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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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<資料・研究ノート>サミン運動とインドネシア民族主義
土屋, 健治
東南アジア研究 (1971), 9(2): 236-253
1971-09
http://hdl.handle.net/2433/55658
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東 南 アジ ア研究
9巻 2号 1
9
71
年 9月
サ ミン運 動 と イ ン ドネ シ ア民 族 主 義
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サ ミソ運 動 とは , 中 ジ ャ ワ北 部 に ひ ろが る石灰 岩土 壌 の山林 地 帯 一帯 の農 村 を基 盤 に,今 世
紀前 後 よ り 起 きて きた 農 民運 動 で あ る。
この運 動 の創始者 サ ミソ ・ス ロセ ソ テ ィ コ (
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ko また は サ ミソ ・ス ロソテ ィ コ Sami
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ko)の 名 に ち なん で, サ ミソ運 動 と
名付 け られ てい る。 後 に詳 述 す る よ うに , この運 動 に お い て,農 民 は納 税 ・賦 役 を拒 否 し,独
自の生 活規 範 に従 って行動 した 。 この運 動 が注 目に値 す るのは,第 - に, 当 時 の ジ ャ ワ各 地 の
農 村 地 帯 で数 多 く発 生 してい た運 動 に比 して,至 福 千年 の観 念 や聖 戦 観 念 の よ うなジ ャ ワ ・イ
ス ラム的 な宗教 的 色 彩 を,運 動 の中核 に もってい なか った ことで あ る。 第 二 に は, 第 一 の特 色
のゆ えに,運 動 が長 期 に わ た って継続 され てい った とい う ことで あ ろ う。 現 に, 独 立 後 の イ ソ
ドネ シ アに お い て も,先 の地域 に は, サ ミソ社 会 として抽 出 され うる よ うな社 会 集 団 が存 在 し
)
,この運 動 は, 「近 代 ジ ャ ワ史 に お い て もっ とも長 期 にわ た った社 会 現 象 」2)で あ った 。
て お り1
この運 動 が持 続 しえた のは何 故 か。 サ ミソ運 動 の非 イ ス ラム的性格 が , イス ラム的 色彩 の濃 い
運 動 (イス ラム同盟 の よ うな近 代 民族 運 動 を含 め る) と同化 す る ことを拒 んだ こ とは否 め な い
し, それ ゆ えに, サ ミン運 動 が 閉鎖 的性 格 を有 していた こと も否 め ない 。3) しか し, サ ミソ運
動 が , そ の他 の ジ ャ ワの宗 教 運動 や倫 理 植 民地 政 策 以降 に発 生 して くる近 代 的 な民族 運 動 とま
った く共 通 性 を持 ち えず, 相互 に無 縁 の もの として存 在 していた と も考 え られ ない。
このサ ミソ運 動 につ い ては, さ まざ まな側 面 か らさ まざ まな評価 が な され て きた 。
ウェル ト- イ ムほ, これ を 「西 欧 化 の波 に直面 した ジ ャ ワ農 民 の西 欧化 か らの逃 避 」4) の運
*東京大学大学院 (
社会学研究科)
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2
)H.J
3)脚注 1
)に掲げた 『イン ドネシア共和国要覧』の東ジャワ編中では,サ ミン社会を,キジョバイ トの末
商社会である,プロモ山一帯の "ツンゲル"(
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)地方 と並べて解説 している。
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土 星 :サ ミン連動 とイン ドネシア民族 主義
動 で あ った と評価 し, ベル ン-ル ド ・ダ- ムは, 「ラ ト ・ア デ ィル伝 統 を 引 き継 が ない に して
も, 同様 に前 途 に見込 み の立 た ない方 法 で行 なわ れ た ユ ー トピア的共 産 主 義運 動 で, 反外 国的
性 格 を表 明 して, 数 多 くの支持 者 を集 め ていた 」5) と評 価 し, ベ ン ダは,地 方 の モ ス レム (イ
ス ラ ム教 信 徒) 指 導 者 に率 い られ た農 民運動 の中 で, サ ミソ運 動 だ けが モ ス レムの指 導下 に な
く, お そ ら くこれ は , アバ ン ガン的性 格 の - 変種 としての 運 動 で あ った だ ろ う6) と述 べ て お
り, い ずれ も古代 - の ノス タル ジ アを強 調す る側面 が強 い。 ウェル ト- イ ムと ダー ムに あっ て
は, サ ミン主 義 の復 古主 義 的性格 だ けが注 目され , ペ ソ ダの評 価 とともに, サ ミソ主 義 の特殊
性 だ けが着 眼 され てい る。
これ に対 して ケー ヒソは, サ ミソ主 義 は諸 他 の農 民 反乱 と ともに, それ 自体農 村 の消極 的 な
抵抗 運 動 で あった として も, それ はや が て近代 的 民族 主 義 の発 生 と ともに, 民族 主義 的 な水路
- と導 かれ てい くもの で あ った7
)として, サ ミソ運 動 が そ の後 の民族 運 動 と結 びつ い てい く点
を示 唆 してい る。 ケー ヒソの この指 摘 は, イ ン ドネシ ア人 に よ るサ ミソ運 動 の評 価 の 中 では,
さ らに は っ き り示 され てい る。 例 えば ス タル ジ ョほ そ の 『村 落 (デサ)』 の中 で, 村 落 に普 遍
的な 「
伝 統 的 オ - トノ ミ-」 が, オ ラン ダに よって もち込 まれ て きた 「
新 しい オ ー トノ ミ-」
と抵 触 した際 の,村 落 の抵抗 の実例 と してサ ミソ運 動 を あげ てお り8
)
, サ ミソ運 動 が 空間的 な
連 続 性 の中 で捉 え られ てい る。 また , イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリは, 『イ ン ドネシ ア革 命史』
1
9
2
0
年 代 初 頭 まで) の民族諸 組 織 を,種 族 原理 に基 づ く民族 団体,混 血 児 を主
の中 で,初 期 (
体 とす る民族 主義 団体 ,宗 教 に基 づ く民族組 織 の三 つ の系譜 に分 け て説 明 した あ とで, この第
三 の系譜 の中 で と くにサ ミン主 義 につ い て触 れ てい る。 それ に よれ ば , サ ミソ運 動 は基 本 的 に
は宗教 を基 礎 とす る系譜 に含 まれ るが , それ ともやや性 格 を異 に してい るのは, そ の理念 が原
始 共 産主 義 の理 念 と同一 視 され る点 で あ る と指摘 し, サ ミソ主 義 の分枝 として発 展 したサ マ ッ
t
l主義 につ い て触 れ , そ こにみ られ る土地 と農 民 の結 合 の強 さお よびそれ に基 づ く「平等博愛 」
(
Hs
amarat
a samaras
a‥) の原理 を指 摘 してい る0
9
)イ ワの この指 摘 は, ケ- ヒソ と同様 に ,
サ ミソ主 義 が その後民族 的規 模 で拡 大 してい く可 能性 を は らん でい た ことを示 唆 す る もの で あ
る。
サ ミソ運 動 は従 来 多 くの研 究 者 の関心 を惹 い ていた わ け で あ るが , サ ミソ運 動 の実態 そ の も
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6)H.J
H.J
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3
9,この論文において,ベンダはサ ミン主義をアバンガンの一変種 と規
定 した 自説を撤回して,サ ミン主義がアバンガンとは別のものであったと述べている。 (
後述)
7)G.M.Kahi
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1,p
p.353
6.
増田与 『イン ドネシア現代史』中央公論社,19
7
2
3
7
東 南 アジア研究
9巻 2号
の に つい ての研 究 は見 当 た らなか った。1
0
)
と ころが,最 近 サ ミ.
/運 動 に関 す る二 つ の研究成果 が発 表 され, それ に関 してか な り詳細 が
明 らかに され てい る。 一 つ は ベ ンダ とカースル ズの共著 であ り,他 の一 つ は テ- ・シャ ウ ・ギ
ャ ッ プの もの で あ るol
l
)この各 々につい ては以下 の各 節 で触 れ てい くが, ペ ソ ダ らの ものは,
サ ミソ運 動 それ 自体 に考 察 の対 象 を極 度 に限定 した結果 , その特殊性 が ことにそ の宗教 観 との
関 連 で ことさ らに浮 き彫 りに され てい る。1
2
)チ -の もの は, もっぱ らサ ミン運 動 の経済 的基 盤
に着 目して,簡 潔 に論 を展 開 してお り,説 得 力 を もってい る。
本稿 では,事 実 関係 につ い て上 の二 つ の研 究 を もとに, その運 動 の起 源 と発展 (第 Ⅰ節) ,
I
I
節) につ いて整理 した上 で,最 後 に, ケ∼ ヒ
経済 的 背景 (
第 Ⅱ節) ,宗 教観 と生活規範 (
第I
ソ らに よって掃 摘 され てい る, サ ミソ運 動 の空間的 な連 続性 と,時 間的 な (
持続 性 でな く) 発
展 性 の二 つ の点 か ら,サ ミソ運 動 の意 味 づ げ を こころみ てみた い。 ことに, その後 のイ ン ドネ
シ ア民族 運 動 史 にお け る民族 思想 の発 展 の中 で,サ ミソ主 義 思 想 が もっていた意 味 は何 であ っ
た か につ い て考 察 してみ た い.
