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報告書 - 法政大学

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報告書 - 法政大学
法政大学文学部地理学科
2011 年度現地研究
現地研究 報告書
2011 年 6 月 24 日(金)~6 月 26 日(日)実施
指導教員 法政大学地理学教室 漆原和子
2011 年度 現地研究「滋賀県」行程
≪1 日目≫ 6 月 24 日(金)
10:00 JR 米原駅集合(10:10 バス出発)
11:40 彦根城 約 1 時間
・・・ ①
昼食 バス車内
13:30 安土城跡 約 2 時間 安土城入山料・・・ ②
16:00 草津市立水生植物公園みずの森
・・・ ③
17:30 真珠養殖場 見学
・・・ ④
30 分
18:30 到着 民宿舞子屋
19:00 夕食
20:00 まとめの会
≪2 日目≫ 6 月 25 日(土)
8:30 民宿舞子屋出発 徒歩 10 分 三角末端面・・
8:50 JR 近江舞子駅 発
⑤
JR 湖西線新快速・播州赤穂行 15 分
9:15 JR 比叡山坂本駅 着
10:00 坂本 石工の粟田純司氏の説明 ・・・
⑥
粟田建設 滋賀県大津市坂本3丁目11-29
12:00 昼食
13:00 日吉神社
14:00 比叡山坂本 石垣調査
17:30 JR 比叡山坂本駅
集合
18:00 近江舞子駅
18:30 民宿舞子屋
19:00 夕食
20:00 まとめの会
≪3 日目≫ 6 月 26 日(日)
8:30 民宿舞子屋出発 徒歩 10 分
8:50 JR 近江舞子駅 発
JR 湖西線新快速・播州赤穂行 15 分
9:15 JR 比叡山坂本駅 着
10:00 比叡山延暦寺(根本中堂)
・・・
13:00 比叡山ケーブルカー(往復)
15:00 近鉄坂本駅 ケーブル降りた所 解散
2
⑦
3
① 彦根城
彦根城の歴史
1604 年
1607 年
1615 年
1622 年
1633 年
1854 年
1951 年
1952 年
彦根城の築城が開始される。
天守が完成する。
大阪夏の陣の後、再開され、表御殿の造営、三重の濠と櫓、町
割の整備、街道の整備が進められる。
すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
その後、井伊直弼氏は加増を重ね、徳川幕府下の譜代大名の中
では 35 万石を得るに至った。
天秤櫓の大修理が行われ、石垣の半分が積み直された。
重要文化財に指定される。
天守、附櫓、多聞櫓が国宝に指定された。
4
② 安土城跡
安土城の歴史
1576 年
1579 年
1582 年
1585 年
1604 年
1854 年
1931 年
1950 年
1960 年
1979 年
1994 年
2004 年
正月中旬、安土城の築城を開始する。
安土城が完成する。
本能寺の変で信長死去、安土城の天主・本丸等が焼失する。
豊臣秀次の八幡城築城に伴い安土城は廃城となる。
豊臣秀頼、摠見寺三重塔を修理 書院・庫裏を寄進する。
摠見寺が焼失し、伝徳川邸跡に再建される。
二の丸跡の復旧、城内石段の改修が行われる。
文化財保護法施行に伴い、史跡安土城となる。
城跡修理に着手、1975 年まで継続する。
安土山南麓の県有地を仮整備する。(~1983 年)
現摠見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する。
大手門周辺東側の整備工事を実施し、石塁・虎口を復元する。
穴太積
安土城の石垣といえば穴太積が連想される様に、穴太積という言葉は広く一
般に定着している。一般的には、穴太(現滋賀県大津市穴太)に住む石工たち
が信長によって安土築城動員され、それをきっかけにやがて全国の城づくりに
携わる様になったと理解されており、加工しない石を用いた石積が特徴である。
実際に安土城の石垣を積んだのは、馬淵(現近江八幡市)の石工や、安土城
に隣接する近江守護六角氏の居城観音寺城の石垣普に携わった金剛輪
寺の石工など、各地に様々な石工がいたことが確認されている。安土城の石垣
普請にはこうした石工が広く動員されている。
5
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③ 琵琶湖の汚染と水質保全施策
1950 年
1960 年代
1969 年
1970 年代
1970 年代前期
1972 年
1973 年
1974 年
1979 年
1980 年代以降
1980 年前後
1983 年
1985 年
1989 年
1993 年
1994 年
1995 年
琵琶湖国定公園指定、強魚毒性の農業の自主規制
農薬汚染問題(魚の大量死)
水道異臭味発生
公害問題(化学工場、紙業工場)
COD 等水質悪化
PBC 問題、アンチモン汚染、琵琶湖環境保全対策策定
局所的赤潮(彦根沖)、南湖水泳場一部閉鎖
公害白書発表開始
琵琶湖富栄養化防止条例制定
富栄養化問題
COD 等水質悪化
水の華(アオコ)の発生
琵琶湖を指定湖沼に指定
ピコプランクトンの異常繁殖
琵琶湖をラムサール条約登録湿地に指定
琵琶湖水位低下(-123cm )
琵琶湖水位上昇(+93cm )
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琵琶湖の水質汚染の推移の概要
草津市観光ボランティアガイドの伊吹美賀子氏の講演から
1971 年(昭和 46 年)
、高度経済成長期に入り、滋賀県の人口が増え始めて、
第三次産業も増えることで工場が多く建ち、化学物質を含む工場廃水により琵
琶湖が汚染された。人口が増えることで、生活廃水も大量に琵琶湖に流れて、
琵琶湖の水質汚染になった。
1977 年(昭和 52 年)にアオコ、赤潮が琵琶湖全域に広がる。背景として、
琵琶湖の富栄養化はますます進行していた。琵琶湖の湖面からは生臭い匂いを
放っていた。また、富栄養化の原因は、有リンの合成洗剤や石鹸を家庭で使っ
ていることにあった。また同年に合成洗剤追放全国集会が大津で開催された。
合成洗剤については、現在でも滋賀県下で対策・審議が行われている。
1980 年(昭和 55 年)
、富栄養化防止条例が公布される。有リンから無リンの
合成石鹸に変わり、無リンでもきちんと汚れが良く落ちることが実証された。
無リンの石鹸を一般の市民にも販売したところ滋賀県民の 20%が使用したとい
う。しかし、無リンの合成石鹸の中に環境ホルモンである合成界面活性剤が入
っていることがわかり、琵琶湖の魚の奇形が生じた。現在でも琵琶湖で奇形の
魚が見つかっているという。また、水道水から発ガン物質のトリハロメタンが
検出された。特に夏季が最大量となるという。
現在、滋賀県では平成 13 年から Mother Lake21(水すまし協議会)が県民
を中心に始まり、「昭和 40 年代の琵琶湖に戻そう」というスローガンを掲げ活
動している。ほかにも、湖南流域協議会が琵琶湖に流れる川の水は山から見直
す必要があるとして、山をきれいにする活動をしている。圃場整備事業として、
昔は内湖があって、一度内湖にたまってから琵琶湖に流入していたが、整備さ
れて内湖がなくなることで、直接琵琶湖に汚れた水が入ってしまうことになっ
た。現在は、また見直されて、内湖を作ろうという動きがある。
現在、南湖では、水深 4m のところにオオカナダモが繁茂し、琵琶湖の水がき
れいになってきたことがわかる。また、ブラックバス大量発生問題があり琵琶
湖で多くのブラックバスが見つかり、湖中の生態系を悩ませている。ブラック
バスは琵琶湖の伝統的な漁法のエリ漁で捕らえ、ブラックバスを肥料などにし
て処理している。
琵琶湖の水は、六甲山の裏から和歌山までの範囲まで水を供給しているため、
1,400 万人の命の水であるため、水質をきれいにするのは非常に大切なことであ
る。
8
④ 真珠養殖場
琵琶湖の真珠養殖の歴史
1894 年
御木本幸吉氏があこや貝を母材として真珠(殻付き半円真珠)
養殖に成功する。
1910 年
川島純幹氏(滋賀県知事)が淡水真珠養殖の研究に着手する。
1928 年
淡水真珠母材としてイケチョウガイが適している事が分かる。
1930 年
藤田昌世氏がイケチョウガイで商品価値のある淡水真珠養殖に
成功する。
1935 年
御木本幸吉氏の資金援助を受け、
『淡水真珠養殖株式会社』が設
立され本格的養殖事業が始まる。
1965 年
田村太喜夫氏が堅田内湖において真珠養殖を開始する。
真珠産業の急速な発展に伴い、母貝不足が深刻な問題になる。
1985 年
田村太喜夫氏が『田村真珠』を設立。真珠養殖加工販売の一貫
生産を開始する。
1992 年
琵琶湖内でのイケチョウガイの漁獲量が統計上ゼロとなる。
イケチョウガイ(Hyriopsis schlegeli )
琵琶湖固有種。琵琶湖内では、南湖と北湖東部に高密度で分布していたが、1990
年以降北湖では彦根市沖と沖島周辺。
南湖では湖東部で確認されているだけ。
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琵琶湖の形成と湖南の地形
