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カ リ フォルニアの日本人移民社会における 金融の諸問題
101 カリフォルニアの日本人移民社会における 金融の諸問題 矢 Financing ケ 崎 the Economic lmmigrants Noritaka Ⅰ.ほじめに 典 隆 Activity in of Japanese California YAGASAKI Ⅳ.非制度的庶民金融組織 Ⅱ.本国への送金の問題 1.伝統的庶民金融 Ⅲ.制度的金融組織 2.信用貯蓄紅合 1.移民社会の民族系銀行 Ⅴ.ディーラークレジットと農業社会 2.日本の外国為替銀行支店 Ⅵ.おぁりに 工.はじめに アメリカ合衆国に新しく到着した移民が,都市あるいは農業労働者の地位を脱し,自ら 日本 独立した経済活動を開始しようとする場合に,事業資金の準備が大きな問題となるo 人を含めて,移民が新しい土地において事業を開始するために充分な資金を本国から持参 することは一般に着であり,また移住地では金融機関における借用の確立も容易でほなく, 従って多くの移民が自分自身で資金を蓄積.し,またなんらかの資金源に援助を求める必要 があった。初期の移民がアメリカでの経済活動のための資金をどのように準備したかとい う点は,必ずしも明確に理解されているとほ言いがたい。こうした金融の問題および対処 の方法は,移民集団ごとに,また歴史的社会的背景によっても異なっていたことも確かで ある。 移民社会における金融行動を検討する場合,制度的な金融組織と非制度的な金融組織の 二つのレベルを考える必要があろう。前者としてほ確立された銀行が,また後者としては 民族的伝統的な庶民金融の組織が考えられる。都市部における独立自営業,いわゆるスモ ールビジネスの形成における民族的な金融組織の重要性は,中国人,日本人,黒人のエス ニック・エンタープライズ研究を行ったライトによって指摘されている.彼はこの研究で, スモールビジネスは黒人の間に発達しなかったのに対して中国人や日本人移民の間でほ重 矢 102 ケ 崎 興 隆 要な経済活動を為してきたことを比較し,こうした差異ほ民族的庶民金融の有無に起因す るとLている(Ligbt1972)。彼のモデルは,その後民族集団に関する研究者の間に大きな of Etlmic 関心を引き起こした(たとえばJounal Studies 1, 1974). カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題や金融行動を検討する場合,特 に都市部におけるスモールビジネスの形成には,本稿でも詳述するように,民族的庶民金 融が重要な意味を持つであろう。しかし,日本人移民社会の経済の中心的存在であり日本 人移民の代名詞ともなった農業活動についてみると,農業経営の金融的側面はライトのモ デルでほ説明しきれない部分も多い。また, 19世紀末に日本人移民の流入が始まって以来, 移民社会の形成過程において,金融をめぐる動向が変化したのも当然のことであろう.こ のように,カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題と金融行動の全体像は 19世紀末の移民社会の萌芽期から第 いまだに充分には理解されていないので,本稿では, 二次世界大戦後の復興期に関して,こうした金融の諸問題を検討してみたい。 Ⅱ.本国への送金の問題 日本人移民社会における金融問題を考えるにあたって,頻繁に行われた日本への送金の 意義についてまず検討してみる必要がある。本国への送金は日本人移民に固有ではなく, 多くの移民集団にみられた現象であった。例えば,シェリーニはサンフランシスコにおけ るイタリア系社会の研究の中で本国送金について触れ,イタリア系民族銀行の発達の一要 因はノースビーチ地区におけるイタリア移民の本国-の送金に便宜を図ることであったと 指摘している(Scberini 1976, 207-208)。カリフォルニアへの日本人の流入は19世紀末に 始まったが,他の日本人移住地の場合と同様,この地域ほ単なる出稼ぎの場所にすぎず, 富を築いて故郷に錦を飾ることが彼らの主たる目的で,永住の意志を持った移民は少数で あった。このような移民心理が故郷-の送金並びに円預金を促進することになったわけで あり,こうした現象ほ移民社会の経済にとって大きなマイナス要因となった.つまり,珍 民が労働によって得た所得のかなりの部分が日本-送金され,従って日本人移民社会に資 本が蓄積されることが妨げられた。 送金方法ほ複数存在したため,実際に日本へ送金された金額を正確に把捉することはな かなか難しい。郵便局を通して郵便為替で送金することもできたし,日本の外国為替銀行 支店ヤアメリカの銀行を通して送金することもできた。また日本への訪問あるいほ帰国の 際にかなりの金額が持参されたことも事実である。 よれば,カリフォルニア,ユタ,アイダホの日本人は, 350万円の銀行預金を有していたという。また, 『在米日本人連合協議会報告書1』に 1905年に940万円を日本-送金し 1929年に合衆国本土から日本への送金は 1500万円余りに達したが,それは海外の日本人が送金した総額の55%にあたり, -ワイを 含めるならば,アメリカ合衆国からの送金ほ総額の4分の3を占めていたという外務省統 計もある(広田1931, 30-31)。合衆国からの送金の大部分が,日本人移民の集中が顕著で あったカリフォルニアからのものであったことはいうまでもない。 母国-の送金が移民社会に深刻な影響をもたらすことになったことは容易に想像できよ ラ.母国に送金できることは移民に精神的な満足感を与え,一方送金を受けた留守家族は カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 103 その恩恵に浴することができた。こうした資金ほ家族の生計の足しになったし,またかな りの部分が土地の購入にあてられたという。送金資金に基づいた土地購入が,広島,和歌 山,山口などの移民送出地域において土地価格の上昇を招いたという指摘もある.さらに, 日本から進出してきた外国為替銀行支店は,移民心理に基づいたこうした送金を助長する ようになった。こうした銀行ほ,当初は日米貿易の促進を目的として設置されたにもかか わらず,それらの中心的業務は送金の取り扱いとなったわけである。 一方,本国送金によって,移民の稼いだ資金が移民社会に資本として蓄積されることが なく,従ってその経済発展の基盤を築くために用いられなかったという弊害が生じたこと も確かであった。頻繁な送金のためにアメリカの銀行口座の預金残高は少なく,従って銀 行における日本人の信用の確立は容易ではなかった.送金という形の資本の淀出は,アメ リカ経済には大きな影響はもたらさなかったであろうが,日本人移民社会に対しては深刻 な影響を与えることになり,アメリカの社会と経済-の日本人移民の統合が妨げられる一 要因となったことは否めないであろう。 1920年代初頭に日本人社会を視察したある日本人は,このような資本の流出が生み出す 弊害を指摘し,進展しつつある排日問題の原因は,人種的側面に加えて,こうした経済的 側面,すなわち移民社会の経済基盤の脆弱さであると日系紙上で述べている。さらにこの ような経済的側面に関して母国の日本人が為すべきことは, 「在米同胞の稼いだ金を本国 に絞り取らずに,在米同胞の資金たるべきやう努力」することであり,さもなければ「百 の親善を説き如何に永住土着の口樺を致しましても,在米日本人は資本責めに遭ふて逸出 (出所日付不明新聞記事),南加 す暗が来る」としている(山村楳次郎「在米同胞金融観」 日本人会1922) 0 Ⅱ.制度的金融組織 制度的な金融組織としてここで検討するのほ,日本人移民が自ら組織した民族系銀行と, 日本で確立した銀行のアメリカ支店である。この両者は結論的にほ移民社会の経済発展に とって大きな力とはならなかったのであるが,金融の上部構造が移民社会の中でどのよう な展開をみせどのような意味を持っていたのかを考察Lてみたい。 1.移民社会の民族系銀行 カリフォルニアへの移民が急増した今世紀の初頭にほ,移民による銀行の設立運営の試 みが為されたが,その中心ほ西海岸-の上陸拠点であり日本人移民の集中がみられたサン フランシスコであった。到着後間もなく農業労働や鉄道労働に従事した日本人が都市での 小規模自営業に目を向け始めた1890年代において,彼らの問には金融機関に対する要求が すでに存在していたo最初の日系金融鼠織ほ日米金融社で, 1899年3月に植田憲三などに よってサンフランシスコに設立されている。