、ちょっとした傾斜の作られた、見
ようによってはステージに見えなくもない部分に移動すると、騒い
522
でいた男たちが、電池の切れた機械のように一斉に静まりかえった。
蔵人が、かたずを呑んで身をすくめると、レイシーが大きく息を吸
いこんだのが見えた。
それから、レイシーのくちびるがゆっくり開くと、朗々とした美
しい声が響き渡った。
途切れることなく、たっぷりとした声量で唄が流れはじめた。
普段の彼女とは別人のように、蠱惑的で人を惹きつける声だった。
蔵人は、手にしたグラスの酒を干すことを忘れ、ただ彼女の歌に
聴き入った。
かつて、プロのライブを何度か最前列で聞いたことがあったが、
レイシーの唄声は、それらとはまるで比較にならないほど、強い輪
郭と力を持っていた。歌詞自体は、男女の切ない恋心を歌った現代
人からしてみれば素朴なものであったが、あらゆる意味で地力が違
った。聞いているだけで脳髄の芯が痺れてきて、背中と脇と手のひ
らに細かい汗がびっしりと湧いてくる。喉がカラカラに乾いてくる
のだが、手を動かす動作によって起こる雑音すらためらいが生まれ
る美声だった。
音楽など人並み以下の興味しか持たない蔵人すらこのていたらく
である。現代人とは違って、気軽に音楽を楽しめない状況にある人
々が彼女の歌に魅せられないはずがなかった。
酔っていたはずの男たちの目が、ひとりの女性を見るというより
も、なにか尊い対象を見るような憧憬の色に染まっていく。これな
ら、昼間の騒ぎの際に、レイシーに異常に執着した意味がわかった。
音楽とは、ある意味宗教を凌駕する部分がある。
それぐらいに、レイシーの歌声にはいつまでも聞いていたいと人
に思わせる力と凄みがあった。伴奏なしのアカペラがここまで人を
魅きつけるものなのか。すべてを歌い終わったレイシーが小さく頭
を下げると、もはや音楽会場と化した銀馬車亭から、鳴り止まない
拍手と歓声が割れんばかりに室内を揺るがした。
523
﹁酒飲んで、飯食って、いい歌を聞いて眠くなったら寝る、と。ま
るっきりディナーショーだな。ううん、このコンボは老後に取って
おきたかったのに﹂
蔵人は、階下で騒ぐ酔客たちの喧騒を間遠に聞きながら、あてが
われた寝台に横になった。そもそも、蔵人はいくら酔っても、一定
ギルド
ポンドル
時間経つと急速にシラフになる体質もあり、キリがないので寝るこ
とにしたのだった。うっかりすると、冒険者組合への加入料十万P
のことが頭をかすめる。
﹁軽自動車が買えちまうぞ。まったく、ボリすぎだよなぁ﹂
そもそもが、受付であれだけの騒ぎを起こしておいて、普通にま
たのこのこ出かけようとしている部分がこの男の恐ろしさでもあっ
た。むしゃくしゃしながら、枕をぼすぼす殴りつけていると、入口
のドアをノックする音が聞こえる。
﹁開いてるぜ、へえんな﹂
﹁まだ、起きてるー。えへへ﹂
蔵人が呼びかけると、頬を酒精でほんのり染めたレイシーが部屋
の中にするりと滑りこんできた。
﹁おい、レイシー。ここはおまえの家なんだから、いちいち断る必
要はねえよ。それに、そもそも鍵なんざかかっちゃいねえじゃねえ
か﹂
﹁あはは。それはそうだけどー、仮にもここはクランドが泊まって
るんだから、それなりに気を使わないと﹂
レイシーは上機嫌で頭をふらふら揺らしながら、寝台に腰掛けて
いた蔵人に倒れこんできた。咄嗟に、両手を伸ばして受け止める。
蔵人は、少女のやわらかな感触に、幾分股間を硬化させながら、
努めて冷静に彼女を隣に腰掛けさせた。
524
﹁あやや、ごめんなさい。あたしとしたことが﹂
﹁飲んでるのかよ。飲み屋のお姉ちゃんは商売だから、たいてい口
つけてもフリだけだと思ってたんだが﹂
﹁違うのー、あたしだっていつもは飲まないけどー、今日はー、な
んとなく飲んじゃいましたっ﹂
レイシーは、きゃっきゃっと甲高い声で叫ぶと、両足をじたばた
交互に激しく動かした。
完全に酔っぱらいの動作であった。
﹁ねえークランドー﹂
レイシーは、とろんとした瞳で、蔵人の肩に両手をまわしながら
しなだれかかる。
﹁なんだよ﹂
﹁なんでもないよー﹂
うおおおおっ、メンドくせぇっ。
シラフで酔っぱらいの相手をするほど鬱陶しいことはない。割れ
た白桃のような、彼女の胸がチラチラ視界に入るたびに理性が崩壊
しそうになった。
レイシーってやっぱ軽い女なのだろうか、と蔵人が考えはじめた
時、なにかを察知したのか、レイシーがすごい勢いで頭をぶんぶん
左右に振りはじめた。
﹁うおおおっ、憑依霊っ﹂
﹁ちっがーう! べっつに、あたしはクランドが思ってるような安
い女じゃないんだからねっ﹂
この状態でそれをいうか、と蔵人は思った。
レイシーは、完全に抱きついたまま、潤んだ瞳を近づけると、熱
っぽい吐息でささやいた。
﹁ただねー、なんというかねー。えへへ、昼間はぁ、ありがとうっ
て、それをいいたかった、の﹂
レイシーは糸の切れた繰り人形のようにがっくり力を抜くと、も
たれかかったまま寝息をかきはじめた。誰かどう見ても、いいわけ
525
のできない状況である。
﹁レイシー、俺はこのあと、どうすればいいんだ﹂
蔵人は完全に寝入ったレイシーからどうやって脱出しようか、自
家製脳内コンピュータをフル稼働させはじめた。夜は、まだまだ長
かった。
﹁いってらっしゃーい。夜になるまえに帰ってきてね。おかしな人
に絡まれないでねー﹂
早朝、蔵人はレイシーに弁当を作ってもらうと、勇躍銀馬車亭を
出発した。あのあと、彼女はむっくり起きると、自室に戻っていっ
た。
バーンハード曰く、よくあること、らしい。深く考えるのがバカ
バカしくなったので、その一連の事象を脳内から切り捨てた。起き
抜けの彼女の顔には、酔いの名残が一切見受けられなかった。そう
でもなければ、飲み屋でメシを食ってはいけないのだろう。
だから、深く考えないんだってば。 蔵人が、勇躍向かったのは、シルバーヴィラゴの中でもっとも有
名な宗教施設、ロムレス大聖堂である。マルコが司教を務める教会
で、おそらく、先日会ったシスターもここに在籍しているだろう。
絶対に落とし前はつけてやる。不退転の覚悟をみなぎらせながら、
蔵人の足取りが一定のリズムを刻んで、スピードに乗った。長旅で
鍛え上げられた健脚は、まだ明けきらぬ朝もやの中の街の住人を振
り返らせるに足る早さだった。
金色の太陽が静かに昇りはじめる中、ロムレス大聖堂に到着した。
白を基調とした重々しい雰囲気の佇まいは見るものを畏怖させる
に充分な効果を持っていた。無数の尖塔が、天に向かってそびえ立
526
ち、その前に立つものはすべからく厳粛な面持ちにならざるを得な
い。だが、蔵人には関係なかった。
朝早くの習慣だろうか、年若いふたりのシスターが大扉の前を掃
き清めている。紺色のローブは、あのときの小娘が身にまとってい
たものと同一だった。いまや、清浄さを体現する法衣すら、蔵人の
前ではイメクラのコスにしか見えなかった。許さんぞ、安っぽいコ
スプレ娘共がッ。
﹁おはようございます。お早いです、ね﹂
蔵人の形相を真正面から直視したのか、細面の清純を絵に書いた
ようなシスターの顔が恐怖でひきつった。
﹁お、なんだ、開かねえぞ﹂
蔵人が、大扉に手をかけると中から鍵が掛けてあるのか、ぴくり
とも動かなかった。力任せに、どんどんと拳をぶつける。威勢の良
い音が、朝もやを裂いて響いた。
﹁ちょっと、なにをなさるのですかっ。朝の礼拝の時間までは開き
ませんよっ﹂
怯えて青くなったシスターに代わって、もう片方が噛みつくよう
に蔵人の行動を非難した。
﹁んじゃ、開けてくれや。ねーちゃん﹂
﹁ね、ねーちゃ⋮⋮なんと無礼な。そもそも、大聖堂の大扉は司教
さま以外に開けることはかないませんっ﹂
﹁おらあっ、おっさん! いるんだろっ、さっさと出てこいやーっ
! この蔵人さまがケジメとりにきたぞーっ、いるのはわかってん
だーっ、出てこなんだらブチ破るぞーっ!﹂
開けられないとわかるやいなや、蔵人は両拳で大扉を打ち付けな
がら、マルコを呼び出した。ほとんど、知り合いのアパートを訪ね
るノリである。無論、ここはあくまで礼拝堂であり、人間の居住区
ではないのだがイマイチ理解していなかった。シスターから見れば、
権威と静謐の象徴を汚物で塗りたくるような行為であり、異常者に
しか見えなかった。
527
﹁狂人ですわ﹂
サンクトゥス・ナイツ
﹁⋮⋮自警団を、いや白十字騎士団の方々をっ﹂
総勢三千を超す精強な騎士団が呼び出され、蔵人の生命が霧のよ
うに儚く消えようとしていたその時、ひとりの男が朝もやの中、粛
然とその場に降り立った。
﹁なにしているんですかっ、もおおっ、クランド殿ぉおっ﹂
いわずと知れた、シルバーヴィラゴ教区の大元締、司教マルコで
ある。
気違いども
﹁まったく、拙僧がたまたま間に合ったから良かったものの。あと
ちょっとで白十字騎士団を呼ばれるところだったんですよ。感謝し
てくださいね﹂
誤解︵※半ば誤解ではない︶が解けた蔵人は、大聖堂内の応接室
のソファに腰掛け、マルコと共に朝の茶を喫していた。
﹁ああ、ワリーワリー﹂
﹁絶対反省してませんよねっ﹂
﹁あ、お姉ちゃん、このあと時間ある﹂
蔵人の隣には、朝方会った清楚系と勝気系のふたりのシスターが
侍っていた。
むろん蔵人の強烈な要望である。
清楚系はイルゼ、勝気系はコルドゥラと名乗った。
イルゼとコルドゥラは、強力な自制心を持って蔵人のセクハラに
耐えていた。共に信仰心のなせる技であった。
﹁もおおおっ、ウチはそういうお店じゃないんですからっ、拙僧の
魂の拠り所を汚さないでくださいよおおおっ﹂
﹁ああんっ﹂
528
﹁きゃっ!﹂
蔵人は無言のまま、イルゼとコルドゥラの左右の胸を軽めにつか
んだ。イルゼは顔を真っ青にしておののき、コルドゥラは目を釣り
上げて親の敵のように睨んだ。
﹁だから、やめてくださいってばああっ。拙僧の築き上げてきた聖
域がああっ﹂
﹁んで、どこまで話したっけ﹂
﹁ほっとんど、なーんも話してないでしょう。クランド殿がここに
来て行ったことは、大扉の前で騒いで、穢れ無き子羊たちのパイオ
ツを揉んだだけですっ﹂
マルコがキレ気味に茶器をソーサーに叩きつけた。蔵人の顔から、
チェシャ猫のようなにやにや笑いが消えない。マルコはくちびるを
強く噛んで奥歯を噛み締めた。
﹁ええじゃないか、にんげんだもの。ミツヲ﹂
﹁誰ですか、ミツヲって。また謎の人物が。⋮⋮ま、詳しく話を聞
かなくても、おおよそクランド殿の財布から小銭をギった人物は想
像つきます。ろくに教会の仕事を手伝わずにフラフラしてる人物な
んて、ねぇ。ひとりしかおりません﹂
﹁ええ、確かに﹂
﹁それは、司教さまのいうとおりですねっ﹂
イルゼとコルドゥラはマルコの言葉に同意を示した。
﹁いっでぇっ!?﹂
太ももに指を這わせていた蔵人は、コルドゥラに手のひらの皮を
思いっきり捻られ、涙目になった。マルコがあからさまにざまあみ
ろと、見下した視線をぶつけた。蔵人は眉間にしわを寄せて切ない
表情になった。
﹁で、このお話の落とし前はどうつけましょうか。神に仕える者が
堂々と罪を犯すとは。⋮⋮ねえ、ヒルデガルド﹂
応接室の扉の隙間から、げっ、と呻くような声が聞こえた。マル
コは意外にも俊敏な動きを見せると、ソファから転がるようにして
529
飛び降りざま、扉を内側に引っ張った。
﹁はわわわっ﹂
ノブを握っていた小柄な人物が、無様につんのめると、毛足の長
い絨毯に顔から倒れこんだ。
﹁いったーい、あれ。あはは、どもども﹂
﹁どこへ行くのですか、お話はこれからですよ﹂
マルコが厳粛な面持ちで、小柄なシスターの肩を掴む。
彼女こそ、蔵人から魔術的な指技で銅貨をくすねとった教会一の
厄介者、ヒルデガルド・フォン・シュポンハイムであった。
530
Lv34﹁ダンジョンへの道程﹂
シスターヒルダが、司教マルコに与えられた罰則は、蔵人に対す
る七日間の無料奉仕であった。ロムレス王国の法律に照らし合わせ
ると、本来窃盗の罪は金額の多寡に関わらず、禁錮十年、或いは罪
人の手首の切断という荒っぽいものである。この法律自体が建国以
来ほとんど手を加えていない人権のじの字も存在しなかった時代の
刑罰であり、事実上それぞれの領地で決められた金額を領主と被害
者に納めればことを荒立てないのが通例であった。
だが、清貧を旨とする教会においては事情が違った。
王国内に点在する教区においては、その土地の司教が絶大な権限
を有しており、ときとして司教の力は領主を凌ぐこともあった。
司教マルコもその例外にあらず、蔵人は小馬鹿にしていたが、彼
の力はシルバーヴィラゴにおいては中々のものだった。
畢竟、ヒルダもマルコの指示には逆らうことはできない。窃盗の
罪を渋々認めた︵※すでに教義的には神を冒涜している︶ヒルダは、
すべてを贖うために、蔵人に奉仕することとなった。現代事情とは
まるっきりかけ離れたこの世界では、事実上、生殺与奪の権利を蔵
人が握っているの同然である。
ヒルダは、少額とはいえ、奪った銭を弁済するために娼館に売り
払われても文句は一切いえない。その場合は、教会に保管されてい
る人員名簿にマルコの手によって斜線が引かれるのみであり、あら
ゆる社会通念上に置いて合法だった。
ヒルダは、七日間において、合法的に教会から蔵人へと所有権利
531
が譲渡されたとみなしても間違いではなかった。
﹁はああぁん﹂
街中を彷徨する蔵人の背中で、ヒルダがもう何度目かわからない
ほどになるため息をついた。聞いているだけで鬱病になりそうな景
気の悪さである。
﹁さっきから、うるせーなぁ。貧乏神がすり寄って来たらどうすん
だよ﹂
﹁だって、だってえ。私だって、これからの予定ってもんがあった
んですよぉ。ひどいですよぉ、司教もまったく。こんないたいけな
乙女を性獣の肉奴隷として譲渡するなんてぇ﹂
ポンドル
﹁おいおい、人の銭ギっといてその言い草はねえだろう。あのおっ
さんも、素直に金払えばいいものをよ。十万Pくらい、慰謝料とし
てポンと出せないのかねえ﹂
﹁クランドさん、クランドさん。私も、人さまのお金ちょろまかし
ておいてアレなんですが、さすがにふっかけすぎじゃないですかね
ぇ﹂
﹁とにかく金がいるんだよ、金が!﹂
﹁目つきがこわい。⋮⋮はっ! まさかっ﹂
ヒルダは、怯えるように自分の身体を両手で抱きすくめると、そ
の場にしゃがみこんで、うるると、両眼にうそ涙を溜めこんで見せ
た。たいした演技力である。
﹁カラダですねっ、私のいたいけなカラダで金を稼げ、と。聖者を
汚す卑猥の淵に、この身を堕とせと、申されるのですねっ﹂
ヒルダが被害者ぶってきゃあきゃあ騒ぐと、物見高い街の人々が、
蜜にたかるアリのようにわらわらと集まってきた。
﹁どうした、どうした。こりゃ、なんの騒ぎだい﹂
﹁なんでも、あの兄ちゃんが、尼さんを女郎屋に叩きうるとかなん
とか﹂
﹁世も末だねぇ。ここは、大聖堂からそれほど離れちゃいないって
のに﹂
532
﹁いんや、そうじゃなくて、男女のもつれらしいぜ﹂
﹁シスターの腹ン中にゃ、子がいるらしい﹂
﹁堕ろすの堕ろさないのと。世間には望んで子もできない夫婦だっ
てゴマンといるってえのに﹂
元来、物見高い街衆である。蔵人は、無言でヒルダを立ち上がら
せると、手を引いて群衆から遠ざかっていった。無理やり押し止め
るほど、義侠心の強いものもいなく、ちょっとした見世物が終わっ
てしまったという程度か、小魚が散るようにして群衆は自然に解散
した。
﹁ねえ、怒ってます? ねえったら﹂
﹁怒っちゃいねえよ。あきれ果ててるだけだ﹂
﹁もおう、いいじゃないですか。ちょっとした、お茶目だというの
ポンドル
に。ところで、なんでそんなにお金が必要なんですか。博打、酒、
ギルド
女。⋮⋮わかった、ぜんぶだっ﹂
﹁違うよ。冒険者組合の加入料が十万Pって目の玉の飛び出る値段
なんだ﹂
リズムに乗って歩いていたヒルダの足がぴたりと止まる。蔵人が
振り返ると、そこには痛ましいものを見るような視線で凍りついた
ような顔をした女がいた。
﹁え、冒険者ですか。そういう意味で私を連れ回してたんですか﹂
﹁どんな意味だよ﹂
﹁決まってるじゃありませんか。僧侶が必要なときなんて、弔いだ
けでしょう﹂
ヒルダの顔を覗きこむ。そこには、先ほどのふざけた雰囲気は微
塵もなく、歴としたひとりのシスターの顔があった。
﹁どうやら俺が冒険者になるってことがよほど気に入らないみてえ
だな﹂
﹁ええ。みすみす若い命が散るのを黙ってみていられません。これ
でも、聖職者のはしくれですから﹂
蔵人は顔をしかめて鼻を鳴らすと、反転して歩きだす。同時に、
533
外套の裾をヒルダが握り締めた。ふんぐぬぅ、と気管がしまって妙
な声が喉からもれた。
﹁なにすんだよっ﹂
﹁どうやら、口でいっても納得しないみたいですね。じゃ、一度自
ラスト・エリュシオン
分の目で確かめてみたらどうですか。ダンジョンってやつを﹂ ギルド
蔵人はヒルダに煽られる形で、深淵の迷宮行きの馬車に飛び乗っ
た。冒険者組合資本の馬車は、定期的に街からダンジョンまでを往
復している。城門を出るまでの街中は保全された石畳が敷いてあり
快適ではあったが、一度外に出ればすべて悪路であった。馬車の乗
客は、意外にもこれぞ冒険者、というなりをした人間は載っていな
かった。平服を着た中年の男女や若夫婦、子連れの家族である。
蔵人は緊張のためにいささか身体に力を入れていたが、先ほどの
様子とは打って変わって、ヒルダも乗客たちと特に変わった様子も
なく世間話に興じている。理由がわかったのは、ダンジョンの入口
についてからすぐだった。
﹁これ、なんか、俺の想像していたダンジョンと違う﹂
馬車の停車場からまっすぐ入口に向かう道の脇には露店が数珠つ
なぎに連なっていた。
あちこちから、食べ物を焼く独特の香気や甘ったるい菓子の匂い
が漂っている。列をなしてそぞろ歩く群衆の塊に、一歩前進するの
も一苦労だった。露店のあちこちからは、物売りの威勢の良い声が
途切れずに飛び交っている。
まさしく祭りそのもだった。
﹁さー、クランドさん。なにからいきまっしょい! まずは、軽く
つまみます?﹂
534
﹁⋮⋮﹂
﹁いだだだっ﹂
蔵人は無言でヒルダの小鼻をつまみ上げると、ぎゅっと捻った。
﹁なにするんですかっ、女の子の顔をキズモノにするおつもりっ?﹂
﹁いやいやいや、っていうかさ。ダンジョンて、冒険が待ち受けて
んじゃないの。これってさ、あの、もしかして場所間違えてね?﹂
ラスト・エリュシオン
﹁ぜんっぜん間違いじゃないですよーっ、ここがロムレスの誇る大
リゾート地っじゃなかった、神秘に包まれた深淵の迷宮です﹂
蔵人は、夢遊病者のような足取りでふらつきながら、視線を虚空
にさまよわせた。一方、ヒルダは勝手に蔵人と腕を組んでデート気
分のように浮かれていた。
時折、露店で棒菓子やら、串焼きなどを買い食いしている。
きらめく陽光の中、ノリに乗ったはしゃぎようだった。
ギルド
露店の連なった直線の終わりにダンジョンの入口はあった。
冒険者組合の事務員らしき、二十五、六くらいの女性がふたり、
入口に誂えた机の上で入場料を徴収している。
ラスト・エリュシオン
蔵人がぼうっとしていると、ヒルダが銅貨を二人分払った。
﹁ここが深淵の迷宮ってところですか。いや、死ぬ前にいい冥途の
土産話ができました﹂
﹁私も、一度見物したいと思っていましたが、いやいや商工会の旅
行で来れるなんて、いい世の中になったもんですねえ﹂
洞穴の前で、商人風の中年男たちが雑談をしていた。
入場料を払った人たちがひとまとめになったところで、案内役ら
しい濃いオレンジの帽子をかぶった二十前後の女性が全員の先頭に
進み出た。手馴れた様子で周辺を見回すと、ぺこりとお辞儀をする。
ラスト・エリュシオン
よく通る声が響いた。
﹁本日はお暑い中、深淵の迷宮にまでわざわざ足をお運びいただき、
ギルド
ありがとうございます。私が、本日迷宮のご案内を務めさせていた
だきます、冒険者組合総務部のカーラと申します。短い時間ですが、
おつきあいのほど、なにとぞよろしくお願いします﹂
535
﹁わー。いよいよ、迷宮探索ですね、クランドさん。私、ここに入
るのはじめてなんですよう。わくわくしちゃいますね﹂
若い娘らしく、明るい声を上げるヒルダ。それを聞いた隣の中年
夫婦がにこにこと笑みを浮かべた。
蔵人の表情。能面のように冷たかった。
ぞろぞろと集団が吸い込まれるように迷宮の中へと消えていく。
﹁これが伝説のはじまりなんだ﹂
憧れていた大冒険への第一歩。それはひどく味気ないものだった。
蔵人は泣きそうになる自分をこらえながら、前を歩くヒルダの尻を
つねった。ぎゃっ、と轢き殺された猫のような声が洞穴に響く。な
おのこと虚しさが募った。
迷宮の中は安全性が徹底された人工的なものだった。洞穴の入口
から先は、あちこちがモルタル状のもので塗り固められ、足元は磨
かれた白い敷石でぴっちり詰められている。行く先々には、数メー
トル感覚で燭台のロウソクに火が灯されており、陽光が遮られてい
るだけ、外よりはるかに過ごしやすい気温だった。列の先頭を、旗
を持った添乗員であるカーラがよく響く声で、このダンジョンの故
事来歴を語っている。あまりのショックで呆然としている蔵人の耳
をすべて素通りしていった。壁面のあちこちには、冒険者たちが恐
ろしげなモンスターと戦う極彩色の絵がかけられており、見物客た
ちはその絵をじっと見入った。しばらく歩くと大きく開けた広間に
出た。人工的にくり抜かれた洞窟内の大きな虚には、飲食物を売る
梟の巣
の前にお
店が多数開かれており、あちこちでテーブルに座って飲み食いに興
じる人々の姿が見えた。
﹁昼食の時間は一時間です。一時間後に、喫茶
集まりください﹂
蔵人は、空いている公共スペースのテーブルに腰を下ろした。
ヒルダと隣りあって座る。目ざとい彼女は、どこかで飲み物を調
達してきたのか、陶製のポットからアイボリーホワイトのカップに
紅茶をそそぐと蔵人に差し出した。
536
﹁さー、熱いからヤケドしないように気をつけてくださいね﹂
﹁へい﹂
ヒルダは続いて自分の紅茶を用意すると、売店で購入したサンド
イッチを前に両手をあわせてお祈りをすませると、ぱっと花が開く
ような快活な笑みを見せた。
﹁さ、あったかいうちにいただきましょう。クランドさんは、お弁
当持ってきてるんですよね﹂
﹁へい﹂
﹁うむむ、なんだか元気ないですねー。ごはんは楽しく食べないと、
おいしくないですよ﹂
﹁お、おう﹂
イマイチ気勢の上がらない蔵人だった。持参した籐製のラタンバ
スケットから布の覆いをとると、ランチボックスからレイシー手作
りの弁当が姿をあらわした。チーズとハムのサンドイッチ、ゆでた
まご、フライドチキンとポテト、シロップで煮しめたフルーツ類な
どである。魔法瓶︵※魔術のかかった文字通りのマジックアイテム︶
には、キンキンに冷えたレモン水が入っていた。
﹁あらら、彼女さんの手作りですかぁ。お茶、いらなかったですか
ね﹂
ヒルダは魔法瓶を見ると、少しだけ悲しそうに目を細めた。
﹁いや、飲む。っあっづ!?﹂
﹁そんなに慌てなくてもいいですよっ﹂
蔵人が舌をちょっと火傷したり︵※もっとも数秒後には回復する
のだが︶レイシーのこころづくしのお弁当にちょっとホロリと来た
りして、愉快な昼食がつつがなく終わると、迷宮観光ツアーは再開
された。
毒にも薬にもならない文字通りの物見遊山がだらだらと続く。
途中、小休止を取った場所から離れたところで、一種異様な雰囲
気を蔵人は感じとった。観光の列から一人離れて、整地された石畳
の道を外れて歩く。
537
しばらくすると、完全武装した男たちが槍を構えて警備を固めて
いる部屋が見えた。
そこにあったのは、大きな石扉だった。
巨大なカンヌキが三つもかかっており、鉄の鎖が網の目のごとく、
縦横に張り巡らされている。無数にかけられた錠が異様なものもの
しさだった。十人近い、男たちが、かがり火を四つも焚いて、周囲
を赤々と照らしている。蔵人は、特に身を隠していないので姿は見
えているはずなのに、誰何ひとつかけないのも、逆に不気味だった。
﹁なんなんだよ、ここは﹂
﹁入口ですよ、本物の﹂
声に振り向くと、ヒルダが背後に立っていた。
﹁びっくりさせんなよな。しっかし、本物ってのは﹂
﹁一旦外に出ましょうか﹂
﹁おい、待てよ﹂
ヒルダは、無言のまま踵を返すと、元来た道を引き返して、迷宮
の外に出た。一種異様な雰囲気に気圧されて、あとに続く。入口に
出て、ヒルダが受付の事務員にひとことふたこと話すと、彼女たち
は作った笑顔をさっと消して、機械的に歩き出した。先頭に立って
藪に入る事務員を追うようにして歩く。ヒルダはすでになんどか来
たことがあるのか、獣道のような悪路をものともせずに進んでいく。
やがて、数人が野営できそうな開けた平地に出ると、左右から剣を
構えたふたりの男たちが飛び出してきた。蔵人が剣の柄に手をかけ
る前に、事務員が割符を男たちに渡す。確認が一瞬で終わると、事
務員は男たちといっしょにその場で佇立する。
﹁こっちですよ、クランドさん﹂
ヒルダが先に立ってさらに森の中に分け行っていく。
﹁ヒルダ。やっぱり、ここにはじめて来たなんていったのは、嘘な
んだな﹂
﹁バレちゃいましたか。最初に行った入口は観光客向けなんですよ。
本当の、ダンジョンの入口は秘匿されているんです。関係者以外は
538
基本的に立ち入り禁止なんですよ﹂
﹁関係者って、じゃあどうしておまえが知ってるんだ。おまえも、
冒険者なのか﹂
﹁いえ。ただ、本業で幾度かここに来たことがあるだけですよ﹂
﹁本業﹂
獣道が終わると、あきらかに人の手が入った小道に出た。木枠の
打ちこまれたルートを斜面に沿って下りていくと、叫び声が耳に入
った。
﹁ちょっと!﹂
ヒルダの声を無視して駆け出した。蔵人は一気に森の街道を駆け
抜けると、木々に囲まれた広場にぶつかった。
そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
﹁ぎゃああああっ﹂ ﹁助けてぇえええっ﹂
﹁痛いっ、痛いっ、痛いよおおうっ﹂
ぽっかりと口を開いた洞穴の前に多数の人々が転がっていた。草
地のあちこちにはムシロが敷かれて、その上にはあきらかに致命傷
を負った人間らしきものの、残骸があった。
切り裂かれた腹から腸が陰圧で飛び出ている。
血にまみれた腸を、妙な格好をした男や白っぽい服を着た女が踏
みつけながら飛び回っていた。
﹁なんだ、ありゃあ仮装か?﹂
﹁あの鳥さんみたいなのはお医者さまで、白地の服は看護婦ですね﹂
蔵人の疑問にヒルダが答えた。つば広の帽子に鳥のクチバシのよ
ギルド
うな仮面をつけているのが医者で、白地に赤十字が染め抜かれた衣
服を着た女性が看護婦だとのこと。両者とも、冒険者組合に委託を
受けて負傷した冒険者たちの後始末を行っているのだった。
現代日本から来た蔵人の視点からいえば、医者の格好は中世ヨー
ロッパの妖術師にしか見えない。幻術系の魔法を使いそうなタイプ
だった。
539
つまるところ、怪しいことこの上なかった。
医者にハラワタを踏まれるたびに、傷ついた男はビクンビクンと
機械じかけのように身体をくの字に折り曲げる。
横には、身体の半面をこんがり焼かれてブリの照り焼きのように
なった男が、うめき声を出していた。焦げきって炭化した指先が空
に向かって突き上げられ、黒い煙を立ち昇らせていた。
その隣には、大きな刃物で切り裂かれた背を晒しながら、身じろ
ぎひとつしない男が、涙を流しながらひとりごとをつぶやいていた。
﹁先生、先生﹂
﹁なんだあ、いま手がはなせないんだっ、簡潔にいえ、簡潔に!﹂
﹁足、足、足でハラワタ踏んでます﹂
医者は、ちらりと足元を見ると、自分の靴に絡まっていた大腸を
腹立ち混じりに力をこめて踏みにじった。ぶちゅり、と腸の裂ける
音がして、スカトール臭のする内容物が辺りに飛び散った。
﹁いぎいいいいっ﹂
患者は足をもがれた死にかけの昆虫のように四肢をじたばた動か
す。
振り回した腕が、隣の重症患者の傷口にぞぶりと音を立てて突き
刺さる。膿の混じった赤黒い鮮血が辺りに飛び散り、ムシロをぐっ
しょりと濡らした。
﹁先生、患者が痛がってます﹂
﹁ほっとけ! どうせ、そいつは助からん! それより、金持って
そうなやつから治療をはじめろっ、文無しはくたばってもかまわん。
むしろ、世のため人のためだっ﹂
﹁わかりました、先生。世のため人のため﹂
童顔の看護婦が忠実に復唱する。言葉が聞こえていたのか、望み
を失った貧しげな装備の男たちが次々と動かなくなっていく。昇天
した魂が目視出来そうな勢いであった。
効果は覿面だった。
﹁わかりましたじゃ、ないわよっ。アンタの踏んづけてるのは、ウ
540
チのクランのリーダーよ!﹂
﹁なにが、リーダーだ! この出来損ないがっ、使い古しの淫売女
が! 余計な仕事増やしやがって! オレは三日も寝てないんだよ
っ﹂
医者は、男に付き添っていた露出度高めの女冒険者を蹴っ飛ばす
と、仮面のクチバシをカタカタ鳴らしながら叫んだ。
まさに地獄絵図である。
﹁待ってよ、お金なら、お金ならあるから。彼は、わたしの大事な
人なの﹂
ビキニアーマーっぽい装備の女冒険者が、鼻血を垂らしながら医
者の足にすがりつく。
乱れた髪がほつれて、顔にへばりついている。崩れた雰囲気だが
中々の美人だった。医者は、女から手渡された革袋を受けとると、
中身を手のひらに撒けてから不満気につぶやいた。
﹁少ねぇ。こんなはした金じゃあ、どうにもできねえよ﹂
﹁じゃ、じゃあ、足りない分はわたしの身体を好きにしていいから
っ﹂
女冒険者がヤケになって、両手で胸の覆いを剥ぎとった。
ぷるんと、飛び出した釣鐘型の乳房が弾む。白いもちのような乳
房に、苺のような真っ赤な蕾が美しかった。
﹁おおっ﹂
事態を見守っていた蔵人が声を出して身を乗り出す。
ヒルダから、極めて冷たい視線を浴びせられるがそんなことは気
にしなかった。
﹁うるせえええっ、オレは七年前から糖尿で勃たねえんだよ!﹂
医者が叫びながら胸元を蹴りつける。女も負けじと、医者の腰に
すがりついた。
﹁お願いぃいいっ、助けてよおおっ﹂
﹁先生、先生﹂
無駄に盛り上がるふたりを前にして、童顔の看護婦が冷静に告げ
541
た。
﹁なんだよっ、取り込み中だっ﹂
﹁もう、死んでます﹂
﹁ああん?﹂
医者がその場に跪いて、脈をとって口元に手をかざした。
男の喉には自分のハラワタがぐるぐると巻き付き、締め上げる格
好になっていた。医者と女冒険者が揉みあっているうちに絡まった
のだった。
重ね重ね不運だった。
どっちにしろ助かる傷ではなかったが。
﹁窒息死だな﹂
﹁いやあああああっ!﹂
女冒険者が顔を手で覆い泣き叫ぶ。
それも、やがて多数のうめき声にかき消されていった。
﹁本業ってのはとむらいのことかよ﹂
蔵人たちは、負傷者たちが並べられた簡易治療所から離れると森
の窪地まで移動していた。あの場所では、落ち着いて話をするのに
不向きだからである。乾いていて腰かけるのにちょうど良い石を見
つけると並んで座った。ヒルダは、疲れきったように息を吐き出す
と諭すようにいった。
﹁ちょーっと荒療治でしたがこれでクランドさんも、冒険者になり
たいだなんて口に出す気もなくなったでしょう。私もこんな風に人
に説教するガラじゃないですから、なんか肩こっちゃいましたよ﹂
ヒルダが顔を上げると、蔵人が顎に手を当てて唸っていた。
﹁あらら、脅しすぎちゃいましたかね。まったく、クランドさんも
かわいいとこあるじゃないですか。ううん? なになに、心を改め
ポンドル
て商売替えする気になりましたか?﹂
﹁いや、十万Pどう工面しようかなぁ、と﹂
﹁おいーっ! なに、なになになあに? いままでの私の気遣いと
か、現実を見せつける系のやんわりとした懐柔策はなんだったんで
542
すかねぇ? だから、冒険者になったら、ああなっちゃうんですっ
てばぁ! よくて、不具っ。悪ければ、クッキーのカケラをこぼす
みたいな気安さで生命が、ぽいっとなくなっちゃうんですよっ! ねえ、聞いてましたかねえ? 人の話っ! あなた、全然人の話聞
かない部類の人間ですよねっ。いくら温厚な私でも許せないことと、
許せないことがありますよっ!﹂
﹁いや、それ両方許してないよね﹂
﹁言葉の綾ですう!﹂
火の玉のように顔を真っ赤にして吠え出したヒルダを前にして、
蔵人は反論するのをやめた。脳のスイッチを切る。
それから、先ほどの女冒険者の乳房を思い出しながら、妄想の中
でそれを頬に押し当てた。
﹁なあ、そんな顔するなよ。機嫌直せってば﹂
﹁つーん﹂
それから、十五分後。
ヒルダは、蔵人が自分の話をまったく聞いていないことに気づき
泣き出した。
しかも、ガン泣きである。
これには、さすがの蔵人も激しく狼狽した。
古来よりどんな豪傑も女の涙には勝てないものである。
とりわけ、蔵人は、女性や子供、そして動物といった力なきもの
には弱かった。 ヒルダは、蔵人から顔を背けるとあさって方向を
向いて目線を避け続けている。
ご機嫌斜めであった。
﹁しっかし、どうしてそこまでムキなるんだよ。知り合って間もな
いってのに﹂
﹁それは! ⋮⋮私も一応シスターのはしくれですからね。みすみ
す刃に飛びこんでいく無防備な子羊ちゃんを見過ごしにはできない
んですよ﹂
﹁ふーん、それじゃ他の冒険者志望のやつらにもいちいち説いて回
543
ってるのかよ﹂
﹁私っ! ふん、もお、本当にいいです。冒険者みたいな無法者志
願のクランドさんとは、口を利いたげません﹂
﹁そんなこというなよ﹂
﹁つーん﹂
﹁仲良くしようぜ﹂
﹁つーん、つーん﹂
蔵人が、ヒルダの顔を見ようとすると、彼女は器用に顔を背ける。
子どもじみた仕草が、なんだかやけにかわいらしく感じた。
﹁でもそれって、俺のことだけ特別に心配してくれたってことだろ。
男ならうれしいじゃねえか。ヒルダは、優しいんだな。ありがとな﹂
﹁は、はああ!?﹂
ヒルダは振り向くと、白い肌をぽっぽと染めてうつむいた。蔵人
が、身体を斜めにして耳を近づけると、そんなことないもん、とか
ちがうもん、などとブツブツつぶやいているのが聞こえた。蔵人が、
そっと腕を回して彼女の肩を抱く。ヒルダは、ぴくと身体を震わせ
て、独り言をやめた。
﹁んで、ダンジョンについて知ってること、ぜんぶ教えてくれるよ
な﹂
﹁⋮⋮いじわる﹂
蔵人が、ヒルダから聞き出した情報と、自分が知っているものを
ラスト・エリュシオン
総合すると以下のようになった。
まず、深淵の迷宮は最深部まで百層ある。
ギルド
いずれも伝説に記された古文書により、最下層にはロムレスの秘
宝と呼ばれる存在が取り沙汰されている。冒険者組合の公式記録で
は、十七層まで攻略されていることになっているが、各クランが真
実の攻略層を秘匿しているので、実際に誰がどこまで到達している
かわからない。
公式に攻略された階層の地図は販売されているが、非常に高価で
あり一層から十七層まで揃えるだけでひと財産かかるといわれてい
544
る。
もっとも、闇市で廉価版の地図が売られているが、経路が粗雑で
あったり故意に誤った道が示されているので安易に入手するのは生
命に関わる危険性がある。
また、ダンジョンには故意に下層を攻略せずに公式攻略階層で狩
りを続け、換金できるモンスターを対象として生業にしているクラ
ギルド
ンが多数あり、狩場の利害関係で犯罪が多発している。
冒険者組合は公式に専有権などを認めていないが、冒険功績の高
いクランの意見が通ったり、事件が発覚した場合なども判定が優位
ギルド
ポンドル
に働いたりすることがままあったりする。
冒険者組合の加入料は十万Pであり、一等市民権以上を持つ三人
の推薦人が必要である。
﹁ネックはやっぱ銭と、推薦人か。なあ、一等市民権って、やっぱ
そこいらへんのおっさんが持ってるもんじゃねえよな﹂
﹁ええ。一般に、生まれの土地の豪商や豪農、貴族や学者や高僧っ
てところですね﹂
﹁高僧。んんん、おい。もしかして、マルコのおっさんでもオッケ
ーなんじゃねぇの﹂
﹁ええ﹂
ヒルダが、あからさまにいわなきゃよかった、という顔をした。
﹁んだよ。まだ、反対なのかよ。俺が、冒険者になるのが﹂
﹁別に、私はへいきです﹂
﹁ぜんぜん、納得してない顔だな﹂
蔵人が辺りを見回すと、鬱蒼とした森の木々が黄金色に染まりは
じめていた。
日が西に傾き始めたのだ。
蔵人は、うんと唸ると、口元をゆるめてヒルダににじり寄った。
﹁へへへ。おまえみたいな、女の口を簡単に割る方法なんていくら
でもあるんだぜ﹂
﹁え、ええ? ここに至っていきなり鬼畜キャラに転向ですか。こ
545
っちとしては、もう少し手順を踏んでですね﹂
ヒルダは顔を赤らめて頬に手を添えてモジモジし出すと、腰をく
ねらせはじめた。
蔵人の手刀が、ヒルダの額を軽く叩く。彼女は甘え声を出しなが
ら、うらめしげな視線を送った。
﹁なにするんですかぁ﹂
や
﹁違うわ、ボケ。口をなめらかにする方法。それは、たったひとつ﹂
﹁いやあん﹂
﹁だから違うって。飲るんだよ、腹の裂けるまでなっ!﹂
蔵人が杯を傾ける真似をして、にっこり微笑んで見せた。
﹁え、あ、うん﹂
色っぽいものを勝手に想像していたのか。
ヒルダはくちびるを噛み締めながら、ローブの上からショーツに
掛けていた両手の指をそっとはなした。
546
LV35﹁過去の足音﹂
レイシーは蔵人を見送ったあと、小さくあくびをしてから部屋に
戻った。
早朝の街は、白い朝もやに包まれていた。さすがに、道を歩く人
影もなかった。
昨晩は、珍しく遅くまで起きていた上に、禁じていた酒に口をつ
けてしまった。なんだか、はしたないことをしてしまったような気
がする。ジンジンと頭の奥で疼痛がした。軽く顔をしかめる。
﹁いけない、いけない﹂
レイシーは自分がおせっかい焼きな性格だということを自覚して
いる。それにしても、昨日と今朝とかなり蔵人の世話焼きにはいつ
も以上に力を入れてしまった。
﹁うーん、なんでだろ﹂
レイシーは寝台に仰向けになって、無理やり目を閉じた。早朝出
かける蔵人のため、我ながら甲斐甲斐しく昼食用の弁当まで作った
のだ。早起きは苦手ではないが、数時間しか眠っていない身体を無
理やり覚醒させたのはキツかった。昼前まで寝ていても、父に咎め
られることはない。いつもは、もう少し早く自発的に起きているの
だが、今日は勘弁してもらおう。これから一眠りするのである。誰
にいいわけするでもないが、若干のうしろめたさを残して、レイシ
ーはしばし深い眠りに落ちた。
別段、レイシーが自堕落な生活をしているわけではなく、どうし
ても店が夜型のせいか、片付けもろもろ深夜にかかってしまい睡眠
547
時間が確保できないという点があった。
また、当然昼間は店を開けたりはしない。客のほとんどは、地元
の人間で日中はそれぞれ仕事をもっているからである。
この世界は、現代日本と違って、近世の江戸時代に近く、ほとん
どの住民は、日が出る前に起床して活動し、日が落ちた頃に活動を
終了して、夕餉をとって床につくのが一般的だった。わざわざ、高
い油や蝋燭を消費して夜ふかしなどはしない。無駄に金がかかる上
に、不健康で不道徳とされていたのだった。そういった意味では、
レイシーは一般的に見て夜の職業の女に分類され、必要以上に世間
の人々に引け目を感じていたのだった。
幼い頃から家の仕事を手伝っているとはいえ、まだ母が生きてい
た頃は、夜の帳が落ちれば階下の客たちの喧騒を子守唄に眠ってい
た。近所の幼なじみたちも、本当に小さい頃は分け隔てなく接して
いたが、長じて年頃になるとやはりそれとなく距離を置かれている。
母が死んだ後は、せめて店の賑やかしになればなどと、派手な衣
装をまとって、ときには愛想をいい、唄を歌うなどしていれば、堅
気の娘同士では話が合うはずもなかった。
自然、レイシーの知り合いは、夜の仕事を持つ女たちがほとんど
だった。酒場の酌婦、唄い手、娼婦などがほとんどだった。彼女た
ちは、一見自堕落で破滅的な生活をしている人間ばかりだと世間一
般の人々は思いがちだが、話してみれば素朴な性格の娘が多かった。
人口の流入が激しく、日夜金品や物資が絶え間なく動くシルバー
ヴィラゴはとにかく身ひとつあれば食える仕事がいくらでもあった。
夜の仕事をする女性は地方出身者が圧倒的に多い。字もロクに読め
ず、身を文字通り粉にして働いて得られる報酬をピンハネされるこ
ともままあったが、無学な彼女たちはそれに気づくことすら出来な
い有様だった。それらを黙って見ていられるレイシーの性格ではな
い。時には、代わりに契約書を読んでやり、客に対する恋文の代筆、
孕んだ子供を認めさせる判事への嘆願書まで作成した。ここまで力
になって慕われないはずもない。レイシーの夜の女たちに対する信
548
頼度は相当なものだった。もっとも、そうなるとたかってくるのは
まずカタギの男ではありえなかった。父のバーンハードの苦労も並
大抵のことではなかった。
太陽が高々と中天に登ったくらいに、レイシーは再度起床した。
﹁ごっめーん、寝坊しちゃったよ﹂
﹁おはよう、まだ寝ててもいいんだぞ﹂
バーンハードはカウンターの椅子に腰掛けてパイプを更かしなが
ら本をめくっている。
レイシーは、寝癖を気にしながら螺旋階段を降りつつ、辺りを見
回した。それに気づいたバーンハードは苦笑しながら本を閉じると
椅子を立った。
﹁クランドはまだ戻っていないよ。コーヒーでもとりあえず飲むか
い﹂
﹁え、ええっと。べつに、クランド探してたわけじゃないよっ。ほ
ら、今日はちょーっと寝坊しちゃったから、お店の掃除とか準備と
か気になっちゃって﹂
バーンハードはそういって否定する娘が起き抜けでもしっかり化
粧を施して、いつも以上に服装に気を配っている部分に気づき苦笑
した。
あの青年は悪人ではないが、かといって到底まともな人間の部類
ではなかった。バーンハードはあたりまえの父親として、娘の恋人、
つまり将来の相手は堅気の商店の勤め人や職人などを希望していた。
娘の性格を考えれば無理そうではあったが。
﹁おっはよう、レイシー。きょうも来たよぅ﹂
﹁あら、マーヤじゃない。おはよ﹂
スイングドアを開いて、派手な色合いの服装をした娘が銀馬車亭
にあらわれた。レイシーの友人で、向かいの飲み屋に勤めている酌
婦のマーヤであった。
﹁マスター、今日もいい男。たまには、うちにも飲みにきてよん﹂
﹁おはよう。お誘いはうれしいんだが、私も店があってね。老後の
549
楽しみにとっとくよ﹂
﹁ぶー、つまんなーい。んで、んで、レイシー! ちょっと、ちょ
っと﹂
昼夜、逆転した生活をしていれば当然起きてくるのは昼過ぎにな
るし、店の掃除や食事の下ごしらえを終わったあとに、レイシーが
ぽっと出来る暇な時間に会えるのは夜の仕事を生業にする女たちば
かりだった。
﹁なによ、きた早々﹂
﹁アンタ、また男引っ張り込んだらしいじゃない。ね、ね、ね。ど
んな男? いい男?﹂
﹁引っ張り込んだって、また人聞きの悪い。困った人をちょっと二
階に泊めてあげてるだけだって﹂
﹁はーん﹂
マーヤは、カウンターに腰掛けると、コップに水差しの中身をつ
いであおった。 濃い金髪の下で、半目になった瞳がニタニタと波
打った。
﹁なによう、いやらしい笑い方ね﹂
﹁あたしのいい人ですっ、とかなんとかいって抱きついたそうじゃ
ない。ジャンがウチの店で昨日はもーう暴れた暴れた。いやーお堅
いあんたがそこまでするなんて、どんだけ、いい男だと思ってね。
ね、ね、ね。二階にいるんでしょう。見せて、見せて!﹂
﹁ジャンが﹂
マーヤがいうジャンとは、銀馬車亭の常連である石工の職人であ
る。大柄で無口な彼は毎日お店に来ては、ゆっくりと食事をしてい
つも唄を静かに聞いている姿が印象的だった。
レイシーにとって、あの物静かなジャンがいつもは飲まない酒を
飲んで暴れたということ自体が衝撃的だった。
﹁ねえ、ジャンは平気だった? 誰か、ケガはなかったの!﹂
﹁⋮⋮アンタねー。そういう態度とるから、男たちが調子に乗るの
よ。この男殺しがっ﹂
550
﹁そんなっ、別にそんな気はないんだけどなぁ﹂
﹁あたしはアンタのそういうところ知ってるからいいけどー。で、
いるんでしょ。ちょーっと呼んできてくんないかなぁ。一番に顔見
て、店の娘たちに自慢するんだ。あの鉄壁娘を落とした男がどんな
んだったか﹂
﹁残念でした、クランドはお出かけしてますっ。ここにはいません﹂
﹁え、うぞっ!?﹂
マーヤがバーンハードを見ると、彼は口ひげをわずかに動かして
から、首を横に振った。
﹁あーなんだよぉぅ、ちぇー、せっかくジャンのやつが決闘を申し
込むとか馬鹿なこといってたから、ボコボコにされる前に顔だけで
も拝んどこうかなぁと。ホラ、ジャンの拳でめためたぁっ、にされ
たら原型わかんなくなるじゃん!﹂
﹁ダメだよ、原型わかんなくしちゃっ。っていうか、なによっ、決
闘って!﹂
﹁え。んんん、あ、あちゃー。つい、口が﹂
マーヤは口元を両手で塞ぐと、困ったようにバーンハードに視線
を向けた。
﹁おいおいおい、店の前で暴力沙汰はやめてくれよ﹂
やめてくれよ、といいながらもバーンハードの目はちょっと笑っ
ていた。あきらかに娘にたかる虫どもが潰し合うのを願う父親の真
摯な瞳だった。
﹁っていうか、絶対ダメだってば。ああ、なんで止めないのかなぁ、
マーヤもお店のみんなも﹂
﹁いやいやいや、どうせ酒の席の戯言だろうと。あ、あくまで、あ
りえないだろうけど、ジャンのやつ仕事が終わったあとの夕方くら
いに銀馬車亭に来るってよん。あ、あああ!
そうだ、ちょっとお店に出る前に買い出しに行かなきゃだわ。そ
んじゃ、レイシー。頑張ってねー、この色女っ。パパも苦労するね
っ﹂
551
マーヤは、激しく狼狽するレイシーとバーンハードに向かって去
り際に投げキスを放ると、長いドレスの裾を両手で持ち上げて走り
去っていった。
﹁あああ、もおおっ。ねえ、どうしよう、どうしよう。父さん、止
めてね。もし、ジャンとクランドが喧嘩しはじめたら絶対止めてね﹂
﹁ふむ。だが、少々見てみたい気もするがな。はは、嘘だよ﹂
笑っていたバーンハードの顔が、不意にこわばった。レイシーは
父親の不意の変化に戸惑い腰を上げた。
﹁どうやら、今度は私にお客さんのようだ。レイシーはここにいな
さい﹂
﹁父さん、どうしたの?﹂
店の表から犬がけたたましく吠える声が聞こえてきた。続いて、
女の金切り声と多数の男たちのはやし立てるような笑い声が続く。
バーンハードは年齢に似合わないフットワークで、スイングドア
を弾いて外に飛び出した。あとを追うようにしてレイシーが駆けて
いくと、そこには先ほど店を出ていった友人のマーヤが五人ほどの
男たちに取り囲まれているのが見えた。
﹁へへへ、姉さん。真昼間っから刺激的じゃねえか﹂
﹁こんな。日の高いウチから客漁りかよ。昨日は、あぶれたのかい﹂
﹁はなしてよっ、あたしはそんなんじゃないっ﹂
﹁へへへ、こんないい道具目の前でチラつかされりゃ、こっちだっ
て場所も構わずその気になっちまうって﹂
﹁やめろっ、このお!﹂
男のひとりが羽交い絞めにされたマーヤの胸を乱暴に鷲掴みにす
る。
﹁いたっ、本当、やめてよお﹂
男の瞳に狂気が宿っているのが理解できたのか、強気なマーヤの
口調がみるみる弱まっていった。
﹁へへ、しおらしくなりやがって。オレさまのモノで道具のすす払
いをしてやるっていってるんだぁ、おとなしくすれば極楽に連れて
552
行ってやるって﹂
﹁あたし、本当にそういうお店で働いているわけじゃないんです、
勘弁してくださいよお﹂
本格的にマーヤの声に泣きが入った。怯える女を見て、男たちは
ますます調子に乗って肉づきのよい身体をまさぐりはじめる。横暴
が続いたのはそこまでだった。
﹁おい、小僧ども。私の店の前で、堅気の娘さんに手を出すとはど
ういう了見だ﹂
バーンハードが一歩前に踏み出すと、目に見えない闘気のような
ものが大きく膨れ上がった。薄いシャツの上からもわかるくらいに、
鍛え上げられた胸筋が震えている。あきらかに貫禄違いだった。
マーヤに悪戯を仕掛けていた、まだ二十前後の無頼の男は、気圧
されたように後ずさると仲間に目配せをした。
しかし、周りの男たちもやはり使いっぱしり程度の貫禄しか持ち
合わせていなかった。
蛇ににらまれたカエルのように微動だにしない。
その隙をついて、男の手を振り払ったマーヤがバーンハードの胸
に飛び込んでくる。レイシーは飛び出してマーヤを抱えこむとかば
うようにして、男たちを睨みつけた。
﹁へ、へへ。なんでぇ、ちょっと淫売女をからかっただけじゃねえ
か、なにもそんな怒るこたァねえだろうが﹂
﹁訂正しろ。彼女は淫売じゃない。謝罪するんだ﹂
﹁へ、へへへ。なあ、みんな別に悪気があったわけじゃ﹂
マーヤに悪戯を仕掛けた男が、助けを乞うように周囲を見渡すが、
皆が揃ったように視線をあさっての方向へと向けた。
男は、んだよ畜生、と叫ぶとぼそりと謝罪の言葉を口にした。
﹁それで、堅気の娘さんに悪さをしに来ただけなのか。小僧どもは﹂
﹁ち、ちげーって。俺たちは、チェチーリオ親分の使いで書状を届
けに来ただけだ、いや、届けに来ただけです﹂
チェチーリオはいわゆるリースフィールド街周辺を縄張りとする
553
貸元であった。
子分は、枝の組まで数えると二百は下らぬこの辺り一体の暗黒街
の顔役であった。
同時に、領主から自警団長の認可を正式に受けており、制限され
た警察力と微罪ならばその場で裁くことができる司法権を持ってい
た。
また、街が危急の際には特定の要件を満たせば市民の男子から民
兵を募る権利も持っていた。暗黒街のボスの顔と、権力側にとって
使い勝手の良い犬の顔。
いわゆる二足の草鞋である。
レイシーは仕事柄、親分といわれるチェチーリオの噂話はしょっ
ちゅう聞いていたが、一家の人間を見たのははじめてであり、違和
感を拭えなかった。
何故ならば、彼ほど地元民に慕われている貸元も中々居なかった。
だが噂とは違う、その部下の男たちの野卑さを目の当たりにして、
恐怖と失望感は拭いきれなかった。
レイシーは、チェチーリオの子分から受け取った書状を読んでい
る堂々とした態度の父を見て実に誇らしく思った。
﹁よし、書状は確かに受け取った。ひとつ聞くが、この書状の差出
人はコルネリオとなっているがどういうことだ﹂
﹁知らねーよ。俺たちはただ、それを代貸からあんたに渡せってい
われただけだし﹂
男はバーンハードの視線を正面から受け止めることもできない。
文字通りの小物だった。
﹁そうか。書状は確かに受け取った。それから、ひとつ覚えておい
て欲しいのはこの辺りで悪さをすれば、ただでは済まないぞ。あま
りにタチが悪ければ、私から直々に貸元に抗議に行かせてもらう﹂
﹁ひ、ひいいいっ。それだけは、勘弁してくれ。勘弁してくれよお、
俺たちが心得違いをしてたあっ。大親分に知られたら、俺たち全員
殺されちまうよおっ﹂
554
男たちは、誰いうとなく悲鳴を上げると風をくらってその場を退
散した。バーンハードは、書状をふところに仕舞うと、怖い思いを
させたとマーヤを恐縮させるほど頭を下げて謝罪して店の中に戻っ
ていった。レイシーが友人を気遣って声を掛けようとすると、彼女
はバーンハードの大きな背中をうっとりとした恋するような視線で
見つめていた。
﹁いいねえ、マスター。男の中の男だよぉ。ねえ、レイシー。アン
タって、もし義母が出来たら、あんまりイジメないであげてねぇ﹂
﹁はああ!? ちょっと、なんの話をしてるのよ﹂
それにしても。マーヤがのぼせが上がるのも理解出来る。娘であ
ることを差し引いて見ても、バーンハードは男らしかった。
レイシーは五年前母を亡くしてから、何度もいろんな女性に求婚
される父を見ていた。
だが、頑なまでに再婚を拒否する父を見て、どれだけ母を愛して
いたかは理解できた。
実際、母の美しさはずば抜けており、レイシーの幼い頃は領主か
ら直接側室にとの話があったくらいだった。
﹁だけど、自分より年下の母親は、ちょっと﹂
﹁ぷふふふふっ。ああん、マスター﹂
くねんくねん身体をよじらせるマーヤを見て非情に複雑な気持ち
になるレイシーだった。
蔵人たちが道迷いの結界を通り抜けたところで最初の異変が起き
た。
﹁妙だな﹂
﹁なにが妙なんですかぁ。もうお腹もすいたし、早く帰りましょー﹂
555
ヒルダはぶつくさ愚痴ると、腰に手を当てて伸びをする。あくま
で自然な行為だった。
﹁この道ってのはメジャーなのか?﹂
﹁ええ? まあ、こっちルートはあまりメインではないです。ダン
ジョンも低い場所にしか通じてないですし。あくまで初心者用で、
裏技みたいなものですけど。正規の冒険者なら事務所から潜ります
よう﹂
蔵人は雑木林の向こう側でうごめく気配を敏感に察知した。真の
ギルド
迷宮への秘匿した通路の境であり、先ほどはここに管理者である冒
険者組合の監視役が居た。やがて、ヒルダも迎えの事務員が来ない
ことに気づいたのか、怪訝な表情に変わった。蔵人が、小鼻を動か
すと微量だが、血の匂いを嗅ぎとることができた。ギルド職員も素
人というわけではない。誰かに不意を襲われたにしては鮮やかすぎ
た。
敵はひとりではない。おそらく、四人以上はいるだろうな。
蔵人がそこまで思考したところで、雑木林の向こう側が揺れて、
ゆっくりと六人の男たちが姿を見せた。それぞれが、革鎧や鋼の甲
冑で武装して、手に手に剣や槍を持っている。
中でも、もっとも殺意の炎で全身をたぎらせた男が一歩前に出る
と槍を構えた。
﹁忘れもしねえ。てめぇ、クランド・シモンだな! フォルカーの
兄貴の仇、取らせてもらうぜっ!﹂
﹁⋮⋮は? フォルカー、誰だっけ﹂
剣の柄にかけた指が止まった。蔵人が惚けたように男の顔を見つ
めていると、爆発したような怒声が真っ赤な口から発せられた。
﹁ふざけんなああっ、忘れたとはいわせねえぞっ! 俺たちがジョ
シュヤ商会の傭兵をやってた時に手をかけた兄貴の名を忘れたとは
いわせねえっ! へへ、だが、てめえも、あの黒ずくめの女もこの
オレに止めを刺し忘れるとは抜かったな。オレの二つ名は、不死鳥
のアレクサンダー。この背中の傷を目にして、見忘れたとはいわせ
556
ねえぜ!﹂
アレクサンダーは、革鎧を外すとモロ肌脱ぎになって背中を見せ
た。そこには、深々とナイフの刺し傷の跡が見てとれた。
事実、アレクサンダーは蔵人が峠路で戦った時に相手した多数の
敵のひとりだったが、乱戦でありなおかつ短剣を投擲したのはシズ
カだったので恨むのはお門違いである。
﹁ジョシュヤ商会っていうのも覚えてないんだけど。ごめん、マジ
で人違いじゃ﹂
﹁ふん、こいつを見ても、まだそんなことがいえるかよっ!﹂
﹁えー、なになに﹂
アレクサンダーは、蔵人の二メートル前まで進み出ると、一枚の
紙封筒を放った。蔵人は警戒しながら、六十センチ四方のそれを拾
うと中身から一枚のポートレートを取り出した。
﹁わー、随分な美人さんですね。エルフさんですかね﹂
蔵人が広げていたそれをヒルダが横から覗きこむ。蜂蜜色の美し
い金髪に、抜けるような白い肌。抜ける空のように美しい蒼の瞳。
忘れようもないドロテアの肖像だった。
﹁なんのつもりだ、これは﹂
蔵人の表情が一変して緊迫したものに変わった。ヒルダは、それ
を察したのか、一歩下がって心配そうに蔵人の顔を見上げた。
﹁ククク、このエルフ女とおまえはいい仲だったそうだなぁ。あい
にくと、何度か失敗したからといって、ケジメを取るのを諦めよう
ポンドル
なほどヤワな商売じゃないんだよ、奴隷商人ってのは。来週、ジョ
シュヤ商会はこの女自身に、五百万P︵※日本円にして約五千万円︶
の懸賞金を懸けるそうだ。特に、この件に関しては商会一の番頭で
あるホレイシオさまがご立腹でねぇ。あのエルフ女が、どれほど腕
が立つとはいえ、どの程度逃げ隠れが出来るか。ククク、王国中の
賞金稼ぎがこぞってあの女を捕らえにいくぞ。聞くところによると、
ホレイシオさまは捕まえたエルフどもを残らずこのシルバーヴィラ
ゴに連れてきて一匹ずつ解体ショーにかけるそうだ。そうだ、いい
557
ことを考えたぞぉ。クランド、おまえを生かしたまま捕らえておい
て、このエルフ女の前に引きずり出してやる。おまえの前で、クク
ク一晩中この女の穴という穴を犯し尽くして、肉穴奴隷として嬲り
つくしてやるう。くふふ﹂
﹁黙れよ﹂
いうが早いか、蔵人の長剣が鞘走った。銀光が夕陽の残光を反射
させながらアレクサンダーの右腕に一筋の線を走らせた。
アレクサンダーの右腕にぴっ、と血の糸のような細長い線が通っ
た。
一拍後、見事なまでに切り落とされた肉塊が、湿った土の上に音
を立てて転がった。
﹁ぎいいえええっ!﹂
豚を絞め殺したような、苦悶の鳴き声が高々と上がった。
その叫びが開戦の合図だった。
蔵人は、アレクサンダーの顎を蹴上げて跳躍した。こっちのアキ
レス腱はヒルダだ。ちらりと後方に目をやると姿が見えなかった。
﹁早っ!﹂
もっとも、唯一の弱点は払拭された。戦闘力を失ったアレクサン
ダーはいつでも始末出来ると仮定して、残りの敵は五人だった。剣
を握りながら、どっどっと鼓動がいつもより早まるを感じ、額に脂
汗が流れた。別れ際に月を見上げて涙をこぼしていたドロテアの顔
が頭の中をちらついて消えない。
集中しろ、集中だ。おまえは死にたいのかよ、蔵人。
自己暗示を強くかける。彼女たちのことは心配だが、いまはどう
することもできない。
なによりも目の前の男たちの方が、歴とした脅威だった。
蔵人の戦術は、腕っ節と度胸に頼った喧嘩剣術である。型も作法
も無い。あるのは、剣閃のスピードと鋼や肉を断ち割る力だけだっ
た。敵の武器は槍がふたりと剣が三人。いずれにしても、包囲され
てしまえばその瞬間に勝負は決してしまう。蔵人は、敢えて槍を持
558
った男に向かって躍り上がると、外套を羽ばたかせた。
﹁うおうっ﹂
狼狽した男が槍の穂先を蔵人の身体に合わせ損ね、無茶苦茶に振
り回した。蔵人は、かろうじて切っ先をよけて男のふところに飛び
居ると、長剣を胃の腑に向かって垂直に突き出した。刀身は真っ直
白鷺
を水から引き抜くように滑らかな動
ぐ男を貫くと主要な臓器を切断して男を絶命へと至らしめた。
蔵人は、聖剣である
きで男の身体から滑らすと、隣に突っ立っていた男の胴体を深々と
薙いだ。
﹁ぐるえっ﹂
男が剣を取り落としながら、ぐらりと身体をくの字に折った。蔵
人は、転がりながらその場を脱すると、地を這うようにして槍を構
えた男の腰に向かって低く飛んだ。槍は、ある程度距離のある敵に
関しては絶大な力を誇るが、距離を詰められるとまったくもって無
用な長物に成り下がる欠点がある。焦った男が地を這うようにして
飛びこむ蔵人を槍の柄で打つが、打撃では充分に足止めすることは
できなかった。
蔵人の長剣が斜め上に向かって真っ直ぐな銀線を描いた。
長剣は、深々と男の胸を抉ると、赤黒い鮮血を辺りに飛散させた。
男の吐き出す血の塊が、蔵人の頭をぐっしょりと濡らした。
残ったふたりは、青ざめた顔つきで剣を握り締めると、じりじり
と間を詰めてくる。
このふたりは、鈍色に光る鋼の甲冑で武装している。
先に仕掛けたのは蔵人だった。長剣を水平に構えると、地を蹴っ
て駆けた。かがみこんで土くれを拾うと、視界の狭まった兜の庇の
間に放り投げた。
﹁ぶわっ!﹂
目潰しを受けた男が鉄甲をつけたまま反射的に目の前を覆った。
蔵人は、身を低くして体当たりをかけると、並んだふたりは不意を
突かれて横倒しになった。
559
蔵人は、後方に跳躍すると落ちていた槍を拾い上げ、倒れたこと
でズレた腰の間へと穂先を突き入れた。目潰しを受けた男は、くぐ
もった声を上げると四肢を痙攣させ動かなくなった。
﹁ひいいっ、ひいいっ!﹂
最後のひとりは、狼狽したまま、付けた甲冑が重すぎて上手く起
き上がれない。
両手を地面に突いたままズレた兜の間から、無防備な首筋を晒し
ていた。
蔵人は、駆け寄ると、腰を蹴りつけて男の身体をうつ伏せにした。
右足で胴体を地面に押し付けて、男の首筋を白刃で存分に薙いだ。
男は甲冑姿のまま万歳の格好になると、大地に四肢を伸ばして動
かなくなった。
蔵人が、荒い息をついて辺りを見回すと、アレクサンダーの姿が
なかった。
﹁くそっ!﹂
もっとも、聞きたいことがあった男に逃げられ、胸の中がもやも
やで爆発しそうになった。
﹁も、だいじょうぶそうですか﹂
どこかに隠れていたのか、ヒルダがそろそろと姿をあらわした。
怯えの色が濃い。
﹁ああ、平気だ。悪かったな。どっか怪我はないか﹂
﹁私はばっちり隠れてたから大丈夫ですっ。それよりも、クランド
さんは平気ですか。ああ、こんなに血が﹂
ヒルダはあうあういいながら、持っていたハンカチで蔵人の額を
拭った。
﹁いや、返り血だから。にしても、一匹逃げられたぜ、ちきしょう﹂
﹁お強いんですねぇ﹂
しみじみとした口調で蔵人を見上げるヒルダの瞳に熱っぽいもの
が宿っている。
﹁怖くないのかよ、こんなん見て﹂
560
﹁いえいえ、隠れてましたからねっ。でも、すごいですっ、こんな
にたくさん居る悪人っぽい⋮⋮悪人ですよね? 人たちをばっさ、
ばっさと。すごいです、まるで絵物語の騎士さまみたいですっ!﹂
﹁あー。まあ、おまえがいいなら、別にいいんだが﹂ 現代日本の感覚でいえば、蔵人はただの大量殺人者であるが、こ
の現実界のないファンタジーと中世ヨーロッパが入り混じった世界
の人間の価値観をどうこう考えても意味のないことだった。
そもそも、現実世界でも、近代に至るまでフランスなどではギロ
チンによる処刑は見世物であり娯楽の一部だった。見物人は、よく
処刑の見える位置のアパートにまで押し入り、場所取りに汲々とし
た。処刑場では見物人のために弁当まで売られていたほどである。
ヒルダの気持ちなど推し量ることはできないが、彼女はこう見え
ても生粋の貴族階級の出身だった。放蕩が過ぎて僧院に押しこめら
れても、常に彼女の中は新しい好奇心と刺激で飢えきっていたのだ
った。普通の感覚で考えることができない異常性は常に飽食で満ち
た特権階級の中に生まれるものだった。彼女の中では、ばさばさと
人を斬り殺す蔵人は、騎士物語の英雄譚に出る主人公そのものであ
った。
そして、夢見がちな少女の中には常に自分をヒロインになぞらえ
る癖がある。情報過多の現代と違って、それは醒めることのない麻
薬のようなものだった。
誰しもが常に自分は特別でありたいと思い、もし手の届く場所に
その幸運が舞い降りればつかんで離さないと思うのは当然である。
ヒルダは今、自分の中で途方もない強烈な執着心が芽生えつつある
のを自覚しつつあった。
もっとも、蔵人の心の中は別の女性のことでいっぱいだったとは
露知らずに。
561
562
Lv36﹁雨音の中で﹂
帰り道、ヒルダのはしゃぎようは異常なほどだった。馬車の中で
も、道を歩いているときでも常に喋り通しだった。
元々、口数は多い方だったので知っている人間が見てもそれほど
目立たない程度だったが、あからさまに蔵人の身体に触れる頻度が
増えていた。馬車が揺れたといっては肩に寄りかかる、道を歩いて
いて小石が跳ねたといっては手を取る、返り血で汚れた顔や衣服を
公共の水場で拭うさまは、長年連れ添った夫婦さながらといった様
子であった。
そのくせ、他人の目をしっかりと意識して冷静さを失なってはい
なかった。人さまが、やりすぎだという風に眉をしかめる程度にま
で陥らない巧妙なバランスだった。
だが、蔵人はヒルダの興奮状態を一過性のモノとしてしかとらえ
ていなかった。
事実は違うのだが。
一方、蔵人の頭の中を占めていたのはドロテアのことだった。ア
ポンドル
レクサンダーの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。来週にもジ
ョシュヤ商会はドロテアに五百万P︵※約五千万円︶の懸賞金を懸
ポンドル
けるという。人間の生命が塵芥並のこの世界では破格だった。数万
Pですら命のやりとりになるこの世界で、上記の値段は、飢えた野
獣どもを引き寄せるに充分な価格だった。ドロテアの腕前は飛び抜
けているが、彼女の精神力には妙な弱さが垣間見えた。忘れたし関
係ないと思い切れば楽なのだが、一旦浮かび上がってくれば、もは
563
や他の事を考える余裕すら残されていなかった。第一、元の彼女た
ちの隠れ家の位置すら正確に掴んでいない。今となっては蔵人に出
来ることは、彼女たちが逃げ続けられるよう祈るくらいだった。
﹁どうしたんですか、やっぱりどこか怪我してましたかね﹂
﹁いや﹂
喉の奥に小骨が刺さったように、蔵人の精神を蝕み続ける。こう
いう日は、浴びるほど酒が飲みたくなる。酔うには雰囲気が重要だ
った。昼間の煌々とした光は健全な道徳心を刺激して脳を酔わせな
いのである。幸いにも辺りは、日が落ちて暗くなりつつある。そう
いった意味では、さかずきを傾けやすい時間帯になっていた。
街の街燈に灯された光が、蔵人の疲れきった姿を炙りだしていく。
肩を落とした背中を見ていたヒルダの表情も落ち着きを取り戻し、
口数が少なくなった。一日の労働を終えた人々が、快活な表情で笑
いさざめき心地よい疲労と共に家路に向かっている。こうして一日
が過ぎていく。貴族の生まれであるヒルダは元々労働と無縁であっ
たが、典型的日本人であった蔵人は無為な一日の終わりに勤勉な人
波に揉まれるとわけもなく強い羞恥心を覚えた。それは、民族的な
習性なのだろうか、享楽的に人生を生きると決めてみても、骨の髄
まで遊民になりきれない部分があった。誰かが努力して汗を流す、
モノが造られカタチになる。あるいは、目に見えない部分でなにか
に打ちこむ。蔵人は、時々自分がまったく動かない車輪を回し続け
る二十日鼠であるような錯覚を覚える。彼は、極めて真面目な学生
ではなかった。時には、自分には人格的欠陥あるのかと思うほど、
物事や人に執着出来ない部分があるのを感じる。講義にはほとんど
出ず、バイトに汗を流して時間を潰し、そうして出来た貴重な金を
惜しげもなく蕩尽している自分がいた。
﹁んん、どうしたのですか﹂
蔵人は歩みを止めて、横を歩くヒルダの顔を見た。ほのかなラン
プの赤茶けた光の中、改めてじっくり顔を眺めてみる。びっくりす
るくらいの目鼻立ちの美しさだ。美人は三日で飽きるというがそう
564
いった次元ではない。蔵人が合コンで気を惹こうとした女の顔が、
ヒルダを目の前にすれば出来損ないの泥細工にすら思えた。そうい
った意味でも現実感が常に薄かった。いつでも、自分は夢の中にい
ると錯覚してしまう。おそらく脳が自然にバランスを取っているの
だろう。
とにかく早く酔いたい。歩幅を急に早めて銀馬車亭に向かう。
﹁ちょっと、なんとかいってくださいよ。なんで、いま私の顔見た
のですか? んん、なにかついてましたかね﹂
ヒルダが小走りになった。蔵人は胸元に腕を突っ込むと、くしゃ
くしゃになったポートレートの存在を確かめ、頭を振って奥歯を噛
み締めた。
しばらく進むといくらか見慣れた店舗が連なっているのが視界に
入る。すすけた、銀馬車亭の前に赤のドレスをまとったレイシーの
姿があった。
﹁もう、遅いよ。どこいってたの、クランド﹂
蔵人の姿を見つけたレイシーは、ほっとしたように顔をゆるめた。
可憐な表情に対比して波打つ豊満な胸が艶かしいのである。レイシ
ーは、片手で蔵人の胸を打つ真似をしてから、ようやく寄り添うよ
うに立っているヒルダの姿に気づいた。
﹁はじめまして、私は司教マルコよりクランドさまの案内役を仰せ
つかりましたヒルデガルド・フォン・シュポンハイムと申す教会の
シスターでございます。今日から、七日ほどお世話になります。街
衆の慣習にはいろいろ不慣れな点もございますが、なにぶん世間知
らずの若輩者です。いろいろご迷惑をおかけしますが、なにとぞよ
ろしくお願い申し上げます﹂
ヒルダは玲瓏とした声で告げると莞爾と微笑み、気品すら漂わせ
た物腰でレイシーの目を真っ直ぐ見つめた。
レイシーのくつろいだ表情が一瞬にしてこわばり、蔵人を見る目
が戸惑ったような視線に切り替わった。
﹁ねえ、ちょっとどういうことなの。司教ってなに? 今日は、お
565
仕事探しにいったんじゃないの﹂
﹁ああ、ちょっと知り合いに会って成り行きでな﹂
﹁もお、勝手なんだから﹂
﹁おい、なんだよ﹂
レイシーは自分でも理解できないほどいつもは絶対にしない放肆
な姿勢で蔵人に寄りかかって見せた。蔵人が連れてきたのがシスタ
ーなのはともかく、若く美しい女であるという一点が許せなかった。
蔵人は、昨日会ったばかりの男で、それほど親しくも恋しいとも思
っていないはずだった。
だが、寄り添うように立つふたりの姿を見ると、夕方店先であっ
た無頼の男たちからの悶着もあり、無性に胸の中で煮えたぎるよう
な澱がどろどろと攪拌されていくのを感じた。
暗い熱情に突き動かされるように、本能的に媚態をつくった。静
かな笑みをたたえている目の前のシスターの顔がわずかにひきつる
のを確認すると、レイシーは喉の奥で誰にも聞こえない声をくふふ
ともらしていた。
今日は騒ぐ気分じゃない。
蔵人はレイシーにそう告げると、借りている大部屋の寝台に腰掛
けて運ばせた酒とつまみを静かに口に運んでいた。階下からは、男
たちの騒ぎ浮かれる声と、どたどた足踏みをするような大きな音が
鳴り響いている。目の前には、枕元の椅子を引っ張ってきて、ちょ
こんとそれに腰掛けているヒルダの姿があった。開けっ放しの窓か
ら、冷たく感じるほどの夜風が吹いてくる。カラになったさかずき
に手酌で酒を汲もうと指先を伸ばすと、冷たい表情をしたヒルダが
酒瓶を取り上げて、手ずからそそいでくれた。身の厚いグラスが琥
566
珀色の酒精でなみなみと満たされる。蔵人は、じっと自分を見続け
て微動だにしないヒルダを見て、軽く身震いをするふりをしてみせ
た。
﹁おいおい、なんだよ。その顔は。なにが気に入らないってんだよ。
今夜はさすがに同衾しろとまでいわねえから安心しろよ﹂
﹁感心しませんね﹂
﹁え﹂
﹁あのレイシーとかいう酌婦のことです。あの女は、クランドさん
のためにならないと思いますよ﹂
﹁なんで、そんなに攻撃的なんだよ。おまえ、あいつに靴でも隠さ
れたんか﹂
﹁女の勘ですよ﹂
ヒルダはそういうと、ふっと鼻を鳴らして薄く笑って見せた。
蔵人は無言でさかずきを置くと、指を伸ばしてヒルダの小鼻をね
じり上げた。
﹁ひぎいいいっ!? なにするんでしゅかあっ﹂
﹁うっせーボケ。俺は酒は楽しく飲みたい派なんだ。辛気くせー話
すんじゃねえ﹂
﹁し、しどい。ミステリアスな女でせめてみたのにぃ。ううう。私
の鼻がまたちぎれたぁ。それに、さっき騒ぐ気分じゃないっていっ
てたのにぃ﹂
﹁うるせー、もぐぞこの野郎。気分なんか酒飲んだ時点で騒ぎたく
なるに決まってるじゃねーか。おい、つまんねーな。なんか、芸や
れ、芸!﹂
﹁えええ、この話でそこに持っていきますかね、普通﹂
﹁もぐ﹂
﹁いやあああっ、もがないでくださいっ。あー、もおお。わかりま
した。わかりましたから。それじゃですね、シスターらしくありが
たい説法をば﹂
﹁やっぱもごう。もいだら、なにか新しい世界が見えてくるかもし
567
れないし﹂
﹁絶対酔ってますよね、シラフでそういう行動取らないですよね、
普通﹂
﹁この俺を普通の枠に閉じこめておけると思うなよっ。まったく、
あのマイケルですら身体を張って鼻をもいでみせるという芸を見せ
たのに。おまえは、芸人の風上にも置けない女だな﹂
﹁私芸人じゃありませんっ﹂
﹁まったく、文句ばっかりいいくさって。あー、そうだ、アレしか
ねえな。お座敷芸といったら、アレだ!﹂
﹁な、なんですか。ちょっ、モギモギ系はナシにしてくださいね。
いくら酔ってるからってやっていいことと悪いことがあるんですか
らねっ﹂
ヒルダが怯えたように鼻を交差した両手で防御すると、後ずさる。
追うようにして、蔵人が寝台から飛び降りた。
﹁⋮⋮由緒正しき闇のゲーム。野球拳でござるよ﹂
﹁なんでしょうか。私、激しく身の危険を感じます﹂
﹁気のせいでござる。では、ルールを説明するでござる﹂
蔵人は身を縮めているヒルダに向かって野球拳のルールを噛み砕
いて説明した。もっとも、その前にじゃんけんの意味を教えこむこ
との方がはるかに時間をついやしたのだったが。酔いがいい感じに
回っているせいか、話が幾度も前後した。
﹁いやです﹂
﹁は﹂
﹁普通にいやですよ。どうして脱がなければいけないのですか。そ
おいうのは、恋人同士か夫婦の間柄で行うものであって、そもそも
遊びでしてはいけないと思います﹂
﹁本心は﹂
ヒルダの瞳をじっと見つめる。彼女は、もじもじと人差し指を目
の前でこつこつ突き合わせながら、恥じらってこたえた。
﹁ここは、人目が多いので途中で気が乗ってきたら自分を御しきる
568
自信がないからです。その場合は、私の火照った身体はどうすれば
いいんですかっ。責任とってくれるんですよね、ていうかとれよお
おっ﹂
﹁俺は権利とか要求とか委託とかは好きだが、責任とか義務とか束
縛って言葉が嫌いなんだ﹂
﹁でしょうねえ、そうだと思いましたよ!﹂
﹁肩の力抜けよ﹂
﹁きいい!﹂
所詮、酒の席の話など意味のないことばかりである。蔵人は、ヒ
ルダ相手にぐだぐだたっぷり管を巻いたあと、ばったり倒れた。視
界の向こう側で、赤い光がチカチカ揺れている。酔いなどいずれ醒
める。決して醒めないのはこの異世界が真実であるということだっ
た。
翌日、雨粒が軒を打つ音で目が覚めた。蔵人は、床の隅で剣を抱
き寝していた。レイシーかヒルダがかけてくれたであろう毛布を剥
ぎ取ると、軽く伸びをして螺旋階段を降りた。
﹁おはよー﹂
﹁おはよう﹂
﹁おはようございます、クランドさま﹂
すでに起床していたレイシー、バーンハード、ヒルダの三者がそ
れぞれあいさつの声を投げかけた。ヒルダは相変わらず猫をかぶっ
ている。それも一ダースほどだ。
蔵人は、軽く頭上で手を振っておはようというと、伸びきった長
髪をがしがしかき回し、バーンハードの入れてくれた濃い目のコー
ヒーをすすった。
569
レイシーとヒルダは、昨日の微妙な邂逅とは打って変わって、女
同士打ち解けたのかぺちゃくちゃ仲睦まじく顔を寄せあっておしゃ
べりをかわしていた。
﹁買い物? いいけど、わざわざ三人で行くんかよ﹂
バーンハードの作ってくれた、トーストとゆで卵の軽食を食べ終
ギルド
わると話の流れからか、娘ふたりの買い物に付き合わされることに
なった。冒険者組合の加入料も、昨日逃したアレクサンダーの動き
もなんとなく気になった。
本日の買い物先は雑貨店だった。銀馬車亭は、毎日使う食材のほ
とんどは仕入先が決まっており、たまに足りないちょっとしたもの
を買い足すくらいしか基本はしないらしい。小降りではあるが、雨
は降り続いている。この世界の人間は、基本よほどの大雨以外は気
にせずに行動するのが普通だった。
ヒルダやレイシーも、ほとんど天候を気にせずあたりまえのよう
に外出している。雨が降れば、どれほど小雨でも必ず傘をさす習慣
のある日本から来た蔵人にとっては、最初は激しいカルチャーショ
ックであったが、もう慣れた。ご多分にもれず、女の買い物は無意
味に時間を空費するものだった。
ヒルダとレイシーは、小さな店内の、精巧な造りの日本製品を見
慣れた蔵人にとって、手にとって見る気にもなれないほど稚拙な造
りの道具を、あれやこれやと品評しあっている。第三者の視点で観
察すると、あきらかに主導権はレイシーが握っていた。彼女たちは、
年頃からいえば日本ではちょうど女子高生くらいであろう。容姿こ
そ白人そのものだが、ああやってきゃっきゃっとはしゃぎまわる様
子は蔵人にとって愛くるしいように感じられた。
蔵人が軒先で所在なげに突っ立っていると、先に会計を済ませた
レイシーが軽やかな足どりで寄ってきた。
﹁へへ、いろいろ買っちゃったよ。ごめんね、今日は無理につきあ
わせちゃって﹂
﹁いいさ。上げ膳据え膳せわしてもらってるしな﹂
570
﹁ヒルダも、はじめてあったときは、うううーって感じだったけど
話してみると、すっごくいい子だったよ。なんか、ちょっとズレて
るけどね﹂
﹁あいつのズレってぷりをちょっと、といえるおまえもかなり変わ
り者だけどな﹂
﹁えへへ、自覚してるよ﹂
レイシーは、紙袋抱えたまま空を見上げていた。昨日まで、毎日
晴れていた天が、濃いグレーの雨雲で覆われている。それでも湿度
が基本的に低いせいか、身体にまとわりつくような不快感はあまり
感じられなかった。
﹁ねえ、昨日どこでなにしてたの。血、たくさん服についてた﹂
﹁ああ。ちょっと、もめたんだ。もう、大丈夫だ﹂
レイシーは蔵人の腰に下げた白鞘の長剣をちらちら見ながら哀し
げな瞳をした。
﹁ねえ、クランドはやっぱりこの街に冒険者になりに来たの﹂
﹁そうだ﹂
﹁冒険者ってすっごく危険だって聞いてるよ。あたし、できればさ、
クランドにそんなことしてもらいたくないな。余計なことだろうけ
ど﹂
﹁ヒルダにもいわれたよ﹂
﹁できればあたしは、いっしょにお店を手伝ってくれるとうれしい
かなって﹂
﹁レイシー。どうやら、楽しいおしゃべりはここまでみたいだな﹂
蔵人が身構えたのに気づいたレイシーは、店の前へと男が五人ほ
ど集まって来たのを見て身を固くした。いずれも昨日、銀馬車亭の
店先でマーヤに悪さを仕掛けた無頼たちである。貸元チェチーリオ
の手下なら、真っ当な人間でないことは見当がついた。昨日とは違
って男たちはいずれも無言で近づいてくる。手に手に短剣を持って
構えていた。飢えた狂犬のように追い詰められた目をしている。ど
の男も顔の一部分に作ったばかりの真新しい青あざが出来ていた。
571
﹁レイシーだな。おまえのオヤジのせいでオレたちはコルネリオの
兄貴にヒデー目に合わされたんだ。今日は、なにがあろうといっし
ょに来てもらうぜ﹂
じりじりと近づいてくる男たちに怯えてレイシーは、蔵人の背に
隠れた。
﹁なんでえ、てめえはっ。オレたちは泣く子も黙るチェチーリオ一
家のモノだっ。こいつが目に入らねえのかよっ!﹂
﹁やれやれ、世の中バカが多すぎてたまらねえなぁ﹂
蔵人がため息をつくと、外套の裾を握っていたレイシーの指に力
が入る。
﹁レイシー、ちょっとはなれててくれ。ゴミを払い落としてくらぁ﹂
﹁野郎!﹂
は片刃の直刀である。剣の峰を返す。半円が風を巻いて走っ
男が短剣を振り上げる前に蔵人は長剣を引き抜いていた。聖剣
白鷺
たと思うと、したたかに顔と胴を打ち据えられた男が弾かれたよう
に道へと転がった。峰打ちとはいえ、鋼の棒でしたたかに打ち据え
られれば即死する可能性もあった。
ここに、男たちと蔵人の認識の違いがあった。
ヤクザ者とはいえ、シルバーヴィラゴという一定の治安が保たれ
た場所から一歩も出たことのない人間と、呼吸をするように人を斬
り続けてきた蔵人の人間の命に対する価値観の違いだ。
﹁いぎいいいっ、いでえっ、いでえよおおおっ!!﹂
男は顔面を真正面から痛打され、鼻血をたっぷり撒き散らしなが
ら道端に転がって悶絶した。雨で濡れた石畳に真っ赤な血がどんど
ん広がっていく。量的にはそれほどたいしたものではなかったが視
覚的効果は充分だった。
﹁このおっ﹂
男たちの中でも兄貴分だったのだろうか、度胸を見せるために短
刀を構えたまま真正面から男が突っ込んできた。
だが、悲しいかな。目線は定まらず、腰が完全に引けていた。 572
人を一度も傷つけたことのない腕前だと見て取れた。
蔵人は長剣を水平に走らせると、男の胴を迎え撃つ形で打ち据え
た。胸骨を砕く手応えを感じた時、男は悲鳴を上げながら身をふた
つに折ると激しく嘔吐をはじめた。
おそらくここまで本格的にやりあう心づもりなどなかったのだろ
う。銀馬車亭の外であり不意をつく。唯一、厄介なバーンハードと
いう男の存在もない。レイシーという小娘ひとりかどわかすのは鼻
歌まじりだろうと、軽い気持ちで出かけた結果、彼らを待ち受けて
いたのは血で血を洗う旅を続けた屈強な男だった。蜘蛛の子を散ら
すように、男たちはその場を一斉に逃げ出した。蔵人は、打ち据え
られた痛みでしゃがみこんでいる男の首根っこをつかまえるとぐい
と引っ張った。
﹁おい、待て。いったい、どういうつもりでレイシーを襲ったんだ。
そのチェチーリオとかいうヤクザに頼まれたのか﹂
﹁ひいいっ、違うんだよぉ。銀馬車亭のバーンハードがウチから金
を借りてたのは本当なんだよおおっ。昨日は、催促ついでに脅しを
かけただけで。今日は、別口でぇ﹂
﹁レイシー、本当か﹂
﹁うん。銀馬車亭は火の車だったのは本当だから、父さんがチェチ
ーリオさんからお金を借りてたのもたぶん本当だったと思う。昨日
だって、なんとなく気づいてはいたけど。いくらなんでもいきなり
さらうとか、そんな話になるなんて聞いたことないよ﹂
﹁行きがけの駄賃で頼まれただけなんだぁ。勘弁してくれよう。今
日、レイシーをさらおうとしたのは、コルネリオ兄貴の客分でペラ
ダンっていうおかしな男に無理やり頼まれたんだぁ!!﹂
男はそこまで叫ぶとかっと両目を見開いて、ごぼごぼと血泡を吐
き出した。胸元に視線を移すと、目には見えないなにかが男の胸板
を刺し貫いていた。ヒヤリとした感覚が背筋をチクチクと間断なく
刺激する。蔵人は、男から手をはなすと、剣をしっかり握りしめて
振り返った。道の向こう側から人影が見えた。
573
不意に、天の黒雲の流れが早まって雨足が強まりだした。
その男は奇妙な格好をしていた。真っ白な仮面をすっぽりかぶっ
ており、肩からは灰色の外套をなびかせていた。背は蔵人と同じ程
度に高く、全身が引き締まったような肉づきをしていた。手にはイ
チイの木を削って先端に水晶を埋めこんだ杖を持っている。年齢は
見当もつかないが、身動きは一部の隙もないしたたかさが見てとれ
た。
﹁お初にお目にかかります。シモン・クランド。私は、魔術師のペ
ラダン。以後お見知りおきを。しかし、さすがあの血塗れギリーを
倒しただけのことはある。昨日の、森での手並みといい中々の腕前
ですね。剣士としては、合格点をつけられますよ﹂
﹁なぜ、俺のことを知っている﹂
﹁目的の達成に必要な事柄は、微細に至るまで調べ上げ情報を検討
する。冒険者の基本ですよ。そして、レイシー・アップルヤード。
あなたとは、初対面ですが、そうは思えませんね。まったくもって、
感慨深いです。だが、感慨に浸っている暇もあまりないのです。貴
女は私と来ていただきましょうか﹂
ペラダンが音もなく一歩踏み出すと、遮るように蔵人が立ちはだ
かった。
﹁はい、そうですかとレイシーをおまえみたいに怪しいやつに渡せ
るわけないだろうが。まったく、まわりくでぇことしやがって。来
るなら最初から自分でこいよ﹂
﹁フム。だが、私は最初にレイシーへと使いを出しましたが。ああ、
その時もクランド。君が邪魔をしてくれましたね。レイシー。オー
ルディとヤングディという兄弟に会ったことを覚えておりませんか
ね﹂
﹁会ったけど、あの人たちどんな用件かもいわなかったし﹂
﹁困りましたね。貴女が私の元に来るのは、バーンハードも納得ず
くの話ですよ﹂
﹁父さんが、うそよ!﹂
574
﹁おい、ペラダンといったな。仮にレイシーを渡して、どうするつ
もりなんだよ﹂
﹁どうするって、決まってるじゃありませんか!﹂
ペラダンは一際声を高く張り上げると、大きく哄笑した。身を仰
け反ったまま、耳を塞ぎたくなるような歓喜に満ちあふれた声を辺
りに響き渡らせる。天が抜け落ちたような豪雨が、白い仮面を強く
叩く。反動で、わずかにズレた隙間から金色の髪が覗く。
﹁どうやら、お茶してはいサヨナラって用件じゃなさそうだな﹂
﹁クランド。どうやら目的達成のためには貴方をどうしても倒す必
要性がありますね。一度だけ機会を与えましょう。私は別段貴方に
恨みがあるわけではない。ここで目をつぶって引くというのならば、
今後はこちらから特に手を出したりもしませんよ。取り引き、とい
うわけではありませんが﹂
ペラダンは、懐から小箱を取り出すと中身を開けてみせた。
薄暗い中でも見事に光るバイオレッティッシュブルー。
小粒だが、その輝きは美しかった。
ポンドル
ギルド
﹁この宝石を進呈します。極めつけの値打ちものですよ。叩き売っ
ても、二十万Pは下らない。怪しむならば、この足で冒険者組合直
営店まで付き添ってもいい。それだけの資金があれば、君の夢だっ
ギルド
た冒険者になることは当然のこと、腕のいい仲間を集めてクランを
結成できます。知ってますよ、冒険者組合の事務所でひと暴れした
のでしょう。この業界は噂が広まるのが早い。ダンジョンに挑みた
いのでしょう。あの場所には、すべての夢が埋もれています。成功
すれば一攫千金も夢ではない。現に、そうして一介の浮浪者がひと
財産築いたなどいくらでもある話です。たかが、女ひとりじゃない
ですか。男なら挑戦するべきですよ。金を掴むんです。そうすれば、
もう銀馬車亭のような安酒場のシラミの沸いたベッドに寝起きする
こともない。小さな家を一軒建てて、若い女奴隷をいくらでもはべ
らすことができる。京楽に耽って、人生の悪徳を極め尽くすことが
できるのです﹂
575
正直なところ。ペラダンの言葉に心が動かなかったといえば嘘に
なる。
今の蔵人は無一文に近く、冒険者の資格すら買い取ることができ
ないのだ。
今日までの旅の道のりを思い出す。何日も地図すらない道を足を
棒にして歩き続けた。米粒ひとつ、パンくずひとかけら口に入らな
い日が、十日やそこら続くのは日常になってしまった。飢えた日は、
道端の雨水を飲んで乾きを癒し。腹をすかして、腐った食物を口に
し、額に脂汗をかいて唸った。毛布一枚ない路傍で野良犬のように
身を丸めて過ごし。時には野盗の上前をかすめて幾度も斬り合いに
なった。
訳のわからぬ世界に無理やり呼び出されて獄にぶちこまれ。
マゴットを見殺しにし、マリカを置き捨て、ドロテアを見捨て、
シズカを置いてきぼりにし、ミリアムをこの手にかけて、グレイス
と別れた。
すべて自分で決めた選択だといわれればそれまでだ。
だが、正しいからこそ腹も立つし、胸の中に詰まった黒々とした
靄が消えない。
ここはしがらみがねえ、好き放題に生きるんだとうそぶいても、
それはすべてやけっぱちの強がりに近かった。知り人ひとりいない
異世界では、野垂れ死にしたとしても、手を合わせて祈る人間すら
いない。
レイシーのこわばった顔を見つめた。
濡れそぼった砂色の髪が顔に張り付いている。
蔵人の向けた視線とかち合った。
心細げな視線とすがるような瞳の色が、置いてきぼりになった仔
犬を思わせた。
﹁もっとも、そんな安いペテンに乗るクランドさまじゃねえ。いい
か、ペラダン。俺は残らず憂いを吹き飛ばす名案を思いついた。知
りてえか?﹂
576
﹁是非とも﹂
﹁とりあえず、テメーをたたっ斬って宝石の真偽を確かめる。偽物
なら、おまえの骸を粉々にして川に流す。本物なら、叩き売ってレ
イシーと一晩飲み明かす。どうだ﹂
もはや叩くように振りつけてくる雨粒に打たれながら、レイシー
の瞳が大きく見開かれるのが見えた。
祈りすら得られない孤独な世界で、手を差し伸べてくれたレイシ
ー。
甘さの捨てきれない蔵人に、彼女を切り捨てる選択肢などえらぶ
ことはできなかった。
﹁確かに名案ですね、私もそうしますよ。惜しむべきは交渉が決裂
したというところですか。実に惜しいですね。輝かしい若者の未来
をこの手で摘み取るというのも﹂
ペラダンは自信たっぷりにいうと杖を構えた。
降りしきる雨音が、ふたりを包みこんでいく。
蔵人が長剣を上段に構えるのと、ペラダンが杖を振り下ろすのは
アイスショット
同時だった。
﹁氷の矢﹂
掲げた水晶が真っ青に輝くと、氷柱が幾重にも打ち出された。
蔵人は咄嗟に石畳へと身体を投げ出す。窪みにできた水溜りを転
がりながら、左腕に灼けるような痛みを感じた。
つららのような氷の矢が左腕を深々と刺し貫いていた。裂けた外
套が流れ落ちる鮮血で染まっていく。なんとか顔を起こすと、眼前
を青白い光が再度きらめいた。剣を振るう間もなく、みじめな格好
で転がりながら距離を取った。続けざまに放出される氷の牙が避け
た地点を抉っていく。砕けた石片が豪雨の中宙に舞った。
﹁あれだけ大きな口を叩いて、出来ることは逃げ回るだけですか。
それではまったくもって芸がなさすぎる﹂
﹁ジャック・スパロウの次は、ハリーポッターかよ。まったく、飽
きさせないでくれるぜ!﹂
577
蔵人にとって魔術師である敵とは、はじめての対決であった。確
かにペラダンのいうとおり逃げ回るだけでは遠距離攻撃である魔術
の矢にいずれ仕留められるだろう。痛みや恐怖に怯えている時間は
ない。勝負をかける時だった。蔵人は左腕を顔の前にかざしながら
イモータリティ・レッド
一気に距離を詰めた。身を低くして、一気に飛び上がる。氷柱は一
度に三、四本しか射出できないらしい。不死の紋章の身体を持つ自
分ならば耐えることが出来るはずだ。
﹁ではこういう趣向はどうでしょうか﹂
ペラダンが杖の向きを店側に向けた。蔵人はこころのどこかで、
ペラダンがレイシーを標的にすることはないと安心していたところ
があった。
事実、それは間違いではなかった。
ペラダンが杖を向けた先には、会計を終えて店から顔を出したヒ
ルダの姿があった。
まるで状況を理解していないのか、弛緩しきった表情だった。
全身の身体から血の気が一気に引く。
ペラダンの立ち位置からは充分な射程範囲内だ。
無防備な側面を晒す魔術師を長剣で両断する自信はあった。
だが、その場合ヒルダの命は保証できなかった。大人の腕ほどあ
る氷の矢を真正面から受ければ彼女の体はズタズタに引き裂かれる
だろう。文字通り、意味のないとばっちりを受けて死ぬのだ。一命
を取り留めても、一生治らない傷跡が残るだろう。魔術師の杖の先
端が明度を一層強める。ペラダンの詠唱と同時に身をよじってヒル
ダに向かう射線へと身をさらけ出した。
レイシーかヒルダか。
蔵人は自分の名を呼ぶ絶叫を、痛みの中で途切れ途切れに聞いた。
下腹が放たれた氷の牙を残らず受けきったのだ。頭の芯から、つま
先まで焼けつくような激痛が走る。 全身が、カッと熱くなったり
凍えるように寒くなったりした。横向きに倒れこみながら呼吸が止
まった。降りしきる雨が妙にぬるく感じられた。一瞬、気が遠くな
578
って意識が切断されそうになる。口元からこみ上げてきた血泡を無
理やり呑みほして意識を保った。しびれ切った足のつま先に全力で
力をこめた。
まだ、勝負は終わっちゃいない。
終わっちゃいないんだよ、畜生。
579
Lv37﹁奴隷商人﹂
蔵人は立ち上がった。激痛をこらえながら、左腕に刺さっていた
氷の矢を引き抜く。どろりと血にまみれたそれを放り捨てる。宙に
投げ出された氷の塊は大気に魔力を放散させ硬質な音と共に砕け散
った。
﹁クランド、貴方はいままでほとんど私のような魔術師と戦ったこ
とがないのでは。もっともそれは幸運なことだといえる。だからこ
そ、今日まで生き残れてこれたというのだからっ﹂
蔵人は、纏っていた外套を外して左手に持つと、振り上げて水溜
イモータリティ・レッド
りに叩きつけた。飛び散った水の飛沫が大きく跳ね上がった。
胸元の不死の紋章が淡い光を帯びて輝き出す。ペラダンが再び杖
アイスショット
を振りかざす前に地を蹴って駆け出した。
﹁懲りない人だ。氷の矢!﹂
ペラダンの氷の矢が雨を裂いて射出される。一方、蔵人は手に持
った外套を振り回しながら、ジグザグにステップを切って疾走した。
左手で振り回す外套は、塵埃や雨水をたっぷり吸いこんで厚みを増
した盾になっていた。数本の矢は勢いをつけて振り回される外套に
当たると弾かれて方向を変えた。
﹁おおおおっ!﹂
蔵人が大きく吠えながら跳躍する。長剣がうなりを上げて銀線を
まっすぐ描いた。ペラダンは、のけぞりながらも肩を切り裂かれる
シャドウバインド
と後方に飛び退いたまま杖を振るった。
﹁影の拘束﹂
580
﹁なっ﹂
蔵人が地面に降り立った瞬間、足元に黒いサークルが出現する。
飛び上がろうと力をこめると、膝の位置まで泥沼に嵌ったようにた
ちまち足が沈みこんでいった。続けてサークルからは真っ黒な縄状
の魔力の塊が飛び出すと、それらは幾重にも蔵人の身体のあちこち
へと張り付いて動きを封じた。
﹁いまの一撃は良かった。惜しむらくは、私を倒せる好機はいまの
一度だけだったというのに生かせなかったのは至極残念だ。ふむ、
さきほど与えた傷が治りかけている。君の身体には不可解なリジェ
ネレーションでもかけてあるのか。実に興味深い。が、この剣なら
ばどうかな﹂
ペラダンは、刃の先が波状に歪んだ短剣を抜き放つと、動きを封
じられた蔵人の膝にためらいもなく突き入れた。
﹁んぐっ!﹂
刃の埋まった先に激しい痒みを覚えた。その後を追って、悶絶す
るような痛みがすべての感覚を焼き払った。ペラダンは鼻歌交じり
で刃先を動かしている。特殊な形質の波状の刃は、蔵人の肉の内部
を細かく引き裂きながら、ぶちぶちと筋肉の繊維一本一本を丹念に
破壊していく。膝を折って座り込みたい衝動にかられた。かろうじ
て握りしめていた長剣が指先から離れ、黒いサークルの外へと滑っ
ていった。
﹁クランドっ!!﹂
レイシーの泣き声が雨音を貫いて耳元まで届く。
彼女の声だけが折れそうな闘志をつなぎとめている。蔵人は目の
前のペラダンを睨みつけると、飛びかかろうとするが魔術の縄が全
身を縛り付けて両手をそれ以上伸ばせない。呼吸と心音だけが荒く
なっていく。
﹁無駄ですよ、私の拘束魔術はそう簡単にやぶれません。それより、
どうです、かっ!﹂
﹁あぐっ﹂
581
ペラダンは勢いよく短剣を引き抜くと、蔵人の胸元に向かって二
度刃を振り下ろした。
蔵人の胸元は、十字型に切り刻まれると、衣服から染み出した真
っ赤な血が胸全体を濡らしていった。指先一本一本が痛みでぴんと
マジック・アイテム
伸びきった。脳髄の芯まで響くような痛みが、間断なく襲ってくる。
血の混じったよだれが口元から流れ出た。
エンチャント
﹁この剣は怨嗟の牙といって、中々使い勝手のいい魔術道具です。
この、特殊武器なら、魔術付与された人間の身体でも充分に効果を
与えることができる﹂
﹁もうやめてくださいっ! あたしに用があるなら、あたしだけに
してくださいっ。クランドには関係のないことじゃないですかっ﹂
﹁ほう。それは、本当かねレイシー。私としても、まったく無関係
の人間を傷つけるというのはいささか心苦しい。本来、私が用があ
るのは君と、君の父親バーンハードだけですからね﹂
﹁そうです、クランド。その人と、あたしは一切関係ないです﹂
﹁そうなってくると、私の調査が間違っていたことになる。ならば、
重ねて尋ねるがこの男は無関係であるのにどうして君を無頼者たち
や私から守ろうとしたのだね﹂
﹁それは︱︱﹂
レイシーは徐々に弱まった雨の中で、小さく肩を震わせていた。
たっぷりとした灰色の髪がぐっしょりと濡れて顔半分を覆っている。
昼間だというのに分厚い黒雲が空をさえぎって、世界を薄暗く染め
抜いていた。
﹁さあ、あたしが同情で宿を世話してやっただけなのに勘違いした
だけじゃないですか。昔からそうなんですよね。気の毒だと思って
親身にあれこれ気を使ってあげても、自分に気があるかと勝手に解
釈して、あたしのまわりをうろちょろばっかりして。今日だって、
買い物するから荷物持ち程度にわざわざ連れてきたのに、番犬代わ
りにすらなりゃしないじゃない。ほら、お兄さん。あたしを見て、
どう思います﹂
582
﹁フム。さすがに、銀馬車亭の歌姫といわれるだけのことはある。
美しい﹂
﹁︱︱そうでしょう。あたしは、学もなけりゃ頭だってからっぽか
もしれないけど、母さん譲りの器量の良さじゃ、そこいら辺りの小
娘には負けない自信があるんですっ。どうして、こんな野良犬風情
とどうこうなった仲だなんて邪推したんですか。迷惑ですよ。こん
な駄犬はっ﹂
﹁そうですね。レイシー、貴女の美しさは、並の貴婦人をはるかに
凌駕しています。いや、白状しますとね。私は、バーンハードとは
古い知人でね。かつて彼とかわした約束を履行してもらおうと思い
ましてね﹂
﹁約束って﹂
﹁貴女をもらうことですよ。髪の毛一本から、つま先まで﹂
レイシーは、一瞬困惑したままペラダン見つめた。が、すぐに媚
態をつくると甘えるような声を出してペラダンに向かって歩み寄っ
ていく。
﹁そうですか。だったら、もういいじゃないですか。こんな負け犬
は放って置いて、あったかいところで休みましょうよお。勝負は、
とっくについているじゃないですか﹂
レイシーは、ペラダンの腕を抱き寄せると自分の胸にわざと当た
るように抱き寄せた。
蔵人から遠ざけるようにしてぐいぐいと腕を引っ張った。
魔術師の表情。白い仮面でうかがえないが、きらりと奥の瞳が冷
たく光った。
﹁そうですか。いや、貴女がバーンハードと違って話のわかる娘で
手間が省けた﹂
感謝します、とペラダンはいうと蔵人を縛っていた拘束魔術を解
いた。貼りついていた黒い魔力の縄が、大気に溶けるように霧散し
ていく。
﹁雨に濡れるのも飽きた。さ、行きましょうか。我が花嫁レイシー﹂
583
ペラダンは振り上げた短剣を真っ直ぐに走らせた。蔵人は、肩口
トロフィー
から脇腹まで斜めに切り下げられるとうつ伏せの形で石畳に倒れこ
んだ。
﹁私は敵を倒すたびに必ず、戦利品としてなにかその相手を象徴し
ているモノをコレクションしているのです。そう、君の場合はさし
ずめこれですね﹂
ペラダンは、蔵人から外套を剥ぎ取ると器用にくるめて肩に担い
だ。
﹁クランド。君の首をはねなかったのは、私の肩を切りつけてくれ
た礼です。驚きでしたよ。この十年、この私に手傷を負わせた者な
どいなかったのに。死にゆくまでの時間をたっぷりと味わってくだ
さい。もっとも、貴方が目指していた冒険者のほとんどは、このよ
うに誰にも看取られることなく、暗闇の中で息を引き取っていくの
ですから。街中であれば、誰かが死骸を片づけて埋めるくらいのこ
とはしてくれるでしょう﹂
降りかかる雨粒が後頭部を叩いている。
ペラダンに引かれるようにして、街路の向こう側に消えていくレ
イシーの振り返った横顔を確かに網膜に焼き付けた。
使い慣れない蓮っ葉な口調でわざと蔵人を罵るレイシーの声は悲
しみに満ち溢れていた。
あれが魔術。
これが魔術師。
まったくもって完敗だった。
蔵人は、いままでの敵が雑魚のように思えてきてならなかった。
魔術を使って的確に遠距離攻撃を行い、疲れたところを魔術で拘
束して、ゆっくりと止めを刺す。
あらかじめ魔術の種類が分かっていればなんていわない。
﹁けど、あんなオモシロ仮面に負けるようじゃ、ハーレムの道は遠
すぎるぜ﹂
血が流れすぎたのか、ほとんど身体の感覚が麻痺している。魔術
584
でえぐられた傷は塞がりかけているが、怨嗟の牙で受けた傷はその
ままだった。倒れこんだまま指先を伸ばして長剣を引き寄せる。刃
を引き寄せて鞘にしまうだけが重労働だった。
﹁さあ、コンテニューといこうか﹂
白鞘を杖にしてなんとか立ち上がろうとする。四度ほど倒れて、
ようやくバランスをつかむことに成功した。
一歩一歩の足取りが、果てしなく重い。背中に鉛をどっしりと積
まされているようだ。
肩で息をして、すり足で進む。
大通りに出て辻馬車を拾おう。大聖堂にいけばマルコがいる。傷
薬くらいは分けてくれるだろうし、頭を下げればレイシーの足取り
を追うことくらいに協力してくれるだろう。
不意に、ヒルダのことを思い出した。
辺りには気配すらない。
罪のない彼女を怖がらせて迷惑をかけてしまった。うまく逃げ延
びていてほしい。
蔵人のこころは申し訳なさで一杯だった。
頭の奥がチリチリと焼け火箸を突っこんだように痛んでいる。
視界の向こうにある街並みは、白いもやがかかったように霞んで
いた。
馬のいななきと、街路の石畳を滑る車輪の音が聞こえてくる。
蔵人は最後の力を振り絞って道の前に走り出すと、身体に大きな
衝撃を受けて、意識を完全に切断した。
荒々しい風が轟々と耳元で唸っている。唸りはやがて全身を突き
刺す、冷たさに変わっていった。蔵人は身を縮めて寒気から少しで
585
身を守ろうとするが、吹きつけてくる雪がどんどん体温を奪ってい
く。目を見開こうと全身に力を入れるが、まぶたが凍りついて少し
も動かすことができない。鼓動が駆け回ったあとのように早くなっ
ていく。喉の奥に泥を押しこめられたように息が詰まる。苦痛のあ
まり手を差し伸べると、柔らかいものに確かに触れた気がした。
瞬間的に意識が覚醒した。
甘ったるい香の匂いが鼻先に漂っている。
蔵人が目を見開くと、目の前にはひとりの女が座っていた。
歳の頃は、十五、六くらいだろうか、黒真珠のような大きな瞳が
見下ろしている。
栗色の髪を肩まで切りそろえている。
ほとんど表情が動かない。冷たさを感じるほど整った美貌だ。
特筆するのは、頭から生えている犬のような耳である。
なんの冗談だろうか、と思ったが蔵人は人のファッションにはケ
チをつけないことにしているので、敢えて彼女の犬耳に関しては見
なかったことにした。かけられていた毛布は上等なものだろう。身
体が沈みこんでいた寝台も、値打ちものだろうと推察された。部屋
に視線を凝らすと、豪奢な調度品が置かれている。チリ一つない掃
除の仕方から、かなりのお大尽の持ち物であるとわかった。胸元に
マジック・アイテム
手をやると、包帯が巻かれ手当がされている。
不思議なことに、魔術道具で与えられていた傷がほとんど塞がり
かけていた。
﹁君が手当してくれたのか﹂
ありがとう、と続けようとしたところ、蔵人の頭の上からだぼだ
ぼと生ぬるい液体がそそがれた。無言で、犬耳少女の顔を見つめる。
彼女は、カップをゆっくり寝台脇のテーブルに置くと厳かにいった。
﹁手がすべりました﹂
﹁すべった? というか、いま逆さまにしてぶっかけたよねえ﹂
犬耳少女は無言のまま、ぷいと横を向くとそのまま静止した。
表情がまるで変わらないので、感情を読むことができない。
586
黒を基調としたお仕着せに、純白のエプロンをしている。頭につ
けたヘッドドレスのそばから生えている犬耳がぴんと真上に突っ立
って居る。わたし怒っていますよ、ってところだろうかと蔵人は思
った。
んん、本物なのか?
蔵人がじっと見つめていると、視線を感じたのか犬耳少女は椅子
から立つとドアに向かって歩いていく。臀部の部分に生えたふさふ
さの尻尾がゆらゆらと左右に揺らいでいた。
茶色く立派な尻尾に気をとられていると、ドアノブに手をかけた
ヒーリング
少女が動きを止めていった。
﹁貴方にずっと付き添って回復魔術をかけ続けていたのは、小柄な
シスターでしたよ。それと、どんな理由があっても女性にあんな顔
をさせる殿方は最低です。私は、貴方を軽蔑します﹂
﹁ちょっと︱︱﹂
蔵人は飛来したお盆を顎に食らって寝台から滑り落ちた。犬耳少
女が、振り向きざまにドアの隙間から投げつけたのだった。
なぜ初対面の少女にいきなり軽蔑されねばならんのだ。理解し兼
ねる。
﹁いやあ、目を覚まされましたかな。ウチの者がとんだご無礼を﹂
蔵人が床から立ち上がると、いかにも商人然とした恰幅の良い五
十代ほどの男が部屋に入ってきた。男の隣には、ぎょろぎょろと目
ばかりを光らせる小男がつき従っている。いかにも腰巾着という風
体だった。
男はシャイロックという奴隷商人だと名乗った。大通りに飛び出
した蔵人をはねた馬車に乗っていたそうだ。蔵人は自分の名前を告
げると、シャイロックに感謝の礼を述べた。
蔵人のやったことはほとんど当たり屋同然の所業である。にも関
わらず、自らの屋敷に運び治療まで行うとはこの世知辛い世界にお
いて中々できることではない。蔵人は、シャイロックに両手を合わ
せて拝むと、彼は鷹揚に笑って見せた。
587
﹁それで、ヒルダ、いや俺に付き添ってくれてたシスターは⋮⋮﹂
﹁ええ、彼女ならしばらく席を外すといっていましたが、アントン﹂
﹁そのシスターならば、さきほどお帰りになられました﹂
白鷺
を手渡
アントンと呼ばれた小男が主に向かって告げた。彼は胡散臭そう
に蔵人をじろりとにらみつけると、無言のまま長剣
した。暗にさっさと帰れといわれているくらい、いくら鈍感な蔵人
でも気づいた。ヒルダはおそらく、これ以上ゴタゴタに巻きこまれ
ることを恐れて逃げたのだろう。無理もなかった。蔵人の中に彼女
を責める気持ちは一片もなかった。蔵人が長剣を腰に落とし込むと、
いつもは気にならない重みがずしりと腰に響く。血が流れすぎたの
だ。青白い顔をしながら額に手を当てると、シャイロックが傍まで
近づいていった。
﹁まったくウチの番頭は情が薄すぎて困る。どんな理由があったか
は、無理やりお聞きしません。だが、こんな狭い世の中で二度も顔
を合わせるなど中々ありえないことだ﹂
﹁二度目? 悪いがシャイロックさん。俺はアンタに会ったことな
んぞ記憶にはないが﹂
﹁貴様、会頭に向かってなんという口の利き方を!﹂
﹁アントン、いちいち話の腰を折るでない。いやはや、失礼。あな
たとは、確かセントラルリベットの大通りでお会いしましたよ。よ
くよく縁があるような気がしてなりません。先ほどの娘。もっとも、
まだ買い手のつかない奴隷ですが、見覚えありませんかな﹂
﹁いや、あんな美人に一度会えば忘れるはずもないと思うけど﹂
﹁⋮⋮はは、そうですか。ならば、そういうことにしておきましょ
うか。もっとも、あの娘の方は忘れたくても忘れられないでしょう
が﹂
蔵人が頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、シャイロッ
クは話を切り替えた。
﹁クランドさん、私は王都では少しは名の知られた奴隷商人でね。
特に手をかけた娘は売買品とはいえ、これという人物にしか売り渡
588
ウェアウルフ
したくないのですよ。さきほど部屋から出ていった、ポルディナと
いう戦狼族の娘だけは、これという主人が見つからなくて、少々困
っているのですよ。ふむ、失礼ですが少し顔を見させて頂いてもよ
ろしいかな﹂
﹁ああ、別に構わないが﹂
﹁では、失礼して﹂
命の恩人でもあるシャイロックの要求である。中年男と鼻先を突
きあわせて見つめ合うなど不気味なことこの上ないが、断れる状況
でもなかった。シャイロックはまじまじと蔵人の顔を至近距離でじ
っくり眺め終えるとほうっとため息をついて恍惚の表情になった。
そばに控えていた小男のアントンがにわかに顔面神経痛にかかっ
たように引きつった。
﹁会頭﹂
﹁いや、失礼。クランドさん、私は若い頃から人相見が趣味でして、
これまでに数え切れないほど人さまの顔相を見続けましたが。ふー
む、実に珍しい﹂
珍しいを連呼し微動だにしないシャイロックを前にし、蔵人の表
情は徐々にこわばったものになっていった。幸いにも、ペラダンの
怨嗟の牙で受けた傷もほぼ塞がっている。ヒルダが治療魔術を使え
たのは軽く驚いたが、レイシーの身柄を奪われたいま、グズグズし
ている暇は無さそうだった。
蔵人は、アントンに時間を尋ねると、ちょうど日付が変わる直前
だと知った。意識を失ったのが昼前後くらいなら、おおよそ十二時
間ほど経過している。バーンハードも買い物に出たまま帰らない娘
のことを心配しているだろう。とにもかくにも一度戻らねば。それ
にあの魔術師との因縁は娘のレイシーよりも、父であるバーンハー
ドのほうにありそうな雰囲気だった。
シャイロックはまだまだ蔵人と語りたがっていた様子であったが、
緊急であることのみを告げると、そこは年季の入った大商人である。
手早く銀馬車亭までの専用馬車を用意してくれた。蔵人は、後日礼
589
も兼ねて屋敷を来訪することを約束すると、慌ただしく屋敷を出て
いった。
﹁会頭、なんどもいうようでひつこいでしょうが聞いておくんなさ
い。確かに、あのボロ雑巾みたいな若造とは縁があるような気がし
ますが、どうしてここまで馬鹿丁寧に扱うんですかい? 以前に乞
食同然の冒険者風情を拾ったときは、適当に金を渡してそれまでだ
ったじゃないですか。大奴隷市を控えたこのクソ忙しい時期に、わ
ざわざご自分の時間まで割いて。おまけに、商品とはいえ、値打ち
モノのポルディナにまで看病させて。万が一にもあの若造が妙な気
ウェアウルフ
起こしたらどうするんですかい﹂
﹁戦狼族の力は常人の十倍ですよ。もっとも彼が本気になれば抵抗
できる娘はいないでしょうがね﹂
﹁いってる意味がイマイチわかりかねます﹂
﹁アントン。やはり、おまえは遊びが足りない。いや、余裕ですか
な。それよりも、クランドさんの顔相はすごい。正直、彼の顔を見
た途端、今回の市自体どうでもよくなりましたね。まったく﹂
アントンは、主であるシャイロックの身体が小刻みに震えている
ことにようやく気づいた。大商人であるシャイロックが商売をそっ
ちのけで気にする青年の顔相とはいったいどのようなものであろう
か。知らず、せり上がった唾を飲みこんだ。
﹁あたしは人相見はやらないんで、会頭の驚きがいまひとつわから
んのですけども。それほどですかね﹂
﹁私はこの三十年で数え切れないほど多数の人々の顔相を見ました。
いままで、もっとも優れていたのは隣国のエウロパの若殿くらいだ
ったが、クランドさんはさらにすごい!﹂
アントンはシャイロックがエウロパの若殿こと現エウロパ皇帝を
引き合いに出したところで話を真面目に聞く気を無くした。皇帝が
若殿と呼ばれていたのは二十年も昔の話で、現在は乱れきった王国
に秩序をもたらした現代の生きる伝説である。そんな英雄と、浮浪
者同然の若者を比べること自体が間違っているのである。
590
シャイロックは商売人としては文句のつけ所のない男だが、往々
にして組織のトップは妙なものにハマるのである。それが占いだっ
たり、女だったり、迷信みたいな世迷言だったり、霊的な信仰であ
ったり。人相見がさしずめシャイロックにとってはそれに当たるの
であろう。
﹁彼の相は龍顔。いわゆる王者の相です。ひとたびときを得れば、
どこまでも駆け登っていく。この世のすべてを手に入れる可能性の
ある相です﹂
﹁会頭、少しお疲れなのでは﹂
﹁別に、私は狂ってなどおりません。とはいえ、可能性は可能性。
機会があればいろいろ話あって、出来るだけの手助けをしてあげた
いと思っています。店に影響の出ない範囲で﹂
﹁まったく、驚かせないでくださいよ。あたしゃ、会頭がそっちの
方面にいってしまわれたかと思ってしまいましたよ﹂
﹁道楽で店を潰すほどまだ耄碌はしておりません。だが、龍顔には
絶えず危機がまとわりつきます。現にいまも、彼の身には苦難が降
りかかっているらしい。願わくば、この屋敷に彼が五体満足のまま
訪ねてくることを願っておりますよ。心の底からね。ねえ、ポルデ
ィナ。あなたもそう思いませんか?﹂
アントンが振り返ると、ドアの隙間から小さな足音が遠のいてい
くのが聞こえた。
﹁驚きましたね。あの生き人形みたいなポルディナが男に興味を持
つなんて﹂
﹁ふふ、アントンそのいい方は父親みたいですよ﹂
アントンは主の言葉を受けると、わざとしかめっ面を作って怒っ
たようにそっぽを向いた。
591
蔵人が辻馬車から飛び降りると、闇の中に静まり返っている銀馬
車亭の姿が、月夜に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。い
つもなら、店の中からもれ出る光と酔客の上げる声が騒々しいくら
いであるが、今日に限っては死んだように静まりかえっていた。
スイングドアを開けて店内に足を踏み入れる。蔵人の履いた長靴
の音だけがこつこつと静寂を割って響いていた。カウンターには、
小さなランプがひとつだけ灯してあり、そこには酒瓶を片手にだら
しなく顔を伏せているバーンハードの姿があった。彼は、蔵人の姿
を見るとふらついた身体をようやく縦にして、謝罪の言葉を述べは
じめた。
﹁すまないな、クランド。君やレイシーをなんの関係もないゴタゴ
タに付き合わせてしまって。シスターに聞いたよ。なんでもすごい
大怪我をしたとか。ああ、関係のない彼女まであんなに怯えさせて
しまって。本当にいくら詫びても、詫びきることができないよ﹂
バーンハードは身をよじってカウンターに突っ伏すと、片手を振
って飲んでいた酒瓶やグラスを薙ぎ払った。食器のいくつかが、激
しい音を立てて床に転がり落ちて割れた。
銀馬車亭の主人にいつもの貫禄はなく、小娘のようにたださめざ
めと身を折って泣いている。蔵人は彼の態度に苛立ちを覚えながら
足元の皿を踏み割った。
﹁詫びなんぞどうでもいいんだ! なあ、バーンハード。あんたな
ら、あのペラダンってやつがレイシーをさらっていったことと次第
を一通り知っているんだろう。いや、そんなことよりも、いま大切
なのはどうやって彼女を取りかえすかってことだろうが。あんたの
大切なレイシーを、あんなイカれた仮面野郎の花嫁にしたってロク
なことになりゃしないぜ! 本当にそんな約束したっていうのかよ
!﹂
﹁花嫁。そうか、ペラダンはそういったのか。ある意味、やつがし
ようとしている目的は明確だよ。それを、私はよく知っている﹂
592
﹁目的ってなんだよ、いったい。それよりも、あんたはどうして怒
らねえんだ! たったひとりの娘が無理やりさらわれたんだぜ!﹂
﹁たぶん、いつかこうなることを私は知っていたんだ、ホラ﹂
バーンハードは一枚の手紙を取り出すと、蔵人にかざして見せた。
ランプの薄明かりの中、蜜蝋で封をした宛名がくっきりと浮かび上
がるが、蔵人はこの世界の文字を読みとることはできなかった。
﹁俺は字が読めねえんだ。なんて、書いてある﹂
﹁結婚式の招待状だ。ペラダンとレイシーの。式は、今日から五日
後、いや日付が変わったから四日後の深夜一時に執り行うと書いて
ポンドル
ある。レイシーは、今年で数えの十七になったが、生まれた日が四
日後の深夜一時なんだ。補足として、式当日に持参金として百万P
用意しろ、と。用意できない場合は、その場で花嫁を奴隷商人に引
き渡す、と書いてある﹂
﹁な︱︱ふざけんなっ! あんたはそんなふざけた条件そのまま丸
呑みするっていうのかよっ! 早く、やつの居場所を教えてくれ。
いまから、俺が乗りこんでたたっ斬ってやる﹂
ポンドル
﹁違う、違うんだクランド。どんな条件を突きつけられても、私は
呑むしかないんだ。だが、百万Pを渡したところであいつが正直に
娘を返すとは思えない。ペラダンは、ただ私を苦しめたいだけなん
だ。友を裏切ったこの私を。できるだけ長く、深く﹂
﹁なあ教えてくれ。俺はあんたが自分の命惜しさにペラダンの言い
分に従ってるとは思えない。いったい、あんたとペラダンの間にな
にがあったんだ﹂
﹁私は、かつて冒険者だった。ペラダンと知りあったのも、今日み
たいな夏にしてはうすら寒い夏の夜だった﹂
バーンハードは重たい口をゆっくりと動かすと、魔術師ペラダン
との因縁を話しだしたのだった。
593
レイシーはペラダンに途中で目隠しをされたあと、馬車に乗せら
れた。どれだけの時間が経過したのだろうか、不意に抱きかかえら
れて運ばれる感触を覚え、思わず身をこわばらせた。レイシーの頭
の中で蔵人の傷ついた姿と心配そうな父の顔が交互にあらわれて消
えていった。しばらく経って、目隠しを外されるとそこはどこかの
お屋敷の一室だった。
目の前にはペラダンが無言で佇立している。白っぽい仮面のせい
で表情がうかがえないのがより不気味だった。
﹁そんなに緊張しないでください。私たちはもう夫婦同然ですから﹂
緊張をほぐそうといっているのだろうが、レイシーにとっては逆
効果だった。見知らぬ男と密室でふたりきりというだけで寒気がす
るほど気分が悪いのに、相手はすでに夫のような態度で接してくる。
ちらりと、視線を室内の中央に向けると豪奢な寝台が目に入った。
子供ではない、これからあの場所で好きでもない見も知らない男
に組み敷かれると思うと、恐怖と悲しみで胸が張り裂けそうだった。
﹁とはいっても、それはカタチだけのこと。この私が、貴女をあた
りまえの妻のように愛すと思ったら大間違いですから。いい気にな
らないでくださいね、バケモノ風情が﹂
﹁それって、どういう意味ですか﹂
レイシーはムッとして言い返すとペラダンをにらみつける。そも
そも、父がかわした約束うんぬんなどはまったくもって自分には関
係のないことである。
︵なんか、だんだん腹が立ってきた! こんなわけのわからない男
に好きにさせたりしないんだからっ︶
﹁どうもこうも、ありません、よ!﹂
パンと甲高い音を立てて頬が鳴った。しばらくしてやってきた痛
みと頬の熱さにレイシーは自然と両膝を折ってその場に座りこんで
しまう。
594
﹁え、あ?﹂
殴られた。なんの理由もなく。
先ほどの決意はどこへやら、肉体的な痛みと恐怖におののきガク
ガクと膝が震えだす。
目尻に涙が盛り上がってくる。
レイシーは、自分は女だから、なんとなく絶対に暴力などはふる
われないと思いこんでいたのだった。その考えが目の前で根底から
突き崩された。頭の中では、目の前に対する反感が消えないのだが、
ちょっとした暴力で簡単に肉体は支配されてしまう。情けなさと恐
怖で涙がボロボロと溢れ出した。
﹁立ちなさい、立てェえ!!﹂
﹁ひ﹂
聞きなれない男の怒声に、レイシーは反射的に身を起こそうとす
るが、膝から力が抜けていって満足立つことができない。
﹁早くしないかっ!﹂
﹁は、はいっ﹂
割れるような怒声を耳元で上げられる度に恐怖で身がすくむ。レ
イシーの頭の中はこれからなにをされるかという恐怖でもはやほか
のことは考えられなかった。
﹁脱ぐんだ﹂
﹁え、な、なにを﹂
﹁聞こえないか、服を脱げと私はいいました﹂
レイシーは、紙のような真っ白な顔つきで目の前の男のいった意
味を噛み締めて、深く絶望した。
595
Lv38﹁水精霊﹂
戦士のバーンハード、重騎士のアラン、盗賊のクレメンテ、魔術
師のペラダンは即席ながらも中々バランスの取れたよいクランだっ
た。
剣技に優れ統率の要となるバーンハード。下級貴族の生まれで重
ギル
装甲を武器にパーティーの盾となる無口だが信頼できるアラン。盗
ド
レア・ジョブ
賊上がりでなんでも小器用にこなすクレメンテ。そして、冒険者組
合登録者の中でも数少ない貴重職種の魔術師であるペラダン。四人
の中で元々の知り合いだったのは、バーンハードとペラダンのみだ
った。
知り合ったきっかけは、酒場でクレメンテが手に入れた一枚の古
地図を肴に声高に話していることからはじまった。たまたま、テー
エターナル・ピース
ブルが隣りあっていたのも縁だったのだろう。最初はその古地図に
記されたダンジョンの場所に、命の秘宝と呼ばれるアイテムがある
かどうかの真偽を話しあっていたのだが、酒が入っていたせいか四
人の議論はエスカレートして、最後には実際にこの目で確かめてみ
ようという話になった。
当時、いまから十七年前、バーンハードを除いた残りの三人は、
ギルド
全員まだ二十代であり冒険者としてもっとも脂の乗り切った時期で
あった。ある程度ダンジョンにも潜り、冒険者組合内でも中核的な
存在になりつつあった。
ギルド
こうなってくると、誰しもがひとより際立った功績を上げたい、
自分の名前を冒険者組合内で轟かせたいという気持ちになってくる
596
のは自然のことであった。古地図の指し示す階層の場所も、それほ
ど深くなく、メンバーは四人と少ないが、彼らにはそれらを補って
あまりある実力と自信があった。
中でも、目を引いたのはバーンハードの戦士としての実力だった。
魔術師であったペラダンの攻撃は出力と派手さこそあったが、コン
トロールと限られた回数しか使用できないというデメリットもあっ
た。
だが、この時期のバーンハードは戦士としてもっとも脂の乗り切
った時期であり、モンスターを恐れぬ勇気と大胆な決断力はわずか
な時間で皆の信頼を勝ち取るのに充分だった。バーンハードの親友
であるペラダンは、普段は物静かなタイプであった。
ただし、親友の活躍を目にするたびに、ペラダンは大げさなくら
ポーター
いに喜び、アランやクレメンテを苦笑させることもしばしだった。
実際問題、荷運びや壁役、つまりは就寝時の見張り番を専用に置
くことのできないクランはそれだけで余計な労力を必要とする。そ
れほど、大掛かりではない迷宮探索であっても、往復十日を超える
マジックアイテム
距離や階層となると、水と食料だけでも大変な重さになるのだ。現
在では、王立迷宮探索研究所が開発した、荷物を圧縮する魔術道具
も開発されているが、かつてはそんなものは存在しなかった。すべ
てを人的労力に頼らざるを得なく、その代わり鍛え上げられた肉体
の強固さは確かなものだった。
エターナル・ピース
公式攻略層をはるかに超えた階層にあった古地図の場所にたどり
セイレーン
ハイパー・レア
着いたとき、四人が目にした命の秘宝と呼ばれる存在。
セイレーン
それは、一体の水精霊と呼ばれる、超特殊貴種モンスターだった。
ダンジョンの奥深く、地底湖の底の底にいた水精霊は見た目こそ、
普通の人間種の女性となんら変わりはない。
それどころか、男なら目を奪われるほどの極まった美しさを兼ね
備えていた。足元まで長く伸ばされた淡い金髪に、大きなアイスブ
ルーの瞳。陶磁器で精巧に造られたような顔立ちに、白い肌が強制
的に禁欲を迫られた男たちの獣欲を刺激した。
597
最初に気づいたのはその美しい唄声だった。
群がるモンスターとの格闘で、綿のように疲れきった彼らの身体
に心からその歌は染み入った。
セイレーン
彼女の存在に最初に気づいたのは目ざといクレメンテだった。仲
間たちは、彼の指し示す岩陰でのんびり腰掛けている水精霊を見て、
美しさに心を奪われた。
﹁あら、どなたかしら。こんにちは。って、確か人間の言葉ってこ
れであってるわよね﹂
エターナル・ピース
童女のように警戒心なく近寄ってくる彼女を拘束するのは泳いで
セイレーン
いる魚を捕らえるより簡単だった。
﹁なあ、バーンハード。この水精霊が、伝説の命の秘宝ってやつか。
なにかの間違いじゃねえか﹂
マジックアイテム
クレメンテがつば広の帽子を傾けながら、戸惑った様子でバーン
セイレーン
ハードに尋ねた。
一方、水精霊の方はアランに状態封じの魔術道具である、禁魔縛
縄でしばられながらも、いったーいっなにすんのよ、とか、これき
セイレーン
ゅうくつぅ、などと、ぶつくさ文句をいうにとどまっていた。
﹁いや、ペラダンの解読に間違いない。穢れ無き水精霊の生肝を食
すといちじるしく寿命が伸び、免疫力が上がって滅多に病気にかか
らないっていう事例があったってことは王立研究所の文献で読んだ
ポンドル
ことがある。少しでも長生きしたいって貴族のジジイどもなら、数
千万、いや数億Pだって言い値で買うだろうよ﹂
﹁⋮⋮マジかよ。うおっしゃあっ!!﹂
クレメンテの脳は徐々に事態を把握したのか、やがて喜びを爆発
させた。日頃物静かなアランもペラダンの肩を抱きかかえながら大
声を上げている。迷惑そうに眉をしかめながらも、ペラダンの口元
セイレーン
もしっかりゆるんでいた。おそらく状況を把握していないのだろう、
セイレーン
水精霊の女も、やったーっと声を上げて喜悦の表情を作っていた。
バーンハードは、皆から離れて水精霊に近づくと声をかけた。
﹁おい、おまえ﹂
598
セイレーン
﹁え、あたし? あたしは、おまえじゃないよ。ロマナっていうの﹂
水精霊のロマナは縛られたまま屈託なく笑うと白い歯を見せた。
どうやら、知能はあまり高くない様子だ。
﹁おまえ状況がわかってよろこんでるのか﹂
﹁え、え? うーん、なんだかわかんないけどさ、みんなが楽しそ
うならあたしもなんだか楽しいんだっ﹂
﹁おまえ、仲間とかはいないのか﹂
﹁お母さんがいたよ。でも、ずっとまえに、あたしが小さい頃に死
んじゃった。だからさ、たくさんのたくさんが喜んでるとうれしい
よ。ここにいる怖いモンスターたちは笑ったりしないし、言葉も通
じないから﹂
﹁おまえ縛られてるんだぞ。やっぱなにも理解してないじゃないか﹂
﹁だから、あたしはおまえじゃなくて、ロマナだって。あんた、も
しかして、アタマ弱いの?﹂
こころの底から心配するような善意百パーセントの目つきでロマ
ナがいった。バーンハードは口元を引きつらせながら言葉を返した。
﹁⋮⋮俺はバーンハードだ。それから、人のことをアタマ弱いとか
平気でいうんじゃない。傷つくだろうが﹂
﹁え、あ。ごめんなさい。本当、ごめんね。泣かないでね、バーン
ハード﹂
冗談交じりの指摘を本気で信じこんだのか、ロマナは大きな瞳に
涙をにじませながら、幼児をあやすような口調で慰める。甘くなめ
らかな声質は聞いているだけで、頭の中がクラクラする。一旦顔を
はなすと、ロマナは寂しそうにくちびるをゆがめた。
﹁泣かねえよ。にしても、なんで捕まったままで平気な顔してるん
だよ﹂
﹁ふっふーん。よっくぞ聞いてくれました。あたしってば、水の近
くなら身体をちゃぷちゃぷにすることができるのだっ。だっから、
バーンハードたちがかけた縄なんてあっという間に、ほほいのほい
で、ほほい、ほい?﹂
599
セイレーン
マジックアイテム
ロマナは水精霊の特殊能力、身体液状化を行おうと、顔を真っ赤
にして力をこめるが、わざわざ状態封じの魔術道具、禁魔縛縄で身
体をぐるぐる巻きにしてあるのだ。ロマナがどう頑張ろうと、身体
を液状化にすることはできなかった。
マジックアイテム
﹁あっれー、おかしいなぁ。ねえ、バーンハード、これどうなって
んの?﹂
﹁⋮⋮おまえに逃げられないように、魔術道具でしばってあるんだ﹂
﹁あーっ、そっかー。なるほどなるほど﹂
﹁おまえ、やっぱアホの子だろ﹂
エターナル・ピース
ギルド
セイレーン
お目当ての命の秘宝を確保したバーンハード一行に残された仕事
は、地上に戻って冒険者組合に報告して栄誉を得て、水精霊を競り
にかけて大金を得るだけであった。鍾乳洞があちこちに連なる、気
が滅入りそうな真っ暗なダンジョンの中も、成功の約束された四人
にとっては輝かしい光に満ちたものに見えた。たっぷり時間をかけ
て距離を稼いだあとは、テントを張って宴会を行った。行程のほと
んどはすでに消化している。あと数日で、地上に戻れるならば、買
い集めた食料も酒も残しておく必要はない。
バーンハード率いる一行のクランは、その都度目の前にある栄光
に酔いしれ、肉を喰らい酒を浴びるように飲んだ。
クレメンテが焚き火を前にして冗談をいい、アランが上半身を脱
いで踊りだし、ペラダンも斜に構えながらも毒舌を飛ばし、バーン
ハードが荒れそうになる場を収めた。
ロマナも囚われの身であると理解しているのか、宴もたけなわに
なると得意の歌で場を盛り上げた。ときには勇壮に、ときにはしん
みりと、即興で人語を使用した歌と声は仲間たちを聴き入らせるの
600
に充分な美しさだった。
バーンハードは燃え盛る焚き火の炎を見つめながら、ロマナの姿
をじっと見つめていた。いつの間にか、座る位置を変えたのか、ペ
ラダンが隣に居た。
﹁なんだよ、音も立てずに気味わりいな﹂
セイレーン
﹁そいつは失礼。しかし、バーンハード。まさかありえないとは思
うが、あの水精霊を売りさばきたくない、とでも思っているのかな﹂
﹁⋮⋮それこそ余計な心配だ。ペラダン、俺は骨の髄まで冒険者だ
ぜ。あいつの顔を見てたのは、分配した金でなにを買おうか考えて
いたのさ。ふん、確かに美しい女だが、あいつを売った銭で、何十
人って若い奴隷がいくらでも買えるさ﹂
﹁なら、いいんだが。ところで、バーンハード。君は、この先も危
セイレーン
険な冒険者を続けるつもりかい?﹂
﹁いや、あの水精霊を売り払ってしまえば、栄誉も金も手に入る。
いつまでも若くいられるわけじゃない。そろそろこの稼業も潮時か
な﹂
﹁ならば、一つ提案がある。この金で、酒場を開かないか? 君と
私でだ。今回の冒険もあの酒場で出会った、アランとクレメンテが
持っていた古地図が元だった。君は、確か見かけによらず料理が上
手だったよね﹂
﹁見かけによらずは、余計だ﹂
﹁またまた失礼。君は食事を統括し料理人を差配してくれ。僕はマ
ネジメント一切を引き受けよう。店に合った調度品、一流の楽士や、
美しい給仕を揃えよう。若い冒険者たちをサポートするそんな希望
にあふれた店を作れたらいいなと思うんだ。なに、利益は度外視さ。
夢を売るんだよ、若者たちに。どうだい、最高じゃないか!﹂
ペラダンは元々街を歩くだけで娘たちに騒がれるほどの整った容
姿をしていたが、焚き火の前で夢を語る彼の顔は、この世で一番美
しかった。
だが、迷宮に潜む悪魔はバーンハードたちを見逃しはしなかった。
601
ジャイアント・スパイダー
気を抜いて、酒も入っていたのが災いしたのだろう。この夜、幕
営地を襲ったモンスターは、大鬼蜘蛛という稀に見る大物だった。
最初に、敵に気づいたのは重騎士のアランだった。彼は、上半身
ジャイアント・スパイダー
裸のまま飛び出すと、大槍を振るって皆が距離をとって態勢を立て
直すまで充分な時間を稼いでくれた。ペラダンの氷魔術が大鬼蜘蛛
レクイ
の土手っ腹に風穴を開けて止めを刺したとき、すでにアランはこの
エム
世の者ではなかった。悲嘆に暮れる皆を励まそうと、ロマナが鎮魂
歌を切々と歌い上げる。彼女の中では、すでにアランは他人ではな
かったのだ。
だが、彼女の誠意も極限まで追い詰められたクレメンテのこころ
を癒すことは出来なかった。
﹁てめええっ! 化物のくせによおおおっ! 一丁前にアランを悼
んでんじゃねえよっ!﹂
クレメンテはいつもの剽げた表情を一変させると、狂ったように
無抵抗のロマナを蹴り続けた。咄嗟に飛び出そうと躊躇したバーン
ハードだったが、ペラダンの目を妙に意識して飛び出すことが出来
ない。アランが欠けたことによって、いままでの奇妙な仲間意識は
完全に霧散し、ロマナは一体の獲物へと完全にシフトチェンジした。
しばらく、苦虫を噛み潰したようにクレメンテの悲憤の行動を見
ていたバーンハードであったが、ロマナが妙に腹ばかり守っている
のを見て、不自然さを感じた。アイコンタクトでペラダンと意思疎
通を行いクレメンテの暴行を静止する。事実は、パーティーにとっ
て最悪のものだった。
ロマナは妊娠していたのだった。
﹁どうすんだよ、処女の生肝じゃなきゃ効果はねえんだろうが﹂
602
セイレーン
幕営地のテントを張った焚き火の前で、虚ろな瞳をしてクレメン
テがつぶやいた。
﹁王立研究所の資料によれば、確か処女性を失った水精霊の肝臓は
特質性が変化し、人体に有害なものへと変化するらしい﹂
セイレーン
バーンハートが答えると、ペラダンは枝先で焚き火の灰を突きま
わしながらいった。
﹁長い目で見れば、あの水精霊が生んだ子を育ててから肝を取るか。
もっとも、成体になるまで十年以上はかかるらしい。ハーフであっ
ても、ある程度は高値はつくだろう﹂
﹁そんなもん待ってられっかよおおお!﹂
クレメンテは怒声を上げながら立ち上がると、ロマナのいる方向
へとゆっくり歩き出した。
﹁待て、どこへ行くつもりだよ﹂
セイレーン
﹁今更、それを聞きますかぁ、役立たずのリーダーさんよお。決ま
ってるだろうがあぁ、あの水精霊を肉便器がわりに使わせてもらう
のよお。ったく、処女のまんまが金になるからって、こっちはモノ
をおっ勃ってても我慢してきたのによぉ。せいぜい溜まった鬱憤を
セイレーン
晴らさにゃ、気がすまねえよ。ああん、それに性欲処理以外に、い
まのあの水精霊になんの価値があるっていうんだい。なあああっ!﹂
﹁待て、これはリーダーとしての命令だ。彼女に手を出すな﹂
﹁あああん、あんな使用済み穴ぼこにリーダーさまはご執心ですか
あっ。マスかいて寝てろっ、ボケ!﹂
バーンハードはテントの中へと向かって千鳥足で歩いていくクレ
メンテを見ながらじっと立ち尽くしていた。
ペラダンは無言のまま焚き火の中の灰を、細長い枝でつつき回し
ている。
しばらくして、テントの中で、女の悲鳴とモノが崩れ落ちる大き
な音が響きだした。
﹁私は、君がどういう行動を取ってもついていくよ。バーンハード﹂
ペラダンがぼそりとつぶやくと、バーンハードの身体が飛ぶよう
603
にしてテントの中に向かって走り出した。
怒声と罵声が交互に炸裂した後、ダンジョンの闇に静けさが戻っ
ていく。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
ペラダンの隣に、完全に表情を失ったバーンハードの姿があった。
先刻と違うのはただひとつ。
彼の右手には血でぐっしょり濡れたロングソードが握られていた。
ぐったりしたバーンハードがテントに戻ると、縛られたままのロ
マナが擦り寄ってきた。
﹁ねえ、泣いてるのバーンハード﹂
﹁いいや、泣いちゃいねえや﹂
﹁ごめんね、あたしがきっと余計なことをしたからクレメンテも怒
ってしまったのね﹂
セイレーン
﹁おまえは悪いことなんかなにもしていねえ。ひとつだけ教えてく
れ、おまえの腹の中の子は誰が父親なんだい﹂
﹁ううん。名前も知らないおじさんだよ﹂
ロマナの話を総合すると、一年ほど前に一度だけ水精霊の場所に
までたどり着いた冒険者がいたらしい。その男がロマナを見つけた
ときは半死半生の状態でもはや息を引き取る寸前だったそうだ。哀
れに思ったロマナは男に訊ねた。最後になにかやり残したことはあ
るの、と。
男の願いは、切なく哀しいものだった。彼は、貧農に生まれ苦労
ギルド
して髪に白いものが見えるまで生きてきた。血のにじむ思いをして
冒険者組合に登録し、それから功績を上げられないまま長い間ダン
ジョンと地上だけを行き来してきた。男にとっては、迷宮探索がす
604
べてだった。身を削るような思いをして冒険費用をひねり出し、い
つかは、いつかはと思いながら今日まで成功の日を夢見て生きてき
た。せめてこの世の名残に、ロマナのような天使のように美しい女
を一度でいいから抱いてみたい。冒険者は、この世界では老夫に分
類される年まで童貞だったのである。冒険者はなんとか、ロマナと
ひとつになった瞬間に、命の炎を潰えていた。
﹁なんで、なんでそんな愚かなことを﹂
﹁うーん、愚か? よくわかんないけど、あたし、そのおじさんが
あたしをどうしても必要だったってことはわかったよ﹂
そのたった一度。
そのたった一度だけで妊娠したのだった。
バーンハードはロマナの人を疑うことの知らない純真な瞳を見て、
自分という人間が果てしなく汚らわしい生き物に思えてならなかっ
た。
完全に気を抜いていた。
責はすべてバーンハードにあった。
マップには記載されていたはずの、底なしの泥沼の位置を読み間
違えた。気づいたときにはもう遅かったのだった。目の前で、ペラ
ダンとロマナがずぶずぶと腰まで嵌りかけている。唯一、沼から這
い出すことができたバーンハードの全身を無力感が浸していった。
﹁っ! いま助けるぞ、ペラダーン!!﹂
﹁バーンハードぉおおおっ!!﹂
ペラダンは美貌を歪ませながら胸元まで飲み込んでいる泥沼の恐
怖に怯えきっていた。
いつもの冷静な仮面はそこにはなく、二十代の若者らしい直情的
605
セイレーン
な生への欲望が吐き出されていた。一方、水精霊のロマナは全身を
拘束されたまま、悲鳴一つ上げない。湖のように澄み切った青い瞳
と視線が交錯した。
バーンハードからふたりの位置は等距離だが、体重がロマナより
重いせいかペラダンの沈み方の方が早かった。
﹁早くしてくれええええっ!!﹂
﹁いま、いまザイルを投げるっ! 受け取るんだ、ペラダンっ﹂
バーンハードが保持していたザイルは一本だけ。文字通り、命綱
で引き上げられるのは、どちらかひとりのみだった。
︵許してくれ、ロマナ。俺は、ペラダンを救わないと!︶
見捨てたと罵ってくれ。
呪ってくれ、恨んでくれ。
人間なんぞ、このように薄情だと、骨の髄まで蔑んでくれ。
︱︱そうでなければ、俺は。
その声はなんの迷いもなく澄み切った不思議な歌声だった。
奇妙にこころが落ち着いてくる。ペラダンを見ると、彼もいくら
か落ち着きを取り戻し、叫ぶのをやめていた。
奇妙な音程だった。当然、歌詞の意味も理解できない。
だが、聞いているだけで母の愛に包まれているような、あたたか
いものが胸いっぱいに広がっていく。
そう、バーンハードはこの唄を誰が歌っているかなんて最初から
セイレーン
知っていた。
あの水精霊は、己が無限の泥中に沈みゆく最後の瞬間まで、慈愛
をこめて歌っていたのだった。
許してくれ。
最後に一度だけ祈った。
もう、この先は祈ることなど許されないだろう。
この罪深い俺には。
606
﹁どうしてだあああっ、バーンハード! オレじゃなくて、どうし
てその女を助けるううっ!!﹂
﹁家族じゃないのかっ、オレたちは家族だとっ、血が繋がっていな
くてもずっといっしょに生きていくと誓ったではないかああっ!!﹂
﹁そうか、おまえのことを家族だと思っていたのはオレだけだった
のかぁ!﹂
セイレーン
﹁その水精霊腹の子が、十七になったら、必ずオレはおまえの前に
現れて、生きたままその娘の肝を喰らってやる! いいか! 必ず
だ!﹂
バーンハードの頭の中には、底なしの泥中に沈んでいくペラダン
の絶叫だけがこびりついて離れなかった。目の前に残ったのは、ザ
イルをつかんで引き上げられたロマナひとりの姿だけが残った。
﹁どうして﹂
﹁どうしてって、俺にもわからねえんだよおっ! それより、なん
でだあっ。俺たちは、おまえのことなんか、戦利品のアイテムくら
いにしか思っていなかったんだ。どうして、あの状況で笑いながら
のんきに唄なんか歌えるんだよ! 教えてくれ、ロマナ!﹂
﹁っ! ⋮⋮えへへ﹂
ロマナは寂しげな表情のまま控えめに微笑んだ。彼女が身につけ
ていた薄青色の衣服は泥土で焦げ茶色に塗りたくられている。
けれどもバーンハードには、彼女の微笑みを美しといった冒険者
の心がはじめて理解できたような気がしたのだ。
﹁やっと、あたしの名前呼んでくれたね。バーンハード﹂
どっと涙が溢れ出て視界が真っ青に染まった。気づけば目の前の
607
女を抱きしめていた。
バーンハードは子どものように泣きじゃくる。
そうして、この女だけは死ぬまで守り続けようと魂に誓ったのだ
った。
バーンハードの長い話を聞き終えて蔵人は深くため息を吐いた。
確かにそれが真実ならば、ペラダンにとってバーンハードは肉を
切り裂いて骨まで噛じり尽くしても飽き足らない不倶戴天の仇であ
ろう。
ロマナやそのとき腹にいたレイシーを恨む気持ちもわからないで
もない。ペラダンはこの世でもっとも信じていた男に裏切られたの
だ。
そして、地獄の底から這い上がってきて、いまバーンハードに復
讐をしようとしている。動機がいままでの敵とは並々ならない。使
う魔術も未知数なら、契約の力ですら治せないどんな武器を揃えて
いるかもわからない。
ポンドル
だが、レイシーを救うと決めた。幸か不幸か、再戦の期限まで残
り四日と切ってくれたのだった。まず、第一に百万Pを用意しなけ
ればならない。下手に見せ金など小細工をしない方が良いだろう。
﹁バーンハードひとつだけいっておく。どんなに言辞を弄してもあ
んたがペラダンを裏切ったことは変わらない。レイシーを助けるに
はあんたが命をかけるしかねえんだ﹂
﹁私の、命を﹂
バーンハードの瞳からは完全に生気を失っている。ここにいるの
は過去にいた凄腕の戦士ではなく、ただ娘のことで胸を痛めるあり
ふれた中年男性でしかないのだろうか。
608
ならば、レイシーを救えるのは俺だけってことか。
ポンドル
﹁さっすがファンタジー世界。難易度がベリーハードだぜ。ところ
ポンドル
でマスター、この辺りで百万Pをポンと都合してくれそうな男って
のは誰かいねえか﹂
﹁金なら、なんとかここにかき集めた五十万Pがあるだけなんだ。
唯一、頼めそうな人は、貸元のチェチーリオ親分くらいだが、私は
すでに金を借りすぎていて﹂
﹁ああ、俺が代わりに借りてくるから。あんたは、ここで待ってて
くれや。それと、もしヒルダが顔を出すようなことがあったら、気
にするなっていっといてくれや﹂
﹁まだ夜中だよ、クランド﹂
﹁ああ、そうか。んん、じゃあ俺は一眠りするから。あんたも寝と
きなよ。朝が来たら行動開始だ!﹂
﹁⋮⋮はは。君だってペラダンにやられて散々だったんだろう。ま
ったくタフというか、くじけないというか。なんだか、ひとりで悩
んでいたのがバカらしくなってきたよ。私も、明日からもう一度借
りれそうな場所をまわってみるよ﹂
﹁そうだ、その意気だ! なに、レイシーは傷ひとつつけずこの俺
が取り戻してやるさ!﹂
﹁そうだね、もしそうなったら、レイシーのことはクランドに任せ
るよ。ロマナの血を引いているんだ。あの娘も並の男じゃ満足でき
ないだろう。もっとも、私のことをパパって呼ぶのは勘弁だがな﹂
﹁その軽口が出るようになりゃ、あんたも大丈夫さ﹂
﹁まったく人の着替えをじろじろ見るだなんて、あいつってばやっ
ぱサイテーね﹂
609
ペラダンがレイシーに目の前で服を脱げといったのは、無用な武
器をどこかに隠していないかを調べるためだけのことに過ぎなかっ
た。下着姿になったレイシーを検分して満足したのか、ペラダンは
部屋に鍵をかけて去っていった。
﹁女の子の顔をぶつことないじゃない。まったく、いーっだ﹂
レイシーは誰もいない扉に向かって舌を出してみるが、じきに虚
しくなってやめた。
手渡された衣服は、少々時代遅れともいえる型の薄い水色のドレ
スで身体にぴったりフィットするタイプのものだった。部屋の中央
に大きな姿見が置いてある。自分の身体を映してみると、不思議な
ことにそれほど違和感を感じなかった。
﹁ふむ、色だけは合格﹂
特にやることもなく寝台に座ると、思い浮かぶのは最後に見た蔵
人の倒れこんだ姿だった。レイシーは、はじめ蔵人のことを田舎か
ら食い詰めて出てきた若者くらいにしか思っていなかった。だが、
腰に差していた長剣は飾り物ではなかったのだ。相当な重みのある
剣を振り回す姿は、普段のぼうっとした感じは微塵もなく歴戦の勇
士を思わせた。
︵なんでこんな時に、絵物語の騎士だのなんだのってもやもや考え
てるの。夢見てる場合じゃないってのに︶
頭を振って辺りを見回すと床の上に見慣れた黒い外套が落ちてい
た。
﹁これってクランドの。あの仮面男、戦利品だのなんだのっていっ
て落としてちゃしょうがないでしょうに﹂
先ほどいたペラダンが無意識に落としたのか、それとも間抜けな
だけななのか。
外套には切り裂かれた跡があちこちにあり、真っ赤な血糊が付着
している。
紛れもなく蔵人のものだった。
︵あるいは、わざと落としていってあたしを怖がらせようとか。本
610
当に陰険なやつ︶
レイシーは、外套を拾い上げてそっと顔を埋めた。
︵ほんのりと蔵人の匂いがする。あと、血︶
あちこちにかぎ裂きが出来ているが不器用な針運びで縫ってある
のを見て、蔵人が悪戦苦闘するのを想像し、レイシーはほっこりと
微笑んだ。この部屋は女用に設えてある。いくらかドレッサーの引
き出しを探ると、簡単に裁縫道具を見つけることができた。
﹁じゃーん。じゃ、ちゃちゃっと縫っちゃいますか。ふん、あの白
仮面のやつ。どうせ、クランドや父さんが助けに来て、この外套は
持ち主の元に戻るんだからね﹂
レイシーが隙のない針運びで切り裂かれた部分や、ほつれた場所
を的確に縫っていく。
一通り補修が終わったところで広げてみると、あちこちに血糊が
ついているがいまは洗うことは出来ないのでなるべく見ないように
した。
ふと、一番の端にある縫い取りに気づくと愕然とした。
そこには明らかに女の針運びだと思われる刺繍によって、こう書
かれていた。
我が最愛の夫の旅路に幸いのあらんことを、と。
611
Lv39﹁ヒルダ﹂
早朝、街が目を覚ます前に蔵人は行動を開始した。土地の人間に
尋ねれば、すぐに貸元チェチーリオの屋敷は判明した。石造りの巨
大な門柱に、立派な鉄扉が嵌め込まれていた。
﹁なんだおまえは、こんな朝早くから。まだ、親分はお休みだぞ﹂
門の脇にある詰所の中から見張り番をしていた子分らしき男が、
大身の槍を抱えたまま蔵人に向かって誰何した。
﹁お頼み申します。直接、親分に会ってお願いしたいことがあるん
で﹂
﹁だからってこんなに早く来ても意味がないんだって。親分はたい
てい晩にたっぷりご酒を召し上がる上、昔っから宵っ張りなんだよ。
用事がなけりゃたいてい昼まで起きてこねえぞ﹂
﹁それじゃあ、ここで待たしていただきます﹂
﹁随分と子細があるようだが。ちなみに、親分にはいったいどうい
った要件なんだよ。場合によっては口を利いてやってもいいぞ﹂
﹁金の無心で﹂
﹁またかあ。ったく、親分は気前がいいから、どいつもこいつも気
軽に借りにきやがる。おまえ、少々の金なら街の金貸しで借りろよ。
⋮⋮ってもその格好じゃなあ。金貸しが相手にしねえか。いったい
親分にいくら借りるつもりだ﹂
﹁へい、ほんの五十で﹂
﹁なんだ、たった五十なら俺が貸してやってもいいぞ。住まいと、
612
家主の名前をいえよ﹂
﹁申し訳ねえが、たぶん俺の五十はあんたの五十とたぶん違うんで﹂
ポンドル
﹁すばり、いくらだ﹂
﹁五十万P﹂
親切な子分は目を向いて卒倒しかけた。
﹁なに、おもてに頭のおかしい浮浪者がいるって﹂
リースフィールド街周辺を縄張りとする貸元チェチーリオは二日
酔いでガンガン鳴り響くこめかみを指先で押さえながら低くうめい
た。
チェチーリオは今年で四十になる。顔つきは、苦みばしったかな
りの男前であった。切れ長の瞳はカミソリのように鋭く、長い鷲鼻
は精力の強さを想起させる、たっぷりとした黒髪をワックスで後ろ
に撫でつけていた。背丈はそれほど大きくないが、ひとたび歩けば、
他を制する威圧感を備え持っていた。
﹁へい、なんでも金を借りたいのなんだのと、若ェのと押し問答し
てるらしくって﹂
代貸のエンリコは低い声で答えた。
﹁このクソ暑いのにご苦労なこった。どうせはした金だろうに。お
ポンドル
まえの才覚でいくらかやって追い払えや。外聞の悪ィ﹂
﹁それがなんでも、五十万P借りたいとかほざいていると。あそこ
は大通りに面してるんで、堅気衆もたくさん通りやす。たたき出そ
うにも手がつけられねえんで、困っておりやす﹂
﹁ほっとけほっとけ! ガキじゃあんめえし、このクソ暑い中、あ
んな日向にへばりついてちゃ、勝手に根を上げらぁな! 俺は、ひ
613
とっ風呂浴びてから出かけるぜ。帰りはいつになるかわからねえが、
あとのことは頼んだぜ﹂
蔵人は中のやりとりも知らず、門前に座り込んだ。季節は真夏で
ある。遮蔽物のない蔵人の全身に陽光が直接降りかかる。日本とは
まるで気候が違う。全体的にカラッとしているのである。しかし、
湿度が低いとはいえ、気温はみるみるうちに上昇した。
通りには風ひとつ吹かない無風状態だった。凪である。頭上には、
巨大な入道雲が沸き立っている。高い建造物が周りにないためか、
ますます大きく映った。強い日差しを浴び続ける蔵人の全身からた
ちまち汗が吹き出してきた。ボロきれのような上下の衣服はたちま
ちぐっしょりと濡れそぼった。次から次へと吹き出してくる汗も、
ギラついた陽光が炙るようにしてたちまち蒸発させた。汗で濡れた
部分が、陽光でキラキラと反射している。蒸発して残った塩分が真
っ白に輝きだしたのだ。蔵人は、耳元からうなじを指先で払った。
ザッと、砂をこするような塩の音が鳴った。
途中、門が開いたと思うと、豪奢な造りの馬車が姿を見せた。
﹁おい、ちょっと待ってくれ!﹂
蔵人が立ち上がって叫ぶ。おそらく中に居るだろうチェチーリオ
は顔すら見せず、そのまま街の中心部に走り去っていく。
蔵人は無言のまま再び座りこむと、屋敷をにらむ形で座り直した。
塞がったはずの肩口から脇腹にかけての傷口がわずかに開いた。じ
くじくと傷口からうっすら血が滲み出してきた。無言のまま耐えた。
ふと、頭の上を影がさした。蔵人が顔を上げると、そこにはいま
にも泣き出しそうに顔を歪ませたヒルダの姿があった。頭にかぶっ
たウィンプルから身にまとう僧衣まで雪のように純白だった。彼女
614
は無言のまま、蔵人の隣に座ると両手を組み合わせて目を閉じた。
微動だにしないふたりの影が、陽の動きによってゆっくりと移動し
ていく。
太陽が完全に昇りきったところで、空に薄雲がベールをかけはじ
めた。次第に、低位置に灰色の雲が駆け足で迫ってくる。乱層雲だ。
蔵人が、鼻先で水の匂いを感じた。
夕立が降りはじめた。蔵人とヒルダの身体を、強い雨が容赦なく
叩きはじめた。たちまち全身がずぶ濡れになった。雨脚がどんどん
強くなっていく。ふたりは並んだまま、それでもその場をはなれな
かった。気が遠くなるような長い時間雨に打たれながら、蔵人は脳
のスイッチを切った。苦しい時間ほど長く感じるものである。スイ
ッチを切って、神経を遮断せねばとうてい耐えられるものではない。
やがて夕立が上がった。西の空が真っ赤に染まっている。チェチ
ーリオの馬車は戻らない。空の向こう側に、虹がかかっていた。疲
労で視点が細かくゆれた。指の腹で強くこすると、風景が次第に元
へと戻っていく。
蔵人が、隣に視線を向けると、赤い光に照らされながらヒルダは
祈り続けている。
真摯かつ一心不乱なその表情は、素直に美しいと感じられた。
微動だにしないその姿勢。切り取った一片の宗教画のように見事
だった。
蔵人は、目を細めながら、ヒルダの横顔をジッと見やった。
やがて、世界は夕闇に落ちる。
夜空の星が宝石箱をひっくり返したように、瞬いていた。
日中は、あれほど暑かったのに、急激に気温が下がっていく。
身震いするような寒さだった。お嬢さま育ちのヒルダには芯から
堪えるのであろう。それでも彼女は、全身を小刻みに震わせながら、
一言も弱音を吐かなかった。
彼女がここまでつきあう義理はない。
だが、それを口に出すのは、彼女の気持ちを靴底で踏みにじる行
615
為だった。
自分の苦しみにはいくらでも耐えられるが、人の傷つく姿を直視
するのはこたえた。
やがて、満点の星空が消え果て、世界が水色に染まりだした。
朝焼けが空を焦がしていく。たなびく雲が、実に幻想的だった。
全体的に世界は無音である。これが、地上であるかというくらい静
かだった。
真っ赤に充血した瞳を凝らし、蔵人は再び来るはずであろう陽光
の差す天を仰ぎ見た。
朝焼けが消え去って、陽光が再び降りそそいだ。
昨日、夕立が降ったために湿度が上がっているのか、不快指数は
高まっていた。
空は薄曇りで、風は昨日と同じく皆無だった。
油照り、である。
薄日がじりじりと大地を焦がし、照りつける。じっとしているだ
けで、頭の芯まで煮えるような暑さであった。蔵人の額から流れ出
る汗が、地面に染みを作っている。それはみるみるうちに小さな池
となった。池もやがて蒸発して消えた。
周辺の住民が、壁際でヒソヒソと囁きあっていた。
やがて、午後が過ぎ、西の空に夕焼けが見えはじめた。
うだるような一日が終わりを告げようとしていた。
同じように夜が来て、朝が来る。
陽光を浴び続けながら、彫像のようにふたりはその場を動かなか
った。
座り続けて、三度、朝焼けを拝んだだろうか。
蔵人の鉄壁の身体はともかく、ヒルダの体力は限界に近かった。
同じ姿勢を取り続けるというのも困難である上、まともに睡眠を取
っていないのである。か細い身体でたいした精神力だった。感嘆に
値した。
ヒルダのか細い身体が左右に揺れはじめ、夕焼けに染まって真っ
616
赤に彩られたとき、馬車が通りの向こうに姿を見せた。詰所の子分
たちが、鉄の門を慌てて左右に開閉する。
蔵人たちの姿に気づいたのか、馬車がその場で停止した。小窓が
開いて、四十ほどの男が顔を出した。チェチーリオである。彼は、
詰所の子分を手招きするといった。
﹁おい、この若者と尼さんは、いつからここに居なさる﹂
﹁へい、昨日からずっと﹂
﹁ずっと、ずっとだって。あれからってことは、丸三日以上じゃね
いっぺぇ
えか! なんで俺に知らせねえんだ、唐変木が!﹂
﹁けど、親分﹂
﹁けどもカカシもねえもんだ! さっさと水の一杯でも持って来や
がれ、気の利かねえやつだな、おい!﹂
﹁待ってくれ﹂
蔵人は、片手を上げてチェチーリオの言葉を制した。座ったまま、
ぐっと頭を垂れると、チェチーリオは馬車からひらりと飛び降りる
と、蔵人の前でかがみこんだ。
スケ
﹁オメエ、若いのに強情なやつだ。こっち尼さんはこれかい? い
けねぇな。いくらテメエの女でも無理はさせるもんじゃねえ。女っ
ポンドル
てのは、あとあとまでのこういうことは忘れねぇもんだ。高くつく
ぜ﹂
﹁へい﹂
﹁銭が必要だってな。それも、五十万Pも﹂
﹁へい﹂
﹁いったいなんに使うんだ。まあ、ここまでするんだ。よくせきの
ことだろうよ﹂
﹁へい﹂
ポンドル
﹁この俺も、曲りなりも親分と呼ばれる身の上だ。ここまでされて、
貸せねえとはいわねぇが、五十万Pといや大金だぜ。ウチは造作は
こんなだが、内実は火の車なんだ。せめて、名前と住まいくれぇは
聞かせてくんねぇか﹂
617
﹁名はクランド。住まいは勘弁してくれ﹂
﹁ふん。家主に迷惑がかかるってそんなところか。俺は金貸しじゃ
ポンドル
ねえから利子なんざ取らねえが、カタくれぇは見繕って貰いてぇな。
五十万Pまるごと飛ばれた日にゃあ、カカアや娘共になにをいわれ
るか知れたもんぢゃねぇ。おっと、尼さんもそんな顔するねぇ。俺
も生まれつき女にゃ弱いんでな﹂
蔵人は、腰に差した白鷺を鞘ごと抜くと、手渡した。
﹁ほーう、こりゃスゲェ。俺ァ剣の目利きじゃねぇが、こいつは中
々のシロモンだぜ。おい、リンクル。てめぇは実家が故買屋だった
はずだ。こいつをどう見るよ﹂
チェチーリオの隣に控えていた、黒いローブをまとった男が、白
鷺の刀身をじっくりと検分してからいった。
ポンドル
﹁親分、こいつは相当な業物です。しっかりしたところに研ぎに出
せば、百万P以上の買い手は余裕でつくかと﹂
﹁よし、とりあえずこいつはカタに預かっとくぜ。あくまで、銭は
貸すだけだ。クランド、覚えておきな﹂
チェチーリオが軽く顎を引くと、馬車から子分がずっしりとした
革袋を取りだしてくる。
ポンドル
ようやく手に入れた銭は、蔵人の腕にずしりと響いた。
﹁銀貨できっちり五十万Pあるはずだ。数えるかい﹂
蔵人が首を横に振ると、チェチーリオは自分の腰に差していた剣
を抜き取って手渡した。
﹁丸腰じゃどうにも格好つかねえだろう。持ってけや。おまえさん
の得物ほどではないが、それなりに使えるはずだぜ﹂
蔵人が立ち上がって腰に剣を差すと若干ふらついた。
隣に居たヒルダが慌てて両手を伸ばして支えた。
ヒルダは、弱々しく満足気に微笑むと、蔵人の足にすがりつくよ
うにして気を失った。
618
蔵人はヒルダを背負って銀馬車亭にたどり着くと、辺りはすっか
り闇に覆われていた。
戻っていたバーンハードと軽く打ち合わせを行い、集合場所を決
めた。
バーンハードは装備を整えるために、かつての行きつけであった
武器屋をまわるそうである。合流の時間は、深夜の一二時半に決ま
った。
蔵人も最後の所用のため外出した。
どのくらい時間が経過したのだろうか。銀馬車亭に戻ってみると、
ヒルダは疲れきっているのか、いまだ、寝台に横たわったまま健康
的な寝息を立てていた。
蔵人は、いつもどおりに営業を行っている向かいの店のぼんやり
とした明かりを眺め続けた。いくら考え続けても、ペラダンの魔術
を破る有効な策は思いつかなかった。
ただひとつ、光明があるとすれば、こちらの人的余裕としてバー
ンハードの力があった。
勝てないまでも相討ちに持ちこむ。レイシーを助け出すことが出
来れば、確実な勝利であった。ううん、と小さなうめき声を上げて
ヒルダが目を覚ました。彼女は、辺りを見回して自分の居場所を把
握すると、蔵人の姿を見つけて息を飲んだ。
﹁あの、クランドさん。レイシーを助けに行くんですよね。やっぱ
り﹂
蔵人は、外の淡い光を眺めながら無言だった。
﹁あの、すごい魔術師と戦って勝てる自信があるんですか﹂
﹁ないな﹂
ヒルダは夜目にもわかるほどの愕然とした顔でその場に凍りつい
た。
619
彼女の欲しかったのはそんな言葉ではなかった。ただ、勝つ。必
ず勝利して帰ってくるというひとことが欲しかったのだ。ここが、
ロムレス人と日本人の違いである。日本人はどんなことでも、必ず
最悪の結果を考え、それに酔ってしまう部分がある。滅びの美学、
とでもいうのであろうか。それに対して、ヒルダの頭の中にあるの
はあくまでもハッピーエンドだけであった。
﹁じゃ、じゃあ。もお、逃げちゃいませんか! ほら、お金はでき
たじゃないですか。あとは、バーンハードさんに任せてふたりで逃
げちゃいましょうよ! ねえ!﹂
﹁そんなことできるわけない。それに、ヒルダ。おまえは、本当に
レイシーを見捨てられるっていうのか﹂
﹁そんな、そんなことできるわけないじゃないですかぁ﹂
ヒルダは寝台から飛び降りると、蔵人の胸元にすがりついて大粒
の涙をボロボロとこぼした。泣き笑いの表情で懸命に媚を作るが上
手くいかないのか、しまいにはわっと泣き声を高くすると、両袖で
顔を覆った。
﹁私、クランドさんは強いと思います。絵物語の騎士さまみたいに
思えたんです。でも、現実はあんなに血だらけになって、まるっき
り歯が立たなくて。私、怖くなって、かばってもらったのに逃げ出
して。あんなバケモノ相手じゃ勝てないですよぉ。いいじゃないで
すか、ね。ね。逃げましょう。クランドさん、ひとりくらい私がど
んなことしたって養ってあげますよう。だから、だから﹂
﹁俺は逃げない。ここで逃げ出すってのは、自分の運命から背を向
けて、この先も生き続けるってことだ。そんな人生、俺は我慢なら
ないんだ﹂
﹁う、ううううっ﹂
﹁お、おい﹂
ヒルダは泣き出すと、着ているものを片っ端から脱ぎだして、寝
台に座りこんだ。
白い肌が、表の店から差しこむわずかな明かりでふるえている。
620
﹁だったら、私も連れて行ってください﹂
﹁なんで、脱ぐんだよ﹂
﹁女の喜びを知らないまま、死にたくはないじゃないですか﹂
ヒルダの頬を銀色の涙がひとすじ流れた。
蔵人は、目をそっと細めると、彼女の細い背を両手で抱きしめて、
唇を奪った。
ちゅっちゅ、と小鳥のようについばむキスをかわす。
顔を上げると、ヒルダの瞳が熱っぽく蔵人を見つめている。
唇から、見えたピンクの舌がちろちろと艶かしく動いている。
もはや言葉はいらなかった。蔵人は、寝台を軋ませてヒルダに近
づいた。
﹁私、はじめてなんです。だから﹂
﹁ああ、任せろ﹂
﹁恥ずかしいよぉ﹂
蔵人はヒルダを抱き寄せると、潤んだ瞳を正面から見つめた。
﹁ヒルダ、力抜いて﹂
﹁お願いします。もういちど、キス、して﹂
蔵人は、ヒルダの小柄な身体にのしかかるようにすると、羞恥で
顔を覆っていた彼女の手をそっとどかして、唇を合わせた。貪るよ
うにして互いに舌と舌を絡み合わせる。
ヒルダの両手が蔵人の頭にまわされると同時に、ふたりの影がひ
とつになる。
窓枠を鳴らしながら、あたたかい風が吹き込んできた。
寝台脇にあった時計が、午前零時を回った。
先ほどの情事の余韻を残しているのか、身支度を終えたヒルダは
621
頬を紅潮させながら、ブーツの紐を締め直していた蔵人にいった。
﹁さあ、そんじゃ張り切ってレイシー救出にいきましょうかっ。ふ
ふん、クランドさんも知ってるでしょうが、私はなんと神聖魔術の
使い手なのです。回復から補助までお手の物ですよ、実は! お役
に立ちますよ、私は!﹂
ヒルダは両手に腰を当てて宣言すると、象牙の白い杖をかざして、
妙ちきりんな構えをとった。蔵人は苦笑すると、ヒルダの手を取っ
て歩き出す。
﹁ふ、ふふふ。そうですそうです。素直にそうして紳士らしく振る
舞えば良いのです﹂
蔵人は、銀馬車亭を出ると大通りを無言で歩き続けた。
はじめは、うれしげな表情を見せていたヒルダだったが、行き先
が最初に聞いていた集合場所と違うことに気づいき、眉をひそめた。
﹁ね、ねえクランドさん。もしかして、ちょーっと行く道間違えて
ないですかね﹂
路上に人影はない。街路の脇を動くのは、飲食店の生ゴミ目当て
に集まってきた野良犬くらいだった。
﹁ちょっと、ちょっと、やっぱ違いますよ。こっちの方向じゃない
です!﹂
﹁いや、いいんだ。もうすぐ、着く﹂
﹁もうすぐって﹂
もしかして、と。手を引かれながらも、ヒルダの胸中に不安が大
きく広がっていく。
明らかに知っている大通りの角を曲がると、そこにはよく見慣れ
た建物があった。
﹁ねえ、嘘ですよね。こんなの、いまさら﹂
蔵人は、ぐいぐいとヒルダの手を力づくで引っ張ると、大聖堂の
大門の前に立たせて大声で訪いを告げた。
﹁開門、開門!﹂
示し合わせていたのか、大扉は軋んだ音を立てながらゆっくりと
622
開いた。
そこには、司教のマルコと幾人かのシスターが燭台を掲げて待ち
構えていた。
﹁これにて期限の七日間は経ち申した。シスターヒルデガルドは確
かに教会へお返し申し上げる!﹂
ありえないという風に、ヒルダが蔵人の顔を見上げた。頭巾の上
に手を置いて、いい聞かせるようにいった。
﹁おまえからは一番大切なものをもらったんだ。このうえ命までく
れなんていえねよ﹂
蔵人はヒルダの絶叫を聞きながら無言で大聖堂から遠ざかってい
った。
待ち構えていたシスターたちがヒルダの身体を寄ってたかって押
さえつけようとするが、あの小柄な身体のどこにそんな力があるの
かというくらいの力ではねのけようとしていた。
蔵人の裏切りをなじる声が、やがて細く長い泣き声に変わったと
き、胃の腑が引き千切られるように、心が痛んだ。
623
Lv40﹁唄声を闇に溶かした﹂
蔵人はバーンハードと合流すると、ペラダンの指定した屋敷へと
向かった。
バーンハードは、革鎧を身につけて大ぶりのロングソードを腰に
差していた。とりひきや話しあいなど感じさせない、つま先から頭
のてっぺんまで殺しあいをするぞと、意気ごんでいる様子である。
交渉などはない、と最初から決めかかっている。今夜は血を見なけ
ればとうていおさまらない雰囲気だった。
﹁クランド。ペラダンとは私が話をつける。君は手を出さないでく
れ﹂
蔵人は路上に目を落としたまま無言だった。随分と意気込んでい
るが、こっちが手を出さずとも、向こうから手を出してきたときは
その限りではない。
そもそも、レイシーの身柄をおさえているのは向こう側なのであ
る。バーンハードの瞳は、夜目にもわかるほど充血して、白目の部
分に毛細血管が万遍なく浮き上がっていた。返答をしかねて躊躇し
ていると、バーンハードは妙に力強い声で話を続けた。
﹁もし敗れることになっても絶対に相討ちに持っていく。そのとき
は、レイシーを頼む。あの子は、とてもさびしがりやなんだよ﹂
バーンハードはもはやレイシーを取り戻すことよりも、ペラダン
と決着をつけることを最優先にしている。胸の内が、ぞわりぞわり
と妙に落ち着かない気分で騒ぎ出した。
﹁ペラダンのやつ。なにが花嫁だ。そんなこと出来るはずがないと
624
わかっていながら﹂
バーンハードのくぐもったつぶやきがこぼれて闇に消えた。
連れ立って歩いているうちに、指定された屋敷の全景が見えてき
た。
かつては、貴族や大商人のものだったのだろうか、相当な資材や
金をかけた豪奢な邸宅であった。
邸内には庭園のなごりらしきものが見えた。
もっとも、長い間手入れを行っていなかったのか、丈の長い雑草
が伸びきっていた。
壊れて動かなくなった門扉の片方が開け放たれていた。
門から館の玄関まで目測で三十メートルほど真っ直ぐな白砂利を
撒いた道が伸びていた。
二メートル間隔にかがり火が焚かれており、辺りは昼間のように
明るかった。
蔵人たちが玄関まで一息の距離まで近づくと、乾いた石階段を、
ゆったりとした歩調で刻む足音が聞こえた。
足音の主。
白い仮面をかぶった魔術師、ペラダンであった。
﹁久しぶりだね、バーンハード。また、こうして会えるなんて、夢
にも思わなかったよ﹂
セイレーン
セイレーン
セイレーン
﹁レイシーはどこだ﹂
﹁水精霊、水精霊、水精霊。まったくもって君はあのモンスターに
こころを奪われてしまったようだ。そら、オールディ、ヤングディ
! 花嫁のご所望だ!﹂
﹁父さん! クランド!﹂
﹁レイシー!﹂
レイシーは、金壷眼の男ふたりにつき添われながら、姿を現わし
た。
薄い水色の服を着ている。
見たところ、特になにかをされたという様子はない。
625
蔵人は、安堵のため息をついた。
﹁金は用意したぞ、ペラダン﹂
バーンハードが貨幣の詰まった革袋を突き出すと、ペラダンは仮
面をカタカタ揺らしながら低い笑い声をもらした。バーンハードの
噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。
﹁ああ、そういえばそんなことも書いたかもね、バーンハード。い
や、君に会えた喜びのあまり、なにもかも忘れてしまっていたよ﹂
﹁おまえが復讐したいのはこの私だろう。いっておくが、レイシー
を傷つけてチクチクなぶろうったって無駄だ。私は、おまえが娘に
指一本でもふれただけでも、目の前で自分の喉を掻っ切ってやる﹂
バーンハードは自分の喉笛に刃を当てると軽く引いてみせた。薄
明かりの中、飛び出た喉仏の上にうっすらと赤い線が走った。
﹁喉を掻っ切る? おやおや、そんな安易な結末では私の胸は晴れ
ない。こまる、非常にこまるよ、バーンハード﹂
﹁だったらサシで決着をつけようじゃないか、ペラダン。おまえが
どうしても許せないのは俺だけだろうが!﹂
﹁ふふ。そうですね、やはりそうではなくては。あなた自身の無力
さを娘の目の前で完全に露呈させる。その上で娘の身体をたっぷり
と辱めて、おまえに地獄の痛苦を味あわせねば、あの苦しみは癒え
ないんだよ、バーンハードォオ!!﹂
バーンハードはロングソードを引き抜くと年齢を感じさせない動
きで走り出した。
ネコ科の猛獣を思わせるような見事な疾走だ。
上段に構えた長剣の切っ先が、闇夜を貫く一筋の矢のように流れ
アイスショット
ていく。
﹁氷の矢!﹂
ペラダンがすかさず魔術を詠唱すると、杖の先から氷柱が幾重に
も打ち出された。
銀色の光る氷の結晶が風を巻いて走った。
﹁おおおおおっ!﹂
626
バーンハードは身体を左右に振って氷の矢を充分に引きつける。
力をこめた一撃が狙いたがわず氷柱の真横を叩く。硬質な音と共に
氷の矢が残らず叩き落とされた。息を飲むほど洗練された見事な剣
アイスショット
さばきだった。
﹁なっ、氷の矢!﹂
見事に術を破られたペラダンは、一瞬の硬直の後再び杖を振りか
ざして詠唱を行う。
﹁バカの一つ覚えだなっ!﹂
バーンハードは、ペラダンの目線と杖の先で射線を見切っていた。
巨体が見事なサイドステップを刻む。反転したバーンハードは余裕
すら残した身のこなしで、つま先で地を蹴った。
続けざま、繰り返し放たれる魔術攻撃を見事にかわしていく。
シャドウバインド
ペラダンとの距離を一気に詰めた。
﹁影の拘束!﹂
﹁戦う時間を間違えたな。いまは夜だぜっ!﹂
バーンハードは急角度に反転して進行方向を変えた。
肩をぶつけて周囲のかがり火を片っ端から引き倒す。たちまち、
赤々とした灯火が消え失せ、対峙するふたりの周辺が濃い闇に包ま
れた。
ペラダンの操作する黒のサークルが、夜の闇に溶け込んでいく。
瞬間、サークルの位置を見失ったペラダンの動きが硬直化した。
勝利を確信したバーンハードが大きく跳躍する。ペラダンの白い
仮面がカタカタと小刻みに震えだした。銀線が真っ直ぐ魔術師に向
かって伸びた。
﹁が、はっ﹂
次の瞬間、苦悶の声を上げたのはバーンハードだった。
ペラダンは、杖を逆手に持ち替えると、隠していた刃を引きだし
てバーンハードの肩口から腰まで見事に革鎧ごと切り裂いたのだっ
た。
かたずを飲んで見守っていたレイシーの叫び声が鋭く響いた。駆
627
け出そうと前に出た彼女の身体を、ペラダンの下僕のオールディと
ヤングディが太い腕でぐいと元の位置に引き戻した。
あお向けに倒れたバーンハードへとペラダンが歩み寄っていく。
かがり火の光に招かれて辺りを舞っている蛾の一群が、銀色の鱗粉
を撒きながらゆらめいている。夜風が、時折、炎をなぶって形を変
化させている。パチっと、弾けた燃えさしが火の粉を飛ばした。
﹁いつかあなたがいっていましたね。魔術師の唯一の弱点は、接近
戦だと。私はこの一七年間のうのうと暮らしていたわけではないの
だ﹂
﹁はは、そしておまえは俺の忠告を忠実に守ったってわけだ﹂
﹁この瞬間を十七年間待ち望んでいたんだ!﹂
ペラダンは、仕込み杖の刃を上段に構えると、獣のように吠えた。
闇を引き裂くような怒声が、蔵人にはひどく物悲しく聞こえた。
﹁やめてえええっ!﹂
レイシーの悲鳴がかぶるように飛んだ。
バーンハードは微動だにせず、そのままの姿勢でペラダンを見上
げ続ける。
かがり火の炎だけが、ジリジリと音を立てて燃え盛っていた。
﹁どうして、そんな目で私を見るんだ﹂
﹁やれ、ペラダン。おまえにはその資格がある﹂
奇妙な沈黙が降りた。ペラダンに残されたことといえば、刃を振
り下ろして恨みを晴らすだけである。刀身は冴え冴えと真っ赤に照
らされたまま硬直したままだ。
﹁危ないっ!﹂
事態を見守っていた蔵人が叫ぶと同時に、ペラダンに向かって一
本の槍が投げ込まれた。
あお向けに倒れたままだったバーンハードは弾かれたように飛び
上がってペラダンを抱き寄せると位置を入れ替えた。
バーンハードは胸の中心部を貫かれながら、野太い笑みを頬に刻
んだ。
628
後悔を感じさせない、男らしい清々しさがにじんでいた。
﹁なに、を﹂
ペラダンが辺りを見回すと、それぞれに長剣や槍で武装した二十
人ほどの男が、草むらや植えこみから姿をあらわした。ふたりがや
りあっている間に忍び寄っていたのだろうか、全員がすでに抜き身
のまま刃をひらめかせて凶暴な闘志をむき出しにしていた。
集団の中から、やぶにらみの真っ赤な髪をした男が一歩前に進み
出た。
中肉中背でこれといった威圧感はないが、陰険そうな瞳が誰より
も貪欲にギラギラと脂ぎった光を発していた。
﹁貴様、コルネリオ。いったい、なんのつもりだ﹂
ペラダンがコルネリオと呼びかけると、男は薄く笑った。
赤毛の若者は、チェチーリオ一家の代貸、コルネリオであった。
﹁いや、ペラダンの旦那。アンタがウチの若いもん使ってコソコソ
なにやってるんだろうな、と。影で動かれちゃ、気になるじゃない
セイレーン
ですか。だが、金の匂いにゃこちとら敏感なんでさ。調べてみたら
セイレーン
案の定、そこの小娘は滅多にお目にかかれない水精霊の混血だそう
で。水精霊の処女の生肝はエラく高い値で売ることが出来る。そう
でなくても、一度まじわれば長生きできるとかなんとか、付加価値
を付けて奴隷として売り払っても相当なもんだ。お宝のひとり占め
はいけねえよ。なあ、みんな!﹂
コルネリオが、そう叫ぶと、男たちが追従するように哄笑した。
下卑た響きの笑いだった。
﹁貴様、そんなくだらないことで、首を突っ込んできたのか!﹂
﹁いや、旦那。銭は重要だぜ。それだけの大金が手に入れば、武器
や人員も充分に揃えることができる。いいからさっさとその娘を寄
シマ
越しねえ。そいつを手に入れれば、俺の野望が達成できる。つまり、
シマ
チェチーリオをぶっ倒して、やつの縄張りを手に入れることができ
るんだ。やつのやりかたは、甘ぇ。あの肥えた縄張りはやりかた次
第でいくらでも金を搾り取れるんだ。だが、残念なことに銭をつか
629
めるやつってのは、どこの世界にもたったひとりだけなんだ。他の
やつらは、いつも指を咥えて見ているだけだ。俺は、お宝を前にし
て指をしゃぶるだけのうすのろになりたくねえ。おとなしくその娘
っこを寄こさないってんなら、消えてもらうしかねえな﹂
ペラダンは、もはやコルネリオのことは黙殺して、バーンハード
を抱き起こした。
﹁なんで、なんで今更私をかばうんだっ! どうして、いまになっ
て!﹂
バーンハードの受けた槍は致命傷だったのだろう。彼の顔には死
相が浮かんでいた。駆け寄ってきたレイシーが、すぐそばでひざま
ずく。続けて、蔵人が歩み寄ったが、ペラダンは警戒すらしなかっ
た。
﹁父さん!﹂
﹁レイシー、すまない。それから、ペラダン﹂
﹁どうしてだっ、なんでだああっ!!﹂
ペラダンの取り乱しようは、娘以上のものだった。レイシーは、
流れる涙を拭うこともせずに、膝立ちのまま呆然としている。
﹁今度は間にあったな、ペラダン﹂
バーンハードは苦悶の表情でそう述べると、四肢を痙攣させて動
かなくなった。
響き渡るレイシーの声は、哀しいまでの調べを奏でて闇夜に溶け
ていった。
ペラダンが杖を握ってコルネリオの一団に飛びこむのと、蔵人が
レイシーの手を引いて駆け出すのは同時だった。
チェチーリオを倒すという、代貸コルネリオの指揮は豪語するだ
けあって中々見事だった。遠巻きに長槍を使用して、波状攻撃をか
ける。負傷した部下を適宜交代させるなど、理に叶ったものだった。
ペラダンの放つ魔術攻撃に関しては、全員に魔法防御効果のある大
盾を用意し、密集陣形を組ませて、巨大な防御壁を作るなど徹底し
ていた。
630
ペラダンと死闘をまじえている男たち以外の数人は、レイシーを
守る蔵人に殺到した。
蔵人は、退路を塞がれないように片手で鞘ごと剣を振り回すが、
レイシーをかばうあまり思い切った攻勢に出れない。鞘から刃を抜
く暇すらなかった。
﹁死ねやあああっ!﹂
男の一人が大身の槍の穂先を、蔵人の剣に勢いよく叩きつけた。
ガッ、と鋼の砕けた音がして、根元から鞘ごと刀身が転げ落ちた。
全身からサッと血の気が引いていく。
以前、シズカから聞いた訓戒が脳裏をよぎった。
いいか、蔵人。常に闘争に身を置く騎士たるもの、武具には費え
を惜しんではいけない。
最後に頼れるのは鍛え上げた鋼の強度と刃の鋭さだ。
金貨を惜しんでなまくらをつかまされ、切り刻まれる瞬間に悔や
むほど間抜けな死に様はないぞ、と。
﹁あのオッサン、なにがそれなりのもんだよっ﹂
刀身の消えた鍔元を間近に見て、つくづく思った。
今度生まれ変わったら、刀鍛冶になろう、と。
﹁クランドっ!﹂
怯えるレイシーが袖を引く。いきなり現実に引き戻された。
クランドの周りには、五人ほどの男が集まっていた。コルネリオ
は勝利を完全に確信したのか、ペラダンたちの始末を部下に任せて、
頬をゆるめながら近づいてくる。
絶体絶命だった。
周囲に武器になりそうなものを探してみるが、小砂利程度しか見
つからない。
焦りで胸の鼓動が早まり、考えが上手くまとまらない。
落ち着け、まずは落ち着くんだっ!
握り締める柄に巻きつけた汗止めの紐が手汗でぐっしょりと濡れ
ていくのがわかった。
631
﹁よう、この間は世話になったな﹂
﹁今日はたっぷりお返しをしてやるからなぁ、覚悟しろよ﹂
そういったふたりの男は、何日か前に蔵人に叩きのめされた使い
っぱしりであった。
﹁くくく、そこの娘も売り飛ばす前に、たっぷり楽しんでやるから
なぁ﹂
男が剣を振り上げると、白刃がやけに眩しく目に映った。
刀身の消えた剣では受けられない。
死が目の前にあった。
イチかバチか飛びついて武器を奪おうと、全身に力を込めた。
男の身体が前のめりになった。
同時に、草むらから小柄な影が飛びついて男を引き倒す。誰だか
知らないが見事なタックルだった。怯えた男の振るった剣が影を打
った。
ちらりと見えた純白の僧衣に目を疑った。
蔵人は男の腰を蹴りつけると、影を抱き起こした。先ほど別れた
はずのヒルダであった。どうして手に入れたか、彼女はひとふりの
長剣を抱きかかえるようにしていた。百二十センチを超える異様な
長さだった。
ヒルダは蔵人と目があうと、口元から一筋の赤い血を流しながら
薄く口元をゆるめた。
一点の曇りもない、聖女のような微笑みだった。
蔵人は差し出された剣を握り締めると、うめいた。
柄の部分に、教会の白十字が刻まれている。僧兵のものを持ち出
したのだ。
ヒルダの切り下げられた背中から血が流れている。
たちまちに真っ白の僧衣が朱に染まっていった。
﹁ほらね、ちゃんとクランドさんのお役に立てたでしょ。うれしい
な﹂
ヒルダは、汗の滲んだ顔を伏せると荒く息を吐いた。
632
蔵人は、レイシーにヒルダを抱きかかえさせると、鞘を払って直
刀を抜いた。
燃えるような憎悪が全身を駆け抜けていく。焼けつくように胸が
熱いのに、頭の芯は不思議なほど冷え切っていた。許せるものでは
ない。すべて切り伏せるまでだった。
﹁てめえら、今夜はもう峰を返さねえぜ!﹂
長剣が風を巻いて走った。
白刃をふたりの男たちの顔へと交互に銀線を走らせた。男たちの
顔面に走った赤い線がみるみるうちに太くなり、鮮血が盛り上がり、
吹き出した。
ふたりを切り伏せると、残った三人に向かって猛然と駆け出した。
怯えた男が目をつぶって槍を繰り出した。身をそらしてかわすと、
脇腹に向かって刃を突き刺した。
﹁ぼぐええっ﹂
男が赤黒い血を吐いてのけぞった。
蔵人は、男の胸を蹴りつけて剣を抜き取ると、隣の呆然とした男
に狙いを定めた。長剣を男の顔面へと横殴りに叩きつけた。すさま
じい剣速に反応できないまま、男は目鼻を完全に破壊されて、腐っ
た臓物のような断面をさらし、半回転してかがり火にぶつかった。
かがり火は、轟音を立てて地面に倒れると、火の粉を辺りに撒い
た。ごうごうと音を立てて、転がった燃えさしが枯れ草に燃え移っ
た。
﹁てめえら、ペラダンより先に、さっさとそいつを冥土に送っちま
え!﹂
コルネリオの指示を受けて、七人が加勢に駆けつけた。
蔵人は転がった燃えさしのたきぎを拾い上げると、片っ端から向
かってくる男たちに投げつけた。
﹁やめろや!﹂
﹁よせい、畜生め!﹂
蔵人は敵のひるんだ隙を見て、加勢を待っていた一番近くの男へ
633
と跳躍した。抱えるようにして男の首に腕をまわすと、逆手に持っ
た剣を胸元に叩き込んだ。
男の腰を蹴って長剣を抜き取ると、雄叫びを上げて七人に向かっ
て猛然と飛びこんでいく。身を低くして長剣を振り回すと、脇腹を
切り裂かれた男があお向けに倒れた。怯えた男たちが怯えて蔵人か
ら距離をとった。
いともたやすく包囲網を破りきったのだ。
蔵人は、真正面の男に飛び上がって長剣を振り下ろした。男の顔
面に銀線が見事に刻まれた。男は断末魔を上げながら両手を突き上
げて硬直した。
背後からふたりの男が迫ってきた。
蔵人は背後を見ないまま逆手に持った長剣を繰り出した。刀身は
男の腹へと半分以上埋まった。男の身体を盾にして、瞬時に反転す
ると向かい来る男の顔面に鞘を叩きつけた。鉄ごしらえの鞘はそれ
自体が鉄の棒みたいなものである。ぐしゃり、と鈍い音を立て、顔
面を砕かれた男は地面に膝をついて悶絶した。
蔵人は、悠々と剣を抜きとると、座りこんだ男の後頭部をやすや
すと叩き割った。砕けた頭蓋から、真っ赤な脳漿がびたびたと音を
立てて地面を叩いた。
﹁ひいいっ!﹂
おびえながら後ろを見せた男の背中に激しい一撃を浴びせた。真
一文字に深々と切り下げられた男は、泳ぐように両手で空をかきな
がらうつ伏せに倒れた。
蔵人は駆け寄って長剣を両手で持つと心臓に向かって垂直に突き
下ろした。男はピンでとめられた標本の虫のように、四肢を動かし
てしばらくもがいたが、やがて力尽きた。
最後のひとりは、剣を捨てて逃げようとするが、恐怖のあまり足
をもつれさせてひとりでに転んだ。蔵人は、そばのかがり火を男に
向かって蹴倒した。
﹁わひいいいっ!!﹂
634
男は一抱えもあるかがり火の炎に全身をつつまれながら、踊るよ
うに転がりまわる。
蔵人は、炎に包まれた男の胸もとへと片手打ちで長剣を叩き込む。
男は、全身から黒い煙を上げながら、やがて動かなくなった。
瞬きの間に十一人の手下を殺されたコルネリオは、幽鬼のような
顔つきで呆然とその場に立ち尽くしていた。残った手下もペラダン
たちに倒されたのか、コルネリオを守る護衛はもうひとりもいなか
った。
セイレーン
蔵人は全身で息をしながらじりじりとコルネリオに近づいていく。
﹁待った、待った! 話をしようじゃねえか。そうだ、その水精霊
の娘はアンタにやるよ。だからさ、ここはお互いに大人になって⋮
⋮﹂
蔵人はコルネリオがすべて言葉を吐き終わる前に、石段を蹴って
跳躍した。
﹁レイシーは元々俺のもんだぜ!﹂
長剣が斜めに鋭い銀線を描いた。コルネリオは両手を突き出した
まま、首の根元を断ち割られて、鮮血を撒き散らしながら絶息した。
﹁これが人間の本質だ。金や色のためならなんでもやる。冒険者な
どその最たるものだ。夢を追って迷宮に潜るなど聞こえはいいが、
暗闇の中で戦い続けるうちに魂まで黒く染まっていく。その汚れや
シミは二度と落ちることはない。クランド、貴方の目指す最期は、
ここに転がる骸たちだ。さあ、剣を構えろ。君は、私を斬らねば納
得がいかないだろう﹂
ペラダンは蔵人を指差してそういうと、杖を構えた。背後には、
コルネリオとの闘争で命を落とした下僕のオールディとヤングディ
635
アイスショット
の死体が目を見開きながらあお向けに転がっていた。
蔵人が駆け出すと同時にペラダンが氷の矢を放った。
空気を引き裂く音を耳元で聞きながら身をそらしてかわした。
バーンハードがやったように、目線とかざした杖先の射線を見極
めれば氷柱をかわすのは難しくなかった。蔵人の全身は水を浴びた
ように汗で濡れそぼっていた。だが、ペラダンの精神力も尽きかけ
ている。
勝負の潮合が満ちた。
蔵人は吠えながら剣を水平に構えて疾走する。
アイストルネード
応えるようにして、ペラダンの呪文が放たれた。
﹁氷の嵐!!﹂
杖先にこめられた魔力が氷の吹雪を巻き起こし、蔵人に向かって
冷気の嵐を叩きつけた。
周囲の気温が一気に下がると、蔵人に向かって渦巻いた氷点下の
風に乗って無数の氷柱が降りそそいだ。
人為的に発生させた氷点下の霧が辺りを覆う。
氷の矢が肉を打つ鈍い音だけが絶え間なく響き渡った。
レイシーの悲鳴が引き裂くように冴え渡った。
勝利を確信したペラダンががくりと膝を突く。最後に放った魔術
で消耗しきったのだった。白い霧が吹き付けてきた夜風に流れて辺
りの視界がクリアになっていく。
そこに佇立していたのは、二体の骸を盾にして氷柱の矢を防いで
いた蔵人だった。
﹁馬鹿な﹂
シャドウバインド
蔵人は骸を放り捨てると突進した。
﹁くっ、影の拘束!﹂
ペラダンは対象の動きを封じる拘束魔術を唱えた。
蔵人の動きを封じるため、黒のサークルが地面を真っ直ぐにすべ
っていく。
﹁同じ手は通用しねえぜ!﹂
636
蔵人はそう叫ぶと足元に迫った黒のサークルに向かって鞘を地面
に突き立てると真横に転がった。サークルは鞘を拘束対象と認識す
ると、真っ黒な触手を無数に伸ばして鞘を大地に縛り付けた。一旦、
魔術効果が現れると解除するのに時間が必要になる。
そのタイムラグが、勝敗を決した。
地を蹴って跳躍した蔵人は最後の力を振り絞って長剣を振り抜い
た。
銀線が魔術師の肩口から腰までに斜めに走る。真っ赤な血潮が吹
き出すように飛び散ると、ペラダンの腰はバランスを欠いて踊るよ
うに崩れた。地面に顔を打ちつけたのか、ピシッと、音を立てて白
い仮面が真っ二つに割れて左右にすべり落ちる。
自然、ペラダンの素顔が露わになった。
流れるような金髪からのぞく素顔は、凄絶なまでに美しい女性の
ものだった。
ならば、彼女の異常な執着心や怒りも理解できた。
ペラダンは命をかけてバーンハードと迷宮に潜り続ける内に、い
つしか自分でも制御出来ない感情を彼に抱いていたのであろう。
可愛さ余って憎さ百倍、という言葉もある。
最後の瞬間に、選ばれなかった彼女の怒りはいかばかりのものだ
っただろうか。
ペラダンはうつ伏せに倒れると顔を伏せて途切れ途切れに言葉を
発しているが、それは既に聞き取れないかすれたものだった。
ペラダンは口元から血泡を吐きながら、這いずりながらバーンハ
ードの元へとすり寄っていった。冷たくなった男の手に指先を伸ば
す。
蔵人はふるえるペラダンの瞳をはじめて直視した。
それは、切ない気持ちを抱えたまま、恋うる男を慕う、ひとりの
女のものだった。
蔵人は無言のままペラダンの手を引くとバーンハードの冷たくな
った手のひらに重ねあわせた。ペラダンは驚いたように顔を上げる
637
と、それからわずかに目を細めて唇をゆるめた。
蔵人はひとつになった男女の影を見つめながら、手に持った長剣
をようやく鞘に収めた。
長かった夜が明けようとしていた。屋敷周辺の遺体は、知らせに
よって駆けつけた教会関係者の手によって運び出されていった。
司教であるマルコの権威は思った以上のものだった。
蔵人たちは、屋敷の入口で疲れきってひとかたまりになったまま、
その作業を眺め続けていた。
﹁あたし、とうとうひとりぼっちになっちゃったよ﹂
レイシーはそうつぶやくと、虚脱した顔で肩を震わせはじめた。
蔵人は、無言のまま彼女の肩を抱くと、力強い声でいった。
﹁おまえには俺がいる。ずっと、そばにいるから﹂
レイシーは、蔵人の胸にむしゃぶりつくと、子どもに返ったよう
にむせび泣いた。
ヒルダはそっと立ち上がると、両手を組んで鈴の鳴るような声で
レクイエム
歌いだした。
鎮魂歌だ。
ヒルダはある程度まで歌い上げると、振り返ってやわらかく微笑
んだ。
﹁やっぱり、本職のようには上手く歌えませんね。レイシー、お手
本見せてくれませんか﹂
レイシーがはっと、なって顔を上げた。蔵人は彼女の背にそっと
手を置くと、優しく撫でた。
レクイエム
レイシーは人差し指で目元を拭うと、石段に立った。
鎮魂歌が朗々と響き渡る。人々が作業を中断して、振り返った。
638
大丈夫だ。
大丈夫だよ、レイシー。
切々と胸を打つ唄声は、これからも銀馬車亭を覆うやさしい闇に
溶けながら、皆の心を潤すだろう。そう願ってやまない。
蔵人は、レイシーの美しい横顔をじっと眺めながら、妙なる調べ
に耳を澄ませた。
639
Lv41﹁まどろみの中で﹂
銀馬車亭は営業を再開した。
主であるバーンハード亡きいま、レイシーが事実上、土地家屋の
名義人である。
変更の手続きなどに多少手間どりはしたが、商店街の馴染みの人
々の尽力もあり、以前よりは営業時間を短縮して店を開いていた。
﹁⋮⋮って、私の話きちんと聞いてましたか、クランドさん﹂
﹁うん。ああ、聞いてる聞いてる﹂
ペラダン達との死闘の数日後の夜半、蔵人はいつものように銀馬
車亭二階の大部屋で、ヒルダをはべらせて酒をあおっていた。階下
ポンドル
からは、酔客の騒ぐ声が響いてくる。開け放った窓からは夜風が涼
気を運んできた。
﹁にしても、チェチーリオの親分もポンと十万P︵※日本円にして
約百万円︶もくれるとは、太っ腹じゃねえか﹂
ポンドル
﹁んもお、親分さんはくれたわけじゃないですよ。ちゃんと返さな
いと﹂
蔵人は貸元チェチーリオに借りた五十万Pを返す時に、相当ゴネ
た。
理由は、チェチーリオから借り受けた差料が肝心な部分でまった
く役に立たなかったことをチクチク責めたのである。借りるときの
地蔵顔、返すときの閻魔顔を地でいく、もっとも手に負えない人間
の見本であった。しかし、蔵人からすれば充分ないい分ではあった。
640
もっとも必要な場面で得物を失ったのである。蔵人たちは、ヒル
ダが到着しなければ、確実に死んでいた。普通に考えて、金銭で償
える程度の過失ではなかった。ときには命を張って男の意地を通す
ポンドル
稼業のチェチーリオも蔵人の理屈には返す言葉もなく、結果として
担保なしで十万Pを黙って差し出した。そういった意味では、チェ
チーリオ実に器量の大きな男であった。蔵人のセコさが際立った。
ギルド
﹁やーだね、これは俺がもらったんだから、もう俺のもんだ﹂
これでようやく冒険者組合に登録できるのである。感慨もひとし
おだった。
﹁まったく。子供みたいなことするんですから﹂
ヒルダはふうっと小さく息をはくと、座っていた椅子から立ち上
がる。それから寝台に座ったまま酒瓶から直飲みをしていた蔵人の
隣に移動した。座った拍子に、ヒルダの手にしたカップが小さく揺
れて中身の酒がこぼれそうになった。慌てて、蔵人が手を伸ばすと
彼女を正面から抱きかかえるような形になった。
﹁なんだ、もう酔ったのかよ﹂
﹁そう、見えますか?﹂
ヒルダは目元のふちをうっすら赤く染めながら、熱っぽい瞳で蔵
人を見つめた。
やべえ、こいつ色っぽいな。やりてぇ。
﹁ん、あははっ。ちょっとお、いきなりですかぁ﹂
蔵人は鼻息荒くヒルダの胸元に顔を寄せると、ふたつの乳房へと
ローブ越しに顔を押しつけた。アレはすでに硬く隆起している。ヒ
ルダは媚態を露わにしながら、蔵人の筒先へ手を伸ばすとぎゅっと
握り締めた。
﹁んぎっ!?﹂
﹁クランドさぁん、ここ。もう、こんなに硬くなってますよぉ﹂
﹁すまぬ。もう、辛抱たまらんですたい﹂
蔵人がヒルダをそのまま押し倒そうと上体を斜めに傾ける。
寝台のマットが、ぎしりと音を立てた。
641
同時に、入口の扉が大きく音を立てて開いた。
﹁ク・ラ・ン・ド? なにしてるのかな、いったい﹂
そこには鬼、もとい、晴れてこの銀馬車亭の主となったレイシー
が、真紅のドレスを吹き付ける夜風にはためかせながら仁王立ちし
ていた。
くそ、なんでこんなタイミングで!!
﹁おい! 大丈夫か、ヒルダ! なに、気分が悪いのか。いやぁ、
レイシー。実は、ふたりで仲良く健全にお酒を嗜んでいたら、急に
ヒルダの顔色が変色して﹂
﹁へ、変色っ?﹂
﹁うそ、本当なの。大丈夫、ヒルダ?﹂
レイシーは持ち前の純真な性格から、蔵人のその場限りの嘘にま
るっと騙されると、心配げにヒルダの顔を覗きこむ。
﹁うん、やはは。平気ですよ、そうそう。クランドさんに看病して
もらってたんですよ!﹂
ヒルダもレイシーが蔵人に惹かれているのを気づいていたので、
自分だけ抜け駆けしたせいか、バツが悪くなって蔵人の嘘に乗った。
﹁いやぁ、本当酒って怖いわぁ。ホント、魔性の飲み物やわぁ﹂
蔵人はすべての行為を酒のせいにして逃げた。ヒルダは彼の態度
を見ながら、ふつふつと湧き上がってくるやりどころのない怒りを
こらえることができなかった。
ヒルダにしてみれば、そもそも、彼が男らしく自分たちの関係を
レイシーに正直に伝えれば、こんなコソコソすることはないのに、
という考えがあった。
あれから、何度か関係を持とうとしたのだが、いいところになる
とレイシーの本能的な直感が働くのか、二階にやってきてはふたり
の逢瀬を︵※ヒルダ視点︶邪魔するのだった。
もっとも、蔵人に定期的収入が確立して、この無料下宿所である
銀馬車亭を出れば思う存分ふたりは愛を重ねることができるはずで
ある。そういう意味でいつまでもグズグズしている部分は不満であ
642
った。
﹁やはは﹂
ヒルダは表面上笑いを作りながら、レイシーの見えない位置で、
握っていたモノをドアノブを扱うように強く捻った。
﹁ひぎいっ!?﹂
﹁どうしたのクランド。急に切なそうな声を出して。ちょっと、豚
さんみたいな鳴き声だったよ﹂
レイシーが奇声を発した蔵人を気遣っていった。
﹁あはは、本当。かわいいコブタちゃんですよねぇ。せっかく、い
い子いい子してあげようと思っていたのに。とっても、残念﹂
﹁だから、ひぎいいっ!﹂
﹁クランドっ!?﹂
この後、ヒルダは蔵人の大切な部分を思う存分レイシーに見えな
いようにひねり回して、ある程度満足すると帰っていった。蔵人は、
ヒルダの責め苦がちょっと癖になっていた。
ヒルダを大聖堂に送っていった後、蔵人は中途半端に高められた
欲情の炎を打ち消すために、銀馬車亭の大部屋で一人孤独に酒をあ
おっていた。あきらかに過度の飲酒である。完全に酩酊状態であっ
た。
蔵人が帰宅したときは営業もちょうど終了していたのか、臨時で
ヘルプに入っているレイシーの友人たちが店を出るところだった。
幾人かは既に顔見知りで、去り際に、今夜も頑張りなさいよ、と
かレイシーをたまには休ませてあげてね、などと勘違いしたセリフ
を投げかけていった。
くそ、今夜こそ頑張りたいよ、俺だって!
643
蔵人の目指す究極目標はいまだ果たされていなかった。
ズバリいうとレイシーをおいしくいただくことである。
﹁弔いとかいろいろあったからな、うん。別に、俺が意気地なしな
わけではないぞ﹂
蔵人がグラスを置いて、ここは男らしく夜這いでもいっちょかけ
ようかと、寝台から腰を浮かせかけると、部屋の入口がこんこんと、
小さくノックされた。
﹁お入り!﹂
蔵人が勢いよく声をかけると、扉が薄めに開いた。
そこには、恥ずかしげな表情で枕を抱いたレイシーの姿があった。
﹁ねえ、いっしょに寝ていいかな﹂
蔵人は惚けたままうなづくと、再び浮かせかけた腰を下ろした。
ランプの明かりを消すと、世界が黒一色に染まった。目をジッと
凝らしていると、徐々に闇へと眼が慣れていく。蔵人は暗闇の中で
次第に輪郭を浮かび上がらせていく室内の調度品から目を離すと、
隣で身体をガチガチにしているレイシーのムッとするような女独特
の体臭に目眩を覚えた。
﹁もう寝ちゃった?﹂
﹁いんや﹂
寝られるはずがない。蔵人は不能ではないどころか、精気があり
余っている若者である。
蔵人がギリリと歯を噛み締めて己の内なる理性を呼び起こしてい
ると、レイシーの細くしなやかな手がそろそろと自分の腕に絡めら
れるのを感じた。
﹁ぎゅってされるのは、いや?﹂
644
大好き。じゃなくて、ここはハードボイルドに決めるぜ。
﹁嫌ならいっしょにゃ寝ねえよ。眠れないのか﹂
﹁うん。父さんがいたときはさ、考えもしなかったよ。ここってす
っごく広いんだよね。ひとりじゃ、こわくてたまらないの﹂
無理もないことだった。バーンハードはまだまだ働き盛りの年で
体力的にも若者とは見劣りはしなかった。レイシーはまだ十七で、
くに
嫁にでも行かない限り、こんなに早く父親と別れるとは考えもしな
かったのだろう。
くに
﹁ねえ、クランドって故郷はどこなの? ずっと旅してきたんでし
ょう。家族とかはいないの?﹂
﹁今日は随分と聞きたがりだな。そうだな、故郷はここからずーっ
と遠くかな。考えてみれば、この街まで随分と歩いたけど旅をした
っていえるのは生まれてはじめてかもな﹂
﹁そう﹂
レイシーは蔵人が故意に家族のことを答えなかったのを、殊更深
く尋ねなかった。
帰る故郷のある蔵人くらいの年齢の男なら妻帯していて子供がい
てもおかしくはない。
知人も身よりもないこの街まで流れ着いたのは、よくよくの事情
があったのだろう。
彼もまた孤独なのだ。
そう、考えるとレイシーは自分と同じ蔵人の境遇に強い共感を覚
え、さびしさのかけらも見せない彼のことがよりいっそう身近に思
え、いとおしくてたまらなくなった。
﹁ずっと旅をしてて、辛くなかった?﹂
﹁俺はさ、レイシー。この年までずーっとぬるま湯に浸かった生き
方をしていたからな。そういう点では、かなりこたえたけど、まあ、
慣れたさ。人間はな、どんな苦しいことでもいつかは慣れるもんだ。
スリきれた靴底みたいにボロボロになって、その内なにも感じなく
なる。心のヒダが平坦になっていくんだ。考えてみれば、レイシー
645
にあの場所で会わなかったらいまも野良犬同然にその辺りをさ迷っ
てたかな。はは、ガキどもに石投げられたりしてたかもな﹂
﹁⋮⋮クランド﹂
﹁金を一銭も入れない身で図々しいんだが、ここは極楽だよ。目を
閉じれば屋根があって、風を遮る壁もある。一日歩き疲れたあとに
身体を横たえる樹の下や、岩陰をいちいち探す必要もない。雨に打
たれながら、空きっ腹をかかえながら明日のメシの心配もせずに済
むんだ。追い剥ぎや野犬、荒野をうろつく化物に怯えることもない。
毎日が夢のようだ。そして、いつかその夢が覚めねえかと怯えてい
る自分がいるんだ﹂
レイシーは蔵人の言葉を聞きながらはじめて彼の心に触れること
ができた気がした。
胸の中に熱いものがどんどんこみ上げてくる。レイシーは強い感
情のうねりをコントロールできずに、目尻に盛り上がった涙がこぼ
れそうになった。
﹁ずっとここにいていいよ、ううん、違う。あたしがクランドにず
っとここにいてほしいんだよ。ごめんね、辛いこと聞いてごめんね。
あたし、いつも自分のことばっかりだっ。⋮⋮いまだって本当はや
さしくして欲しいから勝手にベッドまで押しかけてっ﹂
﹁いいんだよ、別に。ほら﹂
﹁あっ﹂
蔵人はレイシーの肩に手をかけて引き寄せると、そのむっちりと
した身体を自分の胸の中へすっぽりとおさめた。なめらかな砂色の
髪へと手を伸ばして髪をすいてやる。指を引きぬくたびに、さらさ
らとした流れる感触だけが残った。
﹁おまえが欲しい。抱くぞ﹂
蔵人はレイシーの耳元で囁くと、彼女の小さな顎をつまんで顔を
正面から見つめた。
あまりにもストレートな言葉であった。レイシーは、顔を真っ赤
にすると、こくんとうなずいた。
646
レイシーのほつれた髪の間から覗く瞳がそっと伏せられる。
蔵人は、桜色の唇にそっと口づけると、徐々に舌を押しこんでい
く。彼女は、驚いたように一度目を見開くが、徐々に自分の唇を開
くと、蔵人の舌を迎え入れた。
おかしいな。
もっとロマンチックな展開になるかと思ってたら、いつの間にか
アニマルみたいにやってたぜ!
