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John Cade とアイルランド

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John Cade とアイルランド
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John Cade とアイルランド
John Cade とアイルランド
―― 異文化との境界に位置する者の文化表象――
勝 山 貴 之
(1) Captain Thomas Lee の肖像画
現在、ロンドンのテイト ・ ギャラリーに所蔵されている 16 世紀の軍人
Captain Thomas Lee の肖像画は,16世紀末のイングランドとアイルランドの
関係を考える上で重要である。(fig.1) 肖像画の中で,鬱蒼と茂る森を背景に
たたずみ,絵を観る者を静かに見据えている Lee が身につけている武具は,
当時,彼の置かれていた政治的・文化的状況を物語っている。大胆な刺繍を
ほどこし,襟と袖にレース飾りをつけた宮廷人を思わせるシャツ。短いチュ
ニック型の軍服。肩にかけた丸型の盾。脇にさした剣。革帯の前面に吊り下
げられた短銃。小脇に抱えられている細かな装飾を刻んだ円錐形の兜。いず
れも宮廷との政治的繋がりを有する当時の軍人を象徴する品々であろう。し
かし,Lee の上半身のいでたちがイングランド軍人の装束であるにもかかわ
らず,その下半身は裸身のままである。裸足のままの彼の足を目にする時,
われわれは,Lee の下半身の姿がアイルランド兵の姿であることを思い起こ
させられる。更に,彼の右手に携えられたアイルランド風の粗削りの槍が,
他の武具と奇妙な対照をなして,彼の肖像画に秘められたイングランドとア
1
イルランドの文化的衝突の印象を一層興味深いものにしているのである。
この Lee の肖像画は,1594 年,Marcus Gheeraets, the Younger によって描
かれたものである。Thomas Lee の従兄弟にあたる Sir Henry Lee は,女王陛
下の馬上試合で名を馳せ,後には兵器部門の長官(master of ordnance)とも
なる宮廷での実力者であった。Sir Henry は,Gheeraets の patron でもあった
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勝 山 貴 之
Fig. 1. Captain Thomas Lee by Marcus Gheeraerts, the Younger, 1594
John Cade とアイルランド
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ことから,この著名な画家が Thomas の肖像画の筆をとることとなったと考
えられる。Thomas Lee がオークの木の下に立っているのも,Fide et Constantia
を座右銘とする Sir Henry の庇護のもとにあることを暗示していたのかもし
2
れない。
しかし,この肖像画の寓意を一層よく理解するためには,肖像画に附され
た Livy からの引用,
「勇敢に実行することと,勇敢に堪え忍ぶことの,どち
らもがローマ人のやり方なのだ」( ‘[Et] facere et pati fortia [Romanum est]’ )
の出典について知っておく必要があろう。引用は,Livy の歴史書に登場する
Caius Mucius Scaevola の言葉として,当時の教養人たちの広く知るところで
あった。Livy によれば,Scaevola は,敵将 Lars Prosena の暗殺を命じられる
が計画に失敗,逆に敵兵に囚われてしまう。捕虜となった Scaevola は,敵の
前でローマ人の勇気について語り,自らの手を火にくべることでそれを示そ
うとしたという。Scaevola のこの英雄的な行為に感銘を受けた敵将 Prosena
が,ローマと和平を結ぶことを決意したことから,元老院は,Scaevola の功
績を称え,彼に報償を授けたのだった。Scaevola は,両国の和平を取り持つ
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仲介者の役割を見事に果たしたのである。
Livy の歴史書に記されたこの物語は,当時の Thomas Lee の政治的立場を
語るにふさわしい。アイルランドにおけるゲール人同盟の首領 Hugh O’Neill
の使者としてイングランド宮廷へ仲介役を果たし,エリザベスとの会見の後,
再び O’Neill との交渉にあたろうとする Lee の姿は,まさに Scaevola のそれ
に似て,自らの身を呈してイングランドの栄光と利権を守ろうとする忠臣の
姿であったであろう。宮廷における Lee の立場を知った上で,再び肖像画を
眺めると,そこにはイングランドの衣装を纏いながらもアイルランドの土着
の風俗に身をやつすことで,両国間の和平を築く橋渡しの役目を自認する
Lee の自負が垣間みえる。まさに Gheeraets の肖像画の目的は,当時の Lee の
果たそうとする外交的手腕と政治的役割の意味を,そして彼の存在の重要性
を描き出すことであったと考えられるのである。
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勝 山 貴 之
しかし,Lee の計画は功を奏さなかった。アイルランドとの仲介役を果た
すべく Lee のまとめたエリザベスへの進言書には,当時,イングランドから
派遣されていた Sir William Fitzwilliam の行政能力に対する批判が記されて
おり,アイルランド騒乱の原因は Fitzwilliam の統治の失敗にあることが指摘
されていた。この進言書の内容が,Fitzwilliam の庇護者であった Burghley 卿
の逆鱗にふれることとなる。Burghley 卿もまた,アイルランドとの和平を望
んではいたが,Lee の進言は,Fitzwilliam を擁護してきた Burghley 自身に対
