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第12回 - NSRI 日建設計総合研究所

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第12回 - NSRI 日建設計総合研究所
第12回
散歩は学問たりうるか
~『テクノスケープ』を通じて~
岡 田 昌 彰 氏
近畿大学理工学部社会環境工学科教授
日時 2014年 1月14日(
14日(火
日(火)
場所 日建設計1Fギャラリー
講師紹介
岡田昌彰(
岡田昌彰(おかだ まさあき)氏
まさあき)氏
近畿大学理工学部社会環境工学科教授
1967 年茨城県日立市生まれ。
東京工業大学土木工学科卒業。同大学院社会工学科へ進み博士後期課程修了。
株式会社長大、国土技術政策総合研究所、東京大学アジア生物資源環境研究セン
ターを経て近畿大学理工学部教授。
博士(工学)。
ご案内役(ファシリテーター)
西村 浩(にしむら ひろし)
ひろし)
日建設計 執行役員 名古屋代表
1959 年 東京生まれ。
1986 年 日建設計入社 17 年にわたり都市開発等に従事
2003 年 日建設計経営企画室長
2011 年 日建設計執行役員コーポレート部門(経営企画)代表
2014 年 日建設計執行役員名古屋代表
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散歩は学問たりうるか
~『テクノスケープ』を通じて~
木村
大変長らくお待たせいたしました。ただいまより第 12 回 NSRI フォーラムを
開催いたします。本日は、大変寒い中、お越しくださいまして、誠にありがとうござ
います。
本日のファシリテーターは、日建設計執行役員 名古屋代表の西村浩でございます。
それでは、よろしくお願いいたします。
西村
西村でございます。 今日は、NSRI フォーラム第 312 回、2014 年の第1回で
ございます。
私は今、名古屋代表ですが、会社に入ってから 17 年間、都市開発の仕事をしてお
りました。私どもの本社のありますここ飯田町の開発も、開発メンバーの1人として
活動しておりました。
普通ですと NSRI フォーラムは、終わったときにアカデミックな知見が得られ、明
日からの仕事に活用するということを本当の目的にしているわけですが、今日のフォ
ーラムは、少なくとも私がイントロダクションでお話しするところまでは、週末向け
の知見しか得られません。
私はかつて散歩を学問にしたくてうろうろと歩き回ってきましたが、お呼びした岡
田先生は、景観工学という世界の中で、テクノスケープ、工業遺産や土木遺産、遺産
ではなくて現に活動しているものなどについて、それを見る上での勘どころや価値の
見出し方などを研究され、それを見事に体系化された最初の方ではないかと思ってお
ります。
岡田先生と私は、東京工業大学の社会工学科を卒業しておりまして、景観工学の重
鎮であります中村良夫先生の研究室でした。今日は中村良夫先生にもおいでいただい
ておりますので、後ほどお話をいただきたいと思います。
私からのイントロダクションは、後ほどのアカデミックな話の前段として、少しく
だらないお話を差し上げたいと思います。
散歩、散歩というふうに申し上げておりますが、実は私は、東京の町を歩く散歩の
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会 11 年間続けています。毎月1回、土曜日または日曜日の早朝に東京の町を歩きま
す。毎回 14~15 人、多いときは 20 人ぐらいの参加者を得て、12~13 キロ歩き、そ
ば屋に入って酒を飲むということをずっと続けております。その中で撮りためた写真
を 30~40 枚、大急ぎでご覧いただきます。
(図1)
散歩は学問になるだろうかということを問いかけさせていただきましたが、
「散歩は
学問にならない」というのが私の結論です。
今申し上げた散歩の会のときに、歩きながら仲間たちといろいろ会話をするんです
ね。その中に、例えばこんな会話がよく出てくる。
「わあ、こんなところにこんなもの
がある」とか、
「話には聞いていたけど、見るのは初めてだ」とか。いろいろな道具が
あったり、モニュメントがあったり、昔は使っていたけれども今は使っていないもの
などが出てきたときに、
「何に使うか知っていますか」と人生のベテランが若者に問う。
それに答えられる人、答えられない人がいて、何、そんなことも知らないのかという
会話がある。あるいは、丘の上に登りますと、昔はここから海が見えたんだろうねと
か、これがあの有名人の家か、あの事件の現場はここか、昔は至るところにこんなの
ものがあったよねとか、この苗字は何と読むんだろう、この狛犬、やたらかわいいと
か、電車から見たことしかなかったな、華やかなりしころの残滓というわけですねと
か、こういう会話が月に1回、私の仲間たちとの間で交わされているということです。
(図2)
鴬谷と日暮里との間の京浜東北
線、山手線が走っているところか
ら谷中墓地を見ますと、ちょっと
段が低くなったところに外人墓地
があります。そこをいつも電車か
らは見ていましたが、たまには墓
地の方から見てみたいなと思って
行って撮った写真です。こちら側に行ってみたい、いつも見ているのと違う視点で物
を見たい、と思って撮った場所です。
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(図3)
これは聖心女子大学です。ヤ
ン・レツルさんが設計した亀の子
の形をした正門です。ヤン・レツ
ルという人は広島の原爆ドームを
つくった人です。我々は男ですの
で中には行けないんですが、当日
一緒に歩いていた女性が中まで入
ったら、それでも「何ですか」と誰何(すいか)されてしまいまして、ほどなく出て
きました。
(図4)
本郷のマンションの1階の楠亭というレストランです。昔、マンションになる前に、
楠亭というレストランがあった。マンションのお知らせ看板を見たときに私は驚愕し
たんですが、無事クスノキは切られることなく、マンションの前庭に今でも立ってい
ます。
(図5)
これはケヤキです。目黒の近衛
町の道の真ん中にある木です。昔、
近衛文麿邸があったところに道路
を通す際、この木を真ん中に残し
たという歴史を持っています。
(図6)
これは山手線唯一の踏切。駒込です。非常に有名です。数年前に池袋と目白の間の
踏切がなくなってしまったので、これが今、山手線で唯一です。
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(図7)
調布の駅は地下化されましたので、
現存しませんが、京王線の本線と相
模原のほうへ行く電車が隣の線を横
切って、ここを通って多摩ニュータ
ウンの方へ行く。線路オタクの私と
しては、こういうのを見るとぞくぞ
くします。
(図8)
南麻布に衆楽園という釣り堀があります。みんなで行こうねといって行ったときの
写真です。
(図9)
これは元麻布のがま池です。昔がまが住んでいて、この屋敷が火事になりかけたと
きに、池の水をブーッと吹いて屋敷を火事から守ったという言い伝えのあるところで
す。普段見られませんが、たまたま造成工事をしていて、その工事現場のおじさんが
中に入れてくれたので、ここまで行けました。その後土地は売れなかったようで、今
は駐車場になっています。がま池そのものはマンションの前庭として現存しています。
(図10)
これは目白と高田馬場の間の新
井薬師道の南側の水路。写真の右
側が山手線の線路です。その脇の
道を歩いていたら、なぜか水路に
入ってしまって、仕方ないからそ
のまま歩き続けた。最後、だんだ
ん深くなっていってしまったもの
ですから、目白通りに上がるところで非常に往生いたしました。こういう変な体験も
してしまうということです。目的を持って歩いている場合と、たまたまこういうふう
に迷ってしまい、変なものにぶち当たってしまう場合があります。
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(図11)
麻布十番に日本切断研究所という研究所があります。見たとき非常にびっくりしま
して、みんなでこの前で記念写真を撮ったりしました。多分レーザーや水で何でも切
って、断面模型をつくったりする会社ではないかと思います。
(図12)
これは今でも謎が解けないま
まですが、巣鴨の駅でおりて、
とげぬき地蔵まで行く間のアー
ケードの天井の梁のところに黒
いポチポチがついている。望遠
で撮ると、これは明らかにナッ
トとネジがついていて、こうい
うデザインなのか、意図しないのかわからないんですが、非常に気持ちの悪いもので
す。ぜひ帰りに巣鴨の駅でおりて、見ていただきたいと思います。
(図13)
これは特別なレンズを使った
わけではなくて、真っ正面から
撮った建物なんですが、どこか
何となくゆがんでいるように見
える建物です。これも墨田区で
す。
(図14)
芝浦協働会館です。料亭街の
見番です。昔、モノレールが浜
松町から出て、ちょうどカーブ
したところの真下に見えていた
建物です。その後、手前にビル
が建ってしまって、モノレール
からは見えなくなりました。こ
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れは3~4年前ですが、今はどうなっているだろうと思って見に行くと、網がかかっ
ていました。一応保存建物にするしないという議論をして、それが決定された直後だ
ったと思います。
(図15)
洲崎パラダイスの名残り。私
は以前木場に住んでいたことが
あり、こういう建物が幾つも残
っていました。今はほんの数軒
になってしまっていますが、昔
の遊郭の形がそのまま残ってい
ます。扉だったんですが、これ
は閉じてしまって、1軒の住宅として使っています。今も残っているかはちょっと不
安です。
(図16)
これは目白通りを走っていてど
うしても気になって、車をとめて
もう一回撮り直したんですが、何
か変なものがガードレールにくっ
ついているんです。確かにここは
前、プラタナスの並木になってい
たことは知っていたんですが、そ
れを切ったときにこうなったわけです。ガードレールに食らいついて、俺は絶対ここ
から離れないぞと言っている状況でございます。大正製薬の近くのデニーズの前です。
(図17)
これは我が家の近くで見たお
猿さんですが、こっち側とあっ
ち側を切られてしまって、でも
金網が絡まって動けないので、
両手を挙げて「助けてくれー!」
と言っているものです。女房と
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散歩をしていて見つけた近所の話です。
(図18)
これがきわめつきです。今日の
お話のイントロの最後です。世田
谷区、木造の建物の横にマンショ
ンが建った。しかも、このマンシ
ョンはこの木造の家を覆っており
まして、きっとここにおじいちゃ
んが住んでいて、
「わしが死ぬまで
