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『ボーディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』 第 55 章への補注

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『ボーディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』 第 55 章への補注
『ボーディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』
第 55 章への補注
神
山
重
彦
物乞いと布施
『ボーディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』第 55 章は,鳩がサルヴァム ダ
ダ王 (一切布施王)に保護を求め
王が自らの肉を猟師(実はインドラ神の化身)に与
える物語である。
この類話である,鷹が鳩を追う説話は,日本でもよく知られたも ので,平安時代の 説
話集『三宝絵詞』などに収められている。
『三宝絵詞』 上 一 1
L
び
F' 毘王の慈悲心を試すため,帝釈天が鷹に,毘首掲磨天が鳩に
化し,鳩が鷹に追われて王の懐へ逃げ入る。王 は鳩を救 うために,
自分の全身の肉を切
り取って,鷹に与えてしまう 。そ の時,帝釈天は天の薬を注ぎ,戸毘王の身体はもとど
おりに回復した。
これと似た物語が,ギリシアにもあるのは興味深 い ことである。
『ギリシア哲学者列伝.! (ラエルティオス)第 4 巻第 2 章「クセ ノクラ テス」
クラテスはプラトンの弟子だった。ある時
クセノ
一羽の小雀が鷹に追われて,クセノクラテ
スの懐へ 飛び込んで来 た。彼 は「保護を求めるも の を ,引 き渡しではならな いか らね」
と 言 い,その小雀をやさ しくなでて,放し てやった。
『カル パラタ ー』や『三宝絵詞』においては, 鳩 を追う猟師も 鷹も,そ の正体は実は
インド ラ 神(=帝釈天)だ った。 神・あるい は仏が人間の 姿になってあらわ れ,物 を乞
うというのは,仏教説話にしばしば見られる設定である。
「今昔物語集』巻 20-40
冬の 日, 元興寺の僧 義紹院が路辺の 乞食に衣 を 与える。
と
ころが,義紹院が馬に乗ったまま衣を投げかけ たこ とを乞食は怒 り , 衣 を投げ返して 姿
けにん
を消す。「化人 ( = 神仏の化身)であっ たのか」と義紹院は悟り ,礼拝する。
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人間文化第 27 号
古くは『日本書紀』にも見 ら れる 。
ひつぎのみ こ
『 日 本書紀』 巻 22 推古天皇 2 1 年
十二月一日 , 皇太子( = 聖徳太子) が片岡 山 に出か
けると,飢えた人が道に倒 れ ていた。太子は飢 えた 人に飲食を与 え,
でかけてやった 。 そして「安 らかに寝てお れ」と言 い
自分の衣服を脱い
r し な て る片 岡 山 に飯に 飢 て
・・ 」 の歌をうた った。 二日,太子 は使者を 送 り ,様子を見に行かせる 。 飢 え た 人はす
で に死 ん でいた 。太子 は 墓を 作り
ひじ り
r この人は凡人 で は あるま い 。真 人で あろう」と
語った 。
キリ ス ト 教の伝説にも,同様のものが ある。
「黄金伝説 .JJ 1
60 r聖マ ル テ ィ ヌス 」
聖マ ル ティヌスがまだ洗礼を受 けてい ない時,
冬の日に馬でアミアンの 市門を通 ろう として 一人 の裸の乞食に出会 う。 マルティヌス は
自分のマ ン ト の半分を剣で裂いて乞食に与 える。その夜,マルテ ィヌス の夢に,半分の
マ ン ト を まと っ たキリ ス ト があ ら われ,天使たちに 「 マ ル ティヌスが このマ ン ト を 私に
着せて く れ た 」 と 言う。
神や仏が人 の 慈悲心を試す た めに,繰り返し 物乞いをす る とい う物語もあ る。
『撰集抄』 巻 3 - 7
