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2-1 東部・団地・南の里エリアの歴史
2-1 東部・団地・南の里エリアの歴史 ■広島開墾地と東部エリア 東部エリアは、地形区分では主に石狩低 地帯と、野幌丘陵の縁に位置する台地上に あります。石狩川の水系である千歳川に、 輪厚川・音江別川・島松川が注ぎ入る場所 で、かつて低地帯には泥炭地・湿地が広が っていました。耕作不適地であった場所は、 昭和20年程まで開墾されませんでした。 また、現在の東部、団地、南の里、北の 里はもともと月寒村の一部でした(明治4 年当時まで、ここら一帯はワッツ・ワッチ と呼ばれていました) 。そこに明治 17 年 に和田郁次郎率いる広島県人らによる集 団入植があり「広島開墾地」となります。 その後明治27年に島松、大曲とともに月 寒村から分村し広島村が誕生します。 わ だ いく じ ろ う ■北広島開拓の祖、和田郁次郎 和田郁次郎は、弘化4年(1847) 、旧広島藩安芸国沼田 郡段原村(現在の広島市南区段原町)山田家に生まれ、後に和 田家を継いで名を郁次郎と改めました。明治15年(1882) 、 北海道開拓を志した郁次郎は、河野正次郎とともに渡道。各地 を調査して農業の可能性を実感すると、翌16年(1883) 、 再び渡道し石狩国札幌県月寒村字輪厚を適地と定めます。同年、 谷川杢左衛門、村上源九郎、松田岡十、武田与市、長谷川倉助 が渡道し、移住者用の小屋掛、道路開削、種子の手配、開墾地 100万坪の請願などを進めました。こうした準備の下、17 年(1884) 、広島県人25戸103人が入植しました。 ㊤和田郁次郎(1847-1928) 明治26年(1893) 、385戸田畑は600町余り(約6km2)に広がった広島開 墾地を見た北垣国道北海道庁長官は、郁次郎の業績を高く評価し、「和田村」としての独 立を勧めました。しかし郁次郎は郷里広島の人々と一村を開く計画を進めてきたので「広 島村」としていただきたいと申し出て、明治27年、大曲・島松とともに札幌郡月寒村か ら独立して札幌郡広島村が誕生しました。 ~9~ また、第2第3の広島村の開村にも労を惜し まず、現在の札幌市西区西野や奈井江町厳島地区 などへの広島県人の入植・開墾にも着手し、成功 しています。 開墾後 6 年目に新築した郁次郎の自邸は、郵 便局としても使用され、郁次郎が初代局長を務め ました。また、明治27年に広島村が開村した際 には、村役場としても使用されました。 ㊤和田郁次郎の自邸 郵便局や村役場として使用されました。 自邸の模型は、エコミュージアムセンター 知新の駅に展示されています。 お よ て い ち さいがん ■「御予定地再願」の話 明治15年、北海道を視察し広島県に戻った郁次郎は、明治15年6月19日、函館 県宛てに輪厚川筋100万坪の払下げを出願しました。 しかし、明治16年に再び渡道し、入植予定地を実 測してみたところ、46万4千坪しかありませんでし た(現在の中央 1・2・3・4 丁目、美沢、中の沢、 共栄町 1・2・3・4 丁目付近)。そこで、地続きの葮 原(だんばら)であった、輪厚川左岸(現在の東共栄、 共栄付近)に43万坪と、輪厚川右岸(現在の朝日町、 輪厚川 稲穂町付近)に10万5千坪、3か所合わせて100 万坪にして払い下げて欲しいと再度要望し、これは許 可されました。広島開墾地の誕生です。 島松川 ㊤御予定地再願の図 (郷土研究北ひろしま第16号より) ■水害との戦い 東部や南の里エリアは石狩平野の 低地帯に位置し、 大雨が降ると頻繁に 氾濫し、家屋の浸水や田畑の水没、家 畜の溺死などの災害と共にありまし た。