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GKH020806

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GKH020806
8
3
八旗制度再考 (
-)
一 連旗制論批判一
谷
井
陽
子
〔
要 旨〕 孟森は1
9
3
6
年刊行の論文で,八旗制度に基づ く満洲の国家体制を 「
連旗制」
と表現 した。八旗は諸王に分封 されたものであ り,旗を領有する王 らはその属人と主従
関係を結んで,相対的に独立 した組織を形成 し,分権的な連合政権をなしていたという
のである。八旗制度に対するこうした理解は.その後の主要な研究に受け継がれ,今 日
では定説となっている。だが,その実証的根拠は薄弱であ り,矛盾する事実の指摘 さえ
すでになされている。本稿は,この 「
連旗制」論的理解を批判的に再検討 し,従来根拠
とされてきた論点が成 り立たないことを論証 して,八旗はむしろ中央集権的体制の下に
集中管理される性格のものであったと理解すべ きことを示す。
〔
キーワード〕 八旗 満洲 晴 連旗制 主従関係
序
満洲族 による国家建設の中核 となった八旗制度 については,清朝史が歴史研究の対象 となっ
r
uか ら旗 (グ
て以来,研 究が積 み重 ね られてい る。八旗制度 の最 も基本 的 な性格 は,ニル ni
サg
t
i
s
a) に至 る組織編成であるが, これは満洲族 自身による史料 に も明記 されてお り,異 と
0
世紀
に入 って,八旗制 は制度史研究の対象 となったが,た とえば 『
清国行
すべ き点 はない。2
(
1
)
政法』 に見 られる ように,当初 は専 ら軍制 として捉 え られていた。八旗の政治的 ・社会的制度
としての性格 を,早 い時点で明確 に指摘 したのが,孟森である。孟森 は,八旗制 とは旗が宗室
の諸王 に分封 された ものであ り,各旗が独立性 の高 い組織 をな して,ハ ンの下 に競合 される と
した。旗 を領す る旗王 は各 々旗 を背景 とした相括抗 する実力 をもち,ハ ンといえ ども旗王の一
人 に過 ぎなか ったため,ハ ンの権力 は超越的 な もので はなか った とい うのであ る。孟森 は,
「
八旗制度考実」 においてこの体制 を 「
連旗制」 と呼 び,ヌルハチか らホ ンタイジを経 てハ ン
、
2
1
権力が強化 され,最終的 に薙正帝 によって中央集権体制が完成す るとの流 れ を示 した。
清朝史研究 を全体 的に見れば,八旗制度研究 は,八旗制度成立 に至 る過程 を明 らかに しよう
とした ものや,八旗 に編成 された人々の社会階層 を解明 しようとした ものが多 く,八旗制度 そ
9
3
6年 とい う
の ものの性格付 けは必ず しも中心的な課題ではなかった。それ に対 して孟森 は,1
早い段 階で八旗制度全体 の性格づ け を試みたのであって, この ことは高 く評価 されねばな らな
い。
八旗が政治的 ・経済的 ・軍事 的 に自立性 の高い組織であって,旗王がその旗の属 人たちを支
配 し,旗 を勢力基盤 として連合体 的な政権 を形成する とい う 「
連旗制」論 的な理解 は, この後
の主要な研究 に受 け継がれている。た とえば細谷 良夫 は,孟森説 に修正 を加 えなが ら,後金国
時代 の八旗制度 を 「
謂わば族制的性格 を付 有す る封建的支配機構」 と位置づけ, これが世祖朝
(
3
)
よ り推移 して 「
官僚 的支配機構」 に転換す る過程 を提示 した。周遠廉 も孟森 の議論 を補足 しつ
8
4
天 理 大 学 学 報
つ
,旗 王 に よる 「
共治 国政」の出現 を生産 関係 の発展 か ら論 じる とい う形 で展 開 させ てい
(
4
)
(
5
)
る
。
る。近年の杜家族の研究 も,旗 ごとに 「
主属君臣の分」があ り,各旗が相対的に独立 した政治
的 ・経済的権力 を もつ とする 「
八分」体制 を論 じてい
この ような理解は,現在では通説化 してお り,八旗制度 を, ひいては清朝初期史 を研究する
0
01
年の段階で,孟森のい う連旗削
上で基本的な枠組みをな している。た とえば,杉 山清彦 は2
(
6
)
る
。
・杜家族のい う八分体制 を 「い まも揺 らぐことな き」枠組み と確認 した上 で,ハ ンや旗王 の
「
領旗支配の解明」 を課題 として掲げてい
(
7
)
これに対 して,全 く別の理解 を示 しているのが,安部優美 「
八旗満洲ニルの研究」である。
安部は 「
八旗生計の経済的基礎の変遷 に対する精神史的な考察」 をテーマ として掲げ,基本単
位 となるニルの経済が,
或 は旗 ごと或 はニル毎 に各 自私的な原理 と権利 との介入 を謂わば当然のこととして許容す
る,封建国家的な個別経済の集合 としてあったのではな く,却 って原理的 ・権利的には公
的な ものを以て一つに貫かるべ き官僚国家的な一個の綜合経済 としてあった。
(
8
)
とす る。 さらにこの一文 に注記 して,「
国家経済即 ち財政の部門」だけでな く,「
行政部門をも
司法部門をも含めた総 じて謂わゆる秩序 なる もの」が同 じく公的な ものによって貫かれている
とし,満洲国家の 「
官僚 国家」 としての性格 を根拠づけていることか ら,八旗制 に基づ く国家
体削 を,封建的 ・分権的体制 としてではな く,官僚制的 ・一元的支配体制 と捉 えていたことが
わかる。
安部論文は未完であって,重要な意義 をもつはずであった数章 と最終的な結論 を欠いている
が,発表 された部分だけで も非常 に大部であ り,少な くともヌルハチ時代 のニル制 については
論 じ尽 くされた もの と見 られる。 しか し,いずれにせ よこの論文に対する評価 は,一般 に否定
的である。実際の ところ,主要な論点の実証的根拠が,阿南惟敬 ・石橋秀雄 ・三田村泰助 らに
(
9
)
よって完膚 なきまでに論破 されてお り,行論全体が支えを失 っている。文章 ・構成 ともに極端
として名ばか り引用 されることはあって も,議論の内容 は黙殺 されているとい うのが現状であ
る。
歴史学の論文 として,実証的根拠が成 り立 っていないのは致命的であ り,安部論文 に対する
現在の評価 はやむを得 ない。筆者 も,これ までに指摘 された安部説の実証上の誤 りは,異論の
余地がない と考 える。それにもかかわ らず,通説の対案 たる安部論文の枠組み を,筆者 は大筋
で正 しい とみな し,それ を立証するために経済的基盤の分析 を糸口に して,制度全体の構造 を
明 らかにするとい う方法 は有効であると考 える。
安部 は自説 を述べ るに急であ り,八旗制 を封建的体制 と見る通説的理解 に対 して,実証的な
批判 をほとんど行 っていない。安部以外の批判的論者は皆無 に近いのであるか ら,連旗制論的
理解 は批判的検証 にさらされて きたわけではないのである。筆者の見るところ,その論拠 は説
得力 を欠いているか,少な くとも他の解釈 を許す ものばか りである。 さらに,連旗制論的理解
によっては説明 し難い事象 も指摘 で きる。杜家族 は, 自身の説 く 「
八分体制」の封建的 ・分権
宗室分
的性格 と矛盾する諸事実が存在することを,すでに端的に認めている。結論
として,「
(
1
0
)
封制下の金 (
宿)政権 は,一つの矛盾 した統一体であった」 とするのであるが,筆者はこれ ら
の諸事実 を 「
分封制」 とい う枠組みの中で処理す ることはで きない と考 える。要するに,連旗
削論 は批判的見地か ら再検討する必要があると思 うのである。
批判する以上は当然の ことであるが,それに替わる別の見方 を提示するのが,本論考の最終
八旗制度再考 (
-)
85
的な目的である。筆者 は安部論文の枠組み と方法 を評価するが,その行論 は根本的な見込み違
いを含んでいるので追跡するのは無意味であると考 える。そこで,安部論文の最初の立脚点 に
立 ち戻 って,八旗制度の性格 に対する理解 を再構築 してい くことを企図 した。
筆者の構想は,経済的基盤 を始め とする諸基盤 を検討することによって,八旗制度の基本的
性格 を再考する とい うものである。最終的には,八旗制度が分封制的性格 をもつ ものでな く,
一貫 して集権的体制 をなす ものであったことを述べ るつ もりであるが,紙幅の都合上,連載の
形式 によって検討課題 を分 けて論 じてい く。
本稿 はその中で,従来の通説であった達旗制論的理解 に対す る批判的検討 を課題 とする。以
下,第一節では,連旗制論的理解 の論拠 を検証 し, これ らが当該議論 を証明するに至 っていな
いことを明 らかにする。第二節では,連旗制論的理解 と矛盾する諸事象 を取 り上げ, これ らを
連旗制論的な枠組みの中で理解するのは難 しいことを述べ る。第三節では,そ うした難点 をも
つ連旗制論 的理解が,これまで通説 として受 け容れ られて きた理 由について考察す る。本稿 の
結論 としては,連旗制論的理解 は成 り立たず,八旗制度は別の形で理解すべ きであることを述
べ る。
一
連旗 制論 的理解 の論拠 の検 証
り
1
)
孟森が 「
連旗制」 を提示 した一節 は,次の ような ものである。
八旗 とは,太祖が定めた国体である。一国が尽 く八旗 に所属 し,八和碩月勤 を旗主 として,
旗下の人はこれを属人 と言い,旗主 に対 して君臣の分があった。八貝勤 は国を分治 して,
定 まった君主はな く,八家か ら一人 を推挙 して首長 とな し, もし八家の意思 に合わない と
ころがあれば,ただちに取 り替 えることがで きた。これは太祖が 口ずか ら定 めた根本法
(
太祖之口走憲法)である。その国体 は言葉 を借 りて名づければ 「
連邦制」 と言 えようが,
実は 「
連旋削」 なのである。
こ こで は二 つ の重 要 な論 点 が 示 され て い る.す な わ ち, (1)八 旗 は和 碩 貝 勘 (
ho
岳o
i
be
i
l
e) を長 とし,彼 らとその属人の間には君 臣関係が結 ばれていて,各旗 は彼 らがそれぞれ
治めている。 (2)国全体の首長は彼 らの推挙 によって選 ばれ,彼 らの意向 に反 した場合 は退
位 を余儀な くされる。 (2)は旗王の連合政権 としての政権の性格,(1)は旗王の権力基盤 と
なる八旗の独立性 の問題 として,後続研究で敷術 されて きた。論証 の都合上, まず (2)か ら
検討 したい。
1
6
2
2)≡
孟森が (2) について論述 している部分 を見 る と,その史料的根拠 は,天命七年 (
月初三 日にヌルハチが諸子 に述べ た とい う言葉であることがわかる。当時の史料状況か ら,孟
森は 『
武皇帝実録』 を引用 しているが, よ り原 史料 に近 い 『
満文老楢』 (
及 びその原本 た る
『
旧満洲楢』
) も基本的に同 じ内容 を記載 してお り,その後 の連旗制論 的理解 においては, こ
の史料が必ず と言 って よいほ ど根拠 として取 り上 げ られる。『
満文老楢』の該当部分 は,次の
(
1
2
)
ように始 まる。
うに定めるか, どの ようにすれば天の福が とこしえになるか」 と尋ねたので,ハ ンが言 う
父 を継いで国人の主 とするには,有力で強壮 な人 を主 とす るな。有力で強壮 な人
には,「
が国人の主 となれば,その力 を尊んで暮 らし,天 に非 とされるのではなかろ うか。一人が
い くら聡明で も,衆人の議 に及ぼ うか。汝 ら八人の子 らは八王 となれ。八王が議 を一に し
て暮せ ば,失敗せず にい られ よう。汝 ら八王の言葉 を拒 まない人を見て,汝 らは父を継い
86
天 理 大 学 学 報
で国人の主 とならせ よ。汝 らの言葉 を取 らず, よい道 を行 わなければ,汝 ら八王の立てた
・
」
ハ ンを汝 らが替 え,汝 らの言葉 を拒 まない よい人 を選んで立てよ。・
-・
この史料 は,当時の政治体制 を示す決定的な根拠 とみなされて きた形跡がある。細谷 良夫は,
ヌルハチ と八旗制度 に関する安部優美 の説 に対 して,直接 には反論 しえない としつつ ,「ここ
では氏の結論 と全 く対立す る資料 を提 出 しよう」 として,前掲 史料 を引用 し,「ここに云 う王
