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第 4章
遼東郡の変遷
133
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第4章
1
遼東郡の変遷
1
遼東郡の拡大と楽浪郡
(1)遼 東郡の拡大
『漢書』地理志には遼東郡が次のように書かれて いる。
遼東郡
縣十八
襄平、新 昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼 陽、険涜
居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏
(註 )無 慮 …西部都尉治。師古日、即所謂警巫 間。
候城 … 中部都尉治。
武次 …東部都尉治。
険涜 …応勘 日、朝鮮王満都也。
『漢書』地理志
遼東郡の 中に無慮縣がある。 (註 )に は、無慮は「即所謂警巫間」とある。医
巫 間山のことである。医巫 間山は大凌河の東にある。真番朝鮮 のあ ったところで
ある。 『漢書』地理志の遼東郡は医巫 間山まで含んで い る。
漢 の初期 の遼東郡は浪水 までを界 としていた。遼東郡は遼水 の東 (掲 石山の あ
る地域 )か ら浪水 までであった。それが 『漢書』地理志では医巫間山まで拡大 し
ている。
しか も無慮は西部都尉治である。武次は東部都尉治であ り、候城は中部都尉治
である。無慮の東に中部都尉治 の候城があ り、さらにその東に東部都尉治 の武次
があるので あろう。遼東郡は今 の遼寧省 とほぼ同 じ領域まで拡大 している。
134
」
「
{2}楽 浪 郡 の 移 動
楽浪郡 は衛氏朝鮮のあ った浪水 と小凌河の間に置かれた。その後真番・臨屯郡
が廃止 されたとき、楽浪郡は医巫閣山や遼河 の下流域まで併合 したと思われる。
ところが この地域は『漢書』地理志 では遼東郡にな っている。楽浪郡は完全 に遼
東郡 の 中に吸収 されて いる。楽浪郡は渤海沿岸か ら消えて いる。
ところが『漢書』地理志には楽浪郡がある。その楽浪郡を見 ると不而 (不 耐 )。
華麗 とい う縣 がある。
楽浪郡
縣二十五
キ部、漫水、含資、砧蝉、遂成、増地、帯方、
朝鮮、言
馴望、海冥、列 口、長琴、屯有、昭明、錢方、提案、
渾輌、呑列、東腕、不而、資台、華麗、邪頭味、前莫、夫租
『漢書』地理志
不而 (不 耐)・ 華麗は『三 国志』東沃温伝 に出て くる。
以沃温城為玄菟郡。後為夷狛所侵、徒郡句麗西北。今所謂玄菟故府也。
沃温還属楽浪。漢以土地廣遠、在単単大領 之東、分置東部都尉、治不耐
城、別主領東七縣、時沃温亦皆為縣。
漢光武帝六年、省辺郡都尉。由此、罷其後皆以 中渠帥為縣侯。不耐・華
麗 ・沃温諸縣皆為侯国。
『三 国志』東沃温伝
(訳 )沃 温城に玄菟郡を置 く。後、夷狛に侵 されるところとな り、玄菟
郡を高句麗 の西北に移す。沃温は楽浪 に属すようになる。漢はその土地
が廣 く遠 いので 、単単大領之東を分 けて東部都尉を置き、不耐城 に治
し、別に鎮東七縣を治めさせた。時に沃温はまた皆縣 となる。
後漢 の光武帝の六年
(30年 )、
辺郡の都尉を省 く。これによりその後
皆罷める。原住民 の渠帥を もって縣侯 となす。不耐・華麗・沃温 の諸縣
は皆侯国となる。
135
第 4章
遼 東郡 の 変遷
東沃温に不耐・ 華麗・沃温がある。沃温には玄菟郡が置かれた。その後玄菟郡
は高句麗の西北に移 され、沃温の地は楽浪郡に属 したとある。 しか もこの地は廣
くて遠 いので楽浪郡 の東部都尉を置 いた という。楽浪郡の東側にあるか ら東部都
尉であろう。楽浪郡の郡治は沃温の西にあることがわかる。楽浪郡の郡治は従 来
か らいわれてきたように平壌市であろう。楽浪郡は渤海沿岸か ら平壌の地 へ移 さ
れて いる。
それは『漢書』地理志 の沢水 の記述か ら明 らかである。『漢書』地理志 の楽浪
郡 に「沢水縣」がある。その (註 )に は、「 (演 )水 西至増地入海」とある。「浪
水 は西に流れて増地 に至 り、海に入る」 と書かれている。浪水は「西入海」であ
る。
『説文解字』や 『水経注』では、演水 は「東入海」であった。それが 『漢書』
地理志の楽浪郡 の (註 )で は「西入海」に変わ っている。「西入海」とい う川は
朝鮮半島の川である。 『漢書』地理志 の (註 )は 演水が朝鮮半島の川であること
を示 している。それは 『漢書』地理志 の楽浪郡が朝鮮半島に移 っているか らであ
る。
朝鮮半島に移 った後 の楽浪郡を第 2楽 浪郡 と呼ぶ ことにす る。
楽浪郡が移 った とき、川の名前や、縣 の名前等 の地 名はそ っ くり移 されてい
る。そのため『漢書』地理志には第 2楽 浪郡 のことが書かれて いるに もかかわ ら
ず、従来はそれを四郡設置当初の楽浪郡 であると解釈 し、衛 氏朝鮮 の位置や、漫
水 の位置や、真番 。臨屯の位置を比定 してきたのである。
(3)楽 浪 郡 の 範 囲
『漢書』地理志の楽浪郡には「東腕」がある。東腕は臨屯郡の郡治である。
其地為楽浪・臨屯・玄菟 。真番郡c
136
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柴
郡
図 48 拡大 した遼東郡 と第 2楽 浪郡
(註 )「 茂陵書」
臨屯郡治東腕縣、去長安六千一百三 十八里。十五縣。
真番郡治警縣、去長安七千六百四十里。十五縣。
