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経営学講義ノート 1997年度 日置 - 京都大学 大学院経済学研究科・経済

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経営学講義ノート 1997年度 日置 - 京都大学 大学院経済学研究科・経済
神戸女学院大学組織論講義ノート
講義ノートの使い方と注意
この講義ノートは、2001 年度神戸女学院での組織論の講義のためのノートです。受講の際の参考に
してください。しかし、このノートだけで試験を受けてもかなり難しいと思います。それは、単にこのノート
にアクセスできるというだけでは解けないような問題を出題する予定だからです。
講義での論点は、一応ここに書かれたノートにしたがっているはずですが、現実には事前に用意した
ノートの通りの講義をするわけではありません。その時の講義の状況、皆の顔を見てわかったかどうか
を判断しながら説明の仕方を変えていったり、あるいは別の事例を出したり、時には、最初の論点とは
異なる方向の議論を始めたりします。講義の後でその論点を書き足すこともありますが、ここのノートは
最初に用意したままのものであることが普通です。そのために、このノートの通りの講義がなされる保
証はありません。そのことを了解した上でノートを参照してください。
また、途中に、平凡社百科事典、小学館ニッポニカ、マイクロソフト・エンカルタなどの百科事典からの
引用が挿入されています。これは、日置のメモ代わりですが参照してください。もっとも、引用には著作
権がありますから、この講義録をそのまま転用することはさけて、あくまで講義理解の補助に使うように
してください。
また、このノートは十分に遂行したものではありませんから、多くの変換ミスが含まれています。その
ことに注意しながら読んでください。
1.組織論の今
組織論という学問はどのような学問で、何を目的にしているのだろうか?
それは、組織という研究対象そのものが変化してきていることに対応しており、非常に大きく扱いが変
化してきているために、現在大きく変わりつつある。
まず、組織という言葉でどのような連想を持つだろうか。組織をどのようにとらえることがふつうなの
か。大学や企業など、組織で連想するのは巨大な規模の人の集まりであるだろう。人が集まるだけで
はなく、規則が定められ、かっちりした枠組みで行動が決められているような状態を想定することがふ
つうである。このような組織が成立したのは、およそ百年程度前なのだが、それ以前とはかなり異なっ
ている。
百年前の組織の状況、つまり二十世紀になったばかりの社会での組織と、現在の組織はかなり異な
っている。二十世紀の前半には組織が将来は非常に大きな役割を果たすものと考えられていた。組織
的に編成された社会の中で生きるようになるだろうと、考えられていた。
これは、主として、生産の組織が非常に大きな役割を果たすものと考えられていたことが大きな要因
であるといってよい。生産が重要な役割を果たすものとされていたこと自体がポイントとなっている。こ
の点から考えてみよう。組織論の歴史は、生産の組織、つまり企業を中心とする組織が非常に大きな
社会的インパクトを持つものと想定して、理論を作っていた。この点をまず考える。
社会科学全体に、現在の基礎的な社会現象を記述する概念は百年ぐらい前に用意されている。この
ことは、現在の理論が基本的に百年前のヨーロッパとその派生した文明である北部アメリカの社会を
前提としていることを意味している。その理論をそのまま現在の社会に当てはめることができるのかに
ついては非常に多くの問題を含んでいる。二十世紀を通り越して、現在の二十一世紀社会においても、
無反省にこのような概念を適用できるわけではない。組織という概念も、十九世紀から二十世紀にか
けてのヨーロッパ・アメリカの状況をそのまま受け入れて構成された概念群の一つであり、現在の状況
に対しての説明力がどの程度あるのかは験証していく必要がある。
現在の社会、現在の生産の状況は、工場で実際にものを作る人々が非常に多いわけではない。すで
に高校の社会で習ったように、第一次産業従業者は非常に少なくなり、さらに、第二次産業も減ってき
て、現在では第三次産業の従業員が最も多くなっている。ものを作ることが第一次産業でも第二次産
業でもそれほど多くの人を要しないようになっている。
第三次産業の従業員が全労働力の半分を占めるようになり、働くために大規模な組織が必要である
とはいえなくなっている。このことを確認する。
百年前のもの作りはどのようになっていたか、また、農業はどのような状態であるのかを考えてみよ
う。実は、百年前に工場は非常に大きな変化が生じている。それは大量生産という生産の方法が導入
されたことである。大量生産によって、工場の生産性は飛躍的に増大し、それが標準的な方法であると
考えられるようになった。
われわれの時代を産業社会と呼び慣わしてきた。産業社会とは、産業が発達しているという意味で
はなく、生活を支えている物資のほとんどが産業によって提供されている社会を指している。現在、過
程で食糧を自給するとしても、その比率はかなり小さい。農家であっても、主食の米と野菜程度の自給
で、すべてのカロリーの六割程度の自給であるだろう。もちろん、食生活を変化させて、できるだけ自分
の作ったものを食べるようにすればかなり変わってくる。つまり、精進料理にしてしまうか自給できる範
囲の魚や肉を食べるならば、さらに、みそや醤油を自給する。このようにすればかなりの程度のカロリ
ーを自給することができるが、通常は、食料のかなりの部分を購入する。しかも、農家は全体の一割に
も満たない。
要するに、生活が必要とする製品のうちで、ごくわずかな部分しか自給せずに、他の生産に依存する
社会が産業社会である。この産業社会において、組織による生産が必然のものと考えられていた。つ
まり、大量生産というシステムが生産の標準であり、それこそが産業社会を可能とするものとされてい
た。この常識が組織が社会の中で果たす役割を高く意識して、組織論という学問領域を生み出してい
った。さらに、社会組織の中で、人間の生活そのものが組織を通して編成されていくという意識があり、
生産の場面に限定されずに、広く組織を重要なものとしてとらえる視点が形成されていった。
組織論は近代という時代を強く意識している。社会組織が整備され、徐々に秩序が統一されるという
中で社会統合の手段としての組織が意味を持つとされていった。また、この時に、非常に大きな社会的
権力を得るための手段としては組織によるものしか考えにくいという状況でもあった。
社会全体の秩序形成において、組織の果たす役割は大きく、さらに複数の秩序形成が考えられる時
には、組織観の対立として社会をとらえる視点が形成されていった。また、その意味では秩序を壊す手
段としての組織が問題となる。つまり、組織化されている社会を変えるためには組織を手段として用い
るということになる。このような場合の組織は、一般に大衆運動を組織して、既存の秩序を打ち壊すと
いうことになる。この意味での組織論は運動論とも呼ばれ、運動の中での組織を問題とする。
この意味での組織論は、政党の組織や宗教組織などを含んでおり、それぞれの組織において、どの
ように運動を一般化し、多くの人を参加させていくかを問題とする。組織論の形成は、二十世紀の初め
頃の社会を想定して行われており、それがそのまま現在でも通用するかについては吟味を必要とする。
おそらくは、社会組織の中での条件が大きく変化しており、それを中心として組織論を再編成すること
が必要である。すでにネットワークとの対比において組織を問題とするという議論が提出されており、
社会状況の変化とともに組織の意味と役割、さらに、それに対応する組織論の変化が生じているとい
ってよい。
2.生産の組織
①近代以前の生産とその担い手
まず生産の組織を考える。生産の組織が問題となるのは、産業社会以前の社会においては、社会が
持続するためにはまず何よりも生産が確保されていることを必要とする。現在のわれわれの生活にい
たる以前の生活がいかに物資が乏しかったかということを改めて考え直す必要がある。
例えば、生活領域としてもっともわかりやすいのが食料である。食糧の確保がどの社会においても必
要であり、それを確保するための手段が限定されている場合には社会が持続できない。また、この時
の食料は、最低限のカロリーというだけではなく、必須アミノ酸やミネラルなどを含んでいることに注意
する必要がある。例えば、ナトリウムである。塩はどうしても必要であり、現在のような豊富な塩が得ら
れるようになる以前は、塩を巡ってさまざまな調達が行われた。
大きく分けるならば、海塩と岩塩がある。海の塩分を抽出することによって塩を得るという方法は、か
なり古くから行われていたが、非常な労力とエネルギーを必要とする。海水を煮詰めて水分を蒸発させ
れば塩が得られるという原理であるけれども、現実には塩を煮詰めてそれをなくしてしまうにはずいぶ
ん長時間煮る必要がある。塩を煮詰める容器はかなり耐久性の高いものでなければならず、金属の釜
も海水を煮ると腐食が激しく、長持ちしない。日本で行われている入浜式とか流下式といわれる塩田で
の方法は、海水を長く日光にさらすことで、水分を蒸発させ、その結果として、塩分濃度の高い海水を
得ることで煮る時間を節約しようというものである。
また、古代の製塩法としては、「藻塩焼き」と呼ばれる方法がある。たっぷりと海水に浸した海草を焼
き、それに付着した塩分を払い落とすことで塩を得るというもので、収量は非常に限定されている。おそ
らく、自家消費に使う程度の塩の量であれば、さほどの技術や装備を必要とせず、この方法で十分で
あっただろう。
もちろん、煮るといってもそのエネルギーは主として木材であり、それを得るためにさらに労働が必要
となる。その意味では、できるだけ濃縮することが決定的に収量に影響する。
塩分がなければ人間は生きていくことができない。塩を節約しなければならない食事がいかに味気な
いものであるかは実験してみることができる。ただし、現在では、豊富で安価な塩の存在によって、逆
に塩分濃度が食事の中で相当に高くなっており、しかも外食ではやや強い目に味付けをすることが普
通になっている。塩分濃度はそれと気づかないうちに高くなる傾向があり、このために、少しずつ塩辛さ
は増大している。
けれども、豊富な塩が存在しない時には、塩の入手は困難を極める。岩塩は昔海だったところが、地
形の変化によって干上がったために、塩が固まった状態である。このために、非常に限定された場所し
か岩塩を得ることはできず、塩の入手は一般にどこでも可能というわけではない。
このほかの手段としては、パプアニューギニアでは、ある種の植物を焼いて、その灰に含まれる塩分
を利用しているという。塩を得る方法はかなり限定されており、さらに地域性が高い。このために、塩を
交易に用いるということがかなり早くから行われていたものと考えられる。縄文文明の研究においては、
黒曜石の交換が広く行われていたことが知られており、縄文商人という概念が提出されている。黒曜
石は遺物として発見されるので、その交換の様子がわかるが、塩の場合には残ることはなく、交換の
証拠はない。けれどもおそらくは交換の対象であり、広く、そのような交換が行われたものと考えてよ
い。
塩を得ることの困難な地域として大陸がある。海からかなりの距離があり、しかも、岩塩を得ることが
難しいような地域では、塩は貴重品になる。ヨーロッパではかなり岩塩が多く産出するために、それほ
どでもないが、中国の多くの地域では塩は不足する。このために、塩にかかわる商売は非常に儲かる
もので、これに目をつけた政府が塩を専売とすること、あるいは塩に税金を掛けることが行われた。す
でに漢の時代から盛んに専売が行われていたことは注目してよい。
塩は必須のミネラルであるが、それ一つを取ってみても、自家消費以上の量を確保するために生産
を行おうとすると、かなりの人手を必要とする。このことは、多くの生産についていえることで、必要な装
備や人員を確保することは、その人たちの生活を特定製品の生産でまかなわなければならないことを
意味している。このような社会的分業のシステムが開発され、形成されていくことが産業社会の大きな
特徴である。
専門分化した職業での生活は、それによって特定製品を大量に生産し、その製品を交換することに
よって、自分の生活に必須の製品を確保しようとすることになる。生活のどの部分を自給し、どの品を
外部に依存するかは条件によって大きく異なる。狩猟や採集から発達した農業や漁業、それに遊牧な
どの生活の形態は、主として食料調達に向けて編成されている。何よりも食料が優先するという傾向
は一般的であり、それが当然であるだろう。社会的分業としては、個別の家庭内で自給できないような
製品を特化して作るような職業が分化していく。
それは例えば、金属加工であり、製陶である。金属や陶器を自給することはかなりの技術と装備を必
要とする。このために、金属加工については鍛冶屋が成立し、陶器についても初期は自給していたも
のの次第に加工が高温になり、高度な技術と装備が必要になるにつれて専門的職業が成立するよう
になる。「村の鍛冶屋」はほとんど六七十年前まで存在していた。
家庭で自給できる製品も外部が担当し、大半の人間が自分の生活物資を作らないという状態が産業
社会である。産業社会では、社会的分業が進み、職業としての性格が強まる。それまでの生業という
概念が消えていく。しかし、現在でも自分の食料のかなりの部分を自給することが農家では可能である。
カロリー量では自活が可能であっても現在の食文化を想定すると、かなりの部分は外部に依存しなけ
ればならない。
もし、食料のすべてを自給しようとすると、米と野菜だけではなく、家畜を飼育し、漁業も行わなけれ
ばならない。条件のよいところであれば、不可能ではないが、一般的には自給の範囲を限定して、不足
する部分を自分の特異とする領域の生産を高めて、それと交換することが有利である。生活の中です
べてを自給しなければならない状況は、比較的早くに解消されたものの、自分の食料の相当部分を自
給することはごく最近まで行われていた。江戸時代では都市生活者でも土地を持っていれば多少の食
料生産は行っていた。
現在でもポリネシアなどでは食料のかなりの部分は自給している。サゴ椰子という椰子があり、三十
年ほどで幹にでんぷんを蓄える。この状態で収穫し、幹の中のでんぷんをとりだし、水さらしに掛けて、
灰汁抜きをするとそれが主食になる。一本のサゴ椰子でおよそ三十キロのでんぷんが収穫される。切
り取った後には、若い枝を植えておくと、それが育っていく。半裁倍の状態で、サゴ椰子そのものが所
有権を持つ。これに珊瑚礁での漁業を加えると、かなりの程度までは自給することができる。
参考 サゴ椰子
通常,栽培するヤシ科の高木で,マレーシア熱帯低地の湿地に生える。若木は地下茎から多数出るので,純林をつく
りやすい。若いときは茎はごく短く,ニッパヤシに似ている。茎は直立し,高さ 7~15m,直径 30~60cm。サゴデンプン
をとるために栽培されるのはホンサゴ M. sagus Rottb. とトゲサゴ M. rumphii Mart. である。トゲサゴは葉比(ようしよう)
や中肋に長いとげがあるのでホンサゴと区別されるが,同一種とする人もある。ふつう 10 年から 15 年生ぐらいになる
と,茎の先端に長さ約 3~5m にもなる複羽状に分岐した円錐状の花序を出して,淡紅色の花をつける。しかし開花
結実すると,茎の髄が乾いて枯れてしまう。それでサゴデンプンは開花直前の,デンプンを多量に貯蔵している茎を
切り倒し,髄を粉砕して水洗し採集する。1 本の木から 300~500kg のデンプンがとれる。ニューギニア,モルッカ諸島
の原産で,ニューギニアの原住民はこのデンプンを主食としている。葉は,屋根ふき材や壁材,あるいはバスケット等
の編材として多用される。
初島 住彦
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 平凡社「世界大百科」
このような生活のパターンでは、大きな組織を作る必要はない。小さな集団で十分に生活できる。も
ちろん、生活のパターンや生業の種類によってはかなりの集団でなければ生産ができないようなものも
ある。例えば、小麦などを考えると、米に比較するとかなりの面積を必要とする。米は非常に収量が多
く、このために、非常に小さな家族でも自給することが可能である。他方で、小麦は生産性が低く、相当
の面積を切り開かなければならない。このために、小麦はかなりの集団で栽培されることがある。いわ
ば大農場が必要となる。
米と小麦ではかなりの違いがあり、米は収量が多く、アミノ酸組成に優れているために、米と少しの野
菜で十分に生きていくことができる。他方で、小麦はタンパク質の量は多いものの必須アミノ酸に欠落
しているものが多い。このために、小麦だけではなく、どうしても肉などの動物性蛋白を補う必要がある。
和食のパターンが込めとみそ汁という朝食であり、洋食の場合には、パンと牛乳あるいは卵といった組
み合わせであるのは、そのためである。
他方で栽培について見ると、米は湿潤な気候、高温多湿を木の実、小麦は乾燥に強い。このために、
米の場合には灌漑が必要となる。小麦はかなりの乾燥にも耐えて、結実する。この意味では米のほう
がはるかに手がかかる作物である。さらに、米の場合には水田で作ることが普通で、このために、平ら
な田を作る必要がある。他方で、小麦は灌漑の必要がないために、山や野を焼いてしまい、そのまま
の地形で栽培することができる。このために広い畑が必要であるとしても、あまり大きな小路は必要と
しない。焼いた後の、木の切り株を掘り出し、あるいは意志をどけるだけでそのまま種を蒔くことができ
る。
しかし、米と麦の最大の問題は、小麦にはかなり強い連作障害(いやち=忌地)があるのに対して、
米はほとんど連作障害がないという点である。連作障害とは、続けて同じ作物を作ると、次第に収量が
低下し、ついには作物が育たないという現象を指している。野菜の多くはこの連作障害を持っており、
続けて作るのではなく、何年か別の野菜を作ってから戻るという循環によって連作障害を防いでいる。
連作障害の原因は病気によるものが多く、さまざまな病原菌やウィルスによって連作するとそれが増
殖するということになる。また、土中の微量元素が不足し、そのことによって生育が阻害されることもあ
る。いずれの場合にも、連作しないことで防ぐことができる。ところが、小麦のような場合には、どうして
も栽培して、一定量を確保することが必要になる。このために開発されたのが三圃制農業である。これ
は、春小麦、冬小麦を栽培した後、休耕するという方法で、実質的には三年間で一年しか栽培しないこ
とで連作を防止しようという方法である。
この三圃制農業が確立したことによってヨーロッパの小麦収量は倍増したといわれている。けれども、
そのためには、必要とする農地は三倍となる。このために、さらに耕地を切り開く必要があり、かなりの
規模の農場が必要となる。
参考 三圃制
ヨーロッパ中世で典型的に発達した農法で,穀物畑における 3 年単位の輪作を根幹とする。三圃農法ともよばれる。
開放耕地制度と結びついて,農村社会の基礎を構成する制度となった。輪作方法としての三圃制は,耕地を三つの
耕圃 field(ドイツ語では Feld,フランス語では sole)に分割し,一つの耕圃では,第 1 年度に冬穀物,第 2 年度に夏穀
物を栽培した後,第 3 年度を休閑するという順序を繰り返し,かつこの順序を耕圃ごとに,1 年ずつずらせて,同一年
度については,耕地を冬畑,夏畑,休閑地にほぼ均分することを内容とする。比較的広い土地があり,肥料の供給が
少ない状況の下で,穀物を主たる作物とする農業を行うために,3 分の 1 に及ぶ耕地をつねに休息させておくことが特
徴である。秋に播き,夏の末に収穫する冬穀物は,それぞれ白パンと黒パンの材料である小麦とライ麦で,これを地
力の最も回復した休閑後の耕圃に栽培して,当時の主食であったパンのための穀物を確保することを主眼とする。同
時に,馬の飼料やビールの原料として使われることの多い大麦とエンバク(燕麦)とを,春の初めに播きやはり夏の終
りに刈り取る夏穀物として栽培して,家畜飼養や食生活の多様化をも目ざしている。
この輪作制度では,穀物の播種に先立って,畑をなるべく深く耕起する必要があり,ことに休閑地を数回犂耕して雑
草や穀物の刈り株を土中にすき込んで,冬穀物の播種の準備をすることが重要であった。そのために用いられたの
が,数頭の牛か馬で牽引する重量犂であったが,これに犂夫も加えると,全体としてかなり長い犂隊となるので,その
回転回数をなるたけ少なくするために,一筆耕地も細長い形となることが多かった。また役畜のほかにも,多数の家
畜が備えられ,小舎飼養による遠肥を耕地の一部――例えば,播種目前の冬畑――に重点的に施すだけでなく,穀
物刈取後の畑や休閑地に放牧することによっても,地力の回復を図っていた。通常家畜の放牧は,穀物が生育中の
畑から仕切られたまとまった面積の土地を必要とする。したがって経営面積が限られている農民にとっては,穀物刈
取後の耕地を共同に使用することが有利である。このように,3 年輪作制度は,共同体的な開放耕地制度と適合関係
にあり,村落共同体の成熟とともに,村域全体の組織化と結びついて,厳密な意味での三圃制度となった。
しかし個々の農民に経営上の自由がまったくなかったわけではない。三圃制は穀物畑を主たる場としていたから,
庭畑地では多様な作物を栽培することが可能である。穀物畑の一部を手耕農具によって集約的に耕作して,土地生
産性を重点的に高めることも行われた。夏畑での豆類の栽培もしばしば行われた。また,領主直接経営を先頭とする
大経営が三圃制から免れて,独自の輪作を行っている場合も多い。それだけではなく,一定期間三圃制が中断され
て,耕地が草地に戻されたり,三圃制と二圃制が交代したりする場合や,土壌や気候の好条件のもとで,穀物以外の
作物が大幅に導入されていた事例も,多数報告されている。こうして現在では三圃制の普及の度合をあまりに高く考
えることが戒められており,村落共同体と領主制が発達した地域で通例的であったという意味で,西欧の中世農村に
典型的な農業制度,というように考えるべきであろう。
三圃制度は中世初期に成立した。これに先行するのは,ローマ帝国で普及していた冬穀物栽培と休閑を組み合わ
せた二圃制と,短期間穀物を栽培した後,土地を草地に戻しておく穀草農法とであった。いずれに対しても,三圃制は
穀物栽培面積の増加を意味するが,通例,冬穀物は面積当りの収穫量が夏穀物を大きく上回るため,土地生産性に
おいては二圃制への優位は明白ではない。むしろ三圃制は,冬穀物にとっての農閑期に,夏穀物のための犂耕と播
種とを導入して,年間の労働配分を合理化し,それによって,働き手 1 人当りの生産性を高めたのであり,当時普及し
はじめた重量犂の使用とあいまって,農業生産力を上昇させたのである。しかし 10 世紀までの史料では,3 年輪作は
主として領主直接経営について言及されており,農民経営でもそれが行われていたことは確実だが,厳密な意味での
三圃制が普及してくるのは,村落共同体が確立する中世盛期である。
11 世紀から 13 世紀にかけては,領主直接経営が衰退し,農民によって広く三圃制が実行されるようになる。開放耕
地制度によって,村域の組織化が進み,冬畑と夏畑をなるべく 1 ヵ所に集中する努力もかなりの成果をあげた。休閑
地の犂耕回数もこの時期に増加して,最低 3 回となった。こうした三圃制の普及と改良によって,農業生産性は著しく
高まったといわれ,播種量に対する収穫量の比が,中世初期の 2 倍前後から,中世盛期には,4 倍前後となったとい
われている。
中世末期以降,農業技術の改良が進むが,その中には牧草など地力回復力の強い作物の普及があり,これらと穀
物を適宜組み合わせると,必ずしも休閑地を必要としない新しい輪作方法が可能となる。同時に,村落共同体の弱化
に伴って,市場で有利な作物に専門化する大経営や,小さな面積を集約的に耕作する零細経営が増加すると,三圃
制はしだいに後退していき,最終的には農業革命によって,廃棄されることになる。
三圃制が行われた地域を確定することはきわめて難しい。地中海地方では,夏の暑さのため夏穀物の栽培が困難
なので,古代以来二圃制度が続いていた。しかしヨーロッパ北部でも,三圃制が行われていなかった場所が広狭さま
ざまな範囲で,あちこちに存在している。三圃制は,広大な穀物適地がありながら,肥料が乏しい場所に適しており,
また穀物の連作を含むために,完全な休閑を必要としていた。これに対して二圃制は,そもそもパン用穀物の収穫量
が三圃制より多い上に,休閑地での穀物以外の栽培が比較的容易で,労働力が十分で肥料が豊富な場合には,零
細経営による集約化によって,土地生産性を高めることを可能にしていた。したがって,こうした条件のある環境では,
二圃制が選ばれることが多かったのである。総じて三圃制は,12 世紀から 13 世紀のドイツ人の東方定住によって東
欧方面に広がった例が典型的に示すように,ヨーロッパ北部の平原地帯で発達した中世の封建的な社会とともに拡
延したということができる。⇒村
森本 芳樹
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
I プロローグ
三圃制
さんぽせい
Three-Field System
中世ヨーロッパで普及
した、麦畑の三年輪作を中心とする農地利用システム。三圃農法ともよばれる。
II 耕地の利用法
耕地を 3 つの部分にわけて、それぞれを秋まき夏収穫の冬麦の畑、春まき秋収穫の夏麦の畑、
もう 1 つは休閑地として、原則として毎年、各部分をこの順序でいれかえてゆく。冬麦とは
小麦とライ麦であり、ともにパンの原料となった。夏麦とは、大麦と燕麦(えんばく:オー
ト麦ともよばれる)であり、オートミールのような粥(かゆ)やビールの原料として消費され
たほか、燕麦は馬の重
要な飼料となった。ま
た夏麦のかわりに、エ
ンドウやソラマメなど
の豆類や野菜が植えら
れることもあった。
耕地を休閑地としてや
すませ、この間にいく
度か犂(すき)でたがや
して地力の回復をはかることは、麦類の栽培には必要不可欠だったと同時に、休閑地には家
畜を放牧することができ、その糞尿(ふんにょう)が畑の肥料ともなったので、一石二鳥だっ
た。
III 三圃制の起源と発展
三圃制は、ローマ時代に地中海沿岸地域でおこなわれていた、冬小麦と休閑地を輪作する二
圃制に、北方のライ麦や大麦栽培がくみあわさって、8 世紀ごろに、ライン川とロワール川
にはさまれる地域で成立したと考えられている。ヨーロッパ中部の気候の特性を生かした輪
作方式であり、小麦だけでなくさまざまな種類の穀物の効率的な栽培が可能になった。また
二圃制と比較すると、麦の作付け面積は単純計算で 33%増加するし、作物の多角化によっ
て、凶作のリスクや農作業が分散するという利点もあった。
三圃制は、はじめて登場した 8 世紀ごろには、おもに修道院などの大領主の直営地で個別に
実施されていた。ところが、11~13 世紀以降、村落共同体とよばれる自律的な農民組織が
形成されるようになると、村落全体の農地を区画整理して、それを 3 つの部分に区分し、村
として共同で三圃制をおこなうようになった。この背景には、11 世紀に史料に登場する重
量有輪犂とよばれる耕耘(こううん)器具が、数頭の牛馬にひかせるほど大型の装置だったた
めに、方向転換が容易ではなく、できるかぎり広い耕地を耕作する必要があったことと、1
軒の農家では、重量有輪犂やそれをひく役畜を購入、維持できなかったことがあった。
そこでは個々の農民は、垣根などの個人の仕切りがとりはらわれた村の耕地(開放耕地制度)
の 3 つの区画のそれぞれに自分の持ち分地をもち、その収穫を手にすることになった。すべ
ての農作業は、村落共同体としておこなわれる共同作業となり、勝手な栽培はゆるされず(耕
作強制)、休閑地にも村じゅうの家畜が一度に放牧されねばならなかった(放牧強制)。この
ような三圃制の普及の結果、中世初期には 2 倍程度しかなかった穀物の収穫率(収穫量/播種
(はしゅ)量)は、13 世紀までに少なくとも 3~4 倍になったといわれる。
IV 三圃制の消滅
けれども 14~15 世紀になり、黒死病や百年戦争などによる人口激減と穀物価格の下落が進
行すると、多種類の麦を生産するよりも、収益の高い農作物の重点栽培が中心となり、小麦
の作付け面積が広い二圃制にもどる地域のほか、都市市場向けの野菜や工芸作物の栽培に転
換する場合も多くあった。価格的には農産物よりも羊毛や畜産品の方が有利だったので、イ
ングランドのように、富農層や都市民によって農地の囲い込み(エンクロージャー)がおこな
われて、家畜の放牧地となり、麦作が放棄される場合すらあった。こうしてしだいに農地利
用は多様になり、最終的には、18 世紀の農業革命期に三圃制は消滅した。
エンカルタ 百科事典
小麦地帯で問題とされるのは、このような森林開発が進んだために、現在小麦地帯であるところでは
昔は森林であるところが多く、それだけ地球は森林を失ってしまっているという点にある。例えば、レバ
ノンは原罪は砂漠地帯であるが、旧約聖書が書かれたころにはうっそうと茂る杉の森であった。レバノ
ン杉は有名であり、それによって造られた船に対する賞賛の詩が残っている。
これに対して、米の場合には全くといってよいほど連作障害はない。特に水田の場合にはほとんど見
られず、陸稲の場合には多少の連作障害がでる。水田で水を流してしまえば、微量元素の不足も、あ
るいは病原菌もともに回復するということだろう。最初の水田開発には非常な労力が必要であるが、そ
れができてしまえば、水田での連作が可能となり、小さな面積で穀物の栽培が可能である。このために、
現在では世界で稲の耕作面積と小麦の耕作面積を比較すると、ほぼ同じ収量でありながら、稲の耕作
面積は小麦の面積の半分以下である。
このことは、さらに、小麦による文明と米による文明の対比が問題とされる。四大文明はいずれも小
麦による文明で、大文明はすべて小麦であり、小麦でなければ文明は生まれなかったというのが、これ
までの常識とされていた。確かに、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の四大文明とされている文明
県はそれぞれ小麦によっている。しかし、最近中国揚子江中流域で発掘が進んでいる文明は、黄河に
先立つ中国文明の基盤となっているもので、それが米の文明であることが明らかにされた。
河姆渡遺跡に代表される文明は黄河文明に先立つこと数世紀であり、エジプト文明に匹敵する古い
文明であり、それが米を基盤としている。また、安田喜憲の説によると、人類が農業を開始したのは、
寒冷期に入ったためであり、寒さが単なる最終だけでは食糧を確保することができなくしたために、栽
培が開始されたという。それを反映して、四大文明のいずれもがほぼ花粉分析などでの寒冷期の時期
にはじまっているという。これまでは四大文明の中で黄河文明だけが遅れており、それを地域的な寒冷
期入りの差異として考えていたのが、揚子江文明の発見によってすべて期をそろえて文明の開始時期
が寒冷化の時期であったといえることを主張する。
もっとも、このように主張すると、他の作物による文明、トウモロコシのインカ文明、ジャガイモのアン
デス文明、タロ・ヤム芋(里芋と長芋)のポリネシア文明などが説明できていないことになる。また、アフ
リカ古代については、四国びえなどの雑穀の文明があったらしいことが推測されているが、アフリカの
条件では遺跡が残らず、ほとんど不明の状態である。つまり、石の遺物や残るが、アフリカの高温多湿
の条件、さらに、植物の栽培の速度から、土の建造物や木の遺物は百年程度で跡形もなく残らない状
態になる。
参考1
■ヤムイモ
yam
ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の食用種の総称。ヤマノイモ属植物は世界中の亜熱帯、熱帯に
約 600 種もあるが、多くの種が地中にいもをつくる。このいもは植物学的には担根体で、デンプンのほ
か少量のタンパク質を含み、特有の粘りがある。古代からアジア、アフリカ、アメリカ大陸で食用とされ
た。このうち栽培種は十数種、野生種をとって食べるものは二十余種が知られている。日本に野生す
るヤマノイモや、よく栽培されるナガイモのほか、次の各種が知られている。
ダイジョ D. alata L.は東南アジア原産で、古代から熱帯各地に栽培され、いまも生産量がもっとも多い。
アジア産としてはこのほかにトゲドコロ D. esculenta Burk.、カシュウイモ D. bulbifera L.、ゴヨウドコロ D.