権 は独裁君主権ではな く,かえって推戴王権であ り,官僚機構は独裁君主権の下に修束す るも
(
L
3
)
の とは認め難い」 と結論付 けている。
ここで まず確認 してお く必要があるのは,前掲史料はヌルハチが 自分の死後の体制 について
指示 した言葉だ とい うことである。既存の体制 について述べ た ものではな く, 自分の存命中に
実践 させ るつ もりの発言で もない。 さらに, この史料だけではヌルハチの死後 にこの体制が実
現 した とい う証拠 にもならない。
マ ンジュ国-清初の旗王共治体制 を主張する論者で も, ヌルハチ時代 は除外 して述べ ること
が多い。周遠廉 は 「
共治国政」体制 をヌルハチ死後 に限って論 じ,新ハ ンもそれな りに大 きな
権力 をもってはいたが 「
"
汗父" ヌルハチの ように八和碩貝勤の上 に高 く居 て,後金国の軍政
(
]
l
)
の大権 を独 占することはで きなかった とい うだけのことだ」 としている。つ ま り,ヌルハチ 自
身は独裁権力 を握 っていた とい うことである。杜家僕 も,ヌルハチは 「
大家長の身分 と至尊の
(
L
5
)
権威」 によって 「中央お よびハ ンの八旗 に対す る集権 を体現 した」 とする。実際, ヌルハチ即
位時 には,政権内には明 らかな目下である子姪以上の有力者が存在 しなかったので,同等の資
格のある者か ら推戴 されて即位 した とは到底言えない。 ヌルハチが衆人の意見 に抗 して断行 し
た事柄 は少なか らず記録 されているが,退位はおろか抗議や不服従 さえ伝 えられていない。 ヌ
ルハチ時代 に旗王共治の体制が事実 として成 り立っていた と主張するのは無理がある し, また
その点を積極的に主張する論者 はほ とんどいない。
ヌルハチがハ ンとして即位する以前,女真族の政治的統一は金朝 まで遡 ることになる。ヌル
ハチの時代 には,金朝 との政治的連続性 は断絶 しているので,女真社会の中に統一政権運営上
(
J
6
)
の何 らかの政治的伝統が存在 した と見 るのは無理がある。ヌルハチ政権は,新 たに統一国家の
体制 を創始する立場 にあった。そのヌルハチ政権の初期の段 階で,弟 シュルガチ (
お よび長子
チュエ ン) との相対的に括抗する力関係の下での連立体制が,後の体制のプロ トタイプとして
(
)
7
)
示 されることがあるが,現 にシュルガチは (
チュエ ンも)粛清 され,ヌルハチ を一員 とする連
立体制 は確立に至 っていない。ハ ンとして即位する以前のヌルハチ政権の形態 は,政権確立 に
至 るまでの過渡的状態 と見 るべ きであろう。いずれにせ よ,ヌルハチの即位か ら在位期 間中に
関 しては,彼の個人的威信 または家長的権威 に基づ く独裁体制であった とい うのが,史料的に
も従来の研究の大勢か らも妥当であると考 えられる。
従 って,旗王共治体制の存在が問題 になるのは,ヌルハチの死後 について とい うことになる。
まず,ホンタイジの即位 に関 しては, ヌルハチの指名がなかった以上,一応旗王の合議 による
推戴 と認めることがで きる。ヌルハチの長い遺訓が政府の記録 に留め られているのは,それが
とりあえず重視 されていたことを示 してい よう。即位当初のホ ンタイジが,兄であるダイシャ
ンらに対 して,儀礼の場 で横並 びに坐すなど甚だ低姿勢であったことも事実である。少な くと
も即位後 しば らくは,ヌルハチの遺訓 に従 って,ハ ンと旗王 らが比較的対等 な立場で政権 を担
1
6
35) 頃には
お うとしていたことは間違いあるまい。 しか し,多 くの先行研究 は,天聴九年 (
(
1
8
)
る
。 これに従 えば,ハ ンと旗王の共治体制 なるものは,長 く見積 もって も十年 も続かなかっ
ホ ンタイジの旗王 らに対する絶対的優位が確定 し,崇徳期 に入る と明確 な君臣関係が生 じると
す
87
八旗制度再考 仁一
)
たことになる。筆者 は,ホ ンタイジ即位後のせいぜ い数年間 しか存在 しえなかった体制 を,八
旗制 に基づ く政治体制の一般的な姿 とみなす ことにそ もそ も無理 を感 じる。
しか も,この十年以内で さえ,旗王に対するハ ンの権力がそれほど弱体であったか どうかは
検討 を要す る。 この時期 のハ ン権力 については,「
ハ ンといえ ども旗王の一人 に過 ぎなか っ
た」 とい う低 い位置づけか ら,ヌルハチほどの超越的権威 と独裁権力 をもっていなかっただけ
とする相対的に高い位置づけまで,達旗制論的理解 を支持す る論者の中で も評価 に幅がある。
実際の ところ,重要な意思決定 において,旗王の意見がハ ンの意向を抑 えた実例 を示す史料 は
皆無 に近い し,ア ミン ・マ ングル タイ ・ダイシャンと有力旗王が失脚 または権威失墜 を被 る過
程で も, 目立った抵抗 は生 じていないO現実 に旗王 らによってハ ンの決定権が脅か された場面
はほ とん ど見 られない。
唯一それに近い場面 として指摘で きるのが,天聴三年後半 に大挙 して内モ ンゴルに入 り込み,
そこか ら長城 を越 えて明の領内に侵入すべ きか,それ とも引 き返すべ きかが問題 になった時で
あろう。 この時 には,退却 を勧めるダイシャンとマ ングルタイの意見 に,ホ ンタイジも一旦折
れ ようとした という。結局,ホ ンタイジはヨ トらの支援 によって思いなお し,進軍の決断 を下
(
1
9
)
。筆者の見るところ, この決断が結果的に遠征 を成功 に導いたことで,ホ ンタイジの政治的
す
権威が確立 したのであるが, ここで注 目すべ きは,この ような重大な局面で意見が分かれた時
で さえ,ホンタイジの決定に全員が従 っていることであるO全員が従 った,あるいは従わざる
を得 なかった具体的事情 については,今は問題 に しない。筆者が指摘 したいのは,事実 として
旗王 らがハ ンの権力 に撃肘 を加 えた例が認め られないとい うことである。
事実 としての政治的経過は重要でな く,何が保証 されていたか とい う制度的基盤が問題であ
るとい う考 え方 もあ り得 る。ハ ンと旗王 らの間に深刻 な対立が生 じなかった理由を,外的状況
や,ホンタイジの政治的手腕や,旗王 らの協力的態度 といった幸運 な政治的要因に帰 し,潜在
的には旗王 らがハ ン権力を抑制で きるだけの制度的裏付 けがあったとする見方 も可能であろう。
む しろ,連旗制論的理解 は,そうした見方 に基づいている と思われる。 しか し,そうした見方
が成 り立つか否かは,ひとえにその ような制度的裏付 けが存 したか どうかに懸かってい よう0
ハ ンと旗王の連立体制 を裏づける基盤 とされて きたのは,八旗の独立性 と旗王 による各旗領
有である。すなわち,先 に挙げた (1)の論点の当否が (2)の論点の妥当性 を定めることに
なろう。 もしも (1)が成 り立 っていないならば, (2) は天聴期 の数年間だけ,ヌルハチの
遺訓 とホ ンタイジの政治的権威の末確立 とい うご く政治的な理由によって一時的に生 じた体制,
とい う以上の評価 を行 うことは困難であろう。
(1)の論点,すなわち旗王が各旗 を領有 し,その権力基盤 としている ということについて,
最 も基本的な根拠 とされて きたのは,ヌルハチが自ら両黄旗 を領有する とともに,子蛭 らに他
の旗 を領有 させた とい う点である。 これは各旗 を分封 したことに他 ならない とい うのが,従来
広 く受 け入れ られて きた認識であ り,それ以上の説明を要 しない と見 る向 きさえ感 じられる。
まず, この点 を検討 してみたい。
(
2
0)
ヌルハチ期の記録 には,彼が八旗 を分封 した とは記 されていないが,天聴初 に 「アジゲ-ア
ゲ ・ドルゴン-アゲ ・ドド
g
ul
hun g
i
i
s
ab
e
(
2
1
) ニアゲは,みな父ハ ンが全旗 を専 らに させ た (
s
a
l
i
buha)子 らであるぞ」 といった言葉が見 られることか ら, ともか くヌルハチの意向によっ
て,特定の王 に特定の旗 を 「
専 らに させ る」 ことが始 まったのは事実であろ う。何 を もって
「
分封」 とみなすかは定義次第であるか ら,それ らしい表現だけを取って 「
分封が行われた」
と称することも不可能ではなかろう。 しか し,この際重要なのは,旗 を 「
専 らに した」王 らが
8
8
天 理 大 学 学 報
その旗 を自らの勢力基盤 とすることがで きたか どうかであって,「
旗 を専 らにす る」 ことの具
(
2
2
)
体的な意味が明 らかにならなければ,その点 を論 じることはで きない。
しか し,そうした 「
領旗」の具体的な意味 を論 じた研究 は意外 に少 ない。社家膜の研究 はこ
の点 を最 も明確 に説明 しているので,その行論 に従いつつ,他の論者の指摘 も合わせて検討 し
てい きたい。筆者の見るところ,旗王が各旗 を権力基盤 としたことに関す る論拠 は,大 きく二
属
つ に分 け られる。一つ は,旗王やニルの領 有 を認 め られ
た王 (
杜家僕 は彼 らを 「
管主」「
(
23)
主」 と呼び,その うち仝旗 を領する者 を 「
旗主」 と呼ぶ。以下,杜家僕の論著 を紹介す る際 に
は 「
管主」 に統一 して引用する) とその属人の間には,主従関係 ない し私的隷属 (
私属)関係
が成 り立 っていたとい うこと, もう一つは,旗王が各旗 を独立 した組織 として運営 していた と
い うことである。 まず,前者の方か ら,論点 を列挙 して検討する。
①旗人の娘は管主が取
って侍女や妾 にすることがあ り,家長がそれに逆 らうのは重罪 となっ
(
21
)
た とい うこと。管主が属人の娘 を侍女や妾 にす ることはあったろうし,家長が立場上拒否 しに
くかったことも想像で きるが,家長が逆 らうのが罪 になった とするのは,実証上問題がある。
杜家僕が実例 として挙 げる二つの事件の うち,石廷柱 の件は,妻の前夫の子で祖母に育て られ
(
2
5)
た娘 を 「自分 の子 として訴 えた」 ことが指弾 されているのである し ,寒木 喰 s
ai
muhaの件 で
は,孫女 を旗王の家 に取 られたのは,彼がその孫女 を戸部 に対 して隠匿 していたことに対する
も彼がそのことを恨 んだ とい うのは,彼が犯 した数々の罪の最後
処分 と見るべ きであ り, しか
(
2
6)
に附 されているに過 ぎない。 この二件 をもって,管主が属人の娘 を随意 に取 り上げることがで
き,拒否 した り不満 を表明 した りするのが厳罰の対象 となった証拠 とするのは無理がある。む
しろ石廷柱 の 「
私 の等級の官人 らの子 らを,諸王の家に連れて行 ったこともない」 とい う言葉
によれば,高位の官人の娘 については,王 といえども軽々 しく取 り上げることがで きなかった
ことを示唆 していよう。
なお,旗人の娘や寡婦 を嫁がせ る時には, まず戸部 に告げ,戸部か ら各王に問 うて許可 を得
る必要があったことも,併せて指摘 されている。 このことは確かに規則 として公布 されている
が, これがそのまま属人の管主 に対する隷属関係 の証 とされるのは納得で きない。 この規則で
(
27)
は,旗人の婚姻 は戸部が管理主体 となっているので,全体 としては中央が統制 していると見る
べ きであろう。そ もそ も旗王の婚嬰で さえ諸王の同意,最終的にはハ ンの許可が必要であった
(
ヱ8)
ように,婚姻 は政治的行為であって,家長の一存で行 える類の ものではない。管主はむ しろ中
央の方針 に沿って, 自らの属下 に対す る監督責任 を負わ された と見るべ きではないか。少 な く
とも,その ような解釈 は成 り立つはずである。
②旗人が罪 を犯 して籍没 ・為奴の処分 を受けた場合,原管主の家に与 えられるとい うこ
(
2
9
)
と
。
杜家膜 は 「これ も人身隷属関係の一種の表われである」 とす るが,その ように解するべ き理由
はない と思われる。そ うした処分は,すべ て中央で審議 された上,最終的にハ ンの判断により
決定 ・命令 された ものであ り,やは り中央の方針 による ものである。杜家族 はおそ らく中央が
旗の 「
人身隷属関係」 を尊重 して同旗内部で接収 されるよう図った もの と解するのであろうが,