絶対この家は壊さん。できるものならやってみろ!」と息子に言ったら、息子が「や
ってみたよーん」と言って、建てたのではないかと思います。基準法上はどうなって
いるのか、私はさっぱりわからない。設計事務所に勤めているのにわかりません。
(図19)
散歩の魅力は魔力だと思っていますが、歴史、都市機能の集積、地形、よりしろ(宗
教)、動植物、生活、生き方、迫力、その他、いろいろなことに出会える散歩が今でも
やめられなくて、歩けなくなるまでは続けていこうと思っています。
今日の講師の岡田先生は、先ほど申し上げましたテクノスケープの研究者で、私の
研究室の後輩でもあります。特に工業遺産や土木遺産、遺産と呼ばずに現に使ってい
るものまでも含めて、その見方、考え方、捉え方について研究されている近畿大学の
教授です。
今日残りのお時間は、岡田先生のお話をみんなで承りまして、その後、会場の方も
一緒になって、どういうことが楽しいのか、学術的に価値があるのかなどについて意
見交換をさせていただきたいと思います。
では、岡田先生、よろしくお願いします。(拍手)
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岡田
皆さん、こんばんは。大阪の近畿大学から参りました岡田昌彰と申します。
このたびは、このようなすばらしい会場で講演させていただけるということで、大
変光栄に感じております。ファシリテーターの西村さんを初め、今日お集まりいただ
いた皆さんに、まずこの場をかりて深く御礼申し上げたいと思います。
私はもともと土木工学を専攻していました。大学院からは景観工学を専攻して、今
も同じようなテーマで研究しております。西村先輩とは 15 年ぐらい前、私たちの師
匠の中村良夫先生が設計された古河の公園を見学に行ったときに知り合いました。こ
んなおもしろい先輩がいたのかと感激しました。その後もアメリカで産業遺産を専門
に撮影されている写真家を紹介していただいたり、事あるごとにいろいろおもしろい
企画にまぜていただいたりして、いろいろお世話になり続けています。そして今回、
このようなテーマで何かやってみないかというオファーをいただきました。
私は工場景観(テクノスケープ)、産業遺産、土木遺産を中心に研究をしております
ので、今回もそういった内容を話すことになるのかと思っていたのですが、最初にい
ただいたお題が何と「散歩」だったんですね。私は、散歩はもちろん個人的には好き
なのですが、西村さんのように大々的に団体をつくって散歩を実行するという経験は
ありませんし、ましてや散歩というものをあまり真剣に考えた経験がなかったので、
最初は怯みました。しかしいろいろ勉強するうちに、このテーマの中には景観を考え
る上で有益なヒントがたくさん埋まっているのではないかとつくづく感じました。
今日はいつもの講演のように、自分の研究成果としてまとまった議論をビシッと皆
さんにお伝えできる状態ではないですが、
「こういった見方や可能性も実は散歩にはあ
るのではないか」
「散歩が景観とどのように結びつくのか」ということを若干試論的に
考えてみましたので、そちらを皆さんにご覧いただきたいと思います。
(図20)
まず最初に、テクノスケープについてご紹介します。いわゆる工場景観です。後ほ
ど幾つか写真をお見せいたしますが、このテーマで、私は修士論文の時代からかれこ
れ 20 年ほど研究をしています。このテーマに出合うための大きなきっかけの1つと
なったのが、修士時代の留学先であるアメリカのシアトル市にある「ガスワークスパ
ーク」という公園です。昔の古い工場跡地を、1970 年代に公園として再開発したもの
です。
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その設計者であり、私の学生時代の留学先、ワシントン大学の名誉教授でもある
Richard Haag 先生から4年ほど前に、「私の友人で Jay Appleton というおもしろい
先生がいるので訪ねてみたらどうか」と言われました。景観工学を勉強された方は恐
らく Appleton 先生のお名前はご存じかと思います。1919 年生まれで今年 95 歳です
が、今もお元気です。この先生は地理学者。イギリスのハル大学の名誉教授です。当
時私はイギリスのケンブリッジ大学におりましたので、すぐにコンタクトをとって訪
ねてきました。その後、実は中村良夫先生も、Appleton 先生を 30 年ほど前に訪ねら
れたということをお聞きしました。30 年前の中村先生は、ちょうど今の私と同じくら
いのお年であったかと思いますが。
(図22)
Appleton 先生の著書に『風景の経験』があります。日本語にも訳されています。ほ
かにも著書はいろいろありますが、先生は「眺望‐隠れ場理論」というものを打ち出
され、人間は生物としてどういうところに心地よさを覚えるのかということを明らか
にされました。風景美学の大家と言われる方でもあります。さらに興味深いのは、
Appleton 先生は詩人でもあることです。詩の本もたくさん出版されています。
(図23)
私は3年前に Appleton 先生のご自宅を訪ねてきました。先生はお元気で、夜遅く
までいろいろお話ししました。私がテクノスケープに関心があるということは数年前
から Appleton 先生にメール等でお伝えしていましたが、Appleton 先生は「私もすご
くテクノスケープには関心があるんだよ」とおっしゃいました。
(図24)
Appleton 先生の本の中にはそういうことはあまり出てこないので意外だったので
すが、先生は「私の詩を読んでみてくれ」とおっしゃって、このような詩を紹介され
ました。「RED SKY AT NIGHT(夜の赤い空)」です。今日は全文を訳す時間はない
のですが、
「私は溶鉱炉が好きなんだ」というようなことをこの詩の中で詠まれている
んですね。真っ赤に燃える深紅の炎や、そういった工場の姿に先生はすごく魅力を感
じておられる。詩の中でもそのように書かれていますが、実際にお会いして、お酒を
飲みながら先生はさらに熱く語られました。
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テクノスケープは新しい景観論だと自分は思っていたのですが、実はこのような古
典的な景観論をずっと追求されてきた先生も、テクノスケープに深い関心を持たれて
いたことはある意味想定外で、大変楽しい驚きを持ちました。
(図25)
もう1人、これも大変有名な方ですが、吉田初三郎さんという鳥瞰図を描く絵師が
いました。
「大正の広重」とも言われている方です。この方はいろいろな絵を描かれて
いますが、その中にも、例えば八幡市(現在の北九州)の八幡製鉄所の工場や、室蘭
の工場の夜景を描いています。この施設自体は既に取り壊されてしまいました。こう
いう絵を自分はあまり見たことがなかったので、これを初めて見たときはすごく驚き
ました。この絵から、吉田初三郎の目を通した工場風景の見方がわかるわけです。
ここで、テクノスケープというものをあまりご覧になったことのない方もいらっし
ゃると思いますので、幾つか事例をご紹介したいと思います。
(図26)
これは山口県の周南市にあるタンク群です。かつての徳山市です。最近合併して周
南市になりました。ここは瀬戸内海沿岸にありますので、多島海の風景が背後にあり
ます。また、周南市は一部海岸近くまで山がかなり切り立っています。高台からこう
いった工場景観を俯瞰することができるわけです。
(図27)
夜になると、これが非常に美しく
なる。また後ほど出てきますが、最
近はいわゆる「工場夜景」が、日本
全国あちこちでアピールされ始めて
います。実は今まであまり観光資源
について考えたことがなかったとい
う周南市においても、新しい観光資
源として注目されています。こうい
った景観を見に来る人が増えてきま
したので、工場の景観をめぐるツアーが企画されています。毎回かなりの集客があっ
て、すぐに定員がいっぱいになってしまうという状況だとお聞きしております。
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(図28)
これは工業地帯のすぐ横にあるホテルです。夜景評論家の丸々もとおという方のプ
ロデュースで「工場夜景の見えるホテル」として売り出されている。恐らくこのホテ
ルを建てたときには、そういう意図は無かったでしょう。工場などに出張される方の
便を図って建てられたホテルだと思いますが、今は工場夜景の見えるホテルであるこ
とが売りになるというようなことが起きているわけです。ここには私も実際に泊って
みましたが、なかなか美しく、普通のホテルとは違う味わいがあると思いました。
(図29)
そこから少し東側、山口県と広島
県の県境に大竹市があります。ここ
も工業都市ですが、工場の敷地の中
にまで公道が入っていて、本当に異
次元の世界に迷い込んだような空間
体験ができます。大竹市役所がこの
景観に目をつけています。これは市
役所のホームページです。工場夜景
だけではなくて、昼間の景観につい
てもいろいろ解説されています。「工場夜景・見どころスポット」と書かれています。
どこの場所から見るのが一番いいのかなど、詳しい位置情報とともに掲載されていま
す。
(図30)
先ほどの周南と同じように、大竹にも俯瞰できる場所がある。これは 1960 年に発
行された大竹市史の口絵です。この口絵はある意味、市史の顔みたいなものですが、
そこにこのようなテクノスケープの俯瞰が描かれているわけです。金森さんという画
家が描いたものです。大変興味深いですね。
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(図31)
大竹市には小瀬川とう川が流れて
います。その河口付近に、三井化学
のパイプラインが渡るところがある。
その真ん中に、タワー状の構造物が
立っています。これも近くで見ると
大変おもしろい。
このタワー、見覚えがある気もす
るんですが…エッフェル塔に似てい
ないでしょうか?WEB 上では「大
竹のエッフェル塔」と呼ばれています。このようなニックネーム、あるいは「大竹タ
ワー」などという名称で、町の1つのアイコンとして活用できるのではないでしょう
か。また、大竹市の教育委員会の資料の中に、小瀬川河口付近の様子を解説している
地図がありますが、そこにもやはりこのタワーは描かれています。
日本全国でどのようなテクノスケープのプロジェクトが起きているか、ご紹介する
だけでも本当に切りがありません。実際プロジェクトとして動いてきているものを幾
つかご紹介します。
(図32)
まず、青森県の八戸市です。ここは、セメントをはじめとする工業で成り立ってい
る、東北を代表する工業都市です。ここにはグレーンターミナルや製鉄所があります。
価値ある景観が我が町にはあるじゃないかということで、最近見直されています。
(図33)
セメント用の石灰石が山か海まで
コンベアで送られてきます。これは
その終点です。積み出しのサイロが
立っているところです。