古琵琶湖層群は、甲南丘陸、甲賀丘陸、水口丘陸と分布していて、かつての
琵琶湖は堆積物から推定すると現在の琵琶湖の南に分布している。現在の琵琶
湖の南南東に古琵琶湖は位置していたが、次第に沈降地域の移動に伴って湖の
位置が北へづれてきて、現在の琵琶湖の位置に沈降域ができた。それが約 200
万年前とされている。古琵琶湖層群の丘陸を侵食した河川は高位、中位、低位
の段丘を形成する。図 2,2,6 には太田陽子他(2004)の図を引用した。図 2,2,10
には約 200 万年前以降の琵琶湖の形成史を太田陽子他(2004)から引用した。
約 40 万年前には、西岸側の比良断層が形成され、西岸側への傾動運動が明瞭に
なった。そして、現在の琵琶湖の位置が最も沈降が大となった。約 10 万年前に
は現在より湖水位は高く、このとき物先は現在では段丘面を形成している。一
方約 3 万年前の最終氷河期後期には水位は 20~30m となった。この時期に形成
された段丘面は、第 1 湖段とされている。野川、日野川、瀬田川の流域に発達
する段丘は、高位、中位、低位段丘に区分されている。高位段丘には赤褐色が
形成され、中位段丘は堆積段丘で、大山火山灰をはさむ、中位段丘の下部面は
侵食性がつよい。低位面は扇状地性の広い面を形成している。
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比叡山地東縁の三角末端面
琵琶湖西方の比良山地東縁には三角末端面が連続して発達する(写真 2.2.1)。
この急崖は、比良断層(活断層研究会編, 1980, 1990)、比良断層(岡田・東郷
編,2000)と呼ばれてきた。図 2.2.11 には、地形分類図(太田陽子他,2004)
を示した。比良断層は、琵琶湖西岸を直線状に切る断層であり、この断層の下
部には、三角末端面が並び、さらに下方には扇状地性の緩斜面が発達する。
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⑥ 比叡山坂本
滋賀院門跡
1615 年(元和元年)
江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧
天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地
に建立した寺である。
1655 年(明暦元年) 滋賀院の名は後水尾天皇から下賜されたものである。
1878 年(明治 11 年) 滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は火災により焼失し、
比叡山無動寺谷法曼院の建物 3 棟が移されて再建された。
日吉大社
最澄上人は延暦 25(806)年に比叡山にて天台宗を開宗。その際に天台山国清
寺にてお祀りされていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)になぞら
えて、比叡山の神である日吉大神を天台宗の守護神として崇めた。以後、日吉
大神は山王権現とも称され、天台一門をお守りする神として、今日まで深い関
係を築いている。
元亀 2(1571)年、織田信長公は浅井・朝倉連合軍に加担した延暦寺の勢力が
天下布武の障害になると考え、比叡山焼討ちを行ない、その戦火に巻き込まれ、
境内の社殿等はことごとく焼失しました。
日吉大社日吉三橋
日吉大社境内を流れる大宮川に架かる三基の石橋。花崗岩の反り橋で、豊臣秀
吉が寄進したものといわれている。南から西本宮(大宮)の参道に架かる大宮
橋。そのすぐ北に、
「走井」という清めの泉から名付けられた走井橋。東本宮(二
宮)の参道に架かる二宮橋。大宮橋は、川中に十二本の円柱の橋脚を立て、三
列の桁石、橋石を渡し、格狭間を彫った高欄がつく。走井橋は最も簡素で、六
本の方柱に橋板を架けるというものである。二宮橋は大宮橋とほぼ同じ規模だ
が、両側は擬宝珠柱としている。天正年間(1573?92)秀吉が寄進したと伝える
が、木橋が現在の石橋に架け替えられたのは、寛文 9 年(1669)のことである。
旧竹林院
坂本の延暦寺里坊群の一つ、旧竹林院境内南西にある回遊式庭園で、面積
3,300m²は里坊庭園の中で最大である。大宮川を引き込んで曲水とし、八王子山
を借景として、滝組、築山、茶室、四阿などを配している。江戸時代初期に築
造された里坊の書院前庭園であるが、明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で竹林院
は衰退して土地は個人の手に渡った。現在の庭園はこの時代に改修されたもの
であり、近代庭園として国の名勝に指定されている。
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⑦ 比叡山延暦寺(重要文化財 1994~)
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法
華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を
呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教によ
る加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延
暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、
西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。
比叡山の歴史
788 年
824 年
935 年
967 年
968 年
1571 年
1582 年
1994 年
最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まり。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号がつく。
山上諸堂の全焼。
法華堂常行堂を再建。
講堂を再建。
織田信長の比叡山焼討ち。
根本中堂や釈迦堂が建つ。
ユネスコの世界文化遺産に古都京都の文化財として登録される。
根本中堂
延暦寺根本中堂は、比叡山延暦寺の総本堂である。
788 年(延暦 7 年) 伝教大師最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始
まりとされる。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三
堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから
薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの
伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。
何度も災害にあって焼失する。
1443 年(嘉吉 3 年) 南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所か
ら三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は
根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令がでた事により
幕軍や山徒により討たれる。
1642 年(寛永 19 年) 徳川家光のときに再建される。
1953 年(昭和 28 年) 国宝に指定された。
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日本文化における石垣の様式の地域差
主として西南日本に残されている屋敷囲いとしての石垣から、積み方の様式
に二つの違った文化領域があることが判明している。その一つは琉球様式と名
づけた。南西諸島を中心に台湾や済州島への分布の広がりをみせる。もう一つ
は本州様式と名づけた。これは琵琶湖畔の穴太積みを踏まえた様式であり、こ
こでは本州様式と呼んだものである。その分布は本州域を中心とする。太平洋
側では、紀伊半島から室戸岬、そして九州南端までである。日本海側では、対
馬と隠岐島までである。しかし、両者がともに出現する地域は対馬である。対
馬の厳原は主として本州様式であるが、北島の志多留や、木坂には済州島に分
布する琉球様式がみられる。
琉球様式は、隅角の石積みが算木積みではなく、ある一定の曲率を持つ曲面
に沿って積まれている。稜線は石垣が高い場合はほぼ 5 分の傾斜を持つ。この
傾斜は根石の角度が決める。城の石積みは反りを持つが、屋敷囲いの石垣は反
りを持たない。また、屋敷が道路に沿って湾曲している場合は、石垣も道路の
湾曲に沿って積んでいく。
本州積みは、穴太積みと呼ばれたものと同じである。その特徴は、隅角は必
ずシャープな稜線を持つ。たとえ玉石であっても稜線を持つように積む。隅角
は曲率を持った曲面にならない。かち割った野石の場合は、必ず隅角は算木積
みにする。高さ 2m を超える場合は、強度を増すためと思われるが、反りをつ
