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>> 愛媛大学 - Ehime University
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張家山漢簡「秩律」と漢王朝の領域
藤田, 勝久
愛媛大学法文学部論集. 人文学科編. vol.28, no., p.1-32
2010-00-00
http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/handle/iyokan/153
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IYOKAN - Institutional Repository : the EHIME area http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
はじめに
藤 田 勝 久
﹃史記﹄は、中国古代史の基本史料である。しかしその内容は、信頼性のある資料と、事実が疑わしい記事とが混
(-)
在しており、どこまでが史実かを明らかにする必要がある。これまで私は、漠代以前の中国出土資料と比較して、
﹃史記﹄本紀や世家、列伝の素材と成立過程を考察してきた。その結果、司馬遷は漠王朝にある図書(文書や書籍)
trt)
を基本史料として編集し、独自の創作はきわめて少ないことを論じた。また漠代の人びとが伝える伝承は、これまで
顧顎剛、季長之、佐藤武敏氏による考察があるが、﹃史記﹄ のなかではそれほど多-はない.このほか司馬遷は、二
(-)
十歳のときに旅行したのをはじめ、各地の旅行によって資料を収集したという説については、私自身が司馬遷のほぼ
全旅行ルートを踏査した。そこでは王国経や佐藤武敏氏が指摘されるように、儀礼の学習と使者、武帝の随行が基本
であり、旅行の見聞は貴重な体験となったが、資料の収集は少ないことを論じた。これは﹃史記﹄ の戦国時代の記述
が、黄河流域の西方を中心とするのに対して、司馬遷が旅行した南方、東方へ北方の見聞が少ないというように、両
者の取材が対照的であることからも論証できる。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
二
それでは﹃史記﹄漠代諸表(漠興以来諸侯王年表、高祖功臣侯者年表など) は、どのような素材と編集によるもの
だろうか。司馬遷は、太史公自序で ﹁(父談)卒三歳而遷為太史令、軸史記・石室金匿之書﹂と述べ、高祖功臣侯者
年表の序文にも、功臣に関する記載を読んだと記している。
太史公日、古者人臣功有五品、以徳立宗廟定社稜日動、以言日算、用力日功、明其等日伐、積日日閲。封爵之誓
日、使河如帯、泰山若属。国以永寧、愛及苗商。始末嘗不欲固其根本、而枝葉栴陵夷衰微也。余讃高祖侯功臣、
察其首封所以失之者。日、異哉所聞。
また ﹃漢書﹄ にも漢代諸表があり、﹃漢書﹄高帝紀下の末尾には ﹁又輿功臣剖符作誓、丹書銭契、金置石室、蔵之
宗廟﹂とある。これらは宗廟の石室金匿に収められていた諸侯王や列侯との誓いを素材とした可能性がある。したがっ
e
て﹃史記﹄漠代諸表は、比較的に信頼できる資料にもとづ-とおもわれ、漠代本紀や世家・列伝の記述と合わせて、
諸侯王国と侯国の研究を進めることができる。
近年では﹃史記﹄漠代諸表の記述を補足し、史実を検証する資料が出土している。それは張家山漠簡﹃二年律令﹄
である。漠代初期の ﹃二年律令﹄ には、地方行政の制度を知る資料として ﹁秩律﹂と ﹁津関令﹂がある。とくに ﹁秩
(5)
律﹂は、﹃史記﹄に不明であった漠王朝の中央と地方官制がわかる貴重な資料であり、﹃漢書﹄百官公卿表、地理志と
も比較することができる。その写真と釈文には、つぎのテキストがある。
①張家山二四七号漠墓竹簡整理小組﹃張家山漠墓竹簡 ︹二四七号墓︺﹄ (文物出版社、二〇〇一年)
同整理小組﹃張家山漠墓竹簡 ︹二四七号墓︺﹄釈文修訂本(文物出版社へ 二〇〇六年)
②彰浩・陳偉・工藤元男主編﹃二年律令輿奏誠書﹄ (上海古籍出版社、二〇〇七年)
整理小組のテキストは、前者に写真があり、釈文修訂本で修正されている。﹃二年律令輿奏識書﹄は、赤外線写真
(-)
による釈文の校訂で、詳細な注釈が付けられている。したがって ﹁秩律﹂ の考証は、この両者による釈文を確認する
ことになる。つぎに地名の考証は'その後の注釈や研究を参照しながら、諸説を整理する必要がある0
ここでは、このような手順をふまえてつぎの点を分析し、漠王朝の領域と諸侯王国の性格を考えてみたい。
(-) ﹁秩律﹂は、どの時期の情勢を反映しているのか。
(2) ﹁秩律﹂ の範囲は、ほぼ漢王朝が直轄する郡県を示しているが、諸侯王国と侯国との関係は、どのような
ものか。
一 ﹁秩律﹂にみえる県の所属
﹁秩律﹂ の釈文には、①整理小組と、②﹃二年律令輿奏識書﹄がある0 以下は、②による釈文である。
棟陽、長安、頻陽、臨晋、成都、□離、離陽、郡、雲中、口、高?□□口、新豊、椀里、薙、好時、柿、部陽
(四四三∼四四四号簡)
胡、夏陽、彰陽、胸忍、口、□口、□口、臨邦、新都、武陽、梓達、浩、南鄭、宛、穣、温、傭武へ軟、楊、臨
扮、九原、威陽、原陽、北輿、旗?陵、西安陽、下部、芹、鄭、雲陽、重泉、草陰、慎、衝、藍田、新野、宜城、
蒲反、成固、園陽、盛、折陽、長子、江州、上部、陽習、西成、江陵、高奴、平陽、経、部、賛、城父、-・・・池
陽、長陵、模陽 (四四七∼四五〇号簡)
扮陰、折、杜陽、抹、上離、商、武城、習道、烏氏、朝那、陰密、郡部、菌、柘(狗)邑、帰徳、抱街、義渠道、
略畔道、胞街道、離陰、洛都、震域、漆垣、定陽、平陸、鏡、陽周、原都、平都、平周、武都、安陵、徒浬、西
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
四
都、中陽、広街、高望、□平楽、秋道、戎邑、覆明、陽陵、江陽、臨江、浩陵、安漠、宕渠、税、逝、旬陽、安
陽、長利へ錫、上膚、武陵、房陵、陽平、垣、護揮、嚢陵、清子、皮氏、北屈、鹿、瀞、渉、余吾へ屯留、武安、
端氏、阿氏、壷関、弦氏、高都、銅鞍、浬、嚢垣、成安、河陽、汲、蕩陰、朝歌、都、野王、山陽、内黄、繁陽、
陳、虞氏、新安、新城、宜陽、平陰、河南、梶氏、成皐、祭陽、巻、岐、陽武、陳留、梁、園、稀帰、臨狙、夷
陵、醍陵、屠陵、鏑、責陵、安陸、州陵、沙羨、西陵、夷道、下馬、折、都、郡、南陵、比陽、平氏、胡陽、葉
陽、晴へ西平、葉、陽城、経、陽安、魯陽、朗陵、撃、駿東、蜜、長安西市、陽城、苑陵、嚢城、催、邦、尉氏、
穎陽、長社、解陵、武泉、沙陵、南輿、皇相、莫匙、河陰、博陵、許、塀道、武都道、予道、氏道、薄道、下桝、
姉道、略陽、蹄諸、方渠除道、離陰道、青衣道、厳道、邸、美陽、壊徳、共、館陰、隆慮、□口、中牟、穎陰、
(四六五∼四六六号簡)
(四六五号簡)
(四五一∼四六四号簡)
定陵へ舞陽、啓封へ閑陽、女陰へ索、罵陵、東阿、柳城、燕、観、白馬、東武陽、荏平、郡城、頓丘
陰平道、旬氏道、採適道、滞氏道長
高年邑長、長安厨長
これらの地名のうち、異なる字釈と地名比定について説明しておこう。②の注釈には、周振鶴﹁︽二年律令・秩
律︾的歴史地理意義﹂ (二〇〇三、﹃張家山漠簡︽二年律令︾研究文集﹄二〇〇七年)、曇呂貴﹁︽二年律令・秩律︾
与漠初政区地理﹂ (﹃歴史地理﹄二一韓、二〇〇六年) などの考証を引用しているが、このうち以下の地名が問題と
なる (その他の一覧は'表Iの資料を参照)0
雑︰①は﹁上雑﹂ で弘農郡とする。②は﹁口、雑﹂ の二地名とし﹁雑﹂を広漠郡とする。
薙︰①は﹁堆﹂を﹁鄭﹂ に作りへ柿郡とする。②は﹁薙﹂とし、漠初は内史とする。
宜成︰①は ﹁宜成﹂を済南郡とする。②は ﹁宜成 (城)﹂ に作り、南郡とする。ただし里耶秦簡の里程簡⑯12に
は﹁信都--武--宜 ︹成︺﹂とあり、ここでは黄河中流域に﹁宜 ︹成︺﹂がある。
抱街︰①は﹁胸(狗)街﹂ で北地郡とする。②は ﹁抱街﹂とする。
蔑明日①は□口で欠字とするが、②は﹁薗明﹂と読み、前漠の広漠郡とする。
鄭︰①は ﹁鄭﹂ に作るが、②は ﹁鄭﹂ に作る。周振鶴氏は、漠初は河内郡とする。
(-)
醒陵=①は不明とし、②は﹁醍陽﹂ の誤りで漠初は南郡とする。周振鶴氏と早稲田大学簡吊研究会は、長沙国に
属すとする。
屠陵=①は武陵郡とする。周振鶴氏は漠初の長沙国で、この時は南郡とする。
鏑︰①は不明とする。周振鶴氏と②は、里耶秦簡の⑯52に鈴、屠陵があり、南郡とする。
西平、陽成(城)、陽安、朗陵︰①は汝南郡とする。周振鶴氏と②は、南陽郡とする。
苑陵‖①は河南郡とする。②は漠初の穎川郡とする。
館陰(陶)︰①は不明とする。②は漠初の河内郡と紹介する。
また説明で使われている ﹁五原郡﹂は武帝元朔二年に設置され'﹁西河郡﹂ は武帝元朔四年に設置されておりへ漠
初の名称ではないことが注意される。
表Iは、①整理小組の復元を基本として、②の考証で修正したものである。とくに問題となる県は、不明に入れて
いる。また﹁郡(豊)、柿﹂は、①②ともに柿郡としているが'楚国の領域にあるという説もあり、これらは後に検
討する。
図1は、拙稿﹁秦漠帝国の成立と秦・楚の社会﹂ (二〇〇三年)をもとに、これらの考証によって ﹁秩律﹂ の主要
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
五
表1 漢王朝の郡県と「秩律」県・官
Ill <
内史
そ の 他
10 00 石
80 0石
6 00 石
(丞 40 0石 )
(丞 、尉 4 0 0 石 )
( 丞 、尉 3 0 0 石 )
傑 陽 ,長 安
胡 ,夏 陽 ,下部 ,
折 ,杜 陽 , 沫
"サ ー':
S, ,1
蔑 , 鄭 ,雲 陽 ,重
道 ,陳 , 慮 氏 ,新 安 ,新 成 , 宜 陽 ,臥
新 豊 ,樋 里
泉 , 華 陰 ,徳 ,蛋
薙 ,好 時 ,
l l. , 蝣
'..-'.. I; *
(漆 ) , 上 離 ,商 , 武 城 ,翠
..'.. ;/ r .