蔵人は隣で安らかな寝息を立てているレイシーの寝顔を見ながら、
ううむ、と唸った。
本音をいうと、あと五、六発は抜きたいのだが、精神的には充足
しているので今日は我慢しようと思う。
﹁ふあああ、ねむ⋮⋮﹂
蔵人はレイシーの長く艶やかな髪を幾度か指先に絡めては弄び、
それからもう一度いまだ濃い火照りの残った彼女の白く美しい肉体
を胸元にかき寄せると、まどろみの中に落ちていった。
﹁おかしいですね﹂
翌朝、やや遅い朝食を一階のカウンターで蔵人たちが摂っている
と、当然のように押しかけてきたヒルダがカップの中のミルクを舐
めながら疑惑の視線を投げかけだした。
﹁おかしいって、なにがだよ﹂
647
蔵人は平静を保ちつつも、黒パンにはちみつをかけた半切れを、
ゆっくりと口元から離した。
﹁なんだかレイシーの機嫌が異常に良いです。なにかありましたか﹂
﹁なんにもないよー。ほら、ゆで玉子ちゃんもあるよ。ヒルダもい
かが﹂
レイシーが歌うように剥いたタマゴを差し出すと、ヒルダは軽く
鼻を鳴らした。
﹁結構です。朝食は、教会で済ませましたから﹂
レイシーはこの世の春といった表情でにこやかに給仕を行ってい
る。ヒルダは猜疑心を露わにしながら、つやつやとした彼女の肌つ
やを、刺すように眺めだした。
﹁あ、クランド。口元にパンくずついてるよ﹂
﹁んんん。そうか?﹂
レイシーはごく自然な動作で蔵人の下唇に付いていたパンくずを
摘むと、自分の口の中に放り込んだ。ヒルダの身体があまりのこと
に硬直した。
﹁⋮⋮ちょっと待ってください。なにか、いまおかしなものが私の
目に映りましたよぉ。おかしいなあ、なんでだろうなぁ。ねえ、ク
ランドさん。ちょーっと、私たちの関係性をレイシーも交えてお話
しませんかねぇ﹂
﹁関係性?﹂
きょとんとした表情でレイシーは人差し指を口元に当てながら小
首をかしげた。
対照的にヒルダの顔つきは、明らかに嫉妬と怒りの二色に塗りた
くられている。
いわゆる修羅だ。
蔵人は予知能力がない自分にも、この先の展開次第で破滅が待ち
受けている状況が一瞬で理解できた。
段階を積んで構築していたプチハーレム崩壊の危機であった。 ﹁あああっ!! そうだっ、やっべ、マジやっべ。おい、レイシー、
648
ギルド
ごめん。今日はヒルダと冒険者組合へ登録に行く予定だったわ。あ
ーうまかった。マジ、朝飯最高だった。んじゃ、急いでるんでっ!﹂
蔵人はヒルダの手を引くとカウンターの椅子から出口のスイング
ドアに向けて駆け出した。
﹁あっ、ちょっとおお。お昼ご飯はぁーどうするするのぉー﹂
﹁適当に済ませるからぁー﹂
蔵人は自分の遥か後方の店先にいるレイシーが投げキスをしてい
るのが、ヒルダにばれませんようにと天に祈った。
蔵人は銀馬車亭からかなり離れた位置まで移動すると、何事もな
かったようにヒルダの手を引きながら、ゆっくりと散策をはじめた。
当然、その間ヒルダは顔を伏せたまま無言である。彼女の能面のよ
うな顔は説明を求めている。
もっとも、正直に、昨晩レイシーの変な穴に自分の変な棒を楽し
く出し入れしました、とはいえなかった。
いったところで大惨事が早まるだけである。
﹁いやあ、夏ですなあ。こう、真っ青な空を見上げていると、ここ
ろまで晴れ晴れとしてくるなぁ。そう、思いませんか。シスター﹂
﹁ちょっと、手を離してください。痛いんですよ﹂
﹁あ、ごめんなさい﹂
ヒルダはよそよそしい口調で蔵人につかまれていた手を振り切る
と、その場に立ち止まったまま動かなくなった。街を歩いている人
々が、すれ違いざまに不似合いなふたりの関係性を探ろうと時折チ
ラ見するが、獰猛なヒルダの視線に睨まれると、怯えたように足取
りを早めてその場を去っていった。大通りの真ん中にぽっかりとお
かしな空間ができた。
蔵人の額におかしな汗がだらだらと滝のように流れはじめた。
おかしい。
なぜ俺がこんな真昼間から往来のど真ん中で糾弾されなければい
けないのだ。
望むままに愛を与えてやったのに、不条理ではないか。
649
二股をかけるからいけないとか、愛はただひとりのみに捧げなけ
ればならないとか、そんなおためごかしを抜かすやつは許さない。
この俺が刺し殺す切り殺す叩き殺すブチ殺す。
そうだ! なにも恐ることはない。
迷わずヤれよ、ヤレばわかるさ、と猪木もいっている︵※いって
いない︶
蔵人は、とりあえず攻勢に出ればなんとかなるんじゃないか、と
見切り発車をして、強気でヒルダに声をかけた。
﹁おい、ヒルダ!﹂
﹁なんだよ﹂
え、あ、その怖いよ、このお嬢さん。
蔵人はヒルダのあまりの形相に怯えた。
負け犬根性丸出しであった。
﹁あっ⋮⋮はい、あの⋮⋮マジ、すんません。なんかすんません﹂
﹁なにを謝っているんですか。私にちゃんと理解できるように説明
してくださいな﹂
ヒルダはにこやかに慈母のような微笑みを口元に湛えている。蔵
人はそのそこに潜む真冬のような凍てついた鋭さに気づき、静かに
恐怖した。
﹁いや、その⋮⋮なにか、ヒルダさんの気分を朝から害したみたい
で、マジすんません。生きててごめんなさい﹂
﹁別に怒ってませんから。ただ、どうしてレイシーに私たちの関係
性を秘密にしようとしたことを問うているのですよ﹂
﹁え、なんスかね。その、関係性って。自分、無学でよく分かんな
いスけど﹂
﹁はあああっ!?﹂
﹁ひいいいいっ﹂
おかしい。
何日か前の、自分をかばって傷ついた天使はどこにいってしまっ
たのだろうか。
650
そうか、あの時の純粋なヒルダは天に召されたのだ。
蔵人はかように強く思うことでこころの冷静さを保とうとした。
無理だったが。
﹁ちょっとそこでお話しましょうか﹂
﹁あの、自分あんまりおノド渇いていないんですけど﹂
﹁私が乾いているんですよ。むしろ乾ききってます。逆らうんです
か?﹂
ギルド
﹁いえ、逆らうとか、そういうつもりは毛頭ありませんよ。ただ、
今日は冒険者組合に登録に行くと決めていたではありませんか。受
付時間とか決まってますし、そのぉ、遅れたりするのとかは人とし
てどうかと思いますが﹂
﹁本当に、冒険者になるつもりなんですか﹂
ヒルダの瞳が気遣わしげに曇る。
﹁ああ、俺だっておまえとのことをなにも考えちゃいないわけじゃ
ない。これからの将来の為にもダンジョンを攻略して必ず名を挙げ
てみせる。なんだかんだいったって、いつまでも他人様にすがって
生活していくわけにもいかないしな。俺は自分の力で稼いでおまえ
にも、なにか買ってやりてえし。それくらいできなきゃ男じゃねえ
だろ﹂
﹁クランドさん⋮⋮﹂
先程までの剣幕はどこへやら、ヒルダは感じ入ったように両手を
胸の前で組み合わせると、ほわっとした表情で蔵人を見つめている。
よしっ、上手くごまかせたぜっ。根来忍法話すり替えの術でござ
る。
蔵人はヒルダの手を引くと、街路の木陰に移動した。茂った厚い
緑の葉が、夏の日差しを遮っている。ひんやりとした空気が留まっ
ていて涼を得るには良い場所であった。
﹁どうしたんですか、いきなり﹂
戸惑うヒルダの唇を有無を言わせず奪った。蔵人は彼女の小さな
肩を抱き寄せて、ねっとりと口を吸った。ヒルダは次第にとろんと
651
表情を弛緩させると、目元に朱を滲ませながらおずおずと小さな唇
を開いて蔵人の突き入れる舌を迎えいれた。
﹁んんんっ⋮⋮あむぅ⋮⋮あぅ﹂
ちゅぷちゅぷと音を立て、唾液を互いの口中で攪拌する。
そっと、顔を離すと、糸のようなつばが、少女の桜色の唇から垂
れた。
﹁んもう⋮⋮冒険者になってもあぶないことしちゃ、ヤですよ﹂
ヒルダは火照った頬のまま口元をゆるめた。普通ならこんな手は
通用しなそうだが、そこは一度でも肌を重ねた相手である。彼女は、
蔵人の思いを再確認せねば不安だったのだろう。破局の危険を回避
ギルド
したふたりは、仲睦まじく腕を組みながら︵※かなり暑苦しい︶大
通りにある冒険者組合の事務所前まで来ると、足を留めた。
﹁じゃあ、私は向かいの喫茶店で待ってますから、手続きが終わり
次第迎えに来てくださいね﹂
﹁おう。わかった﹂
﹁クランドさん﹂
﹁なんだ﹂
かなりの身長差のあるヒルダが背伸びをしながら、不意打ち気味
に蔵人の唇へ、小鳥のように、ついばむキスをした。
えへへ、と笑いながらヒルダが遠ざかっていくのを見送る。
蔵人が決意も新たに事務所への階段を登りはじめると、入口に立
っていたふたりの番兵が憤怒の表情で睨みつけている。
この世の不条理を一身に背負ったような憤怒の表情だった。
﹁死ねよ、リア充がっ﹂
﹁殺すぞ、クソ小僧がッ!!﹂
﹁世の中甘かねぇぞッ!!﹂
﹁ダンジョンをなめてんじゃねーよ、若造がっ﹂
前途は多難そうだった。
652
653
Lv42﹁ギルド再襲撃﹂
ポンドル
登録料、十万P。
ギルド
推薦人三人の添え書き。
冒険者組合に登録するには、以上のふたつの難問が巌のようにそ
びえ立っていた。
だが、蔵人は手を尽くして、三名の添え書きを手に入れた。
すなわち、リースフィールド街自警団長チェチーリオ、シルバー
ヴィラゴ教区統括司教マルコ、シュポンハイム伯爵第十五子ヒルデ
ガルド、である。
このふたつの要項ををクリアしたいま、蔵人にとってもはやギル
ド入会に関して、なんの憂いもなかった。もっとも、書類を作成し
添え書きも集めたのはヒルダであったが、そこはご愛嬌といったと
ころか。
蔵人がしたことは書類を持って事務所に歩いてきたことくらいで
ある。
彼は人を使うことに関しては意外と上手かった。
﹁チッ⋮⋮確かに書類には不備はありませんね。渋々ながら当組合
はクランド・シモン氏の入会登録を確かに受理します﹂
ギルドの受付嬢ネリーは軽く舌打ちをすると、証書に組合の印を
押した。
これで余裕のないときならば、彼女の態度にいちゃもんのひとつ
も付けるところだが、今日に限っては完全なる勝利である。
654
蔵人は不敵な笑みを浮かべたまま片目をつぶって不器用に親愛の
ウインクを送った。
﹁なんですか、おぞましい。登録取り消しにしますよ﹂
ネリーは、道端で腐乱した小動物の臓物を見るような蔑んだ視線
を送った。
﹁おいおい、おまえにそんな権限無いだろうが。ま、これからは長
いつき合いになりそうだな。仲良くやってこーぜ﹂
﹁ぺっ﹂
ネリーは差し出された蔵人の手のひらに唾を吐いた。友好の証を
足蹴にする非道な行為である。さすがの蔵人もこれは許せない。薄
く余裕の笑みを浮かべると、手のひらに吐かれた唾を舌を出して舐
めくった。
﹁変態、変態、変態!﹂
ネリーは真っ赤な顔をして髪を振り乱して怒鳴りだした。カウン
ターの辺りに何ごとかと人々が集まってくるが、先日の騒ぎのとき
に相当顔を売ってしまったのか、蔵人の顔を見るとうんざりした顔
でそっと離れていった。
皆、いろいろと忙しいのである。
﹁ふふん、俺のことが好きなクセに﹂
﹁⋮⋮甘く見てましたよ。あなたという汚物の変態具合を。これか
らは、あなたのことを人間ではなく畜生だと思って接しますので、
妙な気を起こさないで下さいね﹂
﹁予告する。おまえはかならず俺のモノになるさ。ったく、モテる
男はつらいぜ﹂
﹁私も人と接するこの仕事がこれほどまで苦痛だとは思いもしてい
ませんでしたよ。いや、人ではなかったですね。クランドですし﹂
﹁おいおい、まったくいきなりファーストネームかよ。素直じゃな
いやつめ﹂
﹁まずこちらをお渡しします﹂
﹁無視かよ⋮⋮なんだこれは﹂
655
蔵人は手渡された銀色のタグをもてあそびながら聞いた。タグは
一枚で、半ばで折りとれるようにできている。上部に革紐が通され
ドッグタグ
首から下げられるようにできていた。
﹁それが冒険者個々の認識票です。氏名と認識番号が打刻されおり、
虫けら⋮⋮もといクランドの死体をダンジョンから回収するときに
主に役立ちます。それと、この事務所の地下通路から直通ルートで
迷宮に潜れるので通行証も兼ねております。破損や消失の際には有
料で再発行を請け負っていますので、お気軽にお申しつけください。
主に私が休みのときに﹂
﹁いろいろと突っこみたい部分があるがあえてスルーするわ。つま
りは、死亡の際に本人確認するのとギルドの会員証も兼ねてるって
ことだな﹂
﹁そうですよ、物分りの悪いサルですね。失礼、サルに悪いですね。
ゴミ﹂
﹁なぜ悪い方にいい直した。素直じゃないやつめ。俺が最深部攻略
に成功してもサインはやらないからな﹂
﹁サインの練習をするより遺言証書を作成しておいたほうがいいで
すよ﹂
﹁絶対俺の肉奴隷にしてやる。昼夜を問わず陰嚢を舐めさせてやる﹂
﹁うるさい人非人ですね。私のような美女と口が利けるだけでも光
栄と思わなければならない存在なのに﹂
﹁自分で美女いうなや。⋮⋮あ、お守りがわりに下の毛くんない?﹂
﹁そういうことは、おうちに帰ってママに頼んでくださいね。この
童貞くん﹂
﹁どどどど、童貞じゃないやいっ﹂
﹁素人童貞。性病になって死ねばいいのに﹂
受付のネリーと心あたたまる交友を深めた蔵人は、とりあえず本
日は登録のみにしておいて後日の善後策を興じるためギルドの事務
所を出た。向かいの喫茶店でスイーツらしきものを所在なげにつつ
いているヒルダを回収して、帰り際シャイロックの屋敷に向かった。
656
先日の礼を改めて行うためである。
本音をいうと、奴隷商人という職業自体にも興味があった。
見目麗しい女奴隷をはべらすのは男の夢である。
いつかはクラウンではなく、いつかは肉奴隷の合言葉を胸に今日
まで生きてきたのは、ささやかな夢のひとつであった。
道すがら、ヒルダと雑談をかわしながら歩く。彼女も水準をはる
かに超える美少女であったが、現実の女は激しい自我を持ち、蔵人
が思ったように扱うのは不可能に近かった。
所詮、女を男の思い通りに扱うなど不可能である。
むしろ、肌をあわせたことによって、ヒルダはいままで蔵人との
間にあった最後の壁が取り払われていた。こうなると女は遠慮とい
うものを知らない。飯を食うときのフォークの使い方、歩行の際の
無作法さ、服装の色合いにまで口を出してくる始末だった。拘束さ
れることを嫌う蔵人は、野生の犬が首輪をつながれることに拒否反
応を示すように、ところどころで反抗を見せた。まだ、年若く、男
をまったく知らない彼女は蔵人を自分の思った通りの鋳型に嵌めこ
もうとする。その点は、レイシーの方が世間を知っている分、寛容
さがあった。
人間の欲望は際限を知らない。蔵人は、はじめて借家住まいの不
便さを知った。誰にも気兼ねせず、思う存分振る舞える自分の家が
欲しかった。
その上で、是非とも奴隷を持ちたいと思う。持たねばならぬ。反
対意見は封殺する。
蔵人はほとんど上の空でヒルダに対し返答をしていた。
﹁クランドさん、どうでしたかー登録の方は。きちんと、皆さんに
ご挨拶できましたか﹂
﹁ガキじゃねえんだから。ちゃんと、登録できたよ。いろいろあり
がとうな﹂
﹁いえいえ、どういたしまして。伴侶として当然の行為ですから﹂
﹁えっ﹂
657
﹁えっ﹂
ふたりはしばし無言で見つめあう。
やがて、何事もなかったかのように蔵人が歩き出した。
﹁それはそれとして、これからいよいよ俺の冒険がはじまるとなる
と、胸が熱くなるな﹂
﹁おい、今の沈黙はなんですか﹂
﹁いや、深い意味はないよ。いたっ、痛いからつねらないで。痛い
よっ!﹂
ヒルダはほっぺたをもちのようにぷくっとふくらませると、蔵人
の太ももをつねった。
﹁ふん。どうせ、お綺麗な受付嬢に鼻の下を伸ばしてたんでしょう
よ。まったく、油断も隙もない﹂
﹁よくわかったな﹂
ヒルダの目が憎悪に染まり、蔵人は怯えた。
﹁次からは、私も事務所の中までご一緒しますね。ちなみにクラン
ドさんに拒否権はない﹂
うなずくしかない蔵人だった。
蔵人はヒルダにまとわりつかれながら、ふと前方の人だかりに視
線を転じた。
﹁なんでしょうかね、この道の真ん中で﹂
小柄なヒルダがぴょんぴょんと飛び上がって人垣の果てを見よう
とする。蔵人は、ヒルダの手を引くと、群衆の尻に取りついて声を
出した。
﹁まいったな、通れねえぞ。ちょいと、失礼しますよー﹂
蔵人は日本人的に手刀を切るように人ごみの中を縫って進むと先
頭に躍り出た。
群衆からわずか五メートルほど離れた街路の中央部に騒ぎの元が
あった。
そこには、見るからに高貴そうな服装をした少年とその取り巻き
が、ひとりの少女を地べたに座らせ叱責している姿があった。
658
﹁おい、これはいったいどういった騒ぎだね。あそこにいる貴族は
もしかして、噂に高い蔦屋敷の御曹司じゃあないかね﹂
﹁おう、肉屋のオヤジさん。あの取り巻きに囲まれてるのがご領主
アンドリュー伯さまの一門にも連なるハイダルっていう不良貴族さ。
また、ああして人前で自慢の奴隷を辱めていやがる。たまらねえな。
誰かとめてやるやつはいねえのかね﹂
﹁あれがこの街の鼻つまみもんのハイダルって小僧か。見るからに
憎たらしい顔つきをしてやがる。だが、相手は貴族だし、慰みもの
にしているのは自分のところの奴隷だろう。手を出してるのが堅気
の娘ならともかく奴隷相手じゃどうにも意見もできねえや﹂
﹁オレたちに出来るのは、あの娘がせいぜい手酷くやられないのを
祈ることくらいだろうな。まったく、胸が悪いぜ﹂
蔵人は声高に話すふたりの男の会話を耳にしながら、前方に再び
視線を向けた。群衆の誰もが口先では奴隷のことを気遣っているが、
そのくせ騒動を見やる瞳にはこれからはじまるであろう残虐な催し
に好奇の色を湛えながらじっと息を潜めていた。
ハイダルは十七、八くらいの歳だろうか、いわれるほど憎たらし
い顔つきではなかった。
むしろ、やわらかな金色の髪と、薄い灰色の瞳が美しい、女性的
な容姿である。
洗練された豪奢な服装がよく似合う貴公子然とした風貌の少年だ
った。
彼の周囲には、従者らしい壮年の三人の男が下卑た顔つきでひと
りの奴隷を盛んに罵っていた。ハイダルはそれを咎めようともせず、
むしろ群衆を意識した様子で微笑みつつ、その場にしゃがみこんで
奴隷に目を合わせてから、首輪についた鎖をぐいと引っ張った。
﹁ねえ、ラウラ。君は、いまどうしてこんなひどい目にあっている
か理解きでるかい?﹂
ハイダルは瞳をキラキラ輝かせながら落ち着いた口調で尋ねた。
歳の頃は、十二、三ほどに見える少女奴隷の顔は、埃や涙で汚れ
659
ていたが、切れ長の黒い瞳と流れるように艶のある黒髪が、はっと
するほどに美しかった。
肉付きは豊満というタイプではなく、むしろ全体的に華奢で薄く、
頼りなげな様子が可憐な美少女であった。
﹁わかりません、ご主人さま。どうしてこのようなご無体な真似を
なさるのですか。先程まで、あれほどやさしくしてくださいました
のに﹂
ラウラは怨ずるように主人の瞳を上目遣いで見た。
事実、彼女はハイダルに買われて以来、屋敷の中では半ば公然と
お姫さま扱いされて過ごしてきた。
奴隷として売り飛ばされたときはさすがに自分の運命を呪った。
けれども、夜毎に主人の寵愛を受けるようになり彼女の人生は一変
した。
待遇といえば口にするもの山海の珍味ばかりであり、肌を通すも
のは貧しい故郷では到底考えれないほど上質なものだった。
うっとりとするような夢のような日々が、突如として一転した。
ラウラは先程まで馬車に乗って絹のドレスを着ていたのに、いま
は半裸同然の下着姿で路傍に転がされている。極楽から一転して地
獄に落ちるとはこのことだった。
元々、美しい以外になんのとりえもない彼女は、主の戯れだろう
と媚びた目つきで手を伸ばした。
ハイダルは急に立ち上がると、彼女の首輪についている鎖をいき
なり引っ張った。ラウラは地面に顔をモロに叩きつけると、涙目で
顔を上げた。
﹁どうして?﹂
﹁教えて欲しいかい。うん、それはね。僕がもう、おまえに飽きた
からさ。さっき、シャイロックのところで、素晴らしい奴隷を見つ
けたんだ。あの美しい毛艶にはちきれそうな肉体。昨日までは、お
まえが最高だと思っていた自分がまるでバカみたいだ。だからさ、
最後におまえでめちゃくちゃに遊んでやろうと思ってさ。うれしい
660
だろう。散々いい思いをさせてやったんだから。ほら、街の人々も
お待ちかねのようだしね﹂
ラウラが信じられないという顔つきで口を開けていると、ハイダ
ルが右手を上げて合図を行った。取り巻きの男たちは、大通りの突
き当たりまですっ飛んでいくと、T字路のはしに置いてあった大き
な太い鎖を引いてきた。
鎖の先を見て、人々は愕然とした。
三人がかりで引く鎖の先にあったのは、背丈は優に三メートルを
余裕に越えようか、半裸の怪物が大きな足音を立て歩み寄ってきた。
頭部には一本の毛もなく綺麗に剃り上げられ、上半身と腰の辺り
には、ヒグマの毛皮を重ねあわせたチョッキと腰巻を申し訳程度に
羽織っていた。
張り出した肩の筋肉は、巨岩を思わせるほどに発達しており、一
歩足を進めるたびに大きな音が響いた。特筆するのは、顔面の中央
には大きな一つ目がぎょろりとアンバランスに埋めこまれており、
白目の部分には充血しきった血管が無数に這っていた。
サイクロプス。
亜人の中ではもっとも優れた身体能力と膂力を誇り、捕獲には巨
額な費用が必要といわれるている文字通りのバケモノである。
現に、このサイクロプスの首には従属の魔術がかけられており主
人に対して徹底的な忠誠を誓わせてあった。
その証拠に、ハイダルの右手人差し指に嵌めた指輪と、巨人の首
輪が同色である薄緑の光を放っている。従属の魔術は、中々よくで
きたもので、契約に反して奴隷が主に叛意を抱くと、キリキリ締め
付けて痛みを与えるのである。首輪の種類によっては、内側に仕こ
まれた針や爆薬が状況に応じて奴隷の命を奪うものである。
そこまでしても、見るものに畏怖を抱かせる優越した力を具現化
した肉体は圧倒的な存在感を持っていた。
﹁なんだ、ありゃあ﹂
﹁クランドさん。あれは、サイクロプスといって一見モンスターに
661
見えますが、一応は亜人です。言葉は一応通じるということですが
⋮⋮はぁ、おっきいですねえ﹂
ヒルダは怯えたようにいうと、蔵人の外套の裾にしがみついた。
﹁ギーグ! よーし、よしよしいい子だ﹂
ハイダルは、サイクロプスのギーグを呼ぶと、飼い犬をあやすよ
うに近寄って腹を撫でた。ギーグは、大きな口から鋭い歯を見せな
がらくぐもった声を出した。
﹁ダンナさま、おれ、なにすれば、いい﹂
ギーグは剥き出しの黄ばんだ歯から、よだれを垂らしながら木枯
らしの吠えるような声を出す。あきらかに異質なものだった。蔵人
はその声を聞きながら、テレビ番組でよく聞く、ヴォイスチェンジ
ャーで変換した人工的な音域に近いと感じた。
﹁よーし、よしよし。今日はな、ギーグ。おまえが欲しがっていた
女をやるからな。存分に使うといい﹂
﹁オンナ。おれ、オンナほしい﹂
﹁ひっ⋮⋮嘘ですよね、ご主人さま﹂
ギーグはラウラを巨大な単眼で睨みつけると、鎖を鳴らしてにじ
り寄った。
これから白昼で行われる惨劇を想像して、群衆の中から悲鳴や驚
きの声が沸き立った。
ハイダルは、このおぞましい催しの主として満足げに目を細める
と、両腕を組んで愉悦の笑みを浮かべた。
見ていられないと蔵人が腰の長剣に手をかけると、ヒルダが泣き
そうな表情で腕にすがりついてきた。
﹁おい、なんでだよッ!﹂
﹁ダメですよ。奴隷は主の所有物です。下手に手を出せば、クラン
ドさんは騎士団に追われることになります!﹂
奴隷は個人の所有物で、他人が口出しをできるものではない。な
により、あのサイクロプスとやりあうならば命を懸ける必要があっ
た。ヒルダは身も知らぬ奴隷女の為に、愛する男の命を投げ出す義
662
理もなければそのような飛びぬけた慈愛もなかった。蔵人はくぐも
った声でうなると、目の前の男たちの顔を脳裏にひとつずつ焼きつ
けた。 まもなく、サイクロプスによる女奴隷の陵辱が白昼の中ではじま
った。
蔵人はヒルダの頭を抱え込むと、彼女の耳を両手で塞ぎ全身を硬
直させた。
﹁見ろよ、あのラウラの顔を! 大口開いてみっともねえったらあ
りゃしねえ﹂
﹁そもそもがおまえみたいな奴隷を若さまが本気で奥方に迎えると
思ったのかね!﹂
﹁所詮は使い捨ての奴隷が過ぎた夢を見たってこうなるのがオチよ
!﹂
﹁今度はせいぜいギーグに奉仕して養ってもらうがいいさ!﹂
ハイダルの取り巻きたちは、無神経な侮蔑の言葉をラウラに投げ
かけると、盛んにはやしたて続ける。ラウラは惨めさのあまり、涙
をこらえることができなかった。ぽろぽろと大粒の涙が盛り上がっ
てくる。それを見た男たちの声がいっそう強まった。
ギーグは両手をラウラの首に回すと、激しく吠えた。同時に、完
全に理性を手放したギーグの膂力は、いとも簡単にラウラの頚椎を
へし折ったのだった。
ラウラは舌を投げ出しながら白目を剥くと、歓喜とも取れる表情
を浮かべたままその場で絶命した。
﹁ははっ、見ろよ君たちっ。なんて、間抜けな死にざまだいっ! 実に、見事!﹂
少年が甲高い声を上げると、追従するようにギーグが再び吠えた。
目を覆う陰惨さだった。
ハイダルはラウラの骸を大きな布で包ませるとギーグに担がせて
その場を去っていった。
完全に無意味な奴隷の死であった。
663
ハイダルは、ただ飽きたという一点で、玩具を廃棄するように衆
人環視の中で壊してみせた。群衆の口ぶりからこれがはじめてのこ
とではないと理解できた。
やがて、人々は、互いに目をそらせながら、見えない誰かに追わ
れるようにしてその場を離れていった。
﹁ヒルダ。俺は、無理矢理胃袋に汚物を突っこまれた気分だよ﹂
﹁クランドさん、あまりすべてを抱えこまないでください。確かに
あの男は異常ですが、主人である以上、ロムレスの法では裁けない
のです﹂
﹁クソッタレが﹂
貴族であったヒルダも、僧院の寄宿舎に送られるまでは、奴隷が
いてあたりまえの生活をしていた。
確かに、立法上は奴隷に人格も権利も認められないが、烙印を押
されたからといって、その瞬間にすべてがモノに置き換わるわけで
はない。奴隷にも、意思があって、辛く当たられれば深く傷つくし、
褒められれば利害を越えて忠誠を尽くしたりもする。
名誉ある家に生まれ育った人間や、富裕層の人々が成長するにつ
けて習得する、誇りも情もハイダルにはなかった。
生まれついての異常者だった。
﹁いるんですよ。そういう性格破綻者が﹂
ヒルダがいうには、そのような性格破綻者は大抵が家門の恥にな
るので、まともな精神を有する家柄の人間ならこぞって幽閉したり
隔離するだろう。
稀に、常軌を逸せず正常な仮面をかぶったまま、奴隷にのみ自分
の破綻した性癖をぶつける人間もいない訳ではない。
だが、そういった人間ですら、異常行為は隠すのである。
世間から受けるプラスとマイナスのイメージすら自分の中で秤に
かけることができない正に例外中の例外、それがハイダルであった。
蔵人たちがシャイロックの屋敷を訪れると、幸いにも本人は在宅
していた。蔵人が以前に助けてもらった謝辞を述べると、シャイロ
664
ックは屈託なく笑って見せた。
﹁なんだか疲れてるみたいだけど、どうかしたのかい﹂
﹁失礼、先ほど招かれざる客が来ていましてね﹂
早耳の彼は、先ほどの大通りの一件はすでに承知していたらしく、
気遣うように蔵人たちを見やっていた。
﹁そうですか。現場を見てしまいましたか﹂
シャイロックは客間の椅子に腰かけながらゆっくりと息を吐きだ
し、それから持っていたティーカップをテーブルに置いた。
蔵人が見る限り、表情にはあからさまに感情の動きは見えなかっ
たが、瞳の底に潜む憂悶の色は隠せなかった。
﹁その招かれざる客ってのはハイダルのことか﹂
﹁はは、クランドさんはなんでもお見通しで。あの御仁にも困った
もので﹂
﹁そうか、やっぱり無理難題をいわれたのか。いくら商売だからっ
て、あんな奴とは取引はしたくない、と﹂
﹁端的にいえばそうなるわけで、ハイダル・バーナー卿は随分とう
ちの奴隷を購入してくれるお得意さまなんですがね。それが、今回
に至っては、クランドさんも知っているあの子にご執心で﹂
﹁あの子って、確かメイドの﹂
﹁ポルディナですよ﹂
﹁クランドさん﹂
いままでずっと座ったまま無言だったヒルダが、はじめて口を開
いた。
蔵人は反射的に身体を引きつらせると、カップの中身を激しく動
かして紅茶の中身が数滴舞い落ちた。
﹁なにを、ビクついてるんですか﹂
ヒルダは人前ということもあってか、猫をかぶったままにっこり
と目尻を下げた。
嘘くさい笑顔だった。
﹁い、いや﹂
665
シャイロックはふたりのやり取りをキョトンと見ていたが、やが
てすべてを承知したかのように、片眉を下げながらニヤニヤと口元
をゆるめた。
﹁クランドさん、老婆心ながら、私どもの店にあまりご婦人連れで
来る方はおられませんよ。もう少し、気を使わなければ。こんな美
しいお嬢さまはすぐ心変わりしてしまいます﹂
﹁いや、こいつのことはいいんだよ。別に﹂
﹁あーっ、もしかして、クランドさん! お礼だとかなんとかかこ
つけて、このお店で奴隷を買おうとしていたんですかぁ!!﹂
﹁だーっ、人前ででかい声を出すなっ、アホっ﹂
﹁あーあ、だから態度が変だったんだ。お礼だけならともかく、実
は内緒で何度もお店に来てたんでしょう! お金もないのにい! 素寒貧なのにっ。ね、シャイロックさん。実はそうでしょう﹂
﹁あはは、シスター・ヒルダ。私も顧客の情報はそう安々もらすわ
けには行きませんよ。さて、クランドさんがウチの娘をお買い上げ
いただければなんの心配もないのですが。いま、問題なのはポルデ
ィナのことでしてね⋮⋮﹂
予想通り、ハイダルは蔵人たちが店に来る数時間前に訪れて、ひ
と暴れしていったらしい。隠しておいたポルディナを目ざとく見つ
けると、いますぐ売れとの一点張り。シャイロックほどの大商人な
らば、屋敷に抱えた私兵たちで追い払うことは容易かったが、なに
せ相手はこの辺りの土地の領主アンドリュー伯の一族である。この
先の商売も考えれば、荒っぽい手に訴えることもできない。
﹁それに、いくら私が目をかけていても所詮は売り物です。ひとり
だけずっと贔屓のしどおしというわけにもいかないのですよ。出来
れば、彼女は私がこれという人物に託したかったのですが。せいぜ
い来月の公開オークションまで待ってもらうことで辛抱してもらう
のが限界でした。本来ならば、彼女は特別なので市には出さず、個
人売買するのですが、こうなってしまえばいたしかたありません。
私どもとしては、バーナー卿より資力に勝る人格者がオークション
666
当日に現れるのを天に祈るしかありません﹂
奴隷市で開かれる公開オークションは、基本的に金さえ払えば、
誰でも参加することができる。独身の冒険者がダンジョンで金を貯
めて、徹底的に従順で、古女房のように権利を主張しない若く見目
麗しい女奴隷を購入することはひとつのステータスであった。
﹁⋮⋮あくまで仮だが、シャイロックさん。ポルディナを買うとな
ると、いくらくらいになるのかな﹂
﹁クランドさん?﹂
﹁バカ、あくまで仮に聞いてるだけだって。おい、痛いよ。だから
痛いって、痛いよ!﹂
ポンドル
ヒルダは、笑顔を崩さずに蔵人の太ももをつねり続けた。鬼であ
る。
﹁私どもは、五百万Pと見ていますが。バーナー卿の競り具合では
ポンドル
もう少し上がるでしょうな﹂ ﹁五百万P⋮⋮﹂
蔵人は口をあんぐりと開けると、虚空に視線をさまよわせた。
ポンドル
ヒルダは太ももをつねるのをやめて、晴れ晴れとした顔をした。
ポンドル
五百万Pとは日本円にすると、約五千万円ほどである。確実に購
入するなら、さらに資金が必要であろう。十万Pの登録料を払うの
に汲々していた蔵人には逆立ちしても用意することのできない金額
であった。
すなわち、ヒルダの女としての地位は完璧に守られたのであった。
にこやかにならざるを得ない。
﹁途方もねえなぁ﹂
蔵人は大きく息を吐き出すと、ソファにぐったりと背をもたれさ
せた。
﹁私どもの業界も、獣人にこれだけの値がつくとなると、ちょっと
した騒ぎですな﹂
蔵人はいままで旅の中で見聞きした奴隷の価格をせいぜい車を購
入する程度のものだと考えていた。
667
もちろん、奴隷は蔵人が不埒なことに使おうと考えている若い女
奴隷ばかりではない。家事、育児、あるいは専門的に法律知識を持
った者や、建築や芸術に優れた技術的能力を持った種類。あるいは、
護衛や戦奴、ダンジョン攻略為だけに戦闘能力の高い種ばかり揃え
る冒険者もいる。
ポンドル
いずれもピンキリであるが、もっとも多い人間族の女性交奴隷で
すら、年齢のみを基準にすれば、歳が二十五を超えていれば数万P
以下で手に入るのである。
さらに、女としての価値だけ見れば、三十以上の歳を食った奴隷
は値がつかず、ただですら引き取り手はいないのだ。
このような、哀れな女奴隷達は場末の淫売宿に売られ最底辺の生
活をしいられることになる。その寿命は酷使と劣悪な労働環境のた
め、一年ともたないとされていた。
歳が十代ぎりぎりの範疇でそこそこの容姿をしているの女奴隷の
値段がカローラ並なら、年齢は十二歳以下、優れた容姿と健康で知
力の高い女奴隷はクラウンマジェスタである。
絶対的平均寿命が低いこの世界ではあらゆる点で女性にとって年
齢というものはネックになっていた。どれほどの美女であっても、
歳がいっていれば鼻を引っ掛けないのが普通だった。子どもの産め
ない年齢となれば、下層階級では女性として扱われないこともしば
しである。
﹁そう考えていた時期が僕にもありましたフヒヒ。まさか、ポルデ
ィナはロールスロイス並とは。庶民には手は出せませぬわい﹂
﹁え、そんなに高いですかね?﹂
キョトンとした表情でヒルダがつぶやく。
﹁え?﹂
﹁んん。それはシスターのような生まれついての貴族から見ればそ
れほどでもないのですが、我々としてもひとりにそれだけの値をつ
けることはまずないのですよ。薄利多売ですからな、我が商会は﹂
﹁ボってない?﹂
668
﹁高いと見るか、安いと見るかは人それぞれでしょうな﹂
シャイロックは両手を顔の前で組むと、困ったように眉を八の字
にした。
669
Lv43﹁枷の中の姫君たち﹂
ウェアウルフ
シャイロック商会の所有物である戦狼族の亜人ポルディナは、ロ
ムレス王軍との戦に敗れた結果、賠償金を払うために、一族の総意
によって売り払われた女であった。彼女の出身母体であるベル・ベ
ーラ族は戦においては精強で知られていた。
王家とのいざこざのきっかけは、お決まりでもある税率の値上げ
に端を発していた。王家との戦は、開戦当初においては、地の利を
得ていたベル・ベーラ族の圧勝であったが、兵站を完全に整えた騎
兵と弓兵に戦線を支えきれず、わずか二ヶ月で講和に至った。
彼女が売り払われたのも紆余曲折がある。
敗戦によって、ベル・ベーラ族は多くの若者と財産を失った。
ポルディナは族長の娘のひとりであり、若く美しかったため、講
和の際に給仕を行っていた。その姿を見受けた大貴族のひとりが彼
女を妾として切望したのである。王族に連なる男の権力は大きく、
賠償金の減額は大いに期待できた。
もとより、ポルディナがその大貴族の子供でも産めば、一族に与
える影響は計り知れない。捨て値で身売りするよりも、妾といえど
望まれて身請けされる方がどれほどしあわせかは論ずる必要はない
だろう。
ここで、この大貴族がポルディナを受けとっていれば彼女がこの
ストーリーに絡むことはなく、それなりに順風満帆な生涯を送った
のであろう。
670
だが、ポルディナを身請けしたその夜、大貴族は若い華を愛でる
ことなくこの世を去った。彼はすでに六十を過ぎていたのである。
死因は急性心不全であった。
ここで、困ったのがこの大貴族の遺族であった。新たに当主とな
った長男は大の亜人嫌いであり、モンゴル遊牧民のように父子間の
愛人相続など行わなかった。
かくして、ポルディナは清い身体のままシャイロック商会に売却
されることになったのであった。
唯一、救いがあるとすれば大貴族の嫡子は売却金をそのままベル・
ベーラ族に渡したことである。
あずまや
こうして、ポルディナは故郷より遠く離れたシルバーヴィラゴの
地にたどり着いた。
彼女の主は、いまだ見つかってない。
ポルディナはシャイロックの屋敷にある庭園の四阿にひとり座る
と、木立を梢を吹き渡る心地よい風に耳を傾けていた。
﹁ポルディナ、こんなところでどうしたの?﹂
名前を呼ぶ声に向かって視線を転じると、そこにはコボルトのミ
ウェアウルフ
ーニャが耳をぴんと立てて丸い目を見開いていた。
戦狼族が普通の人間族と耳やしっぽを除けば変わらないのに対し、
コボルトは獣人の特徴をはるかに色濃く残していた。
コボルトの顔や衣服から覗く手足にはふさふさと密生した毛が生
えており、目元から鼻先の口吻部は長く突き出している。
そういった意味では、ミーニャの顔立ちはその辺りを歩いている
普通の犬と同じだった。
背丈は成人しても、百二十センチを超えることはなく、彼女たち
の乳房は人間と同じでふたつであった。
﹁今日はずいぶんと蒸しますので、風に当たっておりました﹂
ポルディナがそう答えると、ミーニャはうれしそうにしっぽを左
右に振ってまとわりつくように隣の椅子へと腰掛けた。
671
﹁そう! わたしも、すーわろっと。うふふ、ここは風が気持ちい
ーね﹂
﹁そういえばミーニャ。あなたは身売り先が決まったそうで。おめ
でとうございます﹂
﹁あやや、そんなかしこまっていわれれると照れくさいな。えへへ、
相手は商家のオヤジで、わたしと同じ亜人だって。なんでも、中々
あとつぎが生まれなくって後添いを探してたんだってさ。年だって、
もう四十すぎで、いやになっちゃうよねー。もおお、バンバン生撃
ちして孕ませられちゃうよぉ﹂
﹁その割には困った顔ではなさそうですね﹂
﹁ええー、そんなあ。わたし、まだ十五だよん。中年オヤジに弄ば
れちゃうなんてっ、えへへ﹂
ミーニャはそういいながらも、両手で自分の頬を抑えると、ニヤ
ニヤと相好を崩しっぱなしだった。
無理もない、とポルディナは思う。
ウェアウルフ
亜人を奴隷ではなく妾として身請けするというのは、その一家の
合意がなければ出来ないことであった。
しかも、相手は堅気の歴とした商人である。コボルトや戦狼族は
多産で知られており、ミーニャは身体健康で相手に問題がなければ
すぐに子を孕むだろう。コボルトは一度に五人から八人の子を出産
する。後継の男子を産むのは比較的容易であり、そうなれば彼女の
幸福は約束されたも同然だった。
たいていの獣人系奴隷は、安価な性交奴隷として購入されるのが
一般的だった。
ウェアウルフ
耐久力や戦闘力が高く、その誇り高さゆえにほとんど市場に流れ
ることのない貴重種の戦狼族と違って、コボルトは、もっとも安い
種類にカテゴライズされている。
ミーニャは、対外的において、下女として扱われ、生まれた子も
生涯その家に奴隷として奉仕するみじめな人生が決定されている運
命を覆し、万に一つの幸福を手に入れたのである。喜びもひとしお
672
であろう。
イオス
ライオス
ラ
﹁その商家のおじさん獅子族なんだってー。ねえ、ポルディナ。獅
子族って、アッチの方もすごいのかな。わたしの身体だいじょうぶ
かなー﹂
﹁さあ、たぶん平気でしょう﹂
﹁あーん、ずるいん。って、ポルディナはまだ身請け先が決まって
なかったよね。あ、ごめん。なんか自分ばっかはしゃいで。でもさ、
ポルディナはわたしと違って、引く手あまたじゃん。なにかそうい
う話はないのかなー。ずいぶん、断ってるって聞いたけど﹂
﹁⋮⋮それにしても、シャイロックさまも慈悲深いお方ですね。時
間制限有りとはいえ、奴隷を庭内で自由にさせるとは﹂
﹁あー、なんかあからさまに話を変えた。怪しいー。もしかしてさ、
いままで会った中で意中の旦那さまがいるんじゃないのぉ?﹂
意中の男。その言葉によって、ポルディナの頭の中にひとりの男
の顔が思い浮かんだ。
浅黒く面長で濃い眉が印象的だった。
出会い頭にはじめての唇を奪われた。
最初に会ったときは、乞食同然の格好で泥酔し、再び会ったとき
は全身傷だらけで、手負いの獣のような気配を発していた。彼に寄
り添うようにしていたシスターを見て、制御できないような感情を
はじめて覚えた。
︵なんで、あの男の顔が⋮⋮っ、ありえない︶
﹁あらら、もしかして﹂
ポルディナは、顔を咄嗟に伏せると視線を逸らした。
クランド。
シャイロックはあの男の名前をそう呼んでいた。身なりも汚らし
いし、とうてい自分を身請けするほどの金を作ることはできないだ
ろう。
そもそも、あの男の軽薄な口ぶりも、間の抜けた顔つきもポルデ
ィナの理想とするタイプではなかった。
673
ふと、気づくと、ミーニャがにやにやした視線を自分に送ってい
るのに気づいた。気まずくなってわざと冷たい口調でいった。
﹁なんですか﹂
ポルディナは自分の顔つきが他人からどんな風に思われているか
よく知っていた。
怖い、冷酷だ、可愛げがない。
︵そんなの、生まれつきですもの。それに、面白いこともないのに
笑ったりはできないわ︶
自分がミーニャたちとは違って大金を掛けて高級奴隷としての育
成を受けた際に、常々いわれていた。
表情が硬い、その目つきは殿方を萎縮させる、怖がらせてどうす
るんだ燃えたたせるんだ、などと愛想を振舞う教育は散々だった。
礼儀作法から、文字や語学、殿方に奉仕する際のありとあらゆる
性技と燃えたたせる文言はすべて完璧に身につけた。
だが、人に愛される術など誰に習っても身につくようなものでは
なかったのだった。
﹁べっつにー﹂
﹁まったく﹂
ポルディナとミーニャは親しいわけでもなかったが、同じ犬系獣
人としてなにかこころの通い合う部分があった。
奴隷に友などあるはずもないが、彼女のしあわせは素直に祝うこ
とが出来る程度のすこやかさは、まだポルディナの中に残っていた。
﹁ちょっと、待ってください。この先は困ります!﹂
運命が激変したのはこの瞬間だった。
﹁うるせーっ、若さまが見たいっていったらその通りにするんだよ
っ﹂
﹁この方をどなたと思っていなさるんだいっ。ご領主さまの一族に
あたるハイダル・バーナーさまだっ。若さまがしたいといったら、
そのようにするのが筋なんだよっ﹂
﹁でも、この先は基本的にはお客さまの立ち入りは禁じられている
674
のですよ。いくら、バーナーさまがお得意様であっても、せめてア
ントンさまの許可を﹂
どうやら男たちは、シャイロックの顧客らしかった。三人の男を
従えて、身分の高そうな貴族の少年が微笑んでいた。
屋敷の使用人は、男たちを庭園の入口で引きとめようと頑張って
いるが、いかんせん小僧風情では貫禄負けだった。
﹁うるせーっていってんだよおおおっ、オラぁ!﹂
﹁おぶっ﹂
男のひとりが使用人の腹に向かってストレートを叩きこんだ。
使用人は腹を抱えて涙目になると、その場に膝をついた。
﹁なにするんんですかああ、ご無体なぁああっ﹂
﹁知るかっ、ボケがっ。これでも足りねーっていうならよ、オイ﹂
合図と同時に、ひとりが使用人の両肩に手を回して無理やりその
場に立たせた。使用人の顔は完全に恐怖で引きつっていた。男の顔
に残忍な笑いが浮かんだ。
﹁おらあっ、おらあっおらああっ!!﹂
﹁うぐるぼっ、や、ヤメてぇえぇええん﹂
男が連続で左右のフックを使用人に打ちこみ続ける。使用人は女
のように甲高い鳴き声で助けを乞うた。ひたすらみじめだった。
﹁ひ﹂
恐怖に引きつった顔でミーニャがポルディナの影に隠れた。
その声に気づいたのか、男たちは使用人を放り投げると、人工の
小道をざくざくと小砂利を鳴らしながら近づいてきた。
残らず下卑た顔である。
中央に陣取る少年がハイダル・バーナーという不良貴族であろう。
見た目は女と見まごうほどの整った容姿をしていたが、その根底
にある腐りきった魂を嗅ぎとり、ポルディナは反射的に激しく顔を
しかめた。
﹁おやおや、これは。ほほう、シャイロックのやつ僕にこんな上玉
を隠していたなんて﹂
675
ハイダルが手を伸ばしてポルディナの栗色の髪に手を伸ばす。
無作法な訪問の上に、その瞳にはギラついた好奇の色が浮かんで
いた。ポルディナは、少年の生白い手を振り払いたい衝動に駆られ
ながら、なんとかこらえた。
﹁美しい。名をなんというのだい﹂
答えるものか。ポルディナは、せめてもと目の前の少年をにらみ
つけると、眉間にしわを寄せて返答とした。
﹁やれやれ、僕としたが嫌われたものだ。︱︱やれ﹂
ハイダルの合図と同時に、庭園の真ん中に引きづられてきた使用
あずまや
人が再び暴行を加えられはじめた。彼の名前は知らなかったが、こ
の四阿で休んでいるときに、お茶を持ってきてくれたことがあった。
いわれもない暴行を受ける理由などない。
ポルディナは目の前の少年を、脳内で髪をつかんで引きずり回し
ているところを想像し、怒りをこらえた。
﹁私は、ポルディナです﹂
吐き捨てるように答える。が、目の前の少年は男たちの暴行を止
める素振りもなかった。
使用人は庭の木に抱きつきながら悲鳴を上げ続けているが、男た
ちは手に持った棒で家畜をいたぶるようにして身体のあちこちを殴
りつけていた。
﹁もう名乗ったでしょう。早く、従者たちを止めてください﹂
﹁ポルディナか。いい名だ。怒った顔も美しいよ﹂
ハイダルはうっとりした様子で、自分の顔をさらに近づけてくる。
鼻先に、かすかな香水の匂いが漂った。
それは、上質であったが、ポルディナにはひどく嫌なものとして
しか記憶に残らなかった。
﹁いやっほーう、オラオラオラぁ!!﹂
﹁ひぐえっ、その娘は、ぽ、ぽぽポルディナですうっ、もうやめて
くださあいっ﹂
使用人が一際高く叫ぶと、ようやくハイダルは暴行を止めた。
676
﹁なんで、こんなひどいことを﹂
﹁ひどいだって? それはちがうよ、ポルディナ。あの使用人は君
の名前を知っていたのに、すぐさま教えなかった。これこそ、一等
の罪悪だと思わないかい。そもそも、君も君だ。この、ハイダル・
バーナーが名前を聞いたということは、イコール君は僕のものとな
ったも同然なのだよ。さ﹂
ハイダルは当然のようにポルディナの腕をつかもうと手を差し伸
ばしたが、即座にその手のひらは激しく叩かれた。
﹁ん。そうかい、そうだな。支払いがまだだったな。奴隷を買うな
ら、先に支払いを済ませるのが貴族としての度量だよな。まったく、
売却される段になってもシャイロックのような売主を思うとは、そ
れでこそ僕のモノにふさわしいよ﹂
ハイダルがあご先をくいと上げると、おつきのひとりが倒れてい
る使用人に近づき、革袋の紐をゆるめた。
﹁いくらだ、ホラ。このくらいか﹂
﹁おうえぐっ、おぶっ、おぶっ﹂
ザラザラと数十枚の銀貨が仰向けになった使用人の顔を打った。
叩き合うコインの音が乾いた音を立てる。
ポンドル
最後に、男が革袋を逆さにすると、山となった貨幣を真っ直ぐ下
って、人工の池にぽちゃんと落ちた。
﹁ま、美しいとはいえ獣人風情には、二十万Pも払えば相場の倍だ
ろう。遠慮なく取っておきたまえ、使用人くん﹂
ハイダルの言葉を受けて、コインの山の下から空気のもれるよう
な間抜けな音が流れ出した。その音は次第に大きくなり、最後には
ポンドル
その場の誰もが理解できる笑い声に変わった。
﹁たった、二十万Pとはバーナー様も笑わせてくれる! ウチのポ
ポンドル
ルディナは特Aクラスの高級奴隷だ! 彼女を買取りたければ、最
低でも百万P以上は用意していただかなければお話にはなりません
な!﹂
使用人の高笑いと共に、ハイダルの顔色が紙切れのようにすっと
677
白くなっていった。
ハイダルは無言でポルディナから離れると、財布を預かっていた
男に近づいて、冷え切った口調でいった。
﹁よくも、僕に恥をかかせたな。この、クズが﹂
﹁え、で、でも﹂
ハイダルは懐のナイフを引き抜くと、ずぶりと男の脇腹に沈めた。
白いギザギザの刀身が濡れた血潮を絡みつかせながら、夏の陽光を
受けて凶悪に輝いた。
ハイダルは手首を返して、刃先を男の身体の中で細かく動かす。
上向きになった刀身は、男の心臓に突き刺ささって十二分に破壊し
た。男の絶叫が尾を引いて伸びた。
ミーニャは恐怖のあまり、両耳を手で塞いで震えている。男の胴
体から流れ出る真っ赤な血が、ハイダルの青白い手首を朱に染めた。
﹁は、や? 若さま、な、なんで?﹂
﹁ゴミはいらないんだよ、僕は﹂
男は身体をくの字に折ると、顔面から地面に向かって倒れ伏す。
同時に、ミーニャの絶叫が流れた。
ポンドル
﹁一回出した金は貴族の誇りにかけて戻せない。だから、そっちの
メスを一匹もらうことにするよ。もしかして、このメスも二十万P
以上とはいわないよね﹂
﹁え、うそ。なんで﹂
ポンドル
ミーニャは目を白黒させながら、ポルディナの腰にすがりつく。
﹁バーナーさま、確かにミーニャの売値は五万Pで足りないとは申
しませぬが。彼女はすでに売却先が決まっていて﹂
﹁うるさいなあああっ、僕が買うといったら絶対なんだよ! おま
えは、このアンドリュー伯にも連なる名門貴族のハイダル・バーナ
ーさまを馬鹿にするのかあああっ。この領内で商売をさせないどこ
ろか、兵を残らず向けたっていいんだぞおっ! とにかく買ったん
だ! 余計なことはいうなあっ﹂
その異常さに使用人は口をつぐんだ。そこには、ミーニャという
678
底辺奴隷の価値に関する冷徹な意志が働いていた。
ハイダルは子どものように絶叫すると、取り巻きのひとりを手招
きした。
﹁おい、クーチ。おまえは、特に獣人の娘が好きだったよなぁ。こ
のミーニャとかいう娘、ちゃんと使い物になるか、持って帰る前に
確かめなきゃなぁ﹂
﹁へへ、いいんですかい﹂
クーチと呼ばれた男は、同僚のひとりの死体をひょいと乗り越え
ると、ミーニャに向けて淫猥な視線を向けた。
﹁え、うそ、うそだよね﹂
ミーニャはポルディナに隠れるようにして身体を硬く縮こませた。
﹁ふひっひ。俺はよう、おまえのようにもっさもさした毛深い獣人
娘が好きでねえ。さ、薄毛のオメエさんにや用はねぇ。どくんだ﹂
男はポルディナを押しやるとミーニャに向かって淫欲な視線をほ
とばしらせた。
﹁正気ですか。ミーニャは嫁ぎ先が決まっているんですよ﹂
﹁そんなの俺には関係ねえよ。文句があるなら、若様に頼んだらど
ウェアウルフ
うだいね?﹂
戦狼族の膂力と戦闘力は生まれつきずば抜けている。
特に、彼女は勇猛で知られたベル・ベーラ族一の戦闘の達人であ
る父に幼少の頃から武芸を叩きこまれた一流の戦士だった。
瞬きの間に、ここにいるハイダルたちの息の根を止めることは素
手であっても容易かった。
ミーニャのうるんだ黒い瞳から涙の粒が盛り上がる。ポルディナ
が、しっぽを逆立てて、全身の筋肉を攻撃に移らせようとしたとき、
使用人の男が叫んだ。
﹁やめなさい、ポルディナ! ここであなたが歯向かえば、一族は
どうなるのですか!﹂
そうだ。
そうだった。
679
その言葉に、先程まで高まっていた闘気が一瞬で霧散していく。
﹁やめてぇ、やめてよおおぅ!﹂
﹁きひひ、そうだよそうだよ。いくら嫌がってもいいんだぜぇ。そ
の分こっちは燃え上がるって寸法よ﹂
目の前に獣人趣味の男がミーニャを組み伏せている光景が飛びこ
んできた。ポルディナが顔を伏せてその場を立ち去ろうとすると、
肩をがっしとつかまれた。
﹁ダメだよ、ポルディナ。僕とこのショーを見るんだ。さもないと、
わかるね﹂
ハイダルが暗い情熱に歪んだ瞳で、見つめてくる。汚らわしさと、
こらえきれない怒りの渦に呑みこまれそうになり、強い嘔吐感を覚
えた。
﹁ほら、あのコボルトの乳房。なかなかの大きさじゃないか。畜生
同士の見世物もなかなかに愉快だろう﹂
ハイダルは気づいていないのだろうか、口のはしからつぅと糸の
ようなよだれを垂らしながら、静かに股間を膨らませていた。
﹁やだああ、やだあ、やだよおおぅう!﹂
男たちが無理やりミーニャを木陰に引きずり込む。
目を覆うような惨劇がはじまった。
ポルディナはその地獄のような光景を無理やり直視させられた。
いますぐ、死にたいと思った。
何度も、何度も。
そして、地獄のような時間がようやく終わる。
﹁へへへ。オメエもこれが欲しくなったか、んん?﹂
クーチは赤黒くヌメった唇を舌なめずりしながら下卑た顔つきで
笑った。
680
ポルディナは目を反射的にそむけた。その拍子に、ふと、ミーニ
ャに視線を転ずると、彼女の様子がおかしかった。ぴくりとも動か
ないのだ。
﹁ミーニャ?﹂
﹁チッ。まーた簡単に壊れちまったぜ。へへ、すんませんね。若さ
ま﹂
﹁いや、いい道化ぶりだったぞ。クーチ。機会があればまた頼む﹂
ハイダルたちはもはや壊れた玩具に興味はないという様子で話し
あっていた。
﹁ポルディナ、また来るからね。僕は必ず君を手に入れるよ﹂
ハイダルたちの姿が消えるやいなや、ミーニャのそばに駆け寄っ
て胸元に耳をあてた。
はっ、と顔を上げて彼女の細くやわらかい喉元を見た。
そこには、暴虐の残滓がくっきりと跡として残っていた。
﹁番頭のアントンさまに報告しないと。でも、安い方でまだ助かっ
た﹂
ポルディナは使用人のほっとした口調のつぶやきを聞いて、愕然
とした。
ひどい。
ひどすぎる。
わかっていたのだ。
いくら親身に気遣っていても、商人たちから見れば、所詮自分た
ちは商品のひとつにしか過ぎないのだ。
値段の多寡でしか意味合いはない。
目の前で動かなくなった、ミーニャの胸に顔を埋める。
彼女の毛皮は、やわらかくふさふさして、お日さまの香りがした。
幼い日に、母に抱かれて眠った日のことをぼんやりと思い出した。
商家の後添いに望まれ、希望に満ちていた少女が、いまは物いわ
ぬ骸として目の前で横たわっている。
この庭園はついさっきまで、しあわせそのものの空間だったのに、
681
ちょっとした時間の差で地獄に置き換わった。
あまりにも非常な現実だった。
﹁こんなのって﹂ 逆らうすべなどない。
自分は奴隷なのだ。奴隷という身に落ちた瞬間から、すべては終
わっていたのだ。
そのように運命づけられているのである。
そもそもが、希望を抱こうとしたこと自体が間違いであった。
シャイロックが自分たちを半ば普通に扱うから勘違いしていた。
この庭園にたまたま居たからこんな結末を迎えたのだろうか?
いや、ミーニャに起きた現実だって、早いか遅いかの違いかもし
れない。
商家に行ったとしても手違いひとつで殺されるかもしれないのだ。
そう思えば、そもそも自分たちは生まれてきたこと自体が間違い
だったのかもしれない。
そのように決まっている。
運命は定められている。
ポルディナは、自分があの貴族に目をつけられた時点で完全に終
わたし
わったことを理解したが、それこそが勘違いだったことを恥じた。
奴隷など、最初から、終わりきっている。
682
Lv44﹁運命の女﹂
蔵人たちが屋敷を辞する直前に、シャイロックはせめて落ち込ん
でいるポルディナに一声かけてくれと頼みこんできた。
﹁いいですよー。あ、私は先に戻ってますから。ごゆっくりぃ﹂
ヒルダはすでに蔵人が天地が逆さまにひっくり返ってもポルディ
ナを購入できないと知ると、笑顔のまま袖をひらひら振って先に帰
っていった。勝者の余裕である。
﹁いったいヒルダはなにと戦っているんだ﹂
シャイロックは気を使ったのか、ポルディナを先に庭先に呼び出
しておいてくれた。
いくらか、心の準備は出来たが。元気づけるって、なにをいえば
いいんだよ。
﹁シャイロックのおっさんもムチャぶりが過ぎるぜ﹂
いくら美人でも奴隷である。
しかも、並の価格ではなく常人には手の届かないレベルに達して
いる。
きみ、性欲異常者に目をつけられていて近々売却されるんだって?
まあ、気を落とさないでがんばれや、がはは!
﹁ダメだ。⋮⋮どんだけポルディナに恨みのある人間なんだよ﹂
蔵人は自分の手のひらを顔に押し当てて、うめいた。
いまにも崖から谷底に転落しそうになって、片手でギリギリの部
分につかまっている人間の手のひらに放尿したあげくブレイクダン
683
スを踊るような所業である。
シャイロック屋敷の庭園は豪商にふさわしい手の込んだ造りのも
のだった。
玉砂利を撒いて舗装した小道に沿って、街中とは思えないほど濃
い緑の木々が日陰を作っている。時折、木々の下を吹き渡る涼風が
肌に心地よかった。
ロベリアに似た白やピンク、青や紫の花々が群生して咲いている。
人工的な小川を望みながら佇むポルディナの姿は、花の妖精のよ
うにはかなげだった。
以前と同じお仕着せを着ているが、伏せられた切れ長の瞳には憂
鬱の色が濃かった。
⋮⋮ったく、なんて声かければいいんだ。さすがに、俺も戸惑う
ぜ。
﹁おーい、元気ねえな、どうしたんだよ﹂
﹁貴方は﹂
ウェアウルフ
特に良いセリフも思いつかなかったので、適当に手を挙げて声を
かけると、戦狼族特有の犬耳をぴんと真上に立てたまま、少女が顔
を向けた。
﹁なんかとんでもねえのに目ェつけられたんだってな。災難だな﹂
﹁勝手に屋敷の中を歩き回って良いのですか。人を呼びますよ﹂
ポルディナは感情をこめずにいうと、再び視線を小川に戻した。
彼女の印象的だった瞳が力を失っていた。
当たり前か。こいつ、男に対するハードルがメダリスト級っぽい
もんな。
ダメだろ、あの人格崩壊小僧じゃ。
﹁シャイロックにいわれて来たんだよ。あのおっさんも気ィ遣いだ
よな﹂
﹁お話することはありません﹂
﹁まあ聞けよ。オークションなんだからさ、たとえばいきなり最後
の瞬間に超カッコイイ救世主が飛び出してきてさ。おまえを買おう
684
としてる、腐れ貴族の手の出ないほどの高値を付けるわけだ。スゲ
ェ大どんでん返しだろ? そんな展開になったりするかもしれねえ
じゃねえか? おまえ、そうなったら絶対にその男に惚れるだろ﹂
﹁そうですね。でも、間違いなくありえないでしょう。私に執着し
ているあの貴族はこのあたりの領主の一族だとか。後顧の憂いを覚
えて、競り合う者すらいないでしょうね﹂
﹁そんな悲観的なことばっか考えんなよ⋮⋮﹂
﹁だったら、貴方が買い上げてくれるとでもいうの! 勝手なこと
ばかりいわないで!﹂
時間が硬直する。
蔵人としては、彼女がここまで感情的になって吠えるとは思わな
かったのだ。
気まずくなって視線を外そうとすると、彼女がしっぽをくたんと
垂れ下げてしょんぼりしているのが見えた。
ポルディナは自分が怒声を張り上げたことを恥じると、深く頭を
下げた。
﹁申し訳ございません。たかが、奴隷風情が、お客さまに大変無礼
な口利きを。お許し下さい﹂
それは、氷のように無感情そうな彼女が見せた、はじめての感情
だった。
﹁いや、勝手なことばっかいってるのは俺だよ。ごめんな、無神経
で﹂
﹁奴隷に謝るなんて、おかしな人ですね。貴方も﹂
ポルディナはそうつぶやくと、再び押し黙って小川の水面に視線
を落とした。
さらさらと、流れていく水の音だけが聞こえてくる。
静まりかえった世界にいるというのに、ふたりの距離は、互いの
息遣いも聞こえないほど隔たっていた。
蔵人はその場にしゃがみこんで、熊笹を折りとると指先で器用に
船の形を作ってみせた。
685
﹁それは﹂
﹁これは、俺の故郷のおもちゃでな。笹舟っていうんだ﹂
蔵人はポルディナの手を取って小舟を握らせる。
彼女は冷め切った表情で、そっと小舟を小川の流れに乗せた。
夏の陽光が照り返す銀色のきらめきの中を、緑の小舟がすいすい
と軽快に泳いでいく。
だが、所詮は人工の川であった。
小舟は、排水のくぼみに落ちると、真っ白な奔流に巻きこまれ、
消えてしまった。
ポルディナの哀しげな瞳が、その一点を見つめたまま小さく震え
ていた。
﹁私はあの笹舟のようなものです。どうあらがおうとも、やがて流
れに呑みこまれてしまうでしょう﹂
蔵人はたまらなくなって日差しの強まっている中空に視線を上げ
た。
深い静寂の中、失せかけていた強い感情が沸々と湧き上がってく
るのを感じた。
ギルド
蔵人は、シャイロックの屋敷を出ると、銀馬車亭には戻らず、冒
険者組合の事務所に向かった。
ポンドル
ポンドル
シャイロックは、ポルディナをオークションで競り落とすには最
低でも五百万P以上は必要だといっていた。
競売は水物である。 ならば、確実さを期すにはさらに百万上乗せして、六百万Pは必
要であった。日本円にして、おおよそ六千万円の大金である。日本
で稼ごうと思えば、もはや銀行を襲うしか考えられない。
686
そもそも、蔵人が日本に戻ってそれだけの金額を貯めようと思っ
たら一生額に汗して働いても不可能に近い金額だろう。
しかも期限は来月までと切られている。残りは、二十日もなかっ
た。冷静に考えて、誰もが不可能だと思う。
だがやらねばならない。
ポルディナに対する執着とは違う、なにかが心の奥底で煮えたぎ
っていた。
不可能に挑む。
不明確な人生の中で確かなものがあるとすれば、このダンジョン
に挑み、能力以上のものを掴み取るのだ。ポルディナを買い取れる
かどうかは、まさにその試金石といえた。
蔵人が事務所の入口から飛びこむと、受付で自分の枝毛を探して
いたネリーが目を丸くして口を開いた。
﹁あれ、泣いて帰ったんじゃないんですか﹂
﹁な、わけねーだろ。そういえば、ネリー。組合の割引で道具や食
料が安く買えるとかいってたよな。教えてくれ﹂
﹁ええ、まあいいですけど。なんですか、また買った店でいちゃも
んつけて、私に構ってもらおうって作戦ですか﹂
﹁悪いが、もうおまえと遊んでる暇はないんでね。さ、早く﹂
﹁⋮⋮んん。なんか随分真面目ですね、つまんない﹂
蔵人はネリーに教えてもらった提携店で、荷物を入れるザックと
一通りの食料、それに備品を買いこむと、ダンジョンへの移動方法
を受付で確認した。
﹁もしかして本気でいまからダンジョンに潜るつもりですか。自殺
行為ですよ﹂
﹁自殺行為はいいすぎだろう。なぜなら、今日から伝説がはじまる
のだからな﹂
蔵人がわざと高笑いをすると、ネリーは溝に嵌ってもがく犬コロ
を見る目つきをした。
﹁なんだよ﹂
687
﹁ま、どうでもいいですけど。それでは、こちらが潜行計画書にな
ります。記入したら、ミスがないかチェックしますので、持ってき
てください﹂
冒険者組合
ネリーはドライに徹すると、一枚の紙片を手渡してきた。
ギルドが初心者に進める潜行計画書にクランのおおよその予定を
記入しておけば、万が一の場合にギルド直営の救出隊を派遣した際
冒険者組合
に、生存率を高めることができるのである。
ただし、高額のギルド資本の保険に入っていることを前提とする。
かつかつの資金でやりくりするクランほど、保険へ加入する割合
貧民組
といわれる人々がほとんどである。身、ひとつで
は低く、ほぼ毎日といっていいほどカウントされる死者の割合はこ
れらの
田舎から出てきて、運良く冒険功績を上げて実力を積めば、結果と
して多額の金銭を得ることは自明の理である。
つまり、冒険者になって初期の段階で死ななければ安全マージン
冒険者組合
に余裕が生まれ、どんどん死ににくくなってゆくのであった。
これは、ギルドの根底の目標である、ダンジョン攻略の枷になっ
ているとされる問題点のひとつでもあった。低階層でもコツをつか
めば、それなりのモンスターを倒して、アイテムや素材をドロップ
できる。
まともな職業に比べれば、四肢を欠損して不具者になったり命を
落とす可能性ははるかに高いが、平民の年収を一日で得ることも少
なくなかった。低層階で日がなうろついて狩りを行って生計を立て
ている者のほとんどが冒険者という部類に入るのであった。
﹁保険入りましょうよ。クランドが加入すると歩合が私に流れてく
るんですよ。儲けさせてくださいよ。というか、入れ。私の財布を
潤わせろ﹂
﹁保険なんざいらねぇぜ。人生はゼロサムゲーム。必ずお宝を持っ
て帰ります﹂
﹁そういうことをのたまっている人は、高確率で骨も戻ってこない
んですけど、本人が必要ないとおっしゃるのなら、あえてこちらも
688
記入を勧めませんよ﹂
ネリーは紙片をひらひら頭上で振ると、ダンジョンの説明をダル
ラスト・エリュシオン
そうな口調で話しはじめた。
深淵の迷宮は最深部まで百層あり、公式に攻略された十七階まで
冒険者組合
には、それぞれの下層へいく直前の降り口に、転移陣が設置されて
いる。
この転移陣は、ギルドによって厳重に管理されており、冒険をは
じめたばかりの者が、では我々は事務所から最深部の十七階から⋮
⋮というわけにはいかない。
﹁つまり一階から地道に潜って、セーブポイントは自分たちで設置
しやがれ、と﹂
﹁そういうこと。ズルはダメです﹂
﹁⋮⋮ズルさせてくれよ﹂
﹁ダンジョン攻略については、公平さを保つ必要があるのです。地
道に血反吐を吐いてくださいな﹂
第一に、個人の努力によってプラスされていく冒険功績の公平な
査定に響くという点があり、第二に、転移陣を使用するには、エネ
ルギー源である魔石が高価であるという点があった。
冒険者
魔石は、ダンジョンの中でも入手することは可能だが、コンビニ
組合
ポンドル
で雑誌を買うように気軽に手に入れられるものではなかった。ギル
ドの直営店で販売されているものは、公式価格で、ひとつ一万P、
つまり約十万円はする高価なものだ。
ポンドル
つまり、ひとつのクランが転移陣を使用してダンジョンに一度潜
る計画を立てたら、すくなくとも一万P以上の戦果を上げて帰って
こなければ足が出るのである。
もちろん管理や情報の共有を嫌うクランのほとんどは、自分たち
がどこまでの階層まで潜っているかや、各階層の情報は秘匿してい
る。各階層のマップやモンスターの出現場所、トラップの設置場所
冒険者組合
や、ビバークに適した幕営地、水場や鉱石の特殊素材の採掘場所は
価千金の情報であり、タダでギルドに提供するようなクランは皆無
689
であった。
ノース
﹁ちょっと、質問させてくれ。転移陣を敷設する技術がなかったり、
魔石が買えなかったりするクランはどうするんだよ﹂
キル
無頼
﹁低階層で死ぬまでウロウロしてろって感じですね。貧乏人と無能
者はとっとと死ね。あ、すいません。つい、本音が﹂
﹁おまえ正直すぎるぞ。少しは繕えよ﹂
﹁いや、だって、ねえ? また⋮⋮会えますかね?﹂
﹁会えるよ! むしろ、ガンガン会うから!﹂
﹁えー﹂ 冒険者とは博奕打ちである。
の徒
自らの命をカタにして、日夜、闇の中で賽を振り続ける、アウト
ローの総称でもあった。
﹁ついにダンジョンに挑むときが来た! って、なんか俺の想像し
ラスト・エリュシオン
ていたワクワク感と違う﹂
蔵人はついに深淵の迷宮の第一階層に足を踏み入れたのである。
ザックをかつぐと、食料や水を詰めこんだ重みが肩に重くのしか
かった。総重量で、六十キロはあるだろう。人間は通常生活の中で、
一日に経口摂取する水分の量は、一、五リットルは必要だとされて
いる。
迷宮探索においては、常に身体を酷使し、なおかつ携帯できる食
料が乾き物を主としてとらえると、一日に三リットルは必要である
とする。単純に、水と食料を十日分ずつザックに詰めこんでも、ほ
とんどそれだけで満杯になってしまう。
おまけに、蔵人のパーティ構成はひとりきりだった。孤独である。
いや、ただ孤独なだけならば別に問題はそれほどないのだが︵※
蔵人は孤独に強かった︶万が一の際に、援護をまるで受けられない
のである。
﹁ま、一作目の勇者は常に孤独をしいられていた。俺もロムレス王
家認定勇者だ。ダンジョンもひとりで挑むのがスジってもんよ﹂
蔵人は、松明に火を灯すと、暗く湿った洞窟の中を歩き出した。
690
﹁なーんもないっすねえ﹂
通りの店で買った適当な地図に目を走らせる。未知への冒険のた
め、蔵人の興奮は絶好調だった。DNAの監督である。
﹁なんか、財宝とかが見つかりそうな気がする。そうでなければ⋮
⋮﹂
蔵人はなにも見つからなかった場合、かつてやっていたように通
りすがりの冒険者から身ぐるみ剥ぐつもりだった。盗賊の論理であ
る。
しばらく歩くと、足元の岩肌になにか動く物体を目にした。
手に持った松明をかざすと、それらは粘液質な形態を持ったまま
じりじりと近づいてくる。
﹁ひとつ、ふたつ、みっつ。もしかして、こいつがダンジョン名物
のモンスターってやつですかぁ!﹂
色は透き通った水色である。
粘液状な物体たちは次第に酔っぱらいが吐いたゲロのような匂い
を放射させながら、団子状に身体を固着させた。口らしき部分はな
く、死んだ魚のような色の目玉がこちらを静かに見つめていた。
ラスト・エリュシオン
アメーバゲル。
深淵の迷宮全域に渡って生息する、ザコモンスターである。
﹁うっひょおおおっ。狩れぇっ、狩れやあああっ!!﹂
だが、アメーバゲルも蔵人と会うタイミングを完全に間違えてい
た。
幾多の激戦を乗り越えていた蔵人からすれば、もの珍しさこそあ
れ、恐怖の対象ではなかった。握った剣を勢いよく引き抜いた。
長剣が凄まじいスピードで銀線を描いた。
瞬く間にザコモンスターがバラバラとなった。
蔵人は拍子抜けした体で、アメーバゲルの残骸を見るとため息を
吐いた。
﹁というか、ただの泥団子みたいなもんじゃねーか。こんなもん何
万匹殺しても意味が無いような気がする。なにもドロップしないし﹂
691
蔵人は長剣に水をかけて布で丁寧に拭き取ると、あまりの敵の弱
さに愕然とした。
松明のほのかな灯りを、モンスターの死骸に向ける。そこには、
お宝も金目のものも別段見受けられなかった。現実は非常だった。
﹁よし、次からはモンスターを見たら積極的に逃げよう﹂
意気込む蔵人に死角はなかった。
おおよそ三十分後。
﹁なぜだ⋮⋮﹂
道に迷う子羊の姿があった。
ロクに地図を読まなかったのが悪いせいか、すでに現在地すら蔵
人はわからなくなっていた。ザックを下ろして、地べたに座りこむ。
ヒンヤリとした冷気が尻を襲った。
﹁寂しいよおお、ヒルダぁあ、レイシーぃい﹂
おまけにちょっと泣きが入っていた。
蔵人は両膝を抱えこんで座り、少しだけ迷ってしまった自分に酔
うと気が済んだのか、ザックから乾燥肉と黒パンをかじりながら、
闇に浸った。
静寂が強すぎて聴覚が麻痺してくる。蔵人は腹いっぱい食料を詰
めこむと、ザックからシュラフを引き出して転がり込んだ。軽く放
屁をすると目をつむった。昼間会ったポルディナという亜人娘の肢
体が脳裏をよぎった。
ポンドル
素直に気の毒だと思うし、すべてを諦めきった瞳が無性に頭の中
に焼きついて離れないのだった。
﹁にしても、五百万、いや六百万Pか。だいたい、六千万かぁ。札
束にすると、一万円札が一枚一グラムだとすると、六キロくらいか。
実際、生活しててお目にはかからないよ。いくら、ひと一人買うと
しても、どうなんだろうか﹂
蔵人はくだらない妄想をしながらウトウトしていると、いつしか
寝入ってしまったのだろう。枕元で燃やしていた松明の炎がわずか
に揺れた。遠くで男たちの悲鳴が聞こえる。
692
﹁なんだよ、うるせえなあ﹂
まどろみをおかされた蔵人がシュラフから顔を出すと、洞窟のは
るか向こう側で、数人の男たちが争う音が聞こえてきた。
蔵人は舌打ちをすると、シュラフから立ち上がり松明を引き寄せ
た。
鉄の塊がぶつかり合う音と共に、灯りの向こう側に三人の冒険者
らしき男たちと、いままで見たことのない奇妙なモンスターの姿が
あった。
まず目につくのは猿に似た顔である。
その怪物は幼児が描く人間の絵のように、巨大な猿顔から直接手
足が生えており、胴体というものがまったく存在していなかった。
頭部の真下から突き出た足の細さでは、どう考えてもその重みを
支えきれそうには見えないのに、その怪物は物理法則を超越して踊
るようにデコボコした足元を気にせずに跳躍していた。毛むくじゃ
らの両手には、木の枝に植物性のツルで縛った石が固定されていた。
モンスターの武器は極めて原始的な石斧だった。
頭に手足だけが生えたような冗談の塊のようなモンスターは、デ
ビルエイプと称される低階層に多数見られる種族だった。
彼らは好んでダンジョン内のコウモリや昆虫を食べる。腕力はそ
れほど強くなく、ある程度の冒険者なら苦もなく倒せるレベルの生
物だった。
しかし、蔵人の目の前で恐慌状態に陥っている三人の冒険者にと
ってはそう映っていないらしかった。
頭に鉢金を巻いた男は小ぶりのナイフを抜いて立ち向かっている
が、完全に腰が抜けていた。
かなりの巨躯を持つ重戦士タイプの男は、座り込んだままトゲつ
き棍棒を握り締めまるで動こうとしない。
残りの一人は、武器すら持たずに、ふたりに対して声援を送るに
とどまっていた。
﹁ひいいいいっ、ポーキー! 援護だ、援護しろおぉお!﹂
693
鉢金は、周囲をぴょんぴょん跳ね回るデビルエイプに向かってナ
イフをやたらめったら振り回している。素人丸出しだった。
﹁あ、ああああ。お、おで、こわくて、腰が、腰が﹂
﹁フム。このモンスターは、デビルエイプですね。僕の記憶による
とそれほどの強さはありません。さ、オズワルド、ポーキー。協力
して足を狙ってください。やつの弱点は、その貧弱な脚部です﹂
﹁カール、てめえ隠れてないで助けろよおおっ。ひいいいっ、サル
顔が、巨大なサル顔が襲ってくるううっ!﹂
鉢金ことオズワルドに対して、カールと呼ばれた小男は、岩陰か
ら顔だけを出しながらそっとつぶやいた。
﹁あと、補足として、デビルエイプはつかまえた獲物のハラワタを
すべて引き出して、まだ生きていいるうちにモリモリかじるそうで
すよ﹂
﹁いやだあああっ!﹂
オズワルドは小娘のように泣き喚きながら座りこんだまま、ショ
ンベンを垂れ流しはじめた。
最初に出会ったクランのあまりのみじめさに、蔵人はさすがに手
助けする気になった。
﹁おいおい、ガキみてぇに泣き喚くなっての。おい、そこのメガネ。
あのデカザルの弱点は足だってか﹂
﹁あ、はい。脚部を捻挫しただけで動けなくなって死ぬらしいです﹂
﹁なんとまあ、はかない生き物だこと﹂
蔵人はデビルエイプに向かって真っ直ぐに駆け出すと、長剣を水
平に構えた。
奇妙な舞いを続けていたモンスターは、蔵人の突撃を察知すると、
本能的に危機を察したのか、攻撃対象を切り替えた。
﹁もう、おせえよ!﹂
蔵人はデビルエイプの振り回す石斧の単調な動きを、身をかがめ
てかわすと、長剣を細長い足に叩きこんだ。鋭い刃は枯れ木のよう
な両足を楽々切断すると、デビルエイプは簡単にバランスを失って
694
その場にひっくり返った。
﹁は、はっはは! ありがとうよ、そこのアンタ。この腐れモンス
ターが! こっからはオズワルドさまのターンだぜ!﹂
先程まで泣き喚いていたオズワルドは、デビルエイプが動けなく
なると見るや、やおら立ち上がってもはや無抵抗になった相手にナ
イフを叩きこみはじめた。動けなくなったモンスターを仕留めるの
は至極容易だった。血飛沫を飛び散らせて切り刻まれるデビルエイ
プは表情を変えずにくぐもった悲鳴を上げ続ける。
﹁おらおらおらあっ、下等生物がっ、クソザルがっ、劣等種族がっ
! オズワルドさまの正義の剣を受けよっ、ぐあっ! こいつ、腕
を振り回して抵抗しやがる! おい、ポーキー、タコ殴りのチャン
スだっ、加勢しろや!﹂
﹁オズワルド、す、すごく、カッコ悪いん、だな﹂
﹁うっせーよ! 生き残ったオレたちが正義なんだっ!﹂
オズワルドとポーキーが無抵抗のデビルエイプを仕留めたのはそ
れから十五分後だった。
﹁おうっ、危ないところを助けてもらってありがとなっ。あいつは、
新人
たぶんこの階のボスモンスターらしかったが、なんとか倒せたぜ!
オレの名は、冒険者の大型ルーキー疾風のオズワルド! こいつ
マッパー
らは、オレのクラン暁の陽炎団のメンバーで、デカいのが重戦士の
ポーキーで、ヒョロイのが学者で地図読みのカールだ! よろしく
な!﹂
﹁え、なに? 暁の、なんだって﹂
蔵人は一瞬、難聴になった。
﹁ふふん。オレは疾風のオズワルド! この大迷宮時代に終止符を
打つ男、いうなれば未来の迷宮王。迷宮王にオレはなる!﹂
オズワルドは自分の言葉に酔いながら、両手をばっ、と左右に広
げて怒鳴った。隣に居たカールのメガネにつばきが降りかかる。い
つものことなのか、動ぜず、冷静にハンカチを取りだすと無言でグ
ラスを拭いはじめた。
695
﹁あーらら、やばいな。開始早々、いきなり重要人物に会っちゃっ
たみたいだな﹂
無論、会ってはいけない種類の人物である。
﹁その名乗りやめましょうよ、オズワルド。恥ずかしいし、キチガ
イみたいですよ﹂
﹁い、田舎モン丸出し、なんだな﹂
﹁てっめーらああ、その言い方はねえだろおおおっ。そんなんじゃ、
この大迷宮時代で生き残っていけねーぞ!﹂
﹁なんですか、その大迷宮時代って? 常に道に迷ってそうな時代
じゃないですか。それに、いっつもその言葉連呼してますけど、ぜ
冒険者組合
んぜん流行ってませんからね。むしろ、白い目で見られてますから
ね。ギルドじゃ精薄扱いですよ。いいかげんにしないと、僕らこの
クラン抜けますよ﹂
﹁いきなりクラン解散の危機!? へへっ、上等だ。いいじゃねー
マッパー
か。その程度の荒波乗り越えなきゃな。オレたちの絆が、いま試さ
れてるぜっ﹂
﹁あ、先程はピンチのところを助かりました。僕は地図読みなんで
できることがあれば﹂
﹁そっか。実は、道に迷ったみたいでな。上までの道を教えてもら
えるか﹂
﹁はい。僕らもいちど引き返して装備を整えようと思っていたとこ
ろです﹂
﹁聞けよォおおおおお、人の話しぃいいいっ!﹂
ポンドル
オズワルドの虚しい叫びがダンジョン内に木霊した。
蔵人は無事、事務所にまでたどり着けたが、六百万Pまでの道は
いまだ遠い。
696
697
Lv45﹁邪竜撃滅作戦﹂
大口を叩いた割には一日でダンジョンから戻った蔵人に対し、受
付のネリーは絶対零度にまで落ち切った視線で冷たく蔑んだ。
﹁あの、また会えたね。えへへ﹂
﹁なにかご用ですか﹂
﹁いや、別にぃ﹂
﹁⋮⋮もうご帰還かよ、口だけ君﹂
﹁ぬおっ。だ、だってよ﹂
﹁今日から伝説がはじまるのだからな﹂
ネリーは斜め四五度に顔を傾けると、蔵人の口真似をしてみせた。
﹁ちょっ﹂
﹁今日から伝説がはじまるのだからな!﹂
﹁⋮⋮勘弁してください﹂
これにはさすがの蔵人もいい繕うことは出来なかった。いっそう
肩に深く食いこむ背負ったザックの重みを噛み締めながら、ラウン
ジのテーブルに戻っていく。
そこには、先ほどダンジョン内で知り合った、冒険者のオズワル
ドたちが、あたたかい視線で待ち受けていた。
﹁おい、相棒。そんなに気を落とすなよな、へへ。まあ、彼女はわ
りとドSなところがあるから。いちいち、帰還するたびに自己嫌悪
に陥ってたら冒険者なんかつとまらないぜ!﹂
﹁⋮⋮俺は、無力だ﹂
蔵人は完欝モードに陥って両手で顔を覆いながら、ブツブツとつ
698
ぶやきを漏らした。
﹁相棒﹂
﹁別に彼は相棒じゃないと思いますよ。少し馴れ馴れしくないです
かね﹂
学者然としたカールのツッコミが入った。
﹁おまえは黙ってろ。これはな、男と男の熱い語らいなんだからな
っ!﹂
オズワルドは無意味に大きな声を出すと、チラチラと背後のカウ
ンターにいるネリーを意識している。
冒険者組合
彼女の冷徹系の整った容姿や、氷のように美しく流れるような髪
にのぼせ上がる冒険者は多かった。
かくいうオズワルドも、はじめてギルドを訪れて以来、ネリー命
の口だった。
カールにとって、オズワルドの無駄に熱い友情ごっこの裏にある、
うっすい意図がありありと見てとれ、ひどく虚しい気分が胸いっぱ
いに広がった。
︵どうせ仲間思いのオレってどうよ? こんなオレは当然女性にも
マストな存在なんだぜ、とかくだらないアピール妄想に耽っている
んでしょうが。まったく、相手にされていませんよ︶
﹁青春ごっこはそれくらいにして行きましょうよ、オズワルド。ク
ランドもひとりになりたいみたいだし。あと、ネリーを彼女にした
いなら、こんなまだるっこいことしてないで直接交際を申しこんだ
らどうですか? ポーキーもそう思いますよね﹂
﹁ん、んだ﹂
半ば眠りかけていた重戦士のポーキーが夢うつつのまま相槌を打
った。
﹁は、はあああっ? なに、なにおまえら勘違いしてんのぉおお!
お、オレは、ずぇんずぇん彼女になんか、いやちょーっとは、そ
りゃタイプかなぁと思ったりなんかしちゃったりしてるけど、いま、
クランドに発破をかけているのは、冒険者である先輩としてのここ
699
ろ構えというかなんというか。んもおおっ、マジでやめろよなぁ、
そういうのは。不純な!﹂
﹁ネリーのこと、ドSとか誹謗してたじゃないですか﹂
オズワルドは素早い動きでカールの肩に手を回すとヒソヒソ声で
話しだした。
﹁ちょっ、てんめっ、彼女に聞こえて気を悪くしたら、オレのネリ
ーを彼女にしてラブラブ冒険者生活を楽しむ三ヵ年計画が狂うじゃ
ねーかよ!﹂
﹁⋮⋮三年経ったら彼女は他の男と結婚して子供産んでますよ﹂
﹁もおいい! 勉強ばっかしてたおまえに繊細な女心なんかわかん
ねーんだよ! オレは先にいくからなっ﹂
オズワルドはカールを床に突き飛ばすと肩で風を切って事務所を
出ていった。
受付のカウンターを横切る際に、さりげなくネリーに流し目を送
る。
カールは、ネリーが苦虫を噛み潰した表情になったのを見て、こ
りゃ脈なしだな、と思った。
﹁はっ! ここは﹂
しばらく蔵人がトリップしている間に、かなりの時間が経過して
いた。ぐうと、腹が間抜けな音を出した。幸いにも、長期の迷宮探
索に向けて食料と水は充分確保してあった。
ザックから携帯食料である、干し肉と石のように硬い黒パンを出
すと、生まれてから一度も虫歯になったことのない丈夫な歯で時間
をかけて噛み砕いていく。
冒険者組合
ほぼペースト状になったところで、水筒に直接口をつけて中身を
飲み干した。
周囲に目を配ると、時計は深夜を指しているというのに、ギルド
の事務所は冒険者たちで混みあっていた。
受付には、定時で帰宅したのかネリーの姿はなく、目もとに少し
だけそばかすの浮いた、ちょっと男にちやほやされなさそうな女に
700
代わっていた。
﹁どおしよっ﹂
蔵人は結構精神的にキていた。当初の計画では、ダンジョンに潜
った時点でお宝がザクザク掘り出されるはずであったが、現実では
鼻くそひとつ手に入れることは出来なかった。
実に浅はかな計画であった。
﹁ちきしょうっ、真実一路に生きてきたのにっ、なんでだよっ!﹂
全然そんな事実は存在しなかった。まさしく神の配剤である。
両拳を握って、うめくが周りの冒険者たちはそれぞれのクランで
盛り上がり、彼の行動は半ば無視されている。
唯一、気弱そうな受付のそばかす娘が、蔵人のことを気にしてい
る。ちょっとした、イタズラ心が生まれた。
﹁ううっ﹂ 不意に胸をおさえて、椅子から崩れ落ちる。
﹁だ、だいじょうぶですか!﹂
元々親切な性格だったのだろう、赤毛のそばかす娘は蔵人のそば
まで来てしゃがみこむと、さも心配そうに覗きこんだ。
蔵人は苦しむふりをしながら、かがむことによって突き出された
そばかす娘の、胸をチラ見した。
厚手のローブの上からでもわかる、つりがね型の巨乳であった。
蔵人がこの世界に来てから、ベストスリーに入るほどの逸材であ
る。
この巨乳ハンターである、俺としたことがなんという見落としを。
﹁ふう、大丈夫だ。あ⋮⋮﹂
﹁はややっ、大丈夫ですか!﹂
蔵人はふらついたフリをして娘の胸に顔をうずめた。彼女は、蔵
冒険者組合
人が本気で苦しんでいると思い、まったくもって気づいていない。
やはり、ギルドも夜でしかわからないこともあるぜ、と思いつつ
娘の乳房のふかふかした感触を顔面でたっぷり楽しんだ。
受付の少女はアネッサと名乗った。
701
なんでも、ネリーが深夜勤務を絶対にやりたがらないので、今年
の春から臨時として入った近所の石工の娘だそうである。
彼女は、兄弟が八人もいて、生活の助けになればと、昼間は子守
をして夜はここで稼ぐことにしたらしい。
﹁ふーん。アネッサちゃんは働き者だねぇ。とっても、エライと思
うよ﹂
﹁え、やや。そんなことはないですよぉ﹂
アネッサは確かに容姿的にはパッとしないが、誰もが気づいてい
ないほど凶暴な武器を両胸に抱えていた。男なら誰しもが惹かれる
爆乳である。
先ほど蔵人がどさくさにまぎれて腰に抱きついたが、くびれはし
っかりとあり、ポチャではないといい切れた。
この世界の女性は基本、身体の線を隠す服装をしているので、パ
ッと見ではナイスバディかそうでないかは非常に見分けづらい。
だが、触って確かめた。この娘は、誰にも気づかれていないっ、
お買い得品。
年を聞けば、十六だという。この世界では適齢期であった。
そのくせ、まったく男ずれしていない部分も好感が持てた。
蔵人がさり気なくアネッサの働きぶりや、それほど嫌味にならな
い程度に身体的特徴を褒めると、あっという間に彼女はいい気分に
なって、態度がやわらくなった。
﹁なーんかさ、一発でドバっと稼げる方法ってないかな﹂
﹁一発で稼げる方法ですか、うーん﹂
ネリーであれば、﹁ドバっとその腐った脳みそ掻き出してみれば
考えつくんじゃないですか﹂くらいの手痛い返しを送ってくるはず
が、こんな無茶ぶりに対してもアネッサは、あごに人差し指を立て
て、うーんと考えこんでくれる。
蔵人は結構本気でアネッサのことが好きになりそうだった。
﹁通常ならば、ダンジョン深くまで潜ってレアアイテムをゲットし
て売却するって方法しかないんですけど、クランドさんは時間がな
702
冒険者組合
攻略依頼
いんですよねぇ。そういう場合って、クエストを受けるしかないん
じゃないかなぁ﹂
﹁クエスト?﹂
冒険者組合
﹁ええ。シルバーヴィラゴのギルドでは、基本ダンジョン攻略をメ
攻略依頼
インに冒険者さんたちを支援していますが、通常各地のギルドでは
クエストが主な生活の糧になっているんですよ。かなり危険の伴う
モンスターや名うての盗賊や賞金首の討伐ですよ。最近、結構話題
ポンドル
になったのが、血塗れギリーっていう盗賊が仲間内のイザコザで殺
されたとかなんとか。彼の賞金首は、二百万Pだったそうですね﹂
﹁え、マジで!﹂
蔵人はカウンターに両手を置いて全身を突っ張らせると、深いた
め息を吐いた。
﹁ど、どうしたんですか、クランドさん! また、どこか気分でも﹂
﹁いや、大丈夫だよ。続けて﹂
﹁他にはですね、錬金術師の方と組んで、上手く素材を集めてレア
アイテムを作成するとか。ただ、錬金術師の方たちって、基本的に
はどんなに危険でも単独で行動することが多いんですよ。しかも、
かなり排他的で自分たちの関係者以外とは絶対にパーティーを組ま
ないそうです。これは、もしツテがあっても時間がかかりそうです
から、パスですね。あと、これはいっちゃってもいいのかな⋮⋮﹂
﹁アネッサ、頼むよ﹂
攻略依頼
﹁ううう、しょうがないなぁ。これは、秘密なんですが、明日の朝
にかなり大掛かりなクエストが発表されるらしいです。だから、早
耳な一部のクランはここで夜明かしするっていう人が多いらしいで
す﹂
サンクトゥス・ナイツ
アネッサは、蔵人のすぐそばまで顔を近づけると、視線を動かさ
ずにいった。
﹁ほら、あそこの一番騒いでいる集団の真ん中にいる白十字騎士団
の騎士さん、見えます?﹂
﹁デケーな。俺と同じくらいタッパがあるぞ。⋮⋮女なのか﹂
703
ラウンジの中央で声高にしゃべる冒険者の一段の中央に、その騎
士はいた。
大剣
白銀の甲冑を身にまとい、その上から赤地に白十字を染め抜いた
サーコートを羽織っている。腰には、黄金造りのグレートソードを
佩いていた。
背丈は、蔵人より拳ひとつくらいの差しかない。人間族の女性に
しては百八十近い、長身であった。屋内というのにかっちりと兜を
かぶっている。兜から、はちみつ色をした綺麗な、ウェーブがかっ
た金色の髪が覗いていた。
女だてらに剣や鎧を着こめばさぞ、男勝りな顔つきだと思うだろ
うが、ややタレ目がちな瞳は慈母を思わせるほどやさしげで、深い
冒険者組合
森のように澄んだ緑色をしていた。顎先が驚くほど細く、たおやか
な顔つきをしていた。
黄金の狼
の副長です。槍と剣の名手だそうです。隊
﹁彼女はアルテミシアといって、このギルドでも二番目の規模を持
つ、クラン
攻略依頼
長のジャック・バインリヒは壮年の貴族で、いまはちょっと見当た
らないですね。いずれにしても、同じクエストを同時に受けるとな
ると、かなりのライバルになりますよ。なにしろ、予備人員を含め
ると優に二百人近いパーティですから。⋮⋮あー、ところでクラン
ドさんのお仲間はどこにいらっしゃるんですかね。ちょっと、見当
たらないみたいなんですけど﹂
﹁うん。どこかに居るよ﹂
﹁どこかにって﹂
﹁どこかで、きっと僕が来るのを待っているよ﹂
﹁つまり⋮⋮﹂
アネッサは蔵人の気持ちを察して、そっと袖口で目頭を押さえた。
704
冒険者組合
開けて翌日。ギルドの掲示板の一番目立つところに、討伐依頼が
張り出された。
だが、蔵人はすっかり忘れていた。自分がこの世界の文字を読め
ないという事実を。
﹁よ、読めねえ。なあ、アンタ。あれ、なんて書いてあるんだ﹂
﹁うん? ああ、こう書いてあるぞ。討伐依頼、シルバーヴィラゴ
ポンドル
から南東、竜王山のふもとビスケス村にて確認された邪龍王ヴリト
ラを撃滅せよ。懸賞金、五百万P。依頼者、アンドリュー伯第二子
クロヴィス、と。それにしても、貴公は文字が読めないのにも関わ
らず昨晩からこの依頼が張り出されるのを待っておったのかな。ま
ったく、とぼけた御仁だ。はは。いや、けなしておるわけではない
ぞ。本当だぞ﹂
﹁おお情報サンクス。ってアンタは﹂
サンクトゥス・ナイツ
蔵人は女性の快活に笑う声を聞いて隣を見ると、そこには昨夜話
題にした当の人物、白十字騎士団の騎士アルテミシアの姿があった。
の副隊長を務めるアルテミシア・デュ・ベルクールだ。
﹁ふふ。そういえば、まだ名乗っていなかったな。私は、クラン
黄金の狼
貴公の名をお聞かせ願いたい﹂
﹁俺は、志門蔵人だ﹂
﹁ふむ、ではシモン殿、と呼ばせてもらおうか﹂
﹁いや、シモンは家名。名前はクランドだ﹂
﹁ほう、それはそれは。どちらも、名前に聞こえる。とても珍しい
が、良き名だ﹂
実に楽しそうに瞳を輝かすアルテミシアの口調は、やや堅苦しか
ったが、なんとも人を和やかにする明るいものだった。
﹁随分と若く見えるが、副隊長とは偉い方なのか? 俺も言葉遣い
を改めたほうがいいか?﹂
﹁ははっ、私はそれほど若くはない。もう、今年で二十になる。と
んだ行き遅れ娘で、父上も見放しておるさ。それにしても、いちい
705
ち言葉遣いを改めるかどうかと、普通その相手に聞くかね。あは﹂
アルテミシアはツボに嵌ったのか、身体をくの字に折って、から
からと小娘のように笑い声を響かせた。周囲の冒険者たちが、呆然
とした様子で彼女を見つめている。
﹁ま、二十じゃ俺と同じ年だ。せいぜい仲良くやろうか﹂
﹁うふふ。これは、失礼。こんなに笑ったのは、久しぶりだよ﹂
アルテミシアはそっと白手袋に包まれた右手を差し出した。
蔵人は、外套で申し訳程度に拭うと、彼女の手をそっと握った。
蔵人の手は、どんぶり茶碗のように一際外れて巨大である。
女性としては大きめの彼女の右手がすっぽりと包まれると見えな
くなった。
アルテミシアは目をまん丸にして驚くと、パチパチとしばたかせ
た。
﹁貴公の手は実に大きくて男らしい。いや、なんでもない﹂
﹁しかし、なんだよ邪龍王って。いきなりラスボス的なモンスター
が現れたな。これは世界が滅びる前兆なのか﹂
﹁そうか。クランド、と呼ばせてもらおうか。貴殿は、邪龍王ヴリ
トラに関して知らぬのだな。私も聞きかじりなのだが、それでよい
のならある程度は教えることはできるが﹂
﹁頼むよ﹂
僭越ながらと、アルテミシアは邪龍王ヴリトラに関して語りはじ
めた。
ヴリトラが竜王山付近の村を襲いはじめたのは昨日今日の出来事
ではなかった。
かの竜が出現を確認されたのは、かれこれ十年前にさかのぼられ
る。
それも、決まって冬季に限られていた。理由はすべて判明してい
る。単純に、冬の積雪期になると、ヴリトラの主食となる中型モン
スターが冬眠に入り姿を消すからだった。餌の代わりとなる小型の
モンスターは、寒気の厳しい冬場になると、北に位置する凍結した
706
クリスタルレイクの湖に向かって逃げてしまい、結果として冬眠の
飛龍
習慣のないヴリトラは激しい飢餓に襲われるのだった。
﹁ヴリトラの正体は判明している。ワイバーンだよ。定期的に領主
の軍や、ギルドの討伐隊を派遣しているのだが、ヤツラは知能が低
い割には危機を察知する能力が高く、群れを殺しきることができな
いらしい。だが、今回のターゲットは、いままでルーチンワークで
駆除してきた奴らとは桁が違うほど強く凶暴な個体らしい。下手を
したら、付近の村々がまとめて亡地にすらなりえるほど猛威をふる
いはじめている。かなりの苦戦をしいられると思うが、軍との共同
ポンドル
作戦になるから、ヤツらをまとめて屠るのは不可能ではないだろう。
ポンドル
賞金が、五百万Pと高値でも、経費を差し引いて、クラン全員の精
攻略依頼
鋭百人ほどで頭割りすれば、ひとり四万Pくらいじゃないかな。あ
あ、そういえば今回のクエストはウチが一括で受けると聞いている
が、クランドのクランと共同作戦を行えばさらに、ひとり頭の取り
分は減ってしまうが、これも社会奉仕と考えれば、たいして腹も立
たないだろう。我々は、騎士だからな。で、クランド。君の仲間を
そろそろ紹介して欲しいのだが﹂
アルテミシアはしゃべり終わると、辺りを見回し始める。蔵人は、
ややバツの悪さを感じながら、ぼそっとつぶやいた。
﹁ひとりだよ﹂
﹁ひとり?﹂
黄金の狼
瞬間、上品で堅苦しいアルテミシアの口調が娘らしいものに変わ
った。
﹁俺はひとりだ。だから、当然アルテミシアたちたちとは競い合い
になるな。お手柔らかに頼むぜ﹂
﹁はあああっ、おまえひとりでウチと張り合おうってのぉ! 正気
かよ!﹂
﹁やめないか、ステファン。無礼であるぞ!!﹂
黄金の狼の団員のひとりなのだろうか、ステファンと呼ばれた巨
漢の戦士はニタつきながら、蔵人を嘲笑った。アルテミシアの顔が
707
仲間の無作法を恥じてか、大きく歪んだ。
攻略依頼
﹁いーや、いわせてくださいよ。それに、副隊長。どう考えたって、
ひとりでこのクエストに挑めば犬死には確実ですぜ。冒険者の先輩
として教え諭すのは、スジってもんでしょうが。副隊長がやさしい
のは重々承知ですが、ときにはやさしさが余計な血を流すってこと
もあるんですぜ!﹂
﹁それは﹂
﹁まあ、まあいいからいから。第一こんな田舎モンに舐められてた
黄金
の序列三位にして特攻隊長、重騎士ステファンにおまかせあ
ら、ウチの品格ってやつにも関わってきますがな。ここは、
の狼
れ。ってことだ、小僧よおお。てめぇ、おとなしくこの件から降り
ろや、ああ?﹂
重騎士ステファンは背丈が二メートルを超える巨漢で、おまけに
信じられないほど樽同然の体型をしていた。
ものすごい巨デブである。
だが、全身についた肉の太さに恥じないほどのたくましい腕をし
ていた。
ピカピカ光る特注のプレートメイルが、鈍く窓から差しこむ陽光
を照り返している。
蔵人は、瞳孔に突き刺さるまぶしさに目をしかめた。
﹁なあ、ひとつ聞いていいか?﹂
﹁ああん、なんだよ﹂
﹁なにを食ったら、そんな身体になったんだ。樽でも丸ごと呑みこ
んだのか﹂
ステファンの少ない脳みそに言葉が染みこむまでいくらかのタイ
ムラグが生まれた。
﹁な、な、なああ、おっ、おっおまえええええっ!!﹂
﹁クランド!﹂
アルテミシアの制止する声と同時に、蔵人の腹をステファンの巨
木のような拳が凄まじいスピードで叩きつけられた。
708
蔵人の身体はゴムまりのように軽々とラウンジ中央のテーブルを
なぎ倒すと、壁際まで吹っ飛び背中をしたたかに打ちつけた。
﹁なんてことを⋮⋮おい、ステファン!﹂
黄金の狼
全
﹁副隊長、どうして俺を咎めるんですかい。その、小僧は序列三位
のこの俺を侮辱した。ってことは、ひいては俺たち
員を侮辱したことになるんだああっ! なあ、おまえらもそう思う
だろお! そもそもこんな一撃でくたばるような弱いやつでは、竜
退治なんざできませんぜ。さ、そろそろ出発の時刻ですな。正義を
盾に横紙破りの常習である副隊長も、今度の遅れは致命的じゃない
ですか。さすがの、バインリヒ卿も除名すらあり得るといっていま
したよ。この、黄金の狼を除名されたら、それこそ困ったことにな
るんじゃあないですかい?﹂
﹁それは﹂
﹁ま、俺たちは先に行ってますぜ。遅れたくはないんでね。それに、
あからさまに俺たちのことを馬鹿にしたその男に手を貸せば、副隊
長の命令なんぞ、今後従うやつが出てくるかどうかは疑問に思われ
ますなぁ!!﹂
ステファンを先頭に、黄金の狼の隊員たちはぞろぞろと連れ立っ
て外に出ていった。
アルテミシアは、壁に背中を打ちつけて座りこんでいる蔵人のそ
ばに行くと、しゃがみこんで絞り出すようにして苦しげな声で言っ
た。
﹁済まない、クランド。これも、すべて私の不徳の致すところだ。
今回のことは、討伐が終わったら幾重にも詫びよう。ケジメも必ず
つける。だから、今回のことは目をつぶって諦めてくれないだろう
か。重ねて詫びよう、すまない。まさか、こんな、こんなことにな
るとは﹂
蔵人は無言のままジッとアルテミシアの瞳を直視した。
そこにあるのは、ただ罪悪感に打ちひしがれたひとりの女の顔が
あった。
709
﹁俺ならどうってことないぜ、さ。急いでるんだろう。気にせずに
行きな﹂
﹁すまない、本当に。この借りは必ず︱︱﹂
﹁はは、本当にすまないと思うならこの次会ったときにチュウでも
してもらおうか﹂
蔵人は痛みに顔をしかめながらも唇を突き出してみせた。
アルテミシアの顔が泣き笑いのように歪んだ。
﹁貴殿は、本当におもしろい男だ﹂
冒険者組合
アルテミシアは後ろ髪を引かれるようにして、幾度も壁を背にし
て座りこむ蔵人を見ながら、頼りなげな足どりでギルドを出ていっ
た。
﹁あの樽野郎、すっげえ馬鹿力だな。今度会ったら、バラバラに切
り刻んでラードの材料にしてやる﹂
ぺっと血の混じった唾をはくと、膝に手をついて立ち上がる。
ふと、目の前に差し出されたハンカチの白さが眩しかった。
﹁まったく、出勤早々に私の手を煩わせないでくださいな﹂
そこには、いつも通りの仏頂面をしたネリーの澄ました顔があっ
た。
蔵人がそっとハンカチに手を伸ばすと、狙いすましたように引っ
こめられる。
幾度かそれが繰り返された後、うんざりしたように蔵人がいった。
﹁いったい、おまえはなにをしたいの﹂
﹁いや、やっぱりハンカチが汚れるかな、と﹂
蔵人は横を向いて、くそっ、と吐き捨てた。
﹁冗談ですよ。ほらー、痛くないでちゅよークランドちゃんは強い
710
子ですから泣かないでちゅねー﹂
﹁無表情でいわれてもなぁ﹂
ネリーは口先とは違った女性らしい繊細な手つきで、蔵人の顔の
汚れを拭き取ると、はっ、と目を大きく見開いた。
﹁大変だ。頑固な油汚れが落ちない﹂
﹁俺は生まれつき色黒だよ! それに、汚れじゃねえよ!﹂
﹁なんだ、汚れは元からだったのね。よかった﹂
﹁おい、手を胸元に組んでなんに祈ってんだよ!﹂
﹁無論、神です﹂
﹁なんの神なんだよ﹂
﹁油汚れの神。んんん、台所神?﹂
﹁もおいいよ。ったく、世話掛けちまったな、ありがとよ﹂
﹁本当です。ただの、いち冒険者にこの私がここまで配慮するなん
てまずありえないですよ。感謝しなさい。崇め奉りなさいな﹂
﹁あー、へいへい。観音さま、観音さま﹂
蔵人は両膝をついて目をつぶると、手を二度ほど打ち鳴らして、
ネリーの股間の辺りをそっと盗み見た。
﹁なに、いまの非常に不快な波動は﹂
﹁気にするなよ﹂
﹁どうせクランドのことだから、土着の邪神に祈ったんでしょう。
ところで、どうしてあんなビッグチームとわざわざ揉めたりしたん
ですか。弱いくせにイキがっちゃって。この、ネリーさまに事情を
攻略依頼
話してみなさい。思いっきり笑ってあげるから﹂
﹁笑うんじゃねーよ。その、俺がクエストを受けようとしたら、あ
いつらがケチつけてきたんだよ﹂
﹁まったく、黄金の狼ともあろうものが、こんな吹けば飛ぶような
男をわざわざムキになっていじめて⋮⋮恥を知りなさい!﹂
ネリーは平手を叩きつけた。蔵人の頬に。
﹁いだっ、ちょっ!? 待て、なんでいま俺ぶたれたのっ? 意味
が理解できねえぞ!﹂
711
﹁つい義憤に駆られました。弱いものいじめとか許せない性格なん
ですよね﹂
﹁おまえ、俺いじめてるよね。完全にいたぶってるよね。どうして
ぶったか、説明しろよ﹂
﹁んんん。だって、目の前に居るから?﹂
﹁おまえの前に立ったらデフォでぶたれるのかよ。恐怖の受付だよ
な﹂
﹁大サービス﹂
攻略依頼
﹁いらんわ! ったく﹂
﹁で、なんのクエストを受けたんですか。ダンジョン攻略以外にク
ランドが出来そうなものといえば、町内会のドブさらいとか、迷い
犬探しとか、あとはゴミ拾いか。大変! 三種類しかレパートリー
がない。でも、安心してください。次からは優先的に取り置きして
おきますから﹂
﹁どんだけ、人を見下してんだよ。あれだよ、あれ﹂
蔵人がヴリトラ討伐の掲示を指差す。ネリーは首を傾けてその方
向を見ると、そのまま微動だにしなくなった。
しばらくの間彼女はそうしていたが、やがて両膝を伸ばしてすっ
くと立ち上がると、スタスタ受付のカウンター席に向かっていつも
のように業務の支度をしはじめた。
﹁⋮⋮あいつ、すべてをなかったことにしやがった﹂
蔵人は呆然としたまま立ち上がると膝の埃を払った。彼に残され
た手は、黄金の狼という厨二臭い名前の集団を出し抜いて、邪龍王
ヴリトラなるメキシコうまれっぽい化物を退治することだった。激
戦が予想された。
ひろいもの
に入った。
蔵人はザックをかつぐと、冒険者ギルドを出て、大通りの冒険道
具専門店
ここは、元冒険者だったドナテルロという老人が経営している、
武器・防具・道具ならなんでも揃う総合販売店だった。
あらゆる雑多なものを取り揃えており、素材や鉱物の買取も行っ
712
ている。
見かけは古いが、シルバーヴィラゴではもっとも老舗であった。
﹁いらっしゃい、ってなんでぇ、またテメェかよクランド。ウチは
おまえみたいな文無しは基本お断りなんだよ﹂
﹁まあ、そういうなって。今日は、いろいろと買ってくからよ。も
う少し愛想よくしろや﹂
﹁ほざけ。おまえがこの店で買ったのは、ザックと水だけじゃねえ
か。挙句の果てに、たいまつはサービスにつけろとか駄々こねやが
って。なんだ、十日は潜るっていって、もう出てきたのか。根性の
ねぇ。俺がオメエくらいのころはなぁ、半年やそこら、一度潜れば
帰らねえのはザラだったんだぜ﹂
﹁あーあー、もうそういうのはいいから。今日はよ、外に討伐で出
かけるから、いくらか武器を見繕ってもらいてえんだよん﹂
﹁オメエ、自分にはこの剣があるから、他のはいらねえとかいって
たじゃねぇか。癪に障るがよぉ、その腰に差してる剣以上のものは
この店にはねぇぜ。悔しいが、そいつは、確かに名剣だ﹂
をジッとにらみつけていった。
ドナテルロは、真っ白な髭をしごきながら、蔵人の腰に佩いた
白鷺
﹁もしもの為に予備の武器が必要ってのはわかるが、狙う相手によ
っていくらでも変わってくる。相手は、ゴブリンか? それとも、
トロールか? まさか、オーガってことはねえよな? ありゃ、小
僧のような駆け出しにゃ手に余るぜ﹂
﹁竜だよ﹂
﹁へ?﹂
ドナテルロの鼻にかけたていたメガネが、ずり落ちた。
﹁今度の相手は、邪竜王ヴリトラだ。それ相応の必殺武器を頼むぜ﹂
713
714
Lv46﹁道化と娼婦﹂
東の城門を抜けると、ゆるやかで起伏のない街道が平坦な地形に
沿って真っ直ぐ南に向かって伸びていた。
領主の手によって定期的に補修されているのだろう、石畳の道に
は目立った損壊は見られず、付近の田畑へ耕作に出る百姓衆の姿が
ちらほら見られた。
目を遠方に向ければ、凹凸の激しい連山の波が、薄紫に霞んで稜
線を描いている。
中でも一際大きく目立って巨大なのが、標高八千メートルを誇る
ロムレス王国一の竜王山である。
地球において、標高八千メートル峰といえば、ヒマラヤ及びカラ
コルム山脈にあたる。
多数のモンスターが跳梁跋扈するこの山は、地元民でもほとんど
立ち入らない。周辺住民とモンスターたちの生活区域は、まるで互
いが条約を結んだように、一部の区域から整然と分かれており、よ
ほどの飢餓的状況が発生しない限り、両者は互いに接触することは
なかった。
それだけに、邪龍王ヴリトラと称される竜種のモンスターが時期
外れの夏季に姿を見せはじめたのは凶事であった。
﹁あのジジィ、いきなり生命保険勧めてきやがって。許さん﹂
蔵人はビスケス村方向に向かう乗り合い馬車に揺られながら低く
つぶやいた。無論愚痴の対象は、道具屋の店主ドナテルロに対して
のものだった。
715
﹁あまつさえ、竜のウロコの一枚でも剥いできたら、店ごと交換し
てやるだと。ふざけやがって﹂
竜の鱗は、あらゆる製品に加工できる超高級素材に分類される。
もっとも、竜の種類によってその値段は激しく上下するが、並の
モンスターをチマチマ狩ったりするよりかは、はるかに効率的であ
った。
だが蔵人は理解していなかったが、邪竜王と称されるワイバーン
は竜種とはいえ下級にあたりそこまでの価値はなかった。
常識的に考えて、蔵人が大クランを出し抜いて多大な賞金を得る
など最初から無理な話なのであった。
既に、邪龍王ヴリトラの出没が知られているのか、六人乗れる車
の中には、蔵人を除けば村周りの行商人である中年男以外は誰もい
なかった。
﹁それにしても、店子がふたりとは、随分とわびしいじゃありませ
んかあ。ええ。これでは、この暑さの下で汗を流して車を飛ばす馭
者さんも、たまったもんじゃありませんですなぁ﹂
イアゴと名乗った四十過ぎくらいの行商人は、出発地点であるシ
ルバーヴィラゴからいっしょに乗り合わせているが、やたらに無駄
口を叩くのには閉口した。
蔵人は別に寡黙な性質ではないが、かれこれ四時間も意味のない
ことを延々と話されるとさすがにうんざりした。
﹁それにしても、クランドさん。あなた、わざわざ化け物退治にビ
スケス村にまでまいりなさるんで? まったく、若いもんは勇気が
あるというか、無鉄砲というか、なんというか。いえいえ、馬鹿に
しているんじゃありませんよ。感心しているんでさぁ。そもそも、
あたしだって、親方にいいつけられなきゃ、なにもこの時期にあん
な危険な田舎くんだりまで大汗かいて行こうとは思いもしませんよ。
だがねぇ、あたしもガキが五人、おまけに嬶の腹ン中にゃいつ産ま
れてもおかしくないのが一匹待ち構えているんで、上のモンの指示
には逆らえませんわ。とにかく、銭を稼がにゃどうにもならんので
716
すよ。そうそう、あたしが降りる予定の村ですが﹂
﹁なあ⋮⋮﹂
﹁はい?﹂
蔵人はイアゴの頭を両手でつかんで固定すると、全力で半回転さ
せた。
﹁ほぎぃっ﹂
イアゴはおかしな悲鳴を上げて、首の骨のごきっと鳴る音と同時
に、真っ白な泡を吹いて前のめりに倒れこんだ。
蔵人はブーツの先で二三度イアゴの鼻先をつつくと、完全に動き
が停止しているのを見て顔をほころばせた。
﹁うし。これで静かになったな﹂
蔵人がひと仕事終えた感じでぐるぐる肩を回していると、馬を操
っていた馭者が、真っ青な顔色で幌の間から覗きこんでいた。
﹁ひ、人殺し﹂
﹁黙れ﹂
﹁だ、だって﹂
﹁おまえも迷惑そうにしていただろうが﹂
﹁なにも殺すことは﹂
﹁おまえが黙ってればわからん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おまえも永遠に沈黙したいのか﹂
﹁ひいいっ、黙りますっ黙りますうっ!﹂
﹁心配するなって、たぶん生きてるよ﹂
馭者の男が顔を硬直させたまま、手綱を硬く握り、もう客席の方
を振り向こうとはしなかった。
蔵人は雑音から解放されると窓の向こうの麦畑を見やった。
黄金色に染まった海が延々と続いている。吹き抜ける風の心地よ
さにまぶたを閉じると、馬車が大きく揺れて急停車した。
﹁まずいぜ旦那、盗賊だァ!﹂
六十をとうに過ぎた老馭者は陽に焼けて赤黒く染まったシワだら
717
けの顔をクシャクシャに歪めてしわがれた声を絞るように吐き出し
た。
﹁こんだァなんだい、まったく。いいかげんに、少しはくつろがせ
てくれい﹂
蔵人は目をつむったまま身体を弛緩させて興味のなさげな声を出
した。
﹁⋮⋮ダメだ、やつら襲った馬車を引き倒して道を塞ぎやがった。
オレはこの年だ。走って逃げられやしねえ。ちきしょう、こんなと
ころでお陀仏とは。前のやつらも運が悪かったが、早いか遅いかぐ
れぇの違いしかねえ﹂
﹁前のやつらって誰だ﹂ ﹁誰って。女ばっかりだ。格好から見て堅気じゃあねえな。女衒と
娼婦たちだ。旦那と同じ口で、ビスケス村に集まった兵隊相手にひ
と稼ぎってところだったが。かえぇそうに。野盗どもにつかまっち
ゃ、骨までしゃぶられて、あっちゅう間に死んじまうだろう。ああ
あっ、盗賊ども五人もいる。ああ、神さま﹂
﹁ジイさん、神に祈るのはまだ早いんじゃねえか﹂
﹁そうです。とりあえず、逃げる順番を決めましょう。あたしが、
一番太ってるから最初。次に、クランドさんですね。腰の剣は飾り
じゃないでしょう。せいぜい持ちこたえてください。ジイさんは、
⋮⋮まあ半分棺桶に片足突っこんだようなもんだからあきらめても
らいましょう﹂
突如として、息を吹き返したイアゴが首を捻じ曲げたままいった。
蔵人は異様な光景に恐怖しながら視線をそらせた。
﹁おっさん、首丈夫なんスね﹂
﹁そんなことはどうでもいいんですよっ! あたしにゃ、嬶と五人
のガキが腹すかせて待ってるんですっ。とにかく生き残らなければ
ならないんですよ﹂
イアゴは猪首をすくませたまま、額に滝のような汗を流しながら
力説する。
718
怒号したショックか、曲がった首が正位置に戻ったのは圧巻だっ
た。
老馭者は落ち窪んだ瞳をギョロギョロさせながら、指先を震わせ
ていた。
﹁あー、もう。俺がなんとかするから。ふたりは、そこで座ってろ
よ﹂
蔵人は剣の柄を握り締め、ザックの中から革袋を取り出して肩に
かつぐと、馬車から躍り出た。
五人の盗賊は、娼婦と思われる四人ほどの女に剣を突きつけなが
ら、降車した蔵人へといっせいに注意を向けた。
老馭者のいうとおり、狭い石畳の道のど真ん中には、荷馬車が横
倒しになって、通路を封鎖する形になっていた。
車から引きずり出された女たちは荷馬車の前で座り込み、身体を
寄せあっている。
彼女たちの目の前に、女衒らしい男の切り捨てられた遺体が転が
っていた。
流れ出る真新しい真っ赤な血が、灰色の石畳を広く汚していた。
﹁まったく公共の道を汚しやがって。とんでもない野郎どもだな﹂
蔵人は愚痴りながら辺りに油断なく視線を這わせた。 人間であれば、倒れた馬車をよけて脇を通ることが出来る。
しかし、街道の縁には低い石造りの塀が延々と続いているので、
少なくともある程度後退して、馬車を塀で囲われた通りから外の未
舗装地帯へ出さねば、その先には進めないようになっていた。 ﹁おい、そこの若造。生命が惜しければ、馬車の荷物と身につけて
いるものすべて脱いでその場に伏せやがれ!﹂
﹁オリジナリティのないセリフをありがとう。だが、断る﹂
蔵人の言葉に盗賊の瞳がすっと細まる。
女に剣を突きつけていた男が黄ばんだ乱杭歯を剥き出しにしてが
なり立てた。
﹁おもしれぇ、腹ごなしにぶっ殺してやるっ﹂
719
﹁アンタ、なにいきがってるんだいっ。早く謝っちまいなよ!﹂
娼婦の中で一番年かさの、二十そこそこの女が吠えた。
﹁うるせえ、淫売は黙ってろ!﹂
﹁あうっ﹂
男がいきり立って女の腹を蹴り上げる。蔵人に忠告した女は腹を
押さえながら顔を伏せた。娼婦たちの悲鳴が辺りに木霊した。
﹁腐れ山賊が。貴様ら、この俺が成敗してくれるわ﹂
ラスト・エリ
蔵人は革袋に手を突っこむと、柄が六十センチくらいのハンマー
を取り出して構えた。
トール
﹁なんのつもりだ。それで、おれたちとやるってのか?﹂
ュシオン
﹁ふふ。聞いて驚け。これはな、雷神のハンマーといって、深淵の
迷宮で発掘された伝説の武器だ。街を出がけに道具屋のジジィが格
安で譲ってくれたんだ。おまえらごときに使うのは惜しいが、斬り
染めならぬ叩き染めといくぜ﹂
蔵人の自信有りげな表情に、盗賊たちは息を飲んで、後ずさった。
娼婦たちの瞳に希望の火が灯る。それほどの、業物を持つ男なら腕
の方も相当なものだろうと、期待するのも当然であった。一方青い
顔をしているのは、弱者のみを狙って仕事を行う男たちである。
睨み合っていても埒があかないと理解したのか、頭目株らしき一
番凶暴そうな面構えの男が前に進み出てくる。自然、蔵人と向きあ
った。
ポンドル
﹁なにィ! ちなみに、いくらしたんだ﹂
﹁いちきゅっぱ︵※百九十八P︶だ。大変お得だろう﹂
﹁それ、絶対騙されてるよ﹂
娼婦のひとりがつぶやくのが開戦の狼煙となった。
﹁うおおおっ!﹂
背の一番高い男が鉈を振りかざして駆け寄ってくる。蔵人は右足
トール
をひっかけて転ばせると、右腕を伸ばして男の即頭部にハンマーを
叩きつけた。
ボゴッ、という頭蓋骨が陥没する音と共に、雷神のハンマーは頭
720
部がすっぽ抜けて吹き飛んだ。馬車に隠れていたイアゴの足元でち
ょうど止まる。イアゴはハンマーの頭部を拾い上げると、側面の文
字を読んで顔を上げた。
﹁ああ、これ先週ウチで叩き売りした廉価品ですわ﹂
﹁ふざけんなっ!﹂
﹁ぶっ殺す!﹂
激昂した男たちが怒声を上げた。娼婦たちの顔からみるみるうち
に生気が薄れていく。
﹁また不良品か﹂
蔵人は切なげにつぶやくと、腰の長剣を鞘走らせた。剣を水平に
構えたまま、男たちの輪に突っこんだ。銀線が斜めに走った。男は
顔面を半分に断ち割られると、血潮を石畳に撒き散らして正面から
倒れこんだ。
蔵人は続けざまに剣を振るうと、目の前の男の胸板を深々と両断
した。男は革の胸当てごと両断されると、後方へと勢いよく倒れこ
んだ。
﹁わああっ!﹂
すぐ後ろにいた男は、倒れこんできた仲間の背を自分の持ってい
た剣で突き刺してしまい、狼狽して腕をはなした。蔵人は諸手突き
白鷺
は男の胴体を田楽刺しに、すい臓、副腎、脊柱を完
で無手になった男の腹へと長剣を深々と埋めこんだ。
聖剣
膚無きまでに破壊した。
最後に残った頭目は青白い顔で剣を構えている。あっという間に
四人の手下を殺され、平静を失っていた。
己を鼓舞するように大声を出しながら駆け寄ってくる。
蔵人はすれ違いざまに、長剣を横殴りに男の顔へと叩きつけた。
頭目は目鼻を失って潰れた赤茄子のような顔面で断末魔を上げる
と、転がった馬車の車輪へ寄りかかるようにして絶命した。
蔵人が長剣についた血や脂を拭っていると、娼婦のひとりが口元
を手で覆いながら近づいてくる。
721
﹁うそ﹂
五対一である。当然のことながら、蔵人が負けると決めてかかっ
ていたのだった。
だが、結果を見れば圧倒的であった。
まだ、年若く小奇麗にしている︵※レイシーの指示で︶青年が見
るからに獰猛な野獣たちを、小ウサギを狩るようにして屠ってしま
ったのであった。
蔵人が長剣を鞘に納めて快活に笑って見せる。
娼婦の一団はようやく安心したのか、堰を切ったように駆け寄っ
て蔵人に抱きついた。
﹁やるじゃないか!﹂
﹁やった、やったあ!﹂
﹁凄いよ、兄さん!﹂
﹁怖かったよぉ﹂
蔵人はいっせいに四人もの女に飛びかかられ、脂粉の香りに包ま
れながら目を白黒させた。女たちは、本能的に媚びるようにして、
自分の胸や身体を争って押し付けて、蔵人の顔中にキスの雨を降ら
せた。老馭者とイアゴは手を取りあって踊っている。不意に、歓声
の嵐に負けないようにして、甲高い声が響いた。
﹁いやあ、なんというお強いお方だろうか。おいらァ、生まれてこ
のかたここまで腕の立つ御仁にゃお目にかかったことはねえぇや!﹂
蔵人が声の方向に目を転じると、横倒しになった馬車の影から奇
妙な人物が踊るようにして近寄ってくるのが見えた。
背丈は蔵人の腰にも満たないだろう。緑の帽子にダブついたまだ
ら衣装を着ていた。顔全体を真っ白に塗りたくっており、真っ赤な
作り物の団子鼻をつけている。ただ、歩くにも妙な動作をとりいれ
ており、異様な雰囲気を漂わせていた。
﹁お初にお目にかかりやす。おいらは、道化のフィリッポ。一同に
なり代わり深くお礼を申し上げまする﹂
フィリッポと名乗った道化は目をキラキラと輝かせて蔵人を見上
722
げていた。白塗りの顔からは年齢はよくわからないが、声はやや高
めの少年のものだった。彼の低身長はホルモン分泌の異常による小
人症といわれるものと推察できた。
すげぇ、フリークスだ。その辺のモンスターよりずっと現実的か
もしれん。
蔵人は祖父に連れられて見に行った女子プロの前座に出ていた小
人プロレスを思いだし、感慨にふけった。
耽ると同時に、娼婦たちから多方向を同時に押され激しい尿意を
感じた。
﹁旦那、いや兄貴と呼ばせてもらってようござんすかねぇ。兄貴た
ちはこれからどこへ行きなさるんで﹂
﹁その前にさ﹂
﹁その前に?﹂
﹁ションベンしてきていいか﹂
蔵人と娼婦たち一行は、合流して進むと、日が暮れた地点で野営
に入った。
全員が焚き火を囲んでの酒宴である。
娼婦たちがつくった簡素な食事と、酒が進むうちに一同は打ち解
けて笑い声の絶えない時間を過ごした。特に、際立って娼婦たちは
蔵人をもてなした。
蔵人が娼婦たちのレベルに落とした低次元の下ネタをかます。負
けじとフィリッポがそれに自分のネタをかぶせる。疲れと酔いがダ
ブルチャージして、宴は尽きるところを知らなかった。
数時間後、焚き火を囲んだ宴会場は、良識人が目を背けたくなる
ような光景に陥っていた。
723
﹁んがあああっ﹂
﹁げひひ、金、金だ﹂
﹁すすすぅ﹂
老馭者やイアゴは痛飲した酒で完全に意識を失いひっくり返って
いる。辺りは、爆撃機の十字砲火を浴びたように、酒瓶やグラス、
つまみの肴が散乱していた。
荒野の露営においては、火を絶やさないことが第一である。夏季
とはいえ、日が落ちれば気温は急激に下がる。
また、各地を闊歩するモンスターのほとんどは比較的炎を恐れる
傾向があった。
﹁はあああっ、ふうう﹂
蔵人は一行から離れて小便を終えると、器用に雫を振って落とし
た。夜空を見上げれば、宝石の破片を撒き散らしたような星々が白
く冷たい輝きを放っていた。
﹁兄貴、兄貴﹂
﹁んあ、なんだ﹂
蔵人が声の方向を見やると、フィリッポが笑みを浮かべながら手
招きをしている。外套の前を合わせて酔いに火照った顔を動かすと、
フィリッポの隣には娼婦の中で一番年かさだった今年で二十三にな
るマリアの姿があった。
蔵人がそのままその場に立ちすくんでいると、業を煮やしたのか
フィリッポが草むらを飛び跳ねながら近寄ってきた。蔵人は鼻先を
こすりながら、酔いで濁った瞳に焦点を合わせながら訊いた。
﹁彼女が俺に用なのか﹂
﹁兄貴はにぶいなぁ。姐さんもみんなの前じゃ話づれぇから、こう
して人目をはばかってるんで。それじゃあ、いつまでもこうしてる
のは野暮天のきわみ。おいらは、ここで失礼させてもらいやすよ﹂
フィリッポはそう告げると、飛び跳ねるようにしてその場を去っ
ていった。
﹁なんだかなぁ﹂
724
蔵人がゆっくりマリアのそばに歩み寄ると、彼女は緊張した面持
ちでくちびるを動かした。
﹁あはは、悪いね。わざわざこんな風に呼び出すような真似しちゃ
って﹂
見れば、彼女も相当飲んでいたはずなのだが、髪も服装も乱れて
はおらず、顔にはしっかりとした化粧がほどこされていた。蔵人を
見上げる目元がどことなく潤んでいる。闇に溶け込むような濃い黒
い髪が月と星影によってきらめいていた。
﹁ねえ、ふたりでゆっくり飲み直さないかい?﹂
蔵人は無言でうなずくと、マリアのあとをついてゆっくりと歩い
た。一行の野営地から少し離れた場所に、こじんまりとした焚き火
がしつらえてあり、すぐそばにはふたりが背を預けるのにちょうど
良い倒木があった。
蔵人が無言のまま火の前の毛布に腰を下ろすと、マリアがちょこ
んとその隣に座った。
彼女はもじもじしながらも、そっと身体を蔵人の肩に預けると、
言葉もなく大きな瞳をふるわせていた。
﹁いけないねえ、自分から誘っておいて黙っちまって。さ、なには
なくとも一献どうぞ﹂
蔵人はさかずきにつがれた酒を口元に含ませると、鼻先をかすめ
る脂粉の匂いで股間が徐々に硬直する前兆を覚えて、無意識に腰を
ややうしろに引いた。
﹁で、改まってなんの話だ。礼ならもう充分もらったし﹂
﹁充分だなんて、そんな冷たいことおいいでないよ。どうして、あ
たしがふたりっきりになりたがったか、わからないっていうのかい﹂
﹁さあ、ぜんぜん﹂
﹁んもぉ。あたしは、ごまかすのは性にあわないからいっちまうよ。
クランド、あんたに惚れちまったんだよぉ﹂
マリアはうっとりした表情で蔵人を見やると、自分の髪の毛先を
いじいじと弄んだ。
725
﹁そうか、そいつは大変だぁ﹂
﹁もしかして、まったく信じてないのかい。くやしいねえ﹂
﹁あいにくと、俺は自分のご面相が女受けのイイもんだと思ったこ
とは一度もねぇ。今日会ったばかりの女に惚れましたといわれても、
はいそうですかと、簡単にうなずけねえな﹂
﹁クランド、あんた勘違いしてる。女ってのは、男のツラなんかに
惚れるもんじゃないんだよ。女が惚れんのは男の心意気ってやつさ。
あの盗賊どもをばっさばっさと切り倒してくところを見て胸がすっ
としたよう。あたしら、所詮自分の身体を売り買いしてる淫売かも
しれないけど、誰にだって股を開くほどお安くはないんだ。こんな
ところをウロウロするしか脳のない盗賊どもにつかまったら、それ
こそボロくずのように扱われてどれほど安い淫売宿に叩き売られる
かわかったもんじゃない。あんなゲスどもにいいようにされるくら
いなら舌噛んで死のうってまで思ってたくらいさ。それを、クラン
ドはおとぎ話の勇者さまみたいに片付けてくれたんだ。あたしの足
りない頭がのぼせあがったってしょうがないじゃないかい。ねえ、
信じておくれよ﹂
﹁信じるも信じねえも、ねえよ﹂
﹁うたぐってるのかい?﹂
﹁美人が俺に優しくするときなんてのは、俺をいいように使い倒そ
うとしてるときだろうよ﹂
﹁あんた、いままで女にずいぶんひどい目にあってきたんだねぇ。
でも、安心おしよ。いいように使うもなにも、あたしが望んでるの
は、クランドに抱いて欲しいってだけんなだから。それとも、こん
な薄汚れた娼婦は抱く気にもならないかい﹂
﹁おまえは汚れてなんかいねえ﹂
﹁うそだよう﹂
﹁うそじゃない﹂
蔵人がマリアの手を取って自分のモノに導いた。
彼女は滾りに滾った、きかん坊に指を這わせると、目元を紅に染
726
めて口元をほころばせた。
﹁すごい、元気﹂
﹁だろ﹂
マリアは蔵人の胸元に体当たりする勢いで飛び込むと、目をつぶ
って顔を上げた。
蔵人は久々に抱きしめた女の肉のやわらかさに陶然となりながら、
ここに至っては、ごちゃごちゃ考えるのをやめて唇を吸った。 ﹁んんっ⋮⋮あふっ﹂
蔵人はキスを中断してマリアの両肩を抱えたま、瞳を見つめなが
らいった。
﹁いいのかよ。俺はかなりムチャクチャするぜ﹂
﹁いいんさ。商売抜きで抱かれるってのは、壊してほしいってこと
なの。あたしが、本気かどうかってのは、この身体に聞いてみてよ﹂
マリアはするすると衣服を脱ぐと生まれたままの姿になって、蔵
人の目の前に身体を横たえた。
無論のこと、蔵人が躊躇するはずもない。
余すところなく、マリアの豊満な肉を平らげたのであった。
夜明け前に出発した一行は、その日の夕暮れに目的地であったビ
スケス村に到着した。
マリアは蔵人が考えていたよりはるかにサバサバした態度で別れ
ると、手を振りながら邪竜王討伐のためにやってきた冒険者や兵隊
たちの元に向かっていった。
たつき
これからひと稼ぎするにはちょうどよい時間なのだろう。
だが、昨夜は肌を合わせた女が生きる活計のためとはいえ、他の
男たちに身体を開くと思えば胸中おだやかではなかった。
727
﹁まあ、しょうがねえか。さて、これからどうしようかな、と﹂
蔵人は小高い丘の上から立って、村の様子を窺った。竜王山の裾
にある開けた広場のあちこちには、領主の兵と冒険者たちが張った
無数の天幕が見えた。テントのそこかかしこら、夕食の炊煙が上が
っている。反射的に胃の腑が悲鳴をきゅるきゅると上げた。
﹁黄金のなんたら団とかいう、厨二病クラン軍団とは顔合わせたく
ねーしなぁ﹂
蔵人の脳裏にギルドで会ったステファンという重騎士の顔が浮か
んだ。
あのクソデブが。次、会ったら真っ先に殺す。
落ちていく真っ赤な夕日に目をしかめていると、外套を引く感覚
に気づいた。
蔵人が視線を落とすと、そこには先ほど別れたはずのフィリッポ
が硬い表情のままくちびるを強く引き結んでいた。
﹁なんだ。おまえも、マリアたちといっしょに行ったんじゃねえの
か﹂
﹁兄貴、おいらひとつ頼みてえことがありやしてわざわざ残りやし
た﹂
﹁なんだよ、いってみろ﹂
﹁おいらも、竜退治に連れてってくだせえ!﹂
蔵人は緊張でこわばった白塗りの顔を見ながら、またひとつお荷
物をしょいこんだと、深くため息を吐いた。 728
Lv47﹁挽肉の谷﹂
ビスケス村は、戸数四十四戸、人口百五十六名の貧しい村であっ
た。
昔より地味に乏しく、生産品といえば、麦と数種の野菜くらいで
ある。
一時期は、竜王山の麓に良質な銅の採れる坑道が幾筋も発見され
てわずかな間は繁栄を誇った。
しかし、すべてが掘り尽くされると国中から集まった人々は潮の
ように引いていき元の寂れた村に戻ったのだった。
若者たちも一定の年齢になると、近距離にある大都市シルバーヴ
ィラゴに移住して職を探すのが一般的な共通認識であった。
現在、村人のほとんどを占めるのは、動けない老人と出稼ぎのた
めに置いていかれた子どもたちだった。
﹁兄貴、今夜はどこかに宿をとりましょうか! といっても、この
村にはよそ者を泊める宿なんぞあるわけねぇし﹂
蔵人は、はしゃぐように自分の周りを飛び跳ねるフィリッポを見
て憂鬱そうに顔をしかめた。これが人並みの身体なら荷物持ちくら
だが、小人のフィリッポには当然ながら戦力とは期待できない
いには使ってやろうと思ったかもしれない。
し、重たい荷運びができるわけもないのである。
﹁なあ、フィリッポ。おめえをまだ連れていくなんてひとこともい
っちゃいねえぜ﹂
729
﹁あれえ、兄貴。もしかして、おいらがなにもできねえと思ってら
っしゃるんで。確かに、おいらの身体はちいせえが、そのかわりと
いっちゃあなんですが、斥候としては抜群ですぜ。ちょっと考えら
れねえところにだって入りこめるし、手先は抜群に器用なんだ。雑
務や力仕事は、その、あんまり自信はねえが、荷運びだってなんだ
って頑張りますぜ!﹂
フィリッポは蔵人のザックを背負うとよろつきながらもしっかり
と立って見せた。蔵人を見上げる目つきは、まるで飼い犬が主人に
これでいいのか、と問うような切なくなるような従順さが見てとれ
た。蔵人は膝を折って、目線を合わせてから訊ねた。
﹁おめえ、年はいくつなんだ﹂
﹁へえ、今年で十七になりやす﹂
﹁そっか、俺より三つも下か。なんだって、たいして知りもしねえ
俺にくっついて竜退治なんざしたいと思ったんだよ。やっぱ、金か﹂
﹁金はきれぇじゃありません。けど、なんというか、兄貴をはじめ
て見たとき、素直にすげえっ、て思ったんだ。聞けば、わざわざた
ったひとりで街からこんなところまで竜退治に来たっていう度胸も
並々ならねぇし。それに﹂
﹁それに?﹂
﹁案外、お人好しそうだから、かな﹂
フィリッポはえへへ、と人懐っこい顔で笑った。
﹁ったく。どうせ、俺はお人好しの大馬鹿だぁ、よく見抜きやがっ
たな。しっかし、おまえは元々マリアたちといっしょに来たんだろ
うが。あいさつもなしに抜けて来ていいのかよ﹂
﹁姐さんたちが稼ぎ場に着けば、とくにおいらのすることはありや
せんよ。それに、だいたいがおいら自体、店の旦那⋮⋮ああ、あの
盗賊どもに切られちまったオヤジの道楽で連れてこられたもんで。
娼家にだって旦那が居たからお情けで置いてもらってたようなもん
だったし⋮⋮﹂
フィリッポはそこまで話すと、決まり悪げにつけ鼻をゴシゴシと
730
擦ってみせた。
元々が厄介者だったのだろう。
女衒の男の旅の慰みに連れてこられた道化は、主が死んだ時点で
道具としての需要を失ったのだった。
彼の瞳の中には、やりきれない情けなさと寂しさが入り混じって
いた。
﹁姐さんたちは、この村でひと稼ぎしたら、また街に戻って商売を
続けるだろうけど、たぶんそこにはもうおいらの居場所はねぇんだ。
だから、せめて兄貴にくっついて、戦えないまでも、最後までそば
にいれば、街に戻ったとき、贔屓筋の旦那の誰かが買いとってくれ
ると踏んだんだ。頼んます。銭の分け前をくれなんていいやせん。
竜を引きつける囮だってなんだってやってみせます。だから、おい
らに兄貴の伝説を見届けさせてください!﹂
フィリッポは子どものような小さな身体を折って土下座すると、
悲痛な声で必死に頼みこんだ。
﹁⋮⋮仕方ねえ、どうなっても知らねえぞ。好きにしやがれ﹂
蔵人はフィリッポの案内で近くの農家の物置小屋に入りこむとご
ろ寝を決め込んだ。
遠くの野営地から冒険者や兵隊たちの喧騒が夜風に乗って聞こえ
てくる。
マリアたちだけではなく、各地の目ざとい商人や娼婦の群れが多
数入りこんで荒稼ぎを決めこんでいるのだ。
小屋の中に焚き火を作り、持ってきた干し肉を炙ってふたりで腹
の中に詰めこんだ。真夏ではあっても、シルバーヴィラゴよりはる
かに海抜高度があるこの村では夜になれば肌寒くさえあった。
黄金の狼
を出し抜くに
フィリッポの話によると、村を襲う竜の巣らしき場所には既に検
討がつけてあるとのことだった。クラン
は、夜中に出発してまだ竜が眠りについている朝方を攻撃するのが
良策だという結論に達し、早々と就寝した。
﹁なあ、フィリッポ。おめえ、随分とこの村に詳しいじゃないか﹂
731
﹁兄貴。おいらは、仮に兄貴みてえに腕の立つ剣士さまに会わなか
ったとしても、旦那のところから抜け出して、誰か手頃な冒険者に
くっついて一旗上げようと思っていたんで。これから行く先の場所
を事前に調べておくくらいのことはしておきますよ。兄貴は、案外
そういう細かいところが抜けてるんだなあ。でも、任せておいてく
だせえ。そういうところは、これからおいらがきっちりしますんで﹂
﹁抜かせ﹂
目をつぶって外套をひっかぶると泥のような眠りが全身を包んで
いった。
やがて、焚き火が消える直前と同時に寒さで目が覚めた。
蔵人の体内時計は、おおよそ夜中の三時頃を指し示している。小
屋を出て夜空の星明かりに照らされながら、小高い丘に登る。後方
から、目をこすりながらフィリッポが近づいてくる気配を感じ、振
り返らないまま眼下の野営地に顎をしゃくった。
﹁見ろ。あいつらは昨日のご乱交で白河夜船だ。酒をたらふく飲ん
で旨い飯を喰らい、女を腰が抜けるほど抱けば、次の日は使いもの
にはならねえや。さ、行くぜ﹂
﹁あ、ちょっと待ってくれよ兄貴﹂
フィリッポの案内で丘を降りて、山裾を覆っている濃い樹林に分
け入っていく。この世界で夜半に明かりを用いずに行動する人間は
ほとんどいなかった。
現代日本のように、どこもかしこも舗装された歩きやすい道など
皆無である。整備されていない道を歩行するのは、通常よりもはる
かに労苦を伴った作業なのであった。大きな石ころがある、太い木
の根がある、深い暗渠がある、といった天然の凸凹が旅人の行く手
を遮るのである。
さらには、野生動物、モンスター、盗賊など人々の命を脅かすも
のなど枚挙にいとまはなかった。
だが、数ヶ月もの間、荒野を旅してきた蔵人はそのようなことは
慣れきっていた。
732
今日のように、月明かりが充分ならば野生動物のように、細かい
部分にまで目が行き届いているのである。
やがて谷底に下る道に出ると、不意にフィリッポが怖気づいたよ
うに足を止めた。
﹁どうした、いきなり立ち止まって﹂
﹁いえ、ここは地元の人間も恐れて普段は立ち寄らねえ場所なんで、
つい﹂
冒険者組合
﹁それはいったいどういう理由なのだ。是非、私も知っておきたい
ものだ﹂
﹁そいつは、ってうわあああああっ!!﹂
﹁おおおおっ、なんだあああっ!﹂
﹁きゃああっ!﹂
サンクトゥス・ナイツ
蔵人が飛び上がって距離をとると、そこにはギルドで別れたまま
であった、クラン黄金の狼の副隊長にして白十字騎士団に所属する
長身の美女、アルテミシアの姿があった。
﹁てか、いまの悲鳴って﹂
アルテミシアは兜のまびさしを引き下げると、ごほん、とわざと
らしい咳払いをした。
﹁む。先日は、失礼した。かようなところで出会うとは奇遇である
な、クランド殿﹂
﹁いや、きゃああっ、って﹂
﹁さあ、なにかの聞き違いであろう。騎士である私が、かように婦
女子のような情けない声を出すわけがない。な!﹂
アルテミシアは後方の木々に向かって念押しすると、影に潜んで
いた十人ほどの男たちが姿を現した。誰もが副隊長のいいわけに苦
笑をこぼしながらも、一片の隙もない身のこなしから、かなりの熟
練した冒険者たちであると推察できた。
﹁なんだ、上手く出し抜いたと思ったのにな﹂
﹁考えることはご同様だよ。ここにいる十人は、私が選んだ精鋭で
な。誰もが腕の立つ使い手だ。邪竜王の首は、私たちがもらったぞ﹂
733
﹁おい、あの樽野郎は﹂
蔵人がステファンのことを尋ねると、アルテミシアはぷいと顔を
そむけて頬をふくらませた。男の中のひとりはつかつかと近寄ると
照れたようにいった。
﹁兄ちゃん、クランドとかいったか。あんときは、あの糞豚をよく
やりこめてくれたな。胸がすかっとしたぜ。だいたい、あの人外デ
ブは調子に乗りすぎてんだよな。全員が全員部外者を嫌ってるわけ
じゃないんだ。それだけはわかってほしい﹂
﹁へえ。アンタたちは、昨夜は酒も女もやらなかったのか﹂
蔵人が男たちに話しかけると、アルテミシアは手にしていた槍の
石突きを地面に打ち付けると堰を切ったようにしゃべりだした。
﹁あ、あ、あ、あいつらは、これから神聖な大業を行うというのに、
酒は飲むは、う、う、う、薄汚い娼婦と戯れるは、ふ、ふ、ふ、不
潔極まりないやつらだ! 私は、副隊長としていままで何度かダン
ジョンに潜ったことがあるが、そのときはこのようなことはなかっ
たというのにっ! 不埒極まりない! あんなやつらと大業が成せ
るかっ!﹂
アルテミシアは紅潮した顔で目の色を変えて吐き捨てた。
どうやら、戦いの前に男が女を買うという事実を受け入れられな
かったらしい。
そこには、彼女の潔癖すぎる偏った精神性があらわれていた。
﹁さすがにダンジョンの中までは娼婦たちもついて行きやせんしね﹂
あっけにとられたままアルテミシアの前に立ち尽くす蔵人にフィ
リッポが耳打ちをした。
﹁なあ、アルテミシア。おまえ、討伐の遠征に参加するのははじめ
てなのか﹂
﹁ああ、いつもは私がついていくというと皆が嫌な顔をするので自
粛していたのだが。まさか、私の目を盗んでこんな神をも恐れぬ悪
徳に耽っていたとは⋮⋮﹂
蔵人は顔を引きつらせながら、彼女の顔を見やった。
734
アルテミシアは、自分の胸に手を当てながら顔を伏せ、深くため
息を吐いている。心底悩んでいるという風だった。
なまじ、長身なだけにそのかわいらしい仕草がアンバランスで余
計に乙女らしく感じられた。命をかけた冒険や殺し合いの前に、男
が女を抱きたいと思うのは本能なのである。明日をも知れぬ身であ
る以上、瞬きの間でも酒に酔い、女の柔肌の熱い感触を味わってこ
の世に心残りを残しておきたくはないものである。
蔵人が男の生理について考えを巡らせていると、アルテミシアは
さっと顔を上げると懇願するような視線を送ってきた。
﹁まさか、クランド殿はあいつらとは違うよな? 昨晩は、み、み、
みみみ淫らな商売女などにうつつなどを抜かしてはおらぬよな? な?﹂
﹁あ、あたりまえだ。俺は今日の決戦のために酒も喰らわず女も抱
かず、納屋の中で簡素な食事のみを済ませてこの場に望んでいるの
だ。⋮⋮おい、フィリッポ。笑うんじゃない。俺は嘘をいってない
だろ﹂
﹁へ、へい。昨晩の兄貴は、きっちり精進をしておりますよ。昨晩
はね﹂
﹁そうか! やはり、貴殿は他の男たちとは一味違うな! そう思
っていたのだ。なんという、清冽な心の持ち主なのだ。それに比べ
て⋮⋮﹂
アルテミシアは蔵人をピュアな瞳で真っ直ぐ見つめたあと、配下
の十人をじろりと横目でにらんだ。男たちは今度ははっきり困った
ように笑うと決まり悪げな態度を取った。ご多分にもれず女も酒も
やったが、次の日には残らない程度といった風に自制をしたのだろ
う。そもそも冒険者の存在自体が社会の規範を外れた存在なのだ。
そこまで、強い道徳観で縛り付けるのは酷というものだろう、と蔵
人は思った。
﹁これ以上グダグダ話を続けてもしょうがない。それよりも、フィ
リッポ。さっきの話の続きだ﹂
735
﹁ぐ、グダグダ。私の話がグダグダ﹂
アルテミシアが軽くショックを受けているようだが、蔵人は無視
して話をうながした。
﹁へい、この先を抜ければ幾分広い場所に出ます。だが、問題はそ
の谷間なんで。以前も、幾度か村を襲う竜を事前に討伐しようと領
主様が兵隊を何度か送っているんですが、狭すぎて数人ずつしか通
れねえんで不覚をとっているって話を聞きやした。空から襲ってく
る竜に殺された兵隊や冒険者は数知れず。骸を回収するにも、ロク
に近づけねぇんで、野ざらしになった霊がうろつくなんていわれて
ハン
るらしいんで。死骸をあさりに来たモンスターにバラバラにされた
バーガー・バレー
血肉がそこいら中に撒き散らされてるってんで、ここは人呼んで挽
肉の谷と呼ばれております﹂
﹁挽肉の谷かよ。そんじゃあ、せいぜいバンズに挟まれて邪竜王の
朝飯にならないよう急いで抜けるとするか﹂
﹁⋮⋮グダグダってゆった﹂
アルテミシアは幾分子どもっぽく拗ねていた。
どうやら、かなり引きずる性格のようだった。
﹁それはもういいいっての﹂
蔵人は外套をひるがえすと、先頭を切って狭隘な谷間へ向かって
進んでいく。そのあとに、フィリッポと黄金の狼の冒険者たち、ア
ルテミシアが続いた。
冒険者たちの手に持ったランプの明かりで、辺りは充分に視界を
確保できたため、進軍のスピードは上がった。谷間に足を踏み入れ
たとき、様相は一変した。
なんともいえない陰惨な空気が谷全体に立ちこめている。加えて、
鼻を横殴りするような腐った匂いで軽い疼痛が、蔵人の右後頭部を
襲った。
﹁くそ、たまらねえぜ。この腐った臭いは﹂
フィリッポは完全に怯え切ったまま蔵人の外套にすがりついて歩
いている。冒険者たちは、それぞれ武器を引き抜いていつでも戦闘
736
に入れるよう身構えていた。
﹁気をつけろ、クランド殿。来たぞ﹂
隣に並んだアルテミシアが小さく耳打ちした。いわれて前方に視
線を置く。
ランプの光でぼんやりと照らし出された谷の岩肌近くに、ぼんや
りと紫色の影がしゅるしゅると音を立て浮かび上がった。
﹁ラルヴァだ。おそらく、ここで無念の死を遂げた人たちが悪霊と
なったのだろう﹂
﹁マジかよ。さすが、ファンタジー﹂
紫色の影は、次第に凝り固まって人間に近い姿を形成すると、地
面を滑るようにして向かってきた。
その数二十。
﹁ひいいいっ、兄貴、来やしたぜ!﹂
﹁フィリッポ、おめえは隠れてろっ!﹂
﹁ま、待て! クランド殿!﹂
蔵人はアルテミシアの制止を振り切って飛び出すと、革袋の中か
ら大ぶりのナイフを取りだし、ラルヴァに向かって真っ直ぐ飛びこ
んだ。
もちろん、この後に肝心要の竜退治が控えているのである。頼み
の綱である腰の長剣白鷺はなるべく温存しておきたかった。
﹁成仏しやがれっ、このお!﹂
蔵人はラルヴァに向かってナイフを叩きつける。
銀線が斜めに走って悪霊を両断した。
﹁あれ?﹂
蔵人は振るったナイフになんの手応えもないことに気づき顔を上
げた。
目の前に迫ったラルヴァは落ち窪んだ瞳と口を大きく開き、両手
を挙げて襲いかかってきた。
﹁のおおおっ、なんだぁ!﹂
﹁クランド殿! ラルヴァには聖別した武器しか通用しない、いっ
737
たんこちらまで戻るのだ!﹂
﹁それを先にいえっての! うおっと!﹂
蔵人はラルヴァの相手の生気を奪うドレインタッチを紙一重でか
わしながら、器用に後退してくる。
援護に出たアルテミシアの動きは、甲冑を着こんでいるとは思え
ないほど素早かった。
﹁たああっ!﹂
アルテミシアは長さ三メートルはあろうかという白銀の槍をしご
きながら駆け寄ると、疾風の速さで突きを繰り出した。
研ぎ澄まされた穂先はラルヴァの胸元を安安と貫くと、刺した速
度と同じくらいで手元に引き戻される。熟練された達人の技であっ
た。
ラルヴァは地獄の底から聞こえてくるような形容し難い断末魔を
ホーリーランス
上げると、全身を霧散させて消えた。
﹁この聖女の槍は大聖堂の祝福を受けた業物だ。おまえたち下衆な
悪霊ごときに使うはもったいないが、我らの大善を阻むとあらば躊
躇はせんぞ!﹂
長身のアルテミシアが大身の槍を突き上げて吠えると、それを皮
切りに配下の十人が猛然と亡者たちに襲いかかった。
﹁兄貴ィ﹂
フィリッポが下唇を噛み締めて悔しそうに外套の裾を引く。
兄貴兄貴と奉られていた蔵人にもメンツがあった。このまま、悄
然と引き下がっていてはこの先どうにも格好がつかない。
﹁むむむ。あ、そうだ﹂
蔵人は革袋の中から茶色の小瓶を取りだすと、中に入った液体を
ナイフにじゃばじゃばと振りかける。
﹁兄貴、そいつはいってえなんですかい?﹂
﹁ああ、知り合いのシスターにもらった聖水だ。これで、勝つる!﹂
︱︱クランドさん。これは、ありがたーい聖水です。朝な夕な、
神にお祈りする時に使ってくださいね。あっ、聖水っていっても私
738
の体内で製造した黄金水じゃありませんよ。あれ? なにか期待し
ちゃいましたか? 期待した上、どんな悪徳に励むおつもりでした
の? うふふ、クランドさんの、へ・ん・た・い。⋮⋮ちょっと待
ってくださいよ、なんで距離を取るんですか。いや、ホントにヒル
ダの一番搾りじるじるじゃありませんよ。でもでもぉ、クランドさ
んがお望みなら、恥ずかしいけど、ヒルダ頑張っちゃいます! ⋮
⋮えーと、はは。冗談ですよ、じょうだん。あー、マジで傷つくん
で引かないでくださいますう? おーい、遠いよー。愛しあったふ
たりの距離が遠ざかっていくよー。おーい、マイダーリーンんん。
ちょっと、落ち着いて話し合いましょう!
蔵人は聖水を受けとったときの世界一くだらないやり取りを思い
だし、遠い目つきになった。
マジであいつの黄金水じゃないだろうなぁ。
もしそうだったら、縁切りかな。
蔵人は聖水︵未確認︶で濡れたナイフを掲げると、ラルヴァの群
れに再度襲いかかった。
﹁とりゃああっ! やったか!﹂
蔵人が半ばヤケクソで一体を切りつけると、悪霊はおぞましい声
を張り上げながら霧になった。
﹁さすがヒルダ汁だぜ! 効果は抜群だ!﹂
﹁やるじゃないか、クランド殿! よし、おまえたち、黄金の狼の
意地を見せろ!﹂
アルテミシアの叫びに呼応し、谷のあちこちで戦っていた戦士た
ちから勢いづいた声が湧き上がって共鳴し、割れんばかりに辺りを
木霊した。
数十分後、誰ひとりとして命を落とすことなく、挽肉の谷の戦い
は終焉を告げた。
生者たちの勝利であった。
戦闘ののち、互いの力量を認め合った蔵人とアルテミシア率いる
黄金の狼たちは険悪なムードになることなく距離を進めた。夏の日
739
の出は案外と早く、世界が水色に染まっている。蔵人と肩を並べて
歩いていたアルテミシアが弾んだ声で話しかけた。
﹁それにしてもクランド殿の剣の腕は中々のものだ。我々はあのよ
うな無礼な行為を働いたにも関わらず、まるで気にした様子もない
さっぱりとした気性。おまけに、他の殿方たちとはちがって、ふ、
ふ、ふ、不潔な娼婦たちを寄せ付けぬ清廉さ。貴殿は、なんという
素晴らしい御仁なのだろうか﹂
﹁あ、あはは﹂
蔵人はアルテミシアの中で勝手に高まっていく実像とかけ離れた
幻想のような存在にちょっと辟易しながら、薄い作り笑いを浮かべ
た。
いくら女心に鈍感な蔵人でも、あからさまな彼女の態度は理解で
きた。
違うからね、おまえの考えている人間と、俺の本質はどこか違う
からね! ていうか、たぶんそれは俺じゃねーし!
﹁あ、クランド殿。隊列を離れてどこへゆくのだ。私は貴殿とまだ
まだ清談をかわし合いたいのに﹂
﹁いやあ⋮⋮ははは。小用だ﹂
﹁んんん、そ、そうか。よし、全体小休止だ!﹂
アルテミシアは頬を赤らめると、突如として隊の動きを止めた。
︱︱あいつ、俺と競いあってること忘れてるんじゃねぇか!?
蔵人は口元をヒクつかせながら、集団を離れると茂みに向かって
移動し、放尿を開始した。
﹁うー、小便小便﹂
﹁だはは、連れション連れション﹂
﹁おう、クランド! おめえ、結構中々いい持ち物をぶら下げてん
じゃねえか! うらっ!﹂
﹁おいいいっ、なんで筒先をこっち向けるんだあああっ! やめろ
おおおっ! あああっ!? ズボンにっ、ブーツにっ!﹂
740
﹁兄貴たちいっ、そんなに飛ばさんでくだせえっ、おいらの頭に雫
がっ、雨がっ!﹂
蔵人は陰茎の先を小刻みに振るって雫を落としながら、隣の男に
話しかけた。
﹁そういや、おまえンとこの副隊長さん、いっつもあんなにフレン
ドリーなのかい?﹂
﹁いや、いつもはむすーっと、すました顔して命令する以外はロク
に口もきかねえよ。あんなにはしゃいだ顔して、むすめむすめらし
くしてるのは、おれたちはじめて見るよ。な﹂
男が同僚たちに同意を求めると、仲間はそろって首を縦に振った。
﹁んじゃあ、どうして﹂
﹁⋮⋮ん、まあ単純に副隊長とおめえさんのウマがあったってこと
もあるんだろう。それに、おめえさんは随分といい体格をしてなさ
る。おれらのほとんどは、副隊長より背がこまいし、男として見ら
れてなかったのかもな。それに、副隊長の槍さばきを見たろう? 腕っ節は立つは、背丈は並外れてデカイはで、いままでほとんどの
男に女あつかいされなかったんだろうな。あれだけの美人なのに、
かわいそうにな﹂
﹁そうなんか﹂
現代の日本人に比べてこの異世界の人間たちの平均身長は異常に
低かった。
おそらくは、庶民たちがロクな食事をせずに栄養状態も悪かった
ことにも起因していたのだろう。
人種的には、人間族は白人系がほとんど占めていたが、びっくり
するほど背の高い人間は街中を歩いていてもまず見ることはなかっ
た。
蔵人の身長は百八十三と日本人としては高い。
そういった点でも、ほぼ大女扱いされていた百七十八は背丈のあ
るアルテミシアから見れば釣りあいがとれた。彼女にしてみれば、
自分より背丈も身の厚みもある蔵人の隣を歩くということは心地よ
741
いのである。それが、憎からず思う相手とならばなおさら好ましく
思えたのだろう。
﹁それに、クランド。さっき、副隊長がよろけたときに、さっと手
を差し伸べて腰を抱いたりしただろう。いやあ、あれは見ていてや
るなっ、と思ったよ。元々彼女は貴族の生まれで夢見がちな部分が
あったんだろうが、もう完全にアンタにのぼせ上がってるね、あれ
は﹂
﹁まさか、そのくらいで﹂
男尊女卑の激しい時代であり、むしろ男が女に気を使うなどは軟
弱とされた世界であった。蔵人にとってよろけた女性に手を差し伸
べたりするのはそれほど大きな意味はなかったとしても、アルテミ
シアにとっては、また違う受け取り方があったのだろう。
﹁ま、観念して副隊長を頼まあ﹂
﹁よっ、お熱いね! ご両人!﹂
﹁おまえさんたちなら、きっと丈夫な子が産まれるはずだよ!﹂
男たちは口々に勝手なことをいいながらその場を去っていった。
ニヤニヤ笑いを隠しもせずに、両手を頭のうしろで組んだフィリ
ッポと目が合う。
﹁兄貴、いいじゃねえですかい、軽く抱いちまえば! あの女騎士
さまは少しばかり大きめかもしれねえが、すげえ美人だし、気立て
は良さそうですぜ。それとも、喰いでのある女はお嫌いで?﹂
﹁そうはいってねえが、気楽にペロッといくわけにもいかねえだろ。
なんか、思い込みも強そうだしな。ま、竜をぶっ殺したあとにでも
考えるさ。どうせ、街に戻ったって会えるだろうしな﹂
アルテミシアの元に戻ると既に夜は白々と明けはじめていた。
しばらく、進むうちに開けた谷底の開けた窪地に到達した。開け
た空間の向こうには、竜王山に沿うようにして岸壁が覗いており、
約十メートルほど頭上には大きな暗渠がぽっかりと独立したように
浮かんでいた。
岩肌のあちこちには緑の茂みが点在しており、傾斜はそれほど急
742
ではなかった。
特に道具を使用せずとも、ある程度身の軽い人間ならば誰でも登
っていけそうなものに見えた。
﹁兄貴。あの、洞窟の中に竜がおそらくはひそんでいるはずですぜ﹂
﹁うむ﹂
蔵人は両腕を組みながら、顔をしかめる。傍目には、どのように
仕掛けるかを思い悩んでいるように見えるが、実際は全然違うこと
を考えていた。
蔵人の本心としてはアルテミシアに一発決めたかった。
長身の上美形である。鎧やその上のサーコートからもすぐわかる
くらい豊満な身体をしている。だが、ネックとしては、異常にあと
を引きずりそうな性格をしていることである。
場合によっては蔵人のハーレム計画が頓挫する危険性を孕んでい
た。
﹁やりてぇ、でもぉ、くそっ﹂
﹁どうしたのだ、クランド殿﹂
﹁いや、いろいろとこの先の展望をな﹂
﹁うむ。敵に会う前に幾つもの腹案を練っておく。戦士として素晴
らしい心構えだ﹂
上品に口元をほころばす美女を前にして、蔵人は脳裏の中で彼女
を裸に剥いてベッドの上で組み敷く妄想をしていた。あまりにアル
テミシアが報われなかった。
﹁さあ、あの洞窟をどうやって攻めるかだが﹂
﹁待った!﹂
﹁んむぐっ﹂
蔵人はアルテミシアの口元を塞ぐと、自分のくちびるに人差し指
を立てた。
男たちもその異様な雰囲気に気づいたのか、それぞれが得物を取
りだすと、じっと頭上の空間に見入った。
﹁どうやら、敵さんとっくにこちらにゃ気づいてたようで﹂
743
激しい風が動くのを感じた。
蔵人は咄嗟にアルテミシアの腰に抱きつくと引き抜いた剣を振る
った。
ガッ、と刃に強い歯ごたえを感じると折れるのを防ぐためにあえ
て剣を手放した。
周囲から悲鳴にも似た叫びが次々と上がった。
﹁あれが、邪龍王ヴリトラ! やはりワイバーンだったのか!﹂
アルテミシアが低くつぶやく。
翼を広げた全長は十メートルをはるかに超す大きさだった。
全身は緑がかった色をしており細かいウロコによってびっしりと
覆われていた。
頭部からは尖った白い二本の角がそり返るようにして生えており、
瞳は知性を感じさせない凶暴さのみが窺えた。
カッと開いた口には灰色の乱杭歯が禍々しくきらめいている。
三本指の爪はどことなく巨大なニワトリを思わせる既視感があっ
た。
蔵人は飛んでいった剣を拾おうと身を起こしかけた。
同時に、世界が均衡を失って反転した。
﹁クランド殿。その胸⋮⋮﹂
ふるえる声で指摘されて、ようやく気づいた。
蔵人の胸元には、ソフトボール大の穴がぽっかりとえぐったよう
に口を開いていた。
﹁え、あ﹂
目の前のワイバーンが誇示するように、長く尖った尾っぽを、ま
るで蛇が鎌首をもたげるようにして見せつけている。
その尾っぽの先には、黒ずんだ蜂のトゲのような鋭い突起が赤黒
い粘液をじくじくとしみ出させていた。
そういえば、聞いたことがある。ワイバーンの尻尾の先には、毒
が。
﹁クランド殿ぉ! クランドぉお!!﹂
744
遠くでアルテミシアの声を聞いた。
蔵人は胸元から股間に奇妙な生あたたかさを感じ、視線を落とす。
︱︱ああ、これは俺の血かぁ。
急激に全身が熱くなったり寒くなったりした。
口内からだけではなく、瞳から、耳から鼻の穴からと堰を切った
ように、どっと真っ赤な鮮血が流れ出す音を聞いた。
眼前の竜が大きく羽ばたいて首を伸ばすのが見える。
蔵人は脳から全身に向けて回避の信号を全力で送った。
だが、地面についた手は立ち上がる補助をするどころかその場に
吸いついて離れない。
真っ赤な怪物の瞳が目前に迫ったとき、最後に思い浮かぶことは
なにひとつなかった。
745
Lv48﹁不死身の男﹂
朝焼けに照らされながら崩れ落ちる蔵人の姿を見ながら、アルテ
ミシアの頭の中は一瞬真っ白になった。
蔵人にかばわれたという事実だけが明白に残り、遅れて激しい激
情が彼女を襲った。
手負いの獲物にトドメを刺そうと、ワイバーンが真っ直ぐに向か
ってくる。
朝の冷気を切り裂いて、木枯らしのような乾いた音が甲高く響い
た。
﹁ふ﹂
アルテミシアは握った槍に全力を込めると真っ直ぐ向かってくる
竜に向けた。
怒りと絶望が一緒くたになった感情で全身を燃え上がらせた。
﹁ふざけるなああっ!!﹂
白銀の槍は風を巻いて一直線に走った。
空気を引き裂いて光のように流れたその一撃は竜の脇腹を存分に
薙ぐと、辺り一面に青黒い体液を雨のように音を立てて降らせた。
ワイバーンは、痛みのあまりに鼓膜を聾さんばかりの絶叫を上げ
ると、空中へと飛び上がった。
アルテミシアは荒い息を突きながら痺れる右手を見やった。
充分な手応えだったが、あの化物は悠々と空を飛びまわっている。
さすがは生物上では最高峰に分類される竜種である。
746
ヒーリングライト
並のモンスターならば一撃で屠った会心の一撃を受けても悠然と
大空を駆けていた。
﹁アルテミシア﹂
﹁クランド、大丈夫か。いま、私が助けてやるからな。回復の光!﹂
アルテミシアは仰向けになってうめく蔵人に向かって治癒の神聖
魔術を唱えた。
彼女の手のひらからは、淡いブルーの光が蔵人に向かって放射さ
れた。
自己治癒能力を活性化させる簡易回復術であった。
だが、彼の苦痛はまったく軽減されることなく、それどころか全
身は死人のように青ざめて小刻みに痙攣をはじめた。
ワイバーンの尾には、強烈な毒があるという。彼女は、自分が解
毒の魔術を使えないことに歯ぎしりをした。
もっとも、魔術にはそれぞれ適性があり、個人の努力では習得で
きないといった部類も存在する。アルテミシアは神官騎士だけあっ
て武芸には長けていたが、使用できる神聖魔術は初歩の回復魔術と
幾つかの無属性支援魔術だけだった。
﹁ダメか。よし、待っていろ。いまから幕営地に戻って毒消しを︱
︱﹂
﹁危ない、副隊長!﹂
その声にアルテミシアが振り返った瞬間、後方の男が舞い降りた
ワイバーンに鷲掴みにされたのを見た。
﹁はなせえええっ! おびゅっ!!﹂
男の胴体はワイバーンの下肢が力をこめると、紙細工のようにク
あしゆび
シャクシャに潰れた。
四本の趾がぐっと開く。バラバラと音を立てて、上下に分断され
た男の身体が真っ赤な体液と臓物を撒き散らし、音を立て大地に墜
落した。
﹁おげえっ!﹂
その光景を直視した男が、こらえきれずに胃の内容物をビタビタ
747
とその場に吐き出した。
えづくのをこらえて剣を構える他の男たちも、異様な恐怖感と戦
いながら握った柄をカタカタと震わせていた。
肉塊を放り出したワイバーンは、間髪置かずに再び男たちを狙っ
て鋭く急降下した。
竜の鋭い牙は長剣を幾重にも連ねたように強靭だ。
反射的に皆がその場を飛び退くが、ショックで棒立ちになった者
がふたり取り残された。
緑の烈風が低い音を立てて集団を突き抜けた。
同時に、ふたりの男が革鎧ごと胸と脇腹を食い破られ、声もなく
その場に倒れた。
飛び退いたひとりが反撃を試みようと弓を構えた。
矢をつがえようとするアクションに気づいたのか、ワイバーンは
狙いを定めると再び弾丸のように風を切って飛来した。
﹁おわああっ!!﹂
男が矢を放つよりもはるかに素早くワイバーンは空を切り裂いて
疾駆する。
すれ違いざまに毒尾の一撃を男の胸元に浴びせた。
竜の尾は剣のように研ぎ澄まされている。
ビシッと、濡れた雑巾で乾いた戸板を叩いたような音が響いた。
鋭い毒針は真一文字に男の中心部を刺し貫くと、同速で抜き取ら
れた。
﹁え、お、え?﹂
男は自分の胸元に穿たれた暗渠を見ると、信じられないといった
様子で、血泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
口元からはどす黒い血液がごぼごぼと音を立てて流れ出し、顔や
手足は墨を塗ったように一気に青黒く染まった。瞳孔が開き、呼吸
が続いて停止。蔵人の受けた傷よりも毒の注入量が多かったのだろ
う。瞬間的に絶命した。
周囲を見回すと突然の奇襲攻撃で残りの六人も完全にうろたえて
748
いる。
アルテミシアがこの場に引き連れた冒険者たちは、間違いなく黄
金の狼のクラン中で、十指に数えられる凄腕だった。
だが、ワイバーンを前にしては、まるで駆け出しの初心者のよう
にいとも簡単に四人も葬られてしまった。
血液と嘔吐物の混じった激臭が、アルテミシアの鼻を鋭く突く。
連鎖的にこみ上げる吐き気をこらえると、頭上を旋回するワイバー
ンをにらみ、平静を保とうと努めた。 ︵落ち着くんだ、アルテミシア。クランドを安全な場所に確保して
から、いったん引いて態勢を整えよう。遮蔽物のないこの場所で戦
うのは不利だ︶
﹁密集隊形を取るんだ! それから、岩壁まで後退するぞ! アー
ノルドとべゴット、ルーカスは前衛、トマスとリック、ソシエは後
方支援だ!﹂
アルテミシアが声を張り上げると、皆はいっせいに訓練通りの隊
形を整えた。前方の三人は槍の穂先を揃えてワイバーンを牽制し、
後方の三人はクロスボウを構えて射線を重ねた。一気に陣形を組み
上げると、一隊はじりじりと後退した。
アルテミシアたちが一箇所に固まったのを見て警戒したのか、ワ
イバーンは攻撃を中止すると、翼を羽ばたかせながら地上に降り立
った。身の毛もよだつ声で吠えると、長い首を転がった骸にぐっと
伸ばした。
﹁まさか﹂
﹁ちくしょおおっ!﹂
﹁やめろっ、やめろおっ!﹂
呆然とするアルテミシアたちを尻目に、ワイバーンは大きく口を
開くと悠然と死体を貪りはじめた。
尖った鋭い牙が陽光を反射させてきらめいた。
ワイバーンは死体を頭から丸呑みにすると幾度か顎を上下させた。
にちゃっ、にちゃっと肉塊が食道を降りていく音が響いた。
749
ブツリ、と千切られた骸の足が地面に転がり落ちる。
男の履いていた真新しい編上げ靴の底がぴかぴかと光っていた。
﹁や、やめてくれぇええ﹂
脇腹を食い破られた男はまだ息があったのか、ずりずりと地を這
って逃げようとしている。体液にまみれたピンク色の大腸が裂かれ
た左脇腹から露出していた。
ワイバーンは次の獲物に狙いを定めると、男のはみ出したハラワ
タに牙の先を引っかけて弄ぶように動かした。
﹁いだああっ、だずげでぇえっ﹂
男は苦痛を口にしながら両手の指を地面に突き刺してもがく。
乾いた土煙が沸き立った。
やがて、ワイバーンはハラワタ引っぱり遊びに飽きたのか一気に
男を口元までたぐり寄せると、かっ、と大口を開いて一瞬で飲みこ
んだ。
長い首を真っ直ぐ持ち上げて一気に嚥下する。
太い喉元か滑り降ちる男のシルエットの形に歪むのが見えた。
﹁やめろやああっ!!﹂
﹁おいっ! 待てよっ。⋮⋮クソがっ!!﹂
﹁待て、陣形を崩すな!﹂
仲間が惨殺されるのを見て恐慌に陥いったルーカスが槍を抱えて
突撃する。追従する形でアーノルドがそれに従った。
瞬時に、アルテミシアは後方の岩肌に、かつて銅山の採掘調査の
ために穿たれたと思われる、幾つかの人工的な洞穴を確認していた。
﹁私は彼を後方の洞窟に収容する。しばらく持ちこたえてくれ!﹂
アルテミシアは四人の部下に告げると、蔵人の八十キロ近い身体
を楽々と担ぎ上げた。
洞穴はせいぜい大人ひとりが屈んでやっと入れるというくらいの
穴である。
そっと蔵人の身体をその場に横たえると再び槍をひっつかんで走
り出した。
750
一瞬目を離した隙に死闘は開始されていた。
地上には、すでに側頭部を陥没させられたルーカスとリックの姿
があり、べゴットはワイバーンに咥えられたまま、ブンブンと虚空
を振り回されていた。
﹁やめてぇええええっ!!﹂
べゴットは胴体の半ばを鋭い牙でがっちり固定されたまま弄ぶよ
うに宙を旋回している。
﹁くそおおっ! べゴットを離しやがれえぇえ!!﹂
トマスが泣き叫びながらボウガンの矢を発射した。
彼の射撃の腕は確かなものだった。
発射された矢は、動き回るワイバーンの右目に狙いたがわず突き
刺さった。
﹁やったか!﹂
﹁うぎゅるっ!?﹂
べゴットは変な声を漏らして、白目を剥いた。
痛みに驚いたワイバーンは反射的に咥えていたべゴットを噛み締
めて、絶命させたのだ。
﹁あ、ああああ﹂
トマスは持っていたボウガンを取り落とすと、両膝を突いて呆然
となった。
ワイバーンは低くうなると、尾っぽの毒針を音もなく滑らせてト
マスの腹に深々と突き刺した。ドッ、と肉を打つ鈍い音が鳴る。
トマスは背中まで突き抜けた毒針を首をそらして見ようとしたが、
瞬間的に致死量をはるかに超える生物毒を流しこまれ瞬間的に絶息
した。
︵全滅する、このままでは︶
アルテミシアは槍をしごいて跳躍するとワイバーンの尾っぽに向
けて叩きつけた。
だが、打ち合いを嫌ったのか毒針を素早く引き抜いて戻すと、大
きく羽ばたいて高々と天に向かって上昇していった。
751
﹁アーノルド、ソシエ!! ここは私が引きつける! おまえたち
だけでも戻って援軍を連れてくるんだっ!!﹂
﹁わかりました! それまでは、なんとか持ちこたえてください!
!﹂
アーノルドは歯噛みしながら叫ぶと、一度も振り向くことなく窪
地を離脱した。
アルテミシアは、わざと大声で叫びながら槍を振り回して辺りを
無意味に駆け回った。
逃げていったふたりを追いかけると危惧したが、窪地に散乱した
骸に未練があるのか、上空をぐるぐるとひたすら飛びまわっている。
﹁さっさと降りてこい。この私がカタをつけてやるぞっ!!﹂
だが、いくら彼女が挑発しても空に逃げられたのでは勝負どころ
ではなかった。
アルテミシアが頭上をにらんで為すすべもなく立ちすくんでいる
と、背後に激しく動く空気の流れを感じた。
強烈な野獣の臭気が辺りに立ち込めた。
瞬時に迫る刃風を身をかがめてかわす。後ろも見ずに、槍を全力
で後方に繰り出した。
山を揺るがすような吠え声と肉を切り裂く強い手応えを感じた。
バグ
穂先を引き抜きながら反転すると目前に黒壁のような巨体が牙を剥
ジャイアントバグベア
いてうなっていた。
﹁巨大灰斑熊! こんなときにっ!!﹂
ジャイアントバグベア
四メートルを超す巨体には、その名を冠した由来に基づく虫食い
のような灰色の斑点が散らばっていた。巨大灰斑熊は二本の後ろ足
で立って、四本の前足で獲物を狩るという深山にのみ生息する大型
モンスターであった。
ジャイアントバグベア
﹁竜一匹で手こずっているというのに、今日は厄日だな﹂
身を低くして巨大灰斑熊の股の間をすべり抜けた。
真っ直ぐに蔵人を収容してある洞窟に向かって走る。
狭い洞窟の前では槍を放棄せざるを得なかった。
752
ジャイアントバグベア
巨大灰斑熊はもはやアルテミシアに興味を失ったのか、窪地に残
されたご馳走を狙ってワイバーンと争いはじめたのだ。二体の怪物
が怒号を上げながら激しく争っている。
アルテミシアはあえぎながら兜を脱いだ。
全身から沸き立つようにじっとりと汗が吹き出してくる。
外の争う声が突如として消え去る。
奇妙な沈黙が辺りを覆った。
顔を出して様子を窺った。
奇妙なことに、二体のモンスターは争うことをやめて、それぞれ
の領域が自然と決まったのか仲良く骸を貪りはじめたのだ。
まだ、血の滴る肉を咀嚼する音が耳元に忍び寄ってくる。
無慈悲な響きが耳朶を打つたび、気が狂いそうになった。
﹁そうだ、クランド殿!﹂
アルテミシアは仰臥したまま微動だにしない蔵人に視線を向けた。
口元に手を当てるとかすかだが呼吸の動きが感じられた。
﹁失礼する﹂
血で真っ黒になった胸元の衣服をくつろげると、大胸筋から数セ
ンチ下がった場所に、ちょうどソフトボールくらいの穴が深々と穿
ヒーリングライト
たれていた。
回復の光の効果だろうか、傷口はすでにうっすらと血が固まって
いるが、それでもじくじくとわずかに青黒い奇妙な体液が染み出し
ていた。
﹁苦しいか! 苦しいだろうな、頑張れ、気を強く持つのだぞ、ク
ランド殿!﹂
アルテミシアは既に聞こえてはいないだろう蔵人に声をかけなが
ら、上着をすべて取り去って、自分のサーーコートの上に横たわら
せた。
﹁これは⋮⋮﹂
ひう、と上げそうになった悲鳴を無理やり飲み込んだ。
すでに蔵人の上半身いっぱいに、強烈な生物毒のためにドス黒い
753
斑点が無数に浮き出ていた。
厚い胸板がかすかに上下しているのを見ると、かろうじて命脈が
繋がっているとわかるが、誰が見てもわかるほど明白に死が迫って
いた。
アルテミシアは幼い頃からロムレス教の信仰心厚い典型的な貴族
令嬢であった。
サンクトゥス・ナ
だが、生まれつき一際身体が大きく、自分自身も武芸を好んだた
イツ
め、必然的に信仰と社会奉仕のふたつをまっとうできる白十字騎士
団への道を歩むこととなった。
自分が人並みに男の元へ嫁いで子を産み、あたりまえの生活を過
ごすなど不可能だと知っていた。年頃になれば、心配した父が縁談
を幾つも持ってきたが、誰も彼もが自分の顔を見た途端に、片っ端
から断った。自分の将来の伴侶は、どんな相手だろうかと、慣れな
い化粧をして、怯えながらも着飾ってみせた努力はすべて水泡に帰
した。
仕方がありませんよ、父上。私を貰ってくれる殿方など、いるは
ずがありませんから。
涙を流して枕を濡らした。無理に笑って見せるたびに、自分は人
並みのしあわせなど望んでいないと取り繕わねばならないことがた
まらなく苦痛だった。
どんな男でも初見で自分を見れば、後ずさり引きつった笑みを浮
かべた。その度にどれほど自分が傷ついたのか誰も知らない。知る
はずがない。
アルテミシアは強いのだ。大きくて強いものが、傷ついたりする
はずがないのだから。
ますます武芸に打ちこんで腕前が上がれば、それを役立てられる
のは闘争の場でしかない。黄金の狼に入り、人々に仇なす害獣を率
先的に狩れば狩るほど、アルテミシアの威名は天下に鳴り響いた。
だが、本当はそんなものなど必要なかった。強くなればなるほど、
自分を囲む輪の広がりは、狭まるどころか大きく遠ざかっていった。
754
一度も誰にも抱きしめられずに死んでいくと思えば、恐ろしくて夜
も眠れない日が度々あった。ベッドの中で、ひとり己を慰めると、
快楽のあとは無性に虚しさが胸の内をひたした。
﹁クランド﹂
奇妙な男だった。はじめて会ったとき、彼は怯えを見せるどころ
か、きらきらとした瞳で強くアルテミシアの胸元を見入ったのだ。
そんな反応をした相手ははじめてだった。だから、強く印象に残っ
たのだった。
鎧を付けた上からコートを羽織っていたのだ。ふくらみなどわか
ろうはずもないが、その無邪気な滑稽さには、なんとなく憎めない
奇妙なおかしみが同居していた。
﹁絶対に助けが来る。それまで、気をしっかり持つんだ﹂
アルテミシアは蔵人の傷痕に口をつけ、毒液を舌で舐めとって吐
き出した。
意味のない行為であるとわかっている。そんなことでも続けてい
なければ、迫り来る絶望と閉塞感で頭がどうにかなりそうだった。
純粋な意味で黄金の狼として討伐するならば、蔵人など放って置
いて、幕営地に戻り迎撃態勢を整えて再び襲撃を行うのがあたりま
えの行動だった。一個の組織としては、かけられた懸賞金の多さは
運営上喉から手が出るほど必要なのだ。
アルテミシアの行っていることは、人道という建前を棚上げすれ
ば組織に対する歷とした背信行為だ。
同じクランの一員でもない目の前の男のために、隊の規範を無視
した行動を取っている。明らかな懲罰行為であり、副隊長としての
義務を放棄していた。
サンクトゥス・ナイツ
﹁⋮⋮今度こそ、クランを追放かな。いや、男ひとりのために仲間
を見殺しにしたとあれば、名誉ある白十字騎士団も私を追い出すだ
ろうな﹂
アルテミシアは幾度も毒液に舌を浸したせいか、激しい頭痛を覚
えて意識を失いそうになった。強烈な速度で気分が沈んでいく。底
755
なし沼に自ら飛びこんだような気持ちだった。
﹁それでもいいさ﹂
邪竜王は強すぎた。闘志を欠いたまま斬り合っても倒せるとは思
えない。
それに、どうせクランの援軍も間に合わないだろう。洞窟の外が、
薄暗くなりつつある。地面を叩く音で、ようやく雨が降っているこ
とに気づいた。
﹁怖いよ、クランド。本当は私は臆病者なんだ。ひとりじゃあんな
化け物に勝てないよ﹂
返答はない。胸が潰れそうなほど激しい心細さが全身を満たして
いく。
声をかけて欲しかった。大丈夫だと励まして欲しかった。
世界でたったひとりのような孤独感が押し寄せてくる。
アルテミシアは蔵人の前髪をかき上げると、そっと唇を寄せた。
﹁約束を履行するぞ。起きないおまえが悪いんだからな﹂
金色の波がふわりと蔵人の顔を隠した。ふたつの影は、そのまま
しばらくひとつになったまま静止した。
アルテミシアは、﹁はあっ﹂と熱いため息をつくと、唇をそっと
離した。
彼女は、白手袋が汚れるのも構わずに蔵人の大きくて分厚い手を
握り締め、自分の顔を寄せて頬ずりした。
つむった瞳から涙がこぼれ落ちる。
こぼれ落ちた雫が、傷口にふれた瞬間、蔵人の胸元が急激に青白
く光りだした。
﹁な、なんだ。これは⋮⋮﹂
イモータリティ・レッド
アルテミシアは呆然としたまま、光の渦に巻き込まれた。
蔵人の胸元に刻まれた勇者の証。不死の紋章が生命の危機を感じ
取ったのか、急激に発動したのだ。瞬く間に暗渠の空間が激しい聖
光に包まれ、あらゆる存在が塗りつぶされていく。
﹁いったい、いまのは﹂
756
不意に、いままで微動だにしなかった男の指先がぴくりと動くの
を感じた。
﹁クランドっ!﹂
﹁う⋮⋮﹂
﹁気がついたのか、おおっ、神よ!﹂
アルテミシアは顔をくしゃくしゃにすると、泣き笑いの表情で両
手を合わせて祈りを捧げた。
﹁どこだ、ここは⋮⋮﹂
﹁つらいか、苦しいのか。もうすぐ、援軍が来るぞ! う、うそじ
ゃないんだ。本当だぞ。そうだ、私に出来ることならなんでもいっ
てくれ!﹂
﹁⋮⋮すごく、くるしい。なにか、気をまぎらわしたい﹂
﹁なんだ!﹂
﹁君の、おっぱいを見せてくれ﹂
﹁お、おっぱい。そ、そうか﹂
アルテミシアは顔全体を真っ赤にすると、意を決したように甲冑
を外した。
蔵人の要望にはすべて応えてあげたい。
ゆるぎないいとおしさがアルテミシアの感情を支配していた。
いとも簡単に、上着をするすると脱ぐ。
羞恥のあまり、耳の先までゆでたように朱で染まっていた。
純白のブラが目にまぶしいほどである。百七十八センチと体格の
良い彼女の乳房は、その大きさに比例したどこに出しても恥じるこ
とのない、超爆乳であった。
美しいお椀型である。長年の修練のため大胸筋が鍛えられている
757
せいか、少しのたるみもみられない芸術的な張りを持ったものだっ
た。
﹁頼む、なんとかいってくれ。私が阿呆みたいじゃないか﹂
アルテミシアは目を伏せたまま、恥らいながら顔をそむけた。蜂
蜜色の髪が、胸元にさっと流れた。白い肌と金の対比がより際立っ
た。
﹁スイカだ⋮⋮いや、なんでもない。アルテミシア、ありがとう。
それと、お願いついでに、さわらせてくれないか﹂
﹁好きにしてくれ、もう﹂
蔵人は手をそっと伸ばすと、スイカのような大きさの爆乳に指先
をうずめた。
﹁おお、デカイ。しかも、やらかい。女神よ﹂
﹁ば、ばか﹂
こねるようにして、適度な弾力とやわらかさを楽しむ。徐々にア
ルテミシアの息が荒くなっていく。
﹁も、もおいいか。これ以上は﹂
﹁ああ。おまえのおかげで、すっかり良くなったぜ﹂
﹁ばかもの。少し調子が良くなったからって︱︱!?﹂
振り向いたまま驚愕した。蔵人の身体にそっと手を伸ばすとふれ
て確かめた。
﹁ない、斑点が﹂
アルテミシアが驚くのも無理はなかった。なぜなら、彼の全体に
巣食っていた毒が、最初から無かったかのように消え失せたからか。
﹁あいにくと、俺の身体は特別製なんでね。ほら﹂
﹁あたたかい。なんだ、これは﹂
蔵人の胸元に薄く光る紋章に指を這わす。
淡い光はやがて、雪が溶けるようにして形を失った。
﹁この紋章は俺がくたばりそうになると勝手に発動するんだ。ある
程度は、操作できるんだが。いや、今回は結構やばかったな。って﹂
アルテミシアの目もとにじわじわと大粒の涙が盛り上がってくる。
758
彼女は、高い鼻梁にしわを寄せると、子供のようにわっと泣き出し
た。
﹁ばかっ、ばかっ! できるんなら、なぜ最初からやらないんだっ
! おまえはっ、私がどれだけ心配したと思っているんだ!﹂
﹁わっ、ちょっ、待ったって。ごめっ、痛いって。痛いよ!﹂
蔵人は泣きじゃくるアルテミシアを抱きしめると、目尻の涙をそ
っと指でぬぐった。
﹁私は心配したのだぁ。ばかぁ⋮⋮﹂
﹁ほっときゃ良かったのに。俺たちゃ競合相手だろうが﹂
﹁助けたのにもんくいうなぁ⋮⋮﹂
﹁ああ、よしよし。泣くな泣くな﹂
﹁子供あつかいするなぁ⋮⋮﹂
﹁わかったよ﹂
蔵人はアルテミシアの唇にそっと口づけると、立ち上がって肩を
鳴らした。
﹁さあ、竜退治の大詰めだ。俺を殺しきらなかったことを後悔させ
てやろうじゃねぇか﹂
窪地に到着した時点ではまだ夜が明けたばかりであったが、世界
は既に夕闇が迫っていた。中央部には喰い散らかされた遺体の破片
があちこちに見えた。
ジャイアントバグベア
この場所にいれば、餌にありつけると踏んでいたのだろうか、洞
窟内から蔵人が姿を見せると巨大灰斑熊が吠えながら仁王立ちにな
った。
ほぼ同時に、闘争の気配を察知したのか、頭上にある巣穴からワ
イバーンが飛び立った。
759
﹁先にあのデカブツを片づけよう。抜かるんじゃねえぞ﹂
﹁ああ、任せろ﹂
ホーリーランス
迷いを吹っ切ったのか、アルテミシアの顔に迷いはなかった。
彼女は腰のグレートソードを蔵人に手渡すと、聖女の槍を構えて
穂先を怪物たちに突きつけた。
蔵人は手渡された大剣を抜き放つとずしりとした重みに野太い笑
みを刻んだ。
長さが二メートルはある大剣はその重みゆえ、両手持ちではなけ
れば扱えないシロモノだが、巨大モンスターとやり合うには心強い
得物だった。
﹁来るぞ!!﹂
ジャイアントバグベア
叫ぶと同時に、アルテミシアがまびさしを下げた。
戦闘の口火を切ったのは巨大灰斑熊だった。
巨体が大地を揺らしながら突撃してくる。ぬかるんだ泥を跳ね上
エンチャント
ストレングス
げ、轟音が鳴り響いた。
﹁魔力付与硬化! 強化魔術!!﹂
シークエンス・マジック
蔵人の隣を疾走しながら、アルテミシアが続けざま呪文を唱えた。
ジャイアントバグベア
武器強化と身体強化の連続魔術だ。
巨大灰斑熊が突っ込んできた。蔵人は小刻みにステップを踏んで
四本腕の連続攻撃をかわすと、泥土の中を滑りながら大剣を思う存
ジャイアントバグベア
分叩きつけた。
ジャイアントバグベア
巨大灰斑熊は絶叫を上げると、バランスを崩して前のめりに倒れ
込んだ。
﹁このおおおっ!!﹂
飛びこむようにしてアルテミシアが巨大灰斑熊の右目に深々と槍
を叩きこんだ。聖女の加護を得た神器は白く発光しながら、ぞぶぞ
ぶと音を立て眼窩から大脳へと突き進んでいく。
強大な熱量を帯びた槍が沈むにつれて焼け焦げる肉の音と煙が辺
りに立ちこめた。
痛みに耐え兼ねたように巨大熊が前足を狂ったように動かした。
760
﹁どうした! どこを狙っている!﹂
アルテミシアは槍から手を離すと前足の攻撃をかわした。
ホーリーランス
のけぞりながら、足の裏全体を使って石突きをバックキックする。
ジャイアントバグベア
半ばまで埋まっていた聖女の槍は後ろ蹴りの衝撃でずるずると、
巨大灰斑熊の大脳を焼き焦がしながら前進し、後頭部を突き破って
ジャイアントバグベア
穂先を露わにした。
巨大灰斑熊が倒れたのを確認したワイバーンがアルテミシアを狙
って急降下した。
三本爪が落ち行く夕日の残光を乱反射させながらきらめいた。
蔵人は魔術で強化された身体能力をフルに発揮させて、巨大熊の
身体を一気に駆け上がった。
満身の力をこめてグレートソードを振るった。
大剣がビュウと異様な風切り音を立てて弧を描いた。
ワイバーンは差し伸べた両足を刈り取られると絶叫を上げて再び
飛翔した。
ジャイアントバグベア
切り裂かれた傷口から青黒い血液がざっと流れ出す。
ばら蒔かれた竜の血が、巨大灰斑熊の毛皮を叩くように打った。
ワイバーンが傷ついた身体で懸命に羽ばたこうとしている。
蔵人は巨大熊の後頭部に駆け寄って、突き出た槍の穂先を直接握
り締めた。
﹁おおおおおっ!!﹂
左手に全身全霊の力をこめた。鋭い刃が手のひらに食いこんで血
を流す。アルテミシアが叫ぶ。痛みのあまり、頭の中に火花が激し
く飛び散った。迫り来る吐き気と背筋から立ち昇る悪寒を噛み殺し
て槍を一気に引き抜いた。
飛び去っていく竜の背が小さくなっていく。
ホーリーランス
蔵人は巨大熊の背を転がりながら、全力で槍を投擲した。
聖女の槍は流星のように真っ直ぐ直線を描いて飛んだ。
赤と黒の混在する世界を裂いて、槍は吸いこまれるようにワイバ
ーンの胴体を串刺しにした。耳を聾する叫び声が竜の口から尾を引
761
いて流れた。
蔵人は地面にまで転がり落ちると、泥土を踏みしめながら落下地
点を目指して疾駆した。
大剣を両手で握り締めると落ち行くワイバーンが最期のあがきと、
尾の毒針を繰り出してきた。
﹁二度も喰らうかよ!!﹂
蔵人は大剣を水平に振るった。
うなりを立てて銀線が弧を描いた。
竜の毒針は根元から断ち割られるとドッドッとぬかるんだ地面の
上を転がった。
蔵人は大剣を両手突きで前方に放り投げた。
大剣は凄まじい速さで虚空を滑るように走ってワイバーンの顔面
に深々と突き刺さった。握り締めた刃をひねるようにして振り切っ
た。
竜の頭部は噴水のように真っ青な血飛沫を吹き上げ、ゆらめいた
巨体が地響きを立てて大地に転がった。
﹁やった、やったぞ﹂
蔵人が両肩であえぎながら膝を突くと、駆け寄ったてきたアルテ
ミシアが背中から抱きついてきた。勢い余って泥土に顔から突っ伏
す。
﹁おまえな︱︱﹂
文句をいおうと泥まみれになった顔を上げると、今度は正面から
感極まった彼女の抱擁を再び受けた。
﹁すごい、すごいすごいすごいぞ! 最高だ、おまえは!! なん
て男らしいんだ! 文句なしだ!!﹂
蔵人は泥の海に押し倒されながら、興奮しきったアルテミシアか
ら降るようなキスの嵐を顔中に受けた。背中がたっぷりと泥に浸か
って気持ち悪い。ぬかるみの冷たさが身に染みた。
だが、満面の笑みを浮かべる彼女を見ながら、自然と全身のこわ
ばりが溶けていくのを感じた。
762
泥まみれの両腕でアルテミシアを抱きしめる。
彼女も負けじと全力で抱き返してきた。
すごい力だった。というか、完全に蔵人の膂力を上回っていた。
肺が圧迫され気管が狭まった。知らず、涙目になる。
﹁奇跡みたいだ。私、絶対にダメだと思ってた﹂
﹁そんなわけねえだろ。なんせ俺は、不死身の男だからな﹂
蔵人はぎりぎりと背骨を軋ませる力に咳き込みながら、もうダメ
かも、と思った。
763
Lv49﹁終極点﹂
﹁どうやら、この毒針にはダウナー系の麻薬と同じ成分が含まれて
るっぽいな﹂
蔵人は切り落としたワイバーンの毒針を拾い上げると、しげしげ
と見つめた。
長さはおおよそ四十センチほどであろうか。
針の先端には返しはついておらず、美しい円錐型をしていた。
墨石とそっくりな色と硬さであった。
先端の部分に極小の穴があり、そこから毒を射出する仕組みにな
っていた。
﹁ダウナー系?﹂
聞き慣れない言葉なのか、アルテミシアが眉間に眉を寄せた。
﹁なんつーか、妙に欝な気分になったり死にたくなったり、こう気
分がひゅーんと急降下するんだよ、意味もなく。ま、良い子ちゃん
のアルテミシアは知らないだろう﹂
﹁むむ。クランドはまた私を馬鹿にしているな。だうなんとかは知
らないが、要するに薬物のことだろう。そういえば、私も洞窟内で
毒に当たったら妙に気分が落ちこんだな。いまは時間が経ったから
毒が抜けたのか平気だがな﹂
﹁おまえは刺されてなかっただろう。なんで、ワイバーンの毒に当
たったんだ?﹂
﹁それは、おまえの⋮⋮ど、ど、どうでもいいだろうが!﹂
764
アルテミシアは急に頬を林檎のように真っ赤にすると、ぷいと横
を向いた。
蔵人は彼女の反応に戸惑いながら、拾った毒針やらウロコやらを
革袋に詰めはじめた。
﹁なにをしているんだ?﹂
﹁いや、戦利品だ。ほら、なにか貴重な素材としてさばけるかもし
れないだろ﹂
﹁ホクホク顔のところ悪いが、たぶんワイバーンの鱗は二束三文だ
と思うぞ。戦ったとき、さほど苦労しなかったろう﹂
﹁さほどって、アンタ﹂
﹁こいつは、竜種としては一番下等な部類でトカゲに近いとか揶揄
されていたが、モンスターの平均値で考えれば充分強い。それでも、
素材としての価値はないのだ﹂
﹁うぞっ!? マジでかよ。こんなに苦労したのに﹂
﹁割に合わぬ敵だったな。毒針と身入りの少なさ。こいつが、冒険
者に嫌われる理由のふたつだ﹂
蔵人はワイバーンの死骸を蹴りつけると、剥ぎ取ったウロコを半
泣きで叩きつけはじめた。
アルテミシアは癇癪を起こした子どものような彼の態度に困った
ような笑みを浮かべた。
﹁ともあれ、攻略依頼は完遂した。だが、噂にしおう邪竜王として
は少々物足りなかったな。さ、幕営地に戻って、少し休もうではな
いか﹂
﹁ああ、あれっ? そういえば、他のやつらは?﹂
﹁うむ。それも少し気になっているんだ。おまえが連れていた道化
とアーノルドとソシエはどうしたのだろう。無事に戻っていればい
いのだが﹂
﹁ああ、そういやフィリッポの姿が見えな、い!?﹂
回収した長剣のコジリで死骸をつついていた蔵人の身体が、がく
りと崩れた。
765
咄嗟にアルテミシアは腕を伸ばして抱きとめた。
ストレングス
﹁な、んだ。急に力が入らねえや﹂
﹁強化魔術で身体能力をフルに使ったからだ。アレは反動がすごい。
もっとも、支援魔術がなければ勝つのはちょっと難しかっただろう
な﹂
﹁なーんでおまえは平気なんだよ﹂
﹁私は支援魔術をかけなかった。その差だろう﹂
﹁マジで?﹂
﹁疑い深いな。本当だよ﹂
蔵人はアルテミシアの困ったようなややタレ目がちな瞳を見て、
つくづく才能の差を思い知らされた。
落ちた長剣を拾って腰の革ベルトに落としこむ。
剣の柄を握った腕にまるで力が入らない。
指先の震えが伝わって鞘がカタカタと鳴った。
﹁マズイな、これは﹂
蔵人の怯えを察したのか、アルテミシアが力強くいった。
﹁なに、仕事はもう終わった。それに、もしものときは私がおまえ
を守ってやる﹂
﹁これを見越して、自分に魔術をかけなかったのか﹂
﹁ふたりとも動けなくなってしまえばもしものときに困るだろう。
それでなくても、この辺りはどんな凶悪なモンスターが出てきても
おかしくない。竜は倒しましたが帰り道でやられました、ではいか
にも格好がつかないだろう?﹂
﹁以外と現実的なんだな﹂
﹁女は皆、現実的な生き物なんだ。男と違ってな﹂
﹁夢見る乙女かと思ってた﹂
﹁ばか﹂
蔵人は肩を借りながらゆっくりとした歩調で村までの道を移動し
た。
ふたりは、ほぼ変わらない背の高さなので歩行には支障はなかっ
766
た。
日は落ちたばかりで、辺りはまだ完全な闇ではなくうっすらと周
囲の地形を読みとることができた。
﹁待て、誰かいるぞ﹂
ハンバーガー・バレー
アルテミシアが低くつぶやく。蔵人は目を細めて前方を見やると、
挽肉の谷の最後の上り部分に小さな影を見つけた。
﹁おまえ、フィリッポじゃないか!﹂
﹁あいたっ! ちょっと、ひどいじゃないか!﹂
蔵人はアルテミシアから肩を振りほどくようにしてフィリッポに
駆け寄った。押された拍子に彼女は尻餅を突いて抗議の声を上げた。
﹁おい、だいじょうぶか! しっかりしろよ、おい!!﹂
﹁へ、へへ。兄貴﹂
フィリッポの全身は見るからに激しく傷ついていた。
だぶついたまだらの衣装は、ところどころが引き千切られてカギ
裂きになっている。
ヒーリン
緑の帽子は埃まみれで、流れ出た血で左腕は真っ赤に染まってい
た。
明らかに激しい暴行を受けていた。
﹁なんというひどいことを。強く気を持つのだぞ﹂
グライト
アルテミシアはフィリッポに向かって治癒の魔術を施した。回復
の光の淡いブルーの光が道化の全身を包んでいくにつれ、蒼白だっ
たフィリッポの表情へと徐々に赤みが差した。
﹁さ、さすが神官騎士さまで。兄貴、この方を大事になさってくだ
せえよう。おいらみてぇあなモンにまで、こんなもったいねえ神の
ご加護を授けてくださるなんて。顔かたちだけじゃなくて、こころ
まで美しい方だ﹂
﹁世辞などよい。こら、道化。無理に起きるのではない﹂
﹁そうだ、フィリッポ。寝たままでいいから話してくれ。いったい、
なにがあった﹂
﹁おいら決して逃げたわけじゃねえ。こ、これを﹂
767
蔵人はフィリッポの差し出した小瓶を受けとると、蓋を開けて匂
いを嗅いだ。
﹁毒消し。そうか、おまえ、俺のために﹂
﹁なんだか、兄貴、元気そうだけど。はは、余計なおせっかいだっ
たかな﹂
﹁そんなこたぁ、ねえ! さっきから、刺されたところがジクジク
痛むんで助かったぜ!﹂
蔵人が小瓶の中身を一気に飲み干すと、フィリッポは満足げに目
を細めた。
﹁えへへ、やっぱ兄貴はやさしいなぁ。おいら、頑張った甲斐があ
ったよう﹂
﹁誰にやられた!﹂
﹁ちょいと、冒険者さんたちのテントへお邪魔したときに、見つか
りやして。ワン公をけしかけられるやら、石を投げられるやらで。
ドジ踏みやした﹂
﹁緊急事態だったんだ。正直に話せばウチの者だって⋮⋮﹂
﹁そいつは違いやすぜ、騎士さま。どんな非常時だって、おいらの
ような半端者の話を世間さまが真面目に取り合っちゃくれねえのは
普通のことなんで。元より下賤の身。人さまのお情けで生きてるよ
うな人間ともいえないおいらたちのようなモンは、ときにはドブネ
ズミのような真似事でもしなくちゃ、本当に必要なものは手に入ら
ねえんで。騎士さまは本当におやさしい方だ。けんども、おいらの
ような人間にやさしくしてくれる兄貴や騎士さまのほうが珍しいっ
てことなんで﹂
﹁そんな﹂
アルテミシアが口ごもる。蔵人は無言のままフィリッポを背負う
と歩き出した。
﹁おい、背負うなら私に任せてくれ﹂
﹁いや、こいつは俺の弟分なんだ。これくらいはさせてくれよ﹂
﹁兄貴﹂
768
蔵人はふらつく足を無理やり前に出して坂道を登り出した。背中
で、鼻をすすり上げる音が聞こえる。感極まったフィリッポが泣き
出したのだった。
﹁男がそう簡単に泣くもんじゃねえ﹂
﹁すいやせん、すいやせん﹂
﹁フィリッポ、ひとつ聞きてえことがある﹂
﹁へい﹂
﹁おまえ、もしかしてこの村に縁のある人間なんじゃないか﹂
﹁へへ。お見通しでしたか。兄貴のおっしゃる通り、おいらここの
生まれなんで﹂
フィリッポは幾分逡巡したあと、あっさりと口を割った。
﹁おいら生まれつきこんな身体なんで。野良仕事をロクに手伝うこ
ともできねえ。口減らしの為に十のとき、人買いに売られたんで﹂
なんとなく想像はついていた。よそ者を泊める宿がないにしても、
金を払って土地の百姓に頼めば、一晩程度はなんとかなったのだろ
う。
村の中心部から離れた物置小屋に向かったときも、竜の巣へとい
く道筋も、フィリッポの歩き方は道を調べておいただけでは説明の
つかないような慣れた足取りだった。
﹁この村が貧しいのは竜が襲いはじめたからそうなったってわけじ
ゃねえんですよ。元々がたいしたモンがとれるわけでもねえんで。
けど、少なくともおいらが叩き売られる十年前はこれほどひどいあ
りさまじゃなかった。邪竜王だかなんだか知らねえが、そんなわけ
のわからねぇバケモンが暴れまわってると聞けば、許せねえじゃね
ぇですか。ここには、まだ、おいらの親兄弟が暮らしてるんでさ﹂
﹁おまえ﹂
﹁おいらのやることなんざ、いっつも間の抜けてることばっかりで、
それでなくてもなんの役にも立たねえ半端者。なにができるってわ
けでもねえが、矢も盾もたまらず駆けつけたんで。兄貴がご無事っ
て、ことは竜の方は﹂
769
﹁ああ、なんとかな﹂
蔵人の言葉を聞くと、背負われていたフィリッポの身体が強く硬
直した。
﹁兄貴の努力に水を差すようで申し訳ねぇが、あいつはおいらが子
供の頃に見たバケモンじゃあねえんで。本物の邪竜王は、まだ生き
てやす﹂
フィリッポの言葉が真実だったことはすぐに証明された。山路を
踏破して村にたどり着いた蔵人たちが見たものは、辺りを覆い尽く
さんばかりに舞い上がる紅蓮の炎の渦だった。
軍隊と冒険者たちの野営地は、暗闇に咲いた無数の薔薇のように
あたり一面の天幕が真っ赤な炎で覆い尽くされていた。
逃げ惑う男たちや娼婦の悲鳴に混じって、あらゆる物が焼け焦げ
て火の粉を天に巻き上げていた。
被害は野営地のみにとどまらず、隣接していた農村の半分以上が
真っ赤な炎の舌に舐められて燃え上がっている。
木材の弾ける音に混じって逃げ惑う農婦の悲鳴や、子どもの泣き
声が耳を聾さんばかりに響いていた。
﹁そんな、ようやく倒したというのに﹂
アルテミシアが愕然とした表情でつぶやく。
野営地を暴れまわっているのは、先ほど苦労して倒したワイバー
ンと同種のものであった。
総勢四体である。
ワイバーンたちは手当たり次第といった形で人々を蹂躙していた。
領主の揃えた兵士は農民を軍役によって無理やり徴募したもので
あり、はじめから戦意は甚だ乏しかった。兵隊たちは算を乱して潰
770
走すると、あとに残されたのはおこぼれを狙ってやってきた各地の
商人や娼婦たちだった。
ワイバーンが陣幕を紙切れのように吹き飛ばし、長い首を伸ばし
て人々をついばんだ。
砕かれた肉体は辺りに血の雨を降らせながら、崩れたテントの布
地を赤く染めていった。
夕餉どきというのもついていなかった。熾された火の気は折から
の強風に煽られ、すさまじいスピードで伝播していく。狂奔の渦は
人々から冷静な思考を残らず刈りとった。
その場に踏みとどまって戦おうとする冒険者はごく一部であった。
まるで連携の取れないまま個々に立ち向かっていく者たちから、次
々にワイバーンの牙と毒針に命を落としていく。まさしく阿鼻叫喚。
この世の地獄がビスケス村に再現された。
混乱を避けて丘に移動した蔵人たちの元へと村人たちが幽鬼のよ
うな足どりで集まってくる。
もう、おしまいだ。
農夫の誰かがそうつぶやくと、ひとりがその場に腰から崩れ落ち
た。連鎖的に村人たちはその場にしゃがみこんでいく。
蔵人は背中が生暖かく濡れるのを感じた。
フィリッポが声を押し殺して泣いているのである。
なんとかしてやりたいと、切に思う。
だが、ワイバーン一体を倒すのですら危うかった。不死の紋章が
自分にはあるとはいえ、傷を回復させたのちの激しい疲労感は癒え
るどころかますます強まっている。
蔵人は右手をそっと伸ばして長剣にふれた。指先の震えは止まら
ず、いっそう倦怠感は強まっていた。眉間にしわを寄せて柄を握り
締めた。それを見とがめたアルテミシアが無言で首を横に振ってい
た。
﹁クランド。確かに悔しいが、もう我々の手の及ぶところではない。
私たちに出来るのは、一刻も早くシルバーヴィラゴに戻って鳳凰騎
771
士団の出馬を要請することだけだ﹂
シルバーヴィラゴにはアンドリュー伯虎の子の一個師団が常駐し
ていた。ワイバーンがいくら凶悪なモンスターであっても、最新鋭
の整った装備を持つ軍勢の前では無力である。
もっとも百万を超える人口を持つ大都市の各地に分散された兵を
いらずの森
では敵対
招集するとあれば、ビスケス村はおろか、付近数十ヶ村のうちどれ
ほどの被害が出るかはわからなかった。
また、シルバーヴィラゴにもっとも近い
しているダークエルフの動きが活発化しており、おいそれと兵を動
かせない理由もあった。
列挙した理由はシルバーヴィラゴに住む人間ならば誰でも知って
いることである。アルテミシアは自分の口にした言葉がどれだけ空
虚なのかを改めて理解したのか、恥じたように顔を伏せた。
﹁おい、なんだよ、あれは﹂
眼下の燃え盛る村を見ていた男が絞り出すような声をだしてうめ
く。蔵人たちが視線をその先に転ずると、一同は示し合わせたよう
に目を見張った。
その怪物は、いままで人々を思うさま蹂躙していたワイバーンよ
りも、はるかに大きな体躯をしていた。
燃え盛る炎と月の光に照らされて、全身の真っ赤な鱗が輝いてい
た。
大きな翼が羽ばたくたびに、ワイバーンたちが怯え切った声を上
げる。
振り上げる指先の個々の爪はそれ自体が鋭い剣のように太く凶悪
だった。
﹁あれだ、あれが本物の邪竜王ヴリトラ。おいらのおとっつぁんを
殺したバケモノだ﹂
レッドドラゴン
フィリッポの声から完全に感情が抜け落ちていた。
邪竜王の正体。
それは、竜種の中でも上級四種に数えられる赤竜だった。
772
赤竜はワイバーンを追いかけながら、口を大きく開けて白々とし
た牙を暗夜にきらめかせた。
赤竜の口腔には特殊な可燃ガスを発生させる気管が存在しており、
任意的に高熱の炎を発生させることができる。
赤龍が雄叫びを一際高く上げると、業火が真っ直ぐに目前のワイ
バーンに向かって吹きつけられた。火だるまになったワイバーンが
叩き落とされた羽虫のようにあっさりと地上に落ちてゆく。
赤竜は、中空でワイバーンの胴体に牙を立てるとくわえたまま地
上に降り、それから悠然と食事に取りかかった。
﹁なんてやつだ。ワイバーンはあいつのエサなのかよ﹂
本来赤竜はロムレス王国よりもはるか南に位置する地域にしか生
息しない生物である。
通常夏季には人里に姿を見せないはずのワイバーンが頻繁に出没
するようになったのはすべてこの赤竜が原因だった。
ワイバーンの主食とする中級モンスターを赤竜がすべてたいらげ
てしまったのである。
そして、赤竜のとどまるところを知らない食欲の対象となったの
は、下位種にあたるワイバーンだった。
赤竜は一匹目のハラワタを喰い終わると、首を天に向かって垂直
にし、地を蹴って飛び上がった。
遠目にもそれは一個の赤い弾丸だった。
上空を旋回するワイバーンに向かって襲いかかると、巨木のよう
な極大の尻尾を振り回して、ハエのように二匹を地上に叩き落とし
た。
死が目前に迫ったとようやく一匹のワイバーンが理解したのか、
背を見せてその場を離脱した。飛龍と冠されるように、ワイバーン
の速度は疾風のようだった。
だが、赤竜は彗星のように一瞬でその差をゼロにすると、一瞬で
片羽を噛み千切ってワイバーンの飛行能力を奪った。
赤竜は地上に落ちた三匹がもがいているのを見ると、カッと口を
773
開いて紅蓮の炎吐きつけて動けなくした。
そばにいた気骨のある冒険者が弓を構えたが、赤竜はハエを払う
ように尾の一撃を加えた。
男は瞬間的に膨大な衝撃を受けると全身の骨を粉々に砕かれて絶
命した。
竜種という最強生物の前では、人間はあまりにも無力だった。
﹁このままでは、援軍が来るまでに付近の村々はすべて全滅してし
まう﹂
アルテミスがふるえる声を出した。村人たちはすでにすべてを諦
め切ったのか、ほとんど声に反応することなく凍りついたように目
の前の光景を眺めていた。
﹁兄貴、ここでおろしてくだせえ﹂
フィリッポは蔵人の背中から降りると、よろけながらも自分の足
で立った。
﹁おい、待て。道化。なにを考えている。やめろ﹂
﹁騎士さま、止めねえでくだせえ﹂
﹁馬鹿な、みすみす死ぬとわかっているものをどうしてそのまま行
かせられようか﹂
﹁だったとしても、このままあのバケモノの好き勝手にはさせてお
けねぇんだ! 確かに、おいらは人間以下の半端者かもしれねえが、
てめえの生まれた村がメチャメチャにされるのをこれ以上黙っては
見ていられねえんだ! おいらの大好きなおとっつぁんを食い殺し
たあのバケモノへせめて一太刀なりとも切りつけてやらにゃあ、あ
の世へ行っても浮かばれねえよ!﹂
﹁よせ、行くな!!﹂
フィリッポは制止の声を無視して、一気に丘を駆け下っていった。
連れ戻そうと蔵人たちが身を乗り出すと、その背に向かって甲高い
女の声が浴びせられた。
﹁待って、待ってよクランド!﹂
774
蔵人が聞き覚えのある声に振り返ると、いつの間にかそこには難
を逃れてきた娼婦の一群とマリアの姿があった。
﹁行かせておあげよ。それが、あの子のやりたいことなんだよ﹂
﹁なにがやりたいことだ! おまえらフィリッポとは俺なんかより
ずっといっしょにいたんだろうが! このまま行かせたらあいつ確
実にくたばるだけじゃねえか! あいつが死んでもなんとも思わね
えのかよ!!﹂
﹁思わないわけ無いだろう! フィリッポはあたしの血を分けた実
の弟なんだよ!!﹂
蔵人は呆然としたままマリアの顔を見つめた。彼女の顔は奇妙に
歪んだまま、涙をこらえていた。
﹁そうだよ、あたしが十四、フィリッポは十のときに実の母親に売
り飛ばされたんだよ! でもね、恨んじゃなんかいないよ。オヤジ
があのバケモノに喰われてからは、母さんがどんだけ苦労していた
か知ってたから。七人もいる兄妹を食わせるには誰かを人買いに売
りとばさなきゃ年貢も払えなかったからさ! ここのアンドリュー
伯は都に行きっぱなしでロクに帰っちゃこない。代官はやりたい放
題で、咎める人間すらいやしない。街で働けばいい? 冗談じゃな
い、字も読めない、畑を耕すしか能のない百姓が街に行ったって出
来るような仕事もないんだよ。あたしら百姓は畑にしがみついてな
きゃ生きてはいかれないんだ。あたしは娼婦だ。この世に男さえい
れば、いくらだって銭は稼げるんだ。だから、どんな泥水をすすっ
たって歯を食いしばって、銭を貯めて、家族のために送り続けてき
たんだ。ねえ、クランド。知ってたかい? 代官がいうには、この
世で一番悪いことは領主に年貢をおさめないことなんだってさ。え、
おさめなかったらどうなるって? 決まってるだろ、そんなの。縛
り首さ。あたしはきょうまで、母さんや兄さんたちを縛り首にさせ
ないために頑張ってきたんだ。それなのに、ご領主さまの兵隊も冒
険者たちも残らず逃げだした。誰も守ってくれない、誰も守ってく
れないんだ! 村もめちゃくちゃにされちまった。今年の収穫はこ
775
れでぜんぶお釈迦だよ。あたしとフィリッポが力を合わせて守って
きたものがぜんぶダメになったんだ。だから、止めないでおくれよ。
せめて、あの子の人生に悔いがないようにさせてあげてよ。お願い
だよ﹂
マリアの頬へ一筋の涙が流れた。蔵人の瞳に火柱を上げて崩れて
いく藁葺き屋根が目に入った。眼下の村々が赤い炎に舐め尽くされ
ていく。
もはや、人の住める場所ではありえなかった。
脳裏にポルディナの凍えきった哀しい瞳が蘇った。
マリアとポルディナ。
種族が違えどもふたりは同じだった。
蔵人はあの日見た、緑の笹舟がきらめく小川を渡りきる場面を想
像してみた。
だが、幾度脳裏に思い描いても、笹舟は無残に白く大きな渦に呑
まれて粉々に砕け散った。
渡りきることはできない。
そう運命づけられている。
だったら、その小舟を俺が渡してやらぁ。
長剣を握り締める。
震えはもう消えていた。
蔵人が腰をかがめて草地のグレートソードに手を伸ばすと、アル
テミシアの表情が蒼白になった。
﹁まさか、おまえまで馬鹿なことを﹂
﹁安心しろよ。そこまで考えなしじゃねえや。ところで、邪竜王の
懸賞金だが。参考までに聞かせてくれ。見当でいい、おおよそどれ
くらいに出ることになってた﹂
﹁はあ? ああ、攻略依頼の懸賞金は額にもよるが、一ヶ月以上は
かかるだろう。しかし、なんでそんなことを聞く。やっぱり!﹂
﹁そう、そのやっぱりだ。一ヶ月後じゃ間に合わん。邪竜王討伐の
懸賞金、俺の取り分はマリアにくれてやってくれや﹂
776
蔵人は大剣を背中にかつぐと、外套を翻しながら風のように麓の
村目指して走り出した。後方で叫ぶアルテミシアの声がどんどん小
さくなっていく。
知っている、自分でも愚かなことをしていると。
本当に今度こそ命取りだと自分でも思った。
あのワイバーンをあっという間に四体も屠った赤竜は真の意味で
怪物だった。
あのバケモノを切り倒す自分がまるでイメージできない。
勝ち得ない。微塵も自信がない。
蔵人は恐怖に怯えながらも、目に見えない巨大なものが自分の背
中を押し続けていることに気づいた。
怒りである。
理不尽な暴力に対する怒り、無力な自分に対する怒り、そしてな
によりもそんな邪悪に屈しそうな自分の魂に対する怒りだった。
斜面を下りきって野営地にたどり着くと、周辺一帯にはいまだ逃
げ惑う兵士や冒険者の姿があった。
彼らがこの村に来た理由は、冒険や功名、付随する莫大な利益の
ためだったはずであった。
だが、想像し得ないほど巨大な赤竜の存在の前にはすべての薄っ
ぺらな虚栄心は残らず剥がし落とされ、最後に残ったのは生物とし
てもっとも原始的な欲求である生存本能のみであった。
﹁返して、返してよおぉ! それは、あたしのおたからなんだよお
おっ!﹂
﹁うるせええっ!!﹂
蔵人が女の絶叫に振り返ると、そこにはひとりの農婦から首飾り
を取り上げようとしている重騎士ステファンとそれを取り囲む四人
の男の姿があった。
﹁ねええ、そこのひと! あの首飾りは、あたしのにいちゃんが嫁
入りのためにって送ってくれたたからものなんだよお! 取り返し
ておくれよお!﹂
777
﹁へ、なんだてめえ。そうか、あのときの腰抜けくんじゃねえか﹂
巨漢の重騎士ステファンは脂ぎった顔を歪ませながら農婦を突き
飛ばすと、蔵人に向かって吐き捨てた。
﹁どうした! えええ、文句があるってツラじゃねえか。チッ。ワ
イバーン一匹っていうからこの俺さまがわざわざこんな田舎くんだ
りきてやったってのに。領主の兵隊は腰抜けだし、アルテミシアの
息のかかった野郎どもはいうことは聞かねえわで、胸糞悪すぎだろ
うが! ってことは、帰りの駄賃に金目のモンと女の一匹や二匹く
れえお持ち帰りしねえとワリにあわねえやっ! あああん? この
土百姓女が! 俺さまの肉穴奴隷にしてやるっていうんだから、感
謝の意味もこめて金目のモンは残らず吐き出さんかい!﹂
﹁そんなの頼んだ覚えないよう! ばか! ぶた!!﹂
﹁ンだと、クソ百姓がああああっ!!﹂
ステファンが手斧を農婦に向けて振りかざした。
蔵人が走り出そうとした瞬間、天幕から小さな影が素早く駆け出
し農婦を突き飛ばした。
手斧がサッと閃くと、鈍い音と共に小さな影が転がった。
飛び散った血飛沫が天幕の脇にある木箱をドッと音を立てて打っ
た。
﹁⋮⋮うそ。にいちゃん﹂
農婦は血に染まった緑の帽子を握ったまま尻餅をついたまま放心
状態でいった。
蔵人の目の前には深々と背中を断ち割られたフィリッポの姿があ
った。
ステファンがふてぶてしく唾を吐き出すとフィリッポの顔にかか
った。
一瞬で、蔵人の理性は霧散した。
﹁おおおおおおっ!!﹂
蔵人は絶叫に近い吠え声を上げるとかついでいた大剣をステファ
ンの腹に向かって放り投げた。
778
分厚いグレートソードは異様な音を立てて旋回しながら弧を描い
た。
ズン、と肉を断ち切る音と共に、大剣の刀身の半ばがステファン
の腹に深々と埋まった。
﹁あ、え? な?﹂
ステファンは持っていた手斧を指先から滑り落とすと、その場に
膝をついて崩れ落ちた。
同時に蔵人は腰の長剣を抜き放っていた。
長剣が鋭い音を立てて真一文字に振り下ろされる。
﹁ぎぃやあああああっ!!﹂
蔵人の長剣が真正面からステファンの顔面を真っ二つに切り落と
した。
ステファンは顔面を両断されると、赤黒い血飛沫と砕かれて破片
となった前頭葉を撒き散らしながら全身を痙攣させて絶命した。
残った四人の男は持っていた箱を放り投げると、剣を構えた。
蔵人は身を低くして男の腰に向かって剣を走らせた。
銀線が飛び散る火の粉を叩いて虚空を切り裂いた。
絶叫が甲高く上がった。
男は脇腹を深々と断ち割られると泳ぐように前方に倒れ込む。
怯えて逃げ腰になった男に向かって蔵人は高々と跳躍した。
白刃が半円を闇夜に刻んだ。
男は喉元をえぐられると剣を取り落として両手で自分の傷口を覆
う。
袖口を流れ出た血液がぐっしょり濡らしていく。
最後に低くうめくと、眼球をぐるんと反転させて絶息した。
男の一人が狂ったように剣を前後に振り回しながら突っこんでく
る。
蔵人は男の足を引っかけて転ばせ、左手に持ち替えた長剣を逆手
のまま水平に振るった。白刃は存分に男の腹を薙ぐと内蔵を断ち割
って男を絶息させた。
779
最後のひとりは女のような悲鳴を上げながら背を向けて逃げ出し
ていく。
蔵人は落ちていた手斧を拾うと勢いをつけて投擲した。
ひゅんひゅんと軽快な音を立て旋回する。
手斧は逃げ出した男の右即頭部に突き立った。
﹁にいちゃああん﹂
農婦が小柄なフィリッポに取りすがって泣いている。蔵人は片膝
を突くと目を細めてくちびるを噛み締めた。フィリッポの傷は深く
もはや手の施しようはなかった。
﹁⋮⋮カロル。泣くんじゃねえ。兄ちゃんはこういう運命だったん
だ。⋮⋮へへ、兄貴。カッコつけて飛び出した割にはまったくもっ
て締りのねえことで。へへ﹂
フィリッポは血泡をはくと、よろよろと立ち上がった。
﹁だめだよおお、にいちゃああん! 寝てなきゃああっ!﹂
﹁兄貴、そういやおいら兄貴にゃ道化らしい芸のひとつも見せてな
かったんで。⋮⋮最後にひとつ見ていってくだせえ﹂
そういって薄く笑うと、どこから取り出したのか綿の玉を取り出
しジャグリングをはじめた。
﹁ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。どうした、カロル!
黙って見てねえでなんとかいったらどうでぇ!﹂
カロルは顔を伏せて泣き声をさらに高く上げた。
胸を打つ悲痛さが耳に残った。
芸をはじめたフィリッポは痛みなど無かったかのように、宙に玉
を投げては取りと、素早い指さばきを見せた。時折、動物を真似た
マイムを織り交ぜ、滑稽に振舞った。
﹁うまい、うまいぞ、フィリッポ! おまえは世界一だ!﹂
蔵人は感情を隠すように大声を放った。カロルの叫びが続けて覆
いかぶさった。
﹁にいちゃああああんっ!﹂
宙に投げた玉が順繰りに伸ばした右腕へ着地していく。
780
五つ目の玉が綺麗に揃って並ぶと同時に、フィリッポはその場に
崩れ落ちた。
﹁⋮⋮兄貴。おいらぁ、自分のことをずっと半端もんだと思ってた。
生まれついてのこの身体がたまらなく嫌いだった。でも、⋮⋮いま
は好きになれそうな気がしやすよ。これを⋮⋮﹂
蔵人は手渡された短剣を受けとると深くうなずいてみせた。
﹁おまえは半端者なんかじゃない。ちゃんと妹を守ったんだ、もう、
立派な一人前さ﹂
﹁⋮⋮えへへ。うれしいな、⋮⋮おいらは、もう半人前じゃねえ。
⋮⋮一日だけだけど、兄貴といっしょに⋮⋮いられてよかったよ。
なぁ、⋮⋮このケガが治ったら、冒険に連れて行ってくれるかい、
兄貴﹂
﹁ああ、連れて行くさ。どこへだって﹂
﹁いやだあああ、にいちゃあああんん! 死んじゃやだああっ!!﹂
カロルが泣きわめいて身体を揺すった。
反動で、真っ赤なつけ鼻がポロリと落ちる。
フィリッポは夢を見ているように安らかな顔のまま、もう目を覚
ますことはなかった。
781
Lv50﹁三途の川を三度渡った﹂
さすがにこいつは反則だろう!