その ように解するべ き根拠 はない。旗人の管主個人に対する人身隷属関係 を設定 しな くて も,
旗人は基本的にその旗,あるいはニルに属するもの と認識 されていた とい うだけで,十分 に説
明可能であろう。議論 は先走 るが,筆者は,ハ ン自身の旗 も含めて八旗の人的 ・物的資源 を均
等 に保つ ということが,中央 レベルでの八旗制運営の基本構想であった と考 えている。 この構
想 自体 は本稿では論 じないが,新たに得た人員 を八旗
に配分す る際,均分の原則 に従わず,数
(
3
0)
の足 りない所 に補充することがあったのは事実である。処罰に伴 う人や物の帰属の移動 をなる
8
9
八旗制度再考 (
-)
(
3
1
)
ベ く同 じ旗の内部で処理 しようとするのは, ごく自然 な発想であろう。
③旗人が管主 を誘った場合,謀殺 を含 む厳罰の対象 となったこと。実例 として挙げ られるの
は,旗王の非 をハ ンの御前 で訴 えた件 と,同 じく旗王を 「
妄苦」 した件であるが,いずれ も例
証 として不適当である。公然 と不当な訴えを行 った場合は,相手が誰であろうが罰せ られる。
(
3
2
)
る
逆に,本主の罪 を訴 えて も,その訴 えが正当であれば,本主の方が罪せ られ,訴 えた方は保護
され 。杜家僕が例示 した二つの事件 も,ハ ンによって訴 えの当否が判定 されてお り,決 して
管主を譲 ったこと自体が罪せ られているわけではない。従 って,この点 をもって隷属関係の証
左 とするのは不当である。
(
氾)
④旗人が管主個人やその家のために強制的に役任 されたこと。杜家皆が例示する宴会 に侍 る
とい うことは,現代人の 目か ら見れば私的なことか もしれないが,当時の満洲人 にとってそう
つ ものであ り,管主 に命 じられなが ら出て来 なかったのは,公務 における不服従 とみなされた
可能性が十分 にある。「
狩猟 ・採集 ・畜養家畜 ・経商」 な どは管主の 「
家務」か もしれないが,
杜家族 自身 も指摘す るように,国家が額 を定めて,国家の篠役 を免除する代 わ りに管主の家の
役使 に供 した ものである。国家の財政政策の一端であって,私的な隷属関係の表われ とは解 し
難い。護衛 について も同様で,定額 を越 えて採用す ることは禁止 され,違反は謎貢の対象 とな
(
31)
っている。 また時代 を下 って薙正期 に,弓匠が旗王の 「
私的な使役(に追われて」いた
として,
35)
下五旗が 「
実質的には旗王の耗属下 に」あった とす る指摘 もあるが,根拠 とされる史料 には
「
在該王公門下,当差行走」 とあるだけで, これをもって 「
私的な使役」 と解するのは無理が
(
36)
ある。
(
3
7)
⑤旗人が管主 に経済的 に依存 していたこと。杜家僕は,戦利品が 「
人家 に分給 され」,貧 し
い旗人に分与す るよう命 じられた とい う史料 を引いて,旗王に代表 される八旗 を 「
家」の語 を
用いて表現 していることが 「その旗の財物 ・人口に対す るある種の私有性」の表 われであると
するが,強引な議論 と言 うべ きである。「
家」 とい う語 に私 的性格 を感 じる現代人の感覚のみ
に依拠 して,実態 を問題 に していないか らである。 より重要な指摘は,そ うした分配 も含めて,
旗人が管主の 「
恩養」 を受ける対象であった とい うことである。養い養われるとい う関係が清
初の社会 ・経済 において重要な意味 をもった ということは,筆者 も同意する。 しか し,それが
旗人全般の管主 に対する隷属性 を認める根拠 になるか どうかは別問題である。多 くの旗人は自
ら耕作 し,それで生計 を立てていた。宮人の場合は, さらに中央か ら報酬 を与えられる。杜家
(
3
8)
族が引用する胡貢明の奏疏に記 されているのは,満洲の大臣に配分 された投降漢人の状況であ
(
3
9
)
ある
。いわば旗人 として特殊 な人々の一時的な状況であって,一般 に敷桁するのは
り,あま りの劣悪 さに弊害が出たため,その後別の旗を編成する とい う形で改善が図 られた と
い うもので
問題がある。「
養 う」主体 は最終 的にはハ ンであ り,管主が養 うべ き属下の衣食に不足 を生 じ
(
4
0)
させ ることは罪 となる。旗人が管主 に経済的に依存するとい う事態はあ り得 たろうが,あ くま
で も限定的なものであったと見 るべ きである。
L
l
[
)
⑥八旗の官には必ずその旗の人月が充当 されていること。 この点 も,別 に旗王 との 「
私隷関
係」 など想定 しな くて も,旗が旗人の生活 に結びついた行政単位 である とい うことだけで,演
分 を越 えた人事 を行 う不都合は説明で きよう。 まして,八旗官の人事は旗王が行 うのでな く,
中央で行 われるのである。八旗官に同 じ旗の人が充当 されることは,旗人 とその旗の結 びつ き
を示す とは言えて も,旗人 と旗王の私的関係 を示す とは言い難い。
杜家僕の言 う 「
主属私隷関係」あるいは 「
人身隷属関係」 とは,旗王 ら管主が旗人に対 して,
9
0
天 理 大 学 学 報
より高次の権力 を介在 させることな しに,支配-従属関係 を成 り立たせていることを指す と思
I
t
2
l
われる。 しか し,他の論者の指摘 を合わせて も,その ように考 えるべ き根拠 はない。む しろ,
旗王 と属人の間の重要 な関係 は,すべて中央で規定 ・管理 されてお り,旗王 といえども属下 に
対 して行使で きる権力は限 られていた と見 るべ きである。
次 に,旗が独立 した組織 として運営 されていたということに関 しては,以下の ような点が根
拠 として指摘 されている。
(
4
3
)
と
①旗王がその旗 に対 して,行政上の管理権 ・軍事的統率権 を有 していたこ 。行政上の業務,
(
1
4
る
。
すなわち属下の経済活動や婚姻 ・分居の管理,旗の財務 な どについては,杜家族 も 「
旗主の権
)
力であ り, また管理旗務の職責で もある」 とするように,む しろ職責 とみなす ことがで き
属下の不法行為 を監督 .検挙することも同 じであるが, こちらは職責 としての性格が一層顕著
であ り,怠 った場合 は罪 となる。軍事行動の際,旗王が各 自の旗 を率いるということは,分封
制の表われ として最 も容易 に予測 されるが,これ も実は限 られた形で しか行われない。阿南惟
敬が明 らかにしているように,少 な くとも中小規模の遠征や作戦では,部将たちは自分の旗の
兵 を率いて行
くのではな く,各旗各ニルか ら何人 という形で選び出 した兵の混成軍を率いるの
(
4
5)
が普通である。大規模 な戦いの場合は,確かに旗 を単位 として動いているが , それは臨時の措
(
46)
置であ り, しか も自らの旗 に対する取 り締 ま りには厳 しい責務が課せ られていた。 この点 も,
管主の権力の行使 とい うよりは,職責 とみなすべ き側面が強いO また,命 じられた軍事行動以
外で 自らの旗 を動 かす ことは厳禁 されていた と考えられる。天聴九年 には,ダイシャンが勝手
に本旗の人 を率いて狩猟
に出たことで,「
汝 らは旗 を率いて勝手 に (
e
nc
u)行 き勝手 に止 ま」
(
4
7
)
った と詰責 を受けている。 これはダイシャンを抑圧 しようとす る政治的動 きの一環 には違いな
かろうが,旗王が 自分の旗 を動かすのが当然であれば,責める理由にすることもで きないはず
皇帝 にとって
である。なお細谷良夫は,薙正期 に も旗王が多 くの兵丁 を掌握 していた とし,「
(
4
A)
は少 なか らぬ脅威」であったろうとするが,引用史料の全体 を読む限 り,その ようには解せな
い。それ らの兵丁は康興朝 に便宜上親王 らの 「
看守の役 に供」 されたのが,低位の宗室 にまで
先例 として援用 されるようになったことが問題 とされてお り,その ようなことでは 「
単 に銭糧
(
4
9
)
が足 りないだけでな く,米石 もまた不足する」 とい う財政的観点か ら専 ら論 じられているので,
軍事的脅威 を読み取 るのは無理がある。
(
5
0)
②管主が 自らの領するニルを子孫 に分与することがで きたこと。 この点は,杜家僕が一つだ
け史料的根拠 を挙げて主張 している。天聴六年 にマ ングルタイが 自分 と弟デゲ レイの領する十
二ルを息子 と甥 に分与 した というのであるが,この時マ ングルタイは然 るべ き理由があってハ
(
5
L
)
ンに提案 したのであ り,決定 したのはハ ンである。管主のみの判断で分与で きたとい う証拠 は
(
5
2
)
と
な く, この主張は事実誤認 に基づ くもの と思われる。
③各旗が旗 を単位 とした対外活動 を行 っているこ 。杜家貨が この点 について例示するのは,
宴会 ・貿易 ・盟誓であるが,いずれ も旗の独立性 を示す もの とはみな し難い。そこで引用 され
ている史料か らすでに明 らかなように,宴会は各旗が独 自の判断で適宜行 うのではな く,ハ ン
の命令 によって,同 じ機会 に順次行なっている。貿易 について も同 じであって,む しろ負担や
機会の平等 を保障する措置 と見 るべ きであろう。盟誓について言 えば,確かに旗王 らが名前 を
出 しているが,八旗の長 としてではな く 「
執政の王 ら d
o
r
oj
a
f
a
ha b
e
i
s
e
」 として,つ まり政
府首脳の一員 と して名 を連ねているのだか ら,「
本旗 を単位
として対外活動 に参与 している」
(
53)
とは言えない。朝鮮世子の随行者の記録 に見 えるように,諸王が外国の要人 と個別 に接触する
ことは,逆に厳 しく戒め られていたと言 うべ きである。
八旗制度再考 (
-)
91
④八旗が経済的な分配の単位 となっていること。 この点 については孟森が,財物の八家均分
(
を命 じたヌルハチの訓言 を取 り上 げて,「
人家分権」 を命 じ 「
一家集権」 を深 く戒めた ものだ
5
4
)
と評 している。だが,その根拠 となる史料 は,かつて祖先や隣国が財貨 を争 って自らの首 を絞
める羽 目に陥ったことに鑑みて,あ らゆる財物 を八家で均分 し,均分 した財物以外 は勝手 に取
ってはならない と定めたものである。つ ま り,公正な分配 を保証する代わ りに,一切の財物取
得はその分配に従 うことを命 じているのである。分配する主体 は もちろんハ ンを戴 く中央政府
である。従 って,ここで定め られた八家均分の原則 は,「
一家」への集権 を防 ぐものではあろ
うが,中央政府-の集権 を前提 としなければ成 り立たないのであるか ら,八旗の 「
分権」 を示
す とは とて も言えないはずである。
以上のように,旗王がその旗 を自らの勢力基盤 とすることがで きるほど,属下 に対する独 占
的な権力 も,旗 を単位 とする独立 した活動 も,存在 したことは証明 されていない。
杉 山清彦の最近の研究は,ハ ンや旗王の 「
権力基盤 とされる領旗支配の解明」 を 「
喫緊の課
(
55)
題」 として提示 している。それは当該問題が八旗制理解の関鍵であ りなが ら未解明であるとの
認識 を示 してお り,本稿で取 り上げている問題 と意識的に取 り組 もうとす るものである。だが,
現在の ところ実証 されているのは,各旗 を構成する旗人の出自 ・履歴 ・姻戚関係 といった 「
属
人的諸関係」 にどのような特徴が見出せ るか とい う点 に止 まる。仮 にある旗に由緒ある家系 ・
有力な開閉をもつ人員が多 く見 られた として も,それが旗王の権力基盤 として意味 をもつため
には,各旗王 とその属人たちとの間に排他的主従関係があったことを証明 しなければならない。
そ うでなければ,属人たちの個人的属性が旗王 に有利に働 く理由がない。その ような排他的主
従関係 あるいは隷属関係 は,依然 として実証 されていないのである。
おそ らく,従来の八旗制に対する一般的な理解 は,旗王 とその属人の間には排他的な主従関
係が存在するとい うことを, 自明の前提 としてきたのであろう。たとえば石橋崇雄 は,ハ ンと
旗王の権力関係 を論 じる際に,「
各 グサの者がそれぞれの所属す るグサの王 だけに忠誠
を尽 く
(
5
6)
す とい う八旗制独特の構造」 と,特 に論拠 も参考文献 も示す ことな く述べ ている。おそらくこ