pentaphylla L.その他が栽培される。
アフリカ産ではギニアヤム D. cayensisLam.、シロヤム D. rotundata Poir.などが、またアメリカ大陸では
D. trifida L.などが栽培種である。〈星川清親〉
■文化史■有史前から熱帯アジア、中国、アフリカ、熱帯アメリカで独自に野性種から栽培が始まった。
もっとも、栽培が盛んな地域はヤムベルトとよばれるナイジェリアを中心とする西アフリカの西部である。
ヤムイモはニューギニアや東南アジアの一部でも主食の一つで、農耕儀式や神話にかかわる。台湾
のツオウ族は、ヤムイモを掘り進んだ穴が地下の住人の国に達し、そこから盗み出した食物が米であ
ったという、ヤムイモがイネに先だつ神話を持つ。マダガスカル島やポリネシアとミクロネシアの島々に
も、ダイジョをはじめとするヤムイモが初期の移住者によって伝播(でんぱ)された。食料以外に、アフリ
カやメキシコの先住民は、サポニンを含む野性種を魚をとる毒として使った。中国では古代から薬にさ
れた。メキシコヤムから得られるステロイドホルモンの前駆物質であるディオスゲニンを原料に 19‐ノル
プロゲステロンが生産され、経口避妊薬(ピル)として 1960 年に売り出された。フィリピンではダイジョか
らウビアイスクリームをつくる。
〈湯浅浩史〉 (C)小学館ニッポニカ
■タロイモ
taro
サトイモ科サトイモ属 Colocasia の植物で、オセアニアの熱帯から温帯にかけて広く栽培され、主要な
食糧となっているものの総称。いも(地下茎)を食用とするものがほとんどであるが、葉柄や葉身を食用
とする品種もある。大部分は C. antiquorum Schott であり、これはいわゆるオセアニアのタロや西インド
諸島のダシーン dasheen、アフリカのココヤム cocoyam を含む変種 var.antiguorum Schott と、西インド
諸島のエドエ eddoe や、日本のサトイモが含まれる変種 var. esculenta Engl.とに分類されている。ほか
にマレーシア原産で日本でも栽培されているハスイモ C. gigantea Hook. f.も含まれる。また、インドクワ
ズイモ、キルトスペルマ類もタロイモとよばれる。
〈星川清親〉 (C)小学館ニッポニカ
参考2
ヤムイモ
ヤマノイモ科のヤマノイモ属 Dioscorea に属するイモを食用にするつる性植物の総称。単にヤム yam ともいう。タロ
イモとならんで根栽農耕文化の主要栽培作物である。栽培・利用されるヤムイモは約 50 種にのぼり,なかでも熱帯系
のダイジョ D. alata は,西はアフリカのコンゴ盆地からギニア湾沿岸,東はポリネシアを含むオセアニアの島々にま
で広く栽培されている。その原産地はインド東部からインドシナ半島域と推定される。温帯系のナガイモ D.
opposita(=D. batatas)は日本や中国で栽培されている。このほかに,栽培あるいは半野生状のヤムイモも熱帯域
に多いが,それらのなかには,加熱水さらしの毒消し法が必要な種もある。ヤムイモは,土中深くいもをつけるため,
水はけのよい山腹斜面に植え付けたり,側溝を掘った高い畝で栽培することが多い。熱帯系のヤムイモでも,1 年の
うち植付け,収穫の時期はきまっており,掘り起こしたいもは通気性のよい貯蔵庫で保管する。オセアニアでは地味に
乏しいサンゴ礁の島では生育せず,火山島や陸島における主要作物である。ヤムイモは,ミクロネシアやメラネシア
では,首長への貢納物,他部族との交換品,祖先への供物として高い価値がおかれている。いもを大量に保有するも
のが社会的名声をうけ,とくに首長はヤムイモを集積し,人々に気まえよく分配することで地位を誇示する。男たちは
大きないもをつくることが名誉とされている。畑に石をおき,その石に宿る霊的な力によって豊穣がもたらされるという
呪術的信仰に基づいていもづくりがなされる。また,ニューギニアのセピック川流域の住民は,ヤムイモの収穫儀礼を
盛大に行う。ヤムイモを人間にみたて,いもに仮面をつけたり化粧をほどこす。飾りたてたいもには死者の名前がつ
けられ,豊作への感謝と予祝の気持を表現すると同時に,祖先霊への崇拝の念が託される。
須藤 健一
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 平凡社「世界大百科」
タロイモ
太平洋のポリネシア地域では,主食として栽培しているサトイモや,それに類似のサトイモ科植物をタロと一般的に呼
んでいる。それからサトイモ類を英語で taro と呼ぶようになり,さらにその呼び方が日本にもち込まれ,〈タロイモ〉と
いう総称名が,南方系の栽培サトイモ類に使用されるようになった。この太平洋諸島のタロは,作物としては日本でも
栽培されているサトイモをもともとは指すものであるが,南アメリカから新しくもち込まれたヤウテアも,サトイモに似て
いるため,現地でもタロと呼ばれることが多い。しかし,食用にされているサトイモ科のクワズイモ類,キルトスペルマ
類,コンニャク類などは,同じようにいもを食用にする作物であっても,現地ではタロと呼ばないことが多い。日本語の
タロイモの概念はすこぶる広義で,南方の根栽農耕文化圏で栽植されるコンニャク類を除くサトイモ科植物のなかで,
地下茎を食用としているものをひっくるめて指していることが多いので,南太平洋でのタロという呼名とは同一概念で
はない。この〈タロイモ〉のなかで最も重要なものはサトイモである。日本を含めた東アジア温帯系のサトイモの品種群
は三倍体で,子いもを利用するものが多いが,東南アジアからポリネシアにかけては,基本的に二倍体で親いも利用
型の品種群が主体となっており,なかには長いストロンを伸ばし,地下のいもは小さく,地上部の葉柄や葉身を野菜と
して利用するのが主たる目的になっている品種もある。クワズイモ類では,インドクワズイモ Alocasia
macrorrhizaSchott(英名 giant taro)がトンガやサモアで主食用に栽植される。この種はかつては広く食用にされてい
たが,現在は逃げ出して野生になったものが,東南アジアからポリネシアまで広く見られる。キルトスペルマ類
Cyrtosperma spp.(英名 swamp taro)も,ミクロネシアやメラネシアの一部で食用にされ,英名のように湿地で栽培され
ている。そのほか,スキスマトグロッティス類 Schismatoglottis spp. も,えぐみがあまりないため食用にされる種が
あるが,重要ではない。中南米原産のヤウテア類 Xanthosoma spp.(英名 yautia)は,サトイモよりも乾燥に強く,現在
では熱帯域に広く栽培される種 X. sagittifoliaSchott があり,サトイモ以上に重要な熱帯のいも作物となっている
が,系譜的にいえば,東南アジア起源の根栽農耕文化に伴われるタロイモとは異なったもので,タロイモとは区別す
べきものである。しかし外見的には,サトイモ以外の〈タロイモ〉よりはずっとサトイモに似ていて,多くの民族学的調査
報告書ではサトイモに混同されている。
語源的には問題はあっても,栽培いも類のうちヤマノイモ科のそれをヤムイモと総称し,対比的にサトイモ科のもの
をタロイモとするのは,多数の種をまとめて呼ぶ名として便利である。 堀田 満
サトイモとヤウテアは,アジア,アフリカ,南アメリカの熱帯降雨林地帯や,オセアニア島嶼(とうしよ)部に住む根栽農
耕民の主要作物である。サトイモは,インド東部からインドシナ地域が原産地と推定される。食用種として最も重要視
され,その栽培分布域も広い。焼畑耕作地や湿地に栽培し,植えつけてから 1 年で生長し,周年,収穫が可能である。
キルトスペルマは,湿地で栽培され,収穫までに 3~4 年を要する。いもは,黄色みを帯び,大きなものになると直径
20cm,長さ 50cm にもなる。クワズイモ類は,えぐみが強烈なため,ふつう水さらしなどの毒抜き加工を終えたうえで
救荒食として利用される。しかし,ポリネシアのトンガやサモアで栽培されているインドクワズイモは,いもにえぐみが
少なく,乾燥に強く,食料として重要視されている。
太平洋諸島では,タロイモの栽培は女性のしごととされている。一度,いも田を開墾すれば,大きな労力をかけずに
毎年一定量の収穫を確保できるからである。農具は,木の棒をとがらせただけの掘棒で十分である。
タロイモの料理法は,土器などの煮沸具で煮たり,地炉で石蒸しにする。いもを丸ごと食べてもよいが,石杵でつぶ
してペースト状にした〈ポイ料理〉がポリネシアでは代表的な食べ方であった。 東南アジアで起源したサトイモは,東
は太平洋の島々へ,西はアフリカの熱帯地域に伝播(でんぱ)した。しかし,東南アジアの熱帯降雨林地帯(マレー半島,
インドネシア島嶼部)では,オカボやアワなどの穀類がおもに栽培されるようになり,主食に占めるタロイモの割合は
低い。また中南米原産のヤウテア類は,16 世紀以後にアフリカや太平洋諸島に導入されたが,生育がよく,収量も多
く,味もよいため,現在ではこれらの地域でサトイモより多く栽培されるようになった。
須藤 健一
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
参考3
ヤマノイモ属の仲間は単子葉植物で、世界じゅうの熱帯地方に自生する。塊茎が食用になる
ため栽培されている。英語圏では広くこの塊茎(イモ)のことや種を Yam と総称している。
そのため日本でもヤマノイモ類をヤムイモ、ヤムということがある。サトイモ科のタロイモ
と同様に、重要な栽培作物である。 エンカルタ百科事典
この意味では世界のそれぞれに固有の文明が発達しており、文明の程度にどのような差異があるの
かについては、かなり疑わしい。それぞれの条件の範囲内で、固有に文明を構成する要素を開発し、
それぞれに独自性を持っている。しかし、作物の場合に見られるように、それぞれの特色によって、発
達する領域と発達しない領域が生じる。例えば、巨大な権力の成立は、どうしても蓄えることのできる
作物、特に穀物を必要とする。これは石毛の指摘であるが、保存可能な穀物以外では国家を作ること
はかなり難しい。つまり、すべての人が、自給しなければならないような状態では権力は発生しにくくな
る。
例えば、タロイモやヤム芋の地域である東南アジアやミクロネシア・ポリネシアでは、大きな国家を芋
だけで作ることは困難である。タロイモやヤム芋の保存は難しく、栽培したり、あるいは採集することは
容易でも、それを自分で行わない人間を大量に生み出すことは難しい。軍隊を作ろうとしても軍隊の半
分以上は毎日芋掘りをしなければならない状態では、戦争は戦えない。大洋州の中で例外的に大きな
国家はトンガであるとされている。東南アジアも米やサツマイモが入ることで大きな国家が形成されて
いる。
また、アンデスの場合のジャガイモは、この地域の寒冷さが保存を可能とした。ジャガイモの保存は
地中に埋めておくのがもっとも望ましいが、アンデスでは夜中にジャガイモを凍結させることで水分を絞
り出すといういわば凍り豆腐と同じ製法によって乾燥ジャガイモを作り、それを保存する。これによって
穀物同様の保存性が得られ、その結果として大きな国家が形成された。
また、ここでさらに遊牧という形態を考える必要がある。遊牧では、穀物ではなく、家畜によって食料
や衣類を得るということになる。家畜の飼育は草原での遊牧の形態を取り、草がなくなれば移動してい
く。このために、食料としては、主として乳製品と肉が主体となり、交易によって得た穀物がこれに加わ
る。衣類は、動物性のものがほとんどで、羊の毛を用いたフェルトは、テントにも衣類にもなる。
草を食べる動物が遊牧の対象となり、このために反芻動物でなければならない。牛や羊、馬、らくだ
が限界で、どう努力しても草を食べない豚では遊牧にならない。この意味では遊牧による生活はかなり
限定されており、遊牧だけでの生活よりも、むしろ周辺の農民との接触を前提として遊牧がなされてい
るケースが多い。しかし、それにしても生活の形態や生活の中での物資調達という点で、かなり特異な
様式であり、しかもかなりの人数を必要とする。集団は血族的集団が主体であるが、核家族では管理
は困難で、大家族による集団を必要とする。
組織論的問題としてみるならば、それぞれの生業の構造によって、形成される集団の規模が異なっ
ていることに注意する必要がある。多くの場合には、農業の規模も核家族だけで農業が可能であるよ
うな作物は少なく、労働力を保持することが生活の中で重要な要素となる。このために、ある程度以上
の人数が確保されていること、家族数としては、子供の数を多く持つことが多くの文化で推奨される。
子孫繁栄という表現は、子孫だけではなく自分も繁栄するためであるといってよい。
このために、女性の労働力はもちろん計算に入っている。父系社会における女性の嫁入りは、女性
の労働力の受け取りであり、子供を産むというだけではなく、労働力がそれだけ増えることを意味して
いた。このために、女性を送り出す側に対する反対給付が行われるという文化は少なくない。一般に婚
資と呼ばれる風習である。女性を金で買うようなイメージでとらえられがちであるが、決してそうではなく、
労働力の反対給付としての位置づけが明確になされている。例えば、アラブの場合には婚資は一般的
に家畜で支払われ、それが労働力としての意味を持つことが示されている。
現在の結婚指輪や結納も同じような意味を持つ。男性側から女性側への支払いは、現在でも風習と
して残っており、それの意味は明確である。このために、日本の全域で、結婚後の実家と婚家のつきあ
いについても、婚家の側からまず歳暮中元の品を贈り、それに対するお返しとして実家から婚家へと贈
り返される。この手順が標準となっている。つまり、婚家の側から、女性労働力の受け取りに対する感
謝として贈り物がなされ、それに応じて実家側から挨拶があるという形を取る。
このような労働力の受け渡しとしての結婚は、多くの社会において結婚が双方の意志とは関係なく決
定されているということを物語るもので、お互いの意志によって結婚が決定されるという社会は近代以
降であることを示唆している。
近代以前の社会は基本的に身分制社会であることが多く、自由意志で職業や結婚相手、居住地を
選択するということが困難であることがふつうであった。また、そのことは、生業という範囲を超えて、個
人が活動することの困難さを示すものでもあった。ところが、近代という時代は、身分がなくなり、個人
の活動領域が膨大に拡張するようになる。近代という時代をどのように評価するかについては、様々な
可能性があるが、組織論を考える上でも非常に大きな差異が生じる。
結婚の場合に見られるように自由な個人の集まりとして集団が形成されるわけではなく、非常に固定
的な、また、個人の医師とは関係のない属性によって人々の結びつきが決定されている。例えば、職
業を選択する自由は通常ないことが多く、自由に自分の生活様式を選択することも困難であった。
しかし、それが全く不自由な状況かというと、必ずしもそうとはいえないようにも思える。例えば、江戸
時代は職業選択の自由は非常に制約されていた。自分の生まれた身分の中でしか職業選択ができず、
農民に生まれた場合には例外的にしか農業以外の職業に就くことは難しい。また、商人や職人など都
市生活者の場合にはかなりの自由度はあったものの、実力主義的な要素は必ずしも評価されない。実
力がなければ成立しない職業も存在する。例えば、僧侶や学者・医師などはそれぞれに実力がなけれ
ばならない。ところが、そのような職業は身分に関係なく開かれているものの、その出自に関係のない
状態は身分制度のもとでの身分を示す装いの外におかれている。江戸時代の特徴として男女を問わ
ず髪型によって区分されていた。実力によって身分に関係なく開かれていた職業については、この枠
の外におかれることになり、これらの職業人は大半は頭を丸めていた。坊主頭にして髪を剃るというの
は、実は職業的に身分制度の外にあることを示すものであった。
身分制社会がどのように不自由であったかという点は現在と比較した場合においていえることであり、
その中の人々はそれほど不自由を感じていたわけではないように思える。さらにいえば、制度上の不
自由さをどのように調整すべきかというノウハウはそれなりに発達しており、日本でいえば養子制度な
どによって自分の出自を修正することが可能であった。通常は、町人の娘が大奥にあがることはない
が、武士の養女として将軍の生母になるケースはしばしば見られる。
社会が持続するのは、それぞれに原則とその運用を適宜適応させていっているためであり、現在を
基準として判断しても、それがよくわからないことが多い。倫理的問題などはその典型であり、どの社
会にも共通する倫理を設定することはどの困難である。殺してはいけないという倫理にしても、その社
会に固有なロジックがあり、どのような場合に、どのように殺すことが禁じられるかについては微妙に異
なっている。人口圧が高く、人の存在がそれほど貴重ではないという社会と、労働力が不足しており、
労働集約的な農業が行われる地域では異なる倫理が発達する。
ただし、それが人間の価値が労働としてのみ評価されるというわけではないという点も注意する必要
がある。倫理が人口との関係で決定されるわけではなく、人間の尊厳が労働力需要で決定されると考
えることはできない。しかし、長期的に見るならば、労働力が不足する社会では奴隷も大切にされるこ
とは明らかであり、人間が層化され、身分化されていたとしてもそれがどのように倫理に反映するかと
いう問題はかなり複雑になる。傾向としての法則と、因果関係は必ずしも整合的ではない。
人間社会でどのように人が集まるかについては、まず生活を成立させる裁定の集団の単位が成立す
るだけの人数を必要とする。血縁集団にしても、生業を成立させるような集団規模が要請され、それに
適合するだけの集団の構成原理が用意される。例えば、家族集団にしても、核家族によって生産がな
され、生業が維持できるという条件はほとんどない。少なくとも直系家族でなければ、持続的な生業は
維持できない。
ある意味では、非常に少ない人数で生活が成り立つのは条件のよいところであるといってよい。作物
を作り、穀物によってカロリーを確保した上で、狩猟や漁労によって動物性タンパク質を確保できるとい
う条件は少ない人数ではかなり困難である。狩猟も大型獣を狩るのは少ない人数では難しい。一人で、
狩猟が成立するのは小鳥などの小動物に限定され、犬の助けを借りるとしても弓矢や槍などでは中型
の獣も危険である。狩猟はかなりの人数を必要とする生業の形態で、大型獣の狩猟は役割分担を決
めて、それぞれが危険の内容にするために、相当の人数が必要となる。大型獣の場合の狩猟は、多く
罠猟であり、罠に落とし込んだ獣を遠くから石や弓を射かけて殺すという形態が一般的である。
猟の場合の人数はわかりやすいが、漁労も一人で行う漁と多人数での漁の区分がなされる。釣りは
一人でもできるが、網漁は一人では難しい。一人での網漁は投網程度で、さほどの漁は確保できない。
釣りに比べると網ははるかに多くの魚を捕らえることが可能であるが、そのためにはかなりの人数を必
要とする。
農業についても、必要な人数が作物によって異なることがある。水田はかなり大規模な土木工事を必
要とするが、小麦の場合にはかなりの広がりが必要となる。他方で、稲の収穫は非常に短い期間に行
わなければならないが、麦は比較的長期でよい。ところが、現在のような麦ではなく、小麦の丈は人間
の背の高さまであり、非常に手間がかかっていた。小麦の草丈が現在のように短くなったのは日本で
の品種改良によるものであり、これで手間がずいぶん変わってきた。現在のように機械での刈り取りが
可能となったのは、この小麦の改良がかなり大きな意味を持っている。
作物の状態によって必要とされる労働の規模が異なり、それにあわせた人数の集団が生産を行う。
狩猟採集の時代には、条件のよい場合の最終はそれほどの人数を必要としない。チンパンジーやゴリ
ラなどの類人猿の場合には群れの大きさは採集などの必要よりも、むしろ生殖などによって決定され
ていると考えられている。木の実や葉などを採集して食べる場合には、それほどの集団を必要としない。
しかし、群れで狩りを行う場合には対象獣の体の大きさが群れの大きさを決めている。類人猿での狩り
は例外的であるとされているが、狩りは行われ、その結果の食肉は分配されている。
このことを考えあわせると、群れの大きさは、食料調達の方法によって変動するといってよい。人間の
集団も同様に生業の労働様式によって必要とする基礎的な集団の単位が変化する。このことは、技術
的な変動によって家族の形態が変化することを意味している。
現在の社会はほとんどの社会が次第に核家族の方向に移行しているが、それも、核家族だけで自立
できるように家庭内の装備が調えられていることが条件であるだろう。
水と情報とエネルギー調達がライフラインを構成し、基礎的な生活のインフラストラクチャーとして整
備されていることは非常に大きな変化である。水道とガス・電力などのエネルギー、さらに、電話線など
の通信網が各家庭に配備されることは現在ほとんど当たり前になっているが、この条件が整えられる
ようになってきたのは、ここ五六十年のことである。それ以前の家庭では、これらの生活資材を自分で
調達しなければならなかった。
水は井戸があるとしても、井戸の保守とくみ上げの労働はかなりのもので、水道とは比べものになら
ない。自分の家に井戸があるという状態はかなり少なく、共同の井戸まで水をくみに行く、あるいは、わ
き水や流水を用いる場合には、かなりの距離を運ばなければならない。
エネルギーの調達はさらに難しい。自給するとなると、薪であるが、薪を確保するためには森林の中
にはいることが必要である。都市生活者にとっては薪の確保は困難であり、墨を購入するという形でエ
ネルギー調達がなされる。家全体を暖房することはきわめて贅沢で、わずかな熱源を確保することが
精一杯の暖房であった。この状態では、エネルギーの確保のための労働は非常に大きく、そのために
人数を必要とする。水とエネルギーの調達は不可避であり、なんらかの形でそのための労働が必要で
あるならば、その労働のための人間が必要となる。どうしても生活単位集団の数が増加する。
逆に、現在の核家族化は、このようなインフラストラクチャーと、産業社会化での社会分業が進展した
ために、家族数を自由に選択することが可能になった結果として現れたものであるといってよい。核家
族化が必然であるというよりも、核家族が可能になったことを指摘することはできる。その中で核家族
が選択されていったと考えるべきである。現在でも大家族を形成することは可能であり、実際に、その
ような形態が取られることもある。また、日本では、直系家族という形態がかなり残っており、三世代同
居を促進するような政策誘導もなされている。他方で、アメリカでは核家族から、さらに、夫婦を基本と
するような家族形態が普通となっている。これは文化伝統と選択の問題であるだろう。
生業のあり方によって、家族集団の構成員数が異なることは、生活の様式が生業と相互に関連する
ことを意味する。血縁集団だけでは十分な人数が確保できない時には遅延がそれをカバーする。もっ
とも、前近代では通婚圏がそれほど大きくなく、地縁と血縁は相当に重なり合う。隣村といった範囲でし
か通婚しなければ、血縁と地縁はそれほど違いはない。
いずれにせよ、生業のあり方が集団の構成原理を決めていることは確実であるだろう。大型獣の猟
や、大規模な網漁の場合には、男たちの集団を成立させなければならない。このための集団構成は血
縁だけでは不十分で、ある程度以上の熟練と能力を持つ男性集団を確保するための集団形成が必要
とされる。男性集団だけを隔離して、それを和歌集宿などに収容することによって集団編成が年齢によ
って生じるなどの状況が生み出される。
また、権力が発生して、国家機構ができあがった時にもそれを維持するための集団や組織ができあ
がる。この時の組織編成は、権力を維持するためのものであり、身分を前提としていると考えてよい。
その時にどのように組織が成立していたかについては明確ではない。しかし、身分を前提として組織さ
れていたことはまちがいないだろう。
小麦と米では、おそらく集団形成が異なっていたといえる。小麦は集団での大規模な栽培に適してい
るが、米は当初の土木工事を協働する必要があり、それぞれに集団形成を必要とする。けれども、米
の場合には、いったん工事ができてしまえば、小規模な農家の自立的生産にむいており、大規模な農
場には適合しない。小さな規模での自立的経営が適している。これは、米の場合には、管理に手間が
かかり、小さな範囲で高い収量を上げるような管理の方策が適合するためである。労働集約的で、個
別性の高い管理が要求される。他方で、小麦の場合には、粗放的であり、収量が少ないので、生産の
単位をかなり大きくとることが必要とされる。奴隷制を用いたプランテーションは、麦の場合には発達し
たが、米には見られない。
さらに、注意しなければならないのは、小麦の場合にはアミノ酸組成が米に対して劣っており、必須ア
ミノ酸に不足するものがある。他方で、米の場合にはタンパク質の絶対量は少ないもののアミノ酸組成
はバランスが取れており、米だけで必須アミノ酸をみたすことも不可能ではない。米を一日に三合以上
食べるならば、それだけで必須アミノ酸は充足する。