と、蔵人は心の中で叫んだ。
﹁ストーリー上、こいつはラスボスの扱いだろう﹂
赤竜こと、邪竜王ヴリトラと野営地の開けた中央部で対峙し、改
めてその異形を目前にした素直な感想だった。
まずデカイ。なんといってもデカイ。
翼を広げた横幅は、大型バスを二台ほど並べたくらいはあるだろ
うか。
もっとも体格を考えれば、翼はやや小さめの感が否めなかった。
ワタリアホウドリですら、最大翼長は三メートルをはるかに超え
ている。
つまりは、流体力学を凌駕する魔術理論に支えられて活動してい
るのだろう。
ゾッとするような凶暴な目つきをしていた。
蔵人は邪竜王の瞳を真正面から覗きこんで、強烈な頭痛と嘔吐感
を覚えた。異常な毒気と電波のようなものが放射されているような
気がする。間違いない。
蔵人は急激に胃の腑に鈍痛を覚え、舌打ちをした。
構えたグレートソードを正眼に構える。切っ先の震えはいっそう
強くなった。逃げ惑う人々の声が間遠に聞こえる。現実感が乏しい。
自分がまるで出来損ないのハリウッド映画の主人公に思えた。竜と
782
いう怪物を前にして、改めて人間の矮小さを思い知った。
手にした大剣がチャチなオモチャに思えてきた。萎えそうな気力
を無理やり奮い立たせてジリジリと前進した。徐々に邪竜王へと歩
を進めた。じっとりとした汗が全身へとぷつぷつと湧いてくる。喉
に異常な渇きを覚えた。きぃん、と耳鳴りのようなものが聞こえて、
視界が徐々に狭まってくる。蔵人は自分の鼓動の音がどっどっ、と
早鐘のように打ち鳴らされるのを聞きながら唇を舌で湿らせた。
威嚇だろうか、途方もない声量の雄叫びが轟いた。
負けじと蔵人も気迫をこめて咆哮する。
あぎと
ふたつの赤らんだ瞳がはじめて感情を宿した。
邪竜王の巨大な顎が蔵人に狙いを定める。
決戦の潮合が極まった。
﹁コンコーン。さあ、試合開始のゴングだ、邪竜王!!﹂
蔵人が大剣を持って駆け出した。
同時に、邪竜王の口から極大の火球が続けざま吐き出された。
蔵人は地を蹴って跳躍した。空を切り裂いて走った火箭が背後の
天幕を喰い破り、辺りを昼間のように真っ赤に染めた。
蔵人は握った大剣を水平に走らせた。銀線が闇を裂いて一条の光
糸となって放たれる。
ごおん、と鉄の塊を叩いたような手応えがあった。痺れのあまり
剣を取り落としそうになった。竜の右足。まともに入った斬撃だが、
邪竜王はなんの痛痒も感じていないのか微動だにしなかった。まる
で、赤子扱いであった。
ノータイムで竜は巨体を反転させると巨木のように太い尾っぽを
振り回した。
掠っただけで即死できる打撃力だった。
全力で飛びすさってかわす。
ただ一度の回避に全力を費やす。
所詮は人間と竜である。獅子と地虫ほどの戦力さだった。
古来より、あまたの英雄が竜に挑み打倒することでその名を不滅
783
にした。
蔵人はいまなら理解できた。
こんなバケモノ倒せるはずがない。
そう、人知を超えたなにかが働かなければ、とうてい抗しようは
ずもない。そんなものを持ち得ない人の身でありながら不可能を打
倒するならば命を燃やさねばならない。全身の筋肉を限界まで行使
して敵の一撃を避け切った。
フィニッシング・ストローク
ただその一点が竜にとっては軽いジャブであっても、蔵人にとっ
ては最後の一撃になりえるのだ。
竜が振るった尾の一撃は周囲の天幕を紙細工のように弾き飛ばす
と、天に向かって軽々と放り上げた。天幕はびょう、と轟音を発し
て高々と舞い上がり遠方に消え去った。圧倒的な威圧感。暴風雨の
真芯に立つようだ。
蔵人は再び怯えを押し殺して再び前進する。地を蹴って駆けた。
身を低くして股の間を滑り抜けた。
狙いは柔らかそうな股間だった。
ギャリン、と鉄をぶっ叩いたような音がして刃先から火花が散っ
た。大剣が竜の股下をこそぎながら走る。
だが、鋼より硬い竜の表皮は毛ほどの傷をつけることもなく、い
とも簡単に剣の切っ先を削り取った。
折からの小雨でぬかるんだ地面に顔面をこすりつけながら転がっ
て移動した。
大地へと羽虫を叩き潰すように、邪竜王の爪が叩き落とされた。
竜の爪の一本一本それぞれがロングソード並の長さと鋭さである。
蔵人は自然三人の手練から常時突きを入れられているようなもの
だった。大剣を力任せに爪に向かって横殴りに叩きつけた。厚みで
勝ったグレートソードは竜の爪をようやく跳ね上げることに成功し
たのだ。
起き上がろうとした瞬間、激しく肩を斬りつけられた。
割られた肩から激しく血が吹き出した。巨人の腕で押されたよう
784
な感覚である。
目の前が痛みで真っ赤に染まった。
痛みは噛み殺せ。
ただの一瞬が命取りになる。
強く自分を鼓舞する。そうでもしなければ自分を保てない。
蔵人はそのままその場を駆け抜けて再び距離を取った。肩で息を
したまま大剣を構え直した。いまのやり取りで異常に体力を消耗し
た。
呼吸を整えようとするが、心臓は弾けそうなほど強く脈打ってい
る。気をそらすため意図的に辺りへと視線を転じた。周囲に広がっ
た炎の海で視界は良好であった。滝のように流れる汗で網膜が曇る。
両手に握った得物を直視した。グレートソードの刃先はささらのよ
うにギザギザに変わっていた。
﹁クッソ、なんてかてェんだよ!!﹂
ドラゴンの鱗はこの地上で最強の硬度を持っている。
アルテミシアの大剣は業物であったが、所詮は対人用であった。
竜種には微塵ほども通用しなかったのだ。
考えている暇はなかった。
否。
目の前の怪物がそれを許さない。
再び竜のファイアブレスが蔵人に向かって飛び出したのだ。
紅蓮の炎が闇を裂いて真っ直ぐに伸びた。横っ飛びでかわした。
﹁ぎひいいいいっ!!﹂
逃げ惑っていたひとりの冒険者がモロに炎を浴びた。火だるまに
なった男は絶叫を上げながら走り出すと天幕に手を突いた。一瞬で
炎が天幕に燃え移ると、中に残っていた油壺に引火したのか一気に
炎が燃え広がった。人肉の焦げる臭気が鼻先を殴りつけてくる。頭
がどうにかなりそうだった。
蔵人は流れ落ちた汗で前髪をべっとり額に貼りつけながら、激し
くあえいだ。邪竜王は身体を傾けると、その長い首を地面スレスレ
785
に伸ばして大きく口を開けた。
鋭い牙が目前に迫る。
蔵人は斜め前に飛び跳ねると、間一髪、目の前でガチっと牙と牙
が噛み合わされる音を聞き背筋を凍らせた。
﹁伏せろ、クランド!!﹂
声に反応し、咄嗟に低くかがみこむ。頭上の空気を割って槍が飛
来した。
肉を穿つ太い轟音が腹にまで響いた。
ホーリーランス
続けて邪竜王の絶叫が一際高く上がった。
アルテミシアの投擲した聖女の槍が邪竜王の左目を深々と刺し貫
いたのだった。槍を投げ終わった彼女は甲冑を擦りあわせる音とい
っしょに駆け寄ってくる。
主をようやく見つけた犬のようだ。
﹁鱗は丈夫でも露出している部分はそうでもないようだったな﹂
蔵人は痛みに耐えかねて天に舞い上がった邪竜王を見上げながら
つぶやいた。
目の前のアルテミシアが白く整った顔を寄せた。
燃え上がったような厳しい表情をしていた。
﹁おまえをひとりで死なせはしない﹂
﹁はあ?﹂
﹁おまえが死んだら私も死んでやる!!﹂
アルテミシアは激して叫ぶと、短剣を自分の首筋に当てた。白い
喉の薄皮が切れて、つぅと糸のような血がわずかに流れた。
﹁だああああっ、いまはンなことしてる場合じゃねぇんだよ! そ
れに、俺は死ぬつもりは毛頭ねえ。だから、おまえもどんなことが
あっても死ぬんじゃねえ、約束しろや!﹂
﹁本当か﹂
﹁押し問答している暇はない、支援魔術を頼む。出来るな! 役に
立ちそうなのは片っ端からかけてくれや!﹂
﹁ああ、それは可能だが。これだけは覚えておいてくれ﹂
786
﹁んんだよ! ああ、竜が降りてくるぞ!! さっさとしてくれ!﹂
﹁おまえが死んだら、私は尼になる﹂
﹁僧兵のおまえがいいますか!﹂
天に駆け上がった邪竜王ヴリトラは幾何級数的にスピードを増し
て蔵人目掛けて舞い降りてくる。大気を割って圧倒的な質量が飛来
した。
周囲に殺気が横溢した。
プロテクト
ストレングス
ラピッド
真っ赤な弾丸となった邪竜王は、ちょこまか動く獲物に業を煮や
エンチャント
したのか一気にケリをつけるつもりである。
シークエンス・マジック
﹁魔力付与硬化! 守護の楯! 強化魔術! 疾風の靴!﹂
アルテミシアの口から流れるように連続魔術が解き放たれた。魔
力の奔流が渦となって蔵人の全身を覆い尽くした。
武器強化、物理防御強化、腕力強化、速度強化の四重がけである。
魔術師ではないアルテミシアにとっては元々不可能に近い離れ業
だった。
彼女の長身が崩れ落ちそうになった。
残った力を費やして懸命にその場から離れる。
︱︱賽は虚空に投げられたのだ。
耳が痛くなるような轟音。
蔵人は自分に向かって吐き出された火球を身をひねって次々とか
わした。業火の連弾はナパーム弾のように地上を焼き尽くして辺り
を昼間のように照らし出した。ぬかるんだ大地が灼熱の温度でいっ
せいに乾ききった。
蔵人は全身の筋肉をねじ切るようにして反転すると、魔術の力を
借りた異常なスピードで剣を竜の首筋に叩きつけた。があん、と鉄
の砕ける音が響いた。グレートソードは半ばを残してへし折れると、
回転しながら虚空を舞った。
全身が総毛立った。
死神が鋭い鎌を振り下ろすイメージ。
残った刀身ごと大剣を放り出そうと指先をわずかにゆるめた瞬間、
787
あぎと
邪竜王の顎が目前に迫る。
強い衝撃と共に蔵人は自分が呑みこまれていく音を確かに聞いた。
世界が暗転した。
脳みそがふやけてゼリー状になったような気分だった。
蔵人は竜に呑みこまれて自分の身体が念入りに咀嚼される音を、
どこか人ごとのように聞いていた。幸いなことに痛みはなかった。
酒を多量に摂取して意識がほどけていく感覚に似ていた。元々が竜
に勝てるスペックなど持ち合わせていなかった。
そもそも、どうしてこの世界に呼び出されたのだろうか。自分が
大学生だった頃の記憶が、まるで嘘のように思えてならなかった。
この世界で経験したことがあまりにインパクトが強すぎて、それ以
前の雑多なものをすべて薄めてしまうのだ。うひひ、と笑ってみる
が、別段楽しい気持ちにならなかった。なんて無様な終わり方だ。
これで、こんな人生でよかったのだろうか。
︵よくありません!︶
女の声が聞こえた。幻聴だろうか。蔵人は脳内に直接響いてくる
声の主を探そうとしたが、五体の感覚すらあやふやな状態を思いだ
し、早々にあきらめた。
︵いきなりあきらめてはなりません!︶
いや、だから俺の幻聴だろう。
それにしても、どこかで聞いたような声だな。
︵だから、私ですよ勇者さま! 私です、オクタヴィアです︶
知らん。
あんたいったい誰なんだよ。
完全にダウトだった。
788
︵勇者さまを呼び出したオクタヴィア・フォン・ロムレスです! 思い出してくださいっ︶
ああ、そういえば、うん。
だんだん、思い出してきたような。
⋮⋮思い出したぞ、あのおっぱい!
︵ち、ち、乳房のことは忘れてくださいなっ、もおおっ︶
まあ、死後の世界だから誰が出てきても別段不思議はないか。
ついに俺は夜空の星になったのだ。
︵死んでませんよ、もう! 勇者さまの生命に真の危機が迫ったの
で、ようやく私とのリンクをつなげることができたのです︶
え、んじゃあ俺の人生はまだ続行?
︵だんぜん続行中です。えっへん︶
んんん、なんかガキっぽいんだけど。俺のお姫さまイメージが崩
れちゃうなぁ。
ま、いいか。にしても、こうして会話できるなら最初からいろい
ろコンタクト取ってくれてもよかったんじゃないのかよ。
蔵人が愚痴ると、音声オンリーのオクタヴィアボイスがうっ、と
つまった。
︵不完全な召喚で勇者さまの位置が上手くつかめなくなっていたの
です。勇者さまの回復力は基本私から流れてますから。今回、生死
の淵をさまようほどの傷を受けて、それを治すために魔力の放出量
が格段に上がったので、ようやくラインを正確にたぐることができ
たのです。それに、私が探知魔術を行使出来ないように、王宮魔導
師のマリンがずぅーっと見張っていたんですよ。もっともマリンは
現在、体調を崩して自宅に戻っているのでしばらくの間はこうして
ときどきお話だけはできますので。それで、その。あのあの、その
節は助けていただいてありがとうございました。本当は、直々に会
ってお礼をいいたかったのですが。そういえば、ヴィクトワールを
迎えに行かせたのですが、お会いにはなられておりませんの?︶
ヴィクトワールという名前を思い出そうとするが、蔵人のしぼん
789
だ脳は即座にその人物を思い出すことができなかった。
いや、誰も来ないぞ。
︵こちらの手違いで投獄された勇者さまをお迎えに行かせて以来ヴ
ィーは戻ってこないのですが。ごいっしょではないのですか?︶
いや、知らん。
︵どうしたのでしょうか。心配です、おろおろ︶
というか、こんな話ししてる場合じゃないんだけどな。
︵だいじょうぶですよ。私とパスがつながっている限り勇者さまは
不死身です。いまから、任意的に私の魔力を一気に送りますので。
そうすれば、傷ついた身体はあっという間に修復できますから! 随分と危険な目におあいになられているみたいですが、最後まであ
きらめないでください。どんな苦難にあっても、あなたが負けるハ
ズはありません。だって、あなたは私が呼び出した勇者さまなんで
すから!︶
そのせいでいま、エライ目にあってるけどな。
︵⋮⋮そのことに関しては、お会いしたときにお詫びいたしますか
ら。オクタヴィアはいつでも勇者さまの勝利を願っております。で
は、お元気で!︶
お元気で、じゃねえ!
おい、ちょっ、待っ︱︱。
蔵人の全身に力が戻り、世界が再び光を取り戻した。
アルテミシアは、愛する男が目の前の巨大な竜に咀嚼されるのを
目撃して、その場にへたりこんだ。
﹁あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!﹂
自分のものとは思えないような濁った絶叫が周囲に響き渡った。
790
もはや反撃する気力も起きなかった。邪竜王ヴリトラは蔵人の身
体を頑丈な顎で何度も咀嚼すると喉を鳴らしてその残骸を飲み干し
た。骨と肉を粉々に砕き続ける音が耳元にへばりついてはなれない。
アルテミシアは自分の両頬に爪を立てて一気に掻きむしった。雪
のような白い柔肌に幾本もの朱色の筋がすっと走った。
竜の赤く長い喉元が、人間の形に隆起しながら蠢いている。バラ
バラの肉塊になった蔵人の身体は、ひとかたまりになって食道を滑
り落ちて胃の腑に収められた。
瞳が固定したまま凍ったようだった。焼け付くような感情がアル
テミシアの毛先一本一本まで瞬間的に支配した。
﹁よぐも、よぐもおおおっ、わだぢのぐらんどぉおおおっ!!﹂
アルテミシアは視界を真っ赤に焦がしながら号泣した。
喚きながら両手を駄々っ子のように地面に打ち付ける。
悔しいという感情で全身が張り裂けそうだ。
頬を伝う涙が乾いた地面に次々と吸いこまれていった。
それから、突如としてドス黒い負の感情が湧き上がってくる。
失せていた力がみなぎった。
身体中の血潮が炎のように燃え盛っていくのを感じた。
﹁許さん、許さんぞおぉおお! 殺してやる、殺してやるからなぁ
ああっ!!﹂
アルテミシアの表情からは完全に人間らしさがかき消えていた。
やわらかな目元は夜叉のように激しく釣り上がり、噛み締めた歯の
根がギリギリと軋んだ音を立てた。
彼女の瞳。
それは、目の前で我が子を殺された野獣のように純粋な殺意で満
たされていた。
アルテミシアが感情に突き動かされたまま、最後の武器である腰
の短剣を引き抜いたときに、変化は生じた。
最後のメインデッシュをたいらげて、半ば恍惚の表情を浮かべて
いた邪竜王が苦しげな声を上げだしたのだった。巨躯の怪物は短い
791
手足を無茶苦茶に振り回しながら身をよじっている。時折、口から
漏れる不完全な炎の吐息が音を立てて不格好に虚空を焦がした。
﹁どうしたんだ、いったい﹂
殺意を削がれた格好になったアルテミシアは、短剣を持ったまま
呆然とその場に立ったまま事の推移を見守っていた。
邪竜王は苦悶の表情でついには、どう、と轟音を上げて大地にの
けぞると腹ばいになって、ひときわ高く叫んだ。
邪龍王はうつ伏せになったまま、巨大な翼を無為に動かすと、つ
いには長い首を天に向かって高々と伸ばした。
竜の首筋。
目を凝らしてみると、一点に裂け目が生じていた。
﹁ま、さか﹂
そのまさかであった。
竜の喉元の一部の裂け目はみるみるうちに大きく広がると、鋭い
刃の切っ先を覗かせた。
キラリと白い刀身が周囲を焦がす炎を反射して妖しく輝いた。
﹁うそ、うそ﹂
アルテミシアは両手で自分の口元を覆うと、大粒の涙をこぼしな
がら、その奇跡を瞬きもせずにじっと見つめた。
竜の喉元の裂け目から青黒い独特の血液がザッと流れ出した。
︱︱同時に、ひとりの男が体液と共に裂け目から地上へと転がり
出た。
﹁クランド!!﹂
それは、竜の牙で粉々に噛み砕かれ完全に死んだと思われていた、
志門蔵人の姿だった。
792
蔵人は長剣白鷺で邪竜王ヴリトラのもっとも皮膚の薄い部分。す
なわち喉元の部分を掻き切ってようやく現世に生還を果たしたのだ
った。
﹁無事だったのか、無事だったのかクランド!!﹂
駆け寄ってくるアルテミシアの姿に目を転ずると、長剣とは別に
持っていた奥の手を放り投げた。黒い円錐状の物体は、軽い音を鳴
らして地上を転がると、彼女の足元で止まった。
﹁これは、ワイバーンのっ!﹂
﹁そうさ。やつの毒針だ。そいつで、ヴリトラのハラワタん中を引
っ掻き回してやったのさ﹂
いうが早いか、蔵人は外套の前を割って長剣白鷺を引き抜くと邪
竜王の背中に向かって一直線に駆け出した。
うなりを上げて迫り来る竜の尾の一撃を跳躍してかわした。
紅の鱗がかすれあって軋んだ音を立てる背中に飛び乗ると後頭部
を目指して一気に駆け上がった。
ワイバーンの毒が内臓から全身にまわりつつあるのか、ヴリトラ
が身体をよじって苦悶するたびに、蔵人は刃のように尖った鱗にし
がみつかなければならなかった。足場の悪い竜の背に乗って、決死
のロデオがはじまった。
ずりずりと腹をこすりつけながら移動する。衣服が破れて、胸元
から下半身までがおろしがねですり下ろされたようにズタズタにな
った。
そうしてようやく、二本の角が見える後頭部の際にまでたどり着
いた。
長時間はもたない。
そう判断して、剣を持った右腕を振り上げた。
だが、振り下ろす前に一瞬躊躇した。
白鷺はあくまで対人用の武器であり、竜を殺すための耐久力は持
ちあわせてはいない。
勝機は一度だけだろう。迅速さの上にも狙いは一部の隙もない的
793
確さが要求された。
﹁アルテミシア! こいつの弱点はなにかねぇのか! まともにや
ったってウロコが硬すぎて剣が利かねえ!﹂
﹁伝説によれば、赤竜の首筋には一枚だけ違うウロコが存在してい
るはずだ! そこを狙うんだ!!﹂
お互いの声が交錯した瞬間に、ヴリトラは苦しみに耐え兼ねたの
か、地上を蹴って天に向かって舞い上がった。巨大な両翼が強く羽
ばたいて、一気に高度が上昇する。
無論、急速に高度が上がれば、酸素濃度や気温が一気に低下する。
モンスターの中でも最強の耐久度を誇る竜種ならばともかく、蔵人
きざはし
の身体がどこまで耐え切れるかは甚だ疑問だった。
ならば、決着を急ごう。
風を切って邪竜王が天の階を駆け上がっていく。
蔵人の全身は冷たく凍りつき、流れた血潮はみるみるうちに凝固
した。
舌を出して野良犬のようにあえぐ。肺の中から根こそぎ酸素が奪
われていく。
剣を持った手から感触が失われていく。
冴え冴えとした月光の光に目を細めながら託された短剣を投げつ
けた。
ひょうと、夜気を切って銀の光が走った。短剣は狙いたがわず、
残ったヴリトラの右目を突き刺すと完全に視界を封じた。
ぐらりと、ヴリトラの身体は浮力をなくして真っ逆さまに下降を
はじめた。
浮遊感の中で、蔵人は眼を凝らし続け、ようやく一枚だけ明らか
に差異のある半紙大の竜鱗を探り出した。
﹁フィリッポの供養だ、テメェの首は頂いてくぜ!!﹂
蔵人は満身の力を込め、急所目がけて長剣を振り下ろした。
鋼の砕ける音と共に、白鷺の刀身の半ばが砕け散った。
透明感の高い音がして、半紙大の逆さ鱗は真っぷたつになった。
794
埋まった刃の切っ先を叩き込むようにして、欠けた残りの刀身を
全力で押し込んだ。
真っ赤な胴体が火を噴いて燃え上がる。赤竜の特異性である、炎
を創り出す元となっていた引火性ガスを製造する体内器官が傷によ
る体温の急上昇でオーバーヒートしたのだ。
苦悶の絶叫が天に轟いた。
﹁見えたか。そいつが三途の川だ! 邪竜王!!﹂
ズブズブと肉を割りながら長剣は進むと、ツバ元まで埋まると固
着した。
赤竜は雄叫びを上げて全身を強く震わせる。蔵人は両手で剣を握
ったまま虚空に身を躍らせながら必死にしがみついた。
﹁それにしても﹂
つくづく自分はついていない。
昨日と今日、そしていまで都合三度も三途の川を渡るハメになる
とは。
誰かがいっていた。
人は死ぬと天に召されて星になると。
冗談じゃない。
頭上で瞬く星々など願い下げだ。
もし、今度生まれ変わるとしたら、地を這う虫で充分だ。
踏みつけにされる人生でも構わない。
なにもできずに瞬くだけの据え物よりも、泥にまみれてあえぐ虫
けらのほうが生きてるって思えるだろ。
真紅に輝く流星となって、巨大な肉塊は地上へと墜落した。
ここに至って民衆を恐怖に陥れていた邪竜王ヴリトラの伝説は終
焉を遂げた。
795
アルテミシア率いる残存部隊の捜索は三日後に竜の遺体らしきも
のを発見した。
彼女たちは、邪竜王が流れ落ちた方角に向かって険阻な山道を踏
破し、その骸を前にして目を見張った。
深い谷底に横たわるヴリトラの身体は完全に炭化していた。数人
の男たちが証拠として首を切り取る作業に従事していた。
﹁すげえ、こんなものをやったっていうのかよ、副隊長は﹂
﹁人間業じゃねえや。これで、名実ともに黄金の狼の名はロムレス
全土に響き渡ったってことか﹂
﹁身震いがするぜ。この俺もその一員ていうと、街の女たちが放っ
ておかねえぜ!﹂
﹁ったく、調子のいい野郎だぜ。おまえなんかはただ逃げまわって
いただけだろ﹂
﹁なんにせよ、アルテミシア副隊長、いや聖女アルテミシアさまの
名は伝説に残るぜ﹂
﹁ああ、竜を単独で撃破したってんだからな! 俺は心底誇りに思
うよ。副隊長のことをよ!!﹂
男たちは軽口を叩き合い、沢のあちこちを懸命に歩きまわるアル
テミシアを尊敬の眼差しで見つめていた。
一方、アルテミシアは金色の髪を振り乱しながら、小川の流れを
ものともせずに、周囲を血眼になって探していた。
︵絶対に生きている。だって、約束したんだからっ!︶
色を失ったくちびるでひとりごとをつぶやく彼女の耳に男たちの
ざわめきが飛びこんできた。
﹁おおおーい! ここに、なにか落ちてるぞ!﹂
﹁なんだぁ? こりゃ、鞘か﹂
アルテミシアは人垣を割って騒ぎの中心部に駆け寄った。
川岸の流れが澱んだ場所にそれはひっそりと佇んでいた。
白金造りの鞘は流れに洗われたのか表面はぴかぴかに陽光を移し
796
て輝いていた。
細かい流木に絡まって、上手い具合に斜めに立った鞘はまるで墓
標のように厳かだった。
﹁あ、あ、あああっ﹂
アルテミシアは腰まで浸かる川の水を切って進むと、両手を広げ
て鞘をしっかりと両胸に強く抱きしめた。
全身が瘧にかかったように強く痙攣する。
涙をあふれさせながら、鋭く息を吐きだした。
﹁死なないって約束したじゃないか!!﹂
聞く人の胸を打つ、悲痛な哀切の叫びが、冷たい風の吹きすさぶ
夏の谷底を響き渡った。
の副官アルテミシア・デュ・ベルクールの手により討
アンドリュー伯領地記録簿によると、邪竜王ヴリトラは、クラン
黄金の狼
たれり、とある。
記録の中に他の名は残されていない。
797
Lv51﹁決戦奴隷市﹂
奴隷市の会場はむせかえるような熱気につつまれていた。
シルバーヴィラゴの最南端のとある会場には、今日という日を待
ち望んだ五千余の男たちが集結していた。
汗水垂らして乏しい銅貨をかき集めた日雇い労働者や冒険者、商
売の買いつけのために近隣の店から派遣された奴隷仲買人、娼館の
女衒、小金持ちの商店主、下男下女として労働用に大量購入を命じ
られた貴族の執事、果ては身分を隠して自ら買い付けに来たやんご
となき身分の紳士などが、目を血走らせて場内中央部の壇上に上が
る商品へと視線を凝らしていた。
いかにも力仕事に向きそうな亜人の男たちが並べられると途端に
競りがはじまった。
工人ギルドの一派が安価で使い勝手のいい労働力を求めて片っ端
から競り落としていく。
あらかじめに自分たちで談合が済んでいたのか、たいした問題も
なく最初の競りは終了した。
値を付けられた亜人たちが控えの部屋に連れていかれると、それ
ぞれ身体の一部に購入主のギルドマークや家紋が焼印で印されて粛
々と引き渡されていった。
﹁おい、次だぜ次﹂
﹁俺ァこの日のために賭け事も酒も控えてきたんだっ! 絶対掘り
出し物を落としてみせるからなっ!﹂
﹁オイラだって今日という日を待ち望んでたんだっ! 早くしてく
れよう!﹂
798
ざわめきは、徐々に大きくなり、異様な熱波は会場に伝播してい
く。
彼らがもっとも欲していたのはやはり、若く美しい女奴隷であっ
た。
この日のために全身を磨き上げられた女たちは、布切れ一枚まと
わぬ姿で壇上に引き出されると、その首に番号札を下げながら一列
に並ばされた。
灯火に照らし出された雪のように白い肌、大きく張り出した胸、
ツンと突き出した一点のシミもない尻を目にした途端、男たちはな
にかの約束事をかわしていたかのように、シンと静まりかえった。
司会進行の奴隷組合の委員が、女奴隷の年齢と名前、簡単な経歴
を紹介していく。
女たちは、調教された通りに少しでも良い買い手がつくよう願っ
て媚びた笑みを精一杯浮かべていた。
司会は全員の紹介を終えると、それぞれの商品に傷や性病がない
かどうかを証明させるため一人づつ淫靡な格好をさせた。女奴隷は
壇上から突き出したもっとも客の目の行き届くシマと呼ばれる部分
に移動すると、自ら放恣かつ淫らな姿勢を取ってみせた。
すべての儀式が済むと司会の男がひとりづつ競りを開始するため、
オークション・ハンマーを木の台座に打ち付ける。
瞬時に会場は怒号の坩堝と化した。
開始価格を告げた瞬間、男たちは自分の金の許す限りで狂ったよ
うに値を釣り上げていく。
シルバーヴィラゴの大奴隷市は王国一の高品質を保っている。
すなわち、かなり安価でも若く美しい女奴隷を購入できるのであ
る。
この年一回夏の終わりに行なわれるオークションを狙って各地か
らそれ自体を見物に来る客もおり、これに商品を出せば必ずすべて
はけた。
一個の人間を銭で贖うという背徳的な行為に人々は狂奔し、持て
799
る限りの財産をぶちこんで女奴隷を買い漁る。若くて美しい奴隷は、
古女房のように口うるさい意見をいわずに、ただただ主には誠心誠
意尽くした。
彼女たちのほとんどは僻地の農村で買い集められたものが占めて
おり、例え奴隷の身分であれ大都市近郊の人間に買われれば一生食
いっぱぐれがないことを知っていた。それほど、この世界における
農村の貧しさは極まっていた。
とにかく食えないのである。
農家の娘は農家に嫁ぐ。
だが、そこにあるのは都市部の人間には考えられないほど、甘さ
など微塵もない生活だった。農家は基本的に十人を超す大家族があ
たりまえで、嫁いだ日から牛馬のごとくその家で扱われた。
朝、日の出前から起きだして労働を行い、夜は日が沈むと同時に
あばら家同然の場所に戻って、常に姑や小姑に見張られながら生活
を行った。
部屋割りなどない農家では夫婦の営みですら家畜並みの単純さだ
った。
とある王都の騎士が野良仕事に励む老婆に声をかけて年を聞くと、
彼女の年齢はたった十六だったという笑えない逸話も残っている。
日々の過酷な労働と、休みなく続く畑仕事で太陽の光に焼かれ続け、
十六の娘ざかりの年でもそれだけのシワとシミ焼けが顔にまで刻み
こまれたのである。
この奴隷市で、小商いを行う中年男性に買われた女奴隷は、その
日の内にサラの着替えを渡され、至極一般的な食事を三度三度与え
られたときに、自分はおとぎ話に出てくるお姫さまになった気がし
たという感想を家人に漏らしたという話がある。
残飯以下の、しかもそれですら腹に入らないことがあった農村の
生活に比べれば、都市部の女奴隷の生活は天国に近かった。
こうなれば、女奴隷の方も主に心底尽くそうとするし、そうなれ
ば主はますます女奴隷をかわいがる。こういう天国の生活を味わっ
800
た女奴隷は故郷の妹をすべて呼び集め、都合姉妹六人の女奴隷を飼
うハメになった主も居た。
一方、性的倒錯によって安易に女奴隷を虐待し、自分の異常性癖
を満足させる男たちも多々存在した。購入先によっては、天国にも
地獄にも変わる奴隷市において常に売られる側の人間の幸福は貨幣
によって握られていたのだった。
数千人を収容するメイン会場から離れた地下の特別室には、三十
人ほどが入れる小部屋が存在した。この部屋は、大会場のように誰
でも入れる場所ではなく、一部の顧客や奴隷商会組合の口利きがな
ければ入場できない、極めて特別な貴賓用のものである。
小部屋にしつらえた豪奢な椅子に座る男たちは、それぞれが風格
のある上流階級の人々で占められていた。ここは、シャイロックが
手塩にかけた高級奴隷を競りにかける特別室であった。
ほぼ年配の紳士たちで占められる一角に、その少年の姿はあった。
やわらかな金の巻き毛と貴公子然とした風貌。その灰色の目は、
ウェアウルフ
異様な熱気を孕んだまま、オークションがはじまるのをじっと待ち
続けていた。
ハイダル・バーナーである。
一方、オークションの控え室では戦狼族の亜人で、冷たい美貌を
たたえた少女ポルディナが売主であるシャイロックと番頭のアント
ンに囲まれて微動だにせず椅子に腰掛けていた。
宙を見つめる瞳は虚ろだった。
冷たく引き締まった美貌はあらゆるものを寄せ付けないように凍
りついていた。
感情が完全に死んでいる。
近寄って声をかけてもほとんど表情は動かない。
主のシャイロックが声をかければ返答はするが、その声は鉄のよ
うに無機質だった。
﹁それにしても、ブラッドリー卿の到着が遅いのが気になる﹂
シャイロックはポルディナがハイダル・バーナーという性的倒錯
801
者の手に落ちないように可能なまでに配慮したが、領主の一族とし
て権利をゴリ押しする彼を完全に排除することはできなかった。
窮余の一策として、知人である貴族のブラッドリー卿にポルディ
ナの落札を頼むことにより彼女の身の安全を確保することにしたの
だが、予定の時間になってもいまだ到着しないことが不自然だった。
﹁よもや、なにか不慮の事故にでも。あるいは⋮⋮﹂
シャイロック商会の番頭であるアントンが、ハイダルの凶行を案
じた。即座にシャイロックは言を重ねて否定する。
﹁いくらなんでもありえない。ブラッドリー侯爵は王族にあたる。
よもや、ハイダルがそこまで血迷うはずもなかろうて﹂
﹁けれども会頭。そうなると、おそらく競りはハイダル坊主の一人
勝ちになってしまいますよ。今日の顔ぶれを見れば、位は高くても
ほとんどが冷や飯食いか金がなくて暇を持て余したご隠居ばかりで
すよ﹂
ポルディナは、シャイロックとアントンの会話を聞きながら、ぼ
んやりとひとりの男を思っていた。
︵やっぱり、来なかった⋮⋮︶
自分はどこかであの男に期待していたのだ。
それはありえない希望だった。
︵私は甘ったれている⋮⋮︶
もはや定まった運命を変えることはできない。そんなことは起こ
らないと知っているのに、いまだ小娘の思い描くような感情に縛ら
れ続けている。
あの男はやさしい人間かもしれぬが到底自分を買い上げる金を作
り出すことはできないだろう。奴隷である自分に謝ったり、慰めよ
うと小舟を編んで川に浮かべてみたりと不思議な男だった。
︵いい夢だった︶
あの男は美しいシスターといい仲らしい。あの雨の日に付き従っ
て献身的に介護していた彼女は品格や物腰といい、上流階級の産だ
ろう。無理をして大金を作らなくても、すぐそばに男を想う女性が
802
いる。かわいそうだと同情しても、それだけのために人は命を掛け
ることなどできない。
知っていたはずなのに、未練がましく引きずっている。
それでもポルディナは、あの自分を慰めようとしてくれた男が、
他の誰かに寄り添って歩く光景を想像すると、胸が強く軋んだ。
﹁⋮⋮これ以上は遅らせることはできぬ。ブラッドリー卿が時間内
に間に合うよう祈るしかない﹂
﹁もし間に合わないってなると、あの若造もとんだ死に損︱︱﹂
気づけばポルディナは椅子から立ち上がっていた。目の前のアン
トン。しまったという苦虫を噛み潰した表情で固まっている。
自然と耳が激しく蠢いた。
目の前の男はいま、なんといったのだろう。
聞き捨てならないことを、あってはならないことを聞いたような
気がする。
シャイロックに視線を向けると、深いシワの刻まれた顔が奇妙に
歪んだ。胸が急速激しく、強く打ち鳴らされている。
﹁いま、なんと、なんとおっしゃいました﹂
アントンが目を背けた。ポルディナは詰め寄るようにシャイロッ
クに歩み寄ると、彼の瞳をジッと見つめた。口ひげがわずかに震え
るのが見えた。
﹁隠しても仕方がない。こんなことは知っても意味がないような気
がする。それでも、聞きたいか﹂
﹁私は、それを、知らなければなりません﹂
﹁そうか。ならばはっきりいおう。クランドさんはおまえを買い取
るために金を作ろうとして、無理なクエストに挑んだ﹂
嘘だ。
﹁相手は邪竜王ヴリトラ。結果は︱︱﹂
嘘であってほしい。
﹁敗れたそうだ﹂
そんなのは、嘘でなければ、あまりにも救いがなさすぎる。
803
ポルディナはそのあと、自分がどのように立ち上がってオークシ
ョンの壇上にたどり着いたのか記憶になかった。
会場の男たちは、ポルディナの憂いを帯びた瞳とその優れた容姿
を目にした途端、俄然に色めき立った。
﹁なんという、美しい亜人の少女だ﹂
﹁これが、シャイロック商会の隠し球かね﹂
﹁いやいや、私も年甲斐もなく興奮してきましたよ﹂
﹁これは冷やかしを決め込んでいる場合じゃありませんねえ﹂
ポンドル
競りの対象はポルディナひとりである。司会進行の男が開始入札
金額の百万Pを厳かに告げると、限定オークションは開始された。
﹁百十万!﹂
﹁百二十万!﹂
﹁百三十五万!﹂
﹁百四十!﹂
﹁百四十一万!﹂
﹁百五十万!﹂
﹁百五十一万!﹂
三十人の男が次々と声を枯らして落札価格を釣り上げていく。
だが、予想を反したことにハイダルは席に深く背を沈みこませた
まま、目をつむっている。会場の熱気はとびかう声が高まるにつれ
異様な殺気を帯びていった。
﹁百六十万!﹂
﹁百六十五万!﹂
﹁百六十六万!!﹂
﹁百七十万!﹂
﹁百八十万!﹂
﹁百八十一万!﹂
﹁二百万!﹂
﹁二百一万!!﹂
﹁誰だよ、さっきっから一万ずつセコイ上乗せしてるヤツは!﹂
804
﹁わたしです﹂
﹁わたしです、じゃねーボケがっ! 貧乏人はすっこんでろ!﹂
﹁てめーこそくだらねーことに銭使ってんじゃねえ!!﹂
﹁やんのか、あああン!?﹂
﹁そこの方々ご静粛に。強制退場させますよ﹂
ポルディナの豊満な身体の魅力に取り憑かれた男たちは、舌打ち
をしながらそれぞれの席に戻った。再びオークションがはじまると、
ハイダルが動いた。
﹁三百万﹂
ポンドル
﹁さ、さんびゃく⋮⋮三百十万!﹂
﹁三百二十万!﹂
﹁三百二十一万!﹂
﹁三百三十万!﹂
﹁三百四十万!﹂
﹁四百万﹂
ポンドル
ハイダルが四百万Pを告げると、辺りがざわめきだした。
四百万Pとは日本円で約四千万円ほどである。
ウェアウルフ
到底、一介の奴隷に払う金額ではなかった。
また、希少価値の高い戦狼族とはいえ、獣人である。 これは充分に異常な額だといえた。
﹁おい、さすがにもう、これ以上はないだろ﹂
﹁ああ。あの若い貴族がハイダル・バーナー卿か﹂
﹁ご領主の一族か。彼と無理に張りあってもなあ。あとが怖いぜ﹂
会場に一種、弛緩した空気が流れた。こうなると競りが盛り上が
らなくなるのは当然である。ハイダルは、灰色がかった瞳をポルデ
ィナに向けると頬を紅潮させた。
﹁ああ、愛しのポルディナ。もうすぐ、君は僕のものになるよ﹂
﹁四百万、四百万です! ありませんか! なければ︱︱﹂
﹁四百一万!﹂
司会の男が木台にオークション・ハンマーを打ち下ろそうとした
805
ときを見計らって先ほどの一万男がみみっちく競り上げた。
一万男はよほどポルディナに未練が残るのか、必死の形相でハイ
ダルをにらんでいた。ハイダルは一万男の呪詛を孕んだ視線を軽く
受け流すと、よく通る声で価格を競り上げる。
﹁四百十万﹂
﹁四百十一万!﹂
﹁四百二十万﹂
﹁四百二十一万!﹂
﹁四百五十万!﹂
﹁四百五十一万!!﹂
﹁四百六十万!﹂
一万男は顔全体にびっしり汗をかくと、不健康に突き出た腹をさ
ポンドル
すりながら、ふうふうと荒い息をついた。
﹁バーナー卿、四百六十万P! もう、ありませんか!!﹂
一万男は、ぶひぃと鳴くと、視線を辺りにさまよわせて顔を伏せ
た。ハイダルの顔に勝利の微笑みがくっきり浮かぶ。勝敗は決した
かに見えた。
﹁四百七十万!!﹂
荒々しい声が扉の開く轟音と共に、室内を木霊した。
ポルディナは入ってきた人物に視線を転じると、椅子を蹴るよう
にして立ち上がった。
ひくっ、と喉が痙攣して口から言葉が出ない。
男の姿はまるでボロ雑巾を煮染めたような姿だった。上半身を覆
っている外套はあちこちが焼け焦げて炭化している。空いた穴の裂
け目から、どれだけの激闘を行っていたのかがうかがい知れた。右
顔面は薄汚れた包帯が乱雑に巻かれている。傷口が治りきっていな
いのか、じくじくした赤茶けた体液が染み出し目を覆いたくなるほ
ど凄絶だった。右足を動かすたびにびっこを引いている。重たげな
革袋をしょっており、一歩進むごとにじゃりじゃりと貨幣が擦れ合
う音が聞こえた。
806
﹁四百七十万。どうしたんだ、まさか俺の声が聞こえないわけじゃ
ないだろうな﹂
突然の侵入者に会場が騒然となった。無理もない。男の姿は、街
をうろつく浮浪者よりもひどいものだった。
﹁なんだ、あの男は。来る場所を間違えているのがわからないのか﹂
﹁ひどい格好だ。それにあの傷。癈兵院だってあんなキズモノは中
々見受けられないぞ﹂
﹁警備の者はなにをしてるんだ﹂
﹁大方、安い一般会場から迷いこんだのでしょうな。ときどきこう
いう手合いがおりましてね﹂
口々に場違いを罵る声が沸き起こる。
狼狽した司会の男が、組合の重鎮であるシャイロックを困ったよ
うに見つめた。
﹁構いません。続けなさい﹂
﹁え、でも︱︱﹂
﹁この私が続けなさいといったのです﹂
シャイロックが毅然たる口調で述べると、司会の男は背筋を伸ば
して声を張り上げる。
ハイダルが強く舌打ちをした。
﹁えー、それでは飛び入りの参加者からです。四百七十万です!﹂
﹁くっ、四百八十万!﹂
﹁四百九十﹂
ハイダルはいらただしげに競り上げると、男は感情を交えずその
上をいった。
﹁四百九十五﹂
﹁五百万だあああああっ!!﹂
大台の五百万。
くしくもシャイロックが予定した金額にいとも到達した。もはや
周りの人々は、このオークションがどこで決着するかに強い興味を
覚え、息を殺して謎の男とバーナー卿の一騎打ちを見守り続けた。
807
﹁五百十﹂
﹁五百二十!﹂
﹁五百三十﹂
﹁五百四十ぅううううっ!!﹂
﹁五百五十﹂
ハイダルの表情からは、おっとりとした雰囲気は掻き消えて剥き
出しの感情が飛び出していた。目をカッと見開いて、薄いくちびる
をわなわなと震わせている。
﹁若様、落ち着いて﹂
﹁うるさあぁいっ! なんなんだあ、いきなり出てきてなんなんだ
よおっ! 僕はいままで欲しいものはなんでも手に入れてきたんだ
ポンドル
ぁああっ! ポルディナは僕のものにするんだあああっ! 僕の玩
具に横から手を出すんじゃなああいっ!! 六百万Pだああっ! どうだああああっ! まいったああ、といえよおおおおっ!!﹂
ハイダルの狂ったような雄叫びが響き渡った。男は頭をボリボリ
かくと押し黙った。
その身振りを負けを認めたと見たのか、司会の男がオークション・
ハンマーを振りおろそうと高々と頭上に掲げた。髪を乱して肩で荒
く息をつくハイダルの口から、ひひひ、と下卑た声が漏れた。
﹁待った﹂
男は司会のハンマーを制すと、つかつかと壇上に歩み寄ると革袋
のひもをしゅるりと解いてつぶやいた。
﹁一千万﹂
﹁は?﹂
司会の男はその言葉を頭の中で噛み砕くのにいくらかの時間を要
した。それから、その言葉の意味を悟ると呆れ返ったように顔面を
ポンドル
引きつらせてもう一度訊ねた。
﹁あの、一千万って﹂
﹁ロムレス王国通貨で一千万P。まとめてこの場で、払ってやらあ
っ!!﹂
808
男が革袋の中身を逆さにすると、まばゆく光る金貨がざぁっと流
れ出た。
ポンドル
司会の男はのけぞって目を見開くと、そこは商売人、素早く落ち
ポンドル
た金貨を拾い集めて十枚ずつ積み上げた。
﹁まさしくこれは、十万P金貨で一二六枚。しめて千二百六十万P
あります。でも、こんな大金どうして﹂
﹁いやぁ、マジで売れるもんだな、逆さウロコってもんは。しかし
ドナテルロのオヤジもポンと即金で払うからにゃ、それ以上の価値
があるってことだ﹂
司会の男は、男のつぶやきを怪訝そうに見ていたがやがて気を取
ポンドル
り直すと、再び元の立ち位置に戻って周囲をぐるりと見渡した。
ポンドル
﹁一千万P出ました。もうありませんか? ︱︱それでは、落札者。
えーと、お名前を頂戴してよろしいですか﹂
ウェアウルフ
﹁クランドだ﹂
﹁それでは、戦狼族の女奴隷ポルディナは一千万Pでクランドさま
が落札しました!!﹂
司会の男がオークション・ハンマーを力強く木台に打ち付けると、
軽やかな勝利の音が鳴り響いた。この鮮やかな逆転劇に、室内の貴
族たちもその痛快さにわだかまりを忘れ、大きな歓声を上げて沸き
立った。
﹁ぞ、ぞんな、ぼ、僕が。この僕が敗れる? ありえないよ、こん
なの﹂
ハイダルは両膝を床について幽鬼のような表情で打ちひしがれた。
蔵人は敗者の横を足を引きずって通り抜け、呆然とした顔つきで突
っ立っているポルディナの前へ進み出た。
﹁超カッコイイ救世主﹂
﹁え﹂
﹁大どんでん返し﹂
﹁あ⋮⋮!!﹂
ポルディナの瞳が蔵人の視線と交錯した。彼女は、くしゃりと泣
809
き笑いのような顔になると頭上の耳をうしろに寝かせて感極まった
表情で全身を震わせた。
大粒の涙が盛り上がってくる。
蔵人は指先で彼女の目元を拭ってやると、長く力強い両手を伸ば
してぐいと抱き寄せた。
ポルディナの身体は大きな蔵人の胸にすっぽり収まるとそうする
のが当たり前のように彼女も腕をまわしてきた。
ポルディナがそっと目を伏せて細い顎を持ち上げる。
蔵人は彼女のくちびるにそっと自分のものを重ねてついばむよう
にキスをした。流れ出た彼女のあたたかい涙が頬にふれた。
﹁惚れますね、これは﹂
熱っぽい瞳でポルディナがつぶやいた瞬間、怒声が走った。
﹁ちきしょおおおっ!!﹂
抱き合ったままのふたりに向かって剣を抜いたハイダルが飛びこ
んできた。蔵人はポルディナを横抱きにしたままハイダルの腰を蹴
りつけると、後方に飛びすさった。周囲の人々が突然の凶行に怯え
て悲鳴を上げると、出口の扉を破壊しながら一体の巨人が姿をあら
わした。
サイクロプスのギーグである。
ギーグは抱きかかえていた男を部屋の中央部に放り投げると、興
奮しきった様子で咆吼した。
中央に投げ出された品格のある老紳士は首を奇妙に捻じ曲げなが
らすでに絶命していた。
﹁ブラッドリー卿!! バーナー卿、貴方正気ですか! いくら貴
方がアンドリュー伯の一族であるとしても王族をあやめれば死罪は
まぬがれませんぞ!!﹂
シャイロックが怒りを露わにして怒鳴ると、ハイダルは抜き身の
剣を肩に担ぎ、もはや狂人そのものの地金を見せていい放った。
﹁うるさいなあぁ、シャイロック! おまえが、このジジイをわざ
わざ呼び寄せて僕の邪魔をするってことは知っていたんだ。だっか
810
ら、わざわざ手下を放って形式だけでも僕が競り落とすようにして
穏便にことを進めようとしたのに、恥をかかせやがって。もおいい。
このまま、ポルディナはもらっていくよ。いいよね。反論は認めな
い。僕は名門アンドリュー伯の一族で、とうとぉい血筋の人間なん
だから、なにやっても許されるんだよ﹂
﹁そんな馬鹿なことが本当にできるとでも﹂
﹁できるさ。たださあ、このことを知ってる人間がいると困るんだ
よねえ。だから、全員この場で死んでよ。死んじゃってよ。それか
らさああああっ!! そこの薄汚いおまえっ!
おまえだけは、簡単に死なせてあげないからなっ! 僕のポルデ
ィナを汚したおまえはじっくり時間をかけて嬲り殺しにしてやるう
っ!﹂
ギーグと共に室内に侵入してきた男たちと元々室内にいた手下を
合わせた六人が、蔵人たちをいっせいに取り囲んだ。蔵人はポルデ
ィナをかばいながらジリジリと後退していく。
﹁参ったなあ、こりゃあ﹂
蔵人はなにげにピンチに陥っていた。実は先の戦いで邪竜王に白
鷺をへし折られてから代わりの得物を調達するのを忘れていたので
ある。
不意に、壁際で事態の推移を見守っていたひとりの男と目があっ
た。
それは、蔵人が到着する前にハイダルと競り合っていた一万男だ
った。
男は蔵人の背のポルディナに向けてキメ顔を作ると腰の差料を高
々と放り投げた。
剣は美しい放物線を描いて蔵人の手に見事収まった。
﹁なんだっ!﹂
﹁なにしてんだっ、この野郎!!﹂
﹁テメェから切り刻んでやろうかっ、激デブがっ!!﹂
男どもの罵倒を涼しい顔で受け流すと一万男は意外に美しいバリ
811
トンで歌うように叫んだ。
﹁クランド殿はか弱い婦女子を守る真の騎士とお見受けした。その
剣は我がバンクス家に伝わるロムレス三聖剣のひとつ、銘は黒獅子
! 存分に切り結ばれよ!!﹂
その剣はガッチリとした漆黒の鋼作りの鞘に納められていた。長
さは一メートルを優に超えている。そりのない直刀だ。すらりと抜
き放つと、刀身自体が黒水晶のように輝いている。見るものを引き
こまずにはいられない怪しいきらめきを宿していた。
﹁クーチぃいい!! できるだけ痛めつけてから屋敷に運ぶんだ!﹂
﹁若様のご命令だああっ、死ねやあああっ!!﹂
クーチは狂ったように叫ぶと真正面から突っこんできた。
蔵人は、傷ついた右足をかばうようにしてしゃがみこむと、黒獅
子を水平に振るった。
ごおっ、と強風が吹きすさぶ奇妙な轟音が響き渡った。蔵人の豪
腕によってすさまじい速さで振るわれた長剣は、突っこんできたク
ーチの胴を存分になぎ払うと、いとも簡単に上下に断ち割った。奇
妙な断末魔が爆発すると同時に、クーチは上半身ごと吹き飛んだ。
膨大な量の血液と内蔵を撒き散らしてクーチだったものは床を滑る
ように転がって壁の際に激突した。
﹁頼むぜ、オクタヴィア!!﹂
蔵人がそう叫ぶと全身が莫大な光量に包まれて掻き消えた。囲ん
でいた男たちは余りの眩しさに包囲を解いて距離をとる。
次の瞬間、蔵人は右足の怪我などなかったようにすっくとその場
に立ち上がると、左手で顔の包帯を引き裂いて駆け出した。
﹁あの日に限って魔力が送れないなんて、とんだ欠陥商品だな! リコールすんぞ!!﹂
﹁なにをいってやがるうううっ!!﹂
﹁ざけやがって!﹂
﹁ぶっ殺せ!﹂
蔵人はボロボロになった外套の前を割って、コウモリのように高
812
々と跳躍した。
激しく長剣を左右に振った。鋭い銀線が稲光のように走った。
男たちは蔵人が駆け抜けた瞬間、喉元を断ち割られて、血反吐を
吐き散らして絶命した。
いきなり仲間が切り伏せられたのを見て興奮したサイクロプスの
ギーグが蔵人に向かって床を踏み鳴らして突進してくる。三メート
ルは巨体であるが、すでに竜を撃破した蔵人からすれば普通の人間
とたいして変わらない大きさに見えた。
ギーグは電子音声に似た不快な声を響かせて巨大な手斧を振り回
している。
蔵人はうなりを上げる刃風を軽々とかわすと、低い姿勢の位置で
長剣を滑らせた。
銀線はギーグの膝頭を深々と断ち割ると流星のように走った。
巨体なだけにそれを支える足を破壊されればもう満足に立ってい
ることすらできない。
﹁テメェはただのデカブツだ!!﹂
蔵人は長剣を両手突きでギーグの腹に深々と突き刺した。
黒獅子の切っ先は、溶けたバターを割くようになんの抵抗もなく
巨人の身体を貫いた。
刀身の半分はギーグの背中から抜き出ると、刺した瞬間と同じぐ
らいのスピードで引き抜かれた。
ギーグは巨体を震わせながら、ゆっくりと前のめりに倒れこんで
くる。
蔵人は抜き取った刃を横殴りにギーグの顔面に叩きつけた。
ギーグは原型を止めないほど顔面を粉みじんに破壊されると、脳
漿を飛び散らせて床を朱に染めた。
ギーグが倒れるのを見た男が恐慌に陥って剣を無茶苦茶に振り回
しながら突進してくる。
蔵人は狙いすました長剣を一気に突き入れた。
銀線は男の無防備な心臓を刺し貫いた。
813
つば元まで埋まった長剣を引き抜く。
それから、隣で呆然としていた男の顔面に狙いを定めた。
長剣が虚空に半円を描いたかと思うと、ビシッと肉を叩き割る音
が激しく鳴った。
男の顔面へと斜めに真っ赤な直線が走るとそれは大きく太くなっ
た。
残りのひとりは武器を放り投げて土下座をして命乞いをする。蔵
人は表情を消したまま男の後頭部を情け容赦なく叩き割ると、血飛
沫でそれに応えた。
﹁馬鹿なぁ、馬鹿な。こんな結末があっていいものか。おまえは誰
なんだ、どうして僕の楽しみを邪魔するんだぁあっ! 僕はこれか
らもたくさんの奴隷を買いまくって、内蔵を引きずり出し、その顔
という顔が絶望に染まるのを楽しみたいだけなんだよおおおっ! おまえさえ、おまえさえ僕の目の前にあらわれなければ、僕の楽園
は永遠に続いたんだぁああっ!!﹂
﹁だからだ。俺は、おまえの楽園を終わらせに来たんだ﹂
ハイダルは慣れない手つきで剣を握り締めると憎悪に燃え滾った
表情で飛びこんできた。
蔵人は長剣を全力をこめて水平に振るった。銀線はハイダルの肩
口を深く断ち割った。
ハイダルは泣き声を上げながら子どものように床を這いずって泣
き叫んだ。
﹁いだああああっ!! なんっ、これっいだあいいいいいっ、いっ、
医者をぉおおっ!!﹂
﹁医者なんざ、ねぇんだ!﹂
蔵人は憤怒の表情でハイダルの前に立つと真っ向から剣を振り下
ろした。
﹁んぎいいっ!!﹂
ハイダルは顔面を真っ二つに両断されると潰れたカエルのような
断末魔を上げ、両手を高々と差し上げながら絶命した。
814
蔵人はハイダルだったものを蹴飛ばすと、首を斬り飛ばした。首
は壁際にまで転がるとぶつかって反転した。眼球が飛び出した顔が
恨めしそうに歪んでいた。奈辺を見ているかわからない顔に向かっ
て吐き捨てた。
﹁地獄で好きなだけ探してこい﹂
815
Lv52﹁果実﹂
ポルディナの身請けの儀式はその場で執り行われた。
商会の大元締であるシャイロックが直々に、長々とした口上を述
べる。
すべてが終わると、突っ立ったまま儀式を見ていた蔵人に銀の首
輪が手渡された。
ほとんど重みのない首輪の中央部には、志門家の家紋である、九
曜紋がしるされていた。
﹁それほど難しい形ではないのでこちらで用意いたしました﹂
九曜紋とは中央の円形の星が太陽を表わしており、その星を八星
が囲んでいる。
﹁なかなか、洒落たことしてくれるじゃねえか﹂
紺色の布地を主としたお仕着せをまとったポルディナが目の前で
ひざまづいている。
栗色の髪が目の前でわずかに震えていた。
奇妙な感慨に耽りながら、蔵人はシャイロックから受けとった奴
隷のいましめを彼女の細くやわらかな首に嵌めて、厳かな儀式は終
了した。
無言のままだったポルディナが、顔を上げて蔵人に真っ直ぐな視
線を向けた。
大きな黒々とした瞳が心なしか潤んでいるように見えた。
黙っているのもなんだか格好がつかない。物事は、はじめが肝心
である。
蔵人はなにか主らしい言葉をポルディナにかけようとしたが、咄
嗟には気の利いた言葉が思いつかず、﹁ま、とりあえずよろしくな﹂
816
と実に軽いものに落ち着いた。
当然、主人の威厳などはない。
だが、ポルディナはその言葉を聞くと大仰にひれ伏して蔵人の靴
先にキスをした。
狼狽しかけてぎょっとするのも構わず、鈴のように美しい声音が
耳元で響いた。
﹁今日よりこの身は、髪の毛一本から血の一滴に至るまであなたさ
まのものです。天と地の精霊と万物の神々に誓って、いかなるとき
マスター
も忠誠を尽くす所存にございます。いかなる命もこの鴻毛よりも軽
き命にかけて果たします。ポルディナは、ご主人さまただひとりの
しもべとして生涯をまっとうします﹂
蔵人は彼女の異常な熱量のこもった誓いの言葉を聞きながら、ち
ょっとたちくらみを起こしかけた。
さ、さすがファンタジーだぜ。やるな。
なにがどうとは、自分でも説明出来なかったのだが。
ポンドル
蔵人は容易に人ひとりを売買してしまえるこの世界観にまだ馴染
めていなかった。
もっとも、払った金額は一千万Pと日本円に換算すると一億円以
上になる。
いくら赤竜を狩ったからといって、竜鱗を手に入れられたのは僥
倖だった。奇跡に次ぐ奇跡の連続で感覚が麻痺していたのである。
そんなことを考えながら、目の前の少女と目があった。ポルディ
ナが恥ずかしげに目元をゆるめた。黒々とした瞳はきらきらと宝石
のように輝いている。そこにはもう運命を嘆いた女の姿はなかった。
ま、いっか。
終わりよければすべてよし、と。
蔵人はいろいろ考えるのをやめた。
﹁さあ、これでポルディナはあなたのものです。ようやく、私の肩
の荷も降りたというものですよ﹂
817
シャイロックが目を細めると、部屋に残っていた貴族たちがいっ
せいに手を打って蔵人を祝福した。
彼らの目には、最初にあった軽蔑の色は微塵もなく、純粋に自分
たちの命を救ってくれた男に対する感謝の意が込められていた。
すぐれた力と行為には素直に賞賛を送る。良くも悪くも彼らは貴
族であり、尊ぶべきものがなんなのかを熟知していた。
﹁おめでとう! さすがだな、貴殿は!﹂
﹁それでこそ騎士、後日暇があるときに屋敷にでも立ち寄ってくだ
され﹂
﹁勇者よ、いつか共に杯をかわしあおうぞ﹂
﹁も、モフモフさしちくりぃ﹂
とりあえず見知らぬ貴族にポルディナの犬耳としっぽをモフモフ
させるのは拒否した。
﹁ダメだ。このモフモフはもう俺ンだ。君も君だけのモフモフをさ
がしてくれ。さらばだ、異世界の同士たちよ!﹂
蔵人は腰にはハイダルを屠った三聖剣のひとつである黒獅子をブ
チ込むと、ポルディナを連れて会場をあとにした。聖剣の持ち主で
あった、一万男こと、男爵グリーン・バンクスは祝いの引き出物と
して惜しげもなくこの名剣を蔵人に無償で譲ったのだ。
﹁でも、モフモフはさせんぞ﹂
グリーン男爵は下唇を噛み締めて泣きそうな顔をした。
へへ、なんか照れくせえや。
蔵人は単純に照れていた。
悪党を斬ってここまで素直に褒められたのは、はじめてだった。
それだけにうれしいのである。
根は純粋なのだ。
感謝されれば簡単に舞い上がってしまう。
まだ、二十になったばかりの若者の純真さが大きかった。
それにしても、と思う。
蔵人は自分のすぐうしろに付き従う少女を見て、夢ではなかろう
818
かと、幾度も幾度も振り返った。目が合うたびに、彼女はくすぐっ
たそうにやわらかく微笑んでいる。
蔵人は自分が女の感情の機微に疎いことは自覚していたが、ここ
まで露骨に好意を示されれば有頂天にならざるを得なかった。
ポルディナは文句なしの美少女である。
蔵人は主として奴隷の彼女を購入した。すなわち生殺与奪の件は
すべて自分にあるのである。彼女をいたぶろうがモフろうがナニを
しようが、この世界の法で蔵人を罰することはできない。
公的機関の王立院に加盟する全国奴隷協会には、蔵人とポルディ
ナの売買契約が結ばれた旨の証書が正式に受理されている。すなわ
ち国のお墨つきだ。
また、一朝ことあれば、ロムレス全土の奴隷協会に属する五十万
の傭兵が逃げ出したり主を傷つけたりした奴隷をすぐさま追跡にか
かるのである。
この世界では他人が主の許可なく奴隷を強奪したり傷つける行為
は、かなりの重罪に分類された。やっかいなのは国の役人ではなく、
全国に根を張る奴隷協会なのであった。
とりあえず必要なのは、今日のねぐらだな。
蔵人は街の不動産屋に飛び込むと、手頃な下宿を早速借り受けた。
保証人はシャイロックの名前にしておいた。蔵人のあまりの堂々た
ポンドル
る態度に、業者も家主も揉めごとを恐れてなんなく部屋を貸すこと
に同意した。家賃は月、五百Pでありグレードとしては極めて平均
的であった。
﹁ただのアパートだな、こりゃ﹂
蔵人はポルディナを伴って二階の角部屋に入ると、四室ある中を
見て回った。
定期的に管理人が手を入れてあるのか思ったほど汚れてはいなか
ったが、ポルディナはそう思わなかったのか、鼻息を荒くして目を
輝かせていた。
﹁お掃除のしがいがあります﹂
819
﹁そうとるかね。勤勉だな﹂
会場から不動産屋で部屋を借り、実際に現場に来るまで彼女はほ
とんど口を利かなかった。緊張しているのか、犬耳がピンと立って
いる。
まあ、お互いにほとんど会ったばかりだからな。しゃーないか。
考えてみれば、無茶苦茶な展開ではあった。蔵人とポルディナの
関係性は薄い。ふたりでなにかを成し遂げたわけでもなければ、以
前からの知り合いといったわけでもない。ちょっと立ち話をした程
度の他人なのだ。
︵そもそも、こいつがどんな女なのかも知らねえし⋮⋮︶
事実、彼女が奴隷だったことくらいしか蔵人にはわからない。ほ
とんどなにも知らない相手の人生を同情だけでまるごと買い切るな
どとは軽率だったかな、とは思ったが、切り替えだけは異様に早か
った。なるようになるさ、の精神である。
蔵人はゆっくりポルディナに近づくと正面から両手でぎゅっと抱
きしめた。
彼女は一瞬、身体をこわばらせたが、次第に力をゆるめると肩に
顎を預けてそっと抱き返してきた。鼻先を女独特の甘ったるい体臭
が香った。自分の胸板や腕に、女独特のやわらかな肉の重みがのし
かかる。丸ごと俺のものだ、と思えば感慨深かった。
﹁これからは長いつき合いになるからな、いろいろ苦労をかけると
思うが頑張ってくれ﹂
﹁ご主人さま、私はあなたの奴隷です。私が受けた恩を思えば、七
度生まれ変わっても返しきれないほどでございます。どんな命でも
果たして見せるといったのは嘘ではありません。だから、もう他人
行儀はおやめください。んんっ⋮⋮﹂
蔵人は抱き合ったままポルディナの桜色の唇を奪った。
あとは、やることなどひとつである。
ポルディナをベッドに押し倒すと両手首を掴み、男としての思い
を遂げた。
820
﹁我が家のメイドちゃんは、床上手だけじゃなくって、家事も炊事
も超一流なんだぜ﹂
﹁ほんのお口汚しですが。なにとぞご容赦くださいませ﹂
蔵人はポルディナと愛し合ったあと、アパートの前にある浴場で
戦陣の垢を流した。
久しぶりにホクホクした気持ちで新居に戻ると、そこには新妻よ
ろしく、室内の清掃を完璧に終えたメイドが、下階の共同炊事場で
調理した出来立ての夕食を用意して待っていたのであった。
﹁おおおっ! すげえじゃねえーか! さすがだ、うまそう!﹂
﹁あの⋮⋮﹂
﹁んん? いいよ、おまえが持っとけ﹂
おずおずと彼女が差し出したのは、掃除用具と夕食の素材を買い
に行かせた際に持たせた蔵人の硬貨袋だった。
﹁おまえは俺のもんなんだろ。なんの問題もない﹂
﹁ご主人さま﹂
ポルディナは貨幣の入った革袋を胸もとでぎゅっと握り締めると、
目を潤ませて蔵人をじっと見入った。
﹁わかりました。ご主人さまの財産、命に替えてもお守りします﹂
﹁いちいち大げさな。それより飯にするか。ええと、色々あるな﹂
﹁コーンポタージュスープ、季節の野菜サラダ、ホロッホ鳥の姿揚
げ、ロムレス牛のヒレステーキ、じゃがいもと玉ねぎの煮こみ、カ
タンリゾット、白パン、デザートにはトラいちごケーキとなってお
ります﹂
うむ。
だいたい理解できるメニューだ。
821
だが、カタンリゾットというのはなんだろうか。
人差し指でなかの固形物をつまみ上げてしげしげ眺めた。
﹁コメ?﹂
﹁はい? コメとはなんでしょう?﹂
ポルディナがつぶらな瞳で聞き返してくる。咎めることはできな
かった。
うん。これは、お米ではない。黒くて丸い米以外のなにかだ。
すごく気になるが、聞いたほうがいいのだろうか。
蔵人はポルディナの顔を見た。慈愛をたたえたままそばに控えて
いる。
追求しなくてもいいか、という気分になった。
﹁では、いただきまーす。って、おまえは食わないのかよ﹂
蔵人は湯気を立てている夕食を前にナイフとフォークを構えると、
給仕の為に佇立していたポルディナに訊いた。
﹁私は奴隷なので、あとでいただきます﹂
﹁ばーか! いいいから、さっさと食え。メシの前で奴隷もクソも
あるかよ。なんでもあったかいうちに食べたほうがいいっての﹂
﹁ですが﹂
﹁たーべーろ。これは命令だ!﹂
なおも抵抗するポルディナに蔵人は命じた。彼女はびっくりした
ように目をまん丸くすると、クスッと上品な笑いをもらして小首を
かしげた。実に娘らしい自然な仕草に、蔵人は目を奪われて阿呆ヅ
ラをさらした。
﹁もお、わがままなご主人さまですね﹂
﹁わがままではない、それに家族ってのはメシをいっしょに食うも
んなんだよ﹂
なだめすかしてようやく席に着いたポルディナと食事をとりはじ
める。
てはじめにトンカタンリゾットからとりかかった。わけがわから
ないので、ポルディナには悪いが一気喰いして最初からなかったこ
822
とにする腹積もりなのだ。
木のスプーンでどろっとした粥をすくい上げると目の前で色と匂
いを確認する。
﹁ふむ﹂
別段危険はなさそうだが。ポルディナがフォークを持ったまま、
こちらの様子をうかがっていることに気づき苦笑した。そっと粥を
口の中に運ぶと、コクのある旨みとなんともいえない香りが広がっ
た。コリコリした固形物の歯ごたえが楽しい。重ねていうが、日本
のお米とはまるで別個のものだ。承知して欲しい。
﹁なあ、カタンってなに?﹂
﹁カタンきのこは山地でよくとれる香り茸の一種です。私の田舎で
はよく食べるのですが。お口にあいませんでした?﹂
表情を曇らせながら、上目遣いの視線を寄こしてきた。心配のあ
まり犬耳がきゅぅ∼んとヘタレて寝ている。
﹁いやおいしいよ。この謎キノコ、コリコリしてて俺は好きだ﹂
う
ポルディナはよかった、とつぶやくとうれしそうに目を細めた。
愛いやつめ! 蔵人は続いて一番わかりやすいロムレス牛のヒレステーキをやっ
つけにかかった。レアに焼きあがった分厚い肉にナイフを入れる。
ほとんど手応えなく切れ目の入った肉片からは熱い肉汁がじゅわ
っと溢れ出た。さっと口の中で噛み締めると、香ばしい肉の旨みと
熱い肉のジュースが全体に広がった。
﹁う、うまうまっ! なにこれ、めちゃくちゃうまいです。この肉﹂
適度に焼けた肉を噛み締めて、合間に野菜サラダの酸味を楽しむ。
半分ほど肉を平らげたあと、白パンのふっかふかなやわらかさで口
中の脂を洗い、煮こみのシチューを啜った。
﹁うまっ、うまうまっ! おい、ポル、おまえもさっさと食えよ。
メチャうまいぞこれ!
俺はひたすら食うだけだがなっ﹂
蔵人がうまいを連発するたびにポルディナの顔は喜びに満ち溢れ
823
ていった。
こうしてはじめての夕餉は大成功のうちに過ぎていったのだった。
蔵人が膨れた腹を抱えて寝台に転がっていると、浴場から戻った
ポルディナが恥ずかしそうに声をかけた。
﹁もうお休みになられますか﹂
﹁んん? ああ、もう夜も遅いからな﹂
そういってから気づいた。蔵人が借りた部屋には据え置きの寝台
がひとつしかない。つまり、必然的に同衾することになるのだった。
別に童貞ではないのだが、いままで女性とは流れでそうなっていっ
た場合が多かった。
だが、今日からは違うのだ。すべて自分の任意でことが進められ
るのである。
﹁マジかよ。あ、なんか胸がふわふわしてきた﹂
ポルディナは隣の鏡台のある部屋へ移動した。化粧直しをして下
着に着替えるのだろう。
待ち受けるのは、めくるめく夢の世界である。
蔵人は気のないの素振りをしながら内実、以上に興奮していた。
股間のテントは命ずるまでもなく設営完了している。昼間の間に四
発撃ったというのに、衰えるどころかよりいっそう硬度を増してい
た。
自分が怖い。彼女を傷つけそうで。おもに性的な意味で。
﹁お待たせいたしました﹂
﹁おお⋮⋮﹂
ポルディナは白のベビードールをまとって姿をあらわした。
ランプの薄明かりの下、色白の肌がわずかに火照っている。
ウェアウルフ
豊満なバストと、きゅっとくびれたウエスト、やや大きめと思わ
れるヒップは引き締まって丸みを帯びていた。戦狼族特有のしっぽ
が腰のつけ根から生えている。蔵人はそっと手を伸ばすと、ふわふ
わのしっぽにさわってみた。
﹁おおお、このモフモフさ。本物だ。ポルディナ、うしろ向いて﹂
824
﹁はい⋮⋮ひう!﹂
蔵人は寝台に腰かけながら後ろ向きになった彼女のしっぽの感触
を楽しんだ。つけ根の部分からもさっとした中央部をもみこむよう
にしていじる。指を動かすたびに、彼女はとぎれとぎれの甘え声を
漏らした。しっぽが性感帯なのだろうか。不思議である。蔵人はそ
のまま野獣のように後ろから襲いかかると、再びポルディナを熱く
愛するのであった。
﹁いってらっしゃいませ、ご主人さま﹂
﹁ああ、夕方までには帰るよ﹂
蔵人は借家の入口で深々と頭を下げるメイドに告げると、もはや
朽ちる寸前の階段を降りていった。
通りで振り返ると、蔵人の後ろ姿をジッと見つめる彼女の姿があ
った。
おろしたてのお仕着せは、このような貧民窟には場違いであり異
様に目立った。
シミ一つない純白のエプロンドレスが夏の日差しを反射して輝い
ている。
歩行する幾人かの男が見とれたままその場に立ち止まった。
はなれて見てもわかるくらいポルディナの存在は並外れて洗練さ
れていた。
きめ細かく櫛の通された美しい髪に貴婦人のような上流階級の立
ち振る舞い。
大貴族の屋敷でも通用するようにあらゆる礼儀や所作を叩き込ま
れているのである。
こうまで美しすぎると家を空けることすら心配でならない。
825
ポンドル
いま現在蔵人の手元に残った金は二百六十万Pほどである。
庶民から見れば大金であっても、住宅購入も視野に入れて考えれ
ば、甘ったるい生活を続けていくには少し心もとなかった。
﹁グダグダしている暇があったら少しは稼がにゃならん﹂
蔵人はポルディナに預けているうちから金貨一枚を持ち出して行
動費としていた。
日本円で約十万円である。
﹁けど、出がけにあそこまでわがままいうとは思わんかった﹂
蔵人が起床した時間からかなり経過していた。
理由は、ポルディナが絶対についていくといってゴネたのである。
最終的には折れたが、どうしてもどこまでもつき従っていたかっ
たらしい。
家を出る瞬間は完全に犬耳がうしろにぺたんと折れて、ふわふわ
しっぽもだらん、と垂れ下がっていた。さびしいよう、いかないで
ようご主人さま、といったところか。
﹁すぐ戻るよん、ポル子よ﹂
素早く動くときには身軽でいたい。
﹁男とはそういう生き物なのだ﹂
蔵人はボロボロになった外套をひるがえすと、ニヒルなキメ顔で
つぶやいた。
﹁おっと、失礼﹂
無意味にカッコつけていると、通りの向こうから歩いてきた男に
肩がぶつかった。
﹁ちっ、乞食が﹂
男はぺっと痰を吐き捨てると肩を怒らせながら遠ざかっていく。
蔵人はとりあえずいい気分がぶち壊しになったので、その男を追
いかけていって背中にドロップキックをかました。
826
827
Lv53﹁尋ね人﹂
ギルド
悪党を小気味よく征伐したあと冒険者組合に向かった。
蔵人の借りている部屋から大通りにある事務所までは徒歩二十分
くらいであり、立地条件としてはまずまずの場所である。
あいも変わらず物々しい武装で佇立する番兵の前を通り過ぎて受
付に向かった。カウンターで生真面目そうに書類に目を通している
ネリーの姿が目に入る。ネリーは一瞬入ってきた人物に視線を転じ
るが、それが蔵人だとわかるとすぐに顔を伏せた。
ガン無視である。ちょっと切なかった。
﹁ネリーちゃん、久しぶり! よっ、元気だった! ついでに今日
はどんな色のパンツはいてるのかなー﹂
﹁⋮⋮死ね﹂
﹁なんだよおっかねえ顔して。さわやかな朝なんだからさ、こうひ
とつほがらかな顔のひとつでもできないのかね﹂
﹁空気、汚れた。私、不快﹂
﹁なんだよ、愛想のねぇ女だな。あ、飴ちゃん食べる﹂
﹁それはもらう﹂
ネリーは蔵人の差し出した飴を口に入れると、瞳の焦点がゆっく
りとあってくる。
﹁低血圧なのか﹂
﹁わかってて聞く。人はそれを無道という﹂
蔵人に対する視線が、道端の痰を見る目から、石ころにまで変化
した。
828
﹁石ころ、なにか用ですか。朝はいろいろと業務の段取りで忙しい
のですが。普通は私をおもんばかって、冒険者さんたちは声をかけ
てこないのですよ。恥知らずがっ﹂
﹁え、なんでいま怒られたの⋮⋮﹂
﹁気分です﹂
﹁お客の相手もおまえの仕事だろうがよ。いきなり、受付放棄かよ﹂
﹁お客さまなら、ね。本当、勘弁してもらえないでしょうか﹂
ネリーが心底困ったような表情で眉を八の字にして低姿勢に出る。
ギルド
だが、そんなことを斟酌するような蔵人ではない!
﹁やだー。構ってやる。俺が地上に存在して冒険者組合に所属し続
ける限り、おまえに構い続けてやるっ﹂
﹁こいつ﹂
蔵人とネリーがカウンターを挟んで殺気を孕んだ視線を激しくぶ
つけあう。入口から入ってきたレンジャー職の若い女冒険者は怯え
ながらまわれ右をして帰っていく。
一触即発のふたりに水を差したのは、入口の大扉から聞こえてく
る多数の人々のどよめきだった。なにごとかと蔵人は顔を上げて声
の方向を見た。
﹁こいつは、まあ。⋮⋮お久しぶりでございます﹂
玄関口からは、多数の職員が額に汗を垂らして巨大な頭部の骨格
標本を搬入していた。
トロフィー
﹁先日討伐された邪竜王と呼ばれた赤竜の標本ですね。ここまでの
戦利品はここ数年なかったのでロビーに飾るそうです。個人的見解
からいわせてもらえば、なにかんがえてんだ、と思いますがね。も
っとかわいいもの飾れよ、と﹂
﹁ほほぉ、もっとスイーツなものを飾れと。ネリーさんは乙女です
ね﹂
﹁乙女ですよ。万人が認めざるを得ないほど乙女なので用もないの
に声をかけるのはやめてくれませんかね。私の処女性が汚れます﹂
﹁おまえの中で俺はどんな存在なんだよ﹂
829
﹁私がコップに汲まれた清い水とすれば、あなたは墨汁ですね﹂
﹁そこまでいうか。ふん、まあいい。そんな俺に冷たく厳しいネリ
ーさんが、好きよ、抱いてっ、となる機密情報を教えてあげよう。
おら、耳をかせ﹂
﹁やですよ。私の耳元で淫猥な言葉をささやくつもりでしょう。そ
ういうのはいつも買ってる安い淫売相手にしてください﹂
﹁そうじゃねえって。実はな、あの竜。倒したのは俺なんだよ﹂
ネリーの顔から表情が失せた。まるで意思のないマネキンのよう
だ。
背後で、職員の男たちが台座を運びこむ。よっせこらせ、とかけ
声も勇ましく、いまや黄泉路の旅人となったヴリトラの頭部を据え
つけている。人々のざわめきの中、蔵人は凍りついた美貌を前にし
てうめいた。
﹁殊勲者は俺なんだよレィディ﹂
﹁うん。そうよね、クランドは強い子よ。お姉さんわかってるから、
もうそういうこと外でいいふらしちゃダメよ﹂
﹁なんだよ、そのやさしさは! ああああっ、だれもわかってくれ
ねえ!﹂
蔵人が頭をバリバリかきむしると、ネリーの瞳に慈愛の色が濃く
浮かんでくる。
こいつ、まるっきり信じていねえ。
﹁もおいい。世間なんてものはどいつもこいつも目の見えねえやつ
ばっかだからな﹂
黄金の狼
のアルテミ
﹁うんうん、そおでちゅねー。クランドちゃんのお目目は現実が見
えないもんねー﹂
﹁人を白痴あつかいすんじゃねえ﹂
﹁大体ですねえ、件の邪竜王を倒したのは
シアですよ。もっとも、彼女はクランを抜けてしまったらしいです
が﹂
﹁抜けた、いつ!?﹂
830
﹁えーと、確かさきおとといだったはずですよ。クランのリーダー
であるバインリヒ卿が真っ青な顔で事務局にねじこんできましたか
ら。彼女は姿を完全に消してしまったそうです。残念ですねえ。い
まや聖女やなんやらで縁談も山のように飛びこんできてるらしいで
すけど﹂
﹁まったく、世間の連中も図々しいやつばっかりだなぁ。いままで
鼻もひっかけなかったくせに﹂
﹁クランドも世間の人々から少しは注目されるようにがんばってく
ださいね﹂
﹁だーかーらー、あれは俺が! もお、いいよ。どうせ、俺は誰か
らも相手にされない人間だよ。クズっこだよ。居てもいなくてもい
い人間なんだ﹂
﹁そんなことはありません、いきなり消えたら気になるじゃないで
すか!﹂
﹁本当? 具体的には?﹂
﹁ほら、いつも見てる壁のシミとか、いきなりなくなったら気にな
るじゃないですか﹂
﹁おいいいいいっ! 俺の価値ってそんなもんなの、おまえの中で
はっ!?﹂
﹁結構なものですよ。ホラ、私って寮から通勤してるじゃないです
か﹂
﹁知らねえよ、そんなん﹂
﹁それで、ここの事務所まで徒歩十分くらいなんですよ。途中、商
工会議所の塀をつたって真っ直ぐ来るんですが、曲がり角で必然的
に目の前の板塀が視界に入るんですけど、そこの茶色のシミがいつ
もいつも気になって気になって。⋮⋮まあ、三秒後には忘れるんで
すけど﹂
﹁忘れんのかよっ! 俺のことは忘れないでねっ。じゃなくて、今
日はちゃんとした用事で来たんだって。あのよお、知ってるかもし
れねえがここんところダンジョン攻略に行き詰まっててな。それで﹂
831
﹁ここんところもなにも、潜ったのは一度きりじゃないですか。し
かも、大口叩いておいて、速攻退却。どんだけ安全マージンとって
るのって話です。傷つくのがこわくて冒険者などできるかっ! 死
ねっ!﹂
﹁まあ、そおなんだけどさ。でも、最後のは部分は俺の素行とは関
係ないよね﹂
﹁真実の吐露です﹂
﹁どんだけ、俺を殺したいの? でさ、やっぱソロ活動するのも限
界を感じてたんで、その誰か手頃な冒険者を紹介してくんないかな。
こちらの希望としては、ダンジョンに詳しい女性で、地図が読めて、
知性的で、俺の冒険を的確にサポートしてくれて、どんなときも感
情的にならずに俺の女遊びにも寛容でおっぱいが大きくて昼間は清
楚系だけど夜のベッドの上では奔放かつ蠱惑的で、年齢は十代後半
くらいで美人であらゆることに気がついて、ケツがでっかくて締り
がよくて、無条件でおこづかいをくれて、おっぱいが大きい箱の中
で純粋培養した感じの聖女のようなコ﹂
﹁神聖な受付で妄想を垂れ流すのはやめてくれませんか﹂
﹁無理かな、やっぱ﹂
﹁世界中を探し歩いていればひとりくらいはいるかもしれませんね﹂
﹁マジか!﹂
﹁まあ、そんあ都合のいい女はどこかの誰かがとっくに確保してい
るでしょうけど﹂
﹁ちきしょおおおっ、俺のパートナーを奪ったやつは誰だぁあああ
っ!﹂
﹁妄想のライバルに血涙をこぼさないでくださいよ﹂
﹁これは心の汗さ﹂
﹁そこまで熱望するならルイーゼの酒場ってところにいってみたら
どうですか? なんでもそこにはパーティーを組む相手を探すソロ
冒険者がいつもたむろしているそうですよ﹂
﹁ルイーゼの酒場? おいいいっ、なんでそんな便利なものあるの
832
を教えてくれなかったんだよぉ。いま知った!﹂
﹁いま、教えた﹂
﹁よおおし、こいつは忙しくなって来やがったぜ!﹂
蔵人は額をぺちっと自分の手のひらで叩くと、ネリーに礼を述べ
て疾風のように駆け去っていった。
オラオラと玄関口の冒険者を突き飛ばして去っていく蔵人の背中
は瞬く間に消え去ってからネリーは、ぼそっとつぶやきをもらした。
﹁あ、そういえば、飲み屋の女性が毎日クランドのこと探しに来て
たって伝えるの忘れちゃった﹂
ギィギィと脳をかきむしるような不快な音でレイシーは目を覚ま
した。
ロムレス蝉は日本固有のものとは違い、基本人の気配を嫌って街
中には近づかないのだが、なんの因果か今朝はどこからか迷いこん
だ一匹が軒下にへばりついて鳴いている。
ひたすら不愉快だ。
サンディブロンド
喉がカラカラだ。レイシーは寝台から身を起こすと、酔いの残っ
てガンガン痛みのする頭をそっと手でおさえた。ほつれた砂色の髪
がばさりと前に流れる。
﹁もお、最悪﹂
蔵人が姿を消してからというもの、レイシーは昼間は捜索、夜は
銀馬車亭の営業と二重生活を続けていた。
着替えもしないまま洗面所に向かうとくみ置きの生ぬるい水で顔
を洗う。鏡面に映った女の顔はひどくやつれて、まるで知らない人
間を見ているようだった。
﹁ひどい顔﹂
833
レイシーは鏡に映った自分を見つめながら、不意に強い吐き気を
覚えた。洗面台に手をついて、えずく。吐きだした液体は薄黄色の
胃液がわずかに台を濡らしただけだった。
昨日も丸一日固形物を摂っていなかった。レイシーはさびしさの
あまり自分に禁じていた店での飲酒を簡単に破った。歌っていると
きと酔っているときだけはすべてを忘れることができるのだった。
だが、朝になり酔いが覚めれば避けようのない現実が押し寄せて
くる。
ひとりぼっちであるという、極めつけの悪夢だった。
﹁う、うぐっ﹂
レイシーはその場に膝まづくと、ぼろぼろと涙をこぼした。
ギルド
いない、クランドがいなくなってしまった。
愛をかわした朝、冒険者組合へ登録に行くと店を出て以来、まる
で最初からそんな人物など居なかったようにクランドの存在はかき
消えてしまったのだ。
女房気取りでべたべた世話を焼いたのが気に入らなかったのだろ
うか。
それとも自分の身体になにかおかしなところがあったのだろうか。
他に好きな女でもできてどこか遠くへ行ってしまったのだろうか。
それとももしや、クランドの身になにかあったのだろうか。
﹁あああああっ、やだっ、やだっ、やだようぅう!!﹂
他に女が出来たのであれば、どんな手を使っても取り戻す自身も
覚悟もある。
だが、万が一の場合であったら自分はこの先どうすればいいのだ
ろうか。
レイシーは、物音ひとつしない廊下に目をやって、自分の肩を両
手で抱きしめた。
父はもういない。そして、自分のそばにいてくれるといった男の
姿も。
夏だというのに、ひどく寒い。
834
ここには誰もいない。
まるで墓場のようだ。
銀馬車亭に来る客はレイシーから男の影が消えたことを悟ったの
か、あの手この手でモーションをかけてくる。
いなくなったことが慶事のように接する男たちの世辞も煩わしか
ったが、理由もなしに店を閉めることはできなかった。
ヒルダも独自に探していてはくれているらしいが、特に連絡はな
かった。
ギルド
レイシーは、ふらつく膝で無理やり立ち上がると、自室に戻り身
支度を整えて冒険者組合の事務所に向かった。他に探しようもない。
日差しのギラついた夏の朝はきらめく光の渦に立っているようだ
った。
日よけのヴェールが汗で額に張りつく。顔色と目元の隈を隠すた
めに濃い目に造った化粧がわずかに乱れた。どうでもよかった。
考えてみれば、レイシーは蔵人のことを名前と身体以外ほとんど
知らなかった。
いや、知らないフリをしていた。外套の裏地にあった縫い取りの
存在。
彼には妻がいたのだ。そして、自然と帰るべき場所に帰っていっ
たのだ。
﹁くううぅ﹂
知らず、嫉妬の声がもれた。道行く人々がぎょっとした顔でレイ
シーを見つめ、示しあわせたかのように距離をとる。それも、どう
でもいい。
レイシーは顔も知らぬ蔵人の妻に激しく嫉妬していた。
いや、姿かたちすら知っていれば、少なくともここは自分が勝っ
た、ここは自分が負けたと、なにかしらの基準を作って自分を慰め
ることが出来たかもしれない。
だが、顔すら知らない概念上の相手は、レイシーの中でどんどん
膨れ上がって、形のないまま嫉妬心だけを強烈にかき立てたのだ。
835
レイシーが懊悩している間に、自然と彼女の足は事務所へと到達
した。
入口の番兵がジロジロと下卑た目つきで自分を見ているのがわか
った。
﹁ふん。下品な化粧で悪かったわね﹂
どうせ、あたしのことを淫売かなにかと勘違いしているんでしょ
う。
お生憎。 あたしは死んでもクランド以外の男に身を任せたりはしないんで
すからねっ。
レイシーは、番兵をにらみつけると、やけに金のかかった絨毯を
わざとわしゃわしゃ踏みつけながら受付に向かった。最初こそ、こ
の垢抜けた造りの建物に怯えもしたが、連日連夜、幾度も足を運ぶ
うちに慣れた。
受付に座っている妙に洗練された女も気に入らなかった。
彼女はネリーといって、美しい黒髪と冷えた目をした都会的な美
人だった。
︵どうせ、あたしは野暮ったい街娘ですよーっだ!︶
彼女にはなんの罪もない。
それどころか、日に何度も足を運ぶ自分がほとんどいいがかりじ
みた用件のみを伝えても、嫌な顔ひとつせず話を聞いてくれている。
おそらく、彼女は蔵人が冒険者登録のために来たときも懇切丁寧
に対応してくれたのであろう。美しくやさしい女性にあの蔵人が鼻
の下を伸ばさないはずはない。
彼女の親切心も無性に気に障った。ネリーはレイシーが受付に近
づく前に気づくと如才なく頭を下げた。
﹁あ、銀馬車亭の女将さんですね。すいません、本日は騒がしくて。
なんでも、ロビーに討伐した竜の骨格標本を飾るそうですよ﹂
﹁そんなの興味ないです﹂
ひとりでに返す言葉がキツくなった。ネリーは怒った様子もなく、
836
困ったように微笑むと余計な話題を述べたことを詫びた。
ひどく行き届いたやわらかな物腰だ。
レイシーは、少し自分が恥ずかしくなった。
﹁あの、昨日の今日で申し訳ないんですけど。クランドは、ここに
顔を見せましたか﹂
﹁え、ああ。彼ですか。彼なら、一時間くらい前におみえになりま
したよ﹂
﹁え﹂
レイシーの頭の中が、瞬間的に空白で塗りつぶされた。
﹁ほ、ほほほ本当ですか! あ、あのっ、彼の様子はどうでしたか
っ! 元気でしたか!﹂
﹁え、ええ。すこぶるお元気でしたよ。私としばらく雑談してお帰
りになられましたが﹂
﹁げんき、そお。元気なんだ、彼。よかったぁ﹂
レイシーは安堵と同時にほっとため息をついた。
蔵人は妻の元に帰ってない。この街にいる。今日中にも彼の顔が
見られるのだ。
﹁ええ、元気でしたよ。殺しても死なないくらい元気でした﹂
その能天気な言葉を聞いて、やり場のない怒りがレイシーの理性
を簡単に放棄させた。
殺しても死なない?
あたしがどれだけ彼のことを心配したかわかってるの!
なんにもクランドのこと知らないのに!
なんで、たかが受付が会えて、こんなにも会いたいあたしが会え
ないの!
許せない、許せない、許せない。
﹁なんで引き留めておいてくれなかったのよ! あたしが、毎日探
しに来てるの知ってたでしょう!! なんで、ねぇ、なんでえ!?﹂
レイシーは拳をかためてカウンターをどんと、叩いた。じんじん
と激しいしびれが全身に伝わる。ネリーの端正な顔が奇妙に歪むの
837
がわかった。自分がむちゃくちゃな道理を押しつけていることがわ
かっているのに止めることができない。
﹁なんでよぉおおっ!! もおおっ!!﹂
﹁レイシーさん、あの落ち着いて!!﹂
﹁落ち着けるわけないでしょう!﹂
レイシーは自分の言葉で激しながら、なおも声を張り上げた。毎
晩、銀馬車亭で歌って鍛えた喉だ。並みの男の怒声などゆうにかき
消す声量だ。周りの職員や、暇を持てあまして竜の標本骨格を眺め
ていた冒険者たちがカウンターを遠巻きにしている。
﹁うぅううっ、なんでぇ、ねえなんでぇ⋮⋮﹂
﹁ちょっと!﹂
再びポロポロと涙が流れ、頬を熱いものがつたった。狼狽したネ
リーの手が自分の腕をおさえた。
レイシーはネリーに連れられて事務室へ移動した。それからソフ
ァに横になった瞬間意識を失ったのだった。泥のような眠りの中で
蔵人のたくましい腕に抱かれながら見る夢は、途方もなく甘美で切
なかった。
ギルド
﹁過労だ﹂
冒険者組合の専属医師であるノーマッドは倒れこんだレイシーを
見ると即座に断定し栄養剤を置いて立ち上がった。すいすいと歩い
て扉の前に立つと、静止した。なにか気になるものがあったらしい。
ノーマッドは入口のそばに飾ってある青磁の壷を指先でなでると、
突如として拳を叩きこんだ。
中々腰の入った一撃だった。
ツボは硬い音を立てて砕けると破片がバラバラと周囲に舞った。
﹁趣味の悪いツボだ。あのハゲに買い換えろといっておけ﹂
﹁誰が掃除すると思っているのですか﹂
ノーマッドはけけけと笑うとネリーを持っていた杖の先で示した。
﹁それと、死にかけ以外を俺に見せるんじゃねえ。殺したくなるだ
ろうが﹂
838
去り際、つば広帽子と奇妙な嘴の仮面をつけた異形の医師はつま
らなそうに吐き捨てた。
﹁変態鳥ジジィ﹂
ネリーはそういうと、くてっと倒れこんだレイシーに視線を転じ
た。疲れきった彼女は童女のように安らかな顔でこんこんと深い眠
りに落ちていた。
すべてクランドの責任である。目の前の少女は、わざと濃い目の
化粧をして蓮っ葉に装っているが、驚くほど目を引く美少女であっ
た。
これほどの美女とあのロクデナシが金銭以外で繋がりをもてるは
ずもない。
大方、飲み屋のツケを溜めまくった蔵人に対してキレたのだろう。
﹁まったく、あの男はどうしようもないですね。課長﹂
﹁困るよ、ネリー君﹂
ネリーの上司にあたるゴールドマンという、事実上事務方の責任
者になる中年男は額からダラダラ滝のように流れる汗を拭き拭きそ
ういった。禿げ上がった金柑のような頭が神々しい。ネリーはまぶ
しいんだよおまえ、と心の中で毒づく。
﹁ほら、今朝もミーティングがあっただろう。ここのギルマス、ア
ンドリュー伯の一番上のビクトリアお嬢さまが抜き打ちで視察に来
るって話聞いてたでしょう。たまたま、今日はお見えにならなかっ
たけどさ、困るんだよなあ、こういうゴタゴタ起こされんのさぁ﹂
﹁え、なんですか、それ。私は普通に業務を行っていただけですよ。
心外な﹂
﹁と、とととともかくさあ、そこの飲み屋のお姉さん、あのクラン
ドっていう冒険者の関係者なんだろう? いまの大事な時期にゴタ
ゴタは困るんだよう。ほら、ただでさえ事務方は肩身が狭いってい
うのに。これ以上評価を下げられるとさあぁ。私の立場ってもんも
考えて行動してもらわなきゃ困るよぉ。頼むよぉ、ネリーくぅんん
!﹂
839
ゴールドマンは、すべてを現場のネリーの責任にして愚痴りまく
るとその場を去っていった。
人間としての重みがまるでない。
﹁死んじゃえ、ばーか﹂
ネリーは、眠りこけたレイシーの髪のほつれをそっと手櫛で直し
てあげると、蔵人に対する復讐心を沸々とたぎらせるのだった。
840
Lv54﹁ルイーゼの酒場﹂
﹁ルイーゼの酒場はいい酒場ァ、と、あよいしょっと﹂
蔵人は即興で自作したルイーゼの酒場のテーマ曲を口ずさみなが
ら、ネリーに教えてもらった道をスキップしながら進んでいった。
当然ながら、酒場がこんな真昼間にやっているはずもないが脳内
が真ピンクに染まった蔵人の考えが及ぶところではなかった。
美人冒険者↓勧誘↓仲良くなる↓ヤれる
﹁なんという黄金率。勝利の道まであと一歩だ。頑張るのだ、俺よ
!﹂
間の抜けたアホヅラを晒しながら、華麗なステップが決まる。
道行く子連れの母親が怯えて道を開けるが気づかない。
なぜならすでに彼の脳内では理知的な美人女教師風冒険者が、ス
カートをまくり上げられ後ろから突っ込まれていたからである。
ああん、およしになってクランド。わたしたち知りあったばかり
なのに。
ふふふ、そうはいっても君のココは僕のエンデバー号を呑み込ん
でいるじゃないか。ほらっ、ほらあっ。
やあん、らめらめえっ! わたし恥ずかしいのぉ!
ディスカバリー! スプートニクっ! スペースラブだ、この野
郎ぉおおっ!
﹁よおおし。また夢が広がるな。っと、ネリーの話によるとここが
クサイな。俺の直感もそういっている﹂
841
蔵人は中の下といった趣の酒場を見つけると、フガフガと鼻息を
ふいごのように激しく荒げた。太陽はちょうど上空にきっかり昇り
きったくらいであった。
﹁よおおし、筒先ヨシ。んでは﹂
蔵人は下穿きのパンツの中のモノの先端をチェックする。紳士の
嗜みである。
そして、スイングドアの前に立ってから気づいた。
そういえば、酒場ってたいてい夜じゃなきゃやってないんじゃな
いかな。
酒場、酒場。なにか忘れているような。
ああ、そういやレイシーに会いに行かないと。
まあ、あとでいいかな。
﹁おおおっ!?﹂
蔵人が躊躇していると、店内からモノが壊れる音と、女性の悲鳴
が聞こえた。
﹁これはラッキースケベの予感!﹂
ドアをブーツの底で全力で蹴上げて突入する。
﹁欧米的軍事介入!!﹂
やや暗い店内の中で二十代後半のセクシー系美女と、巨大なドラ
ム缶のような大男が対峙していた。
﹁俺サマが飲ませろっていったらとっとと出しゃいいんだよ、この
ババァ!!﹂
﹁お生憎さまだね。ウチは営業は日が落ちてからと決まっているの
さ。それに、あたしはまだ二十六だよ! 口の利き方に気をつけな
よ、小僧!﹂
﹁あんだとおおっ、おまえみたいなババァの酌で我慢してやろうっ
ていう俺の気遣いがわからねえとはっ! このダズさまに逆らうっ
て意味がどういうもんか教えてやるう!﹂
﹁ちょっとお、やっ、はなして!﹂
ダズと名乗った無頼漢は背丈は百八十と蔵人とほとんど変わりは
842
なかったが、あきらかに体重は蔵人の三倍、二百五十キロ近くあり
そうな体格だった。 見るからに半端ないデブさである。
こと、白人の太り方はアジア人の比ではないのだ。
この世界に来てからつくづくそう感じた。
太り方に一切手を抜かないのだ。
男は汚らしい金髪を腰までだらっと伸ばしているが、顔面は極厚
の脂肪で覆い尽くされており目鼻立ちが判別できなかった。脂肪で
完全に埋まっているのだ。頬には巨大なデブ特有の、謎の黒ずみが
できている。神が造形を放棄した異形の生物であった。退廃した感
じの美女の腕をつかむ指がまたすごい。一本一本が、ウインナーの
ようにプクプクに膨れている。あまりにもジューシー過ぎた。
﹁おっと、そこまでクソデブ、そのレイディの手をはなすんだ! あと、二十六って年頃は一番女性が美しく輝く時代かつ微妙なお年
頃なので言葉には気をつけよ、以上﹂
﹁なんなんだぁ、おまえはいきなり飛び出てきてわけのわからんこ
とを。お、俺のアルコールタイムを邪魔するってのかああっ、この
ダズさまも舐められたものよお!﹂
ダズは女性から手をはなすと、くるみ材で出来たカウンターを一
撃した。
鈍い音と共に天井からパラパラと埃が落ちる。
分厚い手のひらは硬球用のグローブのように頑丈そうだ。
﹁そこの兄さん、あたしはいいから逃げな! こいつ、頭カラッポ
だけど力だけはあるんだよ!﹂
﹁あんたがルイーゼか。間違いない?﹂
﹁ちょっと、いまはそんなこといってる場合じゃ﹂
﹁俺サマを無視するんじゃねええ!!﹂
﹁っと﹂
蔵人は丸太のような太い腕の一撃をかわすと背後に飛びのいた。
ダズの瞳に狂気が帯びる。蔵人はにやついたまま腕組みすると、
843
外を指差した。
﹁おい、クソデブ。勝負したいなら相手になるぜ。昼飯前の準備運
動でな﹂
﹁糞があっ!!﹂
蔵人は身をひるがえして外へ飛び出した。
あとを追って、どすどすと床を鳴らしてダズの足音が響いた。
﹁なんだなんだ?﹂
﹁ルイーゼの店の前で喧嘩だってよ! 見るべ、見るべ!﹂
口さがない街の人々がたちまち店の前で人垣を形成する。
巨漢の戦士ダズは、口元から白い泡を吐き出しながら気勢を上げ
た。
周囲の人々も降って湧いた一大エンターテインメントに胸を躍ら
せている。
娯楽というものがほとんど存在しない世界である。
それゆえに人々は日常の変化に倦んでおり、ちょっとした揉め事
やいさかいには敏感なのだ。にらみあったままふたりが膠着してい
ると、威勢のいい野次が飛びはじめた。
﹁し、死ぬまえになにかいい残しておくことはあるかぁあ!﹂
﹁うるせぇ。巨デブはデブの国に帰れ﹂
﹁俺はぽっちゃり系だあああっ!﹂
ダズは足を踏み鳴らしながら腕をぐるぐる振り回すと真一文字に
突進してきた。
﹁畜舎へ行け、クソデブが! 糖尿病予備軍がっ!﹂
蔵人はそういうが早いか足元の木切れをつかむと華麗なフォーム
で放り投げた。
﹁あうっ﹂
投擲された木切れはダズの短い両足に見事挟まった。
つまづいた巨体がズンと音を立てて前のめりに崩れ落ちる。
倒れた拍子に顎を強く打ちつけたのか、低い悲鳴が上がった。
﹁あいいいいっ﹂
844
ダズは虫歯だらけの黒ずんだ前歯をボロボロ落とすと、脂肪に埋
まった瞳から涙をこぼした。途端に周囲から歓声が上がった。
﹁なんだだらしねえ、でかい方はカッコだけかよう!﹂
﹁おいらは黒髪の兄ちゃんが勝つと思うぜ﹂
﹁賭けるか?﹂
﹁賭けんべ、賭けんべ﹂
﹁俺はデブの方だ! パンチが効いてる顔だ!﹂
﹁僕は黒髪の方だ。ありゃかなり年季の入った冒険者だな。姿を見
りゃわかるぜ﹂
﹁ブタくんガンバレー! あんたにオイラの夕飯がかかってるんだ
あ﹂
人々は途端に即席の賭場を開張すると、それぞれの応援する男に
発破をかけだした。
﹁うおおおっ!﹂
ダズはいきなりダッシュすると、酒場の玄関口に置いてあった大
樽を両手でひっ掴み、差し上げた。中々の腕力である。
﹁死ぬうぇええ!﹂
ダズはそのまま大樽を高々と持ち上げたまま、再び走り出した。
ぶおん、と鈍い風切り音が鳴った。
大樽は綺麗な放物線を描いて蔵人の頭上に到達する。
身を乗り出して見ていたルイーゼが両手で顔を覆った。
だが、蔵人は間一髪樽の直撃をかわすと、真正面からダズに向か
って突っ込んでいった。
﹁おせえよ!﹂
蔵人はダズの頭部を自分の両足で挟みこむと、勢いをつけてバク
宙した。
鋭い孤が綺麗に描かれた。
﹁おおお、おろぶっ!?﹂
固定されたダズの脳天が乾いた路上の土に叩きつけられる。
フランケンシュタイナーが見事に決まり、ダズの巨体を沈めたの
845
だった。
蔵人は人々の歓声に片手を突き上げて応えると、目をパチパチ見
開いているルイーゼの前に立った。
﹁あんた、ケガはねぇか﹂
﹁あ、あ、あ﹂
﹁あ?﹂
ルイーゼは蔵人に突如として抱きつくと、頬に熱いベーゼをかわ
した。
再び大きな歓声が人々から上がった。
﹁すごいねえ、アンタは! さ、今日はあたしのおごりだよ、好き
なだけ飲んでってくれてかまわないからね﹂
﹁おおう。すまねえな、んで話があるんですがね﹂
﹁まあまあ、話はあとあと。まずはぐいっといっちゃってよ!﹂
蔵人はあのあとに意識を取り戻したダズにルイーゼへ詫びを入れ
させると、引っ張りこまれるように店の中へと連れこまれた。
ねっとりとした熱い視線が注がれる。
蔵人は意図的に濃い目に作られた酒精を一息で空けると、この店
に来た趣旨を伝えた。
﹁へえ、地図の読める若い女の冒険者ねぇ。残念ながら、ここには
そういった気の利いたソロプレイヤーは来ないよ。あれでしょう、
アンタも組合のネリーって娘にかつがれたんだね。あの子ってば、
なにかっていうとすぐここにお鉢をまわしてくるのさ。確かに、こ
こはソロプレイヤーが集まる酒場だけど、正直なところまともなク
ランじゃやっていけないはみ出し者ばかりがほとんどでねぇ。女の
冒険者がまったく皆無ってわけじゃないけど、そういうちょっと見
846
られる子はほとんど娼婦と変わらないようなものよ。ま、そんなあ
たしも男にブラさがって生きてるもんだけどね!﹂
﹁はは﹂
蔵人が苦笑いをするとルイーゼは陽気にカンパーイ、と叫んで杯
の酒を飲み干した。
薄暗い照明ではわかりにくいが、彼女は彫りの深い顔立ちの結構
な美人だった。
黒のドレスは胸ぐりが大きく開け、スイカのように大きな乳房の
上半分がほとんど露出しているようなものだった。
露悪的な趣味でとても上品とはいえなかったが、酒の入った男を
惹きつけるには充分な餌だろう。
蔵人がグラスを持ちながらジッとプリプリした乳房を鑑賞してい
ると、ルイーゼは退廃的な仕草でしなだれかかると蔵人の胸元に手
を差し込んできた。
﹁おいっ、ちょっと! まだ、昼間だぜ﹂
﹁あんたもわかるだろぅ。ねえ、あたしに寄ってくるのはダズみた
いな豚か金回りの悪い中年ばっかりなんだよお。それにくらべりゃ
あんたは若いし、強い。あっちの方もさぞかしなもんだろう。ねえ﹂
﹁俺はそういうつもりじゃ﹂
﹁かわいいねえ。もしかしてまだ女を知らないんじゃないかい。歳
はいくつ? 十五か十六? まさか、十四じゃないよね?﹂
﹁二十だよ、ちょっと、どこに手を入れてるんだ。うう、俺の暴れ
ん坊将軍が!﹂
﹁へーぜんぜん見えないねえ。若い若い。ふふ。かわいい﹂
ルイーゼがソファをぎしりと軋ませながら伸し掛ろうとしたとき、
戸口から訪いを告げる声が聞こえてきた。
﹁すいませーん、誰かいませんかぁ!﹂
﹁ねえ、名前はなんていうのよ﹂
ルイーゼは訪問者の声を一方的に無視して女豹のような視線で蔵
人をロックオンしている。そこからは、絶対に喰ってやる! とい
847
う強い意志が感じられた。超・肉食系だった。
﹁すいませーん、すいませーん! お留守ですかぁああっ!﹂
﹁⋮⋮でさぁ﹂
﹁さっき居ましたよねえーっ! わたし見てましたよーっ! ルイ
ーゼさん、わたしです。メリーです! 出てきてくださいようっ!
!﹂
﹁⋮⋮ちっ﹂
ルイーゼは激しく舌打ちをすると、ぶつぶつ悪態をついて戸口に
向かった。
突如とした女の豹変を目の当たりにした蔵人の暴れん坊将軍は剣
を鞘に収めた。
﹁メリー、なんどもいっているようだけど、ウチは昼間はやってな
いんだよ、もお﹂
ルイーゼは腰に手を当てて、ぷりぷりしながら声の女性を叱りつ
けた。
﹁なんだ、なんだ﹂
ルイーゼに続いて蔵人がソファから立ち上がった。
空気の動く雰囲気を感じたのか、その女性はどたばたと音を立て
て走り出し、蔵人の目の前で見事にすっ転んだ。
﹁あいたーっ!﹂
両手を投げ出しながら前のめりに顔から床板に突っ込んだ。
ビターンと乾いた音が響いた。
ルイーゼは額に手を当てたまま、苦虫を噛み潰したような表情で
呻いた。
少女はうずくまったままぶつぶつ独りごとをいっている。
全体的に残念オーラが漂っていた。
﹁ううう、なぜわたしはなにもないところで転ぶんだ。しかも先週
と同じ場所で。これは転びの神が命じているのか。グフフ、おら、
転べよメリアンデールよ、と﹂
﹁そんなおかしな邪神はおらん。ほら、平気か﹂
848
蔵人がそっと手を差し伸べるとメリアンデールは白い指をそっと
重ねた。彼女の手は見かけよりもあちこち傷だらけで、常時労働に
従事する者と同じだった。
﹁あはー、あやや、すいません。あっ!﹂
﹁はぁ﹂
少女の年齢はおおよそ十五、六くらいだろうか。
明るい茶色の髪を肩口で切りそろえており、濃いブルーの瞳をし
ていた。
頭には羽飾りのついた丸い帽子をかぶっている。
白いケープを羽織っており、丈夫そうな焦げ茶の衣服を着ていた。
短めのスカートからはスラリと細く白い足が美しい。
手には水色の宝石をはめこんだ小さな杖を持っていた。
﹁あのっ、先程は拝見させていただきました! あ、わたし、錬金
術師のメリアンデールと申します。ずっと、あなたのような方を探
していたんです﹂
﹁お待ち。ちょいと落ち着きなさい﹂
ルイーゼの声など聞こえない様子で、メリアンデールはぐっと顔
を近づけると鼻息荒くいきり立っている。蔵人はちょっと引いた。
興奮しきったメリアンデールは、ぎゅっと蔵人の両手を握り締め
る。
青い瞳がキラキラと輝いている。
鳶に油揚げをさらわれた格好になったルイーゼの瞳がすぅーっと
細まった。
﹁先ほど大男をぱぱっとやっつけた手並み。腕の立つ冒険者の方で
すよね。わたしの、わたしの、相棒になってくださいっ!﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
十分後、頭をお盆でひっぱたかれたメリアンデールと蔵人は店内
の丸テーブルで向かい合って座っていた。
﹁ううう、殴らなくてもいいじゃあないですかぁ﹂
﹁あんたがあたしの話を聞こうとしないからだよ。まったく、いい
849
ところだったのに﹂
愚痴りながらも、ルイーゼがふたりの前にグラスをそっと置いた。
﹁あ、わたし梅ジュース飲めないんでりんごちゃんにしてもらえま
す? 砂糖多めで﹂
しゃあしゃあとサービスメニューにまで文句をつける少女を見て、
蔵人はその図太さにちょっと感動した。
﹁あー、はいはい。気の利かないお運び娘でですいませんでしたね
ー﹂
﹁あ、やだー。ルイーゼさんたら、娘っていうかぁ、もうそおゆう
歳じゃないですよねー﹂
メリアンデールは手のひらをヒラヒラさせながら屈託なく笑った。
ピシッとルイーゼの額に青筋が走った。
間違いねえ、こいつ場の空気が読めないイタイ娘だ。
世間では容姿がすぐれていて、気まわしがよく、頭の回転が早く、
やさしい性格の持ち主であっても、微妙に世間の輪から弾かれてし
まう、残念系女子というものが存在する。
それがこの娘、メリアンデールである。
その場の空気に迎合できない。
人の気持ちを敏感に察することができない。
そして悪気はない。
この三拍子が揃った、スーパコンボを兼ね備えている。
間違いない。かつて俺が合コンで何度か出くわした、超残念系だ。
蔵人は整った小顔をキョトンとさせたまま、足音をわざと立てて
厨房に戻ったルイーゼの後ろ姿を眺めるメリアンデールを見て戦慄
した。
﹁なあんで怒っているのかな、ねえ、えーとなにさんでしたっけ?﹂
﹁クランドだ。ところで、話が唐突過ぎてよく飲みこめないのだが。
最初から、順を追って話していただけないですか﹂
﹁うーん? あやや。えと、えとえと、わたしの中では明々白々な
のですが。ちょおーっとお待ちくださいな。いま、頭の中で整理し
850
ますから。よいしょよいしょ﹂
メリアンデールは自分の頭を両手で押さえ込むと、目をつぶって
話を整理しはじめた。
どうもでいいけど、俺ら初対面だよな。
なに、この一度話したら、もうツレだからよ! みたいなノリは。
ついていけん。
蔵人はくちびるを尖らすと、少女の顔をジロジロと遠慮なしに見
つめた。
ま、かわいいけど俺が求めてる人材ではないなあ。なんか、バカ
っぽいし。
﹁よおおし、まとめましたよクランド。さあ、こころしてお聞きな
さい﹂
﹁あーはいはい﹂
蔵人はじゅーっと梅ジュースを飲み干すと、白い目でメリアンデ
ールのよく動く、唇を見つめた。ピンク色でぷりぷりしている。思
わず、ちゅっとしたくなるセクシーさだ。
﹁おまえ、相棒、わたし、仲間! うれしい!!﹂
﹁なぜに未開地インディアン風にいうのだ。はしょりすぎてわから
ねえ。ふざけてるのか﹂
﹁この子がダンジョンに潜る仲間を探していたのは本当さ。しかし、
なんでいつも昼間に来るのかねえ﹂
ルイーゼはカウンターに戻ると、頬杖をついてけだるげにいった。
﹁酒場はたいていが暗くなってから開けるもんだ。兄さん、あんた
もこの子と同じとは思わないけど、仲間を探すなら日が落ちてから
じゃなきゃダメだよ。もっとも、ここに来るのはダズみたいなロク
デナシがほとんどだけどね﹂
﹁えーと、メリーでいいか。あんた、錬金術師っていってたよな。
確か、あんたみたいなのは排他的だって聞いてたがどうして俺と組
もうと思ったんだい﹂
メリアンデールはもじもじしながらグラスを左右に揺すると、恥
851
ずかしげに両手で顔を覆った。
﹁それは、あれですよ。カッコイイ人だと緊張しちゃうじゃないで
すか﹂
﹁おい﹂
﹁やはは。それは冗談でぇ。えっと、本当は最初から見てたんです
よぉ。ルイーゼがあの男の人に絡まれてるところ。なんとかしよう
って思っているうちに、助けに入ってくれたじゃないですか。しか
も、見ず知らずの相手なのに﹂
﹁そりゃ、美人はほっておかないのが心情でね﹂
﹁アンタ⋮⋮﹂ ルイーゼは目を細めると、火照った顔に手を当てうっとりとした
視線で蔵人を見つめた。
﹁んでんで、腕も立つし、冒険者にしてはすっごくやさしいし。一
度だけ男の方たちとのクランに混ぜてもらったことあるんですけど、
もお最悪でした。人のことを平気で道具扱いするし、散々。わたし、
錬金術師としては駆け出しですし、このシルバーヴィラゴには来た
ばかりで知りあいもほとんどいないし。ダンジョンにはどうしても
潜らないと研究と合成のための素材が確保できないんですよう。死
活問題なんです。お願いします、クランド。わたしの相棒になって
ください。このままじゃ、わたしは、わたしは身を売るハメにぃ。
よよよ﹂
﹁最後の嘘泣きは減点だが。うーん、どうしようかな﹂
﹁ねえ、クランド。あたしからも頼むよ。借りばかり作ってなんな
んだけど、この子本当におっちょこちょいでさ。このままじゃ、洞
窟に潜ったまんますぐにホトケさんになっちまう。あたしはただの
飲み屋の女将で、せいぜいアンタにタダ酒飲ませるくらいしか出来
ないけど、なんとか面倒見てやってくれないかねえ﹂
﹁ううう﹂
﹁お願いしますうう。あ! わたしダテに錬金術師名乗ってるわけ
じゃないですよ。いろいろ素材が集まればお役立ちアイテムとかど
852
んどん作ったげます﹂
﹁ちょっ、服を引っ張るな。袖が伸びるだろうが﹂
﹁ねえーん、おねがいーん﹂
メリアンデールはカウンターに上がると、しどけないセクシーポ
ーズらしきモノを作って流し目を寄越した。なりふり構わぬ行動に、
ルイーゼがそっと目元をハンカチで拭う。泣いてないどいないが。
﹁うっふん﹂
﹁ああ、もおいいよ。なんか痛々しいし﹂
﹁痛々しいっていわれた! わたしの妖艶さが利かない!?﹂
﹁ねえだろが、んなもん。ったく、おまえ地図とか読めるか﹂
﹁あ、はい読めます。実は十階層までの公式地図もってます!﹂
﹁自分の身くらい守れるだろうな﹂
﹁はい、最低限のことは。ほらほら、とーっ!﹂
メリアンデールがカウンターからひらりと飛び降りる。
彼女は、長い脚を惜しげもなくさらしながら空に向かって蹴りを
放ってみせた。
ルイーゼはキセルを吹かしながらグラス片手に遠い目でそれを眺
めている。
﹁⋮⋮とりあえずこれでいいか﹂
蔵人は妥協した。妥協に次ぐ妥協だった。クランを組むことにな
ったメリアンデールとその場で祝杯を上げることになった。三人で
円卓を囲んで次々と酒瓶を空にした。
﹁あはははっ!﹂
メリアンデールはよほどうれしいのか、異常なほどハイピッチで
酒を飲み干していく。
昼間から飲む酒は格別に染みた。
しかも、ふたりともかなりの美形である。女好きの蔵人はとどま
ることを知らない。
昼頃から飲みはじめて気づけばとっくに辺りは暗くなっていた。
店内には三々五々冒険者や街の暇人どもが集まって、流れで第二
853
部になだれこんだ。
﹁なんだか知らねえけど、これで行くぜ!! うははははっ!﹂
蔵人は酒の入った大樽を三国志の豪傑よろしく両手で抱え上げる
とゴブゴブと音を立てて飲み干していく。あきらかに体積以上の分
量である。
﹁ロムレスばんざーい! うわははははっ! オラぁ、男なら飲ま
れるな、飲むんだっ!﹂
酒盛りは世を徹して行われ、その日ルイーゼの酒場から喧騒が尽
きることはなかった。
﹁うえええ、気持ちわりぃい﹂
朝もやの中、蔵人は誰もいない通りをひたひたと歩いていた。
さすがに昨晩は調子に乗りすぎた。一五時間はぶっ続けで飲んだ
だろうか、メリアンデールの寝ゲロを始末して気道を確保したとこ
ろまでは覚えている。
あたりを見まわすと見知った場所にたどり着いていた。
夏だというのにひどく気温が低いような気がする。
﹁あれ、ここは﹂
看板には銀馬車亭の文字が見えた。蔵人は下宿に戻ろうと思って
いたが無意識のうちに長く寝起きした場所に立ち戻っていたのだっ
た。
﹁も、ここでいいや。いいかげん限界だぁ﹂
まぶたを擦り上げながら、ふらつく足を前進させる。入口の階段
を直視すると、画像がブレて視界に入った。
﹁ひとつがふたつに、ふたつがみっつに見える﹂
スイングドアへと倒れこむように頭から突っこむ。
854
だが、営業時間外である。
一応中から防犯用の極太の横木を差したカンヌキがかかっていた。
﹁おぐえ﹂
蔵人は扉に強く頭を打ちつけると、目の前でパッと火花が散った
のを見た。
ぬらぬらと頬をあたたかい血が流れていく。
酒精が全身にまわっているせいか、痛みをまるで感じない。
デカイ音と共に、誰かが螺旋階段から駆け下りる音が聞こえてき
た。
﹁だれ、ねえ。もしかして、クランドなの?﹂
怯えるような女の声が耳元で小さくなっていく。
蔵人は虚ろな瞳を閉じると、今度こそ完全に沈没した。
レイシーは明け方近く、銀馬車亭の入口で響いた物音で目を覚ま
した。
﹁なにかしら﹂
寝台の上では昨晩泊まったヒルダがくかーと高いびきをかいて眠
っている。
﹁ねえ、ちょっと。起きてよ、ヒルダ。いま、下でなにか音がした
のよ﹂
ヒルダはううんとむずがると、枕を股の間に挟んでレイシーの腕
を払った。長い金髪がばらけて顔を埋めている。どうやら意識下の
レベルで脳が起床を拒否しているようだった。
﹁んもう。薄情もの。あたしが乱暴されたら呪ってやるからね﹂
レイシーはヒルダのスタッフを握り締めると、下着姿で階段を降
りていった。
855
出来るだけ音を出さないように忍び足で進むがいかんせん年代も
のだ。
ギシギシと木目の浮いた床板が軋んだ音を立てる。
レイシーはスリッパを放ると、裸足になってすり足を使った。
よし、幾分マシね。
さすがに連日連夜の痛飲はマズイだろうと、昨晩は店でも飲酒を
自重した。そのおかげか、今朝は睡眠時間がいつもより少ないのに
頭の中がクリアだった。ヒルダから拝借した宝石の嵌めこんである
スタッフは殴ってよし投げつけてよしのちょっとした鈍器だ。
﹁たあ、たあぁ! こうかな、こうかな?﹂
歩きながらスタッフを振って侵入者を撲殺するイメージを強く脳
裏に描く。
︱︱レイシー、勝負ってのはな。最初に躊躇したほうがたいてい
負けるんだ。敵を見たら感情を忘れろ。相手を泥人形だと思うんだ。
蔵人のいましめを思い出す。
﹁絶対、絶対この店を守るんだ。ここにいつでもクランドが帰って
これるように、あたしが頑張らなきゃ﹂
レイシーが二階の吹き上げ口から階下を見下ろすと、肉を打つよ
うな音とくぐもった声が聞こえた。
瞬間的だったが、確かに聞いたのだ。
レイシーはスタッフを投げ捨てると、螺旋階段を一気に走り降り
た。
入口のドアは蔵人がつけてくれた頑丈な樫のカンヌキがかってあ
り、その裏に人が倒れているのが見えた。
﹁だれ、ねえ。もしかして、クランドなの?﹂
勢いこんでカンヌキの横木に手をかけた。
﹁んん、んぎぃい﹂
なんという重さなのだろうか。レイシーは重さに顔をしかめなが
ら分厚く四角いそれを一気に引き抜いた。
そうして、いままでどんなに探しても見つからなかった男がそこ
856
に横たわっているのを見つけたのだ。
﹁は、ああ、はあっ﹂
どっどっと心臓がすさまじく早くなっていくのを感じる。見たと
ころ酔っ払って頭を打ちつけたのだろうか、いつも通りの日常がそ
こにあった。
なにも感じないようにしようと思っていた。それこそ、蔵人が申
しわけなさそうな顔をしておずおずと店に入ってきたら、どちらさ
までしたっけ、くらいは皮肉ってやろうかと夢想した。
だが、もうだめだ。この男の顔を、体温を、そばで感じとってし
まえばもうなにもいえないのだ。惚れた弱みといえばそれまでだが、
目の前の男の存在がいとおしくてたまらない。
﹁クランドぉお、なんで黙って出て行ったりしたのよぉ。ばかぁ、
うそつきぃ﹂
レイシーは横たわった男を引き起こして壁にもたれさせると、そ
の広い胸に抱きついた。
とくとくと、鼓動の音が聞こえてくる。感極まって、彼のくちび
るに吸いついた。
カサカサして酒の匂いがむっとした。それすら、いとおしいのだ。
﹁もう、どこにいかないでね。ずっとそばにいてね。なんでもする
から、どんなことだってしてみせるから﹂
レイシーは蔵人の伸びた前髪に指を通すと、もう一度深く唇を奪
って涙を流した。
だから、その姿を冷えた瞳で見つめているもうひとりの存在には、
とうてい気づくことはできなかったのであった。
857
Lv55﹁露見﹂
蔵人は意識を徐々に覚醒させながら寝返りを打とうと身をよじら
せた。
﹁ほへ﹂
間抜けな声がもれる。おかしい。指先が固定したようにピクリと
もしない。目を開けようとするが、ニカワのように目やにがまぶた
に張りついて剥がれない。
おいおい、酔ってる場合じゃねえぞ、俺!
呻きながら身をゆすると、あたたかい布切れがそっと目元にやさ
しく当てられる。
感覚的に細く長いものが指だと理解した。
鼻先を甘い匂いが漂う。若い女のものだと確信した。
﹁うへへ﹂
なにがおかしいのか自分でもよくわからないが、蔵人は薄ら笑い
を浮かべると自然に半勃起状態になった。
ほこほこした蒸気が徐々に遠ざかっていく。
張りついた目やにが、誰かの手によって完全に除去されたのだ。
﹁んげっ!?﹂
目を見開いて驚いた。
鼻と鼻とが触れあうくらいの距離に冷たい金色の瞳がじっと蔵人
を直視していた。
ヒルダである。
858
﹁なんだよ、ビビるじゃねえか﹂
乾いた声を出すと喉の奥がヒリついた。痛みに顔をしかめる。
彼女は氷のような視線のまますっとはなれると、距離を置いて佇
立した。
すぐそばにはレイシーがうつむきがちに寝台へと腰かけているの
が見えた。
﹁だっ! んんん、なんだあこりゃあ!?﹂
立ち上がろうとして気づいた。手足が椅子へと鎖でぐるぐる巻き
に縛られている。
完全に身動きを封じられていた。
椅子の背もたれに結えられた両手首に全力を込める。
﹁ふん、ぬぐぐ﹂
外れん。
半ば理解していたが、戸惑いの方が大きかった。
冷たく重い金属の量感が手首にずっしりと伸し掛ってきた。
わざと力が入らない特殊な拘束方法で縛られているのである。
足首も椅子の前脚へと太い荒縄で縛られ、ご丁寧に蔵人の胴体は
鉄の鎖で幾重にもグルグル巻きにしてあった。大きくあえぐと、胸
元の鎖の輪がじゃらりと音を立ててゆれた。
﹁ふんぎぃいっ。はっ、ほっ。んむむむ。ダメだ。おい、こりゃい
ったいぜんたいどういうことなんだよぉ! ヒルダ、レイシー!﹂
﹁どういうこと﹂
顔を伏せていたレイシーがか細い声で応えた。
彼女の長い髪は幽鬼のように前へと流れ落ちており表情が見えな
い。
屈託のない明るい性格だった彼女の姿はそこになかった。
ケツの穴がきゅっとすぼまり、背筋が薄ら寒くなった。
怯えながらヒルダに視線を向けると、彼女は無機物を見るような
醒めた瞳をしていた。
﹁昨晩はずいぶんとお楽しみのようで﹂
859
ええと、もしかしてこれってピンチってやつですかねぇ。
酒精の混じった汗が額にどっとあふれた。
やばややばい、なにがやばいって思い当たることしかないことが、
よりやばいのだ。
引きつった表情のまま身体をこわばらせていると、近寄ってきた
ヒルダがほっそりとした指を伸ばして頬に触れた。
ひんやりとした指先が伸びきった無精ひげをカリカリとひっかく。
目と目があう。なまじ整った容姿なだけに、ビスク・ドールのよ
うな精巧さを思わせた。
つまりは非人間的なものに感じる違和感だ。
彼女の感情が読めない。陰嚢がきゅっと収縮した。
﹁クランドさん。自分の胸に手を当てて考えてみてください。あな
た、今日までどこでなにをしてらっしゃったのですか? 私たちふ
たりがどれだけ心配したと思っているんですか﹂
﹁うへへ、ごめんちゃい﹂
おどけた返事を聞いたヒルダの表情が壮絶なものに変わった。
蔵人が身体を拘束する鎖を軋ませながら身体をのけぞらせると、
ヒルダの瞳はさらに大きく見開かれて、大粒の涙がボロボロとこぼ
れ出した。
﹁私のこと愛してるっていってくれたじゃないですかぁ﹂
﹁え、あ、ええええぇ!?﹂
そんなこといったっけ?
寝台に腰かけていたレイシーがわっと顔を覆って火がついたよう
に泣き出した。
髪を振り乱してシーツをかきむしりはじめた。
ヒルダは深紺色の修道衣を波打たせてその場にしゃがみこむと、
床板に顔を押しつけながら両手をどんどん打ち付けながら悲痛に満
ちた叫びを上げた。
﹁あああああっ、裏切ったぁ! 私のこと裏切ったんだああっ!!﹂
﹁ずっとそばにいるっていってくれたのにいいっ!! 愛してるっ
860
ていったあああっ!! 嘘つきいいいいっ! あたしのいちばん大
事なものあげたのにいいいっ!﹂
ヒルダに続けてレイシーが叫ぶ。
蔵人はオロオロしながら顔面に滝のような汗をどっと流した。
﹁私だって初めてを捧げたのにいいっ!! くやしいっ!!﹂
なぜ、ばれたし。
蔵人は蒼白の表情のまま荒れ狂うふたりの女性を見ながら、冬の
冷たい海を思った。どこまでも蒼く、重たげで、どこまでも深い底
に落ちていく気分だった。
だが、現実は変わらない。
﹁落ち着けし。レイディたちよ﹂
﹁うるさーい!﹂
﹁んぶっ﹂
蔵人は投げつけられた枕で顔を打つと、目を白黒させて押し黙っ
た。
﹁ばかっ、ばかっ、ばかっ!﹂
ヒルダが金属的な声を上げながらヒステリックに拳を胸元に打ち
つけてくる。彼女の拳が鎖に当たってじゃりりと断続的に音が鳴っ
た。
﹁おい、ヒルダ。手ェ怪我するぞ!﹂
﹁うるさいし! やさしくするなああ、裏切りものおおおっ!﹂
﹁はい、すいません。黙ってます、ぼく﹂
ヒルダもレイシーもある程度泣き疲れてくると、いったん作業を
中止して涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れた顔を上げて蔵人を見つめ、
再び泣き喚く作業に没頭した。
﹁うううっ!﹂
﹁おいっ、ちょっと待てって。うわああっ﹂
寝台に顔を埋めていたレイシーはさっと顔を上げると椅子に縛り
つけられた蔵人に殺到した。身動きの出来ない男に逃げ場はなく、
そのまま椅子ごと後方に倒れこむ。濡れた顔が押し付けられて生あ
861
たたかい感触が頬に広がった。
﹁ずうーっと心配してたんだからっ! でも、こんなのってないよ
!﹂
レイシーは蔵人の胸に顔を埋めつつ、鋭く叫んだ。
﹁しゅ、しゅ、しゅいません﹂
﹁謝ったって遅いよおおっ、ばかっ、ばかっ、ばかあっ!﹂
﹁い、いつばれたんだな!﹂
﹁いまさっきですよ! クランドさんに寄り添うレイシーを見て確
信しました! でも知りたくなかったぁああっ!﹂
﹁いだっ、いだいですっ、やめてください! ヒルダさん!﹂
ヒルダは蔵人の頬をぎゅうぎゅう引っ張ると小さな手のひらで叩
いた。
じ、地獄だ。これは。
蔵人は目を閉じて暴虐の嵐が吹き去るのをじっと待った。
どんな哀しい物語も必ず終わりというものがやってくる。
経験上、そんなことを知っていた。
ヒルダとレイシーのなすがままにされつつ刻が過ぎ去るのをじっ
と待った。
﹁お、終わったか﹂
蔵人は椅子ごとひっくり返りながら、まだ鼻をすすり上げるふた
りを見て、ほっとため息をついた。ふたりは顔を寄せあってかなり
の間、密談をかわしていた。もう感情が激することなく、淡々と話
しあっているふうに見えた。
真っ赤な瞳をした、ヒルダがレイシーの肩を支えながら近づいて
くる。蔵人は精一杯媚びた笑顔を作ってみせたが効果はなかった。
﹁罰を与えます﹂
﹁え﹂
﹁ふたりで相談して決めました。私たちふたりを弄んだクランドさ
んに罰を与えます。ね、レイシー﹂
レイシーはヒルダの言葉にうなづくとすんすん鼻を鳴らしながら、
862
恨みを籠めた視線でジッと睨みつけている。
﹁ええーと、それはどういうことでしょうか。えええ、ちょっと待
ってください。ぼく、ちょっと、このまま放置なのでしょうか。無
言で遠ざかるのはやめて欲しいんですが﹂
ふたりは蔵人の言葉を無視したまま扉の向こうへ姿を消した。
おい。
ふたりに放置されてからどれだけの時間が経過したのだろうか。
密閉された室内はグングン気温が上昇し、もはや耐えようもない
暑さになっていた。
﹁あじいぃ、重てぇえ。腰いてぇえ。ションベンしてぇ﹂
この気温ならおおよそ昼くらいだろうと判断出来たが、だからと
いってなにかが変わるわけでもない。懲罰は未だ実行中なのだ。銀
馬車亭の営業は日が落ちてからであり、助けを呼ぶなら人が一番多
い時間に賭けるべきであろう。
もっとも、この状態で店を開けるとは考えにくい。下宿に残した
ポルディナのことも心配ではあるが、今日はあのおかしな自称錬金
術師を名乗る女と会う約束をしている。特に地図を持っているとい
う部分は重要だ。
﹁クソッ、俺のナイストーキンであのばか女の地図を手に入れる予
定だったのに。計画がぁあ。あっ、ちょっ、やばっ!﹂
蔵人が下っ腹に力を入れると膀胱は破裂寸前になっていた。
すさまじい尿意が立て続けに襲ってくる。
﹁ふうっ、ふううっ、この年でおもらしなんてシャレにならんぞお
おっ! うおおおっい!
俺が悪かったからぁあ、ジョロジョロだけさせてくれええっ!﹂
863
脂汗をだらだら垂らしながら苦悶する。後ろ手に縛られた腕を懸
命に動かそうと力を入れるが、ピクリともせず、わずかな隙間すら
できないのだ。
蔵人が、もお我慢するのやめちゃおっかな、と人間の尊厳を手放
そうとしたとき、扉がかちゃと静かに音を立てて開いた。ヒルダの
小柄な身体が扉のはしからはみ出して見えた。
こちらをうかがうようにして、顔を半分だけ出してじっと覗き込
んでいる。昆虫学者が虫を観察するような低い温度を肌で感じた。
﹁のおおっ、女神ヒルダよおっ、ぼくちゃん反省したからああっ、
トイレいかせてっ!﹂
﹁トイレ?﹂
﹁そうそう﹂
ヒルダはにっと笑うと、素早く扉を閉めた。
ノブの締まる無骨な音が響く。
蔵人の表情が絶望に染まった。
﹁うおおおい、そりゃないよお!﹂
﹁はーい、うっそー﹂
絶叫を上げた途端に扉がすぐさまパカッと開いた。
にやにやしたヒルダは白い歯を見せながら、小走りに近づいてく
る。
蔵人の目に泣きが入った。
﹁おい、勘弁してくれよもお﹂
﹁あららあ、ぜんぜん反省してませんねぇ。私とレイシーの処女を
喰い散らかしたくせに。この野獣め!﹂
﹁たいへんおいしゅうございました﹂
﹁へえー﹂
ヒルダの金色の目がすっと細まった。
修道衣をひるがえして足が突き出される。
﹁ふごっ!?﹂
蹴りは見事に蔵人の下腹部に埋まるとヒルダの顔が愉悦にほころ
864
んだ。
﹁おっ、ちょっ、これ以上は、本当に、マズイって﹂
﹁あららー、ひとでなしの浮気者のくせに口答えするんですかぁー﹂
ヒルダは鼻歌混じりに蔵人の下穿きをズリ下ろすと、激しい尿意
でパンパンになったものが顔を出した。彼女の目元にさっと紅色が
刷かれる。細い指先が硬くなったテントにそっと添えられた。
﹁クランドさん、出したいんですか? 人前でおしっこじゃばじゃ
ば出したいのぉ?﹂
﹁くっ、うっ。⋮⋮ちょっと待てって。俺にそういう趣味は無いっ﹂
﹁うりうり﹂
﹁ほおおっ、ちょっ! やめてくれよおっ、放尿プレイとか俺には
難易度高すぎですぅうっ!やめろっ、このっ、ドエロシスター! 破戒僧! 淫乱メス豚娘がぁあああっ! やめてぇえっ、先っちょ
ホジホジしないでええぇ!﹂ 蔵人の目の前で激しいスパークが飛び散った。
脳裏にはいつか見た黒部ダムが木っ端微塵砕けて崩壊した。
ああ、さよなら。俺の人間性よ。
ダムは、見事なほど、完膚無きまでに決壊した。
﹁あははっ!! あー、なんかすっごく笑える﹂
ヒルダはビクビクと余韻に震える蔵人のモノを指先で弾いた。
許すまじ、ヒルダ。
蔵人は復讐を誓ったまま心の仮面を深くかぶり直した。
﹁⋮⋮許してよおお﹂
﹁もおお、本当に反省してるんですかあ﹂
﹁ああ、だから早くほどいてくれよ、これ﹂
羞恥責めが終わったあと、ヒルダの態度は驚くほど軟化していた。
﹁まだ許したわけじゃないですけどぉ、お話くらい聞いたげますか
らねー。はいはい、はいっ、よいしょ﹂
ヒルダが鼻歌混じりに拘束を開錠した。重くて太い鎖と縄から解
き放たれると、蔵人は手足を伸ばして背骨をバキバキ鳴らした。放
865
尿で汚れた下穿きとズボンを抱えたヒルダと視線がかち合う。
蔵人は片目でウインクをすると、裸足のまま一気に床板を蹴って
駆け出した。肩口から力任せに扉にぶち当たるとそのまま、螺旋階
段を駆け下りていく。
一瞬、あっけにとられたヒルダであったが、すべてを理解すると
抱えていた衣類をその場に叩きつけ叫んだ。
﹁に、逃げたー!!﹂
﹁自由への逃走だ!!﹂
蔵人の鍛えに鍛え抜いた足は早かった。ヒルダが追いつこうと銀
馬車亭の表に出る。
既に、その時点で蔵人の後ろ姿は大通りの向こう側で豆粒のよう
になっていた。
﹁どうしたの﹂
﹁逃げられました! このおおおっ﹂
ヒルダは裾を持ち上げると素早い動きであとを追い出した。状況
のつかめていないレイシーが戸口で目を見開いて呆然としている。
とりあえず。逃げる。
そして、家に帰ってポルディナのモフモフに顔を埋めてそれ以降
のことを考えよう。
蔵人は奇妙な妄想にとり憑かれながら外套の前をあわせて疾走し
た。
だが、この格好はかなり走りにくいのだ。
﹁待てえええ! こら、待ちなさあああいい!!﹂
﹁いやだ! だって拷問する気だろおおっ!!﹂
﹁しない、しないから! ちょっとだけしかぁ!!﹂
ラピッド
﹁やっぱするんじゃねええかあ!!﹂
﹁⋮⋮疾風の靴﹂
﹁無言で呪文を唱えるなあぁああっ!!﹂
敏捷値を向上させる神聖魔術を使ったヒルダの姿が後方へとグン
グン迫ってくる。
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せり上がってくる恐怖を押し殺して両腕を強く振った。
だが、元々の耐久値がかけ離れていたのだろう、しばらくすると
距離を詰めていたヒルダは徐々にはなされていった。大通りの直線
ルートを曲がりきれば、異常に複雑な路地裏に到達する。
蔵人が逃げきれる、と確信した瞬間、ヒルダが叫んだ。
﹁誰か! その人、私をレイプしました!!﹂
﹁なあああっ!?﹂
あまりのセリフに蔵人が速度を落とした。道行く人々がギョッと
した視線で振り返る。
さもありなん。
ヒルダの深紺色の修道衣はところどころがよれており、頭部を覆
うウィンプルはうしろにズレ落ち金髪がはみ出していた。素足のま
ま駆けたせいか、生白い太ももも露わになっている。その光景は良
識ある人々にとって暴虐を受けたか弱いシスターそのものにしか見
えなかった。
﹁こいつ、尼さん相手になんてェことしやがる!﹂
﹁おい、てめぇら! 手伝えや! こんな野郎を野放しにしちゃ、
神さまに申し訳が立たねえ!﹂
﹁おい! 棒っきれ持ってこい! 人も集めろや! 逃がすんじゃ
ねえぞ!﹂
﹁おい、ちょっと待て。その女のいってることは全然違うっての!﹂
蔵人はつかみかかってくる敬虔なロムレス信徒たちを突き飛ばし
ながら抗弁した。
だが、素朴な街の人々は涙を流しながら訴えるヒルダを信じきっ
ているのか、目に義憤の炎をたぎらせながら勇猛果敢に打ちかかっ
てくる。三人目を投げ飛ばしたところで、あわせていた外套の前が
パックリ開いてアレが露出した。遠巻きにしていた街娘たちは黄色
い声を上げて逃げ惑う。年増の婦人たちは、人垣を作って蔵人のモ
ノを論評しはじめた。
﹁助けてください! また犯されちゃいます!﹂
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﹁またって、なんだっ。またって!?﹂
ヒルダは座り込んだまま続けて叫んだ。
﹁逃がさないでください! この人と一緒になって還俗します!﹂
﹁責任取れよ、男なら!﹂
﹁そうだあ、尼さんがかわいそうだろうがよお!﹂
﹁本当はヤだけど、これも神のお導きだと思うことにします。街の
皆さまがた。私はその罪深い男に生涯かけて尽くして正道に立ち戻
らせてみせます。いわば、殉教です! さあ、逃がさないでくださ
いまし!﹂
ヒルダの扇動にヒートアップした群衆は、自分たちが物語の登場
人物になった気分で興奮しきり前後の見境もなく蔵人に組みつきは
じめた。
﹁お、おまえなぁ﹂
蔵人は向かってくる男のひとりを首相撲からのチャランボをかま
して放り投げると、いままでにない焦燥感に駆られながら血路を開
きはじめた。
髪を引っ張られる、頬を引っかかれる、足に噛みつかれる。
もみくちゃにされながら大通りを抜けて逃げ切れたのはほとんど
奇跡だった。
蔵人は人気のない場所にまで来ると、壁に背を預けて荒い呼吸を
整えた。
全身は水を打ったように汗みずくである。
﹁ちくしょう、あいつらなにもわかってねえ。俺は、ただやりたい
ようにやっただけなのに!!﹂
それが一番の問題なのである。
868
﹁クランド﹂
﹁ひうっ!? だ、誰だ!﹂
びくつきながら振り返ると、そこには先程までいなかったレイシ
ーの姿があった。
彼女は苔むして朽ちかけた板塀の脇にひっそりと影絵のように立
っていた。
なんだよ、おっかねぇ。この俺としたことが、ビビってしまった。
まあ、最近ではよくあることなのだが。
レイシーはじっとうつむいたまま顔を上げようとしない。蔵人が
外套の前をあわせてゆっくり近づくと怯えたように身を縮こませた。
﹁レイシー、さん﹂
つい他人行儀に敬称をつけてしまう。それからレイシーの瞳をジ
ッと正面から覗きこんだ。先程までのギラついた狂気は消え失せ正
気が宿っている。それどころか、潤んだ目尻には盛り上がった涙が
いまにもこぼれ落ちそうに震えていた。
﹁ねえ、いっちゃやだよ﹂
﹁え﹂
レイシーは飛びつくように抱きついてくる。
蔵人は慌てて抱きとめたが反動でその場に尻餅をついた。
顔を上げた彼女と視線が交錯する。
レイシーは両目からつうと涙を糸のように流すと顔をクシャクシ
ャにして両手を両脇にまわしてきた。
﹁もしかしてもう怒ってないとか⋮⋮﹂
蔵人が都合のいい妄想をつぶやくと、即座にレイシーが喚いた。
﹁怒ってる! でも、クランドがいなくなるのは、や、や、やなの
おおおっ!! 戻ってきてええええっ!! ずっといっしょに居て
よおおぉおっ!﹂
レイシーの顔を押し付けた胸元がじわじわと涙で濡れていく。蔵
人は鳴き叫ぶ彼女の身体を強く抱き返すと地べたについた尻が冷た
くなっていくのを感じた。
869
﹁落ち着けよ、どこにもいかねえから﹂
﹁逃げたあ﹂
﹁逃げるだろう、それは﹂
﹁逃げちゃやああぁ﹂
﹁無茶いうなよ。はああ﹂
蔵人が深いため息をつくと、怨むような視線でレイシーが見上げ
てくる。
﹁ヤなんだあぁあ﹂
﹁なにがだよ﹂
﹁あたしのことキライになったんだぁあ。だから、奥さんのところ
に帰るつもりなんだぁあ﹂
﹁なんのことをいってるんだ、おまえは﹂
﹁あたし知ってるもん。クランド、奥さんがいるんだぁあ。あたし
のことは遊びだったんだあ﹂
﹁は?﹂
まったくもって理解できない思考回路だ。蔵人はレイシーをなだ
めすかして言葉の意味を汲みとった。どうやら彼女がいうには蔵人
の外套に正妻の存在をほのめかす一文が縫いこめられていたという
ことだった。
﹁ねえ、正直に答えてよ。奥さんのところに帰ったりしない?﹂
﹁あー、まあそういう話だったのかあ﹂
シズカよ。なにがしたかったんだよ、おまえは。
﹁質問に、答えて!﹂
なにをどう答えても彼女はきっとお気に召さないだろう。蔵人の
脳裏に絶望の二文字がよぎったとき、路地の隅から近づく気配を感
じ取った。
口をへの字にしたヒルダがゆっくりと近づいてくる。やはりこち
らも顔を伏せがちにしているので表情が見えない。頭を上げて天を
望む。建築物によって四角に切り取られた青空がやけに目にしみる。
こういう日こそダンジョンに深く潜るのがよさそうだと、胸の内
870
でつぶやきながら立ち上がる勇気が湧いてくるのを静かに待ち受け
た。
871
Lv56﹁メリーのアトリエ﹂
なにごとにもタイミングというものが必要である。チャンスをと
らえる感覚は、あらゆる成功者が本能的に持っているもっとも重要
な勘どころだ。実力が伴っており準備が万端であっても、いわゆる
逃した機をとり戻すことは不可能である。
天、地、人。
天の時を逃さず、地の利をつかみ、人の和を得る。
英雄になるには欠かせない要項である。
銀馬車亭の二階、レイシーの私室の寝台の上で、三人の年頃の男
女が身体を寄せあってやや遅い昼食を摂っていた。
良識者が見れば目を背けたくなるような甘ったるい光景だった。
ひとりの男にふたりの女性がかしずくようにしてぴったりとくっ
ついている。
汗ばむような陽気の中で、一個の塊と化した三人は淫靡な空間を
形作っていた。
﹁はい、あーん﹂
﹁んぐっ﹂
ヒルダはカスタードの入った椀から黄色い半固形物をすくうと蔵
人の口へと甲斐甲斐しくも運んでいる。
とにもかくにも、死ぬほど甘ったるいのだ。
現代の地球とは違って、中世に近い文明程度のロムレスにおいて
は、高級品イコール砂糖の方程式がまかり通っていた。
上質の料理といえば砂糖がぶち込まれている。
そもそも、庶民の口の中には甘味のあるものといえば、果糖や甘
872
づらといわれる蔦から絞った樹液を精製したものくらいしかない世
界だ。日本でも江戸時代では砂糖は薬種問屋で売買されており、薬
の一種とされていたくらいである。
蔵人の機嫌をうかがおうとご馳走を出すとなれば、とっておきの
砂糖をぶちまけた甘々料理の一択しか考えつかない彼女たちのいじ
らしい努力である。
レイシーは部屋に入ってから、蔵人の腕にぴったりとすがりつく
と身体をくっつけたままじっとしていた。
﹁んんん、喰いが悪いですねえ。も、おなかいっぱーいですか?﹂
ヒルダはさじを舐めながら怨ずるような目つきで蔵人をじっと見
た。
﹁うーん、俺はもう腹いっぺぇだ。残りはふたりで食べてくんなぁ﹂
﹁あ、はーい﹂
ヒルダはさじとカスタードの入った椀を手渡してくると、ぱくっ
と小さな口を開けた。
蔵人は顔を引きつらせながら、しばし葛藤すると激甘物体をすく
って彼女の口を養った。
﹁あ、あーん?﹂
﹁あーん﹂
ヒルダは甘ったれた顔でさじを咥えると、口内でスイーツを咀嚼
する。目尻を下げながら、両手を頬に添え、くふふと笑みをもらし
た。
﹁まあ、なんというか﹂
実際問題、美少女ふたりをはべらしながらこうしていちゃつくの
は楽しい。楽しいながらも胸の内に広がる懸念がなくもなかった。
ポルディナとメリアンデールの存在が頭の隅にチラついて消えな
いのだ。
ちょっとした心掛りに気をとられていると、袖をちょいちょい引
かれ目線を動かす。
そこには、寂しげな瞳をしたレイシーが、つつましやかに口元を
873
指差し、自己主張をしていた。
﹁あたしも﹂
﹁ああ?﹂
﹁あたしも、あーんして欲しいな﹂
﹁あー、はいはい。ちょっと待ってねー﹂
反対側の脇からヒルダが﹁どーん﹂と叫び抱きついてきた。蔵人
は椀を確保しながら、カスタードクリームをすくおうとすると、レ
イシーが無言のまま首を左右に振っていやいやをした。
﹁それじゃ、ヤ﹂
﹁はぁ﹂
﹁ヤ、なの﹂
﹁それではいったい、わたくしめはどのよーにいたせばよいのでし
ょうか﹂
﹁くちで﹂
蔵人が眉を細めるとレイシーはさらにぎゅっと身を寄せて小鳥の
ように可憐なくちびるをパクパクさせた。
ああ、そうかい。口移しですね、そうですかお嬢さまぁ。
蔵人は半ばヤケになってカスタードを飲みこむと、レイシーの顎
を引き寄せてくちびるをあわせた。
﹁んんっ、んむうぅ﹂
口内で咀嚼しドロドロとなったクリームを少女の唇からそそぎ込
んでやる。
レイシーは、うっとりとした表情で唾液で攪拌されたそれを口移
しで受けとると、細く白い喉を鳴らして嚥下した。
それを見ていたヒルダが顔を真っ赤にしてせがんでくる。ふたり
の少女へと交互に口移しでスイーツをそそぎこむたびに、蔵人は自
分が親鳥になったような気分になった。
蔵人は銀馬車亭に戻るとふたりをぎゅっと抱きしめ、それこそ思
いつくままの言葉で自分のふしだらな行状を糊塗することに成功し
たのだった。
874
最終的にレイシーのスタンスは、﹁いっしょにいてくれるなら、
それでいい﹂というものであり、ヒルダに至っては﹁かわいがって
もらったのでスッキリしました﹂的な身も蓋もないお言葉を頂戴し
た。ふたりともこれ以上しつこくして蔵人に逃げられよりは、と妥
協したのだろう。所詮は惚れた方の負けである。
微ハーレムの誕生の瞬間だった。
こうして永遠にイチャイチャしていられれば閉じた世界の中で退
廃的な快楽に耽り続けることも可能ではあったが、世界はまだ蔵人
の脱落を認めていなかった。
日が落ちる直前まで、ふたりに身体的よりも精神的なつながりを
満たした蔵人は寝台を降りると身支度をはじめた。途端に、レイシ
ーとヒルダの顔に緊張が走る。特に、レイシーの表情には怯えが色
濃く浮かんだ。
﹁出かけるんですか? せめて今日くらいは﹂
﹁どこか、また行っちゃうの?﹂
蔵人はふたりを同時にギュッと抱き寄せると、髪の毛に顔を埋め
て匂いを吸いこんだ。
むせ返るような女性独特の匂いに脳味噌が芯まで痺れる。
﹁しかたねえだろ。ちょっと、所用がな﹂
﹁やだよおお﹂
﹁嫌ですう﹂
﹁我慢してくれよ、な﹂
﹁行き先は? せめて行き先だけでも教えてくださいよお﹂
いえるはずがない。
ギルド
蔵人は喉から首をもたげた慈悲のこころを叩き潰して答える。
﹁とりあえず冒険者組合だ。それから、状況によっては、いつ帰る
とは断言できない﹂
レイシーはひう、と息を呑みこむと、うるんだ瞳で口をへの字に
した。ヒルダも腰にすがりついたままはなれようとしない。それか
ら、出発するまでにさらにかなりの時間を要した。去り際に、ヒル
875
ダがとたとた走り寄るとそっと耳打ちをしてくる。
﹁もし、私とレイシー以外の女に手を出したら、そのときは⋮⋮﹂
それ以降の言葉は恐ろしくて聞けない蔵人だった。
夕日が沈む直前には下宿へとたどり着けた。蔵人は肩で息をしな
がら腐りかけた階段を駆け上がっていく。
﹁とっ、たっ、はっ。着いたー﹂
﹁あ⋮⋮!﹂
部屋の前にはうつ向きがちになっていたポルディナが儚げな表情
で立ち尽くしていた。
﹁ご主人さま!﹂
ポルディナのしっぽは千切れんばかりに左右へと大きく振られて
いた。
頭上の犬耳は完全にうしろに伏せられペタっとしている。
﹁おう。悪いな、遅くなって﹂
蔵人がいうが早いか、彼女は疾風のように駆け出すと胸もとへぶ
つかるようにして飛びこんできた。きゅうんきゅうん、と甘えるよ
うに鼻声を漏らしている。
ポルディナは精緻に整った美貌を歪めながら黒真珠のような瞳い
っぱいに涙をためて鼻先をこすりつけてくる。まるで甘えきった子
犬のように見る者のこころをせつなくした。
﹁もう、てっきり二度とお帰りならないものだと。ご主人さま、な
にか私に粗相がありましたでしょうか。ご希望に沿うよう必ず直し
ますので、どうか、どうか、ポルを捨てないでくだしまし﹂
﹁ポルディナ⋮⋮﹂
顔を上げた彼女を直視して身体が硬直した。ポルディナの目をよ
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く見れば真っ赤に充血し目元は涙のあとで白くふやけていた。
手を伸ばして頭を撫でると、安心しきったように再び甘ったれた
鼻声をもらして小さな頭を擦りつけてくる。蔵人のこころに強い庇
護欲といとおしさがどっとあふれた。
﹁ごめんな、帰りが遅くなって。さびしかったか﹂
﹁さびしいです。私は、ご主人さまなしでは、もう。もう﹂
強いかな、と思う程度にぎゅーっと抱きしめてやると、向こうも
負けじと抱き返してくる。
蔵人がすっきりとしたあごに手をかけて持ち上げるとポルディナ
は目を伏せた。
真っ赤なくちびるを貪るように吸った。
﹁んんっ⋮⋮﹂
ポルディナはすぅと細い銀の糸を瞳から流すと、長いまつげをふ
るふると揺らした。
ちょうど隣室に帰宅した若い男が凄まじい殺気で睨みつけてくる。
蔵人は優越感に浸りながら鼻先でせせら笑った。
男の顔が激しい嫉妬と悲しみの色で塗りたくられるのを見て、冥
い愉悦に身を打ち震わせる。そして強く思うのだ。奴隷持っててよ
かった、と。
﹁ブルジョワがっ﹂
角ばった顔をした男は職人だろうか一日の疲労が強く顔に出てい
た。
ギ
彼は、いかにも悔しげに舌打ちをすると扉をあてつけのように強
く閉めた。
勝った、なんだか知らないが、俺は人生の勝ち組。
ルド
ずっとこのままでいたいような気もしたが、まだこのあとで冒険
者組合に向かわなければならない。
そっと肩を押すと、ポルディナが名残惜しそうに身体を離す。
その目はなんだか不満そうだ。その態度すら心地よい。
蔵人はいっぱしのジゴロ気取りになりかけたが、頭の隅で数匹の
877
子鬼が自重しろと踊りながら叫んでいる。
人生には慎みも大事。我慢することも覚えなきゃな。
﹁さ、とにかくお疲れでしょう、ご主人さま。中へ﹂
﹁悪い、これからまた出かけなきゃならねえんだ﹂
﹁え!﹂
ポルディナの表情が歓喜の絶頂から一気に地獄の底を突きつけら
れたかのような凄惨なものに変わった。
犬耳がふにゃっと倒れ、太くて長いしっぽがへにゃりと下向きに
垂れた。
わ、わかりやすすぎる。
こころ苦しい、心苦しいが、行かにゃならんのよ、ごめんな。と
胸の内でつぶやく。
﹁そんな顔するなよぉ、俺だっておまえから離れたくないんだって。
後ろ髪引かれるじゃねえか﹂
﹁もうしわけ、ございません﹂
途切れ途切れに口ごもる。
ひとまわり小さくなった彼女の姿を見て、さすがに胸が痛んだ。
﹁でも、でも! せめて、お茶のいっぱいなり喫していかれてはい
かがでしょうか﹂
ポルディナは自分がわがままをいったことに気づいたのか、言葉
尻がどんどん小さくなっていった。蔵人も切なくてたまらなくなる
が、そこまで非情に接することは出来なかった。
だって、ポルディナがいじらしすぎる。
﹁おお、ポルよ。おまえはなんと俺の胸をキュンキュンさせる娘ぞ。
いまのは、かなりキュン度が高かった。ま、ちょっと休むくらいな
らいまさら変わんねーか﹂
﹁はい! 直ちに用意をいたします!﹂
一瞬に生気を取り戻しパタパタと部屋の中に駆けていくポルディ
ナを見て、蔵人は割と本気でメリアンデールのことがどうでもよく
なっていたが、男としてそれは仕方のないことだった。
878
蔵人は後ろ髪を引かれながら家を出ると、メリアンデールのアト
リエに向かった。
約束した時間から大幅どころか半日近く過ぎているが、さいわい
なことに彼女の家の住所は教えてもらっていた。錬金術師である彼
女のアトリエは、中心街をそれた城壁に近い郊外にあった。辺りは
すでに闇に落ちており、どの家にも明かりがともっている。
﹁しっかし、ほとんど知らない男に住所を教えるってどうよ﹂
素朴な人間が多い。個人情報の秘匿も糞もない世界である。
﹁だけど、日本だって情報だなんだっていいはじめたのは最近の話
なんだよね﹂
つい一昔前の日本ですら芸能人の自宅の住所は雑誌に堂々と掲載
されていたくらいである。文化的に未開な異世界人たちにそこまで
機密の徹底を望んでも不可能であろう。
﹁ここだろうな、どう考えても﹂
こじんまりとした一軒家は街からかなりはなれた場所にぽつんと
建っていた。
薄暗い中でもかなり老朽化しているとわかる造りだった。アトリ
エの中からは光が漏れており中の住人がいることを示している。
ハウス名作劇場の登場人物が住んでそうだな。
蔵人は扉の前に立つと訪いを告げた。
しばしの沈黙の後、警戒したような少女の声が返ってくる。
﹁だれ、ですか﹂
﹁おまえが勝手に相棒にした男だよ﹂
﹁⋮⋮わたしのバディはいきなり約束をやぶったりしない。合言葉
をいいなさい﹂
879
﹁秋の日のヴィオロンのためいきの﹂
﹁身にしみてひたぶるにうら悲し。はっ、まさかこの合言葉を知る
者はクランドでは!﹂
扉が開くと同時にメリアンデールが真っ直ぐ突っこんできた。予
想していた蔵人は見事な身のこなしで半身になってかわした。
﹁あべしっ!﹂
メリアンデールは見事に顔から転びそうになるが、鋭い身のこな
しで片手をついてくるりとトンボを切った。
﹁俺が考えたんだから知っててあたりまえだろうーが﹂
﹁避けましたね。ここは抱きとめる感動シーンなのでは?﹂
﹁おまえただ、つま先引っかけてすっ転んだだけだろう﹂
﹁⋮⋮てへ﹂
メリアンデールは片目をつぶって舌を出した。中途半端な容姿レ
ベルの娘がやると小突きまわしたくなる仕草だが、北欧美少女風の
メリアンデールがやるとなかなかさまになっていた。
﹁しっかーし。約束の時間はお昼だったでしょう。いきなりこんな
ことでは、心配でわたしの背中を預けられませんなー﹂
メリアンデールは自分の腰に手を当てながらぐっと身を乗り出し
ていった。蔵人はもみあげを指先でかきながらぼそりと指摘した。
﹁髪。鳥の巣みたいになってんぞ﹂
﹁え、え。えええ、あ、あわわわ。しばし、お待ちくださいな﹂
メリアンデールは指摘された髪に手をやると慌てて家の中に戻っ
ていった。結構な時間が経過して再び蔵人の目の前にあらわれた彼
女の姿は一部の隙もない気合の入った格好だった。
﹁だれ、ですか﹂
﹁そこからはじめんのかよ。時間がもったいないので、お邪魔させ
てもらいまーす﹂
﹁ああん! せっかく、ピシッと決めたのに! って、勝手にひと
りで奥に行かないでくださいっ﹂
﹁おおっ、ここが錬金術師のアトリエか。きっと、夜な夜な怪しげ
880
な作業を行っているのだろう。暗いやつだのう﹂
﹁ほっといてくださいなっ﹂
ちょっとした残念系ではあるがそれでも女性のひとり住まいであ
る。普通の人間なら少しは恐縮して見せるものだが、蔵人はそんな
ことはお構いなしだった。
勝手にテーブルの薬品やビーカーに触る、容器の中身を指ですく
う、しまいにはタンスの中身すらゴソゴソやりだしたところでメリ
アンデールの指導が入った。
﹁ここここ、こらー。勝手にわたしの研究成果をいじるなー! あ
と、そこは下着が入っているのですよ!﹂
﹁ふうん﹂
﹁こらー、うなづくだけじゃダメーって、それはっ!?﹂
蔵人はタンスから引き出したどぎつい赤のショーツを発見すると、
メリアンデールの顔をまじまじと見つめ、ふんと鼻を鳴らした。
﹁ま、おまえが生涯使うことはなかろ。奥にしまい直してあげよふ﹂
﹁聞こえてますよ。いま、わたしはあなたを相棒に選んだことをち
ょっと後悔していますからね﹂
﹁なあに、こんなものは序の口よ﹂
﹁さらっと恐ろしいこといったー!?﹂
﹁まあ、いまのは俺なりの冗談だ。とっと本題に入ろうぜ。そのま
えに、お茶とかないのかよ。はるばるここまで歩いてお喉が渇いた
よ﹂
﹁いま、お茶くらい入れますから。頼みますから大人しくしてくだ
さいよ﹂
﹁あと、お茶請けも忘れんなよ。甘味は控えめにな﹂
﹁なんというか、クランドは心臓図太いですよね。尊敬します﹂
﹁褒めるなよな﹂
881
さすがのメリアンデールも顔を若干引きつらせながら炊事場に向
かった。
かまどに火を入れお湯を沸かす。
ティーポットに茶葉を入れ焼き菓子を探していると、アトリエに
いる蔵人がやけに静かなことに気づいた。まるで来客など居なかっ
たように、しんと静まりかえっている。メリアンデールの胸の内が
ざわざわと騒ぎ出した。
︵なんだろう。なにか、すごくイヤな予感がする。どうして⋮⋮?︶
湧いた湯をポットに移してから、足音を殺してアトリエを覗き込
む。誰もいない。先程までおもちゃ箱に転がりこんだ子どものよう
に、アトリエの道具を勝手にいじり倒していた男の姿が見えなかっ
た。下着類がしまってあるこげ茶色のタンスはすべて引き出されて
中身が散乱していた。まるで暴風雨が通り過ぎたようである。
︵腕が立つからってちょっと信用しすぎちゃったかな。でも、悪い
人には思えなかったし︶
メリアンデールは基本、男性に対し耐性がなかった。だが、蔵人
に対しては最初から不思議と気安く振る舞えたのだ。話してみれば
わかるが、蔵人の言葉の端々には学問に裏打ちされた知性と倫理を
垣間見ることができた。
それは、メリアンデールがルイーゼの酒場で出会った男たちと一
線を画するものだった。
世間から見て冒険者などは食いつめた無法者だという評価が一般
的である。
冒険者にできることは博打と人殺しくらいしいかない。中には、
貴族や上級商人の子弟が名を上げるために所属することはあっても、
それらはあくまで手慰みだとされていた。
そもそも女の身でありながらダンジョン攻略の仲間探しを行うこ
とは容易ではなかった。
882
金を払って雇うならばいくらでも選択肢はあるのだろうが、メリ
アンデールにはそこまで潤沢な資金はなかった。せいぜい自分に出
来るのは入手した素材でアイテムを作成し、わずかな金に変えるこ
とくらいである。
もっとも女ひとりで低階層を潜るのであれば、手に入る素材もた
かが知れているというものだ。力があって、信頼がもて、公正なパ
ートナーを男性に求めるのであれば、金が絡まない以上は男女の関
係になるしかないとまで割り切る覚悟すらあった。
メリアンデールは密かに自分の容姿だけには少しだけ自信があっ
た。現に、幼い頃から男性からはちやほやされて育ったのである。
︵同性には嫌われていたけど。なんでだろ?︶
蔵人という男は他とは違って一切自分の気を惹こうという態度が
見られなかった。
もちろん彼も男である。
露骨に胸や腰の辺りをジロジロと見られたときは、やっぱり、と
いう気持ちもあったが、以外にほかの部分ではサラリとした態度が
以外に好感触であった。
﹁まあ、全部わたしの妄想でしたね。そんなこと。こらーっ! な
にをやっているんですかぁ!!﹂
蔵人を見つけたのはメリアンデールの寝室だった。男は無断で寝
台の上にうつ伏せになって枕に顔を埋めていた。
﹁ふがふが、おにゃのこの匂いがするですな﹂
﹁な、な、な。なにを考えているんですかっ!﹂
メリアンデールは顔を真っ赤にさせて口を酸素不足の金魚のよう
にパクパク開閉させた。
蔵人が来るまで二日酔いでいぎたなく寝こけていたのである。
だらしなく脱ぎ捨てられた寝巻きや毛布がそのままになっており、
いくらなんでも人さま、特に男性に見られて平気な状態ではなかっ
た。メリアンデールは頬がカッと熱くなるのを感じると、茹だった
頭で突っ伏したままの蔵人を引き剥がしに入った。
883
﹁は、はなれてーっ。はなれろーっ!﹂
﹁んぎぎっ、嫌だぁ。もう眠いからここで寝てくんだぁ﹂
はたかれみれば微笑ましいじゃれあいは蔵人が折れることで終結
した。
客間に戻り卓を囲んで向かいあって座る。メリアンデールはまだ
顔を赤くしたまま、無言でお茶の用意をしていた。蔵人は頬杖を突
きながらまぶたを擦り、あくびを噛み殺していた。少なくとも初め
て来た女性の家で行う態度ではない。
蔵人はまだあたたかい茶を飲みながら焼き菓子を口いっぱいに頬
張った。もっと味わってくださいな、とメリアンデールから抗議が
入るが素知らぬ顔で頬袋を咀嚼した菓子で膨らませる。子どものよ
うな態度に、少女の顔がしょうがいないなといった風にゆるんだ。
﹁無礼千万ですよ、まったく﹂
﹁悪い悪い。なんかいい眠くなっちゃってさあ。そこに、ふかふか
のベッドが、あったから、つい﹂
﹁つい、じゃない! まったく、クランドの人間性を疑っちゃいま
すよ。もお﹂
﹁だが、そんな蔵人をこころの底から憎めない、惚れた弱みのメリ
アンデールだった﹂
﹁勝手にモノローグ風に足さないでくださいな﹂
﹁そうか。じゃあ、いきなりだが本題に入るか﹂
﹁と、唐突ですね。まあ、いいですけど。とりあえず、わたしたち
の互いの目標は、ダンジョン攻略とその過程で入手できる素材集め
です﹂
﹁素材集め?﹂
﹁わたしたち錬金術師は基本的に単独で行動して、山野で素材と呼
ばれる、鉱石、草木、獣類の毛や革や肉など自然物に分類されるも
のを収集し、アトリエで合成を行い、小売業者に買いとってもらっ
て生計を立てています。簡単な刃物とかなら自分で作っちゃいます
よう、本職にはさすがにかないませんけど。なんでも屋さんですね﹂
884
﹁ふうん。そうかい、随分と器用なんだなぁ。集めて、加工し、売
る、か。単純でいいけど。んで、どうする。いまからダンジョンに
行くかい﹂
﹁ええーと、もう夜も遅いですし、お互いだいぶ疲れが溜まってる
ので、明日の朝からってことにしませんか?﹂
﹁ただの飲み疲れか。俺はいつでも行けるんだが、おまえさんに無
理させちゃしょうがない。道案内は任せるということで、予習と復
習しておくように。んじゃ今日は帰るよ。戸締りはしっかりして身
体を休めろよ﹂
蔵人が立ち上がりかけると強く袖を引かれた。
﹁おい⋮⋮﹂
﹁行かないで﹂
メリアンデールのかすれたような声に視線を転じた。先程までの
快活さは失われ、瞳が不安で曇っている。蔵人が不審に眉をひそめ
ると、戸外から地響きのような轟音が聞こえた。
ずうん、と腹に響くような音と共に家が揺れている。
﹁なんだぁ、あの音は!﹂
蔵人が叫ぶとメリアンデールは耳を塞いでその場にしゃがみこん
でいた。
とにかく外の様子を確かめなければはじまらない。
外套をまくりあげて飛び出そうとすると、再び裾を引かれたたら
を踏んだ。
つんのめりそうになった蔵人が目を剥いて振り返る。
そこには怯え切った目をした少女が小刻みに震えていた。
﹁いつも、なんです。この時間になると、外で、どんどんって。や
だ、行かないで。ひとりにしないで﹂
﹁なるほど、そういう部分でも男手が必要だったってわけか。なあ、
音の正体を知ってるのか﹂
﹁⋮⋮こわくて、いままで一度も﹂
﹁わかった、わかったから。じゃあ、俺が見てきてやるから。な、
885
はなすんだ﹂
﹁やだ、ひとりにしないで﹂
﹁あー、はいはい。じゃ、一緒に確かめるぞ。いいか﹂
蔵人はメリアンデールの細い肩を抱くと窓際にまで移動した。
さすがに人里離れた郊外である。これだけの轟音を出しても、半
径数キロ以内にはひとつの人家もないので苦情も来ないのだろう。
蔵人がじっと闇に目を凝らすと、そこには四メートルほどの大き
な物体が地響きを立てて闊歩する姿があった。
﹁クレイゴーレム﹂
呆然としたメリアンデールが言葉をもらす。
なるほど、あれは確かに巨人だろう。雲の切れ間から照らし出さ
れたクレイゴーレムは全体がドロドロの粘土で出来た奇っ怪な生命
体であった。
身体からすれば小さすぎる頭部には、目鼻は無く、口と思われる
部分にぽっかりとした穴が虚ろに空いていた。
﹁とんだ、近所迷惑だ。なんだ、この辺にはああいうのがチラホラ
してるのか﹂
﹁ありえないです。ゴーレムは、人為的に作り出された魔導生命体
なんです。わたしがここに越してきてから、三日に一度くらいは﹂
﹁家の中には入って来ないのか﹂
﹁はい。でも、あの化物がウロウロしてると思うだけで、もお、気
が変になりそうで。この街には知りあいもいなくて。ルイーゼさん
には心配かけたくないし﹂
﹁教会や鳳凰騎士団には相談しなかったのかよ﹂
﹁え、え。教会? 騎士団?﹂
メリアンデールはまるで自分が責められているようにとったのか、
怯えを強くして自分の身体を震わせていた。
﹁ああ、別におまえを責めてるわけじゃねえよ。人為的な産物なら、
あのデカブツを操ってるやつがいるはずだが。なあ、あの怪物に弱
点かなんかないのか﹂
886
﹁あ、はい。ゴーレムには動力の核となる魔石があるはずです。た
ぶん、身体の中心線のどこかに呪印の刻まれたものが露出されてる
と思いますけど。まさか!?﹂
﹁あんなうるせえもんにドカンドカンやられちゃおまえだって安眠
妨害だろうが。とりあえずやってみるよ﹂
﹁とりあえずって! やめてくださいっ。わたし、そこまでさせら
れませんっ!﹂
悲鳴じみた制止を振り切って蔵人は表に飛び出した。
ぬるんだ夜気が身体にまとわりついてくる。
腰の長剣黒獅子を引き抜くと水平に構えた。
四メートルを超す巨体を前にするとさすがに威圧感があった。
クレイゴーレムが動くたびに、ぬかるんだ土がどさっと落下する
鈍い音がする。
鼻を突く腐った土独特の臭気が周辺に立ちこめている。
﹁中々ビッグじゃねえか。よう、泥人形﹂
蔵人は剣を構えたまま視線をそらさず、円を描くようにして移動
し続ける。
もちろん巨体の化物に的を絞らせないためだ。
目のない頭部では視認できるはずもないが、クレイゴーレムは音
に反応してその巨体を鈍い動作で揺らし続けている。 クレイゴーレムは両手を大きく天に振りかざすと、地獄の底から
響き渡るような身の毛もよだつ声を上げた。
なるほど。この迫力なら、女子供を震え上がらせるにはもってこ
いだ。
だから、無性にこんな真似をする野郎には腹が立つ。
﹁気に入らねえな。とことこん気に入らねえよ。おい。この泥人形
を操ってる変態根暗野郎! このデカブツをぶっ壊したら、次はテ
メエの番だぜ!!﹂
月明かりが見守る中、蔵人とクレイゴーレムの戦いがはじまろう
としていた。
887
888
Lv57﹁第一階層﹂
蔵人はクレイゴーレムを円を描くようにして激しく周りはじめた。
目の前の泥の巨人はおおよそ四メートル。
間近で見れば結構なものだった。
メリアンデールのいっていたクレイゴーレムの動力源となってい
る核はすぐにわかった。
首の喉仏部分にそれらしき灰色の魔石が、青みがかった淡い光を
放って明滅している。
﹁わかりやすいが、アレを斬るのは骨だな、こりゃ﹂
さすがに考えあぐねる。大きさと力は比例するものなのだ。
先に動いたのはクレイゴーレムだった。鈍重な動きで掴みかかっ
てくるが、さすがにあっさりと喰らうはずもなかった。
迫り来る巨大なこぶしを機敏にかわす。
背中側に移動すると剣を振るってアキレス腱の辺りを激しく斬り
つけた。
ぬちゃっとした泥のやわらかい手応えを感じる。
ただそれだけだ。
長剣を引き戻すと裂かれた部分はあっという間に周囲の泥が補填
して元通りになった。
無駄に斬りつけても意味がない。
蔵人は距離をとると、落ちていたこぶし大の石を拾って、えいや
と胴体に投げつけた。
889
﹁うええぇ﹂
石ころはズブズブと胴体に沈んでいくと姿を消した。
うかつに近づけば泥の海に取りこまれてジ・エンドである。
﹁さて、どうしたものか﹂
戸惑った蔵人をクレイゴーレムの大きな足が襲った。踏みつけよ
うと巨大な塊が頭上から降ってくる。転がりながら避けると、先ほ
どの場所が巨人の足で強烈な圧をかけられるのが見えた。ゆったり
とした動きで足首が上げられる。平地がべっこりと足の形にへこん
でいた。
焦った蔵人が攻勢に出た。両手で柄をしっかり握り締めると泳ぐ
ようにして深々と腰の辺りに斬撃を見舞う。激しく刃を叩きつけら
れた箇所の泥が飛び散った。
だが、クレイゴーレムはなんの痛痒も感じないのか反転するとの
ろのろとした動きで両手を差し伸べてくる。背後に大きく飛びすさ
る。
蚊に刺されたほども感じねえのか。
敏捷性はないのだが異常な耐久性は通常の斬撃が通じないことを
意味していた。
﹁こいつで、どうだっ!﹂
蔵人は再び石ころを拾うと核に向かって投擲した。
クレイゴーレムは右手を上げると弱点をあっさりカバーする。
どうやら弱点を守る知能程度はあった。
攻めあぐねているのを察したのか泥の巨人は両手を挙げて襲いか
かってきた。
蔵人は外套を闇夜に翻すと素早く反転して走り出した。石ころば
かりの平地を駆け抜けると斜面を一気に滑り降ちる。
﹁ようし、ついてきやがったな﹂
クレイゴーレムはときおり威嚇するように吠え声を上げるがあま
りに距離がはなれすぎたせいか、最初に比べて恐怖感を感じなくな
ってきた。
890
︱︱こいつ、見かけ倒しじゃね?
とにかくノロマである。狭い限定的な場所で襲われれば危険かも
しれないが、これほど開けた平地で対峙する分にはどうってことな
いような気分にさせるモンスターだった。
むしろ、その単調な動きは滑稽さが勝った。
泥の巨人は誘導されるまま、赤子のような素直さであとを追って
くる。
その単純さは蔵人に哀れみを起こさせた。
向かう場所は蓮が群生する池である。
早朝に咲き誇り正午には閉じるピンクの蕾が辺り一面にうっすら
見えた。
頭上にあった月明かりが流れてくる分厚い雲に覆われ、周囲が瞬
間的に闇夜に変貌した。
ええいままよと、胸まで浸かる池にざんぶと飛びこんだ。
器用に剣を咥えたまま泳いだ。遅れじとクレイゴーレムも池へと
巨体を沈めてくる。
予想通りだった。
クレイゴーレムの身体は水溶性の泥で出来ており、水に浸かった
瞬間にみるみるうちに溶け出していった。
﹁こいつ、自爆だろう﹂
断末魔の悲鳴に似た咆哮がいまや水没しかかった巨体から発せら
れる。遠いはずだった喉仏の核がちょうどいい高さにまで降りてき
た。
蔵人に課せられたのは、無防備に露出された巨人の核に剣を打ち
下ろす戦闘行為とはいえない作業だった。
891
メリアンデールは窓際で震えながら飛び出していった蔵人の姿を
じっと探していた。
︵やっつけてなんていってないのに。ただ、そばにいてくれるだけ
でよかったのに︶
蔵人は確かに多少は剣が使えるようだが、そこまでは望んでいな
かった。
助かったという安堵感はまるでなく、大変なことをしてしまった
という自責の念がはるかに大きかった。
見上げるようなクレイゴーレムの巨体を見た途端、腰が抜けてし
まった。街の暴漢とはまったく違う部類の恐ろしさである。代々錬
金術師の名家に生まれ育ったメリアンデールは家出同然の形で飛び
出してから少しは世間を知ったつもりになっていた。クランのひと
りとしてダンジョンに潜った経験はあるが、あそこまで巨大なモン
スターを直視したのは生まれてはじめてだった。
︵勝てないよ、あんなのバケモノ。どうしよう、どうしよう! い
まからわたしが行って。行ってどうなるっていうのよ! でもでも
でも、クランドはわたしのために飛び出して行ったんだ! あんな
怪物相手に!︶
メリアンデールが直接手にかけたモンスターといえば、不定形の
弱小モンスターであるアメーバゲルくらいである。脅威とはいえな
い存在だった。
蔵人が居なければ自分を脅かしていた声の存在を確かめることす
らできなかった。
こんなことで相棒だなんていえるのだろうか。
﹁ようし、勇気をだすのよ、メリアンデール!﹂
カタカタ小刻みに震える右手首を左手でぎゅっとおさえて自らを
鼓舞する。
腰に下げた鞘からミスリル銀で造ったナイフを抜くと、目の前で
月明かりにかざした。
怯えを押し殺す。
892
﹁クランドを、助けないと﹂
強く目を閉じると迷いは晴れた。メリアンデールは意を決して立
ち上がると、玄関に向かって走り出す。扉を蹴りつけて一気に戸外
へと躍り出た。周囲に視線を走らせる。格闘の気配はおろか、あら
ゆる生物が死に絶えてしまったように世界は静かだった。ナイフを
腰だめにして警戒を切らさず駆け出した。緊張と恐怖で心臓が押し
つぶされそうだった。
︵無事でいて、クランド! きっと、なんとかしてみせる。自信は
ないけども!︶
﹁あだーっ!?﹂
格好つけて斜面を降りようとし、メリアンデールはバランスを崩
して頭から突っ込んだ。
ずさーっと音を立てながら転がっていくさまは中々に情けなかっ
た。彼女は先天的に運動神経が欠如しているようだった。
﹁いだいーっ!﹂
メリアンデールは涙目になりながら顔を上げる。そこにはあきれ
果てた顔をした蔵人の姿があった。
﹁なにやってんの、おまえ﹂
﹁え、あ、だって。ゴーレム、そのクランドを助けなくっちゃって、
その﹂
﹁そうか、心配して来てくれたのか。ありがとな﹂
﹁あ⋮⋮!﹂
差し伸べられた手を掴むことも忘れて男の顔に見入った。
正直なところ、目の前の男を選んだ理由はそばにいて緊張しない
レベルに落としていた部分があった。美男、男前、二枚目などいい
かたは色々あるが、正直容姿のすぐれた男性は苦手だった。メリア
ンデールが蔵人に抱いた第一印象は、もさっとした垢抜けない感じ
だった。だから選んだというのに。はにかんだようななんとも男ら
しい笑顔を目にした途端、一瞬息が詰まったように感じたのだった。
﹁どしたん? どっか怪我でもしたか﹂
893
﹁いえ、別にわたしはだいじょぶです﹂
メリアンデールは手をつかむと一気に引き上げられた。まるで、
自分が羽毛になったかのように錯覚するほど力強さに満ちていた。
気のせい気のせい、と胸の内でもごもごつぶやく。さっと顔を上
げて蔵人に視線をあわせると、いつも通りの人を食ったようなとぼ
けた表情だった。
膝のホコリを払ってまじまじと蔵人を見る。全身ずぶ濡れでとこ
ろどころは粘った泥にまみれていた。あれほどのモンスターだ。よ
ほどの激戦であったにも関わらず顔には疲労の色すら見せない。ま
さしく超人と呼ぶにふさわしい力だ。バクバクと興奮で胸が高鳴っ
た。
﹁それにしても、クレイゴーレムはどうしたのですか﹂
最初から気になっていた疑問を投げかけた。
﹁え、もうやっちまったぞ。ホラ﹂
蔵人はこともなげにいうと、手にした核を放ってきた。メリアン
デールは受けとり損ねて弾いてしまう。慌てて拾い、丹念に確認し
た。魔石に彫られた呪印が真っ二つに両断されている。すなわちそ
れは魔導生命体の死を意味していた。
︵本当にやっつけちゃったんだ。わあ⋮⋮︶
﹁なんだよ﹂
胸の前で腕組みをしている青年は、大柄であるという以外にそれ
ほど特異性は見受けらなかった。けれどもあの巨人をこの短時間で
倒したという事実を前にしてみると、とてつもない人物に見えてく
るのが不思議だった。
﹁ぶえっくしょおおおおいっ!!﹂
池の中での格闘になったのだろうか、冷え切った身体を外套で包
みこみ震えている。
なにはともあれ命の恩人である。
メリアンデールの家には幸いなことに内湯が設えてあった。
ロムレスでは風呂嫌いな人間は結構多いので勧めることに躊躇し
894
たが、蔵人は随分と風呂好き綺麗好きなようだった。なんでも彼の
故郷の人間は病人でない限り、ほとんどの人間が毎日湯に浸かる習
慣があるらしい。そういった点でもメリアンデールと気があった。
綺麗好き清潔好きは女性にとってポイントが高い。手を引いて家に
戻ると、風呂釜に火を入れた。沸かしたお湯がパイプを伝って風呂
場のバスタブに流れる仕組みになっているのだ。
﹁なんだよ、一緒に入ってくれるんじゃねーの﹂
﹁ええええ、ないない。いくらなんでも、それはないよー﹂
あくまでもからかっているだけと理解はしているが、強い気恥か
しさにメリアンデールは顔を伏せた。だからいわずもいいことをい
ってしまった。
﹁⋮⋮その、背中を流すくらいなら﹂
蔵人がうきうきした表情であっという間に脱衣をすませる。しか
もまったく前を隠そうとしないのだ。メリアンデールは成年の露出
した男性器を生まれてはじめて直視して思わず硬直した。脳内が混
乱して目の前にチカチカと真っ白な火花が散った。
﹁おい、早くしろよ﹂
﹁はい﹂
小さな椅子に腰掛けた蔵人に背中向きになってもらう。いくらな
んでも、前を洗うのは不可能だった。これだけは譲れないのだ。
︵わあ、広くておっきな背中だ。傷だらけだし、ゴツゴツしてる︶
彼女がはじめて見た男性の裸体は巌のようにたくましかった。彼
女が知っている男性といえば、父親か兄か弟くらいであった。
名のある錬金術師の家に生まれた彼女は当然ながら貴族階級であ
り、例え親子であっても庶民と同じように気安く接するということ
はなかった。男の兄弟も同様である。屋敷で会うのは朝と夜の儀礼
的な挨拶だけであり、学問や礼儀作法、一族の秘術としての錬金術
の講義はすべて女性の家庭教師や母親が担当した。
メリアンデールの世界は十六の歳まで完全に閉じた世界で完結し
ていたのであった。
895
﹁すごい木のコブみたいだぁ﹂
張り出した肩の筋肉にぺたぺたと指を這わす。ぎゅぎゅっとつか
んでみる。それからおもむろに自分の肩の肉をつまんでみた。
これはもう根本的に違う構造としか思えない。
メリアンデールが深い思索に入りこもうとすると、巨大な岩のよ
うな肩が小刻みにぶるるっと震えた。
﹁さみいから、お湯かけてくれるとうれしいんだけど﹂
﹁わっわわわっ! ごめんなさいっ﹂
メリアンデールは激しく赤面した。
蔵人が目を覚ますとすでに夜は明けていた。
メリアンデールとの押し問答の末、同衾することは避けられた。
つまりは、飼い犬よろしく彼女のベッドの下で毛布だけ借りて眠
ったのだ。
メリアンデールとのひとつベッドで寝ることを躊躇したのは別に
不甲斐ない根性からということではない。断然ない。
むしろ、一緒に寝ていたら鳴き叫ぶ彼女の頬を二、三発引っぱた
いて無理やりねじこむくらいのことはしていただろう。
そのくらいワイルドな男なのだ、俺は。
だが、蔵人としても、自分を信じきった瞳で見つめる無垢な少女
を無理やり組み伏して、いやそれはそれでそそるものがあるが、と
いう力任せの技はできる限り避けたかった。どうせ抱くならば、そ
の場限りの喰い散らかしではなく永続的な行動に繋げていきたい。
大局的見地から物事を進めることこそ王道であり明日に強く太くリ
ンクしていくという奇妙な哲学が働いたからであった。
﹁腹減ったな﹂
896
寝ぼけ眼で鼻をヒクヒクさせる。パンを焼く香ばしさと、温めた
ミルク独特の匂いが入り混じったものが辺りに漂ってきた。
昨日のゴーレムとの一戦の疲れはまるでない。むしろ、軽く身体
を動かしたので調子がいいくらいだった。蔵人は大きく伸びをする
と伸びた無精髭を爪の先でガリガリ掻いた。
﹁クランドー起きなさいですよー。さわやかな朝ですよー﹂
﹁んああ、おはよう。メリー﹂
﹁おはようございます、クランド。今日はとってもいい天気ですよ﹂
メリアンデールは白いエプロンをかけてお玉を持ったまま、白い
歯を見せて健やかな笑顔浮かべていた。
一瞬、強くどきりとする。まるで、自分がずっとこの家で生活し
ていたような気分になったのだ。ありえないことだが。
﹁さ、さ。席についてくださーい。クランドは、ここ﹂
﹁おう﹂
メリアンデールに促されて卓に着くとそこには洋風の朝食が綺麗
に並べられていた。
茶色く焦げ目のほどよくついたトースト。
温められたミルク。
皮を剥かれてカップに鎮座するほこほこと湯気の立つゆでたまご。
シャキシャキとした歯ごたえがありそうな野菜サラダ。
真っ赤なジャムの添えられた純白のヨーグルト。
搾りたてのオレンジジュース、などなど。
完璧じゃないかと、と思ってついついメリアンデールの顔をじろ
じろと眺めてしまう。
蔵人の視線に気づいた彼女は恥じらって自分の耳をもにょもにょ
いじっていた。
﹁まあいいや。それにしても、おまえってばちゃんと料理作れるん
だな。俺は感心しました﹂
﹁あ、いえ。その、お口にあわないかもしれないけど、どぞどぞ﹂
﹁んんん。まあ、いっか。いただきまーす﹂
897
蔵人は妙な雰囲気の中、少し気後れしつつも健啖さを見せてペロ
リと朝食をすべて平らげ、メリアンデールのヨーグルトも奪った。
デザートも奪われた彼女が異様にニコニコしていたのは微妙に気に
ギルド
なったが、とりあえずすべてを腹に収めた。暗喩的な意味でも。
朝食をすませると、ふたりは冒険者組合の事務所に向かった。狙
いはダンジョン攻略である。
﹁にしても、おまえの造ったアイテムもなかなかどうして使えるじ
ゃないか﹂
﹁でしょー﹂
にこにこ顔で応えるメリアンデール。蔵人が褒めたのは、メリア
ンデールが開発した荷物を圧縮する、マジカルコンプレッションバ
ックである。
形としてはどこも奇抜な部分はない。見かけはただの袋である。
ただし、性能としてはずば抜けていた。 従来では異様にかさばり、重さも数十キロを超していた冒険道具
万能袋
ギルド
であった。
を空間圧縮魔術を利用した絞り上げるタイプの袋に詰めこむことを
可能とした超
似たようなアイテムは冒険者組合の公式グッズとして販売されて
いたが、メリアンデールの開発したバッグの圧縮率は公式グッズの
ほぼ五倍であり、腰に下げることを可能とした。
﹁さすがスーパーアルケミスト! にくいね!﹂
﹁いやっふうー! もっと褒めてっ﹂
なお科学的なことは気にしてはいけない。異世界はすべてマジカ
ルに牛耳られているのである。
﹁便利でしょー。道具もーかさばる寝袋もテントもコッヘルも燃料
もお水もー、わたしの造った袋に入れてぎゅーっと絞ればあら不思
議。こんなにコンパクト! 手のひらサイズに!﹂
﹁すげー、でもこれ生き物とか入れたらどうなるんだ﹂
﹁さあ?﹂
お互いが顔を見あわせ無言になる。嫌な沈黙だった。
898
﹁でも単純にスゲーよな! メリー、おまえ天才じゃね?﹂
﹁えへへー。褒めて褒めてー﹂
﹁うりうり﹂
﹁でへへ﹂
蔵人たちがそんなやりとりをしながら、いまや馴染み深い赤レン
ガの事務所に入っていくと、あいも変わらず立ち番をしている組合
の番兵が驚きのあまり槍をとり落とした。
﹁いよっ﹂
蔵人は馴染みの番兵に快活に挨拶をする。間髪置かず、深刻な様
子で肩に手を置かれた。
﹁クランド、いまなら罪は軽い。さあ、その子を親御さんに返すん
だ﹂
ギルド
メリアンデールがぱちくりと目をまん丸にして両者を見上げてい
る。そういえば、女を同行して冒険者組合に来たことはなかったな、
と思い返した。
﹁あんた、いま無茶苦茶失礼なこといってるからな。告訴もんだよ、
これは﹂
﹁オレもいっしょに騎士団の駐屯地までつきあってやるから、な﹂
﹁人を犯罪者既定路線で話すのやめてくんねえかな﹂
﹁おまえがこんな美人といっしょってことは、もう犯罪としか思え
ねえだろ、常識的に考えて。略して常考﹂
﹁おまえがはじめて略したようにいうなよ。その表現むしろ手垢が
つきまくって腐敗してるからね。むしろ、古すぎるからね。前世紀
の遺物だからね﹂
﹁なに、え、うそ。それじゃ、この美人ちゃん、もしかしてじゃな
く、おまえの関係者? 飲み屋の姉ちゃんとかじゃなくて?﹂
﹁ちっげーよ、離せよ、オラっ﹂
蔵人が乱暴に手を振りほどくと番兵はマジ泣きの入った声で、ち
くしょおおっと呻き声を漏らしていた。
ふふんと鼻で笑いながら、足音も高らかにロビーを通過していく
899
と、暇そうにペンを回転させていたネリーと目があった。
彼女は蔵人の背に寄り添うようにして歩いている少女を見るとギ
ョッとしてペンをとり落とした。なんだかすごく失礼であった。
﹁おいクランドが女連れてるぜ﹂
﹁どっからさらって来たんじゃねえの﹂
﹁結構かわいいな﹂
﹁娼婦だろ。娼婦にそれらしい格好させて連れこんでるんだ﹂
﹁新しい! その手があったか﹂
﹁その手があったかじゃないでしょ。まったくイヤラシイ﹂
﹁ケッ、どうせガバガバだろ。う、う、うらやましくなんかないん
だからねっ﹂
愚民たちの羨望が少々鬱陶しい。誇らしげに胸を張って歩く。周
囲の異様な気配に気づいたメリアンデールが袖をちょいちょいと引
いた。
﹁あの、わたしたちなぜか注目されてますけど﹂
﹁ほっとけ、さみしい人たちなんだよ﹂
﹁はあ﹂
冒険者たちのたむろする場所を通り抜けていくと、真新しい大扉
が見えた。チェックポイントなのだろうか、ギルドの係員がパスで
あるふたりの認識票を確認した。大扉を開けてさらに進むと、真っ
直ぐな通路の脇に雑多な小店が軒を連ねていた。
﹁そーいえば前回もここ通ったんだよな。ロクなものは売ってなか
ったが﹂
すでに一度通っているのでたいした興味も惹かれることはない。
蔵人がずんずん先を歩いていくと、いっしょに歩いていたはずのメ
リアンデールの姿が遅れがちになった。どうやら、店のこまごまと
した売り物に目をとられて立ち止まっては歩き、歩いては立ち止ま
っている。
﹁おい、なにやってるんだ。なにか、珍しいものでもあったか?﹂
﹁ねえ、これ見てくださいな。すっごくかわいいですよ﹂
900
﹁ただの土産物だな﹂
メリアンデールもご多分にもれず女の性としてちまちまとした雑
貨にやたらとこころ惹かれるらしい。彼女は七宝焼きで造られたバ
ッジを手にとってキラキラした瞳で見つめている。ロムレスの国鳥
である鷹をあしらった金色のバッジはいかにも素朴な造りであるが
蔵人にその良さを理解するのは少し難しかった。
﹁おまえ何回もここに来てるんだろう。別に珍しくもないだろうが﹂
﹁えー、でも。いつもは、ひとりだからなんとなく気まずくて通り
過ぎちゃって﹂
メリアンデールは頬を膨らませると、不満そうに上目遣いをした。
﹁まあまあ、ニイちゃん。そうカタイことばっかいってると彼女さ
んにフラれちまうぜ!
どうでえ、ギルド名物ダンジョンバッジ! いまならお安くしと
くよ! 冒険の記念に買っていきなせえ!﹂
﹁いらんいらーん。行くぞ、メリー﹂
﹁ああん。記念バッジぃいい!﹂
蔵人はメリアンデールの手を引いてその場を離れた。
﹁土産物など不要だよ。観光に来てるわけじゃねえんだ﹂
﹁でもお、欲しかったのに。くちばしがかわいいんですよ、あれ﹂
しばらくの間はブツブツ愚痴をこぼしていた彼女だったが、人工
物のないダンジョンに突入すると表情を引き締めてマジカルコンプ
レッションバックを開放して冒険の準備にとりかかった。
ダンジョンの中は当然光など存在しない暗黒の世界である。
冒険に欠かせない三要素とは、すなわち、
光源、
マップ、
食料、
の三種だといわれている。
たとえ武器を失おうともダンジョンの地図さえあればモンスター
から逃げ切ることは不可能ではない。
901
ただし、それも地図を読みとれる光と行動を継続させるカロリー
源が必須であった。
明かりを発生させる魔術の使い手がクランにいれば話は別だが、
魔術を使える仲間のいる集団の方が圧倒的に少ないのである。
よってほとんどの冒険者は原始的な松明をもっとも多用した。
第一に安価である。
ほとんどが木ぎれに布を巻き、松脂や油を湿したもので誰にでも
作成できるものだ。
ランタンのように、光量及び取りまわしのよさに劣るが、資金で
あえぐ激貧冒険者には重宝された。
﹁わたしがいる以上アイテムに関しては不便させませんよー﹂
メリアンデールは手提げ式ランタンを道具袋から出すと手の甲で
コンコンと軽く叩く。
まもなく周囲は昼間のように明るく照らし出され、洞窟内の凹凸
や暗渠が容易に確認できた。
曰くメリアンデール式ランタンは市販の油を入れて使用するもの
とは違って、中央のガラス部分にロムレスヒカリゴケを入れてあっ
た。
このコケ植物は振動に反応して長時間自己発光するという特性を
持ち、通常時では永続性を持ち得ないものだが、メリアンデールの
研究により培養に成功した特殊個体であった。
﹁十日に一度ほど水分を切らさなければ死滅することはないんです
よ。ただ、ひとつだけ難点があるとすれば極度に直射日光に弱いの
です﹂
﹁難儀な生物だな﹂
自らは光り輝くことができても強い日光の下では生存できない哀
しい人工生命体だった。
ともあれ、蔵人とメリアンデールは音一つないダンジョンの探索
に乗り出したのだ。
﹁えーと、次は右ですね。そうそうそこを右に折れてください。そ
902
れから、まっすぐ行ったら左手に小部屋がありますがモンスターが
潜んでる可能性が高いので避けましょう﹂
また、彼女は地図を正確に読みとる能力も長け、公式地図とはい
えかなりいい加減なルートを適宜修正する力があった。
﹁すごいじゃないかメリー。おまえがこれほど使える女だとは正直
思わんかった﹂
﹁ふふん。もっと褒めてください、ふふん﹂
メリアンデールは一定時間経つごとに自分と蔵人、それから通過
した経路へと小瓶の中身の液体をふりかけていた。不思議に思い尋
ねると、モンスター避けの薬剤だという。
﹁モンスターイヤンナールです﹂
青色の薬剤は無臭でありほとんど水と変わらないように感じた。
﹁錬金術のたまものです。錬金術はすべてを可能にするのです﹂
﹁それはいいすぎ﹂
確かにこまめに使用することによってダンジョン突入から一度も
敵影を目にしていない。
効果は抜群だがネーミングセンスはゼロであると蔵人は思った。
しばらくは無言の行が続く。
蔵人も特に必要がないので無駄口を叩いたりしない。夏だという
のに地下に位置するダンジョンの内部は乾ききっており肌寒いくら
いだった。
生来おしゃべりなメリアンデールは無言の空気に気まずさを覚え
たのか身体をもじもじさせて視線を送ってくる。
﹁なあ、ちょっといいか﹂
﹁はい、はい。なんでしょうーか!﹂
﹁たぶん、そんなに楽しい話にはならねーと思うぞ。おまえを襲っ
てたゴーレム。操ってたやつに心当たりあるか﹂
﹁うーん。それが、ないんですよねー。ほら、わたしってばここの
地元の人間ではありませんし、越してきてから二ケ月くらいしか経
ってないんですよ。あんまり外にも出かけないですしー。基本引き
903
こもりなのです﹂
﹁引きこもりねえ。そういえば、以前組んでたやつらがいたってい
ってただろ﹂
﹁確かに一回ご一緒しただけですぐ別れましたけど。それ以来はギ
ルドでも会ってませんよ﹂
﹁ほら、じゃ、他になんか思い当たることないのか。ちょっとした
ことで、恨みを買うとか、恨みを買うとか、恨みを買うとか﹂
﹁うっわ、どんだけわたし恨まれまくってるんですか!? わたし
のことなんだと思ってるんです!﹂
﹁ちょっとかわいい無神経なバカ﹂
﹁そんな、かわいいだなんて﹂
メリアンデールは頬に手を当てながら尻をフリフリ動かした。
﹁おまえ後半部分は意図的に無視してるだろ。どっちにしても、あ
の程度のイヤガラセならそれほど根深いもんじゃねえだろ﹂
﹁そんなあ。わたしけっこう毎晩毎晩どしんどしんやられて精神的
に来てたんですよ。不眠症にもなりかけてたし﹂
トッこ
﹁甘い甘い。あんなもんは、ちょっとスケールのデカいガキの嫌が
らせレベルだ。俺なら初日にゴーレムを特攻ませて自爆させてるよ﹂
﹁え、なにそれ。わたし、クランドの思考の方が怖いです。血も涙
もないです﹂
﹁とりあえずは対処療法でいくしかないな。なにか変化があったり
気づいたことがあったらすぐ教えるんだぞ﹂
﹁えっと、あっ、はい﹂
﹁なにニヤついてんだよ﹂
﹁⋮⋮だってクランド、口は悪いけど結局のところわたしのこと心
配してくれてるんですよね。その、うれしいなって﹂
﹁ふん。おまえが信用したところでパクッと食べてやろうかと思っ
てるだけだ﹂
﹁んふっ﹂
﹁笑うな、気持ち悪い﹂
904
﹁あー、あー、ひどいんだぁー﹂
﹁うっさいよ﹂
蔵人たちは愚にもつかない会話をかわしながら迷宮探索を続けて
いく。おおよそ、二時間ほど歩いたところで小休止をとることにし
た。休む場所はなるべく見通しの効く壁を背にした平坦な場所に決
めた。
メリアンデールが空気を入れて膨らませるタイプの抗菌マットを
地面に敷くと、慣れた感じでお湯を沸かしはじめた。
﹁なんか、こういうのっていいよな。キャンプみたいで、俺好き﹂
﹁ですよねー。ダンジョンの中って狭くて暗くてなんか怖いし危険
だけど、こういう非日常的なところでお茶飲んだりお菓子食べたり
するのっていいですよねー﹂
﹁だよな﹂
もっとも俺にとってはこの世界のすべてが非日常にしか思えない
んだけどな。
嬉々として茶の用意をする彼女にしても、存在自体が完全に異文
化であった。
高い鼻に脱色や染髪ではない自然な茶髪。東洋人には絶対ないブ
ルーの瞳。
おまけに、聞こえてくる言葉はすべて日本語なのだ。蔵人は英語
の成績など中高から現在の大学二回生に至るまで犬に食わせてやり
たい程度のレベルだった。街角でウィッキーさんに会ったら目潰し
して遁走する貧弱さである。
それが、いまやバイリンガルのようにナチュラルに通じるのであ
る。ときおり、脳みそが悲鳴を上げそうになる。拭えない違和感を
なにかが無理やり押さえつけようとしている感すらあった。
﹁どしたんですか、いきなりぼーっとして﹂
﹁いや、なんでもねえよ。ほら、手際いいなと思って。おまえ、い
い奥さんになれるよ﹂
ごまかす風にいった言葉に狼狽したメリアンデールは、沸き立っ
905
たケトルを滑らせて蔵人の肝を大いに冷やしたのだった。
906
Lv58﹁収穫﹂
小休止を挟んだのち、再び探索を開始した。
﹁るんたったったーるんたったー﹂
﹁おい、足元気ィつけろよ。また、すっ転ぶからな﹂
休憩を挟んだことによって体力が回復したのか、メリアンデール
は鼻歌混じりに元気よく先行していった。
蔵人はいつでも剣を抜けるように注意力を切らさず続いた。
しばらくゆくと、前を歩いていた少女が不意に足を止める。
怪訝そうに眉をひそめ訊ねた。
﹁どうした﹂
﹁あ、あれです! 見えますか、クランド﹂
やや緊張した面持ちでメリアンデールが指し示した先には、なに
やら赤っぽいものが蠢いている。ランタンを受けとってよく見える
ように光を当てた。
そこにはキノコの頭部を持ったモンスターが四匹ほど身を寄せあ
って仲良くしゃがみこんでいた。
﹁仲良きことは美しきかな﹂
﹁違くて! マタンゴですよ、しかも赤ってことはシビレマタンゴ
ですっ!﹂
メリアンデールが、あわあわと目を激しく瞬かせて叫ぶ。
ランタンの明かりに照らし出されたモンスターは気配に気づくと、
ぬっと立ち上がった。
シビレマタンゴ。
907
主に低階層に高頻度で出没するモンスターである。
身の丈はおおよそ百五十センチ程度。
キノコに手足が生えたような躰つきをしていた。
頭部の傘は鮮やかなスカーレットレッドでオレンジ色の斑点が散
らばっている。
その他の部分はくすんだ白っぽい色で、ひ弱な印象を受けた。
﹁気をつけてください。人間を見ると襲ってきますよ﹂
黒獅子
を抜き取って正眼に構えた。すり足で前に
﹁よし、おまえはうしろに隠れてろ﹂
蔵人が長剣
出る。メリアンデールは帽子を押さえながら蔵人の背後に移動した。
シビレマタンゴは特に素早い動きは見せず、奇妙な動きで連携を
とって一列に並んだ。
足どりは人間とは違い、どこに重心を置いているかわからない酔
ったような動きだった。
剣の切っ先を突きつけても特に動揺はしていない。
そもそも、恐怖や危機感を感じる器官があるかどうかも怪しかっ
た。
﹁うう、いつ見ても気持ち悪いきのこ﹂
怯えるようなメリアンデールの声に一瞬、敵から目を離した。
不意に均衡が崩れる。
シビレマタンゴたちは踊るような動きで規則正しく並列状態で向
かってくる。背後にいるメリアンデールを思えば一匹逃さず片づけ
なくてはならない。
蔵人は身を低くして真正面から飛び込むと長剣を横殴りに叩きつ
けた。
刃風は闇を裂いてビュッと激しく音を立てた。
正面のシビレマタンゴは回避をとる暇もなく真っ二つに断ち割ら
れると、白っぽい胞子のようなものを撒き散らして仰向けにひっく
り返った。
転がった拍子にひときわ強く白煙が立ち昇る。
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煙をまともに吸いこんだ蔵人はむせ返りながら激しく咳き込んだ。
﹁気をつけてくださいっ! 胞子は毒ですっ、吸いこまないでっ!﹂
﹁そーいうことは早めにいうもんだ﹂
至近距離で毒胞子を浴びた蔵人は軽い目眩を覚えながら外套で鼻
と口を覆った。
だが、いささか遅かったらしい。
全身に鉛を背負ったような重みがかかった。
妙に手足の感覚が鈍ってくる。
動きの止まった身体を狙って両脇からシビレマタンゴが掴みかか
ってきた。
﹁はなせっ、このっ﹂
肘打ちを食らわせながら距離をとった。
シビレマタンゴの身体はまるでスポンジのような弾性があり手応
えはなかった。
落ち着いて考えれば、敵には攻撃する牙も爪もないのだ。
蔵人は身体を投げ出すようにシビレマタンゴの足元に飛び込んだ。
長剣をめちゃくちゃに振り回す。
足を刈られた二体がバランスを失って倒れ込んだ。
まったく体液というものが流れない。
手応えもなく声も上げない敵はいままでと勝手が違いすぎた。
﹁せーのっ、せっと!!﹂
立ち上がって駆け寄ると長剣を転がった二体に見舞ってトドメを
刺した。胴体の中央部を長剣が著しく傷つけると、シビレマタンゴ
はもがくのをやめてピクリともしなくなった。
残った一匹は特にひるむことなく覆いかぶさってきた。
油断である。
剣を手放して組み打ちになった。満身の力をこめてシビレマタン
ゴの腕をひねりあげると、ぼふっと乾いた音が鳴った。敵の腕が容
易にもげたのだった。
﹁おっとと。カルシウムが足りないぜ、キノコちゃん!﹂
909
右足を胴体に叩きこんだ。拍子抜けするくらい簡単に吹き飛んだ
シビレマタンゴは洞窟の壁にぶち当たって動かなくなった。
﹁このーっ﹂
倒れたシビレマタンゴにメリアンデールが襲いかかる。彼女が手
にした小瓶の中身をふりかけると、嫌な臭いと共に白煙が立ち昇っ
た。
﹁成敗ですっ﹂
トドメだけを刺したメリアンデールが腰に両手を当てたまま鼻息
荒く宣言した。
メリアンゼット
です。
﹁なんちゅう、ドヤ顔。ちなみにいま撒いたのはなんじゃいな﹂
﹁あ、これですか。対マタンゴ用除菌水、
これをかけると、菌類は死ぬ! お風呂掃除にもピカイチです﹂
﹁へー、意外と色々作ってるんだね。ロムレスのドクター中松と呼
んでやろう﹂
﹁どくたーナカマツ? 誰です、それは?﹂
﹁俺の国の発明家だよ。フロッピーディスクや灯油ポンプを造った
んだ﹂
﹁んんん、ちょっとなにいってるかわからないですが、とりあえず
すごい人なんですか?﹂
﹁すごいよ、彼の発明で冬場はたくさんの人が助かった﹂
﹁ほほう。それでは、たくさん褒めてくださいな。わたしは褒めら
れるのが好きです﹂
﹁よし、褒美を取らそう﹂
﹁ははーっ﹂
蔵人はメリアンデールに褒美として飴を与えた。
あっまーい、と頬をふにゃふにゃにして喜ぶ少女はたいそうかわ
いらしかった。
シビレマタンゴを倒したあと、彼女は骸に近寄りせっせと胞子を
袋に採取しはじめた。
﹁そんなもん集めてどうするんだ﹂
910
﹁素材ですよ。痺れる胞子から薬効を抽出してお薬屋さんに売るの
です。いいお値段になりますよー。研究もはかどるってもんです﹂
﹁ほーん、商魂たくましいね。錬金術師っていうより、なんか薬屋
みたいだな﹂
﹁近いかもしれませんねー。わたしの実家収入のほとんどは錬成し
た薬剤でしたしねー。研究を続けるにもお金がたっくさん必要なん
ですよ。わたしら、いつもぴいぴいです﹂
﹁ほう、ふところが寒くて悲鳴がしきりと﹂
﹁なので、ぴいぴいなんですよ﹂
いつまでもぴいぴい鳴いているわけにもいかないので、さらに歩
き続ける。
洞窟内は次第に苔むした岩肌が目立つようになり、ランタンの明
かりで視界が確保できていてもちょっとした拍子に滑りそうになっ
た。
先行するメリアンデールが転びそうになるたび手を伸ばして支え
る。
三度目に不可抗力で彼女の胸に触れるとちょっと怖い目つきで睨
まれた。
﹁魔物よけのお薬も低レベルのモンスターにしか効果がないと思う
ので注意してくださいね﹂
﹁おもにゼリー類だな﹂
﹁グチャグチャくんには効くんですけどねー﹂
たぶんザコモンスターのアメーバゲルのことである。
﹁さっきのキノコちゃんはインパクトあったな﹂
﹁まあ、ほんの気休めですんで﹂
﹁というか、モンスターの心配するくらいならおまえは自分の足元
に気をつけたほうがいいと思うぞ﹂
﹁うーん。歩きにくいんですよね、ここ。苔さんがひらべったい石
にガーッと生えてるじゃないですか。転びの神に魅入られたわたし
にとっては試練です﹂
911
﹁だから、そんな邪神いねえって⋮⋮﹂
﹁ややっ、これはっ﹂
﹁おい、ちょっと、いってるそばからっ﹂
なにかを発見したのか、メリアンデールは目の色を変えていきな
り走り出した。
蔵人が危惧したとおり、年頃の娘にしては豪快すぎるほど見事に
滑って転んだ。
あいたーっ、という悲鳴と共にスカートの中身が丸見えになった。
黒か⋮⋮。
はしたないですぞ、お嬢。
蔵人は反射的にランタンをかざしてショーツの色を確認した。素
早い動きだった。
メリアンデールは自分が大事な部分をさらけ出したことに気づく
と、恥じらって裾を直した。キッと振り向いて蔵人を直視する。
﹁な、あれ、いまなにか、わたしを照らしませんでしたか﹂
﹁だいじょうぶかっ!﹂
﹁いや、だから、わたし転びましたよね。もしかして、見えちゃい
ました?﹂
﹁だいじょうぶかっ!!﹂
﹁⋮⋮見たんですね﹂
﹁ああ、ばっちりさ!!﹂
蔵人は居直ってサムズアップした。
﹁ば、ばかぁ。もう﹂
急に羞恥心がこみ上げてきたのか、彼女は目元を伏せて気まずげ
に口をつぐむ。
それを意に介さない蔵人。女の敵である。
だが、ダンジョンに慈悲の神はいなかった。
﹁んで、なにを見つけたんだ﹂
﹁そうだっ、これっ。これですよ! 結構レアな青水晶ですっ。と
っくにとり尽くされてたと思ってたんですが。超ラッキーですよっ﹂
912
﹁んんん、青水晶?﹂
示された場所にカンテラの明かりを近づけると、そこには澄み切
ったアクアブルーに輝く四十センチ程の水晶体が生えていた。
﹁おおう、まばゆいのう。んで、いかほどなのだ﹂
ポンドル
﹁これは、結構いいですよ! 鍛冶屋さんが鋳造するときにまぜま
ぜするんですが、この大きさなら捨て値でも十万Pはかたいですよ
っ﹂
ポンドル
﹁ウホッ、いい水晶!﹂
十万Pは日本円でだいたい百万円程度。
﹁マジかよ。軽が買えちゃうじゃねえか。ミラとかアルトとかラパ
ンとか。死んでも乗らんけど﹂
﹁けい? けいってなんですか?﹂
﹁いや、こっちの話。とにかく今日はツイてるなあ。おまえが女神
に見えてきたよ﹂
﹁やはは、それほどでも、ですよ﹂
メリアンデールは照れながらも慣れた手つきで青水晶を袋に詰め
こんでいく。
蔵人はしゃがみこんだ彼女の背中に向かって手を合わせておいた。
ちょうどいい区切りがついたので、大休止も兼ねて昼食をとるこ
とにした。
﹁オイルサーディンパスタとクスクススープ、デザートはりんごの
コンポートです﹂
メリアンデールは火を起こすと手早く調理にかかった。
さっとパスタを茹でると缶を開けてオイルサーディンを混ぜ合わ
せる。
鍋にあらかじめつくっておいたオニオンスープを入れてクスクス
と一緒に煮込んだ。
完成したものを二人分の容器に移してチーズを浮かべる。香ばし
い独特の匂いに蔵人は生唾を呑みこんで目を輝かせた。
﹁つまらないものですが﹂
913
﹁つまらなくなんかないよ。いただきまーす﹂
メリアンデールが神に祈り終わるのを待って箸をつけた。
しっとりとしたオイルの絡んだ麺をすすり上げる。探索と戦闘で
疲弊した身体に濃厚な脂が染み渡っていくようだ。
﹁うまっ、うまっ﹂
﹁あはは、そんなに急がなくてもまだたくさんありますから﹂
蔵人は飢えた野犬のように片っ端からたいらげていく。メリアン
デールはフォークを動かすのも忘れ目尻を垂れ下げながら男の食事
風景に見入っていた。
﹁うむ、スープもまた、ヨシ!﹂
﹁はは、なんで鑑定してるんですかね﹂
﹁おまえは料理も上手だのう。褒めてつかわそう、ちこうよれ﹂
﹁ははーっ﹂
蔵人はゴツゴツした手でメリアンデールの頭を撫でた。彼女は微
笑みながらひだまりの中の子猫のようにまぶたを閉じた。
腹が膨れると眠たくなるのは自然な欲求である。ふたりは気力を
振り絞ると断固たる決意で歩きはじめた。地図を読みながら、足元
に注意を払って移動し続けるのは困難である。
整地された道ではなく、自然なアップダウンが異常に多くどんな
人間であっても次第に疲労を覚えるものだ。蔵人は目の前のか細い
足で黙々と歩いているメリアンデールを見ながら密かに感嘆してい
た。
やはり現代人とは身体の造りからして違うと思わざるを得ない。
車などない世界では、ちょっとした用事を済ませるのにも、一、二
時間歩くのは当たり前だ。
この世界の人間は生まれたときからそうした環境で育っているの
で、一日や二日歩きづめであってもそれほど苦に思わないのである。
メリアンデールは見た目だけなら可憐な少女だ。とてもではない
がこのような苦しい作業に従事しなくても生きることは出来るだろ
う。
914
だが、その方法は自分の生き方を女性であることに縛りつけて限
定すること以外にほかならなかった。女の生計の立て方など、嫁に
行く以外は娼婦や酌婦など身体を売る仕事以外はこの世界にほとん
どない。あったとしても、それはあくまで夫の稼ぎを支えるための
賃仕事である、裁縫や子守りなどの家事手伝いくらいしかないのだ。
女ひとりで誰にも頼らず、自分の能力だけで定期的に金銭を稼ぐの
は非常に難しいだろう。
つらつらと、あらゆる考えが自然に頭の中に湧いてくる。頭を振
って思考を切り替えた。
﹁そういえばさ、他の冒険者には全然会わねえもんだな﹂
﹁そうですね。けど、ルートは一本道ってわけでもないですから、
タイミングですよ。んん、あ。そんなこといってる間に、もう一階
層は終わりですよ﹂
﹁なぬ﹂
メリアンデールが立ち止まるとその場所には彼女の腰くらいの高
さの石碑が置いてあった。石碑の横には下層に続く石造りの階段が
見えた。蔵人には判読できなかったが、石碑には下層階段を発見し
た年月日と発見者の名前が掘られていた。
﹁公式に攻略されているのは十七階までなんですよね﹂
﹁実際にはもっと深くまで到達してるんだろう。いったい誰が一番
最深部まで潜ってるんだろうな﹂
﹁下層へ続く階段を報告すると名前を刻まれる代わりにルートの地
図を提出しなければならないんですよ。冒険者にとって経路は命で
すからね。どこに、どんな素材があるか、どんなトラップがあるか。
高低差は。水場は。モンスターの出現範囲は。ロムレス王立大学で
は、迷宮学っていう独自の学問まであるくらいですからね。すごい
ですよー、研究者の皆さんは。下手したら、一度もダンジョンに潜
ったことのない学者さんのほうがはるかに内部のことは詳しいです
からねー﹂
﹁そうか? おまえだって、充分すごいと思うが﹂
915
﹁あは。わたしなんて付け焼刃ですよ。シルバーヴィラゴには大学
の出先機関である王立迷宮探索研究所がありますよ。図書館も充実
してるし一度は行ってみたいんですけど﹂
﹁行けばいいじゃん。近いんだろ﹂
﹁それが、やっぱりなにか強力なコネがないと立ち入りの許可がお
りないそうなんですよ。排他的なことに関してはわたしたち錬金術
師もかなりのものだと自負してますが、あそこは機密レベルの格が
違いますね。一説によると、軍の駐屯地のほうが規律がダルダルっ
て⋮⋮そーいえば、なんでこんな話してるんでしょうか﹂
﹁脱線しまくりだな。んで、続けて二階層はやめとくか?﹂
﹁んん、その出来れば、今日はここまででいいですかね﹂
メリアンデールが力なくふにゃっと笑みを浮かべた。蔵人が彼女
の時計を見ると、探索を開始してから十時間近く経過していた。休
憩を一時間ほど抜いたとしても、九時間は歩きづめだった。女性の
体力としてはかなりの負荷だっただろう。
﹁ええと、戻りに関してはエスケープルートが使用できるとして﹂
ダンジョンにおいて各階層の降り口付近には帰還専用の転移陣と
いうワープ地点が設けられていた。当然のことながら、公式で攻略
認定されている階層においてのみである。高位の魔術によって構築
されたエスケープルートポイントの転移陣は半永久的に使用出来る
のだ。
もちろん、低レベルの人間がいきなり最深層まで移動しないよう
に、行きは使えないような作りになっているのだ。
蔵人たちが明日から引き続き二階層へのアタックを行うのであれ
ば、周囲のどこかに移動ポイントのマーキングを打って独自の転移
陣を構築しなければならない。
エスケープルート以外の転移陣を使用するには、動力である魔石
が必要であった。蔵人はそんなもの持ち合わせていなければ、転移
陣の構築方法も知らなかった。ちょっとしたべそヅラになった。
﹁そんな初心者同然のクランドにわたしがレクチュアしてあげちゃ
916
いましょう。これが、転移陣の魔術が組みこまれたスクロールです。
繰り返し使用可なので、持ってないコはお店で購入しましょうねー﹂
ポンドル
﹁でも、お高いんでしょう?﹂
﹁いえいえ、これ自体は五千Pとなっていますので、少々値が張り
ますが無理してでも買っておかないと泣きを見ますよ。ああ、もう
泣いてますか﹂
﹁泣いてねーし、目にゴミが入っただけだし。というか、転移陣構
ポンドル
築セットはなんとかなりそうだが、その動力源の魔石がバカ高いっ
て聞いたぞ。ひとつ、一万Pだって? まるで、プリンタと純正イ
ンクみたいな関係だな。インクで儲けるのよくない!﹂
﹁ぷりんた? いんく? ちょっと、またわたしのわからない単語
が出てきましたが。んん、ここで重要なのはわたしの職業です。イ
ッツ、マイ、ジョブ! 賢明なクランド氏は覚えていますかね?﹂
﹁ちょっとえっちなドジっ子お姉さん﹂
﹁ノンノン! 正解は錬金術師なのでしたー。そして、わたしにと
って魔石を偽造することなど、赤子の手をひねってねじきっちゃう
くらいたやすいことなのだよ!﹂
﹁⋮⋮いや、普通に怖いからな。って、偽造!?﹂
﹁うふふ、内緒ですよー﹂
メリアンデールは悪い顔でほくそ笑むと、ザラザラと革袋から黒
っぽい石をとり出してみせた。
﹁これって無尽蔵に作れるの。売っちゃえば巨万の富が﹂
ギルド
﹁あー、それはやんないです。個人で使うのは黙認してるみたいで
すけど、おおっぴらに売りさばいたりしたら、冒険者組合の利権に
食いこむことになるので、たぶんわたし消されちゃいますね。サク
ッと﹂
﹁消されちゃいますか﹂
﹁消されちゃいますよう。そしたら、クランドも悲しいでしょ﹂
﹁ああ、あまりの間抜けさにな﹂
﹁おい!﹂
917
メリアンデールはスクロールの力によって転移陣を構築する。
これによって次回以降はメリアンデールのアトリエから帰還時に
ギルド
設置したワープポイントへ飛べることとなった。ふたりは、エスケ
ープポイントから冒険者組合の事務所へと移動するため魔術の刻ま
れた半径三メートル程のサークル内に入った。うっすらとした白い
光が記述された魔術文字を明滅させた。
﹁おお、なんか光ったぞ﹂
﹁一瞬ですからねー、ホント便利ですよ﹂
メリアンデールがサークルの中央部に起動用の燃料となる偽造魔
石を置いた。
白光は力を増すと、目を覆わんばかりの強さで輝き出す。
蔵人は絶叫マシンに乗った際の急降下時に似た浮遊感を覚えて目
をギュッとつむった。
﹁あ、あれ﹂
瞳を開いた瞬間、身はすでに事務所ロビー脇にある転移陣の上に
あった。
たいした感慨もなく転移は完了していた。
蔵人がはじめてのワープ体験に感慨に耽っている間に、メリアン
デールがダンジョンで入手したアイテムを事務所の素材買取部署へ
と持っていった。
手持ち無沙汰になったため事務所の中を意味もなくぶらつく。ロ
ビーのあちこちには、すさんだ顔をした男たちがうろついていた。
ギルド
いわゆるあぶれ者である。
冒険者組合に登録して正会員になれるのはひと握りの富裕層かよ
ポンドル
ほどの努力家である。冒険者は喰いつめ者の集まりといった評価は
半分は間違っており、もう半分は正解だった。
そもそも、日々を食うや食わずのならず者に、十万Pの加入料や
一等市民権を持つ三人の推薦人を集められるわけはない。
正会員である冒険者は、ひとりにつき二十人の従者を同行させる
ことが可能である。
918
ほとんどの自称冒険者は当日限りの同行者となって探索行動を手
伝う代わりに、ダンジョン内である程度の自由時間をもらってモン
スター狩りや素材集めに精を出し生計を立てているのであった。
現在、時刻はほぼ夕方に近くである。こんな時間に事務所内をう
ろついているのは文字通りの負け犬であった。彼らのほとんどは地
方出身者であり、一攫千金を夢見て冒険都市ともいわれるシルバー
ギルド
ヴィラゴにたどり着いた成れの果てだった。
冒険者組合も彼らの素行が最低なのはわかっていて特に追い出す
ギルド
様子もない。その気になれば、都市の治安を守る鳳凰騎士団と同等
の武力を有している冒険者組合が黙って彼らを好きに闊歩させてい
るのは治安を維持するための囲いこみの意味あいもあった。彼らの
ほとんどはうつろな視線でぼおっと床に座りこんで虚ろな視線で奈
辺を見やっていた。
クソッ、こいつら見るたびに運気が落ちそうで嫌なんだよなぁ。
冒険者もどき兼反社会性人間予備軍たちは、まだ年若い十代二十
代がほとんどである。
三十代以上は皆無だ。
なぜなら、そこまで生きられずにたいてい死ぬからである。
死ぬ理由は千差万別だ。
ハードな階層の冒険にノコノコとついていってモンスターに食わ
れたり、あるいは大怪我を負って﹁助けてえええっ!﹂と泣き喚き
ながらも、﹁消耗品がっ、そこで飢え死ね!﹂と置いていかれてみ
じめにくたばったり、あるいは安い淫売を買って性病を移され職員
の手によって表のゴミ箱に捨てられてモノのようにゴミ収集業者に
回収されていったり、つまらん酒のイザコザで刃傷沙汰になってあ
っさり死んだり、単純に動けなくなってミイラ化したりなどいろい
ろだった。
すべて安っぽい死であり、誰も気にしないし悼まない。
まかり間違えば蔵人もそのお仲間に入っていたかもしれないと思
うとゾッとする。
919
ただひとつ彼らのドブ川のようにドロンとした瞳が輝くときがあ
る。それは、極小の存在である女性冒険者がいるのを見つけたとき
であった。
受付には、彼ら下層階級民の性の対象となっている超人気受付嬢
︵※みんなのオナペット︶がいるが、彼女をジロジロ見ていると棍
棒を持った番兵に殴り殺される危険性がある。
よって、彼らが安心して視姦出来る女性冒険者は貴重な存在だっ
た。女性冒険者を要するクランは多人数であったり手練の探索者で
あることが多い。日雇いの部類に至っては皆無である。
なので、声をかけたりはしないが、近くを通ればジロジロと穴の
空くように見つめて自慰のネタにしようと脳裏へ鮮明に焼きつける
のである。かなり露出度の高いビキニアーマーを着た女戦士などが
通過したときは、公共トイレがいっせいにザーメン臭くなるので正
冒険者から苦情が出るほどであった。
こんな負のオーラを浴び続けていたら、負けぐせがついてしまう
かもしれない。
蔵人はゴミ溜めから遠のくと受付近くに移動した。ふと、気づけ
ば邪龍王の頭蓋モニュメントを飾ってある場所に出店が置いてあっ
た。木の台を置いた上に商品を並べただけの簡素なものだ。
﹁ふむ﹂
見ればメリアンデールが欲しがっていた七宝焼のバッジが置いて
あった。店のオヤジに聞くと売れ残り品をここで捌いているらしい。
蔵人は少し考えると、それぞれ違った意匠の、鷹、虎、獅子、狼
の四種類を購入して革袋にしまった。むろん、あとでレイシー、ヒ
ポンドル
ルダ、ポルディナ、メリアンデールに配って機嫌をとろうという策
ポンドル
略である。それぞれが十Pという安さにも釣られた。
﹁おい、オヤジ。さっきは売店で百Pで売ってなかったか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おい。すっとぼけてんじゃねえぞ﹂
﹁⋮⋮あまり年寄りをいじめんでくれやぁ﹂
920
低レベルな争いだった。
蔵人が店のオヤジをからかって遊んでいるうちにメリアンデール
ポンドル
が戻ってきた。彼女はやや紅潮した頬で本日の戦果を報告しはじめ
た。
﹁すごいですよ! 青水晶とシビレ粉を合わせて二十万五千Pです
っ!﹂
﹁おお! やったな!﹂
ふたりは仲良く両手をつなぐと、お互いを引っ張りあいながらグ
ポンドル
ルグルと円を描きながら踊りまわった。視界のはしにネリーが固ま
ったままの姿勢でいるがこの際気にしない。
報酬は仲良く折半することとなった。
一日の稼ぎとしては、それぞれ十万二千五百P。日本円で約百二
万五千円である。
﹁特に青水晶のモノが良かったせいか買取金額が通常の倍でした!