せんさい
冬の寒さを 訴 える女 に ,膳西上人が小袖 を与える。翌 日,同 じ女
が来て「小袖 を失った」と言うので,上人は再び与える。その次の日も , 女は着物を乞
い に来る。 上人 が 「 もう与えられぬ」と断ると ,
て, 姿 を消した 。 謄西上人は
女 は「汝は 心小さき 人 」と 言 い 捨て
r化人 が, 私の 心 を は か り給う たのだ」
と悟 って,悔 い
悲し んだ。
『 閑居の友』 上
l
天竺へ渡る真知 親王が, 大柑子を三つ持っていた。飢え疲れた
人が乞うので, 親王は 小 さな 柑子を与える。飢え人は
r心小 さき人のほどこ し は受く
べからず」と 言って姿を消す。「化人であったのか」 と親王は驚き , 悔やむ。
『三国伝記』巻 5 - 8
二子と犬を連れた貧女が斎会の場に現れ,食を乞う。僧が女と
二子の分, 飯三膳を与えると , 女は犬の分も乞い ,
え」と望む。僧が 「不当なり。去れ」
子,
さらに「我が腹中の子にも食を給
と怒ると , 女はたちまち文殊菩薩と変じ,犬は獅
二子 は 善財童子 ・ 優填王となった。
これも仏教説話 に 限られる話柄ではなく ,
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西欧に類話がある。
『ボーディサットヴァ・アウゃアダーナ・カルパラタ ー 』第 55 章への補注(神
「黄金伝説.JJ 27 r慈善家聖ヨハネス」
山)
物乞いの巡礼に,聖ヨハネスは銀貨六枚を与え
た。しばらくして同じ乞食が姿を変えてやって来ると,ヨハネスは金貨六枚を与えた。
三度目に乞食が現れた時には,ヨハネスは金貨十二枚を与えるよう会計係に命じ
r主
イエス・キリストに試されているのかもしれないのだ」と言った 。
以上の例は,食物や衣服や金貨などを物乞いに与えるのであ った。しか し本稿で問題
にするのは,身体の肉を切り取って与えねばならないという事態である。
対立するこ者の調停
第 55 章においてサルヴァムダダ王(一切布施王)が直面したのは,鳩の命を救うだ
けではなく,猟師の 生活も保障せねばならない と いう問題である。鳩と猟師,
生きていかねばならな い 。あちらを立てればこちらが立たず,
ど ちらも
という状況である 。
利害の対立する A'B 二者があり,それを第三者が裁く物語としては,いわゆる 「漁
夫(=漁父)の利 」 の話がある。 A と B が争い
通りかかった第三者が
A と B を獲物
として得るというもので ある。
『戦国策』 第 30 r 燕」
ドブガイ(あるいはカラスガイ・ハマグリ)が肉を出して,
日にさらしていた。シギ(あるいはカワセミ)がその肉をついばんだの で,
ドブガイは
貝を合わせてシギのくちばしをはさんだ。両者が争っているところへ漁父が来て,両方
とも捕 えた。
イソップにも類似した話がある。
『イソ ッフ。寓話集.JJ (岩波文庫版) 1
47 r ライオンと熊」
ライオンと熊が,鹿の仔をめ
ぐって争い,互いに傷つき横たわる。そこへ狐が通りかかり,仔鹿を取って立ち去 っ
た。
こういう乱暴な解決とは異なり,争う両者の 言 い分をよく聞き,
A' B 両者の言 い分
をそのまま認めることによって,公正な裁きをする物語もある。
『葉陰比事 .JJ 1
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0 r斉賢両易 J
に
r分け前が相 手 よりも少ない 」
r財産配分が不平等だ 」と 言って甲と乙 が争い,
とも
と主張した。丞相張斉賢が甲 乙両者 の言い分を聞 き ,
甲を乙の家に,乙を甲の家に入れた。 二人ともこの裁きに従うほかなかった。
一方が不正 ・不正直で、ある場合も,その不正 ・ 不正直の 側 の言い分を,そのまま認め
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人間文化第 27 号
て裁く物語がある。
『カレンダーゲシヒテン(暦話).J (へーベル) r 名裁判官」
りの袋を落とし
金持ちが七百ターラー入
r 拾った人に謝礼百ターラーを支払う」と広告する。正直者が袋を届