ける。それ以下の高度の場合は単に約 5 分の傾斜をつける。この傾斜は根石に
傾きを持たせて決める。
この二つの様式が生まれた背景は、風向や風速ばかりでなく、歴史や文化を
反映したものと考える。過去における政治的な国境や、人々の文化的、経済的
な交流の頻度が多い地域の境界が大きく影響していると思われる。また、その
土地の風土を反映した住宅に対する考え方、素材の有無などがこの 2 つの石積
みの様式の差を引き起こすことに影響しているものと思われる。
漆原和子 (2008):『石垣が語る風土と文化-屋敷囲いとしての石垣-』,古今書院 , 257p より
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比叡山坂本の石垣調査記録
2011 年 6 月 25 日~6 月 26 日
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比叡山坂本
穴太積
石工 14 代目粟田純司氏の講演から
穴太衆とは、滋賀県大津市坂本を発祥とする石積みの集団である。彼らが積
んだ石は穴太積みと呼ばれ、特徴的な石積みをしており、安土城を始めとして
全国のさまざまな石垣にその技術を見ることができる。
穴太衆の起源は、諸説あるが、6~7 世紀に朝鮮系の渡来人に教えられて日本
に入ってきたという見方があり、大津市北郊地帯に築造された古墳に乱積み構
架法が用いられている。その後、最澄によって天台宗が開宗された際には穴太
の石工衆が動員され、1576 年の安土城築城により一躍その名が世に知れ渡り、
諸大名から引っ張りダコとなった。安土城築城には 300 人の穴太の石工が取り
組み、これ以降文献などで穴太という呼び名が現れるようになる。その技術は
中世から現代まで受け継がれ、江戸城、伊賀上野城、大阪城、和歌山城など多
くの城の石垣に穴太積みが見られる。そして穴太の石工が全国に散り、現存の
城の 8 割が穴太積みである。
穴太積みは基本的に自然石を積み上げる野面積みであり、その最大の特徴は
隙間を作ることである。同じ大きさ・形の石がキレイに規則正しくぴっしりと
積まれている石垣があるが、穴太積みでは決してそのような形にはならない。
穴太積みの極意は“石の声を聞く”ことだと言われる。つまり、
“石の一つひと
つが収まるべき所に収まる”ということで石の一つひとつの形状を考慮しなが
ら積んでいくのが穴太積みなのである。大小形状の様々な形の石をたくさん観
察しながら、頭の中で完成図を描いていくという。
穴太積みは稜線の角の部分のみしっかりと積んであり、石の形を考慮して置い
た石と石の間には、栗石と呼ばれる小さな石が置かれている。これにより、形
がバラバラの野石を石垣として積んでいくのである。
そのため、石垣には無数の隙間が生じ、この隙間を雨水や風が抜けていくこ
とになる。一般的に、隙間がある石垣はすぐに崩れてしまいそうというイメー
ジを持たれるが、逆に、風や水が隙間を通ることで石垣にかかる抵抗が減り、
より強靭な石垣となっている。
穴太積みの積み方としては、大きな石をメインに据え、小さな石で隙間を埋
めていく。本来は大きな石が沢山あるのが理想的だが、それが無いためである。
丈夫に積むため、石は横向きに積んでいく。この積み方のポイントは小さな石
で、それがあってこその石垣なのである。稜線の角の部分には反りがついてい
る。これは戦術の一つで、敵が登って来られないように作られている。
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また、穴太積みの石垣の角の部分には算木積みと呼ばれる積み方が用いられ
ている。これは、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を
増す積み方で、使用される長方体の形が和算(江戸時代の数学)で用いられる
算木に似ていることから名づけられた。もう一つ、穴太積みの特徴としてこの
角の部分に「反り」ができることがあげられる。通常、石垣は地面から上にあ
がっていくに連れて傾斜が付いているものだが、穴太積みの角ではこの傾斜の
最後に反りが生まれるようにできている。
穴太積みにおいて、角の部分の石は先端から 5~10cm ずらして上下に噛み合
わされている。この噛み合わせは 2 番と呼ばれている。これは角の部分をあえ
てずらして配置し、隙間を作って余裕を残すことで、地震で倒壊するのを防ぐ
ためである。一方で、角の部分の石を先端で噛み合わせる積み方を間知石積み
という。間知石とはほぼ同じ大きさに整形された石で、主に土留めに用いられ
る。この噛み合わせは端持ちと呼ばれ、噛み合わせた後は石同士をしっかり付
けて、背後をコンクリートで固めて作られる。間知石積みは角が揃っているた
め見た目は美しいが、先端がずれて倒壊しやすいという欠点を持っている。実
際に、1995 年の阪神淡路大震災の際、穴太積みの石垣は一つも倒壊しなかった
が、間知石は一部が倒壊したことが確認されている。
22
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現地研究・滋賀県琵琶湖付近における
坂本の町石垣調査まとめレポート
1班
Ⅰ.はじめに
6 月 24 日~26 日の三日間、現地研究で滋賀県
の琵琶湖付近を訪れ、坂本の町を始め、安土城や
彦根城に行き様々な石垣を見学した。
日程の中で、
6 月 25 日及び 26 日に坂本の町における石垣調査
を行った。このレポートでは、山川、水出、亀井
による1班の石垣調査の結果と考察を中心に述べ
ていきたい。1班の調査範囲については、地図「1
班の調査範囲図」の通りである。
08B4218 山川 彩
08B4026 水出 季也
11B4201 亀井 優樹
徴である。
そのため、土地の平らな部分の面積を増やす手
段として、土留め目的の石垣が作られていること
が多く、至る所で坂に沿って石垣の高さが変わっ
ていく様子が見られた。
(写真1及び図1参照)
Ⅱ.1班石垣調査の結果と考察
石垣調査の結果、石垣は全体的に東側に下るに
つれて高くなっているという傾向がみられた。こ
れは、坂本の町の坂の傾斜が東にいくに従って下
っているためである。このことから、坂本の町に
おける石垣の目的は大半が土留めであると考える
ことができる。
また、
石垣の上には植生が見られる部分も多く、
その中の一部には高さが約12mにもなる木が連
なっている箇所があった。
ほかの植生の高さは1。
5~2mとなっており、周囲からの目隠しや敷地
の囲いとしての役割の強さを感じさせるが、この
一部分に関しては跳びぬけて高さがあることと、
西側に位置していることから比叡颪のための防風
を目的としたモノだと考えられる。
以下に、1班の調査範囲内にみられた石垣の中
で、特徴的な部分、算木積の角をスケッチした部
分(3か所)について取り上げてまとめていく。
① 平川家石垣にみられる傾斜
坂本の町は、山から琵琶湖に注ぐ大宮川によっ
てできた扇状地の中にあり、坂道が多いことが特
b
a
写真 1 坂に沿って高さの変わる石垣
図1
石垣の断面図
a
b
写真1は、大通りの坂道に沿って高さが変化し
24
ていく石垣の一例で、
平川家の石垣の一部である。
(地図の地点 A にあたる)
。写真の奥に向かうに
連れて傾斜は下がっており、それに伴い石垣は高
くなっている。図1はこの地点の石垣の断面図で
ある。この石垣の高さの変化から坂の傾斜角度を
求めたところ、ここの坂は約 4.97 度の傾斜を持つ
ことがわかった。
坂本の町は坂道が多いと書いたが、我々の調査
範囲内も例外ではなく至るところに傾斜が存在し
ている。同じように石垣の高さの変化から坂の傾
斜角度を求めた結果、地点 A の少し上に当たる地
点 B では約 2.5 度であった。傾斜角度は、場所に
よって異なっている。
写真2 山として作られた石垣
② 旧竹林院庭園
傾斜に合わせて高さを変えていく石垣がほと
んどであることから、坂本における石垣の主な目
的が土留めであることがわかる。しかし、旧竹林
院庭園における石垣は、土留め以外の役割も果た
しており、内側の庭園内から見た際に石垣を背景
の山に見立てるという目的としても作られている
ように思われる(写真2参照)
。写真は旧竹林院庭
園の内部のモノで、奥の木々の後ろに石垣が覗い
ているのが見て取れる。
写真3 旧竹林院庭園の外側の様子
この石垣は、外側と内側とでは地面からの高さ
が違うように思われるのだが、今回の調査では外
側のみの計測しか行わず、内側の計測は行えなか
った。
当然のことであるが石垣には厚みがある。ちょ
うど角になっておらず、厚みを計測できる箇所が
あったので測ったところ厚みは約1mほどもあっ
た。平均した石垣の厚みのデータがないため、こ
の数値が大きいモノなのか小さいモノなのかは分
からないが、
土留めとして土台を固めるためにも、
地震などの振動にも耐えうるためにも、このぐら
いの厚みは必要なものだと思われる。
石垣の内側は木が生い茂っていたが、外側にも
一定間隔で木が植えられていた(写真3参照)
。こ
れらの木の一部は石垣にまでその根が侵食してお
り、若干石垣の形が崩れている部分が見られた。