必須アミノ酸
食品タンパク質の構成アミノ酸は約 20 種あり、そのうち栄養上とくに重要なアミノ酸を必須アミノ酸、ま
たは不可欠アミノ酸とよぶ。必須アミノ酸はどの 1 種が欠けても、発育、成長、体の維持に影響し、成長
を停止したり、窒素平衡をマイナスにする。必須アミノ酸は体内でまったく合成されないか、合成されて
も非常にわずかであるため、食事からかならず摂取しなければならないアミノ酸である。
成人の必須アミノ酸はイソロイシン、ロイシン、リジン、メチオニン、フェニルアラニン、トレオニン、トリ
プトファン、バリンの 8 種である。幼児ではヒスチジンも必須アミノ酸である。またシスチンはメチオニン
の一部を、チロシンはフェニルアラニンの一部を代替できるので、メチオニン+シスチン、フェニルアラ
ニン+チロシンの合計量を計算する。食品タンパク質の栄養価は必須アミノ酸の量によって決まってく
る。必要量に対してもっとも不足する必須アミノ酸を第一制限アミノ酸とよび、二番目に不足するアミノ
酸を第二制限アミノ酸とよぶ。 小学館
つまり、小麦の場合にはどうしても他の蛋白源を必要とし、パンと肉ないし乳製品を必然とするが、米
の場合には米を中心とした食の体系を持てばよいということになる。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にで
てくる「一日に玄米三合とみそと少しの野菜を食べ」というフレーズはそれなりに完全食を形成しており、
それで十分であるといえる。もっとも、この場合には、米の過剰なカロリーを捨てるだけの労働を行うこ
とが条件となる。実際、東北では農繁期での男性労働者の食事は五合以上食べることは珍しくないと
されている。それだけのカロリーを使うだけの労働であったといってよい。
したがって、ヨーロッパの小麦食の場合には、蛋白源としての肉あるいは乳製品を必要とし、そのた
めに牧畜を必然的に伴う農業が行われた。これは、自立した農家という条件をかなり困難にする。核家
族で小麦を作り、それで自給生活を送ることはできないことを意味する。どうしても牧畜とセットになり、
食料の体系を作らなければ栄養的に完結しない。このために、一つの村の中で分業を行うか、あるい
は、分業体制を明確にすることが必要となる。
これに対して米の場合には、基本的に小規模な核家族あるいはそれを多少拡大した家族の自営が
可能となる。小規模な自立農家が集合して、村を形成する。個別の農家だけでも食糧を自給でき、蛋
白源をどうしても必要とする場合には、交換によって入手することが可能である。米と野菜を自給し、魚
などを交換に頼るならば、それで十分な食糧の自給が可能である。どうしても必要とするのは塩ぐらい
ということになる。農家で、みそと醤油を自給し、漬け物を漬け、野菜で乾物を作れば、ほとんど栄養素
は充足する。
一見語との農家がそれぞれに相当に高い時給能力を持っている場合には、村の連合はかなり緩や
かになる。村八分にされても生きていける体系であることが逆に集団への帰属を要求することになって
いると考えてもよい。
他方で、小麦の社会であれば、村八分にされると、ほとんど流浪しなければ生き残れないことになる。
村の中で牧畜だけ、あるいは小麦だけでは栄養が偏り、食糧自給が不可能になる。したがって、ヨーロ
ッパには村八分という共同体内での制裁は成立しない。追放ないし、村での身体刑ということになる。
このような差異は、集団形成の基本的な原理が異なる可能性を持っている。米の場合の小規模な自
立単位が集まって、必要に応じて、連合を組むという体制は、自律分散につながる。他方で、小麦の場
合には、中央制御の状態を表すことになる。この区分は、それぞれの社会がどのような単位で生産を
行うかによって異なるタイプの社会を作り出すことを意味している。中央集権制度であっても、基本的
に米の場合には、個別の農家が生産単位となり、農家がそれぞれ自律的な生産を行っている。
このために、最少経営単位としての小規模のうちをそれ以上分割することは難しい。他方で、小麦の
場合にはかなり大きな土地を必要とするが、その土地を分割相続することが基本となり、あるいは、土
地以外の資産形態での相続によって均分化を図ることになる。日本の相続が一子相続であり、一人の
子供だけが大きく相続するという形態を取るのは農地の分散化を防止することで経営単位の規模を確
保しようとするものと考えてよい。いわゆる「田分け」という表現も、ここに由来する。
経営規模の維持という要請は逆に、小規模農地の経営が持続できるようなシステムを要請する。単
子相続を制度化すると、その単子がいなければ経営は持続できない。小麦のような大経営の場合には
特定個人に帰属する財産というよりも、その集団全体の共有としての性格が強く、そのために特定個
人の相続とは関係なく交錯が維持される。ところが、自律的な交錯が可能である場合には、その耕作
地の継続的利用がその集落にとっても重要であるにもかかわらず、それを維持することが困難となる。
これは、耕作者が特定の一人の子供に限定相続されるために、もし、その子供がいなければ、耕作が
放棄されることを意味している。他方で、大規模経営の農園では、そのような心配はない。規模が小さ
く自律的な状況では、その耕作を維持すること、つまり、耕作単位としての「家」の維持が問題となる。
このための相続方法が養子縁組による耕作の継承である。養子制度は世界的に見ると必ずしてもど
この社会でも普遍的なものではない。養子によって血統を継承するというよりも、財産継承や権力の継
承を行うことがより大きな問題であった。特に父系制では、先祖祭祀を行うための養子が行われていた
が、それが家族の問題だけではなく、米を耕作する最小単位を持続させるための手段として用いられ
ていた点に日本社会の特徴がある。
落合恵美子にいわせるならば、これが日本での世帯形成原理であるとしている。日本では農村での
世帯形成は、小規模な農地を継承することを前提としており、それを維持していくために、子供が居な
い場合の養子を制度化した。そのことは大家族ではなく、直系家族を継承の枠組みとして、単子相続
が行われたことを意味している。これに対して、世帯形成原理という概念が最初に提唱されたのはよー
っろっぱの中央から北部にかけてであり、中北欧世帯形成原理として知られている。これは、生産性の
低いこの地域で、人口を維持していくためには多産を避けて、むしろ、証紙の状態に持っていかなけれ
ば人口圧に耐えられないとするもので、そのための社会制度として男性の高齢結婚を制度としていた。
これを実現するための社会制度として、職業にかかわらず、男性が修行の旅に出ることを求めるという
ものである。ギルドなどでは職人が修行にでること走られていたが、商工業だけではなく農民もまた、
同様に男性が旅に出て、一人前として認められるまでは帰郷せず、結婚が高齢になるということは普
通であったとされている。このような事実が見いだされたことにより、それぞれの地域で人口調節のた
めの社会メカニズム、生産の維持を目的とした社会制度の確認が行われ始めている。
○自律分散対中央制御は、コンピュータの世界での用語であるが、社会システムの基本的形態として
もとらえることができる。自律的な小単位でシステムを組んでいくという体制と、機能分化させた全体を
作り込み全体を制御していくというそれぞれが可能であり、その状況に応じて効率的であり得る。
現在も続く分散対集中という枠組みは、基本原理として、システムの組み方の問題であり、文化の基
層にある問題と考えてよい。しかも、それが作物の特性に由来するものであるだけに、明確に意識する
ことが困難な状態にある。自分の文化において当然であり、自明として扱うことができても、その文化を
でると必ずしも自明ではないことがしばしばある。
この両者のどちらが望ましいかということは、技術的な問題やシステムの状況によって異なっている。
現在では、コンピュータの世界ではどちらかというと自律分散が優れているということになっている。ま
た、一般的には、非常に状況が安定的で、攪乱要因が少ない時には中央制御は効率的であり、他方
で、環境が不安定で、危機対処が必要とされる場合には自律分散が望ましいと考えられている。しかし、
それほど問題は単純ではなく、現在でもかなり条件が異なる場合であっても同様に効率的である場合
も少なくない。この領域については、これからもかなり研究が行われるものと考えられる。
作物によって、集団のあり方が大きく異なることに加えて、家族集団の編成が異なり、経済的にもっと
も望ましい生産労働力を確保するような家族制度が発達することになる。家族制度から集団のあり方
が決定されると考えるのは、Hsu の理論であるが、これについてはまとめて後述することになる。ここで
は、生産の体系が作物や生業の様式に適応し、その中で集団が構成されていることを確認する。
さまざまな文明の中で、文明要素としての組織が成立している。しかし、組織を特別な集団の様式と
して考えることは、近代に入って以降の思考であり、それ以前とそれ以降には組織という枠組みを特別
に必要としたかについては疑わしい。
近代に入って生産の組織が成立したことは、それまでの生業的生産による生活の維持とは全く異な
る状態になったことを示している。家族の形態がそのまま組織に取り入れられたとは考えにくいが、そ
れでも家族のあり方が組織の構成原理に反映していることは十分にあり得る。
この点については、Hsu=濱口の仮説がある。Hsu は中国系のアメリカ人で、社会人類学で精力的な
調査と理論化を行った。彼の仮説は、第一次集団は第二次集団をモデルにするというものであり、家
族の様式が社会集団に影響することを仮定している。つまり、人間は、第一次集団内で充たされない
欲求を第二次集団を作ることによってみたそうとすると考え、その場合に、第二次集団は第一次集団を
モデルとして作られると仮定した。第一次集団では、食欲とか、安全といった欲求は充足できるが、高
度な欲求は専門家集団によらなければ満たされない。教育や医療といった領域はかなり早くから専門
家が生じており、そのような二次集団への参加によって欲求は充足される。
Hsu が考えたのは、それぞれの社会における二次集団には、それぞれに原型となるモデルがあり、
そのモデルにしたがって社会組織は形成されるとしている。Hsu が取り上げるのは、自分の出身地であ
る中国とその後に移り住んだアメリカ、さらに、それに加えて自分がフィールドとして研究したインドの三
つの社会である。それぞれの社会でどのような家族の特徴があり、それがどのように社会組織に反映
しているかについて議論している。
Hsu はまず、家族の構成として、核家族の中で種になっている関係を抽出する。家族の形態を分解す
ると、構成員は、父(夫)・母(妻)・息子・娘になる。この中でどの関係が中心となるかについて、それぞ
れの社会で異なっている。代表的な父系制の家族である中国の場合には、圧倒的に父=息子関係が
家族の中心となる。父から息子への血縁が家族の構成の中心となり、先祖祭祀を行うことが重要視さ
れ、息子を生んで、次の世代に継承していくことが大きな問題とされる。
このような家族制度の中では、血縁原理による一族の継承が最も重要な社会関係の基盤であり、
「族」と呼ばれる血縁集団が社会生活上で最も重要な組織を形成する。族は血縁によって結ばれた集
団で、それが社会生活を支える。族は第一に相互扶助の組織であり、福祉や生活が成立するための
職業を支えている。中国の社会生活は伝統的に同族集団を基本としており、それが、大きな役割を果
たしている。同族集団が地域的に固まり、一つの村や都市が単一の同族を中心としていることもある。
李家村や曽市といった名称は、それが主要な同族結合から成り立っていることを示している。
このような同族は、父系によって成立し、血縁関係が非常に明確に示されることが多い。一般に中国
の父系血縁集団は、族と呼ばれるが、宗族という名称が使われることもある。中国の父系血縁は非常
に強く、結婚によっても女性の姓が変わらないのは、婚家の一員よりも出自としての父の娘であること
が優越することを示している。その意味では父系の制度は非常に強烈であり、血縁の中で女性の血統
はほとんど省みられない。
もっとも、厳密に父系を守ろうとすると、父親の確定は現在の遺伝子診断によらずに行うことはかなり
難しく、父親の確定のための制度枠組みが必要とされる。物理的な女性の隔離が行われるのも厳格な
父親の確定のためであり、このために宦官といった制度が成立する。母系社会の場合には母親の確
定はほとんど問題にならないのに対して、社会制度や物理的装置を必要とするために父系のほうがは
るかに負担は大きい。
■宗族 小学館ニッポニカ
中国の父系親族集団。中国では「異姓不養、同姓不娶(ふしゅ)」というように同姓者間の婚姻が禁じら
れ、養子も同姓の子の世代の者を迎えるべきとされている。宗族は、広義にはこの同姓の範囲をさす
こともあるが、通常それより狭い、族譜、祖先祭祀(さいし)、族産などをともにし集団としてまとまってい
る単位を表す。ただし、海外華僑(かきょう)など同一宗族の人口が少ない場合、異系の同姓者を併合し
機能集団をつくることも珍しくない。
宗族の大きな特色の一つは、その内部が均質と限らず、しばしば地主と小作人、農民と商人、官僚と
いった職業や階層で異質のメンバーを含み、いくつかの分派に分かれている場合も、その集団相互間
の経済的、政治的地位が一様でないことにある。富裕な集団は、成員増加率が高く分節化も進み、1
人の成員がさまざまのレベルの集団に所属しうるが、貧乏な集団は分化が行われない。すなわち、宗
族が強い凝集力をもつには、経済的基盤が必要で、これらを欠く場合、家族レベルでの祖先祭祀と墓
の祭祀をともにする程度で、族的結合は希薄になる。ただし、こうした弱少集団も政治的結合の必要や
経済力の増大に伴って、まとまりが顕在化することもある。
宗族が強い機能をもつのは、地域集団化していることも一つの条件になる。一村落の大半が同一宗
族で占める、いわゆる単姓村や、複姓村であっても一定の区画に集まり住んでいる場合、日常の相互
協力や外敵からの防御に有利である。また一集落にとどまらず、隣接数集落にわたって万を超す人口
が集まっている例も華南や台湾中部においてみられる。
このような経済力を反映し分化をとげた宗族の構成は、未開社会に多くみられる均質な個人を単位と
する単系出自集団の場合とは対照的であり、中国のような文明社会で父系組織が根強く機能しえた原
因の一つであった。
また、中国の伝統的政治機構も、たとえば藩政期の日本のように個々の農民を直接掌握せず、在郷
地主であり知識人でもある郷紳層を介しての間接的なもので、村落レベルでの紛争も反乱に結び付か
ない限り、これら有力者を中心とした自治に任されていたことも、宗族の結合を強めた。宗族内から高
級官吏資格試験である科挙の合格者を出すことは、単なる名誉にとどまらず、地方政治における利害
関係と結び付いていた。またときに武闘を交えた各宗族間の勢力争いに生き残るためには、内部に矛
盾や対立を抱えていても、外に対しては団結する必要があった。多額の費用と労力を要する族譜の作
成や、豪華な装飾を施した祖廟(そびょう)ないし祠堂(しどう)、莫大(ばくだい)な面積を占める族田の存
在は、こうした脈絡において意味をもつのである。
以上のような宗族は、宋(そう)代以降おもに華南において発達した。その原因としては、〔1〕名族が
南に移り新開地で展開形成した、〔2〕入植開拓の際に必要であったこと、〔3〕治安の悪さから一族団
結が必要であったこと、〔4〕水稲耕作による高生産力を維持するため、などと結び付けた説明が試み
られている。〈末成道男〉
(C)小学館
ここでの宗族は、同族に対して、職業を提供し、あるいは、直接に生活資金を提供するといった機能
を持つ。このために、一族から権力者を出すことは非常に大きな目標となり、その権力者が仲介するか
たちで、同族を豊かにする。他方で、その権力者が力を失った時には報復的に一族全体が権力から失
墜する。例えば、唐の時代の楊貴妃は、楊の一族に大きな繁栄をもたらした。しかし、玄宗が力を失い
楊貴妃が殺されると、楊一族は権力を失い、報復的に処罰されるといった経緯を取る。このように、同
族に対して公権力を利用して高い地位につけることは珍しいことではなく、また、このようなネポティズ
ムは犯罪とは意識されず、むしろ自然なふるまいと考えられていた。このために、官僚になると、当然
のように自分の一族の便宜を図り、法を曲げてでも便宜が図られることが少なくなかった。この意味で
は、公と私の区分は曖昧となり、賄賂に対する意識もさほど問題とされていない。このような状態での
社会は、しばしば恣意的な判断によって決定がなされる。
しかし、社会としては家族を中心として、生産が行われ、それぞれの宗族が生産や社会生活の主体
として機能する。この中では、同族集団に対する忠誠が発達し、社会全体よりも、ここの同族集団の利
益を追求することが行われる。また、個人ではなく同族が問題とされ、同族にいかに利益をもたらした
かという点が社会的評価の基準となる。
家族の内部でも同様に、父と息子の関係を中心として成立し、結婚後も女性の姓が変わらないのは
家族集団に帰属するよりも出身同族への所属が優越するためである。父系集団を中心として自己を位
置づけることが明確になされ、自分の同族内での地位は世代によって決定される。
家族の中での構成も、父=息子関係を中核として構成されている。ここで、息子はやがて父親となり、
世代が交代していくことから、その連続性が強調される。父=息子関係はもちろん運命的なもので、互
いに選択することはできない。その関係を受容するしかない。父と息子は相互に理解と対立を持つこと
になり、緊張した関係を生み出すことが多い。このような家族内での関係を反映して、中国の社会組織
としてもっとも基本となるのが族である。
族は基本的に血縁集団であるが、それだけでは十分な社会生活が営めないような場合には、遅延な
どを含めた社会集団が形成される。その一つに幇がある。
幇(パン)ニッポニカ
仲間の意。幇、■とも書く。中国、明(みん)・清(しん)時代、漕運(そううん)に従う運糧官軍は、各地に設
置された衛所に配せられ、一隻 10 人乗りの漕運船 10~20 隻で一幇をつくり、一衛所に数幇があった。
幇はいわば船団で、輸送の際の行動、命令の伝達、給与の受領、経費の支出、相互扶助、監視など
の単位である。彼らは生計の足しに、禁を犯して商品を密輸していた。清代では、乗組員 10 人のうち 9
人が民間から雇う水手なので、幇を細分して甲をつくって監視した。しかし密輸は盛行し、帰りの空船
では私塩(やみしお)を運んだ。この密輸には風客といわれるボスが水陸に采配(さいはい)を振り、当局
の取締りには鉄砲で武装抵抗し、清末には無頼の徒も漕運船に流入し、反社会的、反清的行動に出
た。しかも漕運制度が崩壊し始めると、貧窮化した彼らは、太平天国などの反乱軍や、秘密結社など
に身を投じた。哥老会(かろうかい)の一派、青幇(ちんぱん)にはとくに多く流れたといわれる。〈星 斌
夫〉
(C)小学館
例えば、文革時の四人組は、中国語では四人幇であるが、幇には、このようなマイナスイメージで使
われることが少なくない。けれども、幇は秘密結社化することによって中国社会の暗黒部分を構成する
ものとして知られているが、それは公然部分としての血族集団である宗族や地縁結社である同郷団体
と連続する。特に移民社会では同族だけではなく、出身の地縁で同郷団体を構成し、その中で相互扶
助の体制を作り上げる。また、知り合いの知り合いといったネットワークを形成することでこの扶助の枠
組みは拡張していく。中国華僑のネットワークは血縁を中心としながらも、それだけにとどまらずかなり
広範なネットワークを形成し、その情報の中で互いの利益を大きくしていくような相互作用が行われて
いる。
Hsu はさらに、インド社会について論じる。インドの場合には、家族の中の基本的関係は、母=息子
関係であるとされている。母=息子の関係はフロイトをひくまでもなく、かなり性愛的要素を含んでいる。
包摂する母と依存する息子という関係を持つ。また、父=息子関係同様に運命的であり、受容せざる
を得ない。個人が選択することのできない関係であり、自分の出自を変更することは不可能である。
この状況での社会組織の原=組織として、Hsu はインドのカースト制を取り上げる。四大カースト(バ
ラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・スードラ)を初めとして細かなカーストに社会全体が分岐していることは
知られている。
■カースト ニッポニカ
caste
インド社会で歴史的に形成された階級差別の体系。種姓、階級と訳される。今日「カースト」の語は、ア
メリカ合衆国における黒人差別、そして南アフリカ共和国や北アイルランドをはじめとする人間の差別
を論ずる場合にも用いられるが、本来はインドに発達した人間差別の体系を原理的に示すためのキー
ワードである。すなわち、そのことばは、家系または血統を意味するポルトガル語カスタ casta に由来す
る。16 世紀にバスコ・ダ・ガマの一行がインド西海岸に到着したとき、インド人社会の特異な制度をこの
名でよんだのが一般化した。
【カーストの起源】インドに侵入したアーリア人が、紀元前 1000 年ごろ東インドを中心につくりあげた氏
族制的な農村社会に、バラモン(祭司階層)、クシャトリア(王侯・戦士階層)、バイシャ(商・農民階層)、
シュードラ(手工業・隷民階層)の四大階層が生み出されたが、これを四姓という。古代の文献によると、
この四姓は四バルナ varna と称されたが、バルナはもともと皮膚の「色」を意味し、征服民と被征服民と
の種族的な相違を区別する尺度であった。しかし通婚による混血と、異文化どうしの衝突・融合を繰り
返して新しい社会がつくられるようになると、政治・経済的な勢力関係を軸とする階層制的な身分秩序
が生み出され、それが四姓とよばれるようになったのである。最上層のバラモン階層は、自分たちの血
統が純粋で優れたものであると主張し、それ以下の階層に属するものは順次に不浄の度合いを増して、
人間としても劣等であるという観念を広めた。
【サブカーストの誕生】生産の増大に伴う経済体制が変化してくると、新しい文化の伝播(でんぱ)による
生活様式の多元化などの要因によって、職業、信仰、種族、血統、経済力などの別による排他的で閉
鎖的な社会集団をつくりだしたが、これらの個々の集団をジャーティ jati(生まれ)という。この出生身分
に基づく社会集団(ジャーティ)は、先のバルナをカーストであるとすれば、副(サブ)カーストにあたる階
層であるといえるが、しかし一般にはこのジャーティ集団がカーストとよばれている。紀元前後につくら
れた「法経」や「法典」の類には、このようなジャーティ=カーストがそれぞれの社会的身分に応じて守
るべき厳格な規律が定められている。
すなわち、他カーストの成員との通婚や共食の禁忌、自己のカーストの職業への忠誠と身分的な義
務の遵守、出生・結婚・葬式などの人生上の通過儀礼と祖先を祀(まつ)る年中行事の誠実な遂行など
がそれであり、これらの規定に違反した場合はカースト追放、下位身分への転落という制裁を受ける。
そこには、バラモンの血統至上主義とそれに基づく浄―不浄の観念が強く影響しており、それは歴史
的にはインド民族の政治的統合への可能性を困難にする原因となり、また経済的には閉鎖的で自給
自足的な村落を近代に至るまで温存させることになった。
【改革運動】このようなカースト制度を批判する改革運動として、古代においては前 6 世紀に創始された
仏教のそれがあり、中世においては 15 世紀のカビール派などに代表される運動、そして近代において
はラーム・モーハン・ローイなどの開明派による啓蒙(けいもう)的な活動があったが、いずれもカースト
制度を根絶することができなかったばかりか、逆にそれ以後もサブカーストの数はますます細分化して
増大し、今日ではその数が 2000 種にも達するという。
カースト制度の最大の癌(がん)といわれるものに不可触民 untouchables の問題がある。彼らは家畜
の、と畜、道路掃除、糞尿(ふんによう)処理、理髪、洗濯などの業務についているが、そのため一般の
ヒンドゥー教徒からはカースト階層の最下位におとしめられて、政治的、経済的に無権利の状態に置か
れてきた。インド独立の父マハトマ・ガンディーは彼らをハリジャン(神の子)とよんで救済運動を展開し
たが、実効はほとんどあがっていない。むしろ現実の各カースト機関は近代政治の舞台においてすら、
それぞれの集団の利益を強く主張する圧力団体と化す傾向がみられる。第二次世界大戦後になって、
アンベードカルを指導者とする不可触民の一部が、カースト差別を容認しているヒンドゥー教を離れて
仏教に改宗するという事件が起こり、それは今日でも重大な政治問題となっている。
【カーストの調査・研究】カーストの組織的な調査・研究は 19 世紀後半になってやっと緒についたという
ことができる。それ以後多くの調査報告や文献が生み出され、結果的には 1 個の「カースト学」ともいう
べき研究分野が形成された。これらのカースト研究は問題意識や実際的関心の多様性から、その内
容と方向を異にしていた。したがって今日までの約 1 世紀にわたる研究史を系譜的に類別することはき