どーん!﹂
﹁なはははっ﹂
蔵人は怪気炎を上げながら肩肘を張って通りの真ん中をのし歩い
た。すぐ横をメリアンデールがくるくる踊りながら付き従っている。
鼻を垂らした子どもたちが面白がってあとについてくる。不審者極
まりなかった。
へへ、けど一日で百万以上の稼ぎなんて、こいつはひょっとした
らひょっとするかもよ。
日本では二十歳そこそこのなんの能力もない若造が簡単に稼げる
額ではない。自分の命を危険に晒して得た報酬とはいえ、コンビニ
や土方仕事で雀の涙程度しか稼がなかったことを思えば天地の開き
があった。
﹁あくまで一階ですからね。十階を超えると報酬は十倍になるって
話ですけど、それってすごすぎですよね﹂
﹁マジか!!﹂
﹁ちょっ、クランド。顔、近いです﹂
921
﹁おおおおっ!﹂
﹁きゃっ、ツバが飛ぶですっ! きちゃないっ!﹂
これで、レイシーやヒルダ、ポルディナに三十万ずつくらいやれ
るな。
たまには甲斐性のあるところを見せないと。
蔵人は分けまえをしまった革袋を胸元にねじこんでメリアンデー
ルに背を向けた。
﹁じゃ、とりあえず今日はここで解散だなっ! また、明日がんば
ろうぜっ!﹂
﹁⋮⋮え﹂
駆け出そうとした瞬間、外套の裾をくいっと引かれた。
振りかえるとメリアンデールが泣き顔にも見える奇妙な表情で固
まっていた。
彼女の眉はくたんと八の字に曲がっており指先がぷるぷる小刻み
に震えている。
置き捨てられた子猫のようだった。
﹁ね、その。わたしのおうちで今日のお祝いとかしま、せん?﹂
﹁あー、悪い。ちょっと、今日は酒場に繰り出してパーっと⋮⋮﹂
パーっとレイシーにデカイ花火を打ち上げるのだ、とさすがに続
けることは出来なかった。
﹁やだ。ね、行かないで﹂
﹁ああん? なんで﹂
﹁わたしを、ひとりにしないで﹂
蔵人は困ったように下唇を突き出して、はじめてこの世界に携帯
がないことを呪った。
922
Lv59﹁隣のポルディナさん﹂
︵畜生、女と一発ヤリてぇええ︶
シルバーヴィラゴの職工、ゾルターンは女に飢えていた。
石工である彼は地方の寒村で生まれた。
実家の百姓仕事を手伝うのが嫌で家を飛び出したのだ。
角ばった顔に脂ぎった髪、顔には青春の証であるニキビが無数に
浮き出ていた。
無理もない。
彼は十八になったばかりで、毎日クタクタになるまで身体を酷使
しても、たぎった煩悩は衰えを知らなかった。
見習いの彼の給金は少なく、生活費や酒代を除けば安い淫売を月
に一回買えるかどうかくらいしか残らなかった。
︵クッソ、次の給料日までまだ二十日以上あるじゃねえかあああっ
! 女っ、女とヤリてぇええっ! ヌル穴に突っこんでどびゅどび
ゅ溜まったモノを出してえぇ!︶
ゾルターンは道具箱を肩に担ぎながら深いため息をついた。安い
下宿へと帰る道のりは現場から一時間以上かかる。通りには誘惑が
多い。田舎の農村にはなかった酒場や食い物屋が徐々に軒先のラン
プに火を入れはじめている。
夕方から夜にかけて、繁華街は顔をガラリと変える。
ゾルターンは出勤しはじめた、若い酌婦たちの盛り上がった尻に
視線を走らせながら股間をムクムクと隆起させた。よほど物欲しげ
にしていたのか、ひとりの女と目線が合った。
女の年頃は十五、六だろうか。
923
顔はドギツイ化粧を施しており十人並みだが、ざっくりと胸元を
開けたドレスからは真っ白な乳房の上半分が放り出してあった。
誘われるように視線が吸いつく。
ゾルターンのねっとりした視線に気づいたのか、女はキセルを口
元からはなすと灰を地面に落としていった。
﹁どうだい、兄さん。ちょっと寄っていって一杯引っかけてかない
かい﹂
タバコの飲みすぎのせいかやや枯れた声だが異様な色気があった。
生唾を飲み干しながら断腸の思いで断る。
途端に、女の視線が媚を含んだものから虫の死骸を見るものに変
わった。
﹁文無しがっ!﹂
ゾルターンは逃げるようにその場を足早に立ち去ると、憤懣やる
かたなく唾を地面に吐き散らした。
︵淫売がぁああっ! おまえなんか、銭さえもらえれば誰にでも股
開くユルマンのクセにいっ! ああ、あのデケぇ胸を無理やり揉み
しだいて、口の中に俺さまの極太突っ込んで抜きまくってやりてえ
ええっ!! うおおおっ!︶
もちろん金がなければ女を抱くことはできない。それが現実であ
る。
かといって貧乏でブサイクなゾルターンは普通の女に声をかけ股
を開かせる技量もなく、残されたのは狭い下宿に戻って自慰に耽る
くらいだった。
安い惣菜屋で晩のおかずと硬くなった黒パンを購入する。汗まみ
れで気持ち悪いが、公衆浴場で汗を流す金があるくらいだったら節
約して淫売を買う資金を充実させたい。
ゾルターンは溜まりに溜まった垢やチンカスを激安淫売の舌で清
めさせるときに、彼女たちの表情が絶望に染まる瞬間をじっくり観
察するのが無上の喜びだった。
彼の部屋はアパートの二階だった。
924
半ば腐った階段を軋ませながら登っていく。
足どりは微妙に軽くなる。腹をいっぱいに満たしてとっととさっ
きの安淫売の胸を思いだし、一発抜きたいのだった。頭上から小さ
な足音が聞こえてきた。
︵そういえば、珍しくこの下宿に越してきたやつがいるとか管理人
のジジィがいってたな︶
こんな腐った場末のような部屋に越してくるのは底辺に違いない。
どうせ、浮浪者同然の男か自分と同じように底辺をさまよう下層
民だろうと決めつけ階段を登りきったところで自分の目を疑った。
﹁ええええっ!?﹂
それは信じられないほど美しい亜人の少女だった。
品のいいサラサラした栗色の髪に黒曜石のように光り輝く瞳。
頭の上には獣人であることを示すふたつの犬耳が垂直に生えてお
り、臀部からはふさふさとした毛並みのよい茶色のしっぽがあった
がそれらは彼女の美貌をなんら損なうものではなかった。
ひと目で上質とわかる布で出来た深紺色のお仕着せを纏っていた。
雪のように真っ白なエプロンにはシミ一つない。
ぷっくりとしたくちびるは健康的な桜色をしていた。
違う次元の生き物だ。
ゾルターンが硬直したままでいると、亜人の少女はぺこりと頭を
下げた。
もはや貴族的な雰囲気すら漂っていた。
﹁お隣の方、でしょうか。この度こちらに越してまいりました家の
者でポルディナと申します。どうぞよろしくお願いします﹂
﹁は、はい。こちらこそ﹂
ゾルターンが唖然としていると、少女は買い物かごを抱えたまま
階段を降りていった。
すれ違いざまに少女の胸と尻に視線を走らせる。
服の上からもわかるほどしっかりした肉付きの良さが窺えた。
甘いような匂いに半ば陶然として、先ほどの安淫売のイメージは
925
あっさり上書きされた。ゾルターンは自分の部屋に飛び込むと、い
きり立ったモノを露出させて自慰をはじめた。
︵マジかよっ! こんな肥溜めみてえな場所にあんなすっげえ美人
があああっ! こりゃ、つくづく俺にもツキが回ってきたってやつ
かああっ!!︶
当然コキネタはさっきの少女であった。
︵これはチャンスだっ! これから彼女と上手く仲良くなって、ズ
ボズボしまくれという天の導きだっ!︶
ゾルターンは頭の中でポルディナを全裸にすると、考えつくまま
に淫らな行為を夢想した。
想像を逞しくしながら、ゾルターンは酒を呷り、一日の疲労がど
っと体中に出て倒れるように意識を失った。
﹁ん、むにゃ?﹂
ゾルターンはなにかの叫び声で目を覚ました。壁際に近づくと、
かすかに湿ったような声が聞こえてくる。
︵もしや、これはポルディナちゃんがアヘアヘしてる声では!!︶
もしそうだとしたら、これは千載一遇のチャンスである。ゾルタ
ーンは全身の衣服を脱ぐと、血走った瞳をぎらつかせて壁に耳を当
てた。
﹁聞こえる! 確かにポルディナちゃんのエロ声が、聞こえるぞっ
!!﹂
ゾルターンはよだれを垂らしながらか細い声を聞き取ろうと、さ
らに耳をぐいっと押しつけた。
あれ、けど、これって、男の声も混じってるんじゃ⋮⋮。
﹁あああっ、すっご⋮⋮すごいですっ! ご主人さまぁああっ!﹂
﹁うおおっ!?﹂
瞬間的にものすごい嬌声が響き、耳を離してしまう。
間違いなかった。これは、ポルディナが他の男とヤリまくってい
る喘ぎ声だった。
﹁んだよおおおお、もおおおっ!!﹂
926
ゾルターンは激しい嫉妬で頭の中がすべて焼き尽くされた。
あの、美しいメイドの少女が他の男に貪られていると思うだけで
気が狂いそうになった。
﹁んああああああっ!!﹂
部屋の中で目に付いたものを片っ端からつかむと投げつけ、あり
とあらゆる物を八つ当たり気味に破壊した。
ゾルターンは荒い息を吐きながら、部屋の中央で頭を抱えこんで
胎児のように丸まった。 だが、隣室の喘ぎ声は消えないどころかさらに大きくなった。
別人と思えるような淫蕩に染まった少女の声が響き渡る。ゾルタ
ーンは自分の髪を掻きむしりブチブチと引き千切った。発狂寸前で
ある。
永遠に続くかと思う拷問も終わり近づいた。彼女の甲高い叫びが
かすれて聞こえた。
最後に甲高い絶叫が響く。ゾルターンは、壁へと爪を突き立てな
がら、身をよじった。
﹁ひっく、ひぐっ。えぐっ﹂
その夜、ゾルターンは泣き疲れると子どものようにそのまま眠り
に落ちて、翌日軽い風邪をひいた。
﹁えっぐっし! えぐっし!!﹂
ゾルターンは垂れた鼻水を手ぬぐいで拭くと、昨晩食い忘れた夕
食をモリモリ胃に詰めこんで道具箱を背負った。
どんな状況だろうと仕事を休むことはできない。
多少、頭が痛むが身体を動かしていれば昼には治るだろう。
頭は弱くて顔は悪いが生命力だけには自信があった。
927
タチ
それにしても昨夜の悪夢は性質が悪すぎた。
溜まりに溜まったザーメンを放出させまくったせいか、ゾルター
ンの精神に奇妙な余白が生まれていたのだ。ただの現実逃避なのだ
が。
︵昨日見たポルディナさん。まるで女神のように美しかった。是非、
ああいう子を嫁にしてえなあ︶
ゾルターンの凶暴な性欲が満たされた今、ポルディナという存在
を神聖視するもうひとつの青年らしい気持ちが生まれていたのだ。
︵昨日のあえぎ声は空耳だ。あんな、清楚で美しい人が男とぬちょ
ぬちょイヤラシイことをするはずがない。彼女は清いまま俺といっ
しょになるんだ︶
誠に身勝手な理屈だった。
ゾルターンはちょっとした期待をこめて外に出たがポルディナの
姿を見ることはなかった。かなりガックリした。おまけに食った飯
が悪かったのか、少し腹が痛む気がする。
︵なに落ちこんでんだよ! 彼女は隣に住んでるんだからまた会う
機会もあるさ。それに、昨日のことはきっと夢に違いない!︶
そして次の日の夕方、泥のように重たくなった身体を引きずって
帰宅したゾルターンは階段を登りきったところで信じられないもの
を目撃した。
ポルディナと男が廊下で抱きあっていたのだった。
ゾルターンは瞬間的に思考を停止させると凍りついたようにその
場で固着した。
﹁ご主人さまぁ﹂
少女は銀のように美しい涙を流しながら男とねっとりしたキスを
928
かわしている。
どう見ても恋人同士。いや、それ以上のものだった。
︵なんでだ! なんで、俺のポルディナさんとおおおおおおっ!!
こいつっ、ふ、ふざっけんなよおおおっ!!︶
ゾルターンは暗い情念に身を焦がしながら自室の扉を開ける。
すれ違いざま男がせせら笑ったような気がした。
こんないい女を落とすのはどれほどの二枚目かと思いきや、自分
と大差ない顔つきをした浅黒い男だった。
あてつけに扉をおもいきり閉める。古い扉が大きな音を立てて軋
んだ。
﹁なんでだよおっ、俺の方が男前だべ! 断然イケてるべっ!! ぬおおおっ、ちくしょおおっ!!﹂
ゾルターンは床板に額を激しく打ち付けながら男泣きに泣いた。
ついでに興奮して田舎言葉が出た。
﹁俺の方が男前だべ、はるかにカッコイイべ! モノだって、きっ
とデカいべ! その、長さはイマイチだけど太さなら﹂
声の大きさが次第に尻つぼみになる。ゾルターンのイチモツの長
さは並だった。
あの男が清楚なポルディナの美肉を思うさま味わったと思うと悔
しさと嫉妬心で胸が壊れそうになった。
﹁あの野郎が、俺のポルディナさんのおっぱいをちゅうちゅう吸っ
て、もにもにっと揉みしだいて、あの可憐な唇を無理やり⋮⋮あ、
やべ﹂
ゾルターンは次第に硬化していく欲望を持て余し座り直した。
ともかくこのままでは悔しくて上手く眠れそうにない。
明日は、休日であり特に今夜は気兼ねすることなく夜ふかしでき
る。
ゾルターンは憤懣やるかたなく下宿を飛び出すと、夜の街で一杯
やろうと店を物色しはじめた。
とはいえ、給料日前である。自ずと店のレベルは限られてくる。
929
当然、若い女のいる店には入れない。高いからだ。かといって、
安い店はババァがいるのでこわい。人生は無情だ。
︵ムシャクシャするううっ。けど、金はねえし、女は抱けねえし。
つまんねええ︶
ゾルターンは革袋から銅貨を数枚広げてジャラジャラとこするが
何度やっても増えるという奇跡は起こらなかった。
憤懣やるかたなく唾を路上に吐きながら肩を怒らせのし歩いた。 前方からカップルらしき男女が近づいてくる。
男は五十すぎの中年で、女はまだ十四、五の少女だった。
男の顔は肥えきって顎が三重ほど有り首が完全に肉に埋没して見
えない。
顔中には醜怪なシミが多数浮き出ており、髪は半ばが白く後頭部
は完全に頭髪がなかった。
ひきかえて女の方はおさげ髪のかわいい目元の涼しげな容姿をし
ていた。
完全にミスマッチである。
男女は露天で足を止めると装飾品を物色しはじめた。ゾルターン
はかがんだ女の尻がよく見える位置にさりげなく移動した。
もっちりとした丸い尻がフリフリと左右に揺れる。
ゾルターンのこめかみに太い血管が浮いた。
︵あのデケェ尻を両手でつかんで、俺のビックなモノをめちゃくち
ゃに突きこんでやりてぇぜ!︶
ふたりの話を注意深く盗み聞きすると、どうやら歴とした夫婦ら
しい。
男は太ってはいたが上等な絹の衣服を身にまとい貫禄は充分だっ
た。
︵ケッ、どうせ後妻かなんかだろうがっ! 金で女のツラ引っぱた
いて嫁にしたんだろうよう! 俺も欲しいよう、あそこまでかわい
くなくても、いや、もう穴があるならなんでもいいんだ!︶
ゾルターンが人の女房の尻を注視していると、通りの向こうから
930
女の叫び声とモノが壊れる大きな音が響き渡った。
﹁なんだあ?﹂
物見高い街衆である。ただでさえ娯楽の少ない世界だった。
喧嘩や口論となれば、ひと仕事終えて暇を潰している人々の格好
の的である。
群衆の動きに急かされるようにゾルターンも走り出すと騒ぎの中
心に駆けつけた。
﹁クッソ、見えねえじゃねえか! どけや、この暇人どもがっ!!﹂
ゾルターンは自分のことを棚に上げて人垣をかき分けて突き進ん
だ。あちこちから悲鳴がもれる。どさくさに紛れて、周辺の暇人を
突き飛ばしたり蹴ったりして憂さを晴らした。
﹁いって、押すんじゃねえ!﹂
﹁やめろおおお、誰だ僕の足を踏んだのは!﹂
群衆の一番前に出ると騒ぎの元が目の前に飛びこんできた。酒場
の前で三人のオークがひとりの若い酌婦の髪をつかんで引きずり回
していた。
﹁いやああああっ!!﹂
﹁ふざけんなよ、この淫売があああっ!!﹂
﹁誰が文無しだとおおっ!! 舐めた口きいてんじゃねえっ﹂
﹁ごめっ、ごめんなっ、ごめんなさいいいっ!!﹂
オークは若い酌婦の髪からパッと手をはなすと地面に放り捨て、
子犬をいたぶるように靴のつま先で蹴り出した。酌婦は身体を丸め
ると震えながら泣き喚いて命乞いをしている。酌婦の叫びが大きく
なればなるほどオークたちの瞳がますます情欲の炎で燃えたぎった。
﹁まったく、酷いことです。いったいこれはどうしたことでしょう
かね﹂
﹁なんでも、あの若い酌婦が店に入ろうとしたオークたちを断った
そうでしてね﹂
﹁断ったくらいであそこまで怒るものですかねえ﹂
﹁あの娘、リタというのですが、昔から口が悪くて相手を見ずに喧
931
嘩を売っていたようで。かくゆう私も、何度か口汚く罵られまして
ね﹂
﹁ほお、それは災難なことで﹂
﹁まあ、私がツケを払わなかったのが悪いんですがね﹂
﹁ははは、そいつはあなたが悪い。しっかし、いささかやりすぎの
ように思えますが。知らん顔でもなし、仲裁に入ろうとは思わない
のですかね?﹂
﹁私がですか!? 冗談じゃない、知り合いといっても、所詮酌婦。
生きようが死のうがこの街にとってはどうでもいい存在です。わざ
わざおせっかいツラをして怪我してみてもバカを見るだけですよ。
それならば、ここでこうして見守っている方がよっぽど利口っても
んです。いいかたは悪いですが、ほんの暇つぶし程度にはなります
からな﹂
﹁そうですな。それに、しばらくすれば誰か自警団を呼ぶでしょう
し、最悪殺されはしないでしょう﹂
ゾルターンの隣に居た男たちはいかにも人ごとのようにひそひそ
話をすると、暗い欲望にとり憑かれた目でより残酷な事態になるこ
とを待ち望んで見守りだした。
﹁やだああああっ、やめてよおおぅ!﹂
﹁暴れんじゃねえやっ、見物に来てる皆様方に少しはサービスした
らどうなんだ、よ!!﹂
オークたちは三人がかりでリタを無理やり立たせると、彼女の上
着を力任せに引き千切ってみせた。
ぼろんと飛び出した白い乳房が落ちかけた残光の中で妖しく輝い
た。 群衆からは大きな歓声がどっと沸く。
ゾルターンはケツの穴がきゅっと縮まると同時に股間が強く硬直
するのを感じた。
︵あああっ、こりゃいくらなんでも、かわいそうじゃねえか。だ、
誰か、誰か止めてやれよう。クッソ、それにしても、どっかで見た
932
ような⋮⋮あ!!︶
リタの泣き顔を直視して唐突に思い出した。
彼女は先日ゾルターンを文無しと罵倒した飲み屋の酌婦だったの
だ。
﹁や、や、やめるべ! そこまでにするべ!!﹂
気づけばゾルターンは人の群れから飛び出しなまった田舎言葉で
叫んでいた。周囲の群衆はあっけにとられいっせいに押し黙る。盛
り上がりに水をかけられた形になったオークたちが、獰猛な目つき
でにらみかえしてきた。
︵やっべえええ!! もおお、こおなったらイチかバチかだべ! 先手必勝!!︶
﹁うわあああああっ!!﹂
ゾルターンは精一杯に怒声を張り上げながら真っ直ぐに突っこん
でいく。
リタの泣き腫らした顔とオークたちがゆっくりと身体を半身にす
るのが見えた。
奇跡を願って拳を突き出す。瞬間的に目の前を白い火花が走った。
﹁おぶえるっ!?﹂
ゾルターンはオークの巨大な拳を顔面に喰らうと紙切れのように
すっ飛んで宙を一回転して仰向けに転がった。
﹁なんだあ、こいつ。いきがって飛び出してきた割には激弱じゃね
えか!﹂
﹁ケッ、いいとこ見せてヒーローーになるつもりだったのか? お
生憎だな! 世の中そんな甘くねえんだよおおおっ!!﹂
オークが転がったゾルターンの腹をつま先で蹴っ飛ばした。
﹁ぐええええっ!﹂
ゾルターンは痛みのあまり激しくうめくと目をひん剥いて絶叫し
た。
﹁おいおい。いい声で鳴くんじゃねえよ。もっといじめたくなるだ
ろうがよおおっ!!﹂
933
オークたちはリタからはなれると残忍な形相でゾルターンに襲い
かかった。
寝転んだままロクに動けないゾルターン目掛けて虫けらを踏み潰
すように蹴りを続けざまに見舞う。 血飛沫が土煙と共に吹き上がった。
ボス格の一番大柄なオークはリタの露出した胸を揉みながら耳元
で囁いた。
﹁ふん、正義の味方でも期待したのか? お生憎だったな。さあ、
生命が惜しかったらこの場所で生まれたまんまの姿になるんだ!﹂
﹁え、あ、え? や、やだぁ﹂
﹁やだじゃねえ! いまからオレたちが暇つぶしに楽しいショーを
開催してやるっていうんだ! ありがたく犯されるんだよ、この淫
売がっ!﹂
オークは鼻息をさらに荒くさせるとつかんだ乳房をぎゅうと強く
ひねった。
﹁いだあああああいっ!!﹂
リタの叫びが流れた。
ボスオークは、目を血走らせながら女の細い首をベロベロと舐め
上げた。
﹁やだぁ、ひぐっ⋮⋮あたし、お酌はするけど⋮⋮ひぐっ、淫売じ
ゃないもんっ⋮⋮処女だもおん⋮⋮っ﹂
﹁へええええ、生娘とはこりゃまたツイてるぜ。この俺がお前の処
女をブチ抜いてやるから、ありがたく思えよ﹂
﹁やだ、やだああっ﹂
﹁泣くんじゃねええっ! ハラワタ引き抜いて口の中に突っこむぞ
!!﹂
ボスオークがリタの両脇を抱えて吠えると彼女は身体を硬直させ
た。
﹁ひ、ひ、ひい﹂
リタは恐怖のあまりガチガチと歯を鳴らして痙攣しはじめた。ボ
934
スオークは暗い愉悦に打ち震えながら獰猛に吠え立てた。
﹁へへ、俺さまの恐ろしさがわかったか? なら、とっとと全部脱
いで、ここにいる皆さんになにもかもを晒すんだよ! いいか!!﹂
リタはこくこくと泣きながらうなずく。生存本能がまさったのか、
唇を噛み締めてボロボロになった衣服を脱ごうと手をかけた。
ほぼ同時にボスオークの顔面にびちゃりという湿った音が響いた。
﹁へ﹂
ボスオークは自分の顔に手をやってぬるりとした飛来物を確かめ
た。どろりとした黄褐色のモノはありふれた鶏卵であった。瞬間的
に怒りのレッドゲージが限界を振り切った。
﹁誰だ、こんなモンを投げた命知らずはああっ!! ぶっ殺してや
るらあっ!!﹂
ボスオークはリタを投げ捨てると群衆に向かって怒声を放つ。人
垣は中心部から蜘蛛の子を散らすように割れて、それぞれが押し合
いながら安全な距離を取った。
﹁だ、誰だよ! オレじゃないぞ、断じて!﹂
﹁おい、誰だよ! 余計なことしやがって! おまえだろ、くのく
のっ!﹂
﹁ひ、ひいい。拙僧じゃありませんよ、マジで。いや、止めようと
は思っていたのですが、そこまでする勇気がなくてですねえ、その、
せめて下の毛だけでも確認をしたら通報を、と﹂
﹁あっ、坊主が逃げたぞッ!!﹂
﹁逃げんじゃねえ!! おまえだろおっ、さっさと白状しろや!﹂
︵誰だよ、俺以外にこんなことするバカはぁ︶
ゾルターンは朦朧とした意識の中でもうひとりのバカの存在を見
極めてやろうと努めた。
喉が激しく乾き、全身が炎であぶられたように熱い。
吹き出た血糊が固まったせいか呼吸が異常にしづらかった。
人垣に視線をなんとか向けた。
群衆がさらにさっと左右に割れる。
935
そこには信じられない人物がいた。
﹁ま、マジかよ。う、嘘だ﹂
深紺色のメイド服に身を包みさっそうと前に出た亜人の少女。
表情は凍れる銀のように研ぎ澄まされて異様な美しさを醸し出し
ていた。
栗色の髪は風に流れ、頭上に立つ犬耳はピンと張っている。
黒々とした瞳は深い湖のような冷たさをたたえていた。
細くくびれた腰からは茶色いしっぽが毛を逆立てて伸びている。
それは、左右へ小刻みに揺れていた。
﹁ポ、ポルディナ、さん﹂
ゾルターンが息も絶え絶えに顔を上げると、そこには買い物かご
を抱えたポルディナがメイド服のまま静かに佇んでいた。
﹁おい、テメェかよ、小娘が。どうやら、この死神エッカルトさま
を知らねえでアヤつけたみてえだな。だが、俺さまは女にはやさし
いんだ。そうだな、いまからここで素っ裸になってその白い腹でも
見せてくれれば、軽く輪姦するだけで許してやらねえこともねえぜ﹂
︵ふ、ふざけんなよ、このクソ豚が! ポルディナさんを、おまえ
のような豚公が汚していいと思ってるのかよ! 殺すっ、殺すっ!
!︶
ゾルターンは脳みそが飛び出しそうな激痛に耐えながら立ち上が
ると、フラフラとボスオークに向かって歩き出した。
それを目に止めたボスオークは顎をさすりながらせせら笑った。
﹁ほう。この小僧、よっぽどこの淫売が大事と見える。そこまで、
身体を張って守りたいほどいい女には思えないが。まあ、いい。俺
さまは、そういう純愛野郎をボコボコにしてそいつの守りたかった
女を汚しまくるのが大好きでね。まったく、俺さまをこれ以上うれ
しがらせるんじゃねえよお﹂
ボスオークのかなり勘違いした言葉にリタが目を見開いた。
﹁あんた⋮⋮!﹂
︵うるせええっ、いまはポルディナさんを守るために立ち上がった
936
んだよおお!!︶
反論しようとするが口内に血反吐が詰まって上手く喋れない。
ゾルターンはよろめきながらもようやくボスオークのそばまで来
ると、最後の力を振り絞って拳を繰り出した。
へなへなパンチはボスオークの肩に軽く当たると、ぺちんと蚊も
殺せなさそうな音を立てた。
打力も勢いもジジィのションベン以下のショボさだった。
﹁フン!﹂
﹁えぷっ!?﹂
ゾルターンは木の葉のように吹き飛ばされるとはるか後方まで吹
き飛んだ。
︵あ、死んだ⋮⋮︶
だが衝撃はいつまでもやってこなかった。
気づけば背中を抱きとめられている。
腫れ上がった目蓋を無理やりこじ開けて首を動かした。
そこには無表情のままゾルターンを抱きとめたポルディナの姿が
あった。
﹁大丈夫ですよ。お隣のよしみでご助成いたします﹂
﹁あ⋮⋮﹂
その言葉を聞いたと同時にポルディナの姿は消え失せていた。
ポルディナは解き放たれた矢のような素早さで駆け出すとオーク
たちに猛進した。
﹁んなっ!﹂
視認できない動きだ。ゾルターンの目には紺色の影がさっと動い
たようにしか見えない。
あっけにとられたオークの顔面めがけて鞭のようにしなった蹴り
が流星のように走った。
﹁んべらっ!?﹂
オークの顔面にポルディナのつま先が深々と突き刺さった。
赤黒い血飛沫がパッと辺りに舞ったかと思うと、巨体が後方へと
937
倒れ込んだ。
続けざまポルディナは地を蹴って飛び上がると、垂直に構えた肘
を倒れこんだオークの顔面に叩き込んだ。
もっとも硬い肘頭はオークの顔面に埋没すると太い鼻面から頭蓋
骨を割って、前頭葉、脳梁、視床下部までを木っ端微塵に破壊した。
オークは脳漿をぶちまけたまま四肢を突っ張らかすとそのまま激
しく痙攣し絶息した。
﹁な、な、なにしやがるうっ!?﹂
ならず者のオークたちとすれば、せいぜい安い淫売をからかって
暇を潰そうくらいにしか思っていなかったのだ。
ウェアウルフ
それがいきなりの命のやり取りになるとは思いもしていなかった。
だが、獣人の中でもっとも凶暴といわれる戦狼族のポルディナに
してみれば、一旦戦端を開いたからにはどちらかが倒れるまで闘争
が終わるということはないのだった。
生か死か。
殺し合いの鉄則である。
ポルディナは鼻筋に獰猛なシワを寄せて低くうなると、全身の毛
を逆立てて目の前の個体に迫った。
その端正な顔立ちも、もはや荒ぶった獣同然だ。
怯えたオークがやけっぱちで手を伸ばしてくる。
ポルディナは正面から四つに組んだ。
両者は手のひらの大きさだけでも大人と赤子ほどの差があった。
剛力で知られるオークは自分よりはるかに小さな体躯の少女を侮
っていた。
自分が負けるとは脳裏のはしに浮かぶはずもなかった。
両手を組み合わせていたオークの表情は一瞬で変わった。
﹁ごおええええっ、ちょっ、まっ!? えええっ!!﹂
めきめきと音を立ててグローブのような手のひらに少女の小さな
ウェアウルフ
指が食いこんでいく。
戦狼族の並外れた筋力はたやすくオークを凌駕していた。
938
﹁いだああああっ、おっ、はなせよっ! はなしてええっ!!﹂
﹁ダメです﹂
ポルディナは静かにつぶやくと、両手へとさらに力をこめた。
オークのてのひらは、先端の指骨から中程の中手骨まで完全にへ
し折られた。
折れ曲がった骨が手の甲の皮膚を突き破りどろりとした血が噴出
させた。
オークはみじめったらしく泣き叫ぶと、苦しそうに口をパクパク
無闇に開閉させた。
﹁あ、ああああっ。いだっ、いだああっ﹂
ポルディナは両手を解くと首を傾けて、コキっと鳴らした。
表情はほとんど変わらない。まるで、料理の下ごしらえを行って
いるように自然だった。
︵ば、バケモンだ。この女⋮⋮︶
格闘を眺めていたゾルターンに激しい怯えが走った。
両膝を突いてしゃがみこんだオークの脳天めがけて、ポルディナ
の手刀が勢いよく叩きこまれた。
﹁えぶっ、えぶゅるっ!﹂
手刀はビュッと空気を引き裂きながら異様な音を立てて脳天に吸
いこまれていく。
一発。
二発。
三発。
四発。
五発。
濡れた肉を太い棒で叩くような鈍い音が辺りに木霊した。
群衆のあちこちであまりの残忍な光景に嘔吐する音が聞こえる。
ポルディナの手刀は杭打ち機の要領でオークの頭部をだんっ、だ
んっ、と胴体に打ち込んでいった。
﹁おぶるえええっ!﹂
939
ついにはゾルターンも耐えきれずに吐いた。
最後に残ったのは、潰れてグズグズになった肉饅頭を乗せた奇妙
なオブジェだけだった。
﹁こ、このお⋮⋮﹂
残ったボスオークは完全に呑まれていた。
あっさりと仲間ふたりを葬り去った目の前の少女が恐ろしくて仕
方がないのだ。
自分を奮い立たせるように雄叫びをあげ、足を踏み鳴らして駆け
出した。
その顔には憎悪よりも恐怖が色濃く出ていた。
ポルディナはその場を一歩も動かず泰然と待ち受けると両手を前
にさっと突き出した。か細く華奢な両腕と巨体の肉弾が激しく激突
した。
﹁うわああっ!!﹂
そこにいる誰もが自分の目を疑った。
巌のような巨体がまるで風船を持ち上げるようにして軽々と少女
の手で持ち上げられていたのだ。ボスオークの身体は優に三メート
ル近く重さだけでも三百キロは超えていよう。
﹁降ろせええっ、降ろせええっ!!﹂
﹁はい﹂
ポルディナはまるで毬でも投げるように巨体を弾き飛ばした。
ボスオークの身体は風を切り裂き凄まじい勢いで頭から地面に叩
きつけられた。
﹁あっぷう!!﹂
奇妙な断末魔が響くと共に頭部は紙細工のようにぺちゃんこにな
って脳漿をブチ撒いた。
周囲の地面が真っ赤な大輪を咲かせたように血の海へと変わった。
ゾルターンは震え切ったリタを抱きしめながらその光景を見続け
るしかなかった。
陰茎は完全に縮こまっている。激しい恐怖のせいか痛みが完全に
940
麻痺していた。
涼しい顔をしてエプロンのホコリを払っているポルディナと目が
合う。
両腕へと自然に力がこもった。リタも強く抱き返してくる。
ポルディナは軽く一礼すると、買い物かごをつかんで遠ざかって
いく。預言者が大海を割って歩き続けるように、人垣がさっとふた
つに割れた。
翌日、ゾルターンが下宿を引っ越していったのはいうまでもない。
941
Lv60﹁やっぱり猫がキライ﹂
人生にはモテ期というものが存在するらしい。
すなわちやることなすことすべてが成功して、無意味に女にモテ
まくる確変期のことを人々はそのように総称して呼んだ。
さもあらん。彼女の家に行くと告げた途端、メリアンデールは顔
をパッと輝かせて喜びをあらわにしたのだった。
現在、蔵人は彼女の繰り出すちょっと多すぎじゃね? と首をか
しげそうなほどの大量の手料理を残らず腹に収めてソファにひっく
りかえっていた。
﹁あー、さすがにおなかパンパン﹂
蔵人は鼻歌混じりで食器を炊事場に運ぶメリアンデールの丸い尻
を眺めながら期待に胸を膨らませた。思い返せば、声をかけてきた
のも一方的に好意を寄せてきたのも彼女が初めての存在だった。
蔵人のしたことといえば、激弱ゴーレムを池に誘導したり、彼女
につきあいチョロっとダンジョンに潜って雑魚モンスターをしばき
倒したりしたくらいである。
︵そもそも自分の家にこうも簡単に招き入れるってことは、あいつ
も俺に好意を抱いている、いや抱かれたがってるってことで間違い
なよな。うっひゃー! 今夜は朝までぬっこぬこフェスティバルだ
ぜ!︶
先日は妙に気取ってしまったが、ここまでいい雰囲気の状態で彼
女に手を出さないのはむしろ失礼に当たるであろう。
942
蔵人は勝手に自己完結すると、妙にそわそわしながら手櫛で髪を
なでつけたりして挙動不審になった。
﹁クランド、ちょっといいかなー﹂
﹁ああ、いつでもいいぜ﹂
蔵人は舘ひろしばりに渋い表情でキメ顔を作る。紅茶をトレイに
載せて入ってきたメリアンデールが顔を引きつらせた。
﹁どうしたの。食べ過ぎておなかいたいのかな?﹂
﹁ふ、そんなことは心配ご無用。それより、君もゆっくり椅子にか
けなんし﹂
﹁変なのー。それよりよくぜーんぶ食べられたね。私、ぜったい残
すと思ったんだけどな﹂
﹁紳士はレディの手料理を残したりはしない﹂
﹁なんですかそれー。もお、おかしいなぁ﹂
メリアンデールはケタケタ笑いながらソファの隣に腰掛けると茶
の用意をはじめた。
とぽとぽという音といっしょに紅茶のかぐわしい匂いが辺りに満
ちた。
ポット傾ける際に彼女の白いうなじが目に入りドキリとする。
蔵人は鼻息をやや荒くするとカッと目を大きく開いた。
マズイ。早まるな、我が息子よ。いまはその時ではない。
無意識にアレが半勃ち状態になる。モノには順序というものがあ
るのだ。 いきなり鎌首をもたげた大砲を見れば清純なメリアンデールが怯
えてしまう。
アレおっきっき↓ヤダ、このひとケダモノ↓ところでこの名剣ど
う思う?↓私そんなつもりじゃないのにっ、帰って! 今日は帰っ
て↓イチャイチャできずに悶死
この破滅の方程式だけは避けなければならない。
蔵人は腰をクッと後ろに引くと外套の前を合わせた。
蔵人の所作に不信を覚えたのかメリアンデールが眉を八の字にし
943
て唇を尖らせる。
﹁ちょっと、暑いんだから家の中では外套脱いだらどうなんですか
ー﹂
﹁やだ、この子ってばいきなり脱げだなんてぇ、メリーのえっち﹂
﹁なななな、そんなこといってませんよ。クランドのばかぁ﹂
メリアンデールは肩を打つ真似をしながら怒ってみせる。
言葉とはうらはらに顔はゆるみきっていた。
﹁フヒヒ、ばかぁいただきました﹂
蔵人はアホヅラを晒しながら彼女の肩を図々しく抱き寄せる。
﹁あ、ダメですよ。お茶がこぼれちゃう﹂
﹁よいではないか、よいではないか﹂
﹁なんですかぁ、そのしゃべり方。おかしな、クランド﹂
﹁俺の国では王にのみ許されたしゃべり方なのだ。ちなみに、この
あと腰元は高確率でお手つきになる﹂
﹁ダーメ、いたずらしちゃ﹂
メリアンデールはそろそろと伸ばした手のひらをペッと軽く叩く
が本気で拒否している様子ではなかった。
目元は朱を刷いたように色づき長いまつげは細かく震えていた。
勝機を見過ごす蔵人ではない。
﹁メリー﹂
﹁だめ、だめったらぁ⋮⋮ん﹂
蔵人はメリアンデールの手をとると一気に引き寄せて唇を奪おう
とのしかかった。
彼女は形ばかりに拒もうと蔵人の胸に片手を当てて押し返すそぶ
りを見せた。
さらに強く力を込めて肩に手を回して顔を近づけた。
メリアンデールがそっと目を閉じる。
蔵人の頭の中がカッと熱くなった。
ギィっとソファが重みで軋んだ。
甘ったるい体臭を吸いこみ目の前がチカチカした。
944
︵一気にいく、一気にいく、一気にいくぞ! とりゃーっ!!︶
悲劇はその瞬間起こった。
﹁郵便でーす!﹂
﹁んなっ!?﹂
﹁え⋮⋮﹂
玄関口から子供のような甲高い声が聞こえてきた。
不意を突かれて両者の緊張が真っ二つに両断される。
メリアンデールは何かに気づいたようにはっと我に返ると耳元ま
で真っ赤になると、素早い動きでソファにのはしへ移動した。対照
的に蔵人の顔は紙のように真っ白になった。
んだよおおおっ、ちくしょおおっ! 空気の読めないやつだなあ
っ、おい!!
﹁あ、あはははは! いまの、いまのなしです! なしですよ、ク
ランド!﹂
メリアンデールは狼狽しきった様子でほつれた髪を撫でつけると、
スリッパをパタパタさせながら玄関口へ駆けていった。
﹁あ、ちょっと待ってくれよおおっ、ちゅー! ちゅーはっ!﹂
んだよおおおっ、お預けかよっ、クソっ。
蔵人は口をへの字にしながらあとを追った。玄関に出るとそこに
は二本の足で立つ黒猫が小包を渡しているところだった。
﹁ここにサインをお願いですニャ﹂
緑色のマントを羽織って芥子色のブーツを履いたケット・シーと
呼ばれる獣人は、メリアンデールから受取書にサインをもらうと、
そそくさと表に停めてある荷馬車に戻っていった。
急速に現実からファンタジックな世界に引き戻され蔵人は言葉を
失った。
﹁猫でニャの語尾はあざとすぎるだろ﹂
放心状態の男を放って置いてメリアンデールは荷物の封を素早く
解いていた。
﹁やたっ。注文していた鉱石セットです!﹂
945
﹁ああん? なんだそれ﹂
蔵人が後ろから覗き込む。小箱は縦横に細かく区切られ、ひとつ
ひとつに様々な色の石が詰めこまれていた。
﹁これだけ種類があれば、いままで以上に研究がはかどるんですよ
! ずーっと待ってたんです。入荷するのを!﹂
﹁あ、ああ。そう﹂
メリアンデールはスキップしそうな勢いで実験室に戻ると、まる
で宝石を見るような目でひとつひとつの石ころを舐めるように見つ
めた。いまにも頬ずりしそうな勢いである。
︵こりゃあ、もうイチャイチャする空気じゃねえな。恨むぜ、タイ
ミングという無慈悲な神を。もう、おまえを信じたりしない︶
蔵人は役目を終えた夏の終わりのようなセミのように、椅子に座
ってピクリともしなくなった。
メリアンデールはすでに自分の世界に完全没入しているのか、先
ほどのふわふわ感の欠片もなく躍起になって乳鉢やビーカーなどの
器具の前でふーふーうなっている。
これ以上ここに居ても益はない。
そうなると頭の中を占めるのは他の女のことばかりだった。
﹁なあ、ちょっと出かけてきていいか﹂
﹁え、出かける。なんで?﹂
メリアンデールはきょとんとした顔でいった。蔵人が自分からは
なれるなどとはありえないと決定づけているのだ。
﹁いや、色々忙しいんだろ。研究とかでさ。なら、ちょっと顔を出
しておきたい場所があるんでよ﹂
﹁え、うそ。ちょっと、やだ﹂
メリアンデールは突如として声を震わせると、持っていた鉱石を
放り投げて蔵人につかみかかる。先ほどまでの様子とは打って変わ
り、薄く青ざめてさえいた。
﹁ごめんなさい、研究なんかしないから。やだよお、行かなでいよ、
クランド﹂
946
ひとりなることを恐れきっているのだった。
泣きそうに顔を歪めた少女を見て、一瞬考えこむが蔵人の気持ち
は変わらなかった。
﹁ちょっとだけだって。そうだよ、その一時間くらい。そのくらい
ならひとりでも大丈夫だろう。なっ﹂
﹁やめなよぉ、お外は暗いよ。明日にしなよぉ、ここにいなよぉ﹂
﹁平気だって。ほんの少しだけだから﹂
﹁クランドがいないと怖いよ、私。また変な人来るかも、だし﹂
﹁さっきは気にせず出て行ったじゃねえか﹂
﹁クランドがいたからだもん﹂
メリアンデールは子どものようにぷうっと頬を膨らませると拗ね
てみせた。
結局のところアトリエを出る許可を得るのに小一時間ほど費やし
た。
ポンドル
蔵人がまず最初に向かったのは銀馬車亭だった。手元には戦利品
である十万二千五百Pがある。思えばレイシーには世話になりっぱ
なしだった。
︵まあ、ヒルダとはんぶんこが妥当だな。差をつけりゃ恨むだろう
よ、女ってやつは︶
ならば、冒険者としてダンジョンに潜り稼いだ金を渡して少しで
も恩義に報いたかった。郊外のアトリエをはなれてリースフィール
ド街に近づくにつれ活気は増していった。もはや見慣れた馬車を形
どった看板の下をくぐると店内はむっとした熱気に包まれていた。
ち
﹁おう、クランドじゃねえか﹂
﹁とっくにおっ死んだと思ってたぜ﹂
﹁大将のお出ましかァ。今夜はレイシーも寝かしてもらえねえなぁ
!﹂
すでに酒精がまわりきった酔漢たちは肩をバシバシ叩きながら気
勢を上げていた。
﹁クランド!﹂
947
蔵人の姿を認めたレイシーは、大きく胸元を開けた黒のドレスを
ひるがえすと真正面から蔵人の胸に飛び込んできた。
脂粉と甘ったるい体臭が混ざった匂いを吸いこみながら強く抱き
止める。
弾力のある双丘がぎゅうぎゅうとダイレクトに押しつけられ、軽
い目眩のような錯覚を覚えた。
﹁もう。勝手に家を空けちゃだめでしょ、ね﹂
﹁悪いな、さみしかったか﹂
﹁さみしいに決まってるよ、ばか﹂
レイシーが化粧を崩れるのも厭わず顔を猫のようにすり寄せてく
る。周囲の酔っぱらいから怒号のような野次と酒瓶が飛びかった。
蔵人がたまらず視線をそむけると、視界のはしに修道服が垣間見
えた。カウンターの一番はしの席。そこには、ジョッキを握ったま
ま突っ伏している小柄なシスターの姿があった。
﹁おい、なんだあれ﹂
﹁ヒルダよ。あの子ったらあなたが帰ってこないのがよっぽど気に
入らなかったのか、浴びるように飲みはじめて﹂
蔵人はそろそろとヒルダの背後にまわると様子をうかがった。ツ
マミの入った皿に顔面を突っこんでいる。婦女子にあるまじき所業
だった。
そっと覗きこむと、泣き疲れて寝入ったのか目元から頬にかけて
うっすらと白い跡が見えた。さすがに胸が痛んだ。
蔵人はヒルダの身体をお姫様だっこで抱えあげて二階に運ぶと大
部屋の寝台に寝かせた。猛烈に酒臭かった。
﹁ごめんね、あの子私がやさしくするとすごく暴れるのよ﹂
﹁甘えてるんだよ、おまえに﹂
﹁でも、ヒルダの気持ちわかるの。クランド、やっぱり帰ってこな
かったし﹂
﹁それをいわれると、つらいな。ああ、そういえば、ホラ﹂
﹁これって⋮⋮﹂
948
蔵人はレイシーの手に銀貨のみっしり詰まった革袋を握らせた。
レイシーは、ひもをほどくと寝台の上に中身をあけて顔を引きつ
らせた。
﹁クランドぉお、なんでこんなことを。お金ならいくらだってあげ
たのに﹂
﹁おいおいおい、勘違いしてるみたいだからあらかじめいっておく
が、特に後暗いことはしていない﹂
﹁え。だって、こんな大金。どうやって﹂
﹁ダンジョンだよ、ダンジョン。額に汗水流して手に入れたもんだ。
ま、好きに使ってくれい﹂
蔵人はちょっと得意げに腰に手を回すと顔をそらした。
どうだ、このくらいの甲斐性は俺にだってあるんだよん。
もうお前の知ってる素寒貧はどこにもおらんのだ!
︱︱やだっ、カッコイイよクランド! 抱いて!!
目を閉じながらレイシーが述べるであろう賛辞の言葉を夢想し、
両手を広げる。
このままレイシーと熱い抱擁をかわして情熱の赴くままパコろう
ではないか、と鼻の穴を広げる。
だが、いつまで経っても彼女は飛び込んでこないことに気づいて
不審に思い、そっと薄目を開けた。
﹁んげっ!?﹂
レイシーは蔵人に抱きつくどころか、その場に力なく座りこんで
無言のままはらはらと滂沱の涙を流していた。キラキラと光った瞳
が哀しそうに蔵人を見つめている。そっと手を伸ばすと、レイシー
は身体をびくんと震わせまぶたを閉じた。
﹁やだぁ⋮⋮捨てられるのやだぁ⋮⋮﹂
﹁はあああっ!?﹂
レイシーは両手で顔を覆うと幼児のようにいやいやをした。ヒッ
クヒックとしゃくりあげている。蔵人は自分が目をつぶった数秒間
の間にレイプ魔が現れ刹那の速さで強姦したのだろうかと思わず周
949
囲を見回してしまった。
﹁ちょっと待ってくれ。なんだよ、捨てるとか捨てないとか﹂
﹁だってぇ⋮⋮これって⋮⋮手切れ金でしょおおおっ! あたしの
ことやっぱり飽きたんだあああっ﹂
﹁だから、なーんでそういう話になるんだっ!﹂
﹁だってぇ、ヒルダのことは抱いたのにぃ、⋮⋮あたしのことはか
わいがってくれないんだもおん﹂
︵ギクッ、バレテーラ。つーか、あれは逆レイプなのではと主張し
たい︶
﹁でええっ、だから違うっての! これは手切れ金じゃなくて、純
粋に俺の気持ちなんだってば!﹂
﹁じゃあ、証明してよお﹂
﹁証明って⋮⋮﹂
﹁言葉じゃやだよおお﹂
﹁ったく、とんでもない甘ったれだな﹂
蔵人はレイシーの泣き顔を傾けると荒々しい動きで唇を奪った。
レイシーの顔から両手をはなすと、名残惜しそうな瞳を絡みつか
せてきた。
蔵人は彼女を寝台の上に押し倒すと真っ直ぐ瞳を合わせた。
﹁俺がおまえを捨てるわけねえだろ。本当なら、毎日だってかわい
がってやりてえんだがよ。もうちょっとだけ待ってくれ。な。いま
にドカンと大きく稼いで、この店も新しくしてやるからな﹂
﹁ううん。そんなのどうでもいい。あたしはこうして毎日抱きしめ
てくれればそれでいいから。だから、危ないことしないで、ね﹂
﹁ああ、わかった。だからもう泣かないでくれよ﹂
﹁うん。クランドがいうなら、あたし泣かない。我慢するよう﹂
蔵人は力を込めてレイシーを抱きしめると、野獣のように襲いか
かった。
950
愛をかわしあったあと。
レイシーはうっとりしながら甘えてキスをせがむ。
蔵人は、まだ息を荒げる彼女の唇を奪うと、熱い舌をたっぷり吸
った。
﹁んんっ、ヤダぁ、まだキスするのお⋮⋮﹂
﹁ちょっ、もう、仕方がねえなあぁ﹂
寝台に転がるとレイシーが火照った身体をすり寄せてくる。
彼女の砂色の髪をゆっくり撫でながら、今度は小鳥のようなキス
を繰り返す。
両手で強く抱きしめ、耳元を軽く噛むと、レイシーはくふふと甘
え声を漏らした。
蔵人は後戯を充分に行ったのち︵※かなり重要である︶レイシー
から離れると水差しからぬるんだ水をコップに注いで一息に空けた。
寝台に腰掛けながらレイシーが身支度を整えるのをぼおっと眺め
る。
ふと、隣の寝台で未だ白河夜船のヒルダに気づき、はじめて焦っ
た。
恐る恐る近づくと顔を覗きこむ。
あれだけそばでデカイ声を出しても気づかないのか、彼女はまる
で天使のような寝顔ですうすうと安らかな寝息を立てていた。
﹁マジかよ。ちょい、飲みすぎだろう。おまえさんは。うるさくし
て悪かったかねー﹂
視線を感じて振り返ると、レイシーが決まり悪げな表情で髪をと
かしている。目が合うと気づかなかったように手鏡を出して化粧を
直しはじめた。
︵いやぁ、開き直ると女は強いねー。さて、と︶
951
﹁うふふう⋮⋮クリャンドひゃあぁんん⋮⋮しょんんなあっ⋮⋮お
いてゃはダメれすよううう⋮⋮﹂
﹁楽しそうにわけのわからん寝言をつぶやきやがって。この酔っぱ
らいが。⋮⋮そんな君にはこれをあげよう﹂
蔵人は昼間ギルドの売店で買ったバッジをヒルダの胸元に付ける
と、頭をぽんぽんと撫でた。ヒルダの顔がかすかにゆるんだ気がし
た。
当然、マークは虎である。
﹁元気な大虎に育つことを祈って、と﹂
蔵人は分けておいた銀貨の詰まった革袋をとりだすと彼女の袖の
中にこっそり入れておいた。ちょっとした感謝の気持ちであった。
﹁ねえ、なになにー。なにしてるのー﹂
目ざといレイシーが覗きこんでいる。彼女は寝こけているヒルダ
の胸にあるデフォルメされた虎が刻まれたバッジを見ると、唇を不
満げにへの字に曲げた。
﹁あー、いいなあ、ヒルダばっかりー。ずるいんだー、ずるー。ね
え⋮⋮﹂
レイシーが悲しそうな瞳で上目遣いに見上げてくる。
物欲しげに袖を引くさまは、まだ幼さの垣間見える年相応のもの
だった。
﹁当然、そんなあなたにもプレゼントでございます﹂
﹁わ! やった、やったあ! あ、ねえ、ねね? なにこれ、なに
これ? あたしのなにかなぁ? これどこで買ったの?﹂
﹁獅子のように勇気を持って前進してくれ、ということでレイシー
のはライオンさんです﹂
﹁あはは、やった、やったあ! う、うれしいなあ﹂
﹁お、おい﹂
レイシーは子供のようにバッジを受けとってはしゃぐとドレスの
胸元に付けた。
それから、感極まったのか大粒の涙をボロボロ流してしゃくりあ
952
げる。
蔵人はあたふた狼狽しながら彼女の手をとると懸命にさすりだし
た。
﹁えへへ。ごめんね、驚かせちゃって。でも、あたしうれしいんだ
よう。クランドから贈り物をもらったのってはじめてだから﹂
﹁⋮⋮ごめんな、こんなチャチぃもんで。俺って気が利かなくって。
やっぱ、宝石とかじゃなきゃダメだよな。俺ってやつは、まったく﹂
﹁ううん。あたしはこれで充分だよ。さっきだって、いきなり泣き
出しちゃってごめんね。でもね、このバッジで充分うれしいよ。考
えれば、あのお金だってクランドがダンジョンで必死になって稼い
できてくれたお金だもんね﹂
﹁お、おう、そうだよ、俺、自分なりに結構頑張ったんだ。だから
さ、いつもたくさん世話になってるレイシーに少しでも渡したくて﹂
レイシーは泣き笑いの表情で胸元に頬を寄せるとキラキラとした
瞳で顔を上げた。
﹁そうだよ、クランドはクランドでいっつも頑張ってるんだもん。
あたし、いつも自分のことばっかで、クランドの一生懸命な気持ち
わかろうともしなかった。だから、さ。こんなメンドくさい女だけ
ど、できればこれからもかわいがってくれるとうれしいです﹂
﹁レイシー﹂
蔵人は出来るだけ誠意あふれる表情を作りながら、陰嚢がきゅう
っと縮み上がるのを感じていた。
とりあえず一発やったことで聖人モードになった蔵人はかなりゆ
ったりとした足どりでポルディナの待つアパートへ向かって歩いて
いた。
953
人通りの多い繁華街を通り抜けると、徐々に明かりの少ない区域
に入っていく。
街灯など皆無である。
裕福な家庭を除けばほとんどの人々は就寝している。
月と星のわずかな光だけが頼りだった。
﹁⋮⋮んで、そろそろ姿を現しちゃどうなんだい。変態ストーカー
くん?﹂
蔵人は小道の曲がり角に来ると背後に向かって語りかけた。しん
としてしわぶきひとつない静寂さだ。応ずる声はなかった。
﹁おいいいっ! このままじゃ、俺は重度の中二病患者じゃねえか
! そこにいるんだろぉ、なあ! 頼むから俺の一人芝居にさせな
いでくれええっ!!﹂
叫びと共に後方の石畳の一角が徐々にせり上がってきた。
闇の中へとじっと目を凝らすと、その影はみるみるうちに二メー
トルほどの大きさに膨れ上がった。濃い土の臭いが鼻先に漂う。
蔵人は外套を跳ね上げると、聖剣黒獅子を引き抜いて構えた。
黒獅子の刀身はわずかな月明かりを反射して妖しい輝きを放って
いる。
影の塊は徐々に状態を固着させると泥で出来た大きな一匹の狗に
変化した。
﹁そうそう。そういう感じでわかりやすく来てくれりゃあこっちも
気を使わずにすんだのによう。⋮⋮事務所を出たところから気配に
は気づいてたんだ。いいかげん親玉の方が顔を見せてくれてもいい
んじゃねえか?﹂
土のモンスター、クレイ・ドッグが口を利くはずもなくジリジリ
と距離を狭めてくる。
吹き付けてくる純然たる殺意を前に蔵人は乾いたくちびるを舌で
ゆっくりと湿した。
﹁まあ、だんまりだろうな。大して期待しちゃあいなかったが。ど
うせおまえみたいな臆病者は陰に隠れてコソコソ動く程度のことし
954
できねえと相場は決まってらあ。こいつを片づけたら、さっさとメ
リーの元へ帰らせてもらうぜ。おまえが指くわえて見てるあいだに
俺のモノでメリーをたっぷりとかわいがってやらあ﹂
突如として殺気が一段と膨れ上がった。
クレイ・ドッグは足音ひとつ立てずに駆け出すと虚空を舞って蔵
人に襲いかかった。
待ち構えていた蔵人に隙はなかった。
長剣が鏡のようにきらめくと銀線がサッと流れた。
土を砕く乾いた音と共にクレイ・ドッグは前脚を両断され、着地
点でガクッと崩れ落ちた。
﹁どうだっ!﹂
蔵人の声とほぼ同時に石畳に着地したクレイ・ドッグはつんのめ
るようにして石畳を舐めた。驚くべきはここからだった。
猟犬の破壊された前脚は、まるで動画の巻き戻しを見るようにあ
っという間に再生すると、再び向き直った。
﹁また、このパターンかよ! 弱っちいくせに、再生力だけはプラ
ナリア並だなっ!﹂
攻勢に出たのは蔵人だった。黒外套がコウモリのように大きく翻
った。
閃光が垂直に流れた。
再び飛び上がったクレイ・ドッグと身体が交錯する。
蔵人の長剣はしたたかに猟犬の真芯を撃った。
﹁おおおおっ!!﹂
怒号が炸裂すると同時にクレイ・ドッグの顔面から尾の先までに
銀線が走った。
石畳をブーツの先でこすりながら着地すると、核を砕かれたクレ
イ・ドッグは真正面から両断されたまま地面にどうっと落ちて、全
身を四散させた。
崩れた泥のモンスターの身体があっという間に乾いた砂となって
流れ落ちる。
955
﹁また、逃げられたか﹂
蔵人は額の冷たくなった汗を手の甲で拭うと、砂塵と化したクレ
イ・ドッグの塊を思うさま蹴飛ばすのだった。
956
Lv61﹁崩壊予兆﹂
蔵人はメリアンデールのアトリエでまんじりともせず朝を迎えた。
ポルディナの寂しげな顔を思い返せば心苦しいが、あれだけ露骨
に攻勢に出られればメリアンデールをひとりにしておけなかったか
らだ。
ほとんど噛まずにメリアンデールの作った朝食を噛まずに呑みこ
むと転移陣でダンジョンに移動した。
﹁ねえ、すっごい顔してるけど。今日はやめたほうがいいんじゃな
いですか﹂
﹁はは。馬鹿なことをいいなさんな。サクサク攻略を進めていかん
と、経済はまわっていかないんだぜ﹂
猛烈に眠い。一晩くらい眠らないことなどしょっちゅうであった
が、昨夜は異常に脳が興奮していつもの倍以上に疲れたのだ。
襲撃を警戒して気を張っていたこともあったが、隣の寝台で寝て
いるメリアンデールが気になってしかたなかったことが原因だった。
﹁ねえ、本当に大丈夫ですか。クランド﹂
メリアンデールが心配そうにチョコチョコ袖を引いてくる。
ぷっくりとした桜色の唇に目を奪われ罪悪感に胸がズキリと痛ん
だ。
︵このかわいらしい唇を俺のモノで無茶苦茶に⋮⋮いかん、集中し
ろ。ケダモノになってはいかん。理性をとりもどせ! 人間に戻る
957
んだ、蔵人。急いては事を仕損じる! 熟した果実が自然に落ちる
のをじっくり待つんだ!︶
﹁ああ、なんでもない。行こう﹂
不安定な精神状態のまま、ダンジョン第二階層攻略がはじまった。
あいも変わらず荒涼とした風景が続いていく。
第一階層とは違い、幾分気温は低く感じられる。
蔵人は努めて足を早く動かし身体を冷やさないように心がけた。
幸いにもメリアンデールは健脚だ。
普通の女性スピードを意識する必要はなかった。
ダンジョン内は、比較的なだらかな直線路が延々と続いていた。
どれくらい歩いただろうか、ふたりがしりとりに飽きはじめたく
らいで次第に傾斜がかかってきた。
﹁よし、一本入れるぞ﹂
一本入れるとは、おおよそタバコを吸う一本分くらいの小休止を
表す。
メリアンデールの持参した水筒からかなり砂糖を多めに入れた紅
茶と無糖の緑茶を摂取すると再び行動を開始した。
﹁疲れたらすぐにいうんだぞ﹂
﹁なになに。ご心配にはおよびませんよ。これでも私は足には自信
があるんですから﹂
メリアンデールは片足をさっと上げて健在さをアピールする。
白い太ももが目にまぶしかった。
﹁あ、いまエッチなこと考えましたね﹂
﹁馬鹿な。そんなことはちょっとしか考えてない﹂
﹁やっぱり考えてたー。クランドはエッチですねー﹂
きゃいきゃい騒ぐメリアンデールの仕草に激しくこころを動かさ
れつつ、クールな表情を保った。
︵おう。こういうのでいいんだよ。こういう、リア充っぽい軽いふ
れあいで。肉と肉とのぶつかり合いはお楽しみにとっておこうね、
俺︶
958
軽いイチャつきが終わるとふたりは傾斜の登攀にとりかかった。
メリアンデールの地図の見立てによると、この先に進むのはどう
あっても坂を超えねばならないらしい。ちょっとしたクライミング
である。
﹁よし、じゃあ、メリー。おまえが先行してくれ。もし、バランス
を崩しても俺が受け止めてやるからな﹂
﹁はーい。じゃ、お先に行かせてもらいますねー﹂
おおよそ四十度程度の傾斜が続いている。
もちろん、メリアンデールを先行させたのはプリプリした尻を長
時間眺めるためであった。ミニのスカート履いているので、ひらひ
らした裾からチラリと健康的な臀部が見える。
うんしょ、うんしょ、と健気にかけ声をかけて自分を鼓舞しつつ
頑張る少女を愛でながら思うさま視姦を続けていく。股間のテント
が前方に自己主張をはじめた。
﹁くっ、出っ張りが、ひっかかるとは﹂
﹁出っ張り? あれ、そんな箇所ありましたっけ?﹂
﹁いや、気にしなくていい。それよりランタン落とすなよ﹂
﹁あいあいさー!﹂
﹁おい、そんなに急がなくてもいいぞ。俺の長旅の経験からすると
だな、普段よりむしろゆっくりめのスピードで登ると疲れにくい。
常に一定のスピードを心がけてだな。そう、もうちょっと腰を後ろ
に突き出すとだな。いや、そうそう。もうちょっと、もうちょっと
だけケツを﹂
﹁ねえ、さっきからヨコシマな波動をチリチリ感じるのですが﹂
﹁馬鹿いっちゃいかんなぁ、キミぃいいっ! メリーが登る、俺が
後方でサポートする! これが相棒の心意気ってもんだ!﹂
﹁そうですよね。じゃあ、私の後ろは任せましたよ!﹂
﹁ああっ! ちゃんとこの目でしっかり見張ってるからな! 安心
しろ!﹂
メリアンデールをいいくるめながら坂を登りきると、再び平坦な
959
場所に出た。
﹁チッ、もう終わりか﹂
丸い尻をもっと眺めていたかったのに。
くうう、と心の中で歯ぎしりをした。
﹁いいじゃないですかー。さすがにずっと登りはキツイですよう﹂
﹁いやそんなことはどうでもいいんだが。ところでもう坂ってこの
階にはないの?﹂
﹁地図によると記載されてませんね。ちょっと、アップダウンが激
しいのは、第四階層ってところですかね﹂
蔵人はなにげにつまらなそうな表情をあからさまにした。
さらに黙々と歩き続けると開けた場所に出た。ちょっとした広場
の趣があり、ランタンの明かりを向けるとあちこちに野営の痕跡が
見つかった。テントを設置したペグの跡や、食料を煮炊きした薪の
燃えカスが残っている。炭を指先で擦るとほんのり暖かさが残って
いた。
﹁まだ二階層ですからねー。かなり大きなクランが移動していった
のかな﹂
﹁そういや全然モンスターとかに出会わないな﹂
﹁むしろ一階層でシビレマタンゴに遭遇したこと自体珍しいですか
ね。大きなクランが通るとレベルの低いモンスターはだいたい逃げ
るんですよ。襲ってくるのは、ほどんどがアンデッド系か菌類、も
しくは知能の低い部類です﹂
﹁ふーん。この、ものしりさんめ﹂
﹁と、いうわけですので。今日はここで野営しましょう。地図情報
によると、ここは安全地帯ですので﹂
﹁マジかよ。って、今日はやけに早く休むんだな﹂
﹁といってもかれこれ八時間は行動してますから。外はたぶん夕方
くらいですよ。ダンジョン内ではちょっとわからないですけど。こ
こで休まないと、野営できる広さの場所ってもうないですから﹂
﹁ふーん。ま、別にいいさ。じゃ、とっとと支度に取りかかるか﹂
960
蔵人とメリアンデールは手分けして野営の準備をはじめた。
荷物を空間圧縮したマジカルコンプレッションバックから必要な
道具を取り出し、慣れた手つきでテントを設置した。寝場所を確保
したらあとは食事をして休むだけである。
﹁今日はみんなの大好きなクリームシチュウですよー﹂
﹁おおーっ、て俺とおまえしかおらへんがな﹂
﹁てへり﹂
濃厚なホワイトソースで煮こまれたシチューは見るからに食欲を
誘う一品だった。
とろり、と溶けたじゃがいもと玉ねぎを匙ですくって口内に運ぶ。
ぎゅっと噛み締めると、バターとミルクと素材の味が渾然一体と
なった濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
﹁ううーん。うまっ、あいもかわらずウマッ﹂
﹁たくさんあるからいっぱい食べてくださいねー﹂
蔵人は続けざま口いっぱいにシチューを頬張った。よく煮こまれ
て柔らかくなった鶏肉を咀嚼すると、香ばしい脂身が溢れ出て脳み
そが蕩けてくる。黒パンをちぎってシチューに浸し、飢えた獣のよ
うにガツガツと平らげた。
蔵人が目の色を変えて料理を口に運ぶさまを見ながら、メリアン
デールは頬杖を突きながら笑みを絶やさなかった。
﹁うーん、ここは一杯欲しいところだが﹂
蔵人がリスのように頬袋をパンパンにして催促する。
﹁そういうと思ってましたよー﹂
メリアンデールは蒸留酒の瓶を背後から取りだすとコケティッシ
ュなウィンクをした。
彼女はケトルで湯を沸かすと、コップに蒸留酒をついで適度な濃
さで割った。
蔵人は基本酒飲みなので、満面に笑みを浮かべてそれを受けとっ
た。
最初は向かいあって座っていたが、やがてはどちらともなしに隣
961
りあって座った。
ともかく、たいした話題があるわけでもないが、とりとめのない
話を延々と続けていく。
メリアンデールも下戸ではないので杯をそれなりに重ねるが、や
がては沈没した。いくら安全といっても、完全に両者が酔いつぶれ
るわけにはいかない。
蔵人はメリアンデールをテント内のシュラフに横たえると、再び
薪の前に座って泥酔しない程度の薄さに酒を割ってゆっくり飲みは
じめた。
数時間が立つと、他のクランが続々と広場に集まって野営をはじ
める。
﹁まあ、なんつーか、ほとんど観光地だよな。キャンプ場みてーだ﹂
ある程度の人数が集まったところで蔵人はテント内に入り、メリ
アンデールの隣にシュラフを引いて潜りこむ。
長剣を抱き寝にして、いつでも抜けるようにしておく。
少女の健やかな寝息を聞いているうちに、いつしか浅いまどろみ
に落ちていった。
休んだ時間は、ほんの五、六時間程度であっただろうか。蔵人が
起床した際には、ほとんどの疲労は消えていた。
テントを回収して再びダンジョン攻略を続ける。
なだらかな道をひたすら踏破していく。
途中、目ざといメリアンデールが薬草であるユキノシタウエとい
う白っぽい花弁を持つ花を発見した。
﹁うーん、それほどレアではないですがとりあえず回収しておきま
しょう﹂
ユキノシタウエは解毒作用があり一般家庭では結構重宝される部
類のものだった。
野営地を出発して数時間後、たいした波乱もなく第二階層の終着
点に到達した。
﹁ちょっと、拍子抜けだな﹂
962
﹁モンスターとは遭遇しませんでしたからねー。でも、この先はか
なり出現頻度が高くなってくるらしいですよ﹂
﹁望むところだ﹂
続けざま、第三階層攻略に突入した。平穏はそこまでだった。
﹁うっわ! なんだこりゃ!!﹂
﹁気をつけてください、ブレードアントですよっ!!﹂
ブレードアント。
ダンジョン低階層に住むありふれたモンスターである。
まず、蔵人が目を惹かれたのはその大きさであった。
三メートル近い大きさの怪物は全体的に白っぽく、近づけば臓器
が透けて見える特徴をしていた。
大顎の部分は、その名を冠すように百センチを超す二本の牙が生
えている。どんな想像力が貧困な人間でも噛まれればただではすま
ないと理解できる凶悪なものだった。
﹁群体じゃないだけマシってもんだな﹂
周囲を見渡せばブレードアントは目の前の一匹だけのようである。
そもそもが、こんな怪物に何十匹と襲いかかられれば、どんな凄
腕の冒険者も生きては帰れないだろう。
ツいているんだか、ツいていないんだか。いや、たぶんツいてな
い、のか?
考えすぎると戦えなくなる。
蔵人は脳のスイッチをばちりと遮断し、戦闘モードに移行した。
﹁距離をとって戦ってください。彼らはおしりの毒針でギ酸を吹き
つけてきますよっ﹂
﹁そらどーも。よし、おまえは下がってろ﹂
蔵人は長剣を抜き放つと片手上段に構えた。外套でなるべく全身
を覆うようにする。
敵の遠距離攻撃を警戒してのことだった。
ブレードアントが威嚇のためか、ギチギチと顎を噛みあわせて軋
んだ音を立てた。
963
すり足で前進すると目前の大アリは頭をもたげて牙を振りかざし
た。
ブレードアントの牙が、異様な風切り音を立てて鏡面のように輝
いた。
﹁ほっ、と!﹂
器用にバックステップでかわす。目標を見失った牙が地面に突き
刺さった。
視界を覆うような激しい土煙が沸き立った。
蔵人は飛びこむようにして状態を傾けると両手で剣を握って水平
に振るった。
ガッ、と鈍い音と共に痺れるような手応えを感じた。
六本ある脛節を見事に叩き割ったのだ。神経を削るような奇怪な
雄叫びが耳を聾す。
﹁んげっ!?﹂
間を置かずに巨大な腹部の毒針が真っ直ぐに迫ってきた。
刺針が蔵人を貫く以前に勢いよく赤茶けた毒液が放出される。
横っ飛びに転がって避けた。
外套にかかった強力なギ酸がジュッと音を立てて表面を溶かす。
鼻を突く臭いに顔をしかめた。
続けざま、毒針の一撃が繰り出される。
蔵人の長剣がうなった。名剣黒獅子は闇を引き裂きながら銀線を
描く。
斜めに流れた一撃は毒針の細い部分を存分に断ち切った。
駆け抜けるようにブレードアントの背後に躍り出た瞬間、失策に
気づいた。
﹁あ、ああ﹂
蔵人が目の前から消失したことによりブレードアントの標的が背
後に下げたメリアンデールに置き換わったのだ。
離れた距離からでも、メリアンデールの顔面が蒼白になったのが
わかった。
964
﹁逃げろ! メリー!!﹂
﹁ごめ、ひ、腰が抜けて、立てないです﹂
︵畜生、畜生、畜生! 間にあえよーっ!!︶
蔵人はほとんど人間の力を超えた動きで高々と跳躍すると、ブレ
ードアントの背中にしがみつく。
嫌がった大アリは激しく上下に身体を揺すって蔵人を落とそうと
躍起になった。
﹁ちょっ、待って⋮⋮そんなに揺すったら、食ったもんが出ちまう
だろうがぁああっ!!﹂
白刃が直線を描いて流星のように走った。
長剣は鋭い光芒を放つとブレードアントの頭部を後方から貫いた。
体液が激しく噴出し、霧のように降った。
大アリの巨体が崩れ落ちる。
下方にはまだすくんで動けないメリアンデールの姿が見えた。
いかに蔵人といえども攻撃と同時に真下の少女を救うすべはない。
これほどの重量をモロに浴びれば無傷ではすまない。
﹁くっそっ⋮⋮﹂
身をよじってブレードアントの間に身体を入れようとする。世界
がコマ送りに再生されていく中で、視界の隅に動く影を捉えた。
﹁へ?﹂
轟音と共に大アリの巨体が崩れ落ちた。
蔵人は全身を強く打ち付けて、一瞬意識が遠のいた。
アバラがまとめて何本かへしおれる音を真っ白になった意識の外
で聞いた。
喉元に熱い血の塊がせり上がってくる。
眼球から涙がにじむと同時に世界が茶色の土と砂の破片で塗りつ
ぶされた。
蔵人は自分の身体を入れ替えるのに成功しブレードアントの頭部
と地面に挟まれたのだ。
﹁んぎぎぎっ! どっせい!!﹂
965
全力で力をこめて、死骸を腹の上からどかす。
それよりも心配なのはメリアンデールである。
﹁メリー!!﹂
蔵人が叫びながら顔を上げると同時に目の前の光景が飛びこんで
きた。
メリアンデールを抱きとめている少年は十五、六くらいだろうか、
ほとんど完璧といっていいほど瑕疵のない容姿をしていた。
品のいい茶色の髪を下ろしている。
つやつやとしたきめ細かな白い肌はシミ一つなかった。
整ったやや濃い目の眉はキリリと引き締められている。
わずかに開いた口元からは真っ白な歯がのぞいていた。
あきらかに上質と思われるオリーブ色の外套を纏っていた。
腰には細身のレイピアを差している。美少年と呼ぶにふさわしい
顔つきであった。おまけにちょっと、ジャスティン・ビーバーに似
ていた。
蔵人は一瞬で劣等感の虜になった。
周りに無数の人間が群がっているのが見えた。少年の仲間なのだ
ろうか、彼らの持つランタンのお陰で洞窟内は真昼のように明るく
なっていた。
︱︱まあ、あれだ。この少年がメリアンデールを助けてくれたの
だろう。とりあえず、礼はいったほうがいいのだろう。いったほう
がいいんだよな?
だが、無慈悲にも蔵人が自問自答を繰り返しているうちにイベン
トは進行していた。
﹁大丈夫かい?﹂
﹁あ、はい﹂
少年は声まで聞き惚れるほど涼やかだった。
メリアンデールは呆然としながら少年の顔を見つめている。傍か
ら見れば美男美女が揃った一枚の芸術画のようだった。そんな作ら
れたような光景が焦りに拍車をかけていく。
966
﹁あー、あんた。とりあえず礼を﹂
蔵人のまったく誠意のこもらない言葉がぶつんと断ち切られた。
ジャスティンもどきはメリアンデールの顔を引き寄せると、自然
とも思われる仕草でメリアンデールの唇を奪ったのだ。
﹁ん︱︱!?﹂
電流を浴びせられたようにメリアンデールは少年の胸を突き放し
た。
﹁はは。照れ屋だね、まったく﹂
少年は悪びれもせずはにかみながら白い歯を見せた。周りが追従
するように邪気のない笑い声を立てた。
メリアンデールは怒りよりも困惑を色濃く見せて、呆然とその場
に立ちすくんだ。
少年はひとしきり笑い終えると、はじめて蔵人の姿を見とがめて
眉をクイッと歪めた。
﹁いやあ、そこの君。お礼の言葉なら結構だよ。もう、お先に頂い
たからね﹂
﹁あ︱︱﹂
脳内で無数の線が一気に断裂した。
頭の奥で白い閃光がパッと飛び散ると、目の前の視界がぐにゃり
と奇妙に歪んだ。
鼓動が急激に激しく打ち鳴らされる。喉奥にこみ上げてきた血の
塊で呼吸が止まった。
いま、こいつは何をした?
蔵人の意識から理性がすっと遠のいていく。溶けたバターのよう
な視界がぐいぐいと狭まってきた。
痛みが消え去る。
恐ろしいほど凶暴な血が全身を駆け巡る。
自然に足が前に出る。
蔵人の様子に気づいたメリアンデールが口をぱくぱく開閉させた。
目の前の少年の胸ぐらをつかみ拳を振り上げる。
967
それでも、少年はにやにや笑いを止めなかった。
こいつ! いますぐそのお綺麗な顔を泥細工みたいにグチャグチ
ャにしてやる!!
﹁やめてっ、クランド!!﹂
振り上げた右腕にメリアンデールがしがみついてきた。
なんでだ、なんでだ、なんでだっ!! なんでこんなやつをかば
うんだっ!
懇願するような彼女の瞳を直視し、やり場のない怒りがますます
燃え上がった。
理解ができない。
怒りが多方向に発射される。
メリアンデール共々殴りつけてやりたい錯覚に陥った。
邪魔するな、邪魔するな、邪魔するなっ!
﹁はなせよっ!! コイツ、ふざけやがって!!﹂
﹁いいからっ、やめてよーっ!!﹂
﹁だから、なんでだよっ!!﹂
﹁その子は、私の弟なんですよっ!!﹂
﹁︱︱へ? ええええええっ、うそおおおっ!?﹂
蔵人は下唇をひん曲げると顔を歪め絶叫した。
968
Lv62﹁亀裂﹂
﹁と、いうわけで、僕がメリアンデールの弟のフルカネリ・カルリ
エです﹂
メリアンデールの弟フルカネリは改めて自己紹介すると、屈託の
ない笑顔を無防備にさらした。メリアンデールよりひとつ下の彼は、
十五歳だった。
フルカネリのクランは総勢二十人。
純然たる冒険者として行動している最中、危機に陥った女性を見
つけ助けに入ったということであった。
蔵人も最初はメリアンデールの元カレかなにかなのではと勘ぐっ
たが、こうして焚き火の前でまじまじ見つめると他人とはいいきれ
ない共通点が多々あった。
つまり、フルカネリが純粋な行為で救助に入ったのなら、キス程
度であそこまで激昂する蔵人は異常だという結論に達する。
久しぶりに会った姉弟ならば挨拶がわりにキスくらいかわすのが
あたりまえだろう。
だいたい、日本人は欧米の習慣であるキスを大仰に捉えすぎる節
がある。
日本人にとってはキスは性交の範疇に属するが、そこはもう文化
の違いとしかいいようがなかった。
現代世界でも、中東のアラブ系では挨拶がわりに髭を蓄えたおっ
さんどうしが、マウストゥマウスのキスを親愛をこめてかわしてと
969
きには舌まで入れたりするのである。
︵思っていたよりも俺ってはるかに潔癖な性格だったのか⋮⋮︶
﹁気にしないでください。それぞれ民族によって習慣の違いという
ものがありますから。ね、メリアンデール﹂
フルカネリの隣りに並んで座るメリアンデールは先ほどからひと
ことも口を利かなかった。うつむいたまま顔を伏せている。
蔵人は久しぶりに弟に会えて照れているのだと思った。
無理もない。知り合いに自分の家族を紹介するのはなんとなく気
恥ずかしいものだ。
﹁おいメリー、どうしたんだよさっきから恥ずかしがって。なあ、
弟くんよ﹂
﹁はは、メリアンデールは昔からこうなんですよ。知らない人がた
くさんいる場所だと、ちょっと人見知りしてしまって。ねえ?﹂
メリアンデールはようやく顔を上げると曖昧な笑顔を作って佇ん
でいる。フルカネリは特に気にした様子もなく蔵人に向き直った。
しばし、とりとめもなく雑談をかわす。
フルカネリは如才なく話を雑談から実務的なものに切り替えると
ひとつの提案を出した。
﹁ところで、僕らはいまのところ、第七階層をひとつの区切りとし
て目指しているんですが。ここで、知りあえたのもなにかのご縁で
しょう。どうでしょうか、クランドさえよければ、即席パーティー
としておつきあい願えませんでしょうか?﹂
﹁ああ、メリーの弟ならなにも問題ねえけどよ。なあ!﹂
﹁う、うん﹂
﹁なんだ。さっきっから、黙りこくって。もしかして、どっか怪我
でもしたのか?﹂
﹁あ、あの! ⋮⋮ううん、なんでもないよ﹂
﹁じゃあ、合流には賛成ってことで。ひとつ手打ちにしましょう﹂
﹁ああ! さっきは、いきなりぶん殴りそうになって悪かったよ。
それと、メリーを助けてくれてありがとうな!﹂
970
﹁いえいえ。弟としては、姉を助けるのは当然のことですから﹂
フルカネリが曇のない笑顔で微笑む。
対照的に暗く俯いたメリアンデールの無口さが、妙に気になった
蔵人だった。
フルカネリのクランと蔵人たちは合流し、全員で二十二人のパー
ティになった。
無論、第七階層まで限定の即席パーティーだ。
蔵人ははじめて多人数に混じって行動したが、大所帯の方がなに
かと便利だった。
所詮、実質戦力がひとりのクランなど成り立たないのである。
アタッカー
常に先導役のメリアンデールに気を配らなくてはならないし、女
マッパー
の足にあわせれば距離もそれほど稼げない。
ディフェンス
一方、フルカネリのパーティーは先導役に三人、攻撃役に十人、
防御役に五人、全体の補助に二人と実に余裕があった。
フルカネリはご多分にもれず錬金術師で戦闘には加わらないが、
主に全員のサポートにまわっている。
歳が若いリーダーというものはとにもかくにも自己主張のため前
に出たがるものだが、フルカネリはそういうタイプとはまるで違っ
た。
成果の見えにくい部署は誰もが率先してやりたがらないのだが、
彼は全体をひとつの大きなまとまりで見ることができる人間であっ
た。
蔵人も一通りのパーティーメンバーと話したが、それほど精神の
破綻している人間もおらず、最低限の意思疎通はできそうだった。
もっとも、数人はどうしても気のあいそうにない奴がいたがそれ
は仕方のないことである。無理に話をあわせる必要もない、それな
りに距離をとればいいだけの話だった。
ひとつだけやけに目についたのは、フルカネリのメンバーの中で
も特にガラの悪そうな数人はメリアンデールを見るたびになんとも
いえない表情をしていた。
971
あからさまに侮蔑するのではなく、形容し難い笑いを無理やり噛
ディフェンス
み殺しているような、陰性のものだった。
僧兵
蔵人はどちらかといえば、防御役のメンバーと意思疎通をしたか
ったが、彼女たちは全員モンクであり深くウィンプルをかぶったま
ま口元を隠すようにきっちりマスクで覆っており、うつむいていた。
仲良くしたい理由はひとつしかない。女だからである。実にわかり
やすい行動原理だった。
フルカネリ曰く、教義により無言の行に入っているとのことだっ
た。宗教上の問題をとやかくいうのは後々まで尾を引くこととなる。
努めて忘れたように振舞った。
﹁ま、なんにせよ、たくさんいるのはやっぱ楽だなー。わけまえも
ちゃんとくれるっていうし。やっぱ人は見た目で判断しちゃいけな
いよな。おまえの弟すごくいいやつじゃないか?﹂
蔵人はパーティーが合流してからまったく元気を失ってしまった
メリーに努めて話かけるが、彼女はずっと俯いたまま、深く沈み込
んでいた。
﹁どうした、急に元気なくして。なあ、もしなんかあったらなんで
も話してくれよ。俺はさ、一応おまえの相棒なんだからさ﹂
﹁は、あははっ。そんな、別に私はぜんぜん元気ですよーっ。心配
めされるなっ! あはははっ﹂
﹁そか﹂
あきらかに無理を装っている笑いであったが、蔵人はよしとした。
空元気も出せないようでは、本当に参っている証拠だからである。
口が利けて嘘でも笑顔を作れるのであれば、まだ﹁平気﹂だと思わ
れるのだ。
しかし、わからねえな。どうして、メリーのやつは急に落ちこみ
はじめたんだろう。
ひとつ、蔵人とのふたりっきりの時間を邪魔されたので気が滅入
っている。
ふたつ、大勢知らない人と合流したことで、人見知りモードが爆
972
発して己のインナースペースにひきこもりだした。
みっつ、フルカネリは実は虫歯だったので感染るのを心配してい
る。
蔵人は咄嗟にみっつほど要因を上げて、すぐさま違うなと打ち消
した。
マッパー
ともあれ、第三階層、第四階層と攻略のスピードは目を見張るほ
ど早まった。
すでに攻略済みの階層とはいえ、先導役の進行方向は微塵の隙も
ない的確なものだった。
二十代後半と思われるふたりの男たちはかなり年季を積んだ冒険
者だった。
聞けば、彼らも期間を区切って雇われた口でその張りきりようか
ら破格のギャラを受けとっていることらしい。
だが、特筆すべきは、ふたりを統率する年配の男だった。
無愛想なその男は、迷宮を見透かしているのではないかと思うほ
マッパー
ど洗練された進路をとってパーティーを牽引していた。
蔵人ははじめて先導役の重要性を知る。
時々、アメーバゲルやシビレマタンゴなど既知の雑魚が出現した
僧兵
が、特に蔵人が手を下さずとも、前衛の男たちが競って退治してく
れる。
蔵人はモンクの女たちが﹁えいっ﹂﹁とうっ﹂などと健気な声を
上げ、重たげなスタッフを振るのを後ろからねっとりと見つめるだ
けでよかった。
﹁なはははっ! パーティー最高!﹂
対照的にメリアンデールはどんどん元気をなくしていったが、ダ
ンジョン攻略におけるあまりのイージーさ加減にそこまで気がまわ
らなかった。
僧兵
時折、フルカネリと彼女が深刻そうに話しこんでいるのを見かけ
ていたが、蔵人はいかにしてモンクのメンバーと仲良くなるか必死
で、フォローがおろそかになりつつあった。
973
メンバーと合流して二日ほど経過した休息地点でそれは起きた。
﹁ふああああっ、とっと、と!﹂
蔵人は筒先を振って雫を切ると、自慢の孝行息子を下穿きに仕舞
い込んだ。
﹁うわっと! ふいぃ。危なく被弾するところだったぜ﹂
蔵人は池になった排泄物が自分の右足にかかる寸前でさっとかわ
僧兵
すと口笛を吹いた。今日は、少々飲みすぎたらしい。
頭の中で、仲良くなったモンクのアリアンナとユリエラの身体を
思い浮かべる。
︵あああ、たまんねえ身体してるなあいつら。でもかなりガード硬
いよな。これだけアタックしてようやく聞き出せたのは名前だけと
か︶
改まって記述することもなかったが、蔵人は極度の巨乳フェチだ
った。
時代遅れの大艦巨砲主義。
大は小を兼ねる。
男はすべからずデカ乳を揉め。
千鳥足でふらつきながら、ふと、酒盛りの場にメリアンデールの
姿がなかったことを思い出した。火をたっぷり焚いている宴会場か
アタッカー
らはなれていくつかのテントが張られていることに気づく。特に意
識して足を向けたわけではなかった。攻撃役の何人かが知らぬ間に
席を外していたことを思い出す。
よし、ここはひとつ無理やりテントから引っ張り出して、酒の飲
み方を教えてやろうといらぬ気をまわしかけた直後だった。
﹁ふむ。だがどこにいるかはちょっとわからんわ。さて、片っ端か
974
ら確かめるとして。どれにしようかなー﹂
﹁そっちのテントには行かないほうがいい﹂
﹁いいっ!?﹂
誰もいないと思っていた場所から声をかけられ、尻餅をつく。
ケツをさすっている間に、声の男がランタンに火を入れた。
ぼっ、と音がして赤々とした炎が強く燃え上がった。
男の顔。次第に顔の輪郭がはっきりしてきた。
歳の頃は四十前後。顔は鋭角的であり、どこか眼差しは昏かった。
伸ばした金髪をうしろでひとくくりにしている。錆びた低い声が印
象的だった。
﹁確か、レンジャーのキリシマだっけ?﹂
ロムレス人にしては珍しい名前だったので、比較的覚えやすかっ
た。蔵人の言葉には返答せず、キリシマは冷たい目でじっと虚空を
にらんでいた。
﹁ああ。忠告しておく。あっちのテントには行かないほうがいい。
いい気分でいたいのならな﹂
﹁⋮⋮どういうことだよ﹂
﹁若いな。君は足元をよく見落とすタイプだろう﹂
﹁なにがいいたい﹂
キリシマは無言になると、岩に座ったまま両手を組んだ。
もう話す言葉はないということか。
急速に酔いが覚めていく。
消えた男たち。
そして姿の見えない相棒。
嫌な予感が胸の内でグングン大きく頭をもたげていく。
気づけば、もう走り出していた。どっと背中から汗が吹き出して
いく。
かなり大きめのテントの前でひとりの男を見つけた。
長い髪を無造作に後ろで縛っている。歳の頃は二十五くらいだろ
うか、岩壁を削り出したような荒い顔立ちをしていた。長い間屋外
975
の作業に従事していたのだろうか、顔や剥き出しの上半身は黒々と
日焼けしていた。ボリスと名乗っていた記憶がある。見た目通りの
わかりやすい戦士だった。ボリスは感情を映さない瞳のまま椅子に
腰掛け、大ぶりのナイフを砥石で研いでいた。シャリシャリと石と
刃を合わせる音が聞こえる。よほどの人嫌いなのだろうか、この男
が他のメンバーと口を聞いているところを見たことはなかった。
﹁なあ、アンタ。確か、ボリスだったよな。メリー、メリアンデー
ルを見なかったか﹂
ボリスは無言のままナイフを研ぎ続ける。無視された格好になっ
た蔵人は顔をしかめると足元の石を蹴飛ばし、地面に唾を吐いた。
﹁おい、無視するなよ。それとも耳が聞こえないのか﹂
﹁⋮⋮聞こえている﹂
﹁じゃあ、返事くらいしろよ﹂
﹁ああ﹂
﹁メリーは見なかったか?﹂
﹁見ていない。俺も質問していいいか﹂
﹁なんだ、ちゃんと会話のキャッチボールが出来るじゃねえか。い
いぜ、聞けよ﹂
﹁おまえも、アレを使うのか?﹂
﹁はぁ? あれってなんだよ﹂
﹁アレは、よくないものだ。少なくとも、俺の部族ではああいうも
のは認めない。そもそもが根本的に間違っている﹂
﹁そうか、あんたロムレス人じゃないんだな﹂
﹁そう。俺は、この国の言葉、上手くない。この国の生まれじゃな
い、から﹂
蔵人は会話をしていてほとんど違和感を覚えなかったが、ボリス
はこの国では珍しく黄色人種であった。ロムレス王国に居住するほ
とんどは白人に近い特質を備えている。目の前の男は、かつて写真
や映画で見たエスキモーやモンゴルに近い雰囲気を醸し出していた。
亜人ですら、基本のパーツは白人に近い。蔵人が旅をはじめて出
976
会った東洋系らしい人間はシズカを除けばボリスは二人目だった。
﹁おまえ、俺と顔かたち、似ている。だから、忠告する気になった﹂
﹁ああ。そうか。実は俺もここの生まれじゃねえんだ。なんかさ、
アンタの顔見てると少しホッとするよ﹂
ふたりの男の間になんともいえない空気が漂った。もう少し喋っ
ていたい気もしたが、いまは無性にテントの中で行われている事柄
が気になった。手を振って天幕に手をかけると、ボリスのつぶやき
が聞こえた。
﹁惑わされるな﹂
振り返るとボリスは磨き上げたナイフを腰の鞘に収めていた。
椅子からゆっくりと立ち上がって離れていく。
黒い不安のようなものが頭をもたげてくる。
蔵人は意を決してテントの入口に手をかけると大きく息を吸い、
指先に力を込めた。
977
Lv63﹁オルタナティブ﹂
蔵人の耳へ飛び込んできたのは、異様な音だった。
迷いを吹き飛ばすように力いっぱい入口をめくり上げた。
瞬間、目に映った光景が信じられなく、脳が激しい拒否反応を示
す。
身体は凍りついたようにその場に固着し、思考停止状態に陥った。
そこには四人の男とひとりのよく見知った女が一糸纏わぬ姿で絡
みあっていた。
﹁嘘だろ﹂
明るいブラウンの髪とウルトラマリンブルーの瞳が大写しに迫っ
てくる。
﹁メリアンデール﹂ 蔵人の意識は硬質な音を響かせ粉々に砕け散った。
男の野太い声が響いた。
天井と四隅に置かれたカンテラの光で中は真昼のように照らされ
ていた。
むわっとした獣のような生臭さが鼻を横殴りにする。
独特の熱気を浴びせられ、額にぶわっと脂汗がにじんだ。
室内は意外とゆったりとした空間である。
中央部に仰向けに据えられた女へと自然に視線が吸い寄せられた。
凍りついたまま、肉塊の挙動に視線をそそぐ。
蔵人は男たちの動きが停止すると同時に、ひとつの結論に達して
いた。
違う、と。
978
確実にいえる。
目の前の女は、声も姿もメリアンデールに酷似しているが、まっ
たくの別人だ。
そうでなければ、最初の瞬間でとっくに男たちすべてを斬り捨て
ていただろう。
冷静に見れば声や顔貌はうりふたつだが、女の全身には常習的に
受けていた虐待の痕跡が無数に残っていた。風呂場で半裸になった
メリアンデールの背中や脇腹を見たが、これほど多数の痣や傷跡は
なかった。つけ加えていうとメリアンデールの肉体に比べれば腰周
りや臀部、腿や足首がはるかに引き締まっている。それらは日常的
に身体を酷使する者に見られる鍛え上げた筋肉のつき方だった。
キリシマやボリスの忠告を思い出す。
彼らは、この天幕の中で行われていることを知っていた。
知っていて止めたのだ。
蔵人は途方もない悪意の存在を感じた。
情動を抑えよ。
いまはまだすべてを終わらせるときではない。
この悪意の存在を確かめるまでは、暴発は許されない。
メリアンデールに似た少女は顔面を精液で汚しながら、ふと虚し
げな表情を見せた。
先ほどの狂乱からは似つかない、儚げなものだった。自然、か細
いつぶやきが漏れた。
﹁おまえはいったい、誰なんだ﹂
﹁知りたいですか﹂
声の主。確かめる必要もないくらい如実だった。
蔵人はゆっくり振り返るとフルカネリの顔へと視線を向ける。
なんの屈託もない、澄ましきった笑顔だった。
﹁おやおや。僕の耳には確かにその女が誰だか知りたいといったよ
うに聞こえたのですが﹂
フルカネリの存在に気づいた男たちが、さっと女から離れた。
979
蔵人の存在に気づきながらも行為をやめようとしなかった男たち
がだ。
﹁ああ。間違いないよ。フルカネリ、教えてくれ。その中にいる、
おまえの姉そっくりの女はいったい誰なんだ?﹂
﹁う、うふふ﹂
フルカネリはさもおかしそうに笑い出すと、片手で自分の目元を
覆いながら中へと踏み入っていった。汚れきった少女の肩を抱くと
ぐいと引き寄せ、額にキスをする。彼は腰袋から取りだした銀製の
首輪を取りだすと女の首に、かちりと嵌めた。
﹁傑作でしょう。それではご紹介しましょうか、彼女はリース。こ
の隊の歴としたメンバーで、男たちの女神的存在。僕の購入した性
交奴隷です。ちなみに、君も顔は合わせているはずですよ。あのよ
うにマスクをしていたら少しわかりにくいかもしれませんがね﹂
蔵人の脳裏にモンクの女性たちの姿が浮かんだ。確かにあれでは、
背丈程度しかわからない。自分の間抜けさに気づき、激しく歯噛み
した。
﹁おい、ちょっとツラ貸してもらうぜ﹂
蔵人はフルカネリを手招きすると、もはや忌まわしさしかないテ
ントから離れた場所に移動した。視界の端で男たちが女の手首を取
ったのが見えた。意識的に足早になる。
﹁別にここでもいいじゃなですか。ほら、彼らもきっと気にしませ
んよ﹂
﹁うるせえよ。黙ってついてこい﹂
宴席ではいまだ酒盛りが続いているのだろう。
談笑する大きな声が途切れ途切れに聞こえてきた。 蔵人はぶつけ所のない怒りを胸の奥で噛み殺す。
大きく息を吐いて、先ほどの光景を頭の奥に押しやった。
まるっきりの別人とわかっていても、怒りが収まらないのだ。
髪を掻きむしりながら手近な岩に腰を下ろし、足元にランタンを
据えた。
980
ぼうっとした淡い光がフルカネリの涼やかな目元を映し出す。
気づけば無言のまま、殺気を孕んだ視線を浴びせていた。
﹁ああ。いいですねぇ、その顔。クランド、是非ともその顔を見た
かった。貴方のような野卑でなんの取り柄もない男を仲間に引き入
れたのは、その顔を見たかったからなんだ。僕の大切な姉、いとし
いメリアンデールにつきまとう腐った卑しい小蝿の怒りに満ちたせ
つない顔をね﹂
﹁おい。まあ、いいや。自分の家族に俺みたいなロクデナシがまと
わりついてたら誰だってそう思うだろうからな。んで、その話は脇
に置いておくとして。さっきの奴隷女の話だ﹂
﹁なんですか? ああ、使いたいならご自由に。特に止めたりしま
せんよ。そのほうが、僕のメンバーたちと、もっと仲良くなれる﹂
穴兄弟としてね。
脳の回線がまとめて数本焼き切れた。
﹁茶化すな!﹂
﹁おお。なにを怒っているんですか。まさか、君、童貞ってわけで
もないですよねえ。はは。ま、商売女くらいしか知らないなら僕の
メリアンに対して勘違いしてもしょうがないか。なにしろ、彼女ほ
ど美しくやさしい女性は地上にはいませんからね﹂
﹁そんな話はどうでもいい。いいか? こんな穴ぐらにずっと篭っ
てちゃ、女でも抱かなきゃやってられないってのはよくわかる。さ
っきの女。リースがおまえの奴隷ってことなら、パーティーの男ど
もにオモチャにさせようがなにしようが俺の口出すことじゃねえこ
とくらい理解してるさ。けど、これだけは答えてくれ。なぜなんだ﹂
﹁なぜとは?﹂
﹁なぜ、よりにもよってわざわざ実の姉とそっくりの性交奴隷を買
ってくる必要があるんだ。リースの存在を知れば、メリーがどんな
気持ちになるのかおまえは考えなかったのかよ!!﹂
﹁ええ、考えました。これ以上なく熟考しました。その上で、リー
スを買ったのです﹂
981
﹁なんだそりゃ。ま、ここまで露骨にされりゃまるわかりだ。重度
のシスコン野郎が。おまえだろ? チクチクとメリーのとこへあん
なバケモン送って脅しくれてたのは﹂
蔵人はフルカネリに対してクレイゴーレムや土くれ犬の件を持ち
出したが、フルカネリはいいがかりをつけられた人間のように眉を
しかめるばかりだった。
﹁バケモノ? いやぁ、まったく僕の感知するところではないです
ね。君の思い違いではないのですかな﹂
﹁ノウノウとシラを切りやがって。おまえ、おかしいぜ。わざわざ
そっくりな女を買ってきたってことは、少なからずリースって娘を
気に入ったからじゃねえのか? それに自分の姉そっくりな女を他
の男どものオモチャにさせてなんとも思わねえのかよ﹂
﹁思いませんよ。そもそも、リースをこのパーティーの共有物にし
たのは、僕が抱き飽きたからですから﹂
﹁は? いや、ちょっと俺の耳の調子がおかしくなったのかな。い
ま、ありえないことを聞いちまった。もう一度いってくれや。いま、
なんていったんだ﹂
﹁血の巡りの悪い人だ。リースは僕が抱き飽きたから、皆で使うよ
うに勧めたんですよ﹂
フルカネリの目が、闇の中でギラギラとランタンの光を反射して
きらめいていた。
﹁おまえは、実の姉そっくりな女を抱いていたのか? そんな⋮⋮﹂
﹁ええ。最初は楽しかったですよ。けど、ひととおり調教し終える
と、なんというかつまらなくなりましたね。リースはなんでもいう
ことを聞くんですよ。それこそ、足の裏でもなんでも、ふやけるほ
ど舐めろといえば何時間でもぶっ通しで舐めますよ。イヤな顔ひと
つせずにね。でも、それじゃあ従順すぎてつまらないんですよ。や
はり、偽物は所詮偽物でしかないのです。だから、もう僕は本物じ
ゃなければ我慢できなくなったんです。本物でなければ﹂
蔵人は本能的に身を引くと、顔を歪ませてつぶやきを漏らした。
982
﹁⋮⋮狂ってる﹂
考えてみれば、彼女がフルカネリに再開した直後の脅えようはい
うに及ばずだった。
実の姉そっくりの性交奴隷を情欲のはけ口にし、あまつさえその
お下がりを道具のように他の男たちに与えるなど、蔵人の倫理観か
らすれば許容できないものだった。
﹁は! なにが狂っているのだかまるで理解できませんね。僕が抱
いていたのはあくまでメリアンデールに酷似した別の女です。世間
にもなんら非難される筋合いはない。いわば、愛の代償行為ですよ。
いや、充分理解していますよ。世間さまの、ただ血の繋がりという
瑣末な問題で、男女間の真実の愛を侮蔑し、貶める最低な習慣を!
姉が、メリアンデールが家を飛び出してから八方手を尽くして探
しましたよ。彼女の居所を突きとめるのは難しかったが、不可能で
はなかった。けれども、いざこうやって見つけてみると、きっかけ
! 再開するタイミングのきっかけが実に難しい!!﹂
フルカネリは顔を真っ赤にして目を剥くと、語気も荒く支離滅裂
な言葉を続けた。
近親相姦。
異様な執着心に目を見張りながら唾を飲み込んだ。
︵だけど、これで簡単にこいつの行動原理が理解できた。世間一般
の倫理観もフルカネリにしてみれば、どうだっていいことなんだ。
こいつは、実の姉を女としてみている。どう理屈をつけたってそれ
オルタナティブ
だけのことで、とどのつまりメリアンデールとヤリてェだけなんだ。
けど、それが簡単に上手くいかないから、代替物として、リースっ
て女を使っていたんだ︶
﹁おまえの事情なんてどうだっていいが、要するに家を出てった姉
ちゃんにどんな顔して会えばいいかわからない。だから、毎晩メリ
ーの家にクレイゴーレムを送って脅かして弱ったところへ颯爽と駆
けつけてきっかけを作ろうとしたんだな﹂
﹁ふふ、だから知らないといったでしょう、それに関しては。ま、
983
クランド。君には感謝していますよ。君のおかげで、僕とメリアン
デールは運命的に再会を遂げることができた。あとは、端役の君に
退場を願うだけなのですが﹂
﹁退場すんのはテメーだ。どう取り繕うおうと、おまえはメリーを
自分のモノにしてえだけなんだろ﹂
﹁クランド。君はまったく僕のことを理解していない。僕がメリア
ンデールをさらって無理やりモノにするのは簡単だ。だが、なぜそ
れをしなかったかわかるかい? 僕が必要なのは彼女の身体だけで
はなく、心も欲しいからなのだよ。メリアンデールが肉親という垣
根を飛び越えて僕を愛するようならなければ﹂
﹁ならなければ?﹂
﹁僕の子を孕み、慈しみ、育て続けることなど不可能じゃないか!﹂
﹁どうやら俺のセンサーは壊れちゃいなかったようだな。俺にとっ
ちゃ、おまえが姉弟だろうが他人同士だろうがもう関係ねえこった。
黒獅子
こうなりゃ、ひとりの女を争うただの男同士ってわけだ﹂
蔵人岩から立ち上がると外套をひるがえし、腰の長剣
に手をかけた。
たちまち周囲に殺気が立ちこめた。
﹁先に抜かせてやる。それとも、その腰のレイピアはハリボテか?﹂
﹁いやだな、クランド。僕はただの錬金術師。剣の腕なら君に叶う
はずはないじゃないか。やりあったりするはずがないだろう﹂
﹁じゃあ、そのまま死ぬだけだ。あばよ、死体は適当に埋めてやら
あ﹂
﹁脅し、ならやめたほうがいい﹂
﹁脅しじゃねえ﹂
﹁僕が死んだら、メリアンデールはきっと君を許さないよ﹂
﹁そんなことは﹂
﹁彼女が君のような無頼漢を安易に頼ったのはさびしさからだと気
づかなかったのかい? それとも、君は自分が女性にモテるような
二枚目だとでも勘違いしているんじゃないか。クランド、君がモン
984
クの娘たちを追っかけまわしている間にメリアンデールの心はだい
ぶ僕に戻ってきたよ。そもそも僕とメリアンデールは愛しあってい
たのだからね﹂
﹁嘘っぱちだ、そんなの﹂
﹁彼女が家を出た理由を一度たりとも君に打ち明けたのかい? か
つて、僕らは愛しあっていたのだが、彼女はいまひとつつまらない
常識というものに縛られていてね﹂
﹁嘘だ﹂
﹁嘘じゃないさ。それに、僕らはもう何度も愛しあっているんだ。
彼女ははじめてを僕に捧げてくれたんだ﹂
﹁ありえねえぜ。この妄想野郎が﹂
﹁これが現実さ。けど、所詮は結ばれないと嘆き、普通の姉弟に戻
ろうと言い捨てて、彼女は家を出ていった。なんという自己犠牲だ
ろう。ああ、僕のメリアンデール。わかるかい? いまは、愛が成
就されなくても、僕らが姉弟であることもまた事実なんだ。彼女の
中では伴侶である僕と、彼女のいとおしい弟としての僕が混在して
いる。そんな実の弟を殺してしまえば、彼女の性格なら君を許さな
いだろうよ﹂
﹁卑怯な予防線貼りやがって。この先どうするつもりなんだよ﹂
﹁僕はメリアンデールを必ず実家に連れ戻す﹂
﹁メリーを家に引き戻す? それから、どうするつもりだ。なにも
かもなかったことにして、イイとこのボンボンにでも嫁にやるのか﹂
﹁はあああっ!? なんで、僕のメリアンデールを赤の他人棒の餌
食にしなきゃならないんだ! ふざけるな、ふざけるな! 彼女は
な、ずっと僕と暮らすんだよ! どこにも嫁になんかやらせないっ
! 僕が家長になれば、そんなことは簡単なんだよっ。そのために
も今回の目的地である第七階層の龍脈へは絶対に到達しなきゃなら
ないんだあっ! 秘術ぅううっ、誰にも成し得なかったエレウシウ
スの秘術を成功させてやるっ! クッソ、僕は落ちこぼれなんかな
じゃないことを証明してやる! 僕は名門カルリエ家の長子で正当
985
な後継者なんだああっ! カインのやつがあっ、僕からなにもかも
奪いやがってぇええっ。弟のくせにいいっ! 僕が得るはずだった
⋮⋮栄誉⋮⋮愛⋮⋮すべてを⋮⋮すべて⋮⋮﹂
﹁なんだこいつ、キチってるぜ﹂
フルカネリはいきなり怒りを沸点に到達させると、意味の通らぬ
ことを叫びだした。
両目はドロンと濁って中央に寄り、爪をかみながらブツブツとわ
けのわからぬ文言をつぶやきはじめる。典型的な異常者だった。そ
こには、はじめて会ったときに感じた好青年のカケラも見出すこと
はできなかった。
完全に破綻している。
それは崩れかけた彫像を見るような不気味さがあった。
︵こらアカン。もうこのパーティーにいる意味はないな。斬る意味
もない。メリーを連れて早々にずらかろうっと︶
蔵人は虚空をにらみながら棒立ちになっているフルカネリをその
場に残し、宴席に戻っていった。後方では意識を喪失したはずの狂
人が、熱のこもった瞳でその背中をじっと見つめていた。
蔵人が宴席に戻ると場は混乱していた。
﹁おい、どうしたんだ!﹂
一同はひとりの女性を囲みながら声をかけている様子だった。
全員が蔵人を確認するといっせいに非難の視線を送ってくる。
それは根拠のない怒りではなく、自らを支える堅牢な正義を自覚
した者が持つ確固たる強い信念を持ったものだった。
﹁おい、どうしたんだ、だってよ﹂
﹁ああ。そのツラ下げてよくいえるな﹂
986
﹁サイテー、です﹂
﹁ふざけんなよな、ダボが﹂
﹁仲間づらしやがって﹂
﹁おい。なんのことだよ。俺にはサッパリ﹂
蔵人が視線を落とすと、人垣の中心部には先ほどまで談笑してい
たモンクのユリエラの姿があった。
焚き火の明かりに照らし出された姿にぎょっとする。
彼女の僧衣は胸元を大きく切り裂かれ、裾は切り裂かれたように
ボロボロになっている。
頭を顔を覆っていたウィンプルとマスクは剥ぎとられたように千
切られており、長い金髪が乱れて切れ長の目が真っ赤に腫れていた。
﹁あああっ!!﹂
﹁ちょっ、どゆこと?﹂
ユリエラは蔵人の顔を見ると真っ青になり火がついたように泣き
出した。
傍らのアリアンナにすがりつくと全身を震わせて嗚咽している。
﹁あああっ! クランドンがああっ!! わ、わたしをおおおっ!
離れた場所でっ、いきなりいいっ! いうこと聞けってっええっ
! 変なモノを無理やりぃいいっ、口でしろってええっ! 静かに
しないとおおっ! 殺してやるってぇええっ!!﹂
﹁許さない。ユリエラをこんな目にっ。あたしの親友をっ! この
っ、卑劣漢っ!!﹂
アリアンナは怒りで瞳を真っ赤に燃え上がらせて語気強く叫んだ。
叫びが響くたびに、周囲の人々は義憤に駆られ威圧感を増した。
蔵人を見つめる周囲の視線の温度がぎゅんぎゅんと下降していく。
陰嚢がきゅっと締まり、喉がカラカラに乾いていった。
これはなんだか知らないが、ヤバイ予感がするっ!!
﹁あ﹂
視線をさまよわせるうちに、人垣の向こうでメリアンデールの姿
を見つけた。
987
彼女はしっかりと衣服を身につけ、乱れた様子は毛ほどもなかっ
た。
こんな状況だというのに、無性にほっとした。
メリアンデールとリースはまったくの別人なのである。
視線が交錯する。
知らず、自分を擁護するものを期待していたのだろう。
蔵人が彼女の瞳の中に見たものは、わずかな侮蔑と強い怒り、そ
して拒絶だった。
つかつかとメリアンデールは蔵人に歩み寄ると、頬を勢いよく張
った。
ぱんっ、と乾いた音が鳴った。
﹁最低⋮⋮﹂
﹁メリー﹂
﹁気安く呼ばないでください。見損ないました﹂
あるぇー? どういうことかな、この超展開は。
﹁違う、俺はやってねええええっ!! 信じてくれっ、メリー!﹂
メリアンデールの瞳に狼狽した色が見えた。
早まったことをしたという彼女の気持ち一発で見て取れた。
﹁え、え。でも、わたしだって、で、でも。フルカネリが﹂
周囲の輪がジリジリと縮まってくる。 いや、間違いなくハメられたっ! 最初っから、あの野郎こうな
る手筈をっ!!
蔵人に近寄ろうとするメリアンデールを他のメンバーが制止して
いる。
険悪だったわけでもないメンバーを片っ端から斬り殺すこともで
きなかった。
﹁おとなしくしろよ、このレイプ犯が﹂
﹁女の敵、です!﹂
﹁なんでこんなことしやがったんだ﹂
蔵人はここに至って、ようやく気づいたのだ。
988
自分だけが周到に用意された穴に頭から突っこんだという事実に。
﹁それでも俺はやってない﹂
不幸にも蔵人を救う弁護士のドリームチームは結成されなかった。
﹁ありえん、こんなの﹂
気づけば蔵人はユリエラを強姦した犯人として簀巻きにされてい
た。
パーティーは当然の如く強制離脱である。
唯一かばってくれるはずのメリアンデールも中核メンバーと共に
移動していった。
半ば引きずられるようにだったが。
最後の呼びかけに対する反応から、蔵人に対する不信は百パーセ
ントではなかった。
︵メリアンデールに賭けるしかない。けど、俺がユリエラにしつこ
く、いいよってたのは事実だ。せめて、この縛めだけでもどうにか
出来れば︶
どうやら、第四階層の終着点にたどり着いた時点でギルドに移送
され、王都から法律院に移送される手はずになっているらしい。こ
の世界では聖職者を汚すことはかなり重い罪に当たるらしい。冤罪
ここに極まれりである。
﹁んで、見張りはおまえか﹂
簀巻きにされた状態で目の前のモンクを見やった。
黒の僧衣にマスクを深くかぶって完全に個性を消していた。
パーティーが出発してからかなりの時間が経過したがひとことも
口を利いていない。
フルカネリの奴隷、リースだった。
989
蔵人を拘束する縄は特殊な縛り方で手首を足を絡めとっており、
力が入りにくいようになっている。少なくとも刃物なしでは脱出す
ることは不可能であった。
﹁絶対に無駄ってわかっていて聞いてみるんだが。この縄を解いて
くれるっていう奇跡が起こる可能性、アリかな?﹂
リースはスタッフを持ったまま微動だに動かない。
完全に周囲の背景と同一化していた。
﹁ああ、完全無視。そうですか、そういう方向でいくわけですか。
残念だが、おまえさんたちは本気で俺を怒らせたいようだな。この、
迷宮に君臨する王たる俺。すなわち、未来のダンジョンハーレムマ
スターをっ!! ふんぬううっ!!﹂
蔵人は持てる限りの力を両手首に込める。
怒声を発しながら岩壁を背に立ち上がると、額に青筋を浮かべて
奥歯を強く噛み締めた。
﹁お、おお? なんだ、気が変わったのか?﹂
ふと見ると、リースがトテトテと無言のまま近寄ってくる。彼女
はそっと指先を突き出すとイモムシ状態でかろうじて直立している
蔵人の肩をそっと押した。
﹁どうあっ!?﹂
必然的にバランスを崩して無様に倒れ伏す。
蔵人は顔面から地面に顔を打ちつけると痛みに涙を浮かべた。
﹁なにしやがるんだっ!﹂
勢いよく顔を上げる。蔵人はリースを見てちょっと驚いた。
人形のようにすべてが無感情かと思われた少女の目元が楽しそう
にゆるんでいる。
湖水の蒼を集めたような美しい瞳の輝きは、メリアンデールとな
にひとつ変わらない無垢なものだった。
﹁おいおいおーい。なにをチョッカイ出しちゃってくれてるんです
かねぇ、この変態レイプ野郎は。ああぁん?﹂
﹁そうそう、その女は俺ら専用の肉便器よ。勝手に使ってもらった
990
ら料金はいただかねえとなァ。ちなみに結構お高いぜ?﹂
下卑た男たちの声が聞こえると同時にリースの瞳から再び感情が
消え失せた。
意志を失った人形のようにすべてが凍りついている。蔵人が顔を
上げると、そこにはテントの中でリースを陵辱していた冒険者たち
の顔があった。
﹁なあ。一応料金設定を聞いておこうか。ボッタクリなら訴えちゃ
うぜ﹂
﹁そうだな。さしあたって、おまえの命で購ってもらえと、フルカ
ネリさんからのお達しだ。ちなみにツケ払いは許さねえ、とよ﹂
蔵人は唇を尖らせると、ヒュウと口笛を吹いた。
991
Lv64﹁奈落へ﹂
ふたりの男たちは幅広の山刀を抜き放つとギラついた視線でのそ
りと忍び寄ってくる。
対する蔵人は寸鉄ひとつ帯びず、全身を拘束されており動くこと
もままならなかった。
﹁俺たちゃ別に人殺しが好きってわけじゃねえ。せめて苦しまねえ
ように一息で決めてやらあ。ジタバタするんじゃねえぞお﹂
﹁そのまえに、どうして俺を殺るのか理由くらいは聞かせてもらえ
ねぇか﹂
﹁ンなこたァおめえが一番よくわかってるんでねーの﹂
男はケタケタと笑い声を上げると、顎に生えた無精髭をしごいて
いる。
落ち窪んだ目玉は狡猾そうにぬらぬらと輝いていた。
﹁と、そのまえに﹂
男のひとりはリースの目の前に立つと棒立ちになった彼女の肩を
ぐいと強く押しこんだ。
リースは小さくうめくと地面の蔵人に重なるようにして倒れ込ん
だ。
まるでこれから起こることには興味がないように、表情にはわず
かな動きもなかった。
彼女の表情は、いままで蔵人が幾度も見てきた珍しくもないもの
だ。瞳には虚無が宿っている。自分の人生そのものに興味をなくし
た生き人形だった。
﹁感謝しろよ。あの世に旅立つにはひとりじゃ寂しいと思ってな。
992
せめてもの冥土の花嫁だ。せいぜいかわいがってやりな。オレたち
の使い古しで悪いが、よっ!﹂
口上を聞くまでもない。フルカネリはここぞとばかりに廃品同様
蔵人たちをまとめて葬り去るつもりだったのだ。
男の山刀がランタンの淡い光に照らされ妖しくきらめいた。
ビュッと風を巻いて走る。
蔵人は一瞬で身体を反転するとリースの身体を入れ替えた。
縄をぶった斬る音が激しく響く。
身の厚いナタのような刃は肩甲骨と後ろ手に縛られた手首を深く
切り裂いた。
削がれた背中の肉と腕から鮮血が噴き上がった。
﹁ってええなあっ!!﹂
脳裏に白い火花がほとばしった。激痛で網膜が明滅する。目の前
のリースの大きく開いた青が大写しに飛び込んできた。
蔵人は身体を反転させると男たちに向き直った。
急な動きに焦った男が再び山刀を両手に持って振り上げた。
縛られたままの両足を男の脛に激突させた。
バランスを崩した男がバランスをとるため咄嗟に得物から片手を
離した。
縄から解き放たれた長い腕を伸ばすと山刀を持った手首をつかみ、
捻り上げる。
蔵人の膂力は常人をはるかに上回る。男も歴戦の冒険者とはいえ
幾多の戦いで鋼のように鍛え上げられた豪腕にはかなわなかった。
ゴキリと鈍い音が鳴って手首の骨は粉砕される。
﹁がああっ!﹂
男の悲鳴に眉ひとつ変えず、左手で男の頭髪を引っ掴む。
奪った山刀の刃を男の喉元にすべらせた。
﹁ごふっ﹂
刃は膨らんだ喉仏に深々と埋まると斜めに動いた。
ザッと真っ赤な血が喉元から溢れ出る。
993
男はヒューと気管から音を鳴らすと口をゆっくりと開閉した。ご
ぼっと咳き込むように血の塊が吐き出される。男の瞳孔は水面の波
紋が広がるように一瞬で深みと範囲を増した。
蔵人が座った姿勢で男の死体を脇へのけると、残ったもうひとり
は悲鳴を上げながら一気に走り去った。片割れが殺されただけで恐
慌に陥ったのだ。とりあえずの驚異は去った。
息をつこうとして、我に返る。あの男はフルカネリの寄越した刺
客だ。パーティーに戻れば、あることないこと吹き込んでメンバー
の敵意をこちらに向けさせるだろう。
﹁まったく、次から次へとやっかいなことばかりだ﹂
蔵人は、背中と腕の痛みをこらえて山刀を振るうと足首の戒めを
解いた。ぐったりとしたまま動かない女を見て舌打ちをする。
とはいえ、茫然自失したリースひとりをこの場に置いていくわけ
にはいかなかった。男たちが襲う直前までは、まがりなりにも主の
命令に従って蔵人を見張るという行動を取っていたが、いまの彼女
からはなんらかの自発的行為を行う気配すらなかった。
文字通り、生きた人形のようだった。
蔵人にしてみれば、リースの命を守ってフルカネリに渡す義理は
ない。それどころか、フルカネリの意趣返しを行ってもいいくらい
だ。
﹁できるわけねーよな、ったく﹂
しかし、メリアンデールそっくりの女を傷つけるのも見殺しにす
るのは後味が悪すぎた。
リースも被害者であるといっても過言ではない。
道具のように扱われた挙句、モノのように始末されかけたのだ。
奴隷の命はすべて主の気分次第であるといったモデルケースのよ
うな存在だった。
﹁俺の剣は!﹂
蔵人が叫ぶと、リースは無表情のまま僅かに左右に振った。
尻餅を突いた格好で起き上がろうともしない。
994
手応えのなさに壁に向かってしゃべっている気分になった。
﹁剣だよ! それに、荷物も!!﹂
男でも震え上がりそうな怒声を発すと、彼女はようやく後方の岩
陰を指差す。
蔵人は示された場所に隠された装備一式を取り戻すと手早く身に
つけた。
黒獅子
はなかった。岩陰に置いてあったのは、蔵人を
﹁さすがに剣は持っていったか⋮⋮﹂
愛刀の
拘束する際邪魔になった黒外套とランタン、わずかな水と食料だっ
た。
蔵人は奪った山刀をランタンの明かりにかざして確認する。刀身
黒獅子
とは比べようもなかった。
は厚く丈夫さはあっても、所詮は数打ちの安物だった。ロムレス三
聖剣のひと振りである
﹁ないよりましってところか。おい、いいかげん立ちやがれ。なに
をぼさっとしてやがんだっ!﹂
蔵人はいまだ座り込んでいるリースの腕をとって無理やり起き上
がらせると、鼻から下を覆っていたマスクを剥ぎとった。
乱暴な手つきで頭のかぶりものを引き千切る。
そこにはメリアンデールと生き写しの顔が現れた。
明るい茶色の髪が腰まで流れるのを見て、胸が少しだけ痛んだ。
﹁離して⋮⋮﹂
﹁あ? こんなところに突っ立ってたら、たちまち化物どもの餌食
だぞ﹂
﹁いい、別に﹂
リースはまるで関心がないといった風につぶやく。蔵人の脳にあ
る怒りの回線がまとめて二、三本断裂した。
﹁おい、勘違いするなよ。別に親切心から助けようと思ってここか
ら引っ張ってくわけじゃねえんだ。おまえには、パーティーのやつ
らにフルカネリが手下を使って俺を消そうとしたってことを証言さ
せたいだけだ﹂
995
マスター
・ ・ ・ ・ ・
﹁私は、彼の奴隷よ。主に向かってそんな不利な証言をすると思う
の﹂
﹁するさ。絶対に。俺がそうさせる。あんまり甘く見るんじゃねえ
ぞ﹂
蔵人は断言するとリースの額を人差し指で弾いた。リースは痛み
に顔をしかめると、視線を避けるように横を向く。
﹁だいたい、いくら奴隷だからってここまでコケにされてなんとも
思わねえのかよ。おまえはメリーの代用品扱いだぞ。主に生殺与奪
の件あるからって、感情までは殺せないだろう﹂
リースは蔵人の言葉を聞くとはじめて人間らしい表情を浮かべる。
なにもかもを蔑んだ目つきで薄く微笑むとつぶやいた。
﹁代用品、ね﹂
蔵人が言葉の意味を訊ねる前に、男が逃げ出した方角から低く流
れるような歌声が聞こえてきた。
﹁なんだ?﹂
そっと耳を澄ますと、歌声は徐々に近づきながら大きくなってい
く。
続けて、洞窟内に響き渡る巨大な足音が追従してきた。
耳を聾する轟音は巨大な影と共にピタリと静止する。
捧げ持ったランタンが無意識に震えだした。
﹁マジかよ。夏休みの昆虫採集じゃねえんだぞ⋮⋮﹂
蔵人は目の前の悪夢のようなモンスターに思わず毒づいていた。
全長は軽く十メートルは超えるだろう不気味な大蜘蛛がのっそり
と姿を現していた。
ひとりの男の下半身を巨大な顎で噛み潰しながら。
﹁いだあああいいぃっ!!﹂
男の腰から下は大蜘蛛の口内へ既に収まっていた。
脇腹からは露出した大腸が引き出され縄のように垂れ下がってい
る。
未消化の内容物まで臭ってきそうな綺麗なピンク色をしていた。
996
キングスパイダー。
ダンジョン低階層でもっとも凶暴といわれる昆虫系モンスターで
ある。
頭と胸の合わさった頭胸部からは巨大な複眼が辺りを睥睨してい
た。
口元には先ほど走り去っていった冒険者の男の下半身を咥えてい
る。
ゆっくりと咀嚼しているのか、男の内臓と骨とが磨り潰される悪
い冗談のような音が周囲に反響している。
醜く膨れ上がった腹は青白い色をしており、突き出した八本の脚
はそれぞれが丸太のように大きく太かった。
キングスパイダーは巨大な牙で男の身体を荒く砕くと、毒液と消
死
化液を口内に分泌させ、獲物をゆっくりと溶かし出した。
﹁じっ、じぬううううっ、じにたくなああぃっ、ふゅぐっ!?﹂
毒液を一気に注入された男の顔は一瞬で無数の肉腫を浮き上がら
せた。
眼球がピンポン玉のようにポロっとこぼれ落ちる。
黒っぽい粘液が眼窩からどっと溢れ出ると、男の頬骨を濡らした。
顔面は崩れた粘土のように激しく波打つ。
それから、溶けたアイスのようにどろっと一気に融解した。
キングスパイダーは啜り上げるように肉の残骸をそっくり口内に
納めると、微動だにせずその場に固着した。
﹁ひぅ﹂
男のあまりにも凄絶な最期を目撃してリースは口元を両手でおさ
えた。
蔵人は外套を引き回すとリースを自分の腰に引き寄せ、山刀を水
平に構えた。
キングスパイダーは予備動作なしに突撃を開始した。
大木のような黒く長い脚が垂直に振り下ろされる。
﹁とはっ!﹂
997
蔵人はリースを抱えたまま転がって回避した。
洞窟内は地上のように平坦場所は殆どなく、隆起した岩が無数に
生え揃っている。
頬を切り裂き身体のあちこちを打ちつけるたびに苦痛で息が詰ま
った。息をつく間もなく敵の攻撃は繰り返された。
大蜘蛛の脚が鋭く撃ち下ろされるたびに、張り出した岩が目の前
で破砕され細かな土煙が立ち昇った。
うおん、うおんと奇妙な唸り声が間遠に聞こえる。
一撃でも喰らえば致命傷になりかねない。
蔵人はリースをはるか後方に放り投げると外套をひるがえして跳
躍した。
黒い毛がびっしりと生えた脚に向かって山刀を叩きつける。
古タイヤを叩いたような感触を残して蒼黒い血液がほとばしった。
ぬるいような血潮が顔面を勢いよく叩く。
反射的に目をつぶった瞬間、胴体が消し飛んだような錯覚を覚え
た。
キングスパイダーの脚が胴を薙ぐように繰り出されたのだ。
十トントラックと正面衝突したようなものである。
蔵人の身体は浮遊しながら弾き飛ばされると後方の岩壁に激突し
た。
背面が砕け散ったような強い衝撃を受け、網膜が真っ赤に濁った。
顔面から地上に投げ出される。
かろうじて両手を突いて衝撃を緩和した。
両腕の袖はヤスリにかけたように細かく引きちぎれ傷ついた真っ
赤な肉が露出している。
衝撃で既に山刀は手放してしまった。反撃する余裕すらない。
目の前のこぶし大の岩を拾う。破れかぶれでキングスパイダーの
いるらしき方向に投げつけた。
意図せぬ攻撃に戸惑ったのか岩は放物線を描いて飛ぶと、キング
スパイダーの複眼に命中した。
998
ほぼ同時に背後からリースの悲痛な叫び声がほとばしった。
地上に投げ出されたランタンを走りながら拾う。声の元にたどり
着くと、そこにはぽっかりと口を開けた巨大な暗渠が目の前に広が
っていた。
リースは視界の利かない辺りを逃げまわるうちに穴へと落ちこん
だのだった。かろうじて片手で岩壁の一部にぶら下がっている。ラ
ンタンをかざしても底すら見えない。ランタンのほのかな明かりに
蒼白な表情が映し出された。顔色は紙のように真っ白になり、震え
た歯がガチガチとしきりにかみ合わせを小刻みに打ち鳴らしていた。
﹁助けて⋮⋮﹂
蔵人は咄嗟に四つん這いになると手を伸ばした。
小枝のように細い手首をつかんで力を込めた。
﹁やだぁあああっ!!﹂
リースが叫ぶと同時に背後から異常な風圧を感じた。全身がバラ
バラになるような極めつけの衝撃が襲った。一瞬の浮遊感の後、身
体が虚空に舞った。
蔵人はリースを胸の中に抱えこむと、底なしの闇の奥へ真っ逆さ
まに墜落していった。
ポツポツと水滴が額を打つ感覚で目が覚めた。
﹁ここは⋮⋮﹂
蔵人はリースを抱え込んだまま暗渠の底へ落下したらしい。胸の
中では意識を失ったリースがぐったりとしている。地面に手のひら
を泳がすと、辺りはきめの細かい砂地だった。
﹁まったく、運がいいっていうのか、判断に困るな﹂
リースをそっとその場に横たえると、目と鼻の先に転がっている
999
ランタンを回収する。
辺りをぐるりと照らし出すと、周囲は半径五メートルほどの空間
があった。ほぼ垂直に落ちたのが功を奏したのか大きな怪我はふた
りともないようだった。
穴の深さは十メートルもない。
ランタンを頭上に掲げると、穴の淵でこちらをうかがうキングス
パイダー
の息遣いを感じた。
どうやら穴が狭すぎて中には入ってこれないようである。
ダンジョン内には自分たち以外にいくらでも捕食しやすい生物は
存在する。
蔵人は大蜘蛛があきらめて穴の淵から消えるのを辛抱強く待つこ
とにした。
岩壁を登るのはそのあとでもいいだろう。
砂地に腰を下ろして道具袋から干し肉を取り出した。細かくいく
つかに引き裂くと頬張ってゆっくりと咀嚼する。粉々になるまで飲
みこまず唾液を引き出すのだ。顎が疲れるまでその単調な動作を行
っていると、リースが身体を動かす気配を感じた。
﹁よう、気づいたか﹂
声をかけると覚醒した彼女は反射的にその場から後ずさった。そ
れからすぐに声の主が蔵人だとわかると目に見えて身体から力を抜
くのがわかった。
﹁ケガはねえか﹂
気づかって声をかけた。リースは顔をしかめると、右足首に手を
伸ばした。僧衣の裾をまくって足首を触るとわずかに熱を持ってい
た。そっとつかむと、リースは眉を眉間に寄せて低くうなった。
﹁痛いか? そうか、折れてはねえが少し捻ったみたいだな﹂
袋から塗り薬を出して患部に塗布する。膏薬独特の匂いが鼻を突
く。
包帯で足首を動かないように固定すると簡易的な治療を終えた。
1000
﹁上にはまだあの大蜘蛛が居座ってやがる。あいつのエサは俺たち
だけってわけじゃねえから、そのうち居なくなるだろう﹂
﹁あ、あの﹂
﹁なんだ﹂
リースは消え入りそうな声で、ありがとう、というと恥じらった
ように顔を伏せた。
﹁なんだ、ちゃんとしゃべれるじゃねえか。礼には及ばねえよ。こ
っちも計算づくだ。おまえを、ちゃんと連れ帰って、みんなの誤解
を解かなきゃな﹂
﹁そんなに、あの娘のことが気に入ったの﹂
﹁あの娘? ああ、メリーのことか。一応相棒だしな。それにあの
フルカネリの野郎は危険すぎる。どっちにしろ、ここまで舐められ
た真似されたんじゃ、白黒ハッキリつけなきゃおさまらねえや﹂
﹁そんなにあの娘のこと気に入ったの? ねえ、この先彼女とどう
したいの﹂
﹁どうしたいって、そりゃ決まってるだろ。この先もずっといっし
ょに冒険を続けるんだよ。あ、お邪魔虫は排除する方針でな﹂
﹁そんなこと出来るわけないのに﹂
リースはさもおかしそうにくちびるを薄く歪ませ、それからはっ
きりとした同情の色で満ちた瞳をした。
まただ。
蔵人は胸がざわつくのを押さえられなかった。
メリアンデールと瓜ふたつの顔で、それをやられると、無性に頭
にくる。
自然、口ぶりは荒くなった。
﹁なんだよそれ。にしても、リース。おまえ、本当にメリーにそっ
くりだな。フルカネリの野郎にはどこで買われたんだよ? この間
あった大奴隷市か﹂
リースは、目を丸くすると、あっけにとられた表情を作った。
彼女の整った顔は奇妙に歪みはじめ、やがて唐突に大きく吹き出
1001
した。
ケタケタと狂ったように甲高い笑い声が周囲の岩壁を反響し、耳
朶を打った。リースは捻挫の痛みを無視して身体をくの字に折ると、
地面を片手で打ち鳴らして笑い転げる。
狂った。
そうとしか思えない反応だった。
蔵人は表情を青ざめさせながら、苦いつばを飲みこむ。幾分逡巡
した後、彼女の肩をつかんで激しく揺らした。
﹁おいっ、いったいどうしたんだっ! しっかりしろおっ!﹂
﹁あはははあははっ、あはははっ! やっ、ちょっ、ごめんなさい
っ! っ、いや、あまりにもあなたが、いやっ⋮⋮ほんとっ、これ
ほんとっに、笑えるっ!!﹂
リースは両手を砂地について肩を大きく上下すると、顔を地面に
向けたまま呼吸を整えようとしている。
背中をさすると、目に涙をにじませながら顔を向けた。
紅潮した頬と、うるんだ目元には抗いがたいほどの色香があった。
﹁ねえ、あなた。本当に都合よく自分の姉ソックリの奴隷がそうそ
う見つかるなんてことがありえると思うの﹂
﹁いや、だって、そうじゃなきゃ、いまおまえがここにいる理屈が
説明つかないだろうが。
⋮⋮もしかして、おまえとメリーが双子の姉妹とかっ!﹂
﹁不正解よ。奴隷だからって感情までは殺せない。確かにそうね。
ねえ、あなたは私にすごくやさしくしてくれたわ。どうせ、当分こ
こからは出れそうもないし、よければ種明かしをしてあげてもいい
わ。聞きたいかしら?﹂
﹁やけに饒舌になったな。⋮⋮ああ、是非ともおまえのバカ笑いの
意味を知りたいね。俺は人をからかうのは好きだが、小馬鹿にされ
んのは嫌いなんだ﹂
﹁そう、それじゃあ、話をする代わりに、お願いを聞いてもらおう
かしら﹂
1002
﹁なんだよ﹂
リースはさも楽しそうに両手を顔の前でポンと打ち合わせると、
にっこり微笑んだ。
いままで押し黙っていたのがまるで別人とも思える明るさだ。
﹁クランド、いまからあなたは私の奴隷になるの。これって、とて
もいい思いつきじゃない?﹂
目を三日月のように細めて声を弾ませるリースの姿。
それはメリアンデールとなにひとつ変わらぬ屈託のないものだっ
た。
メリアンデールは流れに身を任せるようにして集団の中の一部と
して移動を続けていた。
脳裏の中には地図の道順もこれから先にどのような難所があるか
もまったく浮かばない。
別れ際、蔵人が見せた傷ついた表情。
浮かんでは消えを延々と繰り返している。強く胸が痛んだ。
︵クランドはやってないっていったのに、どうして、あそこでかば
わなかったの?︶
理由は簡単だった。嫉妬である。
メリアンデールは彼がモンクであるユリエラやアリアンナにちょ
っかいをかけているのをずっと苦々しい気持ちで見ていたのだ。
︵なんで叩いたりしたの、わたし。クランド、きっとすっごく傷つ
いたよ。みんなが、クランドのこと疑ったって、わたしだけは信じ
てあげなきゃいけないのに︶
弟のフルカネリとは実家にいた頃の経緯で上手く馴染めなかった。
いや、正直なところ弟と正気を失わずに会話できることさえ奇跡
1003
なのかもしれない。
そもそも実家にいたときのことを思い出そうとすると、無性に頭
の奥がズキズキと理由のない痛みが襲ってくる。
︵違う違う、そうじゃなくて。いまは、クランドのこと。そもそも、
どうしてクランドがユリエラを襲う必要があったのかしら︶
メリアンデールは、第六階層の半ばでパーティーが小休止を取っ
た際に、必要以上に絡んでくるフルカネリをなんとか遠ざけ、暴行
事件のことについてユリエラから話を聞き出した。
﹁ごめんね、思い出すのもいやだろうと思うけど。その、あなたを
襲った犯人のことについていろいろ聞かせてもらえないかな﹂
﹁ちょっと! ユリエラは深く傷ついているんですよ! あなたが、
リーダーの姉だからといってなんでも許されるわけじゃないんです
よっ!﹂
同じモンクでもアリアンナは控えめなユリエラとは対照的に勝気
で気の短い性格だった。
ふたりは幼い頃からの親友であり、その分友の身に起きた災難は
アリアンナにとって許しがたい行為だったのだろう。
怯えた小鳥のように身を震わすユリエラをかばうようにして抱き
かかえている。
深い信頼と愛情がうかがえた。
﹁うん。ごめんね、ちょっとだけでいいんだ、本当にちょっとだけ
で﹂
﹁だいたいあなただってあの時は彼のことをかばわなかったじゃな
いですかっ! いまさらなんなんですかっ!﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そこをつつかれると黙らざるを得ないメリアンデールだった。
あのときはフルカネリから蔵人がひとりで妙な動きをコソコソし
ていると耳打ちされ、ちょっとした悋気も手伝って彼を疑うような
発言をしてしまった。
︵それに、わたしはそのうち本当の犯人が見つかるだろうなんて思
1004
いこんでいた︶
﹁ねえ、そこをなんとか。お願いしますっ!﹂
﹁あのね⋮⋮!!﹂
﹁いいです、よ﹂
﹁ユリエラっ! アンタだいじょうぶなのっ﹂
﹁うん。ありがとう、アリアンナ。でも、私もはっきりさせておき
たいから。あのときのことを思い出すと。それに︱︱﹂
﹁それに?﹂
メリアンデールとアリアンナの声がハモった。
﹁クランドは、その、ちょっと話しただけだけど、あんなことする
かなぁって、なんとなくだよ? そんな気持ちが強くなってきたの。
時間が経つにつれて、ね﹂
﹁んんん? ん、まあ確かにクランドは思慮深いってタイプじゃな
いけど、そこんところどうなの、メリアンデール﹂
﹁うん。クランドは物陰から襲ったりしないよっ! たぶん、した
くなったら、その、直接相手にいうと思います﹂
﹁それはそれでダメなんじゃ。あ、でもわかるかも。あいつアホっ
ぽいしー﹂
アリアンナはなにか納得のいかない表情で両手を組むと眉を八の
字にして唇を尖らせた。
きっと脳裏の蔵人像とユリエラを襲った強姦魔のイメージを上手
くすりあわせることが出来ないのだ。蔵人はあきらかに陽のイメー
ジであり、コソコソ隙を狙って押し倒す陰のイメージではなかった。
むしろ、その前に﹁いまから襲うからな﹂くらいのことはいいそう
な感じである。
﹁じゃあ、話を戻すよ。ユリエラ、最初から話してもらえるかな﹂
﹁あ、はい。あのときはみんなで焚き火を囲んで宴会をしていたん
ですよね。それで、私もあまりお酒が強くないので、たくさん勧め
られているうちに、ついつい杯を過ごしてしまって﹂
﹁そのとき、クランドは隣に居たのかな﹂
1005
メリアンデールはくちびるに人差し指を置いて話を促した。
ユリエラに変わってアリアンナが答える。
﹁えーと、えっと。そうそう、クランドのやつあからさまに小用だ
! ってデカイ声で叫んでさ! あたしたちレディをまえにしてふ
ざけんなって盛り上がって︱︱﹂
﹁はは。クランドならいいそう。私はそのときは席を外してもうテ
ントに入っていたから。ユリエラはそこのところ覚えていますか?﹂
﹁はい。ぼんやりとですが。それで、その、私のお酒飲みすぎてし
まって、やっぱり、その催してしまって、なるべくみんなからはな
れてすませようと思って﹂
﹁ねー! そういうときはひとりになっちゃダメっていっつもあた
しがいってたっしょ!﹂
﹁ごめん、でもアリアンナすごく酔ってたから、逆に危ないかなっ
て。それでね、私が岩陰の脇に着いたとたん、横合いから、押し倒
されてっ⋮⋮ひっ⋮⋮ぐっ、そ、それであとは服を破られて⋮⋮﹂
﹁がんばって、あたしのユリエラ!﹂
﹁それで⋮⋮?﹂
﹁はい。もうダメかと思って、そうしたら、途中でフルカネリが遠
くから叫びながら待てーって叫びながら近づいてきて。私に抱きつ
いていた方は去り際に、舌打ちしながら、クランドンさまに抱かれ
るのが女のしあわせなんだっ、とか叫びながら、逃げて。そのあと
すぐにフルカネリがランタンで私の顔を照らして、ひっぐっ⋮⋮怖
かった、です﹂
﹁最低だよっ!﹂
﹁ちょーっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待って! ねえ、ふたりと
も、いまの話でおかしなところなかったかな! あきらかに、あっ
たよねえ!?﹂
﹁え、なにがよ﹂
﹁なにがですか?﹂
ユリエラとアリアンナはきょとんとした顔でメリアンデールを見
1006
返している。
これほど明白な矛盾に気づかない幼児のような無垢な瞳をしてい
た。
﹁ご、ご協力ありがとうでした⋮⋮﹂
メリアンデールは脱力したまま肩を落とすと、パーティーから離
れて蔵人の元に戻る決意をしていた。
最初はわざとやっているか、と思った。
﹁なんというか、冤罪ってこういう風に生まれていくんだなぁ、と﹂
ユリエラの証言を聞いて確信した。蔵人はやってない。
少なくともみっつは明白な証拠が横たわっていた。
ということは、このパーティーに犯人がいるということである。
皆には悪いがメリアンデールにとっては所詮急造のクランである。
放り捨てて逃げてもなんら良心の呵責はなかった。
︵てか、そもそもわたしはなんで、このクランに入ろうと思ったの
かなぁ。ああ、そういえば、フルカネリだ⋮⋮︶
メリアンデールはテントの中から自分の荷物だけをより分けると、
バックに収納した。
魔力のこめられたバックは空間を圧縮して多量の荷物をたちまち
に梱包する。
﹁よっし、わたしのアイテムあいも変わらずカンペキっ!﹂
両手を腰に当てたまま自画自賛をすると、フルカネリに一言告げ
てからいくべきか迷った。彼とはいろいろとあったが、それでもメ
リアンデールにしてみれば、姉さん姉さんと泣きべそをかきながら
あとをついてきた記憶が強かった。
︵そう、フルカネリとは色々と︱︱っ!?︶
まただ。
またこの感覚である。
フルカネリとの記憶を思い出そうとすると、異様な痛みが全身を
覆い尽くしていくのだ。
﹁彼とは、そう、フルカネリとわたしは、姉弟で﹂
1007
指先が小刻みに痙攣して、視界がすっと狭まってくる。
考えてみれば、これほど明白な偽善にパーティーの誰もが気づか
ないはずがない。気づかないとすれば、全員が残らず明白な白痴と
しかいいようがない。
﹁だとすれば︱︱﹂
最初から全員が明白な悪意を持って自分たちに接していたとすれ
ば、どうだろうか。
ユリエラは敬虔なロムレス信徒である。
獄に送られれば真実が判明しても解放されることは皆無に近い。
﹁クランドが危ない﹂
いま、もっとも重要なことは、彼をこのダンジョンから脱出させ
て安全な場所に避難させることである。
メリアンデールは苦痛に耐えながら、蔵人のことだけに気持ちを
集中する。
不意に背後に気配を感じて振り返ろうとすると、後頭部に強い衝
撃を受けた。
目の前に激しく白い火花が散って意識がすっと失せていった。
数時間後、ユリエラとアリアンナの遺体が幕営地からはなれた場
所で発見された。
メリアンデールを除いたパーティーたちの顔が、それぞれ強い感
情で彩られる。
黒獅子
が投
憤怒ともいえるものが大部分を占めた。不運な彼女たちの胸は深
く切り裂かれ、傍らには刀身を真っ赤に染めた聖剣
げ出されていたのだった。
1008
Lv65﹁獣以上人間未満﹂
メリアンデール・カルリエは王都の西パームフォレストに生を受
けた。
代々公侯の家柄であり、錬金術師としてはかなり古い血筋であっ
た。
﹁家は男子が継ぐもの﹂
であり、実父サミュエル公からしてみれば第五女に当たるメリア
ンデールは極めて興味を引かない位置にあった。
女はどうせ嫁に出すものと最初から決まっていた。
ご多分にもれず、彼女も生まれたと同時に婚約者が決められてい
た。
彼女の人生に残されたのは、十五歳になるのを待って﹁それなり
の﹂家に嫁し、子を産むのみである。
決まりきった貴族のレールに従って生きる。それが、この世界で
は女の最良の人生と運命づけられており、疑問を差し挟む余地はな
かった。
メリアンデールからすれば他家に嫁いだ四人の姉と王都に出仕し
ている十三も年長の兄クレイグは、顔を合わせるのは年に数回程度
であり、家族と認識するには隔たりがありすぎた。これで兄妹とし
ての意識を持てというのも無理な話だ。嫁いだ姉たちは、離縁でも
されない限り実家に戻ってくることはまずない。彼女が家族と認識
できるのは、実質、ひとつ下のフルカネリと、四つ下のカインのふ
1009
たりの弟たちだけだった。
クレイグを除いた三人は歳が近いこともあり、仲が良かった。メ
リアンデールはふたりの弟を平等に愛し、特に問題のない姉弟だっ
たといえた。
運命が急変したのは、長子であるクレイグが王都で急逝したこと
に端を発していた。
特に不審な点は見当たらず出仕中の落馬事故である。
ここで、家督相続の候補として浮上してきたのが第二子に当たる
フルカネリである。
彼の錬金術師としての才能は、特に際立った部分はなかった。そ
れでも、すぐれた補佐をつければそれなりに名門としての家柄を辱
めることはないレベルであった。
フルカネリが一門の承諾を得て順当にカルリエ家の後継者として
選ばれると思われていた矢先に、それは起きた。
第三子であるカインが王都遊学中に三公のひとつ、司徒︵行政大
臣︶の景累につながる一族の姫君に見初められたのである。
カルリエ家が名門とはいえ所詮は田舎貴族である。
国家のほぼ頂点に位置する司徒の一族と縁繋がりになることの実
利は計り知れない。
カインがカルリエ家の家督を継ぐ形で名家の姫君との婚約は整い、
家運はいままでになく計り知れないほど隆盛の兆しを見せはじめた。
一方、おさまらないのは弟に頭を飛び越される形で家督を奪われた
フルカネリであった。彼に対する冷遇は日を追うごとに顕著になっ
た。屋敷ではメイドですら彼が帰宅しても挨拶すらしない有様だっ
た。わずか十二歳の少年の自尊心は木っ端微塵に砕かれた。
フルカネリはあてつけのように蕩尽を繰り返し、屋敷や領地の女
は片っ端から手を付け、気に入らない人間は有無もいわさず斬り殺
した。縁談の壊れるのを恐れたサミュエル公はフルカネリの後始末
に奔走した。彼としても、特に瑕疵もなくフルカネリから家督相続
を取り上げたバツの悪さがあった。ほとんどのことは大目に見よう
1010
と有り余る権力と金を使って一門の恥部を闇に葬ったのであった。
これで、カインが能なしであればフルカネリも﹁あいつは女のチカ
ラで家督を奪っただけのことだ﹂と自分を慰めることもできたのだ
が、現実は非情だった。
カインの錬金術師としての能力はケタ外れにすぐれており、それ
まで不可能とされてきた一族の秘術を次から次へと成功させていっ
たのだった。
また、カインは生来兄思いの純粋な性格であった。荒れる兄がい
くら自分のことを罵倒しようとも決して反抗の気配すら見せなかっ
た。カインは常に哀しみをたたえた瞳でじっと兄の言葉に聞き入る
姿を見せていた。このようなことが常に続けば、もはやフルカネリ
を同情的な目で見ていた家人たちも残らず愛想を尽かし、味方など
はひとりもいない状態になった。そんな荒れ続けるフルカネリをひ
とり慰め、変わらぬ姉弟としての愛をそそぎ続けたのは、ただひと
りメリアンデールのみであった。放蕩を繰り返すフルカネリを本気
で叱りつけ行状を正そうとする彼女の献身さは、いつしかフルカネ
リに歪んだ愛情を育ませた。
メリアンデールとしては、純粋に血を分かった家族として立ち直
って欲しい一心だったのだが、フルカネリにとっては彼女のみが自
分の人生のすべてとなったのだった。
メリアンデールのすべてが、
愛であり、
やさしさであり、
孤独なフルカネリを守り続ける女神であった。
メリアンデールの愛情を歪んた形で捉えてしまったフルカネリは
幾度も姉弟愛を超えた好意を伝えたのだが、メリアンデールはそれ
らを一笑に付した。想いは遂げられないままフルカネリの中でいび
つに醸成されていった。ついにフルカネリは実の姉と強引にコトを
結ぼうと夜陰に乗じて決行したのだった。
だが、すべてにおいてカインは非凡だった。兄が実の姉に対して
1011
異常な愛情を抱いていることを事前に察知していたのだ。凶行の直
前、伏せられていた家人は安々とフルカネリを捕縛した。囚われた
フルカネリは他領の親族の元へと軟禁されたまま移送された。完全
なる禁治産者としての烙印を押されたフルカネリは移送先の牢で一
生を送り、もはや姉弟が一同顔を合わせることはないだろうと思わ
れた。メリアンデールは弟を救えなかったことを心底悲しみ、それ
からは毎日を鬱々として楽しまなかった。このまま姉を実家で日々
腐らせていても意味がないと思ったカインは、時期当主代行として
姉の身柄を婚約者ジョズエの実家に送り届けた。名目は花嫁修業の
一環であるが、実質は婚姻の前倒しであった。
もちろん、正式な婚姻は行っておらず夫婦の契りはかわしてはい
なかったが、メリアンデールとジョズエは徐々に心を通わせていっ
た。節度を持って愛情を深め会う若き未来の夫婦を両家は祝福し、
暗い過去はもはや記憶の向こう側へと押しやられすべてが上手く運
んでいくはずだった。
決定的事件は、結婚式の前日に起こった。
一年近く愛を育んできたふたりである。一方的に決められ、最初
は乗り気ではなかった婚姻も日々を過ごすうちにメリアンデールの
心にほのかな愛を育てはじめていたのだった。
式を明日に控えた夜、すべてを狂わせる序曲がはじまった。
移送先から脱出したフルカネリが姉の夫となるジョズエを殺害し
たのだった。
式の前祝いとして親戚一同が飲み明かしている最中、愛するふた
りが語り合うジョズエの私室で惨劇は起きた。気を使ってふたりき
りにしたのが裏目に出たのだ。
悲鳴を聞いて人々が駆けつけたときには、新郎の息は既になく、
メリアンデールは二階のテラスから外庭の花壇に倒れ伏しているの
が発見された。彼女は存分に抵抗したのか、窓枠から外へと突き落
とされたのだった。
﹁フルカネリはその後実家に立ち寄って下男下女を合わせて十五人
1012
も殺傷した上、秘伝の錬金術が記された書物を奪って逃走。新婦に
なるはずだったメリアンデールは心神喪失状態で、王都の療養所に
送られる。かくして、物語は終わりを告げる。ひとりの逃亡者と廃
人同然の悲劇のヒロインを残して、ね。ひとつだけこの物語に救い
があるとすれば、カインは十二歳で正式に家督を相続。件の姫君と
は無事婚姻は行われたそうよ。カルリエ家自体は外戚一門の力を得
て、これからもますます栄えるでしょうね﹂
リースは長い話を終えると深く息をついた。
蔵人は両手を組んだままの状態で閉じていた目を開けると、眉間
をこわばらせた。
﹁待てよ。それが本当かどうかはともかく、俺が見ていたメリアン
ギルド
デールはどうしてここに居るんだ? まがりなりにも彼女は冒険者
として冒険者組合に登録している。療養所から逃亡したのであれば、
登録の時点で実家に確認の連絡がいって連れ戻されるんじゃないの
か﹂
﹁そこはお決まりのことなかれ主義。カインは王都から離れたシル
バーヴィラゴに壊れ物として押し込められれば、人目に触れず結構
だと判断したらしいわ。現に、公式の届け出では、メリアンデール・
カルリエは療養所では死亡したことになっているの。クランド、あ
ギルド
なたが仲良くしていたメリーは、事件を起こしたメリアンデール以
外のまったくの別人としてのメリアンデールとして冒険者組合に登
録されているのよ﹂
﹁ちょっと待てよ。なんか、こんがらがってきたが。じゃあ、いま
フルカネリと一緒にいるメリーが本物だってことで間違いはねえん
じゃねえか。おまえは結局フルカネリが買ってきた奴隷ってことだ
ろうが﹂
ホムンクルス
﹁はい、また不正解。⋮⋮実は、話に続きがあってね。フルカネリ
が奪った錬金術の秘本にはね、禁断の人工生命体錬成に関しての記
述があってね。恐ろしいことに、彼は不可能と思われるその術を成
功させていたのよ﹂
1013
﹁⋮⋮おまえ、まさか﹂
蔵人は目玉をグッと剥き出しにするとしきりに顎を触りだした。
長い前髪が流れる汗で額にぴたりと張りつく。激しい喉の乾きを感
じた。
﹁間違いないわ、リースという存在は禁断の人体錬成で生み出され
たホムンクルス。フルカネリはそのリースというホムンクルスを伴
って、メリアンデールの療養所に現れたの。姉恋しさの一心に常識
を超えた力を発揮したのね。そして、心身を喪失して抜け殻になっ
た姉を前にして異常な行動に出た。無垢な生まれたてのリースとい
う少女を、人間の考えられる悪徳すべてをそそぎこんで、陵辱した
の。意識を取り戻したメリアンデールは、弟の凶行に文字通り魂を
抜かれたわ。自分と同一の存在を陵辱する壊れた弟、そして汚され
るためだけに生まれてきたかよわい存在。フルカネリは姉であるメ
リアンデールに対しては指一本触れようとはせずに、精力を使い果
たすとその場で意識を失い眠りこんだわ。彼女の慈悲はほとんど愚
かな領域にまで達していたのね。お人よしなんていう次元ではない。
なぜなら、その瞬間に、自分とリースが入れ替われば、少なくとも
この先、彼女だけは救われると思い込んだのよ﹂
﹁馬鹿な﹂
﹁そう、本当に馬鹿なことをしたものね。その瞬間から、メリアン
デールはホムンクルスのリースと入れ替わった。一瞬の気の迷いで、
男たちに性奴隷として扱われる存在となった道具以下の存在に堕ち
きった人物。私が、パームフォレスト公サミュエル公爵の第五女、
本物のメリアンデール・カルリエよ﹂
少女は気品にあふれた声音で告げると、背筋を張って蔵人と正対
する。
そこには万物を納得させる、培った長い歴史の血の重みを彷彿と
させた。
そう、偽物には醸し出せない真実があった。
﹁以後、お見知りおきを﹂
1014
彼女はそう結ぶと、実に洗練された動きでスカートの裾を持ち上
げて頭を下げた。
﹁そんなこと嘘だっ! じゃあ、俺がいっしょにダンジョンを攻略
していたメリーがホムンクルスってことになるじゃないか! あい
つはそんな素振りまったくみせなかった!!﹂
蔵人の視界は左右から押されたようにぎゅっと狭まっていく。
枯れた声が陰鬱としている。自分でも、覇気のない痩せた音だと
自覚した。
﹁それはそうよ。あなただって彼女が普通の女だと思ったから丁重
に接してあげたのでしょう? 人間以下、ゴーレムのごとき土くれ
同然の存在なら、バカバカしくて淑女扱いなどされなかったのでは
なくて?﹂
﹁違う!! けど。じゃ、じゃあどうしておまえは、フルカネリに
自分が本物のメリアンデールだってうちあけなかったんだよ! そ
ういえば少なくともパーティーの男どもから肉奴隷扱いはされずに
すんだはずだっ!﹂
﹁幾度もいったわ。けれども、こんな境遇に堕ちた女がなにをいっ
ても誰も本気にしない。いえばいうほど自分が滑稽だと思い知らさ
れるだけよ。すべては彼らの陵辱のエッセンスくらいにしかならな
かったのよ。中には、貴族娘を堂々と気兼ねなく犯せる雰囲気が味
わえるとますますいきり立って私に責めかかったわ。それに、本当
のことがわかったとして、この先、私はどうして生きていけばいい
の? 実家に戻れば名誉と貞操を重んじるカインは私を始末するで
しょうね。あの子はジョズエが殺された晩以降、私がフルカネリに
犯されたものだと決めつけ、療養所の方にも一度たりとも顔を見せ
なかったのよ。それでも、半ば心を失った者まで殺そうとしなかっ
たのは、もう死人同然と決めつけていたからなのね。それが、意識
のある状態で、毎日毎日野卑な冒険者たちのオモチャにされていた
と知ったら、彼はもう生かしておきはしないでしょう。やさしいけ
ど、潔癖なのよ、あの子は﹂
1015
﹁証拠がない、なんの証拠も!!﹂
﹁うーん、そうね。そういえば、リースが製造されてから一年近く
経っているわ。あなたは一緒に行動していて彼女の行動におかしな
ところがなかったか気づかなかったかしら。そう、例えば身体の不
具合とか﹂
﹁別に、メリーの身体はどこもおかしくなかったぞ。病気がちでも
なかったし、せいぜいなんにもない場所でよく転んだりするだけ︱
︱﹂
﹁それね。素体のバランスが崩れはじめている兆候よ。ホムンクル
スは身体に崩壊の予兆が起これば、自壊までは早いわ。もう、もっ
て十日も持たないでしょうね﹂
﹁そんな、そんなに早く︱︱﹂
﹁身体の不具合、奇妙な錯誤、異常な思い込み、記憶の混濁。これ
らが見受けられるようになれば、素体の残り時間は少ないの。そも
そもが、生まれるはずがない、造りものの身体よ。フルカネリが私
をホムンクルスだと思い込んで遇した行為を見れば一目瞭然ね。獣
以上の知能と理性を持つが、扱いにおいては人間以下。肉欲を排泄
する穴程度の役割しか与えられない。わけのわからないまま自壊し
ていくリースも私も、滑稽な存在であることにたいした違いはない
のにね﹂
蔵人は彼女の話を聞き終えるとゆっくり立ち上がって頭上にラン
タンを掲げた。
巨大な穴の淵には大蜘蛛キングスパイダーの姿は見えない。
逃げ出すにはいまを置いて他にないと判断した。
﹁ちょっと、なにをするつもり﹂
蔵人は道具袋から工作用のナイフを引き抜いた。
白刃の冷たい輝きに、リースは一瞬顔を引きつらせた。
蔵人の指先が僧衣の裾にかかった途端、媚びるように淫蕩な目つ
きをした。
傷つけられる心配はないと踏んだのか、彼女は蔵人が猥らな行為
1016
に及ぶだけであると勝手に判断したのだった。それは陵辱に慣れき
った悲しい少女の自己防衛だった。
﹁あら、そうするのがお好き? ふふ、いいわよ。主として、奴隷
にはご褒美を与えなくちゃ。⋮⋮なにをしているのよ﹂
蔵人は長い僧衣の端を引き裂くと、たちまち長い一本の帯を作っ
た。
リースを背負うと彼女身体を自分の腰に帯で固定した。
﹁しっかりつかまってろよ。下が砂地だからってもう一度落ちて無
事だという保証はないんだ﹂
さいわいにも目前の岩壁は所々が隆起しておりよじ登るのはそれ
ほど難しくはなさそうだった。指先を伸ばして岩肌から突き出た瘤
をしっかりと掴む。三点支持でバランスを取りゆっくりと上に向か
って移動を開始した。
﹁あなた、私の話を聞いていたの? あの娘は間違いなくホムンク
ルスよ。しかも出来損ないの﹂
﹁だとしても、俺はメリーに会わなければならないんだ。俺たちは、
なにがどうなったって相棒なんだからな﹂
﹁バカね。あの娘はあなたのことをかばわなかったじゃないの﹂
﹁関係ない。俺はそうしたいからそうするだけだ。いつだって、そ
うしてきた﹂
﹁ねえ、この先にはフルカネリのやつが待ち構えているわ。あなた
はいくらか腕が立つかもしれないけど、わざわざ身を危うくしてま
で、偽物相手に命を張る必要はないでしょう﹂
﹁偽物かどうかなんて、どうでもいい。それに、あんなガキに舐め
られてちゃ、この先ずっと下を見て歩かなきゃならねえからな。そ
んなことは、御免こうむるよ﹂
﹁ねえ。いっそのこと、私と一緒にダンジョンを出ましょう? ど
うせフルカネリは狂いはじめているし、そのうちリースが自壊する
のを見ればあいつの精神はもうおしまいよ。だって、あのお人形を
彼は本物だと信じこんでいるのだもの。それまででいいの。それま
1017
で街のどこかで身を隠しましょう? 私、毎晩だってあなたを楽し
ませてみせるわ。それほど、悪い条件じゃないと思うけど﹂
﹁荷物が口を利くんじゃねえ。落ちるぞ﹂
﹁んなっ!﹂
﹁それにいっただろう、あんなガキ相手に逃げ回る気はねえ。どう
せなら、フルカネリを叩き殺してふたりとも俺のモンにしてやる。
ならず者なら、そのくらいのことはしてのけなきゃな﹂
どうあっても考えを変える気のない蔵人を見てリースは口を挟む
のをやめた。
時間にして十分もかからないうちに穴を登り終えた。
蔵人はリースを背負ったまま首だけを振り返ると、いままでいた
暗渠に視線を一瞬だけ送り、まもなく歩き出した。フルカネリは明
確に第七階層を目指すといっていた。地図も持たずにダンジョンを
移動するのは至難の業といえたが、今回に限っては多人数で動いた
ため、かなりしっかりとした足跡がついていた。あとは読み間違え
をしないように慎重に進むだけである。なだらかな道を進んでいく。
途中で、大きな一本角を持つウサギ型モンスターの死骸があった。
おそらくはフルカネリたちのパーティーが打ち倒したまま置き捨て
ていったのであろう。ウサギ型モンスターの柔らかい腹の部分はえ
ぐったように無くなっていた。腐肉を食い漁る他のモンスターの餌
となったのであろう。黒く乾いた血のあとか辺りに飛び散っていた。
大部分が食い尽くされており、残った部分には細かいハエが無数の
卵を産みつけていた。
第四階層の終着点には思った以上の速さで到着した。背中を外套
までぐっしょり濡らしながら文句一ついわずに歩き続ける蔵人に心
を動かしたのか、リースは驚くべきほど精密な記憶力で一度見た地
図の道順を示しだした。
﹁ねえ、クランド。重くない? 私、なんとか歩けるよ﹂
﹁いや、おまえが足をかばってよたよた歩くよりこの方がずっと早
いんだ。黙っておぶわれてろ﹂
1018
﹁うん。クランドがいいなら、そうする﹂
リースは背負われながらもウトウトしていたが、そのうちやすら
かな寝息を立てはじめた。意識を失ったことで、身体の重みがすべ
て背中にのしかかる格好になった。人間、起きている間は無意識の
うちに体重を分散しているものだ。死人のようにぐったりとなった
リースは疲労が増した身体には少々堪えた。
蔵人は足が棒のように感覚が無くなった時点でようやく身体を休
めた。先に寝入っているリースを、親鳥が抱えこむように外套で覆
うと胸に抱き寄せた。寝入れば自然に体温が下がり体調を崩しやす
いのである。目を覚ましたリースは自分が抱きかかえられているこ
とに気づくと、はじめて、年頃の少女のように恥じ入って頬を染め
た。男の身体を知り尽くしている彼女であったが、ここまで丁寧に
扱われたことはなかったのだろう。
蔵人は残り少ない水を取り出すとリースに飲ませた。彼女は幾度
も辞退をしたが、蔵人はそれを無視して無理やり口移しで飲ませ、
岩を背にして身体を休めた。
第五回層で、はじめて他の冒険者のパーティーに出会った。
蔵人は騎士を主体としたなんとも行儀の良い一団になんとかして
第七階層まで道連れになることを頼みこむ。足あとを追うのも限界
があった。
もはや、蔵人の中にはメンツも糞もない。ただ、ひたすら一心に
先を急ぎ、少しでも早くメリアンデールに会いたいだけだった。ク
ランのリーダーは冒険者に似つかわしくないいかにもお嬢さまタイ
プの女性で、なにを勘違いしたのか傷ついたリースを背負ったまま
強行軍を続ける蔵人に感じ入ったらしい。彼女が率先して道連れを
承諾してくれたのは幸運だった。十名ほどの騎士の一団はいずれも
劣らぬ剣の腕前であった。途中、何度かブレードアントに遭遇した
が、蔵人が彼らに借り受けた剣を使う必要もなく、熟練した連携技
で屠っていった。分岐点で一団と分かれる際、クランのリーダーは
ルーシアと名乗った。かなりの美女であったが、珍しいことに蔵人
1019
の脳裏には彼女の記憶はそれほど深く刻みこまれなかった。それほ
ど、追い込まれていたということであろう。
龍脈
がある。これらの情報も、フルカネリが実家の宝物庫か
第七階層のとある地点に、秘された儀式を行うのにもっとも適し
た
ら盗んでいった秘伝の書に記された情報であった。
﹁ねえ、クランド。私、本当のことみんなに伝える﹂
﹁急にどうした風の吹き回しだ﹂
﹁こんなこといってもきっと信じてもらえないかもしれないけど、
私、本当は自分の過去に向き合わなきゃいけなかったんだ。実の弟
に道具のように扱われて、本当は嫌で嫌でしょうがなかったけど、
いつかは、フルカネリが目を覚ましてくれるんじゃないかなって、
根拠のない奇跡を待ち望んでいたの。そう、待っているだけ。待っ
ているだけじゃなにも変わらない。クランドを見ていて、そう思え
たんだ。⋮⋮ユリエラを襲ったのは、フルカネリの手下なの。あの
子は、笑いながら物陰でじっと見ていたんだ。そう昔みたいに、ほ
んの悪戯をするような。もう、本当にあの頃には戻れないのかなぁ。
本当に⋮⋮﹂
不意にリースが言葉を切った。彼女は自発的に蔵人の背から降り
ると、痛みに顔をしかめて闇の向こう側を指し示した。
﹁あいつらは﹂
マッパー
﹁あっ、クランド!!﹂
そのひと組の男女は先導役のアダムスと隊のサポートを行ってい
たエレナだった。
ふたりは、それぞれ身体のあちこちに手傷を負い、特にエレナの
方は出血が激しかった。蔵人があっけにとられたままでいると、ア
ダムスは泣き叫びながらしがみついてきた。
﹁いったい、どうしたんだっ!﹂
﹁おまえを置いていったあと、六階層でユリエラとアリアンナが殺
されたんだ。そんで、おまえの剣が遺体の傍に。最初はフルカネリ
のやつが犯人はクランドだってあおるうちに、なんとなくみんなも
1020
そんな空気になっていって。けど、七階層の龍脈直前で、いきなり
キリシマがフルカネリの矛盾を論破しだしたんだっ。確かに頭を冷
やして考えると、縛られていたクランドがいきなり先行している俺
たちに追いついて、しかも取り上げていた得物まで知らない間に奪
い返し、モンクのふたりを誰にも気づかれずに殺すのはおかしいな
アタッカー
っていうことになってっ⋮⋮もう一度、戻ってクランドの話を聞こ
うとキリシマが提案した瞬間、示し合わせたように攻撃役の八人が
みんなに襲いかかってきて⋮⋮えぶっ!?﹂
﹁いやあああっ!! アダムスゥ!!﹂
闇から飛来した槍がアダムスを串刺しにするのとエレナの絶叫が
響き渡るのは同時だった。
﹁いやぁ、アダムスぅうう、おしゃべりは良くないよう。ほらほら、
雄弁は銀、沈黙は金なりっていうだろう。って、死んじまったらも
うしゃべれねえかっ! ぎゃはははっ!!﹂
下卑た笑い声が沸き起こる。
アタッカー
同時に、辺りが煌々としたランタンの明かりで真昼のように輝い
た。
八人の攻撃役たちは、それぞれに剣や槍を携えて全面に進み出た。
数の優位を信じきっている余裕のある態度だった。
﹁あ、あ、あ﹂
エレナは上下の歯をカチカチと激しく打ち鳴らしながら全身を震
わせている。よほどの恐怖を見せつけられていたのだろうか、男た
ちに捕らえられることに極度の恐怖を抱いていた。
﹁あーらら、エレナちゅわああん。怯えちゃってまあ﹂
﹁無理もねえ。オレたちに逆らったあのモンクの女の最期を見ちま
っちゃあなあ﹂
﹁女はくたばるときが、一番アレを締めつけるのよ。あの柔らかい
腹に剣を突き刺しながら腰を動かしてやるとよォ、締りの良さに涙
が出らぁ﹂
﹁そのあとはふたりで両足を持っていっせいのー、せっ! で一気
1021
に引き裂いてやったからなぁ。安心しろよ、エレナちゅわあん。⋮
⋮おまえはもっと虐めてあげちゃう!﹂
﹁いやあああっ!!﹂
エレナは両耳を塞いでその場に膝を突くとこの世の終わりのよう
な悲鳴を上げた。
男たちは下卑た顔で舌なめずりをするとなんの警戒もなく歩み寄
ってくる。
リースが蒼白な表情でその場に縫い止められたように凍りついた。
男は棒のように動かないリースに気づくと、道端の痰を見るよう
な目つきでつまらなそうに吐き捨てる。
﹁ああー、おめえは肉便器一号じゃねえか? ま、おまえはとっと
と処分しろっていわれてるからよ。今日はもう遊んでやれねえんだ。
そうそう、オレたちが連れてこいっていわれてるのは、クランド。
てめーだよ﹂
﹁連れて来いとは、フルカネリの命令か﹂
﹁ああん? 誰が質問していいっていったかぁ!? テメーは大人
しくオレたちに拉致られときゃいいんだ、ボケが!﹂
男は胸ぐらをつかもうと無防備に手を前へと差し出した。
キラリと閃光が闇の中を一直線に走った。
﹁あ!?﹂
男の手首には瞬間的に一本の赤い線が走った。
それはみるみるうちに太さを増すと、たちまち大きな赤い裂け目
に変化した。男は血走ったまま、自分の手首が落下するのを見届け
ると、狂った猿のような吠え声を上げた。
蔵人はすでに剣を抜き放っていたのだ。
抜く手も見せぬ早業で斬撃はすでに繰り出されていた。
噴出した血液の飛沫で顔を化粧した男は泣き叫びながら辺りを七
転八倒している。
それを確認した男たちは一瞬で散開した。
七人の男たちからはせせら笑いは消え失せた。
1022
代わりに飢えたコヨーテのような獰猛な殺気がいっせいに放出さ
れた。
﹁あいにくだがフルカネリの野郎にはこっちの方でも野暮用があっ
てな。やつの手土産にはテメーらの首をくれてやらあ!!﹂
蔵人は外套を後方へ勢いよく跳ね上げると、目の前の男たちの輪
の中へ疾風のように走り出した。
1023
Lv66﹁土くれを二度割った﹂
蔵人は解き放たれた矢のように一直線に男たちの元へと走り出し
た。
多勢を頼みにしていた男たちはまさかの正面突破に動揺し、わず
かに動きが硬直した。
蔵人は握りこんだ長剣を全力で振るう。
銀線が斜めに走った。
剣を構えていた男は顔面を垂直に叩き割られ、のけぞって仰向け
に倒れた。
横合いのふたりが同時に斬りかかる。
蔵人は勢いを殺さぬまま前転した。
同時に長剣を男たちの足元で細かく動かす。
白刃は鋭く男たちの脛を傷つけると行動力を奪った。
仰向けのまま、倒れこんできた男の胸板へと長剣を突き上げる。
刃はツバ元まで深々と刺さると真っ赤な血飛沫を噴出させた。
蔵人は返り血で顔を真っ赤に染め上げたまま立ち上がった。
座りこんでいる男の顔を蹴上げると勢いよく跳躍した。
震えたまま剣を構えている三人の中へと舞い降りた。
真っ黒な外套が風を孕んで大きくはためいた。
呆然とした男たちの顔が視界に映った。
長剣が半月を描いた。
棒立ちになった男の顔面を銀線が水平に走った。
1024
男は両眼から後頭部までを深く両断されると絶叫を上げて血反吐
を吐いた。
蔵人は着地と同時に長剣を頭上に高々と掲げた。
喚きながら遮二無二男が突っ込んでくる。半身になって斬撃をか
わした。
同時に長剣を斜めに振るった。
閃光が流星のように流れた。
刃は男のうなじを斜めに削ぎ落とした。
男は泳ぐようにして白目を剥くと下を放り出して絶息した。
背後を取ったひとりは手斧を振り上げて襲いかかってくる。
蔵人は長剣を逆手に持ち替え、振り返らずに後方へと繰り出した。
長剣は鋭く男の下腹に突き刺さると臓器を破壊した。胸を蹴りこ
んで刃を抜き取る。
ゆっくりとした足どりで、脛を斬られて動けなくなった男に近づ
いた。
男は得物を放り捨てると泣き喚きながら命乞いをしている。
黒い頭髪と伸びきった髭の中で真っ赤な舌だけが奇妙に蠢いて見
えた。
﹁ダメだね﹂
無慈悲に告げると真正面から長剣を叩きつけた。
板塀に濡れ雑巾を叩きつけるような音が鈍く響いた。
白刃は男の顔面を斜めに両断すると、えぐれた傷口から赤黒い肉
が弾け飛んだ。
顔を蹴られたまま昏倒している男の傍に近寄った。
気絶したフリをしていたのか、男は剣を鋭く突き上げてきた。
蔵人はわずかに半身になって突きをかわした。
かぶせるように長剣を垂直に落とした。
刃は真っ直ぐ男の胸板を突き通すと地面に届き硬質な金属音を立
てた。
蔵人は七人の男たちを片付けると、長剣を持ったまま荒く息を吐
1025
いた。
両肩は激しく上下している。流れ出た汗が頬を伝い足元に落ちた。
乱れた息を整えようとした瞬間、張り詰めていた緊張が途切れた。
﹁しまっ︱︱!!﹂
気づいたときにはもう遅かった。
闇の彼方から空を切り裂く奇妙な音と共に真っ白な糸が放たれた。
うおんうおんと奇妙な声を上げながら、大蜘蛛キングスパイダー
が足音を立てて巨体を現したのだ。蜘蛛の糸は蔵人の全身を瞬く間
に絡め取ると動きを完全に封じた。
全身を動かして抵抗するが、空気に触れた途端に糸は固体化して
天然のロープとなった。
蜘蛛の糸。
驚異的な粘性を持つそれは鋼鉄の五倍の硬度を持っていた。
蔵人は顔を真っ赤にして戒めから逃げ出そうとするが、指一本動
かせず、その場に顔から倒れこんだ。騎士たちに借りた長剣はとう
に指からはなれ、カツンと音を立てて転がった。
せめて顔を上げようと首の筋肉に力を込める。
﹁やばっ!﹂
強烈な浮遊感が全身を襲う。
キングスパイダーは蔵人の身体に糸を巻きつけた状態で振り回し
はじめたのだ。
糸に巻きつけられた格好となり、洞窟の中を縦横無尽に振り回さ
れた。
洞窟の中は張り出した岩が無数に生え揃っている。
上下左右の岩肌に全身を打ちつけた。
眼蓋の裏に日輪が降り立った。頭の中を真っ赤な火花が走ったか
と思うと、全身が急激に熱くなったり寒くなったりした。
蔵人は全身の骨や肉が砕かれる音を聞いて意識を何度も失った。
流れ出た血が気管を逆流し呼吸が止まる。
額から流れ出た血潮が視界を真っ赤に染めた。
1026
世界は紅に染まり思考が散逸していく。
怒りすら沸かず、この苦しみが消えるのをひたすら願った。
最後に目の前で大きな閃光が炸裂した。同時に、はるか遠くで誰
かの叫ぶ声が聞こえた。
﹁んんん、いいザマじゃないか。クランド﹂
後頭部を踏まれる感触で意識が戻った。
声を上げようとしたが、舌が痺れているようで動かない。
蔵人がどうにか顔を後ろ斜めに向けると、さも楽しそうに顔を歪
めるフルカネリの姿が目に入った。
﹁ああぁんな雑魚を殺したくらいでいい気になるからこぉおおんな
ひどい目にあうんだよぉお。やっぱり君程度じゃ、とうてい僕のメ
リアンデールに釣り合わないよ。ね、ね?﹂
蔵人は腫れぼったい眼蓋を持ち上げると口を金魚のようにパクパ
クと動かした。
﹁んん、なにかな?﹂
﹁⋮⋮くたばれ近親相姦野郎﹂
蔵人は口内に溜まった唾を吐きかけた。
フルカネリの頬は血塗れの唾が勢いよく叩きつけられ、粘った液
体が糸を引いて流れる。
端正な少年の顔がたちまち夜叉の如く憤怒で燃え上がった。
﹁ああああ!! そういうところがムカつくんだよおおっ!! こ
の愚かな猿がああっ!! 僕をムカつかせるんじゃないよおおっ!
! 死ねよ! 死んじゃえよおおっ!! おまえっ!!﹂
フルカネリは目を真っ赤に血走らせると、髪を振り乱しながら無
抵抗な蔵人の身体を蹴り上げだした。
つま先の硬い部分を的確に腹へと突き刺していく。
古タイヤを蹴るような鈍い音が響いた。
怪物蜘蛛の糸でグルグル巻きにされた蔵人の身体が幾度も跳ね上
がった。
﹁へ、へへへ。どうだい、僕の実力は。この巨大モンスターを楽々
1027
と操る才能ッ。最後に勝つのはこのフルカネリさまって決まってい
るんだ。ま、僕の肉奴隷を上手くいいくるめて連れてきたようだが、
その苦労も水の泡だね。だだだ、だって、今更誤解を解こうが解く
まいがなああぁんの意味もないからね。ここここの、パーティーの
やつらは、ぜぜぜ全然僕の偉大さをわかっていなああああいっ! あ、あああんなキリシマのいう減らず口に簡単に乗ってきやががが
って! 黙って僕のいうとおり、おまえを、ククククランドをすべ
ての犯人にしておおおけばっ、何もかもスムーズにことが進んだの
にいっ!!﹂
フルカネリは吃りながら口から泡を吹き飛ばし、興奮しきった様
子でしゃべりだした。
そこには最初に会ったときの貴公子の面影は微塵もなかった。
あるのは、下劣で自己愛に満ちた身勝手な性質が堰を切って表面
に溢れ出していた。
﹁ユリエラを襲わせたのはやっぱりおまえか﹂
﹁ううううううるさいいっ!! お、おおおおまえが大人しく殺さ
れていれば、ユリエラを殺す必要もなかったのにいいっ!! ああ、
なんてかわいそうなユリエラぁあっ!! おおおお、おまえが悪い
んだぞおおっ!!﹂
フルカネリは歌うように叫ぶと靴底を蔵人の頭に押しつける。
硬いソールが黒髪を押しつぶし、流れ出した血で朱に染めた。
﹁殺したのか!! なんの罪もない彼女を!!﹂
﹁う、うううううるさいいっ! 元々このクランは僕とメリアンデ
ールが結ばれた時点で潰すつもりだったんだああっ!! それに、
このクランは僕が作ったんだからあああっ、ぜえええんぶっ、僕の
ものなんだああっ! 殺そうがどうしようがああ、ぜぇええんぶ、
僕の思い通りなんだああっ! ユリエラたちを殺して、おまえから
取り上げた剣を現場に置いておけば、クソどもがますますおまえを
疑って、姉さんはおまえのことを軽蔑して、僕の元へと戻るって絵
図を書いたのにぃいい! なんで思いどおりにならないんだああっ
1028
! どいつもこいつもクズばっかりだああっ!!﹂
叫びながら蔵人の腹を全力で蹴り上げると、フルカネリは目を見
開いたまま呼吸を荒げた。次第にすぅと瞳に知性が戻っていく。情
動がおさまると、彼はいつも通りの取り澄ました貴公子に戻り、極
めて理性的に話しだした。
﹁失礼。僕としたことがつい、興奮してしまった。さ、クランド。
君だけは是非とも生かして連れて行かねばならないのさ。案外とメ
リアンデールは強情でね。秘術の儀式も手伝ってくれないし、わが
ままばかりいって僕を困らせるのさ﹂
﹁俺を連れて行ってどうするんだ﹂
﹁さあ、どうしようかな。まあ、さしあたって彼女が僕との婚姻を
承諾するように、君からも頼んでもらおうと思ってね。ふふ﹂
﹁他のみんなはどうするつもりだ﹂
﹁みんな? ああ、ゴミは僕の忠実なる下僕のエサにでもなっても
らうさ。そもそも、それくらいしか役に立ちそうもないしね﹂
﹁ひいいっ!!﹂
エレナは己の運命を悟ったのか甲高い悲鳴を上げると両手で顔を
覆って肩を震わせた。
フルカネリは彼女の反応に満足し、フンと鼻を鳴らした。
残忍な笑顔を張りつかせたまま右手を上げる。
呼応するようにキングスパイダーが前脚を振り上げた。
狙うは転がったままの蔵人である。
足脚の先端は鋭い鉤爪になっており、異様なうなりを上げて振り
下ろされた。
回避は間に合わない。
死が眼前に迫る。
せめてもと身体をよじろうとしたとき、真横から衝撃を受けた。
﹁⋮⋮よかった﹂
蔵人が転がっていた位置。入れ替わるようにしてリースの姿があ
った。
1029
彼女の胸には、巨大蜘蛛の鋭い爪が背中から深々と突き刺さり、
腹を食い破って先端が飛び出していた。
﹁おやおや、そこまでして僕に逆らいますか﹂
フルカネリは皮肉げにつぶやくと使徒である魔獣に合図を送り爪
を抜き取らせた。
リースの胸の中央部にはこぶし大の穴が空き、勢いよく血潮が吹
き出していた。
﹁リース!!﹂
もはや痛みを気にしている暇はなかった。
糸に絡め取られたままなんとか腕をさし伸ばした。
仰向けになった蔵人の胸にリースが倒れこんでくる。
彼女の顔色は紙のように真っ白で、それは美しくさえあった。
﹁⋮⋮だいじょうぶ?﹂
﹁しっかりしろ! しっかりするんだ!!﹂
強く声をかける。
どうして、女ってのはこいうときばっかり!!
リースは弱々しく微笑むと、焦点を失った瞳をゆっくり閉じた。
﹁あったかいな。⋮⋮ねえ、最後にひとつだけ、お願い﹂
﹁なんだっ、なんでもいってみろ!﹂
﹁こんな、穢れた私だけど⋮⋮最後だから⋮⋮お姫さまみたいに、
キス、して欲しいな﹂
﹁おまえは穢れてなんかいねえ。こいつが、証拠だ﹂
蔵人はリースの顔を引き寄せ、そっと口づけた。
彼女の唇は冷たく、涙と血の味がにじんでいた。
そっと顔を離した。
閉じられた瞳が最後の力を振り絞って儚げにまたたいた。
リースの瞳は澄み切った海のように蒼く輝いていた。
﹁⋮⋮ね。クランド、ありがと。わ、たし。さいご⋮⋮だけでも、
レディにもどれたわ﹂
リースは最後にそういって微笑むと、全身の力を抜いた。
1030
蔵人は倒れ込んできた彼女の身体を抱き返そうと両腕を伸ばす。
途端、リースの身体は細かい砂状になるとサーっと軽やかな音を
立てて崩れていった。
﹁なん、でだ﹂
蔵人は必死になって身を起こすと流れていく彼女を抱きとめよう
と必死でもがく。
無慈悲にも彼女の身体は最初からそうだったように、すべてが砂
塵と化すと小さな塊になった。
同時にフルカネリの狂ったような笑い声が響き渡った。
﹁なんでも、なにも! そのリースは僕が造ったホムンクルスだか
らだよ! まったく、己が消える瞬間まで僕の吹き込んだ嘘をまん
まと信じ込んでいったとは! 滑稽の極みだねえ!!﹂
フルカネリは身体を前に折り曲げながらおかしくてしょうがない
といった風にケタケタと笑い転げた。
﹁どういうことだよ⋮⋮﹂
﹁まったく察しの悪い男だねえ! 彼女は最初から最後まで僕のオ
モチャとして扱われることを受け入れられなかったみたいだ。たか
リースが本当のメリア
が人形風情が自意識を持つとは驚きじゃないか。だから、簡単な暗
示をかけてあげたんだよ。その泥人形に。
ンデールで、実は貴族のお嬢さま。本当の自分はホムンクルスでは
とっ! そのくらいの慰めがなければ、な
なく、ちょっとした善意から悲劇のヒロインになってしまったかわ
いそうな女の子だった
んの希望もない自分の生き方を容認できなかったんだろうね! 最
後まで嘘を信じこんだままくたばるとは、まさしく道化にふさわし
い最後だったよ!!﹂
﹁念の入った茶番をよくもまあ、ここまで⋮⋮。それでもリースの
話はほとんどが真実なんだろう﹂
﹁ああ! だが、決定的な部分が違う。彼女がヒロインだったとい
う点を除けばね﹂
考えてみれば、メリアンデールが良く転ぶのを、ホムンクルスの
1031
耐用年数に当て嵌めるのは上手い錯誤だった。
フルカネリの言を信じるならばメリアンデールは、式の前日の強
襲で二階から落下する大怪我をしている。なにもない場所で転ぶと
いう所作も、足になんらかの障害が残っていると考えればおかしく
はなかった。
﹁これで事情は全部聞いたな﹂
﹁ふふん。おや、まだなにかできるとでも思っているのかぁい、薄
汚い猿が﹂
﹁てめぇを殺す。文句はねえだろう﹂
フルカネリは蔵人の言葉を聞くと、哀しみをたたえた瞳でジッと
見つめてきた。
﹁おやおや、どうやら君はいまの状況すらわからないほど脳に支障
をきたしてしまったのかい。少しやりすぎたかな﹂
蔵人は転がったまま目の前の砂に手を伸ばした。
触れた灰色の砂はランタンの光に照らされ、淡く霞んだ。
脳裏にリースの寂しそうな笑顔が蘇った。
つかんだ手のひらから、砂の塊が音を立ててこぼれ落ちていく。
指を伝った血の雫が流れに吸いこまれて消えていく。
感情が消えていく。いつものあの感覚が全身を浸していった。
イモータリティ・レッド
砕かれた骨も裂けた肉も、すべてが時間を巻き戻すように再生し
ていく。
胸元の不死の紋章が強く輝き出す。
洞窟内は青白い輝きで瞬間的に満たされた。
﹁な、なんだっ、これはっ!!﹂
フルカネリの動揺した声が間遠に響いた。
蔵人の全身にかつてない強靭な力がみなぎった。
断裂した筋肉が再構成する瞬間、有り得ない速度で人間の限界を
安々と踏み越えていく。
全身に巻き付いた蜘蛛の糸は青白い発光を浴びた途端、溶けるよ
うに千切れていった。
1032
すっくと立ち上がった蔵人を、フルカネリの怯えたような視線が
追った。
外道の錬金術師は絶対的な状況がくつがえったことで恐慌をきた
したのか、瘧にかかったように全身が小刻みに震えはじめる。
﹁こいつを使うんだ!!﹂
闇の向こう側から渋いバリトンの声が飛んだ。
フルカネリが魔獣に指示を出すのと、ひと振りの剣が放られるの
はほぼ同時だった。
いつの間に背後へ回っていたのか、レンジャーのキリシマが奪わ
黒獅子
を引っつかんだ。
れていた得物を蔵人に向かって投げ返したのだ。
蔵人は飛び上がって投擲された聖剣
黒外套をはためかせながら駆け出すと流れるような動作で鞘から
長剣を引き抜いた。
大蜘蛛キングスパイダーは蔵人の身体を絡め取らんと糸を吹きつ
けてくる。
ジグザグに走ってかわした。
繰り出してくる脚部の攻撃を頭を下げて回避した。
動きは止めず長剣を上段に構えた。
烈風のように疾駆する。
長剣が風を巻いて閃光をほとばしらせた。
キングスパイダーの腹部を駆け抜けながら黒獅子を振るった。
刃は大蜘蛛の青白い腹を一直線に走ると深々と薙いだ。
大蜘蛛は青黒い体液を滝のように噴出させると、八つの歩脚を折
りたたみ軋んだ絶叫を上げた。
蔵人はキングスパイダーの後方まで駆け抜けると、身体を反転さ
せ背中をよじ登った。
長剣を両手で持つと、満身の力を込めて頭部へと垂直に突き立て
た。
黒獅子は吸いこまれるように刀身の半ばまで埋まるとキングスパ
イダーの脳を破壊した。
1033
痛みのためか、大蜘蛛は歩脚を無茶苦茶に動かして辺りを狂奔す
る。
蔵人は素早く長剣を引き抜くと大蜘蛛から降り立った。
﹁戻れええええっ!! くそっ、せっかくおまえを手懐けたのにい
いぃ! 僕のいうことを聞けよおおぉ!!﹂
フルカネリは必死に魔獣を呼び戻そうとするが、不可能と知ると
顔を引きつらせたままその場を逃げ去った。
魔獣キングスパイダー。
絶命には至らなかったが、死までは時間の問題だろう。
大蜘蛛はフルカネリの統制から完全に離脱すると、深手を負った
ままダンジョンの闇へと消えていった。
蔵人は逃げ出したフルカネリを追おうとする前に、キリシマへと
声をかけた。
﹁結局あんたはいったい﹂
疑問を投げかける。答えを期待はしていなかったが、反応があっ
た。
キリシマは片眉をわずかにしかめると抱え上げた年代物のロール
を見せた。
﹁君が随分と踊ってくれたおかげで、こっちは仕事を上手く片付け
られた。その剣を回収したのはお礼とでもいっておこうか﹂
リースの話から思い当たる事柄があった。
﹁⋮⋮そうか。アンタは、カルリエ家に雇われて﹂
﹁ビンゴ。私の役目は奪われた秘伝の書を取り戻すのが役目でね、
あの小僧は、中々用心深かったが、この龍脈で錬金術の秘技を行う
際には、どうしても写本を使う必要があった。最後にわざとゆさぶ
りをかけたのは、やつを焦らせるためだったのさ﹂
﹁これで貸し借りは無しだな﹂
﹁待った!﹂
蔵人が駆け出そうとすると、キリシマは慌てて呼び止めた。
﹁なんだよ、こっちは急いでるんだ!﹂
1034
﹁もうひとつ、忠告を。私は今回の仕事を引き受けるためにあの家
のことをかなり突っこんで調べた。クランド、君があのお嬢さんを
助けようと思うならば、くれぐれも細心の注意を。彼女は、相当な
頻度で記憶の改竄を行われている﹂
﹁記憶の改竄﹂
﹁メリアンデール。彼女が療養所に入ったのは不用意にカルリエの
一族が彼女の頭の中身を弄ったからだ。君がケジメをつけようとす
れば、必死になって邪魔をするだろうね。なにせ、彼女の中ではフ
ルカネリは子供の頃のままの無邪気な弟に変わりはないのだから﹂
﹁忠告は聞いておく﹂
しゃがみこんでもう一度だけ細かな砂に左手の指を通した。
冷たくなった砂は、悲しげに纏わりついてくる。
眉間にしわを寄せ、拳をぐっと握り込んだ。
蔵人は再び無表情のまま走り出した。広場を過ぎて奥に向かって
突き進んでいくと、次第に辺りは岩肌の隆起が激しさを増していく。
龍脈とは自然の魔力の流れが交差する場所であり、潤沢なオーラ
に満ち溢れている地点だ。つまりは、この場で魔術的な秘技や召喚、
降霊術を行えば成功率が高まるのである。
道を進むにつれて、まだ真新しい冒険者の死体が無数に転がって
いた。
おそらくはフルカネリがもっとも秘技を行い易い場所を専有する
ギ
ために、キングスパイダーを使って侵入者を片っ端から排除したの
ルド
であろう。こんな無茶苦茶なやり方を行っていればやがては冒険者
組合に目を付けられたであろう。まるで先を考えない破滅的な行動
としかいいようがなかった。
やがては奥まったどん詰まりに到着した。
自然の岩をくりぬいて造った祭壇らしき場所に、ひと組の男女が
寄り添っているのが見えた。久々に目にするメリアンデールと、恐
怖に引きつった顔をしたフルカネリの弱々しい姿だった。
﹁待って、クランド!!﹂
1035
メリアンデールはフルカネリをかばって前に立ちふさがった。キ
リシマの言に嘘はないだろう。自分よりはるかに小さな女の背に隠
れるフルカネリの縮こまった姿はまさしく姉にかばわれる気弱な弟
そのものだった。
﹁お願い、この子の罪はちゃんと償わせる! だから、お願いだか
ら、どうか、命だけは!﹂
蔵人は必死に懇願するメリアンデールの瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。
彼女は、フルカネリが行った所業をすべて知った上でかばってい
るのだろうか。
卑怯なフルカネリのことだ。
命惜しさにあらゆる情に訴えて姉に命乞いを頼んだのであろう。
邪恋の結末とはいえ、目の前の男を生かしておけば、これからも
自分勝手な理由でどれほどの人間が害を被るか、明白であった。そ
れはメリアンデールも例外ではないだろう。
蔵人が無言で前進すると、瞳に涙を浮かべて両手を広げる彼女の
姿があった。
﹁どくんだ﹂
﹁お願い、お願いします。この子は、なにがあったって、わたしの
弟なんですよ!﹂
メリアンデールは跪くと両手を合わせて祈るような形で目をつむ
った。
隣のフルカネリもそれに習った。
姉弟の情は思う以上に深い。苦いつばが喉にこみ上げた。
正義の味方を気取るつもりはない。
だが、いくら造物者であるとはいえ、フルカネリがリースに行っ
た非道を許せるわけはなかった。
虚しさに全身から力が抜けていく。
けれど、蔵人の視線はフルカネリから寸分もはなれない。
少年が腰のレイピアへと指先を伸ばしていくのを見逃さなかった。
﹁おおおおおおっ!!﹂
1036
フルカネリはメリアンデールを突き飛ばすとレイピアを引き抜い
て襲いかかる。
蔵人は咄嗟に左手に握り込んでいた砂の塊を顔に向かって投げつ
けた。
視界を奪われたフルカネリはレイピアを明後日の方向に突き出す
格好になった。
つちくれ
人間だろうが人形だろうが変わりはない。
死ねば、すべては土塊に還るのだ。
蔵人は裂帛の気合をこめて長剣を水平に振るった。
長剣は磨き上げられた鏡のように光ると、フルカネリの腹を真横
に深々と断ち割った。
メリアンデールの瞳。信じられないといった風に見開かれた。
断ち割られた腹からはドッと溢れ出るように真っ赤な血潮と臓物
が流れ出す。
血流が地面を浸す前に、黒獅子は垂直に振り抜かれた。
閃光が輝いた。
フルカネリは顔面からヘソの上まで真っ二つに両断されると、脳
漿を周囲に飛び散らせながら泳ぐように前方へと倒れ込んだ。
血だまりへと顔から突っこんでいく。
つっぱらせた四肢がピクピクと小刻みに震え、やがて永遠に停止
した。
必殺の十文字斬りがフルカネリを存分に薙いだのだった。
﹁いやあああああっ!!﹂
倒れ臥したフルカネリにメリアンデールがとりすがる。
彼女はかぶっていた帽子を投げ捨て、身体をくの字に折って悲痛
に泣き喚いた。
﹁どうして、どうしてこんなことをっ! なにも、ここまでしなく
たって、いいじゃないですかっ!! 酷い、酷すぎるよおっ!! 嫌い、嫌い、大嫌いっ!! 人殺し⋮⋮人殺し!!﹂
メリアンデールは頬を涙で濡らして罵りの言葉を吐き続けた。
1037
蔵人は無言のまま背を向けると左手を広げた。
手のひらに残った砂の残滓は消えなかった。ひどく虚しかった。
たっぷりと血を吸った刃を振るう。岩肌へとまだあたたかい血潮が
飛び散って消えた。
外套の前を合わせて歩き出す。
蔵人の姿は迷宮の闇へと吸いこまれて消えていった。
メリアンデールはフルカネリの遺体を実家に運ぶと葬儀に参列し、
一晩と留まることなくシルバーヴィラゴに戻ってきた。
参列者は彼女と弟のカインのふたりのみ。さびしすぎる別れだっ
た。
メリアンデールはすべてを思い出していた。
蔵人がフルカネリを斬ったことがショック療法になったのだろう
か、あやふやだった記憶のパーツがすべて元の位置に収められてい
た。秩序だった記憶すべてがフルカネリの悪行をまざまざと思い出
させていた。彼が自分を襲ったこと。婚約者を殺したこと。悪夢は
昨日起こったばかりのように脳裏を幾度も飛来し、彼女の精神はズ
タズタになった。
いまさら実家に戻っても、あの場所に自分の居場所はなかった。
それどころか、新婚の弟夫婦に気を遣って親しくしていたメイドた
ちすら冷淡な態度をとった。逃げ帰るようにアトリエに戻ると、寝
台の上へ座りこみ、なすこともなく壁を見つめ続ける。代償だろう
か、実家からは毎月相応の仕送りが得られるようになった。幸か不
幸か資金にあくせくし、危険を冒してダンジョンに潜る必要もなく
なった。彼女に残されたのは、思う存分錬金術の研究に打ちこむこ
とだけである。
1038
望んだ通りの人生が手に入ったのだ。
﹁なんででしょうね。ぜんぜん、うれしくないですよ、こんなの﹂
メリアンデールの心は荒涼とした虚脱感が途方もなく広がってい
た。
のろのろとした足どりで立ち上がると、自室を出る。
判然としない頭で食事をとっていないことに気づき、テーブルに
向かった。椅子に腰かけると硬くなった黒パンをもそもそとかじっ
た。
何日か前には、この場所で自分の作った料理を喜んで食べてくれ
る人がいたのだ。
いま思えば、蔵人は自分のことをおもんばかってフルカネリを手
にかけたのだ。
一時の感情で彼を罵倒してしまった。
激しい後悔が波濤のように襲いかかってくるたびに、身悶えする。
彼女に残されたのは、いまは無くしてしまった彼とのしあわせな
時間を反芻することだけだった。
﹁あれ⋮⋮﹂
かつん、と手の甲が硬いものに触れた。
テーブルの下になにかが落ちた音がした。
幾日も掃除をしない埃まみれの床下からそれを拾い上げる。
手にしたものは、あの日、土産物屋で蔵人にねだった七宝焼きの
バッジだった。
﹁あ、あ、あれぇ﹂
ロムレスの鷹をあしらったバッジは、窓から入りこむ陽光の下で
輝きながらこちらを見つめている。ひどく不器用に笑ってみせた浅
黒い顔が脳裏で幾度も明滅する。
突如として、メリアンデールの全身は悲しみで爆発した。
﹁ああああっ! あああああっ!!﹂
メリアンデールはバッジを両手で掴むと、身体を震わせて激しく
嗚咽した。
1039
失った思い出と日々が色鮮やかに巻き戻ってくる。
両腕をテーブルに突っ張らせ、肩を激しく上下させる。
自分のものとは思えない声量で咆吼した。
﹁ああああっ、クランドっ!! お、覚えて、覚えていてくれてっ
!!﹂
身体のどこに残っていたのか思われるほど涙があふれてこぼれ落
ちた。
視界は真っ白に濁り、頭の中は炸裂した炎柱のように真っ赤に燃
え上がった。
ポタポタと大粒の涙がバッジの丸い表面を雨のように打った。
メリアンデールはバッジを抱えこむと狂ったように男の名をつぶ
やき続けた。
ロムレスの鷹の羽は涙で重く濡れそぼち、もう飛べそうになかっ
た。
1040
Lv67﹁俺の城﹂
昼酒はやたらに利く。それも美味い肴といい女がいれば尚更であ
る。
蔵人は酒場銀馬車亭のカウンターでレイシーを横にはべらせ黙々
と杯を傾けていた。
無言のまま炙った干し肉を手で引き千切って口に放り込む。丈夫
な歯で辛抱強く噛むと、刺激で唾液が引き出されていく。
蔵人は辛口の蒸留酒を好んだ。日はまだ中天に昇ったばかりであ
ろうか、世間のまっとうな人々は稼業に精を出している時間である。
まともな女であれば、旦那や恋人が働きもせずに昼間から酒を喰ら
っていれば、イヤな顔のひとつもするものである。
しかし、レイシーは満面の笑みを浮かべながら促されるままに上
機嫌で酌を行っていた。彼女は、蔵人がそばにいればそれだけで幸
せなのであった。
﹁しかし、アレだな。昼間から酒飲んでもなんもいわれねえって、
逆になんかモノ足りねえな﹂
蔵人はグラスに浮かんだ氷を弄びながら、目元の淵まで真っ赤に
して、判然としない口調でブツブツつぶやいた。舌がしびれている
のか、言語は明瞭ではない。別に誰に語りかけているわけでもない
のだから当然といえば当然なのだが、隣には一言一句聞きもらさず
に反応する良心的な聴衆がいたのだ。
﹁なんで? 好きなだけ飲めばいいでしょ。つぶれてもあたしが介
抱するし。あ。もしかして、叱られたいのかな? じゃあ、特別に
1041
このレイシーさんが、怒っちゃおうかな。真っ昼間っから飲んだく
れてる、悪い子はこうだー!﹂
レイシーは蔵人に横合いから抱きつくと、きゃあきゃあ喚きなが
らふざけて頭を打つふりをした。ムッチリとした豊満な胸が押しつ
けられ、ぎゅうと歪む。毬のように膨らんだ双丘を揉みしだくと、
レイシーは鼻にかかった甘え声を上げた。
蔵人が乳房の感触に思わず目尻を下げると、カウンターで頬杖を
ついたヒルダと目が合った。ヒルダは金色の瞳を半目にして見つめ
ていた。動かないビスクドールそのものの容姿は結構迫力がある。
ちょっと、酔いが引いた。
﹁さ、さーて、そろそろお昼もまわったことだし、お出かけしっよ
っかなっと﹂
蔵人はわざとらしく咳払いすると、椅子から立ち上がった。
レイシーはあからさまに名残惜しそうな顔をすると唇を尖らせた。
﹁えー、そんなー。いいでしょ、もっとここにいようよー﹂
レイシーは小首をかしげて、﹁ねっ﹂、といって媚びるように懇
願した。
﹁レイシーくん。男の旅立ちを邪魔してはいけない。⋮⋮また、夜
に顔出すから﹂
﹁つまんないよう﹂
ブー垂れるレイシーをよそにスイングドアを開けて店を出ようと
したところで後方から腰に抱きつかれた。紺色の修道服が視界の端
で揺れている。ヒルダだった。
﹁おい、どうしたんだよ。これじゃ、歩きにくいんですけど﹂
ヒルダは蔵人の腰のあたりに顔を埋めると、両手をまわして顔を
左右に振ってイヤイヤをした。まるで聞き分けの悪い幼児である。
﹁ダメです。クランドさん、今日はどこにもいかせませんよ。⋮⋮
それでも、行くっていうんなら、この私の屍を越えていったらいい
じゃないですか!﹂
さすがの蔵人も困惑した。
1042
意味がわからない。
﹁⋮⋮この私の屍を越えていったらいいじゃない!?﹂
﹁いや、待て。なぜ、いい直した。しかも疑問形!﹂
﹁とにかく、最近のクランドさんは不審な点が多いのです。なので、
私は今日はひっつき虫になることにしました﹂
﹁いや、ぜんぜんわからないからな﹂
﹁あー、ずるいんだー、あたしも﹂
レイシーも便乗して両手を広げて抱きついてこようとする。右手
を上げて制止した。
﹁いや、レイシーもこのアホに付き合わなくていいから。おい、頼
むからはなしてくれよ。いくら俺がいとしいからって、縛ることは
出来ないんだぜ? ⋮⋮マジで、前みたいなのは勘弁してください
ね﹂
蔵人は椅子に縛り付けられたことを思いだし苦笑いをする。
今となってもたいしていい思い出には昇華されてはいない。
﹁いまの私は、ヒルダ改め、ヒッツキガルド・フォン・シュポンハ
イムです。なので、そういうフザけた戯言には聞く耳持たないので
す。虫ですし﹂
﹁あー、とりあえず、レイシー。こいつをなんとかしてくれ﹂
蔵人はレイシーにヒルダを引き剥がさせると街に出た。
向かうは、ポルディナの待つ下宿である。
メリアンデールとの冒険を終えたあと、蔵人は三日ほど銀馬車亭
に滞在していた。
無論、気分がくさくさしていたので、思う存分酒を飲みまくりた
いということもあったが、思ったよりも体力の消耗が激しかったの
で、精力をつけるには専門の薬種問屋の近い銀馬車亭の方が都合が
良かったのである。
︵あー、もうずっと帰っていなかったから、ポルディナのやつ心配
してるよな、たぶん︶
自然と顔がニヤつきはじめる。手櫛でサッと前髪を撫でつけた。
1043
通りを歩いていた婦人が子どもの手を引いて物陰に慌てて隠れた。
﹁失敬な、これだから異世界人は﹂
ともあれ、久々の帰宅である。
あいも変わらず腐りかけた手すりをなるべく触らないようにして
二階へ登る。
予想通り、蔵人の忠実な下僕の姿はそこにあった。
足音を聞いて待ち構えていたのか、ポルディナは蔵人の姿を認め
るとパタパタ音を立てて走り寄ってきた。胸元に飛びこもうとして、
いま一歩のところで自制を見せた。
彼女は抱きつくことを無礼と考えたのか、くちびるを噛み締めて
ウェアウルフ
眉を八の字に歪ませて我慢している。
だが、戦狼族特有の犬耳は、ペタっと後ろにくっついて垂れ下が
り、ふさふさしたしっぽは千切れんばかりに、左右に振られていた。
いつも以上の大きな振りである。ワールドクラス並だ、と蔵人は
思った。
サッと両手を前に開き飛びこみやすい態勢を取る。
激しい飛びつき衝動に苦悶し、ポルディナの整った顔が奇妙に歪
んだ。
︵その欲望を開放するんだ! 我が下僕よ!︶
﹁我慢せずに、さあ。⋮⋮ただいま、ポル﹂
﹁︱︱っ! お帰りなさいませ、ご主人さまっ!!﹂
ポルディナは感極まった声で胸元にバフっと飛び込むと、鼻先を
胸板にこすりつけて、くふんくふん、と幼犬のような甘え声を出し
た。栗色の髪をわしわしと、強めになでてやる。ポルディナの擦り
つき力がアップした。
﹁なんだ、まるで赤ちゃんだな、ポルは。よしよし、さびしかった
か﹂
﹁さびしかったです、とても﹂
ポルディナは黒々とした瞳を潤ませて、上目遣いでジッと見つめ
てくる。
1044
これにはたまらんですたい。
︵⋮⋮っ! さすがにこれは来るな。あああーっ、するぞっ。今日
はなんもかんも忘れてベッドでもふもふして、クリクリして、ぬっ
こぬこして、一晩中棒を出し入れして、ぎゅっと抱きしめながら繋
がったまま熟睡してやるんだっ!︶
強い決意を胸に玄関へと向かう。熱っぽい頭で扉を開けると、扉
の横には湯を張った木桶が置いてあった。
ポルディナは躊躇なく跪くと蔵人のブーツを脱がし、ウールの靴
下をくるくると巻き取って汚れた素足を清めはじめた。柔らかなタ
オルに湯を浸して足の指の股の一本一本まで丁寧に拭っていく。
﹁おおふっ﹂
きめ細やかな指使いの気持ちよさに声が漏れた。
ポルディナは満足げに上品な笑みを浮かべたまま作業をこなして
いく。
それは、通り一遍のものではなく確かに強い愛情を感じることの
できるものであった。
レイシーでもさすがにここまではしてはくれない。奴隷さまさま
である。
蔵人は室内履きで居間に向かうと、ソファに腰を沈め深く息を吐
いた。
狙ったように、茶と焼き菓子が運ばれてくる。砂糖をふんだんに
使った茶が痺れるように全身に染み渡る。焼き菓子の方も、作りた
てを買ってきたのか、独特の香ばしさが食欲をそそった。
現代日本に比べれば甘味自体は弱い部類でどちらかといえば、素
朴な味わいである。
だが、目の前で﹁喜んでくれるかな﹂オーラを放射しまくるポル
ディナを見ているだけで、全身が多幸感で包まれていくのだった。
そっと手を伸ばして、頭をモフモフする。ポルディナのキツめな瞳
がふにゃっと和らいだ。
﹁さて﹂
1045
蔵人はこれからどうしようかなと思案に耽った。
もちろんダンジョン攻略は続けるつもりであるが、唯一地図読み
に長けた相棒とはあんな結末になってしまった。
﹁代替案を出さなければならないが﹂
ポルディナはさりげなく背後に控え、命令を待っている。メイド
の鑑ともいえるさりげなさだった。
蔵人が視線を向けると、わずかだがうれしそうに目尻を下げる。
微笑みをたたえていた彼女がわずかに目元を釣り上げたのを見逃
さなかった。
﹁どうした﹂
﹁いえ、外の気配が。何者かが、周囲を覗っているようです。女性
ですね。歳は若く、小柄です。武芸の嗜みはないようですね。歩幅
がかなりゆったりしています。かなり、上流階級の生まれでしょう﹂
﹁そこまでわかんの?﹂
﹁はい。私の耳はかなり遠くまで聞こえますので。おそらく対象は
女性でしょう。⋮⋮排除しますか?﹂
﹁いやいや、待て待て。そいつは、ここから近くに来てるのか﹂
ポルディナは目を閉じると神経を張り巡らせ、足音に集中しだし
た。ゆっくりと窓際に歩み寄ると、戸を動かす。小鼻を蠢かすと表
の様子を探っている様子を見せる。
それから、思い立ったように蔵人をジッと見つめると困ったよう
な顔をした。
﹁あの、前言を撤回します。おそらくは、ご主人さまの知人かと﹂
﹁えっ、俺の知ってるやつなの﹂
﹁間違いはないかと。その、ご主人さまの衣服に同じ残り香が﹂
︵匂いでわかるのかよ。さすが、わんこ族よ︶
蔵人は窓際に近寄ると壁に身体をぴったりと寄せて視線を外に向
ける。
そこには、かなり不審な動きで通りの物陰から物陰へと小刻みに
移動する小柄な人物の姿が目に入った。
1046
紺色のローブがちらちらと見え隠れしている。
どう見てもヒルダの姿であった。
﹁あいつ、つけてきやがったのか﹂
蔵人は顎の無精髭を無意識に擦ると目を伏せて舌打ちをした。ロ
ーテーブルにあるカップを立ったまま取ると一息に空け、ポルディ
ナに向き直る。黒真珠のような瞳を直視して告げた。
﹁えー、発表します。今日限りを持ちまして、我々はこのアジトを
放棄します﹂
﹁放棄﹂
ポルディナは目を皿のようにすると口元に手を当て、しっぽをピ
ンとまっすぐに立てた。
蔵人はポルディナを連れてロムレス大聖堂に向かった。
以前会ったコルドゥラというシスターを見つけ訪問の意を伝える。
彼女はあからさまに不快な意を示しながらも蔵人を応接室に招き入
れた。
蔵人が室内を戯れながら聖人の像と壷をみっつほど壊したところ
でマルコはようやく到着した。おそらくは、若い女が訪ねてきたと
コルドゥラが情報を改竄して呼び寄せたのだろうかマルコはかなり
キッチリとした身だしなみで現れた。
彼は入室してポルディナを目に入れると相好を崩す。
しかし、蔵人の姿が目に入った途端、いきなりベソ面になった。
実にわかりやすかった。
﹁というわけだ。おっさん、よろしく頼むわ﹂
蔵人は挨拶もそこそこに用件を述べた。殊勝に頭を下げると、背
後に立っていたポルディナも深々と頭を下げる。マルコは激しく困
1047
惑した。
﹁⋮⋮いえいえいえいえ、いきなりというわけだ、と申されまして
も、拙僧も困惑しきりなのですが﹂
﹁なんだ、案外物わかり悪いんだな。よしよし、じゃあかいつまん
で説明してやろう。ありがたく聞けよな。俺もいつまでも借家暮ら
しっていうのもなんだから、そろそろ家のひとつも買おうと思った
わけだ。しかし、ツテがない。困った、どうしよう! ⋮⋮そこで
顔の広そうなアンタに頼みにきたってわけだ!﹂
﹁えーと、とりあえず、クランド殿の趣旨は理解できたのですけど、
それって全然人にものを頼む態度じゃないですよねえ!﹂
﹁えー、細かいこと気にするなって。おっさんも伊達にハゲてるわ
けじゃねえ、つまりは蓄積された人間力が多分にあるってとこを俺
らに見せつけてくれよ、な!!﹂
﹁べべべべ、別に拙僧ハゲてないし! これ教義のためにかぶって
るだけで、本当は頭髪ドふさで洗髪のたびに、髪ウザッ、って思っ
てるし。超モッサリ系だし!﹂
﹁そうか、まあそういうことにしておこうかい﹂
﹁そういうこともなにもすべて厳然たる事実なんですけど。ところ
で、んんん。えへんっ、えへんん、んんっ﹂
マルコはいきなり口元に手を当て咳払いをすると、ポルディナに
向かって流し目をくれた。気づいているのかいないのか、ポルディ
ナの表情には微塵の変化もない。
ふふ、照れちゃって、などと看過できないマルコのつぶやきが耳
に入った。
困った中年であった。
﹁どうしたいきなり咳払いなんかしちゃったりして。のど飴いる?﹂
蔵人はのど飴を取り出すとマルコに差し出した。
ずっと袋に入れておいたのか、それは劣化して溶けはじめていた。
マルコは脛を蹴られ痛みを我慢しているような、引きつった顔を
した。
1048
﹁それは貰いますが。ドゥフフフ﹂
マルコは気持ち悪い笑みを浮かべると鼻息を荒くし、ポルディナ
の全身を舐めまわすように視姦した。彼女は人形のように立ち尽く
したまま蔵人が菓子包みを破る手つきを注視している。主のこと以
外は一切気にも留めない様子だ。
﹁ねえ、そろそろクランド殿の後ろにいるお嬢さんを紹介してくれ
ませんかねェ。拙僧、メチャタイプなんで、仲良くおしゃべりした
いなぁ、もしくはおしゃべりじゃなくて、個人的にも仲良くなりた
いなぁ、なんて﹂
﹁んんん、ああ。こいつね﹂
マルコの邪心は実にわかりやすいものだった。
ここで、ポルディナを自分の肉奴隷で毎晩思うさまかわいがって
ます、などと伝えればヘソを曲げかねないだろう。格安の家を見つ
けなければ困る。
︵まだ、ヒルダやレイシーにポルのことを知られんのはまずいんだ
よ。もっとあいつらを骨抜きにして、俺なしじゃ夜も日も暮れぬレ
ベルにしてから、なし崩し的にハーレムを認めさせないとっ︶
女の敵の思考回路であった。
無意味だが敢えて可能性を残す方向で紹介をしよう、と蔵人は瞬
時に自家製コンピュータで冷徹な判断を下した。出来る男の面目躍
如である。
蔵人がどのように紹介するか最初の言葉をいい澱んでいると、マ
ルコはポルディナにイイ顔をしたいのか、つけ焼刃のフェミニスト
を装った。
ソファから立ち上がると、佇立したままのポルディナに歩み寄り、
ペラペラとしゃべりだす。教会の説法で鍛えているのか、中々いい
声をしていた。
﹁こいつとは、なんとまあご婦人を遇する礼儀を知らぬ若人よ。お
嬢さん、殿方の前でソファにかけないのは、膝頭を不用意にさらさ
ないレディの嗜みですね。このマルコ、大変感じ入りましたよ﹂
1049
マルコは自分の都合のいいように解釈し、少女を褒め称えた。
もっとも、ポルディナは奴隷なので蔵人が命令しない限りは勝手
に座ったりなどはしないだけである。
マルコがどさくさにまぎれて手を握ろうとするが、ポルディナは
さっと身を引いてかわした。静まりかえった湖面のように無表情で
ある。
マルコは下唇を捻じ曲げて悲しみを露わにした。
﹁んん、拙僧はシルバーヴィラゴ司教でマルコと申します。クラン
ド殿とは古くからの友人でね。まあ、困ったことがあったなら、な
んでもいってください。拙僧はこの男とは違って大変頼りになる男
ですぞ。あと、一応独身です﹂
この時点で、マルコはふたつ大嘘をついていた。蔵人とは古くか
らの友人でもないし、彼は歴とした妻帯者で妾も教区に四人も囲っ
ていた。坊主とは古来より誰よりも強欲な生き物の総称である。
﹁おい、なぜさりげにアピールしたし﹂
﹁ははは。それは拙僧の隣の席はいつでもフリーということをお伝
えしたかっただけで他意はないのですよ。ただ、この席を温めたい
というのならば、それはもう、お嬢さんの心がけひとつということ
ですよ﹂
マルコはポルディナの前に立つと、ぐいと首を伸ばす。
少女はあからさまに、顔近っ、と身をすくめた。
﹁ははっ。今日はまた一段と気持ち悪いなっ!﹂
﹁おいいいっ、なんてこというんですかっ! 気持ち悪くないです
よ、むしろナイスミドルで、男の熟年した渋みがにじみ出てるとゆ
ーかっ﹂
﹁出涸らしの凝り固まったタンニンみたいだな。茶渋だ。んで、こ
の娘はな、ええと﹂
蔵人はポルディナに向かってウインクをすると、自分の指を胸に
トンと当てた。
名前だけを告げろという指示である。
1050
意を汲みとったメイドは涼やかな声を出し、目を伏せて頭を下げ
た。
﹁ポルディナと申します。以後お見知りおきを﹂
﹁おおうふ! ポルディナ、ポルディナですか。んんん、いい名前
ですね。実にあなたに似つかわしい高貴な名前だ﹂
﹁彼女は俺のメイドなんだ。実に良くしてくれているよ﹂
とりあえず嘘ではない。マルコは臨時雇いの家政婦として認識し
たようだ。
﹁ほおおう。クランド殿のメイド! それはそれは、結構なことで。
⋮⋮話は変わりますが、拙僧は近頃実に業務が多忙を極めており、
優良な秘書兼お手伝いさんを探しておるのですよ。あっは、拙僧司
教だから! 百万都市を束ねる大教区を持つ極めて重要な地位を持
つ司教だから! ああぁん。誰かいないかなァ。拙僧の元でお仕事
ウェアウルフ
を手伝ってくれる、十五、六歳くらいの美しくて有能で、綺麗な栗
色の髪と黒目のを持つ戦狼族の娘さんとか!﹂
﹁気持ち悪ッ﹂
﹁ハッ、この熟年の渋みは若造のクランド殿にはわかりますまいっ﹂
﹁わかってたまるかよ﹂
マルコは酔ったように頬を上気させながら、チラチラっとポルデ
ィナの反応をうかがっている。ときおり勝ち誇ったかのように蔵人
を見下した視線をしているが、肝心のポルディナは人形のように凍
りついたままなんの反応も見せなかった。
︵マズいな。このままじゃ、おっさんが道化すぎる。我に返るまえ
に話を進めないと︶
﹁おっさん、秘書とかメイドの話はまたあとでゆっくり話せばいい
じゃないか、な! いまはそれより、俺の家の相談に乗ってくれよ。
な! ポルディナも頼りがいのある男の方が好みだろ!﹂
蔵人はポルディナの下腹を肘でちょんちょんつつくと話に乗っか
るよう促した。
﹁ソウデスネ、タヨリガイノアルダンセイハ、ステキデス﹂
1051
︵なんたる棒読み︶
﹁えー、そうですかぁ。しょうがないですなぁ、ようし、ここはひ
とつポルディナちゃんのためにも男の格の違いを見せつけるために
権力乱用しちゃおっかなぁ! 司教ですし!拙僧このくらいのこと
は朝飯前ですし! ですし、ですし!!﹂
﹁うるっせ﹂
マルコは鼻歌混じりで部屋を出ると駆け出していった。蔵人はソ
ファから立ち上がるとポルディナに近づき、柔らかい髪質の頭部を
撫でる。彼女はくすぐったそうに目を細めると、わふんと小さく声
を漏らした。
結論からいうとマルコの紹介してくれた不動産屋は目を見張る大
邸宅を紹介してくれた。
﹁昼頼んで夕方とはさすがにたまげたな﹂
白を基調とした屋敷は中心街から離れた場所に建てられていた。
周囲には、木々が多く生い茂り、隣接した家も無いことから貴族の
別邸だろうと推察できた。
ぐるりと周りをこ囲む塀を見上げながら頑丈な門をくぐり抜ける
と正面玄関の前に出た。
後ろをついて歩くポルディナもさすがに動揺を隠しきれず、目を
まん丸にしている。
常に冷静な彼女の驚き顔が日に二度も見れるなどは滅多にあるこ
とではなかった。
近寄ってみると柱や漆喰は新品同様で造られて間もないことを示
している。
無意識に感嘆の声が漏れた。
1052
ポンドル
﹁これが二百万Pとは、ちょっと信じられないな﹂
﹁いやあ、こちらも上を説き伏せるのに苦労しましたよー。しかし、
司教さまの口利きとあっちゃあ、嫌とはいえませんよ。敬虔なロム
レス信徒としては﹂
ネズミっぽい顔をした不動産屋はペラペラと屋敷の外観の良さや、
建てて数年しか経っていないこと、部屋数の良さや景観のすばらし
さを強調した。
蔵人はポルディナを引き連れ屋敷の中の隅々を歩き回る。調度品
は前に住んでいた貴族がそのまま残していったとのことで今日から
も住めそうだった。
ポルディナは台所で水周りを丹念に調べている。当初の驚きは影
を潜め、表情はいつものクールさを保っていたが、盛んに左右に振
られるしっぽの勢いが喜びを強く指し示していた。
﹁ポルディナ﹂
蔵人が呼びかけると、少女は忠犬よろしく小走りに駆けてきてそ
ばに控える。
﹁お呼びでしょうか、ご主人さま﹂
﹁なあ、この家に気に入ったか﹂
﹁いえ、私は奴隷ですから、ご主人さまの良いようにしてください
ませ﹂
口調も至極落ち着いているし、顔つきに目立った変化はない。
ただ、しっぽの振りは期待値を示すようにブンブンと風を巻いて
左右に動いていた。
﹁そんじゃ、やめよっかな﹂
ポルディナの表情は変わらないが、しっぽは動きを停止させると、
くたんと目に見えてしおれた。悲しいよう、と心の声が聞こえた。
﹁あはは、うそうそ。この屋敷に決めよう﹂
ポルディナの犬耳はぴん、と垂直に立って、しっぽも再び大きく
ブンブンと左右に振られだす。実に喜怒哀楽のわかりやすい女だっ
た。
1053
﹁もう。ご主人さまはいじわるですよ﹂
﹁あはは。悪い悪い、ついおまえがかわいいからいじめたくなった
だけだ﹂
﹁お戯れを﹂
﹁すねるなよな。ほら、こっちこい。抱っこしてやるから﹂
蔵人はポルディナを胸に引き寄せるとぎゅっと抱きしめた。少女
はひかえめに主を抱き返すと、楽しそうに目を閉じて身体を預けて
くる。ポルディナの身体はやわらかい感触とお日さまの匂いがした。
﹁屋敷も広くなるし、掃除とか大変になるかもしれんが、これから
もよろしく頼むな﹂
﹁家のことはすべてこの私にお任せ下さい﹂
﹁かわいいな、おまえは。まったく。こうされんのは好きか?﹂
﹁ん。ぎゅっとされるの、好きです﹂
蔵人たちがイチャイチャするのを見ながら不動産屋は大きくあく
びを一つした。それから彼は契約書を取り出すと、ゆったりとした
足取りでふたりに歩み寄った。
その夜、蔵人は銀馬車亭で酒を引っかけると購入して自分のもの
となった自宅に戻った。
不動産屋曰く、この邸宅はかつてとある貴族の娘が療養のため数
年暮らしていたため、業界では通称姫屋敷と呼ばれていた。
﹁うーん。ついに、俺も一国一城のあるじか﹂
じゃれ
︵白一色の作りといい、庭の造作といい、お姫さまの好きそうな、
こ洒落たつくりだよなぁ、まったく︶
だが、多分に夢見がちな年頃のポルディナの反応は上々である。
蔵人個人としても、重々しい造作の屋敷よりも、いかにも絵本に出
1054
てくるようなロマンティックな邸宅の方がそれらしくて好みだった。
﹁ああ、そうか。この屋敷のつくりって、アレっぽいよなぁ。だか
ら、妙に興奮するんだ﹂
蔵人がいうアレとは、駅の近くや、あらゆる高速道路インター付
近に密集している特殊休憩所のことであった。この男の脳内も、た
いがい残念なものだった。
深夜近くにも関わらずポルディナは玄関先で健気にも主人の帰り
を待っていた。
﹁ただいま、ポルディナ﹂
﹁お帰りなさいませ、ご主人さま﹂
洗練された動作できちんと一礼をし、汚れをすすぎ終えると、主
から渡された外套と長剣を受け取る。この姫屋敷には特筆すべき利
点がもうひとつあった。
天然温泉の存在である。
地質的に源泉が湧いているおかげで、珍しく内風呂が設えてあっ
た。庭先には少し手を入れれば岩風呂が楽しめるようにあらかたの
設備は整っていた。この場所に貴族が屋敷を建てたのも湯治の必要
性があったのであろう。日本人は世界でも屈指の風呂好きである。
﹁だが、今日はチト飲みすぎた﹂
飲みすぎた状態で風呂に入るのは危険である。
いや、蔵人自体はそんなことは気にも留めないのだが、無理やり
入ろうとするとポルディナが悲しそうな目をして無言で見つめてく
るのである。風呂には入れないのは残念であったが、今日からはい
つでも好きなときに湯につかることができるのである。
蔵人は屋敷の中で一番豪奢な部屋を自分の居室と決めており、用
意された新品のシーツに飛びこんだ。
しばらくすると、メイド服から官能的なベビードールに着替えた
ポルディナがおずおずと寝台に潜りこんできた。
もちろん、夜の相手をするためである。
蔵人はポルディナを組み敷くとかわいがりを開始する。
1055
だが、今夜はどうも酔いが回りすぎて上手くことを運ぶことが出
来そうもない。
﹁悪い、寝る。酔いがまださめねえや⋮⋮続きは、起きたら﹂
﹁承知しました。おやすみなさいませ﹂
男としてはいささか格好のつかないハメに陥ったが、ポルディナ
は不満ひとつなく主を豊満な胸に抱きしめると、まるで母親が子ど
もと添い寝するようにやさしく包み込んだ。
変化は数時間後、真夜中に起こった。
﹁んんん、あむン?﹂
蔵人は自分の高いびきのうるささの余り目を覚ました。とろんと
した目つきで目蓋をこすり、隣で安らかな寝息を立てているポルデ
ィナをジッと見つめた。
窓から入りこむ月明かりによって少女の豊かな胸が規則正しく上
下するのを見て、ムラムラと欲心が沸き起こっていく。股間が徐々
に硬くなっていった。
︵やべえ、ヤりてええ。でも、疲れて寝入ってるだろうし、起こす
のもかわいそうだな︶
ポルディナは逃げない。これからも、生ある限り己のそばにあり
続けるのだ。
蔵人は股間の息子によくいい聞かせると、枕元の水差しをとって
喉を湿した。
勢いよく多量の水分を摂取すると、眠っていた尿意が目覚めはじ
めた。
ポルディナを起こさないように寝台を抜け出すとそっと扉を開け
てトイレに向かった。
1056
中をひととおり見回ったとはいえ、細部にまで通じているとはい
えない。
﹁確かトイレはつきあたりにあったよな﹂
おぼろげな記憶のまま暗い廊下を歩いていく。やっぱり電灯設備
がないと夜は不便だよなぁとぼんやり考えていると、どこからか小
さななにかを引っかくような異音が生じた。
﹁なんだ、気のせいかな﹂
蔵人は立ち止まると、そっと耳を澄ませた。
別段、家の中まで帯剣しているわけではない。全身に緊張感が走
る。背中にポツポツと冷や汗が浮き出てくる。得物をとりに部屋に
戻ろうかと思った瞬間、どこからともなく、確かにすすり泣くよう
な女の泣き声が聞こえた。
﹁ああ、やっぱ激安なのは、そういうおまけつきだからなんだな﹂
蔵人は突如として大悟すると、すすり泣きの正体を確かめるため、
音の発信源へとゆっくり近づいていくのであった。
1057
Lv68﹁事故物件始末﹂
﹁幽霊の正体見たり枯れ尾花ってな。せめて、グロ系じゃありませ
んように﹂
蔵人は意を決して泣き声の正体を確かめるべく、足音を立てずに
歩き出した。屋敷の間取りは昼間ザッと見た程度で、すべてを把握
しているとはいいがたかった。
値段の安さに釣られて買ったといえば自業自得であるが、せめて
一言なりともあの不動産屋はなにかヒントを置いていくべきではな
かったのか。
不人情すぎる。蔵人は激しく歯噛みした。
﹁安さか。やはり、安さ爆発か。⋮⋮アッチの方はホントに爆散し
てしまったが、こっちはそうならないことを祈るしかないな﹂
いまは無き大型電気量販店のことを想い少ししんみりする。
次第に闇に目が慣れてきたのか、ぼんやりと辺りの様子がはっき
りしてきた。壁際に沿ってすすり泣くような声の発信源に近づいて
いく。二階の一番奥部屋の前にたどり着いた。
南向きのもっとも日当たりの良い部屋である。
まだ、木目の目新しい扉に手をかけゆっくりと開けた。
はじめ、薄めに引いて中の様子をうかがい、それからそろりと足
を踏み入れた。
﹁なんだ。誰もいねえじゃねえか﹂
1058
ガラス窓には夜空に浮かんだまん丸な月が、白く冴え冴えとした
した表情で静かに映りこんでいた。
この室内だけは調度品がすべて撤去されており、ただの広い空間
となっていた。
蔵人の酔いは完全に覚め、軽い緊張感が全身を浸しつつあった。
所在なく扉の前に立っていると、背後から生暖かい風が首筋を撫
でた。
背骨から骨盤を電流のような寒気が走った。
振り向く間もなく、背後の扉が大きな音を立てて閉まった。反射
的にその場を飛び退くと、部屋中から若い女のクスクス笑う声が漏
れ出した。成熟した女性のものではない。甲高い少女特有のものだ
った。
蔵人が身構えているとその声は次第に辺りを反響し、耳元に忍び
寄ってくる。
マズイ、と思ったときにはすでに遅かった。
蔵人は全身の力を抜き取られたように脱力すると、その場へ仰向
けに倒れこんだ。
意識は極めてクリアだが、声はおろか指先一つ動かせない。
これが俗にいう金縛りか。
額や脇から冷たい汗がどんどん染み出していく。
焦りは次第に強くなり、胸の鼓動が駆け回ったあとのように激し
く脈打っていく。
飢えた犬のように舌を放り出してあえぐ。
血走った眼球だけが自由になるが、視界に入るのは薄暗い天井だ
けだった。
蔵人は心の中で何度もポルディナを呼ぼうとしたが、喉はピクリ
とも震えず声を出すことはできない。標本箱にハリツケになった虫
けらの気分だった。
突如として、足元に強い寒気を感じた。冷気の渦が集積し、勢い
を増していると感じた。かろうじて眼球だけを動かすと、その怖気
1059
を感じる大元はひとつに凝り固まって、次第に意味のある形をなし
た。
白っぽいオーラの渦は、十二、三歳程度の少女の形を作ると、雲
を踏むような軽やかな足どりで絨毯の上に降り立った。
なんとまあ、こいつは。
少女は艶然と微笑むと邪気のない瞳で蔵人を凝視した。
背筋が凍るような研ぎ澄まされた美しさだった。
透けるような雪のように白い肌。
輝くような蜂蜜色の金髪は軽く波打ってふわふわと宙を漂ってい
る。
アーモンド型の大きな瞳は濡れたように黒く瞬いている。
蔵人は小児性愛の傾向はなかったが、道を踏み外しそうなほど危
うい儚さと蠱惑さが同居していた。
少女は微笑みながらそっと指を蔵人の頬に伸ばしてきた。
小さく華奢な指が無精ひげだらけの顔に触れる。
冷たいひんやりとした心地に半ば陶然とした。
無意識に全身がカッと熱く火照りだした。
目の前が真っ赤に染まり、呼吸が自然と荒くなった。
それを見た少女は、見るものを魅了するような妖しさで瞳の色を
一段と濃くした。
︵おいおい! 待て、一旦落ち着こう。俺は、こんなガキに欲情し
てんのかよっ!?︶
あきらかに人外のものである。
正しくは霊体であろう。
わかっていてこの有様だった。
少女が無防備にかがむ。
脊髄反射で網膜が追った。
視覚情報が電気信号へと変換され、自然の摂理として股間が倫理
上ヤバいことになる。
少女の白い上着の隙間から見える小さな膨らみに、理性が弾けそ
1060
うなほど激しく頭がクラクラした。
蔵人の葛藤を読み取ったのか、少女の霊は、んふ、と声を上げた。
脳内に直接響く甘美さと退廃した色気があった。
少女は細く長い指を伸ばしてくる。
ひやりとした感触に身体がブルリと震えた。
途端に、身体に変調が訪れた。
︵のおおおっ、なんだこれっ、なんだこれっ! やばいっ! 気持
ちよすぎる!︶
少女の指は、あくまで蔵人の膝に触れているだけである。
であっても、襲い来る快楽の波動は、いまだかつてない強烈なも
のだった。蔵人は熱いような冷たいような快感に支配され、次第に
脳の奥がドロリと蕩けだしていく。
ほとんど瞬間的に、脳天から尻の穴まで稲光が一気に貫くような
錯覚が走った。
鋭い浮遊感にも似た陶酔が波濤のように間断なく襲ってくる。
限界を超えたダムが水を一気に放出するイメージが脳裏に明滅す
る。
無意識に呼吸が止まった。
全身の神経が爆発する。
深い脱力感と共に、蔵人はすっと気を失い、意識が深くへと沈ん
でいった。
﹁ふーん。で、なんですか。きょうはアレですか。拙僧にクランド
殿の性生活の充実さを自慢にこられたわけですか。んまあ、なんて
イヤミなお方﹂
﹁んなわけねーだろ。どこをどう捉えたらそういうお話しになるん
1061
だよ﹂
翌日、蔵人は少女霊に襲われたことを理由に、大聖堂のマルコの
元へと苦情を持ちこんでいた。
理由はもちろん購入住宅の値引きである。
つまり、霊障が起きる事故物件を紹介した賠償として、不動産屋
から多少なりとも払った銭を取り戻そうと大元のマルコへイチャモ
ンをツケに来たのである。
﹁とんでもねー事故物件じゃねーか! おっさん、アンタにわかる
か? 朝おきたら下半身丸出しで空室にひっくり返ったまま夢精状
態だった男の気持ちが! ポルディナに本気で心配されたわ!﹂
﹁ぷっ、だっさ⋮⋮﹂
応接室でお盆を持ったまま背後に控えていたシスターコルドゥラ
があからさまに罵倒の言葉を口にした。蔵人がにらみつけると、彼
女は目を三角にして睨み返してくる。両者の空間に見えない火花が
弾けた。
﹁んだよ、おい﹂
﹁べっつに。ただ、それだけ立派な身体して、オバケの一匹や二匹
でオタオタしちゃって、ダッサイ男だな、と思っただけよ﹂
﹁な、なにおう!﹂
コルドゥラは食いつきそうな目をするとお盆を高々と頭上に掲げ
て構えた。
蔵人はシスターの目にちょっと怯えながらソファの位置を移動す
ると、憤懣やるかたない気持ちをマルコにぶつけた。
﹁おい、おっさん。おまえは教会のモンにどーいう教育しとるんだ、
おう﹂
﹁あああ、もう。コルドゥラァ、そういう汚い言葉を使ってはいけ
ませんといっつもいっているでしょうがぁああ﹂
﹁⋮⋮申し訳ございません、司教さま﹂
コルドゥラはいかにも納得がいかないといった雰囲気で頭を下げ
ると、大股で部屋を退室していった。静謐と儀礼を重んじるシスタ
1062
ーにあるまじき無作法さであった。
﹁わかりましたよ、クランド殿。これでも拙僧、結構責任感ある方
ですから、この件に関してはきちんと対処します。あれですよね、
要するにその購入物件に出没するゴーストさえ除霊出来ればいいん
ですよね。任せてください、ただいま善後策を協議してきますから、
しばらくお待ちを﹂
マルコは席を外すと応接室を出ていった。蔵人はソファに身体を
深く沈みこませると、そっと目をつぶった。
﹁くああ、ねむっ﹂
なんやかやと昨晩は結局のところ熟睡できなかった。
辺りは物音ひとつせずに静かだった。礼拝堂から祈りの捧げる信
徒の唱和と管楽器の調べが子守唄のように耳朶を打ち、脳をゆさぶ
っている。
蔵人はいつしか深い眠りに落ちていたようだ。
壁際の時計に目をやると時刻はすでに昼をとうに過ぎていた。
﹁んあああっ﹂
﹁ひっ﹂
軽く伸びをするといつの間にかそばに立っていた女性が怯えた声
を出した。
視線を転じると、そこには清楚な感じのビクビク系シスター、イ
ルゼがやや緊張した面持ちで小さな小瓶を胸の前に捧げ持っていた。
﹁ああ、イルゼちゃんか。なんか用? おっぱいもんでいい﹂
﹁い、いやですよっ。そ、それと私は司教さまの言伝とこれを渡す
ようにいわれただけで、あああっ。もおおっ、あなたがいるってわ
かっていれば、お断りしたものを﹂
﹁嘘はダメだぜ、イルゼちゃん。俺に渡したいものって、その小瓶
かい?﹂
﹁ええ﹂
蔵人はイルゼから液体の入った小瓶を受け取ると、手の中でゴロ
ゴロ回転させてもてあそんだ。特別目だった部分はない透明な液体
1063
だった。
﹁これなあに?﹂
﹁聖水です﹂
﹁イルゼちゃんが、体内で精製した?﹂
﹁な︱︱なっ﹂
イルゼは顔を真っ赤にすると、口を金魚のようにパクパクと開閉
した。
彼女は小ぶりな胸をふるふると震わせると、激しい羞恥に耐え切
れず顔を背けた。
蔵人は野盗のようなふてぶてしい笑みを頬に刻むと、暗い愉悦に
ひたった。
﹁ねえねえ、イルゼちゃんはぁ、ちっちゃいのをするときはぁ、ど
んな格好でするのかなぁ? かがんでするのお? それても、立っ
たまましーしーするの? 教えて、早く!﹂
蔵人はニタニタしながら粘っこい視線でイルゼの股間を凝視する。
年季の入った変質者の目線だった。
﹁ふ、不埒な。ありえないです、こんなこと。落ち着くのよ、イル
ゼ。これも、神の試練よ。耐えるのです、私﹂
イルゼは目を閉じて幾度か深呼吸をすると、完全に自我を取り戻
とりあえず今日はこれで我慢
した。そこにいるのは、年若い少女ではなく、ひとりの聖職者の姿
があった。
蔵人はなぜか強く興奮していた。
﹁司教さまの口上をお伝えします。
してね。追伸、今度ポルディナたんと拙僧とクランド殿三人で飲み
です﹂
に行こうね。途中で気を使って抜けてくれると、拙僧とっても助か
るなあ
﹁え、善後策ってこの聖水だけなの﹂
﹁です。それでは、私は癈兵員と孤児院の慰問がありますので、こ
れで﹂
ルイゼは軽く一礼すると部屋を出ていった。残されたのは、安っ
1064
ぽい聖水の入った小瓶と蔵人だけである。
﹁え、マジで。フォロー無しなん? ホントに?﹂
マジだった。心底マジのようだった。
扉の向こう側で様子をうかがっている気配もない。
そもそも、そんな茶目っ気を見せ合うほど親密な間柄でもなかっ
た。
それ以上ソファに座り続けても、ついには誰も現れなくなった。
蔵人は自分が思った以上に打ちのめされていることに気づき、半ば
動揺した。
﹁⋮⋮帰ろ﹂
テーブルの菓子をすべて口の中に放りこむと、とりゃー、と菓子
袋やグラスをそこいら中にわざと散乱させた。
せめてもの意趣返しである。子供みたいな真似をしてほくそ笑ん
だ。
﹁半日待って対価がコレだけって、聖職っていうレベルじゃねえぞ、
オイ!﹂
応接室を出ると、長い廊下を進む。中庭を挟んで反対側に礼拝堂
が見えた。
﹁ちょっと見ていこうかな﹂
物見高い性格である。蔵人は脇扉を開けて中に入ると頭上のステ
ンドグラスに目を細めた。広々としたエントランスホールには長机
が段々に置かれており、ちょうど大学の講義室のようだった。
聖壇のある一番前にひとりのシスターがしゃがみこんで懸命に祈
りを捧げている姿があった。なんとなく興味を惹かれ、近寄ってい
く。遠目にはわからなかったがかなり体格の良い女性のようだった。
︵おお、ずいぶんとおっきい姉ちゃんだなぁ。にしても、どこかで
︱︱︶
背後からの気配に気づいたのかシスターは立ち上がるとゆっくり
振り向いた。
蔵人と同程度の長身である。一目見て均整のとれた身体であると
1065
理解できた。
紺色の修道服をムッチリとした巨大な乳房が苦しそうに押し上げ
ている。
女の緑色の瞳にはみるみるうちに涙が浮き上がり、頬を伝って流
れた。
﹁⋮⋮神よ、感謝します﹂
垂れ目がちな瞳がふるふると盛り上がる涙の海に浮かんでいた。
蔵人は息を呑むと、美貌のシスターにそろそろと手を伸ばした。
﹁おまえ、アルテミシア、か!?﹂
﹁あああっ、クランドぉおおっ!! クランドぉおおっ!!﹂
蔵人が確認し終える前に、修道服をまとったアルテミシアは勢い
よく真正面から抱きついてきた。後方へひっくり返るのをなんとか
踏ん張って阻止する。
感極まったのか、泣き叫ぶ獣のような声が礼拝堂の中を激しく反
響した。
蔵人は顔面を豊かな乳房に埋める形になり、声が出せなくなった。
﹁クランドっ、クランドっ!!﹂
視界を奪われたまま両手をバタバタと振るった。
命の危険を感じ、彼女の両腕に手をかける。
だが、リミッタを振り切ったアルテミシアの豪腕がそれを遮った。
正味、生命の危機を感じはじめた。
︵ヤバい、おっぱいやらけぇけど⋮⋮息が、息が出来ねえ!! ⋮
⋮胸で窒息って⋮⋮それは、それでアリかも⋮⋮いやいやいや! ないない。ないからっ!︶
﹁ずっと探したんだっ、おまえのことっ、くううっ、それでもっ、
ぜんっぜん見つからなくてっ、私はっ、なんども死のうとしたけど
っ、それでも諦めきれなくてっ、だからっ、ひぐっ、尼にっ! く
ううっ、嘘つきっ、嘘つきっ、生きてっ、いたならっ、どうしてっ
今日まで会いに来てくれなかったんだああっ!!﹂
微妙にバランスを崩した態勢で力を上手くこめることができない。
1066
アルテミシアの両肩を押そうと試みるが、泣き喚きながら満身の力
をこめる膂力には太刀打ちできなかった。
脳から酸素が欠乏しだし、だんだんと思考能力が低下していく。
蔵人はみじめったらしく、あえいだ。
﹁ぶでっ、はだじでぐでぇっ⋮⋮んふぐっ⋮⋮あぶでみじあ、だず
げ⋮⋮や゛め゛て゛く゛て゛ぇ゛え゛え゛え゛え゛っ!!﹂
ぎゅうぎゅう締めつけられるうちに、だんだん気持ちよくなって
きた。
意識が頭の天井からすぅーっと抜けていくような感じがした。
あかん、もう⋮⋮ダメかも⋮⋮。
蔵人が昇天しかけた途端、胸元から解放された。
激しく咳きこんでいると、顔をクシャクシャにしたアルテミシア
が心配そうにジッと覗き込んできた。
﹁どうしたのだっ、まさかっ、まだ身体の傷がよくないのかっ! なんでもいってくれ! 私はおまえのためならなんだって、なんだ
ってするぞっ!﹂
ぜんぶ、おまえのせいだよ。
だが、いまの理性を失いかけている彼女にそんなことを伝えれば
状況はさらに悪化するだろう。己の自制心を掘り起こし、目の前の
事象に対峙せよ。大きく深呼吸し、とりあえず考えをまとめよう。
そのためには時間が必要だ。
﹁ちょっ、まあ落ち着けって。一旦落ち着こうぜ、アルテミシア。
んむっ﹂
﹁んんんっ、んちゅっ﹂
もはや完全に生来の道徳観念を放棄したアルテミシアは一方的に
蔵人の唇へ吸いついてきた。
︵ダメェ、アルテミシアさんんっ、ここ公共の場なのおっ!︶
ここまでされて為すがままの男ではない。
さらに、さきほど命の危機を軽く感じたのか、股間の孝行息子は
臨戦態勢を整えていた。
1067
ならば、やることはただひとつ。
このハーレムマスターに喰い残しは許されない!