K
美
,." i│ . │ . I ; -c
;
30 0石 )
-i v < -
那 陽
河 南 郡
離 陽
平 陰 ,河 南 , 綿 氏 ,成 皐 ,柴 陽 , 巻 , 岐 ,
陽 武 ,陳 留 , 梁 ,園 ,酸 素 , 餐 , 中 牟 ,啓
封
河 東 郡
楊 ,臨 扮 ,蒲反
扮 陰 ,垣 , 獲 揮 ,嚢 陵 ,蒲 子 , 皮 氏 , 北
平 陽 ,緯
'.li ナ一
㌧
上 党 郡
長 子
寺
路 ,渉 , 余 吾 , 屯 留 ,端 氏 , 阿 氏 ,壷 関 ,
河 内 郡
温 , 情 武 ,較
東 郡
撲 陽
子
去 氏 , 高 都 , 銅 韓 . 子里, 嚢 垣
河 陽 ,級 , 蕩 陰 ,朝 歌 ,那 , 野 王 , 山 陽 ,
共 ,館 陰
(陶 ) , 隆 慮 , 索
〔邑 〕
陽 平 ,東 阿 ,柳 城 ,戟 , 白 馬 , 東 武 陽 ,荏
平 ,郵 城 , 頓 丘
魂 郡
柿 郡
武 安 ,内黄 ,繁 陽
那 ,柿
那 ,城 父
成 安 , 陽 城 , 苑 陵 , 嚢 城 , 値 , 爽B > 尉 氏 ,
穎 川 郡
陽 笹
;蝣*I '1十
南 陽 郡
慎
西 平 , 陽 成 , 陽 安 , 朗 陵 ,女 陰
宛 , 穣 ,新 野 ,質
柿 ,跡 , 那 , 南 陵 , 比 陽 , 平 氏 ,胡 陽 ,察
穎 陽 ,長 社 , 許 ,穎 陰 ,定 陵 , 舞 陽 ,部 陵
陽 ,晴 , 莱 ,堆 ,魯 陽 , 響
南 郡
Mv
梯 帰 ,臨札
夷 陵 ,鈴 ,青 陵 , 安 陸 ,州
陵 ,沙 羨 , 西 陵 ,夷 道 ,下 寓
, '蝣'A i
雲 中郡
屡 陵
雲 中
蝣
a . .-1.. ' ,': 蝣
・
'蝣
. i
九原 郡
九 原 ,西 安 陽
上 郡
園 陽 ,高 奴
武 陵 郡
高 帝 置
武 都 ,武 泉 , 沙 陵
'I f -... 蝣
* 蝣
!!ナ十 匙 ∴十 十
周佳陰 , 洛 都 , 嚢 城 (洛 ) , 漆 垣 , 定 陽 , 平
武 帝 元 朔 二 年 ,
∴I ji ;'十
陸 , 廃 , 陽 周 , 原 都 , 平 都 , 高 望 , 周佳陰 道
平 周 ,徒 子
里, 西 都 , 中 陽 , 広 術 , 博 陵
蝣 *蝣
'. '. '
北 地 郡
彰 陽
烏 氏 ,朝 那 , 陰 密 ,郁 郭 ,薗 , 帰 徳 , 狗
武 帝 元 朔 四 年 ,
t¥ i ,-> ;
節 ,義 渠 道 , 略 畔 道 ,方 梁 ,除 道
上 部
li "蝣
蝣
・
'十
秋 道 ,戎 邑
勃車道 , 武 都 道 , 予 道 , 氏 道 ,
下 勃辛, 砺 道 , 略 陽 , 練 諸
萄 郡
成 都
a '.
青 衣 道 ,厳 道
縮 退 道 ,揃 氏 道
50 0石 )
漢 中郡
南 鄭 ,成 因 ,西成
求 ,旬 陽 , 安 陽 ,長 利 ,錫 , 上 盾 ,武 陵 ,
房 陵
広 漠 郡
離
新 都 , 武 陽 ,梓 撞
平 楽 ,覆 明 , 江 陽
サ
I ' ;' '
不 明
高 □ □ □
陰 平 道 ,旬 氏 道
50 0石 )
胸 忍 ,江州
臨 江 ,清 陵 , 安 漢 ,宕 梁 ,枚
顔 ? 陵
梱
宜 成 (城 )
解 陵 、 薄 道 、 閑 陽 、 燕
,'! - '
醸 陵
〈拘 〉 邑 、 胸 街 道 、 安 陵 、 陽 陵
(南 郡 ,長 沙 国 )
*①整理小組、 ②の修正区分と注釈の考証による。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
○ 長官の秩1000石の県 □ 諸傾国の県
● 長官の秩800石の県 × 津関
. その他の県
図1 漠初の郡県と諸侯王国
(
0
0
)
t
・
\
/
な県と範囲を概観したものである。これによると内史の領域と地方では、長安や棟陽、離陽、成都、柿県のように、
長官の俸禄一〇〇〇石の大県から、八〇〇石、六〇〇石、五〇〇石、三〇〇石クラスまでの県を記し'一部に不明の
県がみえている。これらの県の分布は、長安を中心として一〇〇〇石クラスの大県を配置し、また河南郡の雑陽、萄
郡の成都、柿郡の柿県などを拠点とする特徴がある。さらに一〇〇〇石クラスの大県の周辺は、八〇〇石や六〇〇石
クラスの県を配置している。そして津関令では、内史から東方に臨晋関と函谷関、武関、鄭関、打開(拝聞)という
水陸の要衝に関所を設けている。このような情勢は、漠王朝の郡国制のうちへ まさし-西側の郡県制に等級化された
県を配置する体制となっている。したがって ﹁秩律﹂ の県は、ほぼ漢王朝が直轄する郡県を示している。
しかし ﹁秩律﹂ の年代や、漠王朝の領域と諸侯王国、侯国との関係は、どのようなものだろうか。これは﹃二年律
令﹄が適用される範囲にも関連する。ここでは漠王朝と諸侯王国の関係を、-代国、2長沙国、-楚国、4梁国、准陽国の地域について検討してみよう。
二 ﹁秩律﹂にみえる漢王朝と諸侯王国
o
張家山漠簡は﹁暦譜﹂ の下限が呂后(高后) 二年であり、また﹃二年律令﹄具律八五簡に、呂后元年に父の呂公杏
迫尊した ﹁呂宣王﹂という記載があることから、呂后二年の作成といわれている。しかし﹃二年律令﹄は、一般に年
月や地名を記さないのに対して、﹁秩律﹂ や﹁津閲令﹂ には具体的な地方の情報を記すことが注意される。この各地
の地名は、律令が適用される範囲と、その性格を知る手がかりとなる。これも﹃二年律令﹄と同じように、呂后二年
の状況を示すと考えてよいのだろうか。
(2)
周振鶴氏は、﹃西漠政区地理﹄ (人民出版社、一九八七年) で、漠代初期の諸侯王の領域を考察されていたが、﹁秩
律﹂ にみえる県が秦代の県を継承したものが多いことに注意され、歴史地理の意義を考察している。ここでは周振鶴
氏や、これまでの注釈をふまえて、漠王朝と諸侯王国の境界と、県の所属について考えてみよう。
1、代国をめぐって
代王の分封は、﹃史記﹄漠興以来諸侯王年表(以下へ諸侯王年表) の高祖二年(前二〇五)条に ﹁十一月、初王韓
信元年。都鳥邑﹂とあり、韓王信が馬邑に都している。しかし五年(前二〇二) に ﹁降旬奴、国除為郡﹂とあり、国
を除かれた。その後、十一年(前一九六) に ﹁復置代、都中都。(劉恒)正月丙子初王元年﹂とある。この代王の劉
恒は、高后八年(前一八〇) に在位十七年で文帝となっている。諸侯王年表には、孝文元年(前一七九) にも記載が
ある。ただし代王の分封と都城は、﹃史記﹄諸侯王年表と ﹃漢書﹄ で少し異なっている。﹃漢書﹄高帝紀下には、つぎ
のようにみえる。
(六年春正月)王子、以雲中・聴門・代郡五十三顧立見宜信侯喜為代王。--以太原郡三十l麻為韓国、徒韓王
信都膏陽。
(七年)十二月--是月、旬奴攻代、代王喜乗回、日韓雑陽、赦為合陽侯。辛卯、立子如意為代王。--(九年)
春正月、麿越王敢為宣平侯。徒代王如意為趨王、王越国。
また﹃漢書﹄高帝紀下、漠十一年条にはつぎのようにいう。
春正月、推陰侯韓信謀反長安、夷三族。将軍柴武斬韓王信於参合。上還離陽。詔日、代地居常山之北、輿夷秋遠、
越乃従山南有之、遠、数有胡冠、難以為国。頗取山南太原之地益属代、代之雲中以西為雲中郡、則代受連完益少
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
九
一〇