けると,金持ちは謝礼を払わずにすまそうと考え
r君は謝礼の百ターラーを先に取っ
たんだね。袋の中には八百ターラーあったんだよ」と言う。裁判官が金持ちに
r それ
ならこれは,お前が落としたのとは違う袋だ」と言って,正直者に袋を与えた C* 東洋
での出来事だ,
として記される〕。
『沙石集』巻 7-3
唐に正直な夫婦があり
拾って届けた。ところが落とし主が
がかりをつける。すると裁判官が
南挺( = 上質の銀)六つの入った袋を
r七つあったはずだ。一つ隠しただろう」と言い
r それならこれは,お前の落としたのとは別の袋で
あろう」と言って,南挺六つをすべて正直夫婦に与えた。
ところで第 55 章は,対立する A.B 二者をともに救おう,
という物語である。次の
「日本書紀』の例などは,そういうものである。 A と B が争い,通りかかった第三者が
争いをやめさせて,
A.B 双方の命を救うのである。
『日本書紀』巻 19 欽明天皇即位前紀
はたの おほ っち
秦大津父という人が通りかかり
二頭の狼が山で戦い,血だらけになっていた。
r あなた方は貴い神で,荒々しいわざを好みます。猟
師に遭ったら捕らえられてしまうでしょう」と言い,二頭の噛み合いをやめさせた。そ
して血で汚れた毛を拭い洗って放してやり
二頭の命を助けた。この報いであろうか,
後に彼は欽明天皇に召され,重んぜ、られた。
さらにいえば,第 55 章は,裁く人(王)が自らの身を犠牲にして,鳩と猟師の双方
を救うのであった。ややかけ離れた印象を与えるかもしれないが,落語などで知られる
いわゆる「三方一両損」の物語も,裁く者が自らの金を出して,争う二者の調停をする
という点では,一切布施王の行為と共通する。「三方一両損」の物語は,古くは『大岡
政談』に見られる。
『大岡政談.J r 畳屋・建具屋出入りの事ならび、に一両損裁許の事」
三両拾った建具屋
が,落とし主の畳屋を訪ねるが,畳屋は「三両は,拾ったお前のものだ」と言って,っ
き返す。畳屋も建具屋も,互いに相手に「三両受け取れ J と言って,争いになる。大岡
越前が自分の懐から一両出して合計四両とし,畳屋と建具屋に二両ずつ与える。越前は
「畳屋も建具屋も三両得るはずのところ
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二両になって 一両の損。この越前も一両の損」
『ボ ー ディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』第 55 章へ の補注(神
山)
と説 く。
「三方一両損」とは言いながら,金を落とした者と拾った者は,考えようによっては,
二両得したわけである 。これに 対して, 裁いた奉行は 自分の懐の一両を 出して与 えたの
だから,金銭的には損害を受けただけである 。
さて,一切布施王は自らの肉を切り取って,猟師に与えたのだったが,生きた人間の
身体から肉を切り取るとい う と,まず連想さ れるのが 『ヴ、エ ニス の商人』であろ う。
こ
れも 賢明な裁きの物語であ る。
「ヴェニスの商人.! ( シ ェ イクス ピア)第 4 幕
ヴェニス の商人アン トーニ オは親友
パ ッサー ニオのために ,ユ ダヤ人シャイロックから三千ダカットを借り
I期日 までに
返せなければ胸の肉一ポン ドを切 り 取って与 える 」と の契約をかわす。パッ サーニオ の
婚約者ポーシヤが法学博士 に扮 し
I契約書には肉 一ポ ンド と だけ書いであるので, 血
は一滴たりとも流してはな らぬ」 と宣告する 。
しかし 第 55 章では ,この ような論弁とも思えるようなことは言わず, 正直に肉を切っ
て与え る。ところが,王が自らの肉を多く切り取って 秤に かけても,鳩よりも軽かっ
た。これはIT'エジプトの死者の書』の,
冥府の審判の時 の秤を思わせる展開で ある 。
「エジプトの死者の 書』では,人間の心臓と 一片の 羽毛の 重 さを比 べる。当然,心臓の
方が重 いは ずで、あるが,それではいけないのである。重い 心臓と 軽い 羽毛が,秤の 上で
釣り合わなければならない。
『エ ジプ ト の死者の 書.!