する,また彼のアイルランド政策そのものに対する批判ともなりかねない側
面を持っていたからである。結局,Burghley 卿の妨害もあり,エリザベスの
全権大使として O’Neill との交渉にあたるという Lee の請願が許可されるこ
とはなかった。 Lee は一旦アイルランドへ戻るものの,決して諦めることは
なく,繰返し O’Neill との交渉の道を探り続けた。緊密に宮廷と連絡をとり
ながら両国の仲介役を果たそうとする Lee であったが,ことはなかなか思う
ように運ばなかった。こうした Lee の行動が,宮廷の敵対勢力から見ると,
O’Neill と密かに通ずる疑惑の人物のそれと映ったことは容易に想像できる。
やがて Lee は,アイルランドと密通する危険人物の烙印を押されることとな
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るのである。
Lee の政敵にとって,Gheeraets の描いた彼の肖像画は,まさにアイルラン
ドと密かに手を組む反逆者 Lee の本質を物語るものであっただろう。表面的
にはイングランドの宮廷人を装いながら,その下半身が物語るように,実態
はアイルランド人と化した Lee の姿がそこに見て取れた。また彼は,アイル
ランド系ローマカトリック教徒と二度の結婚を経験していた。婚姻という形
が,異文化社会へ同化する方法として最も手軽なものであることは明らかで
あるが,同時に,異文化社会との関係を断ち難くなることも事実である。更
に,当時,Leeが,アイルランドに駐留するイングランドの兵士にアイルラ
ンド兵と同じ服装をさせようとしたことも,人々の疑惑を一層深めるものと
なった。たとえそれが経済的な合理性に基づいた発想であろうとも,Leeに
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悪意を持った人々にとっては,彼を攻撃するための格好の材料を提供するこ
ととなったのである。
当時のイングランド人は,アイルランドの文化・風習を,粗野で野蛮なも
のと見なす傾向があった。文明社会であり,法治国家であるイングランドと
比して,アイルランドはあらゆる点で遅れをとる未開社会であるとの偏見を
人々は抱いていたのである。こうした偏見のなかで,アイルランドに植民し
ていくイングランド人が,アイルランドの粗野で野蛮な文化・風習にふれる
うちに,イングランド的洗練を徐々に失い,堕落してしまうのではとの懸念
が高まりつつあった。アイルランド文化との接触において堕落した人物を指
し示すのに,当時の人々の間で使用されていた用語 “degenerate” には,現代
で使用されるような広義における 「堕落する ・(道徳的に)退廃する」 とい
う意味よりも,OED が “ To lose, or become deficient in, the qualities proper to
the race or kind; to fall away ancestral virtue or excellence” と示すように,「民族
的な特質の欠如」 や 「先祖から伝わる美徳の欠落」 といった意味合いが多
分に含まれている。人々は,イングランド人が,アイルランド文化との接触
を通して,またアイルランド的他者との交流を通して,イングランド人的美
徳を喪失し,もはや純粋なイングランド人ではなくなってしまうことを恐れ,
警戒したのである。
当時の様々な文献から,こうしたイングランド人の不安が窺われる。例え
ば,Sir John Davies は,本来イングランド人であった者たちの子孫が,
「人の
一生の時間よりも短い間に,自分達の先祖の誇り高き国の痕跡や特質という
ものを自分達のなかから失ってしまい・・・・・英語を忘れてしまうばかりか,そ
れを使用することを軽蔑し,まさに英語の名前すら恥じるようになった・・・・・
そしてアイルランドの氏名やあだ名を採用するようになり」
,挙げ句の果てに
は「言葉も,名前も,服装にいたるまでアイルランド人」となったのだと,
5
アイルランド化するイングランド人の様子を書き記している。
また,
Spenser は,イングランド人植民者たちがアイルランド文化と接触することに
勝 山 貴 之
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より,
「非常に粗野なアイルランド人よりも,はるかに無法で放蕩な(“much
more lawless and licentious than the very wild Irish.”)」 人間に変わってしまう
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と慨嘆し,
Holinshed は,「イングランド生まれの者も,あの野蛮な人々と
交わることで堕落し,まるでキルケの毒杯を口にしたかのように,全く別人
になる (“the very English of birth, [through being] conversant with the savage sort
of that people, become degenerate, and, as though they had tasted of Circe’s poisoned
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cup, are quite altered.”)」 とその変貌の様子を記録している。
当時のイング
ランド人たちは,アイルランドをイングランドの一部として併合しようとす
る国家的イデオロギーと,アイルランドを野蛮な未開人国として蔑視すると
いう,相反する精神的葛藤を抱えていた。同時に,アイルランドを文化的他
者として差別しつつも,アイルランドの影響を受け,アイルランド化してい
く同胞の姿に戸惑いと恐れを抱いていたのである。それは,自分達イングラ
ンド人の外なる他者であるはずのアイルランドを,内なる他者として意識す
るよう迫られることから生ずる嫌悪感と恐怖感であったのかもしれない。
このような,イングランド人たちがアイルランドに対して抱いていた精神
的葛藤を,Shakespeare の King Henry VI に登場する John Cade が体現してい