臭。王、相国、通侯、吏二千石揮可立為代王者。燕王棺・相国何等三十三人皆目、子恒賢知温良、請立以為代王、
都育陽。大赦天下。
周振鶴﹃西漠政区地理﹄第七章﹁代国沿革﹂ は、これらの史料によって、つぎのように整理されている。
高帝六年∼九年︰雲中郡と雁門郡、代郡。九年∼十一年︰代地は趣国に属す。
高帝十一年∼文帝元年︰定裏郡、雁門郡、代郡、太原郡(雲中郡は漠王朝の郡県)
たしかに ﹁秩律﹂ には、雲中郡に所属する県を記している。したがって﹃史記﹄﹃漢書﹄ の記事によれば、代国の
(3)
領域は漠十一年正月より以降の情勢を示すことになる。また﹁秩律﹂ では、漢王朝の郡県(雲中郡)を記しているが、
諸侯王国(代国) の県を記載しないという傾向がうかがえる。
2'長沙国をめぐって
戦国時代の長江流域は、楚文化の地域から秦の占領統治となり、秦代の情勢は里耶秦簡に詳し-みえている。里耶
f21
秦簡の木層⑯5、⑲-には戦国時代の幣中郡(漠代の武陵郡) にあたる地域を洞庭郡として、内史に輸送するはかに、
その周辺に巴郡、南郡、蒼梧郡に輸送する記載がある。この蒼梧郡は、長沙郡にあたると考証されている。秦帝国の
滅亡後は、項羽の分封のもとで諸侯国となり、漠五年にふたたび郡県制となっている。この状況は﹃史記﹄諸侯王年
表によると、以下のようになる。
高祖五年︰二月乙未、初王文王呉丙元年。秦。
高祖六年︰成王臣元年。I孝恵元年まで
孝恵二年︰哀王回元年。1高后元年まで
高后二年︰恭王右元年。1孝文二年まで
つまり高祖五年までは呉丙が長沙国王であり、かれの死後は呉姓の長沙国となっている。周振鶴﹃西漠政区地理﹄
第十章﹁長沙国沿革﹂ では、このような長沙国の領域について、高帝五年∼文帝後元七年まで、武陵郡と桂陽郡をふ
-むと考証されている。したがって長沙国の領域は、漠五年から呂后二年まで、すべての時期に対応している。
そこで ﹁秩律﹂ の県をみると、南郡に所属する魂と江陵、秘帰、臨狙、夷陵、鏑、童陵、安陸、州陵、沙羨、西陵、
夷道、下筒の県がある。その近-に﹃漢書﹄地理志で武陵郡に属する屠陵があり、周振鶴氏は、このとき南郡に属す
という。醍陵県の位置は、整理小組が不明とするが、②は﹁醒陽﹂ の誤りで漠初は南郡とする。周振鶴氏と早稲田大
学簡吊研究会は、長沙国に属すとする。また巴郡では、胸忍と江州、臨江、浩陵、安漠、宕染、枚の県があり、萄郡
の県もみえている。しかし長沙国の領域では、治所となる臨湘県や、里耶秦簡の洞庭郡にあたる臨玩'玩陵、陽陵、
遷陵などの県はみえていない。
(3)
また﹃史記﹄恵景間侯者年表には、玩陵は高后元年から侯国となっている。これは玩陵虎渓山漠墓の発掘で裏づけ
られたが、長沙国にふくまれる玩陵侯国は﹁秩律﹂ に記されていない。
玩陵侯日長沙嗣成王子、侯。(高后)元年十一月壬申、頃侯呉陽元年。
以上の分析から、﹁秩律﹂ の県は、南郡と巴郡、萄郡の県を記しているが、長沙国にあたる長沙郡と武陵郡の中心
(3)
となる県や、王国にある侯国を基本的に記していない。問題となるのは、醒陵と屠陵であるが、これらの県はいずれ
も南郡と長沙国の境界に位置している。これによれば、境界の県には少し異動があるのかもしれない。これもまた
﹁秩律﹂が、漠王朝の郡県を記し、諸侯王国の県を記載しないという傾向に合致している。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
〇へ 楚国をめぐって
楚国の分封は、﹃史記﹄諸侯王年表によるとつぎのようになる。
高祖五年︰斉王信徒為楚王元年。反、廃。
高祖六年︰正月丙午、初王交元年。交、高祖弟。1文帝元年まで
文帝二年︰夷王郵元年。I文帝五年まで。文帝六年︰王戊元年。I景帝三年まで ﹁反、諌﹂
一二
これによれば、高祖六年から呂后二年までは劉交が楚王である。周振鶴﹃西漠政区地理﹄第一章﹁楚国沿革﹂ では、
この時期の楚国は、辞郡と彰城郡、東海郡をふ-むといわれる。﹁秩律﹂ には、楚国の領域にあたる醇郡と彰城郡、
東海郡の県を記載していない。したがって楚国との境界でも、基本的に漠王朝の郡県を記し、諸侯王国の県を記して
いないことになる。
ただし柿や豊、城父などの県の所属には、柿郡とする説や、楚国にありながら中央に所属するという説があり、な
お検討の余地がある。柿県は、高祖の兄・劉仲の子である劉湊が、漠十l年十二月から柿侯となり、十二年十月に呉
王となるまで封ぜられたことがある。
高祖見合陽侯劉仲子、侯。十一年十二月発巳、侯劉湊元年。十二年十月辛丑、侯湊為呉王、国除。
﹃史記﹄意景間侯者年表では、高后元年から以降は、呂種が柿侯となっている。
柿侯︰呂后兄康侯少子、侯、奉呂宣王寝園。(高后)元年四月乙酉、侯呂種元年。--八年、侯種坐呂氏事課、
国除。
そこで ﹁秩律﹂ の年代が、高后元年より以降であれば、列侯の侯国(柿)を記していることになる。これも﹁秩律﹂
の年代と柿の所属をめぐる問題となる。
4'梁国と潅腸国をめぐって
梁国の分封は、﹃史記﹄諸侯王年表につぎのようにみえる。
高祖五年︰初王彰越元年。1高祖十年︰来朝。反、課。
高祖十一年︰二月丙午、初王恢元年。恢、高祖子。1高后七年︰徒王造、自殺。
ただし﹃漢書﹄高帝紀下、漠十一年条では、梁王の分封を三月としており、その領域にふれている。
三月、梁王彰越謀反、夷三族。詔日、揮可以為栗王、准陽王者。燕王紺へ相国何等請立子恢為梁王へ子友為准陽
王。罷東郡、頗益梁。罷穎川郡、頗益推陽。
これによると梁国は、漠十一年三月より以降に劉恢が梁王となり、その領域には東郡が加わったことになる。周振
鶴﹃西漠政区地理﹄第五章﹁梁国沿革﹂ では、この期間に東郡と楊郡を範囲としている。これは准陽国と合わせて考
える必要がある。
准陽国の分封は、﹃史記﹄諸侯王年表につぎのようにみえる。
高祖十一年︰三月丙寅、初王友元年。友、高祖子。I高祖十二年まで
孝恵元年︰為郡。
高后元年︰(復置推陽国) 四月辛卯、初王懐王強元年。強、意帝子。1五年︰無嗣。
高后六年︰初王武元年。武、孝恵帝子、故壷関侯。
これによると准陽国は、高祖十一年から劉友が諸侯王であった。しかし劉友が趣王となったため、恵帝元年以降に
は漠王朝の椎陽郡となっている。ふたたび惟陽国となるのは、高后元年四月に劉強が諸侯王となったときである。
﹁秩律﹂ では、准陽郡の県を記している。したがって ﹁秩律﹂ にみえるように、漠王朝の領域と准陽国を区別する状
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
況は、つぎの二つの時代が想定される。
-高祖十一年三月∼高祖十二年まで (あるいは意帝元年の一部をふ-む)0
Ⅱ高后元年四月∼高后二年。
一四
これについて周振鶴﹃西漠政区地理﹄第三章﹁准陽国沿革﹂は、先にみた﹃漢書﹄高帝紀下に﹁燕王棺、相国何等
請立子恢為栗王、子友為推陽王。罷東郡、頗益梁。罷頴川郡、頗益准陽﹂とある記事によって、Iの推陽国は、穎川
郡と陳郡であり、恵帝の時代に二つの郡となったが、Ⅱの准陽国は、陳郡だけになったと推測している。これによれ
ば﹁秩律﹂ の年代は、穎川郡の県を記し、推陽国(陳郡) の県を記さないことから、高后初年の状況となる。
しかし﹃史記﹄諸侯王年表の序文には、高祖末年の別の状況を伝えている。