れが旗王 とその旗の関係についての通念 なのであろうが,以上述べて きた ように,い まだに論
証 されていない。のみならず,逆 にこうした通念 に反する事実が存在 し,すでに指摘 されてさ
えいるのである。 この問題について,次 に検討す る。
二
連旗 制 論 と矛盾 す る諸事 象
杜家僕の研究の際立 った特徴 は,前節で紹介 したような連旗制論的理解 を基本 としつつ, こ
れ と相反す る諸事象の存在 を積極的に示 していることである。
杜家僕は,まず前置 きとして,「
分封」 された旗王 に領地が与 え られてお らず,みな京城 に
(
5
7
)
居住 させ られて,藩国を形成 していないことを指摘する。本来的に旗王以下が 「ハ ン及び中央
の直接監督の下 に」 あったことを言明 し,中央の 「
八旗旗下 に対する統一管理」の表われ とし
(
5
S)
て,以下の三点 を挙げる。
(
∋中央は八旗旗人の戸 口を管理 し,技 甲 ・壮丁の統一的な徴用 を行 う。旗下の壮丁は,ボー
イニルや管主のために服務す る一部の人丁 を除いて,国家の篠役 に服する。管主が定額 を超 え
て役使することは,厳禁 されている。課役の基礎 となる戸籍 は国家が作成 ・管理 し,壮丁の隠
匿お よびボーイニル内-の編入は禁止 されている。
②旗下の財物の統一的な徴用 を行 う。中央財政は,商税 .手工業 ・官荘 ・官牧場 ・籍没 ・戦
利品 ・貢物 ・貿易品などを収入源 とするほか,八旗の人丁 にも課税する。 また,各旗や管主か
9
2
天 理 大 学 学 報
らも徴用 を行 う。帰附 した人々を八旗 に分配 し,財物 を与えて養わせ る形 を取 ることもある。
(
D② を合 わせて,八旗 は経済的に中央の直接管理下 にあったことを示 しているO
③ 中央は旗下の案件 を審理する。 この点 について,杜家族の記述は不十分である。八和碩貝
勤の 「
共治国政」確定後 は,八審事官 ・八大 臣を経 て八和碩月勘 に報告 され,八和碩貝勤が
「
終審判決」 をなす ようになった とするが, これは天命七年三月三 日のヌルハチの遺訓 をその
まま引 き写 したに過 ぎない。天聴五年 には六部がで きて,借財や家畜 をめ ぐる紛争 といった比
較的軽微
な案件はニルイエジェンが即決 し,それ以上の案件 は刑部で審理するよう命 じられて
(
59)
いる。刑部の擬罪を受 けてハ ンが裁定 を下すのであるが ,(60)それ以前か ら,諸王大臣の擬罪に対
してハ ンが最終的な判定 を行 っている様子 は史料 に窺える。いずれにせ よ, ここで注意すべ き
は,旗王 には自らの旗 に対する裁判権が認め られていない ということであるoそれ どころか,
(
6
1
)
旗下の者 と同列 に審問 を受け,不利 な審判 を下 されることもある。
これ らの点か ら,社家掛 ま八旗の旗王について 「
領主ではあるが,決 して完全 に独立 してい
るわけではない」 とし,旗下の属人について 「
私隷性はあるが,同時 に金 (
清)国家の臣民で
宗主分封制下の金 (
清)政権 は,一つの矛盾 した統一体であっ
もある」 とする。その上で,「
た」 と述べているoそ もそも政権内部 には 「
分権 と集権の矛盾性」があ り,共治国政利 も 「
旗
主 らを制約する集権的要素 を含 んで」いたため,(62)ホ ンタイジはそ うした有利 な条件 を利用 して,
中央集権 とハ ン権強化 を行なった というのである。
杜家族 は,全体 としては満洲国家 を 「
分封制」の枠組みの下 に括 ろうとしているようである
が, この部分の議論 による限 り,む しろ 「
分権」 と 「
集権」のせめ ぎ合 う体制 と捉 えているよ
うに見える。少な くとも,上記の ような 「
集権」的要素が本来 「
分権」体制 と異質な ものであ
り,「
分権」体制 を崩壊 に導 くもの と捉 えていることは間違いあるまい。
筆者の見るところ, こうした 「
集権」的要素 は,杜家僕が挙げる上記の各点 に止 まらない。
まず,八旗制 とは全 く別の階層的秩序 としての官位制がある。 ここで筆者が 「
官位」 と呼ぶの
he
r
ge
n」の こ とであるo初 めは,給兵官-副将一参将一遊撃-備禦 を中心 と
は,清洲語の 「
する序列で,天聴八年四月以降,アンパ ンジャンギ ンか らニルイジャンギ ンに至る満洲語の名
称 に改め られ,清朝の世職 につながってい く。 この官位の問題 についてはすでに別稿で論 じた
(
63)
ので詳細 は省 くが,官位制には以下のような特質がある。
①官位 はハ ンが対象者 に直接与 え,ハ ンのみが与 え得 る。
②官位 は原則 と して功績 によって与えられ,その理 由が明示 される。一度与えられた後で
も,功績 と罪過 によって, さらに昇格 された り逆 に降格 ・剥奪 された りする。
③官位 は国家 における公式の格付け として機能 し,服飾や朝会の席次 に表わされる。
(
む官位 は経済的利得 の規準 となるo
つ まり,官位 は個人の働 きによって与えられ,上下 させ られる ものであ り,その位階が個人
の格付 け ・収入に対応するとい う重要な ものである。それがハ ンによって一元的に運営 された
のであるか ら,少な くとも官位保持者 にとっては, 自身の社会的 ・経済的利得 の規準がハ ンに
よって直接定め られることになる。官位 を手 に入れる可能性 まで視野 に入れれば,一兵卒で も
潜在的にこの体系 に関わっている と言 える。 また,官位 とは別 に,一般兵士の戦場での功績 な
どに対 しては,中央で定めた一律の規準 によって,中央か ら直接恩賞が与 えられた。 これ も八
旗の分権体制 を想定 した場合,そ ぐわない事象であろう。
さらに,前節 の末で取 り上げた通念 に反 して,旗 人たちの うち少 な くとも官位保持者 は,
「
所属するグサの王だけに忠誠 を尽 くす」 どころか,旗の王 を飛 び越 えて,ハ ンに直接忠誠 を
93
八旗制度再考 (
-)
1
611
誓 っている。『
満文老楢』太祖巻七五-七八 に載録 された諸官の誓詞 は,天命年 間の末頃 に提
(
65)
出 された もの と考 え られるが,鐘黄旗 の Ba
dur
i ・So
o
hai
,正黄旗の Tur
ge
i・A
sa
nらのほか,
bo
ho
i・Mo
o
ba
i ・Tangg
r
t
i
da
i・A
n gga
r
a,鐘紅旗の Ha
hana・Obo
ho
i
,鐘藍旗 の
正紅旗の To
HBs
i
bu・Si
in・Mung
r
t
an・Munggan,正藍 旗 の Eks
i
ngge・I
ki
na.Ba
ngs
u・Se
l
e・Ni
ka
i
r
・Yambul
u,鐘 白 旗 の Ye
g
ude・Na
nj
i
l
an ・Fukc
a・Ht
i
ng
ni
ya
ka, 正 白 旗 の Yaht
i・
Ba
ki
r
anらの名前が見 える
。
いずれ もハ ンたるヌルハチに対 して差 し出 された ものであるが,た とえば Na
n
j
i
l
a
nの誓詞
(
6
6)
を見ると,
n
j
i
l
a
nはハ ンの命 じた職務 Gur
ga
n)に背かない。ハ
ハ ンが愛 しみ養 うのに対 し,我 Na
ンの与 える賞 ・家で養 った家畜 ・作 った穀物だけで,賊盗好悪 な く正 しく暮そ う。
とある。Na
n
j
i
l
anはヌルハチ直属の旗の人月ではないが,ハ ンの愛 しみ ・養 いのゆえに,ハ
ンの命 じた職務 に尽 くし,ハ ンが与 える物 と自ら作 った物 だけで生活 しようと誓 ってい る。
(
6
7
)
To
bo
ho
iや Ang
ga
r
aの誓詞 に 「
ハ ンが愛 しみ与えた官位 (
he
r
ge
n)の賞 だけで」 とある よう
に,「
ハ ンの与 える賞」 とは官位 に従 って与え られる物の ことである。職務の内容 は明記 され
ていない ものが多 く,明記 されている場合 は,裁判 とか礼 の職務 といった中央官 としての任務
(
6
6)
が多い。だが,た とえば Se
l
eの場合,
Se
l
e遊撃 はハ ンの牌 を受けて,我 の管轄す る-ジヤランの五二ルの兵 を もって副将か ら
離れない。副将か ら離れた時には,我 Se
l
eを殺すが よい。離れなければ,副将 は 『
離れ
なかった』 と上なるハ ンに告 げよ。 -とあるように,ジヤランの兵 を率いるとい う旗における職務の遂行 を,ハ ンに対 して誓 ってい
る。旗の職務で さえ,ハ ンに命 じられた との認識 の下に,旗王ではな くハ ンに対 して誓約 を立
てているのである。
ホ ンタイジの代 になって も,事情 は変わらない。天聴三年二月には,諸官 (
ge
r
e
nha
f
as
a)
が 「
ハ ンの命 じた職務 の事 を,正 しく勤めて心 を尽 くさないならば,天が答めて,ハ ンに非 を
(
6
9)
見 られて,罪を得 るが よい,我が身は死ぬが よい」 と,天地に誓約 している。そこで列挙 され
た罪過 には,小民の財貨や食糧 を廃 し取 ること,戦の倖虜や狩の獲物 を取 り分以外 に隠匿す る
ことと並 んで,「
狩や戦で下の者 (
f
e
J
'
e
r
i ni
g
ya
l
ma)の盗みや罪悪 を査察 しない」 ことも含 ま
れている。属人 を取 り締 まるの も,ハ ンに対 して責任 を負 う職務なのである。
こうした点か らすれば,八旗所属の人月 は, どの旗 に属するかにかかわ らず,皆ハ ンか ら直
接恩 を受 け,ハ ンに直接忠誠 を尽 くす 「臣民」 に他 ならない。それに対 して,旗人たちがその
旗の王 と特別な主従関係 を結ぶべ き原理はどこにあるのか。清洲八旗は, 自然発生的にで きた
集団ではな く,様 々な出自の個人や小集団を人為的に組み合 わせて配分 し,ヌルハチ とその子
姪 を長 に据 えた ものである。従 って,大部分の旗人 と旗王の間には,八旗編成以前 に由来す る
(
7
0
)
主従関係があった とは考えられない。 しか し,八旗編成 とともに,両者の間に他者を媒介 しな
い主従関係が新たに生 じた と見るべ き根拠 もない。
同 じ旗の上下の者が睦 ま じくす ること自体 は,一般論 として奨励 されてお り,天聴三年十一
月八 日にホ ンタイジが下 した書 は,「グサ イエジェンなどの官人たち」 に対 して,「
各々の旗の
人」 をよ く管理 し,教 え愛 しめ と諭 している。「
条理 を悟 るまで教 え,弟や子の ように愛 しむ
ならば,旗の人は汝 を父母の ように思い,教 えた言葉 を忘れず記憶 して,戟 になれば, また汝
け
1
)
の前で死の うと言 う し,法 に背かず行 うぞ」 とい う理由か らである。
しか し,一般旗人の旗王ない しは所属の旗 に対する個人的忠誠や,旗王の属下に対す る個人
9
4
天 理 大 学 学 報
的庇護が,個別の事例 として史料 に現われることは少ない 。それに類する事例が現われて も,
直属の管理者 としての旗王 に対する気兼ねや迎合,あるいは同 じ旗 に属する人々に対する依惜
晶眉 といった形で言及された ものであ り,ほぼ例外 な く否定的な評価 を伴 っている。たとえば,
天聴九年 にダイシャンが謹責 を受けた際の罪過の一つ として 「
正紅旗の王 らは,功 のある者 を
(
7
2
)
昇格 させた り罪のある者 を降格 させた りす る時,直ちに (
その)旗の方 に与す る
」 ことが挙 げ
られていた り,ホ ンタイジが イングルダイを評 して 「
強情で (自分の)旗の万にやや肩入れす
har
岳
ambi
)
」 ところがあるが,完壁
な人間 とい うのは少 ない し他の長所がそれ を補 ってい
る (
(
7
3)
ると述べ ていた りする。
旗の内部 に上下の統属関係がある以上,あ らゆる階層的組織 と同様 に,私的な権力関係が生
じるのは避 け難かったろうし,同 じ旗 に所属 して活動 を共 にすることで, 自然 な情誼や身内意
識が生れたことは間違いあるまい。従って,旗 を単位 とした排他的な感情の存在 自体は,必ず
しも否定で きない。だが,それが積極的な価値 をもって評価 されていた形跡は,全 くと言 って
よいほど見 られない。
悪 い か 善 い か につ い て 顔 を立 て ず (
de
r
e
前 掲 の ヌ ル ハ チ に対 す る誓 詞 の 中 に は,「
bani
r
a
加.
