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歌木簡:滋賀・紫香楽宮跡 で 発 見 万葉 集の成立過程に光

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歌木簡:滋賀・紫香楽宮跡 で 発 見 万葉 集の成立過程に光
歌 木 簡 : 滋 賀 ・ 紫 香 楽 宮 跡で 発 見
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万葉 集の成立過程に光
奈 良 時 代 に 聖 武 天 皇 が 造 営 し た 紫 香 楽 宮 ( し が ら き の みや ) の 跡と さ れ る宮 町遺 跡( 滋 賀 県甲 賀 市 信
楽 町 ) で 出 土 し た 木 簡 ( 8 世 紀 中 ご ろ ) に 、 日 本 最 古 の歌集で あ る万葉集に収録 され た「安積山( あさ
かやま)の歌」が書かれていたと22日、市教委が発表した。万葉歌が木簡で見つかったのは初めて。
万葉集とは表記が全く異なっていた。もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれており、
こ の 2 首 を 歌 の 手 本 と す る 伝 統 が 、 平 安 時 代 に 編 さ んさ れ た 古 今 和 歌 集 の 時 代 か ら 万 葉 集 の 時 代 ま で 約
150年さかのぼって確かめられた。日本文学の成立史に見直しを迫る画期的な実物史料となる。
「歌木簡」は97年、宮殿の排水路と推定される溝から出土した。長さ7.9センチと14センチの
2 片 に 分 か れ 、 幅 は 最 大 2 . 2 セ ン チ 。 万 葉 集 に な く 、 木 簡 な ど で 残 る 難 波 津 の 歌 の 一 部 が 書か れ て い
ることはわかっていたが、厚さが約1ミリしかなく、木簡の表面を削ったくずと考えられていた。栄原
永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授が昨年12月に調べ直して見つかった。
史 跡 紫 香 楽 宮 跡 か ら 出 土 し た 万 葉 集 の 歌 が 書か れ た 木 簡 = 滋 賀 県 甲 賀 市で 2
0 0 8 年 5月 1 4 日 、 森 園 道 子 撮 影
両面とも日本語の1音を漢字1字で表す万葉仮名で墨書され、安積山の歌は「阿佐可夜(あさかや)」
「 流 夜 真 ( るや ま )」 の 7 字 、 難 波 津 の 歌 は 「 奈 迩 波 ツ尓 ( な に は つに)」など の 13 字 が奈 良文化 財
研究所の赤外線撮影で確認された。文字の配列などから元の全長は2尺(約60.6センチ)と推定さ
れる。字体や大きさが異なり、別人が書いたとの見方が強い。
万葉集は全20巻のうち、安積山の歌を収めた巻16までが745年以降の数年で編さんされたとさ
れる。木簡は一緒に出土した荷札の年号から744年末~745年初めに捨てられたことがわかり、万
葉集の編さん前に書かれたとみられる。約400年後の写本で伝わる万葉集では訓読みの漢字(訓字)
主体の表記になっており、編さん時に万葉仮名が改められた可能性がある。
2首は、古今和歌集の仮名序(905年)に「歌の父母のように初めに習う」と記され、源氏物語な
ど に も 取 り 入 れ ら れ て い る 。 筆 者 の 紀 貫 之 の 創 作 の 可 能 性 も あ っ た が 、 古 く か ら の 伝 統 を 踏 まえて い た
ことがわかった。【近藤希実、大森顕浩】
〈難 波津の歌〉
難波津に咲くや(木こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花
(訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています
〈安積山 の歌 〉
安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
( 安積 香山 影 副 所 見 山 井 之 浅心 乎 吾 念莫 国 )
(訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ
(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」の表記は、万葉集の原文)
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【こ と ば 】 万 葉集
奈 良 時 代 編 さ ん の 日 本 最 古 の 歌 集 。 全 2 0 巻 に 約 4 5 0 0首 あ り 、 主 に 飛 鳥 時 代 か ら 奈 良 時 代 に か け
て の 歌を 収録 。歌人と して は柿本人 麻呂 、山上 憶 良、大 伴家持 、額 田王などが 知られる。天皇や皇 后な
どの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人
( さき も り ) の 歌 な ど も 収 録 し 、 作 者 層 が 幅 広 い の が 特 徴 。
【こ と ば 】 紫 香楽 宮
奈 良 時 代 半 ば の 7 4 2 年 、 聖 武 天 皇 が 造 営 を 始 め 、 7 4 5 年 に 難 波 宮 ( な にわ の み や ) か ら 遷 都 し た
が、地震や山火事が相次ぎ、5カ月で平城京に都が移った。公式儀礼を行う中枢建物「朝堂」の跡が宮
町遺跡で01年に確認されたが、全容は不明。
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に「阿」
