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「芋粥」雑感~~五位の男はどう描かれたか
「 芋粥 」 雑 感 ∼∼五位の男は どう描かれたか∼∼ 風 花 小 町 3月7日(水 )、2007年、朝、越前国ではこの冬一番の大雪です。外は一面真っ 白で庭の木々がもこもこと白い雪の花をつけています。 紫色のにおいスミレが風にひらひらしてたのも、馬酔木のピンクの可憐な房状の花々 も、沈丁花のツンと主張する花の香りも・・・みな一夜のうちに重い雪の下に閉じ込め られてしまいました。 「そんなになまやさしくはないよ 。」とピシリと叱られたような気持ちです。ここ数 日、この時節にしては暖かくて、私は一枚薄着をして気持ちも軽く庭仕事を始めていま したから。 でも春の雪には、どこか優しいぬくもりがあるのですよね。 私たちは現在『今昔物語集』巻第二十六本朝 付 宿報を読み進んでいるところです。こ の第十七話に「芋粥」を腹いっぱい飽きるほど食してみたいと言った五位の男の話が出 てきます。芥川龍之介の短篇小説『芋粥』の素材となった話です。 まずはこの「芋粥」のことから話を起こしていきましょう。 < 1 > 「芋粥」というと、現代の人なら誰しも“さつまいも”と“米”を多めの“水”で炊 き合わせたものと考えるのではないでしょうか。 私の記憶にある芋粥も、母がたいてい残りご飯にさつまいもと水、そして少々の塩を 加えてとろとろと煮て作ってくれたもので、さつまいもの形が煮崩れしないところで火 から下ろすのがコツという程のものでした。さつまいものほのかな甘みと漬物や塩昆布 の付け合せのあんばいが良くて、この年齢になってもなつかしく思い出されます。 ところが、広辞苑で「芋粥」を引いてみてびっくりしました。私の知っている意味で -1- の芋粥は二番目のもので、別の本家本元の芋粥というものがあったのです 。『今昔』や 芥川の作品に出てくる芋粥は、私の知っている芋粥のことではありませんでした。 芋粥 1)ヤマノイモを薄くきったものにアマズラの汁をまぜてたいた粥。禁 中の大饗などに用いた。 2)サツマイモを入れて炊いた粥 (広辞苑) では、この本家本元の芋粥とはどんなものだったのでしょうか。 材料のヤマノイモは山の芋、薯蕷(『 今昔』では暑預)と表し、我々が日頃見かける ナガイモに対して自生しているヤマノイモということで、ジネンジョ(自然薯)とも言 われます。 『四季の山野草』の説明では、 日本各地の山野に自生していて、茎は他の物に絡みつき、根を山の芋と、また葉 の付け根にできる珠状のものを“むかご”といって食用にする。そして滋養強壮、 精がつく食べ物と信じられ、江戸時代にはヤマノイモがもうひとつの強精食品であ ったウナギに変じる俗信があった・・・と説明しています。 私自身山から掘り出した自然薯を調理したことがあります。トロロ汁にしようとすり おろしましたが、ネバリが強く、だし汁をたくさん必要としたことを覚えています。山 で自生する山芋を掘り出すのは大変な作業です。平安時代の京の町で庶民が手に入れる のは簡単ではなかったろうと思います。芋粥を作る舞台となる越前国・敦賀は、北は日 本海に面していますが他は深い山々に囲まれています。その季節になると人々はこぞっ て山に入っていったことでしょう。 次にアマズラについてです。前述の『四季の山野草』によりますと、 ツタ(蔦)のことを別名ツタカズラ、アマズル、アマズラ・・・とも呼ぶ。秋 の紅葉は美しくツタモミジと呼ぶ。そして茎汁は蔗糖を約12%含み、古代、わ が国の甘味料として使われ、甘葛煎(アマズラ煎)、味煎と呼んだ。秋末頃茎中に 自然の甘美汁が生じ、蔓を断ってそこから流れ出る汁を取ると良いと説明してい ます。 こうして調べてきて少し混乱することが出てきました。