蔵人は、彼女の豊満な腰をぐいと引き寄せた。
潤んだ瞳が情欲の炎で燃え滾っている。
運命的な再会。神秘的なシチュエーション。
カタに嵌める舞台は揃っている。
さあ、用意された美肉を貪ろうではないか。
蔵人は、片手で彼女の小さい頭を押さえてねっとりとしたキスを
はじめた。
アルテミシアを祭壇に押しつけるようにすると、ふたりの影は頭
上から降りそそぐ陽光の中でひとつになるのであった。
﹁あぁ、えがったぁ﹂
蔵人が余韻に浸っていると、身支度を整えたアルテミシアが甘え
るような仕草で身体を寄せてきた。
﹁どうしてすぐに会いに来てくれなかったんだ、ばか﹂
﹁いや、他意はなかったんだ。いろいろ俺も忙しかったんでな﹂
﹁ばか。でも、こうして会いに来てくれたから、ゆるす﹂
身支度を終えたアルテミシアは蔵人に寄り添って離れようとしな
かった。
聖壇の一番前の長椅子に隣り合って座るふたりを、礼拝に来た老
婦人があからさまな好奇心をあらわにして眺めている。かなり、居
心地が悪かった。蔵人はアルテミシアの肩を抱いたまま、頭上のス
テンドグラスを見つめていた。そろそろ夕日が傾く時間である。い
つまでもこうしているわけにはいかなかった。
﹁しかし、本当に尼になるとは﹂
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﹁私の言を冗談だと思っていたのか? これでも、その、私はかな
り一途なんだ。おまえの遺体は結局見つからなかったけど、たぶん、
もう⋮⋮。そう思ったから、余生はおまえの冥福を祈ろうと思って、
こうして修道院に。でも、本当に良かった。あなたが、生きていて
くれて﹂
﹁おい、泣くな。おまえが泣くとよ、俺はどうしていいかわからな
くなっちまう﹂
﹁すまない。でも、良かった。あのとき自決せずにいて﹂
アルテミシアは目元を手の甲でぬぐった。
蔵人を見上げる視線には深い愛情と安堵が満ちていた。
﹁んっ﹂
蔵人は顔を寄せて彼女の涙を舐め取るともういちど深く、くちづ
けをかわした。
桜色の唇から顔を離す。ふにゃとしたやわらかい顔つきのアルテ
ミシアがくすぐったそうに目を細めた。
﹁それで、これからも修道院で暮らすのか﹂
﹁いいや。それでな、クランド。おまえはこれからも冒険者として
生きるのだろう﹂
﹁ああ、そのつもりだ﹂
﹁なら、私をおまえのクランに入れて欲しい。できるならば、この
先の人生はすべておまえに捧げたいのだ。許してくれないか?﹂
最期の言葉は彼女にしては自信なさげに言葉が震えていた。
飼い犬が主に向かって、これでいいの? と訊ねるように不安と
恐れに満ち溢れた弱々しい所作だった。
﹁ああ、こちらからも頼む。アルテミシア、おまえの力を俺に貸し
てくれ﹂
アルテミシアの表情が、パッと華が咲き乱れたように可憐にほこ
ろんだ。
蔵人は、向かい合って彼女を強く抱きしめる。
それから、今度はアルテミシアがたじろぐほど情熱的なキスを強
1069
く、激しくかわした。
﹁うーん﹂
蔵人は姫屋敷の私室で完全装備のまま寝台に腰掛けていた。
アルテミシアは熱烈なキスが終わったあと、当然のようにこれか
らのふたりの人生設計を語りだした。あのままあの場所に留まれば、
即座にマルコを呼ばれて式を挙げかねない勢いだったので、なんと
か理由をつけて逃げ出してきたのだ。
だが、マルコにはこの屋敷の場所を知られている。
いずれ、彼女が押しかけてくるのは明白な事実であった。
﹁うーん。ちょい、早まったかなぁ﹂
﹁どうされましたか、ご主人さま。さきほどから、深く考えこまれ
て﹂
脇の文机に腰掛けて編み物をしていたポルディナが心配そうな顔
つきで近寄ってくる。
彼女のしっぽは、ペタンと下に垂れ下がり、不安だよお、といっ
ているようだった。
﹁ああ、ちょっと別口でな。しかし、どうすっかなぁ。幽霊ちゃん
も﹂
依然、屋敷の地縛霊騒ぎは解決していなかった。
一日を費やして手に入れたのは、効果があるのかどうかわからな
い聖水一本のみである。
蔵人としては、昨晩の美少女幽霊の謎テクは極上だったので、特
に恐れる気持ちは時間が経つにつれて薄れていた。
だが、忠実なわんこメイドの怒りはとうてい収まりがつかないと
いう様子で、むしろ夜が近づくにつれ彼女の怒りはますます高まっ
1070
ているようだった。
﹁不肖、この私がいる限り雑霊ごときには指一本触れさせません。
ご安心を﹂
ポルディナはメイド服姿のまま、すりこぎ棒を構えるとかわいら
しいガッツポーズを作った。
ああ、なんか和むなァ、ポル子見てると。
彼女のふさふさしっぽは、ピンと背中の方に折り曲げられて立っ
ており、やるよう! やっちゃうよう! という風に勢いづいてい
た。
﹁確か、ここは元々が貴族のお嬢さまが静養なさっていた場所なん
だよな。まあ、詳しい内容を探っている時間もなかったし、一晩中
こうして明かりをつけて起きてりゃなんとかなるだろ。たぶん。明
日は、朝一で教会に強襲を﹂
かけよう、と続けようとしたところで、部屋に配置していたラン
タンの明かりが一瞬ですべて消えた。
同時に、全身の精気が吸い取られたように身体から力が消え失せ
た。
︵やばいっ、これじゃあ、昨日と同じパターンじゃねえかよっ!!︶
﹁ご主人さまっ、ご主人さまっ!?﹂
蔵人は脱力すると前のめりに寝台から転げ落ちて、毛足の長い絨
毯に顔から突っ込んだ。
焦ったポルディナの声が間遠に聞こえる。全身がしびれて舌が鉛
のように重くなった。
どこからか、生臭い風が吹き付けてくる。窓も扉もすべて閉めて
あるはずだ。
1071
まさしく怪奇現象だった。蔵人に駆け寄ろうとしていたポルディ
ナが足を止めて振り返るのが見える。室内の中央部に、ぼやっとし
た白い霧状の物体が突如として出現した。
﹁貴様っ!!﹂
いつもの冷静な口調からは想像もつかないほどの猛った声音が、
ポルディナからほとばしった。
冷気の渦は次第に幼い少女を形どった。
それはひとつに凝り固まって、現世に降りたつと薄く笑った。
ポルディナはスカートを翩翻と翻して走り出した。
一撃でオークを撃殺する破壊力のある拳が空を切って走った。
﹁な︱︱!?﹂
だが、少女は霊体である。
ポルディナは実体のない影を通り抜けると、入口の扉側に片足を
かけ踏みとどまった。重たい特製の木材が衝撃で鋭く軋んだ。
目の前では大恩ある主がまさに身の危険にさらされている。
ポルディナの頭の中は一瞬で怒りの獄炎に埋め尽くされた。
だが、素手ではあの邪霊にダメージを与えることができない。
ウェ
蔵人は金縛りにあったようで、うつ伏せに転がったまま身動き一
つ取れない。
考えなさい、ポルディナ。いま、あなたが成すべきことを。
アウルフ
主の瞳がピクピクと文机の上の小瓶へと向けられているのを、戦
狼族の驚異的な眼力が読み取った。
︱︱そうだ、聖水があった。
ポルディナは両足に力を貯めて、爆発させるように跳躍した。
少女霊が、一瞬ひるんだように見えた。
刹那の動きで瓶の蓋を手刀で割り取る。手にしたすりこぎ棒にか
けまわした。
蔵人に覆いかぶさろうとしていた少女霊が身をよじって振り向い
た。
ポルディナは聖水で清められた八十センチほどの手首の太さがあ
1072
るすりこぎ棒を全力で振り下ろした。
﹁みぎっ!?﹂
確かな手応え。少女は後頭部を殴りつけられると、壁際まで転が
っていった。
ポルディナの狩猟本能が蘇る。獲物を逃がさなためには、まず逃
げ足を封じる。
﹁ちょっ、待って! ねえ、あなたっ、待ってって! ねえ、聞い
︱︱﹂
無言ですりこぎ棒を細く白い足首に叩きこむ。不可視の存在は、
畜生のような悲鳴を上げて動きを止めた。
﹁いだっ、ちょっ! 別に、あたし、悪霊とかじゃなくてぇええっ
! 昔は、この屋敷に住んでたのおおっ! お嬢さまって呼ばれて
てぇえ。えへ、えへへ。でも、このお屋敷中々売れなくてぇ。だか
ら、だからっ、決めてたの。このお屋敷に誰か引っ越してきたら、
いっしょに遊ぼうと思って! ほら、あたし、生前、若い男の人っ
て見たことなかったからあああっ、つい、悪戯心が芽生えちゃって
ぇええっ! へぐっ!?﹂
﹁黙れ、淫売が﹂
ポルディナは無表情ですりこぎ棒を少女霊の顔面に叩き込んだ。
特殊聖
少女の整った顔は、鼻がへし折れて赤黒い液体が飛び散った。
である。
霊体にも確実にダメージを与える神聖付与効果のある、
水
マルコが蔵人に渡したモノは、そんじょそこらのものとはワケが
違った。
﹁いだああっ! じぬううっ、ほんどおっ、死んじゃううううっ!
! やべっ、やべでええっ! あだじが、なぢをじだっていうのお
おっ!!﹂
﹁おまえは私の主を穢した。不埒極まる所業だ。万死に値する﹂
木棒は間断なく少女霊の顔面に幾度も叩き込まれた。
最初は悲鳴を上げていた彼女の顔は、やがては暴風雨のように撃
1073
ち出される連撃によって泥粘土状のグズグズした流動物質に変化し
ていった。
ポルディナは瞳をまったく動かさず、もはや微動だにしない少女
霊の残滓に打擲を延々と続けた。
やがてミンチ状にされた少女霊だったものは、朝焼けが差しこむ
と、まるで最初からなかったように消え去った。
ポルディナの完全勝利である。
﹁ご主人さまっ!﹂
蔵人は朝焼けと共に意識を取り戻した。辺りをゆっくりと見回す。
別段、普段と変わらない状態だった。
﹁そうだっ、昨日の幽霊はどうなった! ポルディナっ、だいじょ
うぶかよっ!!﹂
蔵人は目の前で女の子座りをしているメイドの肩をとらえてガン
ガン揺すった。
ポルディナは、一瞬目を丸くすると、それから真っ黒な瞳に慈愛
をたたえて、聖母のようにやさしく微笑んだ。
﹁だいじょうぶです。ご主人さまには、私がついておりますから﹂
咄嗟に彼女が背中に隠したすりこぎ棒は、赤黒いなにかが乾いて
こびりついていたのだった。
1074
Lv69﹁陽炎の君﹂
時間は蔵人が屋敷を手に入れるひと月ほど前に遡る。
大都市シルバーヴィラゴの喉仏ともいえる物資の集積港ラージポ
イントにてとある事件は頻発していた。
単純にいえば殺しである。
この世界で殺人や傷害は日常茶飯事に起きている。
通常ではそれほど目立ちもしない事件であったが、死者がすべて
身元不明であり、残らず顔面が原型を留めず破壊されていたことが
人々の耳目を集めた。
ラージポイントは、クリスタルレイクを挟んで対岸のセントラル
リベットをつなぐ唯一の港である。
大きな港には人や金や仕事が集まり、それらは常に流動し摩擦す
る。人々は一箇所に集まる富へと、蜜に引き寄せられる蜂のように
凝り固まり、それらをめぐっては争った。
夏も終わりに近づいたある夜、ラージポイントの港湾検査官ブラ
ッドは定時巡回を終えて、相棒の待つ事務所に戻る途中であった。
波止場付近は夏とはいえ、冷えた湖風が吹きつけひどく肌寒かっ
た。
ブラッドは今年で二十五になる中堅の検査官である。領主である
アンドリュー泊から俸給を受け、対岸からやってくる船を検査する
のが主な仕事であった。
位としては最下級に近い役人であったが、それでも荷主や船主か
1075
ら受け取る余録は相当なものでありその職を熱望する人間は多かっ
た。
もっとも、ほぼ世襲制であり、領外の生まれの人間で新規採用は
ここ数年皆無だった。
﹁ううう。それにしても、今日はやけに冷えるなあ﹂
ブラッドは短く刈りこんだ金髪を逆立てて背筋をぶるると震わせ
た。
そもそもが、このブラッド、要領というものがよろしくない。十
五の歳から丸十年熱心に仕事を勤め上げているが、口数が少なく、
また上司に自己主張するのがいまひとつ苦手であった。ゆえに、同
期がすべて事務方に上がって楽をしているのに彼ひとりはいまだ現
場仕事からはなれられずにいた。今夜も、五つも歳下の同僚に上手
く乗せられて、巡回のついでに買い出しもすませてきたところだっ
た。
定時巡回とは決められた時間に決まった場所を、異常がないか確
認する保安業務である。
だが、所詮は形式的な行事であり、適当に流すのが慣例であった。
もし、異常事態が発生したとしても、ただの検査官に事態を収拾
夜警
する能力があるはずもない。酔っぱらいやゴロツキの喧嘩、あるい
は倉庫荒らしや船荒らしを見つけたときは、ナイトウォッチに連絡
して、最終処置は領主の騎士団に任せるのが関の山であった。要領
の良くないブラッドである。こんなやらなくていい仕事であるとわ
かっていても手を抜けない性分だった。
︵我ながら嫌になるけど。でも、最後まできちんと確かめないと気
持ち悪いだよなぁ︶
ブラッドは苦笑しながらランタンを引き回すと、辺りを見回しな
がら足を早めた。
彼自身は昨年没した実父に似ており、百九十を超える身長と人並
み外れた膂力はあったが兵役に取られた二年を除けばたいした武術
の心得もなかった。
1076
船留めのボラードを打ち寄せる波の音が小さな音を立てて反響し
ている。
いつもは気にならないその音が、今夜はやけに大きく聞こえるよ
うな気がした。
︵そういえば、この辺りはおとといも殺しがあった場所じゃないか︶
割と鈍感な部類に入るブラッドでも、やはり深夜に人が殺された
場所へ立ち入るのはなんとなく気味が悪い。
﹁さ、さすがに今日はなにもないよな、うん﹂
ランタンを持つ手が心なしか震えた。
振り返ろうと、ブーツを反転させたとき、光の向こうになにか動
くものがチラリと見えた気がした。
不意に、ガタっと木材が擦れ合う音が大きく響いた。
ギュッと心臓が握りこまれたような悪寒を覚えた。
岸壁の古船の陰になにかがうずくまっている。
ブラッドの頭の中は瞬間的に、無数の想念が浮かび消え去ってい
く。
喉がカラカラに乾く。
思わず見なかったことにして逃げようかと思ったが、意思に反し
て自分の足は物陰のなにかに向かって近づいていた。俺も男だ。覚
悟を決めよう。
﹁誰だ! そこにいるのは!!﹂
ランタンの光を真っ向から浴びせ、いつ飛びかかられてもいいよ
うに身構える。
﹁⋮⋮え、女か?﹂
まばゆい光の中に映し出されたのは、まだ幼さの残る可憐な少女
の寝顔だった。
なにをやってるんだ、俺は。
ブラッドは気づけば少女を抱き上げると実家の二階にかつぎこん
でいた。
急用で仕事を早引けしたのは生まれてはじめてである。
1077
一階で休む実母に気づかれないよう少女を運びこみ、自分の寝台
に寝かせた。
﹁それというのも﹂
少女は身にまとった衣類を見れば乞食そのものであったが、昏昏
と眠る横顔はブラッドがいままで見たことのないほど整った容姿の
持ち主であった。
闇を溶かしこんだような美しい絹のような黒髪。
長いまつげは伏せられているが、おそろしく長く整っていた。
肌の色はやや青みがかっているが、雪のように白く細やかだった。
朴念仁と陰口を叩かれるブラッドでさえ、見ているだけで吸いこ
まれそうな美貌を持った少女だった。歳の頃は十五、六くらいだろ
うか貴族的な雰囲気すらあった。
ブラッドは、生唾を呑みこむと、無意識に伸ばしていた腕に気づ
きを頬を紅潮させた。
これではまるで、酔いつぶれた女を無理やり部屋に引きこんで乱
暴する無頼そのものではないか。
自分は違うと、首を左右に振った。
俺は善意から彼女をかつぎこんだんだ。とにかく、朝まで待って
目が覚めるのを待たねばならない。それが良識ある大人というもの
じゃないか。
ブラッドは自分に強くいい聞かせると、文机の椅子に尻を落とし
て腕組みをした。
なあに。いくら、ドンくさいと小馬鹿にされようが、現場では自
分が一等の古株なのだ。
いざとなれば、休みの二、三日は取ってやるとも。
若造どもに、文句などはいわせるものか。
ブラッドは、なにか神々しいものを眺めるような気持ちで、少女
の寝顔を見ながら壁際の時計を眺めた。
それから、神に感謝する。
夜明けまでは、まだ時間はたっぷりあった。
1078
気づけば、朝の強い光が目蓋の上に降り注いでいた。
﹁しまった!﹂
ブラッドが慌てて腕組みを解いて立ち上がると、寝台の少女が上
半身を起こしたまま目を大きく見開いていた。
パッチリとした切れ長の瞳が黒々と輝いている。
ブラッドの想像通り、いやそれ以上の美しさだった。
とにかく説明をしなければならない。自分が彼女を見つけた経緯
と、部屋に運んだのはあくまで官吏のはしくれとしての正義感だと
いうことを伝えねばならない。
﹁い︱︱﹂
勢いよく椅子から立ち上がったせいか、バランスを崩してしまっ
ていた。
ブラッドは顔面から寝台の毛布へと勢いよく倒れ込んだ。
ばふん、と大きな音とホコリが同時に上がった。
陽光に踊る塵の中で、少女が薄くくちびるを細めたのを目にする。
ひだまりの中の子猫のように、しあわせそうな微笑みだった。
ブラッドはズキンと、強く胸が疼いた。
少女はシズカと名乗った。
彼女がいうには人探しに旅に出ていたが、途中で崖から転落する
事故に遭い記憶を失ったとのことだった。
なんとか、ラージポイント港にまでたどり着いたのだが、そこで
路銀を使い果たしてしまい、ここ数日は古船に寝泊りをし、雨露を
しのいでいたと途切れ途切れに話していた。
昨日は、空腹に耐えかね、いよいよ身体を売ろうか逡巡していた。
そう聞かされたとき、ブラッドは心の底から自分が見つけることが
1079
できてよかった、と胸をなでおろした。
﹁なに、そんなことなら幾日でも泊まっていくがいいさ。幸い、こ
こはオフクロ以外に煩わしいコブ付きもいないことだし。お金なん
か、気にしなくていいさ。これでも、僕は歴とした港湾検査官なの
さ。おまけに、この歳で嫁もいない。ああ、勘違いしないで欲しい。
金には困っていないということを伝えたかっただけさ!﹂
シズカはブラッドが役人だと知ると、素直に目をうるませて、あ
あブラッドさまはお役人さまなのですね。安心いたしましたわ、と
鈴のなるような美しい声でつぶやいた。
自分よりもひと回りも歳下の美少女に素直に褒められて、ブラッ
ドは今日という今日は代々がご領主に仕える役人で良かったな、と
ほとんど生まれてはじめて感謝したのだった。
ブラッドは母親が勝手に家へと女を連れ込んだ︵真実は違う!︶
ことを咎めると思いきや、顔をほころばせて家事のイロハを教えだ
した。
シズカもそれを厭うことなく、従順に習った。後ろ髪を引かれな
がら、昨夜の仕事を片づけるためブラッドは家を出て港湾事務所に
向かった。
終業時刻になると、仕事の虫とされるブラッドが一番早く上がる
のを、同僚たちが目をまん丸にして眺めていた。
夕方、家に戻る頃には母とシズカは仲良く夕餉の支度をしていた
のだった。
﹁お帰りなさいませ、旦那さま﹂
﹁あ、ああ。ただいま戻りました﹂
ブラッドの姿に気づいたシズカが、当然のように深々と身体を折
り曲げて頭を下げる。
白いエプロンが夕焼けの中でまぶしく輝いていた。
シズカは料理も超一流であった。
母が二日目にして、もはや教えることはないね、と太鼓判を押す
ほど基礎がしっかりしていたのだ。
1080
ブラッドが、母以外の女が作った手料理を口にするのは生まれて
はじめてだったが、素直に美味しいと心から賞賛できるものだった。
我ながら芸のない褒め言葉だと自嘲するが、それでもシズカは気
づかない程度に頬をゆるませ喜びを控えめに表現する。ブラッドは、
居候の娘にどんどん傾倒していく自分を止めることが出来なくなっ
ていた。
こうなると、仕事の方にもいつも以上に意欲が増すものだ。
ブラッドが、日頃の鈍重さを脱ぎ捨て、月例会議で業務の効率化
を声を大にして全面に押し出すと、たまたま上役である幹部のひと
りの目に留まった。
その幹部は元軍人であり、性格的に大柄で朴訥なブラッドを一目
見て気に入ったようだった。ブラッドはその幹部に誘われるまま飲
みにいくと意気投合したのだった。上機嫌でシルバーヴィラゴに帰
っていく上役に、あの男をよろしくといわれれば、ラージポイント
の幹部たちも意に沿った方向へと配慮するしかなかった。
元々、すでに幹部になっているほとんどは、ブラッドの昔の同僚
である。
シズカが来て数日もしないうちに、ちょうど夏の区切りとして、
一名を現場主席検査官へと上げる時期に来ていた。万年ヒラである
ブラッドには、もはや関係ないと思われていた地位であったが、幾
人かの候補を叩き落として、その座を射止めたのはブラッドであっ
た。
﹁どうせ、頭打ちさ﹂
などと陰口を叩かれても、現実は位がすべてであった。
もはや、主席検査官になったブラッドに面と向かって逆らう者は
ひとりもいなくなった。
さもあろう。現場事務所においては、彼が絶対的な任命権者であ
る。
わずか、半月前まで彼に買い出しをさせていた後輩たちは、いま
となってはブラッドに犬同然の忠誠心を見せて、競ってしっぽを振
1081
るようになる。
元々が、驕り高ぶることの少ない彼も、これには胸がスカっとし
た。
やがて、事務所にはある噂が流れるようになる。
ブラッドに女房同然の恋人が出来たという話である。
﹁どうせ、二目と見れた顔じゃないだろ﹂
﹁いやいや、激安亜人の年増を買ったって話だぜ﹂
﹁俺は、商売女を引っ張りこんだって耳にした﹂
﹁あの、朴念仁のブラッドが自分で女を引っ掛けれるわけもない﹂
﹁どうせ、激ブスさ。証拠に、家からは一歩も外に出さないらしい﹂
﹁誰も見たことがないのがその証拠さ﹂
突然の昇級も相まって、ブラッドの噂の女の評価は滅茶苦茶であ
った。
普通なら、激怒しそうなものであるが、ブラッドにしてみれば負
け犬の遠吠え程度にしか聞こえなかった。
﹁真実は俺だけが知っているのさ﹂
事務所の部下たちはブラッドがシズカの手作り弁当を広げるたび
に、わざとらしく近づいて、いろんな意味に取れる言葉でからかい
続けた。
﹁いやあ、さすが主席検査官! お熱いこって﹂
﹁おやおや、なんともウマそうな弁当ですな。料理好きは美人って
聞きますが、是非とも未来の主席検査官夫人の顔を一つ拝ませもら
いたいものですな﹂
﹁もしや、オフクロさまのダミー弁当ってのは勘弁ですぜ﹂
﹁まさか! そんな、セコイ手を主席検査官さまが使うはずなかろ
うて﹂
﹁そのうち、おウチの方にも、皆でお邪魔したいものですな。もち
ろん、よければの話ですが﹂
どれほど、侮蔑的な言葉を放っても、眉ひとつ動かさないブラッ
ドに次第に調子乗った部下たちは、皆で押しかけようと、ブラッド
1082
の幻の恋人の化けの皮を剥がそうと半ば脅しのような形で声高に話
しあった。
﹁調子はどうだい、ブラッド﹂
﹁んん、ああ。レガートか。そうだな、普通だよ。いたって普通さ。
特筆することはなにもなし、だ﹂
そんな噂が飛びかう昼休憩さなか、ブラッドの従兄弟で四つ上の
会計事務員であるレガートが顔を出した。
ブラッドは書類から目を離さずに、筆ペンを巧みに走らせながら
返答した。
その、仕事一途な実直さを目の当たりにし、レガートは深く息を
吐いた。
﹁⋮⋮なんだ。どうやら、噂はガセだったようだね﹂
﹁なんの話だよ﹂
﹁とぼけるなって。まあ、いいか。どうせ、僕だって君に女が出来
ポンドル
るなんてありえないと思ってたんだが。でも、少しは可能性に賭け
てみたくなるじゃないか。ああ、僕の百Pよ。さらば﹂
﹁だから、いったいなんの話をしてるんだよ、レガート。女うんぬ
んて、もしや皆が噂してることかい﹂
﹁だって、勘違いもしたくなるじゃないか。万年ヒラだった君が急
に発言するわ、バンバン改善案を出すわで、こりゃもう、女が出来
たとでも思うしかないだろうが! 男が極度に変わるなんて、そう
そう理由はないだろう!﹂
﹁なーにを勝手にキレてんだか。ったく、こっちは業務中だぜ。あ
んまり会計がドンブリ勘定ばっかだって、堂々と遊んでるとまた叱
られるぞ﹂
﹁あのな、もう昼休みだよ。そんなんだから君はますます煙たがら
れるんだ。少しは、女の子と遊んで、頭をやわこくしたほうがいい
ぜ﹂
﹁んん。そうか、もう昼休みか。んじゃ、メシでも食うかな。レガ
ートはどっかいってていいぞ。あー、やっべ、弁当忘れたかも﹂
1083
﹁いい歳して、よくオフクロさんの弁当ばっか、毎日食べれるな。
いい加減飽きないか?﹂
﹁いや、最近はオフクロのじゃなくてだな﹂
﹁いいっ!﹂
﹁は?﹂
﹁従兄弟の僕には強がらんでいいぞ! 君に、女ができうるはずが
ない! ガキの頃から知ってるから! ありえへん世界だから、そ
れ!﹂
﹁⋮⋮さすがに、俺だって怒るぜ﹂
ブラッドとレガートの話を聞いていた部下たちの間にいっせいに
弛緩した空気が流れる。
あちこちから、やっぱな、とか予想通り、といった声がもれ聞こ
えた。
幾人かは、賭けをしていたようで、配当を回す銅貨のこすれる音
が乾いた音を立てた。
噂の根源はもっとも近しい親族の手で白日の下にさらされた。
そして、ブラッドに対し、課員全員から憐憫に似た表情や、半ば
親近感を込められた視線が送られた。
ドンくさいが、たまたま順番で出世した運のイイ男。
ブラッドの評価はそのように定まるはずだった。
ある少女が、事務所に現れるまでは。
﹁あの、ブラッドさまはどちらに﹂
男たちの視線は入ってきた少女へと釘づけになった。
小柄な少女は、白いローブを身にまとい、おずおずとした様子で
頼りなさげに室内を見回していた。
薄い青のウィンプルをかぶっている。
目線を下げて身を縮こませているが、その人並み外れた美貌は隠
しようがなかった。
心細そうに目をしばたかせ、小さなバスケットをギュッと抱えこ
んでいる。
1084
いまにも泣きそうなほど心細げな様子は、男の潜在的な庇護欲を
強くかき立てる。
﹁ちょっと、待て。いま、あの娘、なんて﹂
﹁⋮⋮主官の名前いわなかったか?﹂
﹁は、はは。まさか﹂
﹁ありえんし。あんな美少女が主官の恋人なわけ、ないし﹂
﹁おお、シズカか。弁当届けに来てくれたのか。悪いな﹂
あたりまえのようにブラッドが少女の名を呼んだ。シズカは、心
細げに事務所の中をたたっと突っ切ると、巨躯の男に駆け寄ってい
った。
課員たちは口をあんぐりと開けると、アホヅラを晒しながら、目
の前の出来事を夢だと思いこもうと努力していた。
レガートもその場に固まったまま、親しそうにふたりが話しあっ
ていることを耳にし、自分の脳を疑った。ブラッドとシズカの話題
は家の中の瑣末な出来事で、それらはまるで同じ家に住む夫婦のよ
うに具体的かつ所帯じみた懸案であった。
﹁おい、おい、待って。ちょっと待ってください。もしかして、お
まえ、おまえら﹂
ブラッドは震えながら指差すレガートに、決まり悪げにうなずい
てみせた。
シズカも恥ずかしげに、追従する。
レガートは白目を剥くと、ショックのあまり昏倒した。
あまりにも失礼な反応だった。 せっかく仕事場まで来てくれたシズカをそのまま帰すこともない
だろうと思い、ブラッドは躍起になって自分の業務を説明した。
﹁この、朴念仁が⋮⋮﹂
かたわらではレガートが腕組みをしながら苦虫を噛み潰した表情
で睨んでいる。
む、無視だ、無視。
ブラッド自身も半ば理解していた。
1085
︵こんなつまらねえ仕事の話、若い女が好きなわけねえだろよう︶
だが、仕事一筋に生きてきたブラッドにとって、他に自信を持っ
て説明できる話題などなかった。湾内に入る船の積荷を調べるイロ
ハから、密輸を企む商人を見分ける方法など、実務的なノウハウを
出来るだけ噛み砕いて説明する。
﹁すまない。さすがに、こんな話つまらないよな﹂
ブラッドは巨体を縮こめて、語尾も絶え絶えになった。
自然と大型犬が、主の機嫌をうかがうような、愛嬌の溢れたもの
になった。
シズカは、波止場の検査所を通過する旅人たちを熱心に見ながら、
慰めではない真摯な口調で応えた。
﹁いえ。ブラッドさまが心を砕いているお仕事ですもの。つまらな
わけがないです﹂
﹁シズカ﹂
ブラッドが感動に打ち震えている横で、レガートが、﹁マジかよ。
天然記念物指定だ﹂などとほざいているが黙殺する。
ついでに蹴りをケツに入れておく。
あがっ、と品のない声が聞こえたがそれも黙殺した。
しばらくして、その状態でいるシズカを案じ声をかけた。
﹁ブラッドさまのお仕事が終わるまで、ここでお待ちします﹂
﹁そ、そうか。飽きたら、すぐに教えてくれ。家まで送らせる﹂
﹁ここまで来れたから大丈夫ですよ﹂
シズカはいつもの落ち着いた口調ながら、ブラッドがわかる程度
に眉をゆるませる。
一方、レガートは彼女の声音から冷たい印象を受けたのか、愛想
の良い顔はしなかった。
別に構わない。彼女の良さは、自分だけが知っていればいいのだ。
その日から、シズカは作りたての弁当を港の事務所まで毎日持参
するようになった。
彼女は昼時にブラッドの事務所まで来て湯気の出るような弁当を
1086
渡すと、必ずブラッドが仕事の終わる夕暮れまで船着場でを眺めな
がら待った。
まもなく、気を利かせたブラッドの部下がシズカのために椅子を
用意した。
彼女は検査所の軒先でちょこんとそれに腰掛け、午後を丸々費や
して船着場から降りてくる人々を眺めながらブラッドを待った。
文句ひとついわずに、黙々と男を待つ彼女を見るにつけ、事務所
の男たちがブラッドをやっかみ半分にからかうことは徐々になくな
っていった。
男たち曰く、﹁ウチの女房なら絶対真似できない﹂﹁むしろしな
い﹂﹁そもそもが、想定の範囲外﹂﹁若くて美人であれほど従順な
女がいるなんて、頼むウチのと交換してくれ﹂などは残ったが、ほ
とんどが悪意はないものに変わっていた。
世間の人は、ブラッドとシズカはそのうち正式に婚姻するものと
思っていた。むしろ、もはや籍を入れていると思いこんでいた人間
も少なくなかった。
ブラッドは正常な成人男子である。
むしろ、性欲は人並みに以上に強かった。
シズカが家に転がりこむ前までは適当に女を買って処理していた。
しかし、彼女が家に来て以来というもの娼婦を買うことはなくな
っていた。
なんとなく、彼女に知られたくないという、照れが生まれていた。
勢い、彼は仕方なしに自慰に励むようになった。成人してからと
いうもの、幼稚な自慰行為からは遠ざかってはいたが、代償行為は
必要だった。もちろんネタはシズカであった。
自涜行為に励んだあと、ブラッドは常に強烈な罪悪感と己の不甲
斐なさに苛まれた。
︵なにやってんだ、俺は。ガキみてえに、こんなことばっかり︶
男らしく、シズカを抱けばいいのである。無理やり夜這いをかけ
ても、彼女は自分を拒否しないだろうという自信はあった。
1087
︵けど、そういうのとは違う。シズカとは、ちゃんとしてぇ。俺の
口から、一緒になろうって伝えて、そういうことをキチンとしたあ
とじゃないと、なにかダメな気がする︶
シズカは人探しをしているといっていた。
だが、ひと月以上彼女はとりたてて家を空けることなく、半を押
したような決まりきった生活を行っていた。
早朝、暗いうちから家のことを切り盛りし、昼飯は必ず温かいも
のをわざわざ仕事場にまで届けて、そのあとはブラッドが仕事を終
える夕方までずっと忠犬のように船着場で湖を眺めながら待ち続け
ている。
夜勤時は、ブラッドの母と常に過ごしており、夜は同じ部屋で寝
ているらしい。
まさに、理想の嫁といえる完璧な存在だった。
愛しあった夫婦ですらここまで情のこもった行為はしないだろう。
自分たちは、身体の繋がりこそないが、心は奥底でわかり合って
いる。
ブラッドは心の底からそう思っていた。
︵もう少しで来月の俸給が出るだろう。そうしたら、俺はシズカに
立派な婚約指輪を渡して、人探しなんてやめて、いっしょに暮らそ
うって、ちゃんと伝えよう︶
薔薇色の未来を描くブラッドの元へ従兄弟のレガート訪ねてきた
のは、唐突だった。
﹁どうしたんだ急に。まあ、かけてくれよ、いま茶を淹れさせる。
ああ、そうか。いま、シズカはオフクロと出かけていないんだった﹂
﹁知ってる。だから、来たんだ﹂
普段は陽気な彼はうつむきながら、吐き捨てるようにいった。ま
るで、自分が意に染まぬことを無理やりやろうとしているような、
半ばヤケっぱちな態度であった。
﹁おい、知ってるってどういうことだよ﹂
﹁悪いことはいわない。あの、女と一緒になろうとなんて馬鹿なこ
1088
とは考えるな。いや、いますぐに、ここから叩き出すんだ﹂
﹁あの女って、シズカのことかよ。いきなりやって来て、なにいっ
てるんだよ。おかしいぜ、レガート。理由をいえ、理由を﹂
ブラッドはカッとなりそうな自分を押さえながら、努めて平静に
応えた。
レガートは一族でも変わりものであり、ときには歳下のブラッド
に対し余計なおせっかいを焼くことが多々あった。
だが、いつもなら最初に必ず理由を聞けば説明してくれたのだ。
かつて、二十歳くらいのころ、女をよく知らないブラッドが水商
売の女にハマって俸給を残らず注ぎこんだことがあった。
︵ああ、確かにあのときは俺が間違っていた。あんな安っぽい女に
入れあげて、ろくすっぽオフクロの意見も聞かなかったもんなぁ︶
﹁なあ、レガート。確かに、俺には前科があるよ。けど、シズカは
違うんだ。彼女は家のことはよくやってくれているし、手癖が悪い
わけでもない。飯は美味いし、裁縫の腕前なんて玄人はだしだ。な
により、あいつはオフクロが気に入ってるんだ。だから﹂
﹁そういうことじゃない! ぜんぜん、そういうことじゃないんだ
よ! ブラッド!!﹂
レガートは甲高い声を張り上げると、金色の頭髪をかきむしりな
がら、やや高い頬骨を歪ませた。異様な雰囲気に圧倒され、ブラッ
ドの脇の下を冷や汗が流れた。
﹁理由はいえない。けど、あの女だけはあきらめるんだ。アレが、
おまえと一緒になれるはずがない。あんなやつが﹂
ブラッドはその先をいわせることが出来なかった。
あっ、と思った瞬間には身体が前のめりに飛び出し、手が飛び出
していた。痩せぎすなレガートは居間の椅子ごと板塀に吹っ飛ぶと、
頭を強く打ちつけて鋭く呻いた。
脳髄が沸騰する。
怒りで目の前が真っ赤になった。レガートの顎を殴った拳が熱い。
視界が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて、立ち上がるレガートの
1089
姿が二重にも三重にも増えていた。
﹁おまえになにがわかるっ!!﹂
シズカは毎日俺のために弁当を届けてくれたんだ。
ほおばる飯のなんとうまかったことか。
シズカは毎日俺のために掃除をして部屋をキレイにピカピカにし
てくれた。
毎日、清々しい気分で朝を迎えることができた。
シズカは毎日俺のために心を砕いて衣服を洗濯し、ほつれを繕っ
てくれた。
作業着に袖を通すたび、ほころびの縫い目を見るたびに、一日を
頑張ろうって思えたんだ。
﹁俺は、朝起きて彼女の顔を見るたびに、生きてて良かったって思
えるようになったんだ。
まだ、伝えてないけど、ちゃんと彼女に愛してるっていって、一
緒になろうっていおうって、そう前向きに思えるようになったのは、
彼女と出会えたからなんだっ! それを、おまえはなんだ! レガ
ート!! 彼女のことをなにひとつ知らないで、よくもそんな、淫
売を追い払うような口調で罵りやがって!!﹂
巨体を震わせながら激昂するブラッドに対し、レガートは冷静さ
を取り戻した目つきで口元から流れる血を拭ってつぶやいた。
﹁淫売の方がまだマシだな。金で解決できる﹂
﹁おまえはああああっ!!﹂
ブラッドは子供に戻ったように全身でレガートに飛びつき組み伏
せた。
簡単にねじ伏せられると思いきや、どこにそんな力が潜んでいた
と首をかしげる筋力でレガートは反撃に出た。
机や、椅子を蹴飛ばしながら、床板をゴロゴロと組み合ったまま
転がった。
茶器が跳ねて割れ、壁に掛けた絵の額がガタンと落ちた。
﹁このわからず屋めっ!! 黙って年長者のことを聞いてればいい
1090
んだっ!!﹂
﹁ふざけんなよっ! こればっかりは、いくらレガートのいうこと
でも聞けないからなっ!!﹂
﹁目を覚ませよっ!! 正気に戻るんだっ!!﹂
﹁くっそ、さてはおまえもシズカのことをっ。彼女は渡さないぞお
おおっ!!﹂
﹁馬鹿がっ!!﹂
ふたりの喧嘩は永遠に続くかと思われたが、事態はブラッドの母
の帰宅により中断された。
それよりも、もっともブラッドを打ちのめしたのは、母がシズカ
とはぐれたという一点だった。
﹁帰ってくる。はは、なに。ちょっと、寄り道してるだけさ。シズ
カは若い。そういうこともあるさ。きっと、そうに決まってる﹂
レガートはいたましいものを見るような目でブラッドを眺めた。
そこには、強い同情と憐憫と、長い付き合いによる親愛の情が深
く横たわっていた。
日が暮れるのを待たず、ブラッドは血相を変えて家を飛び出して
いった。
彼が家に戻ってきたのは三日後だった。
すべてを知っている雰囲気のレガートは、事務所にブラッドの長
期休暇を申請した。
一ヶ月後、シズカを探し出すのをあきらめたのか、ブラッドは仕
事に復帰した。
皮肉にもその日から、彼の仕事の能率は、休む前の何倍もアップ
していた。
レガートは、仕事の合間に机の引き出しから、小さな手帳を取り
出すと放心したようにときどき眺めていた。
その黒く小さな手帳には、独特の女の字で暗号のような文章が書
かれていた。
深い学識のないブラッドにその文字を読み取ることはできない。
1091
しかし、シルバーヴィラゴにある王立迷宮探索研究所には、あら
ゆる暗号文に通じる権威の学者がいることを耳にしたことがある。
いまのブラッドの楽しみは、秋になったら長い休みをとってシル
バーヴィラゴに行くことであった。
1092
Lv70﹁ヒトリシズカ﹂
シズカは背後から人の気配を感じると、腰のシャムシールに手を
かけて歩調を早めた。
覆いかぶさるような殺気がどんどんと濃くなっていくのを感じ取
る。
盛り場を通り抜けると、わざと港近くの倉庫が立ち並ぶ暗がりに
進んでいく。
気配が六つになったところで、一気に駆けだした。
慌てたようにあとをつけていた気配が大きく乱れた。
たいした腕ではない。
シズカは走りながら笑みを薄く浮かべると、先のわずかにそった
シャムシールを一気に引き抜いた。金属音に気づいた人影から狼狽
した声がもれた。釣られて幾人もが抜刀する。
︵四人は反りのない直刀。ひとりは、大ぶりのナイフ。もうひとり
は、音がない。なんらかの暗器。おそらくは、飛び道具︶
鞘から引き抜く金属音の長さ、互いの間隔の空け方、足音の大き
さ、空気の流れ。すべてを読み取った上で、敵の武器を把握する。
シズカは、倉庫の小道をグルグルと引き回すように敵影を引き連
れ、もっとも狭い路地裏に入った途端突如として反転した。
常人では、三メートルと離れたら目鼻の位置もわからない距離。
だが、長年の訓練と経験で、シズカの視覚は敵の姿を完璧に捉え
ていた。
人間族の男が六人。
しかも、素人同然と来ている。
1093
いよいよ雇い主も手詰まりになってきたということか。
シズカが身を低くして駆けると、追っていたつもりの男たちは狼
狽の度を強めた。
﹁ひあああっ!﹂
奇声を上げて剣を振り回す男の胸元へと安々と踏み込んだ。
シズカは息を吸い込むと手首のスナップを利かせて曲刀を振るっ
た。
刃は銀色に輝くと水平に弧を描いた。
男は喉元を断ち割られると真っ赤な血潮を吹き出してその場に倒
れ込んだ。
目の前の男が止まったことで、うしろのふたりは急には止まれず
ぶつかってバランスを崩した。シズカは低い位置から鋭い突きを連
続的に行った。
﹁ひょっ!﹂
﹁おぶるっ!?﹂
曲刀は暗夜に垂直に流れると、深々とふたりの喉元だけを的確に
抉った。肉を割った刃を引き戻しかけたとき、前髪がチリチリと焼
け焦げるようなイヤな感覚を覚える。
咄嗟に斜め後方へと飛び退った。
ほぼ同時に、ひゅるひゅると異様な風切り音を立てて、三枚のチ
ャクラムが飛翔した。
肉を打つ音と共に、いましがた倒したふたりの背に円形状の刃物
が突き立つのが見えた。
暗器遣いの遠距離攻撃だ。
シズカはほとんど奇跡的な動きでトンボを切って、飛来するチャ
クラムをかわす。
同時に背後の壁へと、二枚のチャクラムが刺さるのが見えた。
通りの向こう、集団の一番後方で舌なめずりをする男が視界に入
った。
負けん気の強いシズカである。
1094
彼女は咄嗟に壁に刺さったチャクラムを抜き取ると、完成された
フォームでチャクラムを投げ返した。円形の刃はうなりを上げて飛
んでいくと、暗器遣いの右目へと、ザクリとジャストミートした。
﹁ぬろおおおおっ!!﹂
暗器遣いは激痛のあまりにチャクラムをバラバラと落としてその
場に座り込んだ。
﹁どけっ!﹂
﹁あいんっ!﹂
顔を真っ赤にした男は座り込んだ暗器遣いを蹴飛ばした。
前にのめった暗器遣いを飛び越して男は駆けだした。
長剣を天にかざしながら怒涛の勢いで突っ込んでくる。
シズカは足元の小石を拾うと、男の膝頭に向かって投げつけた。
礫は、ビシッと音を立てて膝の皿を見事に砕いた。
巨象のように突進してきた男の状態が崩れる。
シズカは転がりながら曲刀を細かく振るうと男の右足を深く切り
つけた。最期のあがきと、男は手にした剣を振り下ろしてくる。
シズカは持っていた曲刀を惜しげもなく一瞬で投擲した。
曲刀は白く輝いて飛来し、男の心臓へと見事に吸い込まれていっ
た。
﹁が、がはっ﹂
シズカは両手を頭上に上げたまま剣を持つ男の背に回るとおもい
きり腰を蹴りつけた。
男は身体を反転させ、掲げていた剣を手放し白目を剥いて絶息し
た。
素早く柄を握って曲刀を抜き取る。
最後に残ったひとりは、大ぶりのナイフを両手で持ったまま、目
を見開いて震えていた。
まるでなってない、とシズカは思う。
ナイフの特性はスピードと間合いである。
離れて戦うにはまず武器のリーチを考えなくてはならない。短く
1095
とり回しの良いナイフを的確に使うには相手の懐に飛びこむ瞬発力
と度胸が必要だった。
もっとも目の前の男はそのどちらも持ち合わせてはいない。
死は必定であった。
﹁ぬおおおおんっ﹂
自分を鼓舞するには間抜けすぎる雄叫びであった。
これでは、小鳥ですらみじろぎしない。
シズカは、曲刀を水平にすると勢いをつけて振るった。白刃が半
円を描いて流れた。曲刀は深々と男の右脇腹を断ち切ると、赤黒い
内蔵を露出させた。ドロっと、湯気の出そうな臓器が陰圧によって
飛び出してくる。男は泣き喚きながらナイフを落とすと、舌を口か
らはみ出させて四つん這いになって呻いた。最後に地面に手を突い
て泣き声を上げている暗器遣いにトドメを刺した。
曲刀をゆっくり引き抜くと、闇の中から手を打ち合わせる音が聞
こえ、シズカは身体を硬直させた。
﹁いやぁ、お見事お見事。さっすが、シズカ姫。お久しぶりです。
腕前はいっそう上がったとお見受けするです﹂
﹁アルミエール﹂
闇の中から突如としてひとりの女性が気配を感じさせぬまま出現
していた。
夏だというのに厚ぼったいくすんだ赤色のローブを纏い、腰には
イチイの木を削った杖を挟み込んでいる。ところどころピンと跳ね
た金髪はゆるく波打っている。容姿は整っているほうだが、瞳には
虚無的な暗さが色濃く宿っていた。
傀儡のアルミエール。
かつてシズカが組んで仕事をしたことのある殺し屋である。
﹁ボクのこと覚えててくれたデスですか。とってもうれしいです。
んで、ですね。殺りあう前にちゃんと確認しておきたいのですが、
シズカは司徒派を裏切って、太尉派についたですか? シモン・ク
ランド暗殺は、上の上のてっぺーんから降ってきた貴いご命令なの
1096
です。お金を先に貰っておいて、約束を破るコはお仕置きなのです
よ﹂
シズカは無言のまま曲刀を水平に構えると殺気を一段と横溢させ
た。
アルミエールはいま平らげた雑魚とはワケが違う。
それに自分が明白に裏切ったとわかれば、組織はメンツにかけて
もよりいっそうの凄腕を送りこんで自分と蔵人を消そうとするだろ
う。
シズカの頭の中に、蔵人が切り伏せられるイメージが明滅する。
こらえようのない怒りのあまり目の前が真っ赤に染まった。
﹁ふふん。どうやら、噂は本当だったとは。派閥や金ではなくシズ
カもひとりの女だったというわけですね。親友としては、喜んでい
いのか、悲しんでいいのか。とっても困っちゃいますね﹂
﹁黙れ﹂
﹁いえいえ黙りませんですよー。だって、あなた。命令は無視して
目標をわざと取り逃すかと思えば、組織が代わりに送り出した刺客
をこの港で次から次へと始末して。もう、今週だけでも四十人近い
ですよ! いったい人の命をなんだと思っているですか! って、
ボクがいっても説得力なしですね﹂
アルミエールがかわいらしく舌をぺろりと伸ばした瞬間、シズカ
は彼女の脇を走り抜けていた。曲刀は斜めに銀線を描き、アルミエ
ールの身体を両断していた。
﹁おしゃべりしに来たのか、おまえは﹂
シズカは駆け抜けた路地の先で留まると、油断なく敵の動きを注
視した。
真っ二つにされたままのアルミエールは倒れ込むことなくその場
に佇立すると、甲高い笑い声を響かせた。
彼女の傷口からは一滴の血が流れることなかった。
代わりに、大きく裂かれた割れ目から、異様な虫の羽音が唸りは
じめた。
1097
芥子粒よりも小さな羽虫たちは、あっという間に裂かれた傷口部
分を覆い尽くすと、致命傷であった怪我を修復した。
﹁いいデスですねぇ。まるで会話もせずに、いきなり斬りかかるわ
かりやすさ。変わってないデスです。ボクの愛した昔のシズカその
ままデスですねぇ﹂
﹁おまえこそ、あいかわらずの化物ぶりだな。蟲使い﹂
傀儡のアルミエール。
またの名を、蟲使いの赤。
アルミエールは体内にありとあらゆる種類の蟲を無数に飼ってお
り、それらを使って不可能といわれた仕事を完璧にこなしていた。
異様な頻度の依頼を矢継ぎ早にこなすシズカと対をなして、ふたり
は組織の双璧と呼ばれていたのだった。
﹁シズカはボクが死なないことを知っていて、殺そうとするです。
もしかして、愛情表現?﹂
﹁黙れ﹂
﹁釣れないですねえ。そんなかわいげのなさじゃ、目標のクランド
にも愛想をつかされますよ。って、おお。怖いデスですねぇ。マジ
で、ここで決着つけるですか?﹂
クランドの名を出した途端、シズカの闘気がいっそう膨れ上がっ
たのを見て、アルミエールは口笛を吹いた。
その姿は、いまから殺し合いをはじめるというよりも、むしろ久
方ぶりに会った友達と遊びをはじめるような、期待感に満ち溢れて
いた。
﹁おまえの望みどおりにな﹂
﹁別にボクはそんなんなにひとつ望んでいないデスですが。ふむん。
ねえ、シズカ。ボクは別にいますぐ決着をつけたいと思ってるわけ
じゃないですよ。ただぁ、組織に戻ってくれると約束してくれるな
ら、シズカの代わりに目標をサクッと殺ってあげてもいいですよ!
親友の証として!﹂
シズカは無言のままにじり寄ると全身の筋肉を緊張させた。アル
1098
ミエールの眉が、さびしそうに八の字を描いた。
﹁ふうむ、そういうことではない。んんん、ここは思案のしどころ
だっ。んんん、むむむ。仕事をとるか、友情をとるか。ふんむむ。
仕事一筋に過ごした青春の日々。そんなこんなで楽しい出会いもな
く、いまだボクは清い身体のままなのです。ふぬぬ。うん。決めた
! 決めました! ボクはイチ抜けましたっ! って、ここは剣を
下ろしてくれるポイントですよっ!!﹂
﹁殺し屋の言葉など信じられるか﹂
シズカは鋭く吐き捨てると、アルミエールをねめつけた。
﹁ふぬううっ。そいつは、諸刃の刃なのさ、シズカっち。真実とい
うことを証明する為に、うーん。うーん。どうしよっ、どうすれば、
ボクのことを信じてくれっかなぁ。そだっ!﹂
アルミエールはしばらく自分のこめかみを人差し指でグリグリと
押していたが、不意に胸元から細長い横笛を取り出すと地べたに放
り投げて見せた。
からん、と軽い音が闇夜に響く。
シズカは自分の足元まで転がってきたそれを注意深く拾うと、ジ
ッと目を凝らし、口を大きく開いてあっけにとられた。
﹁⋮⋮まさか。本気なのか﹂
﹁本気よ、本気。マジと書いて、本気と読むのさー。ボクは友情の
ためなら組織も裏切っちゃうのだぜー。いぇい、いぇい!﹂
アルミエールは両手を上下に振りながら、軽やかに踊り腰を振っ
た。彼女がシズカに向かって放ったモノは、蟲使いの根幹をなす蟲
笛であった。
彼女の身体の主要な兵器たる蟲はこの笛によって統制されており、
これを相手に渡すということは降伏したことと同義であった。蟲使
いにとって蟲笛は命そのものであり、親兄弟や夫婦ですら指一本触
れさせないのが常識であった。断じて軽々しく敵対する相手に委ね
るものではない。シズカが驚愕するのも無理はなかった。
﹁偽物かもしれない﹂
1099
シズカの否定の言葉も心なしか力を失っていた。
﹁あららー。そういうこというんだー。じゃあ、とっておきの情報
ゴッドミュラー兄弟
を派遣するそうです。気になるなら、い
をシズカにプレゼンツ。近日、組織はシモン・クランド討伐に、あ
の
ままでのように毎日港を見張ることだねん。んじゃ、ボクはこれ以
上シズカ姫に嫌われたくないから姿を消すよーってことでよろしく
です。もし、組織のやつにボクのこと聞かれたら、殺したっていっ
といてくださいです。んじゃ、今度会った時は、君の恋愛成就した
話を聞かせてくれたまえ! あ、笛の方は実家に着払いで送ってお
いてくださいです﹂
アルミエールは投げキスをすると軽やかに路地裏を去っていった。
とりあえずの危機は去ったといえよう。しかし、とシズカは深く
憂悶する。
﹁ゴッドミュラー兄弟だと?﹂
長らく殺し屋稼業を続けていてよく耳にする名前だった。
兄を豪腕のイゴル。
弟を烈火のミコラーシュ。
この世界で殺し屋が名高いのは、百害あって一利なしである。
なぜならば、それだけ有名であるならば、暗殺方法や癖などを知
られ対策を立てられやすいからである。現にふたりの得意とする武
器は、
兄が大金棒。
弟が長剣であると知れ渡っているのだ。これだけ名高い割にはふ
たりが獲物を取り逃がしたという話を聞いたことは一度もなかった。
いや、そもそもゴッドミュラー兄弟にとっては、名前や得物を知
られていようが関係ないのである。
依頼された時点で、対象は逃げ切ることが不可能であると思い悩
み、自殺することすら多々ある。組織の幹部からは、半ば恐れと憧
憬を持ってふたりの名は一種の呪いのひとつであると噂されていた。
シズカは深く息を吸いこむと曲刀を振るって血糊を壁に叩きつけ
1100
た。
︵だが、なにがあっても殺らなければならない。どうあっても。例
え、不可能であるとしても、絶対に︶
蔵人を殺すのは自分である。
﹁そうだ。ほかの誰にも渡すもんか。あいつは、私のものだ﹂
天を覆っていた黒雲が動き、裂け目から月が顔を出した。
﹁クランド﹂
男の名を口にする。それだけで、シズカの胸にはあたたかいもの
が確かにあふれてたちまちいっぱいになった。
シズカは白く澄み切った月の光をまぶしそうに見上げると、辺り
に散乱した屍を眺め、これからどうやって痕跡を隠そうかと思いを
巡らせた。
殺し屋たちの死体を処理したあと、まず最初にシズカが考えたの
はどうやってゴッドミュラー兄弟の到着を確認するかということだ
った。単純に考えれば港を張っていればいいだけのことである。
ただ、ここ数日であまりに多くの敵を排除してしまった。今回も
時間の余裕があまりなく、顔を潰して人相を消す程度のことしかで
きなかった。港の船着場付近で上陸する敵を事前に察知し、排除す
ることは今後はさらに困難になっていくだろう。
﹁やはり、一番いいのは港湾検査事務所に潜りこむ方法か﹂
領主の息がかかった検査官に上手く渡りをつけられれば、自然な
形でやってくる敵影を先に発見することができる。ひいては蔵人の
身の安全に繋がると思えば、苦労とも思われなかった。組織の中で
は常に顔を隠していたせいか、シズカを瞬間的に暗殺者と見分けら
れる人間はほとんど残っていないだろう。それでなくても、路地裏
1101
で殲滅した殺し屋もどきは人材の払底を露わにしていた。
シズカはまず、港湾関係の人間が出入りする酒場で、特に身入り
のいい検査官がよく出入りする店に酌婦として入りこんだ。照度を
落とした店で、濃い目の化粧と香水で装えばシズカもいっぱしの商
売女として不自然はなかった。シズカは目立たないように、わざと
夜の蝶たちに埋没するようなくすんだ色を選び、常に控えめに装っ
た。
数日の努力の結果、港湾検査官でもっとも女に免疫のなさそうな
男をピックアップすることに成功した。
男の名はブラッド。なんでも、検査官としては古株だが、どうに
も煮え切らない男で、押し出しの弱さにかけては比類がないとのこ
とである。酒の席でここまで小馬鹿にされるならば、まずそれほど
目端が利く方ではないだろう。
シズカの策は比較的簡単に成功した。ブラッドは単純にシズカの
お涙頂戴の作り話にほだされると、ろくに調べもせずに家へ留まる
ように懇願した。
シズカは、自分の容姿が男どもの性的欲求を引くものだと十分承
知していた。彼女自身は、それほど気に入ってはいなかったが、子
供っぽい声も目つきもなんとなく男の好き心を誘うといままでの経
験上嫌というほど理解していた。彼女が猫なで声で甘えれば、男は
断ったり無碍な態度に出れなくなるのである。
シズカは出来るだけ男の願望に沿うよう、いわゆる都合の良い嫁
を装うため、炊事、洗濯、掃除に全力投球した。彼女の家事スキル
は幼い頃から下女に叩きこまれた貴族らしからぬ年季の入ったもの
である。元々大甘だったブラッドの心は簡単にシズカの手中に収ま
った。甲斐甲斐しく振舞って持ち上げてやれば容易に骨の髄までク
ラゲのように骨抜きになってしまうブラッドを見て、シズカは半ば
軽蔑までしていた。
︵その点、クランドはぜんぜん違った。あいつは、いつだって自分
に正直で、やりたい放題だったな︶
1102
シズカは毎日ブラッドに手作り弁当を届けに行き、おまけに帰り
を忠実に待ちわびるという貞女のフリをしながら、毎日自然な形で
港の船着場を見張ることに成功した。
そして、運命の時はついにやってきたのであった。
船のタラップから悠然と降りてくるふたりの戦士が視界に飛びこ
んできた。
最初に目を引いたのは先を降りる男の驚くべき巨体であった。
確実に三メートル近い巨躯は、近づかなくてもその凶暴さが窺い
知れた。
衣服の上からでもわかるほど鍛え上げた身体の筋肉は鉄のように
強靭であるとわかった。
刈りこんだ赤毛が逆だっている。落ち窪んだ眼に、太い鼻っ柱。
凶相である。
太い猪ノ首は頭をがっしりと支え、少々の打撃ではビクともしな
いだろう。
背には、大きな棺桶のような箱がくくりつけてあるのが見えた。
音に聞こえた大金棒が隠されていると見て取れた。
もうひとりは、痩せぎすであはあるが、かなりの長身であった。
燃えるような赤い髪に、狡猾そうな瞳が辺りを子細に窺っている。
腰に佩いた剣は一メートル近く、地に触れそうなほど長かった。
こと、イゴル・ゴッドミュ
のミコラーシュ・ゴッドミュラ
豪腕
烈火
おそらくは、巨躯の男が兄の
ラー。
痩せぎすのほうが、弟の
ー、と推測できた。
シズカはふたりが悠然と歩きながら、近場に宿を取るのを確認す
ると、何重にも人を介して、ゴッドミュラー兄弟に対して呼び出し
をかけた。とかく腕の立つふたりが、堂々たる挑戦を避けるはずも
なく、決戦は深夜の零時ちょうどに、港のもっとも人気のない三十
番埠頭と定められた。
﹁おそいな。もう零時はとっくに過ぎている﹂
1103
イゴルは大樹のような太い腕を組みながらイラついた声を出した。
痩せぎすの男は木箱に腰を下ろしたまま落ち着いた様子で小瓶の
酒を煽っている。クリスタルレイクから吹きつける風が湖面をゆっ
たりと撫でつけさざなみを起こしていた。
周囲は繁華街から離れており、外界から隔絶した文字通りの別世
界だった。
イゴルは小さな足音を耳にすると、太い眉をピクリと神経質に動
かした。月は夜空に大きく浮かんでいて視界は良好だった。やがて、
闇の向こうから無警戒なとたとたと足音が聞こえてきた。
﹁娼婦か。おい、女。いまは、おまえになんぞ用はない。失せろ﹂
肌をやたらに露出し、濃い紫のヴェールをかぶった女は、イゴル
に大声を浴びせられると怯えたように身を固くした。胸元で抱えこ
んでいる小さな横笛が震えている。うつむいているので人相までは
わからないが、夜目にも輝く白い肌とムッチリとした肉づきは男の
性欲を刺激した。
﹁まあ、シズカが来るまで時間はかかるだろう。それによイゴル。
俺たちの名を聞いてもうとっくに逃げ出してるかもしれねえぜ。軽
く一発やって落ち着こうじゃねえか﹂
痩せぎすはあからさまに目尻を下げて娼婦に近寄ると、細い腰を
抱こうと腕を伸ばす。縮こまっていた女は媚びるようにくちびるを
ゆるませた。
﹁おい、ミコラージュ。おまえは、また勝手なことを﹂
イゴルがきつくたしなめようとした瞬間、娼婦の持っていた横笛
が鋭い弧を描いた。
﹁かっ、は﹂
横笛の先端は二つに割れると鋭い白刃と化し、まっすぐに無防備
な男の喉を貫いたのだ。
刃の先端は深々とやわらかな喉元を抉ると血潮を飛散させた。
ヴェールの中で真っ赤に塗られた唇が妖しく蠢いた。
﹁ぬおおおっ!!﹂
1104
片割れの死を確認するやいなや、イゴルは背にした大金棒を一瞬
で抜き取ると、女に向けて全力で振るった。夜気を切り裂いて、び
ょおお、と轟音が走った。
大金棒は女の衣服を巻き取ると水平に流れた。
娼婦は軽やかに背後へ降り立つと抜き取ったシャムシールを油断
なく構えていた。闇のように黒一色の装束を纏っている。
烈風鬼
れっぷうき
だったか。まさか、件の凄腕が
黒髪に黒目、ご丁寧に鞘と刀身の色も黒一色に統一してあった。
﹁音に聞こえた二つ名は
女とはな。こいつは油断したわい﹂
シズカはロムレスでは通常男性名であり、古くは初代ロムレス王
に仕えた四名臣のひとり、シドゥルカ・ローグを人々は想起するも
のだった。痩せぎすの男を安々と屠ったのは、それを逆手に取った
シズカの作戦であった。
弟を殺されたのである。
普通なら激昂しそうなものではあるが、イゴルは豪快に笑い飛ば
すと、何事もなかったように大金棒を垂直に構えた。
直感的に、この男の腕は並々ならぬものだと感じた。
イゴルの持つ大金棒はシズカの胴体と同じ程度の太さであった。
常人では持ち上げることすら不可能な武器を軽々と振り回してい
る。
男の持つ膂力がずば抜けていることを示していた。
﹁さあ、真っ向勝負といこうではないか。真実、儂の血をたぎらせ
る敵を探していたところだ。女であったが手抜きはせぬぞ。いざ、
参る!!﹂
イゴルは巨体に似合わぬ速さで間合いを詰めると、大金棒を流星
のように振り回した。
轟音が闇夜に響いた。
大金棒はシズカの背後にあった古船を軽々と吹き飛ばすと、天へ
と打ち上げた。
1105
破片となった木材が周囲に飛び散って粉塵を舞い上がらせた。
︵一度でも喰らえば、終わりだな︶
シズカは少しも恐ることなく向かい来る殺戮の嵐を身をよじりな
がら次々とかわした。
﹁ふん! ふん!﹂
一方、イゴルは風車のように大金棒を小枝のように軽々と振り続
ける。これほどの巨大な重量を持つ得物を延々と使い続ければ、ど
れほどの猛者でも疲れを見せるものだが、イゴルは汗ひとつかくこ
となく快調に攻撃を続ける。
いや、それどころか大金棒を振れば振るほど、速度は徐々に上が
っていった。
攻撃をかわしつづけるシズカに焦りの色が生まれはじめた。彼女
にしてみれば、一昼夜攻撃を避け続ける程度のスタミナはあるが、
このまま無意味なダンスを続けても意味はない。また、朝になって
人目に触れるようになれば、この港町を去らねばならないことにも
なりかねない。それは困る。めっぽう困るのだ。
︵私がこの街で敵を消し続けなければ、やがては刺客がクランドの
元にたどり着く。あいつの元に、敵の刃が︶
脳裏の中で蔵人が切り裂かれるイメージが沸き立った。胸元がざ
わつく。目の前に真っ赤な火花がほとばしると、制御できない怒り
が突如として爆発した。
シズカはほとんど衝動的に叫び声を上げていた。
﹁許さない! どんなことがあろうとだ!!﹂
﹁ぬおっ!?﹂
避け続けてきたシズカは瞬間的に攻勢に回った。
大きく避けては反撃につながらない。
紙一重の距離だ。
攻撃を恐るな。
死に抗うのだ。
シズカ、おまえが命よりも大切なものを守るには、すべてを捧げ
1106
て挑まなければならないのだ!!
光よりも早く突き進み、剣を構えた。
暴力の嵐が髪の毛ひとすじの差で振り抜かれる。
﹁ばかなッ、この距離で!?﹂
敵の攻撃が失敗に終わったとき、すなわち最大の反撃のときなり。
イゴルは大金棒の一撃をかわされたことで無防備な身体をシズカ
の前に晒した。
シズカは一陣の風と化すと巨躯の野人の左脇腹をえぐりながら駆
け抜けた。
旋風のような斬撃がイゴルの左半身にリカバー出来ないダメージ
を与えた。
だが、この程度ではまだ浅い。決定的な一撃をシズカは欲する。
トップスピードからその場に固着したかのように足を留める。
振り返ったイゴルの顔が恐怖に染まった。
無理やりな動きで身体のバランスを崩しながらも必死で反転しよ
うとする。
もはや、攻撃の意思はなく、彼は大金棒を盾にして必死に身体の
中心線を守ろうとしている。
﹁ローグ流。壱の秘太刀﹂
ふる
シズカの刀法は古代の剣聖シドゥルカ・ローグから伝えられたも
のっと
っとも旧く荒々しい、それでいて洗練された必殺の業だ。
古法に則り独特の歩法と呼吸、研ぎ澄まされた動きで剣が送り出
される。
シズカの腕は素早く縦に振り抜かれた。
はがねだ
銀線は美しい軌跡を描き、天を流れる星の輝きを残して刻まれた。
﹁鋼断ち!!﹂
イゴルの持つ金属製の棒へと涼やかな音が吸い込まれていく。
細く輝く白い破線が大金棒の真ん中を真っ直ぐ走った。
﹁あ、ぺ?﹂
鋼の棍棒を盾にして身を守ろうとしたイゴルの身体。
1107
まるでスライスされたチーズのように、頭上から股下まで線を引
いたように真っ二つに割れると、左右に分離して地面に倒れ込んだ。
ふたつになったイゴルの背中の箱から奇妙な影が飛び出した。
シズカは予期していたように、身体をそらすとその物体に斬りつ
けた。
﹁はぎぃっ!!﹂
影は材木の積まれた山に矮躯を叩きつけると奇妙な悲鳴を上げた。
烈火
のミコラーシュよ﹂
﹁最初から妙な殺気を感じていたのだが。なるほど、おまえが奥の
手か。
小人は切り裂かれた胸の傷を覆うと、口元から血をあふれさせな
がら不敵に微笑んでみせた。
﹁さすが双璧の一よ。俺たちの最後っ屁までかわすとは。腕前は本
物だったようだな。なぜだ。なぜ気づいた﹂
﹁最初に斬った男はさすがに手応えがなさすぎた。それに、イゴル
が最後の一撃で守りに入ったのは至極不自然。あれだけの、厚みの
箱があればやつは性格的にも、防御より返しの一撃を考えるはずだ﹂
﹁そこまで、読まれているとは。確かにイゴルの膂力と耐久力を考
えれば、アンタを攻撃しようとするのが自然だ﹂
﹁振り返りざまに一撃を放てば、少なくとも相討ち程度にはなって
いたかもな﹂
﹁勝負に、かもは、ねえ。イゴルがピンチのときは、箱に潜んだ俺
が烈風のように反撃に出る。この、毒針を使ってな。あいつは、弟
想いすぎたんだ。クソ兄貴め。⋮⋮さあ、おしゃべりはおしまいだ。
殺し屋らしく、ちゃんとケジメをつけな、お姫さま﹂
シズカは無言でミコラーシュにトドメを刺すと、玉のような汗の
びっしり浮いた額を手の甲でぬぐった。
一瞬の弛緩のあと、彼女は超人的な聴覚で倉庫の影で動く物音を
聞き取った。
﹁出てこい。逃げる素振りを見せれば、殺す﹂
シズカの殺気に耐え切れなくなったのか、物陰からひとりの男が
1108
姿を見せた。
男は、シズカが居候をしているブラッドの従兄弟のレガートであ
った。
﹁そうか、そういうことだったのか。要するに、おまえは人のいい
ブラッドを騙していたってわけか﹂
レガートは憎しみのこもった瞳でシズカを睨みつける。
シズカは表情を変えないまま、曲刀から血糊をぬぐうと、うん、
と伸びをして、それから小さくあくびをした。レガートがあっけに
とられた状態でいるのを無視して、隠してあったローブを羽織る。
そこにいるシズカは、先ほどの闘争からは無縁のタダの小娘に早変
わりしていた。
﹁おい。まさか、このままなにごともなかったように、ブラッドの
元で居候を決めこむつもりなのか﹂
﹁余計なことをいえば殺す﹂
﹁ふ、ふざけんなよっ!! あいつは、おまえがこんな女だなんて、
これっぽっちも知らないのにっ。それをっ、それをっ!!﹂
﹁黙れ﹂
﹁ブラッドはおまえに本気で惚れこんで、嫁さんにするつもりなん
だぞっ!! あいつを騙して、あんたはなにひとつ心がいたまない
っていうのかよっ!!﹂
﹁黙れ!!﹂
シズカの胸の内で、ブラッドの無垢な笑顔がまぶしく輝いた。
すべては蔵人のためと割り切っていても、彼の人を信じきった、
馬鹿みたいに真っ直ぐな気持ちを思えば、少しだけ胸が熱くなった。
﹁頼むよ、シズカ。もう、あいつのトコロに戻るのはやめてくれ。
ブラッドは、あんたのことを、まるで女神さまみたいに思っている
んだ。後生だから、頼むよ﹂
シズカは跪いて、懇願するレガートの脇を無言で通り過ぎた。
ふたりの距離が離れて、遠くの夜空で小さな星がまばゆくまたた
いた。
1109
﹁畜生! この、人殺しがっ!!﹂
シズカは胸を抑えると目元を指先で覆って走り出した。
流れる涙が小さな星屑のように散らばって、雑踏に消えていく。
夜の喧騒がひときわ大きく耳についた。
クランド、もうやだ。
いますぐここに来て、私を抱きしめて。
彼女はいまだ、血塗られた螺旋から降りられずにいた。
たったひとりで。
1110
Lv71﹁日記﹂
一日目
あまりに退屈なので今日から日記をつけようと思う。
目標の隙を見て手帳に書き記す。
もちろん、暗号文だ。どうせ、誰も読まないだろうが。
両足を折損しているのでロクに動くことができない。
目標を下男のように使って、ほどほどのところで処分しようと思
う。
疲れたので今日はここまで。
二日目
目標は男のくせにくだらないことをベラベラとしゃべっている。
一日無言で通す。
話すのは命令するときだけ。
今日は身体を布で拭かせた。
力の加減を知らないのかやたらと強くこする。
私の肌を見て興奮しているようだ。
処理はしない。クセになるから。
今日はここまで。
1111
三日目
目標は思ったより隙を見せない。
殺気を消して近づいても後一歩のところで気づく。
懐に入れば簡単だと踏んでいたが、計算違いだ。
足さえ動けば造作もないのに。
傷が疼く。
眠れない。少し熱が出たようだ。
今日はここまで。
四日目
朝起きると目標が目の前にいた。
反射的に殴ってしまう。
目標がいうには、一晩中傷を冷やしていたそうだ。
うかつだ、気づかないなんて。
そういえば、熱が引いている。
愚かな男だ。お前の命は私の気分次第なのに。
今日はここまで。
五日目
今日も肌を拭かせる。
この中は案外と熱がこもるくせに、明け方は冷え込む。
男は私の肌に布を当てながらひどく興奮している様子だ。
そういえば、最後に処理してやってから、五日以上経っている。
襲われてはたまらないので手で処理した。
またくだらない世辞をいっている。
今日はここまで。
1112
六日目
男は自分の故郷の話をしだした。
どんな遊びをしたとか、どんな食べ物が好きだったとか。
私の反応はお構いなしに一方的にしゃべっている。
どうやら、女性とほとんどつきあったことがないようだ。
普通男は、どれだけの数を弄んだかを自慢したりするのに。
正直なのか、馬鹿なのか。
ふむ。
少し、かわいそうになった。
明日からは、少し暇つぶしに相手してやるか。
今日はここまで。
七日目
今日は一日中雨。
屋根がある分、いくらかマシだ。
夕刻より少し熱が出た。
これは、男が小用に立った際、隙を見て記している。
私が喉が渇いたというと、谷川まで行って冷たい水を汲んできて
くれた。
たまには褒美を与えよう。手で処理してやる。
うれしそうな顔をしていた。
今日はここまで。
八日目
1113
今日も朝から雨。
暇なので物語をさせた。
この男の故郷の物語だ。軟弱な話をしだしたのでダメだしをして
やった。
ちょっと泣きそうな顔になった。
ふむ。
男はならばと、故郷の武将の話をしだした。
オダノブナガ、タケダシンゲン、ウエスギケンシン、モウリモト
ナリなどだ。
話をさせてみると、意外と男に教養があることがわかった。
少なくとも下級層の、農民や職工にはない蓄積された知識を感じ
る。
正直見直した。
この男の故郷では、騎士のことをサムライというらしい。
なるほど、話に出た四名の武将は確かにサムライらしい大貴族の
騎士にふさわしい。
この男もサムライの末裔だといった。
ならば、納得がいく。下級貴族ならある程度剣も使えるし、教養
もある。
だが、不思議なことにこの男、文盲らしい。
謎だ。
私は、タケダシンゲンが好きだ。最期がはかなすぎる。
明日はセタに旗を立てよ、か。
今日はここまで。
九日目
今日も肌を拭かせた。
背中だけ。前は自分で拭いた。なんだか気分が乗らない。
男はやたらと私の身体に触りたがる。
1114
抱きたいのかと思ったが、そうではないらしい。
よくわからない。
手をぎゅっとされた。
バカみたいに広くて分厚い大きな手だ。
亡き父上を思い出した。
ダメだ。使命を思い出せ。
気分が下降する。
今日はここまで。
十日目
暇なので唄を歌わせた。
意外と上手でびっくりした。ドミニクが聞きつけて来て、踊りだ
した。
小さな子はやっぱり無邪気だ。
男は唄を褒めたら少し調子に乗ったので、調子に乗るなと、おも
いきりけなした。
泣きそうな顔になった。かなり楽しい。
ドミニクが去ったあと、褒美に口で処理した。
夜半、寄り添って眠る。
これは、月明かりの中書いている。
そもそもこの納屋は酷すぎるような気がする。大穴が空いたのだ。
男にくっつくとあたたかい。
もう眠る。おやすみ。
十一日目
男が戸口でヘレンと談笑していた。
無表情な彼女が薄く笑っている。
ひどく気分が悪い。
1115
今日は日記を書く気分じゃない。
十一日目
今日は一言もしゃべらなかった。
十二日目
今日もしゃべらない。
十三日目
いやだ⋮⋮。
十四日目
あまりにみじめったらしく謝るので許してやった。
仮にも夫婦であることを思い知らせるため、散々罵倒した。
かなりすっきりした。
けど、これだけではかわいそうなので、口で抜いてやった。
七度目でようやく打ち止めだ。
久しぶりに肌を拭かせる。目が獣のようにぎらついている。変態
め。
夜半、どうしても気持ちが高ぶって、三度も慰めてしまった。
声を聞かれなかっただろうか。少し、心配だ。
月明かりで記す。
久しぶりにぐっすり眠れそう。
今日はここまで。
十五日目
1116
今日は朝から快晴。
身体を清めるために小川へと移動した。
男は楽々と私を担ぎ上げると、鼻歌混じりで歩き出す。
少し日差しが暑いが冷たい水が気持ちよかった。
こういう日もたまにはよい。
足の傷はまだ痛む。
気分がわずかに晴れた。
十六日目
、
将軍
、
参謀
、
勇者
、
騎兵
、
歩兵
男が軍盤を持ってきたのでルールを教えてふたりで差した。
王
知っての通り、軍盤とは六つのコマ、
、
を使って相手の陣地を先に占領する古来よりロムレスに伝わるゲ
ームだ。
私もかつては女だてらに良く兄とこの軍盤を楽しんだ。
いささか自信があったが、男は意外と飲みこみがよく、
ルールを覚えるとある程度かたちにはなりつつあった。
だが、さすがにまだ勝負といえるレベルには到達しない。
ふむ。
明日から、少し鍛えてやろう。
十七日目
今日も軍盤を終日行う。
男はようやくコマの動かし方を覚えたようだ。
私が勝つたびに、歯噛みして悔しがる姿を見ているとすごく楽し
い。
ふふ。
1117
明日も揉んでやろう。
十八日目
おそらくマグレだろう。マグレだろうが、男が軍盤で私を負かし
た。
ま、まあ、たまにはそういうこともあるだろう。
負けてばかりではゲームはつまらないしな。
こいつが飽きてしまうと、指す相手がいなくなってしまう。
そう。わざと。
私が負けたのはわざとなんだ。
明日は、もう手を抜かない。
メタメタにして、真の実力を見せつけてやろう。
ふふ。
あいつの泣いて悔しがる顔が目に浮かぶぞ。
十九日目
メタメタにされた。
なんでだ、ありえない。こんなことないだろう。
ちょっと、待て。少なくとも私はこのゲームを十年近くやりこん
でいる。
ルールも定石も知り尽くしている!
はは、そうか。
あれだな、素人がメタメタに動かすから、
私のような正道を行くものはマレに混乱するのだ。
うう。
ちょっと、涙目になってしまった。
明日こそは、どっちが上か頭に叩きこんでやる!!
1118
二十日目
どっちが上か叩きこまれた。
気持ちが異常に沈む。
待ってといったのに、待ってくれなかった。
私は女なんだぞ。手加減してくれてもいいじゃないか。
あんなに笑い転げるなんて。
クランドなんか、嫌いだ。
二十一日目
誰だ、軍盤なんてつまらないゲームを考えたバカは。
もうやらない。
クランドは愚かだな。こんな幼稚なゲームにのめりこむなんて。
そもそも、私のような淑女はこんな野蛮な遊びはしないものだし。
やらないし、好んだ事実なんてなかった!
なかったんだ!
二十二日目
軍盤のコマとボードを破壊した。
こんなものがあるから争いになるんだ。
これでよかったんだ、これで。
二十三日目
クランドと口論になった。
ささいなコトだ。
きっかけがなんだったか、わからない。
足が自由にならないので、気分が悪く、つい当たってしまう。
1119
最終的には、私が一方的にクランドを罵るカタチなってしまった。
あいつは、悪くない。
すごく、ひどい言葉をぶつけてしまった。
後悔しているけど、うまく謝れない。
二十四日目
上手くクランドに謝れない。
気を使っていつもどおりに接してくるが、無視してしまう。
私が返事をしないたびに、クランドの顔が歪む。
こいつは、やさしいやつだ。
見た目はガサツそうなのに、肝心なところはひどく繊細だ。
仲良くしたいの。
でも、うまくできない。
やだよ、こんなの。
二十五日
クランドがヘレンと物干し場で仲良く喋っていた。
頭の中がカッとなって罵りそうになってしまったが、なんとかこ
らえる。
どうしよう、すごく胸が痛い。
痛い、痛い、痛いよ。
やだ、やだ、やだ。
二十六日目
書けない
二十七日目
1120
書けない
二十八日目
書けない
二十九日目
もうヤダ。
三十日目
カッとなってドミニクを怒鳴った。
完全にやつあたりだ。
クランドが怖い顔で私を睨んだ。
なんで、ちがうよ。ちがうんだよ。
許して。私、そんなつもりじゃなかったの。
三十一日目
機嫌を取ろうと処理してやろうとしたら、手を払われた。
すごく屈辱なのに、怒りよりも悲しみが大きい。
ああ、やだよ。どうすれば、いいの。
こういう場合。
こんなとき、どうすればいいか、誰も教えてくれなかったの。
どうしよう。
どうしよう。
三十二日目
1121
外は小雨。
クランドが外出している際、なんとなく涙がこぼれだした。
あいつのまえでは泣かないようにしていたのに、遊んでいたドミ
ニクに見られた。
ドミニクは、気を使って私を慰めてくれた。
ああ、私はこんなに弱い女だったのだろうか。
こんな小さな子に気遣われるなんて。
三十三日目
仲直りできた。よかった。
それから、それから、キスをした。
すごくやさしかった。
いつもどおりにしていたが、うまくごまかせただろうか。
うれしい。すごくうれしい。
きょうはいい日。
三十四日目
足の痛みはだいぶ引いたが、直接地面につけるとじんじんとする。
いままで不覚を取ったことがないとはいわないが、ここまで重症
なのは、はじめてだ。
クランドは気を使っていろいろと話しかけてくれる。
今日で、三十四日目だ。
なんだか生まれたときからずっとこうしているみたい。
朝起きて、あいつがいないと、すごく不安になる。
別に、怪我治らなくてもいいかも。
ここにいる限り、外の世界のことを考えなくてもいい。
すごく、楽だ。
1122
こんな日がずっと続けばいいのに。
三十五日目
風邪を引いたかもしれない。
頭がぼーっとする。
上手く字が書けない。
眠い。
クランド。
三十八日目
熱が引いたので、いまこれを書いている。
だいぶ身体が楽になった。
クランドが医者からもらってきた薬は、にがい。
にがいのは苦手なんて知られたくない。
無理をして呑みこんで咳きこんでしまう。
夕方、クランドが桃を持ってきてくれた。
川の水で冷やしてあり、きゅっとして美味しい。
感想を述べたら笑われた。
かわいい、だなんて。
そんなこといままでいわれたことがない。
恥ずかしくて、つい手が出てしまった。
私、かわいいのかな。
胸がモヤモヤした。
三十九日目
クランドに内緒で足のリハビリを行う。
痛みはあまりないが、動こうとするとクランドがやたら心配する
1123
のだ。
ので、隠れてこっそり行う。
大丈夫なのに。
でも、治ったら⋮⋮。
いまは考えるのよそう。
四十日目
やはり、薄々感づいていたのだが。
少し肥えたような気がする。
薄く、腹の皮がつまめる。
なんて、ことだ。
寝てばかりの生活なら仕方がないのだが。
このまま、豚のように肥えたらクランドに嫌われる。
どうしよう。
痩せなくては!
四十一日目
足を使わない鍛錬をはじめた。
腹筋、背筋、肩や、腕の筋骨を鍛える。
特に気なるのは腹まわりだ。
じっとりと汗が染み出るほど、負荷をかけながらゆっくり行う。
無理をするなといいつつも、クランドの目がケダモノになってい
た。
いくらなんでも、この状態ではアレなので、冷たい水で念入りに
汗を流した。
なぜか、クランドががっかりしていた。
四十二日目
1124
アレが来た。
前回は軽かったが、今回は重い。
気分が悪い。
きょうはおしまい。
四十三日目
ほっといて!!
四十四日目
だいぶ気分がいい。
四十五日目
ダメだ。
波が。
四十六日目
アレが終わった。
期間中は、ずいぶんとひどい物言いをしてしまった。
クランドは気にしていないといったが、こっちが気にする。
やさしくしよう、やさしくしようと思うが、どう振る舞えばいい
のだろうか。
とりあえず、口でしてあげた。
喜んでくれた。
よかった。
1125
四十七日目
夕食後、ふたりで外に出て星を眺めた。
こうして心静かに空を見上げるなど何年ぶりだろうか。
少し風が寒いな、と思っていたら抱き寄せてくれた。
広い肩に、力強い腕。
抱きしめられていると安心する。
クランドはいままで私が知っている男とはまるで違う。
ずっと、こうしていたい。
ずっと。
四十八日目
クランドには毎日良くしてもらっている。
なにかお礼がしたい。
ということで、外套を縫うことにした。
実は、こう見えて私は家事や裁縫は得意なのだ。
材料の入手はヘレンに頼んだ。
使い道のない金貨などぜんぶくれてやっても惜しくはない。
かなり上等な衣が手に入った。
さあ、がんばるぞ!
四十九日目
クランドの隙を見てひと針ひと針縫う。
あいつは意外とじっとしていないところがある。
常にチョコチョコ動き回っているのだ。
子供みたいだ。
子供。
最近、余計なことを考えすぎるようだ。
1126
集中しなくてはならない。
集中。
五十日目
手慰みにはじめた日記がここまで続いてしまった。
そもそも、私は日記を読み返す性格ではないし、
ならばなぜ付けているかと思うとわからなくなる。
鍛錬は依然として続けている。
クランドが冗談混じりにからかってくる。
苦しませずにサクッとやってくれよ、などといった。
すごく悲しくなった。
ばか。
五十一日目
毎日蒸し暑いはずだが、今日のように雨が降り続けると若干肌寒
い。
クランドと並んで昼寝をした。
腹を丸出しにして寝ている。
風邪を引くぞ、まったく。
子どもが出来たら、私もこんな風に毎日を過ごすのだろうか。
ありえないことを考えると、胸の奥がきゅっとする。
クランドが寝ているあいだに針を進める。
しかし、すごく熟睡している。
こいつは、もう私のことを危険ともなんとも思っていないのだろ
うな。
たぶん、もう、殺せそうもないよ。
五十二日目
1127
痺れもないので、クランドに手伝ってもらって当て板ごと足を動
かす練習をした。
とはいえ、固まりきった筋をちょっとづつ伸ばす程度だ。
板を外して見ると、自分でもわかるくらい足の筋肉がやせ細って
しまった。
代わりといってはなんだが、上半身はかなり鍛えこんでいる。
胸だけは痩せないようにしないと。
五十三日目
昼食時、クランドが遊び食いをしてスープをこぼした。
少し赤くなっているのを見て、思いきり叱りつける。
すぐ治るとか、そういう問題じゃない!
こいつは、私が見ていないとすぐ死にそうな気がする。
不安だ。
五十四日目
クランドの国の文字について教えてもらった。
思ったより、深い学識を有していることがわかった。
隠してはいるが、おそらく貴族階級の人間だろう。
さもありなん。
多岐に渡った知識がそれを示していた。
そこはかとない奥ゆかしさを感じる。
謙虚な男だ。
もし生まれ変わることが出来たら、
ガッコウという場所へいっしょに通ってみたかったな。
五十五日目
1128
ニホンゴというのはかなり難しい。
いまは、カタカナというのだけを教えてもらっている。
木の箱に入れた砂に、教えてもらったカタチをいくどもなぞる。
ときどき、クランドの指が触れると顔がカッと熱くなる。
自分の名前が書けるようになりたい。
少しでも、クランドに近づきたいから。
五十六日目
外套はほぼ縫い終わった。
予想以上の出来に自画自賛。
いつ、渡そうかな、と思う。
タイミングが難しい。
こっそりと、一箇所イタズラをしておいた。
どうせ、字が読めないから気づくわけもないだろう。
喜ぶ顔が目に浮かぶ。
喜んでくれるよね。
五十七日目
正直なところ、足の怪我はほとんど完治している。
だけど、治ったら終わりが来てしまう。
いやだ、そんなのは。
クランドが寝静まったあと、小屋の外に出て、もう一度足を折ろ
うかと思案する。
石を握ったまま、気づけばかなりの時間が経っていた。
ダメだ。
おそらくクランドはすぐに気づくだろうし、そんなことをすれば
きっと悲しむ。
苦しくてたまらない。
1129
寝床に戻って、しがみつく。
ぎゅっと抱き返してくれた。
こうして、ずっと眠っていたい。
いつまでも、ずっと。
五十八日目
明後日、馬医者が峠を越えて来るらしい。
治ったことがわかってしまう。
怖い。
五十九日目
明日だ。
六十日目
治ったとそれだけいって医者は去っていった。
クランドがリハビリのために、杖と履物を用意してくれた。
やさしいけど、悲しい。
クランドとふたりで外に出て、風に当たる。
最高の気分だ。
なのに、あんなことになってしまうなんて。
ばかだ、おまえは。
私をかばう必要なんてなかったのに!!
こんなにボロボロになって。
悲しくて、つらくて、胸が壊れそうになった。
いっしょに来ないかと誘ってくれた。
うれしいけど、行けない。
私には、家名を守る使命がある。そのために、今日まで生きてき
1130
たんだ。
クランドは少年のように夢を語った。
大迷宮に潜ってお宝を見つけるんだと。
キラキラした瞳はまぶしいくらいに輝いて見えた。
そうだ。私は、この光に心底惹かれたんだ。
夜、クランドと契を結ぶ。
ひとつになれて、よかった。
外套もちゃんと渡せた。
ずっと、いっしょだからね。
日付不明
延々と意味をなさない殴り書きが続く
これを最後に、以下は空白のページのみ。
1131
Lv72﹁聖女争奪戦﹂
ギルド
蔵人は冒険者組合の向かいにある喫茶店
夜雀亭
に着くと、オ
ープンテラスの席に腰を下ろして呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると、三十そこそこの口髭を生やしたウェイターが近
づいてくる。
店長のビッグス・ジェスミンである。
蔵人はあからさまに大きなため息をつくと、ガックリと首を傾け
た。
﹁なんでオメーなんだよ、ビッグス。朝イチで若いギャルが来るの
を期待して全裸待機してたのによ﹂
﹁ご注文をどうぞ﹂
ビッグスは蔵人の無礼な物言いに慣れているのか、ほとんど無視
した格好でバッサリと切り捨てた。
﹁ふうん。無視するんだ。常連の俺を無視するんだ。とりあえず、
若いおねえちゃん一匹とカフェカプチーノね﹂
﹁あのな、クランド。あんた、常連もなにもいっつもコーヒー一杯
で席を占拠するわ、ウチの女給の尻を片っ端から撫でるわでこっち
はいい迷惑してんだよ。たまには、ドリンク以外も頼んでウチの売
上に貢献してからそういうこといってくれよな﹂
﹁おぉ、怖い。んじゃ、若いおねえちゃんの方を二匹追加な﹂
蔵人は自分の両肩を抱いて怯えたフリをした。
それから、中指と人差し指を顔の前に立てて、小さく振ってみせ
1132
た。
ビッグスの喉の奥から獣がうなるような音がもれた。
﹁まったく改めるつもりないんだな。それに、ウチはそういう類の
店じゃ﹂
ビッグスは乗り出すように叫んでいたが、目を見開いて硬直した。
彼は、突然なにかを思い出したように、いいかけた言葉を切る。
それから、にんまりと笑みを浮かべた。
﹁かしこまりました、お客さま。カフェカプチーノに女給を二名で
すね。二名とは参りませんが、近頃新人の娘がひとり入りまして、
練習替わりで構わなければ特別に給仕をさせますが、よろしいでし
ょうか﹂
﹁お、おう。いきなり、待遇が変わってなんか気持ちわりいぞ。も
しかして、その娘、二目と見れない化物じゃねえだろうな?﹂
﹁いえいえ。こういってはなんですが、先週退店しましたリナリー
よりも容姿は上でございます﹂
リナリーとは夜雀亭で一、二の美貌を誇る人気抜群の女給であっ
た。
明るく快活な性格であったが、蔵人の執拗なセクハラに耐えかね、
見かねたビッグスが店長に掛けあって支店に転籍させたのである。
蔵人はその事実を知らなかった。店側も教えない。わかれば間違
いなくケツを触りにいくだろうという配慮であった。この世界にス
トーカー規制法などはなかった。
﹁おい、嘘じゃねえだろうな。人三化七だったら、暴れちゃうぜ﹂
﹁ご満足出来るかと。華は愛でて楽しむものでございます﹂
蔵人は含み笑いを噛み殺しながら店の奥に消えていくビッグスの
後ろ姿を懐疑の眼差しでジッと見つめていた。
ともあれ、本日はアルテミシアとダンジョン攻略のため待ち合わ
せているのである。
例え、懸念通りの醜女が現れても美女分を補給できるアテはある
のだ。
1133
﹁さて、吉と出るか凶と出るか﹂
蔵人は通りを歩く人々を眺めながら、椅子から両足を投げ出して
ブラブラさせながら時間を潰した。
﹁お、お待たせ、ひました。おきゃく、さま﹂
﹁ん? おおおっ!?﹂
低めではあるが妙に艶のある声に振り向くと、背後には銀盤にカ
ップを乗せた女給がフラフラとした足どりで迫りつつあった。
﹁なんだ、その大きさ。ありえんぞ﹂
特筆すべきはカップの大きさであった。ほとんどバケツに近い大
きさのそれは、縁までなみなみと液体がそそがれている。
女給の顔はカップに隠れて見えないが、超ミニのスカートから見
えるスラリとした長い足や、きらめくような蜂蜜色の金髪は美しく、
当たりの徴候を垣間見せていた。
だが、問題はそこではなかった。
﹁っじゃなくて!! おいいいいっ!! 誰がこんなんたっぷりの
量持ってこいっていったんだああっ! ちくしょおおお、ビッグス
の野郎っ、ハメやがったな! 返品だ、返品ンンン!!﹂
﹁へ、返品? わ、わかった。じゃなくて、わかりまひた﹂
﹁ちょっ、いきなりターンするなっ、あきらかにカップがぁああ傾
いてるからぁあっ!!﹂
﹁え? あ﹂
傾いたカップの陰から女の顔が見えた。
ふんわりとした長い金髪に大きく美しい緑の瞳。
どこかで見たような貴族的な容姿であった。
﹁あっ、とかいうなあああっ!! ダメ、そのフラグ絶対ぃいいい
っ!!﹂
﹁見つけた、ついに見つけたぞ!! クランド・シモン!!﹂
女給はキリリとした顔で銀盤から手を離すと、指先を蔵人に突き
つけた。
﹁やだああっ!!﹂
1134
蔵人の顔が恐怖に染まる。女給は己の行動に気づいて顔色を真っ
青にした。
だが、いかんせん遅かった。
カップの中身は盛大に傾き、蔵人に向かって残らず大量の熱湯が
降りそそいだ。
猿を捻り殺したような絶叫が白昼の大通り一帯に響き渡った。
﹁んで、この落とし前どうつけてくれるんだよ﹂
﹁⋮⋮うぅ。だから、もおお。ごめんなさいしたではないかぁ﹂
蔵人は包帯で顔中をぐるぐる巻きにした状態でテラスの椅子に座
ったまま、女給を足元に正座させていた。
ビッグスはケジメはその女に取らせてくれと、いい放って店の奥
に消えていった。
どうやら、この女は元々店の中でも持て余していたらしい。
﹁ミスするとわかってぶつけて来たのか。なんという策士っぷりよ﹂
﹁ううう、もお立ってもよいのか、クランドよ﹂
﹁おまえなあ、自分の立場わかってんのかよ。重症だぞ重症。それ
に初対面で人の名前を呼び捨てにするとは、いい度胸してるじゃね
ーか﹂
イモータリティ・レッド
﹁初対面じゃないのに﹂
蔵人は不死の紋章の力で治癒しているのにも関わらず、ヤケドの
傷を誇張した。
女給も自分の過失を理解しているのか、一旦立ち上がりかけるが、
やがて渋々と元の正座の位置に戻っていく。
女給のそばには、いつの間にか十三、四くらいの、あきらかに店
の者とは違う黒いお仕着せをまとったメイドがニコニコしながら控
1135
えていた。
﹁んん、で、このメイドは誰だ﹂
﹁あはは、勇者さま。わたしは、お嬢さまのメイドでハナと申しま
す。以後お見知りおきを﹂
メイドの言葉に懐かしい単語を聞き、蔵人の時間がつかの間、過
去に飛んでいく。
勇者。
かなり重要な意味合いを持つ言葉だったような気がする。
蔵人は、眉を眉間に寄せると両腕を組んだ。 ﹁んあ? 勇者だと。ついぞ久しいフレーズだが、それってどうい
う設定だったっけ﹂
﹁だから、設定もなにもなーい!! 私を、忘れたのかっ!!﹂
女給は勢いをつけて立ち上がると豊かな胸を震わせて、金色の髪
をかきあげた。
うるんだ緑色の瞳がらんらんと輝いている。一種、異様なオーラ
を放っていた。
面白半分にやりとりを見ていた群衆や店の客が一気にざわめいた。
﹁えーと、どちらのお店で会ったっけっか? ごめん、わざわざ追
いかけられても困るんだよね﹂
﹁違うわ!! 私は、ヴィクトワール・ド・バルテルミーだ! 姫
さまから極秘の命を受け、おまえを探して幾星霜、ついにっ、つい
にっ!!﹂
ヴィクトワールはいままでの旅の苦しみを思い出したのか、目元
の泣きボクロを震わせて握りこんだ拳をぐっ、と天に突き出した。
群衆のどよめきがひときわ大きくなった。
﹁おいおい、メイドさんや。お嬢さまをおとめせんでよろしいか﹂
蔵人がハナの袖を引く。
メイドはゆるくほほえんだままヴィクトワールに向かいヒソヒソ
声で囁いた。
﹁あは、確かにですね。お嬢さまーお嬢さまー、極秘の命令ってこ
1136
と口さがない貧民どもに喧伝したらマズイかな、と思われますー﹂
﹁んなっ!! ば、ばかもの! そのようなことはもっと早くに教
えんか!﹂
﹁あはは、またハナのせいですかー。都合の悪いことは、ぜんぶハ
ナのせいですもんねー。いいですよー、そういうことにしておきま
しょうかー。疲れますねー、実際﹂
﹁ちち違うぞ! そういったことではなくてだな、もちろんあらゆ
る意味でおまえに感謝していることは相違ないが、そのお、私が気
づきにくいことをだな、そっとよき機を見計らって教えてくれるの
が、真の忠義であろうかとだな﹂
﹁あー、はいはい。えー、という劇の練習でした! さあ、街衆の
みなさま、芸人さんたちに盛大な拍手をー!!﹂
蔵人が立ち上がって叫ぶと、群衆からまばらな拍手が立った。
まばらである、というところが少し悲しい。
﹁くっ、人を芸人扱いするとは。しかしながら、おまえの機転で密
命が守れたことは礼をいうぞ。クランド。以後も王家と私に尽くせ﹂
ヴィクトワールは髪を後ろに流すと、異様に背筋を伸ばした態勢
で腕を組みながら上からものをいった。蔵人とハナのこめかみに青
筋が浮かぶ。
﹁︱︱なあ、こいつやっちゃってもいい?﹂
﹁あは、後腐れなくバッサリお願いしますー﹂
蔵人の問いに、ハナは口元に手を当てて当たりまえのように同意
する。
﹁しっかり聞こえてるからな。ううう、ちょっと口が滑っただけな
のにぃ﹂
ヴィクトワールはうつむくと、かなりいじけていた。
1137
﹁かいつまんでいうと、俺のことを探してあてもなく各地をグルグ
ルうろつきまわっていたと。やがて、路銀が尽き、大口を叩いた割
になんの成果も上げられずいまさら王宮にも追加の資金は頼めない。
ので、結果として父親の領であるシルバーヴィラゴの茶店で無銭飲
食と。金がないなら身体で払えばいいじゃない! と意気込んでは
みたものの、お嬢さま騎士であるヴィクトワールに接客が出来るは
ずもなく、仮性欝状態のところで俺が見つかったと﹂
﹁勇者さまのいうとおりですねー﹂
蔵人の言葉にハナが同意すると、静かに座っていたヴィクトワー
ルは突如として立ち上がると髪を振り乱して否定した。
﹁ちっがーう!! ぜんぜん違うっ。私の数ヶ月の苦労を簡単に略
すんじゃないっ!﹂
﹁だいたい合ってますよ﹂
﹁だそうだ﹂
﹁違う!﹂
ヴィクトワールはテーブルに両手を突いたまま、肩を激しく上下
させて呼吸を荒げた。
蔵人は、冷めた紅茶を飲み干すとティーカップを静かに置く。
ハナは優雅な手つきでポットに両手を添えて自然な動きで給仕を
行っていた。 ﹁いつものお嬢さまじゃないですよ﹂
ハナは眉をひそめると人差し指をくちびるに当てて困ったように
小首をかしげた。
﹁はは、俺に会えてよっぽどうれしいんだろう。こっちは顔もほと
んど忘れてたけどな﹂
﹁⋮⋮なぜ、そこまで和んでいる。特にハナ、おまえは自然すぎる。
私が主なんだからな﹂
﹁あはは﹂
﹁ちょっと待て、なぜいま笑った? ねえ、なんで?﹂
1138
﹁まあ、いいじゃねえか﹂
﹁いいじゃないですか﹂
﹁よくない、まったくよくない。姫がいったいなんのためにおまえ
を召喚したと思っているのだ!﹂
﹁知らねえよ。観光?﹂
蔵人がヴィクトワールのヘッドドレスを指先で弾くとカツンと硬
質な音が鳴った。
歯を剥きだしにしてヴィクトワールが小さく吠える。
抗議の仕方は優美な大型犬のようだった。
﹁ぜんぜん違う!! とにかくだ、ここで会ったが百年目だ! ク
ランド、おまえには大人しく姫のところに戻ってもらう。反論は許
さない!!﹂
﹁おい、お店はどうすんだよ。おまえにはカフェレディという重要
な使命があるのではないかね?﹂
﹁そんものはどうでもいい。誰だ、いまは重要な話の最中で﹂
ヴィクトワールは肩を叩かれ後ろを振り返ると、そこには請求書
を持ったビッグスが苦虫を噛み潰したような顔で仁王立ちしていた。
﹁こっちとしては、払うもん払ってもらえば別に引き止めはしない
けどね﹂
ヴィクトワールは肩を震わせながら請求書を受け取ると、やがて
ガックリとテーブルに突っ伏した。
ポンドル
ハナはチョコチョコと横から請求書を覗くと、目をまん丸にして
蔵人を手招きした。
﹁いくら?﹂
﹁驚きの低価格。五万Pです﹂
﹁なにをそんなに食ったんだよ﹂
ヴィクトワールは顔を上げかけたかと思うと、再びテーブルに突
っ伏し、低く嗚咽をもらした。
﹁その、ほとんどが店で働きだしてからの負債なんです。お嬢さま、
景気よく店の調度品や皿を割りまくったり、高価なお召し物を着た
1139
お客さまばかりを狙ったように粗相をしまくっていたものでハナも
接客していましたが、とうとうリカバーできませんでした﹂
﹁なんというか、ドジだな﹂
﹁お嬢さまはドジっ子なのです﹂
子飼いのメイドもかばってくれないことに絶望したのか、ヴィク
トワールの嗚咽はよりいっそう大きく高く響いた。面倒なドジっ子
姫騎士、ここに爆誕であった。
﹁くそ、余計な時間を喰ってしまった﹂
結局のところ、負債は蔵人が一括で支払った。
ギルド
今夜の寝場所もないというので、ふたりを姫屋敷に向かわせると、
アルテミシアの待つ冒険者組合へ急いだ。お馴染みの赤レンガの壁
を見ながら入口に進むと光景は一変した。
﹁なんだ、こりゃ?﹂
ロビーに入る階段の部分からぎっしりと人で埋まっている。蔵人
は泳ぐように群衆をかき分けて受付に移動した。テーブルの上で頬
杖を突き、うんざりとした顔で眉間にしわを寄せているネリーに話
しかけた。
﹁おい、こいつはいったいなにがどうなってるんだよ﹂
﹁ああ、クランド。まだ生きていましたか。あれですよ、あれ。件
の聖女さまが見つかったらしいです﹂
﹁聖女さま?﹂
﹁あいかわらずぼーっとしてますねえ。そんなんで、この先生き残
っていける⋮⋮難しいか。ほら、例の竜殺しの聖女、アルテミシア
さまが、長期の雲隠れから久々にご降臨なされたそうで。朝から、
ロビーはお祭り状態です。まったく、ただでさえ通常業務が滞おっ
1140
ているのに﹂
﹁すっげーな、ほとんどアイドル状態﹂
﹁誰も彼も自分たちのクランに引き抜こうとしたり、結婚を申しこ
んだりする人間が絶えないみたいですね﹂
﹁結婚? そりゃ、またなんの脈絡もない﹂
﹁いえいえ、彼女の株はうなぎ上りで、大貴族や商人、街の有力者
からの縁談が絶えないそうで。なにせ、竜殺しの聖人で若く美しい。
おまけにあの立派なお身体ですからね。強い後継者を望む者にとっ
ては、彼女は金の卵を産む雌鶏状態ですね。嘆かわしい﹂
﹁長身がネックで縁遠くなっていたのに。なんという手のひら返し﹂
﹁ただの大女なら需要はありませんが、竜殺しの実績の前には強い
子を望む貴族や軍属から見れば垂涎の的ですよ﹂
﹁そんで、アルアルを射止めて子孫繁栄ってか。なんとまあ、現金
な人たちで﹂
﹁下品! 確かに同意ですね。女を子を産ませる道具だとしか思っ
ていないんじゃないですか。目下のところ、聖女さまの抱きこみに
成功した人間はおりません。はああっ﹂
蔵人はネリーの、ベヒモスが百体くらいまとめて攻め寄せてこな
いかしら、という物騒な破壊願望を聞きながら顎に手をやって考え
こんだ。
﹁まずいな﹂
﹁なにがマズイの。その顔は生まれつきでしょう﹂
﹁ほっとけ。第一、俺は男前なので、そんな中傷にはめげない﹂
﹁世の中ゲテモノ好きも多いですからね﹂
﹁ネリーはエロい顔してるよな。唇がヤラしい﹂
蔵人はネリーが無言になったことで勝利宣言を心の中で高らかに
歌い上げた。
﹁よっし! 一丁、俺も争奪戦に参加してこよっかなっと!﹂
﹁ええー、そんな自ら崖に飛びこむような真似。お行きなさい。そ
して、抜群にヘコむ姿を見せてくださいな。指差して笑ってあげる
1141
から﹂
﹁ほざけ﹂
蔵人は勢いよく駆け出すと群衆の中心に飛びこんだ。
後方から、あっマジで行ったわ、というネリーのつぶやきが聞こ
えた。
﹁アルテミシアさまーっ!﹂
﹁聖女さまーっ!﹂
﹁どけーっ、オイラがアルミシアさまの心を射止めるんだっ﹂
﹁るせーっ、粗チン野郎がっ。てめえの小汚いモノで聖女さまが満
足させられるかっ!﹂
﹁あああっ、聖女さま、なにとぞお顔だけでも、なにとぞっ!﹂
﹁ありがたや、ありがたや﹂
蔵人は怒号や叫びが飛びかう中を泳ぐようにして前進していく。
あきらかにロビーの収容人数を超える数だった。
冒険者のほどんどを占めるのが若い男性であり、中にはあきらか
に傭兵とわかる屈強な男たちを従えた商家の若旦那もちらほら見え
た。
﹁くっそ、これじゃあたどり着くまえにミンチにされちまうぞ﹂
﹁おい、そこのおまえ。順番はちゃんと守れよっ﹂
﹁ああっ?﹂
肩を掴まれて振り返る。そこには、七三分けにした四十すぎの男
が、目を真っ赤にして蔵人を食いつくような視線でねめつけていた。
﹁僕は今日まで彼女が姿を現すのをじっと待っていたんだ。そして、
そのときは来た。君たち有象無象には悪いが、彼女の心はもう僕の
モノさ。悪いね﹂
﹁なんなんだよ、おまえ﹂
﹁僕は、ジェリー・アンダーソン。このダンジョンをすべて攻略す
る男さ。今日この瞬間から、僕とアルテミシアは深く結ばれ、最強
クランが誕生する。伝説がはじまるのさ! 君も覚えておくがいい
っ。僕の名前を!! ダンジョンマスターになる男の名前を、おぶ
1142
るっ!?﹂ 蔵人は拳骨でジェリーの鼻面を殴りつけると先に進んだ。
だいぶ馬鹿が湧いている。
さもありなん。誰も彼も儲けの匂いには敏感な奴らばかりだ。
そもそもが冒険者自体が食い詰め者の集まりである。いまの自分
の場所からより上へと進めるとわかっていながら手をこまねいてい
る人間はいない。
﹁向上意識の高い馬鹿ほど手のつけられぬものはないからなぁ﹂
蔵人が人並みに揉まれながらたゆたっている状態でありながら、
無慈悲にも事態は刻々と移り変わっていく。
もちろん、合流することを心待ちにしていた若いふたりにとって
は、現在の事態は災難以外のなにものでもなかった。
人垣の向こう側で困惑しきりのアルテミシアの姿が見える位置ま
でようやく前進できた。
彼女は、教会で会ったときの修道服ではなく、以前のように白銀
の甲冑を着こみ、白金造りの鞘がまぶしい幅広のロングソードを下
げていた。
冒険者たちは、彼女の前へと順番に並ぶと、それぞれ贈り物を捧
げ持ち、一心に自己アピールを繰り返している。アルテミシアのや
や垂れ目がちな緑色の瞳が困ったようキョロキョロと細かく動いて
いた。
︵キョロってるアルテミシアもかわいいが。そろそろ助けてやんね
ーと、かわいそうだな︶
﹁うおおおっ、どけどけえっ﹂
不意に後方からかすれた濁声が響き渡った。
十重二十重に聖女を囲んでいる人垣をものともせずに、ラッセル
しながら爆進するひとりの男が現れた。
三メートル近い巨躯である。
伸ばした長髪は後ろで結び背中まで垂らしてあった。
上半身は半裸である。
1143
まさしく肉の塊といった肥え方であったが、埋もれた身体の奥底
には途方もない力を秘めた筋骨が窺い知れた。
大きなコブ付きの棍棒を背負っている。
亜人の名残であると推測される乱杭歯は鋭く尖り、赤茶けた色を
していた。
﹁おい見ろ。ハーフオークのネーポムクだ﹂
﹁あの名うての戦士の!?﹂
ネーポムクはアルテミシアの前で列をなす男たちを片っ端から突
き飛ばすと一番前に躍り出た。
それから無作法な視線で彼女の身体を上から下まで眺めると、も
みあげをしごきながら野卑な笑みを豪快に浮かべた。
﹁なんだ、おまえは﹂
アルテミシアもさすがに気分を悪くしたのか、つっけんどんな声
を出した。
﹁いいねえ。俺好みの身体だ。気に入った﹂
﹁だから、いったいなんの話だ﹂
﹁いい! その気の強さも実にいい!! とりあえず名乗っておこ
う。俺は、誇り高きオーク族の戦士、ネーポムクだ。おまえが、竜
殺しで名高いアルテミシアで間違いないな﹂
﹁⋮⋮さっきから誰も彼も。その呼び名ははっきりいって迷惑だ。
やめて欲しい。それから、私はここで人を待っているだけだ。いっ
たい、なにがしたいのだおまえたちは﹂
ネーポムクは革のパンツからでもハッキリと形の浮き上がってい
る股間の男性器を指で示すとトントンと軽く叩いた。
﹁うん? そんなことは決まっている。アルテミシアとやら。俺は
おまえが気に入ったぞ。おまえなら、俺の強い児を産めるはずだ!
感謝しろよ、この俺さまの強い子種をくれてやろう!! ここに
いる者たちも、それが望みなのだろう!!﹂
﹁は? ば、ば、馬鹿か! おまえは! いいいい、いきなり現れ
てなんという不埒なっ!﹂
1144
瞬間的に意味を察したアルテミシアは、ネーポムクからさっと身
を引くと顔を真っ赤にして恥じらった。
同時に、彼女を神聖視するグループのシンパから強い抗議の声が
上がった。
﹁ざっけんなよ! このクソデブがっ!!﹂
﹁なにが子種だ! 豚は養豚場へ帰れやっ!!﹂
﹁俺たちの聖女さまになんという物言いをっ! 恥を知れ、恥をっ
!!﹂
調子に乗った冒険者のひとりがネーポムクに近づくと胸を突こう
と手を伸ばした。
彼の手が、分厚い胸板に触れるか触れないかというギリギリの線
で、ネーポムクの太い指先で無造作にヒョイとつまみあげられた。
﹁あがああああっ、いっ、いだああっ! ちょっ、はなせっ、はな
せてばああっ!?﹂
ゴキリ、という鈍い音と同時に冒険者の手首は枯れ木のようにあ
っさりとへし折られた。
男が泣きながら白い骨を露出させながらその場に立ちすくむと、
怒号を放っていた男たちは残らず沈黙した。
﹁愛がどうの、クランがどうのとまだるっこしい奴らよのう。俺は
おまえらひ弱なニンゲン族と違う。すぐれたメスを手に入れるのは
もっとも強いオスであると相場は決まっている! さあ、俺の女が
欲しければ腕づくでかかってこい! これは、私闘ではなく、歴と
した戦士同士の果し合いだ!!﹂
ネーポムクが天井まで響くような堂々とした声を張り上げると、
人垣の前面に位置する男たちは残らず下を向いた。
﹁調子に乗りすぎだ、クソデブがっ﹂
こめかみ青筋を浮かべた蔵人がネーポムクに躍りかかろう身を乗
り出した。
同時に、争いの渦中に飛びこむ一陣の白い風が突如として沸き立
った。
1145
﹁そこまでだ、オーク族の戦士、ネーポムクよ!!﹂
群衆を軽々と飛び越すと、その男は地上へと優雅に降り立った。
アルテミシアと同じ白銀の甲冑を身にまとっていた。
赤地に白十字を染め抜いたサーコートをがひらひらと揺れている。
飛び出し損ねた蔵人は精薄のように口をあんぐりと開けて瞬きを
激しく行った。
背丈は百九十を超えている。灰色の髪を短く刈りこんでおり、細
身の眼鏡を掛けていた。
薄いレンズの向こうには理知的なグレーの瞳が静かに佇んでいる。
騎士というよりは学者といったほうが頷ける容貌だった。
サンクトゥス・ナイツ
腰には均整のとれた美しい長剣を佩びている。 涼やかな容姿を持つこの貴公子こそ、白十字騎士団の若き騎士団
長、アントワーヌ・ボドワンであった。
﹁なんだテメエは!!﹂
アントワーヌは長く力強い腕を伸ばしてネーポムクを制すると、
硬質な靴音を立ててアルテミシアに近づき、その前に立った。
﹁久しぶりだね、アル。どうして連絡のひとつも寄越してくれなか
ったんだい﹂
﹁団長﹂
﹁ほら、また団長だなんて。まったく、君はいつになったら俺に対
してその他人行儀な言葉遣いをやめてくれるんだい?﹂
を抜け、あまつさえ騎士団にも迷惑をかけた。除名は覚
﹁いえ。一言もなしに姿を消したのは謝ります。私はあんな形で
黄金の狼
悟しております﹂
﹁ほら、また﹂
1146
アントワーヌはため息をつくと、彼女の手を握り眉間にしわを寄
せた。
﹁そんなことを責めているわけじゃないんだ。俺が怒っているのは、
どうして困ったときに相談してくれなかったってことなんだよ。君
が尊い信念の元、誰かの役に立ちたいがためギルドで活動していた
ことは知っていた。君は、上手く隠したつもりみたいだったけどね。
ただ、これだけは覚えておいて欲しい。君がどんなクランに加入し
ようがしまいが、俺たちは同じ信仰の元共に戦う同士なんだ。苦し
いことやつらいことも分かちあってこそ、だろう﹂
アントワーヌは熱っぽい瞳でアルテミシアに身体を寄せる。
蔵人の短い導火線に火がついた瞬間、蚊帳の外に置きっぱなしに
されたネーポムクが耳を聾する声量で吠えた。
﹁おおおいっ! この貧弱な小僧があっ!! 俺さまを無視するん
じゃねええっ!!﹂
ネーポムクは口から泡を吐き散らしながら握り込んだ樫の棍棒を
アントワーヌに向かって振り下ろした。
コブつきの棍棒は空を切り裂いてびょおお、と異様な音をかき鳴
らす。
誰もがアントワーヌの死を幻視した。
その距離、打ち下ろされる一撃の重さからいえば、よくて重症。
死は当然の結果に思えるほどのタイミングであった。
アントワーヌが剣の柄に手を伸ばしたと同時に、軽やかな音が小
さくなった。
きらめきは一瞬であったが、確かに銀線は棍棒を真横に薙いでい
た。
﹁やれやれ。積もる話も容易にできない﹂
アントワーヌは眼鏡のツルに人差し指を当てて位置を調整すると
つぶやきをもらした。
それは魔術的な見事な剣さばきだった。
アントワーヌの刃は見事に棍棒を真横に両断すると、敵の得物を
1147
破壊していた。
﹁あ、あああっ﹂
ネーポムクは柄だけ残った棍棒を両手で握り締めながらその場に
へなへなと座りこんだ。
巨躯の野人は恐怖のあまり股間を一度に湿らせた。失禁である。
ある程度の実力が伴うからこそ、白皙の剣士の恐ろしさが理解で
きるのである。
それほど、アントワーヌとネーポムクの力量は隔絶していたので
あった。
﹁失せろ、下郎が﹂
﹁ひっ、ひいいいっ!!﹂
アントワーヌがひと睨みすると、オークの戦士はふらついた足ど
りで逃げ出していった。見事な騎士団長の剣技に溜飲を下げた冒険
サンクトゥス・ナイツ
者たちはいちどきに歓声を上げると納得したように去っていった。
聖女アルテミシアは白十字騎士団に戻り、同時に伴侶としての座
もアントワーヌが相応しい。かような共通認識が生まれると、ほと
んどの人間が潔くその場を去っていった。
正しくも、群衆の推察は正鵠を得ていた。
アントワーヌ自身もアルテミシアに強い好意を寄せていたのであ
る。
凱旋将軍さながら白面の美男子は頬を紅潮させながら聖女に歩み
寄っていく。
彼が薄目を開けて見ると、目元をうるませた長身の美女が感極ま
った様子で駆け寄って来るのが見えた。
アントワーヌは自分の想いがようやく通じたと感慨に耽りながら
両手を大きく広げ抱きとめんと、胸を高鳴らせた。
﹁クランドっ! 待ちくたびれたぞっ、もおおっ!﹂
﹁ああ、ワリーワリー。ちょっと洗濯物干し忘れてよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
聖女アルテミシアはオークを撃退した白面の騎士を無視する格好
1148
で、背後の男へと抱きついていった。宙に浮いた二本の両腕がかな
り虚しい。推移を見守っていた野次馬のひとりは笑いながら放屁し
た。 ﹁おまえは家事などしないだろうが、私を待たせるとはいい度胸じ
ゃないか﹂
アルテミシアは男の首に両腕を回すと甘えるようにして鼻先をこ
すりつけている。
とろん、と溶けかかった眼差しがふたりの仲の親密さを現してい
た。
﹁おうおう、よしよし。じゃあ、待たせたお詫びにチューしてやろ
う﹂
﹁んん、ダメだぞ、こんなところで。うう、もう﹂
美男美女の微笑ましい交流を見届けようと残っていた数人の冒険
者と共にアントワーヌはその場で凍りついたように固まった。
いまや気高く美しい聖女の唇は、ボロボロになった外套をまとっ
た、如何にも薄汚れた冒険者の見本といった男に貪られている。両
者の対比は見る者に背徳的なイメージを喚起させた。
﹁あん。ダメだぞ、ダメだというのにぃ﹂
﹁よいではないか、よいではないか﹂
男は聖女の腰を引き寄せると無造作に豊かな臀部をまさぐってい
る。
アントワーヌは怒りと恥辱で眼球を細かく痙攣させ、膝は骨を抜
かれたようにガクガクと上下に激しく揺れた。
知らず、上唇を噛み切っていたのか、あたたかくも生ぬるい血が
口内に侵入していた。
舌先を動かすと、生臭い鉄錆の臭いが鼻を突いた。まさしく道化
と呼ぶのが相応しい様であった。
アントワーヌは力の入らぬ指先を苦労して動かすと、白手袋をど
うにか剥ぎ取って男の腰に向かって叩きつけた。嘆きのような叫び
が喉から飛び出した。
1149
﹁決闘だ!! この野郎!!﹂
1150
Lv73﹁勝者の風格﹂
蔵人は地面に落ちた白手袋を拾うと、アントワーヌに投げ返した。
﹁やだよ、ばーか﹂
手袋は綺麗な放物線を描くとアントワーヌの顔面にぶつかり、上
手いこと眼鏡のツルに引っかかった。
堂々とした決闘の申しこみをここまで明白に拒絶されるなどと予
想もしていなかったのであろう。
アントワーヌは瞬間、意識が乖離してその場へ縫いつけられたよ
うに固まった。
蔵人はもはやなんの興味もないといったように、アルテミシアの
肩を抱くとその場を離れていく。事態をようやく呑み込んだアント
ワーヌは背中に冷や汗をじっとりかきながら去りゆく男の後ろ姿へ
すがり寄った。
﹁ちょっと待て! 俺の言葉が聞こえなかったのかよ! おい、そ
このおまえだあっ!! とまれ! とまるんだよっ!!﹂
蔵人は背後から外套を掴まれ、渋々その場に停止する。
うざったそうに顔をしかめ、口をひん曲げていった。
﹁うるっせーなぁ、聞こえてるよ。はいはいはい、なんですかぁ、
イケメン眼鏡くんよぅ。俺ァ、これからちょっくらダンジョンにも
ぐもぐするのでおまえと遊んでる暇はねぇんだよん﹂
﹁こっちも、おまえのような無礼なやつと遊んでやるいわれはない。
そもそも、ウチのアルテミシアとどういう関係なんだ!﹂
1151
・ ・
アントワーヌはウチの部分を強調して訊ねた。
蔵人のこめかみがたちまち引きつる。
﹁どうもこうもアンタには関係ないでしょ。おい、こいつ、いった
いなんなの? 空気読めないバカは﹂
蔵人が抗議するようにアルテミシアの耳を引っ張る。
サンクトゥス・ナイツ
それを見たアントワーヌの怒りのはますます高まった。
﹁クランド。彼は、白十字騎士団の騎士団長で、アントワーヌ・ボ
ドワン子爵だ。かつてはよく世話になった。無礼なことをいえば失
礼になるので、そのくらいにしておかないと。ん、ぁん﹂
蔵人はアルテミシアが擁護するような言葉を使ったので、再び形
のいい耳を引っ張った。
今度はかなり強めである。
Mっ気のある彼女はまんざらでもない様子であった。
一方、密かな想い人を手荒く扱われ、純然たる紳士の眼鏡の騎士
団長は怒りと嫉妬がまぜこぜになった表情でいまや飛びかからんば
かりであった。
﹁ぶぶぶ、無礼な! そこのおまえっ、いますぐ彼女からその薄汚
い手を離すんだっ! だいたいアルっ、君もちゃんと拒否しないと
っ!﹂
﹁う、うう。いいのだ、別に私は気にしてないからな﹂
﹁そんな、馬鹿な﹂
アントワーヌは愕然としてアルテミシアの顔を見つめた。
﹁いつもの冗談だから、な。クランド﹂
そこには、男に対するあからさまな媚が浮かんでいた。
アントワーヌは額に冷たい汗をびっしりとかき、ひゅうと奇妙な
息を漏らした。
︵馬鹿な。彼女はこういうフザけた悪戯や無意味な男性との接触を
極度に忌み嫌っていたはずだっ。なぜこの男の行動を許すんだよ、
アルテミシア⋮⋮!︶
確かにアントワーヌの知るかつての彼女は、やや潔癖気味な部分
1152
が有り、特に騎士団内での恋愛沙汰の不祥事には神経質な部分があ
った。
故に、アルテミシアに対しては﹁お堅い﹂﹁男嫌い﹂﹁婚前交渉
など以ての外﹂など、ガードの硬いイメージが定着しており、そう
いった点では彼女のことを密かに好いていたアントワーヌからして
みれば、放っておいても安全であるという思い込みがあったのであ
った。
だが、現実はどうだ。目の前の彼女は見るからにみすぼらしい風
貌の男にいわばオモチャ扱いされていた。大切にしまっておいた宝
物を踏みにじられるような錯覚にアントワーヌは腹の底から湧き上
がるような熱い怒りを沸々と感じていた。
蔵人は鼻を鳴らして優越感に浸ると、アルテミシアのやわらかい
耳たぶから指を離した。
﹁ああ、それはそれは。いつも俺のアルテミシアが世話になってお
りますう。じゃ、急いでるんで﹂
蔵人はおざなりに挨拶をすると、そそくさとその場を離れようと
する。
回れ右をすると同時に、苦り切ったアントワーヌがその肩をがっ
しと掴んだ。
﹁ちょっと、待とうか。おまえはいまだ、俺の質問に答えていない
ぞ! 彼女とはどういう関係なんだ!!﹂
﹁肉体関係﹂
﹁きゃ﹂
蔵人が短的に答えると固唾を飲んで見守っていた野次馬たちから
歓声が上がった。
アルテミシアは頬を赤く染めて顔を伏せて恥じらった。
アントワーヌの顔色が紙切れのように真っ白へと変色した。握り
締めた拳の爪が手のひらに食いこんでいるのだろうか、真っ赤な血
がボタボタと床に滴り落ちていた。
眼鏡が小刻みに震えだす。アントワーヌは天に向かって両手を差
1153
し伸べると、溜まりに溜まったマグマが噴出するように大声で叫び
だした。
﹁あああ、ありえない。そうか! おまえ、クランドとかいったな
! この恥知らずめがっ。いったい、どんな手を使ってアルテミシ
アを脅しているんだあっ!! 所詮は卑賤の出の薄汚い冒険者風情
だなっ! 卑怯きわまりない男め。得心したぞ、アルテミシア。君
がいままで姿を隠していたのも、この腐れ野郎に脅されていたから
なんだね!!﹂
﹁え? 別にそんなことは︱︱﹂
アルテミシアは困ったように片手をふるふると振ったが、騎士団
長のキレキレな舌の動きですぐさま遮られた。
﹁いい!! いいから!! 俺のまえでは無理をしたり強がったり
しなくてもいいんだ!! いますぐ、このならず者を斬り伏せて君
を解き放ってや︱︱ふぐ!?﹂
自らの妄想に酔いながら高らかに蔵人を断罪するアントワーヌの
サンクトゥス・ナイツ
襟口が不意に強く引かれた。舌を強く噛んで目を白黒する。彼の背
後には、同じ白十字騎士団の装いをした、二十代半ばほどの男が立
っていた。
﹁ちと、落ちつけし﹂
﹁ロイク!! なんで、邪魔をするんだっ! やはり皆がいうよう
に冒険者などは糞をかき集めたゴミのようなものだったんだぞ! おまけに、俺たちの仲間である彼女もこれほどまでに毒されてっ﹂
﹁まあまあ。少しは冷静になったほうがいんじゃね? ギャラリー
の皆さんも、ドン引き状態だし。世論すら敵に回すのはよくないと
思われ﹂
ロイクと呼ばれた男は、背丈こそアントワーヌと同等の百九十近
い長身であったが目方は倍近かった。
恐るべき厚みと存在感である。
綺麗に梳いた金髪を三つ編みにしている。
ぜい肉で顎は完全にたるんでいたが、顔立ちは比較的整っていた。
1154
瞳はあくまで理性的な輝きをたたえている。
物腰はやわらかで、育ちの良さが感じられた。
蔵人は、個人的にはこのロイクという男の方が、人間としての器
が大きいように感じた。
サンクトゥス・ナイツ
﹁アルテミシア氏、お久しぶり。そして、クランド氏よ、はじめま
して。僕が白十字騎士団参謀代表のロイク・マクスウェルなんだお﹂
﹁ああ、久しいなロイク﹂
﹁あーどもども。はじよろ﹂
ロイクは蔵人と握手をかわすと一歩前に出る形で、アントワーヌ
の動きを遮断した。
﹁おい、なぜ邪魔をするロイク! アルの危機なんだぞ! 彼女は
その薄汚い冒険者に口八丁で騙されてるんだっ﹂
﹁だから落ちつけし。そもそもアントワーヌ氏の物言いは、このギ
ルドの皆さんすべてを侮蔑していると思われ。頭を冷やしたほうが
いいんじゃね﹂
﹁なっ、頭を冷やせ、だと?﹂
ロイクの言葉に頭から冷水を浴びせられる格好になったアントワ
サンクトゥス・ナイツ
ーヌは周囲の冷め切った視線に気づき、低くうめいた。街では肩を
切って歩く白十字騎士団もこの場ではよそ者にすぎない。アントワ
ーヌがこのギルドに駆けつけたのも、アルテミシア会いたさに押し
かけた部分が大きい。彼はまごうことなく部外者であり、いくら蔵
人が気に入らないからといって冒険者そのものを貶める言葉は、シ
ルバーヴィラゴで大きな力を持つ彼らすべてから怒りを買いかねな
い行為であった。
﹁ん、んむ。確かに、いまのは俺が悪かった。クランドと冒険者す
べてに対し、不用意に貶めたことを謝す。この通りだ﹂
アントワーヌはなんのためらいもなく一同に対し深々と頭を下げ
た。怒りのこもった周囲の視線がたちまち和らぐ。蔵人も、顎を撫
でながら目の前の男の認識をわずかに改めた。
歴とした貴族階級の騎士が、いくら自分の間違いを認めたからと
1155
いって早々に謝罪をすることなどまずありえない。
だが、騎士団長という重々しい肩書きがありながらアントワーヌ
はわだかまりを捨て、間違ったことは即座に改めることができる特
異的な美質があった。
どんな人間でもミスをするが、それを直視して検討し、自ら真正
面に捉えて改善することのできる人間は少ない。
だが、それとこれとは話が別だった。
﹁ソウグッード! エクセレント! さ、アントワーヌ氏も落ち着
いたところだし、冷静に状況を見ていきたいお。まず、第一に僕と
アントワーヌ氏は姿を消していたアルテミシア氏がギルドに姿を現
した聞きつけてやってきたお。ところがどっこい、いまをときめく
聖女にして嫁っ子にしたい&クランに入って欲しい度ナンバーワン
のアルテミア氏を目ざといみんなが放置しているはずもなく、我も
我もと引くて数多の大騒ぎ。ここまでは合ってるかお?﹂
﹁違うぞおおおっ、ロイク! 俺はそんな風見鶏なやつらとは違っ
て、昔から﹂
﹁はいはいー、話が混乱するから、黙っててくれおイケメン眼鏡く
んお。んで、ほぼ流れは間違いないかお?﹂
﹁う、うむ。私がそのように皆から望まれるとはありえない夢のよ
うな話だが、おおよそは﹂
﹁うは! 謙虚なアルテミシア氏ポイント高す! 長身美女のモジ
モジ加減、タマランチ会長でおま。んでんで、アルテミシア氏が種
つけオーク戦士にからまれたところを機を見計らっていたアントワ
ーヌ氏がサクッと退治し、見事好感度をアゲアゲな状態で再会を目
論んだところに、実はアルテミシア氏に恋人がおったわ! みたい
な、予想外の展開にアントワーヌ氏が物言いをつけたと。こういう
流れだお?﹂
﹁認めん!! アルに恋人などおっ!! 彼女は、ずっと前からこ
の俺が﹂
アントワーヌは顔を左右に激しく振って現実を否定する。
1156
ロイクは軽くキレた。
﹁話が進まん。マジで黙ってて欲しいお﹂
﹁す、すまん︱︱って!?﹂
アントワーヌが気づくとアルテミシアは若干気まずそうに口元を
押さえながら、身をよじっている。あたりまえであった。
なぜなら、彼女は現恋人の前で他の男性に告白されたも同義であ
った。
ロイクは決まり悪げに自分の目尻を触っていた。
﹁すまんお、アントワーヌ氏。僕の説明でアントワーヌ氏の秘めた
る数年分の想いをアルテミシア氏へと間接的に全バレしてしまった
お﹂
﹁ああああっ、ほんっと余計なことしてくれるよなあ、おまえは!
俺の三年間の想いがぁああっ!﹂
﹁そうだったのか、団長﹂
﹁うううっ﹂
ヘタレる騎士団長をジッと見つめるアルテミシア。促すように、
彼の肩を押すロイク。それを見守る周囲の冒険者たち。蔵人はそれ
らを俯瞰しながら、﹁というか、俺無視されてね?﹂と思った。
アントワーヌは乱れた髪を手櫛で撫でつけると、背筋を伸ばして
一歩進み出た。
ギャラリーからも、ほうとため息が漏れた。
そもそもが、ギリシャ彫刻が動き出したような絶世の美男子であ
る。背丈も百九十を超える堂々たる偉丈夫であり長身のアルテミシ
アと向かい合って立つと、恐ろしく似合いであった。
﹁う、うむ。かなり間の抜けた話になってしまうが、俺も男だ。こ
サンクトゥス・ナイツ
こ至っては、数年の想いを吐き出させてもらとするよ。アルテミシ
ア、君のことは三年前白十字騎士団へと入団してからずっと恋い慕
っていた。俺と、結婚を前提に交際をしてくれないか﹂
﹁ごめんなさい﹂
アルテミシアは刹那の瞬間も置かず、アントワーヌの言葉を拒絶
1157
した。
あまりの速さに、空間が凍りついたように固まった。
美貌の騎士に差し出された男の右手は宙に浮いたまま微動だにし
ない。
アントワーヌは積み重ねてきた三年間に幾らかの自信があったの
だろうか、反動で目をカッと見開いたまま床に視線をクギづけにし
たまま動けないでいた。
あまりのことに、蔵人は口元を押さえて笑いを押し殺した。
羞恥と怒りと悲しみが混濁し、意識の中で攪拌されてアントワー
ヌの顔色は信号機のように青くなったり赤くなったりとめまぐるし
く変転した。
﹁あらら。まあ、アントワーヌ氏。アルテミア氏に恋人が発覚した
時点で勝負は決まってたお。ここは男らしくあきらめるが吉﹂
アントワーヌは膝から崩れ落ちると、四つん這いになり、獣が断
末魔をもらすようなうめき声を喉の奥から絞り出した。その声は聴
く者すべてを欝にしそうなほど怨念のこもった響きだった。
﹁なぜだ、なぜなんだ﹂
﹁団長。この身は毛先一本から血の一滴まですべてをクランドに捧
肯定
げ尽くしている。貴方の想いに応えることはできない。あきらめて
欲しい﹂
彼女の言葉の中には、貴方の気持ちは嬉しいなどといった
に類するものは一言もなかった。
アントワーヌは全身が鉛で覆われたように強力な重みを感じ、い
ますぐこの大地が避けて自分が飲みこまれて消えるよう、天地万物
の神に祈った。
さすがに不憫に思ったのか、ロイクは巨体を揺らしながら苦労し
て膝立ちになると友の顔を覗き込んだ。彼の瞳には深い慈愛がこも
っていた。
﹁あらら。月並みだが、アントワーヌ氏にはこの言葉を捧げるお。
女なんてモノは、この世界にゃ星の数ほど居るんだぜ﹂
1158
﹁あ、あ、ああ﹂
打ちひしがれた男の虚ろな瞳へとわずかに光が灯った。
﹁さらに月並みだが、あらゆる夜空の星にはどうやったって手が届
かないんだぜ﹂
すかさず茶々を入れる蔵人。
﹁ああああっ!!﹂
﹁余計なこといわないで欲しいお!﹂
アントワーヌは、突如として立ち上がると、俺はあきらめないぞ、
と叫びながらマントをひるがえしてその場を疾風のように走り去っ
ていった。
ロイクは、アフターケアは任せてお、といい残すと鈍重な足どり
でその場を去っていった。
﹁なんなんだったんだ、いったい﹂
﹁ていよくフラレたんじゃね?﹂
﹁イケメン眼鏡ザマァ! ま、俺たちの聖女たんはみんなの物って
ことで、痛みわけじゃね?﹂
﹁聖女さまは、愛でて楽しむものよ﹂
﹁あの、クランドってやつは?﹂
﹁ダミーよ、ダミー。あんなゴミ野郎アルテミシアさまが相手にす
るわけないっしょ﹂
﹁だな﹂
﹁せめて五英傑のクランマスターじゃなきゃ、アルさまの恋人は勤
まんないでしょ﹂
﹁同感同感﹂
冒険者たちはアントワーヌが走り去った後で三々五々散っていっ
た。
蔵人が皆が立ち去るのをぼーっと見ていると、顔見知りの冒険者
であるオズワルドがゆっくと歩み寄ってきた。彼は気の毒げに蔵人
を見やると、ポンポンとやさしく肩を叩いて﹁元気出していこーぜ
!﹂などと意味不明な励ましの言葉を掛けて去っていった。
1159
﹁おまえこそ無礼だよ﹂
サンクトゥス・ナイツ
誰彼ともなく、自然に蔵人がアルテミシアの恋人である、という
不当な事実は除かれ、白十字騎士団のアントワーヌが聖女に対して
玉砕したという部分だけが選り抜かれて巷間に流布されつつあった。
﹁俺は影か﹂
蔵人は不満だった。
だが、世間はアルテミシアの行動を男を袖にする方便だったと決
めつけている。
そこには、前提条件として無名の一冒険者とアルテミシアが不釣
合であるという事実が横たわっていた。
﹁さ、クランド。そろそろ行こうか。きょうは、昔のログを漁って
みたのだ。私の転移陣で第八階層から飛べるぞ﹂
アルテミシアは特に悲壮な顔も見せずに蔵人の手を引くと、たち
まち上機嫌でギルドの奥の移動部屋へと向かっていく。彼女の頭の
中にはアントワーヌのことなど一片の影も落としていない様子だっ
た。
﹁おまえとダンジョンに望むのはこれがはじめてだな。私は、必ず
クランドの役に立ってみせるからな﹂
彼女は槍をつかんだまま、えいと声を上げた。蔵人と行動できる
のがうれしくてしょうがないといった風だった。
︵振った男には微塵の興味もないのだね。恐ろしや︶
改めて女とは別の生き物だと実感する蔵人だった。
﹁そうだ!﹂
﹁ひ、な、なんだよ﹂
﹁大事なことを忘れていた。まだ、私はクラン登録していないでは
ないか!﹂
﹁ああ、クラン。クランね。⋮⋮なんだっけ、それって﹂
クランとは、ダンジョン攻略においてもっとも重要な生死を共に
する仲間のことである。最大規模を持つものでは優に数百人を超え
ており、最深部を目指すまともな冒険者なら十人以下ということは
1160
まずありえないものであった。アルテミシアはくるりとリズミカル
に反転すると、蔵人をぐいぐい引っ張り入口へと向かった。
﹁そういえばおまえはひとりだとかいっていたが、さすがにそれは
嘘だろう﹂
﹁ふっ。訓練されたボッチはソロ活動を厭わない、わけではなく、
誰もが俺のレベルについてこれないのさ﹂
﹁クランド﹂
蔵人は両腕を組んで壁に寄りかかり虚無的な笑みを浮かべてみせ
た。 ﹁なんだ、あいつ。馬鹿かァ﹂
つぶやきが聞こえていたのか、柱に寄りかかり一杯引っ掛けてい
た冒険者がけけけ、と乾いた声で嘲笑った。しかし、自分に酔って
いるふたりにはまるで聞こえていなかった。
﹁もう、おまえをひとりになどさせないぞ。さあ、私とおまえで伝
説を築いていこう﹂
﹁わ、わかってるから、そう意気込むなって﹂
﹁信じているぞ、いつだって﹂
アルテミシアの瞳は蔵人を真っ直ぐ見つめている。
そこには、深い信頼と憧憬と愛情が宿っていた。
アルテミシアはほとんど自分と変わらない背丈の蔵人をひしと抱
きしめると感極まって頬を擦りつけている。それを目撃した受付の
ネリーは、両眼をカッと見開きながら椅子からずり落ちそうになっ
た。
﹁受付の方よ。クラン加入の申請をお願いしたいのだが﹂
﹁え、あ。えーと。ごほん、ごほん。アルテミシアさま。加入され
るのは、もしかしてそこにぬぼーっと立っている男性でお間違えは
ないでしょうか? というか、間違いですよね。ね?﹂
﹁うん? ああ、間違えた﹂
﹁そうですよね! 聖女と呼ばれる貴女が、よもやこんな男のクラ
ン加入を認めるなどということが、天地が裂けてもありえないです
1161
よね!!﹂
﹁いや、そうではない。クランドが私の設立する新規パーティに加
入するのではなく、私がクランドのパーティに加入させてもらうの
だ。主と従が逆だな、受付の方よ﹂
ネリーは白昼の街中に竜が蛇行するのを目撃したような表情でそ
の場に凍りついた。
それから油の切れた自動人形のように、ギギギと首を動かすと弛
緩した顔であさっての方向を眺めている蔵人を向き、意思をこめた
視線を放った。
異様な気配に感づき蔵人が即座に振り返る。
同時に、ふたりの間でアイコンタクトによる無言の会話がはじま
った。
︱︱どういうことですか、これは。私を騙す冗談にどれだけ金を
積んだのですか?
︱︱んん? 別に冗談じゃねぇぞ。アルテミシアは心底俺といっ
しょに居たいってだけのことさ。ふ、モテる男はつらいぜ。
︱︱脅したな。
︱︱お、脅してねえっ! なんという人聞きの悪いことをっ。お
まえなぁ。そろそろ現実を見つめようぜ。俺はよう、おまえが思っ
てるような小物じゃねぇんだ。
︱︱なんの弱みを握ったのですか。まったく、卑劣な。女性の敵
ですね。
︱︱握ってないからね、これは、彼女の自由意思だからっ。ふふ、
ま、一流は一流を知るってやつ? 俺の凄さをわかる女はやっぱり
一流の女ってことよ。テメーはド三流じゃ! 悔しかったらいまま
での非礼を詫びて、﹁どうか、クランドさまの肉奴隷にしてくださ
い、うるる﹂としおらしげによろめいてみろっ!!
︱︱あ。やっぱり弱みを握って脅しているのですね。しかも、性
的な意味で。やだぁ、怖いよう。
︱︱ぜんぜん怖がってないくせに。おまえ、キャラ崩壊してるぞ。
1162
︱︱あのですね、そもそもおまえって呼ばないでください。私は
あなたの恋人でも奥さんでもないのですから。下品な上に、不愉快
ですよ。
︱︱じゃあ、なんて呼ばれたいの? メス豚?
︱︱その口を引き裂いて、煮詰めた糞便を詰めこんでやろうかし
ら。このインポ野郎。
︱︱やっぱおまえ怖いよ。なになに、どうしてそんな風に育っち
ゃったの。
︱︱それは、いい家柄でだいじーに育てられたからですよ。この
下等種族。
︱︱なんというレイシストっぷり。これだから、異世界人は。
﹁おい﹂
︱︱わけのわからない言葉でケムにまくのはやめてくれません?
﹁おい、クランド﹂
︱︱別にまいてねえし。むしろ、突っかかってくるのは、いつも
おまえの方ですし。
﹁聞いているのか、クランド!﹂
︱︱はあっ!? なんか勘違いしていませんか? 私があなたを
からかうのは暇つぶしとボランティア精神ですよ。どうせ、私のよ
うな可憐な婦人と口を利く機会などほとんどない虫けらに考慮して
相手を勤めているのにっ。もお、いいです。これからは、なにを聞
かれても事務的に受け答えします。泣いて謝るまで、私たちは他人
ですっ。
﹁クランドっ!!﹂
︱︱ふん。俺のことが好きなくせに。
︱︱頭沸いてるんですか? 一度開頭してみます?
﹁このっ﹂
蔵人は腕をぐいと引かれ、ようやくアルテミシアの表情に気づい
た。
彼女は子どものように下唇を噛み締めると、泣きそうな顔で上目
1163
遣いに、睨んでいる。
潤んだ瞳が盛り上がった涙で揺れていた。
腕をつかむ指先が不安げに細かく震えていた。
﹁なんでっ、その女とずっと見つめ合っている。そんな真似された
ら、私はさびしいぞ﹂
﹁違っ﹂
蔵人が否定の言葉を口にする前に、光の速さでネリーの舌が動き
出した。
﹁違いますからぜんぜんそんなことありませんからオホホなにをい
っているのでしょうねこの方は私とクランドが仲いいなんてありえ
るはずがないでしょうがみつめあってないからそんなこと金輪際あ
りえないから迷惑ですからむしろクランド死ねっておもってますか
らというか死ね﹂
ネリーは一息に否定の言葉を吐き出すと、人形のように無表情に
なってその場に停止した。感情の色がまったく見えない。蔵人は顔
を引きつらせると後ずさった。
﹁お、おう。まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。とにかく、
本題に移ろうぜ。ネリー、俺たちは新規のクランを作ることにした
んだ。申請書類を一部頼まぁ﹂
﹁承知しました﹂
﹁おい、なんでいきなりそんな他人行儀に﹂
﹁他人ですし、元々。はい、書類はこちらになります。あちらの備
えつけのカウンターで必要事項を記入し、印紙を購入して所定の場
所に貼り付け提出願います。審査料は、別途請求いたします﹂
﹁おい、なぜ事務的になる﹂
﹁事務ですから。受付ですし﹂
﹁クランドぉ﹂
心細そうな目でアルテミシアがくいくいと袖を引く。蔵人は記入
用紙を受けとると、後ろ髪を引かれる思いで記入専用カウンターに
移動した。ネリーは顔を背けて見るに耐えないという風にハンカチ
1164
で口を覆った。
︵なんだ、俺が女連れなんで拗ねてるのか︶
﹁私は結構字には自信があるぞ。代筆させてくれないか﹂
この国の字を書けない蔵人のメンツをおもんばかって、アルテミ
シアはペンを取った。
男を立てる細やかな気遣いである。蔵人はアルテミシアが白く長
い指を器用に動かして項目を埋めていくのをぼんやり眺めていた。
ふと、背後に視線を感じ振り向く。
背後で、ネリーがじっとりとした湿度の濃い目つきをし、自分た
ちの一挙一投足を見守っていた。見るからに彼女の瞳は深い疑念の
意に塗りこめられている。
蔵人が歯を剥きだしてにらむと彼女も負けずににらみ返してくる。
ふたりの空間に妄想上の電流エフェクトがしばし飛びかった。殺気
を込めて視線をビシバシ飛ばしていると、気づくか気づかない程度
でちょこんと外套の裾を引かれた。
﹁その、書けたのだが﹂
アルテミシアは露骨にネリーを意識しながら不安そうに蔵人の肩
へと寄り添ってくる。 ネリーが眉間にしわを寄せてせわしなくペンを回しているのが視
界に入った。
﹁おお、早いな﹂
﹁うむ。時間は有限だからな。それに、ここはなんだか居づらい雰
囲気だ。変なのもいるしな。まったく程度の悪い。早く済ませてダ
ンジョンにゆこう﹂
ダンジョンマス
アルテミシアが程度の悪いといった途端、後方からなにかがひし
ゃげる音が聞こえた。
蔵人は怖いのでもう振り向かなかった。
と名付けた。
蔵人はアルテミシアと話しあって、クラン名を
ダンジョンマスター
ター︵仮︶
﹁迷宮の王ですか﹂
1165
﹁私たちのクランになにか問題でも﹂
﹁いえ、別に。ただ、アルテミシアさんは世間の期待も大きいでし
ょうし、名前負けせぬかと老婆心ながら少し案じたまでです﹂
﹁⋮⋮なにかいいたいことがあるならはっきりいったらどうだ。私
たちのことは放っておいてくれ。だいたい、クランドがただのいち
冒険者ならば、そこまで気にすることなかろうに﹂
﹁いえいえ。どんな困ったお客さまも平等に扱うのがウチの方針で
すので。特別扱いなどは致しませんよ﹂
﹁だと、いいのだがな。今後は、私たちの受付は他の者に願いたい
ものだ﹂
﹁こちらも常に人数不足では。そういった意味ではひとりひとりの
我が儘は控えていただかないと。皆のギルドですからね﹂
﹁私が我が儘だというのかっ﹂ アルテミシアが怒気をにじませて叫んだ。対するネリーはあくま
で涼やかな視線で受け流す。熟練の業を感じさせた。
﹁一般論ですよ﹂
﹁ふん。まあいい。私たちは忙しいからな。そろそろ失礼する﹂
﹁お気をつけて﹂
﹁心にもない言葉ならかけぬ方がマシだと思うがね﹂
﹁そんな。私たちギルド職員は、心から冒険者の皆さまの成功を祈
っております﹂
ネリーはさわやかな笑顔を作った。
だが、瞳が笑っていない。荒涼とした冬の荒地を思わせるような
色だ。
﹁本当に、クランドとは無関係なのだろうな﹂
﹁いってらっしゃいませ﹂
アルテミシアは憤懣やるかたないといった様子で受付台をつま先
で蹴り上げた。ネリーは静かな笑みをたたえたまま微動だにしない。
みぃんと張り詰めた空気が辺りを漂った。
﹁おいっ、もう行こうぜ﹂
1166
蔵人が腕を引くと、アルテミシアは無言で従い歩きはじめる。ネ
リーは、ふたりの冒険者の姿が見えなくなると記入台帳を足元に叩
きつけおもいきりヒールで踏みにじった。
しばらくはネリーとの仲を怪しんでいたアルテミシアだったが、
受付を離れて奥に続く長い通路で蔵人とふたりきりになると次第に
機嫌がよくなっていった。
﹁この先に部屋を借りてある。そこから飛ぶことにしよう﹂
アルテミシアの先導で冒険の軌跡を保存した転移陣が置いてある
ログ
部屋にたどり着いた。
潜行履歴は十二階層まであるというのだが、蔵人は敢えて八階層
を選んだ。
﹁だって、まだボク行ってないから﹂
という理由からだった。
ダンジョン攻略に必要な糧食・水・道具はすべてアルテミシアの
持つ小型の圧縮バックに詰めてある。あとは、身ひとつで潜るのみ
である。
アルテミシアのかざす魔石から転移に必要な魔力が放出される。
半ばで途絶えていた蔵人の冒険が、ここに至ってようやく再開さ
れたのであった。
1167
Lv74﹁第八階層﹂
ダンジョン特有の暗く湿った独特の臭いが鼻先を漂ってくる。
蔵人はアルテミシアの圧縮バックからランタンを取り出すと左手
で捧げ持った。
ギルド
じんわりとした光がほのかに辺りを照らし出す。
冒険者組合公式推奨のパタゴニャーン社製だが、メリアンデール
製の光に慣れた蔵人にはいささか物足りない明るさだった。
﹁どうしたのだ﹂
﹁いや、なんでもねぇ。気をつけろよ﹂
﹁ああ。任せておけ。不肖、前衛は私が努めよう﹂
﹁いや、俺が前に出る。アルテミシアは読図に集中して欲しい﹂
﹁そうか。うむ、私がサポートに回ろう。妻が出しゃばるのも夫の
体面を汚してしまうだろうしな。これぞ、内助の功というやつか。
ふふ﹂
﹁んん? 夫?﹂
なにはともあれ、第八階層の攻略がはじまった。
入口付近は比較的広々とした道が続くが、やがてゆるい登りの傾
斜へと変わっていった。
ダンジョン内は整地された平坦な道を歩くのとは違い、重量を持
った装備で挑めば、一キロの距離を進むのですら、一時間以上は優
にかかった。
一抱えもある浮石が無数に詰まった坂道を登りきると、大人が四
人ほど並んで歩ける幅広道に到達した。不意に、アルテミシアの顔
1168
がこわばったのを見逃さなかった。
ホーリーランス
﹁クランド、気をつけろ。うじゃうじゃいる﹂
アルテミシアは兜の目庇を下ろすと聖女の槍の穂鞘を抜き取って
構えた。蔵人が身を低くして前方に光を向けると、そこには九体ほ
どの異形の生物がウロウロと闊歩していた。
﹁なんだ、ありゃ。トカゲみてーだが、立って歩いていやがる﹂
﹁トカゲ人だ。牙や爪に毒がある。それに、近づくと毒液を吐きか
けてくるぞ﹂
トカゲ人。
主に低階層を根城とするモンスターである。
背丈は百二十センチほどであり、全身は硬いウロコで覆われてい
る。
頭部には鶏にあるような真っ赤なトサカを有し、主に直立歩行を
する爬虫類だ。
トカゲ人は蔵人たちを発見すると一様に動きを止め、ゆっくりと
した動きで近づいてくる。
黒獅子
を引き抜くと水平に構えた。
﹁おもしれぇ、やるってのかよ﹂
蔵人は聖剣
すぐ横に、アルテミシアが穂先を揃えて並び立った。
トカゲ人は真っ赤な舌をチロチロと動かすと示し合わせたかのよ
うに、いっせいに地を蹴って突進してきた。蔵人が動くよりも早く
アルテミシアが動いていた。
﹁はっ!﹂
白銀の穂先はまばゆい軌跡を描いて疾風のように繰り出された。
パッと青黒い血が舞ったかと思うと、三体のトカゲ人は弾かれた
ように壁際に吹き飛んだ。ランタンの光が傷口を照らし出す。トカ
ゲ人たちは、ぽっかりと頭部をくり抜かれ重なるような形で絶息し
ていた。
アルテミシアの目にも見えない突きが一瞬で三体を屠ったのであ
った。
1169
蔵人が呆然と立ちすくんでいると、アルテミシアは頭上で槍を旋
回させながら群れの中へと突っ込んでいく。
三メートルはある槍は異様な風切り音を立ててトカゲ人に振り下
ろされた。
ガッ、と骨を断ち割る音が響く。
脳天を唐竹割りにされたトカゲ人は両腕を小刻みに動かしながら
ひっくり返り、乱杭歯を剥きだしにして血泡を吹いていた。恐怖と
いうものをまるで感じないのか、残った五体が両腕を振り上げて襲
いかかってくる。
アルテミシアは長槍をすくい上げるようにして振り抜いた。
接近していた一体は腰から胸を斜めに切り裂かれて吹き飛んだ。
すぐ後ろの個体は弾き飛んだ同胞にぶつかって崩れ落ちる。
残った三体は大きく口を開けると黄緑色をした毒液を吐いた。
アルテミシアは長槍を目の前で風車のように素早く回転させた。
凄まじい勢いで疾風の盾が出現する。
トカゲ人の毒液は風圧で残らず吹き飛ばされ壁や天井を鋭く叩い
た。
合間を縫って蔵人が跳躍した。
長剣が白い輝きを残して斜めに動いた。
刃はトカゲ人の喉笛を切り裂き血煙を上げた。
蔵人が地に降り立った瞬間、トカゲ人が背後から襲いかかった。
黒獅子
は刀身の
トカゲ人の爪や牙には出血性の毒腺が走っており、傷つけられる
だけで死に至る可能性もある強力なものだ。
蔵人は振り返らずに剣を後方に繰り出した。
半ばまでトカゲ人の胸板に深々と埋まった。
素早く剣を抜き取って反転すると、背後ではアルテミシアが腰の
ロングソードを鞘走らせて残った二体を始末していた。
﹁やるじゃんか!﹂
蔵人は口笛を吹いてアルテミシアの手並みを褒めた。アルテミシ
アは兜の目庇を上げると心持ち得意げに刃を懐紙で拭って清めてみ
1170
せた。
﹁そういえば、その鞘。白鷺の﹂
蔵人が指摘する。アルテミシアは指先でぴかぴか光る白金造りの
鞘をつつくと、決まり悪げに眉を八の字にした。彼女が腰に下げて
を納めていたものであった。
いる鞘は、邪竜王との戦いで蔵人が失ったロムレス三聖剣のひとつ
ライオス
白鷺
獅子族の騎士アルフレッドから譲り受け、幾多の危機を乗り越え
た剣の片割れである。物に執着しない性格ではあったが、自分以外
の腰にあるのを見ると、それなりに思うことがないわけではない。
無言になった蔵人が気を損ねたと勘違いしたのか、アルテミシアは
あたふたしながら早口で事情を説明しだした。
﹁ああ、これか。この鞘は渓谷で拾ったものだ。すまぬ、勝手にこ
のような真似を。ただ、おまえにはもう二度と会えないと思って。
鞘だけは使わせてもらっていたのだ﹂
アルテミシアは鞘を外すと主人の機嫌を窺う犬のように上目遣い
で見上げてきた。
﹁そうじゃねえ、そういう意味でいったわけじゃねえから安心しな。
うん、それはおまえにやるよ。好きに使ってくれよ﹂
﹁くれるのか。これを、私に﹂
アルテミシアは目をぱちくりさせると、うっとりとした手つきで
白金造りの鞘を撫でた。
それから、ハッとした顔つきで小さく首を振った。
彼女は無意識に行っているらしいが、やけに子供じみた仕草だっ
た。
﹁でも、貰えない。クランドが大切にしていたものだろう。剣は騎
士の魂だ。中身の方はとうとう見つからなかったが、この鞘だけで
も相当な値打ちがあると故買屋の店主がいっていた﹂
﹁故買屋って大通りに店を構えているドナテルロのジジィのことか
? ⋮⋮ちなみにジジィはなんていってたん?﹂
﹁国宝ものだと。とても値はつけられないシロモノだといっていた﹂
1171
﹁ふうん﹂
蔵人はかつて地廻りの元締めチェチーリオに白鷺そのものを借金
ポンドル
のカタにしたことを思い出した。そのときの剣そのものの価値は百
万P程度だった。
﹁真に価値のあったのは鞘だったのか。ま、気にせず受け取ってく
黒獅子
を叩く。アルテミシアは表情をほころ
れよ。俺には、これがあるしな﹂
蔵人が腰の聖剣
ばせると、鞘を胸に抱きしめたまま歓声を上げた。
﹁ありがとう。うれしいよ、クランド﹂
元々が女神もかくやといった美貌である。一度は抱いたというこ
とすら幻に思えてくるような美しい笑顔であった。不意を突かれて、
さすがの蔵人も胸が強く高鳴った。どう考えても順番が逆である。
そういった意味では彼の情緒もかなり不安定であった。
︵しっかし、こんな並外れた美女を片っ端からヤレちゃうってとこ
ろがすでに現実感を欠いてるんだよなぁ。おいおい、一発ヤっちま
った女相手にへどもどしてどうするよ、俺!︶
蔵人は平静を取り繕うと、アルテミシアを見ないようにして先を
歩き出した。 ﹁んん。ま、そんなに喜んでもらえれば、こっちとしても、な。う
うん、よしよし。まだ、冒険は端緒についたばかりだ。敵はこの先
もゴロゴロ出てくるぞ。気を引き締めていこうな。おーっ!﹂
﹁お、お﹂
﹁おまえもやるんだよ。そら、おーっ!﹂
﹁そうか。勝手がわからなくてすまない。こうかな? おーっ!﹂
蔵人はアルテミシアのぎこちない動きに、頬をほころばせた。
トカゲ人を撃退した蔵人一行は、引き続き探索を行った。アルテ
ミシアの献策は、なるべく正規のルートを外れず、未踏の場所を調
べていくというものだった。確かに、公式マップ通りにダンジョン
をなぞっていってもある程度のレベルのモンスターは湧くが、八階
層程度のモンスターでは利が薄かった。
1172
先ほど倒したトカゲ人自体も所詮は低階層に生息する格しか持ち
というポ
合わせておらず、皮や肉も再利用できないものであった。
﹁おっ。これなんか、食べられそうじゃないか?﹂
ダンジョンとマテリアル
﹁アルテミシアさん。おそらくそれは毒キノコです﹂
ギルド
蔵人は冒険者組合出版の
ケット図鑑を片手に意気揚々とドヤ顔をする彼女をたしなめた。図
鑑には、同じ図柄が記載されており、すぐ横には文盲にも理解でき
るよう、ドクロマークが付随して示されていた。
黄色地に真ピンクの斑点など、どう見ても人間が口にして良い色
合いではなかった。
﹁そうか。すまない、これはダメか﹂
アルテミシアはションボリとすると、お帰り、と呟きながら毒キ
ノコをもぎ取った場所に戻している。もっとも、もぎ取った時点で
おそらくは再生不可能なのだが。
﹁今度はどうだ! これは、なにか良さげな薬草じゃないか? 色
もまたよし﹂
ションボリとしていたのもつかの間だった。アルテミシアは再び
違うなにかを見つけたのか、満面に笑みを浮かべながら、駆け寄っ
てきた。
蔵人の前に立つと、摘み取った花を自信げに手渡してくる。
またもやあきらかに毒々しい色合いの花だった。
﹁なんスか。そして、花弁が赤・黄・白の三色が重なり合ってるっ
て。これは、炎草といって口にすると火がついたように苦しみ走り
回って悶絶死することから名づけられたらしいっスよ。頼むから書
物を活用してくださいよ﹂
﹁クランドは字が読めないくせに﹂
﹁まあ、デマカセなんだが。それに、どう見てもファイアーフラワ
ーにしか見えんし﹂
﹁意外に難しいな。いや、クランドに見せる前に、いっそ味見を﹂
﹁しちゃダメだからねっ﹂
1173
その後もアルテミシアの空回りは続いた。
﹁見つけた! この鉱石は価値があるんじゃないか?﹂
﹁今度こそっ。これは、さすがに新種ではっ。私は自分の才能が恐
ろしい﹂
﹁もしかして、この鉱石も? こんなに良い真ピンクなのに﹂
﹁そろそろ当たるだろう。確率的にも﹂
﹁ダメもとで、⋮⋮ダメ?﹂
アルテミシアの意欲は見るからにほとばしっていたが、図鑑で確
認するたびにハズレばかりだった。というか、ひとつくらいは換金
できそうなものが見つかりそうなものだが、ことごとくすべてが的
のあさってを通り過ぎる、という具合である。アルテミシアの顔は
次第に曇っていく。蔵人は深くため息をついた。
︵ああ、メリーと別れたの痛かったな。考えれば、彼女の知識はダ
ンジョン攻略において必要不可欠だった︶
﹁そう気にするなよ。俺もおまえも鑑定眼なんか元々ないんだから。
根気よく探せば、そのうち素人目にもわかる宝箱のひとつやふたつ
見つかるって﹂
蔵人は意気消沈する彼女をなだめると再び探索を開始した。足場
の悪い大きな岩がゴロゴロ転がる場所を延々と歩き続けていると、
段々と気分が滅入ってくる。
︵それにしても、この世界の女はみんな我慢強いなぁ︶
アルテミシアは無言で表情ひとつ変えずに黙々と歩いている。背
丈が平均よりやや上回っている部分を除けば、彼女は華奢な部類に
入るだろう。平均よりも鍛えられているとはいえ、スタミナだけは
抜群の蔵人と伍して行軍するのは苦痛であろう。
おおよそ、五十分に一度小休止を取りながら、八階層の中程まで
来た部分で野営を決断した。なるべく、視界の開けていて後方が壁
になっている部分にテントを設営する。
蔵人とアルテミシアのふたりきりのクランである。休憩は交互に
六時間ずつ取ることになった。両者とも駆け出しではないので、休
1174
憩の重要性を知っていた。火を熾して、干し肉と黒パン、戻した乾
燥野菜を入れただけのスープを腹に詰めこむと天幕に潜り込んだ。
周囲には、おおよそ十メートル離れた場所に簡易的警報装置を設
置してある。パタゴニャーン社製の魔力を封じた水晶で、生物がラ
インを割って侵入するとけたたましい音が鳴り響くものであった。
﹁寝るときくらいは、鎧を外したらどうだ﹂
﹁しかし、万が一の場合を思ってだな﹂
蔵人はアルテミシアが甲冑をつけたままシュラフに入るのを見て
あきれたようにつぶやいた。彼女は兜こそ外しているものの、重そ
うな白銀の胸当てや籠手をつけたまま横になろうとしていた。
このままでは、身体を休めるという本来の目的を果たせないので
ある。
﹁いいんだよ。そのために俺が起きてるんだから。おまえは、肩の
力を抜いてリラックスしろよ。そう、まるで自分の部屋に居ると錯
覚するぐらいの脱力加減で﹂
﹁ばか。そんな風にいくか。でも、私ももう少しおまえを信じると
しよう。要所要所で休むのも戦いのうちだからな﹂
﹁そうそう。なんなら、ハダカでも一向に構わないんだよん﹂
アルテミシアは蔵人を困ったように睨むと、口元に手を当ててク
スクス笑いを漏らした。
ふたりは交互に休んで体力を回復させると、野営地を引き払い残
りのマップ部分を総ざらいしはじめた。とはいえ、この辺りの低階
層は長い年月の間に餓狼のような冒険者たちによって骨までしゃぶ
り尽くされており、めぼしい素材も鉱石も薬草もあまりなかった。
﹁とはいえ、この冒険してるって雰囲気が俺は気に入っている﹂
蔵人は拾った棒を振り回しながら、鼻歌混じりで歩き続ける。当
初は注意していたアルテミシアも次第に神経が麻痺してきたのか、
幼児のひとり遊びを見守る母親のように笑みを浮かべるだけになっ
た。
変化が起きたのは、行程の三分の二を消化したあたりだった。
1175
ランタンのほのかなともしびの向こうに、誰かが倒れているのを
先行していた蔵人が発見した。
倒れていたのはまだ若い男だった。年齢は二十歳前後。中肉中背
で白っぽいダブついたローブを羽織っている。男はうつ伏せのまま
意識を失っており、頭から血を流していた。衣服のあちこちは激し
い裂け目が生じていて、真新しい血がにじんでいた。
﹁なんだ野郎か﹂
膝をついて覗きこんでいた蔵人は一瞬で興味を失うと、立ち上が
って手のひらの埃を払った。男を助けてもフラグが生じない。彼の
世界の鉄則である。
立ち去ろうとする蔵人の外套の裾をアルテミシアが掴んだ。彼女
の目は深い森のような碧を静かにたたえていた。蔵人は降参するよ
うに両手を上げるとため息を吐いた。
﹁わかった。わかったから、そんな目をするな。まるで、俺が悪人
みたいじゃねえか﹂
アルテミシアは男の背を抱えるようにして起こすと手ずから水筒
の水を飲ませた。弱い者傷ついた者を放っておけない彼女の美徳で
あるが、蔵人はちょっと面白くなかった。
﹁この男の服装、王研の者だな﹂
﹁王研?﹂
﹁王立迷宮探索研究所。街の西のはずれにある、ダンジョンについ
て専門に研究している機関だと聞いたことがある。定期的に冒険者
を雇って各階を調査して回っていると聞いたことがあるが。うん、
気がついたようだな﹂
研究者である男は小さく身じろぎをすると、ゆっくり目を開けた。
薄茶色の髪に大きな鳶色の瞳。弱々しい顔つきは、青白い肌と相ま
って学者の典型そのものだった。
﹁ここは⋮⋮﹂
﹁気づいたのか、大事ないか﹂
アルテミシアがやわらかく微笑むと男は頬を染めて顔を赤らめた。
1176
ムカついた蔵人が男の肩を蹴った。男は小さく呻くと横倒しになっ
て悲鳴を上げた。
﹁気づいたんならさっさ立てや﹂
﹁こら、クランド! もお﹂
アルテミシアが軽くたしなめの声を発する。男は蹴られたことを
意に介せず、突如として立ち上がると、顔面を蒼白にして震えだし
た。
﹁大変だ!! こんなことしている場合じゃない! 教授が、教授
がっ!!﹂
男の名はジョンといい王立迷宮探索研究所の研究員だった。慌て
ていた彼の話を要約すると、学術調査のためにダンジョンを潜って
いたところ、突如としてトカゲ人の群れに強襲を受けたとのことだ
った。
護衛として二十人ほどの冒険者を雇っていたが、トカゲ人の数が
多すぎどうにもならない。唯一逃げ出せたジョンが助けを呼ぼうと
走り回った際、思った以上に出血の量が多く力尽きて倒れてしまっ
たらしい。
ジョンは残った研究資金のすべてを渡すので教授たちを助けて欲
しいとアルテミシアに懇願した。彼女のまとっている装備や風格か
らしてあきらかにリーダーと決めつけたのだ。
アルテミシアがジョンの間違いを訂正すると、今度は蔵人に向か
って必死な形相ですがりついてくる。今度はさすがの蔵人も蹴倒す
ことは出来なかった。決断するやいなや、ジョンを先導として現場
に向かって走り出す。
蔵人は、どうやらダンジョン内では厄介事からはどうしても手を
切れないらしいと、あきらめた。
﹁もう、間にあわないんじゃねーの!﹂
﹁こらっ、またおまえはそのようなことを﹂
﹁いえ。僕が倒れてから、時間は十分と経っていません。なんとし
ても、敬愛する教授をお助けせねばっ﹂
1177
﹁教授? って、アンタの先生か﹂
﹁ええ。教授はこの道二十年の専門家です。いつもは、研究室にこ
もって、フィールドワークは僕らに任せっきりなのに。それに、教
授は身体がお弱いのです。ああ、あの方こそロムレスの至宝! 教
授の身に万が一のことがあれば、ダンジョン研究は百年は遅れが生
じますっ!﹂
駆けながらしゃべるのでジョンの速度は蔵人たちからみるみるは
なれていった。
蔵人は舌打ちをするとジョンを軽々と腰抱きにして走り出す。並
外れた膂力であった。
﹁すいませっ︱︱﹂
﹁バカ。余裕もないのにベラベラしゃべんなっ! それにタダで助
けるってわけじゃねぇ。もう口を開くな、舌噛むぞっ﹂
︵にしても、二十年の専門家なんてそんなロートルのおっさん、こ
んな穴ぐらに潜らせる事自体間違ってんだよな︶
ジョンはうつむきながら、教授教授とブツブツつぶやいている。
幾度か細かい分岐を過ぎて、やや開けた地点に到達すると、その
広場には目を覆うような惨劇がいまだ続いていた。
﹁おいおい。さすがに多すぎじゃねーの、これは﹂
﹁のんびりしている場合じゃない! ゆくぞ! クランド!!﹂
アルテミシアは槍を振り回して大軍に突撃していく。
蔵人は、首の骨を傾けて、コキっと鳴らすと剣の柄に手をかけた。
﹁やだああっ!!﹂
﹁いだああああっ、いだっ! じぬううううっ﹂
﹁だずげっ、だずげでっ!!﹂
トカゲ人はそれぞれ分散して逃げ惑う冒険者たちへ群がっていた。
彼らは、冷えた爬虫類独特の目つきで、もはや抵抗の意思をなく
している男たちに爪や牙を思う存分突き立てていた。
トカゲ人の毒は出血性である。血液の凝固作用を阻害する成分が
あるため、ひとたび傷つけられると血は止まらない。
1178
それぞれが、ひとりに三体ほどの割合でのしかかり、首筋や鎧の
覆いがない部分に牙や爪を立てている。
﹁おぶっ、おぶろえっ!!﹂
首筋をギザギザした牙で噛み切られた男は白目を剥いて、赤黒い
舌をだらりと垂らし絶命していく。ジョンはあまりの凄絶な光景を
目の当たりにし、その場へ座りこんでしまった。 四十体ほどのトカゲ人が暴れているのは壮観だった。
壁際の隅には白っぽい服を着た研究者の男が三人ほど固まってい
る。
その前に重装備の五人ほどの冒険者たちが集まって十体の猛攻を
なんとか防いでいるが、誰もが著しく激しい損傷を受けており、そ
の命は風前の灯火だった。
ホーリーランス
義憤に駆られたアルテミシアの動きは素早かった。
彼女は気合一閃、聖女の槍を悪魔の群れに投擲した。
長槍は空を切り裂きながら真っ直ぐ飛ぶと、射線上のトカゲ人を
三体まとめて串刺しにした。槍はトカゲ人を縫いつけたまま、奇妙
に隆起した岩肌の壁にぶつかると轟音を響かせ突き立った。
仲間を殺されたことで脅威と認識したのか、すべてのトカゲ人が
顔を上げて視線を一箇所に集中させた。
アルテミシアは雄々しく仁王立ちになると、白金造りの鞘からス
ラリとロングソードを引き抜き、上段に構えた。絵物語の騎士もか
くやといった凛々しい立ち姿に、傷ついた男たちの瞳に希望の色が
色濃くなっていく。赤地に白十字を染め抜いたサーコートが一際大
きく人々の目に映った。
﹁ゆくぞ、外道共め!!﹂
叫ぶが早いか、アルテミシアは地を蹴って突進した。
﹁ちょ、待っ、俺の出番っ﹂
出遅れた蔵人が狼狽した声を上げる。
同時に、敵前に飛びこんだ彼女の剣が水平に振り抜かれた。
真っ白な刃の光跡は闇を引き裂いて流れる。
1179
溶けたバターのように軽々と両断された二体の首が跳ね飛んだ。
トカゲ人は、青黒い体液を勢いよく噴出させると、腕を振りなが
ら数歩進んで、どうと地に倒れた。
﹁おおおっ!﹂
アルテミシアに向かって五体のトカゲ人が襲いかかってくる。
彼らは巧みにぐるりと囲み、連携をとって攻撃を開始した。
彼女は、腕を伸ばして迫り来る爪を弾き飛ばすと、踊るような動
きで円回転した。
一瞬の静寂の後、五体のトカゲ人は胸、腹、首、腰、顔面をそれ
ぞれ断ち割られ体液を飛び散らせながらその場に崩れ落ちる。
﹁す、すごい﹂
座りこんでいるジョンが感嘆の言葉を漏らした。その隣では、よ
うやく抜剣した蔵人が口をあんぐり開けてその場に固まっていた。
︵確かに強いとは思っていたが、ここまでとは⋮⋮。あれ、俺の存
在いらなくね? 俺って、もしかして添え物じゃね?︶
アルテミシアの業は正当な剣術を習ったものにしかできない、洗
練された動きであった。
蔵人にはとうてい真似できない動きである。
瞬く間に四分の一の仲間を斃されたトカゲ人は、いまやアルテミ
シアひとりを的に絞り集結しはじめていた。異形の生物は足並みを
揃えて聖女に殺到する。落ち着き払ったアルテミシアが剣を構え直
した瞬間、黒い影が背後から弾丸のように飛び出した。
﹁クランド!!﹂
蔵人は外套をはためかせてトカゲ人の群れに真正面から突っこむ
と長剣を振り回した。
刃は狐円を描くと同時にトカゲ人の首が虚空に舞った。
目の前に居るトカゲ人の脳天へと全力で剣を打ち下ろす。深々と
両断された頭蓋から、灰褐色の塊が流れて辺りに飛び散った。後ろ
も見ずに剣を繰り出した。刃は後方のトカゲ人の腹を断ち割ると内
蔵を辺りに撒き散らした。
1180
二体が同時に襲いかかってくる。
一体の胸もとを蹴飛ばして転がすと水平に刃を振るった。
顔面を叩き割られたトカゲ人が奇声を発して後方に倒れる。
蔵人は身体を反転させると外套を振り回した。黒外套は凄まじい
勢いで周囲のトカゲ人の顔面を叩いた。
蔵人は身を低くして刃を寝かせ、突きを見舞った。長剣は灰色の
ウロコを引き裂いて心臓を破壊すると、突き出したのと同速度で引
き抜かれた。
蔵人はまだ倒れているトカゲ人の胸に足をかけ、両手に持った長
剣を振り下ろす。刃はトカゲ人の胸を刺し貫くと、地面ごと縫いつ
けた。顔を上げて周囲を見回す。
蔵人が六体のトカゲ人を倒している間に、アルテミシアも五体の
敵を打倒していた。劣勢だった護衛の冒険者たちも反撃に転じてい
る。一番そばにいたトカゲ人を叩き斬ったときには、十体余りに数
を減じたトカゲ人たちが逃げ出しはじめていた。
﹁ふざけんよおっ、この爬虫類があっ!!﹂
﹁仲間の敵だああっ!!﹂
﹁おい、ちょっと待て。深追いは危険だ﹂
戦況の攻守は完全に逆転した。仲間をいいように殺されまくった
冒険者たちは、逃げ惑うトカゲ人を追って洞窟の奥へと突き進んで
いく。ふたりの男が闇に溶け込んで見えなくなったかと思うと、続
けざま発狂した猿のような悲鳴が辺りをつんざいた。
﹁うわっと!﹂
闇の奥から軽々となにかが放り出された。
それは、綺麗な放物線を描くと、蔵人の足元に液体を飛び散らせ
て転がった。
瞬間的に飛び退ってかわす。
直視すると同時に理解した。蔵人はこみ上げてきた嘔吐感に耐え
ながら、眉間にしわを寄せて外套で自分の鼻と口を覆った。
固体の正体は、男が巨大な力で圧縮され、押し固められて肉団子
1181
と化したものだった。
腕や足が無理やりねじ曲げられてひとつの毬のように変化してい
る。玉の中心部に覗く男の顔は、目を見開いたまま無念の形相を貼
りつけていた。
﹁気をつけろ、クランド。なにか来るぞ﹂
アルテミシアが尖った鼻梁をピクと震わせた。彼女は回収した槍
を構えると闇の向こうをにらみつけたまま微動だにしない。
やがて、誰の耳にも聞こえる大きさの地響きが迫ってきた。
一拍を置いて巨大な個体が近づいてくる。
パラパラと洞窟の天井に付着した岩苔が剥離し、辺りに降り積も
っていく。腹の底に響くような振動が、折り重なるようにして辺り
に積み上がっていた死体を震わせた。
﹁ヤッテクレタナ、ニンゲンドモメガ﹂
その声は反響して蔵人たちの耳朶を打った。
闇からぬっと姿をあらわした巨体は博物館の恐竜を想起させた。
全長は十メートルはあるだろうか、全身は濃い灰色のウロコがび
っしり生えていた。長い年月を経ているのだろう、ウロコの外側の
部分には緑色のコケがびっしりと付着している。輝く瞳は爛々とし
て周囲を睥睨していた。
特徴から推察するにトカゲ人の上位種と考えられるであろう生き
物は、他の個体とは違ってトサカがきらびやかな金色に輝いていた。
人間語を操ることから知能は高いのだろう。股間には革の腰巻をま
とっており、腰には巨大なそりのある刀を吊っていた。
﹁これが、世に聞くキングトカゲか。私もはじめて見る﹂
アルテミシアは緊張した様子でつぶやくと、白い喉を小さく鳴ら
した。
蔵人が再びキングトカゲに目を向ける。
爬虫類の王は両手にそれぞれ男と女を握りこんでいた。
ひとりは先ほどトカゲ人を追っていった冒険者である。
もうひとりは若い女だろうか。
1182
ぐったりとして顔を伏せている。
長い髪が垂れていて生きているのか死んでいるのか確かめること
はできなかった。
﹁きょ、教授だ﹂
﹁へ?﹂
ヘタレていたジョンが大声を上げた。
その声に釣られて蔵人が振り返ると同時だった。
背後の巨大モンスターキングトカゲがなにかを握りつぶすイヤな
音が響き渡った。
1183
Lv75﹁象牙の塔は凸凹が少ない﹂
猿が無理やりハラワタをかきだされたような悲鳴が響き渡った。
蔵人が再びキングトカゲに向き直ると、そこには片手で握りつぶ
された冒険者だったモノの残骸があった。
﹁か、かひゅ﹂
男にはまだ息が残っているのか、喉元からは奇妙な低い音がわず
かに漏れていた。
子どもが羽虫を苦もなく握りつぶすように、胴体は丸めた紙くず
のようになっていた。
一息に圧縮されたせいか、肋骨は一本残らず見事にへし折られて
いた。
キングトカゲの膂力の前には胴骨などはポッキーのようなものだ。
臓器は残らず破壊され、一部の腸は圧力によってはみ出て、白い
湯気を立てていた。
キングトカゲが左手へさらに力をこめる。 ぶちゅっ、と音がして男の上半身と下半身は見事に分離した。
バラバラになった身体の一部が血だまりを跳ねて飛沫を上げる。
その光景を見ていた研究員のジョンは顔をそむけるとその場に激
しく嘔吐をはじめた。
﹁おい、教授ってのは、もしかして反対側の女のことか﹂
﹁ええ。早く、あのバケモノからブラックウェル教授を救出してく
ださい!﹂
ジョンが大声を上げると、キングトカゲに囚われのままになって
1184
いる女が反射的に顔を上げた。
﹁おお、なんちゅーか知的な美人だ﹂
﹁むっ﹂
蔵人が状況を考えずに口笛を吹く。アルテミシアは不愉快そうに
眉をひそめた。
長く美しい黒髪は腰まで届きそうなほど長かった。
前髪を筆のようにぱっつんと切りそろえている。
ほとんど陽を浴びないのか、きめ細やかな雪のような白い肌をし
ている。
蔵人が知る女性の中では間違いなく一番優れた美しさだった。
高い鼻梁に細くたおやかな細い顎。細めに造ったフレームの黒縁
眼鏡をかけている。
ほとんどショーツの見えそうな超ミニの黒スカートに黒のニーソ。
白のフリルブラウスの上に薄いグレーのショールを引っかけてい
る。
瞳は海を思わせるような濃いブルーだった。
﹁おい、そこのバカっぽい男﹂
﹁おい、ジョン万次郎。お前のこと呼んでるぞ﹂
﹁教授! きょうじゅぅううううっ!!﹂
感極まったジョンは地に両手を突いて泣き叫ぶ。
キングトカゲに片手で拘束された状態の女教授は冷たい声音で否
定した。
﹁違う。ボクが呼んだのはその役たたずじゃなくて、そこのコウモ
リみたいなおまえだ﹂
彼女は巨大モンスターに囚われている恐怖を感じさせない、ゆっ
くりとした落ち着いた口調でしゃべった。
﹁女教師に眼鏡でボクっ子。どんだけ、属性重ねれば気がすむんだ
よ﹂
蔵人が前に進み出る。キングトカゲは威嚇のために異様な唸り声
を上げるが、女教授は眉ひとつ変えずに蔵人と話を続けた。
1185
﹁ボクはルッジ・ブラックウェル。王立迷宮探索研究所の特任教授
だ。今回たまたまフィールドワークに出たものの、このようなモン
スターに捕まり大変難儀している。端的にいう。助けて欲しい。助
けろ﹂
ろ、の部分でキングトカゲがルッジを上下に振った。
黒髪はさーっと闇の中で素早く流れる。彼女の表情。変わらず落
ち着き払っていた。
︱︱この女、感情がねェのか?
蔵人が不信感をあらわにする。
嵐のようなうなりを立てて、キングトカゲが声を出した。
﹁オイ、ニンゲン。キサマラハ、ワレノ、ナワバリヲ、オカシタ。
カクゴハイイカ﹂
当然覚悟なんてものはない。
蔵人は長剣を構えたまま、重心を足元に移していつでも飛びかか
れる状態に身を置いた。目線を上げてルッジに視線を転じる。
キングトカゲが腕を上下にシェイクするたび、彼女のやや薄い胸
元や尻や脚が視界に飛びこんでくる。
﹁まあ、なんとフラットな﹂
ちょこっと、がっかりした蔵人であったが、それを補ってあまり
有る美脚やヒップの美しいラインに目尻を下げた。
︵若造はおっぱい、年寄りはおしりに惹かれるとモノの本に書いて
あったが。正直、どっちもイケるッス︶
蔵人が悩んでいる間に、キングトカゲが地響きを立てて襲いかか
ってきた。
十メートル級が動けばそれだけで脅威だった。
キングトカゲの左腕が真っ直ぐ振り下ろされる。
﹁うわっち!﹂
蔵人は横っ飛びでよけると、転がりながら距離を取った。
黒外套を巻き上げながら長剣を水平に構える。
ルッジは眉ひとつ動かさず口をへの字にして人形のようにピクリ
1186
ともしない。
おそるおそる声をかける。
﹁あのー、先生さんよ。助けろっていわれても、このトカゲさん、
やる気まんまんで、ちょっとやそっとの覚悟じゃ難しいかな、と﹂
﹁ん? ⋮⋮情報が上手く伝わらないのか。それでは、改めて伝達
する。さっさと助けろ﹂
﹁だから、そういう生半可な相手じゃねえんだって!﹂
﹁さっさと命懸けで助けて欲しい﹂
﹁難易度上がってるよねえ!? それ!!﹂
﹁なんだ、報酬か。金はおそらく助手が勝手に、かつ無断でおまえ
に渡したはずだが、それは返してもらうぞ。研究には金がいくらあ
っても足りないからな﹂
﹁ふざっけんな!!﹂
蔵人が激昂する。
ルッジは無表情のまま片眉を上げると右手でフレームの位置を修
正した。
﹁仕方ない。妥協しよう。金以外でボクに出来ることならなんでも
する﹂
﹁マジで!? いいのかっ! 簡単にそんなこと安請け合いしても
いいのかっ!!﹂
﹁いい。早く調査に戻りたい﹂
﹁⋮⋮えっちなことも有り?﹂
﹁好きにしろ﹂
ルッジの言葉で蔵人のスケベ魂に火がついた。
﹁うおおおおっ、行くぞ! アルテミシアっ、あのデカブツをたた
っ斬ってやるぞ!!﹂
﹁ふーん、そうか﹂
意気ごむ蔵人とは打って変わり、アルテミシアは横になって寝そ
べり兜を脱いで髪の枝毛を探していた。
彼女の表情は完全に弛緩し、湯船に浸かっているように全身から
1187
力が抜けている。
要するにやる気はゼロだ。
理由は推して知るべし。蔵人は完全に状況判断を欠いていた。
﹁ちょっと。もちっと、ちゃんとやろうよう。困った人のピンチな
んだよ。人助けなんだぜ! 頑張ろうよ! いっしょによう!! ファイト! チームダンジョンマスター!!﹂
﹁あ、ふ﹂
アルテミシアは口元に手を当てると大きくあくびをした。
むにゃむにゃと口を波のように動かして大儀そうに立ち上がる。
手に持っていた槍ががらーんと横倒しになった。
彼女は拾おうともせずに両手を組んで頭の上にかざして大きく伸
びをしていた。
﹁なにが気に入らねえんだよ﹂
﹁ぜんぶだ﹂
﹁⋮⋮あ、はい。そんな大きな声出さんでください。こわいです﹂
﹁ぜんぶだ!!﹂
アルテミシアはカッと両眼を見開くと怒気を全身から放出した。
蔵人は彼女の背後に燃えたぎる炎と不動明王の姿を幻視した。
﹁ひいっ、や、やめてください﹂
﹁フザケルナヨ!! ニンゲンドモガ!﹂
﹁おい、トカゲ﹂
襲いかかろうとするキングトカゲに虜のルッジが声をかけた。
﹁せっかくボクを人質にとっているんだから、それを有効活用しな
いのか﹂
﹁⋮⋮ソレモソウダナ﹂
﹁おいいいっ! アンタなにいってくれちゃってんのおおおっ!?
自ら命を危うくしてェええっ! 激マゾだな、おいいっ!﹂
﹁失礼な。戦闘における適切な助言を与えただけだ﹂
﹁オイ! ニンゲンドモ! コイツノ、イノチガオシクバ、ウゴク
ンジャ、ナイゾ!!﹂
1188
﹁だ、そうだ﹂
﹁馬鹿だろ、絶対おまえ馬鹿だろ!!﹂
﹁違う。研究の一環として、この個体の知能レベルやボクの言葉を
どこまで咀嚼して考えられるか試しただけだ。だがもういい﹂
﹁へ? もう、いいって、なにが﹂
﹁とにかく、確証は得られた。おまえは帰っていいぞ。︱︱っく!﹂
いままで氷のように冷静だったルッジの表情が歪んだ。
キングトカゲが右手に力をこめはじめたのだった。
巨大モンスターの手のひらは、ルッジのウエストをギリギリと締
め上げていく。
蔵人の脳裏にさきほど握りつぶされた男の末路が浮かんだ。
﹁危ない、クランド!!﹂
アルテミシアの声。
ハッとして顔を上げると目の前に巨大な拳が真っ直ぐ繰り出され
ていた。
瞬間的に、よけようと身をひねるが回避は間にあわず、強烈な一
撃で意識が途切れた。
蔵人の全身を凄まじい衝撃が襲ったのだ。
目の前で花火が上がったように光が激しく明滅する。
壁際まで吹っ飛ばされると岩肌に背中をおもいきり打ちつけた。
呼吸が止まる。冷たい汗がどっと背面ににじみ出る。喉元に血の
塊がせり上がってきた。
蔵人は地面に転がると顔面をしたたかにぶつけて血反吐を吐き散
らした。
視界の隅で槍を持ったアルテミシアが駆け出すのが見えた。
ルッジの悲鳴が確かに聞こえた。
﹁やめろ! 動くなアルテミシア!!﹂
蔵人は全身の筋肉を動員して立ち上がるとよたつきながら歩き出
す。
﹁どうしてだ、クランド﹂
1189
瞳を真っ赤に血走らせたアルテミシアは血に飢えた猛獣のように
白い歯を剥きだしにしてうなっている。
﹁ルッジが、殺される﹂
蔵人がアルテミシアの肩を押してキングトカゲの前に進み出ると、
ルッジを締めつけていた腕が開かれる。
﹁ソウダ。ウゴクナ﹂
キングトカゲは温度を感じさせない目つきで、たどたどしい人語
を使った。
﹁愚かな﹂
ルッジの表情がわずかに陰った。青い瞳が静かに蔵人を見つめて
いる。
﹁ニンゲンガ! マップタツ、ニ、シテヤル!!﹂
キングトカゲは右手で握っていたルッジを放り投げると大きな口
を開いて、鋭く尖った牙を露出させた。
金色のトサカを振り乱すと腰の刀をスラリと抜いて両手に持った。
姿見のように大きな刃の側面にボロボロになった蔵人の姿が映る。
巨躯のケダモノは蛮声を喉の奥から吐き出しながら刀を振り下ろ
した。
谷を渡るような豪風が吹き抜けていく。
アルテミシアの叫びが辺りに反響する。
ルッジは迫り来る惨劇に思わず目を閉じた。
︱︱が、恐れていた肉を断ち切る音はしなかった。
黒獅子
を水平に支え、垂直
代わりに、金属を激しく撃ち合わせた硬質な高い音が轟き渡った。
﹁ふんぐうううっ!!﹂
蔵人は両手を天に突き上げて聖剣
に落とされた斬撃をかろうじて防いだのだった。
満身に力をこめて怪物の力と拮抗する。
キングトカゲの巨大な両腕が筋肉の塊で盛り上がる。押しつぶさ
れそうになり膝を突く。
もっとも、志門蔵人はそれほどヤワではない。
1190
イモータリティ・レッド
胸元の不死の紋章が激しく輝きだした。
千切れた筋繊維を無限に再生しながら超人の身体に書き換えてい
く。
蔵人に与えられた唯一の切り札が発動したのだ。
﹁バカな。あれが、人間の力か!?﹂
ルッジは呆然とした表情で蔵人の動きを食い入るように見つめて
いる。
ホーリーランス
凍りついていたアルテミシアは即座に状況を把握すると、手にし
エンチャント
た聖女の槍を巨体に向かって全力で投擲した。
﹁魔力付与・硬化!!﹂
長槍はアルテミシアの唱えた神聖魔術の加護で白く輝く。
威力を増して流星のように光跡を残した。
ホーリーランス
穂先はキングトカゲの胴へと吸いこまれるように突き立った。
聖女の槍はキングトカゲの巨体を紙切れのように安々と貫いた。
穂先は青黒い血潮に濡れて怪物の背中から飛び出すと、背後の壁
にぶつかって停止した。
槍の半ばで串刺しになった怪物は身をよじって絶叫する。
﹁おらああっ!!﹂
蔵人はキングトカゲの大刀を上へと押し上げると、飛び上がって
長剣を斜めに動かした。
振り抜いた闇の中へ光芒が走った。
刃は虚空に半円を描くとキングトカゲの腰を深々と切り裂いた。
ドブのように黒ずんだ体液が辺り一面へと雨のように舞い落ちる。
血潮は大粒の雫となって岩肌をうるおした。
﹁よし。あとはボクに任せてくれ﹂
蔵人が飛び退いて声の方向を見やる。
そこには、一冊の本を片手で開いて持つルッジの姿があった。
彼女のうしろには茶色のアタッシュケースを抱えて怯えるジョン
がいる。
ルッジはショールを肩にかけ直すと、綺麗に磨いた爪の先でケー
1191
スを指す。
﹁トカゲどもに奪われた荷物を取り戻す時間が必要だった。それに、
曲がりなりにもボクのパーティメンバーに手をかけた相手だからね。
ケジメは、ボク自身がきっちりとらせてもらう﹂
﹁あれは、魔道書?﹂
アルテミシアがつぶやいた。
ルッジの手にした書物はそれ自体が意志を持ったように、ひとり
でにめくりあがる。
紙片は無風状態の中でも次から次へと淡く発光しながら辺り一面
に舞い上がった。
洞窟内はたちまち陽の下のように明るく照らし出される。
磔になったままのキングトカゲは、喉から長い舌を伸ばし息も絶
え絶えに叫んだ。
﹁ナ、ナンダコレハ!!﹂ 書物自体の質量を無視したページのすべてが虚空を舞いながらキ
ングトカゲの全身へと貼りついていく。十メートルの巨体は地響き
アストロ・グリモワール
を上げて地を揺るがし、付着した紙片を払い落とそうと身体をよじ
った。
﹁無駄だよ。ボクの星の魔道書はそんなことじゃ剥がれない﹂
いまや白い紙片は竜巻のようになってキングトカゲの全身を覆い
尽くした。
ルッジは魔道書から手を離す。
支えもなしに魔道書は彼女の目の高さまで浮遊する。
オルタナ・フレイムバースト
今度は洞窟内すべてをかき消すほどの光量がひときわ強く輝いた。
﹁チェック。偽・火炎爆破!!﹂
ルッジが魔術を詠唱すると、キングトカゲに張りついた紙片のひ
とつひとつが大きく膨れ上がった。
必然的に崩壊がはじまる。
真っ赤な紙片は連鎖的に燃え上がり、続けざま激しく爆散した。
日輪が閉じた目蓋の裏へと降臨する。
1192
怪物の絶叫が鋭く流れた。
目を開けていられない熱量である。
蔵人は頬を刺す激しい熱でその凄まじさを実感した。
外套で目鼻を覆い、さらに距離をとった。
ようやく確認できたときには、キングトカゲの身体は炎の塊によ
って隙間なく焼き尽くされ、巨大な灰の塊と化していた。
﹁かような魔術が使えるのであれば、なぜとっくに応戦しなかった
のだ﹂
﹁愚問だ。ボクには賃金を払って雇った護衛がいた。なんのためだ
と思う? もちろん、研究や調査に専念するためさ。そして、研究
員や学者たちはあくまで守られる立場だ。ボクももちろん戦闘員じ
ゃない。大枚をはたいたからには、安全かつ効率的にフィールドワ
ークを進められるはずだった。そのための冒険者だろう。もっとも、
ここまで役立たずなのは想定外だったがね。まったく、誰が連れて
きたのだろうか。大ボラもたいがいにしてほしいな。地下の研究員
たちにどう詫びればいいものやら﹂
ルッジはジョンを呆れたような視線で眺めた。
どうやら、護衛の目利きをしたのはジョンらしい。
彼は恥じ入るようにして身を小さくしている。
当然、生き残った護衛の冒険者たちは雲を霞と逃げ去っていた。
﹁いきなりの奇襲でトカゲ人に魔道書を奪われたのも痛かった。あ
れがなければ、ボクはただのかよわい女だからね﹂
﹁魔道書。あなたは、魔術師ではないのか﹂
﹁違う。ボクはこの書物を使って元々記載されている魔術を開放し
ているに過ぎない。ボクには魔術の素養はないよ。いうなれば、こ
1193
ロスト・ハイウェポン
の本がケタ外れなだけだ。やはり、伝説にうたわれだけのことはあ
る﹂
﹁もしや、それは古代十二神器のひとつか!﹂
﹁おい、なんだその中二ワードは﹂
﹁初代国王のロード・フォン・ロムレスが使っていたといわれる伝
説の武器だ。最終決戦以降、その力の強大さから王自らダンジョン
に封じたとされる神器だ。しかし聞くとろこによると、ダンジョン
に封印されている以外のふたつは、王家と下賜されたビブリオニア
ス家が厳重に保管されているはずだが﹂
﹁その、ビブリオニアス家はボクが嫁ぐ前の実家なのさ。いまの姓
ブラックウェルは亡夫のもの。継承した領地を運営するには、なに
かと都合がいいからね。もっとも、姓も名前も本質にはなんの意味
あいも持たないのでこだわりもないのが本音だけどね﹂
﹁ならば、真物ということか﹂
﹁ふーん。ま、魔術師でなくても、その魔道書があれば誰でも魔術
が使えるってことなのか。すげーな。なあ、先生さんよ。ちょこっ
と俺にも使わせてくれよ。スーパーイリュージョンごっこをしてみ
てえ。せっかくの異世界だしな﹂
蔵人の瞳が好奇心のため、キラキラと輝きだした。
﹁なんの話をしているのかはわからないが、この魔道書はビブリオ
ニアス家の血筋の者しか使用できない。おまけに、マスターとして
はボクの魂を記憶させてある。他人が使うことは不可能だ﹂
﹁ちぇー、そら残念だ﹂
﹁しかし、にわかに信じられないな。魔術適性のないものが、術を
行使できるなどと﹂
﹁眼で見たものがすべて真実とは限らない。君は、えーとなんとい
ったっけ﹂
﹁アルテミシアだ﹂
﹁そうかい。うん、アル。君は学者として中々いい素養があるかも
しれないな。まず、すべてを丸のみせずに、自分で咀嚼してみる。
1194
これは重要事項だ﹂
﹁しかし、その魔道書を取り戻したのなら、もう私たちが顔を突き
あわせている必要性もないな﹂
﹁それが、そうもいかないのだよ﹂
﹁なぜだ﹂
﹁確かにこの魔道書は万能だが、たったひとつ瑕疵があってね。記
載されている初級魔術から中級・上級魔術のどれでも開放すること
は可能なのだが、決して無限使用できるわけじゃないんだ﹂
﹁回数制限があるというのか﹂
﹁厳密には違うのだが。そうとってもらっても、間違いではないだ
アストロ・グリモワール
ろうね。特に、この
星の魔道書はボクの精神力に依存している。魔力ではなく、体力
に近い。ほら、これを見てくれ﹂
ルッジはそういうと、魔道書を開いて見せた。蔵人とアルテミシ
アは揃って覗き込む。
すべてのページは白紙でなんの文字も書かれていなかったが、確
かに本の背に比べて中身の紙片は少なくなっていた。
﹁使えば使うほどページ数は減少していく。もっともなくなればな
くなりっぱなしじゃない。だいたい、日の出とともに元通りになっ
ている。原理はわからない。徐々に、復元するのではなく、いちど
ロスト・ハイウェポン
きに元通りになるといったほうがいいかな。実家の口伝によると、
古代十二神器は錬度が増せば増すほど能力は向上するらしい。いま
の僕が開放できる回数は一日に、そうだな、初級魔術が十回、中級
魔術が五回、上級魔術が一回くらいってところだろうね﹂
﹁先ほど使用した術は、火属性の中級クラスか﹂
ロスト・ハ
﹁そう。けど、調子乗って使えばすぐに干上がってしまうだろう。
だから、わざわざ使いべりのしない冒険者を雇ったのさ﹂
イウェポン
﹁なあ、盛り上がっているところ悪いんだけど。そもそも、古代十
二神器ってなにさ﹂
﹁それはだな︱︱﹂
1195
ロスト・ハイウェポン
ラスト・エリュシオン
﹁古代十二神器とは、初代ロード・フォン・ロムレスがあまりの破
壊力の高さに封印した強力な武器のことだ。この、深淵の迷宮は最
ロスト・ハイウェポン
深部まで百層有り、それぞれ十階ごとにひとつづつガーディアンが
封印された古代十二神器を守っているらしい。ほとんどの冒険者は、
それらのボス部屋をさけてひたすら最深部を目指すのが常識となっ
ている。ボクとしては、是非とも彼らが取りこぼしたお宝をこの目
で確認したいのだ。そこでひとつ提案がある﹂
﹁提案?﹂
﹁ボクを君たちのクランに︱︱﹂
﹁大却下だ!!﹂
﹁む﹂
アルテミシアは蔵人を抱き寄せると牙を剥いてカッと怒鳴った。
サンクトゥス・ナイツ
﹁どうして頭ごなしに否定するのかな。アルテミシア、君はその格
好から見て白十字騎士団の人間だろう。困った人間に手を貸すのが、
本来の役目ではないのかい?﹂
﹁そんなものはたったいま脱会した!﹂
﹁ちょ、新興宗教かよっ﹂
﹁ふうん。いったい、なにが気に入らないのかい。ボクは君たちを
護衛にして安全にダンジョンの調査を行える。君たちは好きなだけ
暴力を振る︱︱もとい、力を発揮して冒険を楽しむことができる。
ウィンウィンの関係じゃないか﹂
﹁どこがだ! おまえは私たちを盾として使い倒したいだけじゃな
いか! そんな理屈では子どもも騙されやしないぞ﹂
﹁ふん。でも、そちらの殿方は騙されたがっているみたいだけど﹂
﹁クランド﹂
﹁はっ!?﹂
蔵人は目を皿のようにしてルッジの長く美しい脚をじっと視姦し
ていた。
アルテミシアの冷えた声で現状に気づき視線をそらすフリをする。
名残惜しいのか、握った拳を無意識に開いたり閉じたりしていた。
1196
﹁ちらっ﹂
﹁おおおっ!!﹂
ルッジは目を細めると艶かしい唇を歪め、美脚を前に突き出して
スカートの裾をわずかにめくった。
白い太ももと魅惑のトライアングル地帯が見えそうになり蔵人の
視線が釘づけになった。
﹁⋮⋮さわりたいかい?﹂
﹁さわりたい、揉みたい、ペロペロしたいッ﹂
﹁クランドッ!!﹂
﹁あはは、君は正直者だね﹂
身を乗り出した蔵人をアルテミシアが食い殺しそうな目つきでに
らんでいる。
ルッジは勝ち誇ったように薄く笑った。
﹁は、は、破廉恥極まりない! 貴様は変質者か、でなければよほ
どの男好きだなっ!!