Ⅰ 運動 の起源 とそ の発展
サ ミソ運 動 の創始者 , サ ミソ ・ス ロセ ソテ ィ コは,1859年 ごろ ブ ロー ラ南方 の ラン ドゥ ブ ラ
トゥ .
/那 (
Randubl
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ung) 付近 の プ ロソ レジ 三村 (
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o) に
5人 兄弟 の次 男 として生 ま
れ た.1918年 に, サ ミソ運 動 に関 す る 報 告 を スマ ランで 行 な った当時 の イ ン ド党 領袖 のチ プ
ト ・マ ングソ クスモ に よれ ば, サ ミソは 5人 兄弟 の 2番 目で あ るゆ えに, ワヤ ソ物語 中 の プソ
ドオ王 国 の 5人 兄弟 の次男 に あた る ビ-マ王子 に農民 た ちか らなぞ らえ られ ていた とい う013)
サ ミソほ, 3バ ウ (
約 5エ ーカ ー) の水 田を所有 す る農 民 であ り,彼 の父 ,祖 父 ともに普通 の
農 民 で あった 。 (チ -紘,サ ミソが この 3バ ウの水 田のはか に,
1バ ウの乾 田 と 6頭 の牛 を持
っ ていた ことを掃 摘 して, サ ミソは,村 の上 層農 民 であ った と述 べ てい る。1
4
)
)
1
0
)わが国では竹村正子氏がサ ミソ運動の問題輪郭に触れている。竹村正子 「
帝国主義 と東南アジア」 『岩
波講座,世界歴史2
2(
近代 9)』岩波書店,1
9
69
,pp・1
7
01
7
7・
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) これらは各々,19
69
年 8月に クアラ ・ルンプールで開かれた 「
アジアの歴史に関する国際会議」(
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8.チ-の報告はベンダらの報告に コメン トを加える
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)運動 (
1
9
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0
年代
形で提出されている。なおペンダらのものは,上記の報告中,バ ・ス P (
中葉,サ ミン運動 とほぼ同地域でおきた運動で, 後共和国軍により, PKIの運動 とみなされて,掃討
作戦に会い壊滅した)に関する部分を除外してオランダの雑誌に掲載された。脚注 2)参照。
なおこれらの報告は,同会議に出席された永積 昭助教授の御好意により閲読の機会を得た。
12
)ベンダらの報告では,サ ミソ運動それ 自体の持続的性格がもっぱら考察の対象となっているが,
それは,
独立後なおもサ ミソ社会が存在し,しかもそれが,辛)ヨバイ ト未森の社会集団とともに記述されてい
ることをあまりに重視しすぎたためではないかと思われる。
1
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土 星 :サ ミソ運動 とイン ドネシア民族 主義
189
0年 ごろか ら, サ ミソほ周 囲 の農 民 を組 織 しは じめ た が , 当初 は オ ラン ダ植 民 地 官 吏 の注
意 を惹 か なか った 。 しか し,1
9
05
年 ごろか らサ ミソ の下 へ 集 ま りそ の教 え を信 奉 す る農 民 (サ
ミソ主 義者) た ち は, 次 第 に 社 会 的 な抵抗 を 始 め る よ うに な った 。 彼 らは まず , 村 の穀 倉
(
1
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a)へ の貢 納 を拒 否 し, 村 の牛 番 の義 務 を拒 否 した 。 この時 , サ ミン 自身 は税 の
支 払 い も拒 んだ 。
9
03
年 に , 南 ブ ロー ラ とポ ジ ョ ネ ゴ ロ地 区 の3
4カ村 にわ た っ て 77
2名
政 庁 の報 告 に よれ ば ,1
の サ ミン主 義 者 が お り, 1
907
年 に そ の数 は 3
000名 に達 し, そ の地 域 もンガ ウ ィ ・グ ロボ ー ガ
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ン, レンバ ン南 部 に拡 大 してい った とい う。 この年 の初 め, オ ラン ダ監 督 官 (
の オ ラン ダ人 官 吏 ) は ,3月
1日を期 してサ ミン主 義 者 が 反 乱 を企 て てい る とい う噂 を耳 に し,
サ ミソ らを逮 捕 し, 内 8名 を 島外 追 放 した 。 サ ミン 自身 は西 ス マ トラへ送 られ ,1
91
4年 に パ ダ
ソ で死 んだ 。政 庁 官 吏 の耳 に 届 い た噂 の 内容 は は ば次 の よ うな こ とで あ った 。 「ス ロ (
Sur
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)月
の 開始 (
1
9
07
年 2月1
4日) よ り新 時 代 が 始 ま る。 そ こでは納 税 の必 要 は な く, チ ー ク材 の伐 り
出 しは 自由 で あ る 。 サ ミソは 王 (
r
adj
a) とな り, 2人 の高 弟 は, ワヤ ン物 語 中 の称 号 を与 え
19
07年 3月 1日) 後 , サ ミソ とそ の支持 者 とは強 い男 に な り, ヨ
られ る。 パ イ ン の金 曜 日15) (
ー ロッパ人 とジ ャ ワ人 の官 吏 は女 に な る・
-」16)
しか し これ につ い て ベ ン ダ らは, この よ うな メシ ア的 な期 待 が 当 時 サ ミンを取 り巻 い て いた
農 民 の問 に それ ほ ど強 く存 在 して いた とは考 え られ ない と して, この よ うな噂 と これ に と もな
う メ シ ア的暴 動 - の期 待 感 が政 府 に よっ て意 図 的 に作 られ た と も考 え られ る と述 べ て い る。17)
事 実 , サ ミソ 自身 は訊 問 に答 え て, ラ ト ・ア デ ィル や - ル ・チ ョ ク ロの よ うな救 世 主 の到 来
云 々 に つ い ては, ま った く関 知 してい ない と答 え て い る。 政 庁 自身 , サ ミン らが 追 放 に値 す る
罪 科 を 犯 した とい う 事 実 を確 定 しえず , 彼 らの追 放 は, た だ , 再 び野 に放 つ こと- の危 機 感
か らな され た もの で あ った 。 この間 , ク ドゥ ソ ・ トゥ バ ン (
Ke
dung Tuban) で モ ドン ソ
(
Modongs
o
) な る男 が , サ ミソ らの逮 浦 に怒 っ て同地 の副 郡 長 (ジ ャ ワ人 ) 宅 を襲 った ほ か は
騒 擾 は い っ さい起 こ らず平 穏 で あ った 。
こ こ までが サ ミソ運 動 の第 一 段 階 で あ り, サ ミン らの逮 捕 流 刑 と と もに運 動 は小 休 止 した 。
しか し, サ ミソ運 動 の思 想 が 中 ジ ャ ワ北 部 か ら東 部 ジ ャ ワ まで拡 大 し, 支持 者 が増 大 して い く
の はむ しろ これ 以降 の ことで あ る。
まず 1
908年 ,ウ ォ ン ソ レジ ョ (
Wo
ngs
o
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edj
o
)とい う男 が , マ デ ィ ウソ付 近 の ジ ワン (
Dj
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wan)
地 区 でサ ミソ思 想 を広 めた 。彼 は ,税 支 払 い と賦 役 の拒 否 を農 民 に説 き, オ ラン ダの武 力支 配
15
)パインはジャワで用いられている五曜制の市場暦の呼称の一つ。これらは,Le
g
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Pa(
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Po
nWa
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won であ り,七曜制の曜 日との間に35日サイクルで組み合わせが繰 り返 されることになる。
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25,p
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3
9
東南 アジア研究
9巻 2号
か らの解放 の近 い ことを説 い て支持 者 を集 めたが,彼 と 2人 の指導 者 は逮捕 追 放 され , この地
区 での運動 は下 火に な った 。
1
9
1
1年 以降 , サ ミソの娘婿 に あた る ス ロヒデ ィソ (
Sur
o
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n) 紘 , エ ソ クラッ ク (
Pak
Eng
kr
ak) とともに, グ ロボ ー ガン地 区 でサ ミソの教 えを広 め て支持 者 を集 めた。サ ミソの も
う一人 の娘婿 カル ス イヤ (
Kar
s
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j
ah) の出身地 であ るパ テ ィ地方 に もサ ミソ思 想 は広 まった 。
1
9
1
4年 にサ ミソ運動 は頂 点 に達 した。 この年 , グ ロボ - ガソではサ ミソ主 義 者 に よる官吏 へ
の不敬 が み られ た。 マ デ ィ ウソ 北 方 の バ レレジ ョ (
Bal
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r
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dj
o
) で は, プ ロジ ョデ ィ クロモ
(
Pr
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odi
kr
o
mo
)とい う男が,税 が さ らに加重 され よ うとしてい る ことを説 き,従 って土地 調
Ka
j
e