この木は石垣ができる前にすでに存在していたの
か、もしくは石垣ができた後に生えてきたのかに
よって話は変わってくるが、石垣の中に木の根が
深く侵食でき、かつそれでも石垣が崩れないのは
穴太積の特徴である“隙間”によるものであると
考えられる。
また、この地点の石垣の外側の角には“隙間”
とは別の穴太積の特徴である“角の算木積”と“反
り”をハッキリと確認することができた。その様
子は、写真4と付図のスケッチの通りである。
写真4 旧竹林院の石垣の角の一つ
慈光院の石垣は、他と同様、坂の傾斜によって
高さが変わっているが、坂ではない大津線(47 号)
の道路沿いの石垣でも同じように高さの変化が激
しくなっていた。写真7に、中央に向かって石垣
の高さが低くなっている様子が見て取れる。
この石垣の上には植生が多く、門に続く階段の
横にのみ屋根のついた木の壁がみられた(写真6
参照)。
石垣の上の植生は当初は木の壁と同じ高さ
になるようにそろえられていたものと思われる。
それが現在、写真7のようになっているのは、植
生の侵食による石垣の崩落が原因なのか、地震な
どによる石垣の崩落が原因なのかは定かではない
が、一部分のみに高さの違いが見られることから
植生の侵食によるものだと考察する。
慈光院の他の寺院でも、石垣の上に木の壁や白
壁があるところは多かった。
この旧竹林院の他にも、いくつか特徴的な“反
り”がみられる場所があり、今回の調査では慈光
院と止観院の 2 ヶ所を計測し、
スケッチをとった。
その2つに関しては次の項目で取り上げる。
③ 慈光院(律院)
慈光院においても、角の算木積をみることがで
き、スケッチをとった。
(写真5及び付図参照)た
だし、下をコンクリートで固められているため、
根石が隠れてしまっていてみることができなかっ
た。
写真6 慈光院前の門
写真7 慈光院の高さの変わる石垣
写真5 慈光院の石垣の角
④ 止観院
止観院でも、石垣の角に特徴的な算木積をみ
ることができた。ここも道路の側溝に合わせ下の
部分をコンクリートで固められており、根石の一
部は隠れていてハッキリとはみられなかった。
(写
真6参照)石垣の上には植生、門の付近のみ白壁
をみることができた。
(写真9参照)また、面の一
部は坂になっていた。
策として高い木が植えられたのではないかと考え
られる。ただし、1班の調査ではこの他に同じ特
徴を持つ地点がなかったため、他にもこのような
場所があるかどうかを確かめる必要がある。
⑥ 平川家石垣の角について
我が班が計測を行った石垣調査範囲では、寺院
が最も多く、他の石垣はほとんどが一般の家屋を
取り囲むものであり、それぞれしっかりと穴太積
みの特徴は持つものの特別目立った箇所はなかっ
た。
そのためか、石垣の上に生える木が成長して根
が張り、石垣が崩れそうになっている所もみられ
た。写真10は平川家の石垣の一部である。
写真8 止観院の石垣の角
写真10 植物によって変形した石垣
写真9 止観院の外側の様子
⑤ 律院・芙蓉園駐車場
石垣を作る目的として多くは土留めであるが、
それ以外では防風林の役割もあると考えられる。
坂本では、山から琵琶湖に向かって「比叡颪」
という風が吹くことが知られている。
調査範囲内にて、一部ではあったが、山側に向
かう方角の石垣の上に 12m の高さがある木が植
えられている箇所があった。他の場所では木の高
さが平均して 1.5~2m が殆どであるため、颪の対
写真11 植物の根によって崩れた石垣跡
また、写真11は平川家とは別の場所であるが、
もともとは石垣があったのでないかと思われる痕
跡もみられた。植物の根が張っており、石垣はほ
とんど崩れてしまって、わずかに石と盛った跡が
残るのみである。
これらのことから、寺院であれば修復や手入れ
がしやすいように思うが、一般の持ち物では維持
管理が難しいのではないかということを感じた。
また、これから時間が経つにつれて植物の成長な
どで荒れる場所は増えていくことが予想される。
写真13 一部の大きい石を含む石垣
⑦ 1班調査範囲内で気づいたこと
1 班が調査した地区では、他の地区よりも小さ
い岩がたくさん使われていた。
大きい岩は少なく、
そのうちのほとんどが角の部分や門の近くにアク
セントとしてしか使われていなかった。これは今
回調査した地区が一般家庭や小規模な寺院で占め
られているため、権威などを示す必要がなく、安
価で手軽な小さい岩の石垣ができるに至ったと推
察できる。
写真12 小さい石の多い石垣
Ⅲ.まとめ
この調査により、石垣の主な役割が土留めであ
ること、周囲からの目隠しや侵入防止の役割も持
っていること、更に一部では比叡颪を防ぐための
防風林の役割も持つことが考えられる。しかし、
時間の都合もあって石垣の高さの計測を主な活動
とし、住民への聞き取り調査まで手を回すことが
できなかった。そのため、一般家屋では石垣をど
のように維持しているのかといったデータからで
は読み取ることのできない疑問点が残ったり、浅
い考察しかできない箇所が出てきたりしてしまっ
た。しかしながら、実際に自分の目で石垣を見る
ことや計測を行い考察することで、穴太積の特徴
と坂本の町の石垣の傾向について考えを深めるこ
とができた。ぜひ、穴太積とこの石垣の特徴的な
景観を残してほしいと思う。
滋賀巡検レポート
2 班 4 年 08B4115 稲守良介
3 年 09B4110 鷹羽陸
2 年 10B4135 蛭川葉月
Ⅰ はじめに
良くなるという利点がある。小田原城は、
今回は穴太積みで有名な滋賀県坂本にお
栗石が少なかったために崩れたと言われて
いて、石垣の調査を行った。坂本全域の石
いる。それではなぜ、2 班の調査地区では
垣の分布と、穴太積みの特徴である隅角の
穴太積みで重要な役割を果たす隙間をコン
反りの計測を調査した。
クリート詰めにしてしまったのだろうか。
その理由として考えられるのは、単に石垣
Ⅱ 2 班の調査地区の特色と考察
が傷んだために後から補修したためだとい
2 班の調査地区は、坂本の町の北東部に
うことである。コンクリートは通常の石積
位置する。参道の北側の少し奥まった地区
みと比べれば強度が劣っているが、石積み
であり、15 の寺院と住宅がある静かな場所
と組み合わせることで、ある程度の強度を
だった。
発揮するのではないかと推察できる。石垣
2 班の調査地区の特徴として、コンクリ
ート詰めの野石積みが多かったことが挙げ
のある坂本伝統の景観を保全するためにも、
石垣を補強したのではないか。
られる。石と石の間に隙間があり、そこを
また、この地区では急な反りが付いて算
埋めるようにコンクリートが詰まっていた
木積みになっている角は 1 か所だけだった
(写真1参照)
。
(写真2参照)
。この地区の石垣はほとんど
が寺院を囲むようにして築かれているので、
敵の侵入を防ぐ目的の急な反りは必要がな
かったのだと推察できる。
写真 1
調査地点の石垣
穴太積みは、大きな石の隙間を小さな石
(栗石)で埋めていくことで丈夫さを発揮
写真 2
算木積みではない石垣
する。栗石は多ければ多いほど丈夫で、程
よく隙間も残したままになるので水はけも
房総で見学した仁右衛門島では、海に飛
び出すようなその立地条件から、石垣は防
この点から、人通りの多い道に面する寺
風の役割を果たしていた。坂本でも同様の
院は景観保持のために綺麗な生垣を築いて
ことが言えるだろうか。坂本では、西に広
いるといえるだろう。それと同時に、目隠
がる比叡山から東方面の琵琶湖に向かって
しの役割も果たしていると考えられる。植
強い風が吹く。これを比叡おろしというの
生の高さはそれぞれ 100~160cm 程度で、
だが、もしここで防風目的の石垣を築くと
石垣と合わせると 300~400cm 程になる部
すれば、石垣は南北方面に伸び、西からの
分もあった。これは道路側からは敷地の中
風を防ごうとするはずである。しかし、こ
は完全に見ることのできない高さである。
の地区ではそのような石垣は見当たらない。
中には例外的に 500cm 程の高い木や、さら
そのため、この地区の石垣には防風の目的
に樹高が高い雑木林、竹林がある所もあっ
はないということが分かる。
た。これらの木々は防風のためではないか
石垣の上の植生はツバキやスギが多かっ
と推察できる。
た。それぞれの寺院にある植物は人の手が
石垣の上に塀が設置されている部分があ
加えられ、全体が綺麗に切りそろえられた
ったが、割合的には少なかった。住宅地の
生垣だった(写真3参照)
。しかし、奥まっ
周囲や、石垣が低い寺院の周囲に塀がある
た裏通りにある行泉院のそばには人の手が
のかと思っていたのだが、実際は確認でき
加えられていないような荒れた雑木林、竹
なかった。そのため、この地区の塀は目隠
林があった(写真4参照)
。
しを主な目的としては築かれていないとい
うことが分かる。
Ⅲ まとめ
2 班担当の調査地区の調査した結果をま
とめると、まず隙間にコンクリートが詰め
られた野石積みの石垣が多く見られた。こ
れは傷んだ石垣の補修として、後からコン
写真 3
調査地点の生垣
クリートが詰められたものだと推察した。
石垣の隙間へのコンクリート投入は比較的
最近に行われたものと考えられる。また、
反りのついた算木積みの石垣はこの地区で