恥を知れ! 恥をっ!!﹂
﹁ボクは男性に興味ないよ。でも、自分の身体は結構好きなんだ。
ほら、この長くて美しい脚とか、ね﹂
アルテミシアは前に突き出された女教授のスラッとした脚線美を
見ながら、眼球を真っ赤に血走らせながら歯噛みした。
激しい訓練によってアルテミシアの足は、結構太くなっていたの
だ。ムッチリとした肉づきは男ウケするものだが、彼女は密かに細
く可憐な女らしい身体にコンプレックスを抱いていたのだった。
﹁クランド。ボクの乳房では満足できないかもしれないけど、コレ
を自由にさせてあげるといったら、どう考える?﹂
﹁きょうから貴女の下僕になります﹂
蔵人は一瞬で軍門に下った。
﹁クランドぉおおおっ!!﹂
﹁︱︱というのは冗談。お遊びはここまで。真実、強いパーティメ
ンバーを探していたのは事実だし、君たちのクランに加えてもらえ
1197
れば、大変助かる。なにもすべてにおんぶにだっこするといってい
るわけじゃない。ダンジョン内の知識では少なくとも、ボクより上
の人間はこの王国内で存在しない。発見した素材や財宝、金穀は等
分するということでどうだろうか? 見たところ、ふたりとも目利
きにすぐれているとはいえなさそうだしね﹂
﹁くううっ。クランドぉおお﹂
﹁あー。わかったわかった。ちょっと考えさせてくれ、んんん。あ
ー。オッケー!﹂
﹁早いっ! 本当に考えたのかっ!?﹂
﹁あー考えた考えた。光の速さで熟考した﹂
﹁⋮⋮バカァ。クランドのスケベ。色気違い﹂
﹁そこまでいうかっ!?﹂
﹁それに、理由はそれだけじゃない。クランド。どうして君はさき
ほどあの化物の言葉通り動かなかったのだ? 理解できない。よく
知りもしないボクなんて放って置いて逃げればよかったのに﹂
﹁さあ、なんでだろうな﹂
蔵人は耳たぶをさわると、困ったように笑った。朝黒い肌に真っ
白な歯が輝いた。ルッジは氷のような無表情さを崩すと、音もなく
一歩前に出た。
﹁んなっ︱︱!?﹂
ルッジは背伸びするようにして蔵人に口づけると、何事もなかっ
たかのように離れた。
アルテミシアはぽかっと口を開けたまま呆然とした顔で立ちすく
んでいる。
﹁とりあえずは、お礼だ。これからもよろしく頼むぞ﹂
当然のことながら、アルテミシアは火がついたように顔を紅潮さ
せて反対した。
理由など述べるまでもない。単純に蔵人へと他の女を近づけるの
が嫌なのであった。
だが、実際問題ルッジのダンジョンにおける知識の豊富さはずば
1198
抜けていた。
ルッジが知識を披露する↓蔵人が褒める↓アルテミシアが嫉妬する
絵に書いたような悪循環が出来上がってしまった。
蔵人としては、それほどルッジを贔屓しているつもりなはなかっ
たが、人間誰しも新しい存在があれば構いたくなるのが人情だった。
正式にルッジをクランに加入させるかどうかは保留にして、蔵人
たち四人はとりあえずとして、八階層の最深部まで一緒に行動する
ことにした。
転移陣を展開させてダンジョンから出ることは可能だが、エネル
ギー源となる魔石を使用するのはあきらかに浪費である。
ライト
を使うと、浮遊する
渋るアルテミシアを説き伏せると、ルッジを道案内に先行させた。
美貌の女教授は、火属性魔術である
光の玉を打ち出した。
﹁ともあれ、魔術は便利だ﹂
蔵人はルッジの背後につくと彼女の尻を注視しながら真面目な顔
をして歩き出した。
大きすぎず小さすぎず。ピッタリとした超ミニへと、彼女が足を
動かすたびに美しい曲線美が浮き上がって見えた。
蔵人と彼女の助手であるジョンは平静を装いながらも、穴が空き
そうなほどルッジの尻のみを視界に捉え続けた。アルテミシアは虚
ろな瞳でふたりの男の行動を静かに見守っていた。
おおよそ一時間ほど移動してから小休止をとった。
ルッジは座りの良い岩に腰かけると、手帳に猛然と記録を書きつ
けはじめた。かたわらには忠犬よろしくジョンが目尻を下げて控え
ている。
蔵人が、水筒を振りながらルッジにちょっかいを出そうと、にじ
り寄っていった。
アルテミシアは口をへの字にしながら強引に腕をとってその場か
ら離れさせた。
﹁なあ、クランド。私の、そのおしりは、そんなに大きいか﹂
1199
﹁はぁ? なんだよ、唐突に﹂
﹁だって! さっきから、あの女の、お尻ばかり⋮⋮﹂
﹁えーと﹂
︵そうか。さっき、やたらにルッジのケツを褒めまくったのが気に
入らねえんだな︶
移動中に蔵人はしきりにルッジのスタイルを褒めた。彼女は、ど
うも、というだけでまるで反応を見せなかった。いや、彼女は経験
上から自分の下半身に自身を持っていたのだった。このようにない
がしろにされればアルテミシアも面白いはずもなかった。
それどころか、彼女は自分の大きめの臀部や下半身を常々太すぎ
ると思い込んでいたのだった。無理もない。騎士としての鍛錬を続
け、大の男以上に重い槍や剣を振り回すうちに自ずと彼女の腰や尻
は筋肉が発達して大きくなってしまったのだ。
もっとも、それは不健康な肥大化ではなく、絞り上げられた中に
も女性らしい丸みを残しているもので、決して卑下するものではな
い。蔵人は両腕を組むと、うんうんと頷きながら、彼女の自尊心を
満たす言葉を懸命に模索した。
﹁大丈夫だって! おまえのデカい尻、俺大好きだから!!﹂
さわやかにサムズアップを決めた。同時に、みぃんと空間がイヤ
な空気で凍りついた。
アルテミシアは兜の目庇を下げると、うつむいたまま震えだした。
ジョンは荷物を担いだまま蒼白な表情で固まっている。
ルッジは人差し指を口元に当ててから、ふぅとため息をつく。
パン、と甲高い頬を張る音が隘路の中で高らかに鳴った。
無事八階層から帰還した一行は一部険悪な雰囲気に包まれていた。
アルテミシアは真っ赤な顔をしたまま後ろも見ずにずんずんと出
口に向かって歩き続けている。蔵人が懸命になだめているが彼女は
聞く耳を持たないといった風だった。
ルッジとジョンは互いに顔を見合わせると、困ったね、というよ
うに顔を曇らせた。
1200
﹁ちょっ、待てよ!﹂
蔵人は往年のアイドル風にアルテミシアの肩を引き止めた。
場所はギルドのロビー中央である。物見高い冒険者たちが、格好
の暇つぶしとばかりに雲霞の如く集まってくる。強く舌打ちをする
と、兜を脱いだアルテミシアが真っ直ぐに視線を向けてきた。
﹁おまえ、泣いて﹂
﹁私なりに尽くそうと頑張っているのにっ。あんな女の肩ばかり持
って。クランドのばかっ!!﹂
アルテミシアは素早く反転すると鎧をガチャガチャいわせながら、
旋風のように素早く走り去っていった。
受付のネリーが半笑いで白いハンカチをヒラヒラとアルテミシア
の後ろ姿に振っていた。
﹁な、なぜだ。俺は誠心誠意、正直に褒めたつもりなのに﹂
蔵人は両膝を突くと呆然とした顔つきで板張りの床に視線を落と
した。
眼前に影が落ちる。顔をねじって背後を確認する。
そこには、無表情のまま突っ立っている、ルッジの姿があった。
﹁君は、もう少し女心というものを学ぶべきじゃないかな﹂
﹁お、お、おまえのケツが悪いんじゃあああっ!!﹂
ルッジに猛然と飛びかかった蔵人を取り押さえるのに、ギルドは
三十人の警備兵を動員した。
1201
Lv76﹁姫騎士ヴィクトワール﹂
過酷な運命に打ちひしがれた蔵人が、愛するポルディナが待つ自
宅へとようやく帰還したのは昼をとうに過ぎた時刻であった。
﹁お帰りなさいませ、ご主人さま?﹂
蔵人はパタパタと玄関に駆けてきたポルディナの姿が見えると同
時に勢いよく飛びついて、自分の顔をその豊満な胸にうずめた。
﹁ご、ご主人さま?﹂
ふかふかした程よい弾力と甘ったるい匂いを鼻腔いっぱいに吸い
込んだ。
ポルディナは、主人の動きに頭上の耳をピンと立ち上げたが、す
ぐさまいたわるように蔵人の身体に両手をまわして、ぎゅっと抱き
しめるとしっぽを左右に大きく振りはじめた。
﹁本当に、お疲れさまでした﹂
蔵人はポルディナの胸から顔を上げ、細いあごをつかんで唇を合
わせた。
ふたりは熱い抱擁をかわしながらねっとりとしたキスをかわす。
ポルディナは強く抱きつくと舌を吸われるままにさせ、きゅっと
目をつぶる。
それから、送られる唾液を従順に飲み干した。
﹁ふうっ﹂
蔵人は思う存分従順なメイドのやわらかい舌を楽しむと身体をそ
っと離した。
ポルディナは、跪いて主のブーツを脱がせると、ぬるま湯で足を
1202
丁寧に洗い汚れをすすいだ。ひととおりすすぎが終わると、蔵人を
椅子に腰かけさせて足指の股の間に自分の舌を這わせる。
若く美しいメイドは、んっ、と鼻にかかった声をもらしながら丹
念に汚れを舐めとると、主に薄い靴下とやわらかめの布靴を履かせ
る。
蔵人は儀式が一通り終了すると立ち上がり屋敷に入った。そのう
しろを、長剣と外套を捧げ持ったポルディナがしずしずと続いた。
﹁お疲れのところを申しわけございません。少し、よろしいでしょ
うか﹂
﹁なんだ?﹂
﹁あの、ご主人さまがお出かけの際に、二名ほどお客さまが参られ
まして。真偽の判断がつきませんでしたので、一応はおもてなし致
しましたが﹂
﹁んん。ああ、そういやそんなこともあったような。うん、わかっ
てる。メイドっぽいふたりだろう﹂
﹁はい。少し変わった方たちでした﹂
あれを、少しというかね。蔵人は鼻を鳴らすと、応接間に向かっ
た。
ぼんやりと考え事をしながら歩く。重々しいドアノブを引くと、
薄暗い部屋からは、独特の香草や油、肉を炒めた匂いが鼻先をくす
ぐった。
きょときょと視線をさまよわせる。
頭の中クエスチョンマークが埋め尽くした。
︵確かここだったような、アレ?︶
﹁その、そちらは、炊事場です﹂
困ったようなポルディナの声。ボロ貸家からこの屋敷に移ってそ
れほど経っていない。加えて、蔵人は外出が多いために間取りを完
全に把握はしていなかった。
﹁ああ、違った違った。えーと。こっちか﹂
来た道を引き返し、進行方向を修正する。今度は間違えずに目的
1203
の部屋へたどり着いた。
独特の文様が彫りこまれた身の厚く茶色い光沢を帯びた扉をポル
ディナが開いた。
部屋の中央にあるソファに腰掛けていた、ヴィクトワールが立ち
上がるのが見えた。
﹁どこへ行っていたのだ! まったく!!﹂
ヴィクトワールはカップをマホガニーの長テーブルに置くと、立
ち上がってプリプリと怒り出した。横には給仕をしていたメイドの
ハナがにこにこと笑いながら、小さく頭を下げるのが見える。
﹁んな、デカイ声しなくったって聞こえてるっての。おお、なんぞ
?﹂
蔵人は異常に毛足の長い絨毯に脛まで脛まで沈めながら近づいて
いく。ダンジョン内で岩稜地帯を長時間歩き続けていたため、ふか
ふかの感触もひとしおだった。
中古とはいえ、さすがに元は貴族が療養所として使っていただけ
のことはある。
無駄に豪奢だ。
﹁てか、まだそのなんちゃってメイドのカッコなんだな。気に入っ
たのか﹂
﹁気に入るはずもなかろう! やむ無くだ、やむ無く!!﹂
ヴィクトワールは両手を腰に当てながら怒鳴った。
際立った美貌だ。見ているだけで総毛立つ。
蔵人は一瞬倒錯的な気分になった。
﹁あはー。剣も鎧もみーんな質に入れちゃったんですよう。でも、
お嬢さまはこちらの女給姿の方がかわいらしいと思います﹂
﹁ハナ! おまえは、ふざけるのもいいかげんにしろ! 誰がこの
ような、下女風情の装束を好きこのんで着たがるか!﹂
無言でたたずんでいたポルディナの犬耳がピクリと動いた。
﹁ポ、ポルちゃん?﹂
﹁︱︱どうされました、ご主人さま﹂
1204
﹁い、いや。なんでもない。こらっ、ヴィクトリーヌ! あまり、
メイドさんを舐めた口を利くんじゃありません!﹂
﹁誰がヴィクトリーヌだっ! 私はヴィクトワールだっ!﹂
﹁それはいいとして、彼女たちは、おまえが思ってる以上に素晴ら
しい能力を多数保持してらっしゃるんですからねっ!﹂
﹁ぜんっぜん、まるでよくないが。例えば、どんな?﹂
﹁炊事、洗濯、掃除、から雑務一般、物売りを追い返したり、おま
えたちのようなわけのわからない人間の相手をしたり、果てはご主
人さまに対して昼夜を問わずご奉仕をしたりと、超多忙なんだよっ
!﹂
﹁ふん。くだらぬ﹂
ヴィクトワールは鼻を鳴らすと即座に否定した。
ポルディナのしっぽの先が神経質そうにピクピク小刻みに揺れだ
した。
﹁くだらない、と仰られますが、お嬢さまはどれひとつできません
ものねー﹂
﹁ハナァあああっ!! ふ、ふん。私にはそのようなことができな
くてもなにひとつ困ることはないぞっ﹂
﹁そんなことを申されても、夜雀亭では困ってらっしゃったではご
ざいませんか。ハナは恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて。⋮⋮思わず
裏から観戦モードに入ってしまいました﹂
﹁そこは助けよ! フォローせよ!﹂
ファイナルアンサー
﹁話がそれまくってるじゃねえか。要するに、ヴィクトワールは生
活無能力者ってことでFA?﹂
﹁違う、違うぞ。いやいや、とにかく私はこんなところで、時間を
潰している暇はないのだっ! クランド。おまえには一刻も早く王
都に戻ってもらわねば、騎士の一分が立たないのだ﹂
﹁お嬢さま。先ほどまでは、お茶を喫しながら、超くつろいでいた
じゃありませんか。はぁー、もうお城に帰りたくないなっ、とかい
いながら﹂
1205
﹁にゃあああっ!! いってないいぃ!!﹂
ヴィクトワール顔を真っ赤にすると、ふわっとした金色の髪を激
しく振った。
釣られてポルディナの視線が左右に動く。
﹁あははははっ。あー、笑った笑った、と。ポルディナ、菓子だ﹂
﹁なにがおかしいいっ﹂
ヴィクトワールはきいいっと叫びながら両手でスカートの裾を強
く引っ張った。
だが、その光景はどう見ても主に対して無礼にも癇癪を起こして
いるメイドにしか見えなかった。
蔵人はどっかとソファに腰を下ろすと、顎で命じた。
﹁はい。お待ちくださいませ﹂
ポルディナは一礼すると音も立てずに部屋を出ていく。
ヴィクトワールは我に返ったのか、頬を染めながらもわざとらし
く咳払いをして場を繕おうと努力した。無駄だが。
﹁とにかく、私は責務を果たさせてもらうぞ。なになに、おまえが
嫌だと拒否しても腕づくでだ!﹂
﹁おっ、中々茶の入れ方が上手いなー﹂
﹁あははー。お褒めに預かり恐縮至極ですー。勇者さまってぇ、な
にげに褒め上手ですよねー。ハナ、ちょっと勇者さまラブっちゃっ
たかも﹂
﹁マジで!?﹂
﹁聞けよ、人の話をおおおっ! 特にハナ、おまえ、わざとだろお
おっ! 人の話の腰をポッキポキに折ってくれてぇっ﹂
﹁きゃ。勇者さまん。こわいん。お嬢さまがぁ、いじめるん﹂
﹁おお、よしよし。お女中。拙者が守って進ぜよう﹂
﹁やんっ。やん。そんなとこさわっちゃダメですん﹂
﹁だははっ。さわるほどないがな﹂
﹁んもう。意地悪﹂
蔵人がそっとチラ見すると、メイド騎士︵自称︶は形容し難い表
1206
情になっていた。
﹁あー、そろそろやめとこうか。おまえのお嬢さまが、マジ泣きし
てる﹂
ヴィクトワールはうーうーうなると、蔵人の胸に手をかけた。女
ポンドル
性にしてはかなりの腕力である。蔵人の腰がたちまちソファから十
五センチほど浮き上がる。
﹁来いっ﹂
ポンドル
﹁ふうん。ま、いいけどさ。そのまえに返してもらうぞ。五十万P﹂
﹁はあっ!? 私が立て替えてもらったのは、五万Pだけのはずだ﹂
﹁借りたカネには利子がつくんだよん﹂
﹁ふ、ふざけっ﹂
﹁あ、そう。別に返したくなきゃ返さなくてもいいよん。ただ、王
都に戻ったときには姫さんに返して貰うからな。理由を全部ぶちま
けて、な﹂
﹁卑怯な。そんな恥知らずな理由で姫から金子の無心など。ふ、ふ
ん。仮にそんなことを申し上げたとしても、姫がそんなことをお信
じになれるかっ。いざとなれば、近衛騎士であるこの私の言をとら
れるはずだ! なあ、ハナ!?﹂
﹁いやー、さすがに嘘はつけませんよ﹂
﹁ハナぁあああっ﹂
﹁いやぁ、さすが姫騎士ヴィクトワールたん。我を通すためにはお
つきの者にすら偽言を強要するなんて。悪代官かよ﹂
﹁︱︱おまえは本当に最低の屑だなっ! なにが望みだ﹂
﹁なにが、というものはない。ただ、銭が返せないのであれば、そ
の分誠意を見せてもらわなければなぁ。誠意をなぁ﹂
蔵人の顔が荒々しい野盗のような顔つきに変わる。目元は垂れ下
がり、口の端は釣り上がると野太い笑みが浮かび上がる。ギョロッ
とした瞳は、ヴィクトワールの窮屈そうに前へと張り出した胸元の
双丘に注がれていた。
﹁下賎な!!﹂
1207
﹁なにかなぁ。下賤ってどゆことかなぁ。早く、教えてっ!﹂
ヴィクトワールは、よよとその場に倒れ込むと右手で顔を覆って
嘆いた。量のたっぷりとしたはちみつ色の髪が、紅の絨毯に絶妙な
コントラストを作り上げる。
蔵人は下衆そのものといった顔で両腕を組み、美貌の姫騎士を見
下ろした。
﹁私に、どうしろというのだっ。私は、使命を果たし、おまえを城
に連れ戻さなければならないのにぃ。ふ、ふふふ。旅の途中で路銀
ポンドル
が尽きて、名誉あるバルテルミー家の子女が貧民街で女給まがい。
ついには、たかだか五十万Pでこの身をいいように弄ばれるとはっ。
ふふ、笑え。笑うがいいさ﹂
﹁あははははっ!﹂
ハナはお腹を抱えると身をくの字に折ってころころと笑った。
﹁おまえが笑うなぁあああっ! ハナっ!! くうううっ﹂
ハナはひとしきり笑い終えると、絨毯をかきむしって悔しがるヴ
ィクトワールの横にしゃがみ、ひそひそと耳打ちした。
﹁でもでも、お嬢さま。よくよく考えれば事態は好転していますよ。
なにせ、雲をつかむような話であった勇者さまを、なんの援護や助
力もなしに見つけることが出来たのですから。偶然ですけど。それ
に、勇者さまの元にいれば、いつかは彼も情にほだされてお嬢さま
のいうことを素直に聞いてくれるかもしれるようになりますよ。き
っと﹂
﹁おまえは、私に身を投げ出せと?﹂
﹁やだなー。そこまではいってませんよ。ただ、お嬢さまはロムレ
ス一といわれた美貌をお持ちになっておられるのですから、上手く
1208
振る舞えれば勇者さまを篭絡させることなんて、ちょちょチョイの、
ちょいっ、です。いわば、騎士の力だけではなく、女子力も試され
ているのですっ﹂
﹁ば、馬鹿者っ。そんな、美貌だなんだと、ひとをからかいおって
からに。し、しかし、そうだな。これは、重要な使命の一環として、
貴婦人としての所作も試されるわけだな。うむ。まーったく、気が
進まないが、おまえがそこまでいうのならばやるしかないな。
ふ、不本意だがなっ﹂
﹁さっすがお嬢さまっ。︱︱チョロインすぎます﹂
﹁なにかいったか?﹂
﹁いーえ。なにも。それでは、てはじめに、上手くごあいさつを﹂
﹁わたたっ。こら、押すなっ﹂
ヴィクトワールは立ち上がりしなに腰を押され、よたよたとバラ
ンスを崩して倒れこんだ。彼女は前世紀の少女漫画風に蔵人の胸へ
ともたれる格好になった。
こいつ、意外と鍛えておるではないか。
予想外にガッチリとした男らしい筋肉に激しく動揺する。それか
ら、自分が両胸をぎゅうぎゅ押しつける形になっていることに気づ
き、頭の上まで一気に煮上がった。
ちょっと、待て。私はなにを赤くなっているのだ。このような殿
方との距離、別に舞踏会などでお馴染み︱︱ないな。
ヴィクトワールは考えてみれば、姫の近衛騎士として侍り舞踏会
に顔を出しても、なまじ都の剣術大会で優勝したこともあり、あら
ゆる貴族がこわがって近づいて来なかったことを思いだした。
﹁なんだ、なんだ。抱っこして欲しいのか。ほら、ぎゅーっ﹂
蔵人はヴィクトワールを熱く抱擁すると、強く力をこめた。
﹁ちょっと、やめろ。やめっ︱︱!?﹂
拒否するフリをしながらも、目の前の男の巌のような腕の感触に
目を細めていると、突如として抗いがたい激しい殺気を感じた。蔵
人の背後。そこには、菓子盆を両手で持ったまま、人形のように表
1209
情を凍りつかせている女がいた。
﹁ご主人さま。これはいったい﹂
﹁ああ。そうだ、ポルディナ! 今日からおまえの家族が増えたよ
っ!!﹂
﹁え? えええっ!?﹂
ヴィクトワールは首だけ動かして、周囲の人々の表情に視線を動
かす。
ポルディナの瞳が飛びこんでくる。言葉の意味を理解したのか、
冷え切っていた彼女の眼は、みるみるうちに輝きを取り戻すと鈍く
輝いた。
どうしてこうなった。
ヴィクトワールはカフェメイド姿から、ポルディナと同じお仕着
せに着替えて︱︱幸いにもふたりの身長はほぼ同じだった︱︱使用
人の間にて、長々とした訓示めいたものを聞かされていた。隣にち
らと視線をやると、ハナはワクワクした様子で、むしろこの状況を
楽しむ余裕すらうかがえた。
︵冗談じゃない。私は、痩せても枯れても、誇り高きロムレス王家
近衛騎士団団長だぞ。どうして、奴隷風情の講釈をこのように有り
難がって聞かなければならないのだ︶
それは金を返せないからである。
だが、彼女は貴族の家に生まれ育ち、厳しい騎士としての訓練は
受けてきたものの、金銭に困ったことはあまりなかった。騎士団の
俸給が少ないなどと愚痴をこぼして見せても、実際問題必要である
ならば実家からいくらでも送らせることができたのである。
そういった意味では、真の貧困の底を垣間見たことはほとんどな
1210
かった。
ウェアウルフ
﹁それでは、改めて自己紹介をしましょうか。私は、ポルディナ・
ベル・ベーラ。世界でもっとも勇敢なベル・ベーラ族にして戦狼族
の戦士です。ヴィクトワールにハナ。ふたりはいうなれば︱︱お聞
きなさい、姉の話をっ!﹂
ポルディナはふたりの前を行ったり来たりしていたが、ヴィクト
ワールが上の空であると気づくやいなや手にした乗馬ムチで彼女の
手を強く打ち据えた。
﹁︱︱っ!? なにをするか!﹂
﹁なにをするかではありません。奴隷といえども序列は厳格に守ら
ねばなりません。つまりは先達であるこの私は、あなたたちの姉、
であるといえましょう﹂
ポルディナは彼女にしては鼻息荒く、むふーっと凄むと手にした
ムチをびゅっびゅっと勢いよく振るって見せた。気の長い方ではな
いヴィクトワールもそうそう殴られて黙っているほどおしとやかで
もなかった。
﹁なにが姉だっ! だいたい、私たちはおまえのような売買奴隷と
は違って、王家から称号を下賜された代々続く貴族であるぞ!!﹂
ポルディナは黒水晶のような瞳の輝きをいっそう強めると、表情
を変えずに顔の前で指先を振ってちっちっ、と唇を鳴らす。魔術的
な速さで腰のうしろから挟んだ首輪をふたつ取り出す。冷静さを欠
いてパクパクと口を動かすヴィクトワールを無視したまま、疾風の
ような動きで腕を動かした。
がちょん、と輪が嵌る音が響いた。
﹁え。なんだ、これ﹂
﹁あはー。首輪ですね。かなり精巧な細工で一見アクセサリにしか
見えないですけど、奴隷用です﹂
﹁安心しなさい。この首輪は私のモノには劣りますが、歴としたグ
リン工房製の打ち出し銀造りです。感謝なさい﹂
﹁わー、これ、ちゃんと家紋が彫ってありますー﹂
1211
﹁それは、ご主人さま、シモン家の旗印で九曜紋です。これからは、
主に恥じることなきように誇りを持ってお仕えするのですよ﹂
﹁はーい﹂
﹁はーい、じゃなーいっ! いったいどういうことだ、どうしてこ
うなったのだ! なぜ、この私がクランドの奴隷になったのだっ!
ぜんぜん知らない、聞いてない、不条理すぎるっ!! 責任者を
呼べっ!﹂
﹁はい、私が責任者です。ふたりは、今日からシモン家の下婢にな
りました。説明終わりまる﹂
﹁ふざけるなああっ、なんで。なんでなのぉ﹂
ポルディナはオロオロしながら、両手で顔を覆ってしゃがみこん
だ半泣きのヴィクトワールの首に手を伸ばした。
﹁やっぱりミスリル銀の方がよかったかしら﹂
﹁いやー、論点はそこではないかと、ハナは思うのですが﹂
﹁なぜ?﹂
マイマスター
﹁ややっ!? あの、その、真顔で問われましても﹂
﹁ご主人さまのように、当代きっての英雄に仕えることが出来る栄
誉などないのに。そうですか。それは、嬉し涙ですね。お泣きなさ
い。そして、涙を流しきれば、栄光の日々が待っているのですよ。
人間族の毛並みでは、万が一にも寵愛を受けることはないでしょう
が、姉をうらやんではいけませんよ﹂
﹁あはー、この人も大概ですね﹂
﹁私は奴隷なんかじゃなーい!!﹂
ヴィクトワールの叫びが姫屋敷に響き渡った。
夕刻、ポルディナが嘘っこ新奴隷の仕込みを行っている間に、蔵
1212
人は街へと繰り出していた。
もっとも、八階層での実入りはルッジとアルテミシアのゴタゴタ
によって換金がすんでいなかった。
となると、向かう場所はひとつと決まっている。リースフィール
ド街に続く通りは、仕事帰りの職人であふれていた。
もはや、どこぞで引っかけてきたのか、既に顔を赤く染めている
男たちもいる。通りの向こう側に銀馬車亭の看板が見えはじめた。
蔵人が喉を鳴らして立ち止まると、背後からちょんと肩をつつか
れた。
﹁やあ、奇遇だね。これからどこへ行くんだい﹂
聞き覚えのある声に振り返る。
そこには、八階層で知りあった少壮の迷宮学者、ルッジ・ブラッ
クウェルが佇立していた。
﹁ルッジか。おらァこれから一杯ひっかけに行くんだい。おまえこ
そ、どうしたんだよ﹂
どうしたんだよ、といいつつも、視線が彼女の太ももから長い脚
に沿って動いていく。
﹁君もずいぶんとわかりやすい性格だねェ。ちょっと微笑ましくも
あるよ。なに、たまたま見かけたから、時間があるなら食事でも一
緒にどうだいと思ったわけさ。光栄に思えよ。ボクが男性を誘うの
は生まれてはじめてなんだからな。それとも、君は他人の目が気に
なって恋人以外とは口も利けない臆病者なのかい﹂
﹁いってくれるな。ようし、そんじゃあふたりきりになれる暗い場
所で、仲良く夕飯と行こうぜ﹂
﹁誘っておいてなんだか、ふたりきりにはならないよ。君は、簡単
に理性のリミッターを外しそうな男だからね。当初の計画通り一杯
つきあわせてもらうよ。お店は、君の行きつけで構わない﹂
﹁ふ、ふーん﹂
﹁おっと、急遽代案を考えているね。ほら、また顔が硬直している。
おや、視線がさまよっているよ。よほどボクに知られたくない穴場
1213
なのかな。ふうん、あの店だね﹂
﹁ちょ、待ってくれ!﹂
﹁さあさあ行こう行こう。実をいうと昼に別れてからなにも口にし
ていないんだ。いまなら泥でもお腹いっぱい食べられる自信がある
よ﹂
﹁それは、いくらなんでも無礼すぎ!﹂
ルッジは蔵人の手を引くと銀馬車亭の入口に向かって走り出した。
彼女の長い脚が、スイングドアを押し開ける。同時に、店内の喧騒
とアルコールと焼き物の匂いが入り混じった空気が押し寄せてきた。
﹁いらっしゃいませー、クランドっ!!﹂
﹁のわっ!?﹂
蔵人が店に鼻先を突っこむと、嬌声といっしょに豊満な肉体がぶ
つかってきた。
銀馬車亭の女主人であるレイシーである。彼女は胸を大きく開い
た真紅のドレスをひるがえし駆け寄るとぶつけるようにキスをかわ
した。
蔵人は目を白黒しながら、紅のついた顔を手の甲でこする。
レイシーは怒ったふりをして、胸をぽかぽか叩くと、身体を預け
たまま甘え声をクンクンと鳴らした。
たちまち、彼女目当てで来ている酔客から罵声が上がる。コップ
や空瓶が店の中を飛び交った。
﹁もおおっ、ぜんぜん来ないから心配したんだよっ、ばかばかっ!﹂
﹁いよお、邪魔するぜ﹂
﹁ぜんっぜん邪魔じゃないよう! おかえりなさいっ﹂
﹁た、ただいま﹂
酔客たちからは、ただいまじゃねーよ、という憤懣やるかたない
やっかみの気配が色濃く放射されていた。その姿をルッジはにやに
や笑いで眺めている。
しばし、陶然と蔵人に抱きついていたレイシーであったが、恋し
い人のそばに立つスレンダー美女に気づくと眉をひそめた。
1214
﹁ねえ、誰?﹂
﹁誰かなぁ?﹂
﹁ふざけないで﹂
レイシーは蔵人の耳たぶを強く引っ張って顔を向けさせる。
瞳には悋気の炎がメラメラと立ち昇っていた。
﹁あだだっ。仕事上のおつきあいの方です。ほ、本当だよ﹂
レイシーはあからさまに視線をそらして口笛を吹く蔵人を猜疑心
百二十パーの目で見た。
当然の帰結である。
﹁はは。心配しなくてもいい。ボクは王立迷宮探索所のルッジ・ブ
ラックウェルだ。決して君の恋人に手を出したりしないから安心し
てくれ﹂
ルッジは白手袋を脱ぐと、右手を素早く差し出した。
レイシーはむっとした顔で身体を反転させると、尖った口調で応
えた。
温厚な彼女にしては珍しい態度だった。
﹁そういわれて安心できた試しはあたしの人生にはないんですけど﹂
﹁じゃあ、こうしよう﹂
ルッジは自分と蔵人の間にレイシーを座らせると、長い脚を組ん
だ。
﹁クランド、君、ボク。この並びなら文句はないだろう﹂
蔵人の視線が白い太ももを追って不自然に動く。
レイシーは両手を伸ばすと蔵人の顔ごと胸にかかえた。
﹁見ちゃダメー!﹂
﹁んぐっ﹂
蔵人は肉の海に顔を突っこむと、手足をじたばた動かす。
ルッジの眉が困ったように中央へ寄せられる。
﹁仲がいいのは結構だが、会話くらいさせてもらえないかな﹂
ルッジはカウンターの娘に飲み物を注文すると、あきれたように
つぶやいた。
1215
﹁⋮⋮本当に、クランドとはなんでもないんですね﹂
﹁だからそうだっていってるだろっ。ほら、散った散った! あと
で、遊んでやるから﹂
﹁うーん﹂
﹁あのー、もしもーし。レイシーさーん。僕のこと無視しないで欲
しいんだぜ。おい、、聞けよ﹂
レイシーは蔵人のことをまったく相手にせず、目の前の美女に警
戒しきりだった。
しばらく様子をうかがったのち、レイシーは蔵人をようやく開放
した。
常連の手前、蔵人にあまり恥をかかせるのもよくないと思ったの
である。あくまで男性優位の世界である。年若い割には、水商売の
道にどっぷりハマり過ぎていたのだった。
蔵人は銀馬車亭では、半ば公然とした髪結いの亭主であった。役
たたずとはいえ、公然と権威を損なうような行動は、女としてのレ
イシーの格も大いに傷つけるのである。
﹁もう。浮気しちゃやだよ﹂
レイシーは得心するフリをして、ようやく離れた場所へと移動し
た。
もっとも、依然として視線だけはふたりの動きへ縫いつけられて
いたが。
﹁悪かったね。君の恋人の店に上がりこんで。それにしても﹂
﹁なんだよ、いいかけたまま終わるなや﹂
﹁驚いたよ。意外と君はモテるんだな、あの、女騎士といい︱︱!
?﹂
蔵人は飛びついて口を塞ぐと目をひん剥いた。はなれた位置のレ
イシーが手にしていたグラスを素早くカウンターに置き血相を変え
て近寄って来ようとするのが見える。
手を振って愛想笑いを浮かべ、制止した。
﹁頼むから、他の女のことは黙っててくれ。二度とダンジョンに戻
1216
れない身体にされるかもしれない﹂
蔵人がそっと手をはなすと、ルッジは鳥のように手首をヒラヒラ
させ痛みを誇張した。
﹁ふう。すごい力だな。一応ボクも女だからね。それに、これは忠
告だけど、君みたいなタイプは最後まで嘘を突き通せないと思う。
バレる前に、自分から話したほうが傷は浅くすむんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮なんのことかにゃ?﹂
ルッジは鼻で笑うと、突き出しのチーズをナイフで切り分けて口
に運び、グラスを傾けて酒精を喉に流しこんだ。薄い唇が官能的に
歪み、白い喉が蠕動した。
﹁ま、君の好きにしたまえ。それに、どうやら難しい話はこの店に
は合わないみたいだ。ざっくばらんにいこうじゃないか。これから、
長いつきあいになるだろうし、親睦をせいぜい深めるとしよう﹂
﹁よーしよし。なら、ベッドの上で続きをするってのはどうだ?﹂
﹁おぶふっ﹂
隣で飲んでいた中年が強く咳きこんだ。
ツボに入ったのか、ケタケタと下品に笑い転げている。釣られて
ルッジも頬をゆるめた。
悦に入っていた蔵人は己の言動に気づき、恥ずかしさのあまり頬
を紅潮させる。
ルッジはたしなめるように、人差し指で蔵人の額を押した。
﹁君は猿か? よくその程度の口説き文句で、ふたりも落とせたも
のだな。おっと、これは失敬。しかし、冷静に考えて、あそこでボ
クをこわい目で見ているレディ﹂
ルッジは杯を傾けて、遠くのレイシーを示した。遠目に怪訝そう
な表情が見える。蔵人たちのことが気になってしょうがない風情だ。
﹁︱︱といい、君とはどう見ても不釣合なんだが。どう、引っかけ
たのか後学のために教えてもらいたいね﹂
﹁引っかけたとかどうとか、失礼だな。そう、いうなれば至誠天に
通ず、というか。星と星とか導きあうように惹かれあったというか、
1217
いうなれば運命的なものなんだよ﹂
蔵人はグラスを持ったまま両手を天に向かって水平に開いた。ル
ッジはナイフを置くとハンカチで口元をぬぐう。どことなく洗練さ
れた所作だった。
﹁ここまで姿かたちと言動が一致しない人間も中々いないものだよ。
おっと、その運命の星がどんどん近づいてくるよ。ほら﹂ ﹁おふたりとも、どーんなお話ししてるのかなー。できたらあたし
も混ぜて欲しいなー、なんて﹂
﹁なに、クランドが君のような美しい恋人とどうやって知りあった
か気になっただけだ﹂
﹁えー、気になります? やだな、もう﹂
﹁いったいクランドのどこがよかったんだい﹂
﹁あは。面と向かって聞かれると恥ずかしいかなぁ﹂
﹁レイシー。いま、おまえ、ものすごいアホヅラになってるからな﹂
﹁ほら。ウチの人、口は悪いしぶっきらぼうで、おまけに生活力皆
無で。そうですね。はじめは、あたしが路頭に迷ってションボリし
ている彼を店に連れてきたんです。なんというか、かわいそな大き
いわんちゃんみたいで。放っておくと死んじゃいそうだし。いつも
お腹空かせてるし。そのうち、いっしょにいる間に、ね? なんと
なく離れがたくなっちゃって。わかるかなぁ﹂
﹁おーい、おーい。出会いの過程が抜けてますよー。俺のカッコイ
イ活躍シーンがデリートされてますよ。それじゃおまえが、適当に
男を引っ張りこんだ頭の弱いコでしかありませんよー﹂
﹁もおお、うるさいなぁ、女同士の話に入ってきちゃダメでしょ﹂
﹁え? えええっ!?﹂
﹁はは。そうだぞ、クランド。君はもう少し、場の雰囲気を読むべ
きだ﹂
﹁もお、いいです﹂
ふたりは次第に盛り上がると蔵人を置き去りにして、現実とは異
なる物語で盛り上がりはじめた。蔵人は手酌で酒精を注ぐと猛然と
1218
呷りはじめた。今夜の酒は酔えそうもない。
1219
Lv77﹁遠い約束﹂
本を読む楽しさを教えてくれたのはあの人だった。
︱︱ルッジや。さあ、今日はどんなお話をしようかね。
ルッジを膝に乗せて、彼女の祖父バトレイは必ず前置きをしてか
ら、古くなった書物をゆっくりとめくった。
代々、ロムレス王家の史官長を務めるビブリオニアス家には、古
今東西のありとあらゆる書物が保管されていた。ルッジは立って歩
けるようになるとまもなく、隠居した祖父の部屋に行き、そこかし
こに積まれた本を見るようになった。
もちろん、字が読めるわけでもないが、黄ばんだ羊皮紙や分厚い
紙片をめくるたびにその小さな胸をときめかせた。古びた背表紙や、
インクや紙片独特の匂い。ルッジは鼻腔いっぱいにそれらを吸いこ
むだけですべてが満ち足りた。
書物には人類の英知が詰まっている。そのすべてを知りたかった。
おじいさま、わたしに字を教えてください。
ルッジは情の薄いナースメイドにはまったくなつかず、血を分け
た祖父に強く傾倒した。
満たされない愛情を欲する本能的なものである。幼児には無理も
ない行為だった。
なにしろルッジの兄妹は何十人もおり、彼女の養育を行っていた
ナースメイドはあらゆる面において熱心というわけでもなかった。
とうに隠居していた祖父はルッジの住んでいた屋敷から目と鼻の
先、大きな楡の木と静かな小川の流れる場所にひとりで居を構えて
いた。朝食をすませるとナースメイドの目を盗んで、毎日大好きな
1220
祖父の屋敷に向かった。
大きな身体で椅子に腰掛け、背中に流れる総白髪。
たっぷりとした白ひげを蓄えた祖父はいつでもやさしい瞳でむか
えいれてくれた。
︱︱おやおや、かわいい小うさぎが、また迷いこんでしまったか
な?
祖父は面白がってむつきも取れぬルッジを一人前扱いした。
︱︱さあ、ルッジくん。次のステップに進もう。ボクの講義はい
ささか難しいかね?
いいえおじいさま。もっともっと、たくさん教えてくださいまし。
ルッジは真綿が水を吸いこむように、ありとあらゆる知識を吸収
した。祖父の講義や物語が終わると、大きな膝の上に乗って貪るよ
うに書物を読み込んだ。
とにかく、字が書いてあればなんでもいい。
祖父といっしょに昼食を摂るのも楽しみのひとつだった。メイド
が運んでくるあつあつのホットケーキに甘いシロップ。行儀作法を
咎められることなく、存分に食事を楽しむ意味をはじめて知った。
ルッジは三歳の誕生日を迎えるようになると、ほぼ祖父の話につ
いていけるようになり、特にダンジョンについて強い興味を示した。
初代ロムレス王の残した遺産や、百層まで続くといわれる無限の
広がりのある迷宮。
数え切れないほどのモンスターや見たこともない動植物たち。
書物に載っている稚拙な口絵や文章からそれらに思いを馳せ、拙
い口調で議論とも呼べぬ議論を祖父とかわした。
ルッジは本宅のナースメイドは嫌いであったが、祖父に仕えてい
る初老のメイド、アデレーは大好きであった。
彼女は、いつも目立たぬ花のようにひっそりとたたずみ、静かに
微笑んでいた。太陽の陽がさんさんと降り注ぐ日には、庭に出て、
小川のせせらぎに耳をすませ、メイド手作りの昼食を摂りゆったり
と時間を過ごした。
1221
ルッジは父母の顔を生まれてから数える程度しか見たことはなか
ったが、祖父とメイドのアデレーの愛情をたっぷり受けて育った。
なにもかもが無限の可能性に満ちていた。ルッジは自分がこの先、
しあわせになると信じて疑わなかった。史官長という重職にありな
がら、祖父は若き頃なんどもダンジョンに潜って冒険を行った無鉄
砲さがあった。年老いてもなお、強い茶目っ気を残しており、ルッ
ジは彼ほど魅力的な男は知らなかったし、これから先も現れるとは
思えなかった。
おじいさま。わたしが大人になったら、お嫁さんにしてください
な。うん。そうすれば、わたしたちはいつまでもいっしょにいられ
るのではなくて?
︱︱んん? ははっ、そいつはチト難問だなぁ。さすがのボクで
も難しいや。
祖父は白髪をかき回すと、大口を開けて哄笑した。
なんで、笑いますの! わたしは真剣ですのよ!
︱︱いやあ、すまないすまないレディ。しかし、こんなジジィと
一緒になってどうするというのだい?
いっしょに、冒険しますの! 悪い騎士やモンスターをやっつけ
ますの! えい! とお!
︱︱これはまた、かわいらしい騎士だなぁ。けどね、レディは剣
を振り回すような真似をしてはいけないよ。それは、男の仕事だか
らね。
や! ルッジも剣を持ちたいですの。お外へ出て冒険したいです
の。
︱︱困ったな。とりあえず、きょうのところは、ボクのお話だけ
で我慢してもらえないかなぁ。
困ったように眉を下げ、それでも声だけは明るく物語はいくらで
も続いた。
祖父が、出会った一癖も二癖もある魅力的な冒険者たちの逸話に
ルッジは瞳を輝かせて聞き入った。
1222
ねえ、おじいさま。大きくなったら、いつか、わたしといっしょ
に、ダンジョンへ行ってくださいますか?
︱︱ああ、そうだな。ルッジや。いつか、おまえが大人になった
ら。
ルッジは朦朧とした意識が徐々に覚醒していくのを、どこか遠く
で他人事のように見つめていた。
︵ああ。そういえば、昨晩はずいぶんと飲んだらしい︶
ソファから身を起こす。汗ばんだ背中のシャツがじっとりと濡れ
ていた。
ルッジは、歪んだ視界の中で舌打ちをすると、手探りで眼鏡を探
して、自分では高すぎると思っている鼻梁に載せた。たちまち世界
は正常を取り戻す。
そこは、いつもどおりの無味乾燥な味もそ素っ気もない自室だっ
た。どうやって、屋敷に戻ってきたか覚えていない。昨日は、クラ
ンドに向かっていかにもいつも飲み歩いているような素振りをみせ
たが、ブラックウェル家に嫁いでから研究に関係なく外泊したのは、
はじめて、であった。
なにを、誰に気兼ねすることがある、と思う。
そもそもが、自分は寡婦なのだ。
生まれつき身体の弱かった夫は半年前に死別している。口さがな
い世間の人々は、ルッジは遺産を食いつぶして好き放題やっている
といわれていたが、おおよそ間違いではなかった。
迷宮の研究にはおそろしく金がかかる。いくら金があっても足り
なかった。
また、これらはまさしく貴族の道楽以外には違いなく、目に分か
1223
る利には繋がらないため、どのような商人にも鼻すら引っかけても
らえない。たまに、頭のおかしい篤志家がいるかと思えば、あから
さまに身体を要求された。別段、自分の身体にもったいつけている
わけではないが、一度、閨を共にする寸前までいったとき、どうし
ても避妊に同意してもらえないことにうんざりしたのだ。いまは、
子供を孕んでいる場合ではない。もっとも、男というものは拒否さ
れれればされるほど燃えるらしいということは学習した。
なので、ボクとしては、夫の残した遺産を齧りながらも研究を続
けなければならない。
その先になにがあるかということは考えない。
なんの役に立つかもあえて忘れなければならない。
どのみち研究とはこの世のありとあらゆる事象に関係をなさない
無意味なことだからだ。
﹁あっつい﹂
シャツを脱いで立ち上がる。窓際に移動してガラスを開けると、
涼やかな朝の風が自室の中を洗いほぐした。隣室にはメイドに命じ
てバスタブにお湯を常に張らせてある。ルッジはあっという間に生
まれたままの姿になると、眼鏡をかけたままその中に飛び込んだ。
昨晩入れたのだろうか、バスタブの中身はぬるまっていたが、汗
を流すには充分だった。
たっぷりとしたタオルで身体を拭い水分を拭きとる。新しいシャ
ツとタイトスカートに着替えると、姿見の前で化粧を直した。
﹁奥さま。昨晩は、いったいどちらへいらしたのですか!﹂
自室を出ると、護衛騎士であるカロリーヌがロングソードをガチ
ャガチャ鳴らしながら金切り声を上げた。
肩の辺りまでの短い赤毛が大きくゆれている。
整った目鼻立ちだが、そのキツい性格のため屋敷の男連中にはす
こぶる評判の悪い女騎士であった。
﹁ああ、もう。そう、朝からがなりたてないでくれ。頭がキンキン
するよ﹂
1224
﹁いいかげんにしてくださいっ! いくら未亡人とはいえ、大殿さ
まに黙ってこうもしょっちゅう無断外泊をされては、もう私でもか
ばいきれませんからねっ!﹂
カロリーヌは牙をガッと剥き出しにすると、鳶色の瞳を釣り上げ
て吠え立てた。彼女は、ルッジが実家であるビブリオニアス家を出
たときにつけられた、いわゆるお目つけ役のひとりであった。
元々は、カロリーヌだけではなく他にも五人ほどの侍女もいたの
だが、干渉を嫌うルッジのあからさまなイジメに耐えかね、全員逃
げ出してしまったのだった。
残ったのは唯一、カロリーヌという三つ上の幼なじみ件護衛騎士
がひとりのみ。
ルッジは自分のために彼女が確実に婚期を逃していることに胸を
痛めていたが、最近では下手に現実を見ないほうが彼女のためのよ
うな気がしてならなくなり、良心の痛みはだいぶ軽減されていた。
﹁はぁ。そんなに口うるさいとますます縁遠くなるよ。カロリーヌ。
そろそろボクのことは放って置いて、実家に戻って大人しく嫁に行
ったほうが身のためじゃないかな﹂
﹁そっ、そそそっ、それとこれとは関係ないじゃないですかあ! 第一、私には奥さまをお守りするという立派なお役目がありますっ。
この身はすでに、女を捨てましたからっ!﹂
﹁はあ。女を捨てた、ねえ﹂
ルッジはわざとらしくため息をつくと、カロリーヌを身体を子細
に眺めた。全体的に肉の薄い躰つきの自分と違い、カロリーヌは胸
も尻も出るところはちゃんと出ていて、特に胸を覆うプレートメイ
ルは特注品であった。
いかんせん説得力に欠けるというものである。
﹁そんな、熟れたぶどうみたいな乳房を目の前でフリフリさせて怒
鳴られても、誰ひとりとしてうなずかないと思うよ﹂
﹁ぶぶぶ、ぶどうとかいわないでくださいっ!?﹂
ルッジは真っ赤な顔で否定するワガママボディな女騎士を放って
1225
置いて、屋敷の主である、義父ライオネルの部屋に向かった。ルッ
ジは夫であるライオネルの長子ユベールが没した時点で子を為して
いなかったことも考えれば実家に帰されるのが通例であった。
だが当時すでに彼女は名誉ある王立の研究所に特任教授という職
を拝しており、また義父ライオネルの病が篤かったことも加えて実
家に戻ることを拒んだのであった。
部屋の前で訪いを告げ、静かに足を踏み入れる。そこには、枕元
おとう
には専属医のペシャロットがちょうど脈を見ている最中であった。
﹁おはようございます。御義父さま。本日もご機嫌うるわしく﹂
おとう
﹁おお、ルッジか。おはよう。きょうも一段と美しいではないか。
はは﹂
﹁⋮⋮御義父さま﹂
当年とって七十五になるライオネルは寝台に身を横たえたまま、
低く艶のある声で軽口を叩いた。ライオネルは血の気を失った真っ
白な顔を歪めると無理をして笑みを作った。
彼は末期の胃がんであり、根本的な治療は不可能であった。
ルッジはペシャロットを下がらせると、室内でふたりきりになる。
時計の針が急に大きくなったようにルッジには聞こえた。
﹁やれやれ。ペシャロットの堅苦しい顔があると、ロクにくつろい
で話もできんわい。さ、さ。もちっとそばへ寄れ。父はルッジの顔
を見んことには一日がはじまらんからな﹂
ライオネルは痩せこけた頬を引きつらせると、ことさら明るい声
を上げて手招きをした。
ルッジはカサカサになった義父の手をとるとゆっくりと撫でる。
温度もうるおいも欠いた手のひらは、乾ききった枯れ木を思わせた。
﹁ほほぅ。なにやら、昨晩はよほど楽しかったようじゃの﹂
﹁申しわけございません﹂
﹁責めておるのではない。ほれ、昨日の昼話しておった、冒険者と
おとう
いっしょに居たのかの﹂
﹁御義父さま。誤解を招くような行為を己をわきまえずに。幾重に
1226
もお詫びいたします﹂
﹁だから、責めておるわけではない。そもそもが、おまえはもはや
自由の身じゃ。どんな男と仲ようしようが、年寄りが文句をつける
わけにもいくまいて﹂
﹁ですが﹂
﹁ほほ、あのルッジが夜遊びとは、冥府でユベールが歯噛みしてお
るかの。はは、そんな顔をするな。冗談じゃ、冗談。それよりも、
昨晩はどこでどんな話をしたのか儂にも聞かせてはくれんかの﹂
ルッジは、はじめは義父を慮って当たり障りのない話を続けてい
たが、昨晩のクランドたちに触れるにつれ自然と言葉は流れるよう
に走り出ていた。ライオネルは微笑みを浮かべたまま、ルッジの話
を実に楽しそうに聞き入っていた。
﹁︱︱それでですね、クランドはいきなり肌脱ぎになると酒瓶を一
気に空にして﹂
﹁それは中々に楽しい男だのう﹂
ルッジは話がかなりきわどい路線に入った時点で、顔色をサッと
青ざめさせた。
夫を亡くしてからまだ喪も明けていないのである。とても義理の
父に笑って話すような事柄ではなかった。心の中で脳天気に踊って
いた昨晩の男を殴りつける。顔を伏せていたルッジの頭をそっと大
きな手のひらが降りた。
﹁あ︱︱﹂
こわばった彼女の頭を義父の手のひらがゆっくりと撫でる。
ライオネルはどことなくルッジの祖父に似通った部分が有り、そ
の点が彼女をこの家から去らせない理由のひとつでもあった。
﹁だから、別段責めているわけではないのじゃ。のう、ルッジ。そ
のクランドという男、一度屋敷に連れてこんかの﹂
﹁はあ?﹂
﹁歳は二十か。話を聞けば冒険者らしいが、まだ若い。これから先、
幾らでも貴族にふさわしい礼儀作法を身につけることができよう。
1227
ひとつ気になるのが、おまえのほうが四つも年上という部分だが、
おとう
その辺りは我慢してもらうしかないのう﹂
﹁御義父さま? 話の意味が﹂
﹁なにをとぼけておるんじゃ。ルッジよ。その男、見所があるなら
親族の養子にしておまえが婿にとるがいい、といっておるのじゃ﹂
﹁え? え? はあっ?﹂
﹁ルッジや。おまえは、十六の歳でこの家に嫁いで、そのような顔
おとう
をしたことが幾度あったかの。いや、人間自分のことは中々にわか
らないものじゃ﹂
﹁いや、それは違う。御義父さま。まったくもっての勘違いでござ
います﹂
﹁おやおや、そんなに顔を赤くして。儂に気兼ねすることはないぞ。
もっとも、真の夫婦になるのは、さすがに正式の婚姻をかわしてか
おとう
らだぞ。さすがに、儂の口からは諾といえぬわ﹂
﹁わたしは、そんなつもりはございません。御義父さま!!﹂
ルッジが義父の部屋を出ると、佇立していたカロリーヌが無言で
つき従った。
ライオネルはまごうことなく善人である。
未亡人であるルッジの将来を考えて、気を回してくれているので
あろうが、とてもではないが、あの男がはいそうですか、とおとな
しく婿になるはずもなかった。
それに、親戚一同がルッジの再婚を許すわけはないだろう。ライ
オネルの第一子であり領地の相続権を持っていたユベールが死去し
たことによって、すべての権限は一旦、前当主に戻った。引き続き、
ライオネルがルッジを義理の娘として認め、婿を迎え入れるという
ことになれば、八千の精兵を養えるといわれたブラックウェル家の
広大な遺領はすべてルッジが受け継ぐという形になる。夫方の親族
一同は、ルッジからブラックウェルの姓を取り上げ追い出したいの
である。それも、当主のライオネルの息がまだあるうちにである。
いまや、親族一同の目下の課題はどの家から養子を出してライオ
1228
ネルに縁組をさせるかという一点のみであった。争点は残される遺
領のみ。ライオネル個人に対しての感情は誰にもなかった。互いが
牽制しあい、見舞いにすら来ない。ルッジは義父が不憫でしかたな
かった。
ルッジの中に打算がないわけでもない。親身に世話を焼けば、い
ずれは訪れるであろう財産相続をめぐった中である程度の発言権を
得ることができる。親族一同は、彼女のことを死肉を狙う卑しいハ
ゲタカ程度にしか思っていなかった。
ブラックウェル家の膨大な財産を狙う、スカベンジャー。
当然、ルッジもそこまでの利が得られると思っていなかった。残
り少ないであろう義父の余生を看取ったのち、ほどほどの遺産分け
をもらって、残りの研究費用は自分で稼ぐつもりであった。
かつて、祖父とかわした約束。どんなことがあっても果たさなけ
ればならなかった。
そのために、ほどほどに腕が立ち、人が良さそうなクランを探し
ていたのである。クランドはまさにうってつけの人物であった。
若く、覇気があり、そのくせどこか抜けていた。
︵あの男が、ボクの婿になるだと。まったく、義父も余計な気を回
しすぎ、回しすぎ︶
﹁あの、奥さま。なにか、楽しげですがよいことでも﹂
﹁え? ああ、なんでもないなんでもない!﹂
ルッジがごまかすように右手を振ると、カロリーヌがあからさま
に顔を歪めた。
階段の突き当りにその男は立っていた。
身長は百五十ほどだろうか、ひどく肥えていた。
いや、ただの太り方ではない。
見るものすべての人間に目を背けさせるいびつな不健康さがあっ
た。
身なりはいい生地を使ったローブを羽織っているが、前にぽこん
と突き出た腹がなにもかもを台無しにしていた。
1229
頭髪は真っ黒な陰毛のような縮れ毛である。
ロクに手入れをしていないのか、蹂躙された鳥の巣のようだった。
肥大した肉の塊に押しつぶされた細い目は、黒目が確認できない
ほど薄い。
これでよく視界が確保できるかと首をかしげたくなるような狭さ
だ。
唇は分厚く、ナマコを二本重ねたように思える。
男が口を開けると、ぐちゃぐちゃに生え揃った乱杭歯が奇妙にひ
しめいて見えた。
ゴルボット・ブラックウェル。
ライオネルの次男であり、ルッジの義弟で七つ年上の三十一歳で
あった。
﹁これはこれは義姉上。きょうはいつにも増して美しいですなァ﹂
ヒキガエルの喉を炒り潰したような低音が吐き出される。ルッジ
はいつ聞いても前夫の腹違いの弟、ゴルボットの声には慣れなかっ
た。二の腕にかけてぷつぷつと鳥肌が立つ。
ルッジは彼の外見よりもその陰湿な性格を忌み嫌っていた。
夫のユベールに腹違いの弟がいると知ったのは、ブラックウェル
家に嫁いですぐだった。
彼の母は当主であったライオネルが戯れに抱いた夜の女で、彼は
幼い頃から娼館で生まれ育った。
奴隷同然の生き方をしてきたのだ。長きに渡る忍従の証は顔とい
わず魂そのものに刻まれ、パッと見は四十過ぎだといわれても違和
感はなかった。長らくみじめな境遇に有り、苦しめられてきたので
あろう。そう思えば憐憫の情も湧いた。
兄嫁として親身になって世話をしたつもりだった。
だが、この義弟がおとなしかったのは最初のうちだけだった。
兄が病弱だと知ると露骨に態度に出るようになった。ライオネル
には子供はふたりしかおらず、ユベールが死ねば名門ブラックウェ
ル家を継ぐのは自分しかいないと決めてかかったのだ。メイドには
1230
片っ端から手を出す。執事に命じて金を引き出し放蕩三昧。そのう
ちにゴルボットはルッジに対し異常な執着を抱いた。
ルッジが外出している間に部屋へ侵入し、下着を使って自慰を行
う。
己の体液を混入させた料理を姉嫁の口に入れようと画策する。
部屋のドアノブに己のほとばしりをべったり塗りつけ、ルッジが
気づかずに握るであろうことを期待し、隠れて様子を伺う。
ついには実力行使に出るが、魔道書の力によって半死半生の目に
あってからは、直接的な行動に出ることはなくなったが、その濁っ
た瞳はいつでもルッジを汚そうと虎視眈々と狙っているのが丸分か
りだった。
ゴルボットはルッジの脚元から頭のてっぺんまで舐めるように視
線を這わせると、ピンク色の長い舌を爬虫類のように伸ばし唇を粘
ったよだれで湿した。
﹁ねえん、ゴルボットさまあん、早くお部屋で飲み直しましょう﹂
ゴルボットにしなだれかかるようにして、あきらかに淫売とわか
る女が媚を売っていた。
彼の好みはいつも徹底していた。
背が高くスラッとして、胸も尻も引き締まったタイプの女性を好
んで連れ回していた。
﹁ぐぶぶぶ。まあ、そう急くなよ子猫ちゃあん﹂
﹁いやあん﹂
ゴルボットは安い淫売の腰を引き寄せると嫌らしく下卑た顔で笑
った。処女のカロリーヌは顔を朱に染めると恥じらってそむけた。
﹁ゴルボット殿。貴殿はまがりなりにも、ブラックウェル家の次男
にして子爵を賜る身であります。昼日中から、そのような真似は慎
まれよ﹂
﹁あれ、あれれ。もっしかして、義姉上。オレ様ちゃんのこと妬い
てるのぉ﹂
﹁なにを馬鹿なことを﹂
1231
﹁ふううん? ま、いいのさあああっ。本当は、オレ様ちゃんもぉ
お、死んじゃった兄上の代わりとして、義姉上と仲良くしなきゃい
けないんだけどおおっ、まだ喪が明けていないうちに、そうゆう仲
になるのはマズイよねぇええん﹂
ゴルボットは吹き出物だらけの顔を歪ませると、にちゃっとした
イヤな顔で笑った。
﹁なんどもいったように、わたしは貴殿とそのような仲になるつも
りは毛頭ない﹂
﹁照れなくってもいいのにいい。ねえ、義姉上ぇえん。オレ様ちゃ
んとおお、いっしょになればああん、万事がすべてうまくいくんだ
よおおっ。義姉上はぁあ、莫大な遺産で迷宮の研究が続けられてウ
ッハウハ。オレ様ちゃんはあ、いとしい義姉上とおお、ひとつにな
れてぐっちゃぐっちゃのぬちょぬちょになれてウッハウハ! これ
ぞ、ウィン、ウィンじゃね? あ、やべ。たまんね。義姉上の顔。
そ、そそるううっ﹂
﹁やめなさい。そのような無礼な物言い許されない﹂
ルッジは喉をヒクつかせながらゴルボットの野卑な言動を青白い
顔で咎めた。
﹁ああああっ。いいっ! 義姉上のおおっ!! その怒った顔おぉ
おっ、そそるううっ、すっご! そそるううっ! もっと、怒って
ええっ! たまんねええっ!!﹂
﹁ねえん、ゴルボットさまあ。そんな年増どうでもいいじゃないの
お。早くお部屋に行って、いいことしましょ﹂
﹁うるせえっ、肉便器がしゃべるんじゃねええっ! 興がそがれる
だろうがあっ!!﹂
ゴルボットは突如として癇癪を起こすと、腕を伸ばして淫売の喉
を後ろからぐいぐいと締め上げた。淫売女は白目を剥いて激しくも
がく。
カロリーヌは呆気にとられ、ふるふると小刻みに震えだした。
﹁けひっ﹂
1232
淫売は妙な呼吸音をもらし白く細い腕を空に這わせてもがいた。
だがその程度では獣性に囚われた男の行動が止むことはない。
ゴルボットの異常性が激しさを増した。
﹁いひっ、いひひひひっ!! 死ね、死ねええッ!!﹂
ゴキっと鈍い音がして淫売の頚椎が砕ける。
同時にゴルボットは法悦の表情で細かく全身を震わせた。
﹁あぁえがったあ。安い淫売は殺してナンボッ!! くひゅひゅ。
ねえ、義姉上。やっぱ、オレ様ちゃんといっしょになること考えて
よ。そうすればさあ、これからは毎日オレ様ちゃんが誰にもはばか
らずかわいがってあげるよん﹂
﹁異常者が! ゴルボット殿、自分がなにをしたか理解しているの
か? 相手がいくら平民だとはいえ、国法に照らせば重罪だぞ﹂
ルッジは紙のように真っ白な顔で義弟をなじった。もっとも、ゴ
ルボットにとっては義姉の険しい表情は自慰のネタに過ぎず、むし
ろご褒美といえた。
ケダモノは弛緩した表情のまま再び股間を隆起させると興奮のあ
まり粘ったよだれを口の端からどっと放出させた。
﹁え? ああ、これこれね。だいじょぶ、大丈夫だってば。未来の
夫を心配しなさんなってば。適当に拾った淫売なんか、オレ様ちゃ
んたちにくらべれば便所紙みたいなもんだからってば。おーい、マ
カロチフ。出番だぞぉお、デカ物! ゴミ掃除だ!﹂
ゴルボットが高らかに手を打ち鳴らす。
まもなく、階段の下に控えていたのか、巨躯の野人が姿を現した。
身長は二メートルをはるかに超えていた。
胸板は巌のように厚く、腕には長きに渡って鍛え抜いた巨木のよ
うな鋼鉄をよじりあわせたような太さがあった。
頭部は毛を残らず剃り上げており、右の額には稲妻を模した墨が
入っている。
眉は太く落ち窪んだ瞳はギラギラと獣のように輝いていた。
マカロチフはゴルボットが近頃買い上げた奴隷で、シルバーヴィ
1233
ラゴのコロシアムでは歴戦の拳闘戦士であった。
マカロチフは淫売女の髪を片手で掴むとそのままゴミを引きずる
ようにその場を去っていった。毛足の長い絨毯を長々と赤黒い血が
伸びていく。ルッジの表情に憂鬱の表情が色濃くなっていった。
︵なぜだ。確かに、ゴルボットは以前から傍若無人であったがここ
まで常軌を逸してはいなかったのに︶
﹁じゃあ、お名残惜しいけど、オレ様ちゃんもいろいろ忙しいから
おとう
これで行くよ。今度は、義姉上とじっくり仲良くしたいなぁ﹂
﹁待て! こんなことをして、御義父さまのお耳に聞こえ、病状に
差し障りがあったらどう責任をとるつもりだ!﹂
﹁うふふう。大丈夫だよん。むしろ、その方がいいんじゃね? ま、
さすがのオレ様ちゃんも血を分けたオヤジサマを手にかけるつもり
はないから安心してよん﹂
﹁わたしは、おまえのものにはならない﹂
﹁は? だからー、そんなの時間の問題だってぇん。義姉上だって、
オヤジサマが死ねば心細さから考え直すってん。ま、オレ様ちゃん
和姦派だから。義姉上さまが、自分から股を開いて来るまでじっと
待つよん。そんな強がらなくても、いいってん﹂
﹁別に強がっているわけじゃない。なぜなら、もう、わたしには再
婚先が決まっているからだ。おまえのようなゲスに、遺領はひとし
ずくも行き渡らない﹂
ゴルボットの表情。意味がわからないと痴呆のように固まった。
しばしの空白を置いて、突如として爆発した。
彼の中には、遺産分配をめぐって親族たちが強硬手段として、ル
ッジに無理やり婿をあてがうという手段が想起された。貴族階級の
中では濃く繋がった親族一同の意見は無視できるものではない。
特に、叔父にあたるライオネルの弟、ロニキス男爵は押し出しも
立派でもっとも厄介な存在だった。
﹁そ、そんな切羽詰った嘘に、オレ様ちゃんが騙されるわけないで
しょ! し、知っているんだ! オレ様ちゃん、実は義姉上がいま
1234
だ処女だって! ユベール兄上は幼い頃から病気でアッチの方は役
たたずだって! だからっ、だから義姉上の処女はああっ、必ず、
オレ様ちゃんのモノになるのおおっ!! 予約なのおおおっ! 予
約処女ほかの野良犬に使うなんて承諾できないいいいっ!!﹂
﹁残念だったな﹂
﹁は?﹂
ゴルボットは顎をカクンと垂らすと痴呆のような表情を晒した。
﹁ボクの純潔は、再婚相手であるクランド・シモンへと、とうに捧
げ尽くした。遅ればせながら、君が手を出したとしても、もはやボ
クのココは使用ずみだ!﹂
ルッジは赤い舌をぺろりと出すと、つややかな唇を舐め、腰をく
ねらせて見せた。
﹁うそだああああっ!! ああああっ!!﹂
ゴルボットは発狂したように顔を掻きむしると、泣きながらその
場を走り去っていった。
﹁お、奥さま。いまのは﹂
カロリーヌが瞳をきょときょとさせながら呆然とした表情で尋ね
る。 ﹁ふっ。勝った﹂
ルッジは両腕を組むと鼻を鳴らして勝ち誇った表情をしていた。
﹁いやいやいや、勝ったじゃないでしょう!!﹂
カロリーヌの悲痛な叫びが尾を引いて響いた。
ゴルボットはライオネル公爵の妾腹の子だった。
成人するまではスラムで過ごし、たまたま持っていた母の形見か
ら自分が貴族の落胤であることを知って運命が百八十度変わった。
1235
はじめてみる貴族の屋敷の広さに怯えた。兄だと名乗る、高貴な人
物に引きあわされ、言葉を発することすらできなかった。
そんな自分をあたたかく迎え入れてくれた人間がいた。
﹁はじめまして、きょうから君がわたしの弟だな﹂
はじめて彼女に出会った日のことを鮮明に思いだすことができる。
艶やかな美しく長い黒髪。
キラキラと宝石のように光る瞳。
スラリとした均整のとれた身体。
その声は天上の音楽のように聞こえた。
彼女が長い脚を動かすたびに、白い太ももが目に入り、陶然とし
た。
女神である。文字通り、ルッジはゴルボットにとって理想の女性
であった。
彼女に出会えたことをこの世でもっともすぐれた奇跡だと感じた。
同時に、その女神を妻として組み敷くことができる権利を持った
兄を心の底から憎んだ。
慣れない貴族の礼儀作法を、ルッジはまるで本当の血の繋がった
姉弟のようにやさしく教えてくれた。
彼女の吐息が頬に触れるたび、ゴルボットは自分の中の悪心がム
クムクと頭をもたげるのを抑えることができなかった。この醜く、
なんの教養もない、ただライオネル公爵の種だという一点がルッジ
と自分を繋げている。
この時点で、ルッジの側にはゴルボットに嫌悪感はなかった。
彼女は見た目だけで人を判断するような女ではなかった。
そう、ゴルボットという人間が、真正邪悪そのものだということ
に気づくまでは。
誰よりも、美しく気高い義姉。
その彼女を無理やり組み伏し、力づくで押さえつけ、言葉で罵っ
て人間の尊厳を貶め、穴という穴、髪の毛一本まで自分の体液で汚
し尽くすことができるとすれば。
1236
それこそが、自分の生まれて来た意味があったはずであろうに。
﹁ふざけるなっ︱︱!﹂
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。
﹁ありえないだろうがよおおっ﹂
万が一にでもあってはならない。
自分以外が、彼女を汚すなどという、鬼畜的所業は。
﹁彼女はオレ様ちゃんの聖域なんだ。それが、それが、それがああ
っ!!﹂
ライオス
ゴルボットは荒れ狂うまま自室の調度品をすべて破壊すると、う
っそりと部屋の隅に立つ巨漢に命じた。
巨額を投じて買い入れた拳闘戦士マカロチフ。
彼は、人間族でありながら、亜人最強種といわれる獅子族を素手
でくびり殺す猛者である。
と冠されたロムレス一の徒手格闘王者である。
十年の間に屠った敵の数は二千を超える。
鉄豪
格闘の天才。
二つ名を
﹁探せ。どんな手を使っても、クランド・シモンという男をここま
で連れてこい。その男の前で、たっぷりと見せつけてやる。オレ様
ちゃんの女神が壊れていくサマを﹂
ゴルボットの眼。歪んだ冥い炎で燃えたぎっていた。
1237
Lv78﹁飢狼の巣﹂
マカロチフは即座に主の命令を実行に移した。彼は第一に片腕で
あるスピリドンを呼びつけ、シモン・クランドなる冒険者について
探らせた。
スピリドンは侠客上がりの男で、腕力はないが頭の回転が早く異
常にフットワークが軽かった。暗黒街の出身であることに加え、顔
は広い。対象の年齢や職業、名前さえわかっていれば割り出しは容
易だった。
シモン・クランドの住所をつかむとマカロチフは即座に攻撃隊を
編成した。
﹁けど、おかしら。こいつは、結構ヤバいやつですぜ﹂
肝の座ったスピリドンがシモン・クランドの情報を読み上げる。
なるほど、三流の悪党であった彼が震え上がるの無理はない。ク
ランドなる名前の冒険者は、リースフィールド街の貸元であるチェ
チーリオやロムレス教会の司教とも繋がりがあるらしい。危険は出
来るだけ避ける。ヤバい仕事は人に回す。弱者が生き残る鉄則を守
ってきたから今日まで生き永らえたのである。その点スピリドンの
鼻は正確だった。
﹁ヤサが割れていても、直接襲う方法はマズイな﹂
マカロチフは葉巻から紫煙をくゆらせながら、眉間のしわをいっ
そう深くした。
教会の力は特に厄介だ。敬愛する主のゴルボットに毛ほどの傷も
つけられない。
1238
調査によれば、クランドの住んでいる屋敷も教会関係者から回っ
てきた物件であるという。下手に刺激すればしつこく辿られる可能
性もある。強大な力を持つロムレス教と争うのは愚の骨頂である。
下手を打つわけにはいかない。
﹁だが、さいわいにもヤツの屋敷は街のど真ん中、というわけでも
ない﹂
クランドが家に引っこんで、外出時にはゾロゾロと仲間を引き連
ギルド
れ動き回るタイプでなかったこともマカロチフにすれば好都合だっ
た。
ギルド
それに冒険者である以上、定期的に冒険者組合には顔を出す。襲
撃地点の選定には事欠かなかった。
主に聞いた話だと、義姉のルッジは昼過ぎに、冒険者組合でクラ
ンドという間男と待ち合わせてダンジョンに潜る予定らしい。時間
は残り少ない。早急の処理を求められた。
﹁バロッコ兄弟を呼べ﹂
﹁あの、兄弟をですかい﹂
スピリドンの顔が恐怖に引きつった。
バロッコ兄弟は双子の殺し屋でよく手斧を使う。残虐さでは比類
がなく、金を積まれれば幼児から年寄りまで眉ひとつ動かさず処理
するということが知れ渡っていた。
﹁そうだ。アタックポイントではまず弓矢を使って足止め。そのあ
とで、スピリドン。おまえは精鋭十人を率いて襲え。奴は剣を中々
に使うらしい。得物は槍がいいだろうよ。それから、絶対に生かし
たまま連れてこい。ゴルボットさまのご命令だ。いいか。くれぐれ
も俺を失望させるなよ﹂
﹁はっ、はいいいっ!!﹂
スピリドンが駆け足で部屋を出ていくのを見ると、マカロチフは
椅子に深く身を沈め目を閉じた。
主のゴルボットを思う。
マカロチフの黒い革パン。
1239
股間の部分がたちまちテントを張った。
マカロチフは強いだけが能である拳闘士であった。
いくら勝ち続けようが、誰かが買い取らない限り犯罪者上がりの
マカロチフがコロシアムを出ることはかなわない。
それを、ゴルボットが救い上げてくれた。
﹁ああ、ゴルボットさまぁ。こんな臭くて、汚い、殴りあいしか能
のない拳闘奴隷を、買い上げて下さるなんてっ﹂
マカロチフは張り詰めた股間の怒張を革パンから解放させると、
文机から取り出した布切れを巻いた。
もちろん主のゴルボットから拝借した染みつきブリーフである。
マカロチフはゲイであり、極度のオヤジマニアであった。
﹁はああんっ、ゴルボットさまああ、ゴルボットさまのお、お小水
のついた聖衣がああん、この汚らしい俺にぃいいっ﹂
マカロチフは鼻の穴をぽかっと開けながらだらしなく顔を弛緩さ
せると愉悦に耽った。
マカロチフの趣味は偏っていた。彼は、男性、かつ中年で極度に
太っており、色白で歯並びが悪く、体臭が強い縮れ毛の頭髪を持つ
対象にしか興奮できなかった。
この異常性癖は彼が若い頃僧院で仕込まれた男性僧侶による暴虐
に起因しており、自分でも異常なことが理解していたがやめられな
かった。主のブリーフに顔をうずめ、臭気を肺いっぱいに吸い込む。
激臭がマカロチフの鼻腔いっぱいに広がった。
﹁はああああんっ、これこれこれえええっ。生き返るううぅ!﹂
常人であるならば鼻先をかすめただけでショック死する激臭は、
マカロチフにとって天上世界に咲く至上の花々の香りであった。彼
が鼻梁から空気を吸引するたびに、肺の中は香気芬芬と、えも言わ
れぬ天上の花々の匂いが立ち昇った。
﹁甘露、甘露ぉおおっ!! ぢゅううっ!!﹂
マカロチフは暗い愉悦の中で、主が喜ぶ顔を妄想し、歓喜に打ち
震えた。
1240
﹁来やがったな。あれが、クランドって冒険者だろう﹂
切り立った崖の上からスピリドンは眼下の狭隘な道を行くひとり
の男を指差した。
素早く手下のひとりを斥候に回して確認しておいた。
﹁へい。兄貴のいうとおり、浅黒い顔。黒髪に黒目。真っ黒な外套
を羽織り、長い剣を下げております﹂
﹁へ。まあ、あの男にゃ悪いが、きょうが奴の命日ってわけだな﹂
スピリドンは額に巻いた赤いバンダナで汗をぬぐい、腰の剣を引
き抜いた。
風ひとつない濁った大気が沈殿している。夏も終わりだというの
に、陽光のキツさはなにひとつ衰えを見せない。冷やした酒がひた
すら恋しかった。
スピリドンが無言で顎を引くと、周囲の三下が動き出す。
ゴルボットに飼われている若い男たちは、巧みな足さばきで崖を
降りると、たちまちに道の前後を四人づつで塞いだのだ。
腰にくくりつけた望遠鏡を手に持ち、男の姿にピントを合わせる。
若く、精気のあふれるいかにも女が好みそうな顔立ちだった。
﹁やれっ!﹂
合図と同時に、両隣にいた猟師上がりの射手が弓を放った。
距離はせいぜい二十メートルである。
熟練したふたりにすれば、射損ねる危険はなかった。
矢はひょうと風を切って走ると、男の影に突き立った。
スピリドンは声を上げて、崖を駆け下りる。
そこにはすでに、物言わぬ肉塊となったふたりの男の姿があった。
間違いなく自分の部下である。槍という充分なリーチの差があって
1241
も、あっという間に切り伏せられたのだ。
スピリドンは尻の穴をキュッと締め上げると、これは容易な相手
ではないぞ、と冷や汗を背中にどっと噴き出させた。
﹁やいやい、おとなしくしやがれっ! クランドとやらっ、テメエ
のガラはもうこっちのもんだ! 剣を捨てて両手を挙げやがれ!﹂
﹁はい、そうですかといくはずがねぇだろ!﹂
男はスピリドンの忠告を無視していきなり跳躍した。
黒外套が羽根をいちどきに広げたよう、隘路を埋め尽くした。
真っ白な刃が閃いたかと思うと、一番前に出ていた男が槍の半ば
ごと顔面を両断され絶命した。真っ赤な血潮が辺り一面にパッと撒
き散らされ視界を覆った。
別段武闘派ではない。ないが、皆を率いてきた手前、自分だけ逃
げるわけにもいかない。
スピリドンが臆病蟲に半ばとりつかれた瞬間、背後から疾風のよ
うに風を巻いて躍り出たふたつの影があった。
﹁バロッコ兄弟!!﹂
スピリドンの顔へとみるみるうちに生気が蘇っていく。
灰色の覆面をかぶった長身の双子は、眼だけをギラギラ輝かせな
がら、手斧を持って標的に踊りかかった。
男は咄嗟に受太刀にまわった。
黒い刀身が水平に動く。
バロッコ兄は風車のように右腕を動かすと苛烈な一撃を真正面か
ら喰らわせた。
ガキン、と硬質な金属音が響き男の長剣がたちまち弾き飛ばされ
る。
男の表情。蒼白に染まった。
続いて、兄の背に隠れるように接近していたバロッコ弟が斬撃を
加えた。
肉を穿つ音が鈍く響く。
﹁やった!﹂
1242
スピリドンは反射的に両手を握りこむと歓声を上げていた。
男は呆然とした表情で切り飛ばされた右腕を虚ろな視線で追って
いる。
背に突き立った二本の矢が、真っ白な陽光を反射し形を失ってい
く。
﹁いまだああっ!!﹂
﹁やっちまええっ!!﹂
﹁ぶっ殺せ!!﹂
たちまちに残った男たちが倒れ臥した青年へと襲いかかる。多数
であるにも関わらず、三人もの仲間を失った。
だが、その強敵はいまやバロッコ兄弟の手にかかり半死半生であ
る。裏返った恐怖を塗りつぶすように男たちは打擲を繰り返した。
﹁待て、待つんだ! 殺しちゃなんねえ!!﹂
スピリドンの制止がいま少し遅ければ、対象の青年は死んでいた
だろう。
命令の失敗は己の死につながる。血塗れのボロ雑巾になった男を
手下に担がせると、用意していた馬車にかつぎこむ。
ともあれ命令は達成した。スピリドンは、荒れた道を揺られなが
ら帰途につき、とりあえずの作戦成功を心の中で祝った。
ギルド
ルッジが義父の容態急変を知らされたのは、冒険者組合前の乗合
馬車から降りてすぐだった。相手はもちろん屋敷で使っている下男
である。彼は、義父の専属医ペシャロットの書状を手渡すと荒い息
をついてその場にしゃがみこんだ。筆致は荒いものであったが、間
違いなく旧知の医者のものであった。
ルッジは馭者に頼みこんで馬を借りると、自ら騎乗して屋敷にか
1243
け戻った。義父の病状は心配である。だが、前々からわかっていた
ことではあった。それよりも彼女の心の中を占めていたのは、きょ
う待ち合わせていた蔵人との約束を果たせないことであった。
︵なにを浮ついたことを。この非常時に。ボクは、男になんか興味
なかったはずだろう!︶
ルッジは自分の心の動きに激しく動揺しながら、手綱を強く握っ
た。
あっという間に家に戻ると、馬から飛び降りて正面玄関に駆け込
んだ。
﹁これは⋮⋮﹂
同時に異変に気づく。当主のライオネルが危篤であるならば親族
一同に知らせが行き渡っているはずである。ならば、この静けさは
どういったことだ。よくよく考えれば、日がな仕事に駆けずり回る
使用人の姿がひとりも見受けられない。
︱︱やられた。
ルッジが生物の根源的に危機を察知する能力が働いたときはすで
に遅かった。
背後を振り返る。あきらかに堅気ではない男たちが、七人ほど剣
やナイフを手にしたままゆっくりと近寄ってくるのが見える。
アストロ・グリモワール
もっとも、ルッジは冷静だった。彼女の中には、祖父が残してく
れた星の魔道書がある。だから、どんなときでもひとりでいられる
強さがあった。
この本がある限り、祖父はいつでも自分に力を貸してくれるのだ。
十人や二十人のならず者など、どうということはない。
﹁ふうん。さっすが、義姉上。普通のご婦人ならばこの状況を見た
だけで、泣き叫んで動けなくなってしまってもおかしくないのにね
えん。その落ち着き払った表情、素敵ですう﹂
﹁ゴルボット﹂
ホールの中央階段を、下卑た顔つきのまま余裕綽々としてゆっく
り降りてくる義弟の姿を認めた。
1244
ゴルボットは五人ほどの大男を従えたまま中央に到達すると、左
右に両手を広げた。
﹁なにがしたいんだ。ボクを嘘までついて呼び戻して﹂
﹁あらら、わかっちゃいましたかねえん。でもでも、でもお。ルッ
ジを愛するオレ様ちゃんの気持ちも理解して欲しいのねんねん。愛
する、花嫁が他の野良犬にしっぽを振りに行くとわかっていれば、
ぶち壊してやりたいと思うのが人情ってモンでしょう﹂
ゴルボットはとうとう敬称すら捨て去って義姉の名を呼び捨てに
した。
彼の瞳は煮詰めた苺のように真っ赤に染まり、狂った彼の中身そ
のものがドロドロと放射されているようだった。
﹁もういい。おまえとは会話する気も起きない。妙な無法者たちを
集めていたのは知っていたが、勝手に屋敷の中にまで入れるとはな
にごとだ! ボク、いや、当主ライオネル公に変わって、このわた
し、ルッジ・ブラックウェルが告げる。彼らを当屋敷から追い出し、
あなたに謹慎を命じます。向こう一週間は、外出を禁じる。さあ、
おとなしくしなさい﹂
﹁ぷくくっ、かーわいいなあ、ルッジたんは。そおおんな、命令オ
レ様ちゃんが聞くわけないっしょやぁ。もっとも、ルッジたんが一
週間、オレちんとベッドの中でぐちゃぐちゃ教育的指導してくれる
っていうなら、話はべつだけどねん﹂
﹁義理とはいえ姉に向かってその口の利き方。また、お仕置きをさ
れたいようですね﹂
﹁ふううん。口調まで変えちゃってまあ、ゾクゾクするねえ。ねえ、
ルッジたん。愛する間男野郎との逢瀬を邪魔されて、いまどんな気
持ち? どんな気持ち? ケッ、おまえも本当はあんなくたばり損
ないのジジィなんぞどうでもよくて、若くて馬力のある男とパコり
まくりたいだけだろうがよおっ!! なにが、迷宮研究だ! くだ
らん、研究にかまけて、兄貴を見殺しにした女がよくいうぜぇええ
っ!!﹂
1245
﹁黙れ﹂
ルッジは美貌を引きつらせると歯を剥いて怒鳴った。握った拳が
小刻みにゆれる。タルボットの表情。笑みが濃く浮かび、小さな目
がさらに細められていた。
﹁黙らないよん。ルッジたんが、金目当てでこのブラックウェル家
に嫁いできたのは明々白々ですし。兄貴もルッジたんのせいで早死
にしたようなもんですからねぇ。世間の人から見てもルッジたんた
ちが冷え切っていたのは見え見えだったですし。ま、セックスレス
だった兄貴が悪いんだけどね。女ひとり満足させられないなんて!
情けな! それで、まんまと独り身になるは、遺産は使い放題だ
わで、世間さまはルッジたんを黒後家蜘蛛って呼んでるよう。ぬは
は。ま、根っこの部分はオレ様ちゃんと同じってことだよん。けど、
そういうのもあり! いいじゃん、金が欲しくて若い愛人とパコり
まくりたがるのだって人間だもの、肉欲には溺れたいのよねん。許
す! 許すからオレのもんになれよぅ! オレ様ちゃん、実は超や
さしいから、毎日ルッジたんかわいがりまくって速攻腹ボテ状態に
したげるからさあ。そうすりゃ、跡継ぎは生まれるわ、莫大な財産
はオレ様ちゃんとルッジで使いたいほうだいでいいことづくめじゃ
ね!? そうすりゃ、分家の糞どもに、もうワイワイいわれずにす
アストロ・グリモワール
むよう。ねえ、オレ様ちゃんの肉便器なってよう﹂
ルッジは無言で星の魔道書を取り出すと、ページを開いた。
全身から必殺の闘気が立ち昇っている。
ゴルボットは触れてはいけない、傷に触れたのだった。
ゴルボットの取り巻きたちは唸り声を上げて走り出した。
距離にして五メートル。指呼の間である。
五人の大男たちは上半身を肌脱ぎにし、発達した筋肉に力をみな
ぎらせている。
だが、卓越した魔術の前には無力だ。
ルッジが目を閉じて精神力を集中させる。肉薄した男たちの指が
いまにも掴みかからんと伸ばされた。
1246
オルタナ・ウィンドブレット
﹁偽・風王連弾!﹂
魔道書が光り輝くと、宙に舞った紙片は空を切って男たちに襲い
かかる。
風属性の魔術を偽した弾丸が矢継ぎ早に射出された。
激しく強く発光しながら風の弾丸は男たちの全身に風穴を空けた。
空気の散弾を真っ向から喰らった形といえば耐えられるはずもな
い。
鍛え抜かれた筋肉は安々とあちこちを喰い破られ、血飛沫が絨毯
や壁際鋭く叩いた。
男たちの巨体は紙切れのように吹き抜けを舞い上がり二階の天井
にぶつかって、大きな音を立てた。それらが重力のロジックに逆ら
えるはずもない。バラバラになった肉片は、泥を打つような無慈悲
な音を立てあちこちに積み重なった。
﹁ひっ﹂
ルッジの背後を抑えていた七人の男たちがあからさまに怯えを見
せた。
刃の撃ち合いを想定していたのだろうが、感情の混じることのな
い魔術戦は壮絶さを極めた。
﹁ひいいっ、なんだよこれっ! なんだよおこれぇ﹂
﹁聞いてない、聞いてないぞっ、相手が魔術師だなんてよおっ!﹂
正確には彼女は魔術師でもなんでもない。
もっとも恐怖に打ち震える男たちには関係なかった。
ゴルボットが雇った私兵は所詮金だけの繋がりである。
一瞬で、五人もの仲間を打ち倒した女など悪夢でしかないのだ。
恐怖に支配された男たちが雪崩を打って逃げ出す直前、ゴルボット
のしわがれ声が走った。
﹁うろたえんじゃねえや! おい、ルッジよう、オレ様ちゃんがい
つまで甘い顔をしていると思っていやがる。さっさと、その魔道書
を捨てな!﹂
﹁馬鹿か? ボクがコレを手放す理由がまるで見当たらないな。ま
1247
ったく、その無意味な自信はどこから来るのかね﹂
﹁おおおっと、オレ様がいいというまで妙な動きをしないほうが身
のためだぜ。ルッジよう。おまえが、そのイカれた魔道書を使うっ
てのはわかっていたが、ここまでのものだと再確認できれば、あと
はこっちも奥の手を使わなければなんねえよん。オラっ、連れてこ
いやあ﹂
﹁︱︱っ!?﹂
ひとりの巨漢がそれを引きずってきたとき、ルッジは驚愕のあま
り魔道書を取り落としそうになった。うつ伏せになっているゆえ表
情は読み取れない。
だが、一見して重傷を負っているのは明白だった。見慣れた黒外
套はあちこちが血にまみれ、塵埃をかぶっていた。崩れ落ちそうな
膝を無理やり奮い立たせる。全身の血が抜け落ちたように、身体か
ら気力がみるみるうちに抜け落ちていく。
﹁クランド!!﹂
﹁そうだよん、義姉上。アンタのいとしーい、いとしい間男野郎は、
こっちの手のうちだってことさ! さあ、このくたばり損ないに止
めを刺されたくなきゃ、とっととその危険なブツをこっちに放りや
がれ!!﹂
﹁ああ、なんてことを。なんで、君が﹂
﹁おーいい。聞こえてるう? オレ様ちゃんの、お・は・な・しィ
い!!﹂
﹁やめろおっ!!﹂
ゴルボットは歌うようにリズムを取って、ピクリともしない男の
背を蹴り上げた。
短い足が黒外套の上から場所を狙わず叩きつけられるたびに、ル
ッジは胸が張り裂けそうな激しい痛みを感じた。
﹁やめろお? まぁだ、立場わかってないなあ。やめてくださいだ
ろがああっ!!﹂
ゴルボットはこめかみに青筋を立てて吠えた。
1248
同時に、持っていた杖をぐったりとしている男の頭部におもいき
り叩きつける。
ぼぐんっ、と鈍い音が響く。ルッジの喉から甲高い悲鳴が飛び出
した。
﹁わかった、わかったから! やめて、やめてください﹂
アストロ・グリモワール
﹁わかればいいんだよ。あーん。オラあっ! とっと本投げろや、
コラァ!!﹂
﹁やめて。それ以上、傷つけないでくれ﹂
ルッジはしゃがみこむと、手にしていた星の魔道書を床を滑らす
ようにして投げた。魔道書はつつっと動くと、階段脇の出っ張りぶ
つかり止まった。
ゴルボットは大物ぶったように指を目の前で揺らし、チチッとし
たを鳴らすと不器用にウインクしてみせた。
﹁最初っから、そうしてればいいんだよん。さあ、ルッジ。オレ様
ちゃんのルッジ。あとはふたりっきりで、せまーい密室で仲良く今
後を話しあおうね。逆らったら、君の大好きなクランドくんがどう
なるかぁ。わかってるよねん﹂
ゴルボットは美貌の兄嫁を自由にできるという期待で激しく目を
情欲の炎でギラつかせ勝ち誇った。ルッジに拒否権は存在しなかっ
た。
﹁じゃあ、とりあえず服を脱いでもらおっかな﹂
ゴルボットは自室にルッジを引きこむと、開口一番ほがらかな顔
でいった。
ルッジは屈辱に顔を歪ませながら奥歯を強く噛み締めた。
半ば予想していたことである。しかしながら、現実として我が身
1249
に降りかかってくると、屈辱以外のなにものでもなかった。
﹁あ? なに、その顔。もしかしてぇ、オレ様ちゃんに脱がして欲
しいわけ? それとも、あのクランドって野良犬が死んでもいいの
かなん﹂
ルッジは無言でシャツに指をかけ、ボタンをひとつずつ外してい
った。
﹁ふ、ふへへ。ルッジぃい。いい肌してやがるぜぇ﹂
ゴルボットは椅子に深々と腰掛けると上着を脱いだ。
たるんだブヨブヨとした腹が蠕動している。見る者の吐き気を催
させた。
ルッジは下卑た声が聞こえるたびに、耳まで真っ赤に染めて平静
を装った。
怒りと羞恥が入り混じり、頭が破裂しそうになった。屈辱に身を
打ち震わせながら、上半身をあらわにする。ゴルボットのケダモノ
のような視線が、あらわになった下着の上から食い破らんばかりに、
胸へと釘づけになっている。不快感で背筋が凍った。
﹁ルッジぃい。素敵だよ。君は、どこまでオレ様ちゃんを喜ばせて
くれるんだい﹂
ゴルボットは鼻の穴を醜悪に広げながら充血しきった眼を光らせ
た。
獣欲に濁った眼だ。
暗い情欲が燃え盛っている。
離れた距離でもわかるほど、強烈な雄の波動を放射していた。
ルッジは、ゴルボットが自分を背後から抱えながら蹂躙する姿を
想像し、薄い唇を震わせた。
あの、節くれだった芋虫ののような指が、己の真っ白な尻に食い
込み、無理矢理にも弄ばれる。屈辱の中で従わされるのだ。魔道書
を取り上げられ、クランドを人質に取られたいまの自分には嫌も応
もない。部屋の中には屈強な男が四人詰めている。そのうちのひと
りは、コロシアムで名を売った、屈強な格闘戦士であるマカロチフ
1250
だ。たとえ逃げようとしても、万に一つも可能性はない。涙をこぼ
さないように、せめても表情だけは取り繕おうとなけなしの気力を
鼓舞した。
﹁し、下も早く。いいや、ま、待て! そうだ、いきなり脱いじゃ
ぁ興がそがれる。ふぅふぅ。そうだな。け、ケツをこっちに突き出
しながら、ゆぅううっくりと、脱ぐんだ。げ、げへへ﹂
︵ボクを淫売扱いするのかっ!︶
それほど若くはない。恥らう歳でもなかった。
それでも、ここまで下賎な男たちに手荒く扱われたことなどルッ
ジの人生の中ではなかった。彼女は良くも悪くも生粋の貴族であっ
た。遺伝子に刻まれた自尊心が恐怖を一瞬で塗り替えた。
﹁いわれた通りにする。それよりも、クランドの手当はちゃんとし
てくれるんだろうな!﹂
ルッジは手にしていたシャツを床に叩きつけて吠えた。取り巻き
の男たちは面白がってはやし立てる。マカロチフだけは無表情のま
まあらぬ方向を見つめていた。
﹁ん? ああ、あのヘタレ野郎のことか。おい、おまえら! あの
ゴミを連れてこいや!﹂
命じられたマカロチフが部屋の外からズタボロになった真っ黒な
男を引きずってきた。
﹁クランド⋮⋮﹂
ルッジの切なげな声がかすれて響く。それを見ていたゴルボット
は激しく舌打ちをすると蓬髪を掻きむしり癇癪を起こした。すでに
己の物となった女が他の男に関心を寄せるのが気に入らないのだ。
どこまでも狭量だった。
﹁待て! そいつを中に入れることはねえ。そう、そうだ。入口の
扉をすこぅし開けてよう。音だけ聞こえるようにするんだ。そこの
半死半生の男によ。よぇえ負け犬にはなにもできないってことを、
声だけ聞かせてやるんだっ。ふ、ふひひひひっ。たまんねえだろう
な、自分の女がよう、他の男にこれでもっかってくらいにヤラれま
1251
くって、ああん、ああんっよがり声を出してよ。そして、自分はそ
れを聞いているだけでなにもできない無力感っ。ルッジよう。おま
えはこれから忌み嫌っていたこのオレ様ちゃんにたあっぷり虐め抜
かれるんだぜええぇ? おお、よう? くひひひ、くひひひっ﹂
﹁ゲスが﹂
﹁おお、ゲスで結構、結構。その強気な顔がイキ顔で悶えるのをい
まから楽しみでならねえぜぇええ?﹂
ルッジは半開きにされた廊下の向こうで転がる男の背を食い入る
ように見つめている。
︵とにかく隙を作ることだ。あの、クランドがそう簡単に屈服する
とは思えない。とにかく時間を稼いで、なんとか、なんとか︶
﹁さあて、準備は万端ですよううう、お嬢さまぁああ。さっさとは
じめねえとぉ、こうだっ!!﹂
ゴルボットが顎をしゃくると、マカロチフが転がった男の腹を蹴
り上げた。
肉がひしゃげる異様な音と共に、ボロ雑巾のように丸まった身体
が浮き上がる。激しく出血しているのか、飛び散った血が重たげな
扉のあちこちに降りかかった。
﹁やめろ! わかった、わかったから。いうとおりにするから、も
う、やめてくれ。本当はその男とボクは、関係ないんだ﹂
﹁そんなもん信じられるかあ! うるせえっ! さっさと脱げや、
こらあ!!﹂
ルッジは命令通り背を向けると、身体を折って尻を高々と突き上
げた。己でも、形の良さには自負のある臀部だ。男たちのため息に
も似た声が漏れるのが聞こえた。
︵ううっ、恥ずかしい。なんで、こんなことを︶
超ミニのタイトスカートだ。
自然、後ろからショーツが丸見えとなった状態になる。
ルッジは羞恥に激しく全身を火照らせながら、額に汗を細かく浮
き上がらせた。
1252
﹁よおおし、なんてえ、いいケツしてやがるんだああ。それに、そ
の脚もたまんねぇ。おめえって女はどこまでオレ様ちゃんの理性を
崩壊させるんだよおおっ。よ、よし、続けて脱げ。そうだ! ケツ
を誘うように左右に振りながら、ねだるんだよお。口上は、頭のい
いおまえのことだ、期待してるぜええ。もし、オレ様ちゃんの意に
そぐわなかったら、わかってるよなあ? 淫語プレイよろしく頼む
ぜえ!?﹂
ルッジは激しい羞恥と屈辱に身を震わせながら、自分の尻をゆっ
くりと左右にくねらせてスカートに手をかけ脱ぎはじめた。
﹁ゴルボットさま。ボクの、お、お尻を、たっぷりご賞味ください
ませ﹂
意を決していやらしい言葉を口にした。男たちのはしゃいだ声が
爆発する。
頭がどうにかなりそうだった。
﹁うーん。ちっと、上品すぎるが、まあいいや。も、もっと下品な
言葉を使うんだよ。それこそ、場末の淫売すら躊躇するようなやつ
を。ま、これはこれで味ってやつかぁ。続けろや﹂
﹁う、うう。ゴルボットさま、ルッジの、いやらしい雌尻ご覧にな
って﹂
丸い尻を振りながらスカートを脱ぎ去ると、ルッジは完全に下着
姿になった。
﹁よし、壁に手を突くんだ、いいな﹂
ルッジは従順に壁際まで移動すると、両手を突いて腰を後ろに高
々と持ち上げた。
ゴルボットの荒い鼻息が背後に迫る。
強く目をつぶる。
ルッジはこれから待ち受ける過酷な運命に背筋を震わせながら、
思考を完全に停止させようと苦慮したのだった。
1253
1254
Lv79﹁強く抱きしめて﹂
ルッジは夫であるユベールが、病み疲れて寝入っている切なげな
表情を思い出していた。
はじめて会ったときから、精悍さからはかけはなれた存在だった。
顔つきは父親のライオネル公には似ておらず、はかなげで繊細な
ものだった。
初夜を迎えたベッドの上でそれは身をもって実感した。
ユベールができるのは身体の上でなにやらゴソゴソと動き回るだ
けである。おまけに、彼は病状のせいで勃起不全であった。
﹁ごめんね、ルッジ上手くできなくて﹂
ルッジは無理やり嫁がされた政略結婚になんの夢も幻想も抱いて
いなかったが、十六歳の少女には酷すぎる仕打ちだった。声を押し
殺して泣く彼女を、困ったように呆然と眺める夫には男としてはな
んの魅力も感じなかった。
それでも、十代のすべては研究以外の時間はすべて夫に対し献身
的に奉仕した。使用人の女たちからはやたらに評判のいい夫の風貌
であったが、ルッジにとってはやさしげな顔つきは弱さそのものだ
った。
元々薄かった性欲はますます減退し、夫との性的接触は皆無とな
った。
身体の繋がりも精神的な繋がりもない。これで、どうして男を愛
せというのか。寒々しい新婚夫婦の寝室には衰えた男の顔と、強い
薬湯の匂いが常につき纏っていた。
病人と看護者。
1255
ルッジと夫を評すればそれがすべてだった。
家にいても気詰まりなだけである。研究に没頭すればするほどふ
たりの溝は深まるばかりであった。経緯が経緯だ。誰もが表立って
非難することはない。
それでも、本当は誰かに構われたかったのかもしれない気持ちが
残っていた。
ねえ、ルッジ。胸を、見せてくれないかな。
病状がますます進行したある朝、ユベールはしわがれた声で切望
した。
ルッジは無言のままベッドの横で上着をくつろげると、乳房を惜
しげもなく晒した。
枯れ木のように細くなった夫の手が乳房をゆっくりとまさぐる。
カサカサした枯葉のような感触だった。目を細めて唇を動かすユベ
ールを見て、ルッジは申し訳なさで胸がいっぱいになった。
ああ、やっぱり君は綺麗だなぁ。
妻の身体をまるで作り物のように評する夫に対し、寂しさと情け
なさだけがこみ上げてきた。男なら立ち上がって無理やり奪って欲
しかった。理屈などいらない。あの日失った祖父のように、雄々し
く、強く抱きしめて欲しかった。
ルッジは過去から回帰すると、背後から迫るケダモノの息遣いを
聞き怖気をふるった。
尻に節くれだった指が強くかかり、無理やり左右に広げられるの
がわかった。
迫り来る無残さに強く目を閉じる。
ルッジにとっては狂気の時間がはじまりを告げていた。
﹁そっちへ行ったぞ! 絶対に逃がすんじゃねえ!!﹂
1256
﹁若さまは捕らえしだい好きにしていいってよ!﹂
﹁オイ! 決して殺すんじゃねえぞ! 骸を抱くのは味気ねぇから
な!﹂
﹁そいつは違いねえっ!﹂
ルッジの護衛騎士であるカロリーヌは、ゴルボットの追っ手から
必死の形相で逃げ続けていた。
﹁どうしてこんなことに⋮⋮﹂
カロリーヌは丈の深い草むらに腰を下ろすと、傷ついた右腕に巻
いた布をキツく縛った。
ブラックウェル家の屋敷は喧騒を嫌ったライオネル公の意を受け、
街の中心部からややはなれた土地に建てられていた。城内の内側と
はいえ、自然は多々有る。ともすれば人家から遠ざかれば色濃い緑
に包まれちょっとした保養地の趣もあった。
それは同時に人目につきにくいということである。
︵ゴルボットのやつが、たまには使用人たちに休養を取らせようと
いいだしたことがおかしかったんだ。こうしている間にも、奥さま
は︶
カロリーヌは義弟であるゴルボットがルッジに対して異常な執着
を見せていたことを常々危惧していた。そして、ルッジの留守をよ
そにゴルボットは凶行に出たのだ。
主であるライオネルを監禁し、無理やりルッジと契り、既成事実
を作ってブラックウェル家を相続するという単純かつ極まりない行
動に出たのだった。
︱︱なに。ルッジ義姉上がオレ様ちゃんの子を孕んじまえば、オ
ヤジや親族連中だってもうどうすることもできねえよ。なんたって、
オレ様ちゃんは歴としたあのライオネル公の落胤であることに間違
いはねえからな。男が生まれりゃ万々歳。たとえ娘であっても、オ
ジキの息子を婿に迎えるといやぁ、あとはどうとでもなるさ。なん
せ、オヤジの弟であるロニキス男爵はオレ様ちゃんに負けず劣らず
のごうつくばりだからなっ。きょうから、半年間。ルッジをヤって
1257
やってやりまくって絶対孕ませてやるからな。なあに、女なんても
んはどんだけ嫌っていても一度抱かれちまった男をそうそう嫌うこ
となんてできねぇのさ。それに、これからは時間はたあーっぷりあ
る。へへ、おめえぇカロリーヌとかいったな。おとなしくしてりゃ、
おまえの仕える主と一緒にケツを並べて交互にオレ様ちゃんという
美丈夫を楽しませてやってもいいんだぜぇ?
ゴルボットのゲス極まりない発言。カロリーヌは即座に激昂し殴
りつけた。
その行動がケダモノの怒りに火をつけたのだ。
︵いきなり斬りつけてくるなんて、想定外だ。ここまで強硬手段に
出るとは︶
怒り狂ったゴルボットは配下に向かってカロリーヌを膾に切り刻
むよう指示を出した。
﹁だが黙って斬られるほどこちらもヤワじゃない﹂
もちろん剣の腕が多少立つとはいっても、カロリーヌの腕は所詮
道場剣術であった。
彼女は二十七年間の人生で真剣を使って人を斬ったことは一度も
なかった。
三人まで斬ったのは覚えている。
だが、そこまで。
利き腕を負傷し、体力を消耗しきった彼女に、もはや七人もの追
っ手を正面切って撃ち倒す技術も気力もなかった。
はじめての真剣勝負。
はじめての殺人。
乱戦のうち、頼みの綱のロングソードは取り落としてしまった。
逃げるためにいつも着ていた重い甲冑は脱ぎ捨てている。
彼女は、最後に残った細身のナイフを抜くと、白く輝く刀身を見
つめ呆然とした。
︵ここで、終わりか。死ぬんだ、とうとう、処女のまま、ひとりぼ
っちで︶
1258
カロリーヌは知らず、顔をくしゃくしゃにすると、ボロボロと涙
をこぼしはじめた。
︵泣いても誰も助けてくれない。けど、身体を汚されるくらいなら
っ︶
口元を手で覆う。思えば、主であるルッジも幸福とはいえない人
生を送ってきた。
両親には愛されず、唯一慕っていた祖父は人生を捧げ続けた文化
的事業をまったく考慮されず、虫けらのようにろくな治療もされず
にひっそりと死んでいった。
ルッジの両親はひどく即物的で、実父にあたるバトレイ・ビブリ
オニアスが没すると同時に、彼が生涯をかけて集めた貴重な書物を
残らず二束三文で叩き売り、隠居所にいたっては火をかけさせた。
ルッジの両親たちからすれば、高価な本ばかりを集めるバトレイな
ど金食い虫以外のなにものでもなかったのだろう。
︱︱おじいさまのおうちを燃やさないで!!
幼い日、抱きかかえていたルッジが叫ぶ絶望の声をいまでも覚え
ている。
ルッジは幼いころ、いつか大人になったら、祖父と一緒にダンジ
ョンを冒険するのが夢だと楽しそうに教えてくれた。貴族で、しか
も女の身であるならば不可能としかいいようがない。バトレイ・ビ
ブリオニアスの屋敷を処分した次の日、彼に長らく仕えていたメイ
ドのアデレーが楡の木で首を吊った。
その日からルッジの性格は一変した。
よく笑い、純真で人懐っこく、いたずら好きだった部分は完全に
影を潜め、人形のように感情を表に出さなくなった。王立の図書館
に通い、取り憑かれたように書物を読みあさった。四つの歳にはダ
ンジョンの知識においては、並の学者では太刀打ちできないほどに
補強されていった。死んだバトレイが蘇ったように思えたのだろう。
ルッジの両親は、ますますルッジを忌避し、十年以上放置したのち、
彼女を放り出す形でブラックウェル家へ嫁がせた。
1259
もちろん、膨大なブラックウェル家の財産や権力のおこぼれにあ
ずかろうとする下世話な欲塗れだ。そこには、娘のしあわせを願う
親の愛情など一片もなかった。結婚など拒否するかと皆に思われて
いたのだが、案に相違し彼女はふたつ返事で承諾した。
結婚式当日、カロリーヌは花嫁姿のルッジをまえにお祝いの言葉
を述べた。
だが、彼女の返事は想像をはるかに超えたものだった。
﹁ええ。これでまた、迷宮に近づけたわ﹂
王都から迷宮の街、シルバーヴィラゴに嫁げばそれだけ研究が進
捗するという事実のみが彼女の中にあるのだった。想像通り、ルッ
ジは式の最中、ただの一度も表情を動かすことがなかった。文字通
りのお人形である。
だが、ダンジョンから戻ってきた彼女の態度はあからさまに違っ
た。
最初は実地調査が上手く運んだので機嫌がいいかと思いきやそう
ではなかった。
フィールドワークは失敗。資金は大減りして、先行きさえ見えな
い状況に陥っていたらしい。そんな状況ならば、顔のひとつも曇る
はずがむしろイキイキとしていた。
そんなときの理由はひとつだけだろう。
男だ。
女の心を弾ませるのは色恋沙汰以外にありえない。
朝帰りを咎めてみたものの、うれしくもあり悲しくもあった。
無断外泊はしょっちゅうであったが、それはあくまで研究のため
に施設に泊まったり、数十人で行動したりと、あくまで公の部分が
関わっていたのだ。
単純にハメを外して遊びに行くのなんて、はじめてのことだった
だろうに。
ひとところに留まっていた風がようやく動き出すそんな気配を感
じていた。
1260
だが、なにもかもが終わりである。
﹁私は奥さまをお守りしたかった。ただ、そのためだけに生きてき
たのに﹂
大きく肩を落とす。茂みの向こう側から多数の足音や甲冑が擦れ
合う音が聞こえてくる。
﹁おらっ、出てこいや姉ちゃんっ!!﹂
﹁もうどうせ逃げらんねえぞっ! さっさと出てくれば命だけは助
けてやるかもしんねえぞ!?﹂
﹁なーんで、疑問形! ぎゃはははっ!!﹂
せめて最後だけは見苦しくしないようにしよう。草むらから立ち
上がると、前方をぐるりと八人ほどの男が取り巻いていた。各自、
長剣やナイフを引き抜き凶暴な目つきでカロリーヌの身体を値踏み
するように視姦していた。野獣が獲物を品定めするようなものだっ
た。瞳の奥。本能で烟り、濁りきっていた。
自決するのはやめた。
こうなれば、ひとりでも多くあの世への道連れにしてやる。
カロリーヌはしっかりと両足に力をこめて、グッと前へ歩を進め
た。
邸内の一室。ゴルボットはついにそのケダモノ同然の情欲を開放
していた。
男は、ルッジの尻をジッと見つめながら、ニタニタと微笑んでい
る。
ルッジはあらん限りの怒りを籠めて吐き捨てた。
﹁︱︱死ね﹂
﹁おっひょおおおっ。この期に及んで、その強気! たまらんっす。
たまんないっすううっ!!﹂
1261
ゴルボットははしゃぐように両足をバタバタ動かすと、両手をワ
キワキさせながら近づいてくる。
護衛の男たちは残らず退出しており、半開きにした扉の向こう側
ではマカロチフがひとりで待機しているのみである。半ば、ルッジ
の予想通り警戒は多少緩んでいた。
ゴルボットが無警戒に尻へと顔を埋めようとする。チャンスだっ
た。
︵見てろ。いまに見てろぉ、よっ!!︶
﹁ほげっ!?﹂
ルッジは隙を見て身体をひねると、両足をゴルボットの首を挟み
回転した。
ヘッド・シザーズである。
ルッジはあお向け状態になったゴルボットを首をグイグイと締め
つけた。
脚の筋肉量はおおよそ腕の四倍だ。
貧弱な力しかないゴルボットではこの技を単独で解くのはとうて
い不可能だった。
ルッジは怒りの感情のまま、満身の力を込める。
ヒキガエルの断末魔のような声が轟き渡った。
﹁おぐるぶぇえっ!!﹂
﹁どうだっ! そんなにボクの脚が好きならイヤってほど味あわせ
てやるっ!!﹂
﹁ちょっ、ばっ、やべっ、ぐるじっ!?﹂
先ほどの陶然とした表情とは打って変わって、ゴルボットの顔つ
きは打ち上げられた魚のような死相に豹変した。小さな瞳は張り出
して、一気に充血する。微細な毛細血管がプツプツと音を立て千切
れていった。競り上がった瞳孔がグッと開いていく。カニのような
白い泡が口のはしからブクブクと噴出した。
﹁貴様、ゴルボットさまから離れろぉ!!﹂
﹁そっちこそ、クランドを開放するんだ!﹂
1262
マカロチフは剃り上げた額に青筋を立てて憤怒の表情を見せた。
服の上からでも盛り上がった筋肉の凄さが理解できた。途方もない
殺気が膨れ上がり全身から照射されている。
ルッジは怯えを見せず、さらに脚へと力をこめた。
知らず、口元がニヤついていた。溜飲が下がった。
﹁いいい、いうどおりにじろおおっ!!﹂
﹁ほらな。おまえの大切なご主人さまもそういっている﹂
﹁︱︱この、毒婦が!!﹂
マカロチフは倒れ伏していた男の身体を持ち上げると高々と差し
上げ、室内の中央に放った。男の身体は外套をはためかせながら、
大きな音を立て床に転がった。
ルッジの全身から血が引いた。
重症を負わされた上での行為である。怒りよりも不安で脳裏が塗
りつぶされた。
﹁クランド!?﹂
﹁うんだらああっ!!﹂
﹁あっ!﹂
ルッジが瞬間、視線をそらした。
その隙をついて、ゴルボットが気力を振り絞り両腕を風車のよう
に回し脱出を試みたのだ。無闇に振り回した腕が、ルッジの顔に当
たり、眼鏡が弾き飛んだ。ルッジは極度の近視である。眼鏡なしで
はロクに動けないのだ。拾っている暇もないだろう。あらゆる行動
が制限されることになる。心の揺れが身体に直結した。彼女の動揺
を見過ごさず、マカロチフが獣のような咆哮を上げて駆けだした。
ここで捕まればもはや挽回の手は残されていない。
ルッジがゴルボットを捕らえていたのとはワケが違う。
なにをおいても逃げ出さなければならなかった。
﹁んのおおっ!!﹂
﹁ゴルボットさまああっ!!﹂
﹁ちょっ、やめっ、ぐへえええっ!!﹂
1263
ルッジは両手で肩を押しゴルボットを前へ突き倒した。マカロチ
フは歓喜の表情で主を胸で抱きとめ股間を膨らませている。隙をつ
いて、脱兎のごとく走り出し、窓に向かって身を躍らせた。
ガラスが粉々に砕ける音が間遠に聞こえた。ルッジは花壇の部分
に尻から落ちると痛みをこらえ立ち上がった。右足首にジンジンと
した痛みが走る。頭上の部屋では身を乗り出して叫ぶゴルボットと
それを後ろから抑えるマカロチフの姿が見えた。
頭上を不意に影がよぎった。
ルッジが顔を上げると同時に、ふたつの肉塊が絡まりあって地上
に降り立った。
鈍い音と地を撃つ轟音が腹の底に響いた。巨漢の拳闘戦士マカロ
チフが半死半生の男を抱えて二階の部屋から飛び降りたのだ。
﹁女狐! 年貢の納めどきだ!! いますぐテメェの男を殺された
くなきゃ、おとなしくするんだな!!﹂
マカロチフは腰抱きにした男を脇に挟んだまま締め上げはじめた。
はなれた場所からでも男の身体が痙攣する細かな動きが見えた。
﹁わかった! わかった! おとなしくする。おとなしくするから。
だから、もうやめてくれ。これでは、クランドが死んでしまう!﹂
とにかくこの場を脱してから反撃の手立てを考えようと思ってい
た。
だが、目の前でこうもあからさまな暴力を見せつけられればそれ
を無視して行動はできなかった。歪んだ視界の向こうで、小柄な男
が背後を取るのがかろうじてわかった。
﹁ルッジぃいいいっ! てめえっ、絶対に、絶対に許さねえええっ
! やはり、はじめが肝心だからやさしぃくしてやろうと思ったの
によう! このオレ様ちゃんの広大無辺な慈悲の心を踏みにじりや
がってぇ!! さあ、見せつけ輪姦ショーのはじまりだぁああっ!
!﹂
ルッジはすべてが終わったと理解した。この上は抗うべくもない。
せめて、従順に振舞うことで、消えそうな命を繋ごうとそれだけを
1264
願った。
ゴルボットをはじめ、大勢の男が木立の向こうから近づいてきた。
その群れの中から、ひとりだけがゆっくりとした足どりで膝をつい
たルッジの目の前に進み出た。落としていた視線の下に眼鏡が放ら
れた。
﹁かけろ。そして、こっちを見るんだ。へ、へへへ﹂
ルッジは眼鏡をかけると顔を上げてゴルボットの勝ち誇った顔を
直視した。
生まれつきの容貌がどうという問題ではない。
そこには、この男の腐った心根が隠しようもなく染み出していた。
﹁この俺様ちゃんから逃げられると思ったのお? ふひ、ふひひひ
っ。残念! ざんねーんでしたっ。無理無理無りぃ! おまえは逃
げられない運命なのっ、なのっ!! ふひ、ふひひひ。さあ、とっ
と観念してオレたちのものになるんだよおおっ!!﹂
ルッジは青ざめた顔で、身体を硬直させた。どうにもならない。
こんな最低な男に汚されるくらいならば、いっそのことと思う。
﹁自害とか考えちゃダメですよう! ふひっ、ふひひっ!! その
ときは、君のいとしいダーリンの皮を生きたまま剥ぎ取って塩水に
つけて、タレをつけてこんがり焼いちゃうんだからなああっ!!﹂
怒りと羞恥で全身が火照っていく。彼女が桜色の唇を引きつらせ
たそのとき、風を切って閃光が走った。
大きく目を見開く。眼前のゴルボットが消えていた。
見れば、淫獣は目の前から弾き飛ばされのたうちまわっていた。
ゴルボットの凄まじい絶叫が流れた。
赤黒い血がルッジの顔面を濡らしていた。
突如として、飛来した長剣がゴルボットの肩を大きく削ぎ落とし、
屋敷の壁際に突き刺さったのだ。
もんどり打って転がったゴルボットはけたたましく悲鳴を上げる
と、ジタバタと見苦しく四肢を動かす。マカロチフが慌てて駆け寄
る隙に、ルッジは距離をとった。
1265
反射的に振り向く。
背後にいた十人ほどの男たちが一様に投擲された剣の先に視線を
転じていた。
﹁な、なんで﹂
﹁なんでもクソもねえもんだ。こんないい男を間違えるなんて、ち
ょっとひどすぎやしねえか?﹂
浅黒い顔がギラギラと照りつける陽光の中で揺らめいていた。
真っ黒な外套は風を孕んではためいていた。
黒髪が風に流れ、真っ白な歯が輝いて見えた。
漆黒の鋼造りの鞘を腰に急角度に落とし込んでいる。
人を食ったようなふてぶてしい顔つきが笑みを刻んでいる。
それは、どこからどう見てもルッジのよく知る男、冒険者、志門
蔵人だった。
﹁どういうことだっ! どういうことだああっ!?﹂
ゴルボットが肩を押さえながら激しく叫んだ。動揺したマカロチ
フが脇に抱え込んでいた男の面貌を押し上げた。ルッジは立ち上が
ると胸もとを隠しながら両目を見開いた。
﹁ちがう。⋮⋮似てるけど、まったくの別人だ﹂
白日にその顔をさらけ出した男は、蔵人に酷似していたがまった
くの別人であった。
ギルド
﹁そいつは、リード・ベルナルドといって盗賊崩れの冒険者だ。一
度、冒険者組合でもめたことがあってな。おまえらがやりあってる
のを近場の百姓が見てたんだよ。つくづく間抜けな野郎だぜ。人違
いとはよ﹂
﹁なんだとおっ! てめえらああっ、どこまで間抜けな真似をっ!
!﹂
ゴルボットは怒り狂って手下たちに吠え立てた。マカロチフは巨
躯を縮めると、叱責されるがままに顔面を蒼白にした。
ルッジは細かく震えていたが、やがては身を折るとけたたましく
笑い出した。ゴルボットの顔が怒りと羞恥で赤くなったり青くなっ
1266
たりした。
﹁てめえええっ!! ふ、ふざ、ふざけるなっ!﹂
﹁こ、これが笑わずにいられるかっ。だ、だってさ、ボクは、いま
までなんの関係もない男のために、ずっとこの身を張って。張って﹂
ルッジは眼鏡をとると、海のように青い瞳から大粒の涙をあふれ
させ、全身を小刻みに震わせた。蔵人は無言でルッジを抱きしめる
と外套を脱いで羽織らせた。
彼女はまるで親を見つけた幼児のように、蔵人の胸に抱きついた
まま離れようとしなかった。
ずっと、それを探していたように。
﹁どうして、ここに来たんだ﹂
﹁おまえがいつまで待っても約束の場所に来ねえからよう﹂
﹁それはおまえとて同じことだろう。まったく、ふたり揃って約束
の時間を無視するとは。ん! んんっ! それとだな、そろそろ離
れたらどうだ。さすがにこれ以上の不自然な密着には、私も寛容に
なれそうもないぞ﹂
突如として割りこんできた女性の声。屋敷の入口側に近い場所か
ら、主のライオネルに肩を貸し姿を見せたアルテミシアの姿が見え
た。すぐ横にカロリーヌがつき従っている。彼女は弱々しい笑顔を
作るとうなずいてみせた。
﹁あらかたは彼女に聞いたさ。とんだお家騒動ってわけか。ったく、
貴族ってのも楽じゃねえな﹂
蔵人は顔をしかめて手の甲をかじっている乾いた血の塊がボロボ
ロと地面に落ちた。
それは、先ほどまで戦っていた確かな証であった。
﹁ゴルボット、おまえはなんということを。兄嫁に不貞な気持ちを
抱くだけではいざ知らず、わけのわからぬゴロツキを屋敷に引き入
れ、あまつさえ奸計を用いてか弱き婦女子を組み敷こうなどとはっ
!!﹂
ライオネルは髪を逆立てて吠えた。病人とは思えない声量だった。
1267
﹁げええっ! お、オヤジ、じゃねえ父上さま! こ、これはです
ねぇ、ちょっとした戯言ですようう。ほら、オレ様ちゃんってば歴
とした貴族の血を引いているのは間違いないしぃ、素直になれない、
義姉上だってさあ、子どもを孕んじまえば観念するっしょ! ほら、
後継さえ出来れば、お互いにウィンウィンでえ! ︱︱だいたいが、
兄貴のような種無し野郎が後を継ぐのが間違ってたんだよおおおっ
!! オレ様ちゃんはぜんぜん悪くねえ! さっさとヤラセねえル
ッジやいつまでもくたばらねえテメェが悪いんだよおぉ!!﹂
ゴルボットは無茶苦茶な理論を振りかざすと駄々っ子のように唾
をはき散らして己の正当性を認めさせようとした。追い詰められた
顔は醜悪そのもので、見るものすべてに目をそむけさせたくなるよ
うな不潔さが浮き彫りになっていた。
﹁愚か者が。もはや、貴様がどのような行動を取ろうと無意味だ。
ブラックウェル家は弟ロニキスの息子オイゲンを儂が養子に取るこ
とに決定したわ。妾腹の負い目でおまえを甘やかしたのが悪かった
かのう。ルッジ。お前に黙って勝手なことをしてすまなんだ。研究
おとう
については、可能な限り出資するよう取りはからってある﹂
﹁いえ、お気になさらず。御義父さま﹂
﹁うぇええええいっ!! なぁに、勝手に決めてくれちゃってるか
なぁ! かなぁ! そんなこと、このオレ様ちゃんが了承するわけ
ないっしょ!! おい、ジジィ! こうなったら、テメェとルッジ
を引っ捕まえて、再教育してやるううっ!! 捕らえて部屋に監禁
してぇ。陵辱しいまくりーの、ヤリまくりーのだっ。ふひっ、ふひ
ひっ! オレ様ちゃんの極太でよがりまくるその女を見れば、アン
タも気が変わるだろうて。時間はたあっぷりあるからなぁ。ルッジ
を調教しまくって、ゴルボットさまなしじゃ生きていけなぁい、っ
てヨダレ垂らしまくってねだりまくる淫乱女に改造してやっからな
ぁ!! ふひっ、ふひひぃ。残りは全殺しだ!オレ様ちゃんに逆ら
うやつは生かしておかないのおおおっ!!﹂
﹁愚か者が。仕方がない、命だけはと思っておったがのう﹂
1268
ライオネルが視線を傾けると、たちまち十人ほどの武装した騎士
が背後から姿をあらわした。どれもが、ルッジの見覚えのある一族
選りすぐりの使い手だ。
蔵人がルッジを抱きかかえて背後に移動すると、ゴルボットの手
下たちは半円を描くようにして主の元へと下がる。たちまち戦場は
わかりやすく二色に塗り分けられた。
ゴルボットの手下たちは残らず表情が暗い。握り締めた剣はカタ
カタと柄が震えている。
命知らずが売りの無頼者たちであったが、さすがに正規の剣術を
習った騎士とは真っ向からやりあったのでは勝負にならないのだ。
怯えは手に取るように顕われ、臆病風に吹かれたのか中にはくちび
るまで紫色になっている者まで出てくる始末だった。
しっぽを巻いて逃げ出す野良犬たちが、焦点の合わない視線をさ
まよわせはじめたとき、泰然とした態度で進み出た巨漢が鋭い声を
放った。
﹁どけっ!!﹂
マカロチフは上半身をモロ肌脱ぎになると、発達した上半身を見
せつけた。
巨躯の野獣は全身から闘気を放射させると、素手のままライオネ
ルの騎士たちへと果敢に戦いを挑んでいった。 1269
Lv80﹁バロッコ兄弟﹂
ライオネルの騎士たちは長剣を抜いて正眼に構える。
一部の隙もない流れるような動きである。並々ならぬ腕前を思わ
せた。
十名が十名とも長き剣の修練を積み、ひとかどの騎士である。
なるほど、マカロチフの巨体は鍛え抜かれているが、武器ひとつ
手にしていない。
騎士たちは、あきらかに徒手格闘自体を舐めきっていた。
戦場の花形といえば、槍であり、弓であり、剣なのである。
もちろんマカロチフがコロシアムを長く生き抜いた歴戦の強者で
ある、ということは事前に知らされていた。
だが、所詮は奴隷風情の見世物芸。騎士たる己たちが不覚を取る
などとは夢にも思っていない。慢心である。それを差し引いても、
マカロチフの強さは本物だった。
巨体が地響きを立てて突進してくる。
この時点ですら、まだ騎士たちには余裕があった。
マカロチフは右に左に激しく身体を揺らしたかと思うと、陽炎の
ようにその場から消え失せた。ありえないことである。瞬きの間に
巨体が蒸発したのだ。
騎士たちは動揺から、思考を一瞬停止した。
その、一瞬が常に戦場では明暗を分けるのである。
敗北は不可避だった。
激しい陽光の中、土煙が静かに立った。
1270
﹁縮地!!﹂
巨漢の声だけが幻のように響く。騎士たちの視線が瞬間、さまよ
った。
刹那のときを経て、巌のような肉体だけが実体を生じた。
マカロチフは忽然と騎士たちの目の前に姿を現すと素早く拳を二
度振るった。
肉を撃つ激しい音と血飛沫が断続的に響く。
鍛えに鍛え抜かれた巨大な腕が空を切り裂いて動いたのだ。イン
パクトの瞬間、男たちの表情には信じられないという疑問だけが色
濃く浮き出ていた。ふたりの騎士は兜ごと顔面を破壊されると、崩
れた粘土のような目鼻になって大地に沈んだ。
マカロチフはあっけにとられた目の前の騎士に向かって蹴りを放
った。
巨木のように重く早い一撃は膝頭まで騎士の胴体を安々と貫いた。
蹴り抜いた足のつま先が背中から生えたような格好だった。
マカロチフは無表情で足を抜き取ると、だんと勢いよく大地を踏
みつけ構えを取った。
焦りを覚えたのか周囲の騎士たちがいっせいに斬りかかる。
マカロチフは怯えも見せず、その場に両足を踏ん張ると、両拳を
強く握りこみ全身の筋肉を細かく震わせた。他を圧する怒号が流れ
る。
マカロチフは閃光のような速さで向かい来る刃風を迎え撃つ。
キン、と澄んだ硬質な音が高らかに鳴った。五人の騎士が持つ剣
はほぼ同時にツバ元からへし折れ地面に突き刺さる。すっと瞳孔か
ら光が消え、男たちの身体が糸の切れた吊り人形のようにその場に
崩れ落ちた。
五人の騎士、全員の喉元は猛獣に喰い破られたように鋭くえぐり
取られていた。
マカロチフが目にも止まらぬ速さで、五人のやわらかな喉肉を同
時に引き千切ったのだ。
1271
バラバラと崩れ落ちていく仲間を見て、残ったひとりの騎士が歯
を剥きだしにして踏み込んだ。長剣は斜めに鋭く舞い落ちてくる。
避けようのない速度と力。勝利を確信した騎士の頬に笑みが浮かん
だ。
﹁鉄豪﹂
マカロチフは冥い瞳に焼けた鉄のような殺意を煮え立たせ、静か
に告げた。
女性の腰ほどありそうな太い腕が、鈍色に変わっていく。
闘気を纏わせた腕はたちまち硬度を増して冷たく鈍く輝いた。
長剣が勢いよく振り下ろされた。かあん、と硬質な音が鳴った。
騎士の振り下ろした長剣は中程から折れると、鋭く回転しながら
背後の樫の木に突き刺さった。同時に巨体が素早く動いた。
マカロチフは長く太い腕を伸ばすと騎士の頭部を片手で掴んだ。
﹁ぎ、ぎぎぎいっ﹂
騎士は錆びて軋んだ歯車のような奇妙な声を上げた。
百八十近い長身の男である。
だがそれを、マカロチフは糸くずをつまむように苦もなく吊り下
げたのだ。
人並み外れた膂力であった。
騎士は泣き叫びながら恥も外聞もなく、ただただ慈悲を乞う言葉
を発している。ライオネル公爵と寄り添う形のカロリーヌは蒼白な
表情で唇を震わせていた。
﹁馬鹿な。我が家のよりすぐりの精鋭だぞ。それを、あのように﹂
ライオネルはその気になれば領地から数千の兵を集めることがで
きる、ロムレス指折りの領主であった。その主に仕える騎士が水準
以下のはずがない。
驚嘆すべきはマカロチフの強さであった。特にカロリーヌは自分
の剣にある程度の自信があっただけに、騎士たちにおける信頼は並
々ならぬものがあった。
いくら強がっても彼女の中には名家における血の高貴さによる無
1272
意味な根拠の上の盲信が巣食っていた。
己よりもはるかにすぐれた腕前の剣士が流れ作業のように屠られ
ていく。元より彼女の中に、蔵人やアルテミシアに対する強さへの
信頼はなかった。
﹁そんな、こんなことって⋮⋮﹂
蔵人たちに助けられたものの、彼らが追い散らしたのは、しょせ
んゴロツキ風情である。
騎士の掛け値なしの強さとは比べ物になならない。彼女はそう考
える。
さらには、必勝を疑わなかったために、どこからも増援の手配は
しなかったのだ。
カロリーヌの中で膨れ上がる絶望を無視して事態は無情にも突き
進んでいった。
マカロチフが剃り上げた禿頭に太い血管を浮かべると、巨大な手
のひらが収縮した。
ケダモノじみた断末魔が辺りを打った。
鉄と肉とがカラの紙パックを畳むような容易さで破壊される。
マカロチフは容赦なく兜ごと頭部を握りつぶしたのだ。
赤黒い血肉と脳漿が混じりあってひとつになる。
騎士は欠けた剣を持ったままその場に膝を突き動かなくなった。
﹁貴様、貴様、貴様ぁああっ!!﹂
年若い小柄な騎士が声を震わせて立ち向かっていく。
勇敢なのは結構だが、彼には生物としての根源的な能力が備わっ
ていなかった。
すなわち、己の命に対する保全である。
マカロチフ視線を声の元へと移すとこれみよがしに舌打ちをした。
あからさまな侮蔑だった。
﹁うわあああっ、うわっ、うわああっ!!﹂
﹁やめろロレンツ! 不用意に近づくな!!﹂
年かさの細身の騎士が怒鳴った。
1273
小柄な騎士はデタラメに剣を振り回すとマカロチフに向かって飛
び込んでいった。
巨漢の拳闘戦士は気だるげに息を吐くと、大木のような左腕を振
るった。
﹁ごるぼえっ!?﹂
ロレンツはゴムまりのように軽々と弾け飛ぶと、くるくると宙に
舞い二階の壁に身体を強く打ちつけた。
叩き潰された蚊のように、壁際をゆっくりと滑り落ちる。
ミンチになったため放出された血と脂が粘着性を帯び、彼の身体
を壁から容易に剥がさないのだ。垂直な血の跡を残しながら自由落
下する。ロレンツは原型を留めない骸となって地に降り立つと自分
の持っていた剣で胸を貫く格好となった。
﹁うおおおっ、さすがマカロチフさまだぜええっ!!﹂
﹁腐れ騎士なんざ目じゃねえやい!﹂
﹁おい、野郎ども! 兄貴に続け! そもそもがこっちの方が数が
多いんだ!﹂
﹁野郎どもは血祭りだぜっ!! 高慢ちきな貴族女を泣かしてやろ
うじゃないか!﹂
﹁腰が抜けるまでハメまくってやるううっ!!﹂
勢いに乗った男たちは手にした得物を掲げて気勢を上げた。去勢
された野良犬のようにしょぼくれていた彼らの目に力が宿る。誰も
が嵩にかかって攻勢に出る気配を見せた。
男たちの瞳は、ルッジ、カロリーヌ、アルテミシアの三者にそそ
がれていた。
誰もが身分が高く、男たちが一生かかっても相手にされることの
ない気品を保っていた。
高貴な身分の女たちを裸に剥き、支配する。己の男根に奉仕させ、
泣き喚く彼女たちを無理やり押さえつけ射精する光景を脳裏に描く
だけで異様な興奮が湧き上がってくるのだ。
一箇の雄と化した男たちは獲物を前にして舌なめずりを抑えきれ
1274
ない。
欲情に満ちた目つきだった。
﹁おいおいおい。ジジィは殺すんじゃねえぞ! 生かしておけよう
! それと、そこのクソ野郎があっ! よくも、オレ様ちゃんの肩
を傷つけてくれたなぁああっ!! 絶対、ぶ、ぶぶぶぶち殺してや
っからなああっ!!﹂
ゴルボットはヒキガエルのような顔をさらに引きつらせ、飛び上
がって吠えた。
醜悪な肥満ヅラが腐った饅頭のようにひしゃげられていた。
﹁おおおっ、見ろ! あれを!!﹂
﹁え、え、援軍だぜえ!!﹂
ゴルボットの手下の一人が、蔵人たちの後方を指差した。
そこには、先ほどカロリーヌを追い詰めようとして、あっさり蔵
人たちに追い払われた男たちの仲間の駆けつける姿が見えた。
その数、八人。
これで蔵人たちは、前方に十二、後方に八の敵を迎えたことにな
った。
状況だけを見れば絶体絶命である。
残ったもっとも年長の騎士ウォーレンは、もはや戦意を喪失して
いたが、強烈な義務感だけでこの場に留まりともすれば消えそうな
矜持を保っていた。
﹁ライオネル公。せめて私が逃げる時間を稼ぎます。カロリーヌ。
公と奥さまを頼むぞ﹂
﹁ウォーレン卿。それでは、貴方が﹂
﹁いいのだ、カロリーヌ。これが、私の役目なのだから﹂
﹁あーはいはい、そこまでそこまで﹂
悲壮な覚悟でやりとりとをしている三者に割って入った声。
蔵人はかったるそうに半目で敵影に視線を転じると首筋の裏をか
いた。
たちまちカロリーヌの甲高い声が非難するように響いた。
1275
﹁貴公、確かに少々腕が立つようだがそのモノのいいようはなんだ
! おそれおおくも、ここにおられる方は、ブラックウェル家当主
のライオネル公爵とウォーレン子爵なるぞ!
先ほどは確かに少々世話になったが、いい気になるな! その程
度の勲功ではそもそもがこの方々に直答を許される身分では﹂
﹁もういいよ、そういうの﹂
﹁な︱︱﹂
蔵人は人差し指をカロリーヌの唇に押し当て片目をつぶった。
それは、聞き分けの悪い幼児に言い聞かせる大人の仕草そのもの
だった。
﹁身分がどうこうでどうにかなるもんじゃねえだろ。こっから先は、
こいつで話をする時間だ﹂
蔵人は抜くても見せず長剣を抜き去ると水平に構えた。
たちまち尋常ならざる闘気が全身から放射される。獲物を襲う獣
が総毛立つように、生物そのものが持つ言語力が顕現した。わずか
に弛緩していたマカロチフの表情。たちまち険しく引き締められた。
蔵人は激戦をくぐり抜けてきた勇士である。放たれた殺気は、お遊
戯剣法とは一線を画した本格派であった。
カロリーヌをはじめとする周囲すべての人間が、容赦なく拡散さ
れる殺気を受け取って、身体をこわばらせた。動物としての本能で
ある。それは原始的な直感でもあった。
﹁ルッジ。おまえは下がってろ﹂
蔵人は当然のように命令した。外套を羽織ったルッジ。従順に従
った。
主のしおらしげな態度もそうだが、偉そうな男の口ぶりも気に食
わない。
なにより、カロリーヌは自分の弱さがルッジをこのような苦境に
陥れたことも激しい恥辱だった。
﹁というわけで、鼻っ柱の強い女騎士さんはお守りを頼まァ﹂
﹁なっ︱︱﹂
1276
蔵人の下女に対するいいようは、カロリーヌの癇の虫に触った。
カロリーヌも剣一本で生きてきた女である。
もちろん、ならず者に助けられたときから、蔵人が己に手を出さ
ないであろうという女の勘もあった。勢い、貴族たちに対する応対
とは自ずから異なり上に立つものとしての傲慢さがギリギリの状態
でもあらわになった。
﹁待て! まだ、話は終わってない!!﹂
ヒステリックに叫びながら前に出ようと足を進める。
途端、天地が逆転した。
がつん、と後頭部に痛みが走る。
﹁つぅ︱︱﹂
目蓋の奥で火花が弾け、視界が明滅する。
カロリーヌが身を起こそうとしたとき、首筋に白く冷たい金属が
サンクトゥス・ナイツ
添えられていることに気づき、魂が飛散しそうになった。彼女が視
線を暴力の元へ転じる。
そこには、険しい表情で槍の穂先を向ける白十字騎士団の装束を
まとった長身の美女、アルテミシアの姿があった。
﹁なにを。なぜ、このような﹂
﹁いや。私の槍はずいぶんと軽くてな。ときどき思ったとおりに止
まってくれないのだ。だから、な。万が一のときは、諦めてくれな
いか﹂
アルテミシアの整った美貌が造りもののように静止する。
怒っている。
確かに怒っているのだ。深く、静かに。
カロリーヌは首筋に添えられた冷たい刃が細かく震えているのを
サンクトゥス・ナイツ
知り、背骨から頭のてっぺんまで鋭い悪寒が走った。
理解できない。彼女が白十字騎士団の一員ならば、歴とした貴族、
︱︱であるはず。
理解できない恐怖に怯え、身をさらにこわばらせた。
だが、理由はすぐに思い当たった。
1277
騎士アルテミシアは、座りこんでいるルッジへチラチラと視線を
さりげなく転じていた。
敵を前にして、一貫しない目配りである。
さらにいえば、カロリーヌの敬愛する女主人は、あろうことか暴
漢と対峙する冒険者の男を熱っぽく見やっていた。
アルテミシア、ルッジ、そしてクランドという男。
疑問は氷解し、ラインはたやすく繋がった。理由は、女ならば蔑
ろにできない差し迫ったものだった。カロリーヌも女であるからわ
かるのである。
ときに、それは、女にとって命よりも優先される項目だった。
目の前の女を怒らせてはまずい。彼女は状況を鑑みず、恋する男
に対しての侮辱を晴らしにかかるかもしれない。
カロリーヌは、下唇を強く噛み締めると、感情を抑え助力を乞う
た。
﹁わかった、アルテミシア殿。すべては、クランド殿にお任せする。
公と、奥さまをお守りしてくれ﹂
﹁ああ、最初からそのつもりだ﹂
アルテミシアは長槍を抱え直すと、くるりと向きを変えて後方の
敵に備えた。
その顔にはもはや浮ついた考えは完全に消え去っており、戦いに
臨むひとりの戦士としての闘気が満ち溢れていた。
一方、蔵人はマカロチフを向き合ったまま膠着状態に陥っていた。
互いに隙を狙ってじりじりと闘気をぶつけあっている。
最初に均衡を破ったのはゴルボットであった。
﹁なに、お見合いしとるんじゃあ!! 敵はたったふたりだぁ!!
1278
とっととかかりやがれぇ!!﹂
ボスの叱責の声。
耐え切れず、五人の男が飛び出した。
マカロチフの側面から勢いよく駆け出していく。
蔵人は長剣を水平に構えたまま地を蹴って飛び上がった。真正面
の男。怯えたように剣を振り上げたのが見えた。
蔵人は手に持った剣を勢いよくすべらせた。
白刃がすさまじいスピードで流星のように走った。
血煙が舞ったと同時に首根を断ち切られた男の身体が斜め後ろに
倒れた。
蔵人は地に降り立つと同時に半身をそらした。
飛びこんでくる男の胴体。長剣を鋭く叩きつけた。
磨かれた刃は深々と男の胴体を薙ぐと、溶けたチーズを割るよう
に叩き斬った。
呆然としたひとりの男。バランスを崩しながらも剣を振るってく
る。
蔵人は足を伸ばして引っかけ、倒れこんだと同時に喉元を深く抉
った。
﹁わあっ!!﹂
己を鼓舞するように叫びながら真正面から突っ込んできた。
蔵人は素早く確実に刃をがら空きになった右足に叩きつけた。
なにも、一撃で敵を倒す必要はない。人間は身体の一部に損傷、
特に脚に深いケガを負えば戦闘能力のほとんどを喪失する。
脛を断ち切られ転げ回っている男の顔面を蹴上げ、手にした鉄拵
えの鞘を滅茶苦茶に振るった。重い重量を持つ黒鉄の鞘はそれだけ
で充分な凶器である。目鼻や口を突かれまくった男の顔は崩壊した
泥粘土のように原型を失った。
怯えて背後を見せた男の腰をおもいきり蹴りつける。
倒れた男の背中を存分に薙いだ。
蔵人は倒れた男の背中を踏みつけると両手に持った長剣を垂直に
1279
突き下ろした。刃は存分に骨をくぐって心臓を貫くと、刀身を紅に
染めた。素早く刃を抜き取って正眼に構える。
マカロチフは両手を胸の前で交差させながら、狡猾な蛇のように
動きを観察していた。
巨漢の隣には額に赤いバンダナを巻いた男が蒼白な表情で剣を構
えている。
マカロチフはぬっと太い腕を伸ばし、バンダナ男をつまみあげる
といった。
﹁スピリドン。あいつをやり損なった責任を取ってもらおう﹂
﹁お、おかしら? よしやしょうや、こういうときに冗談は﹂
﹁行け﹂
マカロチフの腕が勢いよくしなった。ひとりの人間は高々と空を
舞って飛び上がった。
空を揺るがしスピリドンの身体が飛来する。
蔵人は半身を開いて剣を素早く振るった。
虚空に半円が軌跡を描く。
猫を轢殺したような絶叫が流れる。
蔵人の長剣はスピリドンの顔面を深々と断ち切ると血の雨を降ら
した。
乾いた大地と草むらを生暖かい血が音を立てて打った。
︵こいつ、俺の剣筋を見るために、仲間を︶
﹁クソっ、クソおっ! なんてえ役たたずだ! てめえらのような
やつを本当の無駄飯ぐらいっていうんだ! 散々、飯を食わせ酒を
飲ませ女を抱かせてきたのはきょうという日のためじゃねえか! おい、どうにかしろよ! 行け、行けったら!﹂
ゴルボットの焦りが手下に伝染した。目前に迫る死の恐怖に耐え
られないのだ。
激しい怯えが男たちを崩壊の岸へと追い立てる。
悲壮感もあらわに、自らを鼓舞する雄叫びが上がった。
﹁ちきしょう、やぶれかぶれだ!﹂
1280
﹁いったらあああっ!!﹂
槍を構えたまま突っ込んでくる二人組が目前に迫った。
脚力に差があるのか、次第に前後の距離が開く。
蔵人は穂先をまっすぐ見つめながら、上段に剣を構えた。
単純にリーチがある武器はそれだけで充分なアドバンテージがあ
る。
だがそれは、その武器に対して習熟していることも必要な要件で
あった。
古来より槍は、弓に次いで武器の代表格であるといっていい。敵
よりも早く攻撃し、敵の刃の届かない安全地帯からアタックするの
がもっとも有効な攻撃方法である。
男の槍を持つ手は、いかにも取ってつけたようで、迫る穂先には
威厳も恐怖感も感じることのない、出来損ないの脅威であった。
蔵人はギリギリまで敵を引きつけると、穂先を紙一重でかわして
柄を握った。
構えた剣を全力で振り下ろす。
閃光は鋭くほとばしり、男の顔面を両断した。
脳漿が飛散し、男の身体が横倒しになる。
﹁わわっ!?﹂
後方をひた走っていた男。骸につまづきバランスを崩した。
こうなれば、長い槍は取り回しの悪い足枷以外の何物でもない。
持っていた穂先は深く地面をえぐり、致命的な隙が生じた。
蔵人は長剣を強く握ると諸手突きを放った。
肉を断ち、骨を穿ち、命を毀つ感覚。
刃は男の胸を穿つと刀身の半ばまで背を突き抜け、白く輝いた。
男の胸を蹴りつけ刃を抜き取る。蔵人の両脇から刃風が迫った。
﹁危ねっ!!﹂
巻き起こる死の風を身をよじってかわす。
蔵人は背後に大きく跳躍すると、眼前に迫る奇妙な二人組に視線
を飛ばした。
1281
バロッコ兄弟。
名うての殺し屋である。
見上げるような背丈であるが、ふたりとも異常に体つきが細く厚
みを感じさせない。
手足は長く、まるでカマキリが直立歩行しているような生理的嫌
悪感を催させた。
灰色の覆面をかぶっており、瞳だけが異様な輝きを放っている。
兄のビリーは手斧。弟のサリーは手槍を得意としていた。
﹁出やがったな、変態仮面二人衆が。おい、アルテミシア!! あ
とは頼んだ!! すぐ戻る!!﹂
﹁ああ、任せておけ!!﹂
アルテミシアは槍を構えたまま澄んだ声で応じた。後顧の憂いは
ない。
あとは手早く片づけるのみ。
蔵人が走り出すと、ふたりは長い手足を振り回しながら前後を挟
んで併走しだした。
それを見ていた巨漢の戦士は眉ひとつ動かさず、勝機をつかむた
め動き出した。
マカロチフは歴戦を勝ち抜いてきた戦士である。
敵の中ではもっとも蔵人が手ごわいと一瞬で見抜いていた。巨体
を震わせて三人を追うため後ろ足を蹴りこんだ。乾いた土煙が巻き
上がったと同時に、主の声が鋭く飛んだ。
﹁おい、このバカがああっ!! おまえまでいってどうするよおお
っ!! このオレ様ちゃんを守らんでどうするかああっ! 守れよ
ぉおっ!!﹂
ゴルボットは顔をクシャクシャにしながら駄々っ子のように泣き
喚いている。えぐられた肩からは、まだ激しく血がにじみ出ていた。
マカロチフは腹の底から激しく脈打つ熱い庇護欲を覚え、強く興奮
を高ぶらせた。傷つきそれでもなお威厳を取り繕おうとする主人の
姿。倒錯的な感情をひた隠しにし、マカロチフはそっとゴルボット
1282
の前に立ち不動の姿勢を取った。
﹁よーし、よしよし。いい壁だ、いい壁。なにをおいてもオレ様ち
ゃんの命を最優先。これもっとも重要なのっ。オメーもだんだんわ
かってきたみてえじゃねえか。なぁに、あの間男野郎はバロッコ兄
弟がやってくれるさ!﹂
マカロチフの中に激しい嫉妬の感情が渦巻いた。
それはそれで、面白くない。なぜならば、自分の方がはるかに主
のゴルボットを愛しているからだ。愛は強さにつながる。マカロチ
フの信仰にも似た尊い想いが、金で雇われたその場限りの男に劣る
はずがないのだ。
だが、いまもっとも重要視されるのは、主の命を守ることである。
マカロチフはゴルボットが景気づけにばんばんと腰を叩くたび、え
も言われぬ甘美な陶酔に酔いしれていった。
﹁デカブツがついてこないのは好都合。さあ、変態兄弟ども。サク
ッと片づけてやっからなあ!!﹂
叫んだ途端、耳元で異様な唸り声を聞いた。
飛び退いてかわす。
地上には、深々と突き刺さった槍の穂先が沈んでいた。
殺し屋の弟、サリーの手槍は、長さ六十センチほどに切り詰めた
本体がふたつに分離するように改造されていた。手元の柄を握って
放ると、内蔵された紐が伸びて穂先が飛ぶ仕掛けになっている。便
利なものだった。
サリーが柄を引くと、穂先は地面から浮き上がりシュルシュルと
再び手元に戻った。投げやりとしても使えるし、身体のどこかに隠
しておき、咄嗟の接近戦でも使用出来る強力な暗器であった。
﹁シュッ!!﹂
﹁うおっと!!﹂
蔵人が手槍に目を奪われていると、兄のビリーが手斧を振りかざ
して突進してきた。
身の厚い斧は鏡のように磨かれており、空を割いて襲いかかって
1283
くる。
ビリーの手足は長く、小刻みに動いた。蔵人は長剣を強く握り込
むと水平に振るった。
虚空に半円が描かれた。
斬撃は高い金属質な音を立てて弾かれた。
二本の手斧を交差させたビリーが防いだのである。
再び、手槍が凄まじい勢いを帯びて飛来する。
蔵人は左肩に灼けるような痛みを感じた。穂先が左肩を激しく削
ったのだ。
ほとばしる血が頬を濡らした。
︵このまま、いちどにふたりを相手にはできねえ。どちらか片方を
始末しねぇと!!︶
蔵人は止めていた足を動かして、再び勢いよく駆け出した。挟ま
れたままでは、バロッコ兄弟の息の合った連携攻撃に致命傷を負わ
されかねない。
そのためには、どうあってもふたりを分断してどちらかを始末せ
ねばならなかった。
﹁キシャアアアァ!!﹂
兄弟では弟のサリーの方が幾分、足が早かった。
蔵人は藪を突っ切って小川に駆け入ると中ほどでサリーが近づく
のを待った。
ふくらはぎまで浸かる程度の深さである。夏の陽光は川面に照り
返されながら、キラキラと宝石のように輝いていた。人間の争いを
よそに、無数のトンボが辺りを浮揚している。
蔵人はサリーが手槍を投げると同時に、長剣を寝かせたまま水面
を大きく薙いだ。
﹁らああっ!!﹂
刃風は川の流れに逆らうように巨大な水煙を出現させた。大粒の
雫はやがて瀑布となって垂直に落下し、蔵人の姿を白い壁へと覆い
隠した。
1284
突然の行動に手元を狂わせたのだろう。
サリーの手槍は方向をそれて足元からすぐそばの小砂利に入りこ
んだ。
素早く長剣を振るった。
穂先と柄を繋いでいたひもはすっぱりと切れて、サリーの手には
柄だけが残った。
状況を呑みこんだのだろう。サリーの瞳に怯えの色が走った。
蔵人は水を巻き上げて大きく跳躍すると、長剣を真っ向から振る
った。
サリーの頭蓋を叩き割る鈍い音が高らかに鳴った。
同時に獣のような激しい断末魔が口から飛び出した。
サリーの額から顎まで真っ赤な線が真っ直ぐ、長く引かれた。
紅の線は左右に動きながらみるみるうちに太くなっていく。
灰色の覆面はふたつに両断され、眼球を剥き出しにした男の顔が
露わになった。
﹁弟よ!!﹂
ビリーのしわがれた声が轟いた。
サリーの頭部。
叩き割られたスイカのように赤黒い断面が夏の日差しを浴びて四
散した。
脳漿と血潮が周囲に飛び散った。
サリーは長い両手をだらりと垂れ下げたまま身体をぐらりと傾け
た。
崩れた肉体が水面をしたたかに打って飛沫を上げた。
悪鬼の表情となったビリーが怒りに任せて突進してくる。
﹁そらよっ!!﹂
蔵人は足元の石を拾うと振りかぶって投げた。水面を切って石弾
は飛ぶと無防備なビリーの左脛にぶち当たった。ヒキガエルのよう
な鳴き声を上げてビリーが片膝を突く。
蔵人は、長剣を水平に構えると身を低くして駆けた。
1285
切っ先を水流に浸けて振るった。
血脂は流れに洗われ、たちまち元の清らかさを取り戻した。
川面が乱れて水飛沫が音を立てる。
ビリーの左手が煙のように素早く動いた。鈍色の刃が回転しなが
ら襲い来る。
蔵人は跳躍すると長剣を大きく振り上げた。
きらめく陽光が、聖剣黒獅子の刀身に降りそそぐ。
曇りひとつない刃が鏡のようにきらめいた。
﹁うっ!?﹂
激しい太陽の反射光に眼を灼かれたビリーの動作が刹那の瞬間、
凍りつく。
その瞬間、勝負は決した。
蔵人の長剣が流星のように、激しく、強く、光芒を放った。
黒獅子は狙いたがわずビリーの首元を両断すると血煙を高々と上
げた。
真っ赤な血が間欠泉のように一定のリズムを保ってびゅうびゅう
と吹き上がる。
涼やかな風が、いまや物言わぬ男の亡骸をそっと撫でた。
蔵人がビリーの真横に膝を曲げて降り立った。
長剣を振るって血糊を飛ばす。
胸から出した懐紙でぬぐい取ると、虚空に投げた。
白い紙は風に乗って飛び散り天に舞い上がった。
ビリーの首を無くした胴体は手斧を持ったまま佇立している。
静寂が張り詰め、川の流れが大きくなっていく。
やがて骸は、どう、と音を立て後ろ向きに倒れ臥し、世界が色を
帯びた。
蔵人は荒い息を整えると、反転して再び走り出した。
1286
1287
Lv81﹁後家蜘蛛の糸を断つ﹂
アルテミシアはルッジたちをカロリーヌに託すと打って出た。
そもそもがどうしてこのような戦いに巻き込まれたのか完全に理
解したわけではない。
よくよく考えればこの闘争自体が膨大な領地を巡ってのお家騒動
なのである。
積極的に関わってどうこうするのは潔癖なアルテミシアにすれば
以ての外だった。
だが、蔵人が己に命じたのだ。あとを任せると。
それに、ルッジをこのまま放ってはおけなかった。自分以外の見
目麗しい女性が蔵人に近づくのは歓迎すべき事柄ではなかったが、
それは醜い妬心であろう。
﹁ああ、やってみせるとも﹂
すべての信頼は自分にある。
アルテミシアは青白い顔をしたまま座りこむルッジを見た。
戦う意味。
深く考える必要はなかった。
﹁殺せ、殺せ!!﹂
﹁やっつけろおおっ!!﹂
八人の男たちは焦燥に駆られながら、怒声を上げている。
上げてはいるが、近づかず遠巻きにしているのだ。
無理もない。
1288
圧倒的に戦力で勝っていた自分たちの仲間が、あっという間に十
人も斬り伏せられたのだ。カロリーヌという女騎士もあっけにとら
れた表情でポカンとしている。
︵どうだ、私のクランドは! おまえたちのような人間とは強さの
格が違うのだ!!︶
所詮は冒険者と侮っていたカロリーヌという赤毛の女すら、口を
開けたまま呆けている。
見たものが信じられないといった表情だった。
アルテミシアは自分の男の強さを自慢して回りたい気分を抑えな
ホーリーランス
がら、高揚した気分で駆けだした。
三メートルを超える聖女の槍を激しく旋回させる。
白く輝く穂先は異様な唸りを上げて眼前の敵に吠えかかった。
﹁たああっ!!﹂
気合一閃。
必殺の突きが、目にも止まらぬ速度で走った。
銀色の光芒は直線的に動き、突き出された速度と同程度で引き戻
された。
﹁え、あ?﹂
﹁は、はえあ⋮⋮﹂
アルテミシアの目の前で呆然と立っていた四人の男たちの喉笛。
パックリと裂け、ピンクの肉が見えたかと思うと、間を置かずに
どっと赤い血が吹き出した。
鋭い突きは一瞬で男たちの急所を破壊し、その命を奪ったのであ
る。
男たちはそれぞれ、己の喉元を手で押さえて流出する血流を止め
ようとするが、すべてが無意味な努力であった。
断続的にバラバラと、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ち
る。
アルテミシアの槍捌きはもはや超人の域に達しようとしていた。
血だまりに倒れこむ仲間を見て、残りの四人は完全に臆病風に吹
1289
かれはじめた。
半弓を持ったふたりが、ほぼ同時に矢を放つ。
アルテミシアは、小枝を使うように片手で銀槍を細かく動かすと、
必殺の距離で放たれた矢は、小蝿を打つようにして弾かれた。
圧倒的な実力差の前に、ひとりの男があっという驚きの声を出し
た。
彼は、ブルブルと震えながら剣を取り落とすと、アルテミシアの
顔を指差した。
﹁こ、この女もしかして、竜殺しの聖女アルテミシアじゃ﹂
﹁まさか! こいつがぁ!? そ、そんな。そんな化物にかないっ
こねえや!!﹂
残った四人は武器を放り投げると、なりふり構わず逃走を開始し
た。
﹁⋮⋮バケモノじゃないもの﹂
アルテミシアは不満そうにつぶやき、ゆっくりと槍を振るって穂
先に着いた血を洗った。
刃風に煽られた血潮は穂先から吹き飛んで、庭の古木の根元を鋭
く叩いた。
背後の驚異は速やかに排除された。残るは、マカロチフひとりと
いってもいい。
﹁気をつけろ。あいつは、並じゃない﹂
﹁理解している﹂
黒い外套を羽織ったルッジが声をかけてきた。アルテミシアは下
がるように目線を送ると仁王立ちになる巨漢の戦士と相対した。
百七十八の身長は女性としては大柄ではあったが、二メートルを
越す巨体を前にすると流石に色あせた。
マカロチフの身体はただ目方がある、というわけではない。
限界にまで密度を上げ、練りこまれた筋肉の鎧を持っていた。
︵槍を使う以上、間合いの利はこちらにある。ならば︱︱︶
アルテミシアはすり足で身をやや低くすると、巨体に向かって構
1290
えた。
無言を通すと思われた男の口から重々しい声が漏れた。
﹁ひとつ、聞いておこう。女よ。どこがいい﹂
﹁なんの話だ﹂
﹁決まっている。敗れたおまえが売り払われる淫売宿の地だ。せめ
て、希望の土地へと送ってやろう﹂
ホーリーランス
﹁ふざけるな。それに、そんな安い挑発に乗ると思うのか﹂
﹁挑発ではない。これは、決定事項だ︱︱!!﹂
消えたようにしか見えなかった。
アルテミシアは直感的に間合いに入られるのを恐れ、聖女の槍を
全力で振るった。
大気を割って刃風が轟然と響いた。
吹き付けてくる殺気に、瞬きをする暇もない。
気づけば、マカロチフの巨体が自分の胸元に飛び込んでいた。
﹁遅い﹂
瞬間、胸元がそっくり抉られたような感覚が走った。
マカロチフの拳が胸元へと砲弾のように叩き込まれたのだ。
空き缶を弾くように、アルテミシアの身体が宙を舞った。
痛み中でかろうじて槍の柄を握り直す。
明滅する視界の中で一点のみに意識を集中させた。
﹁おおおっ!﹂
穂先は銀色の流星となってマカロチフを襲う。
︱︱が、届かない。刃風を紙一重でかわした男は素早く後退する
と、再び拳を固めて構えを取った。男の身体が高々と跳躍する。ア
ルテミシアが理解できたのはそこまでだった。
飛び上がったマカロチフ。空中で一回転すると、いまだ浮遊して
いたアルテミシアの背中に強烈な蹴りを浴びせたのである。綺麗な
半円を描いた一撃は、アルテミシアの身体を大地へと強く叩きつけ
たのだった。
起き上がろうと膝を突く間もなく殺気が迫るのを感じ取った。槍
1291
は既に手元にない。無意識に抜刀すると、僅かな手応えを感じた。
追撃をかけてきたマカロチフの胸元を薄く斬りつけたのだ。
アルテミシアは目を見開いて痛苦に耐えると、震える膝に手を置
いて立ち上がった。痛みは無視する。この強敵の前で意識を喪失す
ることは即座に死に繋がるからだ。
﹁ほお。いまので状況で反撃するとは。女にしては、おもしろい﹂
﹁抜かせ﹂
マカロチフは全身から湯気を出しながら薄いくちびるを舌で舐め
回している。
﹁惜しい。本当に、女であることが惜しい﹂
﹁気味の悪い奴だ﹂
屋根の構え
である。
アルテミシアはロングソードを顔の高さに掲げ、吐き捨てた。
攻撃と防御の両方にすぐれた、いわゆる
追いこまれたときほど修練を積んだ剣士は基本に立ち戻る。正当
な訓練を重ね、身体に染みこんだ動きが自然と形作るのだった。
﹁助成いたす!﹂
アルテミシアを不利と見たのか、いままで体力を温存していたウ
ォーレンが前に出た。
マカロチフは落ち窪んだ瞳をギラつかせると、いまいましげにう
なった。
﹁雑魚が、テメェのレベルもわからねえカスが。俺たちの楽しみに
水を差すんじゃねえ﹂
マカロチフは分厚い胸筋を震わせると鋭く吠えた。
﹁貴様、我を侮辱するとは! もう、許すことはできない! 我こ
そは、ウォーレン・ブランコ。死す前にいい残すことがあれば疾く
述べるがよい!﹂
﹁死ね、カスが﹂
激昂したウォーレン。 アルテミシアの制止も聞かず飛び出した。
長剣をマカロチフに対し、真正面から振り下ろした。半月が虚空
1292
に軌跡を残す。踏みこみも速度も申し分ない一撃だ。
だが、マカロチフは無言のまま右手を掲げると、斬撃を二の腕で
無防備に受け止める動作をしただけだった。
勝った。
ウォーレンの頬に会心の笑みが浮かぶ。
刃がマカロチフの腕に喰いこむ瞬間、つぶやきが聞こえた。
﹁鉄豪﹂
巨漢の戦士は闘気を右腕に収斂させると、筋肉を一点に収縮させ
て、鋼同然の硬度に変化させた。
﹁んなっ!?﹂
金属同士を叩きつけた硬質な音が高らかに鳴った。
全力で放った一撃である。
肉を撃ち骨を断つには充分な力が篭められていたはずである。
現実は非常すぎた。ウォーレンの長剣は刀身の半ばから欠け落ち
ると、軽い音を立ててあさっての方向へと飛んでいった。
呆然としたウォーレンの顔面に巨漢の戦士の拳が突き立てられた。
﹁おぼっ!﹂
ウォーレンの口から異様な悲鳴が漏れた。
鋼より硬く、鋭い一撃はウォーレンの顔面を一瞬で泥のように変
化させた。
眼球、脳漿、鼻梁、唇、歯、頬骨。
顔中の部品は幼児のおもちゃ箱のように乱雑に散らばると、原型
を判別できないほどの醜さに変えた。
﹁つまんねぇ、つまんねぇ、なんてつまらねぇ男なんだよ﹂
マカロチフはウォーレンの両腕を掴み、左右に引っ張った。
﹁いぎいいっ!﹂
子供が飽きた紙人形を引き裂くような容易さでそれは行われた。
毎日のように剣を振るい、鍛え抜いた自慢の筋肉もマカロチフの
前では紙切れ同然の強度だった。筋肉繊維の一本一本がみちみちと
音を立てて引き千切られていく。
1293
目蓋の裏が真っ赤に明滅する途方もない痛みが大脳に警鐘を鳴ら
した。
ウォーレンは眼球を剥きだして、見苦しく泣き叫んだ。
痛みのあまり脱糞したのか、甲冑の上からでも濃い糞便の臭気が
漂いはじめた。
無理もない。
人間の耐えうる痛みを凌駕していた。
ウォーレンは野良犬のように舌を放り出してあえぎ、顔を左右に
動かしてイヤイヤをした。マカロチフの表情が暗い愉悦に満たされ
る。
﹁あ、あ。そ、そんなぁ﹂
ウォーレンに続いて勇ましく駆け出そうとしていたカロリーヌは、
あまりに一方的な惨状に剣を持ったままカタカタと震えている。
どうにかなると思っていた。
この機に乗じて一撃をあたえられるとでも?
巨漢の戦士と温室育ちの騎士では実力の差が隔絶していたのだ。
マカロチフが無言のまま両腕を左右に引いた。
絶叫が流れる。
ウォーレンは両手を根元から引き千切られるとその場に転がって
激しく悶えた。両肩の付け根から激しく血が噴出している。鉄錆に
似た血潮の臭気が辺りに立ちこめた。
﹁前座は終わりだ! 女、俺を楽しませろよ!!﹂
マカロチフは激しく吠えると地を蹴って駆けた。
射出された弾丸のように巨体が空気を割いて動いた。
アルテミシアは碧の瞳を冷たく輝かせ迎え撃った。
長剣が素早く流れる。
マカロチフは女騎士の脇を駆け抜けると右手を天に突き上げ野太
い笑みを刻んだ。
マカロチフは左肩を大きく割られ、ドッと多量の血煙を上げた。
不安げに見守っていたカロリーヌの表情。安堵の色が刷かれた。
1294
だが、それもつかの間だった。
アルテミシアはうっと、うめくと剣を握ったまま片膝を突いた。
白銀の甲冑。厚い胸板部分に亀裂が走る。白十字を染め抜いたサー
コートが紅一色に同化していく。
走り抜けざまに放ったマカロチフの鉄拳が深々と急所を抉ったの
だった。
アルテミシアは白磁のような頬を青ざめさせて幽鬼の表情で巨漢
の戦士を睨む。手甲が細かく震えている。唇の端から糸のような血
がつぅと滴り落ちた。
アルテミシアの放った斬撃もしたたかにマカロチフを打ち据えて
いた。巨漢の戦士は歓喜の表情で振り返ると、両足を大きく開き独
特の呼吸法を行った。剥き出しにした上半身の筋肉から湯気が揺ら
めいた。
マカロチフは大きく息をはき出すと、両手を左右に開き精神を集
中させる。割られた肩の傷は中々の深手であったが、深呼吸が繰り
返させるたびに、血潮はピタリと止まり、みるみるうちに血糊が凝
固しはじめた。
﹁化物が﹂
劣勢に至ってもアルテミシアの闘志は微塵もゆるぐことはなかっ
た。
だが、どう見ても勝負の趨勢は拳闘士側へと傾きはじめている。
美貌の騎士が歯を食いしばり、再び構えを取ろうとしたとき、耐
えかねたようにルッジが叫んだ。
﹁もう、やめてくれ。もう、たくさんだ。ゴルボット。ボクはブラ
ックウェル家を出ていく。だから、もうこんなひどいことはやめて
くれ﹂
﹁ルッジ、貴公﹂
﹁い、いひひひっ。ついに、降伏宣言でちゅか! だぁが、ダメだ
! 許さねえ、オレ様ちゃんはもう許さねえぞ! ⋮⋮ふーふふ、
そうだなぁ、ルッジよおおう。どうしても、これ以上ムカつくお仲
1295
間を傷つけられたくないのなら、この場で全裸になって、ケツをオ
レ様に向かって捧げるんだ。おまえには、どーしても、オレ様ちゃ
んのガキを孕んでもらわねえとよぅ! 親族一同こうるせぇジジバ
バどもが血のつながりだのなんだので、納得しねえからだよ! お
まえが、オレ様ちゃんの肉奴隷になって、一生仕えるってことはす
でに決定事項なんですよぉお!! ざまあねぇな! ざまぁねえな
! 本当にざまぁねえよ! ルッジぃいい!! おまえはこれから
忌み嫌った男の肉穴奴隷として一生を過ごすんだ! オレ様ちゃん
の冗談ひとつでおまえのその身体をいつでもどこでもだれにでもお
もちゃみたいにされる人生を送るのだ! フヒヒヒィ!!﹂
﹁⋮⋮約束は守ってくれるんだろうな﹂
ルッジは外套を脱ぎ捨てると蒼白な表情でつぶやいた。ゴルボッ
トはよだれをまき散らしながら、飛び上がって手を振り回している。
見ていたカロリーヌは悔しそうに上くちびるを噛み締めていた。 ﹁そんなことをする必要はない﹂
﹁だって、こうでもしなきゃ、君たちを守れないよ。クランドも戻
ってこない。バロッコ兄弟に負けたんだ。せめて、このくらいしな
ければ、ボクはこの家の嫁なんだから﹂
﹁だから︱︱﹂
﹁ざまあねえな、ルッジぃい!! おまえはやっぱり人様に仇なす
毒蜘蛛みたいなもんだあぁ!! おまえのせいで、兄貴は早死にし
て、関わる他人も残らず不幸になる!! お前の吐き出す穢れた糸
によってなぁあっ!! そんなおまえをかわいがってやろうってい
うオレ様ちゃんに感謝こそすれ、逆らうなんて許されないことだよ
ねえ!!﹂
﹁そんな、必要はない﹂
傷ついたアルテミシアは顔を歪めて剣を正眼に構えた。
その悲壮な表情を見て、ルッジはかすれた声で叫んだ。
﹁もうこれ以上余計な真似はしてくれるなといっているんだ! お
まえもクランドもいったいボクのなんのつもりだ!!﹂
1296
ルッジの顔。瞳は潤み、唇が小刻みに震えていた。 ﹁そんなこと決まってる﹂
横合いから風に乗って力強い声が割り込んだ。
その場にいた一同がいっせいに視線を向けた。
そこには静かに長剣を掲げて立つ、ひとりの男の影があった。
﹁俺たちは、仲間じゃねえか!! だから、俺もアルテミシアもル
ッジ! おまえを助けてぇって思ったんだ!!﹂
﹁クランドのいうとおりだ。一日でも、いや、一瞬でも苦楽を共に
したんだ。私たちは、とうに仲間であろう!!﹂
蔵人の言葉にアルテミシアの声が続く。
﹁ルッジ!! 俺たちは、おまえを助けてェんだよッ!!﹂
振り絞るように、蔵人の怒声が木霊した。
ルッジの瞳。大粒の涙が盛り上がり、雫は音を立てて流れ出した。
狂った猿のようにゴルボットが喚きだした。
﹁茶番! 茶番んんんんっ!! マカロチフぅううっ!! そいつ
を黙らせろぉお!!﹂
怒声が入り乱れる。弾かれたようにマカロチフが地を蹴って走り
出した。
﹁さあ、決着をつけようか。筋肉ダルマ!!﹂
鉄豪
の秘術を使って右
長剣を水平に構えて蔵人も駆け出す。ふたつの影が交錯して甲高
い金属音が鳴り響いた。
蔵人が斬りこんだ瞬間、マカロチフが
腕を鋼鉄化したのだ。
﹁縮地﹂
マカロチフは闘気を全身にまとわせ高速移動を開始する。
鉄拳が空間を切り裂いて唸りを生じさせた。
蔵人は身をかがめてかわすとマカロチフの足元で刃を細かく動か
した。 目の前の巨体は地を蹴って飛翔する。飛び降りざまに右足が振り
下ろされた。
1297
咄嗟に左腕を縮めて胴体をカバー。
激しい衝撃が蔵人を襲った。
感覚が消える。
同時に全身が交互に熱くなったり寒くなったりした。
尾てい骨から頭のてっぺんまで電流が貫いた。
粉々に砕けた。悪寒が濁流のように意識へを押し寄せてくる。鼻
の奥がツンと熱くなった。金気臭いモノが喉から口内へと流れてい
く。
脳髄が痺れる熱が駆け巡る。左腕をやられた。思ったときには飛
び退いていた。
とにかく距離を取る。
思考に身体がついていかない。
とどまってはダメだ。動きの固定は即、死に直結する。
巌のような拳の連撃が迫り来る。
鉄棒を振り回すような轟音が聞こえた。
背筋に冷気が走った。
無我夢中で長剣を振るった。
不意を突かれたのか、マカロチフの巨体が一瞬、硬直した。
背後で揉みあう声が聞こえた。振り返る余裕はない。
﹁かがめ!!﹂
鋭い女の声。アルテミシアだ。
そう思ったとき、蔵人は訓練された犬のように身体を前方に投げ
出していた。
銀線が真っ直ぐ流れる。
アルテミシアの投擲した長槍がマカロチフの胸元に接近する。
悪鬼の表情で巨漢が即座に穂先を撃ち落とす。
がいん、と槍の柄がたわむ音が響いた。
背後で争う声がさらに大きくなる。マカロチフの視線があろうこ
とか、そちらに流れた。
﹁ゴルボットさま!!﹂
1298
悲痛な声がマカロチフの喉から漏れた。
間髪入れずに、蔵人は長剣を刹那の速さで繰り出していた。
渾身の片手突きは無防備なマカロチフの腹に深々と刺さった。
悪鬼の表情が激しく歪んだ。
黒獅子
の刀身が男の内蔵を餓狼のようにむごたらしく喰
蔵人は両手へと満身の力を込めて薙いだ。
聖剣
い破った。
刃はマカロチフの腹から左乳の下をすくい上げるように流れ、血
飛沫を辺りに舞わせた。
﹁鉄豪ぉおおおっ!!﹂
吐瀉物を吐き散らしながら、巨漢の戦士が鋼鉄化した右腕を振り
下ろした。
蔵人は叫びながらもすくい上げるように斬撃を放つ。
刃と拳が真っ向からぶつかりあった。
﹁おおおおっ!!﹂
蔵人の身体がマカロチフの脇を駆け抜ける。
黒獅子は鋼鉄と化した男の右腕を真っ向から斬り上げた。
鮮血で朱に染まった刀身。
陽光を乱反射させながら冷たく輝いた。
﹁あとは任せろ、クランド!!﹂
アストロ
マカロチフの隙を作った正体。蔵人が視線を転じると、そこには
・グリモワール
鼻血を流して目蓋を腫らしたルッジの姿があった。右手には、星の
魔道書が高々と掲げられている。足元には潰れたヒキガエルのよう
にゴルボットが転がっていた。
そう、ルッジは脆弱な力で真っ向からゴルボットに組み討ちを挑
み、顔を腫らしながらも、堂々と真正面から戦って魔道書を取り返
したのだった。
主を思う強い気持ちがマカロチフに致命的な隙を作ることになっ
た。
︱︱それが、勝敗の分かれ目だった。
1299
﹁毒婦があああっ!! 縮地ぃいいいっ!!﹂
致命傷を負いながらも理性を失ったマカロチフが対象を変更し襲
いかかった。
蔵人の肝が激しく凍りつく。虚弱なルッジではマカロチフの一撃
で命を奪われかねない。
スロウダウン
内蔵を露出させた胴体が煙のように消え失せる。高速移動に入っ
オルタナマジック
たのだ。
﹁偽造魔術。時空遅延!!﹂
アストロ・グリモワール
同時に、ルッジの魔術詠唱が紡がれた。
星の魔道書が白く輝くと、虚空に時計を模した紋章陣が打ち出さ
れる。魔力の奔流は一筋の川となってマカロチフに降りそそいだ。
目にも止まらぬ速度からの肉体攻撃。ルッジの放たれた魔術によっ
スロウダウン
て、見るも無残な凡庸な速さに置き換わったのだ。
無属性魔術、時空遅延。
アイスショット
地水火風の四元素から除外される、もっとも難しい術のひとつで
オルタナマジック
あった。
﹁偽造魔術。氷の矢﹂
続けざま、ルッジの魔道書から魔術が構築されていく。
速度を失ったマカロチフの巨体に、水属性の氷の矢が次々に撃ち
出された。
冷気を帯びた矢は吸い込まれるようにして男の身体に突き刺さっ
ていく。
マカロチフの身体はたちまちハリネズミのようになり、かろうじ
て前進するだけのものとなった。
﹁たああああっ!!﹂
トドメの攻撃は全員が予測しない人物からもたらされた。
横合いから打って出たカロリーヌが身体ごとぶつけるように腰だ
めで剣身をマカロチフの脇腹に深々と埋め込んだのだ。
﹁か、はあっ!?﹂
通常では万が一にも受けるはずのない刺突である。
1300
カロリーヌは真っ赤な髪を振り乱しながらも、体重をさらにぎゅ
っとかけた。
﹁がああああっ!!﹂
﹁きゃっ﹂
手負いの獣が最後の力を振り絞って腕を振るった。
まともに喰らえば骨も残らないはずの豪腕である。
だが、結果としてはカロリーヌ程度すら弾き飛ばす程度に弱まり、
そこには歴戦の強打は見る影もなかった。
マカロチフは上半身を真っ赤な血で濡らし、枯れ草を踏んでゆっ
くりと動いていた。
﹁いま、楽にしてやるぜッ!!﹂
蔵人の長剣が半月を描いた。巨漢の戦士は喉笛を深く断ち割られ
ると、信じられないといった表情で目を剥き出し、その場へ倒れこ
んで動かなくなった。
﹁ひいいっ、ひいいっ。許してぇえっ、許してぇえっ!!﹂
頼みの綱のマカロチフまでやられた時点で、ゴルボットは恥も外
聞もなく命乞いをしながら一目散にその場を遁走していた。
小太りの重たげな身体が、いつもの鈍重さが嘘のように毬のよう
に転がって駆けている。驚嘆すべき逃げ足だった。
一同がルッジの顔を真っ直ぐ見つめた。ライオネル公爵は無言の
アストロ・グリモワール
まま青ざめた表情で目をつぶった。ルッジはもみあいで落とした眼
フレイムボール
鏡を拾ってかけると、くちびるを強く噛み締め、星の魔道書を開い
オルタナマジック
た。
﹁偽造魔術。火炎弾﹂
魔道書から撃ち出された火球がゴルボットの背中に命中した。
﹁ぎいいいいあああっ!!﹂
灼熱の炎は瞬く間にゴルボットの全身を這い回り、一気に燃え広
がった。
﹁あぢぃいいいっ! じぬっ! ぢぬぅうううっ!!﹂
炎は万遍なく拡がって、細胞のひとつひとつを丹念に破壊してい
1301
った。
﹁いやどうわああああっ、じにだぐなびよううううっ!! うごお
おおっ!!﹂
ゴルボットは燃え盛る自分の身体を痛みに耐えかねて激しくかき
むしった。
爪の先に炭化した肉片がくっつき、ボロボロと灰になって細かく
崩れていく。
激痛が間断なく続く中で、太陽の上でのたうちまわる羽虫を幻視
する。
﹁あぶぇ、あぶぇぶえべうぇうぇ﹂
ゴルボットは泣き喚きながら、脳髄を灼かれる苦しみに悶え、よ
うやく最期の意識を手放した。
﹁家は出ることにしたよ﹂
ギルド
一連の騒動の終わったあとのことである。
ルッジは冒険者組合の待合室で蔵人に淡々と告げた。
結局のところ、件の話は親族一同の知るところとなった。泡を食
った親族一同は、後顧の憂いを断つために、満場一致でライオネル
公爵の養子に甥のオイゲンを推薦し、すべては収まるべき場所に収
まったのだった。
﹁しっかし、それじゃあおまえは着の身着のまま追い出されたもん
じゃねえか。悲しいねぇ。民事で訴えるか?﹂
蔵人は皮肉げに顔をしかめてみせ、アイボリーのティーカップを
傾けて啜った。
﹁馬鹿なことをいうな。ボクはこれで納得ずみ。それに、もう結婚
だ家だの、そういうことに縛られるのは懲り懲りだよ。御義父さま
1302
の面倒はこれからも見させてもらうけど、基本は通いで自由の身だ
よ。つくづく悟ったね。人間、自分のやりたいことは人に頼らず行
うべきだと。自分の中では決断できていたのに、それを実行に移せ
なかった。いみじくも財産目当てでグズグズしていたボクに神さま
がバチを当てたのかもね﹂
﹁そのような神がいるのだとしたら、祈りを捧げるのも躊躇すると
ころだが。ん、おほ、おほん! ところで、ルッジ。さっきから気
になっているのだがな。その、少し、位置が近すぎやしないか? んん? 私たちは仲間だろう。その距離は仲間の距離ではないので
はないか?﹂
アルテミシアは冷静を装うとルッジの位置を指摘した。
彼女は、妙に椅子の位置を蔵人の横に動かし肩の触れそうな距離
で目を覗き込むようにして話しているのだった。
要するに恋人の距離であった。
﹁ん。ああ、これかい。まあ、いいじゃないか。ボクたちは仲間な
のだろう。ならば、このように寄り添っていてもなにも問題はない
のだろう。仲良しの証拠じゃないか﹂
﹁だ、ダメだ! クランド、やっぱりやめよう。こいつを、クラン
に入れるのは考え直そう。ずっと、ふたりで仲良くやってきたじゃ
ないか!﹂
﹁えーと、とりあえずそういう事実はないかな﹂
﹁だそうだ、アルテミシア。ということで、もうちょっと今後の活
動方針について綿密に打ちあわせようじゃないかい。手元不如意だ
し、これからなにかとお金は必要だしね。ガンガンダンジョンに潜
ってバンバンお宝を探そう! それに、ボクも、これで歴としたフ
リーだ。フリーなだけに、あっちの方も心細い﹂
ルッジはわざとらしく蔵人の肩にぴっとりと寄り添って見せた。
狼狽したアルテミシアは目を三角にしてテーブルから立ち上がる。
周囲の客がぎょっとして、ざわめきだす。蔵人が面白がってルッ
ジを抱き寄せると、アルテミシアは真っ赤な顔をして叫びだした。
1303
﹁だめだだめだめっ!!﹂
﹁いいじゃないか﹂
﹁無理無理無理、よくない!﹂
﹁どうだろう、同じクランということで、男も共有するというのは
どうだろう﹂
﹁そんな原始的な要求が呑めるか! ふ、ふふふ、ふらちな。ひと
りの男を、ど、どどど同時に貪るなど、神がお許しにならなないっ﹂
﹁固いなぁ、君は﹂
結局のところ、ルッジに残ったのは祖父から譲られた魔道書と、
書物を貪るようによみこんだせいで残った近視だけだったのかもし
れない。
約束も思い出も、彼女の中にあり、ルッジが迷宮の謎に囚われ続
ける限り消えることはないのだろう。
けれども、両親に愛されずに育った彼女であっても、大切なこと
を教えてくれる人はきちんとそばにいた。
そしていまも、こうしてルッジのそばには、あの日祖父が語って
くれた物語の中にいた、力強く勇敢で信頼できる冒険者たちが手の
届く場所にしっかりと存在しているのだった。
ルッジの脳裏にはすでにせせこましい憂いはなかった。
﹁あは﹂
蔵人は目の前の無邪気な笑顔を眺めながら、アルテミシアをどう
鎮めようかと上手い言葉を頭の中で探し出す。
さいわいにも、時間はたっぷりとあるのだ。
冒険は、まだはじまってもいない。
1304
1305
Lv82﹁メイド騎士の一日﹂
メイド騎士ヴィクトワールの朝は早い。
早朝、明け烏の鳴き声にて起床する。
﹁ふわぁ﹂
あくびを噛み殺しながら身支度をすます。この時点で、同室のハ
ナは白河夜船である。
寝顔は十二歳の少女らしくあどけないものであるが、主であるヴ
ィクトワールが起きているのに、その侍女が惰眠を貪っているとい
う事実が、彼女の中から寛容の精神を根こそぎ奪う。
ハナの頬を無理やり引っ張る。 しばらくして、涙目になりながらようやく目を覚ます。
﹁おはようございます。ひどいですよ、お嬢さま﹂
﹁うるさい、どうして私がおまえを起こさなければならないのだ!
普通、逆だろうが!﹂
﹁あー、朝からそんなにわめかないでくださいよう。ハナは低血圧
なのです﹂
﹁知るか。ほら、ちゃっちゃか支度しろ。アレが、来るぞ﹂
﹁えー、ああ。アレですか﹂
ふたりが寝室でぎゃあぎゃあ騒いでいると、扉がぎぃと音を立て
て開く。
そこには、無表情のまま扉の枠をノックする地獄のメイド長︵※
ヴィクトワール視点︶がしっぽを逆立てていた。
﹁あななたち。新入りの癖に私より遅く起床するなどと、ありえな
いことですよ﹂
﹁ま、待て! いま、いま行くから! ちょっと、待て!﹂
1306
﹁待て?﹂
ポルディナの顔から温度がすぅと消える。元々整っているだけに、
余計酷薄に見えた。
﹁あ、すいません。しばし、お待ち頂けるでしょうか!﹂
﹁⋮⋮姉さま﹂
犬耳をピンと立てて、ポルディナがつぶやく。
意図を察したヴィクトワールが即座に訂正した。
﹁しばし、お待ちくださいませ。寛大なポルディナ姉さま! だら
しない、妹分をお許し下さいっ﹂
﹁ふむ﹂
ウェアウルフ
ポルディナはしっぽをぴこぴこ左右に振ると、どことなく満足気
な表情をわずかに見せた。群れで生活をする戦狼族は異常に序列に
こだわる傾向があった。
ポルディナもその例にもれなく、特に新入りのヴィクトワールと
ハナには毎日のように階位を意識させるような言葉をことさらに使
った。
これは、彼女が特別なわけではなく、異人種の習俗であった。生
粋のロムレス貴族でお姫さま育ちのヴィクトワールには中々馴染め
ないものであったが。
﹁まあ、きょうはこのくらいにしておきましょう。朝はいろいろと
忙しいですしね。私はご主人さまを起こしに行くという名誉ある儀
式がありますので、各自朝食前に雑事をすませておくように。では、
きょうもよい一日を。ああ、それと﹂
まだ、なにかあるのかと、ヴィクトワールが身構える。ハナはの
んきに大きなあくびを噛み殺している。
﹁おはよう、我が妹たちよ﹂
ヴィクトワールは引きつった表情で返事を返す。ハナがゆるんだ
声をむにゃむにゃとつぶやいた。ポルディナは扉を閉めると硬いブ
ーツの音をさせながらゆっくりと遠ざかっている。ヴィクトワール
は大きくためいきをつくと、肩の力を抜いて流れた金髪を指先でも
1307
てあそんだ。
﹁ふぅ、朝から緊張するな﹂
﹁あははー。お嬢さま、超ビビってますね! なんかウケるんです
けど﹂
﹁お、おまえはあああっ!!﹂
﹁いぎぃい、いっ、いたいでしゅううっ﹂
ヴィクトワールはハナの頬を左右にびろーんと力任せに引っ張っ
て、半泣き状態にさせてストレスを発散させた。やたらに、身支度
に時間をかけるハナの尻を追い立てるようにして朝の仕事に取り掛
かった。
それにしても蔵人が購入した姫屋敷は中々に広大だった。
通常、この館を維持するにはどう考えても十人以上は奴隷が必要
である。
その責務は膨大であり、すべてはポルディナの腕にかかっている
といえた。キッチンメイド・ランドリーメイド・ハウスメイド・ガ
ーデナー・ヘッドキーパーから、蔵人専用の侍女、あまつは夜のお
勤めに至る範囲までポルディナがひとりでこなしていたと思えば、
業務量は尋常ではなかった。
人並み外れた持久力と無尽蔵のスタミナを持つ獣人であればこそ
可能であった。これでは、とても他のことに気を回す余裕などない。
﹁だから、もう少し、私の努力にもっ、敬意を払えばいいと思うん
だっ!﹂
﹁ファイトー、がんばれー。そこだ、お嬢さまっ﹂
﹁おまえも掃除するんだよっ!﹂
ヴィクトワールは高みの見物を決め込んだハナの首根っこをつか
まえると、歯を剥いてうなった。屋敷の清掃といってもクラクラす
るほど種類は山のようにあった。
カーテンを開き、すべての部屋の空気を入れ替え、部屋の絨毯の
埃を払い、家具を磨き上げ、窓ガラスを拭き、階段を磨き、門の汚
れを取り去る頃にはさすがのハナも無言になってしまう。ハナは小
1308
器用ではあったが熱意と粘り強さに欠けた。
﹁もお、お嬢さまはまたそんなに念入りにぃ。普段使ってないとこ
ろは適当でいいんですよー、適当でー﹂
﹁そんな、だって。ちゃんと綺麗にしないと﹂
﹁ううん、あんがいお嬢さま尽くすタイプなのかもですね﹂
﹁そんなことあるわけないだろう。しっかりやらないと気持ち悪い
だけだ。まったく﹂
清掃が終了すると、報告のためポルディナを探す。
﹁まあ、だいたいいる場所はわかっているのですけどねー﹂
﹁ううう、気が進まない﹂
ヴィクトワールは、蔵人の部屋の前に立つとドアをノックするの
を躊躇した。扉の前から発散されるピンク色の空気を感じ取って声
をかけることができないのだ。
﹁⋮⋮おぞましい空気が漂っている。この中では、またあのような
鬼畜にも劣る所業が行われているのだ﹂
ヴィクトワールは処女だった。おまけに潔癖症的な部分がある。
﹁またまたぁ。どうせ、ポルディナさんが勇者さまにご奉仕してい
るだけですって。美しい主従愛じゃないですか﹂
﹁い、いやだ。そんなに見たければ、おまえひとりで見るがいいっ﹂
﹁ふーん。ふんふん。あっ、そうなんですか。ハナはえっちなこと
に興味津々のお年頃なのでちらっと、じっくりたっぷりねっとり見
ちゃいますよー﹂
﹁勝手にしろ。わ、わわわ私は絶対見ないからな! って、もう見
てるし﹂
ハナは蔵人の部屋の扉を細く開けて中の様子をうかがっていた。
ふーん、とか、はああっ、とかときおり驚きの表情を取っていた。
﹁あわわ。や、やっぱりポルディナさん、すごいです。あんなにお
っきな勇者さまのモノを﹂
﹁解説しなくていい!﹂
ハナはポルディナのご奉仕を眺めながら次第に興奮してきたのか、
1309
呼吸を荒げ頬を真っ赤に染めていく。中腰でかがんでいるハナはス
カートの前をギュッと掴むと、目を細めて恍惚の表情である。なん
か、すべてにおいてヤバイ。ヴィクトワールのストップがかかった。
﹁おい、なにをやろうとしている!﹂
﹁え? なにか﹂
﹁やめろよ! アホか、おまえはっ!!﹂
﹁⋮⋮もう、うるさいですねお嬢さまは。これじゃ、集中力が途切
れてしまいますよ。ちょっと中座して気分をスッキリさせてくるの
で、報告の方はよろしくお願いしますよ﹂
ハナは立ち上がってショーツを脱ぐとヴィクトワールに手渡し、
フットワークも軽くトイレの方向に駆け出していった。
廊下には、呆然としたままショーツを手にしたヴィクトワールだ
けが取り残された。細めに開いた扉からは、おかしな音が漏れ聞こ
えてくる。ヴィクトワールは顔を真っ赤にして両耳を手のひらで塞
いだ。
ヴィクトワールは顔を赤らめながらモジモジすると、辺りをキョ
ロキョロと確認してからそっと扉の内側を覗きこんだ。
覗き魔メイド騎士、ここに超絶爆誕である。
︵これは覗きとかそういう卑しい行為ではなく、その、あれだ! 単純なる確認作業だからな! 私がこのような卑猥な行為に歪んだ
興味を持つはずがなく、その、いつまでも作業終了の報告が終わら
ないと、朝食に移れないからなっ!︶
歪んだ理論武装を完結させると、ヴィクトワールは胸をドキドキ
させながら、中をそっと覗きこんだ。
﹁わあ、うそ⋮⋮﹂
そこには、開け放たれた朝の日差しを浴びながら主に奉仕するポ
ルディナの姿があった。
寝台の上の蔵人はいまだ覚醒していないのか、大の字になったま
ま寝息を立てている。だが、彼の下穿きから露出させてある男はそ
んなの関係ねぇ! とばかり直立不動明王になっていた。
1310
︵うわっ、うわっ、うわっ! なななな、なにをやってるんだ!?︶
ヴィクトワールは心の中できゃあきゃあ悲鳴を上げつつも、彼女
の淫靡な行為から視線をそらすことなく、食い入るように見つめて
いた。
﹁ふふ、ご主人さま。今朝も、とってもお元気ですね﹂ ︵元気ってなに? なんなのっ? わたし、わからないです!!︶
﹁んんうっ!!﹂
くぐもった悲鳴がポルディナの喉から漏れた。
︵あ、あわわ。そこまでするの? 本当に?︶
﹁ああ、もったいのうございます﹂
︵もったいないの? もったいないお化けでちゃうの?︶
そしてメイドのご奉仕が終わる。メイドがメイドたる所以である。
ヴィクトワールは最後までそれを見届けると、当然のように起床
して雑談をはじめた蔵人を見て、ようやく声をかけることに成功し
た。
﹁どうしたんだよ、ヴィクトワール。腹でも痛いんか?﹂
﹁そですよー。トイレなら我慢せずに、ささっと行っちゃったほう
が﹂
﹁我慢などしてないし、ぜんぜん関係ないっ! それと、ハナは下
品すぎる。食事中だぞ﹂
﹁これは失礼しましたですー﹂
ヴィクトワールは平然と目玉焼きを切り分けるポルディナを見な
がら、激しく動揺していた。
先ほどまでの激しい痴態などなかったような立ち振る舞いは冷静
そのものであった。
ヴィクトワールが己の認識力に疑問を持つようになるには充分な
変わりようであった。
﹁あ、塩とってくださいな、勇者さま﹂
﹁はいよー﹂
蔵人はハナの要望に応えると食卓塩のビンをさっと滑らせた。ポ
1311
ルディナは目玉焼きを切り分けると、フォークで蔵人の口に運ぶ。
わずかに浮かぶ慈愛に満ちた表情は、見るものをはっとさせるほど
魅力的ではあった。
︵しかし、これほど美しい娘が先ほどのような真似を当たりまえの
ように行うとは。奴隷とはそういうものなのであろうか︶
ヴィクトワールは眉間にしわを寄せながら、カップを口元に運ん
だ。砂糖をたっぷり利かせたミルクティーである。彼女は見かけこ
そハリウッド女優のように優美であったが、舌はおこちゃま舌で、
超甘党だった。
通常、主というものは奴隷や使用人とはいっしょに食事を取らな
いものだが、蔵人はそのような行為を特に嫌がった。メシはみんな
で楽しくがモットー、らしい。
︵そもそも、なんだこのようなテーブルは︶
蔵人は、食事用にわざわざ円卓を注文し、皆で一堂に料理を囲め
るようにしたのであった。なので、姫屋敷では誰もがいっしょに食
事を摂るのであった。
唯一例外はポルディナである。彼女は、どんなときでも蔵人が朝
食の半分は少なくても胃の中に収めないと絶対にスプーンを握ろう
としなかった。
︵いくら私が鈍くてもわかるぞ。ポルディナは、まったくもって理
解できないが、どうやらクランドに惚れているらしいな︶
ヴィクトワールの認識は当たっているようで、大元では違ってい
た。
ポルディナの蔵人に向ける気持ちは惚れたのなんだの、恋だの愛
だのなんてレベルで計れるものではなかった。
尊崇しているのである。
まさしく、ポルディナにとって蔵人は神そのものであった。
すべてを捧げ尽くしてなお足りない。彼女の中では、そのような
ステージに到達しているのであった。この認識の違いが、あとあと
ヴィクトワールとポルディナの中でとある事件を引き起こすのであ
1312
るが、運命的に不可避な事柄であった。
﹁ご主人さま、あーん﹂
﹁おお。あー﹂
ポルディナは蕩けきった表情で幼児にするように口をぱっくり開
け、スプーンに載せた焼きベーコンの切り分けを蔵人に運んでいる。
蔵人が大きな口を開けてもちゃもちゃと咀嚼するとそれだけで花
が開いたような笑顔を見せる。決してほかの誰にも見せない、蔵人
限定の媚び顔だった。
︵それにしても、このようにすぐ横でイチャつかれると途轍もなく
腹が立つのはどうしてなのだ!︶
﹁あはー、じゃあ、お嬢さまも負けずにいちゃつけばいいじゃない
ですか﹂
﹁そんなことできるかっ! それに人の気持ちを読むんじゃない!﹂
ヴィクトワールは複雑な気持ちを抱えたまま朝食はだいたい終わ
る。
朝食がすめば、引き続き作業が開始される。
無慈悲なポルディナメイド長から冷徹な指示が下されたのだ。
﹁ヴィクトワールは草むしり。ハナは清掃の再点検及び再清掃です﹂
﹁なんでだっ! 私の掃除の仕方のどこが悪い!﹂
ヴィクトワールが目を三角にして抗議する。
ポルディナは腰に両手を当てて、カッと真っ赤な口を開いた。
﹁あなたはやり方が粗雑なんです﹂
﹁あはははっ、お嬢さま粗雑っ、粗雑ですって!﹂
﹁私を笑うなあああっ! 仕方ないだろ、いままでこんなことした
ことないのだから!﹂
﹁自慢することではないでしょう。ヴィーよ。そろそろ、この屋敷
に来て一週間。少しは慣れてきてもよいのでしょう。ハナに比べれ
ばだいぶ手際が悪いですよ﹂
﹁やーい、やーい。お嬢さま、怒られてるー﹂
﹁いやいやいや。こいつは元々メイドで私は、近衛騎士だぞ。そも
1313
そも比べることが間違っているのでは?﹂
﹁いいわけはしない﹂
﹁いいわけしちゃダメですっ!﹂
ポルディナの叱責にかぶせてハナが調子づく。
ヴィクトワールの形相が般若のように変化した。
﹁⋮⋮ハナ。おまえとはあとで、ゆっくり話があるから﹂
﹁えー。うそーん、こわいーん﹂
﹁媚びても無駄。やっちゃうからな、私は﹂
﹁おしゃべりは、お仕事が終わってからにしなさい﹂
憤懣やるかたなく草むしりに精を出していると、屋敷の主である
蔵人がヘラヘラした顔で出て行くのが見えた。
日中、蔵人が屋敷にいることはまずない。ダンジョンに潜ると称
してあちこちをふらついているのであろう。
だが、なんだかんだいって金をどこかしらから引っ張ってくるの
は甲斐性のある証拠であると思う。薄給で近衛騎士団の皆と共に苦
しんだ経験のあるヴィクトワールにはその凄さが理解できた。
いざとなれば、実家からの仕送りが望めるといっても、自由にな
る金の少なさがツライのは身にしみて理解出来た。
﹁ひとつの才覚というべきか。むむ、こんなところにまでっ﹂
ヴィクトワールは神経質に花壇の雑草を抜きまくった。彼女はと
ことん突き詰めるタイプであった。
姫屋敷は購入してから日が浅く、あちこち手を入れる部分が多数
あった。庭の手入れなど専門の職人に任せればいいと思う。実際、
蔵人自身からそのような申し入れがあったのだが、ポルディナがそ
の提案をやんわりと拒絶したのである。
理由を述べるところによると、家のことはできるだけ自分たちの
手で行いたいという趣旨であったが、本当のところは少しでも主の
金を節約したいという健気な彼女なりの考えであった。
﹁まったく、どこまであの男に気に入られるようにすれば気がすむ
のだ。結構、疲れるなぁ、これは﹂
1314
三者がそれぞれ仕事をすませる頃には、昼食の時間となる。
蔵人がいなければ気まずい時間になると思いきや、それは女が三
人集まるのである。
雑談に花が咲く。
多弁とはいえないポルディナも結構な頻度で口を開いた。
もっとも、大概が主の蔵人を持ち上げるステマであったが。
しかも、かなりあからさまでさりげなさなはなかった。
昼食はかなりガッツリしたものが出る。
具体的にいうと肉だ。
焦げ目のついたステーキ、チーズやバターをたっぷり使ったスー
プ、ソースをたっぷり絡めたハンバーグ。蒸したおじゃがに、ふわ
ふわっの白パン。
そして、デザートは生クリームと砂糖をたっぷり使ったチョコレ
ートムース。
激高カロリーだ。
ポルディナは蔵人が屋敷にいる間はかなり食欲を抑えているのか
控えめだが、女同士だけの場合は、かなり旺盛な食欲を見せた。超・
肉食系女子である。彼女曰く、﹁これぐらいの栄養があるものでな
くては、ご主人さまの野獣のような愛撫に耐えられない﹂とのこと。
ヴィクトワールにいわせれば、知らんよ、そんなの。という気分
である。
午後も作業は延々と続く。ときどき、ポルディナは買い物に出て
行くのでヴィクトワールは留守番を任される。
実は、午前中にしゃかりにきなって作業をするので、意外と暇な
時間がポコッと浮き上がる場合がある。その機を逃さず、鬼の居ぬ
間に洗濯と、ハナに給仕をさせ茶会を楽しむ。
焼き菓子を作らせて舌鼓を打ち、詩を読んだり昼寝を楽しんだり
する。
ときどきは、物売りが来たりすることがある。ハナが対応すると、
年若いと侮って不埒な気配を見せる輩が多いので、渋々ヴィクトワ
1315
ールが出ることが多い。
物売りは多岐に渡る。
それこそ、日常雑貨から、野菜や、肉。用途不明なマジックアイ
テムから、夜のお供の張り型まで。
この日、姫屋敷を訪れた男も、その手の夜の道具を専門に売りつ
ける男だった。
﹁ウチはそういうのは間に合っている。早々にお引きとりいただこ
う﹂
﹁ははぁ、まあ、まあ。そう邪険にすることはねえですよ。ねえ、
美人なメイドさんよう﹂
物売りの男は、歳の頃は四十そこそこ。痩せぎすだが、精力の有
り余る脂ぎった顔をしていた。男は、玄関口に出たヴィクトワール
を見て、あからさまに目尻を下げた。
流れる金色の美しい髪に、新緑のような瞳。
目元の泣きボクロが男の好き心を無意識に刺激した。
豊満な乳房がツンとメイド服を押し上げて張り出している。
男は傍らにハナがいなければ即座に押し倒しそうなほどに瞳を情
欲にたぎらせ、真っ赤に充血させていた。
﹁どうよ、この張り型の黒さはよう。へへ、アンタその首輪からす
れば奴隷だろう? この屋敷の主人に毎晩かわいがられてるんだろ
? この道具を使ってあんあんよがり声を上げれば、年寄りの旦那
も奮い立つってもんだぜ? げへへ、なんなら、俺が特別にアンタ
に使い方を教えてやっても構わなないんだぜ?﹂
ヴィクトワールの瞳がすぅと細まる。
ハナが、困ったように額に手を当て、あちゃーとつぶやいた。
﹁へえ、使い方か。それは、いったいどう使うのかな。是非ともご
教授願いたいな﹂
﹁ほおっ! へへ、そうかいそうかい。アンタもかなり好きモンだ
ねえ。よっしゃ、よっしゃ。年寄りの旦那じゃ、アンタのそのプリ
っプリしたおっぱいやケツを撫でるぐれぇが精一杯だろう。この俺
1316
の、商売女も夢中にさせるモノで、たっぷりかわいがってやるから
よおおっ。俺のもんはスゲェぜ。それこそ、何度でも使いたくなる
一品ってもんさね。ほら、ほら。さっさと中に入れてくれねえかな
? なんならそっちの若い姉ちゃんもいっしょにかわいがってやっ
ても構わねえぜ。二発や三発、俺っちのモノはいつでもどこでもブ
ッ放せるんだからよう!﹂
興奮しまくった物売りに、そっと白磁のような手が差し出された。
ヴィクトワールはにんまりと笑うと、指先を誘うようにくねらせ
る。
男は、よだれを垂らしながら黒い張り型を手渡した。
ぎゅっと、指先が無骨な水牛の角で出来た艶具を握りこむ。
男の鼻が卑猥な期待感で大きく左右に広がった。
﹁ふひひひ。ど、どうした。もしかして、この玄関で使って見せて
くれるっていうんなら、値段の方は特別に勉強してやってもいいん
だぜ!﹂
﹁そうだな。これの使い方はよく知っているぞ﹂
﹁へえ! あんがい顔に似合わず︱︱﹂
﹁こうだ!!﹂
﹁おぶるっ!?﹂
ヴィクトワールは黒光りする張り型を真っ直ぐ男の口の中に叩き
込んだ。
水牛の角で出来た張り型は、先がいくら削ってあったとしても、
相当な硬さだ。張り型は、男の前歯を残らずへし折ると垂直に喉へ
と突き刺さった。
折れた黄ばんだ歯が、大理石の床を滑って散乱した。
ヴィクトワールは身を折って咳きこむ男の腹に長い脚を突き入れ
た。ズン、と、つま先の硬い部分が食い込んだのか、弾き飛んだ男
は身をよじって胃の内容物を吐き散らかした。
﹁貴様のようなクズがっ! この私を、なんだと思っているんだ!
ふざけるなっ! このっ、このおっ!!﹂
1317
﹁ひぎいおおゅぃっ! ゆ、ゆるひてっ! いだあっ、いだいっ!
いだいいっ!﹂
ヴィクトワールは憤怒の表情で身を丸めて許しを請う物売りの背
を散々に蹴りつける。
長い髪はばさばさと揺れて、ヘッドドレスが外れて転がった。慌
ててハナが拾いに走る。
怒号が辺りをつんざいた。
﹁誰がおまえなぞ相手にするかっ! それほど、私が尻の軽い女に
見えたかっ! これでも私は、栄えあるシモン家の奴隷騎士! ヴ
ィクトワール・ド・バルテルミーぞっ!!﹂
自分の言葉により怒りを駆り立てられたのか、頬を紅潮させなが
ら足首を男の後頭部に振り下ろす。野良猫が轢死したような声が、
男から放たれた。
﹁ひいいっ! わがっだ! わがっだがらやべてえええっ!!﹂
﹁本当にわかったのかああっ!! この屋敷をクランドさまの屋敷
と知っての狼藉かぁあっ!!﹂
﹁いやー、お嬢さまイキイキしてますねぇ。ハナはお嬢さまが元気
だとうれしくなっちゃいます﹂
脳内にアドレナリンが分泌しているのか、ヴィクトワールにハナ
の声は聞こえていなようだった。男は、﹁い、異常者だあっ﹂と泣
き叫びながら、荷物をばら撒きつつ駆け去っていく。門の向こう側
から、入れ違いにポルディナの戻る姿が見えた。
ヴィクトワールは鼻を鳴らすと、両腕を組んでものすごいドヤ顔
を作る。
まさしく、してやったり、という表情だった。
﹁どうだ! 見たか、物売りを見事撃退してやったぞ!﹂
﹁ヴィクトワール﹂
﹁なんだ!﹂
ヴィクトワールは緑の瞳をらんらんと輝かせ、ご褒美をねだる忠
犬のようにポルディナに顔を寄せた。
1318
﹁汚れ、掃除しておきなさい﹂
ポルディナは買い物袋を抱えながら、鼻をヒクつかせると、男の
吐瀉物を目線で示し渋面を作った。ハナは、苦笑いをしながらバケ
ツと雑巾を取りに屋敷の中へと歩いていく。
我に返ったヴィクトワール。気恥かしさに、顔を真っ赤にした。
﹁ああ、それと﹂
﹁わかった。わかったから、もう小言は勘弁してくれ﹂
﹁あなたにも、シモン家の奴隷としての意識が備わってきたようで
すね。姉としてうれしい限りです。今後も精進するように﹂
﹁え、あ? は、はい。んん? あ、ああっ!! にゃあああっ!
? 違うう!!﹂
ヴィクトワールはしばらくポカンとして自らの言動を思い返し、
激しく身悶えした。
夕食時、珍しく蔵人が戻ってきて皆で一緒に食事を取った。なん
でも、第九層の攻略が完了したらしい。かなりの財宝も手に入れら
れたらしく、ザクザクとした金貨の詰まった袋を見せられたとき、
我がことのように喜びが満ち溢れてきた。
それは、騎士団では得られなかった、途方もない一体感だった。
蔵人曰く、これで念願の内風呂をグレードアップさせる頭金がで
きたらしい。なんでも、彼の世界では、風呂に入りながら酒を酌み
交わしたりするのが風流とされているらしい。
蔵人と一緒に入るのは問題外だが、こんどハナと入ったときに試
してみるのも悪くないと思った。
湯に入り一日の疲れを洗い流す。
あてがわれたメイド部屋はハナといっしょである。
寝台の上で神に祈りを捧げ、清潔なシーツにすべり込む。なんの
憂いもない。
ヴィクトワールはそのまま、意識をたゆたわせようとして。
突如として、気づいた。
﹁あああああっ!!﹂
1319
﹁ど、どうしたんですか。お嬢さま!?﹂
﹁⋮⋮きょうもまた、メイドとして一日を過ごしてしまった﹂
呆然とした表情。
ハナは、つまらなそうに舌打ちをすると、ゴソゴソとシーツに潜
りこんでいった。
ヴィクトワールが使命を果たすときは、未だ、遠い。
1320
Lv83﹁名剣の刀鍛冶﹂
﹁それでは、我がクランであるダンジョンマスターのこれからの繁
栄と成功を祈って、乾杯!!﹂
カップをぶつけあう音が高らかに鳴り響く。
アルテミシアとルッジの顔に満ち足りた表情が浮かんでいた。
夜雀亭
よすずめてい
で。
蔵人たちは、ダンジョン九層の攻略を祝してささやかな宴を催し
ていた。
真昼間の喫茶店
﹁しかし、さすがに、少しまずいのでは﹂
アルテミシアはカップを両手に持ったまま憂い顔でつぶやいた。
もっとも、脳にかなりのアルコールが回っていた蔵人は赤ら顔で
笑い飛ばした。
この男は自重という言葉をそろそろ覚えたほうがよかった。
﹁だはははっ、飲め飲め。飲めば忘れる。なにもかも﹂
﹁そうだぞ、アルテミシア。君は少し細かいことを気にしすぎだ﹂
ルッジは白く細長い指で本のページをめくると、平然といった。
ギルド
﹁え、細かいことなのだろうか。これは﹂
冒険者組合前の大通りに面したオープンテラスは、行きかう人々
がもっとも多いシルバーヴィラゴの中で、もっとも栄えている人口
密集地帯のひとつだった。
照りつける太陽の日はいまだ激しく、午前十時を過ぎたばかりで
は、街の人々は仕事をはじめたばかりである。
その中で、人目を気にせず酒をあおる三人組はいやがおうでも人
1321
目を引いた。
特に、アルテミシアの名は無闇矢鱈に広まりつつあり、かなりの
有名人である。
この辺りの人間で彼女の顔を知らない人間はいないくらいである。
そのせいもあり、事務所に出入りする冒険者たちは袖を引きあって
チラチラと視線を向けていた。常識のあるアルテミシアは当然のよ
うに気になってしかたない。
だが、ネジの二、三本抜け落ちちているふたりは気にならない様
子だった。
ルッジは片手で黒髪を流すように梳くと、パタンと本を閉じ、探
るようにアルテミシアの顔を見やった。
彼女は重々しく、うむ、と納得したようにうなずくと細い手をさ
っと上げた。
﹁うん、飲みが足りなようだな。マスター、追加を。こちらの女性
には、この店で一等キツいやつを。ボクは淑女なのでレモンティー
を﹂
呼びかけられたカフェレディは口をもごもごさせると怯えたよう
に店内に駆けこんでいった。ルッジはつまらなそうに、眼鏡を外す
とハンカチで拭きはじめた。
﹁ルッジ。おまえは人をなんだと思っているのだ﹂
﹁え、いや。君は、よく飲むだろうと気を利かせたのだ。ふふ。最
近ボクは割と空気とやらを読むのが得意になってね。いやいや、そ
うかしこまって感謝などしなくていいぞ! 君はお代わりとか自分
では頼みづらいだろうからな!﹂
ルッジの視線。舐めるように上から下へと動いた。
暗にデカいと決め付けている無思慮なものだった。
デカいやつは、よく飲んで、よく食う。
偏った固定観念だった。
﹁決めつけたな。決めつけてはいけないことを﹂
アルテミシアは立ち上がるとキッとルッジをにらみつけた。
1322
彼女は、やや長身であることにコンプレックスを抱いていた。
対照的に、ルッジは全体的にほっそりとした体型をしている。
胸もほっそりしているのがたまにキズだった。
﹁決めつけではない。データ上からの統計論だ﹂
﹁それが決めつけだ! 私は、小食なのだ! クランド、なあ。そ
うであろう!﹂
﹁そうだぞ。だから、もっと食べたほうがいいと意見している。そ
の身体を維持するには相当な栄養素が必要だろう﹂
﹁おまえとは話してはいない!﹂
﹁おやおや、ボクにはずいぶんとつれないじゃないか﹂
﹁あたりまえだ!﹂
ふたりがギャアギャア騒いでいると、店の中から渋面を作った口
ひげの男が肩を怒らせて飛び出してきた。夜雀亭の店長、ビッグス・
ジェスミンである。
﹁あの、なんどもいうように、ウチはそういう店じゃないんですよ
ね。グチャグチャ酒飲んで酔っ払ってクダまく店じゃないんですよ
ね。つーか、オメーらいいかげんにしろよ! さすがのオレもぶち
きれんぞ!!﹂
ビックスはキレ芸人並に怒号を発したが、ふたりの女はそれを無
視してぎゃあぎゃあやりあっていた。背後のカフェレディが、﹁う
っわ、店長ガン無視ィ﹂などと煽るようなつぶやきをもらしている。
ビックスのこめかみに青筋が太く浮上がった。
﹁おう、マスター! お先にやってるぜ!!﹂
蔵人が酒精を満たしたジョッキを掲げて叫んだ。大通りを歩く人
々が、何事かと近寄ってくる。ざわめきが群衆に伝播し、大きく広
がった。
ビッグスの瞳孔がヤク中のように激しく開いたり閉じたりした。
﹁ここは飲み屋じゃねぇ! オシャレなカフェなんだよおおっ! せっかく築き上げてきたオレの店の品格が落ちるだろうがぁあっ!
! クランドぉおっ!! おまえは存在自体マイナスなんだよっ!﹂
1323
﹁シャレオツな店の栄光にカンパイ!﹂
﹁略すなああああっ!!﹂
ビッグスは蔵人の喉元を両手でつかむと前後にゆさぶりはじめる。
それすらも余興に過ぎないのか、蔵人は熱い息を吐き出しながら
陽気を通り越して、ヤバい人間の顔つきで笑い声を上げた。
﹁うっせーな。飲め、飲めば忘れられる。なにもかもだ﹂
﹁んごぼっ!?﹂
蔵人はビッグスに飛びつくと顔を鷲掴みにして酒精を無理やりそ
そぎ込んだ。
ビッグスは溢れる酒でむせ返り、腕から離れようとするが、蔵人
の並外れた膂力の前では螳螂の斧だった。
﹁こぼすな。もったないだろ﹂
蔵人がビンを無理やり喉奥へと突き入れる。ビッグスの瞳に怯え
が走った。
﹁いいぞ、クランド。すべて注ぎこめ。一滴も漏らすな﹂
ルッジが蔵人をあおった。本気で面白がっていた。
﹁てんちょ!? だれかー、助けてー! てんちょが殺されるぅう
う!!﹂
そろそろと扉から顔をのぞかせたカフェレディが頭のてっぺんか
ら抜ける悲鳴を上げた。
﹁コラぁ、人聞きの悪いこというんじゃねぇ! 俺はこのわからず
屋に酒の飲み方を教えてやってるだけだ!﹂
﹁やだああっ!!﹂
﹁やだじゃねええっ!!﹂
﹁こっちこないでえっ!!﹂
調子に乗った蔵人がカフェレディに飛びつく。テーブルはひっく
り返る。食器が散乱し、見物人たちがそろって騒ぎ出した。
混乱は猖獗を極めた。
見るに見かねた誰かが、鳳凰騎士団に連絡したのだろうか、白銀
の鎧に鳳の紋章を刻みこんだ屈強な男たちがすぐさま現場に駆けつ
1324
けた。酒瓶を逆さに振って縦横無尽に暴れまわる蔵人を見て、アル
テミシアが止めに回ったときはもはや弁解の余地のない状況だった。
﹁それでは、場を改めてましてぇ。引き続きカンパーイ!﹂
﹁乾杯﹂
蔵人の音頭にルッジが杯をあわせる。
疲れたような顔のアルテミシアが深いため息をついた。
﹁おいいいいっ!! アンタたちぜんっぜん反省してないですよね
え!?﹂
場所は変わってロムレス教会の応接室。
宴を再開しようとしていた蔵人たちを血相を変えて静止したのは、
身元引受人として汗を流したシルバーヴィラゴの司教マルコであっ
た。
もちろん教会関係のツテで頼みこんだのは唯一理性を失わなかっ
たアルテミシアである。
彼女とマルコは旧知の間柄であった。
彼女は、オロオロしながら蔵人たちとマルコの交互に視線を動か
し、困ったように自分の唇を触りはじめた。
﹁反省? なにが﹂
﹁なにがってええぇ! えええっ!? もしかして、拙僧が間違っ
てるの? いや、間違ってないですし。クランド殿も少しは世間体
というものを考えて行動しようよおおっ!﹂
﹁あはは。もしかしてキレた?﹂
﹁いや、キレてないですよ。拙僧をキレさせたら相当なモンですよ﹂
ちょっと長州小力が入っていた。
﹁キレてるじゃーん。よっしゃ、ルッジ! このおっさんに、一杯
1325
ついだれ!﹂
ルッジは露骨に顔をしかめたが、それはいつも見慣れている人間
にしかわからない程度の差異だった。彼女の表情の変化は微妙すぎ
て判断がつきにくいのだ。
蔵人が不器用にウインクをする。チック症かと見紛うものだった。
ルッジは仕方ないなと、子どものわがままを不承不承に聞き入れ
ると、テーブル上のアイボリーカップを取ってマルコに手渡した。
﹁御坊。酒は憂いを払う玉箒ともいう。そのように硬くならずとも、
一献いかがかな﹂
ルッジに真正面から見つめられ、途端に相好を崩す。わかりやす
い性格である。
﹁え、えへへ。んんん、まあ、拙僧も、それほど物分り悪い方じゃ
ないんでぇ。でへへ、あ、拙僧、ここ座ってよろしいかな?﹂
﹁おう、座れ、座れ﹂
蔵人がそっとルッジに耳打ちする。彼女は、目元を若干赤らめな
がら悪戯そうに笑うと、ソファの前でわざとらしく脚を大きく組み
替えた。タイトスカートの奥の魅惑のトライアングルが絶妙なバラ
ンスで見えそうになる。
マルコはしかめっ面をしたまま、眼球だけを器用にグリグリと動
かしている。
パンチラを期待しているのがバレバレの行動だった。
﹁ご婦人。あなたのいうとおり、この枯れ切った世界ではときには
息抜きも必要かもしれませんね。拙僧は、マルコ。この教会の司教
をやっております。以後お見知りおきを﹂
マルコはキメ顔で自己紹介をする。蔵人は笑いをこらえながら横
を向いた。
﹁おお。それは、なんと高貴なお方とは露知らず。ボクはルッジ・
ブラックウェル。王立迷宮探索研究所に努めており、彼とアルテミ
シアとは同じクランに所属しております。本日は、かような失態を
見せて心苦しいばかりです﹂
1326
﹁ほおお!! ルッジ殿は、かの高名なブラックウェル家のご一族
で。いいでしょう、いいでしょう。若いうちはハメを外すこともし
ばし。拙僧はそこな男と違って、頼りになる男ですぞ。んん、こん
な機会で知遇を得るとは、人生とは不思議なものですなぁ。ところ
で、ルッジ殿は独身ですかな﹂
﹁いや、先年夫に先立たれまして。ボク、いや、わたしは寄る辺な
い寡婦というものですよ﹂
ルッジはさみしげな表情をたたえ、視線を落とした。さりげなく、
手をマルコの膝の上に滑らす。欲求不満の司教は落ち着きを失って、
小刻みに震えはじめた。ちょっと、股間の部分が盛り上がっている
のは気のせいではないだろう。
﹁ほほう! 未亡人で!! それはそれは!!﹂
マルコの瞳がクワっと大きく見開かれた。充血した眼球が露わに
なる。
どう見てもよからぬ妄想をたくましくしている表情だ。司教のあ
からさまな態度に、アルテミシアは所在なく触っていた花瓶をサイ
ドボードから転落させた。
がしゃんと、大きく音がしたが割れることはなかった。
どうやら外見だけはそれらしい材質の安い銅製らしい。
前回、蔵人にみっつも割られたのがよほど堪えたのだろう。推し
て知るべし。
﹁ううん、となると、ここにある安酒ではご婦人をもてなすのに頼
りないことはこの上ない。実は拙僧、近頃極上モノのワインを手に
入れましてな。いやいや、極上といっても拙僧の貧相な舌とルッジ
殿のものでは比較になりませぬが。ううん、ルッジ殿はワインはイ
ケル口ですかな﹂
蔵人が肘の先でルッジの脇腹をつつく。
﹁きゃ。ワイン、だーいすき。わたし、飲みたいです﹂
彼女は、普段絶対に出さないような作った声ではしゃいで見せた。
安物花瓶を持っていたアルテミシアが、﹁超わざとらしいんですけ
1327
ど﹂という顔をして、再び手をすべらせた。
﹁見ろ。酒の補充ができた。お得だろ﹂
﹁⋮⋮そうかも知れないが。さすがのボクもここまでわざとらしい
真似は、自分で自分が気持ち悪いよ﹂
﹁いいんだよ。どうせ、男は騙されたがってるんだ。おまえは、お
っさんの中にある清楚で可憐な未亡人という幻影を十二分に満たし
てやっている。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない﹂
アルテミシアは達観した顔つきで蔵人の隣に座ると、大きくため
息をついた。彼女は強い自責の念に駆られていたが、大勢にはまる
で影響はない。
しばらくすると、ワインと上等なツマミの数々をバケットに詰め
こんだマルコが戻ってきた。
特になにごともなく、四人は和やかに酒盛りを楽しんだ。神聖な
る宗教施設で飲酒に及ぶという行為に納得のいかない気持ちであっ
たアルテミシアもやがて酒をあおりはじめる。
後半、アルテミシアは荒れた。
﹁いやあ、昨日はちょっと暴れすぎたな。さすがの俺も猛省﹂
翌日、リースフィールド街の目抜き通りを闊歩する蔵人たち三人
の姿があった。ルッジは無言のまま、かたわらで書物のページをめ
くりながら物思いに耽っている。
アルテミシアは青白い顔でうつむきながらこめかみを押さえてい
た。
﹁不覚だ。なぜ、あんなことに﹂
﹁そうだぞ。過度の飲酒は健康によくない。君は、ボクの忠告を聞
くべきだった﹂
1328
﹁私を焚きつけたのはおまえだろうがっ。ああ、神聖なる教会内で
飲酒はおろか、自制心すら手放してしまうとは。神よ﹂
﹁いまさら祈っても遅いんじゃないか? まさか、聖ロドリゴ像を
真っ二つにしてしまうなんて。信仰心の薄いボクでもどうかと思う
よ﹂
﹁あああああっ﹂
アルテミシアは頭を抱えると、道の真ん中で叫びだす。通りを歩
く人が、途端に目を向けはじめると、顔を赤らめて強く空咳をした。
﹁そーいや、アルテミシア。ちょっと、いいか﹂
蔵人が長い腕をきゅっとくびれた腰に伸ばす。
アルテミシアはたちまち度を失うと、一オクターブ高い音域で狼
狽した声を出した。
﹁わ、わ。クランド、こんな昼日中、街の真ん中でっ﹂
もにょもにょ腰をくねらす彼女をよそに、蔵人は白金造りの鞘か
ら長剣をスっと引き抜いた。刃を水平にして、剣身に視線を這わす。
意図を悟ったアルテミシアは赤面した。
﹁君は煩悩まみれだな﹂
冷たい口調でルッジがツッこむ。アルテミシアはうつむいて抗弁
した。
﹁放って置いてくれ。まだ、昨日の酒が残っているんだ。うん﹂
ルッジのツッコミに対し、額に手を当ててうなだれる。見聞を終
えた蔵人は、剣をふたりによく見えるよう位置を動かす。
﹁ほら、よく見ろ。昨日、アルが振り回しているのを見て気づいた
んだが、随分と刃こぼれがひどくないか﹂
﹁う。本当だ。なんてことだ、私としたことが。面目ない﹂
﹁剣なんてしょせん消耗品だが。いかんせんこれでは﹂
﹁最近連戦が続いて研ぎに出す暇もなかった。迂闊だ﹂
﹁アルテミシアはこういうの細かいほうだと思ってたんだが﹂
﹁いや、本当は昨日いきつけの鍛冶屋に寄る予定だったのだ! そ
れが、あんなことになるなんて﹂
1329
﹁ま、酒は飲んでも呑まれるなって教訓だね。ボクも心しておくよ﹂
﹁おまえが無理やり飲ませたんだろうに﹂
ルッジは書物をパタンと閉じると、思い出したかのように人差し
指を立てた。
﹁そういえば、風の噂で聞いたのだが。ちょうど、この辺りに、随
分と腕のいい刀鍛冶が店を構えているらしいぞ﹂
ルッジの薄ピンク色の唇を眺めながら、そういや風の噂ってどう
いう伝達経緯なんだろうか、と蔵人は思った。
﹁確か、この辺りだとボクは記憶している﹂
﹁なあ、ルッジ。好意は嬉しいのだが。おまえのいう、腕のいい刀
鍛冶とはもしかしてノワール・スミスとかいう男のことじゃないか﹂
﹁ああ、確かその名前だったが﹂
ルッジは返事を返しながらも狭い路地裏を先導しつつ、たったか
歩いていく。後方では、ときどき蔵人が建物に肩をぶつけ悲鳴を上
げていた。
﹁リースフィールド街で、ノワール・スミスを知らぬモノはおらぬ
よ。だが、私の聞いた話ではその名物刀鍛冶はもう随分な高齢で腰
を悪くしてこの春に店を畳んだと聞いていたが﹂
蔵人同様、長身のアルテミシアもゴミゴミした狭い場所を通り抜
けるのは苦手のようだ。
彼女は、道端に転がる木桶を踏まぬようにそっと長い脚を持ち上
げ、ルッジにいった。
﹁そうらしいな。だが、ボクの聞いた話では再び営業を再開してい
るらしいぞ。剣は騎士の命だろう。ならば、もっともすぐれた人間
に任せたほうが安心だろう﹂
﹁ルッジ⋮⋮!﹂
アルテミシアは立ち止まると大きい目を瞬かせた。
ルッジは少し照れたようにぷいと顔をそむける。
﹁そうだぜ、アルテミシア。ルッジのいうとおりだ。もしものとき
にはおまえが泣くハメになるんだからな。命を守る武器に関しては、
1330
金をかけすぎるってことはねえからなっ。なあに、銭のことは心配
するな。いざとなったら﹂
﹁いざとなったら?﹂
﹁⋮⋮ま、まあ。金の話はいまはいいじゃねえか﹂
﹁なんだ。途端に頼りなくなったな。そこは、男らしく任せろ、と
いって欲しかったぞ﹂
﹁ううむ。色男、金と力はなかりけり、だ﹂
﹁ぷっ。なんだ、その言葉は。はじめて聞いたぞ﹂
﹁おまけに君にはまるで該当しないな﹂
﹁ひ、ひでーよ。これでも、俺は黄金町の真田広之といわれた男な
んだぞ﹂
﹁ぜんっぜん、わからない﹂
﹁蔑称かい?﹂
﹁違うわ!!﹂
蔵人が真田広之に似ているかどうかはさておき、一行が探すノワ
ール・スミスの店は狭隘な路地にはもはや存在していなかった。周
辺住民に話を聞くと、元々この地区にあったものは完成した物品を
商う店で、鍛冶小屋自体はリースフィールドの郊外にあるという。
シルバーヴィラゴ自体は城壁都市だが、人々は中心地に密集した
がる傾向がある。
教えてもらったおおよその場所に見当をつけて移動すると、小高
い丘の上に目指す小屋があった。板塀のまだ真新しい鍛冶小屋と隣
接した納屋が建っている。
﹁たぶん、あれじゃね?﹂
蔵人が建物を指差すと、小屋の前の物干しで洗濯物を干している
少女らしき姿が見えた。
﹁おそらくは⋮⋮。ふむ、ちょうどいい。あの娘に聞いてみるとし
よう﹂
なだらかな傾斜を登っていくと、せっせと洗い物を干していた少
女がこちらに気づき、人懐っこそうな笑顔で手を振っている。背丈
1331
は百三十に満たないようだ。
﹁そういえば、ノワール・スミスは六十を超えていると聞いている
ね。あの娘は、年からいって孫くらいかな?﹂
﹁てーと、店は代替わりして息子かなんかが継いだってこと、か﹂
﹁こんにちわー。いいお天気ですねー。ウチになにか御用でしょう
かー﹂
少女は快活そうに笑うと、頭に巻いていたエンジ色の手ぬぐいを
取った。
金色のくせっ毛がくるくるとカールしている。身体の大きさから
もっと幼いと思っていたが、顔つきはずいぶんと大人びていた。
蔵人には小学校高学年。おおよそ、十歳かそこらくらいに見えた。
﹁うむ、こんにちは。私は、アルテミシアというものだが、そのこ
の屋敷は、かの名工ノワール・スミス殿の屋敷に相違ない、か﹂
﹁そんなぁ、お屋敷なんていう立派なものじゃないですよー。あ、
申し遅れました。あたし、スミスの娘のリコッテっていいます。父
に御用のある方でしょうか? その、お知りあいで?﹂
﹁いや、その、はじめて、会うのであるが﹂
リコッテと話すアルテミシアのテンションがどんどん落ちていく。
蔵人が不審に思いながらぼーっと、彼女の尻の膨らみを眺めている
と、ルッジが脇から外套の裾をくいくいと引いた。
︱︱なんだよ。なんかあったん?
