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(ー〝 フ レーベルの国民教育論の研究 (ー)
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(1
フレーベルの国民教育論の研究(I)
フレ-ベルの教育思想を『国民教育』 (Volks-und Nationalerziehung)
の観点から考察することの意味、可能性および妥当性について
-フレーベルをめぐる『ドイツ国民教育』思想の情涙岩 崎 次 男
(教育学研究室)
1.この研究の意味
フレ-ベルの教育思想を「国民教育」(Volks-undNationalerziehung)の観点から考察し究明
し論述した体系的な労作は、のちに明らかにするように、在来ほとんど存在しないといってい
い。それにもかかわらず、かれの教育思想をあえて「国民教育」の観点から考察し究明してみよ
うとするのは、現在国民教育の名の下にわが国の教育のあり方をめぐって問題がだされてきてい
る情況に起因している。
戦後わが国において国民教育論がはなばなしく展開されるようになったのは,日高氏の指摘す
るように、w1950年の朝鮮戦争、翌年のサンフランシスコ条約・日米安保条約・日米行政協定を
機縁として、それ以後のことであったといっていい(3)
。この場合、国民教育の思想は、一方国家
権力の側からは、1952年9月の自由党議員総会における吉田首相の「万国に冠たる歴史、美しい
国土など地理・歴史の教育により軍備の根底たる愛国心を養わなければならない」という発言
や、翌年10月の「池田・ロ′ヾ一トソン会談」における「日本政府は、教育および広報によって
日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長する--・」といった申しあ
わせに端的に露呈されているように、再軍備のための愛国心教育を中核とするわが国教育の全般
におよび、占領政策のゆきすぎを国情にてらして是正するという名目の下での反動的再編成とし
て主張され、他方反権力の側からほこのような政策の進行に対処しつつ、戦前の教育体制のきび
しい批判・否定の上にたって、国民教育は国民を対象として国家のために国家権力によって専管
される「国家教育」あるいは「国家主義教育」であってはならないという思想として主張され(4
これら両者の国民教育の思想は相互にするどく対立しあっている。
反権力側の国民教育の思想は、国民教育の国民を主権をもった国民と解し、主権者たる国民に
ふさわしい教育のあり方を国民教育と解している(5)。したがって、そこでは基本的に国民の人権
が強調される。国民の人権をバック・ボーンとする教育、つまり教育にたいするまた教育におけ
る国民の権利が主張されるC
この国民の権利の名の下で、教育にたいするまた教育における子どもの権利としての子どもの
受教育権あるいは学習権、および教育にたいする親や教師たちの権利としての国民による教育の
自主的創造・親たちや国民の大半をしめる勤労者の要求を教育に反映させること・国民による教
育課程の自主的編成・教師の教授上の自由権などの主張が、国家権力の教育統制にたいする抵抗
としておこなわれる(6;さらにつきつめて考えるならば、教育にたいする親や教師たちの権利ち
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
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子どもの受教育権に由来する、といえるだろう。憲法第26条第1項において保障されている子ど
もたちの受教育権を守ってやるために、子どもたちの幸福に第一義的関心をもっている親たちお
よび教師たちの教育上の諸権利を主張するものである、といいなおすことができるであろう。
ともあれ、これらの点では、反権力側の国民教育の思想は一致している。しかし、教育内容の
組織のしかたや教育方法のありかたなど具体的な面になれば、十分な系統的な論究もなされてい
ないし、また反権力側にもかなりの意見の相違もみられたりして、国民教育の思想は必ずしも理
念・内容・方法などにわたって首尾一貫して明確なものではない、と思われる(7)。
この研究は、 19世紀前半のドイツの歴史的現実をふまえて、そこに展開された一人の教育学者
あるいは教育実践家の国民教育の恩想を明らかにすることを通じて国民教育思想史の形成に一つ
のささやかな貢献をしたいと念願するとともに、それを通じて多少なりともわが国における国民
教育の問題を考えるための一つの材料を提供したいという意図からうまれたものである。
2.この研究の可能性
これまでのフレーベル教育学に関する研究において、かれの思想を「国民教育」の観点から首
尾一貫して体系的に究明した労作はみあたらない。国民教育的視点が若干おりこまれているもの
として、つぎの諸著作があげられるであろう。
たとえば、古いもので、 H.ペシ工の「フリードリッヒ・フレーベルの発達的-教育的人間形
成(幼稚園教育学)の体系」 (Friedrich Frobel's entwickelnd-erziehende MenschenbiAdung
(Kindergarten-Padagogik〉 als System, Hamburg 1862)がある,これはペシエ白身がrフレ
ーベル教育学の体系的編集」と述べているように、 「幼稚園教育の理論的実際的完成、および幼
稚園教育学の民衆学校教育学への有機的・理論的.実際的発展」という視点の下でフレーベルの
諸論文から適当な文章を選びだして体系的に再構成したものである(8)。この音の序論は「母親に
よる家族での義務就学前の児童の教育は、すべての国民教育および人間教育(aller Nationa卜und
Menschen-Erziehung)の土台である」と(傍点および下線--・・筆者)題しており、そこには「国民
教育のための共同活動のすすめ-一一『さあ、わが子どもたちに生きようではないか田 という小見
出しもあり、フレ-ベル教育学を国民教育的視点から再構成しようとしているかにみえるが、本
論では全くそのような試みはなされていない。というのも、かれが「実際的国民教育」(Praktische
NationaLErziehung)を「幼稚園教育学のドイツ民衆学校教育学-の理論的実際的発展」と解し
て、この書をフレーベル幼稚園教育学の体系的完成という狭い限界内におしこめたからにはかな
らない。
近年のフレーベル教育学研究書として、 E.シュプランガーの「フリ-ドリッヒ.フレーベルの
思想界から」 (Aus Friedrich Frobels Gedankenwelt, Heidelberg 1953)があげられる。この音
で、シュプランガ-は「幼稚園の理念は、国民教育(Voikserziehung)の理念の一部-1帰女子
にゆだねられた一部である。国民教育は人類の理念の一個の表現である。しかし、人類の理念
は、イエスの生活において、つまり神と-致せる生活において完成する0 3つの分野、つまり
volksleben, Menschheitleben, Gotteslebenが同心円的に包含しあう(9)」と述べて、フレ-ベル
のドイツ国民教育の理念についてするどい分析をくわえているが、それはあくまでも理念の素描
にとどまっているにすぎない。
また最近のものとして、 H.ケ-ニッヒの「3月革命前夜におけ-る国民教育思想」 (Gedanken
zur Nationalerziehung aus dem Vorm邑rz, Berlin 1959)があげられるが、この書においてかれ
フレーベルの同氏教育論の研究(I) (岩崎)
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はつぎのように述べている。
「F.フレーベルは、教育史において幼稚同の創立者として登場している。幼児教育の発達にと
ってかれの意義が過小評価されえないとしても、フレ-ベルはとくに-そしてこのことは大抵
t ° ° ° ° ° ▼ . °
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° . ° t 4 °
の出版物においてみすごされていることだが-3月革命前夜のドイツ国民教育のもっとも勇敢
にしてもっとも徹底した主張者の一人として強調されなければならないOかれは、かれの幼寺由1
をかれの国民教育体系の一環としてみていた。ドイツ国民教育の忠恕は、かれの作品のいたると
ころで明瞭に認識されうる。その思想は『カイルハウ論文』にはじまり、 1848年の「現代のもっ
とも重大なる要求としてのドイツ国民教育-その根本特徴一一」 (Deutsche Volks-und Nationalerziehung, die wichtigste Forderung der Gegenwart; Grundziige derselben)と題する計
画においてその恵.由⊂達している、し岬O」 (傍点 筆者)
このケ-ニッヒの所見は、多少の誇張はあるが、フレ-ベルの諸論文を通読してみれば、なか
なかすぐれた指摘であるといっていい(11二,。しかし、かれは「フレーベルの国民教育思想は独銅勺
なものではないQ それはその哲学的な共起づけにおいてとくにシェリングやクラウゼやフィヒテ
に¥r.脚し、教授法の分野においてとくにペスタロッチに立脚し、目標設定ならびに教科およこで教
材の選択においてさらにフィヒテ、そしてとくに重要なことはヤーンに立脚している(12)」とあっ
さりかたづけてしまって、フレーベルの「国民教育体系」の体系的な分析を怠っている。この書
が3月革命前夜の国民教育思想に関する典型的な諸論文を掲載し、かれ白身はこれらの論文およ
び著者の簡単な解説をおこなうにとどめるという性格をもっている以上、あるいはやむをえなか
ったかもしれないが、それにしても「3月革命前夜のドイツ国民教育のもっとも勇敢にしてもっ
とも徹底した主張者の一人」としてフレーベルを強調する論者にしてほ、このようなかたづ:j-か
たは不十分だといわなければならないだろう。
わが国におけるフレーベルに関する研究労作において、かれの国民教育思想にふれた唯一のも
のとして小川il二行者「フレーベルの生涯及恩恵」 (目黒書店、昭和7年)があげられる。この書
において、小川氏はフレーベルの「教育原理」として7項目をあげ、その一つに「社会的人格的
陶冶」をあて、そこにおいてフレーベルはその本筋においては国民教育論者よりも人間教育論者
であるとしつつも、 「然しながら、彼は決して国家・国民と云ふ具体的関係を忘れたのではな
い。否- 彼は・.-I/ロコの教育は国民教育でなければならないとした(13)」(傍点-・・・筆者)と述べて
いる。だが、小川氏もやはりこのフレーベルの国民教育の恩想について「然らば即ち国民教育と
は何であるかO 彼は述べて居るO国民の本質から起る教育が国民教育である(14)」と指摘するにと
どまって、それ以上なんらの分析を行っていない。
ところで、これまでフレーベルの教育思想を「国民教育」の弟乱責から体系的に研究した労作が
ないということは、どういうことを意味するのであろうか。このことは、フレーベルの思想には
国民教育としての発想がなくて、かれの教育思想を国民教育の観点からうけとめることができな
い、ということを意味するであろうか。それとも、フレ-ベルの諸論文にはなるほど国民教書の
思想は断片的に語られているが、それはあまりにも断片的すぎあるいは恩し\っきにすぎて、およ
そかれの教育思想を国民教育の観点から分析し、かれの国民教育思想を体系的に再構成すること
が不可能である、ということを意味するであろうか。
前者の問題は、これまで述べてきたフレ-ベル研究家たちの所論からも否定されることは巧ら
かであるO とりわけ、いわゆる「カイル-ウ小論文」にはフィヒテ流の国民教育の思想が脈打っ
ていたということは、ほとんどすべてのフレ-ベル研究家の一致して指摘するところであるノ150
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フレ-ベルの国民教育論の研究CD C岩崎)
ところで、後者の問題についてはどうであろうか.なるほどフレーベルの論文には国民教育の思
想が体系的に語られた完全な論文はない1848年の「現代のもっとも重大なる要求としてのドイ
ツ国民教育--その根本特徴-」すら未完の手稿にすぎない。しかし、そもそもフレーベルの
教育思想が体系的に叙述されている論文があるであろうか。 K.辛-ルはつぎのように語ってい
る。
「われわれがある解釈をこの不完全な刊行史料にもとづかせようとあえてするのは、フレーベ
ルは決して体系的な思考家ではないという考量からおこってきている。かれの完結的な作品すら
も格言あるいは断章のよせあつめである。 ---かれは一つ一つの命題をならべ、これらの命題は
一つ一つまとまりをもって独立しており、これらの命題の論理的な関連にはほとんど関係してい
ない。ボーデ16ノやリンケ(17)によって刊行された章句の内的な関連のために、 (フレーベルの)日
記帳の完全な刊行ももはや寄与するものではないであろう。日記帳が完全に刊行された暁にも、
個々の命題の論理的な関連を構成する課題は依然としてのこるだろう(18)。」 (括弧内一一筆者)
「われわれは、 『人間の教育』 (フレーベルの主著 筆者)の導入部がフレーベルの哲学的思考
の、若干の命題に縮約される成果以外のなにものでもないということを、すでに示唆した(19二。」
このギ-ルの意見は、われわれがフレーベルの著作および論文をひもどく時、十分了解される
ところである。事実フレーベル自身のちに「日曜誌」 (Sontagsblatt)において、かれの主著「人
間の教育」について「この書は決して完結的な体系(ein in sich abgeschlossenes System)を
与えようと欲するものではない(20〕」とことわっているほどである。
このようなギ-ル的見地にたつならば、フレーベルの論文および著作にたとえ国民教育の思想
が断片的にしか述べられていないとしても、なおこれらの断片的な国民教育の論述からかれの国
民教育の思想体系をくみたてることができるということ、さらに一歩すすんで、くみたてなけれ
ばならないということが,示唆されるであろう。
そこで問題となるのは、フレーベルの国民教育に関する断章はごく一部分的なものにすぎない
のか、つまりごく一部分的な思いつきにすぎないのか、それともかれの主要関心の一つの表現で
あったのか、あるいはそれ以上に教育に関する最大関心事をなすものであったのか、ということ
である。その解決のためには、フレーベルの教育的生涯をドイツ国民教育思想をめぐる歴史的社
会的情況の検討の下に外的側面と内的側面とにおいて考察する必要がある。
(イ)外的側面からの考察
フレーベルの教育的生涯は、これまでの筆者の小論においてたびたび述べたようにC21二、 1805年
フランクフルトa.M.の模範学校の助教員となった時からはじまる。それまでは、フレーベルの自
伝的著述が切らかにしているように(22;、およそ教育について自覚的に考えていないのであるか
ら、厳密にみて、 1805年をフレーベルの教育的生涯のはじまる年、すなわち教育とは何かについ
て真剣に考えはじめ、それを実践にうつしはじめ、そこから自己の人生のあり方を律しはじめた
年ととらえていい。そして直ちにかれは同年の夏第1回のイヴエルドン訪問をこころみ、ペスタ
ロッチ教育法に魅了され、 1808年には再度イヴエルドンを訪問し、ペスタロッチ教育法にたいす
る理解を深めている。またかれはペスクロッテ教育法を祖国に導入せんとして、このイヴエルド
ンから1809年および翌年にかけて熱心にシュバルトブルク・ルードルシュタット公妃に建白して
いる。 1811年かれは教育者の仕事を辞し、古典語・博物・物理・化学を学び、教育および教授の
原則について信念をうるため、ゲッチンゲン大学に入り、その後新設のベルリン大学にうつるな
ど教育者としての資格を充実するために研究生活をおくっている。もちろんその間かれはプラー
フレ-ベルの国民教育論の研究(I) C岩崎)
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マンの学校に生活費稼ぎのために奉職したり、ドイツ解放戦争に志願兵として従軍したりはして
い蝣=?-
ところでこのように考えてみると、 1805年から1816年のグリース-イムにおける「一般ドイツ
教育舎」 (Die Allgemeine Deutsche Erziehungsanslalt)の開設にいたるまでの時期は、教育実
践をともないはしているが、主としてフレーベルの教育思想の形成期であるとみていい。そして
この時期こそは、ドイツにおいてはペスタロッチの教育思想とともに国民教育の思想が一冊を風
賛した時代である。
18世紀ドイツの思想界は啓蒙主義が支配し、それを基調として幾多の教育学的著作が出版さ
れ、いわゆる「教育学の世紀」 (padagogisches Jahrhundert)とまで称されたほどであった。と
りわけ18世紀後半においては、 「市民の教育」 (Erziehung des Burgers) 「公教育」 (offentliche
Erziehung)・「国家教育」 (Staatserziehung) 「民衆学校」 (Volksschule) 「国民教育」 (Nationalerziehung)などの名の下で国民教育の思想的試作がくわだてられた。これらの思想的試作は、
フランス絶対主義時代の国民教育思想、とくにL.-R.C.d.ラ・シャロッテーの「国民教育論丁
別名、青少年のための教育計画」 (Essai d'さducation nationale, ou plan d'etudes pour la jeunesse)からの影響をうけ、また1717年の義務教育令(Erlaβ vom 28. Septem. 1717. Verordnung,
daβ die Eltern ihre Kinder zur Schule und die Prediger die Catechisationes halten sollen)蝣
1736年の教育令(General Schulplan oder Principia regulativa vom 30. Juli 1736)・1763年の
「一般地方学事通則」 (General-LandschuトReglement vom 12. August 1763)蝣1765年のカト
リック派学事通則(Konigliches General-Landschul-Reglement fiir die Romisch-Katholischen
in Stadten und Dorfern des Herzogtums Schlesien und der Grafschaften Glatz vom 3. Nov.