I私(書記生ア ニ )J は死んで霊界へ行き,女神マアトの前で
秤の審判を受けた。「私」の身体から心臓が抜き取られ,天秤皿 の一方 に置かれる。他
方の皿 には,一片の羽毛が置かれる。生前に 「私 」の犯した罪が羽毛 よりも重ければ,
心臓の 載った 皿が下がる。すると「私 」 の心臓は獣に喰われ
I私」は地下の凶霊の国
(=地獄)へ落 とされる 定めだ。さ いわい「私 」の 心臓と羽毛はつり合って,天秤はど
ちらへも傾かなかった。「私」は霊として永遠に生きることを許された。
受苦の仏教説話
日本の説話には,如来や菩薩が(具体的には仏像が)
ける,
人聞を助けて代わりに 傷を受
というものがよく見られる。
『今昔物語集」 巻 1 6- 3
周防の判官代が敵の待ち伏せに会い,身体中を斬られるが,
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人間文化第 27 号
少しも傷を負わない。彼は, 三井寺の観音が身代わりになった由の夢を見て,急、ぎ参詣
すると,観音像が満身傷だらけになっていた。
めのわらわ
『沙石集』巻 2-3
金持ちの主人が,赤く焼けた銭を女童の片頬に当てて罰した。
その後で主人は持仏堂へ行き,本尊である金色の阿弥陀立像を拝む。すると阿弥陀像の
頬に,銭の形が黒くついていたので,主人は驚く。女童を呼んで頬を見ると,少しの傷
もなかった。阿弥陀像の銭形は,金箔を何重に貼っても隠すことができなかった。
こういう物語のバリエーションで,飢えた人に ,仏像が自分の身を食べさせるという
ものがある。
『古本説話集』下
53
丹後国の山寺に冬ごもりする僧が,飢えて観音に助けを求め
る。鹿が現れたので,僧は鹿の両腿の肉を切り,鍋で煮て食う。春になって村人たちが
寺を訪れると,鍋に木切れがあり,観音像の両腿がえぐられていた。僧は「観音が鹿に
化身されたのならば,もとどおりになり給え」と祈り,観音像の傷口は見る聞にふさが
なりあい
る。以来,この寺を成合寺という
C
*ß"今昔物語集』巻 16-4 の類話では,観音は猪に
化して僧に食われる〕。
これは観音が自らの肉を与えて
僧を飢え死にから救ったということである。一切布
施王が猟師に肉を与えたのと同じことをしているわけである 。第百章においては,王
が「無上の等正覚を求める」という真実語を発すると,王の肉体はもとどおりになる。
『古本説話集』では僧が「鹿が観音の化身ならば,もとどおりになり給え」と言うと,
観音像の傷口はふさがった。成合寺の観音の説話は,この第 55 章や戸毘王の物語など,
インドの話を原典として出来上がったものであろう。
近代小説で、は,自分の身を犠牲にして他の人を救う物語は少ない。犠牲的行為を偽善
と見なしてしまうからであろうか。飢え死に寸前の少年を見ても何もしない,
という次
の小説などは,近代小説の主人公の一つの典型で、あろう。
r灰色の月 JJ (志賀直哉)
終戦後まもない昭和二十年十月十六日の夜。「私」は東京駅
から山手線に乗った。隣に十七~八歳の少年工が腰掛けていた。眼をっぷり,口をあ
け,上体を前後に揺すっている。乗客の一人が少年工を見て,餓死寸前だという意味の
ことを言った。少年工は窓外を見ょうとして重心を失い
I 私 」によりかかってきた 。
「私」は反射的に ,肩で突き 返してしまった。「私」は少年工のために何もしてやれず,
暗潅たる気持ちで,渋谷で降りた。