漠興へ序二等o高祖末年、非劉氏而王者、若無功上所不置而侯者、天下共諌之o高祖子弟同姓為王者九国、雌猫
長沙異姓、而功臣侯者百有飴人。自嘱門、太原以東至遼陽、為燕代国。常山以南、大行左特、皮河、済、阿、甑
以東薄海、為替、趨国。自陳以西、南至九疑、東帯江、准、穀、洞、薄会稽、為栗、楚、准南、長沙国。皆外接
於胡、越。而内地北距山以東轟諸侯地、大者或五六郡、連城数十、置百官宮観、僧於天子。漠猪有三河、東郡、
穎川、南陽、自江陵以西至萄、北白雲中至陳西、輿内史凡十五郡、而公主列侯頗食邑其中o何者。天下初定、骨
肉同姓少、故康彊庶撃、以鎮撫四海、用承衛天子也。
ここでは高祖末年の情勢として、﹁自嘱門、太原以東至遼陽、為燕代国﹂、﹁自陳以西、南至九疑、束帯江、推、穀、
潤、薄会稽、為栗、楚、准南、長沙国﹂と述べている。これによって代国や梁国の領域が確認できるが、このとき
﹁陳より以西﹂が梁国などの領域と述べている。また反対に、漠王朝の領域は ﹁漠猟有三河、東郡、穎川、南陽、自
江陵以西至苛、北白雲中至馳西、輿内史凡十五郡、而公主列侯頗食邑其中﹂と述べている。ここには、漠王朝が三河
(⊃
〝 12年
正月
(⊃
(郡 県 )
X
4 月
⊥
△
- ']'蝣
- ']'蝣
2月
高 祖 11年
- ']'蝣
恵帝
高后 元年
△
日.
劉交
日 .半
秩律
4 梁
5潅腸
3楚
1代
2長沙
年代
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
表2 漢初諸侯王の年代
(河東、河内、河南) のほかに ﹁東郡﹂﹁穎川﹂﹁南陽﹂と、﹁江陵より以西
から局まで'北は雲中より陳西まで、内史とあわせて全部で十五郡﹂ であり、
その領域には公主や列侯の食邑 (湯休邑、侯国) をふくむと述べている。
(
S
)
﹃漢書﹄巻一四諸侯王表は ﹁漠興之初﹂ としているが、これは ﹃史記﹄ の
﹁高祖末年﹂ のはうが正しいと思われる。とすれば、I高祖末年でも梁国の
領域は楊郡を中心とし、准陽国の領域は陳郡を主としたことになる。そして
東郡と穎川郡は、この時代でも漢王朝の郡県であったことがわかる。これは
IとⅡともに ﹁秩律﹂ の年代となる可能性を示している。
表2は、以上の考証によって、漠王朝と境界を接する諸侯王国の沿革を示
したものである。○は、その一年をふくみ、△は部分であり、×の時期は除
外されることになる。これらは、さらに他の地域や県を考察する必要がある
)
恥
E
が、﹁秩律﹂ には、おおむね漠王朝の直轄の郡県を記して、基本的に諸侯王
国の県を記さないという傾向がある。したがって﹁秩律﹂ の年代と範囲は、
諸侯王国の沿革からみて、二つの時期を反映していることになる。この点を、
楚国の領域と柿・豊県や、侯国との関係で検討してみよう。
-高祖末年二高祖十一年三月∼高祖十二年(恵帝元年の一部をふ-む)
Ⅱ高后初年︰高后元年四月∼高后二年
三 張家山漠簡﹁秩律﹂と楚国の領域
一六
﹁秩律﹂ にみえる県が、漠王朝の郡県制を示すものか、あるいは諸侯王国をふくむかについては解釈の違いがある。
(サ
たとえば﹁秩律﹂ の県の大半は、漠王朝の郡県に属していることは明らかであるが、と-に柿県と都県の所属が問題
となっている。これについて整理小組の注釈は、柿県と都県が柿郡に所属するとしている。しかし周振鶴氏は、楚国
に属する中央の侯国とみなしている。つまり高后元年から以降には、呂種が柿侯となっており、﹁秩律﹂ の年代を呂
后二年とするなら、このとき柿は侯国だからである。また曇昌貴氏は、高祖の故郷であるため、楚国(柿郡) の領域
(
S
)
に在りながら、その長官は内史に属すのではないかと推測している。このように柿県は、漠王朝の柿郡と楚国のどこ
に所属するかということが問題となっている。
これについては、江蘇省徐州市の漠代楚王陵をめぐる考察が注目される。漠初に推陰侯韓信が降格されたあと、劉
交が楚元王となったが、その後の楚王の系譜は、つぎのような在位年数である。
第一代元王、劉交。 高祖六年(前二〇一)∼文帝元年(前一七九)在位二三年
第二代夷王、劉郡(客)。文帝二年(前一七八)∼五年(前一七五)在位四年
第三代楚王、劉戊。 文帝六年(前一七四)∼景帝三年(前一五四)在位二一年
徐州市の獅子山漠墓は、兵馬桶を陪葬した漠代初期の楚王陵で、これまで墓主は第二代の劉郡客か、それとも第三
代の劉戊かが問題となっている。その手がかりの一つは、出土した印章と封泥であり、これより少し遅い時期の北洞
山漠墓の印章とあわせて、その年代が考察されている。副葬された印章は、当時の王国の範囲を示唆しており、封泥
は、直接的には葬送の物品が贈られた範囲を反映している。ここには興味深い特徴がある。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
表3 獅子山漠墓と北洞山漠墓の印章・封泥
印 章 、封 泥
'," '. 1
地名 と官名
楚 太僕 丞 、 楚太 史 印、 楚御 府 印、 楚 食 官 印、 食 官 監 印
楚 嗣 紀 印、 楚永 巷 印、 楚 大行 印、 楚 衛 士 印、 楚太 倉 印
軍 隊
印
(銀 印 ) 、 楚 騎 尉 印
(銀 印 ) 、 楚 候 之 印
楚 中候 印、 楚 司馬 印、 楚 中 司馬 、 楚 営 司馬 、 楚 中 司空
楚 営 司空 、 楚騎 千人 、 楚 軽 車 印
早
獅
楚都 尉 印
','蝣蝣<
辞 郡 ;文 陽 丞 印
(孜 陽 ) 、 下 之 右 尉
千
東 海 :縛之 右尉 、承 令 之 印 、胸之 右尉 、 蘭 陵之 印
山
彰城
漢
不 明 ;海 邑左尉 、北 平 邑印 、 □ □之 印
;億 令 之 印 、穀 陽 丞 印 、相 令 之 印 、武 原 之 印
¥S
'," '. 1
内 史 之 印、 楚太 倉 印、 庫 □ □ □
封
軍 隊
十 I l, t ∵
梶
','蝣蝣<
東 海 :蘭 陵之 印 、蘭 陵 丞 印 、 下郡 丞 印
彰城
:彰 城 丞 印 、相 令 之 印 、斎 邑之 印 、符 離 丞 印
呂丞 之 印 、斎 丞 之 印
北
印
中央
楚御 府 印、 楚武 庫 印、 楚 宮 司丞 、 楚 邸
洞
早
','蝣蝣<
彰 之右 尉 、 斎 之左 尉 、 凌 之左 尉 、 嚢 貴 丞 印、 山桑 丞 印
虹 之 左 尉 、 蘭 陵 丞 印 、 穀 陽 丞 印 、 縛∵
丞
山
一つは、﹃二年律令﹄﹁秩律﹂ の職官と、獅子山漠墓の印章
にみえる職官を比べてみると、ほぼ同じような対応が兄いだ
せる。たとえば楚国の官制は、太僕と騎尉などが漠王朝の中
央官制と同じであり、八〇〇石より以下の官では、中司空や
中候、騎千人、楚候などの官がみえている。また耳室から出
土した封泥には ﹁内史之印﹂﹁楚太倉印﹂﹁楚中尉印﹂ の文字
があり、これは漠王朝の民政、軍政と財政を司る官職にあたっ
ている。つまり楚国の官印には、諸侯王の官のうち軍隊や車
馬、祭把(太史、嗣把)へ倉庫、武器庫、永巷、食官など、王
国の家産に関する職務がみえており、漠王朝とほぼ同じ官制
をもつことがわかる。
もう一つは、﹃二年律令﹄﹁秩律﹂ の県と、楚国の領域にあ
る属県との関係である。表-は、獅子山漠墓と北洞山漠墓の
印章と封泥にみえる県の官吏を一覧したものであるが、ここ
では楚国の属県と ﹁秩律﹂ の県は重複せずに、東西の隣接し
