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屠られた小羊への讃歌

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屠られた小羊への讃歌
屠られた小羊への讃歌
黙示録の福音 7
屠られた小羊への讃歌
5:1-14
ヨハネの黙示録をこうして読んでいますと、ふと、そんな、ヨハネが与え
られたような経験……と言いますか、神を見る体験を自分もできたらどんな
に勇気と見通しを持てるだろうかと―羨んではいけないのですけれど、
「私
も同じような霊的経験をしてみたい」と考える瞬間が、無いではありません。
ヨハネは「神を見た」とは言いませんが、天にある「玉座」を見たと証言し
ます。その玉座の上に座っておられた方は、人間の目には「碧玉か赤めのう」
のようにしか見えなかった……とヨハネは言うのですけれど、それでも彼は、
私たちがだれもまだ見ていないような光景を目にすることを許されたのです。
彼は天から、「ここへ上って来い」というお声を戴いた瞬間、たちまち“霊”
に満たされたと言います。正確に言えば、“神の命の息”に捉えられたのです。
使徒パウロは、これとは違った言い方で、コリント書を書く十四年前に、
「第三の天にまで引き上げられた」と告白しました。その経験の中で「言い
表し得ない言葉を耳にした」(2コリ 12:2-4)のですが、これがパウロの
信仰と勇気を支える、大きな力となりました。
旧約聖書の中にも、同じような霊的体験をした人たちが登場します。預言
者イザヤもその一人です。「ウジヤ王の死んだ年のことである」という書き
出しで、「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」と
いう記録を残しました(6:1f)。彼はその一日の体験ですっかり変えられた
のです。自分の使命を確信して、生涯の事業に押し出されました。そのイザ
ヤと同じ経験をしたい人がいても当然でしょう。
人はそれくらい、神を見る体験が欲しいものです。別に、特に神秘的な体
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験でなくても良い。ヨハネやパウロのように、天に上らなくても良い。生き
ている間にとにかく、信仰の極意のようなもの、天にある神の御座からの視
野のようなもの……が欲しい。完全に安心して、委ねて勇気に満ちるような、
なにか「決定的な」ものを掴みたい。―友人や知人の中にも、そんな渇き
を持つ人たちはいます。
私自身もそんな「霊的体験」を求めた時代がありました。でも、いつの頃
からか、まず「この本の中心点を、自分のものにしたい」という執念に取り
付かれました。ヨハネの見たものは神聖の極致ですけれど、彼の使う言葉は
事実上、全部エゼキエルやイザヤやダニエルのものと重なるのです。それは、
彼が旧約で読んだ言葉でしか、言い表わせなかった。それがあったから、あ
れを見て証しすることもできたのです。
前講の結びでこう申しました。「私の存じ上げるイエスは、現時点でこの
本から学んだかぎりでのイエス様しかないのです。絵本や映画やダビンチは
助けにはならない。」(黙第 6 講)。これは、私が死ぬ時に、どんなイエス
を頼って死ねるか……ということと関連して申したのですけれど、神を見る
経験、神の視野から見通して勇気を持つための、“命の息吹”を受ける決定
的な体験という意味でも、この本の言葉から得たものがすべてであろうと、
私は受け止めています。……とすると、あせって特殊な宗教体験を願うより、
じっくり読んで学んで、ヨハネやパウロの「福音をしっかり受け止めて」い
た方が堅実であるはずです。それも黙示録の幻に集中するよりは、マタイか
らヨハネ書・ユダ書までの 500 頁、その上に、ヨハネが見た特殊な光景も含
めるという順序と重点です。
1.七つの封印のある巻物。:1-5.
1.またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。
表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。 2.また、一人
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の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれ
か」と大声で告げるのを見た。 3.しかし、天にも地にも地の下にも、この巻
物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。
4.この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかった
ので、わたしは激しく泣いていた。5.すると、長老の一人がわたしに言った。
「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、
七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
黙示録では、この巻物と七つの封印が、ここから後の光景を次々に展開す
る重要な契機になります。巻物は日本にもありますから、想像できますが、
「七つの封印」というのを視覚化できますか。封印はふつう柔らかい粘土に
似た物を貼りつけた上へ、所有者の指輪に掘った印章を押し付けて印を付け
たものです。大事な書類は二通作成して、その一通に封印し、法廷で確認す
る以外、開けないようにしたものです。ギリシャの郵便局では二十年前まで、
小包の麻紐にも、そんな接着粘土の封印をしていました。この場面に出るの
は、巻物の端か紐にそういう固まるものを付けて、それを割らないと開けな
いようにしたのでしょう。
Morris の説明では、多分巻物の端に一つと、途中 6 箇所に貼りついて固ま
っていて、外から順番に一つずつ折って砕くと、巻物は七分の一ずつ開いて、
読めるようになっていたと言います。別の説明では、末端の縁に沿って、七
つ並んで貼りついたものを一つ壊すごとに、巻物自体は巻かれたままその内
容の一連の出来事が目の前に展開したと見ます。
この巻物には「表にも裏にも」字が書いてあった……というのは、これか
ら起こる歴史の内容、地上の信仰者の未来がすべて、詳細にわたってギッシ
リ詰まっていたことを表します。このイメージはやはり、エゼキエル書に前
例があります。エゼキエルのが「哀歌と呻きと嘆きの言葉」(2:10)だった
のに対して、これは主の最終的勝利までを含む、歴史の終末の一部始終です。
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ヨハネが激しく泣いた理由は、せっかく見せて頂けると期待したその秘密を
開くだけの、聖なる資格を持つ者が、天にも地にも一人もいないと、聞かさ
れたからです。
しかし、神の手で封印された勝利の歴史を開く方が、本当はおられるのだ、
という声をヨハネは聞きます。その方がどなたなのか―それを見る場面が
次の段落ですが、この場面がまた極度に神秘的です。
2.屠られて、しかも立っている小羊。:6-10.