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(図34)
こういったものをアピールしようということで、小林伸一郎さんという著名な写真
家を招いて写真集を発刊したり、あとこちらは私もかかわっていますが、ツアーとト
ークカフェを通じて、工場とアートを組み合わせてアピールしようというプロジェク
トもあります。右が一昨年のもので、左が去年のものです。
それから、これをさらにバージョンアップした「八戸工場大学」というユニークな
名前のプロジェクトが立ち上がりました。八戸市役所の文化推進課の方が中心になっ
て実施されていて、私も少しお手伝いしています。
「八戸工業大学」は大学として実際
にありますが、こちらは「八戸工場大学」となっています。わが町の景観が面白いと
いう気持ちを通じて、我が町はそもそもどんな町なんだろうということを皆で学んで
みよう、ということが目的になっています。その意味では、生涯学習というと少し大
げさかもしれませんが、
「学ぶ場」ということで「八戸工場大学」という名前になって
います。これは今後も継続されていくと思います。
(図35)
さて、既にご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、2011 年から工場夜景を観
光資源として考えていこうということで、日本の四大工場夜景エリア、つまり北九州、
室蘭、川崎、四日市の市役所や観光協会、その他関係者の方々が集結して、
「工場夜景
サミット」が連続して開催されています。自分も基調講演やコーディネーターなどを
やらせて頂いています。また、周南市、姫路、尼崎などでも、工場夜景のツアーを市
役所と民間のバス会社が中心になって実施しています。東京から一番近いのは川崎で
すね。ここでも工場夜景ツアーをかなり大々的にやられていますので、もしご関心あ
りましたら是非ご参加いただければと思います。
(図36)
次に、こちらは堺のものです。私が去年の9月に主催したツアーです。土木学会の
100 周年事業ということで、土木学会と NHK カルチャーとタイアップして、堺の工
場夜景をバスで巡るツアーを実施しました。これもすぐに満席になって、キャンセル
待ち状態になりました。私は、ここで生まれて初めてバスガイドをやりましたが、い
かにこれが大変かということと、いかにそれがやりがいのあることかということを実
感しました。テクノスケープの魅力を解説しながら、市民の方と実際に現地を回ると
いうのは大変楽しく、非常に意義あることだなと感じました。
14
実施したこと自体にももちろん意味がありますが、私にとってもう1つ大きな収穫
だったのは、そこで参加者の方々に直接お話を聞くことができたことです。参加者の
方はどんな方がいるのかと思っていたのですが、意外にもほとんどが女性でした。半
分以上が若い女性です。もちろん若い男性もいましたし、ノスタルジーを持って参加
している年配の方々もおられましたが、結構若い方が多かったです。
彼らに「皆さんはこの景観のどこがおもしろいと思われるんですか」と尋ねたとこ
ろ、
「ファイナルファンタジーの世界だ」とおっしゃる方がいた。ファイナルファンタ
ジーというのはゲームですね。私はあまり詳しくないですが、そういうことをおっし
ゃる方がおられたので、私も見てみました。
ファイナルファンタジーは、3Dのバーチャルリアリティーの画面が展開するんで
すね。ここで出てくる景観は、確かにテクノスケープに見える。恐らく実在のテクノ
スケープにインスパイアされた作者が、この作品を作っているのではないかと、その
ときは漠然と思いました。実はファイナルファンタジーのプロデューサーは坂口博信
さんという非常に有名な方です。この方といつか直接お話ししてみたいと思っている
のですが…。実は彼の出身地は、私と同じ茨城県日立市です。工業都市ですね。出身
高校も同じだということもわかったので、ますます親近感を感じています。この方も
私も、工場の景観を見て育ったわけです。坂口さんのような方が、こういう作品をプ
ロデュースしている。恐らく坂口さんの心象風景には実在のテクノスケープがあって、
それをモチーフにしてこういう作品を作られているのではないかと想像します。
このゲームで遊ぶ若い人たちの中には、テクノスケープを見た経験のない方もいる
でしょう。ですが、こういう映像が非常に格好いいものだということは、ゲームを通
じて知っています。それで、このバーチャルの不思議な世界の映像を今度は現実の世
界に追体験しに行くわけです。ちょうどクリエーターと逆の方向で景観体験をしてい
るわけですね。これも現象は、メディアやゲームの映像が風景の見方に与える影響の
大きさを証明しています。これから、そういう世代がもっとどんどん育ってくるのか
もしれません。景観の価値観は、進化するメディアの影響を受けてどんどん変わって
いくと思います。
(図37)
景観の価値の中には、簡単に言うと見る人が勝手に解釈したものも多くあります。
テクノスケープなどはその典型例です。きれいにしようと思って作られているわけで
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はない。あくまで見た人が自発的に「これはいい」と感じ、景観の価値が生まれてい
ます。
これをもう少し突き詰めると、これも中村先生がおっしゃっていることの1つであ
りますが、見る人が非常にクリエイティブな見方をして創造した景観の価値というこ
とになると思います。そこで、西村さんから今回いただいたお題「散歩」という言葉
が絡んでくる。これらをどう結びつけるのか、そもそも結びつくのかという感じもし
ましたが、いろいろ考えてみると意外と繋がる。私は散歩についてこれほど真面目に
深く考えたのは今回が生まれて初めてですが、散歩の新しい活き方、あるいは活かし
方が、これからまだまだ発掘できるように思っています。
(図38)
まず、散歩が今、世の中でどういう位置づけにあるのかを考えてみます。巷では今
空前の「散歩ブーム」と言われています。例えばテレビ番組にも散歩ブームが非常に
反映されている。あるいは、テレビ番組が放映されることによって、今の散歩ブーム
に火がついたとも言えるでしょう。
皆さんご存じかと思いますが、これは「ちい散歩」です。地井武男さんは残念なが
ら最近亡くなってしまいましたが、2006 年から始まったこの番組が放映されることに
よって、散歩が一気に世の中に広まったと言われているそうです。その後継番組とし
て、今度は若大将、加山雄三さんが同様の番組をされている。さらにこの傾向は広が
っていきます。去年1年間で放映は打ち切られたそうですが、女性の散歩をテーマに
した「おでかけ日和」といった番組も放映されている。この3番組は主に関東でのも
のですね。
関西にもそういった番組があります。関西テレビの「よ~いどん! となりの人間国
宝さん」です。円広志や月亭八光という関西芸人が、関西各地の駅の周辺を歩き回っ
て、いろいろな宝物を見つけていくというものです。この番組がもとになって、
「ぶら
り地図」などという冊子も発刊されています。
これだけではない。雑誌を含めると、ここの画面には載せ切れないぐらいたくさん
の散歩系の雑誌や本が出版されている。これが一時的なブームなのかどうかはわかり
ませんが、2006 年からこれが続いていることを考えれば、これはブームというよりも
むしろ1つの社会現象といっても良いと思います。
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次はまた関西の事例ですが、大阪府の公園協会が「OSOTO」という雑誌を 10 年ほ
ど前から発行しています。私も2回ほど寄稿オファーをいただきました。これもお散
歩感覚で町をじっくり見てみようというものです。名前は可愛いですが、内容はかな
り真面目なものです。これは今、冊子ではなくてウエブ版になっていますので、関東
の方でも読んでいただくことができます。
(図39)
さて、それでは本日のもう1つの重要なテーマである「散歩」について、まずは定
義を確認してみたいと思います。百科事典や辞書を調べてみました。
「気晴らしや健康
などのために、ぶらぶら歩くこと」、「あてもなく遊び歩くこと。そぞろ歩き。散策」。
さらに語誌、つまりこの言葉がどのように成り立ってきたかを見てみると、おもしろ
いことが書かれていました。
実は「散歩」という言葉は、中世の漢詩文に既にある。一般的に用いられるように
なったのは、日本では意外にも明治時代以降だそうです。当初、散歩は運動の一種だ
った。海水浴がそうだったということはよく知られていますが、散歩も運動だったん
ですね。西洋から教わった風俗の1つだということです。この言葉がどんどん使われ
ることによって、次第に「逍遥」という意味を獲得しました。逍遥というのは、今の
散歩の定義に非常に近い。気の向くままにあちこちと遊び歩く、そぞろ歩き、つまり、
目的もなく歩く、ということです。
もう1つおもしろいのは、世間の俗から離れて楽しむ、という意味もあることです。
よく考えてみると、散歩にはこのような側面がかなりあるのではないでしょうか。西
村さんはいみじくも「土日のもの」ということをおっしゃいましたが、そこには日常
の業務、あるいは極端に言えば世俗から一時的に離れて楽しむという意味も含まれて
いるかと思います。
散歩や逍遥を愛した先人もいます。哲学者のカントが散歩を重視していたというこ
とは非常に有名な話です。1日の日課の中で、散歩だけではなく、朝食などすべて、
全く同じ時間にきちっとやっていたそうです。同じルートを毎日同じ時間に歩き続け
る。そこで何かしら新しい着想を得ていた。ちなみに近所の人たちは、カントが歩い
てくるのを見て、逆に時計を合わせたという逸話まで残っています。それから、京都
の哲学者、西田幾多郎さんも散歩をしていました。
「哲学の道」の名前のもとになった
方でもありますね。
17
また、これは散歩から若干ずれるかもしれませんが、今和次郎はどうでしょうか。
民俗学の研究者で、考現学を提唱した人です。明治から昭和までの当時の風俗、町の
様子に加えて、人の服装なども正確に記述して、
「現在」を記録し、新しい学問として
成り立たせた偉大な方です。彼も恐らく町を徘回しながらそういうものを見つけてい
ったのでしょう。散歩とかなり共通するところがあるわけです。それから、これは現
代ですが、1980 年代に赤瀬川原平さんや藤森照信先生らが「路上観察学」というもの
を立ち上げましたが、そこにも散歩の香りがしますね。これも今和次郎の考現学を受
け継ぐものだと言われています。
(図40)
このように見てくると、散歩は既に学問になっているような気もします。ただ、私
は敢えてここで、前述の先人たちの活動と「逍遥・そぞろ歩き」ということとは別の
ものではないか考えました。これもかなり強引な分類ですがが、恐らく今ご紹介した
4名の先人には、散歩することに対する明確な意図があります。例えば、新しい着想
を得たい、あるいは町の現在の様子を正確に記述したいというアカデミックな意図を
持って実施されているわけです。
