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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
Author(s)
松竹, 秀雄
Citation
東南アジア研究年報, (30), pp.47-80; 1988
Issue Date
1988
URL
http://hdl.handle.net/10069/26520
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
47
慶長14年(1609)東南アジア海域の
我国海運について
松 竹 秀 雄
第1章 序 説 ・
きゆう
第2章己酉約条と対馬藩の貿易
第3章朱印船主有馬晴信
第1節 マカオにおける事件
第2節 マードレ・デ・デウス号焼沈事件
第4章島津藩による琉球進攻と貿易
第1節 琉球の明への進貢
第2節 島津藩の琉球進攻と貿易
第5章大航海時代の曙光
第1節 序 説
第2節琉球と日本本土とのかかわり
第3節 大航海時代へ
第6章海外貿易記憶序曲
第1章 序 説
慶長14年といえば,慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没して在鮮諸将を召還してから11年後,
そして慶長5年(1600)3月のオランダ船デ・リーフデ号豊後漂着,同年9月の関ヶ原戦役,
及び1600年末のイギリス東インド会社発足から9年後,徳川家康の征夷大将軍江戸幕府成立
の慶長8年から6年後,そして二代秀忠が征夷大将軍となった慶長10年(1605)から4年後
に当る。 、
この慶長14年には様々な出来事があって,ある面では海外貿易が正に隆盛になりかかろう
とする様相が見える反面,逆にそれを真向から否定するかのような幕府命令も出て,我が国
近世の海運の大きな曲り角の年であった。
月日順に大凡の出来事をひろって行けば,正月11日には7船主8隻の朱印船が出航,2月
に島原半島日野江の城主有馬晴信は徳川幕府の内命を受けて台湾に将兵を派遣し,同じく2
月26日に薩摩島津家は「琉球渡海之軍衆法度之条々」を発して,3月4日に全艦船は薩摩郡
山川港を発航して奄美・沖縄へ向つた。4月から5月にかけて,対馬の宗氏は杜絶した朝鮮
48
きゅう
との国交回復を,偽国書を以てする交渉ではあったが己旧約条を締結して貿易再開を達成し
た。5月28日(西暦6.29)にはポルトガル船マードレ・デ・デウス号が長崎に入港し,その
年末,有馬晴信が長崎港外に之を襲って焼沈める大事件が起る。5月30日(西暦7.1)には
オランダ船ローデー・レーウ・メット・ベイレン号及びブリフーソ号の2隻が平戸に入港
し,以後平戸侯と長崎奉行の紹介を得て,駿府に赴き家康と会見し7月25日付オランダ船通
商許可朱印状を得,8月22日(西暦9.20)平戸にオランダ商館建設決定し,ジャックス・ス
ペックスが初代館長となる。そして12月12日(西暦1600.1.6)には前記有馬晴信のポルトガ
ル船襲撃事件が起るが,それに先立って,9月,幕府は西国大名の船500石積以上を没収す
べき旨の命が出,11月から翌年にかけて悉く没収を終る。
本稿では,このような変動の,それぞれの事件を調査しつつ,特に島津氏による琉球進攻
が,歴史的な或る流れの中に於て行われたことに照明を当てて行なってみたい。
きゆう
第2章己酉約条と対馬藩の貿易
慶長4年(1599)に日本軍の朝鮮からの引揚げは完了したが,勿論朝鮮との交易は杜絶し
てしまった。
倭憲が盛んに朝鮮及び明国の海岸を荒らして廻っていた1419年,朝鮮側からの対馬進攻即
ち我国足利義持の時代の応永26年の外憲,朝鮮でいう世宗己亥東征が失敗したものの,朝鮮
側はこれによって日本側の事情に通じることとなって,朝鮮側から一種の勘合印であるとこ
り
ろの「図書」を日本各地の修好の意志ある有力者に贈与し,また九州探題からの書信(書契
と称した)をも要することとしたが,書契の発行を対馬の宗氏に限るということで落着き,
地理的に当然のことながら,宗氏が対明貿易を独占する形で続いていたものであった。
よしとし
であるから,朝鮮の役で杜絶した朝鮮との通交回復は対馬藩主宗義智にとって,藩財政の
かけはし よし
命運を左右する大事業であった。そこで宗義智は,日本軍引揚完了直後に,梯七太夫と吉
そえ ヒ 2)
副左近を朝鮮に派遣したが,朝鮮側に殺されて交渉は失敗した。然し宗義智は交渉を続けて
行った。朝鮮側の史料によれば,「三三33年(1600)対馬守宗義智,三智三等を遣し被虜の
男婦300余口を刷還し,以て和好を要し開市を通ぜんことを乞う。(これに対し朝鮮側は)柳
お
根等を遣し,由を具して奏聞し,東回の人朴三根を差して公文を持し対馬島に往復す」と。
の
これはその前年,朝鮮側が韓応寅を謝恩使となして明国に赴かしめたが,そのまま下国に
ラ
留まって居り,且つ明国の指令がない限り勝手な講和は出来ないとする内容の返状であっ
たが,これが交渉再開のいとぐちとなった。そしてこの慶長5年(1600)6月,伏見に抑留
きょうこう
されていた姜抗が開放されて帰鮮し,日本側には朝鮮に再出兵する様子がないことを報告
した。それに依ってか,同年8月から明の駐留軍が撤退を始めたので,以後朝鮮は明の指令
の
を仰ぐ必要がなくなった。そして同年9月には講和に関する朝鮮側の回答に接した。.ところ
が,慶長5年(1600)9月に関ヶ原戦役があり,交渉は中断せざるを得なかったが,慶長11
年に再開された。李史によれば,「宣祖39年(1606),この年,日本徳川家康使を朝鮮に遣わ
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について . 一 49
し和を求む。是より先,徳川家康関ヶ原に勝ち,朝鮮の旧交を思い,宗義智を召し謂いて日
うら
く,朝鮮は我が隣邦たり,相善からざるは両国の利に非ず,われもとより彼に憾む所なく,
彼誠に仇視すべからず,彼もし和を欲せば,われ且つ之を許さん。然れども強いて求むべき
に非ず。汝の家,彼と旧交あり,宜しくわれの意を領し,彼に至り善く之を謀れと。宗義智
因って使を遣わし,朝鮮に告ぐるに修好の事を以てす。宣祖,日本将士の侵掠を恣にしたる
を憤り,また通信和睦を欲せず。然れども宗義智之を求むること甚だ切にして,和を許さざ
れば兵禍図り難きを云うや,王大いに恐れ,僧松雲を日本に遣わし情状を探らしめ,且つ戦
時とらえられし男女3,000人を還さんことを請う。しかも和義未だ調わず,次いで柳永慶,
領相となるに及び,壬辰の時,二二・靖陵を発掘せし賊を送らば和を為さんと云う。義智す
わ ラ まごさく また
なわち2人を縛送す」と。森山論文によれば,縛送された2人は二二二九(孫作)・下多
は ち
化之(又八)の両人で,実は対馬島内の罪人であった,と。これは李史には「二二曰く,我
が容貌を見よ,我尚わかし(年皆20余),壬辰にはすなわち児童なり,いずくんぞよく陵を
掘らんと。大臣に命じて議せしむ。サ承勲曰く,此を以て陵を犯せる賊と為さば,是れ神明
を欺侮せんと。王遂に永慶の言に従い,市にはなして和を許し,夷知金継信・録事孫文或等
を対馬に遣わす」とある。
また森山論文によれば,このとき宣陵・靖陵を発掘した犯人を引渡せという要求とは別に,
「いままで徳川家康からの答書がないので,至急国書を送られたいということであった。そ
れは対馬藩が,豊臣秀頼がいるにも拘らず家康への国書を朝鮮側にしきりに希望したことは,
どうも納得しかねる疑問であるとして提出された要求である。…いずれも対馬藩にとっては
無理難題の要求であった。朝鮮側は,日本からの回答が容易に返ってこないことを見越し,
その間に日本の国情を詳細に分析しようという意図があった。……回答使と通信使の準備を
ととのえて,徳川家康の国書を待った。ところが対馬はすぐにこれに応じた。……家康の国
たくみ
書は,柳川智永と島川内匠との偽作であった。……朝鮮側は不意をつかれたが,……直ちに
さっかん し
「回答兼刷還使」を日本に送ることに決定した。これによってようやく国交回復の道が開か
れることになった。そして,このため宗義智は家康から肥前国内に2,800石を加増された。(但
し,寛永12年に国書偽造が露見し,家老ら関係者が処分された)」とある。ところがこの慶
長11年(1606)は秀頼滅亡の元和元年(1615)よりは9年前ではあるけれども,家康が征夷
大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)の3年後,二代秀忠が征夷大将軍
となった翌年であって,正式には家康からの国書でなくて,秀忠の国書であるべきであった
ろう。但し翌年の李史に次のようにある。1607年,不宣祖40年日本慶長12年,遂に正史呂祐
けいせん
吉・副使慶逞・従事官丁好寛等を遣わし,江戸及び駿府に遣わして国書宝物を献じ,隣交の
礼を修せしむ。之を徳川時代朝鮮来聰の始となす。其国書の略に曰く,弊邦何ぞ貴国にそむ
かん。壬辰の変,故なくして兵を動かし禍を構え,惨を極め,先王の丘陵をあばくに至る。
二言の君臣皆痛心三二,義として貴国と共に戴かず,数月来,対馬の主,和事を請うと錐も,
実に己れ二三の二つる所,今貴国前代の非を改め,旧交の道を行わんとす,まことに斯くの
50
しるし
如くんば豊両国の福といわざらんや。故に使俳を馳せて和好の験をなす。………然るに秀忠
の答書は,日本,朝鮮に和を請うに非ずして朝鮮に向て和を許すの語あり,祐吉等恐催して
のぼ り
敢て弁ぜず,還るに及び旧例にしたがい使臣は資を陞さる。物議謹然たり……」と。通航一
覧には次のように出ている。「慶長12年,朝鮮の三使呂祐吉・慶逞・丁好寛といえる官人来
朝す。閏4月江戸へ来り,御礼も御饗応もおわりて駿府へつかわさる。駿府にてはお目見ば
かりにて,本多上野三宅にて飲食を繋りて,直に帰朝す。右通故,権現様へぽ朝鮮王より書
エ ラ
翰さしあげ申さず候。勿論御書翰もこれ無く候」と。
このようにして交渉そのものは動き始めたものの,二条締結には至らず,翌年宣祖は亡く
なって,幼帝光海君が立った。そしてその翌年1609年,「光海君2年,日本徳川回復た宗義
智に命じ,僧玄蘇・柳川景直をして国書を齎らし,去年の来聴に報ぜしめ,後また使を遣わ
し,館を釜山に設け,富船貿易条例を約す。此に於て通商貿易既に旧に復し,使聴往来絶え
ユの きゆう
ざること足利氏の時の如し」と。この長船貿易条例が我国でいう私設断線である。
森山論文によれば,「対馬は強引にも翌14年(1609)4月に征夷大将軍の使者と称して国
書を持たせた。この国書も明らかに偽書であったが,この国書をもって来朝と貢路の2ヶ条
を要求したのである。だが朝鮮側はその要求をしりぞけて,国書だけを受取り,日本国王宛
の返書を対馬側に与えたにすぎなかった。然しその後,南条締結問題は急速に進展し,翌5
の
月には一挙に約定成立の運びとなった」とある。つまり,対馬は江戸幕府と朝鮮側に偽書を
送りながらも,念願の約条を成立させた。平戸オランダ商館長ジャックス・スペックスの
らう
1610年11月3日長崎発信十七人会宛書簡によれば,「……錫は朝鮮向けに需要多く,当地に
ては多量購入せられます。私,当日本より朝鮮向け貿易の可能なりや,いささか試してみる
処がございました。即ち去る3月,店員1名に胡椒20ピコル(60キロ換算)を持参させ,当
地より30哩ばかりのフシマ(対馬?)に遣わしました。この地の住民と貿易し,年3∼4回
は彼地に向う便船をもっているのでございます。………支那貿易は全く不況と申す外なきに
よって……」とあって,対馬藩の対朝鮮交易が半独占的に成功していることを裏付けている。
ラ
通航一覧によれば, 「慶長16年辛亥年,宗対馬守i義智,先に点鼻(慶長14年)豪富の後,こ
としはじめて送使船を渡す。是より毎歳渡海交易あり。慶長16年辛亥,始遣第1船,二三内
野勘左衛門平話直,都船主小田庄右衛門平調近,二進石田伊兵衛藤智清,これより二十船次
第渡海絶えず……」。三二二二その他は次の通りである。
歳 遣 船 数
第 1 船
第2必至第17船
1隻
17隻
かかんさいと
シ還再三1隻
(中戻り船)
(各1隻)
〃 2号船
2野送船1号船
1隻
1隻
1隻
〃 2号船
1隻
同 上 1隻
〃 1隻
〃 1隻
〃 1隻
3特送使1号船
1隻
〃 1隻
1領送使1号船
水木船1隻
同 上1隻
〃 1隻
同仮眼目渡1隻
51
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
3特送使2号船
1隻
以 酊 送 使
副急送使1号船
1隻
1隻
1隻
1隻
〃 2号船
1隻
義真返送使船
万馬取工船
かかんさいと
仮還再渡 1隻
(中戻り船)
〃 1隻
〃 1隻
〃 1隻
〃 1隻
〃 1隻
水木船1隻
〃 1隻
〃 1隻
47隻(但し,鳥合計数:48隻)
該船数
例として第1船のみの積荷をみれば次の通りである。
看品(代官のところで検する積品物の意)
第1船1.銅2,800斤(単価毎100斤価公木(木綿)数不明)
1.銅2,800斤(〃 〃 60匹)
1.鐘 1,551斤( 〃 〃 200匹)
1.水牛角297本(毎1本価公木 3匹)
1.円木 325斤(毎100二三公木 33匹3合3勺)
右価公木 115束31匹3合3勺
封進物(朝鮮国王に献ずる品物)
第1船胡椒300斤
明ばん 300斤
円 木 700斤
日本朱 2斤(但160目)
細物一色三代 14匁
同封進返礼物 価公木(綿布)15束48匹
第3章朱印船主有馬晴信
第1節マカオにおける事件
島原半島の日野江の城主有馬晴信は,朱印船主であった。その朱印状取得は次のようにな
っている。
い つ
慶長10年(1605)5月3日
〃 〃 〃 5月16日
西洋渡航の朱印状
かんぽじや
束憎憎〃 〃
ちゃむば
〃 〃 〃 8月28日
占城 〃 〃
〃11年(1606)8月15日
逞羅 〃 〃
〃12年(1607)10月4日
占城 〃 〃
〃 〃 〃 10月6日
束哺塞〃 〃
〃13年(1608)
占城 〃 〃
しゃむろ
52
当時の大名朱印船主は次の通りである。
はるまさ
慶長9年(1604)5隻 島津忠恒3.松浦鎮信1.五島玄雅1.