わめて困難であるが、いちおうの時代的な傾向と内容的な特徴を考慮して、おおよそ以下の 3 種の系
統に整理することができる。
その第一は、ちょうど近代ヨーロッパの学界で勃興(ぼっこう)期にあった人種学や民族学の立場から
の研究である。それは主として、人種、言語、宗教、婚姻、家族、職業、風俗習慣などの要素を軸とす
るカースト分類を目ざす一方、カースト体系の発生地盤を問題にした。したがってこの方面では、現実
社会の統計的整理を目ざす静態的な国勢調査に重点を置く方法がとられた。すなわち、その分野での
第一人者であったH・リスレイは、19 世紀末にインドで初めて包括的な国勢調査を行ったが、彼のこの
仕事がインドにおけるイギリスの支配と不可分の関係にあったことはいうまでもない。
第二には、ヨーロッパにおける社会学や宗教社会学の側からのアプローチに代表される系統である。
すなわち、これによれば、カーストはなによりもまず政治的、経済的、宗教的に一個の有機的な閉鎖集
団をなし、一定の価値体系と行動類型を有する社会単位である。このような観点は、主としてカースト
の機能的、構造的な意味の追究を促すとともに、また総体的なヒンドゥー社会とその下位集団であるカ
ースト社会との間の相互連関性を明らかにする方法を導き出した。一種の科学的相対主義といっても
いいであろう。
これに対して第三に、主として政治集団という側面からカーストの問題を取り上げようとする試みが、
とくに第二次大戦後になって行われるようになった。この研究方法は、政治体制、政党、イデオロギー、
忠誠観念、選挙などを通じての政治過程や司法装置、あるいは農村と都市化およびその経済的要因
といった多面的な角度から、カースト成員の政治社会意識や、圧力団体としてのカーストの政治活動な
どの問題にメスを加えた。これは、そのほとんどが社会学や文化人類学の側の研究者によって行われ
ており、同時に前記した第二の機能理論や構造理論、および社会変動理論などを援用している。その
研究の特徴としては、カースト社会の変遷過程に注目し、その近代化ないしは産業化の可能性を検討
するとともに、近代化を阻止する要因の除去について社会政策的な提言を行おうとしている点をあげる
ことができ、その意味で、それはインドにおける現代政治に密着した動態論的な研究であるといえる。
以上記したところからわかるように、カーストは広くインドの宗教、社会、政治の問題に深くかかわり、
きわめて複雑な体系を形成してきたが、それだけにインド人の民族性を究明し理解するうえできわめて
重要な検討課題となっている。→インド →インド史
〈山折哲雄〉
(C)小学館
カースト 平凡社世界大百科
インドの社会集団。結婚,食事,職業などに関する厳格な規制のもとにおかれた排他的な社会集団で,カーストを経
済的な相互依存関係と上下の身分関係で有機的に結合した制度をカースト制度という。
[バルナとジャーティ] カーストとはポルトガル語で〈家柄〉〈血統〉を意味するカスタ(語源はラテン語のカストゥス
castus)に由来する語である。インドではカースト集団を〈生まれ(を同じくする者の集団)〉を意味するジャーティ j´ti と
いう語で呼んでいる。
一方,日本ではカーストというとインド古来の四種姓,すなわち司祭階級バラモン,王侯・武士階級クシャトリヤ,庶
民(農牧商)階級バイシャ,隷属民シュードラの意味に理解されることが多い。インド人はこの種姓をバルナ varla と
呼んできた。バルナとは本来〈色〉を意味する語である。アーリヤ人のインド侵入当時,肌の色がそのまま支配者であ
る彼らと被支配者である先住民との区別を示していた。この語に〈身分〉〈階級〉の意味が加わり,混血が進み肌の色
が身分を示す標識でなくなったことにおいても,この語は依然として〈身分〉〈階級〉の意味に使われ続けたのである。4
バルナのうち上位の 3 バルナは再生族(ドビジャ dvija)と呼ばれ,これに属する男子は 10 歳前後に入門式(ウパナヤ
ナ upanayana(2 度目の誕生))を挙げ,アーリヤ社会の一員としてベーダの祭式に参加する資格が与えられる。これに
対しシュードラは入門式を挙げることのできない一生族(エーカジャ ekaja)とされ,再生族から宗教上,社会上,経済
上のさまざまな差別を受けた。そして,シュードラのさらに下には,4 バルナの枠組みの外におかれた不可触民(今日
では指定カースト scheduled caste と呼ばれる)が存在した。彼らは〈第 5 のバルナに属する者(パンチャマ pa4
cama)〉とも〈バルナを持たない者〉とも呼ばれる。なお,時代が下るとともに下位の両バルナと職業の関係に変化が生
じ,バイシャは商人階級のみを,シュードラは農民,牧者,手工業者など生産に従事する大衆を意味するようになる。
こうした変化にともないシュードラ差別は緩和されたが,不可触民への差別はむしろ強化された。
以上の 4 バルナの区分が社会の大枠を示したものであるのに対し,ジャーティは地域社会の日常生活において独
自の機能を果たしている集団であり(たとえば壺作りのジャーティ,洗濯屋のジャーティ),その数はインド全体で 2000
~3000 にも及んでいる。
ジャーティとバルナの間には共通した性格(内婚,職業との結合,上下貴賤の関係)が認められ,また不可触民のジ
ャーティを除くすべてのジャーティが 4 バルナのいずれかに属している。このため,従来しばしばジャーティとバルナが
混同され,そのいずれもが〈カースト〉と呼ばれてきた。しかしカースト制度を理解するためには,この両概念をひとま
ず切り離してみる必要がある。以下ではカーストという語をジャーティの意味に用い,バルナについてはこの呼称をそ
のまま用いた。ただしバラモンという呼称のみは,カースト,バルナいずれの範疇(はんちゆう)にも用いられる。
[カースト内部の構造] (1)結婚 結婚に関する規制はカーストごとに多様であるが,原則的に言えば,カーストは外
婚集団を内包する内婚集団である。すなわち,カーストの成員は自分と同じカーストに属する者と結婚する義務があ
る(内婚)と同時に,同一カースト内の特定の集団に属する者とは結婚できない(外婚)。内婚の範囲はカーストの大小
や地理的条件によって多様であるが,大きなカーストの場合,その内部がさらに幾つかの内婚集団(サブ・カースト)に
分かれていることが多い。ただし,上位カーストの男性と下位カーストの女性との結婚がおおめに見られることがあり,
また南インドのケーララ地方に住むナンブードリ・バラモンと母系のナヤール・カーストの間に見られるような,異カー
ストの間の通婚関係が慣行として定着した例もある。
カースト内部の外婚集団としては,まず近い親族がある。ヒンドゥー法典などではその範囲を父方 7 世代,母方 5 世
代などと定めているが,現実にはもう少し狭い範囲とされる。この範囲内での通婚は原則として禁じられるのであるが,
南インドでは交叉いとこ婚(母親の兄弟の娘との結婚)が望ましいとされるなど,例外もまた多い。外婚集団にはまた,
伝説上の祖先とされる聖仙(リシ noi)を同じくする家(ゴートラを同じくする家)と,その聖仙に続く幾人かの家祖の一
部を共通にもつ家(プラバラ pravara を同じくする家)がある。これらの家は互いに親族であるとみなされ,実際に血縁
関係がない場合でも通婚が禁じられる。このゴートラ・プラバラ規制は,主としてバラモンの間で強く守られてきた。
以上のように,カースト制度のもとで配偶者の選択の範囲はきわめて限られている。しかし,ヒンドゥー教徒の父親
にとって,子どもをふさわしい家柄の異性と結婚させることは宗教的義務であった。かつてインド社会で広く行われて
いた幼児婚の風習の主たる原因はここにある。内婚制はカースト制度のなかでも最も強固な部分である。今日,都市
においてこの壁が崩れる傾向が見えはじめているものの,社会的ランクの隔たったカーストの間の婚姻が成立するこ
とは,なお非常に少ない。
(2)食事 ヒンドゥー教徒にとって食事は一種の儀礼であり,穢(けが)れから食事を守るために細心の注意が払われる。
原則的には,他カーストの者といっしょに食事すること,および下位カーストの者から飲み水や食べ物を受けることが
禁じられる。しかし食事に関する規制はカーストによって,また地方によって多様であり,必ずしもこの原則が厳守さ
れているわけではない。飲食物の種類について言えば,高いカーストほどタブーとされるものが増え,バラモンのなか
には完全な菜食主義を守るサブ・カーストも多い。中位・下位のカーストは一般にヤギ,鳥,魚などの肉を食べるが,
牛肉食は一部の不可触民カーストに限られている。近年,食事に関する規制は全般的に緩和されつつある。とくに都
市においてこの傾向が著しい。
(3)職業 カーストはしばしば固有の職業をもち,成員はその職業を世襲する。したがってカースト名には職業に関係
するものが多い。たとえば,鍛冶カーストのローハールは〈鉄〉を意味するローハ,陶工カーストのクンバールは〈陶
器〉を意味するクンバを語源としている。ただしカーストと職業の結びつきは決して固定したものではなく,同一カース
トに属する者が異なった職業に従事する場合も現実には多い。また農作業はほとんどのカーストに開かれている。
近代になり伝統的な経済関係が崩れはじめると,カーストと職業の結びつきは緩んだ。今日のインドでは共和国憲
法のもとで,原則的には職業の自由が保障されている。しかし,インドの人々がカースト固有の職業を離れても,カー
ストそのものから離脱したことにはならず,出身カーストへの帰属意識は依然として強い。
(4)自治機能 各カーストには,以上の結婚,食事,職業に関する諸慣行を含む独自の慣行が掟(おきて)として存在して
いる。そして,それらの掟に違反した仲間に対しては,長老会議(カースト・パンチャーヤット)や成員の集会(サバー)に
よって,罰金支払を含むさまざまな制裁が加えられた。制裁の方法として,しばしば採用されるものにカースト外への
追放がある。一時的追放の場合は贖罪行為や浄化儀礼(沐浴など)のあと復帰できたが,永久追放された者は,他カ
ーストから受け入れられることもなく,また家族からも見放された。処罰の対象となる行為には食事や交際に関する違
反などささいに見えるものも多い。しかしカーストの団結と地域社会内でのランク(地位)を守るためには,そうしたささ
いな掟の厳守が必要とされたのである。
このようにカーストは,自治的機能をもった排他的な集団であり,インド人はカーストから追放されない限り,貧富や
成功,失敗に関係なく,生涯自分のカーストから離れることができない。彼らは村落や都市の成員であると同時に,村
落や都市を超えた地域社会のなかに住むカースト仲間と結ばれており,交際の親密度から言えば,カースト仲間との
結びつきの方がはるかに強い。カースト制度のもとで個人の自由は厳しく制限されるのであるが,他方,カーストに属
し,先祖伝来の職業に従事する限り,最低の生活は保障された。
[カースト相互の関係] (1)分業関係 旧来のインド社会は,排他的なカーストが経済的・社会的な相互依存関係によ
って結合されたものであった。人口の大多数を抱えてきた村落社会のなかに,その典型を見ることができる。
村落は普通 10~30 のカーストから構成されている。村人はほぼカーストごとにまとまって住み,最良の地は上層の
諸カースト,村の周縁部は不可触民の諸カーストの居住区となっている。こうした村落の内部におけるカースト間の分
業関係を,社会学者のワイザーはジャジマーニー jajm´n ̄ 制度と呼んだ。ジャジマーニーとは〈顧客〉〈得意先〉を意
味するジャジマーンからの派生語で,特定のカーストに属する家(たとえば陶工や鍛冶などの家)が,先祖代々の得意
先である家に対してもつ権利を意味する。すなわちジャジマーニー制度とは,職人カーストやサービス提供カースト
(バラモンなど)に所属する個々の家が,農業カーストに所属する家や他カーストに属する家のために特定の仕事を世
襲的に行い,その報酬として穀物やサービスを伝統的に定められた量だけ供給されるという制度である。村落内にお
けるカースト間の分業関係は,経済的・政治的な力をもつカーストに有利にしくまれていた。有力なカーストとは,村内
で最も広い土地を所有するカースト(地主,土地所有農民の所属するカースト)で,人数のうえからも最大であることが
多い。村落の自治組織であるパンチャーヤットを牛耳ってきたのもこのようなカーストであり,社会学者によって支配
(ドミナント)カースト dominant caste と呼ばれている。
一村内にすべての種類の職人が充足されていたわけではなく,近隣の村落との間で職人を補充しあう必要も生じた
が,現物やサービスの交換関係で補われ,貨幣の媒介をほとんど必要としないジャジマーニー制度のもとで,自給自
足性の強い村落の生産活動は維持されてきた。しかし,こうした分業関係は,インド社会の近代化とともに崩れてきて
いる。村人のなかには世襲の職業を棄てて都市に出る者も多くなり,また伝統的な報酬に代わり貨幣の支払が求め
られるようになってきた。(2)上下関係 カーストはまたバラモンを最上位とし不可触民のカーストを最下位とする儀礼
的な上下関係によって結ばれている。職業の種類や食事,結婚をはじめとする諸慣行が,バラモン的な浄・不浄観か
ら評価され,上下の関係が定められるのであるが,そうした上下関係には地域差もあり,また職人カーストなど中間カ
ーストの上下関係はあいまいな場合も多い。
儀礼的な見地から定められる上下関係と,政治的・経済的な階層差とは本来異なったものである。たとえばバラモン
は必ずしも村落内で最も富裕であるわけではない。しかし村落の住民を経済的な視点から上・中・下の 3 階層に区分
してみると,それはカースト・ランキングを 3 区分したものとかなり一致する。ランキングで最下位におかれた不可触民
カーストの生活が,村内の住民の最低水準であることはいうまでもない。カーストの上下関係は,政治的・経済的・社
会的な変化に応じて多少の流動性を示した。ランクを上昇させようとするカーストが一般的に試みる方法は,全構成
員が一丸となって浄性が高いとみなされる慣行(たとえば菜食,禁酒,寡婦再婚禁止)を採用することである。社会学
者シュリーニバスは,カースト内部のこうした動きを,バラモン文化の象徴である聖典語にちなみ〈サンスクリット化
Sanskritization〉と呼んだ。伝統社会が崩れはじめた近代のインドでは,この種の動きが中位・下位のカーストの間で
活発化し,カースト規制が強化されるという逆行現象も生じている。
伝統的なインド社会は,カーストをこのように〈よこ〉(相互依存関係)と〈たて〉(上下関係)に有機的に結合したもので
ある。こうしたカースト社会は必ずしも固定化したものではなかったが,きわめて強固であり,本来カースト的差別を認
めないはずのイスラム教徒やキリスト教徒も,カースト制度の枠のなかで生活している。
[カースト制度を支えた思想] (1)浄・不浄思想 いずれの宗教においても浄・不浄の思想は存在するが,ヒンドゥー教
のもとでこの思想は極度の発達をみた。カーストとの関係について言うならば,さきに記したように各カーストの職業
や慣行が浄・不浄の観点から評価され,最清浄であるバラモンを最高位とし,不可触民のカーストを最下位とするラン
キングが定められている。各カーストがそれ自体としてもつ一定の不浄性は集団的なものであり,カースト所属者が
一様に,また生涯にわたってもたざるをえないものである。一方,いずれのカーストも,それぞれにふさわしい浄性を
保つ必要がある。各カーストがその成員に強制する結婚,食事などに関する煩瑣(はんさ)な規制も,結局は自己のカー
ストを穢れから守り,カースト・ランキングを維持するためのものと言える。以上のように,ヒンドゥー教の浄・不浄思想
は,インド社会をカーストに分割する原理となっていると同時に,カーストの集合体から成る社会を秩序づける原理と
もなっている。宗教的・儀礼的に定められた上下の秩序が,経済的な分業関係を支え,維持してきたのである。
(2)業・輪廻思想 ヒンドゥー教徒は,霊魂は前世になした行為(業(ごう))に縛られ,さまざまな姿をとって生まれ代わる
(輪廻(りんね))と信じてきた。この業・輪廻思想のもとでヒンドゥー教徒は,〈人がそれぞれのカーストのなかに生まれるこ
とになったのは,前世の行為の結果であるから,彼はそのカーストの職業に専念せねばならない。そうすることによっ
てのみ来世の幸福が得られる〉と教えられる。こうした徹底した宿命観が,カースト社会の維持のために果たした役割
は大きかった。
[カースト制度の起源と発達] カーストの起源をめぐって 19 世紀以来さまざまな説が提唱されてきた。たとえば職業
の分化,異人種(アーリヤ人と先住民)の接触と混血,アーリヤ人の家族制度,先住民の部族制度,原始信仰と宗教
儀礼などにその起源が求められている。カースト制度は諸要因の複雑な結合によって成立したものであるが,それら
の要因を統合して一つの制度へ導く力となったのは,バラモンと彼らの指導下に成立したバルナ制度である。
バルナ制度は,アーリヤ人が農耕社会を完成させた後期ベーダ時代(前 1000‐前 600 ころ)に,ガンガー(ガンジス)川
の上流域で成立した。この制度は,バラモンを最清浄,不可触民を最不浄とし,その間に職能を異にする排他的な内
婚集団を配列したものであり,その性格にはカースト制度と共通する部分が大きく,カースト制度成立の基本になった
制度と言える。バルナ制度の理論は,その後バラモンによってさらに発達させられ,《マヌ法典》(前 200‐後 200 ころの
成立)に代表されるヒンドゥー法典のなかで完成された。またこの制度は,アーリヤ文化の伝播にともないインド亜大
陸の全域に伝えられ,時代と地域によって強弱の差は認められるものの,今日に至るまで機能し続けてきた。バラモ
ンの指導のもとに成立したバルナ制度は,いわば〈上からのカースト化〉と呼びうるものである。
一方,古代インドの社会には,他の地域の古代社会と同様に職業や地縁・血縁で結ばれたさまざまな排他的集団
が存在していた。これらの集団は,他の地域においては社会の発展とともに排他性を緩めていくのであるが,インドで
は,それらは排他性を維持したまま社会的役割を固定化され、カーストとして存続することになった。また歴史の経過
のなかで,地理的・職業的・宗教的な原因,あるいは征服や移住や混血,社会慣行の変化などによって,旧カースト
が分裂し新カーストが生まれている。いわば〈下からのカースト化〉が進行したのである。この〈下からのカースト化〉を
強く促したのが,バルナ的秩序化すなわち〈上からのカースト化〉であったと思われる。〈上からのカースト化〉が集団
本来の諸規制をカースト規制に転化させるとともに,諸集団を上下の秩序のなかに位置づけたのである。
史料が不足していることもあり,カースト間の分業関係に基礎をおく村落が,いつごろ,またいかにして成立したのか
は明らかではない。おそらく,グプタ朝(4~6 世紀)の衰退以後,都市経済が衰え地域的自給自足化が進行した時期
に,徐々に成立したものと考えられる。
カースト制度はインド社会を膠着化・停滞化させたと言われ,またカースト的独善主義や外部者に対する差別意識を
育て,愛郷心・愛国心の成長を阻んだとも言われる。しかしこの制度は,経済発達の一定の段階においては生産を高
めそれを維持するための有効な制度だったのであり,また特殊技術を高度に発達させる役も果たした。さらに,カース
トを基礎とする社会は大きな安定性をもっていた。したがって,この制度は為政者にとって好都合なものであり,ヒンド
ゥー王国の支配者はもとより,イスラム教徒の支配者もまた,カースト社会を温存し,その上に君臨するという方法を
とった。
[インドの近代化とカースト制度] イギリスの植民地とされていた時代のインドでは,新しい土地制度,教育制度,司
法制度,官僚制度などが導入され,また交通・通信網の整備,産業の発達,貨幣経済の発達,都市工場の製品の農
村への流入,都市への人口集中などが見られた。さらに西欧流の自由平等思想が都市の知識人層に受け入れられ,
カースト的差別を批判する者も現れた。
20 世紀に入ると,選挙制度が導入されて下層民が政治に参加する道が開かれ,また独立運動を通じてカーストの枠
を超えた連帯も生じた。このようなインド社会の変化にともない,身分秩序の最上層ではバラモンの権威が揺らぎ,カ
ースト制度を支えてきたヒンドゥー教の思想も影響力を弱めた。一方,身分秩序の最下層では,不可触民の地位向上
運動が活発に行われるようになった。また村落におけるカースト間の分業関係はしだいに崩れ,都市に住むエリート
層の間には,カースト規制にとらわれず,カースト全体の向上よりも個人の地位上昇を求める者も増加した。独立後
のインド憲法では,カースト差別を禁じ,不可触民や部族民の社会的・経済的向上を図るための特別の保護政策がと
られるなど,立法と行政の力による社会改革が試みられている。
カースト制度がこのように解体の方向に進んでいることは確かであるが,この制度を成り立たせている社会的・経済
的・宗教的な諸要素が,すべての面で消滅しつつあるわけではない。たとえば内婚制は今日でもかなり厳守されてい
るし,カースト差別の基盤ともなっている村落内におけるカースト別居住は今後も存続するであろう。村落生活者にと
って所属カーストへの依存度はなお大きく,ジャジマーニー的分業関係も部分的にはなお機能し続けるものと思われ
る。またサンスクリット化や選挙制度導入の結果,カースト的結合がかえって強化されたという例も報告されている。カ
ースト制度は往時のような機能を果たさなくなってはいるが,今日なお村落社会を中心に根強い影響力をもち続けて
いるのである。
山崎 元一
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【社会】
インド社会の特徴としては,しばしば合同家族,カースト制度,村落共同体の 3 者があげられる。インド社会の基礎単
位は家族であり,合同家族とは結婚した息子たちが財産,生計,祭祀を共同にして生活する形態の大家族である。合
同家族はとりわけ上層カーストの富裕な人々の間に多く見られるが,その他の家族でも合同家族を理想とし,その理
念に基づいて互いに助け合っている。どの家族も必ず特定のカーストに属する。仏教やイスラムなどに改宗した非ヒ
ンドゥー教徒でも,改宗前に所属したカーストに応じて新しいカーストをつくっているか,宗教徒集団自体がカーストと
同様に見なされている。カーストは村落や都市をこえた地域で形成されており,主要な言語地域ではその数は 100 以
上である。カーストの特徴をあげれば,(1)それぞれ他から区別される名称をもち,その成員身分は世襲的で生まれた
ときに決まり,カーストの規則を破って追放されるかあるいは明瞭な手続で改宗しないかぎり,死ぬまでそのカースト
から変わることができない。(2)婚姻は同じカーストの成員の間で行われる。(3)カーストの名称の多くがそれぞれの仕
事を示しているように,カーストは職業と結びつきをもっている。その成員はかつて同じ特定の職業をもっていたと信じ,
今も多くの成員がこの伝統的職業に従事している。しかもこの職業から離れても,カーストの所属は変わらない。(4)同
じカーストの成員は宗教儀式,食事をはじめとして慣習を共通にしており,食事をいっしょに食べることができる間がら
であって,生活を相互に規律している。この規律を維持する自治的機関はパンチャーヤットとよばれる。とくに成員が
共同して彼らの権益を主張し,あるいはそれを擁護する必要のある中層と下層のカーストの間では,パンチャーヤット
の活動は顕著である。このような特徴をもつカーストは,バラモンを最上層,不可触民を最下層として,ヒエラルヒーを
なし,各カーストはその中にランクづけられており,下層カーストに対してはけがれの観念によって宗教上・社会上の
差別が行われ,その差別はカルマ(業)の理念に正当化されている。そして各カーストはバラモン,クシャトリヤ,バイシ
ャ,シュードラの有名な四つのバルナ(種姓)か,その外におかれ差別を受けた不可触民のいずれかに属すると考えら
れている。このバルナ制度はさまざまなカーストを全インドにわたってランクづける枠としての機能を果たしている。だ
がバラモンと不可触民を別とすると,中間層のカーストのランクは必ずしも明瞭ではなく,村落によって相違することが
多い。またあるカーストはバラモンと主張するが,地域社会はそれを認めずシュードラと見なしているように,各カース
トとバルナ姓との関係には問題がある。
村落共同体はいくつものカーストに属する家族によって形成される基礎的な地域的集団である。そこでは土地所有
の上で優位を占めるカーストが支配的地位を占めており,これは支配カースト dominant caste とよばれる。このカー
ストを中心としてさまざまなカーストがあり,村落生活と農業生産のために必要な仕事を分業している。村落は人々の
生活の単位であるとともに政治・行政の末端単位でもある。村長が徴税,治安,行政の責任者であり,村書記が徴税
のため土地所有などの記録を保持しており,村長のもとで自治自律的機関たるパンチャーヤットが村落の社会的規
律を維持している。村落形態はベンガルや西海岸地帯を除いて集村であり,村と村の居住区域間はふつう数 km も
隔たっているが,村落は決して孤立したものではなく,数村落がまとまって一つの小さな経済圏・生活圏をなし,そこに
市が定期的に開かれている。