島松川・輪厚川・音江別川が増水 すると、 低平地の河川のため千歳川が 増水し逆流し、字裏の沢・中の沢・音 江別一帯が浸水しました。公記録では、 明治31年、昭和25・28・31・3 6・37・40・41・46・50・56 年に大きな水害があったと記録されて います。 ㊤昭和25年の大水害の様子 (道道江別恵庭線から共栄町をみる) ~ 10 ~ ■道営北広島団地 道営北広島団地の計画は、昭和44年3月に字 富ヶ岡、広島、中の沢の地域に、収容人口3万1 千人、収容戸数約8千戸を基本計画として策定さ れました。真駒内、大麻団地に続き、3つ目の道 営団地でした。開発の第一の目的は、過密化傾向 の札幌圏の人口・産業の計画的措置ではあるもの の、単なるベットタウンではなく、団地周辺の既 成市街地を含めまちづくりの核となるよう計画さ れました。区域内の樹木は、積極的に公園や緑地 等に保存し、現地形を生かした配置となりました。 これにより、緑豊かな自然環境にとけ込んだ住宅 ㊤昭和 55 年当時の北広島団地 竹山の方から団地地区を見る。 団地になっています。 ■音江別川と南の里 南の里は、昭和12年の字名改正までは富ヶ岡 の一部とともに「オ・テネ・ベツ(音江別)」という 地名でした。オテネベツは、アイヌ語で「川尻が 濡れている川」いう意味で、音江別川の由来とな っています。その語源のとおり、音江別川は、水 源涵養林が大きく、小沢が多く分岐していたので、 一旦適量を超えた雨が降ると必ず溢れて堤防が決 壊し、田畑への流出が大きい川でした。河口付近 はいつもジメジメと濡れた沼地・湿地帯となって いました。 音江別に最初に入植したのは、明治19年福井 県から移住してきた白崎氏と小木氏で、両名とも 和田郁次郎の小作人として開墾に入りました。こ の地区にはいくつも沢が流れており、造田には好 適地でした。現在でも、水田の広がる地域です。 ~ 11 ~ ㊤南の里地区の風景 広島開墾地 明治17年当時の移住者住居略図 明治6年開通「札幌本道」 現:国道36号 現:輪厚中の沢線 現:道道栗山北広島線 現:道道江別恵庭線 出典:郷土研究ひろしま ~ 12 ~ 第4号より きたひろ昔ばなし④ ~広島開墾地、当時の様子~ 広島開墾地当時の様子が伝わるお話があります。 山本長次郎さんのお話です。 「部落の人たちの集ま りといえば大抵夜だったが、集まる場所もないの で、大きな焚火を焚き、その火の回りを囲んで皆 で話し合った事は、この北海道も住めば都で中々 よい処だということでした。故郷の広島県に帰っ てみても、土地はなし立派な百姓に成れるわけで もなし、和田さんのいう事を聞いて、立派な村を 作るように皆で辛抱して一生懸命働こうではない か。そんなことを語り合うのが楽しくて夜の更け るのも忘れたものでした。 」 文章:郷土研究ひろしま、第一号、広島村郷土史研究会より ― MEMO - ~ 13 ~ ㊤明治42年~45年の頃の広島神社 2-2 東部・団地・南の里エリアの歴史遺産 の歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 1 寺 東部 無碍光寺 むげこうじ 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 2 東部 石碑 創世移民留魂塚 明治27年創立。浄土真宗大谷派のお寺で す。もともとは字音江別の空き家を借受け て、北海道寺 務出張所の僧 侶が説教所を 開いたのが始 まりです。明 治34年に現 在の場所に移 転しました。 