),親戚 とて も庇 い立てせず (
har
岳
ar
akt
i
)
,仇敵 とて も抑 えつ けず,善 を善,悪 を
(
7
4
)
悪 とハ ンに告 げ る」 とい う一節 が,常 套句 と して繰 り返 し現 われ る。「
顔 を立 て る (
der
e
bani
mbiまたは der
e gai
mbi
)
」「庇い立てす る (
har
岳
ambi
)
」 とい うのは,情実 を非難する表
硯 として,審判結果 などにも見 られる。崇徳三年正月に,アバ タイの二人のグチュが,アバ タ
イの主張 に口裏 を合 わせ たことを 「
汝 らのベ イ レを庇 った (
har
岳
aha)
」 として罪せ られてい
(
7
5)
るように,グチュの ような特別の位置 にある者が直属の王 を対象 とした場合で も,容認 される
(
7
6
)
ものではない。直接 の統属関係 に左右 されず,ハ ンに対 して公正であるのが正 しい行動 なので
ある。 これに対 して,何があって も旗王 ら管主に忠誠 を尽 くす ことを正当化する言辞 は見 られ
ない。 もちろん,現存する史料 はハ ンの立場 によって書かれた ものであるか ら,満洲人一般の
考 えを示す ものでない との見方 もあるか もしれない。だが,一般の満洲人に共有 されていた信
念が,全 く反映 されない とい うのは不自然であろう。
そ こで,今一度考 えてみるべ きは,分権的な政治体制 を明示するもの として掲 げ られて きた
ヌルハチの遺訓の意味である。すでに述べ たように, この遺訓によって確実 にわかるのは,メ
ルハチ個 人が 自分の死後の政治体制 をどの ように構想 していたか とい うことだけであるか ら,
ここではヌルハチの個人的構想 として考察す る。ヌルハチは,ハ ンが八王 によって推戴 され,
もし八王が否認すれば廃立で きるとい う制度 を構想 し,実施するよう命 じた。 この点は,従来
繰 り返 し強調 されている ところである。ただ し,それは 「
一人がい くら聡明で も,衆人の議 に
八壬が議 を一 に して暮せ ば,失敗せず にい られ よう」 とい う理 由か ら,つ ま り一
及ぼ うか」「
人の判断 よ り多数の判断の方が信用で きるか らとい うに過 ぎず,八王の独立性 を重ん じたがゆ
えではない。次の一節 に注 目すれば,八王の政治参加の資格 さえ,無条件で認め られてはいな
(
7
7
)
いことがわかる。
汝 ら八王の中で,何かの事や国の政 ごとを治める時には,一人が考えを得 て言えば,他の
七人は完成案 を出せ。悟 ることもな く,悟 らず にお り,他人が悟 ったことについて完成案
も出 さず,空 しく黙 っていれば,それを替 えて,下の弟や養 った子 を王 とせ よ。
周遠廉 は,この一節 を,新ハ ンが悪意的に八王の交替 を行 えない ようにす るため,その権限
(
7
8
)
を八王集議 に付与 した もの と評価 している。だが,ヌルハチの言によれば,そ もそ も新ハ ンは
「
汝 らの言葉 を拒 まない人」でなければならないのだか ら,集議 に反 して王の地位 を奪 うな ど
95
八旗制度再考 (
-)
論外 のはずである。 この一節 は,文字 どお り 「
汝 ら八王」が国政 を担 う地位 に止 まるための条
(
7
9)
件 を示 した もの と見 るべ きである。八王 については さらに,次の ように命 じられている。
八旗の王 らの誰が罪 を犯 して も,我が罪 を告げるなと言 う者,汝は邪な者であるぞ。一人
の罪 を告げ,一人の罪 を告げないことがで きるか。戦で闘ったのを,八旗の王 らが,汝の
旗 ・他 人の旗 と言って,何事であれ皆で審理 して告げずに一人で告げることをす るな。一
人で告げれば,争い合 うぞ。皆で審理 して告げれば,恨みはないぞ。王 らが 自ら楽 しもう
と鷹 を放 って狩猟するのに,皆 に諮 ることな く行 うな。誰か条理 を誤 った行 いをす る人を
知 った時には,見過 ごさず言 う。一人が覚 って責め,責めて言 う人の言葉が正 しければ,
皆が-一
緒 に責め よ。・
-・
・
父ハ ンの定めた八分で得 るだけで,勝手に一物で も隠 し会 って一
度隠せ ば,一度得 る分か ら外す。二度隠せば,二度得 る分か ら外す。三度隠せば,得 る分
か ら永久に外す。・
-従来,ヌルハチの遺訓は,ハ ンが八王の制約の下に置かれる とい う面のみ強調 されて きたが,
こうした訓示か らすれば,八王は一層厳 しい相互制約の下にあるよう構想 されているとい うべ
きである。許可な くして狩猟 ひとつ行 うこともで きず,一物 も勝手 に取 ることはで きない。過
ちは直ちに糾弾 されねばならず,庇 うことさえ認め られない。 この ような八王の 「
共治」体制
は,中国的君主独裁体制の ような形の集権制 とは異 なるか もしれないが
,「分権 的」 と評す る
個 々の王 を厳 しく統制 しようとしている点では,実に 「
集権的」 と言 えるのではないか。その
ように都合のよい円満 な意思決定が常 に行 われる とい うのは現実味 を欠いているか もしれない
が, これはあ くまで もヌルハチの理想であるか ら,現実的である必要はない。 ここで筆者が言
いたいのは,満洲国家のあるべ き政治体制 を明確 に措いたために従来 とりわけ注 目されて きた
ヌルハチの遺訓 も,八王の独立性 を前提 として協議 による統治 を命 じた ものではな く,む しろ
決 して分裂 しない統一意思の存在 を前提 とした中央集権 を構想 した もの と考 えられるとい うこ
とである。ヌルハチの遺訓 も含めて,当時の満洲国家 に 「
分権」 を正当化す る論理があったこ
とは確認で きず,逆 に政権の求心力 を損 なう動 きは尽 く否定的に見 られているとい うべ きであ
,
る。そ うであれば 「
分権」 を支 えるはずの旗 内の排他的主従 関係が確認 されないのは,全 く
自然なことである。
,「分権」的体制の中に紛 れて
以上の ように見 て くる と,杜家僕 の言 う 「
集権的な要素」 は
いた爽雑物の ようなものではな く,む しろ正統的な体制観が具現 した もの と捉 えられる。連旗
制論的理解 に反する諸々の事象は,当時の滴洲国家の集権的体制の端的な表われ と解す るべ き
である。それ らは体制の性格づけの根幹に関わるものであるか ら,分封体制内の矛盾 として処
理す ることは不適切であると考 える。
三
連旗 制論 を支 えて きたもの
それでは,これほど実証的根拠 に乏 しく,反証になる事実 さえすでに示 されている達旗制論
的理解が,今 に至るまで支持 されて きたのはなぜであろうか。従来の研究 を見る と,以下の よ
うな論述上の問題点が,少 なか らぬ論者に共通 して見 られる。
まず,皇帝独裁体制の未確立が,分権体制の存在 と同一視 されやすい ことが挙げ られるO 即
位当初のホ ンタイジが諸王 を一方的に従わせるだけの権威 を欠いてお り,彼 の権力が相対的に
弱体 であったことは,衆 目の一致するところである。 しか し,天聴期末 までには政治的権威 を
確立 し,事実上の独裁体制 に移行 してい くことも,細部の認識に差 はあって も,大半の論者が
9
6
天 理 大 学 学 報
認めるところである。従来の研究では,ホ ンタイジによる独裁化が,その ままハ ンによる集権
化 とみなされることが多い。た とえば杜家僕 は,ホ ンタイジが 「明王朝式の君主専制 と中央集
権性 を具有す る政権」の樹立 を目指 した とし,六部の設置 な どによって 「
ハ ン権 の拡大 ・強
(
8
0)
化」が行われた とする。 この説が妥当か どうかは別 に検討す るつ もりであるが,ホ ンタイジが
「中央集権化」 を行 った とす る見解 は, この ようにご く一般的な ものである。「
集権」化 した
以上,それ以前の段 階は 「
分権」 的であった とみなす ことは,図式 としてわか りやすい。集権
化の前段階 を分権的体制 とみな した場合,分権の基盤 となる単位 は八旗以外 に考 えられないか
ら,連旗制論的理解 は整合性 をもつ ことになる。
また,六部 など中国風の官庁 を設置 した とい う程度の指摘 だけで,ホ ンタイジが 「
明王朝式
の」政権 を目指 した と断定する杜家僕の議論 に見 られるように,集権的体制 と言えば中国的皇
帝独裁体制のみ を想定 しているのではないか と疑われる論者 も珍 しくない。仮にハ ンと旗王 に
よる集団統治体制が確立 していた として も,それが分権的体制であるか,合議制 を採 る政府の
下での一元的集権体制であるかは,俄かに決め られないはずである。分権体制が成立す るため
には,各王が独 自に権力 を行使で きる領分が必要であるが,すでに述べ たように,その ような
領分の存在 は実証 されてお らず, これ までの ところ大半の論者が実証 しようとさえ していない。
そ うした点が まともに検討 されていないのは,宗室諸王が政権 に参画する とい う中国的皇帝独
裁体制 と程遠い体制は,集権制の対極 にあるはず という見込みが働 いたためではないのか。
実際 に 「
集権」の対概念か ら 「
分権」体制が存在するのは自明であるとか,中国的皇帝独裁
制でないか ら分権的であるとか,正面切 って論 じている研究があるとい うわけではない。 しか
し,ハ ン一人に権力が集中す る以前の体制 を,支配関係の実態 をろ くに検討することもな く,
単 に複数の有力者が意思決定 に参与すると・
い うだけで 「
分権的」 と決めて疑わない議論が通 っ
て きたことは確かである。実態が明 らかでない割 に 「
分権」の語が広 く用 い られているのは,
ホ ンタイジによる 「
集権」化 に対立するもの として 「
分権」が図式的に単純明快 な概念である
ことと無関係ではない と思われる。
次 に,ハ ン自ら二旗 (
後 に上三旗) を領す るとい うことが,ハ ンも基本的 に旗王 と同列の存
在 に過 ぎない との直感的印象 を与 えている と思われる。た とえば三田村泰助 は,ヌルハチ政権
の初期 にハ ンが四 タタンを領 し,八旗制成立後 に 「
黄旗の支配者」であったことを称 して 「こ
れ らの事実 は,結局氏族社会にみ られる種族共同体制の現われ とみるべ きであって,た とえば
(
さ
る
シナ社会 においてみ られるように,君主が絶対者 として,独 り万民 に超出する といった性格の
l
)
ものではなかった」 としてい 。最近の研究で も,八旗の並列体制下 においては 「
ハ ンもまた
全体 に超越する ものではな く, グル ン全体の長たると同時 に,ヌルハチ 自身がいわば一旗王 と
して正黄 ・鐘黄の二旗 を直接支配 していたのである」 といった一文が,前提 となる事実 として
(
8
2
)
提示 されている ように,ハ ンも自ら旗 を領 す る とい うこ とが,「
全体 に超越 す る もので はな
い」 といった評価 としば しば結 びつけ られる。