『漢書 』武帝紀
臨屯郡 の郡治であ った東腕 は楽浪郡 の 中に入 っている。東腕 は朝鮮半島 (平 壌
市 )に 近 いところにあ った ことが推察 される。前述 のよ うに、東腕 は遼河の下流
域か ら遼東半島の付 け根 あた りにあったのであろう。
沃温 の地 も楽浪郡 に入 っている。不而、菫台、華麗、邪頭昧、前莫、夫租は沃
温 である。 これ らが楽浪郡の中にある。
137
第 4章
遼 東郡 の 変遷
楽浪郡 の範囲は西北は旧臨屯郡、東は東沃温 の地 、南は従来か らいわれて いる
朝鮮半島の北部あた りであろ う。
図 48 拡大 した遼東郡 と第 2楽 浪郡
(4)楽 浪郡 とその遺跡
『古文化談叢』第 35集
(1995年 )に 、高久健二氏の『楽浪墳墓の埋葬主
体部 ―楽浪社会構造の解明―』とい う論文がある。その中に「楽浪墳墓の埋葬主
体部変遷模式図」がある。
図 49 楽浪墳墓の埋葬主体部変遷模式図
高久氏 によると、 I期 は BC108年 か らは じま り、木椰 AI型 式が 出現す
る。 Ⅱ期は BC50年 頃か らは じまり、木榔 AⅡ 、 AⅢ 、 AⅣ 型式、および BI
型式がは じまるという。
また「 時期的・階層的関係」として、 Ⅱ期か ら木椰 AⅢ 、 AⅣ 型式が Aラ ンク
(上 層 の支配者階級 )に あ らわれる。これは「漢墓 にみ られる夫婦合葬の風習が楽
浪にお いて上位階層か ら採用 されは じめた ことがわかる」と述べ ている。
図 50 楽浪墳墓 の埋葬主体部 の時期的・ 階層的関係
I期 は AI型 式 しかない。 Ⅱ期か らは、AⅡ 、AⅢ 、AⅣ 、BI型 式が加わる。
BC50年 頃か ら急に多様な型式の埋葬が始まる。高久氏はそれについて次のよ
うに述べている。
楽 浪郡 の発 展 過程 は Ⅱ期 にお ける正 当支 配構 造 の 確 立 に あ らわれ て い
る。
138
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図 49 楽浪墳墓の埋葬主体部変遷模式図
高久氏によると、楽浪郡 (平 壌 )は Ⅱ期か ら漢墓にみ られるような夫婦合葬の
風習が現れ る し、正当な支配構造が確立 す るという。楽浪郡は Ⅱ期 の BC50年
頃か ら漢による正 当な支配が始まるとい うのである。
高久氏は定説通 り楽浪郡は BC108年 に平壌に置かれたと考えている。それ
にもかかわ らず楽浪郡 (平 壌付近 )は Ⅱ期か ら正当な支配が始まると述べ ている。
高久氏 の研究は、楽浪郡が平壌に置かれ たのは BC108年 ではな く、 BC50
年頃であることを示 しているのではないだろ うか。
139
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第 4章
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遼 東郡 の 変遷
図 50
1期
]期
Ⅱ期
回
笏
木都 AI
木都 BⅡ
A 嶽
囲
回
木椰 AI
陶
木都 B口 改造b
木椰Cロ
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木椰 BI改 造a
木 椰 BI改 造 a
木都 AⅢ
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前 82年 に臨屯・真番郡は廃止され、玄菟郡 と楽浪郡に併合される。前 75年
には玄菟郡が真番郡のあったところへ移 され、楽浪郡は平壌の地へ移される。第
2楽 浪郡が始まるのは前 75年 以降である。高久氏の研究はそれを証明 している
のではないだろうか。
140
2
右北平郡および遼西郡の拡大
(1)右 北平郡 の拡大
『漢書』地理志 の右北平郡は次 のよ うにな っている。
右北平郡
縣十六
平剛、無終、石成、廷陵、俊靡、資、徐無、字、土坂、 白狼、
夕陽、昌城、騒成、廣成、衆陽、平明
(註 )資 …都尉治
『漢書』地理志
右北平郡 の 中に 自狼縣 が あ る。 その (註 )に は次 の よ うに書かれ て い る。
・ (註 )師 古 日、有自狼山故以名縣。
白狼…
『漢書』地理志
(訳 )顔 師古曰 く、自狼山有 り。故、その名をもって縣の名前 とする。
白狼縣 には白狼山がある。自狼 山の名前を もって縣 の名前に したという。自狼
水 は大凌河の上流にある。 自狼山はその近 くにあるのであ ろう。
右北平郡 には廣成縣 があ り、自狼縣 との関連で『水経注』に次のように書かれ
ている。
遼水右会 白狼水。水 出右北平 白狼縣東南、北流、西北屈運廣成縣故城南。
『水経注』
(訳 )遼 水は右 に自狼水 と会 う。白狼水 は右北平郡 自狼縣 の東南より出
て、北流 し、西北に屈 して、廣成縣 の故城 の南 に至 る。
遼水は自狼水に会 うとあるか ら、この遼水 は大凌河である。自狼水は白狼縣の
東南か ら出るとある。自狼水 の水源は自狼縣の東南にある。自狼水の水源の位置
14
■■皿 上
第4章
遺東郡の変遷
は地図か らわかるので、 自狼縣、自狼 山の位置が判明す る。
図 51 白狼水 と自狼縣
巫
山
凌
凌
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ムロ
県
狼
水
龍
轟
水
図
51
白狼水 と自狼 縣