6.わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたよ
うな小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。こ
の七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。 7.小羊は進み出
て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。 8.巻物を受
け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香の
いっぱい入った金の鉢とを手にもって、小羊の前にひれ伏した。この香は聖
なる者たちの祈りである。 9.そして、彼らは新しい歌をうたった。
「あなたは、巻物を受け取り、
その封印を開くのにふさわしい方です。
あなたは、屠られて、
あらゆる種族と言葉の違う民、
あらゆる民族と国民の中から、
御自分の血で、神のために人々を贖われ、
10.彼らをわたしたちの神に仕える王、
また、祭司となさったからです。
彼らは地上を統治します。」
歴史を封印した神聖な巻物を、生ける神御自身の手から受けて開くその方
が、不思議な姿でヨハネの目に映ります。父の御座と天使たちに囲まれるよ
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うにしてそこに立つ方は、「屠られたような小羊」の姿をしておられるので
す。「ような」と訳される一語は、「屠殺されて死んでいるのではない
が、一見して屠殺の跡が見える」意味でしょう。Lohse は「いまなお、首も
とに屠殺の傷あとを残している」と説明します。これは神殿の犠牲を知るヨ
ハネの目には、見間違いはなかったと思います。しかも小羊は生きて、スッ
クと立っているのです。犠牲として屠られて確かに死んだが、死を克服して
命あるものすべての支配者として、力強く立つ姿が、「七つの角」に象徴さ
れます。角は支配権の絵です。七つの霊―“息”は、死者に命を注いで生
かさずにおかない完全な生命力です。
人のために死んで、死ぬことによって命を与えて、天の支配をもって臨む
イエス・キリスト。屠られてなお生きて立つ小羊のイメージが、実に天の真
ん中にあるのです。彼は玉座の前に立ち、天使たちは彼の前にひれ伏します。
9 節と 10 節の「新しい」歌は、どんな意味で新しいのかと言えば、こんな賛
美は歴史上いままでに、どんな事件どんな偉業にも当てはまらないから、未
曾有の業だからです。「あなたは屠られて、人を贖った!」……それもユダ
ヤの聖人や有徳者を贖うのではなく、あらゆる背景の人、およそ資格のない
私のような者までも含めて、神の子の清い血で人を贖って、神のものに変え
てしまわれた。こんな御業を称える歌はかつて無かった。全く新しい歌を捧
げる以外に称えようがないと。
「新しい歌」の最後の 3 行、10 節の言葉に注目して下さい。贖われた者は
何にされたかです。「彼らを私たちの神に仕える王、また、祭司となさった
からです。彼らは地上を統治します。」その瞬間、「贖われた人々」は現実
には迫害され、血を流して、最底辺で呻いていたのです。その人たちが果た
して、本当に自分が「王」であることに気付くか……! もしそのビジョンを
ヨハネが伝えることができたら、その人たちの世界が変わるのです。敗北者
ではなく勝利者になるのみか、世界のために執り成す「祭司」の役目を果た
す! 新しい歌は宇宙大の反響を呼び起こします。
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3.天地に響きわたる天使たちの賛美。:11-14.