ところが、上にある逍遥、気の向くままに歩くとか、先ほど西村さんに見せていた
だいたような散歩のスタイルというのは、果たして明確な意図があるのかどうか。意
図は非常に希薄な感じがします。いい意味での希薄です。あるいは、副次的な狙いが
あってそこを歩く。歩いた結果、何か新しいことが起きている。気楽であり、クリエ
イティブ。逍遥や散歩にはそういう可能性が少なからず含まれている。
もう少し話を進めていきたいと思います。例えばこんなものがあります。
18
(図41)
これは北海道の上士幌町にあるタウシュベツ橋梁というものです。1939 年につくら
れました。非常に不思議な表情をもっています。私も現地に行ってきましたが、強烈
な印象、そして感動がありました。
そもそも、何でこんな姿になってしまったのか。もともとこれはコンクリートの鉄
道橋でした。後に、近くにダムが建造された。ダム湖に沈むこととなった鉄道は廃線
になるわけです。ダムができると、乾いた季節と雨の季節によって水かさが変化して、
水に浸かったり水上に現れたりする。しかも、ここは北海道の帯広から少し北に位置
しますので、寒さが半端ではないんです。一旦水に浸かったものがまた水上に現れる
と、コンクリートの中に含まれていた水分が凍結膨張を起こす。そうすると表面がぼ
ろぼろになります。それを毎年毎年繰り返す。しまいには、とてもコンクリートとは
思えないような、古代の遺跡のような姿になりました。ある意味みすぼらしくも不思
議な魅力を醸し出しています。
私を含め多くの人々がここを訪れるわけですが、そもそもこれを最初に見つけた人
は誰なのかと思いました。当然これも見る人が決めた価値です。これは自然の摂理に
よってできた景観ですので、誰かが意図してつくったわけではありません。従って、
19
この第一発見者は必ずいるはずです。しかも、ここには時々熊が出ます。非常に恐ろ
しく、危険な場所です。私はそういう認識を持たずに訪れてしまいました。当日は観
光客が何人かいましたが、皆さんは熊除けの鈴をつけていました。そんなところにな
ぜ、第一発見者は行ったのか。現代の廃墟マニアたちなら事前に調べて行くことがで
きますが、当初はインターネットもない。そして、第一発見者から景観の価値はどん
どん広がっていき、いつしか北海道の名所の1つになりました。1999 年には「ひがし
大雪アーチ橋友の会」という NPO が結成されています。関係者の方と直接お話しし
たことがありますが、大変熱心に盛り上げようと努力されています。2001 年には、北
海道庁の制度「北海道遺産」にも認定されました。
それから、写真家の西山芳一さんの『タウシュベツ』(2002 年)という写真集があ
ります。実は今、ご本人が会場にいらっしゃいます。ご本人の前でちょっと言いにく
いですが、大変感動的な写真集です。現場にずっと張りついて撮影されたということ
を西山さんからお聞きしています。ちなみに、この第一発見者は誰なのかということ
を先ほど雑談で西山さんとお話ししたんですが、ある人物の名前が浮かんできました。
北海道教育大学の先生ではないかという仮説をいただきました。次に皆さんにお会い
するまでにきちんと確認して、改めてご紹介したいと思います。
(図42)
これは函館山からの眺望、函館の夜景です。私たちは、これが日本あるいは世界を
代表する夜景の1つであると認識しています。しかしここでも、この地に最初に足を
踏み入れて夜景に感動した人がいるはずですね。戦前、一般の人たちは函館山に立ち
入ることはできなかった。ここには砲台が置かれていましたので、関係者以外は立入
禁止でした。ですので、夜景のすばらしさは戦後になってから発見・伝播されたので
しょう。第一発見者が誰なのかは今となってはもう検証できないのかもしれません。
いずれにしても、大衆が何か1つ景観の価値を発見して、それがより広い大衆に広ま
っていく。そのように景観の価値が伝播していくという現象が、日本だけではなく世
界各地にあることがわかります。
20
(図43)
イギリスにケンブリッジシャー
という州がありますが、そこに
Wimpole Hall という貴族の庭園
とハウスがセットになって残って
いるところがあります。今はナシ
ョナルトラストの管理になってい
ます。ここにはむしろイギリスら
しからぬ整形式の庭園があるので
すが、注目していただきたいのは
庭園の軸線の真正面のあるこの白っぽいオブジェです。これは何でしょうか。いわゆ
る廃墟です。サンダーソン・ミラーという建築家が"つくった"ものです。彼は 18 世紀
にこのような"廃墟を設計する建築家"として、イギリスのあちこちで活躍しました。
完成してから 300 年経っていますので本物の廃墟に見えてしまうのですが、実は最初
から廃墟としてつくられたものなのです。廃墟は美しいという観念が 18 世紀のイギ
リスには既にあったわけです。人工廃墟(フォリー)と呼ばれています。
では、廃墟を礼賛するような風潮がイギリスでどのように芽生えたのか。産業革命
の後、経済的に余裕のできた人たちが、
「グランドツアー」というヨーロッパ大陸の旅
に出ます。そこでいろいろなものを勉強しながら帰ってくるわけです。そして荒れ果
てたイタリアの庭園の姿にさえも、イギリス人は感動してしまった。もちろん、イタ
リアでは意図的に荒れ果てるようにしたのではなくて、ただ単に管理がしっかりとで
きていなかっただけなのですが。
それから、廃墟を描いた風景画もありました。本国に帰ってきて、造園家たちはこ
ういった風景を実際に作り始める。
「うつし」として、廃墟の美学を持ってきているわ
けです。
21
(図44)
このようなフォリーはイギリ
ス中あちこちにあります。いろ
いろな種類のものがあって、こ
れをお話しするだけでも時間が
足りません。とても楽しいです
が。例えばこの Wrest Park は
ケンブリッジから 50km ほど西
にある庭園です。ここに Folly
Ruin というのがある。これは
もはや確信犯的ですね。
「偽物の廃墟」という名前が最初から付けられているフォリー
なのですから。これも現在は廃墟に見えますが、最初から廃墟のようにつくられたも
のです。内部には風呂の跡も残っている。非常に豪華絢爛な貴族の邸宅のちょうど真
向かいに、ぼろぼろにつくられたこのフォリーがあるのです。これらのフォリーはあ
くまで貴族の邸宅の中につくられたものです。今ではもちろんお金を払えば誰でも自
由に貴族の元邸宅の中に入ることができますが、当時は一般の人は中に自由に入るこ
とは許されていなかった。
(図45)
ただ、よくよく事例を観察してみる
と、貴族たちが人工廃墟をつくったの
は敷地内だけではないんです。例えば
このウースター州にある Dunstall
Castle という貴族の邸宅の入り口に
あるフォリーです。これもサンダーソ
ン・ミラーがつくったものです。ここ
は庭園の中ではなく、公道です。イギ
リスの貴族は自分の力を誇示すること
をよくやります。これもそういうものかもしれません。人目につく公道の道端にこう
いったフォリーをつくるわけです。ここを通り過ぎる一般の庶民の目にも触れます。
22
(図46)
次は少しマイナーな事例です。19 世紀に入ってからイギリスのサフォーク州につく
られた Ivy Lodge という貴族の館です。その館の入口ゲート自体がフォリーになって
います。とんがりアーチみたいな形に見えますが、この部分も最初から崩してつくら
れていた。19 世紀に入ると、このように庶民の目に触れるフォリーがかなり出てくる。
(図47)
次も非常に面白い事例です。ここ
からは、その後一般庶民が何をした
かがよくわかります。ケント州シア
ネスにある、Grotto Shaped Folly
という名前の家です。Grotto という
のは洞窟のようなもので、18 世紀の
イギリス庭園の中によく現れます。
つまり、Grotto のような形をした人
工廃墟という名前の建物です。1830
年代につくられたものですが、これをつくった人は廃墟建築家でも貴族でもない。農
民だそうです。農民が自分の家をこのような形につくったわけです。
特にこの部分は変わった形をしています。丸い樽のような形をしたものが、連続し
て張りつけられている。実はこの真向かいは海ですが、あるときセメントを積んだ樽
が水に浸かってしまい、中で固まって露出されていたんだそうです。そんなものを見
て喜ぶ人はあまりいないと思うのですが、この農民の方はそれを見て、これはすばら
しい景観だと思ったんでしょう。これを我が家にも是非つくってみようということで、
それをモチーフにしてこのような形にした。何ともすごいこだわりですね。そこまで
やるかという感じもしますけれども。
これから何が言えるでしょうか。露出されたコンクリートの塊などという、一見何
げないものでも、見方によっては結構おもしろくなるんだということをこの農民は知
っていたということです。そういう価値観が当時のイギリス庶民にはあったというこ
とです。廃墟の価値観が既に大衆化していたということなんだと思います。それを証
明する貴重な事例です。
23
(図48)
その延長線上に今のイギリス人はいるのでしょう。古城の廃墟、しかも欠片しか残
っていないようなものをこのように皆で写生している光景に出合いました。何を描い
ているのかなと思って覗いて見たら、人ではなくこの廃墟を描いている。大変ほほえ
ましい光景でした。こういう価値観は現代にもしっかりと繋がっているということで
す。
(図49)
もっとおもしろいのは、フォリー
を新しくつくる会社が 1990 年代に
イギリスに現れていることです。
Redwood Stone 社です。これはご覧
のとおり、人工廃墟の 20-21 世紀バ
ージョンです。今も注文がたくさん
あるそうです。ハンプトンコートの
展示会に訪れたときに、たまたま
Redwood Stone 社の専務の方がいらっしゃいました。古城のてっぺんに専務が乗られ
ていましたので、フォリーに関心があるのですが、と話しかけてみました。そうした
ら、君もここに来なさいと言われましたので、すぐに自分も登りました。2人でこの
塔の上でいろいろお話をしました。変な光景だったと思いますが(笑)
今や古典で
あるはずのフォリーが復活する時代になってきているということです。廃墟の価値観
がここにきてさらに浸透しているということなのかもしれません。
(図50)
さて、ここには非常に特徴的な三
角形のとんがり帽子みたいなものが
たくさん並んでいますが、これはれ
っきとした産業遺産です。イギリス
の伝統的なビールである「エール」
をつくるための施設です。
「オースト
ハウス」という、ホップの乾燥窯で
す。イギリス南部のドーバー海峡に
24
面したケント州や、もう少し西側のサセックス州に、オーストハウスがたくさんつく
られ、ビールの製造が行われていた。ただ、近年は海外からのホップに押され、全て
が廃止されてしまいました。ビールをつくっているオーストハウスは今はもう存在し
ません。ただ、何故かその殆どが「現存」している。新しい用途に転用されながら、
しぶとく生き残っています。
例えばこれは住宅にコンバートされたものです。かなり裕福な家のようです。この