このインドの特色ある社会は決して太古から存在して変わらなかったわけではない。歴史的にいえば,村落社会は
前 7 世紀ごろガンガー川流域の開拓の進展を背景として成立し,そのころバラモンによって 4 バルナ制度も樹立され
た。その後数世紀間この先進地域の国家と農業の発展,宗教と文化の進歩はめざましく,それらはしだいに諸地方に
広まって,各地方ではそれぞれ独自の村落社会が形成された。4 バルナ制度は《マヌ法典》において完成した規範が
つくられたが,そのまま行われたわけではなく,バラモンのほかは,身分,階級,官職の名称をつけて記されるのがふ
つうであり,《マヌ法典》と違って,バイシャは商人,シュードラは農民という観念も生まれ,4 バルナの外の不可触民は
きびしく差別された。8 世紀以後,土地所有階級が村落の農業生産を支配し,彼らの中から領主層が台頭すると,彼
らは郷村で排他的な集団を形成してカーストとなり,バラモンと彼らの支配のもとで農業生産と村落生活のため手工
業やさまざまな仕事に従事していた職業集団は世襲化して,それぞれカーストを形成した。こうして村落社会は諸カー
ストのヒエラルヒーをなす社会となり,けがれの観念とあいまって,差別の慣行は著しくなった。13 世紀以後のイスラ
ム教徒のインド支配は従来の政治・社会体制の上に乗ったため,カースト制度は温存されていよいよ厳格となり,また
村落内の分業体制が進み,職人たちに対する報酬は一定額の穀物などを現物で支給することが慣行となり,土地所
有者と職人との関係も世襲化した。こうして村落のカースト制度はムガル帝国時代の 16,17 世紀に完成したが,この
とき貨幣経済の普及,市場の発達などによって崩壊もまた始まり,イギリス植民地時代の 19 世紀に大きな変化をとげ
た。
山崎 利男
kast
The term caste refers to an extreme form of social differentiation in which the groups that constitute society are
ranked in a rigid hierarchical scale. In all true caste systems, society as a whole is divided into a series of
groups determined by birth. Marriage is generally restricted to members of the same caste, castes are in some
way associated with occupational specializations, and the order of castes is linked to a moral order that
dictates codes of appropriate behavior for each caste. The most elaborate form of caste is found in Hindu India.
Less elaborate caste systems exist in other parts of South Asia, including Sri Lanka, Pakistan, Bangladesh,
and Nepal.
CASTES IN INDIA
The Indian caste system appears to have evolved out of the varna system, which developed about 1000-800 ©.
Some authorities associate the hypothetical Aryan invasions of North India with the origins of the varnas, which
are mentioned in the Indian classic the Rig Veda. Four varnasÑBrahmin, Kshatriya, Vaishya, and ShudraÑare
recognized, each associated with specific societal functions. The Brahmins served as priests, the Kshatriya
were warriors or political rulers, the Vaishya were traders and cultivators, and the Shudra were artisans.
About 2,000 years ago the four varnas became elaborated into numerous jati, which more or less became the
castes known today. While the jati were themselves organized within the general varna framework, they were
regarded as the products of sexual relations between members of different varnas. Further elaborations of the
varna system gave rise to the additional category of Untouchables, who were considered outside the confines
of castes because of their impure occupations. The Untouchables, or scheduled castes, now refer to
themselves as Dalits (a Hindu word meaning "the oppressed").
The structure of the Indian caste system closely reflects the central preoccupations of Hinduism (the religion of
about 85% of all Indians) with problems of purity and pollution. Higher castes depend on the lower castes to
remove their impurities, and lower castes depend upon their superiors to transmit purity down the hierarchy to
them. The prohibitions against marriage between castes are designed to prevent the intrusion of pollution, but
an individual can hope to be reborn into a higher caste in the next life through good deeds.
Thus while castes are in some ways inward-looking groups intent on minimizing external contacts, they are
also dependent upon one another for various ritual services in the context of purity and pollution.
Some observers consider the caste system primarily a social division of labor. Each caste is associated with a
particular occupational specialization, so that each caste is economically dependent on all the others. This
interdependence is particularly clear in the case of those who deal directly with the problems of purity and
pollution, such as the barbers and the washermen, but it is present in other cases as well. For example, since
gold is ranked as more pure than wood, goldsmiths as a caste rank above carpenters.
Castes of higher rank have traditionally tended to be wealthier and more powerful than lower castes. Thus, the
caste system can be regarded as either a manifestation of the gross realities of power and wealth upheld by
religious conceptions or a primarily religious system integral to Hinduism and only indirectly related to the
mundane world.
Castes vary greatly in size. Some, such as the Maratha, number many millions of people and are found over
large areas of India. Other castes are numerically small. The extent to which castes still perform their
traditional roles varies greatly. The changing circumstances of modern times have made the traditional callings
of some castes obsolete or impracticable. Thus, few if any Jats today are soldiers. The occupations of other
castes, particularly those directly involved in the manipulation of purity and pollution, resemble their traditional
roles more closely.
After India gained independence in 1947, economic and political forces and events affected but did not destroy
the Indian caste system, which remains most pervasive in the rural areas where more than 70% of all Indians
live. Marriages are usually still made within castes, or at least within class, and castes are still ranked in terms
of purity and pollution. But caste is no longer a legal barrier to education or occupation, and castes now mingle
freely within the workplace. Due in part to the influence of Mahatma Gandhi, discrimination by caste was made
illegal in the 1950 constitution. The scheduled castes and tribesÑincluding not only the Dalits (about 20% of
India's population) but also many tribal peoplesÑwere granted special educational and political privileges. This
gradually evolved into the world's most extensive system of affirmative action, in which many legislative seats
and more than half of all government jobs and university admissions were permanently reserved for members
of some 2,000 specific castesÑsome truly deserving, others simply politically powerful enough to insist upon
inclusion. Regional caste-based political parties became increasingly powerful in the 1990s as the influence of
the Congress party (see Indian National Congress) waned. In some areas, particularly the state of Bihar,
violence erupted as landless and low-caste peasants sought to improve their lot. While most lower-caste
Indians are still impoverished peasants or urban slum dwellers, the extent to which they had moved to the
center of Indian political life was evidenced by the installation of India's first low-caste prime minister (H. D.
Deve Gowda) in 1996 and its first Dalit president (K. R. Narayanan) in 1997.
CASTES ELSEWHERE
Some authorities see caste strictly as a part of Hinduism and deny that it exists outside Hindu India. Others
see it simply as a peculiarly rigid form of social stratification and regard even such situations as the racial
segregation that existed in the southern United States over the last two centuries as caste systems.
Systems of social differentiation similar to but less restrictive than those of Hindu India are found in several
adjacent countries, including Pakistan, Bangladesh, and Nepal. In Buddhist Sri Lanka, the Sinhalese are
organized in terms of castes that are related to one another partly in terms of purity and pollution, and
marriages and occupational specializations often relate to caste. A highly simplified form of caste still exists in
Bali, the last of the Hinduized areas of Southeast Asia. Many emigrants from India to East Africa, the West
Indies, Mauritius, Fiji, and elsewhere have also retained some forms of caste but without the elaborate social
differentiation found in India.
Hilary Standing and R. L. Stirrat
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System and the Origins of Caste (1994).
*1
カースト制はインド社会において非常に大きな影響を持っている。生活がカーストの中に封鎖され、
職業と結びついている。さらに、通婚を通して、同一カーストが結合することになるために、自分の属し
ていないカーストとの差異化は非常に大きくなる。インド社会全体が細かに分割された状態になってい
るといってよい。カーストは運命的に決定され、職業や結婚相手、社会的地位を決定するために、それ
を変更することはできず、自分に与えられた運命として甘んじて受け止めなければならない。このよう
なカースト制は、単なる身分の問題というだけではなく、社会全体がカースト制の下に動いているため
に、社会的分業の体系でもある。上位カーストへの移動があるわけではないので、社会全体の階層移
動は妨げられ、停滞した社会になる。他方で、きわめて安定した社会であることも明らかである。
もちろん、このようなカーストから逃れることを考えるために、カーストの制約のない他の宗教への改
宗は行われていた。インドにおける新興宗教としての仏教は、カーストを否定したために一時期非常に
拡がったが、最終的にはインドには定着しないことになった。それは、カーストが個人の利害よりも社会
生活の体系そのものを背景としていたためであるといってよい。
カースト観の通婚は例外的であるが、異種カースト間に子供ができた場合には、カーストは基本的に
母系的であり、母親のカーストに子供はそろえられる。インド社会自体は父系的であり、父親の権威が
高いが、母の影響はかなり強く、インドの状況はかなり複雑になる。カーストが原=組織となっているこ
とで、社会全体が分業体制に入っているものの、その構成は運命的で自分の能力によってなんらかの
改善が可能であるわけではない。社会全体の変化についても、非常に安定的あるいは硬直的であり、
社会変革がどのように推移するかについても非常に今後が注目される。
近代に入っても、イギリスの統治によって大きく変化することがなく、むしろ、イギリスは安定的なカー
ストの継続を図るとともに、宗教対立をあおり、その結果、イスラムとヒンドゥーの混住から、分離へと移
行することになった。インド独立はその意味ではきわめて大きな不安定要因であり、さらに、宗教的に
はヒンドゥーだけではなく、シーク教徒やジャイナ教、拝火教などが混在する状態であり、社会的にヒン
ドゥーだけで自立することがどこまで可能であるのかについて問題が残る。
このような中国とインドの状況は、それぞれ運命的な出自によって社会的地位が決定されている点で
特徴がある。父系を中心とする中国の場合には宗族が最も重要な社会生活の枠組みであり、その中
で生きていくことが人間の生涯を決定する。
これに対して、アメリカ社会を Hsu は考える。アメリカでの家族は中心となる関係は夫=妻の性愛関
係である。基本的な核家族の状況に至るが、それ以前からアメリカの家族は夫と妻の関係を中心とし
て構成されており、子供は夫婦の関係をじゃまする存在として扱われていた。このために、子供はでき
るだけ早い段階で独立することが期待されており、子供に対するケアもできるだけ少ないことが望まし
いとされていた。例えば、乳児期に子供が泣いても母親が駆けつけるということはなく、泣かせておくこ
とが普通であった。このために、子供の側も、日本の育児とアメリカの育児を比較した場合に、生後数
十日で行動の様式が変化することが報告されている。
親にとって子供がじゃまな存在であり、子供はできるだけ早く自立し、独立することが望ましいとされ
る傾向の逆に、老後を子供が面倒を見ることも少ない。子供は、介護が必要となった親を自分で面倒
を見るのではなく、施設に入れることがもっとも望ましいこととされ、親もそれを受け入れる。このような
意味では、親子関係よりも夫婦関係がより中心となっていることは明らかである。
この夫婦関係は、選択的であり、運命的なものではない。自分の自由意識で相手を選択することが
可能であり、その点では出自によって形成される中国やインドとは大きく異なる。このような家族制度化
では、原=組織としては運命的に決定されず、自由意志によって構成される集団が想定される。Hsu は
それをクラブに求める。クラブについては、自由結社としての性格を持ち、社交からはじまる存在として
考えることができる。自由意志によって参入し、退出する。また、クラブ内での集団構成は、入会時にお
いては平等に扱われ、その後はクラブに対する貢献の程度や能力などで判断される。カーストや宗族
と比較すると能力主義的な要素が非常に強くでることになり、それだけ運用は合理的に行われる可能
性が高い。
クラブは自由意志によって構成されるが、その目的もまた自由に設定することが可能である。また、さ
まざまな形式を取るが、その中でも秘密結社と呼ばれる集団は、自由意識よる参加だけではなく、それ
が秘儀的な集団として成立しているために、特にクラブ的でもある。
■クラブ ニッポニカ
club
結社の一形態。広義には、なんらかの共通の目的・関心を満たすために、一定の約束のもとに、基本
的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない、パートタイム
の機能集団のことである。クラブということば自体はクリーブ cleave(執着する、団結する)という英語に
由来する。ドイツ語のクラブに相当する語は同業組合、ギルド、宴会などを意味するツェッヘ Zeche で
あり、本来の意味は共飲共食のことであった。日本では「倶楽部」の字をあてた。
【人類学からみたクラブ】クラブということばはイギリス起源であるが、同種の機能集団は人類史上古く、
いわゆる未開社会においても、その存在がよく知られている。未開社会のクラブは、地域や種族によっ
て、構造や機能、儀礼や目的が多様であり、秘密結社の形をとっているものも多い。一般に部族社会
では、クラブの成員であることは高い社会的地位を意味しており、ナイジェリアのベニン人の王宮結社
や、イボ人の「肩書のある首長」の会であるオゾ結社などは典型的なエリートのみのクラブである。ニュ
ーギニアのエレア人のハリフ結社やナイジェリアのヨルバ人のオグボニ結社は、政治的機能をもつクラ
ブといえる。シエラレオネからリベリアにかけて住むメンデ人には女性によるクラブがあり、リベリアのク
ペル人にみられるポロ結社などは、少年を教育する目的をもったクラブである。イギリスの植民地政策
に反対して闘ったケニアのキクユ人のマウマウ団は、革命的秘密クラブであった。ミクロネシアやアフリ
カの一部には、共食や演劇やレクリエーションを目的としたクラブも多い。〈綾部恒雄〉
【欧米などにおけるクラブ】クラブは古代ギリシア・ローマ時代には宗教的な組織の一部で、ともに食事
をしながら政治や商業のことなどを話し合う場所の意味であった。イギリスでは 16 世紀ごろから宗教的
な活動をするクラブがつくられ、のちに目的が多岐になっていったが、多くは上流社会の社交クラブで、
階層別・職業別につくられた親睦(しんぼく)団体であった。17 世紀初頭にコーヒーがトルコから輪入され、
コーヒー・ハウスやターバン(宿屋)でクラブの集会が行われるようになった。職業的なものとは別の、
趣味や文学・芸術などの愛好団体が生まれてくるのは 17 世紀後半から 18 世紀前半で、ヨット、ボート、
クリケットなどをはじめスポーツのクラブもほぼこの時代に形成され始めた。登山を目的とするアルパイ
ン・クラブの成立は比較的遅く、1857 年のことである。
婦人をおもなメンバーとする婦人問題や趣味のクラブが形成されたのは 18 世紀末であった。地域には
それぞれルーラル・クラブがつくられ、地域の人々のコミュニティの中心として憩いの場となっていた。イ