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『ボーテ。ィサ ット ヴァ・アヴァダーナ ・ カルパラター』第 55 章へ の補注(神
山)
ところで, 一切布施王や成合寺の観音のごとく,飢えた人聞に肉を与えるという 物語
としては,次の説話が有名である 。こ こにも帝釈天が登場する。
『今昔物語集』巻 5-13
帝釈天が,兎・狐 ・猿の心を試すた めに老人に変身し
I我
を養え」と請う。狐と猿は,それぞれ食料を捜して来て老人に食べさせるが,兎は無力
で何も捜せない 。 兎は「私の身体を焼いてお食べ下さい」と 言い ,焚き火に飛びこ む。
帝釈天は兎を哀れみ,兎が火に飛び、入った形を月の中へ移して,一切衆生に見せるため
に月面にとどめた。
手塚治虫の長編『ブ ッダ』 が,冒頭と結尾 の 二ヵ所にこの 物語を 引いている 。彼の
「 ジヤ ング、ル大帝』 も,同様の物語である 。
『 ジャングル大帝.! (手塚治虫)
不思議な力を持つ月光石を求めて
検隊が海抜 5530 メートルのムーン山に登馨し ,
激しい吹雪で隊員たちは 次々 に倒れ,
A ・ B 両国 の探
白ライオンのレオ が 同行する。し かし
ヒ ゲオヤジ 以外は皆死ぬ。レオ は「わしを 殺して
肉 を食べ,毛皮を着て 下山しな さい」と告げ,わざと ヒ ゲオヤジのナイフに 刺 されて死
ぬ。
以上の,動物(兎やラ イオン )が,
自分 の 肉を人聞に与える のとは逆に ,人聞が自 分
の肉を猛獣や羅利などに与える物語もある。
r三宝絵詞』上 一11
国王の三人の王子たちが竹林 に出かけ ,七頭の子を産んで衰弱
した一頭の虎を見た 。長男の 王子が「この虎 は, 食物を探すこと ができ ず,飢えて自 分
の子を喰うであろう」と言った。末子の薩極王子が 「虎の命を救おう 」と 考え,衣を脱
いで竹にかけ,
自分の身を虎に喰わせた。
『大般浬繋経.! (40 巻本 ) I 聖行品 」
帝釈天が羅剰に化身し,ヒマラヤ 山 へ下って ,
「諸行無常。是生滅法 (諸行 は無常であ る。これが生成と消滅の道理である ) J の備を唱
えた。苦行者(=雪 山 童子。 仏陀の前世) が
と思い ,
r この教えのためなら命も 惜しく ない」
自 分の身体を羅剰に食わせる約束で,偶の後半「生滅々己。寂滅為楽(生成と
消滅の繰り返しがなく なった時,
まったくの静寂の安楽が得られる ) J を聞かせても
らった。羅利は帝釈天の姿に戻り,苦行者を讃嘆 し た。
ところで第 55 章は,動物が肉を人聞に与えるのでもなく,人聞が肉を猛獣や羅利に
与えるので もない。王が猟師に肉を与える 。つま り人聞が人聞 に肉を与える物語であ
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人間文化第 27 号
る。ここが気にかかるところである。もっとも,猟師は実は人間ではなくインドラ神で
あり,また,王の肉を切り取っただけで食べてはいないので,もう少しはっきりした例
をあげてみよう。
「大般浬繋経.! (40 巻本) I 光明遍照高貴徳王菩薩品」
貧しい男が自分の身体を金五
枚で売り,その金で仏陀への布施物を買って届ける。男の身体を買った人は悪性の病気
で,薬として毎日,人肉を(田上太秀氏の現代語訳では百五十グラム)食べねばならな
い。男は毎日,自分の肉を切って病人に与えるが,仏陀から教わった詩備を念じていた