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万 葉集 に 収 録 さ れ た 「 安 積 山 の 歌 」 の一 部 が 書 か れ た 木 簡 。 上 部
の 字が 読 め る
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紫 香 楽 宮 跡 か ら 出土 の 木 簡 に 「 万 葉 集 」 の 和 歌
奈 良 時 代 に 聖 武 天 皇 が 造 営 し た 紫 香楽 宮 し が らき の みや ( 7
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745年)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されてい
たこ と が 分か り、市 教委が 22日 、 発 表 した。
万 葉 歌 が 書 か れ た 木 簡が 見 つ か っ た の は 初 め て 。 古 今 和 歌 集 ( 平 安 時 代 ) の 仮 名 序 で 、 紀 貫 之 が 「 歌
の父母 ちちはは 」と位置づけた「安積 あさか (香)山 やま の歌」の一部で、片面には対となる「難
波津 なにわづ の歌」が記されていた。木簡の年代は、万葉集が編纂 へんさん されたのとほぼ同時期
にあたり、日本最古の歌集の成立を考えるうえで極めて重要な発見となる。
木 簡 に は 、 万 葉 集 巻 1 6 に 収 め ら れ た 「 安 積 香 山 影 さ へ 見 ゆ る 山 の井 の 浅 き 心 を 我 が 思 は な く に 」 の
うち、1字で1音を表す万葉仮名で「阿 あ 佐 さ 可 か 夜 や 」と「流 る 夜 や 真 ま 」の計7文
字の墨書が判読できた。
歌の大意は「(福島 県 の)安積 山の影まで 映す 山 の泉 ほど 、私の心は浅くありませ ん」。 陸奥国に派
遣された葛城 かつらぎ 王が国司の接待が悪くて立腹したが、かつて王の采女だった女性が機転をきか
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せてこう詠んだので、王は機嫌を直したという注が歌に添えられている。
出土した木簡のデジタル赤外線写真。左に万葉集に収録された「安積山の歌」の一部、
右 に 「 難波 津 の 歌 」 の 一 部 が 書 か れ て い た = 滋 賀 県 甲 賀 市 教 委 提 供
(
木簡は、宮殿中枢部の西約220~230メートルの大溝から1997年度の発掘調査で出土した。
長さ7・9センチと14センチの二つに割れており、いずれも幅2・2センチ、厚さ1ミリ。本来の長
さは約60センチと推定され、儀式や宴会で詠み上げるのに使った「歌木簡」とみられる。744年末
~ 7 4 5年 初 め に捨 て ら れ た ら し い 。
全 国 の 「 歌 木 簡 」を 調 べ て い た 栄 原 永 遠 男 さ か え は ら と わ お ・ 大 阪 市 立 大 教 授 ( 古 代 史 ) が 、 宮 町
遺 跡 出 土 の 「 難 波 津 の 歌 」 木 簡 の 裏 に 墨 痕が あ る の を 偶 然 見 つ け た 。 木 簡 は 薄 い た め 、 片 面 に し か 書 か
れ て い な い 削 り 屑 く ず と み ら れて い た 。
万葉集は745年以降の数年間に巻15までと付録が成立し、巻16は付録を増補して独立させたと
する説が有力。今回の木簡は、万葉集完成前に書かれた可能性が強く、市教委は「この歌が当時、広く
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流布しており、それを万葉集に収録したのだろう」と推測している。
「難波津の歌」が書かれた木簡や土器は全国で三十数点が出土している。万葉集には収録されていな
いが、古今和歌集の仮名序では、「安積香山の歌」との2首を、手習いの最初の歌と紹介。今回の発見
で、これらを一対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことも明らかに
なった。
25日午後1時から、甲賀市信楽町の信楽中央公民館で報告会を開き、26~30日、同市の宮町多
目的集会施設で展示する。
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「 安 積 香 山 … 」 万 葉集 の 歌 、 墨 書 の 木 簡 見 つ か る 滋 賀
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滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる
同 市 信 楽 町 の 宮 町 遺 跡 ( 8 世 紀 中 ご ろ ) か ら 、 国 内 最 古 の 歌 集 の 万 葉 集 の 歌 が 墨 書 さ れ た 木 簡が 見 つ か
ったと発表した。万葉集収録の歌が書かれた木簡が確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載さ
れ た 年 号 か ら 、 こ の 歌 が 収 め ら れ た 万 葉 集 1 6 巻 の 成立 ( 7 5 0年 前 後 ) よ り 数 年 か ら 十 数 年 前 に 書 か
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れたとみられる。
木 簡 は 上 下 二 つ に分 か れて 出 土 し 、 上 部 は 長 さ
7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.