ギリスにおけるこのようなクラブの発達は、自治を重んじる民主主義形成の母胎であった。クラブの自
治の要素が極度に発達したものとしてイギリスのジョッキー・クラブがあげられ、競馬に関して法律の範
囲内での準司法的権能をもつに至っている。
アメリカでは 20 世紀に入って郊外でスポーツを楽しむためのカントリー・クラブがゴルフを中心に発達
した。このようなクラブの運営は会員の醵出(きょしゅつ)金や寄付金によって行われ、営業行為は行わ
ない。役員も会員のなかから選出される。クラブライフはクラブハウスを中心に行われ、クラブハウスは
集会に必要な各施設、飲食、娯楽、宿泊施設も設けられているものが多い。イギリスやアメリカのいわ
ゆる名門大学においても学生のクラブが古くからあるが、依然として社会の階層を反映した構成が崩
れたとはいえない。1902 年プリンストン大学学長となったウッドロー・ウィルソンは閉鎖的な学生クラブ
を大学改革のおもな対象としたが、理事などの猛反対で失敗したことは有名である。ドイツの学生組合
(ブルシェンシャフト)も時代により多様な性格をもつが、学生のクラブといってもよい。
中国では明(みん)代以降、同郷・同業をはじめ多くのグループが活動の本拠として会館をもっている。
会館にはさまざまな形態があるが、仲間相互の便宜や互助を図ることは共通している。
【日本のクラブ】日本においてはこのような個人の自主的行動によるクラブの形成は歴史が浅く、明治
初期に欧米の模倣をして一部上流階級の社交場が存在し、だんだん趣味やスポーツの団体として発
達した。しかし本来の民主主義の母胎としての個人の自由な意見の表現や奉仕の団体としての発達
は少なく、主としてスポーツや趣味の同好会としての意義に定着し、また飲食の場としてのみの場所や
社交場の意味に用いられている場合が多く、欧米とは異なった形のクラブが発達しているといえよう。
〈徳久球雄〉
クラブ 平凡社世界大百科
18 世紀末から 19 世紀にかけてヨーロッパ各地で成立した集団 association。
[ドイツ] ドイツでは協会(フェライン Verein)と呼ばれる。中世には人的結合の重要な単位として兄弟団があったが,
これは宗教と家と身分という三つの柱によって支えられていた。兄弟団に加入する単位は家であり,兄弟団は共同の
祭壇をもち,同じ身分の者からなりたっていた。ところが宗教改革によって宗教のきずなが緩み,フランス革命によっ
て身分の枠が崩壊し,さらに産業革命によって家のきずなが解体しかけていた状況のなかで,主として都市において
協会が生まれていった。それまでは家と身分と宗教のきずなに守られて生きていた個人が,大都市のなかで自己の
存在を確かめる場として協会が生まれたのである。したがって協会ははじめ趣味と実益の享受を目的とし,入会・退
会自由で,性別,身分を問わず,だれでも加入できる団体として出発した。ドイツの場合はとくに,ナポレオンによる占
領のもとで統一国家が崩壊している状況のなかからこの運動が起こったから,協会設立運動は一種の政治的独立運
動の様相をも呈していた。身分や職業による制限の撤廃,地方割拠的な政治的制度に対する新しい学術の交流がは
かられ,それらはまず郷土の発見へと向けられていった。つまり国家・経済の枠が崩壊したとき,個々の人間は家族,
友人,隣人などの関係を頼りとして生き,それらのきずなのなかで,啓蒙思想の理想を受け入れ,普遍的なものが目
ざされていたのである。初期の協会は〈共同の利益と愛国心に基づく〉ものが多く,啓蒙思想はドイツ語による作品を
通して新しいドイツの発見の一助となり,重農主義思想は農業社会と共同の福祉への関心を通して地域社会(郷土)
の発見へと連なってゆく。そこでは,J. メーザーの《愛国者の幻想》(1774‐78)にみられるように地域の開発と歴史研
究とが結びついていた。
初期の協会としては,ライプチヒの〈ドイツ語と古代研究のドイツ協会〉のような尚古的性格のものが多かったが,や
がて読書協会,博物館協会,歴史協会,農業技術改良協会,コーヒー・クラブなどの多彩な性格の協会が生まれ,19
世紀はまさに協会の時代と呼ぶにふさわしい状況となっていた。協会のなかで人々はそれまでの身分のきずなや家
族のしがらみ,そして宗教のきずなからも解き放たれて,それぞれの趣味について語りあい,その語らいは啓蒙思想
に媒介されて普遍的なものへと連なっていると自覚されていた。協会の構成員は多彩であったが,歴史協会などには
教師が多く,手工業の親方や肉屋,薬局の主人なども加わっていた。とくに歴史協会は各地の古文書の収集と刊行
をみずから行い,現在の歴史学の基礎となる史料集を刊行している。学問が素人によって担われ,それぞれ異なった
個性や環境の人々が一つの協会に結集することができた幸せな時代であった。後になると国家が介入しはじめ,協
会の性格にも多少の変化がみられるが,ヨーロッパでは今日でも,このような協会が存続しつづけ,その基本性格は
変りなく貫かれている。
阿部 謹也
[イギリス] イギリスのクラブは,支配階級であるジェントルマン層の生活様式の一部として発達し,今日では国民文
化の基幹をなしている。中世にもいくつかの飲食クラブが知られているし,大陸でいう兄弟団,信心会(イギリスではフ
ラターニティと呼ぶ)の類は無数にあった。産業革命期に広がった庶民の互助組織である友愛組合もクラブの一種と
みられるし,19 世紀に労働時間が短縮されると,労働者にも余暇が生じて彼らの組織もふえる。しかし,イギリスのク
ラブの最大の特色は,それが一般に上流・中産階級のステータス・シンボルとなっていること,都市的な余暇のすごし
方の典型となったこと,近代に特徴的なものであること,などの点にある。それは支配階級の象徴であったから,政治
クラブの性格をもつ場合が多かったが,ほかに文芸,芸術,学問を目的とするクラブ,スポーツ・クラブ,それらすべて
に共通する遊興――ダンスやギャンブル――をもっぱら目的とする社交クラブなど,多様なものがある。
近代的なクラブは,エリザベス時代に W. ローリーがつくった〈フライデー通り〉をもって嚆矢とするが,それが一挙に
普及するのは,ヨーロッパ大陸よりも早く,コーヒー・ハウス(喫茶店)の群生した 17 世紀後半のことである。成立期のク
ラブの集会は,コーヒー・ハウスの特定の一室を定期的に借り切って行われたのである。このピューリタン革命期の政
治クラブとしては,革命政権派の〈ロータ Rota〉,王党派の〈シールド・ノット SealedKnot〉などが知られる。18 世紀に
なると市民勢力のいっそうの台頭を反映して,クラブは急成長を遂げる。なかには,マグハウス・クラブと総称された,
乱痴気騒ぎやギャンブル,はては一般市民を襲撃するなど無軌道な行動に走るものも現れたが,1764 年には社交ク
ラブ〈ホワイト White’s〉が〈オルマック Almack’s〉と改称され,トーリー党の牙城と化するとともに,ギャンブルで勇名
を馳せる(オルマックは今日の〈ブルック Brook’s〉の前身)。文学クラブの〈キット・キャット Kit‐Cat〉やジョンソン博士
の〈ザ・クラブ The Club〉,料理で有名になった〈ブードル Boodle’s〉などのクラブも成立した。19 世紀にも,トーリー党
の政治クラブ〈カールトン Carlton〉(1831 設立)などクラブが生まれた。
19 世紀の上流のクラブは,著名な建築家の手になる専用の建物をロンドンのペル・メル街にもつようになる。また,
職業や階層による分化が進行し,コーヒー・ハウス時代の自由で開放的な雰囲気とは対照的な傾向を示す。運営形
態は各クラブで多様だが,一般に新会員の入会に厳格な制限が設けられてもいた。なお,1902 年以降は会員名簿な
どの登録が法的に義務づけられている。
クラブは本来ゲストとして以外には女性には開かれていなかったが,1883 年に〈アレクサンドリア Alexandria〉,87 年
に〈女性大学人 UniversityWomen’s〉などの女性クラブが生まれ,20 世紀に激増した。イギリス型クラブは,18 世紀か
ら大陸にも普及し,とくにフランスでは革命期の政治に決定的な影響を与えた。アメリカでは,その民主的な政治形態
を反映して一般開放型の政治クラブも発達し,そのネットワークが大統領選挙などで威力を発揮している。なお,国際
的なクラブにはロータリー・クラブ,ライオンズ・クラブなどがある。
川北 稔
[日本] 日本では,1872 年(明治 5)実業家西村勝三らが,ヨーロッパのクラブを範として,東京築地に建設した〈ナショ
ナルクラブ〉が最初であろう。76 年には福沢諭吉がクラブの性質をもった集会所を建てた。その趣意文〈万来舎之記〉
には,〈今度,当邸内に於て,一棟の集会所を建設せり,之を万来舎と云ふ。其記文左の如し。舎を万来と名けたる
は,衆客の来遊に備ふればなり。既に客と云へば主あるべきが,先づ来るの客を主とし,後れて来るの客を客とす。
……江湖の諸君子,貴賤貧富の別なく,続々来舎して其楽みを洪ひにせよ〉(《明治事物起源》)とある。また,福沢は
80 年慶応義塾の出身者,縁故者を多く有して結成された,交詢社発会の中心人物でもあった。明治 10 年代に入ると
各地,各階層にクラブが結成されるようになるが,その性格も必ずしも社交機関としてのクラブだけではなかった。長
崎,横浜などの開港地には商人を中心としたクラブがつくられ,商業取引や外国交易に一役を担った。また,国会開
設前後になると東北抑楽部,庚寅抑楽部,大同抑楽部など政社にクラブの名をつけるものが多くなった。
このようななかで明治期の政治状況を顕著に表しているクラブが,井上馨外務縁が発起して 84 年に設立した東京
抑楽部である。その主意には,〈修好の媒介を謀り,内外国人の交際を親密にせんが為め,海外諸国に現行するクラ
ブの体裁に準拠し,茲に抑楽部を設立し,会員を募集す〉とある。東京抑楽部の結成は,その第 1 回会合が鹿鳴館で
開かれたことに象徴されるように,不平等条約改正の準備の一環としてであった。その会員は,特別会員(皇族),名
誉会員(在日外国公使,在日中の来遊外国貴紳,帰朝中の日本公使),通常会員(内外朝野の品行正良,紳士の資格
を有する者)の 3 種類で,入会金 5 円,年会費 24 円であった(現在,入会金 30 万円,年会費 1 万 2000 円)。また,こ
のようなクラブはイギリスの伝統を受け継いでメンズ・クラブ(いわゆる女人禁制)であることが規則で,本家イギリスで
その伝統が崩されているにもかかわらず,東京抑楽部ではその設立以来,いっさいの女性の入室を禁じている。ちな
みに,交詢社では食堂とロビー,日本抑楽部(1897 設立)ではロビーと四つの会議室に限り女性の入室を認めている。
なお,中等教育の大衆化にともない学校におけるクラブ活動が発展し,また近年,スポーツを主とするクラブの結成が
多くみられる。
阿部 孝嗣
■秘密結社
秘密の入社式を有する会員制の組織や団体。
いわゆる未開社会の秘密結社から、アメリカの大学におけるギリシア文字クラブ、フリーメーソンやマフ
ィアなどの結社に至るまで広く用いられている。
史実として残るもっとも古い秘密結社のなかには、オリエントの密儀教のいくつか、古代エジプト、ギ
リシア、ローマなどの秘密結社がある。また、キリスト教時代以前のローマにおけるキリスト教徒や中
世のさまざまな異端的キリスト教グループなどのように、弾圧や迫害から逃れるために秘密性を採用し
たものもある。中世のギルドは主として経済的自己防衛のために加入宣誓その他の秘密を保持してい
た。石工(いしく)のギルドからしだいに発展したフリーメーソンは、そのメンバーがギルドの思想に合致
するための人間の変革を、秘儀を通して達成しようとした。また、歴史を通して、革命、体制打倒、陰謀
などを目ざす諸集団は、フィニアン系アイルランド共和国同盟のように、秘密に組織されている。こうし
た諸種の秘密結社は、その目的によって、加入の際の秘儀を重んじる入社的秘密結社、政治的目的
を有して地下活動を行うような政治的秘密結社、および犯罪を目的とする反社会的秘密結社に三分す
ることができる。
【入社的秘密結社】結社への加入に際してイニシエーション(入社式)を施し、会員が組織内部の位階
に応じた秘儀を通過し、人間存在を変革していくこと自体に結社の存在理由をみいだしている。したが
って、この種の結社のなかには、そうした儀礼のみを秘密にし、結社の存在、集会場所、教義、会員氏
名などは隠そうとしないものもある。世界的に有名なものとしてはフリーメーソンの名をあげることがで
きる。また、オッド・フェローズ、エルクス、ムース、マルタの騎士などとよばれている結社もフリーメーソ
ン類似の結社である。
日本の伝統的秘儀集団には、修験道(しゅげんどう)といわれる山伏の集団、真言一宗から邪宗として
排斥された真言立川流、東北地方の「隠し念仏」、九州西部海岸や離島の「隠れキリシタン」などがあり、
南西諸島でアカマタ・クロマタとよばれる秘儀団体も、こうした入社的秘密結社のうちに数えられよう。
なお、伝統的社会に多くみられる秘密結社には入社的なものが多いが、これらはさらに、
(1)結社がその部族の社会組織の重要な一環を占めており、その部族の男は一定の年齢になるとす
べて「死と再生」のモチーフを伴うイニシエーションを受け秘密結社員になるもの、
(2)妖術者(ようじゅつしゃ)や呪医(じゅい)、舞踊者たちが職能的、専門家的ないしは階級的な閉鎖集
団をつくる場合とがある。
リベリアのクペル人におけるポロ結社、ナイジェリアのヨルバ人のオグボニ結社、ニューブリテン島の
ドゥク・ドゥク結社などは前者の例であり、妖術者の秘密の集まりであるナイジェリアはティブ人のムバ
ツァブ結社、ベニン人の王宮結社、シエラレオネの豹(ひょう)結社などは後者の例にあたる。リベリアの
メンデ人などのように、女性の秘密結社がみられる場合もあるが、一般に女性や子供は秘密結社から
排除されることが多い。
→フリーメーソン →入社式
【政治的秘密結社】一般に時の政治権力に対するレジスタンスを目的としている場合が多いので、政治
権力からの迫害や弾圧を避けるためにその存在を隠し、結社の活動や結社員名を極力表に出さない
ように努めている。
16 世紀ヨーロッパの「聖フェーメ団」、19 世紀イタリアの「カルボナリ党」やアイルランドの「フィニアン」、
帝政ロシアにおける「救済同盟」や「デカブリスト」、第二次世界大戦後のものとしては、イギリスの植民
地からの独立運動としてのケニアのキクユ人による「マウマウ団」、黒人解放を目的としたアメリカの
「ブラック・パンサー」なども政治的秘密結社である。
【犯罪的秘密結社】代表例としては、マレーシアの華人系の秘密結社である「三合(さんごう)会」、アメリ
カの「クー・クラックス・クラン」や「マフィア」などをあげることができるが、いずれの場合も組織結成の当
時は共済的結社であったり政治的結社であった。犯罪的な秘密結社は、結成当時の目的が失われて、
しだいに反社会的結社となったものが多い。
秘密は人間個人としては自我の発達と深くかかわり、文明史的には社会集団の結成原理とも分かち
がたく結び付いている。秘密結社はこのような人間社会の本質に根ざした機能集団の一つのあり方だ
ということができる。
〈綾部恒雄〉
【中国】中国の秘密結社には、清(しん)代に「教匪(きょうひ)」「会匪(かいひ)」といわれた、下層農民・無
頼民衆の集団結社である(1)「白蓮教(びゃくれんきょう)」を代表とする宗教的秘密結社と、(2)「紅幇
(ホンパン)」「青幇(チンパン)」を代表とする「幇会(パンホイ)」(「会党(かいとう)」)とがある。
(1)は農村の下層農民・民衆の結社の型を主とし、(2)は流通経済の下での下層農民・民衆の結社の
型を主としている。(1)は華北・華中地域に、(2)は華中・華南地域に多く形成された。(1)のなかには
義和拳(ぎわけん)(18 世紀以後)、大刀会、紅槍(こうそう)会のように(2)に変わったり、(2)と表裏をな
すものも生まれた。一般に秘密結社というと(2)すなわち幇会がおもに問題となる。幇会が中国史上重
要な役割を果たすようになったのは、近代化中国とくに清末の時代で、清門(チンメン)・清幇・青幇と、
洪門(ホンメン)・洪幇(ホンパン)、紅幇が併称されるようになったのも、1900 年前後である。
紅幇には、天地会(別称、三合(さんごう)会・三点(さんてん)会)系と哥老(かろう)会系とがある。天地
会は、広東(カントン)・福建両省の境界地域の商人、下層農民・無頼民衆の集団を基礎として 18 世紀
中期に発祥した。これは、流通経済を支える運輸労働者の組織を主力として、当時全国の客商の集ま
った四川(しせん)に至る商業交通ルートに沿う各地域および両広・台湾に、19 世紀以来は東南アジア・
ハワイなどへと広がった。哥老会は、18 世紀前半期に生まれた四川の■■(クオル)(哥老(コラオ)の四
川方言)とよばれた下層農民・無頼民衆の集団を基礎に発祥した。19 世紀初めに四川で三合会、白蓮
教と交流して集団の組織や規約を整え、反社会的な流通経済の利を得て勢力を強め、湖北・湖南に進
出した。太平天国と戦った湘軍(しょうぐん)にはクオル分子が加わり、哥老会の称呼もそのころ現れた。
太平天国滅亡後、解散された郷勇(きょうゆう)は、各地の哥老会集団に加わり、1870 年代には揚子江
(ようすこう)中流域からデルタ地域にまで哥老会の勢力は伸びた。1891 年の排外的反キリスト教運動
の主力となり、亡命した康有為(こうゆうい)の党を援助したり、天地会とともに洪門、紅幇として革命党
に協力して辛亥(しんがい)革命(1911)に貢献した。民国時代には紅幇に比して青幇の勢力が強くなっ
た。青幇は明(みん)末の宗教結社「無為教(むいきょう)」(「羅教(らきょう)」)に発祥するが、その集団の
主力は大運河の運糧(うんりょう)船の水手(すいしゅ)であった。清朝の弾圧によって 18 世紀以後、宗教
性を薄めて幇会へと変貌(へんぼう)した。清末に大運河の漕運(そううん)が途絶したのを機に、幇は水
から陸に上り、揚子江デルタ地域を中心に、闇(やみ)経済を支配する幇会となった。この幇は無為教の
開祖の名にちなんで清門・清幇とよばれ、清末には紅幇と対称して青幇とよばれるようになった。青幇
は、清末から民国期にかけてアヘン・塩などの闇物資関係の営業などで巨利を得た。その中心人物は
杜月笙(とげつしょう)(1887―1951)である。彼の勢力の台頭によって青幇の組織は、過去の字輩(じは
い)組織から杜を指導者とする集団へと変わった。青幇は 1927 年以後、中国共産党と対立して資本主
義化中国を目ざす中国国民党政権を支える民衆組織へと変貌した。
〈酒井忠夫〉
(C)小学館
秘密結社
一般に,加入者以外の者に対して,その存在,組織,目的などを秘密にする結社,団体をいう。ただし,これは狭義の
秘密結社であり,後述のように秘匿されるべき事項は必ずしも一定しない。秘密結社は大別すれば,政治的秘密結
社と入社式団体の二つに分かれる。このうち政治的秘密結社は,外敵や中央権力との対抗関係から発生するので,
当の外因が消滅すれば,それ自身も消失する。すなわち,概して政治的秘密結社の存続は,一定の期間に限られる。
これに対して入社式団体は,前者ほどアクチュアルな政治目的をもつことはない。それは,世俗的な一般社会のなか
に秘密による封鎖領域を形成して,聖なるものの顕現を体験するための入信者団体である。歴史的現実との直接の
接触が希薄であるために,存続期間は必ずしも一定していない。フリーメーソンのように,成立後数世紀を経てなお現
存している入社式団体もある。この種の秘密結社はしばしば入社式(加入儀礼)のみが非公開であり,集会所や成員
の氏名,教義,信条などはなんら秘密とはされないばかりか,〈人類の普遍的救済〉というような,世界そのものと等し
い包括的範囲に及ぶ結社目的を掲げているために,公開結社と厳密な区別がつけにくい。のみならずある時期以後
のフリーメーソンのように,みずから秘密結社であることを否認することさえまれではない。
[〈秘密〉と秘密結社の成立] 秘密結社が秘密結社であることを維持する最大の手段は,いうまでもなく秘密の保持
である。しかし,秘密は必ずしも秘密結社のみが保持しているわけではない。ごくありきたりの個人といえども,他者
の存在に脅かされないためには,私的領域を多少とも秘密によって隠戴しなければならない。秘密と私性との関係は,
精神分析的にいうと幼時にしつけられた排泄物の始末の記憶にさかのぼるだろう。子どもはそこで恥部を隠すという
秘密をもつことを覚え,同時に全体性の分割を経験する。その延長で発育期の子どもは,ともすれば両親や兄弟に対
して(それ自体はしばしばつまらない)秘密をもちたがる。身のまわりを秘密で囲うことによって〈私〉を形づくり,こうして
初めて自我形成が可能になるからである。逆にいえば,秘密(保持)が形成されない限り,〈私〉は無際限に公開されて
一般性のなかに解消され,自我のアイデンティティ(同一性)は確立されない。
秘密結社がおおむね危機の時代に立ち現れがちであることも,このことと無関係ではない。上位のより大きい社会
になんらかの変動が生じるとき,社会成員はもとより,社会内集団(民族,人種,政治結社,職業組合)もまたアイデン
ティティ・クライシス(同一性の危機)に遭遇して,いわば寄る辺のない孤児のように,アイデンティティの崩壊を目前に
した白紙状態に投げ出される。この集団的幼時退行現象が,根を失った人びとに再び秘密によって封鎖された固有
の私的領域を求めさせるのである。N. マッケンジーに従うなら,〈大多数の秘密結社は,古い生活形態が破産したり,
新しい生活形態が今しも浮上せんとしている社会的無秩序の時期,もしくはイデオロギー的損藤の時期に発生する〉
(《秘密結社》)のである。
[秘密結社の諸類型] ここで二つの選択が考えられる。古い生活形態に固着するか,まだ姿を現さない新しい生活
形態を期待するか,である。この点で秘密結社を二分するなら,前者がマウマウ団(マウマウの反乱)やマフィアのよう
に古い因習に固執する楽園回帰グループ,後者が多少とも革命的な世界改革を唱える啓明結社,カルボナリ党,ア
イルランド独立を目ざしたクラン・ナ・ゲール Clan‐na‐ga∫l,革命前夜のボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)のよう
なユートピア志向グループ,となろう。むろんこの分類はとりあえずのものにすぎず,両者の間に一線を画するのは容
易ではない。
いずれにせよ大多数の秘密結社は,危機の時代に古い地盤から根こそぎにされた故郷喪失者の層から発生してく
る。薔薇十字団は三十年戦争の混乱のなかから出現し,テンプル騎士団は十字軍の退廃に再度秩序をもたらそうと
する欲求から生まれた。マウマウ団は白人宣教師や白人植民者によって伝統的生活形態を破壊されたキクユ族の苦
悩から,クー・クラックス・クランは南北戦争の敗者たるアメリカ南部から,それぞれ発生する。現在ではほぼ犯罪結社
化しているマフィアもまた,本来はシチリアが近代ヨーロッパの秩序に取り込まれようとした時代の孤島固有のアルカ
イックな習俗の崩壊過程で,楽園回帰的衝動から生み出された結社である。
これらの秘密結社は外因である危機の性質に応じてさまざまの結社目的を立てるが,それによって宗教的秘密結
社,民族主義的秘密結社,人種主義的秘密結社,犯罪秘密結社などに分類することができる。いずれにせよ,すでに
述べたように,危機が一過性のものであれば,それに応じて秘密結社も一過的に盛衰する。しかし,G. ジンメルがそ
の《社会学》第 5 章〈秘密と秘密結社〉において指摘したように,たとえある秘密結社が現実の目的を達成して社会に
公開されても(たとえば革命後のボリシェビキ),これとすれ違いにかつての中央権力が没落して秘密結社化するので,
秘密そのものの存在は恒久的に存続する。
[入社式団体の特質] このように政治史の文脈に沿って浮沈する政治的秘密結社に対して,入社式団体はむしろ精
神史の文脈において消長を遂げる。そもそもが宣伝や教化伝道などによって同時代とのコミュニケーションを図る公
開結社とは逆に,同時代との接触を意識的に拒むために,とりわけ入社式団体は概してその知の源泉を遠方に求め
る傾向がある。それは,ときには遠方の過去である古代や,いつとはない世界終末の後に立ち現れる未来であること
もあれば,遠い異国や星辰の世界であることもある。
ヨーロッパ中世の崩壊過程で出現した薔薇十字団は,ルネサンスに先立ってスペインに流入したヘブライのカバラ
思想,十字軍のもたらしたイスラムの神秘主義,ルネサンスとともにイタリアにもたらされたヘルメス思想,さらに世俗
から隔離された修道院のなかで深化されたドイツ神秘主義などの総合の上に成立した。これらの古代や遠方の知が,
スコラ学ではもはや統御しがたくなった中世末期の精神状況を救済するために浮上してきたのであり,とりわけ三十
年戦争で混乱に陥っていた北方の世界終末的な様相の下では,薔薇十字団員たちが,はるばるオリエントからヨーロ
ッパの〈今〉と〈ここ〉の混乱を収拾しにやってきた魔術の道士だと考えられていた。分裂と抗争に明け暮れる北方諸国
には,彼らの知によって普遍的統一がもたらされるであろう。この観念はやがてイギリスに成立するフリーメーソンに
も受け継がれていく。
[完全知の希求] いずれにせよ近代の秘密結社は,産業社会化を通じて古き共同体から疎外された個人や集団が,