は一か所しか確認できなかった。この地区
では石垣同士が直交しているところの石垣
が丸くカーブした形になっているものが多
く、角隅自体あまり確認できなかった。こ
のことから、寺院を囲むようにして石垣を
写真 4
調査地点の雑木林
築くことで寺院を守っていたため、反りは
あまり必要ではなかったと推察した。また
石垣は敵からの防衛だけでなく、土留めと
ので、これらの木々は防風林ではないかと
して使用しているところも多かった。
考察した。
人通りの多い道に面する寺院の生垣では、
全体として見ると、この地区では反りの
ツバキやスギに人の手が加えられて全体が
ついた算木積みの石垣は 1 か所のみで、石
切りそろえられていたが、裏通りでは人の
垣の多くがコンクリートで隙間を補填され
手が加えられていない雑木林や竹林が見ら
ており、寺院を囲むようにして配置してあ
れた。このことから、人目の付きやすい生
った。これは、寺院を囲むような配置は防
垣は切りそろえて整えることで景観を保持
衛のため、コンクリート詰めは補修のため
すると同時に、目隠しとしての意味合いも
だと推察した。また生垣は景観保持と目隠
あったと推察した。一方、石垣の上にはあ
しの目的があり、樹高の高い林は西からの
まり塀は確認できず、目隠しの目的で築か
風に対する防風林であると考察した。これ
れたわけではないと考えられる。また、坂
らのことから、景観を保持しつつも、目隠
本では西から東に比較的卓越した風が吹く
しや防風、石垣の配置による敵からの防衛
傾向があるものの、配置の関係から石垣に
など、様々な工夫と対策がなされた地区と
防風の目的はないと考えられる。一方、非
なっていることが窺えた。
常に樹高の高い雑木林や竹林も確認できた
2011 年度現地研究「滋賀県」
石垣レポート
3 班 09B4135 藤田 理沙
10B4116 原田
祐輔
10B4212 小笠 祐史
Ⅰ. 3 班の調査地
ところもあった。
3 班の調査範囲は以下の通りである。県道
316 号線日吉馬場沿いの恵光院から東に下
Ⅲ.調査結果
り、坂本六丁目交差点まで向かう。そこか
1.県道 316 号線(日吉馬場)
ら北へ進み、最初の十字路から西へ向かい、
県道 316 号線は、比叡山を起点に、琵琶
大宮川樹下橋まで行く。そこから南下し恵
湖付近を走る国道 161 号線とぶつかる下阪
光院に戻るところまでを調査範囲とした。
本 6 丁目交差点までの 4.6km の県道である。
調査結果により導き出されたことを考察す
比叡山から日吉神社は車では入れない。日
る。
吉神社入り口から坂本四丁目交差点付近ま
での間は日吉馬場と呼ばれる。また日吉神
社から比叡山坂本駅へ東方向に下り坂に
なっている。このため、各石垣は西方向か
ら東方向へ向かって高くなっている。この
ため、県道 316 号線沿いの石垣は土止めが
主な利用目的であったと推察される。さら
に石垣やその上に生える樹木により、外の
道路から中が見えないようになっている
ため、目隠しに利用する意図、中からは外
の現実世界が見えないようにするために
図 1 調査範囲
Ⅱ.調査地の概観
3 班の主要なところである県道 316 号線
は、比叡山方面から比叡山坂本駅に向けて
下り坂になっている。この通り沿いには寺
院が多く、必ず石垣で囲われている。この
ことは調査範囲内の寺院すべてに該当する。
これに比べ、民家は石垣で囲われていない
高くなっているのではないかと考えられ
る。以下詳しく論じていく。
①恵光院
恵光院は、寺院を囲むように石垣が存在
している。恵光院西端は T 字路になってお
り、北へ向かう道路がある。この T 字路部
分の角隅は算木積になっており、反りがみ
られた。北へ向かう道路は平坦な道である
ため、T 字路から石垣が 1.65m、土塀 1.25m
で一定で、長さは 4.05m であった。この後
石垣が高くなり、また石垣の上は土塀から
樹木に変わり、石垣 1.34m、樹木 1.70m
であった。樹木は一定ではなく様々なもの
があったためその都度高さが変化した。な
かには樹木のなかったところもあり、必ず
しも目隠しの目的ではないように考えられ
る。
日吉馬場沿いは、東へ向けて下り坂にな
っているため、石垣の高さが変化している。
また石垣の上に土塀が置かれていたが、こ
れは 1.25m で一定であった。石垣は門を挟
んで 2 つ存在し、西側が石垣西端 1.65m、
東端 1.30m であった。東端のほうが低いの
(写真 2)石垣プロット図②に該当
は、西端のほうは側溝が開いていたため高
く、東端の方はふたがされており、実際の
②律院
一番下からは測れず、このような結果にな
律院は比叡山延暦寺で千日回峰をおこな
った。東側は、西端石垣 1.45m、東端が
った僧侶が山を下りて隠居している。律院
2.35m、土塀は 1.25m 一定であった。この
は東西が坂になっているが、門付近はほぼ
ことから土止めに石垣が使われ、土塀や樹
平坦になっていた。このため西側の石垣は
木により目隠しの効果として施されている
2つに分かれており、東側は 1 つの石垣で
ものと考えられる。
あった。石垣の高さは、この通りに共通し
た西が低く東が高い石垣であった。西側は
2 つとも樹木が見られたが、より西側の石
垣は石垣内ではなく、敷地内から木が生え
ていた。東側は竹でできた囲いのようなも
のがあった。門の部分の角隅は、算木積み
ではなかった。この寺も石垣は土止めに、
樹木などが目隠しに使われていると考えら
れる。
③實倉坊・壽量院~坂本 4 丁目交差点
大きく変わった変化は見られなかった。
この道路の傾向通り、西が低く、東へ向け
(写真 1)石垣プロット図①に該当
て高くなっている。土止めの効果と考えら
れる。この付近は石垣の上は樹木であった。
寺院はすべて樹木であったが、民家では樹
くなっていたためである。ここの石垣は、
木ではなく土塀であったり、石垣ではなく
水辺の近くで地盤が緩んでしまうため土地
ブロック塀が使われていたりと、少々異な
の補強といった目的で造られていると考え
っていた。門付近は反っていたりいなかっ
られる。石垣の後ろには大きな樹木が植え
たり、算木積みであったりなかったりとま
られていたためこれも土地補強と考えられ
ちまちであった。しかし、鳥居付近にある
る。またここは神社ということで門がなく
前田宅は、石垣、樹木ともに非常に高く、
入口が解放されており、石垣の上の赤く塗
石垣は 2m を超え、樹木は 3m もあった。T
られた柵は隙間があいていて中を覗くこと
字路の角隅の石垣は算木積みでなおかつ反
が出来るため、石垣は目隠しといった意味
っていたため計測した。ここまで高いのは、
は持っておらず見栄えを良くする目的もあ
目隠しであると同時に侵入者防止の目的も
ると考えられる。
あるのではないかと推察される。
(写真 4)石垣プロット図④に該当
⑤生源寺
生源寺の石垣は、この道路の傾向通り、
(写真 3)石垣プロット図③に該当
西側が低く東側が高い。角隅は若干反って
いたが、算木積みかどうかは判断しかねる。
④大将軍神社
大将軍神社は坂本四丁目交差点付近の T
字路沿いにあり、道路沿いの角隅は算木積
みでかつ石垣は反っており、門両脇も反っ
ていてかつ算木積みであった。門西側の石
石垣の上の土塀が門西側で 1.20m、東側で
1.05m の高さであった。門東側は坂が急に
なるため、石垣が急激に高くなり、東端は
2.30m に及ぶ。傾斜は門西側が東に向かっ
て 1.70 度、東側が東に向かって 3.56 度傾
垣が高さ西 2.0m、東 1.8m で上に赤い塀
いている。この石垣は土留めの役割を持っ
1.5m があった。傾きは東に向かって 1.85
ていると考えられる。また石垣と上の土塀
度あった。門西側の石垣は段々になってお
り、より西側の石垣が T 字路から北へ向か
う道路と同じ高さに合わせるためにより高
を足しても 2m 強しかなく他に樹木もなか
ったため、目隠しというよりは境目といっ
た意味合いが強いと考えられる。門は一般
的な木造のもので屋根は瓦屋根であった。
ンクリートの壁になっていた。また、門は
生源寺と全く同じ造りの門であった。
⑥ 坂本観光案内所
坂本観光案内所は、門をはさみ西側に長
2.薬樹院から八条通りつきあたりまで
さ 1.25m、高さ西端 0.85m、東端 0.90m の
の道路(3 班担当区域を真っ二つに分断す
短く低い石垣と、門東側に長さ 7.5m、東端
る道路)
0.81m、西端 1.10m の石垣があった。とも
北南にのびるこの道路では傾斜がほぼ見
に樹木が見られたが、東側樹木の石垣は直
られなかった。そのため、天台宗滋賀地区
上にあったわけではなかった。石垣は土止
宗教所や休歩処拾穂庵などの前を囲ってい
めの効果があるとみられるが、観光案内所
る石垣の両端の高さは大きく開いていない。
そのものを土止めしているわけではなく、
一番両端の差が大きくなったものでさえ、
樹木のある部分の土止めであった。
休歩処拾穂庵前の石垣南側 1.17m、北側
0.67m と、0.5m の差であることから平坦な
⑦坂本観光案内所駐車場と京阪坂本駅前
道であることがうかがえる。しかし、この
バス停付近
道路のどの石垣の両端も比べると、北より