n) では, カル ス ィヤ 自ら,
査 の役人 を欺 くよ うに と農 民 を扇動 した 。 パ テ ィの カ エソ (
ス ソダソ ・ジ ャ ヌル王子 (
Pang6
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anSe
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no
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) と名乗 り, 民衆 に対 して政 府 を無 視
す るよ う説 い て回 った 。 パ テ ィ南方 の ラ ラソ ガン村 (
Lar
ang
an)では,サ ミソ主義者 は納税 を
拒 否 し,村長 宅 を襲撃 して警官 と衝 突 し,死者 は なか ったが双方 に数 名の負傷者 を 出 した。襲
撃者 た ちは逮 捕 され パ テ ィの牢獄 に送 られ た。
Tape
l
l
an) で も, この1
9
1
4年 にサ ミソ主義者 の実 力
ポジ ョネ ゴ ロの西 南 に あ るタベ ラソ村 (
行動 が行 なわ れ た。 ソロ川右岸 に位置 す る この タベ ラソ村 では ,1
89
0年 以降 か らサ ミソ主 義者
が いた 。 彼 らは1
9
1
2年 以降 , ソロ川 の堤 の村有地 を賃 借 していた が ,1
9
1
4年 に な って地代 の支
払 いを拒 否 した 。 土地 は耕 作 者 の もの であ り,彼 らは "彼 らの権利 を知 ってい る'
'とい うのが
その理 由 で あった。彼 らは新 たに この土 地 を割 り当 て られ た農 民 を追 い払 い, 調停 にかけつ け
た副郡長 を くわや す きで脅 か したが,結 局彼 らは逮捕 ・投 獄 された 。
サ ミン運動 の創始者 サ ミソをは じめ,運動 の指導者 が いずれ も文 盲 であ った ことな らびにサ
ミソ運動 が一貫 して農村 での運動 であ り,都市 とまった く関係 しなか った こと1
8
)
に よ り,彼 ら
自身 は何 らの記録 も残 してい ない。サ ミソ運動 に関 す る記録 は, チ プ ト ・マ ン グソ クスモ の も
のを除 けば, いずれ も政 庁 官吏 に よって報告 され た ものだけ で あ る。 した が って, この1
9
1
4年
を頂 点 とす るサ ミソ運動 が その後 どの よ うに な ってい くのかは, サ ミソ運動 に関 す る記録 が残
され てい ない か ぎ り分 か らない。 ペ ソ ダに よれ ば ,1
9
3
0年 以降 サ ミソ運動 に関 す る情報 は まっ
た く途 絶 えた とい う。19)
19
1
7
年 , トゥバ ソの副駐在 官 ヤ スペル は,サ ミソ運 動 の経済 的基 盤 を中心 とした報告 を政 庁
に提 出 してい るが, それ に よれ ば,当時 2
3
05
世帯 がサ ミソ主 義者 として記 録 され てい る。 そ の
内 ,1
7
0
1世帯 は ブ p- ラ地方 , 2
83世帯 は ボジ ュネ ゴ ロ, パ テ ィ, レンバ ン, グ ロボ - ガン,
ソ
ガ ウィお よび ク ドゥ ス 地方 にみ られた。 (
地 図参 照) また , ヤ スペルが この報告 で指摘 して
18
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,p.2
09.
1
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.
240
土屋 :サ ミソ運 動 とイン ドネシア民族 主義
い る よ うに, サ ミソ運 動 は各 地 で多 少 そ の性 格 を異 に してい た 。 納 税 の拒 否 の範 囲 (い っ さい
の納 税 を 拒否 す るか,新 た に賦 課 され た税 のみ を拒否 す るか) ,官吏 へ の対 処 の仕 方 (これ に
Sa
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)
尊 敬 を払 うか否 か) につ い て地域 的 な差 異 がみ られ た。 ことにパ テ ィでは,サ マ ッ ト (
に導 かれ た サ マ ッ ト主 義者 た ちは ,
1
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1
4年 か ら 2
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年 に かけ て, 1
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0年 ごろ, 双 子 の 指 導 者
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)が東 西 か ら訪 れ ,平 等博 愛 (
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)の王 国 が 築 かれ る ことを信
じて運 動 を お こしていた 。
サ ミソ主 義 者 に関 す る記 述 が再 び現 わ れ て くるの は , イ ン ドネ シ ア共 和 国政 府 が 1
9
5
0
年代初
頭 に発 行 した地域 要 覧 『イ ン ドネ シ ア共 和 国』 に おい て であ る。 これ の中 ジ ャ ワ編 と東 ジ ャ ワ
編 に サ ミソ社 会 の記述 が あ る。 それ に よれ ば ,
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グ ロホ
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)郡 の 夕べ ラン村 に約 5
0
家族
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0名 のサ ミソ社 会 が あ り20), 中 ジ ャ ワの プ ロ- ラ県 , パ パ ソ ガ ン (
Ba
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n)村 を中心 と
す る ラン ドゥ ブ ラ トゥ ソ郡 も, サ ミソ社 会 として 当時 もなお有 名 で あ った ことが 記 され てい
る。21)
サ ミソ運動のひろがった地域
(
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241
東南 アジア研究
9巻 2号
Ⅱ サ ミン運動 の 経済 的背 景
サ ミソ運 動 が起 きて くる経 済 的 な背 景 に は, まず何 よ りも,倫 理 政 策 に よ る農 村 の再 編 成 に
対 す る農 民 の抵抗 が あった と言 え る。
中 ジ ャ ワと東 ジ ャ ワの北 部 一 帯 に ひ ろが る石 灰岩 土壌 の山林 地帯 は,従 来 天 水 に た よ る水 田
耕 作 が一 般 的 で あ り, オ ラン ダの砂 糖 農 園企業 が , ジ ャ ワ南部 の よ り肥 沃 な土 壌 を もつ ジ ョ ク
ジ ャ カル タ, ソ ロ地域 に集 中 した た めに,擢概 設 備 もほ とん ど発 達 しなか った 。 レンバ ン地 方
の 水 田耕 作 の9
0パ ーセ ン トが,天 水 に依存 し ていた こと, しか も この比率 が 189
0年 と1920年 の
.
30年 間 にほ とん ど変 化 の なか った ことを テ ーは指 摘 して, この地域 の土 地 生 産 性 の低 さを 明 ら
か に してい る。 そ して彼 は ペ ソ ダ らが水 田面積 当 りの人 口密 度 の低 さを指 摘 す る こ とに よって
この地 域 が他 の ジ ャ ワの諸 地域 に比較 して と くに貧 困 で あった とい う説 に疑義 をは さん でい る
こ と22)に対 して批 判 してい る。23)
と ころで,植 民 地政 庁 が この地 域 で主 要 な経 営 目標 とした のほ, チ - ク材 の栽 培 で あ った 。
9世 紀 末 よ り, レンバ ン, プ ロー ラ一 帯 の山林 に は, チ ー ク林 が激 増 し,192
0年 の ブ ロ
こ とに 1
89
4年 か ら,187
4年 以降
ー ラ地 区 では ,全 面 積 の 4割 が チ - ク林 で 占め られ た 。 オ ラソ ダほ ,1
私企業 の手 に委 ね られ てい た チ ー ク栽 培 地 域 を政 府管 轄 林 (
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n) に移 行 させ , 森
林 監 督 庁 の直接 管 轄下 に置 いた 。 ことに ブ ロー ラ と グ ロボ ー ガ ン地 区 では ,1
918年 までに, ほ
とん どの森林 地 域 が,政 府管 轄林 とな った 。 新 た な森 林 の管 理 体制 が整 え られ , そ の結果 ,農
民 た ちは チ ー ク林 の落 ち木 を拾 う こ とさえで きな くな り, そ のた め ,
盗 伐 が各所 でみ られ た 。24)
サ ミソ運動 の起 こった地 域 が , チ ー ク材 森 林 地 域 とは ば重 な り合 ってい る ことは , チ ー ク林
へ の政 庁 の新 た な介 入 が , サ ミソ主 義 者 の結束 を もた らした一 つ の理 由 として あげ られ るが ,
これ は, い うまで もな く,倫理 政 策下 に おけ る政 庁 の新 た な土地 経 営 (
政 庁 自 ら農 園経 営 を行
な う) の一 形態 で あ る。
一 方 また ,政 庁 は倫理 政 策 の一環 として1
9
06年 に 「村 落 自治 体 条 令 」(
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)を公布 し, これ を通 じて村 落首 長 の権 限 を強 化 し, これ に村 落行政 の責 任 を負 わ
しめ る ことに よっ て倫理 政 策 の 目標 に沿 った農 民 の福 祉 ,繁 栄 を実 現 し てい こ うとした 。 この
た めに, 村 落 公 庫 (
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),穀 倉 (
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),村 落融 資機 関 (
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a),村 落
学校 (