1765)など、一連のプロイセンの民衆教育政策にあらわれているように、ドイツ諸邦の絶対主義
的国家権力によるそれぞれの韻邦における国民教育体制の整備・再編・強化を背景としつつ、そ
れより一歩先んじた国民教育のありかたを描きだしたものであった。これらの思想的試作者たち
は市民階層の立場にたち、当時拾頭し興隆しつつあった産業資本主義の諸要求をかれらの計画の
中にとりいれ、その実現をはかる教育案を構想したのであった。
たとえば汎愛主義者の先駆とみられる M.ェーラースは、すでに1766年「学校の改善に必要な
諸要求についての所見」 (Gedanken von den zur Verbesserung der Schulen notwendigen
Erfordernissen)をかき、教会権力による学校支配を排除し、国家権力による公教育制度の整備を
もとめ、中央に高等教育会議を組織し地方に教育監督局をおくことを提案した'23二。 1768年「学校
と学術、およびそれらの公の福祉におよぽす影響について人類の友ならびに有産者にたいする提
言」 (Vorstellung an Menschenfreunde und vermogende Manner uber Schulen, Studien und
ihren Einfluβ auf die offentliche Wohlfart, mit einem Plan des Elementarbuchs des mensc-
hlichen Erkenntnis)を公刊して「ドイツの教育学分野における偉大な市民的改革運動の一部た
る汎愛主義の歴史的発端をつくった」 J.B.バゼド-は、同書においてまた1770年の「家庭の父母
ならびに国民のための方法書」 (Das Methodenbuch fur Vater und Mutter der Familien und
Volker)において、エーラ-スの教育管理の世俗化の思想をうげっぎ、 「公立学校は、市民およ
び住民のための国家の福祉行為(Staatswohltat)でなければならない。しかしいかなる強制もお
こなわれてはならない。」と述べ、国家の教育監督機関として「教育・学術局」 (Edukations-und
Studiencollegii)を設けることを提議した。さらにかれは公教育制度の整備のために、農民や職
人など「大衆の子弟」 (Kinder des grtiβten und achtbarsten Haufens)のための「大衆学校」
フレーベルの国民教育論の研究(D (岩崎)
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(groBe Schulen)と貴族をふくむ「上流市民の子弟」 (Kinder der vornehmern Burger)のた
めの「少数者学校」 (kleine Schulen)とを提議し、この「少数者学校」に立脚する上級学校と
して「ギムナジウム」・「アカデミー」を構想した。また「大衆学校」では、 「教養ある幸福な国
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° t ° ° ° 4 ヽ ° ° ° t
民において農民や職人の多数の身分の者にも欠くべきでないすべての知識の教授」 (傍点・-・-筆者)
として読み.書き・算・「大衆にふさわしい遺徳」・大衆の信仰の土台となり、 「それ以外の場合
にもかれらの家庭生活や職業にとって有用であり、なくてはならない限度での、魂や自然の秩序
についての知識」t「国法の限られた知識」が教えられ、また授業時数の半数は「肉体労働の訓
練」にあてられるべきであるとするなど、全く階級的な国民教育制度を描きだしたのである(24)。
また、 F.G.レ-ゼヴィッツは1773年「健全な悟性の使用および公益的な職業活動をめざす市民の
教育」 (Die Erziehung des Burgers zum Gebrauch des gesunden Verstandes und zur gemeznniitzigen Geschaftigkeit)をかき、ついで1786年には「公教育改善のための考え、提案および
希望」 (Gedanken, Vorschlagen und Wiinschen zur Verbesserung der offentlichen Erziehung)
誌に「国民教育および公教育制度の有効な整備について」 (Uber Nationalerziehung und zweckmiiBige Einrichtung des offentlichen Erziehungswesens)を発表し、国民教育思想を展開した
が、それは農民階級には「農業学校」 (Ackerbauschule)を、職人階級には「手工業学校」 (Handwerksschule)を、大商人.芸術家..船主.大製造業者・大地主などの「教養ある実業市民階
級」には「大教育所」 (groBere Erziehungsanstalt)を設けるべきであるとする、バゼド-の構
想とそれほど本質的には大差のない、封建的な身分制度を温存し、一般的には「知的にして善良
な人間および従順な市民の教育」をめざす、職業階層別の国民教育制度の提案をふくむものであ
ったし25)。
ところで、 17894封こはじまったフランス大革命はドイツに、とりわけその思想界に甚大な影智
をおよぽしたのであるが、教育思想界もその例外ではなかった。フランス革命議会にあいついで
上程された様々の国民教育案やその時期の教育論は、ドイツのこれまでの階級性および有用性を
光軸とする国民教育の思想を大きく転回させ、自由および平等を基軸とする国民教育の思想へ発
展する契機を与えたのである。
たとえばK.L.F.ラッハマンは1790年「ドイツの各々の特殊な人間階級にのぞましい教育と啓蒙
についての一般的理念」 (Allgemeine ldeen tiber die einer jeden besonderen Menschenklasse
Deutschlands zu w迫nschende Ausbildung und Aufklarung)をかき、ここにおいて」分業によ
る個々の職業の分化の進展を認識し強調し、個々の職業のために伝達されるべき一定の知識や技
純を分類しようとこころみ(26)」、レーゼヴィッツと同じくそれぞれの職業階層に応じた学校制度
を構想しているが、しかしレ-ゼヴィッツとは全く異なってそこでは梯子制の統一学校制度のこ
ころみがなされている。ラッ-マンによれば、第1段階の学校は農民および都市下層民の子弟の
ための学校であるが、同時に他の階層の子弟も就学しなければならないという「ドイツのすべて
の児童によって就学されうる基礎学校」であり、また第2段階の学校は中産階級の子弟のための
学校であるが、同時に教養階級の子弟が第3段階の学校に入るためにはここを通らなければなら
ない学校でもあるのである(27)。
世襲隷属農民をもち、またかれらにたいする裁判権をももっていた啓蒙主義的大飯主F.E.V・ロ
ヒョ-は、 1772年農村学校の教師用書として「農民の子どもたちのための、あるいは村落学校で
の利用のための教科書の試み」 (Versuch eines Schulbuchs fur Kinder der Landleute oder
zum Gebrauch in Dorfschulen)をかき、ついで翌年農村学校の児童用教科書として「農民の友」
フレ-ベルの国民教育論の研究(I) C岩崎)
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(Bauernfreund)をあらわし、自領土内の農村学校の改善に尽力した。このような学校改善の実
際的な試みを理論的に集大成したものが、かれの主著「民衆学校によって国民性を」 (Vom Nationalcharakter durch Volksschulen, 1779)であるO かれは農村学校において農民の子どもに農
村生活および農業活動に関する知的な理論的な教授をほどこすことによって、まことに啓蒙領主
にふさわしく、絶対的な服従の精神をもった農民とともに健全な生活を営む有用な農民を育成し
ょうと思ったのである。ロヒョーが「民衆学校によって国民性を」において述べた、民衆学校に
おける「国民的教授」 (Nationalunterricht)によって養成せんとした『すぐれた国民性』は単に
統治者-の心からの服従や寡欲ということにおいてだけでなく、なかんずく『土地と状況の賢明
な利用によって』 『できるかぎりの経済上の究極目的』が達成され、それと共に『繁栄と富と充
実とが国土の到る処に拡大される』ことにおいて証明される(28)」 (傍点-・-・筆者)ものであった。し
たがってこの時代においては、 「農民をその社会的束縛から解放するという思想はかれには全く
縁遠い(29)」ものであったo Lかしかれがフランス革命後の1800年に発表した「一般的な学校計画
の試み」 (Versuch eines allgemeinen Schulplans)は、全児童の就学すべき義務教育学校「児
童学校」 (Kinderschule)- 「指導的な商人、製造業者、学者および官吏」など上級職のための教
育をほどこす「青少年学校」 (Junglingsschule)-大学、という首尾一貫した統一学校制度を構想
したものであった(30)。そしてそれは、 「国家におけるもっとも高貴なる人間の頑是ない、きたな
い子どもは、もっとも下層の子どもとすべての関係において同じである。もっとも高責なる家庭
の子どもといえども r?tの代りにルビーや真珠などの乳頭』をのみこむものではないO .・--かれ
の身分は子どもの身分である。このような子どもに、かれは一個の人間以上であると早くから教
えこむ遺徳的毒殺者にわざわいあれ。もう一度いうが、子どもたちは若き、小さい人間以外のな
にものでもない。身分や価値において、それ以上でもそれ以下でもない(31)」と叫ぶロヒョーの平
等思想にささえられていた。
1796年バリーのアカデミ-会員におされたP.ヴィロームは1793年「『アテネ人たち、スパルタ
人たちおよびローマ人たちのもとでの公教育は何を本質としているか、この比較からわれわれの
風俗およびわれわれの政治組織にふさわしい計画がとりだされうるか』という諸問是酎こついての
論文」 (Abhandlung iiber die Frage:,, Worin bestand bei den Atheniensern, den Lacedamoniern
und
den
Romern
die
offentliche
Erziehu工ig?
Kann
aus
der
Vergleichung
ein
Plan
ge-
nommen werden, der zu unseren Sitten und unserer Regierungsverfassung paBt?")をかき、
万人の平等思想にもとづいて「7才から14才までのすべての子どもが同じ学校に就学すること、
この学校においては人権の教授が遺徳教育の基礎であること、子どもたちはすでにこの学校にお
いて民主々義の規則にしたがって生活すること、軍事教練においてまた後には軍務において仕立
屋の件が王子とならんで歩哨に立ち、両者は相互に交代すること(32)」を主張した。
また、フランス革命勃発とともに師J.H.カンペと一緒に「フランス専制政治の葬儀」に参列す
るためにフランスに急行したW.v.フンボルトは、 1792年の「国家の活動の限界を規定すべき一つ
の試みにたいする理念」 (ldeen zu einem Versuch, die Grenzen der Wirksamkeit des Staates
zu bestimmen)の第6章「公的国家教育について」 (Uber offentliche Staatserziehung)におい
て、 「強制と利己心とをもって外から働きかける力にはかならない」現在の国家権力の教育にた
いする介入をきびしく拒否し、 「教育は自由な私的事業である」べきだとした(33)大哲学者I.カ
ントも、1803年かれの弟子F.T.リンクによってまとめられた「教育学について」(Cber P云dagogik)
において、 「1・親たちは一般に自分の子どもが立身出世することだけしか配慮しない。また、 2.
98
フレーベルの国民教育論の研究CD (岩崎)
君主どもはかれらの臣下をかれらの意図の手段としかみない」という理由によって、子どもの教
育を家庭にまかせっぱなしにすることも、また国家権力に教育への介入を許すこともきびしく禁
じ、 「私的なもっとも開明された知識人」 (aufgeklarteste Kenner)による事業として教育がい
となまれることを推奨したlこ34)。
このような発展をふくむ18位紀後半の「この教育学的運動において、汎愛主義者たちとかれら
-の傾倒者たち(K.F.バールト、 JB.バゼド-、 J.H.カンペ、 J.Ch.F.グーツムーツ、 J.G.シュヴ
ァイクホイゼル、 J.F.シモン、 E.Ch.トラップ、 P_ヴィローム、 C.L.F.ラッパマン、 F.G.レ-ゼヴ
ィッツ、 F.E.v.ロヒョ-、 H.Ch.ア-ルブレヒト、 H.F.ヂ-ツ、 F.G.v.ゲッセル)が、また詩人や
文筆家や哲学者たちのうちとくにJ.G.-ルデル、 F.K.v.モーゼル、 W.v.フンボルトが、さらに
『国家教育案』 (Staatserziehungspl邑ne)の起草者たちのうちとくにK.H.L.ペリッツ、 H.シュテ
ファニー、 Ch.D.ボス、 K.S.ツアカリア工が傑出した役割りを演じたlL35)」のであるO
これらの国民教育思想は、 19世紀にはいると、ナポレオンにひきいられたフランス軍のドイツ
占領という民族の危機的情況によって、ドイツ民族の自由・独立と統一という切迫した理念を前
面にかかげ、新人文主義の「人間性」 (Humanitat)を基調として一段と声高く叫ばれ、一段と
質的にも発展してゆくことになった。このような国民教育思想が主張されたものとして、 「J.G.