た地域となっている。たとえば漠王朝の郡県では、東方に河
内郡、東郡、貌郡、柿郡、穎川郡、汝南郡などに属する県を
記している。これに対して獅子山漠墓の印章には、醇郡と東
一七
一八
海郡、彰城郡に属する県がみえている。ところが辞郡には、これまで柿県と豊県がみえないことが指摘されていた。
しかし﹁秩律﹂ のように、柿県と郡へ郡、城父の県が、漢王朝の領域に組み込まれているのであれば、それは楚国の
領域ではなかったことになる。この沿革を、もう一度確認しておこう0
楚国は、高祖六年から呂后二年まで劉交が楚王であった。したがって王国の領域に変化はないと想定できる。しか
し柿県が楚国の領域にふくまれるとしたら、高后元年から八年までは楚国の侯国であり、その県を﹁秩律﹂ に記して
いたことになる。これは﹁秩律﹂が漠王朝の郡県と侯国を記し'諸侯王国の県を記載しないという傾向に反するもの
である。しかし柿県が楚国の領域ではな-、柿郡にふ-まれるのであれば、﹁秩律﹂ に記載することと矛盾しない。
獅子山漠墓と北洞山漠墓は、呂種の侯国が廃止された文帝期より以降の情勢を示している。したがってこの時期の柿
や豊が楚国の領域にあれば、それ以前も楚国に属する可能性がある。もし反対に、この時期でも柿や豊が柿郡に所属
するのであれば、それ以前も柿郡に属する可能性があり、﹁秩律﹂ の参考となるのである。
ところが獅子山漠墓と北洞山漠墓の印章と封泥からうかがえる領域は、柿県と部、郡、城父の県を含んでいなかっ
(
S
)
た。そしてこれらの県は、ともに ﹁秩律﹂ にみえている。これから推測すると、高后元年に侯国となる前後に、柿や
豊は漠王朝の柿郡に所属するのではないかと考える。
このように張家山漠簡の ﹁秩律﹂と、獅子山漠墓の属県は、お互いに補うことによって東方の郡県制と王国の領域
が復元できるのである。また獅子山漠墓の官印は、ほぼ楚国の辞郡と東海、彰城郡に及んでおり、印章を随葬したの
は、呉楚七国の乱によって領域が削減される前の状況を示すとおもわれる。そして北洞山漠墓の印章は、縮小された
領域を反映している。
それでは﹁秩律﹂ の年代を、I高祖末年とⅡ呂后初年の可能性から、もう少し限定することはできないだろうか。
那 (斎何)
才
市 (劉渉 )
河東郡
河陽 (陳消)
級 (公上不 害)
共 (慮罷 師)
河 内郡
(濯嬰 )
(契 噌)
(朱渉 )
(夏侯 嬰)
穎陰
舞陽
郡陵
女陰
才
市郡
穎川郡
平 陽 (曹参)
緯 (周勃)
汝南那
中牟 (軍 父聖)
啓封 (陶舎)
扮陰 (周 昌)
河南郡
600石
800石
池 陽 (食 邑)
長 陵 (陵 邑)
1000石
部 陽 (劉 仲)
地域
内史
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
表4 漠初の侯国と列侯
このとき注意されるのは、﹁秩律﹂ では柿の長官が一〇〇〇石というこ
とである。また ﹁秩律﹂ の県と、﹃史記﹄高祖功臣侯者年表にみえる侯
国の設置された年は、その手がかりになるものである。この点を、いく
つかの例で説明してみよう。
﹁秩律﹂ には、﹃史記﹄高祖功臣侯者年表と共通する侯国を記している。
表4は、初封された人物との関係で一覧したものである。これをみると
興味深いことがわかる。一〇〇〇石の官となっている部陽と柿は、劉氏
の一族である劉仲と劉湊が封ぜられた県である。八〇〇石の官である平
陽は曹参、経は周勃、郡は粛何という﹃史記﹄世家の人物の侯国である0
また高祖の陵邑である長陵は、このとき八〇〇石の官である。六〇〇石
の官は、著名な人物では、扮陰が周呂、穎陰が濯嬰、舞陽が契噛、女陰
(汝陰) が夏侯嬰の侯国であり、このほかにも同ランクの侯国を記して
いる。これをみると県のランクは、県の政治的な重要度と'列侯となっ
た人物の地位に対応していることがわかる。このうち柿県は、劉湊が漢
十一年十二月から十二年十月まで柿侯であった。したがって柿県の秩が
高いのは、劉濃が封ぜられた漠十一年十二月より以降の情勢を反映して
いることになる。このような観点から、さらに二つの例をあげてみよう。
一つは池陽である。﹃漢書﹄地理志には﹁池陽、恵帝四年置﹂とある。
一九
二〇
これに従えば、池陽は恵帝四年に設置されたのであるから、それを記載する ﹁秩律﹂ は高祖末年ではなく、呂后初年
(8)
ということになる。これは﹁秩律﹂ の年代が呂后二年とみなされていることに一致する。しかし﹃史記﹄高祖功臣侯
者年表には、高祖の時代に池陽が周楳の食邑であったという記載がある。
以舎人従起柿、至覇上、侯。入漠、定三秦、食邑池陽。撃項羽軍焚陽、絶w道、従出へ度平陰、遇准陰侯軍嚢国。
楚漠約分鴻溝、以 (周)楳為信、戦不利、不敢離上、侯、三千三百戸。六年八月甲子、尊侯周楳元年。十二年十
月乙未、定刺成。
また﹃史記﹄巻九八博新劇成列伝にも、同じような記載がある。
剰成侯楳者、柿人也、姓周氏。常為高祖参乗、以舎人従起柿。至覇上、西入萄、漠、還定三秦、食邑池陽。東絶
両道、従出度平陰へ遇准陰侯兵裏国、軍乍利乍不利、終無離上心。以楳為信武侯、食邑三千三百戸。高祖十二年、
以楳為胤成侯、除前所食邑o
つまり周様は、漠六年八月に池陽に封ぜられ、十二年十月に胤成に封地を替えられた。したがって池陽は、高祖末
年にも侯国として存在している。ただし問題となるのは、その年代と秩のランクである。すでに表4でみたように、
八〇〇石の秩は、曹参の平陽、周勃の締、粛何の郡のように、特別な侯国に限られている。そこで周梓の食邑が存在
していたとしても、それが八〇〇石の秩であるとは考えられない。これから推測すると、池陽が八〇〇石となるのは、
少なくとも漠十二年十月に、その重要度が高まったことになろう。ここから ﹁秩律﹂ の年代は、高祖末年のうち十一
年より以前を除外することができる。
もう一つは安陵である。安陵は、整理小組が平原郡とするが、これは﹁秩律﹂ の範囲からみて、まったく離れてい
る。そこで周振鶴氏は内史としているが、これは恵帝の安陵である。また﹃二年律令興奏誠書﹄も恵帝陵で、奉常に
属すると指摘している。これに従えば、恵帝陵は即位後に建設されるはずであり、高祖末年ではなく、恵帝初年の情
勢ということになる。とすれば﹁秩律﹂ の年代は、呂后初年ということになる。しかし﹁秩律﹂ では'北地郡、上郡
の県につづいて、平周(西河郡か上郡)、武都(雲中郡)、安陵、徒浬 (西河郡か上郡) より以下、西河郡か上郡に推
定されている県となっている。したがって安陵の順序は、前後とは別に内史の安陵を記したとみなされるが、安陵と
いう別地の可能性もある。もし安陵が、上郡の近辺に関連する県であれば、﹁秩律﹂ に内史の安陵はないことになる。
また高祖の陵邑である長陵は八〇〇石であり、安陵の秩は六〇〇石である。これもまた安陵が、皇帝の陵邑であるこ
とに不自然な点である。このような分析から﹁秩律﹂ の年代は、-高祖末年でも解釈できることになる。
go
ただし漠王朝の郡県にある侯国のすべてが ﹁秩律﹂ に記されているわけではない。﹃史記﹄高祖功臣侯者年表には、
漠初の侯国を列記しているが、そのなかには漠王朝の領域にありながら、記載されていない県がある。したがって漠
王朝と列侯の県については、なお検討すべき問題が残されている。