ただしこれほ1900年, ィーディレクトリー(Crocker・Langley Sam Francisco 1901年, 1902年のシテ Directory)にほ掲載されていない。 Bankに改組 日米金融社は1903年に資本金2万ドルを有する日米銀行Japanese・American Geary Street"に店舗を構 ・発展し,同シティーディレクトリー1903年版によれば"524 えている(p. 1371, 2017)。この銀行はさらに1906年2月に法人組織化されている。日米 104 矢 ケ 崎 隆 典 銀行は,当時我孫子久太郎らが中心となって建設を進めていたマセッド郡の日本人植民地, 大和コロニーに大きく関与しており,特に土地の購入に果たした役割は大きかったという (Noda 1981) 0 サンフランシスコにおける2番目の日系銀行ほ, Bank ルの日本銀行Japanese of Sam 1903年3月に設立された資本金10万ド Francisco であり,また1905-6年にほ金門銀行 Bank Ginkoが,さらに1907年には帝国銀行Imperial が設 of Sam Francisco Kimmon 立されている(在米日本人会1940, p. 279;Cross 1927, p. 163)0 南カリフォルニア,特にロサンジェルス地域における経済発展と日本人人口の増加に伴 い,日米銀行は1904年4月に,金門銀行は1906年2月に,また日本銀行は1906年10月に, いずれもロサンジェルスのダウンタウンにある日系地区リトルトーキ≡(Wilmington St.およびE. 1st St.)に支店を開設した. 『羅府年鑑』によれば, 1906年末におけるこれ ら3支店の預金総額は498,281ドルに及んでいた(p. 36)0 1907-8年には日本銀行の閉 鎖に伴いそのロサンジェルス支店は金門銀行に吸収されている。当時,ロサンジェルス手 形交換所協会Los Angeles Clearing HouseAssociationは,加盟銀行は最小限20万ドル の資本金を保有するよう決議しており,ロサンジェルスでは銀行の合併が相次いだという 日系銀行 18190189519fOOlgO5191019ll519120"l2519138"l40 I 日米銀行 サ ン フ ラ ン シ ス コ 日本銀行 ⊂::=:::::コ 金門娘行 ⊂:==コ 帝国銀行 ⊂コ 横浜正金娘行 ′ー 住友血行 卜■■■-.-.. 日米銀行 ロ サ 日本銀行 ン ク 金門銀行 一■l一- d ‖ ◆ ⊂=:=コ エ Jレ ス 横浜正金銀行 針..-.-..I-.....- 住友銀行 サ 桜府日本銀行 ⊂::===コ ク ラ メ ン ト 桜肘貯蓄銀行 (日本銀行) d I 加州住友銘行 +..- オ I ク ラ ン 王府日本銀行 ⊂=コ 王府貯蓄銀行 ■l■llll■ ド フ レ ズ ∫ カミカワ兄弟銀行 【==コ プレスノ勧業銀行 t■ヾ, ′ヽ カ ど ル 扶桑銀行 ⊂:==】 本店 ■ 算1図 カリフォルニア匠おける日系銀行の変遷 -一支店 -出張所 -->吸収 ■佃■一時間鼠 カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 が(Cross 1927, 105 708),日系銀行の吸収もこうした金融界の動向を反映したものと考 p. えられよう。一方日米銀行は州外へも活動を広げていたようで, 『移民調査報告』によれ ば, 1906年10月にユタ州オグデン市に支店を開店している(外務省1908, p. 31)0 オークラ1/ド,サクラメント,バカビル,フレズノにも日本人移民が銀行を設立してい る(第1図).州都サクラメントはセントラルバレーの中心都市であり,第二次大戦前にお ける日本人農業の一つの中心地であったが,ここにほ桜府日本銀行Japanese Sacramento Bank (1904-05年設立, Nippon of Savings 1906年11月法人化)と桜府日本貯蓄銀行 (1907年9月法人化)が存在した。後者ほ1909年末に一時的に閉鎖したものの,貯 蓄部門を加えて日本銀行として再開している。サンフランシスコ湾を隔ててサンフランシ Bank Japanese Bankが1907 スコの対岸に位置するオークランドには,王府日本銀行Oakland Savings 年11月に,また王府貯蓄銀行0'fu Bankが1908年に組織されている.肥沃な農 業地帯として知られるサンホアキン・バレーの中心都市フレズハこも日本人の集積がみら れ,ここにはカミカワ兄弟銀行 行Industrial Bank of Kamikawa Brothers Bank of Fresnoとプレスノ勧業銀 Fresふoがともに1908年に開設された.また早くから果樹栽培地域 として知られたバカバレ一地域にはすでに1890年代後半から日本人が農業労働者として農 業に従事しており, 1906年以来,バカビルの扶桑銀行Fuso 業務を行った(California 省1913, p. 73)には, State Board of Bank Ginkoが日本人を対象として Commissioners)0 『移民調査報告』(外務 1908年夏季にバカバレ一地域の果樹園で一時的に雇用された労働 者4千人の半数が日本人であったとあり,日系銀行の役割は大きかったわけである. 『1907年カリフォルニア州銀行委員会報告』をみると,銀行は商業銀行,貯蓄銀行,私 営銀行に分類されているが,本店と支店をそれぞれ別個に数えて,サンフランシスコには of California カリフォルニア銀行Bank を筆頭にして44の商業銀行が,またロサンジェ ルスには24の商業銀行が存在した.サンフランシスコ44銀行の資産合計は151百万ドルで, 1行当たりの平均は343万ドルであったが,日系銀行は,後述する横浜正金銀行を含めて いずれもこの平均をはるかに下回る小規模なグループに属していた(CaliforniaState Commissioners 1907) Bank 。 このように今世紀初頭にほ移民が相次いで銀行を設立したが,これらは1907年の全国不 況の波に襲われることになる。 1907年だけをみても合衆国全体の倒産件数は11,857にのぼ り,その中で132件が銀行の倒産であった。カリフォルニアでは, 1907年不況によって州 公認銀行16行が強制的に閉鎖され,さらに多くの銀行が自発的に閉鎖・整理された(Cross 1927, p. 708)。さらに, 1908年3月1日に承認され7月1日に施行されたカリフォルニ ア銀行法は,経済基盤の弱い銀行を直撃することになる。この銀行法の施行時には,日系 銀行のいくつかはすでに姿を消すか,あるいは経営状態が極めて悪い状況にあった. 1909年ほ日系銀行にとって最悪の年であり,経済不況の影響を受けて倒産が相次いだ. まず3月には金門銀行が倒産し,次いで9月には王府日本銀行が営業停止処分を受け,さ らに10月には日米銀行と桜府日本銀行が閉鎖された。同年末にほサンフランシスコの日系 3銀行とそれらのロサンジェルス支店,さらにオークランドの2銀行,サクラメントとバ カビルの日系銀行がいずれも姿を消しており,こうした危機を乗り越えた日系銀行はわず 矢 106 ケ 崎 隆 興 かに3銀行のみであった。しかし,カミカワ兄弟銀行は2年後に倒産している。またプレ スノ勧業銀行と日本銀行はともに1909年10月に一時営業停止処分を受けたが,間もなく営 業を再開し,それぞれ1922年, 1924年まで存続したo このうち1920年に経営危機に陥った 日本銀行は大阪の平林組によって買収され,しばらくの間でほあったが営業が継続したが, 4年後には同銀行は再び州銀行監督官から営業停止処分を受け,結局その資産は加州住友 Bank of California (1925年3月営業開始)に売却されることになる.吹 銀行Sumitomo 節でのべる住友銀行はカリフォルニアにおいて普通預金業務を取り扱う銀行の設立を計画 し.フレスノ勧業銀行の買収が失敗に終わった後,経営危機にあった日本銀行の取得に踏 pp. み切ったものであった(住友銀行史編纂委員会1955, 130-131)。フレスノ勧業銀行 I∃ank of Fresno は,フレズノ・バレー銀行Valley 1927, 銀行の手-と渡っていく(Cross p. カリフォルニア州銀行監督官California -売却され,それはさらにイタリア 709)0 State Superintendent of Banksによれば,こ のような日系銀行の倒産ほずさんな経営管理によるものであり,また時には銀行幹部の横 領も原因であったという。