︱︱クランド。ちょっと、彼女をよーく見てみろ。
︱︱は? パンツでも見えるん?
︱︱ある意味、もっと衝撃的だがな。
蔵人は眠たげな目をリコッテに転じた。
同時に、眠気は吹き飛んだ。
﹁んげっ!?﹂
﹁わ、ダメだっ。クランドっ! しーっ﹂
アルテミシアはくちびるに人差し指を当てて困ったように眉を下
げる。
1332
リコッテは不思議そうに小首をかしげる。それは、幼い少女に似
つかわしい仕草だった。
﹁はい?﹂
その、ポコンと前に突き出たお腹の膨らみを除けば。
﹁キター!! ロリっ子幼女ボテ腹妊婦! いっちょ、入りました
!﹂
﹁さ、騒いではダメだっ﹂
リコッテの身体つき。胸の薄さや背丈の低さ、顔の幼さから推察
して、どう考えても十歳程度のものである。
蔵人は十歳少女の妊婦など生まれてからいままで一度も見たこと
などなかった。アルテミシアの狼狽さ加減から、この世界でもかな
りの早熟であり、なにかしらの事情があったことが理解できる。蔵
人のピンク色の脳細胞がフル回転をはじめた。
︵ええっと、この子はおおよそ十歳くらいだろう。ってことは、種
付け主は、少なくとも彼女と、九歳か八歳くらいから、そういう関
係を持っていたってことで⋮⋮。確か、世界のギネスで記録では五
歳かそこいらくらいでっ。こええっ! ファンタジー世界こええっ
!!︶
﹁あ、ああ。そうですか。えへへ、これ、結構目立っちゃってます
かね﹂
﹁ああ、ところでいま何ヶ月くらいかな?﹂
﹁えへへ、四ヶ月です。あたし、なんだかやたらにお腹ばっかり目
立っちゃって。恥ずかしいです﹂
﹁膨らみ具合は個人差がかなりあるらしいからな。あくまで知識の
みだが。それと、そこのふたり。ずいぶん盛り上がっているようだ
が、この娘は歴とした成人だぞ。リコッテくん。君は今年いくつに
なるね﹂
﹁はあ、あたしは今年で二十三ですけど﹂
﹁はああああっ!!﹂
1333
﹁残念だったな。君たちの考えるような淫靡な世界は中々に存在し
ないものだよ。それと、彼女はおそらくノーム族。身体が小さいの
は、そういうものなんだよ。やけにお腹が大きく見えるのは、人間
族に比べれば、彼女らはおおよそ半分程度の妊娠期間で出産するか
らだ﹂
ノームは亜人の中でももっとも小柄で手先が器用とされている一
族だった。
別名小人族ともいわれ、都市部では職工に多く見受けられるあり
ふれた種族であった。
人間とは、大きさが小さめということ以外はほとんど変わりはな
く、普通の人々に混じると気づかれないことが多かった。
﹁ああ、ノーム。ノーム族。そうか、はは。いや、知っていたよ。
私は。本当なんだ!﹂
﹁わかった、わかった。とりあえずそういうことにしておくとしよ
うか﹂
ルッジはポンポンとアルテミシアの肩を叩くと、ニヤリと口元を
はしに釣り上げた。
﹁だーかーらー!﹂
﹁あのう、楽しそうにしているところ悪いのですが。本日はどうい
ったご用件で?﹂
﹁んんっ、すまない。私としたことが。少々話が脱線してしまった。
実は今日ここに来たのは、かの名工ノワール・スミス殿に、ひとつ
剣を研ぎ直してもらおうと思ってだな﹂
﹁ああ。やはりお仕事のことで。大変申し訳ありませんが、最近父
は腰を極端に痛めまして、新規の方はお仕事をお断りさせてもらっ
ているのですよ。以前からおつき合いのある方の方だけでもかなり
滞っている始末で、わざわざこんな遠くまで足をお運びいただき、
こちらとしても大変心苦しいのですが、どうもご期待には添えそう
もありません﹂
﹁なんと! そうか、ダメか。それは残念だな﹂
1334
アルテミシアはあからさまに落胆すると唇をへの字に曲げた。
﹁そこをどうにかならないのかな、リコッテくん﹂
両手を組んでいたルッジが顔を突き出して詰め寄る。
リコッテはあいまいに笑うと、再び断りの言葉を口にした。
見た目はやわらかそうな雰囲気だが、芯の部分は中々に強情そう
だった。
﹁そっかぁ。ダメかぁ。んでんで、ロリボテリコッテちゃん。ちょ
っと、お願いあるんだけど、そのポヨポヨしたお腹触ってもいーい
?﹂
﹁クランドっ。ちょ、ちょっとそれは初対面の人間にあまりにも失
礼ではないか?﹂
﹁そうだぞ。それにボテ腹ナデナデなら、ボクだって触ってみたい。
学術的興味として﹂
﹁ルッジもなのか!?﹂
蔵人たちがわいわい騒いでいるのを、リコッテは静かに眺めなが
ら、口の中で、クランドという言葉を反芻していた。
﹁クランド。あのお、もしかして、クランドさんって、王都の方か
らこちらに移られて来られた方なのですか?﹂
﹁ああ、そだけど﹂
﹁お名前の方は、シモン・クランド。間違いないですかっ!﹂
﹁お、おおぅ﹂
﹁待て。待て待て。クランドよ。私は信じているが。もしかして、
この娘の腹の子が、まさか、おまえの⋮⋮﹂
アルテミシアの瞳がじっとりとしたイヤな熱を帯びたものに変わ
っていく。
蔵人は即座に否定した。
﹁ないないない! だいたい俺はロリじゃねえもんよっ!﹂
﹁ははっ! そうじゃないですよ、アルテミシアさんっ。クランド
さんってもしかしてウチの人がよく話している人に似ているような
気がしたのでっ。でも、名前もいっしょだし! もしかしたら、も
1335
しかしたらっ﹂
﹁え、なに。リコッテちゃんの旦那って、誰?﹂
﹁名前なんかいわなくても会えばわかりますよっ! うちの人は、
いっつもクランドさんのお話ばっかりしてましたからっ! さあ。
いまはちょうど休憩の時間だと思うからっ﹂
リコッテは蔵人の腕をつかむと、鍛冶小屋に向かって駆けだした。
慌てたように、アルテミシアとルッジが続く。
﹁ちょっ、このロリ強引すぎるんスけどっ!!﹂
﹁どーんっ!﹂
リコッテは妊婦の割には軽やかにステップを刻むと、素早く蔵人
の背に回って両手を突き出した。
﹁うおおっ、押すなってば!﹂
蔵人は投げ込まれるようにして鍛冶小屋に足を踏み入れた。うだ
るような熱気に蔵人はたちまちむせた。ひりつく喉から舌を出して
辺りを見やる。
部屋の半ばは土間になっており、妙に薄暗かった。部屋の隅には
炭俵が山のように積み上げられている。周囲には金床や火床、フイ
ゴにハンマー火かき棒や火箸が乱雑に置かれていた。水を入れた赤
レンガで組んだ水槽が隙間から差す光によって静かに揺れているの
が見える。
その空間の中央。
大きな木製の切り株で出来た椅子にひとりの男が座っているのが
見えた。
俺を知っている。いったい、誰なんだ。
蔵人の心臓が徐々に早まっていく。男がゆっくりと立ち上がるの
が見えた。
狭めにつくってあるとはいえ、立ち上がった男の頭が天井に突き
そうになるのを見れば、明らかに二メートル以上の長身であるのが
わかった。焦げ茶色の髪が背中で波打っている。
剥き出しにした上半身には発達した筋肉が盛り上がっているのが
1336
見える。胸筋は巌のように肥大しており、濃い胸毛が中央に向かっ
て密生していた。右肩の筋肉は特に酷使しているのか瘤のように大
きく膨れている。手にした大カナヅチは、どんな獣でも一発で殺せ
そうな途方もない重量をひしひしと感じさせることができる存在感
があった。紺色のパンツは、スパッタが飛び散るせいか、あちこち
が穴だらけになっている。右膝からは裾が破れて毛脛が飛び出して
いた。男の両眼は静かな色をたたえていた。顔面は濃いヒゲが生え
揃っており表情が読めない。肌の色艶や筋肉の膨らみから、まだ若
いということは理解できたが、年齢については見当もつかない。
どうしよう。
リコッテは会えばわかるといっていたが。
﹁おまえ。いったい、誰なんだよ﹂
蔵人にはまるで見当がつかない。
男は無言のまま汚れた木匙を出すと小さく振ってみせる。
たちまち記憶の線が繋がっていく。
﹁ま、まさか。おまえは⋮⋮﹂
男が無言のままうなづく。
蔵人は弾かれたように飛び上がると、男の腕をつかんで大きく叫
んでいた。
1337
Lv84﹁無口すぎる男﹂
﹁ドロテア、なのか﹂
蔵人は信じられないといった顔つきで瞳をしばたかせた。
﹁違います! 誰ですか、それ! マーサですよっ﹂
リコッテが両手を挙げて男の名前を訂正する。というか、全然別
人だった。
マーサ。忘れもしない、ロムレス第一監獄を共に破牢したかつて
の仲間だった。
だが、蔵人は完全に記憶野からデリートしていた。友達甲斐のな
い男である。
リコッテから、﹁こいつ本当にうちの人のいってた友達なの?﹂
という、冷えた目線が注がれているのに気づく。
蔵人は口元に握った拳を当てて、あからさまに空咳をすると、顔
を引きつらせながら重々しくつぶやいた。
﹁⋮⋮うん、そうだと思ってた﹂
﹁嘘ですよね﹂
﹁はは。君たちを試したんだよ。おおう、マーサ! しばらく見な
いうちにでっかくなったな! ははっ、ははっ。⋮⋮なあ、マーサ、
なんだよな?﹂
﹁なんで疑問形なんですか﹂
蔵人の知っている五ヶ月ほど前の姿は、十七歳の少年にしては変
哲のないありふれた姿だった。
記憶の中の少年の背丈は、百七十に届かず、どことなく筋張って
1338
痩せていた印象が強い。
だが、いまの姿を見れば、まるで別人のように著しい変化を遂げ
ていたのだった。
二メートルを遥かに越す身長は、百八十三はある蔵人からしても
見上げるような大きさだった。腕の太さは、女性の腰ほどもあり赤
茶けた体毛が密生している。
ほとんどゴリラである。
その上、マーサの顔全体は濃い髭に覆われていて表情がまるで読
めない。戸惑うのも当然といえよう。彼の引き結ばれた唇は意志の
強さを象徴し、眉間に寄ったしわは気難しい哲人を思わせる。
唯一変わらないのは、澄み切った無邪気な瞳の輝きだけだった。
腰の引けまくった蔵人をよそに、リコッテはマーサにちょこちょ
っていってます﹂
クランド久しぶりだったな! 元気にしていたか
こ近づくと、小さな耳を寄せて何事かを聞き取っていた。
﹁うちの人は、
! なつかしいぜ!
﹁⋮⋮ああ、そこは通訳が入るんだ。そうだな。それなりに元気だ
ったよ。しかし、やっぱり変わりすぎだよ。もしかして、あのとき
おいおい。久々にあったダチ公にそのいいかたはねぇだろ! のおまえは別の人間の皮でもかぶってたのか﹂
﹁
ま、いろいろあってさ!
俺もこいつのトコに婿入りする形で鍛冶屋になったってわけさ!
﹂
まあ、あんなことがあったんじゃ、さすがに都で鍛冶屋をやる
﹁うーん、そのざっくり加減。まさしくマーサのような気がする﹂
﹁
わけにいかねーし。んで、どーすべえかなってところで、このシル
バーヴィラゴに来たってわけだ。この街はゴロンゾもすげーってい
﹂
ってたしな。もちろん、世界一の鍛冶屋になるって夢は捨ててねえ
!!
﹁おう﹂
﹁しんみりしているところ悪いのだが、なぜいつの間にやらリコッ
1339
テとそれほど突っこんだ話をしているのだ?﹂
﹁ボクも興味あるね﹂
戸口でやりとりを静かに見守っていたアルテミシアとルッジが口
を挟んでくる。
傍から見れば、いきなり部屋に引っ張りこまれた蔵人が初対面の
女性と仲良さげに話しだしたのである。
しかも、妊婦。彼女たちにしてみれば聞かずにはいられなかった
のであろう。
﹁あー、久々に会ったダチが、どうも照れくせーみてーでよ。同時
通訳? みたいな﹂
﹁誰じゃー! 神聖な儂の作業場で騒いでいるやつらはああっ!!﹂
﹁あああっ、うるせええなあっ!! なんなんだよいったい!﹂
しわがれた声が銅鑼のように激しく鳴った。
同時に、威勢のいい初老の男が鍛冶小屋に姿を見せた。
歳の頃は六十前後。長い金色の髪は半ば白髪が混じり薄まった色
をしていた。
背丈は百五十に満たない。
小男ではあるが、もろ肌脱ぎになった肩の肉の盛り上がりは中々
のものだった。鷹のような鋭い目つきである。鼻は見事な鷲鼻であ
り長い口ひげは丁寧に整えられている。
彼こそが、シルバーヴィラゴ一の名工、ノワール・スミスであっ
た。
﹂
スミスはかくしゃくとした様子で両腕を組むと一同を睨み据えた。
﹁誰だよ﹂
おいでなすったな、クソじじぃ
﹁そりゃこっちのセリフじゃよ﹂
﹁
リコッテが愚直にマーサの言葉を翻訳すると、スミスはショック
を受けたように膝から崩れ落ちた。
﹁り、リコッテ。また、とーちゃんに向かってそんな口の利き方を
っ﹂
1340
﹁あー、もう通訳はしなくていいんじゃねーかな?﹂
﹁父のノワール・スミスです﹂
﹁あんた絶対わざとやってるだろう﹂
﹁そんなわけありません﹂
リコッテは口をへの字にするとかぶりを振った。大きなお腹が左
右にゆれた。
﹁儂のかわいい手塩に育てたひとりむすめが、こんなどこの馬の骨
ともわからん小僧にてごめにされ、孕まされてっ! ええい、儂は
まだおまえらの結婚を心から認めたわけじゃないわいっ!! だい
たいなんじゃ、いまは新規の仕事は断ってると口を酸っぱくしてい
っておるのにぃい!!﹂
﹂
スミスは口角泡を飛ばしながら叫ぶが、マーサはひとことも言い
はは。ジジィ。そんなにカッカすると血管ブチ切れるぞ
返さずにそのまま佇んでいるだけだった。
﹁
リコッテの通訳。
スミスは頭を抱えて顔をクシャクシャにした。
どう見ても感情過多である。
﹁はうううっ! り、リコッテぇ。儂のかわいいいリコッテはどこ
にいったのじゃあぁ。儂と結婚するといってカカアをマジギレさせ
ハナ
たあの天使は﹂
﹁んなもん最初からいません﹂
﹁はううっ﹂
﹁おい。いまのは翻訳じゃねえよな﹂
﹁私に聞くな﹂
アルテミシアは疲れたように目を伏せて応えた。
﹁うううう、うるせえっ! だいたいてめぇらはいったいなんなん
でぇ! 人んちに断りもなしにズカズカ入りこみやがって! マー
サ、おめえもだ! 知りあいだかなんだか知らねぇが神聖な男の仕
事場にわけのわからねぇやつをいれるんじゃねぇやっ!!﹂
﹁おいおい。マーサじゃねえが、ジイさんそうカッカすんなってば。
1341
おい⋮⋮﹂
蔵人が目線を動かすとアルテミシアが手にしていた剣を鞘ごとス
ミスに手渡した。
﹁む⋮⋮﹂
さすがに骨の髄までの刀工である。スミスはピタリと口を閉じる
と、手渡された長剣を鞘から抜き取った。猛禽類のような瞳が鋭く
細まる。スミスは子細に刃を見聞すると白金造りの鞘にゆっくりと
剣を納めた。
﹁⋮⋮いい剣だ。だがな、お嬢ちゃんよ。こいつはすでに寿命だ。
研ぎ直したところで、そう長くは持たない。命が惜しければ、金は
ケチらず上等なもんを手に入れるこった。剣士が自分の得物に妥協
するときは、もう先がねえってことだ﹂
﹁そんなに、ひどいのか?﹂
アルテミシアの瞳が不安で揺らぐ。
キラキラした碧の瞳に見据えられ、スミスはわずかに視線を避け
た。
﹁ああ、ひどいのひどくないのっていう話じゃねえ。あんた、ここ
数カ月程度で随分酷使しただろ。この剣はそもそも人間以外のもの
を斬るように作られてねェんだ。おまけに、鞘との格の違いがまた
違いすぎらぁ。もっと格の上の剣をしまうべきなんだよ、この鞘は。
そう、こいつは段違いにすごすぎる。この鞘、白金造りのこいつは、
ロムレス全土を探してもそうそうお目にかかれるようなもんじゃね
ぇ。いうなれば、剣と鞘がまるで釣り合ってねぇ。儂からいわせり
ゃ、こいつは美しくねえ。醜くすらある﹂
﹁そうか、そんなにか﹂
﹁お父さんっ! いいすぎっ﹂
﹁な、なんだよ﹂
スミスは即座に娘にたしなめられ後ずさった。
一方、アルテミシアは戦力外通告を受けた相棒をじっと見ながら
感慨に耽っていた。
1342
さもありなん、スミスがつりあいが取れないといったのはその通
りだった。
元々アルテミシアが使っている鞘は、ロムレス三聖剣である白鷺
と対になっていたものである。業物ではあっても並の剣では国宝の
白鷺の鞘とマッチするはずがないのだ。
﹁ああ、申し遅れた。私は騎士のアルテミシアと申す。貴殿が名工
で知られるノワール・スミス殿で間違いないだろうか﹂
﹁よしてくれ。おだてられてもこちとらケツの穴が痒くなるだけだ
ぜ。それに、適当に見繕って一本か二本か譲ってくれという話なら、
どうにもならねえからな。あらかじめ、断っておくぜ﹂
﹁なぜだ﹂
﹁なぜかって? 儂が隠居したって話は聞かなかったのかよ﹂
﹁それは、聞いたが⋮⋮﹂
﹁なら、話は早いじゃねえか。儂はな、もう剣を作るのはやめたん
だよ。店に来る冒険者たちときたら、てめぇの腕に合わねえ上等な
剣ばかり欲しがる割にはまったく使いこなせねえ。挙げ句の果てに、
ガラクタ同然になってから平気な顔して店に持ってきやがる! い
くら剣ってものが消耗品でも、あんな使われ方ばかりしてちゃあこ
ちとらもキリがねぇぜ。
リコッテがおまえさんたちにどういうことをいったか知らねえが、
ようするに気が乗らねえんだ! どうしてもっていうなら、そこに
いるボンクラにでも無理やり頼むことだな!
儂はもうそういうのはたくさんなんだよっ!﹂
スミスは瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にすると、一息に憤
怒を爆発させた。
それは、どう考えても蔵人たち以外に向けて喋ったつもりに積も
った客への不満だった。
怒りを露わにした老刀工は大股で鍛冶小屋の扉を開き、母屋に向
かって歩いていく。
ポカンとその後ろ姿を見送っていた蔵人たちにリコッテが謝罪の
1343
言葉を口にした。
﹁すみません。父はこのところ虫の居所が悪くて。それに、気が向
かないなんていっていますが、本当のところは仕事がしたくて仕方
ないのですよ。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
ルッジは眼鏡の位置を直すと話を促した。
﹁父は、腰を完全に痛めておりまして、剣を打ちたくてもロクに座
っていられないのです。お医者さまは、いちどきに無理をしなけれ
ば仕事を続けても問題ないとおっしゃられてるのですが﹂
﹁ふむ。なにか、他にも理由がありそうだな。リコッテくん﹂
しゃがんだまま木槌をいじくっていたルッジが続きを促した。
﹁ええ。実は、最近父目当てにお客さまが参られまして。ちょうど
そのとき、父はかかりつけの医者のところへ出かけていたのです。
お客さまは、いつも来られる方ではなく、一見の方で、もうとにか
くすぐさまノワール・スミスに仕事を頼みたいとの一点張りで。そ
こで、うちのひとが父の代わりに剣を研ぎ直したのですが。これが、
実にうまくいったみたいで、しかもしかも、あろうことかそのお客
さまはうちのひとを父だと、ノワール・スミス本人だと思いこんで
しまったようなのです。ええ、すぐにもその誤解は解けたのですが、
運悪くそれが父の耳に入ってしまって﹂
﹁それでおかんむりと﹂
﹁お恥ずかしい次第で﹂
ルッジは困ったように蔵人を見ると細い顎に指をかけてわずかに
首を傾げた。
アルテミシアも瞳を曇らせながら、無意識なのかそばに来た。
この工房がスミスのものならば、本人がへそを曲げている限りど
うにもならない。
どうにもならないことをいつまでも愚図るしつこさは蔵人の中に
はなかった。
﹁んじゃ、帰るか﹂
1344
決断力の速さはピカイチである。踵を返す男の肩へとアルテミシ
アが手を伸ばした。
﹁帰るかって。クランド。いいのか。その、事情はよくわからない
が久しぶりに会えた友、なのだろう。私たちは先に帰るから、おま
えはゆっくりしていけばいいのではないか﹂
﹁と、いうことで彼女は先に戻るそうだ。ボクらはゆっくりしてい
こうじゃないか﹂
﹁おまえな⋮⋮﹂
﹁冗談だよ。そう拗ねるな、君﹂
﹁あのっ、あのっ! お仕事の方はどうにもならないかもしれませ
んが、せめて夕食だけでもご一緒にどうでしょうか? うちの人も、
クランドさんと積もるお話もあるでしょうし﹂
﹁まあ、わざわざ来たんだし飯くらい食っていくか。ゴチになるぜ、
マーサ!﹂
マーサは無言のまま手にした匙を左右に振った。
蔵人は、自ずとその匙で食った牢獄の残飯粥を思いだし、顔をし
かめた。
﹁ああ。そういや、あのメシのマズかったことマズかったこと。覚
えてるか? おまえ、俺の食い残したいらげようとしたんだぞ。と
もかくも、おまえのカミさんの手料理期待していいんだな﹂
マーサは相変わらず無言であったが、長い蓬髪の奥に覗く瞳はあ
の頃と変わらず、いたずらそうに強い輝きを見せた。
母屋は二室に分かれており、蔵人たちは大きなテーブルのある客
間に通された。
客間から続く奥の部屋は扉が閉められており静まり帰っている。
日はすでに落ちており、世界は真っ黒な闇に塗りこめられていた。
リコッテがときどきスミスのこもる奥の部屋に食事が出来たこと
を大きな声で知らせたが、つむじを曲げた老人は頑として応えず閉
じこもっている。
﹁もう。お父さんったら子どもみたいっ。せっかくのお客さんなの
1345
に﹂
リコッテが用意した夕食は簡素であるが心のこもった手料理であ
った。
鳥の塩釜焼きに魚介類をふんだんに使ったスープと野菜サラダ。
白パンにデザートのチョコムースである。
マーサはテーブルに座ったまま無言の行を通したが、慣れてみれ
ばそれは別段不快でもなかった。とにかく、女房であるリコッテが
人の二倍も三倍もしゃべるのである。そのうえ、今日の卓には同じ
ような年頃のアルテミシアとルッジの姿があった。女三人寄ればか
しましいとはよくいったものである。彼女たちの話す内容は、とり
とめがなく結論のないだらだらしたものだった。女の声を聞くだけ
でしあわせな蔵人の脳もこれにはさすがに耐え切れる限度があった。
アルテミシアとルッジが次第に舌をすべらせて、蔵人からしてみ
ればなにをどうしてそこまで熱中して喋れるのかといった無意味な
日常の瑣末事を延々と繰り返しているうちに、もはや声高な雑音に
我慢ならなくなったのかスミスが奥の部屋から這い出してきた。
リコッテは特に気にした様子も見せず、舌は動かしたまま食事を
温め直す。
スミスはしかめっ面のまま、それらをアテにして酒を飲みはじめ
た。
自然、残った男三人は酒盛りをはじめる格好となった。スミスは
渋面のまま蔵人に杯を渡すとなみなみと酒精をついだ。人並み外れ
て酒の強い蔵人がそれをひといきに空けると、わずかだがスミスの
表情が和らいだ。
マーサは体格に似合わず舐めるように酒を飲んでいる。スミスは
大きな身体を縮こませるようにして杯を持っているマーサを横目で
にらみ、軽く舌打ちをした。
﹁こいつのいいところは無口だ。男は余計なことをベラベラしゃべ
るのはいかんと儂は思うちょる﹂
﹁あっそう﹂
1346
﹁だがな、弱い。いかんせん弱すぎる﹂
確かにスミスのいうとおりだった。マーサは小鳥がついばむ程度
にしか酒を干していないのに、すでに目元をくっきりと赤らめてい
た。彼は、よほど酒には弱い性質らしい。
﹁ああ確かによえーな。しかしな、ジイさん。そいつはしょうがね
え。酒の強い弱いは個人差があるってもんよ﹂
﹁個人差だあ? なにを男がそんな情けないことをっ。儂がこいつ
くらいの歳には、毎日浴びるように酒を飲んでいたもんだ﹂
﹁そりゃ飲みすぎだ。尿酸値が上がりまくりだぜ﹂
﹁うるせえっ! この程度の酒は大の男にとっちゃあ、水っ。水み
たいなもんよっ。それを、こいつはデカい図体をしておきながら、
とんと意気地がねえっ。娘っこでもあるまいし、舐めた程度で顔を
真っ赤にしやがって。ああ、情けねえ。ふん、それにくらべておめ
えはちっとはイケる口のようだ。まったく、酒飲みにとって下戸と
差し向かいでいることほど間の抜けた話はねえからなぁ﹂
スミスは真っ白な歯を剥き出しにすると、骨つき肉をバリバリと
噛み砕いてみせた。口内で肉と骨をおもいきりギシギシ噛みこんで
エキスを搾り出す。
それから、これみよがしにカスを皿へと吐き出してみせる。
それを見ていたリコッテが﹁父さん、汚いっ﹂と叫んだ。
スミスはちょっとバツの悪い顔をすると、気にしない風を装って
酒を一気にあおって杯を空にする。どうやら一人娘にはとことん弱
いようだった。
﹁まあ、マーサはまだ若いし、それほど場数を踏んじゃあいねえん
だろうよ﹂
蔵人は手酌で蒸留酒を生のままつぐと負けじと飲み干す。
手元の石のようになった硬いチーズに手を伸ばすと、アルテミシ
アが寄ってきてすぐさま器用に切り分けた。スミスは揶揄するよう
に目元をゆるませると蔵人の肩を小突く。手に持った杯が揺れて、
炒り豆を持った皿に降りかかった。
1347
﹁若い? 若いっつっても、こいつは三十を過ぎてるだろうが﹂
﹁そんなわけないだろ。確か、俺よりみっつ下だったからな。マー
サは、まだ今年で十七のはずだ﹂
﹁はあああっ!?﹂
﹁えええっ!!﹂
蔵人の言葉にスミスはおろか、おしゃべりに興じていたリコッテ
までが振り向きざまに叫んだ。
﹁え、あ。だって。それじゃあ、あたしの方が、六つも年上ってこ
となの﹂
﹁⋮⋮こいつ、まだそんなガキじゃったのか﹂
﹁あのな、ジイさんはともかくリコッテは旦那の歳くれぇ知らにゃ
あまずいんじゃねーか﹂
スミスはマーサの実年齢が自分の思っていたより異常に低いこと
に激しいショックを受けたのか、杯を空にするスペースがどんどん
早くなっていった。
時刻はすでに、深夜を回っている。蔵人たちはスミスの勧めもあ
り、一晩宿を借りることになった。リコッテとルッジは早々に寝室
に移動したが、無理をしてつき合っていたアルテミシアがゆっくり
とテーブルの上で船を漕ぎ出した。
﹁眠いか、アル。無理しねえで寝ろよ﹂
﹁うむ。だが、私は最後まで、つきあうぞ﹂
﹁いや無理しなくていいから。ほら、ベッドまで行けるか﹂
﹁うむ、なんとか﹂
アルテミシアは気力を振り絞って受け答えをしていたが、少し目
を離したすきにテーブルの上に突っ伏してしまった。彼女の長い金
色の髪がさぁっと放射状に流れる。色白の頬が火照ったように緋が
走っている。男たちの目を奪う、はっとするような色気があった。
﹁ったく、しょうがねーな﹂
蔵人は席を立つと寝こけたアルテミシアを軽々と抱きかかえた。
いわゆるお姫様だっこである。
1348
もちろん親切を装って乳を揉むことも忘れない。器用に左手を動
かし重たげな乳房をぎゅうと絞る。アルテミシアの桜色の唇が切な
げに震えた。
干し肉をかじっていたスミスが品のない笑い声をケタケタと上げ
る。マーサは首だけを動かすとぎょろりと瞳を動かす。それが、彼
の意思表示だった。
蔵人とアルテミシアは同程度の身長であったが、重さはやはりか
なりの差があった。
いや、単純にこの世界に来て蔵人の腕力が異常に鍛えられたとい
うべきか。
︵軽い。こいつ、こんなに軽かったっけか︶
﹁⋮⋮それは。鎧の、重さだ。⋮⋮うーん﹂
﹁どんな寝言だよ﹂
騎士として日々修練を欠かさない彼女も、鎧を剥げばやはりひと
りの女に過ぎない。
ムッチリとした腰と女らしい背を抱きかかえているうちに、邪念
が自然に湧き上がってくる。それでも、はじめて訪ねた人さまの家
で不埒な行為に及ぶほど常識がないわけでもない。
﹁うーん、鎮まれ、鎮まれ。俺の邪念よ﹂
蔵人はムクムクと湧き上がる青い衝動から視線をそらすと、あて
がわれた母屋の一室の扉を頭を使って押し開く。寝台と小さな文机
のみが置かれた簡素な部屋だ。一足先に潰れたルッジの横にアルテ
ミシアの身体を横たえると、燭台に点っていた火をわずかに大きく
した。
﹁おおっ﹂
ゆらめく赤い光に照らされたふたりの美女が網膜に映り込む。
蔵人は健やかな寝息を立てるふたりのそばに近づくと、生唾を飲
みこみそっと顔を近づけた。
よし、とりあえずもう一回揉んどこう。それくらいは許されるは
ず。
1349
そっと腕を伸ばして仰向けになっているアルテミシアの胸に触れ
る。
﹁んっ﹂
彼女のずっしりとした重い乳房は寝転がっても充分なかたちを保
っていた。五指を開いて、美肉を鷲掴みにする。程よい弾力が瑞々
しい反発を生み出す。
﹁やはり、イイものをお持ちですな。となると、仲間ハズレはいか
ん﹂
わけのわからん理由をつけて、蔵人はルッジの胸もついでとばか
りに揉んだ。
あまつさえ、毛布から長い脚を引きずり出してペロペロした。
﹁おおっ、たぎってきたぜ!!﹂
蔵人は目を血走らせて、寝台に飛び乗った。
すでにちょっとどころのレベルではなかった。
立派な性犯罪者である。
完全に情欲の火がついた蔵人がパンツを脱ごうと下穿きの紐をゆ
るめたとき、入口の戸が不意に開いた。
﹁あのお、まだ起きてらっしゃいます︱︱クランドさん﹂
戸口でリコッテが汚物を見るような目をしていた。
当然であろう。
中腰のままズボンをズリ下げ、半ケツ状態で硬直している男には
相応の態度だった。
﹁にゃ、にゃ∼ん﹂
リコッテのひたすら冷たい視線に耐え切れず、猫の鳴き真似をし
た。
彼女は真顔のままだ。
蔵人は身を縮こまらせたのち、ひっくり返って死んだふりをした。
もちろん、そんなことが通用する甘い相手ではなかった。
このあと、夜明け近くまでこってりと説教を受け、彼が解放され
たのは東の空がしらみはじめる頃だった。
1350
1351
Lv85﹁郭公の托卵﹂
﹁こんな美少女たちとお買いものに行けるなんて、クランドさんは
しあわせものだなって自分でも思いません?﹂
ヒルダは目を伏せて恥ずかしそうに身をよじると、愁い顔でつぶ
やいた。
﹁え。なんだって?﹂
蔵人はすっとぼけた様子で耳に手を当てるとわざとらしく聞き返
した。
ヒルダはほっぺたをモチのようにぷくっと膨らませ、金色の瞳を
大きく開き威嚇をはじめる。
﹁ほほう。そこで聞き返すとは。ちょーっとその態度いただけませ
んねぇ。えいえい﹂
﹁おい、娘。袖を引っぱるのはやめんしゃい﹂
﹁こら、往来の真ん中で喧嘩しないのっ﹂
レイシーはヒルダを蔵人から引っぺがすと小言をいった。だって、
と不満を垂れる彼女の額を人差し指で弾く。ヒルダはほんのりと涙
目になった。
よく晴れた日の午後、蔵人たち三人はリースフィールド街に買い
出しに出ていた。主な目的は日常品および銀馬車亭で出す食品の材
料である。
蔵人の主な役目はレイシーが購入した小麦や保存品などを大八車
に乗せて運搬することである。やはり女手では不可能な量の物品を
購入する際にはときおりこうして駆り出されることがあった。
この世界において人力はいまだもっとも重要な役目を果たしてい
1352
たといえよう。
﹁ごめんね、クランド。いっつも、こんなにたくさん運ばせちゃっ
て。だいじょうぶ? つらい? 今日はこのくらいでやめとく?﹂
﹁はは。このくれーどーってことねぇぜ。軽いもんだっての。それ
にいつもって、今日で二回目だろ。レイシーは気にしすぎだ﹂
﹁本当に? 無理しないでね。あのね、急にいつも出入りしてる御
用聞きが軒並み来なくなっちゃって。どうしたのかしら﹂
﹁そいつは困ったね⋮⋮﹂
﹁困ったねじゃないでしょう。レイシーや、よくお聞きなさい。そ
の出入りの肉屋と雑貨商を残らずコテンパンにしたのはこの男です﹂
ヒルダは蔵人の額にぴ、と手のひらを当てると重々しく告げた。
蔵人は頬を掻きながら困ったように眉間にしわを寄せる。ちょっと、
猿っぽい風情だ。
﹁だって、あの小僧どもがレイシーに色目を使うから﹂
﹁ええっ! そうだったの!?﹂
﹁そうだったのですよ。というか、レイシー。クランドさんを咎め
なくても良いのですか。この私の清い公正な魂が彼に天誅を下せと
仰っています﹂
﹁天誅だなんて、ひどいこというなよ。ちょっと、撫でてやっただ
けだぜ﹂
﹁全員病院送りでしたよねぇ。後始末はまたもや教会に振っていた
わけですが﹂
﹁え? あのおっさんて、その為だけに生まれてきたんじゃねーの﹂
﹁マジでかわいそうです、ウチの司教。それよりも、さっ! レイ
シー、ここは心を鬼にして叱っとかないと。いつか、この男はボグ
ッとやっちゃいますよ。もう私、死体を埋めるのも弔うのも見なか
ったことにするのもゴメンです﹂
﹁え、えーと。ダメでしょ! ⋮⋮こんな感じかな。えへ﹂
レイシーは蔵人の額に軽くチョップをかますと、ちらりと赤い舌
を出してはにかんだ。
1353
蔵人は激しく脂下がるとだらしなく頬をゆるめ、額を押さえて効
いたフリをしだす。
﹁うわーい、怒られちゃった﹂
﹁ダメだ、こいつら﹂
ヒルダは冷えた口調で突き放すようにいった。ジト目でレイシー
をにらむ。そこには微妙な割り切れない女心が複雑に絡みあってい
た。蔵人は馬鹿なので当然気づかない。
﹁だって、クランドはあたしの為を思ってしてくれたんでしょう。
その、確かに暴力良くないことだけど、でもでも。それって、結局
クランドがあたしにヤキモチ焼いてくれたってことだし﹂
﹁レイシー﹂
﹁クランド﹂
蔵人たちは往来の真ん中で、感極まったように互いの目を見つめ
あい、熱い視線を交錯させる。傍から見ると、大八車を引いている
蔵人は滑稽の二文字に尽きた。
ヒルダはかーっと喉を鳴らすと、道端にんぺっ、とかわいらしく
口を尖らせて唾を吐いた。
道端を歩いていた老婦人は驚きのあまり、腰を抜かしその場に尻
餅を突く。
横を歩いていた旦那らしき老夫は杖の置き場を見失うと、顔から
地面に突っ込んで微動だにしなくなった。
贔屓目に見て大問題である。
﹁もういいですよーっだ、ふたりで、世界作っちゃって。私、そう
いう空気、自分以外の人にされると覿面に頭に来るんですよね。の
で、これからは積極的に壊していこうと思うので、そのおつもりで﹂
﹁や、やだな。べつにあたしはそんなつもりじゃ﹂
﹁ぎゅーっ﹂
ヒルダは幼児のようにいきなり蔵人に抱きつくと頬ずりをした。
レイシーは困ったように頬に手を当て、髪の毛先を弄びはじめた。
﹁おい、なんの脈絡もなくくっつくなっての﹂
1354
﹁ふんふんふん。これから匂いつけの作業に入ります。覚悟はよろ
しいか﹂
﹁おい、変な子がよりいっそう壊れたぞ﹂
﹁私は壊れてなどおりません。そのような目で見るあなたの心が壊
れているのですよ﹂
﹁あ、いい笑顔だ﹂
三人が駄弁りながら話していると、四辻に差しかかった。
道筋には暑さを嫌ってか人々の往来はまばらだった。
﹁あっついですねー。ちょっと、お茶しません? クランドさんも
つらそうですし﹂
﹁そうね、少し休みましょうか﹂
﹁だったらおまえは車から降りろよ⋮⋮﹂
ヒルダは荷物を満載した大八車の上にちょこんと座っていた。
蔵人が足を止めてカジ棒から手をはなすと車体が傾く。
ヒルダは、﹁とうっ﹂と叫びながら猫のように身軽な動きで着地
に成功した。
﹁ふふふ。不意を突いたようですが、その程度では私の堅牢なバラ
ンス性能は崩せませぬ。
⋮⋮あれ? なんでしょうか﹂
ヒルダの言葉に視線を転じると、そこには物陰で三人ほどの男が
小柄な少女を取り巻いているのが見えた。物見高い人々もこの暑さ
では群がる気力もないのだろうか、ちらりと通りがかりに視線を向
けては足早に去っていく。ときおり男の甲高い声が響くが、それは
いささか緊迫に欠ける間の抜けたものであった。
絡んでいる男たちもやけに小さすぎて威圧感を感じない。
﹁あら、ノーム族の皆さんですね。ふむふむ﹂
ヒルダが訳知り顔に両手を組んでひとりうなずいている。確かに、
子供のような背丈の男たちが喚いていてもそれほど切迫感はない。
勢い、止めるものも見物するものも出てこないのである。彼らは一
概にして、見ていて胸躍るような気持ちを掻き立てる部類の種族で
1355
はなかった。
﹁義を見てせざるは勇なきなり。絶対的正義の名のもとに私が止め
てまいりましょーっ。こらー、ぼくたちぃ、かよわい少女を嬲るの
はやめなさいっ﹂
﹁なにが絶対的正義だ。完全に見下してんじゃん﹂
ヒルダは鼻息を荒くし騒動の中心に駆け込んでいった。彼女より
も拳ひとつほど背の低い男たちがぎょっとした様子で顔を上げる。
さっと割れた空間の中、囲まれていた女が顔を上げた。
彼女は蔵人の顔を見ると、よりいっそう蒼白となった。
﹁リコッテ⋮⋮!﹂
もちろん彼女は数日前に再開した友であるマーサの正式な妻であ
る。
蔵人が身を乗り出すと、リコッテは深くうつむくとかぶりもので
顔を隠した。
だが、その突き出た腹と見覚えのある顔はとても隠しようのない
ものであった。
﹁え? え? この妊婦さん、もしかしてお知りあいですか﹂
ヒルダがとまどった声を出すと、リコッテの手をつかんでいた若
い男が前へと一歩踏み出してきた。
﹁おいおい、尼さんよう。俺たちゃ、ちょっと立ち話してただけだ
ぜ。それを、嬲るだなんだと、ちょおっと決めつけすぎじゃねぇの
かよう!﹂
男は二十代の半ばぐらいであろうか。長い金髪はよく梳かれ、後
ろでひとつにしている。顔立ちは比較的整っており、細い鼻梁や切
れ長の目は澱んだような退廃的な男の色気が濃く漂っていた。
﹁やめて、リカルド!﹂
﹁へへ、おまえは黙ってろや!﹂
﹁あうっ﹂
リカルドと呼ばれた男は身重のリコッテを甲高い声を上げて突き
飛ばした。
1356
蔵人が身を乗りだすと、それより早くレイシーが飛び出した。
﹁どいてっ﹂
レイシーはリカルドの肩を押すと呆然としているリコッテに寄り
添った。
﹁なんてことを。あなたたちには神の懲罰がいまにも必要そうです
ね﹂
ヒルダは白い杖を両手で構え、男たちをにらみつけた。対して男
たちは冷笑を浮かべながら下卑た顔つきでヒルダの身体の線を舐め
るように視線を送った。
﹁へへ。美人な尼さん。俺たちにどぉーんな罰をくれるんだって?﹂
﹁無関係な人間は引っ込んでいたほうがお得ってもんだぜ﹂
﹁それでも、是非とも俺たちと遊びてぇってのなら話は別さ。じー
っくり涼しい場所でくんずほぐれつ聞いてやるぜ。なあ?﹂
いきがるノーム族の無法者たちを前にヒルダは余裕だ。理由はも
ちろん、彼らが軒並み自分よりちんまい背丈だからである。なんと
もわかりやすい性格である。弱い者に強いヒルダ。蔵人の中で彼女
はそう定義づけられたことを、彼女は知らない。
﹁ふふん。これでも私はローグ流杖術の免許皆伝です。あなたたち
三人程度ならコテンパンのギッチョンチョンにしてあげます﹂
﹁それは、困った。なあ、相棒﹂
男の一人が背後の店先に向かって声をかけた。
まず最初に強烈な異臭が蔵人たちの鼻を突いた。
軒先から現れたそれは、二メートルを越す巨躯の野人だった。
長い蓬髪を地に引きずりそうなほど伸ばしている。豊かな顎ヒゲ
はまったく手入れをしていないのかゴワゴワと固まって獣の毛皮を
思わせた。盛り上がった上半身の筋肉は鍛えてどうこうなる規格で
はない。手には巨木をへし折ったような棍棒が握られていた。
オーガ、と呼ばれるモンスターである。
彼らは通常、迷宮の奥深くに住み知能は限りなく低いとされた。
訓練によってある程度の人語を介することはできるらしいとされて
1357
いるが、性、粗暴につき飼い慣らすのは不可能とされているのであ
る。ノームたちの余裕の根源はここにあった。
リカルドはちっちと舌を鳴らすとぬうっと前に出たオーガの太も
もを手で叩く。その気安さは、主人が飼い慣らした犬に行う手馴れ
たものと同じだった。
ヒルダは、オーガを見て取ると、素早い動きで蔵人の背に隠れた。
その早さ、その勢いは先ほどの鼻息の荒らさからは予想もつかぬ程
の身軽な動きだった。
﹁おい。ローグ流杖術の手並みはどうなった﹂
﹁仕方がないです。今回は手柄をクランドさんに譲渡します﹂
﹁はぁ。さよか﹂
﹁⋮⋮というわけだ、尼さんにそこの兄ちゃん。俺たちを本気で怒
らせる前にとっととこの場を立ち去ったほうがいいんじゃないかい
? 別段、俺たちゃ荒事を好んでいるわけじゃねぇ。リコッテと話
をつけたらとっととおさらばするさ﹂
﹁あなたたちっ! 妊婦さんにこんなひどいことしておいて謝りも
しないなんてどういうことなの!﹂
だが、この程度の脅しに屈しない女がただひとりいた。
レイシーである。
彼女は、リコッテのそばで胸をそらすと猛然とした様子で抗議し
た。
﹁おいおい。この姉ちゃんは、まるで目が見えんらしいな。もしか
して、恐怖のあまりおかしくなっちまったのかなぁ。へぶっ⋮⋮!
?﹂
レイシーはヘラヘラと笑いながら近寄ってきた男を平手で張り飛
ばした。小柄な男は打ち下ろされた平手の勢い、で死んだカエルの
ようにその場で仰向けに倒れ込む。ニヤついた笑みを浮かべていた
男たちの顔がいっせいにこわばった。
﹁おいおい。こっちは大人しく引いてやりゃあ許してやるっていっ
てるのに。とことん、気の利かねえ女どもだなぁ。こいつはお仕置
1358
きが必要だよ﹂
﹁そうだそうだ! 関係ねえやつらはとっとと失せろっていってん
のに!﹂
猛然とノームたちがレイシーに掴みかかろうとしたとき、黒い旋
風が突如として立ち昇った。
﹁その女とは存じ寄りだよ。ダチ公の女房でな。理由はどうあれ、
知らん顔もできねえだろうが﹂
蔵人はヒルダを腰にくっつけたままレイシーの腕を引くとかばう
ように脇に抱いた。
同時に外套を翻すと、腰の長剣に手をかける。
男たちもすでに冗談ですむ次元の話ではなくなったのを敏感に察
知したのか、一様に真顔になり、額に細かな汗をポツポツと浮かび
上がらせた。
﹁待ってください! 本当に、本当になんでもないのです! クラ
ンドさんも、やめてちょうだい。あたしはリカルドと話をつけたら
すぐに帰りますから﹂
呆然としていたリコッテは腰を浮かしかけながら叫んだ。リカル
ドと呼ばれた男は、若干余裕を取り戻し、握っていた拳を開いて顔
の前で振ってみせた。
﹁というわけだ。クランドとかいうのか、おめえは。存じ寄りかな
にかは知らねえが、リコッテは俺の女だ。邪魔はしねえでもらおう
か﹂
﹁おい⋮⋮女ってどういうことだ﹂
﹁そんなの嘘! 嘘です!! リカルドはあたしの幼馴染でそんな
んじゃありません!﹂
﹁へへ、そう邪険にしねえでいいだろうが。この腹の子も、どうせ
俺の子に決まってらぁな。リコッテ。俺たちが仲良くしていた事実
は否定できねえだろう﹂
﹁むかし、昔の話よ! そんなこといまさら持ち出すなんてっ﹂
﹁⋮⋮確かに状況はよくわからねぇが、この状況でリコッテとまと
1359
もに話なんざできねえだろう。こっちもすべてを把握してるわけじ
ゃねえからな。俺も女連れなんだ。無駄な殺生はしたくねぇ。とに
かく、彼女だけは帰らせてもらう。歴とした旦那がいる堅気のおか
みさんなんだ。文句はいわせねぇぜ﹂
蔵人が全身から殺気を放射させると、リカルドは全身を硬直させ
てその場に釘づけになった。
オーガのみは、野生の習性でいっとき猛り狂ったが、調教はかな
り完璧のようで勝手に襲いかかってくるようなことはなかった。
蔵人はリコッテをレイシーたちに託してその場を去らせると、リ
カルドたちと残った。
路地の突き当りには、ちょっとした空き地があり、伐採した材木
を寝かせる資材置き場になっていた。
蔵人たちは、それぞれ適当な距離を取ると憮然とした表情で向か
いあった。
﹁んで、いいぶんがあるなら聞くぜ。手短に頼まぁ。もっとも、お
めぇのような三下の話はたいていつまらねぇと相場は決まってる﹂
完全に気圧されていたリカルドは負けじと平静を装ってしゃべり
だした。
﹁へ。大した度胸だな、兄さん。こっちもおまえのような胸糞の悪
いやつとツラ突きあわせる趣味はねぇ。俺はよ、嘘なんぞこれっぽ
っちもいっちゃあいねぇ。リコッテと前につきあってたってのも嘘
じゃねえやい﹂
﹁だとしても、いまの彼女は歴とした旦那がいる。おまけに身重だ。
さっきみてぇに道端で安女郎を口説くような真似するのは、道理に
あわねえんじゃねえか﹂
﹁へ。貸しがあんのよ! あいつにも、あいつのオヤジにもよ。お
まえ、クランドとかいったな。ダチ公ってのは、あのデカブツのこ
とか?﹂
﹁ああ、マーサのことであってるならな﹂
﹁じゃあいってやる! 俺とリコッテは幼馴染でな。恋仲だったの
1360
さ! 俺はつい最近までは、スミスのジジィのとこでずっと働いて
たんだ! ガキの頃からよ! 七年だ! いいか、七年もの間尽く
してきたのにだっ。それを、あのぽっと出の野郎が現れたせいで﹂
リカルドは屈辱を噛み締めるようにして、両肩を震わせながらう
つむいた。
真に迫った表情であった。
﹁おまえも、スミスの弟子だったのか⋮⋮﹂
﹁へへ。あいつからみれば、兄弟子ってことになるな。この春あの
マーサとかいう野郎が転がりこんでくる前まではなんの問題もなか
ったんだ。だがよ、あのうすのろが来てから、なにもかも変わっち
まった! ジジィはなんだかんだいってマーサのやつばかりえこひ
いきしやがって俺には目もくれなくなっちまった。それだけならま
だしも、あのデカブツは俺の女にまで色目を使うようになりやがっ
た! なあ、想像してくれよ。俺たちのこのナリを見てくれ。こん
な身体じゃ腕っ節であんなデカいやつにかなうわけ無いだろう。こ
の、オーガだってたまたま街で知りあったやつに譲り受けてもらっ
ただけの話だ。今日だってあんたは悪いように取ってるが、こんな
デカいやつでも連れてなきゃ、リコッテだって俺のことを侮って話
だって聞いちゃくれねぇんだ! 好きで連れ回してるわけじゃねぇ
んだ。怖いんだよ、俺たちゃ。あんたみたいなデカくて腕っ節が強
いやつらはよ!﹂
﹁だとしても、彼女を突き飛ばしたことは正当化できないぜ。腹の
子が流れでもしたらどうするんだ﹂
﹁ああ。それは悪いと思ってるよ。つい、俺もカッとなっちまった
しな﹂
﹁ところで貸しってやつはなんなんだよ﹂
﹁⋮⋮俺はスミスのジジィんとこに七年も奉公したんだ。元は、リ
コッテと一緒になるって約束でよ。婿養子ってやつかな。それが、
少々粗相をしたからって使い捨ての道具みたいにおっぽりだされた
んじゃたまらねぇ。けど、あの頑固ジジィにかけあったって、七年
1361
分はおろか、びた一の銭だって融通してくれそうもねえし。だから、
リコッテを呼び出して幾ばくかなりとも金を都合してくれるように
頼んだんだ。俺は、もう二十四だ。他の仕事に鞍替えするのには歳
を取りすぎちまった。わかるだろ! 生きていくのには金がいるん
だよ。特に、親兄弟もいない俺みたいな男にとっちゃな! 確かに、
さっきはリコッテをなじるようになっちまったがそこは勘弁して欲
しいぜ。テメェの女がよ、いきなりわけのわからねえ男に孕まされ
て寝取られちまったんだ。恨みごとのひとつもいいたくなるぜ。へ
へ、リコッテのやつ久しぶりに昔の男に会ったにしてはひどく冷て
ぇんだ。大方、マーサの野郎にいやってほどかわいがられて毎晩ヒ
ィヒィよがり狂ってるからに違いねえ! うまいことやりやがって
! 畜生め!!﹂
蔵人は両腕を組んで低く唸った。確かに、リカルドの言が真実な
らば、一朝一夕に片づけられる事柄ではない。ましてや蔵人は完全
にこの件に関しては部外者だった。真偽の判断は、少なくともいま
の情報だけでは行える部類のものではない。
﹁俺があんたに頼むのはひとつだけだ。これ以上このことに首を突
っこまないでくれや。これは、俺とあの家の問題なんだ。少なくと
も、スミスのジジィは手切れ金を少しは寄越す責任があるはずなん
だ。俺の七年という時間に対してよ﹂
リカルドは話している間も終始辺りを気にして怯えているようだ
った。
それだけ、彼の人生も追い詰められているということなのだろう
か。
不自然なほどの焦りが見えた。 蔵人はリカルドたちと別れると、大八車を引きながら銀馬車亭に
向かっていた。
重い。
もちろん荷物の重さもあるがそれだけではない。
絡み合った複雑な人間関係の重さであった。
1362
﹁雇用問題なんて社会保険労務士の範疇だぜ﹂
この世界には労働基準監督署も存在しない。徒弟に出されれば生
殺与奪の権利はすべて親方にあるのである。どんな仕事でも、半ば
で機嫌を損ねて放り出されれば、あとは強盗か浮浪の徒に落ちる他
はない厳しい世界である。仕事に関しては甘えも遅延も反抗も許さ
れないシビアなゲームバランスである。
もし、リカルドの言葉が真実ならば蔵人としてはやや同情的にな
らざるを得ない。
彼はそんな大甘な日本に育ったゆとりっ子世代であった。
黙々と荷物を満載した大八車を引いていくと、リネン橋のたもと
に小さな人影が見えた。
リコッテである。
彼女は蔵人を認めると、暗い表情で瞳をしばたかせ上目遣いにな
った。ゆったりとしたローブの上からわかる膨らみがやけにまぶし
かった。
橋のたもとではいくらなんでも人目につきすぎる。
ふたりは、河原に降りて流木に腰を据えて話をはじめた。蔵人が
聞いたリカルドのいい分を逐一聴き終えるとリコッテは即座に否定
した。
﹁そんなの、嘘です!﹂
﹁嘘って⋮⋮﹂
﹁その、確かにリカルドとは幼馴染なのは事実です。けど、昔につ
きあってたってこと以外はぜんぶ真実じゃありません﹂
﹁それじゃリカルドを叩き出してマーサに乗り換えたって話は⋮⋮﹂
﹁そんなの誤解です。リカルドは理由があって、鍛冶屋の見習いを
やめて出て行きました。でも、それはマーサと入れ違いのことで、
そもそもふたりとも面識だってないはずです。それに、父はリカル
ドが出て行くときに充分な心づけを渡しています。家のお金はあた
しが管理していますから。新たに仕事を探すなり、何年かは居食い
できるほどの額は渡してあります。それと、これ以上の理由は勘弁
1363
してください﹂
リコッテはそういうと悲しげに目を伏せた。長いまつ毛が川面を
吹き渡る涼やかな風にあおられ細かく震えている。彼女は、別れた
とはいえかつて愛した男を貶めるような言葉は一言だって他人に聞
かせたくないのだ。金の使い道をわかっていてもいわなかったのは、
リカルドが受け取った銭を蕩尽したことを理解していたからであろ
う。やさぐれたリカルドは全身から発する雰囲気からしてすでに裏
街道を突っ走る男特有のものである。そういった点では、彼女は男
を見る目は少しはあったといえるべきなのか。
少なくともゴミに見切りをつける程度には。
﹁それじゃ、結局すべてはあのリカルドってやつのいいがかりって
ことになる。問題はこのあとどうするかだ。自警団に通報するか、
それとも鳳凰騎士団に申告して法律院に裁いてもらうか﹂
﹁通報だけはやめてくださいっ! リカルドも、けして悪い人間な
んかじゃないんです。 腕はあるんですよっ。だから、きっといつ
か、いつか目を覚まして、正道に戻ってくれます。それまでは、ど
うか、どうか見逃してあげてください。お願いします!﹂
﹁ちょっ、ちょっと待て! 顔を上げろって、リコッテ。どうして、
あんなやつをそこまでかばう。いや、理由はいわなくてもわかる。
幼馴染だからか﹂
﹁はい⋮⋮﹂
リコッテは下げていた頭を上げると、遠くを見るような目つきで
銀色の照り返しが強い川面を眺めている。かつて、共に過ごした幼
馴染の記憶を反芻しているのだろうか。彼女の心は見えない。
いや、元々色も形もないものが心というものだ。
それは、時と場合によっていとも簡単に変容するものである。
リコッテの諦観すら漂う雰囲気に呑まれ、言葉を失う。彼女の幼
い面差しが、幼いころに見た誰かに重なり胸が鋭く痛んだ。パッと
見は少女にしか見えない彼女も、一児の母になろうとしているのだ。
ならば、第一に考えなければならないのは、すでに遠くなった繋が
1364
りよりも、直近にあるマーサのことであろう。蔵人が眉間にしわを
寄せて立ち上がると、リコッテのくちびるが静かに動いた。
﹁お腹の子は、間違いなくマーサの子です。それだけは、どうか。
どうか、疑わないでください﹂
﹁つらいことをいうようだが、だとしたらますますリカルドって男
を切り離さなきゃならねえ。リコッテよ。誓っていえる。あんたが
甘やかせば甘やかすほど、あの男はあんたたちに害をなす。確かに
これ以上は俺の立ち入れることじゃなさそうだな。判断は、マーサ
に委ねる﹂
﹁待ってください! あの人には、あの人にはいわないでっ!!﹂
リコッテは必死な形相で蔵人に掴みかかった。こんな小さな身体
のどこにあるかと驚くべき強靭なものだった。
蔵人は、外套にしがみつく彼女の指を丁寧に一本づつ引き剥がす
と、自分でも驚くほどの冷たい声音を出した。
﹁⋮⋮これは、勘違いかもしれねぇ。だから、あらかじめ謝ってお
くよ。あんた、マーサの子ができてからも、あいつと寝たのか﹂
リコッテは両手で顔を覆うとわっとその場に突っ伏して泣き出し
た。身をくの字にねじって背中を震わせるのを無理やり抱き起こす。
理由は腹の子に差し支える。ただそれだけだった。
﹁すまねえ。いいかたが悪かった。あんたの性格じゃ喜んで引き入
れたとは思わねえよ。無理やり、だったのか﹂
﹁だって! だって、リカルド怖い顔をして、いうんですっ! 腹
の子を降ろされたくなきゃおとなしくしろって!! 父さんと、マ
ーサがいない日にいきなり押し入ってきて! あの、オーガに耳元
でおっきな棒を振らせながらっ。耳元であのびゅんっびゅんって凄
い音が唸るたびにっ。だから、諦めるしかなかったっ。こんなこと
マーサに話せないしっ、赤ちゃんだって絶対に降ろしたくないのっ。
いうことを聞けばマーサにも黙っててやるって! あの三人でかわ
るがわるにっ!﹂
﹁今日も、それじゃあ﹂
1365
﹁定期的にお金を持ってこいって。でも、もういつものようにお金
を払えないってわかったら。⋮⋮客を取れと。下は使えなくても、
口ですればそれなりに稼げるって﹂
血の気が引いた。
蔵人は唇を鋭く噛み締めると、叫びださないようにするのが精一
杯だった。あの小男は、あろうことかリコッテの弱みにつけこみ、
身体をオモチャにするだけでは飽き足らず金まで際限なく搾り取ろ
うとしているのだ。
だが、蔵人の中で冷静なもうひとりが、しきりに鎮まれと押さえ
つけてくる。
リカルドとリコッテ、両者の意見の食い違いはなんなのだろうか。
どこまでが、真実なのか。
こめかみと腹の上に冷たい汗が伝った。
﹁でもっ、リカルドだって悔いているんですっ。あたしに乱暴した
あと、すまない、すまないって⋮⋮でも、いつかわかってくれるか
と﹂
﹁いい加減しろリコッテ! そいつはゲスなあの男の方便だ。あい
つはな、あんたの弱みにつけいって骨までしゃぶろうって魂胆なん
だよ。いつかはわかってくれるなんてありえっこないぜ! この件
は俺に任せてくれ。悪いようにはしない﹂
﹁やだ、あの人に話すんでしょう!﹂
﹁おい、ちょっと待て! 馬鹿な真似はやめるんだっ!!﹂
リコッテは流木から腰を上げると、川縁にざぶりと踏みこんだ。
彼女のローブが腰まで深く濡れる。
かつて、レイシーから聞いた話を思い出す。このイール川は街の
中央にあっても淵が途方もなく深く流れも滅法早いため毎年幾人も
死人が出ているらしい。身重の彼女に万が一のことがあればマーサ
になんといってまみえればいいのだろう。
全身の毛穴という毛穴からどっとイヤな汗が吹き出す。
舌がヒリつき、眼球の表面がチクチクしてくる。
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﹁あの人はっ、いっつもクランドさんのこと話してたっ! 無口な
あの人が、うれしそうに、いっつも! きっとクランドさんのいう
ことならなんでも信じるんだっ! もし、そうなったら、そうなっ
たら。あたしは、もう生きちゃあいけないんだっ!! クランドさ
んが約束してくれるまで、あたしはここからもう出ないっ!!﹂
﹁ああ、もおおおっ。なんてぇ日だよ、今日ってのはっ﹂
蔵人は懸命にリコッテを説得すると、なんとかその日は家に帰ら
せた。彼女はおそらく悪気はない。
だが、間接的にリカルドのような蛆虫につけ入られる隙を作って
しまったのも事実だった。
いわゆる、覿面に押しに弱い女である。
この期に及んでまだリカルドをかばおうとする気持ちは蔵人に理
解できるものではなかった。このまま、姫屋敷に帰っても寝つけそ
うにない。
蔵人は銀馬車亭に足を向けると、尻を据えて酒を飲みだした。心
配げなレイシーやヒルダがカウンターの両脇につくが、美女ふたり
の酌とあっても中々酔えそうになかった。
﹁なあ、レイシー。職人の年季奉公って普通幾つくらいからいくモ
ンなんだよ﹂
﹁ええ、なんでそんなあたりまえのことを聞くのかな﹂
﹁ああ。悪い。俺の故郷とこの街じゃ、違いがあるかなって﹂
﹁うーん、たぶん職種にもよるけど、十歳をすぎれば親方のもとに
出されるのが普通なんじゃないかな。あたしは、子どもの頃からず
っとこの店のお手伝いしてたし﹂
﹁そうか。うーん。するってえと、不自然な空白があるな。やつは、
十年もなにをしていたんだ。不自然すぎるミッシングリンクだ﹂
﹁あらー。クランドさん、もう酔っちゃったんですかぁ。それじゃ、
二階で私とイケナイことしません。うぷぷ﹂
ヒルダがほんのりと目元まで朱に染めて袖を引く。般若のような
顔をしたレイシーが酒瓶をカウンターに勢いよく叩きつけた。
1367
﹁ヒルダちゃん。ちょおっと、酔いすぎかなぁ。お水いる? いる
よね﹂
﹁ええーっ、じゃあじゃあ、レイシーもいっしょにぃ、どぅ、です
か﹂
﹁もおおっ。バカ!﹂
﹁ぶあーか、けけけ。と、くらぁつまみがねーぜ。レイシーたん﹂
﹁きゃっ。もお、この酔っ払い﹂
蔵人はレイシーの胸を揉んでから薄く笑った。
酒精の高いビンを逆さまに振って、レイシーに牛の焼き物を追加
注文する。差し向かいで飲んでいる酔客の話が、聞くともなしに耳
に飛びこんできたのはちょうどその頃だった。
﹁⋮⋮ところで、例の話は聞いたか﹂
﹁あん、例の話。もしかして、金貸しジバゴの件の話か﹂
﹁ああ。なんでも、鬼より怖いジバゴの借金を踏み倒した野郎がい
たってんで、その話で今日はもちきりだっつの﹂
﹁ふぇー。あの、債鬼から踏み倒そうとするマヌケがこの街にいた
なんて。相当な大物か、ただの阿呆だな﹂
﹁いや、ところがどっこい、そいつは素人筋でな。この春くらいか
ら鉄火場に顔を出しはじめた新参者でよ。まったくも、ジバゴの恐
ろしさを知らなかったらしいさ﹂
﹁そんで、結局のところそのケツに火が付いた世にも間抜けなスッ
トコドッコイはどうしていなさるんだ﹂
﹁はぁ、なんでもジバゴの雇った用心棒に追いかけ回されてるらし
いぜ。その、用心棒がまた振るってる。イカロスっていう元冒険者
の凄腕らしい﹂
﹁へえ、あのイカロス。一時期はよく耳にしたがまだ生きてたんか。
あのグリフォンを単騎で討伐した、ダンジョンの元五英傑のひとり
か。はは、そのマヌケ死んだな。イカロスの力はロムレス国軍一個
大隊に匹敵するといわれていたな、確か。んで、そのマヌケの名は
なんてぇんだ﹂
1368
﹁確か、リカ、リカなんつったけ。そう、リカルド﹂
﹁誰それ?﹂
﹁知らね﹂
ふたりの酔客はどっと哄笑すると、もはや違う話題に移り杯をか
わしはじめた。
﹁へぇー。イカロス。ねねね、レイシーはイカロスって方知ってる
?﹂
﹁うん。おととしくらいまではよく皆が口にしてたけど、最近は久
しぶりだねって⋮⋮ねえ、クランド! どこ行くのっ!!﹂
﹁⋮⋮悪い、野暮用が出来たみたいだ﹂
蔵人は杯を置くと、外套を引っかけスイングドアを弾いて表に飛
び出した。
︱︱リカルド、借金取り、と。これだけ聞き覚えのあるピースを
耳にすれば、老いぼれた犬の粗チンでもおっ勃つことだろうよ。
ああ、胸糞わりぃ。テメェの地獄耳に腹が立つぜ。
おまけにこうまでイヤな予感がするとはな。
﹁なーんでわりいことばっかピンポイントで飛びこんでくるんだろ
うね。ったく!﹂
蔵人は風に吹かれる木の葉のように舞いながらすっ飛んでいった。
彼の孤影は闇を突き破り、どんどん銀馬車亭を遠ざかっていく。
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Lv86﹁水は方円に随う﹂
ここがどこかもわからない。どれだけ歩き続けたのだろうか。
靴はとうに破れきり、ぐるぐると幾重にも巻いた草の蔓で、アッ
パーとソールを無理やり繋いでいるに過ぎなかった。
街道には夕闇が迫っている。目指す街の城門はいまだ遠く、影す
ら見えない。腰の革袋になんとか手を伸ばし、水を飲もうと指先を
動かす。乾ききってひび割れた唇からは、もはや血液も流れず半透
明な体液がわずかにもにじむ程度である。痛みにも飢えにも慣れき
っていたが、喉の渇きだけは耐えられない。袋の紐を解いて喉を開
口する。水滴が幾粒かすべり込んできたような感覚があった。それ
でおしまいだった。見事に空である。
街道にうつ伏せになったまま起き上がる気力はない。街に戻る人
々は、倒れ臥したそれをまるで見ることもなく足早に通り過ぎてい
く。
少年はまるで使い古したボロ雑巾のように、くたびれきっていた。
全身は埃にまみれ灰色に染まっている。遠目で見れば、それはとて
も生物とは認識できない姿だった。小柄で痩せっぽちである。頬は
削げ落ちて瞳は白濁していた。長らく栄養失調が続いたせいか、一
時的に視力が著しく落ちているのである。
細い腕は枯れ木のように肉がなく、少し力を込めれば容易に折れ
そうな華奢な太さだった。肋骨を浮き上がらせた野良犬が、ふらつ
いた足どりで真横を通り過ぎていく。野良犬は、少年の伸びきった
1370
頭髪にしばらく口吻をくっつけて臭いを嗅いでいたが、フンとクシ
ャミを鳴らすと、興味を失ったかのように去っていった。
もう、何日も食物を口にしていないだろう。
顎の動かしかたすら忘れてしまったようだ。
やがて、雨が降り出した。
春先の雨とはいえ、叩きつける大粒の雫が全身の体温をドンドン
と奪っていく。指先から徐々に感覚が薄れていく。口を開けて雨粒
を飲み込む。あれほどにも、乞い願っていた水なのに、思ったほど
は嚥下できなかった。
死が近づいている。
このまま寝転がっていては、それらが確実に牙を尖らせて喉元に
迫るのはいままでの経験上誰よりも理解できた。
少しづつでもいい。
とにかく、身体を動かしつづければ体温は維持できるはずである。
うめきながらもなんとか立ち上がろうとする。
虚しい努力はやがて実を結び、少年はなんとか膝立ちになった。
だが、体力の衰えは自分が思っていたよりもはるかに凄まじかっ
た。ちょっとした、強い風にあおられただけで、もういけなかった。
少年は木の葉のように街道の土手を転がり落ちると藪にぶつかっ
て止まった。
脇腹に、鋭い痛みを感じた。
枯れて槍のように尖った木の枝が深く突き刺さったのだ。
痛みを感じたのはほんの一瞬だった。
身体から、傷口に向けてあたたかい血液が勢いよく流れ出してい
く。
全身が急速にカッと燃えるようにたぎった。
それから、急速に全身が凍りついていく。
視界が急速に狭まっていく。
目を閉じる瞬間、誰かの声が聞こえたような気がした。
瞳の向こう側、天使のように美しい少女が泣きそうな顔で覗き込
1371
んでいるのが映った。
気がつけば、少年はあたたかい毛布に包まれていた。
身体を起こそうとすると、幼い少女が枕元で心配そうに自分の手
を握っている。
少女は、リコッテと名乗り、手ずから粥をとって食べさせてくれ
た。舌が焼けそうなほどあたたかい粥を咀嚼するたびに涙が溢れ出
していくのを止められなかった。
リコッテは嗚咽を止められない少年を、まるで母鳥がかき抱くよ
うに胸元へ引き寄せると、しっかりと力をこめた。
少年は母親を知らない。
ただひとり自分を育ててくれた父親は善人ではあったがわかりや
すい愛情を示すような男ではなかった。
リコッテは、透き通った声で不思議な歌を耳元で口ずさむ。
まどろみの中で、これが子守唄だということをなんとなく気づい
た。
胸の中が多幸感で満たされていく。
少年、マーサは、この少女のためなら、どんなことだって出来る
と、天命のように確信していた。
石積みのがっしりとした市壁が等間隔に灯された明かりでぼんや
りと遠景に映えている。
蔵人は息せき切って小高い丘陵の見える位置まで駆け続けに駆け
た。
酒精がいい具合に全身に回っている。今日は特にとびきりだった。
﹁ちょ、ちょっと待った。さすがに、心臓が口から出そうっ。おえ
っ﹂
1372
蔵人は樹林帯の終わりに差し掛かると、近場の幹に背中からもた
れて息を整えた。連打される太鼓のように心臓が激しく、強く、打
ち鳴らされている。
しこたま食って飲んだおかげか世界がぐるぐると古びた映画のフ
ィルムのように縦回転をはじめた。心臓が落ち着いた頃合を見計ら
って歩き出す。
背の高い草むらを超えると、右手に竹林が見えた。
視界の端に不自然な光が差した。ふと、顔を上げる。
﹁おーっ、お?﹂
額から絞り出したように流れる汗を袖口でぬぐった。
同時に、目の前の闇が突如として切り裂かれていく。
いや、事実は違う。
名工とうたわれたノワール・スミスの工房付近が火を噴いている
のだ。
それは、小高い丘の上に真っ赤な躑躅の花が開いたようだった。
冷静に観察すると、母屋は無事のようだった。
しかし、あれだけ隣接していれば風向きひとつでいつ延焼するか
はわからない。
どのようにせよ、最悪な状況には違いなかった。
焦りが頂点に達した。悪い予感は当たるものである。
フラつく腰を軽く殴りつけると、丘陵を駆け上がる。
﹁ちくしょう! なんとか無事でいてくれよっ﹂
蔵人は、ふと上方に視線を転じた。真っ赤な炎に照らされながら、
七つの大小の影が急速に近づいてくるのわかった。
﹁てめえは、昼間のお節介野郎じゃねえか!﹂
﹁ノコノコ今更来たっておせえ、おせえ! 見ろよ、あの炎をスカ
ッとくらぁ!﹂
ふたりのノーム族。リカルドと共にいたゴロツキである。ふたり
に率いられるようにして五人の人間族がそれぞれ手に剣や刀を持っ
て駆け下りてくるのがわかった。それぞれが背中に袋を担ぎ略奪品
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を運んでいる。充分な戦果があったのか、足取りは極めて軽かった。
蔵人がその場に立ち止まると、男たちは半円を描くようにして取
り囲む。酔いはすでに覚めていた。汗でへばりつく髪を後ろにかき
上げ、詰問した。
﹁いったいこれはどういうことだっ! マーサやリコッテたちはど
うなったんだ!﹂
﹁へ? いまさらそんなこと聞いてどうするよう! おまえこそ本
当に足りねえ野郎だぜ。リカルドの兄貴がもう待ちきれねえってん
で、直接ジジイに談判しに来てやったのよ!﹂
﹁兄貴たちはいまごろお楽しみだぜ! サクッとすませたら合流す
る予定なんだよ。俺たちは先発でおいとまさせてもらったのよ。騎
士団のやつら集まってくる前にとっととずらかろうってときに出く
わすとは、つくづくおまえも運のねえ野郎だな!﹂
﹁おまえのダチ同様にあの世へ送ってやるぜ!﹂
﹁まあ、そこまでスパッとやってくれりゃあこっちも対処がしやす
いってもんだ。てめぇらこそ、一匹残らず三途の川を渡してやる!
!﹂
蔵人は腰に手をやって、指先になにも触れないことに気づき蒼白
となった。
﹁やっば。剣、忘れてきた⋮⋮﹂
無論、銀馬車亭にである。あろうことか、レイシーに預けたまま
で店を飛び出していたのであった。酔っていたとはいえ、反論でき
ないほどの大ポカである。
一転して絶体絶命のピンチに陥ったのは蔵人の方だった。
﹁丸腰で来るとは、舐めてんのか!﹂
﹁このマヌケ野郎が!! おい、てめえら! いっせいにナマスに
してやれえ!!﹂
﹁おおおっ!!﹂
蔵人が無手だと知ると、男たちはいっせいに勢いづいた。自分た
ちは完全に安全圏にいて相手を思うさま屠ることができる絶好のチ
1374
ャンスである。奮い立たない方がどうかしていた。
﹁どおっ! あぶなっ﹂
蔵人は剣を振りかざして突っ込んできた男を紙一重でかわすと、
くるりと反転し一目散に逃げ出した。丸腰で勝てるほど自惚れては
いない。弾丸のように元来た道を突っ走る蔵人を追って、男たちも
しゃにむに走り出した。
﹁待て、コラ!!﹂
﹁誰が待つかーっ! アホーっ!!﹂
藪を漕ぎながらさらに駆け続けると、次第に追っ手同士の距離が
広がっていく。個人個人の脚力の差だった。
蔵人は竹林を見つけると外套を翻して飛び込んだ。
鬱蒼とした青竹が茂っている。
蔵人を追って先行した男が、長い竹に阻まれながらも必死の形相
で距離を詰めはじめた。
﹁死ねっ!!﹂
怒声を放って真っ直ぐ突っ込んでくる。
蔵人は器用に竹を背にして半回転すると斬撃をかわした。
カッと軽い音がして青竹の根元が斜めに割れた。
男は密生した竹に動きを阻害され、狙いを定めることができない。
蔵人は割られた竹の根元をつかむと、枝葉が茂った先端を振り下
ろす。
が、その一撃も左右の竹に阻まれ男の頭上で奇妙に静止した。
﹁あらっ!?﹂
﹁ビビらせやがってェえ!!﹂
男は冷や汗を額いっぱいに浮かべながら再び剣を振り下ろした。
刃は上手い具合に竹の上部を再び両断した。
ツイていたのは蔵人だった。彼の手に残されたのは、ちょうど一
メートルほどに切り分けられた竹槍が出来上がっていた。
蔵人はすかさず竹槍を握り込むと、凄まじい速度で突きを繰り出
した。即席の竹槍は吸いこまれるように男の喉元へと突き刺さり、
1375
血飛沫を辺りに舞い散らせた。飛び散った血液は雨のように笹を打
ち、細かな音を発した。
蔵人は男の腰を蹴りつけると、剣を取り上げて左手に持った。ノ
ーム族のふたりにほぼ戦闘能力がないと仮定すれば残りの敵はあと
四人である。追いついてきた集団は仲間が倒れているのを見ると躊
躇して一瞬足を止めたが、数を頼んで再び竹林に踏み入ってきた。
﹁ああああっ!!﹂
﹁くたばれえっ!!﹂
ふたりの男が同時に剣を振り回して襲いかかってくる。
蔵人は素早く反転するとさらに奥へと分け入っていった。
﹁逃がすな!﹂
﹁絶対にブッ殺せェ!!﹂
男たちの剣は盲滅法振り回しているだけである。
冷静さはすでに微塵もなかった。不用意に動かされた刃は最悪な
形で青竹の半ばに食い込むと容易に抜けなくなった。
勝機が自然、降り立ったのだ。
蔵人ははなれた位置から、竹の合間を縫って槍を突き出した。
片手撃ちに繰り出された青竹はうなりを上げて男の腹を突き破り、
切っ先を背中に覗かせた。男は、食道をせり上がってきた血だまり
を吐き散らして、横倒しに崩れ落ちる。
それを見ていた隣の男は瞳に激しい怯えを見せて腰から座り込ん
だ。
背にした竹をしならせながら座り込んだ男は腰が抜けたままその
場を動けない。
幼児がむずがるように眼前で剣を無茶苦茶に左右に動かした。
蔵人は身を低くしたまま左手に持った剣で鋭い突きを放った。
長剣は男の顔面中央部、目と鼻の間に激しく叩き込まれた。
刃を横に寝かせたまま存分に薙ぐ。絶叫が鋭く尾を引いた。
﹁おらよっ!!﹂
蔵人は男の顎を蹴上げると、きびすを返し逃げ出したもうひとり
1376
の背に向かって剣を振り下ろした。刃は鋭く銀線を残して流れると、
衣服を切り裂いて真っ赤な曲線を描いた。戸板を激しく雨が叩くよ
うな音が響く。流れ出た血が小雨のように茂みの葉をゆらした。
男は背中を斜めに断ち割られると、女の悲鳴のような声を出して
顔からつんのめった。
蔵人は男のうなじに刃を鋭く突き入れて削ぎ、素早く手元に引き
戻し正眼に構えた。
激しい剣気に威圧された男は奇声を発しながら突っかかってきた。
蔵人は長剣を前方に放り投げるようにして突きを繰り出した。
長剣はびゅうと風を切って真っ直ぐ走り、男の胸元に突き立った。
男の張り出した喉仏がくぐもった音を漏らした。
蔵人は男の腹を真っ向から蹴りつけて刃を引き抜いた。
遠景に走り去るふたつの小さな影が見えた。
手に持った剣を勢いよく投げつける。
剣は闇を裂いて薄い月明かりの下を流星のように駆けた。
﹁げっ!!﹂
長剣はノーム族の片割れの背を貫き地面に深々と食い込んだ。
片割れのノーム。足をもつれさせ無様に転んだ。
蔵人は車輪のように足を動かして前面に回りこむ。絶対に逃がし
はしない。ノームは地面に顔を擦りつけながら必死に命乞いをした。
無慈悲にノームを蹴転がすと、引き抜いた剣を深々と胴に埋没させ
た。刃を引き抜き刀身を確認する。さすがに安物である。ところど
ころ刃こぼれがして、脂が巻いていた。蔵人は舌打ちをして剣を放
り捨てると、落ちていたモノの中から比較的マシな剣を選び、一本
を腰紐に通して背負い、もう一本は抜身のままにして走り出した。
無駄な時間を食った。もっとも、いまから愛刀を取りに戻る時間
はない。ナマクラといえど、武器が手に入ったことをよしとするべ
きなのか。ノームは思ったとおりに攻撃能力は皆無であると考えて
いいだろう。安否が気にかかるのは、マーサと身重のリコッテ。そ
して、老人であるスミスだった。借金取りに追い詰められたリカル
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ドはなにをするかはわからない。おそらくは金で雇った無法者たち
が、工房から家財道具を持ち出していたことを考えればリカルドの
残存兵力は残すところ多くはないだろう。
﹁となると、残りはオーガだけだな﹂
丘陵を一気に駆け登る途中、草むらに違和感を感じた。
﹁待った、待った! 儂じゃ、若造!!﹂
本能的に剣を向けると這い出てきたのは、青ざめた表情で憔悴し
きったスミスの姿があった。
﹁リカルドの馬鹿もんがいきなり押し入ってきおったわ!! 金な
んぞはロクに置いてないことを知っとるくせにっ。あいつは、まる
っきり血迷っておるわい。ああ、すまなんだリカルドというのはか
つての儂が使っていた見習いじゃが⋮⋮﹂
スミスの話を要約すると、夕餉を取っていた最中にリカルドはオ
ーガとならず者を引き連れ母屋に押し入ってきたらしい。金品目当
てで来たものの、予想以上の獲物の少なさに逆上したリカルドは暴
れまくった挙句に納屋からめぼしいものを持ち出し火をかけたのだ
った。
﹁⋮⋮あいつはガキの頃から知っておっての。まあ、昔から腰の座
らん男じゃった。弟子に取っても、どうせ投げ出すと思ったが、リ
コッテがどうしてもと頼むのでズルズルと長い間使っておったが、
まるでやつは素行を改めようとせん。あいつを追い出した当初は、
リコッテのやつ儂を相当恨んだようだが、マーサのやつを拾ってき
たあとから徐々に話にも出なくなったが。まさか、ここまでクズと
は﹂
﹁おい、ジイさん⋮⋮!﹂
スミスはそこまで語ると膝から崩れ落ちる。
咄嗟に、肩を貸すと手のひらにベッタリと生あたたかい血糊が広
がった。
闇に目を凝らすと、スミスは右の肩口を大きく割られていた。
蔵人は、袖口を切り落として傷口を強く縛った。
1378
それほど、深い傷ではないが血が流れ過ぎている。
一刻も早く医者に見せなければならないだろう。
﹁おい、若造。クランドとかいったか? こんなゴタゴタに巻きこ
んですまんが、出来れば街まで行って騎士団を呼んできてくれんか
のう。儂の命なんざどうでもいいが、娘夫婦や腹の子だけはどうし
ても助けたいんじゃ﹂
﹁⋮⋮ここで待ってろ。動くんじゃねえぞ、ジジィ﹂
﹁お、おい﹂
蔵人はスミスの身体を草むらに横たえると疾風のような動きで一
気に残りを走破した。
勢いを殺さず戸口を蹴破った。
﹁誰だ!?﹂
土間にいた男たちがいっせいに振り返る。
そこには、全裸にされたまま両手を後ろ手に縛られ転がされてい
るリコッテとマーサの姿があった。
﹁てめぇは昼間の⋮⋮!﹂
リカルドを含めた三人の男は真っ赤に熱した火かき棒を持ってか
わるがわるマーサに押しつけている最中であった。泣きはらして目
を真っ赤にしたリコッテの顔は、幾度も殴りつけられたのだろうか
青黒く腫れあがっていた。
﹁逃げて、逃げてください!!﹂
リコッテは腫れ上がった目蓋を凝らして視線を辺りに動かした。
その行動が癇に触ったのか、痩せぎすの男が獰猛な犬のようにうな
った。
﹁誰が口を利いていいっていったあン!﹂
男が手にしていた荒縄をリコッテの顔面に叩きつけるのと、蔵人
が手にしていた長剣を投げつけるのは、ほぼ同時だった。
刃は水平に流れると男の喉元へと吸い込まれるように突き立った。
﹁げ、おぶうっ!?﹂
奇妙な断末魔と共に上体が前方に崩れ落ちる。それまでピクリと
1379
も動かなかったマーサの巨体が突如として浮き上がった。
﹁のおっ!!﹂
巨大な肉塊は弾丸のように宙を駆けリカルドの矮躯を壁際に弾き
飛ばした。
続けてマーサがリコッテに駆け寄ろうとしたとき、残ったひとり
は素早く剣を握り直し彼女の腹に突きつけた。
﹁この野郎がぁあ!! 腹ン中のガキ掻き出されたくなきゃ、動く
んじゃねえっ!!﹂
蔵人は舌打ちをするとその場に張りつけになった。
マーサの巨体も凍りついたように動きを止めた。
﹁へ、へへ。でかしたぜマシュー。そうだ、そのまま剣を突きつけ
とけ﹂
リカルドは口から血の混じった唾を吐き出すと、猛然とマーサに
駆け寄り手にした火かき棒を滅多矢鱈に振り下ろした。肉を叩く鈍
い音が室内に木霊す。マーサの頭部からは真っ赤な飛沫が上がり、
身体が横倒しになった。
﹁やめてえええっ!!﹂
竜鱗
のカケ
﹁うるせええっ。てめぇらがさっさと出すもん出さねえからだぁ!
! 俺は知ってるんだぜえ!! あのクソジジぃが
ポンドル
ラを手に入れたって話をおおっ!! あいつは、叩き売っても数百
万Pになるんだあっ!! さっさと観念しねえかっ!!
おっとお! おめえ、クランドとかいったな。妙な動きはするん
じゃねえぜ。もし、余計な手出しをしてみろっ。リコッテの腹のガ
キはズタズタの千切れ肉になるからなあっ!﹂
リカルドは卑しい顔つきでケヒヒと奇妙な笑い声をもらす。手に
した火かき棒を、転がったマーサの頬にぐいと押しつける。肉の焦
げる嫌な臭いが辺りに立ちこめた。
リカルドのいっている竜鱗とは、文字通り竜の体表から剥いだウ
ロコのことであり、これらは叩き潰して粉末にし、剣を造る際に玉
鋼に混ぜるとさまざまな加護を与えられているという、超一級の素
1380
材であった。
﹁あいにくと、この俺もそれほど余裕があるわけじゃねえ。こっち
もケツに火がついてんだよっ!! 金の匂いには敏感にならざるを
得ないのさっ!﹂
名工であるスミスはなんらかの形でそれを手に入れたらしいが、
リカルドの今回の襲撃はそれを見越してのことだったのだろう。
とにかく金目のものを手に入れたいという追い詰められた気持ち
が手近な人間にぶつけられたのだ。運が悪いとしかいいようのない
事態だった。
﹁お願い。リカルド、もう許してよう。竜鱗のことなんか知らない
っ。早く、早くマーサの手当をしないとっ﹂
﹁おいおい、リコッテ。冷てえじゃねえか、いくらこの俺が昔の男
だってなあ。金はくれねえし、お宝はよこさねえ。昔のおめえは違
ったぜ? 俺が頼めばどんなことだってやってくれたのによう。な
あ、マーサ聞いてるか、よう。リコッテは俺が命じればどんな格好
でも喜んで取ったもんだぜ? 犬みたいにケツを突き出せといえば、
涙を流しておねだりをしたもんさっ。こいつは俺のいうことならな
んだって聞く、ただの安い淫売なんだよッ!!﹂
﹁うそっ!! 嘘だよっ!! あたし、そんなことしてないっ!!﹂
リカルドはリコッテをせせら笑うと再びマーサに向かって語りか
けた。
冥い瞳。
狂気に取り憑かれた情熱が宿っていた。
﹁信じるも信じないもおまえの勝手だが、所詮おまえは俺の使い古
しを有り難がって崇めてたってことだ!! 俺もリコッテの身体に
はまだまだ飽きちゃあいなかったてのにしゃしゃり出てきやがって。
リコッテ。俺はまだ、おまえのことを好きなんだぜ。俺と、一緒に
来いよ。んん? そのツラは嫌ってか。へいへい。まったく、どう
俺のオモチャをしつけ直したんだか。調教が甘かったかな? 俺専
用の肉人形が、こんなデカブツに乗り換えるなんてっ、よっ!!﹂
1381
リカルドは転がったままのマーサの腰を蹴りつけると、顎をしゃ
くった。リコッテの悲鳴が流れた。奥の部屋からはふたりほどの男
が苦り切った表情で姿を見せはじめた。
﹁ダメだ、兄貴。この家にはなにもねえやい。めぼしいもんはたい
して⋮⋮﹂
﹁チッ。とことん使えねえ。もおいい。ジジィを探して締め上げる
ぞ。リコッテはまだ道具として使える。身重の女の二本責めっての
も乙だろうよ。それと、マーサはいらねえなぁ。殺せ﹂
﹁へい﹂
男が剣を振りかざす。蔵人が破れかぶれで飛び出そうとする。
リコッテの動きは唐突だった。
彼女は喉元に突きつけられた刃をものともせずにマーサの背にそ
の身を晒した。
彼女の喉元は鋭く切り裂かれ血煙が舞った。
凶刃は、一瞬、躊躇した動きで当初の標的からややそれながらも
振り下ろされた。
絶叫がつんざいた。
ほど
同時に蔵人は間隙を突いて、そばにあった水桶をの中身を赤々と
した火床にブチまける。
一瞬にして、辺りに水蒸気が立ちこめた。
﹁なにしやがる!!﹂
﹁逃がすな!! 絶対に逃がすなよおおっ!!﹂
怒声が飛び交う中、マーサを担ぎ上げリコッテを小脇に抱えて脱
出した。
強靭な膂力を持つ蔵人にのみできる荒業だった。
戸口を転ぶように飛び出すと闇に紛れて草むらに駆け込んだ。
頭上に顔を出していた月光は流れこんできた分厚い黒雲に遮られ
つつあった。
丈の深い草は上手い具合に三人の姿を隠した。
ふたりの戒めをほどきその場に横たえる。あれほど拷問を受けて
1382
いながらマーサは驚くほど頑丈なのか、素早く身を起こしてリコッ
テに寄り添った。
﹁よかった、マーサ⋮⋮﹂
血泡と共にくぐもった声が漏れた。
リコッテは遠くを見るような表情で微笑んだ。蔵人は外套を脱い
で彼女を覆うと激しく唇を噛んだ。マーサは肩を震わせながら、ほ
とばしるリコッテの喉元を強く押さえた。蔵人は革袋から布切れを
引き出すと傷口に当てる。
途端に、それは水に浸したようにぐしょぐしょに濡れそぼった。
ほとんど周囲から注意を怠っていたせいか、その男に気づくのが
遅れた。
﹁誰だ!!﹂
蔵人は容易ならざる気配に反転して身構える。草むらをかき分け
てひとりの男が近づいてきた。手元には古ぼけたカンテラを提げて
いた。ぼんやりとした淡い明かりから、全身が浮かび上がる。
男は三十前後に見えた。腰には長剣を吊っている。焦げ茶色の髪
をそのまま腰の辺りまで流していた。頬が削げ落ちるように痩せて
いる。瞳には深い虚無が宿っていた。左目には真っ黒な眼帯をかけ
ている。それが、ますます常人とはかけはなれた印象を打ち出して
いた。着古した墨染の上下は煤けて色が薄れていた。灰色のマント
はあちこちつぎはぎだらけで、充分な年季を感じさせた。
﹁ちょっ、イカロスの旦那っ。なにやってんですか! ゴタゴタに
は首を突っ込まないって約束でしょうに⋮⋮!﹂
腰巾着のようなネズミに似た男が甲高い声を上げた。
﹁おい。なにする気だ﹂
﹁血を止めねばならねえだろう﹂
イカロスと呼ばれた男は、自然な動きでリコッテのそばに跪くと
巻いていた布切れを取り払った。ピンク色の肉が露出し、血流はと
めどなく放出している。イカロスは冷たい瞳のまま手元を喉元の傷
に重ねた。
1383
ヒーリングライト
﹁回復の光﹂
手のひらから淡い青みがかった光が放射される。
治癒の神聖魔術であった。
リコッテの喉元の傷は瞬く間に塞がると、青ざめていた顔に生気
が戻った。
﹁あ、れ?﹂
イカロスは続けてリコッテを横向きにすると背中の傷にも光を当
てる。
彼女の頬に徐々に赤みが差した。
マーサはイカロスに何度も頭を下げるとリコッテの手を取って自
分の頬に重ねた。なにかを感じ取ったのか、ネズミ似の男はぷいと
顔を背けた。
﹁まったく。あっしらが旦那に頼んだのは人助けなんかじゃねえっ
てのに。取立てですよ、借金の取立て! あっ、ちょっと!! リ
カルドのやつを締め上げなくてもいいんですかいっ﹂
﹁来たぞ﹂
イカロスはネズミ似の男を無視して蔵人に言葉を放った。手に手
に松明を持った影が五人。そのうち飛び抜けて大きい影はおそらく
オーガであろう。蔵人は、背にくくりつけた剣を下ろすと鞘を放り
捨てて吐き捨てた。
﹁安心しろ。そこまで、世話になるつもりはねえ。⋮⋮それと、ダ
チのカミさんを助けてくれてありがとな﹂
草むらを突き破って飛び出す。
そこには、リカルドとオーガの他に三人の男が並んで立っていた。
﹁あっ、さっきの野郎だ!!﹂
﹁やいやい、邪魔ばっかりしやがって!! もう勘弁ならねえや!
!﹂
﹁おまえらあっ!! そいつをまずは血祭りに上げるんだああっ!
!﹂
男たちはリカルドの怒声と共に弾かれたように突っ込んできた。
1384
蔵人は長剣を水平に構えると、真正面の男に向かって全力で叩き
つけた。刃は男の顔面を真っ向から殴りつけると目鼻を深々と抉り
取り、崩れた泥細工のように変化させた。
﹁うおおおっ!!﹂
喚きながらも左右のふたりが同時に襲いかかってくる。
蔵人は身を低くして斬撃を最小限でかわすと、長剣を上方に向か
って突き上げた。
繰り出した激しい突きは、右手の男の胸板を貫くと刀身の半ばま
で背を抜けて露出した。
男がぐらりと体重を預けると、鈍い音がして刃は折れた。
数打ちの安物である。
蔵人は半分になった長剣を持ったまま背後に飛び退った。
目の前の男は俄然勢いづいてジリジリとにじり寄ってくる。
勝機と見たか、オーガも咆哮を轟かせ突進してくる。背筋に冷や
汗が伝った。
﹁若造!! こいつを使うんじゃ!!﹂
不意に草むらからスミスの声が発せられた。
白鷺
の白金造りの鞘だった。
闇を引き裂いて白い物体が飛来する。反射的に手を伸ばし受け取
る。
それは、かつて手にしていた聖剣
弾かれたように男が飛びかかってきた。
鞘から剣を抜くと、真っ赤な光芒がほとばしった。
引き抜いた刃は炎を具現化したように赤々と燃えていた。
長剣が半円を虚空に描く。
その刃は凄まじい切れ味だった。振るった長剣は男の胸を深々と
薙ぐと水平に走った。
﹁があああっ!?﹂
男は胸元から上下を分断されると、踊るようにその場に両手を挙
げてつんのめった。
蔵人が真っ赤な刀身に目を奪われていると、スミスの哄笑が原野
1385
に響き渡った。
。以前に赤龍のウロコで造った一品じゃ!! 有象無象の
﹁⋮⋮気が向いての。嬢ちゃんの鞘を預かっといたんじゃ。銘は
紅千鳥
試し切りでは、チトもったいないわ!!﹂
﹁さっき会ったとき渡せよ。ったく﹂
迫り来るオーガ。地響きを上げて突進してくる。手にしていた松
明は放り捨てたのか、両手には巨大な樫の棍棒を持ち上段に構えて
いた。
蔵人の全身にいつもの感覚が蘇っていた。頭の中からカッカした
熱い感情が消え失せ、ただひたすら目前の対象物のみに意識が向け
られる。代わりに手にした紅千鳥が熱く燃えたぎっているようだ。
オーガの棍棒には筋金を打った鉄輪が幾重にも嵌め込まれている。
一撃を受ければ無傷ではすまない。
だが、奇妙なことに、この剣ならば打ち勝てるという奇妙な自信
が沸き起こっていた。
オーガが鼓膜を破る声量で吠え立てた。耳元を風を引き裂いて奇
妙な唸りが迫る。
蔵人は手にした紅千鳥を振りかぶると真正面から迎え撃った。
きいん、と硬質な澄み切った音が鳴り渡った。
同時に、蔵人は素早くオーガの脇を断ち斬った。
決戦を傍観していたリカルドの顔が紙のように真っ白になった。
手に持っていた松明は転がって枯れ草を焼き、周囲の草地がたち
まち真っ赤な舌で舐め上げられる。
オーガの手にしていた棍棒から筋金の鉄輪がバラバラとこぼれ落
ちる。
太い樫の木が線を引いたようにスッパリと両断された。
オーガは奇妙に身体をよじると口元から多量の血泡を吹き出し、
太くゴツゴツした指先で宙をかいた。
腰から上の胴体は、斜めにズレながら落下すると辺りに臓物を撒
き散らした。
1386
巨体から流れ出た血液が辺りをたちまち池に変えた。
蔵人はブーツが濡れるのを構わずにへたりこんだリカルドに向か
ってゆっくりと歩み寄っていく。
﹁ひ、ひ、ひ。嘘なんだァ。リコッテが俺の思い通りになったなん
て嘘だぁ。あいつは、つきあってたときも、無理やり抱いたときも
声ひとつ上げねぇ女だった。べつに、あいつを辱めようと思ったわ
けじゃねえ。ちょっとした悪戯心だ。誰でもあるだろう。へ、へへ。
な、なあ。許してくれよう。俺はおまえにはなんにもしてねえじゃ
ねえかよう。どうして、そんなに怒ってるんだぁあっ﹂
﹁てめぇを殺す。文句はねえだろう﹂
﹁いやだああっ!!﹂
﹁そういったリコッテにおまえは情けをかけてやったのか!! 地
獄へ、落ちやがれ!!﹂
蔵人は長剣をリカルドの顔面へと全力で振り下ろした。
刃は頭頂部から顎までを真っ赤な直線で彩った。
脳漿が飛び散り、眼球はピンポン玉のようにな軽やかさで尾を引
いて弾けた。
リカルドは目鼻を無くした奇妙な生き物のように一瞬で変化した。
両手を天に突き上げたまま甲高い断末魔を上げて、どうと顔面か
ら倒れ込む。
蔵人はゆらめく炎の中で長剣に付いた血糊を懐紙で拭うと虚空に
放り投げた。
真っ黒な闇の中で、炎にあぶられた白い吹雪が切なそうにヒラヒ
ラと踊り、やがて溶けていった。
﹁わ、わ! 赤ちゃん動いた! ほらほら、レイシーも触らせても
1387
らったら?﹂
ヒルダはリコッテの腹から耳を離すと、おずおずと様子をうかが
っていたレイシーを手招きした。
﹁え、いいかな。リコッテさん﹂
﹁はい、構いませんよ﹂
﹁おらーっ、小娘ども。儂のリコッテに気安う触るなっ。かわいい
孫にさしつかえるだろうがっ﹂
微笑ましい女同士のやりとりに空気を読まぬ老人が大声を張り上
げる。
明らかに胎教には適さない男だった。
﹁父さんはあっちいって!﹂
﹁そ、そんなぁ﹂
スミスはしょげかえると、鎚を持ったまま鍛冶小屋に戻った。近
頃は、腰の調子もだいぶいいようだった。
紅千鳥
の礼を兼ねてでもある。スミ
一週間後、蔵人はヒルダとレイシーを連れてマーサの元を訪れて
いた。
もちろん、先日もらった
ス曰く﹁鞘に釣り合った中身がたまたま紅千鳥だっただけ﹂とのこ
とである。測ったように白鷺の鞘にピタリと収まったこともさるこ
とながら、スミスが打った剣に使ったのは、蔵人が倒した邪龍王ヴ
リトラのウロコであったことも運命的なものを感じるのであった。
そもそも、代価を金で贖うならばどれほど積んでも足りるというこ
とはないのである。
つまりは、リカルドが価千金のウロコの粉末を求めて押しかけて
きたときにはその物自体は存在しなかったのである。
それでも、あのような男に会心のひと振りを与えたくなかったの
は名工としての業であろう。蔵人は腰に提げた紅千鳥をどのような
タイミングでアルテミシアに渡そうかと思い、目尻を下げっぱなし
だった。
もちろん、下心はある。恥ずかしがりな彼女に無茶な要求を聞か
1388
せる絶好のチャンスであった。納屋は全焼してしまったが、母屋は
案外に無事だった。リコッテもあのような事件がなかったかのよう
に振舞っている。彼女の中には新しい命が宿っているのである。い
まだ、蔵人の中からは疑念は消えないが、最終的に子どもの父親を
決めるのは産みの母である。そもそもが、互いに納得しているのな
らばもはや蔵人が口を出す権利はなかった。
﹁ふあっ﹂
蔵人が木にもたれながら、騒ぐ一同を眺めていると、さっと日が
陰った。
マーサが無言で傍らに立っていた。
﹁なんだ? ケガはもういいのか。にしても、丈夫な野郎だよ、お
まえは﹂
蔵人がマーサの大きな肩を荒っぽく押しやる。髭面の大男は痛そ
うに顔をしかめたが、やがて安堵したかのように、真っ白な歯を剥
いてうれしそうに微笑んだ。
なんとも無邪気な笑顔に一瞬見とれ、照れ隠しに分厚い胸板を拳
で叩く。マーサはおどけたようにその場に腰を折って膝まづくと顔
を上げて頭をかいた。
﹁なあ、マーサ。いま、しあわせか?﹂
返事を聞く必要はなかった。
男の顔を見ればそれは理解できた。
憂いはすでにない。
目の前の男にはすべてをやさしく包み込む、広く雄大な器があっ
た。
蔵人は梢を吹き渡る初秋の風に髪をなぶられながら、外套の前を
静かに合わせた。
それから、巨木にもういちどもたれて、そっと目を閉じた。
1389
1390
Lv87﹁メイド騎士の誤算﹂
ヴィクトワールは木製のボウルの中に水で浸しておいた皿を取り
上げると、清潔な布巾でひとつずつ丹念に磨きだした。
基本的に、姫屋敷では洗い物はほとんど発生しない。食事を摂る
主人の蔵人が日中自宅に居ることが稀であるからだ。
﹁ようし﹂
水気を切った皿を順番に皿立てに並べる。こうして、しばらく乾
燥させたのち、収納するのである。
ヴィクトワールはやりきった感を出しながら笑みを浮かべると、
腰に両手を当てて、うんと伸びをした。壁の時計に視線をやると、
時刻はまだ午前十時前である。いつもより早いペースであった。キ
ッチンを出て洗濯室に向かう。今日は、中々の上天気だ。洗い物も
今から干せばあっという間に乾くであろう。
先日、寝台のマットをしっかり干しておいたら、蔵人がやたらに
よろこんでいたのを思いだし、自然口元がほころんだ。面と向かっ
て褒められれば誰でも悪い気にはならない。そうえいば、幼少時を
除いてあそこまで手放しで褒められたのは何年ぶりだっただろうか。
︵ふふ。無邪気なものだな、クランドのやつも。あれしきのことで、
よろこぶとは。いよいよ、やつの心も私の手の内ということか︶
くふふ、と笑みを噛み殺しながら扉を開ける。そこには、ポルデ
ィナが洗濯し終えた衣類やシーツが神経質に籠へと積まれていた。
﹁どうせ干すのだからこのようにキッチリ置かなくてもよいものを。
1391
まったく、神経の細かい女だ⋮⋮ん?﹂
洗剤などを置いておく台の上に鈍い光が反射したのを見た。
﹁これは⋮⋮。なんだ、あいつがいつも大事にしていたバッジでは
ないか﹂
あいつとは、蔵人の奴隷である亜人の少女ポルディナのことであ
る。
それは一目見て安物とわかる七宝焼きのバッジであった。土産物
屋でよく見るシロモノで、価値は二束三文ではあった。なんでも蔵
人からもらった大切なものらしく、ポルディナはいつも大切そうに
肌身離さず身に付けていた。あとで、洗おうと思って水場の近くに
置いておき忘れてしまったのであろうと推察された。
﹁なんとも、あいつらしくもない手抜かりだな﹂
ヴィクトワールは右手で金色の髪を撫でつけながら、バッジを手
に取ると椅子に座った。
それは狼を象った顔が刻まれたもので、生まれついての大貴族で
ある彼女からすればどう見ても値打ち物には見えなかった。
﹁ふむ﹂
片手で弄びながら、しげしげと見つめる。
裏を見て、表も子細に点検する。紛うことなき三流品だった。
ヴィクトワールはハンカチを取り出すとなにを思ったか、そのバ
ッジを丹念に磨きだした。きゅっきゅっと摩擦する音が誰もいない
室内に大きく響く。彼女の緑の瞳は、やさしげに潤み、しっとりと
した深い新緑の森を思わせた。
が、細かに腕を動かしている間に、長い髪が不意に揺れ顔先を撫
でた。
﹁は、は、は、はっくちょんんんっ!!﹂
細かな髪が鼻先を刺激するや否や、ヴィクトワールは強烈なクシ
ャミを耐え切れずに発した。
弁護するなら不可抗力である。
しかし、運命は無情だった。吹き飛んだ七宝焼のバッジはクルク
1392
ルと弾け飛んで、壁にブチ当たって、四散した。
かつーん、と。
硬質な音が、ヴィクトワールの鼓膜に反響する。
﹁⋮⋮え﹂
魂が抜ける、とはこのことだろう。
ものを拾い上げる。
ヴィクトワールは呆然とした顔で立ち上がると、床に転がった
バッジだった
﹁え、ちょ、ちょ、待って。なんで、なんで。うそ、うそでしょう﹂
嘘ではない。すべて現実である。
彼女はしばらく壊れた陶器の破片を手のひらの上で弄ぶと、まず
最初に証拠隠滅のために清掃をはじめた。
それは無意識の行動だったのだろう。チリ一つ残さない微細かつ
丹念な動きで、なにかが割れた、という痕跡だけは完全に消去され
た。少なくとも、ここが犯行現場であることを気づかれる恐れはな
い。
﹁ふーっ。⋮⋮ってちがーう!! なにをやっているのだ、私は!
なにを証拠隠滅をしようとしているのだ! ダメだ、ダメだぞ。
騎士であるならば、己の過失を潔く認め、素直に謝罪⋮⋮しゃざ、
い﹂
ヴィクトワールの顔色。血を抜ききったように一気に青ざめた。
水死体のようである。
ただでさえ白い肌が透けて見えそうになほどの印象だ。
ダメだ。
それはいけない。
なぜなら怖いからだ。
﹁まずい。これはまずいぞ﹂
カタカタと自然に両肩が震えだす。
日頃のポルディナの信奉具合を見ていればわかった。
アレは狂信者に近いのだ。
ただでさえ、主のことを神以上と豪語している女の賜り物を損な
1393
ったと知れば、その害は目を覆うものだろう。
﹁そして、被害者はわ・た・し。はっ、いまなにを⋮⋮! ちがう、
現実逃避している場合じゃないぞ、考えろ、考えるんだヴィクトワ
ール! ダメだ、思いつかない﹂
早々に諦めた⋮⋮はずもなく打開策を探し続けるメイド騎士であ
ったが、良策というのは願って舞い降りてくるものではない。十八
歳になったばかりの彼女は過剰なストレスに耐えかね、長い爪をカ
リカリと噛み出した。爪噛みは、歴とした自傷行為である。
﹁先ほどからいったいなにを騒いでいるのですか﹂
﹁はうあ!? な、ななな、なんでもないのだ。あは、あはははっ、
あはっ﹂
不意に背後からポルディナが入室してくる。ヴィクトワールは顔
をこわばらせたまま、引きつった笑顔で応えると洗濯室を駆け去っ
ていった。風を巻いて走る彼女の背後には憮然とした表情のポルデ
ィナがぽつんとひとり残されていた。
﹁はぁ、それはまたやっちゃいましたねぇ﹂
﹁なんだその人ごとのようなセリフはっ。おまえは、危機感が足り
ないのだっ!﹂
ヴィクトワールは自室に戻ると、まだ仕事をしていた侍女のハナ
を連れこみ、部屋の錠を固く閉じた。万が一にもこの密談を聞かれ
てはならないという彼女の怯えがあった。
﹁危機感といわれましても。もう、素直に謝って許してもらうのが
一番だと思われますが﹂
﹁はあっ!? おまえ、誰が怒られると思ってるの? もおお、そ
んなこというならおまえが謝れよおおっ!!﹂
﹁わー、お嬢さまなにげに最低ですー﹂
﹁くううっ。ハナ、おまえも知っているだろう。あの犬耳女の凶暴
性をっ。しかも、なにを間違ったのか、あの女はクランドを盲信し
ているっ。私は、あの女がこれを朝な夕な悦に入りながらじっと見
つめていたのをようく知っている。それが、それが、こんな有様に
1394
なったと知れたら。もうっ、私はもうっ﹂
﹁あー。ちょっと見せてください。あー、こりゃひどい。こりゃダ
メですねー。あはは﹂
﹁もおお、なんでそこで笑うかなぁ。私が真剣に困っているのにっ﹂
﹁しっかし、なーんでお嬢さまはこのようになる可能性があること
をわかっていて虎の尾を踏むような真似を。放っておけばよかった
のでは﹂
﹁別に、私だってポルディナが憎くてやったわけじゃ、いや、少し
はアレだが、私怨でやつの大切なものを壊したわけではない。その、
親切心で磨いてやろうと思い立ち、たまたま手が滑って落として、
結果として割れちゃったのであって、恥じることはなにひとつない
っ!﹂
﹁あくまで善意からで。それじゃ、そのように仰せられれば、彼女
もそう怒らないと思いますけど。お嬢さまは、どのように考えてい
るかわかりませんが、彼女はかなり理性的な人間ですよ﹂
﹁にゃああああっ!! いえるわけ無いだろうがっ! あの女が超・
絶、激怒するに決まってるうううっ!!﹂
﹁あー、トラウマですね、これは﹂
ハナは寝台に腰かけると、見事に四つに割れたバッジを子細に見
ながら小鼻をピクピク動かした。
﹁ふむ。提案なのですが、いっそのことこれと同じものを購ってく
る、というのはどうでしょうか?﹂
ギルド
﹁そ、それだ! い、いやいかん。確か、そのバッジはクランドが
冒険者組合で買い求めたものだといっていた。ならば、事務所にま
で行かねばならないのだろう。それは、ちとまずい﹂
﹁んん。あぁ、そうですかー、そうですかー。⋮⋮もしや、ヴィク
トリアさまのことを心配しているのですか。あの方は腰が重いので
万が一にも出くわすなどということはないと思うのですが。でも、
このバッジ記念品のようですしモノ自体特別なものではないのでし
ょう。街の雑貨屋にも出回っているかもしれませんよ? 根気よく
1395
探せば、きっと見つかるはずですって﹂
﹁そうか、なら頼んだぞ﹂
﹁え?﹂
﹁え?﹂
ハナは小首をかしげてヴィクトワールの顔を覗きこんだ。しばら
く見つめ合うふたり。
先に折れたのは事件の張本人である、ドジメイドの方だった。
一時間後、ヴィクトワールは失われた記念バッジを求めて街に繰
り出していた。
﹁どうして侍女がいるのに、この私がかような用足しに直接出向か
なければならないのだ。まったく、もお﹂
すべて自業自得である。
だが、彼女には反省の色は微塵もなかった。
ヴィクトワールが外出している間は、ハナが上手く鬼メイド長に
いい繕っておいてくれるとのこと。タイムリミットは日が落ちるま
で、ということらしい。
︵そういえば屋敷から出るのは、はじめてだったか⋮⋮︶
ヴィクトワールは黒地のドレスに白のエプロン、手には籐製の籠
を持ったままシルバーヴィラゴの中央部を目指して歩き出した。姫
屋敷から三十分ほど歩けば、徐々に街は賑わいを見せはじめる。目
抜き通りにはあらゆる商店が軒を連ねて雑多なものを並べていた。
﹁ふむ。これだけ、たくさんの店があればどこかにバッジのひとつ
やふたつ、すぐに見つかるだろう﹂
ヴィクトワールは細い顎に人差し指を当てながら微笑した。
ふと、物売りの中年と目が合う。威勢のいい中年の物売りは、待
ってましたとばかりに口上を機関銃のようにまくし立てた。
﹁いらっしゃいっ。おぉっ、こいつはまたべっぴんさんだ! 朝イ
チからツいてるねえっ。お女中さん、シルバーヴィラゴ名物ホロッ
ホどりの串焼きはひとつどうだねっ。朝から駆けずり回って小腹が
すいたくらいだろ? ほっぺたが落ちること請け合いだぜ!﹂
1396
﹁ふむ。なにも買わずにものを訊ねるのもぶしつけだろう。ハナ、
支払ってやれ⋮⋮ああ、そうか。いまはいないのだったな。店主、
いくらだ﹂
貴人が従者を連れずに外出することはまずありえない。
特に、ヴィクトワールほどの爵位を持つ令嬢であれば物売りと直
接やりとりをするということは、皆無だった。旅の途中でも、金銭
のやりとりは常に従者であるハナに任せていた。久しぶりの外出で
気がゆるみかつてのような応対をするのは自然の流れである。目を
白黒させる店主を前に、慣れない手つきで財布を開いた。告げられ
た価格の銅貨と交換にホロッホどりの串焼きを手に入れる。店主が、
こいつはちょっと毛色の変わった客だぜ、という目つきになったこ
とも気づかず、辺りをキョロキョロと見回しはじめる。
﹁店主、ところで椅子はどちらにあるのだ﹂
﹁え、あ。えぇ?﹂
屋台の串焼きなど買ったその場で立ったまま、あるいは歩きなが
ら食べるのが庶民の通例である。
しかしながら、長旅の途中ですら必ずハナに床机を出させて飲み
食いをしていた礼儀正しいヴィクトワールである。彼女の中で、飲
食物を往来の真ん中で歩きながら食すなどは考えもしない行為だっ
た。彼女は近衛騎士であったが、ほとんどが宮殿内で王女に侍るの
がほとんどであった。野戦や露営の経験は皆無であり、その点はる
かに純粋培養された典型的な貴族令嬢の典型ともいえる生活様式を
堅持していたのだった。
店主が慌てながら椅子を用意すると、ヴィクトワールは軒先の内
側に引っ込み人目につかない位置で串焼きを丁寧に口に運んだ。野
趣あふれる肉を噛み締める。口内いっぱいに濃厚な肉汁と脂が広が
り、頬が自然とゆるんだ。
手元で口を覆いながら食事を終えると、手のひらをヒラヒラと動
かした。店主は戸惑いながら、うろたえきった様子で額にびっしり
と汗をかく。
1397
﹁水﹂
﹁へ、へへぇっ!﹂
用意させたボウルに張った水で手の汚れを清める。ヴィクトワー
ルはすっくと立ち上がると、手にしたバッジの破片を見せ、これと
同じものがないかどうか訊ねた。
﹁と、申されましても、ウチはしがない串焼き屋なんで。こういう
ものは、この先の雑貨屋で聞いた方が確実かと﹂
﹁そうか。ならば、案内せい﹂
﹁へ? へ、へいっ!﹂
ヴィクトワールは串焼き屋を供にして雑貨屋まで移動した。どう
やら、串焼き屋と雑貨屋のオヤジは顔見知りらしい。ふたりは顔を
突き合わせるとゴニョゴニョと話しだした。
﹁あのー、お女中さん﹂
﹁ヴィクトワール﹂
﹁へ?﹂
﹁私はヴィクトワールという。今後はそのように呼ぶがよい。それ
で、結論としてこの店で同じものは購えるのか﹂
﹁いえ、そのヴィクトワールさん。残念ながら、このバッジは随分
と型が古くて中古屋でも中々出回ってないものかと。おまけに、こ
れ、正規品じゃありません。偽物です。海賊版ってやつですな﹂
﹁偽物、だと?﹂
ギルド
﹁正規品のバッジに似せてありますが、焼き方も彫りもすべてが甘
すぎるんで。冒険者組合の職員が商っているものとはあからさまに
クオリティが低すぎやす。大方、受付の近くの叩き売りで購入した
ものでしょうが、へい。あそこでは、よく受付嬢が小金を貰って物
売りを黙認しているというのを聞いておりやす。どうでしょう、正
規品のこれと同じ型のものなら夕方にまでは見つけることはできや
すが﹂
﹁ちなみに、正規品と偽物の違いはすぐわかるものなのか﹂
﹁ははっ、それはもう。あまりに造りが違いすぎますからねぇ﹂
1398
﹁それは、まずいっ! 本物ではまずいのだっ。どうにかして、こ
れと同じ偽物を手には入れられないのかっ!!﹂
ヴィクトワールは激しく焦った。あの、妄信的なポルディナが違
いに気づかないはずがない。下手なものを入れ替えてしまえば、数
秒で露見するだろう。そのくらいならば、知らぬ顔の半兵衛を決め
こんだほうがマシというものである。
﹁ちょっと、それは、無理でしょう。こういう騙りを扱う流れの商
人は、かなりの時間が経たねば同じ場所には姿を見せないのが当た
り前なもんで﹂
﹁⋮⋮いったい、私はどうすれば﹂
ヴィクトワールは蒼白な表情でうつむく。美女の憂い顔を見て気
の毒になった、串焼き屋のオヤジがバツの悪そうな顔で頭を掻いた。
﹁あー、このジョゼッペが無理だっていうなら、おそらく無理だろ
うな。けど、ひとつだけ方法があるとすれば︱︱﹂
﹁なんだっ、なにかあるのかっ! 頼むぅう、教えてくれっ!!﹂
﹁︱︱おれのいきつけの酒場の女主人は結構カオが広くてなぁ。彼
女ならもしかしたら﹂
ヴィクトワールは即刻教えられた酒場に向かって歩き出した。目
抜き通りから離れていくにつれ、徐々に街並みは物悲しい雰囲気に
変わっていく。辺りの家の軒先には昼間から若い男たちが所在なく
屯っている。中には昼間から飲んでいるのか顔を赤らめている男も
ちらほら見受けられた。見るからにみすぼらしい半裸の子どもが、
垢じみた顔つきで野良犬を追いかけている。いかにも無頼の徒とい
った輩は、ヴィクトワールの姿を見ると下品な言葉を躊躇なくかけ
てくる。
1399
︵まったく、下卑た輩どもだ。早々に用事をすませたら立ち去らね
ば︶
ヴィクトワールは表情を消したまま、大きな胸をツンとそらせて
足早に通り過ぎていく。
飲み屋がひしめき合っている通りに差しかかると、目の前にひと
りの男が両手を挙げて立ちはだかった。
ヴィクトワールより拳ひとつぶんほど大きな背丈だった。すれ切
った黒いシャツに皮のチョッキを着ている。目つきは脂ぎっており、
視線は真っ直ぐ彼女の両の乳房に固定されていた。
ヴィクトワールが避けて通ろうとすると、男は素早くそれにあわ
せて動く。
こめかみが、怒りで細かくヒクついた。声音を押さえていった。
﹁どいてくれないか。そこを通りたいのだ﹂
﹁⋮⋮とーせんぼ、とうせんぼぉおっ﹂
﹁なぜ、そのような真似を﹂
﹁うえっへへ。姉ちゃん、かわいいのう。おれっちのタイプだよお。
ねえねえ、ちょおっと暗くて涼しいところで語りあわなぁい﹂
﹁語り合わない。どけ﹂
﹁どかなーい。いひ、いひひひっ﹂
男は不器用にウインクをしてみせる。ヴィクトワールはそれを無
視してしゃがむと、赤ん坊の頭ほどの石を拾った。男が図々しく顔
を近づけてくる。異様な臭気が鼻先をなぶった。怒りのレベルゲー
ジが一気にレッドゾーンを踏み越える。
﹁んんん。なになにぃ? おえぶっ!!﹂
ヴィクトワールはつかんだ石でおもいきり男の口元を殴りつけた。
石ころは狙いたがわず男の前歯を残らずへし折ると血飛沫を撒き
散らした。
汚れ切った黄ばんだ歯が辺りに飛び散った。
男は後ろにひっくり返ると踏まれたゴキブリのように四肢をシャ
カシャカ乱舞させる。
1400
﹁いだあっ、いだああーぃ。なんでぇ!?﹂
﹁虫けらが目の前をブンブンやかましく舞っていれば癇に触るだろ
う。つまりはそういうことだ﹂
長い脚を垂直に突き下ろす。頑丈な黒のブーツが男の胃袋に吸い
込まれた。
男はおげっ、と屠られた豚のような鳴き声を上げると気絶した。
ゴミを速やかに排除し、しばらく歩くと目的地の酒場にたどり着
いた。
﹁ここだな﹂
ヴィクトワールはスイングドアを押し開いて店内に入った。中は
薄暗く、酒場独特の強いアルコールや油物の雑多な匂いが鼻を突い
た。
カウンターには二十代後半の女性と若い少女が隣り合って座って
いた。
酔いつぶれているのか少女は微動だにしない。ちょっと見たとこ
ろ、羽飾りのついた丸い帽子がやけに上品そうな品だった。
少女はグラスを片手に持ったまま突っ伏している。
周りには、すでに空になった酒瓶が幾本も転がっているのが見え
た。
小さなカンテラに照らし出され、こちらを見ているのが串焼き屋
の店主がいっていた女主人だろう。うらぶれた感じの、ひどく退廃
的な色気を放っていた。元々顔の作りは整っているのだろうが、濃
い化粧とやつれたような瞳がそれを損なっていた。
女主人は椅子から立ち上がると、だるそうにしゃべりだした。大
きく胸ぐりの開いたドレスから乳房を半分以上露出している。あま
りの下品さに、ヴィクトワールは心の中で顔をしかめた。
﹁メイドさん? あいにくと、ウチは人手なら余ってるよ。仕事を
探しているのなら隣のロランの店に行きな﹂
﹁いえ、そうではなく。あなたがこの店の主人のルイーゼ殿か。少
しものをお尋ねしたく、足を運ばせてもらったのだが︱︱﹂
1401
﹁ああああああっ!!﹂
ヴィクトワールが話をはじめた途端、少女が突然騒ぎ出した。手
に持ったグラスを放り投げ、両足をガツガツ床にぶつけはじめる。
皿が辺りに散乱し、食べかけのチキンやスープの中身が床に散らば
った。
﹁こらっ、メリー騒ぐんじゃないよっ!! ごめんねメイドさん。
ちょっとこの娘、つらいことがあったみたいで。こらっ、いい加減
におしよっ﹂
﹁やだああっ、やだやだやだああっ! なんで、なんで、なんで、
なんでわたしばっかりっいいいっ!!﹂
﹁おい、大丈夫なのか?﹂
ヴィクトワールが心配そうに手を伸ばすと、メリアンデールはも
のすごい勢いで振り払う。ヴィクトワールはちょっと涙目になった。
﹁ええ!? あー、平気平気。ちょっと男にフラレただけなんでね
ぇ。このくらいの歳の娘にゃよくあることで。ほら、もうっ。人が
来てるんだよっ。それでも、歴としたお貴族さまかいっ﹂
﹁フラれてないいいっ! わたしフラれてないもおおんんんっ﹂
少女、メリアンデールの表情はひどかった。端正な瞳は酒で真っ
赤に血走っている。目蓋の下にはドス黒い隈がうっすら浮かんでい
た。髪は幾日も手入れをしていないのか、ボサボサでほつれている。
着ている服もあちこちにシワが寄り、くしゃくしゃになっていた。
﹁あー、ルイーゼ殿。これでは、ちょっと話にならないな﹂
﹁悪いね。なんか今日はヤケにこの娘荒れちゃって。あの日かな﹂
﹁処女で悪かったですねええええっ!! うううっ、なんで、なん
で。もおお、死にたいよう。誰か、その音消して。わたしの耳元で
歌わないで⋮⋮。うるさいよおおおっ!!﹂
﹁誰も歌っちゃいないよ。ったく﹂
メリアンデールは両手で顔を覆うと、シクシクと静かに泣き出し
た。
完欝状態である。
1402
﹁んで、なんだったっけか、メイドさん。あたしに用事だって? 仕事の斡旋じゃなくて﹂
﹁ハエが舞ってるぅううううっ!! あっちいけえええっ!! こ
のおおっ!!﹂
﹁ああ。というか、これは放っておいていいものなのか﹂
﹁あーいいっていいって。ときには酒が憂さを吹き飛ばしてくれる
ものさ。それに、酔いが覚めればこの娘、結構シャンとしてるし。
んで、用件は?﹂
﹁ああ、実は⋮⋮﹂
ヴィクトワールはいままでの経緯を残らずルイーゼに伝えた。し
ばらく頭をひねっていたルイーゼは、もしかしたら酒代の質に取っ
たものにそのバッジがあったかもというと、店の奥に引っこんだ。
その場に取り残されたヴィクトワールは所在無げに立ったままメ
リアンデールのすすり泣きを聞きながら非常に気まずい気分に陥っ
た。
﹁⋮⋮そんなつもりじゃなかったんです﹂
来た。
メリアンデールは顔を覆ったまま、静かに語りだした。
ヴィクトワールはもはや観念すると、大きくため息をついた。
﹁あの人は、ずっとわたしのことだけを考えて行動してくれたのに。
⋮⋮ひどい言葉で傷つけてしまったの﹂
﹁そうか﹂
﹁彼は、いつもやさしかった。わたしの作った料理を、いつもおい
しいって食べてくれたの。さびしいっていえば、そばに居てくれた
し。いつでも、わたしのこと愛しているっていってくれたわ⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
ヴィクトワールとて女子である。十八の娘ざかりであれば、この
ような色恋沙汰に興味がないわけではない。酔っぱらいの繰り言で
あっても、興味が沸かないわけではなかった。
﹁ちなみに、相手はどんな男だったのだ﹂
1403
﹁彼は、やさしくして、強くて、紳士でした。一晩同衾しても、わ
たしには指一本触れなかったの。ふふ、きっと私のことを気遣って
くれていたのね。でも、こんなことになるくらいなら、もったいつ
けずに許してあげればよかった﹂
﹁そうか、紳士か。たしかに、一晩も女といて手を出さないとあれ
ば、それはおまえのことをよほど思っていたか、それとも︱︱﹂
﹁ですよねっ!!﹂
不能か、と続けようとしたところにモロにメリアンデールが食ら
いついてきた。
ヴィクトワールは真っ向から、メリアンデールの瞳を直視した。
彼女の青い瞳は、深海のように底が見えない狂気を孕んでいた。
気圧されたヴィクトワールが腰を浮かしかけると、熱病に憑かれ
たような瞳でメリアンデールが顔を近づけてきた。
﹁そうですよね愛してますよねわたしのことこれでおたがいに想い
が通じていないことなどありませんよねああでもなんでわたしった
らあんなひどいことばを平気でううん彼だって平気なわけがない死
ねばいいわたしなんて死ねばいいリースの代わりに死ねばいいとみ
んな思ってカインもおとうさまも皆が皆がつめたいあの家に居場所
がないひとりぼっちひとりぼっち寂しい慰めて抱きしめて頭を撫で
て愛してずっと愛して骨まで愛してわたしを癒してくれるのはあな
ただけあなたになら殺されてもいいけど迷惑かも許されたい謝りた
い勇気が出ない知らんぷりされたらその場で舌を噛み切って死ぬ自
信があるああなんであの日彼を拒んだのかしらあのままソファに押
し倒され彼の熱くて逞しいものに突かれればよかった突かれたい突
き殺されたい突き殺して無様な豚のように家畜のようにわたしには
あなただけ許して許して許してててててててててて﹂
﹁ひいいいいっ﹂
﹁逃げないでくださいよ。ところで、お姉さん。美人さんですね﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
﹁で、お姉さん。その顔、セックスが充実してる顔ですね﹂
1404
﹁んぶっ!?﹂
﹁ふっ、誤魔化さないでください。どうせ、アナタみたいな美人さ
んは、男と年がら年中イチャイチャよろしくやってますよね。当然
の帰結。世界の選択です。だから、お肌がそんなにもう、ツルツル
テカテカふわふわして、そういうやつを見ると、わたしはもう。さ
びしいわたしがこうして孤独に打ち震えているっていうのに。もお。
も、もお、もおおおおおっ!!﹂
﹁く、来るな!! こっち来るな!! ひいいいっ!!﹂
﹁逃げんなぁああっ! このヤリマンがあああっ!!﹂
ヴィクトワールがルイーゼが戻るのを待たずに店から逃げ出した
のは無理もなかった。
﹁んで、結局一日潰して戦果なし、と﹂
﹁返す言葉もない﹂
夕闇が間近に迫る頃、姫屋敷の玄関口で語り合うふたりの主従の
姿があった。
疲れきったヴィクトワールとハナである。
﹁どうするのですか、お嬢さま。ポルディナさん、昼頃から真っ青
な顔でずっとバッジ探してますよ。ハナはあまりにも不憫で、もお
黙っていられそうもありません。くふ﹂
﹁おい、なんでちょっと嬉しそうなんだっ。くぅ、な。た、頼む。
おまえがやったことにしてくれ! あいつは、年下には優しいだろ
! おまえならそれほどキツく咎められはせん。な! な!?﹂
﹁えええっ、ちょっ! さすがにそれはヤですよう! ハナが死ん
じゃいますってっ!!﹂
﹁おまえがやった! それですべてが解決するっ! ああ、なんで
1405
こんな簡単なことに気づかなかったんだ!﹂
﹁ず、ずるいっ。お嬢さま、超ズルっ子ですう! さすがのハナも
それだけは承諾できないですっ!﹂
﹁おまえがやった! おまえがやったの!﹂
﹁ちょ、それはないでしょうっ﹂
﹁うるさいいいっ!! そもそもこのバッジをあんなところに置い
ておく、あやつが悪いのだっ!!﹂
﹁バッジがなんですって﹂
低くこもった声に心臓が収縮する。目の前でハナが真っ青な顔で
口をぱくぱく金魚のように開閉していた。錆びついたカラクリ人形
のような動きで首をねじ曲げる。
そこには、いまだかつてないいい笑顔で佇むポルディナの姿があ
った。
ヴィクトワールは犯行を自供した。
ポルディナが仁王のように佇立するまえで、すべてを一から話し
たのだった。
﹁そうですか。わざとではなく、善意から行ったことでこうなった
のですね﹂
﹁ああっ、それだけは信じてくれ!﹂
激怒するかと思いきや、ポルディナは案に相違して落ち着いた口
調でそれだけ確かめると、跪いていたふたりの手を取って立ち上が
らせた。
﹁そうですか。ならば、仕方ない。これからは、気をつけるのです
ね。さ、夕食の用意をご主人さまが戻られる前にしなくてはなりま
せん。ふたりとも、手伝いなさい﹂
﹁⋮⋮怒らないのか?﹂
﹁このようなことでいちいち咎めていては、誰もがなにもできなく
なってしまうでしょう。形あるものはやがて壊れるものです。それ
に、私はあなたたちの姉です。妹の過ちの責はすべて私にあるので
す。そもそも、そんな大切なものを置きっぱなしにした私がいけな
1406
いのですから﹂
ポルディナはそれだけいうと、四つに割れたバッジをそっとハン
カチに包み、屋敷の裏手へ歩き去っていった。ヴィクトワールは呆
然とした様子でその後ろ姿を見送っていたが、叱責される恐怖から
解放されたのか、安堵のあまりそっと胸を撫でおろした。
﹁ふうっ、よかったな! 思ったほど怒っていなかったぞ。案外、
器の広いやつじゃないか!﹂
﹁⋮⋮本気でそう思っているなら、お嬢さまはなんて能天気なこと
ですか。こっちです﹂
﹁おい、どこに行くんだっ﹂
ハナはヴィクトワールの手を引くと屋敷の裏手に消えたポルディ
ナを追った。彼女はおそらく夕餉に使う材料を求めて家庭菜園に移
動したのだろう。
まもなく、ポルディナの姿を見つけるとその場に隠れたまま息を
殺す。普段の彼女であれば、これだけの距離に接近して気づかない
はずがない。
だが、呆然としたようでその場に佇んでいたポルディナは手にし
たバッジの破片を見つめたまま、まもなく声を押し殺して泣き出し
たのだった。
﹁⋮⋮っ。くっ⋮⋮なんで⋮⋮私のっ⋮⋮たからものっ⋮⋮ご主人
さまにっ⋮⋮もらったのにっ﹂
悄然と沈みきったポルディナはその場にしゃがみこむとうつむい
て両手で顔を覆った。
白い手のひらの隙間から、涙がボロボロとこぼれて地面に落ちて
いく。
途切れ途切れに聞こえる声は哀切極まりなく、ふたりの胸に突き
刺さった。
ヴィクトワールはここに至って、己の行ったことを認識すると、
紙きれのような真っ白な顔でその場にただ立ちすくむだけだった。
ふたりはその後なに食わぬ顔で炊事場に戻ると夕食の支度を無言
1407
で手伝った。
蔵人に給仕するポルディナの顔色も心なしか憂い顔だった。残り
湯で身体を清めたあと、自室に戻ると、どちらともなくポツリポツ
リと会話をはじめた。
﹁なあ、私たちは、どうポルディナに謝罪すればよいのだ﹂
﹁⋮⋮はい。あのバッジはハナたちから見ればどうってことのない
ものでも、彼女にとってはかけがえのない宝物だったのですね﹂
﹁どうすれば。いったい私たちはどうすれば﹂
﹁その、なにか彼女の好きそうなものをプレゼントするっていうの
はどうでしょうか? 正直なところ、勇者さまの贈り物から比べれ
ば代わりになるようなものでもないでしょうが、せめてなりとも謝
罪の意をこめてなにか心を砕いたものを差し上げれば、少しは、意
味があるのではないでしょうか。なにか、ないですか? 最近、お
嬢さまが感動したものとか﹂
﹁そういえば、ポルディナは肉料理が好きだったな﹂
ヴィクトワールは街に出かけた際に屋台で食べた串焼きが非常に
美味だったことを思い出した。あれを食べさせれば、少しは元気を
取り戻すかもしれない。自分の思いつきを話すと、ハナはパッと顔
をほころばせ同意した。
﹁そういえば、街のお肉屋さんで小耳に挟んだのですが、なんでも
城外四里の林に、ホクホク鳥という世にも珍しい珍種が最近目撃さ
れたとか。なんでも、その肉は非常に美味で地元の人間も知らない
人が多いという逸品らしいです。もし、その鳥を捕まえて串焼きに
できれば、ポルディナさんの憂いも少しは晴れるかと﹂
﹁そうだなっ、よし! 明日、さっそく捕まえてこようっ!﹂
﹁その意気です! あと名誉のためにいっておきますが、たち、と
ハナをお嬢さまにプラスアルファするのはやめてくださいな。ぜん
ぶ、お嬢さまの単独犯ですからっ﹂
﹁おまえなああっ!!﹂
1408
次の日の夕暮れ、城外で激しい激闘の末ホロッホ鳥︵※捕獲難易
度高し︶を捕らえ、荷車に乗せて山野を疾走するヴィクトワールの
姿があった。
一方、姫屋敷では新品の記念バッジを胸元につけウキウキした様
ギルド
子で夕食を運ぶポルディナの姿があった。一部始終を聞いた蔵人が
新たに同じものを冒険者組合で購入し、与えたのである。
﹁待っていろよっ、ポルディナぁあああっ!!﹂
数時間後、帰宅したヴィクトワールは上機嫌のポルディナからニ
コニコしながら新品のバッジを説明された。
昨日のことなどなかったような態度を取られた上、勝手に屋敷を
空けたことを軽くたしなめられた。
しかも、優しくだ。
憤懣やるかたないヴィクトワールはその夜、ハナのほっぺたを思
う存分引っ張って八つ当たりをしたのだった。 1409
Lv88﹁待つ女﹂
ギルド
蔵人がその女性に気づいたのは、冒険者組合の入口階段付近だっ
た。
灰白色のくすんだローブを身にまとい、頭にはリンネルのかぶり
ものをつけている。
おや、と思ったのは右手に細い杖を持っていたからだった。彼女
は、慣れない手つきで足元を探り、一歩一歩、見ている方が焦れっ
たくなるような遅い動きで移動している。
入口に立っている番兵は、彼女の目が不自由なのをわかっていて
も微動だにしない。
無理もない。この世界では、身体弱者にやさしい世界ではないの
だ。
誰もが、自己責任。自分のケツは自分で拭く。
人々に根付いた差別感は根強く、五体に欠損のある人間には生き
にくい世界だった。
この世界に召喚されたばかりの頃、障害者に手を貸そうとしてひ
どく罵られたことを思い出し、嫌な気分がまざまざと蘇った。
さもありなん。
顔見知りでもない人間が理由もなく親切ごかして手を差し伸べる
のは、なにかしらの下心があってのことと相場は決まっていた。
この世界では、一旦身内となればウザったいくらいに世話を焼く
気風が根強くあった。
1410
反面、見も知らない人間に対する警戒心は現代人が思いもつかな
いほど強烈である。
あっ、と思ったときにはすでに遅かった。
﹁え、きゃ﹂
女性は小さく怯えた声を出すと、状態をぐらつかせた。
昨日の雨でぬかるんだ石畳に手元の杖をすべらせたのだ。
カラカラと、乾いた音が鳴るが早いか、駆け出していた。
﹁危ねぇ﹂
蔵人は素早く身体を動かし、彼女の背中に回って転落を阻止する。
シトラス系のふんわりとした香りが漂った。
﹁あ、ありがとうございます﹂
﹁いや。いいってことよ﹂
女性の目蓋は伏せられたままであり、盲人のそれだった。
歳の頃は四十を過ぎたばかりだろうか、若い頃はさぞや美しかっ
たであろう名残はあるものの、相応のシワが刻まれていた。
蔵人は彼女の手を取って立たせると落ちていた杖を拾って渡した。
﹁見ず知らずのお若い方。どうも、ご親切に。ありがとうございま
す﹂
﹁だからいーって。慣れない場所はいつも以上に気をつけるんだぜ。
おば、⋮⋮おねーさん﹂
蔵人が咄嗟に口ごもっていい直すと、婦人は上品に微笑んだ。
﹁ふふ、いい直す必要はありませんよ。わたしは、もうとうに四十
を過ぎてるおばあちゃんですからね。あの、なにかお礼をしたいの
ですが、あいにくと持ち合わせが少なくて﹂
﹁だから、そんなつもりで助けたわけじゃねーって。事務所に用が
あるのか? だったら、ついでについてってやろうか﹂
﹁いえ、本当に、そこまではさせられませんよ。あ、わたしモニカ
と申します。あの、お名前を﹂
﹁だ、だからそんなつもりじゃないって、それに名乗るようなモン
じゃねえし﹂
1411
蔵人はモニカと名乗った婦人があまりに感謝の意を示すうちに、
異常に照れくさくなったのかその場を逃げるようにして走り去った。
階段を一気に登りつめると大広間にたどり着く。
売店で、水を買うと一息に飲み干した。
水、と一口にいっても、ここで売っているものは、たっぷりと砂
糖の効かせてある甘味の強いものだ。なんでもモノが揃う現代日本
とは違い、砂糖は純然たる嗜好品であった。
どちらも高い税がかかっており庶民が気安く消費できるものでは
ない。水に砂糖を入れることでお得感を生み出しているのであろう
が、水は無味であると信じきっていた蔵人にとって、はじめて口に
したときは軽いカルチャーショックであった。
それは、友達の家に遊びに行って、麦茶に砂糖が入っていたとき
と同じくらいの衝撃度であった。彼の近くにクランのメンバーであ
るアルテミシアとルッジの姿はない。ここ数日は珍しくふたり同時
に所要が入り、ソロで動くことになったのであった。
︵でも、ひとりはさびしいし。ネリーと遊ぼうっと︶
蔵人はグラスを売店の職員に返すと、ゆったりとした気分で受付
に近づいていく。
あいも変わらず澄まし顔をしていたネリーは、蔵人がひとりでい
ることに気づくと、途端に口元をゆるめて、くくっと笑いを噛み殺
していた。
﹁なんだよ、その笑顔は。んん? 俺に久しぶりに会えてそんなに
うれしかったのか?﹂
﹁⋮⋮見ていましたよ。中々、いいところあるじゃないですか﹂
ネリーはニマニマと楽しそうに頬をゆるめ、ほほ、と上機嫌に声
を漏らした。
﹁はあっ!?﹂
﹁目の不自由なご婦人に親切に手を貸してあげる。これは、強度の
善人でなければ中々できることではないです﹂
﹁はあっ!? ちっ、ちげーしっ。そういうつもりじゃねぇですし
1412
っ。あれは、たまたまだよっ。俺がフラーっと歩いてたら、こうっ、
ひゅーんとおばちゃんが落ちてきてっ。反射的にパッと手が出ただ
けでっ。そんな、気は全然ねえですしっ﹂
蔵人は己の善行をこっそりと見られていたということに、なぜか
強い羞恥心を覚え顔面をカッと火照らせた。
これには、軽くいじってやろうと思っていたくらいのネリーも呆
然としていた。
どうやら、蔵人にとっては、人にあからさまに褒められたりする
のは激しい気恥かしさを覚えるものらしい。
あっけにとられていたネリーも、好敵手の弱点を見出した利点に
気づき、青の瞳が妖しく輝きだした。
﹁そんなあ、謙遜することないですよぉ。ネリー、やさしい男の方
って憧れちゃいます﹂
﹁やめろ、マジでやめてくれ。ホント勘弁。あと、おまえはどこか
らそのきゃるきゃるした声を出しているんだ﹂
蔵人は顔を両手で隠すと、カウンターに突っ伏した。背後では受
付の順番を待っていた女戦士があからさまにムカつき具合を露わに
していた。
﹁あのお、いちゃついてないで早くして欲しいンすけど﹂
﹁ねえ、超・絶・善人のクランドさま。徳を高めるのもいいけど、
後ろの方がつかえているのです。順番を譲ってくれませんか?﹂
﹁はい、譲ります﹂
﹁あと、今日の善行を人々に流布されたくなければ、夜雀亭で私に
ランチをおごること。いい?﹂
﹁はい、奢ります。だから、みんなにはいわんといてや。ウチ恥ず
かしいねん﹂
蔵人の完全敗北であった。
﹁ねえ、あんたらマジ、うちのこと無視してるよね。クレーム出そ
っかな﹂
女戦士のムカツキも頂点に達していた。
1413
数時間後、カフェ夜雀亭でタダの昼食に舌鼓を打つネリーと、悄
然としてうなだれるひとりの男の姿があった。
店長のビッグスは蔵人の姿を見つけると、扉に身体を半分隠しな
がら心配そうにしばらく観察していたが、今日は暴れそうもないと
わかると安心して奥に引っ込んでいった。
﹁どうでもいけど、クランド。あなたは、この店でまたなにかやら
かしたの? 店長さんが、しきりにこっちの様子を窺ってましたよ﹂
﹁気にすんな。あいつ、いっつも俺のこと気にしてんだよ。どうや
ら、俺に惚れたらしい。おまえといっしょだな﹂
﹁あら、そうですか。じゃ、惚れてるんで、スイーツお代わりして
もいいですか﹂
﹁⋮⋮好きにしろよ﹂
﹁あ、すみません、店員さん。メニューのこっからここまでダーッ
とくださいな﹂
﹁そういうのやめてよっ!?﹂
ネリーはメニュー表を指差すと、だーっと叫びながら上から下ま
で滑らせる。若い女給は目を真ん丸くすると、蔵人に向かって視線
で大丈夫かと語りかけてきた。蔵人は生気を失った顔でうなずく。
ネリーは対照的に、スマイルくんのように、にっと素晴らしい笑
顔を意図的に作った。
﹁あんま調子に乗んなよ﹂
﹁心配しなくてもだいじょぶですよ。婦女子にとって甘いものは別
腹、むしろ独立した別個の機関ともいうべきか。ま、そのような素
敵空間に収納されるのです﹂
﹁素敵空間? おまえの胃袋は宇宙に繋がってんの? たくさん腹
の中に溜めこんで反芻すんの? ったく、それを痩せの大食いって
いうんだよ。おまえのファンに聞かせてやりたいね﹂
﹁ファン? ああ、いつも私にいろんなものを貢いでくれるセルフ
奴隷さんたちですか。あの人たちも、悪いんですよ。私の胃を甘や
かすから﹂
1414
﹁血糖値が上がりまくって死んでしまえ﹂
﹁残念ながらこの程度では﹂
﹁たっぷり食ってせり出したボテ腹を、みんなの前で、堕せよこの
クソ女っ!! って叫びながらめたくそにブン殴ってやりたいわ﹂
﹁そうしたら、許して、あなた! この子の命だけはっ! って叫
びまくって、クランドの名前を聞いただけで女性冒険者が近づかな
くなるように悪評を広めて差し上げます﹂
﹁鬼め﹂
﹁鬼の目にも涙。くーっ、この料理スパイシーです。これって香辛
料がメチャ高くて、中々ランチに食べる気にはなれないんですよね。
その点、本日クランドという金袋を持参した私に死角はなかった﹂
﹁その格言用途違うし。ホント人の金と思って食いまくる女ほど手
のつけようのない生き物はないわ﹂
﹁あ、待ちに待ったデザート到着。一口食べます?﹂
﹁俺の金じゃっ!!﹂
﹁それにしても、いいことしてなんで恥ずかしいんですか? 悪行
ならともかく。そもそも、あなたの場合は人生そのものが恥ずかし
いと思うのですが﹂
﹁人脅して飲み食いするやつにいわれたくねぇよ﹂
﹁あ、追加オーダーお願いしますっ﹂
﹁おーい。そろそろ勘弁しようよー。あなたのクランドさんもそろ
そろマジ泣きするよー﹂
﹁やっばっ。私、クランドくんガン泣きさせたった﹂
﹁まだ泣いてねえし﹂
﹁それで、デザートの追加が来るまで間を持たせるために無理やり
会話を続けますが、そのあのふたりは今日はいないのですか﹂
ネリーはちょっとしおらしげに、フォークで皿の中のミートパテ
を回転させながら訊ねた。
﹁ん? あのふたりって﹂
﹁ほら、あのおっきいのと、いやらしい感じの細い方﹂
1415
﹁ああ、アルテミシアとルッジか。しかし、その体型で表現するの
やめたげなよ。本人気にしてるんだぞ。ルッジは確かにエロいオー
ラ出てるもんな﹂
﹁女性の前でそういう下品な言葉をあからさまに使うと訴えられま
すよ﹂
﹁おまえが先に話振ったんだからな。どこまで自分勝手なんだよ。
このゆるふわスイーツ脳が﹂
﹁ふん。んで、どっちなんですか﹂
﹁は﹂
﹁どっちが本命なんですか﹂
﹁なぜそれを、おまえにいわねばらなんのだ﹂
﹁私が聞きたいから。だから、話しなさい﹂
﹁横暴な⋮⋮﹂
﹁すぐに答えないと、クランドが脅してここに無理やり連れ込んだ
と、いう﹂
﹁ぬう、また謂れ無き非難を人々の頭に培養する気か。⋮⋮別にど
っちってことはねえよ﹂
﹁どういう意味?﹂
﹁しいていうならば、俺がモテすぎるってことかな。アルテミシア
もルッジも俺のものさ。そして、君もな。かわいこちゃん﹂
蔵人は前髪をかきあげると、斜めの角度で激しくウインクをした。
ちょどそれを直視した、向かいで新聞を読んでいた行商の男がコ
ーヒーを威勢良く吹き出した。
﹁あっ﹂
﹁どうした﹂
﹁ほら、見て鳥肌が。クランドが気持ち悪いこというから﹂
﹁ひでぇこというなよっ!﹂
﹁クランドが気持ち悪いから﹂
﹁悪化してるっ!?﹂
﹁クランド単体の気持ち悪さ﹂
1416
﹁もはや最初と方向性がぜんぜん違うよなっ!!﹂
﹁うえっ、気持ちワルっ﹂
﹁ただの食いすぎだよなっ、それっ!?﹂
蔵人はえづいたネリーの背を撫でながらため息をついた。しばら
くすると、彼女は涙目になりながらも上目遣いでジッとにらんでく
る。青い瞳が抗議するように爛々と輝く。
﹁さすがですね。相手を思いやるふりをしながらすかさずセクハラ
に至るとは﹂
﹁穿って考えすぎなんだよ、おまえは﹂
﹁おまえっていわないでください。私はあなたの妻でも恋人でもな
いのですからね﹂
﹁いいじゃん、どうせそのうちそれに準じたものになるんだから﹂
﹁あー、はいはい。それはどこの世界のネリーさんですか。夢はお
ウチのベッドの中で見ましょうね﹂
とはいえ、このふたり案外と仲が良い。悪態をつきあいながらも
なんだかんだいって、どちらかが席を立つことはなかった。
蔵人が頬杖を突きながら、ネリーの細い顎がプディングを咀嚼す
るさまを眺めていると、彼女の視線が通りに向かって流れるのを感
じた。
自然、視線を転じていた。そこを歩いているのは、今朝方事務所
の入口で会ったモニカという婦人の姿があった。
﹁あー、モニカさん。彼女のこと気になります?﹂
﹁うん? まあ、な。どう見たって冒険者って感じじゃねえし。あ
の目なら、つき添いなしで出歩くのも骨だろうし、どういう用件で
出入りしてるのかなって思ってよ﹂
﹁⋮⋮彼女の息子さんは、冒険者だったんですよ﹂
ネリーの話はこうだった。つい、ひと月前ほどモニカのひとり息
子であるクライドという青年は四人の仲間と語らってダンジョンに
潜った。
もちろん、目的は一攫千金のお宝を狙ってである。かなり無理を
1417
して冒険者の資格を取ったクライドにしてみれば、是が非でも早い
うちに戦果を挙げなければ借金で首が回らなくなる。
だが、ロクな装備も経験も技術もない若者の素人クランなど迷宮
に巣食うモンスターたちの格好の餌食だった。組合に提出した帰還
期限をはるかに越えても彼らのひとりとして戻ってくるものはいな
アンノウン
かった。
確定的未帰還者。
﹁この世界ではよくある話です。クランド、あなたのようにたった
ひとりでロクな装備もなしに帰ってくる人間のほうが稀なんですよ。
おまけに、クライドは保険未加入の上、モニカさんの経済状態では
ギルド
探索チームを派遣することはできない。だから、彼女はああやって
毎日決まった時間になると、冒険者組合にやってきて還らぬ息子の
安否を気遣っているのです。一縷の望みを託して。⋮⋮ああ、そん
な顔しないでくださいよ。これじゃ、私が虐めてるみたいじゃあり
ませんか﹂
蔵人はモニカの小ジワの寄った上品そうな笑顔を思いだし、胸が
チクチクと痛んだ。
ネリーはスプーンを咥えたまま眉を八の字にすると、バツの悪そ
うな顔でぷいと横を向き、いった。
﹁ちょっと、散歩でもしませんか﹂
夜雀亭を出て大通りをあてもなくぶらついた。蔵人と比べれば頭
ひとつ分は違うネリーは、自然後ろに従って歩く形になった。
﹁んで、昼休みはとっくに過ぎてるけど、いいのか﹂
﹁いいんですよ。いなきゃ、誰かが代わりをしてます。自由裁量な
んですよ、私の労働時間は﹂
﹁嘘つけ。勝手なことばっかしてると、クビになっちまうぞ﹂
﹁大丈夫です。クランドと違って、私、皆に愛されてますから﹂
﹁性的な意味で?﹂
﹁ブッ飛ばすわよ﹂
﹁フ、やってみろ、出来るもんならな﹂
1418
﹁あ、その笑いかた﹂
﹁なんだ? あまりな俺のニヒルさに惚れたか﹂
﹁クランドのその顔。悦に入っていて、いつもより五割増しで気持
ち悪いです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁気持ち悪い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ねえ、気持ち悪い?﹂
﹁聞こえてるよっ! あんま追いつめんじゃねぇよ! 顔のことは
いうなよ、顔のことは。こんな俺でもけっこういいっていうやつだ
っているんだぜ﹂
﹁まあ、妄言は置いておいて、と﹂
蔵人は石造りの扁平アーチ橋に着くと、欄干に両手をかけて川岸
の向こうを見やった。
川面を吹き渡る風が火照った頬に清々しい。ネリーは無言のまま、
隣にくると大人しく視線を同方向に向けた。
はるか彼方に、ロムレス教会の大聖堂が見えた。
あの、荘厳な造りの宗教施設でマルコが今日も説教をしていると
思うと複雑な気分になる。気づけば、自分の顔をジッと見つめてい
るネリーに気づいた。
﹁どうした。俺の顔になんかついてるか﹂
﹁いや、なんでもないです﹂
ネリーは慌てたように手櫛で髪を整えると、自然な動きで距離を
詰めてくる。
いつもなら、腰でも抱いてやろうかくらいの軽口が出るのだが、
不思議とそんな気分にはならなかった。橋の中央をしきりに人々が
行き交っている。背後を馬車が通過する。木製車輪が石畳を踏む、
軋んだ音がのどかに遠ざかっていった。
﹁そういえば、この橋にも名前があるのか﹂
﹁ええ。泪橋、といいます。特に珍しくもないですね。この橋の先
1419
の開けた広場は、いまでは公園になってますが、昔は兵隊たちの練
兵場だったそうです。この公園も、繁華街が出来てからは物騒にな
ってしまって、夜になるとあまり人の通りもありませんが﹂
﹁ああ、この公園な茂みがあるからだろ。ひひひ﹂
﹁また、いやらしい想像をして。普通の恋人同士は、昼間でもあま
り寄りつきませんよ。暇を持て余した若いゴロツキがたくさんうろ
ギルド
ついてますからね。私も、ひとりのときはこの橋まで来たりしませ
ん。買い物なら、冒険者組合の近くで事足りますから﹂
﹁ふーん。泪橋ねぇ﹂
泪橋。ありふれた名前である。
全国各地にいくらでもある名前の橋に対する謂れはほとんどが想
像がつくようなものであろう。
大方、この橋の名も、戦場に向かう兵に別れを惜しんだ家族や恋
人が涙をこぼしたことから由来されると推測できた。
﹁あれ、あそこにいるのは⋮⋮﹂
﹁モニカさんですね﹂
土手の向こう側を見ると、目の不自由なモニカが頼りなげな足ど
りでふらついているのが見えた。
﹁彼女、最近失明されたみたいで。元々、視力はよくなかったみた
いですけど、息子さんを亡くされたときの心労が祟って全盲になっ
てしまったそうです﹂
生まれつきの全盲でなければ、足どりの不確かさも納得がいった。
蔵人は、いいようもない苦味が自然と口中に湧いてくるようで、不
快さに顔をしかめた。
﹁家族は。旦那はいねぇのかよ。他に子供は﹂
﹁母ひとり、子ひとりだったそうですよ。あっ⋮⋮﹂
ネリーが指差すと同時に土手を見やった。つまづいたモニカが土
手をゆっくりと転がっていく姿が遠景にあった。やわらかい草地と
はいえ、あちこちを打ったのだろう。彼女は土手の下まで転げ落ち
ると動かなくなった。
1420
蔵人は、ほとんど反射的に駆け出していた。
あっという間に坂を滑り降りてモニカを抱き起こす。
頬を軽く叩くと、彼女は小さくみじろぎをした。
﹁おい、大丈夫かよ!﹂
﹁え、あ。その声。昼間の、若い人。ええ、なんとか立てそうです。
あ、あれ﹂
モニカは狼狽した様子で右手を宙に舞わせた。
なるほど、よくよく見れば今朝方使っていた杖がないのだ。
辺りに視線を這わすと、転げ落ちた拍子に川べりに落ちた杖がプ
カプカと浮いているのが見えた。
﹁⋮⋮うん。おばちゃん、ちょっと待ってな﹂
﹁え、あ。あの﹂
蔵人は外套を脱いでその場に横たえると、躊躇せずに川の中へと
躍りこんだ。
ざんぶと、膝まづ浸かる水に顔をしかめ、杖を拾い上げる。丈の
長い水草が、蔵人の頬や髪をたっぷりと濡らした。苦労して岸に上
がる。ブーツを脱いで、水をこぼすと、ザッと音を立てて青黒い水
が地面を濡らした。
﹁ほら、足元には気をつけてな﹂
蔵人が杖を渡すと、モニカは戸惑ったような声を出してまつ毛を
震わせた。蔵人は急に自分がやったことが照れくさくなって、くる
りと背を向け歩き出す。気配を感じとったモニカは狼狽した様子で
急に呼び止めた。
﹁えっ。もしかして、水の中に。あっ、ちょっと待ちなさい﹂
モニカは綺麗なハンカチを取り出すと、割とはっきりした声を出
した。
先ほどまでの自信なさげな態度とは一転して、それは我が子にい
い聞かせる母親そのものの口調だった。
﹁ちょっ、いいよ別に⋮⋮﹂
﹁いいから、しゃがみなさい﹂
1421
﹁はい﹂
モニカは蔵人の頭を丁寧な手つきで拭っていく。若い女とはまる
で違ったカサついた手の感触に戸惑いを覚えながらもされるがまま
になった。
︵そういえば、こうやって誰かに顔を拭かれるなんて何年ぶりだろ
うか︶
くすぐったいような、不思議な感覚に身をよじらせる。
﹁ほら、これでよし、まったく。ねえ、若い方。お名前は?﹂
﹁く、クランド﹂
﹁クランド﹂
モニカは、驚いたように身を固くするが、すべてを頭の中で咀嚼
するとふっと肩の力を抜いた。
﹁ねえ、クランド。心配してくれるのはうれしいけど、たかが杖よ。
あんな川に飛びこんでしまったら、どんな深みがあるかわからない
し。こんなことで、あなたを傷つけてしまえば、わたしはあなたの
親御さんにどんな顔をして詫びればいいの? おせっかいもいいけ
ど、無茶もほどほどにしないとダメよ﹂
﹁は、はい﹂
﹁聞き分けがいいわね﹂
︵別に、どうってことねえのによ。なんだか、調子が狂うおばちゃ
んだぜ。ったく︶
説教を大人しく聞き入ったフリをしていると、頭上から何人かが、
揉みあう声が聞こえてきた。そっと顔を上げる。そこには、橋の中
央でネリーの腕を引いている男たちの集団が見えた。
﹁んげっ!?﹂
﹁どうしたの﹂
﹁んにゃ。ちょっと、野暮用だ。ここで待ってて﹂
蔵人はモニカにそういい放つと、猛然と土手を登りだした。
﹁おらおらっ。どけどけっ!﹂
既に物見高い街衆が人垣を作って囲んでいた。
1422
ネリーは、思ったより冷静な表情で自分の手を引いている男を睨
みつけていた。
全員で四人である。
蔵人が近づくと、上背こそあるが身体にまるで厚みのない、顔つ
きからいって歳の頃は十三、四くらいに見える少年たちだった。少
年たちは、蔵人が平然と歩み寄って来るのを見ると、気の弱い小型
犬のようにキャンキャンと吠え出した。それは、怯えを隠すように
吠え立てているようにしか見えない。滑稽な示威行動だった。
﹁あああっ。関係ない奴らは引っ込んででろやっ! ぶっ殺されて
えのかよっ!﹂
﹁ああっ? 騎士団上等! 俺たちゃ泣く子も黙る、ドナート一家
に出入りしてるモンだっ!! この女は今日から俺らのモンだから
よっ!! 文句があるやつは、かかってこいや!﹂
少年たちは息巻いて、地廻りの名を叫んだが、そもそもそんなも
の知らない蔵人にとっては無価値だった。効果抜群であるお守りの
名に一向に態度を変えない男に、少年たちはたじろいだ。
蔵人は彼らに近づくと、自ら脳内に描く、慈母観音そのもののや
さしげな笑みを湛えて両手を広げる。傍から見ると、ヒグマがいま
しも襲いかかってくるような強烈な威圧感しかない。両者の認識は
天と地ほど隔たっていた。
﹁あー、君たち。やめなさい、やめなさい﹂
﹁なんだっ! おっさん。文句あるってのか!﹂
﹁お、おっさん。クソガキどもが﹂
蔵人はおっさん呼ばわりされたことで、こめかみをヒクつかせる。
だが、子ども相手にムキになるのも大人気ない。
冷静に対処しようと心がけた。
見たところ、相手はガキに毛の生えた侠客気どりである。
同じステージにまで落ちる必要はないのだ。
争いを眺めていた中年の行商人は、笑みを浮かべながら細巻きタ
バコを吹かしている。
1423
まさしく、街の人々からしてみれば、午後のちょっとしたいい見
世物だった。
﹁ネリーさん。ネリーさん。いくら男に飢えてるからって、そんな
子供をいたずらしちゃダメですよ。ちと、こっちにおいでなせえ﹂
毅然とした様子を保っていたネリーであったが、それでも内心で
は心細かったのだろう。
彼女は蔵人の姿を見ると、男の手を切ってさっと駆け出し、背後
に身を隠した。
軽く逃げられたことにプライドを傷つけられたのか、少年たちは
いっせいに不満を鳴らし喚きだした。
﹁ああんっ! ンだっ、てっめ! ヤンのかコラあああっ!!﹂
﹁ぬっ殺すぞおおっ。ンンンくらあっ!!﹂
﹁その姉ちゃんは俺らの肉壷要員決定だかんなぁあっ!! マジぶ
ち殺すぞっ!!﹂
ポンドル
﹁ああっ、けどいま俺らに泣いて詫びれば、一回くれーは使わして
やってもいいぜっ!﹂
﹁ああっ、そンかわし、一発百Pな! ぎゃはははっ!!﹂
﹁おお、やったな。ネリー、お得価格だ﹂
﹁やっちゃってください、クランド﹂
怒りに震えながら、ネリーは指先を下卑た野次を飛ばす少年たち
に突きつけた。
かなりおかんむりの様子であった。
﹁ああン? なにぃ、誰が誰をやっちゃうってェん?﹂
まだニキビが浮いている赤毛の少年がメンチを切りながら顔を近
づけてくる。
蔵人は無言のままノーモーションで少年の顔面を殴りつけた。
鼻面をへし折る感触がまざまざと拳に残った。
﹁あぶっ!?﹂
﹁ギースっ!? ギースぅううううっ!?﹂
少年は鼻血をまき散らしながら勢いよく背後に吹っ飛ぶと欄干に
1424
首根を叩きつけた。
くきっ、とうリズミカルな音と共に白目を剥いた。
周りの仲間がいっせいに駆け寄って揺り起こす。
ギースは白い泡ぶくを吹きながら気絶していた。
﹁てンめっ! ギース、ギースをよっくもおおおおっ! 殺すっ、
殺すっ﹂
少年は、ナイフを抜くと血走った目で振り回しはじめた。面白が
って見物していた群衆が雲の子を散らすように逃げ出した。
蔵人は、少年のふらついた腰を蹴りつけると、側頭部の耳の辺り
に勢いよく拳を叩き込んだ。
丼茶碗大ほどもある、レスラーや力士を凌駕する拳である。
まともに喰らえばひとたまりもなかった。
ごうん、と鈍く骨が鳴った。
﹁ほぐわっ!? ン、いじいぃーっ!﹂
少年は激痛に苦悶すると涙目で石畳の上を這いずり回る。
痛みのあまりに、股間からは尿が漏れ下穿きがねずみ色に濡れて
いく。
少年は、両手で片耳を抑えながら激しく泣き喚いた。
そこにはいっぱしのワルを気取った小生意気な覇気はカケラもな
かった。
﹁ぷっ、だっさ﹂
ネリーがあからさまに口元に手を当てて冷笑する。
蔵人は、彼らをじろりと睥睨すると、威圧感たっぷりにドスを利
かせていった。
﹁今度会ったときは、容赦しねえからな﹂
少年たちは仲間を担ぎ上げると、吠えながらその場を去っていっ
た。
﹁ふ。愚かな、このネリーさまに逆らうなどとは百万年早いわ﹂
ネリーは両腰に手を当てながら薄く笑った。
非常に満足した表情で瞳の青がいっそう涼やかに輝いていた。
1425
﹁⋮⋮あのなぁ。まあ、いいか﹂
蔵人はそのあと、モニカとネリーをそれぞれ自宅と事務所まで送
迎した。
純粋な好意からである。
もちろん、無理やりネリーを時間外に引きずり回したとされて、
事務局からお説教を受けたのは、蔵人の日頃の行いが悪いせいだっ
たので自業自得ともいえたのだった。
1426
Lv89﹁泪橋を渡って﹂
蔵人が再びモニカを見かけたのは翌日の泪橋であった。彼女は、
たもとの下の川べりに降りてうつむいている。蔵人の位置からは彼
女の表情は確認できなかった。
時刻は早朝といっていいい。
早起きをしたのも偶然ならば、なんとなくこの泪橋へと足を向け
たのも偶然だった。
昨日の今日である。うつむいて川岸を覗き込んでいる彼女は、還
らぬ息子を思いやって身を投じんとせん、まさにその直前に見えた。
﹁早まるなっ!﹂
﹁あら、クランド。おはようございます﹂
﹁え? え、えとおはようございます﹂
﹁なに、慌てて息せき切って。おばさん、今日はちゃんと自分の足
で降りてきたのよ﹂
﹁あ、あ、そうかい﹂
﹁ふふ。もしかして、世をはかなんで身投げでもすると思ったの﹂
﹁いや、そうじゃねえけど﹂
﹁そそっかしいんだから。まったく﹂
ギルド
﹁けど、こんな朝っぱらから川を覗きこんでたら誰だってそう思う
よ﹂
﹁そう。クランドは冒険者組合に出入りしてたから冒険者なのね。
それじゃ、わたしの息子の話聞いているのね⋮⋮﹂
1427
・・・
モニカはそこまでいうと、手に捧げ持っていたバスケットからム
シロを取り出すと、その場に敷いた。めしいているにしては手馴れ
た動作だった。伏せられたまつ毛を震わせながら、顔だけをくいと
動かす。促されるようにして、蔵人はムシロの上に座ると戸惑った
犬のようにモニカの顔を見上げた。
﹁おばさんね、毎朝ここで朝食を食べるの。よければお相伴してく
れないかしら﹂
﹁え、うん﹂
有無をいわせない強引さがあった。
かくして、奇妙な取り合わせの朝食会がはじまった。
モニカは、お祈りをすませると形ばかりに口をつけただけでほと
んどを、蔵人に寄越してきた。
﹁若いんだから、しっかりお食べ﹂
﹁うん﹂
蔵人は家を出るときにしこたまポルディナの作った料理を食べて
きたが、それでも並の人間が収める一食分程度は平らげる自信があ
った。
献立は、黒パンにチーズを挟んだもの。蒸したじゃがいもに、コ
ンソメスープ。梨に似た果物といったところだった。梨っぽいが、
あきらかに梨ではない部分がミソである。
蔵人は素朴な味としかいいようのないそれをガツガツと勢いよく
食べはじめた。転びそうになったところを助けただけである。さす
がに、女好きの蔵人ではあったが、倍も違う女性をそのように見る
ことはできなかった。
けれども、自分がガツガツと飯を食べる部分を見られていても、
不思議と気まずさを感じることはなかった。湿度が高いのか、川面
には濃い乳白色の霧が漂いはじめている。
奇妙な充足感に包まれながら食事を終えると、モニカは神に祈り
を捧げはじめた。
﹁おいしかったよ、とっても﹂
1428
﹁そ、よかった。あら?﹂
モニカは急に蔵人の顎先に鼻を近づけるとヒクヒクと蠢かす。
﹁ちょっと待ってね。だらしないのね、まったく﹂
盲たことによって嗅覚が鋭敏になったのだろう。彼女は蔵人の顎
についた食べかすに気づくとハンカチを取り出し、幼い子どもを扱
うよう無造作に拭きだした。
﹁これでよし。ちゃんとしておかないと、あのお嬢さんに嫌われて
しまうよ﹂
﹁お嬢ちゃんって、ネリーのことかよ﹂
﹁そうよ﹂
﹁元々嫌ってるって﹂
﹁でも、昨日の帰り道に話していたでしょう。いっしょに食事した
って﹂
﹁飯くらい誰でも別に⋮⋮﹂
﹁本当に鈍いのね。女はね、嫌いな男となんか食事なんて絶対にし
ないものよ﹂
﹁ええー﹂
﹁ええ、じゃないの。とにかく、今日も会いに行くなら花のひとつ
も買っていってあげなさい。昨日食事につきあってくれたお礼って
いってね﹂
﹁えー。やだよ、そんなん。キザくせぇ⋮⋮。ふっ、俺の美学に反
するぜ﹂
蔵人は舘ひろし風にニヒルかつダンディに笑った。
﹁美学なんてどうでもいいの! あの娘と仲良くなりたいなら、お
ばさんの忠告を聞いておいたほうがお利口さんなの﹂
﹁んんん、忠告ねえ﹂
ギルド
蔵人は忠告通り、目抜き通りの大きな花屋で真っ赤な薔薇を購入
して冒険者組合に向かった。気のせいか、辺りを歩いている人間す
べてが自分を注視しているような錯覚に陥っていく。
﹁これ、すっげー恥ずかしいんですけど。なに、この羞恥プレイ?
1429
やっぱ、あのおばさん、俺のことを罠にハメたのでは﹂
事務所の赤レンガが見えてくると、逆に腹が座った。いわゆるク
ソ度胸がどこからともなく舞い降りてきたのだった。
入口の警護をしている番兵のマーカスが、兜の目庇を上げると、
狂人を見るような目つきでわずかに後ずさった。
﹁逃げんなよ⋮⋮﹂
﹁クランド。いまは昼間で、ここは行きつけの飲み屋じゃねえぞ。
あれか? ヤクか? やばいやつ決めてんのか? ちょっ、こっち
見るなや﹂
﹁うるせえやい、たちんぼが﹂
︵あーあ。まともに考えれば、マーカスのいうとおりなんだよなぁ。
そもそも、女に花なんぞ送ったことはねえやい。それが、どうして
あの鉄面皮のネリーに? あいつ、絶対鼻で笑うぜ。このことを弱
みに、さらにからかってくるに違いない。あー。だー、まあいっか。
考えるだけ無駄無駄。さすがに、脈絡がなさすぎだろうよ。カット
カット。脳内スイッチしゃだーん︶
蔵人は考えることを放棄すると、無我の境地で受付に降り立った。
ネリーはあいも変わらず、ビスクドールのような顔をして澄まして
業務を行っている。
彼女は、よほど暇だったのか、蔵人の姿を見て取ると、にんまり
と嬉しそうにして口元を釣り上げる。
︵よーし、見てろよ。今日は逆に度肝を抜いてやるぜ! ⋮⋮あん
ま、笑わないでね︶
﹁どうしたんですか、クランド︱︱﹂
﹁じゃじゃーん!﹂
こうなりゃヤケだ。蔵人は、ネリーの言葉をさえぎって後ろ手に
隠してあった薔薇を受付に差し出した。ネリーは、瞳を大きく見開
くと、その場に硬直した。
﹁え、な、なに、なんなの、これ﹂
﹁あはははっ。まあ、なんだ、素直に受け取ってもらえれば、こっ
1430
ちとしてもうれしい限りだ﹂
︵さあああっ、来い! 罵倒来いやーっ!! こっちの覚悟は完了
だぜ! 乗せられた俺をあざ笑うがいいさ!!︶
蔵人が目をつぶってネリーの言葉を待っていると、手の先からふ
わっと重量が消えた。
﹁あ、あらら﹂
おそるおそる目を開けると、そこには花束を抱えたまま、頬を真
っ赤に染めて恥じらうひとりの淑女が存在した。
︵え、なにこれ。なんなの、この展開。さすがに、予感を斜め四五
度にぶっちぎってるんですけど︶
﹁⋮⋮え、でも。赤い薔薇の花言葉って、その、あの﹂
ネリーは強く恥らいながら、細く途切れそうな声をしきりにつぶ
やいていた。
雪のように白い頬は、朱をさっと刷毛で塗ったように可憐に色づ
いていた。
蔵人を真っ直ぐに見れず、視線をそらすさまは、男の庇護本能を
強烈に掻き立てる儚げなものだった。
﹁おい、あのな、実はこれは︱︱﹂
﹁︱︱ッ!?﹂
蔵人が顔を寄せると、ネリーは弾かれたように飛び上がって、瞬
く間に奥の控え室に走り去っていった。周囲の冒険者たちが、しき
りにざわつきはじめる。
﹁なんだ、なんだぁ。また、クランドのやつがやらかしたのかぁ﹂
﹁しっかし、大胆な手に出たなぁ。あいつ、意外とコマシ野郎じゃ
ね?﹂
﹁ここまで堂々と求婚するとはっ! 先を越されたかっ!!﹂
﹁いや、それはねーって﹂
蔵人は冒険者たちの目にいたたまれなくなってその場を後にした。
ネリーがいなくては暇はつぶせそうにない。
ならば、姫屋敷に帰ってヴィクトワールでもからかっていればい
1431
いと判断したのだった。首をひねって、肩を鳴らす。コキコキと軽
い音がした。
どうやら、自分が思っていたよりも緊張していたらしい。
﹁あー、それはないわー。ないわー﹂
蔵人はどうにもしっくり来ない気分で、入口に向かうと、朝方泪
橋で別れたモニカの姿を認めた。
﹁あー、おばちゃん! ヒデーよ! 俺のことハメたなっ﹂
﹁あらら、うまくいかなかったのかしら﹂
﹁ネリーのやつ、黙って逃げちまったよ。ったく、おばちゃんが人
のことあおるからよう﹂
﹁ふぅん。それで、あの娘は、花束を受け取らなかったの?﹂
﹁いんや、受け取ったけどよ。なーんか、真っ赤な顔して怒って⋮
⋮んん!? おい、もしかしてあれは怒ってるんじゃなくて、ぬう
ふふっふっ﹂
蔵人は突如としていやらしい笑いを浮かべると、顎をさすりなが
ら目尻を下げた。
﹁また、調子に乗って。あのね、女の子はあなたが思っているほど、
ずっとデリケートなのよ。だから、もっと相手のことを思いやって
︱︱﹂
﹁おばちゃん?﹂
モニカは突然胸に手をやると、うずくまって苦悶の表情を作った。
顔中には、細かい汗が吹き出し、眉間にしわを寄せて、うなり出す。
﹁おいっ、待てよっ! しっかりしろって!! 誰か、誰か医者を
呼んでくれー!!﹂
ギルド
蔵人が大声を張り上げると、ロビーにいた冒険者たちがたちまち
集まってくる。
モニカが倒れた場所が、冒険者組合であったことも幸いした。
つば広帽子に鳥を模した仮面を付けたお抱え医師、ノーマッドの
手当は迅速だった。
彼は医務室に運ばれた彼女に投薬をすると、瞬く間に症状を沈静
1432
化させた。
ノーマッドの見立てでは、モニカの心臓は相当に弱っており、血
を上手く通わせることができなくなっているらしいとのことだった。
ひとり息子の喪失。自身の盲目や、金銭的・あるいは将来に対する
不安。いまでいう、慢性心不全であろう。
そもそもが、継続的に医者にかかる金もなく、栄養状態もあまり
よくないらしい。ノーマッドは金のかかりには無頓着なせいか、な
にもいわなかったが、事務局はあからさまにモニカの存在を迷惑が
ギルド
っていた。
冒険者組合は公的施設ではなく、登録した組合員を第一に考えな
アンノウン
ければならない。彼女の息子であるクライドは冒険者であったが、
すでに確定的未帰還者として登録は抹消されているのである。無関
係な母親まで大枚をはたいて、養っていく理由も責務もなかった。
﹁とーいうことでねぇ、ネリー君。彼女が気付き次第に部屋から出
て行ってもらうよう伝えてもらえないかねぇ﹂
ネリーの上司に当たる総務課長のゴールドマンが汗をかきながら、
大きくため息をつく。
途端に、蔵人の怒号が爆発した。
﹁ふざけんなっ! おまえはっ! 彼女はいま動かせる身体じゃね
ーだろうがっ!!﹂
﹁ひいいいっ、な、なんなんですかああっ!! や、やめてくださ
ああいっ。ネリーくぅううんっ。君の上司がヘルプミーだよっ!!
警護の人間呼んできてぇええっ﹂
﹁うっさいハゲ﹂
﹁ひいいいっ!! でもっ、でもおおおっ、しょうがないんですう
うっ! ここの病床は限られてるからぁああっ、お金払ってる冒険
者さんたちのために空けとかなきゃなんないんですううっ!!﹂
﹁わかった! 金なら俺が払うぜっ!! だから、彼女を︱︱﹂
﹁もう、いいんです﹂
﹁おばちゃん﹂
1433
﹁その人のいうとおりです。この医務室のベッドは、傷ついた冒険
者の人が使うべきなの。ね、クランド。その人を離してあげて。ね﹂
﹁︱︱っ!!﹂
蔵人はモニカにまっすぐ見つめられると、うつむいたままゴール
ドマンの喉元から手をはなした。ゴールドマンは激しく咳きこむと
恨みがましい目でネリーを見たが、たちまち凍りついた彼女の瞳に
にらみ返されると、怯えきって視線を背けた。
﹁本当に、ご迷惑をおかけしました﹂
﹁待って、おばちゃん。送るよ﹂
﹁ダメよ。そこまでさせられないわ、いくらなんでも﹂
モニカは静かに、しかし有無をいわさぬ迫力で申し入れを断った。
蔵人は杖を渡すと、凍りついたようにその場に佇立する。自分で
も、彼女に拒否されたことがかなり強くこたえたことに呆然として
いた。
こうなると面白くないのはネリーである。
先ほど、ああまで熱烈に花束を渡されて意識しないわけがなかっ
たのだ。
モニカと蔵人の仲の親密さは、あきらかに男女のそれではなかっ
たが、熟女を好む男もいないわけではない。ネリーは自分でも気づ
かぬうちに、モニカに対する強い嫉妬心に似た、心の底から浮き上
がってくる灰汁に対し、強い不快感を覚えていた。
﹁それにしても、クランドはモニカさんにかなーり入れ込んでます
ねー。もしかして、おウチのママが恋しくなりましたかー?﹂
ネリーは自分たちの間に漂うぎこちなさを払拭しようと、わざと
挑発するような言葉を使った。だが、いつもなら即座に反発する蔵
人の反応が鈍かった。
﹁え、えと。クランド、あなた両親は、その︱︱﹂
不審に思って、顔を見やる。
蔵人は表情のない能面のような顔のまま、ぼそりと言葉を返した。
﹁オフクロの顔は知らねえ。俺を産んだ日に死んだらしい。父親は
1434
生きていると聞いた。けど、会ったことは一度もないんだ﹂
﹁あっ、そ︱︱その、ご、ごめっ﹂
ネリーは蒼白な表情で泣きそうに顔を歪ませた。蔵人は、寝台に
座り込むと、置き捨てられた幼子のように、モニカの出て行った戸
口をずっと見やっていた。
蔵人が黙っていると、その場に居ずらくなったネリーはモニカを
探してくると称して出て行った。ゴールドマンは、﹁気がすんだら
出て行ってくださいね﹂と、余計な言葉を吐いて退出していった。
母の顔を知らないといったが、それはすべてが真実ではなかった。
事実は、唯一残っていた写真を子どもの頃持ち歩いていたが、それ
は祖父の志門誠之進が焼いてしまったからであった。直心影流剣術
をよく使う祖父は厳格を絵に書いたような男で、幼い蔵人の惰弱さ
を許さなかった。
いや、誠之進が惰弱と見たそれは蔵人の母を慕う自然な気持ちで
あった。
だが、彼なりに孫を思うあまりに、母の写真を肌身離さず持ち歩
く蔵人を敢えて鍛えるために、幻影とは決別させることが必要だっ
た。
蔵人が、ほとんど反射的に乳房の大きい女性に執着するのはそう
いう理由があった。
彼は心の底では、常に母の愛に飢えきっていたのであった。祖父
の誠之進は鍛えると称して、幼い彼に木剣を持たせさんざんと打ち
据えた。長ずるにつれて、反抗的な彼は正道的な剣を、ほとんど反
応的に拒否するようになってしまったのだった。かつてエルフの剣
士ドロテアが蔵人に剣を教えたとき、彼が異常なまでの怠惰さを見
せたのもそれらに起因していたのだった。
もっとも、忘れようとしていても、幼い頃から無理やり叩きこま
れた、剣を振るうという行為のみはどこかしら身体の奥底に残って
いたのだろう。そうでなければ、素人の学生が勇者召喚によって不
可思議な超人的力を得ていても、ああまで刃物を自在に操ることは
1435
出来なかっただろう。
その祖父も、蔵人が大学に上がった歳に鬼籍に入り、文字通り天
涯孤独の身になったのであった。遠くの親戚には祖父の性格が災い
して、いちども会ったことがない。ならば、日本という世界に戻り
たいというモチベーションも湧くはずがなかったのだった。
︵ああ、そうか。だから、俺は︱︱︶
蔵人は母にいちどでいいから会いたかったことを思い出した。
心の奥底に仕舞いこんでいたそれが、ようやく水面に浮き上がる
小さな泡ぶくのように肥大したのだった。
もっとも、母に会うことなど出来るはずもなかった。母性という
ものを知らず生きてきた蔵人が、一般的に母親がいれば焼いてもら
う世話など経験があるはずもなかった。蔵人はモニカの中に、ある
はずのない己の中の母の偶像を知らず、作り出していたのであった。
思えば、振り返るべき過去もなかった。貧苦に喘ぐ生活では、祖
父の残した借金と学費を払うのに汲々としており、残った金は残ら
ず蕩尽した。その日暮らしの生活はどこにいっても変わらないので
ある。いや、むしろここでは蔵人のことを構ってくれる女がいるだ
けで、極楽といえよう。どのくらいそうしていたのだろうか。気づ
けばかなりの時間が経っていた。窓に差しこむ光の強さから、よう
やく日が落ちかけようとしていた。
︵やっぱり、モニカさんにもういちど会おう。会って、医者に見て
もらうように説得しなきゃ︶
蔵人は生気を失った顔つきで歩き出した。
ネリーがいつまでも帰ってこないのも気にかかった。蔵人はいち
ど彼女を送っているので自宅は知っている。訪ねてみたが、無人だ
ギルド
った。隣の五十絡みの中年女に聞くと、まだ帰宅していないらしい。
蔵人が途方に暮れて冒険者組合に向かって歩き出すと、顔見知りの
冒険者であるオズワルドがボロ切れのようになって倒れているのを
見つけた。
﹁クラン、ド﹂
1436
オズワルドは蔵人の袖をつかむと、血まみれになった指先を宙に
向けた。
﹁ネリーが、ごろつきどもに。俺、とめようとして⋮⋮﹂
﹁どこだっ!!﹂
蔵人はオズワルドの胸ぐらを掴むと、前後に激しく揺らした。
けひゅっ、と妙な呼吸音がもれる。
﹁泪橋⋮⋮早く﹂
強姦の歴史は古い。
そもそもが、ロムレスの法の中でもっとも軽い刑罰のひとつに強
姦に関する罪が挙げられるほどである。シルバーヴィラゴは人口の
構成比では圧倒的に男が多く、そのほとんどは冒険者、あるいはそ
れに従事する職業がほとんどである。中でも、極めて低劣な倫理観
を持つものが冒険者とされていた。彼らのほとんどは、地方の貧農
や下層階級の出身で、誰もが一攫千金を求めてこの街にやってきた。
淫売を買う金のある男はまだしも程度がよいとされていて、それ以
下の部類は禽獣に劣る自制力しか持ちわせていなかった。
教育がない。つまりは、倫理に関する素養がない。彼らは競って、
富裕層の下女やガチョウ番、洗濯婦など下層階級を目の敵にして襲
った。さらにつけ加えると、彼らの中には女を強姦するにあたって
一様に罪悪感を持っていないという点が目に付いた。治安を維持す
る騎士団がとらえて理由を聞いても、彼らの中には﹁気持ちいいい
ことをしてやって、どうして咎められなければならないのだ﹂とい
う、怒りよりも戸惑いの気持ちが大きいのだ。彼らは不思議と、娼
婦や酌婦など自分に近しい部類の底辺職につく女は襲わなかった。
代わりに、もっとも多く襲われたのは下女、ついで年端もいかない、
十代に満たない幼女であった。
幼い子供を襲う理由は、簡易的に自分の獣欲を満たすことが出来
るというただそれだけである。これらの強姦罪については、法律院
はほとんど裁判にかけず、見舞いとしての金穀や、場合によっては
夫婦となることを強要する程度であった。
1437
また、犯された女もほとんどが告訴に踏み切ることはなかった。
慣例として、ロクに相手にしてもらえないとわかっていたこともあ
るが、それより彼女たちが恐れたのは自分が穢されたことを周りに
知られることであった。彼女たちに罪はなくとも、世間一般にとっ
ては穢された女性そのものが堕ちた、とされるのである。社会の不
合理と法の未整備が被害者である彼女たちに罪悪感を植えつけ、結
果事件そのものの隠蔽に手を貸すようなものである。男たちは、自
分のやっていることを悪行であると理解していないので、ある日し
かるべき報いを受けるまで己のやってきたことを罪だと知る機会も
ない。
蔵人が泪橋を渡って黄昏時の土手を駆け下りると、そこには全裸
にされてふたりの男に押さえつけられているネリーの姿があった。
彼女を囲むようにして、五人ほどの男が集団となっていた。
ネリーは、豊満な尻を突き出すようにして下半身を露出させた男
に腰を掴まれていた。
男は猛りながら、蔵人に向かって吠え立てた。
ネリーは蔵人の顔を見つけると、涙の跡の残った顔をそのまま地
面に押しつけるようにして伏せた。蔵人の背中を川面の冷えた風が
絶え間なく嬲りはじめた。
﹁なにを見ていやがんだあっ! この野郎っ!!﹂
﹁ヨハン兄貴⋮⋮﹂
ネリーを犯そうとしていた三十ほどの男を心配そうに見上げる少
年は、蔵人が昨日どやしつけた中のひとりであった。
赤毛の少年ギースは、顔の中央部に包帯を巻いたまま、恨みの念
のこもった視線を強烈にぶつけてくる。蔵人は静かにそれを受け流
すと、落ち着いた口調でいった。
﹁ネリーを離してくれねえか﹂
﹁はあああっ! なにいってくれちゃってんのぉ! おまえかっ、
俺の弟分たちをかわいがってくれちゃったのはっ!! この女はい
まから俺のモノでいやってほどよがらせてやるんだよぅ! キヒヒ
1438
ヒ、悔しいかっ! だがなっ、おまえはそこで黙って見てるしかね
えんだっ! おらああっ、てめぇらさっさとこの若造を半殺しにし
ねえかっ! こいつの前で女をしこたまヤリまくることで、こいつ
の心の芯をへし折ってやるのよっ。それが、泣く子も黙るドナート
一家の特攻隊長であるヨハンさまの粋なやり方ってもんだあっ!!﹂
﹁⋮⋮もうひとり、女性がいたはずだ﹂
﹁ああん? あんなババァに用はねえやっ! その辺りに転がって
るぜ!! もちろん死体になってな! ケケ。それとも、てめぇが
切り刻まれる前に供養でもしてやるってか!? ってか!?﹂
ヨハンの目線を追うと草むらにモニカが倒れているのが見えた。
蔵人はモニカに駆け寄ると胸元が真っ赤に濡れているの見て強く唇
を噛んだ。
﹁なんで、アンタが﹂
﹁ふふ、ごめんね。あなたが戻ってくるまでにどうしても、あの娘
を助けたかったけど﹂
モニカは伏せられた目から涙を流して途切れ途切れにいった。
﹁でも、こうして待っていた甲斐があったわ。クライド、ようやく
帰ってきてくれたのね﹂
﹁おばちゃん、なにを⋮⋮﹂
﹁ネリーは、あなたのこと本当に愛しているわ。だから、助けてあ
げてね。できれば、あなたたちの子供を見たかったけど﹂
モニカは死の淵に至り、朦朧とした意識の中で、ここにはいない
はずの息子と話しているようだった。
蔵人はそっとモニカの手を握り、彼女を抱き起こした。
伏せられて見えないはずの彼女の瞳には、確かにいままでにない
ほどの希望が満ち溢れているのを感じることができた。
﹁ねえ、クライド。いつものように、おかえりの挨拶をして、ね﹂
クライドとクランド。奇しくも似通った名前だった。
モニカは震える指先で自分の頬を指し示す。
蔵人は彼女の頬にやさしくキスをすると、もう一度強く抱きしめ
1439
た。
﹁ただいま、母さん﹂
モニカは最後に満足気な微笑を湛えると、そのまま動かなくなっ
た。
泪橋のもとで還らぬ息子を待ち続けた女の死はあまりにも無残す
ぎた。
冷え冷えとしたものが腹の底へと沈んでいく。
同時に、蔵人の目蓋の奥には、燃え盛った日輪のような感情が頭
をもたげだした。
﹁おいおいいいっ!! ババァとの別れはすんだのかあっ。ケヘヘ、
年増の味はたいそうよかったかよっ!!﹂
ヨハンの罵倒を背に受け、向き直る。
浮かれながらも自分たちの優位を信じていた男たちが残らず凍り
ついた。
蔵人の形相は一変していた。
悪鬼、そのものであった。
黒獅子
を一気に引き抜き、後
﹁今度は容赦しねえといったはずだぜっ!!﹂
蔵人は外套の前を開くと、聖剣
背位の体勢を取っているヨハンの胸元目がけて投げつけた。
刃は流星のように走ると無防備な胸板へとツバまで突き刺さった。
蔵人は黒鉄造りの鞘を持ったまま真っ向から男たちへと駆け寄っ
た。
鞘はそれ自体が重い鋼で出来ており充分な凶器である。
突然の強襲に戸惑っている男に向かって鞘を横殴りに振るった。
大気を引き裂くように轟音が響き渡った。
熟れた果実を叩き潰すような容易さで、男の顔面は目鼻を失って
四散した。
蔵人は心の底から激怒していた。胸の奥底にずっと抱いていた貴
いものが、無残にも踏みにじられたのだった。もはや記憶の底でか
すれて思い出せない母親の幻影は完全に失われた。
1440
なにもない。
もう、この俺にはなにも。
えもの
獰猛な殺意に突き動かされて武具を振るう。
ただ殺すという一点にのみ意識が集約されていった
左右から男たちが切りつけてくるのを素手で受け止めた。刃が手
のひらに食いこみ、激しく血が流れるが、まるで痛みというものを
感じない。己の手が、まるで他人のように思えた。痛みを度外視す
る。目の前で動くものすべてを殺戮しなければ気がすまなかった。
﹁はなせよおおっ!!﹂
白刃を素手で握りはなさぬという異常行動に怯え、男たちは悲鳴
を上げた。
蔵人は刀身から指をはなすと、技も構えも忘れて右側の男へと猛
獣のように襲いかかった。並外れた膂力で組討ちになると、相手の
喉元へと噛みついた。男は激痛のあまり、蔵人の顔に爪を立てる。
表情は変わらない。動作は機械のように正確だった。ブチブチと筋
繊維を噛みちぎる感触に頭の中身が真っ白になる。口中に鉄錆に似
た熱い血の匂いが溢れかえった。背中へとしたたかに斬撃を受ける。
発狂したように男が剣を振るっているのだ。 それでも蚊ほどの痛痒も感じなかった。
蔵人は顔面を相手の返り血で真っ赤に濡らすと、落ちていた剣を
拾って無造作に背後に繰り出した。続けざま斬撃を繰り出そうとし
ていた男の腹へと刃は深々と突き立って、背中まで刀身を露出させ
た。
男の腰を蹴りつけて剣を引き抜くと、残りの集団に猛然と向かっ
ていく。
勢いをつけて高々と跳躍した。
黒い外套は蝙蝠が羽根を広げたように風を孕んで膨らんだ。
同時に、長剣が鋭く空を切り裂いた。
ひとりは喉元を、もうひとりは両眼を斬りつけられると、血飛沫
を上げて倒れ込んだ。
1441
﹁うわああっ!!﹂
残った最後のひとりであるギースは慣れない手つきでナイフを構
え、川の中ほどへと向かって後退していく。
蔵人は数打ちの剣を投げ捨てると、ヨハンの胸元に足をかけ黒獅
子を引き抜いた。
躊躇なく川の中へと踏み込んでいく。
返り血と落日の陽で真っ赤に染まっている。
蔵人の身体は流れのゆるい水面に映り込み、やがて砕けた。
﹁助けてくれよおおっ!! 死にたかねえよう!!﹂
﹁死ね﹂
蔵人は情け容赦なく吐き捨てると、両手に握った黒獅子を真正面
から振るった。
ギースの顔面に垂直に赤い直線が走ったかと思うと、すべてが赤
一色に変わった。
絶命の声が響き渡った。
血塗れの顔を蹴りつける。
川の中へと半ば埋まったギースの遺体に滅多矢鱈と斬撃を落とし
た。
川面は飛沫が上がり、遺体が浮かんだり沈んだりを繰り返す。
蔵人は憑かれたように遺体を切り刻み続ける。
それは、ほとばしるような蔵人の嗚咽の代わりだった。
激しい音が永遠に続くかと思われたが、それは唐突に遮られた。
ネリーが全裸のまま蔵人の背中に飛びついたのである。
﹁もう、いいから。⋮⋮だから、泣かないでよ、クランド﹂
ネリーは蔵人の太い腰に左手を回すと、もう片方を剣を握る右腕
にそっと添わせた。
蔵人は無言のまま背中を震わせ続ける。
ネリーは、男の悲しみを包みこむように、その場で寄り添い続け
た。
1442
1443
Lv90﹁運命の十月﹂
いまにも泣き出しそうな空であった。十月といえば、そろそろ朝
夕に肌寒さを感じてもよい時期のはずであるが、ロムレス王国の最
南端であるアンドリュー州全域には異様な夏の熱気が残っていた。
ポンドル
王国において、第四の人口を誇る城郭都市シルバーヴィラゴは、
流入する人の波が落とすPによって金蔵の底が落ちるとまでいわれ
ていた。
。
入らずの森
なにより、官吏が安心して税をかき集めることが出来たのは、周
辺地域の異常なまでの平穏さであった。
クリスタルレイク
北は不可侵協定を結んだダークエルフの領土である
。
東には巨大湖である
南には僅かな寒村を除けば広大な海に覆われ、そもそもが特殊な
海流によって船の航行自体が不可能であり、外敵の侵入など危惧す
る必要性もなかった。
西には友好的な遊牧民族であるステップエルフの一族が広大な草
原に盤踞する程度であり、差し迫った脅威というものは一見して存
在し得なかった。
結果、城郭都市であるシルバーヴィラゴの守りといえば、周辺に
ある山小屋に毛の生えた砦という名の見張り台が、百にみたない数
あるだけである。
ときおり、都市に常駐する騎士団が血眼になって追いかけるのは、
わずかな寒村から湧き起こる盗賊ぐらいであった。鎌や鋤を振り回
す程度の彼らがやることといえば、領主の果樹園を荒らすか、同程
1444
度の男手の少ない寒村を襲って食物を奪うぐらいが関の山であった。
盗賊たちは、通報されるやいなや、鋼鉄製の武具や潤沢な兵糧を備
えた都市兵団と鳳凰騎士団の手によって速やかに排除され、恐怖と
しては人々の記憶に残りようもなかった。
まさに金城湯池であるこの都市を揺るがす事件などまず起こりえ
ない。
それらは、都市や城郭付近に住む人々のゆらぐことのない共通認
識であった。
西の砦に詰める兵士のひとりが異常に感づいたのは、そんなうだ
るような暑さが大地に残る月変わりの初日だった。
都市兵団第一歩兵部隊に所属するオリバーは、相勤者と交代を終
えるともはや有名無実化した見張り台に移動し、据えつけてあった
椅子に座ると船を漕ぎ出した。夜明けがそこまで近づいている。遠
くの空は徐々に白みはじめていた。
︵どうせ、なにもあるはずがねぇんだ。まったく、退屈な仕事だぜ︶
オリバーは瓶に残った酒を舐めながら、眠気の残った頭を椅子の
後ろへとがっくり倒して、手足を伸ばしながら大きく舌打ちをした。
十年以上勤めていて切に思うのである。
自分はなんのために生まれてきたのか、と。
もはや、見飽きたというのもバカバカしいほど、目蓋の裏にまで
焼きついた草原の彼方を見やりながらあくびを噛み殺した。規定で
は、立ったまま槍を抱えつつ、四辺にゆるみ無く視線を伸ばし、い
つでも変事に備えていなければならないが、それらのマニュアルす
ら形骸化していた。
そもそもが、オリバーは支給された甲冑もつけずに、槍に至って
は仮眠場所の寝台の脇に捨て置かれたまま穂先はサビが浮き出して
いる始末だった。身には寸鉄帯びず、寝巻きのローブは腰紐がほど
けて酒の残った身体では真っ直ぐ立つことすら難しそうだ。
この砦には、三十人が常駐していることになってはいるが、実際
のところその半分で勤務を回していた。
1445
つまるところ、だらけきっているのである。モノの役にたたない、
という典型だった。
︵くっそ、島流しの上にやることといったら酒を飲むか女を抱くし
かねぇ。つまらなくて頭がおかしくなりそうだぜ︶
兵士の慰問と称してこの砦にもひとりの娼婦が常駐していたが、
十年以上いっしょに暮らし、数え切れないほど抱いていれば、飽き
ないというのが不可能であろう。 オリバーはほとんど家族同然の娼婦に己の性欲を処理させると、
いつものようにしこたま酒を肺腑に入れて記憶を失った。咎める上
司もいない。なにを好き好んで、一番近い村から五日もかかる、こ
んなド僻地の端の村にわざわざ様子を見に来るものがあろうか。
そもそも、その上司とも三年近く会っていない。オリバーの頭の
中からは、上司の顔つきまでセピア色に変わりかけていた。
﹁いいのかよ、俺の人生こんなんで﹂
いいも糞もない。農家の三男坊に生を受けた彼が出来そうな仕事
など他にはなかった。
オリバーが既に何千回と繰り返した後悔を噛み締めているうちに、
それははじまった。
ふと、草原の向こう側に、小さな点が現れた。
はじめは目の錯覚だと思い、再び船を漕ぎ出す。
草原に出没した点はやがて、巨大な波となり地平を覆った。
天地を揺るがす轟音が砦そのものを押し倒すほどに近づいてくる。
気づいたときはすべてが手遅れだったのだ。
たちまちまどろみを破られたオリバーが監視塔に登り見たものは、
草原を埋め尽くす数多の騎兵の群れが波濤のように押し寄せてくる
絶望的な状況だった。
1446
﹁これを、私にくれるというのか⋮⋮﹂
紅千鳥
。
アルテミシアは蔵人に渡された剣を白金造りの鞘から抜き放つ。
竜剣
天下の名工ノワール・スミスが、赤龍のウロコを使って鍛え上げ
た世界にふたつとない一品である。
八十センチを超える刀身は、赤い宝石のように妖艶な光沢を放っ
て輝いていた。
アルテミシアは熱に浮かされたように頬を真っ赤に上気させて目
を潤ませる。
名残を惜しむように、腰の鞘へと剣を納めると、肩を小刻みに震
わせた。
﹁美しい﹂
彼女は子細に刀身へと視線を送ると、呆然とした様子でつぶやい
た。
﹁女にやる贈り物にしちゃ、ちょいと無骨すぎると思ったんだが。
ギルド
ま、埋め合わせはそのうちするから勘弁してくれや﹂
蔵人は冒険者組合の玄関口に飾られた邪竜王の骨格標本を眺めな
がら、アルテミシアにいった。広間に置いてある無数のテーブルで
は、多数の冒険者が話に花を咲かせていた。幾人かがアルテミシア
に気づき、ヒソヒソと囁きあっている。雑多な物音が人々の話し合
う声と入り混じって潮騒のようにさざめいていた。
﹁そんなことない、そんなことないよ。クランド。私、うれしい﹂
﹁うおっ!?﹂
ギルド
アルテミシアは感極まって飛びつくと、蔵人の頭を抱きかかえ顔
中にキスの雨をふらせた。冒険者組合の中をうろついていた独り者
の冒険者たちから、いっせいに舌打ちが漏れる。中には、涙を流し
ながら壁を殴りつけている男の姿があった。
﹁うれしいよ、私はうれしいんだよ。この剣は、どんなに美しい宝
石や服よりも私の心を強く打った。大事にする、一生大事にするか
1447
ら。実家に持ち帰って礼拝堂を作り、そこに祀って子々孫々ベルク
ール一族の家宝とする﹂
﹁いや、それじゃ意味ないだろう。使えよ﹂
事務所の広間でそんなやりとりを続けていると、カウンターにい
た受付嬢がわざとらしいほど大きな声であざ笑うかのように吹き出
した。
もちろん、ネリーその人である。
これには、ひとりで悦に入っていたアルテミシアの気分はぶち壊
しである。つい、先ほどまで感動の涙でうるんでいた緑の瞳が、枯
れた樹木のような色合いへと急速に変化した。
アルテミシアはかぶっていた兜を脱いで小脇に抱え持った。ふん
わりとした金色の髪がふわっと波打ちながら背中に広がっていく。
私、怒ってます。というオーラが全身から激しく放射されている。
受付の順番待ちをしていたレンジャー職の少女は、激しく怯えな
がら後ずさって尻もちを突く。辺りの冒険者たちも後難を避けて足
早にその場を立ち去っていった。
﹁なにがおかしいのだ﹂
アルテミシアは受付の前に立つと、公然とネリーに食ってかかっ
た。逃げ遅れたレンジャー職の少女は両手で頭を抱えて涙目になっ
ている。ネリーは広げていた受付台帳から、素早く走らせていたガ
チョウの羽根ペンをはなすと薄い笑みを浮かべたまま視線を落とし
たまま応えた。
﹁いや、別に。思い出し笑いなので、お気になさらず﹂
﹁確か、ネリーとかいったな。この間からいちいち私たちのやりと
りに首をつっこんできて。正直、不愉快だ。無関係な人間は私たち
の仲に立ち入らないでもらおうか﹂
﹁無関係な人間ねぇ﹂
ネリーは蔵人の姿を見つけると、余裕の表情でヒラヒラと手を振
った。隣に立っていたルッジがなにか聞きたげな表情で顔を覗きこ
んでくる。蔵人は彼女の眼鏡を奪うと、自分の頭の上に載せた。無
1448
言の拒否である。
ルッジはつまらなそうに鼻を鳴らすと、肘で小刻みに脇腹を打っ
てきた。
地味に痛かった。
﹁おい、貴様。どこを見ている。話をしているのは私だろう。よそ
見をするなど、相手に対して失礼とは思わないのか﹂
﹁細かいですね。そんなんだから男の人に相手にされないんじゃな
いですか。いや、いまは竜殺しの聖女として、たくさんの人にチヤ
ホヤされてるみたいでよかったじゃないですか。よりどりみどりで
す。ぷくくっ﹂
﹁そんないい方はないだろう。誰も彼もが面白がっているだけだ。
じきに飽きるさ。でも、いいのだ。有象無象に好かれても迷惑なだ
けだ。それに、いまは私のことを愛してくれる人もいるし、な﹂
﹁へえ。それは奇特な方もいるものですねぇ﹂
ネリーの青い瞳がすっと細まる。彼女は蔵人を一瞬だけ見やると、
すぐさま視線を前方に向けた。タレ目がちでやさしげなアルテミシ
アの風貌が厳しく引き締まっている。
カウンターを挟んで受付嬢と長身の女騎士との睨み合いがはじま
った。
蔵人は、尻のくぼみに汗をかきながら平静を装う。ルッジは脇を
小突くのをやめると、今度は強くつねってきた。握力がないのか、
あまり痛くは感じなかった。
﹁愛している婦人に対する贈り物が刃物とは。なんだかにわかに信
じられませんねぇ。少なくとも男の方は気のある女性に対してはそ
んなモノを選ぶとは思えませんけどお。ホラ、いろいろあるじゃな
いですか。ねえ﹂
ネリーは上品に口元に手を当てると、ほほと笑った。彼女の胸元
には、凍結の魔術によって半永久的に枯れなくなったバラが一輪、
アクセサリとして飾ってあった。白地のローブに紅の花は対比が美
しく、ネリー自身をいっそう繊細で優雅なものに見せた。
1449
アルテミシアは乙女心が傷ついたのか、顔が悔しげにゆがむ。
﹁なんだ、そのバラは。ふ、ふん。どうせ、キザったらしい腰抜け
男に貰ったのだろう。いい気になるなよ。そのような軟弱なモノを
贈る男にはろくなやつがいないに決まっているっ﹂
﹁それだけは聞き捨てなりませんっ! 彼はそんな男ではありませ
んっ!!﹂
悔し紛れに吐いたアルテミシアの言葉を聞いた途端、ネリーは突
如として激昂した。
身の厚い木製のカウンターに両手を打ちつけながら、全身を震わ
せて抗議する。
その花を贈った男をどれだけ愛しているか、誰でもネリーの態度
から理解できた。
﹁すまない。私も口が過ぎた。その男は、あなたにとって大切な人
間なんだろうな。私も少し冷静にならないと﹂
アルテミシアは神妙に謝罪すると困ったように眉を下げた。
タレ目がちな瞳も、一点して気まずそうに下がっている。
傍目には怒られたゴールデンレトリバーのような愛嬌があった。
ネリーはさっと顔を背けると、肩を震わせた。目元か隠れ、表情
が見えなくなる。
﹁いえ。私もいいすぎました。しかし、さすが聖女アルテミシアさ
ま。なんという寛大なお心。これならば、数多の男性の心を我知ら
ずにつかむなど自然の摂理です。きっといままで世の男たちは、あ
なたさまの繊細なお気持ちなど知る由もなかった。しかしこの度の
竜退治の功によって、世間は真っ向からあなたさまの人柄に触れ、
それが目につきやすくなったのでしょう。強く美しいものに惹かれ
るのは当然のことでございます﹂
﹁な、そんなことはない、だろう﹂
・ ・ ・
﹁それに無意味に突っかかって申し訳ございません。お客さまに出
・ ・
過ぎた口を。このようなことは口論する必要性もないほど、明白な
のに﹂
1450
﹁⋮⋮あぁ!?﹂
アルテミシアの口調が巻き舌になった。眉間には激しくシワが寄
っている。握り締めた握力の強さで革の手甲がぎゅうぎゅう締まる
音が聞こえた。ネリーは、皮肉げに口元を釣り上げると、酷薄そう
な笑顔で迎え撃つ。本番はどう見ても、これからだった。
︵持ち上げて落とすとは、なんといういやらしさよっ。間違いねぇ
!! ネリーのやつこの争いの矛を収めるつもりなんざこれっぽっ
ちもないんだ。マズイ、こいつは血の雨が降るぜ!!︶
蔵人はなぜか他人事だった。
﹁え? だって、そうでしょう。どうして、好きな女性に装飾品で
はなくて武器をあげたりするんですか? そんなこと、聞いたこと
も見たこともありませんよ。あ、いま見てますねー、この目でこの
現場で。は! もしかして、クランの戦力としては重要視されてい
るかもしれないとう可能性は残っているかもですよっ。ほら、アル
テミシアさまお強いしー。ね、ね。ま、これから一生かかってもあ
なたが私のように男の方から花を贈られるなんてないでしょうけど、
もしかしたら、そこいらじゅうにウロウロしている、野卑な冒険者
たちならこれからも、未来永劫ずっと。お姫さま扱いしてくれるか
も! ですよ。私なら、絶対、や、ですけど﹂
﹁ふふふ。そうか、要するにおまえは死にたいんだな﹂
アルテミシアは紅千鳥を抜き放つと一歩前に進み出た。慌てた蔵
人は、彼女の背中に飛びつき羽交い絞めにした。
﹁おい、ちょっと待てえええっ!!﹂
﹁なんだ、クランドか。さっそく、貰った剣が役に立ちそうだぞ﹂
﹁らめぇええええっ!! 公開殺人らめぇえええっ!!﹂
﹁なぜだ。この女は、堂々と私を侮辱している。むしろ、クランド
もこれから起こることがらを我がことのように誇ればいい。私は、
いつ。どこで、誰に問われようと、クランドから譲り受けた名剣で
名誉を守ったと正々堂々答える自信があるぞ。さあ、我らが未来の
ために、この一刀振り下ろそうぞ!!﹂
1451
﹁らめぇえええっ!! 僕チンまで共同正犯になっちゃうううっ!
!﹂
﹁あらら、死にたいだなんて。これだから、男日照りの宗教騎士は
野蛮ですねー﹂
アルテミシアは蔵人を軽々と振りほどくと、ネリーに顔を近づけ
ていい放った。
﹁おまえに花を贈った男はおまえの穴を使いたいだけだ。メス犬が﹂
﹁いやいや、さすが永遠の処女騎士聖女さまはいうことが違います
ねー。大事な所に蜘蛛の巣が張っちゃいますよ。ウチのすりこぎ棒、
お貸ししましょうか?﹂
﹁私には見える。見えるぞ。おまえが紙切れのようなペラッペラな
軽薄男と寝まくって、わけのわからない性病にかかって、苦しんで
苦しみぬいて、挙句に死んでいく未来が﹂
﹁その点、アルテミシアさまは一生安心ですねぇ。男に触れるとき
は絞め殺すときだけですから﹂
﹁いっておくが私は処女ではない﹂
﹁大方、男娼をお買いになられたんですね。わかります﹂
﹁おまえといっしょにするな、この痩せっぽち﹂
﹁豚よりマシだと思います。というか、豚は屠殺場へいけ﹂
﹁どっちが前か後ろかわからない女よりはマシだろう﹂
﹁私は適正値です。というか、どうしてそんなに膨らんでるんです
か? 中に詰め物でもしてるんですか﹂
﹁これは生まれつきこうなんだ。持たざる者よ。悔しかったら石で
も詰めてこい﹂
﹁そっちこそ、大きいだけでしょう。いい気にならないで﹂
﹁いい気にはなってない。それに、たいていの男は大きな乳房に夢
中だ﹂
﹁⋮⋮嘘です﹂
﹁嘘じゃない。実体験に基づいている﹂
﹁そうですか、じゃあ試してみます? どうせ、そんな勇気はない
1452
のでしょう﹂
﹁勇気は騎士に必要不可欠。それに、私は勝負を挑まれて逃げたこ
とは一度もない﹂
﹁負けた方は、皆が集まる広間中央の聖キャルピオン像の前で、全
裸になって土下座するっていうのはどうです?﹂
﹁泣いても許さないからな﹂
﹁それはこっちだって。と、いうわけでお願いしますね、クランド﹂
ふたりは、負けないぞ! という真剣そのものの表情でいっせい
に振り向く。
蔵人は咳払いをすると、呆れたようにいった。
﹁なにがお願いしますだ。あのさ、おまえらちょっと冷静になって
考えてみろよ。衆人環視の中でものすごい話してるからな。あれさ、
羞恥心とかないの?﹂
蔵人が冷静に突っ込むと、ふたりは顔を見合わせて火がついたよ
うに真っ赤になった。
どうやら、今更ながら自分たちが周囲の冒険者たちに取り巻かれ
ていたことに気づいたようだった。
﹁見ろ、クランドにたしなめられた。恥辱だ、こんなの﹂
﹁あ、そこで責任をすべてわたしにかぶせますかー。へー、そうな
んですねー。聖女だなんだともてはやされると、人間てここまで堕
ちきることができるんですねー﹂
﹁いちいち鼻につくしゃべり方だ。狙ってやってるのか? それと
も努力してそう繕っているのか?﹂
﹁べつにあなたに好かれたくありませーん。ね、クランド﹂
﹁だから媚びるのをやめろといっているっ!! だいたいクランド
は無関係だろう!!﹂
﹁本当に、あったま、やわらかい人ですねー。ほっこり温泉に浸か
りすぎたのかな﹂
﹁なんだと⋮⋮!﹂
蔵人は狼狽しながら、辺りを見回した。少し離れた場所で憮然と
1453
した表情でいるルッジを見つけて駆け寄った。女の相手は女にさせ
るしかない。聞き分けのいいポルディナが無性に恋しかった。
﹁あ、あわわ。ルッジ、なんとかしてくれよう﹂
﹁なんともできないね。それに、ボクにはなにもないのだね。やっ
ぱり﹂
ルッジは袖を引く蔵人の手を冷たく振り切ると、さびしさをにじ
ませながらいった。
﹁へ? やっぱりって﹂
﹁⋮⋮アルテミシアばかり贔屓して。ボクだって、女なんだぞ﹂
﹁そら、ま、知ってるが﹂
ルッジはすねたように、ぷいと横を向くと両手を組んであさって
を見やっている。
もっとも、かなり焦っていた蔵人にその意図は上手く理解できな
かった。
﹁おいおい、なにをいまさらそんなこと。とにかく、そーゆうのは
置いておいて! アルを落ち着かせてくれよ! な!? 俺たち仲
間だろう。こいつはパーティの危機だぜ!﹂
﹁パーティ、へえ。パーティね。へえ⋮⋮﹂
ルッジはすう、と肺に息を吸いこむと、常にないヒステリックな
甲高い声を出した。
﹁クランド!! 君は仲間の寝こみを襲ったりするのか!! はは、
ちょっとそれは仲良くしすぎじゃないのか!!﹂
﹁ちょっ、声デカっ! ⋮⋮ってあんとき起きてたのか?﹂
ルッジの怒声に争っていたふたりが気づき血相を変えて迫ってく
る。
アルテミシアとネリーは蔵人を挟むと、同時に詰め寄った。
﹁ちょっと待て、クランド。あのときって、まさか鍛冶小屋に泊ま
ったときのことか﹂
﹁聞き捨てなりませんね﹂
﹁ご、誤解だ!! ちょっと、あれは、そのだな、えと。⋮⋮この
1454
女が誘ったんだ!!﹂
蔵人は最低な回答を導き出した。
﹁ひどいわ﹂
ルッジは突如として丁寧な貴婦人口調に戻ると、その場にしゃが
みこみ顔を伏せた。
華奢な背中が細かく揺れている。アルテミシアは、蒼白な表情で
ただの仲間であると信じて疑わなかったふたりに対し、信じられな
いといった様子で交互に視線を動かした。
﹁あ、そのルッジが誘ったんじゃなくてだな。そう、あれはマッサ
ージだ!! はは、なんか寝つけないみたいだったから、その親切
心からであって、特にやましいことはない﹂
﹁君は、寝付けない婦女子の太ももや、ふくらはぎ、あまつさえ、
一番大事な部分を、あんなにも激しく弄んだのか!!﹂
﹁手、手がすべった!! あれは、不幸な事故だ!!﹂
ルッジは、小さく呻くと顔を背けた。彼女の長い黒髪が、ざっと
流れて表情が見えなくなる。アルテミシアとネリーが無言で歩み寄
ってきた。かなり、恐怖である。
︵これはもう、とりあえず逃げまくって時間を置くしかねえ!!︶
﹁ああ、そういえば! 今日は町内会のドブ掃除だった! いやー、
悪いなみんな。いろいろと疑問などはあろうが、そのあたりは次回
までに回答を持ち越させてもらうってわけにも⋮⋮いかないよね﹂
﹁クランド、嘘だろう。なにかの、間違いだといってくれ﹂
﹁間違いです﹂
うつむいていたルッジがわっと泣き声を上げた。
﹁あ、嘘! うそうそ!! だーっ、どうすりゃいいんだっ!!﹂
感情を高ぶらせたアルテミシアは瞳に涙をためてすがりついてく
る。身を激しくよじると、目を血走らせたネリーが腰に両手を当て
たまま、親の敵のように、睨みつけていた。
さぞやお決まり通り罵倒されるのだろうと身構えていると、ネリ
ーは唇を強く噛み締めたまま、なにもいわずに切なそうな目で見上
1455
げてくる。
﹁⋮⋮まあ、なんとなくはそうだろうな、とは思っていました。し
かし、私は物わかりのいい女で通っています。過去のことは変えら
れません。大切なのはこれからなのですから﹂
﹁そう! ねえ、聞いたかよ。いま、ネリーがいいことをいった!