るとは考えられないだろうか。Cade のアイデンティティは,その背後に当時
のイングランドの困惑と苦悩を秘めているように思われるのである。
(2) 年代記の Cade と Shakespeare の Cade
Shakespeare の歴史劇 King Henry VI Part 2 には史実に基づいて,15 世紀に
起こった John Cade の叛乱が描かれている。劇中,自らの王位継承の正当性
を主張する York 卿は,アイルランドにおける挙兵を計画する一方で,その
前哨戦としてケント州出身の John Cade を首謀者とするイングランドでの叛
乱を企むのである。
Whiles I in Ireland nurse a mighty band
I will stir up in England some black storm
John Cade とアイルランド
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Shall blow ten thousand souls to heaven or hell;
And this fell tempest shall not cease to rage
Until the golden circuit on my head,
Like to the glorious sun’s transparent beams,
Do calm the fury of this mad-bred flaw.
And for a minister of my intent
I have seduced a headstrong Kentishman,
John Cade of Ashford,
To make commotion, as full well he can,
Under the title of John Mortimer.8
しかしこの Cade という人物の出身地について,Shakespeare が材源とした
と考えられる年代記と劇の間には,微妙な食い違いが生じている。Holinshed
を始めとする当時の年代記の多くが Cade をアイルランド人としているにも
かかわらず,Shakespeare は Cade がケント州の出身であるとし,わざわざ材
源の記述に変更を加えている可能性が考えられるのである。
Shakespeare が Henry VI Part 2 の執筆にあたって参照したとされる年代記
は,Hall の The Union of the Two Noble and Illustre Families of Lancaster and
York と Holinshed の The Chronicles of England, Scotland and Ireland であろう
とされている。他にも,部分的に Richard Grafton の A Chronicle at Large of
the History of the Affairs of England や John Foxe の The Acts and Monuments の影
響,更に Robert Fabyan や John Hardyng の年代記の痕跡が作品中に指摘され
てはいるものの,主な材料を提供したのはやはり Hall と Holinshed である。
Arden 版(1957)の編者 Andrew S. Cairncross は,これらふたつの年代記の
うち,Hall の年代記を主たる材源として挙げている。
Hall is the chief source; there is more material exclusive to Hall than to
Holinshed in all three parts of Henry VI. Hall and Holinshed ( 2nd edn,
1587) were often used side by side. . . . The extent of Shakespeare’s debt to
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Hall has been underestimated. Here Boswell-Stone quotes Holinshed as the
source; a more careful collation would have indicated Hall.9
他方,The New Cambridge 版の編者 Michael Hattaway は,J. P. Brockbank
に倣って,むしろ Holinshed の年代記,特に1587年に出版された第2版を主
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要材源として指摘している。
主たる材源がHallなのか Holinshed なのかは,
批評家の意見の分かれるところであるが,それぞれの年代記において Cade の
出身については,どのような記述がなされているのだろうか。
問題となっている Cade の出身地を語る部分を Hall の年代記に辿ると,そ
の容姿や機転の速さを語る記述は存在するものの,その他については特に詳
しい記載はなく,次のように記されているだけである。
The ouerture of this matter was put fyrste furthe in Kent, and to thentent that
it should not beknowen, that the duke of Yorke or his fre–des were the cause
– of goodely stature, and pregnaunt
of the sodayne rising: A certayn yongma
wit, was entised to take vpon him the name of Ihon Mortymer, all though his
name were Ihon Cade, and not for a small policie, thinking that by that