旗 を領する地位 にある者 を 「
旗王」 と称するならば,ハ ンも一旗王であるというのは間違い
ではない。 しか し,だか らと言 って,ハ ンも他の旗王 も実質的に同列の存在であることにはな
らない。ハ ン自身 も直接旗 を領 した上で超越的な存在であ り得 るのは,後の清朝皇帝 を見れば
明 らかである。ハ ンと他の旗王が実質的に同格であった と言 うためには,すでに述べ たように,
旗王が各旗 を排他的に支配 していたことを証明 しなければならない。 もし旗王 にとっての各旗
が,管理分担の単位 ・財物分配の単位 に過 ぎなかったならば,ハ ンも一旗王であるとい うこと
は,国家 におけるハ ンの地位 を規定する上で別段の意味 をもたないか らである。
97
八旗制度再考 (
-)
「
ハ ンも旗王の一人に過 ぎない」 という言い回 しは一種の常套句 として多用 されてお り,何
に基づいているのか明示 されないことが多いが,杜家族は天聴六年九月の胡貢明の奏疏 を引用
(
8
3
)
してお り,それにはホ ンタイジについて 「
一汗の虚名あ りと雄 も,実に整黄旗一月勤 に異 なる
無 し」 とある。 これは同時代人の記述 として,当時のハ ンの地位 を証す る根拠 になると思われ
るか もしれない。 しか し, この引用箇所 を,前後の文脈や上奏の 目的,作者の置かれた境遇な
どの脈絡の中で捉 えると,額面 どお りに受け取 ることは到底で きないO
胡貢明は,89頁で一度触れたが,旗王 に分配 されて養われる境遇 に不満 をもち,ハ ンに苦痛
を訴 えていた新附の漢人書生である。彼 は同年正月二九 日付の奏疏で も 「
好人が反 って人を養
うの を楽 しまぬ主 に遇 って苦 しむ」弊害 を述べ,得 た人 をみ な-箇所で養 うことを請 うてい
,「養 人」 を貝勤 に任 せ るべ きで ない こ とを
(
84)
る。九月の奏疏 も,馬 を養 う場合 を例 に引いて
長々 と説 く。上記 の引用箇所 は,彼 ら新人が各旗 に分配 されている現状 を述べた部分の始めに
,
あり 「
人があれば必ず八家で分 けて養い,土地があれば必ず八家で分 けて拠 り,た とえ一人
・尺土であって も,貝勤は皇上 に譲 らず,皇上 も貝勤 に譲 らず,事 々に撃肘 し」 とい う文 に続
いて現れる。つ ま り, ここで問題 に しているのは,国家が新 たに得 た人や財,特 に人 を八家で
,
分配 していることであ り 「
整黄旗-貝勤 に異 なる無 し」 とい うのは,専 ら獲得物 の分配 に関
して述べ られた ものなのである。獲得物 を所定の分以外 に取 らないことは,権力 を確立 した後
で さえ,ホ ンタイジ自ら事あるたびに吹聴 し,む しろ自身の正当性の根拠 にさえ していること
で,ハ ン権力の強弱 とは直接関係がない。それをここまで強い表現で述べ るのは,胡貴明にと
っては切実 な利害 に関わる問題であ り, しか も一身上の利害ではな く天下国家のために進言す
るとい う建前は堅持 しなければならず,なおかつ志 を得ない まま 「
狂管 を避 けず,五たびその
言 を進 む」立場 にある者 として,是非 ともハ ンの関心 を惹 く必要があったか らであろう。従 っ
て, この史料 も同時期のハ ンの政治的地位 を示す もの とはみな し難いのである。
それにもかかわ らず
,「ハ ンも一旗王 に過 ぎない」 ことが繰 り返 し言及 されるのは, これが
「
ハ ンも旗 を領する (
いわば一旗王である)」 とい う紛れ もない事実 に基づいて,分権体制の
存在 を論証過程抜 きで示唆で きる便利 な表現 だか らではないか と推測 される。
第三 に, これは主 として中国の研究者に多 く見 られるが,唯物史観の観点か ら,活初 には封
建制が成立 していた という考 え方がある。た とえば周遠廉 は,女真が 1
6世紀後半 に奴隷制社会
62
0年代か ら4
0年代 にかけて封建社会 に移行するとい う過程 を,主 として生産関係 に
に入 り,1
。「旗主月勤がその旗の大 臣 ・ジュシェン ・アハ を統治す る八旗制度」の下,
拠 って論 じている
3
廿E
満漠の兵民 はハ ンや貝勤の 「
封建依附農民」 となった と位置づけ られる。奴隷制か ら封建制といった発展段階を人類史に普遍的なもの とみなす考 え方が,あ くまで も仮説 に過 ぎず,特 に
(
J
NS
)
中国史では根本 的な再検討が行 われて久 しい ことは,今日では殊更 に論 じるまで もなかろう。
だが,奴隷制か ら封建制へ とい う枠組みを不動の もの として想定 した場合 に,宗室有力者が並
列的に大集団の長 となる八旗制は,封建制を措定す るために好都合であることは間違いあるま
い。封建的支配関係 の存在 を非常 に見出 しに くい明朝 などと比べれば,満洲国家の八旗制 は,
もし 「
旗主貝勤がその旗の大臣 ・ジュシェン ・アハ を統治する」 と仮定するならば,封建制 と
して説明す ることが容易である。唯物史観の立場 をとる場合 ,1
7世紀前半の女真一滴洲社会の
大変革期 を封建制成立期 と捉 え,八旗制 を封建的支配関係 の単位 とみなす傾 向が生 じるのは,
無理のない ところであろう。
第四に,八旗制が旧来の部落あるいは部族 を基礎 にして成立 した以上,旧来の支配従属関係
が保持 されているはずであ り,その上 に新 しい支配集団が重なれば封建的な支配従属関係 をな
9
8
天 理 大 学 学 報
す との見込みが生 じやすいことが考 えられる。八旗制研究 において,満洲国家 に統合 された諸
集団が, どの ような形で八旗 に組み込 まれたか という問題 は,早 くか ら注 目されて きた。旗田
魂 は,ヌルハチ以前の女真の基本的社会単位であったガシャン
・ウクス ンが,い くつか合体 し
(
l
打)
てニルに編成 された とし,三田村泰助 は,来帰 した有力者の率いる部衆が,そのまま-∼二の
に
(
恥
)
やは りニル における氏族制の規制 は存 したのであった」 とし
ニル 編成 されたことを示 し,「
ている。劉小萌は,ニルの編成 とその由来 を詳細 に分析 し,抵抗 した未 に吸収 された部落は解
体 されて既存のニルに分散編入 され,招降に応 じた部落はその組織 を維持 したままニルに編成
(
B9)
された上,ニルイエジェンにも酋長やその子孫が充当 されたことを示す。
八旗 を構成するニルの編成が,旧来の血縁 もしくは地縁集団を基礎 にしていること,ニルイ
エ ジェンも主 にそれらの集団の長が任命 されたことは,すでに実証 されていると言えよう。 し
か し,そ うした事柄 は,新二ルイエ ジェンがニルに対 して どれだけの権力 をもったか,ニルイ
エジェンとジャランやグサのエジェン,旗王 らとの関係が どの ようなものであったか という問
題 に,自動的に答 を与 える ものではない。それにもかかわ らず,そ うした問題が追究 されず,
ニルや旗 における 「
主従関係」の存在が当然の ように受 け容れ られているのは,部落 ・部族の
封建的再編成 という見通 しが,一種の常套的な図式 を提供 しているか らではないか と思われる。
最後 に,モ ンゴルか らの類推,敢 えて言 えばモ ンゴルとの混同が考 えられる。満洲がモ ンゴ
ルの文化的影響 を多分 に受 けていることは,研究史のご く早 い段階か ら強調 されてお り,その
こと自体 は否定す るべ くもない。 しか し同時 に,モ ンゴルか らの類推が不用意 な議論 を数々生
んで きたことも確 かである。原義のはっきりしない満洲語の語源 を安易 にモ ンゴル語 に求める
(
9
0)
といったことか ら始 まって,実態の明 らかでない満洲の諸制度 を,-見 よく似 たモ ンゴルの制
度か らの類推で論 じた研究 も少 な くない。た とえば三田村泰助 は,女真の グチュとモ ンゴルの
「ネケル」の 「
酷似性」 を指摘 し, ネケルに供与 された遊牧アイルに相当す るものが女真社会
においてはタタンであった として,「ムクン ・タタン制の性格 を明 らか にす るため」 に 「モ ン
(
別)
ゴル社会制度 についての叙述」 を緩々行 なっている。細谷 良夫 は,八旗制 を 「
族制的性格 を付
(
92)
有する封建的支配機構」 として提示す るに際 して,「
北方民族 に特徴 的な」 と冠 しているが,
これは同 じ 「
北方民族」である以上,類似の特徴 をもつはず という前提 に基づいている と考 え
られる。
東アジア史研究 において,中心的なモデルを提供 して きたのが中国史であ り,次 いでモ ンゴ
ルに代表 される遊牧国家の歴史であったことを思 えば,モデル形成の遅れた女真一滴洲史 を研
究する際 に,より類似性の高いモ ンゴル史モデルが援用 されることは敵な しとしない し,場合
によっては有効で もあろう。だが,モデルを採用することによって,実証 の如何 と無関係 に,
モデルに引 き付 け られた像が形成 されてい くことも否めない。た とえば石橋崇雄は,八旗制 を
(
9
3)
八つの旗か らなる 「
部族連合 ともいうべ き性格」であったと表現 している。従来の実証研究 に
よって周知の とお り,八旗 は血縁関係 ばか りか言語や伝統 ・風俗習慣 まで違 う様 々な由来 をち
つ集団か ら混成 された もので,その上 に各々ヌルハチの一族 を戴 いている という構成 を取 るの
であるか ら,「
部族」 に擬 えることはいか にも不適切である。おそ らく 「
部族連合」 とい う言
葉は,「
部族」 に重 きを置いたのではな く,単 に並列的な集団の緩やかな結合 を表硯す るため
に用い られたに過 ぎないのであろうOだが,そこで 「
部族連合」 とい う内陸アジア遊牧国家 に
顕著な政治形態が引合 いに出されたことは,幾分かにせ よ遊牧国家のイメージに引 き摺 られた
3
P
=E
ためであろうと推測 される し,結果的に一層遊牧国家的なイメージを固定することになってい
ると思われる。
八旗制度再考 (
-)
9
9
八旗の分立 ・旗内における排他的主従 関係 といった実証 的根拠 の薄弱 な説が抵抗 な く受 け入
れ られて きたのは,実はモ ンゴル史のモデルに依拠 して きた ことが最大 の原 因ではないか と筆
者 は考 える。近年 において も,八旗 の分封 ・ヌルハチ一族 による分有支配 とい った点 について,
「われわれは, ここにモ ンゴル帝国 に代表 される中央ユ ーラシア諸国家
に通有の組織原理 を見
(
95)
出す ことがで きるであろ う」 といった発言がな されている。批判的検証 を行 う前 に,モ ンゴル
史モデル との一致 を見出 して しまうことで議論 の妥当性 に確信 を もち, ます ますモ ンゴル史モ
デルに引 き付 けた満洲 史像が補強 されているのではないか。筆者 には,その ような構造が感 じ
られる。
以上 のように,達旗制論 的理解が通説 として受 け容れ られて きた背景 には,議論 を構築する
上でのい くつかの枠組みの存在が推察 される。連旗制論的理解 において,根幹 をなす論点の大