〃10年(1605)9隻 島津忠恒3.松浦鎮信1.五島玄翁1.
有馬晴信3.鍋島勝茂1.
〃11年(1606)1隻 有馬晴信1.
〃12年(1607)9隻 島津忠恒1.松浦鎮;信2. 有馬晴信2.
鍋島勝茂2.亀井三二1
加藤清正1.
〃13年(1608)1隻 有馬晴信1.
〃14年(1609)4隻 島津忠恒1.亀井薮矩1
加藤清正2.
〃15年(1610)1隻 亀井薮矩1.
〃16年(1611)2隻 松浦鎮信2.細川忠興1
これ以後は寛永7年(1630)まで中断する。
ラ
有馬氏は,晴信の11世の祖経澄が「鎌倉将軍実上卿の時,、建保の頃,常陸国より肥前国」
に地山として派遣されたといい,有馬に城を築き日野江の城と称した。後,明応5年(1496)
貴純の代に原城を支城として築き,晴信の父義直(義貞)の永禄5年(1562)に,i義直の弟
大村純忠の仲介により島原領内にキリスト教が伝わり,ロノ津を貿易港としている。晴信
が朱印船主として活躍する素地は父の代からあったのであるが,戦国時代を経過し,朝鮮の
役・関ヶ原の役が終って,領地に落着いた西南大名たちは,持てるエネルギーを積極的に海
外進出に向けたのである。(鳥取県)因幡の領主亀井武蔵守山矩の如きは,その居城鹿野が
さいよう
内陸にあったにも拘らず,慶長12年に西洋,14年と15年に逞羅宛朱印状を受けているが,「因
幡民談」によれば,「亀井武州この利倍を考えられ,我も舟をやらんとて,蓄え給う財宝限
りなければ,長崎に於て数十貫目の船を買い,京都・堺にて,その国々へ赴く商買の物,或
いは刀・脇指・金銀の細工物・京染の小袖・奈良の曝布染・蒔絵の諸道具・絵屏風など色々
の物を調え下し,是を船に積入,両郡へ役にかけ,百姓共を舟子とし,シャム・カボチャ所
の
々に渡されけるに,案の如く売買ことのほか利潤ありて,金銀の殖たること限りなし」とあ
り,殆ど独立全額出資の朱印船経営者であったことがわかる。
さて通航一覧によれば,「慶長12戊申年,肥前国日野江の城主有馬修理大夫晴信,仰をう
けて香材を求めんがため,占乱国に商船を渡せしが,三富港にて蛮人等,悉くこれを焼害せ
り
しよし上聞に達す」とあり,また「……10年乙巳年8月28日,有馬修理大夫晴信に占城渡海
の御朱印を賜わる。同11丙午年8月15日,明人林三官に御朱印を賜い,さきに商船の便をも
て,かの香木を御所望ありしが,答書も奉らざるにより,猶御書及び鎧等を彼に附して贈ら
せ給い,これをもとめらる。然るに三官洋中にて賊のために害せられしかば,かの国に達せ
ずして帰朝す。同12丁虚心10月4日,また晴信に御朱印を賜わり,前年の御書信物に,豊光
寺承免が書簡を添えられ,その船より達すべしと命じ給う。よって明年晴信,家臣を南蛮船
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 53
に乗組せ渡海せしむ。この三三婿港にて順風を待し内,国人のために害せられ,また彼国に
の ちゃんぱ
達せざり」ともある。長崎港草によれば,「慶長14三酉の年,東照宮占城伽羅をお求めあり,
長崎奉行長谷川左兵衛に仰せ遣わされけれども其品これなく,有馬修理大夫晴信才覚を以て
少しばかり是を献じられければ,御機嫌よくて,其の後三門へ伽羅求めに遣わさるべきとて,
晴信へ才覚すべきよし仰せられ,銀子60貫目其外諸々の器物御渡なされ,修理大夫も色々の
進物など調え,よき唐船を仕立,長崎に於て占城の案内よく存じたるアンヂ(按針)を雇い,
たいわん
久兵衛と云う者に道具の者3人,人夫の者2人差遣しぬ。つつがなく大志に着き,占城への
順風を相待居たるに,右6人の者,彼の蛮夷の従者どもと丁丁の町にて喧嘩を仕出し,蛮夷
どもを数人撃殺しければ,其夜蛮夷の者ども70∼80人,久兵衛が宿所に押寄せ,6人の者ど
もに打てかかり,散々に叩き伏せてこれを殺し,荷物悉く奪いとる。アソヂは元南蛮人(ポ
ルトガル人)にて所の案内はよく知れり,其場をひそかに遁れ出て,他の船に便を乞い,其
年の9月に日本に帰り来り,晴信へかくと申しければ,晴信アンヂを召連れ駿府へ参勤仕り
・・」、とあり,日本出航の年がややずれているように思える。これは長崎市史の「朱印は慶
長12年10月4日附であったが,その船の出帆したのは同年末又は翌13年初であったろう。而
して同船は帰航の時期が遅れて順風を失ったためマカオに寄港した」,長崎県史の「家康よ
りの依頼の伽羅などを求めての帰途,季節風の関係でマカオに立寄り,1年間滞留すること
とんきん
となった」ということかもしれないし,また「このとき東京からの帰途遭難した日本船の乗
組員が支那船を掠奪し,之に乗ってマカオに寄港したが,二品の日本船員等は30∼40人,隊
を組み,官憲の注意も聞かず,弓矢・刀鎗・銃器等を携帯して市街を練り歩く間にポルトガ
ル人と衝突し,数人を殺傷した後,1軒の家に籠って防戦の準備をした。有馬の家臣2人は
之に加わって指揮をした。司令官ペッソアはこの報を聞き,兵を率いてその家を囲み,投降
すれば生命を助けることを伝えたか所が,数人は降伏して牢に入れられ後に免されたが,多
数は戦を続けたので砲撃されて悉く殺された。他の日本船員約50人は別に家に籠っていたが
耶蘇会の教師達が騒擾の報に接し駆けつけて説諭しためで,唯1人処刑され残余はゆるされ
た,ということがマドリッド市の史学科学士院図書館所蔵の文書に載せてある」とある。但
し,諸文献から復航の可能性が高いと思えるが往航の途次の事件であったとする武藤論文
もある。
船については,長崎県史に「晴信は家康の命により,長崎奉行長谷川藤広と協力して占城
へ回船したが,同船はマカオに於てポルトガル人のために掠奪破却せられた」とあり,他の
論著もそのようである。
長崎市史・長崎県史の日本人数と長崎港草の人員等とは差異があるが,長崎港草のは概ね
藤原有馬世譜によっており,但し同世譜によれば,按針(航海士)と久兵衛は別人ではなく,
「高針雇久兵衛」が1人であり,「あんし久兵衛はもと南蛮人なるゆえ,其の場をのがれ,
唐山に渡り,その年の9月本朝に帰り,事のよしをともに注進す」とある。帰国した人数は
ともかく,マカオに於ける事件は大日本史料第12編8に引用するオランダ東インド商会史の
54
1611年(慶長16)8月8日付の記事中に,ポルトガルの大使は我国に渡来し,3年前マカオ
にて日本人を殺せしは正当の理由ありしことを説明し,長崎に於てポルトガル船を焼きたる
は不当な.りとて数百万ドカットの賠償金を要求したと書いてあるから,その3年前といえば
1608年(慶長13)であるし,ヨゼフ・シュッテの「長崎の創立と発展におけるイエズスの
コンパニア」には1608年11月30日に事件が起ったと明記してある。そして報告者の帰国は
慶長14年(1609)の9月である。「前に掲げた争闘の後,免されてマガオから還った船員等
はマードレ・デ・デウス(号)より遅れて帰朝し,マカオの事件が彼らから初めて我国に知
れたので晴信は出府して幕府に報告した」とあることからもそれがわかる。そしてポルトガ
ル船マードレ・デ・デウス号(別名ノッサ・セニョーラ・デ・グラサ号)の長崎入港は,「慶
ヨヨラ ヨ ヨの
長14年10月に来航」,「10月,右の南蛮の二三,長崎に入津:す」と10月説があるが,当時の
帆船は南東季節風を利用して来日していたのであるから,日欧通交史の「6月29日(邦暦5
ヨらう
月28日)マードレ・デ・デウス号長崎着」が正しい。これは「蘭船の日本着より2日前に無
事入港里,「(二二)両船は北航し慶長14年5月30日(1609年7月1日)に長崎港外に着き,
ポルトガル船が2日前に入港したことを聞き,それから水先案内人を雇うて直に平戸に向っ
ヨの ヨ う
た」,平戸オランダ商館日記の「(蘭船)2隻が1609年7月1日平戸に入港した」等からも証
明される。
とろこで,ポルトガル船は慶長12年(1607),13年(1608)の両年,長崎入港はない。これ
は,「オランダ人が東洋の天地に出現してから,ポルトガル・スペインの領土は頻々としてそ
の攻撃を被る。1606年5月から12月までマラッカを攻撃したマテリーフの艦隊は,1607年7
月支那海に入り,広東附近で待機しているため,マカオから例年の通り日本へ向って船を出
すことが出来ない。それが1607年ばかりでなく,翌年も繰返されたので,マカオの商人も日
本の商人も双方共に非常に難儀した。それ故,1609年本年はいよいよ日本に向って船を出す
という段になると,マカオの商人は2年間の無利益を取返す意味で盛んに荷物を積んだ。,
1609年バンタムに来たオランダ国司令官フェルフーフはローデー・レーウ号外1隻を日本に
派遣するに当り,多年日本に往来した船の中,最も積荷に富んだこの船を捕獲せよと命令し
た。……船はマードレ・デ・デウスと称し,縦48間・横18間・吃水線上の高さ9間,橿48間
という大船で,司令官アンドレア・ペッソアはもとマラッカのポルトガル商館に勤務し,マ