フィヒテの案(Reden an die deutsche Nation, 1808 「ドイツ国民につぐ」)のほかに、さらに
F.L.ヤーンの案(Deutsches Volkstum, 1010 「ドイツ国民性」 )・R.B.ヤッハマンの案(Archiv
deutscher Nationalbildung, 1812 「ドイツ国民教育文庫」 )蝣W. -ルニッシュの案(Deutsche
Volksschule, 1812 「ドイツ国民学校」 )・J.Ch.F.グ-ツムーツの案(Uber vaterlandische Erziehung, 1814 「祖国教育について」 )・J.ヒルレプラントの案(Liber Deutschlands Nationalbildung, 1818 「ドイツ国民教育について」 )や、 K.シュ,・才イン男爵、 W.v.フンボルト、 E.M.アルン
ト、 F.D.E.シュライエルマッヘルおよびその他沢山の人々の著作の下で散見される国民教育に関
する意見があげられよう(36)」。
フィヒテ、ヤーンおよび-ルニッシュについては後に詳細に述べるので、この時期のEg民教育
思想家としてヤッ-マンおよびK.フォレンをとりあげてみよう。靴屋の件として生まれたヤッ
ハマンはカントの愛弟子であったが、 1801年ダンチッヒの私立学校Conradinumの初代校長とな
り、教育的生涯に足をふみいれたCかれは1809年「国民教育案」 (Entwur土zur Nationalbildung)
をかき、独立の最高の教育官庁によって指導され監督される、男女共学の学校制度を構想した
が、それはなお職業階層別の学校制度であった。しかし1812年にあらわれた「ドイツ国民教育文
庫」は巻頭にフィヒテの肖像をかかげ、フィヒテらによって協力編集されるなど、フィヒテの国
民教育思想の強い影響の下に成立したものであった二37)。それにヤッ-マンは「国民教育学のため
の理念」 (Ideen zur Nationalbildungslehre)、 「国民学校」 (Die Nationalschule)、 「教育におけ
る個性の顧慮-理想的教育学の原理にもとづく検討-」 (Die Beriicksichtigung der Individualkat bei der Erziehung, nach dem Prinzip einer idealischen Erziehungslehre gepruft) 、 「国
民教育の本質」 (Das Wesen der Nationalbildung)の4論文をのせ、第2論文の結びにおいてつ
ぎのように主張し、 18才まですべての児童がこの「国民学校」に就学すべきであるとし、 1809年
の論文をはるかに超脱している。
「一国民の中に分裂精神を養う、身分や職業のための異なれる学校を除去せよ。いわゆる学者
学校と非学者学校を除去せよ。ギムナジウム、上級市民学校および下級市民学校、その他それに
類する学校を除去せよ。一つの人類のみが存在する。一つのドイツ国民だけが存在するのだ。だ
フレ-ベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
99
から,一つの国民学校(Nationalschule)のみが存在しなければならないのだf38 。」
またドイツ学生組合の急進的な指導者であり、革命的な学生組合の分派「ギ-セン黒色党」を
結成したK.フォレンは、 1818年兄A.A.フォレンとともに共同作成した憲法草案において「学校は
国民的である。それは、とくに国家におけるすべての身分のものが平等な青少年教育をうけるこ
と、また市民および農民階級と学者および官吏階級との対立がなくなることをめざす。ある地域
のすべての子どもたちは、かれらの親がどのような身分であろうとも、例外なく同じ教授施設に
就学する。かれらは、 8才から16才までこの学校にとどまらなければならない。」と述べ、この万
人就学の義務教育学校のカリキ_,ラムとして、キリスト教・自然科学・祖国史.祖国地理・ドイ
ツ語およびドイツ文学・空間および時間の学・読み方および書き方・音楽・体操・工業・農耕お
よび園芸をあげている。フォレン兄弟はこの国民学校の上に「学者学校」 (gelehrte Landesschule
またはgelehrte Reichsschule)を構成し、 「これらの学校に就学することは、将来官吏または
学者になろうとする者だけの義務である」とし、 2種の学校からなる徹底した統一学校制度の樹
立を期待した。またかれらは各学校における生徒の自治的組織の結成による自治生活を強調し、
とくに「学者学校」においては「学生組合」 (die Burschenschaft)が培成されるべきものとし・
「学生組合は、それ自身に対する立法権をもった純粋な共和国である」とした。(39、,これらの主張
のほかに、解放戦争時代におけるドイツ国民教育思想のほぼ共通な面として、国民的危機に対処
し民族解放を達成するための直接的準備としての体操および軍事教練の学校への導入があげられ
なければなるまい(40二・。
フレ-ベルの教育思想の形成期がちょうどこのような近代的な国民教育思想の形成・転回・発
展の時代にあたっていることは、かれの教育思想が国民教育思想となんらかの関連をもっている
こと、あるいはかれの思想に奥深く国民教育の思想が刻印されていることを推定せしめるもので
f、
フレ-ベルがかれの多難な生涯を終るのは1852年である。かれの死は、かれの教育に関する思
想と実践の発展が最後にたどりついた幼稚園運動がプロイセンをはじめとする反動化した絶対主
義的国家権力よって「無神論」とか「社会主義」とかのレッテルをはられて禁止されるという、
弾圧の中での失意の死である。したがってフレーベルの教育活動の最後の時代は、 1851年プロイ
セン政府によって幼稚園の設立が全面的に禁圧される前の才月ということになろうO とすれば、
フレーベルの最後の活躍の時期は、 1848年の市民革命の前後ということになろうO実に、拙稿
「Frobelをめぐる教育と政治の問題」においても明らかにしたように〔41--、この市民革命に際し
てフレーベルは7月17日フランクフルト大学の歴史学教授であり、革命勢力におされてフランク
フルト国民議会の議員となったK.バーゲンあての手紙において、 「私の教育上の行動をそのもっ
とも深い中核において御検討下さい。私は成人して以来、共和国のために、共和国をめざして教
育し陶冶しております(42二,」 (傍点--・・筆者)と述べ、革命勢力のなかでも立憲君主政体の樹立を主
張する多数穏和派「自由主義者」 (die Liberalen)よりもドイツ連邦共和国をとく少数急進派「民
主々義者」 (die Demokraten)の路線に立つことを明らかにし、ドイツ全土の各地において開か
れていた教員大会に呼応して、自ら教員たちに、とりわけ革命勢力の中核を形成していた庶民学
校教師たちにわかわかしい情熱をもって呼びかけ、同年8月17Eiから19日にかけてルードルシュ
タットに教員大会を開催し、幼稚園の普及およびそれにたいする公的な援助をもとめる運動を精
力的に展開したのである。
またこの1848年の革命期は、民衆が、つまり進歩的な学者や教師や労働者たちが個人的にまた
フレ-ベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
son:
集団的にいろいろな民主的な教育要求を国民教育の名の下に主張した時代であった。それはまこ
とにドイツ教育史上古今末曽有といっていいほどの、 pFからの国民教育の思想の高揚の時代であ
ss
たとえばパームの進歩的なギムナジウムの校長F.カップは「ドイツ国民教育改革のうったえ」
(Aufruf zur Umgestaltung der deutschen National-Erziehung, Arnsberg 1848)をかき、 「教
員階層はつぎのことを要求する。民衆学校が下級の聖職者の独占的な管理から解放されること、
ギムナジウムや教員養成所やあらゆる種類の高等市民学校および職業学校が上級の聖職者の共同
監督から解放されること、大学がそれ自身の神学部の宗教裁判から解放されること、全教育制度
を司る上級のまた最高の学校官庁が法律家と行政官との共同管理から解放されることを(43)」と述
べ、すすんで「全ドイツ教員階層は---最下層の学校監督官から地区・郡・州・中央の学校官庁
を通じて文部大臣にいたるまでの、これらの機関が、かれら自身のなかから選ばれて構成される
べきことを要求している(44)」と語り、 「このために、文部省(Unterrichtsmiiusterium)は宗教省
(Ministerium der geistlichen Angelegenheiten)から全面的に分離されるべきである(45)」と主
張している。またG.タウロウは「国民教育案」 (Plan einer Nationalerz'ehung^Kiel 1848)にお
いて、 「・--理性が国民教育を要求しているのは、明々白々だ」と断じ(46)、 「5才から10才ある
いは12才まですべての子どもたちは、例外なくまた性の差別なく同一の学校に就学する」とい
う、統一的な「国民学校(ォ)」 (Nationalschule)および教授の無償性(48)を要求している Th.へ
-ゲネルも「民主的および国民的視点からみた教育問題」 (Die Unterrichtsfrage vom demokrat三schen und nationalen Gesichtspunkte aus, Essen 1848)をかき、 「国家の統一と力とを考慮
すれば、教育は必然一的に国民教育でなければならない(49)」と述べ、教育における自由放任主義を
「自由競争はかれらのための(教育)独占以外のなにものでもない」ということを知っていての
上での主張だときびしく論難し(50).平等な公教育制度を要求している。
これらの国民教育の要求は、個々の著作に限らず、労働者の要求として、また教師、とくに民
衆学校の教師の要求として集団的にだされていた。たとえば1848年8月に開かれた、後の「全ド
イツ労働者会議」 (Allgemeiner deutscher ArbeiterkongreB)の母体となるフランクフルト職人
会議は、何人も身分や信条によって差別されることなく初等教育をうけうる健俗的な公立国民学
校を要求しているし、また1848年8月23日から9月3日までベルリンで開かれた労働者会議にお
ける決議には、健俗的・統一的な無償の、 5才ないし8才から14才までの児童を対象とする公立
国民学校、住民の教師任用権、教師出身の専門家による学校の監督行政などの諸要求がふくまれ
ていた(.51)
さらにこの革命期には教員大衆の要求にもとづいてドイツ全土いたるところで郡または州単位
の教員会議-その一つとしてプレ-ベルの召集したルードルシ3.クットの教員会議があげられ
る-が開かれ、教員の要求が集団的組織的にうちだされているが、それらの要求の中には国民
教育の思想が脈打っている(52)。たとえばシ.1レジアの教員会議は、「民衆学校は、統一的な、独立
的な学校にまで競合されなければならない。この国民学萩は国民的施設(Nationalanstalt)であ
るべきである(53)」と提議しているし,ブランデンブルクの教員会議は、 「国家はプロイセンのす
べての子どもに、一般的な人間的・市民的および国民的教養(allgemeinen Mensch-, Burgerund NationaLBildung)に必要な教授を保障すべきである(54)」と提議している。後者の提議は
そのまま、 F.A.W.ヂーステルヴェ-クやF.カップに指導される21人の教員出身の下院議員によ
って、カンプハウゼン内閣のプロイセン憲法案にたいする修正意見として、いわゆる「23ヶ条の
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
101
提議」の第2条にそのままもりこまれたのである(55)。
これらの教員会議にかんしてとくに注目されるべきことは、フレーベルとの関係であるCすで
にフレーベルが自ら教員会議を召集したことは述べたが、そこではいろいろな批判をうけながら
も、 「フリ-ドリッヒ.フレ-ベルに対する雷鳴のごとき万才でもって、この教員大会は幕を閉
じた(56)」というような有様であったOまたルードルシ,.タット教員会議の厄前の8月3日から6
日にかけてドレスデンにおいて開かれた第2回ザクセン教員会議にはほぼ900人の教員が参加し
たといわれているが、この会議はフレ-ベルの幼稚園運動を支持し、 「一般的な国民教育施設
は、 1.幼稚闇(Kindergarten) (6才まで)、 2.児童学校(Kinderschulen) (6才-14才)、 3・青
年学校(Jugendschulen) (14才∼17才)、 4.補習教育会(Fortbildungsvereine)(17才-21二打で
ある(57)」と述べ、フレーベルの主張する「幼稚開」を統一的な国民教育制度の土台として要求し
ている。この会議では、さらにK.F.W.ヴァンデルの起草した「仝ドイツ教員組合」(Der Allgemeine Deutsche Lehrerverein)結成のためのアッピ-ルが配布され、全ドイツ教員の中央組
織の組織づくりがはじめられた。やがて同年9月28日から30日にかけてドイツの全教師に招請が
だされ、アイゼナッ-で「全ドイツ教員組合」の結成大会が開かれた。この大全の席上において
これまでの各地の教員会議の諸要求を集約する「将来の学制の根本特徴」と題する決議が採択さ