! え、ちょ、なにしてはるんですか?﹂
ネリーは蔵人の首に手を回すと、甘えかかるように身体をもたれ
かけてくる。背中にやわらかなふたつの膨らみを感じ、ほとんど条
件反射で股間がみるみるうちに固くなっていく。花のようなむせ返
る女の匂いが絡みついてくる。蔵人が陶然とするもつかの間、アル
テミシアが吠えた。
﹁おい! なにをやっているんだ、さっきから!! 私のクランド
から離れろっ!!﹂
﹁嫌です﹂
﹁んなっ⋮⋮!?﹂
﹁なんですか。嫌ですといわれたらもう反論する言葉も見つからな
いのですか。そのようなスカスカした脳みその女はやっぱりそこい
らにいる野良犬たちが相応ですね﹂
﹁おまえはっ!! さきほど、ほかに男がいるような口ぶりだった
じゃないかっ!!﹂
﹁その男です﹂
﹁え⋮⋮!?﹂
﹁クランドは私の恋人です。そうですね、ラブっちゃってます。の
で、お邪魔虫は巣に帰るがいいと思います﹂
﹁いいかげんにしろ。いくらなんでも、私の忍耐にも限界というも
のがあるのだぞ﹂
﹁へえ、忍耐ですか。さすが、聖女さまですね。竜殺しの脳筋騎士
だけあって、博識でいらっしゃる。単語辞典あげましょうか?﹂
﹁クランド、少しどいていろ﹂
﹁ちょっ、へぶえっ!?﹂
1456
蔵人はアルテミシアにぽーんと投げ捨てられると、床板に顔を打
ちつけ間抜けな声を出した。頭を左右に振って顔を上げると、そこ
には殺気をぶつけ合うふたりの夜叉がいた。
﹁ネリーとやら、どうやら口でいっても理解できないようだな。少
し、お灸を据えてやるとしよう﹂
﹁灸ですか? やだやだ。私、聖女さまと違ってそんなもの必要な
身体じゃありませんから﹂
﹁おまえ、いくつだ﹂
﹁二十。貴女は、三十くらいですか﹂
﹁ふざけるな。私もおなじく二十だっ!! どうして、そのように
癇に触ることばかりいうのだっ!! 本当に性格の悪い女だ。おま
えのような女をクランドが相手にしたのはいっときの迷いだ﹂
﹁別に私は性格悪くないです。偏見というものです、それは﹂
﹁知ってるぞ。ここで、貴様がよくクランドを罵倒しているところ
を。真に愛した殿方なら、敬い褒めこそすれ、衆人環視の中でああ
まで罵ることなどできるはずがない。おまえは、悪女だ﹂
﹁あれはクランドが望んだことです。むしろ、このやりとりは互い
の本音をさらけ出した者同士にしか出来ない魂のコミュニケーショ
ンなんです﹂
﹁そんこと、信じられるわけないだろう!!﹂
﹁真実です。むしろ、彼は私に罵られることを希求してます﹂
いや、してねーよ。
蔵人は、そう思ったが下手に突っ込むと、怒りの矛先がこちらに
向けられかねないことを思い、口をつぐんだ。途方に暮れて、床に
両手を突くと、くっくっと笑い声を噛み殺しながらルッジが楽しそ
うに覗き込んできた。
﹁ちょっと、やりすぎたかな﹂
﹁ルッジ。やっぱ、嘘泣きだったんだな﹂
﹁ふん。ボクだけのけものにするからだ。それに、君に対して怒っ
ているのは事実だよ﹂
1457
﹁⋮⋮悪い、埋め合わせは必ずするから。だから、なんとかこの事
態を収集してくれぇ﹂
﹁まったく、君はズルい男だよ。ところで、本当のところは、その。
君は、ボクのことをどう思っているのだ? ま、真面目に答えて欲
しい﹂
﹁眼鏡ぺろぺろ﹂
﹁⋮⋮どうやら、もう少し反省したほうがいいみたいだな﹂
ルッジは能面のように無表情になると立ち上がった。
﹁ああっ、うそうそっ!! つ、つい条件反射で面白いこといわな
いといけないかと思って! ああっ、ルッジ。ルッジぃいいっ、カ
ムバーック!!﹂
シェーン風に呼び止めるが、ルッジは冷たく玄関口に歩き去って
いく。蔵人が虚脱したように、肩を落としていると、ふたりの言い
争う声を割って、涼やかな女性の声が舞い降りてきた。
﹁殿方が人前でそのように這いつくばるのは見栄えが悪くてよ。さ﹂
﹁んあ?﹂
蔵人が顔を上げると、そこにはひとりの美しい少女が立っていた。
彼女は、白の長手袋を差し延べながらにこやかな笑みをたたえて
いた。
猫のような釣り上がった大きな瞳が爛々と輝いている。目鼻立ち
は際立って整っており、瞬きをしなければ精巧な人形かと思うよう
な造形だった。
輝く金色の髪をサイドハーフアップで右横に纏めてある。白銀の
バレッタには細密な文様が彫りこまれている。白地に薄い青の文様
を走らせたドレスはふんわりと大きく膨らんでいる。蔵人が見たと
ころによると、歳の頃は、十二、三歳だろうと推測された。物腰は
やけにこなれていて、ひどく大人びていた。
﹁悪いな、っと﹂
﹁あっ⋮⋮!﹂
蔵人が差し伸べられた手を取って立ち上がろうとすると、力をこ
1458
めて引っ張りすぎたせいか、少女がバランスを崩してよろけた。
﹁ちょっ、おっとと﹂
﹁きゃ!﹂
蔵人は少女の上に倒れ込むようにして転んだ。ふと、つかんだ部
分に違和感を覚える。
指先に力を入れてつまむと、ぷしゅ、となにかが破裂する音が聞
こえた。
﹁ああ、詰め物ね⋮⋮﹂
﹁あ、ああああ﹂
蔵人は少女の胸に倒れ込み、不可抗力で彼女が内緒で入れておい
た詰め物を潰してしまったのだった。視線がかち合う。かなり気ま
ずかった。彼女は親切心で手を差し伸べてくれたのだ。ここをフォ
ローせねば男ではないだろう。自家製コンピューターが、最速で演
算をはじめる。導き出された答えは、ただひとつ。
﹁気にするなって! ちっぱいもおっぱいであることに変わりはな
い!! これはこれでよさがあるさ!!﹂
﹁⋮⋮ふ、ふふふ。レオパルド﹂
﹁は、姫さま﹂
﹁え、あ。なに?﹂
少女に呼ばれたゴリラのような大男の執事は、蔵人を子供のよう
にひょいと持ち上げると、背後から両肩に手を回し関節を決めた。
蔵人をはるかに上回る膂力である。争っていた、ネリーとアルテミ
シアの顔色がたちまち青ざめる。
﹁ば、ばか! クランド、そのお方にいったいなにをしたのですか
!!﹂
﹁え? 軽くおっぱいもんだだけですが、なにか﹂
﹁な、なんということを⋮⋮!﹂
アルテミシアは眉間にしわを寄せて口をへの字にした。強烈な動
揺が見てとれた。
﹁ふふ。わたしも、鬼ではありません。貴公がこの場で己の非を認
1459
め謝罪するならば、ことを荒立てるつもりはないのですが﹂
﹁うん? あー、あれね。ま、そんなに真っ赤な顔して怒ることな
いじゃんよ!! 手がすべっただけだっての。それに、重ねていう
が、ちっぱいを恥じることはないぞよ。人間の格は胸の大きさで決
まるわけではないのだ。大きくするコツは、お風呂に入ったあと、
よく揉みこむことだ。毎日続けなさい。なんなら暇なときにお兄さ
んが手伝ってあげよう﹂
蔵人は、生真面目な顔で締めると、格好をつけて鼻を鳴らした。
少女は無言のまま手を上げると、法衣をまとった三十年配の男が書
物を片手に一歩進み出た。
﹁⋮⋮情状酌量の余地なし。ラデク、罪状は﹂
﹁は。姫さま。ロムレス王国法、第三十一条によりますと、公共の
場にて貴族を侮辱した際は対象者の爵位によって終身禁固刑、或い
は死罪を持って贖うべし、とあります﹂
ラデクと呼ばれた痩せた男は、瞳だけをぎょろりと動かし、低い
声で述べた。
﹁それじゃ、死罪ですわね。ああ、なんてことでしょう! 悲劇ね、
これは!!﹂
﹁ちょっ、待ってよ。お嬢ちゃん、冗談でしょう﹂
蔵人が汗をダラダラ流していると、受付の奥から総務課長である
ゴールドマンが禿頭に汗をかきながら飛び出してきた。
﹁こ、これはビクトリアさまぁああっ!! 先んじていってくださ
れば、職員一同お迎えにあがりましたのにいいいっ!!﹂
ゴールドマンは飛びこむようにして床に這い蹲ると、金切り声を
上げた。ネリーが激しく舌打ちをする。
﹁ノンノン。いくら訂正しても発音が直りませんのね、ゴールドマ
ン。ヴィクトリア、ですわ﹂
少女は、指先をちっちと左右に振ると発音を訂正して、猫目をう
れしそうに釣り上げる。
そこにはサディスティックな悦びがフツフツと湧き上がっていた。
1460
﹁え? え? ええっ!? もしかして、エライ人なの﹂
蔵人が顔をよじって背後の巨漢に問うと、男は静かな口調で応え
た。
ギ
﹁おまえ、冒険者のくせに知らないのか。そこにおわすお方こそ、
ルド
マスター
アンドリュー伯さまの長女にしてロムレス王国最大規模を誇る冒険
者組合の統括委員長
ヴィクトリア・ド・バルテルミーさまだ﹂
﹁はじめまして、冒険者くん。そして、さようならですわ﹂
少女の凄絶な微笑みを間近に見て、蔵人はようやく自分が窮地に
陥ったことを理解した。
1461
Lv91﹁蛮軍五十万﹂
西方の草原にひとりの偉大な王が存在していた。
名は、クライアッド・カン。
草原に数多いる長耳族を統べる英雄であった。
ステップエルフは遊牧民族である。
彼らは通常のエルフとは違い、定住をせず、主に牧畜を好んだ。
季節によってギガントゥキ大平原を移動し生計を立て、ひとたび
一族の危機が迫れば、たちどころに結集して一丸となって戦った。
彼らは、物心つくまえから馬に触れ合うのを常としていた。
騎射に優れ、手足のごとく馬を操る彼らはロムレス王国にとって
長い間、侮ることのできない驚異であったがロムレスの姫を大王ク
ライアッド・カンに送ることで、ほぼ二十年間の永きに渡り和平は
保たれていた。
﹁蛮族どもが、国境線を破っただと? ありえんわ﹂
城塞都市シルバーヴィラゴの城将、アンドリュー伯の実弟である
オレール・ド・バルテルミーは近習の報告を寝台で聞くと、手を振
りながら再び毛布に頭を突っこんだ。
オレールは今年四十四になる壮年であるが、領主の実弟であると
いうこと以外は、取り立てて見るべき部分のない凡愚、であった。
﹁そんなくだらない戯言で余の眠りをさまたげるとは、痴れ者が﹂
オレールは小太りの身体を震わせると、先月手に入れた十二歳の
愛妾の薄い胸に顔を押しつけ惰眠を再び貪ろうと目をつぶった。
1462
﹁ですが、閣下。これは、かなり信憑性のある報告で⋮⋮!﹂
近習が声を荒げると、オレールは不快さを隠さず激しくうなった。
﹁ああ、そういうことは、いちいち余に申さずともよいわ。ジムに
申せ。ジムに﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
なおも身を乗り出す近習の肩をそっと制する手が差し伸べられた。
金髪碧眼の五十絡みの男こそ、オレールの副将であるジム・ベッ
セマだった。
﹁話は、私が聞こう。閣下をこれ以上煩わせるな﹂
近習を連れて大広間に戻ると、報告を改めて聞き直した。
オレールは定例である朝議には出席しない。居並ぶ側近たちも、
たいして気に留める風もすでになかった。
城将の椅子のみいつもどおり空席のまま、会議が型通りはじめら
れた。
副将ジムは急使の報告を頭の中でまとめると、細身の眼鏡を外し
て凝り固まった眉間を指先で強く揉んだ。
﹁ステップエルフどもが大挙して攻め寄せてきただと﹂
近習が血相を変えて報告を伝えようとした気持ちは理解できた。
なんでも、目測で五十万近い軍団が国境線を踏み越えて街に迫っ
ているというのである。
現実であれば、シルバーヴィラゴはじまってのありえない危機だ
った。
﹁にわかには理解しがたい。閣下ではなくても、耳を疑う報告だ﹂
﹁ははは、五十万とは﹂
﹁夢でも見ていたのではないか﹂
﹁砦の兵の規律も相当ゆるんでいると聞く。ここいらで引き締めが
必要かものう﹂
﹁おお、怖い怖い。それほどの大兵に攻められればこの城も半月と
もたぬわ﹂
﹁おおかた、蜃気楼でも見たのであろう﹂
1463
﹁まったく、人騒がせな﹂
将軍や大臣たちは口々にいいたいことをしゃべりだすと、収拾が
つかなくなってきた。
ルーチンワークで行われる会議に飽き飽きしていたのであろう。
半信半疑な危機は、彼らにとっていい眠気覚ましでしかなかった。
ジムがあからさまなため息をつくと、近習が不満そうに声を強め
た。
﹁将軍。ですが、もし事実であればこれはシルバーヴィラゴ壊滅の
危機です!﹂
﹁事実であるならば、な。さて、どうしたものかな﹂
ジム・ベッセマは困惑しつつも、対処療法的に真偽を確かめさせ
るために、斥候を現場に送った。このような、見当違いの報告はい
ままで数え切れないほど上げられている。いつもは、自分のところ
で止めるのだが、今日に限ってたまたま席を外していたところ、目
の前の近習が慌てて総大将へとご注進とばかりに走ったのだった。
ジムは肩書きこそ武官ではあったが、その得意分野は行政のみに
限られていた。爵位はそれほど高くない貴族の生まれである。血縁
主義第一の地方では、領主の一族でない人間が重用されることはま
ずありえない。その点において能力のみでいまの地位をつかみとっ
たジムは、必要以上に領主の弟であるオレールの機嫌を損ねること
を厭うたのだった。
﹁ジム将軍。なぁに、またどうせ野盗のたぐいでしょうよ。このオ
レに兵を預けてください。昼飯前には片付けてきますよ﹂
近臣のダグラスが不敵な笑みを浮かべ、腰の大剣を拳で叩いてみ
せる。ジムが形通りの意見を聞くと、一同の賛成は得られた。
﹁それでは、副将としてダグラスに二千の兵を与える。ことの真偽
を確かめる斥候が戻り次第、盗賊を見事打ち取られよ﹂
意気揚々とダグラスは歩兵を率いて城を出て行った。
﹁なあに、所詮は報告の間違いであろうよ。者ども、久々に手柄を
上げるときぞ﹂
1464
ダグラスは別段歴戦の勇者というわけではなかった。
そもそもが、ロムレス王国では異民族討伐を含めて大規模ないく
さは、ここ数十年起きていない。ダグラスですら、数十人規模の盗
賊退治程度しか行ったことはなかった。
ゆえに、目前に迫る騎兵の大軍団を目にしたときは、魂魄が失せ
るほどに驚愕した。
どう少なく見繕っても、五万を超える前陣が波濤のように襲いか
かかってきたのである。
それでも槍を揃えて形ばかりでも戦おうとしたダグラスに少しは
気骨があった、というべきであろうか。
ステップエルフの騎兵は、まず最初に短弓による攻撃によってダ
グラス軍の前面を横殴りにした。長弓に比べて、射程距離は短いが、
騎乗中の取り回しの良さはいうまでもなかった。吹き抜ける風のよ
うに、ダグラス軍の前陣を突き崩すと、小細工なしにステップエル
フの騎兵が突撃を慣行した。
草原の戦士は防具こそは薄い革鎧を着ていたが、手にした槍はど
れもが長大でロムレス軍よりもはるかに穂先は鋭く、強固だった。
騎兵は常に槍を手にして突撃するが、右手に持った穂先の位置を
上手く安定させておかねば刃で馬の右目を傷つけて使い物にならな
くしてしまう可能性がある。
その点、ステップエルフたちの槍の位置は常に一定を崩さす見事
なものであった。彼ら全員の腕力が一定以上の基準を満たしている
ということである。
いずれも劣らぬ勇士であった。
烏合の衆であるダグラスの歩兵部隊では最初から勝負にならなか
った。
騎兵たちが穂先を揃えて中央突破を完了すると、もはやダグラス
軍は隊伍すら整えることが出来ずに、雪崩を打って敗走をはじめた。
合戦では退却時が一番兵力を損耗するのである。
本朝では、織田信長が武田勝頼の騎馬隊を破った長篠の合戦でも、
1465
銃創による死者よりもはるかに撤退時に追い討ちをかけられたとき
の死傷者が多かったくらいである。
意気揚々と手柄を上げようと城を出たダグラスは、己の身を守る
数名の小者と共にほうほうの体で逃げ帰り、遅れた兵はひとり残ら
ず鏖殺されたのであった。
この報に驚愕したのは、愛妾に残らず精を放って白河夜船だった
城将オレールである。
ステップエルフの大軍勢は、すでに城外から一日の場所にまで迫
り、近隣の村を焼き払ってその場に留まっている。オレールがこと
の真相を知るのに遅れたのは、責を負うことを恐れたジムが敗戦を
糊塗することに躍起になっていたからである。
﹁援軍だ!! とにかく篭城して、王都から援軍を待つのじゃ!!﹂
狼狽しきったオレールは王都ロムレスガーデンに急使を送ると、
亀が首を引っこめるようにして城門を閉ざして息を潜めた。オレー
ルはもはや、報告が遅れたことを怒ることよりも、ステップエルフ
の存在そのものに強い恐怖感を覚えていた。
﹁どうしてなのだ。我らと蛮族どもは、休戦協定を結んでおったは
ずじゃ。蛮族の王クライアッド・カンは、王家の姫に子を産ませ、
しかも老齢になってからはめっきり大人しくなったと聞いておった
のに﹂
ことの発端は些細な境界線争いからはじまった。ステップエルフ
の領地に入りこんだ農民との水場争いがはじまりだった。それは、
個人どうしの些細な喧嘩であったものが、やがては村と小部族その
ものの争いになった。
それくらいならば、ここまで大ごとになることはまずないのであ
るが、たまたまこの争いの調停に入ったのが、大王クライアッド・
カンの三十八人いる姫のひとりで、テアという娘であった。
彼女は、ステップエルフの姫の中でもひときわ平穏と融和を好み、
自ら進み出てこの小競り合いの和睦に尽力したのである。悲劇は、
手打ち式の前日の晩であった。エルフの姫であるテアが、村はずれ
1466
の森の中で物いわぬ骸となって発見されたのである。彼女の全身は
目にするだけで顔を背けたくなるような陵辱が加えられており、特
に性器と肛門からおびただしい精液の痕跡が残っていた。彼女のや
さしさは、とびきりである。それでも、王であるクライアッド・カ
ンは最後まで戦争という選択肢を避け続けていたのだが、テア姫は
全部族に慕われており、その輿望は、ある点では大王を凌いでいる
といえた。
蒼の死神
と呼ばれたバトルシーク
我が一族の宝を穢した人間族に鉄槌を加えるべし。
特に、テア姫の婚約者で、
の怒りは凄まじかった。
若きステップエルフの戦士、バトルシークは眉目秀麗、百九十を
超える長身と抜群の剣の腕前を持つ男であった。居ながらにして王
者の威厳を兼ね備え、風の魔術を自由に操る彼は百人力と呼ばれる
膂力の持ち主でもあった。
蒼の四将
と呼ばれる四人の猛将を引
次期、草原の王の呼び声も高い彼は、腹心のフレーザーを使って
全部族の若者を煽り立て、
き従えて兵馬を起こしたのであった。
アンドリュー州の主城である大都市シルバーヴィラゴを陥落させ、
領主であるクワトロ・ド・バルテルミーを都から呼び出して謝罪さ
せる。
ロムレス王の近臣であり、大貴族のクワトロ・ド・バルテルミー
が万が一にも蛮族と蔑むステップエルフに頭を下げるなどというこ
とはありえない。
それは、王を僭称する五つの隣国に対して完全に権威を失墜した
ことを示すことであり、下手をすれば攻め込まれかねない事実であ
った。
一方、蛮族の突如とした国境線の劫掠にもっとも驚愕したのは、
シルバーヴィラゴの市民たちであった。
﹁ほら、レイシー。こっち、こっちだって﹂
﹁ねえ、ちょっと。ヒルダ、そんなに走らないでってば﹂
1467
ブロンド
サンディ
銀馬車亭の歌姫として知られるレイシー・アップルヤードは、砂
色の髪をなびかせて、僧衣の裾をまくって駆けるヒルダに手を引か
れていた。
昨日の晩から、確かに街中の様子がおかしいことに気づいていた。
いつも満員になるはずの店は客もまばらで、それも一杯ひっかける
とたちまち店を出る人間が多かった。
﹁ちょっと。どこまで、行くつもりのなの。あたし、もう息が、切
れて﹂
﹁なーにを、のんきなこといってるんですか! もしかして、昨今
の噂を知らないとでもおっしゃいますか!?﹂
﹁ええっ、ちょっとなんの話よ、もおお﹂
﹁あああっ、なんで一番噂話が耳に入るお仕事していてこんなこと
も知らないのですかねぇ!! お店に来る殿方たちは、まったくも
って余計な気遣いばっかり!!﹂
﹁ええっ、ちょっと待ってよ! どういうことなのっ!?﹂
﹁いいから。ほら、レイシーは黙って馬車に乗る!﹂
﹁むぎゅっ﹂
ヒルダは辻馬車を止めると、レイシーを押し込んでから自分も飛
び乗った。馬車の中はあきらかに定員オーバーで、誰もが深刻そう
に押し黙っている。
レイシーは不安げに胸のバッジを握り締めた。辻馬車は、石畳の
通りを抜けると、城壁に向かってゆっくりと進んでいく。次から次
へともはや乗れそうにない馬車へ、人々は無理やり身体を押し込ん
で乗ろうとし、それが不可能とわかるやいなや、たちまち離れて走
り去っていく。一様に目指すは城壁の階段を目指しているのが理解
できた。
︵なんだろう、なんだろう。やだな、怖い。怖いよ、クランド︶
レイシーは胸の中にムクムクと膨れ上がる黒雲のような不安を押
し殺しながら、皆と同様に押し黙った。先ほどまで騒いでいた元気
の塊のようなヒルダの顔も心なしか青い。辻馬車が城壁のそばで止
1468
まると、人々は我先に階段を目がけて飛び降りた。誰もが、城壁の
上へと息を切らせながら駆け登っていくのが見えた。
﹁え⋮⋮﹂
レイシーが城壁の上で見たものは、郊外を埋め尽くす無数の軍団
だった。戦鼓は高らかに鳴り響き、色とりどりの旗布は翩翻と翻っ
ている。無数の軍馬が隊伍を乱さず並び立つさまは、まさに圧巻で
あった。市民のざわめきはやがて大きなうねりとなり、あちこちで
絶叫や神に祈る言葉が飛び交った。
﹁ステップエルフの大軍団だ!!﹂
﹁なんでも、いっせいにこの城を落として、男は殺し尽くし、女は
奴隷にするそうだぜ﹂
﹁助けて、神さま﹂
﹁鼻のきくやつらは早々に荷物をまとめて逃げ出したらしい﹂
﹁この城は持って三日。俺たちもあと少しの命だな﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
﹁嘘だろ!! 城兵たちはどうしてるんだっ!! この街には一族
全員住んでんだよ!! なんですぐさま追い払わねえんだっ!!﹂
﹁蛮族どもは、百万はいるらしい。王都の援軍は助けに来るのを躊
躇しているらしい﹂
﹁俺は、百五十万って聞いたぜ﹂
﹁どっちにしろ、どうにかなる相手じゃねえやな﹂
﹁ママー、こわいよー。こわいよー﹂
﹁だいじょうぶよ。きっと、パパが守ってくれるからね﹂
﹁ふっざけんなっ!! オレには五人の娘がいるんだっ!! あん
な、長耳どもにオモチャにされるんなんてっ。許せるかよっ!!﹂
﹁助けて、助けて⋮⋮﹂
﹁長生きするもんじゃないのう﹂
﹁アンタ! 冒険者でしょう! いっつもえばって私を殴ってるく
せに! こういうときくらい役に立ちなさいよ! ねえ、怖いよう。
私を守るっていってよ﹂
1469
﹁馬鹿な、無茶いうな。俺たちが出る幕じゃねぇ。もう、おしまい
だ﹂
﹁ママー、どこー! ママー!﹂
﹁祈ろう。さあ、来世こそ、しあわせになれることを祈ろう﹂
人々の話を総合すれば、突如として異民族が攻め寄せてきたのは
理解できたが、このあとどうなるかとうことは、具体的には誰にも
わからなかった。
﹁おい、見ろ!! あいつ、飛び降りるぞ!!﹂
ひとりの男の怒声がひときわ高く響いた。人々の視線の向こうに
は、まだ若い痩せた男が目を瞑りながら両手を合わせて両足を揃え
て飛び降りていく姿が映った。
絶叫は尾を長く引きながら遠ざかった。男はまっしぐらに地上に
墜落すると、全身を四散させて城壁の一部にわずかなシミを作った。
あまりに無意味な死だった。人々は顔色を青くして青年の死を見届
けると、それをこれからの自分たちの運命に照らし合わせ、絶望の
色を深く面に表した。
しばらくすると、武装した城兵たちが次々と城壁によじ登り、荒
れ狂う市民たちを無理やり壁際から引き下ろしにかかる。レイシー
は背中を小突かれながらも、ヒルダと手をとりあって無言のまま階
段を下っていく。
仮にも飲み屋という庶民の情報集積地を経営しながらこれらの重
大時知らなかったのは、常連達がレイシーに気を使って意図的に隠
したからであった。
彼らはレイシーの裏に、蔵人という凶暴な男の影があることを知
っていて、このような空前絶後の危機に乗じて踏みこんでいくこと
を避けたのである。
つい、先日も威勢のいい石工のよそ者がレイシーにちょっかいを
出し半殺しにされたばかりである。蔵人の女に対する執着心は常軌
を逸していることは誰もが知っていたし、そもそもレイシー自身が
相手にしないのである。
1470
ならば、客足が落ちてもおかしくないのであるが、レイシーの歌
声と美貌は届かなくとも、あばよくばと男どもの夢想をかきたてる
には充分すぎたのだった。
︵クランド、どこにいるの? 早く、会いたいよ⋮⋮!︶
レイシーが不安を募らせているほぼ同時期、蔵人はギルドマスタ
ーであるヴィクトリア・ド・バルテルミーの手によって、シルバー
ヴィラゴ中央監獄に収監されていた。
罪名は、貴族冒涜罪である。生きるも死ぬも、すべては彼女の手
の内にあった。
﹁へっくちっ! ったく、毛布の一枚でも寄越しやがれってんだ。
寒くてしかたがねーぜ﹂
蔵人は独居房の中で、特大のクシャミを放つとその身を小刻みに
震わした。剣は元より、身ぐるみを剥がされ、異様な臭気を放つ囚
人服一枚である。三方が石壁で区切られた独房は監獄の地下にあり、
冒険者ギルドの事務所から伸びた地下道を通って直接移動すること
ができた。
アンドリュー伯の長女であるヴィクトリアはシルバーヴィラゴに
おける市政を司る五人の議員のひとりである。叔父である城将のオ
レールを除けば、この街の二番目の実力者は彼女であり、冒険者の
ひとりやふたりの命など彼女からすれば木っ端のようなものであっ
た。
﹁おい、囚人。メシだ﹂
﹁へい、へーい。お、今朝はフライがついとる。優雅だねぇ﹂
﹁ったく、のんきな野郎だな。おまえは﹂
1471
蔵人は鉄格子の小窓から、看守のピエールが差し出す朝食を受け
取りそそくさと掻きこみだした。湯気の立つスープは充分にあたた
かく、牢内では上等な部類であるといえた。
﹁昨日の今日ですっかり馴染みやがって。おまえ、随分と慣れてる
な。その分だとはじめてってわけじゃない。違うか?﹂
﹁まあ、気にするなよ、細かいことは﹂
﹁楽天的な囚人だぜ。ま、安心しろよ。いまどき、貴族を罵ったく
らいじゃ到底死罪になんざならねぇよ。特に、去年に五人組になっ
たギーゼラ伯爵婦人は極めつけの人権擁護派でよほどの悪党以外は
死刑にするのを極度に嫌ってる。おまえも、ここでおとなしくして
らすぐに出られるさ﹂
ピエールは、木製の椅子に腰掛けると腰のボトルを取り出して、
一息にあおった。蔵人の鼻先を濃い酒精の香りが漂いはじめる。反
射的に、よだれが湧き出た。
﹁昼間っから酒かよ。サボってんのはそっちじゃねーか﹂
﹁べっつに、この階にゃ粗暴犯はひとりもいねーんだ。ホントのや
ばいやつは、地下三階に押しこめられてる。それに、どうせなにご
とも起きねーんだ。このくらいのご褒美がなきゃ、やってらんねー
よ﹂
﹁おい。不良看守。黙ってて欲しきゃ、一口よこせ﹂
﹁おっと、囚人に脅されるのははじめてだな。へへ﹂
ピエールはおどけたふりをすると、ボトルを格子の内側に差し出
した。
﹁お流れちょうだい、と﹂
蔵人は、中身を一息にすると目を白黒させた。度数の高い蒸留酒
である。喉の焼け落ちる感覚とともに、えもいわれぬ芳醇な香りが
口腔を満たした。全身がカッカと熱くなり、腹の中が燃え盛った。
﹁全部飲むんじゃねーぞ。ったく。俺は見回りに行く、ということ
でおとなしくしてろよ﹂
ピエールはボトルを片手にふらつきながら、薄暗い廊下の向こう
1472
へと千鳥足で消えていった。蔵人は、残りの朝食を平らげると石畳
の上にひっくり返った。酒精が回って火照った身体にじんわりと冷
気が忍び寄ってくる。
どうやらすぐさま殺されることはなさそうだ。
ギ
だが、組合の実力者をあれだけしこたま怒らせば、そう簡単にこ
ルド
こから出られないと思ったほうがよさそうだった。蔵人が、冒険者
組合の警備兵に連行される際、アルテミシアたちは争うのを忘れて
同時に取りすがってきた。
﹁ま、そういった点では俺としても、ちょいラッキーだったかも﹂
蔵人がゴロゴロしながらひたすら時間を潰していると、顔じゅう
を腫れ上がらせたピエールが仏頂面で面会人の到着を伝えに来た。
四人の看守は、蔵人の腰に紐なわを通すと、猿回しよろしく、前後
左右に付き従って薄暗い廊下を無言で進んでいく。
﹁なあ、その顔どうしたんだ。ちょっと見ない間に、蜂にでも刺さ
れたんか﹂
﹁うるせー﹂
蔵人はピエールをからかいながら面会室に移動すると、ガラス張
りの個室に通された。
窓の表面には特殊な魔術がかけられており、物理的な力では壊せ
ない特注品だ。
﹁大きな声を上げないこと。不用意な動作をしないこと。終了まで、
席を立たないこと。それから、手を出せ﹂
﹁なんだよ﹂
事前説明をしていた年配の看守は両手がすっぽりと収まる革製の
アームグローブを取り出し、蔵人の腕に装着させた。
﹁自慰防止用だ。下着を汚されると面倒でな。これも規則だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁面会人が女だとガラス越しにシゴきだすやつが多くてな。ここは、
自慰部屋じゃない﹂
﹁しねーよ﹂
1473
蔵人は面会室に入ると正面にある粗末な椅子に腰掛かけた。しば
らく待つと、ものすごい勢いで対面の部屋の扉が開き勢いよく駆け
込んでくる女の姿があった。
﹁ご主人さまっ!!﹂
﹁ああ。来てくれたんか﹂
ポルディナである。
忠実な奴隷は、ガラス面直前まで顔を近づけて切なそうに瞳を曇
らせていた。
頭部の犬耳はぺたん、と後ろに寝ており、お尻のしっぽは左右へ
と千切れんばかりに振られている。
やった! 会えた! 抱きつきたいよう! と、心の声を激しく
代弁していた。
﹁どうして、こんなことに。ああ、おいたわしや⋮⋮!!﹂
ポルディナは上目遣いに黒真珠のような瞳を涙で潤ませている。
﹁やほー。勇者さまー、私たちもいますですよー﹂
﹁ば、バカ。そんなに引っ張るなっ﹂
﹁ハナ、それになんちゃってメイド騎士もっ﹂
﹁誰がなんちゃってだ! この愚か者がっ!!﹂
蔵人の家で小間使いをしている自称元騎士のヴィクトワールとそ
の侍女のハナもポルディナの後を追って面会室に姿を見せた。
﹁すまねぇな、ドジ踏んじまった﹂
﹁まったく、どういうことだこれは。まあおまえのことだ。いつか
やると思っていたが⋮⋮いぎいっ!?﹂
ヴィクトワールは言葉の途中で奇妙な悲鳴を上げると、頬を押さ
えて涙目になった。
ポルディナが力いっぱい彼女の頬をつねったのである。ヴィクト
ワールが抗議しようと口を開きかけると、凍りついた視線を直視し
て押し黙った。
﹁口を慎みなさい、おまえ。それとも、この場でその舌をねじ切ら
れたいの?﹂
1474
﹁い、いいいえっ!!﹂
﹁あはー。お嬢さま。相変わらずの絶対服従。そこに痺れない憧れ
ないッ!!﹂
﹁覚えてろよ、ハナ﹂
ヴィクトワールは恨みがましくハナをにらみつけると、ポルディ
ナから距離を取った。
﹁ご主人さま。ご不便でしょう? いますぐにでも、このガラスを
ぶち破ってお助けいたします。さあ、はなれてくださいませ﹂
﹁オイオイ、オイイイッ!! それやばいからねっ! もう、この
街に住めなくなっちゃうからね!! おい、おまえらこいつを押さ
えろっ!! 早くっ。はやーくっ!!﹂
﹁はいっ。さー、ポルディナさん。落ち着きましょうねー﹂
﹁バカなことはやめるんだっ!! おかしいぞっ、おまえっ!!﹂
﹁はなせっ、どうしてっ。どうしてなのですかっ、ご主人さまっ。
ご主人さまがこんな場所に捕らわれる理由があるはずないっ﹂
﹁あはー、相変わらずキチってますねー。とりあえず、落ち着きま
しょうかー。あ、勇者さま。一応、街の法律家に弁護人を探しても
らってますから。少々時間はかかるかもしれないが、ちゃんとお出
しできますから、しばし我慢をば﹂
室内でこれだけ暴れまわっていて、看守が黙っているわけもない。
すぐにも、面会人側の部屋に数人の看守がなだれこむが、ヴィクト
ワールが冷静に説得をはじめた。ポルディナに至っては、ほかのこ
となど一切気にならない様子で蔵人だけを見入っている。
﹁それでは、ポルはもうずっとご主人さまに会えないというのです
か。そんな﹂
﹁まあ、しばらくは我慢してくれよ。そのうち出られるから﹂
ポルディナは、深くうなずくと看守に向かって近づき堂々といい
放った。
﹁看守殿。我が主人を解放しないというのであれば、すぐさま私も
同じ房に入れていただきたい。手続きのほどを、よろしくお願いし
1475
ます﹂
﹁はあっ!? 奴隷付きの囚人なんぞ聞いたことないぞっ。アンタ
もおかしなこといいなさんなっ!! これ以上暴れるならば、面会
は今後は禁止にするぞ!!﹂
﹁おもしろい。出来るものならやってみろ﹂
ポルディナが全身から凶暴なオーラを放出させる。戸惑った看守
が、腰の剣に手を伸ばしたとき、近寄ったハナが素早く布の小袋を
握らせた。看守は、手のひらに握らされた袋の重みを確かめると、
下卑た笑みを浮かべて仲間ごと退出していく。ハナなりのすぐれた
大人の知恵であった。
﹁ご主人さま、ポルは。ポルはせつのうございます﹂
﹁ま、ハナがなんとかしてくれるっていうし、しばらくは会えない
かもしれないが。我慢だな﹂
﹁ご主人さま。私たちになにかできることはございませんか﹂
﹁できること、ねえ﹂
蔵人は目をつむってしばし、黙考する。
やがて、顔を上げるとキラキラした瞳で対面の三人を見渡した。
﹁うん、おっぱい見せて﹂
﹁はい、よろこんで!!﹂
﹁あはー、いいですよー﹂
﹁えっ!? ちょっ、冗談だろうっ!? ちょっ、待って﹂
蔵人の無茶な要望に、ポルディナとハナはふたつ返事を上げて快
諾し、ヴィクトワールは思いっきり現実から目を背けた。
ポルディナとハナはそそくさと白いエプロンを取って、胸元のボ
タンをプチプチと外し出す。ヴィクトワールは厭うことなく、あっ
という間に脱ぎだしたふたりを見ながら額に手をやって壁に手を突
き、がくりと頭を垂れた。
﹁待て、なぜ脱ぐのだ。どうして、そーゆう話になる!? お、お、
おまえてゃちにははじゅらいというものがにゃいのかっ!!﹂
﹁あはー、お嬢さま、思いっきり噛み噛みですね﹂
1476
﹁ヴィー。とっととお脱ぎなさい。どうして、あなたはこうもやる
ことが遅いのですか﹂
﹁まーった! 待った! いや、待ってくれ。おまえたちが脱ぐの
はいい。別に、あんまりよくないけどいいってことにしよう、百歩
譲って!! でも、どーして私まで脱ぐ流れになっている!? そ
れが、ついていけないといっているんだっ﹂
ポルディナとハナの両者は顔を見合わせると、口元に手をやって
上品にほほ、と笑い声を上げた。それからおもむろにふたりがかり
で襲いかかった。
﹁にゃあああっ!! やめろおおおっ!!﹂
数十秒後、そこには上半身どころか一糸纏わぬ姿になったヴィク
トワールの姿があった。
﹁おお、いいぞ。さあ、おまえらこっちに来て、おっぱいを見せて
おくれ。ああ、ハナは別にどうでもいいぞ﹂
﹁むー、なんですかー。せっかく脱いだのにぃ﹂
﹁ご主人さま。ほら、ヴィー。あなたも、とっとと胸から手をどけ
る﹂
﹁うう、なんで私だけ全裸なのだ。もお、お嫁にいけないよう﹂
蔵人は、もっちりとした三人の乙女の柔肌を、その目に焼きつけ
ようと目の前に顔を近づけた。白く、もちもちした豊満な乳房がガ
ラス越しに突き出された。
﹁おお。ヴィクトワール、おまえすげーいい乳してんなぁ﹂
﹁うう、そんなに見るなぁ。ばか﹂
﹁おい、ヴィー。乳首立ってるぞ。ダメだ! 隠すなっ!!﹂
﹁恥ずかしい⋮⋮! ってなんでいいなりになっているんだ、私は
ッ!?﹂
﹁気づくのが遅いな﹂
﹁勇者さま、ハナの小ぶりおっぱいはガン無視ですか。そうですか﹂
﹁いやいや、おまえの小ぶりなものも、これはこれで、よいぞよ﹂
﹁あっ、えへー。褒められちゃいました。じゃ、こんなのはどうで
1477
す?﹂
ハナはにぱっと微笑むと、胸を対面ガラスに自ら押しつけた。
﹁ご主人さま﹂
負けじとポルディナも巨乳を対面ガラスにむぎゅ、と押しつけて
くる。
﹁うむ、卑猥だ﹂
﹁変態だ!! おまえら、変態ッ!!﹂
ヴィクトワールが乳房を隠しながら、黄色い悲鳴を上げていると、
扉を勢いよくブチ破る音が轟いた。吹き飛ばされた看守の男は、ド
アに頭を打ちつけてその場に崩れ落ちる。
それらを軽やかに飛び越えて一陣の風が舞い降りた。
甲冑姿の美女がはちみつ色の髪をなびかせ、歓喜の表情で駆け込
んで来た。
﹁クランド! 会いに来たぞ!! クランド⋮⋮!?﹂
甘えるように男の名を叫ぶその声の主は、誰であろうアルテミシ
アその人である。
後方からは、ネリーとルッジが息せき切って部屋に駆け込み、室
内の状況を見てたちまち凍りついた。
ポルディナは、胸を対面ガラスに押しつけながら、興味なさげに
チラリと後方を振り返るとすぐさま視線を蔵人に戻した。
さすがにハナは状況を理解したのか、そそくさと上着を胸元にか
けた。
﹁へー、へっくちょいっ!!﹂
あとには、全裸のままクシャミをする間抜けな全裸騎士の姿が場
違いに静寂をかき乱すだけであった。
1478
Lv92﹁五英傑﹂
サンクトゥス・ナイツ
果敢豪勇で知られる白十字騎士団の騎士アルテミシアも、さすが
に目の前の出来事を理解するのにいささかの時間を要した。
想像して欲しい。
ツテを頼ってなんとか愛する恋人に再会しようと苦慮したその先
に、上半身を露わにした女が奇妙な行動を取っていたとしたら。
アルテミシア、ネリー、ルッジの三人が呆然としてその場に佇立
していると、ひとりだけ全裸になっている女がそそくさと服を着は
じめた。
見たところ、喉元に装着しているのはかなりわかりにくいが奴隷
の証である首輪である。
着用する服から、彼女はおそらく蔵人の家で使っているメイドで
あろう。主が年若く美しいメイドに手を出すなどよくある話である。
︵ここで、取り乱すのは私の器量を疑われる。下女にまで嫉妬して
いたらキリがない。心を、落ち着けるのだ︶
アルテミシアは、いつもの冷静さを取り戻すと、なにごともなか
ったように取り繕って面会室の中央へと進んでいく。
途中、長い金髪の見目麗しいメイドと視線が合った。右の目元に
小さな泣きボクロがあり、涙に濡れた緑色の瞳はねっとりとした憂
いを帯びていた。
女性のアルテミシアが見ても、総毛立つような色気を感じる。本
能的に、恐怖感を感じて無意識のうちに歯噛みをしていた。釣鐘型
の豊満な乳房を両手で隠している。胸の谷間は羞恥でうっすらと桜
色に火照っている。女の顔面をかきむしってやりたい衝動に駆られ
ながら、努めて気にしない素振りをした。
﹁なんなのですか。あなたたちは﹂
1479
﹁⋮⋮っ!? それを、いうかっ﹂
対面台のガラスに乳房を押しつけていた亜人の少女がいぶかしげ
にいい放った。
なんの感情も感じられない平坦な声だ。
﹁それは、こっちのいう言葉ですよ。私たちは、とりあえずあなた
の主人とお話がしたいの。とりあえず、外に出ていてもらえないか
しら﹂
ネリーが亜人の少女に向かってたしなめるように声をかける。彼
女も、クランドに対し問い質したいことが山のようにあるが、我慢
して取り繕っているのがありありと見えた。
﹁いやです﹂
﹁んなっ!?﹂
亜人の少女は拒否の言葉を口にすると、再び蔵人の座っている方
へと顔を向けて、ネリーのことは一顧だにしなかった。メイド風情
にここまで無視されるとは思っていなかったのであろう。ネリーは、
口をぽかんと開けたままその場に凍りついていた。隣で見ていたル
ッジがさもおかしそうにくっ、と笑いをこらえているのが視界に入
る。
﹁なっ⋮⋮んなっ⋮⋮!﹂
アルテミシアは屈辱に打ち震えるネリーの真っ赤な顔を見ながら、
しばし溜飲を下げ、それから思い出したかのように自分の頬を指先
で撫でた。
︵こんなことで悦に入っている場合じゃない。早く、クランドと話
をしなければ︶
﹁そこのメイドよ。私は君の主と話をしたいのだ。悪いが、少し席
を外してもらえないだろうか﹂
アルテミシアは生まれつき温厚な性格であり、また好んで人との
争いを避ける傾向があった。譲れるものは片っ端から人に譲って、
たとえ自分が損をしようとも他人のよろこぶ顔が見れば、充分満足
感に浸れる特異な性格である。持って生まれた調整気質だ。人より
1480
もはるかに強い奉仕の精神を持っているし、感受性は豊かでちょっ
としたことでも涙ぐむような心根を持っていた。
だが、ことにここに至っては違った。
蔵人、という男に関しては誰にも譲ることができないのである。
彼は、アルテミシアが生まれてはじめて愛した男であり、最初で
最後の男である。
彼と自分の間を裂くものは徹底的に排除する。アルテミシアが眉
間にしわを寄せて亜人の少女を睨むと、彼女は対面台から飛び降り、
胸をそらして近づいてきた。見事なほど豊満な乳房である。アルテ
ミシアは胸の大きさに関しては誰にも負けない自信があったが、目
の前の少女の張り切った乳房を見ると強い対抗心が湧き上がってく
るのを感じた。
﹁なあ、席を外してくれないか﹂
﹁お断りします﹂
脳の血管が一気に何本か寸断されたような気がした。
アルテミシアは拳を水平に振るって対面台のガラスに叩きつけた。
硬質な音が鳴ったかと思うと、魔術かかって強度が増しているガ
ラスへと無数の亀裂が走った。ぱきん、と金属的な音が響き、術式
がほどけていく。
ひっ、と蔵人の声が聞こえた気がした。
﹁ご主人さま。いま、このわけのわからない連中を排除してから続
きを行います。しばし、ご猶予を﹂
﹁ポ、ポルディナちゃん。なにをするつもりなのかな﹂
﹁ご心配なさらず﹂
ポルディナはにっこりと蔵人のみに微笑んで見せると、再び氷の
ような表情でアルテミシアたちに向き直った。
﹁外してくれ﹂
﹁い、や、で、す﹂
ポルディナも負けじと拳を振るってガラスに叩きつける。衝撃は
部屋全体を揺らして、今度こそすべての部分が激しく四散した。ガ
1481
ラスは、まるでみぞれのように辺りに降り注ぐが両者は一向に動じ
ない。
ポルディナのしっぽは、警戒のためかぴーんと天を突き毛という
毛が逆だっている。ふっふっ、と荒い鼻息の音が耳朶を打った。
両者がにらみあいながら、徐々に間合いを詰めていく。その間隙
を縫って、後方から怒声が割りこんできた。ガラスの割る轟音を聞
きつけ、看守たちが駆けつけたのである。
﹁おまえらああっ!! なにをやってやがるううっ!!﹂
﹁ひっ! ガラスが。いったいどうやって﹂
﹁中止だ、面会は中止!! おまえたち、速やかに退出しろ! さ
あ、とっととするんだ﹂
﹁いったいなにをこの部屋でしていたんだ﹂
看守たちの言葉を無視して、ふたりは会話を続けている。命令す
ることに慣れてはいても、無視されることには我慢ならないベース
版のような四角い顔をした看守が、額に青筋を浮かべて地団駄を踏
んだ。
﹁ご主人さまの所望で、乳房をお見せしていたのです﹂
﹁む、胸をか。な、なぜ﹂
﹁私のこの身は髪の毛一本から血の一滴まで、すべて余すことなく
ご主人さまのものです。脱げと申されれば、脱ぎますし、その場に
這えといわれれば死ぬまで這い続けます。それが、奴隷としての道
なのです﹂
﹁そうか。うむ、おまえにもそれなりの信念に基づき行なっている
のだな﹂
﹁ふざけるなあああっ!! おまえらああっ、ここをどこだと思っ
ていやがるんだっ!!
泣く子も黙るシルバーヴィラゴ中央監獄だぞおおっ!!﹂
ベース版がポルディナの腕に触れる。
﹁私に触れるな。下郎が﹂
﹁あわびぇ!?﹂
1482
ポルディナはベース版の顔面へと疾風の速さで拳を突き入れた。
ベース版は後方の看守たちを残らず巻きこむと、壁にぶち当たって
血反吐をゴボゴボと吐き出した。
﹁あはー、やっちゃいましたねー﹂
﹁あ、あわわ﹂
ハナとヴィクトワールがそれぞれ驚きの表情を作り、伸びた看守
たちの山を見つめた。
ネリーとルッジは﹁マジかよ。こいつ⋮⋮﹂といいたげな表情で、
ひと仕事終えて満足気なポルディナの顔を見やった。
﹁おまえ、なにを考えている。看守に手を出すとは﹂
﹁やはり、最初からこうするべきでしたね﹂
アストロ・グリモワール
アルテミシアは即座に覚悟を決めると、剣を鞘ごと抜き放ち、残
ったガラスを柄頭で壊しはじめた。ルッジは星の魔道書を取り出し
て、大きくため息をついた。ネリーは腰から財布を取り出し中身を
数えはじめている。各々がこれからの行動に向けて思いを巡らせは
じめたとき、廊下からやけに落ち着いた上品な声が聞こえてきた。
﹁なにか絶対にやらかすと思っておりましたが、躊躇なく法を破る
とは。わたしもここまで思い切った行動に出るとはさすがに考えて
ギルドマスター
おりませんでしたわ﹂
﹁冒険者組合統括位委員長!!﹂
﹁ヴィクトリアさまっ!! その、これは!!﹂
アルテミシアがわたわたと両手を振って激しく動揺する先には、
レオパルドとラデクを引き連れたギルマスのヴィクトリアであった。
﹁アルテミシア。あなたが、どうしてもと懇願するから面会を特別
に許可してあげたのに。まさか、いきなり施設を破壊するとは、ね﹂
Sっ気のあるヴィクトリアは猫目をらんらんと釣り上げてジッと
瞳を覗き込んでくる。
小柄な彼女に押されるようにして、アルテミシアは一歩後ずさっ
た。
﹁いや、その、これは、もののはずみで﹂
1483
﹁ふーん。まあいいわ。いまはとにかくこんなくだらないことで、
やいのやいのといいあいをしている暇はありませんの。アルテミシ
ア。もし、その冒険者、クランドくんの釈放を要求するのであれば、
力を貸して欲しいの。頼めるかしら? ただ、命懸けの仕事になり
ますけど﹂
﹁やります。私は、クランドのためならなんでもやりますっ!!﹂
﹁私も、私もできることなら﹂
﹁ふう、ま。いちおう仲間だしねえ。ボクも協力するよ、手癖の悪
いリーダーにね﹂
アルテミシアは途端に元気になると、胸当てを叩いて快諾した。
負けじとネリーもぴっと右手を挙手し、最後にルッジが気だるげに
肩をすくめた。
﹁高貴なご身分の方とお見受けしました﹂
ポルディナは半裸のまま、ヴィクトリアの足下にかしづくと、目
を伏せて声をかける。
﹁あら﹂
﹁私は、ご主人さまの忠実な下僕、ポルディナ・ベル・ベーラと申
します。主の釈放のためなら、犬馬の労も厭いません﹂
ヴィクトリアは楽しげに、ポルディナの周りを歩き回ると、ジロ
ジロと身体を見聞している。どうやら、露出した身体つきから戦え
る筋肉かどうかを子細に点検しているようだった。
ウェアウ
﹁ふううん。クランドくん。あなた、中々忠実な奴隷をお持ちなの
ルフ
ね。それに、名前を聞いたところ、彼女、勇猛果敢で知られる戦狼
族のベーラ氏族。案外、使えそうね。わたし、有能な方に対しては
寛大でありましてよ。ラデク、釈放の手続きを︱︱!?﹂
いまにも鼻歌を歌いだしそうだったヴィクトリアの顔つきが、突
如として凍りついた。
一同の視線が彼女の軌跡を追う。そこには、明るい笑顔で手を振
っている、年若いメイドとその背中に隠れようとしているメイドの
姿があった。
1484
﹁ねえ、ひとつ教えてちょうだい。あの子づきのあなたが、どうし
てこんなところにいるのかしら、ねえ?﹂
﹁あはー、姫さま。ご無沙汰しております。二年ぶりですかねー﹂
﹁そんなことは聞いていないわ、ハナ。ねえ、たぶんありえない。
ありえないけど。そこにいるのは、もしかしてなくても、ヴィクト
ワール?﹂
﹁あっ、逃げた!?﹂
﹁捕まえて!! その子を捕まえてちょうだいっ!!﹂
ヴィクトワールは声がかかると同時に脱兎のごとく逃げ出した。
引きつるようなヴィクトリアの甲高い声。真っ先にその影に反応
したのは、抜群の身体能力を誇るポルディナであった。
﹁あうっ﹂
ラグビーのタックルよろしく、強烈なぶちかましを横合いから叩
きつける。ヴィクトワールは、押しつぶされたカエルのように全裸
のまま両手足を突き上げて、石畳の床へと四肢を伸ばして動かなく
なった。
表情を消したヴィクトリアがゆっくりと近づいていく。
独特の緊張感が辺りに漂いはじめた。
ゴリラのような体格をしたレオパルドは目を閉じたまま顔をそむ
けた。
﹁ねえ、久々の再会なのに、姉に対してその反応はどうなのかしら
? ヴィー?﹂
﹁うにゃああっ、姉さま。私は、あはは、別に、そのようなつもり
は一切﹂
﹁王国一の騎士になるまで帰らないといい張って、散々見合いをド
タキャンした挙句に、姉にたーっぷり面倒をかけておいて、挨拶も
なしに逃げるとは。人として、どうなのかしら?﹂
﹁にゅああっ。それは、姉さまが、姉さまがヴィーをいじめますか
ら悪いのですもの﹂
﹁ヴィクトワール。ここからは、もう逃げられないのよ。もちろん、
1485
わたしも含めてね﹂
疑問符を浮かべてベソ面になった妹をそのままに、彼女は立ち上
がった。アルテミシアは一転して厳しい顔つきになったヴィクトリ
アの顔を怪訝そうに見つめた。
﹁皆にもいっておきます。この城塞都市シルバーヴィラゴは、大挙
ギルド
して国境線を破ってきた、ステップエルフの大軍団に包囲されまし
た。その数、五十万。我が、伝統ある冒険者組合としては、特例規
則第十条に基づき、所属する組合員すべてに動員令を発動します。
それぞれの誇りと剣と魂に従い、ひとりでも多くの力を集まらんこ
とを、統括委員長として願ってやみません﹂
ダグラス将軍の初戦の敗北が、城側に与えた衝撃は、実は城将の
オレールが考えていたほど大きくはなかった。
まず第一に、ダグラスという武官は仲間内でも信望を得ていなか
ったことが挙げられた。
彼は常日頃から大言壮語を繰り返し、同僚からもどこか冷ややか
な目で見られている部分があった。
俺は違う、俺はやれる、と。
大口を叩くのは結構だが、いざ実際になってそれら虚偽の仮面が
剥がれると、人々は嵩にかかってダグラスを罵った。
一方、開戦前には盗賊崩れとやる気を見せなかった駐屯兵は、相
手が草原の蛮族と聞くと、怯えるどころか逆に奮い立ったのである。
彼らには、異民族イコール貧弱な装備や兵術と決めつけてかかる思
いこみが多々あった。要するに想像力も危機感も足りていなかった
のである。兵隊のほとんどは、領内の出身の農民たちを一定期間徴
募して体裁を整えているだけである。彼らは、法で定められた兵役
1486
を終えれば元通り帰農していく、いわば、﹁半農半士﹂であり、専
門の職業軍人とはいい難かった。彼らのほとんどは文字が読めず、
書けてもせいぜい名前がいいところであった。戦のない兵隊の士気
を常に一定に高めておくのは並大抵ではない。将校たちは彼らに自
信をつけさせるために、日常的に自分たち以外の亜人などで構成さ
れる異民族が、いかに臆病で弱い生き物かを無理矢理に刷り込んで
いた。そうでもしなければ、無知な農兵たちはたとえ敵が自分たち
と同じ百姓上がりでも、槍を取って戦うことなど出来ないだろうと
思い込んでいたのだった。
敵は弱い。
異民族は臆病だ。
かような刷りこみは実にうまく作用した。
また、農民上がりの彼らは、訓練時にピカピカに磨き上げられた
鋼鉄の鎧と槍を与えられ、格好だけは一人前以上に取り繕うことを
強要された。人間、上等なモノを着てすぐれた道具を持てば、誰し
も自分が一等の人間であると勘違いすることもしばしである。農兵
たちは、ロクな経験もないくせに、いつしか自分たちは無敵の軍隊
だと思いこむようになってしまったのだった。戦を望む声に現場の
将校たちは突き上げられ、下から押し上げられる形で第二回目の派
兵が決定した。将校たちは、雑兵たちと違って草原に住むエルフが
剽悍無比であることを充分知っていた。もっとも、ときとして雑草
は生い茂って花々を覆い尽くすこともある。雑兵の声は上を覆い尽
くし、隊を動かすことに成功したのであった。
チェスター将軍率いる二万の軍勢が、夜討ちを狙って城を出たの
はダグラス将軍が敗北した翌日の夜であった。ステップエルフの軍
も、早々に城攻めをするつもりはないらしく、日が落ちれば城から
はなれた場所へと本陣を移していた。お祭り気分で城を出た兵隊た
ちは戦う前から褒美の金をなにに使うか行軍中に話しあうていたら
くであった。このような質の低い軍を率いては、いかな名将である
とも勝つことは不可能であっただろう。
1487
事実、チェスター軍二万の夜討ちは、まるで敗戦のお手本のよう
な形で完膚無きまでに打ち崩されたのであった。
丘陵をこっそり移動して忍び寄っていた前陣に、襲いかかるステ
ップエルフたちの一糸乱れぬ動きは、針の穴を通すほどの正確さだ
った。
チェスター軍は、伸びきった陣を素早い騎兵の機動力を生かした
エルフたちの猛攻によってズタズタに分断され、助け合うこともで
きずに各個撃破された。
こうなってしまえば、農兵上がりで練度の低い雑兵が踏みとどま
って戦えるわけがない。
チェスター将軍は、平均水準よりやや上という程度であったが、
さすがに敵の動きをよく見ていた。あまり広くない丘陵地帯では、
襲い来るステップエルフの数はほとんど自軍と変わらない程度であ
ることを見抜いていたのだ。
彼はこまめに伝令を送って、いまだ自制を保つ兵をかき集めて朝
方まで奮戦したが、後続をいくらでも補充できる大軍とは最初から
勝負にならなかったのである。
彼は、誇りある死を選んで最後まで奮戦すると、文字通り近臣た
ちとともに敵陣に駆けこみ斬り死にをしたのであった。チェスター
将軍の捨て身の奮戦により、敗残兵たちの半分程度はなんとか城に
戻れたが、なんとも一日の会戦で万余の兵を失ってしまったのだっ
た。
いけるか? ぐらいの勢いで出兵を許可した城将オレールもさすがに此度の敗
戦で心が完全に折れた。折れ切った。亀の子のように城に引きこも
り、今度こそ息を潜めて固く城門を閉ざしたままになった。気持ち
もわからないではなかった。
たった、二日で一万二千近い将兵を失った城側に残された兵力は
四万を割っていたのだった。元々は法令で示されていた兵士の数は
十万と決まっていたが、長らくの太平の世に形骸化し、夏の間は休
1488
暇として、半数を領地に返すことが通例となって、領主もそれを黙
認していた。防備は必要だが、常に生産性のない十万近い将兵を篭
めておく経費は莫大なものである。これを半分に減らすとなると、
特に戦も起こらない領主にしてみれば願ったり叶ったりなのである。
ここで城側の兵力を総覧すると以下のようになる。
シルバーヴィラゴ常備軍、四万弱。
サンクトゥス・ナイツ
鳳凰騎士団、三千。
白十字騎士団五百。
合わせて、おおよそ四万三千五百である。
対するステップエルフの軍勢は少なく見積もって五十万を超える
大軍である。攻者三倍原則に基づけば、四万程度のシルバーヴィラ
ゴを落とすには、十二万ほどの兵力があれば充分にという計算にな
る。急遽市民から兵士を徴募しても使いものになるはずもなく、か
ギルド
えって足を引っ張るハメになりかねない。そうなると、即戦力にな
りそうな一万を超える冒険者を抱える冒険者組合には城将オレール
からも熱い期待が寄せられることとなった。
いまや、領主の娘であり、組合の統括委員長であるヴィクトリア・
ド・バルテルミーのか弱き双肩に戦局を左右する一端が担われるこ
ととなった。
ギルド
﹁うん。思っていたけど、やはり集まりが悪いようね⋮⋮﹂
ヴィクトリアは冒険者組合の地下に併設されている、ダンジョン
の空間を利用した大練兵場のひな壇に立ち、集結した冒険者たちの
数を目測でざっと測った。
多く見積もって、四千というところである。
﹁五千は固いと踏んでいたのに。予想以下ね。これは﹂
彼女はフン、と鼻を鳴らすと高い鼻梁を上げて辺りを睥睨した。
﹁集合せねば除名もありえると布告を促したのですが。申し訳ござ
いません、姫さま﹂
側近のラデクが実直な口調で詫びた。
﹁いいのよ。それで、例の五人は? 集まったかしら﹂
1489
﹁それが、この場に姿を見せているのは、
勇者
と
聖騎士
けで。職員の話によれば、残りの三者は、そのダンジョンに﹂
﹁この状態でも潜っているというの⋮⋮!!﹂
だ
ヴィクトリアは猫目を釣り上げると、親指の爪を神経質に噛みだ
した。爪を噛む行為も歴とした自傷行為である。彼女は、過剰なス
トレスに晒されると、ひたすら爪を噛みこむ癖があった。彼女が十
歳から数えて、十六年間も守り役を勤めていたラデクではあるが、
さすがに此度は注意をしなかった。
﹁なにが五英傑よ。いざというときは、なんの役にも立たないでっ
!! いったいどういうつもりなの? 城が落ちれば、のんきに潜
ギルド
りっこなんてしていられないと先刻承知のはず。まるで、理解でき
ないわ﹂
五英傑、とはその名の通り、冒険者組合に所属する最大規模を率
いた頂点に立つ五人のクランリーダーに与えられている称号である。
彼らに共通するのは、ダンジョンを攻略するという一点のみであり、
元々協調性は望めなかったが、そこはヴィクトリアも女性である。
彼らに対して、危機になれば力を合わせることができる。などとい
う幻想をいまだ抱いていたのだった。もっとも、それも儚いものに
狼王
聖騎士
勇者
パンプキン。
なってしまったが。
魔導大帝
ゴモリウス。
アレクセイ。
死霊使い
テオドール。
ブリジット・フォーチュン。
ブリジットを除けば、すべてが男性であり、全員がひとり残らず
異能の才を持つ飛び抜けた戦闘能力の持ち主であった。
﹁アレクセイの姿は見えないけど、さすがにブリジットはいるみた
いね。あの子にまで見限られたら、どうしようかと思うわよ。実際﹂
﹁彼女は義理堅いですから﹂
﹁当然です。わたしがこういうときのために、彼女のクランの後ろ
1490
盾になっているのだから。役に立ってくれなければ困ります⋮⋮!﹂
ヴィクトリアが基本的に頼みにしているのは、聖騎士の称号を持
聖騎士連合
というクランは、総
つ、ロムレス王国から正式認定されたブリジット・フォーチュンと
いう少女だった。彼女の率いる
勢五百人を超える最大規模のものであり、すべてが女性で構成され
たものであった。隊員は、全員紅の甲冑及び衣服を身にまとい、小
さな躑躅が咲き誇るかのように、冒険者の一角でひっそりと静まり
かえっていた。
ブリジットは十二歳のときに、王都の聖堂教会で神託を受けた昨
今珍しほどにまで教義を厳守する典型的なロムレス信者であった。
燃えるような赤い髪に、十文字槍を自在に扱う彼女は、四分の一が
勇者
アレクセイの
竜の血を受け継ぐ最強のドラゴンクォーターである。
対してこの場にいる、もうひとりの五英傑
クランはたった六人のこじんまりとしたパーティーであった。
彼は、隣国エトリアで認定された勇者であり、潜在能力は無限と
呼ばれていたが、いかんせんそれほど頭が良くなかった。
だが、特筆すべきは彼の連れている五人の仲間は、それぞれ一騎
当千の強者で、ひとりが万人に相当するといわれるほどであった。
﹁アレクセイは、少々オツムがよろしくありませんが。ま、使いど
ころはこちらで考えればいいだけのことですの。そして︱︱来たわ
ね、アルテミシア﹂
昨今、もっとも名を上げていたのが、聖女の呼び声高いアルテミ
シアであった。
黄金の狼というクランでは、副団長であったが、絶対不可能とい
われた邪竜王を打ち取る功を打ち立て、彼女の輿望は日増しに膨れ
上がっているのであった。現に、この瞬間も、彼女は周囲の冒険者
たちにもみくちゃにされながら、名前を連呼されている。ヴィクト
リアが見るところ、彼女の槍術や剣術は五英傑になんら引けを取る
ことはなかった。唯一、欠点があるとすれば。
男の趣味が悪いところ、かしら。
1491
ヴィクトリアには、彼女ほどの女性がなぜ、クランドという三流
サンクトゥス・ナイツ
以下の冒険者に固執するのが理解が出来なかった。聞くところによ
ると、彼女は現在も所属している白十字騎士団の団長アントワーヌ・
ボドワンの求愛を蹴ったそうである。
ヴィクトリアも知っているが、彼の見識や家柄、腕前や容姿や性
格は総じて一流をはるかにこえている。自分がアントワーヌに求婚
されたら、その場で頷く自信があるのだ。
惜しいことをする。ヴィクトリアがそう思っている間にも、アル
テミシアは人波の中で、蔵人が練兵場に到着するのを待ち望んでい
た。
︵おかしい、約束の時間に来ないなんて。なにかあったのだろうか︶
心配そうにうつむくアルテミシアの隣で、ルッジが本に目を走ら
せながら、なにやら思案している。
一方、その頃の蔵人といえば、いまだ組合の事務所に到達できず、
街中を銀馬車亭目がけて疾走していた。
蔵人は、牢獄から解放されたあと、一旦ポルディナたちを家に戻
した。
そして、レイシーやヒルダを安全な場所に逃がすため会いに行っ
ていたのであった。
最初に教会へ行ったのは正解だった。レイシーとヒルダは、難を
避けて堅牢な造りの教会に篭っていたのであった。ヴィクトリアの
提案で、ダンジョンの一部を解放し、そこへと逃げ場のない市民を
かくまうという布告を出していた。蔵人は教会にいればふたりは安
全だと思ったが、マルコの指示で辺りの市民を糾合したのち、ダン
ジョンの避難施設へ向かう予定になっているとのことだった。不安
げなふたりを振り切るようにして教会を出ると、自宅へとひた走る。
今日、明日にでも城が落ちるというわけではないが、このような混
乱自体、街が造られて以来、あり得なかった危機には違いなかった。
無意味に急き立てられる雰囲気に呑まれながら、わけもなく鼓動が
早くなる。
1492
もちろん、蔵人は戦争など知るはずがないし、それは街の人々も
同じであろう。
浮き足立つのは自然なことだった。
城壁へと登って、敵の軍勢をいちど見ておこうと思い立ち、進行
方向を変えたが、辻のあちこちは、兵士の手によって封鎖されてい
た。城門が破られたときのため、敵の進撃を防ぐ手段のひとつであ
る。殺気立った兵士たちは、血走った目で蔵人を睨みつけると、よ
く磨かれた槍の穂先を振り回し、わけもなく怒鳴り散らした。やむ
を得ず、元の進路に戻ると、人並みに押し流されるようにして、見
覚えのない道に来てしまっていた。
﹁おいおい。芋洗い必死だな、こりゃ﹂
街中の至るところ、指定された避難場所に向けて移動する人々の
群れで埋め尽くされていた。道路はすべて足の踏み場もない状況で
ある。血相を変えて移動する人々を横目で見ながら、蔵人はどこか
ひとごとのようにそれをジッと見入っていた。聞くところによると、
敵の異民族であるステップエルフの数は優に五十万を超えていると
いう。
﹁おおよそ、鳥取県の人間が丸ごと移動してくるようなもんだな。
恐るべし、鳥取﹂
蔵人が鳥取の名産に思いを馳せていると、裏の路地から甲高い叫
び声が聞こえてきた。
ひょいと、路地を覗き込む。その奥はうねった抜け道になってい
るが、大人がふたりようやく通れるかどうかという具合であった。
道行く避難民にはその声は聞こえない。
闊歩する足音の騒音でかき消されてしまうからだ。
﹁ふーむ﹂
蔵人が耳を澄ませていると、今度はかなりハッキリと助けを呼ぶ
声が聞こえた。
大方、このようなどさくさに紛れて婦女子を襲う不心得者が現れ
たのであろう。ただでさえ、物騒な世界であり、現在のようにはっ
1493
きり治安度が下がった状態では、なにが起ころうとも不思議はなか
った。最初は無視して姫屋敷に戻ろうと思いかけたのだが、先ほど
別れ際に見たレイシーの顔が目蓋に浮かび、やたらにチラついては
なれない。
﹁っと。たっく、仕方ねーな。民度の低いカスどもが。世話かけさ
せやがって﹂
激しく舌打ちをして細い路地に飛び込んだ。
やたらに曲がりくねった道をどん詰まりまで行くと、そこにはふ
たりの女を囲んでいる三人の若い男が飛びかかろうと距離を詰めて
いた。
﹁こっちもあんまりヒマじゃねーんだ。頼むから殺生させねえでく
れや﹂
蔵人が怒気をこめてつぶやくと、男たちはそろっていっせいに振
り向き、顔面を硬直させた。無手の男たちは、怯えたように蔵人の
腰の長剣を見てギョッとしていた。
なにも、命を賭けてまで女を抱きたいわけではないのがさいわい
した。
﹁こいつ、剣を持ってる!!﹂
﹁冒険者だぜ、たぶん﹂
﹁マジになんなよ﹂
彼らは、怯えながら蔵人を避けて、三叉路になった抜け道からバ
ラけて逃げていった。
﹁あの、助かりました︱︱!?﹂
腰砕けになって座りこむ、あきらかに娼婦らしい女を抱きかかえ
ていた少女がそろそろと立ちあがった。
彼女は、ひっ、と妙な声をもらすと、目深にかぶっていた羽帽子
を持ち上げて、瞳を大きく開いた。
﹁クランド⋮⋮!!﹂
そこには涙をためたまま顔を上げた、錬金術師メリアンデールの
姿があった。
1494
1495
Lv93﹁野戦﹂
蔵人とメリアンデールは、助けたてもらったお礼だと娼婦に気を
に顔を引きつらせながら辺りに
回され、なぜかその場の勢いで彼女の務める娼館の経営する近場の
宿で休憩することになった。
ヤリ部屋
︵うっわ、露骨な部屋ァ⋮⋮︶
蔵人はあからさまな
視線を動かした。調度品、ひとつとっても、妖しく艶めいた色合い
のものが取りそろえられている。このチープさこそが、性交のみを
目的とした部屋にのみ存在を許される独特なオーラを放っていた。
︵これは、この世界のゴムなのか?︶
枕元の机に置いてある小道具を引っ張って横に伸ばす。古代人は
避妊具に羊の腸を使っていたというが、いま手にしているモノの材
質は不明である。気まずげにゴムもどきを元の場所に置く。そっと、
視線を背後に向けた。
メリアンデールは寝台に腰かけ、うつむいたまま顔を上げようと
しない。それは、部屋の雰囲気に呑まれたわけではなく、純粋にど
う応じていいのかとまどっている様子だった。
蔵人は感覚の鈍い方だが、木石ではない。それどころか、人並み
以上の青年らしい強い感受性を持ち合わせていた。ダンジョン第七
階層で別れ際に放たれた言葉は、さすがの蔵人も少々こたえたのだ。
自分は人殺しだ。そんなことはいちいち否定するつもりもないし、
事実だ。メリアンデールに対する怒りは一片もない。
ただ、喧嘩別れした形になったふたりの仲をどうやって修復して
1496
いいのかわからないだけなのだ。久々に見るメリアンデールは、記
憶にある姿よりもはるかにやつれて見えた。
意を決して話しかける。
振り向いて近づくと、彼女がビクと身体を縮こませるのがわかっ
た。
﹁なあ、メリー﹂
﹁は、はいっ!﹂
﹁少し、痩せたか。その、メシはちゃんと食ってるのか? 調子悪
かったら、その、ちゃんと医者に行かなきゃダメだぞ﹂
﹁⋮⋮っ!!﹂
メリアンデールは、さっと両手で顔を隠すと、声を殺して泣き出
しはじめた。
これには、蔵人も心底たまげた。
寝台に歩み寄り、自然な動きで彼女の細い肩に手を置いた。
﹁どうした! どっか痛いのか!?﹂
﹁怒って、ないのですか﹂
﹁へ? いや﹂
﹁だって、私、ひどいこと、クランドにたくさんいったの。だから、
本当は謝りたかったけど。怖くて、勇気が出なくて。さっき、クラ
ンドが助けに来てくれたとき、すごくうれしかったのに﹂
﹁でも、あの女をどうして助けようとしたんだよ。おまえは。知り
合いでもなんでもないだろうが﹂
﹁だって。だって! クランドならきっとそうするって思いました
! もし、彼女を見捨てたら、私、私、もう、なにか、二度とクラ
ンドに会えないような気がしてっ⋮⋮!!﹂
蔵人は幼児のように両手で顔の涙をぬぐうメリアンデールの頭へ、
そっと手を置いた。
メリアンデールは、ぎゅっと目を強くつぶり身体を縮こませる。
やがて手のひらがやさしく動かされるのを感じとると、目を細めて
全身を弛緩させた。
1497
﹁なんで、こんなに⋮⋮﹂
﹁バカだな、おまえは﹂
﹁えっ﹂
﹁けど、本当にバカなのは俺だ。許してくれ、メリー。俺は、おま
えがそんなに苦しんでるだなんて、ちっとも思っちゃいなかったん
だ﹂
蔵人が正面からメリアンデールを抱きしめる。
彼女は自分をすっぽり覆う力強い腕の中が、夢ではなく真実だと
理解すると青い瞳を揺らしながら、堰を切ったように泣き声を上げ
た。
﹁あああああっ、だってぇ! だってえええっ!! 私っ、ぜった
いにいっ⋮⋮きらわれたとおもったんだもおんっ!! なんでっ⋮
⋮クランドっ⋮⋮やっぱりっ! やさしいよう!! あああっ⋮⋮
顔合わせたら、怒られるって思ってたぁああっ!! でも、でもで
も、でもおっ! もう、ダメなのぉおっ!! クランドに嫌われた
らぁっ、死んじゃうからっ!! 私、死んじゃうからねえっ!! ごめん、ごめんなさいいっ!! 許して、許してぇえっ!!﹂
﹁ああ。もお、ぜーっんぶ、許す。だから、泣くなや。な﹂
﹁ああっ、やさしっ⋮⋮好きっ⋮⋮好きなのおっ!! 大好きっ!
! 愛してるのよ、クランドっ!!﹂
メリーは泣きじゃくりながら全身の力を込めて、ぎゅっとしがみ
ついてくる。
蔵人は、彼女の背中をやさしく撫でながら、そっと顔を近づけ唇
を奪った。
彼女の細い肩を抱きしめながら、ベッドに倒れ込んだ。ほどけた
長い髪が頬をさわさわとくすぐった。花にも似た甘い香りが鼻腔を
くすぐる。抱きしめた彼女の身体は火の玉のように熱く静かに燃え
ているのを感じ、胸の鼓動が早まっていく。蔵人はそれ以上の細か
い思考を放棄して、ただ、彼女とひとつになることのみ集中した。
1498
蔵人は身体を寝台から起こして首を回した。重かった身体が軽く
なっている。
気持ちだけの問題ではない。身体的にも、ふれあいを持ったこと
によって、溜まっていた澱のようなものが排出されたのであった。
女を抱いたあとは、一服したくなるというが、幸か不幸か蔵人は
タバコをのまない。手持ち無沙汰になったまま、ぼうっとしている
と、腿の辺りにそっと手が乗せられた。メリアンデールである。彼
女は、先ほどの余韻さめやらぬ潤んだ瞳で見上げている。彼女の髪
をやさしく撫でると、くすぐったそうに目を細めた。
﹁クランド? どうかしたの?﹂
﹁あ、いや。いま、何時ぐらいだろうかなぁ、と。げっ!﹂
窓の外に視線をやると、日はすでに陰っていた。
立ち上がって窓際に行こうとすると、メリアンデールが繋いでい
た手を離したがらず、顔を振ってイヤイヤをした。
﹁ちょっと、外の様子を見るだけだから﹂
﹁私も見る﹂
ふたりは毛布を裸体に巻きつけながら、街の様子を見やった。
時刻は夕方であろうか、世界は恐ろしいほどの静寂に包まれてい
た。
いつもなら、この時間はそろそろ仕事を終えて家路に向かう職人
で溢れかえっているはずであるが、表の通りで目につくのは槍を抱
えて等間隔に立つ兵士だけだった。
殺伐としている。愛をかわしあった直後に見るのは、遠慮したい
光景である。
通りのあちこちには、赤々とかがり火が焚かれて、異様な雰囲気
を醸し出していた。路地の要所要所には砂袋が積み上げられ、陣地
1499
が構築されている。
目を凝らしてみると、それぞれには数十人単位の兵が篭められて
いるのだが、彼らはしわぶきひとつせず、じっと息を潜めていた。
メリアンデールは震えながら、ぎゅっと身体にしがみついてくる。
腰に腕を回して引き寄せキスをかわした。
﹁ねえ、クランド。この街、どうなっちゃうのかなぁ﹂
﹁まあ、なるようにしかならないだろう﹂
﹁うん、そうですね﹂
﹁案外と冷静なんだな⋮⋮﹂
﹁そんなことないです。でも﹂
﹁でも?﹂
﹁私、こうしてクランドとひとつになれたから。もう、思い残すこ
とないの。このまま、時間が止まってしまえばいいのに﹂
メリアンデールが、熱の篭った息を吐きながらいった。彼女は、
仔犬が母犬を慕うように、蔵人の広い胸に顔を埋めると頬を擦りつ
ける。ライトブラウンの髪をやさしく撫でると、彼女は甘えるよう
な素振りで脇腹を引っ掻いた。
﹁なんというか、無意味に遠回りをしちまったようだな﹂
﹁でも、これでずっといっしょに居られるよ。ね、クランド?﹂
﹁え?﹂
﹁え?﹂
﹁あ、ああ。そうだね、ずっといっしょだね﹂
﹁もお、なんでこういうときに、そんな冗談いうんですか。いくら
なんでもひどすぎです﹂
メリアンデールは頬をぷくっと膨らませたかと思えば、たちまち
目尻に涙を浮かべて抗議をはじめた。ぽかぽかと拳を振り上げ、胸
を叩いてくる。
ギルド
蔵人はそれをやんわりと受け止めると、とりあえずの方針として
冒険者組合に避難することと提案した。
蔵人が呼び出しをすっぽかして、メリアンデールとイチャイチャ
1500
している間に、城側では緊急会議が開かれたが、予想通りに紛糾し
た。
第一に、幕僚や街の有識者が集まる時刻に城将であるオレールが
大幅に遅参したのである。もちろん、彼は生来の気の弱さにより、
二回に渡っての野戦の大敗北により酒に逃げていたのである。彼は
議場の中央に腰掛けているのが精一杯であり、ロクに話も聞けぬま
ギルドマスター
ま議場を退出して人々の軽蔑を買った。
その後は領主の長女であり、冒険者組合統括位委員長と市会議員
を兼任するヴィクトリアが引き継ぐことになり会議は進められた。
作戦としては、王都からの援軍を待ちつつ篭城するということで
衆議は一決した。もっとも、この方針には重要な欠点があり、時間
をおかずそれは露呈した。
すなわち、百万の市民を三ヶ月は食わせられるはずの兵糧のほと
んどが金貨に替えられていたことであった。
城塞都市であるシルバーヴィラゴには、基本として篭城用の糧秣
が必ず半年分は蓄えられていると規定されてた。けれども、年月と
共にそれは形骸化し、オレールが統治するようになってからは備蓄
食料自体が無用なものと見なされていた。このような異民族の襲撃
など百年にいちどあるかないかの事変である。
オレールは利殖に聡い男であり、公のものである糧秣を金に換え
ては富豪や商人に貸つけ、その利を常習的に貪っていた。
ともかく、領主の弟である、という一点において、彼はこの街で
独裁者同然だった。
年に一度、王都から送られてくる監察官も、首謀者がオレールと
知れば表立って取り締まることもできず、田舎嫌いで知られるアン
ドリュー伯自身は領地に帰ることはほとんどなく、それらの私的利
用を面倒だという一点で一切咎めなかった。
﹁なんということだ、糧秣を横流しするとは﹂
﹁信じられん。ありえないね、まったく﹂
﹁わかっていて、籠城策を押したのか? 彼は本当に城将の責務を
1501
理解しているのか﹂
﹁本当に領主の弟か!? 都にことと次第を送って、是非にも法律
院の裁きを⋮⋮!﹂
ここぞとばかりにオレールを糾弾する幹部一同も、大半の人間が
おこぼれを頂戴していたはずであるが、ひとたびトップが高転びに
転ぶと、こぞって彼を責め抜いた。
ひとしきりオレールを糾弾して責任の所在を押しつけると、次に
槍玉に上がったのは、野戦で敗北したダグラス将軍であった。幹部
たちは、次の生贄はまだかとばかりに舌なめずりをして、メインデ
ッシュであるダグラスを待ち続けた。
けれども、肝心要の張本人は議場へと一向に現れる気配がなく、
まもなく人々は怪訝な顔でざわめきだした。たまらず、ひとりが唸
るように吠えた。
﹁ヴィクトリア殿! 肝心のもうひとりは、いつになったら姿を見
せるのかね﹂
﹁ダグラス将軍。彼は蛮族に降って首を斬られました﹂
苦虫を噛み潰したようにヴィクトリアが吐き捨てた。命からがら
兵士を見捨てて逃げ帰ったダグラスは、兵や将校たちの侮蔑に耐え
切れず、早朝城を出奔した。
結果として、クライアッド・カンの前陣に家族を引き連れ降伏し
てみたものの、名誉を重んじる王が許すはずもない。その場で一族
郎党、まとめて処刑されたのであった。怯懦を侮蔑し、蛮勇を貴ぶ
ステップエルフたちにしてみれば、城兵を見捨てて命乞いをした大
将になぞなんの価値もなかったのだった。
その結末を聞いた一同からはため息が漏れたが、それでもオレー
ル将軍に敗戦の責を追わせて追求の悪罵が耐えることはなかった。
もはやこれ以上の無意味さに耐えられなかったヴィクトリアは、会
議を途中で打ち切ると足早に議場を後にした。
﹁無意味!! 無意味!! 無意味!! なんという愚物でしょう
!! とてもこれでは城を守り切ることなどできそうもありません﹂
1502
ヴィクトリアは視察と称して夜気を引き裂いて馬を駆けさせ、城
壁を登って大地に広がる敵陣を見やった。
お供のラデクとレオパルドは、主の行動に慣れているのか無言の
ままつき従い影のように左右に侍っていた。
視界のはるか彼方には、無数のかがり火が海のように無限に広が
っている。
いかなる名将といえど、打ち破るのが難しい堅陣に思えた。
﹁父上、わたし、努力しましたのよ。でも、これほどの愚物ばかり
では、この城は守り通せそうにありませんの⋮⋮﹂
ヴィクトリアは幼く見えても今年で二十六を数えた。一度だけ嫁
したが、夫に先立たれ、それからは独り身を通し続けた。亡夫は頑
強な身体であったが、ちょっとした風邪から肺炎を起こして鬼籍に
入った。夫婦仲はよかったがとうとう子は生まれず、彼女はすべて
が自分の貧弱な体つきのせいかと己を責めた。薄い胸、細い腰、小
さな臀部は彼女にとって強いコンプレックスであり、嫌悪の象徴で
あった。
﹁これは、姫さま。このような、場所におりますとお身体に触りま
すぞ﹂
﹁バスチアン。わたしのことならお気になさらず。それよりも、あ
なたはすでに今年で七十を過ぎているはず。かような軍務はその身
に堪えましょう。自愛なさって﹂
﹁これはこれは、過分なお心遣い。けれども、この老骨。姫さまに
拾い上げてもらってから、とうにすべてを捧げておりまする。お気
になさらず﹂
﹁苦労をかけます﹂
ヴィクトリアは普段の苛烈な表情をゆるめると、祖父を見るよう
なやわらかい視線で老将を眺めた。
ギルド
バスチアン・ベルツは隣国エトリアから流れてきた、元傭兵であ
る。彼は三年前に冒険者組合の事務所前で倒れていたところを助け
られて以来、ヴィクトリアの口利きで叔父のオレールに武官として
1503
仕えていた異色の武将であった。
﹁ねえ、バスチアン。正直なあなたの胸の内を聞かせて欲しいの。
この、いくさ、勝てるかしら﹂
﹁さて、これまた難しい問題をサラッと尋ねてくれるもので。無理
だ、とは儂の口からはいえませんな。なんせ、これでメシを食うと
るわけでしての﹂
バスチアンは短く刈った白髪をゆらすと豪胆に笑い声をなびかせ
た。
、
崩壊
、
錯乱
、
背逆
、
弛緩
のすべてを見事に備
逃走
﹁だが、私見を述べさせてもらいますと、恐ろしいほどにこの城は
負ける条件がそろっていますな﹂
﹁聞かせてくれる?﹂
陥没
﹁組織が敗退する欠点を、六凶とすれば、城側は
、
えております。これでは、いかな名将といえども城を保つことはで
きませんでしょう﹂
﹁続けて﹂
﹁ひとつ、無策なまま少数で大軍にあたることを、逃走行為と申し
ます。これは、ダグラス将軍の負けを意味します。ふたつ、兵士の
勢いが強すぎて暴走を将校が止められない。これは、チェスター将
軍が兵卒の声に押し切られいくさに臨んだことで、弛緩状態と申し
ます。みっつ、近頃はふたつの敗戦で将校が無意味に下士官や兵に
辛くあたっております。これでは組織は萎縮し、兵士の士気は大き
く損なわれます。これを、陥没状態と申します。よっつ、幹部将校
が指導者に不満を持ちながら命令に服さず、各個突撃を行い敗れて
しまう。ダグラス将軍の配下は、彼を重んぜす、最終局面ではこの
形を取っております。これを、組織崩壊。そして、いつつめ。これ
は、先ほどの会議を見てもらえれば理解はできると思いますが、そ
の、指導者の資質にあたる点で⋮⋮﹂
﹁いいのです。取り繕わずとも。叔父は、人の上に立つ器ではござ
いません﹂
1504
﹁指導者の性格に問題があり、決断力に欠け、人々を従える威が備
わらずに士気が振るわないことを、錯乱状態と申します。そして、
さいごのむっつめは、将であるダグラスがオレール城将に心服せず、
勝手に蛮族に降ったことがら。城将は自分の聞き心地のよい言葉を
吐くものだけをそばに置き、街を憂うて諌言する実直の士を遠ざけ
ました。ダグラスも、あのまま城にいればただですまないと思った
からでしょうが、やはり責は指導者にあります。これを、背逆行為
と申します。以上の六点から、この城が落とされるのは時間の問題
でしょうな﹂
﹁バスチアン、あなたは籠城に反対なの?﹂
﹁いえ、援軍のないままの籠城ならば無意味といわざるを得ません
が、王都にはまだ少なくとも、三十万の精兵をそろえる地力が残っ
ております。そこまで、持ちこたえられるかどうかがカギになりま
しょう﹂
﹁ふうん。でも、その割には不満そうね﹂
﹁ただ、篭っておれば勝てるというわけでもありません。いまだか
ら、できるという策もありますな﹂
﹁バスチアン。もしかして、あなた⋮⋮﹂
老将は頬の古傷を撫でさすると野太い笑みを刻んで見せた。そこ
には確固たる自信と、経験に裏打ちされた技術の信頼が垣間見れた。
﹁ここは、ひとつ賭けてみませんかな。この、老いぼれの命に﹂
ヴィクトリアの独断で出兵を許されたバスチアンは、子飼いの精
ばい
兵千騎を率いて、払暁、城を出撃した。
ばい
﹁穂先には布を巻け。馬には狽噛ませよ﹂
狽とは、木片でできた皿のようなモノで、馬のいななきを抑える
1505
ものである。
隠密行動には絶対不可欠であった。
バスチアン自ら、この三年で鍛えに鍛えた精鋭である。兵士たち
は、機械のように正確な動きで隊列を組むと一糸乱れぬ動きで進軍
する。また、このような手馴れた動きは、バスチアン率いる一軍が、
故郷から呼び寄せた、いくさに手馴れた下士官が多数いたこともさ
いわいした。
さすがの、ステップエルフも二度の勝利に気分を良くし、全軍は
白河夜船であった。
また、五十万を超える大軍であったことも災いした。数が多けれ
ば、互いを頼みとし、自ずと緊張感は緩和される。人間は回りの雰
囲気に流されるいきものである。エルフとてそれは例外ではない。
夜襲などない。敵は城に篭ってブルっている。勝利は目前だと根拠
のない自信に己の五体が満ちたときこそ、もっとも危ないのである。
甲斐の名将武田信玄は六分七分の勝利を最上と位置づけた。完勝
すれば、いかなる上等な人間でも己を省みることが薄れるものだ。
勝ちすぎれば慢心を生み、それは次戦での死に繋がりかねない。常
に、己を足りぬと見て、自己修正を行い続けるのは不可能に近いも
のである。勝利と敗北は常に背中合わせである。この歴戦の老将は
そのことを肌身で知っていたのであった。
バスチアンは誰よりも城の周囲の地形を熟知しており、的確に斥
候を排除して敵陣に近づくと、持っていた油壺に火をつけていっせ
いに陣へと投げこんだ。警戒を解いていた陣営のあちこちからいっ
せいに火の手が上がる。
それが、奇襲のはじまりであった。
﹁裏切りだっ!! カノト族とブルーバリ族が裏切ったぞ!!﹂
バスチアンは、ステップエルフの訛りまで流暢に表現出来る部下
に叫ばせながら、陣を駆け巡った。
蛮族たちも、所詮は旧態然とした各部族の集合体である。
完璧な一枚岩ではなかった。
1506
バスチアンの兵は、ステップエルフの民族衣装に身を包みながら、
的確に敵を殺傷し、反乱を叫び続けた。人々は、血の匂いを嗅いで
火を見れば、本能的に怯えて凶暴性を発揮する。疑念が疑念を呼び、
至るところで同士打ちがはじまったのだった。折しも、東からの強
風が吹き荒れ、前陣のあらゆる場所に炎が燃え広がった。
﹁武具兵糧には残らず火を放て!! 声を高く、喉が避けるまで叫
べよ!!﹂
混乱は猖獗を極めて、事態の収拾に大王クライアッド・カンの実
弟であるエルブレドが乗り出すほどであった。
バスチアンたちが倒した兵自体は僅少であったが、炎と同士打ち
でエルフたちが失った兵力は万余を数えた。おびただしい糧秣を失
い、部族同士の疑念を晴らせない状態ではいくさどころではない。
まさか、数十万の陣営にたった千騎で乗り込んでいるとは、いか
な指揮官でも思いもよらないだろう。ありえない隙を逆手に取った、
奇策が針の穴を通すような危うさで成功したのであった。舐めるよ
うな火と、疑念というバケモノが波濤のようにステップエルフたち
をさらっていった。被害は極めて甚大であった。
ステップエルフの大軍勢では、勝手に領地の草原へ帰陣する部族
が多数出て、五十万を超えていた大兵は瞬く間にその数を減じ、一
気に三十万近くにまで減少したのであった。
一転して英雄となった老将バスチアンは、市民たちの歓呼の声に
迎えられ満面の笑みで帰還した。
同時にこれは、バスチアンの恐れていた十分の勝ちであった。
もっとも、大殊勲を挙げたバスチアンの表情にゆるみはない。
彼は、これから先が本当の戦いだと誰よりも、深く知っていたか
らである。
大地を吹き渡る初秋の風は、よりいっそう冷たさを増し、孤城を
嬲り続けていた。
1507
1508
Lv94﹁避難所﹂
夢見心地、とはいまの状態をいうのであろう。
メリアンデールは、男の腕に引かれるまま宿を立つと、天上の雲
を往く気分で夜の道を歩き続けた。
︵うれしいな、うれしいな。これで、クランドとずっといっしょに
居られる︶
﹁なんだよ、さっきからニヤニヤして﹂
﹁うふふ、なんでもなーい﹂
メリアンデールは、蔵人が片眉を上げるのを見るだけでわけもな
く気持ちが弾むのを抑えられなかった。
わけても、自分の処女を捧げた、いとしい男である。
ここ半月あまりの憂さがいっせいに晴れた気分だった。
無意味に抱きつくと、蔵人はバランスを崩して、あわわと叫び、
困ったように唇を前に突き出している。
﹁なになに? キス、かな﹂
﹁違うって。さっきもいっただろ。日も落ちたし、辺りはどんなや
つがいるかわからねぇ。兵隊だって殺気立ってるし、妙な動きをす
るなよな、もお﹂
﹁はーい。心得ました﹂
メリアンデールはおどけて帽子のふちに手刀を当てて敬礼を行っ
た。そういえば、宿を出るときに、避難場所がどうだ、ダンジョン
がどうだ、といっていたような気がする。
1509
︵あんまりふざけてるとクランドも気を悪くするよね。気をつけな
くちゃ、だね︶
﹁それで、私たちどこに向かってるんでしたっけ。えへへ﹂
ギルド
﹁はぁ。おまえってこんなに、人の話聞かないやつだったっけ? 冒険者組合だよ。ダンジョンの奥に、たくさんの避難民を受け入れ
る空洞があって、ギルマスがそこを開放したんだって。ほとんどの
市民がそこに集まってる。俺たちもそこに行くんだよ﹂
﹁ほへー﹂
愛する男と袂を分かって、世を儚んでいた頃は、己の命などはど
うでもよく思えたのだが、こうして想いが成就されてみると、途端
に強い欲が湧き出してくるものである。
恋しい人ともっと長くいたい。楽しい時間をともに過ごしたい。
そして、できうるならば、人並みに子をもうけ、愛し育てたい。
子宮に注がれた熱いほとばしりが全身を満たしていた。
﹁ねえ、クランド。街を囲んでる亜人たちって、そのたくさんいる
の?﹂
﹁んん? まあ、気にすんなよ。でーじょぶだって、ここはあんな
分厚い壁で囲まれてるんだし。それに、王都からは確実に援軍が来
る。確実にな⋮⋮﹂
蔵人の妙な自信には以前、ルッジから聞かされた話に基づいてい
た。
このシルバーヴィラゴから上がる税収は、アンドリュー州全域の
七十パーセントを超えるもので、ここが落とされるという事実は、
戦略的にも経済的にも王室に多大な損害を与えることは目に見えて
いた。
﹁王族や大貴族ってのは、ある意味メンツを自分の命より大事にす
る。よほどのことがなければ、落ちやしねえよ﹂
﹁うん、クランドがそういうなら、そうなんだろうね。きっと!﹂
﹁あのなぁ、いっててなんだが、もうちょっと疑ってもいいんです
よ、メリーさん﹂
1510
メリアンデールは、自分でも驚くほどに激しく左右に首を振ると、
否定の意思を見せた。
﹁私、クランドのこと、信じてますから﹂
﹁お、おう﹂
真っ直ぐに男の瞳を直視する。通りのかがり火に映し出された、
浅黒い顔がわずかに朱に染まったように見えた。
ときどきではあるが、蔵人は賛辞や信頼の言葉に対し、純真な少
年のように恥じらいを見せることがあった。黒い髪に黒い瞳は、赤
い炎に照らし出されなにやら神秘的だった。
︵かわいいなぁ、もおっ︶
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
もしも、もう一度目の前の男との別離が来たとしたら、自分は生
きていけないだろう。
﹁ねえ、そういえばさきほどは、どちらに連絡をしていたのですか﹂
﹁ああ、ちょっと家にな﹂
宿を出てすぐに蔵人は辻馬車を拾って伝言を頼んでいた。それが、
メリアンデールには少し気になったのだ。
︵クランドは独り身だし、家で使っている者になにか伝えることが
あったのですね。ダメだなぁ、こんなに根掘り葉掘り聞いてたら嫌
われちゃうかも。男の人、そういう束縛されるの嫌がるって、ルイ
ーゼさんがいってたし。がまん、がまん︶
﹁ふふっ。クランドの家ですか。これから、私も住むんですよねー。
あ! じゃあ、いま住んでる場所は、もういらないですね。お家賃
も二重にかかってしまいますしー﹂
メリアンデールは、ぽわぽわした頭の中で、ひたすらにふたりの
ギルド
これから暮らす新居を夢想し、甘い妄想に浸りきっていた。
﹁⋮⋮おい、ちゃんと歩けよ﹂
甘美な空想が終焉を告げたのは、冒険者組合に到着して現実を目
の当たりにしたからだった。バリケードで封鎖された入口から、三
時間ほど移動すると、迷宮への入口に近づいていく。いつもは閉鎖
1511
されている区画の扉を開けると、土でくり抜いただけのいかにも突
貫作業で急造したとわかる階段が続いていた。
﹁わあ⋮⋮﹂
﹁おお、こりゃ考えたな﹂
下りきった場所は、途方もなく広大な大空洞があった。雨も降ら
ず、風も吹かない。天候に一切左右されない地下というのは、絶好
の避難場所である。
﹁こりゃ、無限に収容できるんじゃないのか﹂
災害時の体育館よろしく、地べたには特殊なシートが引かれ、冷
気を軽減する処置がしてあった。市民たちは、そのシートの上に持
ってきた毛布を引き、家具を並べて露天さながらの、自室を再現し
ていた。もっとも、パーテーションはない。はるか天井に設置され
たマジックカンテラの光量では昼間のような視界は得られなかった
が、それぞれがロウソクなどを利用して足りない部分を補っている。
蔵人が、受付で手続きをしている間、メリアンデールは興味深げ
に辺りをきょときょと、と見回していた。すでに、大方の市民がこ
ちらの方に移っているらしい。ざわめきは、それほど大きくなく、
疲れきった人々はかなりの数が寝入っていた。
﹁えーと、ウチのモンが先に来てると思うんだけど﹂
﹁お待ちください。⋮⋮はい、組合員のクランド・シモンさんです
ね。この紙に記載された場所が与えられるスペースになります。人
員は、先に到着された方と合わせて、四名。えと、こちらの女性は﹂
﹁え? あ、えと、その﹂
メリアンデールが恥ずかしがって泡を食っていると、蔵人がさら
りと答えた。
﹁ああ、妻だ﹂
﹁はい。奥さまでいらっしゃいますね。消灯は、毎日夜の十時、点
灯は朝の七時となっております。消灯後はなるべく私語を控え、周
りの方々の迷惑にならないようにしてください。水と配給食は、朝
昼晩の三度となります。定刻に遅れた場合はさかのぼってお渡しす
1512
ることはできませんので、あらかじめご了承ください。受け取りど
きは、かならずこちらのカードをお見せください。なお、当組合員
には特別に毎日卵が三個ほどつきます。外から持ちこんだ飲食物の
調理は基本はオーケーですが、常に周りに配慮してください。調理
の際は、必ず指定された調理場で行ってください。なお、調理場及
び水場は数が限られておりますので、皆さんで譲り合って使用して
ください。トイレは、迷宮内を流れる河川を利用しています。河に
落ないよう気をつけてください。すべて自己責任です。籠城はどの
程度続くかわかりませんので、辛抱強くアンドリュー伯の勝利を願
っていてください。他に質問があれば、なにか?﹂
﹁つま、妻。私が⋮⋮?﹂
﹁えーと、奥さまの様子が﹂
﹁あ、気にしなくていいから。にしても、あいつら先に来てたのか。
ものっそい速度だな﹂
メリアンデールが気づくと、係員の説明は終了していた。
﹁⋮⋮は!? あ、あのお! クランド、私が妻っていうのはっ!﹂
﹁ああ。基本、家族以外は同じ場所で寝泊りできねーんだわ。おま
え、ほかに知りあいとかいねーだろ。あ、ルイーゼがいたか﹂
﹁いえ。ルイーゼさんは避難しないそうです。別に、誰が来ようが
どうでもいいって﹂
﹁あー、あの姉ちゃんならいいそうだわ。無理に引っ張ってくるわ
けにもいかねーしな﹂
とはいいつつも、あとで様子くらいは見に行ってやろうと考える
蔵人であった。
﹁その、クランドのおうちで使われてる人たちって、その男の人で
すかね。私、クランドがいないときうまくやれるかどうかが、心配
なのです﹂
﹁ああ。全員女だからだいじょーぶ﹂
﹁え﹂
﹁年頃も、そうだな。みんなメリーと同じくらいだから、仲良くや
1513
れるさ!﹂
﹁はっ!? はああっ! ちょっと、ちょっと待ってください。そ
れって﹂
﹁見えてきたあすこだ! おーい、みんなー来たよー!!﹂
メリアンデールは当惑しながら、蔵人の手を振る先に視線を置い
た。
はるか彼方の区画にいたメイドらしき人物は、飛び上がるやいな
やいきなり駆け出してきた。豆粒のような大きさの影がみるみるう
ちに近づいてくる。気持ち悪くなるくらいの猛スピードだった。
﹁はやっ!?﹂
﹁ご主人さまっ!!﹂
メイドは蔵人の胸の中へと飛びこむと、甘え切った声を出して顔
をこすりつけていた。
﹁おおっとお!! はえーな、ポルっ﹂
﹁ご主人さまあ!!﹂
﹁あ゛!?﹂
メリアンデールは、いましがた手を繋いでいた男に飛びついてき
たのが、自分と同じくらいの歳の亜人の少女だと理解すると、くぐ
もった声を出さずにはいられなかった。
︵若いし、それに、すっごい美人さんっ!? どういうことなのっ
!!︶
﹁ねえ、ちょっとクランド。こちらの方、どなたか紹介してくれま
せんこと﹂
﹁ああっ、こいつはポルディナ。ウチの奴隷でメイドだ﹂
﹁おはつにお目にかかります。私、ご主人さまの奴隷でポルディナ
と申します﹂
︵この娘っ。なんて目つきしてるのっ!︶
ポルディナの瞳。作り物のように冷ややかだった。
亜人の少女、ポルディナは先ほど蔵人に甘えかかった様子とは一
転して、人はここまで冷淡になれるのかと思うようなゾッとした声
1514
音で話しかけてくる。
整った目鼻立ち。
品のいい栗色の髪。
エプロンの上からわかるツンと突き出た豊満な乳房。
間違いない。
この子、私の敵認定。
﹁もう夜だぞ。まったく、ご近所の迷惑も考えずに騒ぎまくりおっ
て﹂
メリアンデールが、目前のポルディナと静かに死闘を開始しよう
とすると、もそもそと毛布の中から這い出てきた影があった。
︵うっ、このふたりもすごい美人さんだぁ︶
長身の美女は優雅ささえ漂う綺麗な金髪を腰まで伸ばしている。
目元の泣きボクロが異様にセクシーだった。小柄な少女もこれはこ
れで、整った愛くるしい目鼻立ちをしていた。
﹁とかなんとかいいながらー。お嬢さまったら、勇者さまが来るの
を、⋮⋮遅いなアイツ、とかいって恋しそうに待ち望んでいたじゃ
ありませんかー。あは﹂
﹁ば、バカハナ! 勝手に捏造するな、このバカ!!﹂
﹁バカバカいうほうがおばかさんなんですよー、ぶうぶう。お嬢さ
まー。ほらほら、ご近所さまが怖い顔でにらみつけてますよー﹂
﹁ああっ、申し訳ない。ついついコイツがはしゃいでしまって。年
若くしつけがなってなくて、あとでよくいって聞かせますので、な
にとぞっ﹂
﹁あはー。なにげに、またハナにぜーんぶひっかぶせちゃってぇ。
そういうお茶目なトコも大好きですう﹂
﹁ば、バカ。しーっ! しーっ!﹂
﹁えと、クランド。この方たちは﹂
﹁メイドだ﹂
﹁あはー、メイド二号ですっ﹂
﹁私はメイドじゃないからなっ﹂
1515
じゃあ、なんだというのだろうか。
メリアンデールはわけもなく、ムッときた。
﹁いうのは、まあ、どうでもよくて。金色のが、ヴィクトワール。
ちっこいのがハナだ﹂
ハナと呼ばれた少女は、初見のメリアンデールに対して愛想よく
振舞っていたが、ヴィクトワールという女の方はものすごくツンケ
ンした態度を取っていた。その上、自分の顔をあからさまに覗き込
むと、しきりに首をひねって眉間にシワを寄せていた。メリアンデ
ールの知識では、実家の下女の中には主に対してここまで無礼に振
舞うものはいなかったので、激しい違和感を拭えなかった。
﹁仲良くしてやってね、メリー﹂
﹁はあ﹂
メリアンデールが困惑しながらも再びポルディナの方へと向き直
る。
同時に、いつの間に近づいていたのか、ランタンを手に提げた甲
冑姿の騎士がすぐ側に立っていた。
﹁クランド⋮⋮! ダメではないか。約束の刻限を守らねば﹂
﹁あ、ワリーワリー。こっちもいろいろと忙しくてよ﹂
長身の騎士の発した声音ではじめてその人物が女性だとわかった。
なにしろ背丈が蔵人と向かい合ってほぼ同じくらいなのだ。
腰には気品あふれる白金造りの鞘の長剣を佩いていた。
﹁むうっ﹂
自然、女に対する警戒でメリアンデールの口がへの字になった。
彼女は、ダメだ、とたしなめているわりには、その声には妙な甘
みがあった。
女騎士は目庇を持ち上げるとキラキラした瞳で蔵人を見つめてい
る。
︵ちょっと。これ、なんなんですかっ。次から次へとっ!!︶
メリアンデールは、胸の中が激しくざわつくのを抑えられない。
問い詰めようと、前に出る。
1516
声を発するより先に、ポルディナがいい雰囲気の蔵人と女騎士の
間に割って入った。
﹁なんのつもりだっ!﹂
﹁声を落としてください。ここは、野中の一軒家ではありませんよ﹂
﹁⋮⋮うっ﹂
﹁まあ、アルテミシアをそんなにいじめんなよ﹂
蔵人がいうと、さっとポルディナは引き下がった。よほど悔しい
のか、アルテミシアという騎士は小刻みに肩を震わせていた。
﹁承知しました﹂
ポルディナはその場に躊躇なく跪くと、蔵人の足元から腰、胸か
ら首元までのチリを軽く濡らしたハンカチで拭った。
それから、母親が幼児の靴を脱がせるように、ブーツの紐を一本
一本解いて、足を清めはじめた。
﹁⋮⋮用件をどうぞ﹂
﹁おまえにいわれなくてもそうする﹂
アルテミシアは激しく舌打ちをしてから蔵人の背中に向かって言
葉を続けた。
﹁クランド。いろいろと聞きたいことがあるが、いまは非常時だ。
無念だが、預けおくぞ。もっとも、いずれケリはきっちりつけさせ
てもらうつもりだがな。ははは﹂
﹁ほほほ﹂
女騎士の笑いを虚ろな笑みで応じるメイド。メリアンデールが、
事態の推移についていけそうになくなり、軽い目眩を感じていると、
背後から年若い少女の声が聞こえた。
﹁あのー、とりあえず座りませんか。狭いとところですが﹂
﹁あ、はい。その、失礼します﹂
メリアンデールはメイドのハナにうながされて、切り分けられた
区画のシートに踏み入った。
﹁あ、やわらかい﹂
﹁でしょう。けっこう、値の張る絨毯引かせてもらっちゃいました。
1517
勇者さま、ええ、クランドさまですねー、彼はお金の払いがサッパ
リしてて、すごく男らしいんですよー。ハナ的には加点つけちゃい
ますレベルです﹂
﹁はあ﹂
メリアンデールがハナのまるで関係ない話に目を白黒させている
と、アルテミシアと蔵人の話が一応ついたらしいというのがわかっ
た。
ギルド
︵あ、私、話ぜんぜん聞いてなかったよう︶
﹁あー。あれですね。アルテミシアさんは冒険者組合では結構有望
株で、ギルマスのヴィクトリアさまのお気に入りなんですよー。と
いうことで、これから夜を徹しての防衛会議に出席するので、それ
を懇意にしてる勇者さまにお伝えに来たみたいですね。じゃ、ハナ
はこのへんで失礼しますが、あとはお頼み申しますねー﹂
﹁え? あ、はい﹂
﹁お嬢さま、ハナはこれで行きますが、あとはよろしくお願いしま
すね﹂
﹁うむ、しっかりやってこい。ってなにをだぁあっ!! なぜ、私
がここに残ってこいつの世話をせねばならんのだっ!!﹂
﹁ええ。だって、姫さまはお嬢さまのこと呼んでないみたいで﹂
﹁うそ、ねえ、うそだろう、それ﹂
﹁あはー、残念ながら事実のもよう﹂
メリアンデールがまったく話を理解できないうちに、アルテミシ
アとポルディナ、それになぜかメイドのハナは暗がりに消えていっ
た。避難区画に残されたのはこれで、蔵人とメリアンデール、それ
にヴィクトワールというメイドの三人になった。
﹁クランド、このメイドさんどうして落ちこんでいるの?﹂
﹁気にするな。会議に出席してお茶でも出したかったんじゃないの﹂
﹁⋮⋮そんなわけあるかぁ。ばかぁ﹂
﹁ほっとけ﹂
﹁はい。じゃなくて! あ、すいません。声絞りますね。あのっ、
1518
あのっ、亜人メイドさんとはどういう関係なんでしょうか﹂
﹁ああ、俺の奴隷だよ。なにか﹂
はしため
メリアンデールの中で、このとき激しく狡猾な計算が行われた。
貴族の家中でも、美しい婢に手を出す男はいくらでもいた。
︵現に、おとうさまもそういうことはなされていたし⋮⋮︶
相手が、下女。であるなあらば、まずもって自分の座は動かない
だろう。
それに、亜人が孕んだとしても、その子が家を継ぐことはなかっ
た。正妻の座は揺るがない。呑むべきである。蔵人があのメイドに
手を出しているという事実を。
メリアンデールが女として相手にするのは貴族階級のみ。その点、
あのアルテミシアという女騎士は、挙措動作からかなり貴い家系の
女だと推測された。
﹁わかりました。では、あのアルテミシアという女性は、なんなん
ですか﹂
﹁うん。あの女か? 酔狂にもこの男に惚れているおかしな女だ。
それくらい見てわからないのか﹂
﹁︱︱っ!?﹂
メリアンデールは一瞬で全身の血の気が引いた。
おそらくそうだろう、たぶんそうだろうと半ば外れることを祈り
ながら思考の外にどけておいた事柄が、目の前に突きつけられたの
である。
全身が冷たくなったかと思うと、こんどは喚き散らしたい衝動が
突き上げてくる。良家の子女として生まれ育ったメリアンデールは、
ここまで人目のある場所で泣き叫ぶことはできなかった。彼女に残
されたのは、自ら声を押し殺して、叫びを封ずることだけだった。
﹁おいっ、どうしたっ!! どうした、メリー!!﹂
﹁ばかっ、そんな大きな声を。どうしたのだっ﹂
﹁︱︱なんでもっ、なんでもないですからっ⋮⋮うっ﹂
メリアンデールは顔を伏せてその場にうずくまった。
1519
それから、途方もない恐怖感がこみ上げてくる。
︵私、また捨てられるのっ!? やだよっ、そんなの怖いよっ。ひ
とりぼっちなんて、そんなっ。そんなっ︶
両肩をつかまれメリーが顔を上げる。そこには、心配しきった蔵
人とヴィクトワールの困りきった顔があった。
﹁クランドぉ⋮⋮私、バチがあたっちゃったのかなぁ⋮⋮﹂
﹁おい、なんの話だ﹂
﹁あの、アルテミシアって方と⋮⋮いっしょになるんだよねぇ⋮⋮
へへ、ごめんなさい。⋮⋮私、勘違いしてたね⋮⋮ごめん、ごめん
なさい⋮⋮もう、帰る、帰るから⋮⋮﹂
﹁だからわからないって、なんの話だ﹂
﹁だってぇ⋮⋮クランドは、あの人といっしょになるんでしょう⋮
⋮えへへ⋮⋮そしたら、私、邪魔になっちゃう⋮⋮私、大好きなク
ランドの、重荷になりたくないよぉ⋮⋮﹂
﹁馬鹿なこというな!! もしかして、おまえ俺から逃げられると
思ってるのか?﹂
﹁そうだっ、それは大間違いだぞっ。おまえ、メリーとかいったか
? この男はしつこいからなっ。おまえが逃げても、地の果てまで
追っていくような男だからな。だから、えーとえーと、泣きやめっ。
すまぬ、おまえがなにを思っているか、私にはうまく理解できない
が。ともかく、こいつはそう簡単にモノにした女を手放すようなや
つではないぞっ!!﹂
慌てたヴィクトワールがなぜかいっしょになってフォローに入る。
基本的には気のいい女なのだ。
﹁じゃ、じゃあ。⋮⋮クランド、私のこと捨てたりしないのかな⋮
⋮﹂
﹁絶対に捨てたりしないっ!! おまえは、俺の家族じゃねえかっ
!!﹂
﹁ああ。そうだ、そうだぞ。私も、おまえの姉のようなものだ! なんでも、相談するんだ、このヴィクトワールにっ﹂
1520
﹁ほらっ、気つけ薬だ﹂
蔵人は手にした小瓶の中身を抱きかかえたメリアンデールに飲ま
せた。
次第に薬が効きはじめたのか、メリアンデールの意識は次第にぼ
やけて薄れていく。
﹁ヴィクトワール姉さま。えへへ、姉さまだ⋮⋮私に、家族が⋮⋮
ねえ、クランド。本当に私、いっしょにいていいのかな⋮⋮?﹂
﹁ああ。だって、俺。メリーのこと大好きだからなっ。俺と死ぬま
でいっしょにいろ!!﹂
メリアンデールは泣き笑いの表情を作ったまま、次第に意識を混
迷の淵へと落とし込んでいった。
﹁ふうっ、ようやくおとなしくなったな﹂
蔵人は額の汗をぐいと拭うと、大人しくなったメリアンデールを
毛布の上に横たえた。
﹁おい、クランド。おまえ一服盛っただろう﹂
蔵人は無言のままヴィクトワールを見つめると、なんの脈絡もな
く彼女の豊満な乳房に手を伸ばす。寸前で、手のひらをぺちんと叩
かれた。
﹁おいっ! いま、私になにをしようとした!! 無視するなっ、
答えろっ!!﹂
﹁気にするな。これは、緊急手段だ。さ、寝るべ﹂
﹁おまえは⋮⋮!!﹂
蔵人は毛布を引き出すとメリアンデールを真ん中にして左端に陣
取った。
﹁おや?﹂
1521
ハナが持ちこんだ毛布は長大である。なにかにつっかえたと思い、
毛布の中を覗きこむと、そこには眼鏡を外してくうくうと寝息を立
てているルッジの姿があった。
蔵人はルッジを毛布の中にもう一度押しこむと、なにもかも見な
かったことにした。
﹁クランド。おまえは、あれで解決したつもりではなかろうな。問
題を先送りにしただけだぞ。片っ端から女に手をつけて。おまえは、
不潔だ﹂
﹁そんなことないよー。少なくとも、俺はおまえよりはるかに風呂
に入っているわ﹂
蔵人は日本人の習慣として、よほどのことがない限り毎日風呂に
入っていたが、この世界では肩まで浸かる入浴は一般的ではなく、
二、三日に一回入ればいいほうだった。
﹁そのようなことをいっているわけでは!﹂
﹁だーかーら、とりあえず少し寝る。そうすれば、またなにかが動
き出してるかもしれんぞ﹂
﹁なにをわけのわからんことを。だいたいっ、私はおまえと同衾な
どしないっ。私が褥をともにする相手は、将来の旦那さまと決めて
おるのだ﹂
﹁あははは。じゃあ、俺が面倒見てやるから、ホラホラ寝るべーよ﹂
﹁まったく懲りていないな﹂
﹁あたりまえだ。いい女の膣に射精して、ひとりでも多く孕ませる
のが俺に課せられた天命だからな﹂
ヴィクトワールは排水口に溜まった沈殿物を見るような目をした。
蔵人もさすがにこれはちょっと傷ついた。
﹁種馬のような人生だな。それでいいのか?﹂
﹁いいに決まってるぞ、ボケ。みんなもっと自分に正直に生きたほ
うが楽しいぞ﹂
﹁だからなにげに私の胸を触ろうとするなっ。おまえは乳ばなれ出
来ない幼児かっ。世界が皆おまえのような男ばかりなら、きっと秩
1522
序という二文字は現存していないだろうな﹂
﹁といいつつ、肌を火照らせながら、未来の旦那さまの肉棒を待ち
望むヴィクトワールであった﹂
﹁またくだらんことばかり。とりあえず、私も寝るが、もし変な真
似をしたらもぐからな﹂
﹁もぎたてフルーツバナナ﹂
﹁死ね﹂
なんだかんだいってその晩は、ヴィクトワールもおとなしく寝た。
ひとつの毛布に四人くるまって眠る。
右端から、ヴィクトワール、メリアンデール、蔵人、そしていつ
の間にか区画に侵入していたルッジである。眠りにつく直前、同じ
場所にいるはずのレイシーとヒルダがいることを思い出したが、迷
っているうちに軽く意識を失ってしまった。
深更、尿意を覚えて一度起きたが、再び毛布に戻る際、むせ返る
ような女の匂いと熱に股間が激しく反応してしまった。
︵やべぇ、寝れねぇよう。まいったな︶
さすがに現在の状態でメリアンデールを揺り起こし、相手をさせ
るわけにはいかなかった。その程度の自制心は持ち合わせていたの
だ。悶々としながら、のたうちまわり、ついには熟睡するのを諦め
た。
早朝、気持ちの昂ぶりを抑えようとダンジョンを出る。街のあち
こちをウロウロしているうちに、話題の敵影をいちども見ていない
ことに気づいた。
日の出直前、蔵人はギンギンとした目を光らせ城壁に佇立してい
た。
1523
﹁⋮⋮寝れねぇ。フッ、朝日がまぶしいぜ﹂
蔵人は石原裕次郎のように渋くポージングを決めると、眼下の敵
陣に視線を送っていた。
世界は徐々に白んでその形を浮き彫りにしていく。
数を減じたといえど、三十万を超える大軍勢は途方もない威圧感
を備えていた。
﹁おい、おまえどこから登ってきたんだ。さっさと降りろ!﹂
﹁なんだよ、気分が壊れるな﹂
絶賛攻城戦中である。壁上に兵が配置されていないわけがなかっ
た。徹夜明けで過酷な緊張をしいられている兵士たちに余裕はない。
誰もが、消えかけたかがり火の前で、目を真っ赤に充血させて低く
うなっている。いまだ、お祭り気分で外を眺めている蔵人に業を煮
やしたのか、槍の先でつついてきた。
﹁いたっ。ちょっと、やめて。チクチクするから﹂
兵士たちは、カッペが! と激しく毒づきながら、辺りに痰を吐
き散らかしている。
軍務は過剰なストレスを生産する身体にやさしくない仕事である。
空気の読めない蔵人が悪かった。
﹁ちょっと眠気覚ましに朝の空気を楽しんでいたのに。ひどいやつ
らだ。ん?﹂
蔵人が大きく伸びをしていると、かすかな馬蹄の響きが聞こえて
きた。再び城壁の下に視線を落とすと、そこには一体の騎兵が弓の
弦を引き絞りこちらに狙いを定めていた。
﹁げっ! こっち狙ってやがる!!﹂
﹁なんだなんだっ﹂
﹁どうしたどうした!!﹂
蔵人が叫ぶと、動きのない監視に飽きた兵士たちがわらわらと集
まってきた。城門の下まで近づいたステップエルフの兵は、すかさ
ず、ひょうと矢を放つ。
﹁だああっ!! 射って来た!!﹂
1524
﹁バカ、よけろよけろ!!﹂
﹁俺を盾にするんじゃねえっ、俺はおまえらの隊長だぞっ!!﹂
﹁おがあちゃーん!!﹂
﹁ほっ!!﹂
蔵人が軽やかな動きで飛来する矢をつかみ取ると、周囲の兵士か
ら感嘆の声と拍手の波が沸き起こった。矢をよく見れば、先端に手
紙が巻きつけてある。矢文であった。
﹁貸せっ!!﹂
蔵人が鼻くそをほじくっていると、隊長格の兵士がそれを奪い取
りその場で読み出した。
﹁んで、なんて書いてあったん?﹂
﹁これは、降伏を促す書状だ⋮⋮﹂
塁壁を揺るがす驚嘆の声があちこちで上がった。
かくして、シルバーヴィラゴ攻城戦は新たな局面を迎えたのだっ
た。
1525
Lv95﹁カレン・ロコロコ﹂
薄ぼんやりと明滅する灯火の中で、長大な白いものが静かに左右
へと振れていた。
目を凝らしてみれば、それは男の身体の一部であると知れた。
﹁やられたな﹂
低くしわがれた声は重々しく、長年に渡って万人を従わせてきた
威風が備わっていた。
落ち着いた緑の衣を着た男は、長くつややかな白い顎ひげをしご
くと口元を歪めた。
当年とって七十四を数える巨躯の老人は、草原における五十四の
部族を一代でまとめあげた、偉大なる王者クライアッド・カンその
人であった。
彼は、母体である少数民族であったロコロコ族を、五十五年の歳
月と大小百余度の合戦を勝ち抜くことで、ステップエルフの頂点に
押し上げたのである。
王の眼光は炯々として力を失ってはいなかったが、深いシワの刻
まれた面には、憂悶の色がかすかに浮かんでいた。
足下にはひとりの大将が平蜘蛛のように伏していた。
此度の敗戦の将であり、先陣を務めたアジャルという男である。
彼は王の前で顔面蒼白になり、ただ裁きを待つのみであった。
﹁兄者、此度の責はアジャルのみにあらず。責めならば、この儂を
1526
裁いてくだされ﹂
アジャルをかばうように進み出たのは、王の実弟のエルブレド・
ロコロコである。
彼は、王の七つ下で、勇猛果敢で知られていたが、ときおり敵の
搦手の前で不覚を取ることもしばしだった。
﹁よいよい、勝敗は兵家の常。そのようなことをいちいち咎めてお
ったら、我が軍に将はのうなるわ﹂
﹁しかし、この兵の減りようはさすがに﹂
﹁五十万が三十万じゃからのう﹂
﹁誰も罪なしでは、旗色を保てぬわ﹂
控える十五人の長老連が口々に不平を述べた。
彼らのいうことはもっともである。
王の持つ兵も、所詮は諸部族の連合であり、すべてを無視して独
断するわけにはいかなかった。エルブレドとアジャルの顔が苦悶に
歪む。沈鬱な空気を取り去ったのは、若く猛々しい青年の声だった。
﹁よいではありませぬか、お歴々。むしろ、澱を取り除いたような
もの。これからは、真の精鋭のみで速やかにことを運べるとあらば、
不幸中のさいわいでしょう!!﹂
ざわめきはピタリと止まり、一同がその青年を注視した。
百九十を超える長身に、女かと見紛うほど整った顔つきが奇妙な
美を形作っている。
目にも鮮やかな緋色の外套に、黄金色の太刀を佩き、白銀の鎧を
着込んでいた。
長く艶やかな金髪は薄闇の中で星のように妖しく瞬いている。
バトルシーク・ロコロコ。
蒼の四将
と呼ばれる勇猛
王弟エルブレドの長子にして、王の甥にあたり、その輿望は衆を
抜きん出ていた。
次期、王の呼び声も名高い彼には、
な戦士が常につき従っていた。
すなわち、
1527
隻竜王、アンテロ。
双剣、カシュパル。
死神、ツチラト。
神の腕、イグナーツ。
の四人。さらに、副官で知恵袋の、
謀将フレーザー、である。
アンテロは、隻眼の大男で、彼の得意武器は巨大な戦斧。
カシュパルは、腹心の中で、もっとも年若く陽気なムードメーカ
ーであるが、二剣を自由自在に操る草原屈指の剣士で、その腕はバ
トルシークに迫るといわれている。
イグナーツは細身の優男で、パッと見はひ弱に見えるが、彼の槍
さばきは神技、と呼び声も高く、馬上の戦いでは一度も不覚を取っ
たことはない。バトルシークが彼を用いた合戦では必ず勝利を収め
ていた。
ツチラトは痩せこけて暗い目つきをした小男であるが、彼の弓の
腕は草原一であった。
合戦で彼に狙われ、助かった武将はひとりもいない。文字通り死
を運ぶ地獄の使者として恐れられていた。
いわずもがな、副官フレーザーはバトルシークの懐刀であり、大
軍を指揮しては変幻自在の妙味を見せる才器、であった。
この五人を引き連れて参上したバトルシークは、色素の薄い金色
の瞳で周囲を睥睨した。
長老連は一様に押し黙ると、若き戦士の機嫌を伺うように、媚び
た態度を露わにした。
﹁余もバトルシークのいいように一理ある。とかく、新参の兵たち
は当てにはならぬ。だがな、これ以上の無益な戦いは好むところで
はない。余は、シルバーヴィラゴに降伏の使者を送ろうと思う﹂
王の唐突な決定に一同が再びざわめきを出した。
目を覆うような敗戦のすぐ後である。城側は固い塁壁に守られ、
すぐさま攻め落とされるような作りではなかった。誰もが、無意味
1528
では、と憂慮の色を顔に表し、躊躇した。問題は、その降伏を促す
使者である。なかんずく、激昂した城兵に斬られる可能性が高い。
城に入れた間者からの情報によると、備蓄した兵糧は少なくとも、
兵士は五万近く篭められており、また、その膨大な市民から、十万
やそこらの壮丁はたちどころにかき集められるだろう。
つまるところ、栄誉ある使者の役割は無意味な死の確率が高いの
であった。
﹁さて、その使者についてなのだが﹂
王が言葉を続けた途端、長老たちはいっせいに話をピタリと止め
た。彼らが、直接使者に赴くことがあるはずもないが、自分が指名
されれば氏族からそれなりの地位のある者を指名せねばならない。
死の公算が高い役目に、一族の者を指名するのは彼らにしても気分
のよいものではなかった。
﹁余は、娘のカレンを使者に命じようと思う﹂
﹁おお⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁名案ですな。この栄誉ある大役、王族でなければ務まりますまい﹂
大王クライアッド・カンが指名したのは、三十八人いる娘の中で、
末子である。
誰もが安堵の表情を見せながら、反面皮肉げな顔つきで互いに目
線をかわしあっている。
勇将バトルシークは、王の隣に侍った実父であるエルブレドに視
線を送りながら小さくうなずいた。実直と剛健さのみが取り柄のエ
ルブレドは疲労の濃い、落ち窪んだ瞳で弱々しく追従笑いを浮かべ
てみせた。
まもなく、帷幄に王の娘である末子が招き入れられた。
作法通り、宰相より直々に勅が発せられた。彼女は、満面を喜悦
の色で彩りながら、謹んで王命を拝すると、余りある栄誉に身を打
ち震わせていた。
諸将の誰もが口にせずとも、その顔に浮かんでいるのは軽蔑に似
1529
た侮りの色である。
ハーフエルフ・プリンセス
栄誉ある降伏の使者に選ばれたのは、ロムレス王室から側妾とし
て送られた人間の母を持つ混じりモノの雑姫カレン・ロコロコであ
った。
﹁へえ、そんなことがあったんですか。頭、射抜かれなくてよかっ
たですねえ﹂
﹁おまえな。ナチュラルにあんま、怖いこというなよ﹂
蔵人は、避難所に戻ると、レイシーとヒルダに割り当てられた区
画に赴き、朝の茶会を楽しんでいた。
今朝方、城壁であった矢文の話をするとレイシーは強い怯えを見
せ、一方ヒルダは激しく興奮した。定められた起床時間までにはま
だ間があったが、避難民たちは続々と起きはじめ、朝の支度に取り
掛かっている。
すでに、降伏の話はもれ伝わっているのか、大人たちは暗い顔を
して囁きあっているが、対照的に子どもたちは元気そうに辺りを走
り回っていた。
﹁ねえ、お城は降伏するのかな?﹂
﹁いや、それはありえないだろう。バスチアンとかいう将軍は夜戦
でステップエルフたちにかなり痛手を食らわせた。だが、勝ってい
るいまなら有利な条件で和睦は出来ると思う﹂
﹁はー、和睦ですか﹂
﹁聞いたところ、この戦いの発端はエルフのお姫さまを殺害したと
ころにある。領主が度量を見せて、謝罪の使者と幾ばくかの弔慰金
を払えば、メンツを保てたエルフも兵を引くだろう。だが、たぶん
無理だろうな﹂
1530
﹁無理、なの?﹂
﹁ああ。えてして勝ってる側が頭を垂れることはまず考えない。聞
いたところによると城将のオレールはそこまでの人物じゃないらし
い。いま、実質城側の代表は領主の娘のロリっ子だが、さすがにあ
れでは貫目不足だろう。ほかの幹部はそうそう従わないだろうな﹂
﹁あたし、むずかしいことはわからないけど。すごいね、クランド。
やっぱり学があるんだ﹂
﹁よせよ﹂
レイシーは聞きかじりの推測論程度に賛辞の色を惜しまなかった。
蔵人は照れくさくなって押し黙る。静かにしていたヒルダが突如と
して大声を上げた。
﹁そんなことより今朝のデザート当てっこしましょ!!﹂
﹁あのな﹂
﹁ヒルダったら⋮⋮﹂
﹁あーバカにしてる。ふたりとも、私の的中率はけっこう高いんで
すよ!﹂
﹁いや、そうじゃなくてな。もういいよ﹂
ヒルダは、きゃっきゃっと黄色い声を上げながら、次から次へと
どうでもいい話題を並べ立てている。一方、レイシーは心細そうに
蔵人の隣に座ったまま、手を握りしめてはなれようとしなかった。
﹁どうして昨日来てくれなかったの?﹂
﹁うーん。俺も、こう見えてもいろいろ忙しいのですよ﹂
﹁あー、クランドさん。嘘ついてますう。勝手に城壁に登ったりし
て遊んでたくせに。でもでも。マジで危ないですよ﹂
﹁いや、遊んでいたわけじゃなくてですな﹂
﹁本当。ヒルダのいうとおりよ。もう、あんまり心配させないでよ﹂
レイシーは長いまつ毛をふるふる震わせながら寄り添ってくる。
肘の部分にやわらかな乳房が当たり、頬がゆるむのを止められない。
﹁あ、その顔! またえっちなこと考えてますね。本当にクランド
さんはしょうがないですねー﹂
1531
﹁え、そうなの?﹂
﹁ちが︱︱わないな。まあ、とりあえずそれは置いておいて。どう
だ、ふたりとも特に不便はないかな﹂
﹁不便っていわれても﹂
レイシーが座っている区画を見回す。辺りには、教会特権でヒル
ダが持ち込んだ、分不相応な調度品がズラリと並べられており、こ
こだけまるで貴族の部屋のように、周囲から浮き上がった存在にな
っていた。
﹁すごいでしょう! これだけ、運ばせるのは大変だったんですよ。
いやぁ、信者の方々は従順な、もといやさしい人が多くて助かりま
すー﹂
﹁おまえ、どこの王侯貴族だよ。寝てるときに刺されるぞ﹂
﹁ヒルダ。さすがにこれは、まずいんじゃないかなぁ﹂
レイシーは周りとの調和を気にして、きょときょと視線を動かし
ている。周囲の市民は平穏な日常から無理やり引き剥がされ、不自
由な避難生活をしいられているのだ。
だが、生まれもっての貴族令嬢であるヒルダには庶民の心の痛み
など気にも留めるわけがなかった。そのような点では、レイシーと
違い、彼女は骨の髄から上流階級出身純粋培養お嬢さまなのであっ
た。
﹁えー、大丈夫ですよ。心配ないない。さあさあ、朝食が来るまで
三人でボードゲームでもして遊びましょ﹂
﹁遊びましょ、じゃないでしょう!!﹂
﹁え?﹂
修学旅行気分で不自由さを楽しもうとしていた彼女を背後から怨
嗟の声が刺した。
﹁ヒールーダーっ!! アンタ、遊んでばっかいるんじゃないわよ
っ!!﹂
﹁んげっ! コルドゥラにイルゼっ!! なぜここにいらっしゃる
ですかっ﹂
1532
ヒルダの同僚である教会のシスター、コルドゥラが阿修羅のよう
な形相で背後に立っていた。
﹁ヒルダさん。お仕事、サボるの良くないですよ﹂
小柄なコルドゥラは徹夜の奉仕作業で疲弊しているのか、大きな
瞳の下に隈がうっすら浮いている。儚げなイルゼも体力を消耗し疲
弊しきっていた。
﹁アンタねーっ。場所取りだけして結局昨日は戻ってこないし! いつもは、まったく、完全無欠に、チリほどの、役に立たないんだ
から! こういうときくらい仕事なさいよっ!!﹂
﹁えーでもでも。私、奉仕されるのは好きなんですけどぉ、するの
はあんまり﹂
﹁ふざけんなッ!!﹂
コルドゥラの瞳が綺麗に三角に変化し、背後に不動明王らしきも
のが出現した。
﹁ひいっ、クランドさん。鬼がいるようっ﹂
﹁だれが鬼ですって、このへっぽここだぬきッ!! いいからつべ
こべいわず来なさい!﹂
﹁いたーいっ! やだっ、犯されるー﹂
﹁おいおい、ヒルダ。その辺にしとかんと、コルドゥラに八つ裂き
にされんぞ﹂
﹁するかっ!! クランドッ、あんたってやつはまた、余計なこと
を⋮⋮!﹂
コルドゥラの怒りの矛先が方向転換しそうになる。
蔵人はレイシーの背中にサッと隠れた。
﹁おいヒルダ。いいから、ここはしたがっとけ﹂
﹁えええ、ちょっとそれはぁ。私、基本ボランティアとか好きくな
いんですよねぇ。だるいしぃ、なんか疲れるしぃ。いまの気分はノ
レないっていう感じ?﹂
ヒルダはかわいこぶって尻をフリフリ左右に振って拒絶した。
﹁それって、自分の存在全否定じゃないですか﹂
1533
イルゼが疲れきった表情でため息をつく。
﹁えーでも、私がシスターやってるのって、なんかこの修道服が気
に入ってるだけで、特に作業奉仕とかはぁ、苦手なんですよ﹂
ヒルダはおバカ丸出しの発言をして、コルドゥラの怒りをあおっ
た。
﹁あ、バカ﹂
蔵人が予想したとおり、コルドゥラがブチキレた。
彼女は、蔵人を夜叉の生まれ変わりのような目で睨み牽制すると、
高々と吠えた。
走り回っていた子供がそれを直視して、火のついたように泣き出
した。
﹁んんもおおおおっ。あったま、きた!! アンタにゃこれから籠
城が終わるまで、不眠不休で作業させちゃるっ!! ほら、イルゼ
っ、そっちしっかりつかまえててっ!﹂
﹁ごめんなさい、ヒルダさん。でも、本当に人手が足りないのです
よ﹂
コルドゥラとイルゼはヒルダの左右に回って肩を決めると、ズル
ズルと強引に引っ張り出した。周囲の人々が、なにごとかと、この
珍妙な捕獲劇に視線を注ぎ出す。レイシーは恥ずかしさのあまり、
頬を真っ赤に染めてうつむいてしまった。
﹁えええっ! やだやだやだああっ、私っ、ここでクランドさんと
レイシーとまったりしてたいっ! するのおおおっ!!﹂
﹁そんな道理が通るわけないでしょうがあっ!! 炊き出し、負傷
兵の世話、緊急救護、ガキどもの世話、清掃、慰問、礼拝、それか
らそれからっ。ああ、もお! 教会には仕事が山ほどあんのよっ!
こらっ、キリキリ歩きなっ! ほらっ!!﹂
﹁助けてぇええっ。クランドさあーん!! さーらーわーれーるぅ
ううっ!!﹂
﹁頑張ってねー﹂
﹁はーくーじょうーものー﹂
1534
蔵人は、ハンカチをひらひらさせて送り出すと、レイシーの肩に
手を置いた。
﹁我々は凶悪なヒルダという存在をとうとう倒した。だが、安心す
るな。世界はこの地に第二、第三のヒルダを蘇らせ⋮⋮とりあえず、
外行ってみっか﹂
﹁え、いいのかな﹂
レイシーは蔵人のフリを無視した。かなりドライだ。
﹁いいんだよ。ちったあ、あいつにゃ奉仕というものを骨身に染み
させたほうがいい﹂
﹁クランドがいうかなぁ、それ﹂
レイシーは素早くかぶりもので頭部を覆うと、先に立ってその場
を逃げ出すように歩き出した。 蔵人は配給食受け取りカードをヴィクトワールに持たせているの
で、どちらにしてもレイシーたちといっしょに食料を受け取ること
はできなかった。ダンジョンを出て、街をうろつくと、予想通りい
くつかの飲食店は平時と変わらず営業を続けているものもあり、か
なり料金は割高であったが不都合はなかった。
レイシーとふたりで通りを散策する。あちこちに簡易的な砦はあ
り、兵士が屯しているにせよ、一日経ってある程度は市民たちも状
況を掴んだのか、街は落ち着きを取り戻していた。
ギルド
﹁あー、こうしてふたりでブラブラすんのも久しぶりじゃね﹂
﹁うん、そうだね。それでね、クランド。冒険者組合が冒険者を集
めていくさに駆り出すって聞いたけど、それってクランドは関係な
いよね。出ないよね﹂
﹁うーん。でも、実際いざってときには無視するわけにはいかんだ
ろう。除名されちゃうかもね﹂
﹁やだよ、あたし﹂
﹁レイシー?﹂
﹁ねえ、行くのやめてよ。戦争なんだよ。クランド、死んじゃうか
もしれないよう。やだよ、そんなの。やめてよ、ねえ? お城には
1535
たくさん兵隊さんがいるんでしょう。そんなのエライ貴族たちに任
せようよ、ね。ね﹂
﹁レイシー。もし、万が一城が落ちたりすれば、この街はどうなる
かわからんぞ。特に、相手は異民族の亜人だ。それに、遊牧民族は
おそらく、定住はしない。つまりは、ずっといるわけじゃないから、
その土地の民に手心を加える必要がないんだ。いくさに負けた城は
おそらく略奪陵辱の憂き目にあうし、そうなればお偉いさん方はそ
ろって知らんぷりを決めこむだろう。俺は、レイシーをそんな目に
合わせたくねぇ。だから、もしも最終的な呼集がかかったら、その
ときは覚悟してくれよ﹂
﹁クランド⋮⋮!﹂
レイシーは火のように火照った頬を、蔵人の胸にこすりつけると、
抱きついてきた。
街中であろうと構わない。蔵人は、レイシーを木陰に引き寄せる
と唇を合わせた。
﹁んっ⋮⋮んうっ﹂
そのまましばらく熱いキスをかわしながら抱き合っていると、街
路を走る人々の足音が大きく聞こえてきた。
﹁なんだァ?﹂
眉をしかめて道を見やる。誰もが興奮しきった顔で、西の城門に
向かって移動していた。
﹁おーい、早くしろ!! 間に合わなくなるぞっ!!﹂
﹁いましがた、蛮族どもの使者が西の城門から大通りに向かってる
そうだ!!﹂
﹁こっちが勝ってるってのに、なんともふざけた話じゃねぇか﹂
﹁俺たちにゃ、名将バスチアンさまがついていなさるんだっ。いく
らでもかかってこいってのよ!!﹂
﹁こいつはいっちょう拝んでやらにゃ、ロムレスっ子の名が廃るぜ
!!﹂
人々は口々に叫ぶと、土嚢を飛び越え、兵士を押し倒して奔流の
1536
ように駆けていく。蔵人はレイシーを引き連れて、大通りを目指し
た。
﹁もうちょっと前に行こう。手ェ放すなよ﹂
﹁うんっ﹂
どこにこれだけの人間が隠れていたのか、と思うほど多数の市民
が大通りの並木道に集まっていた。
﹁おらおら、どいたどいたーっ!! ととっ﹂
蔵人が人垣を掻き分けて最前列に躍り出ると、丁度目の前をステ
ップエルフの使者の一隊が通りすぎるところだった。左右を、ロム
レスの兵士が護衛に付き従っている。隊伍を組むその姿は、強い緊
張に覆われていた。
人々は、先頭をゆくひとりの年若いエルフの少女に目を奪われ、
感嘆のため息をついた。
シルバーブロンド
少女は、エルフ独特の長耳をピンと左右に張り出し、威風堂々と
騎乗していた。
流れるような美しい銀色の髪をツインテールに結い上げている。
瞳はパッチリと大きく、こちらも銀色に輝いていた。
気の強そうな顔つきで、薄く艶やかな唇は固く引き結ばれていた。
白を基調とした衣服をまとっている。
動きやすさを主眼に置いているのか、上は胸あてのみである。
白くなめらかな腹を丸出しにしていた。小さなヘソがチャーミン
グだった。
﹁あー、クランド。またえっちな顔してるっ﹂
﹁し、してないですよ。いたっ、つねんないでッ﹂
白くなめらかな太ももはムッチリと肉づきがいい。
驚くほど長い脚は、丈夫な白の編上げ靴を履き、ピカピカに磨き
上げられていた。
カレン・ロコロコ。
草原の王、クライアッド・カンの三十八番目の娘である。
彼女は、城側に降伏を勧めに来た使者の代表であった。今年で十
1537
五歳になる彼女は、父直々に今回の大役を振られ、よろこびに身を
打ち震わせて臨んだのであった。
﹁ほーっ。なんか、ボーカロイドっぽいエルフだなぁ﹂
﹁なに、それ﹂
蔵人はレイシーのツッコミを無視しながらさらに前へ出ようとす
ると、通りを警護していた兵士に槍を突きつけられた。
﹁これ以上近づくな!﹂
﹁なんだよー。つーか、罪のない一般市民にどうしてそのように凶
悪なモンを普通に突きつけんの? ちぇっ。って、オイ! あれ見
ろ!!﹂
﹁はああっ!?﹂
蔵人が指差すと同時に兵士の顔色が一気に青ざめた。
通りの反対側から、警護兵を突き飛ばしてふたりの男が疾走する。
狙いはひとつしかない。
肥馬にまたがった、使者のカレンに向かって真っ向から斬りかか
っていく。
﹁がああっ!﹂
﹁やめっ、ぎゃあっ!!﹂
男たちの剣の腕は中々のものだった。取り押さえようとする兵士
を瞬く間に斬り捨てると、たちまちカレンの足元に駆け寄ったのだ
った。
﹁なによ! このニンゲン風情がっ。あたしに手を出すつもりなの
っ!!﹂
﹁うるさい、獰猛極まりない虎狼の蛮族がっ。国士が斬り捨てて邪
を打ち払ってやるぞっ!!﹂
︵マズイな。降伏に関してはともかく、相手の使者を斬り捨てれば、
今後は交渉もクソもねぇ!!︶
蔵人は呆気にとられて微動だにしない兵士を突き倒す。
槍を取り上げ、振りかぶって投擲した。
穂先が流星のように放物線を描いた。
1538
同時に、剣を鞘ごと抜き払うと地を蹴って駆けだした。
﹁クランド!!﹂
レイシーの叫び声。蔵人は振り向く間もなく、槍が男の腰を貫く
のを確認すると、もうひとりの男に向かって飛びかかった。
﹁きゃあっ﹂
怯えた馬が棹立ちになる。蔵人はカレンが肥馬から振り落とされ
るのを片目で睨みながら、残ったひとりの後頭部に剣を鞘ごと叩き
つけた。
黒鉄造りの鞘は鉄棒同然である。
男は、血反吐を吐きながらその場に崩れ落ちる。
﹁くっそ!!﹂
蔵人は無理やり片足で急ブレーキをかけると、落下するエルフの
姫を横っ飛びで受け止めた。
﹁あ、れ。痛くない?﹂
﹁へへ、セーフ﹂
蔵人は抱きかかえたカレンに向かって不器用に微笑んでみせる。
はじめは状況を理解出来ていなかったようだが、彼女は自分が初
対面の男に無作法に抱きかかえられていると、顔を一気に紅潮させ、
平手を見舞った。
﹁は、れ?﹂
蔵人は思わず張られた頬を右手でさする。
勢い、抱えられていたカレンは地面に落ちて、んきゃっ、と悲鳴
を上げた。
﹁ぶ、無礼な!! あたしを、誰だと心得ているのっ。ニンゲン風
情が気安く触れられるような女じゃないんだからねっ!!﹂
﹁な、なんだとぉ﹂
蔵人がカレンに食ってかかろうとすると、背後からバラバラと無
数の兵士が折り重なって組み付いてきた。さすがの蔵人もこれを支
えることはできない。潰れた饅頭のようにみじめに地面へと這いつ
くばった。
1539
﹁おまえか、この襲撃の首謀者はっ!!﹂
﹁んなっ、違っ! ぜんぜん違︱うっ!﹂
﹁ちょ。ちょっと、ニンゲンども、アンタたちの目はフシアナなの
っ!?﹂
﹁確保。犯人確保しました! 分隊長殿っ!﹂
﹁よし。これから司令部に連行しろっ﹂
﹁聞きなさいよっ、もおおっ!!﹂
﹁予定通り使者の皆様を議場へお連れしろ。野次馬どもは追い払え
っ!!﹂
﹁おらー。散れっ、散れっ!!﹂
指示を受けた兵士たちは、速やかに道に連なる見物人たちを排除
にかかる。
﹁クランド! クランドっ!!﹂
あとに残るのは、連行されるクランドに追いすがろうと叫びつづ
けるレイシーの悲鳴だけであった。
日差しがおおよそ頭上に昇る頃、シルバーヴィラゴ防衛会議場で
はステップエルフ側の使者を迎える支度を整え終えて、あとは到着
を待つばかりとなっていた。
議場では、常時使用している長机を仕舞いこみ、上下の区別がつ
きにくい円卓を運びこんでいる。
昨晩から世を徹しての会議のすぐあとであった。論議好きのお歴
々たちもさすがにこれほどの長時間の話は堪えるのか、誰もが席に
座ったまま半ば夢の中でたゆたっていた。
その中でも、ヴィクトリアと先日の会戦で功を上げたバスチアン
将軍、それにオブザーバーとして背後に控えるアルテミシアだけは
1540
眠気を微塵も見せずに、平時の状態でときを待っていた。
﹁おそいわね。もう、とっくに到着していてもおかしくないのに。
ラデク﹂
いらただしげにヴィクトリアがつぶやくと、僧形の腹心は能面の
ような無表情さを保ちつつ答えた。
﹁はっ、それが少々トラブルがあったようで﹂
﹁隠さずに、お言い。どうせ老人たちは夢の中よ﹂
城側の諸将は、文武の大臣を問わず寝息を残らず立てていた。無
理もない。彼らの平均年齢は七十近い。先ほどヴィクトリアが気を
使って床を取るように勧めたのだが、誰もが歯を剥いて拒否し、そ
の結果が机の上で安らぐハメになっているのだった。
﹁それが、エルフたちの使者に襲いかかった暴漢がいたようで。す
ぐさま鎮圧されたようですが﹂
﹁それで! 使者にケガは!? どうなの!!﹂
ヴィクトリアの頭の中から眠気が一瞬で取り払われる。背後に控
えるアルテミシアの片眉がピクリと蠢いた。使者をこちらの不手際
で傷つけてしまえば、格好の餌を与えることになる。城側の狙いと
しては、降伏を受け入れるつもりもないが、さりとて表立ってやり
あう気配を露にするつもりもなかった。ダラダラと出来るだけ話を
引き伸ばせば伸ばすほどこちらには有利になるのだ。王都の援軍を
待つにしても、足りない兵糧を領地からかき集めるにしても猶予は
あればあるほどこちらの有利につながるのだ。
﹁いえ、さいわいにも随行員にケガ人は出なかったようで。せいぜ
い、エルフのお姫さまが、尻もちをついて手をすりむいたくらいで﹂
ヴィクトリアは長いまつ毛を伏せると、控えめな胸に手を置き、
ホッと息をつく。
﹁そのお姫さまって、例のお飾りの、クライアッド・カンの娘とか
?﹂
﹁ええ、カレン・ロコロコ。大王の多数いる娘のひとりだとか。や
はり、蛮族。交渉事には必ず血縁を混ぜてきますね。実質、我々が
1541
話し合いを行うのは、随行員の取りまとめをしているフレーザーと
いう男です。彼は、あの大王の甥で勇将バルトシークの懐刀だとい
うことです。お気をつけを﹂
﹁ふん。わかってるわ⋮⋮﹂
ヴィクトリアがつまらなそうに鼻を鳴らすと、扉の向こうに大き
な足音が多数迫ってきた。円卓の給仕をしていた、ポルディナが途
端に身構えた。一方、ハナは椅子に座ったままかわいらしい寝息を
立てていた。
ポルディナは、冒険者蔵人の釈放と引き換えに臨時で雇っている。
ヴィクトリアが見るところ彼女はなりの腕前である。
タダ同然で借り受けたにしては、中々に使えそうな盾であった。
ばん、と大きな音を立てて木製の扉が観音開きに左右へ動く。
開いた間口には、勝気そうな目をした美しいエルフの少女が立っ
ていた。
﹁カレン姫、そのような無作法は困ります。とても、交渉に臨まれ
る態度ではありませぬ﹂
﹁ああー。うるっさいわね。いいのよ、相手は所詮下等なニンゲン
なんだからっ﹂
この傍若無人な態度と、お付きの呼びかけから目の前の少女がエ
ルフの姫君だと誰もが一瞬で理解した。鼻ちょうちんをふくらませ
ていた文官が椅子からずり落ちる音を皮切りに、エルフの姫君の侍
女らしい女エルフが強く蔑みの視線をぶつけてくる。こちらも、姫
に劣らずかなりの美女である。身体にぴったりとした動きやすい草
原の民独特の衣装を身にまとい、腰に短弓とショートソードを提げ
ていた。
︵ああああっ、だから老人たちは引っこめておきたかったですのに
っ。かようなエルフ風情に侮りを受けるとは、バルテルミー一族の
恥辱ですのっ︶
ヴィクトリアは内心歯噛みしながら、それでも礼を失しないよう
に無理やり営業用の笑顔を取り繕って話しかけた。
1542
﹁これはこれは。ステップエルフにして、偉大なる大王クライアッ
ド・カンの息女、カレン・ロコロコさまとお見受けしました。私は、
アンドリュー伯の第一女にして、城将オレール公の代理でヴィクト
リア︱︱﹂
﹁ああ、もお。そういうのいいから。ちゃちゃっと話をはじめまし
ょう。苦手なのよね、ニンゲンのそういうくだらない前置き﹂
﹁︱︱っ!! ええ、確かにくだらない前置きでしたわね。とんだ
ご無礼を﹂
カレンは会って数十秒足らずで、ヴィクトリアの抹殺リストの上
位にノミネートされた。
﹁それで、開城はいつなの?﹂
カレンは円卓の空いた席に足を乗せると、白く長い太ももを露わ
にして訊ねた。
諸将たちは、目の前にチラつく若い女の足に視線を絡め取られて
いっせいに鼻の下を伸ばす。ヴィクトリアは、男どもの頬を片っ端
から張り倒したい気持ちを抑えながら、言葉の意味を聞き返した。
﹁その、私の聞き間違いかもしれませんですので、もう一度、言葉
の意味を⋮⋮﹂
﹁えー。もお、あんた鈍いわね。この城をいつ開くかってそれを聞
いてるのよ。バカじゃないのお、もう。ホンット使えないわね、ク
ズ﹂
クズ、の部分で頭の血管がまとめて断線した。テーブルシーツ下
の膝の上で、ハンカチを絞りながら、かろうじて飛びかかるのを我
慢する。背後から、レオパルドの、姫落ち着いて、という言葉に余
計に怒りをあおられた。
﹁ほ、ほほほ。カレンさま、少しお話の飛躍が過ぎましてよ。まだ、
私たちは降伏すると決めたわけではありませんので﹂
﹁えーっ。それじゃあ、時間の無駄じゃないの! わざわざあたし
が足を運んだっていうのにー。はぁっ。使えないわねぇ。じゃあ、
とにかく話をまとめておいてね。あとは、フレーザー。あんたに任
1543
せたから﹂
カレンは、自分の長耳の後ろでパンパンと手を叩いた。扉の向こ
う側から、折り目正しい民族衣装をキッチリ着こなした堅物そうな
男が近づいてくる。この男が、あの勇将バルトシークの知恵袋で若
き参謀で知られるフレーザーという男だろう。
だが、そんなことはどうでもいい。頭の中が怒りはちきれそうだ
った。
﹁あー、あと。そこのあんた。あたしを助けたニンゲンの男。なー
んか、間違って捕まえてるみたいだから、ちゃんと放してあげなさ
いね。それと、その間抜けなニンゲンの男。ちょっと聞きたいこと
があるから、あたしの部屋に来させて! そんじゃねっ﹂
カレンは鼻歌を歌いながら、去り際に﹁ちゃっちゃとしなさいよ、
グズ﹂といい捨てていった。
ヴィクトリアはカレンが部屋を出て行くと同時に、円卓を拳でお
もいきり殴りつけた。
フレーザーの細い瞳が驚きで見開かれる。
﹁ふっざけんな! 小娘がっ!!﹂
ヴィクトリアはとりあえず、変わったばかりの交渉相手の気勢を
削ぐことに成功したのだった。
1544
Lv96﹁ハーフエルフプリンセス﹂
蔵人は手首のいましめのあとを撫でさすると、警備兵を従えたヴ
ィクトリアを澱んだ瞳でジッとねめつけた。連日の拘禁はさすがに
参ったのか、恨みがましい瞳から彼女に対する猜疑の色が消えない。
彼女が猫撫で声で擦り寄ってくると、反射的に身体が距離を取っ
た。
ヴィクトリアがむうっと、不機嫌そうに上唇を噛んでいる。
拗ねた子供そのものだった。
﹁その、悪かったですわ。こちらとしても、細部まで目が行き届か
なくて﹂
﹁⋮⋮もおいい。そもそもが、トップのあんたが末端まで目を光ら
せて置くなんて不可能だろうし。忙しい中頭まで下げさせてこれ以
上どうこういうつもりもねーよ。そもそもただの、いち冒険者に権
力者のあんたがわざわざ頭を下げに来るのも不自然極まりないぜ﹂
﹁実は、あの後、少しだけ妹と話をしました。その結果︱︱﹂
﹁その結果。なんでぇ﹂
﹁まったく、あなたという人間像がわかりませんでしたわ﹂
﹁あらら﹂
﹁あの子は、勝手に家を飛び出して女だてらに騎士になってしまう
跳ねっ返りですが、娘時分から私のいうことはぜったいふくじゅ⋮
⋮もとい、よく聞く子でしたわ。それが、あなたのことになると、
言を左右にして徹底的に知らぬ存ぜぬですの。それにアルテミシア。
1545
私は彼女を買っています。竜退治の実績も然りですが、元々が五
英傑に迫るポテンシャルを持っているのです。見識も才もあり、少
々堅苦しすぎる彼女がなぜ、こういってはなんですが、十層以下の
攻略実績しかないあなたに入れ揚げる意味がわかりません。ふむ﹂
﹁なに、ディスってんの? あからさまに蔵人さんのことディスっ
てんの? そういうのやめてくんない? そういうの、女の子らし
く、本人のいないトイレとかの閉鎖的密室空間で仲間内とかに限っ
てキャッキャッうふふと噂する程度に留めてくんない?﹂
﹁ふむふむふむ﹂
﹁なんだよ。そう、ジロジロ人のツラぁ見るねい。ケツの穴が痒く
ならァ﹂ ヴィクトリアは腰に手を当てたまま、不思議そうに蔵人の面相を
子細に検討しだした。
﹁こういってはなんですが、あなたの顔はとてもではないが婦女子
の興味を引くようなものではありませぬ。浅黒く、眉は下品で、全
体的に粗野なものです。よくいえば野性的。悪くいえば野盗やゴロ
ツキの群れで見かける悪相ですの。もっとも、妹の殿方の趣向はよ
くわかりませんが﹂
﹁⋮⋮ほっとけよ﹂
﹁口が悪いのは、正直な部分だと思って許してくれませんか。その
代わり、私もあなたの前では、なるべく嘘偽りを申しませぬ﹂
﹁なるべくねぇ。いいよ、わかった。それに、あんたのいうことは
いちいちごもっともだ。その程度じゃ腹は立てねぇ﹂
﹁その前に、ひとつお願いがありますの聞いてくださいますか﹂
ヴィクトリアは猫のような瞳を潤ませながら、上目遣いで心細げ
な声を出した。
見かけは清純な少女そのものである。この手を使われて動揺しな
い男はいないだろう。
彼女のフェイバリットパターンであった。
﹁いってみろよ﹂
1546
﹁ヴィー、妹のことですの。彼女をどういう理由かは知りませんが、
あなたの家に置いていることは知っています。できれば、あの子を
そのまま傍に置いてあげてくれませんか﹂
﹁どういうことだ? 普通は姉なら、戻せ返せと騒ぎ立てるはずだ
ぜ。そんなこと気軽にいったらマズイことになっちゃいますぜ。ふ
ひひ﹂
﹁ご存知の通り、あの子は大事なところで抜けている部分がありま
す。いくら正義感や責任感が強く王族の傍で功績を上げようとも、
いつかは大ポカをやらかす可能性は危険すぎます。さらに、あなた
に腹を晒せば、いま父上も都では微妙な立場にあります。政敵は些
細なことで、自分以外の貴族の足を引っ張ってやろうか日々汲々と
しているのです。はっきりいえば、一族はプラスは必要としており
ません。マイナス要点だけ除ければよいのです。我がバルテルミー
一門にとってあの子の頑張りは、ヒビの入った器を振り回している
ようなものです﹂
﹁あのな、そんなに軽く妹の将来を足蹴にするようなことを。だい
たいが、よく知らねえ、なんども獄にぶちこまれるような男の傍ら
に妹を置いておいていいのか?﹂
﹁構いません﹂
﹁意味わかっていってるのか!? 俺はエロいことするっていって
るんだぜ!!﹂
﹁手を出すならお好きになさいな。むしろ、あなたの子でもできた
ら、ヴィーも騎士ごっこをやめてくれるかもしれない、と期待して
いるのですよ。仮定の話ですが、あなたが栄達を望むなら、ほどほ
どの身分なら差し上げられま︱︱﹂
﹁わかった。ヴィクトワールはとりあえず、家に置いておく。不確
定な未来の話はやめにしようや﹂
﹁ものわかりのいい殿方って好きですわ。それで、もののついでと
いってはなんですが、ひとつ頼まれてくれません?﹂
ヴィクトリアは警備兵を控え室から下がらせると、いたずらそう
1547
に猫目を光らせた。
それから、ちょこちょこ小股で駆け寄ってくると、小さなくちび
るを耳元に寄せてくる。
甘いシトラスに似た香りが鼻先をくすぐった。
蔵人は本能的に警戒色をやわらげると、腰を落としてかがんだ。
﹁んで、なんだよ。ついでの頼みごとってのは﹂
﹁あなたが助けたハーフエルフのお姫さまのことですの。名はカレ
ン。今朝方の件もありましてこちらとしても再発防止のため、すぐ
そばに護衛を配置するように進言したところ、彼女のおつきの侍女
がかなり猛反発しまして。ところがよくよく探ってみますと、お姫
さま自体はあなた自身にかなり興味を持っているみたいですの﹂
﹁つまりは、護衛のフリをして彼女にくっついて、スパイさながら
情報を引き出せと?﹂
﹁そこまで重く考えなくてもいいですわ。本物の護衛は腕利きをこ
ちらで用意させて見えない位置に配置します。ただ、排他的なステ
ップエルフが人間のしかも男に興味を持つなんて、ほとんどないこ
となんですの。むう。私にはわかりませんが、あなたはなにやら変
わった女性を強烈に惹きつけるなにかがあるみたいですわね﹂
﹁なんだそりゃ。褒めてんの、貶してんの?﹂
﹁ま。ま、ま。もちろんタダとはいいません。こちらとしても、機
密費からかなーり潤沢な資金を提供いたしますわ。あなたは、使者
が城から退去するまでテキトーに、かまって差し上げればいいだけ
ですの。こちらとしても、打てる手は残らず打っておきたいですか
ら。あとで、後悔することだけは、したくないのです﹂
蔵人は沈鬱な面持ちのヴィクトリアを前にしたまま、後ろ頭をガ
リガリとかじった。
ここまで乞われて敢えて拒否する理由もなかった。それに、ヴィ
クトリアの顔をよくよく見れば大きな目の下にはうっすら隈が縁取
り、顔色は不自然に赤らんでいる。疲れきった表情を隠すため、厚
目に化粧を施しているのがありありとしていた。
1548
︵とりあえず、小娘ひとりの相手をすればいいと考えれば、それほ
ど悪い話じゃねえか︶
蔵人は用件を承諾すると、すぐさまステップエルフの使者である
ギルド
カレン・ロコロコの滞在する部屋へと赴いた。
冒険者組合の事務所の一角に設えられた貴賓室の前には、完全武
装したエルフの兵がズラリと穂先を並べて佇立している。
蔵人が、エルフの隊長恪に領主側の印がある命令書を見せる。あ
らかじめ話がついてたのか潮が引くようにその場を残らず離れてい
った。彼らは一様に歪んだ蔑みを帯びた表情で、笑いを噛み殺しな
がらその場を去っていく。
﹁おいおい、残らず行っちまうのかよ。なあ﹂
蔵人の呼びかけ。ひとりの兵士が皮肉混じりに答えた。
﹁姫はその中だ。まあ、うまくやってくれ﹂
﹁⋮⋮マジかよ。ありえんの。こんなこと﹂
蔵人が呆然としていると、エルフ兵たちはひとりも残らずその場
から姿を消した。これは、とても一国の要人に対する態度ではない。
彼らの態度から、使者の姫君が尊崇を集めている重要人物ではない
ということが理解できた。
﹁これほど嫌われてるって、どんだけ困ったちゃんなんだよ。頼む
からほどほどにしてくれな﹂
暗澹たる思いで、部屋のノッカーを打ち鳴らす。
しばらく待ってみるがなんの反応もない。
﹁人を呼びつけておいて、不遜極まりない。これは、もうレッツ侵
入ってことでファイナルアンサーですな﹂
扉に耳を当てて中の様子を探ると、若い女がいい争う声が聞こえ
1549
てきた。
若い女↓争う↓なにやらムフフ。
蔵人の脳内を低レベルな連想が続けざまに連結されていく。
もしかしたら、中では怒涛のキャットファイトが行われており、
パンチラのひとつでも拝めるかもしれない。拝みたいな。拝ませろ。
奇妙な確信を抱きながら、期待に股間を膨らませて鼻息は自然、
荒くなった。
﹁お邪魔しますよー﹂
そっと扉を開いて中に入った。
豪奢な造作の部屋である。美術品に門外漢の蔵人からして、調度
品ひとつとってみても、贅をこらしてある一品だとわかった。
﹁どこもかしこもツヤツヤしとる﹂
部屋の中央ではふたりの若い女エルフが目を三角にして、いい争
いをしていた。
年若い方は、先ほど行列で見たカレンという名の姫君であろう。
もうひとりは、民族衣装を着こんだ二十過ぎのくらいのスレンダー
美女であった。蔵人の好みは、基準よりもややポチャ傾向がある。
最近自覚したのだった。痩せぎすよりはデブの方がマシだ。極論で
はあるが。
﹁姫さま、あれほど、申したではありませんか! かような態度を
取る使者がありましょうか! 姫さまの行動はそのまま、我が王の
評判に直結するのですよっ﹂
﹁ああ、もおおおっ。うるさいなあ。だいたい、最初に舐められな
いようにしろっていったのはルールーじゃないの。あたしの対応の
いったいどこに不手際があったっていうの? ふふん、まあ自画自
賛するのは好きじゃないけど、百点中百二十点ってところかしらね﹂
カレン姫は、豊かな乳房を前に突き出すと、ぶるんっと震わせた。
蔵人の視線。釘づけにならざるを得ない。スレンダー美女のシルエ
ットが対比して、少し物悲しかった。
1550
﹁なにが、ふふん、ですか。初見からあのような態度を見せれば、
普通に宣戦布告と受け取られても反論は微塵も出来ませんよ﹂
ルールーと呼ばれた︱おそらく侍女であろう︱女性がそういうと、
姫ぎみはたちまち顔色を真っ青にして慌てはじめた。
﹁えええっ。う、嘘! どどど、どうしよっ。あたし、どうすれば
いいの? いまから、あの小娘に謝ってくればいいのかな? ね、
ねねね。ねぇ、どうしよう、ルールー﹂
カレンは慌てふためいてオロオロしだすと、泣き出しそうに顔を
歪ませ、口をへの字にした。
﹁あれほど居丈高に出たあとで、いきなり卑屈になればそれこそ蔑
みを受けましょう。とにかく、細かい部分はフレーザーに任せれば
万事抜かりないと思われますが︱︱。誰だ!!﹂
ルールーは振り返りざまに、太ももに忍ばせた短剣を抜く手も見
せずに放った。
激しいふたつの光芒がキラリと輝いた。
刃は音も立てずに水平に走った。
﹁のわっ、ちょっ、はっ!﹂
蔵人は後方に飛び退きながら、投擲された短剣をかわした。
仕留めたと確信していたのだろう。予想を覆す動きにルールーは
一瞬あっけに取られて硬直する。それが蔵人の活路となったのだっ
た。彼女は、腰の半弓を構えると矢を引き絞った。流れるような隙
のない動きに思わず、ほぅ、と息を呑んだ。
﹁貴様!! さては姫のお命を狙った先刻の輩の仲間かっ!!﹂
カレン姫の侍女、ルールーは獰猛な野獣のようにまなじりを決し
てにじり寄ってきた。
猛り狂った表情は、我が子を守る野獣の母のように壮絶なものだ
った。
﹁違うぜ。おっぱいの残念なお姉ちゃん。むしろ、それらを守り育
てたい﹂
蔵人が場を和ませようと両手を前に突き出してワキワキさせる。
1551
だが、ルールーは眉ひとつ変えずに冷たく宣告した。
﹁死ね﹂
﹁あああっ、ちょっと待ってぇえっ!!﹂
﹁ひ、姫っ!?﹂
カレンは素晴らしい勢いで横合いからタックルをかますと、ルー
ルーを絨毯の上に押し倒した。
蔵人は、すかさず足元を蹴って跳躍した。
下手に距離を取れば格好の餌食である。
誤解を解く解かないは別にして、的にされるのは御免だった。
﹁くっ!?﹂
焦って放った矢をギリギリでかわす。
ルールーは半弓を投げつけるが、片手で楽々と弾いた。
﹁取った!!﹂
勝利を確信し、両手を突き出して踊りかかった。
ルールーは瞬時に起き上がると腰の双剣を引き抜く。
同時に蔵人が力技で白刃を素手で掴み取った。
鼻先がくっつく程の距離で顔を突き合わせる。
握った手のひらから血の糸が伝った。
﹁正気か? 私が剣を引けば、おまえの指はバラバラになるぞ﹂
﹁やってみろ。そしたら、チューしてやる。んうー﹂
蔵人がくちびるをタコのように突き出すと、ルールーは青ざめて
顔をそむけた。
﹁な、し、し、痴れ者めっ﹂
ルールーが動揺すると同時に白刃から手をはなす。刹那の動きで、
蔵人が勝った。
丼茶碗のような大きな手のひらがルールーの細い手首をすっぽり
掴んだ。
﹁しまっ︱︱﹂
﹁敵将! とらえたりーってか?﹂
こうなれば、力比べではまるで勝負になはならなかった。
1552
真っ赤な顔をして、満身の力をこめるルールーを鼻歌混じりで押
さえ込む。
﹁うーん。かわいいお手手でちゅねー。ちなみに、ボクちん、さっ
きまでチンコいじってました﹂
ルールーの顔が悲壮に青ざめる。蔵人の至福のひとときだった。
﹁は、離せっ!!﹂
﹁勝負ありだな﹂
組み合うふたりの真横でカレンが頭を掻きむしった。
﹁んもおおおっ。だから、そいつはあたしが呼んだ例のニンゲンだ
って! いいかげんにしなさーい!!﹂
﹁え?﹂
カレンが歯を剥き出して怒鳴ると、ルールーが惚けたような顔で
視線をさまよわせた。
﹁⋮⋮だから、そのニンゲンがさっき話してたあたしを助けた男な
の。あんた、ぜんぜん人の話聞かないわね。もう、いいわ。あたし
が、いいというまで控えの間で待ってなさい﹂
﹁しかし、私には姫の護衛が﹂
﹁いてもぜんっぜん役に立たないじゃん!﹂
ルールーの眉が八時二十分を示した。
﹁ですが﹂
﹁返事は!!﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ルールーは、長耳を気持ち下げると、しょぼくれた顔つきでノロ
ノロと部屋を後にしていく。叱られた猟犬の風情があった。扉をく
ぐる際に、恨みがましい目つきで睨んでくる。なまじ端正な顔つき
のせいか、異様な迫力があった。
﹁ふうっ。まったくルールーったら、あたしを子ども扱いばっかし
ちゃってさ。けど、お小言もこの騒ぎで終わったみたいだし。こっ
ちとしては、ラッキーね﹂
カレンは両腕を胸の前で組むと、ふふん、と得意げに小鼻を動か
1553
しながらつぶやいた。
豊かな両胸は腕によって押し上げられて、窮屈そうにプルプルと
震えている。
蔵人が乳袋って本当に実在したんだ、と感嘆していると、カレン
はいまはじめて存在に気づいたように、ハッとした表情で振り返っ
た。
﹁な、なによ! いるんなら、いるっていいなさいよっ。怖いじゃ
ないっ﹂
﹁いや、さっきからずっとここにいるんだが﹂
蔵人が話しかけると、カレンは素早く寝台の裏に隠れて、こちら
の様子を窺っている。
チラチラと視線をこちらに送りながらも、なぜか妙にモジモジと
しだした。
まるで、臆病なくせに好奇心の強い子猫のようだった
﹁ニンゲン。そう、本当にニンゲンなのよね。あたしを助けた⋮⋮。
ねえ、実はエルフが化けてたりとか、そーゆうことはないのかしら﹂
﹁ねえよ。ホラ、耳見ればわかるだろ﹂
﹁ほんと?﹂
﹁あーホントだとも、なんなら触ってみるか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
カレンはさっと寝台の裏から飛び出すと、ささっと蔵人の脇に近
寄って耳を軽くタッチすると、再び隠れるように寝台の裏へと逃げ
戻った。
﹁なあ、なんでそんなに怖がってたんだ。取って食ったりしやしね
えよ﹂
﹁うん。でも、あたし、ニンゲンの男の人と、こうしてふたりっき
りでお話するのはじめてだし﹂
﹁ああん。なんだ、恥ずかしがってんのか? かわいいとこあるじ
ゃねえか﹂
﹁んなっ!?﹂
1554
カレンはあっという間に顔をゆでダコのように真っ赤にすると、
寝台の上に飛び移り、ふんぞり返って足を組んで見せた。純白のシ
ョーツがチラリと見える。蔵人は目を細めて魅惑のトライアングル
に全神経を集中した。
﹁ば、ばばば、ばかじゃないの? あ、あたしがあんたみたいなニ
ンゲンごときに、恥かしがったり怯えたりするわけないじゃない!
! ふ、ふん。ちょっと、いまのはからかってみただけよ。あたし
は、あの偉大なる草原の王の娘なのよっ。ニンゲンの男なんか、そ
うねっ。いっつもとっかえひっかえして遊んでるんで、もう、慣れ
きって飽きちゃってるくらいなんだからねっ﹂
﹁ほー、これはこれは。ステップエルフの姫君は発展家でおじゃる
のう﹂
﹁はああっ!? なな、なんてこというのよっ。この無礼者っ。あ
たしは、清い身体なのよっ! そんないやらしいことしてるわけな
いじゃないっ。勝手に人を安く見積もらないでくれる?﹂
カレンは黄色い声を上げて枕をばふばふ叩いた。
細かなホコリが虚空にゆっくりと浮かび上がった。
﹁いや、いまのはおまえが勝手に自爆したんだろう﹂
﹁ああいえばこーいう! ホンット、ニンゲンってば、エルフの隙
につけ入るのが上手な生き物ねっ。卑怯で抜け目なくて、狡猾でッ。
みんながいったとおりだわ﹂
﹁おまえが相手じゃ、ニンゲンじゃなくても、たとえ小鳥程度の知
能でも上手くつけこめそうな気がするぞ﹂
﹁はああっ!? 小鳥さんが、どうやって口を利くっていうのよっ。
いくら、あたしが世間知らずでも、小鳥さんがおしゃべりしないっ
ていうくらい、知ってるんだからね! そう、これがエルフの奥深
い知恵ってやつよ﹂
またもや、ふふん、と自慢げに鼻を鳴らして人差し指をくるくる
と回している。
なんとも底の浅い知恵だった。
1555
﹁⋮⋮いや、まあ。いまのは比喩なんだが。そうか。あれ? 最近
の小鳥は品数改良で人語をしゃべるやつもいるんだぜ? さすが、
乳母日傘で育ったお姫さま。世間というものを知らんと見える﹂
﹁はあああっ! ば、バカにしないでよっ。そ、そーね。うん、知
ってるわよ。そーそー最近の小鳥さんは品種改良されて賢くなって
いるから、おしゃべりできるもんねっ。そのくらい知ってますから
っ。いちいち、いわれなくてもわかってますからぁ﹂
カレンは、ちょっと待ってというと、手帳を開いて寝台の脇にし
ゃがみこんだ。
蔵人が、そっと近づいて耳を澄ませると、羽ペンを動かしながら
﹁⋮⋮最近の、小鳥は⋮⋮おしゃべりが⋮⋮できる﹂などとつぶや
いて書きこみをしていた。
なんというか、途方もないピュアさを持っている姫君だった。
﹁んで、とにかくだな、俺は今日からおまえさんの護衛役になった
わけだ。それほど長い間じゃないだろうが、よろしくな﹂
蔵人は友好のあかしとして、右手を差し出した。カレンはジッと
その手を眺めていたかと思うと、ふんとそっぽを向いた。
﹁あんたが、あたしの護衛役? ま、この偉大なる草原の王の娘と
してはそんなものなくったってへいちゃらへい、なんだけど。どー
しても護衛したいっていうのなら、特別に考えてあげてもいいわよ
っ。ニンゲン!﹂
﹁クランドだ﹂
﹁え、なに?﹂
﹁俺の名前はクランドだ。その、ニンゲンって呼び方はやめてくれ
ないか﹂
﹁むーっ。ニンゲンのくせにあたしに口ごたえする気なのっ。生意
気! 生意気! なーまーいーきっ!﹂
カレンはぷりぷりしながら上目遣いで睨んでくるが、蔵人が一歩
前に出ると怯えたように距離を取った。
﹁生意気でもなんでもいい。ちゃんと呼べ﹂
1556
﹁いやだよっ! べっ、だ!!﹂
カレンは舌をイーっと出すと、再び寝台の裏に隠れ、蔵人の様子
を窺っている。
︵なんだ、こいつ。身体は大人だが、中身はまるっきりガキじゃね
えか⋮⋮︶
蔵人は暗澹たる思いで、寝台の端から顔だけを覗かせているエル
フの姫君を見やった。
確かに、カレン姫のプロポーションは抜群だった。エルフ種特有
の突き出た胸に、きゅっとくびれた腰。高い位置にある尻肉はバラ
ンスよく盛り上がり、惚れ惚れするほど美しかった。アジア人であ
る蔵人と比べることがおこがましいほど、スラリとした長い脚は、
ルッジのものに迫るほどであり非の打ち所がなかった。精巧な人形
のように整った顔貌は儚く繊細で、黙っていれば妖精そのものとい
った趣である。
﹁それも口を利かなきゃの話なんだがな﹂
﹁なに、なんか文句でもあるのっ﹂
カレンが喋ると、途端にその美が崩れ落ちていく気がした。
とにかく、知性を感じない言葉の使い方だった。
﹁んで、名前の方は呼びたくなければ別にいいよ。その代わり、こ
っちは好きに呼ばせてもらうぜ。カレン﹂
﹁ななななな、ダメっ。ダメダメっ。だだだ、誰があたしの名前を
呼んでいいって許可したかっ。無礼よ! あんた、おもいっきし無
礼なんだからねっ!﹂
﹁ふふふ。おまえが許可しようがしまいが、俺は相手の名前くらい
好きに呼ぶぜ。それとも、なんだ? さっきのおつきの怖いおねー
ちゃんでも呼んで、無理やり俺を矯正させてみるか? ん﹂
﹁それは、ダメよ。だって、ルールーが本気になったら、あんたを
殺しちゃうじゃない。ダメよ、そんなの﹂
﹁さっきのは本気じゃねぇのか﹂
﹁当たり前じゃない。そもそも、あたしたちエルフがニンゲン風情
1557
に負けるわけないじゃないの﹂
カレンは血相を変えて本気で蔵人のことを心配している。よほど
の箱入りなのか、無邪気さの塊といってもいい。体格や顔つきは玲
瓏な貴婦人のようだが、態度の幼さが異様なアンバランスだった。
﹁あのさ、ひとつ聞いていいか。そんなツレない態度取るっていう
んなら、そもそもどうして最初から護衛役が俺になるような気のあ
る素振りをヴィクトリアの前で取ったりしたんだよ﹂
﹁だって、あんた、ニンゲンのくせにあたしを助けてくれたし。そ
れに、あの女に聞いたら、あんたはギルドの冒険者っていう、最下
等の階級だっていうから⋮⋮あたしの護衛にしてあげたらきっと栄
誉だし、ゴミニンゲンもよろこぶかなって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんだ。おまえ、お礼のつもりで俺を気に入ったような素振
りを見せたのか。案外、義理堅いんだな﹂
カレンはうだったように顔全体を真っ赤にすると、威嚇する猫の
ようにカッと大口を開いて叫んだ。
﹁かかかか、勘違いしないでよねっ!! あんたなんて、これっぽ
っちも気にしてないんだからっ。あ、あんたの名前を出したのは、
あたしを助けた相手が間違いで処罰されたんじゃ、信賞必罰を旨と
する王族の誇りにかけて許せなかっただけなんだからねっ!﹂
﹁これは、さすがにテンプレ乙、といえよう。だが、こんなに騒い
でいいのか。またぞろ、あのうるさいスレンダー美人がギャンギャ
ン吠え立てに来るぞ﹂
﹁それはいやだわ。うーん、でも、この狭い部屋の中であんたみた
いなニンゲンといっしょに顔突き合わせておしゃべりするだけって
いうのも、退屈なのよね﹂
﹁あのな。俺はおまえの護衛であって、遊び相手じゃねぇぞ﹂
﹁うるっさいわねぇ。とにかく、今日からあたしの護衛役っていう
なら、命令にはすべて従ってもらうわよ﹂
﹁仕方ねえな。ただし、安全が最優先だぞ﹂
﹁つべこべいわずに、ちょっとこっち来なさい﹂
1558
カレンは蔵人を窓際まで引っ張っていくと、外を指し示して見せ
た。
どうやら、外の空気を吸いたいらしい。
﹁あのルールーってのに頼めばいいじゃねえか﹂
﹁⋮⋮もう、頼んだのよ﹂
カレンは眉をしかめると、かがんで頭髪を掻き分けてみせた。
そこには、確かに殴られた痕のような、うっすらとした赤いコブ
が出来ていた。
︵王族をブン殴るって、どういう侍女だよ。おっかねえ︶
カレンはちょっと涙目になりながら、ひどいでしょ、というよう
な目をした。
これには、さすがの蔵人も同意せざるを得ない。
というか、侍女なんだから放逐しろよ、と思わないでもない。
﹁さっきのお小言は危ないパターンだったわ﹂
カレンの長耳がひこひこと目の前で動く。先ほどのルールーに比
べて、気持ち、やや短い長さだ。蔵人の脳内で記憶がひとつの結論
を形作った。なんの気なしに口に出した。
﹁そういや、おまえのその耳。ハーフエルフだったんだな﹂
﹁⋮⋮!!﹂
カレンは鋭く身体を震わせると、焦点の合わない目線で蔵人を見
上げた。
印象的だった銀色の瞳が錆びたように澱んでいく。あまりの沈み
ように、たじろいだ。
﹁だから、なんだっていうのよ⋮⋮!﹂
思った通りの反応だった。
蔵人はエルフの村で過ごしたこともあり、同族でなければかなり
わかりにくい、ハーフの差異は注意深く見ればわかった。護衛たち
の蔑んだ視線の意味も、おざなりな警護の態度も、理由はすぐに呑
みこめた。
︵なんてこった。たとえ、相手が王族であっても、差別は変わらね
1559
えのかよ︶
もちろん、その想像は間違っていなかったが、現実ははるかに無
情だった。
王族は血の純潔を第一とし、混雑物を極度に嫌った。
文化や思想のある程度育った人間同士ですら、純潔を尊ぶあまり、
血を分けた兄妹や近親者で結ばれることなど普通だったのである。
とりわけ未開の草原では、種族の違うニンゲンとエルフの子は、
なおいっそう手酷い差別に晒されなければならなかったのだ。
﹁ぱくっ﹂
蔵人は無言のまま虚ろな顔のカレンに覆いかぶさるようにして、
その長耳に吸いついた。
﹁はひゃんっ!?﹂
エルフの長耳は性感帯のひとつである。急所を突かれたカレンは、
その場にへたりこむと小さな悲鳴を上げそうになるが、ルールーの
ことを思い出したのか、自分で自分の口を手のひらで塞いだ。襲う
側にしては安心極まりない設計である。
﹁ひゃっ、ひゃんっ!? な、なにするのよううっ﹂
﹁はみゅはみゅ﹂
﹁こ、こらっ、はむはむしないでっ。あっ⋮⋮んうっ⋮⋮こらっ、
ダメなんだからっ⋮⋮もおっ、ホントに⋮⋮らめぇっ⋮⋮﹂
カレンはその場に立っていられなくなりへたり込んだ。
震えるくちびるから流れる熱い吐息が手のひらにかかる。
蔵人はキュポンと長耳からくちびるをはなすと、無言で両手を組
んで見下ろした。
カレンはうるんだ瞳で訴えるように見上げてくる。桜色の唇がわ
なないていた。
呼吸が荒い。事後を思わせるような艶かさだ。
背筋が総毛立つ色気を感じ、一瞬、ギクリときた。
﹁な、なによ⋮⋮ねえ、なんとかいいなさいよ﹂
﹁エルフだろうがハーフだろうが、感じるところは同じなんだな﹂
1560
﹁は、はあっ!? あんた、そんなことを確かめるために、乙女の
大事な部分を⋮⋮!
こっ、このおおっ。⋮⋮でも、あたしハーフエルフなんだよ。こ
んなことして、楽しいの?﹂
﹁ああ、楽しいな。かわいらしい娘が悶える姿は、ハーフだろうが
なんだろうが関係ない!﹂
﹁⋮⋮はあっ。なんか、あんた相手にいろいろ考えるだけ無駄なよ
うな気がしてきたわ﹂
﹁そうだ。俺からしてみれば、等しく女である、ということ以外に
区別はない。それより、いいのか﹂
﹁なにがよ﹂
﹁ここからお外にコソーリ出かけんだろ? 早くしねえと、あのル
ールーって怖いのが入ってきちまうぜ﹂
カレンは泣き笑いのような表情で顔をクシャクシャにすると、最
後には笑顔でうんとうなづいたのであった。
﹁となれば、さっそく脱出ね! ほら、ノロノロしない。スピード
が命なんだからね。ほら見て! 準備は万端よ!﹂
カレンは窓ガラスを開けると、枠へとねじったカーテンを垂らし
た。どうやら、これを伝って下まで降りるつもりらしい。
﹁ここは、四階だぞ。強度は大丈夫か﹂
﹁なによ、男のくせに怖いのかしら﹂
﹁そんなわけねぇだろ。ただ、落ちておまえがぺちゃんこになった
ら回収しにくいなと思っただけだ﹂
﹁ふふん。あたしって、こういうのは得意なのよ。黙って後からつ
いて来なさいな﹂
カレンは窓枠に足をかけると華麗に反転し、するするとカーテン
を伝って降下していく。
﹁やれやれ。とんだおてんばですこと﹂
諦めて蔵人もそれに続く。重みで、縛り付けた枠が軋み、ヒヤリ
と脂汗が湧き出た。
1561
﹁とっと降りて来ないさよねー﹂
﹁そんなデカい声出したら丸聞こえだろうが⋮⋮﹂
﹁姫! 姫っ!? どこにおられるかっ。ああああっ、きっさま、
ニンゲン! 姫をかどわかすつもりだなっ!! よおおし、今行く
ぞ。そこを動くなっ﹂
﹁ああっ、なんでバレたのかしらっ!?﹂
﹁本気でいってそうなおまえの脳が怖いよ﹂
降下する蔵人とカレンを見つけたルールーが逃さじと続けて降り
てくる。そもそもが、人を釣るほどの耐久力はないものだ。みちみ
ちと、繊維が引き千切られる危険な音が聞こえてきた。
﹁ば、バカ! これ以上重量をかけんじゃねえ! カーテンが千切
れるだろうがっ!﹂
﹁はあああっ!? このニンゲンめっ。この私がおデブだとでも愚
弄する気かっ。私は痩せ型なのだっ! それだけは譲れんぞっ! 絶対にふんづかまえて、馬に吊るして引きずり回してやるから覚悟
しておけよっ﹂
﹁んなことされてたまるかよ﹂
﹁んきゃっ!﹂
﹁ちょっ、あぶねっ!﹂
蔵人がルールーといい争っていると、カレンの身体がふわりと宙
に浮かぶのが見えた。
ふたりのやりとりに気を取られて手を滑らせたのだ。
蔵人は咄嗟にカーテンから手をはなすと、垂直に急降下する。カ
レンを横抱きにしようと手を伸ばすと、彼女の口から詠唱の呪文が
エアロレビテーション
流れた。
﹁風力浮揚魔術!﹂
カレンが魔術を唱え終わると、足元に凩のような風がたちまち巻
き起こる。彼女は、二階ぐらいの高さで停止すると、驚いたように
顔を上げた。蔵人とルールーはもつれ合いながら落下すると、花壇
の土にぶつかって、なんとか停止した。
1562
﹁あのなぁ、そんな器用な真似が出来るんじゃ、落馬したときも使
えばよかっただろうが﹂
﹁ある程度距離がないと詠唱ができないのよ﹂
蔵人は膝についた土埃を払うと、ジト目でカレンを睨んだ。さす
がに頑健な身体である。咄嗟に落ちてきたルールーを抱きかかえた
まま肩から落ちても怪我ひとつしていなかった。ルールーは昏倒し
たまま、目を覚まさない。そっと彼女を横たえると、カレンがせっ
せと葉っぱやら枯れ草を上に乗せて偽装をはじめた。
﹁ふうっ。これで、とりあえずしばらくは自由の身ね﹂
﹁ちょっと彼女に同情するな﹂
﹁んじゃ、さっそくニンゲンの街を視察に出かけるわよっ﹂
蔵人は片手で昏倒しているルールーを拝むと、意気揚々と歩き出
すエルフの姫を追うのであった。
1563
Lv97﹁刺客﹂
ヴィクトリアは己の執務室に戻ると、侍女に運ばせた水で舌を湿
らせながら強くこめかみを揉んだ。後頭部に激しい鈍痛を感じはじ
めていた。
当然だ。
昨晩から一睡もしていない。
これから先は終わりの見えない長丁場が続く。それを考えれば、
このあたりで睡眠を取っておくのがベターな判断であろう。
けれども、神経が妙に高ぶって、とてもではないが眠れそうには
なかった。手にしていたアイボリーのグラスを机に置く。引き出し
から手鏡を取り出して己の顔を見た。あまりの憔悴の酷さにため息
が漏れた。
﹁とても人前に出せる顔ではありませんわ﹂
彼女の苦悩の一端は、カレン姫に変わったエルフ側の交渉相手、
フレーザーだった。
一見したところ、茫洋としていて切れ味鋭いというタイプではな
かった。
しかし、あにはからんや、この男には押しても突いても手応えの
ない無限の壁のようなものであった。話術を駆使するというタイプ
ではなく、言葉には騎馬民族独特の威圧感もない。その代わり、フ
レーザーという男には話しているうちに、牛歩の進みではあるが、
一歩づつにじり寄ってくる妙な空気があった。鈍重ながら重いのだ。
ヴィクトリアをはじめとする幹部たちの歯切れのよい言葉は、彼
の前ではすべて上滑りするように軽く感じられた。牛のような着実
な歩みは、次第に議場の空気を圧迫し、支配していく。侮っている
1564
うちにこちらは崖まで追い詰められ、気づいたときには海へと突き
落とされている。対峙していると、かようなマイナスなイメージを
夢想させる不気味さがあった。向かい合っているだけでこれほど気
力を削ぎ落とすような男に出会うのは、はじめて、であるといって
よかった。
﹁これならば、カレン姫の方が百倍御しやすかったわ﹂
エルフ側の要求はもちろん、城側の全面降伏である。当然のこと
ながらそんな要求は飲めないが、相手に席を立たせて遊戯盤の前に
戻らせることも避けなければなかった。
フレーザーは特に城側の非を鳴らすこともなく、淡々と降伏した
際の有利な条件だけを噛んで含めるように訥々と突きつけてくる。
気の短い幹部たちが襲いかかるのを押しとどめる方へと無意味に神
経を砕かなければならなかったことも、疲れに拍車をかけた。今日
一日は、使者との対話をどうにか引き伸ばすことに成功した。
だが、明日はわからない。
ひたすら苦痛であった。
﹁ああ、脳が煮えそう﹂
ヴィクトリアが机に顔を伏せて悶えていると、扉のドアをノック
する音が聞こえた。
うるさい。くだらない用事だったら、そいつを車輪の上にくくり
つけて大通りを端から端まで転がそう。転がしたい。絶対転がす。
決定。
破壊的願望が螺旋のように脳裏を旋回する。気づかぬうちに笑み
を浮かべていた自分に気づき、少し恐怖を感じた。大きく深呼吸を
して気を落ち着かせる。まだ壊れるわけにはいかない。
﹁お入りなさい﹂
﹁失礼します﹂
僧服の近臣ラデクである。
ヴィクトリアは椅子に身体を預けると、そり返ったまま応対した。
﹁今度はなんですの﹂
1565
﹁逃げました﹂
﹁なんの話ですの﹂
﹁護衛の冒険者がカレン姫を連れて貴賓室から姿を消したそうです﹂
ヴィクトリアは夜叉のような表情で、全身から激しい殺気を放射
し、不快げに机を叩いた。ラデクは片眉を僅かに動かすことだけで、
端的に同意を示した。
戦時の街にカレンの期待したような面白いものはなかった。シル
バーヴィラゴに亜人が住んでいないわけではないが、それでも人々
はエルフの特徴的な長耳を見れば、恐れ、忌避した。土嚢を幾重に
も積み重ねた街路を漫然と歩いても、向けられるのは人々の猜疑の
ギルド
目と兵士たちの誰何の声である。七度目に身元確認のため、蔵人が
冒険者組合の身分証を兵士に提示したとき、カレンの鬱屈は爆発し
た。彼女は、顔を膨らませながら肩をぐいぐい無言で押してきた。
無理もない。蔵人ひとりならともかく、どこの飲食店もエルフを用
心して受け入れないのだ。三時間近く歩き詰めで、水の一杯も口に
入らない。箱入り娘の我慢できる状態ではなかった。
﹁ねえ。喉が渇いたわ﹂
﹁そらよ﹂
蔵人は腰に提げていた水筒を放り投げる。カレンは、蓋を開けて
眉をしかめながら、顔を近づけ小鼻をうさぎのようにヒクヒク蠢か
せた。目をつぶって中身を飲み込む。たちまち、手で口元を押さえ
た。
﹁ぬるーい。やだ、こんなの﹂
﹁文句いうなよ。そんじゃあ、少し休める場所に行くか﹂
蔵人は不満を隠さないカレンの腕を引きながら、ルイーゼの酒場
1566
に向かった。いつもは、昼間から驚くほどたくさんの人間がうろつ
いているスラムにもまばらな程度しか人影はなかった。年季の入っ
た趣の建物は記憶の中よりも寂しげに見えた。スイングドアを押し
開いて中に入る。薄暗い店のカウンターで、ぼんやりと雑誌に目を
落としている女が顔を上げた。
﹁クランド、来てくれたんだね﹂
ルイーゼは嬉しげに瞳を震わせると、ゆっくりと近づき肩に手を
回してきた。酒精と香水と甘い体臭の入り混じった匂いがツンと鼻
先を漂う。蔵人は、ルイーゼを正面からしっかりと抱擁してくちび
るを合わせた。コアントローに近い、オレンジの香りがした。
﹁どうだい、調子は﹂
﹁調子もなにも、閑古鳥が鳴いてるよ。でも、うれしいじゃないか。
あれっきり顔も出さなかったくせに、こういうときばかり顔を出す
なんてさ。本当に、アンタは女泣かせだよ﹂
ルイーゼはぐいぐいと、豊かな膨らみを押しつけて甘い声を出し
た。
﹁ねえ。あたし疲れたから、もう休みたいんだけど﹂
﹁あら。また、かわいいお嬢さん連れてるじゃない。そういうこと
は、先においいよ。お嬢ちゃん、好きなところにお座り、ね﹂
﹁う、うん﹂
ルイーゼは人恋しさも手伝ったか、愛想よく席を勧める。カレン
は、少し恥ずかしがりながらもカウンターの椅子にちょこんと座っ
た。
﹁お腹がすいてやないかい。なにか、軽く食べる?﹂
﹁うん、少し﹂
蔵人がカウンターに置いてあった瓶から手酌で酒をあおっている
と、しばらくして奥の調理場からルイーゼが銀盆に食べ物を持って
戻ってきた。サンドイッチと淹れたての紅茶がホクホクと湯気を立
てている。
﹁お嬢ちゃん、アンタもお酒の方がよかったかい?﹂
1567
﹁ううん、これでいいわ。ありがと﹂
カレンは徐々に慣れてきたのか、次第に元気を取り戻して笑顔を
見せた。ルイーゼに頼んでボウルをもらうと、丁寧に手の先を洗い
出す。
﹁あんた、いいとこのお嬢さんなんだねぇ。クランドはなに触った
かわかんない手でなんでも口に入れるのに﹂
カレンは半目のまま隣の蔵人を見ると、あきれたようにため息を
ついた。
﹁ニンゲン、あんたお腹壊すわよ。食事の前にはきちんと手を清め
なさい﹂
﹁いいんだよ。俺の手はチャクラで汚れないんだよ﹂
蔵人は常人では理解できない異次元の理論武装で自己保全を図っ
た。
﹁ばーか﹂
カレンは半ば頬をゆるませながら、軽口を叩いた。ルイーゼは頬
杖を突きながら、あたたかい視線でふたりを見やった。
カレンはおずおずと、サンドイッチに手を伸ばすと、口元に運ぶ。
目を輝かせて、素直に喜びを露わにした。
﹁おいしいっ﹂
﹁あら、お世辞がうまいこと。たんと、おあがりよ﹂
それでなくても、面倒見のいいルイーゼである。彼女は、ニコニ
コしながら目を丸くして軽食を口に運ぶカレンを見ながら目を細め
ていた。
﹁ねえ、クランド。なにがあったかは知らないが、メリーに会って
おあげよ。あの子、最近たいそう落ちこんでいてねえ。おせっかい
が過ぎると思うけど、どうにも若い娘が落ちこんでるのを見るのは、
悲しくってねぇ﹂
﹁ああ。そのことなら、もう大丈夫だ﹂
﹁そう。それならよかった。これであたしも心置きなく往生できる
ってもんだよ﹂
1568
﹁⋮⋮避難はしねえのか? メリーが心配してた﹂
﹁どうやら、本当に会ったみたいだね。そのことなら、もういいの
さ。この街にいる以上、壁が破られればどこにいたって同じ。それ
に、下手に店を出たら、帰ってきたときに丸焼けになってててもお
かしかないからねぇ。蛮族どもよりも、ここいらの阿呆どもの方が
よっぽどなにするかわからないよ﹂
﹁阿呆だって自分の命は惜しかろう﹂
﹁だとしても。この店は、死んだ亭主が苦労して建てたのさ。あた
しゃ、まだ十五だったし右も左もわからない小娘だった。思い入れ
があるの。それは、きっと誰にもわかってもらえないけどね。この
店だしてから、あたしゃ十一年間、一日も休んだことがないのが自
慢でねぇ。たとえ、鬼が来ようが悪魔が来ようが、生きてる限り、
閉めるってことはできないよ。別に亭主の遺言があったわけでもな
いのだけど、こりゃもう意地みたいなもんさ﹂
﹁そこまでいうなら、俺がどうこうできる問題じゃねえな﹂
蔵人はグラスの中身を残らず干すと、逆さまにして雫が落下する
のをジッと見入った。
﹁すまないね。あたしゃ阿呆さ。自分でもそう思うよ﹂
﹁せめて、この城が落ないように祈っててくれ﹂
﹁ま、こっちもまるで無策ってわけじゃないさ﹂
ルイーゼはカウンターの裏を指差すと白い歯を見せて笑った。蔵
人が首を伸ばして覗きこむと、ルイーゼは床の一部分を摘み上げ、
隠し部屋へとつながる入口を開いてみせた。
﹁この中は食料も水も保存してあるの。ひと月やそこらは隠れてい
られるわ﹂
﹁どらどら。ちょっと見せてみろ﹂
ルイーゼといっしょに床に膝を突き、暗渠の底に視線を落とした。
幾分、冷たい空気が頬を撫でる。密閉された空間独特のカビた匂い
が鼻を突いた。ふと、顔を上げるとサンドイッチを分解して遊んで
いたカレンがこちらを激しくチラ見していた。
1569
﹁⋮⋮おまえも、見たいんか﹂
﹁別に。ま、ニンゲンが見て欲しいっていうんなら、考えてあげて
もいいけど﹂
﹁メンドクセーやつだな。おら、仲間に入れてやるから来いよ﹂
カレンは口先ではブツブツいいながら、素早い動きでふたりの間
に割って入った。垂直に下降していく通路には鉄の手すりが規則正
しく打ってあり、かなり安全そうだった。
﹁ここ、昔は野菜室に使ってたのよね。いまは、半分物置になって
るけど﹂
﹁カレン、降りてみたいか?﹂
﹁うん、降りたい! あっ、ちがっ。じゃ、なくてね。あんたが怖
いっていうなら先に降りてあげてもいいけどっ﹂
カレンは手のひらをヒラヒラ動かしながら、頬を紅潮させていい
放つ。
どう見ても、かなり中を見てみたい様子だった。
﹁んじゃあ、頼むわ﹂
好奇心に目を光らせたカレンは身軽な動きでどんどん下へと下降
していく。
﹁どうだー、下の方はー﹂
﹁うんっ! 思ったほど深くないわっ。ニンゲン、あんたもさっさ
と降りてきなさいよ﹂
ウキウキした明るい声である。
ちょっとした冒険気分を満喫している彼女を想像し、蔵人は頬を
ゆるませた。
蔵人は、ルイーゼの顔を見てにっと笑うと、すぐさま扉の蓋をパ
タンと閉じた。
﹁あのね⋮⋮やめたげなさいよ﹂
ルイーゼが呆れたような声を出した。
ほぼ同時に、焦ったような絶叫がくぐもって聞こえてきた。カッ
カッと手すりを恐ろしいスピードで登ってくる音が近づいてくる。
1570
蔵人が、一歩下がって敷板に視線を映じていると、蓋が弾かれたよ
うに押し上げられた。
﹁ななな、なんてことすんのよっ。バカァっ!!﹂
カレンは涙目で激しく抗議すると両手を上下に振り回した。まる
で駄々っ子だった。
蔵人は胸板をぽかぽか叩かれながら、いたずら小僧のようにカレ
ンを宥め出した。
ルイーゼはこの日常が、どうかこれから先もずっと続くようにと、
普段は祈らない神にそっと心の中で願ってみた。
﹁ずいぶんとさびしい感じなのね﹂
﹁なにをいってるんだ。あたりまえだろーが。いまは、殺し合いの
真っ最中だぜ﹂
蔵人が皮肉げに告げると、カレンは視線を落としていた足下の土
塁から顔を上げた。
ルイーゼの安否を確認した後、蔵人はカレンの要望でこの街でも
っとも眺めの良いとされる場所へと移動した。戦時下の街をもっと
もよく見渡せる、街の中央部にそびえ立つ時計台である。巻きなが
ら下まで続く坂のあちこちにも、敵兵の侵入を食い止めるための土
塁があちこちに築かれている。日が傾きはじめた街にはさすがに人
影はほとんどなく、平時と同じように開けていた店のほとんどが早
仕舞いをしていた。こうなると、街をうろついているのは、それぞ
れの区画の自衛組織か兵士だけであった。
治安悪化を防ぐために、鳳凰騎士団の数隊が街の主要な動線をし
らみつぶしに巡回している。野良犬や野良猫に至るまで、一匹残ら
ず姿を消している。籠城を見越して、街の人間が残らず捕らえて食
1571
料のタシにした証拠であった。
﹁そうよね。あたしたち、いくさの最中なのよね﹂
カレンは疲れたようにつぶやいて、足元の小石を蹴った。小さな
礫は音もなく斜面を駆け下り、やがて見えなくなった。
﹁いくさは嫌いか﹂
カレンは無言のまま首を振った。蔵人はくだらんことを訪ねたと、
口中に苦いものが広がるのを感じた。
﹁⋮⋮だよな。考えてみりゃ、殺し合いの好きな女はいねえよな﹂
﹁別に、あたしたちだって傷つけあうのが好きなわけじゃないわ。
でも、誇りを傷つけられて黙っていては、ほかの部族の侮りを受け
る。一度引けば、それが常態になって、肥沃な土地を次々と明け渡
さなければならない。家畜たちはいい草がなければ肥やせないの。
必然、貧しさは避けられない。家族を食わせなければリーダーは求
心力を無くしてしまう。そうなれば、一族はバラバラになってます
ます力を失う。力のない部族は、惨めなものよ。
いくさになれば、当然人は集められないし、負けることは決まっ
たようなものよ。いくさは負けてはならないの。負ければなにもか
も失ってしまう。男たちは、勝者に己の妻や娘を差し出して命乞い
をしなければならない。誇りを失ったエルフはもう死んだも同然な
の。
引いてはならないときがあるわ。勝者がすべてを手に入れる。そ
れが、草原の掟なの。ねえ、ニンゲン。あたしの姉さまの話、聞い
てるわよね﹂
カレンの姉、テア姫が和睦の前夜に殺害されたことは巷間に流布
されていたので蔵人も知っていた。善人ほど早死する。ひたすら凄
惨な結末であった。
﹁この戦争の発端だろう。さすがに、知ってる﹂
﹁やさしい人だったわ。あたしのような、混じりものにも分け隔て
なくやさしくしてくれた。だから、あんな風に姉さまを辱めて命ま
で奪ったニンゲンは、絶対に許せない! ロコロコ族なら誰だって
1572
そう思う!! あたしだって、そうよ!! 姉さまの仇を見つけた
ら、皮を剥いで一寸刻みにしてもあきたらないっ!!﹂
カレンは怒気を露わにすると、凄絶な表情で拳を外柵に打ちつけ
た。整った美貌は怒りで鬼のように引きつり、大きな瞳は憎しみの
炎で燃えたぎっていた。白人種に近い亜人の表情の迫力は、日本人
のそれとは比べ物にならないほどインパクトのあるものだ。
だが、カレンの怒りは持続しなかった。すぐさま、疲れたように
表情を和らげると、泣きそうな顔つきになった。
﹁でも、姉さまが生きていらしたら、こんないくさ、絶対に許さな
かったでしょうね﹂
蔵人は凝然としたままうな垂れた横顔にジッと見入っていた。突
如として、飛来する鋭い羽音のようなものが聞こえてきたのは、そ
のときだった。
蔵人はカレンの腰に抱きついてその場に引き倒す。
シュルシュルと、彼女が立っていた位置へと空を滑るように金属
片が走っていく。
街並みを一望できる見晴台の手すりへと、円環が軋んだ音を立て
て突き立った。
落ちかけた真っ赤な夕焼けを反射させて、ギラギラと凶悪な光を
放っている。
磨きぬかれた鏡のように、ゾッとするほど素晴らしい切れ味を有
していると推察できた。
蔵人が身を起こすと同時に、五人の男がバラバラと階段を登って
飛び込んできた。
全員が覆面で顔を隠し、焦げ茶色のマントをなびかせている。殺
意を前面に押し出した瞳が、覆った布切れの間からギラギラと妖し
く輝いていた。手には、それぞれ刃の部分が異様にギザギザになっ
た二十センチほどのナイフを持っていた。刃の部分が異常に厚みを
帯びており、一見したところナタに近かった。下手に剣を合わせれ
ば刀身を欠きかねない。
1573
﹁知りあいって感じじゃねーな、どう見ても﹂
黒獅子
を引き抜き
﹁知らない! 知るはずないでしょ、こんなやつら!!﹂
蔵人はカレンを背後に隠すと、素早く聖剣
水平に構えた。
男のひとりが手にしていた布袋を勢いよく放った。その、赤黒い
なにかは、ボーリングの玉のように激しく回転しながら外柵にぶつ
かって鈍い音を立てた。
﹁ひっ﹂
カレンが、それを直視して息を呑んだ。
若い男の生首である。
︵そういえば、ヴィクトリアが腕利きの護衛をつけるといっていた
な︶
抜かりのない彼女のことである。カレンを陰ながら守る隠密護衛
が、ひとりだけ、というのは考えにくかった。
︵残りは、この覆面どもに殺られたか撒かれたか。どっちにしろ、
いまは俺ひとりでやるしかねえか︶
﹁おい、おまえら。たった五人でいいのか? 下手に近づいてみろ。
こいつで、おまえらの首と胴とはスッキリ泣き別れだぞ﹂
敢えて挑発的な軽口を飛ばす。 男たちの殺意の放射はいっそう強まった。
蔵人はわざとのっそりとした動きで前足を出した。
誘いだ。案の定、乗ってきた。
五人の男たちは、左手の袖口に仕込んであった円形状の暗器であ
るチャクラムをいっせいに放ってきた。
指呼の間である。狙いは正確であった。
﹁朝方出会った跳ねっ返りってわけでもねぇってか!!﹂
怒声一閃。刃を斜め横に振るった。鋭い金属音と共に五つのチャ
クラムが弾け飛んだ。
それが、開戦の狼煙代わりだった。
蔵人は突っこんできた男の腹に目がけて鋭い突きを見舞った。
1574
飛蝗のように頭上へと飛び退いた。
続けざまに上段へと剣を振り上げる。
刃は男の顔面を下から上へと垂直に駆け抜けた。血飛沫が虚空を
舞った。
男たちは仲間の死に微塵も動揺せずに左右から突っ込んでくる。
黒鉄造りの鞘を左手に持ち、旋回させた。
左の男。
鉄の棒と化した旋風をまともに喰らい顔面を粉々に砕かれひっく
り返った。
同時に半身を開いて、右方の突きを紙一重でかわした。
バランスを崩したまま男の体が泳ぐ。
渾身の力を込めて右手を振り下ろした。
長剣は唐竹割りに男の額から顎までを両断した。
眼球や脳の一部が細切れになって散開する。
興奮しきったカレンが目を見開いて歓声を上げた。
一瞬で三人を打ち取られた刺客たちは、互いに目配せをすると後
ろも見ずに遁走をはじめた。野生の猿のような機敏な動きで飛ぶよ
うに階段を駆け下りていく。抜き身を引っさげてすかさず追った。
﹁逃がすか﹂
蔵人も足には自信のある方であったが、特殊な走法を使って逃げ
去るふたりとの距離はみるみるうちに開いていった。少なくともど
ちらかを捕らえて、誰に命じられたかを聞き出さなくては枕を高く
して寝られない。
﹁任せなさい!!﹂
遠くまで通る透明感のある声に顔を上げる。
カレンが腰にさげていた半弓を構え、矢をつがえていた。
一瞬、目を奪われるほど美しいフォームである。
彼女は時計台の踊り場から、眼下の敵影に狙いを定めると、引き
絞った弦から指を離す。
放たれた矢は綺麗な放物線を描くと、米粒のような男の背にたち
1575
まち吸い込まれた。
﹁やるじゃねえか!!﹂
蔵人は、胴を射抜かれて動けなくなった片割れを蹴り飛ばすと、
もうひとりを追った。
男はほとんど減速せずに細い路地に飛びこみ、無理やり追っ手を
引き剥がそうと無茶苦茶に走り回った。細々とした民家の密集地に
は、雑多なものが置きっぱなしにしてある。転ばないように駆ける
のが精一杯だ。
男は、路地を曲がる際に後ろも見ずにチャクラムを放る。なにご
とかと首を覗かせた中年男の肩口を鋭く割った。絶叫が尾を引いて
伸びると、殺気立った街衆が次第に集まりはじめた。
﹁そいつは敵の密偵だ!! つかまえんのに手ェ貸してくれや!!﹂
窮余の策だった。蔵人の声に呼応して、人々が駆け寄ってくる。
不安が裏返って、誰もが凶暴な獣性を剥き出しにしていた。
﹁なんだって!?﹂
﹁ようし、男どもを残らずかき集めろい!﹂
﹁嬶や女どもは石ころを投げつけろ!!﹂
﹁なんだぁ!! 憎らしい蛮族の手先はどいつだ!!﹂
﹁犬を飼ってるやつは残らずけしかけろっ﹂
いまや、男の敵は蔵人だけではなくなった。路地の狭隘な道に押
し寄せた群衆が、自然勢子の役割を果たした。こうなると、多勢に
無勢である。修練を積んだ刺客も、無数の群衆からありとあらゆる
もの投げつけられ、激しい手傷をあちこちに負っていた。
﹁追い詰めた。観念しやがれ!!﹂
蔵人は、道のどん詰まり、四方を建築物に囲まれた猫の額程度の
空き地に男を追い詰めると、流れ落ちる額の汗を拳固でぬぐった。
だが、勝利を確信したのはつかの間だった。
﹁おじちゃん、どうしたの?﹂
茫々と丈の長い草むらに隠れていたのか、歳の頃は五つくらいだ
ろうか、幼い男の子が、そっと顔を出したのだった。
1576
男は、粘った眼光を四方に走らせながら、子供を片手に抱くと刃
を首筋へと突きつけた。
﹁きたねぇぞ! 頑是ねえガキを人質に取るんだなんて!!﹂
﹁ありゃ、ノーラんとこのトマスじゃねえか!!﹂
﹁ちきしょうめ、このゲス野郎!! ガキに指一本でも手ェ出して
みろ!! 街中総出でナマスに刻んでやるから覚悟しろ!﹂
人々は目を剥いて猿のように叫び続けるが、トマスは男の手の中
だった。多数の人間に囲まれグイグイと喉を絞められたせいか、恐
怖に怯えてトマスが泣き出した。息を切らして追いついたカレンが
人垣を割って前面に押し出てくる。小さな男の子が虜にされている
のを目にし、激しく眉根を寄せた。
﹁弓を捨てろ!!﹂
カレンの手にした半弓に気づいた男が叫んだ。トマスに突きつけ
られた刃の先が、ぐいと押し出され、白い首筋からぷつりと真っ赤
な雫が浮き上がった。カレンは悔しそうに、半弓を足元に置く。
﹁弦を斬れ﹂
男は濁った瞳をギラつかせ、軋んだ声で命じた。蔵人は立ったま
ま、剣を動かして弦を切り離した。ぶっ、と鈍い音がして麻の糸が
弾けた。
万事休す。
男は幼児を生け捕りにしたまま、剣を群衆に突きつけ後退するよ
うに命じた。
﹁坊や!!﹂
二十過ぎくらいの若い母親が狂ったように我が子の名前を呼び続
ける。このまま、男の逃走を許せば、十中八九トマスは殺されるだ
ろう。逃げおおせたあとに、泣き喚く幼児など足枷に過ぎないし、
生かして返す道理などないのだ。男はサディステックに刃についた
血糊をトマスに見せつけていることからもそれは推測できた。
﹁ねえ、あんた。その子を解放しなさい。この人たちには手出しは
させない。どうしても、人質が必要っていうのなら、あたしが代わ
1577
りになるわ﹂
﹁⋮⋮こっちに来い﹂
﹁バカ、行くな!! そいつの狙いはおまえなんだぞっ!!﹂
カレンが馬鹿正直に近づいたところで、刺客は安々と目的を達成
するだろう。カレンを刺殺した後も、トマスというカードは残る。
逃げ出すには充分だろう。
蔵人が、やぶれかぶれで飛び出そうと身を乗り出したとき、カレ
ンは地を蹴って斜めに身を躍らせた。男との距離は、約五メートル。
夕焼けに染まった刃が赤々と燃えている。
群衆の怒号と、母親の絶叫が入り混じって響き渡った。
カレンは腰の矢壷から羽根を摘んで素早く矢を取り出す。
身をよじりながら男に向かって矢を投擲した。
打根術。
白兵戦で弓が引けない場合に発達した、戦場往来の投擲武術であ
る。
放たれた矢は男がナイフを動かすよりもはるかに早く喉元に吸い
こまれていった。
ぐらり、と男の身体が斜めにゆらぐ。
疾風のように走った矢尻が脊髄を完膚無きまでに破壊し、動きを
停止させたのだ。
カレンが斜めに転がると同時に、蔵人が外套をなびかせて跳躍し
た。
引き抜かれた長剣が男の左腕を切断する。幼児は腕ごと草むらに
落下すると、一際高く泣き声を上げた。男の腰を蹴りつけて、ナイ
フを持った右手首を刺し貫いた。
﹁いえ! 誰に頼まれてカレンを狙った!!﹂
男は、不気味にせせら笑うと両眼を見開いたかと思うと首をのけ
反らせた。口元の覆面がみるみるうちに濡れていく。布切れを剥ぐ
と、千切れた肉片が顔を覗かせた。舌を噛んで自決したのだ。切断
された舌はクルクルと巻き戻って、気管を塞いでしまう。死因は窒
1578
息死だった。
蔵人は、激しく舌打ちをすると、布切れを地面に叩きつけた。顔
を近づけると、男の衣服から焚きつけられた独特の香の匂いが漂っ
た。
﹁くそっ、勝手に死んじまいやがって。これじゃあ、なんにもわか
らねぇぜ﹂
﹁だいじょうぶ?﹂
蔵人が歯噛みして悔しがっている横で、カレンがトマスに声をか
けた。しゃがみこんで手をそっと伸ばしているのが見えた。トマス
は、泣きながらもカレンを見ると、顔をこわばらせて草むらに逃げ
出し、落ちていた石ころを拾うといきなり放った。
ガッと鈍い音がした。
﹁あっ⋮⋮﹂
幼児が投げたものだ。大きさはそれほどでもないが、切り立った
角が上手く当たったのか、カレンの額が裂けて真っ赤な血が流れ出
した。痛みよりも助けた相手に激しく拒絶されたショックで、彼女
は顔色を蒼白にし、尻からその場に座りこんだ。
﹁なんてことをするんだいっ、この子は!!﹂
命の恩人である。母親は駆け出して我が子を抱え上げると金切り
声を発した。
﹁こいつ、エルフだっ!! お父ちゃんを殺したエルフだっ!!﹂
﹁ち、ちがっ、あたしは﹂
﹁人殺し、人殺し! 人殺しっ!!﹂
﹁坊やっ、おやめっ!﹂
トマスは半狂乱になって母親の腕の中で暴れる。呆然としたまま
その場にヘタリこむカレンへと街の人々がすぐさま駆け寄って立ち
上がらせた。そこには、純朴な人々の善意と申し訳なさが前面に押
し出されていた。
﹁すまねえな、姉ちゃん﹂
﹁トマスの親父はさきおとといの戦争で死んだんだ﹂
1579
﹁ガキのやることだ。なにもわかっちゃいねぇ。勘弁しておくんな﹂
﹁エルフが全部悪いってわけじゃねぇ。この街にも亜人はたくさん
いるんだ﹂
﹁そうだ。あんたは命を張ってあの子を助けてくれた。クソッタレ
な蛮族とは違うんだ!﹂
﹁ほら、こっちにおいでなせえ。綺麗な顔が台無しだよ。ウチで休
んでくかい?﹂
カレンは人々の慰めを聞くたびに、居心地の悪そうな顔で辺りを
キョロキョロ見回しだした。蔵人はくちびるまで色を失ったカレン
から目をそむけた。
結果、幼いトマスの顔が視界に入る。
少年は、顔を真っ赤に染め上げ幼い憎悪を燃え上がらせ、両手を
振り回していた。
﹁返せっ!! おいらのお父ちゃんを返せっ!! 返せよう!! うああああっ!!﹂
幼い子の嘆きと母親の謝罪を同時に受けながら、カレンは縋るよ
うに視線を蔵人に固定した。カレンの銀色の瞳はいまにも泣き出し
そうに、大きく歪んでいた。
カレンは無言のまま立ち上がると群衆に駆け入った。蔵人は素早
く長剣を鞘に収めるとみるみるうちに遠ざかっていく彼女の後を追
ギルド
った。狭い小路を抜けて大通りを真っ直ぐ進む。巡邏を続ける兵士
たちが怪訝そうな視線を向けるたびに、冒険者組合の身分証である
ドッグタグをかざさねばならなかった。
市内は戦時体制である。あちこちには土塁が築かれ、滑らかな移
動を阻害するために凹凸のある穴が掘られている。本気で逃げきる
つもりはなかったのだろう。カレンは、ケヤキの樹の下でぴたりと
足を止めると、顔を伏せてうめいた。
﹁感謝されたかったのか?﹂
﹁違う⋮⋮!!﹂
カレンは絞り上げるような声を出すと、ケヤキの幹を強く叩いた。
1580
薄く色づいた葉がひらりと落ちて銀色の髪にかかった。
起こったことは別段大したことはない。道理のわからない幼子の
八つ当たりを受けただけだ。もっとも、お嬢さま育ちの彼女にとっ
ては充分ショックだったのだろう。
﹁カレン﹂
﹁来ないで! ニンゲンッ!!﹂
蔵人が落ち葉を踏んで近づくと、悲鳴のような声で叫んだ。
先ほどよりも人間に対する拒絶感は強まっていた。薄闇の中で、
幹を抱いたまま崩れ落ちる背がかすかに震えている。蔵人にできる
のは黙ったまま呆然と、少女の小さな背を見つめ続けることだけで
あった。
1581
Lv98﹁勇者とエルフとサンドイッチ﹂
蔵人は外套の前を合わせたまま、黙って目の前に立っているヴィ
クトリアに視線を落としていた。執務室の中に敷かれた絨毯は毛足
が長く、清掃はよく行き届いており清潔である。くるぶしまで埋ま
った絨毯から足をわずかに浮かせると、暗く澱んだ森のような瞳で
ヴィクトリアが見上げてきた。
﹁私はカレン姫の護衛は頼みましたが、外を連れまわせとは一言も
いわなかった。そう、記憶しておりますが﹂
︵ああ、こりゃあダメだ。キレる一歩手前だわ︶
蔵人は幾分血走っている女の目を見て、言葉による懐柔を諦めた。
これは反論を許さない目だ。さらに目を凝らせば、先刻会ったとき
よりも、化粧が濃い目になっている。憔悴した面貌を隠すためのも
のだと、すぐさま見て取れた。思うにヴィクトリアのストレスはす
でに相当なものである。
︵そいつを、この俺がさらに上乗せしたって寸法ね︶
下手に言い訳をすれば食いつかれそうな雰囲気である。蔵人は、
わずかに思案すると、吹っ切れたようにいった。
﹁まあ、いいじゃん。こうして、無事帰って来たことだし﹂
ヴィクトリアは顔をうつ伏せにするとひゅっと短く息を呑んだ。
手元の握りこぶしが開いたり閉じたりしている。細く可憐な肩がわ
なないていた。生まれたての子鹿のようだ。
﹁⋮⋮!! いいわけありませんわッ!!﹂
1582
ヴィクトリアは小柄な身体を瘧にかかったように、ブルブルと震
わせながら、全力で蔵人の行動をなじった。よくも思いつくような
罵倒の連発である。日本語に該当するモノが見当たらないのか、と
きおり判別できない外国語のような音が聞こえた。召喚時の契約の
力も万能ではないのだ。彼女は、髪をかきむしり、目を剥いて金属
的な声を出し続ける。貴婦人にはあるまじき言葉遣いだった。彼女
は、手すら上げないが、その行為は誰もがヒステリーを起こした女
のイメージを具現化したようなものだった。
ここで反論するのは、火に油を注ぐようなものである。蔵人は目
をつぶって、脳内でヴィクトリアを無理やり押さえこみ、逆さ吊り
にして陵辱することで精神の均衡を保った。
彼女があらかじめ、近臣のラデクやレオパルドを遠ざけておいた
のは、おそらくこうなることを見越しての行動だったのであろう。
蔵人はストレスのはけ口にされたのだった。
﹁あなたはいまの状況がわかっているのですかっ!!﹂
﹁使節の大使である姫君をかどわかしたも同じことなのですよっ!
!﹂
﹁せっかく牢から出して差し上げたのにっ。恩をあだで返すとはこ
のことですっ!!﹂
﹁叔父上はまるで使い物にならないしっ!! 私には、この街に住
む百万人の命がかかっているのです!!﹂
﹁期待はしていなかったですが、これほどまでとはっ!! だいた
い、はじめよりも関係が悪くなっているじゃありませんかっ!!﹂
﹁黙っていてばかりではなく、いいわけのひとつもしたらどうなの
ですかっ!!﹂
ヴィクトリアの詰問が速射砲のように打ち出される。
キンキンした声のせいで、頭痛を催した。
﹁話を聞いてくれハニー﹂
﹁殿方がいいわけなどもってのほか! 恥を知りなさい!!﹂
﹁ヒデぇよ﹂
1583
ヴィクトリアは完全に我を失っていた。己の怒声に揺さぶられな
がら、よりいっそう激昂するのである。前後の見境がつかなくなっ
ている。危険な兆候であった。
これだけ、大声を出しても扉の外のふたりは、微塵の揺るぎも見
せない。
主の命令には絶対であった。
﹁このっ⋮⋮!!﹂
﹁ちょっ、待てって!!﹂
ヴィクトリアは激しい怒りのあまり、もはや自分がなにをしてい
るかわからなくなっていたのだろう。来客用の灰入れであるクリス
タルガラスを持ち上げると、頭の上に振りかざしてよたよたと蔵人
に向かって歩き出した。怒りに任せて行動したものの、彼女の筋力
は見た目通りのひ弱さだった。重みに耐えかね、動きが左右にブレ
る。蔵人の脳裏に、悲劇のイメージが投影された。
﹁あっ﹂
﹁いわんこっちゃねえ。そいつを、さっさと下ろすんだ﹂
﹁私に命令しないでくださる⋮⋮!?﹂
ヴィクトリアは足をもつれさせて上体をぐらつかせた。
蔵人は咄嗟に身を躍らせると、身体の上に覆いかぶさった。
鈍い音が鳴り、同時に後頭部へと灼けるような衝撃が走る。
蔵人は激しく苦悶すると同時に、額から顎へと血が伝うのを感じ
た。
﹁︱︱っ!!﹂
声にならない苦悶を噛み殺した。脳天が燃えたぎるような熱を感
じた。
﹁ああっ、だいじょうぶですかっ!!﹂
出血を目にしたヴィクトリアは、さすがに正気を取り戻したのか、
声を上げて外の人間を呼ぼうとする。
﹁しっ︱︱﹂
蔵人は、彼女の口元に指を当ててそれを制止した。
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﹁密室でこの状況。さすがに、俺に不利だろ﹂
﹁で、でも。なら、私がそれを説明すれば︱︱﹂
﹁護衛のあまりの使えなさに我を失ったてか? それこそ、あんた
の権威を失墜させるだけだ。扉の外には、子飼いの人間だけじゃな
いだろう。よくて自己制御もできずに暴力を振るう女、悪くて緊急
時に男を引っぱりこむバカ女。どっちも、損するだけだって。今日
のことは、これでチャラってことにしとかねーか。な?﹂
﹁でも、血が。手当をせねば﹂
﹁大丈夫だ、じき止まる﹂
﹁そんな、これだけ深く切ってしまえば手当もせずに、止まるわけ
ありませんわ﹂
﹁だから、デケー声出すなって。そういや、あんたには話していな
かったな。俺のこと。見てろ﹂
蔵人は、絨毯の上に座るとヴィクトリアを背後に回らせ、髪を掻
き上げた。黒く豊かな頭髪がまくれ上がる。後ろ頭が激しく脈打っ
ている。彼女が大きくたじろいだのが気配で分かった。
﹁スパッと切れてるか﹂
﹁ええ。もうしわけありません、我を失っていたとはいえ、かかる
暴行︱︱﹂
﹁まあ、見てな﹂
蔵人が後頭部の傷口に意識を集中させると、ほのかに胸元の印が
輝きだした。
﹁なに? 光、なの。⋮⋮え﹂
淡い光が明滅するたびに、後ろ頭の切り傷は、時間の針を逆回転
させたように塞がり、肉が盛り上がって瘡蓋が浮き上がった。血の
塊は、たちまち乾燥すると灰のように白くなり、患部から剥落して
消えた。
﹁な﹂
﹁うそ。これだけの、傷が一瞬で。いまのは、回復魔術? いいえ、
これはそんなものとは全然違う﹂
1585
ヴィクトリアの目には信じられないという驚きと、幾ばくかの恐
れが宿っていた。蔵人はそれらを払拭するために、この街に来るま
での経緯を残らず話しはじめた。
異世界から王女オクタヴィアに召喚された勇者だということ。
その経緯で、近衛騎士団長であるヴィクトワールと知り合ったこ
と。
謎の、殺人集団に追われていたが、この街に入った途端、ピタリ
とそれらが止んだこと。
いまは、ダンジョンに潜る一介の冒険者であること、など。
イモータリティ・レッド
蔵人は、もろ肌脱ぎになってみせると、指先を剣の先で傷つける。
意識を集中させると胸元に刻まれた不死の紋章が淡く発光した。
﹁確かに、王都の図書館で閲覧した通りの紋章。噂は、真実でした
の⋮⋮﹂
タクティカルマ
・ジ
ワョ
ンリカル・マナ
﹁ヴィクトワールにいわせりゃ、不完全な出来損ないらしいがな﹂
蔵人は、己に本来の勇者が持ち得る、知恵と魔力がないことを苦
笑気味に口にした。
﹁不完全だなんて⋮⋮これが、救世主の証﹂
ヴィクトリアは目を輝かせながら、蔵人の胸板に指を這わせると、
うっとりとした目つきで見上げてくる。その瞳には、先ほどにはな
かった強い畏敬の念がこもっていた。
﹁ならば、邪竜王ヴリトラを倒したのも、あなたさまで﹂
ヴィクトリアは言葉遣いを一変させると、その場に跪きそうな勢
いで離れた。
﹁おいおい、いきなり口調まで変えるなよ。気持ちわりいな﹂
﹁常々アルテミシアが口にしていた言葉は、真実でしたのね。真の
ギルド
英雄はほかにいると。私の不明をお許し下さい﹂
﹁だからいいって﹂
﹁ただちに事実を全冒険者組合に布告し、正しく功を世間に知らし
めましょう﹂
1586
﹁さんざん、俺はあちこちで吹聴してきたんだぜ? まるで、誰も
信じやしなかった﹂
﹁ギルマスの私が認めれば、世間も納得しましょう﹂
﹁ダメだね﹂
﹁なぜです?﹂
﹁それじゃあ、今度はアルテミシアが騙りものになっちまう。そん
なの我慢できねぇ﹂
ヴィクトリアは、ほう、とため息をつくと頭を下げた。
﹁それでは、このことは私と勇者さまの秘密ということに﹂
﹁そして、そいつを材料に、今度は俺がおまえの使い勝手のいい手
駒になるってか﹂
﹁⋮⋮そんな。ありえませんわ﹂
﹁まあ、城の防衛のための冒険者が思ったほど集まらなかったって
のは聞いてるよ。これでも、組合の人間なんでね﹂
﹁私どもとしては、伝説の勇者さまにご助力頂ければこれほど心強
いことはございませぬ﹂
﹁否定はしないのか。いい根性してるよ。しかし、なんだな。俺が
勇者だってだけで、ここまで態度を変える必要があんのか? ヴィ
クトワール、あんたの妹は俺のこと知ってて、態度は変わらん。む
しろ、無礼だ﹂
﹁私にいわせれば王女に仕えていたヴィクトワールがあまりにもの
を知らなさすぎなのでございます。伝説によれば、勇者の力は王家
にとって最後の切り札。勇者召喚の儀式は、すべての手続きを踏ん
でからの国家的行事なのです。勇者本人の人格は問題にされません。
完璧な勇者を呼び出せるかどうかがネックなのです。それが、一生
に一度しか呼び出せないあなたさまを不完全な形でこのロムレスに
マジョリカル・マナタクティカル・ワン
受肉させてしまった。お聞きしたこところ、勇者さまには本来備わ
るはずの魔力と、知恵がございませぬ。もし、これが露わになれば、
王女は極めて政治的に危険な状態になられるかと思われます﹂
﹁なんでだよ。たぶんそうはならないだろう。そもそも完璧な勇者
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を呼び出せたのは二代目だけって話だ。先代も、不完全な力しか持
ち得なかったはず﹂
﹁ずいぶんと博識で。それらは織り込み済みでつつかれる可能性が
周りにあるのです。場合によっては、廃嫡の可能性も﹂
﹁廃嫡はないだろ。たしか、ヴィクトワールがいってたっけ。王女
は、ただひとりの直系継承者だって﹂
﹁これが極秘情報なのですが、つい先日王都で大規模な政変が起こ
りました。王女派に対抗するために三公が手を組み、純潔血統では
ない遠い血筋の王族の男を担ぎ上げたとか。長きの間、勝手に分か
れて王族を名乗った残りの諸侯たちを力によって統一できなかった
ことも、純潔血統の権威を損ねているのです。なにしろ、三公のバ
ックには王国一の大商人ロチルドネス商会がついたそうです。七、
三だった力の均衡はすでに、五分にまで詰め寄られているかと。王
女派は懸命に巻き返しを図っているそうですが、あなたさまの存在
を顕にするのは時期を見計らっているのではないかと思います。徹
底的に偽王子派を叩いて、頭も上げられない状態になったところで、
ダメ押しに勇者の存在を前面に打ち出す。諸侯や知識階級にはいま
だ、勇者信仰に近いものが残っております。偽王子派がまだ、勇者
さまの存在に気づいておられないのは僥倖といっていいでしょう﹂
﹁なにが僥倖だよ。どっちにしろ、オモチャ扱いじゃねーか。人を
呼びつけておいて、許せねえだろ﹂
﹁確かに、不幸としかいいようがありませんが、すべて悪いように
受けとる必要もないかと。なにしろ、ロムレス王家の歴代の王族は
四十五代中、三十九人が勇者と結ばれています。王家の財宝も権威
も思いのままですよ﹂
﹁ま、あいつらも悪気はなかったみたいだから、そういう細かい点
をつつくのは男らしくねえ
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