テリーフの攻撃を防御した1人で,1607年以来マカオの司令官を勤めている。本来,司令官
は1年限りのものだが,船が出ないから例外として継続していた。彼はフェルフーフの計画
をマラッカからの通知によって知」っていたからオランダ船より2日早く長崎に着航したの
である。
もともと、マカオでは日本船の寄港を喜ばない。それはポルトガルの対日本交易利益が減
少するからである。そこで,マカオ事件を好機とし,マードレ・デ・デウス号長崎入港後,
るの
二二が定例の江戸参府をしたとき,日本人マカオ不寄港に関する幕府の朱印 (次頁)を得
ている。
55
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
あまかわ
1 7月20日晩,学校へ上州より使者あり。天川へ御朱印遣わされ候。日本人天川
へ参り候こと迷惑申し候。御停止有るべしの御朱印也。文書双談申し右回右筆へ
申渡す。
日本人天川津へ寄港候に付て,そのところ迷惑の由尤もに候。その儀に於ては
堅く停止を令し,もしこの旨にそむく者は,その地法度の如く成敗致す可きも
の也。
慶長14年7月25日
天川湊年寄中
右回右筆九左衛門書之
※「学校」とは足利学校の円光寺元倍のこと
さて,9月に帰国した船員からマカオ事件を知った幕府は,事件の晴信船が幕府の朱印を
与えられたものであり,且つ家康の書簡と進物を載せて占城に渡航したものであったから,
この事件を重大視し,晴信に事件の責任者であったペッソアを訊問して,適当な処置をとる
ことを命じた。
第2節マードレ・デ・デウス号焼沈事件
有馬晴信のマードレ・デ・デウス号撃沈事件日については,1610年r1月6日(慶長14年12
るの
月12日)説と,1月9日(邦暦12月15日)説とがあるが,ヨゼフ・シュッテの「長崎の創
ラ るヨラ るの
立と発展におけるイエズスのコソパニア」と,藤原有馬世譜及び通航一覧,並びに1610年
るらう
の日本耶蘇会年報によって,1月6日(邦暦12月12日)説をとる。記せば次の通りである。
「」の中の文章は藤原有馬世譜による。
慶長14年
12月6日 晴信,(江戸より)日野江に帰着。
12月7日 晴信,御手廻20人ばかり召倶して長崎へ。長崎奉行長谷川藤広と相談。r謀て,
カピタンを呼寄せとりこにすべきとの商議にて藤広より使を遣わし,交易の議に付談
合すべきことあれば庄屋の所まで来るべしと云い送られけれども,彼早くその機を察
せしにや,敢て来らず。これはその頃耶蘇の徒ありて,その様子を内通せしに因てなり」
るの
イエズス会フランチェスコ・パシオの1610年3月19日付書簡によれば,“彼らがナウ
船に対し先手を打って攻撃を加えながら,港の入口に向けて同船が去ったために,こ
れを捕獲できなかった時のことであった。彼(長崎奉行)・は公方に対し,司教と私と
56
が今後何が起るかをカピタンに通報したから,あのような行動に出たと書き送った”
と非難めいたことを書いている
12月8日 再び使いを出し,「決して別条なき旨を告諭すといえども敢えてこれをきかず,あ
まつさへ船を出すべき用意をなす」。(1610年日本耶蘇会年報によれば,ここより2里
を距てたる一三(福田港か)に至らんと欲し,予め船長に命じて夜に入るを待ち,時刻
を計り,急を要するにより錨鎖を断ちて出港せり,とある)
「此度,黒船三三さるるに於ては御生害の外なし,此節の儀両人(家臣林田・鬼野池)
無刀にて懐剣を用意し,カピタンに面談して刺違え申すべき旨仰せ含めらる。両人畏ま
りて,直に相向うといえども,鉄砲を放ち寄せつけず……其後,風波少し穏やかになり
て船を出せしかども,沖は猶風波強くして,津を出るとと僅に3里,西風に吹きもどさ
れ,碇をおろして繋り居たり」
長崎名勝図絵によれば,“やむを得ず深堀で碇を下した甥,長崎港草には“未だ風強く
る ラ
深堀まで三里出てここにて碇を卸し繋りける”とあり,通航一覧には“外国入津記に
は深堀を二三に作ぢ。》とある。
12月9日 黒船は逆風のため港外に碇泊中。晴信側は,長崎浦の漁船数隻に焼草を積み,民
かや
家(の軒先)をこわしてその萱を積み,火をつけて風上から黒船に流しかけたが,思う
ようにならなかった。
「たまたま流れ寄るは船より大筒を放ちしゅえ,この術も行われず,然らば十五端帆の
せいろう
船を2艘もやい,黒船の高さに井楼を組上げ攻寄せんと,その用意を仰せ付けらる」
12月10日 黒船は港外に碇泊中。
12月11日 黒船は港に碇泊。有馬から新手の兵士が到着。
12月12日 黒船は,夕暮にはまた出帆しようとした。
「夜中,風鳥きなば船の出んこともまた計り難ければ,只今攻めかかるべきの由申上げ
しかば,公尤もに思召され,然らば早く攻め討つべし。又,右の兵船6艘取りかじおも
かじに3艘つつ上矢を打つべき由仰付けられ,其夜戌の刻(夜8時頃)井楼船を黒船の
もとに打寄せ,我先にと乗移る」。
らり
1610年の日本耶蘇会年報によれば,“(ポルトガル船は)碇を棄て,順風に乗じて出
回したるが,風力微にして遠く去らざる内に日本人に囲まれ,諸方より攻撃せられたり。
初めはポルトガル人の砲撃によりて有馬方危うかりしが,ポルトガル船は側面に運転す
ること能わざるを以て,前記の機械船(ポルトガル船と同じ高さの,三層にして塔に似
たる機械を据付けたる井楼船)は擢を用い,ポルトガル船の後方に到れり。此所には唯
1門の砲ありしのみにて,ポルトガル人は銃及び火を以て之に当り,双方此所彼所に雄
々しく戦いしが此際ポルトガル人にとり不幸なこと出来せり。ポルトガル人の1人,機
械船に向い湯壷を投ぜんとしたるに,未だ投ぜざるに当り火を発し,中帆に燃え付きた
れば,ポルトガル人の多数は消化に尽力し,戦に従事する能わざりき。この事件は敵に
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運にういて 57
十分なる勝利の望を与えしも,これのみにては猶さしたる害なかりしならんに,ボルト
ガル人は消火を容易ならしめんため,帆を船尾に押しやり,却って此所にて火勢を増し,
火災にわかに拡がり,船尾の乗組をして退却の余儀なきに至らしめたり。船長はこの惨
状をみて,船員に神意に任すべき旨を説き,死するの準備をなさしめ,直に火薬庫に火
を投ぜしめたり。けだし生命と共に諸物皆灰儘となり,キリスト教徒のもの一つも異教
徒の手に落ちざらんが為なり。是に於て船は恐ろしき響を発して破壊し,敵にも少から
ぬ損害を与えたり。アンドレア外数名は水中にて銃丸又は弓矢に当りて最後を遂げたり”
と。
イエズス会フランシス・パシオの1610年3月14日の書簡にも,“日本人は4日間にわ
たって4度攻撃を加えたが,彼らは決してそのナウ船に入ることが出来なかった。しか
し主はその戦闘の最終段階に於て災難によりナウ船に火がつくことをお望みになった。
しかもこれを消すことは不可能であった。カピタンはこれを見て,ナウ船が爆発するよ
う火薬庫に点火することを命じた”,とある。
らヨラ
但しこれには異説もあり,通航一覧によれば,“修理(晴信)方に黒船のわりを委し
く存知候牢人あり,此者計上を以て二三の内のわりをつもり候て,大将分の在処,又玉
薬の在処を能くかんがえ候て,合戦にもかまわず,楯にて上をよく囲い小船を用意して
黒船へ乗寄せ,船底をほらせ,玉薬をほりつけ,火をさして船を漕のけ候えば薬に火入
二二候。声は一声天地にひびき,唐人300人ほど焼死,水中に入申候。彼牢人も己れずし
て忽ち焼亡する条,黒船沈み滅却,前代未聞の次第なり。無罪南蛮人少々船にて送り返
す。諸国より集る町人,手を空しくして帰る”ともある。
の
前記フランシス・パシオの書簡に,“日本人たちが船内にあった財をわが物に出来な
いまま,ナウ船は爆発し,海底に沈んだ。このナウ船によって我々は2万ドゥカド以上
を失った。……我々が日本の価格で,生糸を売ったら得られたであろう額(に換算する
と)我々が蒙った損害は3万ドゥカド以上である。それは今年は異常な高価になったか
らである。”とある。
ラ
この黒船の沈没の場所は,通航一覧に強風のため引返し碇泊した場所の各説をそのまま
列記してあり,「①高鉾」「②ゆわう.(伊王島)という処」「③香焼島の外港に漂い来て碇を
の
卸せり」と。長崎名勝図絵に“④昔有馬晴信が南蛮船を焼討ちにしたのは,この島(神ノ
島)の沖の方である。……(黒船と共に沈んだ荷物の中に銀2,600貫があり,21年たった寛
永9年……銀600貫を引揚げ……全部で1,000貫目が揚った),残りは今も神ノ島の海底に有
るという”等とあることから,高鉾島・香焼島・伊王島及び神ノ島に囲まれた水面であるこ
とになる。武藤長蔵先生の論文に“昭和3年8月に香焼島と神の島の中間の海底から引揚
げられた,総長7尺7寸5分(2m34.8),口径3寸8分(11cm 51),厚み2寸5分(7㎝57),
外径6寸3分(19c皿09)の大砲は,マードレ・デ・デウス号のものと推定され,砲身のE.