れたのであるが、それには冒頭に「幼稚園から大学にいたるまで統一的に組織され、共通の人間
的-国民的基礎にもとづくドイツ国民学校は、他の国家施設と同じ権利と同じ義務とをもつ施設
として国家の全組織の一部である(58)」 (傍点・--・筆者)と宣言されている。この宣言が「託児所」
(Kleinkinderbewahranstalt)とか「幼児学校」 (Kleinkinderschule)とかその当時様々に用いら
れていた幼児教育施設の名称を使用せずにフレーベルの主張する「幼稚園」 (Kindergarten)を
用いていることは、そこにはっきりと「全ドイツ教員組合」のフレ-ベルの幼稚聞運動に対する
積極的な支持が表明されているといっていいし、またかれの幼稚園運動が「全ドイツ教員組合」
の教育要求と異質のものではないということを立証しているものであるといっていいだろう。こ
のように考えてみると、フレ-ベルの教育的生涯は2つの国民教育思想および運動の全盛時代に
はさまれた谷間の中の生涯であったわけである。そしてこの2つの国民教育思想および運動の流
れの巾にフレーベルがかなり深く足をつっこんでおったことは、つぎの考察においてさらに明ら
かにするように、フレ-ベルの教育恩憩を大きく国民教育の方向にむけるものであった、という
ことができるであろう。
(口)内的側面からの考察
1827年にかかれたマイニンゲン公あての手紙の草稿において、フレ-ベルはフランクフルトの
模範学校の助教員となる直前自由主義的な愛国的歴史学者E.M.アルントの「ゲルマニアとヨーロ
ッパ」 (Germanien und Europa, 1803)を読み(59)、この書物が「私に人間を偉大な歴史的関係
において教え、人生一般を一つの全体として私の前に解示し、そして私自身を私の民族とそして
同時代人とに結合した(60)」 (傍点--・筆者)と述べている。これは、アルントの論文を契機として、
フレーベルが歴史の重みをもった民族に自覚をもちはじめるにいたったことを示すものであるO
しかしフレーベルのこの民族的自覚はそれほど意識的なものではなかったし、深いものではなか
った。無意識のうちに民族的自覚の土台がきずかれはじめていた、というほどのものであったに
すぎない(61)。
このまだあまり深くないまた明確な意識となっていない民族的自覚は、フレーベルが子どもた
102
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
ちの教師になって子どもたちをどういう方向にむかって形成したらいいのかという問題に現実に
直面し、それを掘り下げていった時、より明確なものになってゆかざるをえなかった。また1813
年の解放戦争の渦まきの中でそれに自ら身を投ずることによってかれの民族的自覚あるいは国民
的自覚は決定的なものとなった。したがってこのアルントの著書の一節がふたたびかれの頭の中
に浮んできて、 1822年の論文「ドイツ的教育一般について-一とくにカイル-ウ教育合の一般的
ドイツ的なものについて-」 (Uber deutsche Erziehung uberhaupt und iiber das allgemeine
Deutsche der Erziehungsanstalt in Keilhau insbesondere)においてつぎのように述べられて
いる。
「この信念は、ドイツ人として定評のあるドイツの文筆家が最近語ったところの見解、真のド
イツ的性格、すなわちゲルマン主義-当時そういわれたI-はドイツ国土に結びつけられたも
のでもなければ、ドイツ民族に結びつけられたものでもなくて、真のドイツ的性格(ゲルマン主
義)はもともとあらゆる国土において、あらゆる民族の間に存在している、また存在しなければ
ならない、もっとも純粋な人間性の実矧こむかう努力であるという見解、とも全く一致する(62ニrJ」
ここでは、アルントの民族思想がフレーベルの民族的自覚をさらに一段と高いところ-おしす
すめ、民族性を人間性においてとらえること、したがって偏狭な民族主義を克服するところにま
でたかめている。
アルントの「人間の教育にかんする断章」 (Fragmenten iiber Meヱischenbildung, 1805)が出
版されるや直ちに、フレーベルはこれを買いもとめてむさぼり読み、 「この苦は、当時全く私の
本性と意志とそして念願とにかなっていた。私の心の中ではなればなれになっていたものが,こ
こではよりよく組織されているのを、私はみた。私の心の中でまだ意識されずにあったものが、
この書によって意識にまで高められた。当時、私はこの書を教育の聖書(Bibel der Erziehung)
であると考えた"蝣J (傍点-・-・筆者)と述べている。このことは、第1に、フレーベルがいかに真
剣な注目をアルントにむけているかということを明らかにするものであり、第2に、この書がフ
レーベルにいかに大きな影響を与えたかということを証明するものである。かくてフレーベルは
かれの知りえた限りでのアルントの人格や思想から大きな影響をきっとうけたであろう。
1812年ナポレオンがライン同盟諸邦から徴募した15万のドイツ兵をふくむ40万の大軍をひきい
て長路ロシアをついた時、当時ペテルスプルクで祖国ドイツの独立のために活躍していたシュタ
イン男爵がドイツ兵士にむかって「汝らドイツ人よ、隷属の旗の下を去り、祖国と自由と国民的
名誉の旗の下に集まれ」と呼びかけたのであるが、それに呼応してかれの片腕であり自由主義的
な愛国詩人であり歴史学者であったアルントも、ナポレオンのドイツ昧閥に抗して熱烈な愛国詩
および政治的論文をかき、 「いかなる支配も権力も高貴にして自由な人間を恥ずべき不正な行い
に強制しえぬことこそ、真の兵士の名誉である。 -・-国土と人民は不死永遠であるが、王侯はそ
の栄誉も恥辱もさながらに過ぎ去りゆくべきものと衷心から感ずること、これがドイツ兵士の名
誉である(64)」とうったえた。
このようなアルントの愛国的情熱および思想が、かれを尊敬しかれに注目していたフレーベル
に影響をおよぽしたことはたしかである。ちょうど教育恩想の形成期にあったフレーベルにとっ
て、アルントの愛国的思想はフレーベルの思想の形成にくいこんでいったであろうし、またアル
ントの情熱はフレーベルの情熱となったであろう。だからこそフレーベルは1813年の解放戦争に
は義勇軍に志願したであろうし、また1822年の論文にアルントをあげたであろう。かれはアルン
トを通じて国民的自覚をもち、愛国的思想を形成し、偏狭なドイツ民族優越主義から脱して、民
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
103
族の根本的性格に「純粋な人間性の実現にむかう努力」を認め、他民族の尊重をも伴う民族主義
の思想を展開することができたのである。
この民族的自覚の点で、 「ドイツ体操」 (die deutsche Turnkunst)の創始者F.L.ヤーンの影響
も見逃すことができないであろう。 1828年にかいた哲学者K.C.F.クラウゼあての手紙において、
フレーベルはヤーンの紹介で1813年4月リエツツォー義勇軍に入隊したこと、またここで後にフ
レーベルの片腕の一人となったH.ランゲタ-ルに紹介されたことを述べている、65)。
この直前、つまりフレーベルがゲッチンゲン大学からベルリン大学に移った1812年、かれは自
分の生活費をかせぐために当時プロイセン政府から格別の保護をうけていたペスタロッチ主義の
学校、 J.E.プラーマンの学校に奉職した。当時この学校には、ヤーン、後にリュッツォ-義勇軍
に参加し解放戦争において若くして戦死したF.フリーゼン、 c.w.-ルニッシュを中心とする教
師たちによって、祖国ドイツの解放と統一とを擁護する「ドイツ同盟」 (Deutschen Bund)が結
成されていたO ヤーンと個人的な接触をもち、後にこの同盟の会員たちが中心になって結成した
り_1ツツォー義勇軍に入隊することになったフレ-ベルが、この「ドイツ同盟」に加入していた
か、なんらかの関係をもっていたのではあるまいかということを推量させるものである。ともあ
れ、フレーベルが、自らはこの学校での「仕事は・・-・・私の努力に対して何等積極的なものを与え
なかった二66)」と述べているにもかかわらず、この学校のまたヤ-ンたちの愛国的な国民主義の雰
囲気および思想から決定的な影響をうけたことは否定できないD
ヤーンはすでに1800年「プロイセン国家における愛国心の促進について」 (Uber die Beforderung des Patriotismus im preuBischen Reiche)をかき、フレーベルと知り合う直前の1810年
にはかれの主著ともくされる「ドイツ国民性」 (Deutsche Volkstum)をかいて「国民教育」
(Volkserziehung)の思想をといている。 「国民教育は、通俗的大衆的教育方法(eine volksm'aBige, volkstumliche Erziehungswe三se)とは全く別の、またそれより一段と高いものである。
---国民教育は国民性のための教育、国家制度のためのたえざる働き、つまり国民をその人間的
6
な根源性において保護する崇高な保護者である(67)」と断じて、ヤーンはその当時の民衆学校また
は庶民学校(Volksschule)的な教育を「国民教育」と解することを斥け、人間性を基調とする
国民性のための教育を「国民教育」と解した。つまり「真の人間、すなわち理性的に考え、人間
的に感じ、自主的に行動する人間をめざす教育(68リ(die Erziehung zum wahren Menschen, zu
einem verniinftig denkenden, menschlich fuhlenden und selbsthandelnden Wesen)を「国民
教育」の中核を構成するものと解したのである。さらに愛国者ヤーンは、当時ドイツ諸邦がフラ
ンス軍隊の占領下におかれている歴史的現実を反映して、このような入道的な「国民教育」に
「将来の祖Eg防衛者の育成(69)」 (Vorarbeit fiir kunftige Vaterlandsverteidiger)を期待し、 「こ
のようなドイツ国民教育の効果は、すべての善が国家の限界をこえてひろがり、国家の存続をこ
えて生きつづけるように、無限であるだろう。市民は国家とともに・国家を通じて・国家のため
に・国家において感じたり思考したりかつ行動したりするようになるだろうO 市民は国家および
民族と生活において苦しみや愛において一体となるだろう`70)」と語り、在来の学校に比してとく
に新しい教科として「国家学」 (Staatskunde)と多彩な「体操」 (Leibesiibungen)とをすべて
の種類の学校にみちびきいれ、それらを必修教科とするように提案したのであった(71)0
またヤーンが「匡】民教育」の名の下に構想した学校体系は、 「市町村立および教区立学校」
(Gemeinde-und Kirchspielsschulen) - 「郡立学校」 (Kreisschulen) - 「州立学校」 (Marksschulen) - 「大学」 (Hochschulen)であった。 「市町村立および教区立学校」は読み方だけを教
104
フレーベルの国民教育論の研究CD C岩崎)
え、 「郡立学校」は読み方・算数・図画を教えるものであり、両学校については自ら教授を企て
るか、家庭教師をやとう家庭の子どもたちは就学が免除される、としている。 「州立学校」は
「古典語学校、つまりリセ-やギムナジウムやペグゴキウムやアカデミ-等々に代る」ものであ
り、これには「将来農業人・商人・技術者・海員・将校・教師・学者・官吏になろうと考えてい
る者はことごとくすくなくとも2、 3ヶ年就学しなければならない」とし、その学校の中に神学、
法学、商業、林業、農業等のコースを用意すべきである(72)、と述べている。このような学校体系
は、不完全なものではあるが、一応は統一的な国民教育制度と呼んでいいであろう。
それにもかかわらず、ヤーンのこの国民教育論には、ケ-ニッヒがこの時代の国民教育論の一
つのタイプとして描きだした保守的な「プロイセン的ドイツ国民教育:?3)J (preuBisch-deutschen
Nationalerziehung)に堕する傾きがあったことは、みとめられなければならない。かれが「ドイ
ツ国民よ、汝の古き君主一家を臆病のために裏切るようなことなかれ(74)」と叫び、 「身分は国民
の単なる自然的分化である。それゆえに、身分は作為されすぎてはならない」と述べ、身分問の
「自由移動」を強調しつつも(75)、なお在来の君主権力の下での身分制度を認めたこと(76),このよ
うな社会観の下に「市町村立および教区立学校」や「郡立学校」への就学を、別途に学習の機会
をもちうる子どもたちには免除し、このことによってこれらの学校を実質上「下層身分の者た
ち」だけのものにしたこと、また「青少年時代における全国民の、つまり君主の子弟からE]傭い
の件にいたるまでの手労働の一般的な学習」をとなえながらも、とくに「下層身分の者たちに
は、苗町村立学校と結びついた産業学級を通じて機械的、技術的技能・秩序の精神・作業衝動・
労働愛.無為の嫌悪がそそぎこまれる」と述べていることば77)、ヤーンの国民教育論の限界を示
すものである。このような限界をもつものであれ、 「真の人間をめざす教育」を中核とするヤー
ンの「国民教育」の思想がフレーベルに影響したとみることは、ヤ-ンの精力的な思想の展開お
よび実践の時期に、フレーベルがかれと個人的に接触したという事情からたしかなことといえる
だろう。 .