ここで述べたことは、﹁秩律﹂ の年代を呂后二年に限定するのではな-、もう一度﹁秩律﹂ の県の分布に即して、
漠代初期の領域と諸侯王国、侯国との関係で考証する必要性である。そして ﹃漢書﹄ の記述に従えば、﹁秩律﹂ は呂
后初年に限定されるようであるが、﹃史記﹄ の記述をあわせれば、高祖末年(十二年十月以降) の情勢とも共通する
ことを示した。そして ﹁秩律﹂ では、漠王朝の郡県とそこにある侯国を中心としており、基本的に諸侯王国の県と侯
国を記さないという傾向がある。わずかに問題となる県は、諸侯王国の中心ではなく、その境界の県に限られている。
このような﹁秩律﹂ の範囲は、同時に﹃二年律令﹄ の法令が及ぶ範囲を示唆していると推測される。
このように﹃史記﹄漠代諸表と ﹁秩律﹂をくらべてみると、その記載は信頼性のある史実をふまえていることが理
解される。しかし﹃史記﹄﹃漢書﹄ の記載には、若干の異同があり、これらは個別に検討しな-てはならない。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
3琳酌
二二
なお﹃二年律令﹄ について、なぜ ﹁二年﹂なのかという点について、佐藤武敏氏の ﹃漢書﹄地理志の考察を紹介し
ておきたい。それは﹃漢書﹄地理志の戸口統計のうち、京兆声の条に﹁元始二年﹂とあるが、これは元始元年の統計
を元始二年に上計したときのものと推測されている。これによれば﹃二年律令﹄も、元年の律令を二年に提出したこ
とも想定される。﹁秩律﹂ の年代と範囲を考えるときには、諸侯王国との境界や侯国のあり方を検討すると共に、作
成と整理された年代も考慮する必要があろう。
お わ リ に
本稿では、﹃史記﹄漠代諸表を考察する一端として、張家山漠簡﹁秩律﹂ にみえる県の分布を検討した。その結果、
漠王朝の領域と諸侯王国、侯国との関係は、つぎのように考えられる0
一、﹁秩律﹂ の県名は、釈文や漠初の比定に少し違いがあるが、ほぼ漠王朝が直轄する西方の郡県の範囲にあるこ
とは明らかである。ただし問題となるのは、その作成年代を呂后二年に限定するのではなく、﹁秩律﹂ の県の分布に
即して、漠代初期の領域と諸侯王国、列侯の侯国との関係で考証することである。
二、漢王朝の領域と境界を接する諸侯王国をみると、﹁秩律﹂ では、漠王朝の郡県を記して、諸侯王国の県を記載
しないという傾向がうかがえる。これを-代国、-長沙国、-楚国、4梁国、5准陽国の地域や、柿県、池陽などの
県を検討してみるとへ諸侯王国が置かれた時期と領域から'﹁秩律﹂ の年代は二つの可能性がある。したがって ﹁秩
律﹂ の年代は、必ずしも呂后二年に限定されず、高祖末年の情勢とも共通している。
I高祖末年︰高祖十二年十月∼恵帝初年まで
Ⅱ高后初年︰高后元年四月∼高后二年
三、﹁秩律﹂ で問題となっていた柿県と豊県は、徐州楚王陵の印章と封泥の範囲を手がかりとして、楚国ではな-
柿郡に所属すると推測した。﹁秩律﹂ に記す列侯の侯国は、基本的に漠王朝の郡県にあり、諸侯王国には所属してい
ないとおもわれる。また﹁秩律﹂ には、諸侯王国との区別が明確ではない県もあるが、それは境界の県に限られてい
る。また﹃史記﹄﹃漢書﹄ の漠代諸表をみれば、﹁秩律﹂ ではすべての侯国を記載していないと推測され、漠初の所属
には、なお流動的であったことが予想される。このような区別については、なお検討が必要である。
四、このような分析によれば、﹃史記﹄漠興以来諸侯王年表の序文は、高祖末年の状況をよ-伝えていたことにな
る.すなわち ﹁漠猿有三河、東郡、穎川、南陽、自江陵以西至菊、北白雲中至陳西、興内史凡十五郡、而公主列侯頗
食邑其中﹂という記述である。ここでは漠王朝の領域は、河東、河内、河南、東郡、穎川、南陽郡と、江陵より以西
の南郡、巴郡、萄郡、雲中から陳西郡までと、内史をあわせた十五郡と述べている。その中に、公主や列侯の食邑
(湯休邑、侯国)をふ-むという。この領域は、まさに﹁秩律﹂ の県の分布状況と一致している。
以上のような ﹁秩律﹂ の考察は、つぎのような歴史的意義をもっている。それはIに、﹃史記﹄﹃漢書﹄ の素材と史
料的性格を知ることができる。-に、張家山漠簡﹃二年律令﹄が適用される範囲についてへ諸侯王国との関係を示唆
(
S
B
している。-に、漠代初期の郡国制について、漠王朝と諸侯王国の政治的な関係を明らかにする手がかりを与えてい
る。これは漠王朝と地方社会の実態に関する重要なテーマである。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
注
二四
(-) 拙著﹃史記戦国史料の研究﹄ (東京大学出版会へ一九九七年)へ 同﹃︽史記︾戦国史料研究﹄ (曹峰へ 鹿瀬薫雄訳へ 上海古籍出版社へ 二
〇〇八年)。
(-)顧顎剛﹁司馬談作史﹂(l九五l年、﹃史林雑識﹄中華書局へ l九六三年)へ季長之﹃司馬遷之人格与風格﹄(上海開明書店へ一九四八年)、
佐藤武敏﹁司馬談と歴史﹂ (﹃司馬遷の研究﹄汲古書院へ一九九七年)へ李開元﹁論﹃史記﹄叙事中的口述伝承﹂ (﹃周秦漠唐文化研究﹄
第四輯'三秦出版社へ 二〇〇六年)等。
(-)王国維﹁太史公行年考﹂(﹃観堂集林﹄巻十一)へ佐藤武敏﹁司馬遷の旅行﹂ (一九七七年へ﹃司馬遷の研究﹄)。拙稿﹁司馬遷の旅行と取
材﹂(﹃愛媛大学法文学部論集﹄人文学科編八へ 二〇〇〇年)へ同﹁司馬遷的取材与東国人物﹂(秦始皇兵馬桶博物館編﹃秦伯東文化研究-
第五届秦桶学術討論会論文集﹄陳西人民出版社へ 二〇〇〇年)へ同﹁司馬遷的取材与︽史記・西南夷列伝︾﹂ (中国秦漠史研究全編﹃秦漠
史論叢﹄八韓へ 雲南大学出版社へ 二〇〇l年)へ 同﹁司馬遷的生年与二十南源﹂ (陳西省司馬遷研究全編﹃司馬遷与史記論集﹄五韓へ陳西
人民出版社へ 二〇〇二年)へ拙著﹃司馬遷の旅﹄ (中央公論新杜へ 二〇〇三年)0
(4) 日本では'伊藤徳男﹃史記十表に見る司馬遷の歴史観﹄(平河出版社へ一九九四年)へ紙屋正和﹁﹃漢書﹄列侯表考証﹂上中下(﹃福岡大
学人文論叢﹄一五-二へ 三、四へ一九八三∼一九八四年) などがある。
(汲古書院へ 二〇〇九年) で紹介している。
(-)長江流域の出土資料と研究は'拙著﹃中国古代国家と社会システムー長江流域出土資料の研究﹄第八章﹁長江流域社会と張家山漠簡﹂
(-)周振鶴﹁︽二年律令・秩律︾的歴史地理意義﹂ (二〇〇三へ ﹃張家山濃蘭︽二年律令︾研究文集﹄二〇〇七年)へ曇昌貴﹁︽二年律令・
秩律︾与漠初政区地理﹂ (﹃歴史地理﹄二一輪へ 二〇〇六年)、朱紅林﹃張家山漠簡︽二年律令︾集釈﹄(社会科学文献出版社、二〇〇五
年)。拙稿﹁秦漠帝国の成立と秦・楚の社会﹂ (二〇〇三へ﹃中国古代国家と郡県社会﹄汲古書院へ 二〇〇五年)へ森谷一樹﹁張家山漠簡秩
律初探﹂ (﹃洛北史学﹄六へ 二〇〇四年)へ 早稲田大学簡吊研究会﹁張家山二四七号漠墓竹簡訳注 (三) -秩律訳注-﹂ (﹃長江流域文化
研究所年報﹄三へ 二〇〇五年)へ富谷至編﹃江陵張家山二四七号墓出土漠律令の研究﹄訳注へ 研究篇(朋友書店へ 二〇〇六年)へ専修大学
前掲﹁張家山漠簡﹃二年律令﹄訳注(=1)﹂(﹃専修史学﹄四五へ 二〇〇八年)など。
(7)周振鶴﹁(二年律令・秩律︾的歴史地理意義﹂へ 早稲田大学簡吊研究会﹁張家山二四七号漠墓竹簡訳注 (≡)﹂。