廣成縣 は 自狼水が北流 して西北に屈 して至る所にあるという。廣成縣故城 の南
に至 るとあるか ら廣成縣は自狼水 の北側にある。
図 52 白狼水 と廣成縣
142
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巫
山
大
凌
凌
河
二
日
狼 山
▲
狼
水
龍
語
水
図
52
白狼水 と慶 成縣
右北平郡 は設置 された当初は長城の 内側 にあ った。度遼将軍が派遣 されたとき
「遼水を渡 り、遼東を出る」とある。
於是、拝明友為度遼将軍、将二 萬騎出遼東。
143
『漢書』匈奴列伝
_■ ■Ш皿
第4章
_
│
遼東郡の変遷
度遼将軍 のことはす でに述べ たが、度遼将軍 とは「遼水を渡る将軍」の意であ
る。遼水 (藻 河 )を 渡る と遼水 の東に出る。遼水 の東を出るか ら「 出遼東」 と書
かれて いるのである。 この時、すでに この地域が右北平郡 にな っていたのであれ
ば、「出右北平」 と書 くはず である。
度遼将軍 が派遣 された元鳳三年 (前
78年 )頃 は右北平郡はまだ長城 の 内側に
あった。それが 『漢書』地理志 では、右北平郡 の 中に自狼縣 が入 っている。 白狼
縣は長城 の外側 にあるか ら、右北平郡は拡大 したことになる。度遼将軍が派遣 さ
れた前 78年 以降に右北平郡 の領域 は長城の外側 まで拡大 している。
(2}遼 西郡 の拡大
遼西郡 も拡大 している。 『漢書』地理志 の遼 西郡は次 のよ うにな っている。
遼西郡
縣十四
且慮、海陽、新安平、柳城 、令支、肥如、賓徒、交黎、
陽楽、狐蘇、徒河、文成 、臨楡、
(註 )柳 城 …西部都尉治
交黎 …東部都尉治
『漢書』地理志
遼西郡に柳城縣がある。柳城は『水経注』 に次のように出て くる。
衰尚興賜頓将数萬騎逆戦。公登 白狼 山、望柳城。
『水経注』
(訳 )衰 尚は賜頓 と数萬騎を将いて逆戦す。公 (曹 操 )は 自狼 山に登 り、
柳城を望む。
『三 国志』の 時代である。曹操は衰 尚を討つ ために自狼山に登 る。 自狼 山か ら
柳城を望むとあるか ら柳城は自狼 山の近 くにあることがわかる。自狼 山は右北平
144
郡 にある。その近 くに遼西郡 の柳城があ る。柳城縣の (註 )に は「西部都尉治」
とある。柳城は遼西郡 の西部都尉治 である。
遼西郡 の交黎縣 は『水経注』に次 のよ うに出て くる。
自狼水又東北運 昌黎縣故城西。地理志日、交黎也。
『水経注』
(訳 )白 狼水はまた東北に流れ昌黎縣 の故城 の西に至る。地理志 にい う
交黎 な り。
白狼水 が東北 に流れて行 くところに遼西郡 の交黎縣 があるとい う。交黎縣 の
(註 )に は「東部都尉治」とある。自狼水が東北に流れるところは大凌河 の 中流域
である。交黎縣は大凌河の中流域にあると思われる。
賓徒 は『晋書』地理志 に出て くる。
昌黎郡
(註 )漢 属遼東属国都尉、魏置郡。統縣二。戸九百。
『晋書』地理志
昌黎、賓徒
昌黎 と賓徒 は同じ昌黎郡にある。昌黎は交黎で もあるか ら賓徒 は交黎の近 くに
あるのであろう。おそらく大凌河の中流域か ら下流域にかけての地域にあると思
われる。
図 53 遼西郡と柳城・交黎縣
遼西郡 も当初は長城 の 内側にあ った。『漢書』地理志ではそれが大凌河の中流
域か ら下流域にまで拡大 している。
(3)『 漢書』地理志 の遼西郡・ 右北平郡
『漢書』地理志の遼 東郡は遼水 (藻 河 )の 東か ら渤海沿岸 に沿い、医巫間山、
および遼東半島付近 まである。一方、右北平郡 の東端は自狼水 の辺 りまである。
145
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第 4章
遼東郡 の 変遷
巫
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柳 城
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龍
焼
水
図 53 遼西郡 と柳城 ・交黎縣
遼西郡はこの両郡の間に挟 まれて いる。遼西郡は南北に細長 い郡 である。おそ
らく道に沿 って郡の範囲が定め られたのであろ う。大 まかに云えば、大凌河 の西
側が右北平郡 であ り、東側が遼西郡 である。 『漢書』地理志の遼東郡、遼西郡、
右北平郡 の領域を図示す ると次のようになる。
図 54 『漢書』地理志 の東北部領域図
146
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建 平
巫
間
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山
凌
平 泉
郡
狼 山
寛城
渤
海
水
図 54 『漢書』地理志の東北部領域図
3
郡拡大の原因
(1}郡 拡大 の時期
度遼将軍 の派遣は元鳳三年 (前
78年 )で ある。この時点までは右北平郡は長
城 の 内側にあ った。右北平郡 の領域が長城 の外 へ拡大するのはこの後 である。
147
」認 │四
第4章
1
遼東郡の変遷
度遼将軍が派遣された三年後に遼東城と玄菟城が築かれる。
元鳳六 年 (前
75年 )、
募郡 国徒 、築遼東 ・ 玄菟城 。
『後漢書 』
玄菟城が築かれ たのは玄菟郡を移すためであろう。玄菟郡は高句麗の東北へ移
される。 (第 2玄 菟郡 )