-ルニッシュは、 F.A.W.チ-ステルヴェ-クから正しくも「私の意見によれば、かれの生涯
はたえず前進をつづける直線ではなくて、ヒッベルの言をかりれば『向上線をたどる生涯』では
なくて、いろいろな方向にむかう線から合成された線であった。つまり1812年から1822年までは
向上しているが、 1822年から1842年までは折れまがり、一般に時のたつとともにますます地平線
に近づき、それから再び折れまがり、慰みなき終局の1864年まで漸次没落におちいってゆく線で
あった'し78)」と評された男であった。フレ-ベルが-ルニッシュに接触したとすれば、その時期は
プラ-マンの学校を通じての解放戦争時代の前後であり、それはまさに-ルニッシュの「向上線
をたどる生涯」の時期にあたり、 「プロイセンの反動の自発的な道具(79)」となる前の時代であ
る。 1809年すでに-ルニッシ3_はJ.G.フィヒテの「ドイツ国民につぐ」 (Reden an die deutsche
Nation, 1808)の圧倒的な影響の下で「ドイツ人はいかにしてふたたびドイツ人になりうるか」
(Wodurch kann der Deutsche wieder ein Deutscher werden?)と適する論文をかいたが、 18
11年12月には同志ヤーンとフリーゼンにささげた「ドイツ国民学校-とくにペスタロッチの根
本原理を顧慮して-」 (Deutsche VoJksschulen mit besonderer Riicksicht auf die Pestalozzischen Grundsatze, 1812)をかき、 「国民学校」 (Volksschule)の思想を展開した。
この書は、かれ自身が明らかにしているように、とくにJ.H.ペスタロッチの教育思想、フィヒ
テおよびヤーンの国民教育思想から強く影響をうけている。かれはこの書において「かれら(国
民すべて)はかかるもの(人間)として国家に対しまた国家において平等な権利を有している。
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
105
同様に、国風,ま国民すべてに対して平等な責任を有している.国家の繁栄はある偶人の教養の高
さに依存しているのではなくて、一般大衆の文化水準に依存している。かくて国家は、国民の
人一人が現代の人間および国民として立ち、国民全体にとって無用の徒とならないだけの教育を
ぅける機会を与えられるように配慮しなければならない(80)」と述べて、すべての国民の「平等な
受教育権」 (das gleiche Recht auf Bildung)とそれに対する国家の責任を明らかにし、この教
育権思想にもとづきつつ、さらに「共同社会的な祖国のための感覚;81)J (der hohe Sinn fur das
gemeinschaftliche Vaterland)をつちかうために、ヤーンと同様の、しかしもっと徹底した国家
による統一的な「広義の国民学校」の制度の確立を要求したものであったC82)。ハルニッシュはこ
の統一的な国民学校制度において、 6才以後男女すべての子どもが例外なく就学しなければなら
ない義務教育学校たる「市町村立および教区立学校」を「本来の国民学校」と名づけ、この学校
において、やがて後の「世界科」 (Weltkunde)の構想につながる、 「共同社会的な祖国のため
の感覚」の覚醒をめざす「国民的教養」 (volkstumliche Bildung)を与える「国民的教授」
(volksunterricht)の重要な教科として、郷土の地理や自然に関する知識を主内容とする「事象
科」 (Erscheinungskunde)祖国ドイツの地理に関する「祖国科」 (Vaterlandskunde)祖国ド
イツ史ともいうべき「国民科」 (Volkslehre)人間としての遺徳および信仰をつちかうとともに
祖国愛をも覚醒すべき「使命科」 (Bestimmungslehre)を提議し、これらの教科の教授を通じて
「本来の国民学校」が新しい祖国統一の土台となることを期待したのであった(83)。
これらの人々よりも、ブレーベルがフィヒテからより一層強い影響をうけたことは、 「フィヒ
テとフレーベル-一国民教育思想をめぐって--」において詳細に述べるように、明らかであ
・J>
このようにみてくると、フレーベルがかれの教育思想の形成期に、ナポレオンのドイツ占領時
代およびそれにつづく解放戦争の時代に民衆や進歩的な教師および学者たちの愛国の情熱に支え
られた、 「真の人間のための教育」を中核とする国民教育思想の流れに深く足をつっこみ、そこ
からかれの教育思想をより自覚的に形成したことが明瞭となる。すなわちフレーベルの教育思想
が国民教育の構想の刻印をぬきがたいまでに印しづけられて形成されたであろうこと、したがっ
てフレーベルの教育思想はその中に国民教育の思想をやどらせ、それが後々までかれの思想と実
践との中に生きつづけたであろうことが、推察される。
だからこそ、 1848年の市民革命期にフレーベルは革命を「自由なドイツ民衆の春の朝」とたた
え、また「ドイツ国民教育」のスローガンの下に活動していた民衆学校の教師を中核とする一大
革命勢力たる教師集団に支持されたであろう。だからこそ、プロイセン憲法草案に、教師たちの
要望をになって、プロイセンのすべての子どもに「一般的な人間的、市民的および国民的教養の
ために必要な教授」を保障するための条項をおりこもうと精力的な運動を展開していたデーステ
ルヴェ-クが、フレーベルの幼稚園について「貧しい着物をきた子どもが立派な着物をきた子ど
もと入り交っているのをみて、喜びが湧いた。 ・・・-それは、まさしく小規模な国民児童の園(ein
Volkskinder-Garten im kleinen)であったO ここから真の人間性および真の教育にとってどん
な成果があがるかば、汝ら若い読者には全面的にはかることはできまいが、ある予感はもつこと
ができようこ叫」 (傍点一.・・筆者)と若い教師たちに訴えることになるのである。
このような事情を考んがえる時、フレーベルの思想と実践とをつらぬいていた不変のものは、
ヤ-ンがいみじくも指摘し、 -ルニッシェがさらに強調した、 「真の人間のための、すなわち理
性的に思考し、人間的に感じ、自主的に行動する人間のための教育」を中核とする「ドイツ国民
Ill]莞
フレーベルのEg民教育論の研究(I) (岩崎)
教育」 (die deutsche Volks-und Nationalerziehung)であった、ということができるであろう。
3.この研究の妥当性
・フレーベルは第2回ペスタロッチ訪問の折、すなわち1809年から翌年にかけてペスタロッチ教
育法の祖国、シュバルトブルク・ル-ドルシュメット公Egへの導入を建白している。そしてかれ
はその建白の動機をシュバルトブルク・ルードルシュタット公妃への最初の手紙の冒頭において
「私の祖国およびその住民たちは私にとって何にもまして大切なものであるので、私はわが祖国
をとくに考慮してペスタロッチ教授法を吟味してみました。その結果、わが祖国はペスタロッチ
教授法を一般的に学校にもちこむことを享受することが望ましいという希望が、ずっと前から私
の心をみたしたのですし85)」と述べ、祖国愛からペスタロッチ教授法を祖国の諸条件に照らして検
討し、それの祖国-の導入を決意したことを明らかにしている。また、かれはこの決意の動機と
して、プロイセン国王が「非常に困窮している」状態におかれているにもかかわらず15人の青年
をペスタロッチのもとに派し、かれの教授法を学ばせ、そのための費用を全額負担し、この努力
を通じて国民全体の教育の向上に尽力している情況をあげている。このことについて、かれは公
妃にたいし「いかなる模倣もあなたの御検討を左右すべきではありませんし、また左右すること
はできませんが」、このような国民全体の教育のために貧窮の状態をもいとわず「プロイセン政
府の第一級の人物たちが調子を合せて非常に積極的にペス/,?ロッチ教授法の導入のために活動し
ていること」を御考慮下さい(86)、といった調子で語っている。国民教育の視点の下にべスタロッ
チ教授法の導入を提案する、つまりこの教授法の導入を通じて全国民の子どものための教育を改
善し一層たしかなものにする、というフレーベルの構想が打ちだされているとみていい。
ついで1813年フレーベルはリュッツオー義勇軍に加わり解放戦争に参加したが、この戦争には
フィヒテ、ヤーン、フリーゼン、 -ルニッシュら沢山の学者・教師・学生たちが祖国の独立のた
めに参加したG かれらは独立・統一・日由の祖国ドイツの再建を夢み、プロイセン国王の同年3
月の対仏宣戦布告とともに国民の協力を求めて確約した立憲政体の民主的な祖国の生誕を信じ、
この戦争にドイツ全土の各地から参加したO フレーベルの情熱もこの例外ではなかったO かれは
義勇軍志願の動機をつぎのように語っている。 「今や受難の1813年が来た。あらゆる人々は祖国
を守るために武器をとり、また武器をとれと叫んだ。私にはなるほど郷里、生国、すなわち母国
ともいいうるものはあったが、しかし本来の意味では、まだ祖国というものはなかった。 ---た
とえ私が祖国をもっていると実際には言い得ないにしても、後年恐らくは私に教育されるように
なる各々の少年、各々の子どもは祖国をもっているということ、そしてこの子どもが自ら祖国を
防禦することのできない今日、この祖国が防禦を要求しているということを私は承認せざるを得
なかった。いやしくも武器をとるに耐えうる青年が、児童および少年の祖国を血と命とで守りも
しないでかれらの教師になりうるなどとは、私は全然考えることができなかった。また今卑怯に
も怖れて退くことをはばからないような青年が、後年赤面することもなく、またかれの生徒の噸
笑や轟茂をうけることもなく、その生徒をなんらかの偉大な事柄や犠牲と献身とを要求する事柄
に感激させうるなどとは、私は考えることができなかったこ87)」とO
フレ-ベルが解放戦争に参加したのは、まだ祖国といいうべきものがないかれにとって、 「た
だ純粋のドイツ人であるという感情と意識」からであるとし、将来の祖国の建設を夢みてのこと
であった。しかしこのことは、前に述べたように、フレーベルだけに限らなかった。この戦争に
義勇軍として従軍することを志願したすべての者が、ドイツ諸領邦の解体の上に新しく建設され
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
107
る全ドイツのための自由な立憲的な、あるいは民主的な共和的な一大統一国家を願望したのであ
m
さらにフレーベルは、子どもが現在祖国を守る能力をもたない時、子どもたちのために子ども
たちに代って祖国の建設および独立のために生命を投げだすことが教師の義務であるという、教
育者としてのこの戦争への参加の特別の動機ともいうべきものを語っている。ここにおいては、
危機的情況に直面した場合に教師がとるべき態度の一つのケースがフレーベルによって語られて
いる。いみじくもここにフレ-ベルの教師観の-つが、危機の情況において生々躍々と語られて
いる。教師が真に教育者であるためには、かれは「子どものために、子どもに代って」行動すべ
きであるというフレーベルの教師観は、かれの児童中心主義の思想の端的な表明である。 「子ど
ものための、子どもに代っての」教師の国民教育運動、あるいは国民教育の思想というフレーベ
ルの思想のエッセンスが、ここにうかびあがっているように思われる。
解放戦争に志顧兵として参加したこと、つまり祖国の独立を守り、祖国を統一国家として実翼
;し、その国家を真に民衆のためのものにするために生命を投げだすという深刻な経験をしたこと
が、フレーベルにその後のかれの活動や思想をつねに「国民的の方向」においてとらえさせること
になったO かれはつぎのように述べている。 「しかし出征したことは、私にある一つのものを与
えた。というのは、実際の軍隊生活を過しているうちに、私はドイツ国およびドイツ民族の利害
に一心不乱になったC私の努力は国民的の方向(die Richtung auf das Nationale)をとった,:88ノ」
(傍点-・-筆者)と。
また、反動化したプロイセン政醇による圧迫などのため生徒数が5人に減少し、協力者たちも
離反してゆくなど、カイル-ウ教育合がr破滅の一歩手前まで追いやられ」、この危枚をマイニン
ゲン公の援助を求めることによって打開しようと試みていた折、つまり1828年3月24日の哲学者
クラウゼあての手紙において、フレーベルほっぎのように語っている。 「恐らく今までその僅か
な一部もほとんど発芽せず、ましてや成長して花を開き実を結んだことのない、いとも多くの種
子が播かれたあの1813年のドイツ戦争こそ、また私たちの結合乃至一致の根なのである〔89つ とC
このようなすじみちにおいてはじめて、なぜフレーベルが1816年11月13日グリース-イムにわ
ずか甥たち5人の生徒で開設したささやかな私塾に「一般ドイツ教育舎」 (Die Allgemeine
Deutsche Erziehungsanstalt)という壮大な名称をつけたのか、ということが理解されようO か
れは前掲のクラウゼあての手紙においてそのことに関連するものとしてつぎのように述べてい
る。 「人間であれという要求は-全く事実が余りにも明瞭に証明したように---まだ一般の人
々には余りにも大袈裟で理解できないように私には思われた。ところがドイツ人になれというこ
とは、あのような赦難なかつ根本的な人生経験(ドイツ解放戦争のこと)をへた後では骨折り甲
斐もあればまた真剣なことでもあると私は思ったこ90,」 (括弧内-・-筆者)と。
「一般ドイツ教育舎」開設後、かれは1820年「わがドイツ国民につぐ」 (An unser deutsches
Volk)を、 1821年「徹底的な、ドイツ的性格を十分に溝足させる教育が、ドイツ国民の根源的
要求である」 (Durchgreifende, dem deutschen Charakter erschopfend geiiigende Erziehung
ist das Grund-und Quellbediirfnis des deutschen Volkes)を、 1822年「ドイツ教育一般につ
いて-とくにカイル-ウ教育合の一般的ドイツ的なものについて-一一」 (Uber deutsche Erziehung iiberhaupt und uber das allgemeine Deutsche der Erziehungsanstalt in Keilhau insbesondere)をかいているC これら一連のカイル-ウ小論文は、それらの題名からだけでも、ドイ
ツ国民教育を主題にして論じたものであろうことが推察されるのである E.ホフマンはつぎのよ
108
フレーベルの国民教育論の研究en c岩崎)
うに述べている. 「カイル-ウの教育のやり方および特別の教授方法について、フレ-ベルは18
20年以来若干の小論文を公けにしてきた。これらの論文は「イ-ジス」 (lsis)誌や「一般ドイツ
報知者」 (Allgemeiner Anzeiger der Deutschen)誌にのせられた。ここで、かれはドイツ国民
に情熱的なやり方で、ドイツ教育の『国民的事業』 (Nationalwerk)に参加するよう呼びかけたO
フィヒテの思想が共鳴していた。もっと具体的にいえば、目標および教育課程がドイツ国民の性
格からひきだされ、基礎づけられた(91)」とO
・ ・ ・ ・ ・
1840年6月28日その創立記念式典が挙行された「一般ドイツ幼稚園」 (Der Allgemeine Deutsche Kindergarten)もその名称において「一般ドイツ教育舎」 (Die Allgemeine Deutsche Erz・
iehungsanstalt)につながるものとみていい。 「一般ドイツ教育舎」の名称をつくりだしたのと
同じ思想が、 「一般ドイツ幼稚園」の名称をつくりあげたとみていいだろう。したがって、フレ
ーベルは「一般ドイツ幼稚回」を「就学年令までの子どもたちの生活をドイツ的心情をもって全
面的に保育するための一般的施設C92)J (eine allgemeine Anstalt zur allseitigen Pflege des Kinderlebens bis zum schulfahigen Alter mit deutschem Gemiite)とも解釈し呼びなおすのであ
<J -.