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),教師用職 田 (
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会所 (
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)等 に関 す る諸 規 則 が設定 され た 。25)
ス タル ジ ョ ・カル ト- デ ィ クス モは そ の
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土星 :サ ミソ運動 とイン ドネシア民族主義
著 『村 落』 の中 で, これ ら一 連 の諸 規 則 は ,村 落 自治 に委 ね られ る形 で行 なわ れ た とは い え,
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us) ない し 「強 い命 令 」 (
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) で行
そ の実 体 は 「や わ らか な命 令 」 (
なわ れ た ことを指 摘 して, 結 局 これ は , り村 落 の伝 統 的 な オ - トノ ミノ 'を 目新 しい オ ー トノ
ミノ 'が上 か ら包 摂 し よ う と した もの で あ る と述 べ て い る026) そ して, それ に対 す る農 民 の 反
対 が サ ミソ運 動 の 中 で顕 現 し て きた の で あ り,政 府 よ り発 せ られ るい っ さい の規 則 は無 効 で あ
り, これ に伴 う諸 義 務 は これ を行 な う必 要 が ない と され るに い た った , とス タル ジ ョほ述 べ て
い る027' こh'
らの 諸 規 則 が 現 実 に 遂 行 され る場 合 に は , 子 弟 へ の教 育 負担 , 役 畜 飼 育 の負担
(こ とに ベ ン ガル か ら輸 入 され た 水 牛 の共 同飼 育 の負 担 が顕 著 で あ った 028)) 等 とな っ て あ らわ
れ , それ へ の抵 抗 とし て, サ ミソ主 義 者 は, 子 弟 の就 学 拒否 ,共 同飼 育 の 拒否 等 を行 な った の
で あ る。
それ では , この地 域 で と くに サ ミン主 義 の運 動 が 起 こった の は何 故 か , また , サ ミソ運 動 に
参 加 した の は どの よ うな農 民 層 で あ った のか に つ い て,経 済 的 側 面 か ら説 得 的 な議 論 を展 開 し
て い るの は テ ー の報 告 で あ る。
チ プ トは サ ミソが ゴ ゴル (
gogol
) 農 民 で あ った と指 摘 し て い るが , テ ーは この指 摘 に 注 目
し て, サ ミン運 動 の担 い手 が ,村 の上 農 部 分 を形 成 す る土 地 所 有 者 で あ った と述 べ て い る。29)
ゴ ゴル農 民 とは ,家 屋 敷 , 磨 , 農 地 を所 有 し, 結 婚 して い る 農 民 を指 す 。 この ゴ ゴル 農 民
(中核 農 民) は村 落構 造 の中 で上 層部 を形 成 して い る。
と ころ で中 ジ ャ ワの い くつ か の地 域 で
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kep) と も呼 ば れ る。 サ ミソ主 義 者 は 自 らを ,`
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シ ケ ッ プの民 '
'
は , この ゴ ゴル は シ ケ ツ プ (
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p) と呼 んだ が , この wOngS
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ke
pは ,通 常 , 「抱 擁 す る老 」 とい う意 味 で解 され
て い る。
しか し s
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p の本 来 の意 味 で あ る "奉 仕 義 務 の あ る" とい う点 を考 慮 すれ ば , 先 の
ゴ ゴル農 民 と同様 に, これ が村 落共 同体 の基 本 的 な構 成 部 分 を な して い る農 民 の呼称 で もあ る
adat
)に従 えば ,村 落 共 同体 の
こ とに着 目で き よ う,とテ ーは述 べ てい る。30) ジ ャ ワの慣 習 法 (
十 分 な資格 を もつ構 成 員 は ,そ の権 利 と と もに奉 仕 義 務 を も分 与 され てい るか らで あ る。実 際 ,
サ ミソ運 動 を特 色 づ け る納 税 拒否 は , 貧 農 層 よ りも富 農 中農 層 か ら起 きて くる可 能 性 が強 い 。
レンバ ン地 区 の場 合 ,人 頭 税 は農 地 を所 有 しな くて も家 を所 有 して い る農 民 か ら も徴 収 され ,
また結 婚 ,離 婚 の費 用 も貧 富 の差 な く徴 収 され た 。 しか し,地 代 ない し他 の現 金 課 税 (村 の諸
公 共 機 関 の た め の税 , ベ ン ガル 水 牛 の購 入 ・飼 育 の費 用 ) 紘 , もっぱ ら "シ ケ ッ プの民 " に課
せ られ る ことに な った 。31) この地 域 では ,1892年 よ り1907年 に つ い てみ れ ば ,年 々土 地 の個 人
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,p.3.
24
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東 南 アジア研 究
9巻 2号
所有 が増加 し共 同体 所有 の減 少が み られ,共 同体所 有 につ い て も,年 々の割 り替 えか ら固定 持
9
07
年 のみ ,共 有 地 の固定持分 の比率 が減 少 した
分 へ移行 してい く傾 向 に あった。 と ころで ,1
906年 の 「村 落 自治 体条 令」 の施行 が関連 す るで あろ
が, それ は,先 に ス タル ジ ョが指摘 した 1
うとテ ーほ述 べ てい る。 テ一に よれ ば, この条 令 は,村 落 の共 同体 的紐帯 を強 化 す る方 向 で,
村 落福 祉 の増 大 を図 ろ うとした もの で あ る とは い え, それ は結 局, この地 域 の村 落 に進行 しつ
つ あ った土地 の個人所有 化 の傾 向 と適 合 しなか った の であ り, それ へ の抵抗 が土地 と密接 につ
なが った サ ミソ主 義者 の運動 として持続 的 に発 展 してい った の であろ ラ, とテ ーは示 唆 してい
る。32)
Ⅲ サ ミン運動 の宗教 観 と生 活規範
サ ミソ運動 が, 同時期 にジャ ワの各 地 で頻 発 していた農 民運動 の中 で ことに注 目され て きた
のほ, それが もつ独特 の宗教観 お よび この宗教 観 か ら導 き出 され て くる生活 規範 の ゆ えで あっ
た と言 え よ う。多 くの観 察者 が一 致 して認 め てい るよ うに,サ ミソ主義 者 は,勤 勉 であ り非暴
力主 義 に徹 し,耕 作者 として他 の農 民 の手 本 とす るに足 るほ どそ の農業 耕作 は巧 み で あ り,女
性 - の尊敬 の念 も強 い 。33)
先 に も述 べた よ うに,サ ミソ主義者 自 らは彼 らの教 義 に関 して何 らの記録 も残 してい ないた
め,彼 らの宗教 観 ,生 活 規範 につ い ては政 庁 (
独 立後 は共和 国政 府) の役人 に よって解 釈 され
直 され てい る側面 のあ る ことは否 定 しえない。 それ らの 記 録 に従 うと, サ ミソ 主 義者 の宗教
観 ,生 活規範 ははば次 の よ うな もの とな る。
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enabiadam) と名付 けた。政 庁 の
サ ミソ 自身 は その教 義 を "予 言者 ア ダ ムの科学" (
訊 間者 に答 えた と ころでは, サ ミソほ, ア ヅ ラーその他 の絶対 者 は見た こと もないか らその存
biとは女 を意味
在 を信 じない。 同様 に天 国 も地獄 も信 じない, とい う。 サ ミソに とって, na
dam とは男 を意味 す る。 また ,サ ミソ主 義者 た ちは, その妻 を "シ ケツ プ" と呼 び彼 ら
し,a
自身 を 「抱擁 す る者」 とい う意 味 で …シ ケツ プの民" と呼 んだ。 「
神 は 自らの 内に あ る」 とい
うのがサ ミソの信 念 であった 。34)サ ミソの初期 の高弟 が政 庁官吏 ヤ スペル に語 っ た と ころに よ
れ ば,サ ミソの与 えた倫理 規程 は次 の よ うな もの で あ った。 す なわ ち, 「怠惰 で あ るな 。 嘘 を
つ くな。盗 む な 。 姦 淫 す るな O 忍耐強 くあれ。侮辱 され て も耐 え忍 べ。金 や物 を誰 に も乞 うて
ほ な らぬ。 もし人 か ら金 や物 を乞われ た らこれ を与 え よ。」35)また ,結婚 に際 して村 のイス ラム
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土 星 :サ ミン運 動 とイン ドネ シ ア民族 主義
教 関 係 の役 人 で あ る プ ソ フル (
penghul
u) や ナ イ ブ (
nai
b) の 立 会 い は不 必 要 で あ る と, サ ミ
ソ は説 い た 。36)
これ らか らみ られ るサ ミソ の教 義 に つ い て ベ ン ダ ら とテ ー とは , と もに そ の 非 イ ス ラ ム的 性
格 を括 摘 し, ベ ン ダ らほ , 形 式 的 に せ よイ ス ラ ムを受 け 入 れ て い る アバ ン ガ ン農 民 と, サ ミソ
主 義 者 とを さ らに 区 別 し て い る 。 ペ ソ ダ らは , そ れ を ,農 村 部 で も っぱ らアバ ソ ガ ン農 民 に担
わ れ て いた イ ス ラ ム同盟 の運 動 が 1910年 代 前 半 か ら この地 域 に 浸 透 し て きた に もか か わ らず ,