駐車出入り口を挟んで向かい側にある市
南の方が高くなっている。これは、平坦に
民センターの駐車場ということで、市民セ
見えつつも南側の地盤が若干高くなってお
ンターと同じ高さに合わせるように石垣が
り、北へ傾斜していると考察できる。石垣
造られていた。土留めとしての意味を持っ
の高さも一番南側に位置するものは 2m、一
ており、何台もの車が停まっても崩れない
番北に位置するものは 0.62m と南から北へ
城に使われるほどの頑丈さを活かした造り
徐々に低くなっている。南に薬樹院がある
になっている。
ので景観保存や、目隠しという理由がある
と思うが、石垣の高さ分布から、ここも土
⑦ 臺院
止めがされているとも考えられる。
石垣は、門西側が西端 1.23m、東端 1.41m。
東側は 2 段になっており、門側は 1.43m で
①金毘羅大権現
一定、その東側は西端 1.40m、東端 1.75m
金毘羅大権現の門の両脇は石垣の上に白
であった。段になっているのは、門側の石
壁がのっている。この両脇の石垣は 1m 前
垣が奥へ続いているためである。傾斜は門
後、白壁の高さは東側 0.77m、西側 0.66m
の西が約 3.08 度、東が約 0.23 度と大きく
と比較的低い。しかし、西側の石垣の隣に
差があったが西の石垣の距離が建物自体は
も石垣が続いており、これの両端の高さは
全体的に東寄りに傾斜の緩いほうに建てら
東 1.63m、
西 1.40m、更にこの上に東 1.35m、
れていた。石垣の上には柵と樹木があり、
西 0.75m の樹木がのっており、金毘羅大権
柵は隙間のない形をしていたため目隠しの
現の両脇の石垣よりも高くなっている。こ
役割をもっていると考えられる。金臺院の
の背後には特に寺院や建物はなく広葉樹林
東端は駐車場と接しており石垣ではなくコ
があった。この石垣は、行泉院の門の目の
前であるから作られた可能性がある。また、
0.58m と低く、樹木を植えていないことか
石垣の西側が低くなっていることから、こ
らも述べられる。
こから急に西へ地盤が傾斜していると考え
る。これは同じ区画の南側では日吉馬場通
3.八条通り
りが西に向かって高くなり、東に傾斜して
この通り沿いはすべて民家で、石垣があ
いるのと相反するが、こちらの北側では北
る家ない家があった。この通りは県道 316
西方向に大宮川が流れているため地盤が低
号同様、東へ向けて下り坂になっており、
くなっていると説明できる。
すべての石垣において西が低く東が高かっ
た。このため、土止めであると考えられる。
②無量院、観明院
ここの石垣の特色は北の大宮川に向かっ
て低くなっている。無量院南側の石垣
この通り沿いの中で、酒井家のみ穴太積み
独特の隙間がコンクリートで埋められてい
た。
1.84m、その上の樹木 1.80m と高く、観明
院 と の 境 ま で の 石 垣 は 1.19m 、 樹 木 は
Ⅳ.まとめ
0.30m と大きく差が開いている。その隣の
今回の調査からこの区間の石垣では、土
観明院の石垣は、石垣・樹木・石壁の順で
止めや区画の境として仕切り、景観保存、
上に乗っている構図になっているが、石垣
目隠しのためであると考えた。高さ 2m を
と石壁の間に空間があり、その間を樹木が
超す石垣が存在した。この高さから石垣の
植えられている形をとっている。石垣と石
もう一つの理由は侵入者防止目的であると
壁はそれぞれ両隣の石垣と石壁に支えられ
考えた。また調査範囲内の石垣はほぼすべ
ている。また、この石垣の前に小さな排水
て穴太積みで、角隅は算木積みであった。
路(小川)が流れていた。
この範囲の石垣の特徴として、特に県道
観明院の門前の石垣、その上の樹木共々
316 号線日吉馬場の傾斜角度が大きいため、
高く、石垣東側が 1.87m、樹木 1.90m、門
石垣の角隅から角隅までの両端の長さが大
正面までが石垣 1.80m、樹木 2.20m、門前
きく差が開いた。つまり、石垣は地盤の傾
西側に存在する石垣と樹木の両端の高さは
斜に沿って石垣の高さを決めていることが
同じであり、1.15m、2.20m となっている。
分かった。また、寺院は石垣の高さが高く、
樹木の種名は判別できなかったが、葉に光
神社や民家は低かった。どの石垣も樹木の
沢があったことから、常緑広葉樹であると
根によるたわみはない。他班の範囲の石垣
判断する。この石垣と樹木の高さは、季節
と比べると、作られてから新しいものだと
風の「比叡おろし」への防風林ではなく、
言える。また反りをもった石垣が多く見ら
土止めや寺院であるためだと考える。なぜ
れた。樹木は風によって偏形しているもの
なら、日嵐は西か南からくる風であり、観
はなく、防風林として植えらえていない。
明院の樹木が生えている方向は北または東
比叡おろしは琵琶湖の湖面に向かって吹き
であるからである。また、観明院の西隣り
下ろすため、この地域は風陰に位置する。
に あ る ( 有 ) 山 田 建 設 前 の 石 垣 は 0.56 ~
このため、樹木は防風林ではないと言える。
「滋賀県大津市坂本(4 丁目)地区における石垣の分布と特徴」
4 班 09B4003 正部家 悠太
10B4218 塩原 えりか
10B4017
Ⅰ.対象地域
4 班の調査範囲は、滋賀県大津市の穴太
西川 玲奈
Ⅱ.調査結果
1. 比叡山高校前 (山側)
地区より北にある坂本地区を対象とし、特
比叡山高校の石垣は県道 47 号に東面
に坂本 4 丁目比叡山高校の前の石垣から参
を向けたところに位置する。調査地域中で
道沿いを調査した。また県道沿い及び、路
最も平面規模が大きい石垣であった。
地での調査を行った。
(図1参照)
全長:148m14cm
路地では県道沿いに寺院や商業施設(飲
高さ:高校に対して
食店)が立地していたのに対し、民家が存在
右側の端の高さ・・・3.2m
した。坂本地区の特徴として、この日吉大
左側の端の高さ・・・3.0m}両端ともに樵石
社の参道沿いや一部路地に延暦寺の里防
全長が長いため中間地点でも高さを測っ
(山上で修業が終わった老僧が、山から降り
たところ、4m もの高さがあった。石垣の上
てきて余生を送ったところ、院)が多く置か
には高さ 10m は超えるような樹木が生い
れている。
茂っていた。石垣に膨らみが見られる個所
調査範囲にはこれらの院・民家の双方に
石垣があり、両者の石垣を調査することが
できた。
があり、これは樹木の根が原因だと考えら
れる。
2.
高校前の道路の向かい側の石垣(湖側)
端の高さ:150cm 前後
樵石こちら側の
石垣はあまり高くない。ここでは植生は見
られず。
ここの石垣は南区画にある、院の裏手にあ
たるところであるため華美な装飾や大型の
植生は確認できず、簡素な状態の石垣が確
認された。
県道 316 号線―47 号線付近の階段状
3.
石垣
坂本 4 丁目の県道 316 号及び 47 号線の
写真2 Loc.1 湖側から撮影(遠景)
接続点付近の歩道は調査地域内でも比較的
標高の高い地点で、同区間の平均勾配は
【100(%)×395cm(垂直距離)×0.42m(水平
距離)】=9.40%である。この急こう配によっ
て車道は同区間を迂回、歩道は階段状にな
っている写真2。
この場所では、石垣が高低差のために上
面が 5 度にわたって変動し、6 面の石垣か
ら構成される。図 1,Loc.2 参照
図 2 の右側(A)が標高の高い方を表してい
る。階段は 10 段程度で面が水平ではなく、
2.0m~3.0m の面を持ち、石垣の階段部分
とは必ずしも一致しない。A付近は県道 47
号
写真3
同地点(近景)
高校に対し左側(下記写真2・3地点)にてス
ケッチをした。図3参照
ここの石垣には反りはなく、しかし穴太積
みの特徴である算木積であることが言える。
また隙間にはたくさん小詰めされていた。
高校はこの石垣の高さを基盤として建って
いる。
写真4
階段石垣 A から B 方向撮影
線側にコンクリート基礎が確認でき、石垣
な上面を持つ 1 段で構成されている。
とコンクリートの詳しい形状は把握できな
上方には石垣のほかに植生はなく、鉄線
かったが、A付近の石垣の上面は平坦では
によるフェンスが構築されている。石垣の
なく若干の崩れがみられる。階段の特徴と
高さが 25cm 程度の場所では敷地内を見る
して A-B の中間地点で面の短い段が 6 段ほ
ことができ、地表面の高さを推定すると、B
ど続き、上端・下端の段はそれぞれ 2~3 段
地点と同じ高さで A 地点に向かうにしたが
が非常に広い面を持つ。石垣は A 付近から
って地表面との高度差が増していたため、A
B に向かって 1 段あたり 5~10m程度の階
側及び階段石垣は、土留めのために使用さ
段状ではあるが、B 付近は 20m程度の水平
れているものと考えられる。
図2
階段状石垣の側面の模式図
(A-B 間及び階段相互の距離は目測による推定)
4. 民家木壁
民家木壁は県道比叡山線(316 号)より一本
また、石垣と植生の間にコンクリート或
裏に入った住宅地沿い(図 1,Loc.3)に分布し
はブロックが使われているのも大きな特徴
ている。範囲は上延安正氏宅から磯谷安太
であった。寺院などで使われる白壁は見ら