同 じ年に遼東城 も築かれて いる。遼東城を築 いたのは遼東郡の拡大 。強化 のた
めであろう。漢が興 ったとき、小 凌河までは遠 くて守 り難 いので演水 までを界 と
したとある。 ところが 『漢書』地理志 では遼東郡 の範囲は演水を越え、さらに小
凌河 も越えて医巫間山や遼河 の地域まで拡大 している。
遼東郡が拡大 されたとき、楽浪郡のあった地域は遼東郡に吸収 されている。楽
浪郡は この時朝鮮半島へ移 されている。その時期は遼東城や玄菟城が築かれた前
75年 頃であろう。 『漢書』地理志には楽浪郡が移 された第 2楽 浪郡のことが書
かれているか ら、『漢書』地理志は前 75年 以降のことが書かれて いるといえる。
その時期は高久健 二氏 の研究 とも一致す る。「楽浪墳墓の埋葬主体部」の研究
によ り、楽浪郡 において正当な支配が始 まるのはⅡ期 の BC50年 頃であるとい
つ。
右北 平 郡 や遼 西 郡 は度 遼 将 軍 が派遣 され た 前
78年 まで は長城 の 内側 に あ っ
た。 それが 『漢書 』地理志 で は領域 が長 城 の外 側 に まで拡大 して い る。 その時 期
は遼 東郡 の 拡大 の 時期 と同 じ頃 で あろ う。右北平郡 も遼西郡 もそ の領 域 が拡大 す
るの は前 75年 頃 で あろ うと思 われ る。
(2}領 域拡大 の原因
漢は前
108年 に衛氏朝鮮を伐 って四郡を設置す る。ところが前 82年 には真
番郡 と臨屯郡を廃止 し、楽浪郡 と玄菟郡に併合する。
■ (始 元 )五 年 (前
82年 )、
罷僧耳、真番郡。
148
『漢書』
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二
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■至昭帝始元五年、罷臨屯・真番、以井楽浪・ 玄菟郡。
『後漢書 』
その 7年 後 の前 75年 には玄菟城を築き、玄菟郡を移 して い る。その理 由は『三
国志』に次 のよ うに書かれて いる。
以沃温城為玄菟郡。後為夷狛所侵、徒郡句麗西北。今所謂玄菟故府也。
『三 国志』東沃温伝
沃温還属楽浪。
(訳 )沃 温城に玄菟郡を置 く。後、夷狛に侵 されるところとな り、玄菟
郡を高句麗 の西北に移す。沃温は楽浪に属す ことになる。
玄菟郡は夷狛 の侵す ところとな り、高句麗 の西北に移す とある。玄菟郡を移す
ことにな った原因は夷狛の侵攻である。
玄菟郡を移す 3年 前 の前 78年 には度遼将軍が派遣 されている。匈奴や烏桓を
伐 つ ためである。
遼東城や玄菟城を築いた時期は、漢は匈奴や烏桓や夷猫 の侵攻に悩 まされてい
る。漢は これ らの外敵の侵入を阻止す るために城を築き、領域を拡大 。強化 した
ので あろう。遼東城を築き遼東郡 の領域を拡大・ 強化 したのは東 方 の外敵である
夷狛に対抗す るためであ り、遼西郡や右北平郡を拡大 したのは鳥桓に対抗す るた
めであろ うと思われる。
漢は東北地方 の異民族 の侵攻に対抗す るために郡を拡大 し、支配体制を強化 し
た。 これが遼東郡や遼西郡や右北 平郡を拡大 した原因であると考える。
149
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第 4章
1
遼東郡の変遷
4
後漢時代の遼東郡
(1)遼 東属国
後漢時代になると、「遼東属国」が頻繁に出てくる。
■陽嘉元年冬、鮮卑後寇遼東属国。於是嘩乃移屯遼東無慮城拒之。
『後漢書』鮮卑伝
(訳 )陽 嘉元年
(132年 )、
鮮卑は後 に遼東属国を寇す。 ここに於 いて
嘩 は移 り遼東 の無慮城に屯 し、 これを拒む。
■延烹六年五月、鮮卑寇遼東属国。
(訳 )延 喜六年
『後漢書』桓帝紀
(163年 )五 月、鮮卑は遼東属国を寇す。
■ (延 喜 )六 年夏、千餘騎寇遼東属国。九年夏、遂分騎数萬人、入縁辺九郡、
並殺掠吏人。於是復遣張奥撃之。鮮卑乃出塞去。朝廷積患之而不能制。遂
遣使持印綬封檀石椀為王、欲典和親。檀石枕不肯受、而寇抄滋甚。乃 自分
其地為二部。従右北平東至遼東、接夫餘・滅狛 二十餘 邑、為東部。従右北
平以西上谷、十餘 邑、為中部。従上谷以西至敦建 。鳥孫二十餘 邑、為西部。
『後漢書』鮮卑伝
(訳 )延 喜六年
(163年 )夏 、千餘騎が遼東属国を寇す。九年 (166
年 )夏 、遂に騎数万人を分けて縁辺の九郡に入 り、吏人を殺掠す る。ここ
に於いてまた張奥を遣わ しこれを撃つ 。鮮卑は塞を出て去 る。朝廷はこれ
を積年 の患 とするも制す ることが出来ない。遂に使いを遣わ し印綬を もっ
て檀石椀を王 と為 し、和親を欲す。しか し檀石椀は これを受けず、寇抄 (侵
しかすめ取る)ま す ます甚だ しい。乃ち、 自ら其地を分けて二部 と為す。
右北平より東、遼東に至 り夫餘・減狛に接す る二十餘 邑を東部 と為す。右
北平より以西、上谷までの十餘 邑を中部 と為す。上谷 より以西の敦燈 。鳥
孫 に至 る二十餘 邑を西部 と為す。
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■建安十八年二月、省州井郡、復萬貢之九州。真州得魏郡 。安平・鍾鹿 。(中
略 )漁 陽・廣陽・右北平 。上谷・ 代郡・遼東・遼東属国・遼西 。玄菟・楽
『後漢書』
浪、凡三十二郡。
(訳 )建 安十八年