ので,痛みを感じなかった。病人は人肉を一ヵ月間食べて治癒した。男の身体の肉を切
り取った傷も,跡形なく消えた。
人肉を食べた男は病気が治り,人肉を与えた男も傷あとは消えたのだから,めでたし
めでたしの結末である。しかし結果が良かったからといって
人聞が人間の肉を食べる
ことを正当化できるのだろうか。これは,きわめて罪深いことではないだろうか。
人肉食
敵対する人物によって,知らずに肉親の肉を食べさせられた,
という物語が,西欧に
しばしば見られる 。 一例だけあげると,父親が,知らずに我が子の肉を食う物語がグリ
ムにある。
『びゃくしんの話.! (グリム) KHM47
継母が先妻の子を殺し肉汁にして,帰宅した
父親に食べさせる。父親が「せがれはどうした ?J
と聞くと,継母は「親戚の家へ泊ま
りに行った」と答える。父親は「変だなあ」と言いつつも,肉汁を「うまいうまい」と
言って全部食べてしまう。
日本では『かちかち山』がある 。
『かちかち山.! (昔話)
狸が婆を殺して婆に化け,畑から帰ってきた爺に「狸汁を」
とすすめる 。 何も知らぬ爺が舌鼓を打って食べおわると,狸は正体をあらわし
I婆汁
食った爺ゃい。流しの下の骨を見ろ」と言って逃げる。
ただし,子供向けの絵本では,
この部分が削除されていることが多い。私自身,子供
の頃はまったく知らず,大学の三年生の時,太宰治の『お伽草紙』が文庫本になったの
で喜んで買い,その中のー編『カチカチ山』を読んで,ずいぶん驚いた思い出がある。
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『ボーデイサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラター』第 55 章への 補注(神
飢餓に迫られれば,人肉と知りつつ食べる
『海神丸.1 (野上弥生子)
山)
ということも起こってくる。
小谷船長・三吉・五郎助・八蔵の四人が乗った帆船海神丸
が,嵐に遭い漂流する。食料が尽き,八蔵は人肉を食おうと考え,五郎助をそそのかし
て,三吉の頭を斧で打ち割り殺す。しかしさすがに死体を食べるこ とは できず,三吉の
死体は海へ投げこまれる 。数十日後に三人は救助され,船長は「三吉は 病死した」と 報
告する。
『野火.1 (大岡昇平)
レイテ島の敗兵田村一等兵は人肉を食べようとするが,肉を切
り取るために剣を持つ右の手首を,左手が握 ってと めるので驚く 。出会っ た仲間の兵 か
ら田村は猿の干肉をもらい,何日かの閉それを食べて命をつなぐ。実はそれは人肉だっ
た。
人聞の肉を食べた者は身体のまわりが光る ,
道を踏み外したこと,
という話もあり,人肉食は,もはや人の
と見なされているのであろう。
『ひかりごけ.1 (武田泰淳)
第二次大戦末期。冬の根室海峡で小型船が難破する。死
んだ船員の肉を食べて,船長一人が生き残る。人間の肉を食べた者は,首の後ろに仏像
の光背のごとき緑金色の光の輪が出る。
『蕨野行.1 (村田 喜代子)
凶作の年。隣人を 殺 し
肉を塩漬けにして食いつないだ 男
がいた。雨の降る晩,道を歩く男の四辺に,ホタル火より小さい燐光がチラチ ラと舞っ
ていた。村の年寄りが「人を食ったに違いない」と言い,男は役人に捕らえられて死罪
となった。
仏教に関わる物語としては
『食人鬼.1 (小泉八雲『怪談.1)
じ きにんき