surname, the lyne and lynage of the assistante house of the erle of Marche,
which were no small number, should be to hym both adherent, and fauorable.11
ここにはCadeが,特にケントの出であると記されてもおらず,その出身地に
ついては不明である。他方,Holinshed の年代記における Cade に関する記述
は興味深い。
Those that fauoured the duke of Yorke, and wished the crowne vpon his
head, for that ( as they iudged ) he had more right thereto than he that ware it,
procured a commotion in Kent on this manner. A certeine yoong man of a
goodlie stature and right pregnant of wit, was intised to take vpon him the
name of Iohn Mortimer coosine to the duke of Yorke ( although his name
was Iohn Cade, or ( of some ) Iohn Mend-all )[ an Irishman as Polychronicon
saith ] and not for a small policie, thinking by that surname, that those which
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fauoured the house of the earle of March would be assistant to him.12
Holinshed は年代記 Polychronicon Ranulphi Higden Monarchi Cestrensis に則っ
て,Cade がアイルランド人であると明記しているのである。Polychronicon ば
かりではなく,当時の年代記を紐解き Cade の記録を辿ると,Cade がアイル
ランド人であるとしているものは他にも存在する。例えば,15世紀までのイ
ングランドの歴史を記した The Brut of England ( 別名 The Chronicle of England
)には Cade のことが,次のように記されている。
is yeere was A gret Assemblee & gadering togedre of e comons of Kent in
gret nombre, & made an Insurrexio , & rebelled Ageynst e Kyng & his
lawes, & ordeynd ame A capitay
named him self Mortymer, Cosy
called Iohn Cayd, An Irish man, which
to e Duke of Yorke.13
また,The Brutには幾つかの版が存在しており,An English Chronicle と題さ
れた別の版においても,Cadeはアイルランド人であることが記されているの
である。
And this same yeer, in the moneth of May, aroos thay of Kent and made
thaym a capteyne, a ribaude, an Yrissheman, callid Johan Cade; the whiche
atte begynning took on him the name of a gentilmanne, and callid himself
Mortymer forto haue the more fauour of the people;14
Hallを除けば,現存する幾つかの年代記の中に,Cadeがアイルランド人であ
ることが記されているにもかかわらず,あえて Shakespeare は Cade をケン
ト州の出身であるという設定にしている点が興味深い。
年代記の中に記されたアイルランド人としての Cade のアイデンティティ
に,Shakespeare が全く気付かなかったとは考え難い。というのも彼は,Cade
とアイルランドの結びつきを作品から完全に消し去ってしまっているわけで
はないからである。劇中,Cade とアイルランドの結び付きは York の口から
以下のように説明されている。
In Ireland have I seen this stubborn Cade
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Oppose himself against a troop of kerns,
And fought so long till that his thighs with darts
Were almost like a sharp-quilled porpentine;
And in the end, being rescued, I have seen
Him caper upright like a wild Morisco,
Shaking the bloody darts as he his bells. (3.1.359-65)
Cadeが,かつてイングランド兵としてアイルランド兵と交戦した経験を有す
ることが明らかにされ,その時の武勇伝が語られている。そして更に興味深
いのは,Cade が密偵としてアイルランド軍の中に紛れ込むのに成功していた
ことを語るくだりである。
Full often, like a shag-haired crafty kern,
Hath he conversed with the enemy
And, undiscovered, come to me again
And given me notice of their villainies.