大正12年、和田郁次郎 の出資、協賛多数により 建立。和田が「創業時代 に苦楽を共にした人達」 のことを思い設置した。 塚に刻まれているのは、 明治17年に移住した人 たちの名前です。 所在地:共栄町5丁目1 所在地:共栄町3丁目10 3 東部 石碑 4 東部 石碑 岩間先生の碑 彰徳碑 しょうとくひ 昭和4年、広島尋常高等 小学校有志により建立。 岩間鉄次郎は山形県から 移住し、明治41年に広 島尋常高等小学校の校長 に任命されます。広島教 育会、青年会、青年団の 育成に尽力されました。 大正7年、小池三郎(当 時村長)や協賛400人 程により建立。北海道開 道50年の式典の際に、 和田郁次郎が北海道の開 発の功労者130名に選 ばれたことを記念して建 てられました。 所在地:共栄町3丁目10 所在地:共栄町3丁目10 5 東部 遺跡 6 東部 共栄2~6遺跡 美沢1丁目遺跡 輪厚川左岸に位置 し、縄文時代中期 から晩期までの土 器片・石器片・黒 曜石片が出土して います。 輪厚川右岸の河岸 段丘上から、縄文 時代の土器片・石 器片が出土してい ます。 所在地:共栄町1丁目3、2丁目2、 3丁目1、 4丁目7 遺跡 所在地:美沢1丁目2付近 ~ 14 ~ 7 東部 開墾 大正橋 市役所から大曲へ向かい約800m。道道栗山北広島線と 輪厚川が交差する所に大正橋が架けられています。この橋 の歴史は広島村以前の開拓期まで遡ります。 明治17年、 和田郁次郎らが現在の北広島交番の辺りから札幌本道(今 の国道36号)までの道を拓きました。その突貫工事で輪 厚川に架けられた橋が始まりです。当時この橋はカツラの 大木を対岸に向けて切り倒し、一本の木の上を渡ったこと から一本橋と呼ばれていました。明治24年には村費で初 めてとなる土を覆いかぶせた土橋に架け替えられました。 その後、大正末期に架け替えられた際、「大正橋」と改名 されました。 所在地:美沢3丁目9付近 8 東部 遺跡 中の沢B遺跡 標高約30mの丘陵の先端部にある、縄文中期 から晩期にかけての竪穴住居を中心とした集 落遺跡です。特に9号竪穴住居跡は直径4m の円形で、その床面から縄文中期後半の柏木 川式土器が2個出土しました。遺物が出土し た地層の花粉分析から、当時の気候は今より 少し暖かく、針葉樹は稀で、ナラ・ハンノ キ・ニレが主体でした。草本類の花粉化石も 多く確認されています。 所在地:中の沢240-11(広葉通り沿い・広葉橋付近) 9 東部 遺跡 10 東部 遺跡 中の沢C遺跡 中の沢A遺跡、中ノ沢チャシ跡 輪厚川旧河川跡に 面する河岸段丘上 にあります。縄文 時代の土器片、黒 曜石片が散布出土 しています。 縄文時代中期から 後期の遺跡です。 アイヌ文化期の 「中の沢チャシ 跡」と複合する遺 跡です。 所在地:中の沢198-1 所在地:中の沢248 ~ 15 ~ 11 東部 遺跡 中の沢D、E遺跡 12 東部 寺 光顕寺 輪厚川右岸の河岸段丘上にあり、土器片、黒 明治25年創立。 曜石片、石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)などが 浄土真宗本願寺派 出土しています。 のお寺です。前身 は、和田郁次郎が 札幌から僧侶を招 き明治20年に開 いた説教所兼学校 でした。明治25 年に本堂が建立さ れました。 所在地:中の沢426、428、399-1 13 東部 所在地:共栄町1丁目12 遺跡 共栄1遺跡 台地上にあり、東に広がる低地帯からは約10mの 標高差があります。縄文時代早期から晩期までの土 器、石器が出土しています。焼土層も確認されてい ます。