ついで1845年かれは「教育組合結成のためのドイツの男性、とくに父親たちにたいする訴え」
(Aufruf an die deutschen Manner, besonders Vater, zur Bildung von Vereinen fiir Erziehung)を発表し、民衆とくに父兄の「教育組合」をドイツ全土に結成することを通じて「同時に
ドイツ民族にふさわしい真の国民教育(Nationalerziehung)が可能となろう(93)」(傍点一一筆者)と
叫んだ。また1848年かれは「現代のもっとも重大な要求としてのドイツ国民教育-その根本特
徴一一」をかき、 「ドイツ国民教育」を真正面から論じようとしたO
これまでの考察は、フレーベルの著作や論文の内容に深くたちいってかれの思想を検討したも
のではなく、いわばなおそれらをめぐる外的な考察にとどまっているのであるが、これらの考察
からだけでもフレ-ベルの教育的生涯が「国民教育」 (Volks-und Nationalerziehung)の思想に
つらぬかれていたことがわかる。したがって、前に述べたように内外のフレーベルに関する研究
書および論文がほとんど試みようとしなかったにもかかわらず、なおフレーベルの教育恩想を
「国民教育」の観点から一貫して追求し、再構成を企てることは可能であるのみならず、そうす
ることこそが妥当であると思われるのであるD
国民教育の観点の下でのフレーベルの諸論文に関するこれらの考察のついでに、かれの主著
「人間の教育」について問題とされるべきであろう。 「人間の教育」にはところどころ「わがド
イツ的心情」 (unser deutsches Gemute)とか「わがドイツ的精神」 (unser deutscher Geist)
とかという言葉がかれの主張や批判にアクセントをつけるためにつかわれてはいるが、ドイツ国
民教育の思想は全く影をひそめているかのごとくである。このことはどういうことを意味するで
ヽ t
t
t
t ° t 一 ° ° ° ° ° ▼ ° ▼
あろうか。 「人間の教育」の正確な標題が「人間の教育一一カイル-ウの一般ドイツ教育舎にお
いて努力されてきた教育技術-」 (Die Menschenerziehung, die Erziehungs- Unterrichtsund Lehrkunst, angestrebt∴in der allgenaeinen deutschen Erziehungsanstalt zu Keilh.au)
(傍点・・-・.筆者)であることを考える時、カイルハウ教育合の実践には、したがってフレーベルの
思想には「ドイツ国民教育」の主題と普遍的な「人間教育」の主調とが二重におりこまれていた
であろうか。もしそうだとすれば、われわれはこれら両者の鴇係をどのように考えたらいいであ
ろうか1826年にあらわれたフレーベルの主著「人間の教育」は、それまでにかかれたカイルウ小論文の総決算であるとみていい。事実「人間の教育」で展開されているかれの教育学的命題
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
UBS
はほとんどこの小論文において言及されている。それにもかかわらず、カイル-ウ小論文とは異
なって「入間の教育」においては、これらの命題から国民的性格が脱落している。これは何故で
あるのか。これらの問題を解く鍵は、第1に、解放戦争時代のフィヒテ流のまたヤーン流のドイ
ツ国民教育の思想および運動がこの時代には反動化したドイツ諸邦政府、なかでもプロイセン政
府によるきびしい弾圧下にあり(94)、カイル-ウ教育舎自体1824年以後このような圧迫の下におか
れていたことであろう。後カイル-ウ教育合の校長となったJ.A.バーロップは、当時を回想して
つぎのように語っている。 「というのは(カイル-ウ教育合が政治権力からの迫害をうけた理由)、
1815年の精神がこの施設では貝休化されており、まさにこの精神こそもっともきびしい攻撃にさ
らされていたからである(95)」 (括弧内=--筆者)と。また東独の教育史家H.ケーニッヒほ、カイル
-ウ教育舎弾圧の事情をつぎのように説明している。 「それに反して、他の人々は国内にとどま
り、国内での戦いをとりあげ、 (それは公立学校においては可能でなかったので)私的な教育施設
でドイツ国民教育を遂行しようとこころみた。それゆえに、これら私立教育所の多くはその当時
全く進歩的な性格をになっていた。そして反動は、これらの学校の存在からかれらにとってどん
な危険が生じてくるか、急速に認識した。かくて、プロイセンの枢密顧問官兼教育局長フォン・
シュックマンは、 1824年2月8日つぎのようにかいた。 『この種の孤立せる教育施設は、公立学
校が国家の従前より強化された監督に服してより数年来、これらの結社にとって特別の価値を有
し、とくにこれら結社の有害な諸原理をひろめる手段になっている』と。この手紙はシュバルト
ブルク・ルードルシュクット政府にだされ、カイルハウにあったフレーベルの私立教育施設につ
いて煽動的な陰謀を調査するようにという、不当な要求をふくんでいた(96)」 (傍点・--筆者)と。
このような渦中にあって、なるべくならばt フレーベルは「国民教育」の名称もその思想のあら
わな表現もさけようとしたであろうことが察せられる。
第2の鍵一一これこそがこの「なぞ」を解く決定的な鍵と恩われるのだが-は、哲学者クラ
ウゼが1823年「イ-ジス」誌に発表した1822年のフレーベルの小論「ドイツ教育一般について」
に対する批判の論文とそれに対するフレ-ベルの解答であるOクラウゼほフレ-ベルの一般的な
教育原理に全面的に賛意を表明しつつ、かれの国民教育論に批判の的をあてている。そこにおい
てクラウゼは「人類に属するもの、また人類そのものについてのみ期待されうるものが、ドイツ
国民に帰せられている(97)」と鋭く批判し、フレーベルの思想がショーヴィニズムにおちいる危険
をふくんでいることをといた。そしてクラウゼはつぎのように結んでいる。 「しかし私と同じよ
うな信念をもちまた同じように考える人々は、この恐らく唯一無比の教育合に関して、まず『一
般ドイツ的なもの』ではなくて一般的人間的なものを指示することを、またこの教育合をドイツ
° ° Ⅰ ° ° ° ° Ⅰ ° ▼ ° ° ° . t
人のための純粋に人間的な教育舎(eine reinmenschliche Erziehungsanstalt fiir Deutsche)と
して特徴づけることを、提議するであろう。というのは、この教育合はもともとドイツ人のため
の人間的教育合であるからである。そこでは、子どもが言葉の完全な意味における人間にまで、
また同時に純人間的に考えるドイツ人にまで教育され形成されるべきであるからである.、98二」とO
この批判にたいして、フレ-ベルはその当時のいろいろな事情を説明しつつも、きっぱりと
「貴下が徹底的な批判をもってあの言葉を責められたのは正しい」と述べ、 「私はひたすらに
自由な思索的な自己活動的な人間(freie, denkende, selbsttatige Menschen)を作りたいと思っ
た」 (傍点 筆者)と告白している(99)。このフレーベルの解答はずっと後の1828年になされてしヽ
るが、 「私は(これまで)幾度となく貴下のことを考えてきたのだし」と語っていることからも、
1826年の「人間の教育」がこのようなフレ-ベルの自己反省にもとづいてかかれたものとみてさ
フレーベルの国民教育論の研究(I) C岩崎)
110
しつかえあるまい。
このように考えてみれば、カイル-ウ教育合での教育は「自由な思索的な自己活動的な人間」
づくりをめざすものであったといいうるであろうし、またかれの国民教育の名の下ではじめられ
た教育事業の中核はこのような人間づくりの教育であったということを意味するものであろう。
それは.まさにヤーンや-ルニッシュが、そしてかれらの先達フィヒテが力説してやまなかった
「国民教育は、不
:二、 IfL・、
のための、すなわち理性的に思考し、人間的に感じ、自主
的に行動する人間のための教育である」 (100、(下線-・-筆者)という恩想にはかならない。それは、
18健紀後半の汎愛主義者たちの階級的身分的なまた「有用性」の視点からの職業階層別の「国民
教育」の思想を超克し、フランス革命の思想的洗礼をうけ、ペスタロッチの貧民における人間教
育の思想をくぐりぬけ、カントやフィヒテの新人文主義の思想によって淳化された国民教育思想
である。シュプランガ-の区分(lor,によれば、第3段階の「国家に対立する人間のT=めの国民教
育」 (Nationalerziehung zum Menschen lm Gegensatz zum Staate)の思想をふまえた上での
「国家における人間のための教育としての国民教育」 (Nationalerziehung als Erziehung zum
Menschen im Staate)の恩想であるといいうるであろう。つまり、絶対主義的な国家の現状の
変革を求めつつ、理想的な共和主義な国家における人間のための国民教育の思想であったのであ
るO このようなエッセンスをもったフレーベルの国民教育の思想が詳細に具体的に、また体系的
に研究されることは、今日からみても意味のある午とだし、それはフレーベルの教育的生涯およ
び諸論文についてのこれまでの検討からみて可能であるし、また妥当であると考えられる。
註
(1)この小論は、 「ラレ-ベルの国民教育論の研究」という体系的な研究の一環をなすものである。
この研究は、序説「フレ-ベルの教育思想をF国民教育』(Volks-und Nationalerziehung)の観点から考
察することの意味、可能性および妥当性について-フレ-ベルをめぐる Fドイツ国民教育』思想の情況
-」、第1章「フィヒテとフレーベル-国民教育思想をめぐって-」、第2童「フレーベノしの国民教
育組織論-国民による国民教育をめざして-」第3章「フレーベルの国民教育内容論」、第4章「フレー
ベルの国民教育論と人権の思想との関連」、第5章「フレーベルの国民教育制度論」からなりたつものであ
るO この小論におさめられているものは、この研究の序説であるo なお、この研究は筆者の学位論文「フ
レ-ベル教育学の研究」の一部を構成するものであり、したがってこの小論はさらにそれの一部をなすも
のであることをことわっておかなければならないO ところで、この小論は学位論文におさめられたものそ
のままではなく、筆者のその後の研究によって若干修正されてほいるが、それは史料や論拠が豊富にされ
ているにすぎないのであって、趣旨については何らの変更も加えられていないし、またその必要も認めら
れなかったし、それどころか筆者は趣旨の正しさについていよいよ確信を深めたにすぎなかった。また、
この研究ほ恩師梅根悟教授の手厚い勧指導の下にはじめて完成したものであることを、ここに記して、心
から感謝申し上げる。
(2)日高六郎「国民教育論をめぐって」、雑誌「思想」岩波書店、 1961年第4号、 3-4頁。
(3)小林直樹氏は「国民教育のイデ--ほ、基本法制定以来の『権力と教育』の対抗関係の歩みの中
で、教育が主体的姿勢を確立するための指導理念として捉起されてきた」 (同上、 lo貞)と述べている
那,この主張は、国民教育の思想が提起されたのが教育基本法制定をきっかけとしてそれ以後のことであ
るといっているのではなく、国民教育の思想が基本法の解釈やあり方をめぐって、それを思想的なきっか
けとして提起されたといっているのであろうC長洲一二氏ほ「国民教育の思想は、勤評闘争という、権力
の教育支配への抵抗から生まれた」 (長洲一二著「国民教育論序説」新評論、由和35年、 17貢)といって
いるが、これは正しくないOすでに1951年9月サンフランシスコ条約調印直後、天野文相は「国民道徳実
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
111
践要領」の構想を発表したが、それには愛国心教育の思想が強くしのばされていたのだし、また1952年9
月富田首相は自由党議員総会で愛国心教育を強調し、それ以後歴代文相は愛国心教育の政策に狂奔してき
たといっていい。さらに、 1951年11月政令諮問委員会のおこなった「教育制度の改革に関する答申」、 195
2年10月の日経連の「新教育制度の再検討に関する要望」、また同年12月岡野文相が教育課程審議会に対し
ておこなった諮問「社会科の改善、とくに道徳教育、地理、歴史について」などにみられる、権力側の占
領政策のゆがみやゆきすぎを日本国情に合致させ是正するという名目の下での「逆コ-ス」政策の気運が
大きく撞頭してきた。このような政策に対処し、またサンフランシスコ条約をきっかけとして問題となっ
た真の民族の独立を確保するために、 「国民教育」の思想が提起されたのであるQ雑誌「思想」は1955午
第8号ですでに「今日の教育」という標題の下に国民教育の特集号をだしており、それはやがて全国に勤
評問題をひきおこすlこいたる愛媛の勤評闘争のはぼ2年前のことである。したがって、戦後わが国におけ
る「国民教育」の思想の始期については、日高氏の指摘が正しいO
(4)勝田守一氏はすでに1955年今日の「国民教育は、かっての民族主義の教育や国家主義の教育と
は、少しの類似もない」 (勝田守一「国民教育の課題」、雑誌「思想」岩波書店ー1955年第8号、 19頁)と
述べており、長洲氏は「戦前の『国民教育』」を「教育勅語に見合った『臣民』の教化・練成のための『国
家教育JJ」とし、それとの対立概念において「現在のF国民教育山をとらえている(長洲一二著、前掲書、
23頁)。同じように、矢J昭恵光氏も戦前の国民教育を「F皇国」や『国体』や『臣道』のための教育」、 「国家教
育」とし、 「本書で主張する国民教育はしんに民主々義的な教育である」としている(矢川徳光著「国民
教育学」明治図書、昭和32年、 13-29頁)0
(5)勝田氏は「匡主民教育は国民主権の原則に裏づけされている」 (勝田守一、前掲論文、 17頁)と述
べ、上原専禄氏は「日本国憲法において、国家主権の主体としてすでに『日本国民」の全体としての存在
が前提されており‥-・」と述べつつ、国民教育においては「『日本国民」という理念は、単なる存在概念に
止まるべきではなく、当為概念として設定されなければならない」と主張している(上原専禄「国民形成
の教育」、岩波講座「現代教育学4近代の教育思想」岩波書店、 1961年、 326-7頁)。
(6)勝田氏は「自由の実質的な意味をとらえ,自由主義的原則を実質的な国民教育のとりでとするた
めの努力だけが、新しい道を開くことを約束するであろう」と述べ、その自由主義的原則として、 1.国家
が「教育の価値や内容に対しては禁欲的な自己抑制の態度をとるべきだということ」、 2. 「教育の目的
は、なによりも子どもたちのもっている可能性を・-.・・自由にのはしてやる」ことだということ、 31 「子ど
もは自由に自己の幸福のために学習を行うべきだということ」、 4. 「教師は、自己の学的良心や確信にし
たがって自由に自己の教育に専心することができるということ」、 5. 「親たちは、子どもの教育に関し
て、責任をもつと同時に、子どもの人権を無視しないかぎり、自己の信条にしたがって、教育への要求を
だす自由をもっているということ」をあげている(勝閏守一、前掲論文、 lo貞)0日高氏は、 1954年から58
年にかけておこなわれた「教育制定と教育内容と教師にたいする直接の中央官僚統制の強化」をもって、
国民教育思想の発展は第2段階に入り、 「国民教育の理念の理解のために中心点に重要な『父母の教育要
求』 『国民の教育要求』などの概念が設定されるようになった」と述べている(日高六郎、前掲論文、 45頁)O浜田陽太郎氏は、端的に「ここでいう F国民教育」運動は、 ・・.-日教組を中核として幅広い一般大
衆との結びつきによって、文教反動政策に対決するという意味をもっ た運動である」といいきっている
(浜田陽太郎「F国民教育J運動」、梅椴悟・海後宗臣監修「現代教育事典」明治図書、昭和36年、 227貞)O
(7)大半の国民教育論が国民教育の理念の論究あるいは論議に終始していて、国民教育の内容・方法
にわたってふれていない、少くとも国民教育の理念から論理的必然性をもって国民教育の内容および方法
を分析するという点にまでいたっていない。上原氏は「国民教育における『教育内容」とF教育方法』に
ついてのイメージをもとうとするのでなければ、 F国民教育』の理念も、無内容のものに終る危険がある」
と述べつつ、 「別の機会に、これらの点についても考察を試み、この拙文の欠を補いたい、と考えている」
とことわっている(上原専禄、前掲論文、 330-331頁)。また、当然国民教育の内容および方法として予想
されることに関して、生活的な問題解決学習か系統的学習か、綜合的社会科か分科的社会科か、など意見
112
フレ-ベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
の相違が載られることも、周知の事実であるO
( 8 ) Hermann Posche; Friedrich Frobel's entwickelnd-erziehende Menschenbildung (Kindergarten-P五dagogik) als System, Hamburg, 1862. S. VI-VH.この書の編射こあたって抜翠したフレーベ
ルの論文として、ペシエはつぎのものをあげている1. Broschilre von 1821..Durchgreifende. dem
deutschen Charakter erschopfend geniigende Erziehung=. 2. Die Menschenerziehung von 1826.
