Comments
Description
Transcript
洗礼において、どのようにして、十字架に おけるイエス・キリストの唯一の
降誕節第 3 主日<イエスの洗礼> 礼拝説教抄録 2015 年 1 月 11 日 1 ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に 着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。2 三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、3 民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見た なら、今いる所をたって、その後に続け。4 契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、そ れ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたた ちの行くべき道は分かる。」5 ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなた たちの中に驚くべきことを行われる。」6 ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立 って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。7 主はヨシュアに 言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたし がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。8 あなたは、契約の 箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさ い。」9 ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、 10 こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギ ルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで 分かる。11 見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。12 今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。13 全地の主である主の箱を担 ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川 の水は、壁のように立つであろう。」14 ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の 箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、15 ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨ ルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、16 川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、ア ラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。 17 主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まってい るうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。 ヨシュア記3章1~17節 15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の 中で考えていた。16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授 けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を 隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」18 ヨハネ は、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。19 ところで、領主ヘロデは、自 分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに 責められたので、20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪 事を加えた。21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、 わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 ルカによる福音書3章15~22節 1.洗礼の日曜日 先週 6 日には<エピファニー(公 現日)>を迎え、クリスマスの飾りをしまい ました。<エピファニーEpiphany>は、 主の顕現(現れること)を意味します。ク リスマスの星は、一部の人のプライベー トな場所にではなく、世界に輝き出でまし た。イエス・キリストは、時空を超えたすべ ての人のために、わたしたちのために来ら れました。教会の伝統の中で、エピファ ニーの後の最初の日曜日である今日は、 「主の洗礼の主日」と呼ばれています。 クリスマスにお生まれになった主イエスは、 故郷のナザレで両親のもとでお育ちにな りました。「成人の日」を前に、各地で新 成人の人たちのイベントが行われていま すが、主イエスもまた、成人され、「公生 涯」と呼ばれる宣教の歩みへと出発さ れます。公生涯の初めに、主は洗礼を お受けになりました。このとき、天からの声 が主を証しします。「あなたはわたしの愛 する子、わたしの心に適う者」(22 節)と。 主イエスが公に神の子として現される< エピファニー(顕現)>として、「主の洗 礼」の出来事が伝えられています。 宗教改革の伝統に立つプロテスタ ント教会が、4 百年以上もの間広く読ま れてきた信仰書のひとつに「ハイデルベ ルク信仰問答」というカテキズム(教理 問答)があります。この書では、洗礼につ いてこのような問いがあります。 「聖なる 洗礼において、どのようにして、十字架に おけるイエス・キリストの唯一の犠牲が、 あなたに対して効力のあることを、思い起 こさせ、また確信させられるのですか?」 (『ハイデルベルク信仰問答』竹森満佐 一訳、問 69)。問答ですから、ここで一 つの答えが語られます。「こうであります。 キリストが、外面的な水の洗いを定め、 これによって、確実に洗われているという ことを約束してくださったのであります。そ れは、丁度、わたしが普通、身の汚れを 落とす水で、外面的に身を洗うほど確か なことです」。 わたしは、洗礼の準備をするときに、 この信仰問答を読んで妙な感覚にとら われました。洗礼の確かさについて教え るときに、「身の汚れを落とす水で、外面 的に身を洗うほど」と言われていることで す。