ように住宅や B&B などの施設に改造されている。
(図51)
私は、自国の築いた本質的なものを心から愛し楽しむ民族として、イギリス人を非
常に尊敬しています。自国の産業遺産に対しても彼らは非常に大きな誇りを持ってい
ますので、機能がなくなったからといってすぐ壊すのではなく、住宅やホテル、レス
トランなどに転用する。たいへん頷けます。ただ、その路線とは少し異なるものを見
つけました。次にお見せする事例がそれです。
(図52)
これはダービシャーというところにある、Premier Inn というホテルのチェーン店
です。何と、Oast House という名前です。よく見ると、確かにオーストハウスの形
をしている。これも転用かと一瞬思いましたが、よく考えてみるとダービシャーでは
オーストは生産されていません。この地域には1つもないはず。これは実は、偽物で
す。この地域とは全く脈絡のない、レプリカのオーストハウスなのです。
ただ、この価値観は注目に値します。オーストハウスは歴史の詰まった価値あるも
のである、という認識が定着しているということでしょう。純粋な産業遺産としてだ
けではなくて、ある意味もっと表層的な見方で価値観が転写されているわけです。こ
れは先ほどのフォリーの考え方に似ていますね。
このホテルの中に入ってみたのですが、内部も丁寧に、本当のオーストハウスのよ
うに精巧につくられていました。イギリスの国内には偽物オーストハウスがこのほか
に2軒あります。非常に興味がわいたので、いつか訪ねてみたいと思っています。別
の機会に皆さんにもご紹介できればと思います。
25
(図53)
今日のタイトルには「『テクノスケープ』を通じて」と副題にはありますが、「見る
人が創造した景観の価値」はテクノスケープに限った話ではない。様々な種類の景観
に、見る人が創造した価値が含まれることがわかります。
もう1つ、散歩する人、つまり「見る人」というのはどういう人なのかということ
も重要な点です。どういう種類の人が景観の価値を創造するのかということです。こ
れに関しては既にたくさんの論考があります。
2つほど例を持ってきました。これは私と西村さんの指導教官である中村良夫先生
が 1995 年に書かれた論考です。この論考はその後いろいろなところで引用されてい
ます。いわゆる「脱農者」とか「脱工者」と言われる人たちが、それぞれ「農」と「工」
の景観の価値、風景の価値に気がつくということをおっしゃっているわけです。
例えば、農業の景観は美しい。皆さんの中にもそのように感じられている方は多い
かと思います。自分もそう感じます。しかし、農業に携わっている人たちにとっては、
農業の美しさというものはなかなか見つけにくい。そこはあくまで働く現場、あるい
は自分たちとの間に利害関係がある場所なわけです。そういう状況にあっては、その
景観の価値というものに気づくことが難しい。ところが、農業の時代から工業化社会
に入ったことによって、農業というものをもう少し引いて見ることができる人が増え
たわけです。そのとき、農業景観の美しさに気がつく人たちが現れた。そういう時代
変遷と、景観の価値の変遷があったということが言われています。
今ご紹介した工業景観(テクノスケープ)に関してですが、現在は工業の時代から
情報化社会になった。今はさらにそれが進んでいる状態にあると思いますが、そこで
工業を脱した脱工者と言われている人たちが、今度は工業景観の価値に気がつく、と
いうことをおっしゃっています。私個人の経験を省みても、このお話は非常に納得で
きるところがあります。
それから、同じく景観論を研究されている奈良県立大学の西田正憲先生。瀬戸内海
の風景論などの著作がある先生です。最近『自然の風景論』で日本造園学会の学会賞
を取られています。中村先生がおっしゃっていることと共通するところがありますが、
風景を発見するのは、基本的に外部のまなざしである。つまり、主体と客体の距離の
問題が重要である。距離が開くことによって、対象を風景、つまり価値ある景観とし
26
て捉えることができるとおっしゃっています。これも私たちの実体験を振り返ってみ
ると非常に納得するところがあるのではないでしょうか。
西田先生はさらに踏み込んでいる。故郷の風景というものに美しさを感じるのは、
故郷を離れたときである。これも主体と客体の距離が、時代だけではなく物理的にも
大きくなり、対象に対する慈しみが生まれるとおっしゃっています。確かにふるさと
の風景の美しさに目覚めるときというのは、ふるさとを離れたときなのではないでし
ょうか。私も自分自身のことを考えると、非常に納得します。このような風景を発見
した人を挙げ始めたらきりがないですが、例えば国木田独歩は武蔵野の風景の美しさ
を発見しました。
そして、風景の創造に関しても論考があります。風景を発見するきっかけは一体何
なのか。これは、私にとっても今回「散歩」ということを考えるにあたって、非常に
気になることです。例えば散歩や逍遥によって、対象との偶然の出合いがある。この
偶然の出会い、偶然の発見は一体何なのか。それをまたいろいろ考えている人たちが
いるわけです。
「セレンディピティ」という言葉があります。
「偶然からモノを見つけだす能力」の
ことです。自分はこの概念に注目しました。散歩はまさにセレンディピティの舞台で
す。
もう少し説明します。例えば、ノーベル賞など世界にはいろいろなすばらしい研究
成果がありますが、その中には最初からその成果を上げようと意図的にやられたこと
がある一方で、
「失敗」から偶然そこで起きた現象が新しいものとして発見されたケー
スもある。例えばアーノ・ペンジアスというアメリカの物理学者。彼は天体観測中、
そこに変なノイズが入っているのに気づいた。消そうとしてもうまく消えない。その
ノイズが何なのかということを突き詰めてみたら偶然にも大発見に繋がり、ノーベル
物理学賞の受賞に至ったのです。こういう事例は他にもたくさんあります。
先ほど、散歩の中でいろいろなものが偶然に発見されると言いました。不完全なア
ナロジーですが、私たちは風景のセレンディピティを逍遥の中に少なからず期待して
いるのではないか。散歩にはこういう期待感が含まれているのではないかと思います。
脳科学には「偶有性」という概念があります。簡単に言ってしまうと、意外性みたい
なものに対して人間は非常に喜びを感じる、ということです。全く予期しなかったこ
27
とではなく、何となく来るんだろうなと薄々期待があって、その通りそれがパッと現
れたとき。これも偶然の出合い、セレンディピティということに通じている。
その際最も重要なのは、それに「気づく」ということです。それを何てことないつ
まらないものだと最初から無視して通り過ぎてしまうのではなく、それを見たときに、
「あっ、これはもしかしたら大事なのではいか」と直感するということです。価値あ
るものなんだと受けとめる「受容」が非常に重要であると、いろいろな本にも書かれ
ています。
(図54)
私はテクノスケープが非常に価値あるものだと先ほど散々申し上げましたけれども、
私がこの研究を始めるもう1つのきっかけとなったのは京浜工業地帯の風景です。し
かし今思えば、学生時代の京浜工業地帯訪問の動機は、研究とは大きくかけ離れたも
のでした。工場景観はもちろん嫌いではなかったですが、別に研究テーマを探すため
に京浜工業地帯に行ったわけではなかったのです。私が最初に京浜工業地帯に行った
目的は、鉄道の車両の写真を撮るためです。JR鶴見線です。これは当時そこに走っ
ていた昔の旧型国電車両です。鉄道マニアの間では有名な車両です。これが日本で走
っているところは当時既に限られていたのですが、その1つが鶴見線だった。学生時
代、私はこれを目がけて朝から工業地帯に足を踏み入れたわけです。そのときにこの
車窓に展開する景観を見て、旧型国電車両もおもしろいけれども、この工業地帯の景
観も無視してしまうにはもったいないものなのではないかと思ったことが研究のきっ
かけでした。しかもこのような風景の経験は、何も自分だけの話ではないこともわか
りました。
例えば、JR海芝浦駅。京浜工業地帯の先端部にあります。改札口を出るとその先
は東芝の工場の敷地です。一般の人は、JRの切符を買えばこの駅まで行くことはで
きる。ただ、東芝の社員証がなければ駅の外には出られないという、ちょっと変わっ
た駅です。次の電車が鶴見方面に戻るまで、我々はずっと待っていなければならない。
しかも、ホーム自体が海に面していますので、居心地が良い。ここで釣り糸を垂れる
人もいますし、夜になるとビール売りが現れる。そのビールを飲みながら工場の夜景
を楽しむといったことも 1990 年代から話題になっていました。やがてここが名所に
なって、観光ガイドにも紹介され始めるわけです。それが 1980 年代です。当時の観
光ガイドの中でも、この駅が紹介されています。そして、この駅に至る途中に展開す
28
る工場の景観も面白い、ということが書かれています。副次的にテクノスケープの発
見があったのです。
(図55)
これも私の個人的な経験ですが、
1997 年に私は初めてヨーロッパ
に行きました。ちょうどテクノス
ケープの博士論文を書き上げた次
の年ですので、かなり浮かれ気分
になっていた時期です。そのとき
に私の指導教官の中村先生から、
ヨーロッパで国際会議があるので、
そこで発表してみないかというチ
ャンスをいただきました。会議で発表した後、ヨーロッパの町をいろいろ回ってみま
した。まず最初に私がどうしても行きたかったのは、エッセンというルール工業地帯
の町でした。この町に行けば何かおもしろいテクノスケープに出合えるのではないか
と思いました。
ただ、当時はインターネットなどは殆どありません。事前に本などできちっと調べ
ておけばよかったのかもしれませんが、ルール工業地帯を紹介する本など日本にはあ
りませんでした。ですので、ほとんど下調べをせずに現地に行ってしまいました。エ
ッセンに行けば何かあるのではないかという期待感だけを込めて行ったのです。今思
うと少し恥ずかしいですね。ある意味「勉強不足」で行ってしまったということです
から。ただ、実際エッセン駅に降り立つと、想像とはかなり違う光景でした。皆さん
もご存じかもしれませんが、ヨーロッパの工業都市というのは大変美しい。工場の煙
がもくもくと立ち昇っているようなところも全くないわけではないですが、ドイツな
どの場合は非常に洗練された美しい町並みが工業都市にあるわけです。
美しい街並みに感心しながらも、ドイツの代表的な工業都市の何をどう見たらよい
のかわからなくなってしまった自分は、ひたすらエッセンの町の中を彷徨ったわけで
す。そのとき、街角にこんなものがパッと現れたんですね。私は鉄道が好きでしたの
で、これは廃線だとすぐわかりました。それから、その向こうにあるものは多分工場
ではないか。現在は IKEA の駐車場になっています。そして、この中に入っていくと、
29
そこは「コロッセウム」という名前の劇場になっていました。内部は、まさしく当時
の自分が期待していたものに溢れていた。例えばこのクレーン。何とシャンデリアを