広辞苑では甘葛(アマズラ) のことを 、「今のアマチャヅルにあたると言われる蔓草の一種」と説明して、アマズラ -2- とアマチャズルを同じものに扱っているのです。先の『四季の山野草』ではこの二つは まったくの別物ですし、私はこの本の説明に従おうと思います。 ただ、私は福井県の山里・池田町の産物を扱っている所で、ドクダミなど乾燥した薬 草の中に、干したアマチャズルを見つけましたので買い求め煎じて飲んでみました。砂 糖のように舌先にすぐ感じるものではない自然のしっかりとした甘味を体験できました。 先人たちの叡智を知り感動いたしました。 「アマチャズル(山に自生する蔓性の草)は強壮薬として煎じて服用した 。」と言 うことですから、私の勝手な想像ですが、家庭で扱うのにこれなら手軽なことだから、 それなら民間ではアマズラの代わりにアマチャズルが用いられた可能性は大いにありう ることです。 アマズラの甘味は体験できていませんが、アマチャズルの自然な甘味はしっかりと私 の喉の奥に残っています。アマズラの甘味もよく似たものなのでしょう。 これで本家本元の「芋粥」の姿が明らかになってきました。 甘葛煎のたっぷりの湯の中に、皮を向いた白い芋を長めの薄い刃で撫で切りにするよ うにして入れます。山の芋はすぐ煮くずれてドロドロになり、液状になります。このこ とから「食べる」という表現を使わないで「芋粥を飲む」とか「すする」と言います。 「芋粥」とは栄養たっぷりのほのかに甘い、山の芋のスープといったところでしょうか。 大宴会のごちそうの最後に、お口なおしとして供されたのではないでしょうか。どう でしょう・・・。 < 2 > さて、この芋粥を飽きるほど食してみたいと願った五位の男とはどんな人物だったの でしょう。まず五位という官位は、律令制のもとでは、五位以上であるかそれ以下であ るかによって格段の違いがあったと言われるほど、優遇されたものであったらしいので す。 この男は、時の権力者で太政大臣・摂政・関白等の要職をつとめた藤原基経(836 ∼ 891)の屋敷に、曹子住(ぞうしずみ)といって屋敷内に部屋をいただいて住み込みで 働いていた侍でした 。『今昔』の話からは名前も年齢もはっきりとはわかりませんが、 長年基経の屋敷で勤勉実直につかえ、それが認められて、歳がいってからやっと五位と いう地位を得た男なのです。 その上この男は、風体のあがらない人物としてるる述べられています。 「顔は鼻高であるものの鼻先は赤みを帯び、その鼻のまわりはじっとりと鼻水で濡 -3- れたままになっていたし、ぬぐおうともしなかったように見えた。着ている物は薄 汚れ、敗れた袴をはき、上着の狩衣も肩から衣がずり落ちて、帯の所で引きゆがん でだらしなくて、滑稽でさえあった。」というのです。 ある年、基経の屋敷で親王や政府高官を招いての正月大宴会が催されました。宴が果 てた後、この当時恒例になっていたらしいのですが、この屋敷に仕えていた侍共は、日 頃口に入らないものも多くあったことでしょうから、宴の膳の残り物をうれしく賑やか にいただいていました。例の五位の侍ももちろんこの場に参加しておりまして、残って いた芋粥をおいしそうにすすりながら、 「ああ、できることなら、この芋粥を飽きるほど食してみたいものよのう・・・」 となにげなく口から発したのでした。 これを耳にしたのが、居合わせた若き武将藤原利仁でした。利仁は後には鎮守府将 軍にまでなる武勇の誉れ高い武将ですが、この時は越前国・敦賀の豪族の娘婿となって いて、普段は敦賀に住んでいました。 利仁は五位に「飽きるほど食べさせて差し上げましょう 。」と申し出て敦賀に招待 することになります。京では大宴会に供される芋粥も越前国の人々にとっては何という ことのない食べ物だったでしょう。