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投稿のページ 機械33 和田 宏

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投稿のページ 機械33 和田 宏
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チャンスを生かせば特許が生まれる
機械工学科33年卒 和田 宏 昭和40年代にバイクの設計に携わっていた
しかしこの商品は短命で、新型エンジン+
技術者は、嫌でも特許と深く関わらざるを得な
遠心クラッチのバイクが入門用として定着し
かった。技術競争が激しかったのである。しか
た(実用新案 昭39−31016 オートバイの
し漫然とやっていてもそうはならない。技術的
動力伝達装置)
。
テーマを与えられたり、自らテーマを探したり
さて、昭和40年代を思い出してください。1
して、
優れた製品を作る過程で特許が生まれる。
ドル360円で、貧しい日本は、船舶等重工業製
初めての特許は電磁クラッチの摩擦板押圧
品からトランジスターラジオまでアメリカに輸出
装置に関するものである。当時の50ccバイクの
できなければよい評価はもらえない時代だった。
技術状況について少しおさらいをしてみると、
バイクとて例外ではない。日本のバイクはやっ
昭和33年ホンダはスーパーカブを発売して以
とオリジナリティーの主張ができるようになり、
来、一人勝ちで、スズキを含む他社は悔しい状
開発する姿勢を見せると部品メーカーが支援し
況が続いていた。理由を設計に限って分析する
てくれる状況が芽生えていた。過程は省略する
と、優れたエンジン性能、エンジン回転数の上
が、小生が志願して担当したテーマはオールテ
昇と共に増す錘の遠心力を押圧力に変えて多
レイン(全地形)バイクの開発である。当時バ
板クラッチを接続する遠心クラッチと3段変速
イクが苦手とした地形は砂地と雪である。南極
機、等々欧米にもない優れたスペックであった。
探検隊の雪上車の勇姿、水田用耕運機の普及、
この状況下で、スズキは一時、フライホイー
アメリカではスノーモビルとデューンバギー車
ルマグネトーの発電エネルギーをほぼそのま
の爆音が背景にあった。海岸の砂丘を面白く走
ま電磁石の励磁コイルに流して押圧力を得て
れて、トレッドを改良すれば北海道の雪なら積
多板クラッチを制御する方法を選択した。し
雪30cmまでは大丈夫な仕様にまとめた(南極
かし発進回転数に適した出力の電磁石は通常
越冬隊仕様では気象小屋との連絡に利用されク
走行時に過大な磁力を発生する。この過大磁
レバスのジャンプもできたそうである)
。
力は制御が難しいので機構的に回避しなけれ
昭和47年、物離れの価値を追求した他社に
ばならないことになった。
ないカテゴリーのバイクとしてスズキバンバ
テーマを分析してみると、あるべき姿は、
ンRV90を発売できた。嬉しいことに、国内
1㎜の変位で 30㎏の力を得て、更に1㎜変
から注文が殺到して外貨を稼ぐのを後回しに
位しても 33㎏を超えないバネを要求されて
せざるを得ない状況が続いた。月5,000台ペー
いる。ここに到達してから数日間逡巡した結
スの生産ができたのはタイヤメーカーの協力
果、たどり着いたアイデアは蓄勢ばねである。
の賜物である。バンバンは採算性もよかった
これで、この問題は払拭された。
し独創性は利益に結びつくことを実証した。
関係者は俄かに活気付いて周辺を固めるアイ
話し変わって、三輪自転車と言えば安全な乗り
デアが続々と生まれ、発売の運びとなった(特
物として子供用に古くから存在する。それだった
許 昭38−23556、摩擦クラッチの電磁力による
ら大人用だってできるはずだ、と言う要求があっ
押圧装置 インターネット⇒JPO⇒電子図書館
てもおかしくはない。子供用と異なるところは重
⇒特許、実用新案検索⇒特許実案公報DB⇒
心が高くスピードが速いことである。力学的に検
案内に従って入力⇒検索すると閲覧できます)
。
討するとリーン(傾ける)できる構造にすれば何
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話のひろば