(213年 )二 月、州を省き、郡を井せ 萬貢の九州を復
活す。真州は魏郡・安平・ 鍾鹿 。 (中 略 )漁 陽・ 廣陽 。右北平 。上谷・代
郡 ・遼東・遼東属国・遼西 。玄菟・楽浪、凡 そ二十二郡な り。
■漢末、遼西烏丸大人丘力居衆五千餘落、上谷鳥丸大人難楼衆九千餘落、各
称 王 。而遼東属国鳥丸大人蘇僕延衆千餘落、自称哺王。右北平烏丸大人烏
『三 国志』
延衆八百餘落、 自称汗魯王 。
(訳 )漢 末、遼西鳥丸大人 の丘力居 (衆 五千餘落 )、 上谷烏丸大人 の難楼
(衆 九千餘落 )、 各 工 を称す。而 して遼東属国鳥丸大人の蘇僕延 (衆 千餘
落 )は 自らlI肯 王 を称す。右北平鳥丸大人 の鳥延 (衆 八百餘落 )は 自ら汗魯
王 を称す。
遼東属国は『後漢書』郡国志の幽州に正式な郡国 として出ている。
幽州
琢郡、廣陽、代郡、上谷、漁陽、右北平、
遼西、遼東、玄菟、楽浪、遼東属国
『後漢 書 』郡 国志
後漢時代、幽州 の 中に遼東属国 という郡国が存在 している。
{2}遼 東属国の位置
『後漢書』郡国志 の遼東属国は次 のよ うにな っている。
遼東属国
(註 )故 椰郷西部都尉、安帝時以為属国.都 尉別領六城。
昌遼故天遼属遼西、賓徒故属遼西、徒河故属遼西、
151
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第4章
・
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遼東郡 の変遷
『後漢書』郡国志
無慮有讐無慮山、険涜、房
遼東属国が出現す る時期はいつ 頃であろ うか。『後漢書』郡国志の遼東属国の
(註 )に は、故椰郷西部都尉は安帝 の時に遼東属国 にな ったとある。安帝 の在位は
107年 -124年
である。
また 『三 国志』の割註には次 の記事がある。
『且等九千餘人率衆詣閾。封其
魏書 日 (中 略 )建 武 二十五年、鳥丸大人赤
。
渠帥為候 王者八十餘人。使居塞内布列遼東属国・遼西 右北平・漁陽・
廣陽 。上谷・代郡 。鷹門・ 太原・朔方諸郡界。招来種人給其衣食。置校
『三 国志』
尉、以領護之。遂為漢偵備 、撃匈奴、鮮卑。
(訳 )魏 書に 曰 く、建武二十五年
(49年 )、
『且等九千餘人
鳥丸大人赤
は衆を率いて閾に詣 る。其 の渠帥を封 じて侯王 と為す者八十餘人。塞内
に居住 させ、遼東属国・遼西・右北平・漁陽 。廣陽・上谷・代郡・鷹門・
太原・朔方 の諸郡 の界 に分けて住まわせ る。同 じ種人 (烏 丸 )を 招き寄
せて衣食を給す。校尉を置き以 て之を護 り統治す。遂に漢 の偵察や警備
をす るようにな り、匈奴や鮮卑を撃つ。
49年 に遼東属国が出て くる。遼東属国は後漢時代の初期か らすでに存在 した
ようである。
遼東属国の中に無慮がある。無慮には「無慮有讐無慮 山」とある。警無慮 山は
医巫 間山のことである。無慮は 『漢書』地理志 では遼東郡であ った。それが 『後
漢書』郡国志 では遼東属国にな っている。
険涜 にも (註 )が あ り、「史記 日王 険衛満所都」 と書 かれている。『史記』の
王 険城 であ り、衛満 の都する所 である。王険城は浪水 の東にある。後漢時代 には
そこが遼東属国の険涜にな っている。
房縣については『水経注』に次のように書かれて いる。
152
」
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地理志 日、楡水 自塞外南入海。一水東北出塞為 白狼水。又東南流至房縣、
注於遼。魏土地記 日 白狼水下入遼也。
『水経注』
(訳 )地 理志に日う、楡水は塞外よ り南、海 に入 る。一水 は東北 よ り塞
を出て 白狼水 と為 る。又東南に流れ房縣に至 り、遼 に注 ぐ。魏土地記に
日 う、自狼水 の下流は遼に入 る也。
楡水 と自狼水 について述べ て いる。どちらも大凌河 のことである。東南に流れ
て房縣に至 るとある。大凌河が東南に流れるところは大凌河 の下流域 である。 房
縣は大凌河 の下流域にある ことが わかる。「注於遼 (遼 に注 ぐ)」 とあるのは「遼
東湾に注 ぐ」とい う意味であろう。大凌河が流れ込む海は渤海である。 その奥 の
大凌河や遼河 が流れ込む ところを遼東湾 とい う。房縣 は無慮 と険涜の中間にあ
り、渤海沿岸 にあることがわか る。
次に昌遼、賓徒、徒河であるが、これ らの縣にはすべて「故属遼西」という (註 )
がついている。もとは遼西郡に属 していたのである。 『漢書』地理志の遼西郡で
あろう。
賓徒 は前述のように交黎に近 いところにある。昌遼、賓徒、徒河 は遼東属国の
中に入 ってお り、そろって「故属遼西」 と書かれて いる。昌遼、徒河 も賓徒に近
いところにあるので あろう。大唆河 の 中流域か ら下流域にかけて の位置 にあると
思われる。
遼東属国の範囲は浪水か ら医巫閣山まで の渤海沿岸 と、大凌河 の 中流域か ら下
流域にかけて の地域であろ う。
図 55 遼東属国の位置
153
第 4章
遼東郡 の 変遷
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巫
山
大
無 慮
凌
河
白 狼山
▲
,自
狼
潰
水
龍
▲
陽石
図
55
遼東属 国 の位置
{3)後 漢時代 の遼西郡 と右北平郡
後漢時代 の遼西郡 と右北平郡は前漢時代に比べ ると極端に領域が縮小 して い