R.の文字については,ラテン語Emanuel Rex (エマヌエル王の意)であろう,とするの
58
がある。
昭和3年8月22日の長崎日々新聞によれば,「蔭の尾東端と伊王島西端の連結線と,福田
岬と中島連結線のクロス地点で……分厚なチーク材をみつけ,船体の一部なる見込みで愈々
気勢を得,捜査続行の結果;数日前同船備付けの大砲3門を発見。(8月)20日砲1門の引揚
に成功した」とある。旧蔭の尾島の南端部は,現在は三菱長崎造船所香焼工場の俗称100万
トソドック部分であって,蔭の尾東端は,図の長刀鼻東部に当るので,新聞所載の2連結綿の
クロス地点は図の●A印の所となる。但し,天理大図書館より得た「マドレ・デ・デウス」
号引揚後援会の資料「マドレ・デ・デウス号の沿革と引揚作業」によれば,香焼島玄牛鼻と
四郎島の連結線と平瀬・高鉾島南端の連結線とのクロス地点●Bとなっていて,軽度の差は
あるが,’今はこれ以上の資料は望むべくもない。
一驚馬蹄灘灘襲
一11 、礒薄
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馬出
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づ添廻 ,
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59
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
口 径 (サンチ)
砲 長 (メートル)
記 事
呼 称
砲学通志所載
陸用鉄蛇砲
12ポンド砲
11.99
2,638
19世紀の砲
同 上
海用鉄蛇砲
同 上
11.15
2,679
同 上
カルテン,海上
海軍用砲
同 上
12.15
2.45
同 上
11.5
2,348
C術全書所載
長崎引上砲
マードレ・デ・デウ
X号の といわる
マノエル王(1495−
P521 という
8 鞠亭 目 臼 髄P 』匹 樽二十二月八単三潮騒
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60
引揚げられた大砲は昭和5年以後に移動あったらしく,現在は奈良県天理市天理大学図書
おう
館の正面玄関にある。その大砲がマードレ・デ・デウス号のものかどうかについて,有馬成
甫氏によれば,「型式は18世紀末にヨーロッパで流行した12ポンド砲型式と寸法に似ている
ら ラ
」とあって比較表(二七)も添付されている。但し1750年から天保11年(1840)に至る長崎
の
実録大成(正と続)及びその後の明治に至る間の新長崎年表の中に於て,幾つかの難船沈
没記録があるが,当該箇所に最も近いもので,文化6年(1809)秋出帆巳三番楊酸亭船の「佐
嘉領中ノ嶋に於て破船に及ぶ……積荷物残らず沈没す」の唐船であって,蘭船等西欧船は無
い。依て,当該大砲はマードレ・デ・デウス号のものと見倣すべきであり,当該箇所が同船
沈没の場所であると認定するものである。
なお長崎県史によれば,「この事件には台湾視察に派遣されたと思われる谷川角兵衛も参
回しているから遣台湾船(朱印とは別か)は既に帰朝していたと考えられる」とあるが,当
時台湾は交趾・マニラ等と共に外国貿易の仲継地であったので,幕府は有馬晴信をして,対
外貿易の拡大を策して調査せしめようとしたのであった。
第4章島津藩による琉球進攻と貿易
第1節 琉球の明への進貢
沖縄では,1187年(文治3)源為朝の子といわれる尊敦が舜天王と称して即位し,舜天王
統から英祖王統(1260年以降)へ,この王統の4代目玉城王の頃から山北・中山・山南が分
立しその間を三山分立時代と称し,続いて察度王統(1350年以降)・尚思紹王統(1406年以
降)等を経て,中山王尚巴志が1429年に山南王を討滅して琉球を統一し,1470年から尚円王
統となって行ったが,琉球と中国(明)との交易は1372年に始まっている。明実録によれ
ば次の通りである。
1372年2.6 遣楊載,持詔諭,琉球国……
〃 12.26 楊三三瑠球国,中山王三度,遣弟泰;期等,奉表貢方物,三三察度大統暦及織
金文綺紗羅各五匹,泰期等文綺沙羅襲文,三差。
1373年1.2 太常司言,外夷琉球諸国,巳入朝貢……
〃 11.15 琉球国中山王察度,遣其弟泰期等,奉表貢馬及方物…・
1375年1.3 命刑部侍郎李浩及通事深子名,使琉球国,賜其王察度……
〃 3.3以外夷山川,……福建則宜附祭日本・琉球……
1376年4.2 刑部侍郎李浩,還自琉球,弓馬四十匹硫黄五千斤……
1377年2.9 琉球国中山王二度,遣其弟泰期等,進表賀正旦,貢馬十六匹硫黄一千斤…
1378年5.2 琉球国中山王二度,遣使来貢方物……
1380年4.6 琉球国記山王三度,遣二二馬及方物……
〃 10.29 琉球国山南王承察度,遣其臣師惹等,奉表貢方物……
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 61
1382年2.14 琉球国中山王二度,遣其弟泰期及其臣亜蘭三等,奉表貢馬……。
1383年2.3 是日琉球国中山王察度,遣其臣亜蘭砲。山南王承二度,遣其臣師三等,進表
弓馬及び方物
〃 12.25 琉球国山北王柏尼芝,遣旧臣摸旧習,三方物,賜衣一襲
1384年1.23琉球国中山王察度,山南王承察度,山北王柏尼芝
〃 6.2 琉球国中山王察度,遣其臣阿不可等,上表貢方物・・…
1385年2.1 賜琉球国朝貢使者文綺紗錠,及以駝紐鍍金銀印二,賜山南王承三度・山北王
柏尼芝,又賜中山王察度・山南王承察度海舟各一
1386年1.3 琉球国中山王三度,遣旧臣亜蘭三等,上表貢馬……
1387年2.19 琉球国中山王察度,遣使亜蘭鞄,三方物弓馬三十七匹
1388年1.10 琉球国山南王承三度,三三耶師姑,進表献馬三十匹…
〃 2.9 琉球国山南王……三賀,三方物。山北王柏尼芝……中山王察度……
〃 10.1 琉球正中山王二度・山北王伯尼芝,遣其臣……
(以下,年月日のみ記入)
1390年1.17 1391年3.7
1392年5.2/8.1/11.15/12.14/1393年2.12/5.12/6.10/9.7/12.4/1394年2.1/4.1/
5.1/10.25 1395年1.22/4.2/9.14/ 1396年2.10/3.10/5.8/6.6/10.3/12.1 1397
年2.28/8.23/9.22/12.201398年1.19/3.19/4.171402年9.271403年2.22/3.23/
8.17 1404年3.12/4.10/5.10/6.8/10.5/11.3 1405年3.31/4.29/5.28/10.23/11.
22/12.221406年1.20/3.20/5.18/9.131407年4.8/5.8/6.61408年3.28/11.
181409年4.16/6.14/12.7 1410年4.5/5.4/7.2/11.27/12.261411年2.23/4.23/
6.22/11.161412年1.14/3.13/5.11/7.91413年2.1/3.3/4.30/5.30/8.27/12.
231414年6.18/9.141415年1.11/4.10/5.9/6.7/7.7/9.4/10.3/12.21416年1.30
/4.28/6.25 1417年4.17/6.15/9.11/10.10 1418年 3.8/4.6/11.28 1419年1.26/
4.25/7.23/12.171422年10.16 1423年9.5/12.5 1424年3.1/6.27/8.24/10.23/12.
211425年2.19/4.19/8.14/9.12 1426年1.9/4.8/5.8/7.5/9.2/10.1/10.31/11.
29 1427年4.27/7.24/10.20/11.19/12.181428年9.10/10.9/11.8/12.71429年1.5
/2.4/5.4/6.3/8.1/10.28/11.271430年6.21/9.18/10.17/11.16 1431年9.7/10.
7/11.5」432年2,2/4.1/6.28/12.231433年2.20/3.22/5.19 1434年4.10/5.9/8.
51435年1.30/2.28 1436年/1.19/2.17/3.18/4.17/8.131437年3.7/6.4/7.
4.1438年2.24/8.211439年4.14/8.10/10.81440年3.4/4.2 1441年12.131442年2.
11/4.11/5.10/8.6 1443年1.2 1444年2.19/4.18/5.16/7.16 1445年2.7/3.9 1446
年2.26/4.26 1447年2.15/3.17/6.141448年2.51449年3.24/8.19/9.171450年1.
13/4.12/6.10/9.6 1451年2.2/3.4/5.11452年3.22/5.19/9.14 1453年4.9/5.9/
9.3 1454年2.28/3.29/9.22 1455年2.17/3.18/4.i7/5.17 1456年4.5 1457年2.24/
62
3.26 1458年1.16/2.14/3.151459年3.5/4.5/8.281460年3.231461年3.131462年
3.1/4.31/5.30 1463年2.16 1464年4.71465年3.271466年4.151467年4.51468年
2.24/10.161469年2.12/4.12/5.12/12.41470年5.11471年3.22/6.19 1472年3.
10 1473年4.271474年4.171475年4.§/5.5 1476年3.261477年4.14/5.131478年5.
3 1479年3.24 1480年4.10/5.10/(…皆一年一貢……令三二年一貢,此誠臣之罪也……)
1482年3.20/4.18(琉球国中山王尚真,復旧不時進貢,不許……) 1484年3.27 1486年5.
4 1487年12.15 1488年1.14(命却琉球国入貢使臣之従三江来者,旧例琉球二年一丁……)
同年4.12/5.121490年3.21/4.201492年4.271494年5.51496年5.131500年3.
301502年4.71507年5.121509年2.19/5.191510年2.91511年4.281512年7.
131513年12.271515年4.141516年4.21517年3.22 1518年4.10 1520年4.18 1522年
5.251524年5.4 1526年5.111528年4.19 1530年3.29 1532年5.51534年6.121535年
12.25(琉球国中山王尚清,以受封,遣王舅長史毛貫等,進表謝恩献方物……)1536年1.
231538年3.311540年4.71541年6.21543年11.271545年9.6 1547年12.121549年
12.19 1550年1.18
(この頃から嘉靖大憲期となる)
1554年1.4 1555年10.161557年12.211562年7.11563年11.16/12.16 1565年12.
231568年11.19 1570年1.71571年11.17 1573年11.251574年12.14 1575年9.51576
年1.1/1.31(7.26封琉球自世子尚永為中山王) 1578年1.8 1580年11.7 1581年10.
28 1583年11.51587年5.8/11.1
1591年12.16 琉球中山王世子尚寧,差官鄭礼等,照例賞賜,……速請三三……
1594年12.12
1595年6.8 琉球国使者干瀟等,為世子尚寧請封,……侯世子具表前来,然後許封,聴使臣
面領,従之
1597年11.10 1600年1.16
1601年7.30/8.28/9.26尚寧准襲封琉球国中山王・・…
1602年11.14 1604年1.31
(1605年8・15 命冊封琉球,兵科二三中夏子陽行人王士禎作速渡竣事).
1606年20.2(2月20日の誤りか)/(2.30 冊封琉球正使夏子陽・副使王士禎,竣役同)
1607年10.21琉球国中山王尚寧,奉献前使所郡金,上嘉其三三,並以礼金還其来使,三兵
科右給事中夏子陽,行人司行人三士禎,冊封琉球,事竣将行…琉球国中山王尚寧,以
洪永旧例,初賜閲人三十六姓……
1609年1.7 宴琉球国進貢使臣鄭子孝等一十三員
1610年8.19 琉球国中山王尚寧,春遣陪臣王舅毛鳳儀・長史金応魁等,急報倭警,致緩貢期,
福建巡撫陳子貞以聞,下所司議奏,許続修貢職,賞照陳奏事例減半,傍賜毛鳳儀等金
織練段,各有差。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 63
さて1610年(慶長15)8月19日,琉球国王尚寧は明朝廷へ向けて,「急報倭警,致緩貢期」
と異変を知らせたのであるが,前年の進貢の時期に薩摩の軍衆は南下準備を始めていたので
ある。