2 セ ン チ 、 厚 さ 1 ミリ 。 上 部 の 片 側 に は 漢 字 1 字
を 1 音 で 表 記 す る 万 葉 仮 名 で 「 阿 佐 可 夜( あ さ か
や )」、下 部 には 「 流 夜 真 ( るや ま )」と 書か れ て
い る 。 万 葉 集 1 6 巻 に は 、 陸 奥 国 に派 遣 され た 葛
城 王 を もて な し た 前 ( さ き ) の 采 女 ( う ね め ) =
元 の 女 官 = が 、 王 の 心 を 解 き ほ ぐ す た め 宴 席で 詠
んだ 「 安 積 香 山( あ さ かや ま ) 影 さ へ 見 ゆ る山 の 井 の浅き 心を 我 が思 は な くに 」が 収 録されて い る 。
別の片側にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世
紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は
春べと咲くやこの花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は大阪市中央区の難波宮跡な
ど で 見 つか っ て い る 。
木 簡 の元 の 長 さ は文 字 の 大き さ か ら約 6 0 セン チと 推 定 。 宮 廷 の 儀 式 や 歌 会 な ど で 用 い ら れ た 可 能 性
が 高い と みて い る。
市 教 委 は 2 5 日 午 後 1 時 か ら 同 市 内 の信 楽 中 央 公 民 館 で 報 告 会 を 開 き 、 木 簡 を 展 示 す る。 定 員 1 5 0
人(先着順)。26~30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。
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【万葉歌木簡】「こりゃ、えらいこっちゃ」発見の瞬間
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「『 阿佐可( あさか )』はす ぐ に読めた。瞬間的に万葉歌だと直感、ド キッと し た。 あの古今集のセ
ット関係や、こりゃ、えらいこっちゃと…」
大 阪 市 立 大 大学 院 の 栄 原 ( さ か え は ら ) 永 遠 男 ( と わ お ) 教 授 ( 日 本 古 代 史 ) は 、 そ の 瞬 間 の 興 奮 を
今も忘れない。
木 簡 学会 会長で あ る栄原 教授は 昨年 1 2 月1 日、 それ まで 習 書 や 落 書き と 考 えられて い た 木 簡 のな か
には歌会で使われたものもあるとして、「歌木簡」という新しいジャンルを提唱した。紫香楽宮跡調査
委員でもある栄原教授が、同遺跡から出土した木簡の再チェックを開始したのは、その直後だった。
運命の瞬間が訪れたのは、1週間あまり後の12月10日。「難波津の歌」が書かれた木簡の形状を
詳しく調べようと、裏返したときだった。念のため、赤外線でも見たが、間違いない。
しかし読めたのは一部で、まだ万葉歌と断定できなかった。そこで奈良文化財研究所が持つ、より性
能が高い機械で解読、その結果、残りの4文字が判明した。そして、国文学者を交えた検討会議のなか
で、「安積香山の歌」で間違いないとする見解に至った。
栄原教授の定義に該当する「歌木簡」はこれまでに14点が出土。うち「難波津の歌」は9点ある。
「歌の人気もあるが、調査者が難波津の歌の発見例を知っていたからこそ、これだけの数が見つかった。
同 じ よ う に 今 回 の 発 見 が 、 万 葉 歌 木 簡 の 次 な る 発 見 に つ な が っ て ほし い 」
初出土の万葉歌木簡、万葉集の「原資料」
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万葉集などが 書 かれ た木 簡に ついて 説 明す る栄 原永 遠男 ・大 阪市立大学 教 授=
成 立 当 時 の 万 葉 集 の 姿 に 、 最 も 近 づ い た 史 料 だ ― 。 2 2日 に 初 の
出土が発表された「万葉歌木簡」。 書かれたのは、万葉集成立より
前だったと推定される。