銀行監督官は1910年の年次報告書の中で次のように述べているo 「現在清算の進んでいる日系銀行は--極めて悪い状況にある。記録が日本語で取られて いたことが,それらの業務内容をわれわれが正確に把捉することを極めて困難にしてい る.これらの銀行が単に不正の対象となったことは明らかである.起訴はまだ始まってい ないが,これは銀行業務の殆どが現行法が施行される以前に行われたものであるからであ り,また不完全な(日本語による)記録のゆえに,それぞれの行為を個人に特定すること (Califomia が出来ないためである・・・・・・」 また1922年の年次報告書にも, State Superintendent 1910, of Banks 6)0 p・ 「日系銀行の取り扱いは特に困難であり,これは倒産した 銀行の業務方法のためであり,またさまざまな債務者の所在を特定することや,彼らが頼 るべき資産を有するかどうかを確定することが発しいためでもある」と悲観的コメントが なされている(California State Superintendent of Banks 1922, p. 5)0 日系銀行の倒産はカ1)フォルニアの日系社会に大きな衝撃をもたらすことになった.帝 国銀行に次いで倒産した金門銀行の場合をみると,この銀行経由による日本への送金の到 1909年3月29日, 着が遅れるのに伴い倒産の噂が流れ,取り付け騒ぎが発生した。結局, サンフランシスコ本店とpサンジェルス支店が同時に休業し, 3カ月後には正式に業務停 止となった。在米日本人会はこの倒産を極めて深刻に受け止めていたが,それは日本人預 金者や日系経済界に与えた損害が多大であったからばかりでなく,この倒産によってアメ リカにおける日系社会全体の信用が失墜することを恐れたためであった。在米日本人会で はこの倒産に対処するための特別委員会を設置し,預金者や日系実業界とともに再建へ向 けて善後策にあたったが,同銀行は預金総額45万ドルに対して貸付け金額は38万ドルに及 ぶという経営状態にあり,救済ほ失敗に終わった(在米日本人会1909, 権者が受け取ったのは, p. 24)。結局債 1ドルに対して28セントのみであったという(Cross 1927, 693)0 日系移民社会にさらに大きな衝撃が訪れたのほ1909年10月18日であり,この朝,サンフ∫ ランシスコおよびロサンジェルスの日米銀行がカリフォルニア州銀行監督官の命令によっ p・ カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 107 て営業停止を受けた。ロサンジェルスでほ同日4時にさっそく相談会が開催されており, 日系金融機関の中心である日米銀行の倒産ほ他の銀行の倒産とは本質的に異なったもので あるという認識のもとに, 「羅府有志者会ほ日米銀行の閉鎖を以て在米同胞全般の死活問 題と記むるに依りこれが再開に就き誠心誠意応援を為すことを決議」しており,日米銀行 再開期成同盟が組織された(南加日系人商業会議所1956, p. 172)0 11月4日には日米銀 行ロサンジェルス支店の預金者たちがロサンジェルスのダウンタウンで日米銀行羅府支店 預送金老大会を開催しており,これにほ5百人以上の参加があったという。 同銀行の営業停止から約一年後に,州銀行監督官は, 「同銀行の一般債権者に対して近 い将来に配当が行われる可能性ほあまり高くない」という悲観的な見解を述べている(Caト ifornia State Superintendent of Banks 1910, 536-537)。倒産後5年を経た1914年 末には荘府新報に「日米銀行経過」が連載されており(12月18, 19, 20日),これによれ pp. ば,本店支店における預送金請求総額は約30万ドルに及び,債権者たちほいまだに配当を 待っているという状態であった。また,日米銀行が所有するセントラル・バレーのマセッ ド郡リビングストンの土地2400エーカーと南カリフォルニアの宅地28区画を売却すること によって,かなりの配当が期待できるともしている。しかし不正行為を働く債務者が多い ことも指摘し,同社は「他日事実の精探を行ひ一般預金者のため赤裸々なる報道をなさん とす」と,倒産騒動の解明へ意気込みをみせている。結局,同銀行の清算が完了したのほ 1922年8月であった(California State Superintendent of Banks 1922, pp. 500-501)0 以上のように,日本人移民が自ら設立した銀行はいずれも失敗に終わったわけである0 『日米文化交渉史第5巻移住編』 (pp. 103-104)には,日系銀行が発展しなかった理由と して・放漫でずさんな経営が行われ日本人の問に信用を失ったこと,さらにアメリカの銀 行が日本人に対して好意的に融資を行ったことがあげられているが,日本人の経済活動に 対してアメリカの銀行がどれだけの役割を果たしたかほはなはだ疑問である。ただ,日本 人人口の増加を考えれば,それらが日本人顧客の獲得に積極的であったのほ確かであろう し・カリフォルニア銀行とセキュリティファーストナショナル銀行が日本人部門を設置 し,前者ほ日本人地区に支店を開設していた(南加州日系人商業会議所1960, ことも理解できようo p. 163) しかし,いずれにせよ,農業地域においてもまた都市ま釦こおいても, 日本人移民が金融を受けることのできる金融機関が欠如しており,それが移民社会の経済 基盤確立の上で根本的障害となっているという認識が強く存在し,このような関心はさま ざまな機会に顕在化した。 たとえば,相次くtl日系銀行倒産の直前である1909年初頭にローダイ,フレズノ,サクラ メント・ストックトン,リビングストンなどカリフォルニア中央部の農業地域から46名の 日本人農業者がストックトンに集まり,農業関係の情報交換の促進を目的とした懇談会を 開催しているが,ここでほ日本人のための金融機関が欠如し農業資金が充分に得られない 現状が,最も熟Lに討議された課題の一つであった.ある参加者ほ資金の不足から日本人 が分益小作の地位に甘んじているアスパラガス耕作の事例をあげながら,金融機関の設立 が日系農業の発展のためにほ最も重要な要因であると論じているoまた他の参加者は,質 産の無い個人でも・個人的信用に基づいて融資を受けられるようなた小規模な信用組合の 矢 108 典 崎 ケ 設立を提唱している(日本人中央農会1909, pp. 隆 2-4, 13-14, 25-30). また日系銀行の倒産騒動が一段落した1915年には,ロサンジェルスの日系紙羅府新報に もし一杯のビールあるいほソーダ水の値段に相当 五仙貯蓄組合の設立が提唱されているo する5セントを一人が毎日貯蓄するならば,南カリフォルニア在住の2万人の日本人は一 年軒こ36万ドルを貯蓄できる計算となり, 「ヤレ(横浜)正金(銀行)分店の通商銀行と騒 くtl問に-・..・立派な銀行が夢の様に現はれる」わけで,こうして日本人社会ほ独自の資本で かなりの規模の銀行を自ら設立することができるというものであった(羅府新報1915年4 「欧州に於ける地方金融機関」という連載で, 月4日)。また同じ頃,羅府新報紙上には, 日本人社会に金融機関を設立するための重要なガイドラインをなすものとして,ヨーロッ 18! パにおける各種信用組合や庶民銀行が詳しく紹介されている(1914年8月16, 20, 21, 22日)0 カリフォルニアのさまぎまな民族集団によって民族系銀行が設立されたことは,州銀行 これらのうちで成功し 委員会や州銀行監督官の初期の年次報告書によって明らかであるo た銀行もあったし,また倒産したものも少なくなかったが,上記の考察からも明らかなよ うに,日系銀行ほ後者グループに属した。日本人移民が多くの民族的銀行を設立したのとは Bankを設立したのみであ 対照的に,中国系移民ほサンフランシスコに広東銀行Canton これは合衆国とメキシコ在住のおよそ10万におよぶ中国人に本国送金などのサービ ったo スを提供することを目的として,銀行業務にかなりの経験を持った実業家Look のイニシアチブのもとで,地元の中国人によって1907年に組織された銀行であり, く営業した末, ; 1927, 1926年7月に州銀行監督官によって閉鎖されている(Cross Califolnia State Superintendent of Banks 1928, pp. Tim Eli 20年近 pp・669 4-6)o 一方,多くの民族系 銀行の中で,日系銀行とは対照的存在であるのはイタリノア系であろう。