(8)拙稿前掲﹁秦漠帝国の成立と秦・楚の社会﹂。また専修大学前掲﹁張家山漠簡﹃二年律令﹄訳注ォ)﹂ に詳細な地図がある。
(-)張家山二四七号漠墓竹簡整理中組﹃張家山漠墓竹簡︹二四七号墓︺﹄(文物出版社へ 二〇〇一年)0
(2)周振鶴前掲﹁︽二年律令・秩律︾的歴史地理意義﹂。
ォ)湖南省文物考古研究所編﹃里耶発掘報告﹄(岳麓書社へ二〇〇七年)、拙著﹃中国古代国家と社会システム﹄第四章﹁里耶秦蘭と秦代郡
県社会﹂∼第七章﹁里耶秦蘭の記録と実務資料﹂など。
(1)陳偉﹁秦蒼梧・洞庭二部舞論﹂ (﹃歴史研究﹄二〇〇三年五期)O
(2)湖南省文物考古研究所へ懐化市文物処へ玩陵県博物館﹁玩陵虎渓山一号漠墓発掘簡報﹂(﹃文物﹄二〇〇三年一期)0
(3)武帝早期の資料ではあるが'荊州博物館﹁湖北荊州紀南松柏漠墓発掘簡報﹂(﹃文物﹄二〇〇八年四期) の木腰には南郡の免老'新博、
罷癌の簿があるO その県は'盛へ 椀婦へ夷道へ 夷陵へ 醍陽へ 屠陵へ 州陵へ 沙羨'安陸へ 宜成'臨狙、顕陵へ 江陵へ嚢平侯中原へ 郡侯国、
よって南郡の領域を考察している。
便侯国へ 軟侯国であり'ここでは醒陽へ 屠陵が南郡に所属しているO鳥孟龍﹁松柏漠墓三五号木腰侯国問題初探﹂ (未発表) は'これに
(2) たとえば﹃漢書﹄巻一三異姓諸侯王表では'﹁漠元年一月﹂から始めて﹁十二月﹂ で終わっているが'漠初は秦麿を継承して十月が年
とは限らない。また一般に秦始皇帝より以前は﹃史記﹄を利用し'楚漠戦争の時期から漠代の記述は'﹃漢書﹄ に従うという傾向がある。
初である。また諸侯王表へ王子侯表へ高恵高后文功臣表の記載も'﹃史記﹄漠代諸表との違いがありへ これは必ずしも﹃漢書﹄が正しい
しかし﹃史記﹄は矛盾するようにみえながらへ当時の素材を残している場合がありへ反対に﹃漢書﹄は整理をして誤っている場合がある0
したがった漠代初期の研究は'﹃史記﹄を基準として﹃漢書﹄と比較しながら考証する必要がある。
(1) このほかに惟南国や超国の方面も、さらに検討する必要があるO
(5)周振鶴前掲﹁︽二年律令・秩律︾的歴史地理意義﹂へ曇呂貴﹁︽二年律令・秩律︾与漠初政区地理﹂など。
識﹂ (﹃文物﹄一九九九年一期)へ秋建軍﹁試析徐州西漠楚王墓出土官印及封泥的性質﹂(﹃考古﹄二〇〇〇年九期)へ徐州博物館へ南京大
(S)獅子山楚王陵考古発掘隊﹁徐州獅子山西漠楚王陵発掘簡報﹂ (﹃文物﹄一九九八年八期)へ趨平安﹁対獅子山楚王陵所出印章封泥的再認
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
二六
学歴史学系考古専業﹃徐州北洞山西漠楚王墓﹄(文物出版社へ 二〇〇三年)へ拙稿﹁︽史記︾与漠代諸侯王-︽張家山漠簡・秩律︾与徐州
楚王陵印章封泥﹂ (北京市大荷台西漠墓博物館編﹃漠代文明国際学術研討会論文集﹄北京燕山出版社へ 二〇〇九年) など。
夏丘へ汝、柿へ菅、建成'城父へ建平へ郡へ栗へ扶陽、高へ高柴、漂陽、平阿'東郷へ臨都、義成'祈郷﹂ の三七県があるOまた﹃史記﹄
(2)﹃漢書﹄地理志では'柿郡に﹁相へ龍元へ竹へ穀陽へ粛'向へ蛭へ虞戚'下葉へ豊へ邸へ論へ薪へ租へ轍輿へ山桑へ公丘へ符離'敬丘へ
高祖功臣侯者年表にある建成・故城・菅 (柿郡) などが'﹁秩律﹂ にはみえないO これは柿郡の全体ではな-'柿へ豊へ郡へ城父が飛地
のように特別な県であることを示唆している。
(ァ)索隈に﹁漠志閑へ青書地道記属北地O案へ楳封池陽へ後足封刺成﹂とある。
(S) たとえば﹃史記﹄高祖功臣侯者年表では'﹁秩律﹂ に見えない県として、柿郡のほかに博陽・新陽・呉房・義陵・慎陽・期原・成陽
佐藤武敏﹁前漠の戸口統計について﹂ (﹃東洋史研究﹄四三-一'一九八四年)0
(汝南)へ故市へ平(河南)へ平泉(河内)へ陽河(上党)へ椅氏・長傭(河東)へ清(東郡)などがある。
研究の動向一郡県制・兵制・爵制研究を中心に﹂(﹃中国史学﹄一八へ 二〇〇八年) の紹介がある。
rco¥諸侯王国の研究は'紙屋正和へ杉村伸二氏をはじめとする進展がみられるがへ その要点は高村武幸﹁日本における近十年の秦漠国制史
︹付記︺ 本稿は'二〇〇九年一〇月l四日に復旦大学歴史地理研究所で行った講演原稿をもとにしたものである.講演の機会を与えていただ
いた李暁傑先生をはじめへ一六日の座談会とあわせて貴重なご意見をいただいた周振鶴先生や諸先生へ院生の方々に感謝したい。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
表1 「秩律」地名の釈字、考証
(彰整理中組:漢初の都県を推測。
張家山二四七号漢墓竹簡整理小組『張家山漠墓竹簡〔二四七号基〕』 (文物出版社、 2001
年)
張家山二四七号漠墓竹簡整理小組『張家山漠墓竹簡〔二四七号墓〕』釈文修訂本(文物
出版社、 2006年)
② 『二年律令与奏誠書』 : 『漢書』地理志の郡と考証
彰浩・陳偉・工藤元男主編『二年律令輿奏誠書』 (上海古籍出版社、 2007年)
*周振鶴「 〈二年律令・秩律》的歴史地理意義」 (2003、 『張家山漠簡《二年律令〉研
究文集』 2007年)、曇昌貴「 《二年律令・秩律》与漠初政区地理」 ( 『歴史地理』 21韓、
2006年)などを注記
長吏千石の県
傑陽、頻陽、臨晋:漠初は内史、 《地理志》は左鴻瑚
長安:漠初は内史、 《地理志》は京兆ヂ
成都:萄郡の郡治
口、雑:整理小組は「上雑」で弘農郡。王子今氏らは2地名で「雑」は広漠郡0 ②は口を
「都」と推測。
雑陽:河南郡
那:豊、柿郡
雲中:雲中郡の郡治
口、高?□□□:不明
新豊:漢初は内史、 〈地理志〉は京兆ヂ
塊里、好時:漢初は内史、 〈地理志〉は右扶風
薙:整理小組は「堆」で「邸」とし、 「那」に作る。柿郡。王倖氏と②は「薙」とし、漠
初は内史、 《地理志》は右扶風
柿:柿郡
部陽:漠初は内史、 《地理志》は左鳩瑚
長吏八百石の県
胡:漠初は内史。 《地理志》 に「故日胡、武帝元鼎元年吏名湖」。
夏陽:漠初は内史
彰陽:秦の北地郡、高帝二年に漠、武帝元鼎三年に安定郡
七
胸忍:巴郡
口、 □口、 □□:王子今氏らは、最後の□口を「閲中」とする。 ②は「〔符〕、 □口、 〔聞
中〕の3県と推測。
臨邦:萄郡
新都、武陽、浩:漠初は広漠郡
梓直:漠初は広漠郡。 ②は別字を(蓮)に解釈する
南鄭:漢初は漠中郡
宛、穣:南陽郡
温、情武、軟:河内郡
楊:河東郡。李家浩氏は「軟楊」とする。
臨扮:河東郡
九原:秦の九原郡、湊初も同じ。武帝元朔二年に「五原郡」。周振鶴氏は、呂后の時「九
原、安陽、沙陵、南輿、量相、武都、莫匙、河陰」を雲中郡
成陽、原陽、北輿:雲中郡
旗?陵:不明
西安陽:秦の九原郡、漠初も同じ。武帝元朔二年に「五原郡」
下部、貴、鄭、雲陽、重泉、草陰:漠初は内史
慎:汝南郡。周振鶴氏は「慎陽」かというO曇昌貴氏は、漠初の穎川郡あるいは南陽郡と
する。
衝、藍田:漠初は内史
新野:南陽郡
宜成:整理小組は「宜成」を済南郡とする。 ②は「宜成(城)」に作る。 ②は《地理志》
の南郡に「宜城、故部、恵帝三年吏名」とあることを指摘。里耶秦簡の里程簡⑯12に
「信都-一武--宜〔成〕」とあり、ここでは黄河中流域。
蒲反:河東郡
成固:漠中郡
圏陽:秦の上郡、漠初も同じ。武帝元朔四年に「西河郡」