吊っています。本当におもしろいことをやるなと思いました。こういう場所に、つい
に出合えたわけです。
これも偶然なのですが、コロッセウムの入口にパンフレットが置いてありました。
そこには、ここからバスで 30 分ほど行ったところに工場跡地があって、そこで今お
もしろいイベントをやっているということが書かれていました。実はこれは、今や日
本でも有名になってしまった「エムシャーパーク」なのですが、その一部であるゲル
ゼンキルヘンという炭鉱の町が英語で紹介されていました。かつての炭鉱施設が残っ
ているところです。ここに新しい機能を入れて人を集め、さらに生態の改善や経済活
性化も狙った全体的な地域おこしのプロジェクトが現在まで続いています。1997 年は
この事業がちょうど波に乗ってきた頃でした。
ただ、1997 年当時、ゲルゼンキルヘンなどという片田舎の町に、こんなプロジェク
トが計画され、ブンデスガーテンショウという大規模なイベントがこの期間に行われ
ているという情報を得ることは、恐らく日本では不可能だったのではないかと思いま
す。自分はたまたま、非常にラッキーだったということなのかもしれません。一方で、
ここに私がたどり着くことができたことの背景には、コロッセウムとの偶然の出会い
があった。そして私としても、心の中に何らかの「下準備」みたいなものがどこかに
あったのではないかと思っています。何だか自慢話みたいになってしまって恐縮です
が、ドイツのテクノスケープとの偶然の遭遇を見逃さない「選球眼」だけはしっかり
ともっていた。これがたいへん重要な鍵であったと今は思っています。
(図56)
次は日本の事例です。金沢市にあ
る末浄水場です。2001 年に国の有形
登録文化財に登録されました。この
浄水場のろ過池や浄水井など一連の
施設が歴史的に価値があることが認
められていました。
2001 年にたまたま金沢で土木学
会の土木史研究という学会がありま
30
した。浄水場そのものに私はかねてから深い関心がありましたので、登録文化財に答
申されたばかりの末浄水場を見に行きました。これも偶然ですが、その日は年に数度
の「一般開放日」でした。登録文化財になっている施設も素晴らしいと思いましたが、
入口近くに面白い空間があることにすぐ気づきました。意味不明なコンクリート製の
オブジェなどもあり、これも実は面白い、重要な空間なのではないかと直感しました。
その後、現地でお話した浄水場の方と一緒に研究を始めました。資料や地元のご老人
へのヒアリングなどを通じていろいろ調べてみたところ、この「庭」が実は昭和初期
の浄水場の空間整備を理解する上ですごく重要な遺産だということがわかりました。
時間が無いので今日は細かくご説明はできませんが、この研究が基となり 2010 年に
は浄水場園地が国の名勝に指定されるに至りました。もちろん、土木遺産としては初
の名勝指定です。
(図57)
この写真は、2001 年の庭の状態です。木が生い茂っています。その後、2010 年の
国名勝指定の後、このように整備されました。整形式庭園の対称性と浄水場の施設全
体の機能的な対称性がうまくマッチされた空間になっているわけです。非常に秀逸な
つくり方をしています。
ここでもいろいろな偶然が重なったような気がしています。まず、そのときに私が
浄水場に訪れるという行動を取ったこと、それから浄水場を訪れた日がたまたま水道
週間で、普段は入れないところにも入れたということ。そしてこの空間が何かおもし
ろそうだなということに気づいたこと。
「散歩」と同じように、全ては「行ってみよう」
という行動によって始まったわけです。
(図58)
今度はうちの学生の話をしたいと思います。卒業研究のテーマを決めるときは、皆、
苦労します。近畿大学には非常に真面目な学生もたくさんいますが、中にはそうでは
ない学生も少なからずいまして、彼らがまたなかなかおもしろい。ちょっと変わった
ものをいろいろ見つけてきてくれます。
例えばこれは京都市にある戦前につくられた児童公園です。彼は就職活動で京都に
行って、そのときにたまたま通りかかったこの公園の面白さに気づいた。
「ちょっと変
わった公園だ。何なんだろう」という関心を得たことから、この研究は始まりました。
31
(図59)
よくよく調べてみたら、意外なことがたくさんわかりました。まず、このような「面
白い公園」は京都市内に複数ありました。そしていくつかの公園の中には、このよう
なラジオ塔の遺構があった。また、これは公園の平面図ですが、各施設がきっちりと
対称形に配置されていることがわかります。先ほどの末浄水場にも少し似ています。
ここは対称配置された植え込みやラジオ塔があるスペースですが、ここで戦前にラ
ジオ体操がされていたということもわかりました。それから、藤棚と出入口の配置。
戦前にここで土地区画整理事業が実施されていますが、その石碑の中心軸をここの入
口に合わせるなど、いろいろな工夫がされている公園だということがわかりました。
偶然学生が見つけたものですが、偶然ということは決してばかにできないと強く感じ
ました。知的関心をもちながら歩くことで、隠れていた「宝」が見つかる可能性があ
るのです。
(図60)
その後、これらの公園群については新聞でも取り上げていただきました。これを何
とか価値あるものとして皆でしっかりと認めていきたいと努力しているところです。
(図61)
その後、学生君は今度は明確な意図をもって悉皆調査を実施しました。例えば、大
変特徴的なドイツ表現主義の水飲み場や門があるということもわかりました。ラジオ
塔にも実はバラエティーがある。モダニズム的なものや帝冠様式のものも現存してい
るということもわかりました。
(図62)
次の事例です。この写真も私
が撮ったものです。大阪の堺市
に、かつて農業用地下水を汲み
上げるための風車がたくさんあ
ったということが知られていま
す。ただ、その殆どは消滅しま
した。これは昭和 42 年の堺の
風景ですが、風車がたくさん立
32
っているのが見えます。ただ、その後ここには工業地帯が開発され、農業はだんだん
廃れていきます。しかもスプリンラーで水をまくようになりますので、地下水を汲み
上げるための灌漑用風車は不要になっていきます。その後どんどん壊され、減ってい
きます。そして、最後に残った1基がこれだったのです。
私が大阪に赴任したのが 2003 年です。赴任した直後に、すぐ車を飛ばして現地に
行ってみました。あまり歓迎されている状態ではなく、この周辺がごみ捨て場になっ
ていました。これは何とかしなければいけないとそのときは思ったのですが、まだ赴
任したばかりで知り合いもほとんどいない状態でした。残念ながら管理されていた方
がその後亡くなられ、この風車はその次の年に取り壊されてしまいます。
実際オリジナル風車は、戦前の全盛期で大体 400 基ぐらいあったということがわか
っています。ところが、その後急減し、70 年代以降は 10 基以下、そして、2004 年に
はついに完全消滅となりました。
(図63)
あるとき堺出身の学生にこのこ
とを話したのですが、その後彼は
地元で面白いものを見つけてきて
くれました。こういったものがど
うやら堺の町にはまだあるのでは
ないかということを言うんですね。
いろいろ調べてみたら、もう存在
しないと考えられていた風車が実
はまだいくつかあった。材質こそ
金属に置き換えられていたりはし
ますが、存在している。そしてこれらの風車は主に、小学校の校庭に立っているので
す。
例えば、これはきれいに残っています。一方、こちらはもう風車だか何だかわから
ない状態です。ブレードがはがれていますね。当時の教頭先生に尋ねたところ、
「これ
が何なのか私にもわからない」とおっしゃった。残念ですね。
これらの風車は、揚水風車のレプリカあるいは移設された風車だったのです。
33
(図64)
その後、学生君と徹底的に調査しました。風車がどんどん減ってしまう時代に、何
とか堺の風景を残そうということで、
「記憶の継承」を目的に、1960~1970 年代にレ
プリカ風車を新設したり、あるいはそっくり風車ごと移設したものであることがわか
りました。「小学校の理科教材」として、実際に地下水をくみ上げていたものもある。
その後この研究を大阪府近代化遺産調査や土木学会でも取り上げ、価値ある地域の遺
産として位置づけようと試みました。ようやく昨年になって、堺市主催のシンポジウ
ムの開催に至りました。今後の展開が重要ですが、いずれにしましても、全ては学生
君の偶然の発見から始まったのです。(図86)
次の事例です。これは橋の親柱です。大阪にある箕面公園の片隅に放置されていた
ものですが、これも歴史的価値がある橋の一部であることが後にわかり、大阪府の近
代化遺産調査の報告書でも取り上げました。実はこれも、箕面公園にデートで訪れた
学生が偶然見つけてきてくれたものです。彼はこのテーマで修士論文を書き、後に箕
面市で講演も依頼されました。
偶然にだけ頼るのは危険ですが、偶然に価値あるものを見つけるというのは貴重な
ことですね。彼らがここをそぞろ歩きしなかったら、そのときここでデートしなかっ
たら、恐らくこれらの価値は現在も、あるいは永遠に誰にも気づかれず、あるいは単
に邪魔だということで既に取り壊されていたかもしれません。(図87)
それでは次に、散歩に絡めて「価値の輪廻」という考え方をご紹介したいと思いま
す。これは谷川渥先生という美学者が廃墟について語られていることです。ものの見
方には、大いなる円環というものがある。まず私たちは風景画などに感銘を受け、そ
れに似た風景を探し求めるように旅に出る。旅ばかりでなく、もちろん散歩も含まれ
るでしょう。そして今度はその旅の中で本物の廃墟に出くわして、また同じような人
工廃墟やメディアが創造されていく。それに触れた人はまた感銘を受けて、同様の風
景を求めてまた旅に出る。それがまたぐるぐる回っていって、その価値観が社会全体
で広く醸成されていくわけです。ここにも「散歩」や「旅」というキーワードが強く
関わっていますね。
(図65)
見る人が創造する景観の価値と散歩がどう関わるのかということが今日の話題のキ
ーポイントかと思います。偶然の出合いや風景のセレンディピティ(偶然からモノを
34
見つけだすような能力)に対し、私たちは何らかのアンテナを張ることが大切です。
そして、散歩の舞台には意外性(偶有性)が溢れていて、たいへん楽しいものである
ということが言えると思います。
実際にセレンディピティに関する茂木健一郎さんなどの本に書かれている内容を検
討してみましょう。まず、目的は自由にやってみたらいいのではないか、とあります。
散歩に関してはこれは言われなくても私たちは既にやっていますね。それから、アク
ションをまず起こしていくことが重要だと言われています。散歩という行為を実行し
ていること自体が既にアクションなわけです。それから、価値に気づくことの重要性。
事前に知識を得ておく、あるいは同じような事例に数多く触れておくことと、
「面白い
ことが起きそうだ」という心のアンテナを張ることで、恐らく気づきの確率を上げる
ことができるのではないかと思います。因果関係のないことが同時に起きることをシ