イタリア系人口の -700 集中が著しかったサンフランシスコには, Savings Loan & Societyが紅織され,これを母体としてイタリアンアメリカン銀行ⅠtalBank, ian・American 1893年にコロンブス貯蓄金融協会Columbus 7ガジ・イタリア労働者庶民銀行Fugazi ltaliana,そしてイタリア銀行Bank of ltaly Banca Popolare Operaia が誕生した。これらの中でイタリア銀行ほ, 著名な銀行家ジアニーニ(A.P.Giannini)によって,世界的に著名なアメリカ銀行Bank of Americaへと生長していく(James and James 1954)0 また,日系銀行に関して,海外の日系移民社会のなかでカリフォルニアと対照的存在で あるのはブラジルであろう。ここでは,カリフォルニアと比べて30年余り後のことになる が, 1937年にサン′1ウロにカーザ・バンカ1)ア・プラタクが設立され, 行Banco America do Sul 1940年以降南米銀 Limitadaとして,今日にいたるまで日系コロニアの発展に大 きな影響を与えてきている(南米銀行1960;高橋・ヨシカ- 1984)。このような日系金 融機関の有無は,アメリカ合衆国とブラジルの日系移民社会における差異の一例を為すち のであろう。 2.日本の外国為替銀行支店 日本人移民社会における制度的金融組織のもう一つの側面は,日本からの外国為替銀行 の進出であったo 19世紀後半,我が国の経済発展と近代化の進展とともに,外国貿易が増 109 カリフォルニアの日本人移民社会軒こおける金融の諸問題 加し外国為替業務-の需要も拡大した。横浜正金銀行ほ,国立銀行条例に基づいて1880年 2月に横浜に設立された.この銀行ほ設立当初の資本金ほ3百万円で,そのうち3分の1 が明治政府の出資となる半官半民の銀行であり, 7年後にほ横浜正金銀行条例のもとに外 国為替業務を専門とする特殊銀行となった。生糸ほ日本の近代化の初期の段階において重 要な輸出品であったが,これほ1860年代後半にほ主にヨーロッパに輸出され, 1880年代始 めまでにはアメリカ合衆国が主要な輸出先となっていた。その後も合衆国-の生糸の輸出 は増加の一途にあり,外資の獲得に大きな役割を果たしたが,こうした過程において横浜 正金銀行は生糸産業を手厚く保護した。横浜正金銀行の外国為替業務紘,こ.のように産業 資本期の貿易拡大に伴って発展をみせていったわけである。さらに日本人の海外-の発展 や植民地の拡大は,横浜正金銀行が積極的に海外へと活動の場を広げて行く要因となった0 1880年の夏にほ外国の銀行業務の調査のために,ニューヨークに調査員が派遣されてお り,これほ同銀行のニューヨーク支店設立-と発展したo・日本とカリフォルニアの問にお ける貿易の増加に対応して, 1886年6月にはサンフランシスコ出張所がサンフランシスコ Building内紅開設されている(横浜正 のダウンタウンのマーケットストリートのPhelan 金銀行1920a, pp. 24-25 ;同1920b, p.291)0 サンフランシスコ出張所の業務の一つは, 1885年に始まった-ワイの官給移民の預金を 転送する業務であった。当初,官給移民による預金ほ-ワイ政府によって保管されていた が,日本総領事館がこの業務を引き継ぐことになると,横浜正金銀行サンフランシスコ出 張所を経由して,日本-送られ大蔵省預金局で保管されたが,結局,横浜正金銀行がこの 業務全体を代行するようになり, 1892年にホノルルに出張所が設置された.同銀行がこの 業務を担当するようになった当時ほ,官約移民の預金は総計73万円余りであったが,これ は徐々に増加L一時150万円にも達したという.しかし,契約労働期間の終了後,移民の 多くが日本へ帰国するかあるいは合衆国本土-と移動したために,これらの預金の大部分 が引き出さる結果となり,また-ワイに残った移民は普通預金講座を開く暑が多かった. こうして,同出張所ほ5年後に支店-と昇格し, -ワイで増加債向にあった日本移民の普 137-139 pp. 通預金を取り扱う機関-と発展していった(横浜正金銀行1920a, ;同1920b, pp. 498-500)。 サンフランシスコ出張所の業務についてみると,当初の予想に反して貿易業務は僅かで あり,従ってこれを支配下に置くロンドン支店との関係も希薄であった。出張所の主要な 機能は-ワイおよびサンフランシスコ地域における日本人移民の預金と送金の業務であり, 1896年に支店-と昇格し, 1913年2月にほサン -ワイ出張所を管轄下に置くことになるo フランシスコ支店の出濃所が,南カリフォルニアの日本人移民の預金と送金を取り扱うた めに,ロサンジェルスのダウンタウンに開設されている. が設置された。普通預金ほ徐々に増加し, 4年後にはシアトルにも出張所 1920年2月末現在において, -ワイ,サンフラ ンシスコ,ロサンジェルス,シアトルの窓口で集められ横浜本店に預金として蓄積した給 額は5千万円におよんだという(横浜正金銀行1920a, 1920b, 157-158, 139, 409-410, 461 ;同 529-530). 横浜正金銀行に次いで早くからアメリカに進出したのは, 1885年に大阪に設立された住 矢 110 ケ 崎 興 隆 友銀行であった.西日本は早くから多数の移民を送出したが, -ワイや合衆国西海岸から この地域の住友銀行各支店-の送金が年々増加値向にあった。海外の銀行を視察した当時 の副支配人の意見書にほ,外国為替業務を横浜正金銀行が独占するのは国家利益の発展を 疎外しかねず,国内で信用を確立してきた住友銀行がそうした業務を担当するのほ国家に 対する責務であり銀行自体の利益と地位の増進にもつながるとあり,海外業務-の進出を すすめている(住友銀行史編纂委員会1955, 39-40)。サンフランシスコ出衷所は1916 年8月に法人組織化され,次いで州の認可を受け,翌9月にダウンタウンのカリフォルニ ア通りに開店した(California State pp. Superintendent of Banks 1917, 777)。住友銀行 p. の支店はシアトルやニューヨークにも2年後に開設されたが,シアトル支店ほ1919年に州 法のもとに法人化し,資本金20万ドルを有するシアトル住友銀行SumitomoBankofSeattle として再編成されている(住友銀行1926, の2番目の支店は, p. 178)。カリフォルニアにおける同銀行 1924年にロサンジェルスの日系地区の中心に開設された。また翌午, 日本人の集中が顕著であったサクラメントでも,前項でみたように,買収した日系銀行を 基礎とした加州住友銀行Sumitomo Bank of California Bank って-ワイでほ1916年に布瞳住友銀行SumitolnO 175-177 友銀行史編纂委員会1955, pp. ;住友銀行1926, が営業を開始した。これに先立 of Hawaiiの開設がみられた(住 pp. 179-180). 横浜正金銀行にしてもまた住友銀行にしても,外国為替銀行としての性格から,カリフ ォルニア在住の日本人移民に対Lて積極的に融資を行うことは一般的にはなかった.横浜 正金銀行の場合にほ,サンフランシスコ支店の特別貸付という形で地元の日系移民に対し て融資が行われたことがあったが,これは例外的な融資であった。サンフランシスコ支店 における最初の特別貸出は, 1913年に外国人土地法が施行される直前に農地の購入を意図 した農業者に対して行われたものである。日本人移民社会において農業は中心的な経済活 動であり,農業労働者の地位から農業階梯を上昇し,借地あるいは購入によって日本人は 農業に地歩を築きつつあったが,土地の購入を意図した日系農民の中には,分割払い,延 払,あるいは支払いの遅延などにより所有権を確立するまでには至っていない者も多く存 在した。日本人による農地購入の禁止および借地契約の制限を目的としたカリフォルニア 州外国人土地法が8月10日に施行されるのを前にして,日本人農業者の間で土地の購入が 最大の関心事となったが,日本政府は横浜正金銀行支店に対して,日本人が土地の所有権 を獲得できるように融資を行うよう非公式に要請した。こうして発足した特別融資制度は, 農業(農園および花園)用地の取得を目的とし,貸付期間5年,貸付利率6-7%,融資 総額は15万ドルの規模であり,債務者の中の有力者によって一時的に設立された会社に個 人が移管した土地を担保とするものであった。 