る。『漢書』地理志と『後漢書』郡国志を比較すると次の表のようになる。
表 2 『漢書』地理志 と『後漠書』郡国志 の比較
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」
『
『漢書』
右北平郡
『後漢書』
16縣
4城
平剛、無終、石成、廷陵、
土坂、徐無、俊靡、無終
俊靡、資、徐無、字、土根、
自狼、夕陽、昌城、駆成、
廣成、衆陽、平明
遼西郡
14縣
5城
且慮、海陽、新安平、柳城、
陽楽 、海 陽、令 支 、肥如 、
令支、肥如、賓従、交黎、
臨楡
陽楽、狐蘇、徒河、文成、
臨楡、索
遼東郡
18縣
11城
襄平、新昌、無慮、望平、
候城、遼遂、遼陽、険涜、
襄平、新 昌、無慮、望平、
候城、安市、平郭、西安平、
居就、高顕、安市、武次、
波 、番汗、沓氏
平郭、西安平、文、番汗、
沓氏、房
玄菟郡
3縣
6城
高句麗 、上殷 台、西蓋 馬
高句麗 、西蓋 馬、上殷 台、
高顕 故属 遼東 、候城 故 属遼 東 、
遼 陽故属遼東
楽浪郡
18城
25縣
朝鮮、言
書部、演水、含資、
千郁、漫水、含資、
朝鮮、言
砧蝉、遂成、増地、帯方、
占蝉、遂成、増地、帯方、
馴望、海冥、列 日、長率、
瓢望、海冥、列 日、長率、
屯有、昭明、鎮方、提案、
屯有、昭明、鎮方、提案、
渾爾、呑列、東腕、不而、
渾爾、楽都
壼台、華麗、邪頭味、前莫、
夫租
6城
遼東属国
昌遼故天遼属遼西、
155
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第4章
遼東郡 の 変遷
1賓 徒故属遼西、
1徒 河故属遼西、
1無 慮、険涜、房
表 2 『漢書』地理志と『後漢書』郡国志の比較
右北平郡 は前漢時代には縣が 16あ った。それが後漢時代には 4城 (縣 )だ け
にな っている。白狼水にあった自狼縣や廣成縣は無 くな ってお り、都尉治 であ っ
た資縣 も無 くな っている。都尉治が無 くな るということはその近辺の縣を管理す
る必要がな くな ったか らであろう。 その付近の縣 もすべ て無 くな っているのであ
る。長城 より北 の縣はすべ て消えている。漢 の勢力 が衰え、鮮卑に侵略されて長
城 より以北の縣はすべて放棄 したのであろう。
遼西郡 も同 じである。 『漢書』地理志の遼西郡は縣が
14あ った。それが『後
漢書』では 5城 (縣 )に な っている。長城の外側にあった柳城、交黎、賓徒、徒
河はすべ て無 くな っている。 (た だ し賓徒 と徒河は遼東属国にな っている)
柳城 には西部都尉治が置かれ、交黎には東部都尉治が置 かれていた。それが無
くな っている。長城の外側に置かれて いた縣はすべて放棄 されている。遼西郡 も
長城 の 内側に縮小 している。陽楽、海陽、令支、肥如、臨治はすべ て長城の内側
の縣 である。
『後漢書』郡国志に書かれている後漢時代後半頃の 中国東北地方 の郡 とその領
域 は次のようになる。
図 56 後漢時代後半頃の 中国東北部 の郡
(4)二 つ の 無慮
『後漢書』郡国志には無慮が二つ出て くる。
・ 無慮
■遼東郡 ・…・
156
■遼東属国……・ 無慮
『後漢書』郡国志
巫
山
/
遼
白 狼 山
▲
東
//
/
白
狼
水
万
長
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可
図
56
後 漢時代後半 頃の 中国東北部 の郡
無慮は遼東郡と遼東属国に出て くる。何故、二つの郡国に無慮があるのであろ
うか。
157
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第4章
,
遼東郡の変遷
『漢書』地理志では、無慮は遼東郡 に属 している。 『後漢書』郡国志の遼東郡
の無慮 は前漢時代か らの続きであろう。後漢時代 も当初は遼東郡の中に無慮があ
った。それが後に遼東属国に属すようにな ったのであろう。
『後漢書』郡国志には、候城 も二つの郡に出て くる。
■遼東郡
候城
■玄菟郡
候城
『後漢書』郡国志
『漢書』地理志では、遼東郡 の 中に候城 がある。 『後漢書』郡国志の遼東郡に
ある候城は前漢時代 か らの続きであろう。その後、候城 は玄菟郡に属す ようにな
る。 『後漢書』郡国志の玄菟郡は次 のよ うにな っている。
玄菟郡
高句麗、西蓋馬、上殷台、
高顕故属遼東、候城故属遼東、遼陽故属遼東
『後漢書』郡国志
高顕、候城、遼陽には「故属遼東」 とい う (註 )が 付 いている。元は遼東郡に
属 して いたのである。
『後漢書』郡国志に、無慮 と候城が二つ書かれているのは、無慮 も候城 も後漢
時代 の初め は遼東郡に属 していたが、後 に無慮は遼東属国に属 し、候城は玄菟郡
に属す ようにな ったのである。た嘩は 『後漢書』にその両方を記述 しているので
ある。
『後漢書』郡国志には遼東郡が縮小 してい く様子 が記録 されて いるといえる。
無慮、高顕、候城、遼陽は遼東郡に属 していた。それが無慮は遼東属国 に属す よ
うにな り、高顕、候城、遼陽は玄菟郡に属す ようにな った。その結果、 この地 域
(大 凌河か ら遼河 の地域 )か ら遼東郡 は消えて しまったのである。その時期は遼東
属国が出現する 49年 頃であろうと思われる。
158
(5)洛 陽か らの 距 離
『後漢書』郡国志には、洛陽から郡国までの距離が書かれている。
洛 陽か らの距 離
・ 琢郡