ンクロニシティ(共時性)といいます。因果関係がなくても、同じ構造を持ったもの、
同じ価値をもつものが同時にいろいろなところで起きることが、芸術などではよくあ
るわけです。シンクロニシティを私たちが対象に対して感じ取ることができれば、そ
れはセレンディピティになるでしょう。
それから、ある程度心の余裕が必要である、とあります。私たちは恐らく散歩を気
楽にやっているでしょうから、ここもクリアですね。それから、
「デフォルトネットワ
ーク」といって、脳自体が何か新しいものを求めてうろうろし始める現象があるそう
ですが、まさしく散歩は「デフォルトネットワーク」が行動化されたものと言えるの
ではないでしょうか。
最後に、非常に印象的な言葉があったのでご紹介します。
「創造への道は、旅するこ
とに似ている」。これは裏を返せば、旅をする、あるいは外へ出て逍遥するということ
そのものが創造への道なんだ、ということですね。散歩自体が学問になるかどうかは
わかりませんが、
「創造」という大きな成果を実は私たちが散歩に期待できるというこ
とがすごく重要だと思います。先ほどの西村さんのプレゼンテーションを見ても然り
です。こういう期待を含めて、私たちはこれからもまた散歩に向かっていけばいいの
ではないでしょうか。研究に値する対象は勿論、感動に満ちた充実した時間がそこに
は待っているのではないかと考えます。
何かとまとまらない話でしたが、これで私のプレゼンテーションを終わりにしたい
と思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
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フリーディスカッション
西村
どうも岡田先生、ありがとうございました。
今日のお話を一言でまとめることはとてもできないんですが、私は「発見」という
言葉かなと感じました。どういう意図であれ、どういう発端であれ構わないんですが、
とにかく何か行動を起こすことで新しいものが発見できる。発見というと、コロンブ
スのアメリカ大陸発見というところにまた話が行ってしまいますが、コロンブスは別
にアメリカ大陸を発見したわけでもない。アメリカ大陸にそれまで住んでいた人は、
自分たちが生活しているところを発見されたとは思っていないと思うんです。
多分、散歩の中でも、毎日生活しているところで毎日見ているものは、そこに住ん
でいる人にとっては何でもないわけです。そこに訪れる人やそこに新しい違う目を持
って入ってきた人がそれを発見するんだと思います。この「発見」という言葉に込め
られた意味はきっと大きくて、私が懲りずに飽きずに 11 年間、109 回も散歩を続けて
いる理由も、町を歩くこと、曲がったことのない道を曲がってみることで、新しい発
見が得られるのではないかと思っているからだと思いました。
岡田先生も、今回は「散歩」という2文字の呪縛の中でいろいろと悩んでいただけ
たと思いますが、私のこれまでしてきたことの価値みたいなものも、再度定義づけて
いただきまして、まことにありがとうございました。
まだ 20 分ぐらい時間がございます。会場の方々からもご意見をいただきながら、
岡田先生と私と三つどもえになって、いろんな会話、議論をしていきたいと思います。
1つだけ僕は疑義がありまして、先ほど「ちい散歩」から散歩がブームになったみ
たいなことを先生がおっしゃいましたが、多分それは違っていて、私は東京では「東
京人」の創刊からなのではないか、あの雑誌が果たした意味は物すごく大きいなと思
っております。
それともう1つ言えば、
「タモリ倶楽部」に始まって、その後「ブラタモリ」を3~
4年前にやりましたが、
「ブラタモリ」よりも前の「タモリ倶楽部」が、多分タモリを
散歩好きにして、坂道好きにしたきっかけだったのではないか、多分そこら辺かなと
思います。
それと、最後に答えを教えていただきたいんですが、さっき脱農、脱工とありまし
たが、情報化時代が終わったときには、我々は一体何を景観としてめでるのかなとい
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うふうに感じました。これの答えはまだ当分出ないかと思います。
会場の方で、どなたかお話、ご意見いただける方はいらっしゃいませんでしょうか。
西山(土木写真家)
先ほどご紹介いただきましたタウシュベツを撮った西山と言い
ます。よろしくお願いします。
まず、タウシュベツを見つけたのは、恐らく今さんじゃないかなと思うんですが、
私は、3番目、4番目ぐらいにここにたどり着いた人間だと思います。ただ、私がな
ぜタウシュベツに興味を持ったかというと、1つの希少性ですね。いろいろこういっ
た土木遺産をずっと撮り歩いていて、パッと見て、こんなものはほかにない。その希
少性で撮ることになりました。
まず、写真家が見てすばらしいものというのは、恐らく割と似たようなものだと思
います。ただ、この橋を撮る前に2人ほど写真家がいたんですが、彼らはさほど興味
を持たなかったみたいで、通り過ぎていきました。私が見たときに、とりあえずこれ
は、まずほかの写真家に撮られてはいけないと思ったぐらいに私にとって価値がある。
とにかく大きな雑誌社で自分が先に写真集にしたい。後からやっても仕方がないと思
い、いろいろと写真展をやり、東京の大きな出版社から出版したいなと思って撮りま
した。
散歩ということではなく、私は、プロの写真家ですから、いろいろ見て歩きます。
散歩もしますし、そこで見つけるものもあるんですが、何か知っているからというと
ころで、その希少性というのも1つ価値観の中にあるのではないかなと思って話させ
ていただきました。
高山(ポラス暮し科学研究所)
2点ほど。1点は、私も町歩き大好き人間で、世界
も国内もあちこち行っているんですが、今日の話を聞いていて、1つ気がついたこと
があります。ツアーで行った場合とフリーで行った場合との違いなんですね。フリー
で行った場合には、今日のお話のようにいろんなところでいろんな発見がある。
私が旅に染まったのは、学生時代から始まっていたと思うんですが、永六輔さんが
ラジオで話していた、街角を歩くに当たって、あるいは通勤しているときでも、いつ
もと違う路地を通ってくださいという話が非常に印象的なんですね。そうすると新し
い発見があります。それから、天気が変わればまた発見があります。こうしたことを
意識して町歩きをすることで、楽しみみたいなものを多くの人が持っていただけると、
いいのかなというのが1つです。
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あと、物をつくる、道路をつくる、インフラつくる立場から、今日の講演のテーマ
で思い出したのが、ドイツのアウトバーンを設計するときのマニュアルです。それを
まとめた本の翻訳を学生時代に手伝ったことがあるんですね。そのときにすばらしい
景観をどういうふうに生かして、どういうふうに道路を通なければいけないかかとい
うのが特に記憶があるんです。
今日ここに参加された方は、物をつくる、いろいろインフラもつくる、建物をつく
る方が多いと思いますが、ドイツのアウトバーンの中心的存在だったフリッツ・トー
トが大変いいことをおっしゃっているので、ちょっと読ませていただきます。
「風景と土地は人の生活と文化の基礎であり、人を養育し、文化を育む故郷である。
技術者は社会の基礎を築く者であるという認識を持つならば、風景と土地が保存され
るように仕事をし、かつ、ここから新しい文化価値が生まれるように構造物を設計し、
創造する義務を有している」。
僕は何が言いたいかというと、スクラップ・アンド・ビルドでなすがままになって
いいのかということが1つあると思うんですね。そういう町歩きの楽しさというのと、
もう1つ、物をつくる立場の者としては、後世にしっかりと、世代が経るごとに、ま
た町歩きの発見のように、世代がたったがゆえに持つ魅力みたいな形で物をつくって
いかなければいけないのではないかということです。私はそう思います。
これは質問でもないんですが、今日のお話を受けて、改めてそのように思ったんで
すけれども、いかがでしょうか。
岡田
大変有意義なご意見ありがとうございます。私はツアーで行くことはほとんど
ありません。ツアーでの訪問対象は、ポイントあるいは周辺の場に限定されます。そ
れに対してフリーで行く場合は、もう少し広い「周辺視野」で見ることができる。ポ
イント以外のところに目が向きますね。
西山(土木写真家)
またタウシュベツのことですが、実はこのアーチ橋友の会とこ
の地域の方からこの間連絡がございまして、5~6年前、この写真の左側のところが
湖底に沈んでいるときに十勝沖地震に遭いまして、一部ですが側壁が崩れてしまいま
した。それが毎年毎年、氷がついてはがれていく。アーチリングがそろそろひびが入
ってきているという情報を得ています。
コンクリートの北見工大の桜井先生からも連絡があったんですが、そろそろ崩れる
のではないか。保存ということもありましたが、ここの町長といろいろ委員会をやり
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ました。人の手で壊すものは幾らでもあるんですけれども、自然に溶けていく、戻る
コンクリート構造物は恐らくこれしかないと思うんですね。電源開発のダムですから、
浮いたり埋めたりというのは人為的でもあり本当の意味の自然とは言えないんですが、
そういった水の力で朽ちていく構造物というのはほかには思い当たりません。
恐らくこの冬越せるかどうかということまで聞いています。一部のアーチが切れて
しまえば、構造的にどんどんいくと思うんですね。ですから、皆さん、時間がござい
ましたら、ぜひとも行ってみてください。別の話ですが、よろしくお願いいたします。
海老塚(比較住宅都市研究会)
イギリスの人が、一般の市民も含めて古い建物に非
常に関心を持っていて、それから、景観も非常に大事にする国民ですが、驚いたのは、
わざわざ廃墟に似せたものを新たにつくっているというところです。日本人の感覚だ
と、古いものを新しく使えるようにして設計すると思うんですが、廃墟に対する何か
考え方があって、あえてそういうものをつくっていくんだということを話しかけてい
たような気がしましたものですから、イギリス人の感覚には、ああいうものも美しい
という感じを持っているのかどうか。私の感覚からはちょっと信じられないものです
から、解説していただければと思います。
岡田
そういった感覚が非常に強くあります。例えば不動産ですね。新しいマンショ
ンができるわけですが、そのマンションの横には非常に古い、かつての古城のかけら
みたいなものが1個残っているところがあります。レディングというロンドンの西に
ある町です。そこのマンションは、廃墟が隣にあるということを不動産広告に出すわ
けです。廃墟の隣に住むことがある意味、ステータスなわけです。イギリスのマンシ
ョンやレストラン、ホテルの中には、水車小屋や工場,あるいは砲台、給水塔などを