サ ミン運 動 が イ ス ラ ム同 盟 に 吸 収 され ず に存 続 した こ とを強 調 して , サ ミソ主 義 の もっ て い た
宗 教 観 の 独 自性 を指 摘 す る 。37)そ の 独 自性 は , ペ ソ ダ らに よれ ば , サ ミン の教 義 の 内 に み られ
る性 の神 秘 (生 命 創 造 の神 秘 ) へ の信 仰 と し て抽 出 され る もの で あ る38)が , テ ー ほ , 同 じ くこ
の 点 を指 摘 し な が ら,性 の神 秘 - の信 仰 が , 農 耕 社 会 の伝 統 的 な儀 礼 と結 び つ くもの で あ り,
そ れ は , サ ミン主 義 者 と土 地 との結 合 の強 さを物 語 る もの で あ ろ う と述 べ て い る 。39) サ ミソ主
義 者 た ち は , ど こ で生 まれ た の か と問 わ れ る と, しば しば , 「私 は大 地 で生 まれ た 」 と答 え た
とい う040)
土 地 との結 合 の強 さは , 農 業 生 産 だ け が 生 産 活 動 と し て認 め られ う る もの で あ る とい う彼 ら
の 確 信 を導 き, 農 業 生 産 を通 じて人 々は ま った く平 等 の 立 場 に立 つ とい う確 信 を導 く。 彼 ら
ngoko,相 互 に対 等 な い し下 位 の者 に対 し て用 い るジ ャ ワ語 )を使 用
が , 誰 に対 し て もン ゴ コ (
)
, (そ れ は HDj
awa Dwi
pa" な い し ‥Dj
awa Lugu'
' と呼 ば れ た 。4
2
)
) 他人 に呼 び
した こと41
dul
ur") とい う語 を も っぱ ら用 い た こ と43), 彼 らの 好 ん で 唱 え た 言
か け るの に "兄 弟 〃 (HSe
ュ
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ukulpar上ngunduhparュ
")
葉 が "苗 を植 え, 育 て, そ し て稲 穂 を摘 む " 44) ("nandurpar
辛 "土 地 と水 と林 とは , 共 通 の財 産 で あ る" 45) (‥Lemah paヰa duwg, banj
u paqa duw6,
36)『イン ドネシア共和国要覧東 ジャワ編』中には次の よ うに記 されている。
「
結婚は, 彼 ら (
サ ミン主義者)独 自の儀式にのっとって行なわれ る。 まず男 と女が接触 し双方が同意
した ら,彼 らの両親はその ことを村長に報告す る。結婚の承認ないしその決定は彼 らの両親に よってな
‥br
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ko
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n‥ これは,スラマタンと同様のものである)の
され るのみである。その後はじめて,祭宴 (
日取 りが決め られ る。時には, ワヤンの上演や多 くの馬車に よってそれが祝われ ることもあるO また,
遺骸の浄めその他は一般 と同じであるが,埋葬の際に回教僧に よって経文が読み上げ られた り,引導が
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テ-ほ, この一例 として,稲の実 るのを人間の妊娠になぞ らえる風習をあげてい るが, (
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,p.1
3)同様の例は宇野円空氏に よっても収集 されている。 宇野 円空 『マ ライシアに於
け る稲米儀礼』,東洋文庫,1
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東南 アジア研究
9巻 2号
kaj
u pa卓a duw6‥) であった こと等 は, いず れ も 「サ ミソ主 義者 の 思想 の中心 には 土地 が あ
」 ことを示 す ものであろ う。 したが って また,植 民地政 庁が ,我徴収 のた めに農地 の調査
る461
を行 ない土壌 を検査 す る こと,
米穀 の貯蔵 を 申 し伝 え る こと,木材 の伐 り出 しを禁 ず る ことは,
すべ て農 民 と土地 との神聖 な結合 を侵 す もの と意識 され , これ らは すべ て拒否 され る ことに な
る。サ ミソ 自身 は盗 み を禁 じ,
実 際 にサ ミソ主義者 が盗 み をせず嘘 をつかず約束 を守 る ことは ,
ヤ スペル に よって も,共和 国発行 の 『東 ジ ャ ワ要 覧 』 お よび 『中 ジャ ワ要 覧』 の記述 中 で も宿
摘 され てい る。47) サ ミソほ, チ - ク材 を伐 り出す ときには, その前 に その ことを村長 に公言 し
て これ を行 な った とい う。48)
さ らに また,サ ミソ主義者 は,「
商 人 は不正直 なや り方 で利益 を得 るもの491
」 との見地 か ら,
あ とう限 り自給 自足 の生 活 を営 んだ 。 その点につ い て 『中 ジ ャ ワ要覧』 の中 では次 の よ うに述
べ てい る。「農産物 の販売 は彼 ら自身 が どうして も 生 産 しえない 品物 との交換 のた めに行 なわ
れ るのみ であ り,主要 な食料 は,つね に彼 ら自身 で用意 してい る。 衣服 も, きわ め て簡素 な 自
家織物 で十分 間 に合 わせ てい る。 日本 占領時代 ,ほ とん どすべ ての イン ドネシア人 民 が,着 る
に こと欠 き, しゅ ろの葉 で織 られた ズボ ンや衣服 を身 に 着 け ていた のに反 し, サ ミソの人 々
紘,彼 ら自身 の 織物 で 十分 間 に合 わせ ていた 。 彼 らの ス ロー ガンは 自助 (
sel
fhel
p) であっ
た。」50) 彼 らが婚 礼 に当た って, プソ フルや ナ イ ブの立会 いを 不 必要 とした ことも, イス ラム
儀 礼 - の反感 か ら生 じた 5日とい うよ りも,金 銭 の出費 を極 度 に お さえ よ うとす る彼 らの 自給 自
足 的 な生 活形態 を反映 した もの であろ うとテーは述 べ てい る。52)
Ⅳ
サ ミン運動の普遍性
以上 に概 観 して きたサ ミソ運動 は,第 1に当時 のイ ン ドネシア諸地域 , と りわ け ジ ャ ワ島各
地 に頻発 していた農 民運動 とどの よ うに関連 づ けて捉 え られ うるだ ろ うか。 また第 2にその後
の イ ン ドネシア民族運動 の中 で,サ ミソ運動 が もっていた意味 は何 であろ うか。 この 2点につ
い て整理 してみた い。
1.19世 紀末 か ら20世紀 にかけ てのイ ン ドネシアでは ,1870年施行 の土地法 と1901年 以降 の
倫 理政 策 に よって,農村部 に おい て もさまざ まな変 化 が招来 され, その結 果 ,農 村 では宗教 運
動 と結合 した農 民反乱 が各地 でみ られた 。 これ らの農 民運動 につ い て, ガジャ ・マ ダ大学 のサ
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5
1)『イン ドネシア共和国要覧』中では, サ ミン主義者と他の宗教との関係は きわめて良好であると述べら
れている.(
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土星 :サ ミン運動 とイソ ドネシア民族主義
ル トノ ・カル トデ ィルジ ョほ, これ を社会運動 ない し宗教運動 と名付 け, これ らの運動 の共通
性 について次 の よ うに まとめてい る。53I
1
) 運動 の指導者 について 。
(
a) これ らの指導者 は予 言者 ,教 師,呪術 師 ,祈商 医師 ,救世主 として現われ,いずれ の場
wa
hj
u) を受 けた ことが 指導者 としての 正当性 を彼 に与 え る ことに な
合 に も "聖 な る啓示" (
る。
(
b) 据 導者 はいずれ もジャ ワ民衆 の中に あ る至福千年 へ の期待 を代弁 す る。 いずれ の指導者
も,超 自然的 な力 (
ke
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amat
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u,s
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i等) を有す るとされ る。 掃導者 は不死身 であ ると
dj
i
mat
) に よ り追随者 はその不 死身性 を分与 さ
信 じられ てお り,指導者 か ら配布 され る護符 (
れ る ことに な る。
(
C
) 緒尊者 と追随者 との関係 は, もっぱ ら個 人的 な帰依 の関係 として成 立 し, ひ とつの教義
集 団が組 織化 され ることは きわ めて まれ であ る。
2) 運動 のイデオ ロギー的形態 につい て。
(
a
) 現体制 の トー タル な否定 と 千年王 国到来 -の期待 がその基 本に あ る。 未来 の理想世 界
は,普通次 の よ うに描 かれ る。 "時至れば, もはや争 い も不正 もな く,苦悩 もない。人民は貢
税 と賦役 か ら解放 され,病 い も盗 み もない。衣 食はみ ち足 り,すべ ての者 が家 を持 ち平和 に暮
らす。"現在 か ら至福千年世 界 へ の転機 には大変動 が訪れ るが,その際 の メシアが ラ ト・アデ
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o または,He
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o,終末観) であ る。
ィル ない し-ル ・チ ョ クロ (
(
b)
この ようなジャ ワの 神秘主義的 救世思想 の伝統 は, 通常 , イス ラムに おけ る救世思想
(
Ma
hdi
s
m) と合体 す ることに よって,宗教運動 に軍事的 な要素が導入 され,異教 徒 と外 国支
配者 に対 す る憎悪,敵 対観念が強化 され る。反乱 は聖 戦 であ り, ヨー ロッパ人 の絶 滅がそのス
ロー ガンに掲 げ られ ることに な る。
(
C)
復 古主義 とは,彼 ら本来 の土地 が再 び 自らの もの とな り, 白人 の支配者 は消 えて,往時
の王権が再 び君臨 す るとい うものであ る。 これは/ミンチソにおい てほ,バ ンテンスル タン王家