蛋:南郡
折陽:不明O曇昌貴氏は、漠初の上党郡とするO
長子:上党郡の郡治
江州:巴郡の郡治
上部:陳西郡
陽賓:穎川郡
西成:西城で、漠中郡
江陵:南郡
高奴:上郡
平陽:河東郡。 ② 『史記』高祖功臣侯者年表に、高祖六年十二月に曹参を平陽侯に封じる。
緯:河東郡。 ② 『史記』高祖功臣侯者年表に、高祖六年正月に周劫を緯侯に封じる。
那:柿郡
質:南陽郡
城父:柿郡O周振鶴氏は、楚国とするO ②は柿郡か穎川郡
池陽:漢初は内史、 《地理志》は左裾鞠に「池陽、恵帝四年置」o
長陵:漠初は内史、 《地理志》は左裾瑚
濃陽:東郡
八
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
長吏六百石の県
扮陰:河東郡
折、杜陽:内史
沫:整理小組は「漆」の誤りで、内史の属とする
上雑、武城:秦の内史、漠初は内史
商、署道:湊初は内史
烏氏、朝那、陰密、郡部:漠初は北地郡
薗:漠初は北地郡、 (塾は「薗(歯)」とする。
椙邑:不明。 ②は「梅く拘)邑」で北地郡とする。
帰徳:北地都
的街:整理小組は「胸(晦)街」で北地郡とするo (塾は「抱街」とする。
義渠道、略畔道:北地都
胸街道:整理小組は、胸術の重複とする。周振鶴氏は、北地郡の別の地名と推測。
離陰、洛都、漆垣、定陽、陽周、原都:上郡
嚢城:整理小組は「嚢洛」の誤りで上郡とする。また穎川部に嚢城県がある0
平陸:漠初の上郡か、 《地理志》 は西河郡。
負:漠初の上郡か
平都:上郡。 ②侯国、恵帝五年に劉到が平都侯に封ぜられる。
平周:西河郡O 〈地理志〉に西河郡は「武帝元朔四年置」とあるO周振鶴氏は、このとき
西河郡がなく、上郡とする。 (塾秦の上郡、漠初も同じ。
武都:漠初は雲中郡か
安陵:平原郡o周振鶴氏は、内史とするo (塾恵帝陵で、奉常に属するO
徒軽(経) :整理中組は「徒経」の誤りで、漠初は西河郡か上郡。蘇輝氏は「徒経」で、
漢初の上郡とする。
西都、中陽:西河郡。 ②秦の上郡、漠初も同じ。
広術:西河郡。周振鶴氏は、漠初に西河郡がなく、 3県は上郡とする。
高望:上郡
平楽:漠初の広漠郡。曇呂貴氏は、漠初の幌西郡とする。
苛火道、戎邑:漠初の随西郡
夜明:整理小組は□口。 ②秦の萄郡、前漠の広漠郡
陽陵:整理小組は□陵。 (塾は里耶秦簡(釦1に、陽陵県として見えることを指摘O
江陽:漠初の広漠郡。
九
臨江、培陵、安漠、宕渠、棋:巴郡
港:または「狙」、漠初の漠中郡か。
旬陽、安陽、長利、錫、上席、武陵、房陵:漠中郡
陽平:東郡
垣、濯(港)滞、嚢陵、清子、皮氏、北屈、歳:河東郡
亨路、余吾、屯留:上党郡
渉:漠初は上党郡か。 ②渉、武安は上党郡、内黄、繁陽、館陶は河内郡とする。
武安:貌郡O周振鶴氏は上党郡。
端氏:漢初は上党郡か。 《地理志》は河東郡。
阿氏:整理小組は「簡氏」の誤りで、上覚郡とする。
壷関、弦氏、高都、銅擬、嚢垣:上党郡
理:上党郡。 ②秦の上覚郡、漠初も同じ。
成安:穎川郡
河陽、汲、蕩陰:河内郡
朝歌:河内郡。 ②秦の河内郡、漠初も同じ。
鄭:整理小組は「鄭」に作る。萎昌貴氏は「鄭」に作る。周振鶴氏は、漠初は河内郡とす
る。
野王、山陽:河内郡
内黄、繁陽:貌郡。周振鶴氏は、河内郡とするO
隣、慮氏、新安:内史。 《地理志》は弘農郡。周振鶴氏は、漢初の河南郡とする。
新城(成) : 《地理志〉 は弘農郡「新成」。 周振鶴氏は、漠初の河南郡とする0
宜陽:漠初は内史。周振鶴氏は、河南郡とする。
平陰、河南、根氏、成皐、焚陽、巻、岐、陽武、梁:河南郡
陳留、園:漠初の河南郡か
秘帰、臨狙、夷陵:南郡
醍陵:不明。周振鶴氏は、侯国で長沙国とする。 ②は「醍陽」の誤りで、漠初は南郡とす
る.早稲田大学簡吊研究会の考察では、 『続漢書』郡国志に長沙郡の属県とすること
などから、長沙国に属していたと推測する。
屠陵:武陵郡O 〈地理志〉 は武陵郡.周振鶴氏は、屠陵・索は漠初の長沙国で、この時は
南郡とする。 (参は里耶秦簡の⑯52に屠陵県があり、漠初の南郡とするO
輸:不明。周振鶴氏は、里耶秦蘭の⑯52に鉾があり、南都とする。曇昌貴氏は、部と江陵
の間とする。
売陵、安陸、州陵、抄羨:漠初は南郡
西陵:漠初は南郡か
夷道:南郡
下溝:漠初は南郡か。 《地理志〉 は長沙国
析:漠初は南陽郡か
膵、郵:南陽郡
南陵:整理小組は「春陵」の誤りで、南陽郡とするo周振鶴氏は不明とするo曇昌貴氏は、
包山楚簡の楚県を継承したもので、新都(新野県)の近くとする。
比陽、平氏、情、稚、撃:南陽郡
胡陽、葉陽:南陽郡。 ②秦の南陽郡、漠初も同じ。
西平:汝南部。周振鶴氏は、南陽郡とする。
菓:南陽郡。 ②秦の南陽郡、漠初も同じ。
陽成(城) :整理小組は「陽城」で汝南郡とする。曇呂貴氏は、南陽郡の陽城とする。
陽安:汝南郡。周振鶴氏は、漠初の南陽郡と推測。 ②秦の南陽郡、漠初も同じ。
張家山漠簡﹁秩律﹂と漠王朝の領域
魯陽:南陽郡。 ②戦国中晩期の魯陽、秦の南陽郡、漢初も同じ。
朗陵:汝南郡。周振鶴氏は、漠初の南陽郡と推測。
駿東、蜜:漠初は河南郡
長安西市:内史。 ② 『漢書』恵帝紀に「六年一一起長安西市」。
陽城:穎川郡。 ②戦国中晩期の陽城、秦の穎川郡、漠初も同じ。
苑陵:河南郡。 ②漠初の穎川郡。
嚢城:穎川郡。周振鶴氏は、 『史記』の「嚢成」で侯国とする。 ②秦の穎川郡、漠初も同じ。
値、姉、尉氏:穎川郡
穎陽、長社:穎川部o ②秦の穎川郡、漠初も同じ。
解陵:不明
武泉、沙陵:雲中郡
南輿、畳相、美艶、河陰:五原郡
博陵:西河郡。周振鶴氏は、上郡とする。委員貴氏は、雲中郡とする。
許:穎川郡
群道:漠初は簡西郡か
武都道:漠初は幌西郡o ②漠初は幌西郡、 《地理志》は武都郡の郡治O
予道、氏道:髄西郡
薄道:不明。 ②は、この前後が懐西郡であることを指摘。
下排、赫道、略陽、騎諸:漠初は触西郡
方渠、除道:北地都
離陰道:上郡
青衣道、厳道:萄郡
那:内史
美陽、壊(嚢)徳:内史。 (参秦の内史、漢初も同じ。
共:河内郡。 ②秦の河内郡、漠初も同じ。
館除く陶):不明。曇呂貴氏は、 《地理志》は貌郡で、漠初の河内郡とする。
隆慮:河内郡。 ②侯国、高帝六年に周竃を隆慮侯に封ず。
蝪蝪:
中牟:河南部o ②侯国、高帝十二年に尊父聖を中牟侯に封ず。漠初の穎川郡とする。
穎陰:穎川部o ②侯国、高帝六年に港嬰を穎陰侯に封ず。
定陵:穎川郡
舞陽:穎川部o (塾侯国、高帝六年に契晴を舞陽侯に封ずo
啓封:開封、河南郡.周振鶴氏は、穎川郡とするo ②景帝劉啓の詩を避けて、後に開封と
更名。
閑陽:不明
女陰:汝南部。 ②侯国、高帝六年十二月に夏侯嬰を汝陰侯に封ず。
秦:武陵郡に索県があるが、河内郡の索邑とする。周振鶴氏は、このとき南部とする。
鳶(偶)陵:整理小組は「鄭陵」で穎川郡とする。 ②秦の穎川郡、漠初も同じO
東阿、柳城、観、白馬、甚平、郡城、頓丘:東郡
燕: ②赤外線によって補足
東武陽:東郡。 ②秦の東郡、漠初も同じ。
長吏五百石の道
陰平道、旬氏道:広漠郡
解適道、湖底道:萄郡
長吏三百石の官
高年邑長:漠初は内史、 (塾『漢書』高帝紀に「(十年)秋七月発卯、太上皇崩、葬高年」O
長安厨長:漠初は内史
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