第2節 島津藩の琉球進攻と貿易
島津藩の琉球進攻は琉球側からみれば「三軍の入憲」であったが,通航一覧によれば「慶
長14年(1609)己酉2月21日,少将家久,老臣樺i山権左衛門・平田太郎左衛門を将として,軍
やぶつ え ら ぶ
卒3,000,兵船100余丁を琉球国に発向せしむ。頓て大島を攻取,徳ノ島を抜,また永良部・
ようん の
与論等の諸島を平らぐ。よて此よし家久より本多上野介正純の許に告ぐ」とある。
ラ
但し,鹿児島県史によれば(島津)邑久・義弘・義久連名を以てする軍律「琉球渡海之
軍衆法度之条々」は2月26日付となっている。そして2月28日,家久・義弘も軍の出発を見
送るため山川(港)に至り,3月4日全艦船は山川を発航した。同県史には,「七島勢を案
内として口永良部島を経て大島に向つた。難風のため諸船は分散したが,7日前後して大島
うふや うっち
諸所に着岸し,次いで徳之島・沖永良部島に進んだ。各地に於て三脚たる大親旧は掟等が島
民を率いて抗戦したが,薩軍の鉄炮には敵せず,悉く平定された。三軍は更に進航して25日,
沖縄島運天港の対岸なる古宇利島に達し,次いで主将樺島鷹下の6士及び七島勢240人は沖
な き
縄島に上陸して那覇に向かい,また副将平田増宗及び伊集院久元肥の1隊は,27日海路今閉
じん
仁城に向つたが,城兵は風を望んで退去したので,其屋舎を焼閉したという。…4月朔日,
薩軍は水陸より首里・那覇に入った。…(4月)4日,三三も下城したので,5日丁丁は首
里城を接収した。戦闘はかくして終了したが,此の役に三軍の戦死者は雑兵300人に過ぎな
かったという」。琉球側は約100年前の「尚真時代の刀狩りで武器を棄てていた沖縄にとつ
の
て“棒の先から火の出る”鉄砲戦の前には手の施しようがなかった」のであった。
このように,琉球王朝域は簡単に島津藩の占領するところなり,与論島以北の所謂「道之
島」については,「琉球役後の慶長15年10月,大島に黒葛原吉左衛門・宇田小左衛門を代官
とし,翌16年4月,相良勘解由・有馬次右衛門を派して徳之島を干せしめ,慶長18年道之島
全体を支配する大島奉行を置き,元和2年徳之島・沖永良部島・与論島に対し徳之島代官を
置いた。従って大島奉行は大島・喜界島のみを支配したが,寛永16年,大島奉行を大島代官
と改めた。その後,元禄4年徳之島代官支配のうち沖永良部島・与論島を割いてジ之に沖永
ラ
良部島代官を置き,同6年喜界島を大島代官支配から分けて喜界島代官を置いた」というふ
うに,直轄の薩摩藩領にくり入れられたが,琉球に関しては,「琉球王を臣従せしめ(貢賦
の額を定め),且つ王位継承者を決定する権能を握った。……即ち島津氏より王位継目を申
し付けた後,幕府へ届出れば足りるので,之は将軍徳川秀忠の定めた例規であるという。更
らに支那朝廷は,之を関知せずとはいえ,かくして王位継承者が決定した後,それに封冊を
授ける」という,島津の属領でありながら,明朝廷からも授封という二重性格をもつものと
なった。
64
しゃむ
琉球は明国のほか,朝鮮や二二とも交易していたのであるが,島津藩は琉球に中国以外と
の貿易を禁止し,中国との関係は冊封・進貢すべて従前通りとし,薩摩への朝貢関係には貿
易上の利潤を獲得しようとした。もともと琉球の中国に対する関係は名は朝貢であって,実
は貿易関係であったことは間違いない。それで琉球としては出来るだけ進貢回数を多くしょ
うとしたが,中国側はその繁に堪えず,しばしばその度数に制限を加えるようになって行っ
たのは第1節にみた通りである。
さっぼう し
琉球の二重性格の実態は,「冠船,即ち珊封使の船は2隻つつやって来た。正副使以下600
∼700人が約半年も那覇に滞在したので,那覇の市中はすこぶる唐臭くなった。……封舟と
とんどう
いう唐々船は引舟によって港内に入って碇をおろし,冊封四達は伝馬船で通門崎から上陸し
た。国王はこれを仰恩亭で迎えた。正副使が天使館に入ると,竿頭に冊封の黄旗が掲げられ
の
る。護衛の兵隊達は下之天妃宮や東町屋通りの民家に入れられた」。その間,在番奉行以下
の薩摩役人達は冠船唐人の滞留中は,浦添間切の城間村に隠れていたのである。
ともあれ,島津藩の琉球支配は,その事実によって日本国内に薩摩の権威を誇示し,三明
貿易の利益を独占しようとした。それは検地の実施・貢租の負担・宗教の統制とキリスト教
り
の禁止等の植民地支配のたあ,在番奉行を前記のような形で常駐させながら,琉球を明の
朋三国として独立状態にしておくのを得策としたのであった。
ところで,琉球支配は,地理的に最も近い薩摩藩だから考えつき,実施したものであろう
か。筆者は過去20年間鹿児島に住み,同地の歴史書によりそう理解していた。ところが,以
外にもそうではなく,有馬晴信の項で名前が出た因幡の亀井武蔵守菰矩もまたそうであった。
『朱印船貿易史』によれば,「藪矩通商の動機を以て,単に財利を図り,遠物を愛玩せんと
の心に出つとなすは恐らくは通論にあらじ。藪矩夙に琉球を征せんとするの志あり。図南の
雄志欝勃として禁じ難しと難も,庚子の役(1600年の関ヶ原)天下の大勢定まり,外藩なが
ら既に家康の信任を博したる彼は,今更武を弄し名を求むべくもあらず,いわんや山中(鹿
之助)幸盛を介して秀吉の恩顧を受くること渥かりし身の,ややもすれば家康の猜疑を招き,
譜代諸藩の嫉視を免れざりしを以て,この際に於ける彼の進退去就は最も細心なる注意を要
したることは言をまたざるなり。彼は時勢を大観し,人を知り己を知るの明あり。図南の雄
志を絶てりと難も,その小天地に腸踏し能わざる豪蕩なる性格は,彼をして指を海外通商に
染めて,異域の産物を齎来し,異邦の山河風土を耳にし,以て胸中の悶々を遣らんと決心せ
しめたるなり。彼がその居城(因幡の鹿野)を三舎城と名づけ,城南の山を鷲峰山と称し,
城左の川を流砂河,城右の水を践提河といい,鹿野を以て鹿野苑とし,その領を称して小天
竺と号したるが如き,表面,佛を信ずるに依り佛蹟を追慕してその名を取るというと錐も,
ア う
その本意菰にあらずして彼にあるを疑わざるなり」。またその以前,「秀吉,よりて城中に
入り,(亀井)三三を召して曰く,鹿野は敵地に近き所,籠城2年に及ぶこと粉骨の至りな
り。二二を以て汝の労に報いんと。依りて葱矩に与うるに鹿野を以てし,気多郡1万3,000石
に封ず。10年本能寺の変あり。秀吉,毛利氏と和し光秀討伐の謀を定め,藪矩に言いて曰く,
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 65
吾さきに出雲を与うるを約すと錐も,輝元と和して既にその半国を与えたり。卿は宜しく他
国に於て領地を望むべしと。菰矩対えて曰く,吾日本に於て望む所なし,願わくば琉球を賜
うちわ
わるを得んと。秀吉大いに喜び,直ちに団扇をとりて亀井琉球守殿と記し,署判して之に与
えたりき。天正13年薙三従五位下に叙し武蔵守に任ず。文禄元年征韓の役起るや,藪矩兵艦
5隻を造り,兵士3,500人を率いて名護屋に至り,将に琉球を討たんとす。秀吉その志を壮と
すれども,朝鮮・琉球,兵を分かつの不利なるを認め,諭して征韓の軍に従わしむ。……功
を関ヶ原に立て,戦終りて鹿野に帰り大いに因幡伯者にしたがう。……合せて3万8,000石
を領せり。この時にあたり諸侯各々封に就き天下の分野大いに定まる。薮矩,琉球を征する
の宿志あれども容易に兵を動かすべからず」とある。
現在の感覚からすれば,島津の琉球進攻,亀井藪矩の琉球攻略計画等,すべて悪としての
侵略ではあろう。然し西欧人の所謂大航海時代は,「地理上の発見」とも相まって,歴史上
の厳然たる事実である。我国応仁の下剋上にはじまる戦国時代も,また歴史上の一事実であ
って,侵略が悪とする感覚とはやや離れたところにあったのである。
次に我国の大航海時代の曙をみてみよう。
第5章大航海時代の曙光
第1節 序 説
長崎実録大成によれば,「異国渡海御免の事」として,文禄の初年(1592)より長崎・京
とんきん た に
都・堺の者,御朱印を頂戴して広南・東京・占城・束:哺塞・六昆・太泥・逞羅 台湾・呂宋
・阿嬌港等に商売のため渡海すること御免これ有り。
長崎より5艘 末次平蔵
2艘
船本弥平次
1艘
荒木宗太郎
1艘
糸屋随右衛門
1艘
京都より3艘.茶屋四郎次郎
1艘
角倉
1艘
伏見二
1艘
丁より1艘 伊予屋
1艘 以上
また別に「津田又左衛門逞羅渡海のこと」として,
「慶長の頃,長崎より津田又左衛門という者,商売の為に逞羅国に下居たりしに,逞羅国と
こ あ
寄阿国と合戦これ有り,逞三方甚だ難儀に及し三又左衛門に加勢を頼入れり。その頃彼国に
日本人600∼700人在留し其所を日本町と称せり。又左衛門並に山田仁左衛門軍将となり,彼
アの
人数を引率し,一戦にゴア国の軍勢を追崩し勝利を得たり……」とあって,その海外活躍ぶ
りが想像される。
さて船舶に関して,倭憲が暴れまわった時代は,近代以前では中国人が最も日本に関心を
66
もった時代といわれ,数多くの日本についての研究書がつくられた中に,鄭若曽の「日本図
纂」の日本船に関する記事がある。それによれば,「日本の造船は中国とちがい,必ず大木
を用い角材をとってつぎ合わせる。鉄釘は使用せず,ただ鉄片を連ねるばかりである。・
・労力と財力とを要するので,大力量のものでなければ簡単に船を造ることはできない。お
よそ中国に回するものは,みなその島の貧乏人である。だから従来日本が千百隻の船を造る
などと伝えられているのは,みな嘘である。船は大きいものは300人,中は100∼200人,小
は40∼50人から70∼80人を乗せることができる。その形は低く狭く,もし巨艦にあえば旧い
の
で攻めることもむつかしく,沈没されそうになってしまう」と。
ところが朝鮮の役を契機として,我国の造船術が画期的に進歩したといわれ,秀吉が軍隊
う
と兵糧の輸送に用いた日本丸は「長さ70間,横40間,船中には18畳敷の広間三間もあり」と
あるが,大きすぎて実在したとは考えられず,九鬼三日本丸の長さ83尺(25.2m),幅31尺
3寸(9.5m),深さ10尺(3.03m),計算石数2,600石(実力1,500石積)の伊勢船形式の
の
形程度であったであろう。しかし16世紀後半には日本の私貿易船は台湾・ルソンなどで活
動しているので,当時のポルトガル・スペインなど500トソ以上の大型のカラックやガレオ
ソ,又は中国のかの三二の大型ジャンク船などが往来していた東南アジア海域への私貿易船
は,中国からの輸入船又は,「平戸・長崎界隈の北九州に中国系ジャンクの造船技術が根付
ア エ
いていた中国型ジヤソク船」と考えることが出来よう。
何れにせよ和船に中国型ジャンクの良いところを参考とし,西洋型帆船の進んだ造船技術
ア ラ
を取入れる努力をも徐々に行いつつ,堅牢な船を保持する段階に進んで行った。造船の進
歩がまた通交貿易の海外進出をうながしたのである。
第2節 琉球と日本本土とのかかわり
島津氏と琉球との関係は,慶長14年(1609)の進攻により,あっけなく琉球が島津の属領
となって終結したが,琉球と日本本土との交易は応永21年(1414)に始まるとするのが通説
である。
きの
琉球と本土及び島津とのかかわりを鹿児島県史・鹿児島市史・名瀬市二等によって略記
すれば次の通りである。
応永21年(1414)足利幕府,琉球と通交す。
永享2年(1430)12月 琉球の貿易船,日本からの帰途与論島沖で難破し70余人水死。
嘉吉元年(1441)4月 足利義政,島津忠国の功を賞し琉球をその附庸とすと伝う。
宝徳元年(1449)8月 琉球の商人,薬種及び銭を幕府に進む○細川勝元,琉球使船の商品
を押乱す。
寛正2年(1461) 島津忠国,琉球に渡らんとして一乗院に太刀を寄進す。
(文正元年(1466)琉球尚徳王,喜界島を討つ)
文明3年(1471)11月 細川氏,島津立久に命じて琉球渡船を統制せしめ,立久・忠昌,両度
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 67
これを琉球に伝う。
文明4年(1472)2月 島津立久,琉球国来聰の謝問使を送る。
〃 6年(1474)9月 足利幕府,島津氏の琉球特殊関係を承認し,又遣明使坊津碇泊の際,
硫黄積込み且つ航海の警護を命ず。
〃10年(1478)8月 朝鮮漂流民,琉球より薩摩に入る(翌年6月本国に帰る)。
〃12年(1480)2月 足利幕府,島津氏をして琉球の来貢を催促せしむ○幕府,島津忠昌
に琉球貿易恢復を斡旋せしむ。
〃13年(1481)琉球文船,鹿児島来航。
明応元年(1492)2月 島津忠昌,船頭町木某に琉球渡航の認可書を与う。
永正5年(1508)3月 琉球使者天王寺東堂帰国す。
〃13年(1516)3月 備中蓮島豪族三宅国秀,琉球襲撃のため野師12隻を率いて坊津に碇
干す,6月島津忠隆,三宅国秀を討殺す。
〃15年(1518)9月 島津:忠隆,書を琉球王に送る○琉球丁丁眞,薩摩二丁。
大永元年(1521)6月 琉球三三二,書を種子島忠時に送る○琉球回船到来(鹿児島)○種