現存の世界を不完全なものとみなし,今ここにはない第二の完全な世界を遠方から手引きするために結成される。こ
の疎外からの救済という性格が近代の秘密結社を特徴づけており,多少とも土着的な未開社会の秘密結社とそれと
を区別する。しかし現存の世界を不完全とみなし,完全を夢見るこの精神の姿勢は,さかのぼっては 2~3 世紀に最
盛期を迎えたグノーシス主義に発している。グノーシス主義の中心には,宇宙は神秘的で不可測の存在から多くの媒
介を経て流出したものであり,現存の人間の感覚世界はその最後の最も低次の悪しき造物主(デミウルゴス)によって
創造されたとする命題がある。ここから有限にして可視のこの世界を超越し不可視の完全な世界に還帰するための
知が要請される。すなわち宇宙原理である原初の存在は,現在の造物主の創出した物質界によって隠されている。と
いうよりは原初の神的存在は物質界によっていわば殺害され,乗っ取られたのである。それゆえに,この殺され隠さ
れた秘密の知を復元しなければならない。
[象徴的入社儀礼と階級制度] エジプト,イラン,ユダヤなどの先進文明において蓄積され,グノーシス主義を通じて
後代に媒介される,この完全知を探求する教義は,とりわけさまざまの秘密結社の入社儀礼に象徴化された。たとえ
ばフリーメーソンの入社式で新加入者の体験する〈ヒラムの伝説〉は,伝説上の結社の創始者ヒラムが 3 人の職人に
よって暗殺され,埋葬を経て再発掘されたという伝説を模して行われる。こうした始祖の死と再生の象徴劇を反覆しな
がら,新加入者は,彼自身が世俗的な人格としては死に(または殺され),結社という第二の世界のなかで聖なる人格
として再生するという入社式の儀礼を同時に体験する。
入社式はこのように秘密結社体験の核心を形づくっているが,これと並んで重要なのが大多数の秘密結社にみら
れる複雑な階級制度である。入社式から始めて,成員は次々に新たな秘儀伝授を通過しながら,より高位の階級へ
と昇りつめ,最後の完全な知に到達しなければならない。同時に入社式と階級制度は社会集団の力学としても必須
のものである。ジンメルによれば,秘密結社の本質は〈自律〉であるが,この自律は一般社会の秩序を離れて無秩序
に向かうそれであり,周囲の社会からの離脱は成員の間に根なし草的感情を,〈つまり固定した生活感情と規則的な
支柱との欠如をもたらしやすい〉。これを補うために結社内部に強力な規則と煩瑣な儀礼の細目が持ち込まれるので
ある。
[不可視の達人] 秘密結社のなかで最高の知に達したと信じられている達人たちは,しばしば奇妙な言動を示した。
薔薇十字団員であったとも伝えられるサン・ジェルマン伯は,ネロ帝やピラトと語り合ったことがあると主張し,また死
後にも諸方に姿を現したと信じられている。生と死の境界を自在に越えるこの秘法のエピソードが,たとえ荒唐無稽な
誇張の産物であろうと,目の前に現存する人格についていえば,これは,〈そこにいながら,そこにいない〉という存在
と不在の同時的共存をいっているのに等しい。それは,ジンメルが貴族的な秘密性について語っている言葉と一致す
る。〈真に高貴な者の外観は,たとえ彼が隠すことなく自己を示そうとも,多数者がどうしても彼を理解せず,いわば彼
を“まったく見ない”〉(《社会学》第 5 章〈秘密と秘密結社〉)のである。最初に隠されたもの(秘密)をことごとく取り戻した
者にとっては,秘密と公開との間の境界はもはやないのである。
種村 季弘
[中国] 中国には古くから民間信仰を中心にして,血縁・地縁をこえて,〈義〉に基づいて結合した集団が,社会の底
辺に広く組織され,病気,自然災害や悪政,外敵の侵入など民衆の苦難を救済し,しばしば政治権力に対抗する存
在となっていた。戦国時代(前 5~前 3 世紀)の墨家集団は,その最も早いものと考えられ,また同じ頃から活躍してい
た〈任惟〉〈遊惟〉などと呼ばれる遊民集団にも(惟客),上記のような性格をもつものがある。このような反社会的集団
は,時の政府によって〈邪教〉〈姦徒〉などと呼ばれて禁止され,厳しく取り締まられたために,おおむね秘密宗教ない
しは秘密結社として,その存在をベールで覆って活動を続けた(黒祠邪教)。2 世紀末,張角に率いられた太平道や張
陵の五斗米道(ごとべいどう)は,いずれも土俗的な民間信仰と呪術的治療とに支えられて長期にわたって強大な勢力を
張り,後者は鎮圧されて後にも,後世の道教の源流である天師道として命脈を保ち,4 世紀末から 5 世紀にかけて江
南の地域で熱心な信者を得ていた。
宗教的秘密結社として最も長く生命を保っているのは,弥勒下生(みろくげしよう)信仰を中心に阿弥陀信仰,マニ教の
菜食主義や五戒などの生活規範を取り入れて,元朝の中ごろに強大な勢力をもつにいたった白蓮教(びやくれんきよう)で
ある。これは 10 世紀ころに始まり,時の政府から終始〈邪教〉として厳禁されていたが,元末(14 世紀後半)に,紅巾の
乱と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導き,さらに,明・清時代を通じて,厳しい弾圧を受けながらも,しぶとく
存続し,清代中期,嘉慶年間(1796‐1820),長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し,清朝支配体制を動
揺させた(白蓮教の乱)。白蓮教の支派末流は,ごく近年まで根強く活動し,1900 年の義和団運動のほか,在理教,黄
天道など種々の名で華北一帯の民衆の間に信仰されていたが,その一つである一貫道は,現在も台湾で活発に布
教している。
これらとは別に,清代には異民族支配に反抗して漢族の明王室を再興しようとする政治的秘密結社が早くから華南
の地に興り,天地会,哥老会,三合会などと称され,辛亥(しんがい)革命(1911)の前後になると,孫文らの革命勢力とも
呼応して軍事的な貢献があった。なお,近代中国の秘密結社は,国民党と青幇(チンパン),共産党と紅槍会などの結び
つきにみられるように,政治動向の帰趨を左右するほどの大きな勢力を維持していたことに注意しなければならない。
坂出 祥伸
[未開社会] 未開社会の秘密結社は,邪術師や呪医の秘密の集団やマウマウ団のような革命的秘密結社まで多種
多様であるが,ふつうにみられるのは,結社の成員であることがその部族において高い社会的地位を意味し,諸儀礼
の一部分のみが秘密とされている集団である。下コンゴのデムボ結社やナイジェリアのベニン族の王宮結社などは,
こうした例にあたる。またリベリアのクペル族にみられるポロ結社は,若者たちを〈死と再生〉を伴う加入儀礼によって
ブッシュ・スクールに長期間隔離し,成人男子としての心得について訓練する。⇒男子結社
綾部 恒
雄
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このようなクラブの存在は、ヨーロッパにおける民主主義の成立と絡んでおり、非常に自由な存在で
あることが特徴といってよい。それがアメリカに移転され、フリーメーソンのような秘儀的集団が、その
政治性を失って、単に教養と社交に変容し、フリーメーソンからロータリークラブなどに変化する。もっと
も、アメリカの建国時にフリーメーソンの伝統はかなり残っていることもしばしば指摘され、ロータリーク
ラブなどもその伝統の一部を受け継いでいる。例えば、集会所をロッジということ、あるいは男性しか会
員としないことなど(アメリカでは 1987 年に女性を会員に含めることを最高裁は命じている)が残ってい
る。
このようなクラブ伝統は現在の日本での理解とかなり異なるものであり、単に社交だけではなく、それ
が持つ独特の世界認識を示している。それは、コーヒーハウスに見られるような論争の性格と、草の根
の民主主義につながる平等な討論者の設定であり、フリーメーソンの知的共同体としてのエリート集団
の責務といった設定である。このクラブから政治団体が生まれたり、あるいは、アメリカの独立宣言や
憲法はフリーメーソンのロッジで寝られるといった事実がある。
Hsu が注目するのは、クラブが自由意志による選択を行っていることから、能力のある会員を処遇す
ることが可能となり、その結果として能力主義的人事が可能となった点である。中国の宗族やインドの
カースト制の下では能力主義は限定され、人事のルールは出自を中心に判断される。
この要素はこれまで近代の社会における普遍的なルールであるとされてきた。つまり、能力主義によ
る採用や処遇は、近代の社会に固有な変化であり、それが合理的組織設計を可能として、近代化を可
能にしたと考えられてきた。社会での人間の評価が業績主義の原理と属性の原理を対比し、前近代を
属性原理で、近代以降を業績主義でとらえようとする視点である。
地位 平凡社世界大百科
人々が社会において占める相対的位置。個人が占める地位は,富や権力や威信などの社会的資源が,個人にどれ
だけ配分されているかによって定まる。権力や威信などは,人々の間に配分の差異があってはじめて意味をもつ資源
であるが,一般に,人々に配分される社会的資源の内容や程度には差異が存在する。人々は社会において,さまざ
まな異なる地位を占めているのである。社会的資源の配分の度合を多次元的な指標として,人々の地位の布置が測
定され,地位連関の構造である社会成層すなわち階層構造が把握される。社会的資源の操作的な指標としては,所
得,職業的威信(職業の社会的評価),学歴がおもに用いられる。学歴が主要な指標として用いられるのは,知識その
ものが,人々の欲求の対象である社会的資源の一つであるということと,現代社会において,学歴がさまざまの社会
的資源の獲得に大きく貢献しているということにある。
社会的資源の配分は,人々の属性や業績を基準としてなされる。用いられる基準の違いによって,属性的地位
ascribed status と業績的地位 achieved status に大別される。前者は,個人の能力や努力に関係なく,血縁,地縁,
年齢,性,人種などを基準とするもので,このような属性を基準として社会的資源の配分が行われている社会制度と
しては,世襲制,カースト制などがある。
一方,個人の示す業績によって社会的資源が配分されるのは,現代産業社会の特徴とされる。プロスポーツ選手の
得る報酬は,明らかに彼の業績に基づいている。しかし,企業における年功序列や男女差別,人脈等々の存在は,
現代社会における地位の配分が,属性的要因と業績的要因の複合によっていることを示している。人々は,自己の
有する属性や,自己が示す業績によって,地位を獲得したり失ったり,あるいは地位のヒエラルヒー(階層構造)を上昇
したり下降したりという地位移動を経験するのである。
渡辺 秀樹
この見解が代表的なものであり、社会的地位を評価する場合に、その人の属性ではなく業績を基準
として行われるのが近代の特徴であるとされている。
しかし、この視点は、ややもすると前近代では能力が問題にならなかったかのような印象を与えるこ
とになる。しかし、現実には中国で科挙の制度が開始されており、能力主義が全く存在しなかったわけ
ではない。しかも、能力主義的な採用はヨーロッパ起源であるとする常識がいつの間にか成立したた
めに、試験による採用選抜を最も早く行ったヨーロッパの事例が東インド会社であったことが中国の影
響なしに行われたとする説が唱えられているなど、かなりの偏向も見られる。
おそらく、実力主義的な採用はどのような社会においても必然である部分が大きく、能力に依存しな
い場合の属性が問題になるだろう。つまり、社会が能力をあきらめて安定のために属性を採用すると
いう場合には、属性による人事が自明となるが、社会全体が不安定化して、実力を必要とする場合に
は、なんらかの便法を設けて実力のある人間を採用する。
もっとも古い事例を想定することができる、未開社会における主張のあり方にしても、属性によってそ
の地位につく王権と、能力によって地位を得る首領権の区分がある。首領権は出自に基づかず、リー
ダーとしての能力によってその地位につき、世襲されない。王権は血統によってその地位の神聖さが
保証されている場合で、象徴的特徴と儀礼の色彩が強い。首領権が成立するか、あるいは王権が成
立するかは条件によって異なっていると考えられる。しばしば、遊牧などでの移動が問題となる場合に
は首領権が見られることが多い。もちろん、遊牧の場合にも王権が成立し、強大な国家を作ることもあ
るが、気候条件などの変動に対処するためには、象徴儀礼で統治を行うだけでは済まない。エジプト
の場合のように、ナイルの洪水を予測し、播種の時期を人々に知らせる場合には、象徴王権の権威の
方が有効であるといってよい。
また、科挙の存在も説明する必要がある。科挙は中国の制度の中でも非常にユニークで、早い時期
から能力主義的要素を含んだ試験として知られている。他の文化圏でこのような試験ができるようにな
るのはずいぶん遅れるが、それは、試験科目が整備されていないことが大きな要因である。四書五経
に相当する科目が整備され、試験が可能となるためにはそのような学問の体系が整備されていなけれ
ばならないが、ヨーロッパの場合に、そのような存在としてはラテン語の教養程度しか考えられない。
さらに、実力による採用といっても、それにふさわしい科目が成立していたかについてはかなり問題
がある。四書五経の儒学教養は、儒学そのものが、当初から国家のあり方や社会のあり方についての
思考であり、それを官僚の試験に出すことはかなりの整合性を持っている。
行政手腕や知識を確かめることはかなり難しく、実務についてはさほど明確なかたちで試験はできな
かった。むしろ、権力者の地位をなんらかの開かれた試験によって解放することにかなり大きな意義が
あるといってよい。この意味での科挙制度が中国にはじまっているのは、実力主義がヨーロッパだけの
独占ではないことを物語っている。
■科挙
中国で隋(ずい)の文帝の 587 年ごろから清(しん)朝末期の 1904 年まで行われた高級国家公務員資格
の認定試験制度。普通、文帝の次の煬帝(ようだい)の時代に始まるとされるのは誤り。科挙とは科目
による選挙の意味で、選挙とは官吏登用法のこと、科目とは試験に数種の学科目があることをいう。
【沿革】三国時代以後、九品官人(きゆうひんかんじん)法による官吏登用が行われ、これは選抜の標
準を徳行に置くため主観的で情実が入りやすく、特権貴族階級に有利に行われたので、隋になって客
観的で公平な試験により、もっぱら才能によって人を採用する科挙に切り換えたのである。唐初は秀才、
明経(めいけい)、進士などの科目があり、秀才は政治学、明経は儒学、進士は文学であったが、しだい
に進士だけが尊重され、そのなかから多くの名士が出た。宋(そう)代以後、諸科目の名を廃し、内容を
統合して進士一科の名を残したが、依然として科挙と称せられた。
唐代の科挙は二段に分かれ、進士科ならば地方の州で予備試験を行い、通過した者は郷貢(きよう
こう)、進士と称し、都に集まって、別に中央の学校から選抜された生徒とともに、礼部が行う貢挙(こう
きよ)を受ける。
貢挙を通過すると、ただちに進士及第の称号を受け、略して進士という。明経以下も同じである。進士
は文部省にあたる礼部が与えた資格にすぎないので、彼らが実際に任官するときは、別に吏部が行う
採用試験である詮試(せんし)を受けなければならなかった。しかし宋(そう)代には貢挙のあとに天子自
ら行う殿試(でんし)が付加され、進士は天子の審査を経た者なので、吏部の試験は名目的なものとな
った。元代は中国がモンゴル人の支配下にあり、科挙が一時停止されたが、仁宗(じんそう)の時代
1315 年に再興された。明(みん)、清に至っていっそう盛大に行われ、志願者があまり多数に上ったので、
これを中央、地方の学校在籍者の、監生(かんせい)、生員(せいいん)に限ることとした。すると生員に
なるための入学試験、童試(どうし)が重要となり、あたかも科挙の予備試験の観を呈した。清代になり
各段階の本試験のあとにさらに小試験が付加されて、いよいよ複雑となった。
【学校試】清代制度の大要を述べると、地方学校の入試である童試に応ずる者は年齢にかかわらず童
生(どうせい)といい、特殊の賤業(せんぎよう)を除いて資格に制限がない。童試は三段に分かれ、第一
段の県試は県の長官である知県が行い、5 日かかって四書、五経、詩、賦(ふ)、論を試験し、最後に清
朝の教育勅語である聖諭広訓(せいゆこうくん)の 16 条のなかの 1 条を謹写させた。第二段の知府が行
う府試、第三段の学政が行う院試も、ほとんど同じである。学政とは一省の教育をつかさどる大官で、
総督、巡撫(じゆんぶ)と肩を並べる権力をもつ。学政は 3 年の間に 2 回、管内の府を巡回して、府試の
合格者に対し院試を行う。その合格者は府学、県学に配属されてその生員となる。学校には教授、教
諭、訓導などの学官があるが、別に授業は行わない。生員は自学自習して勉学を怠らず、院試のたび
ごとに行われる学政の歳試(さいし)を受けなければならない。成績に従って賞罰があり、成績優秀な者
は中央の太学(たいがく)へ籍を移される。生員は官吏に準ずる待遇を与えられ、同時に身分に恥じな
い行動を要求される。生員にして科挙に応じようとする者は、院試と同時に行われる科試(かし)を受け
て学力の認定を得なければならない。
【科挙試】科挙の本試験は、郷試、会試、殿試の三段階に分かれ、郷試を通過すれば挙人の資格を与
えられる。会試は唐・宋の名に従って貢挙とよばれることもあり、これに応ずるためには、その直前に
挙人覆試(ふくし)の試験を受けて登録をしておかなければならない。さらに会試の本試験のあとに会試
覆試があり、本試験の成績と照合して本人に相違ないことを確かめたのちに殿試に赴くことを許される。
殿試を通過すれば進士という称号を受け、高級公務員に任用される資格を得る。
進士合格発表式は宮中で天子親臨し百官が集まった前で盛大に挙行された。これを伝臚(でんろ)また
は唱名(しようめい)という。いずれも姓名をよぶ意味で、成績順に名を三度ずつ呼び上げられる。首席
を状元(じようげん)、次席を榜眼(ぼうがん)、三席を探花(たんか)と称し、とくに大きな名誉を与えられた。
状元からは宰相に上った者や、忠臣も少なからず出た。宋の文天祥(ぶんてんしよう)はその両者を兼
ねた例である。小説、戯曲の主人公にもよく状元が登場する。
【功罪】科挙は哲人政治の理想に近く、官吏に高い教養を要求するのは甚だ進歩した制度であり、明
末以来、西洋に紹介されて賞賛を博し、近代文明国における高等文官試験制度は中国の科挙の影響
によるといわれる。しかし、その実際をみれば問題が多く、審査の不公平、受験者の不正手段がつね
に論議された。政府は極力公平を期し、郷試、会試には、糊名(こめい)、謄録(とうろく)といい、答案の
姓名の部分を糊(のり)で封じ、その全文を筆写したものを試験官に審査させたが、なお外部の非難を
免れず、落第者のなかから反乱指導者が現れることもまれではない。清末に西洋文化が輸入されると、
科挙は時勢にあわなくなり、学校教育にその地位を譲って廃止された。
【外国への影響】科挙は、中国の影響を受けることの深い朝鮮にも輸入され、958 年以後継続実施され
た。日本の養老令(ようろうりよう)にも貢挙の規定があるが、当時まだ十分な知識層が存在しなかった
ので、数回形式的に実施されただけで消滅した。
〈宮崎市定〉
(C)小学館
カースト・クラン(族)・クラブと並べて、それを対比するという Hsu の方法は、家族から社会集団の構
成原理を比較するという意味で説得力を持っている。けれども、現実の社会組織は、近代以降に大きく
変化する。それまで構成されていた社会原理が近代で解消すると考えられていた。Hsu は家族で充足
できない欲求が二次集団を構成すると考えたが、その範囲での妥当性とクランやカーストの社会形成
原理としての役割は、あまり整合的ではない。しかし、この範囲での比較は十分な意味を持つ。
けれども、自由意志によって形成されるクラブが近代に対して整合的であり、近代の産業社会化の成
立がヨーロッパに見られたという事実を説明しようとしている。
このテーマは、欧米がなぜ早く近代化を進めたかという問題として定式化されるが、その理由付けを
説明しようとしたのがちょうど百年ほど前の関心であり、アジアは遅れているとする前提を最初から持
っていた。
○工業化の意味と組織
ここで、工業化を考えてみよう。工場での生産が開始されたのは、それほど古いことではない。もちろ
ん、設備が必要で、かなりの人間が共同して作業しなければならないような品物を作る場合には工場
ににた生産システムが必要であった。けれども、それは例外的であり、通常は人間が手生産できる範
囲の製品が作られ、それは単独で作られることが普通であった。さらに、ここで注意しなければならな
いのは、生産のための道具が手の延長上、あるいは人間の身体の延長上にあったという点である。
例えば、金槌はこぶしの代わりであり、ドライバーは指の代わりである。このような工業生産の道具が
そのまま機械化されていったことによって、効率を高めている。ところが、手の動きと全くかかわらない
動きをするような機械が作られることによって、飛躍的に生産性が増大する。機械は本来手の代わりを
していたが、それが全く異なるような動きをすることで、機械加工は大きな変化を伴う。
工業化が進むことで生産性が上昇するが、それだけが社会の変化の要因ではない。むしろ重要なこ
とは、社会の変化がさらなる工業化を促進する点である。工業が他の産業と異なって、飛躍的な生産
性の上昇が見られるのは、農業や漁業など自然と関連した第一次産業では資源的制約によって生産
性の向上がそれほど大きなものではないという点に関連する。工業だけが人間の設計したプランを促
進し、より大きな規模での生産がさらに生産性の上昇をもたらすという効果が生じる。この点では、工
業生産はそれまでの生産性向上とは異なる効果をもたらした。
ウェーバーはこのような変化を支える条件として、組織における合理的な支配を考えている。ウェー
バーは、社会システムにおける支配の構造がどのようになっているかについての議論を展開する。ウ
ェーバーは人間の歴史の中で支配の類型は次の三種類であることを論じている。
■ウェーバー
Max Weber
(1864―1920)19 世紀末から 20 世紀初めにかけて活躍したドイツの偉大な社会科学者。該博な知識と
透徹した分析力によって、法学、政治学、経済学、社会学、宗教学、歴史学などの分野で傑出した業
績を残し、また鋭い現実感覚によって当時のドイツの後れた社会と政治を批判して、その近代化に尽
力した。
■生涯■富裕な亜麻(あま)布商人の家系を引く国民自由党代議士を父とし、敬虔(けいけん)なピュー
リタンを母として、1864 年 4 月 21 日にエルフルトに生まれる。長じてハイデルベルク、ベルリン、ゲッテ
ィンゲンの各大学で法律、経済、哲学、歴史を学んだ。卒業後、一時司法官試補として裁判所に勤務し
たが、学究生活に入り、92 年ベルリン大学でローマ法、商法を講じ、のちにフライブルク(1894)、ハイ
デルベルク(1897)各大学の国民経済学教授を歴任した。学位論文『中世商事会社史論』(1889)をは
じめ、ベルリン大学教授資格論文『ローマ農業史』(1891)、フライブルク大学教授就任講演『国民国家
と経済政策』(1895)などが、当時のおもな業績としてあげられる。
初期の問題関心は、ドイツ国民国家をロシアのツァーリズムおよびイギリス、フランスの帝国主義か
ら守り、そのブルジョア的近代化を推進することに置かれた。この立場から、彼は社会政策学会や福音
(ふくいん)派社会会議に属しつつ、半封建的、保守的なユンカー(貴族的領主)支配と急進的な社会主
義運動という左右両勢力に抗して、市民層を中核とする中道勢力の結集に腐心した。東エルベの農業
労働者の状態に関する一連の調査(1892~94)で資本主義の圧力によるユンカー経営の崩壊、ユンカ
ーへの隷属からの解放を求める農業労働者の西部への移動、それにかわるポーランド人の進出と東
からの脅威の増大を説き、対策を論じたほか、『国民国家と経済政策』では、国民的権力利害に奉仕
すべき経済政策の課題を論じ、経済的に上昇しつつあった市民層の政治的成熟を可能とするような政
治教育の必要性を力説した。
しかし、ハイデルベルク大学に在任中より強度の神経疾患を患い、研究と教育を断念して、ヨーロッ
パ各地で闘病生活を送った。
1902 年ころからしだいに健康を取り戻し、研究活動を再開したが、教職を辞して自由な在野の研究者
として学問研究に専念し、04 年以降『社会科学・社会政策雑誌』編集のかたわら、これに多くの重要な
論文を寄稿。社会科学方法論の基礎を確立した『社会科学的および社会政策的認識の客観性』
(1904)や、歴史の形成・変革に際して果たす理念の重要な役割を論じて唯物史観を批判した『プロテ
スタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』(1904~05)などがそれである。また 09 年にはドイツ社会
学会の創立にあずかり、同年から叢書(そうしょ)『社会経済学綱要』の編集にあたり、自らもその第三
巻として大著『経済と社会』(1921~22)を書いた。これはウェーバーの学問体系の総括とみなされる。
なお、晩年に至るまで現実政治への関心も強く、第一次世界大戦中には無謀な潜水艦作戦やプロイ
センの三級選挙法に反対し、戦後にはドイツ民主党の結成に参画して、選挙戦では社会主義批判の