「最古の歌集」としてあまりにも有名な『万
葉集』だが、最古の写本でも11世紀半ば。大伴家持らが編纂(へ
んさん)した「オリジナル」の姿は、はっきりとは分かっていない。
一片の木簡の出土によって謎の一部が初めて明らかになり、国文学者や古代史学者を興奮させている。
■ナ マ資料
万葉集は、天平17(745)年以降の数年間に「巻1」から「巻15」がまとめられ、「巻16」
と大伴家持の日記を含めた全20巻が783年ごろに成立したというのが一般的な説。一方、木簡が棄
て ら れ た 年 代 は 7 4 3 ~ 7 4 5年 と 、 ほ ぼ 特 定 さ れ る。 つ ま り 、 こ の 木 簡 に 歌 が 書 か れ 、 読 み 上 げ ら れ
た の は 、 まさ に 万 葉 集 の 編集 が 始 ま る 直 前だ 。
11世紀半ばに書き写された現存最古の万葉集は、「安積香山 影さへ見ゆる…」と漢字と平仮名で
表記されている。これに対し木簡は、「阿佐可夜…」と音を漢字で表現す る万葉仮名で記されていた。
ここ に研究者が 着 目す る。
5 月 1 4日 、 滋 賀 県 甲 賀 市 の 甲 賀 市 役 所 甲 南 庁 舎
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万葉学者で京都府立大学の山崎福之教授は「木簡はこれが万葉集だ、という原史料。残された最古の
写本さえ300年も後のものだけに、編集当時はどの音にどの漢字を当てたのか、明確には分かっては
いな い。 今後 大きな 議 論になって い くだろう 」と 、発見の 意義を説 く。
木簡の欠けた部分を、万葉仮名で推定復元した愛知県立大文学部大学院の犬飼隆教授(言語学)は「音
で伝わってきた歌を万葉仮名で木簡に書き写し、漢字という文学的な衣装を着せて万葉集が成立する。
最古の歌集が 編集 され た筋道が見えてき た」と、 成立 の謎 の解明を木簡に託す。
■2つの歌 の性格
木 簡 の両 面 に 記 さ れ た 「 安 積 香 ( あ さ か ) 山 の 歌 」 と 「 難 波 津 の 歌 」 の 2 首 は 、 9 0 5 年 に 編 ま れ た
『古今和歌集』の序文「仮名序」で紀貫之が、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は、采
女の戯れよりよみて、この二歌は、歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介。最初に
覚え るべ き 和 歌 の 手本だと いって い る。 さら に年 代 が 下っ た『 源氏 物 語 』など で も 、 手習 い の 歌と して
セ ット で 登 場 す る 。
「 木 簡 の両 面 が 古 今 和 歌 集 ( の 序 文 の 2 首 ) と 、 ま さ に 同 じ ペ ア 。 す ご く 驚 い た 」 と は 、 大 阪 市 立 大
文学研究科の村田正博教授(国文学)。2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、
実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
万葉時代の歌は、公的な「雑歌」と恋愛などプライベートな「相聞歌」、死にかかわる「挽歌(ばん
か)」の3種類に大別される。
村田 教授 は「 難波 津の歌 は、繰 り返 し咲 く花で 天 皇家の 繁栄を 表現 した 、明 るい気分 にして く れ る 雑
歌中の雑歌。安積香山の歌は相手への深い思いを伝える相聞歌で、子供に和歌を教えるための歌として
は適している」と2首がセットになった必然性を説明。「幼い子がおけいこしている場面が伝わってく
るよう」と、木簡が生み出す情景を表現した。
小川靖彦・青山学院大教授(日本上代文学)の話 「天平年間までさかのぼる、万葉集の木簡が見つ
かったことは、大変興味深い。儀式や宴会の場で使われたものだろう。『古今集仮名序』で『和歌の父
母』と記された2つの歌が、セットであったことにも意味がある。難波津の歌は仁徳天皇という古代の
聖帝を象徴し、安積山は東北地方という空間を象徴すると考えられる。
『 和 歌 に よ る 時 間と 空 間 の 支 配 』