子島忠時,使節妙満寺を那覇に遣す。
〃5年(1525)島津忠良,武具両種を琉球王に贈る。
〃6年(1526)8月 琉球王尚眞,前年の好意を謝し,島津忠良に絹糸を贈る。
天文元年(1532)8月 琉球王,在留邦人を恐れて明使節丁丁に謁せず。
〃3年(1534)9月 三宅国秀・の党類三郎兵衛ら再度琉球征討を計画す。島津氏の国老村
田・伊地知連署これを琉球に通知す。
(天文6年(1537)尚眞王,大島を討つ)
〃11年(1542)5月 琉球円覚寺全叢,相良氏に商船渡航の事を報ず。
(天文12年(1543)8月25日 ポルトガル船,種子島に漂着,種子島時尭鉄砲2丁を得る)
文治2年(1556)12月 中山王,種子島時尭に返回す。
永禄2年(1559)4月 島津貴久,琉球王丁丁の丁丁に返回して隣交密ならんことを告ぐ。
(永禄5年(1562)明の冊封使,倭憲のため遅れて沖縄に来航)
〃6年(1563)2月 島津貴久,日向櫛間湊の天神丸に琉球渡航の朱印状を与う。
〃12年(1569)1月 琉球三司官,大平島百姓の送還を謝す○琉球王尚元,建長寺月泉を
使として金物を島津氏に贈る。
元亀元年(1570)3月 島津氏,広済寺雪琴を琉球に遣して来使を謝し,義久の襲封を告ぐ。
(元亀2年(1571)尚元亨,大島を征服する)
〃3年(1572) 島津氏,琉球に正印不帯渡航船の船財没収を依頼す。
天正元年(1573)7月 琉球,書を島津氏に送り音問を修す。
天正2年(1574)9月 島津国老,琉球に書を贈り,使者雪雰応待旧例違反を示し,反省を
促す○琉球王尚永,天界寺南叔らをして義久襲封を賀す。
68
天正3年(1575)3月 琉球使節,鹿児島に来る。4月琉球使節乙丸礼を行う。8月琉球船,
薩摩に漂流,保護を加えて送還す。
〃5年(1577)閏8月 琉球王二二,三州千歳の侮を賀し,明年の明冊封使の来朝を告ぐ
○大友二二,島津氏の諒解を得て琉球に使を発す。
〃6年(1578)2月 上使天界ら金物をもたらす。4月琉球三司官,鹿児島奉行に妙厳寺
派遣を告ぐ。
〃7年(1579)3月 島津義久,山下筑後を琉球に遣す。
〃8年(1580)12月 琉球王尚永の使者普門寺来聴。
〃9年(1581)2月 島津義久,根占湊小鷹丸に琉球渡航の朱印を与う。5月島津氏,琉
球に普門寺来聰を謝す。11月義久,琉球に九州平定を告ぐ。
天正ll年(1583)4月 琉球,称寝重張に書礼す。
〃12年(1584)11月 島津義久,坊津天神丸に琉球渡航朱印を与う。12月琉球王尚永が天
王寺弓庭を送り,島津氏の覇業を賀す○山川津船頭津留讃岐,琉球渡航印判を申請く。
〃13年(1585)4月 琉使天王寺祖庭,鹿児島に来る。5月三三,義久に謁す。7月義久,
琉球王三三に返簡す。
(天正15年(1587)島津義久,秀吉に降る)
〃16年(1588)8月 島津義久,太山寺龍雲を渡証せしめ秀吉の意を伝う。11月義弘上京
の際,秀吉琉球聴問と勘合符上進とを促す。義弘伊地知二者入道をして琉球修好の事を
処理せし覗
〃17年(1589)11月 細川幽斉・石田三成,義弘に琉球聰問と勘合符の事とを催促す○浦
添王子尚寧,琉球王となる。5月二二,天竜寺桃庵を秀吉の許に送る。8月24日琉球王
尚寧,義久に伴われて上洛,秀吉に謁す。
天正18年(1590)2月 秀吉,琉球王尚寧に書を送って産物上進を謝し,2∼3年内に明国
を討伐すると告ぐ。8月島津義久,尚寧に書を送り,秀吉の関東平定を告げ祝儀言上を
命ず。
〃19年(1591)4月 義久,琉球に綾船の到来を促す。10月義久,尚寧に兵7,000人と兵糧10
ヶ三分を来年2月中に坊津に送るべきを命ず。三司官驚愕して之を福建巡撫に告ぐ。12
月義久,新納伊勢守を琉球に遣して朝鮮出陣の賦役を督責す。
文禄元年(1592)4月7日 義弘ら名護i屋を発航す。
〃2年(1593)12月 義久,成就院をして尚寧に兵糧輸送を命ず。
〃3年(1594)6月 尚寧,兵糧輸送の不可能を謝す。
(慶長3年(1598)8月18日 秀吉没す)
慶長5年(1600)2月 琉球王尚寧,明の封冊を受く。(9月関ヶ原役)
〃8年(1603)1月 義久,仙台領漂着の琉球船船員を送還し,琉球二二寧に対し徳川家
康に謝礼を求む。琉使報恩寺忍文長老,鹿児島に到る。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 69
慶長9年(1604)2月 i義久,甑島漂着の琉球船員に対して書を尚寧に送り来聴を促す。9
べえち ん
月三三中村親雲上,薩摩に到る○義弘,書を丁寧に送る。
(8月家久(忠恒)カンボジア渡海朱印状を受く,閏8月家久,カンボジア及びシャム渡海
朱印状を受く)
慶長10年(1605)7月 本多親貞,駿府に回し琉球出兵の許可を請う。
さいよう
(家例,安南及び西洋渡海朱印状を受く)
〃11年(1606)6月 明の珊四丁夏子陽,琉球に到る。6月家門,琉球征討を許さる。9
さとうしゅ
月義久,崇元寺宜護里主に託して書を送り,尚寧の来聰を促す。9月家久,明の冊封
使に書を送り,その商船の来航を求む。
(7月下久,安南渡海朱印状を受く。)
(慶長12年(1607)10月 家久,シャム渡海朱印状を旧く)
〃13年(1608)8月 幕命に9よって僧龍雲を琉球に遣し,重ねて来聰を促す。
〃14年(1609)2月 義久・義弘・家久,連署して琉球渡海三軍衆法度の条々を発す。
(6月家久,シャム渡海朱印状を受く)
(元和元年(1615)9月 家久,ルソン渡海朱印状を受く)
( 〃 〃 9月 琉球人,ルソン渡海朱印状を旧く)
このような歴史的経過をみてくると,薩摩藩が単純に旧藩に近い弱い国をさがして侵略し
ただけであるとはいえないようである。当時の勢力構図は,明の政策にみるように,一国と
して統一可能な範囲は武力を以てその辺境まで確保し,その辺境の外にあるものに対しては,
或は貿易の利を以て誘い,或は武力を以て屈伏せしめながら形式上の属国化一朝貢貿易に
よる外交を以て近隣諸国を確保し,且つ可能な限りの遠隔地にまで勢力を拡大するという国
際的力学の行使にあったようである。所謂大航海時代のスペイン・ポルトガルにしても,内
容的にはやや相違点はあるが,イベリア半島からイスラム教徒を追放した余勢をかって,大
型船建造と操船技術の進歩を頼みとし,大航海の未知への探検とキリスト教伝道を柱としつ
つ,アメリカ大陸或はインドへの道を,略奪を含みながら貿易活動を以て勢力拡大しつつあ
った。それは植民地争奪戦でもあった。琉球王朝もまた,三山(沖縄島)を統一するや,与
論島・沖永良部島・徳ノ島・喜界島・奄美大島を討ち,その属領としたのである。
わが国に於て足利幕府は,応永8年(1401)に対明通交を開始したが,応永11年(1404)
に締結された永楽条約は,10年1回の入貢ということに拘らず,応永17年(1410)までに我
国からの勘合貿易船派遣6回,船数43隻に及んだといい,但し貿易上の利益が大きかった
とはいえ,義満が明から封ぜられた日本国王として臣属の形をとったことは,屈従外交とす
る非難が起り,為に義満の死後,将軍回持は朝貢形式による貿易を排して,来朝の明使をし
りぞけた結果,日明通交は応永26年(1419)から一時中断した。それから13年後の永享4年
70
(1432)将軍義教の代に勘合貿易が復活した。
勘合船の形式は,日本国王(将軍)の朝貢船であったが,実質的には大名と寺社の経営す
る貿易船であって,後,細川・大内両氏によって遣船の実権が争われ,最後には大内氏に帰
したが,経営実体は博多・堺などの大商人の資力によったといわれる。
将軍義教の嘉吉元年(1441)に,「将軍義教,島津忠国の功を賞し琉球をその附庸とすと
伝う」という,琉球とのかかわりが出てくる。足利幕府と琉球との通交は応永21年(1414)
に始まったが,時の将軍義持から琉球王丁丁紹に宛てた復書は,「小高檀紙を上下少しく切
り,仮名書にて宛名を“りうきう国のよのぬしへ”とし,文は“御文くはしく回申候,しん
ヨラ
上の物ともたしかにうけとり候”」とあって,「この書式は,大体は附庸国に対する態である
ラ
」という。当時の足利幕府は琉球に対する関心を明の授封という形式以上に,内容的には薩
摩からの島づたいの延長にあるだけに,附属回視する面が強かったと思われる。
琉球入貢船の入港に当っては,足利幕府は商品の内容を点検し,予め注進した目録以外の
の
ものがあれば成敗するという制規があった。琉球芋船の来朝は,足利義教(6代)の永享
年代(1429∼1440)には2∼3年に1回の割であったが,義政(8代)の代,文正元年(1466)
までの23年間に6回,3∼4年毎に1回となって行った。幕府は永正元年に琉球使船の貨物
点検の法規をゆるめて,その来航の頻繁ならんことを計ったが貢使船減少の原因は上記の
貿易上に加えられた拘束と,内海航路に於ける海賊の不安にあったといわれる。特に応仁の
大乱(1467∼)以後は瀬戸内海は兵船の往来衝撃の巷となって海賊の跳梁が激しくなった。
応仁の遣明船さへ,帰朝の際に文明元年(1469)南海路を迂回したのは1号船(幕府船),
2号船(細川船)が敵側に立った大内氏の領海を避ける意味もあったが,海賊の掠奪を畏れ
の
たためといわれ,南海の三三珍貨を齎す琉球船は,瀬戸内海賊から特に狙われた獲物であ
ったという。それで,琉球船が齎らしていた南海の諸貨(薬草類・沈香類・染料等)の最大
の消費地であった近畿地方の商人,着岸地の兵庫の取扱業者に与えた打撃は大きかったが,
この琉球∼近畿貿易の衰退を機に,逆に堺商人と九州の貿易商が力を蓄えることになって行
く。
南海産の薬種・香料等は,直接に産地に往来した琉球船によって日本に齎らされ,日本か
らの遣明船にて中国に輸出されるものもあったというが堺商人にとって:も琉球船上洛の杜絶
は大きかったものである。ところが堺商人は,日本に入って来ない琉球船を待つよりも,進
んで琉球に往来する道をえらんだ。その貿易船は当然島津藩の領海を通る。足利幕府は文明
3年(1471)に一般琉球渡航船は島津氏の認可を要することを許していたので,相まって
島津氏の権限は強化されることになって行った。
因みに,永禄6年(1563)の天神丸に対する琉球渡航朱印状は次の通りである。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
71
日向国三間湊,天神丸
船頭 日高但馬守
琉球
永禄6年癸亥 2月28日
貴久[朱印]
このような経過を辿って,足利時代の官による貿易から次第に民間貿易商人の力が増し,
瀬戸内海が応仁の乱後段々と平静を取り戻すと共に,瀬戸内一博多,博多一朝鮮,博多一薩
摩一琉球,瀬戸内一丁三一琉球,の海運が貿易の幹線となって発展することとなり,これが
台湾へ伸び,呂宋・逞羅へも伸びて行くこととなったのである。
そしてこれが,応仁の乱から戦国時代を経て,織田信長・豊臣秀吉の天下統一を見ると共
に,海賊の禁止(天正16年一1586),海外渡航朱印制(文禄元年一1592)となって行く。
第3節大航海時代へ
これまでに見てきたように,倭憲時代から私貿易船時代を経て実質的に力をつけてきた民
間貿易商による海外貿易が,文禄以後朱印状による渡航,即ち朱印船時代の幕開きとなった。
国内事情としては,文禄・慶長の2回の朝鮮出兵,秀吉の死後の関ヶ原の役・大坂冬夏の
陣等によって,海外貿易が一時的に停滞する時期があったにしても,朱印船時代はいや応な
く時代の要請として大きく曙光を浴びる事となって行く。海外渡航としての朱印状の範時に
は入らないと思われる日鮮貿易にしても,同じく朱印船時代の海外貿易に含まれることは当
然であって,正にわが国の民族的海外発展の時期到来となったのである。
秀吉の明国をも手中にしょうとする朝鮮出兵を,秀吉のみの征服欲であって,当時のわが
国力からする無二の挙と見る見方も一方にはあるが,戦術的には,「秀吉は王直の遺党王激
から丁丁の話を聞き,三国を弱兵国と誤認した。そのため外征軍の用兵を誤り,外洋作戦に
経験の深い松浦党の波多親2,000騎,松浦鎮;信3,000騎,志佐純意1,000騎,五島純玄700騎を
陸軍に振向け,外洋戦に経験の乏しい瀬戸内・熊野の軍をもって水軍を編成した。その結果,
制海権は朝鮮水軍の掌握するところとなり,補給線の確i保さへ出来ない結果」となった。
しかし秀吉が行なった行動をみれば,単なる領土的拡大欲だけではなくて,海外貿易通商の
意欲も否定できない。ましてや,「鶴松3才にして天死するや秀吉哀悼悲愁殆ど寝食を廃す。
遂に人生の短きを嘆じ,身後の知るべからざるを悲しむや,むしろ失望の中に希望を繋がん
の
とし,概然として海外遠征の決心を固めた」 というものではないであろう。例えば次の事
例がある。
天正16年(1588)8月 島津義弘に対し琉球聰問と勘合符上進を促す
72
天正19年(1591)9月 原田孫七郎をしてルソンに入貢を促す
天正20年(1592)1月 海路諸法度を定む
文禄元年(1592)7月 原田喜右衛門を派してルソンに入貢を促す
(この年,海外渡航を特許〈朱印船制度〉).