11.また、私は見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの
天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。 12.天使た
ちは大声でこう言った。
「屠られた小羊は、
力、富、知恵、威力、
誉れ、栄光、そして賛美を
受けるにふさわしい方です。」
13.また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そ
こにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、
賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
世々限りなくありますように。」
14.四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
賛歌は「ふさわしい」というフレーズで始まるのですが、
これは前の「新しい歌」がやはり「ふさわしい」というで始ま
るのを受けています。前の歌は、勝利の歴史の「封印を開くのに」ふさわし
い方……ということでしたが、ここでは「屠られた小羊は、力と富と知恵と
威力を所有なさる方として、また誉れと栄光と賛美をお受けになるべき方と
して」ふさわしいという、天使たちの大合唱です。死んで命を与えた方とし
て、私たち全てを贖って神様のものに変えた方として、この方は名実ともに、
全宇宙の意味と目的と行く先をにぎる主、命ある者すべてが、いくら崇めて
も足りないほどの「栄光の主」であると。
この合唱に加わる天使の数は「万の数万倍、千の数千倍」……これはダニ
エル書(7:10)にある表現です。これに和するように、天地と地下と海の中
から、全被造物の賛美が沸き上がるという、これは壮大とも何とも言い表せ
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ない賛美の極点です。先週読んだ 4 章の場面は、四つの聖なる生き物の賛美
と、二十四人の長老の礼拝で始まりましたが、5 章のフィナーレも、生き物
たちの「アーメン」と長老たちの礼拝で結ばれます。
4 章の賛美は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、
主」(4:8)でした。万物に命と意味を与えた生ける神への賛美です。昔イ
ザ ヤも 聞いた という 最も ふさ わしい 神への 賛美 です 。「ふ さわし い」
は二十四人の長老の賛歌にもありました。「主よ、わたしたちの
神よ、あなたこそふさわしい方……栄光と誉れと力とに!」(4:11)
5 章の天使たちの賛歌は、小羊キリストが「ふさわしい」
という叫びでした。「屠られた小羊こそ、ふさわしい方……力と富と知恵と
威力に。……そして誉れと栄光と賛美とに!」(5:12)―それは彼の血で
この私を贖って、「神の所有する」宝に変えたからだと……。この賛美のク
ライマックスに当たる、全宇宙の被造物の声は、全聖書の結論を響かせて「ふ
さわしい」(アクシオン・エスティン)と言うのです(5:13)。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、
賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
世々限りなくありますように。」
聖なる父と、イエス・キリストとを並べて……というより、二重映しにし
て、「神とイエスとに栄光あれ」「イエスの栄光は神の栄光、神の栄光はイ
エスの栄光」と大胆に歌うのです。それが聖なる父の意志である。神はその
ような礼拝―イエスを通しての礼拝をお受けになると。
これにはユダヤ教徒たちが怒りました。「それでは神は二人になる。キリ
スト教徒は神でないものを神にした」と。反対に、人間性と知恵を最終的な
拠り所にしたい人たちは言いました。「イエスは神ではないが、神を礼拝す
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るつもりでイエスを崇めれば良い……ということだ。難しく考えるな。人間
イエスの向こう側に神を見ればよい」と。
しかし聖書の結論は「神とイエスに同じ賛美を。神とイエスに同じ誉れ、
同じ栄光、同じ権力を」です。特にこのヨハネの黙示録を一貫する信仰は「生
ける神と小羊に」です。このあと 9 回、巻末の 22 章までに合計 10 回に亙っ
てこの同じ主題が響きます。これは罪の贖いを信じて受け取る人にだけ聞き
取れる主題ですが、黙示録を読んで天使や竜や恐ろしい女や悪魔は印象に残
らなくても、この中心主題だけ肝に銘じることができれば、ヨハネは「良か
った。よく読んだ」と喜ぶでしょう。
初めの所に戻って来ました。神を見る体験。ヨハネやパウロの聖なる霊的
体験です。「霊的」とは“命の息吹”を受けることです。アダムを創り死人
を生きたものに変える“神の息”に捉えられる体験を、教会の慣例的用語で
表わせば、「聖霊を受ける、霊的体験」となります。ヨハネはその体験の極
致を味わいました。
それと同じ体験と言わずとも、ヨハネの十分の一でも、それと共通するも
のが私に与えられれば、大感謝です。また、そういう体験を持つと言われる
方の信仰も、私は十分尊重することができます。ただ、それは私自身には無
くても良いものです。私が死の向こう側まで持って行ける「来世まで貫いて
続く命」は、すべてイエスを知ることの中にあります。「神を見る」「神を
知る」とは、この方を知ること、この方に知って頂くこと以外にはありませ
ん。それさえあれば、愛する者と別れて向こうへ行く時にも不安はないし、
残り時間をうろたえることもないのです。
ヨハネはたまたま“命の息”に捉えられる体験をしたのではありません。
現に地上で苦しむ人たち……「敗北?」の幻影に惑わされる人たちに、今す
ぐキリストの勝利を伝えて彼らを生かすべく、神に呼び出されてこの途方も
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無いものを見、私が経験しないような天の世界を垣間見たのです。ヨハネの
体験は命を与える「福音」の目的と繫がっていました。
もしこの時のヨハネと全く同じ役目を委ねられる人がいれば、神は今も、
ヨハネが見たと同じ天の光景をお見せになることもありましょう。そんな人
の経験談であれば、私でも十分尊重できるのですが……。
(1988/12/11)
《研究者のための注》
1.ダビデの「ひこばえ」(口語訳「若枝」)の原語はです。イザヤ 11:1 や 10
の訳例から見ても切り株から萌え出た若枝のことでしょう。
2.「ユダ族から出たライオン」は創世記 49:9 に由来する絵です。
3.「玉座に座っておられる方と小羊と」はこのあと 6:16,7:9,10,17,14:1,4,21:
22,23,22:1,3 に見られます。
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