また石斧や砥石が人為的に埋没した状態で発 見されているのが特徴です。儀式や祭礼に用いられ たと考えられます。 所在地:共栄町1丁目7付近 14 東部 教育 広島簡易教育所跡 東部小学校の前身である広島簡易教育所があった場所で す。広島村における教育機関の創設は、明治25年、中の 沢(現在の共栄町1丁目)に設置した広島簡易教育所に始 まります。広島開墾地の戸数が280戸余りに達し、学齢 児童が増加したため、教育所の設置が決まりました。その 後教育所は、28年に広島尋常小学校となり、33年に高 等科を併設し広島尋常高等小学校と改称。昭和9年には高 台尋常小学校・音江別分教場の2校と統合して広島東部尋 常高等小学校となり、同年、現在の東部小学校の場所に移 ります。昭和22年には村立東部小学校に改称され、現在 も市立小学校として歴史を刻み続けています。 所在地:共栄町1丁目13 ~ 16 ~ 15 東部 2 修景・冒険の池 中の沢地区に入植した人々の田を潤した溜池が現在はレク リエーションの森の修景・冒険の池になっています。明治 25年、官林の一部を借りて溜池を作ったときは、近所の 人たちが大勢来て、モッコに土を入れて天秤棒で担ぎ、沢 の左右から土を盛って堤を築いたそうです。この原始林の 溜池の水は2haの田を潤して、良い米が採れました。昭 和38年頃まで使われていました。 所在地:北広島レクリエーションの森内 16 東部 石碑 開拓記念公園内の石碑 「飛躍の碑」 昭和59年、広島 開拓団移入から1 00年を記念して 建立されました。 「開村80周年記念碑」 昭和39年、和田郁次郎 の功績を残すため建立さ れました。 「廣島村記念日唱歌」 昭和20年頃まで、開村 記念日には広島神社境内 で合唱されました。当時 の様子を偲ぶ唱歌です。 「交流の翼」 平成8年、広島市 と北広島市の野球 少年団の交流の一 環として建立され ました。 所在地:中央2丁目5(開拓記念公園内) 17 東部 開拓 北広島始まりの場所 和田郁次郎邸跡 道道江別恵庭線が輪厚川と交差する所。明治17年、ここ に最初の集落が形成され、和田郁次郎も居を構えました。 当初の和田邸は、役場・子弟の教育所・郵便物取扱いの役 を担い、やがて移住者が増えて住宅や商店が並び、郵便局 や学校もこの一帯に置かれて村の中心となりました。 その 後、和田邸跡を記念して作られた広島小公園に、昭和39 年の開村80周年記念事業で「広島村この地に始まる」と 記された碑が建立しました。そこがまちの礎であること を、次の世代に伝える碑でした。しかし昭和59年、ひろ しま100年を記念して作られた開拓記念公園(中央2丁 目)に、碑や樹木は移設されました。 所在地:中央1丁目2(北広島交番付近) ~ 17 ~ 18 東部 神社 広島神社 和田郁次郎は明治16年4月の来道の際に、伊勢の国に寄 り伊勢神宮を参拝し、開墾農事の成功を祈願しました。そ の際に御神霊申し受け、これを村の守護神として明治17 年に祠を建て祀ったことが始まりです。和田郁次郎の渡道 の目的は、あくまで広島県人の村を北海道に建設すること でした。和田はいかにして移住者の心を安定させ定住させ るか、いかにして離散させないかという配慮から広島神社 の建立と発展に力を注ぎました。 昭和20年頃まで、開村記念日の5月23日には例大祭が 行なわれ、村民皆で開拓唱歌を歌い、村の繁栄を祝いまし た。現在でも「春まつり」として受け継がれ、5月23日 にお祭りが開催されています。 所在地:中央4丁目3-1 19 東部 石碑 20 東部 石碑 廣島開村碑 忠霊塔 明治41年、全村民の寄 附により建立。