3. Die erziehende Familien. Wochenblatt von 1826. 4. Ein Sontagsblatt von 1834 (「日曜誌」は
1838年正月創刊号がでているので、 1834年という日付は誤りである---筆者). 5. Entwurf eines Planes
zur Begriindung und Ausfiihrung eines Kindergartens. 6. Mutter- Kose und Spiellieder von 18
40 (この日付も誤りである1844年が正しい。 -・・-筆者). 7. Fr. Frobels Wochenschrift (1850, Bad
Liebenstein)・ 8. Zeitschrift fur Fr. Frobe王s Bestrebungen(1851 , Bad Liebenstein). 9. Balllieder.
10. Zweite Gabe. ll. Anleitung zum Gebrauch der dritten Gabe (1844, Blankenburg).
( 9 ) Eduard Spranger; Aus Friedrich Frobels Gedankenwelt, Quelle & Meyer, Heidelberg 19
53, S. 60.
(10) Helmut Konig; Gedanken zur Nationalerziehung aus dem V。rmarz, V。Ik und Wissen
Volkseigener Verlag, Berlin 1959, S. ll.
(ll) 「ドイツ国民教育の思想は、かれの作品のいたるところで明断こ認識されうる」というのは、誇
張であるOたとえばフレーベルの主著「人間の教育」には、国民教育の思想は前面にでていないOそこ
で、ケ-ニッヒ自身「あらゆるこれらの論文(カイルハウ論文)は、その後の論文から、さらにはカイル
ハウ時代に成立した主著『人間の教育』からも、国民的側面の非常な強調によって区別される」 (ditto)と
いわなければならなかったQ
(22) ditto. (13)小川正行著「フレーベルの生涯及思想」目黒書店、昭和7年、 266頁(14)同上
(15)前に述べたシュプランガ-ほ「ここ(1820/21年の3つのカイルハウ小論文)において、フィヒ
テへの共鳴がE.M.アルントやL・ヤーンの回想と結びっいている」 (E.Spranger; a.a.0., S. 60-61)
(括弧内 筆者)と述べているし、ケ-ニッヒはフレーベルの国民教育の「思想は『カイルハウ論文』
にはじまる」と語り、フレーベルが国民教育思想を展開した代表的な論文として「カイルハウ小論文」か
ら2論文をあげているDまた、長田新氏が「ベルリンをこはドクトル.フリッツ・ハルフタ-という熱心な
フレ-ベル研究家があって、この秋か冬には立派なフレーベル伝がでるだろう」 (長田新著「フレ-ベル
に還れ」フレ-ベル館、昭和30年、 60貢)と述べている、そのハルフタ-のフレ-ベル伝では「間違いな
く、その場合(「カイルハウ小論文」の場合)、かれ(フレ-ベル)の肩ごLiこ民衆教育家であり演説家で
あるフィヒテの顔がのぞいているo もちろん、フレ-ベルはフィヒテのドイツ国民教育思想に無条件にく
みしているのではない」 (Fritz Halfter; Friedrich Frobel, der Werdegang eines Menschheiterziehers, Max Nieraeyer, Halle 1931, S. 555)と語られている。さらに、現代の西独におけるもっとも深
いフレーベル研究家E.ホフマンも、 「かれ(フレ-ベル)はここ(カイルハウ小論文)においてドイツ国
民に自分の意見を訴ったえ、ドイツ教育の『国民的事業』に参加するようよびかけた。 (そこには)フィ
ヒテの思想が鳴りひびいていた 」 (Erika Hoffma-mi: Friedrich Frobel, ausgewahlte Schriften,
erster Band, Verlag Helmut Kiipper vormals Georg Bondi, Diisseldorf 1951, S. 162)と述べてい
る0 20世紀初頭のフレ-ベル学者J・プリユ-バーもやはり、カイルハウ教育舎に対する政治権力からの圧
迫の原因の一つとして、この教育会における「ドイツ国民教育の思想」をあげている(Johannes Priifer;
Friedrich Frobel, Verlag und Druck von B.G. Teubner in Leipzig und Berlin 1920, S. 37)。
(16) Maria Bode; Friedrich Frbbels Erziehungsidee und ihre Grundlage (Die frtihen Entwiirfe
zum ≫spharischen Gesetz≪), in ≫Zeitschrift fur Geschichte der Erziehung und des Unterrichts≪
XV, 1925.をさすC
(17) Alfons Rinke; Friedrich Frobels philosophische Entwicl⊂lung unter dem Einfluss der
Romantik (Weiteres sonst unveroffentlichtes Material aus den friihen Tagebiichern) , Langensalza
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
113
1935.をさす。
(18) Klaus Gie); Fichte und Frobel, Quelle `色Meyer, Heidelberg 1959, S. 23.
(19) ditto S. 155.
(20) E.Hoffmann; a.a.0., zweiter Band, Berlin 1951, S. 265.
(21)拙稿「Frobelをめぐる教育と政治の問題」、教育史学会紀要「日本の教育史学」第3集、講談
社、昭和35年および拙訳「人間の教育」 2、明治図書、 1960年の「解説」を参照されたいo
(22)長田新訳「フレーベル自伝」に収められている「マイ二ンゲン公にあてた書翰」において、フレ
ーベルは「私は(フランクフルトa.M.の模範学校の) 9才から11才までの3、 40名の男児からなる学級
の私の最初の授業と学校経営との印象に就いて早速手紙で次のように兄に言ってやったO即ち私は何か自
分でも知らなかったもので、而も長く憧慣し長く見失ってたものを発見したような、また遂をこ私の生命の
要素を見出したような気がしたO私は水中の魚.空飛ぶ鳥のように幸福だとO」 (長田新訳「フレーベル自
伝」岩波書店、昭和24年、 82頁)と述べているし、また同書の「フリ-ドリッヒ・クラウゼも′こ発てたる書
翰」においては、 「(フランクフルトの模範学校の教師になるまでは)この教師及び教育者という2つの活
動領域は嘗て一度も私の意識に上ったことがなく、況んや畢生の目的として現われてきたことは筒は更な
かった」 (同上、 170頁)と告白している。
(23)入沢宗寿著「汎愛派教育思想の研究」教育研究会、昭和4年、 395頁。
(24) K.-H. Giinther, F.Hofmann, G.Hohendorf, H.Konig und H.Schuffenhauer; Quellen zur
Geschichte der Erziehung, Volk und Wissen Volkseigener Verlag, Berlin 1959, S. 135-138.な
お、入沢宗寿著、前掲書、 50-62頁を参照されたいo
(25) August Gans; Das Okonomische Motiv in der preu瓜ischen P云dagogik des achtzehnten
Jahrhunderts, Max Niemeyer Verlag, Halle 1930の〔Ⅶ〕の〔d〕 Resewitz'Plan zur Organisation des
Schulwesens fur erwerbende Stande.コを参照されたいo なお、田中昭徳「E.v.ロヒョーのF国民教
育ゴ論について(その-)」広島大学教育学部紀要第1部、昭和35年、 71-72頁をも参照されたいO
(26) Helmut Konig; Schriften zur Nationalerziehung in Deutschland am Ende des 18. Jahrhunderts, Volk und Wissen Volkseigener Verlag, Berlin 1954, S. 16.
(27)田中昭徳、前掲論文、 73-74頁。
(28)田中昭徳汀国民教育』の近代化とE.v.ロヒョ-の民衆教育」、日本教育学会編「教育学研究」
第23巻第2号、昭和36年、 133-134貢。なお、 A.Gans; a.a.0., S. 88 und S. 92をも参照されたいO
(29) A.Gans; a.a、0., s.
(30)田中昭徳「E.v.ロヒョ-の重虚主義教育学における『民衆』 (Volk)の概念とその社会論的基底
(Ⅱ)」、小樽商科大学人文科学研究室「人文研究」第23韓、 1962年、 94-97貢。
(31) K,-H.Giinther, F.Hofmann, G.Hohendorf, H.Konig, H.Schuffenhauer und M.Werler;
Geschichte der Erziehung, Volk und Wissen Volkseigener, Berlin 1957, S. 195-196.
(32) H.Konig; Schriften zur Nationalerziehung in Deutschland am Ende des 18. Jahrhunderts,
a.a.O., S. 19-20.
(33)皇至遺著「独逸教育制度史」柳原書店、昭和18年、 239頁。
(34) Theo Dietrich, Uber Padagogik von Immanuel Kant, Verlag Julius Klinkhardt, Bad
Heilbrunn 1960, S. 12 -13.
(35)
K.→H.Gunther
u.s.w.;
Geschichte
der
Erziehung,
a.a.0..
S.
193.
(36) ditto S. 219.
(37) 「ドイツ国民教育文庫」の編集に直接あたったのは、ヤッハマンと、かれの後をついで「コンラダ
ニウム」の第2代校長となり、ヤーン流の「体操」の擁護者であったFパッソーであったが、編集協力者と
してフィヒテ、R.アベッケン、A.F.ベルンハルデー、F.ヤコブス、J.シュルツェ、H.ヴオス、F.A.
ヴオルフ、 C.A.ツェラ-らがあげられている (Helmut Konig; Deutsche Nationalerziehungspl邑ne
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
印IE
aus der Zeit des Befreiungskrieges, Volk und Wissen Volkseigener Verlag, Berlin 1954, S. 20).
(38) ditto S. 93. (39) ditto S. 43-44.
(40)このような思想は、フィヒテを除いて、ヤーン、ヤッハマン、ハルニッシュ、フォレンらに、強
弱の差はあれ、共通ケこ見出される。
(41)拙稿、前掲論文、 96-102頁。
(42) Hermann Hagen; Friedrich Fr∂bel im Kampf um den Kindergarten, Wien <」 Leipzig
1886, S. 118.
(43) K.-H.Giinther u.s.w.; Quellen zur Geschichte der Erziehung, a.a.0., S. 211.
(44) ditto. (45) ditto. (46) ditto. (47〕 ditto.
(48)タウロウは「いかなる外的な事情も、神がその子のために定めた目標を、その子が達戊すること
を妨げることができないということほ、明白であるo したがって、一般にすべての教授が無料でなければ
ならないということは、当然の結果である。成人のうける教育の場合は、これとは別の事情にある」(ditto
S. 212)と述べて、青少年がうける全階梯の学校教授の無償制を要求しているa
(49) K.-H.Gunther u.s.w.; Geschichte der Erziehung, a.a.0., S. 282.
(50) ditto S. 283.
(51) 「国民学校」についての決議の内容に関しては、梅根悟著「世界教育史」光文社、昭和30年、 35
0-351頁が全文を訳して掲載している。住民の教師任免権については、決議は「教師ほ自治体の全成員の
選挙によって任命され、自治体の成員の過半数の意志irこよってのみ免職されうる」 (K.-H.Gunther
u.s.w.; Quellen zur Geschichte der Erziehung, a.a.0., S. 213)と述べ、教師出身の専門家による学
校の監督行政については、 「国家による学校の監督に必要な官吏は、地区の全教師によってかれらの中か
ら選ばれ、また選ばれた者は国家の裁可をラける」 (ditto)と述べているo
(52)これらの教員会議の情況やそこでなされた諸決議における教師の要求の内容については、梅根悟
著「教育の歴史」新評論、昭和36年、 118-120頁がまことにあざやかに描きだしているO
(53) Gerhardt Giese; Quel】en zur deutschen Schulgeschichte seit 1800, Musterschmid卜Verlag,
Gottingen,
Ber一in
und
Frankfurt
1961,
S.
131.
(54) ditto S. 133. (55) ditto S. 138.
(56) J.プリュ-ファーは、ルードルシュタット教員会議の最終日に行われた、フレーベルの主張する
幼稚園に関する討論の模様をいきいきとったえている。フレーベルに対する主たる批判の内容は、フレー
ベルの幼稚園哲学が複雑であり、難解であり、したがって「気味の悪いもの」であること、また余りにも
数学的思弁を弄しすぎ、象徴主義的であることに対するものであった。このような批判に対して、フレー
ベルは「自分の体系は明瞭であり、自分の哲学は、万有の偉大な関係を認識し、この関係にもとづいてい
る法則を認識した者には誰にも単純であるO幼児は早くからこの法則にしたがって指導されなければなら
ないO なぜならば、幼児は万有の一部にはかならないからである。世界の真理が幼稚園の遊戯の基礎であ
り、それゆえに、これらの遊掛ま子どもの自然的発達に合致し、そのゆえに、子どもはこれらの遊戯によ
って正しい人生にみちびかれる」と応酬した、といわれるO 「このように会議は賛否にわかれて動揺し
た。フレ-ベルは、この目ほど自分に対するあらゆる偏見が鋭くかつ烈しくでてくるのを経験したことは
なかったo しかし、フレ-ベルは弁明と説明とに疲れをしらなかった」という経過をへて、幼稚園運動に
対するドイツ諸政府およびフランクフルト国民議会の助成を訴ったえる勧告文が満場一致で可決されるに
いたったのである(Johannes Prufer; a.a.0., S. 99-101)なお、拙稿、前掲論文、 97-9頁を参照さ
れたい。
(57) J.Prufer; a.a.0., S. 97.