8月9日までの融資総額は許容額をはるか に下回る8万3千ドルであり,すべてが回収された(横浜正金銀行1920a, 同1920b, pp. pp. 419-422; 1076-1080)0 横浜正金銀行ほ5年後にも別の特別貸付を実施しており,これほ本店の決定に従って, 農業および工業などの諸産業に従事する日本人に長期融資を行うものであった。本社総務 部からサンフランシスコ,ロサンジェルス,シアトル, -ワイの各支店・出渠所-送られ た通達には次のように述べられている。これらの地域における日本人数は十万以上をこ達し, カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 111 融資に対する要望は強かったにもかかわらず,従来「大多数-尚出稼人ノ境遇ヲ脱スルニ 至ラス--・銀行ヨリ融通ヲ受ク-キ資格ヲ有スル者-極メテ少数二止マ」っていたが, 「在住邦人ノ地位著シク昂上シ今ヤ彼等ノ間二於テ小規模ノ事業漸ク発生スルノ域二進ミ ツ、アリ--・将来有望ナル事業ノ萌芽ヲ助長セシメソカ為メ」に貸付制度を発足するとし ているoこの通達の最後には, 「右ノ特別貸-本行二取リテ-本行ノ名聾ヲ高メ間接二預 金及為替業務ノ増進ヲ図り得ルコト-自明ノ理ナリト信スルナリ」とも記すこと忘れてい ない(横浜正金銀行1920b, 1162-1163)。特別貸付取扱細則によれば,貸付額ほ一件 につき5千ドルを限度とし,貸付期間は3年であった。特別融資に対する応募は徐々に増 加し, pp・ 1920年2月現在で貸出残高は30万円であった(横浜正金銀行1920a, 469-472)0 しかし,このような特別融資を除いてほ日本人移民に対する融資は殆ど行われなかった。 上記の通達のなかにほ,横浜正金銀行ほ有資格者にほ従来資金を融通してきており,その pp. 額は50万ドル以上に達し,中でもサクラメント・サンホアキン・デルタ地域の開墾事業で 有名であった牛島謹爾に対してほ一時融資額が150万ドルにも達したとあるが,その詳細 は明らかではない.日系社会においては,同銀行は日系移民の金を吸収する一方で貸付け を行わないといった評価と不満が一般的であった。 『南加州日系人七十年史』によれば, 横浜正金銀行ロサンジェルス支店の支店長は1930年代初期の不況時代に同行の伝統を破っ て日本人実業家に融資を行ったが,これが回収不能となりその職を辞任したという記述が みられる(南加日系人商業会議所1960, p. 163)0 1930年の州銀行監督官年次報告によれば,カリフォルニア州には18の商業銀行を含めて 218の銀行が存在し,この中で日系銀行は,サンフランシスコの横浜正金銀行支店(ロサン ジェルスに出張所を持つ),住友銀行支店, ラメントの加州住友銀行のみであった。 pサンジェルスの住友銀行支店,それにサク 5年後にはカリ 1930年代の不況の影響を受けて, フォルニアの銀行総数む羊3分の2に減少するが,日系銀行は1941年の太平洋戦争の開始に よる閉鎖時まで営業を続ける。それらの閉鎖ほ円預金を行っていた多くの日本人移民に損 害を与えることになった。 Ⅳ.民族的庶民金融組織 前章における検討から明らかなように,日本人移民は制度的な金融親閲に依存するこ,と が困難であり,これは日本人が自ら銀行を設立運営することが出来なかったこと,またア メリカの銀行や日本の銀行支店からの融資が難しかったことによるものであった。従って カリフォルニアの日系移民社会においてほ,非制度的な金融組織,すなわち純粋に民族的 で自己防衛的な金融システムの展開がみられた。 1.伝統的庶民金融 我が国には療母子請あるいは無尽講と呼ばれる小規模な庶民的金融組織が存在してきた が,これは特に江戸時代に庶民の重要な金融組織として発展し,近代的な金融横関の確立後 も戦前を通じて広く利用されたことはよく知られている。限られた構成員が出資し彼らの 間で貸付け金額をローテーションさせる金融方式は,名称や運営方法に差異があるものの 世界中に広く存在しており,例えばア-ドナーやギアツの報告がみられる(Ardener1964 ; 矢 112 Geertz 1962)o ケ 崎 典 隆 こうした伝統的金融は日本人の移住に伴って海外の移民社会に移植され, 経済活動において果たした役割は多大であった.カ7)フォルニアにおいては,農村地域よ りも都市部において額母子講が活発に利用されたようであり,特にスモールビジネスの依 存度が高かったようである. 移民社会における療母子講は多くの問穎を包含していた。療母子講が健全に槙能するた めには構成員の相互信頼関係が必須条件であり,各構成員ほ掛け金を引き落とすにしたが い債権者から債務者-と立場を変えるが,全員が金を引き落として一つの講が完結するま で,そうした倍額関係が持続されなければならない。アメリカ合衆国の日本人移民社会に おいてほ,相互の倍額関係を確立しやすい同郷出身者や同業者の問で顧母子講が組織され る場合が多かった。しかし相互信疎開係に基礎を置いた額母子講ほ,常に破滅の危険性を ほらんでいたわけである.特に一回の掛け金が多額の場合には,全員が掛け金の払い込み を完了できない危険性が高かった。また経済が逼迫した時期には講金への依存度が増し, 請負問の競争によって金利が上昇するといった問題も生じた。実際に頼母子講の破産によ って損害を被ったり,それまでの信頼関係を犠牲にするようなことも頻繁であったという。 ただ即座に黄金を必要としない経済的に余裕のある人々にとっては,こうした危険性にも かかわらず,頼母子講は一種の預金講座の機能も有しており,利息によって資金を増大さ せることができた。 実際に存在した療母子講の数を推計することはきわめて難しい。 『日米年鑑第8』町は, 1911年10月1日の調査によればカリフォルニア州には金融社および蘇母子講ほ240組存在 135). し,その会員数ほ3442人,運用金額ほ98万ドルにおよんでいたとある(1912年版p. また『Japanese・American Trade Yearbook 150-160の顧母子講が存在したという(p. 1919-20』によれば,南カリフォルニアには 18)。また別の推計によれば, 1922年にロサン ジェルスには,一回の掛け金が100ドル規模の顔母子講が少なくとも200,またそれが35 ドルから50ドル規模の療母子講がほぼ同数程度存在し,この時期にロサンジェルスにおい て運用された講金ほ毎月50万ドル余りに達しており,日系実業界はこうした頼母子講に大 (出所日付不明記事),南加日本人会 きく依存していたという(「同胞事業界と頼母子講」 1922)。日本人移民の集中が特に顕著であったとほいえロサンジェルスにこれだけの数が 存在したわけであるから,カリフォルニア州全体の顧母子講の数ほ相当数におよんだと考 えられる。 非制度的金融組織である療母子講ほ,容易に利用され数も多く存在したが,常に危険性 を伴うものであったoその一例ほ, 1921年3月の頼母子講倒産によるロサンジェルス日系 社会の金融危棟である。経済不況にあった当時,日系のスモールビジネスに顧母子講資金 10年余り前に起こった日 が広く利用されていたが,被害総額は20万ドルにおよぶとされ, 系銀行の倒産よりも日本人社会に与えた影響ほ大きかったという。羅府新報にほ,顔母子 詩を運営していた相馬茶店と絹布商会の破産が大きく取りあげられている。倒産を免れた 頼母子講の多くも,請負に対する負担の軽減のた削こ一時的に掛け金を引き下げるなどの 措置を講じて局面の打開を計った。また不必要な競争を防止するために高金利の入札を避 汁,顧母子講を組織する場合に参加者の資格をよく検討するような点が,広く指摘される カ1)フォルニアの日本人移民社会軒こおける金融の諸問題 ようになった(羅府新報1921年4月4, 20, 30日, 5月1日)0 このような問題点を持つ頼母子講ほ好まLい金融組織ではなかったが,当時の移民社会 にとっては不可欠な存在であるという認識が一般的であり,ロサンジェルスの頼母子講金 融危扱の直後の1921年6月に,南加日系人商業会議所ほ療母子講に関する集会を開催して いる。ここで顧母子講の保護を目的とした組織の設置が決議され,同じ月にロサンジェル 82-94, スに羅府療母子講一般金融保護協会が設立された(南加日系人商業会議所1921, 99)。