和田郁次 郎が開村を志した明治1 6年から25年を経過し たことを記念して建てら れました。明治41年、 人口は5千人になってお り、田畑は、5500町 も広がっていました。 昭和33年、広島 村忠霊塔建立期成 会により建立。太 平洋戦争で亡く なった村内出身者 100名の慰霊碑 として建立されま した。 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) 21 22 東部地区 石碑 東部地区 教会 広島神社の狛犬 カトリック北広島教会 大正2年1 0月10 日、字島松 の和田郁次 郎の小作地 (和田農 場)の小作 人々が奉納 しました。 札幌の大国元助と 宣教師フヲリュに より、明治23 年、和田郁次郎の 宅地を借受け、中 の沢に集会所兼仮 聖堂を建てたのが 始まりです。明治 36年現在の場所 に移転しました。 所在地:中央4丁目5 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) ~ 18 ~ 2 23 東部 24 寺 東部 石碑 2 昌福寺 富ケ岡会館の石碑 明治32年創立。日蓮宗のお寺です。広島開 墾地(字音江別)の集落全体で協議し創立し ました。創立 当初は、南の 里地区のホク リョウの近く に建っていま した。 富ヶ岡は、昭和13年に字高台と字下音江別 が合わさり誕生した地名です。昭和45年の 団地造成の際、それまで高台に暮していた 人々の多くがこの 付近に移転し、昭 和53年土地整理 区画事業を経て新 富町という地名が 誕生します。 所在地:中央6丁目8 所在地:新富町東2丁目3(富ケ岡会館敷地内) 25 東部 開拓 戦後開拓碑(東の里地区の歴史) 昭和47年、広島町農業協同組合初代組合長 藤田牟他130名に より建立。昭和20年東京大空襲の戦災疎開者と、数十万人にも のぼる戦後引揚者・復員者の食糧難の打開、就業対策として開発 の遅れている北海道が疎開先として選ばれ、北広島(広島町)に も200戸の開拓者が送り込まれました。送り込まれたのは西の 里(今の光原、新光、北光)、東の里地区、輪厚・竹山・高台地 区、大曲地区でした。 西の里地区は野幌国有林内で、70戸入植。重粘度地帯で水に苦 労しました。東の里地区に入植した開拓者は、何度も見放されて きた低地帯をあてられたため、毎年千歳川の氾濫にみまわれ苦労 しました。輪厚、竹山、高台地区には約40戸、大曲地区には約 40戸入植ましたが根曲竹に悩まされました。それらの人々の農 業指導としてつくられたのが、広島村開拓農業組合(昭和23 年)、富ヶ丘開拓農業組合、日進開拓農業組合(大曲)。それか ら17年ほど経って、3つの開拓農協は解散し、その役割を「広 島町農業協同組合」が引き継ぎました。その記念として東の里に この石碑が建てられました。 所在地:稲穂町東8丁目4(東公園の脇) ~ 19 ~ 26 東部 遺跡 富ヶ岡D(北広島団地第2)遺跡、富ヶ岡E(北広島団地第1)遺跡 D遺跡(第2遺跡)では、縄文時代後期 のピット17か所、住居跡3か所が発 見されています。E遺跡(第1遺跡) はJR千歳線沿いにあり、縄文時代中 期の土器片が出土しています。 所在地:青葉町3丁目、1丁目付近 27 東部 遺跡 富ヶ岡D遺跡 28 東部 富ヶ岡E遺跡 遺跡 富ヶ岡1、2遺跡 富ヶ岡3遺跡 縄文中期から後期 の土器片や石器が 出土しています。 長年の耕作によ り、遺物含有層が 耕作土に取り込ま れ、わずかしか出 土していません。 富ヶ岡B遺跡と音 江別川を挟んで対 岸に位置していま す。主に縄文時代 早期から中期の土 器片、石器及び石 器片など約300 0点出土していま す。 