毎日、お風呂に入って身体を洗い 流すのですが、ただの習慣に過ぎません。 うまく説明できないのですが、普段「水で 身の汚れを確かに洗っている」などという 意識を持っていなかったので、洗礼のリ アリティと結びつかないように感じたのだ と思います。 2.確実に洗われていること 今日でちょうど、東日本大震災か ら 3 年 10 か月が経ちます。また、今週 17 日には阪神淡路大震災から 20 年を 迎えますが、神戸では大きな追悼式典 や写真展などが開催されるようです。震 災のときに大変だったこととしてよく挙げら れることのひとつは、お風呂に入ることが できなかったということです。食物や日用 品が切れる心配が大きく、ガソリンも手 に入りにくい状況の中で、身体を洗うこと は二の次であったかもしれません。食べ る物がないことは命に係わりますが、お風 呂に入らないことで死ぬことはありません。 それでも多くの人は、水が手に入ると、 飲んだり調理をする以外にも、トイレを流 したり、身体をふいたりしながら、その貴 重な水を使いました。日常生活を取り戻 すと、お風呂に入ることは当然過ぎて話 題にもならない何でもないことのようです が、わたしたちが日毎に自身の身体の 汚れを落とすという行為は、無くてはなら ない儀式のひとつです。 わたしは大きな犬を飼っていますが、 お風呂に入るのが大嫌いで、毎度苦労 しています。かりす(犬)は汗もかきません し、山道を走り回って足元が泥だらけに なっても、乾くと感心するほどすぐに汚れ が落ちてしまいますから、わたしも放って おくのですが、獣臭が気になると、そろそ ろ洗わないとなという気になります。猫で あればそれも必要ないでしょう。でも人 間は、そうはいきません。わたしたちは、 外側ばかりでなく内側も 「これによって、 確実に洗われている」というものが必要 なのです。ハイデルベルク信仰問答は、 洗礼の恵みを確実な洗いと言い切って おり、教会につながるキリスト者は、皆こ の約束に結ばれています。 3.ヨハネが示した主の道 洗礼者ヨハネは、「水」で洗礼を授 けました。ちょうどわたしたちが身体の汚 れを洗うように、たしかに、けがれを清め る罪の赦しの洗礼です。罪の赦しを得さ せるために、ヨハネは繰り返し悔い改めを 求めました。そしてヨハネはさらに、主イエ スの洗礼に言及します。「その方は、聖 霊と火であなたたちに洗礼をお授けにな る。そして手に箕を持って、脱穀場を 隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入 れ、殻を消えることのない火で焼き払わ れる」(ルカ 3:16~17)。麦ともみ殻とを より分ける火は、聖霊の炎です。神の審 きに備えさせる洗礼者ヨハネの説教は、 大変有名です。「蝮の子らよ、差し迫っ た神の怒りを免れると、誰が教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ 3:7~8)。わたしも説教者のひとりですが、 このような説教はなかなか聞けるものでは ありません。「蝮の子らよ」などと迫られた ら、身が縮んでしまいそうです。けれども、 意外にも聴衆は、ヨハネの説教を聞いて、 胸を打ちながら問い返します。「では、わ たしたちはどうすればよいのですか?」 (ルカ 3:9)。人々は、真実に歩みたいと いうあこがれを、深いところで持っていまし た。ヨハネもまた、人々の問いかけに対し て親身に助言しています(ルカ 3:11~ 14)。ヨハネの評判は瞬く間に広がりまし た。救世主を待ち望む人々のまなざしは、 ヨハネに向けられました。 ところが、ヨハネは、自身ではなく主 イエスを指し示します。自分は、主イエス の前に履物の紐を解くように頭を垂れる ばかりで、主のために何かをするような力 は少しも持ち合わせていないと言います。 ヨハネは、しかし、たしかに主イエスを証し する者でした。主を迎える道備えをする者 でした。ヨハネは、後に、領主であったヘ ロデ・アンティパス(ヘロデ大王の子)の 命令によって惨殺されてしまいます。勇 敢にもヘロデの悪事を告発し、特に、ヘ ロデとその兄弟フィリポの妻ヘロディアと の不適切な関係を追及したために、ヨハ ネは牢に入れられて、ヘロディアの策略 によって殺されてしまいます。お盆にのせ られた「ヨハネの首」は、不条理な預言 者の死として、多くの画家の作品の題 材とされました。ひとりの正しい人の死は、 これから起こる主イエスの死を前もって 暗示するものでもあります。ヨハネは、世 の支配者の力によってその短い生涯を 閉じますが、確かに、主イエスの道を最 後まで指し示す者とされたのです。 4.父のみ声 主イエス御自らが、洗礼者ヨハネを とおして洗礼をお受けになることを望まれ ました。このことは、マタイ、マルコ、ルカ、 3 つの福音書が共通して伝えている出 来事でもあります。他の福音書では、ヨ ハネが、「わたしこそあなたから洗礼を受 けるべきなのに」(マタ 3:14)と言って戸 惑うのですが、ルカ福音書にはそのよう なことは記されていません。大変シンプル に、この出来事だけを伝えています。「民 衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受 けて祈って」(21 節)おられた、とあります。 洗礼を受けた人々のただ中に身を置か れ、静かに祈っておられる主のお姿があ ります。このとき、天の窓が開けます。聖 霊が鳩のように、「目に見える姿で」(22 節)主イエスの上に降りました。恐ろしい 焼き尽くす火ではない、柔和で謙遜な鳩 のように、やさしい聖霊が降るのです。 このことはまた、ひとつの水の出来 事を思い起こさせます。旧約聖書の初め 創世記の「ノアの洪水」の出来事です。 洪水の後に、ノアは、箱舟の窓から鳩を 放ったと伝えられています(創 8:12)。世 界に悪が増し、人が常に悪いことばかり を心に思い計り、不法を働くのをご覧に なった神は、地上を一掃する洪水を引き 起こされます。このとき、神に従って箱舟 に乗り込んだノアの一家と動物たちは、 四十日四十夜の大雨からの大洪水を 生き延びることができました。神がお造り になった世界が、再創造されます。ノア は、窓を開いて鳩を放ちます。鳩はノアの もとには帰って来ませんでした。この鳩が 象徴しているのは、再創造された新しい 世界の始まりです。ノアは箱舟から出て、 家族と共に新しい地上での歩みを始め ました。 ノアの洪水の物語は、教会におい て、古くから洗礼と結びつけられて語ら れてきました。古来、水は、いのちをもた らすものであると同時に、死の恐怖という イメージを含むものです。しかし、この水 の中を通って、人は再創造され、新しく 生きるものとされるのです。 わたしたちは毎日、身体を汚しては 洗い、食器を汚しては洗い、衣服を汚し ては洗濯しています。「洗ってきれいにす ること」は、汚れるたびに繰り返されなけ ればなりません。しかし、洗礼は、繰り返 される必要はありません。わたしたちは洗 礼に与るとき、ただ一度十字架におかか りになり、わたしたちのために命をささげら れた主の死に与るからです。わたしたち は復活の主の新しい命に与るからです。 わたしたちの上に、天の窓が開けます。 わたしたちは、天の父の宣言を聞きます。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心 に適う者」。このみ声こそが、弱く不確 かなわたしたちの歩みを、何よりも確かな ものとするのです。 (祈り)