これは「羅府日本人間二於ケル各頼母子講ノ保全ヲ図り更二-般債権者ノ権利々益ヲ 擁護スルヲ以テ目的」とし,このために,不正行為を働く老に対して,また′一般債務老の 中で資産を隠匿したり,詐欺破産をLたり,また無責任な行為をする債務者に対して社会 的な制裁を加えることを会則に明記している。その制裁法として, 「原籍,現住所,姓名, 人相-勿論其不徳,不正行為ノー切ヲ全米各地日本人会,商業団体及領事問二通告」し, 「不法,不徳ノ行為ヲー般在留同胞二周知警告スルタメ米国内邦字新聞紙二適宜発表」し, さらに「前二項ノ制裁法-之ヲ日本内地ニモ適用シ当事者ノ郷里-勿論郷里外二居住スル 時-郷里及居住先ノ市町村役場,商工農団体二詳細通告シ同時二其地方新聞紙二掲載シテ 公衆二発表」するというものであった(会則第19条)。各療母子講の幹事はこの保護協会 に対Lて,毎月黄金の落札者と保証人,また講金の不払暑があればその氏名を報告するよ う義務ずけられていた(会則第23条)0 療母子講の保護を目的としたこの組織が実際にどれだけ機能したかについては,繋料の 欠如により明らかではない.しかL,こうした組織の成立,さらに詳細な制裁措置の規定 は,頼母子講が当時の日系移民社会において果たしていた大きな役割の傍証となろう。 1921年春の頼母子講金融危機の後,ロサンジェルスの頼母子講数は一時的に減少したが, 「雨後の笥の様に殖え出し」(羅府新報1922年3 一年後にほ,羅府新報の表現を借りれば, 月5日),破綻時と同数あるいはそれ以上の数に増加がみられた。当時経済界はかなりの 不況にあって金融引き締めが続いたため銀行からの融資は容易でほなく,金利が高いにも かかわらず麻母子講は小規模事業家たちが事業資金を獲得する数少ない方法の-つであっ た。小規模事業家が利用した頼母子講は,一回の掛け金が50ドルから100ドル程度の規模 の大きいものであった.ロサンジェルスにおいては,頼母子講資金の多くが当時好況であ ったホテル経営事業に使用されたという。 こうしたなかで,頼母子講のもつ法律的地位に向上がみられた。もともと顔母子講ほ一 種の富くじとみなされる場合もあり,その法的立場は不明確であった。従って頼母子講が 倒産した場合には責任の所在がどこにあるかが不明確であり,またそれが明らかな場合に おいても,責任の履行を義務ずける法律的根拠と強制力が存在しなかった。療母子講全体 が紳士協定に基づいていたわけである。こうしたなかで, -ワイにおいてほ,顔母子講を めくoる1914年の判決において,療母子講は法的地位を有する貯蓄組織の一種であり,従っ て話規約に反する請負の行為ほ違法であるとして,損害の支払いが命じられている(羅府 新報1914年10月7日)。また多くの日本人がデルタ農業に従事したサンホアキン郡におい ても,療母子講の破産に伴う保証人の保証義務をめく。る1930年の裁判で療母子講の法的地 2年前に20余りの療母子詩 位が認められている.日米新聞(1930年2月20日)によれば, 113 114 矢 ケ 崎 典 隆 を運営していた竹亭が掛け金を2回支払った後落札して破産し,竹亭に代わって掛け金の 支払い義務を負った二人の落札保証人の義務の不履行をめくtlって訴訟となったが,判決ほ 二人の保証人に対して800ドルの支払いを命じているo これによって,サンホアキン郡に おいては顧母子講という純粋に民族的な金融組織に法律的保護が与えられたわけである。 民族的な庶民金融に依存した日系社会においては,日系銀行の破産という歴史にもかか わらず金融機関の確立がたびたび要望された。特に1930年代初期の不況時代には,不況対 策と金融機関の確立が頻繁に議論されるところとなっており, 1932年の南加実業会におい ても, 「日本人発展の上に必要欠くべからざる金融磯閑の確立ほ一般実業家の上に限前に 迫られた問題であるから之に就いても具体的に相談を遂げて金融円滑への運動を開始遷都 する方針である」とある(羅府新報1932年10月29日)。日本においては療母子黄や無尽講 に中には営業無尽や無尽会社-と発展していくものもあったが,カリフォルニアにおいて はそうした進展はみられなかった。日系銀行が移民社会の歴史の初期の段階においてすべ て失敗に終わったのは,前述したとおりである。非制度的な金融組織として,頼母子講よ りも組織化された信用貯蓄組合について次に検討してみたい。 2.信用貯蓄組合 カリフォルニアの日本人社会においては,非制度的な民族的金融組織として信用貯蓄組 合もまた多く運営された。これらは,純粋に民族的庶民的な顔母子講と比べて組織化が進 んでおり,第二次大戦前には非認可の信用貯蓄紐合として数多く存在したが,戦争直後は 州政府の認可を受けた信用貯蓄組合が多く利用された。このような日本人による信用貯蓄 組合の流れは,アメリカ合衆国における信用貯蓄風合すなわちクレジットユニオンの運動 に比較できるものであった。 「庶民銀行」としての信用貯蓄組合は19世紀中質にドイツに 発生しドイツやイギリスにおいて顕著な発展をみたが,合衆国では今世紀に入ってその展 開が始まった。 1909年にほ最初の信用組合法がニュー-ンプシャ-州で施行されているが, カリフォルニア州においては1927年にカリフォルニア信用組合法が施行され,その2年後 にほカリフォルニア信用蔽合連盟も結成されるまでになり,庶民金融として重要な役割を 果たすようになった(Moody and Fite 1971)0 第二次大戦前においてほ,日本人による民族的信用貯蓄組合は一般に同県出身者や同業 者によって組織されることが多かったo移民社会はさまざまな地域の出身者が混在した流 動性の高い社会であり,そこでは相互信顧の形成と維持が容易ではなく,違反者に対する 制裁も行われにくかったので,顔母子講よりも大規模な信用貯蓄組合は,秩序が維持しや すい地縁的単位である県人会・同郷会組織に関連した形で,また日系産業組合の下部組織 として設立・運営された。 資料の不足によりカリフォルニアにおける日系の信用貯蓄組合の全貌を明らかにするこ とほ難しいが,こうした金融活動の実態を断片的に把撞することほできよう。南カリフォ ルニアにおいては,県人会で最初に貯蓄組合を設立したのは長野県人会であり,創設2年 後の1909年に貯蓄組合を発足させている(南加日系人商業会議所1956, p. 128)0 『南加 日本人年鑑』によれば, 1917年7月現在南カリフォ)L・ニアには16の日系信用貯蓄艇合が存 在Lたが,そのうち11組合が出身地域を基盤にした組合であり,一般に貯蓄組合と呼ばれ 115 カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 たはか貯蓄金融組合,借用組合,共益会などの名称も用いられており,貯蓄高が1万5千 ドルに達した組合もあった。残りの5組合は植木業,洗濯業,料理屋,洋食店,靴工とい これら16組合の貯蓄総額は約5万ドルに及んで った同業組合を母体にしたものであったo 1917-18, いたという(南加日本人年鑑1, p. 63)0 広島県人は,カリフォルニア在住人口が多いこともあって,貯蓄金融組合の活動に最も 活発に取り組んだグループであった。 1910年代中電には,広島県人が組織した同郷会組織 のうち8つが貯蓄組合を有しており,それらはサンフランシスコ,サクラメント,フレズ ノ,フローリン(2組合),アイルトン,ウォルナットグローブの蔽合であった(田原1916, pp. 43-60)0 1920年代後半においても± 広島県人は同数の貯蓄組合を運営していた。とれ らの中で最も肯く最大の規模を誇ったのはフp-リン共志会で,これほサクラメントの南 に位置する農業地域フローリンに餅米代金の積み立てを目的として1904年に35名の組合員 によって設立されたもので,毎月1ドルを8か月間積み立て,年末に4ドルの払い戻しを 受けるものであった. 1929年におけるその組合員数はt 貯蓄総額は約5万ドルに達してい た。これらの貯蓄組合でほ,一般に組合員は月5ドル(1口)程度を積み立てるものが多 かったようである(竹田1929, pp. 119-123). 日本人による同業者紐合で貯蓄紅合を有するものも少なくなかった.例えば,ロサンジ ェルスの羅府実業組合は貯蓄融資組合を組織しており,これは1ら14年12月に35名の株主に よって1株5ドルで始められ, ている(JARP 2年間の活動状況についてはその会員名簿に記録が残され Collection)0 1906年にサンフランスシコに組織された日本人花園業者の団 体である加州花井栽培業組合ほ, 「本組合-組合員ノ出資及ビ積立金ニヨリ相互金融ヲ計 り併セテ金融機関ノ設立ヲ以テ目的ス」と,互助的金融を行うことを組合規則(第2条) に記しているoまたこの団体が母体となって1912年に設立された加州花市場株式会社内に は加州花井栽培業者金融組合が存在し,実際の活動状況の詳細ほ明らかでほないが,当時 の鮭合資料から1920年6月から1922年3月までの活動が確認できる(矢ケ崎1980)。