の復 活, スンダにおいては, ラ ト ・アデ ィルのスソ ダ的形態 であ るラ ト・スソダの到来 に よる
スソダ王家 の復 活 として唱 え られ る。いずれ の場 合に も,外 国文化 の受容 そ の ものが不信 の 目
でみ られ, これ を受け入れ あ るいは外 国支配 の体制 を担 う者 は,不浄 の者 として軽蔑 され憎悪
され る。 従 って反乱 の際には,政 庁支配機構 の末端 に あ る土着官吏 が攻 撃 の対 象に され ること
にな る。
3) 運動 の発 展 の形態 は一般 に次 の ようにな る。
"聖 な る啓示" を体得 した者 が指導者 とな り,彼 へ の帰依が個人的関係 で集中 し,至福千年
5
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2
4
7
東南 アジア研究
9巻 2号
的 終末 観 とイ ス ラム的聖戦 観 念 に よって,措 尊 者 を中心 とす る宗教 集 団 の運 動 は加 速 化 す る。
そ して反乱 として爆 発 す る場 合 に は, (
反乱 以前 に指 導 者 が逮 描 され る場 合 も多 い。)政 庁 の圧
倒 的武 力 に よって反乱 はただ ちに鋲圧 され ,指導 者 が逮 捕 され る と ともに,運 動 はた ち まち瓦
解 す る。運動 はつね に小規模 であ り特 定 の村 ない し郡 に限定 され るの であ るが , この種 の運 動
は 同 じパ ター ンで他 の地域 に おい て反復 され る ことに な る。 宗教 運 動 の指 導 者 はおおむね 村 落
エ リー トの中 か ら発生 す る。
サル トノは,以上 の よ うな共 通 性 を ,1
9世紀 ,20世紀 のジ ャ ワの農 民運動 を具体 的 に と りあ
9世 紀 末 か ら20世紀 に かけ て, ジ ャ ワ各 地 に農 民 反乱 が勃発
げ る中 で抽 出 してい るが , ことに 1
した のは,賦 役 と課 税 の増 大 ,砂糖 栽 培 をめ ぐる土 地 係争 問題等 の, オ ラン ダの植 民地 政策 と
直 接 に結 びつ け られ る もので あ り,村 落 の伝 統 的秩 序 を破壊 し よ うとす る社 会 経 済 的制 度 の導
入 に対 す る村 落 の抵抗 形態 とみ な し うるの では ない か と述 べ てい る。
以上 にみ た よ うな農 民運動 の性 格 とサ ミソ運動 とは まった く別 の性格 の運動 であ った と言 い
うるであ ろ うか。
9世 紀 ,2
0世紀 の ジ ャ ワの社 会運 動 ,宗教 運動 の中 でサ ミソ運 動 につ い ては何
サ ル トノは ,1
ら言及 してい ない。 ペ ソ ダお よび テ ーほ, サ ミソ運 動 が イ ス ラム的影響 をほ とん ど受 け てい な
か った ことを指 摘 してい る。実 際 にサ ル トノが挙 げた特 徴 を各 々サ ミソ運動 の場 合 に て らして
み る と, サ ミンの教 義 そ の ものは, "聖 な る啓示 " か ら生 まれ た とはお そ ら く言 え ない であろ
うし, サ ミソ 自身 が ラ ト ・アデ ィル であ る ことを否 定 し絶 対者 の存 在 を否 定 してい る以上 ,彼
は至 福 千年 王 国 の代 弁者 とは な りえない。聖 戦 の観 念 ももち ろんみ られ ない。 ただ しサ ミソ と
そ の追 随者 とが,個 人 的 な帰 依 の関係 で結 合 され ていた ことは考 え られ る。 サル トノが ジ ャ ワ
の宗教 運動 の共通 なパ ター ン として指 摘 した要 素 の うち, `聖̀ な る啓示 " とメシ ア思 想 が その
指 導者 に認 め られ ない とい う点 で, サ ミソ思 想 は独 自の性格 を形成 してい る と言 え よ う。 その
独 自性 につ い ては さ らに後述 す るが, それ は, サ ミソ以外 の宗教 運動 が , 「失 われ た王 国」 の
再 興 をそ の復 古主 義 の内容 とした 54)のに対 して, サ ミソにおけ る復 古主 義 は, ジ ャ ワの王 国以
前 へ の復帰 であ り, それ は, ヒソ ドゥ以前 の ジャ ワ社 会 が 想定 され て いた にせ よ, 「時至 れ
ば , もはや争 い も不正 もな く, ---」 とい う形 で措 かれ る理 想 世 界 を, メシ アの介在 な しに現
5
4)バンテンやスソダにおける宗教運動が,その地での 「
失われた王国」であるバンテン王国やスンダ王国
の再興を 目指しているのみでな く,サル トノがジャワの宗教運動の実例 としてあげている1
8
71
年の コブ
Ko
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)運動や1
8
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7
年のジャスマニ (
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) 事件においても王国の再来が 唱えられている。
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)
このような王国再興の運動は,.
1
7クラム王国の心臓部であるジョクジャカルタや ソロにおいても発坐
している。(
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)このことは明らかに,ジャワの現存の王国であるマク
ラムそれ自体が,オランダの支配下に入ってしまった とい う判断が宗教運動の中で下されていたことを
9
世紀後半に入って (
つまりディポネゴロ戦争によって,マタラムの
示す ものであろ う。このことは,1
抵抗力が著しく弱体化したのちに)ジャワの各地で宗教運動が頻発してくることと関連するものであろ
う。
2
4
8
土星 :サ ミン運 動 とイン ドネシア民族主義
実 の生 活 規範 を通 して実 現 し よ うとした 点 に あ った 。
しか し, サ ミソ 自身 の教 義 につ い てのみ見 れ ば ,他 の宗教 運動 との間 に共 通 性 はほ とん どな
い と言 え るにせ よ, サ ミン運 動 と総 称 され る サ ミソ 主 義者 の行 動 の経路 を み てい くと, そ こ
に は きわ め て類似 した要 素 が で て くる。 サ ミソの娘婿 カル ス ィヤの場 合 や ,サ ミソ運動 の- 変
種 とされ てい るサ マ ッ トの場 合 には,他 の宗 教 運動 とほ とん ど同 じパ タ- ソを示 してい ると預
推 し うる。 サ ミソ 自身 が ラ ト ・ア デ ィル と同一 視 され ていた ことも, 「作 り話 」 として のみ 片
付 け る ことは で きない。 サ ミソ 自身 が ワヤ ン物 語 の ビーマ王子 に なぞ らえ られ ていた とい う こ
と と,彼 が ラ ト ・アデ ィル祝 され る こと とは 同質 の ことで あ り, それ は,サ ミソ運 動 の担 い手
た ちが ,他 の ジ ャ ワと共 通 な文 化伝 統 に立 っ ていた ことを示 す ものにほ か な らない。 今 日のサ
ミソ社 会 で∴ ス ラマ タン (
Se
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an, ヒソ ドゥ - ジ ャ ワ的 な祭 礼 。 彼 らは これ を, ブ ロコ-
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ko
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n と称 してい る) や ワヤ ンの上 演 が 時 に応 じて行 なわ れ て お り55)
, サ ミンの教 え
ソ- b
が , ヒソ ドゥ的 カル マの教 説 として説 かれ てい る こと56)も, サ ミソ社 会 と他 の ジ ャ ワ農 村 社 会
との文 化伝 統 の共 通 性 を示 す もの で あ ろ う。 しか も また , サ ミソ主 義 にみ られ る平等 原理 は ,
ス タル ジ ョに よっ て イ ン ドネシ アの村 落 の基 本 的性 格 として維 持 され て きた と指 摘 され てい る
「村 落 の伝 統 的 な オ - 下ノ ミ-」 で あ り, この オ - トノ ミーが政 庁 に よって持 ち込 まj
Lた 「
新
しい オ - トノ ミ← 」 と衝 突 した場 合 の村 落 の抵抗 の形 態 が ,サ ル トノの い うよ うに さ まざ まな
形 での農 民 反乱 として現 象 して くるの で あ る以上 , サ ミソ運 動 も他 の 宗教 運 動 と同 じ基 盤 に立
っ ていた と言 い うるで あ ろ う。
に もか かわ らず , サ ミソ運 動 に おい てほ,据 導 者 の 出現 - 指導 者 - の個人 的帰 依 の集 中- 皮
乱 勃 発 と武 力鎮 圧 (
指導 者 の逮 捕 ない し殺害 ) -運 動 の瓦 解 - 他 の場 所 での新 た な指 導者 の 出
現 , とい う形 を と らず , サ ミソ運 動 そ の もの として,サ ミソの逮 捕 流 刑 に もか かわ らず運 動 が
継 続 発 展 してい った のは,先 に も述 べ た よ うに,サ ミソ 自身 の教 義 に至福 千年 的 な要 素 がみ ら
れ なか った とい う こと とともに ,サ ミソ運 動 が発生 ,発 展 してい った地 域 の独 自性 に関連 す る
もの で あ ろ う。 この地 域 に お け るオ ラン ダの土地 経 営 が ,他 の大 部 分 の ジ ャ ワに比 して,比較
9
世紀 末 か らな され る経 営 も, もっぱ ら山林 におけ
的 後年 まで行 なわ れ なか った こと, しか も1
るチ ー ク林 の植生 に 向け られ ,農 地 そ の もの は植 民 地 的 経 営 の範 囲外 に あ った とい う ことは,
お そ ら く 「村 落 の伝 統 的 なオ - トノ ミ-」 が , この地 域 に お い て よ り強 固 に維 持 され ていた こ
とを示 す もの で あ ろ う。 この ことは ,先 に述 べ た テ ーの括 摘 , す なわ ち, サ ミソ主 義 者 が 良 き
耕 作 者 として知 られ , かつ村 落 の中核 農 民 よ り成 り, それ ゆ えに ,彼 ら と土 地 との結 合が きわ
め て密接 で あ った とい う こ とに照 応 し よ う.