半が ほ とん ど根拠 を問われることさえな く今 日に至 ったのは, こうした枠組みが輯接 して,論
証 の必要 さえ忘れ させ るほ ど堅固な仮説 を夙 に作 り上 げて しまったか らではないか。上述の よ
うな枠組みは,それ 自体議論 の陰 に隠れて検討の対象 とな りに くいため に,一層 それか ら逃れ
るこ とが困難なのではないか と思 われる。
結
小
八旗制 に対す る連旗制論的理解 は,八旗が各 々独立 した存在 であるこ とと,旗王 を頂点 とす
る排他 的主従 関係 が成 り立 っていることを前提 としてお り, この前提が証 明 されなければ成立
しない。本稿 は, これ らの前提が全 く証明 されていない ことを指摘 して きた。 さらに, これ ら
の前提 と根本的 に対立する事実 を挙 げ,八旗の組織 も人員 も,む しろハ ンの下で集中管理 され
る性格の ものであ ったこ とを示 した。
実証面 において大 きな問題 を抱 える連旗制論 を支 えて きたのは,筆者 の見 る ところ,分権体
制か ら集権体制へ の移行 とい う発展 モデルであ り,氏族制か ら封建制へ とい う発展段 階論 であ
り,部族連合や一族分封 といったモ ンゴル的遊牧国家のモデルである。すべ て満洲史の実証的
研究か ら導 き出 された ものではないが,そ もそ も満洲史の実証 的研 究か ら明確 な歴史像 を描 き
出す こ とがで きなかったことが,如上のモデルに依拠せ ざるを得 なかった理 由ではないか と推
測す る。
満洲史は,事実上 1
6世紀の末か ら始 まる研 究対象である。その前段 階である女真史 は史料が
6
4
4年の入関以降は,中国史の中に解消 して捉
乏 しい上 に,満洲 史 との連続性 を捉 えに くく,1
え られやす く,満洲史 としての展 開 を追いに くい。限 られた対象分野 に明快 な歴史的文脈 を見
出 し, さらに同時代 史の流れの中に位置づ けるのは,困難 と言 うべ きである。敢 えてそれ を行
お うとするな らば,手掛か りになるのは既成のモデルではな く,基礎 的な事 実の検証作業 に戻
ることしかあるまい。
これ を もって,従来の研 究に対す る検討 を終 了 し,次 回か らは八旗制の制度的基盤 に関す る
研究 を行 な うことにする。
註
*以下の註において,満文老朽研究会訳注 『
満文老楢』(
東洋文庫,1
9
5
5
-1
9
6
3
年)の引用は太祖 ・太
宗の別と頁数のみ,神田信夫 ・松村潤 ・岡田英弘訳注 『
旧満洲楢 天聴九年』(
東洋文庫,1
9
7
5
年)
の引用は頁数のみ示 し,いずれも放言博物院刊 『
旧満洲楢』 (
台湾故宮博物院,1
9
6
9
年)の頁数のみ
を 〔 〕内に附すO『
旧満洲楢』 よりも 『
満文老楢 』を優先 して引用するのは,専 ら参照の容易 さを
重視 してのことであるo引用に際 しては訳注 を参照 しなが らも,訳語の統一などの都合上,拍訳 を
1
00
天 理 大 学 学 報
,
,
用いた. また 『
旧満洲枯』は加筆訂正が多 く 『
満文老親
用の趣 旨に関わ らない限 り一々言及 しない。
と細 かい異同 もあるが,訳文お よび引
(1) 臨時台湾旧慣調査会編 『
清国行政法』 (
臨時台湾旧慣調査会 ,1
9
1
4
年)第二編第一章。
(2) 孟森 「
八旗制度考実」
(
『
歴史語言研 究所 集刊 』6-4,1
9
3
6
年。後 に 『
明清 史論著集刊』上
9
5
9
年)に収銑 なお本稿での引用 は後者 による)
0
(
中華書局,1
(3) 細谷良夫 「
清朝 における八旗制度の推移」(
『
東洋学報』5
ト 1,1
9
6
8
年)
0
(4) 周遠廉 「
後金八和碩月勤 "
共治国政"論」(
『
清史論叢」2,1
9
8
0
年)
,同 『
清朝開国史研究』
(
遼寧人民出版社 ,1
9
81
年)
0
(5) 社家貨 『
清皇族輿国政関係研究』 (
五南国書出版 ,1
9
9
8
年)
。
(6) 杉 山清彦 「清初八旗 における最有力軍団一太祖 ヌルハチか ら摂政王 ドル ゴン--」(
『
内陸ア
ジア史研究』1
6,2
01年)。
(7) 初め 「
八旗満洲 ニルの研究 (
-)
」(
『
東亜人文学報』 1-4,1
9
4
2
年),「
八旗満洲 ニルの研究
(
二)
」(
同 2-2,1
9
4
2
年),「
八旗満洲二ルの研究一 とくに天命初期のニルにおける上部人的構
造一 甲士の篇-」
(
『
東方学報』京都2
0,1
9
51
年) として発 表。後 に排列 を改 め て,安 部健夫
『
酒代史の研究』 (
創文社 ,1
9
7
1
年)に収録。本稿での引用は後者 による
。
(8) 安部前掲論文1
11
頁O
(
9) 阿南惟敬 「清初の甲士 に関する一考察」「清初の甲士の身分について」 (
『
清初軍事史論考』 甲
陽書房 ,1
9
8
0
年所収),石橋秀雄 「
清初のイルゲ ン (
i
r
ge
n)-特 に天命期 を中心 として」「
清初
の ジュシェ ン G
u畠
e
n)一特 に天 命期 まで を中心 として」(
『
晴代史研 究』緑蔭書房 ,1
9
8
9
年所
収),三田村泰助 「ムクン ・タタン制の研究一滴洲社会の基礎的構造 としての-」(
『
清朝前史の
9
6
5
年所収)など。
研究』東洋史研究会 ,1
(
1
0) 社家牒前掲書9
5
頁O
(
ll) 孟森前掲論文2
1
8頁O
(
1
2) 『
満文老楢』太祖5
5
4頁 〔
1
0
4
7-1
0
49
頁〕
.
(
1
3) 細谷前掲論文 4-5頁。
(
1
4) 周前掲論文2
5
4頁。
(
1
5
) 杜前掲書9
5
頁。
(
1
6) 統一政権 にまで至 らない段階で,い くつかの部落が連合 して軍事行動 などを起す際 に,部落
長の 「
会議」 によって決定 していたことが指摘 されている (
劉小 萌 『
満族従部落到 国家 的発
01
年 ,7
5
頁)。 こうした素朴な合議の習慣がヌルハチの構想 に影響 を与
展』遼寧民族出版社 ,2
えた可能性 は当然考 えられるが, これはあ くまで も臨時 に組合 した諸部落の意見調整の手段で
あ り,国家運営の伝統 とはみなし難い。
(
1
7
) 鴛淵一 ・戸 田茂喜 「ジュセ ンの一考察」(
『
東洋史研究』 5-1,1
9
3
9年) とこれを発展 させ た
三田村前掲論文,および旗 田親 「
涌洲八旗の成立過程 に関す る一考察一特 に牛泉の成立 につい
」(
『
東亜論叢』2,1
9
4
0
年)など。
て-
(
1
8) 孟前掲論文は夙 に,ダイシャンが罪 を得,マ ングル タイの遺 した正藍旗が接収 される天聴九
年を,一つの画期 として描いてお り,他の論者 も概 ねそれを踏襲 している。
(
1
9) 『
太宗実録』天聴三年十月幸夫 (
二十 日)条。
(
2
0) 社家験 は,前掲のヌルハチの訓話 を,彼 の死後の政治体制 を設計する とともに 「八旗 の八旗
主形式 を確定 した」 もの とす るが (
前掲書3
0頁),その根拠 はわか りに くい。ヌルハ チの言 う
「
八和碩月勤」 という称呼が 「
八旗の八旗主」 を指す ものであろうと言 うのであるが,説得力
があるとは言えない。そ もそ も 「
八和碩貝勤」 とい う語は,『
満洲実録』の該当箇所 には出て く
,『満文老楢』 には出ていないか ら, この語 に基づいて議論す るのは問題があるo また,
るが
1
01
八旗制度再考 (
-)
『
満洲実録』天命十一年六月二十四 日条が 「
八旗主が四人の大月勤 ・四人の小月勤か ら成 るこ
頁)
」 とするが,これはおそ ら く漢文版 に 「
爾八固山四大王 ・四小
とを明確 に説明す る (
同31
王」 とあるのに拠 った ものであ り,清文版では 「四人の大月勤 ・四人の小月勤,八人の貝勤」
とあるのみで八旗 には全 く言及 していないので,やは り根拠 とするのは問題がある。
(
21
) 『
満文老楢』太宗1
1
0頁 〔
271
4頁〕o
(
2
2) 周遠廉前掲論文 は 「
s
al
i
bunmbi
」の表現 をもって,旗王 と属人の間に 「
君臣 (
氏)関係」が
2
4
6頁),具体的内容 を論 じていない以上,従 い難い。同 じ箇所で
あった証拠の一つ とするが (
r
e
j
e
n」の表現 を証拠の一つ としているの も同様である。
(
2
3) 杜前掲書2
7-2
8頁。
(
2
4) 杜前掲書81-8
2頁。
(
2
5) 『旧満洲楢 天聴九年』2
2
6頁 〔
43
9
4-4
39
5
頁〕
o
(
2
6) 『
太宗実録』崇徳二年五月乙未 (
二十八 日)条。なお,漢文 (
乾隆)版では 「
其一女及秦木喰
順治)版
孫女」 となってお り,隠匿 していた一女 と彼 の孫女,合せて二人 と読めるが,清文 (
j
aie
mus
ar
ganj
uis
ai
muhaio
mo
l
obe…」 となってお り,一女すなわち彼の孫女 と読
では r
める。 ここでは隠匿 していた二女が各々処分 されたことを述べているはずなので,後者の方が
ai
muhaの孫女は隠匿 された人口として没収 された と解す るべ きである。
辻複が合う。従 って,s
(
2
7) これは 「
ハ ンの旨にて戸部の和碩月勤が言」 った規則であ り,嫁すべ き女たちは 「
部の者が
『
旧満洲楢 天聴九年』8
6-87頁 〔
41
8
4頁〕)
0
各々の王 らに問 うて与える」 とされている (
(
2
8) 張晋藩 .郭成康 『
清人関前国家法律制度史』 (
遼寧人民出版社 ,1
9
8
8年)4
8
7-4
8
8頁。
(
2
9) 杜前掲書8
2頁。
(
3
0) 『内国史院枯』天聴八年九月二十一 日条に,ワルカ遠征で得た停虜 を均分せず 「
男 ha
haの不
0ニルを越 えた旗か ら余分 を取 っ
足 した旗」 に補充 し, また八旗のこル数が一定 になるよう,3
て不足の旗に回す ように したこと,以後 は停虜を不足の旗 に補 うように したことが見 える。
(
31) 杜前掲書8
2-8
3頁。
(
32) 張 ・郭前掲書5
7
6-5
77頁。
(
3
3) 杜前掲書8
3頁。
(
3
4) 『
太宗実録』崇徳二年七月辛末 (
五 日)条で,定額以上 に護衛 を採用 したダイシャンが責め ら
れている。
(
3
5) 細谷前掲論文3
7-3
8頁。なお,同論文35-3
6頁 に 『
上諭八旗』 を引用 して,諸王が佐領 を任
意に使役 した り処罰 した りしていた とす るが,当該上諭 はその点 を 「
殊属違制」 と しているの
だか ら,実際にそ うしたことがあった として も,明 らかな違法行為であった。
(
3
6) 『
上諭旗務議覆』薙正八年二月十六 日奉 旨にて終わる条。同条で上三旗弓匠について も同 じ表
,
当差行走」 とは正規の課役 を指す と見 るべ きであろう。
現がなされているように 「
(
37) 杜前掲書8
3-8
6頁。
(
3
8) 『
天聴朝臣工奏議