文禄2年(1593)1月 蛎崎慶広に蝦夷島管理を命ず。
11月高山国(台湾)に入貢を促す
慶長2年(1597)7月 ルソン島使入貢す
たかさ ぐん
但し,文禄2年の,統治者もなかったといわれる高山国に朝鮮での戦勝を告げた文書から
り
みれば,秀吉は正確な国際認識に欠けていたとする見方もある。
徳川家康もまた海外貿易については秀吉と同じく,その発展を考えていたと思われる。川
島元次郎氏著者より引用すれば,「鎖国は,もと徳川氏の本意にあらざるなり。家康,政権
を執るに及び,開国を以て国是となし,広く宇内の諸国と交わり,異邦の文化を弓取して我
が国俗の短を補い,通商互市に依りて国富を増進せんことを期したるは,諸種の外交文書及
び朱印船発遣奨励の事実に徴して疑いを容れざる所なり。熟々その文書を考察するに,足利
義満の如き卑屈醜随の辞を用いず,豊臣秀吉の如き暴慢不遜の態度に出でず,温健雅馴の修
辞に依りて修交締盟の理想を述べ,対等の礼を以て友邦の信義をつくさんことを説くにあら
ラ
ざるはなし」 とある。
文禄に始まる朱印船貿易の状況は本章三頭の長崎実録大成にみる通りであるが,朱印船以
前から海外貿易が発展しつつあったことは,同じく川島元次郎氏の「倭憲衰えて朱印船出づ。
此の過渡の時期に於て,海憲より転じて貿易商人となり,一挙釦万の富を獲て豪奢一世を驚
かせしも,一旦秀吉の忌詳に触るるや金銀財宝一郷して顧みず,瓢然としてゆく所を失し再
ルソン の
び世人を驚倒せしものは,堺の奇傑呂宋助左衛門に非ずや」によっても,朱印船時代の’す
ぐ前の時代からわが国の大航海時代が既に始まっていたことを知ることが出来よう。述べて
きたように,対馬藩の対朝鮮貿易,島津忠恒(家久)・松浦鎮信・亀井藪矩らをはじめとす
る大名の朱印船主,並びに有馬晴信のポルトガル船との対決,そして島津町による琉球侵攻
一島津の琉球入りについては,首里王朝側に大国たる明朝を頼る気持があり,薩摩と,秀吉
・家康ら中央権力者の考え方への対応の外交的齪飴,例えば家康が琉球をして明国との通交
の仲介をさせようとしたのを拒否したるが如き,また朝鮮の役に対する兵士・糧食の賦役
を不可能として断ったが如き,また家康の政権創立に当り聴礼すべしとする薩摩のすすめに
応じなかった如き,そして島津氏が豊臣政権・徳川幕府に従属せざるを得ずして従属しなが
ら独自に島津藩への琉球仲介中国貿易の利益と領土的欲求を以てする琉球従属化をめざした
ラ
動きがあったにしても一これらすべては,日本本土の封建権力が全国的な統一の余勢をか
って,更に琉球圏をもその中に包み込んで行く歴史の巨大な流れと,更にそれが民族的な海
外発展という,時代的エネルギーの赴くものであった。島津が家康の琉球侵攻朱印を得て実
行したのは,それを証すると共に徳川幕府の琉球間接支配をも証するものであるといえよう。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 73
そしてその時代は,ポルトガル船が1517年(永正14)にマカオに到達し,日本へは1543年
ひ じ
のポルトガル船種子島漂着,1550年の平戸入港,1551年の豊後日出に入港及び横瀬浦・福田
浦・ロノ津への入港を経て,1571年(元亀2)の長崎開港以来,着々と基地を整え貿易の実
を挙げつつあった。
一方,後発のオランダは1596年にジャワ島に到着し,1599年にモルッカ諸島に到り,1605
年にアソボイナ人にオランダ東インド会社の宗主権を承認させ,また日本とのつきあいは慶
長5年3月16日(1600年4月19日)のデ・リーフデ号の豊後漂着,慶長10年(1605)に家康
の航海朱印状を得て慶長14年(1609)5月に平戸に2隻入港し,駿府にて家康から通商許可
状を得たばかりで,未だジャワ島と日本との間の中継基地ゼーランディアにも本格的な足が
かりを持っていない時期であった。即ち,16世紀後期から慶長14年(1609)にかけては,正
に我国の大航海時代の始まりそのものであったのである。
因みに慶長14年の朱印状取得船主は次の通りであり,朱印船はいずれも1,000石積以上で
97)
概ね2,000石積から3,000石積,角倉船は例外的に8,000石積であった。
慶長14年正月11日
とん きん
角蔵了以
東 京
〃
〃
〃
平野(末吉)孫左衛門
呂 宋
〃
〃
〃
小西長左衛門
呂 三
〃
〃
〃
加藤肥後守清正
三 羅
〃
〃
〃
〃
交 三
〃
〃
〃
唐人五官
二哺塞
〃
〃
〃
伊藤新九郎
逞 羅
〃
〃
〃
切支丹伴天連トマス
逞 羅
島津陸奥守(忠恒)
逞 羅
〃
6月朔日
〃
孟秋(7月)25日
木屋弥三右衛門
逞 羅
〃
8月25日
亀井武蔵守薙矩
逞 羅
〃
孟冬(10月)11日
安当仁カラセス
呂 宋
計12艘
前年の慶長13年の朱印船隻数が異常に減少している理由等については,次の章で述べよう。
第6章海外貿易終憶序曲
慶長9年から元和元年に至る朱印船数は次の通りである。
慶長9年(1604)
29隻(内,大名 5隻)
〃10年(1605)
27隻( 〃 9隻)
74
慶長11年(1606)
18隻(内,大名
1隻)
〃12年(1607)
24隻(
〃
9隻)
〃13年(1608)
4隻(
〃
1隻)
〃14年(1609)’
12隻(
〃
4隻)
〃15年(1610)
10隻(
〃
1隻)
〃16年(1611)
8隻(
〃
2隻)
〃17年(1612)
8隻(
〃
一)
〃18年(1613)
12隻(
〃
一)
〃19年(1614)
17隻(
〃
一)
元和元年(1615)
17隻(
〃
一)
このうち総隻数としては慶長13年が異常に落込んでいる。大名朱印船主としては慶長11年
13年及び15年が各1隻と少く,慶長17年の後は寛永7年(1630)までの18年間皆無となっ
ている。
私は慶長10年∼13年頃が徳川幕府の基本政策の転換期乃至基礎固めの時期であったのでは
ないかと考える。即ち慶長10年(1605)に秀忠が征夷大将軍になって家康は慶長12年(1607)
に駿府に移った。家康は慶長11年に伏見に滞在中の島津義久の要請によって琉球征伐を許し
たが,家康は戦争より内治に力をつくそうとの方針をもっており,且つ翌12年に駿府に城を
築く計画もあったので,慶長11年11月の駿府築城に諸大名の加勢助工を求めているところで
あっか
あるからと,義久のもとに「琉球の難を以て与らず」と,即ち琉球征伐にはかかわりたくな
いとの通告を出している。
ところで,家康のスペインとの交渉は慶長3年(1598)12月のフランシスカソ派教師ヘロ
の
ニモ・デ・ヘズスに始まっており,1602年(慶長7)9月エスピリッッ・サソト号が船体
修繕のために土佐の清水港に入港,1606年(慶長11)ソルソからの船が航路を誤って肥前深
堀へ,1608年(慶長13)に浦賀へも入港した。この間ルソン長官と家康との間に書状の往復
があっているが,慶長9年の家康からの回答書には,貿易は認めるが伝道は禁ずると回答
している。このフラソシスカソ派に対して耶蘇会は警戒しており,日本耶蘇会第2の司教ル
イス・デ・セルケイラの1602年10月マニラへの手紙の中に,(1)内府様は我々の宗旨を好まぬ。
フランシスカン派のヘズスその他が日本に駐在し得るは,内府様がメキシコとの貿易を希望
せられるからである。(2)内府様及び異教徒大名は,秀吉同様ルソン並びにメキシコのスペイ
ン人は征服的国民であり,サソ・フェリーベ号船員の言った通り布教は征服の策略に過ぎな
いと確信している。故にルソンから多数の新教師の渡来は宗教全体の危険を生ずるであろう。
ユ ラ
我々は内府様を挑発しないよう遠慮して働くを必要とす,とある。
因みに慶長10年(1605)にはキリシタンが日本全国で約40万人に達し,当時に於ける最極
ラ
盛期であった,と記録されており,耶蘇会側が警戒しはじめていたように,警戒すべき何
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 75
物かが幕府の中に広がり始めていたのである。結果からみれば,慶長16年(1611)天主教徒
の
を京都五条河原に斬る事件があり,翌慶長17年3月21日には有馬晴信と岡本大八事件から
「南蛮キリシタンの法,天下に停止すべきの旨仰出され,京都に於て彼の宗の寺院破却」と
なって行き,慶長18年(1613)10月には有馬晴信の子直純はキリスト教を棄教して,教徒で
ある重臣3人及びその妻子を焚殺の刑に処し,同12月23日に幕府は禁教令を全国に及ぼすに
至った。慶長19年(1614)7月に幕府は山口駿河守を長崎に派し,キリスト教会堂11ヶ所を
破壊せしめ,佐賀・唐津・大村・平戸・有馬の諸侯をして市中を警戒せしめた。その年10月
幕府は長崎のキリスト教徒148名をマカオ・マニラに追放し,同10月大坂冬の陣となる。豊
臣氏は翌元和元年(1615)の夏の陣を以って亡ぶが,元和2年(1616)8月に幕府は重ねて
禁教令を発し,唐船以外の外国船の入港を平戸・長崎の2港に限り,元和9年(1623)襲封
の三代将軍家光の代となって本格的鎖国となって行く。また慶長16年には幕府体制を固める
ユ う
ための,法度・上意にそむくべからずの諸大名からの誓紙を徴することとなって行き,慶
ユ わ
長19年に評定衆の起請文 となり,元和元年の一国一城令,寛永12年の武家諸法度・参勤交
替制度化となる。
慶長14年(1609)はそのような禁教及び大名統制の,嵐の前の静けさの時期に当っていた
のであったが,同年9月,幕府は突如として「500石積以上安宅船禁制」を打出した。通航
一覧によれば,「慶長14己酉年9月,九鬼長門守守隆に,西国大名の船500石積以上を没収す
べき旨命ぜられ,監使として御弓頭久永源兵衛・御船手小浜民部丞・向井将監を副らる。よ
て守隆等淡路国由良に赴き,ことし11月より明年にいたりて悉く没収す。四国の船は藤堂和
泉守高虎をして収めしめ給う。時に松平宰相輝政が船は至大にしてたやすく動かし難きによ
う
り,そのまま輝政に賜わり,且つ守隆及び伊勢国大湊のみ大船を御免あり」 とある。
この通航の一覧の中の「官本当代記・創業記」に、「慶長14年9月、西国大名等近年大船
を持を置き,これ自然のとき大軍を催し上る可きかの由云々,これによりこの船どもを駿河
ユ う
より破却あるべき由宣い,先づ淡路国へ可被寄と也」。 また同じく「二者民談記」に慶長14年
徳川聖君,西国安宅船を止め給いて云々」 とある。
慶長14年2月の島津の琉球出兵,総勢3,000余,船艦100余田(或は1,300人,75隻ともい
ロり
う)の出征軍は琉球軍を恐れしめただけでなく,ひそかに徳川幕府をも恐れさせたのであ
さいよう
ろう。島原半島を基地とした有馬晴信の西洋・束:引回・占城・逞羅への海外貿易船,加藤清
正やまた亀井武蔵守の朱印船も,その大名たちの図南経営の雄図と共に幕閣をして警戒せし
めたのであろう。そして諸大名に集っていた貿易の利益を幕府が独占しようということでも
あったのであろう。それは裏返せば,徳川政権が,南西諸島を島づたいに北上してくる唐船
の鹿児島入港を長崎に変更命令せしめて薩摩を押さえ,更に500石積軍船廃止を以て西国雄
藩を押さえ込める段階に入ったということを意味しているであろう。
あたけ
ところで,ここに出る安宅船とは安宅型軍船のことであるが,その「アタケ」とは石井謙
治氏によれば,「紀州安宅旧説」があり,「敵の大筒をもいとわず安く住居なる意」があり「暴