「村 落 の オ - 下ノ ミ-」 の強 さほ,農 民 と土地 の
Mus
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a結 合 の強 さを そ の基 礎 とす るか らで あ る。 事 実 , サ ミソ社 会 に おい てほ, ムシ ャ ワラ (
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7
2;および脚注 3
6
)参照。
5
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249
東 南 ア ジ ア研 究
9巻 2号
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,話 し合 い の原則),ムファ カ ッ ト(
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,全 員一 致 の原則),ゴ トン ・ロ ヨ ソ(
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Roj
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ng,相 互扶 助 )等 ,農 民 と土 地 の結 合 を成 立 させ る現 実 的 な基 盤 が ことに顕著 に認 め られ
てい る。57)
2.ベ ン ダ らほ, サ ミソ運 動 とイ ス ラム同盟 との関連 につ い て次 の よ うに述 べ てい る。 イ ス
ラ ム同盟 の運 動 は, 都 市 に お い てほ,純 粋 な イ ス ラム教 徒 (サ ン ト1
))に担 わ れ てい た にせ よ,
農 村 では お そ ら くイ ス ラム同盟 が もっ とも浸透 した のほ アバ ンガ ン集 団 に対 して で あ った . こ
の アバ ン ガ ンは, ジ ャ ワの伝 統 的救世 観 を イ ス ラム同盟 に託 す る こ とに よっ て, (ことに イ ス
ラ ム同盟 の指 導 者 , チ ョ ク ロア ミノ トとェル ・チ ョ ク pとを同一 視 す る ことに よっ て) , イ ス
9
世 紀 末 以降 の ジ ャ ワ
ラ ム同盟 の運 動 に ジ ャ ワ救世 思 想 が継 承 され る ことに な った 。 それ は ,1
各 地 の宗教 運 動 が イ ス ラム同盟 の内 に包摂 され てい った ことを示 す もの であ るが ,一 方 , サ ミ
ン主 義 は救世 思 想 を持 た なか った ゆ えに, イ ス ラム同盟 の巨大 な うね りに巻 き込 まれ 消 滅 す る
こと もな く, それ 自体 の運 動 とし て持 続 してい った の で あ る。58)
それ では , サ ミソ運 動 の意 味 は,独 立後 な お,サ ミソ社 会 と呼 ばれ るよ うな社 会集 団 を形 成
0
世紀 の イ ン ドネ シ ア史 に おけ
してい た とい うそ の特 異 な性 格 に のみ求 め られ るで あ ろ うか 。2
るサ ミン運 動 の意 味 は ,む しろ, ケ- ヒソが指 摘 してい る よ うに, そ の後 の民族 運動 の中 で,
それ が民 族 的 な水 路 -流 れ こん でい く点 に あ るの では ないだ ろ うか。
具 体 的 な関連 につ い て ケ- ヒソほ記 述 してい ないが ,サ ミソ主 義 にお け る,耕 作者 の 自立性
,
それ よ り発 して くる平等 原理 が , そ の後 の近 代 的 民族 運動 に対 して,一 つ の理 想 的 な イ メ-ジ
を与 えた ことは想 像 に かた くない 。
これ に つ い て考 え うるい くつ か の点 を以下 に列 挙 してみ た い。
1) チ プ ト ・マ ン ダ ン クスモ とサ ミソ主 義
サ ミン主 義 を最 初 に注 目した民族 主 義 者 は, お そ ら くチ プ ト ・マ ン ダン クスモ で あ り, チ ブ
トに よっ て見 出 され た サ ミソ主 義 こそ, サ ミソ運 動 とそ の後 の民族 運動 とを思 想 の レベル で結
合 させ てい くもの に な った もの であ ろ う.
これ は, チ プ トが 1
9
1
8
年 に 『サ ミソ主 義 』59)の報 告 を スマ ランで行 な った ことに示 され るが ,
そ の報 告 が ほ か な らぬ チ プ トに よって な され た ことに よ りい っ そ うの意 味 が あ る.
中 ジ ャ ワの ア ンバ ラ ワに生 まれ た チ プ 7
.紘 ,1
8
8
9
年 ジ ャ カル タの医学 校 へ 入学 し, 医 師 の称
号 を得 て1
9
0
5
年 に卒 業 した後 ,民族 運 動 の さ まざ まな流 れ (ブデ ィ ・ウ トモ か ら共産 党 まで)
)
と接 触 し関与 す る とい う特 異 な道 を歩 んだ 。 そ の チ プ トが 自 ら 「ク ロモ の子 」 (ジ ャ ワの貧 民)
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") と称 され た のは, 彼 が ク ラ トソ
と称 し, また 「
純 粋 な民主 主 義 者 」 (=De
57)i
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,p.481
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59
) この論文は筆者は未見である。
250
土 星 :サ ミソ運動 とイン ドネ シ ア民族 主 義
(宮殿 ) に集 約 され る ジ ャ ワの封 建制 - の反 感 とジ ャ ワの農 民 - の親 近 感 とを, 他 の民族 主 義
者 に比 して ことに強 固 に もっていた とい う彼 の気 質 に 由来 す る。 イ ン ド党 で の活動 を通 じて,
イ ン ドネ シア民族 主 義 を もっ と も早 い時期 に主 張 す る一方 で, 「私 は ジ ャ ワ人 で あ り, これ を
否 定 すれ ば, 私 は裏 切 りを おか す ことに な る60)」 と述 べ るチ プ トは,現 に草 の根 の レベル で存
在 す るジャ ワの平 等 原理 を, ク ロモ全 体 の原理 として理 念化 し, これ を民族 全 体 の レベル に普
遍 化 し よ う と試 み た の で あ り, それ が チ プ トを してサ ミソ主義 に注 目させ る ことに な った とい
え よ う。 そ して これ は チ プ トを通 して ス カル ノ- と引 き継 がれ てい くことに な る。
2
) イ ス ラム同盟 とサ ミソ主 義
イ ス ラム同盟 が農 村 で宣伝 活動 をす る際 に新 た な課 税 が な され るとい う噂 や ,村 落公 庫 へ の
)
は, これ ら
貢 納 負担 の増 大 や , ペ ソ ガル水 牛 の導 入 - の反対 が , そ の 内容 を な して いた こと61
が サ ミソ運 動 に おい て も基 本的 な抵抗 要 素 を な してい た ことを想 起 すれ ば ,サ ミソ運 動 が イス
ラ ム同盟 の運 動 に対 して,先 駆 的 役割 を果 た した面 が あ った と考 え られ る。 オ ラン ダ人 の共 産
913年 以来 スマ ランに あ って イ ン ドネ シ アに共 産 主 義運 動 を組織 してい った ス ネ∼
主 義 者 で ,1
フ リ- 吊ま, マル クス主 義 を宣伝 す るに際 して, これ を第 2の よ り急 進 的 なサ ミソ主 義 であ る
と述 べ た 。62) これ はサ ミソ主 義 の もつ平等 原理 が共産 主 義者 に注 目され た ことを示 す が, この
平 等 原理 が言 語 間題 に関 して イス ラ ム同盟 に継 承 され た と考 え られ るのは, "ジ ャ ワ ・ ドゥ イ
パ'
' (
"Dj
awaDwi
pa") 運 動 であ る。
1920年 8月 1日に ,イス ラム同盟 の指 導 下 で第 - 回労働 運 動 統 一 団体 (
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p.