といった観念がこの時期にすでに芽生えていたとすれば、驚きというしかない」
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今回の万葉歌木簡が書かれた時代とは、どんな世の中だったのだろうか。“天平文化”の華やかなイ
メージとは裏腹に、朝廷の内外で急速に力をつけ始めた藤原氏による陰謀が渦巻くなど、政情は激動し
て い たこ と が わ か っ て い る 。
「天平」時代の幕開けとなる天平元(729)年、天武天皇の孫という名門皇族・長屋王(ながやの
おう)が「謀反を企てている」との密告を受け、自殺させられた。藤原不比等(ふひと)の4人の息子
たちによる陰謀といわれる。こうして権力を握った4兄弟も、遣唐使がもたらした天然痘にかかり、相
次 い で 亡 く な る 。 代 わ っ て 政 権 を 担 当 し た 皇 族 ・ 橘 諸 兄 ( た ち ば な の も ろ え ) が 反 藤 原 氏 政 策を と り 、
九州を統括していた藤原広嗣(ひろつぐ)は反乱を起こす。
驚 い た 聖 武 天 皇 は 平 城 京 を 離 れ 、 紫 香 楽 宮 や 恭 仁 ( く に ) 京 ( 京 都 府 木 津 川 市 ) な ど を 、 5 年 間 にわ
万 葉 歌 木 簡 の 時 代、 政 情 は 激 動
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たって転々とする。この間、藤原仲麻呂を中心とする藤原氏一派と、諸兄や大伴家持(やかもち)らの
反 藤原 勢 力 の 対 立 が 続 い た 。
緊張 のまっただ中 にあっ た天平16 (7 44)年 1月、 聖武天皇の皇子で皇 位継承も有力 視されて い
た安積(あさか)親王が17歳で急死する。『続日本紀』では死因は脚気(かつけ)だが、仲麻呂によ
る 暗 殺 説 も 根 強い 。
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万 葉 歌 木 簡 の 時 代 、 政 情 は 激動
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「紫香楽宮では、家持や諸兄らによる安積親王の擁立運動が盛り上がっていた。安積香(あさか)山
の 歌 を 口 ず さ ん で 、 同 じ 読 み の 安 積 親 王を 連 想 し な い こ と は あ り え な い 。 天 皇 の 治 世 の 繁 栄 を 歌 っ た 難
波津の歌と裏表なのは、示唆に富んでいる」
こう指摘するのは、奈良時代の政治史に詳しい甲子園短大の木本好信教授。「安積親王の擁立で安定
し た 国 家を 築 こ う と し た こ と を 、 2首 の 組 み 合 わ せ か ら 読 み 取 る こ と は 可 能 」 と い う 。
万葉歌木簡の年代は743年秋から745年春にかけて。安積香山の歌は、相手への深い気持ちを伝
える意味が込められていることから、親王追悼の儀式で詠まれた挽歌(ばんか)の可能性もあると、木
本 教 授 は みて い る。
紫香楽宮、難波津の歌も
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甲 賀 市 ・ 史 跡 紫 香 楽 宮 跡 出 土 木 簡 あ さ か や ま 面 ( 左 ) な に は つ 面 ( 右 ) 奈 良 時 代 に 聖 武 天皇 が 造
営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745)跡から平成9年に出
土 し た 木 簡 の 両 面 に 、 そ れ ぞ れ 和 歌 が 墨 書 さ れ 、う ち 1 首 が 万 葉 歌 だ っ たこ と が 分 か り 、 同 市 教 委 が 2
2日、発表した。4500首以上の歌を収録している『万葉集』だが、木簡に記された歌が見つかった
のは初めて。木簡は『万葉集』の成立以前に書かれた生々しいドキュメント史料で、歌集成立の過程な
ど を 探 る画 期 的 な 発 見 と し て 注 目 を 集 め そ う だ 。
木簡に記されていたのは、『万葉集』巻16に収録されている「安積香山(あさかやま) 影さへ見
ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」と、「難波津(なにわづ)の歌」として知られる「難波津に
咲 く や 木 の 花 冬 こ も り 今 を 春 べ と 咲 く や 木 の 花 」 の 一 部 。 い ず れ も 漢 字を 仮 名 的 に 用 い た 万 葉 仮 名
で 書 か れて い る 。
2 つ の 断 片 に 分 か れ 、 幅 は い ず れ も 2 2 セ ン チ 、 長 さ は そ れ ぞ れ 1 4セ ン チ と 7 9 セ ン チ 。 文 字 の
大きさなどから、もともとは幅3センチ、長さ約60センチほどと推定できる。厚さは約1ミリ。「安
積香山の歌」は7文字が、「難波津の歌」は13文字が残っていた。同市教委は、儀式や宴会で歌を読
むときに使われたとみている。
2首は10世紀初頭、紀貫之らが編纂(へんさん)した『古今和歌集』の「仮名序」で「歌の父母(ち
ち はは )」と 紹介されて い るポピ ュラーな歌 。『源氏物語』や 『枕草子』などで も手習い の歌と して セ
ットで登場する。今回の発見で、このセット関係が『古今和歌集』を150年さかのぼることになり、
これまで謎だった2つの歌の結びつきについても議論が高まりそうだ。
安積香山は福島県郡山市にある山で、万葉集の詞書(ことばがき)によると、この歌は東北に派遣さ
れ た 葛城 王( か つら ぎ のお おき み )( のち の 橘 諸兄 ( たち ば な のもろえ ))が 国 司の 粗略な 接待に気を
万葉 集の木簡が 初出土
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悪 く し た が 、 応 対 し た 采 女 ( う ね め ) が こ の 歌 を 詠 み 、 機 嫌 を 直 し た と 伝 え ら れて い る 。
「難波津の歌」は、仁徳天皇の治世の繁栄を願った歌とされる。万葉集には収められていないが、奈
良文化財研究所によると、この歌が記された木簡は7世紀後半以降の30例あまり確認。古くから有名
な歌だった。
木 簡が 出 土 し た の は 、 宮 殿 な ど の 遺 構 が 確 認 さ れ て い る 紫 香 楽 宮 中 枢 部 の 西 側 の 脇 を 流 れ る 基 幹 排 水
路 跡 。 同じ 個 所 か ら 出 土 し た 年 号 の あ る 木 簡 1 3 点 か ら 、 天 平 1 5( 7 4 3 ) 年 秋 か ら 7 4 5 年 春 に か
けて棄てられたと推定できるという。
現地説明会の代わりに、5月25日午後1時から、甲賀市信楽町長野の信楽中央公民館で 、「万葉歌
木 簡記 念 講 演 会 」 が 開 か れ る 。
万葉集 現存最古の歌集。全20巻からなり、仁徳天皇から759年までの和歌約4500首が収録。
大 伴 家 持や 橘諸 兄 ら が 編 集 し たと さ れ る 。 雑 歌 ( ぞ うか )、 相 聞 歌 ( そう も ん か )、挽 歌( ば んか ) に
大別される。素朴で力強い歌風が特徴で、文学的評価は高い。「巻1」から「巻15」までが、745
年以降の数年間に成立。今回の木簡と同じ歌が収録された「巻16」と家持の日記がその後に増補され、
78 2~ 78 3年 ごろ に全 20巻 が 成立 したとす る考 えが 有力。
紫香楽宮 天平14(742)年、聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に造営した離宮。
翌年ここで、大仏造立を発願した。745年に「新京」と呼ばれたが、同年に平城京に還都した。宮町
地区で昭和58年から行われた発掘調査で、朝堂など中心施設が検出された。これまでに平城京に次ぐ
約7000点以上の木簡が出土している。
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朝刊社会面〕
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編纂過程解明に道
万葉集の木簡 、初出土
万 葉 集 の 書 か れ た 木 簡〔 日 本 経 済 新 聞 ・
紫 香楽宮
しが ら き のみや