論陣を張り、また憲法作成委員会に加わったのち、1919 年ベルサイユ講和会議に専門委員として出席
し、戦争責任追及の論拠を批判した。他方、18 年にはウィーン大学、翌年にはミュンヘン大学の教授と
なり、学生のために学問や政治の意義を諭す講演を行ったが、20 年 6 月 14 日、肺炎のため急逝した。
■学説■ウェーバーの業績は社会科学のあらゆる分野にわたるが、とくに注目されるのは、価値自由
の精神と理念型操作に支えられた社会科学方法論の確立、宗教的理念やエートスの歴史形成力を視
野のもとに置く唯物史観批判、近代西欧世界を貫く合理化と官僚制的支配の今日的意義の指摘など
である。
(1)方法論に関しては、価値理念や価値判断を鮮明にすることによって、かえってこれを自覚的に統
制し、客観的な認識に到達することができるとして、事実認識と価値判断の峻別(しゅんべつ)、価値の
相対化の必要を唱え、価値自由を主張した。価値への関係づけと価値からの自由という一見矛盾した
研究態度は、理念型的論理操作に媒介されて、客観的な認識を可能にする。理念型とは、ある一定の
鮮明な価値観点から実在のある側面をとらえ、これを首尾一貫した一義的連関にまとめあげた思惟(し
い)的構成物であり、これと実在とのずれを測定、比較し、客観的可能性判断と適合的因果帰属という
操作を介して実在を思惟的に整序し、社会科学的認識の客観性を保証するという働きをする。→理念
型
(2)『世界宗教の経済倫理』に関する一連の宗教社会学的研究(1916~19)においては、経済のもつ
基本的な重要性は認めつつも、その一義的規定性を否定し、むしろ行為主体(とくに社会層)の置かれ
た外的・内的利害状況と宗教上の理念(倫理・エートス・生活態度)とが相即したときに、この理念が人
間を内側から変革し、ひいては外部秩序をも変えていくことを力説し、歴史の変革力を経済よりもむし
ろ理念に求める方向を鮮明にした。
(3)政治権力の比較制度的研究(支配社会学)においては、有名な支配の三類型(カリスマ的・伝統
的・合法的支配)を区別し、カリスマによる伝統的秩序の変革、カリスマの日常化によるその伝統的支
配への埋没、とくに近代社会の宿命的状況としての官僚制的合理化による機械的化石化とマス化を明
らかにし、それが社会主義社会にもいっそう強化された形で持ち越されざるをえないことを強調した。
以上のようなウェーバーの学説は、その後の社会科学に広範な影響を及ぼし、価値自由、理念型的
把握、理解的方法に基づく学問論は、ドイツ歴史学派ばかりでなくマルクス主義批判の根拠とされた。
他方でその行為論や官僚制論、宗教社会学的研究は、マルクス理論を補完する意味合いをももつ点
で、今日なお積極的な意義を失っていない。→経済と社会 →職業としての政治 →プロテスタンティ
ズムの倫理と資本主義の精神
〈濱嶋 朗〉
(C)小学館
■カリスマ
charisma
元来はキリスト教用語のギリシア語で神の賜物(たまもの)を意味し、神から与えられた、奇跡、呪術(じ
ゅじゅつ)、預言などを行う超自然的・超人間的・非日常的な力のことである。こうした能力や資質をもっ
た人がカリスマ的指導者であり、ナポレオン、ヒトラー、スターリン、毛沢東(もうたくとう)などがあげられ
る。M・ウェーバーが支配の正当性の類型化にこの概念を用いたために、社会科学における学術用語
としてはもちろん、広く一般にも用いられるようになった。ウェーバーは、合理的支配、伝統的支配、カリ
スマ的支配からなる支配の三類型を定式化した。カリスマ的支配とは、カリスマ的資質をもった指導者
に対する個人的帰依(きえ)(承認)に基づく支配である。真のカリスマは権威の源泉となり、承認と服従
を人々に対して義務として要求する。この服従と承認は、指導者の行う奇跡によって強められる。こうし
て、服従者は指導者と全人格的に結ばれ、信頼と献身の関係が成立する。この支配関係は官僚的手
続や伝統的慣習または財政的裏づけに依拠せず、指導者固有のカリスマに対する内面的な確信にの
み基づいている。したがって、構造的にも財政的にも不安定な関係であり、服従者の帰依の源泉であ
るカリスマの証(あかし)がしばらく現れない場合、カリスマ的権威は失墜し、指導者は悲惨な道をたどる
ことになる。しかし、カリスマが有効に作用する限り、遠回しの手続を必要としないので、危機的状況や
革命的状況に適した支配パターンといえる。
ところで、カリスマが血統や地位のなかに日常化されて、地位そのものにカリスマが生じる「官職カリ
スマ」とか、カリスマが代々受け継がれていく「世襲カリスマ」となる場合がある。また、カリスマが組織
や制度に定着することもある。今日の政治社会では、マス・メディアを通じた情報操作によって擬似カリ
スマをつくり、支配の正当化を図ることがよくみられる。〈大谷博愛〉 (C)小学館
■支配
dominance
社会関係のなかで、Aという個人あるいは集団が、Bという個人あるいは集団に対して、継続的に優位
な立場から、強制力を用いたBの行動に対する制約あるいはBの自発的承認によって、自己に有利な
価値の配分を確保しうる従属関係をいう。ここで、価値の配分権をめぐる関係であることが重要な点で
ある。
すなわち、従属関係の態様はさまざまであり、主人と奴隷の間の極端に高度な支配関係から、教師と
生徒の関係のような従属関係でありながらも支配関係とはいいがたいものまである。前者の関係にお
いては、主人と奴隷の利害はまっこうから対立する。一方、後者においても、義務を課したり、制裁を加
えることがあるが、それは利害対立に起因するものではない。教師と生徒の間には、生徒の成績向上
あるいは人間的完成という目標が存在し、その目標追求のために両者の積極的合意によって、支配と
は異なる従属の関係が形成されている。企業の利益の追求という共通の目標を有するようにみえる企
業社会においても、利益の配分をめぐる対立が生じているので、支配関係が存在しているといえる。こ
の場合の価値は、私的領域のものであるが、支配というとき、包括的社会における社会的価値をめぐ
る人間関係のみをさしていることもしばしばである。
包括的社会における支配的立場をめぐって展開される社会現象が政治であり、支配関係の変動こそ
が政治史である。国内であると国家間であるとを問わず、戦争は支配的地位を求める争いであり、そ
れが、政治の歴史は戦争の歴史であるといわれるゆえんである。
■デモクラシーにおける支配■いかなる政治形態においても支配者と被支配者の分化は必然的現象
である。しばしば、「支配者なきデモクラシー」といわれることがあるが、これは神話にすぎない。理念上、
デモクラシーは支配者と被支配者を同一化するものである。
しかし、現実のデモクラシーにおいては、選挙が支配関係の変化を左右し、法律による種々の制約が
加わるだけで、厳然と支配関係は存在している。例外は、社会の全構成員が参加して自発的意見が
交わされ、全員が納得のうえでその社会の問題が処理される場合である。それは、直接民主制が物理
的に可能なほど小規模で、決定的な利害対立が存在しないほど同質的な社会に限られる。社会の規
模が大きくなり、内部における利害対立が複雑化してくると、社会の秩序と安定のために、支配者と被
支配者の分化が不可避的なものとなる。
デモクラシーにおける従属関係を支配関係とは区別して、指導‐被指導の関係ととらえる考え方もあ
る。前者は一方通行に近い関係であるが、後者は両面通行であるという点に着目するのである。しか
し、これは程度の差にすぎず、絶対王制における君主にしろ同様に臣民の反応を考慮に入れなければ
ならない。デモクラシーにおいては支配者に対する被支配者からの制約要素が多く、その機構が複雑
化しているが、依然として、その制約を超えた支配が存在している。デモクラシーにおいても社会的価
値の配分が政治における主要問題であり、それに関与する人々が権力追求に従事する現実が存在す
る以上、支配関係が政治の重要な部分であることを否定できない。
■支配関係の安定化■支配者は自己に有利な政治決定を行いうる立場にたっているため、現行の支
配関係を安定化させる努力を払う。
内的混乱の回避と外的侵入に対する備えによって現状の支配関係に対する脅威を除去しなければな
らないが、過度の治安維持努力は支配者と被支配者の間に緊張関係を生み出す要因ともなり、その
結果として対外的な防衛の面でも脆弱(ぜいじやく)性を露呈することになる。
支配関係の安定は、大きな不満をもっていない被支配者にとっても望まれることである。そこで、支配
者は、調和的に価値を配分して社会における不満をできるだけ抑え、現状に対する社会の支持を獲得
することが必要である。さらに、現状維持にとっては、価値配分の調節だけではなく、現状の支配関係
を被支配者の心に内面化させ、無条件の支配それ自体に対する自発的服従を調達することが効率的
である。それは支配関係の正しさ、すなわち支配の正当性を社会に植え付けることである。
■支配の正当性■正当性とは、支配関係の根拠を倫理的、道徳的に正当化することであり、いかなる
政治的支配もそのための論理を社会に対して準備する。ウェーバーはこの正当性について、「伝統的」
「カリスマ的」「合法的」という三つの理念型を提示した。伝統的正当性とは、不変性が価値判断の根拠
となって慣習や伝統が神聖視され、支配の秩序も伝統にのっとっているがゆえに正当性をもつことであ
る。カリスマ的正当性は、支配者個人の超自然的資質が根拠となるものであり、合法的正当性は、支
配関係が合理的で予測可能な一般的ルール(法)に基づいて成立しているがゆえに正当性をもつこと
である。
〈大谷博愛〉 (C)小学館
■正統性
legitimacy
ある社会における政治体制、政治権力、伝統などを正しいとする一般的観念で、正当性とも書く。これ
によって自発的服従が調達され、政治権力は権威化されて安定した支配が確立される。M・ウェーバ
ーは正統性の根拠を伝統、カリスマ、合法の三つにタイプ化した。これらはそれぞれ独立的に存在する
ものではなく、いかなる社会においてもなんらかの方法で混合した正統性をもっている。アメリカの政治
学者C・メリアムは、人民に正統性を植え付ける方法としてクレデンダとミランダを考え出した。前者は
理性に訴えて服従を動機づけるもので、信条体系やイデオロギーなどである。たとえば、自由という価
値を強調し、それを実現する社会であることを示して正統性を確保する。一方、後者は情緒に訴える歌、
旗、記念碑、建物などである。
威厳をもった建物によって議会が権威づけられたり、国歌や国旗で帰属社会への一体感がかき立てら
れたりする。→支配
〈大谷博愛〉 (C)小学館
■官僚制
bureaucracy
■ことばの由来と意味の変遷■英語のビューロクラシーということばは、事務机、転じて事務室、そこ
での執務者を意味する「ビューロー」と、ギリシア語の「クラトス」kratos つまり力に由来する「クラシー」
を結び付けた合成語で、18 世紀なかば過ぎのフランスで登場したとされており、そこには伝統的な君主
制、貴族制、民主制などの政治支配の形態とは異なった官僚集団による新しい支配、あるいはそのよ
うな支配を行う官僚集団の台頭という意味が込められていた。この語はその後、広くドイツ、イギリスな
どヨーロッパ諸国で用いられるようになったが、ほぼ 19 世紀を通じて、行政官僚による政治支配という
意味での官僚制の典型とみなされたのはドイツ、フランスの官僚制、なかんずくプロイセン・ドイツの官
僚制であった。
ところが 20 世紀に入るころになると、官僚制をめぐる事実状況も理論状況も根本的に変化してくる。
まず前者からみると、先に示唆されたように、官僚制ということばの登場と流布の現実的背景となった
のは、フランス大革命以前のフランス絶対王政の官僚制であり、ついで 16 世紀中葉以降の長い伝統
をもちつつ 19 世紀初頭のシュタイン‐ハルデンベルクの改革を経たプロイセン・ドイツの官僚制であった。
しかし 19 世紀以降の資本主義的生産関係と大衆デモクラシーとの進展は、経済的後進国ないし後発
国であったために、もともと強大な国家・官僚制をもっていたフランスおよびプロイセン・ドイツの官僚制
の「ブルジョア化」(フランス革命後のフランス)ないし「上からの近代化」(プロイセン・ドイツの場合)を
促進しただけではなく、資本主義の発展が順調で市民社会の自律性が強く、そのため弱い国家しか必
要としなかったイギリス、アメリカなどの国々においても、職業的官吏制度の形成、そして合理的で階
統制的(ハイラーキカル)組織形態という意味での官僚制の成立を不可避にしたのである。
しかもピラミッド型の合理的な組織形態という意味での官僚制は、たとえば中世のカトリック教会にお
いてその先駆的形態がみられただけではなく、現代においては、国家のみならず、企業、政党、組合そ
の他の大規模組織に共通にみいだされる特徴である。そしてこのような意味での近代―現代における
官僚制化を独自の歴史的視角から理論化したのが後述するマックス・ウェーバーであった。
ところで、さしあたって現代の国家に限定していっても、その行政組織の官僚制化は、古典的意味で
の官僚制、つまり行政官僚による政治支配をふたたび惹起(じゃっき)しがちであるという意味で、民主
主義の政治原理との関係で深刻な問題を提起している。のみならず、官僚制的行政に特有の逆機能、
つまり、技術的にもっとも優秀と想定されている官僚制の作動がかならずしもそうではなく、そこに組み
込まれている人間の意識や行動が通常「官僚主義」とよばれているさまざまな「病理」現象を示すこと
が注目されるようになってきた。したがって今日における官僚制は、
(1)行政官僚による政治の支配=「官僚政治」、
(2)分業と協業の原理によって合理的に組み立てられた組織形態=「階統制」、
(3)それらに付随しがちな意識や行動=「官僚主義」
という三つの意味合いを含んでいるといえる。
■ウェーバーの官僚制論■よく知られているようにウェーバーは、西欧のみに特有の「近代化」を「(目
的)合理化」の過程とみ、その組織的表現形態を「官僚制(化)」としてとらえた。その官僚制論は彼の
正統的支配の三類型のなかの合法的支配と結び付けられた理念型として展開されている。彼によれ
ば、近代官僚制の特有の機能様式は、規則により体系化された権限の原則、階統制と審級制の原則、
文書とスタッフに依拠する職務執行、行政幹部の公私の分離、専門的訓練を前提とする職務活動、職
務の専任化、特殊な技術学(法律学、行政学、経営学)の習得などであり、このような官僚制機構は、
理念的には、精確、迅速、明確、文書への精通、継続性、慎重性、統一性、厳格な服従関係、摩擦の
防止、物的人的費用の節約などの点で、他のあらゆる行政形態と比べて純技術的に優れているとする。
そして西欧における近代官僚制の出現を促した条件としては、
(1)貨幣経済の発展、
(2)行政事務の量的・質的発達、
(3)官僚制的組織の技術的優秀性、
(4)首長への行政手段の集中(行政官の行政手段からの分離)、
(5)社会的差別の水準化(大衆デモクラシーの出現)
をあげているが、とくに(4)(5)の条件に注目されたい。
それではウェーバーは、彼の理念型としての近代官僚制に近い、市民革命ないし「上からのブルジョ
ア化」をいちおう経たいわばブルジョア官僚制との対比において、絶対主義的官僚制(とその遺産)の
特徴をどうとらえたのか。彼は後者を批判的に特徴づけるのに、「官僚制の家産制的性格」ないし「家
産制的官僚制」という用語を用いており、この点がヒントになろう。つまり、国土と人民が首長の家産と
みなされ、また官吏が契約によって任命されるのではなく、本質的には首長の私的使用人とみなされ
る場合には、そのような官吏団が、階統制的に編成され、即物的な権限をもって機能していようとも、そ
こには君主=国家への絶対的かつ無定量の忠誠(人格的服従義務)、階統制内部における「権威の
序列化」と身分的支配、一般人民との関係における官吏身分の特権性と後見性原理など、18 世紀末
のプロイセン官僚制に典型的にみられたような特徴が現れるであろう(日本については後述)。
ウェーバーの官僚制論でもう一つ注目すべき点がある。それは、官僚制を階級社会ないし資本主義
に特有の現象とみなし、社会主義になれば官僚制は容易に人民の自己統治にとってかわられていき、
さらに共産主義社会においては国家もしたがって官僚制も死滅するであろうとしていたマルクス主義者
の楽観的展望とは対照的に、ウェーバーは逆に、社会主義になれば、資本主義においてみられるよう
な国家官僚制と私的官僚制とのある程度の相互抑制も廃止されて、国家的官僚制が独裁的に威力を
振るうであろうとする悲観的見通しを提示していたことである。この点については、またあとで触れる。
→ウェーバー →家産官僚制 →家産制
■日本の官僚制■明治維新以降の日本の官僚制は、新生日本の対外独立(それは容易に対外侵出
に転化していったが)を維持するための「近代化」=「富国強兵」「殖産興業」の担い手として、また自由
民権運動などに対抗する天皇制的専制支配の中枢的権力機構として形成され発展していった。その
特徴を統治機構、組織形態、行動様式の 3 側面から概観しよう。
第一に、明治憲法下の統治機構において天皇主権下の外見的立憲主義が採用されたにもかかわら
ず、文武の官僚制は、枢密院、貴族院、元老・重臣などにもその勢力を扶植しつつ、権力中枢と重要な
政策決定機能をほぼ独占するか、少なくともそこにおいてもっとも重要な地位を占めていた。その意味
で、明治憲法下の日本の統治は、天皇制官僚集団による統治=官僚政治を基本的特色としていたと
いえよう。
第二に、その組織形態をみると、統治機構レベルにおける多元的政治勢力による割拠性のみならず、
行政機構レベルにおける各省中心のセクショナリズムが著しく、このような特徴は、敗戦に至るまで解
消されることがなかった。その理由はいろいろあるが、実権をもたない天皇の権威を借りて、相争う藩
閥諸勢力が統治機構を形成していったという歴史的事情に加えて、明治憲法下における統帥権の独
立、枢密院設置、貴族院の強力な権限、議院内閣制の拒否、大臣の単独輔弼(ほひつ)責任制、国務
大臣・行政大臣兼任制などが大きな影響を与えた。
第三に、その行動様式上の特徴をみると、わが国における官僚制には、18 世紀末のプロイセンのそ
れと比べてさえ、家産官僚制的色彩がより濃厚であるといえよう。すなわち、官僚制と民衆との関係に
おいては、後見的支配、官・民差別観の公認がみられ、官僚制の内的関係においては、官吏の天皇お
よび天皇の政府に対する人格的服従義務、権威の身分的序列化、官職と人格の未分離などがみられ、
この両者の関係が相互に規定しあっていたのである。これらを総称して権威的支配の行動様式とよぶ
ことができよう。もっとも戦前のわが国においても、官吏の任用にあたって公開試験制度が採用されて
いたが、それは「高文」(高等文官試験)制度にみられるように、特権的官吏団を学閥的に再生産する
機能を担ったのである。
第一次世界大戦後の日本においては、天皇の官吏は国民の公僕に転換し、また代議制の統治機構
が採用されたために、法形式的には官僚政治の余地はなくなったが、新しい行政国家の台頭に伴って、
民主主義と官僚制との関係がふたたび問われ、また戦前からの遺産と新しい行政国家的状況のアマ
ルガム(混合)による官僚制のセクショナリズムや官僚主義の克服が課題となっている。
■社会主義と官僚制■かつて社会主義国としてあったソ連や東欧諸国など、また現在も残存する中国
や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などの社会主義諸国をみる限り、そこでは官僚制は衰退してい
るどころか、ウェーバーも予測したようにむしろ拡大・強化さえしてきた。社会主義における官僚制の存
続の根源を、資本主義の残滓(ざんし)やこれら諸国の後進性などに求める見解はもはや説得力をもた
ない。このような情勢のなかで、旧ソ連などの反体制理論家のなかからも、その根源を、そこにおける
生産力の低位性と、なかんずく社会的分業において占める地位によって相対的に固定化された成層
的構造に求める見解が現れていた。たとえばハンガリーのヘゲデューシュ Andr■s Heged■s
(1922― )は、官僚制的社会諸関係の本質を、社会の管理や統治を職業とする社会的カテゴリー(官
僚)が直接生産者の利害と分離されたそれ独自の局部的利害をもつ点に求め、現存社会主義におい
てはその生産力水準、分業的階層化などに規定されて、そのような意味での官僚制の存在は不可避
であるばかりか一定の積極的意義をもつことをも認め、それを不断に「人間化」し社会的統制に服せし
める必要=必然性を説いていた点で注目に値しよう。→官僚 →官僚主義 →近代化 →セクショナリ
ズム →大衆デモクラシー →ヒエラルヒー〈田口富久治〉
(C)小学館
ウェーバーの理論は、支配が合理的になることによって近代の工業社会を支える組織の枠組みが成
立していく点に中核的な論点がある。いってみれば、近代という社会がなぜ成立したのかについての
論究である。近代が特別な社会であり、それがもっとも歴史上で栄えた時代であるという認識、これ以
上の社会は存在せず、その形態が徐々に発達していくことが望ましいといったようなかなり傲慢な認識
が成立する。二十世紀の初め頃はそのような近代についての時代認識が頂点に達した時代であり、そ
れが、二回の世界大戦によって次第に崩れてくる以前の状況にあった。近代という時代が英語ではモ
ダーンであり、本来の「当世の」という意味が拡張されて、ある時代に近代が固定されて考えられてい
ることに象徴されるように、近代以上の時代が存在するとしたら、それは近代の延長上にあると考える
ことになる。しかし、現実には、近代以降という時代を考える必要が生じており、現在の段階の社会は
明らかに近代とは異なる時代である。
近代がよい時代であるといった認識は、例えば、近代住宅や近代包丁といった表現にまで及んでお
り、近代こそが最上の時代であると考えるような思考の枠組みが成立した。
これに対して、現代は、近代の病理が現れた後の社会であるという時代認識がなされている。近代の
病理としての公害や科学に対する過度の信頼、また、戦争についても民族主義的な国家の枠組みが
すでに難しい存在となっている。民族という枠組みがどの程度まで有効であるのかについて、国民国
家といった理解の仕方が難しくなっている。例えば、一つの国が一つの民族で占められるという古典的
な国家が非常に少なくなり、多民族国家の状態が当たり前になっている。日本ですら、さまざまな民族
が雑居する状態が方々で起きている。
国家的な利害がどのように成立しているのか、国家間の紛争が、多民族間の紛争とは異なる状況を
引き起こす。この中で、近代という時代の枠組みが次第にはずれてきて、近代とは相当に異なる社会
が成立している。これを脱近代(ポストモダーンと呼んでいる)。ポストモダーンはモダーンではないとい
う意味で、プレモダーンと通底する。要するに、現代という時代設定がなされていて、それが近代とは
異なる時代であるという枠組みが認定されている。このような近代と現代の区分が可能であるのは日
本語でモダーンを近代と訳したためであり、現代と訳してしまったのでは、ポストモダーンに相当する言
葉を発明する必要が生じる。現在の中国での現代化は、モダーンになることを指しており、近代化その
ものである。
近代という枠組みの中でどのように生活や社会が完結しているかを考えるならば、それ以前の社会
とかなり異なる枠組みであることは明らかである。生活を成立させるのが、自分の職業であり、生活に
必要とされる物資は宝購入するという産業社会に入った。さらに、生活の中で職業の場と生活の場が
切り離される。かつては生産と生活は連続しており、生活の中に生産が組み込まれていた。
近代という時代が、社会的には大衆民主主義社会であり、身分制社会を廃したところからはじまって
いる。平等の理念と自由の理念が基本とされ、社会の中で自由な通婚・自由な職業選択・自由な居住
が認められている。他方で、そのような自由が成立し、少し時間がたつと、その自由が本当に理念通り
に機能しているかについて問題とされるようになった。自由度が高い社会は危険でもある。自由度が高
いために、個別の行為主体がそれぞれ自由に動く結果、皆が同じ方向を向いてしまうと社会全体のバ
ランスが崩れる。皆が右側にだけ動いたときには、かなり巨大な船でもバランスが崩れ、転覆しそうに
なる。社会全体が同じ方向に動くことが望ましいような条件であればよいが、必ずしも同じ方向に向か
うことが望ましくない状況がある。
第二次世界大戦前のドイツは、ワイマール憲法と呼ばれる非常に自由を保障する憲法を持っていた。
そこから生まれたのがナチスドイツである。これは、自由度があまり高すぎると、逆にどのようにすれば
よいのかわからなくなり、結果的には極端な主張に引きずられるという傾向を持つものと解釈されてい
る。これは例えば、エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で述べている見解であるが、自由を自
分から放棄するということが現実に起こった結果としてナチズムがあったのだと解釈している。
*1Copyright (c) 1999 Grolier Interactive Inc.
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