・ 漁陽
・ 右北平
・ 遼西
・ 遼東属 国
。遼東
・ 玄菟
・楽 浪
18
20
23
33
32
36
40
50
0
0里
0
0里
0
0里
0
0里
6
0里
0
0里
0 0里
0
0里
この距離を見て気 づ くことは、右北平郡 と遼西郡の差が大きいことである。 1
000里 の差がある。
1000里 は、燕に伐たれて殷
(東 胡 )が 「 千里退 く」とある距離である。万
里の長城の山海関か ら小凌河付近まで の距離である。 この 1000里 の差は、右
北平郡 の方は万里の長城の内側にあ り、遼西郡 の方は大凌河 の下流域まで拡大 し
ているときの距離ではないだろ うか。右北平郡はすでに縮小 してお り、遼西郡 は
縮小す る前のことが記述 されていると思われる。
遼東郡 と遼東属国の距離 もおか しい。遼東郡 までは 3600里 であるのに対
し、遼東属国は 3260里 とな っている。遼東郡 よりも遼東属国の方が近いこと
になる。 これは郡国制か ら見ておか しい。遼東属国は遼東郡に属 しているとい う
意味であるか ら、遼東郡 よ りも遠 くにあ るはずである。
遼東郡 の方は縮小 され る前の距離が書かれて いるので あろう。遼東郡は遼河 の
流域まで拡大 していた。その後遼東郡は縮小す る。遼東郡にあ った無慮は遼東属
国に属 し、高顕、候城、遼 陽は玄菟郡 に属す ようになる。遼東郡はこの地域か ら
159
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第 4章
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遼 東郡 の 変遷
消えて、代わ って遼東属国が誕生 している。遼東郡はもとの漫水までに縮小 して
いる。その先に遼東属国がで きている。
『後漢書』郡国志 に書かれている洛陽か らの距離は郡国が縮小する前と縮小 し
た後の ものが混在 しているといえる。
5
後漢末 の遼東郡
(1}公 孫度と遼東郡
後漢末になると漢王朝は大 いに乱れる。それに乗 じて中国東北地方では公孫度
が勢力を拡大す る。 『三国志』に次 のよ うに書かれて いる。
公孫度字弁済、本遼東襄平人也。 (中 略 )同 郡徐栄為董卓中郎将、薦度
為遼東大守。 (中 略 )東 伐高句麗、西撃烏丸、威行海外。初平元年、度
知 中国優攘、語所親吏柳毅・ 陽儀等 日、漢詐将絶。当興諸卿図王 耳。
『三 国志』
(訳 )公 孫度 は字 (あ ざな)は 弁済、本 (も と)は 遼東郡襄平の人な り。
(中 略 )同 郡 の徐栄が董卓 の 中郎将 になると、公孫度を薦 めて遼東太守
とした。 (中 略)公 孫度 は東は高句麗を伐ち、西は鳥丸を撃 ち、その威
勢は海外にまで行 き渡 った。初平元年
(191年 )、
公孫度は中国 (中
原 =漢 王朝 )が 騒 ぎ乱れて いることを知 り、親 しい官吏の柳毅 と陽儀等
に語 って曰 く、漢 の詐 (命 運 )は 将に絶えんとす。諸卿 らと王位を狙お
うと思 う。
公孫度は遂に中国 (漢 王朝 )か ら独立を図る。
160
1』
l
│││11■
│
分 遼東郡為遼西 。中遼郡、置太守。越海牧東莱諸縣、置営州刺史。自立
為遼東侯平州牧。 (中 略)立 漢二祖廟、承制、設壇埠於襄平城南郊、祀
天地。 (後 略 )
『三 国志』
(訳 )遼 東郡を分けて遼西 。中遼郡 とし、太守を置 く。海を越え、東莱
の諸縣を収 め、営州刺史を置 く。自ら立ち遼東侯平州牧 となる。 (中 略 )
漢 の二祖 の廟を立て、制 (天 下 の決ま りを定 める。独断で決定す る権利 )
を承け、壇埠 (祭 壇 )を 襄平城 の南郊 に設け、天地を祀 る。
公孫度は漢 の遼東太守である。ところが公孫度 は遼東郡を分けて遼西郡 と中遼
郡 とし、太守を置 いたとい う。中国王朝 の支配制度や郡国制を無視 した行為であ
る。また山東半島 (東 莱 )ま で侵略 して営州刺史を置 いたとある。 自らは遼東侯
平州牧にな っている。
これよ り前には「東伐高句麗、西撃鳥丸」 とある。高句麗 は遼河 の東にあ る。
公孫度は高句麗 の地 を得て いる。また公 孫度 が遼東大守にな ったとき遼東郡は遼
水 (藻 河 )の 東か ら沢水 までであった。沢水 の先は遼東属国である。遼東属国は
烏桓 の地である。「西撃鳥丸」とあるように、公孫康 は遼東属国 も撃 っている。
遼東属国 も公孫度 の支配下に入 っている。
公孫度は遼東郡 と遼東属国の地域を遼西郡 と中遼郡に して いる。そ して新たに
遼東郡をつ くり、 自分は遼東侯平州牧 とな り、遼東郡に居 したのである。その結
果、漢 の遼 東郡は遼西郡 にな り、遼東属国 は中遼郡にな り、遼河の東に新 しく遼
東郡がつ くられ たのである。
後漢 王朝 の遼東郡は無 くな り、公孫度が新 しくつ くった遼東郡が存在す るよう
にな った。後漢 王朝 の遼西郡 はそのまま存在 しているか ら遼西郡は公孫度 の遼 西
郡 と合わせて二つ存在す ることになる。後に これ らが一緒にな って遼西郡 と呼ば
れ るようにな ったのであろう。
公孫度は遼東郡襄平の生まれであるという。この遼東郡襄平は遼水 (藻 河)の
東にある襄平である。万里の長城の東端 にある襄平である。ところが公孫度 は遼
161
」■■EL□L」
第 4章
l`
遼 東郡 の 変遷