郎氏宅までとする。
(図 1,Loc3Ⓐ-Ⓑ参照)
れなかった。
木壁は大きく分けて5カ所にあり、便宜上、
こうした点から鑑みて、この石垣の使用
上延氏宅から順に番号を振った。
目的は土留めではなくて、通行人からの目
宅地にある石垣であるので、寺院の石垣の
隠しとしての意味合いが強いと考えられる。
規模と比べると、随分と小さい物であった。
表1 各地点の石垣と周辺の植生等環境
① Ⓐ
宅地。高さ 1(m)-0.9、長さ 4.2。両端に樵石が使用されていて、間は野石である。
②
宅地。高さ 1.1-0.3、長さ 10.2。両端に樵石が使用され、野石積み。石垣
の上の植生は 2.0。
宅地。高さ 1.4-1.2、長さ 3.0。ブロック、あるいはコンクリートで作られた塀 1.2
③
がある。その上に植生。
④
宅地。高さ 90.0-30.0、長さ 12.15。コンクリ壁 1.5。
⑤ Ⓑ
宅地。高さ 1.15-90、長さ 3.0。コンクリ壁 0.2、植生 1.0。
5 .金蔵院
金蔵院は県道比叡山線(316 号)沿い、交差点
坂本 4 丁目付近(図 1,Loc4)にある。高さ、
門右側
長さ等の他に金蔵院門のスケッチも行った。
右)高さ 1.95m で、五段で組まれていた。
門左側
算木積みがよく見られ、上部ではソリも見
右)高さ 1.53(m)-1.95
ることが出来る。
長さ 15.55
左)高さ 2m 余りで、右よりも更に大きい石
両側樵石で石垣の上には白壁 1.6m。
を使用して組まれている。
植生は 8m 以上であった
下部二段は野石の様な形をしているが、上
左)高さ 2-1.2
部と合わせてみれば算木積みと判断できる。
長さ 19.55。白壁 1.6
スケッチは図5を参照。また、一番上の石
植生は僅かに 1.5
には矢と思われる跡が残っていた。全部で
スケッチは図4を参照
6 つついている。右同様に、ソリをみるこ
とができる。
図3
図1Loc.1 での石垣のスケッチ
図41Loc.4 金蔵院門左側のスケッチ
る。しかし通り沿いに面しており、竹や高
木が背後に存在していることから目隠しや
明確な境界引きの役割といった住宅街に共
通する目的を内包していることがわかった。
調査区画はすべて寺院ではなく一般住
宅も含まれ、このような区画では石垣の高
さをブロック塀程度、もしくはそれ以下と
し、フェンス・木柵が確認されたことから
先述の通り一般住宅区画では、目隠しある
いは領域界としての役割が強いと思われる。
調査地域内で発見された樹木類は 10m
程度、もしくはそれ以上の巨木が多くみら
図5
図1Loc.4 金蔵院門右側のスケッチ
れたが、住宅地域では、3~6m の庭木に類
する高さの樹木が確認された。木々の植え
られた方向・間隔には区画ごとに大きな差
Ⅲ.考察
今回の調査では、目的を別とした石垣、
異がみられ、同方向においても巨木の植え
られる例と樹木が全く見られない例があり、
区画の性格(住居・寺院)による差異を明らか
これらの木々は防風林として植えられたも
にしてきた。
のであるか否かについては一元的に判断を
もっとも平面規模の大きい比叡山高校付
下すことが難しく、
“目隠し”として植えら
近(Loc.1)では使用される石垣の体積は比較
れた樹木が成長し、巨木として今日まで至
的小さいが積高はもっとも高い。標高差か
った可能性もあることを明記する。
ら考えると、比叡山高校の地盤と一致する
4 班の調査地域内では、下部石垣を残し
ことから、土留めのために構築されたもの
て切り取り別の構造物(フェンス・木柵)とす
で、より土木工事としての性格がうかがえ
る例も発見されており、石垣が“景観イメ
る。Loc.1 及び Loc.2 の中間地点には上部樹
ージの要素”としてとらえられている可能
木(広葉樹)が原因と考えられる“はらみ”を
性も考えられるため、一般住宅に居住する
観察することができた。
住民の石垣に対する意識も重要なエレメン
また、勾配部の対策として階段状に石垣
を設置することで石垣の水平を維持してい
た。寺院は、住宅地の石垣と比べると大規
模で地平面や高低差・土地条件を考えると、
使用目的に土留めも含まれていると思われ
トとして取り入れる必要があり、景観維持
というコンテクストを課題とした。
滋賀現地研究レポート~穴太積について~
5 班 09B4005
成田 昂大
10B4232 諸原 慎之介
10B4111
Ⅰ.調査対象地域
私たちは、滋賀県大津市の比叡山の東麓、
坂本地区の中でも滋賀院門跡や比叡山高校
田村 奈菜
Ⅱ.調査結果
1.滋賀院門跡
石垣の長さは 37.2mで、最大の高さは
寮などのある、坂本四丁目地区を調査した。
2.95mだった。角は樵石が積まれており、
(図 1)
角以外は野石であった。石垣の上には白壁
石垣は寺や寺院、学校といった宗教施
と樹木があった。(写真 1)
設・公共施設だけではなく、一般住宅の塀
にも石垣が用いられていた。
対象とした地区内で見られた石垣の長さ、
2.天台宗務庁
石垣は 3 つあり、それぞれ長さは
高さと使用された石の種類(樵石、野石の
82.95m,37.65m,38.5m であった。最大の高
別)を主に調査した。
さは 4.1m で、途中で高さが変わっていた。
石垣の上には 2mほどの植木があった。(写
真 2)
3.比叡山高校山家寮
石垣は 2 つあり、それぞれの長さは 40.7
m、12mであった。最大の高さは 2.6mで
この箇所も途中で変わっていた。石垣の上
には木が鬱蒼としていた。
4.円頓坊
石垣は 3 つに分かれており、それぞれの
長さは 13.3m、15.8m、2.6mで、最大の高
さは 2.89mであった。
5.権現橋
石垣は 2 つあり、それぞれの長さは 4.9
m、2.7mであった。最大の高さは 1.5mで
あった。
写真 1. 滋賀院門跡の石垣
6.観樹院
周囲を囲むように、高さ 1.0m 前後の石
垣があり、長辺では 17m に及ぶ。また、植
木が全体にあった。
7.明徳院
この周囲は、この地域でもっとも高さの
ある石垣があった。道路が平坦な部分では、
高さ 1m~1.5m の石垣が続くが、坂が下る
地点では、石垣は坂とは無関係に同じ高さ
を維持しているため最高で 4m もの高さに
及んでいた(写真 3)。
道路が曲がっている部分では、ある程度
の地点で石垣が角度をつけて続いていた。
連続的にカーブすることはない。
写真 2. 天台宗務庁の石垣
8.千手院
明徳院の隣で、その石垣から連続するが、
高さは 2m を維持していた。直線の石垣が
16.3m に及んだ。
9.明徳院~叡山学院寮南側の住宅地
であると、容易に想像がつく。
千手院から続く住宅街は、野石の石垣が
連続した。それらは、0.7m~1m 程度の高
さの石垣であった。また、多くの場合生垣
があった。(写真 4)
10.叡山学院寮
東側の石垣は、
長さが 61.65m におよび、
今回の調査地域のうち最も長かった。また、
石垣の上に 2.1m の高さの生垣も連続して
いた。
11.園頓坊の向かいの住宅地
こり石による石垣で囲まれ、東側が 2.6m
の高い石垣があった。傾斜地のため、東側
の道路が低くなっているためである。他は
0.9~1.05m ほどの高さであった。生垣はな
写真 3. 明徳院横の高さ 4m に及ぶ石垣
かった。
Ⅲ.考察
石垣を築く理由は主に以下の2つが挙げ
られる。
① その地域の卓越風を防ぐ
② 斜面が崩れるのを防ぐ
5班が調査した地域では、そのほとんど
が②であった。
滋賀院門跡をはじめ、叡山学院寮や明徳
院といったところに築かれた石垣は、全て
斜面を押さえる形で石が積まれていた。そ
の石垣の道路側では高く積まれているが、
その向こう側は石垣のトップが地面の高さ
であり、縁にはモミジが植えてあったり、
生垣が植えてあったりした。これは坂本の、
西に行くほど斜面が急になる地形を、少し
でも有効に土地を利用するために、斜面に
建てることに対応するために築かれた石垣
写真 4. 明徳院付近の住宅の石垣
また、一般の家庭に築かれた石垣は、前
ない低いものであったこと、コンクリート
述の滋賀院門跡のものと同様な理由である
で隙間を固めたものが見られたこと、また
ものもある。しかし、一般家庭の石垣の大
地元の住民からそのような証言が得られた
半は家の入口のみに積まれたものである。
ことなどが挙げられる。
これは家の門が斜面の下向きであるからで
はない。
以上より、一般家庭の石垣は家のデザイ
ンの一端であるということができる。その
裏付けとして、そのほとんどが 1m に満た
5班の調査した地域では、寺院や学校と
斜面上の一般住宅に本来の石垣が見られ、
その他の住宅は見た目だけのものであると
結論付ける。
滋賀現地研究の事後レポート~坂本の石垣を中心に~
6 班 09B4229 田村 穂波
10B4114 西本 達也
10B4233 安森 直輝
Ⅰ.調査地の概要
私達が調査したところは、滋賀院門跡の
西側にのびる参道とその周辺の地域である。
下図に太線で示した地域である。ここでは、
西側から東側にかけて傾斜になっており、
この地域の石垣は家を水平に建てるための
土留めの意味もあったと考えられる。大き
な道には両サイドに石垣があった箇所があ
る。
1.