死後食人鬼と な ってしまった僧の 話がある。
山村の寺僧が道心なく,僧職を「衣食を得る手段」と
ばかり考えていたため,死 んで食人鬼 に生まれ変わった。それ以来,食人鬼の僧は,葬
儀のある 家へ行って,遺骸をむさぼり食って生きてゆかねばならなく なっ た。旅の夢窓
国師が訪れたので,僧は「どうか施餓鬼をお願いいたしま す。この恐ろ しい 境涯からお
救い下さい」と請い,消え失せた。
ところが,これと似た物語で
愛するがゆえに人肉を食う
というものが存在するの
である。
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人間文化第 27 号
「雨月物語」 巻之 5
í青頭巾」
下野国の山寺の僧が,寵愛する寺童の死を惜しみ,つ
いにその遺骸を食い尽くした。その後,僧は夜になると里に出て人を襲い,新墓をあば
いて屍肉を食うようになった。諸国行脚の快庵禅師が寺を訪れて,僧に「江月照らし松
風吹く,永夜清宵何 の所為ぞ」の句を与え,成仏させた。
美女に求婚した男たちが,その美女の肉を食べるという物語もある。
寅御石(高木敏雄『日本伝説集」第 1 4)
弘安 (1278""-'88) の頃。長者の娘お寅は絶
世 の美女だったので,近郷近在の大勢の男が求婚した。誰を婿に選ん でも, 他 の求婚者
たちから恨まれる。長者は思い悩み,ある決心をして,求婚者たちを家へ招く。酒宴 の
席で,血の滴る生肉を盛り 上 げた大皿が出る 。そ れはお寅の腿肉だった。求婚者た ちは
お寅の死を知り,生肉を食べ尽くして涙ながらに引き上げた。彼らが申し合わせて供養
塔を建立したのが,今の寅御石の起こりである (埼玉県南埼玉郡河合村馬込)。
これは美女が,
自分を愛する大勢の男たちに身を分けて食べさせるのであるから,
切布施王の行為とやや似 たところがあるともいえる。さら に ,次のような物語さえあ
る。
『遠野物語拾遺.J
2
9
6
昔ある所に,たいそう 仲の良 い夫婦がいた 。夫が長旅に出てい
る間,妻は,近所の若者たちの悪戯に悩まされ,川へ身を投げた。そこへ夫が帰って来
すすき
て,妻の屍に取りすがって夜昼泣き悲しんだ 。夫 は,妻の肉を薄 の葉 に包んで持ち帰
り,餅にして食べた。これが,五月五日の節句に薄餅(=薄の新しい葉に,揚 きたての
水切り餅を 包んだもの )を 作って食べるようになった始めである。
愛する人の 肉を 食べることが, 愛情の表現であり ,供養にもなる,
ということなのだ
ろう。妻は夫に食われることによって,成仏したのかもしれな い 。もっ とも,この 物語
の原型は,仏教が日本にもたらされる以前のものかもしれず\そうであ れば,成仏とい
う 言 い 方は適切ではな い 。
物乞いと布施,
という物語についていろいろ な類話をあげて考えていくと,人聞が人
間の肉を食べるという,あってはならぬ物語群に行 きつ いてしまう 。 『物語要素事典』
を作成する立場からは,こう い う物語からも目をそらすことはできな い のである 。「人
肉食」 の物語は「近親婚」の物語とならんで,人間存在の根源にふれる,きわめて恐ろ
しい物語で あろう と思 うが,
これらを検討し た上で,仏典説話 をあらためて 見直して行
きたいというのが,私の現在の考えである。
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Fly UP