』「胡貴明請用才納諌奏」。なお,胡貢明の奏疏の性格 については後述。
(
3
9) この上奏の九箇月後の伝諭 は,漢人の待遇の悪 さか ら生 じる弊害 に鑑みて,別 に一旗 を立 て
『
太宗実録』天聴八年正月莫卯 (
十六 日)秦)
。
た結果,状況が改善 された とする (
(
4
0) た とえば,天聴九年のダイシャン謹責の理由の一つ に,彼が養 うべ き者が衣食の不足 をハ ン
に訴 えたことが挙げられている (
『
旧満洲梢
天聴九年』2
91
頁 〔
4
47
3頁〕)
。
(
41
) 杜前掲書71-72頁。
(
42) なお,杜家族 は さらに異姓功 臣 とその専管ニル も管主 との間に主属 関係 があ った とするが
,
6-8
8頁),その例証 はいずれ も不適当である。Tur
ge
iの件 は 「
汝は我 に背 こうと
(
杜前掲書8
g
e
iが訴 え,アジゲに非あ りとされて Tur
ge
iの離
していると聞いた」 とのアジデの発言 を Tur
102
天 理 大 学 学 報
脱が認め られたことに注 目すれば,む しろ従属関係の薄弱 さを示す と言 うべ きである。Ce
r
由
の件 は,直接被害 を受 けたのは Ce
r
giなのに,アジゲが欺かれ ようとした とみなされていると
す るが,前述の ように属下の娘の婚姻 は管主が許可す るのだか ら,Ce
r
giの娘の婚姻 をめ ぐっ
r
giをアジゲ
て不正が行 われたな ら,当然アジゲ も巻 き込 まれたはずである。ホ ンタイジが Ce
所属大臣」 と称するの を 「
隷属為僕之義」 とするのは,漢語訳 に引 きず られた誤 りと
の 「臣」「
いうべ きであるo「臣」 は原語で amba
nであ り,アジゲ所属 の ambanである とい うのは,ア
ジゲの下に配属 された大臣を言 うに過 ぎず,主僕 関係 を表す とは言 えない。H血nt
aの件 では,
単に ドルゴンを 「
本月勤」「
本管月勤」 と称 していることだけを取 り上げて 「
主属関係の用語」
とするのは強引である。最後 にホンタイジが ドルゴンに彼 を謀殺 させたの も,「
主君の利益 を擁
護 」することによった と断定するのは問題である.純粋 に Ht
i
nt
aに非があるとみな したのか も
しれず,現 に Tur
ge
iの件の ように主君の側の非 を認めることもあるか らである。
(
4
3) 杜前掲書71
-72頁。
(
4
4) 張 ・郭前掲書 も 「
主旗貝勤の根本的な権利 は旗下のニルに対す る占有権である」等 としつつ
(
1
6
7頁),その 「
職責」「
義務」 について も述べている (
1
7
2-1
7
6頁)。
(
45
) 阿南惟敬 「
清初の甲士に関する一考察」 (
註 (9)所引)
。
(
4
6) た とえば崇徳元年の昌平攻めの後 には,王やグサ イエ ジェンの多 くが士卒の監督不行 き届 き
(
太宗実録』崇徳元年十一月甲辰 (
四 日)秦)。
を理 由に処罰を受 けている 『
(
47) 『内国史院楢』天聴九年九 月十 日条。なお 『
太宗実録』は二十四 日条 に置 く。F
旧満洲梢 天
聴九年』にはこの文は見えないが,前後の文 との関係 を考 えれば,やは り二十四日に当て飲 ま
ると思われる。
(
48) 細谷前掲論文3
6頁。
(
49) 『上諭旗務議覆』薙正二年八月初八 日奉旨にて終わる条。
(
5
0) 杜前掲書3
5頁。
(
51
) マ ングルタイが二人の者 を遣わ してハ ンに提案 した ところ,「
ハ ンが言 うに 『これはその よう
4-71
5
頁 〔
37
2
4-3
7
25
頁〕)
。
にすればよい』 とて定めた」 とある (
『
満文老朽』太宗71
(
5
2) 杜前掲書7
2-7
3頁。
(
5
3) 藤田亮策 ・田川孝三校訂 『
藩陽状啓』 (
台湾国風出版社 よ り影印出版)己卯年六 月十五 日条
之禁甚厳,不可侵人知之」 と言っていた とい う。
(
5
4) 孟前掲論文2
3
5-2
37
頁.
(
5
5) 杉 山前掲論文1
3頁。
」(
『
榎博士項寿記念東洋史論叢』汲古書院,1
9
8
8
(
5
6) 石橋崇雄 「
清初ハ ン (
ham)権 の形成過程
年)2
4頁。
(
5
7) 杜前掲書8
9-9
0頁。
(
5
8) 杜前掲書91-9
5
頁o
(
5
9
) 『
太宗実録』天聴五年七月突巳 (
二十一 日)条。
(
6
0) たとえば天聴元年十二月にアバ タイの罪 を断 じた際,三大ベ イレと諸王が擬罪 して上奏 し,
ハ ンが承認 して決着 している (
『
満文老梢』太宗 1
0
9-1
1
1
頁 〔
2
71
3-2
71
5頁〕)
。
(
61
) たとえば註 (
4
2) に引 くアジゲ と Tur
ge
iの件 など。
(
6
2) 杜前掲書9
4-9
5
頁。
(
6
3) 拙稿 「
清朝入関以前のハ ン権力 と官位制」 (
岩井茂樹編 『中国近世社会の秩序形成』京都大学
人文科学研究所 ,2
0
04
年)参照。
(
6
4) 『
満文老楢』太祖 1
1
0
9-1
1
7
2頁 〔
2
3
3
9-2
5
2
5頁〕。
103
八旗制度再考 仁一
)
gBda
iのように二件 の誓
(
65) この四巻の中に二件の誓詞が見 られる人物があ り,その中には Tang
詞 で官位 が異 な る者 もい るの で,あ る程 度提 出時期 が前 後 してい る こ とは確 か で あ る。
Mung
gat
uの誓詞
(
『
満 文 老梢』太 祖 1
1
21
頁
〔
2
37
3頁〕
)に 「
成年 (
天命 七年)十 一 月 に誓 っ
た」 とあるのが唯一の 日付であるが,天命十一年五月条 に載せ る勅書 に対応する官位 を称 して
Z
o件),同勅書 と異 なる官位 を称 している者 も,三等副将 と参将 (
Ye
k畠
u),備
いる者が多 く (
Ar
a
i
)等,大半が ご く近いので,大 まか に言 って天命末頃提 出の もの と推測 される。
禁 と遊撃 (
なお,本文 に示す各人の所属 は,ほほ同時期 と思 われる 『
満文老楢』天命八年二月七 日条 (
太
5
2頁 〔
1
3
4
2-1
3
4
3頁〕
)に従ったが,時期 により多少の異動はあ り得 る。
祖651-6
(
6
6) 『
満文老朽』太祖1
1
1
4頁 〔
2
3
5
6頁〕
。
(
67
) 『
満文老楢』太祖 1
1
1
8-1
1
1
9頁 〔
2
3
6
7-2
3
6
8
頁〕
。
(
6
8) 『
満文老楢』太祖 1
1
3
3頁 〔
2
4
0
3頁〕。
(
69) 『
太宗実録』天聴三年二月丙申 (
十 日)条。なお,引用文は満文 (
順治)版 による。
」(
『
史学雑 誌』1
07
-
(
7
0) 杉 山清彦 「
清 初正藍旗考一姻戚 関係 よ りみ た旗王権 力 の基礎 構 造-
氏族 ・通楯 など従前の結合関係 に基づいて各集団 を編成 し,
7,1
9
9
8年)は,八旗編成の際に 「
2
8頁)
」 とするが,
諸子姪の中からそのそれぞれ と関係の深い者 を選んで旗王 に封 じていった (
そこで示 されているのは旗王 と属人の縁故であって,主従関係ではない。
51
頁 〔
2
9
0
8-2
91
0頁〕
。天聴四年二 月六 日に も同様 の発 言が見 られ る (
同
(
71
) 『
満文老楢』太宗2
31
2-31
3頁 〔
2
9
7
6-2
9
7
8頁〕
)
0
(
72) 『
旧満洲楢
天聴九年』2
8
8頁 〔
4
47
0頁〕。
(
7
3) 『内国史院楢』天聴七年十月初十 日条。
(
7
4) た とえば 『
構文老楢』太祖 1
1
61
頁 〔
2
49
2頁〕に見える Si
inTai
r
j
iの誓詞など。
(
7
5) 『内国史院楢』崇徳三年正月二十 日条。
(
7
6) 逆 に,Bus
anの誓詞に 「
交わったグチュによく迎合 しない g
ucu
le
he g
uc
u de s
ai
kan i
c
i
清文老楢』太祖 1
1
1
1〔
2
3
4
4頁〕
),グチュを特 に庇護す ることも良
a
c
abur
a
kBJ とあるように 『
(
くないこととみなされていた。
(
7
7) 『
清文老楢』太祖5
5
4-5
5
5
頁 〔
1
0
49-1
05
0頁〕
。
(
7
8) 周前掲論文25
3頁o
。〔『旧満洲楢』では,1053頁 において
(
7
9) 『
満文老楢』太阻5
5
6-5
5
8頁
『
満文老楢』太 阻5
5
6
頁7
行目 「
gai
s
u」の後,「
bei
s
e
ig
is
ur
e
he申s
unbear
ambi
」 とあるのみで,す ぐに同5
5
8頁 1
3行 目
に続 き, ここで引用 した部分 を欠いている。
〕
(
8
0) 杜前掲書9
5-1
0
6頁。
(
81
) 三田村前掲論文2
0
9-21
0頁。
(
8
2) 杉山註 (6)所引論文1
3頁。
(
8
3) 杜前掲書7
0-71
頁。引用は 『
天聴朝臣工奏議』「
胡貢明五進狂曹奏」。
(
8
4) 『
天聴朝臣工奏議』「
胡貴明陳言図報奏」。
(
8
5) 周前掲書2
81
頁。
(
8
6) 生産様式 に基づ く中国史の研究視角の再検討 に関 しては,中国史研究会編 『中国史像の再構
成
9
8
3年)第一部総論 を参照。
国家 と農民』 (
文理闇,1
(
8
7) 旗田前掲論文。
(
8
8) 三田村前掲論文3
07
頁。
(
8
9) 劉前掲書1
6
6-1
7
7頁。
(
9
0) たとえば三田村泰助 「
初期満洲八旗の成立過程」 (
前掲 『
清朝前史の研究』所収)2
9
0-2
9
3頁
ho
邑
o
」の語源に関する論議 など。
で批判 される 「
1
0
4
天 理 大 学 学 報
(
91
) 三 田村註 (9)所 引論文2
1
1
-21
2
頁。三 田村 は 「
建州国の統治形態がモ ンゴル社 会の影響 下
21
2頁)。
に形成 されたことを予想」す ることか ら出発 した と自ら述べている (
(
9
2) 細谷前掲論文 2頁。
(
9
3) 石橋崇雄 「マ ンジュ (
maI
か ,満洲)王朝論一清朝国家論序説
(
汲古書院,1
9
9
7
年所収)3
0
3頁。
」(『明清時代 史の基本 問題』
(
9
4
) 推測の根拠 と して,前註 の石橋論文が 「征服王朝」 としての清朝 の性格 を 「部族社 会 ・遊牧
社会 に立脚す る王朝」 としている (
2
8
6
頁) ことが挙 げ られる。清朝 は一部遊牧社会 を取 り込 ん
ではいるが,中核 となる満洲族 は遊牧民で はな く,遊牧社 会 に 「
立脚す る」 とは言い難 いはず
である。それ を 「
遊牧社 会」で代表 させ るの は,モ ンゴル社 会の イメー ジが女真一 滴洲社会 の
それ を凌駕 して しまっているため としか考 え られない。
」(
『
東洋学報』8
3
-1,2
0
01
年)7
6-7
7
頁。
(
9
5
) 杉 山清彦 「
八旗旗王制の成立
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