This devil here shall be my substitute; (3.1.366-370)
アイルランド人の風体に身をやつし,敵と親しく交わる中で,情報を取得す
る Cade の様子が語られている。アイルランド人ではなく,イングランド人
でありながら,アイルランドの風習に染まり,他者の表象を身に纏う存在
――それこそ Shakespeare の描こうとするCadeのアイデンティティなのであ
る。Shakespeare は,材源にあるアイルランド人 Cade のアイデンティティを
イングランド人に置き換えながら,当時の人々の噂に上っていたアイルラン
ド化するイングランド人の姿を描き出そうとしていたことを見落してはなら
ない。
(3) 異文化との境界に位置する Cade
15
Cade の叛乱はしばしば,そのカーニヴァル的側面を指摘されている。
社
会における既存の秩序の逆転をとおして,日常性からの解放が舞台上に展開
John Cade とアイルランド
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されるからである。しかし Cade の叛乱に見られる社会秩序の転覆は,単に,
叛乱によってもたらされた無政府状態を描いているのではなく,そこにアイ
ルランド世界に見られる価値の逆転が影を落としているとは考えられないだ
ろうか。
文明国イングランドと相反する価値観を有するアイルランドは,イングラ
ンドの法治制度に対して無秩序の混乱を,プロテスタントの宗教に対してカ
トリックの宗教を,あるいは,時として予言・魔法に象徴される原始的宗教
を,そしてイングランドの文化的洗練に対して粗野な野蛮さを表わす他者な
る表象であった。当時のイングランドの社会では,あらゆることがアイルラ
ンドにおいては逆さまであると伝えられた。同時代人 Fynes Moryson は,逆
さまの国アイルランドの様子を次のように書き記している。
[I] heard twenty absurd things practiced by them, only because they would
be contrary to us. . . . Our women, riding on horseback behind men, sit with
their faces towards the left arm of the man, but the Irish women sit on the
contrary side, with their faces to the right arm. Our horses draw carts and like
things with traces of ropes or leather, or with iron chains, but they fasten
them by a withe to the tails of their horses, and to the rumps when the tails be
pulled off, which had been forbidden by laws, yet could never be altered. We
live in cleanly houses; they in cabins or smoky cottages. Our chief husbandry
is in tillage; they despise the plough, and where they are forced to use it for
necessity, do all things about it clean contrary to us. To conclude, they abhor
from all things that agree with English civility. 16
馬の乗り方,荷台に引かせ方,住居,そして耕作にいたるまで,アイルラン
ドではありとあらゆる生活がイングランドとは逆であることが強調されてい
る。まさにアイルランドは,イングランドが誇り,守ろうとする価値観の逆
転の世界として,イングランドの人々に捉えられていたのである。
そうした意味で,Cade がもたらす叛乱が,「学者,法律家,宮廷人,紳士
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勝 山 貴 之
階級のすべての者は不正な害虫であり,その死を求める(4.4.35-6)
」と主張
してやまないのは,階級や法制度,そして教育に対する攻撃であり,イング
ランドにおけるアイルランド的逆転の世界の創出なのである。更に,Cade
は,イングランドのグラマー・スクールに代表される教育制度を,また書物
の普及を助ける印刷技術を非難し,ひいては文法規則そのものをも批判の対
象とする(4.7.29-42)。あらゆる秩序への挑戦とその逆転こそが,彼の目的な
のである。「おれたちは整っていない時こそ,最も整ってるんだ (“then are
we in order when we are most out of order.”4.2.178-9)
」 という Cade の科白は,
こうしたすべての価値の逆転を表象する彼の存在を見事に言い表している。
そしてそれは,アイルランドの文化に染まったCadeを通して舞台上に展開さ
れる異文化世界の表出であり,イングランドの文明に対する未開文明アイル
ランドの境界侵犯であったとも考えられるのである。
しかし Cade の内面には矛盾も存在している。Cade は「貴族や紳士はひと
りも容赦するな(4.2.173)」と,公然と階級制度を批判しながらも,自分の家
柄について,March 卿 Edmund Mortimer と Clarence 卿の娘の間に生まれた