利仁にとって、年配の五位の言い分はいとおしく思 えたのかもしれません。 若い利仁はこの男に心からの気配りを見せます。後に武将として大成する男の片鱗を みせています。まず、五位に負担をかけさせぬよう 、「近くの東山まで湯につかりに参 りましょう 。」と馬まで用意してなにげなく誘い出します。山科から三井寺へとやって 来て、やっと敦賀行きの計画を打ち明けます。 敦賀に到着してからも、正月を過ぎたばかりの今でいう真冬の二月の頃のことですの で、食べ物、飲み物は当然のこと、炭の火の用意、綿入りの着るものや夜具まで怠るこ とのない接待ぶりでした。 こうして翌朝早く目覚めてみれば、下男共が忙しく出入りしています。屋敷の庭先に は、国中から集められた山の芋が軒先に届くばかりに山と積みあげられているではあり ませんか。そして若い男共が十余人ばかり白い作業着に腰のあたりでキリッと帯をして てきぱきと作業をしています。一石( 180 ? )は入る釜が5∼6個もずらりと据え付け てあり、この大釜に甘葛煎の湯が煮えたっています。山の芋が薄くそぎ切りにされどん どん投入されていきます。客人である自分のために、夜明けとともににぎにぎしく準備 される芋粥作りの一部始終をずっと見守っていた五位の目の前に、出来上がった芋粥が -4- 運ばれてきました。1斗( 18?)入りの銀製の提(ひさげ)――注ぎ口のついたひしゃ くの様な物――に入った芋粥です。 「さあさあ、どうぞどうぞ!」と大きな土器に入れて勧められます。 ここまで来て、五位の男はげんなりしてしまいました。胸いっぱいなのです。一杯の 粥も飲め切れず、「飽きにたり。」と退散してしまいます。 芥川は作品『芋粥』を、ここのところで終えています。 『今昔』では、五位はこの後敦賀の利仁のもとに一ヶ月もやっかいになり、万事楽し く過ごした上に、絹や綾、装束、馬や牛までもお土産にもらって、財豊かになって京に 戻ってきたとなっています。 この違いは何でしょうか? 芥川の『芋粥』では五位の男の扱いが『今昔』とは随分と異なります。勿論『今昔』 でも五位を容姿のさえない風体のあがらないダメ男として描いていますが、芥川はこの 男の生き様や人間性までも否定して、容赦なくとことん貶めていきます。利仁が五位を 敦賀までわざわざ誘ったのは 、「芋粥」のようなものに執着する五位を愚弄するためで あったと言わんばかりです。 五位と利仁との関係を 、『今昔』とはまったく異なる人物設定にした所が芥川らしさ なのでしょうが、五位のような男をとことん追い詰め、放り出す冷たさが私には少々異 様に映る程です。芥川は五位にはもっと自信を持ってキリット勇ましく生きていく男で あって欲しかったのでしょう。ただ実直に日常の勤めを果たしてそれで良しとすること など許せないのです。惰性で生きていてはいけないのだ。たとえ良心を持っていて素直 であっても、周りに目を向け働きかけ、自らを律する生き方をしなければ・・・。( 私 は憤る芥川に、芥川の自分自身への厳しさを感じます。) 芥川作品とは逆に『今昔』では、 「長年同じ所に勤め、一目置かれ五位にまでなったような男は、このような思いがけ ない幸運に出会うことがあるのですね 。」と皆々語り伝えたと最後を締めくくっていま す。風貌さえない実直男の幸運話となっています。 このことはどちらの作品がいい・悪いの問題ではないのです。芥川と『今昔』ではめ ざした世界が異なるのですから。ただ『今昔』の世界には大きく包み込むやさしさがあ るのだなあと思っています。 ( -5- 2007 年 4 月 4 日 ) <参考文献> 1)『今昔物語集』 池上洵一 編 2001 年 2)『四季の山野草』 近藤嘉和 著 昭和 58 年 3)『ザ・龍之介』 1985 年 -6- 第一刷発行 初版発行 初版発行 岩波書店 緒方出版 第三書館