とか小型軽量にできそうである。こういった“優
パワーディバイダーの特許に関する話をするこ
れた、しかし未完成な”アイデアは1970年代流行
とにする。四輪駆動車と言えばJeepであるが、
の新商品ブレーンストーミングの産物であった。
設計はプリミティブである。理想的な機構は
リーンできる小型三輪車の特許はイギリス人の
センターデフを有し、選択可能パワーディバイ
G . ウォーレス氏が 1965 年に本国で出願、翌年
ダーを備える、英国の高級乗用車ジェンセンF
に日本へも出願していた。請求範囲の要旨は「自
Fに昭和41年から採用され注目を集めた。その
転車をリーンさせると後車軸がリーンした方向に
後、設計、加工技術、及び電子制御の進歩に
回動する」で、作用は明記されているが構造上
支えられて価格も下がり量産車に採用される機
の因って来たる理由は開示されていない、街の
運が芽生えた。自動車工業会にも四駆部会が
発明家の特許らしい少し幼稚なものであった。
生まれた頃のことである。ある日、自動車駆動
小生はオリジナリティーを求めていたが、
設計の20年後輩が尋ねて来て曰く、
「技術部会
早々と、
ウォーレスから技術導入する動きもあっ
で、N社の人が、
『スズキはパワーディバイダー
た。1972年スズキが技術導入を打診したところ
の研究を始めたのが早いですねー』と言って和
既にダイハツ工業に実施権を許諾したとのこと
田さんの特許公開公報を見せてくれました、僕
(1973年2月特許ニュースに公開された。外為
は先輩の試みを知って驚きました」と、やっと
法を参照すると5万ドル以上の契約と推察され
理解者が現れたかと小生は彼を見つめた。
た)
。ダイハツ工業とB自転車はこの分野で協
(特開昭60−18420 四輪駆動車)の審査請求
力関係にあると言われていた。従ってB自転車
には寂しい思いをした記憶がある。特許課は用
から遠からず市販されると予想された。小生の
途と機能に関して否定的だったので、それならと
研究は誰も注目していなかったが、ここで山大
自動車駆動設計部長に援護を求めたところ同レ
で身につけた物の見方が役に立った。
「自転車
ベルの反応で話がかみ合わない。パワー比を変
をリーンさせると後車軸が逆方向に回動する機
える機構なのに速さ比が変わるのではないかと
構」ができたのである(公開実用昭50−52654
いわれる始末、これは路面がイコライザーになっ
三輪車の後輪ケンガ装置)
。併せて駆動装置
ていると説明して解って貰った。関連技術の最
も発明した(特開昭51−12542 三輪自転車)
。
先端とは無関係な職場だったのかもしれない。
これで特許上の制約から解放され、ライバ
バイク設計は少し違っている。1964年ワー
ルより早く優れた自転車を発売すべくプロ
ルドGPでチャンピオンを獲得して以来、世界
ジェクトチーム全員で頑張った。生産化直前
一の技術の重みを知った、バイク技術会では
に石油危機の混乱に巻き込まれ難航したが
一番に発言を求められる。外交上問題がある
1973年に発売した。受注は好調で営業マンは
国でもスズキのバッジが胸にあれば入管はフ
嬉しい悲鳴を上げていた。
リーパスに近いこともあったり、昭和55年、性
それから10年位して自動車設計部の大先輩か
能とスタイリングデザインで世界を驚かせたバ
ら声をかけられた。
「D社の某取締役と談笑中に、
イク「刀1100」は営業成績ばかりでなく新卒
『イギリスの特許を導入しないと三輪車の製品化
技術者の求人にも効果を発揮したといわれた。
ができない、と言うからハンコを押したが、スズ
私は機械技術者の父と、賢く、そして、品格
キにはよい技術者がいるね』と言われた」由、人
を備えた母に育てられ、山口大学で学び、素晴
知れずいただいた勲章である。設計者に常に求
らしい友人にめぐり合い、世界一の技術集団ス
められることは技術の独創性先進性である。ひい
ズキバイク設計部を手はじめに71歳まで技術者
てはよい商品を作ってユーザーに喜んでもらえる。
として仕事ができたことを幸せに思う。今は、
おしまいは商品にできなかった四駆自動車の
料理上手な優しい妻と余生を楽しむ日々である。
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