由緒正しきものであることを執拗に繰り返す(4.2.35-40, 126-7)。そればかり
か,Sir Humphrey Stafford の兄弟と対等の身分であろうとして,騎士の位階
を自ら自分自身に授けるという一人芝居を演じている (“To equal him I will
make myself a knight presently.” 4.2.110-2)。イングランドの価値をすべて逆
転させ,あらゆる社会秩序を否定しているかに見えながら,その実,階級に
こだわり,自らもまた階級制度に組み込まれていることを望む Cade は,ア
イルランド的逆転の表象でありながら,同時にイングランドの階級制度を重
んずるイングランド人でもあり続けているわけである。
この彼の抱え込む矛盾こそ,Cade のアイデンティティを物語っている。
Shakespeare の描く Cade は,アイルランド人ではない。アイルランドという
異文化との接触を通して,アイルランド的価値観に染まりつつあるイングラ
ンド人なのである。イングランド的秩序とアイルランド的無秩序という相反
John Cade とアイルランド
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する二面性を持つ彼の存在は,まさに文化の境界に位置する人物にふさわし
い。イングランド的理性とアイルランド的野生の混合した人物,あるいはイ
ングランド的文明とアイルランド的非文明の混在する人物としての Cade の
存在は,両文明の中間に位置する存在なのである。そしてこの Cade の背後
には,York 卿の率いるアイルランドの強大な軍勢が控えており,アイルラン
ドのイングランド侵略という国家的脅威が迫っていることを忘れてはならない。
当時のイングランド人にとって,理性により統御することが不可能な反理
性の部分こそ,アイルランド的他者と通じる野生とも呼べる暗黒部分であっ
た。この暗黒部分は,イングランド人にとって,理性や秩序からの解放をも
意味し,舞台上に展開される Cade の版乱が,観る者たちに無秩序への動揺
と同時に,日常の束縛から解き放たれる自由への憧憬を垣間見せ,芝居の展
開に大きな弾みをつけていることもまた事実であろう。そして,アイルラン
ド化するイングランド人こそは,イングランド人の持つこの内なる暗黒部分
に支配された人間たちであった。Cade の叛乱をとおしてカーニヴァル的祝祭
に見られる解放を経験することは,アイルランドへ赴任し,アイルランド的
無秩序にふれたイングランド人たちが感じたある種の解放感に通底するもの
があったのかもしれない。当時のイングランド人が,アイルランドの野蛮さ
に驚嘆し,アイルランド化していくイングランド人たちに激しい非難の目を
向けたのは,自分達の心の奥底に潜む暗黒面,すなわち理性で統御できない
部分の存在に気付き,それを恐れたからではないだろうか。
そうした意味でも,Cade は単に材源にあるように,生っ粋のアイルランド
人であるより,アイルランド文化に感化されたイングランド人であることに
より大きな意味がある。Shakespeare は当時の人々の間に噂となっていたアイ
ルランド化するイングランド人の表象を巧みに作品に組み込みながら,イン
グランド人の秩序尊重における彼らの自尊心と,異文化に染まることを選ん
だイングランド人植民者たちの心の奥に潜む無秩序への誘惑を,Cade が率い
る下層民の叛乱という形で描いたのであろう。Shakespeare の材源改作は,例
勝 山 貴 之
42
えそれが些細な変更であったとしても,常に用意周到に仕組まれたものなの
かもしれない。
注
01 Brian de Breffny, “An Elizabethan Political Painting,” Irish Arts Review, I, i (1984): 39-41.
Hiram Morgan, “Tom Lee: The Posing Peacemaker,” in Representing Ireland: Literature
and the Origins of Conflict, 1534-1660, ed. Brendan Bradshaw, Andrew Hadfield, and Willy
Maley ( Cambridge University Press, 1993) 132-65. Christopher Highley, Shakespeare,
Spenser and the Crisis in Ireland ( Cambridge University Press, 1997) 90-91.
02 Hiram Morgan 142.
03 Livy with an English Translation by B. O. Foster, vol. 1, The Loeb Classical Library (Harvard
University Press, 1957) 254-262.
04 Brian de Breffny 39-41. Hiram Morgan 145-65.
05 Sir John Davies, A Discovery of the True Causes why Ireland was never entirely Subdued (
London, 1612) 182, 212-13. Daviesの証言は,Michael Neill に引用されている。 Michael
Neill, “Broken English and Broken Irish: Nation, Language, and the Optic of Power in
Shakespeare’s Histories,” Shakespeare Quarterly 45 (1994): 9.