改造して作られたものもたくさんあります。家賃は非常に高くなっています。
それから、これは自分の本(Industrial Heritage Re-Tooled, 2013)にも書きまし
たが、実はフォリーの美学は日本のわび・さびと共通点があります。わび・さびの美
学の代表例に「見立て茶碗」というのがありますね。最初は朝鮮半島の庶民が使って
いた古臭い雑器を目ききが見て、これはすばらしいと言ってそれを日本に持ち帰って、
それでお茶を飲むわけですね。
逆に、今度は持ち帰るだけではなく、意図的に自分たちでそういう古色蒼然とした
茶碗を意図的に作り始めた。この感性というのは、フォリーの概念と非常に共通する
ところがあると思っているんです。一方で、現代の都市に対する日本人の感性という
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のは、確かにおっしゃるとおり、イギリス人とは非常に乖離している。私たちが勉強
すべき考え方がまだまだあるのではないか思っております。
鹿子島(東京急行電鉄)
お散歩をよくやっている者です。感想になりますが、ヨー
ロッパは古いものをすごくずっと大事に使っている文化なのかなと思っていたら、新
しくつくるものも古いものを倣ってつくる、そういう文化の風習が昔からあったとい
うのはすごくおもしろいことだと感じました。
ただ、それはヨーロッパだけなのかと考えてみたら、今の私たちでも意外とあるも
のなのかなと思いました。少し前、例えば青銅のものをあえて錆びさせて、昔からあ
るようなものに見せたりとか、最近ですと安っぽい居酒屋でも、昔からあるような古
民家風居酒屋みたいなのがあったりするというのも、昔からある崩れたお城ではない
ですが、それと通じるところがあるのかな、ひょっとしたら実は昔からみんなが普遍
的に持っているものなのかなということを思ったという点が1つです。
あと、古いものと新しいものの組み合わせという部分が1つおもしろいなと思いま
した。先ほどイギリスの庭園で、シンメトリーの先のところに古城のようなものがあ
ったりというところも、古いものと手前の新しいものを1つの中につくるというおも
しろさがあります。
これは東京に似たようなものがあるのではないのかなと思いました。例えば豊洲エ
リアです。最近、ららぽーとなどどんどん新しいものができている中で、すぐ隣には、
昔そこに通っていた貨物線の橋の跡が今でもそのまま残っている。古いものと新しい
ものとが共存している部分も、またおもしろいと思って残したままにしているのかな
と思っていた。済みません、感想です。
岡田
今のお話もすごく興味深く聞かせていただきました。古色など、古っぽくつく
るということを、ずっと日本人はやってきたのではないでしょうか。店構えなどにつ
いては、最近の傾向なのでしょうか。確かにそういうものが増えてきている感じがし
ます。外観だけでなくて、内装もそうですね。あと、メディアの影響もあるでしょう
か。
「三丁目の夕日」など、昭和時代に対するノスタルジーがすごく前に出てきている
時代でもあります。最近ぐっとそういうものが増えてきている感じがいたします。
それから、先ほどの Wimpole Hall Folly の庭園のお話も全くおっしゃるとおりです。
確かに対比のようなものがある。完全な整形式庭園としてつくられている手前の庭園
があり、その向こう側には整形ではなく完全に崩れてしまったようなランダムな形を
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したものが置かれている。そういう対比の美学というのは確かにあると思います。
そういう庭は日本にもあります。例えばこの近くですと、旧古河庭園。あそこも和
風と洋風の庭園が対峙しています。そういった対峙の美学というのは、
「デペイズマン」
といった全世界的な美学にも見られます。演出手法はいろいろありますが、世界共通
の美学でしょう。
西村
私は浅学非才なので、古いものというとびっくりドンキーを思い出したんです
が。
(笑)ただ、二十何年も前になりますが、アメリカに視察で行ったときも、外観を
ぼろぼろにしておいて、中を高級にしていたレストランを何軒も見たりしましたので、
そのギャップみたいなものを楽しむ心というのは、人間には根本的に備わっているの
かもしれないなと思いました。
そろそろお時間ですが、中村先生、一言いただけますか。私たちの共通の先生です。
東工大の名誉教授の中村良夫先生においでいただいています。
中村(東京工業大学名誉教授)
岡田さん、西村さん、どうもありがとうございまし
た。久しぶりで非常に刺激的な話を聞かせていただきました。
今日お話を伺っていろいろなことを思い出すんですが、18 世紀ぐらいのフランスの
モンテーニュだったか、哲学者がおりまして、大変旅行が好きな方で、しょっちゅう
旅に出ている。村の人が「先生はそんなに旅行ばかりしていて、何を探しに行くんで
すか」と聞いたら、「それがわからないから旅に出るんだ」と言ったというんですね。
今日の岡田さんの結論は、多分それに非常によく似ていて、創造性というのはある意
味では知のぶらぶら歩きというものから出てくるんだなということがわかりました。
冗談みたいな話ですが、岡田さんが今では「テクノスケープ」という名前で呼んで
いるものを学位論文でやりたいと言ってきたのは、ワシントン大学へ留学して、東工
大に帰ってきてからだと思うんですね。テクノスケープをやりたいと言うから、そん
なばかな研究はやるなと出かかったんだけど、そこをぐっとこらえて「やれ」と言っ
た。
私の長い経験では、そういう研究をやりたいという学生が出てきたときに、そんな
ばかなことはやめろと言った場合、それからやれと言った場合、どちらもリスクがあ
ることがわかっていました。これをやれと言って、とんでもない研究になって、何も
出なかったら僕の責任になる。しかし、やめろと言ったときに、それが僕が理解でき
ないようなすばらしい研究だったら、その被害は物すごく大きい。それを私は少しず
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つわかってきたので、やってよろしいと言ったのですが、本当によかったと思います。
おもしろい研究だったと思います。
まだまだこの研究は進むんですが、私は今日の話で、改めて久しぶりに聞いて、な
るほどなと思ったのですが、先ほど日本のたくさんの若い女性が工場の夜景みたいな
ものをめぐるツアーに押しかけている。
「工場萌え」と言うんだそうです。何で萌えと
言うのか、私はよくわからないんですが、そういうものがたくさんある。
それを聞いてなるほどと思ったのですが、都市や建築に関する批評の権利というの
は一体誰にあるのかを改めて私は考えざるを得なかった。特にモダニズム以降は、建
築、都市あるいは土木のプロが批評する権限を一手に握っていて、都市や建築の方向
を決めるという時代がかなり長く続いていました。特に 20 世紀以降です。
ところが、今、工場見学やテクノスケープを見回っている人たちはプロではない。
ほとんどの人たちは普通の市民です。彼らがある種の批評を行っているわけです。
非常に驚いたのは、僕も経験しましたが、東京スカイツリーという建造物があって、
これは日建設計の最新の作品でございますが、建設中からたくさんの市民がいろいろ
な組織をつくって、ああでもないこうでもないと批評している。これは岡田さんの言
われる目ききでありまして、鉛筆1本動かしたことがないような市民が批評している
わけです。それがある種の評価を決めているということになる。これは一体何なのか
ということを我々としては考えざるを得ないわけです。プロと市民の批評が両立して
いく世界なのではないかということを私は考えました。
普通の市民が見た目というのは、素人だからだめということには必ずしもならない
と思うのは、特に日本の場合は、言ってみれば工場萌えも一種のサブカルチャーです。
アンダーグラウンドとまではいかないけど、間違いなくサブカルチャーです。だけど、
日本の文化というのは、例えば歌舞伎にしても能にしても、みんなサブカルチャーか
ら出てきたものです。あるいは、盛り場の中に出てきたわけのわからないものが、長
い間かかって芸術化してきたわけです。特に歌舞伎なんかは今でもサブカルチャーみ
たいなものだと思いますが、能のような非常に高度な芸術が出てきたもとは、お百姓
さんたちのお祭の余興みたいなものです。日本人という国は、多分芸術の持っている、
文化の持っている特徴が、非常にサブカルチャー的な性格を昔から持っていて、恐ら
く今でもアニメや漫画はその手のものなんだろうと私は思います。
そういうことを考えますと、こういう散歩学も捨てたものではないな、と。そこか
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ら何か出てくるかもれない。それと専門家の判断と、先ほど岡田さんが言ったように、
いわゆる目ききと言われる僕ら、評価だけしている人がいる。大体日本でもそれは工
芸家自身じゃなくて、その周りにいるインテリがそういうディレッタントですから、
素人です。そういう両方で成り立っている時代になってきたんだなということをつく
づく感じたわけです。
西村さんとも知り合って二十数年になるんですが、散歩なんてやっていると僕は知
らなかった。僕も少し記憶が薄れてきましたが、卒論だか修論のときに彼がやった研
究の中に、下町の路地の研究みたいなことが出てきたんです。路地のことに興味を持
っている人は今はたくさんいますが、二十数年前は非常に珍しかった。私はその研究
は非常におもしろいと思った。
その研究を発表した後で、よせばいいのに西村さんが本気で「これはあたかもおめ
かけさんが住むのにいいような場所だ」と言ったんです。そしたら、非常に真面目な
石原舜介さんという都市計画の大家がそれを聞いて、
「君、そんな不真面目なことを言
っちゃいけないよ」と言って怒られたことがある。
今、散歩を見て、三つ子の魂百までというのはこういうものだろうかと思って、大
変うれしく思いました。どうぞそのお元気でずっとやっていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
西村
中村先生、どうもありがとうございました。石原舜介さんはもっと怖い剣幕で
したので、私は震えがとまらなくなっちゃいましたね。よく覚えております。
最後に中村先生が「散歩学」というふうにおっしゃっておられましたので、散歩は
絶対学問ではないと私は信じたいんですが、ちょっと学問っぽくこれからはやろうか
なと思いました。お散歩会の人が 10 人ぐらいこちらに紛れ込んでいますけれども、次
回以降覚悟して来てください。
岡田先生、今日はどうもありがとうございました。(拍手)
―
岡田昌彰氏-
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(了)
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