戦前 におけるこのような貯蓄金融組合ほ主に一世によって組織されたが,二世の参加も徐々に American Savみられるようになった。 1929年にロサンジェルスで組織されたJapanese ings Associationは25名の二世によって組織運営されており,これほ金融活動のほかに二 世間の社交団体の色彩も強く持ち,組合費は金融組合員が25ドル,また社交組合員が2ド ルであった(Fukuoka 1937, p. 32). こうした貯蓄金融組合は1930年代の不況時以前には日系移民社会において活発に利用さ れていたが,経済不況時には貸付け金の回収が難しくなるため, 1930年代に入ると活力を 失って行った(Fukuoka 1932, 32)o太平洋戦争が勃発すると,日本人の強制収容に 伴って非制度的な貯蓄金融組合ほ消滅してしまう。しかし,戦後の日系社会の復興の過程 p. において,新たな形で民族的な信用貯蓄組合の展開がみられ,その中心ほ日本人の集中の 最も顕蓄な南カリフォルニアであった。 南カリフォルニアにおいて戦後日本人によって組織された信用貯蓄組合は,州の認可を 受け,加州信用組合連盟に属するものであった。これらほ依然として日本人のみを対象と Lた民族的組織であったが,戦前の貯蓄金融範合と比較して,合理的かつ長期的な展望のも 矢 116 崎 ケ 典 隆 とに組織されたといってよい。これらの多くが,強制収容所から帰還した日本人の住宅購 入を目的として生れたものであったという。南カリフォルニアの日本人によって組織され た信用貯蓄組合の中で最初に公式に認可されたものは,日系アメリカ人市民連合JACL によって1949年に組織されている。強制収用期間中に,収容所で信用貯蓄組合の設立が奨 励されたが,収容後の日系社会の復興を目的としてJACLはこれを方針の一部に取り入 れ,会員数1000人,月10ドルの納入によって11年間で百万ドルを蓄積することを目標にし た。 1959年にほ,この組合の会員数367名,資産総額11.2万ドル,総出総額9.6万ドルに及 んでいた(南加日系人商業会議所1960, のものは羅府西南日系人信用貯蓄組合Los p. 174)。日本人による信用貯蓄組合の中で最大 Angeles Southwest Japanese Credit Union で,これは1945年に住宅の購入を目的に西南区貯蓄組合として発足したものであり,発足 当時の仮規約をみると,日系人を組合員として,毎月10ドルの積立を一株とするものであ 25名が住宅を購入することがで った。設立後5年間は会員は30名にとどまってはいたが, きたという。 1960年までに会員数ほ2454に膨れ上がり,積立金保有額は67万ドルにおよん Collection だ(JARP ;南加日系人商業会議所1960, pp. ロサンジェルスを中心として信用貯蓄組合が増加したため, 173-176)0 1953年3月にはロサンジェ ルス大都市圏に存在した8つの信用貯蓄組合によって南加日系人信用貯蓄組合連盟が設立 されており,これの指導のもとに新たに2つの組合が誕生している。これら加盟した組合 の総資本金ほ, 1959年には250万ドルにおよんだ(南加日系人商業会議所1960, 173-176). このような発展を経験した信用貯蓄組合も,日系社会の経済復興が進展し住宅問題が解 決されるにつれて徐々に活力を失って行く。それでも1971年版『日米時事住所録』によっ て,南カリフォルニアの8つの日系信用貯蓄組合の存在が確認できる。さらに,日系社会 における民族的信用金融組織へのアクセスが容易になったことも大きく影響しているであ ろう。 Ⅴ.ディーラークレジットと農業社会 上記のような検討から,日本人移民社会においてほさまざまな経済活動を行うための金 融的基盤が脆弱であったことが明らかであるが,農業に関してみれば,これほ必ずしも日 本人の農業活動が大幅に制限されたことを意味するものでほなかった。彼らが頻繁に利用 した金融として, 「ディーラークレジット」と一般に呼ばれた農産物取扱業老による農莱 資金の前貸し金融制度が存在した。 勿論ディーラークレジットは日本人農業者に例外的に存在した金融方法ではなく,合衆 国の野菜や果物生産に一般的にみられた金融制度であったo シャーマンは1920年代後半に, アメリカの野菜・果物取引の歴史,現状,そして将来を理解するためには,銀行よりもむ しろ農産物取扱業暑から大部分融資を受けている農業の現状を理解することが不可欠であ ると述べている。その例として,カリフォルニア南部のインペリアル・バレーにおけるカ ソタ/p り, -プ生産に必要な資本のかなりの部分が農産物取扱業老によって常に供給されてお 1920年代後半にほ年間の融資額は数百万ドルに及んでいたという.同様の融資がコT, ラド州のレタス生産地域やミシシッピー州のトマトその他の野菜生産地域の形成と発展に 117 カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 果たした役割ほ大きく,また消費市場-の長距離輸送が必要な主要な野菜園芸農業のいず れにおいても,そうした金融が一般的に利用されていた(Sherman 1928, pp. 73-74)0 このような金融制度が発達したのほ,野菜価格の大きな変動によって生産者が銀行から・ の融資を受けることが難しかったためであり,一方果樹園経営者は果樹園に対する評価に よって融資が比較的容易に認められた。農産物取扱業者ほ生産者に対して農業資金を融資 すると同時に彼らと何らかのマーケッティング契約を結び,これにより他の取扱業老との 競合を避けるとともに,農産物取扱量を確保することができたわけである(Gilmartin 42, 19 56-57)。また生産者が受けた融資は単に資金だ桝ことどまらず,肥料,種子,農 薬,梱包用晶などの物品も前貸しの対象となったが,このような場合には農産物取扱業暑 pp. が代行手数料を取って販売取扱を行い,前貸し物品の代金や手数料は農産物販売代金から 差し引かれた。いずれにしても販売代金が前貸し金額を下回る場合にほ,赤字額は借金と して次年度-持ち越された.従って,生産者の負債が増大した場合には,農産物取扱業暑 がその生産者の生産物全体の販売権を独占するような状況も生じた。特に大恐慌時には, 生産者ほ経済的危機にたたされ次の作物生産に着手する資金にも窮するような事態も頻繁 に起こったが,他に利用できる資金がないため,自由と独立を犠牲にしてもディーラーク レジットに依存しなければならない状況が続いた.このようにして,農産物取扱業老の影 1942, 響力が合衆国の野菜生産に深く浸透していったわけである(Gilmartin, 94-95)0 pp. ディーラークレジットには以上のような功罪が存在したが,日本人農業者はこうした非 制度的な業者金融を利用しながら,カリフォルニアにおける農業に地歩を築いて行くこと ができた。すなわち,農業労働者として農業を始めた日本人は農業階梯を上昇して行った が,こうした上昇ははとんど資力が欠如していても可能であり,その過程においてディー ラークレジットの果たした役割は大きかった。農業者は,農産物を担保にLて地元農産物 取扱業老あるいは東部の大事業着から資金の融資を受け,さらに地元の商店からは食料品 を付けで購入することもできた。日本人に農業資金を融資したのは,野菜や果物の出荷・ 販売に携わった個人や企業ばかりでなく,缶詰会社や砂糖精製工場なども含まれ,そうし た資金は農産物の作付け,収穫,箱詰め,そLて借地料の支払いさえ可能にした。同様な 前貸し金融は,戦前に多くの日本人が従事した漁業においてもみられ,ここでは缶詰工場 が農産物商と同様な役割を演じ 千ドルにも達したという(State 漁船その他の装備まで含めて融資総額はしばしば4-5 Board of Control of California 1922, p. 93)0 具体的な事例として,セントラル・バレー中央哉のタ一戸ック地域で1920年頃に行われ ていたディーラークレジットの状況について,カリフォルニア州政府の調査に対してカン タロープ,スイれ サツマイモ,ブドウなどの販売業着であるタ-pックのウエストフォ Board of Control of California ールレーン会社が1920年3月に送った報告(State 95196)に基づいて,少々長くはなるが概観してみたい.