河の東に新 しく遼東郡をつ くり「襄平城 の南郊 に祭壇を設けて天地を祀る」とあ
る。この襄平城は遼河の東に新 しくつ くった遼東郡の襲平である。公孫度 は遼東
郡を遼河の東につ くったとき、もとの遼東郡の地名をそのまま移 している。生ま
れ故郷の襄平 も新 しい遼東郡の地に移 している。
遼水 もそ うで あ る。新 しい土地 の河 を遼水 (遼 河 )と 名付 け、遼河 の東 を「遼
東 」と呼ぶ よ うに したので あ る。「遼東 」は古来 (春 秋 。戦 国時代 )か ら遼水 (藻
河 )の 東 を い う言葉 で あ った。 それが 後 漢末 の 公孫度 の時か ら、 もとの遼 束 の 地
は遼 西 と呼ばれ 、遼河 の東 が遼東 と言 われ るよ うにな ったので あ る。
万里 の長城 の東端は「至遼東」とある。従来は この「遼東」を遼河の東である
と考えた。その結果、万里 の長城は遼東 まで延びて いると解釈 してきたのである。
しか しそれは公 孫度 が後漢末に新 しく設置 した遼東であ り、戦国時代にはまだ存
在 しなか ったのである。従来は、後漢末 に公 孫度が新 しく設置 した「遼東」を秦
漢時代 まで遡 らせて適用 し、万里の長城の位置を比定 してきたのである。
(2}公 孫康 と帯方郡
『漢書』地理志の楽浪郡には帯方縣・屯有縣がある。
楽浪郡
縣二十五
1部 、濃水、含資、砧蝉、遂成、増地、帯方、
朝鮮、言
馴望、海冥、列 日、長琴、屯有、昭明、錢方、提笑、
渾爾、呑列、東腕、不而、菫台、華麗、邪頭昧、前莫、夫租
『漢書』地理志
162
『漢書』地理志 の楽浪郡は朝鮮半島へ 移 された後の ことが 書かれている。帯方
縣 も屯有縣 も楽浪郡 の 中にある。 ところが 『三 国志』韓伝 には次 のよ うな ことが
書かれて いる。
桓・ 霊之末、韓 。滅彊盛。郡縣不能制。 (中 略)建 安中、公孫康分 屯有
『三 国志』韓伝
縣以南荒地為帯方郡。
(概 訳 )桓 帝 (在 位
147-167年
)と 霊帝 (在 位 167-183年
)
の末に韓 と滅は強 く盛んにな り、郡や縣はそれを制する ことが 出来なか
った。 (中 略 )建 安中
(196-220年
)に なると、公 孫康 は屯有縣
を分けて南 の荒れ地を帯方郡 とした。
楽浪郡 の南に帯方郡が置かれ た。帯方郡は この時初めて設置 された郡である。
ところが 『晋書』地理志 の帯方郡を見 るとその中に帯方縣がある。
帯方郡
(註 )公 孫度置。統縣七、戸四千九百。
帯方、列 口、南新、長琴、提案、含資、海冥
『晋書』地理志
公孫康 は帯方郡をつ くるとき帯方縣 もつ くっている。帯方縣は帯方郡 と楽浪郡
の 2つ の郡に存在す ることになる。
公孫康は、楽浪郡 の 中に帯方縣がある ことを知 りなが ら帯方郡の中に帯方縣を
つ くったのであろうか。そのような混乱を招 くような ことは しないはずである。
楽浪郡 の帯方縣はその時にはすでに存在 しなか ったのではないだろ うか。公孫度
は高句麗を伐ち、遼河の東まで侵略 して いる。そ こは漢 の楽浪郡 の領域 である。
公孫度は この地 を侵略 して遼東郡を置 いている。
この時、楽浪郡 の一部は公孫度 の遼東郡にな っている。楽浪郡にあ った帯方縣
は公孫度の遼東郡 とな り、消滅 したのではないだ ろうか。それは東腕縣をみれ ば
163
}‖ 11口
1"喘 脳
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第 4章
`
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11.
遼東郡 の 変遷
,遼 河 の下流域にあつた と思
明 らかである。東腕 はもとは臨屯郡 の郡治であった〔
われ る。それが後には第 2楽 浪郡に入 つてい る= さらに公孫度により鴨緑江まで
は 「遼東郡」になった と思われ る.楽 浪郡 の一部は公孫度 の遼東郡 になつている
.,
公孫康は帯方縣が楽浪郡 か ら無 くな っているのを知 っていたので、帯方郡をつ
くるとき帯方縣を置 いたのであろ う。
公孫氏による遼東郡 と楽浪郡、および帯方郡 の変遷は次 のよ うになるc
164
│■
…
■
…
○公孫度が遼東大守になったとき
図 57 公孫度 が遼 東大守 の 時代
巫
山
白狼 山
▲
,自
狼
水
水
図 57 公孫度が遼東太守 の時代
165
第4章
遼東郡の変遷
○公孫度が遼東郡 を分 けて三 郡 を置 いた時期
図 58 公孫度が遼東郡を分けて三郡を設置 した時代
(〔
)設 旗
遼
河
()オ │1市
ぢ
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チ
〆
遼
東
ー
フ
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=―
図 58 公孫度が遼東郡 を分けて三郡 を設置 した時代
166
││」
(204年
○公 孫康 が 帯 方郡 を設 置 した とき
図
59
綺
〃中
出‖‖出出│‖ 倒
Ll出
頃)
公孫康 が帯方郡 を置 いた 時代
(長 自 山 )
自頭 山
○海陽
江
通
桓
○ 遼陽
集 安
渭原
丹 東
○
/
´´
「
/
/
図
59
公 孫 康 が 帯 方 郡 を置 い た 時 代
167
▲
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