06 Edmund Spenser, A View of the Present State of Ireland (1596), ed. W. L. Renwick (London,
1934) 56-59. Michael Neill 9 参照。
07 Raphael Holinshed, The Second Volume of Chronicles: Containing the Description, Conquest,
Inhabitation, and Troblesome Estate of Ireland (London, 1586) 69. Michael Neill 9 参照。
08 Ronald Knowles, ed. King Henry VI Part 2, The Arden Shakespeare ( Thomas Nelson and
Sons Ltd, 1999) 3. 1. 347-58. 2Henry VI からの引用はすべてこの版からのものとし,
末尾に行数を示すものとする。
09 Andrew S.Cairncross, ed. The Second Part of King Henry VI , The Arden Edition of the
Works of William Shakespeare (London: Methuen & Co Ltd, 1962) xl.
10 Michael Hattaway, ed. The Second Part of King Henry VI ,The New Cambridge Shakespeare
( Cambridge: Cambridge University Press, 1991) 68. J. P. Brockbank, “Shakespeare’s
historical myth: a study of Shakespeare’s adaptations of his sources in making the plays of
Henry VI and Richard III,” diss., University of Cambridge, 1953.
11 Edward Hall, The Union of the Two Noble and Illustre Families of Lancaster and York
(1548; reprinted 1809; New York: AMS,1965) 220.
12 Raphael Holinshed, The Chronicles of England, Scotland and Ireland, vol. 3(2nd edn,
John Cade とアイルランド
43
1587; reprinted, 6 vols, 1808; New York: AMS, 1976) 220.
13 The Brut or the Chronicles of England , ed. Friedrich W. D. Brie (New York: Kraus Reprint,
1987) 516-7.
14 An English Chronicle of the Reigns of Richard II, Henry IV, and Henry VI, ed. John Silvester
Davies (London: J. B. Nichols and Sons, 1856) 64.
15 Ronald Knowles 89-106.
16 Fynes Moryson の残した記録は,Michael Neill によって引用されている。 Michael
Neill 6.
勝 山 貴 之
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Synopsis
John Cade and Ireland: Cultural Representation
of an Englishman on the Boundary between the Two Cultures
Takayuki Katsuyama
When we think about the political and cultural relationship between England
and Ireland in the late sixteenth century, we find interesting a portrait of Captain
Thomas Lee, an Elizabethan officer who served in the campaign to quell and
colonize Ireland. Posing confidently in the portrait, Lee tries to impress the
viewer with his curious clothes. While his true identity as an Elizabethan
officer is demonstrated by the lace and embroidery on his attire, his local
identity is illustrated as a bare-legged Irish kerne or foot soldier with a native
spear.
Lee’s intention behind the portrait was to make the viewer recognize his
important diplomatic role as a mediator between Elizabeth and O’Neill. In
spite of his ambitious campaign, however, Lee’s marginal position on the
boundary of two worlds depicted in the portrait was criticized by his political
enemies as an example of an Englishman “degenerated” by the barbarous
Irish culture, and the ambiguities of his position finally led to accusations that
Lee was conspiring against the queen.
Degeneration of English colonizers by the Irish culture was a menace to
the sixteenth-century English society. The adoption of Irish manners, customs,
and speech by the colonizers was regarded as the loss of their ancestral virtue
and excellence among Englishmen, and being Irished was denounced as having
fallen away to a barbaric, uncultivated state. The contamination by traces of
John Cade とアイルランド
45
“Irishness” threatened civilized English identity. While the Englishmen in
those days were faced with an urgent necessity to absorb Ireland within the
boundaries of the nation-state, they suffered from an emotional conflict in
discriminating the Irish culture as barbaric Other.
In Shakespeare’s The Second Part of the King Henry the Sixth, John Cade
is depicted as one of those who were degenerated Englishmen. In spite of the
fact that many chronicles, including Holinshed’s, described Cade as an
Irishman, Shakespeare changed Cade’s identity into a Kentish man who had
served as a intelligencer among the Irish soldiers. Shakespeare’s alteration of
the source is important, reflecting on the ideology of England as a nationstate at the time. Through the marginality of Cade’s cultural representation,
Shakespeare has tried to stage the embodiments of the uncultivated Irish state
to which all men, given the chance, will instinctively return, and to depict the
nightmare of the Englishman who vindicated plantation as the imposition of
English civility upon a savage people.
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