K.
B.
-Pers
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uan
Perge
rakan Kaum Bur
uh) の全 国大 会 が ス マ ランで開催 され た 際 に, 同盟 の指 導 者 チ ョ ク ロ
ア ミノ 1
,, チ ョ ク ロス ダル モ, テ ィル トダ ヌジ ョ らに よって提 唱 され た のが, この 日ジャ ワ ・
ドゥ イパ"運動 で あ る。 これ は, イス ラ ム同盟 内に おけ る言語 の民主 化 運 動 で あ り, 同盟 員に
相 互 の会 話 で Dj
awaKr
omo (上 下 関 係 が あ る場 合 に,下 位 の ものが上 位 に対 して用 い るジ ャ
awaNgoko のみ を用 い る こと, 同 盟員 相互 で Raden, Rade
n
ワ語 ) を用 い る こ とを禁 じ, Dj
Mas,Be
ndor
o の よ うな貴族 称 号 を冠 した 呼 び 名 を用 い ない ことが提 唱 され た 。63) す でに第 3
節 でみ た よ うに, これ らの 内容 は , サ ミソ運 動 の中 です でに実 施 され てい た もの で あ り, イス
920年 に至 って言語 間題 を取 り上 げ て これ を ‥Dj
awaDwi
pa= 運
ラ ム同盟 の指 導 者 た ちが , 1
動 と名付 け た と き, そ のモ デル に サ ミソ運動 が措 かれ てい た ことは想 像 に難 くない。
3) ス カル ノとサ ミソ主 義
1920年 以来 チ プ トが 中 ジ ャ ワの ソ ロ (ス ラカル タ) か らバ ン ドンに転 居 した のほ, 『チ プ ト
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m,1952.p.83.
この 『チプ 卜伝』によれば,
チプ トは生涯 自分の署名にジャワ文字を用いたとい う
,p.8
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51
東南 アジア研究
9巻 2号
伝 』 に よれ ば , ジ ャ ワ語 の話 され る地 域 に チ プ トを置 くことが 政 庁 に よっ て危 険 視 され た た め
で あ り, これ は, チ プ トに とっ て ほ1913年 か ら14年 に か け て の オ ラソ ダ追 放 に次 ぐ二 度 日の追
放 を意 味 してい た とい う。64) そ のバ ン ドン で, チ プ トは東 ジ ャ ワか ら遊 学 し て きた ス カル ノと
出会 う。 チ プ トは ,1927年 の 国民 党 の設 立 を オ ラン ダ帰 りの留学 生 ら と と もに準 備 し, ス カル
ノを そ の党 首 の座 に据 えた後 は ,共 産 党 との関与 の嫌 疑 で 1927年 末 以降 パ ン ダ島 で流 刑 生 活 を
送 る こ とに な り, 民 族 運 動 の正 面 舞 台 か ら姿 を消 す の で あ るが , チ プ トが ス カル ノに 引 き継 い
だ の は , チ プ トの持 っ てい た ク ロモ の民 へ の志 向性 を基 礎 とす る強 烈 な民 族 意 識 で あ った 。 チ
Mar
haen) という 造 語 で表 現 した .
プ トのい う ク ロモ を,後 に ス カル ノは マル - エ ソ (
この マル - エ ソの定 義 を ス カル ノは 1933年 に次 の よ うに下 してい る。 す なわ ち, マル ハ エ ソ
とは , イ ン ドネ シ アの プ ロ レク 1
)ア - トと貧 農 お よび そ の他 の イ ン ドネ シ アの貧 しい 人 々 (
例
えば行 商 人 ,草 む し り, ブ リキ 職 人 ,御 者 , 漁 師等 ) の ことで あ る。65)当 時 , 非協 力政 策 を前
面 に掲 げ て, イ ス ラ ム同盟 , イ ン ドネ シ ア共 産 党 以来 の民衆 運 動 の伝 統 を 引 き継 ご う と してい
た パ ル テ イ ン ド (イ ン ドネ シ ア覚 ) の党 首 と して, ス カル ノは, マル - エ ソ主 義 を社 会 -民 族
主 義 お よび社 会 -民 主 主 義 で あ る と呼 び, そ の 中 で もっ と も重 要 な構 成 部 分 とし て プ ロ レタ リ
ア ー トを あ げ, そ の先 進 的 役 割 を強 調 し てい た 。66)
しか し, 同時 に ス カル ノは, 現 実 の イ ン ドネ シ ア民 衆 の大 部 分 が実 は プ ロ レタ リア ー ト以外
の マル ノ、エ ソで あ る ことを指 摘 して い る 。67) そ してお そ ら く, ス カル ノに とっ て マル - エ ソの
原 イ メ- ジ ほ孜 孜 と して働 く独 立 自営 の小 農 民 で あ った 。 後 年 『自伝 』 中 で マル - エ ソ の語 の
由来 (バ ン ドンに遊 学 した 当 時 の ス カル ノが , バ ン ドソ郊 外 で 出合 った 農 民 の名 に 由来 す る と
述 べ てい る)につ い て語 っ てい る こ との中 に ,それ は 明瞭 に示 され てい る。それ に よれ ば ,貧 し
い なが ら もわ ず か な土 地 と, 農 具 と家 とを持 ち, 自 らの労 働 の成 果 が 自 らの もの に な る農 民 ,
自分・
の烏 で馬 車 引 きに 出 る御 者 , 自分 の天 秤 を か つ い で焼 鳥 を売 っ て歩 く行 商 人 を マル - エ ソ
と呼 ぶ 。 要 す るに , や っ と 自給 す るに足 るわ ず か な生 産 手 段 を 持 つ貧 しい人
(
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が マル /、エ ソ で あ る。68) 「何 千 万 もの貧 しいわ が 同胞 は誰 のた め に も働 か な い し,誰 も彼 らの
た め に働 か な い。 そ こに は人 が 人 を搾 取 す る ことが な いか ら, マル - ユ ニズ ムほ現 に行 なわ れ
て い るイ ン ド ネ シ アの 社 会 主 義 な のだ 69)」 と述 べ た あ とで, ス カル ノは ,
「マル - ユ ニズ ム
紘 , わ が民 族 の統 一 性 をみ い だ して い くそ の シ ン ボル で あ った 70)」 と回顧 し てい る。
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土星 :サ ミソ運動 とイン ドネシア民族主義
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3年 に おけ るマル ノ、エ ソの定 義 と, 『自伝 』 中 の それ とは, 若干 の ズ レ (プ ロレタ リアー
9
3
3
年 に マル ノ、エ ソ といわ れ た
トにつ い て後者 では触 れ られ てい ない) が あ るが ,少 な くとも1
もの の大 部 分 であ る貧 農 お よびそ の他 の貧 しい人 々の 内容 が , 『自伝 』 の中 で 回顧 され てい る
映 像 と大 差 は なか った とい え るだ ろ う。 してみ る と, ス カル ノに よって描 かれ た マル - エ ソの
映 像 は ,地 味 の乏 しい中 ジ ャ ワ北部 の農村 地帯 で募 りくるオ ラン ダ支配 の重 圧 に抵抗 して 自 ら
の土地 との結 合性 を強 めつ つ土 地 を守 ろ うとし ていた ,サ ミソ主 義者 の映像 と重 な り合 ってい
く。 そ こに は チ プ トの クロモ- の志 向性 を受 け継 いだ ス カル ノに おい て ,マル - エ ソの原型 と,
現 に行 なわ れ ていた サ ミソ運 動 の思 想 との直接 的 な関連 が 見 出 され るの で あ る。
イ ン ドネシ アの農 民 の宗教 運動 の中 に顕著 に現 わ れ てい る至 福 千年 的 な志 向性 と, サ ミソ運
動 の中 に み られ た , 外 か らの救 い を期 待 しない 農 民 の 自給 自足 原理 の 上 に立 つ 平 等 志 向性 と
紘, 同 じ村 落 共 同体 の二 つ の側面 で あ ろ う。 そ して, この村 落 共 同体 に ダイ ナ ミズ ムを与 え る
ものが , た ん に ジ ャ ワ ・イ ス ラ ム的 救世 思想 の夢 幻 的世 界 に のみ求 め られ るの では な く, む し
ら, ムシ ャ ワラ, ム ファ カッ ト, ゴ T
・ソ ・ロヨン等 の,村 落 共 同体 に お い て農 民 と土 地 との結
合 を成 立 させ てい る現 実 的 な基 盤 そ の もの の 内に あ る ことを,サ ミソ運 動 は 「純 粋型 」 として
示 す ことに よって, そ の思想 は そ の後 の イ ン ドネシ ア民族 運 動 と直接 に結 合 され , さ らに は ,
共 和 国 の統 一 原理 を村 落 共 同体 の統 一 原理 として定 立 した パ ンチ ャ ・シ ラ哲学 と直接 に結 合 さ
れ てい くことか
こな った とい え よ う。
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