地形
坂本は滋賀県大津市北部の断層湖である
琵琶湖沿いにある。
比叡山から流下する足洗川や大宮川によ
る扇状地が発達している。
扇頂の標高は 200m 扇端は 100m ほどで
ある。
扇状地とは、河川によって形成され、谷
図 1 調査範囲
口を頂点として平地に向かって扇状に開く、
半円錐形の砂礫堆積地のことである。坂本
は、足洗川や大宮川などによる合流扇状地
ということができるだろう。
図 2 坂本周辺の合流扇状地の様子(国土地
理院ウォッちずより引用、加工)
2、風(局地風)
Ⅱ.調査結果・考察
調査地点が分かりやすいように、図を作成
し、石垣Ⅰ~Ⅵ、参道 A、B と表記した。
図 3 比叡颪が吹くルート(国土地理院ウォ
ッちずより引用、加工)
坂本周辺は、比叡颪(ひえいおろし)といわ
れる局地風が吹く。これは、西からの風、
北西からの風となる。これは、八王子山に
ぶつかった風が北西側と、西側にも分岐し
て坂本付近で合流して、風がまた強くなる。
坂本では、中央の通りを挟んで北側は北
西からの風が、南側は西からの風が強く吹
いている。これの影響を受けて、西側や北
側の石垣は高く、また、北西側が樹高が高
い植生分布がある。また、植物を植生させ、
日光を取り入れながら適度に風を弱める、
また、風を家の中に入れないようにしてい
ることが分かる。また、地形からしても、
扇状地形であることから、比叡颪の影響が、
標高が高いほうから低いほうに流れていく
図 4 調査地点
のが分かるであろう。下図は、風が流れる
方向を比叡颪の風が吹く方向を示した図で
石垣Ⅰでは、西側の植生のほうが北側の植
ある。これをみると、谷に沿って風が進ん
生よりも高いことが確認でき、この西側の
でいることから谷風であることが分かる。
植生は防風のためと考えられる。
また、この風は、八王子山の手前と坂本付
石垣Ⅱは、川沿いに石垣が組まれており、
近で合流していることから、この周辺では
石垣の上には竹で作られた格子状の垣根が
風速が強くなっていると考えられる。
見られた。図の凡例には載っていない区分
であるので、図では「竹」と表記すること
にした。また、図では目視確認できたとこ
役割も果たしているが、この石垣の上にあ
ろまで記入した。竹を使用したのは、景観
る植生は目隠しとして造られていると考え
を考えてのことだと考えられる。
られる。
石垣Ⅲでは、石垣Ⅱと同様に竹で作られ
調査地の石垣全体の特徴として、そりが
た垣根が見られた。この垣根は目隠しのた
ないことが挙げられる。このことから、侵
めと考えられる。
入者防止の目的ではないと考えられる。
石垣Ⅳでは、北から南に下る傾斜が見ら
れた。石垣上植生はほかのものより高いの
で防風のためであるとも考えられるのだが、
この石垣の反対側にある石垣が植生の高さ
よりも高いのでこの植生は目隠しのもので
あると考えられる。
石垣Ⅴでは、今回の調査の中で最も高い
石垣が見られた。その理由としては、石垣
上にある建造物の西の方向への奥行きが長
いことが考えられる。
石垣Ⅵは、石垣がそれほど高くない。そ
して、少々崩壊、崩落していた。これは人
の通りや車の通りが多くなっていったこと
による振動などによって崩落していったと
考えられる。
写真 1 そりの見られない石垣の例
参道 A では、石垣上部の高さが揃ってい
るところと斜めになっているところがあっ
た。ここでは、西から東に下る傾斜がある
ことによるが、西側に行くほど傾斜が強く
なり、上部が揃ってはいなかった。参道の
東寄りにコンクリートでできた石壁で作ら
れおり、これは参道での人通りによる目隠
しとして造られたものであると考えられる。
参道 B は、参道 A よりも道幅が広いこと
が特徴である。参道 B にも参道 A 同様、西
から東に下る傾斜があった。10.5 パーセン
トの勾配である。西側に行くほど傾斜は強
くなっており、ここではコンクリートでで
きた石壁は作られておらず、石垣の上に植
生が形成されている。この石垣は土止めの
写真 2 調査地点 石垣Ⅰ
Ⅲ.まとめ
この調査地点の石垣は、他の班の調査結
点の石垣は、風を防ぐ役割や、土留めの役
果と比べても、特別高さがあるわけではな
割もするが、それらの役割よりも、目隠し
く、また、植物もあまり植えられていない。
をすることに重点をおいていると考えられ
植物の高さもない。そのことから、この地
る。
石垣調査のまとめ
滋賀県大津市坂本の穴太積みの石垣の分布について、次のようにまとめた。
1班から6班に分かれて、坂本の石積みの主要な地区の調査を行った。主要な
石垣の分布とその高さを分布図にした。また石垣の内側に生垣をしつらえてい
る家や、寺院についてもその分布を図に表現した。
坂本の石垣に対する6班の共通した見解は、以下の通りである。
1)坂本の集落は扇状地性の傾斜地に位置している。住居や寺院のための用地の
確保には、土留めをして平坦地を得なければならない。従って調査した地域
のほとんどの石垣は土留めを目的としている。
2)石材は遠方から運んだものではない。手近な場所から得た自然石をかち割っ
てつくった野石か、又は沢から得た石を用いている。滋賀院門跡や、旧竹林
院の南側の門に面した石垣には「矢」のあとが残り、大きな石をかち割った
ものが用いられている。矢のあとは幅が 9~12 ㎝あり、江戸時代かそれ以前
に用いられていたものである(粟田純司氏談)。従って石垣の建設時代も、少
なくても江戸時代までさかのぼることがわかる。
3)石垣によって得た土留めの平坦面から、1~1.5m高さの石垣の立ち上がりが
ある場合がある。さらにその内側に生垣を入れている場合や、石垣の上に白
壁による垣根をのせている場合がある。しかし、これらの石垣の上に立ちあ
がる土壁や植生による垣根はほとんどの場合、目隠しのためと思われる。た
だし1班のみ石垣の植生が比叡颪を防ぐ方向に配置されている箇所があった。
この坂本は強い比叡颪が吹く時には風陰になり、むしろ弱い比叡颪の時に防
風をしなければならない場所があると思われる。基本的には比叡颪に対して
防風石垣が不要な場所である。
(漆原和子)
謝辞
草津市立水生植物園では館長さんを始め、職員の皆さんがハスやスイレン、
琵琶湖について説明して下さり、環境問題について考えるきっかけとなりまし
た。また、ボランティアの伊吹美賀子さん、中後佐知子さんには私達学生から
の多くの質問に答えていただきました。ハスやスイレンについて学ぶことがで
きました。14 代目石工の粟田純司さんからは、穴太積みの石垣について長時間
に渡り、講義をしていただきました。日本の伝統の良さを改めて感じることが
できました。坂本の町の人達には快く石垣を調査させていただきました。声を
かけて頂いたり、気にかけて頂いて、坂本の町の人達の温かさを感じました。
比叡山根本中堂では、丁寧な説法をして頂き、根本中堂の背後の石垣も見せて
頂きました。1200 年途絶えない不滅の法灯のお話や忘己利他という言葉など、
大変勉強になりました。また、調査中の 3 日間は舞子屋さんにお世話になりま
した。毎回おいしい食事を用意して頂き、力をつけて調査に出掛けることがで
きました。
この調査を行うにあたり、多くの方々にお世話になり、教室で学ぶ以上の多
くの知見を得ることができました。ここに御礼申し上げます。
現地研究参加者一同
参考文献
漆原和子 (2008):『石垣が語る風土と文化-屋敷囲いとしての石垣-』,古今書
院 , 257p.
太田陽子 他 (2004):
『日本の地形 6 近畿・中国・四国』, 東京大学出版会 , 383p.
滋賀教育委員会 (2009):
『発掘調査 20 年の記録安土信長の城下町』, 滋賀県教育
委員会 ,111p
宗宮功 (2000):『琵琶湖その環境と水質形成』, 技報堂出版 , 258p.
西川幸治 , 原田伴彦 (1972):
『日本の市街古図 (西日本編)』, 鹿島研究所出
版会
書名
滋賀県 琵琶湖周辺の石垣の文化と断層
現地研究 報告書
発行年
2011(平成 23)年 6 月 30 日
編者
法政大学地理学教室
連絡先
03-3264-9457
漆原和子
[email protected]
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