メ-ロック濯概地区内で日本 pp. 人は借地により主にカンタロープを栽培し,その面積は当時3500エーカーにおよんでいたo 借地の8割はエーカー当たりの現金借地料が80ドル程度のものであったが,借地契紐時に 日本人ほ借地料の3分の1あるいは2分の1を現金で支払い,残金の支払いほ一般的に9 月1日頃まで猶予された。このため借地契約が成立すると,彼らほ借地料の最初の支払い 1922, 矢 118 ケ 崎 典 隆 を完了できるだけの金額の融資を農産物取扱業老に対して依頼し,時にほ業者との契約時 に,耕作に必要な資金の融資が盛り込まれることもあった。また,場合によっては借地料 の融資が成立した後に耕作資金を要求することもあったが,この場合,農産物取扱業者は 最初の融資を安全にするためにも,追加資金を融資するのが当然の成り行きであった。こ うした融資においては,家畜や農作物や農機具が担保にあてられた.さらに,収穫と箱詰 めのために一箱当たり35-40セントの割合で融資が行われ,また出荷用の板や釘やラベル も信用貸しされた。このような業者金融の総額ほ多大であと同時にリスクも相当なもので あり,取扱業老は生産者の販売額の15%を受け取り,さらに一箱当たり1セ./トの取扱料 が加算された。 ロサンジェルス地域は戦前を通じて日本人の近郊野菜生産地域として知られたが(矢ケ 崎1983),ここではロサンジェルス農産物市場に本拠をおく日系農産物取扱業者も日本人 生産者に対してディーラークレジットを行っていたo戦争直前の状況についての報告によ 1949, pp. れば(Broom 93-94),ある大規模な日系農産物取扱業暑が1941 and Riemer 年に行った融資ほ78件におよび,その融資総額は5万ドル近くに達したが,こうした件数 の5分の4,融資総額の90%が日系生産者に対するものであり,彼らに対する融資は平均 739ドルであった.現金融資に加えて,日系その他の卸売業者ほ,肥料,種子,農機具を 卸売価格で購入し非営利的な水準で生産者に提供した。そして,こうしたディーラークレ ジットによって農産物取扱業暑が多くの損害を被ったという証拠ほ,強制収容の結果生じ たものを別として存在しなかったとしている。 ディーラークレジットは第二次大戦前を通じて日本人農業者の間に支配的な金融制度で あり,太平洋戟争の直前には,日本人農業者の3分の2がディーラークレジットを受けて いた・という指摘もあるが(米国産業日報1941年5月3日, 5日),こうした制度の持つマ イナス面や,それに依存しなければならない日系農業社会の状況にたいする批判が,日系 社会の内部から頻繁になされたのも当然の事であろう。例えばはやくも1918年には羅府新 報元旦号の紙面において,中央日本人会技師の古田正二ほ,日本人農民がディーラークレ ジットに依存し続ける状況はまことに不本意であり,各生産者が農産物のマーケッティン グに閲Lて束縛を受けるような結果が継続すれば,健全な日系農業社会と経済の発展ほ望 めそうにないと悲観的な見解を述べている。このような生産者と農産物取扱業老との関係 は,その後も戦前を通じて継続することになる。日本人農業者にとって,ディーラークレ ジットは諸刃の剣の存在であったといえよう. Ⅵ.おぁりに 本稿は,おもに第二次世界大戦前におけるカリフォルニアの日本人移民社会が有した金 轡構造の全体像を明らかにすることを目的として,制度的および非制度的金融のそれぞれ について検討を行い,移民社会におけるそれらの意義と問題点を指摘した。明らかとなっ た結果は以下のように要約できよう。第二次大戦前の移民社会においては,金融に関して 銀行は大きな役割を果たさなかった。移民によって設立された日系銀行は,大恐慌以前の かなり早い時期にすべて姿を消してしまい,銀行設立を求める要望だけが戦前を通して板 カリフォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題 119 強く存在した。日本から進出してきた銀行支店ほ送金業務が中心で,例外的な融資を除い ては移民社会に積極的に融資を行うことはなかった。またアメリカの銀行についても,日 本人は信用の確立が難しく,彼らが従来した野菜生産や都市のスモールビジネスは銀行融 資の対象には容易にならなかった。このような状況のもとで頻繁に利用されたのが非制度 的な伝統的庶民金融であり,なかでも,日本から移植された頼母子講はさまざまな問題を はらみながらも重要な役割を果たし,また信用貯蓄組合も,戦前は非公式な組織として, さらに戦後は公認の組合として利用された。農業地域においてほ,ディーラークレジブト と呼ばれた農産物取扱業者による金融が一般的に行われ,これほマイナス面を内在しなが らも日本人農業の進展を促進した。頻繁に行われた本国-の送金は移民社会からの資本の 流出を意味し,その脆弱な経済基盤をさらに悪化するものであったといえる。 ところで,サントス(1979)紘,発展途上地域の都市経済は上部回路と下部回路の二つ から構成されると指摘しており,また高橋・ヨシカ- (1984)はブラジルを例に金融機能 の上部回路を検討している。こうしたモデルは日系移民社会の経済を検討する上でも参考 になろう。本稿で指摘した制度的金融組織は金融の上部回路に,また非制度的金融組織は 下部回路に相当するものであり,戦前の日本人移民の経済活動は下部回路を中心に行われ, 上部回路への参加は制限されそれとの関係も希薄であったわけである。都市および農業地 域における金融機能を含めた経済の下部回路の全体像を明らかにし,さらに上部回路との 関係を理解することによって,移民社会の経済を当時のアメリカ経済の中に位置付けるこ とができようが,そのためにはまず日本人移民が従事した職業についての詳細な分析が必 要となろう。さらに,戦後大きく変貌してきた日系アメリカ社会についても同様な検討を 行えば,戦前および戦後における日系社会の比較も可能であろう.また戦後においてもそ うした二つの回路が存在するかどうかといった点も考察を必要としようが,もし別個の回 路が存在すると佼定して,日本から進出が目覚ましくアメリカ経済の上部回路を構成する と考えられる日系の銀行や企業が,上部回路-参加が著しい日系アメリカ社会といかなる 関係にあるかといった点も興味深い問題である。また近年増加の著しいヒスパニック系住 民は,下部回路に関する検討を行う上で重要な要素となろう。今後,サントスのモデルを 援用しながら,移民社会に関して考察を進めていきたいと思っている。 第二次大戦前のカリフォルニアの日系社会を理解しようとする場合,資料的制約がきわ めて大きく,断片的な研究を蓄積していく以外に方法がないようであるo本稿のための調 査は,カリフォルニア大学図書館(バークレーおよびロサンジェルス)を主に利用して行 Collectionや戟前の日系新聞の利用に関 i;た.特にUCLA大学研究図書館ではJARP してたいへんにお世話になった。また本稿をまとめるにあたり,文部省科学研究費補助金 (奨励研究A61780274)の一部を使用した。あわせて感謝の意を表したい。 矢 120 崎 ケ 隆 典 参考文献・資料 開国百年記念文化事業会(1955) 関原 栄(1916) 『日米文化交渉史5移住編』東京,洋々社, : 632p. 622p. :『加州広島県人発展史』サクラメソト, : 『移民調査報告』東京. 外務省通商局(1906-1914) 在米日本人会(1909) :『在米日本人会会報Ⅰ』サンフランシスコ. 在米日本人会(1940) 1295p. :『在米日本人史』サンフランシスコ, 在米日本人連合協議会(1907) : 『在米日本人連合協議会報告書Ⅰ』サンフランシスコ. 住友銀行(1926) : 『住友銀行三十年史』大阪. 住友銀行史編纂委員会(1955) : 『住友銀行史』大阪. 高橋伸夫・ネルソソ・マサタケ・ヨシカエ(1984) :ブラジルにおける金融空間の構造.人文地理学 研究8, 203-234. pp. 竹田順一(1929) 698p. :『在米広島県人史』ロサンジェルス, 南加日系人商業会議所(1956) :『南加州日本人史』ロサンジェルス, 南加日系人商業会議所(1960) : 南加日本人会(1922) 『南加日本人年鑑』 南米銀行(1960) 756p. 『南加州日本人七十年史『ロサンジェルス, : 「記録1 「新聞切抜帳」 JARP 南加日系人商業会議所(1918-23) : 370p. 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