聖武天皇が造営した紫香楽宮(七四二-七四五年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡に最古の歌集、
あ さ か や ま
万 葉集 の 「 安 積 山 の 歌 」 が 書 か れ て い た こ と が 分 か り 、 市 教 委 が 二 十 二 日 発 表 し た 。 万 葉集 の 歌 の 木 簡
が見つかったのは初めて。古典文学の成立過程を解明する第一級の史料となりそうだ。
反 対 の 面 に は 万 葉 集 に は 収 録 さ れて い な い が 、 古 代 か ら 伝 わ る 「 難 波 津 の 歌 」 が 記 さ れて い た 。
両歌は平安時代に紀貫之が古今和歌集の仮名序(九〇五年)で「和歌を習得する際に必ず学ぶもの」
として「歌の父母」と記している。
両歌 が書かれ た史 料と して は仮名序 より 百五 十年 さか のぼ る。
ン
ミ
木簡は一九九七年に宮の中心部近くの溝から出土。幅は約二 セチ、
厚 みは約一 で
木簡の削りくずとさ
リ
ン
れていた。長さは推定六十 セチ。
筆跡から別人が書いたとみられ、先に難波津の歌が書かれ、儀式などに
用 い ら れ た後 、 再 利 用 さ れ 、 安積 山 の歌 が 記 さ れ た ら し い 。
文字は冒頭の「奈 迩 波 ツ 尓 」( 難 波 津 に )や 「 阿 佐 可夜 」( あ さ かや ) など 一 音 に 一 字を あて る 万 葉
仮名で 記され、 二 十文字が 残って い た。
また、溝の埋まった年代が万葉集成立直前とみられることから、万葉集編纂以前に記された木簡とみ
られて い る。
市 教 委 は 「 儀 式 や 宴 会 で 歌を 詠 む 際 に 使 っ た の だ ろ う 」 と し て い る 。
難波津の歌は、これまで木簡などで約三十例見つかっている。皇子だったころの仁德天皇に即位を勧
め た 歌 と さ れ る。
安積山の歌は、陸奥の国に派遣された葛城王が国司の対応に怒った際、女官が宴席で詠み、王の機嫌
が直ったと伝えられている。木簡は二十五日午後一時からの報告会で展示される。
「 削 り く ず 」 一 転 大 発 見 大 阪 市 立 大 教 授 、 再 調 査で
「歌の父母」の存在を約百五十年もさかのぼらせた大発見の陰に、古代史を研究する栄原永遠男大阪
市 立 大 教授 の 鋭 い 観 察 力 が あ っ た 。
ミ
木簡は溝の中から大量の削りくずとともに泥まみれで発見された。厚さはわずか一 で
、木簡ではな
リ
く 、 そ の削 り く ず と 誰 も が 考 え て い た 。
表面に「奈迩波ツ尓」の文字が見え、「難波津の歌」の一例にすぎないとされ、二〇〇〇年の学会誌
で 簡単 に 紹 介 さ れ た だ け だ っ た 。
ところが、昨年十二月に木簡を再調査していた栄原教授が削りくずを裏返したところ、「阿佐可夜」
の文字が肉眼で見て 取れた。万葉集に収録されている「安積山の歌」と直感、「これは大変な発見だ」
と 急 遽 、 奈 良 文 化 財 研 究 所 の 赤 外 線 装 置 に よ る 分 析 を 依 頼 、 世 紀 の発 見 に 結 び つ い た 。
両 手 で 持 っ て 木 材 を 削 る 鉋 ( か んな ) の よ う な 工 具 を 使 え ば 、 極 薄 の 木 簡 が 作 れ る こ と も 判明 。 木 簡
研究所に新たな視点を投げ掛けた。
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木簡の両面の赤外写真。万葉集の「安積山の歌」が書かれた面と「難波津の歌」の面(滋賀県甲賀市教
育委 員会 提供 )
歌の全文と訳文
木 簡 に 記 さ れ た 歌 の 全 文 ・ 訳 文 は 次 の通 り 。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(難波津に梅の花が咲いています。今
こそ春が来たといって梅の花が咲いています)
「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」 安積山の影まで見える澄んだ山の井
ように浅い心をわたしは思っていないのです
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