(58) K.-H.Gunther u.s.w.; Queilen zur Geschichte der Erziehung, a.a.0., S. 216.
(59)長田新訳、前掲書、 65頁。 (60)同上65-66頁。
(61) フレーベルほっぎのよ)に述べているO 「しかし、私は、この第3の書物(アルントの「ゲルマ
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
115
ニアとヨ-ロッパ」)の教えることはほとんど意識しなかったO というのは、私はまだ建築師になるとい
う外面的な意識的な目的しかもたなかったからである。しかし、私は、新しい自由な生活が私の心のうち
にはじまっているということを感じた」 (同上、 66頁)と。
(62) E.Hoffmann; a.a.0., erster Band, S. 39.
(63)長田新訳、前掲書、 88貢C
(64)林健太郎編「ドイツ史」山川出版社、昭和31年、 141頁。
(65)長田新訳、前掲書、 189貢 (66)同上125-126氏
(67) Gerhard Fricke; DeutschesVolkstum von Friedrich Ludwig Jahn, Reclam 1940, S. 117・
(68) ditto S. 118. (69) ditto S. 152. (70) ditto S. 162.
(71)ヤーンは「いかなる子どもも、かれの祖国についてもっとも必要なもの、もっとも不可欠のもの
一一一種の国家問答示教書(Staatskatechismus) -を知らずに学校をでるべきではない」 (ditto S. 136)
と述べ、この「国家学」によってすべての子どもに国民としての権利と義務とを教え、この方面の子ども
の知識について国家試験を行い、この試験の合格者にのみ「国家公民権」を与える制度を提案し、 「何人
も、国家公民となることなしには、大人とはみとめられないし、親方権を取得できないし、職業をいとな
むことはできないし、家や屋敷を相続することはできないし、官職なり地位なりにつくことはできない」
(ditto)と述べている。また、かれは「体操は完全な国民教育のための一つの手段である」 (ditto S. 153)
と述べ、たくましい器敏な身体づくりを人間の調和的全面的発達の観点から強調するとともに、祖国防衛
者の育成という観点からもみ、やがてかれの独創的な「ドイツ体操」の思想に発展する体操観を、なお大
きくJ.C.F.ゲーツムーツの影響下にあるとはいえ、用意しているCかくて、かれは、国民教育の内容に
ついては、国家公民教育をめざす「国家学」と祖国防衛者の育成をめざす「体操」とをコアーとするカリ
キュラムを構想しているといっていいC
(72) ditto S. 61-65.
(73)ケ-ニッヒほ、 H.シュテファニーがプロイセンの司法大臣フォン・マッソーのかれをこ対する批判
にこたえてかいた「司法大臣フォン.マッソー氏の国家教育学的理念にかんする若干のひかえ目な所見」
(Einige bescheidene Erinnerungen zu den staatspadagogischen ldeen des Herrn Staats-und Justizministers von Massow, 1801)において展開し、またW.v.フンボルトがかれの協力者とともに1806年以
後着手し企図した国民教育を、 「プロイセン的ドイツ国民教育」としている。 「プロイセン的ドイツ国民
教育」とは、 「プロイセン国民教育」を「ドイツ国民教育」の土台とするものであり、 「教育の分野もこお
ける保守主義、半封建的反動、すなわち学校における学級の階級的区分、国家の官憲として組織されてい
る貴族階級に対する絶対的服従のための教育、官僚国家やこの国家を象徴している地主や中世以来なおう
けつがれてきているすべての制変や組織の賛美としてのプロイセン的愛国心のための教育、プロイセン軍
隊の賛美やすでに学校においておこなわれるプロイセン的軍事教練の賛美やその応用による軍国主義のた
めの教育、プロイセン国民ないしドイツ国民を選ばれた、より高い価値をもった、他の諸国民の上に立つ
国民として愛することのための教育、を意味した」と述べている〔H.Konig; Schriiten zur Nationalerziehung in Deutschland am Ende des 18. Jahrhunderts, a.a.0., S. 21--22)c
(74) G.Fricke; a.a.0., S. 169. (75) ditto S. 165-166.
(76)ヤーンは能力に応L:た身分制変を構想し、諸身分の代表者によって構成される議会を提案してい
ることは(ditto S. 167-168)、在来のものとは異なるとはいえ、一つの身分制変の是認であるといわな
ければならないr_
(77) ditto S. 140.
(78) H.Konig; Deutsche Nationalerziehungspl丘ne aus der Zeit des Befreiungskrieges, a.a.0.,
S. 23.
(79) ditto S. 30. (80) ditto S. 167. (81) ditto S. 170.
(82)ハルニッシュほ「学校の全分野を詳細に規定するために、私はヤーンによって提案され、ルーデ
フレーベルの国民教育論の研究(I) (岩崎)
116
ンによっても行われた区分を選ぶ」と述べて、ヤーンとそっくり同じ国民学校制度を構成しているoしか
し、これは、ハルニッシュが「市町村立また教区立学校」を「本来の国民学校」と考え、この学校を男女
共学の義務教育学校と考え、この学校の卒業証をもたないならば次の段階の「都立学校」にすすみえない
とした点で、この学校を男児のための学校として考え、別途に学習の方法を講じうる家庭の子弟の就学免
除を考えたヤ-ンよりも、はるかに徹底した統一的な国民学校制度案であった.なお、ハルニッシュほ、
「郡立学校」へ就学すべき者として、下級技術者・商人・実業家・下級官吏・国民学校教師・大農場経営
者になろうとする男児および親がすぐれた教養を与えたいと思っている女児をあげ、 「州立学校」につい
ては、学者を志す大学進学希望者および高級技術者志望の者をあげている(ditto S. 167-171),
(83)ハルニッシュほ、 「本来の国民学校」の教科として、 「(1)文法、 (2)唱歌、 (3)算数、 (4)幾何、 (51図
画、 (6)体操、 (7)事象科、 (8)祖国科、佃層民科、 uo)使命科」をあげているOかれは、後の4教科については
「事象科は祖国科のための鍵であり、同様に祖国科自身が国民科の入門である」と述べて、事象科⇒祖国
料-咽民科⇒使命科へと発展してゆく内面的関連をもつものとし、後の「世界科」の構想にいたる土台を
示しているoかれの「世界科」については、梅根悟著「カリキュラム改造-その歴史的展開-」金子書
房、昭和24年の第6章2 「ハルニッシュの世界科」がくわしい。
(84) Das Deutsche Padagogische Zentralinstitut; Gedenkschrift zum 100. Todestag von Friedrich Frobel am 21. Juni 1952, Volk und Wissen Volkseigener Verlag, Berlin 1952, S. 148-149.
(85) Hans Zimmermann; Frobels Kleinere Schriften zur Padagogik, Verlag von K.F.Koehler,
Berlin 1914, S. 3.
(86) ditto S. 4.なお、プロイセンへのペスタロッチ教授法の導入については、皇至遺著、前掲書の
第4篇第4章第1節「ペスタロッチ∼主義の導入」がややくわしい。
C87)長田新訳、前掲書、 126-127頁 (88)同上132頁。
(89)同上189頁 (90)同上177貢。
(91) E.Hoffmann; a.a.O. erster Band, S. 161-162.
(92) ditto S. 117.
(93) ditto S. 128.
(94) 1819年のカ-ルスパード会議によって、大学法・出版法・煽動者取締規程の反動3法が制定さ
れ、これら反動3法によって自由・統一・名誉をスロ-ガンにかかげた「学生組合」は禁圧され、大学教
授に対する思想統制がおこなわれ、新聞・雑誌・書籍等ほきびしい検閲下におかれることt,1なったO同
年、 「ドイツ国民性」において国民教育の思想を展開したヤーンは拘束され、釈放された後も長く(1840
年まで)警察の監視下におかれた。かれの設立した体操場は閉鎖され、かれの唱道した「体操」は禁止さ
れた(今村嘉雄著「西洋体育史」日本体育社、昭和28年、 182-129頁)O 「ゲルマニアとヨ-ロッパ」をか
いたアルントは、ボン大学から追放され、煽動家の理由でもって秘密裁判に召喚された。国家権力は超階
級的な「共同の学校」を設けるためにその権力を行使すべきであって、この「共同の学校」の教育内容に
統制や干渉を加えてほならぬと主張した(梅根悟・梅根栄一共訳「国家権力と教育」明治図書、 1961年、
223-224頁)シュライエノレマッヘルは、教育局から斥けられ、またかれのベルリン大学での講議はきびし
い監視をうけたOそしてついに、 1824年フィヒテの「ドイツ国民につぐ」は、プロイセン内務省の警察局
長フォン・カンプッによって「人心をまよわしめ、空虚な幻影を養うの書」としてベルリンでの出版を禁
止されるにいたった(Friedrich Paulsen; Geschichte des gelehrten Unterrichts, zweiter Band,
Walter de Gruyter `そCo., Berlin und Leipzig 1921, S. 323-324)。
(95) Wichard Lange; Friedrich Frobel's gesammelte padagogische Schriften, erster Band,
Verlag von Th. Chr. Fr. Enslin, Berlin 1862, S. 5.
(96) H.K6nig; Gedanken zur Nationalerziehung aus dem Vorm邑rz, a.a.0., S. 10 -ll.
(97) W.Lange; a.a.0., S. 311. (98) ditto S. 321.
(99)長田新訳、前掲書、 178頁。
(100) H.Konig; Deutsche Nationalerziehungspl邑ne aus der Zeit des Befreiungskrieges, a.a.0.,
7
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3. tr4tcffVf ä^FfiotcöoE.R,ä€'" 4. Fqätt*dütöAFSDtc&ba&ä L L(DE{.EäH"]
(E.Spranger; Der Zusammenhang von Politik und Pädagogik in der Neuzeit, "Die deutsche
Schule" 18. Jc., 1914, S. 358*362. H.Ktinig; Zur Geschichte der Nationalerziehung in Deutschland im letzten Drittel des 18. Jahrhunderts, "Monumenta Paedagogica" Bd. 1, AkademieVerlag, Berlin 1960, S. 18. I DFr,[J")
(fi/Jtil3e',+
e E28EEffi)
DIE FORSCHUNG ÜBER F. FROBELS GEDANKEN ZUR VOLKS*
UND NATTOI{ALERZIEHUNG ( I )u Üepn DIE BEDEUTUNG,
MÖGLIGKEIT UND GTILTIGKEIT DER FoRSCHUNG ÜeNR F.
FRÖBELS PADAGOGISCHEN GEDANKEN VOM STANDPUNKTE
DtrR VOLKS- UND I{ATIONALERZIEHUNGUMSTANDE
-DIE
DER GEDANKEN DER >DEUTSCHEN NATIONALERZIEHUNG<(
UM FRflBEL-//
DAS PÄDAGOGISCHE SEMINAR TSUGIO IWASAKI
Erstens, mit der vorliegende Schrift wird es auf einen bescheidenen Beitrag zur Geschichte
der Nationalerziehung durch die systematische Forschung iiber Fröbels Gedanken zur
Volks-und Nationalerziehung in Deutschland in der ersten Hälfte des 19. Jahrhunderts
will die Forschung ein Mittel zur Lösung der über die Nationale'
rziehung bei uns debattierten Probleme vorbringen.
Zweitens, die vorliegende Schrift behandelt die Mögligkeit der Forschung der pädagogischen Gedanken Fröbels vom Standpunkte der Volks- und l-trationalerziehung. Dabei kommt
es erst im Lichte, daP"r einige der bisherigen Schriften über Fröbels Padagogik, die gelegentlich und fragmentarisch seine Gedanken zur Volks* und Nationalerziehung in Betracht
ziehen, doch keine systematischen Forschungen iiber dieselben sind. Die Übersicht über die
Gedanken und Bestrebungen der Nationalerziehung in Deutschland in der letzten Halfte
des 18. Jahrhunderts, in der Zeit des Befreiungskrieges und in der Epoche der btirgerlichen
Revolution gebend, erklärt dann die vorliegende Schrift, daß Fröbels erzieherisches Leben
unter den Bliltezeiten jener Gedanken und Bestrebungen lag, und daß Fröbel mit denselben
in Verbindung trat. Ferner, sie erklärt Fröbels inneren Beziehungen at jenen Gedanken
und Bestrebungen, besonders von Arndt, Jahn, Harnisch, Fichte und Diesterweg. Daraus
folgt es, daß das unveränderte Wesen der pädagogischen Gedanhen und erzieherischen
Praxis Fröbels die deutsche Nationalerziehung ist, die in der "Erziehung zum wahren
Menschen, zu eine:n vernünftig denkenden, menschlich ftihlenden und selbst handelnden
abgesehen. Und dadurch
'W'esen" besteht.
Damit wird die Mögligkeit der systematischen Forschung der Fröbels Gedanken zur
118
Volks- und Nationalerziehung angedeutel.
Drilens, die vorliegende Schrift erklärt die Umstände um die Bildung jener GeCanken
Fröbels und deutei an, daß seine Schrifren die Titel tragen, die jene Gedanken darstellen'
Dabei wird die besonde.re Beziehung zwischen seinem Hauptwerke "Menschenerziehung"
und jenen Gedanken erklärt. Und daraus folgt es, daß Fröbels größre Interesse in seinem
ganzen Leben die Volks- und Nationalerziehung als Erziehung zu einem "freien, denkenden
und selbsttätigen Menschen" war. Darum ist die systematische Forschung über Fröbels pädagogischen Gedanken vom Standpunkte der Volks- und Nationalerziehung unter den
Forschungen über seine Gedanken höchst gtiitig.
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