76
れ回るという意味のあたける」の説があり,正しい由来はわからぬにしても,史料に出る16
世紀中葉の戦国時代が上限であって,概ね近代の戦艦に相当する攻防力兼備の強力な大型船
ユ う
という意味から,「あたける」船ということであろうという。
さて,慶長14年9月の「500石積以上安宅船禁制」は,後に寛永15年5日15日,「500石積
ヨラ
以上といえども,安宅造りにあらざる分は許さるる旨仰せ出さる」 という城米運送の為の
内地海運の一部緩和令が出たのではあったが,幕府の基準は500石以上の大船建造停止,三
本橿の船停止,海外渡航停止,唐蘭貿易を長崎一港に限る,という大制限措置となって行っ
た。朱印船派船は元和2年以後も下記のようにじり貧となって行った。
元和2年(1616)
7隻
寛永3年(1626)
3隻
〃3年(1617)
11隻
〃4年(1627)
9隻
〃4年(1618)
20隻
〃5年(1628)
11隻
〃5年(1619)
5隻
〃6年(1629)
3隻
〃6年(1620)
9隻
〃7年(1630)
3隻
〃7年(1621)
11隻
〃8年(1631)
9隻
〃8年(1622)
6隻
〃9年夏1632)
15隻
〃9年(1623)
14隻
〃10年(1633)
10隻
寛永元年(1624)
8隻
〃11年(1634)
7隻
〃2年(1625)
7隻
〃12年(1635)
2隻
そして寛永13年(1636)の出島完成の年に第四次鎖国令が出,翌14年島原の乱が勃発し,
寛永16年(1039)の第5次鎖国令を以て鎖国が完成する。
文禄元年に始まった朱印船は,正にわが国の大航海時代の幕開きとなったのであったが,
慶長14年を契機に,にわかに衰退の途を辿ることになる。
「オランダの登場の時期は,早すぎもせず,のちにヨーロッパ諸国のうちで最恵国待遇を
の
与えられるオランダの幸運は,すでにスタートの時から始まっていた」 というオランダの
日本への登場時期の幸運は,徳川幕府がキリスト教浸潤と西南大名の危険の芽をつみ取るべ
くわが国の大航海時代を意識的に引締め,ストップせしめた結果である。そして慶長14年
(1609)はオランダ独立完成即ちスペインとの12年間休戦条約成立の年であり,わが国にと
っては海外貿易閉幕の序曲であった。そしてまた皮肉にも1609年は,かのオランダ東インド
会社の弁護士であり国際法学者であったグロチウスGrotiusが,スペイン・ポルトガルの海
洋二分独占主張を,海洋自由の原則の法理を以て,海洋は何人もこれが使用について他人よ
り制限を加えられるべきものに非ずとする『海洋自由論』を公にし,1494年トルデシラス条
約の分割線による排他的権力を打破った輝かしい年であったのである。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 77
注
1)中村栄孝「室町時代の日鮮交通と書契及び文引e」『史学雑誌』1931年,1096頁。
2)森山恒雄「対馬藩」『長崎県史(藩政編)』吉川弘文館,1973年,823∼824頁。
3)青柳綱太郎『李朝史大全』朝鮮研究会,1923年版,395頁。
4)青柳綱太郎,前掲書,395頁。
5)森山恒雄,前掲論文,825頁。
6)森山恒雄,前掲論文,825頁。
7)青柳綱太郎,前掲書,398∼399頁。
8)森山恒雄,前掲論文,827頁。
9)青柳綱太郎,前掲書,399頁。
10)森山恒雄,前掲論文,827頁。及び『藩史大辞典(第7巻)』.雄山閣出版,1988年。266頁。
11)青柳綱太郎,前掲書,399∼400頁。
12)通航一覧巻87,1頁。
13)青柳綱太郎,前掲書,409頁。
14)森山恒雄,前掲論文,829頁。
15)オスカー・ナホッド著,富永牧太訳『十七世紀日蘭交渉史』養徳社,1956年,315頁。
16)通航一覧巻126,473∼476頁。
17)川島元次郎『朱印船貿易史』内外出版,1921年,78頁。慶長13年の分は岩生成一r朱印船貿易史の
研究』弘文堂,1958年,184頁表7,227頁。
18)林二二『島原半島史(上巻)』図書刊行会,1979年,156頁。
19)林銑吉,『島原半島史(上巻)』図書刊行会,1979年,274頁・279頁。
20)岩生成一,前掲書,271∼272頁。
21)通航一覧巻183,16頁。
22)通航一覧巻173,499∼500頁。
23)「長崎港草」長崎文献社r長崎文献叢書』第1集第1巻,1973年,16頁。
24)『長崎市史(通交貿易篇西洋諸国部)』清文堂出版,1981年版,276∼277頁。
25)『長崎県史(対外交渉編)』長崎県史編委員会編,吉川弘文館,1986年,93頁。
26)前掲『長崎市史』277頁。
27)武藤長蔵「慶長14年長崎に渡来の葡船Madre de Deosと其大砲」日葡協会『日葡交通』第1輯,1929
年,110∼112頁。
28)桑波田興「島原藩」長崎県史編集委員会編r長崎県史(藩政編)』1973年,226頁。
29)林銑吉,前掲書,813頁。
30)武藤長蔵,前掲論文,102頁。
31)長崎史談会編r長崎談叢』第50集,藤木博英社,1971年,31頁。
32)前掲『長崎市史』278頁。
78
33)・林銑吉,前掲書,808頁「文学博士辻善之助著・海外交通史話」
34)信託吉,前掲書,813頁 藤原有馬世譜。
35)幸田成友『日欧通交史』岩波書店,1942年,年表17頁。
36)幸田成友『日欧通交史』岩波書店・1942午・206頁。
37)前掲『長崎市史』269∼270頁。 1
38)永積洋子『平戸オランダ商館日記』第1輯,岩波書店 1980年版,1頁。
39)幸田成友,前掲書,205∼206頁。
40)前掲『長崎市史』277∼278頁。
41)幸田成友,前掲書,207頁。ほか
42)前掲『長崎談叢』32頁。
43)前掲r長崎市史』280頁以下。及び林銑吉,前掲書,812頁以下。
44)通航一覧巻183,16頁。
45)前掲『長崎市史』284頁以下。
46)『イエズス会と日本(⇒』岩波書店,旧88年,23頁。
47)前掲『長崎市史』285頁。
48)『長崎名勝図絵』長崎文献社,1974年刊,216頁。
49)前掲「長崎港草」19頁。
50)通航一覧巻183,18頁。
51)前掲『長崎市史』284頁。
52)前掲『イエズス会と日本(⇒』8頁。
53)通航一覧巻183,22回忌慶長年二等参照文。
54)前掲『イエズス会と日本ω』8頁,17頁。
55)通航一覧巻183,18頁,21∼22頁,23頁。
56)前掲『長崎名勝図絵』215∼216頁。
57)武藤長蔵,前掲論文,135∼137頁。
58)「長崎県立美術博物館だより」Nα71,1984年3月31日3頁及び天理図書館回答文による。
59)有馬成甫r火砲の起源とその伝統』1962年吉川弘文堂・582頁・
60)『新長崎年表(上・下)』長崎文献社。
61)「続長崎実録大成」長崎文献社,r長崎文献叢書』第1集第4巻,1974年,211頁。
62)r長崎県史』(藩政編),吉川弘文舘,1973年,226頁。
63)日本史料集成編纂会編『中国・朝鮮の史籍における日本史料集成明実録之部』(1,2,3)。国書刊行
会,1979年∼1983年版。
64)通航一覧巻1,13頁。
65)『鹿児島県史』第2巻,鹿児島県発行,1940年,626頁。
66)『鹿児島県史』第2巻,鹿児島県発行,1940年,628∼631頁。
79
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について
67)宮城栄昌『琉球の歴史』吉川弘文舘,1977年,104頁。
68)『鹿児島県史』’第2巻,169頁。
69)『鹿児島県史』第2巻,668頁。
70)沖縄文教出版編集部r那覇今昔の焦点』沖縄文教出版社,1973年版,80頁。
71)宮城栄昌,前掲書,107頁。
72)川島元次郎,前掲書,285頁。
73)川島元次郎,前掲書,271∼272頁。
74)r長崎志正編(長崎実録大成)』長崎文庫刊行会,1928年,425∼426頁。
75)田中健夫r対外関係と文化交流』思文閣出版,1982年,169頁。
76)岩生成一,前掲書,20頁。
77)石井謙治『海の日本史再発見』日本海事広報協会,1987年,1頁。
78)石井謙治r海の日本史:再発見』’日本海事広報協会,1987年,8頁。
79)岩生成一,前掲書,21−22頁。
80)松竹秀雄『南島ノート』鹿児島市春苑堂,1979年,「南島史年表」113頁以降。
81)高村象平,『日葡交通史』国際交通文化協会,1942年,50頁。
82)r角川日本史辞典』角川書店,1969年忌,210頁。
83)小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』刀江書院,1968年,15頁。
84)小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』刀江書院,1968年,24頁。
85)小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』二二書院,1968年,25頁。
86)小葉田淳,前掲書,27頁。
87)小葉田淳,前掲書,28頁。
88)
・・琉球渡海船事,……所詮向後はこの印判無き船は三脚もとしあるべく候。…………
文明3年(1471)11月5日
右衛門尉行頼
謹上 嶋津殿
(児王幸二二『史料による日本の歩み(近世編)』吉川弘文舘,1976年21頁)
89)呼子丈太朗『倭憲史考』新人物往来社,1971年,318頁。
90)郡司喜一『十七世紀に於ける日逞関係』外務省調査部,1934年,86頁。
91)中村質『近世長崎貿易史の研究』吉川弘文舘,1988年,63頁。
92)川村元次郎,前掲書,167∼168頁。
93)川村元次郎,前掲書=,187頁。
94)宮城栄昌,前掲書,97頁及び牧瀬恒三r沖縄の歴史』ω汐文社,1970年,228∼230頁。並びに比嘉
春潮r新稿沖縄の歴史』三一書房,1970年,165頁。
95)小野信二・門脇禎二『新日本史』数研出版,1971年,217頁。
96)高良倉吉r沖縄歴史編序説』三一書房,1980年,86頁。及びr沖縄県史(第1巻)』沖縄県教育委
80
員会,1976年,23∼24頁。
97)前掲『長崎県史(対外交渉編)』162頁。
98)岩生成一,前掲書,1985年版,220頁第7表。
99)新屋敷幸繁r新講沖縄一千年史(上巻)』雄山閣,1971年,469頁。
100)幸田成友,前掲書,191頁。
101)岩生成一,「鎖国」岩波講座日本歴史10(長崎文献社『新長崎年表ω』25頁)
102)幸田成友,前掲書,227∼228頁。
103)『新長崎年表(上)』205頁。
104)『長崎叢書ω』長崎市役所,原書房,1973年複刻版,13頁。
105)林銑吉,前掲書,850∼851頁。
106)児玉幸多編,前掲書,77∼78頁。
107)児玉幸多編,前掲書,83頁。
108)通航一覧附録巻21,543頁。
109)通航一覧附録巻21,544頁。
110)通航一覧附録巻21,545頁。
111)『鹿児島県史(第2巻)』626頁。
112)石井謙治,前掲書,120∼121頁。
113)通航一覧附録巻21,543頁。
114)永積昭『オランダ東インド会社』近藤出版社,1981年版,88頁。
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