所在地:富ヶ岡424-1、339-7 所在地:富ヶ岡454、456 29 30 東部 遺跡 富ヶ岡A、C遺跡 東部 遺跡 富ヶ岡B遺跡(富ヶ岡遺跡) 音江別川右岸の河岸段丘上から、縄文時代前 音江別川右岸の台地上から、ピットや焼土層 期から後期までの、土器片・石器・黒曜石片 が出土し、焼土中からは火焼を受けた土器片 が出土しています。 などが2000点余り出土しています。石器 は出土が少なく、 100点ほど出土 しています。縄文 時代早期から晩期 までのもが出 土しています。 所在地:富ヶ岡622、91-2ほか 所在地:富ヶ岡687、688-1 ~ 20 ~ 31 神社 東部 竹山神社 明治38年頃建立。ご神体は春日大社と書かれた木札ですが、神 社としては珍しく、毘沙門様の像が祀られ、両側には仁王像が二 体置かれています。毘沙門様と仁王像は後に合祀されたものです が、竹山に最初に入植した長南清三郎ら竹山地区の人々によって 大切に守られてきました。 所在地:富ヶ岡538 32 石碑 東部 竹山神社の石碑 明治38年建立。竹山に入植した長南清三郎と交流のあった白石 村の斉木岩次郎の所有だった毘沙門様を、明治38年に竹山神社 に合祀した際に、この石碑は建立されました。合祀は、斉木さん の夢枕に毘沙門様が立って竹山に祀って欲しいとお告げがあっ た、という話に感動した長南さんの好意によるものでした。 所在地:富ヶ岡538 33 東部/団地 寺 高台にあった正覚寺 明治34年創立。真宗大谷派のお寺でした。現在の北広島団地の高台町あたりは、明治36 年当時の公文書に字高台と記載があるように、明治の開拓期に拓かれた集落があり、正覚寺 というお寺がありました(現在の高台5丁目付近)。しかし、昭和36年正覚寺は閉じ、字 高台は昭和45年道営北広島団地の敷地内となり、集落全員が移転することとなりました。 所在地:現在の高台町5丁目付近 34 東部 地蔵尊 富ヶ岡地蔵尊 もともとは字高台にあった正覚寺の前に立っていたお地蔵 様です。字高台に初めて入植したのは、明治19年に福井 県から入植した白崎小吉で、当初は和田郁次郎の小作人と して字音江別(現:南の里)に入り資金を蓄え、明治25年 に字高台にあった和田郁次郎の土地を付与されて自家農業 を始めました。80年近く字高台の集落の人々を見つめて きたお地蔵様でしたが、団地造営により集落全体が移転さ れる際に、白崎家に引きとられ現在の場所に立っていま す。 所在地:私有地のため立ち入りはできません。 ~ 21 ~ ~ 22 ~ ~ 23 ~ 参考文献 北広島市史編さん委員会 編(2007)『北広島市史 上巻』北広島市 内田優一(2004)『開村120周年記念版 写真でみる 北広島のあゆみ 大谷義明(2004)『郷土研究 北ひろしま第16号 』弘文社 広島村創業前後の史料(田辺安一収集)』 北広島郷土史研究会 大谷義明(2005)『郷土研究 北ひろしま第18号 碑は語る』北広島郷土史研究会 北広島市教育委員会 (1996)『きたひろしま歴史物語』 北広島市「新・博物史 きたひろしま MAP」北広島市ホームページ ~ 24 ~ 歴史遺産マップ 東部・団地・南の里エリア編 至江別 2 天然記念物 野幌原始林 レクリエーションの森 3 1 4 12 13 14 5 15 17 11 9 輪厚川 7 6 18~21 10 16 25 22 8 23 26 島松川 24 33 音江別川 31 29 32 28 34 36 35 27 36 30 35 44 43 37~41 36 至恵庭 45 1 番号はハンドブック内の遺産の番号です。 ~ 25 ~ 42